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[近代史3] ニセコは既に外人に乗っ取られ日本語も通じなくなった 中川隆
21. 2022年1月25日 05:04:04 : 7ISbytjsq2 : OFF2Lk4yL2hXdlk=[1]
【ch桜北海道】ニセコエリアの最新情報 ニセコがマフィアとアングラマネーの町に?![R4/1/24]
2022/01/25


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/184.html#c21
[近代史3] 音楽史上最高の名作 モンテヴェルディ 歌劇「ポッペアの戴冠」 中川隆
8. 2022年1月25日 05:21:27 : 7ISbytjsq2 : OFF2Lk4yL2hXdlk=[3]
ネロ
 ネロは名前を知られているローマ皇帝の中でもいちばん有名な人物ではないでしょうか。書物や映画によって、残虐非道の暴君ネロという悪名が広く知れ渡っています。
 古代ローマ帝国の第5代皇帝ネロ(在位54〜68年)は、37年12月15日、アンチオに生まれました。
 皇帝ネロは男性と二回結婚していますが、一回目は男性として、花嫁衣装に身を包んだスポルス・サビナと荘厳な式を挙げ、彼を女王と呼ばせました。二度目は、ネロ自身が花嫁になってピュタゴラスという男と結婚式を挙げています。

 ネロの母は初代皇帝アウグスツス(オクタヴィアヌス)の曾孫で3代皇帝カリグラの妹アグリッピナです。クラウディス帝は姪にあたる彼女と結婚するために王妃メッサリナを処刑して、アグリッピナと結婚しました。しかしアグリッピナは王妃の座に納まると自分の息子のネロを皇帝にしたくなり、息子ネロを養子として認めさせ、次々とライバルを殺害、最後は夫のクラウディス帝まで毒殺して、ただちにネロを皇帝に即位させました。ネロが16歳のときでした。

 皇帝になったネロに対し、母アグリッピナは当然のように後見人として政治の実権を握りました。ネロが治世の始めた5年間は、母親が家庭教師としてつけた哲学者セネカを相談役にして善政をしきました。
 しかし、やがてネロが自分で政治を行おうとするようになると、彼は母アグリッピナと対立していくようになります(アグリッピナがネロを手中に置くため母子姦淫を行ったという伝説も有名です)。自分が疎んじられていると気付いたアグリッピナは、こんどはかつて自分が退けたクラウディウスの実子ブリタニクスを擁立しようとします。これにネロは激怒、宴会の席でブリタニクスを毒殺、さらに母アグリッピナにも皇帝暗殺の嫌疑をかけ宮殿の外へ追放し、59年には殺害してしまいます。次いで、62年には妃のオクタヴィアを、65年には師匠のセネカも殺害して、自分の好きなように政治を行い、暴虐の限りを尽くすようになっていきました。

 ネロは母アグリッピナの画策でクラウディス帝の娘オクタヴィアと結婚していましたが、夫婦関係は良いものではなかったようです。ネロは幼い頃からの友人であるマルクス・サルヴィウス・オト(32〜69年)の妻ポッパエアに恋をします。ポッパエアも野心家だったようで、ネロとの結婚を望みましたが、それには、まずネロとオクタヴィアを離縁させる必要がありました。ポッパエアはオクタヴィアの不倫をでっちあげ、ネロはそれを口実に彼女を南イタリアに追放、さらに別件で島流しにし、62年には、処刑してしまいます。オクタヴィアの死体検分を嫌がったネロの代わりにポッパエアが喜んで首実検をしたといわれています。また、オトをルシタニア(ポルトガル)へ左遷し、彼女はネロと正式に結婚しました。
 ポッパエアは65年7月に急死しますが、妊娠中の彼女を、帰宅が遅いとネロが蹴り殺してしまったというのが一般的な説です。

 後日ネロは、ポッパエアにそっくりの解放奴隷スポルス・サビナを見つけ出して去勢させ、ポッパエアの衣装を着せて側に置きました。彼の女性名もホッパエア・サビナでした。しかし、スポルス・サビナとネロの愛は1年も持ちませんでした。顔は似ていてもおとなしい性格のスポルスには飽きたらなかったのか66年にはスタリア・メッサリナという執政官の未亡人と結婚しました。しかし、従順な性格のスポルスは、ネロの死まで彼に仕えています。ネロが「国家の敵」として追い詰められ自殺した後、スポルスには劇場で民衆の前で裸になって「本当の女」であることを証明せよ、と次の皇帝ガルバの命令が下されました。大勢の前での侮辱に耐えられなかった彼(彼女?)は絶望して自殺をしています。
 スポルスに対してネロは夫として結婚していますが、また、一方では、自分が花嫁としてヴェールを被りピュタゴラス(一説には、ドリュフォルス)という解放奴隷の男と正式な結婚式を挙げ、そして、陵辱される処女の叫びや苦悶の声を真似たとも伝えられています。

 ついにネロの暴君ぶりに、非難の声があがり、アルメニア、ブリタニア、ユダヤなどの各地に内乱が起こりました。68年には、軍隊の中からも反乱の火の手が上がり、ガリア、アフリカ、スペインなどの各地の軍司令官が反乱を起こすと、ネロはついにローマから逃げ出し、元老院は欠席裁判でネロに死刑を宣告しました。そして、ついに観念したネロは68年6月9日、「世界はすぐれた芸術家を失うのだ」と叫び、30歳で自ら命を絶ったのです。

 ネロの墓参りをして花を供える人々は、長い間、絶えなかったとも記されています。
 彼の悪評も、彼の専制政治を嫌った元老院や彼が迫害したキリスト教徒によって作られてきたところも多分にあるのかもしれません。

http://inuiyouko.web.fc2.com/folklore/w08.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/814.html#c8

[近代史6] 最美の音楽は何か? _ モンテヴェルディ 歌劇「ポッペアの戴冠」 中川隆
4. 中川隆[-14076] koaQ7Jey 2022年1月25日 05:22:23 : 7ISbytjsq2 : OFF2Lk4yL2hXdlk=[4]
ネロ
 ネロは名前を知られているローマ皇帝の中でもいちばん有名な人物ではないでしょうか。書物や映画によって、残虐非道の暴君ネロという悪名が広く知れ渡っています。
 古代ローマ帝国の第5代皇帝ネロ(在位54〜68年)は、37年12月15日、アンチオに生まれました。
 皇帝ネロは男性と二回結婚していますが、一回目は男性として、花嫁衣装に身を包んだスポルス・サビナと荘厳な式を挙げ、彼を女王と呼ばせました。二度目は、ネロ自身が花嫁になってピュタゴラスという男と結婚式を挙げています。

 ネロの母は初代皇帝アウグスツス(オクタヴィアヌス)の曾孫で3代皇帝カリグラの妹アグリッピナです。クラウディス帝は姪にあたる彼女と結婚するために王妃メッサリナを処刑して、アグリッピナと結婚しました。しかしアグリッピナは王妃の座に納まると自分の息子のネロを皇帝にしたくなり、息子ネロを養子として認めさせ、次々とライバルを殺害、最後は夫のクラウディス帝まで毒殺して、ただちにネロを皇帝に即位させました。ネロが16歳のときでした。

 皇帝になったネロに対し、母アグリッピナは当然のように後見人として政治の実権を握りました。ネロが治世の始めた5年間は、母親が家庭教師としてつけた哲学者セネカを相談役にして善政をしきました。
 しかし、やがてネロが自分で政治を行おうとするようになると、彼は母アグリッピナと対立していくようになります(アグリッピナがネロを手中に置くため母子姦淫を行ったという伝説も有名です)。自分が疎んじられていると気付いたアグリッピナは、こんどはかつて自分が退けたクラウディウスの実子ブリタニクスを擁立しようとします。これにネロは激怒、宴会の席でブリタニクスを毒殺、さらに母アグリッピナにも皇帝暗殺の嫌疑をかけ宮殿の外へ追放し、59年には殺害してしまいます。次いで、62年には妃のオクタヴィアを、65年には師匠のセネカも殺害して、自分の好きなように政治を行い、暴虐の限りを尽くすようになっていきました。

 ネロは母アグリッピナの画策でクラウディス帝の娘オクタヴィアと結婚していましたが、夫婦関係は良いものではなかったようです。ネロは幼い頃からの友人であるマルクス・サルヴィウス・オト(32〜69年)の妻ポッパエアに恋をします。ポッパエアも野心家だったようで、ネロとの結婚を望みましたが、それには、まずネロとオクタヴィアを離縁させる必要がありました。ポッパエアはオクタヴィアの不倫をでっちあげ、ネロはそれを口実に彼女を南イタリアに追放、さらに別件で島流しにし、62年には、処刑してしまいます。オクタヴィアの死体検分を嫌がったネロの代わりにポッパエアが喜んで首実検をしたといわれています。また、オトをルシタニア(ポルトガル)へ左遷し、彼女はネロと正式に結婚しました。
 ポッパエアは65年7月に急死しますが、妊娠中の彼女を、帰宅が遅いとネロが蹴り殺してしまったというのが一般的な説です。

 後日ネロは、ポッパエアにそっくりの解放奴隷スポルス・サビナを見つけ出して去勢させ、ポッパエアの衣装を着せて側に置きました。彼の女性名もホッパエア・サビナでした。しかし、スポルス・サビナとネロの愛は1年も持ちませんでした。顔は似ていてもおとなしい性格のスポルスには飽きたらなかったのか66年にはスタリア・メッサリナという執政官の未亡人と結婚しました。しかし、従順な性格のスポルスは、ネロの死まで彼に仕えています。ネロが「国家の敵」として追い詰められ自殺した後、スポルスには劇場で民衆の前で裸になって「本当の女」であることを証明せよ、と次の皇帝ガルバの命令が下されました。大勢の前での侮辱に耐えられなかった彼(彼女?)は絶望して自殺をしています。
 スポルスに対してネロは夫として結婚していますが、また、一方では、自分が花嫁としてヴェールを被りピュタゴラス(一説には、ドリュフォルス)という解放奴隷の男と正式な結婚式を挙げ、そして、陵辱される処女の叫びや苦悶の声を真似たとも伝えられています。

 ついにネロの暴君ぶりに、非難の声があがり、アルメニア、ブリタニア、ユダヤなどの各地に内乱が起こりました。68年には、軍隊の中からも反乱の火の手が上がり、ガリア、アフリカ、スペインなどの各地の軍司令官が反乱を起こすと、ネロはついにローマから逃げ出し、元老院は欠席裁判でネロに死刑を宣告しました。そして、ついに観念したネロは68年6月9日、「世界はすぐれた芸術家を失うのだ」と叫び、30歳で自ら命を絶ったのです。

 ネロの墓参りをして花を供える人々は、長い間、絶えなかったとも記されています。
 彼の悪評も、彼の専制政治を嫌った元老院や彼が迫害したキリスト教徒によって作られてきたところも多分にあるのかもしれません。

http://inuiyouko.web.fc2.com/folklore/w08.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/169.html#c4

[近代史6] 最美の音楽は何か? _ モンテヴェルディ 歌劇「ポッペアの戴冠」 中川隆
5. 2022年1月25日 05:23:54 : 7ISbytjsq2 : OFF2Lk4yL2hXdlk=[5]
男と二度結婚した皇帝〜ローマ帝国爛熟時代〜
2009-01-21


ローマ帝政時代にはその文化は退廃の色を濃くし、性道徳は乱れ、売春や不倫、男色、近親相姦などが社会に蔓延したといわれています。

男色については、古代ギリシャの少年愛の倫理的な理想論は陰を潜め、もっぱら快楽主義的な面が強調されるようになりました。

きっとプラトンは草葉の陰で嘆いていたことでしょう。

『プラトニックラブ』だのなんだの言っても、結局のところギリシャの哲学者であったプラトンは女性には興味の無いゲイ一筋なお人だったわけですからね。

それでも、プラトンのかわいらしいところは「性欲先行型」ではなく「気持ち先行型」であったところ。

次々お弟子さんに手をつけてやっちゃったなんて逸話が残っていないのは、プラトン自身がシャイで奥手な人だったからなのでしょう。

あるいは、秘密の関係を漏らすことの無い特定のパートナーがいたのか?

