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[番外地8] 日本人は縄文人の子孫ではなく 半島からの渡来人だと証明されている 中川隆
1. 中川隆[-11970] koaQ7Jey 2020年8月03日 09:07:33 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[1]
日本人は縄文人の子孫ではなく 半島からの渡来人だと証明されているよ:
土井ヶ浜弥生人 最終更新: 2019年03月30日
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD

形質は北方新モンゴロイド。

弥生時代の北部九州・山口に分布していた弥生人。頭蓋骨の形質的に純粋な大陸系渡来人だと見られていたが
最新の核ゲノム解析により、少なくとも北部九州弥生人は実は縄文人の遺伝子を受け継いでいることが判明し*1、その割合は東京周辺の現代日本人と同じ1〜2割程度である。

縄文人に近い形質を持つ西北九州弥生人と互いに混血していたようである。
またxx半島南部に進出していた縄文人との混血を経た渡来系弥生人の集団だった可能性もある。
また土井ヶ浜弥生人の居住地域からも西北九州弥生人型の頭蓋骨が発見されており*2、
弥生時代初期段階の縄文系弥生人社会と土井ヶ浜弥生人社会は対立関係になかったと考えられる。

水稲稲作や鉄器を日本に最初にもたらした集団だと考えられている。

核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどはこの土井ヶ浜・北部九州弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。
便宜上、この項目では北部九州弥生人も土井ヶ浜弥生人としているが、厳密には北部九州と土井ヶ浜では微妙に違いがある。
現代日本人の頭蓋骨は土井ヶ浜弥生人より北部九州弥生に近い。
形質
頭型は基本的には短頭(頭の前後が短い)だが中頭も多い。
高顔でのっぺりとした起伏のない顔立ち。
胴長短足で顔が大きく寒冷地適応をしていた。
歯が大きく、噛み合わせは鋏状咬合。
縄文人に比べると比較的身長が高く男で165cm程度。
酒に弱い(ALDH2不活性型・失活型)。
体毛が薄く、髭がほとんど生えない。
髪は直毛。
華奢で骨細な体格。体格に関しては縄文でも北方黄色人種でもないようだ。
唇は薄い。口は小さい。
目は切れ長で小さい。
風習的抜歯を行うなど縄文人の文化風俗も取り入れていたようだ。


土井ヶ浜弥生人の復元図。

*1 : 安徳台遺跡
*2 : 土井ヶ浜・701号人骨

▲△▽▼


アイヌ語を話していた縄文人は旧石器時代に樺太から渡来した
日本語を話していた西日本縄文時代人は縄文時代後期に南xxから渡来した

神澤 秀明 2019年6月
x国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析
https://researchmap.jp/hk-k/misc/21287393


現代「本土」集団における「縄文人」系統の割合は、神澤論文では9〜15%、覚張論文では8%程度と推定されています。

弥生時代以降に日本列島に到来した集団における長江流域稲作集団の影響は、遺伝的には小さく、文化的には間接的だった、と考えられます。
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_5.html

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/145.html#c1

[近代史5] 朝鮮人の起源 中川隆
4. 2020年8月03日 09:17:04 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[2]
朝鮮の無文土器時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

朝鮮の無文土器時代の開始は朝鮮における水稲作の開始時期とほぼ一致する。このことから、朝鮮に長江文明由来の水稲作をもたらした人々が、無文土器文化の担い手であった可能性が考えられる。

崎谷満はY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)系統が長江文明の担い手だとしており、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている[1] 。

このことから、朝鮮に無文土器文化をもたらした人々はO1b2系統に属していたことが考えられる[1]。O1b2系統は現在の朝鮮民族に20〜40%ほど観察されている[2][3]。

言語系統

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。[4][5][6][7][8]

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。[7][9] 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。[5]

無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された。

農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、衛氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。


無文土器時代は櫛目文土器時代に続く時代である。

紀元前2000年から1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化では、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現している。

前期

前期は紀元前1500年から850年頃とされる。農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。農耕にはまだ石器が用いられた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が営まれた。住居には竈が複数ある場合もあり、多世帯が同居していたと思われる。 後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。

支石墓、副葬品の朱塗り土器、石剣など無文土器時代を通して続く宗教・葬制上の特徴はこの時代に生まれた。


中期

中期は紀元前850年から550年頃とされる。農業の規模が大きくなり、社会の階級と争いが生じたと考えられる。南部では水田が作られたとする仮説もあるが、陸稲と水稲が雑交している点や水田と確定出来るだけの要素が未だに発見されていない為、定説とはなっていない。 数百軒からなる大規模な集落が出現した。また青銅器が出現し、工芸品の生産や支配者による分配も行われるようになった。

中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化( ソングンニ)とも呼ばれ、中部で主に発展した。南部へ行くほど異なった要素が増える。

中期後半(紀元前700-550年頃)には青銅器が副葬品として現れた。青銅器は中国東北部に由来すると思われるが、この時期には朝鮮半島中部でも製作が始まっていた。

中期無文土器時代後半の墓には特に大規模なものがある。南岸部は北中部と様式を異にし、多数の支石墓が造られた。一部からは青銅器、翡翠、石剣、朱塗り土器などの副葬品が見出されている。

無文土器文化は農耕文化の始まりであるが、無文土器文化時代を通じて陸稲作はあったものの主要な作物ではなかった。現在までに渤海北部沿岸では当時の水田遺構が見出されていないことから、水田稲作がこの時代に伝わっていたとしても大陸沿いでなく黄海を越えてもたらされた可能性が大きい(日本の水田稲作とは伝播経路が異なる)。北部では大麦・小麦・雑穀などが栽培された。

後期
後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。特に丘陵地や河川沿いに人口が集中している。集落数は前の時代より減っており、少数の集落への集住が進んだと考えられる。

