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[近代史5] 邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい 中川隆
7. 2020年7月25日 18:55:46 : e2YOtRWEoL : Nzh2WE5uMEFlWWc=[1]
「ヤマタイ国」はなかった
2007年05月23日

 30年ほど前、古田武彦氏によって提唱された「邪馬台国はなかった」をいまだ信奉している人が沢山いるようである。「魏志倭人伝」にはたしかに「邪馬台国」ではなく「邪馬壱国」とあるが、現存している『魏志』は後の南宋代(12世紀)の版木本であり、三世紀末に陳寿の書いた原本は残っていないし、古い写本も無い。『後漢書』(5世紀)にはちゃんと「邪馬台国」とあり、中国の歴史書には「邪馬台国」の文字は出ているのである。古田氏の言うように、後世の日本人が勝手に「壱」を「台」に置き換えた訳ではないのである。

 問題はこの「邪馬台国」の読みである。「邪馬」は万葉仮名で「やま」と読み、「台」はそのまま漢字音で「タイ」と読むのはどうみてもおかしい。漢字音で統一するなら「ジャバタイ国」であり、万葉仮名で統一するなら「ヤマト国」とすべきである。漢字「台」は万葉仮名では乙類の「ト」である。(古代日本語の「ト」は甲乙二種類あったが、現代語では「ト」一つしかない)。どちらかに統一すべきである。そのことを主張している人はこれまでにも沢山いた。

「邪馬台(ヤマト)国論争」だからと言って邪馬台国が奈良の大和とはかぎらない。「魏志倭人伝」に書かれている多くの産物(鉄類や絹片など)はそのほとんどが北部九州から出土している。また、中国の学者は卑弥呼がもらった銅鏡百枚はすべて後漢の鏡だと主張しているし、そのほとんどは北部九州から出土している。魏は後漢から禅譲された王朝で、その都城も官僚機構にも何の変化もなかった。このことから見て、私は「邪馬台国」は九州の筑後川流域にあったと思っている。その邪馬台(ヤマト)国が4世紀に畿内に移動して大和(ヤマト)朝廷になったという安本美典氏の説が正しいと思う(古くは和辻哲郎も同じ説を唱えている)。大和朝廷の創始者は九州から来たとの伝承は7〜8世紀の朝廷にも残っていたのであろう、「記紀」編纂者はそのことを神武東征神話として書いている。ただし、「ヤマタイ国」はなかったのである。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/ff1f10c0749e3980b5a2e8fe8a18cb81
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[近代史5] 邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい 中川隆
8. 2020年7月25日 18:59:50 : e2YOtRWEoL : Nzh2WE5uMEFlWWc=[2]

広開土王(好太王)碑文の新解釈 −「臣民」についてー
2017年12月10日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/e2ae18935ced9a252521243c9b46b909

    「好太王碑文」の画像検索結果広開土王(好太王)碑文

 広開土王(好太王)碑文は鴨緑江北岸、現在中国・集安市にある。明治13年(1880年)地元の農民により発見され、明治17年、日本陸軍の酒匂大尉によって拓本が持ち帰られ、その後、日本で碑文の本格的研究が始まった。この碑文解釈に重要な見落としがある。それは碑文にある「臣民」の文字である。これまで「臣民」との文字を、単なる「家臣」とか「支配民」ていどの意味として、あまり深く考えてこなかった。これこそ古代の日本と朝鮮半島の関係を語る重要な文字である。

 −広開土王碑文の世界史的意味ー

 この碑文は西暦414年に広開土王の事績を顕彰するため息子の長寿王が建立したものである。世界四大碑文に相当すると私は思っている。時代の古さ(4世紀末〜5世紀初頭)、巨大さ(高さ6メートルほど、幅1・5メートル)、文字数の多さ(約1800字)、そうしてなによりもその時代の東アジアの激動の歴史を非常に克明に描写している。決定的なことはこの碑文の内容が、後世、高麗時代(1145年)に編纂された朝鮮の歴史書『三国史記』の記事と大体一致していることである。(勿論、高句麗側から見ているので、多少の誇張や粉飾は仕方がないがおおむね信用できる)。

 では、あとの三つとは、BC1286年頃、古代エジプト王国と小アジア(今のトルコ共和国)にあったヒッタイト帝国がシリア周辺の覇権を争ったカデシュの戦いの和平協定を記録した碑文、エジプトのラムセス2世のカルナック神殿に象形文字で残されている。ヒッタイトでは、楔形文字で刻まれた同文の粘土版が発掘され、解読された。次に、古代エジプトのツタンカーメン碑文や今、大英博物館にある有名なロゼッタストーン(アレクサンダー大王の後継王国、エジプトのプトレマイオス朝の碑文、BC196年)、これら一連の象形文字碑文、三つ目は古代ペルシャのベヒストゥン碑文(ダリウス碑文)、これは古代アケメネス朝ペルシャのダリウス大王の事績などを断崖絶壁に楔(くさび)形文字で刻んだもの(BC500年頃)。勿論、世界各地で発掘などにより様々な文字記録は出土しているが(突厥碑文など)、質量の点においても、歴史的記録の大型碑文はこの4例しかないのではないか。中国は意外とこのような碑文は残っていない。まず、次の王朝によって破壊されたのであろう。有名な「赤壁の碑」も後世のものである。

 −広開土王碑文の価値を貶(おとし)める韓国・北朝鮮ー

 この碑文を日本と中国の学者は漢文に忠実に読んでいる。これ「異」を唱えるのが韓国・北朝鮮の学者たちである。古代の時代に現在の国家間の問題を持ち込んでいる。いわゆる、感情移入である。碑文にある「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■■羅以為臣民 」(西暦391年)であるが、日本と中国の学者は「百済、新羅は元々(高句麗の)属民で朝貢していたが、倭が辛卯年に渡海して来て百済、新羅を破り臣民とした」と読んでいる。特に、漢文の本家の中国の学者の読みはすべて一致している。母国語であるので当然である。ところが、韓国・北朝鮮の学者は渡海したのは高句麗で、百済、新羅、倭を(広開土王が)臣民としたと読んでいる。荒唐無稽、無茶苦茶である。漢文の法則を無視しても自分たちに都合よく解釈する。そうして、絶対に自説を変えることはない。

 朝鮮サイドの人にとってはこの「臣民」は困る文字なのである。「倭」が百済・新羅を「臣民」にする。まさに明治の日韓併合の古代版になる(皇国臣民)。こんなことは絶対にあってはならないことである。そこで歴史を創るのである。とくに、高句麗も王であり、王が中国皇帝を差し置いて「臣民」にするなどは当時の東アジアの中華文明圏には有り得ないことである。

