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[番外地9] お金は貝殻でも石でも何でもいいんですね。 ただ、同じ様な物がそこらにいくらでもあると物々交換の代わりにならないので、貴… 中川隆
9. 2021年3月31日 03:20:52 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[1]
要するに、他の銀行から安い利子で借りた金を顧客に高い利子で融資して稼ぐという事だろ。

しかし銀行は勝手に融資できないんだよ。絶対に返済してくれる場合以外は貸さないんだ。
そもそも自己資金ゼロの銀行に貸す訳ないだろ。
銀行は顧客から集めた銀行預金を使って、他の人に貸して利子を稼いだり、国債を買ってその金利で運用しているから、銀行預金をすべて現金にしてくれと言われてもすぐには返せない。 それで他の顧客に融資した金や国債を担保に不足している現金を一時的に借りて現金を返しているんだ。
他の顧客に融資した金や国債が無い自己資金ゼロの場合には金は借りられない。

http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/257.html#c9

[番外地9] お金は貝殻でも石でも何でもいいんですね。 ただ、同じ様な物がそこらにいくらでもあると物々交換の代わりにならないので、貴… 中川隆
10. 中川隆[-6198] koaQ7Jey 2021年3月31日 03:26:59 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[2]
要するに、他の銀行から安い利子で借りた金を顧客に高い利子で貸して稼ぐという事だろ。
民間銀行はすべてサラ金だと言いたいんだろ。

しかし銀行は勝手に融資できないんだよ。絶対に返済してくれる場合以外は貸さないんだ。
そもそも自己資金ゼロの銀行に貸す訳ないだろ。
銀行は顧客から集めた銀行預金を使って、他の人に貸して利子を稼いだり、国債を買ってその金利で運用しているから、銀行預金をすべて現金にしてくれと言われてもすぐには返せない。 それで他の顧客に融資した金や国債を担保に不足している現金を一時的に借りて現金を返しているんだ。
他の顧客に融資した金や国債が無い自己資金ゼロの場合には金は借りられない。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/257.html#c10

[近代史5] 日本人による極悪非道の世界侵略の歴史 中川隆
2. 中川隆[-6197] koaQ7Jey 2021年3月31日 03:45:50 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[3]
日本は昔から奴隷貿易で稼いできた

秀吉禁止令も頬被り、朝鮮出兵で横行した理性なき「奴隷狩り」
『渡邊大門』 2019/05/23
https://cdn.ironna.jp/article/12622?p=1


渡邊大門(歴史学者)

 ここまで、豊臣秀吉の人身売買に関する政策、そしてポルトガル商人によって日本人奴隷が海外に輸出された状況を確認してきた。日本と海外との通交が盛んになるに連れ、人身売買の規模もよりワールドワイドに展開したことが分かる。次に、状況が変化したのは、文禄・慶長の役だった。

 天正18(1590)年に小田原征伐により北条氏が滅亡すると、国内における大戦争は終結し、平和な時代を迎えた。秀吉の支配欲は海外へと向けられ、それが現実のものとなる。秀吉は中国や朝鮮へ侵攻し、そこに天皇を移して、諸大名に領土を分け与える構想を持っていた。その戦争こそが、文禄・慶長の役なのである。

 文禄・慶長の役とは、豊臣秀吉が文禄元(1592)年から自身が亡くなる慶長3(1598)年にかけて、中国の「明」征服を目指し、朝鮮半島に出兵した一連の戦争である。当時の日本では、「唐入り」または「高麗陣」と呼ばれていた(朝鮮側では「壬辰・丁酉の倭乱」と呼んだ)。

 秀吉は関白に就任した天正13(1585)年ごろから、明の征服構想を持っていたといわれている。その構想が具体化したのは、天正15年における薩摩・島津氏征伐直後のことである。秀吉は対馬の宗義智(そう・よしとし)が朝鮮と交流があったことから、対朝鮮交渉を命じた。その内容とは、第一に朝鮮が日本に服属すること、第二に日本が明を征服するに際して、その先導役を務めさせるというものだった。


 日ごろ、朝鮮と通交のある義智にとって、秀吉の命令は実に大きな難題であった。以後、義智はこの問題をめぐって、苦悩することになった。

 朝鮮との関係を憂慮した義智は、秀吉の意向をそのまま伝えなかった。義智は家臣を日本国王使に仕立て上げ、第一に秀吉が日本国王に就任したこと、第二にその祝賀のため通信使を派遣するよう朝鮮サイドに依頼した。義智の考え抜いた対応が、のちに大きな誤解を生んだのである。

 朝鮮サイドはこの申し出を断ったが、強硬な態度で臨んだ秀吉は、決して納得しなかった。そこで義智は、改めて博多の豪商・島井宗室らと朝鮮に渡航し、再び通信使の派遣を要請したのである。

 天正18年、再び要請を受けた朝鮮側は、通信使を派遣し秀吉との謁見に臨み、事態の収拾を図ろうとした。交渉の席には、秀吉をはじめ菊亭晴季(きくてい・はれすえ)らの公家も参列した(『晴豊記』)。朝鮮側の意向にかかわらず、秀吉が通信使に改めて命じたのは、明征服のための先導役だったが、それを知らない朝鮮通信使は秀吉の祝賀のため来日したのである。
豊臣秀吉像
 秀吉の明征服の先導役を命じるという要求は、通信使から朝鮮国王にも伝えられた。同時に翌天正19年、秀吉は明征服のための拠点を作るため、肥前名護屋(佐賀県唐津市)に城郭を築城した。一方、朝鮮との交渉は難航を極め、交渉役の宗義智と小西行長は対応をめぐって頭を抱えていた。

 2人は考え抜いた揚げ句、朝鮮に明攻略の先導役を務めるのではなく、明征服のために道を貸して(開けて)欲しい、と交渉内容をすり替えた。しかし、最終的に両者の交渉は決裂し、日本は朝鮮半島に侵攻する。

文禄・慶長の役においては、日本の戦国大名がこぞって参加し、朝鮮半島へ侵略行為を行い、いわゆる乱取り=奴隷狩りが行われていた。

 日本軍は朝鮮半島での戦争の際、日本での慣例に習い、多くの女や子供を連行した。その様子は、奈良・興福寺の多聞院主が書き継いだ日記『多聞院日記』に描かれており、奈良に連行したことが知られている。

 島津軍などは、朝鮮から薩摩へ帰る際、奴隷を連行するための手形を船頭に与えている。のちに、日本と朝鮮が和平を行ったとき、日本の奴隷連行が大きな障害となったほどである。以下、人身売買や拉致などの問題を中心に述べることにしよう。

 日本国内の戦場において、人や物資が略奪(乱取り)されたことはここまでに触れた通りである。乱取りは雑兵たちの戦利品となり、彼らの懐を潤した。あるいは、戦争に出陣する目的が乱取りにあったのではないかと思うほどである。


 秀吉が朝鮮出兵の際に出した方針は、次に掲げるものだった(「毛利家文書」)。天正20年4月26日付のものである(主要なものを抜粋)。

 @還住した百姓や町人に米銭金銀を課してはならない。
 A飢餓に苦しむ百姓を助けること。
 Bあちこちで放火をしてはならない。(以下、補足として)今度の朝鮮出兵で人を捕らえた場合は、男女によらず、それぞれのもといた居住地に返すこと。
 C法令順守の徹底。

 主に現地支配にかかわるものを抜粋してみた。まず@について。秀吉は同じような趣旨の命令を日本国内でも発している。たとえば、織田重臣時代の天正8(1580)年1月に三木合戦で別所氏が滅亡すると、荒廃した三木(兵庫県三木市)に百姓や町人の還住を促した(「三木町有古文書」)。戦争で荒廃した村や町を復興するための政策である。

 Aについても、同様の趣旨と捉えてよいであろう。せっかく占領しても、百姓が飢えてしまい、占領地が荒れ果てていると意味がない。そう秀吉は考えていたのだろう。

 注目すべきは、Bである。冒頭の放火の禁止は、町や村の荒廃を避けるための方策である。重要なのは補足として、男女にかかわりなく生け捕りにした場合は、それぞれのもとの居住地に返すことが規定されている点である。

 つまり、秀吉は戦場における乱取りを禁止していたことになろう。Cにおける法令順守は、その延長線上にあり、数多くの禁制が発給されていた(「鍋島家文書」など)。秀吉は、朝鮮の百姓に危害を加えないように配慮していた。

しかし、日本を遠く離れて朝鮮半島に出陣した雑兵に対して、秀吉の意図が十分伝わったのか大いに疑問である。雑兵の戦場における目的は、やはり「乱取り」にあり、それが第一義にあった。案の定、秀吉の方針は無視され、朝鮮半島の各地で「乱取り」が行われた。次に、その実態を概観することにしよう。

 戦場において、人間はなかなか理性をコントロールできないものである。いざ朝鮮半島で戦いが始まると、秀吉の命令は無視され、雑兵は「乱取り」に夢中になった。

 文禄元(1592)年、日本軍が朝鮮半島に上陸すると、佐竹氏の家臣・平塚滝俊が肥前名護屋城で留守を務める小野田備前守に宛てて書状を送っている。滝俊の生没年や出身地は不明であるが、佐竹氏家臣団の中では、中級クラス以上の地位にあったと考えられている。この書状は、歴史学者の岩沢愿彦(いわさわ・よしひこ)氏が紹介したものである(「肥前名護屋城図屏風について」)。書状の概要を次に示しておきたい。

高麗で二・三の城を攻め落とし、男女を生け捕りにして、日々を送ってきた。(朝鮮人の)首を積んだ船があるようだが、私は見たことがない。男女を積んだ船は見た。

 日本軍は朝鮮の城を攻め落とすと、戦利品とばかりに男女を生け捕りにし、船に積んで日本へ送った。また、討ち取った朝鮮人の首も運ばれていた。


 朝鮮人の首が秀吉のいる肥前・名護屋城に送られたのは、出陣した武将が軍功を認めてもらうためである。いわゆる「首実検」のためだった。おそらく船が満杯の状態で運ばれたのであろうが、実におびただしい分量になったと思われる。
「名護屋城」城跡の石垣。秀吉の朝鮮出兵の兵站基地だった=佐賀県唐津市
 これだけの分量になると、本当に正しい検分ができたのかどうか、非常に疑問である。参考までにいうと、首は非常に重量があるので、のちに首でなく耳や鼻が持ち帰られた。それを供養したのが耳塚(鼻塚)であり、京都市東山区の豊国神社前にある。

 耳や鼻を削いで持ち帰る際、日本軍により残酷な行為が行われていた。慶長3(1598)年10月に泗川(サチョン)新城で戦いが行われると、島津軍が明・朝鮮の連合軍の兵3万3700人を討ち取り、城の外に大きな穴を掘って埋めたという。そして、その遺体から鼻を削ぎ取り、塩漬けにして日本に送ったのである(『島津家記』)。

 加藤清正の武将・本山豊前守の手になる『本山豊前守安政父子戦功覚書』には、男女や生まれたばかりの赤ん坊も残らず撫で切りにし、鼻を削いで毎日塩漬けにした、と記されている。塩漬けにしたのは、腐敗を避けるためだろう。もはや戦闘員・非戦闘員を問わず、鼻をどれだけ獲ることができたのか競った感がある。その数は、一度に2、3万に及んだこともあった。

 問題になるのが、朝鮮半島で生け捕った男女も船で肥前・名護屋城に送られたことである。これは、先に示した秀吉の方針と相反する行為である。秀吉の意向とは裏腹に、現地では日本の慣習にならって、「乱取り」が行われた。

実のところ、各大名にとって朝鮮への出兵は、多大な経済的な負担であった。第一に、多くの軍兵が動員されたうえに、半農半兵の土豪たちも出陣を余儀なくされた。出陣は長期間にわたったので、必然的に農業の担い手を失うことになる。同時に、農地が放棄される状態にあった。薩摩の島津氏は、戦費の捻出に苦労したという。

 とりわけ捕らえられた人々は、老人、女、子供が多かったといわれている。彼らは屈強な男性とは異なり、反抗することが少なかったと考えられ、奴隷としては最適であったからだろう。

 雑兵たちにとっての戦争は、極端に言えば勝ち負けが問題ではなく、いかに戦利品を得るかが重要であった。そうなると、秀吉の指示をまともに聞いていれば、何ら見返りのない「ボランティア」になってしまう。実際、略奪は多くの大名が黙認し、幅広く行われていた。

 文禄2年に推測される8月23日付の「石田三成覚書」によると、三成は薩摩・島津氏に対して種々の命令を伝えているが、その中に船を使って乱妨・狼藉を働かないように指示を行っている(「島津家文書」)。


 こうした指示が与えられるところを見ると、実際に乱取りが行われており、島津氏は黙認していたのであろう。同様の事例は、普州(チンジュ)城で戦っていた加藤清正軍にも見られる。この場合は、清正に知られないようにして、配下の武将が雑兵たちに略奪行為をさせたという。もはや秩序は、完全に崩壊していた。

 こうした状況が秀吉の耳に入ったのか、あるいは別の事情があったのか、秀吉自身も人身売買や生け捕りについて容認したと受け取られかねない命令を発する。その命令こそが、次に示すものである(「島津家文書」ほか)。

急ぎ仰せを伝えます。捕らえた朝鮮人の中で、細工のできる者、縫官、手先の器用な女性がいれば、進上すること。召し使うようにする。家中を改めて、こちらに遣すこと。

 この秀吉の朱印状は島津家だけでなく、多くの大名家に伝わっている。つまり、秀吉は自身が召し使うため、さまざまな技量を持つ女性を集めていたことになる。ただし、この史料はいずれも年次を欠いており、文禄2年あるいは慶長2年のいずれかが該当すると考えられている。前者なら出兵直後、後者なら二度目の出兵の時期となる。
「壬辰倭乱図」(和歌山県立博物館提供)
 当初と異なり、秀吉は大きく方針を転換したが、各大名たちが朝鮮から人々を連れ去った事実は当然把握していたことであろう。むしろ、そうした事実を知っていたので、優秀な人材を確保しようと考えたのかもしれない。

 文禄・慶長の役において、多くの朝鮮人が日本に連れ去られ、売買されることになった。それらの経緯を確認しよう。


東洋史家の内藤雋輔(ないとう・しゅんぽ)氏が紹介した『月峯海上録(げっぽうかいじょうろく)』には、朝鮮人奴隷の様子が詳細に記述されている(翻刻は『文禄・慶長役における被擄人の研究』)。内藤氏の研究成果を交えつつ述べておくと、文禄の役と慶長の役とでは、後者の奴隷狩りが圧倒的に多かったという。

 しかも、その被害は圧倒的に朝鮮半島南部に集中していた。文禄の役では朝鮮半島の奥地まで侵攻したが、慶長の役ではそこまで侵攻できなかったのが要因であろう。慶長の役は長期化したものの、勝利の可能性が乏しかったため、奴隷狩りに注力したと考えられる。

 強制的に奴隷として日本に連行された朝鮮人は、主に九州各地に住んでいたが、薩摩・島津氏の領内では、その数が3万7千人にも及んだという。彼らは苗代川(鹿児島県日置市)に集住し、陶工・朴平意(ぼく・へいい)らを中心にして、陶磁器の製造を行った。苗代川窯は白釉と黒釉を用いて、日常的に使用する陶器を製造した。技能集団が日本に根付いた一例である。

 この頃、平戸や長崎は朝鮮半島から連行した朝鮮人を売買するなど、世界でも有数の奴隷市場として知られていた。


 日本人の人買商人のうち、ある者は自ら朝鮮半島に渡海して奴隷を買い漁り、またある者は日本国内でポルトガル商人に転売して巨万の富を得た。彼らはポルトガル商人が持っていた鉄砲や白糸の代価としていたのである。

 ほとんどの奴隷は捨値で売られたというので、薄利多売の様子がうかがえる。日本を窓口にして、多くの奴隷が世界に渡っていったのである。それは朝鮮人だけではなく、多くの日本人が含まれていたことが指摘されている。

 日本人が朝鮮半島で行った奴隷狩りは、どのような形で行われたのであろうか。その点は、次回に触れることにしよう。


主要参考文献
渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)
https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E8%BA%AB%E5%A3%B2%E8%B2%B7%E3%83%BB%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E3%83%BB%E6%8B%89%E8%87%B4%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2-%E6%B8%A1%E9%82%8A-%E5%A4%A7%E9%96%80/dp/4760143270
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/537.html#c2

[近代史5] 日本人による極悪非道の世界侵略の歴史 中川隆
3. 中川隆[-6196] koaQ7Jey 2021年3月31日 03:49:06 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[4]

「倭寇の人身売買は貴重な労働力」日中朝を席巻した海賊集団の謎
『渡邊大門』 2018/12/09
https://ironna.jp/article/11383


渡邊大門(歴史学者)

 前近代(特に中世)において、人身売買が行われていたことはご存じだろうか。それは決して公に認められたものではないが、公然の秘密だったといえる。今回はその源流を探るべく、室町時代の人身売買の例を取り上げることにしよう。

 鎌倉幕府滅亡後の1336年、足利尊氏が室町幕府を開くと、鎌倉幕府と同様に指針となる法令を制定した。これが『建武式目』であり、中原是円、真恵兄弟らが足利尊氏の諮問に答えた形式を採っている。

 『建武式目』は『御成敗式目』のような裁判規範でなく、むしろ政治的な方針を示したものといわれている。その点は性格が異なっているが、以後は鎌倉幕府と同様に多くの追加法が制定された。

 ただし、『建武式目』をはじめとする室町幕府の法令においては、人身売買を禁止した規定を見いだすことはできない。しかし、人身売買が行われていなかったわけではなく、関係した史料(人身売買の売券など)は残っている。


 当時、人身売買や人の略奪という行為は、よりワールドワイドな方向で展開した。奴隷は世界的に存在しており、常に売買の対象となり流通していた。イスラム世界では高度に洗練された奴隷の流通システムが構築されており、中央アジア、ロシア草原、バルカン半島、ヨーロッパ北部、アフリカ大陸北部などに広がっていたという。そして、それを媒介していたのが、イスラム商人だった。

 日本は島国であったが、海で広く世界につながっていた。そして、日本人の略奪や人身売買も東アジア社会で展開することになる。とりわけ中国や朝鮮との関係が重要である。その契機となったのが、14世紀半ば頃から猛威を振るった「倭寇(わこう)」の存在である。

 倭寇には、「日本の侵寇」あるいは「日本人の賊」という意味があり、盗賊団のようなものになろう。倭寇という文字そのものは、404年の「高句麗広開土王碑文」に初めて確認できる。その活動は、おおむね14世紀半ば頃から15世紀初頭にかけて見られるようになった。
倭寇図巻(東京大学史料編纂所提供の模写)
 彼らの活動範囲は、朝鮮半島、中国大陸の沿岸や内陸および南洋方面の海域と非常に広範囲に及んでいる。当時の朝鮮人・中国人たちは、こうした日本人を含む海賊的集団を「倭寇」と呼んだのである。

 倭寇の意味するところは、時代や地域によって異なっており、その定義を厳密に行うことは難しい。ちなみに、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)や20世紀における日中戦争も倭寇という言葉で表現された。そうなると、倭寇は賊に加えて、侵略者としての意味も持つことになる。

 倭寇は食料などの物資に限らず、人間までも略奪行為の対象とした。朝鮮半島や中国大陸では、倭寇により人がさらわれ、そのまま日本に連行された。こうして日本に連行された人々を被虜人(ひりょにん)と称する。以下、倭寇による人の略奪を取り上げることにしよう。


高麗王朝史の正史『高麗史』によると、1388年6月に倭寇が朝鮮半島の全羅・慶尚・揚広の三道に進攻し、多くの人々が略奪されるという甚大な被害を受けたと記す。『高麗史』の別の個所では、倭寇の船団は50艘あまりもあり、千余人を連れ去ったというのである。まさしく国家存亡の危機だったといえよう。

