10. 2021年1月03日 08:44:17 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[1]
>>7 に追記
カペー弦楽四重奏団
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カペー弦楽四重奏団
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/661.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/476.html#c10
1987年10月19日のNYダウは、1日で22.6%も下がり、下落率では1929年の世界恐慌を上回る「暗黒の月曜日」(ブラックマンデー)となりました。何が起きたか分からないまま20日の日経平均も14.9%下落しました。21日に9.3%反発しましたが、11月6日の竹下内閣成立の混乱の中、11月11日に2万1036円のブラックマンデー後安値を記録しました。
これは1984年初頭に史上初めて1万円超えた日経平均が、その後87年10月14日に2万6646円まで上昇した後の安値でもありました。史上初の1万円達成の時「この1万円は、1万円の為の1万円ではなく2万円の為の1万円だ」と言った師である石井独眼流の言葉が忘れられません。「この1万円は2万円への通過点だ」で済みそうですが、初めて経験する「日経平均1万円」へのその時の高揚感は前者の言葉がぴったりでした。
その1万円から2.6倍になった87年の高値はかなり割高になっていましたので、本来はこのブラックマンデーで相場が終わるべきでした。しかし皮肉な事に85年のプラザ合意による円高対策の内需喚起策の過剰流動性に、このブラックマンデー後安値2万1036円が火をつけ、89年の3万8915円までのバブル相場が爆発してしまうわけです。そして金融機関の過度の貸し出しを強制的に停止させる「総量規制」によってバブル経済が一気に崩壊すると言う最悪の事態になってしまいます。もし、ブラックマンデー以降のバブル相場がコントロールされたものであれば、それはバブルではなく、勿論崩壊も無く、失われた30年も無かったかも知れません。
今、新型コロナウイルスは世界をターゲットにして攻撃していますが、日本国として考えたら、日本をターゲットにしたプラザ合意と同じ「日本の危機」です。株式市場から見るとブラックマンデー前後の数年と、今回のコロナショック前後の数年の経済状況が非常に似ているように筆者には思えます。しかも今回の「前後」のうち「後」はまだ終わっていません。
もしブラックマンデー以降のバブル相場がコントロールされたものであれば、それはバブルではなく、崩壊も無いとしました。非常に似ているとも書きましたが、違うものの存在が1つだけあります。「日銀ETF」の存在です。今年はその存在への議論が高まる1年になると思います。時価で45兆円の「しこり玉」の処理は株式市場に影を投げかけるかもしれません。しかし筆者はそれこそがブラックマンデー後には無かったコントローラーだと思っています。信頼できるブレーキがあるから自動車は安心してアクセルが踏めるわけです。この「日銀ETFの出口戦略」はこれからもしっかり見ていきたいと思っています。
http://kasset.blog.fc2.com/blog-entry-2377.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/128.html#c15
第三次補正予算の惨状
2020-12-09
さて、第三次補正予算による経済対策が発表になりました。
酷い・・・・・、の一言です。
『政府 新たな経済対策決定 規模73兆円超 コロナ対策など3つの柱
政府は8日の臨時閣議で、事業規模が総額73兆6000億円程度となる新たな経済対策を決定しました。新型コロナウイルス対策として「地方創生臨時交付金」を1兆5000億円拡充するほか、グリーン分野の研究開発を支援する2兆円の基金の創設などを盛り込んでいます。
政府は8日夜、臨時閣議を開き、新型コロナウイルスの感染拡大防止策と、ポストコロナに向けた経済構造の転換、国土強じん化の3つを柱とした、新たな経済対策を正式に決定しました。(後略)』
今さら「73兆円規模!」に騙される人は少ないでしょうが、これは事業規模であり、政府の支出ではありません。
要するに、天ぷらの衣です。
重要なのは、国会で審議される補正予算額になります。
第三次補正予算の規模は19兆円程度になりそうです。
※今回の経済対策の詳細は、こちら→「国民の命と暮らしを守る安心と希望のための総合経済対策(令和2年12月8日)」
額の小ささも問題ですが、それ以上に「配分」に衝撃を受けました。(以下、国・地方の支出)
1.新型コロナウイルス感染症の拡大防止策 4.5兆円
2.ポストコロナに向けた経済構造の転換 13.4兆円
3.国土強靭化
4.4兆円
何と、中小企業潰しを含む「2」の構造改革が、コロナ対策や国土強靭化の三倍規模の予算になっているのです。
さらに、新たな一律の特別定額給付金はなし。持続化給付金と家賃支援給付金は、21年1月で終了。
そして、もちろん粗利補償なし。
逆に、GoToトラベルとGoToイートは、21年6月末まで延長。
結局のところ、疫病と恐慌という二つのショックに苦しめられる国民を尻目に、
「可能な限り、財政規模を抑え込みたい財務省」
「中小企業再編など、自分たちのビジネスを拡大したいレント・シーカー」
たちの意向が凄まじく色濃く反映された予算になりそうです。
何でこんな有様になるのかといえば、議会のパワーが弱まっているためです。
実は、イギリス名誉革命以降、議会は、
「国民のための政治を実現する」ではなく、「特定の誰かのための政治を防ぐ」
という意味で、大きな役割を果たしてきました。「何も決められない政治」というのは、ある意味で正しい。少なくとも「特定の誰かのための政策」も決められないのですから。
現在の日本は、90年代後半以降の「政治改革」により、議会という「防波堤」の力を弱体化されていきました。決められる政治ならぬ、「特定の誰かのための政策を決められる政治」へと構造を改革されてしまったのです。
特に、自民党の国会議員は、公認権や政党助成金分配権により、党中央や官邸に逆らえない状況になっています。となれば、官邸や党中央に「民間議員」として入り込めば、自分のための政治をやりたい放題。
議会や政党が機能していない何よりの証拠に、今回の補正予算は、自民党の政調を経ずに勝手に上層部から提出されたものをベースにしています(書いたのは官僚でしょうけれども)。
https://www.jimin.jp/activity/?day=2020.12.4&info=2020.12.4-8:00-1
上記の通り、今回の経済対策(案)について、自民党の政調会議が開かれたのは、12月4日。
それに対し、自民党の下村博文政調会長が菅総理と会い、第3次補正予算案編成に向けた党の提言を提出したのが11月30日。
我が国の民主制、あるいは議会政治は、ここまで壊れているのです。「話し合い」をしないのであれば、議会も政党も不要です。
が、諦めてはなりません。年末から年始にかけ、地元に帰ってきた国会議員(特に自民党)に、徒党を組み、圧力をかけて下さい。
特に、政調会議の「前」に政調会長が提言を提出した事実は「決定的」です。言い逃れ不可能というか、我々が舐められまくっています。
「お前(国会議員)も、俺たちも舐められてるぞ! このままでは次は落とす」
と、怒りの声をぶつけてるのです。
結局のところ、議会政治を立て直すことは、日本国の主権者である我々にしかできないのです。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/755.html#c1
このとき移植された肝臓は、不法に拘束された健康な法輪功メンバーのものだったといわれていて、これで二階は、以来、中国共産党に頭が上がらなくなっています。
その後、安倍政権が、中国人を事実上日本に移住させる目的の、入管法改悪を可決したのも、二階の意思といわれています。
https://diamond.jp/articles/-/183282
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1084.html#c41
ドイツ南部の銅器時代の親族と社会組織に関する研究(Sjögren et al., 2020)が公表されました。最近の遺伝的研究により明確になったのは、紀元前三千年紀がポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からヨーロッパ中央部、後にはヨーロッパ西部への一連の移住の期間であり、まず紀元前2900〜紀元前2100年頃の縄目文土器(Corded Ware)複合、次に紀元前2750〜紀元前2000年頃の鐘状ビーカー(Bell Beaker)複合の形成をもたらした、ということです(関連記事)。これはヨーロッパ中央部の共有された埋葬儀式でも証明されており、個々の埋葬と体の向きにおける男女間の厳密な区別が特徴です。これらの移住から生じた遺伝的混合は、現在のヨーロッパにおける1つもしくは複数のインド・ヨーロッパ語族の先行者が、これらの移民によりもたらされた可能性がひじょうに高いのと同様に、依然として現代ヨーロッパ人集団を特徴づけています。
しかし、これらの変容の契機や仕組み、集団もしくは個体の動態についての仮説を推測することしかできないので、この変容事象の規模と程度と速度について、依然として多くの問題が未解決です。また、これらの集団にとって、その文化的・社会的・言語的一貫性を確立して長期にわたって維持することがどのように可能だったのかも、まだよく理解されていません。縄目文土器複合(CWC)の場合、最初の移住は男性が優勢で、おそらくは新石器時代以来の在地集団の女性と結婚した、と提案されてきましたが(関連記事)、現時点では、これらの集団に寄与した男性優勢の移住の遺伝的証拠に説得力があるのかどうか、議論されています。個々の集団は共同体水準では父系制と外婚を実践した可能性が高い、との証拠もあります。
本論文は、ヨーロッパ中央部においてCWCの次となる鐘状ビーカー文化(BBC)について、親族構造や父方居住や外婚のパターンが持続するのかどうか、検証を試みました。これらのパターンの一部は、ドイツの南バイエルンのアウグスブルク市近郊のレヒ川(Lech River)渓谷の、BBCや前期青銅器時代の埋葬共同体で提案されています(関連記事)。本論文は、こうした結婚パターンが遺伝子プールの多様化増加につながる、との見解(関連記事)の検証も試みました。本論文は、その程度は社会的同盟の複雑さにより変化し、より大きな同盟ネットワークは、たとえばミトコンドリア系統のより高い多様性につながる、と提案します。また本論文は、男性系統が長期にわたって維持されていたのかどうか、検証を試みます。これらの知見を踏まえて最終的には、どの社会的仕組みと精度がそのような長期的な遺伝的および恐らくは言語的安定性を支えるのか、考察します。
これらの仮説を評価するための基準点は、ドイツ南部バイエルン州の後期BBCの2ヶ所の墓地における発見で、両方ともドナウ川の近くに位置し、相互に17km離れており、ほぼ同じ年代の層位となっています(図1)。一方はシュトラウビング=ボーゲン(Straubing-Bogen)郡のイルルバッハ(Irlbach)に、もう一方はシュトラウビング(Straubing)市レルヒェンハイト(Lerchenhaid)のアルブルク(Alburg)に位置します。両方とも1980年代の調査で完全に発掘され、それぞれ24ヶ所と18ヶ所の墓として報告されています。
両墓地とも、詳細な考古学的評価を受けており、葬儀習慣や物質文化や年代が浮き彫りにされています。両墓地とも、自然人類学的にじゅうぶん分析されており、歯のエナメル質の複数の同位体測定が行なわれ、性別やミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)およびY染色体ハプログループ(YHg)や系統や遺伝的親族関係が調べられた、最近のヨーロッパ規模のBBC関連個体群の古代DNA研究(関連記事)の一部です。本論文では、ゲノム解析をさらに進めて、個体間の親族関係を詳細に調べます。以下、本論文の図1です。
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●考古学と自然人類学からの知見
イルルバッハ墓地には24基あり、ドイツ南部では最大のBBC墓地となります。しかし、ほとんどの墓は耕作により損傷を受けており、発掘前にさらに数基が完全に破壊されたかもしれません。墓地には元々、西から東の3群に配置された約30基の墓があり、全体は東西60m×南北30mでした。配置は、西部に6基、中央部に14基、東部に3基、孤立した位置に1基です(図1)。対照的に、アルブルク墓地はほぼ完全に保存されており、約10m×30mの領域に18基の墓が存在します(図1)。最大で1.4m×0.8mの墓穴があるほぼ全ての墓は南北方向に長い列で並んでいます。アルブルク5号墓(ALB 5)のみがこれらの列のいずれかより外れており、本当にアルブルク墓地に属しているのかどうか、確認できませんでした。
記録できた41基の墓は、おもに南北方向の、しばしば非常に浅い埋葬坑の個人の土葬墓で、多くの場合、墓の列に配置されているか、密集しています。例外もあり、アルブルク墓地では、18号墓被葬者は火葬で、10号墓には2人の幼児期1(0〜7歳)の子供(おそらくは双子の新生児)が埋葬され、イルルバッハ2号墓(IRL 2)には「若年成人」女性1人と幼児期1の子供が1人葬られています。ほとんどの埋葬には土器が共伴しており、おもに1個もしくは2個のカップおよび/もしくは皿・椀で、イルルバッハの6基の墓には、元々は供え物だった食料の残骸としての単一の動物の骨があります。アルブルク墓地9号墓にのみ、BBCに因む様式の装飾されたビーカー容器1個があります。
土器以外にも、男性の墓には時として、燧石製の鏃、シカの歯、通常は狩猟と関連する装飾された牙や角のペンダントが含まれていました(イルルバッハ墓地では4人、アルブルク墓地では3号墓に1人)。女性の墓には、一連の小さなV字穴の骨や枝角のボタンが含まれていました。イルルバッハ墓地の3被葬者にはわずかしか含まれていませんでしたが、アルブルク墓地の6基の墓には多くのボタンが含まれており、6号墓だけで29個、15号墓に22個が、U字型で鎖骨から胸骨下部、その後でもう一方の鎖骨へと上向きに配置されており、そのほとんど穿孔された側が上向きです。男女とも、威信材の存在に基づく社会的分化の兆候をほとんど示しません。小さな銅剣が1本だけありますが、地位と関連するような、手首の防護や、金・銀・琥珀の工芸品はありません。
物質文化は埋葬の時系列の基礎を形成し、器材と土器の特徴的な集合により、数世代を構成する可能性が高い相対的な段階として、A2b・B1・B2が定義されます。イルルバッハとアウグスブルクの両墓地は、A2bからB2にまたがる類似の時系列を示し、ほとんどの墓はB1期となります。したがって考古学的用語では、両墓地はほぼ同年代とみなされるかもしれず、イルルバッハ墓地の5号墓と10号墓は最初期のものです。イルルバッハ墓地の東部の墓4基(6・11・20・21号墓)が最も新しく、バイエルン地域におけるBBCの最終段階を表しています。
アルブルク墓地では、18・9・13・16・2号墓が最初期で、最初の南北方向に配置された列となります。アルブルク墓地では、6・17号墓が最新のようです。イルルバッハ墓地とアルブルク墓地は、100年以上使われていました。厳密な年代を確定するため、放射性炭素年代測定が行なわれました。その結果、紀元前2300〜紀元前2150年頃と推定され、バイエルン地域における他の中期〜後期BBC墓地と一致しますが、物質文化と遺伝学に基づく相対年代を超えて墓地の使用寿命の推定を改善するには、少なすぎて不正確です。
ドイツ南部のBBC関連の人々は、ほぼ全ての女性が頭を南に向けて右側にしゃがみ、ほぼ全ての男性が北に頭を向けて左側に横たわるという、性別の埋葬慣行を有していました(図1)。自然人類学的および遺伝的性別は両方、この習慣の広範な厳守を確認します。しかし、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地ではそれぞれ例外もあります。耕作により攪乱されたイルルバッハ墓地17号墓被葬者は、脚がおそらくは他の女性とは異なり左側に置かれた成人女性で、さらに、脚を曲げて仰向けになっているかもしれません。ALB 14は、ほとんどの男性のように埋葬されているにも関わらず、遺伝的に女性と明らかになりましたが、1個の椀と2個のカップの副葬品は女性に典型的です。どちらの事例も、他の不規則性を示しません。
性別は両墓地で均衡が取れています。イルルバッハ墓地では11人の女性と9人の男性で、アルブルク墓地では7人の女性と8人の男性です。成人は、イルルバッハ墓地が14人(6人の男性と7人の女性と性別不明の1人)、アルブルク墓地が10人(3人の男性と7人の女性)です。イルルバッハ墓地では、7人の幼児期1(0〜7歳)と幼児期2(7〜14歳)の被葬者(少なくとも2人の少女と3人の少年)と、学童期(juvenile)の2人(1人は少女の21号墓被葬者で、もう一方は性別不明)の未成年がいます。アルブルク墓地では、5人の乳児期1および2の被葬者がおり、2人の少年と少なくとも1人の少女ですが、同様に学童期の2人がいます(ともに少年)。したがって、乳児期の子供は、子供の死亡率の高い前産業化社会での予想よりも少なくなります。これが示唆するのは、選択された子供が共同墓地での適切な埋葬を許可される、という社会的制度が共同体において実践されていたことです。両方の墓地の被葬者の合計が埋葬で少年を選好しており不均衡に見えるので(7人の少年と4人の少女)、そのような制度は思春期にも適用されたかもしれません。ただ、本論文も後述しているように、女児よりも男児の方で一般的に死亡率が高いことも反映しているかもしれません。
両墓地の埋葬からは、死因の人類学的証拠は得られません。病状はほとんどなく、栄養失調の証拠は最小限で、対人暴力はイルルバッハ墓地14号墓の男性1例のみです。この男性は、右橈骨の形が変わり、遠位関節面のすぐ上の尺骨が折れていました。この男性は平均身長をはるかに上回り、墓地では最も身長の高い男性の1人で、右橈骨・尺骨に銅の短剣を有している、両墓地で唯一の個体です。別の銅製品がイルルバッハ墓地22号墓被葬者に与えられた可能性がありますが、それは古代においてすでに除去されていました。イルルバッハ墓地20号墓も意図的に攪乱されていました。
上腕骨の不完全な癒合面である中隔開口部の非計測特性は、イルルバッハ墓地の3・14・21・22号墓の被葬者で見られ、その内訳は男性2人と女性2人で、そのうち1人は学童期の15〜16歳です。この特性は、現代の一般的な集団ではわずか6%です。両墓地の遺骸群において、少なくとも1つの癒合した上腕骨の遠位関節面を有する合計9人と比較して、イルルバッハ墓地の被葬者は不均衡です。イルルバッハ墓地でみつかったこれらの特性の数は、遺伝、したがって親族関係の結果かもしれません。
●古代DNA
イルルバッハ墓地の18基とアルブルク墓地の16基の墓で遺伝的データが得られました。このデータセットは、YHg、mtHg、高解像度の系統推定と親族分析が可能な常染色体データに区分できます。本論文では、mtDNA情報のみを有する4個体(アルブルク墓地の3人とイルルバッハ墓地の1人)が新たに報告され、最近の研究で報告された14人の追加のDNAライブラリが生成されました。
