http://www.asyura2.com/acat/r/r3/r3z/R3Z3bmJlRC9pS1k=/100000.html
98. アラジン2[4515] g0GDiYNXg5My 2022年9月11日 10:05:52 : QH1rdWthkQ : R3Z3bmJlRC9pS1k=[1]
>>96
>プミポン国王が死んだ時、ここまで騒ぎましたっけ?
「プミポン国王」が誰か全く知らなくて調べたら、タイの国王。
しかもタイの多くのクーデターを解決し、国民の信望厚かった国王。
クーデター?
裏にアメリカがいるな、と思って調べたらビンゴ!
■リビア-シリアと同じ仕打ちを受けているタイ(2016/8/14)
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/--5715.html
(略)
●欧米マスコミが報じようとしないこと
権力の座について以来、(タクシン・)チナワットと彼の支持者が、暴力行為やテロを、政治手段として利用してきたことを、欧米マスコミが読者に伝えようとしない事実がある。
・2003年: タクシン・チナワット政権は“麻薬戦争”を推進し、約3,000人の無辜の人々が死亡したが、その大半は、麻薬取り引きとは無関係で、犠牲者の誰一人、令状も、裁判も、逮捕すらされていなかった。街頭で射殺されたのだ。
・2004年: チナワット政権は、タイのディープ・サウスでの抗議行動を残虐に弾圧し、一日に80人以上が死亡した。
・2001年-2005年: アムネスティー・インターナショナルによると、チナワット首相一期目の時期に、18人の人権擁護活動家が、暗殺されたか、行方不明になった。
・2006年: チナワット政権は、街頭で、彼の退任を要求する抗議行動参加者のレジスタンスと直面し始めた。ウィキリークスが、この時期に、アメリカ大使館自身が複数の爆破を、チナワットと彼の支持者と結びつけていたことを暴露している。
アメリカ大使館は、バンコク中で画策された攻撃である、2006年大晦日爆破の被疑者の中に、チナワットも含めていた。
・2009年: 権力の座から追い出され、彼の傀儡閣僚連中の何人かも、一連の有罪判決や、裁判所の裁定で、権力の座から追われると、チナワットは、彼のUDDが率いる暴徒をバンコク街頭に繰り出した。
“赤シャツ”抗議行動は間もなく略奪と放火へと転換し、居合わせた無辜の二人が死亡した。
・2010年: チナワットは再度暴徒を街頭に繰り出し、今度は300人の重武装テロリストが、M-16(M203 40mm 擲弾発射筒)、AK-47、M-79 40mm 擲弾発射筒、携行式ロケット弾(RPG)、手投げ手榴弾、拳銃や狙撃銃を使った。
戦闘で、約100人が死亡し、数百人が負傷し、チナワット支持者が行った全市内中での放火で終わった。
暴力行為の間、チナワットのUDD指導部は、バンコクでの紛争を、全国規模にエスカレートさせようとして、支持者に、武力“内戦”という考え方を提案しようとした。
・2013年-2014年: 2011年、チナワットの妹、インラック・シナワトラが首相となった。
彼女は、すぐさまその立場を利用して、2年の刑を逃れるために自ら亡命生活をしている、有罪判決を受けた犯罪人である兄の責任を免除する“恩赦法”を推進しようとした。
この動きは広範な大規模抗議行動を引き起こし、抗議行動は、2013年から2014年まで続いた。
チナワットは、またもや重武装した過激派を配備し、戦争用の兵器を使って、夜襲のようなもので、抗議行動参加者を鎮圧した。女性と子どもを含め約30人が死亡した。
暴力行為は、クーデターをひき起こした。
既に裁判所の裁定で弾劾されているのに、首相の座を降りることを拒否した、チナワットの妹を権力の座から追い出した。