 事情は中国においても同じであった。『皇明太祖実録』の1373年5月の記録によると、倭寇による人の殺戮(さつりく)などが問題となっており、翌年には対策が練られている。倭寇対策として水軍を充実させ、周辺海域をパトロールさせることになったのである。当時の「大明国」が倭寇の被害に頭を悩ませている様子がうかがえる。

 『老松堂日本行録』という史料には、倭寇が日本海域を席巻し、朝鮮半島や中国で人をさらっていたことが記されている。『老松堂日本行録』は応永27(1420)年に足利義持の派遣使節の回礼使として日本を訪れた、朝鮮の官僚、宋希m(そうきけい)の日本紀行文集で、当時の西日本の社会や風俗および海賊衆を記す貴重な史料である。次に、その中の一節を挙げることにしよう。
 

 一人の日本人がいて、小船に乗って魚を捕まえていた。私(宋希m)の船を見ると近づいてきて、魚を売ろうとした。私(宋希m)が船の中を見ると、一人の僧が跪いて食料を乞うた。私(宋希m)は食料を与えて、この僧に質問をした。僧は「私は江南台州(中国浙江省臨海市)の小旗(10名の兵を率いる下級軍人)です。一昨年、捕虜としてここに来て、剃髪して奴隷になりました。辛苦に耐えられないので、あなた(宋希m)に従ってこの地を去ることを願います」と言うと、ぽろぽろと涙を流した。(この僧の主人である)日本人は「米をいただけるなら、すぐにでもこの僧を売りますが、あなた(宋希m)は買いますか」と言った。私(宋希m)は僧に「あなたはが住んでいる島の地名は何と言いますか」と質問した。僧は「私は転売されて、この日本人に従って2年になります。このように海に浮かんで住んでいるので、地名はわかりません」と答えた。

 この男は「僧」と称されているが、「剃髪して奴隷になった」とあるので、頭を剃(そ)る行為が奴隷を意味していたと考えられる。あえて剃髪して異形にすることにより、普通の人と違うことを際立たせ、奴隷であることを視覚化させたのである。要するに剃髪した風貌が僧に似ていたので、仮に宋希mは僧と呼んだのであろう。この男は連れ去られたのちも、転売されて今の主人に従ったらしい。


 この男は故郷の中国にいたときに倭寇によって連れ去られ、売買されたのであろう。場所は、対馬と推定されている。男は慣れない漁業に従事し、食料にも事欠くありさまだったようだ。遠い異国のことでもあり、心情を察するところである。では、なぜ倭寇は中国や朝鮮から人々を連れ去ったのだろうか。

 日本において南北朝の乱が始まると、それが約半世紀という極めて長期間に及んだ。とりわけ九州においても各地で戦いが繰り広げられ、著しい内乱状態に陥った。当然、農地は荒れ果て収穫が困難となり、食料が不足したに違いない。戦争時における、食料などの略奪も問題になったと考えられる。

 そうなると田畑を耕作する人間は国内で調達することが困難になるので、必然的に国外に求めざるを得なくなった。九州では農業従事者の慢性的な不足があったため、捕らえた朝鮮人や中国人を売却し、農作業に従事させていたのである。対馬は朝鮮半島に近いこともあり、人身売買が盛んに行われていたという。こうして日本国内における労働力の不足は、中国や朝鮮の人々によって補われた。


もちろん、彼らが従事したのは農業だけでない。それらを挙げると、牧畜、漁業、材木の運搬などが主たる業種である。いずれも過酷な肉体労働であり、まさしく奴隷が家畜同様に使役された物悲しさを語ることである。

 しかし、近年では以上のような肉体労働だけでなく、さまざまな職種に就いていたことが指摘されている。

 一つは通訳である。当時の公用語が中国語とみなされていたことから、通訳はほぼ中国人に限定されていた。中国語の読み書きがある程度できる者は、奴隷として日本に連れ去られ、日本語も堪能になると通訳を任された。通訳になると、先述した厳しい肉体労働から解放された。なお、対馬、壱岐、北九州では、日本人でも朝鮮語に通じた者がいたと推測されており、朝鮮語の通訳は必要でなかったと考えられている。

 もう一つは、中国や朝鮮などの案内人として従事させることである。倭寇が中国や朝鮮に上陸する際、地理に不案内なため、どうしても土地に詳しい者が必要であった。いうなれば、倭寇の手先ということだ。皮肉にも被虜人が、倭寇の手助けをし、新たな被虜人を生み出すことになった。案内人としての職務については、中国人、朝鮮人とも行っていたようである。


 謡曲に『唐船』というものがある。九州・箱崎の某(なにがし)なる者が、唐土との船争いの際、官人の祖慶(そけい)を捕らえた。祖慶は13年もの間、牛馬の飼育に使役され、肉体労働を強要されたのである。祖慶は、唐土に2人の子供を残していた。2人は父を慕い、連れ帰ろうとして日本に渡海した。祖慶は日本で結婚し2人の子供がいたが、実子との再会に大いに喜んだ。

 2人の子供は箱崎の某の許可を得て、父を連れて帰ろうとしたが、日本の子供が別れを悲しんで引き留める。思い余った祖慶は海に身を投げようとするが、箱崎の某は日本の子供も唐土へ連れて帰ることを許した。

 ここで重要なのは、祖慶が自由の身になっても、その子供たちは主人の奴隷ということに変わりなかったことである。父子5人は、船中で喜びの楽を奏でながら、帰国の途につくのである。この話は決して架空のものでなく、悲しい実態を反映した作品なのだろう。

 このように被虜人は、国内における貴重な労働力であるとともに、倭寇の活動を支える存在であったといえるのである。当時、人身売買は各国で行われており、それは日本でも同じだったのだ。

※画像はイメージ(ゲッティイメージズ)
https://ironna.jp/article/11383?p=3

 そして中国人や朝鮮人の売買は1回で完結するのではなく、さらに転売が伴った。転売された人物としては、魏天(ぎてん)なる者が存在する(以下『老松堂日本行録』)。魏天の生没年は不明であるが、中国の明で誕生し、のちに倭寇によって捕らえられ、被虜人として日本に連行された。その後、魏天は転売を繰り返され、朝鮮→日本→明→日本と移動した。最後は明への帰国を成し遂げ、洪武帝によって日本に派遣された。立場上は日本語を理解していたので、通訳ということになろう。


再度訪れた日本では、室町幕府の三代将軍・足利義満の寵(ちょう)を受け、京都に居を構えたという。応永27(1420)年には、宋希mと四代将軍・義持との会見の実現に大いに貢献した。皮肉にも魏天は、被虜人としての生活や日本語の取得が役立ったということになる。魏天は幼少時は被虜人となり、不幸であったかもしれないが、晩年は恵まれており幸運な部類に属するであろう。

 被虜人は、遠く当時の琉球にも転売されたようである。14世紀の終わり頃、琉球の中山王察度は4回に渡り朝鮮に被虜人を送還している。1416年、朝鮮国王・太宗も使節を琉球に派遣して、被虜人を帰国させた。おおむね被虜人は、九州を中心にして、東は京都、南は琉球まで転売され、存在したようだ。15世紀後半の京都・建仁寺の禅居庵には、浙江省温州で被虜人になった人物が住んでいた。

 女性の被虜人の場合は、日本人男性の妻になった例もあるという。また、中には性的な労働に従事させられた者もあったと推測されている。

 以上のように、朝鮮や中国から連行された被虜人は、西日本を中心にして繰り返し転売されることになった。しかし、14世紀の終わり頃になると、朝鮮は日本との通交を積極的に推し進め、被虜人の送還を歓迎した。朝鮮との通交を希望する者は、被虜人の送還を進めた。この動きは15世紀初頭まで続くが、朝鮮の倭寇懐柔策により被虜人の供給が激減したため、以後はあまり見られなくなったという。


 倭寇が朝鮮・中国で猛威を振るい、人々を略奪したことを述べてきたが、逆のパターンがあったことにも注意すべきである。朝鮮では報復措置として、日本人を捕らえて奴隷とし、使役あるいは売買したことが知られている。

 そもそも李氏朝鮮には、法律上で奴隷の売買が許されており、世襲的な奴婢(ぬひ)が存在していた。14世紀の終わり頃、奴婢の売買は盛んに行われていたが、その価値は牛馬よりも劣っていたといわれている。日本よりも悲惨な現状にあった。しかし、次第に奴婢の売買は制限が加えられるようになり、15世紀の終わり頃には事実上の禁止となったという。

 『李朝世宗実録』によると、1429年に朴瑞生(ぼくずいせい)が日本通信使として来日し、帰国後に倭寇に拉致された被虜人のこと、そして日本における人身売買について報告を行っている。その中で注目すべきは、日本人が朝鮮人や中国人を奴隷として売買していたことに加え、朝鮮人も捕らえた日本人を奴隷として売買していた事実が報告されていることだ。

 朝鮮人が日本人奴隷を使役していた事実は、1408年の『李朝太宗実録』で確認することができる。この記録によると、日本国王・足利義持が派遣した船の中に、当時、朝鮮人のもとで労働に従事していた日本人女性が逃げ込んだという。この日本人女性が、いかなる経緯で朝鮮人に捕らえられたのかは明らかでない。これにより、朝鮮人のもとで日本人奴隷が存在していたことが明白になった。
倭寇図巻(東京大学史料編纂所提供の模写)
 その後の顛末(てんまつ)はどうなったのであろうか。朝鮮サイドでは府使を遣わし、日本の船に逃亡した日本人女性を返還するよう求めた。奴隷は主人の所有物なので、ある意味で当然の要求といえるかもしれない。しかし、日本サイドの使者は、「日本に私賤はいない」と突っぱねて返還を拒否した。そのような経緯を踏まえて、太宗は日本人奴隷の売買を禁止する法令を発布したのである。

 一説によると、当時の朝鮮における奴隷の割合は、相当に高かったという。太宗がいかなる理由で、日本人奴隷の売買を禁止したのかは不明であるが、仮に朝鮮で普通の人の売買を禁止しているならば、日本の「私賤はいない」という主張に従って、措置をしたのかもしれない。日本人女性が奴隷でないならば、返還するのが筋だからである。

 このように、15世紀の日本において人身売買が国の枠を超えて行われたことは、非常に興味深いところである。次回以降は、さらに人身売買や奴隷の詳細を明らかにしていこう。

《主要参考文献 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)》
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/537.html#c3

[近代史5] 日本人による極悪非道の世界侵略の歴史 中川隆
4. 中川隆[-6195] koaQ7Jey 2021年3月31日 03:54:13 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[5]
川中島の戦いは略奪が目的だった? 信玄も黙認した「乱取り」の真実
『渡邊大門』 2019/01/05
渡邊大門(歴史学者)
https://ironna.jp/article/11595

 前回の倭寇による人の略奪を踏まえて、日本国内に目を向けてみよう。戦国時代は、人身売買も含めて、人の略奪が盛んに行われた時代だった。それは、まさしく「生きるため」だったといっても過言ではない。それは、天候不順による食糧不足とも連動していたと言える。

 現代は便利な時代であり、暑いと言えば冷房をつければよいし、寒いと言えば暖房をつければよい。食料もビニールハウスどころか、今や工場で作るありさまである。最近の自然災害はひどい状況だが、鉄筋コンクリートの建物は、昔の木造建築に比べると非常に頑強である。むろん戦国時代の家は、粗末な木造だった。

 また、今は道を歩いていれば、スーパーやコンビニがあるので、お金さえあれば食料を手に入れることができる。病気になっても、病院に駆け込めば何とかなることも多い。すべてが便利であるし、さまざまな点で不便な戦国時代とは比較にならない。

 戦国時代に目を転じると、主力となる農業や漁業は自然が相手の仕事であり、ひとたび自然災害に見舞われると、農業用の機械があるわけでもないので、農地の復旧には多大な時間を要した。おまけに天候不順に陥ると、たちまち作物の収穫量はガタ落ちし、人々は飢えに苦しむありさまである。


 保存食があるとはいえ、今のように冷凍食品があったわけではない。ひどい状況が続けば、やがて人々の体力を奪い、病気になることもあった。病気になると特効薬があったわけでもないので、疫病の蔓延(まんえん)は深刻な事態を招いた。

 寛喜2(1230)年から翌年まで人々を苦しめた寛喜の大飢饉(ききん)では、食糧難が深刻になったので、子供を売ってでも生活の費用を捻出する必要が生じた。とにかく、戦国時代の人々は生きるために必死だったのである。

 村で生活する人々はときに戦争に参加し、戦場で相手から略奪した金目のものや食料などを自分のものにした。戦場で人を捕らえた場合も、自分のものになり、捕らえた人を売ることもあった。つまり、戦争に行くこと自体が、自らの生死をかけた戦いであり、略奪が生きるために必要だったのである。

 こうした戦場における人の略奪は、必然的に人身売買の温床となった。以下、戦場における人の略奪を中心にして、さまざまな事例を取り上げることにしたい。最初は、武田氏の事例である。
JR甲府駅前の武田信玄像
 甲斐国の武田氏や小山田氏をはじめ、当時の生活や世相を記録した史料として、『妙法寺記』(『勝山記』とも)という史料がある。そこには、数多くの人の略奪の記録が残されている。

 天文5(1536)年、相模国青根郷(相模原区緑区青根)に武田氏の軍勢が攻め込み、「足弱」を100人ばかり獲っていったという。この前年、武田信虎は今川氏輝、北条氏綱の連合軍と甲斐・駿河の国境付近で戦い(万沢口合戦)、敗北を喫していた。武田氏は両者に対して、大きな恨みを抱いていたといえる。

 史料中の「足弱」とは、「足が弱い人」「歩行能力が弱い人」という意味がある。転じて、女性、老人、子供を意味するようになった(足軽を意味することもある)。つまり、武田氏の軍勢は戦争のどさくさに紛れ、戦利品として「足弱」を強奪して国へ戻ったということになろう。時代を問わず、女性、老人、子供は常に「弱者」であった。

そして、天文15(1546)年には甲斐国で飢饉があり、餓死する者が続出したという。そうした状況下、武田氏の軍勢は男女を生け捕りにして、ことごとく甲斐国へと連れ去った。生け捕られた人々は、親類が買い取りに応じることがあれば、2貫、3貫、5貫、10貫で買い戻されていった。

 現在の貨幣価値に換算すると、一貫=約10万円になる。生け捕られた人々は約20万〜100万円で買い戻された。身分あるいは性別や年齢で値段が決まったのであろうか。

 『妙法寺記』を一覧すると、武田氏の軍勢が行くところでは、多くの敵方の首が取られたことが記述されており、同時に多くの「足弱」が生け捕りにされたことも記されている。「足弱」は売買されるとともに、農業などの貴重な労働力になったのであろう。

 このように、戦場で人あるいは物資を強奪することを「乱取り」という。戦場で分捕ったものは当然、自分のものなった。ある意味で戦争に参加するのは、乱取りが目的とも思えるほどである。その姿は、『甲陽軍鑑』にも生き生きと描かれている。


 『甲陽軍鑑』とは、江戸時代初期に集成された軍書であり、武田氏を研究する上で重要な史料の一つである。武田信玄・勝頼父子の治績、合戦、戦術、刑法などが記述され、20巻59品から構成されている。その成立過程は、武田氏の家臣、高坂昌信の遺記をベースにして、春日惣二郎、小幡下野らが書き継ぎ、最終的に小幡景憲が集大成したとされている。

 『甲陽軍鑑』は、まさしく乱取りの事例の宝庫であるといえる。以下、いくつかの例を挙げることにしよう。

 武田信玄の戦いで最もよく知られているのは、越後の上杉謙信と死闘を演じた川中島(長野市)の戦いであろう。天文22(1553)年、初めて2人が刃を交えて以来、計5回にわたって雌雄を決している(4回説もあり)。ここでは2人の名勝負ではなく「乱取り」だけを見ることにする。

 川中島の戦いに際して、甲斐国から信濃国へ侵攻した武田軍は、そのままの勢いで越後国関山(新潟県妙高市)に火を放つと、人々は散り散りに逃げ出した。そして、謙信の居城である春日山城(新潟県上越市)へ迫ったのである。武田軍は越後に入ると、次々と人々を乱取りし、自分の奴隷として召抱えたという。その大半は、女や子供であった。
川中島の合戦の両雄、武田信玄と上杉謙信の銅像=長野市
 『甲陽軍鑑』には、兵卒が男女や子供のほか、馬や刀・脇差(わきざし)を戦場で得ることによって、経済的に豊かになったと記されている。女性に限って言えば、家事労働に従事させたり、あるいは性的な対象として扱われたりしたのであろう。場合によっては、売却して金銭に替えることも可能であったと推測される。戦争に行くことはまさしく生活がかかっており、さらに運がよければ「うまみ」があったといえよう。

 こうなると、戦争に行った者たちの関心は、極端に言えば戦いの勝敗よりも、乱取りでどれだけ略奪できたかに移っていたようである。『甲陽軍鑑』の一節には次のように記されている個所がある(現代語訳)。

乱取りばかりに気持ちが動いて、敵の勝利にも気付かなかった。

乱取りばかりにふけっており、人を討つという気持ちがまったくない。

 乱取りに熱中する人々は、「後さき踏まえぬ意地汚き人々」と評価されるところとなった。要するに「何も考えていない意地汚い連中」ということになろう。こうなると、彼らが戦争に来たのか、乱取りに来たのか目的すら判然としなくなる。

たとえば、武田軍が信濃国に侵攻した際、大門峠(長野県茅野市)を越えた付近で、兵たちに7日間の休暇が与えられた。しかし、兵たちは休むことなく、鬨(とき)の声を上げて付近の民家を襲撃した。目的は略奪行為であり、田畠の作物すら奪い取った。わずか3日間で村々から略奪を終えると、まだ余力が残っていたのか、翌日からはさらに遠方の村々まで出張って行って、略奪を繰り返すありさまだったのである。

 それだけではなく、戦争が終結し、敵の城を落しても乱取りだけは続けられた。それが、兵たちの「褒美」になった。永禄9(1566)年、小幡業盛の籠る上野国箕輪城(群馬県高崎市)が信玄により落されると、雑兵は箕輪城を本拠として、敵兵を次々と捕らえ、乱取りを行ったのである。彼らにとっては、戦いよりも乱取りが本番であったと言えるかもしれない。

 現代では、国家からの強制的な動員、あるいはほとばしるような愛国心に突き動かされ、人々は戦争に行くのであろう。しかし、戦国時代の戦争は収入を得る手段の一つであり、言うなれば「出稼ぎ」のようなものだったのかもしれない。動員する戦国大名にとっても、彼らを従軍させる理由やモチベーションが必要である。それが乱取りであり、彼らの貴重な収入源となった。まさしく生きるための戦争だったのである。

 こうして人や物資を略奪すると、雑兵たちの生活は豊かになった。『甲陽軍鑑』には、その姿が次のように描かれている(現代語訳)。


分捕った刀・脇差・目貫・こうがい・はばきを外して(売って)、豊かになった。馬・女を奪い取り、これで豊かになったので、国々の民百姓までみんな富貴になり安泰になったので、国で騒ぎが起こることがなかった。

 われわれの常識では、戦国大名が産業や農業振興に腐心し、それにより国が豊かになると考えていた節がある。むろん、それも事実として正しいのであるが、実際には他国へ侵攻して戦争を仕掛け、それにより国が富むという現実を認識すべきだろう。戦争に行く人々には、愛国心や忠誠心はほとんどなかったのかもしれない。

