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[近代史02] 命を賭して悪の帝国と闘ったサダム・フセイン (小沢先生もこれ位カッコ良ければなあ) 中川隆
95. 2020年7月21日 09:48:49 : NKWW1U9Yak : NU9jdXVOR0hvSFE=[1]

2020.07.21
支配者の操り人形にすぎないコリン・パウエルを善人視する愚

 ニューヨーク・タイムズ・マガジンのライター、​ロバート・ドレイパー​が書いたイラク戦争に関する著作『開戦へ』が7月28日に出版される。その本に関する記事を筆者自身がニューヨーク・タイムズ・マガジンに「コリン・パウエルはまだ答えを求めている」というタイトルで書いた。


 パウエルはジョージ・W・ブッシュが大統領に就任した2001年1月から05年1月まで国務長官を務め、その間、03年2月に国連の安全保障理事会でイラクが大量破壊兵器を保有していると主張している。その翌月にアメリカ軍はイギリス軍など従属国の軍隊を引き連れてイラクを先制攻撃、サダム・フセイン体制を倒した。それ以降、中東から北アフリカにかけての地域は破壊、殺戮、略奪が続いている。


 国連でパウエルがプレゼンテーションした9日後、UNMOVIC(国際連合監視検証査察委員会)のハンス・ブリックス委員長とIAEA(国際原子力機関)のモハメド・エルバラダイ事務局長が同じ場所に登場、調査は継続中で、大量破壊兵器の存在を示す証拠は見つかっていないと発言している。これを聞いたパウエルは激怒したというが、勿論、イラクに大量破壊兵器は存在しなかった。パウエルは間違っていたのだ。


 そのパウエルはイラクへの軍事侵攻に反対していたとドレイパーは主張しているが、ブッシュ政権が戦争を始めても辞任していないと指摘されている。退任したのは2年後だ。


 そもそもイラクでアメリカ政府が何をしようとしているかをパウエルは知っていたはずだと1991年から98年までUNSCOM(国連大量破壊兵器廃棄特別委員会)の主任査察官を務めた​スコット・リッター​は書いている。パウエルは1991年、UNSCOMを情報収集の道具として使うために米軍のエリート部隊員をCIAの特別行動部門へ編入することを止めさせたという。そこでリッターは1991年から96年までCIAの部隊と行動をともにすることになった。この事実をイラク側はつかんでいただろう。


 リッターによると、パウエルはCIAの特殊工作グループがイラクに存在し、サダム・フセインを殺害することをアメリカの大統領が認めていたことを知っていたという。


 1991年には国防次官だったネオコンのポール・ウォルフォウィッツはイラク、シリア、イランを殲滅すると語っている。これは統合参謀本部のスタッフを経て欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)最高司令官になるウェズリー・クラーク大将の証言。(​3月​、​10月​)


 1991年12月にはソ連が消滅、翌年の2月にはウォルフォウィッツを中心にして国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランが作成された。いわゆるウォルフォウィッツ・ドクトリンだ。2001年9月11日以降、アメリカの戦略はこれに基づいて決められてきた。1995年2月にジョセイフ・ナイ国防次官補が発表した「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」はこの戦略に日本を組み込むための指針だ。


 ウォルフォウィッツと同じようにネオコンの中心グループを形成していたリチャード・パールやダグラス・フェイスたちは1996年に「決別(A Clean Break: A New Strategy for Securing the Realm)」という文書を公表した。ベンヤミン・ネタニヤフに対する戦略の提言である。


 ネオコンがネタニヤフに対して提言したということは、シオニストという共通項はあるものの、ネオコンとネタニヤフは別の派閥に属していることを示している。ネオコンはロスチャイルドを象徴とする富豪グループと近い関係にあるが、ネタニヤフは「修正主義シオニズム」の祖であるウラジミル・ジャボチンスキーの系列。ベンヤミン・ネタニヤフの父、ベンシオンは1940年にアメリカへ渡り、ジャボチンスキーの秘書になった人物だ。


 その文書の中で、イスラエルはトルコやヨルダンと手を組み、シリアを包囲して弱体化、イラクのサダム・フセインを排除すべきだとネオコンは主張している。イラクに親イスラエル体制を樹立してトルコ、イラク、ヨルダンの親イスラエル国帯を形成、シリアとイランを分断し、最終的にイランの現体制を倒すべきだとしている。UNSCOMを巡るCIAの動きもネオコンの戦略と無縁ではないだろう。


 フセイン排除は1980年代からネオコンが主張していたことで、フセインをペルシャ湾岸産油国の防波堤だと認識していたジョージ・H・W・ブッシュやジェームズ・ベイカーたちと対立していた。ロナルド・レーガン大統領の時代に機密情報の暴露合戦が始まり、イラン・コントラ事件やイラクゲート事件が明るみに出ている。


 ところで、パウエルはアフリカ系軍人としては異例の出世を遂げた人物。その謎を解く鍵はベトナム戦争時代にあるとも言われている。彼は1968年に第23歩兵師団の将校として南ベトナムへ入っているが、2004年5月にCNNのラリー・キング・ライブに出演した際、その師団がソンミ村で住民を虐殺、後で自分も現場へ入ったと語っている。


 虐殺は1968年3月に南ベトナムのカンガイ省ソンミ村のミライ集落とミケ集落において引き起こされた。アメリカ軍によると、犠牲になった村民の数はミライだけで347名、ベトナム側の主張ではミライとミケを合わせて504名だされている。


 この虐殺は従軍記者や従軍カメラマンも知っていたのだが、報道していない。事件が広く知られるようになったのは、兵士の告発を知り、取材したシーモア・ハーシュの書いた記事をAPが配信してからだ。


 記者やカメラマンはこの虐殺を報道しなかっただけではない。似たようなことが繰り返されていたのだが、全て隠したのである。本ブログでは繰り返し書いてきたように、ソンミ村での虐殺はCIAと軍の特殊部隊が行っていた住民皆殺し作戦、フェニックス・プログラムの一環だったのだ。