どちらにしても、

「気持ち良ければなんでもいい」

といわんばかりの節操無しなローマ帝国の「性」の乱れっぷりを一番嘆きそうなのは、やっぱりプラトンのような気がします。

プラトンって「永遠の少年」って感じがするじゃないですか?

『あ、あの人素敵ドキドキ』

と男を見てたとしても、

「やらないか?」

って男から声かけられたら、

「そんなの不潔だーーーっ!」

って泣いて走り去りそうな気がする(笑)

ところで、古代ギリシャでは、自由市民の子弟が売春を行なったことが判明した場合には、市民権を剥奪されたのですが、ローマ時代になるとすっかりタガがはずれてしまい、皇后や皇帝までもが売春するようになりました。

ただし、皇后や皇帝の売春は「金を稼ぐための行為」ではありませんでした。

色情狂的性欲を満たすための行為の一つであったかと思われます。

おそらく、ローマ皇帝一族の性欲は、強さも方向性も常軌を逸していることが多々あったため、男漁りの手段の一つとして売春行為を行ったのでしょう。

暴君ネロとして知られる、ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(37−68)は、近親相姦も男色も女色もなんでもありでした。

前帝クラウディウスがその美貌に惚れこんで4度目の結婚相手に選んだ程の美女であったネロの母親アグリッピナとネロは近親相姦の関係にあったといわれています。

ちなみに、アグリッピナは兄で前々帝であるカリグラと近親相姦の関係になったものの、その後冷遇された妹のうちの一人です。

前夫との間に出来た我が子を皇帝にするために伯父に再嫁したアグリッピナは、うるさく干渉する母親と厭われて最後は最愛の息子ネロに殺されてしまいました。

たぶんアグリッピナは母親としての愛情以外の感情をネロに対して持っていたはずで、それは兄のカリグラとの近親相姦関係の時にもあったのではないかと思われます。

アグリッピナは身も心も近親相姦にはまるタイプだったんでしょうね。

ネロの時は、おそらく彼女の方から近親相姦の関係に持ち込んだのでしょう。

近親者とのセックスは体がしっくりくるとか相性がいいとかいいますし、その背徳行為に精神的にも興奮を感じるため心身ともに普通では感じられない快感を感じるともいいます。

もしかするとアグリッピナはカリグラとの近親相姦行為で得られた快感が忘れられなかったのかも?

アグリッピナが最初に近親相姦の関係になった兄のカリグラと、次に近親相姦の関係になった我が子のネロってどこか似てたんじゃないかと思いますし……身内だから見た目や性格は似ていた可能性はあるし、二人ともドSだし(笑)

でも、盲愛し相手にうざがられるほどベッタベタになるKYな彼女は残念ながら賢いM女タイプではなく、遠ざけられたり、殺されたりしちゃったんじゃないのでしょうか?

アグリッピナって、サディストにはうざがられて嫌われるタイプですもん(苦笑)

ちなみに、ネロは生涯に何度も結婚していますが、最初の妻のオクタウィアは早くから疎んじ、姦通罪の汚名を着せて殺してしまいました。

二番目の妻、ポッパエア・サビナは絶世の美女で最愛の妻でしたが、夫婦喧嘩でサビナの身重のお腹をなんとネロは蹴っちゃったんですよ。

それが原因となりサビナは死んでしまいました。

暴君ネロはDV夫でもあったわけです(^^;

ネロは、その後、女性以外に男性とも二度結婚しています。

最初の男性との結婚では、奴隷のピュタゴラスを夫に選んで、正式に結婚式を挙げたといわれています。

でも、この結婚は皇帝の身分で「花嫁」になったことと、結婚相手が奴隷だったことから、大いに顰蹙を買ったとか。

やっぱり、皇帝が突っ込まれるのは不名誉だった模様(笑)

二度目の男性との結婚は、相手は亡き最愛の妻ポッパエア・サビナに生き写しの美少年スポルス。

スポルスの時は、彼を去勢してサビナの名前を与えて花嫁にしたそうです。

ネロってリバ(リバーシブル)OKな人だったのですよ、男同士のセックスで突っ込むのも突っ込まれるのもどっちもOKなのねw

でも、スポルスの時は亡きサビナの身代わり的なものを感じます。

去勢して女のような状態にしてから、花嫁にしたというあたりで、通常の少年愛や男色の概念から外れています。

ネロはスポルスを女にして、二番目の皇妃サビナの身代わりとしたのでしょう。

きっとネロは伯父のカリグラ同様に、故人に執着していたのですよ。

変態って意外と一途なところがあって、特にサディストはストライクゾーン狭い分はまるととことんはまるんですわ(^-^;

よほど亡きサビナのことが忘れられなかったんでしょうね。

本人はささいな夫婦喧嘩のつもりだったのに、ついうっかり蹴り殺しちゃったんですから、さすがにネロも後悔したでしょうし。

そこにサビナの生まれ変わりのような美少年が現れたもんだから、スポルスをサビナの代わりに愛したんでしょう。

後悔してた分、サビナにしたスポルスは大事にしていたかも?

暴君ネロも所詮人の子。

喜怒哀楽、愛情も憎しみも後悔も恐怖も持って悩み苦しんでいたんだろうけど、快楽やストレス発散の方向性がまずかったんですわ。

暴君ネロの非道なやり口に怒りまくった民衆は、その後各地で反乱を起こし、ついに73歳の老将軍ガルバ(前3−後69)が反乱軍の指導者となってネロに反旗を翻し、元老院も反乱軍側に味方したため、追い詰められたネロは逃亡。

そして、「サビナ」と呼ばれた最後の妻、去勢少年スポルス立ち会いの元、ネロは自殺しました。

スポルスはネロの自殺を見届けても、生き延びて次の皇帝になったガルバに仕えました。

ガルバは女色よりも男色を好み、特に成熟した剛健な男子を好んだそうです。

73歳でそのお好みはガチホモですね、ガルバ皇帝(菊池、心の声w)

しかし、ガルバはわずか7ヶ月在位しただけで、次の皇帝のオト(32−69)に殺されてしまいました。

ガルバの次の皇帝となったオトは、若い頃のネロの遊び仲間でネロの男色相手の中の一人でもあったようなのですが、ネロの「未亡人」のサビナことスポルスがネロが自殺した時に殉死せず、ネロとガルバの二夫にまみえたといってスポルスを非難しました。

そして、スポルスに娼婦の扮装をさせて公衆の面前で侮辱したため、スポルスは屈辱のあまり、舌を噛み切って自殺してしまいました。

オトのこの行為は、「嫉妬」に駆られての行為かと思われます。

おそらく、オトは若い頃には体の関係もあったし、好意も抱いていたネロを一人さびしく逝かせてしまったネロの妻のサビナことスポルスのことが許せなかったのでしょう。

ネロを自殺に追いやったガルバに仕えたことはこずるい行動と思われたでしょうし。

皇帝の貞淑な妻として取るべき行動は、殉死です。

妻として扱われていたスポルスはネロ自殺の後は女として死ぬべきはずだったのに、男色を好んだガルバには男として仕えていたものだからそれを見てオトは烈火のごとく腹を立てたのかも?

ネロの妻になった者が男としてガルバに仕えているなんてオトには許し難いことだったとも考えられます。

真相は、オトが最も腹を立てていた相手はスポルスで、スポルスをとっちめてやるためにオトはガルバを殺して皇帝になったのかも?

ところで、皆様は、オトはネロの男色のお相手をした時はどっちだったと思いますか?

菊池は、オトがネコ役だったんじゃないかと思うんですけど……。

オトのスポルスに対する怒りようと辱めの仕方が、そっち側の嫉妬っぽい気がするんで(^^;

男の人の中にも多少なりとも「女心」ってあるもんですからね(ニヤリ)

https://ameblo.jp/kikuti-ran/entry-10194577839.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/169.html#c5

[近代史3] 音楽史上最高の名作 モンテヴェルディ 歌劇「ポッペアの戴冠」 中川隆
9. 中川隆[-14075] koaQ7Jey 2022年1月25日 05:24:38 : 7ISbytjsq2 : OFF2Lk4yL2hXdlk=[6]
男と二度結婚した皇帝〜ローマ帝国爛熟時代〜
2009-01-21


ローマ帝政時代にはその文化は退廃の色を濃くし、性道徳は乱れ、売春や不倫、男色、近親相姦などが社会に蔓延したといわれています。

男色については、古代ギリシャの少年愛の倫理的な理想論は陰を潜め、もっぱら快楽主義的な面が強調されるようになりました。

きっとプラトンは草葉の陰で嘆いていたことでしょう。

『プラトニックラブ』だのなんだの言っても、結局のところギリシャの哲学者であったプラトンは女性には興味の無いゲイ一筋なお人だったわけですからね。

それでも、プラトンのかわいらしいところは「性欲先行型」ではなく「気持ち先行型」であったところ。

次々お弟子さんに手をつけてやっちゃったなんて逸話が残っていないのは、プラトン自身がシャイで奥手な人だったからなのでしょう。

あるいは、秘密の関係を漏らすことの無い特定のパートナーがいたのか?

どちらにしても、

「気持ち良ければなんでもいい」

といわんばかりの節操無しなローマ帝国の「性」の乱れっぷりを一番嘆きそうなのは、やっぱりプラトンのような気がします。

プラトンって「永遠の少年」って感じがするじゃないですか?

『あ、あの人素敵ドキドキ』

と男を見てたとしても、

「やらないか?」

って男から声かけられたら、

「そんなの不潔だーーーっ!」

って泣いて走り去りそうな気がする(笑)

ところで、古代ギリシャでは、自由市民の子弟が売春を行なったことが判明した場合には、市民権を剥奪されたのですが、ローマ時代になるとすっかりタガがはずれてしまい、皇后や皇帝までもが売春するようになりました。

ただし、皇后や皇帝の売春は「金を稼ぐための行為」ではありませんでした。

色情狂的性欲を満たすための行為の一つであったかと思われます。

おそらく、ローマ皇帝一族の性欲は、強さも方向性も常軌を逸していることが多々あったため、男漁りの手段の一つとして売春行為を行ったのでしょう。

暴君ネロとして知られる、ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(37−68)は、近親相姦も男色も女色もなんでもありでした。

前帝クラウディウスがその美貌に惚れこんで4度目の結婚相手に選んだ程の美女であったネロの母親アグリッピナとネロは近親相姦の関係にあったといわれています。

ちなみに、アグリッピナは兄で前々帝であるカリグラと近親相姦の関係になったものの、その後冷遇された妹のうちの一人です。

前夫との間に出来た我が子を皇帝にするために伯父に再嫁したアグリッピナは、うるさく干渉する母親と厭われて最後は最愛の息子ネロに殺されてしまいました。

たぶんアグリッピナは母親としての愛情以外の感情をネロに対して持っていたはずで、それは兄のカリグラとの近親相姦関係の時にもあったのではないかと思われます。

アグリッピナは身も心も近親相姦にはまるタイプだったんでしょうね。

ネロの時は、おそらく彼女の方から近親相姦の関係に持ち込んだのでしょう。

近親者とのセックスは体がしっくりくるとか相性がいいとかいいますし、その背徳行為に精神的にも興奮を感じるため心身ともに普通では感じられない快感を感じるともいいます。

もしかするとアグリッピナはカリグラとの近親相姦行為で得られた快感が忘れられなかったのかも?

アグリッピナが最初に近親相姦の関係になった兄のカリグラと、次に近親相姦の関係になった我が子のネロってどこか似てたんじゃないかと思いますし……身内だから見た目や性格は似ていた可能性はあるし、二人ともドSだし(笑)

でも、盲愛し相手にうざがられるほどベッタベタになるKYな彼女は残念ながら賢いM女タイプではなく、遠ざけられたり、殺されたりしちゃったんじゃないのでしょうか?