 また、碑文中に「新羅遣使白王 倭人満其国境 潰破城池」(西暦400年)とあり、倭人が国境に迫ってきていると、新羅が高句麗に救援を求めてきた。そこで、広開土王は歩騎五万を率いて出撃し、碑文には 「新羅城倭満其中官兵方至倭賊退自倭背急追至任那加羅」とあり、占拠していた新羅城から撤退する「倭賊」を「任那加羅」まで追撃したとある。このとき、高句麗は自軍を「官兵」と称している。「官兵」とは「高句麗王の軍」の意味であろう。その4年後には「倭不軌侵入帯方界 」と、今の韓国・ソウル付近まで侵入してきた倭を撃破して「倭寇潰敗斬敵無数」と表記している。この「倭賊」「倭寇」を韓国・北朝鮮の解釈では中世(室町時代)の「倭寇」、つまり、海賊集団と決め付けている。世界四大碑文の一つである広開土王碑文は、父親の大王が倭の海賊ていどを討ち破ったことを偉大な功績として顕彰したことになる。韓国・朝鮮人にとって、現在は中国領にあるとはいえ、これほど先祖の偉大な王を侮辱する行為をなぜ平然とやれるのだろうか。むしろ、その功績をきちんと評価しているのはなんと日本と中国である。つまり、この碑文は「倭」を撃破したことを誇る戦勝記念碑なのに・・。これほど皮肉なことはない。

 −臣民は中国皇帝の臣ー

『前漢書』「地理誌」に「楽浪海中有倭人・・・以歳時来献見云」とあり、倭人は紀元前から楽浪郡に朝貢している。次の『後漢書』「東夷伝」には、「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」とあり、西暦57年、倭奴国が朝貢して後漢の光武帝から印綬を授かっている。そして、三世紀の「魏志倭人伝」には、倭の女王・卑弥呼は魏の皇帝から「親魏倭王」に叙任され、「金印」を賜っている。その後、卑弥呼の後継者「台与」が朝貢したあと(266年)、中国の文献からは「倭国」の記事は消える。この時代は日本古代史でも「謎の四世紀」と言われている。そうして、突然、四世紀末、広開土王碑文に「倭」「倭人」「倭賊」「倭寇」などが出てくる。この間、一体なにがあったのか。歴史史料は何も語ってくれない。次に中国史書に出てくるのは五世紀、『宋書』倭国伝の「倭の五王」の時代である。 

私はこの四世紀にも王朝は変わっても中国に朝貢して、皇帝の臣として冊封体制下にあったと思う。つまり、倭国の軍隊は中国皇帝の軍でもあり、倭国軍は官軍として朝鮮半島に出兵したのではないか。そのことを、当然、新羅・百済・高句麗にも宣伝していた。倭軍の先頭には中国皇帝の印(しるし)、黄色い旗が翻えっていたはずである。戦いを有利に進めるため、いつの時代でも大義名分は戦争に必要である。それを知っていた長寿王は倭が百済・新羅を破り、「以為臣民」と碑文に刻んだのではないか。自分たち高句麗でさえ百済・新羅は「属民」にすぎないのに。なぜ碑文に「臣民」があるのか。これしか理由が見当たらない。たしかに、この時期、西暦372年、百済も中国(東晋)に朝貢して冊封を受けてはいるが、「勝てば官軍」は今も昔も変わりない。

時代が下がって西暦478年の『宋書』倭国伝の有名な倭王武の上表文には「臣雖下愚、忝胤先緒、駆率所統、帰崇天極」とあり、倭王は中国皇帝に対して自分を「臣」と称し、宋皇帝に忠節を誓っている(帰崇天極)。同じ頃、宋に朝貢した百済王も自分を「臣」と称している。「臣」は「臣下」と同じ意味であり、「臣民」はその支配下にある「国の民」をさす(つまり、中国皇帝の臣民)。とくに倭軍が「倭不軌侵入帯方界」と、いにしえの「帯方郡」近くまで進攻してきたことは、倭国の戦争の大義、つまり、中国皇帝の軍として帯方郡の復活を目論んでいたのではないのか。この倭軍の中には倭国に亡命してきた楽浪・帯方両郡の漢人が相当数いたのではないかと思う。(313年、楽浪・帯方両郡滅亡)

 −女王・卑弥呼も官軍として戦っているー

「魏志倭人伝」に「倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢  拝假難升米 為檄告喩之」とあり、卑弥呼は南の狗奴國との争いで、帯方郡に使者を送り、戦いの窮状を訴えた。そこで、郡は魏皇帝の名代として軍事顧問、「張政」を派遣し檄をとばした(為檄告喩)。そのとき、もたらされたのが「詔書」と「黄幢」である。この「黄幢」こそ、魏皇帝の軍の印(しるし)、日本でいう「錦旗(にしきのみはた)」にほかならない。このとき、卑弥呼の邪馬台国は官軍となったのである、(黄幢、錦旗説は多くの研究者が認めている、「幢」は丸い筒型の絹の幟で、朝廷の儀仗に使われる。黄色は中国皇帝の色)。その後、狗奴国との戦闘はどうなったのか「倭人伝」に記事はない。卑弥呼の死によって双方が和睦に合意したのかもしれない。

 この「倭人伝」の記事から分かるように、三世紀の「倭国」は半島の小国家郡とは違い、中国王朝からまるで別格扱いされている。魏は中央アジアの大国、大月氏国王にも「親魏大月氏王」の称号を与えているが、卑弥呼とこの二人だけである。この事実は重い、(大月氏国とは前漢の武帝が、宿敵匈奴を東西から挟み撃ちしようと同盟を求め、「張騫」を派遣したことでよく知られている。大月氏王は断ったが・・)。また、卑弥呼の遣使、「難升米」を率善中郎將 「牛利」を率善校尉という魏の官職を与えて銀印綬を下賜している。その理由はやはり倭人が前漢以来、中国王朝に朝貢して珍しい産物をもたらしたからであろう。「倭人伝」のいう「上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹」がそれを物語っている。絹布や麻布は漢人にとっても好物であったろうし、返礼に「賜汝好物」として与えた銅鏡百枚など漢人にとってはまさに、「シメシメ」とほくそえむ程度のものでしかなかったであろう・・。この三世紀の魏と倭国の関係の延長線上に四世紀の「広開土王碑文」があると考えるのが一番自然である。つまり、倭軍は中国皇帝の軍、官軍であったのだとの認識は半島諸国にも共有されていた。そこから「以為臣民」の文字が刻まれた。

 <追記>

 「広開土王碑文」問題は現代の「慰安婦騒動」と根は同じである。韓国・朝鮮人は歴史の真実を追究しようという知性が欠如しているとしか思えない。歴史とは自分たちに都合よく創り上げるものであり、どのような事実を突きつけても絶対に認めない。異常なカルト性を持った民族である。古代に倭国が半島に攻め込んで来ることは有りえない。これが絶対的真実であり、中国の古漢文の専門家の意見など一顧だにしない。旧日本軍による慰安婦20万人の強制連行も絶対的真実であり、どのような議論にも耳を貸さない。このことを我々日本人は肝に銘じておく必要がある。