両墓地で充分なデータのあるBBC関連男性は全員、YHg-R1b1a1b(M269)で、これはヨーロッパ西部において紀元前2500年以後の草原地帯系統の到来と関連している主要系統です。BBCに先行し、部分的に重なるヨーロッパ中央部のCWC集団ではYHg-R1aが優勢でしたが、YHg-R1bも少数ながら存在しました。YHg-R1b1a1bと決定できた個体群では、全員が同じ派生変異(S116/P312)を有している、と明らかになりました(YHg-R1b1a1b1a1a2)。これは、現在ヨーロッパ中央部および西部で優勢なYHgです。これは男性系統の並外れた均一性を表しており、じっさい、両墓地の男性全員と、実質的にヨーロッパ中央部のBBCのYHg-R1b1a1b1a1a2の男性の大半とを結びつけます。しかし、このYHgは数世紀前に出現した可能性が高いことを考えると、この均一性は必ずしも、これら両墓地の共同体およびヨーロッパ中央部のBBCの男性間の、全体としてひじょうに密接な父系での関係を示唆しているとは限りません。
父系となるYHgとは対照的に母系では、イルルバッハ墓地の18個体のうち14個体が異なるmtHgを有しており、アルブルク墓地の16個体では9系統のmtHgが確認されます(図3A・B)。これは、さまざまな背景の女性を何世代にもわたって埋葬地共同体に組み込み、拡張親族集団にまとめる、広範でおそらくは制度化された外婚パターンの可能性を示唆します。興味深いことに、どのmtHgも両墓地で共有されていません(図3A・Bでは同じ区分となっているmtHg-T2が、じっさいにはT2g2やT2fやT2bのようにさらに詳細に区分されています)。最近利用可能になった同年代で唯一の他のデータセット(関連記事)では、両墓地から約200km離れている、アウグスブルク市近郊のBBC3集団および2基の単一墓で、19人のうち16人が異なるmtHgを有しますが、ミトコンドリアの多様性をこれと比較すると、イルルバッハ墓地は類似しているのに対して、アルブルク墓地では低くなっています。以下、本論文の図3です。
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イルルバッハ墓地の16人とアルブルク墓地の13人のゲノム規模分析系統は、ユーラシア西部現代人集団の遺伝的多様性に古代人標本を投影した主成分分析で示されます(図4)。その結果、両墓地の個体群が青銅器時代草原地帯およびヨーロッパ新石器時代系統により決定される勾配に沿って分布する、と示されます。イルルバッハ墓地の9・10・16号墓個体とアルブルク墓地の14・16号墓個体は、草原地帯およびCWC集団とより近い類似性を有していますが、イルルバッハ墓地の4・14号墓個体とアルブルク墓地の4・6・9・12号墓個体は、より早期に確立した、つまり草原地帯系統のヤムナヤ(Yamnaya)文化集団よりも前の、ヨーロッパの前期および中期新石器時代農耕民の方に寄っています。これは基本的に、上述のアウグスブルク市近郊集団の後の状況と同じです。以下、本論文の図4です。
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ゲノム規模データを用いて、集団内の親族関係が決定されました。1親等の関係(英語圏では親子とキョウダイ)は、イルルバッハ墓地では3・8・9と11・20と14・22号墓被葬者間で、アルブルク墓地では4・6と9・12と2・13号墓被葬者間で、またおそらくはアルブルク墓地の1・2と1・13号墓被葬者間で特定されました。性別・年齢情報や墓の位置や年代を組み合わせると、さらなる結論を導き出せます。
イルルバッハ墓地では、中央部に位置する3・8・9号墓の被葬者は、11・20・14・22号墓被葬者よりも古い、と推測されます。8・9号墓被葬者は、キョウダイもしくは母親(50歳以上で死亡)と学童期の息子(10〜11歳で死亡)です。3号墓被葬者は成人男性(30〜40歳で死亡)で、8・9号墓被葬者と1親等の関係です。この3人は同じmtHg-T2bで、墓は相互に隣接しており、母と2人の息子である可能性が高そうです。一方、男性2人と女性1人のキョウダイである可能性は低そうです。20号墓被葬者は学童期の11号墓被葬者の父親で、両者はmtHgが異なります。14号墓の男性(40〜45歳で死亡)は、22号墓の成人女性(24〜25歳で死亡)の息子かキョウダイです。
アルブルク墓地では、4号墓の女性が6号墓の女性の母親である可能性が高そうです。9号墓の成人女性は12号墓の少年の母親です。2号墓と13号墓はともに成人男性で、同じmtHg-H1e1aを共有する兄弟です。1号墓の学童期の少年もmtHg-H1e1aで、2号墓の成人男性と同様に土器が共伴せず、2号墓と13号墓との間でわずかにずれた位置にあります。1号墓の少年は、他の兄弟と高い親縁係数を共有します。これらの関係に最もよく適合し、埋葬の時間的な連続と一致するシナリオは、1・2・13号墓の男性が第一世代の兄弟であることです。
また、2親等と3親等の関係やさらに遠い親族関係も検出されました。イルルバッハ墓地では、14・20号墓被葬者間と20・22号墓被葬者間が2親等、11・14号墓被葬者間と11・22号墓被葬者間が3親等です。このつながりから、11・14・20・22の墓4基は全て密接に関連していると示され、その上腕骨の中隔開口部の表現型と一致しているので、最も可能性の高いシナリオは、20号墓被葬者は11号墓被葬者の父親であるだけではなく、22・14号墓被葬者両方の甥でもある、というものです。同じmtHg-H5a1を完全に一致して共有しているにも関わらず、4号墓被葬者と6号墓被葬者は1親等もしくは2親等ではありませんが、3親等の可能性はあります。1・2・4・5号墓の被葬者は3親等の可能性がありますが、4・5号墓被葬者間は3親等の可能性の方が高そうです。1・2・4・5号墓の被葬者は、11・14・20・22号墓の被葬者とは3親等かもっと遠い親族関係です。3・8号墓被葬者間は兄弟関係にありますが、1・2・4・5・11・14・20・22号墓の被葬者とは3親等かもっと遠い親族関係の可能性があります。
アルブルク墓地では、4・12号墓被葬者間は2親等の関係で、8・11号墓被葬者間では同じmtHg-H+16129が共有されており、2親等の可能性があります。1・2・13号墓被葬者はキョウダイの可能性があり、等しく4号墓被葬者と2親等もしくは3親等の関係にあるので、姪と父方のオジの関係です。1・2・13号墓被葬者は12号墓被葬者とも3親等の関係です。14・16号墓被葬者は3親等の関係の可能性があります。7・17号墓被葬者はmtDNAデータしかありませんが、同じmtHg(H1+10410+16193+16286)を4・6号墓被葬者と共有しているので、密接な母系での関係が示唆されます。4号墓被葬者は成人女性で、標本抽出されていない1・2・13号墓被葬者のキョウダイの娘かもしれません。4号墓被葬者が、12号墓被葬者の少年とは関係があるものの、その母親である9号墓被葬者とは関係がないならば、12号墓被葬者の父方のオバ・もしくは姪でしょう。被葬者の中で4号墓被葬者の両親を確認できませんが、彼女は最初の2世代と最後の(1もしくは複数)世代の親族関係の「かなめ」のようです。4号墓被葬者にとって、6号墓被葬者が娘で、7・17号墓被葬者は幼児もしくは孫かもしれません。
これらの遺伝的つながりから、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の両方における密接な親族集団の存在の可能性が高いことになり、アルブルク墓地では、4〜5世代の可能性が高い単一の核家族を形成する成人10個体が存在した、と示されます。以下、アルブルク墓地の家系図を示した本論文の図6です。
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イルルバッハ墓地では、西部の埋葬集団の6個体が、標本抽出と解像度の限界内では、相互に、および中央集団と無関係のようです。したがって、東部の3被葬者と、孤立して埋葬された6号墓被葬者が遺伝的に主要集団とつながっているので、1家族もしくはより拡大された家族集団の存在を推定できます。墓地の使用期間は5〜6世代に及ぶ可能性がありますが、上述のように耕作による破壊のため、その推定は困難なままです。以下、イルルバッハ墓地の家系図を示した本論文の図7です。
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●同位体分析
イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の合計35基の墓から、遺骸の歯のストロンチウム同位体(ストロンチウム87とストロンチウム86)と酸素同位体が分析されました。ストロンチウム同位体比分析からは、アルブルク墓地では8・9・16号墓被葬者、イルルバッハ墓地では6・11・16号墓被葬者が外部起源個体と示されます。アウグスブルク市周辺のBBC遺跡群と比較すると、外来民と地元民との比率はほぼ同じです。これらのうち、アルブルク墓地16号墓被葬者のみ出身地を特定でき、最も近いのはバイエルンとチェコ共和国の間のバイエリッシャー・ヴァルト(Bayerischer Wald)山脈の古生代の岩に沿ったドナウ川の真向かいですが、他の場所の可能性もあります。イルルバッハ墓地の被葬者で外部起源を示す同位体比の外れ値は全て異なるので、それぞれ出身地が異なるかもしれません。アルブルク墓地の被葬者では、ともに女性の8・9号墓被葬者の同位体比はひじょうに類似しており、2人は1世代もしくは2世代離れている可能性もありますが、同じ地域の同じ共同体の出身だった可能性があります。
酸素同位体(酸素18)データでは、バイエルン南東部では-4.6〜-6.4の範囲となります。異なる離乳効果を考慮に入れても、データセットでは2集団を識別でき、一方は-4.6〜-5.4、もう一方は-5.75〜-6.4です。各集団では、性別や全ての期間の埋葬が表されます。酸素18の外れ値は、イルルバッハ墓地2号墓の被葬者2人と、4号墓被葬者(死亡時4〜5歳の少女)で見られ、それぞれ-4.297と-4.242です。両者の起源地は正確には特定できませんが、高い酸素18値は一般的に、より海の影響の強い地域、つまり西方と北方を表します。
合計8人が同位体の外れ値とみなせます。これは、6人の女性(イルルバッハ墓地では2・4・6号墓被葬者、アルブルク墓地では8・9・16号墓被葬者)と2人の男性(イルルバッハ墓地の11・16号墓被葬者)を表しています。6人は成人で、そのうちイルルバッハ墓地16号墓被葬者のみが西部集団です。2人は子供で、それはイルルバッハ墓地の4号墓被葬者(死亡時4〜5歳の少女)と11号墓被葬者(死亡時11〜12歳)です。これらの被葬者のうち、ストロンチウム同位体比と酸素18の外れ値の組み合わせはありません。イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の外来民と地元民との比率は、アウグスブルク地域のBBC被葬者やドイツ南部の他の被葬者とひじょうによく一致しており、両墓地が父方居住と外婚の共同体であることと一致します。
考古学・人類学・遺伝学の情報を組み合わせると、外来民のより複雑な状況が浮かび上がります。アルブルク墓地では、同位体データ外れ値の3人の女性のうち2人が第1期で、第一世代のキョウダイの隣に埋葬されています。しかし、その正確な関係と、2人がどのように結びついたのか、まだ情報が得られていない家族、とくに成人男性のために(全体では3人の成人男性と7人の女性)、確定するのは困難です。重要なことに、両墓地で唯一装飾されたビーカー容器が共伴されたアルブルク墓地の9号墓被葬者は、主成分分析では両墓地の被葬者で草原地帯およびCCW系統が最も低く、ヤムナヤ文化よりも前の新石器時代集団に寄っています。9号墓被葬者の息子のアルブルク墓地12号墓被葬者は地元で生まれ、死亡時年齢は7〜14歳です。その父親は、本論文で親族関係の情報が得られている成人男性には含まれませんが、この少年は3人の兄弟(1・2・13号墓被葬者)にとって、曾孫よりも、イトコの可能性の方が高そうです。
アルブルク墓地16号墓被葬者の女性は、バイエリッシャー・ヴァルト山脈からドナウ川を渡って来た可能性が高いと言われているように、mtHgは稀なI3aで、対照的に、両墓地の標本群の中では草原地帯・CCW関連系統が最も高い個体群の1人です。アルブルク墓地14号墓女性には3親等の親族もおり、通常は学童期や若い成人の男性被葬者に見られる体の向きで埋葬されています。しかし、アルブルク墓地14号墓女性は、16号墓被葬者の隣に埋葬された3人の兄弟のうち1人、つまり2号墓被葬者とまったく関係がありません。したがって2人は、14号墓被葬者を16号墓被葬者の他のイトコとみなし、14号墓女性が16号墓被葬者のように外来民で同じ家族出身ではあるものの、アルブルク共同体には恐らく1世代後に到来した、と仮定しない限り、近い関係ではなさそうです。2人とも、同じように高い草原地帯・CCW関連系統を有します。アルブルク墓地8号墓被葬者は、おそらくは第二もしくは第三世代に到来した集団の成人女性です。彼女は近くに葬られた8号墓被葬者の学童期少年(本論文のデータでは父親は確認できません)と2親等の関係にあり、同じmtHg(H+16129)を共有しているので、彼の祖母もしくは母方のオバだった可能性があります。
イルルバッハ墓地では、酸素18の外れ値個体は2号墓被葬者の若い成人女性で、子供とともに埋葬されていました。彼女は中期に埋葬され、外来のmtHg-X2c1に分類されます。対照的に、ストロンチウム同位体比の外れ値の3人は、最終期に埋葬されました。これは、この時点での新たな人々の到来事象を示しているかもしれません。6号墓被葬者は成人女性(死亡時45歳)で、孤立した場所に葬られていますが、酸素18の外れ値2人のうち1人である4号墓被葬者の少女とは3親等の関係にあるかもしれず、同じmtHg-H5a1に分類されます。
イルルバッハ墓地の16号墓被葬者である成人男性は、西部集団で唯一の外れ値個体です。彼は主成分分析では最高級の草原地帯・CCW系統を有しており、稀なmtHg-W5に分類されるイルルバッハ墓地で唯一厳密な埋葬習慣から外れた成人女性の17号墓被葬者の、すぐ隣に葬られています。2人は夫婦だったかもしれませんが、西部および中央部埋葬集団他の構成員にとって、無関係だったようです。イルルバッハ墓地で夫婦だった可能性がある他の個体は、隣同士で葬られているものの、遺伝的には無関係のように見える、3号墓男性と2号墓女性、14号墓男性と13号墓女性です。
イルルバッハ墓地では、11号墓の11〜12歳で死亡した少年が、隣に葬られた20号墓男性の息子で、14・22号墓被葬者の大甥でもありますが、同位体データでは外れ値個体です。11・20号墓の2人は東部で第三の被葬者となる21号墓女性(両墓地で唯一のmtHg-HV6に分類され、15歳と唯一の結婚適齢期の少女です)とともに、孤立した集団を形成します。15号墓少女の親族関係データはありませんが、その上腕骨の中隔開口部の非計測的特性から、14・22号墓被葬者と遺伝的につながっている可能性があるので、恐らくは2人の親族です。14・21・22号墓被葬者は全員ほぼ同年代で、別の移民集団を反映しているかもしれません。21号墓少女は、第一大臼歯と切歯でさまざまな同位体値を示し、おそらくはイルルバッハ共同体に結婚のために到来しました。しかし、明確な外部起源の同位体値を示すのは11号墓少年だけで、その父親(20号墓被葬者)とは異なります。この知見と一致する想定できるシナリオは、20号墓男性は元々イルルバッハで生まれて育ち、しばらく故郷から離れて同位体値の異なる環境に居住して息子(11号墓少年)が生まれ、帰郷するまでそこで暮らした、というものです。20号墓男性の複数の地域との関係と、彼が出身集団から離れなかった可能性を考慮すると、別のシナリオでは、11号墓少年は里子として幼い頃に親族に預けられ、亡くなる直前に戻って来た、となります。
●拡大主義の親族制度
学際的知見から、イルルバッハとアルブルクという2ヶ所の後期BBC墓地の42基の墓に関して、6つの社会原則により特徴づけられるモデルが提案されます。
(1)基本的な親族単位は核家族です。これは、拡大家族集団というよりもむしろ、小さな家族集団を単に意味します。人類学で証明されているように、核家族はさまざまな方法で組織化されている可能性があります。結婚もさまざまな形態の可能性があり、本論文では最も広い意味で、おもに性的で社会により認可された、ヒト相互の関係の社会的制度として理解されます。イルルバッハ墓地における相互に隣接して埋葬された遺伝的に無関係なように見える男女の事例から、BBC社会の制度の生死における基本的役割に関する示唆が与えられるかもしれません。本論文の証拠を解釈するために、外婚や父系や父方居住という人類学的分類が用いられます。しかし、親族制度に関する文献は膨大で、考古学は、先史時代に親族および結婚制度をどのように適用するのか、まだより深く理解していません。本論文は、結婚と親族のパターンを、社会の政治的・経済的組織と、したがって権力構造の再現と密接に関連しているとみなす、研究伝統を支持します。強い規範的伝統が存在するとしても、そのような慣行は常に交渉可能なので、経時的に変化する可能性があります。親族戦略と祖先を用いて起源を主張し、階層化を可能にする方法も、人類学では指摘されています。北アメリカ大陸先住民のオマハ人の親族用語に関する最近の研究では、父系集団との強い相関関係が示されています。本論文でも示されるように、これは言語学でも実証されます。アルブルク墓地は、2人の兄弟とその妻の可能性がある女性(10代で死んだ第三のキョウダイの可能性があります)から始まり、時間の経過とともに、少なくとも遺伝的には1系統に統合されました。イルルバッハ墓地では、西部集団が異質で他集団とは無関係なので、1つの家族系統があります。本論文の記録ではその構成員の一部が欠けていますが、両墓地、とくにアルブルク墓地の事例では、成人男性に関して4〜6世代にわたって追跡できます。年齢分布に基づいて、これらの家族は、両親、さまざまな年齢の子供たちの一部、時として祖父母世代で構成されていました。この意味で、本論文における核家族は、両墓地よりも400年古く、文化的にはCWC区分される、ドイツのオイラウ(Eulau)遺跡の虐殺で報告されたものと同一です。これらCWCやBBCの構造は、その後のアウグスブルク市周辺のほぼ200年以上後の前期青銅器時代で浮き彫りにされたものとも同じです。
(2)これらの核家族集団は、家父長制・父系制・父方居住に基づいています(図9A・B)。これは、アルブルク墓地共同体の創始者である可能性が高い兄弟(1・2・13号墓の男性3人)により示されます。また、オイラウ遺跡やアウグスブルク市周辺で観察されたように、Y染色体の均一性と同位体の性的偏りからも明らかです。この見解はさらに、男性の子供と学童期の埋葬の選好(少年5人に対して少女3人で、学童期では少年2人に対して少女1人)にも裏づけられますが、両墓地の16人の未成年の中に性別が確定していない個体もあるので、この推測は不完全かもしれません。しかし、同様の事例は、他のドイツ南部のBBCや前期青銅器時代の墓地でも観察されています。アルブルク墓地4号墓女性の事例も、そのような核家族集団において地元育ちの女性が有することのできる重要な役割を示します。彼女は3人兄弟(1・2・13号墓の男性3人)と2親等もしくは3親等の親族で、おそらくは孫・姪か曾孫で、6号墓女性の母親でもあり、後の7・17号墓被葬者と密接な母系関係にあるので、世代間をつないでいます。しかし、彼女の親世代は不明なので、彼女もしくはその両親が、出身集団からしばらく離れて過ごしたのかどうか、推測できません。