アグリッピナって、サディストにはうざがられて嫌われるタイプですもん(苦笑)

ちなみに、ネロは生涯に何度も結婚していますが、最初の妻のオクタウィアは早くから疎んじ、姦通罪の汚名を着せて殺してしまいました。

二番目の妻、ポッパエア・サビナは絶世の美女で最愛の妻でしたが、夫婦喧嘩でサビナの身重のお腹をなんとネロは蹴っちゃったんですよ。

それが原因となりサビナは死んでしまいました。

暴君ネロはDV夫でもあったわけです(^^;

ネロは、その後、女性以外に男性とも二度結婚しています。

最初の男性との結婚では、奴隷のピュタゴラスを夫に選んで、正式に結婚式を挙げたといわれています。

でも、この結婚は皇帝の身分で「花嫁」になったことと、結婚相手が奴隷だったことから、大いに顰蹙を買ったとか。

やっぱり、皇帝が突っ込まれるのは不名誉だった模様(笑)

二度目の男性との結婚は、相手は亡き最愛の妻ポッパエア・サビナに生き写しの美少年スポルス。

スポルスの時は、彼を去勢してサビナの名前を与えて花嫁にしたそうです。

ネロってリバ(リバーシブル)OKな人だったのですよ、男同士のセックスで突っ込むのも突っ込まれるのもどっちもOKなのねw

でも、スポルスの時は亡きサビナの身代わり的なものを感じます。

去勢して女のような状態にしてから、花嫁にしたというあたりで、通常の少年愛や男色の概念から外れています。

ネロはスポルスを女にして、二番目の皇妃サビナの身代わりとしたのでしょう。

きっとネロは伯父のカリグラ同様に、故人に執着していたのですよ。

変態って意外と一途なところがあって、特にサディストはストライクゾーン狭い分はまるととことんはまるんですわ(^-^;

よほど亡きサビナのことが忘れられなかったんでしょうね。

本人はささいな夫婦喧嘩のつもりだったのに、ついうっかり蹴り殺しちゃったんですから、さすがにネロも後悔したでしょうし。

そこにサビナの生まれ変わりのような美少年が現れたもんだから、スポルスをサビナの代わりに愛したんでしょう。

後悔してた分、サビナにしたスポルスは大事にしていたかも?

暴君ネロも所詮人の子。

喜怒哀楽、愛情も憎しみも後悔も恐怖も持って悩み苦しんでいたんだろうけど、快楽やストレス発散の方向性がまずかったんですわ。

暴君ネロの非道なやり口に怒りまくった民衆は、その後各地で反乱を起こし、ついに73歳の老将軍ガルバ(前3−後69)が反乱軍の指導者となってネロに反旗を翻し、元老院も反乱軍側に味方したため、追い詰められたネロは逃亡。

そして、「サビナ」と呼ばれた最後の妻、去勢少年スポルス立ち会いの元、ネロは自殺しました。

スポルスはネロの自殺を見届けても、生き延びて次の皇帝になったガルバに仕えました。

ガルバは女色よりも男色を好み、特に成熟した剛健な男子を好んだそうです。

73歳でそのお好みはガチホモですね、ガルバ皇帝(菊池、心の声w)

しかし、ガルバはわずか7ヶ月在位しただけで、次の皇帝のオト(32−69)に殺されてしまいました。

ガルバの次の皇帝となったオトは、若い頃のネロの遊び仲間でネロの男色相手の中の一人でもあったようなのですが、ネロの「未亡人」のサビナことスポルスがネロが自殺した時に殉死せず、ネロとガルバの二夫にまみえたといってスポルスを非難しました。

そして、スポルスに娼婦の扮装をさせて公衆の面前で侮辱したため、スポルスは屈辱のあまり、舌を噛み切って自殺してしまいました。

オトのこの行為は、「嫉妬」に駆られての行為かと思われます。

おそらく、オトは若い頃には体の関係もあったし、好意も抱いていたネロを一人さびしく逝かせてしまったネロの妻のサビナことスポルスのことが許せなかったのでしょう。

ネロを自殺に追いやったガルバに仕えたことはこずるい行動と思われたでしょうし。

皇帝の貞淑な妻として取るべき行動は、殉死です。

妻として扱われていたスポルスはネロ自殺の後は女として死ぬべきはずだったのに、男色を好んだガルバには男として仕えていたものだからそれを見てオトは烈火のごとく腹を立てたのかも?

ネロの妻になった者が男としてガルバに仕えているなんてオトには許し難いことだったとも考えられます。

真相は、オトが最も腹を立てていた相手はスポルスで、スポルスをとっちめてやるためにオトはガルバを殺して皇帝になったのかも?

ところで、皆様は、オトはネロの男色のお相手をした時はどっちだったと思いますか?

菊池は、オトがネコ役だったんじゃないかと思うんですけど……。

オトのスポルスに対する怒りようと辱めの仕方が、そっち側の嫉妬っぽい気がするんで(^^;

男の人の中にも多少なりとも「女心」ってあるもんですからね(ニヤリ)

https://ameblo.jp/kikuti-ran/entry-10194577839.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/814.html#c9

[近代史3] 音楽史上最高の名作 モンテヴェルディ 歌劇「ポッペアの戴冠」 中川隆
10. 2022年1月25日 05:26:14 : 7ISbytjsq2 : OFF2Lk4yL2hXdlk=[7]
ポッパエア・サビナ(Poppaea Sabina, 30年 - 65年)は、第5代ローマ皇帝ネロの2番目の妻。


家族
イタリアのピケヌム(Picenum, 現在のマルケ)で、ティトゥス・オッリウスと同名の母親ポッパエア・サビナとの間に生まれる。彼等の唯一の子供で、兄弟は誰もいなかった。父親はティベリウス帝時代にクァエストル(財務官)職を得ていた人材であったが、当時プラエフェクトゥス・プラエトリオであったルキウス・アエリウス・セイヤヌスと親密な関係であったためにセイヤヌス失脚後、それ以上の官職を得られないまま没落。彼女の母親は裕福で優れた美貌を持ち、とても愛嬌のある女性だったとタキトゥスは記述している。しかし母親は47年にクラウディウス帝の妃メッサリナによって自害を命ぜられている。

母方の祖父はガイウス・ポッパエウス・サビヌス、身分が低いがティベリウス帝の下にトラキアに転戦、9年には執政官(コンスル)職を得て、プロコンスルとしてギリシアに赴くなどティベリウス帝の治世下で活躍し、35年に没した。母娘共に名乗るポッパエア・サビナの名前は帝政期の女性の名前の慣習通り、この「ポッパエウス・サビヌス」の女性形である。

ポッパエアが生まれた翌年父親ティトゥス・オッリウスが没し、母親はプブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スキピオと再婚する。再婚の夫は軍務からコンスル職に当選し、元老院議員になった人物であり、これにより母親と娘は皇帝に近い存在となる。

結婚
ポッパエアは西暦44年、ルフリウス・クリスピヌスと結婚する。夫はエクィテス(騎士階級)の出自ではあったが、クラウディウス帝の時代にはプラエフェクトゥス・プラエトリオまで上り詰めた男であった。後にクリスピヌスはネロの母小アグリッピナによって失脚し、セクストゥス・アフラニウス・ブッルスがその後任となった。クリスピヌスはその後、65年にネロの暗殺計画に名を連ねたとして流罪となる。

58年頃、ポッパエアは2人の子がいたにもかかわらず失脚した夫を見限って、ネロの親しい友人で当時財務官を務めていたオトと結婚した。しかし結婚後まもなく、オトを通じてポッパエアを知ったネロに愛され、皇帝の愛人となり、オトはルシタニアに左遷されてしまったと言われる。

また、ネロの愛人だったポッパエアを、ネロが妻のオクタウィアと正式に離婚するまで保護するはずだったのに、オトがポッパエアを自分の愛人にしてしまいネロとの友情が壊れ、オトはルシタニアに左遷されたとも言われる。

皇帝の妃として

ポッパエア・サビナ(右)とネロの肖像が彫られた硬貨
歴史家タキトゥスの彼女に対する見方は厳しく、野心があり、非情な女性と述べている。ポッパエアはネロに近付きたいがために、オトと結婚したと言い、またネロの母小アグリッピナの殺害をネロに後押ししたのも彼女だと言う。62年にブッルスが死去、後任のプラエフェクトゥス・プラエトリオの1人ガイウス・オフォニウス・ティゲッリヌスと組んでルキウス・アンナエウス・セネカを政界引退へ追い込み、ネロと妻クラウディア・オクタウィアの離縁に反対する人物が退くと、ネロはオクタウィアを離婚し、さらに自殺させた。ポッパエアはその年の内にネロと結婚し、娘が1人生まれた。ネロの喜びは大きく母と娘に「アウグスタ」の称号を与える。しかし娘は数カ月のちに夭折した。

皇帝の妻としての彼女の評判は良くない。前述のタキトゥスはもとよりキリスト教会の資料でも、この頃のキリスト教を迫害したのはネロではなく、ポッパエアがネロを動かしていたのだとするものもある。しかしユダヤ教徒の歴史家フラウィウス・ヨセフスは、彼女をとても信仰厚い女性だと記述している。この記述の差異は、当時ローマ社会で起こっていたギリシア人とユダヤ人の対立が原因で、彼女はユダヤ人社会の保護者であったという説もある。

ポッパエアは65年に死去した。ネロは悲嘆にくれ、彼女の遺体は火葬には付されず、中には香料を詰められ香油に漬けられたと言う。しかしスエトニウスによると、第2子を懐妊中にネロが戦車競技からの帰還が遅いことをなじって口論となり、ネロに下腹部を蹴られたのが死の原因とされる。タキトゥスの年代記では、幾人もの史家がポッパエアはネロに毒殺されたと伝えていると書かれている。タキトゥス自身は「ネロはポッパエアを熱愛していたし、何より子供を欲しがっていた」として、スエトニウスと同じく夫婦喧嘩からの事故死説を採っている。

因みに最初の夫ルフリウス・クリスピヌスはポッパエアの死の同年にネロによって追放され、翌66年に処刑されている。ポッパエアが産んだ同名の息子ルフリウス・クリスピヌス(生年は50年もしくは51年)も66年に釣りの最中にネロによって15歳で処刑され、ポッパエア直系の血筋は絶えている。

逸話
ポッパエアは優れた美貌を持ち、人々を魅了して離さない会話術を備えていたという。
ポッパエアを指して『歴史上、最も化粧に時間を費やした女性』と言うことがある。プリニウスの『博物誌』第十一巻によれば、ポッパエアは常に雌のロバ500頭を引き連れていたと記述している。当時、ロバの乳には女性の肌を白くする効能があると考えられていたため、ロバの乳で満たした浴槽に全身を浸していた。また、小麦やライ麦、ハチミツ、ロバの乳などから作った美容パックを施し、その白い肌を守るために外出時はマスクを用いた。毎日の身支度には奴隷100人を必要としたという。
ネロはポッパエアの死を悲しみ、当時の慣習であった火葬ではなく、遺体を香油に浸し棺に香料や防腐剤を詰めて霊廟に納めた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%91%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%93%E3%83%8A
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/814.html#c10

[近代史6] 最美の音楽は何か? _ モンテヴェルディ 歌劇「ポッペアの戴冠」 中川隆
6. 中川隆[-14074] koaQ7Jey 2022年1月25日 05:26:31 : 7ISbytjsq2 : OFF2Lk4yL2hXdlk=[8]
ポッパエア・サビナ(Poppaea Sabina, 30年 - 65年)は、第5代ローマ皇帝ネロの2番目の妻。


家族
イタリアのピケヌム(Picenum, 現在のマルケ)で、ティトゥス・オッリウスと同名の母親ポッパエア・サビナとの間に生まれる。彼等の唯一の子供で、兄弟は誰もいなかった。父親はティベリウス帝時代にクァエストル(財務官)職を得ていた人材であったが、当時プラエフェクトゥス・プラエトリオであったルキウス・アエリウス・セイヤヌスと親密な関係であったためにセイヤヌス失脚後、それ以上の官職を得られないまま没落。彼女の母親は裕福で優れた美貌を持ち、とても愛嬌のある女性だったとタキトゥスは記述している。しかし母親は47年にクラウディウス帝の妃メッサリナによって自害を命ぜられている。

