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米国の残酷な黒人差別の歴史 歴史家や小説家の書籍から紐解く
書評・テレビ評2020年6月9日
https://www.chosyu-journal.jp/review/17520
400年前の奴隷貿易が発端
米国ミネソタ州で白人警官が黒人男性に暴行して殺害した事件を契機に、全米各地で抗議デモが巻き起こり、人種や世代をこえた巨大な運動に発展している。全米で40都市以上が夜間外出禁止令を出すのは、黒人の差別撤廃に尽くしたマーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺された1968年以来だという。それにしてもアメリカで、なぜこうした事件が何度もくり返されるのか。人々の怒りの根源はどこにあるのか。それを理解するためには、イギリス植民地時代を含めたアメリカの400年の歴史を見なければならない。これまで歴史学者や小説家、ジャーナリストたちが世に問うてきた奴隷制と黒人差別の歴史をめぐる書籍を読み、それを手がかりに考えてみた。
世界の歴史においてアメリカ合衆国ほど人種差別がずっと大問題であり続けている国は他にない。人種差別というものはどうやって始まったのか。
ボストン大学名誉教授で歴史家のハワード・ジンが著した『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』(上・下、あすなろ書房)は、『民衆のアメリカ史』を青少年向けに書き直したもので、それまでの国民的英雄を中心にしたものではなく、実際に社会を動かしてきた黒人、女性、インディアン、若者、労働者の側からアメリカの歴史を綴っている。
時は大航海時代にさかのぼる。コロンブスはスペイン王室の援助を得て黄金を手に入れるため、1492年にアメリカ大陸の一角、カリブ海に浮かぶバハマ諸島に到着した。コロンブスは先住民アラクワ族に黄金を持ってくるよう命じ、持ってこれなかった者は手を切断した。アラクワ族は逃げたが、コロンブスは捕虜にして縛り首にするか、火あぶりにした。当時エスパニョーラ島には25万人の先住民がいたが、17世紀には1人もいなくなった。
こうして南北アメリカ大陸でのヨーロッパ人の歴史が始まった。それは先住民の大量虐殺と奴隷貿易の始まりだった。
奴隷貿易は15世紀半ばからポルトガルが始め、オランダ、スペイン、イギリス、フランスが加わった。奴隷船はヨーロッパの各港から大西洋を南下してアフリカに向かい、西アフリカの奴隷貿易拠点で奴隷を購入して船に積み込み、大西洋を渡って南北アメリカの各地に上陸。ここで奴隷が砂糖やコーヒー、綿花などと交換され、各地のプランテーションに送られるとともに、この植民地産物はヨーロッパ本国に持ち帰られる。ここで莫大な利益を得たのがヨーロッパの奴隷商人たちで、そのカネが産業革命を支える資本の原始的蓄積となった。
黒人たちはアフリカ西海岸から奴隷船でアメリカ大陸へ運ばれた(絵画)
黒人の非人間的な扱いは、すでにアフリカで始まっていた。捕らえられた黒人は鎖につながれて海岸まで歩かされ、その距離は時に1000マイル(約1600`)にもなった。こうした「死の行進」の間に、40%の黒人が命を落としたという。何とか海岸にたどり着いても、売られるまで檻に閉じ込められた。
いよいよ奴隷船に乗せられると、暗い船倉でまたもや互いに鎖でつながれた。1人分のスペースは棺桶ほどの広さしかなかった。不衛生な船倉にぎゅうぎゅう詰めにされ、窒息死する者、苦しみのあまり海へ身を投げる者まで出た。航海中に3分の1が死亡したという。それでも奴隷貿易はもうかるため、奴隷商人は黒人たちを魚のように船に詰め込んだのだ。
こうして西洋近代文明のはじまりといわれる数世紀の間に、1200万人以上の黒人が南北アメリカ大陸に運ばれた【地図参照】。途中で死んだ者を含めると、総計5000万人が故郷のアフリカ大陸から連れ去られたという記録もある。
イギリス植民地時代 先住民殺し黒人奴隷に
