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[近代史3] ジャニー喜多川は、CIA工作員だった 中川隆
29. 保守や右翼には馬鹿し[50] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年3月09日 06:50:30 : V5ZTuVXe12 : OEE4eFdlM3V1S1k=[1]
「これを我慢しないと売れないから」英BBCが報じたジャニー喜多川氏の性加害 元ジャニーズJr.が顔出しで衝撃告白
「週刊文春」編集部14時間前
source : 週刊文春 2023年3月16日号
https://bunshun.jp/articles/-/61200

 イギリス時間の3月7日午後9時、英国営放送「BBC Two」のゴールデンタイムで、1時間の番組が放送された。タイトルは、

『Predator:The Secret Scandal of J‐Pop(プレデター〜Jポップの秘密のスキャンダル)』

 ここで“プレデター(捕食者)”と名指しされている人物。それは2019年に死去したジャニーズ事務所創業者、ジャニー喜多川氏(享年87)である。


遂にジャニー氏の性加害がテレビで取り上げられた

「これを我慢しないと売れないから」被害を受けた元Jr.の告発
 番組はジャニー氏を「Jポップ界のゴッドファーザ―」と表現。ジャニーズのアイドルがメディアを席巻し、街を歩けば、至るところに、グッズ、広告などあらゆる姿で存在している様子を映し出す。そして、レポーターはこう切り出した。

〈しかし、何十年もの間、ジャニー喜多川にはある疑惑がつきまとっていました。事務所に所属する少年たちに、性的虐待を加えていたという疑惑です〉

『プレデター』には被害を受けた元ジャニーズJr.の男性3名が、顔を出して登場する。ジュニアの少年たちは“合宿所”と呼ばれるジャニー氏の自宅マンションに呼ばれ、食事をし、お風呂に入れて貰う。そして寝室でジャニー氏にマッサージをされ、徐々に彼の手が下がっていく……。『プレデター』はジャニー氏の性的虐待の被害者の告白を、初めて取り上げたテレビ番組となった。


番組で紹介された合宿所の“見取り図”(BBCより)

苦悩しながら体験を語ったハヤシ氏(YouTube「BBC News Japan」より)

 中でも印象的だったのが、30年以上前にジュニアだったハヤシ氏(仮名)の告白だ。時折、声を詰まらせながら、彼は初めて合宿所を訪れた日にジャニー氏に夜通しマッサージをされ、別の日にはジャニー氏から、「口でされた」とも明かした。また他のジュニアからは「これを我慢しないと売れないから」と言われたという。


ジャニー氏の問題を取り上げた週刊文春とジャニーズ事務所の訴訟
 番組には週刊文春の記者も出演している。というのも、日本のメディアが沈黙を続ける中、この問題を唯一正面から取り上げたのが1999年10月から14週にわたって展開した小誌のキャンペーン報道だったたからである。

 一連の記事で、最も深刻な問題として告発したのが、ジャニー氏による性的虐待だった。

「ユー、今日ウチへ来る?」


 との誘い文句で少年たちを“合宿所”や、滞在するホテルの部屋に招き、行為を繰り返していたのだ。

番組名は「プレデター」(BBCより)

 キャンペーン開始後の1999年11月、ジャニー氏と事務所は、小社・文藝春秋に対し名誉毀損の損害賠償を求めて提訴。審理では、ジャニー氏本人や記事で証言した少年2人も出廷した。

 2002年3月の東京地裁判決は少年らの供述の信用性を認めず、小誌が敗訴。メディアはその事実を大きく取り上げた。だが東京高裁では状況が一転。2003年7月に下された判決ではジャニー氏の性虐待について、こう論じられている。