弥生文化の開始が無文土器文化に影響を与えた可能性もある。特に北部九州では無文土器、支石墓や甕棺墓など、朝鮮半島南部の文化と直接結び付けられる要素が多数見つかっている。これは無文土器時代前期に当たると考えられる。

無文土器時代の終末期には鉄器が出現する。これより後の鉄器時代になると、住居には北方から大陸沿いに伝わったオンドル用の炉(ko:아궁이)が現れる。また中期に北方から伝わった琵琶形銅剣(遼寧式銅剣)の影響の下に細形銅剣(ko:세형동검)が作られ始めた。

終末

普通、無文土器時代の終末は鉄器の出現に置かれるが、土器様式の連続性を重視して紀元前後までを含める説もある。しかし、紀元前300年頃から青銅器が広範囲に普及する。鉄器もこの時期を境に、朝鮮半島南部へも普及していく。このような技術・社会の変化を重視するならば、無文土器時代をこの時期までとするのが適切である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/194.html#c4

[近代史3] 弥生文化のルーツ 中川隆
6. 中川隆[-11969] koaQ7Jey 2020年8月03日 09:17:45 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[3]
朝鮮の無文土器時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

朝鮮の無文土器時代の開始は朝鮮における水稲作の開始時期とほぼ一致する。このことから、朝鮮に長江文明由来の水稲作をもたらした人々が、無文土器文化の担い手であった可能性が考えられる。

崎谷満はY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)系統が長江文明の担い手だとしており、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている[1] 。

このことから、朝鮮に無文土器文化をもたらした人々はO1b2系統に属していたことが考えられる[1]。O1b2系統は現在の朝鮮民族に20〜40%ほど観察されている[2][3]。

言語系統

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。[4][5][6][7][8]

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。[7][9] 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。[5]

無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された。

農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、衛氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。


無文土器時代は櫛目文土器時代に続く時代である。

紀元前2000年から1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化では、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現している。

前期

前期は紀元前1500年から850年頃とされる。農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。農耕にはまだ石器が用いられた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が営まれた。住居には竈が複数ある場合もあり、多世帯が同居していたと思われる。 後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。

支石墓、副葬品の朱塗り土器、石剣など無文土器時代を通して続く宗教・葬制上の特徴はこの時代に生まれた。


中期

中期は紀元前850年から550年頃とされる。農業の規模が大きくなり、社会の階級と争いが生じたと考えられる。南部では水田が作られたとする仮説もあるが、陸稲と水稲が雑交している点や水田と確定出来るだけの要素が未だに発見されていない為、定説とはなっていない。 数百軒からなる大規模な集落が出現した。また青銅器が出現し、工芸品の生産や支配者による分配も行われるようになった。

中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化( ソングンニ)とも呼ばれ、中部で主に発展した。南部へ行くほど異なった要素が増える。

中期後半(紀元前700-550年頃)には青銅器が副葬品として現れた。青銅器は中国東北部に由来すると思われるが、この時期には朝鮮半島中部でも製作が始まっていた。

中期無文土器時代後半の墓には特に大規模なものがある。南岸部は北中部と様式を異にし、多数の支石墓が造られた。一部からは青銅器、翡翠、石剣、朱塗り土器などの副葬品が見出されている。

無文土器文化は農耕文化の始まりであるが、無文土器文化時代を通じて陸稲作はあったものの主要な作物ではなかった。現在までに渤海北部沿岸では当時の水田遺構が見出されていないことから、水田稲作がこの時代に伝わっていたとしても大陸沿いでなく黄海を越えてもたらされた可能性が大きい(日本の水田稲作とは伝播経路が異なる)。北部では大麦・小麦・雑穀などが栽培された。

後期
後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。特に丘陵地や河川沿いに人口が集中している。集落数は前の時代より減っており、少数の集落への集住が進んだと考えられる。

弥生文化の開始が無文土器文化に影響を与えた可能性もある。特に北部九州では無文土器、支石墓や甕棺墓など、朝鮮半島南部の文化と直接結び付けられる要素が多数見つかっている。これは無文土器時代前期に当たると考えられる。

無文土器時代の終末期には鉄器が出現する。これより後の鉄器時代になると、住居には北方から大陸沿いに伝わったオンドル用の炉(ko:아궁이)が現れる。また中期に北方から伝わった琵琶形銅剣(遼寧式銅剣)の影響の下に細形銅剣(ko:세형동검)が作られ始めた。

終末

普通、無文土器時代の終末は鉄器の出現に置かれるが、土器様式の連続性を重視して紀元前後までを含める説もある。しかし、紀元前300年頃から青銅器が広範囲に普及する。鉄器もこの時期を境に、朝鮮半島南部へも普及していく。このような技術・社会の変化を重視するならば、無文土器時代をこの時期までとするのが適切である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/964.html#c6

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
284. 中川隆[-11968] koaQ7Jey 2020年8月03日 09:18:23 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[4]
朝鮮の無文土器時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

朝鮮の無文土器時代の開始は朝鮮における水稲作の開始時期とほぼ一致する。このことから、朝鮮に長江文明由来の水稲作をもたらした人々が、無文土器文化の担い手であった可能性が考えられる。

崎谷満はY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)系統が長江文明の担い手だとしており、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている[1] 。

このことから、朝鮮に無文土器文化をもたらした人々はO1b2系統に属していたことが考えられる[1]。O1b2系統は現在の朝鮮民族に20〜40%ほど観察されている[2][3]。

言語系統

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。[4][5][6][7][8]

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。[7][9] 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。[5]

無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された。

農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、衛氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。


無文土器時代は櫛目文土器時代に続く時代である。

紀元前2000年から1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化では、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現している。

前期

前期は紀元前1500年から850年頃とされる。農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。農耕にはまだ石器が用いられた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が営まれた。住居には竈が複数ある場合もあり、多世帯が同居していたと思われる。 後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。