(3)結婚制度は女性の外婚に基づいており、おそらく一夫一婦制です。これは、両墓地における同位体の証拠と男女の等しい被葬者数、イルルバッハ墓地における成人男女の同数、本論文の遺伝的記録における半キョウダイ(父親と母親の一方のみを共有するキョウダイ関係)の欠如により裏づけられます。またこの見解は、さまざまなmtHgの存在と、数世代にわたるさまざまな地域出身の女性によっても裏づけられます。イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の遺伝的背景も、一部の珍しいmtHgや核ゲノムにおける系統のさまざまな程度により示されるように、遺伝的系統の点でたいへん多様です。したがって女性はおもに、「前期・中期新石器時代」と「草原地帯・CCW」の、両方の遺伝的背景に由来します。当時、女性たちは全員、BBC共同体の一部でした。一部の個人もしくは集団は、現在ではハンガリーとなるドナウ川下流地域の出身の可能性があり、その地域では遺伝的により高い「新石器時代」系統が維持されています。このドナウ川のつながりは、現在のドイツ東部やチェコ共和国に存在したウーニェチツェ(Únětice)文化の領域の推測よりも広範で、アウグスブルク市周辺で観察される、BBCから前期〜中期青銅器時代にかけての「アナトリア農耕民関連系統」の増加に役割を果たしたかもしれません(関連記事)。
(4)相続制度は男性長子相続に基づいている可能性があります。子供たちの副葬品が先史時代社会で予測されるものよりずっと少ないだけではなく、子供たちは年齢と性別により埋葬形態で異なっています。乳児期1・2の子供たちで女性がわずかに少ないことは、幼い少女が妻として与えられていた可能性はあり得るとしても、選択を表していた可能性があるので、少年を選好する学童期の性的偏りがあったかもしれません。両墓地で唯一の10代女性(イルルバッハ墓地21号墓)は外部出身の可能性が高く、独特なmtHg(HV6)を示すので、15歳と若くして死亡した既婚の少女だったかもしれません。彼女の隣に埋葬された11号墓少年は里子だった可能性があり、有望な息子を親族に渡すような制度によく合致します。この習慣は、アウグスブルク市周辺で3人の成人男性でも観察され、第一大臼歯と第三大臼歯で明らかな同位体変化を示し、出生地に戻る前に地理的に異なる環境でしばらく過ごした、と推定されます(関連記事)。本論文の家父長制と父系制と父方居住と外婚の証拠を組み合わせると、男系での相続制度の可能性が高いことと、長子相続の重要性が示されます。長子相続は、一流の武器の組み合わせを備えた子供の埋葬により裏づけられ、BBCの狩猟者・戦士の継承された(達成されたのではなく)地位を男子に提供します。
(5)核家族は独立した世帯を形成した可能性が高そうです。しかし、埋葬された家族の構成員および/あるいは世帯主が、世帯を支えるものの埋葬の権利がないような、他の個体や家族ではない構成員や遠い親族なしに、100年も安定した世帯を維持できるのに充分だったのかどうか、という疑問が生じます。したがって、近隣の墓地だけではなく他の墓地における威信材と狩猟者・戦士の地位の不平等な分布は、家族・世帯内の階層化と、それ故の社会的不平等を示しており、不自由で地位の低い家族構成員を儀式的には見えなくしています。これは、その後のアウグスブルク市周辺の前期青銅器時代の墓地(関連記事)やウーニェチツェ文化とは対照的です。
(6)家族・世帯は、親族関係と観察された外婚慣行を通じて同盟を形成し、里子はそのような同盟をさらに築き上げ、おそらくは家族を氏族(クラン)に結びつけました。したがって同盟は、密接な地域的というよりもむしろさらに広域的で、より多くの政治的・民族的実体を形成し、不安定な期間もしくは拡大期間に動員されるようになった可能性があります。このパターンは、イギリスのストーンヘンジ近くのソールズベリー平原の、ほぼ同年代の親族集団により示されているように、ドイツ南部に限定されていません。ソールズベリー平原では、紀元前2200〜紀元前2031年頃の父親(I2600)と紀元前2140〜紀元前1940年頃となるその娘(I2600)がそれぞれ、相互に6.5km離れたエイムズベリーダウン(Amesbury Down)の墓地とポートンダウン(Porton Down)の墓地に葬られておいます。さらに、3親等・4親等の男性親族2人が、エイムズベリーダウンのI2457の隣と、ウィルスフォードダウン(Wilsford Down)に葬られており、後者は直接的祖先の可能性が高いものの、前者はI2600とI2600のイトコの可能性が高そうです。しかし、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の間には、親族関係もmtHgの共有もないので、そのようなつながりは存在しないようです。この状況は、アウグスブルク市周辺で示されるように、前期青銅器時代まで続いたようです。また現時点では、バイエルンの他の被葬者と正確に一致するmtHgはありません。イルルバッハ墓地およびアルブルク墓地の被葬者のmtHgと最も近いのは、アウグスブルク市のヒューゴ・エクケナー・ストラーセ(Hugo-Eckener-Straße)墓地の3号墓の個体(H1+10410+16193)で、アルブルク墓地では4・6・7・17号墓被葬者のmtHg(H1+10410+16193+16286)と、1ヶ所の変異のみが異なります。しかし両者の分岐は、これらアルブルク墓地個体群の数世代前に起きていた可能性があります。以下、本論文の図9です。
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●考察
本論文では、比較人類学の解釈的枠組みとインド・ヨーロッパ語族の親族体系・制度の言語学的復元の中で、これまでの結果を位置づけます。インドネシア東部のスンバ島とティモール島の伝統的社会における父方居住婚と母方居住婚制度を比較した最近の研究では、これら2制度は言語と遺伝両方の優位に異なる結果をもたらす、と示されます。複数の言語がある地域に存在し、結婚後の居住規則が言語共同体間の持続的な方向性の移動を促進する場合、言語は片方の親側(父系もしくは母系)に沿って伝えられるでしょう。時間の経過とともに、これらの親族関係制度は、その遺伝子と言語の系統を形成しました。その結果、父方居住共同体へと嫁入りした女性は、夫側の言語の採用を強制されます。このような状況は、紀元前三千年紀のヨーロッパとよく似ている可能性があります。インド・ヨーロッパ語族が父方居住的な外婚制度を導入したならば、非インド・ヨーロッパ語族話者共同体の女性は、インド・ヨーロッパ語族話者共同体に移動し、その言語を用いたでしょう。時間の経過とともに、これは1つもしくは複数のインド・ヨーロッパ語族方言の遺伝的および文化的優位と統合につながるでしょう。
本論文のデータから、女性の父方・夫方居住と関連する外婚制度の特定が可能です。これらの結果は、6.5km離れたエイムズベリーダウンとポートンダウンのブリテン島BBCの文脈で埋葬された父と娘の特定により裏づけられます。この親族関係モデルは、有史時代のインド・ヨーロッパ語族話者社会の間で広まっており、以前には、言語復元の手法によりインド・ヨーロッパ語族祖語(PIE)共同体の仮説が提示されてきました。外婚の言語学的指標は、婚資(brideprice、祖語ではh1uedmōn)という単語や、「嫁ぐ(‘to wed)と「導く(to lead)」(祖語ではuodheieti)のような動詞の同義語でおもに復元されたPIEの語彙から構成されており、花嫁はその出身地から離れて新たな夫の世帯へと行きました。
父方居住および妻の親族との結果として起きる遠隔は、PIEの復元された親族関係用語が、妻の親族の名前の著しい欠如とは対照的に、夫の親族の名前へと強い偏りを示す、という事実によりさらに示唆されます(図9C)。したがって本論文は、紀元前三千年紀におけるPIE話者の言語学的に復元された親族関係構造と、最初期の歴史的資料に見られるその言語学的子孫の親族関係構造との間の、潜在的な継続の最初の特定を提供します。本論文のデータでは、1つの優勢な遺伝的男性系統を特定できますが、複数の女性系統が存在しており、経時的な強い父方居住と父系の優位を示唆します。これは、PIEで復元されてきた父系世帯と類似しており、家の主人(dems potis)、その妻(potnih2)、息子(suHnus)、未婚の娘(dhugh2tēr)、義理の娘(snusos)、孫(nepōts)で構成されます。
このモデルは、いわゆるオマハ人の親族関係制度と類似しています。オマハの親族制度は、以下のように特徴づけることができます。父方の結びつき、とくに兄弟間が強調され、父方関連男性とその妻および子供たちで構成される世帯は通常、ひじょうに結束しており、最重要の政治・経済的単位です。強い管理が集団構成員の行動に及び、通常、とくに妻と子供は世帯主の独裁的な支配下にあります。結婚生活は厳密に夫方居住で、花嫁の富の支払いは通常高く、離婚や姦通に対しては強い制裁の可能性があります。このようなオマハ人社会の特徴に基づくと、本論文で示されたイルルバッハ墓地とアルブルク墓地は世帯主とその近親者を表しています。
オマハ人社会の親族制度では、娘と同盟相手の結婚に成功した男性の系統・世帯は、他の人々よりも多くの婚資を受け取るだけではなく、里子の息子をもらう可能性も有したでしょう。里子の息子は、その母親の兄弟に迎えられ、若い戦士となります。母親の家族での少年の育成は、ドイツやケルトの集団など初期インド・ヨーロッパ語族話者共同体では一班的で、通常は母方のオジで育てられました。イルルバッハ墓地では、その可能性のある1事例が特定されました。11号墓の少年(11〜12歳で死亡)は、ストロンチウム同位体比では外来の痕跡を示し、その遺伝的な父親は隣の墓で埋葬され、異なる地域の痕跡を有しています。したがって11号墓少年は、おそらくオマハ人社会の用語では祖父(PIEではh2euh2os)と呼ばれる母方のオジとともにイルルバッハとは異なる地域で育てられ、思春期直前に帰郷して死亡した可能性があります。同様の証拠は、三重葬で母と2人の子供と指摘されているものの、生物学的には明らかに母親ではない、オイラウ遺跡の98号墓と、アウグスブルク市近郊の3ヶ所の埋葬で報告されています。これは、初期インド・ヨーロッパ語族の「キョウダイ」という言葉がより広い意味で使われているという観察や、親族関係もしくは共通の社会的所属に関連している若い男性の集団を示唆することと対応しています。
オマハ人社会の親族関係制度の重要な側面は、その柔軟性と拡大の可能性です。ひじょうに機会主義的ですが、オマハ人社会では同じ家族と2回結婚できない、という1つの規則がありました。そのような規則が実施されたならば、より多様な同盟を生み出すので、交換・交易もしくは狩猟・戦争の動員のどちらであれ、潜在的な政治的支援を拡大するでしょう。これと一致して、本論文はイルルバッハ墓地とアルブルク墓地の両方で複数の女性のmtHgを識別でき、女性の遺伝を特定できました。したがって、唯一の優勢なYHg-R1b1a1b(M269)がある一方で、複数の女性系統(mtHg)が存在し、両墓地は相互に17kmしか離れておらず、ほとんど同年代にも関わらず、同じmtHgは一つもありません。この証拠は、結婚がじっさいに広範な同盟を築く手段で、それは景観に広がる単一の家屋という居住構造に役立った、という見解を裏づけます。これは、そのような制度では経時的に遺伝的多様性が増加する、という見解も裏づけます(関連記事)。このような制度では、拡大主義的同盟制度において家族の結びつきを維持し、新たな技術を外部から嫁ぎ先の世帯に導入する、という重要な役割が女性に認められます。
元々のPIE社会の制度の言語学的復元がほぼオマハ人社会の制度に対応している一方で、BBC共同体の伝統は、間違いなく革新により特徴づけられます。たとえば、世代間傾斜と呼ばれる典型的なオマハ人社会の特徴、つまり母親側の男性の父系でも母系でもない親族に同一の親族用語を使うことは、PIEでは復元できません。この特徴の証拠は、ヨーロッパのいくつかのインド・ヨーロッパ語族で独立して出現し、アジアでは存在しません。したがって、それはヤムナヤ文化後の文脈で二次的に進化しました。遊動的な草原地帯牧畜民がより定住的な生活様式を採用すると、他の核家族およびとくに母親の親族との接触が強化され、新たな親族関係用語が新しい親族関係の役割とともに言語に追加されました。インド・ヨーロッパ語族方言の拡大を促進他可能性があるのは、この革新的な父系および父方居住親族関係モデルです。
イルルバッハ墓地とアルブルク墓地は、アウグスブルク市周辺のBBC墓地集団よりもわずかに新しく、いくつかの良好な重複が存在し、イルルバッハ墓地のmtHgの多様性は、アウグスブルク市周辺のBBC墓地と類似している一方で、アルブルク墓地ではより低くなっています。むしろmtHgの多寡は、集団の異質性と均質性、もしくは成功あるいは不成功を反映しているようです。成功と不成功の問題に関しては、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地では女性のmtHgが共有されていないので、両者の間で競合が作用していたようです。これは、BBC期においてそのような結婚同盟がどれほど広範囲に及んだのか、という問題を提起します。アルブルク墓地では、ドナウ川を越えて到来した女性の1例と、おそらくは同じ場所のストロンチウム同位体比の外れ値個体の他の事例があります。アウグスブルク市周辺では、60kmほど離れた、レヒ川沿いと近隣のリース地域が想定されています(関連記事)。1000年後のヨーロッパ北部の青銅器時代には、ストロンチウム同位体比の解釈が正しければ、400〜500kmもしくはそれ以上の、若い女性の移動事例が知られています。
性別比はほぼ1対1です。本論文の証拠では半キョウダイが検出されなかったことからも、一夫一婦制が優勢な原則と示唆されます。年齢の違いに関しては、いくつかの不均衡があります。明確に学童期(10代)の男性の方が多く(男女比で5:1)、男児の女児より高い死亡率もしくは埋葬における特定の男性の選択を示唆します。本論文は、長子相続の影響を検討します。長子相続は、男性系統の遺伝子と同様に、財産の継承における強い継続性も意味します。しかし長子相続は、将来どこか他の場所を探さねばならない男性も生み出します。したがって、新たな土地に移住する強い動員集団が存在するので、集団を拡大しますが、彼らは成長するまで、将来のために訓練する若い戦士の一団の特別な制度においてしばしば組織化されました。これも危険性と早期死亡の期間をもたらしたかもしれませんが、少女はおそらく思春期に入った頃にはすでに結婚しており、それは墓地における相違を説明するのに役立つかもしれません。これは、アウグスブルク市周辺の後の事例(関連記事)と、結婚同盟の一環としての可能性が高い、14歳でヨーロッパ中央部からデンマークまで移動した14歳で死亡した少女の事例を想起させます。
イルルバッハ墓地とアルブルク墓地は、始まりだけではなく終焉もほぼ同じで、この地域における墓地のより広い終焉と、新たな場所での墓地の設立の期間に対応します。したがって、定住体系には一定の動態が存在し、100年後に場所を変える周期だったようです。アルブルク墓地では、最初に埋葬されたのは2人の兄弟(2・13号墓被葬者)で、おそらくは第三の兄弟(1号墓被葬者)も2人の隣に埋葬されました。しかし、このうち2人(2・13号墓被葬者)だけが、同じ墓地の後の被葬者の父親と祖父になるまで長く生きました。「建国の父」としての3兄弟は、ずっと後のインド・ヨーロッパ語族の民間伝承と神話で重要な役割を果たし、創始された新たな家族・世帯における長子相続の継承のない息子の役割を反映している可能性があります。それは、神話と象徴主義における「三」を重視する役割と対応しています。両墓地には4〜6世代が含まれると本論文は述べてきましたが、新たな親族の構成員は、周期の終わりに向かってイルルバッハ墓地の既存集団に加わったようです。それはおそらく、居住地の移転と拡大の新たな期間の始まりを示唆します。
これらの観察は、CCWからBBCへの継続性で説明してきた社会制度の固有の拡大主義的動態を強調します。しかし、この型の社会的組織は、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地よりも600年古い、ポーランド南部のコシツェ(Koszyce)村の球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)の集団埋葬(関連記事)の、遺伝的およびストロンチウム同位体比の結果とやや反しています。イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の事例と同様に、コシツェ遺跡の集団埋葬では6系統のmtHgが確認されており、1系統のみのYHg-I2a1b1a2b1(L801)よりも多様です。これは、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地のように外婚関係と父方居住と父系を示唆しており、おそらくは新石器時代と前期青銅器時代のヨーロッパで広く見られる慣行でした。
しかし、違いもあります。コシツェ遺跡では、4つの核家族もしくはその一部が、単一の大きな拡大家族を形成していたので、親族関係の原則は、イルルバッハ墓地およびアルブルク墓地とは異なる性質だったかもしれません。コシツェ遺跡のmtHgはBBC集団よりもずっと少なく(15人のうち6系統)、何人かのキョウダイは同じ父親を共有していましたが、母親は異なっており、それにも関わらず相互に関係があったかもしれません。これは、非一夫一婦制もしくは連続的一夫一婦制のいずれかを示します。また、mtHgの多様性が低いことは、根本的に異なる結婚制度を示唆している可能性があるか、あるいは単に全体として遺伝的に均質な社会を示しているにすぎません。したがって、CCWとBBCの社会組織は、先行する新石器時代社会よりも異なる性質を有する兆候はあるものの、将来の研究から学べきことはまだ多くあります。
●まとめ
考古学・人類学・同位体・古代DNAなど多くの種類の証拠を抽出して組み合わせることで、4000年以上前の2家族の人生について、空前の高解像度の解釈可能な物語の提示が可能となりました。結果は、最初に証明されたインド・ヨーロッパ語族社会と、インド・ヨーロッパ語族祖語の言語学的復元について知られていることと対応します。証拠は、他集団の女性と結婚し、娘を他の共同体に嫁がせることにより同盟ネットワークを構築するような、優勢な男性系統に基づく親族関係構造の復元を確証し、それは安定な期間の競争的動員の一部だった可能性があり、おそらくは金属のような資源の入手を確保するためでもありました。そのような制度は、よく記録されているオマハ人社会の父方居住および父系と長子相続に関連する外婚の親族構造と対応します。そのような制度は広範な移民方針を選好し、男系に沿った先史時代の語族の拡大や経時的な男系の遺伝的優勢に関して、初めて現実的なモデルを提供します。その結果、ヨーロッパ大陸の半分となる北部と西部のほとんどの現代人は、遺伝的に紀元前三千年紀のCCWおよびBBCの人々と関連しており、おそらくはその言語の発展型を話しています。