 このプログラムを現地で指揮した経験のあるウィリアム・コルビーはCIA長官時代に議会でこれについて証言している。彼自身が指揮していた「1968年8月から1971年5月までの間にフェニックス・プログラムで2万0587名のベトナム人が殺され、そのほかに2万8978名が投獄された」と明らかにしている。解放戦線の支持者と見なされて殺された住民は約6万人に達するという推測もある。


 こうした作戦には兵士からの告発があったが、ジャーナリストの故ロバート・パリーらによると、パウエルはこうした兵士の告発を握りつぶし、上官が聞きくない話は削除する仕事をしていたという。その仕事が評価され、出世したとも言われている。パウエルを「良いアメリカ人」だと言うわけにはいかない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202007210000/

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/298.html#c95

[近代史3] 『ヒトラー思想』とは何か 中川隆
12. 2020年7月21日 10:07:08 : NKWW1U9Yak : NU9jdXVOR0hvSFE=[3]
T4作戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/T4%E4%BD%9C%E6%88%A6

T4作戦(テーフィアさくせん、独: Aktion T4)は、ナチス・ドイツで優生学思想に基づいて行われた安楽死政策である。

1939年10月から開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は安楽死管理局の所在地、ベルリンの「ティーアガルテン通り4番地[# 1]」(現在同地にはベルリン・フィルハーモニーがある)を短縮したもので[1]、第二次世界大戦後に付けられた組織の名称である[2]。

一次資料にはE-Aktion(エー・アクツィオーン)〔E作戦〕、もしくはEu-Aktion(オイ・アクツィオン) の名称が残されている。この作戦の期間中の犠牲者は、公式な資料に残されているだけでも7万273人に達し[3]、その後も継続された安楽死政策により、後述の「野生化した安楽死」や14f13作戦によるものも含めると15万人から20万人以上が犠牲になったと見積もられている[4]。

社会ダーウィニズムに基づく優生学思想は、ドイツでは第一次世界大戦以前からすでに広く認知されており、1910年代には「劣等分子」の断種や、治癒不能の病人を要請に応じて殺すという「安楽死」の概念が生まれていた[5]。1920年には、法学博士で元ライプチヒ大学学長のカール・ビンディング(ドイツ語版)と医学博士・フライブルク大学教授で精神科医のアルフレート・ホッヘ(ドイツ語版)により、重度精神障害者などの安楽死を提唱した「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」が出版されている。1930年代になると優生学に基づく断種が議論されるようになり、1932年7月30日にはプロイセン州で「劣等分子」の断種にかかわる法律が提出されている[6]。

ナチ党の権力掌握後、「民族の血を純粋に保つ」というナチズム思想に基づいて、遺伝病や精神病者などの「民族の血を劣化させる」「劣等分子」を排除するべきであるというプロパガンダが開始された。このプロパガンダでは遺伝病患者などにかかる国庫・地方自治体の負担が強調され、これを通じてナチス政権は「断種」や「安楽死」の正当性を強調していった[3]。1933年7月14日には「遺伝病根絶法(ドイツ語版)[# 2]」が制定され、断種が法制化された[7]。

1938年から1939年にかけて、重度の身体障害と知的障害を持つクナウアーという少年の父親が、少年の「慈悲殺」を総統アドルフ・ヒトラーに訴えた。この訴えを審議したナチ党指導者官房長のフィリップ・ボウラーと親衛隊軍医のカール・ブラントは、その後の安楽死政策の中心人物となった[8]。この訴えは後に「私は告発する(ドイツ語版)」という安楽死政策の正当化を訴えるプロパガンダ映画のもととなった[8]。


カール・ビンディング

アルフレート・ホッヘ

フィリップ・ボウラー


カール・ブラント

「T4」による安楽死政策

1939年に明文化されたT4作戦の命令書。“党指導者ボウラー氏と医師ブラント博士に、病気の状態が深刻で治癒できない患者を安楽死させる権限を与える。―アドルフ・ヒトラー”
1939年9月1日、ヒトラーは日付の記されていない秘密命令書を発令し、指定の医師が「不治の患者」に対して「慈悲死[# 3]」を下す権限を委任する責任をもつ、「計画の全権委任者[# 4]」としての地位をボウラーとブラントに与えた[9][8]。ヒトラーは10月末日にこの命令書に署名している[10]。この措置は明文化された法律によるものではなく、根拠法をもたなかった[11]。法務省は1939年8月11日には死の幇助と「生きるに値しない命の根絶」を関連づけた法律を準備し、総統官房も法律案を準備していたが[12]、いずれもヒトラーによって拒否された[13]。

こうして安楽死政策は立法化も正式な発表も行われないまま、病院や安楽死施設で実行され始めた。立法を司る法務省もこの事態を認識しておらず、1940年7月9日に匿名の政府高官からの投書があって初めて知ることとなった[# 5]。ブランデンブルクの区裁判所の後見裁判所裁判官ロタール・クライシヒ(ドイツ語版)も法律に基づかない殺害が行われていることを把握し、法務省に事態の調査を求めていた[14]。法務大臣フランツ・ギュルトナーは調査を命じたが、やがて殺害がヒトラーの意志であることを知ることになった[14]。ギュルトナーは総統官房長ハンス・ハインリヒ・ラマースと会談し、安楽死作戦を中止するか、法制化を行うかという要求を行った[14]。ラマースはヒトラーの意志が法制化に否定的であることを伝えたため、結局法務省は何の措置もとることができなかった[15]。クライシヒはあきらめずに調査を行い、安楽死施設に殺害の中止を命令した。クライシヒは法制化を目指す民族法廷の裁判長ローラント・フライスラーの支持を受けたことで勇気づけられ、ボウラーを殺人容疑で検察当局に告発した[15]。しかしギュルトナーはヒトラーの意志を優先させるべきであると考え、クライシヒの行動はすべて無効とされ、彼は裁判官を罷免された[15]。結局最後まで安楽死制度は法制化されなかった[7]。

T4組織はいくつかの組織に分かれており、財政部門、移送部門(秘匿名「公益患者輸送会社」、ドイツ語略称ゲクラート)、そして実施部門の三つに分かれていた[1]。中枢組織は「労働共同体」というカムフラージュ名称を持っており[16]、他の組織や人名にもあらゆるカムフラージュが行われた[2]。