支石墓、副葬品の朱塗り土器、石剣など無文土器時代を通して続く宗教・葬制上の特徴はこの時代に生まれた。


中期

中期は紀元前850年から550年頃とされる。農業の規模が大きくなり、社会の階級と争いが生じたと考えられる。南部では水田が作られたとする仮説もあるが、陸稲と水稲が雑交している点や水田と確定出来るだけの要素が未だに発見されていない為、定説とはなっていない。 数百軒からなる大規模な集落が出現した。また青銅器が出現し、工芸品の生産や支配者による分配も行われるようになった。

中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化( ソングンニ)とも呼ばれ、中部で主に発展した。南部へ行くほど異なった要素が増える。

中期後半(紀元前700-550年頃)には青銅器が副葬品として現れた。青銅器は中国東北部に由来すると思われるが、この時期には朝鮮半島中部でも製作が始まっていた。

中期無文土器時代後半の墓には特に大規模なものがある。南岸部は北中部と様式を異にし、多数の支石墓が造られた。一部からは青銅器、翡翠、石剣、朱塗り土器などの副葬品が見出されている。

無文土器文化は農耕文化の始まりであるが、無文土器文化時代を通じて陸稲作はあったものの主要な作物ではなかった。現在までに渤海北部沿岸では当時の水田遺構が見出されていないことから、水田稲作がこの時代に伝わっていたとしても大陸沿いでなく黄海を越えてもたらされた可能性が大きい(日本の水田稲作とは伝播経路が異なる)。北部では大麦・小麦・雑穀などが栽培された。

後期
後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。特に丘陵地や河川沿いに人口が集中している。集落数は前の時代より減っており、少数の集落への集住が進んだと考えられる。

弥生文化の開始が無文土器文化に影響を与えた可能性もある。特に北部九州では無文土器、支石墓や甕棺墓など、朝鮮半島南部の文化と直接結び付けられる要素が多数見つかっている。これは無文土器時代前期に当たると考えられる。

無文土器時代の終末期には鉄器が出現する。これより後の鉄器時代になると、住居には北方から大陸沿いに伝わったオンドル用の炉(ko:아궁이)が現れる。また中期に北方から伝わった琵琶形銅剣(遼寧式銅剣)の影響の下に細形銅剣(ko:세형동검)が作られ始めた。

終末

普通、無文土器時代の終末は鉄器の出現に置かれるが、土器様式の連続性を重視して紀元前後までを含める説もある。しかし、紀元前300年頃から青銅器が広範囲に普及する。鉄器もこの時期を境に、朝鮮半島南部へも普及していく。このような技術・社会の変化を重視するならば、無文土器時代をこの時期までとするのが適切である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c284

[近代史3] 日本語の系統とその遺伝子的背景 中川隆
3. 中川隆[-11967] koaQ7Jey 2020年8月03日 09:23:22 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[5]
朝鮮の無文土器時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

朝鮮の無文土器時代の開始は朝鮮における水稲作の開始時期とほぼ一致する。このことから、朝鮮に長江文明由来の水稲作をもたらした人々が、無文土器文化の担い手であった可能性が考えられる。

崎谷満はY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)系統が長江文明の担い手だとしており、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている[1] 。

このことから、朝鮮に無文土器文化をもたらした人々はO1b2系統に属していたことが考えられる[1]。O1b2系統は現在の朝鮮民族に20〜40%ほど観察されている[2][3]。

言語系統

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。[4][5][6][7][8]

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。[7][9] 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。[5]

無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された。

農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、衛氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。


無文土器時代は櫛目文土器時代に続く時代である。

紀元前2000年から1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化では、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現している。

前期

前期は紀元前1500年から850年頃とされる。農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。農耕にはまだ石器が用いられた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が営まれた。住居には竈が複数ある場合もあり、多世帯が同居していたと思われる。 後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。

支石墓、副葬品の朱塗り土器、石剣など無文土器時代を通して続く宗教・葬制上の特徴はこの時代に生まれた。


中期

中期は紀元前850年から550年頃とされる。農業の規模が大きくなり、社会の階級と争いが生じたと考えられる。南部では水田が作られたとする仮説もあるが、陸稲と水稲が雑交している点や水田と確定出来るだけの要素が未だに発見されていない為、定説とはなっていない。 数百軒からなる大規模な集落が出現した。また青銅器が出現し、工芸品の生産や支配者による分配も行われるようになった。

中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化( ソングンニ)とも呼ばれ、中部で主に発展した。南部へ行くほど異なった要素が増える。

中期後半(紀元前700-550年頃)には青銅器が副葬品として現れた。青銅器は中国東北部に由来すると思われるが、この時期には朝鮮半島中部でも製作が始まっていた。

中期無文土器時代後半の墓には特に大規模なものがある。南岸部は北中部と様式を異にし、多数の支石墓が造られた。一部からは青銅器、翡翠、石剣、朱塗り土器などの副葬品が見出されている。

無文土器文化は農耕文化の始まりであるが、無文土器文化時代を通じて陸稲作はあったものの主要な作物ではなかった。現在までに渤海北部沿岸では当時の水田遺構が見出されていないことから、水田稲作がこの時代に伝わっていたとしても大陸沿いでなく黄海を越えてもたらされた可能性が大きい(日本の水田稲作とは伝播経路が異なる)。北部では大麦・小麦・雑穀などが栽培された。

後期
後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。特に丘陵地や河川沿いに人口が集中している。集落数は前の時代より減っており、少数の集落への集住が進んだと考えられる。

弥生文化の開始が無文土器文化に影響を与えた可能性もある。特に北部九州では無文土器、支石墓や甕棺墓など、朝鮮半島南部の文化と直接結び付けられる要素が多数見つかっている。これは無文土器時代前期に当たると考えられる。