 こうした乱取りという現象は、何も武田氏の専売特許ではない。次に、肥後国の大名・相良氏の事例を取り上げてみよう。相良氏は遠江国佐野郡相良荘の出身であるが、鎌倉時代に肥後国人吉荘に本拠を移し、以後大名化を遂げた。
※写真はイメージ(ゲッティイメージズ)
 乱取りの様子は『八代日記』に描かれている(天文〜永禄年間)。その記述によると、戦場においては、牛馬とともに人々も略奪の対象となった。ときに夜襲を仕掛けて、人を奪い去った様子がうかがえる。また、数千人が生け捕りにされており、その規模の大きさには、目を見張るものがある。

 同じことは、伊達政宗が南奥羽で展開した戦いにおいても確認することができる。その状況を伝えているのが、『天正日記』である(天正16・17年)。

 『天正日記』によると、戦場において数多くの人々が生け捕りにされ、敵兵の首や鼻を切り取ったという。敵兵を倒した場合、その証として首を切り取った。首の数によって、与えられる恩賞が決まったからである。

 鼻が切り取られた理由は、首を腰まわりにぶら下げていると、重いうえに身動きが取りにくい。そこで、代わりに鼻を削(そ)ぎ落として、敵を討ち果たした証拠にしたのである。鼻から上唇まで切り取ると、髭(ひげ)によって男であると分かる。

人が略奪された例は、薩摩・島津氏の関係者の日記でも確認できる(『北郷忠相日記』など)。『北郷時久日記』によると、人が3人誘拐されたと記されている。強引に連れ去るだけでなく、騙して連れ去ることもあったようである。

 永禄9(1566)年2月、長尾景虎(上杉謙信)の攻撃によって、小田氏治の籠(こも)る常陸・小田城(茨城県つくば市)が落城した。落城の直後、城下はたちまち人身売買の市場になったという。その様子は、『別本和光院和漢合運』に次のように記されている。

小田城が開城すると、景虎の意向によって、春の間、人が二十銭・三十銭で売買されることになった。

 この一文を読む限り、人身売買は景虎の公認だったのかもしれない。20銭といえば、現在の貨幣価値に換算して、約2千円ということになる。おそらく、雑兵たちはかなりの数の女や子供を生け捕りにし、これを売ることにより、生活の糧にしていたと考えられる。まさしく戦争に出陣する「うまみ」であった。

 数が多いので、薄利多売になったのであろうか。売られた者は、家事労働などに使役されるか、あるいはさらに転売されたことがあったかもしれない。


 連れ去られた人々は、買い戻されることもあった。その際、金銭が必要なのは言うまでもないが、仲介役として商人や海賊が関与していたと指摘されている。むろん無料で引き受けるのではなく、仲介料を取っていた。つまり、戦場における人の連れ去りは、大げさに言えば、一種の商行為として彼ら商人の懐を潤わせていたのである。

 人身売買の厳しい実態は、後になっても確認できる。

 『信長公記』によると、天正3(1575)年に織田信長が越前国の一向一揆を討伐した際、殺された人間と生け捕りにされた人間の数が、3〜4万人に及んだと伝えている。これには、兵はもちろんのこと民や百姓も含まれていた。殺された数も多かったようであるが、生け捕り分(民と百姓)は、戦利品として扱われたと推測される。

 同様の事例は、大坂の陣でも確認できる。『義演准后日記』によると、大坂の陣で勝利を得た徳川軍の兵は、女や子供を次々と捕らえて、凱旋(がいせん)したことを伝えている。徳川方の蜂須賀軍は、約170人の男女を捕らえたと言われているが、そのうち女が68人、子供が64人とその多くを女や子供が占めている。弱者である女や子供が生け捕りにされるのは、共通した普遍性であった。
大阪城(ゲッティイメージズ)
 大坂の陣を描いた「大坂夏の陣屏風」には、逃げ惑う戦争難民の姿が活写されているが、とりわけ兵に捕まった女性たちの姿が目を引く。兵たちは戦争そっちのけで強奪に熱中しており、それがある意味で彼らの稼ぎとなっていたようなのである。そして、女性たちは売り飛ばされたと考えられる。

 人身売買や人の略奪という地獄絵図は、戦国時代を経て織豊政権期に至っても続き、さらに最後の大戦争となった大坂の陣まで脈々と続けられたのである。

主要参考文献
渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/537.html#c4

[近代史5] 日本人による極悪非道の世界侵略の歴史 中川隆
5. 中川隆[-6194] koaQ7Jey 2021年3月31日 03:55:35 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[6]
2020.10.01
戦国時代から欧米諸国は日本人を東南アジア侵略のための傭兵として使っている
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010010000/

 太平洋からインド洋にかけての海域で軍事的な緊張が高まっている。中国は一帯一路(BRI/帯路構想)のうち「海のシルクロード」をそこに築こうとしているのに対し、アメリカはその構想を潰そうとしているからだが、その緊張の中へ日本が引きずり込まれつつあり、自衛隊は与那国、石垣、宮古、奄美へ活動範囲を広げている。

 安倍晋三は首相だった2015年6月、赤坂にある赤坂飯店で開かれた懇親会で「​安保法制は、南シナ海の中国が相手なの​」と口にしたというが、彼は日本の立場を理解していたのだろう。その安倍が直前に会談したという中国の習近平国家主席は軍部に対し、南シナ海と台湾の監視を強め、戦争の準備をするように命じたと伝えられている。

 アメリカは2018年5月、太平洋軍という名称をインド・太平洋軍へ変更、太平洋からインド洋にかけての海域を一体のものとして扱うことを明確にした。日本を太平洋側の拠点、インドを太平洋側の拠点にし、インドネシアが領海域をつなぐ構図になるという。2018年5月にインドのナレンドラ・モディ首相はインドネシアを訪問、ジョコ・ウィドド大統領と会談している。

 一帯一路はイギリスやアメリカ、つまりアングロ・サクソン系国の長期戦略とも衝突している。これらの国は制海権を利用してユーラシア大陸の周辺部を支配、その三日月帯から内陸部を締め上げてきたのだ。

 この長期戦略を1904年にまとめた学者が地政学の父とも呼ばれているイギリスの地理学者、ハルフォード・マッキンダーだということも本ブログでは繰り返し書いてきたこと。ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もその理論に基づいている。

 イギリスはこの三日月帯の上にイスラエルとサウジアラビアを作り、インドや東南アジアを植民地化している。その三日月帯の東端にあるのが日本列島にほかならない。その日本をアメリカは現在、太平洋側における拠点と位置づけている。

 1991年12月にソ連が消滅するとネオコン(シオニストの一派)をはじめとするアメリカの好戦派はアメリカが唯一の超大国になったと認識し、他国に配慮することなく単独で行動できる時代になったと考えた。そして1992年2月に国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランが作成された。いわゆるウォルフォウィッツ・ドクトリンだ。

 アメリカの支配者は自分たちの属国である日本にも国連を無視することを望んだのだが、細川護煕政権は国連中心主義を捨てない。そこでこの政権は潰されたのだが、それと同時に新たな日本の軍事戦略を押しつけてくる。国防次官補だったジョセイフ・ナイが1995年2月に発表した「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」だ。そこには在日米軍基地の機能を強化、その使用制限の緩和/撤廃が謳われていた。それ以降、日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていくが、それは日本人がアメリカ支配層の傭兵になることを意味している。

 アメリカ人やイギリス人は19世紀に中国(清)へ麻薬を売りつけることで大儲けした。そうした中、イギリスは1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年の第2次アヘン戦争(アロー戦争)を中国に対して仕掛け、略奪を本格化させている。

 これらの戦争でイギリス側が勝ったことは事実だが、中国の全域を支配するだけの軍事力がない。そこで目をつけたのが日本。明治維新にイギリスが深く関与したのはそのためだろう。アングロ・サクソンにとって獲物は大陸の中国であり、日本人はその獲物を手にするための傭兵ということになる。

 明治維新で誕生した体制は琉球を併合し、台湾へ派兵、李氏朝鮮の首都を守る江華島へ軍艦を派遣して挑発、日清戦争へとつながる。そして1904年2月に日本軍はロシア海軍の拠点だった旅順を奇襲攻撃して日露戦争がはじまった。

 日露戦争の後、セオドア・ルーズベルト大統領は日本が自分たちのために戦ったと書き、団琢磨の友人である金子堅太郎はアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦ったとシカゴやニューヨークで説明していた。金子はルーズベルトとも親しい。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)

 日本人がヨーロッパ人の傭兵として東アジアで戦うという構図は戦国時代にもあった。当時、日本では勝者側の雑兵や忍びが敗者を殺したり放火するだけでなく、財産を奪い、女性や子どもを中心に拉致して奴隷として売りさばくことが普通だった。その一部はポルトガルの商人らの手を経て国外へ連れ出され、売られている。正確な人数は不明だが、売られた日本人は10万人を超えていたという推計もある。

 その中には若い男性もいて、イエズス会のカブラルは1584年、日本人を雇い入れて中国を武力で征服しようとスペイン・ポルトガル国王に提案していたという。また平戸に置かれたオランダの商館は同国の東インド会社が行う軍事作戦を支える東南アジア随一の兵站基地だったともされている。(藤木久志著『雑兵たちの戦場』朝日新聞出版、2005年)

 徳川体制に入り、第2代目の将軍、徳川秀忠は人身売買、武器輸出、海賊行為を禁止、オランダやイギリスは傭兵を日本で調達することが困難になった。そうした禁輸令を受け、オランダのインド総督は日本人傭兵に代わる兵士を急いで本国から派遣するように要請している。(前掲書)そして徳川体制が倒れて明治体制へ移行した際、イギリスは日本人を再び傭兵として使い始めたと言えるだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010010000/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/537.html#c5

[近代史5] 日本人による極悪非道の世界侵略の歴史 中川隆
6. 中川隆[-6193] koaQ7Jey 2021年3月31日 03:57:13 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[7]
戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/361.html

麻薬王 岸信介
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1170.html

昭和天皇が戦争狂になった訳
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html

この人を見よ _ 人間の屑 福沢諭吉のした事
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/485.html

からゆきさん
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/315.html

こんな女に誰がした (天皇陛下を恨んでね)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/332.html

従軍慰安婦は売春婦なのか?
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/410.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/537.html#c6

[近代史5] 「血を流すしかない…」コロナで困窮する生活保護の申請者 自治体の追い返し横行 中川隆
10. 中川隆[-6192] koaQ7Jey 2021年3月31日 04:03:51 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[8]
生活保護の扶養照会、曲がり角 西成に流れ着いた男性「つらい」
朝日新聞社 2021/03/30


取材に応じた東海地方出身の男性。家族とは疎遠で「扶養照会はプレッシャー」と語った=2021年3月4日午後6時54分、


 新型コロナウイルスの感染拡大で生活に困窮する人が増えるなか、生活保護を申請する際に福祉事務所が親族に対して援助できないか問い合わせる「扶養照会」が申請のハードルになっているとの指摘がある。「家族に知られたくない」と扶養照会を理由にためらう人もおり、支援団体は「制度そのものを見直す必要がある」と訴える。

■生活状況、知られたくなかった

 日雇い労働者の街として知られる大阪市西成区の「あいりん地区」。生活保護の平均受給世帯率が23%(2019年度)と市全体の4倍以上を記録する西成区の中でも突出してその割合が高い地域とされる。ここに流れ着いた東海地方出身の40代の男性は昨年6月に生活保護の申請を決意したが、二の足を踏ませたのが扶養照会の存在だった。

 「連絡を絶っている家族に自分の生活状況を知られたくなかった」

 高校卒業後、東京都内でエンジニアとして働いたが、人間関係に悩み職場を転々とした。うつ病で定職に就くことも難しく、日雇い仕事を探してあいりん地区へ。住み込みの清掃の仕事に就いたが、うつ病の症状が悪化して辞めた。住む場所と仕事を失い、生活保護に頼ることにした。

 支援団体の紹介で生野区内のアパートに住み、同区の福祉事務所の窓口で職員から「家族がいるのなら扶養照会をさせてもらう」と言われ、迷った。

 母は亡くなり、年老いた父は実家で細々と年金生活を送る。弟は結婚して家庭を持つ。東京で働いていたはずの自分は大阪に流れ着き困窮している。子どもの頃、親戚の扶養照会を受けた両親が煩わしそうにしていた記憶がよみがえった。

 背に腹は代えられないと応じ、父親と弟に生野区から照会があった。弟から反応はなかったが、父親からは手紙が届いた。警察に行方不明者届を出していたことなどが記され、結びに「生きていればいい」とあったが、援助は断られた。

 男性は「お金の面で家族に迷惑をかけたくないし、結びつきの薄い家族に自分の困窮ぶりを知られるのもつらい。扶養照会はしてほしくなかった」と話した。

■照会しても親族扶養の実現わずか

 扶養照会を巡っては今年2月、厚生労働省が運用を見直す通知を各自治体に出した。照会不要のケースを20年間の音信不通から「10年程度」にするなど限定的な運用となる。だが、そもそも親族の支援が得られるケースはまれで、制度自体の是非が議論されてきた。

 民法では、親子や祖父母、兄弟姉妹といった血縁関係があれば互いに扶養する義務があると定められ、生活保護支給の可否を決定する際に扶養照会をかける根拠の一つとされる。

 だが、厚生労働省の2017年の調査では、扶養照会をした約3・8万件のうち、親族からの扶養に結びついたのは約600件と2%にも満たない。生活保護業務に携わった元地方公務員の男性によると、扶養照会には「期待薄」の空気が現場には根強いという。「家族に知られるのは嫌だろうと思ってはいたが、事務的に照会をかけていた」と明かす。

 厚労省の今回の通知では、申請者の親族が家庭内暴力(DV)の加害者の場合は照会を控えるよう自治体に求めている。

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e7%94%9f%e6%b4%bb%e4%bf%9d%e8%ad%b7%e3%81%ae%e6%89%b6%e9%a4%8a%e7%85%a7%e4%bc%9a%e3%80%81%e6%9b%b2%e3%81%8c%e3%82%8a%e8%a7%92-%e8%a5%bf%e6%88%90%e3%81%ab%e6%b5%81%e3%82%8c%e7%9d%80%e3%81%84%e3%81%9f%e7%94%b7%e6%80%a7%e3%80%8c%e3%81%a4%e3%82%89%e3%81%84%e3%80%8d/ar-BB1f7EtQ
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/252.html#c10

[番外地9] お金は貝殻でも石でも何でもいいんですね。 ただ、同じ様な物がそこらにいくらでもあると物々交換の代わりにならないので、貴… 中川隆
11. 中川隆[-6191] koaQ7Jey 2021年3月31日 04:31:02 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[9]
要するに、他の銀行から安い利子で借りた金を顧客に高い利子で貸して稼ぐという事だろ。
民間銀行はすべてサラ金だと言いたいんだろ。

しかし銀行は勝手に融資できないんだよ。絶対に返済してくれる場合以外は貸さないんだ。
そもそも自己資金ゼロの銀行に貸す訳ないだろ。
銀行は顧客から集めた銀行預金を使って、他の人に貸して利子を稼いだり、国債を買ってその金利で運用しているから、銀行預金をすべて現金にしてくれと言われてもすぐには返せない。 それで他の顧客に融資した金や国債を担保に不足している現金を一時的に借りて現金を返しているんだ。
他の顧客に融資した金や国債が無い自己資金ゼロの場合には金は借りられない。

そもそも近年の民間銀行は民間人への融資ではなく日本国債の金利で稼いでいる。
他の銀行から利子付きで借りた金でゼロ金利の国債を買う訳ないだろ。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/257.html#c11

[番外地9] お金は貝殻でも石でも何でもいいんですね。 ただ、同じ様な物がそこらにいくらでもあると物々交換の代わりにならないので、貴… 中川隆
12. 2021年3月31日 05:19:22 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[10]
自己資金ゼロの銀行が銀行として認可される訳ないだろ:

銀行の「自己資本」は、一般企業の場合、自己資本は株式を発行して集めたお金(資本金)に、利益の蓄積である利益剰余金などを加えたものとなる。しかし、銀行の場合には保有している株式の含み益の一部なども加えられることが、国際ルールで認められている。
 銀行は自己資本だけではなく、お金を借りてそれをさらに融資するという「又貸し」を行っている。借りたお金は、自己資本に対して「他人資本」と呼ばれている。銀行の最大の他人資本が「預金」であり、この他に、他の金融機関からの借り入れや社債を発行して集めたお金、さらには中央銀行から借りたお金なども他人資本となる。
 他人資本と自己資本の決定的な違いは、他人資本が返済しなければならないお金であるのに対して、自己資本はその名の通り自分のお金であり、返済の必要がないお金であるという点だ。
 自己資本は銀行業の「元手」であり、その大きさが全体の融資額を決めて行く。また、融資が焦げ付いた場合、預金などの他人資本に手を付けるわけにはいかないので、自己資本から支払う。したがって、自己資本が少ないと、融資が大量に焦げ付いた場合に自己資本が底をつき、他人資本に手を付けざるを得なくなる。これによって、預金の払い戻しに応じられなくなる恐れが発生、銀行の信用力は失われて、破綻に追いやられることになるのだ。
 こうしたことから、銀行には一定水準以上の自己資本を持つことが義務付けられている。これが「自己資本比率」であり、自己資本÷融資額(リスクアセット)×100で算出される。融資を行っている内の何%が、自己資本で賄われているかを示すもので、これが高ければ高いほど、自己資本が大きく、銀行経営が安定していることになる。
 国際的な業務を営む銀行の場合、自己資本比率の下限は8%、国内業務に限っている場合には4%という「自己資本比率規制」があり、これを維持することがBIS(国際決済銀行)によって義務付けられている。
 巨額の焦げ付きなどで、自己資本比率が大きく低下した場合、銀行はどうすればよいのか。新たに株式を発行する「増資」によって、資本金を増やすことができれば問題はない。しかし、増資には時間がかかる上に、大きな損失が発生している銀行の株式を、危険を承知で購入してくれる投資家が見つからない場合もある。
 こうなると、銀行は自己資本比率規制をクリアするために、融資を減らすという行動に出る。自己資本という分子を大きくできないなら、融資額という分母を小さくしようというわけ。これが、「貸し渋り」、そして「貸しはがし」となって、融資先を直撃するのである。
 自己資本比率が低下するのは、融資の焦げ付きだけではない。保有している株式などの資産の価格が下落した場合にも、自己資本が減少し、融資の圧縮を迫られる。
 サブプライムローン問題に端を発した2008年の金融危機では、巨額の焦げ付きの発生に株価暴落が重なり、巨額の自己資本を失った銀行が続出した。公的資金注入による自己資本を増やす政策も打ち出されたが、効果はなかなか現れず、貸し渋り、貸しはがしが広がった。傷が浅いと言われていた日本の銀行も、株価の急落で自己資本比率が低下、貸し渋りの傾向を強めている。
 近所の資産家は、株式投資に失敗した上に、融資の回収もままならず、結局破産してしまった。自己資本がゼロになったのだ。健全な自己資本比率を維持することは、銀行に課せられた厳しいハードルなのである。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/257.html#c12

[近代史4] バイデン政権は、基本的に「第三次オバマ政権」でもある (続き) 中川隆
19. 中川隆[-6190] koaQ7Jey 2021年3月31日 05:35:55 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[11]

2021.03.31
バイデンとトランプを操る私的権力
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103310000/


 ジョー・バイデン政権はロシアに対する経済戦争を強化、軍事的な緊張も高めてきた。これは昨年の大統領選挙運動中にも言われていたことだが、中国に対する経済的、そして軍事的な圧力も強め、中東でも軍事的な動きが活発化している。政権の陣容から予想されたことだが、好戦的な政策を打ち出してきた。ルビコンを渡ったということだ。