 だが、日本にもよく似た問題がある。三角縁神獣鏡を魏鏡だと断定し、中国の古鏡学者の見解(三角縁神獣鏡は日本製)を一顧だにしない。そして、いまだ発掘もされていない箸墓(はしはか)古墳を卑弥呼の墳墓に間違いないとほぼ断定し、日本の古墳時代は卑弥呼の生きた三世紀中期に始まるとの説を、あたかも絶対的真理の如く宣伝する。その理由は大多数の古代史、考古学者の意見がそうであるからとのこと。学問は選挙のように多数決で決まるものではない。クレオパトラの墓もジンギスカンの墳墓も発掘調査してはじめて決定されるものであり、これが世界の常識である。韓国・朝鮮人を非難ばかりしておれない。

 思うに、邪馬台国論争は明治以来、九州か大和かの位置論争ばかりが先行し、「倭人伝」にある魏や帯方郡との外交交渉などは軽視されてきた。そうして、邪馬台国の倭人は漢字も知らなかったとの俗説が定説化している。これに「異」を唱える人はいるにはいるが、いまだ日本史教科書もそうである、(私のブログ「卑弥呼は漢字を知っていた」参照)。卑弥呼は「詔書」「黄幢」「金印」をもらうほどの密接な関係を魏と維持していた。同時代の半島諸国にはこのような事例はない。なぜ、このような事実が軽視されてきたのか。

 それは明治以後、戦前まで続いた天皇中心史観、いわゆる皇国史観にある。日本の古代の歴史は『古事記』『日本書紀』が正史であり、中国の史書ではないのである。例えば、日本に漢字が伝わったのは『古事記』にある五世紀の応神天皇のとき、百済の「王仁(わに)」によってである。このとき、倭人は初めて漢字を知ったのだと・・。とんでもない、「魏志倭人伝」を素直に読めばそんなことはあり得ないのに。卑弥呼は「詔書」の意味さえ分からなかったのであろうか? これを逆手に取られて、朝鮮サイドの人には古代の倭人、未開の土人説が定着している。未開の倭人を文明化してやったのは我々韓国・朝鮮人だと。漢字も知らないそんな未開の倭人が四世紀末に半島に軍事行動など起こせるわけがないと。朝鮮サイドの人にこう言わせる責任はいまだ皇国史観から抜け出せないでいる日本側にある。邪馬台国・大和説こそ皇国史観そのものである。日本の歴史は悠久の昔から大和の天皇家から始まるのであり、邪馬台(ヤマト)国はその前身であるとの・・。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/e2ae18935ced9a252521243c9b46b909
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[近代史5] 邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい 中川隆
9. 2020年7月25日 19:13:33 : e2YOtRWEoL : Nzh2WE5uMEFlWWc=[3]

三角縁神獣鏡はやはり日本製 !
2015年11月02日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/aedd78e8bdc711bd615fefe9e84dcd95

2015年11月2日の朝刊各紙に卑弥呼の鏡ではないかと言われてきた三角縁神獣鏡がやっぱり日本(倭国)製であることがほぼ確実になった記事が出た。

 それによると、橿原考古学研究所の主任研究員・清水康二氏がこれまで魏鏡(舶載鏡)と認定されていた1枚の鏡と、倭国でそれを模倣して製作された鏡(倣製鏡)と鑑定されていた3枚ともすべて同じ鋳型から作られた鏡であることが判明したと発表した。つまり、これら4枚の鏡はすべて中国(魏)で作られたか、もしくは日本(倭国)で作られたか、いずれかであるとのこと。さらに清水氏は続けて、鋳型を中国から持ち帰る可能性は低いとも述べている。つまり、これら4枚は日本製であることを裏付ける結果ともなっている。(同氏はどちらかとも断定は避けているが)

 清水氏の根拠はこの4枚とも三角縁の部分に同じ形状のしわがピッタリ同じ位置に出来ていることである。鋳型に傷があると完成品にしわができるらしい。たしかに、これまでも同じ鋳型で製作された三角縁神獣鏡はかなりの量発見されてはいたが、中国(魏)製と断定され、それを鑑定した著名な学者の説をそのまま事実として定説化していた三角縁神獣鏡=魏鏡説の人たちにとっては痛烈なカウンターパンチとなった。

 <追記>

 虫メガネによる鑑定などいかにいい加減なものであることかがこれでハッキリしたと思う。以前、NHKの歴史番組で大阪大学の考古学の教授が、日本ですでに500枚以上も発見されている三角縁神獣鏡を、これは中国製、これは日本製とより分けられると豪語していた。この人はこの清水氏の発表にどう答えるのだろうか。それでも三角縁神獣鏡=魏鏡説の人たちは、たまたま中国(魏)製と鑑定したこの1枚を間違えただけで、その他の魏鏡説は正しいと言い張るつもりだろうか。こうなると、もはやかの小保方晴子氏の「STAP細胞はあります」と叫ぶのと何ら変わるところがない。もうそろそろ白旗を上げるときが来たのではないか。

 また、少し前、中国の洛陽(魏の都城)の骨董市で地元の農民から三角縁神獣鏡を手に入れたという中国の古鏡研究家の話が日本の新聞で紹介されていた。この話はどう考えてもおかしい。その鏡を所有していた農民は洛陽や西安の博物館に鑑定を依頼しなかったのだろうか。もし、専門の研究者によって魏時代の鏡だと認定されたら、博物館が数百万、いや数千万円で買い取ってくれるであろう。それを骨董市で取り引きする程度の値段で譲り渡すとは、その農民はそんなに愚かだったのか。

 今でも、古代中国の都城があったこの地域では地元農民の盗掘が横行しており、当局も手を焼いているのが実状である。盗掘品を地元の骨董市で売るためではない。中国ではそのような古代の物品を闇市場で売買するシンジケートが存在している。勿論、買うのは富裕層であるが、マスコミ報道によるとなんと正規の博物館も購入するという。中国の農民をバカにしてはいけない。たんなる偽物(模造品)だからこそタダ同然の値段で売ったのである。うがった見方をすれば、その中国人古鏡研究家は、日本の三角縁神獣鏡=魏鏡説の学者が、魏鏡説の証拠品だとして大金で購入してくれることを狙っての自作自演の猿芝居ではないのか、と勘ぐりたくもなる。魏の都城があった洛陽の骨董市、話が出来すぎている。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/aedd78e8bdc711bd615fefe9e84dcd95
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/246.html#c9

[近代史5] 邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい 中川隆
10. 2020年7月25日 19:18:22 : e2YOtRWEoL : Nzh2WE5uMEFlWWc=[4]
「みささぎ(天皇陵)」と前方後円墳
2009年02月16日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/82520c3488ff2ff1dbf778e1d611ec56?fm=entry_awp

 「みささぎ」(御陵)の語源については、「語源辞典」には諸説でている。私はこの言葉の語源のヒントは仁徳天皇にあると思っている。仁徳天皇の和名は『日本書紀』には「大鷦鷯(オホサザキ)」とあり、『古事記』には「大雀命」とある。「サザキ」とは「古語辞典」には「ミソサザイ」という鳥の一種とあるが、古代語では「サザキ」は鳥一般の意味に使っていたことが古事記の「雀」の漢字表記からも分かる。この「サザキ」は現代日本語で「かささぎ」として残っている。