無文土器時代の終末期には鉄器が出現する。これより後の鉄器時代になると、住居には北方から大陸沿いに伝わったオンドル用の炉(ko:아궁이)が現れる。また中期に北方から伝わった琵琶形銅剣(遼寧式銅剣)の影響の下に細形銅剣(ko:세형동검)が作られ始めた。

終末

普通、無文土器時代の終末は鉄器の出現に置かれるが、土器様式の連続性を重視して紀元前後までを含める説もある。しかし、紀元前300年頃から青銅器が広範囲に普及する。鉄器もこの時期を境に、朝鮮半島南部へも普及していく。このような技術・社会の変化を重視するならば、無文土器時代をこの時期までとするのが適切である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/729.html#c3

[近代史3] 韓国人と縄文人のルーツ 中川隆
14. 中川隆[-11966] koaQ7Jey 2020年8月03日 09:24:03 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[6]
朝鮮の無文土器時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

朝鮮の無文土器時代の開始は朝鮮における水稲作の開始時期とほぼ一致する。このことから、朝鮮に長江文明由来の水稲作をもたらした人々が、無文土器文化の担い手であった可能性が考えられる。

崎谷満はY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)系統が長江文明の担い手だとしており、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている[1] 。

このことから、朝鮮に無文土器文化をもたらした人々はO1b2系統に属していたことが考えられる[1]。O1b2系統は現在の朝鮮民族に20〜40%ほど観察されている[2][3]。

言語系統

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。[4][5][6][7][8]

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。[7][9] 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。[5]

無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された。

農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、衛氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。


無文土器時代は櫛目文土器時代に続く時代である。

紀元前2000年から1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化では、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現している。

前期

前期は紀元前1500年から850年頃とされる。農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。農耕にはまだ石器が用いられた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が営まれた。住居には竈が複数ある場合もあり、多世帯が同居していたと思われる。 後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。

支石墓、副葬品の朱塗り土器、石剣など無文土器時代を通して続く宗教・葬制上の特徴はこの時代に生まれた。


中期

中期は紀元前850年から550年頃とされる。農業の規模が大きくなり、社会の階級と争いが生じたと考えられる。南部では水田が作られたとする仮説もあるが、陸稲と水稲が雑交している点や水田と確定出来るだけの要素が未だに発見されていない為、定説とはなっていない。 数百軒からなる大規模な集落が出現した。また青銅器が出現し、工芸品の生産や支配者による分配も行われるようになった。

中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化( ソングンニ)とも呼ばれ、中部で主に発展した。南部へ行くほど異なった要素が増える。

中期後半(紀元前700-550年頃)には青銅器が副葬品として現れた。青銅器は中国東北部に由来すると思われるが、この時期には朝鮮半島中部でも製作が始まっていた。

中期無文土器時代後半の墓には特に大規模なものがある。南岸部は北中部と様式を異にし、多数の支石墓が造られた。一部からは青銅器、翡翠、石剣、朱塗り土器などの副葬品が見出されている。

無文土器文化は農耕文化の始まりであるが、無文土器文化時代を通じて陸稲作はあったものの主要な作物ではなかった。現在までに渤海北部沿岸では当時の水田遺構が見出されていないことから、水田稲作がこの時代に伝わっていたとしても大陸沿いでなく黄海を越えてもたらされた可能性が大きい(日本の水田稲作とは伝播経路が異なる)。北部では大麦・小麦・雑穀などが栽培された。

後期
後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。特に丘陵地や河川沿いに人口が集中している。集落数は前の時代より減っており、少数の集落への集住が進んだと考えられる。

弥生文化の開始が無文土器文化に影響を与えた可能性もある。特に北部九州では無文土器、支石墓や甕棺墓など、朝鮮半島南部の文化と直接結び付けられる要素が多数見つかっている。これは無文土器時代前期に当たると考えられる。

無文土器時代の終末期には鉄器が出現する。これより後の鉄器時代になると、住居には北方から大陸沿いに伝わったオンドル用の炉(ko:아궁이)が現れる。また中期に北方から伝わった琵琶形銅剣(遼寧式銅剣)の影響の下に細形銅剣(ko:세형동검)が作られ始めた。

終末

普通、無文土器時代の終末は鉄器の出現に置かれるが、土器様式の連続性を重視して紀元前後までを含める説もある。しかし、紀元前300年頃から青銅器が広範囲に普及する。鉄器もこの時期を境に、朝鮮半島南部へも普及していく。このような技術・社会の変化を重視するならば、無文土器時代をこの時期までとするのが適切である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/427.html#c14

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
586. 2020年8月03日 10:43:40 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[7]