〈原告喜多川が(中略)セクハラ行為をしているとの記述については、いわゆる真実性の抗弁が認められ、かつ、公共の利害に関する事実に係るものである〉

 ジャニー氏の性的虐待を認定し、名誉毀損には当たらないとしたのだ。重要視されたのがジャニー氏の証言だ。

 少年たちの性的虐待についての告白に対し、法廷で「彼たちはうその証言をしたということを、僕は明確には言い難いです」と述べていたのである。

 その後、ジャニーズ側は最高裁に上告したが、2004年2月に上告棄却。高裁判決が確定した。


性加害の実態が認められたものの、メディアの反応は…
 司法によって認められた、日本で最大の売り上げを誇る芸能事務所のトップによる性加害の実態。だが、一審判決を扱ったスポーツ紙らは、掌を返したように一切触れず、全国紙も朝日と毎日が小さく報じたのみ。テレビは言うに及ばず、広告業界も何事もなかったかのように、ジャニーズ事務所のタレントの起用を続けた。

『プレデター』でレポーターを務めているジャーナリスト、モビーン・アザー氏は、小誌の取材に対し驚きを隠さなかった。

「事実とわかったにもかかわらず、社会的に問題にされなかったことに衝撃を受けました。彼はジャニーズ事務所を運営することを許され、何十年もの間、国の宝として崇められてきた。掘り下げれば下げるほど、よくわからない話でした」


番組リポーターのモビーン・アザー氏(BBCより)

 ジャニー氏が社会的に弾劾されることはなかった。それはジャニー氏に“生き方を改める必要はない”と思わせたのだろうか。彼は判決後も再び同じ過ちを続けていた。それが今回のBBCの取材で明らかとなっている――。

 3月8日(水)12時配信の「週刊文春 電子版」および3月9日(木)発売の「週刊文春」では、かつて『週刊文春』が報じたジャニー氏のおぞましい性加害の実態、『プレデター』のディレクターが明かす番組制作の経緯、アザー氏が最もショックを受けた被害者たちの証言、番組取材陣が指摘する日本メディアの問題点、性加害問題に対するジャニーズ事務所の回答、当時の担当記者たちが明かす1999年当時の取材の裏側などを詳報している。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/521.html#c29

[近代史02] 調査報告/原子力発電所における秘密 中川隆
65. 保守や右翼には馬鹿し[51] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年3月09日 15:15:22 : V5ZTuVXe12 : OEE4eFdlM3V1S1k=[2]
3・11から学ぶこと - 内田樹の研究室
2023-03-09 jeudi
http://blog.tatsuru.com/2023/03/09_1455.html