 朝鮮半島の山野に生息する「カチ」は神聖な鳥と畏敬されている。この「カチ」は日本では「かささぎ」と呼ばれ、佐賀県などの北部九州にも生息している。俗称、「カチガラス」とか「朝鮮ガラス」と呼ばれている。「かささぎ」の「か」は「かみ(神)」であろう。「神楽(かぐら)」と同じ用法である。(「くら」は場所の意味、例、高御座 )。

 この「さざき」に敬語「み」が付いたものが「みささぎ」であろう。なぜこの言葉が生まれたのか。それには古代人の信仰にも踏み込まなければならない。そうして、前方後円墳の形状の持つ意味をも解明してくれる。

 ー古代人の鳥に対する信仰ー
 古墳からの出土物の中に鳥型の埴輪がある。この埴輪は全国的に分布している。応神天皇陵とされている誉田山古墳や継体天皇陵である可能性が高い今城塚古墳、大阪藤井寺の津堂城山古墳などの出土例がよく知られている。ごく最近にも、愛媛県・今治市の古墳時代の前方後円墳(高橋仏師1号墳)から鶏形埴輪が出土しているし、兵庫県・和田山の前方後円墳(池田古墳)の周濠部からは7個もの水鳥形埴輪が発見されている。発掘担当者の見解では、その他の出土埴輪と共に、墳丘上もしくはその周辺部でなんらかの祭祀が執り行われたのであろうとのことであった。また、すでに古墳の周濠から鳥形の木製品が出土した例もあり、これも被葬者を偲ぶ祭祀に使われたものだと考えられている。 つまり、鳥は天上と地上を結ぶ聖なる生き物であるとの考えに由来すると思われる。
 
 この考えは全世界的に分布しており、人類普遍的な思想であり、日本特有のものでもない。例えば、チベットの「鳥葬」やインドのムンバイ(旧ボンベイ)に住む古代ペルシャのゾロアスター教の伝統を受け継ぐパルシー(ペルシャ人の意味)が行う「沈黙の塔」に死者を置く葬礼など。だだし、これらの風習も今は政府により禁止されているようである。

 「記紀」の神話にも「天の鳥船」や「八咫烏(ヤタガラス)」など、鳥にまつわる話が出ている。また、九州の彩色古墳の中には、船の舳先に鳥を描いたものもあり(福岡県浮羽郡吉井町の珍敷塚古墳)、鳥が死者の魂を天上に運ぶという古代人の信仰生活に由来している。古事記にも「倭健命(ヤマトタケル)」の魂が伊勢国から河内国に飛翔し、そこに白鳥陵が築かれたとの神話も、同じ思想が投影されている。
 
 ー前方後円墳は上空から見るものー
 日本の前方後円墳は地上から見ると単なる小山に過ぎない。私たちが歴史書や教科書で見る前方後円墳はすべて上空からの写真(航空写真)によるものであり、それを見て、そのすごさ、巨大さを認識している。つまり、古代人も明らかに上空からの姿を意識している。つまり、天上の神にその姿を見せるための形状であったと考えるのが自然である。  古墳そのものが、天上に死者の魂を運ぶ「天の鳥船」であったのであろう。そのため、天皇や皇族の墳墓は「さざき(鳥)」と称されるようになり、尊敬の「み」が付いて「みささぎ」となったと考えられる。(日本語の音声上の特徴として、清音と濁音は容易に入れ替わる)。

 前方後円墳を上空から見ると明らかに「鳥」を腹から見た形状をしている。古墳の初期(弥生時代)には単純な円墳や方墳であったが、死者の魂を鳥が天上に運ぶとの信仰が日本に入ってきて以後、古墳の形状が鳥型(前方後円墳)に変化していったのであろう。しかし、日本に仏教が伝来してのち、この形状はすたれ、また元の単純な円墳や方墳に戻ってしまう。
 

 ーナスカの地上絵も同じ思想ー

 上空からの形状を意識する思想はなにも日本だけではない。南米ペルーの「ナスカの地上絵」も同じ考えに基つ"いていると考えられる。上空からの地上絵の写真を見ると、明らかに天上の神に見せようとした古代人の精神思想がうかがえる。その中でも一番有名な地上絵は、南米の鳥、コンドルを描いたものとされている。コンドルこそ天上の神と地上の人を結ぶ聖なる鳥であった。今でも、コンドルは霊鳥として南米の人々に畏敬されている。

 また、南北アメリカ大陸の先住民の戦士たちが、戦闘に際して鳥の羽根で身を飾るのも、自身が鳥となり霊力を身に付け、死後も鳥となって魂が天上に戻るとの信仰から生まれたものに他ならない。最近は人権上、インディアン討伐の西部劇は作られなくなったが、私の子供の頃はこの種の映画が花盛りであった。また、スペイン人に滅ぼされた南米のインカ、アステカの戦士たちも鳥の羽根で身を飾っていた。
 「みささぎ」(御陵)の語源は「鳥(さざき)」であり、前方後円墳の起源でもある。

 <追記>
 神社の前に必ずある「鳥居」も形状的に鳥を模したものと考えられ、まさに「鳥が居る」との意味である。(「居」は「居(ゐ)る」の名詞語幹(連用形)で、「居留守」「鴨居」「敷居」などと同じ用法である)。鳥居の起源はよく分かっていないが、弥生時代の遺跡からは鳥形木製品が出土している(大阪和泉市池上遺跡など)。古墳時代には、墳丘の周りで鳥型の埴輪や木製品を立てて、なんらかの祭祀を執り行ったことに由来しているのではないか。鳥居をくぐると、そこからは神々がいます神域である。神域と人域を、天上と地上に模していると考えるのが自然である。その間を取り持つのが鳥であり、神社の鳥居ではないのか。
 

 なお、日本の弥生時代の鳥形木製品を、韓国で今でも村の入り口に立てる「チャンスン」(鳥竿)と比較する人がいるが詳しくは解明されていない。私の考えでは韓国の「チャンスン」は村に厄病や災いを持ち込ませない一種のおまじないであり、日本のお地蔵さんと同じ思想であろう。ただ、竿の先に鳥を付けるのは、やはり鳥にたいする信仰が古代には日本と共通していたことを物語っていると思う。
 なお、中国清朝の発祥の地、瀋陽故宮(奉天行宮)には、竿の先にカササギの木像を載せたトーテムが今でも残っている。昔は北京の紫禁城にも同じものがあったらしいが今はない。清朝を打ち立てた満州族と朝鮮民族との近さを物語っている。新羅の王姓は「金」、清朝の王姓も「愛新覚羅」つまり、満州語の「アイシン(金)」である。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/82520c3488ff2ff1dbf778e1d611ec56?fm=entry_awp
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/246.html#c10