 アメリカの場合、シオニスト(親イスラエル派)系の富豪は政治家に資金を提供する際、国際面の政策、つまり外交や軍事を彼らに任せることを条件にしてきたと言われている。ジョン・F・ケネディもその条件を呑んでいた。

 しかし、ケネディの場合、大統領に就任してからイスラエルの核兵器開発に対して厳しい姿勢で臨んで対立が生じ、ジミー・カーターはイスラエル一辺倒の政策をとらず、パレスチナにも配慮する政策を打ち出して有力メディアから激しく攻撃され、1期で終えた。

 こうした背景があるため、外交や軍事に関する政策は大統領が交代しても基本的に変化しない。ドナルド・トランプやバイデンでも同じことが言えるのだが、それでもトランプは選挙期間中にソ連との関係修復を訴え、CIAやFBIとタッグを組んだ有力メディアから激しく攻撃されていた。

 トランプはCOVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)を巡っても危機感を煽り、ワクチン接種を推進する有力メディアやその背後にいる私的権力と対立していた。最前線で旗を振ってきたのはビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団だが、この財団と歩調を合わせ、COVID-19騒動を利用してWEF(世界経済フォーラム)のクラウス・シュワブは資本主義を大々的に「リセット」すると宣言している。

 このリセットを実行する司令部になりそうな存在が「包括的資本主義会議」。ローマ教皇庁と連携している。その中心的な存在であるリン・フォレスター・ド・ロスチャイルドはエベリン・ド・ロスチャイルドの3番目の妻。エベリンはロンドンを拠点とするNMロスチャイルド銀行の取り仕切ってきた人物で、昨年8月で90歳になった。リン・フォレスターは66歳。

 ふたりは1998年のビルダーバーグ・グループの会議でヘンリー・キッシンジャーに紹介されて知り合い、2000年に結婚、新婚旅行の際にクリントン夫妻からホワイトハウスへ招待されている。ちなみにシュワブはハーバード大学でキッシンジャーの下で学んでいたという。

 2015年の段階で次期アメリカ大統領に内定していたと言われているヒラリー・クリントンは2016年に失速する。民主党の内部では彼女の好戦的な姿勢を好まない人びとがバーニー・サンダースを支援、共和党のトランプも浮上した。そこで民主党の幹部やヒラリー陣営はサンダースを潰した後、トランプを攻撃することになる。トランプが浮上する際に動いていたのがキッシンジャーだ。

 キッシンジャー人脈の動きを見ると、トランプは1期目の途中、私的権力から切られたように見える。軍事面でトランプの腰が引けていると判断された可能性もあるが、私的権力は2001年頃、つまりニューヨークの世界貿易センターやバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃された頃からパンデミックを想定したシナリオを考えていた。COVID-19に対するトランプの態度を私的権力が怒ったのかもしれない。

 トランプに替わって大統領になったバイデンは1972年の上院議員選挙で当選している。その当時、彼に助言していた人物は富豪のW・アベレル・ハリマン。ジョージ・W・ブッシュの祖父にあたるプレスコット・ブッシュとエール大学の同窓で、ふたりとも学生の結社「スカル・アンド・ボーンズ」のメンバーだった。ハリマン家とブッシュ家はスカル・アンド・ボーンズだらけだ。

 ウォール街の大物だったジョージ・ハーバート・ウォーカーの娘とプレスコットは1921年に結婚、24年にはウォーカーが社長を務めていた投資銀行の「A・ハリマン」の副社長になり、31年には「ブラウン・ブラザース・ハリマン」の共同経営者になる。ブラウン・ブラザース・ハリマンを設立したE・H・ハリマンはW・アベレル・ハリマンの父親だ。

 その当時、このブラウン・ブラザース・ハリマンはディロン・リードと同様、アメリカからドイツへの主要な投資ルートだった。プレスコットはW・アベレル・ハリマンらとドイツ企業との手形交換業務を行う名目で「ユニオン・バンキング」を創設するが、この投資銀行はウォール街がナチスへ資金を流す主要なパイプラインのひとつだったとされている。

 ナチスを資金面からウォール街の金融資本だけが支えていたわけではない。スイスで設立され、米英の親ファシスト派が背後にいたと言われているBIS(国際決済銀行)、あるいは第2次世界大戦が勃発する半年ほど前にドイツへ約2000トンの金塊を渡したと言われているイングランド銀行も仲間だと言えるだろう。

 ロックフェラー財団のラジブ・シャーやフォード財団のダレン・ウォーカーも含まれている包括的資本主義会議の中心グループにはイングランド銀行元総裁のマーク・カーニーもいる。カーニーはドルに替わる基軸通貨を創設しようと考えているようだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103310000/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1456.html#c19

[近代史4] どうしても戦争だけはやりたくなかったドナルド・トランプ大統領 中川隆
63. 中川隆[-6189] koaQ7Jey 2021年3月31日 05:36:29 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[12]

2021.03.31
バイデンとトランプを操る私的権力
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103310000/


 ジョー・バイデン政権はロシアに対する経済戦争を強化、軍事的な緊張も高めてきた。これは昨年の大統領選挙運動中にも言われていたことだが、中国に対する経済的、そして軍事的な圧力も強め、中東でも軍事的な動きが活発化している。政権の陣容から予想されたことだが、好戦的な政策を打ち出してきた。ルビコンを渡ったということだ。

 アメリカの場合、シオニスト(親イスラエル派)系の富豪は政治家に資金を提供する際、国際面の政策、つまり外交や軍事を彼らに任せることを条件にしてきたと言われている。ジョン・F・ケネディもその条件を呑んでいた。

 しかし、ケネディの場合、大統領に就任してからイスラエルの核兵器開発に対して厳しい姿勢で臨んで対立が生じ、ジミー・カーターはイスラエル一辺倒の政策をとらず、パレスチナにも配慮する政策を打ち出して有力メディアから激しく攻撃され、1期で終えた。

 こうした背景があるため、外交や軍事に関する政策は大統領が交代しても基本的に変化しない。ドナルド・トランプやバイデンでも同じことが言えるのだが、それでもトランプは選挙期間中にソ連との関係修復を訴え、CIAやFBIとタッグを組んだ有力メディアから激しく攻撃されていた。

 トランプはCOVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)を巡っても危機感を煽り、ワクチン接種を推進する有力メディアやその背後にいる私的権力と対立していた。最前線で旗を振ってきたのはビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団だが、この財団と歩調を合わせ、COVID-19騒動を利用してWEF(世界経済フォーラム)のクラウス・シュワブは資本主義を大々的に「リセット」すると宣言している。

 このリセットを実行する司令部になりそうな存在が「包括的資本主義会議」。ローマ教皇庁と連携している。その中心的な存在であるリン・フォレスター・ド・ロスチャイルドはエベリン・ド・ロスチャイルドの3番目の妻。エベリンはロンドンを拠点とするNMロスチャイルド銀行の取り仕切ってきた人物で、昨年8月で90歳になった。リン・フォレスターは66歳。

 ふたりは1998年のビルダーバーグ・グループの会議でヘンリー・キッシンジャーに紹介されて知り合い、2000年に結婚、新婚旅行の際にクリントン夫妻からホワイトハウスへ招待されている。ちなみにシュワブはハーバード大学でキッシンジャーの下で学んでいたという。

 2015年の段階で次期アメリカ大統領に内定していたと言われているヒラリー・クリントンは2016年に失速する。民主党の内部では彼女の好戦的な姿勢を好まない人びとがバーニー・サンダースを支援、共和党のトランプも浮上した。そこで民主党の幹部やヒラリー陣営はサンダースを潰した後、トランプを攻撃することになる。トランプが浮上する際に動いていたのがキッシンジャーだ。

 キッシンジャー人脈の動きを見ると、トランプは1期目の途中、私的権力から切られたように見える。軍事面でトランプの腰が引けていると判断された可能性もあるが、私的権力は2001年頃、つまりニューヨークの世界貿易センターやバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃された頃からパンデミックを想定したシナリオを考えていた。COVID-19に対するトランプの態度を私的権力が怒ったのかもしれない。

 トランプに替わって大統領になったバイデンは1972年の上院議員選挙で当選している。その当時、彼に助言していた人物は富豪のW・アベレル・ハリマン。ジョージ・W・ブッシュの祖父にあたるプレスコット・ブッシュとエール大学の同窓で、ふたりとも学生の結社「スカル・アンド・ボーンズ」のメンバーだった。ハリマン家とブッシュ家はスカル・アンド・ボーンズだらけだ。

 ウォール街の大物だったジョージ・ハーバート・ウォーカーの娘とプレスコットは1921年に結婚、24年にはウォーカーが社長を務めていた投資銀行の「A・ハリマン」の副社長になり、31年には「ブラウン・ブラザース・ハリマン」の共同経営者になる。ブラウン・ブラザース・ハリマンを設立したE・H・ハリマンはW・アベレル・ハリマンの父親だ。

 その当時、このブラウン・ブラザース・ハリマンはディロン・リードと同様、アメリカからドイツへの主要な投資ルートだった。プレスコットはW・アベレル・ハリマンらとドイツ企業との手形交換業務を行う名目で「ユニオン・バンキング」を創設するが、この投資銀行はウォール街がナチスへ資金を流す主要なパイプラインのひとつだったとされている。

 ナチスを資金面からウォール街の金融資本だけが支えていたわけではない。スイスで設立され、米英の親ファシスト派が背後にいたと言われているBIS(国際決済銀行)、あるいは第2次世界大戦が勃発する半年ほど前にドイツへ約2000トンの金塊を渡したと言われているイングランド銀行も仲間だと言えるだろう。

 ロックフェラー財団のラジブ・シャーやフォード財団のダレン・ウォーカーも含まれている包括的資本主義会議の中心グループにはイングランド銀行元総裁のマーク・カーニーもいる。カーニーはドルに替わる基軸通貨を創設しようと考えているようだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103310000/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1152.html#c63

[番外地9] 民間銀行の信用創造について低レベルの誤解をしている人が多い 中川隆
2. 中川隆[-6188] koaQ7Jey 2021年3月31日 06:23:59 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[13]
三橋貴明の話はすべてデタラメだよ _ 貨幣のプール論は正しい _ 銀行は国民の預金で国債を買っている
民間銀行の信用創造について低レベルの誤解をしている人が多い
民間銀行は自己資金ゼロでも、顧客に借用書を書いてもらって、融資金額を顧客の銀行預金として記帳するだけでお金が無から生まれると思っているアホが多過ぎる。

そもそも民間銀行が自己資金も持っていないのに顧客に融資したとしたら、顧客が自分が借りた金を日銀券(円紙幣)で引き出したいと言った時に、全く金を持っていない民間銀行が顧客に日銀券を渡せる訳がないですね。小学生でもわかる道理です。

信用貨幣論というのは要するに、
貨幣と言っても、マネタリーベース、マネーストック、銀行預金、国内で商品購買に使うお金、国内で不動産・株式購買に使うお金、為替交換して外国に投資するお金等 何種類もありますが、

・政府の信用創造: 国債と硬貨国債を発行、国債は政府が発行する有利子貨幣、硬貨は政府が発行する無利子貨幣

・日銀の信用創造: 日銀当座預金と日銀券(円紙幣)を発行、日銀当座預金は有利子貨幣で、日銀は民間銀行から国債を買って、民間銀行の日銀当座預金口座に日銀当座預金を信用創造し、マネタリーベースを増やす。
日銀券(円紙幣)は日銀が発行する無利子貨幣で、日銀は民間銀行の要請で日銀当座預金と日銀券(円紙幣)を交換する。

・民間銀行の信用創造:、銀行預金は民間銀行が発行する有利子貨幣で、民間銀行は一般人に融資して民間銀行の口座に銀行預金を信用創造し、マネーストックを増やす。民間銀行が日銀券(円紙幣)を持っていてもマネーストックにはならない。

お金の又貸し説は日銀当座預金では正しい

民間銀行の信用創造というのは民間銀行が自分の持っている日銀当座預金口座の日銀当座預金を日銀券に変えるという意味です。日銀当座預金口座は政府と民間銀行しか作れないので、民間銀行に借金しないと日銀券を発行してもらえないのです。
それが、借金でお金を作る、という意味です。
ゼロからお金を作るのではなく、日銀当座預金を日銀券に変えているだけです。 銀行が顧客に金を貸せるのは、貸す金額と同額の日銀当座預金を持っている場合だけです。

民間銀行の持っている日銀当座預金は、顧客から銀行預金として預かっている日銀券を日銀でデータに変えて保管したものです。民間銀行の融資というのは顧客から銀行預金として預かっているお金を又貸ししているだけです。

 銀行は自己資本だけではなく、お金を借りてそれをさらに融資するという「又貸し」を行っています。銀行の最大の他人資本は「預金」であり、この他に、他の金融機関からの借り入れや社債を発行して集めたお金、さらには中央銀行から借りたお金なども他人資本となります。融資が焦げ付いた場合、預金などの他人資本に手を付けるわけにはいかないので、銀行には一定水準以上の自己資本を持つことが義務付けられています。 国際的な業務を営む銀行の場合、自己資本比率=自己資本÷融資額(リスクアセット)×100 の下限は8%、国内業務に限っている場合には4%という「自己資本比率規制」があり、これを維持することがBIS(国際決済銀行)によって義務付けられています。

一方、日銀は買いオペで国債を買って日銀当座預金を信用創造できますが、マネタリーベースを増やすと貨幣価値が下がってしまい、マネタリーベースすべてを使って買えるものの総量はマネタリーベースを増やしても変わりません。
日銀当座預金の信用創造というのは単に貨幣価格の単位を変えただけです。
いままで1万円札で10ケ買えていたものが、貨幣量を10倍にすると貨幣価値が1/10になって、1万円札で1ケしか買えなくなります。 日銀が信用創造で円貨幣を増やしても、貨幣の単位が変わるだけで経済には(長期的には)影響しません。

民間銀行が一般人に融資して民間銀行の口座に銀行預金を信用創造しても、それは民間銀行が元々日銀当座預金口座に持っている日銀当座預金の一部を一般人専用にしているだけで、お金が増えた訳ではありません。民間銀行の信用創造というのは日銀当座預金を日銀券(円紙幣)に変えてマネーストックが増えた場合だけです。但し、マネーストックが増えても国内で商品購買に使われなければ物価は上がりません。

お金が増えるのは、買いオペで日銀が国債を買い取って、その代金を日銀当座預金口座に信用創造して、マネタリーベースが増えた場合だけです。マネタリーベースが増えると貨幣価値は下がりますが、物価があがる訳ではありません。

日本人の給料は30年前と変わらないので、国内で商品の購買に使われる総額も同じで、従って国内物価は上がりません。金利も変わりません。円の貨幣価値が下がったというのは輸入物価やゴールド・原油・鉄鋼・穀物・大豆などの商品相場が上がったという事で、国内の消費者物価や金利が上がった訳ではないんですね。

▲△▽▼


古典派経済学の貨幣数量説・貨幣の中立説
貨幣中立説は、歴史的には大航海時代以後にスペインなどが重金主義を採用したことによる反動ともいえる。
重金主義とは、貿易などを通じて貴金属や貨幣を蓄積することにより、国富を増すことを目指す経済思想や経済政策の総称。

一方、古典派経済学の貨幣中立説は貨幣量の増減は物価にだけ影響を与え、生産活動や雇用の増減などには影響を与えないとする説。 中立説によれば、貨幣は社会的な分業や効率性をもたらす以上の役割はない。経済活動の本質は物々交換であり貨幣はその仲介を行っているにすぎず、貨幣量の増減は貨幣錯覚による混乱をもたらすが国富・国民経済の観点では中立的であり、国富の増大には貨幣量の拡大ではなく生産・供給能力の増強によるべきとした。

貨幣数量説は貨幣の中立性を前提にしており、物価の乱高下は流通貨幣量の管理によって押さえ込むことができるとする。管理通貨制度が定着する以前は、社会に存在する貨幣の総量は誰にも計測できず、金塊が採掘されるなり、難破などの事故により貴金属が喪失するといった確率現象や、貯蓄のために金塊を退蔵するといった個々人の経済行動は、物価に対して深刻な影響を与える要素であった。

ルーズベルトやニューディーラーは古典派経済学・マルクス経済学の系統で、ソ連の5か年計画を真似してニューディール政策を行っています。ルーズベルトやニューディーラーは勿論 緊縮財政派です。
長期的には貨幣の中立性は成立し、金融政策は実体経済に影響を与えず、ただ名目変数を動かすだけであるという点では、新古典派経済学、マネタリスト、ニュー・ケインジアンの見解は一致しています。

一方、ケインズやMMT学派は古典派経済学・マルクス経済学の貨幣数量説・貨幣の中立説を否定して、金融緩和や財政出動が経済を変えると思っているのですね。 1970年代までは欧米政府はすべてケインズ政策に基づいた経済政策を行っていましたが、悉く失敗したので。経済政策をハイエクの自由主義経済と財政均衡主義に変えたのです。
しかし、三橋貴明さんはそういう経済の流れを全く知らず、重商主義とケインズ・MMT学派と新自由主義の三つしか考えていないのです。この現代に既に大失敗したケインズ政策をもう一度繰り返す事に意味は無いのですけどね。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/258.html#c2

[近代史4] 覚醒剤中毒者が体験する世界 中川隆
12. 中川隆[-6187] koaQ7Jey 2021年3月31日 07:35:36 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[14]
ドラッグ依存を何とか克服しても決して幸せになれない理由とは?
2021.03.31


快楽のためでなく「生きにくさの回避」から覚醒剤に落ちる人もいる。社会は決して自分の思い通りにならない。自分に苦痛を押し付けてくる。うまく生きられない人は、押しつぶされそうな閉塞感にあえぐ。しかし、覚醒剤は弱い心を強くしてくれる効果もある。ある時点までは……。(鈴木傾城)

そっと心が壊れかけた人の生活の中に忍び込んでくる
コロナ禍によって2020年の覚醒剤の押収量は前年比で69%も減ったということを財務省は税関による関税法違反事件の取り締まり状況の中で報道している。しかし、それでも全体として約800キロも押収されていた。末端価格は約512億円相当である。

覚醒剤はキング・オブ・ドラッグだ。決して世の中からなくならない。コロナ禍が明けて人の外国人の出入りが増えると、覚醒剤は再び大量に日本に入って来ることになるだろう。そして、再び覚醒剤で検挙されるニュースも増えるはずだ。

それはそっと心が壊れかけた人の生活の中に忍び込んでくる。彼らにとって、覚醒剤は「自分を救ってくれる大切なもの」でもある。

耐えられないほどの絶望、耐えられないほどの自信喪失、耐えられないほどのストレスを抱えている人がいたとする。この人はある日、それを克服する「もの」があることを知る。

覚醒剤……。吹けば飛んでなくなってしまうほどの分量の白い粉をスプーンの上で水に溶かし、それを注射器で自分の身体に打つ。

そうすると、急激に身体が凍るような感覚になって、今まで感じていたはずの絶望が消え、負け犬のような気分は吹き飛んで何でもできるような自信がみなぎる。

そして、今まで重荷に感じていたストレスが、笑ってしまうほど馬鹿げたものに思えて不敵に笑えるようになる。

「覚醒剤(シャブ)を打ったら自分の身体も巨大化したように感じることもありました」

そのように言う人もいる。なぜなのか。それは今まで自分を苦しめていた絶望・自信喪失・ストレスを完全に打ち負かす精神力を手に入れて、世界を征服したような気持ちになるからだ。

覚醒剤というのは、そういう気持ちにさせる凄まじい威力を持ったドラッグなのである。逆に言えば、覚醒剤は絶望・自信喪失・ストレスに苦しんでいる人にとって、「自分を救ってくれる大切なもの」であったと言える。依存症に堕ちるまでは……。

あなたは覚醒剤が欲しいと思わないだろうか?
快楽のためでなく、「生きにくさの回避」からドラッグに堕ちる人もいる。

覚醒剤に限らず多くのドラッグは、そういう人たちにとって最初から毒薬として目の前に現れるわけではない。毒薬どころか「自分を救ってくれる大切なもの」として登場する。

依存者はこの社会の中で「生きにくい」という気持ちでもがいている。社会は決して自分の思い通りにならない。社会は自分に苦痛を押し付けてくる。そのため、押しつぶされそうな閉塞感にあえぐしかない。

何もない状態では、心もとなく頼りない。弱い自分を支えてくれる魔法が欲しい。自分のこの「心の弱さ」を変えてくれる何かが必要だと切に思う。

そんなものは、あるわけがないと普通は考える。この深い絶望感や苦しみから救い出してくれる「魔法」などありはしないはずだ。世の中はそんな都合良くできていない。

ところが、あった。

覚醒剤は底なしの暗黒から自分を救ってくれる驚異の作用を持っている。ほんの小さな粉が、自分の鬱々《うつうつ》とした感情のすべてを吹き飛ばして、信じられないほどの自信を与えてくれるようになるのだ。

「生きにくい」という気持ちを打ち砕き、堂々巡りの無間地獄から自分を救い出してくれる。これを魔法と言わずに何と言えばいいのか、と感激する。

そして、覚醒剤を知った者は「生きにくい」世の中を、素晴らしい魔法で乗り切るようになっていく。不安は覚醒剤で消すことができるようになり、生きにくさを解消できる。

寝ても寝ても取れない疲労感、退屈な日常、救いのない同じ日々の繰り返し、心の底にずっと沈澱しているヘドロのようなストレス。

そんなものを一気に消し去ってくれるのが覚醒剤だとしたら、それは自分の弱点を補ってくれる大切な存在であると認識しても不思議ではない。

覚醒剤は早い段階で人間の心身をボロボロにしていくが、もし依存のコントロールができるとしたら、あなたは覚醒剤が欲しいと思わないだろうか?