 3.11の時、東京電力福島第一原発では炉心溶融、建屋爆発が連続発生し、事故はチェルノブイリ原発事故と同レベルの過酷事故と認定された。以後再稼働することなく廃炉作業が続けられている。廃炉作業にどれほどの歳月と費用が必要なのかもまだわからない。経産省は2016年に22兆円と計算したが、2019年には民間シンクタンクが最高81兆円の試算を示した。政府のこの種の試算はだいたい後になって大幅に上方修正されるのが通例であるから、いずれ81兆円を超えても私は驚かない。
 日本列島は、全世界のマグニチュード6以上の地震の20%が周辺で発生する世界有数の地震多発地帯である。世界標準を超えるレベルの安全基準を採用するのが当然だと私は思うが、原発を建てた人たちはそうは思わなかったらしい。
 東電の旧経営陣3人が業務上過失致死傷で起訴された裁判で、東京高裁は「巨大津波の襲来を予測することはできず、事故を回避するために原発の運転を停止するほどの義務があったとはいえない」と判断して、一審に続いて全員に無罪を言い渡した。
「想定外」だったからどれほどシリアスな事故を起こしてもとがめることはできないというのは法理としては通るかも知れないが、常識では通らない。万一事故が起きたら広範囲の土地が半永久的に居住不能になるほどのリスクのあるテクノロジーを扱うときに、「想定外のことが起きたのだから自分には責任がない」という言い訳をすらっと口にできるような人間はそもそもそのような危険なシステムの管理者になるべきではない。そのような危険なテクノロジーを扱う技術者に最も求められる知的資質は「起こる可能性のある最悪の事態」についての想像力だからである。
 たしかに「最悪の事態」に備えて安全性を配慮すれば、その分だけコストは高くなる。けれども、こう言ってよければ、それはたかが銭金の問題である。リスクを低く見積もったせいで失われるものと、リスクを高く見積もったせいで失われるものは桁が違う。ほとんど天文学的に違う。
 私はこういう致命的な計算違いを犯す人間を「リアリスト」と呼ぶことに同意できない。こういう致命的な計算違いをした人間は、仮に法的な処罰を逃れ得たとしても、以後社会人としては「まるで使い物にならない」というスティグマを刻印されることを甘受すべきだろう。彼らはそれほど邪悪な人間ではなかったかも知れないが、犯罪的なまでに無能な人間ではあったのだから。
 福島の事故が過酷事故になった主因としては、津波に対する施設防護が脆弱であったこと、電源を高台に確保しておかなかったこと、全電源を失った場合の注水手段が確保されていなかったことなどが指摘されている。防潮壁も電源の分散も注水システムの整備もどれもそれなりのコストさえかければ整備できるものである。技術的に難しいものではないし、事故以前にもそういう安全設備の配慮をすべきだと主張した人もたくさんいた。
 2006年には過去の海外の原発での電源喪失の事例を挙げて、そのリスクを重く見るように訴えた質問書が内閣に出されたが、当時の安倍晋三首相はわが国ではそのような事例の「前例がない」ことを根拠に全電源喪失のリスクはないという木で鼻をくくったような答弁で応じた。だが、「これまで起こらなかったことはこれからも起こらない」というのは推論として間違っている。
 この時の答弁の中で「原子炉の冷却ができない事態が生じないように安全の確保に万全を期している」という定型句を政府答弁は5回繰り返した。実際には「原子炉の冷却ができない事態」が生じた。だが、その点を衝かれても、政府は「万全を期す」というのは「万全であればいいな」という主観的願望のことであって、「万全である」という客観的な保証のことではないと言い逃れるつもりだろう。
 福島の原発事故は半ば「人災」だと私は思う。天変地異は自然現象であるから、人間には制御できない。でも、自然現象のリスクを予測して、それがもたらす被害を最小化することはできる。
「起こり得る最悪の事態を想定してそれに備える」ということが日本人はほんとうに苦手である。それよりは「目論見がすべて成功して、巨大な利益が転がり込む」という皮算用で盛り上がることを喜ぶ。五輪も、万博も、カジノも、リニアもどれもそうである。それが失敗した時に何が起きるかについては誰も何も考えない。
 たしかに、「最悪の事態」というのは、それを事前に想定すれば防げ、想定しなければ到来するというほど簡単なものではない。最悪の事態を事前に想定しても、最悪の事態が到来することはある。でも、被害を最小化する努力をしておけば、被害はその分だけは抑制される。当たり前の話である。
 私たちが3.11から学ぶことがあるとすれば、その教えに尽くされると思う。だが、日本人はそれさえ学んでいない。
http://blog.tatsuru.com/2023/03/09_1455.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/363.html#c65

[昼休み54] 原子力発電は本当に危険なのか? 中川隆
17. 中川隆[-12735] koaQ7Jey 2023年3月09日 15:15:45 : V5ZTuVXe12 : OEE4eFdlM3V1S1k=[3]
3・11から学ぶこと - 内田樹の研究室
2023-03-09 jeudi
http://blog.tatsuru.com/2023/03/09_1455.html