2020年08月03日
田舎暮らしは金がかかる 電気ガス水道石油食糧など

自分に合ったレベルの田舎を見つけるのが重要


将来性がまったく無い田舎とは

コロナによって都市の過密生活が見直され、田舎や過疎地に済みたい人が増えているそうです。

10年から20年前の田舎移住ブームは中高年が中心で、リタイアしたら田舎で蕎麦屋か農業をやりたい人が多かった。

彼らの特徴は現実の計画に実現性がないことで、「とりあえず農業でもやるか」くらいの考えだったようです。

そうした中高年移住の多くは失敗したと思うが、数年前から田舎移住する若者が増えていました。

移住する若者はITやネット関連で収入を得ている人たちが多く、少なくとも食いっぱぐれは無かった。

だが本当の過疎地では今も高速インターネットがなかったりするので、憧れだけでは済まない。


テレビでは田舎暮らしの良さだけを放送するが、田舎には種類やランクがある。

移住者が最重要視すべきなのはその土地が所属する自治体で、近所でも自治体が違えばサービスがまったく異なってくる。

テレビによく出てくるコミュニティバスや移動販売車は自治体がお金を出していて、全ての自治体が過疎地に金を出すわけではない。


災害で唯一の道が通行止めになっても、「嫌なら町に引っ越せば良い」という考えの自治体もある。

実際災害がきっかけで村や町が移住を勧め、廃村になった集落は多いようです。

田舎にあこがれても、そんな集落に移住して将来性はありません。

田舎暮らしは金がかかる

テレビの田舎番組で最大の間違いは田舎では安く暮らせるという話で、それはその土地に最初から住んでいる人の場合です。

彼らは親から無料で農地を相続し無料で農業研修を受け、無料で村のコネクションを利用しています。

移住者はそれらすべてにお金を払わなくてはならず、お金を払ってもコミュニティへの参加を拒否される例は良くある。


例えば集落の100人が全員親戚で仲が良く、野菜をタダでもらえるとしても、それは親戚だからです。

移住者は当然お金を払わなければ野菜を買えないし、電気ガス上下水道その他のインフラが高い。

都会は例えば「東京」というインフラを1200万人で分割して払っているので、1人当たりでは安い。


田舎は1人しか住んでいなかったら一人で全額負担するので、インフラ負担が大きくなります。

電気料金は都会と同一だが、山奥に電気を引くには数百万円の負担が発生する場合があり、他の家から離れていると自己負担が高額になるようです。

山奥の限界集落に水道がある訳がなく、地元の水利組合などに参加を求められるが、これが月数万円という場合もある。

自分に合ったレベルの田舎

ガスはプロパンガスだが必ず1社独占なので、その会社と契約するかガスを使わないかの選択肢しかない。

近くにガソリンスタンドがある訳ないので灯油は配達してもらうか車で買いに行くが、配達サービス外地域の場合もある。

この場合も「親戚コミュニティ」は特別に無料で配達してもらえるが、移住者は拒否されるか高額な配達料を請求される。

田舎のGSはおやじ1人でやっているので、配達に行っている間は奥さんが留守番をしたりして、本来遠くに配達は出来ない。

家を建てたり補修する費用は木が多いから安そうだが、これも町から大工が来るので都会より高くなる。

さらに山奥の集落は平地が無いので、傾斜地の地盤改良費用などで新築は平地より高額になります。

こんな風に多くの費用は町より限界集落のほうが高額になります。


これもその土地の自治体により、村や集落ではなく市内の郊外だったら、近くにイオンやコンビニがある田舎も存在します。

自分にあった水準の田舎を選択すれば、移住してみたが大失敗というのは避けれるでしょう。

http://www.thutmosev.com/archives/83559253.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c586

[リバイバル3] オールド マランツ 中川隆
60. 2020年8月03日 11:02:47 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[8]

2020年08月02日
失われた曲線と禁断の曲線
http://blog.livedoor.jp/thorens/archives/cat_50031428.html


過去のグレイリストを必要あって読んでいる。24年前に書いた記事が出てきたので以下に転載する。

失われた曲線と禁断の曲線

  昨年の寒さの忍び寄る頃。とある英国の地方都市。中国料理店で、お箸の持ち方を教えながら、僕らはレコードの抱える問題について熱中していました。彼ら(二人のレコード愛好家)はつねづね、1950年代のモノーラルレコードのもつ、さまざまなイコライザー曲線(EQ曲線)の存在の重要性を、いろいろな角度から説明しはじめたのです。1954年、RIAA曲線に統一される以前、世界中にLPレコードを制作する会社は百をはるかに超え、各社がこぞって開発し、採用したEQ曲線の種類は78回転も含めれば20を下らない数に達し、それを無視しては適切なレコードの再生は不可能である。彼らの言い分は大体そんなところでした。『だから、どうした。僕は、これまで充分にレコードを楽しんできたし、満足しているんだ。まして、EQ曲線なんて知らなくたって、自分の耳のイクォライザーさえちゃんとしていれば、そんな面倒臭いこと願い下げだ。』『じゃあ、こうしよう。僕らの町のオーディオ店の主人に適当な装置を探してもらって、それを君の日本の住所に送る。自分の部屋でそれを試したあとで、また君の意見を聞こう。』数ヶ月して、僕らはオーディオ店を訪ねると、主人は揃えた装置を奥から出してきました。 アコースティック社(現在のQUAD)のQCUコントロールユニット(1953/67)、QUAD-Tアンプ(通称ブラックボックス 1948/51)、VITAVOX KG10スピーカーシステム(12インチシングルコーン 1951)。たたずまいの美しさといったら!使うあてもないExpert社製の78用アームとカートリッジ・BJアーム・Tannoyのカートリッジ等々・・興奮して『全部、ください!!』と、後先も考えずに叫んでいたのです。

  やがて荷物は届き、部屋に据え付け、店の主人が念入りにオーバーホールしてくれた、40年以上も前のアンプのスイッチに目をつぶって火を灯けたとき、爆発しなかったのでほっとしました。装置から流れてきた音は『別の世界からやってきた音』。これには驚いた、まる2週間と言うもの毎晩空が明るくなるまで、自分が慣れ親しんだレコードを聴き返ししたのです。「禁断の曲線」を食べてしまった僕は考えます。『一体、今まで聞いていたのは何だったんだろう?』 HMV/COLUMBIA/DECCA/DG/RCA/WESTMINSTER・・・QCUのコントロール・ユニットは、60余社のEQ曲線に対応して適切な再生が可能です。聞き慣れた自分の部屋で、適切なEQ曲線を特定するのは簡単な作業です。スピーカー周辺に姿を現わす音像の形は、誰にでもわかります。たとえれば、鏡に映した自分の顔が、EQ曲線が適切なら正しい形に映るし、違っていれば曲がった鏡をみるように額が広くなったり、右半分が異状に短かったり、口が曲がっていたりといった何らかの歪みを感じます。試しに、家人(クラシックと縁が無い)に、数種類の異なるEQボタンを押してレコードを再生してきかせたら、八割以上正しいEQ曲線を指摘しました。おそるべし、女性の直感。

