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[近代史7] 「帰って来たヨッパライ」 ザ・フォーク・クルセダーズ 加藤和彦(1947年3月21日 - 2009年10月16日) 中川隆
1. 中川隆[-14623] koaQ7Jey 2021年12月11日 05:37:07 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[1]
加藤 和彦 (かとう かずひこ、1947年3月21日 - 2009年10月16日[1])は、日本の音楽家。作曲、編曲、音楽プロデュース、撥弦楽器や鍵盤楽器などの演奏・歌唱を通じて、制作者・実演家として活動した。愛称は「トノバン」[注釈 1]。


1960年代フォークグループ『ザ・フォーク・クルセダーズ』(通称フォークル)でデビュー。その後、ソロ活動に移行し、並行して1970年代初頭から中盤にかけてロックバンド『サディスティック・ミカ・バンド』を結成するなど、斬新なアイデアに満ちた創作活動で、1960年代後半から70年代の日本のミュージックシーンをリードした。

1977年、作詞家の安井かずみと再婚。安井が病に倒れる1990年代初頭まで「作詞・安井かずみ/作曲・加藤和彦」のコンビで、通称『ヨーロッパ三部作』[注釈 2] などのソロ作品のほか、数々の作品を他ミュージシャンに提供した。また、時代の先端を行くファッショナブルな2人のライフスタイルも世間の注目を集めた[注釈 3]。さらに、1980年代から映画・舞台音楽、1990年代後半からはスーパー歌舞伎の音楽など、ポップミュージックの垣根を越えたさまざまなジャンルの音楽も幅広く手がけていた。


略歴

出生
京都市伏見区に生まれる。生後すぐに神奈川県に移り、小学校4年まで鎌倉と逗子市で過ごし[book 1]、その後京都に戻り1年で東京に転居、高校卒業まで日本橋で育つ[book 1][book 2]。加藤自身「実は江戸っ子なんです」と述べている[book 1]。

ザ・フォーク・クルセダーズ結成
1963年に発表された、ボブ・ディランの『くよくよするなよ (Don't Think Twice, It's All Right)』に影響を受け、ギターを始める。1965年に東京都立竹台高等学校を卒業後[2]、仏師だった祖父の後を継ぐ気持ち半分で[book 3] 京都市伏見区の実家に近い仏教系大学龍谷大学に入学。このころからアマチュア・フォークグループ、「ザ・フォーク・クルセダーズ」の活動を始める。

プロデビュー
1967年、ザ・フォーク・クルセダーズの解散記念として、自費でアルバム(インディーズではない)『ハレンチ(破廉恥)・ザ・フォーク・クルセダーズ』を制作。その中の『帰って来たヨッパライ』に対するリクエストがラジオ局に殺到し、プロデビューの話が持ち込まれる。加藤は難色を示したが、北山修の説得[book 4] を受け、龍谷大学経済学部を中退。東芝音楽工業株式会社と契約し、1年限定でプロの世界に入る。

1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの2枚目のシングルとして予定していた『イムジン河』が発売中止となる。同年7月1日、『水虫の唄』(作詞・作曲:山田進一、補作詞:足柄金太、補作曲:河田藤作)をアルバム『紀元貮阡年』の先行シングルとして発売した。彼らは曲に合わせていろいろな名前を使い分け、このシングルは「ザ・ズートルビー」という名前で発表した。1968年10月17日、ザ・フォーク・クルセダーズが解散。

第1期ソロ活動
1969年にシングル『僕のおもちゃ箱』を発表し、ソロ活動を開始。同時に作曲家としての作品提供も始め、キングストン・トリオのメンバーであるジョン・ステュワートに因んだ「ジョン」というペンネームを用いて自身のファンクラブ「クラブ・ジョン」を設立し、楽譜の出版なども行う。

シンガーとしては「トノヴァン」の愛称に示されるようなドノヴァンの影響下にある歌唱法を確立していく[book 5]。この時期は頻繁にロンドンを訪れ、吉田克幸と知り合う。1970年7月に福井ミカと結婚。1971年4月5日 、北山修との連名によるシングル『あの素晴しい愛をもう一度』を発表。

サディスティック・ミカ・バンド結成
1971年11月、妻のミカをボーカルに据えた「サディスティック・ミカ・バンド」を結成。ロンドンポップ、グラム・ロック、レゲエ、琉球音階などを導入するなど、実験精神に溢れたサウンドを展開。

1973年には、英国滞在時にザ・フォーク・クルセダーズの印税を投入して購入したPA機器、WEMを用いて、日本初のPA会社「ギンガム」を設立[book 1]。同年、ナショナル住宅建材株式会社(現・パナソニック ホームズ)のCMに使われた『家をつくるなら』をソロ名義でシングル発売。

1974年、クリス・トーマスのプロデュースによる、サディスティック・ミカ・バンドのセカンドアルバム『黒船』を発表。その後、ロキシー・ミュージックのオープニング・アクトとしてイギリスツアーを行う。1975年、ミカと離婚し、サディスティック・ミカ・バンドは解散。

第2期ソロ活動
1976年、シングル『シンガプーラ』を発表し、ソロ活動を再開。翌年には同シングルの作詞を手がけた安井かずみと再婚し、以後、安井とのコンビで数多くの作品を発表した。1979年、ワーナー・パイオニア[注釈 4] に移籍。

1983年、CBS/SONYに移籍し、ソロ・アルバム『あの頃、マリー・ローランサン』を発表。同年、村上龍原作の映画『だいじょうぶマイ・フレンド』の音楽監督を務め、以後多くの映画音楽を手がける。1980年代後半からは舞台音楽も手がけ、「スーパー歌舞伎」を加藤と共同で制作した市川猿之助は「歌舞伎史上初めて洋楽オーケストラを歌舞伎に取り入れた」と語った[3]。

バンド活動再開
1985年6月15日、国立競技場で5万人の観客を集めて開催された国際青年年 (IYY) 記念イベント"ALL TOGETHER NOW"にサディスティック・ユーミン・バンド(ヴォーカルは松任谷由実)として出演。1987年、東芝EMIに移籍し、ソロ・アルバム『マルタの鷹』を発表。1989年、サディスティック・ミカ・バンドを再結成。ヴォーカリストとして桐島かれんを迎え、アルバム『天晴』を発表。

1991年2月、安井かずみとの最後の共作となったソロ・アルバム『ボレロ・カリフォルニア』を発表。同年8月には画家の金子國義、CGアーティストの庄野晴彦と協同で日本初のマルチメディアソフト『Alice』を制作。1994年、安井かずみが死去。

1995年、クラシック音楽のソプラノ歌手、中丸三千繪と再々婚。1996年9月からNHK趣味百科「アコースティック・ギター入門」に講師として石川鷹彦とともに出演。教材として『あの素晴しい愛をもう一度』などを取り上げた。10月にはフジテレビ系『ポンキッキーズ』挿入歌として、西田ひかるとのデュエット曲『メロディー』を発表。2000年、中丸と離婚。

2002年、ザ・フォーク・クルセイダーズを新結成。同時に催された「新結成解散コンサート」は市川猿之助と共に歌舞伎の口上で幕を開けた。2005年、PlayStation 2用ゲームソフト『天外魔境III NAMIDA』の音楽を担当。指揮に佐渡裕、演奏に新日本フィルハーモニー交響楽団、歌手にサラ・ブライトマンを起用した。

2006年、サディスティック・ミカ・バンドを再々結成。ヴォーカルに木村カエラを迎え、アルバム『NARKISSOS』を発表。2007年には坂崎幸之助とのユニット「和幸(かずこう)」を結成。第1期ソロ時代の楽曲『不思議な日』なども取り上げた。

2008年3月、加藤を中心として小原礼、屋敷豪太、土屋昌巳が集まり、「男4人じゃムサい」とANZAをボーカルに起用し、VITAMIN-Q featuring ANZAを結成した。バンド名はエレクトリックギターやベースのパーツとして使われるオイルコンデンサーの名前から取られている[4]。同年12月、『VITAMIN-Q』発表。

2009年10月2日、東京国際フォーラムでの松任谷由実のコンサートにゲスト出演し、「黄色いロールスロイス」にギターとヴォーカルで参加。これが公の場に姿を見せた最後の機会となった。

死去
ウィキニュースに関連記事があります。
音楽家の加藤和彦氏自殺
2009年10月17日、長野県北佐久郡軽井沢町のホテルで遺体となって発見された。死因は首吊りによる自殺と見られている[1][5][注釈 5]。享年63(満62歳没)。

没後
2009年12月10日、北山修と坂崎幸之助の主催で「加藤和彦さんを偲ぶ会 KKミーティング」が行われる。生前の関係者が多数参加し、500名ほどが参加した[6]。

2012年3月にNHK「ハイビジョン特集」にて安井の闘病生活を題材とした単発ドラマ「優雅な生活が最高の復讐である」が放映され、安井役を麻生祐未、加藤役を袴田吉彦が演じた[7]。

人物

創作
「同じことは二度とやらない」をモットーとしており、サディスティック・ミカ・バンドやザ・フォーク・クルセダーズ再結成の際も、過去とは全く異なるアプローチで臨んでいた(フォーク・クルセダーズは「再結成」ではなく「新結成」であると加藤は語っていた)[8]。

「自分以上でも、自分以下でもない音楽」を作ることを信条とし、自身の生活におけるあらゆる体験が作品に昇華されるとした。ただし、体験が10とした場合、実際の作品に及ぼす影響は1くらいだという[book 7]。
映画音楽については、映画の持つウェイトを1とした場合、音楽を2として、両方合わせて5くらいになる作品を創りたいとしている[book 8]。


趣味
自ら本格的な料理を作ることを好み、専門の料理人について学んでもいる。ザ・フォーク・クルセダーズとしてプロデビューするまではコックの仕事に就く予定だった。加藤は料理と音楽創りには相通ずるものがあるとし、食材を楽曲、調理をレコーディング、食べることを聴くことに例えている[book 3][book 9]。
読書家であり、中学時代から集めていたハヤカワ・ミステリの蔵書は900冊に上っていた[book 1]。読む本のジャンルもさまざまで、安井かずみによれば、しばしば加藤は複数の本を同時進行で読んでいたという[book 10]。
ファッション・リーダーとしても知られ、『MEN'S CLUB』や『POPEYE』などへの寄稿のほか[book 11]、『優雅の条件』『エレガンスの流儀』などの著書も出版している。


交友
加藤と安井が友人達と通ったレストラン「キャンティ」(港区麻布台、2018年)
吉田拓郎は、加藤の才能は日本では唯一無二なもので、10人の歌手の10通りの歌へのアドバイスが即座にできるとし、自身もアレンジを依頼した『結婚しようよ』での加藤の仕事ぶりを目にしてから、音楽をやって行く自信がついたと語っている[book 12]。

アイドル歌手の西田ひかるに曲を提供しているが、当時はまだ若くなおかつ帰国子女である西田には、加藤の仕事についての知識はあまりなかった。レコーディング前に行われるレッスンに加藤が参加した際は、音楽業界の大立者である加藤見たさに、普段は顔を出さないレコード会社の社員やスタッフなどが大勢集まり、とても賑やか(加藤が挨拶や握手攻めに遭っていて、なかなかレッスンがスムーズに進行せず、西田には迷惑なくらい)だったという。

晩年は鬱病を患い、死の直前にはそれが悪化していたという。死の1週間前には、神経症が持病の高橋幸宏と電話で「今、鬱でね」「どういう薬飲んでる?」と気楽に話しており、3日前には故郷の京都で旧友らと会食している。

遺書には「世の中が音楽を必要としなくなり、もう創作の意欲もなくなった。死にたいというより、消えてしまいたい」と綴られていたという[9]。

1993年、2番目の妻の安井かずみと揃って日本基督教団鳥居坂教会でキリスト教の洗礼を受けた。しかし、2009年に営まれた自身の葬儀は加藤の遺志から無宗教方式で、喪主も葬儀委員長も立てずに密葬で行われた[10]。

ディスコグラフィ

シングル
僕のおもちゃ箱/明日晴れるか(1969年)
ネズミ・チュウ・チュウ・ネコ・ニャン・ニャン/日本の幸福(1969年)
ぼくのそばにおいでよ/アーサーのブティック(1969年)
チッチとサリー/カフェ・ル・モンドのメニュー(1970年)※翁玖美子とのユニット「チッチとサリー」名義
あの素晴しい愛をもう一度/僕を呼ぶ故郷(1971年)※「加藤和彦と北山修」名義
家をつくるなら/不思議な日(1973年)
シンガプーラ/キッチン&ベッド(1976年)
アラウンド・ザ・ワールド/ジョージタウン(1979年)※両A面シングル
ソルティ・ドッグ/レイジー・ガール(1980年)
おかえりなさい秋のテーマ - 絹のシャツを着た女/サン・サルヴァドール(1980年)
ルムバ・アメリカン/パリはもう誰も愛さない(1980年)
ロスチャイルド夫人のスキャンダル/浮気なGIGI(1981年)
だいじょうぶマイ・フレンド/街に風が吹く時(1983年)
優しい夜の過し方/あの頃、マリー・ローランサン(1983年)
ハリーズBAR/真夜中のバレリーナ/ソング・フォー・ヴェネツィア(1985年)※12インチシングル
ジャスト・ア・RONIN/RONIN(1985年)※吉田拓郎・加藤和彦 名義
純情/5月の風(1993年)※吉田拓郎 & 加藤和彦 名義
メロディー(1996年)※西田ひかる with 加藤和彦 名義
愛はピカピカ(1999年)


アルバム

スタジオ・アルバム
ぼくのそばにおいでよ(1969年)
スーパー・ガス(1971年)
それから先のことは…(1976年)
ガーディニア(1978年)
パパ・ヘミングウェイ(1979年)
うたかたのオペラ(1980年)
ベル・エキセントリック(1981年)
あの頃、マリー・ローランサン(1983年)
ヴェネツィア(1984年)
マルタの鷹(1987年)
ボレロ・カリフォルニア(1991年)

ベスト・アルバム、作品集
Catch-22(1977年10月、東芝EMI)
アメリカン・バー(1982年3月、ワーナー・パイオニア)
Le Bar Tango(1985年12月、CBSソニー)
加藤和彦の世界(1999年2月、Pヴァイン)
Memories 加藤和彦作品集(2002年12月、EMIミュージック・ジャパン)
加藤和彦作品集(2012年10月、日本コロムビア)
ヨーロッパ三部作・ベストセレクション(2017年10月、ユニバーサルミュージックジャパン)

オムニバス、ライヴ
カレッジポップス・コンサート実況録音盤(1969年11月、東芝音楽工業 EP-7730)※「ぼくのそばにおいでよ」収録。
カレッジ・ポップス出初式(1970年3月、東芝音楽工業 EP-7742)※「カフェ・ル・モンドのメニュー」収録。
カレッジ・ポップス・イン・U.S.A.(1970年12月、東芝音楽工業 EP-7778)※サポートメンバーとして全体に参加。(12弦ギター)
S.O.S.コンサート〜フォークとロックの大合同演奏会・渋谷公会堂における実況盤(1971年4月、東芝音楽工業 ETP-7512〜3)※「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」「もしも」「ふしぎな日」収録。
北山修・ばあすでい・こんさあと(1971年9月、東芝音楽工業 ETP-8114)※1971年6月19日、大阪毎日ホールにおける実況盤。「あの素晴しい愛をもう一度」収録。
ヤング・ジャパン国際親善演奏旅行(1971年12月、東芝音楽工業 ETP-9401)※「家をつくるなら」「ララ・ムラ」収録。
ジローズ・サヨナラ・コンサート(1972年6月、東芝音楽工業 ETP-8177)※1972年3月12日、渋谷公会堂における実況盤。「家をつくるなら」収録。
ラブ・ゼネレーション〜ラブ・ゼネレーション・ライヴ・コンサート 日本武道館における実況盤(1973年8月、東芝音楽工業 ETP-7695〜6)※「ピクニック・ブギ」「銀河列車」収録。(加藤和彦とサディスティック・ミカ・バンド名義)

サウンドトラック
探偵物語 オリジナル・サウンドトラック(1983年7月16日、東芝EMI)※赤川次郎原作による同名映画のサントラ盤。主演の薬師丸ひろ子が歌う主題歌を除き、加藤が音楽を担当。
天外魔境III NAMIDA オリジナル・サウンドトラック