しかし、考古学的・言語学的証拠は、むしろ相同的もしくは共有された状況を提供するものの、そのような社会組織はインド・ヨーロッパ語族集団だけてばなく、後の牧畜および農耕牧畜社会でも見られ、それは経済組織における類似性に基づいており、オマハ人社会の親族関係制度にも反映されています。したがって、本論文の考古学的事例研究は、将来の研究でより強力な一般化を達成できるかもしれない親族関係制度についての、考古遺伝学と言語人類学の復元との間の歴史的に特有の一致を提供する、と提案されます。しかし、本論文の結果はバイエルンのアウグスブルク市近郊のレヒ川流域の結果と一致しているので、CCW社会に起源があるものの、BBC社会のより広範な地域にまたがる制度化された慣行を扱っている可能性が高いようです。したがって、拡大主義社会組織についての本論文のモデルは、将来の比較研究に検証事例として役立つ可能性があります。
以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、考古学・自然(形質)人類学・遺伝学(とくに古代DNA研究)・言語学といった複数分野の知見を統合した、見事な学際的研究の事例を提供しているように思います。このような学際的研究において、近年の進展の目覚ましい古代DNA研究が果たした役割は大きく、ヨーロッパでは紀元前三千年紀でも、まだ一部地域とはいえ、親族制度や社会組織についてこれだけ多くの知見がすでに得られているとは、古代DNA研究がユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れているユーラシア東部圏の1個人としては、羨ましい限りです。ただ、ユーラシア東部でも、まだヨーロッパには遠く及ばないとしても、昨年古代DNA研究が大きく進展したので、今後はいわゆる先史時代でも、これまでよりも詳細な社会構造に関する知見が得られるのではないか、と期待されます。
参考文献:
Sjögren K-G, Olalde I, Carver S, Allentoft ME, Knowles T, Kroonen G, et al. (2020) Kinship and social organization in Copper Age Europe. A cross-disciplinary analysis of archaeology, DNA, isotopes, and anthropology from two Bell Beaker cemeteries. PLoS ONE 15(11): e0241278.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0241278
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_5.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/288.html#c2
1985年に同社はマッキントッシュ的なOS、Windowsを搭載したパソコンを売り出すのだが、そのOSには情報機関が容易に侵入できるようバックドアが組み込まれたと噂されている。マイクロソフトは早い段階から電子情報機関のNSA(国家安全保障局)の要請に従い、自社製品の暗号システムのレベルを下げていた。
調査ジャーナリストのダンカン・キャンベルによると、ニッコ・ファン・ソメーレンは1998年、Windowsのセキュリティ機能をコントロールするソフトウェアに2種類のカギが存在していることを発見したという。ひとつはマイクロソフトが作業に使う合法的なカギだったが、もうひとつは不明。メソーレンはWindows 2000の中に3種類のカギを発見している。第1のカギはマイクロソフト用。第2のカギはアメリカ政府用の合い鍵だとして、第3のカギは目的がわからない。(Duncan Campbell, "Development of Surveillance Technology and Risk of Abuse of Economic Information Part 4/4: Interception Capabilities 2000," April 1999)
その後、アンドリュー・フェルナンデスはマイクロソフトの開発者が削除を忘れたカギのラベルを発見する。ひとつのカギにはKEY、もうひとつにはNSAKEYと書かれていた。そのまま読むとNSAのKEYだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202101030000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/727.html#c13
独裁者列伝 _ ベニート・ムッソリーニ
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/808.html
グラムシの思想
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1215.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/469.html#c6
ゴヤの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1230.html
ピカソの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/371.html
▲△▽▼
スペインの建築家
アントニ・ガウディの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1231.html
▲△▽▼
ポルトガルの映画
マノエル・ド・オリヴェイラ(1908年12月11日 - 2015年4月2日)
メフィストの誘い
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1232.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/477.html#c1
イサーク・アルベニス 『アストゥリアス 』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/875.html
イサーク・アルベニス 『マラゲーニャ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/876.html
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スペイン・ポルトガルの演奏家
スペインのチェリスト
カザルス (1876年12月29日 - 1973年10月22日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/676.html
パブロ・カザルス カタルーニャ民謡 『鳥の歌』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/927.html
カザルス・トリオ (コルトー・カザルス・チボー)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/665.html
▲△▽▼
スペインのギタリスト
アンドレス・セゴビア (1893年2月21日 - 1987年6月2日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/247.html
ナルシソ・イエペス (1927年11月14日 - 1997年5月3日)名演集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/248.html
▲△▽▼
スペインの歌手
ロス・アンヘレス (1923年11月1日 – 2005年1月15日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/938.html
プラシド・ドミンゴ (1941年1月21日 - )名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/941.html
ホセ・カレーラス (1946年12月5日 - )名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/942.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/477.html#c2
田中宇 中国式とスウェーデン式
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/870.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/473.html#c6
パブロ・デ・サラサーテ (1844年3月10日 - 1908年9月20日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/673.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/477.html#c3
パリ・コミューンについて
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/890.html
ピエール・ジョゼフ・プルードン - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%B3
アナーキストが誰にも相手にされない理由 _ 一般大衆は自由であるよりも支配されることを望んでいる
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/737.html
ピケティで明けました
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/562.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/476.html#c11
このとき移植された肝臓は、不法に拘束された健康な法輪功メンバーのものだったといわれていて、これで二階は、以来、中国共産党に頭が上がらなくなっています。
その後、安倍政権が、中国人を事実上日本に移住させる目的の、入管法改悪を可決したのも、二階の意思といわれています。
https://diamond.jp/articles/-/183282
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/797.html#c2
12月10日(月)
狭山市のホテルをチェックアウトした。
待ち合わせは午後からだから時間がある。
もう一度、死体発見現場などを散策してから西武新宿線に乗る。
東村山で降りて朝マックをする。
志村けんの「東村山音頭」で訪れたいと思っていた。
もちろんなんの特徴もない普通の街だった。
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西武国分寺線に乗り恋ヶ窪駅で降りる。
国分寺の街を散歩する。
まだ時間があるので独りで観光する。
国分寺駅南口近くに「国分寺書店」の跡地があった。
椎名誠のエッセイデビュー作「さらば国分寺書店のオババ」の古本屋だ。
ここも来たくてたまらなかった。
現在は閉店してブティックになっている。
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そこから坂道を降りていく。
村上春樹が作家になる前に開いていたジャズ喫茶の跡地がある。
ビルの地下にあり「ピーター・キャット」という名前だった。
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ほかにも国分寺には古刹や庭園などがあるらしいが、あまり興味がないのでやめた。
13時になった。
待ち合わせの時間だ。
JRの改札口に行く。
若い女性がやってきた。
「まかみしさんですか?」
かなりの美人だ。
こんなにきれいな人だとは想像を遥かに超えていた。
背が少し高くてスレンダーで、ストレートな黒髪と高く形の良い鼻が知的な雰囲気を醸し出している。
肩を並べて歩くだけで心臓が高鳴ってきた。
彼女とは今日が初対面だ。
お互いに森田童子のファンだということで、ネットで知り合った。
森田童子は1970年代から80年代にかけて活躍したシンガーソングライターだ。
独特の内省的な暗い雰囲気の歌を歌っていた。
「たとえばぼくが死んだら」「海が死んでもいいよと鳴いている」「ぼくたちの失敗」など。
1983年、突然に活動を停止して引退した。
それからすべての音信が途絶えた。
本名、経歴、実生活などはすべて非公開。
いつもサングラスをかけていて素顔も謎だった。
2018年4月、新聞に森田童子死去の記事が載った。
65歳だったそうだ。
わたしはどうしても森田童子の正体が知りたくて調べた。
ネットを探し周り、少しずつ情報を追っていった。
ようやく本名、住所、正確な死亡年月日などがわかった。
森田童子の本名は前田美乃生さん。
住所は国分寺市。
旧姓は中西で、なかにし礼の姪になる。
わたしが調査しているころ、やはり同じ森田童子の正体を知りたい女性と知り合った。
それが国分寺駅で待ち合わせをした美人だ。
東京に不案内なわたしを森田童子の自宅へ連れて行ってくれることになった。
まずは夫の前田亜土がよく来店していたカフェへ行く。
「カフェroof」という名前の小さくて雰囲気の良いところだ。
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しかし前日はオタクのような男ばかり7人で殺人現場を歩いていて、今日は美女と二人きりでえらい違いだ。
二人でランチを食べる。
あらためてお互いの自己紹介をする。
マスターにも話しかけて森田童子情報を少しだけ教えてもらった。
そこから歩いて森田童子が住んでいた家へ行く。
住宅街の一画にある小さな2階建てのモルタル木造家屋だ。
今は空き家になっているが親族が定期的に手入れをしているようだ。
グーグルストリートビューで見たときは家の壁にツタが生い茂り悲惨な状態になっていたのに、最近すべて剪定されたようだ。
もちろん家には鍵がかかっているが窓越しにダンボール箱や洗剤の容器などが確認できて、まだ生活感がただよっている。
これがあの森田童子が生活していた住居かと思うと感激して足が震えてきた。
いつまでも家の前に立って眺めていたかった。
美人の彼女も同じ気持ちだろう。
つぶらな眼差しで壁を見つめている。
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しかしまあ、いつまでもここにいるわけにもいかない。
国分寺駅に戻っていく。
日が沈みそうな時刻だ。
でもまだ別れがたいので「ほんやら洞」へ行った。
中山ラビさんがオーナーをしている店だ。
ここのオススメであるカレーライスを注文する。
かなりスパイシーで汗がたくさん出てきた。
午後8時になったら中山ラビさんが店に来た。
隣りに座っていた美人の彼女がスマホのイヤホンを一つ渡してくれた。
YouTubeで中山ラビの歌を一緒に聴いた。
本人を前にして曲を聞くのも不思議な感じだった。
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新幹線の最終に乗って名古屋に帰らなければならないので店を出た。
国分寺駅で彼女とお別れした。
しかし今日は若くて美人な女性と散歩したけど、気分がシャキッとして身体に良いことだと思った。
こういうことをときどき行なえば健康寿命も延びて長生きできるのではないか。
太極拳だの黒酢ニンニクだのよりずっと効果があるような気がする。
高齢な女性の方はイケメンの若い男と散歩すれば良い。
コメント
mixiユーザー2018年12月13日 19:30
東村山駅からちょっと歩いたところに正福寺というお寺があって、ここの地蔵堂は国宝の建物です。
こんなところに国宝建造物があるなんて…という住宅街の中にぽつねんとあるお寺で、普段は観光客(参拝客)もほとんどいない「国宝ぶってない」穴場中の穴場です。
また来られた際にはどうぞ行ってみてください。
また東村山のスーパーマーケットで販売されてる(東村山以外で売ってるのを見たことない…→ネット通販はあります)ポールスタアのソースはオススメです。
mixiユーザー2018年12月13日 19:55
中山ラビさんが歌をやりながらも引き継いで伸ばしたとかいう旧「ほんやら洞」の自家製カレーだの、古書店だの、英国古物ファッショングッズを扱う店舗だのが中地下にズラリと入る国分寺マンションだの、そのすぐ近所にある村上春樹さんがオープン前からもよくかかわっていたというジャズ喫茶のピーター・キャットもあるようですね。昨年の秋に、真っ赤なワンピース・ドレスを身に付けた篠原 ともえさんが中山ラビさんとも話し合う映像がNHKBSプレミアムで放映され、最後まで見ていました。
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/3414/2620085/index.html
でも、わたしは、西武新宿線、国分寺崖線、湧き水といった、国分寺あるいは府中、小金井、埼玉県入間郡一帯に広がる「武蔵野」の魅力よりも、立高(都立立川高校)で優れて美文のアジビラを印刷して配布していた古川あんずさんにいかれていたんです。国際的な舞踏もやり、状況劇場の唐十郎・李麗仙や江古田の大駱駝館を主催した麿赤児とも交流を持った美女でしたよね。後の時代になって、私の中の個人的幻影のファンともなった「古川あんず」さんは、今でこそ、中公新書『高校紛争』(小林哲夫)に、ちょこっとだけ、YMOの坂本龍一さんと並記される程度ですが、当時からものすごく才能があり、超絶な美人でした。
そういえば、またNHKのお話になってしまいますが、飛行機墜落事故で亡くなった脚本家の向田邦子さんの傑作「阿修羅のごとく」の4姉妹が育ったという設定にした実家のある場所が、一橋大学もある国立駅の南側でしたよね。国分寺も含めたあのへん、いいところですよね。ところで、森田童子の件、いろいろありがとうございました。追っておられたんですね。玉川上水とそこに身投げした太宰治を歌によみこめる森田童子は凄いと思いましたし、吉祥寺南の弁財天のある湧水池と、そこからも流れ出る玉川上水にも惹かれて、私はよく、井の頭線沿線をバイクで走ったもんでした。https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/1867/2148201/index.html
mixiユーザー2018年12月14日 23:53
めっちゃ面白かったです。まかみしさんは凄いなぁと改めて思いました。
森田童子さんとか浅川マキさんとか、このあたりの人たちの世界は、僕の中ではビリー・ホリデーと重なります。
国分寺書店のオババ、懐かしかったです (^^)
mixiユーザー2018年12月19日 13:30
> mixiユーザー
貴重な情報ありがとうございます!
