4. 2019年8月10日 12:17:33 : 2s71FTMPPM : RE5FdTQuMFBTelE=[1]
@ > この廃墟を破壊する作業は1958年3月から日本人の手によって始められている。議会の決定に反して廃墟の破壊を決めたのは長崎市長の田川務だ。
浦上天主堂は、爆心地に近い南壁は、その上に建てられた聖人像ともに残ってるけれど、北壁は、形もないくらいに破壊された。
浦上天主堂を壊したのは、本当の爆心地が、浦上天主堂より北にあることを隠すためだ。
さらに、爆発直後に撮られた貴重な写真などを収めた市民ホールが、火災を出し、大切な資料が灰塵に帰したけれど、証拠隠滅が、その動機だ。
A ほとんどの長崎市民が、その存在を知らず、原爆爆発当時、県知事を初め、各界の幹部が集って、会議を開いていたとされる立山防空壕、そのお蔭で、主だった長崎の上層部は、被曝を免れた。
その立山防空壕は、未だソ連が原爆を保有していないときに建てられた核シェルターと同じ構造であった。
> Stalin, independent of the Japan effort but based on
the advice of his atomic experts, started construction of special shelters years before the first atomic bomb was completed. A secret decree of the State Committee for Defense signed on November 22, 1941, resulted in special
bunkers being built in Gorky, Kazan, Kuibyshev, Saratov, Stalingrad,
Ulyanovsk, and Yaroslavl. The Tateyama atomic bomb shelter is similar
in design to other 1940s and 1950s atomic bomb shelters as illustrated by the atomic bomb shelters developed by the Soviet Union.
立山防空壕建設の経緯を示す資料は、全くないとされている。
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/320.html#c4