依存症になっても依然としてメリットを感じている
覚醒剤は自分の心の中にあるネガティブでマイナスの感情を、力強く打ち消してくれるものだ。

誰もが自分の容姿や性格や生き方に何かしらの劣等感を持ち、コンプレックスを持ち、弱点を持っている。覚醒剤はこうした個人の心に潜むマイナス感情をきれいに消し去って強い心に置き換えてくれる。

意欲を呼び戻し、不安を解消し、対人関係における緊張を消してくれる。だから、ある時点まで覚醒剤は、その人の人生にメリットを与えているのである。

すべてのドラッグは、強く執拗な依存症を引き起こしてその人の人生をめちゃくちゃにするまで、その人にメリットを与えている。

アルコールもそうだ。アルコール依存に陥ると、思考能力が低下し、判断能力が低下し、生活能力も身体能力もすべて低下してしまう。

しかし、依存に堕ちるまでの間、アルコールは覚醒剤と同じでその人の絶望や自信喪失やストレスを消し去るという大切な役割をその人の人生の中で担っていたはずなのだ。

つまりアルコールの酩酊は、その人に取っては大きな意味があったのである。

アルコールは、少なくとも依存症になる前は、嫌なことを忘れさせて自分を救ってくれる「大切なもの」だった。「生きにくさ」を感じてふさぎ込んでいる自分の境遇を忘れさせてくれる魔法でもあった。

だから魔法を多用し、手放せなくなり、効果がなくなり、依存し、より悪い方向に転落してしまった。それが自分の人生に効果がなければ、最初から依存症に堕ちていなかった。

問題なのは、すべての依存症は副作用に苦しめられながらも、やはり依存症になっても依然としてメリットを感じ続けているということだ。

つまり依存症になりながらも、ドラッグによって相変わらず絶望や自信喪失やストレスを消すことができている。

抜けられても地獄から逃れることは決してできない
それは何を意味するのか。これは、仮にドラッグ依存が奇跡的に治っても、その人は幸せになるわけではないということを示唆している。なぜか。

ドラッグが消えると魔法も消えるからだ。

その人は依存する前は、今の社会で「生きにくさ」を感じており、漠とした不安な気持ちから抜け出せなかったはずだ。それをドラッグで消していた。

それなのに、ドラッグが消えるとどうなるのか。確かに依存症は治るのだが、今度は底知れぬ深い絶望や、自信の欠如や、生きにくさからくる強いストレスが一気に襲いかかってくる。

自分の弱さを補ってくれていた「大切なもの」がなくなってしまうのだから、その不安感はドラッグを知らなかったときよりも深いものになっているはずだ。

そのとき、依存者の頭の中に巡る気持ちは「この絶望と自信喪失とストレスを消してくれる魔法を取り戻したい」というものになっていく。

「あれを取り戻せば、この救いがたい憂鬱が消える」

自然にそう思う。一度でも魔法が自分の身体に作用したことを知っていると、「あれがあればなぁ」と思ってしまっても不思議ではない。

「あれ」を再び手に入れないと、今の自分を覆い尽くしている苦しみは絶対に消えない。このストレスから逃れられない。やるせない気持ちが払拭できない……。

「生きる苦しみ」から逃れたいと思ってドラッグ依存に堕ちた人は、ドラッグを取り除いても、再び「生きる苦しみ」に直面するだけである。ドラッグが消えたから幸せになるわけではないのだ。

ドラッグを排除しても、生きにくさがそこにある限り、地獄から逃れることは決してできないということである。

https://blackasia.net/?p=993
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/423.html#c12

[] 「覚醒剤」
99. 中川隆[-6186] koaQ7Jey 2021年3月31日 07:36:37 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[15]
ドラッグ依存を何とか克服しても決して幸せになれない理由とは?
2021.03.31


快楽のためでなく「生きにくさの回避」から覚醒剤に落ちる人もいる。社会は決して自分の思い通りにならない。自分に苦痛を押し付けてくる。うまく生きられない人は、押しつぶされそうな閉塞感にあえぐ。しかし、覚醒剤は弱い心を強くしてくれる効果もある。ある時点までは……。(鈴木傾城)

そっと心が壊れかけた人の生活の中に忍び込んでくる
コロナ禍によって2020年の覚醒剤の押収量は前年比で69%も減ったということを財務省は税関による関税法違反事件の取り締まり状況の中で報道している。しかし、それでも全体として約800キロも押収されていた。末端価格は約512億円相当である。

覚醒剤はキング・オブ・ドラッグだ。決して世の中からなくならない。コロナ禍が明けて人の外国人の出入りが増えると、覚醒剤は再び大量に日本に入って来ることになるだろう。そして、再び覚醒剤で検挙されるニュースも増えるはずだ。

それはそっと心が壊れかけた人の生活の中に忍び込んでくる。彼らにとって、覚醒剤は「自分を救ってくれる大切なもの」でもある。

耐えられないほどの絶望、耐えられないほどの自信喪失、耐えられないほどのストレスを抱えている人がいたとする。この人はある日、それを克服する「もの」があることを知る。

覚醒剤……。吹けば飛んでなくなってしまうほどの分量の白い粉をスプーンの上で水に溶かし、それを注射器で自分の身体に打つ。

そうすると、急激に身体が凍るような感覚になって、今まで感じていたはずの絶望が消え、負け犬のような気分は吹き飛んで何でもできるような自信がみなぎる。

そして、今まで重荷に感じていたストレスが、笑ってしまうほど馬鹿げたものに思えて不敵に笑えるようになる。

「覚醒剤(シャブ)を打ったら自分の身体も巨大化したように感じることもありました」

そのように言う人もいる。なぜなのか。それは今まで自分を苦しめていた絶望・自信喪失・ストレスを完全に打ち負かす精神力を手に入れて、世界を征服したような気持ちになるからだ。

覚醒剤というのは、そういう気持ちにさせる凄まじい威力を持ったドラッグなのである。逆に言えば、覚醒剤は絶望・自信喪失・ストレスに苦しんでいる人にとって、「自分を救ってくれる大切なもの」であったと言える。依存症に堕ちるまでは……。

あなたは覚醒剤が欲しいと思わないだろうか?
快楽のためでなく、「生きにくさの回避」からドラッグに堕ちる人もいる。

覚醒剤に限らず多くのドラッグは、そういう人たちにとって最初から毒薬として目の前に現れるわけではない。毒薬どころか「自分を救ってくれる大切なもの」として登場する。

依存者はこの社会の中で「生きにくい」という気持ちでもがいている。社会は決して自分の思い通りにならない。社会は自分に苦痛を押し付けてくる。そのため、押しつぶされそうな閉塞感にあえぐしかない。

何もない状態では、心もとなく頼りない。弱い自分を支えてくれる魔法が欲しい。自分のこの「心の弱さ」を変えてくれる何かが必要だと切に思う。

そんなものは、あるわけがないと普通は考える。この深い絶望感や苦しみから救い出してくれる「魔法」などありはしないはずだ。世の中はそんな都合良くできていない。

ところが、あった。

覚醒剤は底なしの暗黒から自分を救ってくれる驚異の作用を持っている。ほんの小さな粉が、自分の鬱々《うつうつ》とした感情のすべてを吹き飛ばして、信じられないほどの自信を与えてくれるようになるのだ。

「生きにくい」という気持ちを打ち砕き、堂々巡りの無間地獄から自分を救い出してくれる。これを魔法と言わずに何と言えばいいのか、と感激する。

そして、覚醒剤を知った者は「生きにくい」世の中を、素晴らしい魔法で乗り切るようになっていく。不安は覚醒剤で消すことができるようになり、生きにくさを解消できる。

寝ても寝ても取れない疲労感、退屈な日常、救いのない同じ日々の繰り返し、心の底にずっと沈澱しているヘドロのようなストレス。

そんなものを一気に消し去ってくれるのが覚醒剤だとしたら、それは自分の弱点を補ってくれる大切な存在であると認識しても不思議ではない。

覚醒剤は早い段階で人間の心身をボロボロにしていくが、もし依存のコントロールができるとしたら、あなたは覚醒剤が欲しいと思わないだろうか?


依存症になっても依然としてメリットを感じている
覚醒剤は自分の心の中にあるネガティブでマイナスの感情を、力強く打ち消してくれるものだ。

誰もが自分の容姿や性格や生き方に何かしらの劣等感を持ち、コンプレックスを持ち、弱点を持っている。覚醒剤はこうした個人の心に潜むマイナス感情をきれいに消し去って強い心に置き換えてくれる。

意欲を呼び戻し、不安を解消し、対人関係における緊張を消してくれる。だから、ある時点まで覚醒剤は、その人の人生にメリットを与えているのである。

すべてのドラッグは、強く執拗な依存症を引き起こしてその人の人生をめちゃくちゃにするまで、その人にメリットを与えている。

アルコールもそうだ。アルコール依存に陥ると、思考能力が低下し、判断能力が低下し、生活能力も身体能力もすべて低下してしまう。

しかし、依存に堕ちるまでの間、アルコールは覚醒剤と同じでその人の絶望や自信喪失やストレスを消し去るという大切な役割をその人の人生の中で担っていたはずなのだ。

つまりアルコールの酩酊は、その人に取っては大きな意味があったのである。

アルコールは、少なくとも依存症になる前は、嫌なことを忘れさせて自分を救ってくれる「大切なもの」だった。「生きにくさ」を感じてふさぎ込んでいる自分の境遇を忘れさせてくれる魔法でもあった。

だから魔法を多用し、手放せなくなり、効果がなくなり、依存し、より悪い方向に転落してしまった。それが自分の人生に効果がなければ、最初から依存症に堕ちていなかった。

問題なのは、すべての依存症は副作用に苦しめられながらも、やはり依存症になっても依然としてメリットを感じ続けているということだ。

つまり依存症になりながらも、ドラッグによって相変わらず絶望や自信喪失やストレスを消すことができている。

抜けられても地獄から逃れることは決してできない
それは何を意味するのか。これは、仮にドラッグ依存が奇跡的に治っても、その人は幸せになるわけではないということを示唆している。なぜか。

ドラッグが消えると魔法も消えるからだ。

その人は依存する前は、今の社会で「生きにくさ」を感じており、漠とした不安な気持ちから抜け出せなかったはずだ。それをドラッグで消していた。

それなのに、ドラッグが消えるとどうなるのか。確かに依存症は治るのだが、今度は底知れぬ深い絶望や、自信の欠如や、生きにくさからくる強いストレスが一気に襲いかかってくる。

自分の弱さを補ってくれていた「大切なもの」がなくなってしまうのだから、その不安感はドラッグを知らなかったときよりも深いものになっているはずだ。

そのとき、依存者の頭の中に巡る気持ちは「この絶望と自信喪失とストレスを消してくれる魔法を取り戻したい」というものになっていく。

「あれを取り戻せば、この救いがたい憂鬱が消える」

自然にそう思う。一度でも魔法が自分の身体に作用したことを知っていると、「あれがあればなぁ」と思ってしまっても不思議ではない。

「あれ」を再び手に入れないと、今の自分を覆い尽くしている苦しみは絶対に消えない。このストレスから逃れられない。やるせない気持ちが払拭できない……。

「生きる苦しみ」から逃れたいと思ってドラッグ依存に堕ちた人は、ドラッグを取り除いても、再び「生きる苦しみ」に直面するだけである。ドラッグが消えたから幸せになるわけではないのだ。

ドラッグを排除しても、生きにくさがそこにある限り、地獄から逃れることは決してできないということである。

https://blackasia.net/?p=993
http://www.asyura2.com/0310/dispute13/msg/126.html#c99

[] 経験者としての意見です。
48. 中川隆[-6185] koaQ7Jey 2021年3月31日 07:37:02 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[16]
ドラッグ依存を何とか克服しても決して幸せになれない理由とは?
2021.03.31


快楽のためでなく「生きにくさの回避」から覚醒剤に落ちる人もいる。社会は決して自分の思い通りにならない。自分に苦痛を押し付けてくる。うまく生きられない人は、押しつぶされそうな閉塞感にあえぐ。しかし、覚醒剤は弱い心を強くしてくれる効果もある。ある時点までは……。(鈴木傾城)

そっと心が壊れかけた人の生活の中に忍び込んでくる
コロナ禍によって2020年の覚醒剤の押収量は前年比で69%も減ったということを財務省は税関による関税法違反事件の取り締まり状況の中で報道している。しかし、それでも全体として約800キロも押収されていた。末端価格は約512億円相当である。

覚醒剤はキング・オブ・ドラッグだ。決して世の中からなくならない。コロナ禍が明けて人の外国人の出入りが増えると、覚醒剤は再び大量に日本に入って来ることになるだろう。そして、再び覚醒剤で検挙されるニュースも増えるはずだ。

それはそっと心が壊れかけた人の生活の中に忍び込んでくる。彼らにとって、覚醒剤は「自分を救ってくれる大切なもの」でもある。

耐えられないほどの絶望、耐えられないほどの自信喪失、耐えられないほどのストレスを抱えている人がいたとする。この人はある日、それを克服する「もの」があることを知る。

覚醒剤……。吹けば飛んでなくなってしまうほどの分量の白い粉をスプーンの上で水に溶かし、それを注射器で自分の身体に打つ。

そうすると、急激に身体が凍るような感覚になって、今まで感じていたはずの絶望が消え、負け犬のような気分は吹き飛んで何でもできるような自信がみなぎる。

そして、今まで重荷に感じていたストレスが、笑ってしまうほど馬鹿げたものに思えて不敵に笑えるようになる。

「覚醒剤(シャブ)を打ったら自分の身体も巨大化したように感じることもありました」

そのように言う人もいる。なぜなのか。それは今まで自分を苦しめていた絶望・自信喪失・ストレスを完全に打ち負かす精神力を手に入れて、世界を征服したような気持ちになるからだ。

覚醒剤というのは、そういう気持ちにさせる凄まじい威力を持ったドラッグなのである。逆に言えば、覚醒剤は絶望・自信喪失・ストレスに苦しんでいる人にとって、「自分を救ってくれる大切なもの」であったと言える。依存症に堕ちるまでは……。

あなたは覚醒剤が欲しいと思わないだろうか?
快楽のためでなく、「生きにくさの回避」からドラッグに堕ちる人もいる。

覚醒剤に限らず多くのドラッグは、そういう人たちにとって最初から毒薬として目の前に現れるわけではない。毒薬どころか「自分を救ってくれる大切なもの」として登場する。

依存者はこの社会の中で「生きにくい」という気持ちでもがいている。社会は決して自分の思い通りにならない。社会は自分に苦痛を押し付けてくる。そのため、押しつぶされそうな閉塞感にあえぐしかない。

何もない状態では、心もとなく頼りない。弱い自分を支えてくれる魔法が欲しい。自分のこの「心の弱さ」を変えてくれる何かが必要だと切に思う。

そんなものは、あるわけがないと普通は考える。この深い絶望感や苦しみから救い出してくれる「魔法」などありはしないはずだ。世の中はそんな都合良くできていない。

ところが、あった。

覚醒剤は底なしの暗黒から自分を救ってくれる驚異の作用を持っている。ほんの小さな粉が、自分の鬱々《うつうつ》とした感情のすべてを吹き飛ばして、信じられないほどの自信を与えてくれるようになるのだ。

「生きにくい」という気持ちを打ち砕き、堂々巡りの無間地獄から自分を救い出してくれる。これを魔法と言わずに何と言えばいいのか、と感激する。

そして、覚醒剤を知った者は「生きにくい」世の中を、素晴らしい魔法で乗り切るようになっていく。不安は覚醒剤で消すことができるようになり、生きにくさを解消できる。

寝ても寝ても取れない疲労感、退屈な日常、救いのない同じ日々の繰り返し、心の底にずっと沈澱しているヘドロのようなストレス。

そんなものを一気に消し去ってくれるのが覚醒剤だとしたら、それは自分の弱点を補ってくれる大切な存在であると認識しても不思議ではない。

覚醒剤は早い段階で人間の心身をボロボロにしていくが、もし依存のコントロールができるとしたら、あなたは覚醒剤が欲しいと思わないだろうか?