 3.11の時、東京電力福島第一原発では炉心溶融、建屋爆発が連続発生し、事故はチェルノブイリ原発事故と同レベルの過酷事故と認定された。以後再稼働することなく廃炉作業が続けられている。廃炉作業にどれほどの歳月と費用が必要なのかもまだわからない。経産省は2016年に22兆円と計算したが、2019年には民間シンクタンクが最高81兆円の試算を示した。政府のこの種の試算はだいたい後になって大幅に上方修正されるのが通例であるから、いずれ81兆円を超えても私は驚かない。
 日本列島は、全世界のマグニチュード6以上の地震の20%が周辺で発生する世界有数の地震多発地帯である。世界標準を超えるレベルの安全基準を採用するのが当然だと私は思うが、原発を建てた人たちはそうは思わなかったらしい。
 東電の旧経営陣3人が業務上過失致死傷で起訴された裁判で、東京高裁は「巨大津波の襲来を予測することはできず、事故を回避するために原発の運転を停止するほどの義務があったとはいえない」と判断して、一審に続いて全員に無罪を言い渡した。
「想定外」だったからどれほどシリアスな事故を起こしてもとがめることはできないというのは法理としては通るかも知れないが、常識では通らない。万一事故が起きたら広範囲の土地が半永久的に居住不能になるほどのリスクのあるテクノロジーを扱うときに、「想定外のことが起きたのだから自分には責任がない」という言い訳をすらっと口にできるような人間はそもそもそのような危険なシステムの管理者になるべきではない。そのような危険なテクノロジーを扱う技術者に最も求められる知的資質は「起こる可能性のある最悪の事態」についての想像力だからである。
 たしかに「最悪の事態」に備えて安全性を配慮すれば、その分だけコストは高くなる。けれども、こう言ってよければ、それはたかが銭金の問題である。リスクを低く見積もったせいで失われるものと、リスクを高く見積もったせいで失われるものは桁が違う。ほとんど天文学的に違う。
 私はこういう致命的な計算違いを犯す人間を「リアリスト」と呼ぶことに同意できない。こういう致命的な計算違いをした人間は、仮に法的な処罰を逃れ得たとしても、以後社会人としては「まるで使い物にならない」というスティグマを刻印されることを甘受すべきだろう。彼らはそれほど邪悪な人間ではなかったかも知れないが、犯罪的なまでに無能な人間ではあったのだから。
 福島の事故が過酷事故になった主因としては、津波に対する施設防護が脆弱であったこと、電源を高台に確保しておかなかったこと、全電源を失った場合の注水手段が確保されていなかったことなどが指摘されている。防潮壁も電源の分散も注水システムの整備もどれもそれなりのコストさえかければ整備できるものである。技術的に難しいものではないし、事故以前にもそういう安全設備の配慮をすべきだと主張した人もたくさんいた。
 2006年には過去の海外の原発での電源喪失の事例を挙げて、そのリスクを重く見るように訴えた質問書が内閣に出されたが、当時の安倍晋三首相はわが国ではそのような事例の「前例がない」ことを根拠に全電源喪失のリスクはないという木で鼻をくくったような答弁で応じた。だが、「これまで起こらなかったことはこれからも起こらない」というのは推論として間違っている。
 この時の答弁の中で「原子炉の冷却ができない事態が生じないように安全の確保に万全を期している」という定型句を政府答弁は5回繰り返した。実際には「原子炉の冷却ができない事態」が生じた。だが、その点を衝かれても、政府は「万全を期す」というのは「万全であればいいな」という主観的願望のことであって、「万全である」という客観的な保証のことではないと言い逃れるつもりだろう。
 福島の原発事故は半ば「人災」だと私は思う。天変地異は自然現象であるから、人間には制御できない。でも、自然現象のリスクを予測して、それがもたらす被害を最小化することはできる。
「起こり得る最悪の事態を想定してそれに備える」ということが日本人はほんとうに苦手である。それよりは「目論見がすべて成功して、巨大な利益が転がり込む」という皮算用で盛り上がることを喜ぶ。五輪も、万博も、カジノも、リニアもどれもそうである。それが失敗した時に何が起きるかについては誰も何も考えない。
 たしかに、「最悪の事態」というのは、それを事前に想定すれば防げ、想定しなければ到来するというほど簡単なものではない。最悪の事態を事前に想定しても、最悪の事態が到来することはある。でも、被害を最小化する努力をしておけば、被害はその分だけは抑制される。当たり前の話である。
 私たちが3.11から学ぶことがあるとすれば、その教えに尽くされると思う。だが、日本人はそれさえ学んでいない。
http://blog.tatsuru.com/2023/03/09_1455.html
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/148.html#c17