処分されるべきと考えられた対象には、精神病者や遺伝病者のほか、労働能力の欠如、夜尿症、脱走や反抗、不潔、同性愛者なども含まれていた[17]。T4組織の鑑定人、精神科医のヴェルナー・ハイデ(ドイツ語版)とパウル・ニッチェ(ドイツ語版)らは、各地の精神医療施設等から提供されたリストに基づいて「処分者」を決定した[18][1]。「処分者」は、郵政省から譲られた灰色に再塗装されたバスに乗せられ、「処分場」と呼ばれる施設に運搬された。

専門の安楽死施設は、ハルトハイム安楽死施設(ドイツ語版)、ブランデンブルク安楽死施設(ドイツ語版)、ベレンブルク安楽死施設(ドイツ語版) 、ピルナ=ゾンネンシュタイン安楽死施設(ドイツ語版) 、ハダマー安楽死施設(ドイツ語版)の6つがあった。このうちハルトハイムの施設は1944年末まで稼動し、最大の犠牲者を出した[7]。ハダマーの施設は街中にあり、住民はそこで何が行われているかをうすうす知っていた[16]。


安楽死施設のあったハルトハイム城

ハダマー安楽死施設の「シャワー室」(ガス室)

バスで移送される障害者

移送された者はガス室に入れられて処分された。建物外に固定された自動車の排気ガスをホースで引き、その一酸化炭素中毒効果が利用された。障害者たちを運ぶ「灰色のバス」の車内は快適かつ穏やかな雰囲気が心がけられており、温かいコーヒーやサンドイッチがふるまわれた。ただし、これは殺害方法の一部であり、フェノバルビタール注射による殺害[# 6]、飢餓による殺害も含まれている[17]。また、作戦の「中止」後はガスよりも毒物や飢餓が殺害方法の中心となった。

安楽死政策への反発

フォン・ガーレン司教
この計画についてはキリスト教会の一部、特にローマ教皇庁から強い反対があった[19]。またミュンスターの司教クレメンス・アウグスト・グラーフ・フォン・ガーレンは1941年8月3日の説教で安楽死政策を公然と批判し[20]、連合国にも知られることとなった。ガーレン司教は刑法190条による告発も行っている[21]。一部のナチ党幹部はガーレンを死刑にするよう求めたが、ミュンスター市民への影響を考慮したヨーゼフ・ゲッベルスは慎重論を主張し、ヒトラーもそれに応じた[22]。しかし連合国軍が宣伝ビラでガーレンの説教文をばらいたことで一般にも広く知られるようになり、世論も動揺した。ローマ教会の最高司教会総会は安楽死政策が認められないという決定を行い、教皇ピウス12世がその決定を広く公布するよう命じた[23]。ピウス12世はこの後もたびたび安楽死を批判する発言を行った。

野生化した安楽死──「中止」後の安楽死政策
T4作戦への批判が高まったことから、1941年8月24日[24]にヒトラーはボウラーに対して安楽死の中止を口頭で命令した[23]。この中止命令により、安楽死政策そのものは公式的に中止されたと公には受け取られたものの[24]、実際にはハダマー安楽死施設のガス殺が中止されたのみに過ぎなかった。それ以外の精神病患者の収容施設では医師・看護師による患者の安楽死が国家の統制を比較的受けない形で続行されるばかりか増加し、「野生化した安楽死」と呼ばれた[25]。また「作戦中止」後にT4作戦の職員はいわゆる絶滅収容所に配置され、かれらの伝えたガス殺・死体焼却・施設のカモフラージュに関する技術がホロコーストに利用された[26]。

1941年10月23日、内務大臣ヴィルヘルム・フリックは医療・養護施設の受託者として保険局参事官のヘルベルト・リンデン(ドイツ語版)を任命し、安楽死組織が国家機関として位置づけられ始めた。リンデンの組織は各施設の収容者を登録し、T4の医師で構成された鑑定人を医療施設に巡回させた。1943年6月末からは傷病兵や空襲負傷者のための医療需要が増大し、そのための口減らしとして「治療しても仕方がない精神病患者」を殺害するブラント作戦(ドイツ語版)が始まり、医療施設から患者が大規模に移送された[27][28]。

また、「反社会的分子」の「安楽死」も活発となり、労働を嫌悪する労働忌避者、ジプシー(シンティ・ロマ人)、精神病質者などがその対象となった[29]。1942年9月18日にはオットー・ゲオルク・ティーラック法相がヒムラーと合意し、受刑中の「反社会的分子」は、「労働による毀滅」のため、親衛隊に引き渡されることが合意された。これにより、8年以上の刑を受けたドイツ人やチェコ人、予防拘禁者、3年以上の刑を受けた劣等人種とされた人々(ジプシー、ロシア人、ウクライナ人、ポーランド人)は法務省の判断で強制収容所に送られた。ティーラックは1943年4月に、「犯罪を犯した精神病患者」も強制収容所に送るよう命令した。この対象には登校拒否児童、てんかん患者、脱走兵、労働忌避者が含まれている[30]。これらの囚人は労働に耐えられると判断されたうちは労務を強いられていたが、働けなくなった場合には安楽死が実行された。法務省への報告によると、1942年11月に強制収容所に送られた1万3000人の反社会的分子は、1943年4月の段階でほぼ半数がすでに死亡していた[30]。

これらの政策の犠牲者数は1942年には一時的に減少したものの、1943年、1944年は1940年とほとんど同水準であった[31]。1943年5月には労働力配置総監フリッツ・ザウケルが、病気で働けなくなった東方労働者の帰郷を禁じ、国家保安本部の特別収容所に移送するよう命令した。これらの移送者は、病気回復が見込めない、または収容ベッドの余裕がない場合には「安楽死」処分が行われた[32]。

乳幼児の安楽死
詳細は「ナチス・ドイツにおける乳幼児の安楽死(ドイツ語版)」を参照
障害のある子どもたちは、普通の病院と違う特別な病院に入れられた。子どもを対象とする安楽死は1943年4月から本格化した[33]。その規模は次第に拡大し、やがては青少年も安楽死の対象となった[2]。

