1. 保守や右翼には馬鹿し[136] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年4月22日 12:54:53 : rU6rk4Dm0Y : OVNMQ3dONG43ZUU=[1]
なぜ、「みんなが幸せになるために」という人がいなくなってしまったのか
2023年04月22日
https://ameblo.jp/tokaiama20/entry-12799738816.html
私の若い頃、今から半世紀以上前の国内の書物やメディアの情報は、「利他主義」に満ちていた。
小田実、大江健三郎、吉野作造、本多勝一、有吉佐和子と思い出す人たちは、すべて戦争の惨禍を体験し、空襲爆撃に逃げ惑った人たちだった。
もちろん、中道も極右もいたが、みんな戦争体験の上に「利他主義」を前提に発言していたように思う。
少なくとも、「自分の利益のためだけに生きよう」と主張する人はいなかったし、いたならば徹底的に排撃された。
そこには、戦前の軍部専制独裁による軍国主義の再現を許さない、「民主主義と正義」の理念が核心に据えられていたと思う。
この当時の言論は、何よりも「みんなが幸せになるためには、どうしたらよいのか?」という問題意識=哲学が社会全体で共有されていたように思う。
この頃は、「自分さえ良ければいい」という利己主義は、強く批判されていた。
それから、戦争体験を土台にした知識人が寿命によって次々に消えて、江戸時代生まれが全滅した1970年代の半ばあたりから、新左翼が赤軍派と心中して没落するとともに、中曽根康弘が持ち込んだ「新自由主義」の影響がじわじわと国内に拡大しはじめた。
当時、戦後、日本軍が大陸や朝鮮半島で行った731部隊の人体実験殺戮や三光作戦の隠されていた真実が「悪魔の飽食」のような暴露小説で暴かれ、社会全体を震撼させた。松本清張も、小説のなかで次々に権力犯罪をやり玉に挙げた。
社会全体に「正義を実現しなければならない」という価値観が共有された時代だったように思う。
だが、同時に、新自由主義による「金儲けだけが正義」という思想が日本社会に持ち込まれ、1980年代には、バブルが全盛期を迎え、投機バクチの風潮が社会全体を席捲する時代がやってきた。
当時、私は国立駅前で、「営業研修」と称して、お立ち台の上で、営業目標をお大声でがなり立てていたグループを見て、日本の底知れない地獄の始まりを予感させられた。
世の中全体が金儲けに発狂した時代だった。そして、急速に利他主義思想が失われ、徹底した利己主義にとって代わられた時代だったように思える。
戦前から日本社会を支える底辺の細胞だった「隣組」の連帯はもう失われ、見渡す限り社会全体が敵意に満ちた時代に変わり果てたように思えた。
バブル崩壊とともに、繁華街で豪遊する人たちが大騒ぎする一方で、街角に浮浪者が目立ち始め、ゴミを漁って辛うじて生きている人も激増した。
社会全体に、もうかつての連帯感、相互主義は失われていた。そこにあるのは、「自分さえ良ければいい」 「他人のことなどどうでもいい」という社会観であり、利己主義の人生観だった。
私だって、例外ではなかった。
1990年代、山一證券の崩壊から、日本社会は沈滞と低迷の時代に入った。それは30年以上を経た2023年の今でも続いている。
原因は消費税にあることがはっきりしているが、自民党保守政党はもちろんのこと、革新系の政党でさえ、簡単明瞭な消費罰金税がもたらす社会の停滞について、理解できる人はほとんどいなかった。
ただ、私は、消費税という繁栄抑止の毒薬が、底辺の社会に、「モノを大切にし、無益なゴミを作らない」効果が生まれたことだけは評価している。
自民党は、金持ちの特権階級だけが贅沢を謳歌する社会を作りたかったのだろう。
20世紀が終わるころになると、自民党内に強力な新自由主義勢力が登場するようになる。
それは、ハーバード大ロックフェラー経済研究所の竹中平蔵が、ユダヤ金融資本から日本保守政界に送り込まれたからだ。
竹中平蔵を閣僚として採用し、戦後社会の市民・労働者としての権利を剥奪し、安定雇用が約束された正社員から、ルンペンプロレタリアート(臨時・派遣社員)の地位に貶めたのは小泉純一郎である。
それは、戦後労働運動を支えた総評を解体するところから始まった用意周到で計画的なものだった。この背後には、岸信介~中曽根康弘の壮大な陰謀があった。
岸は、もしかしたら両親が李朝王族関係者で、文鮮明とともに、韓日反共統一国家を目指していたのかもしれない。
竹中平蔵らの計画は、「金儲けだけが正義」という新自由主義の思想を日本の若者たちに浸透させて、徹底した利己主義の価値観・人間観を定着させるところから始まっていた。
これを支えた組織が、国際勝共連合→日本会議であり、ギャンブル王、笹川良一がその資金を提供していた。
そして小泉純一郎は、「日本を金融(バクチ)国家に変える!」と宣言した。
日本人の多くが、戦後教育の土台としての競争主義に洗脳されていたので、「人間として生きる価値の根源は金儲け競争だ」と容易に受け入れてしまった。
この結果、人々の関心は、蓄財と増殖、利己主義だけに向いてしまい、1970年代に社会的に共有されていた「みんなが幸せになるためには、どうしたらいいのか?」というテーゼを思い浮かべる者は、ほとんどいなくなってしまった。