依存症になっても依然としてメリットを感じている
覚醒剤は自分の心の中にあるネガティブでマイナスの感情を、力強く打ち消してくれるものだ。

誰もが自分の容姿や性格や生き方に何かしらの劣等感を持ち、コンプレックスを持ち、弱点を持っている。覚醒剤はこうした個人の心に潜むマイナス感情をきれいに消し去って強い心に置き換えてくれる。

意欲を呼び戻し、不安を解消し、対人関係における緊張を消してくれる。だから、ある時点まで覚醒剤は、その人の人生にメリットを与えているのである。

すべてのドラッグは、強く執拗な依存症を引き起こしてその人の人生をめちゃくちゃにするまで、その人にメリットを与えている。

アルコールもそうだ。アルコール依存に陥ると、思考能力が低下し、判断能力が低下し、生活能力も身体能力もすべて低下してしまう。

しかし、依存に堕ちるまでの間、アルコールは覚醒剤と同じでその人の絶望や自信喪失やストレスを消し去るという大切な役割をその人の人生の中で担っていたはずなのだ。

つまりアルコールの酩酊は、その人に取っては大きな意味があったのである。

アルコールは、少なくとも依存症になる前は、嫌なことを忘れさせて自分を救ってくれる「大切なもの」だった。「生きにくさ」を感じてふさぎ込んでいる自分の境遇を忘れさせてくれる魔法でもあった。

だから魔法を多用し、手放せなくなり、効果がなくなり、依存し、より悪い方向に転落してしまった。それが自分の人生に効果がなければ、最初から依存症に堕ちていなかった。

問題なのは、すべての依存症は副作用に苦しめられながらも、やはり依存症になっても依然としてメリットを感じ続けているということだ。

つまり依存症になりながらも、ドラッグによって相変わらず絶望や自信喪失やストレスを消すことができている。

抜けられても地獄から逃れることは決してできない
それは何を意味するのか。これは、仮にドラッグ依存が奇跡的に治っても、その人は幸せになるわけではないということを示唆している。なぜか。

ドラッグが消えると魔法も消えるからだ。

その人は依存する前は、今の社会で「生きにくさ」を感じており、漠とした不安な気持ちから抜け出せなかったはずだ。それをドラッグで消していた。

それなのに、ドラッグが消えるとどうなるのか。確かに依存症は治るのだが、今度は底知れぬ深い絶望や、自信の欠如や、生きにくさからくる強いストレスが一気に襲いかかってくる。

自分の弱さを補ってくれていた「大切なもの」がなくなってしまうのだから、その不安感はドラッグを知らなかったときよりも深いものになっているはずだ。

そのとき、依存者の頭の中に巡る気持ちは「この絶望と自信喪失とストレスを消してくれる魔法を取り戻したい」というものになっていく。

「あれを取り戻せば、この救いがたい憂鬱が消える」

自然にそう思う。一度でも魔法が自分の身体に作用したことを知っていると、「あれがあればなぁ」と思ってしまっても不思議ではない。

「あれ」を再び手に入れないと、今の自分を覆い尽くしている苦しみは絶対に消えない。このストレスから逃れられない。やるせない気持ちが払拭できない……。

「生きる苦しみ」から逃れたいと思ってドラッグ依存に堕ちた人は、ドラッグを取り除いても、再び「生きる苦しみ」に直面するだけである。ドラッグが消えたから幸せになるわけではないのだ。

ドラッグを排除しても、生きにくさがそこにある限り、地獄から逃れることは決してできないということである。

https://blackasia.net/?p=993
http://www.asyura2.com/0310/dispute13/msg/131.html#c48

[近代史3] 天才ヒトラーは薬物中毒で破滅した 中川隆
6. 中川隆[-6184] koaQ7Jey 2021年3月31日 07:37:42 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[17]
ドラッグ依存を何とか克服しても決して幸せになれない理由とは?
2021.03.31


快楽のためでなく「生きにくさの回避」から覚醒剤に落ちる人もいる。社会は決して自分の思い通りにならない。自分に苦痛を押し付けてくる。うまく生きられない人は、押しつぶされそうな閉塞感にあえぐ。しかし、覚醒剤は弱い心を強くしてくれる効果もある。ある時点までは……。(鈴木傾城)

そっと心が壊れかけた人の生活の中に忍び込んでくる
コロナ禍によって2020年の覚醒剤の押収量は前年比で69%も減ったということを財務省は税関による関税法違反事件の取り締まり状況の中で報道している。しかし、それでも全体として約800キロも押収されていた。末端価格は約512億円相当である。

覚醒剤はキング・オブ・ドラッグだ。決して世の中からなくならない。コロナ禍が明けて人の外国人の出入りが増えると、覚醒剤は再び大量に日本に入って来ることになるだろう。そして、再び覚醒剤で検挙されるニュースも増えるはずだ。

それはそっと心が壊れかけた人の生活の中に忍び込んでくる。彼らにとって、覚醒剤は「自分を救ってくれる大切なもの」でもある。

耐えられないほどの絶望、耐えられないほどの自信喪失、耐えられないほどのストレスを抱えている人がいたとする。この人はある日、それを克服する「もの」があることを知る。

覚醒剤……。吹けば飛んでなくなってしまうほどの分量の白い粉をスプーンの上で水に溶かし、それを注射器で自分の身体に打つ。

そうすると、急激に身体が凍るような感覚になって、今まで感じていたはずの絶望が消え、負け犬のような気分は吹き飛んで何でもできるような自信がみなぎる。

そして、今まで重荷に感じていたストレスが、笑ってしまうほど馬鹿げたものに思えて不敵に笑えるようになる。

「覚醒剤(シャブ)を打ったら自分の身体も巨大化したように感じることもありました」

そのように言う人もいる。なぜなのか。それは今まで自分を苦しめていた絶望・自信喪失・ストレスを完全に打ち負かす精神力を手に入れて、世界を征服したような気持ちになるからだ。

覚醒剤というのは、そういう気持ちにさせる凄まじい威力を持ったドラッグなのである。逆に言えば、覚醒剤は絶望・自信喪失・ストレスに苦しんでいる人にとって、「自分を救ってくれる大切なもの」であったと言える。依存症に堕ちるまでは……。

あなたは覚醒剤が欲しいと思わないだろうか?
快楽のためでなく、「生きにくさの回避」からドラッグに堕ちる人もいる。

覚醒剤に限らず多くのドラッグは、そういう人たちにとって最初から毒薬として目の前に現れるわけではない。毒薬どころか「自分を救ってくれる大切なもの」として登場する。

依存者はこの社会の中で「生きにくい」という気持ちでもがいている。社会は決して自分の思い通りにならない。社会は自分に苦痛を押し付けてくる。そのため、押しつぶされそうな閉塞感にあえぐしかない。

何もない状態では、心もとなく頼りない。弱い自分を支えてくれる魔法が欲しい。自分のこの「心の弱さ」を変えてくれる何かが必要だと切に思う。

そんなものは、あるわけがないと普通は考える。この深い絶望感や苦しみから救い出してくれる「魔法」などありはしないはずだ。世の中はそんな都合良くできていない。

ところが、あった。

覚醒剤は底なしの暗黒から自分を救ってくれる驚異の作用を持っている。ほんの小さな粉が、自分の鬱々《うつうつ》とした感情のすべてを吹き飛ばして、信じられないほどの自信を与えてくれるようになるのだ。

「生きにくい」という気持ちを打ち砕き、堂々巡りの無間地獄から自分を救い出してくれる。これを魔法と言わずに何と言えばいいのか、と感激する。

そして、覚醒剤を知った者は「生きにくい」世の中を、素晴らしい魔法で乗り切るようになっていく。不安は覚醒剤で消すことができるようになり、生きにくさを解消できる。

寝ても寝ても取れない疲労感、退屈な日常、救いのない同じ日々の繰り返し、心の底にずっと沈澱しているヘドロのようなストレス。

そんなものを一気に消し去ってくれるのが覚醒剤だとしたら、それは自分の弱点を補ってくれる大切な存在であると認識しても不思議ではない。

覚醒剤は早い段階で人間の心身をボロボロにしていくが、もし依存のコントロールができるとしたら、あなたは覚醒剤が欲しいと思わないだろうか?


依存症になっても依然としてメリットを感じている
覚醒剤は自分の心の中にあるネガティブでマイナスの感情を、力強く打ち消してくれるものだ。

誰もが自分の容姿や性格や生き方に何かしらの劣等感を持ち、コンプレックスを持ち、弱点を持っている。覚醒剤はこうした個人の心に潜むマイナス感情をきれいに消し去って強い心に置き換えてくれる。

意欲を呼び戻し、不安を解消し、対人関係における緊張を消してくれる。だから、ある時点まで覚醒剤は、その人の人生にメリットを与えているのである。

すべてのドラッグは、強く執拗な依存症を引き起こしてその人の人生をめちゃくちゃにするまで、その人にメリットを与えている。

アルコールもそうだ。アルコール依存に陥ると、思考能力が低下し、判断能力が低下し、生活能力も身体能力もすべて低下してしまう。

しかし、依存に堕ちるまでの間、アルコールは覚醒剤と同じでその人の絶望や自信喪失やストレスを消し去るという大切な役割をその人の人生の中で担っていたはずなのだ。

つまりアルコールの酩酊は、その人に取っては大きな意味があったのである。

アルコールは、少なくとも依存症になる前は、嫌なことを忘れさせて自分を救ってくれる「大切なもの」だった。「生きにくさ」を感じてふさぎ込んでいる自分の境遇を忘れさせてくれる魔法でもあった。

だから魔法を多用し、手放せなくなり、効果がなくなり、依存し、より悪い方向に転落してしまった。それが自分の人生に効果がなければ、最初から依存症に堕ちていなかった。

問題なのは、すべての依存症は副作用に苦しめられながらも、やはり依存症になっても依然としてメリットを感じ続けているということだ。

つまり依存症になりながらも、ドラッグによって相変わらず絶望や自信喪失やストレスを消すことができている。

抜けられても地獄から逃れることは決してできない
それは何を意味するのか。これは、仮にドラッグ依存が奇跡的に治っても、その人は幸せになるわけではないということを示唆している。なぜか。

ドラッグが消えると魔法も消えるからだ。

その人は依存する前は、今の社会で「生きにくさ」を感じており、漠とした不安な気持ちから抜け出せなかったはずだ。それをドラッグで消していた。

それなのに、ドラッグが消えるとどうなるのか。確かに依存症は治るのだが、今度は底知れぬ深い絶望や、自信の欠如や、生きにくさからくる強いストレスが一気に襲いかかってくる。

自分の弱さを補ってくれていた「大切なもの」がなくなってしまうのだから、その不安感はドラッグを知らなかったときよりも深いものになっているはずだ。

そのとき、依存者の頭の中に巡る気持ちは「この絶望と自信喪失とストレスを消してくれる魔法を取り戻したい」というものになっていく。

「あれを取り戻せば、この救いがたい憂鬱が消える」

自然にそう思う。一度でも魔法が自分の身体に作用したことを知っていると、「あれがあればなぁ」と思ってしまっても不思議ではない。

「あれ」を再び手に入れないと、今の自分を覆い尽くしている苦しみは絶対に消えない。このストレスから逃れられない。やるせない気持ちが払拭できない……。

「生きる苦しみ」から逃れたいと思ってドラッグ依存に堕ちた人は、ドラッグを取り除いても、再び「生きる苦しみ」に直面するだけである。ドラッグが消えたから幸せになるわけではないのだ。

ドラッグを排除しても、生きにくさがそこにある限り、地獄から逃れることは決してできないということである。

https://blackasia.net/?p=993
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/361.html#c6

[リバイバル3] アナログ レコードの世界 中川隆
21. 2021年3月31日 07:53:24 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[15]
2021年 03月 31日
夜香さんのご感想
https://tannoy.exblog.jp/32210270/


土曜は横浜のMさんといっしょにGRF邸にお伺いした。

GRFさんといえば、先日来、光カートリッジに夢中であり、これまでのLP再生とは次元の違うサウンド体験であったとブログで熱く語っている。 ご自分が納得すれば、ハヤテのごとくの実行力を発揮して、すでにご自宅でも光カートリッジの運用を開始された。友人の協力もあり、なんと最高級機のDSグランドマスターも実験中という。

さらに、トロバドールシステムではなく、GRFと光カートリッジを組み合わせ、これまたかつてないほどの音楽的興奮を味わっているという。 それを聴かない選択肢はないだろう。

本当は、オタク訪問は日曜であったのだが、天気予報では午後から嵐のような大雨とも言われており、ちょっと躊躇していた。そんなとき、横浜のMさんから土曜日の朝に「雨が心配だから日曜日はやめて今日はどう?」と打診があった。もともと、GRFさんには土曜日に用事がありダメになったと思っていたのだが、打診した結果、前倒し訪問となった。

雨の気配もなく、良い天気で満開の桜を楽しむこともできたし、今回の判断は大正解であった。唯一、夕方に車で出かけるGRFさんはお酒が飲めずに気の毒ではあったけど。。。

約束の時間にGRF邸に到着。

前回はシアター化した「GRFの部屋」を楽しませてもらったが、今回は本来の「GRFの部屋」、いうなれば「真GRFの部屋」訪問である。

この日はGRFとDSグランド・マスターでアナログディスクを聴きまくる心づもりであった。しかし、光カートリッジと出会うほんの一ヶ月前に、「最新のトロバドールシステムサウンドを聴きに来ないか?」とお誘いいただいており、その実行の日程をもともと模索中であった。それが、光カートリッジの導入で全く違う方向に話が進んでしまい、今日の訪問目的がすっかり変わってしまった。

だから、GRFさんとしては天塩にかけたトロバドールサウンドも聴いてもらいたいという気持ちが潜在的にあったのだろう。「せっかく来てくれたんだから、トロバドールも聴いていってよ」ということになった。もちろん、喜んで聴かせていただくことにした。

それからが大変。装置はすでにGRF用にセッティングされていたわけだから、急な思いつきでトロバドールシステムように接続替えをしなくてはならない。 もちろん、そういう機器の入れ替えは日常茶飯事でこなされているGRFさんだから、問題はないのだけど、セレクターを切り替えればOKなんてことではないわけで、スピーカの結線をかえ、アンプを変え、ソース機器を変え等々、それなりの時間がかかる。

夜香さんのご感想_f0108399_02534496.jpg
写真は夜香さんご自身のLEICAです


ようやく、システムの接続変更が完了し、トロバドールシステムで音を聴かせていただいく。こちらはアナログはなしですべてCDやSACD。

トロバドール80を中心とした2ウェイメインシステムに加え50Hz以下用にサブウーファを組み合わせ、さらにエフェクト用にトロバドール40を組み合わせたマルチアンプシステムとなっている。クロスオーバーは使っていないのでパッシブ型マルチである。

クラシックのオーケストラや歌ものを中心に聴かせていただい。

サブウーファの効果は、やはり非常に大きく、重低音がドスン、バシンと弾ける!なんてことには実はならない。映画コンテンツで鳴らすサブウーファとハイファイオーディオにおけるサブウーファの貢献度は、実は全く違う。サブウーファを加えることで、音色は一層しなやかに柔らかくなり、甘みのある香り高いサウンドになる。我が家でも30Hz以下にヤマハのサブーウーファをくみあわせているが、それと全く同じ成果を感じ取ることができる。

もともと、素晴らしい音であったが、今回はさらに豊かな音情感、それは深みと言っていいと思うが、そういう奥の深い立体感を感じさせるサウンドを得ており、クラシックの生演奏に馴染みのある方なら、驚愕すべきリアルなクラシック演奏を聴かせてくれる。それはオーディオ装置が目の前で単に鳴らしたものではなく、日夜、手を変え品をかけ、あきらめることなく、おごること無く日々サウンドの研鑽に精進してきたGRFさんの執念の音である。

この日のためにと用意してくれた超絶の美味しい赤ワインの力もあり、もっとずっと聴いていたい、魅力あふれる演奏であった。

夜香さんのご感想_f0108399_02532622.jpg


残念ながら、この日は3時間という短い時間したなかったので、後ろ髪惹かれる思いであったが、真打ちとも言えるGRF meets DS Grand masterを聴かせていただく。

ラインアップは常用のプレーヤにセットされたDSグランドマスターを光フォノイコに接続し、それをSD-05のアナログ入力にいれて、そこからGRFに繋ぐ。GRFサウンドの原点ともいうべきシンプルな装置である。

最近、特に相性が良いと言われる名歌手たちのライブ盤を中心に聴かせていただく。

DSグランド・マスターで再生するライブ盤の素晴らしさは、過日、Hさんのオーディオルームで体験していたが、ある意味、本家本元とも言えるGRFのある部屋でGRFが鳴らすサウンドは、これはGRFさんが愛してやまない実力のある名歌手たちの力量を存分に引き出し、素晴らしいライブ体験をさせてくれる。その前に聴いたトロバドールシステムによる、圧倒的なハイファイ調のサウンドとはもちろん違うが、確かに、以前、この部屋で聴かせていただいたGRFサウンドとも一味違うLP再生である。

途中、音軸が直交するまさにその位置でも聴かせてもらったが、これは大きな平面駆動型ヘッドホンの世界に近い、オーディオならではの音響空間を感じさせてくれる、GRFの真骨頂とも言えるサウンドである。途中、横浜のMさんから「定位置のソファの場所ではGRFの真価が聞き取れない。ソファを前にだすべき」と強烈な指摘があったが、私はさらにそれを推し進め、専用のお一人様イージーチェアをベストポジションにおいて楽しんだ方が、もっと幸せなGRFサウンドになるだろうと思った。むしろ、三人がけソファを外に出してしまって、お一人様の椅子を三脚くらいおいたほうがどちらのシステムのベストサウンドにも対応しやすいのでは?などと思うほど、ベストポジションでのGRFサウンドは圧倒的に魅力あふれるものであった。

夜香さんのご感想_f0108399_02382648.jpg

ここはGRFさんの実験の場でもあるから、機器類や配線材がところ狭しとひしめいており、仮に一度、それを整理したとしても、すぐに元の木阿弥になるだろうことは容易に予想できるため、「GRFだけがある部屋」にしないと両立は難しいのかもしれない。

途中、郷ひろみの哀愁のカサブランカのマスターサウンドシリーズの新品を袋からだし、そのまま再生した音と、超音波洗浄したあとの音の違いも楽しませてもらった。
経験上、あきらかに洗浄したほうが音を語る性能的な意味でのワードのそれぞれは、改善したと聴き取れる。今回もその結果には違いはなかったが、一層鮮明かつ鮮度感があがることで、録音されたデジタルマスターのサウンドを意識させる結果となり、これをレコードで聴く意味はあるのか?という疑問が残った。Hさんのところでも、デジタルマスターのレコードではそんな感じに聴こえた。DSグランドマスターは、そういう情け容赦ない情報量を引き出してしまうため、すべてのレコードが良い音で聴けるわけではない。

それはGRFさんが私のために用意してくれた明菜のレコードでも顕著だった。ビター&スイートというアルバムに入っているSo longという曲を再生してもらったが、残念ながら音の悪さばかりが耳につく結果となった。電磁式のカートリッジなら、ここまで赤裸々にこのレコードの録音が優れたものではないことをあからさまにはしない。DSグランド・マスターは、稀有な再生能力をもつ高性能トランスデューサーではあるが、その鬼のような正確極まりない再生能力はレコードの良し悪しを○バツ式に選別してしまう。

レコードに録音されている音が、音楽が優れているならば、かつて聴いたことのないようなLPサウンドを聴かせてくれるが、CD時代になって以降のLPだと、「この程度のLPならCDで聴けば?」と言いたげなほど、LPで聴く必然性を否定するような音にもなってしまう。

夜香さんのご感想_f0108399_02533285.jpg

ラストはフランク永井の公開録音盤。こういうレコードの再生は見事としかいいようがない。

いろいろなソースを満遍なく楽しんできたGRFさんだからこそ、光カートリッジの稀有な能力とそれを最大限に発揮するソースの相性のようなものにいち早く気づいたのだと思う。

先程も書いたように、このカートリッジだけだと聴く気にならないLPもあったりするから、他のカートリッジも必要なんだけど、でも、同じくらい光カートリッジじゃなければ出ない音もあり、これは私もなんとかせんといかんなあと、あらためて感じた。

今回は時間切れで拝聴できなかったが、次回はトロバドールシステムでDSグランドマスターのサウンドを聴かせてほしいとお願いして、この日はお開きとなった。

GRFさんに高円寺まで車で送っていただき、私と横浜のMさんは高円寺ナイトをスタートさせた(笑)

GRFさん、大変お世話になりました。手塩にかけた装置を、その本人がきちんと鳴らす、やはりこれが王道オーディオだとあらためて思いました。

ありがとうございました!
https://tannoy.exblog.jp/32210270/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1145.html#c21

[リバイバル3] アナログ レコードの世界 中川隆
22. 中川隆[-6186] koaQ7Jey 2021年3月31日 08:06:33 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[16]
GRFのある部屋 Phile-webコミュニティ
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ベルウッド お茶の間オーディオ Phile-webコミュニティ
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平行法の音場の出方 GRFのある部屋
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音のバランス GRFのある部屋
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ホログラフの音を求めて GRFのある部屋
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うわさのオーディオ・サブルーム-ウェブリブログ


鈴木と北川の二人組 その2 2015/08/17


噂によりますと、鈴木は62歳、北川は69歳、この二人がひとつのハンドル名『GRFのある部屋』を共用している、というのです。

それでもって互いが自分の主張を補強している、と。


勿論、鈴木(62歳)は「大学紛争世代」ではない、
「アンチ丸山」レスは北川(69歳)が執筆。

「孔子や孟子、寮歌」の妄想も北川(69歳)の発想。

日頃のおとなしめの投稿は鈴木(62歳)が執筆。編集部もこれを分かってて放置か?