14f13作戦
詳細は「14f13作戦(ドイツ語版)」を参照

強制収容所においては、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがボウラーと協議し、強制収容所の「無用の長物[# 7]」を排除する「14f13作戦(ドイツ語版)」が行われた。1941年から一年間を中心として行われたこの計画は、T4組織の拡大を示すものであった[34]。作戦の名称は親衛隊の文書規則にちなんでおり、14は強制収容所総監、fは死亡事案、13はT4計画の設備による殺害を意味する。「無用の長物」に該当したのは「治癒不能な病人、身体障害者(極度の近視を含む)」、「労働能力の欠如」、「反社会的分子」などが挙げられ、特に反社会的な「精神病質」をもつとされた「反社会的分子」が中心であった[34]。1944年以降には、囚人の増大によってふたたびT4組織による措置が望まれるようになり、ソ連領から徴用された「東方労働者」、ソ連軍捕虜、ハンガリーユダヤ人、エホバの証人の信者などが対象となった。14f13作戦による死者は1万人とも2万人とも言われる[35]。

犠牲者数
これらの政策により、精神病患者などがおよそ8万から10万人、ユダヤ人が1000人、乳幼児が5000人から8000人、労働不能になったロシア系などを含む強制収容者の1万人から2万人が犠牲となった。ただし、現存する資料に基づくこの数字は、実態よりかなり少ないと見られており、犠牲者の実数はこの二倍に上るのではないかとも見られている[36]。占領地にあった精神病院でも患者の殺害が行われたが、彼らの殺害にはT4組織は直接関与はしておらず、殺害方法も射殺や餓死などの手段が主にとられた[37]。

戦後
終戦後、関係者はニュルンベルク継続裁判の医者裁判などの法廷にかけられた。主要な関係者のうち、ブラントとニッチェは医者裁判によって有罪が確定し、処刑された。リンデンは1945年4月、ボウラーは5月に自殺した。ハイデは逃亡したものの1959年に自首し、自らの裁判が始まる1963年に自殺した。

2010年、ドイツの精神医学会は、障害者の殺害に加担した事を正式に認め、謝罪した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/T4%E4%BD%9C%E6%88%A6
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/347.html#c12

[近代史4] アドルフ・ヒトラーの世界 中川隆
12. 中川隆[-12075] koaQ7Jey 2020年7月21日 10:07:37 : NKWW1U9Yak : NU9jdXVOR0hvSFE=[4]
T4作戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/T4%E4%BD%9C%E6%88%A6

T4作戦(テーフィアさくせん、独: Aktion T4)は、ナチス・ドイツで優生学思想に基づいて行われた安楽死政策である。

1939年10月から開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は安楽死管理局の所在地、ベルリンの「ティーアガルテン通り4番地[# 1]」(現在同地にはベルリン・フィルハーモニーがある)を短縮したもので[1]、第二次世界大戦後に付けられた組織の名称である[2]。

一次資料にはE-Aktion(エー・アクツィオーン)〔E作戦〕、もしくはEu-Aktion(オイ・アクツィオン) の名称が残されている。この作戦の期間中の犠牲者は、公式な資料に残されているだけでも7万273人に達し[3]、その後も継続された安楽死政策により、後述の「野生化した安楽死」や14f13作戦によるものも含めると15万人から20万人以上が犠牲になったと見積もられている[4]。

社会ダーウィニズムに基づく優生学思想は、ドイツでは第一次世界大戦以前からすでに広く認知されており、1910年代には「劣等分子」の断種や、治癒不能の病人を要請に応じて殺すという「安楽死」の概念が生まれていた[5]。1920年には、法学博士で元ライプチヒ大学学長のカール・ビンディング(ドイツ語版)と医学博士・フライブルク大学教授で精神科医のアルフレート・ホッヘ(ドイツ語版)により、重度精神障害者などの安楽死を提唱した「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」が出版されている。1930年代になると優生学に基づく断種が議論されるようになり、1932年7月30日にはプロイセン州で「劣等分子」の断種にかかわる法律が提出されている[6]。

ナチ党の権力掌握後、「民族の血を純粋に保つ」というナチズム思想に基づいて、遺伝病や精神病者などの「民族の血を劣化させる」「劣等分子」を排除するべきであるというプロパガンダが開始された。このプロパガンダでは遺伝病患者などにかかる国庫・地方自治体の負担が強調され、これを通じてナチス政権は「断種」や「安楽死」の正当性を強調していった[3]。1933年7月14日には「遺伝病根絶法(ドイツ語版)[# 2]」が制定され、断種が法制化された[7]。

1938年から1939年にかけて、重度の身体障害と知的障害を持つクナウアーという少年の父親が、少年の「慈悲殺」を総統アドルフ・ヒトラーに訴えた。この訴えを審議したナチ党指導者官房長のフィリップ・ボウラーと親衛隊軍医のカール・ブラントは、その後の安楽死政策の中心人物となった[8]。この訴えは後に「私は告発する(ドイツ語版)」という安楽死政策の正当化を訴えるプロパガンダ映画のもととなった[8]。


カール・ビンディング

アルフレート・ホッヘ

フィリップ・ボウラー


カール・ブラント

「T4」による安楽死政策

1939年に明文化されたT4作戦の命令書。“党指導者ボウラー氏と医師ブラント博士に、病気の状態が深刻で治癒できない患者を安楽死させる権限を与える。―アドルフ・ヒトラー”
1939年9月1日、ヒトラーは日付の記されていない秘密命令書を発令し、指定の医師が「不治の患者」に対して「慈悲死[# 3]」を下す権限を委任する責任をもつ、「計画の全権委任者[# 4]」としての地位をボウラーとブラントに与えた[9][8]。ヒトラーは10月末日にこの命令書に署名している[10]。この措置は明文化された法律によるものではなく、根拠法をもたなかった[11]。法務省は1939年8月11日には死の幇助と「生きるに値しない命の根絶」を関連づけた法律を準備し、総統官房も法律案を準備していたが[12]、いずれもヒトラーによって拒否された[13]。