  近年、我国のレコード愛好家の多くがステレオレコードに一段落し、1950年代のLP初期のモノーラルレコードを指向し始めたのは、「音」ではなく「音楽」に淫してみようとする意識が強くなってきたからでしょう。より初期のレーベルを、可能な限り早い時期のスタンパーを、重い盤を。これら美しくも古い50年代初期のレコードには、前述のとおりの問題をはらんでいるのです。「音楽に親しむ際に、あれば、それはそれで、ゆたかにしてくれるもの」・・・EQ曲線は古いレコードが、たくさん棚に収まっている人たちにとって、そんな類いのものでしょう。「失われた曲線」にするか「禁断の曲線」にするかは、単に趣味の世界。EQ曲線に関しては、これまで数多くの方々から問い合わせをいただきましたが、僕はその度に「体調と精神状態を整えて、自分の耳のイクォライザーを調整して、音楽を楽しんだらいかがでしょう。」とお答えしてきました。そうした質問がどんどん増えてきたのをふまえて、今回のリストから、RIAA曲線を採用していないと明白にわかるレコードには、クォード社のEQ曲線対照表(TYPE2)から僕が独断で選んだEQ曲線を表示してみることにします。できる限り率直に聴いた印象を記して(時間を要する楽しい作業)、レコードを再生する時の参考に少しでもなればと思います。 

  イクォライザーを適合させる機能をもったコントロール・ユニットは、50年代には少なからず存在しました。クォード社を始め、リーク、タンノイ、パイ、ラドフォード、アームストロング、オーディオマスター、ラウザー、英RCA、パンフォニック、ロジャース等、英国の各社は当時こぞって個性豊かな工業芸術品を送り出しています。もちろん、米国からも、マッキントッシュを始めとして多くのイクォライザー変換機能を持たせたアンプを製作しました。しかし、これらを、ただ眺めて磨いている、所有して満足するのではなく、本来それらにしか無い機能を、「使いこなして、生活させる」こと。当時のアンプの魅力的なカタチは、その再生する音のカタチを具象しているに過ぎないということ。どんどん生活の中で使い込んで、レコードとの関わりが「冷たい」ものではなく、「あたたかい、そしてシンプル」なものになれたら。

  ここ数年来、レコードに関する情報は飛躍的に拡がりを見せました。 レーベル、スタンパー、レコード番号リスト、エンジニア、英米以外の国の魅力的なレコード、ICRC(International Classial Record Collectors)の発行、そして録音場所や使用したマイクロフォンについての資料まで、これまで噂や推測で語られてきた虚像やまぼろしが、「事実」として提供されるようになったのです。世界中から、たくさんの50年代のレコードが集められてきました。音楽とレコードを愛する人たちの「好奇心」によってもたらされたといっても、過言ではないでしょう。古くて重い盤が、たくさんレコード棚を満たす時代になったのです。オリジナル盤というとっておきの材料を、どうやって美味しく料理するか、それはこれからの問題です。

   『LXT2000やDGの古い盤は、音がもこもこして、どうも・・・』、こんな話を聞きます。僕もそう、思っていました。でも、イクォライザーを合わせると、どうでしょう。音の輪郭がくっきりして、こんがらがっていた和音がすっと響き、奏者のニュアンスがおもしろいほどに伝わってきます。音の悪いのをレコードのせいにして、適切な再生方法をとらなかったのです。それでも、音がどうも、といっても再発盤よりもはるかに優れた音ですから、「禁断の曲線」を知るまでは、それでよかったのです。訳知り顔のレコード店主たちは知らんぷりを決め込んでいた。トーン・コントロールを使用せず「レコードをあるがままに再生する」ことは、RIAAカーヴでカッティングされなかった古いレコードにとって、「あるがままに再生する」ことではなかったのです。1954年、世界中のレコード会社がEQ曲線をRIAAカーヴに統一することに合意します。といっても、すぐに全てのレコード会社がRIAAカーヴに変更して発売されたのではなく、実際には多くのモノーラル・オリジナル盤が1956年前後まで、それどころか一部のレコード会社はなお、ステレオレコードが出現する1958年頃まで、RIAAカーヴとは異なるEQ曲線で製造していた、という事実です。EQ曲線についての詳しい資料は、制作者であるレコード会社各社からついぞ、公表されることはありませんでした。確かに50年代に欧米で刊行されたハイ・ファイに関する書物に、いくつかの説明はありますが諸説入り乱れており、どの会社が、どの時期に、どのEQ曲線を採用していたか、を特定する道標となるものは存在しません。同じレコード番号でも、製造された時期により採用されるイクォライザー特性が異なっている場合も多く、一枚一枚の手元にあるレコードで自分の耳で、「利き酒ならぬ利き盤」をするほかは、ないのです。ですから、このリストのEQ曲線に関する記述は、なんら根拠のあるものではない、のです。 古いモノーラルのレコードを聴くにつけ、「如何にしたら、録音現場のこの素晴らしい音楽を伝えられるか」という制作に携わった人々の強烈な意欲に、僕の好奇心は拡がります。