住宅街の国宝って面白そうですね!
じつは昨日までまた東京に行ってました。
BANBAMさんの書き込みを読んでいたら違った行動をとっていたかもしれません。
来年行くときの参考にいたします。
mixiユーザー2018年12月19日 13:43
> mixiユーザー
わたしの知らない情報ばかりで、ありがとうございます。
古川あんずさんってアングラな人だったようですね。
しかしあのへんの人達って、いま映像で見ると素朴な感じがしますね。
mixiユーザー2018年12月19日 13:45
> mixiユーザー
この話には続きがありまして、今週また東京へ行ってきました。
また日記に書きますね。
国分寺書店は椎名誠さんの本と違って、かなりまともな古書店だったようですね。
mixiユーザー2018年12月19日 13:56
> mixiユーザー
確かに。お化粧の方法ばかりではなく、なんとなく埃っぽいですよ。
mixiユーザー2019年03月03日 00:53
私も森田童子さんのファンなのですが、つい先日国分寺のルーフと森田童子さんのご自宅を拝見してきました。
雨が降って寒い昼過ぎでした。傘をさしてご自宅の前に立つのも不審者みたいな気がして、ほんの数分しか見ることが出来ませんでしたが、あまり実感もわかず、車を出してくれたくれた友達とルーフさんでランチをして帰りました。
オーナーさんも、あまり森田童子さんのことを詳しく話したく感じでした。
きっとそっとしていてあげよう、という気持ちがあったんだと思います。
mixiユーザー2019年03月03日 12:45
> mixiユーザー
ありがとうございます!
roofにはまだ前田亜土さんの写真は飾ってありました?
ちらほらと森田童子ファンが訪れるとおっしゃってました。
オーナーも口は重たいけどこちらが質問すると的確に答えてくれましたので、そういう性格もあるんじゃないかと思いましたがいかがでしょうか。
だからもしも次に行くときがあれば前もって質問を考えておいたほうがいいかも。
わたしはこのときから一週間後にもう一度国分寺へ行きました。
二つ後の日記に書いてありますので読まれました?
調査の結果は興味深いものでしたよ。
https://open.mixi.jp/user/614168/diary/1969546621
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1009.html#c56
1976年に「ぼくたちの失敗」が大ヒットし、1970年代からシンガーソングライターとして活躍してきた森田童子さん。2018年4月24日に亡くなっていたことが分かり話題になっています。
亡くなった死因を含め、森田童子さんの生前の活躍について詳しく総まとめしましたのでご紹介します。
森田童子〜本名も生い立ちも一切不明の謎のシンガー
森田童子
出典:https://twitter.com/
森田童子さんは本名と同様に生い立ちや家族についても現役当時から現在までに明かしたことはなかったようです。また、森田童子さんはさる有名作詞家の姪だという噂が流れていたようですが、本人が認めたわけではないためあくまで噂に過ぎないようです。
本名: 前田美乃生
生年月日: 1953年1月15日
出身地: 東京都
死没: 2018年4月24日(65歳没)
ジャンル: フォーク、J-POP
職業: シンガーソングライター
活動期間: 1975年 – 1983年
レーベル: ポリドール(1975 – 1979)、ワーナー・パイオニア(1980 – 1983)
事務所: 小澤音楽事務所、海底劇場
引用:Wikipedia – 森田童子
森田童子さんは高校生だった1970年頃に巻き起こった学生運動で友人が逮捕されてしまったことをきっかけに高校を中退しました。
しばらく何をすることもなく自由な生活をしていた森田童子さんですが、友人が若くして亡くなったことをきっかけにして歌を作り始め、この友人を歌った歌「さよならぼくのともだち」がデビュー曲となりました。
同曲により森田童子さんは1975年10月にポリドール(現・ユニバーサルミュージック合同会社)からシングルレコードで歌手デビューを果たしています。
森田童子さんは1980年には同レーベルからワーナー・パイオニア(現・ワーナーミュージック・ジャパン)に移籍しましたが、テレビなど表舞台にはほとんど姿を見せずライブハウスを中心にコアなファンを獲得して活動していました。
森田童子の性別は女〜引退後は西荻窪で専業主婦として子育て生活?
森田童子
出典:https://twitter.com/
最期まで露出を拒み続けた森田童子
森田童子さんは1975年に「さよならぼくのともだち」で歌手デビューを果たすと、当時の若い世代の生き苦しさを代弁するような歌詞と、囁きかけるような切ない歌声が絶大な支持を呼び、「孤立無援の唄」「男のくせに泣いてくれた」などヒット曲を連発したシンガーソングライターでした。
森田童子さんは徹底して露出を拒み、本名などプライベートな情報は不明の謎のシンガーで、基本的にライブハウスを中心に活動をしていました。
また、森田童子という変わった芸名の由来は、当時ラジオドラマで放送された『笛吹童子』から来ているそうです。
1983年までにシングル4枚とアルバム7枚をリリースして、同年に最後のアルバム「狼少年 wolf boy」を発売するとともに同年に新宿ロフトでのライブを行い、それを最後に音楽界から引退してしまいました。
引退後の森田童子さんは結婚して主婦として子育て中心の生活をしていたと言われていますが、プライベートの実生活について徹底して秘密主義を貫いていたため、トレードマークとなっていたサングラスにカーリーヘアー以外に素顔は見られておらず、本名すら明るみに出たことは一度も無いようです。
ちなみに、森田童子さんは一部ファンの間では東京・杉並区の西荻窪周辺に住んでいると噂されていました。
引退後となる1988年には森田童子さんのアルバム『GOOD BYE グッドバイ』『マザー・スカイ=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか=』『A BOY ボーイ』『東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤』の初期4作がCD化されてリリースされました。
1989年9月には学生運動と恋愛をテーマにした映画『グッドバイ』に森田童子さんの楽曲が使用され、映画の音楽と合わせてサウンドトラックCDが発売されています。
若者の心情を代弁するような歌詞も森田童子さんの実体験を元にしたわけではなく、自らのこう在りたいという願望を書いたものであり、性格は非常に大人しく寡黙で、曲に対して自分の生活感を入れ込むことは避けていました。
以下のYouTube動画は森田童子さんの代表曲である「ぼくたちの失敗」です。
YouTube: 【Music Video】森田童子「ぼくたちの失敗」
森田童子の家族〜結婚した旦那はマネージャーの前田亜土
森田童子
出典:https://images-na.ssl-images-amazon.com/
音楽界からフェードアウトした森田童子
森田童子さんのレコーディングの編曲を担当したのはアコースティックギター奏者の石川鷹彦さんがしており、マネージャーを担当していた前田亜土さんとその後結婚して子供にも恵まれたと言われていますが、旦那は2010年に他界しています。
森田童子さんは音楽界を引退してからは主婦として子育てをしながら生活しており、二度と表舞台には姿を見せませんでした。
その理由の1つとして2010年5月に朝日新聞の取材に対し、音楽活動をできない理由として旦那である前田亜土さんが同年に死去したことによるショックと、持病を抱えているからだと明かしています。
【追悼】森田童子
さっきTVで特集してた。ロフトの平野さんが出ていた。この方が森田童子を見いだしたんだね。#新宿ロフト#森田童子#高校教師 pic.twitter.com/kbzbKx01b3
— 先輩のハト🇯🇵 (@senpai_hato) 2018年6月13日
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森田童子、『高校教師』の主題歌起用で一躍メジャーに!!
森田童子、1993年ドラマ『高校教師』の主題歌が大ヒットに!
森田童子
出典:https://auctions.c.yimg.jp/
メジャーを嫌った森田童子
森田童子さんはメジャー化することを嫌っていたためライブハウスでの活動にこだわり、コアなファンにはカリスマ的な人気を得ていましたが広く知られたミュージシャンではありませんでした。
しかし、1993年1月から放送されたドラマ『高校教師(TBS系)』の主題歌に森田童子さんのヒット曲『ぼくたちの失敗』が起用されたことで、そのシングルCDはミリオンヒットに迫る売上げを記録しました。
1993年版ドラマ『高校教師』
真田広之と桜井幸子が演じ大ヒットに!
同ドラマの脚本を務めた野島伸司さんは、高校時代に友達に誘われて行ったライブハウスで森田童子さんの歌を聴いて衝撃を受けたため自身のドラマで起用したようです。
出典:http://ichigen-san.cocolog-nifty.com
同ドラマは高視聴率を記録したため、同年3月には森田童子さんのベストアルバムとなる『ぼくたちの失敗 森田童子ベスト・コレクション』がリリースされました。
これにより森田童子さんの曲は多くのファンを獲得することになり、同年4月にはオリジナルアルバム7枚全てがCD化(4枚は再CD化)されて、当時の若い世代にも人気を集めましたが、それによりメディアがこぞって取材を申し込むも森田童子さんは露出を嫌い受けることはありませんでした。
同年11月には映画『高校教師』で森田童子さんの楽曲『たとえばぼくが死んだら』が主題歌に起用されました。
森田童子さんの楽曲について当時リアルタイムに心酔していたファンは以下のように述懐しています。
1976年発売のシングルに光があたり、採用されたわけだが。まるで90年代前半、その時代のリアルタイムの曲のようだった。まさに、私たちのために存在するかのような詩の世界観、空気感だった。思わず、シングルだけでなく、当時、リリースされたアルバム(ベスト盤を中心に聴いたのだが)も入手したが、ますますその想いを強くした。
引用:BLOGOS – 90年代前半の空気感そのものだった森田童子
森田童子、2003年に上戸彩が演じた『高校教師』でも主題歌に
2003年1月に10年振りに藤木直人と上戸彩によるドラマ『高校教師』が放送され、森田童子さんの楽曲『ぼくたちの失敗』は再び主題歌に起用されました。
同ドラマに合わせて森田童子さんは2003年にもベストアルバム『ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション』をリリースしましたが、アルバム『ラスト・ワルツ』収録曲である「海が死んでもいいョって鳴いている」の歌詞を一部変更、「ひとり遊び」は森田童子さんが自宅でギターとハーモニカの演奏をしながら新しくレコーディングされたことで最後の作品となりました。
森田童子さんの音楽活動は完全に途絶えましたが、2015年9月に公開された映画『GONIN サーガ』では「ラスト・ワルツ」が挿入歌に起用されています。
1993年版ドラマ『高校教師』のアルバムは廃盤となっていたため市場に出回らず入手困難な状況が続いていましたが、23年ぶりとなる2016年7月に再発売がされています。
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森田童子の楽曲は様々なアーティストがカバー
森田童子
出典:https://auctions.c.yimg.jp/
様々なアーティストによって楽曲がカバー
森田童子さんの楽曲は多くのアーティスによってカバーされてきました。
森田童子さんの楽曲はドラマ『高校教師』によりメジャーとなり、代表曲である「ぼくたちの失敗」は音楽グループ「YMCK」や歌手・cheeさんなどによりカバーされています。
「たとえばぼくが死んだら」はロックバンド「eastern youth」や歌手の山中さわおさん、YO-ENさんなどにカバーされています。
また、ノイズ系ミュージシャンのJOJO広重さんが率いるユニット「スラップ・ハッピー・ハンフリー」でもカバーされており、多種多様なミュージシャンに愛されてきました。
森田童子さんの話題性に乗っかって多くのメディアが出演依頼などをオファーしましたが、森田童子さんは「今は普通の主婦なのでそっとしておいて欲しい」と表舞台に出ることを拒否し続けてきました。
森田童子さんがここまで露出を拒んだ理由をファンは以下のようにコメントしています。
なぜか。それは、彼女の歌が「時代の痛み」を共有するものだったからだ。
デビュー曲の「さよならぼくのともだち」は70年安保の学生運動で挫折した若者たちへの哀切に満ちた挽歌であり、明るいラブソングは、ドロップアウトした孤独な若者の痛みに寄り添っていた。
そんな彼女が時代に合わせた歌を歌うわけがない。
引用:@niftyニュース – ベールに包まれた森田童子さん 時代の“痛み”背負い生きた
森田童子65歳の若さで死去〜死因は心不全
森田童子、2018年4月24日に死亡していたことが判明
森田童子
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森田童子は2018年4月24日に亡くなった
森田童子さんが2018年4月24日に亡くなっていたことが6月1日に分かり報じられました。享年65歳でした。
森田童子さんの死因は心不全だと報じられていますが、6月1日に発行された「日本音楽著作権協会(JASRAC)」の会報に訃報が掲載されていたことから明らかとなりました。
森田童子さんの亡くなる前の様子を音楽関係者が語っており、2017年頃から体調不良のため入退院を繰り返していたようですが、退院して間もなく心不全を起こして亡くなったそうです。
森田童子さんの訃報は芸能界にも波紋を広げ、有名芸能人らが追悼のコメントを出しています。
森田童子への追悼コメント エドはるみ
森田童子
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エドはるみは森田童子の大ファンだった
お笑い芸人のエドはるみさんは2018年6月13日に自身のオフィシャルブログを更新して森田童子さんの訃報にコメントを掲載しました。
エドはるみさんは森田童子さんの全盛期に聴いていた世代のようで、突然の訃報に落胆した様子を綴っています。
森田さんの訃報に触れ「森田童子さんが亡くなったと、昨夜遅くに帰宅して知った。とてもショックだった」とつづった。
「森田童子さんのご冥福を心よりお祈りいたします。魂を揺さぶる歌を本当にありがとうございました」と感謝の言葉で結んだ。
引用:日刊スポーツ – エド・はるみ「心癒やしてくれた」森田童子さん悼む
エドはるみさんが初めて森田童子さんの曲に触れたのは小学校6年生の頃だったようで、「雷に打たれたような衝撃だった」と語っています。
それからは森田童子さんのレコードを買い漁ったようで、エドはるみさんは当時小学生ながら森田童子さんの繊細な感性に心を癒されて虜になっていたこと、17歳の時に初めてコンサートをで生歌に触れて涙が止まらなかったことを明かしました。
エドはるみさんの実家には現在も森田童子さんのレコードがすべて残っているそうで、追悼の意味も込めて帰郷した際には森田童子さんの世界に浸ろうと思っていることを綴っています。
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森田童子への追悼コメント 東国原英夫
森田童子
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番組で訃報にコメントした東国原英夫
2018年6月13日に放送されたバラエティ番組『ゴゴスマ〜GOGO!Smile!(TBS系)』でコメンテーターとして出演した東国原英夫さんは森田童子さんの訃報に眉をしかめながらコメントしました。
東国原英夫さんは当時森田童子さんに魅了されたひとりであることを明かしています。
「僕はコンサート行きました。超有名でしたから。あの頃はみんな行っていますよ。吉田拓郎さんとか井上陽水さんとかも行った」という。「僕は昭和51年に高校卒業して大学に入った。(森田さんは)昭和50年デビューでフォーク全盛時代でしたから」と振り返った。
引用:スポーツ報知 – 東国原英夫氏、森田童子さんのコンサートに「行きました。超有名でしたから」
東国原英夫さんは学生運動で傷ついた若者を癒す歌も歌っていた森田童子さんについて「暗い、重たい感じでした」と感想を述べる一方で、フォークソングは対照的に聞きやすい良い歌詞、歌であったことを語っています。
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森田童子への追悼コメント 福島瑞穂、小室みつ子
森田童子
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その他著名人が森田童子の訃報にコメント
芸能界のみならず政界からも森田童子さんの訃報にツイッターなどでコメントを出しています。
社民党の福島瑞穂さんや作詞家の小室みつ子さんなどがツイッターで森田童子さんの訃報にコメントを投稿しています。
社民党の福島瑞穂参院議員(62)はライブハウスに足を運んでいたそうで「つぶやくような、語りかけるような透明な歌声。たくさん歌を聴いていた」。作詞家の小室みつ子氏(60)は「透明な声も、歌詞もメロもサウンドも心の奥深くまで突き刺さる力があった」とそれぞれツイッターで悼んだ。
引用:RakutenInfoseek – 森田童子さん突然の訃報に各界ファンから悲しみの声
まだまだ多くの著名人が森田童子さんの訃報にブログやツイッターなどSNSでコメントを出しているようで、露出は極端に少なかったもののその存在の大きさを物語っているようです。
森田童子への追悼コメント 海外の反応
森田童子
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森田童子は中国でも人気だった
森田童子さんの訃報は中国でも報じられ、ファンはSNSなどで悲痛な思いを投稿しています。
世界でのツイッターに当たる中国のSNS「微博(ウェイボー)」では、森田童子さんの訃報が伝えられたことで『高校教師』などのドラマを観ていたファンらが悲しみの声を投稿していました。
「愛する日本の女性シンガー、森田童子さんをしのぶ」とする記事を12日未明に投稿した中国のファンは、「森田さんの訃報を友人から伝えられた」とし、森田さんの「たとえばぼくが死んだら」を聞きながら朝まで過ごすつもりだとつづっていた。
引用:Record China – 森田童子さんの訃報に中国で驚きと悲しみの声、名曲聴いてしのぶファンも
森田童子さんは日本でも決して有名なミュージシャンではありませんでしたが、その繊細で心に訴えかけるような歌声は国外でも愛されていたようです。
森田童子、死去後にカバーやファンイベントの動きも…
森田童子