イメージ・アルバム
LE PILOTE(1992年8月、東芝EMI)※1992年のF1世界選手権に参戦したフットワーク無限ホンダのイメージ・アルバム。加藤和彦/マーク・ゴールデンバーグ名義。

トリビュート
Catch-35(2003年12月、ギューン・カセット/美音堂)※山本精一らによるデビュー35周年トリビュート企画。
あの頃、マリー・ローランサン2004 A TRIBUTE TO K.Yasui & K.Kato(2004年6月、ソニーミュージック)※川口大輔らによるリメイク盤。

映画音楽
だいじょうぶマイ・フレンド(1983年)
探偵物語(1983年)
天国の駅 HEAVEN STATION(1984年)
野蛮人のように(1985年)
幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬(1986年)
ハワイアン・ドリーム(1987年)
菩提樹 リンデンバウム(1988年)
ガラスの中の少女(1988年)
花の降る午後(1989年)
継承盃(1992年)
大失恋。(1995年)
ちんちろまい(2000年)
パッチギ!(2005年)
青いうた のど自慢青春編(2006年)
つゆのひとしずく(2006年)
パッチギ! LOVE&PEACE(2007年)

テレビ番組音楽
おしゃれテーマソング 日本テレビ(1980年)

舞台音楽
西遊記(1972年)
YOKOHAMAスーパーオペラ『海光』(1989年)
西太后(1997年)
スーパー歌舞伎・新三国志(1999年)
KANSAI SUPER SHOW“ HELLO JAPAN! HELLO 21!! in Gifu”(2000年)
スーパー歌舞伎・新三国志II(2001年)
スーパー歌舞伎・新三国志III(2003年)
スーパー歌舞伎・ヤマトタケル(2005年)
二十一世紀歌舞伎組・雪之丞変化2006(2006年)
スーパー歌舞伎・ヤマトタケル(2008年)
二十一世紀歌舞伎組 新・水滸伝(2008年)
うたかたのオペラ(2009年)
※その他

ゲーム音楽
天外魔境III NAMIDA(2005年、ハドソン、PlayStation 2) - 作中にも加藤をモチーフとした名曲茶屋を営むキャラクター「カズ」が登場する。
愛はピカピカ - PlayStation ゲームソフト 「fun!fun!Pingu〜ようこそ!南極へ〜」 エンディングテーマ(シングルも発売、1999年)

アルバム参加
「メケ・メケ」(ドクター・ケスラー名義、アルバム『スネークマン・ショー』収録、1981年)
「Standing There」(スティーヴ・ハイエット『渚にて…』収録、1983年)
「ハニー・パイ」(ザ・ビートルズのトリビュート・アルバム『抱きしめたい』収録、1988年)
「うまうまマンボ」(プロデュース、アレンジ、アルバム『ゲンスブール・トリビュート'95』収録、1995年)
「黄色いロールスロイス」(松任谷由実 & 加藤和彦名義、アルバム『そしてもう一度夢見るだろう』収録、2009年)


未発表曲
「泣いて泣いて」※ザ・フォーク・クルセダーズ解散直後にサトウハチローとのコンビで私的に作られた未発表曲。ライブで一度演奏したきりで未レコーディングのままになっていたが、2016年12月に村上紗由里の演奏(EPレコード、2017年5月にCDミニアルバム)で約半世紀ぶりに日の目を見た。


その他
「大統領殿」※ボリス・ヴィアン作詞 Le déserteur「徴兵忌避者」の日本語版
「手と手 手と手」※2008年のオリンパス・BRAVE CIRCLE 大腸がん撲滅キャンペーン・ソングで、加藤和彦のソロ名義で発表された最期の作品。無料配信曲としてリリースされ、非売品CDも頒布された[book 13]。


出演

テレビドラマ
『青空に飛び出せ!』(1969年、TBS)

映画
『帰って来たヨッパライ』(1968年、大島渚監督作品)
『四月物語』(1998年、岩井俊二監督作品)
『Sadistic Mica Band』(2007年、滝本憲吾監督作品)


CM
富士ゼロックス(現・富士フイルムビジネスイノベーション)(1970年)※「モーレツからビューティフルへ」のキャッチコピーで有名[book 14]。
モービル石油(現・ENEOS)(1971年)※CMソング「気楽に行こう」(マイク眞木)加藤はナレーションを担当。
ナショナル住宅建材株式会社(現・パナソニック ホームズ株式会社)(1971年)※CMソング「家をつくるなら」
セブン-イレブン(1981年)※CMソング「アメリカン・バー」(アルバム『ベル・エキセントリック』収録)
トヨタ自動車・コロナ(8代目・T150系)(1983年 - 1987年)※秋山育(イラストレーター)、松山猛、肥田日出生(明治学院大教授)、ジミー・ネルソンと共演。CMソングは加藤作曲の「お前は引力」(歌:直井秀樹)。
東急建設(1983年)※CMソング「優しい夜の過し方」安井かずみと共演。
サントリー・レゼルブワイン(1987年)
ホンダ・ライフ ナレーション(2003年-2004年)
オリンパス・BRAVE CIRCLE 大腸がん撲滅キャンペーン(2008年)※キャンペーン・ソング「手と手 手と手」
JT・分煙活動PR ナレーション(2008年-2009年)
パイロットコーポレーション(当時はパイロット萬年筆株式会社)(1977年頃)

書籍

単著
『優雅の条件』(1991年、京阪神エルマガジン / 2010年2月8日、ワニブックスPLUS新書、ISBN 9784847060137 / 2010年9月、シーオーツー、電子書籍)
『エレガンスの流儀』(2010年3月25日、河出書房新社)
共著
加藤和彦、立川直樹、森永博志編『加藤和彦スタイルブック あの頃、マリー・ローランサン』CBSソニー出版、1983年11月。ISBN 9784789701112。
加藤和彦、松木直也『加藤和彦 ラスト・メッセージ』文藝春秋、2009年12月。ISBN 9784163722801。
加藤和彦、前田祥丈『エゴ〜加藤和彦、加藤和彦を語る』スペースシャワーネットワーク、2013年7月。ISBN 9784906700882。

安井かずみとの共著
『加藤和彦、安井かずみのキッチン&ベッド』(1977年7月、主婦と生活社)
『ワーキングカップル事情』(1984年1月、とらばーゆBooks / 1986年3月、新潮文庫)
『ニューヨーク・レストラン狂時代』(1987年5月、渡辺音楽出版)
『ヨーロッパ・レストラン新時代』(1990年2月、渡辺音楽出版)
『カリフォルニア・レストラン夢時代』(1991年1月、渡辺音楽出版)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%92%8C%E5%BD%A6
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/724.html#c1

[近代史7] 「スーダラ節」 萩原哲晶(1925年5月26日 - 1984年1月13日) 中川隆
1. 中川隆[-14622] koaQ7Jey 2021年12月11日 05:47:54 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[2]
萩原 哲晶(はぎわら ひろあき、本名:南沢 哲晶、1925年5月26日 - 1984年1月13日)は、日本の作曲家。

経歴
北海道岩見沢市で病院長の家庭に生まれる。弟の萩原秀樹はジャズピアニスト。旧制北海中学を経て、1942年、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)器楽科に入学(クラリネット専攻)。同級に岩井直溥や早川博二がいた。戦時中は團伊玖磨、芥川也寸志、斎藤高順、梶原完たちと陸軍戸山学校軍楽隊に入隊[3]。音楽学校の乗杉嘉壽から山口常光(戸山軍楽隊)、山口から阿南惟幾へ話を持ち込み彼等はいわゆる徴兵から逃げた。彼等なりに苦労もあったが、宮沢昭は年上の彼等が上流階級ゆえに贅沢をしていたことを証言している。1945年に東京音楽学校を卒業。

1948年、第2次「南里文雄とホットペッパーズ」でハナ肇と知り合う[4]。1949年、「萩原哲晶とデューク・オクテット」を結成[4]。1952年[4]、「萩原哲晶とデューク・セプテット」での活動を経て、1955年4月1日、ハナ肇、犬塚弘らとともに、クレージーキャッツの前身である「ハナ肇とキューバン・キャッツ」の結成に参加するも、作曲に専念するため後に脱退。

「スーダラ節」などクレージーキャッツのほとんどの曲で作曲・編曲を手がけた。クレージーキャッツの映画化作品の音楽も多数担当したほか、前田武彦作詞の『エイトマン』主題歌や、『おくさまは18歳』などのコメディ色の強いテレビドラマで音楽を担当した。マーチ調の明るい曲を得意とし、特にイントロや間奏で全世界を照らすかのごとく輝きわたる金管は彼の真骨頂である。

クレージーキャッツのための作品では、青島幸男による毒の強すぎる原詩に対し、毒を抜きながらユーモアの要素を強めた詞の改変を提案してもおり、青島自身によれば[5]「無責任一代男」の青島原詩のオチが単に「馬鹿」であったのを、ユーモラスな揶揄の「ごくろうさん!」に、「ドント節」の原詩の「クビには」を「パアには」変えたのは、いずれも萩原の提言によるという。

名前の「萩」を「荻」、「晶」を「昌」と誤表記される事が多く、「スーダラ節」の初発盤レコード(東芝音楽工業、JP-1300)ではこの誤った名前でクレジットされている[6]。その他、音楽を担当した映画のクレジットやクレージーキャッツ関連書籍のいくつかにもこの誤りが見受けられる。一方で「てっしょう」と誤読されることも多く、これも通称として認めていた[7]。仲間うちでの愛称は「デクさん」。このニックネームは、巨根の持ち主であったことに由来するという[8]。

1984年1月13日、中咽頭腫瘍のため58歳で逝去。

没後、大瀧詠一が1986年にクレージーキャッツの「実年行進曲」を作曲・編曲した際に、萩原の編曲手法に着想を得た事から萩原を「原編曲」としてクレジットしている。ちなみに大瀧は萩原サウンド愛好家で、クレージーキャッツファンであった。

逸話
函館港の待合室で、萩原は新聞を読んでいた。やがて異臭を感じた植木等がよく見ると、萩原のコートがストーブに触れており、そこから微かに煙が上がっていた。「デクさん、もうちょっと離れた方がいいですよ」と植木から注意されても萩原は生返事をするだけで動かず、新聞を読み続けていた。やがてコートが燃え始めたので、植木は「コートが燃えてますよ」と言ったが、萩原は「知ってます」と答え、なおも新聞を読み続けた[9]。

生涯に7回結婚している。「七回結婚したなんて、やっぱり凡人に分からない魅力があったんだろうね」と植木は語っている[10]。

クレイジーキャッツの面々は、萩原に「えー、みなさん、新しい譜面が出来上がりましたから、明日3時に来てください。練習しますから」と呼びかけられ、翌日3時に全員が集まった。しかし稽古の直前に萩原が「あっすみません。譜面を家に忘れてきました」と言い出したため、練習は中止になってしまった。そのような出来事が1度や2度ではなかったという[11]。

萩原の芸大器楽科時代の同級生にトランペット奏者の早川博二がいる。あるとき、仕事前に野球の試合をして埃まみれになった萩原が銭湯で頭を洗っていると、早川から「お湯かけてあげましょうか」と言われ「あー申し訳ありませんねー」と応じたが、早川が萩原の頭にかけたのは小便であった。しかし萩原は自分が放尿されていることに気付かなかったという[11]。


代表曲(作・編曲)

スーダラ節(作詞:青島幸男 1961年)
ドント節(作詞:青島幸男 1962年)
五万節(作詞:青島幸男 1962年)
無責任一代男(作詞:青島幸男 1962年)
ハイそれまでよ(作詞:青島幸男 1962年)
ショボクレ人生(作詞:青島幸男 1962年)
いろいろ節(作詞:青島幸男 1963年)
ホンダラ行進曲(作詞:青島幸男 1963年)
愛してタムレ(作詞:ヒライワ・タカシ 1963年)
馬鹿は死んでも直らない(作詞:塚田茂 1963年)
九ちゃんのツンツン節(作詞:坂本九 1963年)
エイトマンの唄(作詞:前田武彦 1963年)
だまって俺について来い(作詞:青島幸男 1964年)
無責任数え歌(作詞:青島幸男 1964年)
ゴマスリ行進曲(作詞:青島幸男 1965年)
遺憾に存じます(作詞:青島幸男 1965年)
いい湯だな(作詞:永六輔 作曲:いずみたく 1966年)
笑ってよいしょ(作詞:野末陳平 1968年)
ズッコケちゃん(作詞:なかにし礼 1969年)
いい湯だな(ビバノン・ロック)(作詞:永六輔 作曲:いずみたく 1969年)
この際カアちゃんと別れよう(作詞:青島幸男、上野玲児 1971年)
これで日本も安心だ〔作詞:青島幸男 編曲:(この曲のみ)宮川泰 1979年〕
イエロー・サブマリン音頭〔訳詞:松本隆 作曲:ジョン・レノン、ポール・マッカートニー 1982年〕


参加作品

映画
スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねぇ(1962年)
サラリーマンどんと節 気楽な稼業と来たもんだ(1962年)
クレージー作戦 先手必勝(1963年)
クレージー作戦 くたばれ!無責任(1963年)
日本一の色男(1963年)
日本一のホラ吹き男(1964年)
大冒険(1965年)
日本一のゴマすり男(1965年)
クレージーだよ奇想天外(1966年)
クレージーの無責任清水港(1966年)
クレージー大作戦(1966年)
クレージー黄金作戦(1967年)
クレージーの大爆発(1969年)
クレージーの殴り込み清水港(1970年)
だまされて貰います(1971年)
日本一のショック男(1971年)


テレビ
エイトマン(1963年 TBS)
かみなり坊やピッカリ・ビー(1967年 毎日放送)
ファイトだ!!ピュー太(1968年 毎日放送)
あひるヶ丘77(1968年 フジテレビ)
おくさまは18歳(1970年 TBS)
美人はいかが?(1971年 TBS)
アイちゃんが行く!(1972年 フジテレビ)
風の中のあいつ(1973年 TBS)[12]
ニセモノご両親(1974年 TBS)
刑事犬カール(1977年 TBS)
コメットさん(大場久美子版)(1978年 TBS)
秘密のデカちゃん(1981年 TBS)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%8E%9F%E5%93%B2%E6%99%B6
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/725.html#c1

[近代史7] エルヴィス・プレスリー ハートブレイク・ホテル 中川隆
1. 中川隆[-14621] koaQ7Jey 2021年12月11日 06:19:31 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[3]
エルヴィス・プレスリー (Elvis Aron Presley, 1935年1月8日 - 1977年8月16日)

Elvis Presley - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=Elvis++Presley


▲△▽▼


Elvis Presley Hound Dog - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=Elvis+Presley++Hound+Dog


ブルースには、セックスからドラッグまで、ありとあらゆる悪徳が「これでもか」と詰め込まれている。ロックやバナナはペニス、アップルやシュガーは女性器の隠語だった。

そもそも、ロックン・ロールという言葉でさえ、セックスの隠語だったのはよく知られている。

ロック=岩=固いもの=ペニス

ロール=回転運動

「ペニスの回転運動=セックス=ロックン・ロール」だったのである。

黒人ブルースを取り入れたエルビス・プレスリーは腰の動きがあまりにも卑猥だとしてテレビで放映されなかったことが話題になった。

エルビスは何をしていたのか。ロックン・ロールだ。
何を模していたのか。セックスである。

これが1950年代である。退廃とセックスと反抗と悪魔主義は、もうはるか以前から「ファッション」だった。

そういうものが売れるのは分かっているし、また売れてきた長い伝統があるので、ショービジネスが「悪魔さまさま」になるのは当然のことで、別に不思議でも何でもない。

売れるなら、神でも悪魔でもセックスでもオカルトでも何でも構わない世界だ。つまり、彼らは「悪魔を利用している」だけである。

だから、ローリング・ストーンズは「私(悪魔)に出会ったら、思いやりを見せろ」と「悪魔を憐れむ歌」で歌ったのだ。

神も、悪魔も、その程度のものだ。どちらも下らない妄想の一種であるということを考えれば、根は同じだ。神がいないのと同様に、悪魔もいない。妄想だけがそこにある。

そして、人類が共通して持つ妄想は、利用できる。重要なのは、この部分だ。神も、悪魔も、金に換算できるし、箔付けにもなるし、いろいろ利用できる。

存在が重要なのではない。それが利用できるのが重要なのだ。


エルビス・プレスリー。セックスをちらつかせて、商業ビジネスを成功させた。売れるから、神でも悪魔でもセックスでも何でも利用する。神や悪魔の存在が重要なのではない。それが利用できるのが重要なのだ。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131227T0152590900.html  
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/726.html#c1