[昼休み54] 菅、枝野、北沢が妨害しなければ福島原発事故は起きなかった 中川隆
11. 中川隆[-12734] koaQ7Jey 2023年3月09日 15:16:13 : V5ZTuVXe12 : OEE4eFdlM3V1S1k=[4]
3・11から学ぶこと - 内田樹の研究室
2023-03-09 jeudi
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 3.11の時、東京電力福島第一原発では炉心溶融、建屋爆発が連続発生し、事故はチェルノブイリ原発事故と同レベルの過酷事故と認定された。以後再稼働することなく廃炉作業が続けられている。廃炉作業にどれほどの歳月と費用が必要なのかもまだわからない。経産省は2016年に22兆円と計算したが、2019年には民間シンクタンクが最高81兆円の試算を示した。政府のこの種の試算はだいたい後になって大幅に上方修正されるのが通例であるから、いずれ81兆円を超えても私は驚かない。
 日本列島は、全世界のマグニチュード6以上の地震の20%が周辺で発生する世界有数の地震多発地帯である。世界標準を超えるレベルの安全基準を採用するのが当然だと私は思うが、原発を建てた人たちはそうは思わなかったらしい。
 東電の旧経営陣3人が業務上過失致死傷で起訴された裁判で、東京高裁は「巨大津波の襲来を予測することはできず、事故を回避するために原発の運転を停止するほどの義務があったとはいえない」と判断して、一審に続いて全員に無罪を言い渡した。
「想定外」だったからどれほどシリアスな事故を起こしてもとがめることはできないというのは法理としては通るかも知れないが、常識では通らない。万一事故が起きたら広範囲の土地が半永久的に居住不能になるほどのリスクのあるテクノロジーを扱うときに、「想定外のことが起きたのだから自分には責任がない」という言い訳をすらっと口にできるような人間はそもそもそのような危険なシステムの管理者になるべきではない。そのような危険なテクノロジーを扱う技術者に最も求められる知的資質は「起こる可能性のある最悪の事態」についての想像力だからである。
 たしかに「最悪の事態」に備えて安全性を配慮すれば、その分だけコストは高くなる。けれども、こう言ってよければ、それはたかが銭金の問題である。リスクを低く見積もったせいで失われるものと、リスクを高く見積もったせいで失われるものは桁が違う。ほとんど天文学的に違う。
 私はこういう致命的な計算違いを犯す人間を「リアリスト」と呼ぶことに同意できない。こういう致命的な計算違いをした人間は、仮に法的な処罰を逃れ得たとしても、以後社会人としては「まるで使い物にならない」というスティグマを刻印されることを甘受すべきだろう。彼らはそれほど邪悪な人間ではなかったかも知れないが、犯罪的なまでに無能な人間ではあったのだから。
 福島の事故が過酷事故になった主因としては、津波に対する施設防護が脆弱であったこと、電源を高台に確保しておかなかったこと、全電源を失った場合の注水手段が確保されていなかったことなどが指摘されている。防潮壁も電源の分散も注水システムの整備もどれもそれなりのコストさえかければ整備できるものである。技術的に難しいものではないし、事故以前にもそういう安全設備の配慮をすべきだと主張した人もたくさんいた。
 2006年には過去の海外の原発での電源喪失の事例を挙げて、そのリスクを重く見るように訴えた質問書が内閣に出されたが、当時の安倍晋三首相はわが国ではそのような事例の「前例がない」ことを根拠に全電源喪失のリスクはないという木で鼻をくくったような答弁で応じた。だが、「これまで起こらなかったことはこれからも起こらない」というのは推論として間違っている。