母方の祖父はガイウス・ポッパエウス・サビヌス、身分が低いがティベリウス帝の下にトラキアに転戦、9年には執政官(コンスル)職を得て、プロコンスルとしてギリシアに赴くなどティベリウス帝の治世下で活躍し、35年に没した。母娘共に名乗るポッパエア・サビナの名前は帝政期の女性の名前の慣習通り、この「ポッパエウス・サビヌス」の女性形である。

ポッパエアが生まれた翌年父親ティトゥス・オッリウスが没し、母親はプブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スキピオと再婚する。再婚の夫は軍務からコンスル職に当選し、元老院議員になった人物であり、これにより母親と娘は皇帝に近い存在となる。

結婚
ポッパエアは西暦44年、ルフリウス・クリスピヌスと結婚する。夫はエクィテス(騎士階級)の出自ではあったが、クラウディウス帝の時代にはプラエフェクトゥス・プラエトリオまで上り詰めた男であった。後にクリスピヌスはネロの母小アグリッピナによって失脚し、セクストゥス・アフラニウス・ブッルスがその後任となった。クリスピヌスはその後、65年にネロの暗殺計画に名を連ねたとして流罪となる。

58年頃、ポッパエアは2人の子がいたにもかかわらず失脚した夫を見限って、ネロの親しい友人で当時財務官を務めていたオトと結婚した。しかし結婚後まもなく、オトを通じてポッパエアを知ったネロに愛され、皇帝の愛人となり、オトはルシタニアに左遷されてしまったと言われる。

また、ネロの愛人だったポッパエアを、ネロが妻のオクタウィアと正式に離婚するまで保護するはずだったのに、オトがポッパエアを自分の愛人にしてしまいネロとの友情が壊れ、オトはルシタニアに左遷されたとも言われる。

皇帝の妃として

ポッパエア・サビナ(右)とネロの肖像が彫られた硬貨
歴史家タキトゥスの彼女に対する見方は厳しく、野心があり、非情な女性と述べている。ポッパエアはネロに近付きたいがために、オトと結婚したと言い、またネロの母小アグリッピナの殺害をネロに後押ししたのも彼女だと言う。62年にブッルスが死去、後任のプラエフェクトゥス・プラエトリオの1人ガイウス・オフォニウス・ティゲッリヌスと組んでルキウス・アンナエウス・セネカを政界引退へ追い込み、ネロと妻クラウディア・オクタウィアの離縁に反対する人物が退くと、ネロはオクタウィアを離婚し、さらに自殺させた。ポッパエアはその年の内にネロと結婚し、娘が1人生まれた。ネロの喜びは大きく母と娘に「アウグスタ」の称号を与える。しかし娘は数カ月のちに夭折した。

皇帝の妻としての彼女の評判は良くない。前述のタキトゥスはもとよりキリスト教会の資料でも、この頃のキリスト教を迫害したのはネロではなく、ポッパエアがネロを動かしていたのだとするものもある。しかしユダヤ教徒の歴史家フラウィウス・ヨセフスは、彼女をとても信仰厚い女性だと記述している。この記述の差異は、当時ローマ社会で起こっていたギリシア人とユダヤ人の対立が原因で、彼女はユダヤ人社会の保護者であったという説もある。

ポッパエアは65年に死去した。ネロは悲嘆にくれ、彼女の遺体は火葬には付されず、中には香料を詰められ香油に漬けられたと言う。しかしスエトニウスによると、第2子を懐妊中にネロが戦車競技からの帰還が遅いことをなじって口論となり、ネロに下腹部を蹴られたのが死の原因とされる。タキトゥスの年代記では、幾人もの史家がポッパエアはネロに毒殺されたと伝えていると書かれている。タキトゥス自身は「ネロはポッパエアを熱愛していたし、何より子供を欲しがっていた」として、スエトニウスと同じく夫婦喧嘩からの事故死説を採っている。

因みに最初の夫ルフリウス・クリスピヌスはポッパエアの死の同年にネロによって追放され、翌66年に処刑されている。ポッパエアが産んだ同名の息子ルフリウス・クリスピヌス(生年は50年もしくは51年)も66年に釣りの最中にネロによって15歳で処刑され、ポッパエア直系の血筋は絶えている。

逸話
ポッパエアは優れた美貌を持ち、人々を魅了して離さない会話術を備えていたという。
ポッパエアを指して『歴史上、最も化粧に時間を費やした女性』と言うことがある。プリニウスの『博物誌』第十一巻によれば、ポッパエアは常に雌のロバ500頭を引き連れていたと記述している。当時、ロバの乳には女性の肌を白くする効能があると考えられていたため、ロバの乳で満たした浴槽に全身を浸していた。また、小麦やライ麦、ハチミツ、ロバの乳などから作った美容パックを施し、その白い肌を守るために外出時はマスクを用いた。毎日の身支度には奴隷100人を必要としたという。
ネロはポッパエアの死を悲しみ、当時の慣習であった火葬ではなく、遺体を香油に浸し棺に香料や防腐剤を詰めて霊廟に納めた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%91%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%93%E3%83%8A
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/169.html#c6

[近代史3] 音楽史上最高の名作 モンテヴェルディ 歌劇「ポッペアの戴冠」 中川隆
11. 2022年1月25日 05:31:23 : 7ISbytjsq2 : OFF2Lk4yL2hXdlk=[9]
ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(羅: Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus, 37年12月15日 - 68年6月9日)またはネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス(Nero Claudius Caesar Drusus Germanicus)はローマ帝国・第5代皇帝。


経歴

誕生から即位まで
小アグリッピナとグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスの息子として37年に生まれる。

父はマルクス・アントニウスと小オクタウィアの娘大アントニアとルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスの息子であり、母は初代皇帝アウグストゥスの孫大アグリッピナとゲルマニクスの娘であった。

生まれた時の名前はルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス (Lucius Domitius Ahenobarbus) である(しかしながら、以下混同を避けるため「ネロ」の名称で通す)。

カリグラが帝位を継承した37年に産まれるが、間も無く父グナエウスが40年に死去し、母小アグリッピナもその妹ユリア・リウィッラと共にカリグラによって追放される。父グナエウスの遺産はカリグラに没収され、ネロは叔母のドミティア・レピダのもとで育てられた。その3年後カリグラ暗殺により、伯父のクラウディウスが擁立され第4代ローマ皇帝となると、彼によって小アグリッピナはローマに戻ることを許された。

クラウディウスには皇后メッサリナと後継者のブリタンニクスがいたが、48年にメッサリナがガイウス・シリウスとの重婚及び反逆罪に問われると、その後妻として小アグリッピナがクラウディウスの皇妃の座に納まった。母の計略により、ネロはクラウディウスの継子から養子となる。

この時点で名前がネロ・クラウディウス・カエサル・ドルーススとなった。

皇帝クラウディウスの側近パッラスや母の采配により、クラウディウスの娘オクタヴィアとの婚姻が成立。ブリタンニクスは徐々に疎外され、ネロの存在が際立つようになる。そして年少のブリタンニクスよりも後継者に相応しいとさえ見られるようになり、ブリタンニクスより先に即位する確約を得た。クラウディウスが54年に死去すると、ネロ(16歳)が即位して皇帝になる。

皇帝ネロ

セネカとネロ(左)。コルドバの像

ネロ

『The Remorse of the Emperor Nero after the Murder of his Mother』ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス作(1878年)。母を謀殺した後の皇帝ネロ。
ネロの治世初期は、家庭教師でもあった哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカや近衛長官であったセクストゥス・アフラニウス・ブッルスの教えや政治の補佐を受け、名君の誉れが高かった。しかし数年後にはネロとその周囲の人間(母と側近2人)との間に微妙な緊張関係が見られるようになり、それがネロの影響力に現れてくる。例えばネロが席につくとアグリッピナは隣に座っていたが、セネカがそれを諌めている。ネロの友人もアグリッピナに不信感を抱きネロ本人に忠告してくる。またネロは妻オクタウィアには不満で、解放奴隷のアクテ(英語版)を寵愛していたが、アグリッピナの命でネロから離されそうになったところ、セネカの助けで事無きを得るということもあった。

ネロが母親の干渉を疎ましく思うようになると、アグリッピナはかつて自らが退けたブリタンニクスに注目するようになる。この時点でもブリタンニクスは帝位継承権を有しており、その意味ではネロに代わりうる存在であった。また彼は成人式がせまっており、大人の仲間入り、すなわち帝位継承権を行使できる立場に近付いていた。そのブリタンニクスは成人の儀式目前で55年に急死した。タキトゥスによれば、ネロが毒殺したと言う。

ネロとアグリッピナは一触即発状態となったが、セネカやブッルスが仲裁に入り、事無きを得た。この頃、パエトゥスなる男がブッルスや母親の取り巻きの解放奴隷マルクス・アントニウス・パッラスがファウストゥス・コルネリウス・スッラ・フェリクスの皇帝擁立を謀っていると告発したが、セネカが両名の弁護を担当し、パエトゥスは追放刑となった。しかし、カッシウス・ディオによれば、セネカもブッルスもこの事件以降、保身に努めるようになったと言う。そしてネロが妻オクタウィアと離縁し、ポッパエア・サビナと結婚しようとするとアグリッピナと対立することとなり、59年にはアグリッピナを殺害した。62年にブッルスが死去、同年セネカが再び横領の咎で告発される。ここに至ってセネカは引退をネロに申し出る。こうしてネロは妻オクタウィアと離縁、そしてポッパエア・サビナと結婚する。ポッパエアは既に結婚していたが、夫オト(後の皇帝)は離婚させられた上、ルシタニアに左遷された。その年の6月、オクタウィアが不倫の罪で自殺させられた。

ネロの暴君ぶりは元老院議員の生死まで左右した。62年にプラエトル(法務官職)にあった者が宴席でネロの悪口を言った咎で死刑されることから始まり、パッラスを含む多くの元老院議員が処刑された。65年に元老院議員ガイウス・カルプルニウス・ピソを皇帝に擁立する計画が発覚し、ピソに連座してセネカが自殺を命ぜられている。

こうして55年のブリタンニクスの殺害に始まり、59年に母(アグリッピナ)、62年に妻(オクタウィア)、65年にセネカを殺害、加えて64年に発生したローマ大火の犯人としてキリスト教徒を迫害したことから[2]、後世からは暴君として知られるようになる。ただ、ネロの後半生の悪行は、親友オトの前妻で再婚相手の皇妃ポッパエアによるものとする説も多い。

ガイウス・スエトニウス・トランクィッルスが、そういうことを言う人がいるという形で『皇帝伝』に載せた話から、よく母親に近親姦をされた例として引き合いに出される。
ネロの侍医アンドロマコスは、蜂蜜を使った膏薬テリアカを考案した。テリアカは狂犬病に罹った犬や毒蛇に噛まれた際の、さらにはペストの治療薬として用いられた[3]。また、ネロの妻は蜂蜜とロバの乳を混ぜたローションを使っていたと伝えられている[4]。
なお、鉛中毒によって暴君に豹変したという説が語られることがある。というのもローマでは食器、コップ、水道管など広範囲にわたって鉛が使用されており、また、ローマ人(ネロとは別)の頭髪から大量の鉛が検出されているためである。また、少なくない素封家、政治家が若いころまともだったのに年を取るにつれて豹変しているのも根拠として挙げられることもある。しかしながら、古代ローマ人において特に鉛中毒の症状が顕著に発現したという有意の統計は得られておらず、また性格の変化は鉛中毒の一症状、それも他の諸症状に比べて目立たないものに過ぎず(鉛中毒による神経障害は、まず歩行困難などの症状に現れる)、そもそもネロの事績に関して言えば、名君が暴君に豹変したという性質のものではなく、善政を持続する能力に欠けていたというものであり(後世で悪政とされる行為の合間にも、善政的な行為をしている)、鉛中毒説は正規の学説ではない。
政策
ネロの政策は光と影がある。ローマの大火後にネロが陣頭指揮した被災者の救済やそのための迅速な政策実行、ローマ市の再建は市民に受けがよかった。ネロに批判的だったタキトゥスも、「人間の知恵の限りをつくした有効な施策であった」と記している。当時のローマ市内は木造建築がメインだったが、大火以降にネロが建築したドムス・アウレア(黄金宮殿)は、ローマン・コンクリートの普及に一役買っている。また、ネロがローマの大火以降行った貨幣改鋳は、その後150年間も受け継がれた。ただし、この大火もネロ自身が裏で暗躍し、自分好みの街を作りたかったという望みから起こされたとも言われている。この当時の文献はローマ博物館に寄贈されている。