こうして安楽死政策は立法化も正式な発表も行われないまま、病院や安楽死施設で実行され始めた。立法を司る法務省もこの事態を認識しておらず、1940年7月9日に匿名の政府高官からの投書があって初めて知ることとなった[# 5]。ブランデンブルクの区裁判所の後見裁判所裁判官ロタール・クライシヒ(ドイツ語版)も法律に基づかない殺害が行われていることを把握し、法務省に事態の調査を求めていた[14]。法務大臣フランツ・ギュルトナーは調査を命じたが、やがて殺害がヒトラーの意志であることを知ることになった[14]。ギュルトナーは総統官房長ハンス・ハインリヒ・ラマースと会談し、安楽死作戦を中止するか、法制化を行うかという要求を行った[14]。ラマースはヒトラーの意志が法制化に否定的であることを伝えたため、結局法務省は何の措置もとることができなかった[15]。クライシヒはあきらめずに調査を行い、安楽死施設に殺害の中止を命令した。クライシヒは法制化を目指す民族法廷の裁判長ローラント・フライスラーの支持を受けたことで勇気づけられ、ボウラーを殺人容疑で検察当局に告発した[15]。しかしギュルトナーはヒトラーの意志を優先させるべきであると考え、クライシヒの行動はすべて無効とされ、彼は裁判官を罷免された[15]。結局最後まで安楽死制度は法制化されなかった[7]。

T4組織はいくつかの組織に分かれており、財政部門、移送部門(秘匿名「公益患者輸送会社」、ドイツ語略称ゲクラート)、そして実施部門の三つに分かれていた[1]。中枢組織は「労働共同体」というカムフラージュ名称を持っており[16]、他の組織や人名にもあらゆるカムフラージュが行われた[2]。

処分されるべきと考えられた対象には、精神病者や遺伝病者のほか、労働能力の欠如、夜尿症、脱走や反抗、不潔、同性愛者なども含まれていた[17]。T4組織の鑑定人、精神科医のヴェルナー・ハイデ(ドイツ語版)とパウル・ニッチェ(ドイツ語版)らは、各地の精神医療施設等から提供されたリストに基づいて「処分者」を決定した[18][1]。「処分者」は、郵政省から譲られた灰色に再塗装されたバスに乗せられ、「処分場」と呼ばれる施設に運搬された。

専門の安楽死施設は、ハルトハイム安楽死施設(ドイツ語版)、ブランデンブルク安楽死施設(ドイツ語版)、ベレンブルク安楽死施設(ドイツ語版) 、ピルナ=ゾンネンシュタイン安楽死施設(ドイツ語版) 、ハダマー安楽死施設(ドイツ語版)の6つがあった。このうちハルトハイムの施設は1944年末まで稼動し、最大の犠牲者を出した[7]。ハダマーの施設は街中にあり、住民はそこで何が行われているかをうすうす知っていた[16]。


安楽死施設のあったハルトハイム城

ハダマー安楽死施設の「シャワー室」(ガス室)

バスで移送される障害者

移送された者はガス室に入れられて処分された。建物外に固定された自動車の排気ガスをホースで引き、その一酸化炭素中毒効果が利用された。障害者たちを運ぶ「灰色のバス」の車内は快適かつ穏やかな雰囲気が心がけられており、温かいコーヒーやサンドイッチがふるまわれた。ただし、これは殺害方法の一部であり、フェノバルビタール注射による殺害[# 6]、飢餓による殺害も含まれている[17]。また、作戦の「中止」後はガスよりも毒物や飢餓が殺害方法の中心となった。

安楽死政策への反発

フォン・ガーレン司教
この計画についてはキリスト教会の一部、特にローマ教皇庁から強い反対があった[19]。またミュンスターの司教クレメンス・アウグスト・グラーフ・フォン・ガーレンは1941年8月3日の説教で安楽死政策を公然と批判し[20]、連合国にも知られることとなった。ガーレン司教は刑法190条による告発も行っている[21]。一部のナチ党幹部はガーレンを死刑にするよう求めたが、ミュンスター市民への影響を考慮したヨーゼフ・ゲッベルスは慎重論を主張し、ヒトラーもそれに応じた[22]。しかし連合国軍が宣伝ビラでガーレンの説教文をばらいたことで一般にも広く知られるようになり、世論も動揺した。ローマ教会の最高司教会総会は安楽死政策が認められないという決定を行い、教皇ピウス12世がその決定を広く公布するよう命じた[23]。ピウス12世はこの後もたびたび安楽死を批判する発言を行った。

野生化した安楽死──「中止」後の安楽死政策
T4作戦への批判が高まったことから、1941年8月24日[24]にヒトラーはボウラーに対して安楽死の中止を口頭で命令した[23]。この中止命令により、安楽死政策そのものは公式的に中止されたと公には受け取られたものの[24]、実際にはハダマー安楽死施設のガス殺が中止されたのみに過ぎなかった。それ以外の精神病患者の収容施設では医師・看護師による患者の安楽死が国家の統制を比較的受けない形で続行されるばかりか増加し、「野生化した安楽死」と呼ばれた[25]。また「作戦中止」後にT4作戦の職員はいわゆる絶滅収容所に配置され、かれらの伝えたガス殺・死体焼却・施設のカモフラージュに関する技術がホロコーストに利用された[26]。

1941年10月23日、内務大臣ヴィルヘルム・フリックは医療・養護施設の受託者として保険局参事官のヘルベルト・リンデン(ドイツ語版)を任命し、安楽死組織が国家機関として位置づけられ始めた。リンデンの組織は各施設の収容者を登録し、T4の医師で構成された鑑定人を医療施設に巡回させた。1943年6月末からは傷病兵や空襲負傷者のための医療需要が増大し、そのための口減らしとして「治療しても仕方がない精神病患者」を殺害するブラント作戦(ドイツ語版)が始まり、医療施設から患者が大規模に移送された[27][28]。