同様のことがイギリス植民地時代のアメリカでもおこなわれた。
1607年、イギリス人はアメリカ大陸における最初の植民地として、バージニアにジェームズタウンを建設した。そこはポーハタンと呼ばれるインディアンの首長が治める領地だった。ポーハタンはイギリス人を攻撃せず、「私は平和と戦争の違いをよく知っている。なぜあなたたちは、愛によって静かに得られるものを、力ずくで奪いとろうとするのか? あなたたちに食べ物を提供しているわれわれを、なぜ滅ぼそうとするのか?」との申し立てをおこなった記録が残っている。コロンブス以前、南北アメリカには7500万人のインディアンが遊牧民や農耕民として暮らしていた。
その頃、ジェームズタウンは深刻な食料不足に見舞われ、入植者の中にはインディアンのところに駆け込む者もいた。1610年、植民地総督はポーハタンに彼らを送り返すよう求めた。ポーハタンが断ると、イギリス人はインディアン居住地を襲い、子どもたちを海に突き落として銃で撃ち、妻たちを銃剣で刺殺した。1622年、今度はインディアンが増え続けるイギリス人を排除しようと、347人を虐殺した。このときからイギリス人とインディアンとの全面戦争が始まる。
イギリス人はインディアンを奴隷として使うことも、彼らと共存していくこともせず、滅亡させようと決意した。しかし、トウモロコシや綿花のプランテーションには労働力が必要だ。そこで、反抗的なインディアンと違い、故郷の土地からも文化からも切り離され、無気力状態になったアフリカ人に頼るようになった。法律で黒人に読み書きを教えることさえ禁じ、無知蒙昧な状態にして、彼らを思いのままに支配しようとした。
黒人たちは当初から、奴隷にされることに抵抗し、人間としての尊厳を守ろうとした。仕事をなまけたり、逃亡したりした。しかし逃亡が見つかると、奴隷たちは火で焼かれ、手足を切られて死刑にされた。一方で、白人の入植者たちが黒人奴隷の集団的な反乱をひどく恐れていたことが、当時の文書からわかる。
アメリカ独立戦争が起こる100年前の1676年、植民地バージニアで怒れる貧しい入植者たちが特権的な植民地政府に対して反乱を起こし(ベーコンの反乱)、首都ジェームズタウンに火が放たれた。植民地総督は町から逃げ出し、イギリスは4万人の入植者を統制するために軍隊を送った。武装した反乱軍に加わったのは、西部開拓の最前線に送り込まれた白人の辺境民と、白人の年季奉公人(イギリスで職を失い、5年から7年間、主人のためにアメリカで働いて渡航費用を返済する)、そして黒人奴隷だった。彼らは植民地総督を怠慢で無能と糾弾し、法律と税金は不公平で厳しすぎると訴えた。
18世紀になると、アメリカは農業、造船業、貿易が発達し、大都市の人口は2倍、3倍と拡大した。少数の富める者たちは、北アメリカ大陸にイギリスとそっくり同じ階級社会を実現しようと考えた。彼らがもっとも恐れたのは、黒人奴隷と貧困白人(プア・ホワイト)が結束して第二のベーコンの反乱を起こすことだった。そこで白人と黒人が手を組むのを阻止する手段の一つとして、人種差別主義を使うことにした。つまり、人種差別は黒人と白人の肌の色の違いからもたらされる「自然な感情」ではなく、分断支配をおこなうための意図的な政策だったと、ハワード・ジンはのべている。
奴隷制禁止後も続く アンクル・トムの世界
アメリカ独立戦争後、北部諸州では奴隷制禁止が宣言されたが、その実行には時間がかかり、一方南部諸州は綿花のプランテーションが発達して奴隷制はますます拡大した。アメリカはメキシコ戦争(1846〜48年)でカリフォルニアをはじめ西部の広大な地域を獲得したが、それは新たな奴隷州獲得のための戦争と呼ばれた。1850年代には、毎年約1000人の黒人奴隷が奴隷制を禁止した北部の自由州やカナダ、メキシコへ逃れていた。