あれだけ丸山さんのワーグナー賛歌を「貴族趣味」とけなしながら、自分は2週間のドイツ音楽旅行、これって矛盾するが、二人いれば、もう一人は矛盾しない。


「『GRFのある部屋』」というのは、二人以外にも複数の関係者全員で堅守する、いわばブランド(Brand)。
http://27415664.at.webry.info/201508/article_7.html


木と北川の二人組 その3 2015/08/20


あの北川、言葉巧みですから・・・。

私も1年前に伺っているのですが、

3階建ての自社ビルの中に2部屋あり、6畳間のユニコーン(CDオンリー)、後ろの部屋は30畳強はある部屋にあのGRFがコーナー(アナログオンリー)にT−4(平行法、CDオンリー)はリスポジソファから先1m強先に置いてあるその他いくつかのその昔のSP連が複数あります。

その30畳強の部屋、Phile-web コミュニティとか伺った時には出ませんが、なんと3千万かけて改造してるとのことです
(これは仲のいい、ジャズ好きの方がこの前教えてくれました)。

たしかに床は頑丈で壁も違う、天井も・・・ 
そういうことを言わないで、いい音でしょうを連発は、それこそ「きもい」です。

いい音どころか居心地は悪いです。北川の性格でしょう、これは。

音は出て「なんぼ」の世界ですが、このユニコーンは解像度が良過ぎて、すべての楽器が鮮明という異次元の音でもあるのです。

あの独特の無指向性のフルレンジのSPからと巧みなバックロード構造からの奏でる音と量感音域は確かにいいのですが問題は駆動する是枝パワーとサウンドパーツ社のプリがあまりにもきれいすぎて「潔癖症」の音質と重箱を突くようでなんでも、聞こえない音まで出てくる始末。

それがいいだなんて、ちょいおかしい。

美しい奏でる音なら許せるのですがきれいではだめなんです。

それとリスポジがキッチン用の椅子であることでやや見下ろす感じです(ユニコーンが低いせいもあり)。

コンサートでいう中二階から観た聴いた感じでしょうか・・・それも有りでいいのですが、問題は音源が上に伸びない、つまり途中で音が沈むという感じです。

奥行きも壁べったりのため(6畳間を横長に)奥行きが寸詰まりです。

そのためガラスのよくある家庭のやや大きい「水槽の中での演奏を」聴いている感じです。

悪く言えば箱庭。

それに輪をかけるのが、どのCDでも同じ音質、これはいただけない、最悪! 

そして、ジャズは掛けてくれない、こちら持参のCD(クラ)も掛けてくれない、
つまり悪いとこは聴かれたくないということであり、これは他の人でもそれは同じことを聞いております。

T4、GRFも有りますが、欠点を観られたくない聴かれたくないという、ほんと演技がうまい雲助ですネ! 

このような音を初めて聞く人は、言葉巧みな戦術に入り込む恐ろしさです。


ユニコーンSPはとてもいいSPなんですが、やはり駆動側の問題が多分にあるのは聴いていても大いに感じます。

それに気が付かない北川は、やはり「お山の大将」が抜けきらないのでしょう。


30畳強のタンノイ部屋、GRFは、一言でいえば、もう古い音源の鳴り方は否めません。

コーナー置きはその昔のヴアイタボックス(クリプッシュホーン)と同じですが、GRFのほうが音の古さ(古典)がありもうお役御免でしょうか。

ソースはアナログオンリーでありカスタムメイドの超高級アンプ(球)でしょうか。

彼の鳴らし方は、奏者の解釈ではなくそれこそ「蜃気楼」そのものです。

いい悪いは別にしてもリスポジからの距離6m強はあるでしょうか、
そこのオケは蜃気楼のように並びますが、ハイライトはそこまでです。

楽器類の音色、艶、音楽の力強さ等は感じ取れません・・・
そうモノクロ。

こみあげてくるオケの音圧に空気感がないので、ただ「蜃気楼」が平然と並んでいる。

やはりホールの雰囲気を取りあえず、といった感じです。


音楽を聴く、これもありですが、どちらかというと雰囲気感と各演奏楽団のくせ(性格といいましょうか)を楽しんでいるようですネ。よく会話に出てきますから・・・オケの当てっこが好きなようです。

LP扱うのもクリーニング液には2万円(5cc)もする液体を針の掃除に毎回使い、針圧も0.1刻みのセッテイングには呆れるばかりです。こういう人もいることは、それも趣味と割り切ればですが、毎回能書きがうるさいのです。つまり自慢なんでしょう。

T4の平行法、これは Phile-webコミュニティ(彼のブログでも)では結構影響受けた人が多いのも事実ですが、次第に「それはないだろう」が分かってきた人も出てきてます。

つまり、リスポジやや先に置くか、壁手前に置くかの選択肢があるのですが、彼はリスポジやや先(1m)で行っているのですが、これが飛んでもない悪であるのです。

ゲストからのCDを掛けさせないこと、彼の選択CDのみ、つまりいいとこCDのソフトしか掛けない。

これには裏があり、つまりT4の後ろは6mあまりの空間があり、ここに音の像(蜃気楼)が浮かび上がるのですが、それはそれでいいのです。

しかし問題は、そのソースはすべて音場性のあるソフトでないと後方に集まらないのです。

これが普通の録音・・・手前SPから出る音源(一部の楽器等)と奥の空間に集まる音源とでは、その距離に「間」(間が抜けた空間)が空いてまとまった音楽が構成されないのです。

例えばジャズで見れば、手前の右SPではベースが鳴り(それもあの小さい口径からですから箱全体ではないのです)、奥ではドラムが鳴るとすると、ベースとドラムの距離(数メートル)が途方もなく間があるというこの違和感が発生するというものです。

このことは北川は絶対に言わないのと、言えば T4=平行法同時売り込みにも影響が出るということが分かっているからです。

また壁にやや近い置き方(平行法)でも、同じような傾向はありますが、これなどは奥行き感が薄れ定位も良くは無いのです。


これはあの鈴木邸がそうです。

リスポジでは定位が定まらなく、音の像も小さく聴けたものではない。

いいとこは奥の隅(L型部屋の構造?)

ここは、一応ホール感(S席でも壁よりの後方)がそれなりに味わえる、という鈴木の求める音であると思います。

しかしT4の口径(14cm?)と箱の限界(奥行き稼いでいますが)があるので、量感音域等の消えるのが早いのもこの影響でしょうか。ソースはCDメインですがやはり、どのソースも同じ音質には参ります。

どちらかというと無色透明ですネー。

「静」だとか「ラダーケーブル」を使い盛んにクリアー感を目指しているようで。
でもそれらに色艶、音源の太さ感が出てくればまだ聴きやすくなるのですが。

本人はあれだけコンサートに通っているのに、再生音は正反対の音質。よくわかりません。

平行法もいいけど、もう少し内ぶりであれば濃厚な音源が出てくると思われるのですが、そこは ホール感=雰囲気 を優先する、兄貴分の北川がそうはさせないのだと思います。

いろいろありますね、この世界は。
http://27415664.at.webry.info/201508/article_15.html


鈴木と北川の二人組 その4 2015/08/22


Phile-webコミュニティでの二人組の「釣果」について、次のような追加情報が入ってきました。


Phile-webコミュニティ
GRFのある部屋 - お気に入りユーザー一覧
http://community.phileweb.com/mypage/f_user/3735/0/


その第1号が「椀方」さん(その前には、ユニコーンのSPのみを納入して既存SPとの複合型を試みるも失敗)。これは「椀方」さんが Phile-web コミュニティ記事にしていました。

Phile-web コミュニティで、私が知っている限り「犠牲」になった人と、危うくセーフの人は数知れずです。

北川は基本的には、犠牲者のお宅に鈴木と伺うというやり方で、決してひとりでは行かないです。必ず鈴木が行った後に二人で行くのが今までのパターン。

犠牲者側が北川を呼ぶにあたってもその前に鈴木が来てますので安心感があるというわけです。主導は北川です。鈴木も共犯です。

少なくとも私が知っているかぎりで表沙汰になった人たちは次の通りです。


犠牲者の中でも本信者になってしまったのは、「椀方」さん。

「横浜の vafan」さんは今は危ういですが現行のSPでどれだけ我慢できるかです。

「にら」さんは資金がないということで、今は静かにしてますが、しばらく様子見でしょうか。

「クー△△△」さんには私が注意喚起したので来なくなったとか。

「akahanamizuki」さんも危うかったけど、彼の読みで距離を取るようになった(裏メールでの平行法の押しつけがしつこいようなことあり)。

「Loge」さん。これが問題です。長野の個人ガレージメーカーで修理等の工房。すでに相互訪問してますね。

「RICHEBOURG」さん。北川は鈴木と押しかけて平行法を押し付け、DACの中古を60万で売りつけ。音がおかしいので聴きに来てと誘いがあり、私が伺って聴いた音は、「なんじゃこの音は」でしたネ。


簡単に言いますと、たしかに平行法。しかしどう見てもぼけた「蜃気楼」というか音像がぼやけてしまっている。ピアノ・コンチェルトのピアノが後方ティンパニーの位置から鳴る、こんなの信じられんです。また、後日、置いて行ったというDACもメーカー名は「知り合い先の」ということで、「RICHEBOURG」も「???」。

そのDACも人工的な音、もしくは半導体の基板の音、現状のラックスCDPのほうが好いのです。後にDACも返却へ、平行法はその日のうちにやや内ぶりに修正、これで音が活きてきたのです。


私の見るところ第一次面接試験で落ちた候補者(というか正確には犠牲者にならずに済んだ人)は、最近では、「genmi」さん、「K&K」さんといったところでしょうか。


ごく最近では「バック△△△」さんに早速手を出しているようで、ご注意、ご注意。
http://27415664.at.webry.info/201508/article_16.html


北川がクセモノである所以は、オフ会(お宅訪問)をしても必ず同行の鈴木に日記を書かせ、本人はその日記にレスを入れ、そこで褒めあげて周りの人達(日記の記事をみている人)を誘い込むというパターンです。

一方、鈴木のオフ会記事での批評はすべて甘くなり、以前と比べて変化が起きているようです。焦りでしょうか。たとえば、直近の二つの例をあげます。これらのお宅の訪問のあと、鈴木は実際には次のような感想を私にもらしているのです。

                  ※   ※


(ひとつは、「genmi」さん。)

石井式をモデルにした6畳の部屋ですが壁が厚く(20p以上?)実質5畳ぐらいです。
天井高が3mあるのが唯一の救いでしょうか?
ここはオーディオ以前の音で音楽表現は無理です。


この人はすべて、某Dショップ/H店長の言いなりのようです(から入り込みは難しいかも)。

高音域にメリハリがあるが、中身は薄い。

一見いいように聞こえますが、高音域はブリキ板というかステンレス板の音で、そこに低音域が乗ってこないので、「きれいそうな音」、わかりやすく言えば無機質の硬い音です。

たとえBGMであってもこんなものは聞けないです。評価など、本当はできないです。
頭が痛くなるキンキン音。ラジカセを大きくしたコンポとでも申しましょうか。

折角行ったので仕方なく、私は1o単位でスピーカー位置を調整して(遊んで)やりました。

この人はそれをみて感心しきりでした。実情を知らない素人はこれで簡単に引っかかります。ちょろいもんです。


                  ※   ※


(もうひとつは、「K&K」さん。)
ここは二度目の訪問でした。

オーディオ部屋の横にグランドピアノ(STEINWAY)が置いてあります。
奥さんがピアノを弾くと言っても単に「ピアノが弾ける」程度でへたくそです。

自分の家でほんもののピアノの音を聴いているのにもかかわらず、ご本人はその音の深さというものがいまだに分かっていないんです。

システムから出てくるピアノの音はおもちゃの音です。
しかも定位が悪いので鍵盤の位置が床上30pのところにあります。

サラウンド再生ですので、後方からも音楽が鳴るのには本当に参ります。
それにセンター・ウーファ(サーロジック製)が左SPの横にあり、低音域が左からのみ出る不自然さ、それもボワーン、ボワーンですよ。

今回は延々と夜6時までつきあわされましたが、最悪でした。
http://27415664.at.webry.info/201509/article_2.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1145.html#c22

[外国人参政権・外国人住民基本法01] トヨタの為に毒塗オレンジを食べさせられている日本人 _ 日本を農業の無い国にして良いのか? 中川隆
135. 2021年3月31日 08:21:15 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[17]
菅政権が進める植民地農業化 日本の農業が破壊される?(室伏謙一)
2021/03/31





http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/518.html#c135
[近代史3] 有史以来ずっと台湾先住民の漁場だった尖閣諸島はどこの国の領土になるのか? 中川隆
10. 2021年3月31日 09:16:41 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[18]

2021.03.31
尖閣諸島は日本と中国との関係を悪化させるために米国が仕掛けたトラップ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103310001/

 アメリカのジョー・バイデン政権はルビコンを渡った、つまり中国、ロシア、イランといったアメリカの支配システムに屈服しない国々を潰しにかかろうとしていると本ブログでは考えている。ウクライナや中東でも軍事的な緊張が高まっているが、同じように危険な状態になっているのが東アジアにほかならない。

 アメリカ国防総省のジョン・カービー報道官は2月23日の記者会見で「尖閣の主権に関する日本の立場を支持する」と発言、中国政府から強く抗議され、その発言を26日に訂正、「尖閣の主権をめぐる米政府の方針に変わりはない」と発言したようだ。

 言い間違いという可能性もあるが、カービー発言は中国に対するバイデン政権の牽制だったのかもしれない。中国側の反発が予想以上に強かったとも考えられる。

 アメリカの中国やロシアに対する攻撃的な姿勢はドナルド・トランプ政権から続いている。例えばアメリカ軍は2018年5月に「太平洋軍」を「インド・太平洋軍」へ名称変更したが、これは中国が進める「一帯一路」のうち「海のシルクロード」を潰すことが目的だろう。太平洋からインド洋にかけての海域を一体のものとして扱い、日本を太平洋側の拠点、インドを太平洋側の拠点にし、インドネシアが領海域をつなぐ計画だと言われた。

 2020年6月になると、イェンス・ストルテンベルグNATO事務総長が「NATO2030」なるプロジェクトを始めると宣言。NATOの活動範囲を太平洋へ広げてオーストラリア、ニュージーランド、韓国、そして日本をメンバーにするとされた。現在、アメリカは日本、インド、オーストラリアと「クワッド」なる連合体を作り上げようとしている。

 アメリカとイギリスを中心にしてアングロ・サクソン系の国は連合体を作っている。そのほかの参加国はカナダ、オーストラリア、そしてニュージーランドだ。

 そのカナダが今年1月、自国の戦艦に台湾海峡を航行させた。それだけでなく、NATO加盟国のフランスは潜水艦を、またイギリスは空母を中心とする艦隊をそれぞれ南シナ海へ派遣。​この海域における西側諸国の軍事的な動きが活発化​している。日本とオーストラリアは相互アクセス協定(RAA)を結ぶ。

 アントニー・ブリンケン国務長官は3月15日にロイド・オースチン国防長官と日本を訪問、茂木敏充外相や岸信夫防衛相に会談。その際、ブリンケン国務長官は中国の「威圧的で攻撃的な姿勢」を批判していた。​オースチン国防長官は3月18日、アメリカ軍は「今夜にでも攻撃する準備ができている」と朝鮮を脅した​。

 3月19日にはアメリカ側の要請で、アメリカのブリンケン国務長官とジェーク・サリバン国家安全保障補佐官は中国の楊潔篪中央外事活動委員会弁公室主任と王毅外交部長にアンカレッジで会るが、会談は激しいものになったようだ。

 3月22日と23日には中国側の要請でセルゲイ・ラブロフ外相が中国を訪問、王毅外交部長と会談し、両国の同盟関係を強く印象づけた。その際、中国とロシアはドル離れを確認、貿易決済で自国通貨を使うようにすることで合意している。アメリカの支配システムを支えてきたドルへの決別宣言だ。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、明治維新以降、日本列島から琉球諸島、そして台湾へ至る弧状に並ぶ島々はアメリカやイギリスにとって大陸侵略の拠点であり、日本人を彼らは傭兵と見ているだろう。アメリカやイギリスだけの力で中国やロシアを制圧することは戦力的に不可能だからだ。日本はアングロ・サクソン系の私的権力にとって重要な国だということになる。

 そうした私的権力の下に日本の支配システムは存在、日本のエリートはそうした権力の手先になることで地位と富を獲得してきた。日本では東アジアへの侵略戦争について語らず、アメリカと戦争を始めたことを批判する人が少なくないが、その理由もそこにある。

 しかし、1990年代頃から日本の経済は中国との交易なしに維持できなくなっている。中国との友好的な関係が日本の利益になると考えた田中角栄は尖閣諸島の領有権問題を棚上げにすることで周恩来と合意、それによって両国の関係は発展したが、そうした状態が2010年9月8日に壊される。

 当時は菅直人政権だったが、海上保安庁は「日中漁業協定」を無視して尖閣諸島付近で操業していた中国の漁船を取り締まったのだ。海上保安庁は協定を熟知しているはずで、協定違反だということも認識していただろう。

 海上保安庁は国土交通省の外局で、取り締まり時の国土交通大臣は前原誠司だ。本来なら、中国との関係悪化を修復するために動くのが外務省だが、2010年9月17日に前原が外務大臣に就任している。これ以降、日本経済が大きなダメージを受けたことは言うまでもない。

 そして今、バイデン政権は菅義偉内閣に対し、中国とのさらなる関係悪化を迫っている。アメリカの目的は中国との戦いだけでなく、日本経済を破壊して乗っ取ることにあるだろう。ルビコンを渡ったアメリカの私的権力は世界支配を目論んでいるのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103310001/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/214.html#c10

[リバイバル3] 尖閣は中国人の言う通り中国の領土かもしれない 中川隆
17. 中川隆[-6185] koaQ7Jey 2021年3月31日 09:17:19 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[19]

2021.03.31
尖閣諸島は日本と中国との関係を悪化させるために米国が仕掛けたトラップ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103310001/

 アメリカのジョー・バイデン政権はルビコンを渡った、つまり中国、ロシア、イランといったアメリカの支配システムに屈服しない国々を潰しにかかろうとしていると本ブログでは考えている。ウクライナや中東でも軍事的な緊張が高まっているが、同じように危険な状態になっているのが東アジアにほかならない。

 アメリカ国防総省のジョン・カービー報道官は2月23日の記者会見で「尖閣の主権に関する日本の立場を支持する」と発言、中国政府から強く抗議され、その発言を26日に訂正、「尖閣の主権をめぐる米政府の方針に変わりはない」と発言したようだ。

 言い間違いという可能性もあるが、カービー発言は中国に対するバイデン政権の牽制だったのかもしれない。中国側の反発が予想以上に強かったとも考えられる。

 アメリカの中国やロシアに対する攻撃的な姿勢はドナルド・トランプ政権から続いている。例えばアメリカ軍は2018年5月に「太平洋軍」を「インド・太平洋軍」へ名称変更したが、これは中国が進める「一帯一路」のうち「海のシルクロード」を潰すことが目的だろう。太平洋からインド洋にかけての海域を一体のものとして扱い、日本を太平洋側の拠点、インドを太平洋側の拠点にし、インドネシアが領海域をつなぐ計画だと言われた。