[近代史7] 軍歌 露営の唄 古関裕而(1909年 8月11日 - 1989年 8月18日) 中川隆
4. 中川隆[-14620] koaQ7Jey 2021年12月11日 06:58:09 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[4]
「阪神タイガースの歌」1936年発表 作詞・佐藤惣之助、作曲・古関裕而

阪神タイガースの歌 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%98%AA%E7%A5%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%AD%8C


「阪神タイガースの歌」、通称「六甲おろし」「六甲颪」(ろっこうおろし)は、日本プロ野球のセントラル・リーグに所属する阪神タイガースの球団歌である。


http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/719.html#c4

[近代史7] 露営の唄 古関裕而(1909年 8月11日 - 1989年 8月18日) 中川隆
2. 中川隆[-14619] koaQ7Jey 2021年12月11日 06:59:58 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[5]
「阪神タイガースの歌」1936年発表 作詞・佐藤惣之助、作曲・古関裕而

阪神タイガースの歌 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%98%AA%E7%A5%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%AD%8C


「阪神タイガースの歌」、通称「六甲おろし」「六甲颪」(ろっこうおろし)は、日本プロ野球のセントラル・リーグに所属する阪神タイガースの球団歌である。


http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/720.html#c2

[近代史7] 早稲田大学校歌「都の西北」東儀鉄笛(1869年6月16日 - 1925年2月4日) 中川隆
1. 中川隆[-14618] koaQ7Jey 2021年12月11日 07:10:26 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[6]
東儀 鉄笛(とうぎ てってき、明治2年6月16日(1869年7月24日) - 大正14年(1925年)2月4日)は、明治・大正期の雅楽家・作曲家・俳優。本名・東儀季治(すえはる)。京都府出身。父・季芳(すえよし)は、安倍季誕(すえのぶ)の子として生まれ、のちに、祖父である東儀季郛(すえもり)の死後、東儀の姓を継いだ。孫・東儀季信は元宮内庁楽部楽師。


略歴
1300年続く雅楽の家柄に生まれ、宮内省雅楽寮に勤める傍ら、東京専門学校(現・早稲田大学)に学んだ(中退)。帝国教育会の事務長であり、獨協学園書記(分校主事)であった[1]。1897年宮内庁式部職雅楽部退職。

1906年設立の坪内逍遥の「文芸協会」に加わり、新劇俳優としても活躍。「ベニスの商人」のシャイロック、「マクベス」のマクベスなどを得意とした。協会解散後は無名会を組織。また西洋音楽を学び、東京音楽学校(現・東京芸術大学)講師となった。1925年、脳出血のため死去[2]。

「都の西北 早稲田の森に…」の歌い出しで有名な早稲田大学校歌(作詞 相馬御風)の作曲者。イェール大学の学生歌である「オールドイェール」の旋律を採り入れているともされているが、さらに「オールドイェール」は、イギリスやアメリカの古民謡の影響の下にあり、それらを参考にしたのかは不明であった[3]。しかしながら、現在では早稲田大学校歌研究会による調査によって、当時の時代背景などから判断して東儀鉄笛が「オールドイェール」を下敷きとしたことがほぼ確定的となり、研究成果として『校歌百年... 歌い継がれた 都の西北の謎』というDVDにまとめられている[4][5]。

主な作曲作品

歌劇「常闇」(台本:坪内逍遥)
早稲田大学校歌「都の西北」(作詞:相馬御風)
早稲田中学校・高等学校第一校歌(作詞:坪内逍遥)
広島県・庄原市立本小学校校歌(作詞:稲毛詛風)
国士舘舘歌(作詞:柴田徳次郎)[6]
秋田県立大館鳳鳴高等学校校歌(作詞:土井晩翠)
千葉県立成東高等学校校歌(作詞:大和田建樹)
千葉県立銚子商業高等学校校歌(作詞:相馬御風)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%84%80%E9%89%84%E7%AC%9B
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/729.html#c1

[近代史7] 日本のミュージシャン 中川隆
3. 中川隆[-14617] koaQ7Jey 2021年12月11日 07:22:21 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[7]
昭和歌謡
懐かしい昭和の歌謡スターの歌を紹介します。
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-9.html
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-10.html
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-11.html


藤圭子・昭和の歌謡スター(43)
2019年02月02日
6 | 0 | 0
 青江三奈・昭和の歌謡スター(42)
2019年01月18日
3 | 0 | 0
舟木一夫・昭和の歌謡スター(41)
2019年01月07日
3 | 0 | 0
井沢八郎、新川二郎・昭和の歌謡スター(40)
2018年12月31日
2 | 0 | 0
倍賞千恵子、加藤登紀子・昭和の歌謡スター(39)
2018年12月28日
2 | 0 | 0
橋幸夫・昭和の歌謡スター(38)
2018年12月22日
2 | 0 | 0
佐川ミツオ、ジェリー藤尾・昭和の歌謡スター(37)
2018年12月10日
1 | 0 | 0
バーブ佐竹、仲宗根美樹・昭和の歌謡スター(36)
2018年12月05日
3 | 0 | 0
北原謙二、松島アキラ・昭和の歌謡スター(35)
2018年12月03日
7 | 0 | 0
西田佐知子・昭和の歌謡スター(34)
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-9.html

森繫久彌、植木等・昭和の歌謡スター(33)
2018年11月24日
4 | 0 | 0
ザ・ピーナッツ・昭和の歌謡スター(32)
2018年11月17日
1 | 0 | 0
守屋浩、井上ひろし・昭和の歌謡スター(31)
2018年11月06日
4 | 0 | 0
平尾昌晃、水原弘・昭和の歌謡スター(30)
2018年11月04日
2 | 0 | 0
ペギー葉山、松尾和子・昭和の歌謡スター(29)
2018年11月01日
3 | 0 | 0
小林旭・昭和の歌謡スター(28)
2018年10月19日
4 | 0 | 0
若山彰・昭和の歌謡スター(27)
2018年10月15日
6 | 0 | 0
石原裕次郎・昭和の歌謡スター(26)
2018年10月01日
2 | 0 | 0
神戸一郎、白根一男、藤本二三代・昭和の歌謡スター(25)
2018年09月30日
8 | 0 | 0
山田真二、宝田明、赤木圭一郎・昭和の歌謡スター(24)
2018年09月27日
2 | 0 | 0
大津美子、三船浩・昭和の歌謡スター(23)
2018年09月26日
1 | 0 | 0
島倉千代子・昭和の歌謡スター(22)
2018年09月24日
2 | 0 | 0
若原一郎・昭和の歌謡スター(21)
2018年09月24日
1 | 0 | 0
松山恵子・昭和の歌謡スター(20)
2018年09月21日
2 | 0 | 0
藤島桓夫・昭和の歌謡スター(19)
2018年09月21日
1 | 0 | 0
コロムビア・ローズ、曽根史朗・昭和の歌謡スター(18)
2018年09月17日
1 | 0 | 0
三浦洸一、青木光一・昭和の歌謡スター(17)
2018年09月16日
1 | 0 | 0
三波春夫、村田英雄・昭和の歌謡スター(16)
2018年09月11日
2 | 0 | 0
高田浩吉、鶴田浩二・昭和の歌謡スター(15)
2018年09月06日
2 | 0 | 0
田端義夫・昭和の歌謡スター(14)
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-10.html

林伊佐緒、伊藤久男・昭和の歌謡スター(13)
2018年09月01日
1 | 0 | 0
渡辺はま子、奈良光枝、織井茂子・昭和の歌謡スター(12)
2018年08月29日
1 | 0 | 0
岡晴夫、近江俊郎、岡本敦郎・昭和の歌謡スター(11)
2018年08月26日
1 | 0 | 0
二葉あき子、菅原都々子・昭和の歌謡スター(10)
2018年08月24日
2 | 0 | 0
霧島昇、小畑実、津村謙・昭和の歌謡スター(9)
2018年08月23日
1 | 0 | 0
淡谷のり子、高峰三枝子、平野愛子・昭和の歌謡スター(8)
2018年08月21日
2 | 0 | 0
ディック・ミネ、灰田勝彦・昭和の歌謡スター(7)
2018年08月19日
1 | 0 | 0
藤山一郎、東海林太郎・昭和の歌謡スター(6)
2018年08月18日
1 | 0 | 0
和田弘とマヒナスターズ・昭和の歌謡スター(5)
2018年08月15日
0 | 0 | 0
フランク永井・昭和の歌謡スター(4)
2018年08月11日
2 | 0 | 0
春日八郎・昭和の歌謡スター(3)
2018年08月07日
0 | 0 | 0
三橋美智也・昭和の歌謡スター(2)
2018年08月06日
1 | 0 | 0
美空ひばり・昭和の歌謡スター(1)
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-11.html
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/635.html#c3

[近代史7] 日本のミュージシャン 中川隆
4. 中川隆[-14616] koaQ7Jey 2021年12月11日 07:27:23 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[8]
昭和歌謡の旅
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-6.html
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-7.html
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-8.html
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-9.html


昭和歌謡の旅(66)東京ーその18
2019年12月09日
6 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(65)東京ーその17
2019年12月02日
1 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(64)東京ーその16
2019年11月30日
1 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(63)東京ーその15
2019年11月26日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(62)東京ーその14
2019年11月23日
0 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(61)東京ーその13
2019年11月20日
1 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(60)東京ーその12
2019年11月18日
1 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(59)東京ーその11
2019年11月14日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(58)東京ーその10
2019年11月09日
1 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(57)東京ーその9
2019年10月25日
1 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(56)東京ーその8
2019年10月24日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(55)東京−その7
2019年10月19日
1 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(54)東京ーその6
2019年10月04日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(53)東京ーその5
2019年10月02日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(52)東京ーその4
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-6.html


昭和歌謡の旅(51)東京ーその3
2019年09月02日
0 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(50)東京ーその2
2019年08月21日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(49)東京ーその1
2019年08月16日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(48)沖縄
2019年08月15日
0 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(47)奄美
2019年08月01日
4 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(46)鹿児島
2019年07月31日
4 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(45)熊本、大分、宮崎
2019年07月30日
0 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(44)島原、天草、西海
2019年07月29日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(43)長崎ーその2
2019年07月27日
3 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(42)長崎ーその1
2019年07月24日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(41)福岡
2019年07月22日
3 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(39)香川、徳島、高知
2019年07月16日
5 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(40)愛媛
2019年07月15日
1 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(38)山陽
2019年07月13日
1 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(37)山陰
2019年06月23日
1 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(36)兵庫
2019年06月22日
6 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(35)大阪ーその2
2019年06月18日
3 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(34)大阪ーその1
2019年06月15日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(33)京都ーその2
2019年05月21日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(32)京都ーその1
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-7.html

昭和歌謡の旅(31)滋賀、奈良、和歌山
2019年05月04日
3 | 1 | 0
昭和歌謡の旅(30)愛知、三重
2019年05月02日
1 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(29)岐阜
2019年04月24日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(28)富山、石川、福井
2019年04月16日
0 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(27)静岡、山梨
2019年04月09日
0 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(26)伊豆ーその2
2019年04月07日
1 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(25)伊豆ーその1
2019年04月01日
1 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(24)信州ーその2
2019年03月28日
0 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(23)信州ーその1
2019年03月28日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(22)横須賀、湘南
2019年03月27日
1 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(21)横浜ーその2
2019年03月21日
3 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(20)横浜ーその1
2019年03月19日
0 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(19)佐渡、新潟
2019年03月16日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(18)伊豆大島
2019年03月15日
0 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(17)千葉
2019年03月11日
3 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(16)栃木、群馬、埼玉
2019年03月08日
0 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(15)茨城
2019年03月04日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(14)福島
2019年03月03日
1 | 0 | 0
紘子昭和歌謡の旅(13)秋田、山形、宮城
2019年03月03日
1 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(12)岩手
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-8.html


昭和歌謡の旅(10)津軽海峡
2019年02月28日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(9)函館
2019年02月26日
1 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(8)小樽
2019年02月26日
4 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(7)襟裳岬
2019年02月25日
3 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(6)摩周湖、阿寒湖
2019年02月23日
1 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(5)釧路
2019年02月22日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(4)知床
2019年02月20日
3 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(3)網走
2019年02月19日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(2)増毛、礼文、宗谷
2019年02月13日
2 | 0 | 0
昭和歌謡の旅(1)札幌
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-9.html
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/635.html#c4

[近代史7] 日本のミュージシャン 中川隆
5. 中川隆[-14615] koaQ7Jey 2021年12月11日 07:33:43 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[9]
昭和の作詞家
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist.html
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-2.html
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-3.html
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https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-5.html
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-6.html


