53. 2019年7月06日 19:08:06 : SbaYBeiJoc : OEdzU2tZZzVNMmc=[1]
生身の人間には、あるいは人間の作る共同体・組織には、その行為に「内在する論理」というものがある。「彼らが何を正しいと思い、どう考えたのか」「彼らの行為は彼らがどういう存在であるがゆえに合目的的なのか」といった問いで明らかにされるもので、明らかにするのは主に批評家の仕事である。批評という仕事は、批評の対象となる行為が生身の人間のなしたことであるからこそ、人間である批評家がその背景を理解できるものだ。
逆に言えば、批評家が人間の視点で理解しようと思ってもできないものは、生身の人間であるとは言えない。
たとえば幼稚園児が「安倍首相ありがとうございます!」と叫ぶのを見た時、我々は「意味もわからないまま言わされているのだな」という結論しか出せない。人間の視点で、つまり幼稚園児の視点に立ってその言葉を自らの意見として表明する背景を想像することができないからだ。発せられた言葉にその言葉を自分の意見として発するであろう人格を見出すことが出来ない時、つまり内在する論理を見出すことができない時、我々はその言葉を「誰かに言わされているのだ」と考える。その時その言葉を発しているのは生身の人間ではなく、ただの拡声器である。
このスレにおいて「障碍者を比例の特別枠に据えるれいわを応援しながら、批判者への罵倒語に“ガイジ”を選択する者」もまた、内在する論理を見いだせない、拡声器である。
れいわ新鮮組に書き込み屋の応援があることは旗揚げのころから明白だったが、客観的にそれが証明されたことを喜ばしく思う。
http://www.asyura2.com/19/senkyo262/msg/728.html#c53