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森田童子を偲んでファンがイベントを企画
森田童子さんの追悼イベントとしてファンらがカバー音源などを持ち寄って追悼イベントを企画しているようです。
多くのファンにカバーされてきた森田童子さんの楽曲ですが、メジャーシーンでも有名アーティストらがカバーアルバムで追悼の意を表す動きがあるようです。
「森田さんを尊敬しているアーティストは多いので、イルカ、中森明菜、谷村新司などがカバーアルバムを出す可能性があると聞いています。名曲もたくさんありますし、潜在的なファンも多いですから」(音楽ライター)
引用:exciteニュース – 名曲「ぼくたちの失敗」森田童子死去…ファンがイベントを開催か
そして、森田童子さんが亡くなったという情報が広がると同時にYouTubeなどでの動画再生回数は軒並み急上昇しているようで、実店舗、通信販売問わずCD販売店ではベストアルバムの予約が殺到しているそうです。
その勢いは森田童子さんのベストアルバム『ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション』がオリコンチャートのベスト10入りを果たすかもしれないと言われています。
森田童子さんを曲が再注目されることで、高視聴率を稼ぐことができるドラマ『高校教師』も再びリメイクされる可能性があるようです。
#森田童子さん安らかに
高校の時
先生と恋をしました
春のこもれ陽の中で 君のやさしさに
うもれていたぼくは 弱虫だったんだよね
ぼくがひとりになった部屋にきみの好きなチャーリー・パーカー 見つけたよ
ぼくを忘れたかな
ドラマ『高校教師』主題歌
森田童子/ぼくたちの失敗 pic.twitter.com/ULqpql6NyB
— じゃど〜る(いいねが消える。ごめんちゃい) (@jadore_injoy) 2018年6月12日
森田童子の昔の若い頃や素顔の画像特集
森田童子
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森田童子の昔の若い頃や素顔の画像@
森田童子さんはカーリーヘアーに丸型サングラスがトレードマークでミステリアスな雰囲気を漂わせていました。
森田童子
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森田童子の昔の若い頃や素顔の画像A
素顔をほとんど見せることが無かった森田童子さんですが、美人の雰囲気を持っていることが分かります。
森田童子
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森田童子の昔の若い頃や素顔の画像B
森田童子さんは容姿ではなく歌そのものに没頭して欲しいと思って素顔を見せなかったのかもしれませんね。
森田童子
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森田童子の昔の若い頃や素顔の画像C
この画像が森田童子さんかどうか確証はわりませんが、素顔で検索すると出てきます。
森田童子
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森田童子の昔の若い頃や素顔の画像D
この画像も森田童子さんの素顔で検索すると出てきますが本人かどうかはわかりません。
森田童子
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森田童子の昔の若い頃や素顔の画像E
この画像は森田童子さんによる弾き語りと言われていますが、比較的近年撮影されたものかもしれませんがやはり本人かどうか確証はありません。
森田童子
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森田童子の昔の若い頃や素顔の画像F
この画像が昔の若い頃の森田童子さんならかなり美人だったことが伺えます。
森田童子
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森田童子の昔の若い頃や素顔の画像G
森田童子さんを検索すると出てくるこの女性は月蝕歌劇団の役者の白永歩美さんという人で別人です。
森田童子さんの素顔について完全に本人を特定できる写真は無かったようですが、6枚目は鼻の特徴が似ていることから本人なのかもしれません。
Jun.16 🎶⌒♬
Ⓖⓞⓞⓓ Ⓔⓥⓔⓝⓘⓝⓖ
最近、森田童子さんの
素敵な曲、詩の数々を知りました。
何とも言えない
触れると壊れてしまいそうな
ガラス玉のような声
とても繊細で惹かれています
~☆
🎼 ~G線上にひとり・森田童子
https://t.co/0eqmjmzPNK pic.twitter.com/CYiYpLWqO7
— yumiko☘⌒♡ (@yumikostats) 2018年6月16日
森田童子について総まとめすると…
・森田童子の性別は女性、本名は非公開で生い立ちも謎のシンガーソングライターである。
・森田童子は1983年、新宿ロフトでのライブ最後に音楽界から引退した。
・森田童子はマネージャーだった前田亜土さんと結婚。子供にも恵まれたようで引退後は専業主婦をしていた。
・森田童子は2018年4月24日に65歳で死去。死因は心不全だった。
1970年代から若者の心の葛藤を代弁するような歌詞と歌声でカリスマ的な人気を誇ったシンガーソングライター・森田童子さんについて総まとめしてきました。
森田童子さんは2018年4月24日に心不全のため亡くなっていることが同年6月1日に分かりましたが、訃報を機に知って曲を聴き始めた人も少なくないようです。
森田童子さんは65歳という若さで亡くなりましたが、子供は現在20、30歳代くらいだと思われます。
日本の音楽シーンの中でも特に森田童子さんは稀有な存在でしたが、またひとり昭和のカリスマが亡くなり世代交代が進んでいるということでしょう。
https://newsmatomedia.com/morita-douji
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1009.html#c57
森田童子の本名は前田美乃生・旧姓は中西美乃生
死亡日は推定 平成30年4月16日
一週間後の24日に孤独死による変死体で発見される
死亡時の年齢は65歳
住所は東京都国分寺市本多2丁目〜〜
番地は「大島てる」の事故物件サイトで確認のこと
この建物は昭和57年3月に新築
自宅購入にあたり前田美乃生さんは夫と連名で住宅ローンを組んだ
夫の前田亜土こと本名・前田正春は平成21年10月31日に死亡している
正春の死後、2015年に自宅には公明党の掲示板とホームセキュリティの監視カメラが導入された
これは森田童子こと前田美乃生が夫・正春の死後、精神的に不安定になったからではないかという説が出されている
この家は有限会社海底劇場音楽出版の登録上の本店でもある
森田童子の作品の原盤権を管理している会社だ
詳細は会社の法人登記謄本、該当住所の不動産登記謄本をダウンロードされたい
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1009.html#c58
伝説のまま逝った森田童子は全共闘世代の挫折感を癒す存在だった...親交のあった劇作家が素顔と音楽を語る
4月に亡くなっていたことがわかった森田童子。森田といえば、1975年にファーストシングル『さよなら ぼくの ともだち』を発表して注目を集め、当時の若者からカルト的な支持を受けていたフォークシンガーだが、その素顔は謎に包まれていた。本名は非公開、人前ではサングラスを外さず、アルバム7枚、シングル4枚を発表して、1983年に事実上の引退。1993年に『ぼくたちの失敗』がテレビドラマ『高校教師』(TBS系)の主題歌となり、シングルCDが100万枚近くのリバイバルヒットとなったが、そのときも表舞台に出てくることはなかった。
そして、森田が伝説のまま逝ってしまったいま、その音楽をリアルタイムで感じたことのある人も少なくなっている。いったい彼女は当時の若者にとってどういう存在だったのか。そして、その素顔は......。森田の歌のファンで彼女と親交があった劇作家の高取英に話を聞いた。
高取が森田童子と知り合ったのは、森田がデビューしたすぐあと、1976年から1977年のことだったという。
「『音楽全書』(海潮社)という音楽誌で森田童子について書いたのですが、彼女のマネージャーでイラストレーターの前田亜土さんから連絡がありまして。前田さんと親しくなって、それから付き合いが始まったんです。公表してませんでしたが、前田さんは森田童子のパートナー、夫でもあった」
以後、高取は森田のライブに足しげく通い、ライナーノーツも執筆したり(『森田童子全集V a boyア・ボーイ』などに収録)、森田も高取の演劇の公演に顔を見せるようになった。そして、お互いの音楽、演劇に批評文を寄せ合う関係になったという。
「私が作った芝居『少年極光 (オーロラ) 都市』の音楽を作っていただいたこともあります。僕の詩に曲をつけるのに、『私、人の詩に曲つけたことないんですよねー』って言うから、『好きにしていいですよ』と、彼女のいいと思う形に変えてもらって、3曲作ってもらいました」
高取は当時、自分たちが森田童子に強く惹かれた理由について、こう分析する。
「森田童子が登場したのは全共闘運動が挫折して、少し経った頃。彼女の歌はその全共闘世代の心情、挫折感に寄り添うものでした。たとえば、仲間がパクられた日曜の朝、といったことを歌ったり、高橋和巳の『孤立無援の思想』から来ている『孤立無援の唄』、爆弾教本の『球根栽培法』から来る『球根栽培の唄』といった歌があったり。彼女自身は全共闘世代より少し若くて、運動のピークの頃はまだ高校1〜2年でしたが、東京教育大(現筑波大学の前身)の紛争に関わっていたという話もあった。どこかのセクトに入ってるとか、高校全共闘みたいなかたちでやっていたというのはないとは思うけれど、その文化や気分はすごく色濃く共有しているアーティストでしたね」
全共闘世代の心情を代弁し、支持を集めているミュージシャンはたくさんもいたが、森田がほかの誰とも違っていたのは、彼女の歌が"弱さ"に光をあてていたことだった。
「森田さんのライブって客が泣くんですよ。死んでいってしまった友人を歌にした『さよなら ぼくのともだち』って歌で、泣き出す人も出てくる。歌っている森田さんも歌いながら涙をぬぐう。全共闘世代って、強がったり過激ぶったりするのが習性で、自分の弱さをさらけだせない人が多かったんですが、森田童子の歌を聴いていると、その弱さを隠さなくてもいい気がしてくる。たとえば(映画監督の)高橋伴明さんは早稲田大学の学生運動出身で、すごい武闘派だったんですが、森田童子が好きだと言っていました。そういう人でも森田さんの歌に感動するんです」
●森田童子引退の理由は? ドキュメント映像で語っていた消えていく覚悟
また、森田は、当時、まだ根強く残っていた「男は強くたくましく」「女はおしとやかに」という性の固定観念からも解放してくれる存在でもあったという。
「当時はさまざまな価値観が大きく転換し始めた時期ではありますが、まだ、男らしさ、女らしさという意識は残っていました。そんななかで、森田童子の歌の内容は、センチメンタルというか、ある種"女々しさ"と呼ばれるようなものだったかもしれない。でも、その女々しさを堂々と歌い上げたことで、男女の性差を超えて、孤独感のある人、友人をな無くした人、運動に挫折した人、そういう、やさしくて弱虫かもしれないという人たちに響いた。『さよなら ぼくの ともだち』という歌の中にも『弱虫でやさしい静かな君を僕はとっても好きだった』という一説があるんですが、そんなことを歌う人はこれまでいなかったんですよ。強がっている人はたくさんいるけど、強い人なんて実はいない、弱虫であること、それが好きだったといってくれた」
森田の音楽を"女々しさ"という言葉で説明する高取だが、実は森田の側も高取の作品に同じく"女々しさ"を見ていた。高取の代表作『聖ミカエラ学園漂流記』を批評する文章の中で、森田はこう書いている。
〈『聖ミカエラ学園漂流記』の高取英の劇作法は、拙い少年少女の肉声を惜りることによって、高取英の女々しい反逆の試みは、確かに不思議な説得力を持ち得た〉
ふたりが表現で深く繋がっていたことを物語るエピソードだが、しかし、その高取も、森田の素顔についてはよくわからないままだったという。
「サングラスを取った素顔は、わたしも見たことがありません。カーリーヘアもおそらくカツラでしょうし、素顔は一切隠してましたね。プライベートなことも一切話さない。前田さんと結婚していることも、本人たちは一切話しませんでした。それに物静かで、とつとつとしか喋らない人なので、感情の動きもよくわからなかったし、曲のイメージそのままでした」
1983年、彼女が音楽活動を引退する直前には、こんなこともあったという。
「『聖(セント)ミカエラ学園漂流記』(群雄社出版)の出版記念パーティーに来ていただいたんです。それで、『スピーチをお願いできますか?』って言ったところ、彼女はイヤだとははっきり言わないで『え、え......』って。そのあと、3分ほどしたらその場から消えていました。スピーチの話を急に言われてとまどったのでしょう、悪いことしたなって」
森田らしいエピソードだが、それからまもなくして、森田は本当にすべての表舞台から完全に姿を消してしまった。
「引退の理由を出産とか病気とかいう人もいましたが、そういったことではなくて、音楽活動をするなかで、自分が言いたいことはもう言いつくしたという感じだったんじゃないかな。80年頃、森田童子の屋外ライブの企画から実現までを追った『夜行』というドキュメント映像があるんですが、その中で森田が『私たちの歌が消えていくさまを見てほしいと思います』という言葉を口にしています。やることをやったら消えていく、最初からそういう覚悟があったんでしょう」
しかし、彼女の歌と記憶はそれから30年以上たったいまも、1970年代に青春を過ごした人々の心の中に強く刻まれている。7月19日には、高取も出演する追悼イベント「夜想忌 〜さよならぼくのともだち〜 追悼 森田童子」が開催される予定だ。(敬称略/高橋南平)
https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_4105/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1009.html#c59
なかにし礼の実兄、中西正一娘の中西美乃生は森田童子って知ってた?
森田童子の旦那がアドプロモーション社長の前田亜土(前田正春)
なかにし礼の兄は住〇連合の構成員だった、風吹ジュン軟禁事件の首謀犯
4人とも亡くなってるけど
豊悦がなかにし礼で、兄役がたけしのドラマが昔あったわ
現実はもっとドロドロだったんだね
なかにし礼はキャンディーズに1曲だけ作詞しているけど、
ナベプロとも何かありそうね
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/ms/1608963474/381
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1009.html#c60
風吹ジュンさん
芸能界で長く活躍されて
ます。
今も綺麗ですよね。
若い頃は、凄く可愛らしい、サイダーが合いますね
https://twitter.com/bijyobijyojapan/status/1075001016309829633?s=09
そんな風吹ジュンさん、
昔、移籍問題で、
大変恐い目にあったそうです((( ;゚Д゚)))
なかにし礼さんは、
昭和歌謡の作詞家で
今も小説など書いて
活躍されてます。
お兄さんは中西正一
というんですね。
若い頃は、兄弟で、
なかなかヤンチャな❓❔
一面があったのですね。
不仲なんて、信じられませんね❓❓
この事件Wikipediaに
載ってませんね?
「高校教師」(TBS)のテーマソングで大ヒットした
「ぼくたちの失敗」
あの歌を歌った
森田童子さんは、
なかにし礼さんの姪に
当たるそうです。
森田童子さんて、
一人っ子のイメージが
ありますが、
三人兄弟で、
姉と弟がいるそうです。
森田童子さんは、
2年前に亡くなっています
公明党の掲示板
一週間後に発見……
今回は、作詞家の「なかにし礼」さんを取り上げます。
2020年11月2日、風吹ジュンさんの事務所独立を巡る誘拐事件が「デイリー新潮」にて取り上げられました。
実は、この誘拐事件に礼さんと”その兄”が関与していたのです。
一体、礼さんの兄とはどんな人物なのでしょうか?
風吹ジュン誘拐事件に「なかにし礼」と兄が関与していた
風吹ジュンさんの誘拐事件についてデイリー新潮は次のように報じています。
かなり古い話になるが、
1974年9月に「風吹ジュン誘拐事件」が起きた。
当時、
風吹はアド・プロモーションという事務所と仮契約を結んでいたが、
レコードがヒットしても月給は23万円に過ぎなかった。
これに不満を持ち、
倍の月給を提示してきたガル企画という事務所に移籍してしまった。
そんな折、
フジテレビで収録を終えた風吹の前に、
旧所属事務所であるアドプロのマネージャーなど3人が現れ、
風吹の腕をつかんで連れ去ってしてしまったのである。
彼らは風吹をホテルに軟禁状態にし、
事務所移籍を考え直すよう迫ったのだ。
風吹が
「翌日の仕事のため衣装を取りに行かなければならない」
と言い、階下に降りたところ、
待ち構えていた大勢の警官によって保護されることとなった。
人だかりの中には包帯を巻いたガル企画の石丸末昭社長の姿もあった。
この間、石丸社長は、暴力団の事務所で監禁され、
暴行を受けていたというのだ。
風吹を軟禁した中には作詞家のなかにし礼もいたが、
石丸社長は自身の解放の条件として、
風吹との契約を解除するよう、
なかにしの実兄の中西正一から迫られたという。
(2020年11月2日配信)
上記の通り、礼さんの兄である正一さんは風吹さんの契約を解除するように、移籍先の事務所社長を脅迫していたのです。
世間の反応
この記事読んで、春馬くんの事が浮かんだわ。
日本の俳優仲間が何も言わないのは、
芸能界は闇が深いからなのかな…
余計なことを言って、
明日は我が身だとすれば恐くて誰も何も発言出来ないし…
誰も何も言ってくれないから、
余計にそう思ってしまう。
風吹ジュンさんにこんな事があったなんて知らなかった。
表に出てないだけで、
他にもたくさんあるんだろうな…
芸能界の闇、暴力団とのつながり、
かねてから色々ささやかれていますが、
膿を出しきって変革する時が来ているのではないでしょうか。
脅しとか、パワハラであることは勿論、度がすぎれば犯罪です。
マスコミ含め、
業界のあり方が変わらないと、
ブラックすぎて視聴者もドン引きです。
デイリー新潮さん、
他の媒体が春馬事件を避けている中、記者魂を感じます。
今この内容に触れるということは
ふんわりと外堀から掘り進めているのでしょうか。
今後も期待しております。
芸能界は裏社会との駆け引きなど、
旧態依然としていることはよくわかりました。
兄:中西正一の画像あり
礼さんと共に風吹さんの誘拐事件に関与していた正一さんですが、彼はどんな人物なのでしょうか?