昭和の作詞家(102)吉田拓郎、岡本おさみ
2021年11月24日
3 | 0 | 0
昭和の作詞家(101)喜多條忠
2021年10月30日
2 | 0 | 0
昭和の作詞家(100)杉紀彦、たきのえいじ
2021年10月22日
3 | 0 | 0
昭和の作詞家(99)阿木燿子
2021年10月12日
6 | 0 | 0
昭和の作詞家(98)竜真知子
2021年10月08日
2 | 0 | 0
昭和の作詞家(97)五木寛之
2021年09月14日
0 | 0 | 0
昭和の作詞家(96)松本隆、売野雅勇
2021年09月07日
5 | 0 | 0
昭和の作詞家(95)悠木圭子、二条冬詩夫
2021年09月02日
4 | 0 | 0
昭和の作詞家(94)里村龍一
2021年08月31日
3 | 0 | 0
昭和の作詞家(93)荒木とよひさ
2021年08月07日
3 | 0 | 0
の昭和の作詞家(92)吉田旺
2021年07月20日
1 | 0 | 0
昭和の作詞家(91)橋本淳
2021年06月08日
4 | 0 | 0
昭和の作詞家(90)山上路夫ー後篇
2021年06月05日
1 | 0 | 0
昭和の作詞家(89)山上路夫—前篇
2021年05月27日
1 | 0 | 0
昭和の作詞家(88)音羽たかし
2021年05月23日
1 | 0 | 0
昭和の作詞家(87)たかたかし
2021年05月21日
4 | 0 | 0
昭和の作詞家(86)伊野上のぼる、上原尚、滝口暉子
2021年03月24日
9 | 1 | 0
昭和の作詞家(85)白鳥朝詠
2021年03月21日
1 | 0 | 0
昭和の作詞家(84)白鳥園枝、いではく
2021年03月08日
5 | 0 | 0
昭和の作詞家(83)池田充男
2021年03月05日
0 | 0 | 0
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昭和の作詞家(82)千家和也
2021年01月24日
5 | 0 | 1
昭和の作詞家(81)漣健児
2021年01月23日
3 | 0 | 0
昭和の作詞家(80)なかにし礼ー後篇
2021年01月16日
0 | 0 | 0
昭和の作詞家(79)なかにし礼ー中篇
2021年01月01日
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あなたと昭和の作詞家(78)なかにし礼ー前篇
2020年12月27日
2 | 0 | 0
昭和の作詞家(77)佐々木勉
2020年12月20日
2 | 0 | 0
昭和の作詞家(76)丹古晴己
2020年12月19日
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昭和の作詞家(75)寺山修司
2020年12月12日
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昭和の作詞家(74)井上梅次
2020年11月27日
1 | 0 | 0
昭和の作詞家(73)阿久悠
2020年11月23日
3 | 0 | 0
昭和の作詞家(72)中山大三郎
2020年11月21日
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昭和の作詞家(71)山口洋子ー後篇
2020年11月17日
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昭和の作詞家(70)山口洋子ー前篇
2020年11月09日
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昭和の作詞家(69)石坂まさを
2020年11月04日
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昭和の作詞家(68)安井かずみ
2020年10月24日
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昭和の作詞家(67)有馬三恵子
2020年10月21日
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昭和の作詞家(66)吉岡治
2020年10月16日
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昭和の作詞家(65)林春生
2020年10月13日
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昭和の作詞家(64)宇佐英雄
2020年10月11日
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昭和の作詞家(番外)島崎藤村
2020年10月05日
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昭和の作詞家(63)大橋節夫、平岡精二
2020年09月09日
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昭和の作詞家(62)鈴木道明
2020年09月07日
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昭和の作詞家(61)青島幸男
2020年08月30日
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昭和の作詞家(番外)おかしな歌詞、へんな歌詞
2020年08月29日
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昭和の作詞家(60)古賀政男、吉田正、遠藤実
2020年08月24日
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昭和の作詞家(59)水木かおるー後篇
2020年08月20日
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昭和の作詞家(訂正)
2020年08月20日
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昭和の作詞家(58)水木かおるー前篇
2020年08月17日
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昭和の作詞家(57)永六輔ー後篇
2020年08月14日
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昭和の作詞家(56)永六輔ー前篇
2020年08月11日
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昭和の作詞家(55)川内康範
2020年08月08日
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昭和の作詞家(54)岩谷時子
2020年08月02日
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昭和の作詞家(53)星野哲郎−続編
2020年08月02日
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昭和の作詞家(52)星野哲郎ー後篇
2020年07月31日
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昭和の作詞家(51)星野哲郎ー中篇
2020年07月29日
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昭和の作詞家(50)星野哲郎ー前篇
2020年07月28日
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昭和の作詞家(49)関沢新一
2020年07月26日
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昭和の作詞家(48)浜口庫之助ー後篇
2020年07月25日
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昭和の作詞家(47)浜口庫之助ー前篇
2020年07月24日
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昭和の作詞家(46)水島哲
2020年07月20日
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昭和の作詞家(45)山崎正、松村又一
2020年07月18日
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昭和の作詞家(44)西沢爽ー後篇
2020年07月06日
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昭和の作詞家(43)西沢爽ー前篇
2020年07月06日
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昭和の作詞家(42)高野公男
2020年07月04日
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昭和の作詞家(41)横井弘ー後篇
2020年07月03日
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昭和の作詞家(40)横井弘ー前篇
2020年07月02日
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昭和の作詞家(39)松井由利夫
2020年06月29日
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昭和の作詞家(38)萩原四朗
2020年06月28日
1 | 0 | 0
昭和の作詞家(36)原六朗
2020年06月26日
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昭和の作詞家(35)木下忠司、喜志邦三
2020年06月25日
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昭和の作詞家(34)藤間哲郎
2020年06月22日
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昭和の作詞家(33)石本美由起ー後篇
2020年06月21日
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昭和の作詞家(32)石本美由起ー前篇
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昭和の作詞家(番外篇)
2020年06月19日
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昭和の作詞家(31)丘灯至夫
2020年06月14日
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昭和の作詞家(30)宮川哲夫ー後篇
2020年06月12日
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昭和の作詞家(29)宮川哲夫ー前篇
2020年06月12日
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昭和の作詞家(28)吉川静夫
2020年06月10日
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昭和の作詞家(27)東条寿三郎
2020年06月09日
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昭和の作詞家(26)内村直也、江間章子、大倉芳郎
2020年06月07日
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昭和の作詞家(25)米山正夫
2020年06月06日
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昭和の作詞家(24)井田誠一
2020年06月05日
4 | 0 | 0
昭和の作詞家(23)大高ひさお
2020年06月03日
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昭和の作詞家(22)矢野亮
2020年06月02日
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昭和の作詞家(21)菊田一夫
2020年06月01日
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昭和の作詞家(20)野村俊夫ー戦後篇
2020年05月30日
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昭和の作詞家(19)野村俊夫ー戦中篇
2020年05月29日
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昭和の作詞家(18)東辰三、奥野椰子夫
2020年05月27日
2 | 0 | 0
昭和の作詞家(17)島田馨也
2020年05月19日
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昭和の作詞家(16)清水みのる
2020年05月17日
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昭和の作詞家(15)佐伯孝夫ー後篇
2020年05月12日
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昭和の作詞家(14)佐伯孝夫ー前篇
2020年05月05日
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昭和の作詞家(13)サトウハチロー童謡篇
2020年05月01日
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昭和の作詞家(12)サトウハチロー歌謡曲篇
2020年04月29日
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昭和の作詞家(11)門田ゆたか
2020年04月26日
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昭和の作詞家(10)藤田まさと
2020年04月24日
3 | 0 | 0
昭和の作詞家(9)藤浦洸
2020年04月22日
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昭和の作詞家(8)西條八十ー戦後篇
2020年04月18日
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昭和の作詞家(7)西條八十ー戦前篇
2020年04月15日
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昭和の作詞家((6)高橋掬太郎
2020年04月13日
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昭和の作詞家(5)佐藤惣之助
2020年03月21日
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昭和の作詞家(4)長田幹彦
2020年02月25日
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昭和の作詞家(3)時雨音羽
2020年02月24日
1 | 0 | 0
昭和の作詞家(2)野口雨情
2020年02月17日
2 | 0 | 0
昭和の作詞家(1)北原白秋
https://ameblo.jp/macogi0312/entrylist-6.html
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/635.html#c5

[近代史7] 「ラバウル小唄」 島口駒夫 (1911年4月10日 - 1945年3月17日) 中川隆
3. 2021年12月11日 08:02:45 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[10]
島口駒夫 (1911年4月10日 - 1945年3月17日)

島口駒夫は、明治44年4月10日、貝渚村(現鴨川市貝渚)に漁業を営む島口家の三男として生まれました。彼は小学校6年を終了すると音楽学校に入るため兄を頼って上京しました。その後島口は希望をかなえて、日本ビクターレコード専属の作曲家として活躍を始めました。海軍に召集され館山航空基地に配属となった後、昭和20年3月17日に硫黄島で玉砕しました。その時35歳、遺骨すら残しませんでしたが、唄は現代に生きています。

 主な曲には、「ラバウル小唄」「お山の戦争」「兵隊さんご苦労様」「進軍落下傘部隊」があります。また、出征の朝に書いた「いざ征かん」「さらば妻子よ」の未完五線譜が残されています。

 今も八岡の丘に佇めば、白い波涛に駒夫の笑顔が浮かび、汐騒はラバウルの哀愁を奏でています。(鴨川郷土史保存会島口駒夫三十三回忌記念事業より)

https://www.city.kamogawa.lg.jp/site/shiryoukan/1014.html
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/685.html#c3

[近代史7] 悲しい酒 古賀政男(1904年11月18日 - 1978年 7月25日) 中川隆
5. 中川隆[-14614] koaQ7Jey 2021年12月11日 08:35:53 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[11]
酒は涙か溜息か 1931年9月発売 作詞 高橋掬太郎 作曲 古賀政男

酒は涙か溜息か 藤山一郎 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%85%92%E3%81%AF%E6%B6%99%E3%81%8B%E6%BA%9C%E6%81%AF%E3%81%8B++%E8%97%A4%E5%B1%B1%E4%B8%80%E9%83%8E


http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/702.html#c5

[近代史7] 「星影のワルツ」 遠藤 実(1932年 7月6日 - 2008年12月6日) 中川隆
1. 中川隆[-14613] koaQ7Jey 2021年12月11日 08:51:31 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[12]
遠藤 実(えんどう みのる、1932年(昭和7年)7月6日[2] - 2008年(平成20年)12月6日)は、戦後歌謡界を代表する作曲家の一人である。東京府南葛飾郡吾嬬町(後の東京府東京市向島区、現在の東京都墨田区立花)[2]に生まれ、杉並区南荻窪1丁目に居住していた。


人物
作曲家として世に送り出した楽曲は5000曲以上(その大部分は演歌)と言われ、舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育てた。また、遠藤本人が作詞も併せて行った作品も一部存在する(橋幸夫、千昌夫、山本リンダ、こまどり姉妹、渥美二郎等の楽曲)。

第二次世界大戦時の1943年3月、新潟県西蒲原郡曽根町(現在の新潟市西蒲区)に疎開する[3]。 父が新潟刑務所の看守へ配属されることが決まり新潟県西蒲原郡内野町(現在の新潟市西区内野)に引っ越しする[4]。

高等小学校卒業後、14歳で日東紡績内野工場の工員となる[5]。

1948年、山乃家菊丸とコンビを組み、門付け(越後獅子等の芸を民家の軒先で披露し、金品を貰う習慣である新潟特有の演芸スタイル)芸人になる[6]。これが、後の作曲家人生に大きな影響を与えた。

1949年7月、17歳の時に上京[7]。様々な職を経て[8]、ギターを携えて流しの演歌師になる[9]。

星幸男のペンネームで作曲した「酒場の女」が[10]、1952年、日本マーキュリーより「破れソフトのギター流し」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)のタイトルで発売され作曲家としてデビュー[11]。発売当初、作曲者名は「清水網雄」とされていたが、遠藤が友人に自作曲を「自分が書いたことにして出せよ」と渡したらその曲が採用され、そのまま友人の作曲として世に出てしまったという[11]。後に作曲者名は「星幸男」に訂正されている。

その後日本マーキュリーの専属作曲家となる[12]。1957年、日本マーキュリーより発売された「お月さん今晩わ」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)がヒット[13]。1958年、日本コロムビアから「からたち日記」(作詞:西沢爽、歌:島倉千代子)を発表し大ヒット[14]。その後日本コロムビア専属になる[15]。

1965年3月、日本コロムビアとの契約を解く[16]。同年、島倉千代子らのパトロンだった中山幸市(太平住宅創業者)の出資による太平音響株式会社の設立に加わり専務取締役となり[17]、1966年には自叙伝『太陽も笑っている』が映画化、『太陽に突っ走れ』 (主演:千葉真一) のタイトルで東映から製作配給された。

1968年に中山幸市が死去すると、太平音響の2代目社長に就任し[18]、社名をレーベル名と同名のミノルフォンに改名する。先に創業した日本クラウンに続き、自前のプレス工場を持たず制作とプロモーションに特化して、アーティスト主導の運営を打ち出した新業態レコード会社の嚆矢の一社だった。1970年5月に社長を辞任[19]。その後、1972年に徳間康快(徳間書店)に買収され徳間音楽工業と改称、さらに系列レーベルの別会社ジャパンレコードと合併して徳間ジャパン(現:徳間ジャパンコミュニケーションズ)に改組した。

1988年4月、ハワイで心臓のバイパス手術を受ける[20]。当初発案していた「日本音楽作家協会」設立に関する諸々を、発案仲間で業界の重鎮である作詞家松井由利夫・石本美由紀、猪俣公章、弟子である冬樹かずみ等に前もって依頼した経緯がある。この時の呼びかけにより、三木たかし等も賛同した。翌1989年、テレビ朝日で『玉置宏の歌謡日本』が日本音楽作家教会の協賛で放送開始。病中ながら関連資料の監修等積極的な音楽活動に貢献。

1994年、新潟県西蒲原郡巻町(現在の新潟市西蒲区)に遠藤実記念館「実唱館」がオープンした[21]。

2002年、勲三等旭日中綬章受章[22]。2003年、歌謡界から初めて文化功労者に選出された。

2008年12月6日10時54分、急性心筋梗塞のため東京都内の病院で死去。76歳没。

2008年12月19日、日本国政府は遠藤に対し、数々の楽曲で大衆音楽発展に尽くした遠藤の功績を讃え、死去した12月6日付で正四位に叙し、旭日重光章を授与することを決めた。更に2008年12月26日の閣議に於いて、2009年1月23日に国民栄誉賞を授与することを正式決定した[23]。国民栄誉賞の受賞は陸上選手の高橋尚子以来8年ぶり16人目の受賞で、作曲家では古賀政男、服部良一、吉田正に次いで4人目の受賞者でもあった。

晩年は「再販制度廃止反対」運動を行っていた縁から、第3代日本共産党中央委員会議長の不破哲三と交流があった[24]。

2009年8月1日に、新潟県新潟市の地下街『西堀ROSA』の一角に遠藤実メモリアル・ルームが開設されている。


略歴
1932年、東京・向島に生まれる。
1979年、日本演歌大賞を受賞。
1989年、日本音楽作家協会を設立、会長に就任。
1990年、紫綬褒章を受章。
1994年、日本大衆音楽文化協会会長に就任。
1995年、日本音楽著作権協会会長に就任。
2002年、勲三等旭日中綬章を受章。
2003年、文化功労者として顕彰される。
2005年、日本作曲家協会会長に就任。
2007年、日本音楽作家協会名誉会長に就任。
2008年、死去。正四位に叙され旭日重光章を授けられる。戒名は法唱院殿音海実道居士。
2009年、国民栄誉賞を受賞。

主な作品

破れソフトのギター流し(藤島桓夫、1952年) ※作曲者名義は「星幸男」
お月さん今晩わ (藤島桓夫、1957年4月)
からたち日記 (島倉千代子、1958年11月)
おもいで日記 (島倉千代子、1959年7月)
浅草姉妹 (こまどり姉妹、1959年11月)
アキラのズンドコ節 (小林旭、1960年)
初恋マドロス (美空ひばり、1960年)
ソーラン渡り鳥 (こまどり姉妹、1961年5月)
おひまなら来てね (五月みどり、1961年5月)
襟裳岬 (島倉千代子、1961年6月)
若いふたり (北原謙二、1962年8月)
一週間に十日来い (五月みどり、1962年11月)
高校三年生 (舟木一夫、1963年7月)
ギター仁義 (北島三郎、1963年8月)
修学旅行 (舟木一夫、1963年9月)
学園広場 (舟木一夫、1963年10月)
哀愁出船 (美空ひばり、1963年)
仲間たち (舟木一夫、1963年12月)
君たちがいて僕がいた (舟木一夫、1964年5月)
青春の城下町 (梶光夫、1964年)
他人船 (三船和子、1965年) ※作詞も遠藤
星影のワルツ (千昌夫、1966年3月)
太陽も笑っている (千葉真一、1966年9月)
妻に捧げる歌 (千葉真一、1966年9月)
こまっちゃうナ (山本リンダ、1966年11月) ※作詞も遠藤
新宿そだち (大木英夫・津山洋子、1967年10月)
ついてくるかい (小林旭、1971年4月)
純子 (小林旭、1971年10月)
長崎恋ものがたり/雪国の女(春日八郎、1972年)
せんせい (森昌子、1972年7月)
旅鴉 (五木ひろし、1972年11月)
中学三年生 (森昌子、1973年2月)
くちなしの花 (渡哲也、1973年8月)
白樺日記 (森昌子、1973年8月)
おかあさん (森昌子、1974年8月)
みちづれ (渡哲也、1975年/牧村三枝子、1978年10月)
悲恋草/たそがれたずねびと(三橋美智也、1976年)
すきま風 (杉良太郎、1976年10月)
浅草人情 (橋幸夫、1977年2月)※作詞も遠藤
北国の春 (千昌夫、1977年4月)
ひとり (渡哲也、1977年4月)
江戸の黒豹 (杉良太郎、1977年)
夢追い酒 (渥美二郎、1978年)
哀愁列島 (小林旭、1979年2月)
秋田旅愁 (順弘子 1979年8月)
大東京音頭 (橋幸夫・金沢明子/三波春夫/三橋美智也・藤野とし恵 ほかによる競作、1979年)
街のコスモス(橋幸夫、1979年9月)
合唱交響曲「般若心経の響き」(ロイヤルナイツミンツ・東京荒川少年少女合唱団、1979年)
君は人のために死ねるか (杉良太郎、『大捜査線』主題歌、1980年)
ふたりの坂道(春日八郎、1981年)
南風 (小柳ルミ子、1981年)
冬支度 (牧村三枝子、1984年)
昭和流れうた (森進一、1985年4月)
愛しても今は他人 (八代亜紀、1985年4月)
ときめきワルツ (山川豊、1986年2月)
昭和川 (順弘子、1987年2月)
雪椿 (小林幸子、1987年6月)
再会物語 (里見浩太朗、1988年12月)
荒野をひとり(橋幸夫、1990年3月)※c/wの「母」は橋夫人の詩に遠藤が作曲
火の酒 (島倉千代子、1996年1月)
歌 (橋幸夫、1999年4月)※作詞も遠藤
季節の中で (三ツ木清隆、2010年11月)