 2020年6月になると、イェンス・ストルテンベルグNATO事務総長が「NATO2030」なるプロジェクトを始めると宣言。NATOの活動範囲を太平洋へ広げてオーストラリア、ニュージーランド、韓国、そして日本をメンバーにするとされた。現在、アメリカは日本、インド、オーストラリアと「クワッド」なる連合体を作り上げようとしている。

 アメリカとイギリスを中心にしてアングロ・サクソン系の国は連合体を作っている。そのほかの参加国はカナダ、オーストラリア、そしてニュージーランドだ。

 そのカナダが今年1月、自国の戦艦に台湾海峡を航行させた。それだけでなく、NATO加盟国のフランスは潜水艦を、またイギリスは空母を中心とする艦隊をそれぞれ南シナ海へ派遣。​この海域における西側諸国の軍事的な動きが活発化​している。日本とオーストラリアは相互アクセス協定(RAA)を結ぶ。

 アントニー・ブリンケン国務長官は3月15日にロイド・オースチン国防長官と日本を訪問、茂木敏充外相や岸信夫防衛相に会談。その際、ブリンケン国務長官は中国の「威圧的で攻撃的な姿勢」を批判していた。​オースチン国防長官は3月18日、アメリカ軍は「今夜にでも攻撃する準備ができている」と朝鮮を脅した​。

 3月19日にはアメリカ側の要請で、アメリカのブリンケン国務長官とジェーク・サリバン国家安全保障補佐官は中国の楊潔篪中央外事活動委員会弁公室主任と王毅外交部長にアンカレッジで会るが、会談は激しいものになったようだ。

 3月22日と23日には中国側の要請でセルゲイ・ラブロフ外相が中国を訪問、王毅外交部長と会談し、両国の同盟関係を強く印象づけた。その際、中国とロシアはドル離れを確認、貿易決済で自国通貨を使うようにすることで合意している。アメリカの支配システムを支えてきたドルへの決別宣言だ。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、明治維新以降、日本列島から琉球諸島、そして台湾へ至る弧状に並ぶ島々はアメリカやイギリスにとって大陸侵略の拠点であり、日本人を彼らは傭兵と見ているだろう。アメリカやイギリスだけの力で中国やロシアを制圧することは戦力的に不可能だからだ。日本はアングロ・サクソン系の私的権力にとって重要な国だということになる。

 そうした私的権力の下に日本の支配システムは存在、日本のエリートはそうした権力の手先になることで地位と富を獲得してきた。日本では東アジアへの侵略戦争について語らず、アメリカと戦争を始めたことを批判する人が少なくないが、その理由もそこにある。

 しかし、1990年代頃から日本の経済は中国との交易なしに維持できなくなっている。中国との友好的な関係が日本の利益になると考えた田中角栄は尖閣諸島の領有権問題を棚上げにすることで周恩来と合意、それによって両国の関係は発展したが、そうした状態が2010年9月8日に壊される。

 当時は菅直人政権だったが、海上保安庁は「日中漁業協定」を無視して尖閣諸島付近で操業していた中国の漁船を取り締まったのだ。海上保安庁は協定を熟知しているはずで、協定違反だということも認識していただろう。

 海上保安庁は国土交通省の外局で、取り締まり時の国土交通大臣は前原誠司だ。本来なら、中国との関係悪化を修復するために動くのが外務省だが、2010年9月17日に前原が外務大臣に就任している。これ以降、日本経済が大きなダメージを受けたことは言うまでもない。

 そして今、バイデン政権は菅義偉内閣に対し、中国とのさらなる関係悪化を迫っている。アメリカの目的は中国との戦いだけでなく、日本経済を破壊して乗っ取ることにあるだろう。ルビコンを渡ったアメリカの私的権力は世界支配を目論んでいるのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103310001/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/327.html#c17

[外国人参政権・外国人住民基本法01] 牙をむき始めた中国 中川隆
45. 中川隆[-6184] koaQ7Jey 2021年3月31日 09:17:43 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[20]

2021.03.31
尖閣諸島は日本と中国との関係を悪化させるために米国が仕掛けたトラップ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103310001/

 アメリカのジョー・バイデン政権はルビコンを渡った、つまり中国、ロシア、イランといったアメリカの支配システムに屈服しない国々を潰しにかかろうとしていると本ブログでは考えている。ウクライナや中東でも軍事的な緊張が高まっているが、同じように危険な状態になっているのが東アジアにほかならない。

 アメリカ国防総省のジョン・カービー報道官は2月23日の記者会見で「尖閣の主権に関する日本の立場を支持する」と発言、中国政府から強く抗議され、その発言を26日に訂正、「尖閣の主権をめぐる米政府の方針に変わりはない」と発言したようだ。

 言い間違いという可能性もあるが、カービー発言は中国に対するバイデン政権の牽制だったのかもしれない。中国側の反発が予想以上に強かったとも考えられる。

 アメリカの中国やロシアに対する攻撃的な姿勢はドナルド・トランプ政権から続いている。例えばアメリカ軍は2018年5月に「太平洋軍」を「インド・太平洋軍」へ名称変更したが、これは中国が進める「一帯一路」のうち「海のシルクロード」を潰すことが目的だろう。太平洋からインド洋にかけての海域を一体のものとして扱い、日本を太平洋側の拠点、インドを太平洋側の拠点にし、インドネシアが領海域をつなぐ計画だと言われた。

 2020年6月になると、イェンス・ストルテンベルグNATO事務総長が「NATO2030」なるプロジェクトを始めると宣言。NATOの活動範囲を太平洋へ広げてオーストラリア、ニュージーランド、韓国、そして日本をメンバーにするとされた。現在、アメリカは日本、インド、オーストラリアと「クワッド」なる連合体を作り上げようとしている。

 アメリカとイギリスを中心にしてアングロ・サクソン系の国は連合体を作っている。そのほかの参加国はカナダ、オーストラリア、そしてニュージーランドだ。

 そのカナダが今年1月、自国の戦艦に台湾海峡を航行させた。それだけでなく、NATO加盟国のフランスは潜水艦を、またイギリスは空母を中心とする艦隊をそれぞれ南シナ海へ派遣。​この海域における西側諸国の軍事的な動きが活発化​している。日本とオーストラリアは相互アクセス協定(RAA)を結ぶ。

 アントニー・ブリンケン国務長官は3月15日にロイド・オースチン国防長官と日本を訪問、茂木敏充外相や岸信夫防衛相に会談。その際、ブリンケン国務長官は中国の「威圧的で攻撃的な姿勢」を批判していた。​オースチン国防長官は3月18日、アメリカ軍は「今夜にでも攻撃する準備ができている」と朝鮮を脅した​。

 3月19日にはアメリカ側の要請で、アメリカのブリンケン国務長官とジェーク・サリバン国家安全保障補佐官は中国の楊潔篪中央外事活動委員会弁公室主任と王毅外交部長にアンカレッジで会るが、会談は激しいものになったようだ。

 3月22日と23日には中国側の要請でセルゲイ・ラブロフ外相が中国を訪問、王毅外交部長と会談し、両国の同盟関係を強く印象づけた。その際、中国とロシアはドル離れを確認、貿易決済で自国通貨を使うようにすることで合意している。アメリカの支配システムを支えてきたドルへの決別宣言だ。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、明治維新以降、日本列島から琉球諸島、そして台湾へ至る弧状に並ぶ島々はアメリカやイギリスにとって大陸侵略の拠点であり、日本人を彼らは傭兵と見ているだろう。アメリカやイギリスだけの力で中国やロシアを制圧することは戦力的に不可能だからだ。日本はアングロ・サクソン系の私的権力にとって重要な国だということになる。

 そうした私的権力の下に日本の支配システムは存在、日本のエリートはそうした権力の手先になることで地位と富を獲得してきた。日本では東アジアへの侵略戦争について語らず、アメリカと戦争を始めたことを批判する人が少なくないが、その理由もそこにある。

 しかし、1990年代頃から日本の経済は中国との交易なしに維持できなくなっている。中国との友好的な関係が日本の利益になると考えた田中角栄は尖閣諸島の領有権問題を棚上げにすることで周恩来と合意、それによって両国の関係は発展したが、そうした状態が2010年9月8日に壊される。

 当時は菅直人政権だったが、海上保安庁は「日中漁業協定」を無視して尖閣諸島付近で操業していた中国の漁船を取り締まったのだ。海上保安庁は協定を熟知しているはずで、協定違反だということも認識していただろう。

 海上保安庁は国土交通省の外局で、取り締まり時の国土交通大臣は前原誠司だ。本来なら、中国との関係悪化を修復するために動くのが外務省だが、2010年9月17日に前原が外務大臣に就任している。これ以降、日本経済が大きなダメージを受けたことは言うまでもない。

 そして今、バイデン政権は菅義偉内閣に対し、中国とのさらなる関係悪化を迫っている。アメリカの目的は中国との戦いだけでなく、日本経済を破壊して乗っ取ることにあるだろう。ルビコンを渡ったアメリカの私的権力は世界支配を目論んでいるのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103310001/
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/508.html#c45

[昼休み52] 武田邦彦 尖閣、竹島、四島・領土と国 中川隆
8. 中川隆[-6183] koaQ7Jey 2021年3月31日 09:18:05 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[21]

2021.03.31
尖閣諸島は日本と中国との関係を悪化させるために米国が仕掛けたトラップ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103310001/

 アメリカのジョー・バイデン政権はルビコンを渡った、つまり中国、ロシア、イランといったアメリカの支配システムに屈服しない国々を潰しにかかろうとしていると本ブログでは考えている。ウクライナや中東でも軍事的な緊張が高まっているが、同じように危険な状態になっているのが東アジアにほかならない。

 アメリカ国防総省のジョン・カービー報道官は2月23日の記者会見で「尖閣の主権に関する日本の立場を支持する」と発言、中国政府から強く抗議され、その発言を26日に訂正、「尖閣の主権をめぐる米政府の方針に変わりはない」と発言したようだ。

 言い間違いという可能性もあるが、カービー発言は中国に対するバイデン政権の牽制だったのかもしれない。中国側の反発が予想以上に強かったとも考えられる。

 アメリカの中国やロシアに対する攻撃的な姿勢はドナルド・トランプ政権から続いている。例えばアメリカ軍は2018年5月に「太平洋軍」を「インド・太平洋軍」へ名称変更したが、これは中国が進める「一帯一路」のうち「海のシルクロード」を潰すことが目的だろう。太平洋からインド洋にかけての海域を一体のものとして扱い、日本を太平洋側の拠点、インドを太平洋側の拠点にし、インドネシアが領海域をつなぐ計画だと言われた。

 2020年6月になると、イェンス・ストルテンベルグNATO事務総長が「NATO2030」なるプロジェクトを始めると宣言。NATOの活動範囲を太平洋へ広げてオーストラリア、ニュージーランド、韓国、そして日本をメンバーにするとされた。現在、アメリカは日本、インド、オーストラリアと「クワッド」なる連合体を作り上げようとしている。

 アメリカとイギリスを中心にしてアングロ・サクソン系の国は連合体を作っている。そのほかの参加国はカナダ、オーストラリア、そしてニュージーランドだ。

 そのカナダが今年1月、自国の戦艦に台湾海峡を航行させた。それだけでなく、NATO加盟国のフランスは潜水艦を、またイギリスは空母を中心とする艦隊をそれぞれ南シナ海へ派遣。​この海域における西側諸国の軍事的な動きが活発化​している。日本とオーストラリアは相互アクセス協定(RAA)を結ぶ。

 アントニー・ブリンケン国務長官は3月15日にロイド・オースチン国防長官と日本を訪問、茂木敏充外相や岸信夫防衛相に会談。その際、ブリンケン国務長官は中国の「威圧的で攻撃的な姿勢」を批判していた。​オースチン国防長官は3月18日、アメリカ軍は「今夜にでも攻撃する準備ができている」と朝鮮を脅した​。

 3月19日にはアメリカ側の要請で、アメリカのブリンケン国務長官とジェーク・サリバン国家安全保障補佐官は中国の楊潔篪中央外事活動委員会弁公室主任と王毅外交部長にアンカレッジで会るが、会談は激しいものになったようだ。

 3月22日と23日には中国側の要請でセルゲイ・ラブロフ外相が中国を訪問、王毅外交部長と会談し、両国の同盟関係を強く印象づけた。その際、中国とロシアはドル離れを確認、貿易決済で自国通貨を使うようにすることで合意している。アメリカの支配システムを支えてきたドルへの決別宣言だ。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、明治維新以降、日本列島から琉球諸島、そして台湾へ至る弧状に並ぶ島々はアメリカやイギリスにとって大陸侵略の拠点であり、日本人を彼らは傭兵と見ているだろう。アメリカやイギリスだけの力で中国やロシアを制圧することは戦力的に不可能だからだ。日本はアングロ・サクソン系の私的権力にとって重要な国だということになる。

 そうした私的権力の下に日本の支配システムは存在、日本のエリートはそうした権力の手先になることで地位と富を獲得してきた。日本では東アジアへの侵略戦争について語らず、アメリカと戦争を始めたことを批判する人が少なくないが、その理由もそこにある。

 しかし、1990年代頃から日本の経済は中国との交易なしに維持できなくなっている。中国との友好的な関係が日本の利益になると考えた田中角栄は尖閣諸島の領有権問題を棚上げにすることで周恩来と合意、それによって両国の関係は発展したが、そうした状態が2010年9月8日に壊される。

 当時は菅直人政権だったが、海上保安庁は「日中漁業協定」を無視して尖閣諸島付近で操業していた中国の漁船を取り締まったのだ。海上保安庁は協定を熟知しているはずで、協定違反だということも認識していただろう。

 海上保安庁は国土交通省の外局で、取り締まり時の国土交通大臣は前原誠司だ。本来なら、中国との関係悪化を修復するために動くのが外務省だが、2010年9月17日に前原が外務大臣に就任している。これ以降、日本経済が大きなダメージを受けたことは言うまでもない。

 そして今、バイデン政権は菅義偉内閣に対し、中国とのさらなる関係悪化を迫っている。アメリカの目的は中国との戦いだけでなく、日本経済を破壊して乗っ取ることにあるだろう。ルビコンを渡ったアメリカの私的権力は世界支配を目論んでいるのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103310001/
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/466.html#c8

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
353. 2021年3月31日 09:45:37 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[19]
千葉県の人間はみんな頭がおかしい(17)

>>52, >>53, >>64, >>66, >>74, >>77, >>85, >>129, >>186, >>195, >>204, >>210, >>221, >>223, >>231, >>248 の続き


助手席の姉を殺すため…車を加速し横転、電柱に衝突させた弟
読売新聞 2021/03/31


 車を電柱に衝突させて同乗の姉を殺害したとして、千葉地検は30日、市原市、無職高沢翔悟容疑者(21)を殺人罪で千葉地裁に起訴した。

 起訴状によると、高沢容疑者は昨年10月30日、同市内で乗用車を運転中、加速しながらのり面に乗り上げて車を横転させ、電柱などに衝突し、助手席にいた姉の絵里香さん(26)を殺害したとされる。

 地検は約3か月にわたる鑑定留置を行い、刑事責任能力が問えると判断した。
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c353

[番外地9] 論文は、北海道の礼文島の船泊貝塚で1998年に発見された人類遺骸のうち2個体(F5およびF23)のDNA解析結果を報告しています。 中川隆
1. 中川隆[-6188] koaQ7Jey 2021年3月31日 12:24:09 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[17]
>Aイヌの話はそれ以前も混血はあったが、縄文人がいたのは間違いないですよね?

縄文人はアイヌ語を話していたというのがほぼ定説です。
東北だけでなく沖縄、九州、島根、千葉県にもアイヌ語地名が沢山あります。
縄文人=アイヌ人 で間違いないです。

沖縄の場合は日本人に10世紀に乗っ取られてジェノサイドされたので、言葉も日本語の方言の琉球語に変わっています。
琉球人の場合は縄文人の遺伝子も3割程度残っているというだけです。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/261.html#c1

[番外地9] アイヌに入っているオホーツク人の遺伝子はトビニタイ人のものだとわかっている 中川隆
1. 中川隆[-6187] koaQ7Jey 2021年3月31日 13:55:50 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[18]
​ @本質家
>鎌倉時代に移動してきて混血したのだから当たり前だと思いますよ。

何を言いたいのかわからない
アイヌ人の遺伝子はシベリアからは見つかっていない。アイヌ語に近い言葉もシベリアには存在しない。

日本人の縄文遺伝子と言われているものは実際の縄文人からは見つかっていない。
従って、純粋アイヌには日本人の遺伝子は入っていない。

アイヌに入っているオホーツク人の遺伝子はトビニタイ人のものだとわかっている:
擦文文化とオホーツク文化は、700〜900年頃に北海道で並存していましたが、それぞれ異なる生活圏に分布し、基本的には相互交流などの接触関係はひじょうに限定的でした。しかし、10世紀頃に両文化は急激に接触融合していきます。また、こうした接触融合は、北海道の東部と北部で別々に進展した、と考古資料から確認されています。本論文は、資料的にも豊富で研究の蓄積が進んでいる、トビニタイ文化と考古学的に設定された北海道東部の事例に焦点を当てています。トビニタイ文化は、オホーツク文化が擦文文化から人工物や生産・生業技術や居住パターンや生計戦略などの数々の要素を段階的に受け入れ、最終的に擦文文化に吸収・同化されていく移行段階と推定されています。たとえば、トビニタイ文化集団は、最初期のトビニタイ土器を、オホーツク文化の製作技術を用いて、擦文式土器の模様・装飾・器形を模倣して製作していましたが、最終段階ではその技術を完全に習得し、擦文式土器そのものとしか判断できないものを製作するようになります。同様の現象は、住居構造や道具組成などでも確認されています。これらの事例から、トビニタイ文化は、最終的には少なくとも物質文化側面では、擦文文化そのものと区別がつかないものになります。

 一方、擦文文化の側には、オホーツク文化と接触融合し、トビニタイ文化を形成する証拠や動機は確認されていません。そのため、トビニタイ文化は、オホーツク文化側が積極的に擦文文化に同化吸収された過程と想定されています。遺伝学でも、考古資料から導かれたオホーツク文化集団の擦文文化集団への同化吸収が確認されており、現在のアイヌ民族はオホーツク文化集団の遺伝子を相当な割合で継承している、と明らかになっています(関連記事)。北海道東部におけるオホーツク文化と擦文文化の接触融合が起きた理由として、環境変動や政治社会的影響などが提示されています。しかし、そうした仮説の大部分は、具体的かつ充分な考古学的証拠に基づくものではない、と指摘する本論文は、考古資料から両文化の接触融合の要因を検証できる対象として、トビニタイ文化の鉄器を挙げています。

 まずトビニタイ文化の鉄器に関しては、その形態的特徴に基づいて、オホーツク文化から擦文文化に類似するものに置換した、と指摘されています。つまり、トビニタイ文化における鉄器の供給源は、アムール河流域を中心とする北方経路から、本州以南からの南経路に移行した、と推測されます。またオホーツク文化の分布圏は、本州以南の鉄器供給経路と直接的には接していないため、擦文文化を介して鉄器を入手していたと推測されます。もしそうだったなら、北海道東部のオホーツク文化集団は、日常生活を営む上で不可欠な鉄器の安定供給を確保するため、擦文文化との関係性の構築が不可避となり、両文化集団の接触融合が進んだ、と考えられます。こうした接触融合は、オホーツク文化の期間よりも遥かに多くの量の鉄器をトビニタイ文化集団に安定的に供給し、その結果として、日々の社会生活を維持するために不可欠な道具のほとんどを石器から鉄器に置き換えることができた、と推測されます。
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_24.html

トビニタイ文化集団はアイヌ人より地位が下で、単にアイヌ人に吸収されただけです。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/263.html#c1

   

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