[近代史3] 弥生人の鳥信仰と太陽信仰 中川隆
5. 中川隆[-12039] koaQ7Jey 2020年7月25日 19:22:40 : e2YOtRWEoL : Nzh2WE5uMEFlWWc=[5]
「みささぎ(天皇陵)」と前方後円墳
2009年02月16日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/82520c3488ff2ff1dbf778e1d611ec56?fm=entry_awp
 「みささぎ」(御陵)の語源については、「語源辞典」には諸説でている。私はこの言葉の語源のヒントは仁徳天皇にあると思っている。仁徳天皇の和名は『日本書紀』には「大鷦鷯(オホサザキ)」とあり、『古事記』には「大雀命」とある。「サザキ」とは「古語辞典」には「ミソサザイ」という鳥の一種とあるが、古代語では「サザキ」は鳥一般の意味に使っていたことが古事記の「雀」の漢字表記からも分かる。この「サザキ」は現代日本語で「かささぎ」として残っている。

 朝鮮半島の山野に生息する「カチ」は神聖な鳥と畏敬されている。この「カチ」は日本では「かささぎ」と呼ばれ、佐賀県などの北部九州にも生息している。俗称、「カチガラス」とか「朝鮮ガラス」と呼ばれている。「かささぎ」の「か」は「かみ(神)」であろう。「神楽(かぐら)」と同じ用法である。(「くら」は場所の意味、例、高御座 )。

 この「さざき」に敬語「み」が付いたものが「みささぎ」であろう。なぜこの言葉が生まれたのか。それには古代人の信仰にも踏み込まなければならない。そうして、前方後円墳の形状の持つ意味をも解明してくれる。

 ー古代人の鳥に対する信仰ー
 古墳からの出土物の中に鳥型の埴輪がある。この埴輪は全国的に分布している。応神天皇陵とされている誉田山古墳や継体天皇陵である可能性が高い今城塚古墳、大阪藤井寺の津堂城山古墳などの出土例がよく知られている。ごく最近にも、愛媛県・今治市の古墳時代の前方後円墳(高橋仏師1号墳)から鶏形埴輪が出土しているし、兵庫県・和田山の前方後円墳(池田古墳)の周濠部からは7個もの水鳥形埴輪が発見されている。発掘担当者の見解では、その他の出土埴輪と共に、墳丘上もしくはその周辺部でなんらかの祭祀が執り行われたのであろうとのことであった。また、すでに古墳の周濠から鳥形の木製品が出土した例もあり、これも被葬者を偲ぶ祭祀に使われたものだと考えられている。 つまり、鳥は天上と地上を結ぶ聖なる生き物であるとの考えに由来すると思われる。
 
 この考えは全世界的に分布しており、人類普遍的な思想であり、日本特有のものでもない。例えば、チベットの「鳥葬」やインドのムンバイ(旧ボンベイ)に住む古代ペルシャのゾロアスター教の伝統を受け継ぐパルシー(ペルシャ人の意味)が行う「沈黙の塔」に死者を置く葬礼など。だだし、これらの風習も今は政府により禁止されているようである。

 「記紀」の神話にも「天の鳥船」や「八咫烏(ヤタガラス)」など、鳥にまつわる話が出ている。また、九州の彩色古墳の中には、船の舳先に鳥を描いたものもあり(福岡県浮羽郡吉井町の珍敷塚古墳)、鳥が死者の魂を天上に運ぶという古代人の信仰生活に由来している。古事記にも「倭健命(ヤマトタケル)」の魂が伊勢国から河内国に飛翔し、そこに白鳥陵が築かれたとの神話も、同じ思想が投影されている。
 
 ー前方後円墳は上空から見るものー
 日本の前方後円墳は地上から見ると単なる小山に過ぎない。私たちが歴史書や教科書で見る前方後円墳はすべて上空からの写真(航空写真)によるものであり、それを見て、そのすごさ、巨大さを認識している。つまり、古代人も明らかに上空からの姿を意識している。つまり、天上の神にその姿を見せるための形状であったと考えるのが自然である。  古墳そのものが、天上に死者の魂を運ぶ「天の鳥船」であったのであろう。そのため、天皇や皇族の墳墓は「さざき(鳥)」と称されるようになり、尊敬の「み」が付いて「みささぎ」となったと考えられる。(日本語の音声上の特徴として、清音と濁音は容易に入れ替わる)。

 前方後円墳を上空から見ると明らかに「鳥」を腹から見た形状をしている。古墳の初期(弥生時代)には単純な円墳や方墳であったが、死者の魂を鳥が天上に運ぶとの信仰が日本に入ってきて以後、古墳の形状が鳥型(前方後円墳)に変化していったのであろう。しかし、日本に仏教が伝来してのち、この形状はすたれ、また元の単純な円墳や方墳に戻ってしまう。
 

 ーナスカの地上絵も同じ思想ー

 上空からの形状を意識する思想はなにも日本だけではない。南米ペルーの「ナスカの地上絵」も同じ考えに基つ"いていると考えられる。上空からの地上絵の写真を見ると、明らかに天上の神に見せようとした古代人の精神思想がうかがえる。その中でも一番有名な地上絵は、南米の鳥、コンドルを描いたものとされている。コンドルこそ天上の神と地上の人を結ぶ聖なる鳥であった。今でも、コンドルは霊鳥として南米の人々に畏敬されている。

 また、南北アメリカ大陸の先住民の戦士たちが、戦闘に際して鳥の羽根で身を飾るのも、自身が鳥となり霊力を身に付け、死後も鳥となって魂が天上に戻るとの信仰から生まれたものに他ならない。最近は人権上、インディアン討伐の西部劇は作られなくなったが、私の子供の頃はこの種の映画が花盛りであった。また、スペイン人に滅ぼされた南米のインカ、アステカの戦士たちも鳥の羽根で身を飾っていた。
 「みささぎ」(御陵)の語源は「鳥(さざき)」であり、前方後円墳の起源でもある。

 <追記>
 神社の前に必ずある「鳥居」も形状的に鳥を模したものと考えられ、まさに「鳥が居る」との意味である。(「居」は「居(ゐ)る」の名詞語幹(連用形)で、「居留守」「鴨居」「敷居」などと同じ用法である)。鳥居の起源はよく分かっていないが、弥生時代の遺跡からは鳥形木製品が出土している(大阪和泉市池上遺跡など)。古墳時代には、墳丘の周りで鳥型の埴輪や木製品を立てて、なんらかの祭祀を執り行ったことに由来しているのではないか。鳥居をくぐると、そこからは神々がいます神域である。神域と人域を、天上と地上に模していると考えるのが自然である。その間を取り持つのが鳥であり、神社の鳥居ではないのか。
 

 なお、日本の弥生時代の鳥形木製品を、韓国で今でも村の入り口に立てる「チャンスン」(鳥竿)と比較する人がいるが詳しくは解明されていない。私の考えでは韓国の「チャンスン」は村に厄病や災いを持ち込ませない一種のおまじないであり、日本のお地蔵さんと同じ思想であろう。ただ、竿の先に鳥を付けるのは、やはり鳥にたいする信仰が古代には日本と共通していたことを物語っていると思う。
 なお、中国清朝の発祥の地、瀋陽故宮(奉天行宮)には、竿の先にカササギの木像を載せたトーテムが今でも残っている。昔は北京の紫禁城にも同じものがあったらしいが今はない。清朝を打ち立てた満州族と朝鮮民族との近さを物語っている。新羅の王姓は「金」、清朝の王姓も「愛新覚羅」つまり、満州語の「アイシン(金)」である。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/82520c3488ff2ff1dbf778e1d611ec56?fm=entry_awp
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/208.html#c5