団体歌 
由利本荘市立岩城中学校 校歌
新潟市立西内野小学校 校歌
新潟県立長岡明徳高等学校 校歌
壱岐市立芦辺小学校 校歌
南魚沼市歌
佐川急便 社歌 ※作詞も遠藤

門下生
橋幸夫(当初は遠藤の門下生で、遠藤に連れられビクターのオーディションを受け吉田正の下へ移った)
こまどり姉妹
舟木一夫
千昌夫
小林旭
森昌子
藤健次
冬樹かずみ(翌年推薦により猪俣公章の最後の門下生となる)
島倉千代子
山本リンダ
渡哲也
五月みどり
杉良太郎
いではく
一節太郎
順弘子
岸浩太郎
祭小春
梶光夫
伸歌華


書籍
『太陽も笑っている』
『しあわせの「源流」』 (1997年11月、講談社) ISBN 4062089823
『私の履歴書』 (日本経済新聞、2006年6月連載)
『涙の川を渉るとき 遠藤実自伝』日本経済新聞出版社、2007年、ISBN 978-4-532-16584-0

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%AE%9F
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/731.html#c1

[カルト7] 独占インタビュー 元弟子が語るイエス教団「治療」の実態!! 中川隆
16. 2021年12月11日 09:28:00 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[13]
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[昼休み54] 世界を変えた映画『エマニエル夫人』 中川隆
4. 中川隆[-14612] koaQ7Jey 2021年12月11日 09:28:41 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[14]
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4. 中川隆[-14611] koaQ7Jey 2021年12月11日 09:29:16 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[15]
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1. 中川隆[-14610] koaQ7Jey 2021年12月11日 09:29:39 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[16]
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7. 中川隆[-14609] koaQ7Jey 2021年12月11日 09:30:06 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[17]
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3. 中川隆[-14608] koaQ7Jey 2021年12月11日 09:30:26 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[18]
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8. 中川隆[-14607] koaQ7Jey 2021年12月11日 09:30:53 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[19]
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11. 中川隆[-14606] koaQ7Jey 2021年12月11日 09:31:29 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[20]
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http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/218.html#c11
[近代史7] 「いつでも夢を」吉田 正(1921年 1月20日 - 1998年 6月10日) 中川隆
1. 中川隆[-14605] koaQ7Jey 2021年12月11日 09:47:00 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[21]
吉田 正(よしだ ただし、1921年(大正10年)1月20日 - 1998年(平成10年)6月10日)は、茨城県日立市出身の国民歌謡作曲家。死後の1998年7月に国民栄誉賞受賞。位階は従四位。

生涯作曲数は2400曲を超える。都会的で哀愁漂うメロディーは都会調歌謡と称され、ムード歌謡から青春歌謡、リズム歌謡まで幅広く手掛けた。また、鶴田浩二、三浦洸一、フランク永井、松尾和子、橋幸夫、和田弘とマヒナスターズなど多くの歌手を育て上げた、第二次世界大戦後の日本歌謡史を代表する作曲家の一人である。

略歴
1921年(大正10年)1月20日、茨城県多賀郡高鈴村(現在の日立市)に生まれる。
1939年(昭和14年)3月、日立工業専修学校卒業。
1939年(昭和14年)4月、増成動力工業株式会社に入社。
1942年(昭和17年)1月、満州国黒河省漱江に展開していた陸軍水戸歩兵第二連隊に入隊。
1944年(昭和19年)急性盲腸炎のためペリリューの戦いに参戦せず満州に残る。
1945年(昭和20年)10月、敗戦と同時に、ソビエト連邦シベリア地区に抑留される(シベリア抑留)。従軍中に作曲した『大興安嶺突破演習の歌』に、抑留兵の一人が『昨日も今日も』という詩を付け、よみ人しらずで抑留地に広まり歌われる(後の『異国の丘』)。
1948年(昭和23年)8月、NHKラジオの素人のど自慢でシベリア復員兵の中村耕造が、よみ人しらず「俘虜の歌える」と題して歌い話題となる。
1948年(昭和23年)8月、ラジオ放送直後、舞鶴港に復員。半月の静養の後、話題も知らず入隊前の会社に復帰。
1948年(昭和23年)9月、佐伯孝夫が補作詞し、『異国の丘』としてビクターレコードより発売。
1949年(昭和24年)4月、日本ビクターに専属作曲家として入社。
1960年(昭和35年)12月、『誰よりも君を愛す』で第2回日本レコード大賞を受賞。
1962年(昭和37年)12月、『いつでも夢を』で第4回日本レコード大賞を受賞。同賞では後にその功績をたたえ『吉田正賞』を制定した。
1968年(昭和43年)12月、第10回日本レコード大賞特別賞受賞。
1969年(昭和44年)4月、芸術選奨文部大臣賞を受賞。
1982年(昭和57年)11月、紫綬褒章を受章。
1989年(平成元年)日本音楽著作権協会会長に就任。
1990年(平成2年)12月、第32回日本レコード大賞功労賞受賞。
1992年(平成4年)4月、勲三等旭日中綬章を受章。
1993年(平成5年)3月、日本放送協会放送文化賞受賞。
1993年、日本作曲家協会会長に就任。
1997年(平成9年)日本作曲家協会名誉会長に就任。
1998年(平成10年)6月10日、肺炎のため死去。77歳没。同日付で従四位叙位。作曲家としては古賀政男(1978年)、服部良一(1993年)に次いで史上3人目となる国民栄誉賞を受賞。日立市名誉市民として顕彰された。墓所は日立市十王町の法鷲院。
2004年(平成16年)生誕の地である茨城県日立市のかみね公園に『吉田正音楽記念館』開設。
2005年(平成17年)日立市内の常磐線の駅(大甕駅-十王駅)の発車メロディに吉田作曲のメロディーが採用される。

代表作

歌謡曲
異国の丘(1948年/竹山逸郎・中村耕造)
東京の星空(1951年/吉岡妙子)
雨の夜のスーベニール(1951年/吉岡妙子)
落葉しぐれ(1953年/三浦洸一)
街のサンドイッチマン(1953年/鶴田浩二)
赤と黒のブルース(1955年/鶴田浩二)
おばこマドロス(1955年/野村雪子)
東京の人(1956年/三浦洸一)
好きだった(1956年/鶴田浩二、1959年/和田弘とマヒナスターズ - ハワイアン風に後年カバー)
哀愁の街に霧が降る(1956年/山田真二)
有楽町で逢いましょう(1957年/フランク永井)
夜霧の第二国道(1957年/フランク永井)
東京午前三時(1957年/フランク永井)
夢みる乙女(1957年/藤本二三代)
泣かないで(1958年/和田弘とマヒナスターズ) - マヒナのオリジナル曲第1弾である。
好きな人(1958年/藤本二三代)
グッド・ナイト(1959年/松尾和子&和田弘とマヒナスターズ)- 松尾和子のデビュー曲。
東京ナイト・クラブ(1959年/松尾和子&フランク永井) - 松尾和子のデビュー曲。
誰よりも君を愛す(1959年/松尾和子&和田弘とマヒナスターズ) ○第2回日本レコード大賞
僕の東京地図(1959年/曽根史朗)
潮来笠(1960年/橋幸夫) - 橋幸夫のデビュー曲。○第2回日本レコード大賞(新人賞)
再会(1960年/松尾和子)
おけさ唄えば(1960年/橋幸夫)
喧嘩富士(1960年/橋幸夫)
夜がわるい(1960年/松尾和子)
花の大理石(マーブル)通り(1960年/藤本二三代)
木曽ぶし三度笠((1960年/橋幸夫)
磯ぶし源太(1961年/橋幸夫) ○第3回日本レコード大賞(作詞賞受賞曲)
南海の美少年(天草四郎の唄)(1961年/橋幸夫)
沓掛時次郎(1961年/橋幸夫)
江梨子(1962年/橋幸夫)
悲恋の若武者(1962年/橋幸夫)
慕情のワルツ(1962年/橋幸夫)
寒い朝(1962年/吉永小百合)
若いやつ(1962年/橋幸夫)
あした逢う人(1962年/橋幸夫)
いつでも夢を[1](1962年/橋幸夫&吉永小百合) ○第4回日本レコード大賞
花の折鶴笠(1962年/橋幸夫)
中山七里(1962年/橋幸夫)
伊豆の踊子(1963年/吉永小百合)
美しい十代(1963年/三田明)
二人の星をさがそうよ(1963年/田辺靖雄)
後追い三味線(1963年/榎本美佐江)
若い東京の屋根の下(1963年/橋幸夫&吉永小百合)
光る海(1963年/吉永小百合)
嫁ぐ日まで(1963年/吉永小百合)
舞妓はん(1963年/橋幸夫)
白い制服(1963年/橋幸夫)
通天閣の灯(1963年/橋幸夫)
若い歌声(1963年/橋幸夫&吉永小百合)
雨の中に消えて(1963年/吉永小百合)
お嬢吉三(1963年/橋幸夫)
赤いブラウス(1964年/橋幸夫)
そこは青い空だった(1964年/橋幸夫&吉永小百合)
青いセーター(1964年/橋幸夫)
霧の中の少女(1964年/久保浩)
恋をするなら(1964年/橋幸夫) ○第7回日本レコード大賞(企画賞受賞曲)
ごめんねチコちゃん(1964年/三田明)
ゼッケンNO.1スタートだ(1964年/橋幸夫) ○第7回日本レコード大賞(企画賞受賞曲)
若い二人の心斎橋(1964年/三田明&吉永小百合)
チェッ・チェッ・チェッ -涙にさよならを-(1964年/橋幸夫) ○第7回日本レコード大賞(企画賞受賞曲)
あの娘と僕〜スイム・スイム・スイム(1965年/橋幸夫) ○第7回日本レコード大賞(企画賞受賞曲)
キューポラのある街(1965年/吉永小百合)
若い翼(1965年/三田明)
明日は咲こう花咲こう(1965年/三田明&吉永小百合)
おまえに(1966年/フランク永井)
恋人ジュリー(1966年/三田明)
夢みる港(1966年/橋幸夫&吉永小百合)
勇気あるもの(1966年/吉永小百合&トニーズ)
恋と涙の太陽(アメリアッチ)(1966年/橋幸夫)
海に泣いている (1966年/トニーズ)
シンガポールの夜は更けて(1966年/橋幸夫)
殺陣師一代(1967年/橋幸夫)
愛の世界 (1967年/吉永小百合&トニーズ)
恋人たち (1967年/吉永小百合&トニーズ)
娘たちはいま(1967年/吉永小百合)
恋のメキシカン・ロック(1967年/橋幸夫)
佐久の鯉太郎(1967年/橋幸夫)
花太郎笠(1968年/橋幸夫)
和歌山ブルース(1968年/古都清乃)
加茂川ブルース(1968年/フランク永井)
夜明けの二人(1968年/橋幸夫)
赤い夕陽の三度笠(1968年/橋幸夫)
乙女川(1968年/橋幸夫)
鯉名の銀平(1969年/橋幸夫)
傷だらけの人生(1970年/鶴田浩二) ○第13回日本レコード大賞(大衆賞)
子連れ狼(1971年/橋幸夫) ○第14回日本レコード大賞(大衆賞)
未練の女(1971年/日吉ミミ)
京ごよみ -沖田総司-(1974年/橋幸夫) ○第16回日本レコード大賞(中山晋平・西条八十賞)
花の喧嘩旅(1975年/橋幸夫)
股旅グラフィティ さらば渡り鳥(1977年/橋幸夫)
法師の宿(1980年/橋幸夫)
古葉,大洋よ覇者となれ(1989年/大石吾朗)
春来川慕情(1990年/松尾和子)
サンタマリア(1991年/武井つかさ)
面影渡り鳥(1996年/橋幸夫) 最後のビクターヒット賞受賞曲[2]
など

門下生

鶴田浩二
フランク永井
松尾和子
三浦洸一
橋幸夫
吉永小百合
三田明
雪村いづみ
藤本二三代
和田弘とマヒナスターズ
久慈あさみ
古都清乃
久保浩
トニーズ
ほか多数

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%AD%A3
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/732.html#c1

[近代史7] 「いつでも夢を」吉田 正(1921年 1月20日 - 1998年 6月10日) 中川隆
2. 2021年12月11日 09:51:22 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[22]
「誰よりも君を愛す」1959年12月発売 作詞 川内康範、作曲 吉田正

誰よりも君を愛す 松尾和子 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%AA%B0%E3%82%88%E3%82%8A%E3%82%82%E5%90%9B%E3%82%92%E6%84%9B%E3%81%99+%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E5%92%8C%E5%AD%90
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/732.html#c2

[近代史7] ポール・マッカートニー(Paul McCartney, 1942年6月18日 - ) 中川隆
1. 2021年12月11日 10:14:52 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[23]
ジェームズ・ポール・マッカートニー(Sir James Paul McCartney MBE、1942年6月18日 - )は、イギリスのミュージシャン、シンガーソングライターマルチプレイヤー左利きベジタリアン。ファーストネームはジェイムズであるが、父のファーストネームも同じくジェイムズであることからミドルネームであるポールを用いている[注釈 1]。弟はミュージシャンとして活動しているマイク・マクギア。

1960年代にロックバンド、ビートルズのメンバーとしてジョン・レノンと共に楽曲の作詞作曲を多く手掛けたほか、ボーカルと演奏を担当した(レノン=マッカートニーを参照)。ビートルズ解散後はウイングスを結成し、メンバーとして活動したほか、ソロ・ミュージシャンとしての活動も行い、デビューから半世紀以上が過ぎた現在も第一線で活躍を続けている。これまでに制作した楽曲は2019年時点で500曲以上[6]で、『ギネス世界記録』に「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として掲載されている[注釈 2]。

人物
「イエスタデイ」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」等といったビートルズの楽曲の作詞・作曲を行った。解散後の1970年代、新たにバンドウイングスを結成し、ボーカルとして「ジェット」「心のラヴ・ソング」などの楽曲を発表し話題となった。1980年代に入り、ウイングスは解散、ソロ名義で活動を始めた。『マッカートニーII』『フラワーズ・イン・ザ・ダート』といったアルバムを発表し現在に至っている。

ビートルズ時代を含め、基本的にベーシストとして活動しエレクトリックベースの使用が多いが、レコーディングおよびライブで度々ピアノを演奏している。ギターの演奏にも定評があり、ビートルズ時代の「タックスマン」、ソロとして発売した「恋することのもどかしさ」などではギターソロを披露している。また、「カミング・アップ」「ワンダフル・クリスマスタイム」などではシンセサイザー、「ジョンとヨーコのバラード」や「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」「ディア・プルーデンス」などではドラムス、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」などではメロトロンを演奏している。その他にも楽曲によりトランペット、フリューゲルホルン、マンドリンやチェロも担当している。それを示すように、1970年に発売されたアルバム『マッカートニー』1980年の『マッカートニーII』2005年の『裏庭の混沌と創造』2020年の『マッカートニーIII』では、ほとんどの楽器をマッカートニーが一人で演奏している。

作曲技法ではクラシック音楽、ベースの演奏スタイルではモータウンのジェームス・ジェマーソン[注釈 3]。ボーカル・スタイルではリトル・リチャードの影響が強い。ビートルズのメンバーでは最も高い声域を持ち、コーラスの一人多重録音も盛んに行っている。インタビューでは、お気に入りのギタリストはジミ・ヘンドリックス、お気に入りのベーシストはクロスオーバーのスタンリー・クラークと回答している。

信条は環境保護、動物愛護、平和主義、差別反対。ポールの差別反対が顕著に出ているのが、「ゲット・バック」の変更以前の最初の歌詞である。ポールは、イノック・パウエルの「血の川」演説に反発していた。最初のバージョンは、人種差別を告発し、米国と英国の移民に対する態度を批判していた。「プエルトリコ人はアメリカにいらない」「パキスタン人、仕事を奪ってはいけない」などの歌詞が含まれていた。元のタイトルは "(Don't Dig) No Pakistanis"[7](「パキスタン人は要らない」)だったが、レコード会社の懸念と、歌詞が逆の意味に誤解される危険性があったので、発表されたヴァージョンに変更された。