そこで、兄について調べたところ、以下の画像が確認されたのです。
※「http://01670167.blog74.fc2.com/blog-entry-2013.html?sp」より引用
礼さんは兄との関係を「兄弟」というノンフィクション作品として発表しています。
その著書によると、兄は放蕩の限りを尽くしており、16年間にも亘って絶縁状態だったと言います。
礼さんは兄が作った巨額の借金を返済する日々に追われており、正一さんが亡くなった時は「万歳」と口にしたようです。
死因や年齢は?
兄の正一さんは1996年に死去されています。
兄が放蕩して作った借金を長年尻拭い。
家と青山のビルを2軒売っても
72年当時で3億円以上の借金が残った。
借金を払い終えた2年後に兄が他界(=96年)。
※「https://www.pasonica.com/なかにし礼/」より引用
著書「兄弟」によると、兄は14歳年上とのこと。
つまり、死去した1996年当時、正一さんの年齢は72歳だったことになります。
ただ、具体的な死因については一切公表されていないため、不明となっています。
【12月25日追記】なかにし礼が死去↓持病の心疾患(心臓病)とは?
2020年12月24日、礼さんが都内の病院で死去していたことが分かりました。
ただ、死因については公表されておらず、詳細は不明となっています。
なかにし礼(本名:中西禮三=なかにし・れいぞう)さんが24日、
東京都内の病院で死去した。
82歳。
死因は明らかにされていないが、
1カ月ほど前に持病の心疾患で入院していた。
※「スポニチアネックス」より引用
(2020年12月25日配信)
上記の通り、礼さんは心臓に持病を抱えていたのです。
この記事では持病の心疾患については言及されていませんが、その病名は「心筋梗塞」でした。
http://mybouzu.info/entertainment/%e3%80%90%e5%bc%9f%e3%81%aa%e3%81%8b%e3%81%ab%e3%81%97%e7%a4%bc%e3%80%91%e5%85%84%e4%b8%ad%e8%a5%bf%e6%ad%a3%e4%b8%80%e3%81%ae%e7%94%bb%e5%83%8f%e2%86%93%e6%ad%bb%e5%9b%a0%e3%82%84%e5%b9%b4%e9%bd%a2
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1009.html#c62
私は拙著
の中でこう書いた。
「芸能資本の力の源泉は有力タレントを所有することにある。だが、タレントは『モノを言う商品』であり、放っておけば芸能資本の手から離れていってしまう。それを防ぐために必要なのは、(1)『暴力による拘束』、(2)『市場の独占』、(3)『シンジケートの組成』の三つである。これは古今東西を問わず、同じ構造だ」
1974年9月に発生した「風吹ジュン誘拐事件」は、(1)「暴力による拘束」に分類されるものだった。
歌の下手さが衝撃だったデビュー曲「愛がはじまる時」(1974年5月ユニオンレコード)
◆デビュー曲25万枚ヒットでも風吹の月給は23万円
富山県出身の風吹ジュンは、京都で中学を卒業した後、18歳で上京し、銀座のクラブで働いていた時にスカウトされた。有名写真家デビッド・ハミルトンがユニチカのカレンダー用に撮影した写真が話題となり、1974年5月、「愛がはじまる時」でレコードデビューし、25万枚が売れ、一躍スターとなった。
当初、風吹はアド・プロモーションという事務所と仮契約を結んでいたが、レコードがヒットしても月給は23万円にすぎなかった。事務所に相談できる人がいないこともあって、9月9日、風吹に倍の月給を提示したガル企画に移籍した。その矢先、事件が起きた。
同月12日午後8時過ぎ、フジテレビで収録を終えた風吹がスタジオから出てくると、旧所属事務所のアドプロのUマネージャーなど3人が現れ、風吹の腕をつかんで局の隣にある喫茶店に連れ出した。
風吹がガル企画の石丸末昭社長に電話で連絡をしてみると、「ジュンか、石丸だけどね、君はU君の指図どおりに動いていいんだ。わかるか」と言われた。そこで風吹はUに従って車で品川のホテル・パシフィックへ向かった。
ホテルに3つ取っていた部屋の真ん中に風吹が入ると、アドプロの社長、前田亜土が現れて、「お前は、自分の二重契約を知ってるのか。オレのところにいればいいんだよ」と言った。
さらに作詞家のなかにし礼の実兄である中西正一が風吹とガル企画の専属契約の委任状を見せ、「ほら、これをみればもう納得もいっただろう」と言い、代わる代わる人が入れ替わって、風吹の事務所移籍を非難した。
そのうちなかにし礼が現れて、風吹の腕をつかんで、「そろそろ、あんたにも事態がどうなっているかわかってきただろう」と言った。
そのまま全員でベンツに乗って高輪プリンスホテルに移動し、また風吹への説得が始まった。そして、なかにし礼がやってきて、「要するにアドプロで仕事をすればいいのサ」と言った。
そんなやりとりが延々と続いた後で風吹が翌日の仕事のため衣装を取りに行かなければならないと言い、風吹、U、なかにしの3人で階下に降りたところ、待ち構えていた大勢の警官によって風吹が保護された。そして、人だかりの中には包帯を巻いた石丸社長の姿もあった。
◆筋書きを書いた「黒幕」なかにし礼
石丸社長の身に何があったのか?
同月12日午後5時ごろ、石丸社長はガル企画で働くYマネージャーがなかにし礼の事務所にいたときに作った借金の返済するため、暴力団、住吉連合系大日本興業のI事務所を訪れていた。
石丸社長がIに60万円の借金を返すと、部屋にいたIの子分たちがドアの前に立ちふさがり、別の子分からハンガーで顔面を殴られ、ゴルフのアイアンで、頭や首、手などを叩かれ、残りの3人からも殴る蹴るの暴行を受けた。そして、Iが「床に正座しろ!」と怒鳴った。
やがて奇妙なことに、なかにし礼から電話が入り、Iが「いま石丸を監禁してる。お前の友人だろう。この石丸の身柄を引き取らないか」と、なかにしに言った。Iが石丸社長に「お前からもなかにしに頼んだらどうだ」と言うので石丸社長も受話器を取り、「礼さん、お願いだ、身柄を引き取ってくれないか」と懇願した。だが、なかにしは「いや、それはだめですね、石丸さん」と言って電話を切った。
「オレがもう一度なかにし礼に頼んでやろう」と言ってIがなかにしに電話をかけ、石丸社長が「お願いだ、なんとかしてくれないか」となかにしに頼んだが、なかにしは「いやだめだね」と言ってまた電話を切った。
また、しばらくすると、礼から電話があり、実兄の中西正一に頼めと言った。そこで石丸社長は中西正一と電話で話すことになったが、その際、中西正一は、石丸社長の身柄引き取りの条件として、風吹ジュンが石丸社長に書いた委任状を渡し、風吹との契約を解除し、石丸社長がなかにし礼に貸した280万円の借金を帳消しにすること、を突きつけた。
恐怖のあまり、この条件を石丸社長が飲むことにしたところ、フジテレビの隣にある喫茶店から電話があり、風吹と話をさせられたのだった。
午後8時30分ごろ釈放された石丸社長は、病院に行ってケガを治療してもらい、事務所に戻り、弁護士と相談してから警察に通報し、警視庁に出頭した。事態を重く見た警視庁は、パトカー20台と警官80人を高輪プリンスホテルに動員し、風吹を保護した。
そして、9月20日、風吹と石丸社長らは、連名でなかにし礼、中西正一、アドプロの前田亜土、大日本興業のIらを相手に監禁、強要、強盗傷人などの罪で告訴した。
この事件で筋書きを書いた「黒幕」とされたのが、なかにし礼だった。アドプロ社長の前田亜土の妻はなかにし礼の実兄の中西正一の次女。なかにし兄弟はとおにアドプロの重役であり、石丸社長を襲ったIは金融面でアドプロと繋がりがあったという。
一方、なかにし礼側の主張によれば、石丸社長の親戚には九州の暴力団組員がいて、石丸社長は風吹の移籍問題でもそれを持ち出してアドプロを脅していたという。
◆暴力沙汰は「諸刃の剣」
なぜ、このような問題が起きたのだろうか、ということを考察してみたい。
まず、風吹ジュンをめぐって争奪戦を演じた石丸社長と前田亜土は、もともと芸能界とは縁がなかったということがある。石丸社長は上野で鉄鋼業を営んでおり、ガル企画を設立したのも、風吹と個人的に「私の芸能活動についてすべてを石丸氏に委任します」と一筆もらってからのことだった。前田亜土にしてもイラストレーター上がりで、芸能事務所を始めたのも風吹を抱えることになってからのことだった。
大手の芸能事務所であれば、業界団体の日本音楽事業者協会(音事協)に加盟しているが、音事協ではタレントの引き抜きは禁じており、基本的にこの種のトラブルは起こらない。風吹ジュン誘拐事件は、芸能界のメインストリームを外れた弱小事務所同士だからこそ起こった事件だった。そして、弱小事務所同士の紛争は暴力がモノを言う。
だが、風吹の移籍トラブルは、誘拐事件として大きく報道されたため、風吹を奪った側のなかにし陣営は大きなダメージを受け、結局、風吹の所属先は、ガル企画に落ち着いた。また、風吹自身も、この事件によって経歴詐称なども暴かれ、大きくイメージダウンを余儀なくされた。
タレントの引き抜きなどで、芸能界では暴力事件が起こることもある。だが、事件が明るみに出ると、タレントを奪う側としても、奪われる側としても、そして、業界全体としてもダメージは大きい。そのため、芸能界では諸刃の剣ともいえる暴力が発動されることは滅多にない。そもそも、引き抜きを未然に防止することが重要であり、そのために音事協という組織があるのだ。
(星野陽平)
http://www.rokusaisha.com/wp/?p=5062
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1009.html#c63
>アドプロ社長の前田亜土の妻はなかにし礼の実兄の中西正一の次女。
>前田亜土にしてもイラストレーター上がりで、芸能事務所を始めたのも風吹を抱えることになってからのことだった。
前田亜土の妻はなかにし礼の実兄の中西正一の次女
というのが
中西美乃生=森田童子
なんですね。
ネット上には、どこからともなく、彼女が著名な作詞家の姪らしいという噂が流布されていた。なかにし礼、という固有名詞を挙げてあるものも最近では少なからず、先日このふたりをキーワードにして検索。その結果から次のふたつに注目してみた。
松風亭日乗:densukedenden.blogspot.com/2013/12/blog-post_18.html
「なかにし礼」のコメントが作家作詞家なかにし礼本人なのかどうか。別人がそんな事をしてどんな意味があるのか私にも謎だが、ネットは何でもありというのも確かな経験則である。とした上で、「自殺誘発ソングの旗手森田童子が平凡に幸せに生きてる」 と断定しているのは、上に紹介した10年の朝日新聞の記事内容を踏まえれば首肯できない。
「自殺誘発ソング」の旗手だったとはいえども、近親者(配偶者であるとは後で判る)との死別、自らの病いに苦しむ有様は、バチが当たったと反省しているのではないか、とでも形容されていい状態だったからだ。
永井均 tweet:twitter.com/hitoshinagai1/status/852547262966243328
永井均はヴィトゲンシュタインを読んでいた時にお世話になった。判り易い説明で核心がストンと腑に落ちたという記憶がある。はるか昔の話だ。
スレッドを辿ると愛憎相半ばする書き込みに意表を衝かれるが、「深く深く納得した。事実は小説より奇なり!」という言葉に導かれて、なかにし礼『兄弟』を読む事に。報告は後日。
【追記 18-08-01】
文学作品として鑑賞しようとは思わなかった。私小説形式の自伝として、童子との関連で目を通した。
登場人物名でいうと、兄の次女、中西美以子が童子に該当する。それ以外に年齢的にマッチする近親者はいない。
兄夫婦は小樽、東京、青森と流れ、再び上京して、すぐ次女が生まれる。
特攻崩れを自称する兄は人格破綻者に近くなり、「事業」を目論んでは失敗して借財を膨らませ、弟の禮三(なかにし礼)が作詞家として成功した後は、「家長」として弟の稼ぎを犯罪的な手法で平然と流用する。
なかにしの2度目の結婚を契機に彼らは暮らしを別にするが、これが71年。童子デビューの2年前になる。
この後も、兄の巨額の尻拭いは6年後の母の死を経て更に2年後の訣別まで続く。ざっといえば童子の活動期間とほぼ一致する時期である。
このような係累を持つ人間なら、誰でも秘匿しようとするだろう。
この事はとてもよく判るが、彼女の父親がこの黄金を生む娘をどのように利用したか、あるいは利用しようとしたかについて、『兄弟』は全く触れていない。というよりもその前に、自分の姪が童子である事は、匂わされてもいない。
また、童子がなかにしの姪であるとすれば、阿久悠と並んで稀代の作詞家たる彼の血を引いたと、つい思いたくもなるが、彼自身の作品であるという可能性はないのか。小説より奇なり、とは、実はこのような、あるいは更に別の、この作品から離れた事情を指摘しているのではないか。
【追記 18-08-07】
この歌もそうか、あの歌もそうか、というミューズの化身のような時代が、作詞家なかにし礼には確実にあった。しかしその初期から中期にかけて、恥部とでもいうべきふたつの事件の中心人物として、彼はマスメディアの集中砲火を浴びた。「芸能界相愛図」事件と風吹ジュンへの拉致監禁事件である。いうまでもなく『兄弟』では片鱗も窺う事ができない。
前者はこの文章と関わりを持たないので省略。後者について、最も詳細に説明された記事を次行に紹介しよう。
デジタル鹿砦社通信:《脱法芸能12》風吹くジュン誘拐事件
ここに登場するアド・プロモーション社長前田亜土の名前が、童子のマネージャ兼配偶者として彼女の死後、私たちの聞き及ぶところとなった。
事件とその後の収束期間を考えれば直後といえるような時期に童子はレコード・デビューしているのだが、何故ここに犯罪的なプロダクションの社長が関わってくる事になるのか。浮世離れしたシンガーソングライターの背景に広がる闇の世界、はたまた汚濁の池に咲く白蓮、とでもいうべきだろうか。いやはや何とも。
【追記 18-08-09】
匿名掲示板の「森田童子について語りませんか Part.4」スレから。
森田童子の夫、前田亜土は
森田童子を手掛ける前に
風吹ジュンの事務所社長(アドプロダクション)だった
安月給などの劣悪条件で風吹ジュンを拘束
風吹ジュンが事務所移籍を画策
移籍先の社長を暴行し風吹ジュンを
ホテルに拉致して脅したのが
例のあの風吹ジュン事件
なかにし礼と兄が前田亜土を業界に引き入れた
アドプロダクションはなかにし兄弟が重役
森田童子の事務所、海底劇場は
アドプロダクションの次に作った事務所
事務所自体も同じマンションの部屋を
そのまま使ってた
風吹ジュンからしたら森田童子は
聴きたくない歌手だったろうね(No 564)
という事のようではあるが、
吹雪(ママ)ジュンの件についてどっちが悪かった誰が悪かったとかは別の話だからどうでもいい
問題は前田亜土の妻であった森田童子が中西正一の娘だというのは事実かどうか
もし事実ならなかにし礼の書いた『兄弟』によって森田童子の背景が少しは明らかになる(No 599)
と、理性的な意見交換がされている。好むと好まざるとに関わらず、事実を特定するような「証言」の登場も、おそらくは時間の問題だろう。
http://www.ne.jp/asahi/cyberpunk/freedom/article/moritadoji.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1009.html#c65
1976年、ぼくには食事を共にしてくれるガールフレンドもなく、考えて
いることの出口は見つからず、軽い神経衰弱にしてやられながら、ラスコーリ
ニコフのようにうろちょろしていた。春先の風邪を放置したせいで肺炎になり、
この年の後の半分はベッドの上で過ごさざるを得なかった。森田童子の歌をベ
ッドの上で聞いたりしては、ますます荒涼とした場所に落ちていく自分自身を
どうすることもできなかった。
2・3日前、どこでなのか判らないが、確かに森田童子の歌を聴いた。
TVでも、この1週間のうちに聴いたような気がする。信じられないけど。
uploading nifty 93.??.??
「高校教師」のテーマソングを何処かで耳にしていた私が、1976年に貴方は何をしていたか、というネット上の質問に回答している。
「高校教師」をロクに知らなかったのは、せっせと 夜学に通っていた からだ。
詩と決別したランボーは砂漠の商人になり、歌と決別した彼女は家庭に落ち着いた。83年にステージから退いたのだから高校生くらいの子供がいたって不思議ではない。
時には子供にハラハラし、時には "Lady Madonna" を口ずさみ、時にはPCに向かって「森田童子」を検索して、びっくりするほどの量が表示されて苦笑したりする。増えてきた白髪は気にせず、週2回は近くのアスレチッククラブに通い、環境保護運動に熱心に関わっている……
という風に、無名市民として穏やかな日々を送っているのだろうか。恙なしや?
