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2022.12.20XML
今でもケネディ大統領暗殺に関する情報の公開をアメリカ支配層が恐れる理由
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202212200000/
アメリカの国立公文書記録管理局は12月15日、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺に関する1万3000以上のファイルを公開した。同局が保管している関連文書の97%だというが、CIAが保管している重要文書はマイク・ポンペオ(2017年1月から18年4月までCIA長官、18年4月から21年1月まで国務長官)とジョー・バイデン大統領によって公開が阻止されたという。そもそも最高機密に属す情報は文書になっていない可能性が高く、それに準ずる文書は処分されているか別の「安全な」場所に隠されているはずだ。
国立公文書記録管理局による文書公開は隠蔽工作の一環とも言えるのだが、その事実にFOXニュースのタッカー・カールソンが番組の中で切り込んだ。隠されている重要文書を見ることにできる人物は彼に対し、ケネディ大統領暗殺にCIAは関与したと思うと語ったという。
暗殺にCIAの一部が関与していることは少なからぬ人が信じている。それほど証拠、証言、分析が存在しているのだが、アカデミーや有力メディアはそれを認めようとしない。
ジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日、テキサス州ダラスで暗殺された。
その日の朝、大統領はフォート・ワースのカーズウェル空軍基地からダラスのラブ・フィールドへ移動、そこでパレード用のリンカーン・コンバーティブルに乗り込むが、そのリムジンは防弾仕様でなく、屋根はシークレット・サービスのウィンストン・ローソンの指示で取り外されていた。
また、リムジンのリア・バンパーの左右には人の立てるステップがあり、手摺りもついたが、パレードのときには誰も乗っていない。大統領の指示だったという話もあるが、エージェントだったジェラルド・ベーンは大統領がそうした発言をするのを聞いていないと証言している。元エージェントのロバート・リリーによると、大統領はシークレット・サービスに協力的で警備の方法に口出しすることはなかった。
当初、大統領が乗ったリムジンの両側に警察のオートバイを走らせる予定だったが、21日にシークレット・サービスからオートバイを後ろに下げるように警察は言われている。シークレット・サービスはそれが大統領の希望だと主張しているが、直前のヒューストンでは両脇にオートバイが配置されている。(James W. Douglass, “JFK”, Orbis, 2008)
本来なら、ダラスでは通常より警備を厳しくしなければならない事情があった。ケネディは11月2日にシカゴを訪れる予定にだったが、そのシカゴで大統領を暗殺する計画があるとする警告が警備当局に対して2カ所からもたらされた。ひとつはFBIの情報源から、もうひとつはシカゴ警察のバークレー・モイランド警部補からだ。
FBIが入手した情報によると、パレードの途中で4名のスナイパーが高性能ライフルで大統領を狙うことになっていた。その情報はシークレット・サービスへも伝えられた。FBIにその計画を伝えたのは「リー」と呼ばれる情報源だった。シークレット・サービスのシカゴ支部は容疑者を監視、11月1日に2名を逮捕したが、残りの2名には逃げられてしまった。
ちなみに、ケネディ大統領を暗殺したとされているリー・ハーベイ・オズワルドはFBIの情報提供者だとする情報がある。そのコードネームはS172、またはS179だったという。
モイランド警部補が得た情報は「ケネディ嫌いの男がいる」というもの。10月後半にシカゴのカフェテリアで食事をしていたモイランドは、そこの経営者からケネディ大統領に関して不穏当な話をする常連客がいることを知らされたのだ。そこで警部補はその男が来るのを待ち、トーマス・アーサー・ベイリーだと確認してからシークレット・サービスに連絡している。(James W. Douglass, “JFK”, Orbis, 2008)