 この時の答弁の中で「原子炉の冷却ができない事態が生じないように安全の確保に万全を期している」という定型句を政府答弁は5回繰り返した。実際には「原子炉の冷却ができない事態」が生じた。だが、その点を衝かれても、政府は「万全を期す」というのは「万全であればいいな」という主観的願望のことであって、「万全である」という客観的な保証のことではないと言い逃れるつもりだろう。
 福島の原発事故は半ば「人災」だと私は思う。天変地異は自然現象であるから、人間には制御できない。でも、自然現象のリスクを予測して、それがもたらす被害を最小化することはできる。
「起こり得る最悪の事態を想定してそれに備える」ということが日本人はほんとうに苦手である。それよりは「目論見がすべて成功して、巨大な利益が転がり込む」という皮算用で盛り上がることを喜ぶ。五輪も、万博も、カジノも、リニアもどれもそうである。それが失敗した時に何が起きるかについては誰も何も考えない。
 たしかに、「最悪の事態」というのは、それを事前に想定すれば防げ、想定しなければ到来するというほど簡単なものではない。最悪の事態を事前に想定しても、最悪の事態が到来することはある。でも、被害を最小化する努力をしておけば、被害はその分だけは抑制される。当たり前の話である。
 私たちが3.11から学ぶことがあるとすれば、その教えに尽くされると思う。だが、日本人はそれさえ学んでいない。
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[近代史4] 菅、枝野、北沢が妨害しなければ福島原発事故は起きなかった 中川隆
8. 中川隆[-12733] koaQ7Jey 2023年3月09日 15:16:33 : V5ZTuVXe12 : OEE4eFdlM3V1S1k=[5]
3・11から学ぶこと - 内田樹の研究室
2023-03-09 jeudi
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 3.11の時、東京電力福島第一原発では炉心溶融、建屋爆発が連続発生し、事故はチェルノブイリ原発事故と同レベルの過酷事故と認定された。以後再稼働することなく廃炉作業が続けられている。廃炉作業にどれほどの歳月と費用が必要なのかもまだわからない。経産省は2016年に22兆円と計算したが、2019年には民間シンクタンクが最高81兆円の試算を示した。政府のこの種の試算はだいたい後になって大幅に上方修正されるのが通例であるから、いずれ81兆円を超えても私は驚かない。
 日本列島は、全世界のマグニチュード6以上の地震の20%が周辺で発生する世界有数の地震多発地帯である。世界標準を超えるレベルの安全基準を採用するのが当然だと私は思うが、原発を建てた人たちはそうは思わなかったらしい。
 東電の旧経営陣3人が業務上過失致死傷で起訴された裁判で、東京高裁は「巨大津波の襲来を予測することはできず、事故を回避するために原発の運転を停止するほどの義務があったとはいえない」と判断して、一審に続いて全員に無罪を言い渡した。
「想定外」だったからどれほどシリアスな事故を起こしてもとがめることはできないというのは法理としては通るかも知れないが、常識では通らない。万一事故が起きたら広範囲の土地が半永久的に居住不能になるほどのリスクのあるテクノロジーを扱うときに、「想定外のことが起きたのだから自分には責任がない」という言い訳をすらっと口にできるような人間はそもそもそのような危険なシステムの管理者になるべきではない。そのような危険なテクノロジーを扱う技術者に最も求められる知的資質は「起こる可能性のある最悪の事態」についての想像力だからである。
 たしかに「最悪の事態」に備えて安全性を配慮すれば、その分だけコストは高くなる。けれども、こう言ってよければ、それはたかが銭金の問題である。リスクを低く見積もったせいで失われるものと、リスクを高く見積もったせいで失われるものは桁が違う。ほとんど天文学的に違う。