59年には南イタリアのポンペイの円形闘技場で興奮したポンペイの住民とヌケリアの住民との間で乱闘が起き、以後、10年間、闘技会の開催を禁止されている[5]。これは、市民の秩序と安全のためであり、この際に二人役(市長職)を辞職させている。市民に剣闘試合を禁じることは、市民の支持を失う可能性もあった。結果、当時の后妃ポッパエアの計らいにより、剣闘試合の禁は数年後に解かれた。

ブリタンニアで女王ブーディカを首謀者とする反乱が起こったが、鎮圧に成功した。鎮圧後の戦後処理も適切だったため、ドミティアヌス帝の時代までブリタンニアは平穏であった。

またグナエウス・ドミティウス・コルブロの奮戦もあり(インペリウム授与を躊躇ったために解決が遅れたが)、パルティアなどオリエント諸国との外交政策も成功し、その後東方とは50年以上、トラヤヌスの時代まで平和を保つことができた。ネロの死後、パルティア国王は元老院に対して、「ネロは東方諸国にとって大恩ある人であり、今後も彼への感謝祭を続けることを認められたい」と申し出て受理されている。セネカ引退後も、善政と無縁ではなかったのである。

ただ、その一方で歌手の真似事や部下や親族の見目麗しい人物を男女問わず皇帝の権限で搾取をするなど、国家元首の振る舞いとしては明らかに問題だった。謀反を企てた者も、ネロの政治姿勢、政策より、このような振る舞いこそが皇帝にふさわしくないとしていた。また皇帝暗殺の陰謀に関連して、コルブロなど有能な将軍を確たる証拠もなく謀殺したことで、軍からも反感を買ってしまった。

初代ローマ教皇・ペトロの殉教

初代ローマ教皇・ペトロ。

「Dirce chrześcijańska」『クォ・ヴァディス』(「主よ、どこに行かれるのですか」)における絵画。
初代ローマ教皇・ペトロは、ネロ帝による迫害で殉教した。ペトロは、迫害の激化したローマから逃れ、アッピア街道をゆくと、師のイエスが反対側から歩いてくる。ペトロが「主よ、どこへいかれるのですか?(Domine, quo vadis?)」と問うと、イエスは「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えた。ペトロはそれを聞いて悟り、殉教を覚悟してローマへ戻ったという。しかし、以上の伝承は、『新約聖書』外典である「ペテロ行伝」などに記されたもので、『新約聖書』正典はもちろんその他の信頼できる歴史書にも記載されておらず、史実としては実証されていない。

芸術の愛好家
ネロには四頭立て戦車の騎手や竪琴の歌手という、当時の社会では蔑まれていた芸人になりたいという願望があった。歌が好きで、数千人に及ぶ観衆を集めコンサート(ワンマンショー)を開くのが趣味であった。

59年には「青年祭」という私的祭典で演奏した。翌60年には、4年に1度開かれるオリンピア祭に対抗し、5年に1度開かれるネロ祭を創設した。音楽、体育、戦車の三部門からなる。その内、ネロは竪琴、詩、弁論の3種目に出場した。元老院は皇帝がそのような行動をするのを阻止しようと出場の有無を問わず優勝の栄誉を授けようとしたが、ネロは堂々と出場して勝利するとこれを拒否した。結局、優勝者が誰になったかは不明である。

さらに、オリンピア競技にも出場し、優勝した。ただし、主催者側が大胆な出来レースとした。獲得した栄冠は1800にも及んだが、この勝利には不正が多くあったことから様々な批判が存在した。たとえ敗れても勝利とされ戦車競技では戦車から落下して競争から脱落しながらも優勝扱いになってさえいる。

64年には詩人として、ナポリで初めて公式に舞台に立った。ナポリはネロの大好きなギリシャ文化が多くあり、劇場が小さすぎるとして、再建築を命じたほどである。ポンペイウス劇場では独唱会も開いた。1度目は運悪く地震で観客は皆逃げてしまった。2度目は出入り口に人員を配置して逃げられないようにした。しかし、あまりの退屈さに逃げる者が続出。出入り口が使えない為、塀をよじ登ったり死んだ振りをして棺桶で外に運び出された者も居たと言う。更には例外無く外に出ることを禁じたため、産気づき出産した女性も数人いたと伝えられる(親友の一人であったウェスパシアヌスはネロの演奏中に退屈のあまり眠ってしまい、これが原因で絶交してしまう)。

65年の2度目の「ネロ祭」でも自ら詩を披露し竪琴を演奏した。66年にはユダヤ属州で大反乱が勃発(ユダヤ戦争)する中、9月から68年初までギリシアに武者修行に出ている。イタリア凱旋時には、娯楽に飢えていた民衆に大歓迎されている。ただし、この間、上流人士にも芸を強要したため元老院議員や騎士の間ではネロに対する軽蔑や屈辱感が高まっていた。

自殺

ガルバ - リヨン美術館
68年3月、ガリア・ルグドゥネンシスの属州総督・ガイウス・ユリウス・ウィンデクスによる反乱が勃発。属州総督のガルバ、オトがこれに同調した。ウィンディクスの反乱は高地ゲルマニア軍により4月には鎮圧される。ガルバは元老院から「国家の敵」決議を受け逃亡した。

しかしその後、穀物の価格が高騰しているローマで、エジプトからの穀物輸送船が食料ではなく宮廷格闘士用の闘技場の砂を運搬してきたという事件が報じられ、ネロは市民の反感を買った。元首の支持率低下を機にネロと対立していた元老院は、ネロを「国家の敵」としガルバを皇帝に擁立する。ネロは逃亡しローマ郊外の解放奴隷パオラの別荘に隠れたが、騎馬兵が近づく音が聞こえるに及び、自らの喉を剣で貫き自殺した。その際自分では死にきれず奴隷スポルスに切らせたという。

本人の自殺後、その墓にはローマ市民から花や供物が絶えなかったという。ネロの死後、皇帝となったガルバはネロ派の軍や都市と敵対し粛清した。しかしガルバから離反し皇帝になったオトはネロ派の復職を認めた。ネロの銅像やドムス・アウレアの建設再開を許可し、ネロを裏切った護衛隊長ティゲリヌスを処刑し、民衆の人気を買った。オトの次の皇帝ウィテリウスはネロの慰霊祭を催して民衆を喜ばせた。

また、真偽ははっきりしないが、死の直前に言ったとされる「何と惜しい芸術家が、私の死によって失われる事か」という言葉は有名。更にネロが自刃した直後に現れた追っ手の百人隊長が、すでに死したネロに危害を加えるのは流石に人の道に反するので、遺体を丁重に扱うためにマントを掛けようとした。すると突如ネロの目が開き百人隊長の方を向くと「遅かったな。だが、大儀である」と言い残し、かっと目を見開いたまま絶命した。百人隊長はその死に様に恐怖したという。ネロの最期に関してはスエトニウスの伝記『皇帝伝』に詳しいが、あまりにドラマチックな内容の為、作家スエトニウスの創作という説が強い。

死後

この美術品では、死後に神格化したネロが描かれている。
死後にネロは元老院によってダムナティオ・メモリアエ(記録抹殺刑)を課されたが、69年に皇帝となったアウルス・ウィテッリウスはネロの立派な葬儀を行った。ネロを含む幾人かの皇帝の像は死後に破壊されたが、後に作り直された。

死後にネロは神格化された。皇帝ドミティアヌスに乗り移ったという伝説や、ネロがよみがえったとする伝説(en:Nero Redivivus legend)がある。また、アカイアやアシアなどの属州及びパルティアにおいて「偽ネロ」の出現が相次いだ。

ネロの死によってユリウス=クラウディウス朝は5代94年の歴史に幕を下ろし、断絶。以後、軍が武力を背景に皇帝を擁立するようになり、ローマ内戦に突入することとなる。

建築事業
ドムス・アウレア(黄金宮殿)
ドムス・アウレアにあるミューズ像

ドムス・アウレア(黄金宮殿)は、ローマ市街を焦土と化した64年の大火災の後に建設された、誇大妄想的な巨大宮殿である。

帝政初期のローマ建築にあって、皇帝ネロが造形に与えた影響はかなり大きい。ネロはローマ芸術の保護者を自認しており、今日、皇帝浴場と呼ばれている建築の先駆けとなるネロ浴場、そしてドムス・アウレア(黄金宮殿)を建設した。当時ローマ市は非常に密集した状態であったにもかかわらず、エスクイリヌスの丘(現エスクィリーノの丘)の斜面にテラスを造り、人工池(現在コロッセオがある場所)とこれを囲む庭園を見下ろす、すばらしい景観を眺めることができた[注釈 1]。現在はトライアヌス浴場の地下に残された一部のみが残る。八角形を半分にしたような中庭を挟んで、方形の中庭を囲む食堂などがある部分と八角堂のある部分に分かれ、おおまかな構成は当時の海辺に建設されたヴィッラそのものである。内部は大理石やモザイクを使った贅沢なもので、その装飾はルネサンス時代にグロテスクと呼ばれ、ラファエロ・サンティらに影響を与えた[7]。しかし、この建物の真に革新的な部分は、ローマン・コンクリートによって構築されたヴォールト天井とドームが架けられた八角型の部屋である。八角堂の形式は他にみられないが、ドムス・アウレアではじめて採用されたとは考えにくいので、直接の原型があると考えられる。ドーム頂部からだけでなく、これに付随する部屋への採光を確保できるような造形は、オクタウィアヌスの時代から培われたローマン・コンクリートがあってはじめて成り立つもので、皇帝自らの邸宅に革新的な造形が採用されたことは、他の建築に新しい技術や意匠をもたらす契機となった[8]。

ネロの死後、104年に宮殿は火災に遭い、その敷地は次々と公共建築用地に転用された。宮殿の庭園にあった人工池の跡地にはコロッセウム(コロッセオ、コロシアム)が建設された。建設開始は75年で、利用開始は80年である。正式名称は「フラウィウス闘技場」(フラウィウス円形闘技場)だが、ネロの巨大な像(コロッスス)が傍らに立っていたため、コロッセウムと呼ばれるようになったといわれている[9]。

コリントス運河
67年にネロはコリントス運河の開削を開始。コリントス地峡に運河を掘る構想は古代ギリシアの時代からあり、古代ローマ時代にもカエサルやカリグラも関心をもっていた。ネロは6000人の奴隷を動員して3.3kmあまりを掘ったが、途中、ローマでガルバらの反乱が起こりネロは自殺してしまう。死後、帝位についたガルバによって工事は中断された。ネロが計画した運河は、1893年に完成した現在のコリントス運河と同じルートである。古代ローマの土木建設技術の高さがうかがわれる。

年表
37年12月15日 - アンティウム(現在のアンツィオ)にて出生。
50年 - クラウディウス帝の養子となり、ネロ・クラウディウスと改名する。
51年 - 母アグリッピナの意向で通常より2、3年早く成人式を挙げる。
54年10月13日 - クラウディウスの崩御により即位。
55年 - 義弟ブリタンニクス死去。
57年 - 元老院属州と皇帝属州を合わせ国庫を一本化する。
59年 - アグリッピナを殺害。
62年 - オクタウィア自殺。ポッパエア・サビナと再婚。
64年 - ローマの大火。その跡地に黄金宮殿(ドムス・アウレア)を建設。
65年 - ピソの陰謀。セネカが自死。
67年 - コリントス運河の開削を試みるも成功せず。
68年6月9日 - 反乱を受けて自殺。

キリスト教聖書学における暴君としての評価
64年のローマ大火にかこつけて、人類史上初めてキリスト教徒を迫害した挙句、「人類(ローマ国民)全体に対する罪」を罪状として科したため、キリスト教文化圏を中心にネロに対する評価は低い。さらに、使徒・ペトロはネロの迫害下で逆さ十字架にかけられ殉教したとされる。だが当時のローマ帝国内では、ローマ伝統の多神教を否定するユダヤ教[注釈 2]を嫌悪している者が圧倒的に多数派であった。ネロを糾弾したタキトゥスをはじめとする後世のローマの歴史家達も、このことについてはむしろネロに近い立場を取った。