日本社会全体が「カネがすべて」という価値観に席捲され、「みんなが幸せになることで、自分も幸せになれる」という理念を主張する者は、どこにもいなくなってしまった。
本来は、人間社会の本質を霊的視点で見ているはずの霊能者たちですら、金儲けと利己主義が正義であるかのように語り始めた。
https://www.youtube.com/watch?v=g00flJ4Qlyw&ab_channel=KenHonda%E6%9C%AC%E7%94%B0%E5%81%A5
霊能者たちの多くが、金儲けビジネスに吸収されてしまっている。
江原啓之も木村藤子も検索すれば、有料クラブサイトに誘導される。下ヨシ子は、頼めばひどくカネがかかるらしい。
本来、霊的世界にはカネなど何の関係もなく、「みんなを幸せにすれば自分が幸せになれる」という霊的真実を教える立場のはずなのだが、なぜか、それを前面に出している人は見当たらない。
釈迦は、「因果応報論」のなかで、自分が他人に対して行ったことが、すべて自分に返ってくるカルマ論を教えているのだ。人生は利他のなかにだけあると諭し、利己的な権力と蓄財を勧めたことなど一度もない。
話を本題に戻そう。
「なぜ、『みんなが幸せになるために』という人がいなくなってしまったのか」
という理由は、日本人が戦争で地獄に堕とされた体験を忘れてしまったからだ。
戦争を実際に体験した人は、現在80歳以上で、記憶に残している人は、90歳を超えた人くらいだから、もちろん私も経験していない。
だが、私の周囲には両親はじめ、凄まじい恐怖の体験をした人たちが無数にいて、その記録もいやというほど教えられてきた。
だから、私の世代は、いわば戦争を疑似体験できた世代なのだ。だから反戦や軍部専制独裁という社会を二次的に理解しているといっていい。
しかし、一次的に戦争を体験した世代のほとんどが死に絶え、二次的に疑似体験できた我々の世代も、多くが死に始めている。
だから、今の若者たちは、正真正銘の「戦争を知らない世代」なのだ。
今の若者たちは、もしかしたら体験したことのない戦争に好奇心を抱き、「戦争を経験してみたい」と思っているのかもしれない。
だから、ネット上では軍事大国になることに憧れているような発言が非常に多い。
霊的真実をいえば。「みんなが憧れ、希望することが実現する」のである。
だから、日本は戦争に向けてひた走っている。やがて、実際にその凄まじい惨禍を体験させられることになるだろう。
もう一つの視点として、今、「日本社会のやさしさ」が、ネット上で語られることが多い。
これは、戦争と同じ意味で、阪神大震災、熊本震災、東日本大震災を体験させられた人が多く、被災者に同情して支援を寄せた人たちが、巨大震災を疑似体験することで、人が困難な状況に置かれたことから生まれる助け合い=利他主義を獲得しているからだと私は思う。
竹中平蔵の金融バクチ主義=新自由主義に向かった者たちは、投機に旨味が失われると、特殊詐欺のような詐欺集団に取り込まれていった。
小泉純一郎が「日本を金融国家にする」と宣言してから、日本社会にはオレオレ詐欺など詐欺師が跋扈する社会に変わったのだ。
しかし、大震災の被災者を援助することで疑似体験した人々は、心に「優しさ」という財産を蓄積した。
これは釈迦の言った利他=「他人を幸せにすることが自分を幸せにする」という因果応報の原理が実現したものといえるだろう。
結論をいえば、我々は、目先の金儲けや利己主義を賛美してはならない。
我々が語ることは、いつでも「みんなが幸せになるためには、何をすべきなのか?」という視点だけである。
そして、「三人寄れば文殊の知恵」システムに目覚め、人と対話を重ね、良いアイデアを得て実現してゆく人生、利他主義に人生の価値を見出すことが必要なのだ。
江原啓之は、今年、「終焉のワルツ」と警鐘を鳴らした。
たぶん、これから未曾有の凄まじい災厄がやってくる。日本社会が終わりになることを実感させられるほどのことだ。
だが、みんな、そんな恐ろしい未来など見たくもないし、考えたくもないから、気分の良いことだけを見せられて、明るい未来を信じてワルツを踊っている。
なぜ、人々が、「嫌なものを見たくない」と思うようになったのかというと、ネットの共有倫理をネット支配者であるユダヤ金融資本が、今世紀に入って「不快になるものを見せない」という管理を徹底するようになったからだ。
私の知る限り、前世紀末には、ネット上には真実が溢れていた。そこには、残酷な死体の写真や、人間の強欲、大きな過ち、それを糾弾する声など、あらゆる真実が溢れていた。
だが、GAFAMユダヤ金融資本と新自由主義は、ネットの媒体から、そうした真実を「保護」の名の下に排除していった。
だから、かつてあれほど溢れていた残酷な写真や動画など、ほとんど見ることができなくなった。
あらゆる、ある種の人々が「見せたくない」ソースが排除されるようになり、情報から真実が失われていった。
いわば、キレイゴトだけの情報に包まれるようになったのだ。
こうした傾向が、社会に対する危機感を失わせ、「みんなが幸せになるために、どうしたらよいのか?」という問題意識を人間社会から追放してしまっているのではないか。
我々に必要なものは、見たくもない真実なのだ。
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