 私はこういう致命的な計算違いを犯す人間を「リアリスト」と呼ぶことに同意できない。こういう致命的な計算違いをした人間は、仮に法的な処罰を逃れ得たとしても、以後社会人としては「まるで使い物にならない」というスティグマを刻印されることを甘受すべきだろう。彼らはそれほど邪悪な人間ではなかったかも知れないが、犯罪的なまでに無能な人間ではあったのだから。
 福島の事故が過酷事故になった主因としては、津波に対する施設防護が脆弱であったこと、電源を高台に確保しておかなかったこと、全電源を失った場合の注水手段が確保されていなかったことなどが指摘されている。防潮壁も電源の分散も注水システムの整備もどれもそれなりのコストさえかければ整備できるものである。技術的に難しいものではないし、事故以前にもそういう安全設備の配慮をすべきだと主張した人もたくさんいた。
 2006年には過去の海外の原発での電源喪失の事例を挙げて、そのリスクを重く見るように訴えた質問書が内閣に出されたが、当時の安倍晋三首相はわが国ではそのような事例の「前例がない」ことを根拠に全電源喪失のリスクはないという木で鼻をくくったような答弁で応じた。だが、「これまで起こらなかったことはこれからも起こらない」というのは推論として間違っている。
 この時の答弁の中で「原子炉の冷却ができない事態が生じないように安全の確保に万全を期している」という定型句を政府答弁は5回繰り返した。実際には「原子炉の冷却ができない事態」が生じた。だが、その点を衝かれても、政府は「万全を期す」というのは「万全であればいいな」という主観的願望のことであって、「万全である」という客観的な保証のことではないと言い逃れるつもりだろう。
 福島の原発事故は半ば「人災」だと私は思う。天変地異は自然現象であるから、人間には制御できない。でも、自然現象のリスクを予測して、それがもたらす被害を最小化することはできる。
「起こり得る最悪の事態を想定してそれに備える」ということが日本人はほんとうに苦手である。それよりは「目論見がすべて成功して、巨大な利益が転がり込む」という皮算用で盛り上がることを喜ぶ。五輪も、万博も、カジノも、リニアもどれもそうである。それが失敗した時に何が起きるかについては誰も何も考えない。
 たしかに、「最悪の事態」というのは、それを事前に想定すれば防げ、想定しなければ到来するというほど簡単なものではない。最悪の事態を事前に想定しても、最悪の事態が到来することはある。でも、被害を最小化する努力をしておけば、被害はその分だけは抑制される。当たり前の話である。
 私たちが3.11から学ぶことがあるとすれば、その教えに尽くされると思う。だが、日本人はそれさえ学んでいない。
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[近代史4] 極悪の殿堂、東京電力 中川隆
2. 中川隆[-12732] koaQ7Jey 2023年3月09日 15:17:01 : V5ZTuVXe12 : OEE4eFdlM3V1S1k=[6]
3・11から学ぶこと - 内田樹の研究室
2023-03-09 jeudi
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 3.11の時、東京電力福島第一原発では炉心溶融、建屋爆発が連続発生し、事故はチェルノブイリ原発事故と同レベルの過酷事故と認定された。以後再稼働することなく廃炉作業が続けられている。廃炉作業にどれほどの歳月と費用が必要なのかもまだわからない。経産省は2016年に22兆円と計算したが、2019年には民間シンクタンクが最高81兆円の試算を示した。政府のこの種の試算はだいたい後になって大幅に上方修正されるのが通例であるから、いずれ81兆円を超えても私は驚かない。
 日本列島は、全世界のマグニチュード6以上の地震の20%が周辺で発生する世界有数の地震多発地帯である。世界標準を超えるレベルの安全基準を採用するのが当然だと私は思うが、原発を建てた人たちはそうは思わなかったらしい。