そのときに書かれたのが、日本でも読み継がれている『アンクル・トムの小屋』(1852年、ハリエット・ビーチャー・ストー著)だ。ストーがこの小説を雑誌に連載し始めた南北戦争前のアメリカでは、奴隷解放論者は暴徒の襲撃を受け、それを擁護する出版社は焼き討ちにあっていた。そのなかで書かれたこの小説は、奴隷制のもとで人々がどのような行動をとり、どのような苦痛に耐え、どのような涙を流したかをいきいきと描き、国家が実行している奴隷制の非道さを同胞に訴えかけた。
黒人奴隷のトムは生涯で3人の奴隷主に買われていくが、そのうちの1人が南部ルイジアナ州ニューオーリンズのセント・クレアだった。セント・クレアは南部における良識的な紳士の1人で、奴隷制についての問題点も理解しているが、1人ではなにもできないというあきらめが先に立ち、世の中を諦観している。妻のマリーは召使いに囲まれ、ずっとちやほやされて育った典型的な奴隷主夫人で、奴隷たちの勝手な振る舞いに業を煮やし、もし夫が反対しなければ、奴隷たちを留置所か、鞭打ちしてくれるところに送りたいと思っている。
小説には残忍で強欲な奴隷主レグリーも出てくるが、「ああいう男の残酷さを許し、保障しているのは、あなた方の持っているご立派さと人間性なんですよ」という作中の台詞にあるように、アメリカ人に奴隷制の真の姿から目をそむけないよう訴えている。
一方、主人公のトムは真面目で親切で信心深いが、けっして卑屈ではない。トムがこっそり病身のルーシーの綿摘みの手助けをしていることを知ったレグリーが、奴隷がしらにしてやるからルーシーを鞭打つようトムに命じたとき、トムは「それだけはごめんこうむりますだ。わしはこれまで一度だって人を殴ったことはねえ」と拒絶する。レグリーは「お前は、今は身も心も俺のものだ」と宣言するが、トムは「わしの魂はわしのものだ。どんなことがあっても売らねえ」といい、立ち上がれないほど殴られるが屈しない。また、キャシーとエメリンの逃亡を手助けしたトムは、レグリーの手下からリンチを受けて口がきけなくなるが、その魂からほとばしり出る声なき声は、手下の2人の黒人の胸を打ち、レグリーが立ち去るや2人はトムの傷を洗い、にわかづくりのベッドに横たえる。
トムは拷問によって死ぬが、次代の奴隷主ジョージは、このアメリカから人間を奴隷として使う恐ろしい制度をなくすために生きることをトムに誓う。ストーはそれによって奴隷主が奴隷主でなくなる未来を示した。
奴隷市場で競売される黒人たち(絵画)
露骨な人種隔離政策 教育の機会均等求める
南北戦争と奴隷解放宣言は、アフリカ系アメリカ人たちに歓喜と希望をもたらした。しかし大半の黒人は土地を買う経済力を持たず、あいかわらず白人に頼って仕事を得なければ生きていけなかった。南部の土地は、南部連合時代の所有者に戻されるか、北部の土地投機者や投資家に買い占められた。
黒人に対する暴力は、南北戦争終結後まもなく南部で爆発する。ルイジアナなど南部諸州では1880年代までに、黒人から公民権や選挙権を再び奪いとり、人種差別と白人の優位性を強要する法律を新たにつくり出した。それはジム・クロウ法と総称される。早稲田大学教授のジェームス・M・バーダマンは『黒人差別とアメリカ公民権運動』(集英社新書)で、1954年のブラウン裁判から1968年までの公民権運動の歴史を、名もなき人たちの勇気と犠牲に焦点を当てて描き出している。
それによると、ジム・クロウ法のもとで、列車は白人専用車と非白人専用車に分けられ、白人が利用するレストランや公共施設に黒人は入ることができず、白人が通う学校に黒人は我が子を通わせることができない。黒人も白人と同様、税金を払っているのに。投票権も奪われ、とくに白人女性に声をかけることは御法度だった。もしそれを破ったり反抗的な態度をとれば、それだけで黒人は解雇や集団リンチの対象となり、手足の切断、拷問、射撃の的、縛り首、さらには火を付けるといった残忍な仕打ちすら受けていた。しかもその場合、警察も裁判所も犯人を無罪放免にした。州政府や権力機関がKKK(クー・クラックス・クラン)など白人至上主義団体と結びつき、容認・共謀していたのだ。