また、「反社会的分子」の「安楽死」も活発となり、労働を嫌悪する労働忌避者、ジプシー(シンティ・ロマ人)、精神病質者などがその対象となった[29]。1942年9月18日にはオットー・ゲオルク・ティーラック法相がヒムラーと合意し、受刑中の「反社会的分子」は、「労働による毀滅」のため、親衛隊に引き渡されることが合意された。これにより、8年以上の刑を受けたドイツ人やチェコ人、予防拘禁者、3年以上の刑を受けた劣等人種とされた人々(ジプシー、ロシア人、ウクライナ人、ポーランド人)は法務省の判断で強制収容所に送られた。ティーラックは1943年4月に、「犯罪を犯した精神病患者」も強制収容所に送るよう命令した。この対象には登校拒否児童、てんかん患者、脱走兵、労働忌避者が含まれている[30]。これらの囚人は労働に耐えられると判断されたうちは労務を強いられていたが、働けなくなった場合には安楽死が実行された。法務省への報告によると、1942年11月に強制収容所に送られた1万3000人の反社会的分子は、1943年4月の段階でほぼ半数がすでに死亡していた[30]。

これらの政策の犠牲者数は1942年には一時的に減少したものの、1943年、1944年は1940年とほとんど同水準であった[31]。1943年5月には労働力配置総監フリッツ・ザウケルが、病気で働けなくなった東方労働者の帰郷を禁じ、国家保安本部の特別収容所に移送するよう命令した。これらの移送者は、病気回復が見込めない、または収容ベッドの余裕がない場合には「安楽死」処分が行われた[32]。

乳幼児の安楽死
詳細は「ナチス・ドイツにおける乳幼児の安楽死(ドイツ語版)」を参照
障害のある子どもたちは、普通の病院と違う特別な病院に入れられた。子どもを対象とする安楽死は1943年4月から本格化した[33]。その規模は次第に拡大し、やがては青少年も安楽死の対象となった[2]。

14f13作戦
詳細は「14f13作戦(ドイツ語版)」を参照

強制収容所においては、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがボウラーと協議し、強制収容所の「無用の長物[# 7]」を排除する「14f13作戦(ドイツ語版)」が行われた。1941年から一年間を中心として行われたこの計画は、T4組織の拡大を示すものであった[34]。作戦の名称は親衛隊の文書規則にちなんでおり、14は強制収容所総監、fは死亡事案、13はT4計画の設備による殺害を意味する。「無用の長物」に該当したのは「治癒不能な病人、身体障害者(極度の近視を含む)」、「労働能力の欠如」、「反社会的分子」などが挙げられ、特に反社会的な「精神病質」をもつとされた「反社会的分子」が中心であった[34]。1944年以降には、囚人の増大によってふたたびT4組織による措置が望まれるようになり、ソ連領から徴用された「東方労働者」、ソ連軍捕虜、ハンガリーユダヤ人、エホバの証人の信者などが対象となった。14f13作戦による死者は1万人とも2万人とも言われる[35]。

犠牲者数
これらの政策により、精神病患者などがおよそ8万から10万人、ユダヤ人が1000人、乳幼児が5000人から8000人、労働不能になったロシア系などを含む強制収容者の1万人から2万人が犠牲となった。ただし、現存する資料に基づくこの数字は、実態よりかなり少ないと見られており、犠牲者の実数はこの二倍に上るのではないかとも見られている[36]。占領地にあった精神病院でも患者の殺害が行われたが、彼らの殺害にはT4組織は直接関与はしておらず、殺害方法も射殺や餓死などの手段が主にとられた[37]。

戦後
終戦後、関係者はニュルンベルク継続裁判の医者裁判などの法廷にかけられた。主要な関係者のうち、ブラントとニッチェは医者裁判によって有罪が確定し、処刑された。リンデンは1945年4月、ボウラーは5月に自殺した。ハイデは逃亡したものの1959年に自首し、自らの裁判が始まる1963年に自殺した。

2010年、ドイツの精神医学会は、障害者の殺害に加担した事を正式に認め、謝罪した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/T4%E4%BD%9C%E6%88%A6
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/374.html#c12

[近代史4] 新型コロナウイルス肺炎は「間質性肺炎」で致死率100% ? 中川隆
69. 2020年7月21日 10:49:18 : NKWW1U9Yak : NU9jdXVOR0hvSFE=[5]
528名無しの笛の踊り2020/07/20(月) 13:19:54.10ID:hz+UjuDl

新型コロナウィルスは免疫を破壊し血管を破壊するウイルス
エイズとエボラ出血熱とサーズの遺伝子を人工的に組み込んだ生物兵器

感染した人の症状と経過 若い人でも
・脳に重大な損傷を受ける
・免疫細胞を破壊される(エイズと同じ)
・倦怠感や風邪の症状が一生続き、元気を失う
・無症状でも10年以内に100人中80人死ぬ
・一生、味や香りを感じなくなる
・100人中87人後遺症が残る
・無症状でも他人にうつす
・100人中15人が死に、100人中50人は無症状
・血管をズタズタに壊し最後は血管が破れて死ぬ(エボラ出血熱と同じ)
・息、鼻水、汗、糞、尿からウィルスを放出、感染させる
・血管内に入り全身でウィルスが増殖する

新型コロナウィルスの特徴
・致死率はインフルエンザの110倍
・インフルエンザ並みの感染力
・1年中感染し、物の表面上でも2週間生存する
・動物にも感染する
・紫外線に弱く、エタノール、アルカリ、オゾンで殺菌出来る

感染を予防する行動について
・外に出ない(空気感染、飛沫感染、接触感染防止)
・手洗い、手の消毒(接触感染防止)
・目を触らない、顔を舐めない(接触感染防止)
・体調が悪い場合は外に出ない(空気感染、飛沫感染、接触感染防止)
・服を洗濯(接触感染防止) ・シャワー(接触感染防止)
・外出先でトイレを使わない(粉塵感染防止)
・3密 集まらない、近寄らない、密閉しない
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/741.html#c69

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
335. 2020年7月21日 12:18:14 : NKWW1U9Yak : NU9jdXVOR0hvSFE=[6]

2020年07月21日
コロナ副業でFXやデイトレ増加、99%は負ける


借金、ハイレバ、短期は負ける3要素が揃っている


収入源で副業に投資?