この期間中、チナワット支持者は、最近の爆破に見られるように、バンコクのみならず、タイ全国各地で、暴力行為を実行したことにも留意すべきだ。
・2015年: 8月にバンコク繁華街で爆弾が爆破し 20人が死亡し、更に何十人も負傷した。
戦闘員は、NATOとつながるトルコ人テロ集団と結びつけられており、←★★★
政治的に強制をするための、タイ政府に対する暴力行使に、チナワットの欧米支援者が直接関与している可能性を暴露している。
(略)
欧米マスコミが、リビアやシリアで、 ←★★★
テロリストが“自由の戦士”として報じ、 ←★★★
テロを“レジスタンス”として報じ、 ←★★★
暴力行為を実行する戦闘員を - 政府が反撃した場合 - ←★★★
“犠牲者”として報じたのと同様に、 ←★★★
マスコミはそれをタイでしようとしているのだ。←★★★
タイの爆破の背後に、一体誰がいそうなのかについての空々しい曖昧さが、2013年-2014年、2010年、2009年、更に、2006年の昔、チナワットによる暴力行為隠蔽を目にし、隠蔽を企んだ欧米の編集者連中によって、広められつつある。
また他の人々も述べているように、チナワットが、2006年-2007年における一連の爆撃の背後にいた可能性があるとアメリカ大使館は認めたものの、彼らは依然、絶えず、彼や彼の仲間を権力の座に据えようとしてきた。
(★★★私注↓↓ 香港デモも、ウクライナのマイダン革命も同じ手法★★★)
リビアとシリアでの欧米作戦の手法
- テロリストに武器を与え、支援し、
“抗議行動”を、危機を暴力の急増へと
エスカレートさせる隠れ蓑として利用し、
傭兵やテロリストが、外国の支援を得て、
主権国家をばらばらにするのを“内戦”として描く -
というのが、今、タイで序盤戦にあるようだ。
代替メディアさえもが、情報を、
BBCや、ロイター、AP、AFP、CNNやアル・ジャジーラから得ているので、←★★★
この陰謀は、不当にも先手を打って有利なスタートができるのだ。
とは言え、リビアやシリアの惨事を、後から振り返って良く吟味すれば、この有利なスタートを無効にし、逆に、次にタイを、そして、タイ以降の他の国々を焼き尽くす前に、この世界的な地政学的不安定化作戦の敗北へと変えることができるかも知れない。
*************
世界の不幸はアメリカがバラ撒く。
「終焉には至らないまでも、少なくともアメリカ帝国を減速させる事。
少なくとも獣にダメージを与える事。
それこそ世界中の災難の原因に他ならない」 by ウィリアム・ブルム
*************
2022/9/11付けの赤旗日曜版に
2014年のウクライナのマイダン革命を描いた映画「オルガの翼」の紹介があった。
↓↓
★反吐が出るデマ説明★
「マイダン革命」につながった反政府運動は13年11月、ヤヌコビッチ大統領が約束していたEUとの連携協定の調印を、ロシアの圧力により見送ったことをきっかけに起きました。
14年2月、武力鎮圧をはかった大統領は世論の強い反発に遭い、ロシアに亡命し政権が変わりました。
この政変に反発したロシアは3月に軍事介入しクリミアを併合。
さらにウクライナ東部の親ロ派武装勢力を軍事支援し、分離活動を進めました。
ウクライナ領土の不可侵を約束した両国間の諸協定を踏みにじり主権を侵害されたウクライナでは、反ロ世論が急速に高まり欧米への接近が進みます。
そのなかで、ことし2月、ウクライナ侵略という、さらなるロシア覇権主義の暴挙が起こったのです。
(略)
(よねざわ・ひろし=日本共産党国際委員会)
↑↑
★よくもここまでデマ説明ができるもんだ。
日本共産党がここまでクソとは思わんかった!
筋金入りの反中で有名な遠藤誉氏だって、マイダン革命がアメリカのヤラセだと
知ってるぞ!