この投稿を、森田童子という不世出の個性の為に、ここに掲載した。
記 01-06-15
【追記 10-07-16】
朝日新聞の記事が彼女に触れていた(5月22日)。山坂いくつもあるのが人生だと、ここでも実感させられる。
記事の中の「病」に拘ってみると、彼女は学齢からして在学中に1年の遅れが生じ、更に高校中退後3年ほど北海道で療養生活を送っている。
『さよなら ぼくの ともだち』は友人の死を契機にここで生まれたのだが、してみると、この時期からの長患いの後遺症のようにも思える。最終部分を引用したい。
『ぼくたちの失敗』が、テレビドラマ「高校教師」の主題歌になってヒットしても、再び歌おうとはしなかった。彼女の消息を知る人を介して、その真意を問う対話がしたいと打診してもらった。だが、とても親しかった人との唐突な死別とみずからの病で、「手紙すら書けないほど憔悴している」という返答があった。危ういバランスでつなぎとめられている世界が、まだそこにはあった。
しかしこの署名記事には、「森田童子」を偽名だとするのが論外だとしても(もちろん戸籍名ではないが、「偽名」とは文章のプロとして気は確かか?)、詰めの甘い箇所が少なくない。例えば「ひとり遊び」のレコーディングとCD制作(2003年)を知らなかったのだろうか。それとも判り易いプロットに当て嵌めるため意図的に無視したのか。後者であれば気持ちは半分だけ判る、といっておこう。
詞の中に飼い馴らしたかの「ぼく」や「きみ」の無数の死も、生身の人生には耐性を育まなかった。あるいは、成熟という名の感受性の劣化をこそ彼女は拒否し続けているのか。
【追記 18-07-02】
古い友人と久しぶりにメールのやりとりをしていたら、彼女の訃報がネットに流れた。私のGメール・アカウントは moritadoji.inochi で、不可思議な符合に驚いたと触れていた。まだ若いのに、と続いていたが、私としては「そうだったのか」と深く寂かに納得するものがあった。
彼女については謎が多い。公表された情報が少ないのだから当然かもしれないが、例えば誕生年や出生地は複数の情報が流れていて、どこからも訂正されず始末が悪い。
私が折に触れて参照したのは次行のサイトで、しかしながら長らく更新されておらず、いわばアーカイブ状態だ。
森田童子研究所:www.gogorocket.jp/doji/h/
また、このサイトで頻繁に登場する「犬のしっぽ」さんのサイトは既に消滅しているが有難い事に次行のミラー・サイトがあって、
「犬のしっぽ」ミラー・サイト:www.minus273.eu/mirrors/douji/
ここから彼女の年表を覘いてみよう。
52年1月15日、東京生まれ
68年、高校入学
なのだが、順当にいけば高校入学は67年だからどちらかが間違っている筈で、そうでなければ入学以前に1年の遅れが生じている。
70年、高校を中退。暇にまかせてふらふらと旅に出る。
とあるが、やはり同じサイトの、雑誌「ラジオマガジン」のインタヴュー記事によると事情は異なる。一部を引用すると、
彼女は高校半ばにして不幸にも胸をやみ,転地治療という形で3年間を北海道で過ごした。その時代,'60年代末期は学園闘争が激しく吹き荒れていた頃だった。
そしてこの記事に従うと、極めてデリケートかつエキセントリックな神経と感受性に言葉を失いそうになるが、自分の過去を捏造するとも、思えない。また、
失われた青春の残像を拾い集めて五線のキャンバスに描き続ける詩織人−森田童子 31歳。
と結ばれていて、83年1月の時点で31歳、つまり誕生年が52年である事を前提にしている。誕生年53年説の元祖は、実は JASRAC 会報に載った訃報(65歳と表示)ではないのかと睨んでいる。
記事の最後にも触れてある80年の黒テント公演はTVドキュメンタリとして放送された。下の静止画はその最終部のものだ。
写真:森田童子(もりたどうじ)、TVドキュメンタリ『夜行』より
私(わたくし)達のコンサートが不可能になってゆくさまを見てほしいと思います。そして、私達の歌が消えてゆくさまを見てほしいと思います。ひとつの時代の終わりに向けて、私達の最後の切ない夢を、見てほしいと思います。
無垢なリリシズムと甘味なセンチメントに包まれた魔法のような世界が、そこには確かにあった。
http://www.ne.jp/asahi/cyberpunk/freedom/article/moritadoji.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1009.html#c66
以前書いた森田童子の記事に、「なかにし礼」さんからコメントをいただいた。
コメント内でお返事しようかと思ったのだが、少し落ち着いて考えたいので、記事にすることにする。
「なかにし」さんのコメントの全文は以下の通り。
「彼女の歌が一部の敏感過ぎる人達の、生きようかなそれとも死のうかなという、危うい紙一重の精神状態にあるところを、死んじゃいなよこっちへおいでよと死のスイッチを押させたのは負の一面として事実。
森田童子は手放しで称賛出来ない、ある意味自殺誘発ソングで何人も自殺に追いやった批判も加えられるべき人物。あれだけ死ぬだの死にたいだの死を甘美に唄った自殺誘発ソングの旗手森田童子が平凡に幸せに生きてるのはなんたる皮肉。」
森田童子の歌を聴いて自殺した人がどれほどいるか、私には分からない。ただ、いても不思議はないと思う。私自身、童子の歌を聴きながら、あの記事で書いたように、「深入りしたら危険だ」という思いと「深入りせずにいられない」という思いがせめぎ合っていた。
死への誘惑という点でいえば、文学の方がよりポピュラーだと思う。芥川龍之介の晩年の作品なんかまさにそうだし、中原中也の詩や宮澤賢治の童話だって死に近い。極め付きは太宰治か。太宰の弟子を自認していた田中英光なんか、太宰の墓前で自殺したくらいだ。しかし、彼らはその落とし前をつけるように、早死にしたり自殺したりした。とすれば、そのような作品を世の出した者は死ななければならないのか、という話になる。
人間には死に近づく時期がある。だからこそ、古今東西、死に近い作品は多いのだ。しかし、そこから逃れられれば、それはそれでいいじゃないか。森田童子は、とにかく生き延びたのだ。彼女が死の誘惑から逃れることができたとすれば、それはそれで喜んであげてもいいと思う。
今、昔のアルバムが結構CDで復刻されているけど、森田童子のオリジナルアルバム復刻の話は聞かない。単にセールスが見込めないのか、それとも本人の了解が得られないのか。
もし、森田童子が昔の作品が世に出ることを頑なに拒んでいるとすれば、それが彼女なりの落とし前のつけ方なのかもしれない。
投稿者 densuke 時刻: 21:58
匿名 さんのコメント...
森田童子の強烈なファンです。自殺誘発ソングとのご指摘ですが、とんでもない評価ではないでしょうか。童子の歌は自殺とかいう負の行為に逃げないで真剣に向き合った歌です。どうしようもない悲しみに背かない詩で優しく僕たちを癒してくれた詩です。現実に背を向けた詩では癒せない時も人生の中にはあると思います。
2014年4月28日 3:35
http://densukedenden.blogspot.com/2013/12/blog-post_18.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1009.html#c67
大福さんのブログを読んで、森田童子のことについて書きたくなった。
森田童子を知ったのは、高校生の時だ。友川かずきがディスクジョッキーをしていた「若いこだま」というラジオ番組で『さよならぼくのともだち』を聴いたのだと思う。(私はこの番組で、三上寛、なぎらけんいち、ジャニス・ジョプリンなどを知った。)甲高い繊細なその声を聴いて、私はケイト・ブッシュみたいだと思ったのを憶えている。
石岡のレコード屋で、童子のデビューアルバム『グッドバイ』を見つけて買った。ジャケットの彼女は、もじゃもじゃのカーリーヘアに丸いサングラスをかけ、革ジャンを羽織っていた。まるで少年のような容貌で、「ぼく」と「きみ」の歌を歌う童子は、性を超越した存在に思えた。
保育園から高校まで一緒だったH君から『マザースカイ』と『ア・ボーイ』の2枚のアルバムをダビングしてもらった。私はこの3本のテープを持って、川崎のアパートに引っ越していった。
特に『マザースカイ』は好きだったな。1曲目の『ぼくたちの失敗』からラストの『今日は奇蹟の朝です』まで、緊密な統一感にあふれた、まさにトータルアルバムと呼ぶべきものだった。
1980年に出た『ラストワルツ』。これも買ったが、これを川崎の四畳半で聴いていると、我ながらやばいと思った。このままいったらまずいよなあと、『たとえばぼくが死んだら』を聴きながら思ったものだ。
そういえば、昔聴いた、なぎらけんいちのライブアルバムで、なぎらがこんなことを言っていた。
山崎ハコの歌を聴いていると、条件反射的に暗くなって死にたくなる。そこで『パブロフのハコ』という歌を作った。
ハコも暗いが、森田童子は超弩級に暗い。以前ツアーで一緒に回った時があった。ある街で、宿で打ち上げをやったが、そのうち外に出ようということになった。童子も誘ったが行かないという。そこで「じゃあそこにいて」と言って皆で出かけた。
2、3時間して帰ってくると、童子は出かけるときと寸分たがわぬ姿勢で同じ場所に座っていた。
深入りすると危険だという雰囲気と、深入りせずにはいられない魅力が森田童子にはあった。(ラストアルバムとなった『狼少年』も、私はしっかり買った。)
大福さんも書いていたが、ドラマ『高校教師』での森田童子ブームには違和感を覚えたな。あの時発売されたベスト盤は90万枚以上売れたという。当時は意地でも買わなかったけど、今思えば、90万人の人が童子の歌に心を揺さぶられたということなのだな。
あのブームでも、森田童子は表に出なかった。新聞記者の取材には、「今は普通の主婦なのでそっとしておいてほしい」と言ったという。
現在、森田童子と道ですれちがっても誰も彼女とは気がつくまい。しかし、カムバックしないということは、今の生活が彼女の守りたい幸せなのだろう。
そうか、あの森田童子が主婦か。よかったなあ。彼女が平凡な幸せを手に入れたことは、私にとってもささやかな希望に思えてくる。
森田童子、間もなく60歳に手が届くはずである。
投稿者 densuke 時刻: 23:13
4 件のコメント:
なかにし礼 さんのコメント...
彼女の歌が一部の敏感過ぎる人達の、生きようかなそれとも死のうかなという、危うい紙一重の精神状態にあるところを、死んじゃいなよこっちへおいでよと死のスイッチを押させたのは負の一面として事実。
森田童子は手放しで称賛出来ない、ある意味自殺誘発ソングで何人も自殺に追いやった批判も加えられるべき人物。あれだけ死ぬだの死にたいだの死を甘美に唄った自殺誘発ソングの旗手森田童子が平凡に幸せに生きてるのはなんたる皮肉。
2013年12月2日 2:07
たそがれ さんのコメント...
森田童子を検索していて、このブログにたどり着きました。
あの世界観は唯一無二ですね。
それにしても彼女の歌が自殺誘発ソングとは。
僕は彼女の歌に生きることの意味を聴きました。
2014年4月15日 15:02
匿名 さんのコメント...
わたしも生きる意味を感じています。
2014年6月26日 11:05
匿名 さんのコメント...
自殺誘発ソングだなんて、浅すぎる。
童子の歌に救われた人もいっぱいいる。
2018年4月22日 23:35
https://densukedenden.blogspot.com/2012/06/blog-post_21.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1009.html#c68
森田童子の1枚目のオリジナル・アルバム「GOOD BYE グッドバイ」
【ロフト創業者が見たライブハウス50年】#24
司会は下北沢の安アパート暮らしの坂崎幸之助だった
新型コロナに翻弄された2020年も12月を迎えた。ライブは<密>を避けて<配信>というスタイルに変わり、演者とファンとの間に存在していた<濃密なつながり>は分断され、音楽を熱く実体験することができなくなった。コロナ禍はいつ収束するのか? 先が見えない。夜中に一人で酒を飲みながら、森田童子の悲しい調べに身を委ねる。青春時代の思い出が走馬灯のようによぎる。あれは……本気の恋だったのだろうか?
1973年の秋というよりも、夏の終わりと言った方がいいかもしれない。その年の6月に西荻窪ロフトが北口商店街の一角にオープンした。秋口に入っても残暑が厳しく、店前の(東京)女子大通りの打ち水が、キラキラと光り輝いていた。
森田童子がふらっと現れて「すいません、私もここで歌えますか?」と聞いてきた。彼女のトレードマークとなったサングラスも掛けてなかったし、クルクルのカーリーヘアでもなかった。まるで少女のようだった。
売れていない歌い手が売り込みに行く際、さすがに真っ黒のサングラスはないだろう――ということだろうが、彼女の素顔を見たのは、この時が最初で最後だったような気がしてならない。
手渡された一本のテープを聞いた瞬間、大きな衝撃が脳天を突き抜けるように走った。「なんて暗い歌なんだ!」。そう思いながら、じっくり歌詞を読み込むと<あの政治の季節>が、まざまざと思い出された。私たちが遮二無二に闘ってきた「大学闘争時代の挫折」をこれでもか! これでもか! と突き付けられた。「どうして彼女は挫折した者にしか分からない心情を歌詞にして歌えるのか?」。不思議でしょうがなかった。同時に大きな好奇心が芽生えた。
学園紛争で高校を中退し、72年の友人の死をきっかけに自作自演で歌い始めたというが、それにしても<革命を叫びながら機動隊にやみくもに突撃していった>私自身の全共闘運動時代の原風景を想起させる歌に「この少女の過去に何があったのだろうか?」と思わないではいられなかった。
暗くて、そして沈んだ歌声。そう言われていたが、個人的にはちょっと違う。あくまで<あの独特の雰囲気>が、そう思わせたのだろう。後で知ったが、恋人が学生運動中に自殺したという。
彼女は、いつもロフトのステージの上で涙を流しながら歌っていた。
私は、森田童子に恋心を抱いていた。(平野悠/「ロフト」創業者)
https://news.livedoor.com/article/detail/19339279/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1009.html#c69
日本歌謡界を代表する作詞家のなかにし礼さんが今月23日に都内の病院で亡くなっていたことが分かりました。
なかにし礼さんと言えば、お兄さんについて実話を素に小説『兄弟』を書かれていますね。
ドラマ化した際には、『兄弟〜兄さん、お願いだから死んでくれ〜』というタイトルに衝撃を受けた人は多いのではないでしょうか。
そこで今回は、なかにし礼さんの兄である中西正一さんについて調べてみました。
中西正一は『風吹ジュン誘拐事件』に関与していた!?
かなり古い話になるが、1974年9月に「風吹ジュン誘拐事件」が起きた。当時、風吹はアド・プロモーションという事務所と仮契約を結んでいたが、レコードがヒットしても月給は23万円に過ぎなかった。これに不満を持ち、倍の月給を提示してきたガル企画という事務所に移籍してしまった。そんな折、フジテレビで収録を終えた風吹の前に、旧所属事務所であるアドプロのマネージャーなど3人が現れ、風吹の腕をつかんで連れ去ってしてしまったのである。彼らは風吹をホテルに軟禁状態にし、事務所移籍を考え直すよう迫ったのだ。
風吹が「翌日の仕事のため衣装を取りに行かなければならない」と言い、階下に降りたところ、待ち構えていた大勢の警官によって保護されることとなった。人だかりの中には包帯を巻いたガル企画の石丸末昭社長の姿もあった。この間、石丸社長は、暴力団の事務所で監禁され、暴行を受けていたというのだ。風吹を軟禁した中には作詞家のなかにし礼もいたが、石丸社長は自身の解放の条件として、風吹との契約を解除するよう、なかにしの実兄の中西正一から迫られたという。
引用:https://news.yahoo.co.jp/articles/473c7caf4981ce89cc8c73f49230e93c87e7d5de
報道の内容から分かるように、なかにし礼さんの兄である中西正一さんは、風吹ジュンさんの移籍先である“ガル企画”の石丸社長対し、『風吹ジュンさんとの契約解除』を理由に脅迫していたようです。
ネットの声
・この記事読んで、春馬くんの事が浮かんだわ。
日本の俳優仲間が何も言わないのは、芸能界は闇が深いからなのかな…
余計なことを言って、明日は我が身だとすれば恐くて誰も何も発言出来ないし…
誰も何も言ってくれないから、余計にそう思ってしまう。
風吹ジュンさんにこんな事があったなんて知らなかった。
表に出てないだけで、他にもたくさんあるんだろうな…
・デイリー新潮さん、他の媒体が春馬事件を避けている中記者魂を感じます。今この内容に触れるということはふんわりと外堀から掘り進めているのでしょうか。今後も期待しております。
芸能界は裏社会との駆け引きなど、旧態依然としていることはよくわかりました。
・この記事が出てきたのは、今でもこのような事件が起きているんでしょう。。。
一般人には、理解し難い世界ですが、春馬さんの死によって、闇雲にしてきた事が未だ続いている現実に驚愕しています。闇が暴かれる日が来る事を願うばかりの毎日です。
引用:Yahooコメント
中西正一の顔画像は?
中西正一さんの顔画像について調べてみるとずいぶん昔のものですが、下記の画像が見つかりました。
中西正一の死因は何?
中西正一さんは、1996年に72歳で亡くなられましたが、死因については情報がありませんでした。
新たな情報があり次第追記していきます。
中西正一(なかにし礼兄)の顔画像は?死因や風吹ジュン誘拐事件とは?まとめ
今回は、中西正一(なかにし礼兄)の顔画像は?死因や風吹ジュン誘拐事件とは?についてまとめてみました。
なかにし礼さんの兄・中西正一さんは、1996年(72歳)に亡くなられていましたが、死因については現時点では情報がありませんでした。
また、1974年に起きた『風吹ジュン誘拐事件』の裏には、中西正一さんも関与していたという事実があったようです。
新たな情報があり次第追記していきます。
https://www.youtube.com/watch?v=h_bmvRcVc68
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1009.html#c70
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