当時のローマ教会の構成人数は多くても数十人程度であり、一般的にキリスト教はユダヤ教の一派とみなされていた。にも拘らずネロがなぜキリスト教徒を限定して放火犯としたのか。パウロの伝道によるキリストの福音をめぐって一部のユダヤ教他宗派・異邦人と対立し各都市で騒乱が発生しており、ローマでも49年に騒乱を起こしたものが追放されていた。また、ネロの第二妻のポッパエア・サビナはユダヤ教徒と考えられており、彼女やその周辺のファリサイ派やサドカイ派から、イエス・キリスト信仰者が社会に動乱を引き起こす存在として伝達されていた可能性もある。これらによって放火犯とイエス・キリスト信仰者が結びつきやすかったのかもしれない[10]。

また、後世の記述はネロを「国家の敵」として追放した元老院との繋がりが強いスエトニウス、タキトゥス、カッシウス・ディオによる著書による影響力が強く、権力者としての名声を失墜させようとして描かれた人物像である可能性があることに注意する必要がある。また、フラウィウス朝を創始したウェスパシアヌスはネロを悪帝としてメモリアの破壊を先導した[11]。

ただし、タキトゥスはもとよりキリスト教会の資料でも、この頃のキリスト教を迫害したのはネロではなくポッパエアがネロを動かしていたとするものもある。
以上のキリスト教徒迫害のため、ネロは悪魔(獣の数字)や堕落した女(大淫婦バビロン)で暗喩される。

獣の数字「666」(悪魔として)

獣の数字「666」。「皇帝ネロ」を意味する。

『新約聖書』の『ヨハネの黙示録』に獣の数字「666」について記述がある。この数字は「皇帝ネロ」を指すとされるもので、自由主義神学の高等批評による聖書学で最も支持されている説である [12][13][14][15][16][17][18]。 つまり、皇帝ネロ (Nero Caesar) のギリシア語表記 (Νέρων Καίσαρ, Nerōn Kaisar) をヘブライ文字に置き換え (נרון קסר, Nrwn Ksr)、これをゲマトリア(カバラ的な数値化)したその数が666になるというものである。この一説は直前の皇帝崇拝らしき記述とも意味的に整合する。

ネロを主題にした作品

文学作品
偽セネカ『オクタウィア』
ジャン・ラシーヌ『ブリタニキュス』、渡辺守章訳、岩波文庫 ほか
ヘンリク・シェンキェヴィチ『クォ・ヴァディス』、木村彰一訳、岩波文庫 全3巻 ほか
同名のアメリカ映画やポーランドのテレビドラマの原作。
ユベール・モンテイエ『ネロポリス―ネロの時代の物語』、栩木泰訳(全2巻:中央公論社、のち中公文庫)


音楽・舞台作品
クラウディオ・モンテヴェルディ『ポッペーアの戴冠』…ネロが周囲の反対者を排除して、寵愛するポッパエア・サビナを皇后とする物語。1642年にヴェネツィアで初演されたオペラ。
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル『アグリッピナ』…ヘンデルのオペラの中でも代表作の一つ。
アッリーゴ・ボーイト『ネローネ』…遺作となった未完のオペラ。
オットリーノ・レスピーギ:交響詩「ローマの祭」…第1曲『チルチェンセス』は、ネロが円形競技場でキリスト教徒たちを猛獣に喰わせて殺害した残酷な祭りを描いている。
ウィルスン・バーレット『十字架の徴』…1895年作の戯曲。
映画『暴君ネロ』(1932年、セシル・B・デミル監督)の原作。
宝塚歌劇団『皇帝』…ネロを主人公としたミュージカル。


映画
『わが息子暴君ネロ』(1956年、フランス・イタリア)
『ネロ皇帝の聖餐』(1981年、イタリア)

テレビ映画
『NERO ザ・ダーク・エンペラー』(2004年、イタリア・スペイン・イギリス)

漫画
安彦良和『我が名はネロ』(文藝春秋、のち中公文庫)
技来静也『拳闘暗黒伝セスタス』(白泉社) ネロが主人公の一人として登場する歴史格闘漫画。
さかもと未明『マンガ ローマ帝国の歴史3 カリグラ、ネロ、ユリウス朝の崩壊』 講談社
梶原一騎/ふくしま政美『格闘士ローマの星』(秋田書店「週刊少年チャンピオン」 1976 - 1977年)… 主人公の格闘士アリオンの醜悪な仇役として登場する。コロセウムでキリスト教徒の殺害を挙行したり、醜い中年皇帝として描写されたりするなど、史実との矛盾が目立つ。
とり・みき、ヤマザキマリ『プリニウス』(新潮社)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AD
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/814.html#c11

[近代史6] 最美の音楽は何か? _ モンテヴェルディ 歌劇「ポッペアの戴冠」 中川隆
7. 中川隆[-14073] koaQ7Jey 2022年1月25日 05:31:36 : 7ISbytjsq2 : OFF2Lk4yL2hXdlk=[10]
ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(羅: Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus, 37年12月15日 - 68年6月9日)またはネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス(Nero Claudius Caesar Drusus Germanicus)はローマ帝国・第5代皇帝。


経歴

誕生から即位まで
小アグリッピナとグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスの息子として37年に生まれる。

父はマルクス・アントニウスと小オクタウィアの娘大アントニアとルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスの息子であり、母は初代皇帝アウグストゥスの孫大アグリッピナとゲルマニクスの娘であった。

生まれた時の名前はルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス (Lucius Domitius Ahenobarbus) である(しかしながら、以下混同を避けるため「ネロ」の名称で通す)。

カリグラが帝位を継承した37年に産まれるが、間も無く父グナエウスが40年に死去し、母小アグリッピナもその妹ユリア・リウィッラと共にカリグラによって追放される。父グナエウスの遺産はカリグラに没収され、ネロは叔母のドミティア・レピダのもとで育てられた。その3年後カリグラ暗殺により、伯父のクラウディウスが擁立され第4代ローマ皇帝となると、彼によって小アグリッピナはローマに戻ることを許された。

クラウディウスには皇后メッサリナと後継者のブリタンニクスがいたが、48年にメッサリナがガイウス・シリウスとの重婚及び反逆罪に問われると、その後妻として小アグリッピナがクラウディウスの皇妃の座に納まった。母の計略により、ネロはクラウディウスの継子から養子となる。

この時点で名前がネロ・クラウディウス・カエサル・ドルーススとなった。

皇帝クラウディウスの側近パッラスや母の采配により、クラウディウスの娘オクタヴィアとの婚姻が成立。ブリタンニクスは徐々に疎外され、ネロの存在が際立つようになる。そして年少のブリタンニクスよりも後継者に相応しいとさえ見られるようになり、ブリタンニクスより先に即位する確約を得た。クラウディウスが54年に死去すると、ネロ(16歳)が即位して皇帝になる。

皇帝ネロ

セネカとネロ(左)。コルドバの像

ネロ

『The Remorse of the Emperor Nero after the Murder of his Mother』ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス作(1878年)。母を謀殺した後の皇帝ネロ。
ネロの治世初期は、家庭教師でもあった哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカや近衛長官であったセクストゥス・アフラニウス・ブッルスの教えや政治の補佐を受け、名君の誉れが高かった。しかし数年後にはネロとその周囲の人間(母と側近2人)との間に微妙な緊張関係が見られるようになり、それがネロの影響力に現れてくる。例えばネロが席につくとアグリッピナは隣に座っていたが、セネカがそれを諌めている。ネロの友人もアグリッピナに不信感を抱きネロ本人に忠告してくる。またネロは妻オクタウィアには不満で、解放奴隷のアクテ(英語版)を寵愛していたが、アグリッピナの命でネロから離されそうになったところ、セネカの助けで事無きを得るということもあった。

ネロが母親の干渉を疎ましく思うようになると、アグリッピナはかつて自らが退けたブリタンニクスに注目するようになる。この時点でもブリタンニクスは帝位継承権を有しており、その意味ではネロに代わりうる存在であった。また彼は成人式がせまっており、大人の仲間入り、すなわち帝位継承権を行使できる立場に近付いていた。そのブリタンニクスは成人の儀式目前で55年に急死した。タキトゥスによれば、ネロが毒殺したと言う。

ネロとアグリッピナは一触即発状態となったが、セネカやブッルスが仲裁に入り、事無きを得た。この頃、パエトゥスなる男がブッルスや母親の取り巻きの解放奴隷マルクス・アントニウス・パッラスがファウストゥス・コルネリウス・スッラ・フェリクスの皇帝擁立を謀っていると告発したが、セネカが両名の弁護を担当し、パエトゥスは追放刑となった。しかし、カッシウス・ディオによれば、セネカもブッルスもこの事件以降、保身に努めるようになったと言う。そしてネロが妻オクタウィアと離縁し、ポッパエア・サビナと結婚しようとするとアグリッピナと対立することとなり、59年にはアグリッピナを殺害した。62年にブッルスが死去、同年セネカが再び横領の咎で告発される。ここに至ってセネカは引退をネロに申し出る。こうしてネロは妻オクタウィアと離縁、そしてポッパエア・サビナと結婚する。ポッパエアは既に結婚していたが、夫オト(後の皇帝)は離婚させられた上、ルシタニアに左遷された。その年の6月、オクタウィアが不倫の罪で自殺させられた。

ネロの暴君ぶりは元老院議員の生死まで左右した。62年にプラエトル(法務官職)にあった者が宴席でネロの悪口を言った咎で死刑されることから始まり、パッラスを含む多くの元老院議員が処刑された。65年に元老院議員ガイウス・カルプルニウス・ピソを皇帝に擁立する計画が発覚し、ピソに連座してセネカが自殺を命ぜられている。

こうして55年のブリタンニクスの殺害に始まり、59年に母(アグリッピナ)、62年に妻(オクタウィア)、65年にセネカを殺害、加えて64年に発生したローマ大火の犯人としてキリスト教徒を迫害したことから[2]、後世からは暴君として知られるようになる。ただ、ネロの後半生の悪行は、親友オトの前妻で再婚相手の皇妃ポッパエアによるものとする説も多い。

ガイウス・スエトニウス・トランクィッルスが、そういうことを言う人がいるという形で『皇帝伝』に載せた話から、よく母親に近親姦をされた例として引き合いに出される。
ネロの侍医アンドロマコスは、蜂蜜を使った膏薬テリアカを考案した。テリアカは狂犬病に罹った犬や毒蛇に噛まれた際の、さらにはペストの治療薬として用いられた[3]。また、ネロの妻は蜂蜜とロバの乳を混ぜたローションを使っていたと伝えられている[4]。
なお、鉛中毒によって暴君に豹変したという説が語られることがある。というのもローマでは食器、コップ、水道管など広範囲にわたって鉛が使用されており、また、ローマ人(ネロとは別)の頭髪から大量の鉛が検出されているためである。また、少なくない素封家、政治家が若いころまともだったのに年を取るにつれて豹変しているのも根拠として挙げられることもある。しかしながら、古代ローマ人において特に鉛中毒の症状が顕著に発現したという有意の統計は得られておらず、また性格の変化は鉛中毒の一症状、それも他の諸症状に比べて目立たないものに過ぎず(鉛中毒による神経障害は、まず歩行困難などの症状に現れる)、そもそもネロの事績に関して言えば、名君が暴君に豹変したという性質のものではなく、善政を持続する能力に欠けていたというものであり(後世で悪政とされる行為の合間にも、善政的な行為をしている)、鉛中毒説は正規の学説ではない。
政策
ネロの政策は光と影がある。ローマの大火後にネロが陣頭指揮した被災者の救済やそのための迅速な政策実行、ローマ市の再建は市民に受けがよかった。ネロに批判的だったタキトゥスも、「人間の知恵の限りをつくした有効な施策であった」と記している。当時のローマ市内は木造建築がメインだったが、大火以降にネロが建築したドムス・アウレア(黄金宮殿)は、ローマン・コンクリートの普及に一役買っている。また、ネロがローマの大火以降行った貨幣改鋳は、その後150年間も受け継がれた。ただし、この大火もネロ自身が裏で暗躍し、自分好みの街を作りたかったという望みから起こされたとも言われている。この当時の文献はローマ博物館に寄贈されている。