経歴

幼少期〜青年期
1942年6月18日木曜日にリヴァプールで誕生する。労働者階級出身。父のジェイムズはセールスマンや工場勤務で働く一方、”アマチュアのジャズ・ミュージシャン”で腕はセミプロ級でもあった。父方の曾祖父がアイルランド系で、さらに母方の祖父もアイルランド系だった。

母メアリー(1909 - 1956)が乳癌のため1956年に死去。この年、処女作「アイ・ロスト・マイ・リトル・ガール」を作曲する。同曲は後に1991年発売のライブ・アルバム『公式海賊盤』に収録される。ポールとジョンはいずれも母が亡くなっており、この点でもお互い共感するものがあったと言われている。

リヴァプール・インスティチュート(英語版)在学中の1957年7月6日、共通の友人の紹介でジョン・レノンと出会う。10月18日にビートルズの前身となるジョンのバンド、ザ・クオリーメンに加入する。真面目に勉学に取り組んでいたポールだったが、高校時代にさらに音楽にのめり込み、成績が下降していった[8]。

ビートルズ時代
西ドイツのハンブルクなどのクラブでの演奏で多数のライブを経験する。歓楽街のハンブルクではアルコール、ロックンロール、女性、ドラッグなどを嗜む日々だった。スチュアート・サトクリフ、ピート・ベストの脱退など何度かのメンバーチェンジを経た後、ジョン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターとの4人で1962年、ビートルズとしてパーロフォンよりシングル『ラヴ・ミー・ドゥ』でレコードデビューする。

ビートルズとして1966年6月に訪日し、熱狂的に迎えられて日本武道館にて公演を行った[9]。公演が実施される前には正力松太郎の「ベートルスとかペートルスとかいう連中」発言や、細川隆元、小汀利得や街宣車などの反対があったが、公演を無事に催行。ビートルズ日本公演以来、日本武道館は「日本音楽界の聖地」とも呼ばれる場合もある。

ビートルズ解散前後
ポールはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』にてビートルズからの脱退を1970年4月10日(金)に発表し[注釈 4]、ビートルズは事実上解散となる。その1週間後の4月17日、騒動の最中に彼は初のオリジナル・アルバム『マッカートニー』を発売する。脱退の反響が巻き起こした宣伝効果は大きく、アルバムは好調な売れ行きを見せ、アメリカの「ビルボード」誌で第1位を獲得し、「キャッシュボックス」誌でも第1位を獲得した。ジョン・レノンからは「グループの脱退宣言をアルバムの宣伝に利用した」として非難され、当時の音楽メディアやロック・ファンからは酷評する声も少なくなかった。目立つ曲は「恋することのもどかしさ」だけである。

翌1971年に発表されたシングル『アナザー・デイ』およびアルバム『ラム』にも『マッカートニー』の作風は受け継がれる。妻リンダとの連名で発表した『ラム』は前作同様にヒットし、イギリスでは第1位、「ビルボード」誌では最高第2位を獲得し、トップ10内に24週間もランクされるロング・セラーとなったが、評論家からは手厳しい批評を受けた。アラン・クレインにまつわる訴訟問題などで、険悪な関係に陥っていたビートルズの元メンバーの『ラム』への評価もきびしかった。このアルバムからアメリカ限定でシングル・カットされた「アンクル・アルバート〜ハルセイ提督」は、1972年度のグラミー賞で最優秀アレンジメント賞を獲得した。

ウイングス時代
1971年、新たなバンド、ウイングスを結成する。


1980年代
1980年は元ビートルズのメンバーにとっても、ファンにとっても最悪な年になった。1980年1月16日水曜日に訪日したポールは成田空港の税関で大麻取締法違反(不法所持)で現行犯逮捕され、9日間勾留された後に国外退去処分を受けた[10]。予定されていたウイングスの日本公演は全て中止となり、グループとしての活動が休止状態に陥ってしまう[注釈 5]。ポールは、ソロ・アーティストとしての活動を9年ぶりに再開。10年ぶりとなるソロ名義のアルバム『マッカートニーII』と先行シングル「カミング・アップ」で成功を収めた。

1980年12月8日、ジョン・レノンがニューヨークで射殺される事件が発生した[注釈 6] 。ビートルズの黄金時代を共に築いたパートナーであった彼の死にポールは大きな衝撃を受け、2か月以上自宅に引き籠って過ごした。翌年、音楽活動を再開させたポールは、プロデューサーのジョージ・マーティンの進言で腕利きのスタジオ・ミュージシャンを起用し、エリック・スチュワートやリンゴ・スターなどの有名ミュージシャンと共演、カール・パーキンスやスティーヴィー・ワンダーなどとはデュエットも行った。82年にはシングル「エボニー・アンド・アイボリー」とアルバム『タッグ・オブ・ウォー』を発表、ともに全米、全英で1位を獲得した。同年、マイケル・ジャクソンとのデュエット曲「ガール・イズ・マイン」を発表。マイケルとはアルバム『パイプス・オブ・ピース』でも「セイ・セイ・セイ」でデュエットしており、この曲も全米で1位を獲得した。

1984年には、久しぶりにポールらしさの出た佳曲「ひとりぼっちのロンリー・ナイト」を発表し、全英2位、全米6位とヒットした。さらに自らが脚本・音楽を手がけ、主演した初の映画作品『ヤァ! ブロード・ストリート』を制作・公開。ビートルズナンバーも収録されたサントラ盤『ヤァ! ブロード・ストリート』は成功を収めたが、対照的に映画の内容に関しては酷評され、興行的にも失敗に終わった。

1985年にはアメリカ映画『スパイ・ライク・アス』の主題歌『スパイズ・ライク・アス』が、全米第7位のヒットになった。同年7月13日にアフリカ難民救済を目的として行われた、20世紀最大のチャリティー・コンサート「ライヴエイド」(LIVE AID)では「ヘイ・ジュード」でイギリス・ステージのトリを飾った。

この1980年代中盤は有名なプロデューサーを起用して音楽活動を行うが、1986年のヒュー・パジャムプロデュースの『プレス・トゥ・プレイ』はチャート順位・売上共に不振に終わり、評論家からの評判も芳しくなかった。続いて発売される予定であったフィル・ラモーンプロデュースのアルバム(通称「ザ・ロスト・ペパーランド・アルバム」)は完成を目前にして頓挫してしまう。この頃を境に以前のような全米トップ10に入るような大きなヒット曲には恵まれなくなる[11]。一方で少年時代に慣れ親しんだロックンロールのスタンダード・ナンバーを歌った初のカヴァー集『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』を制作し、1988年にソ連限定で発表した。

音楽活動としては低迷していたポールだったが、1989年発表の『フラワーズ・イン・ザ・ダート』はエルビス・コステロとの共作の話題性も手伝って久々のヒット、全世界で250万枚以上のセールスを記録した。『フラワーズ・イン・ザ・ダート』の発売後、マッカートニー夫妻はアルバムに参加したスタジオ・ミュージシャン4人とともに10年ぶりの本格的なコンサート活動を開始する。1989年から翌年にかけてワールド・ツアーを行った。のちに『ゲット・バック・ツアー』と称されたこのワールド・ツアーでは、彼が長年演奏を躊躇していたビートルズ時代の作品がセットリストの約半分を占めた。1990年3月には24年ぶりの日本公演が実現。ツアー終盤、1990年4月21日のブラジル、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアム公演では18万人以上の観客を集め、有料コンサートの観客動員数の世界最高記録を更新した。このツアーでの演奏はライヴ盤『ポール・マッカートニー・ライブ!!』として発売され、映像は映画『ゲット・バック』として公開された。

1990年代
1991年初頭にはMTVアンプラグドの収録を行い、それが後に『公式海賊盤』としてリリースされる。マッカートニーはポピュラー音楽以外のジャンルにも挑戦し、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の創立150周年を記念した初のクラシック作品『リヴァプール・オラトリオ』を上演する。アメリカ人作曲家カール・デイヴィスとの共作で、ヴォーカリストにキリ・テ・カナワとアメリカのテノール歌手ジェリー・ハドレーを迎えたこの作品は、同名のライヴ盤もリリースされた。これ以降、現在に至るまで彼はロックやポップスと並行して数作のクラシック作品を発表している。

1993年にアルバム『オフ・ザ・グラウンド』を発表したマッカートニーは、『アンプラグド』と同じラインナップのバックバンドを率いてコンサート・ツアーを行う。『ニュー・ワールド・ツアー』と題されたこのツアーは、前回のツアーで訪れることのできなかった地域を中心にコンサートが行われ、公演の模様はライヴ盤とビデオで発売された。なお、当初はスケジュールに組み込まれていなかった日本公演も93年秋に行っている。

1994年、ビートルズの歴史を振り返るドキュメンタリー作品および未発表音源集を発表する『ザ・ビートルズ・アンソロジー』プロジェクトが本格的に始動した。とりわけ注目されたのが「25年ぶりの新曲発表」と大々的に報道された新録音である。ジョン・レノンが1970年代後半に録音したデモテープに、他の3人のメンバーの演奏を重ねて完成させるというこの企画は、1980年代後半にハリスンをカムバックに導いたことでも知られるエレクトリック・ライト・オーケストラのジェフ・リンの協力を経て、最終的に「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」として結実した。

1995年、リンを共同プロデューサーに迎えてアルバムを制作し、1997年に『フレイミング・パイ』としてリリースする。この作品は全米と全英のチャート両方で高順位を記録しただけでなく、翌年の第40回グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネートされるなどその内容も賞賛された。1998年に長年連れ添った妻リンダが乳癌で亡くなると、マッカートニーは彼を支え続けた愛妻の死を悼んで2作のクラシック作品を捧げ、さらに彼女が生前に提案していたロックン・ロールの傑作カヴァー集『ラン・デヴィル・ラン』を発売した。

2000年代
2001年、ウイングス時代の軌跡を振り返るドキュメンタリー作品『ウイングスパン』を発表。2枚組の同名ベスト盤も同時発売され、アメリカでは100万セットを売り上げてプラチナ・ディスクに認定された。同年の秋にはリンダが亡くなって以来初のオリジナル・アルバム『ドライヴィング・レイン』も発表している。

9月11日のアメリカ同時多発テロ事件による世界貿易センターの崩壊で亡くなった消防士の追悼とチャリティを目的に、10月20日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて『ザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティ(英語版)』がポールの提唱によって開かれた。ポールの呼びかけに応じ、 デヴィッド・ボウイ、ミック・ジャガーとキース・リチャーズ、エルトン・ジョン、ボン・ジョヴィ等々、多数のミュージシャンが参加した。

2002年、アメリカで9年ぶりにコンサート・ツアーを行う。この公演を収めたライヴ盤『バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002』はアメリカでミリオン・セラーを記録した。同年11月には、3度目のソロでの来日公演が行われた。2003年にはロシアモスクワにある「赤の広場」でコンサートを開いて話題となった。この大規模なコンサートは、多くの観客を動員して大成功を収めた。

2004年の第56回のエミー賞で、10万人を集めたロシア公演の2時間のドキュメンタリー番組『イン・レッド・スクエア』が、「マルチカメラ編集賞(ミニシリーズ、映画、特別番組)」を受賞した。2005年には「ライブ・イン・ザ・U.S.2005」としてアメリカツアーを行い、その中のカリフォルニア州のアナハイムでのコンサートでは史上初の試みとして、アメリカのNASAを通じて地球から約220マイル上空の宇宙飛行士へライブを生中継した。この時のナンバーはイングリシュ・ティとビートルズナンバーのグッド・デイ・サンシャインだった。


また、2005年7月に世界中で同時に行われた、チャリティー・コンサートであるLIVE 8(ライブ エイト)にも参加した。 2003年から2005年春までの長期間に渡り、マッカートニーはレディオヘッドの作品などで知られるナイジェル・ゴッドリッチをプロデューサーに迎えてアルバムを制作する。2005年の秋に『裏庭の混沌と創造』として発表されたこのアルバムは2006年の第48回グラミー賞に3部門でノミネートされ、アルバムに先がけてシングル・カットされた「ファイン・ライン」も、同賞のソング・オブ・ザ・イヤーの候補に挙がった。また、2007年の第49回グラミー賞に最優秀男性ポップボーカル賞に「ジェニー・レン」がノミネートされた。


2007年、長年契約していたEMIから、新興レーベル『ヒア・ミュージック』に電撃移籍。日本での発売元も東芝EMIからユニバーサルに変わった。2007年6月、移籍第1弾アルバム『追憶の彼方に〜メモリー・オールモスト・フル』を発表。このアルバムでも2008年の第50回グラミー賞に3部門でノミネートされると共に、全米では1982年の『タッグ・オブ・ウォー』以来となるオリジナルアルバムでのプラチナ・ディスクに認定された。

2008年、ブリット・アワードにて特別功労賞を受賞。5月、米エール大学から名誉音楽博士号を授与される。

2010年代
2010年9月22日、ポール・マッカートニーとコンピューター大手HPは、マッカートニーの作品をクラウド型のデジタル・ライブラリー化する計画を発表。HP社はマッカートニーのプロダクション会社、マッカートニー・プロダクション・リミテッドと共同で、インターネット上で公開しながら、デジタル・ライブラリーを保護することが可能な最新システムを構築する。HP社によると、ファンは、マッカートニーのライブラリーの一部を「個人的に」視聴することができるという。計画の詳細はマッカートニーのウェブサイト「paulmccartney.com」でも公開されている。

アメリカでポピュラー音楽で世界の文化に大きな影響を与えた作曲家・演奏家に贈られるガーシュウィン賞を受賞。授賞式では、バラク・オバマ大統領から直々に賞を贈られた。 2012年2月、ダイアナ・クラールらを迎えて制作した、ジャズのスタンダード・ナンバーのカヴァー集『キス・オン・ザ・ボトム』をリリース。このアルバムは第55回グラミー賞で最優秀トラディショナル・ポップ・ボーカル・アルバム賞を受賞した[12]。2月9日には個人としてハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を獲得[13]。6月4日、エリザベス2世の英国女王即位60周年祝賀の『クイーンズ・ダイヤモンド・ジュビリー・コンサート(英語版)2012』に参加し、コンサートのトリを飾った。7月27日、ロンドンオリンピックの開幕式で、会場を埋めつくした観衆とともに「ヘイ・ジュード」を熱唱。
2012年12月12日には、ハリケーン・サンディの被災地を支援する121212コンサートでニルヴァーナのデイヴ・グロール、クリス・ノヴォセリックらと共演した。

2013年10月、オリジナル作品としては5年ぶりとなる新作アルバム『NEW』を発表。全英・全米では3位、日本では2位(デイリーチャートでは1位)とヒットし、ゴールドディスク(10万枚販売)にも認定された。11月には11年ぶりとなる日本公演を大阪、福岡、東京で行い、26万人を動員した。

2014年5月17日、前年に引き続き日本公演が東京と大阪で予定されていたが、ウイルス感染による体調不良で中止となり緊急帰国する。1975、1980年に続く3度目の公演中止となった。日本公演直後に予定されていた初の韓国公演も中止となり、6月の米国公演は10月以降に延期となった。7月5日、ニューヨーク・オールバニ公演よりツアーを再開。約3時間で40曲を熱唱した[14]。

2015年1月、リアーナ、カニエ・ウェストと共演した『フォー・ファイブ・セカンズ(英語版)』が24年ぶりの全米トップ10ヒットを記録。4月には日本公演が京セラドーム大阪、東京ドームで計4回、追加公演として1966年のビートルズ以来49年ぶりとなる日本武道館での公演が行われた。日本武道館でのライヴは同年7月と10月に日本でTV放送された。

2016年8月17日、キャピトル・レコードとの再契約を発表し、同レーベルへの復帰第1弾となる新作アルバムの制作中であるとも報道される[15]。2016年12月31日、NHKの『第67回NHK紅白歌合戦』にビデオ出演し、「2017年に日本に行きます!」(I'm coming to Japan in 2017. See you there!)と発言。「ONE ON ONE JAPAN TOUR 2017」と題し、2017年4月25日(火)の日本武道館と、4月27日・29日・30日の東京ドーム公演を行った[16]。

2017年1月18日、マイケル・ジャクソンが1985年に購入した多くのビートルズの楽曲の著作権を保有している世界最大の音楽出版会社『SONY/ATV』に対し、ビートルズの楽曲の著作権の返還を求めて米ニューヨーク・連邦裁判所に提訴する。SONY側は「提訴は不必要で残念」と述べた。同訴訟は同年7月に示談が成立する[17]。