  レコードを「受け身」のものとして捉えるのではなく、レコードに「はたらきかける」こと。EQ曲線のことにしても、クォードのアンプがなければ、どうしようもない、と思い込んでいただいては、困るのです。あなたのアンプにトーン・コントロールがついていたら、一度試してみる価値はありましょう。「接点が増えて、歪みが増える」というタブーはこれまで、我国のオーディオファイル達に固く信奉されてきました。たしかに、そのとおりです。しかし、今回問題にしているのは、40年以上も前の工業芸術品(Applied Art)である「レコード」と「再生装置」に関することなのです。それらは「経験的事実」と「科学的事実」のバランスから生み出された傑作です。1950年から54年にかけて製作された、英ハートレー・ターナー社のコントロールユニットの取り扱い説明文には「・・・この装置にはLPに対応するためにバス・リフトとトレブル・カットが付いています。このトーン・コントロールを適切に使用すれば、正しいLP再生が可能になります。なぜなら、LPの再生はトーン・コントロールを使用するようにデザインされているのですから。」とあります。当時のユーザーは、適切なEQ曲線を「自分の耳で」探したのです。当時の事物を「ちゃんと見る」こと。「数字的事実の蓄積」に偏っている今日、「経験的事実の蓄積」は、重いものと、僕は思います。

グレイリスト#22 1996 July 号のあとがきより一部補筆

http://blog.livedoor.jp/thorens/archives/cat_50031428.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/635.html#c60

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
285. 2020年8月03日 12:38:37 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[9]
Japan considered from the hypothesis of farmer/ language spread
https://www.academia.edu/43005029/Japan_considered_from_the_hypothesis_of_farmer_language_spread?email_work_card=title

北九州玄界湾地域への稲作の導入(図1)周りから紀元前1000年は弥生時代の始まりです。
ウェットライス技術はムムンによって導入されました(「素焼き(訳者注:Mumun、無紋)」)朝鮮半島南部からの比較的早い時期の文化移民。
紀元前1000年半島のムムン時代(紀元前1500年から300年)。
これらの移民は弥生ではなく、ムムンでした。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c285

[近代史3] 弥生文化のルーツ 中川隆
7. 中川隆[-11965] koaQ7Jey 2020年8月03日 12:39:19 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[10]
Japan considered from the hypothesis of farmer/ language spread
https://www.academia.edu/43005029/Japan_considered_from_the_hypothesis_of_farmer_language_spread?email_work_card=title

北九州玄界湾地域への稲作の導入(図1)周りから紀元前1000年は弥生時代の始まりです。
ウェットライス技術はムムンによって導入されました(「素焼き(訳者注:Mumun、無紋)」)朝鮮半島南部からの比較的早い時期の文化移民。
紀元前1000年半島のムムン時代(紀元前1500年から300年)。
これらの移民は弥生ではなく、ムムンでした。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/964.html#c7

[近代史3] 日本語の系統とその遺伝子的背景 中川隆
4. 中川隆[-11964] koaQ7Jey 2020年8月03日 12:40:26 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[11]
Japan considered from the hypothesis of farmer/ language spread
https://www.academia.edu/43005029/Japan_considered_from_the_hypothesis_of_farmer_language_spread?email_work_card=title

北九州玄界湾地域への稲作の導入(図1)周りから紀元前1000年は弥生時代の始まりです。
ウェットライス技術はムムンによって導入されました(「素焼き(訳者注:Mumun、無紋)」)朝鮮半島南部からの比較的早い時期の文化移民。
紀元前1000年半島のムムン時代(紀元前1500年から300年)。
これらの移民は弥生ではなく、ムムンでした。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/729.html#c4

[近代史5] 朝鮮人の起源 中川隆
5. 中川隆[-11963] koaQ7Jey 2020年8月03日 12:42:06 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[12]
Japan considered from the hypothesis of farmer/ language spread
https://www.academia.edu/43005029/Japan_considered_from_the_hypothesis_of_farmer_language_spread?email_work_card=title

北九州玄界湾地域への稲作の導入(図1)周りから紀元前1000年は弥生時代の始まりです。
ウェットライス技術はムムンによって導入されました(「素焼き(訳者注:Mumun、無紋)」)朝鮮半島南部からの比較的早い時期の文化移民。
紀元前1000年半島のムムン時代(紀元前1500年から300年)。
これらの移民は弥生ではなく、ムムンでした。
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/194.html#c5

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 鈴木保奈美・三上博史 この世の果て (フジテレビ 1994年) 中川隆
2. 中川隆[-11962] koaQ7Jey 2020年8月03日 14:18:45 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[13]
ドラマ・・・この世の果て・・5話・6話



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/997.html#c2
[リバイバル3] 天才が老害になるまで ヘンリー・フォードの場合 中川隆
1. 2020年8月03日 16:25:51 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[14]