59年には南イタリアのポンペイの円形闘技場で興奮したポンペイの住民とヌケリアの住民との間で乱闘が起き、以後、10年間、闘技会の開催を禁止されている[5]。これは、市民の秩序と安全のためであり、この際に二人役(市長職)を辞職させている。市民に剣闘試合を禁じることは、市民の支持を失う可能性もあった。結果、当時の后妃ポッパエアの計らいにより、剣闘試合の禁は数年後に解かれた。

ブリタンニアで女王ブーディカを首謀者とする反乱が起こったが、鎮圧に成功した。鎮圧後の戦後処理も適切だったため、ドミティアヌス帝の時代までブリタンニアは平穏であった。

またグナエウス・ドミティウス・コルブロの奮戦もあり(インペリウム授与を躊躇ったために解決が遅れたが)、パルティアなどオリエント諸国との外交政策も成功し、その後東方とは50年以上、トラヤヌスの時代まで平和を保つことができた。ネロの死後、パルティア国王は元老院に対して、「ネロは東方諸国にとって大恩ある人であり、今後も彼への感謝祭を続けることを認められたい」と申し出て受理されている。セネカ引退後も、善政と無縁ではなかったのである。

ただ、その一方で歌手の真似事や部下や親族の見目麗しい人物を男女問わず皇帝の権限で搾取をするなど、国家元首の振る舞いとしては明らかに問題だった。謀反を企てた者も、ネロの政治姿勢、政策より、このような振る舞いこそが皇帝にふさわしくないとしていた。また皇帝暗殺の陰謀に関連して、コルブロなど有能な将軍を確たる証拠もなく謀殺したことで、軍からも反感を買ってしまった。

初代ローマ教皇・ペトロの殉教

初代ローマ教皇・ペトロ。

「Dirce chrześcijańska」『クォ・ヴァディス』(「主よ、どこに行かれるのですか」)における絵画。
初代ローマ教皇・ペトロは、ネロ帝による迫害で殉教した。ペトロは、迫害の激化したローマから逃れ、アッピア街道をゆくと、師のイエスが反対側から歩いてくる。ペトロが「主よ、どこへいかれるのですか?(Domine, quo vadis?)」と問うと、イエスは「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えた。ペトロはそれを聞いて悟り、殉教を覚悟してローマへ戻ったという。しかし、以上の伝承は、『新約聖書』外典である「ペテロ行伝」などに記されたもので、『新約聖書』正典はもちろんその他の信頼できる歴史書にも記載されておらず、史実としては実証されていない。

芸術の愛好家
ネロには四頭立て戦車の騎手や竪琴の歌手という、当時の社会では蔑まれていた芸人になりたいという願望があった。歌が好きで、数千人に及ぶ観衆を集めコンサート(ワンマンショー)を開くのが趣味であった。

59年には「青年祭」という私的祭典で演奏した。翌60年には、4年に1度開かれるオリンピア祭に対抗し、5年に1度開かれるネロ祭を創設した。音楽、体育、戦車の三部門からなる。その内、ネロは竪琴、詩、弁論の3種目に出場した。元老院は皇帝がそのような行動をするのを阻止しようと出場の有無を問わず優勝の栄誉を授けようとしたが、ネロは堂々と出場して勝利するとこれを拒否した。結局、優勝者が誰になったかは不明である。

さらに、オリンピア競技にも出場し、優勝した。ただし、主催者側が大胆な出来レースとした。獲得した栄冠は1800にも及んだが、この勝利には不正が多くあったことから様々な批判が存在した。たとえ敗れても勝利とされ戦車競技では戦車から落下して競争から脱落しながらも優勝扱いになってさえいる。

64年には詩人として、ナポリで初めて公式に舞台に立った。ナポリはネロの大好きなギリシャ文化が多くあり、劇場が小さすぎるとして、再建築を命じたほどである。ポンペイウス劇場では独唱会も開いた。1度目は運悪く地震で観客は皆逃げてしまった。2度目は出入り口に人員を配置して逃げられないようにした。しかし、あまりの退屈さに逃げる者が続出。出入り口が使えない為、塀をよじ登ったり死んだ振りをして棺桶で外に運び出された者も居たと言う。更には例外無く外に出ることを禁じたため、産気づき出産した女性も数人いたと伝えられる(親友の一人であったウェスパシアヌスはネロの演奏中に退屈のあまり眠ってしまい、これが原因で絶交してしまう)。

65年の2度目の「ネロ祭」でも自ら詩を披露し竪琴を演奏した。66年にはユダヤ属州で大反乱が勃発(ユダヤ戦争)する中、9月から68年初までギリシアに武者修行に出ている。イタリア凱旋時には、娯楽に飢えていた民衆に大歓迎されている。ただし、この間、上流人士にも芸を強要したため元老院議員や騎士の間ではネロに対する軽蔑や屈辱感が高まっていた。

自殺

ガルバ - リヨン美術館
68年3月、ガリア・ルグドゥネンシスの属州総督・ガイウス・ユリウス・ウィンデクスによる反乱が勃発。属州総督のガルバ、オトがこれに同調した。ウィンディクスの反乱は高地ゲルマニア軍により4月には鎮圧される。ガルバは元老院から「国家の敵」決議を受け逃亡した。

しかしその後、穀物の価格が高騰しているローマで、エジプトからの穀物輸送船が食料ではなく宮廷格闘士用の闘技場の砂を運搬してきたという事件が報じられ、ネロは市民の反感を買った。元首の支持率低下を機にネロと対立していた元老院は、ネロを「国家の敵」としガルバを皇帝に擁立する。ネロは逃亡しローマ郊外の解放奴隷パオラの別荘に隠れたが、騎馬兵が近づく音が聞こえるに及び、自らの喉を剣で貫き自殺した。その際自分では死にきれず奴隷スポルスに切らせたという。

本人の自殺後、その墓にはローマ市民から花や供物が絶えなかったという。ネロの死後、皇帝となったガルバはネロ派の軍や都市と敵対し粛清した。しかしガルバから離反し皇帝になったオトはネロ派の復職を認めた。ネロの銅像やドムス・アウレアの建設再開を許可し、ネロを裏切った護衛隊長ティゲリヌスを処刑し、民衆の人気を買った。オトの次の皇帝ウィテリウスはネロの慰霊祭を催して民衆を喜ばせた。

また、真偽ははっきりしないが、死の直前に言ったとされる「何と惜しい芸術家が、私の死によって失われる事か」という言葉は有名。更にネロが自刃した直後に現れた追っ手の百人隊長が、すでに死したネロに危害を加えるのは流石に人の道に反するので、遺体を丁重に扱うためにマントを掛けようとした。すると突如ネロの目が開き百人隊長の方を向くと「遅かったな。だが、大儀である」と言い残し、かっと目を見開いたまま絶命した。百人隊長はその死に様に恐怖したという。ネロの最期に関してはスエトニウスの伝記『皇帝伝』に詳しいが、あまりにドラマチックな内容の為、作家スエトニウスの創作という説が強い。

死後

この美術品では、死後に神格化したネロが描かれている。
死後にネロは元老院によってダムナティオ・メモリアエ(記録抹殺刑)を課されたが、69年に皇帝となったアウルス・ウィテッリウスはネロの立派な葬儀を行った。ネロを含む幾人かの皇帝の像は死後に破壊されたが、後に作り直された。

死後にネロは神格化された。皇帝ドミティアヌスに乗り移ったという伝説や、ネロがよみがえったとする伝説(en:Nero Redivivus legend)がある。また、アカイアやアシアなどの属州及びパルティアにおいて「偽ネロ」の出現が相次いだ。

ネロの死によってユリウス=クラウディウス朝は5代94年の歴史に幕を下ろし、断絶。以後、軍が武力を背景に皇帝を擁立するようになり、ローマ内戦に突入することとなる。

建築事業
ドムス・アウレア(黄金宮殿)
ドムス・アウレアにあるミューズ像

ドムス・アウレア(黄金宮殿)は、ローマ市街を焦土と化した64年の大火災の後に建設された、誇大妄想的な巨大宮殿である。

帝政初期のローマ建築にあって、皇帝ネロが造形に与えた影響はかなり大きい。ネロはローマ芸術の保護者を自認しており、今日、皇帝浴場と呼ばれている建築の先駆けとなるネロ浴場、そしてドムス・アウレア(黄金宮殿)を建設した。当時ローマ市は非常に密集した状態であったにもかかわらず、エスクイリヌスの丘(現エスクィリーノの丘)の斜面にテラスを造り、人工池(現在コロッセオがある場所)とこれを囲む庭園を見下ろす、すばらしい景観を眺めることができた[注釈 1]。現在はトライアヌス浴場の地下に残された一部のみが残る。八角形を半分にしたような中庭を挟んで、方形の中庭を囲む食堂などがある部分と八角堂のある部分に分かれ、おおまかな構成は当時の海辺に建設されたヴィッラそのものである。内部は大理石やモザイクを使った贅沢なもので、その装飾はルネサンス時代にグロテスクと呼ばれ、ラファエロ・サンティらに影響を与えた[7]。しかし、この建物の真に革新的な部分は、ローマン・コンクリートによって構築されたヴォールト天井とドームが架けられた八角型の部屋である。八角堂の形式は他にみられないが、ドムス・アウレアではじめて採用されたとは考えにくいので、直接の原型があると考えられる。ドーム頂部からだけでなく、これに付随する部屋への採光を確保できるような造形は、オクタウィアヌスの時代から培われたローマン・コンクリートがあってはじめて成り立つもので、皇帝自らの邸宅に革新的な造形が採用されたことは、他の建築に新しい技術や意匠をもたらす契機となった[8]。

ネロの死後、104年に宮殿は火災に遭い、その敷地は次々と公共建築用地に転用された。宮殿の庭園にあった人工池の跡地にはコロッセウム(コロッセオ、コロシアム)が建設された。建設開始は75年で、利用開始は80年である。正式名称は「フラウィウス闘技場」(フラウィウス円形闘技場)だが、ネロの巨大な像(コロッスス)が傍らに立っていたため、コロッセウムと呼ばれるようになったといわれている[9]。

コリントス運河
67年にネロはコリントス運河の開削を開始。コリントス地峡に運河を掘る構想は古代ギリシアの時代からあり、古代ローマ時代にもカエサルやカリグラも関心をもっていた。ネロは6000人の奴隷を動員して3.3kmあまりを掘ったが、途中、ローマでガルバらの反乱が起こりネロは自殺してしまう。死後、帝位についたガルバによって工事は中断された。ネロが計画した運河は、1893年に完成した現在のコリントス運河と同じルートである。古代ローマの土木建設技術の高さがうかがわれる。

年表
37年12月15日 - アンティウム(現在のアンツィオ)にて出生。
50年 - クラウディウス帝の養子となり、ネロ・クラウディウスと改名する。
51年 - 母アグリッピナの意向で通常より2、3年早く成人式を挙げる。
54年10月13日 - クラウディウスの崩御により即位。
55年 - 義弟ブリタンニクス死去。
57年 - 元老院属州と皇帝属州を合わせ国庫を一本化する。
59年 - アグリッピナを殺害。
62年 - オクタウィア自殺。ポッパエア・サビナと再婚。
64年 - ローマの大火。その跡地に黄金宮殿(ドムス・アウレア)を建設。
65年 - ピソの陰謀。セネカが自死。
67年 - コリントス運河の開削を試みるも成功せず。
68年6月9日 - 反乱を受けて自殺。

キリスト教聖書学における暴君としての評価
64年のローマ大火にかこつけて、人類史上初めてキリスト教徒を迫害した挙句、「人類(ローマ国民)全体に対する罪」を罪状として科したため、キリスト教文化圏を中心にネロに対する評価は低い。さらに、使徒・ペトロはネロの迫害下で逆さ十字架にかけられ殉教したとされる。だが当時のローマ帝国内では、ローマ伝統の多神教を否定するユダヤ教[注釈 2]を嫌悪している者が圧倒的に多数派であった。ネロを糾弾したタキトゥスをはじめとする後世のローマの歴史家達も、このことについてはむしろネロに近い立場を取った。