公民権運動の前哨戦は、まず子どもの教育をめぐってたたかわれた。カンザス州に住む黒人の溶接工オリバー・ブラウンは、小学3年生の娘が8`先の黒人専用学校に徒歩で通っているのを見て、目の前の白人が通う学校に通わせたいと「教育の平等」を問うて訴訟を起こした。黒人専用学校は予算面でも冷遇され、設備も貧弱だった。1954年に最高裁が「児童の人種分離政策は違法」との判決を出すこの裁判は、「ブラウン対教育委員会裁判」と呼ばれる。当時はそうした訴訟を起こすこと自体、身を危険にさらすことだったが、教育の機会均等を求める運動は絶えることがなかった。
ミシシッピ州では翌1955年、14歳の黒人少年エメット・ティルが白人女性をデートに誘ったのを見とがめられ、家族から引き離されて殺害された。川から引き上げられた遺体は損傷が激しく、頭には弾丸の跡があった。遺体が母親の元に戻されるや、母親は全世界に「彼らが私の坊やにしたことを見てもらいたい」といった。結局10万人以上の人が、彼のむごたらしい遺体の前に列をつくった。だが裁判所は、遺体が本人であると確認できないとして、犯人を無罪にした。
こうした蓄積がやがて行動に転化する。アラバマ州モンゴメリでは同年、43歳でお針子の黒人ローザ・パークスが、バスの前方に座ったまま立つのを拒否したため逮捕され、投獄された。当時バスの前方から10席は、たとえ白人の乗客がいなくても白人専用で、黒人が座ることは許されなかったからだ。するとその夜、大学教員の黒人女性たちが「乗客の4分の3は黒人です。もし黒人がバスを利用しなければ、バス会社は経営困難になるでしょう」と書いた3万5000枚のチラシをつくり、翌早朝全市内に配布した。そこから382日間に及ぶ全市民によるバス・ボイコット運動が始まった。4カ所の黒人教会に爆弾が投げ込まれたものの、1年後に最高裁はバスの人種隔離撤廃を認めた。こうして南部で始まった公民権運動は全米に広がっていく。
次にはノースカロライナ州で黒人の大学1年生4人が、ドラッグストアの白人専用の食事カウンターに座り、店は食事を出すのを拒否したが、彼らは閉店まで帰ろうとしなかった。このシット・イン(座り込み)運動は全米100都市に広がり、白人を含む5万人以上が参加した。また、白人と黒人の若者グループが南部行きの長距離バスに乗り込むフリーダム・ライド(自由のための乗車)という運動も、バスはしばしば放火され鉄パイプで襲撃されたけれども、数万人の参加者を集めた。
「人種隔離がもっとも徹底された町」と呼ばれたアラバマ州バーミンガムでは、黒人たちがたびたび差別撤廃の集会を開き、デモ行進に移るようになった。人種差別の黒幕は警察公安部長のブル・コナーで、彼は公民権運動活動家を襲わせる汚い仕事をKKKにやらせていた。警察は6歳から18歳までの1500人のデモ隊に放水し、警察犬に襲わせたが、子どもたちはひるまなかった。
公民権運動の広がり 指導者の暗殺乗り越え
こうしたすべての運動が、1963年8月28日の「仕事と自由のためのワシントン行進」に結集していった。会場には史上最高の25万人が集まり、うち6万人が白人だった。会場ではボブ・ディランやピーター・ポール&マリーらが歌で参加者を励ました。
その場でキング牧師は、「奴隷解放宣言から100年たった今も、黒人は人種差別と貧困に置かれ自由ではない」と告発。「私には夢がある。いつの日かこの国は立ち上がり、すべての人間は平等につくられているというこの国の信条を生き抜くようになるだろうという夢だ。いつの日か自分の4人の小さな子どもたちが、皮膚の色によってでなく、人格の中身によって評価される国に住むようになるだろうという夢だ」と演説した。
行進の先頭に立つキング牧師
その後、FBIはキング牧師の電話を盗聴し、脅迫した。1968年4月4日、彼は恐ろしく腕の立つ狙撃犯に射殺された。
それでも運動は終わらなかった。マルコムXなどの「ブラック・パワー」をスローガンに掲げる新しいリーダーも登場した。60年代後半には黒人暴動が全米100都市に広がるが、そこではベトナム帰還兵の黒人が大きな役割を果たし、差別反対はベトナム反戦運動と結びついていった。
黒人の投獄率5倍 現代版奴隷の囚人労働