同年7月公開の映画「パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊」では、主人公ジャック・スパロウの叔父「ジャックおじさん」を演じ、牢屋の中で歌う姿をみせている[18]。歌っているのはビートルズの「レット・イット・ビー」にも収録されたリヴァプールの俗謡「マギー・メイ」。

2018年9月7日、古巣キャピトルに戻りリリースしたニューアルバム『エジプト・ステーション』が『タッグ・オブ・ウォー』以来36年ぶりの全米チャート1位を獲得[19]。10月から11月にかけて、東京ドーム、初となる両国国技館、名古屋ドームで公演を行った。

2020年代
2020年12月18日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックによるロックダウン中に自宅スタジオで制作したアルバム『マッカートニーIII』をリリース。全英アルバムチャートにおいて、ソロ名義では『フラワーズ・イン・ザ・ダート』以来、31年ぶりとなる第1位を獲得した[20]

環境保護活動
菜食主義者であり、環境保護活動家としても精力的に活動している。同じく菜食主義者だった最初の妻リンダの娘ステラ、2番目の妻ヘザー・ミルズと共にPETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)の会員でもある。

2000年3月29日、キツネ狩りの廃止が議論されているイギリスに対して「臭いの跡を追う猟」という代替案を提案した[21]。
2005年11月28日、PETAが作成した中国での犬猫の処分を見た際、妻ヘザー・ミルズと共に(日本など、かなりの国で動物の処分は実施されているが)「私は中国では演奏しない。2008年の北京オリンピックを無視する。中国製品は不買しよう」と人々に呼びかけた[22]。
2006年3月2日、カナダのアザラシ猟に対する反対活動の最中、ポールとヘザーはカメラの前でアザラシの子供を抱き抱えた。この行為はカナダの海洋哺乳類侵害罪に抵触していたが、責任は問われなかった[23]。

私生活
1967年に5年間交際していたイギリスの女優ジェーン・アッシャーと婚約したが、翌1968年にポールの浮気が原因で婚約破棄されている。

その直後から交際を始めた写真家リンダ・イーストマンが妊娠したため、1969年3月12日に結婚した。この時リンダには、前夫で地質学者のジョセフ・メルヴィル・シー・ジュニアとの娘であるヘザー・ルイーズ・シー(2人の結婚後にはヘザー・マッカートニー)がいた。以降、リンダはポールを公私共に支え続けたが、1998年4月17日 米国アリゾナ州ツーソンにて乳癌のため56歳で死去した[43]。

その後ポールとリンダの間には、写真家のメアリー、ファッションデザイナーとして世界的に有名になるステラ、ミュージシャンとして活躍するジェームズの3人の子供が生まれた。

2002年にリンダの死後に出会った元モデルのヘザー・ミルズと婚約を発表、その後正式に再婚し、2003年には娘ベアトリス・ミリーが生まれた。しかし、お互いの生活のすれ違い[注釈 9]やポールの子供たちとの不仲[注釈 10]などが原因で2006年に別居した。結局、離婚は2008年5月12日に認められ、6週間後に成立した[注釈 11][注釈 12][44]。

2011年、4年ほど交際していたアメリカ人女性ナンシー・シェベルとの婚約を5月6日に発表[注釈 13][45]。同年9月14日、ナンシーとの婚姻予告届をロンドン市内の登記所に提出。同年10月9日に結婚し、ロンドン市内の公会堂で結婚式をあげた。2013年4月、サンデー・タイムズが「英音楽界での長者番付」を発表し、ポールと、アメリカで運送会社を経営する妻ナンシー・シェベルの合計資産は6億8千ポンドにも上り、長者番付1位を飾った。

2019年時点で子どもが5人、孫が8人いる。祖父として孫に本の読み聞かせをすることもあり、2019年11月5日に初の絵本『グランデュードのまほうのコンパス』を刊行した。かつて孫を寝かしつけようと読んだE・E・カミングスの詩集に卑猥な表現があって、絵本の自作を思い立ったという [6]。

サッカーのプレミアリーグでは、イングランド・リヴァプールをホームタウンとするエヴァートンFCのファンである。

またポールは大相撲のファンでもある。1993年11月中旬に来日した際は、福岡公演の前日 11月17日に羽田空港から航空機で福岡空港に移動したのち大相撲11月場所観戦のため福岡国際センターに直行。予告なくポールが登場したために場内は騒然となり、翌日のスポーツ新聞でも取り上げられた。

2013年11月に来日の際にも福岡で観戦。日本相撲協会が11月14日午前から「ポール・マッカートニーさんが相撲を観に本日いらっしゃいます」と告知しており、画面に何回も登場した。また懸賞制度に特に興味を持ち、12・13日目と千秋楽の結びの一番において新作アルバム『NEW』を宣伝する懸賞を5本ずつ掛けた[46]。初めて懸賞をかけるときは1日1本・15日間懸けることになっており、申し込みは場所前となっていたが、日本相撲協会はポール側の申し入れを「特例」として受け付けた[47]。11月22日に帰国の途につくポールにこのことを大きく報じた紙面を記者が見せると大変に喜んだという[48]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/733.html#c1

[近代史5] 食べてはいけない 中川隆
134. 2021年12月11日 17:04:18 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[24]
本当は恐ろしい意外にも身近すぎる食べ物や飲みものについて
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1367.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/425.html#c134
[リバイバル3] 「住宅は資産」という幻想で誰があなたをカモにするのか? 中川隆
316. 2021年12月11日 17:12:58 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[25]

2021年12月10日
住宅ローンを組んだ4%、25軒に1軒がローン破綻している

住宅ローンの25軒に1軒がローン破産しています


物価上昇で多くの住宅ローンが破綻する理由

あらかじめ予想されていた事ではあったが、新型コロナ流行で収入が減少し、住宅ローンを返済できない人が増えている。

予想できなかった要素はインフレで、日本以外の国では物価が上がり金利も上昇しようとしている。

物価が上がるインフレを抑えるには、金利を上げてお金を借りにくくするのが有効だからです。

低金利だとお金を借りやすくなり好景気になるが物価が上昇します。

逆に高金利だと借りると損なので、お金を借りなくなって不景気になるが、物価上昇は抑えられる。

日本はまだインフレではないが、食料品や消費財の値上げが目立っていて、物価上昇率2%を超える可能性がある。


インフレ率2%は2012年に安倍首相が目標にしたが一度も達成できず、平均で1%未満にとどまった。

2020年のインフレ率はマイナス0.03%、日銀は21年を0%、来年22年を0.9%と予想している。

これがもしイギリス並みの4%とかになったら、住宅ローンの変動金利も4%程度になる可能性が高い。


変動金利はゼロ金利下ではゼロに近いので選択する人が多いが、もし4%なら2000万円だとして年間80万円も支払額が増える。

2%でも年間40万円増えてしまい、平均返済額年100万円が4割も増えてしまいます。

住宅ローン利用者の平均融資額は2000万円程度、年間返済額は100万円程度となっています。

住宅ローンは巧妙にできている

住宅ローンは巧妙にできていて、最初は金利だけを払い、後半やっと元本を払う。

35年間のうち10年くらい払っても、元本がほとんど減っていないのはこのためです。

もし途中で返済不能になって解約すると、どの時点で解約しても住宅の価値より残高が多い。


住宅ローン返済不能になると家を差し押さえられるが、差し押さえられても1000万円ほど債務が残る例が多い。

しかも住宅ローンは強制解約なので1%のような低金利ではなく、10%もの高金利が適用されます。

残高が1000万円で金利が10%だったら金利だけで年100万、しかも30年などの長期ではなく「1年以内」などの返済が求められる。


返せるわけ無いのは銀行は百も承知で、連帯保証人に請求して資産を差し押さえにかかります。

統計ではコロナ前の平成29年に、住宅ローン利用者の25人に1人が「返済に行き詰っている」と回答しています。

今後はどう考えてもこの割合は10人に1人のように増えていくと考えられます。


政府は金融機関に「すぐ差し押さえずローン長期化や一定期間据え置くように」指導しましたが、永遠ではありません。

実際に住宅ローン破綻した件数は2015年が5.12%、2019年は3.2%、これは多くの人が思うより多いのではないでしょうか?

平均すると4%なので『新築住宅の25軒に1軒はローン破産する』のが現実です

https://www.thutmosev.com/archives/87329841.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/615.html#c316

[近代史7] 「渚のシンドバッド」 都倉俊一(1948年6月21日 - ) 中川隆
1. 中川隆[-14604] koaQ7Jey 2021年12月11日 17:28:44 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[26]
都倉 俊一(とくら しゅんいち、1948年6月21日 - )は、日本の作曲家、歌手。東京都出身[1]。第23代文化庁長官。元日本音楽著作権協会(JASRAC)会長。元エスワン・カンパニー経営者。シュン・トクラ名義でも活動している[1]。


来歴・人物
4歳のころからバイオリンを習う[1]。父都倉栄二が外交官であったことから、7歳の時にドイツに渡り音楽の基礎を学ぶ[1]。12歳になり帰国[1]。学習院中等科の同級生には元総務大臣の鳩山邦夫、元日本郵政社長の長門正貢、元朝日新聞編集委員の萩谷順などがいる[2]。中学校卒業後に再びドイツに渡り、「ビートキャッツ」というバンドで活動[1]。18歳で再び帰国し、学習院大学法学部に入学[1]。1971年学習院大学法学部卒業[3]。

1968年、フォーク・グループ「ザ・パニック・メン」にヴォーカリストとして参加[1]、「思い出の小径」でレコード・デビューを果たす[1]。大学2年生の時から作曲家としての活動を始め、中山千夏の「あなたの心に」で注目を集めた。さらに、都倉らしくない曲調の「天使になれない」(歌:和田アキ子)も好評だった。1974年に大信田礼子と結婚し、78年に離婚した[4]。

1970年代前半は山口百恵[5]、フィンガー5[6]などを手掛けた。また70年代には阿久悠とのコンビで、ピンク・レディーの「ペッパー警部」「UFO」「カルメン77」[7]で大ヒットを連発した。この頃、日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』の審査員も務めた[1]。

1977年日本音楽著作権協会評議員[3]。

1983年から音楽活動の拠点をロサンゼルスに移し、「シュン・トクラ」の名義で作曲・プロデュース業を開始[1]。

かつては鈴木雄大や南野陽子、BaBeを擁した芸能プロダクション「株式会社エスワン・カンパニー」を経営していたが、1989年に南野が独立、翌年の1990年にはBaBeの二階堂ゆかりの妊娠・結婚で急遽グループは解散。コンサートツアーが決まっていたが全て中止になる等もあり会社の経営状況が悪くなり倒産。南野とは独立時に確執があったと一部で報道された。一方南野陽子は新人時代月給3万円で寮費3万円、ドラマ「スケバン刑事II」やヒット曲連発の時期でも、6万円など月給が10万円に満たなかったと証言した[8]。また、BaBeに支払っていた給料は”月7万円程度”と、報酬面で相当な冷遇を強いていたこともBaBe本人達から暴露された。

1995年日本作編曲家協会理事。2001年日本音楽著作権協会理事。2005年日本作曲家協会理事[3]。

2006年に再婚。Jリーガーの都倉賢は甥、女優の都倉伶奈は姪。

2009年日本作曲家協会常務理事事[3]。

パイロットの資格を持っている。

ミュージカルの制作も手がける傍ら、日本音楽著作権協会理事を務め、2010年8月12日より船村徹の後を受けて会長に就任した[9](2016年3月退任)。この間、ベルヌ条約の「敵国条項」が旧同盟国であった日本に対して不平等条約として機能したままであった事に対して、ジュネーヴでの会議で長時間にわたる英語の抗議演説を行い、現在ではその条項は撤廃されている。

2011年文部科学省文化審議会委員[3]。

2012年には国立競技場の有識者会議メンバー(スポーツWG座長)、および国際デザインコンペの審査委員を務めた[10]。

2014年昭和音楽大学客員教授[3]。

2015年3月23日付で横綱審議委員会の委員に就任した。

2015年10月国際音楽創作者評議会執行委員。2016年日本音楽著作権協会特別顧問、アジア・太平洋音楽創作者連盟(APMA)執行委員会会長[3]。

2017年12月31日放送の『第68回NHK紅白歌合戦』より、同年7月21日に逝去した平尾昌晃の後を引き継ぐ形で「蛍の光」の指揮者に就任した。

2018年、文化功労者選出。

2021年4月1日、第23代文化庁長官に就任[11]。

作曲作品

あ行
あおい輝彦
夜霧のかなたへ
麻丘めぐみ
銀世界
映画のあとで
浅田美代子
足ながおじさん
わたしの宵待草
恋は真珠いろ
浅野ゆう子
バレンチノ インフェルノ
麻生よう子
逃避行
石原慎一
時の中を走りぬけて
スカイ・ハイ・ヒーロー
伊藤つかさ
ハートの季節
井上順
昨日・今日・明日
大信田礼子
同棲時代
太田貴子
忘れチャイナの青い鳥
ハローMR.イエスタディ
岡田奈々
ひとりごと
女学生
尾崎紀世彦
恋人よ帰れ

か行
柏原芳恵
No.1
カプチーノ
九時からのリリィ
狩人
あずさ2号
コスモス街道
若き旅人
青春物語
みちのく夏愁
可愛かずみ
恋はネコ科
倉田まり子
グラジュエイション
いつかあなたの歌が
HOW! ワンダフル
イヴニング・スキャンダル
June浪漫
DAY BY DAY
クリッパー
BOY
黒木真由美
好奇心
感情線
桑江知子
私のハートはストップモーション
香坂みゆき
青春舗道
まわれ恋の風車
危険な予感
郷ひろみ
バイブレーション (胸から胸へ)
ハリウッド・スキャンダル
若さのカタルシス
小林美樹
人魚の夏

さ行
西郷輝彦
掠奪
愛は燃えているか
愛しあうなら今
西城秀樹
星から来た男
渋谷哲平
明日に向って
君だけを愛して
Deep (ディープ)
スタントマン
標的
ジャンピング・ジャック・フラッシュ
清水由貴子
神様・なぜ愛にも国境があるの!
朱里エイコ
白い小鳩
少女隊
FOREVER〜ギンガムチェックstory〜
お元気ですか?マイフレンド
鈴木雄大
レイニー・サマー

た行
高田みづえ
花しぐれ
パープル・シャドウ
太川陽介
Lui-Lui
田中星児
僕の故郷へおいで
ちあきなおみ
花吹雪
真夜中
つるの剛士
君にありがとう

な行
中山千夏
あなたの心に
仲雅美
海が見えたら
八時発準急電車
夏木マリ
ウィング

は行
原真祐美
決心
ピンク・レディー
ペッパー警部
S・O・S
カルメン'77
渚のシンドバッド
ウォンテッド (指名手配)
UFO
サウスポー
モンスター
透明人間
カメレオン・アーミー
ジパング
波乗りパイレーツ
マンデー・モナリザ・クラブ
DO YOUR BEST
OH!
テレビが来た日
フィンガー5
個人授業
恋のアメリカン・フットボール
フォーリーブス
地球はひとつ
あなたの前に僕がいた
ヘイベイビー
急げ! 若者
友情
ブルドッグ
男と女の紙芝居・三幕
ペギー葉山
渋谷・愛の街
ペドロ&カプリシャス
ジョニィへの伝言
五番街のマリーへ
BOYS AND MEN
友ありて・・

ま行
前野曜子
ゆうなぎ
夜は一人ぼっち
誘惑
MAX
パルテノン
松崎しげる
私の歌
マイ・ラブ〜I Gave You My Love〜
水谷大輔
星屑海岸
南沙織
MUSIC MAKE OUR FUTURE - CBS・ソニー10周年記念社歌
南野陽子
恥ずかしすぎて
森本英世
恋祭り

や行
山口百恵
としごろ
青い果実
禁じられた遊び
春風のいたずら
ひと夏の経験
冬の色
湖の決心
夏ひらく青春
ささやかな欲望/ありがとう あなた
山本リンダ
どうにもとまらない
じんじんさせて
狙いうち
狂わせたいの
燃えつきそう
ぎらぎら燃えて
きりきり舞い
由美かおる
地球の裏側