2020年08月03日
天才が凡夫になるまで ヘンリー・フォードの場合

フォードが作った最初の車、技術者として冴えていたのはこの後10年くらいだった。


デトロイトの天才少年

フォードの創業者ヘンリー・フォード1世は20世紀で最も偉大な実業家として知られている。

T型フォードで世界初の量産自動車を販売しただけでなく、大量生産や消費者も作り出した。

フォード以前には手工芸的な機械しか存在せず、またフォード以前に「消費者」は存在しなかった。


ヘンリー・フォードは天才技術者として華々しく登場したが、最後は凡庸な経営者として世を去った。

80歳のときフォード社長に復帰したが、喜ぶものは誰もおらず、83歳で無くなった時、多くの人が実際にはほっとした。

フォード社の人達は、これでもう仕事を邪魔される事が無く、会社が倒産する事もないと考えていた。


フォード1世はミシガン州の田舎で農家の長男として生まれ、父親はやっと手に入れた農場を、息子が継ぐのを希望していた。

父のウィリアム・フォードはアイルランドで食いっぱぐれた貧困小作農で、ジャガイモが不作で破綻したアイルランドからアメリカに移住した。


持っていたのは大工道具一式だけだったが、アメリカには大工仕事が山のようにあり、数年で自分の家や自分の農場を買う事が出来た。


フォード1世は子供の頃から機械いじりが得意で、近所中の時計を分解しては組み立てて修理したりしていた。

農場の仕事を嫌って都会のデトロイトに出てきて、いくつかの機械関係の仕事を経た後に、自動車をつくる事にした。

最初の自動車会社を設立したのは36歳のとき、デトロイト自動車会社で最初の自動車を作ったが、パッとせずすぐ解散した。

ヘンリー・フォードの時代

38歳の時に再びヘンリー・フォード・カンパニーを創業したが会社を去り、40歳のときに紆余曲折を経てフォードモーターを創設している。

フォードの経営が安定するまで少なくとも2回創業に失敗し、資金難からの経営危機にも見舞われていた。

フォードは自動車メーカーが無数に現われたデトロイトでチャンピオンになったが、この頃行われるようになった自動車レースが大きな役割を果たした。


レースによって人々は見た目とか大きさではなく、始めて「性能」で自動車を比較するようになり、フォードが作った車は当時の世界記録を連発した。


フォード1世はピストンから自動車を手作りした訳ではなく、自動車製造に必要な技術が既にデトロイトには存在した。

馬車が普及していたので初期の自動車の車体は馬車そのもので、金属加工や皮細工、腕の良い大工職人なども多く居た。


蒸気機関も既に存在したので、後にガソリンエンジンで必要になるエンジン部品の加工技術もあった。

ガソリンエンジンは蒸気機関よりも小型で高回転なので、より精密な加工技術が必要だったが原理は大して違わなかった。

デトロイトはアメリカの東西を結ぶ交通の要衝で、自動車の需要があり、この土地で自動車産業が生まれる要素が揃っていた。

フォード1世が45歳の時に最初の量産自動車「T型フォード」を発売し、これが世界史を変えるほどの産業革命を起こした。

T型フォードは最初非常に高価だったが、流れ作業やベルトコンベアなど量産技術を導入し、低価格化が進んだ。

T型フォードは1908年に825ドルで発売されたが、1917年には360ドルまで値下げされた。


この間にフォード労働者の賃金は日給2ドルから6ドルに上昇し、最後には60日間分の賃金でT型フォードが買えるようになっていた。

現代では日給1万5千円の労働者なら、約60日間分の賃金で一番安い軽自動車を買えるが、そのような時代がアメリカでは100年前に到来していた。

この大量生産と豊かな消費者が生み出す経済力によって、アメリカは超大国になり、第一次・第二次大戦も物量と豊かさで圧倒する事になる。

このころ日本人の9割が農民で、牛や馬を持っていればマシな方、人力で田畑を耕して蒸気鉄道がやっと普及しようとしていました。

天才から凡夫へ

フォード1世はT型フォードの生産方法を改善する事に尽くし、溶けた鉄から製品まで最初1ヶ月掛かっていたが、最後は4日になった。

熟練工1人が最初から最後まで製造していたのを、100人が100の行程で単純作業するようにし、素人でもできるようにした。

販売台数は爆発的に増加し、1914年に47万台を販売し、T型フォードトータルでは1500万台も売れ、世界で販売される自動車の半分にも達したと言われている。

ただしフォード1世はT型フォードを自分の分身か芸術品のように扱い、いかなる改良や変更も一切認めなかった。

1912年にフォード1世が欧州旅行に出かけた隙に、フォード幹部はこっそり改良を施した。

車体を少し長くしたり、乗り心地を良くしてユーザーに答えたもので、きっとフォードが喜ぶだろうと考えていた。


改良型を見せられたフォード1世は無言のままハンマーで車をバラバラに破壊し、飽き足らずに改良した幹部と技術者をクビにした。

燃料装置を改良してパワーを上げた改良型を開発した幹部も居て、ある日フォード1世にそれを見せた。

フォード1世はエンジン出力を下げるよう命令し、その幹部も後にクビになった。


やがてフォード1世はT型フォードを自分自身と見做すようになり、どんな変更や改良も自分自身への否定と考えるようになった。

ある日黒一色だった色を追加しようと提案され、「もちろんいいとも、ただし黒に限る」と答えたとされている。

こうしてT型フォードは最初から最後のモデルまで何も改良される事なく、自動車業界の盟主の地位をGMに明け渡した。


フォード1世は社長を退いて息子のエドセルが継いだが、実質的にフォード1世が社長のままであり、81歳まで独裁者であり続けた.

晩年までフォード1世は自分が作り上げたフォード社への、あらゆる変更や改革を禁止し、盾つくものは追い出していった。

フォード1世の偏狭さのお陰でライバルのGMは世界一になり、2度とフォードが世界一の座を取り戻す事はできなかった。


そしてフォードや米自動車業界は、70年代のオイルショックや2000年代のリーマンショックでも、同じような失敗を繰り返す事になる。
http://www.thutmosev.com/archives/71879618.html#more
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/743.html#c1

[番外地8] 現在はマルクスが預言した通りの階級社会になっているから、世界がこれから共産社会になるというのは正しいですね。 中川隆
1. 2020年8月03日 18:35:22 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[15]
そもそも共産主義に組織なんか無いでしょう。
下の階級の人間は食べて行けないし、病気になっても治療できないから革命を起こすだけです。
子供も高卒で未来永劫底辺になってしまいますからね。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/149.html#c1
[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 鈴木保奈美・三上博史 この世の果て (フジテレビ 1994年) 中川隆
3. 2020年8月03日 19:05:42 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[16]
ドラマ・・・この世の果て・・・7話・8話




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/997.html#c3
[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 鈴木保奈美・三上博史 この世の果て (フジテレビ 1994年) 中川隆
4. 2020年8月03日 21:30:47 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[17]
ドラマ・・・この世の果て・・9話・10話



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/997.html#c4
[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 鈴木保奈美・三上博史 この世の果て (フジテレビ 1994年) 中川隆
5. 2020年8月03日 23:27:05 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[18]
ドラマ・・・この世の果て・・11話・12話 完



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