こうした公民権運動の結果、投票権法(1965年。黒人の選挙権を保障)と公民権法(1968年。公民権運動活動家への暴力の禁止など)が成立した。しかし黒人差別はなくならなかった。なぜならそれが、富める者と貧しい者との階級対立という根本問題に根ざしていたからだ。
1980年代以降の新自由主義のもと、ITバブルや住宅バブルでウォール街のみが「わが世の春」を謳歌する一方、富を独占する1%と99%の貧困層との対立が激化した。そのもっとも底辺に置かれているのが黒人だ。9・11テロ事件後のイラク、アフガン戦争の過程で、軍のリクルーターは大学の学費免除や医療保険加入と引き替えに貧困地域の高校生を軍隊に勧誘したが、その多くが黒人や中南米系移民の子弟で、彼らは入隊後、最前線に送られた。2005年、ハリケーン・カトリーナによって大水害に見舞われたジョージア州では、水没した地域住民のほとんどが黒人の低所得層だった。
ジャーナリストのシェーン・バウアーは、アメリカの服役囚のおよそ1割が収容されている民営刑務所の実態を明らかにしようと、ルイジアナ州の民間刑務所で刑務官として働き、その潜入ルポを発表した。それが『アメリカン・プリズン』(東京創元社)である。
アメリカで刑務所に収監される者の人口に占める割合は、世界のどの国よりも高い。2017年に刑務所や拘置所に入れられていた者は220万人をこえ、過去40年間で500%の増加となった。しかも黒人の投獄率は今でも白人の5倍で、受刑者の大多数が黒人だ。犯罪者といっても、黒人の場合、生きるために窃盗をして捕まった者、子どもの頃からずっと獄中にいる者、友人が白人に射殺され、抵抗しようとして投獄された者などがいる。
そして民間刑務所は、囚人労働を搾取してもうけている。民間刑務所は運営を委託された州政府や連邦政府から、受刑者1人当たり1日34jなどを受けとり、道路建設などの公共事業に無給で囚人を貸し出している。受刑者たちは44人がひしめき合う部屋で寝起きし、労働法に縛られないので1日12時間以上働かされる。病気になっても放置されたままで、感染症で手足を失ったり、刑務官のリンチで衰弱して死に、ボロ切れのように捨てられる受刑者も少なくない。奴隷制時代とまったく同じだ。こうしてこの民間刑務所は年間2億2100万j以上の純利益を上げ、投資家にとっても刑務所REIT(投資信託)は人気商品の一つだという。
シェーン・バウアーは、こうした囚人労働は奴隷制が直接に生み出したものだと指摘している。南北戦争後、綿花などプランテーションの労働力が不足したときのこと。奴隷制廃止を決めた合衆国憲法修正第13条には抜け穴があり、犯罪者であれば奴隷労働に従事させることができた。そこで南部の諸州はプランテーションをみずから購入し、20世紀初頭からそれを刑務所として運営し始めた。それが1980年代から刑務所民営化になって現在に至っている。つまりアメリカの歴史を通じて人種差別と利益の追求とは常にセットだったと、バウアーはのべている。
以上の歴史からわかるのは、黒人の人種差別というものは、低賃金労働力を搾取するためと、白人の貧困層と黒人を分断支配するために、黒人をアフリカからさらってきた400年前からアメリカの支配階級がとってきた政策にほかならないということだ。現在の人種差別はアメリカの金融資本そのものが支えている。
今アメリカで、新型コロナウイルスの死者や感染者がもっとも多いのも黒人である。それは黒人たちが貧困で育ったことから、糖尿病や心臓疾患、肺疾患という持病をかかえ、医者にかかれない状態にあるからだ。もう一つは、彼らの多くが感染の恐れがあっても休むことができないバス運転手や老人ホームの介護、食料品店で働き、底辺でアメリカ社会を支えていることによる。黒人がいなければアメリカ社会は回らないと同時に、強欲な搾取制度がまともな社会にすることの障害になっていることを示している。
https://www.chosyu-journal.jp/review/17520
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