[近代史5] 邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい 中川隆
11. 2020年7月25日 19:37:02 : e2YOtRWEoL : Nzh2WE5uMEFlWWc=[6]

NHK 歴史秘話ヒストリア(2014・6・4)を見て
2014年06月09日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/bfc66e7f28b57fa64f11fbcb2a048083

 今回は「古代史ミステリー」と題して卑弥呼をとり上げていた。まず最初にびっくり仰天したのは、現在、多くの建物跡などが発掘されている纏向遺跡が三世紀の卑弥呼の時代のものであると、すでに決定された事実のごとく橿原考古学研究所の研究者が話していたことである。纏向遺跡が卑弥呼の時代と重なる決定的な証拠は何も出てきていない。これとワンセットになる箸墓古墳も卑弥呼の時代であるとの証拠はなにもない。

 番組はそのあと福岡県の平原遺跡(魏志倭人伝のいう「伊都国」の地)の古墳をとりあげ、後漢の内行花文鏡が出土していることから、二世紀の古墳と断定的に述べる地元の研究者の話があった。この古墳の出土物から、古代中国で女性しか身に着けない耳飾りが発見されたことから、この古墳の被葬者は女性であった可能性についても言及していた。このNHKの番組を見る限り、古代史に詳しい知識のない一般の人は、三世紀の邪馬台国は大和の纏向で、卑弥呼の墓は箸墓古墳、そうしてその国家の源流は北九州の二世紀の平原遺跡であると思い込まされる筋書きのようであった。とんでもないことである。

 前に「風立ちぬと三角縁神獣鏡」で述べたように、後漢を禅譲によって継承した魏(西暦220年)は三世紀初頭であり、その国家組織は後漢をそのまま継承したものである。卑弥呼が魏に遣使した景初3年(西暦239年)にもらった銅鏡100枚は後漢の鏡であるとの中国の考古学界の主張を紹介した。つまり、平原遺跡から後漢の鏡が出てきたからといって、その古墳が必ずしも二世紀のものだとは言えないのであり、二世紀から三世紀に渡る200年近い幅がある。ひょっとして卑弥呼の墓である可能性だってあるのである。確実な証拠がない限りだれも断定的なことは言えないのである。

 <追記>

 日本の古代史や考古学の論争を見るかぎり、これは日本人の国民性、物の考え方に問題がひそんでいると思う。私はこれまでフランスやロシアの学者が発掘、調査してきた中央アジア考古学の本を数多く読んできたが、かれら研究者は多くの可能性があるとき決して断定的な結論は出さないし、また出せない。学問研究に対する態度は非常に謙虚である。一方、日本の学者はなんの根拠もないのに自分の思い込みだけでこれが真実だと断定してはばからない。三角縁神獣鏡は魏の鏡だとか、発掘さえしていない箸墓古墳を卑弥呼の墓だと決めつけてしまう。まさに、歴史研究ではなく、歴史小説の世界である。それをマスコミが大々的に報道して一般人をそう思わせる。これはもはや学問ではなく政治や宗教と変わりない。これも日本人の精神文化の一つなのであろう。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/bfc66e7f28b57fa64f11fbcb2a048083
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/246.html#c11

[近代史5] 天皇家は弥生時代後期にソウルから福岡県の伊都国に植民した 中川隆
5. 中川隆[-12038] koaQ7Jey 2020年7月25日 19:38:58 : e2YOtRWEoL : Nzh2WE5uMEFlWWc=[7]
NHK 歴史秘話ヒストリア(2014・6・4)を見て
2014年06月09日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/bfc66e7f28b57fa64f11fbcb2a048083

 今回は「古代史ミステリー」と題して卑弥呼をとり上げていた。まず最初にびっくり仰天したのは、現在、多くの建物跡などが発掘されている纏向遺跡が三世紀の卑弥呼の時代のものであると、すでに決定された事実のごとく橿原考古学研究所の研究者が話していたことである。纏向遺跡が卑弥呼の時代と重なる決定的な証拠は何も出てきていない。これとワンセットになる箸墓古墳も卑弥呼の時代であるとの証拠はなにもない。

 番組はそのあと福岡県の平原遺跡(魏志倭人伝のいう「伊都国」の地)の古墳をとりあげ、後漢の内行花文鏡が出土していることから、二世紀の古墳と断定的に述べる地元の研究者の話があった。この古墳の出土物から、古代中国で女性しか身に着けない耳飾りが発見されたことから、この古墳の被葬者は女性であった可能性についても言及していた。このNHKの番組を見る限り、古代史に詳しい知識のない一般の人は、三世紀の邪馬台国は大和の纏向で、卑弥呼の墓は箸墓古墳、そうしてその国家の源流は北九州の二世紀の平原遺跡であると思い込まされる筋書きのようであった。とんでもないことである。

 前に「風立ちぬと三角縁神獣鏡」で述べたように、後漢を禅譲によって継承した魏(西暦220年)は三世紀初頭であり、その国家組織は後漢をそのまま継承したものである。卑弥呼が魏に遣使した景初3年(西暦239年)にもらった銅鏡100枚は後漢の鏡であるとの中国の考古学界の主張を紹介した。つまり、平原遺跡から後漢の鏡が出てきたからといって、その古墳が必ずしも二世紀のものだとは言えないのであり、二世紀から三世紀に渡る200年近い幅がある。ひょっとして卑弥呼の墓である可能性だってあるのである。確実な証拠がない限りだれも断定的なことは言えないのである。

 <追記>

 日本の古代史や考古学の論争を見るかぎり、これは日本人の国民性、物の考え方に問題がひそんでいると思う。私はこれまでフランスやロシアの学者が発掘、調査してきた中央アジア考古学の本を数多く読んできたが、かれら研究者は多くの可能性があるとき決して断定的な結論は出さないし、また出せない。学問研究に対する態度は非常に謙虚である。一方、日本の学者はなんの根拠もないのに自分の思い込みだけでこれが真実だと断定してはばからない。三角縁神獣鏡は魏の鏡だとか、発掘さえしていない箸墓古墳を卑弥呼の墓だと決めつけてしまう。まさに、歴史研究ではなく、歴史小説の世界である。それをマスコミが大々的に報道して一般人をそう思わせる。これはもはや学問ではなく政治や宗教と変わりない。これも日本人の精神文化の一つなのであろう。

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[近代史5] 邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい 中川隆
12. 2020年7月25日 19:42:06 : e2YOtRWEoL : Nzh2WE5uMEFlWWc=[8]