ニュースによると2020年はコロナで収入が大幅に減り、副業を始めた人が多い。

副業の中身はバイトなどは募集していないので、ネットでできるものが多いという。

ブログでアフィリエイトとかユーチューバーとかネットオークション転売などが定番となっている。


副業として投資を始める人が居て、特にFX(外国為替証拠金取引)の人気が高い。

FXが選ばれる理由は始めるハードルが低いからで、簡単な審査で口座を開設し、銘柄を選んで上か下かしかない。

世の中簡単に始められるものほど儲かりにくいようにできていて、その筆頭はパチンコでしょう。


パチンコや競馬や宝くじと株式投資やFXや投信の違いは、極論すれば手数料だけだと言える。

もし競馬やパチンコの手数料(控除率)が1%以下だったら、それらで生活したり資産を増やす事が可能でしょう。

現実には公営ゲームの控除率は30%前後なので絶対に勝てないし、儲かる事もありません。

借金でハイレバ短期は99%負ける

それに比べたら株式や投信やFXの手数料率は1%以下から3%程度なので、誰でも簡単に勝てるように思えます。

現実には投資で勝つのは3割以下、継続して勝つ人は1割以下、生涯トータルで勝つ人は1%と言われています。

これは業者がボッタクっているからではなく勝者総取りだからで、1億円勝つ人が居たら100万円負けた人が100人います。


Wバフェットなど1兆円以上勝った人が世界には何人もいるが、1人が1兆円勝つと10万人が1000万円負けた計算になります。

バフェット1人のせいで世界で100万人以上が破産したはずで、残念ながら多くの投資家は負ける側になります。

投資は余剰資金でやるのが推奨されていますが、コロナで副業に投資を始めるのは、お金が不足しているので余剰の筈がありません。


実際にはカード会社から借金してハイレバ投資を始める人が多いが、最も負けやすい投資法です。

『借金で投資すると負ける』と言われますが、その理由は返済期限があるので短期で資金を倍にする必要があるからです。

住宅ローンやカードローンを返すための投資も同じで、ハイレバ・ハイリスク投資に走ります。

資金を3%程度増やしても金利以下なので「最低でも3か月で2倍」などの目標を立てるが、実現するにはハイレバのハイリスク投資しかない。


投資はハイレバほど負けやすく、短期投資ほど負けやすいので、借金でハイレバ短期はまず99%負けると断言できます。
http://www.thutmosev.com/archives/83478466.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c335

[近代史02] 知らぬが仏 _ FX は『ネットパチンコ』 _ 金はすべて胴元に取られる 中川隆
31. 中川隆[-12074] koaQ7Jey 2020年7月21日 12:19:05 : NKWW1U9Yak : NU9jdXVOR0hvSFE=[7]

2020年07月21日
コロナ副業でFXやデイトレ増加、99%は負ける


借金、ハイレバ、短期は負ける3要素が揃っている


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http://www.thutmosev.com/archives/83478466.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/892.html#c31

[近代史02] FX ・ 先物取引 ・ 空売り は『ネットパチンコ』、 絶対に手を出してはいけない 中川隆
15. 中川隆[-12073] koaQ7Jey 2020年7月21日 12:19:35 : NKWW1U9Yak : NU9jdXVOR0hvSFE=[8]

2020年07月21日
コロナ副業でFXやデイトレ増加、99%は負ける


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実際にはカード会社から借金してハイレバ投資を始める人が多いが、最も負けやすい投資法です。

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投資はハイレバほど負けやすく、短期投資ほど負けやすいので、借金でハイレバ短期はまず99%負けると断言できます。
http://www.thutmosev.com/archives/83478466.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/894.html#c15

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 豊川悦司・芦田愛菜 ビューティフルレイン(フジテレビ 2012) 中川隆
8. 2020年7月21日 15:37:03 : NKWW1U9Yak : NU9jdXVOR0hvSFE=[9]
ビューティフルレイン 第10話「父ちゃん、美雨の事忘れちゃうの?」



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/991.html#c8
[近代史3] マルクスがイギリスで共産主義を考えた理由 中川隆
5. 2020年7月21日 16:17:06 : NKWW1U9Yak : NU9jdXVOR0hvSFE=[10]
「コモンの再生」まえがき
2020-07-20
http://blog.tatsuru.com/2020/07/20_1520.html

 みなさん、こんにちは。内田樹です。

 今回は『GQ JAPAN』に連載中のエッセイを単行本化しました。
 この連載は、毎月いろいろなテーマについて担当編集者の今尾直樹さんからご質問を頂いて、それに僕が答えるという結構のものです。もうずいぶん長く続いています。前に一度、2016年に、自由国民社から『内田樹の生存戦略』というタイトルでまとめて単行本にしてもらいました。今回はそれ以後に寄稿したものを文藝春秋から出してもらうことになりました。

 ご存じの方はご存じでしょうが、『GQ』って、すごくお洒落な雑誌なんです。なにしろ『VOGUE』の姉妹誌なんですからね。広告頁の時計とか服とか鞄とか車とかのブランドは、僕のような野暮な人間は生まれ変わってもご縁がないだろうと思われるものばかりです。でも、なぜか、その鈴木正文編集長は僕の反時代的な書きものが気に入ってくださって、もうずいぶん長いこと『GQ』でコラムを書き続けています。

 コラムはかなり変わった作り方で、担当の今尾さんと鈴木編集長が神戸のわが家までいらしてくださって、お茶飲みながらおしゃべりをするのです。そして、今尾さんが用意してきたいくつか質問にその場で答える(素材が足りないときは、僕に会いに来る前に周りの人に「これからウチダさんに会うんだけど、なんか聞きたいことない? なんでもいいよ〜」と言って集めてきたんじゃないかと思います。だからけっこう個人的な質問が多いです)。

 その質問に僕と鈴木編集長が二人で答える。
 そうなんです。二人で答えるんです。

 だいたいいつも鈴木編集長が質問を聞いて、快刀乱麻のばっさり回答をする。それを聞いた僕が面白がって、負けじとさらに暴走的回答をする・・・というやり方で質問とぜんぜん関係ない方向に話が逸脱してしまいます。それを全部録音しておいて、今尾さんが鈴木さんの発言部分を抜いて、僕がした話だけ残して文字起こしする。それを僕が原形をとどめぬまでにリタッチして出来上がり、というプロセスです。