 東電の旧経営陣3人が業務上過失致死傷で起訴された裁判で、東京高裁は「巨大津波の襲来を予測することはできず、事故を回避するために原発の運転を停止するほどの義務があったとはいえない」と判断して、一審に続いて全員に無罪を言い渡した。
「想定外」だったからどれほどシリアスな事故を起こしてもとがめることはできないというのは法理としては通るかも知れないが、常識では通らない。万一事故が起きたら広範囲の土地が半永久的に居住不能になるほどのリスクのあるテクノロジーを扱うときに、「想定外のことが起きたのだから自分には責任がない」という言い訳をすらっと口にできるような人間はそもそもそのような危険なシステムの管理者になるべきではない。そのような危険なテクノロジーを扱う技術者に最も求められる知的資質は「起こる可能性のある最悪の事態」についての想像力だからである。
 たしかに「最悪の事態」に備えて安全性を配慮すれば、その分だけコストは高くなる。けれども、こう言ってよければ、それはたかが銭金の問題である。リスクを低く見積もったせいで失われるものと、リスクを高く見積もったせいで失われるものは桁が違う。ほとんど天文学的に違う。
 私はこういう致命的な計算違いを犯す人間を「リアリスト」と呼ぶことに同意できない。こういう致命的な計算違いをした人間は、仮に法的な処罰を逃れ得たとしても、以後社会人としては「まるで使い物にならない」というスティグマを刻印されることを甘受すべきだろう。彼らはそれほど邪悪な人間ではなかったかも知れないが、犯罪的なまでに無能な人間ではあったのだから。
 福島の事故が過酷事故になった主因としては、津波に対する施設防護が脆弱であったこと、電源を高台に確保しておかなかったこと、全電源を失った場合の注水手段が確保されていなかったことなどが指摘されている。防潮壁も電源の分散も注水システムの整備もどれもそれなりのコストさえかければ整備できるものである。技術的に難しいものではないし、事故以前にもそういう安全設備の配慮をすべきだと主張した人もたくさんいた。
 2006年には過去の海外の原発での電源喪失の事例を挙げて、そのリスクを重く見るように訴えた質問書が内閣に出されたが、当時の安倍晋三首相はわが国ではそのような事例の「前例がない」ことを根拠に全電源喪失のリスクはないという木で鼻をくくったような答弁で応じた。だが、「これまで起こらなかったことはこれからも起こらない」というのは推論として間違っている。
 この時の答弁の中で「原子炉の冷却ができない事態が生じないように安全の確保に万全を期している」という定型句を政府答弁は5回繰り返した。実際には「原子炉の冷却ができない事態」が生じた。だが、その点を衝かれても、政府は「万全を期す」というのは「万全であればいいな」という主観的願望のことであって、「万全である」という客観的な保証のことではないと言い逃れるつもりだろう。
 福島の原発事故は半ば「人災」だと私は思う。天変地異は自然現象であるから、人間には制御できない。でも、自然現象のリスクを予測して、それがもたらす被害を最小化することはできる。
「起こり得る最悪の事態を想定してそれに備える」ということが日本人はほんとうに苦手である。それよりは「目論見がすべて成功して、巨大な利益が転がり込む」という皮算用で盛り上がることを喜ぶ。五輪も、万博も、カジノも、リニアもどれもそうである。それが失敗した時に何が起きるかについては誰も何も考えない。
 たしかに、「最悪の事態」というのは、それを事前に想定すれば防げ、想定しなければ到来するというほど簡単なものではない。最悪の事態を事前に想定しても、最悪の事態が到来することはある。でも、被害を最小化する努力をしておけば、被害はその分だけは抑制される。当たり前の話である。
 私たちが3.11から学ぶことがあるとすれば、その教えに尽くされると思う。だが、日本人はそれさえ学んでいない。
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