閑話休題 − 「風立ちぬ」と三角縁神獣鏡 −
2014年02月15日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/2a857f14ebc63e61eebca696ce844d9b


宮崎駿監督のアニメ「風立ちぬ」がアカデミー賞にノミネイトされたが、惜しくも受賞を逃したニュースは耳新しい。ご存知のようにこれは戦前、世界最高の戦闘機「零戦」を製作した堀越二郎を描いたアニメである。堀越氏は純粋理科系の人である。世界のどの戦闘機よりもスピードが速く、航続距離が長く、かつ旋回能力に優れた飛行機を作ろうとして成功した。それに、当時の戦闘機では考えられなかった20ミリという陸軍の重機関銃と同じ破壊力のある機銃を装備していた(他国の戦闘機は7ミリほどの軽機関銃ていど)。当然、開戦当初は英・米の戦闘機をほぼパーフェクトに撃墜している。堀越二郎はごく単純な理論を実践したにすぎない。この考え方は戦後、造船や電機、自動車産業などに受け継がれ、日本の経済発展の土台となった。

 ー非論理の世界が闊歩する考古学ー

 これより少し前に、日本でのみ出土する三角縁神獣鏡は「魔境」であったとのニュースが全国・地方紙を問わず新聞紙上で発表された。それら記事はほぼすべて 「卑弥呼の鏡」 との見出しが躍っていた。私は唖然とした。「魏志倭人伝」に記す倭女王・卑弥呼が魏の皇帝からもらった銅鏡百枚がいつから三角縁神獣鏡であると決まったのであろうか。それら記事の要旨は次のとおり。

 「卑弥呼の鏡」と呼ばれる三角縁神獣鏡が、鏡面に太陽光を当て壁に反射させると、裏面の文様を映し出す「魔鏡」だったことが分かり、京都国立博物館の村上隆学芸部長(歴史材料科学)が1月29日、発表した。愛知県犬山市の東之宮古墳(3世紀後半)で出土した三角縁鏡を基に、3Dプリンターを使って精巧なレプリカを作って実験した。魔鏡は中国では紀元前からあるが、日本でしか出土しない三角縁鏡で確認されるのは初めて。

 上記の記事の問題点は、「犬山市の東之宮古墳(三世紀後半)」とあることである。この古墳が三世紀後半とは一体だれが決定したのか、なんの科学的根拠もない説である。 三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった鏡だから三世紀後半であろうとのことからの独断にすぎない。近年、奈良県柳本(箸墓古墳のすぐ近く)で発掘された黒塚古墳には33枚もの三角縁神獣鏡が発見された。私も黒塚古墳を実際見てきたが、「魏志倭人伝」にある倭人の墓は「棺あり郭なし」とは違い、黒塚古墳には石組みの大きな「郭」があり、三角縁神獣鏡は木棺(今は腐朽状態であるが)と「郭」のあいだに無造作に置かれているだけである。つまり、この古墳では三角縁神獣鏡は何らかの宗教的思想にもとずく葬送用具にすぎない。それに、三角縁神獣鏡はすでに日本で500枚以上も発見されている。卑弥呼がもらったのはわずか百枚であるのに。

 ー中国の考古学者の見解ー

 中国では近年、後漢、魏、西晋時代(2〜5世紀)の墳墓が数多く発掘、調査され、そこに埋葬されていた鏡の研究も相当進み、論文や本も多数出版されている。その中国の学者の一致した意見は、日本で出土する三角縁神獣鏡はすべて日本国内で作られたもので、中国(魏)製ではないとの結論である( 王仲殊編著『三角縁神獣鏡』学生社 )。 この指摘は重い。三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡説の人は、なぜ、実際にこの時代の鏡を発掘して調査、研究してきた中国の学者の意見を無視できるのであろうか。 

 日本でも最近亡くなった森浩一氏や安本美典氏も中国の学者と同じ立場で、以前からこのことを強く主張してきている。卑弥呼がもらった銅鏡百枚とは後漢時代の内行花文鏡などであり、これら後漢鏡の大半は北部九州から出土している。もともと魏王朝は後漢の丞相(総理大臣)を務めた曹操の子、曹丕が後漢の最後の皇帝から禅譲(平和裏にあとを継ぐこと)を受け、新王朝・魏の皇帝になったもので(西暦220年)、その政治組織や官僚機構も後漢をそのまま受け継いだものである。従って、卑弥呼が魏に遣使した西暦239年には魏の宮殿には後漢時代の大量の鏡が残されていたとしても不思議ではない。中国の学者は卑弥呼がもらった鏡は後漢の鏡であると断定している。勿論、本家の中国からはこの三角縁神獣鏡はただの一枚も出土していない。それと、鏡の神獣文様は中国南部の呉地方で流行していたもので、北部の魏領域ではほとんど使われない。これは実際に発掘調査した中国考古学者の結論である。

 <追記>

 三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏の皇帝からもらった鏡だと主張する人たちは、中国の学者の結論にはいっさい耳を貸さず、テレビや新聞などマスコミを総動員して鳴り物入りで宣伝にこれつとめている。学問とはデパートの大売り出しと同じで宣伝力で決まるものと勘違いしているようである。そこで、魏からもらったごく少数の三角縁神獣鏡を倭国で模倣して大量に作ったとの説を立て(倣製鏡説)、だからこそ日本国内で500枚以上も出土するのだというのが現在の三角縁神獣鏡イコール卑弥呼の鏡説の主流となっている。

 この説を受けて、大阪大学のある教授は虫メガネの鑑定で、これは中国(魏)製、これは日本(倭国)製とより分けられると、NHKの歴史番組で豪語していた。こうなるとこの人は学者ではなく宗教家である。弟子たちにとってこの教授は神の目をもった超能力者なのであろう・・。ほかにも、中国で今だに三角縁神獣鏡がただの一枚も出土しないのは、卑弥呼の使者が魏の皇帝にこのような鏡(三角縁神獣鏡)を特別に作って欲しいと頼んだからだ。つまり特別注文説、これは学問というよりもはや小説、漫画の世界である。これには中国の学者も絶句するであろう。日本人は中国の皇帝の権威を一体どう思っているのだろうかと・・。

 先の「零戦」の例を挙げるまでもなく、理科系部門で日本人は多くのノーベル科学賞をもらっている。また、それに近い研究成果を上げている人もたくさんいる。それなのに一方では、非科学的、非論理的、かつ宗教的な自己信念のみに固執する人間が文系学問の世界に数多くいるのもまた事実である。戦前の帝国軍人、特に陸軍にそういう人が多かった。明治38年製の歩兵銃による銃剣突撃で戦争に勝てるわけがない。一体全体、これはどのような原因・理由によるものなのか、興味深い。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/2a857f14ebc63e61eebca696ce844d9b
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/246.html#c12

[近代史5] 邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい 中川隆
13. 2020年7月25日 19:53:53 : e2YOtRWEoL : Nzh2WE5uMEFlWWc=[9]