当時のローマ教会の構成人数は多くても数十人程度であり、一般的にキリスト教はユダヤ教の一派とみなされていた。にも拘らずネロがなぜキリスト教徒を限定して放火犯としたのか。パウロの伝道によるキリストの福音をめぐって一部のユダヤ教他宗派・異邦人と対立し各都市で騒乱が発生しており、ローマでも49年に騒乱を起こしたものが追放されていた。また、ネロの第二妻のポッパエア・サビナはユダヤ教徒と考えられており、彼女やその周辺のファリサイ派やサドカイ派から、イエス・キリスト信仰者が社会に動乱を引き起こす存在として伝達されていた可能性もある。これらによって放火犯とイエス・キリスト信仰者が結びつきやすかったのかもしれない[10]。

また、後世の記述はネロを「国家の敵」として追放した元老院との繋がりが強いスエトニウス、タキトゥス、カッシウス・ディオによる著書による影響力が強く、権力者としての名声を失墜させようとして描かれた人物像である可能性があることに注意する必要がある。また、フラウィウス朝を創始したウェスパシアヌスはネロを悪帝としてメモリアの破壊を先導した[11]。

ただし、タキトゥスはもとよりキリスト教会の資料でも、この頃のキリスト教を迫害したのはネロではなくポッパエアがネロを動かしていたとするものもある。
以上のキリスト教徒迫害のため、ネロは悪魔(獣の数字)や堕落した女(大淫婦バビロン)で暗喩される。

獣の数字「666」(悪魔として)

獣の数字「666」。「皇帝ネロ」を意味する。

『新約聖書』の『ヨハネの黙示録』に獣の数字「666」について記述がある。この数字は「皇帝ネロ」を指すとされるもので、自由主義神学の高等批評による聖書学で最も支持されている説である [12][13][14][15][16][17][18]。 つまり、皇帝ネロ (Nero Caesar) のギリシア語表記 (Νέρων Καίσαρ, Nerōn Kaisar) をヘブライ文字に置き換え (נרון קסר, Nrwn Ksr)、これをゲマトリア(カバラ的な数値化)したその数が666になるというものである。この一説は直前の皇帝崇拝らしき記述とも意味的に整合する。

ネロを主題にした作品

文学作品
偽セネカ『オクタウィア』
ジャン・ラシーヌ『ブリタニキュス』、渡辺守章訳、岩波文庫 ほか
ヘンリク・シェンキェヴィチ『クォ・ヴァディス』、木村彰一訳、岩波文庫 全3巻 ほか
同名のアメリカ映画やポーランドのテレビドラマの原作。
ユベール・モンテイエ『ネロポリス―ネロの時代の物語』、栩木泰訳(全2巻:中央公論社、のち中公文庫)


音楽・舞台作品
クラウディオ・モンテヴェルディ『ポッペーアの戴冠』…ネロが周囲の反対者を排除して、寵愛するポッパエア・サビナを皇后とする物語。1642年にヴェネツィアで初演されたオペラ。
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル『アグリッピナ』…ヘンデルのオペラの中でも代表作の一つ。
アッリーゴ・ボーイト『ネローネ』…遺作となった未完のオペラ。
オットリーノ・レスピーギ:交響詩「ローマの祭」…第1曲『チルチェンセス』は、ネロが円形競技場でキリスト教徒たちを猛獣に喰わせて殺害した残酷な祭りを描いている。
ウィルスン・バーレット『十字架の徴』…1895年作の戯曲。
映画『暴君ネロ』(1932年、セシル・B・デミル監督)の原作。
宝塚歌劇団『皇帝』…ネロを主人公としたミュージカル。


映画
『わが息子暴君ネロ』(1956年、フランス・イタリア)
『ネロ皇帝の聖餐』(1981年、イタリア)

テレビ映画
『NERO ザ・ダーク・エンペラー』(2004年、イタリア・スペイン・イギリス)

漫画
安彦良和『我が名はネロ』(文藝春秋、のち中公文庫)
技来静也『拳闘暗黒伝セスタス』(白泉社) ネロが主人公の一人として登場する歴史格闘漫画。
さかもと未明『マンガ ローマ帝国の歴史3 カリグラ、ネロ、ユリウス朝の崩壊』 講談社
梶原一騎/ふくしま政美『格闘士ローマの星』(秋田書店「週刊少年チャンピオン」 1976 - 1977年)… 主人公の格闘士アリオンの醜悪な仇役として登場する。コロセウムでキリスト教徒の殺害を挙行したり、醜い中年皇帝として描写されたりするなど、史実との矛盾が目立つ。
とり・みき、ヤマザキマリ『プリニウス』(新潮社)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AD
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/169.html#c7

[近代史5] ロシア・ウクライナの歴史と現代史 中川隆
29. 2022年1月25日 05:37:09 : 7ISbytjsq2 : OFF2Lk4yL2hXdlk=[11]

2022.01.25XML
ドイツの海軍総監にもナンセンスと言われる話を宣伝、軍事的緊張を高める好戦派
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202201250000/


 ドイツ海軍の海軍総監だったケイ-アヒム・シェーンバッハ中将は1月22日に辞任を申し出た。ロシア軍がウクライナへ軍事侵攻しようとしているとする話は「ナンセンス」であり、ウクライナがクリミアを取り戻すことな不可能だと21日にニューデリーのシンクタンクで語ったことが問題にされたという。この発言は常識的なものだが、こうした常識的な発言を許さない雰囲気が西側では広がっている。

 そうした雰囲気を作り出してきたアメリカ、イギリス、NATOの好戦的な支配グループであり、その宣伝をしているのが有力メディアだ。このグループはロシアや中国を恫喝してきたが、屈服させることはできていない。今も兵器を運び込み、ウクライナ兵を訓練、ロシア周辺で軍事演習を実施するなど挑発を続けている。

 恫喝しながらロシアの隣国であるウクライナまで軍事的な支配地を拡大させようとしているが、ロシア政府は自国の安全を脅かす行為だと抗議、保証する文書を作成するように求めている。ウラジミル・プーチン露大統領は「戦争を望まないが、戦争したいなら受けて立つ」という姿勢だ。

 ロシア政府はこれ以上恫喝に付き合っていられないという意志を鮮明にしはじめた。アメリカのウェンディ・シャーマン国務副長官らは1月10日にジュネーブでロシアのセルゲイ・リャブコフ外務次官らと会談したが具体的な進展はなく、ロシア側から交渉を再開する理由が見つからないと言われた。

 ​EUの外務安全保障政策上級代表を務めるジョセップ・ボレル​は自分たちの行うことにロシアは口をはさむなと脅し、NATOの​イェンス・ストルテンベルグ事務局長​はウクライナをめぐり、NATOはロシアとの軍事衝突に備えなけらばならないと発言した。

 それに対し、1月18日にドイツのアンナレーナ・ベアボック外相はモスクワでロシアのセルゲイ・ラブロフ外相を会談している。事態の沈静化を図ったのかもしれないが、今後のことはアメリカ政府次第だと言われたという。

 現在の状況を作り出したのは19世紀のイギリスであり、同じアングロ・サクソン系のアメリカが引き継いできた。その戦略をまとめたのが地政学の父とも言われるハルフォード・マッキンダーで、彼は大陸を締め上げる「三日月帯」の西端をイギリス、東端を日本に設定。中東でイギリスは帯の上にサウジアラビアとイスラエルを作り上げた。

 イギリスの首相を務めたウィンストン・チャーチルは第2次世界大戦でドイツが降伏した直後、日本が降伏する前にソ連への奇襲攻撃を目的とする「アンシンカブル作戦」を立てた。1945年7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めるという内容だったが、参謀本部が拒否してため、実行されなかったという。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000など)

 1945年7月26日にチャーチルは首相の座を降りるが、その10日前にアメリカのニューメキシコ州にあったトリニティ(三位一体)実験場でプルトニウム原爆の爆発実験を行って成功、副大統領から昇格したハリー・トルーマン大統領は原子爆弾の投下を7月24日に許可、広島と長崎に落とされた。

 核兵器の開発はハンガリー出身のふたりの物理学者、レオ・シラードとユージン・ポール・ウィグナーが草稿を書いたアルバート・アインシュタイン名義の勧告書がフランクリン・ルーズベルト米大統領へ送られた1939年8月から始まると言われている。

 1940年2月にイギリスではバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスの案に基づいてMAUD委員会が設立され、その委員会のマーク・オリファントが1941年8月にアメリカでアーネスト・ローレンスと会い、同年10月にフランクリン・ルーズベルト米大統領は計画を許可してアメリカとイギリスの共同開発が始まった。これが「マンハッタン計画」だ。

 この原爆開発計画を統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将は1944年、ポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。日本の降伏を早めることが目的だったわけではないということだ。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 大戦が終わった翌年、1946年3月にアメリカのフルトンでチャーチルは「鉄のカーテン演説」を行った。バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステに至る「鉄のカーテン」が存在しているというのだ。FBIの文書によると、​チャーチルは1947年、アメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようトルーマン大統領を説得してほしいと求めている​。

 ソ連を核兵器で壊滅させたいというチャーチルの思いはその後も消えず、彼は1951年4月に自宅でニューヨーク・タイムズ紙のジェネラル・マネージャーだったジュリアス・アドラーに対し、​ソ連に最後通牒を突きつけ、それを拒否したなら20から30発の原爆をソ連の都市に落とすと脅そうと考えている​と話していた。このことを示す文書が発見されている。その半年後にチャーチルは首相へ返り咲く。

 チャーチルの父親はロスチャイルド家に膨大な借金があり、ウィンストンも金銭的に縛られていた。チャーチルの言動にはそうした背景がある。ロスチャイルド家はイギリスを含む国々で大きな影響力を持っていたが、その一因であるネイサン・ロスチャイルドはエリザベス1世の時代にセシル・ローズ、ウィリアム・ステッド、レジナルド・バリオル・ブレットたちと政策を決定する力を持っていた。

 ローズは1871年にNMロスチャイルド&サンの融資を受けて南部アフリカでダイヤモンド取引に乗り出して大儲けした人物。1877年には「信仰告白」を書き、その中で彼はアングロ・サクソンを世界で最も高貴な人種だと表現、その人種が支配地域を広げることは義務だとしていた。

 こうした優生学的な考え方でまとまったグループも存在した。トーマス・ハクスリーが1864年にイギリスで創設した「Xクラブ」だ。そのメンバーには支配階級の優越性を主張する社会ダーウィン主義を提唱したハーバート・スペンサー、チャールズ・ダーウィンの親友だったジョセフ・フッカー、このダーウィンのいとこであるジョン・ラボックも含まれていた。

 マッキンダーの理論はこうしたグループが考え出したもので、それは1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年の第2次アヘン戦争(アロー戦争)、そして明治維新にもつながる。ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もその戦略に基づいていた。

 1995年2月にジョセイフ・ナイが「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表して以来、日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれたが、それはマッキンダーの戦略に日本も従うことを意味する。その戦略の最終目標はロシアを制圧して覇権を握ること。ウクライナを含む中央ヨーロッパを支配することはロシアを制圧して長期戦略を実現するための重要なステップだ。ロシア側もこうしたことを理解している。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202201250000/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/472.html#c29

[リバイバル3] 果汁100%の濃縮還元ジュースは農薬入り砂糖水を飲むのと変わらない 中川隆
12. 2022年1月25日 05:43:58 : 7ISbytjsq2 : OFF2Lk4yL2hXdlk=[12]
【ゆっくり解説】果汁100%でも飲んだらダメ?!実は危険なフルーツジュースの闇
2022/01/24


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/909.html#c12
[近代史3] 死に急がせる怖い飲み物 中川隆
9. 中川隆[-14072] koaQ7Jey 2022年1月25日 05:44:23 : 7ISbytjsq2 : OFF2Lk4yL2hXdlk=[13]
【ゆっくり解説】果汁100%でも飲んだらダメ?!実は危険なフルーツジュースの闇
2022/01/24


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