↓↓
■スイス平和エネルギー研究所が暴露した「ウクライナ戦争の裏側」の衝撃
世界は真実の半分しか見ていない(2022/5/31)
by 遠藤誉
https://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20220531-00298626
http://www.asyura2.com/22/kokusai32/msg/180.html#c98
99. アラジン2[4516] g0GDiYNXg5My 2022年9月11日 10:41:08 : QH1rdWthkQ : R3Z3bmJlRC9pS1k=[2]
>>92 >>93 追記。
2022/9/11付けの赤旗日曜版で見つけた読者投稿欄「人生のうた」での投稿。
■「病の朝鮮人 海に捨てた」佐藤孝男 茨城県 79歳
最近、従軍慰安婦問題や徴用工問題をタブー視したり、そうした事実はなかったという論調が目立ち、気になります。
少年兵としてサハリン(樺太)の軍港整備に動員されたという知人からこんな話を聞きました。
――そこは朝鮮から連れてこられた徴用工がたくさんおり、毎日の激しい労働と寒さと飢えで病気になる人が続出していた。
ある日、上官から「病気になった朝鮮人を海へ捨ててこい」と命令された。
当時は上官の命令に逆らうことなどできるはずもなく、暗くなってから徴用工を大八車に乗せて運び、手を合わせて「アイゴー、アイゴー」と叫ぶ朝鮮人を崖の上から海に投げ捨てた。
こうしたことが何回も繰り返された。
怖くて恐ろしくて後ろを見ることができずに逃げ帰った。
上官は「朝鮮人は何人でもいるから」と、10人いなくなるとまた10人と、いなくなった人数を補充していた。
こんなことをしていたら日本は負ける、みんなそう思ってた――
会うたびに何回も何回も涙ながらに話してくれたこの方は、一度も家族にはこの話をすることなく数年前、96歳で亡くなりました。
*************
ネトウヨによる韓国、中国の悪口を聞くたびに、同じ日本人として恥ずかしい。
私も子供のころ、近所のお爺さんに聞いた話がある。
戦争に行って、度胸試しだと命令されて捕虜を殺した。
自分が殺さなくても、別の誰かが殺したはずだ。
それでも戦後の戦争犯罪人の取り締まりの時は、自分も捕まるのではないかと怖かった――と。
100. アラジン2[4517] g0GDiYNXg5My 2022年9月11日 11:00:09 : QH1rdWthkQ : R3Z3bmJlRC9pS1k=[3]
レスがイギリスから離れてしまったので、イギリスに戻ります。
ディストピアを描いた小説「1984年」で有名なジョージ・オーウェル。
その小説にネズミを使った拷問シーンが有ります。
彼はその拷問を実体験していました。
「される側」ではなく、「する側」として。
イギリスのミャンマー植民地時代に、ミャンマーで行われた拷問だそうです。
■大英帝国は、いかにしてジョージ・オーウェルを生み出し、殺したか(2020/5/20)
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2020/05/post-7562d0.html
(略)
当時オーウェルがしなければならなかったことに光を当てる二つ目の暴露は『1984年』で最も有名な、ぞっとするような場面の一つにある。
実際、ほとんどナチ集団虐殺収容所生存者の自叙伝さえ、それほどの記述はない。
秘密警察士官の「オブライエン」が、もしそれが開けば、餓死しそうなネズミが飛びついて、彼をむさぼり食う準備ができている檻に、彼の顔を固定して「主人公」(もしそうと呼ぶことができるなら)ウィンストン・スミスを拷問にかける場面だ。
私が画期的な北アイルランドの学校で最初に『1984年』の力にさらされた際に、思ったことを覚えている「一体どんな種類の心がそれと同じ位、恐ろしいものを発明できるだろう?」)
答えは非常に明白だったので、私は他の生徒同様それを全く見過ごしていた。
オーウェルは、それを「発明したり」架空の筋書きとして「思いついたりした」のではない。
それはイギリス植民地警察によって、ビルマ、現代のミャンマーで使われていたお決まりの取り調べ手法に過ぎなかった。
オーウェルは決して「聡明に」文学的手段として、そのような邪悪な拷問手法を発明したわけではない。
彼はそれを想像しなくて良かったのだ。
それは年中、彼自身や同僚が使ってていたのだ。
それこそが、大英帝国が、いかに、なぜそれほど長い間、それほどうまく機能したかの理由だ。
(略)
**************
日本のアジアの植民地時代も酷かった。
そしてイギリスの植民地時代も酷かった。
「した」方は忘れても、「された」方は忘れない。
欧米も日本も、これから罰を受けるだろう。
な〜〜んも反省しないんだから、しかたないです。
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