 閑話休題 − iPS細胞と箸墓古墳ー
2013年02月24日

 この二つの項目は、理科系と文化系の代表として出したものである。京都大学の山中伸弥教授の研究成果を批判もしくは反論する人は世界中だれもいないであろう。理科系では当然のことである。ところが、文化系、例えば哲学、心理学、社会学、文化人類学などでは何の根拠もなく、証明さえ不可能な事象を、同じ京都大学教授などという権威ある肩書きでもって、あたかも証明された真実の如く主張する研究者があとを絶たない。もう何十年も前になるが、ある東大の女性教授が、日本人の国民性と日本の家の構造に因果関係があるとの本を出した。では古代匈奴帝国以来、二千年以上も天幕生活をしてきたモンゴル人やカザフ人の国民性はどうなるのか、一度、聞いてみたい。考古学や古代史の分野もそうである。

 ー箸墓古墳は未発掘ー

 ごく最近、箸墓古墳に宮内庁から立ち入り調査が許されたとのニュースを見た。これに参加した研究者のほとんどが、「邪馬台国・大和説」「箸墓古墳・卑弥呼の墓説」の人たちのようである。これほど馬鹿げた話はない。この人たちは、本当に「魏志倭人伝」を読んでいるのだろうか。ひょっとして全く読んでいないのではないかと疑いたくなる。「魏志倭人伝」にはちゃんと卑弥呼の墓についての記述がある。それには

 「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」とある。要約すると「卑弥呼が死んだとき大きな塚を作った。その直径は百歩ほどである」。「百余歩」と言えば、せいぜい、50メートルぐらいの長さである。箸墓古墳は全長280メートルもある巨大な前方後円墳である。箸墓・卑弥呼の墓説の人は、倭人伝のこの記事は信用できないとでも言うのだろうか。それなら、同様に「魏志倭人伝」そのもの自体すべて信用できないとの説も成り立つ。つまり、邪馬台国などという国はなかったし、卑弥呼もいなかった。あれはすべて「魏志」の作者・陳寿の創作、捏造だと主張することも可能である。「倭人伝」に書かれている卑弥呼の情報はワンセットで考えるべきであろう。「親魏倭王」は真実で「径百余歩」は虚偽であるなどと何を根拠に言えるのか。それなら逆に「径百余歩」は真実で「親魏倭王」は虚偽だとも言える。

「邪馬台国」「卑弥呼」を歴史的事実と認めるなら、卑弥呼の墓は50メートルぐらいなのであるから、箸墓古墳ではないとの基本原則に立って調査、研究すべきである。たしかに、箸墓古墳は日本の巨大古墳出現の謎を解く重要な古墳であることには間違いない。しかし、倭女王・卑弥呼とは何の関係もない。

 そこで、卑弥呼の宗女・台与(トヨ)の墓説を唱える人がいるが、卑弥呼の死後、男王をたてたが、また争乱が起き、台与(13歳)を立てて収まったとある。その間、さほど時間が立っているとは思えない。(卑弥呼の死は248年、台与は266年、晋に朝貢している。その間、わずか18年しか立っていない)当然、台与は卑弥呼とは同時代の人である。邪馬台国はその後、歴史から消えていることから考えても、突然、卑弥呼の5倍以上もの大きさの巨大古墳を築くほどの強大な国家を維持していたとはとても考えがたい。箸墓古墳は4世紀以後の大和政権下に築かれた古墳であろう。

 <追記>

この箸墓古墳、卑弥呼もしくは台与の墓説は日本人の性格、国民性を知るうえで非常に象徴的である。今もし、エジプトやアフガニスタンに常設の研究機関を持ち、発掘調査をやっている国立フランス考古学研究所のスタッフにこの話をしたとすると、彼らは当然、箸墓古墳が発掘され、その出土物の炭素14年代測定をやったり、その出土物の年代鑑定で論争していると思うであろう。いやそうではなく、古墳そのものが発掘すらされていないのだと答えると、おそらく絶句するであろう。日本人は超能力の透視術を持っているのかと、そのような論争じたい時間の無駄ではないかと・・。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/21b915db9103c45f3823a8e243365d76
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/246.html#c13

[近代史5] 天皇の姓は阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ) 中川隆
5. 2020年7月25日 20:00:58 : e2YOtRWEoL : Nzh2WE5uMEFlWWc=[10]

新発見の鉄剣銘文と稲荷山鉄剣銘文
2012年01月08日

 昨年(2011年)9月、元岡古墳(福岡市西区)で出土した鉄剣銘文の読みについて福岡市教育委員会から発表があった。それによると、暦年代が特定できる日本唯一の鉄剣銘文であるとのことであった。その年代は西暦570年、銘文は 「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果■」(■は「練」の可能性) の19文字。「庚寅の年の正月6日に、この刀を作った。12回練り鍛えた」と読めるとのこと。

 中国の古代暦によると、干支で年代と日付を表す方法があり、それにより、570年が明確になったとのことであった。問題はこの570年である。まさに、欽明天皇の時代である。
 

 ー稲荷山鉄剣銘文との関係ー
 すでに「稲荷山鉄剣銘文の読み」で述べたように、銘文 「辛亥年七月中記」 の 「辛亥」 を西暦471年の雄略天皇の時代に当てはめるのが学会の定説のようであるが、それでは、「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」 が十分説明できない。私の説、「寺」を欽明天皇の中国風の漢字一字表記と考えれば全体がスンナリ読める。つまり、「ワカタケル大王 寺が斯鬼(しき)の宮に在る時」となる。「獲加多支鹵(ワカタケル)」とは欽明天皇の本名ではなく、「若き勇者」との通称名にすぎない。「記紀」によれば、古代には「タラシヒコ」の名(通称名)を持つ天皇が何人かいるのがその証拠である。もともと、「記紀」には歴代天皇の本名など、まったくと言っていいほど書かれていない。中大兄皇子(天智天皇)や聖徳太子の長男、山背大兄皇子も、「中」「山背」は地名、「大兄」は長兄、もしくは年長者に対する尊称の意味にすぎない。つまり、通称である。江戸時代に、阿波守(阿波蜂須賀家)とか土佐守(土佐山内家)と呼ぶようなものである。

『日本書紀』によると、欽明天皇14年(553年)倭国は百済に暦博士の派遣を求めており、翌年来朝している。つまり、欽明天皇の時代、百済から仏教と共に、中国暦も伝来したと考えるのがもっとも自然である。従って、稲荷山鉄剣銘文の製作年代は還暦60年後の531年説がますます有力になったのではないかと思う。なにも欽明天皇14年(553年)にこだわらなくても、6世紀頃から、倭国と百済との交流は非常に頻繁になっているので、中国暦はこのころ日本に流入したと考えればよい。
 
 なお、百済は倭国より一歩先んじて、中国南朝「宋」(445〜509)の元嘉暦を使用していたらしい。この元岡古墳の鉄剣銘文は元嘉暦による国内最古の事例であると研究者の談話が新聞に出ていた。(日本経済新聞 2011・10・29)

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/cc65b17724442aa30ea0da7f0b2e279d
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/232.html#c5

   

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