ベイリーは元海兵隊員で、ジョン・バーチ協会に所属。海兵隊時代にはJTAG(統合技術顧問グループ)のメンバーとして日本にいた。彼が日本で配属されていたのは滋賀県にあったキャンプ大津(現在は陸上自衛隊の大津駐屯地)だとも言われている。ちなみにオズワルドは厚木基地で偵察機U2に関する機密情報に接しうる仕事をしていた。
エージェントがベイリーの自宅を捜索すると、M1ライフル、カービン銃、2800発の銃弾を発見、捜査は警察にバトンタッチされた。警察で担当したのはダニエル・グロスとピーター・シューラ。11月2日午前9時10分(東部時間では10時10分)にベイリーは逮捕され、その5分後にケネディ大統領のシカゴ訪問取りやめが発表された。
そうした情況にあったため、大統領の周辺、例えばウイリアム・フルブライト上院議員たちは大統領に対し、ダラス行きを中止するようにワシントンDCで20日に忠告している。(Anthony Summers, "The Kennedy Conspiracy," Paragon House, 1989)
大統領のパレード、しかも通常より危険な状況にあるということになれば、少なくとも沿道の建物の窓は閉めさせ、開いていれば捜査官を派遣してチェックさせるのが当然だが、そうした状況下で保安官が警備からはずされ、警察の警備体制を緩くさせたりしている。
シークレット・サービスはパレードの当日にコースを変更している。当初、本通りを直進する予定で地元紙もそのように報道していたが、ヒューストン通りを右折、エルム通りとの交差点、オズワルドが働いていた教科書ビルの直前で左折するよう変えられた。
エルム通りへの左折は「ヘアピンカーブ」になっていて、速度をかなり落とさなければならず、狙いやすうえに複数のスナイパーを配置できる。実際、大統領を乗せたリムジンは時速8キロメートルに減速している。
ケネディ大統領は12時半頃に暗殺された。後ろの教科書ビルから撃たれたことになっているが、映像を見ても証言を調べても、致命傷になったであろう銃撃は前方からのものだった可能性がきわめて高い。これは本ブログでも書いてきた。銃撃の直後、ダラス警察のジョー・マーシャル・スミスは「グラッシー・ノール(草で覆われた丘)」へ駆けつけ、硝煙の臭いを嗅いでいる。
ケネディ大統領の暗殺では、さいまざまな「有名人」の名前が挙がっている。そのひとりがハワード・ハント。1972年6月にリチャード・ニクソン大統領陣営のCREEP(大統領再選委員会)に属すメンバーがワシントンDCの民主党全国委員会本部へ侵入、逮捕された。ウォーターゲート事件だが、この事件にハントも関係していた。
ハワード・ハントは2007年に死亡する直前、息子のセイント・ジョン・ハントへ自分がケネディ大統領暗殺に関係していたことを明らかにした。暗殺自体に関係していないが、暗殺の真相が明らかになりそうになった場合、スケープゴートにされることにあったのではないかとCIAの元高官、ビクター・マーチェッティは推測している。
暗殺の翌年に興味深い映画が3作品、公開されている。1月にスタンリー・キューブリック監督の「博士の異常な愛情」、2月にはジョン・フランケンハイマーが監督した「5月の7日間」、そして10月になるとシドニー・ルメット監督の「フェイルセイフ」だ。
最初の作品は空軍司令官がソ連への核攻撃を全戦略爆撃機に命令するという筋書きで、2番目は統合参謀本部議長など軍の幹部が大統領を排除するためにクーデターを計画するという内容、3番目ではコンピュータのエラーでソ連を核攻撃してしまうというプロットだった。(Russ Baker, “Family of Secrets”, Bloomsbury, 2009)
「5月の7日間」という小説を書いたのはフレッチャー・ニーベルとチャールズ・ベイリーで、ケネディ大統領もその小説を読み、友人にありえる話だと語っている。その話をニーベルが思いついた切っ掛けはカーティス・ルメイへのインタビューだったという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
ルメイは広島と長崎に原爆を投下し、日本の都市に住む市民を焼夷弾で焼き殺した人物。「博士の異常な愛情」でソ連に対する核攻撃を独断で命じたジャック・リッパー空軍准将もルメイがモデルだと考えられているのだが、この人物はケネディ大統領暗殺の翌年、日本政府から「勲一等旭日章」を授与された。
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