ら行以降
LAZY
カムフラージュ
赤頭巾ちゃん御用心
地獄の天使
燃えろロックン☆ロール☆ファイヤー
ハローハローハロー
レイフ・ギャレット
Runaway Rita(全米81位。都倉作品で唯一Billboard Hot 100にチャートインした曲)
和田アキ子
天使になれない
夜明けの夢


広東語版
陳秀雯
天河 1983(原曲:狩人「回想」)
徐小鳳
莫忘記 1982(原曲:ペドロ&カプリシャス「メリーゴーラウンド」)


その他

自治体
渋谷区歌
学校関係
私立須磨学園中学校・高等学校校歌
私立長崎国際大学校歌
東京都港区立白金の丘学園校歌
アニメ番組
『デビルマン』ED:今日もどこかでデビルマン
社歌
リクルート
政党イメージソング
たちあがれ日本[12]
企業イメージソング
『愛のメッセージ』(フジテレビ河田町時代 イメージソング)
舞台
『風と共に去りぬ (宝塚歌劇)』:君はマグノリアの花の如く

ミュージカル
黒い服の女(1991年、東京・パルコ劇場、プロデュース)
AN INSPECTOR CALLS(1994年、ロンドン・アートスフィア劇場、総合監修)
OUT OF THE BLUE(1994年、ロンドン・シャフツベリー劇場、制作総指揮)
GALAXY EXPRESS 999 The musical(1997年、東京・アートスフィア、アースティスティック・スーパーバイザー、作曲)

歌手としての作品

シングル
想い出の小径(ザ・パニック・メン)1968年9月 A面はザ・ロック・キャンディーズ「どこかに幸せが」
雨あがり c/w 古い椅子と少女(ジュリアンズ)1969年5月
停車場で… c/w 目の中の海(ジュリアンズ)1970年2月
希望という名のこの道 c/w 希望という名のこの道(英語)
この部屋 c/w アンド・ラブ・ウィル・グロウ
砂時計 c/w ソネット 1976年
メッセージ c/w 感情旅行 1976年

アルバム
『This is my song 都倉俊一の世界』13曲中11曲は英語詞。
『都倉俊一 青春の世界』非売品
『抱擁』1976年


プロデューサーとしての仕事
都倉俊一グランド・オーケストラ
ピンク・ベイビーズ


著書
『わんぱくサムの二都物語』講談社 1982
『暮らしに生きる音楽』富山県教育委員会 精神開発叢書 1985
『都倉俊一 私の日本人論』曜曜社出版 1987
『あの時、マイソングユアソング』新潮社 2008

編共
『あなたと旅と音楽と』編 大和書房 1975
『青春抱擁』藤公之介共著 ルック社 1976

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%80%89%E4%BF%8A%E4%B8%80
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/735.html#c1

[近代史7] 「春一番」 穂口雄右(1948年1月24日 - ) 中川隆
1. 中川隆[-14602] koaQ7Jey 2021年12月11日 17:51:15 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[28]
穂口 雄右(ほぐち ゆうすけ、1948年1月24日 - )は、日本の作詞家・作曲家。東京都出身[1]。日本大学芸術学部中退。

人物・来歴
14歳の時にウクレレを始め、15歳の時にギターとピアノを始める[1]。1か月ほど音楽教室に通うが、その後は独学で音楽を学ぶ[1]。アマチュア時代は寺尾聰・大野良二とともにバンド「テディーボーイズ」を結成し、ギターを担当[1]。

その後、田中清司に誘われ、ジャニーズのバックバンド「ジャニーズ・ジュニア」にオルガニストとして一時参加[1]。これがプロとしての最初の仕事だった[1]が、穂口は「全くのアマチュア感覚でやっていた」と述べている[1]。

渡辺プロダクションへ所属し、1966年6月に水谷淳(後の水谷公生)、轟健二(後の松崎澄夫、アミューズ元副会長)らと、GSバンド「アウト・キャスト」を結成。本格的にオルガニスト、キーボーディストとしてプロの音楽活動を開始した。1967年秋に「アウト・キャスト」を脱退し、「津々美洋とオールスターズ・ワゴン」に途中から加入。

日本大学芸術学部在学中に編曲家の森岡賢一郎に抜擢され、19歳で当時最年少のスタジオ・ミュージシャンとなり、多くのレコーディングセッションに参加。1967年から1971年にかけて、スタジオミュージシャンとして一万曲以上のレコーディングに参加している[1]。

また水谷公生、武部秀明(元「アダムス」の千原秀明、愛称:チー坊、2002年没)、戸叶京助による洋楽コピーバンド「オールド・グランド・ダッド」を始め、多くのスタジオワーク、及びアレンジャーサポート活動を行った。

1972年、24歳の時にスタジオミュージシャンとしての活動を休止し、作編曲家としての準備期間に入る[1]。1973年から1978年まで、作編曲家として約500曲の作曲・編曲を担当[1]。渡辺プロダクション出身ではあるが宮川泰らのように専属契約ではなかったため他のプロダクションのアーティストにも曲を提供している。

1982年、原宿に音楽学校『プロフェッショナルミュージックスクール AMVOX(アムバックス)』を設立。

2017年、特定非営利活動法人ミュージックプランツ名誉会長就任。後進の育成に励む。

穂口とキャンディーズ
作曲家に転身して間もないある日、テレビで見た可愛い女の子3人組にヒットの可能性を見出した穂口は、後日久々に会った松崎澄夫にそのことを話し、このような3人組のグループをプロデュースしてはと提案したところ、その3人組を松崎がプロデュースしていたと教えられて驚く。その3人組こそ、当時発足して間もないキャンディーズであった。穂口は松崎の依頼で彼女らのレッスンを担当することになり、曲提供も行うようになった。その後、「夏が来た!」で事務所が2匹目のドジョウを狙ったことに不信感を抱き、この曲を最後に一度キャンディーズからは離れたが、松崎の依頼を受けて「わな」で復帰(この間、「暑中お見舞い申し上げます」の作曲依頼を受けたが断っている。ただし、B面の「オレンジの海」は穂口の作・編曲である)、グランドフィナーレまでの間、3人を後押しした。

作詞、作曲、編曲を担当した代表作「春一番」(1976年 キャンディーズ)は、テレビCMなどで繰り返し放送されている。もともとはアルバムに収録された一楽曲にすぎなかったが、ファンクラブからの意見で後にシングルカットされたという逸話がある[2]。また、1996年12月に発生した「ペルー日本大使公邸占拠事件」では、「ラジオアメリカ」が「春一番」(他に「上を向いて歩こう(SUKIYAKI)」「コンドルは飛んでいく(ペルー民謡)」「ラジオ体操」)を日本語放送して当時人質となっていた者たちを励ました。

「わな」での3人の成長ぶりに離れていた間でも努力を怠らなかったことを感じ取った穂口は「微笑がえし」のレコーディングにおいて3人に敬意を表し、アイドルではなくミュージシャンとして扱うため、3人にも初見でのレコーディングをさせることを提案する。スタッフにも異論は出ず、3人も完璧な歌唱でこれに応え、レコーディングはあっという間に終了したという。

音楽著作権問題の活動
旧態依然とする音楽業界に対してインターネット時代の音楽や著作権のあり方について具体的な提言を行える数少ない日本音楽著作権協会評議員として十数年間活躍した。

テレビ朝日ミュージックの著作権管理の問題点をホームページ上で指摘をした所、記事の削除と金1000万円の損害賠償の支払いを求めて提訴されたことがある。しかしこれは、自作品の出版管理にかかる至極当然な主張であったため、裁判長の勧告によって和解となり、テレビ朝日ミュージックに関する記述も削除された。 なお、ホームページ上で指摘したという問題点の詳細については、和解条項により現在では公表できないことになっている[3]。

穂口は、40数年在籍していた日本音楽著作権協会を2012年3月31日付けで退会した[4][5][6][7]。穂口が作詞・作曲した「春一番」と「夏が来た!」は、日本音楽著作権協会の管理下から離れ、穂口自身の管理楽曲となった[5][6][7][8]。穂口は、代表取締役を務める法人のウェブサイトにて「春一番」と「夏が来た!」について引き続き同一条件にての使用許諾を表明したが、一部の音楽配信事業者は「春一番」と「夏が来た!」の音楽配信を停止した[6][8]。日本放送協会は穂口との年間契約に合意したが、通信カラオケ事業者の大手である第一興商とエクシングは、「春一番」と「夏が来た!」のカラオケ配信を停止した[5][6]。

穂口が「春一番」と「夏が来た!」の著作権を日本音楽著作権協会の信託から引き上げ、自己管理下に置いたことには理由があった[7]。穂口は、放送局および広告代理店系列の音楽出版社が著作権および著作隣接権(原盤権)を掌握しているという現状の構図に対して、疑義を呈する意思があったからであると述べた[6][9]。

音楽業界は、この半世紀に至るまで、放送局と一蓮托生の関係にあった[9][10]。しかし、CD不況のみならず、音楽配信の売り上げもまた低迷するなか、音楽業界にとって命綱ともいうべき存在であった放送局の大衆への影響力が低下したことが、音楽業界をさらに窮地へと追いやった[9]。音楽業界にとって絶頂期であった1998年のレコード生産金額は4924億円。しかし2010年には、それが1874億円にまで減少した。減少率は62%にまで達してしまった[9]。

事態が事ここに至ってもなお、音楽業界は、自らを省みる行動には出なかった。それどころか、キャンディーズの一員であった田中好子の没後、彼女を偲ぶコメントが多く寄せられていたYouTubeの動画を、ソニー・ミュージックエンタテインメントの代理人である日本レコード協会は、ソニー・ミュージックエンタテインメントが保有する著作隣接権(原盤権)を根拠に削除した[5]。穂口はこれらの行為を、YouTubeが提供する「収益化」という機能を利用すれば「著作隣接権者として収益を得ながら、ファンの皆様のために動画を掲載し続ける選択肢もあった」にもかかわらず、「ファンの皆様のコメントもろとも削除するという血も涙もない行動を、たかだか自分達の金銭的利益のために行った」として、「レコード協会の行動は著作権法の立法の精神を踏みにじる暴挙」と批判した[5]。

なお、「春一番」のカラオケ配信は、「当初の目的を達成した」として穂口が2015年初めに著作権を米BMI経由で日本音楽著作権協会の管理に戻したことにより再開している[11]。

TUBEFIRE裁判
穂口は、「春一番」と「夏が来た!」の著作隣接権(原盤権)を保有するソニー・ミュージックエンタテインメントと始めとする日本レコード協会の31社から、約2億3000万円もの賠償金を求められ提訴された[12][13]。この民事事件を各レコード会社から受任したのは、司法官僚の天下り先であるTMI総合法律事務所に所属する弁護士を中心とした弁護団である[12]。穂口は、訴訟を通じて原告らの弁護団の主張を聞き、「かなりいい加減な裁判」との見方を示した[13]。

裁判は、2014年12月17日に和解が成立。和解内容はレコード会社側が損害賠償請求を放棄するかわりに、ミュージックゲート側はサービスを再開しないことで双方合意。高額の著作権裁判で損害賠償が0円になることは前代未聞だが、これはTUBEFIREが設置していた「著作権保護システム」が有効に機能し、レコード会社が主張した10000ファイルのうち、実際には121ファイルだけに侵害の可能性があることを裁判所が認めた結果である。なお、ミュージックゲート側も和解条項の中で121ファイルについての侵害の可能性を認めている。

参加バンド
ジャニーズ・ジュニア
アウト・キャスト
津々美洋とオールスターズ・ワゴン
猪俣猛とサウンドリミテッド
ピープル(ジャニーズ時代の盟友・田中清司も参加)
バンドと言っても、スタジオ・ミュージシャンたちが集ってシングルを一枚レコーディングしただけの活動。
稲垣次郎とソウル・メディア (同じく田中清司も参加)

手掛けた曲・作品

歌謡曲
RCサクセション
「ぼくの好きな先生」(編曲)
あいざき進也
「気になる17才」(作曲/編曲)
「シンデレラは6月生まれ」(作曲/編曲)
「君におくる愛のメロディー」(作曲/編曲)
「PEAK」(作曲/編曲)
アグネス・チャン
「ポケットいっぱいの秘密」(作曲)
天地真理
「木枯らしの舗道」(編曲)
アン・ルイス
「ラスト・シーン」(作曲/編曲)
石野真子
「失恋記念日」(作曲/編曲)
伊丹サチオ
「涙」(作曲/編曲)
岩崎宏美
「二十才前」(作曲/編曲)
神田広美
「人見知り」(作曲/編曲)
「哀しみ予報」(作曲/編曲)
「ジャスミンアフタヌーン」(作曲/編曲)
「約束」(作曲) ※野原理香名義。
「帰る日」(作詞/作曲/編曲) ※岸田采子名義。
キャンディーズ
「そよ風のくちづけ」(編曲)
「なみだの季節」(作曲/編曲)
「年下の男の子」(作曲/編曲)
「内気なあいつ」(作曲/編曲)
「その気にさせないで」(作曲/編曲)
「春一番」(作詞/作曲/編曲)
「夏が来た!」(作詞/作曲/編曲)
「わな」(作曲/編曲)
「微笑がえし」(作曲/編曲)
その他アルバムのみ収録曲多数
小泉今日子
「素敵なラブリーボーイ」(作曲)
香坂みゆき
「愛の芽ばえ」(作曲/編曲)
郷ひろみ
「林檎殺人事件」(作曲/編曲) ※TBS系テレビドラマ「ムー一族」挿入歌。
西城秀樹
「熱いまなざし」(作曲/編曲) ※「愛と情熱の青春/西城秀樹」アルバムB面M5(作曲/編曲)
桜田淳子
「もう一度だけふり向いて」(作曲)
太川陽介
「陽だまりの中で」(作曲/編曲)
「南風」(作曲)
林寛子
「素敵なラブリーボーイ」(作曲/編曲)
「カモン・ベイビー」(作曲)
山口百恵
「夏ひらく青春」(編曲)
「潮騒のテーマ」(作曲/編曲) ※東宝映画「潮騒」


映画音楽
潮騒 (1975年の映画)


音楽映画CMソング
伊藤園 -『春一番』
日本通運 -『微笑がえし』
佐川急便 -『年下の男の子』
沖縄セルラー電話 -『春一番』
トヨタ自動車 -『春一番』
サントリー -『微笑がえし』、『春一番』
ハウスメイト -『春一番』
JR東日本 -『春一番』

アウト・キャスト

1966年
穂口雄右:オルガン
轟健二(後の松崎澄夫):ボーカル
水谷淳(後の水谷公生):リード・ギター
片桐周一:リズム・ギター
大野良二:ベース
中沢啓光:ドラムス

1966年 - 1967年夏
穂口雄右:オルガン
轟健二:ボーカル
水谷淳(水谷公生):リード・ギター
藤田浩一:リズム・ギター
大野良二:ベース
中沢啓光:ドラムス

1967年夏 - 1967年秋
穂口雄右:オルガン
轟健二:ボーカル
水谷淳(水谷公生):ギター
大野良二:ベース
中沢啓光:ドラムス

ディスコグラフィ

シングル
「友達になろう c/w 気ままなシェリー」 (1967年1月25日)
「愛することは誰でもできる c/w 電話でいいから」 (1967年4月10日)
「レッツ・ゴー・オン・ザ・ビーチ c/w エンピツが一本」 (1967年7月10日)
「一日だけの恋 c/w 僕のそばから」 (1967年10月15日)

アルバム
「君も僕も友達になろう」 (1967年11月10日)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%82%E5%8F%A3%E9%9B%84%E5%8F%B3
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/736.html#c1

[近代史7] 「星影のワルツ」 遠藤 実(1932年 7月6日 - 2008年12月6日) 中川隆
2. 中川隆[-14601] koaQ7Jey 2021年12月11日 18:06:56 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[29]
「くちなしの花」1973年8月21日発表 作詞:水木かおる、作曲:遠藤実、編曲:斉藤恒夫

くちなしの花 渡哲也 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%8F%E3%81%A1%E3%81%AA%E3%81%97%E3%81%AE%E8%8A%B1+++%E6%B8%A1%E5%93%B2%E4%B9%9F
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/731.html#c2

   

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