 鈴木編集長の話にインスパイアされてその場で思いついて話したことが多いので、こうやってゲラになったものを読み返してみると、どうして「こんなこと」を言ったのか、よくわからないことも書かれていますが、「僕ならいかにも言いそうなこと」なので、そのまま採録しております。

 トピックは政治経済から結婚や読書の感想まで多岐にわたっています。一回分全部を使って答える大ネタもあれば、にべもなく数行で回答しておしまいというものもあります。

 タイトルは最終的に「コモンの再生」としました。
最初は違うタイトル案が提示されたのですけれど、全体を通して僕が一番言いたかったことは、やはり「それ」かなと思って、これにしました。
「コモン(common)」というのは形容詞としては「共通の、共同の、公共の、ふつうの、ありふれた」という意味ですけれど、名詞としては、「町や村の共有地、公有地、囲いのない草地や荒れ地」のことです。

 昔はヨーロッパでも、日本でも、村落共同体はそういう「共有地」を持っていました。それを村人たちは共同で管理した。草原で牧畜したり、森の果樹やキノコを採取したり、湖や川で魚を採ったりしたのです。

 ですから、コモンの管理のためには、「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りが必要になります。

 コモンの価値というのは、そこが生み出すものの市場価値の算術的総和には尽くされません。そこで草を食べて育った牛の肉とか、採れた果実やキノコや、あるいは釣れた魚の市場価値を足したものがコモンの生み出す価値のすべてであるわけではありません。それよりはむしろ、「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りできる主体を立ち上げること、それ自体のうちにコモンの価値はあったのだと思います。

 わかりにくい言い方をしてすみません。ちょっと問いの立て方を変えます。
「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りをする主体とは「誰」のことでしょう?

 それは「私たち」です。そうですよね?「私たちの共有するこのコモンを、私たちでたいせつにしてゆきましょう」という言明を発することのできる主体は「私たち」です。つまり、コモンの価値は、「私たち」という共同主観的な存在を立ち上げることにあった。「私たち」という語に、固有の重みと手応えを与えるための装置としてコモンは存在した。そう僕は思います。

 資本主義的に考えたら、別に土地なんか共有しなくてもいいわけです。というか、共有しない方がいい。共有して、共同管理するのなんて、手間暇がかかるばかりですから。使い方についてだって、いちいち集団的な合意形成が必要です。みんなが同意してくれないと、使い方を変えることもできない。

 そういうのが面倒だと言う人が「共有しているから使い勝手が悪いんだよ。それよりは、みんなで均等に分割して、それぞれが好きに使ってもいいということにしよう」と言い出した。

 実際に英国で近代になって起きた「囲い込み(enclosure)」というのは、この「コモンの私有化」のことでした。それが英国全土で起きた。その結果、私有地については、土地の生産性は上がりました。まあ、そうですよね。「オレの土地」なわけですから、必死に耕して、必死に作物を栽培し、費用対効果の高い使用法を工夫した。

 資本主義的にはそれで正解だったんです。

 でも、それと引き換えに、「私たち」と名乗る共同主観的な主体が消滅した。  もともと共同幻想だったんですから、「そんなもの」消えても別に誰も困るまいと思った。ただ、気が付いたら、村落共同体というものが消滅してしまっていた。みんなが自分の金儲けに夢中になっているうちに、それまで集団的に共有し、維持していた祭礼や儀式や伝統芸能や生活文化が消えてしまった。相互扶助の仕組みもなくなってしまった。

 そのうち、生産性の高い農業へのシフトに失敗した自営農たちが土地を失って、小作農に転落し、あるいは都市プロレタリアとなって流民化した。そうやって英国における農業革命、産業革命は達成されたのでした。資本主義的には、それで「めでたし・めでたし」なのですが、ともかくそのようにしてコモンは消滅した。
 その後、「鉄鎖の他に失うべきものを持たない」都市プロレタリアの惨状を見るに見かねたカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって「コモンの再生」が提言されることになりました。それが「共同体主義」すなわち「コミュニズム」です。

「共産主義」という訳語だと、僕たちにはぴんと来ません(日常生活に「共産」なんて普通名詞がありませんからね)。けれども、マルクスたちが「コミュニズム(Communism)」という術語を選んだ時に念頭にあったのは、抽象的な概念ではなく、英国の「コモン」、フランスやイタリアの「コミューン(Commune)」という歴史的に実在した制度だったのです。

 ですからもし、最初にマルクスを訳した人たちが「コミュニズム」を「共有主義」とか「共同体主義」とか「意訳」してくれたら、それから後の日本の左翼の歴史もちょっとは相貌が違っていたかも知れません。
 
 僕がこの本で訴えている「コモンの再生」は、思想的には「囲い込み」に対するマルクスの「万国のプロレタリア、団結せよ」というアピールと軌を一にするものです。グローバル資本主義末期における、市民の原子化・砂粒化、血縁・地縁共同体の瓦解、相互扶助システムの不在という索漠たる現状を何とかするために、もう一度「私たち」を基礎づけようというのです。

 ただ、僕はマルクスほどにスケールの大きいことを考えてはいません。僕が再生をめざしているコモンはずいぶんこじんまりしたです。かつて村落共同体が共有した草原や森、あるいはコミューンを構成していた教会と広場とか、その程度の規模のものです。いわば「ご近所」共同体です。

 そんな構想にいまどき歴史的緊急性があるのかどうか。それについては最後まで読んでからご判断ください。

http://blog.tatsuru.com/2020/07/20_1520.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/891.html#c5

[番外地7] 日本の新型コロナ死者数が少ない陰の理由とは 中川隆
1. 中川隆[-12072] koaQ7Jey 2020年7月21日 17:36:48 : NKWW1U9Yak : NU9jdXVOR0hvSFE=[11]

77 7
1 秒前
@Jyun Ri
日本の新型コロナ死者数が少ない陰の理由とは
「日本の新型コロナウイルス感染対策はことごとく見当違いに見えるが、結果的には世界で最も死亡率を低く抑えた国であり、対応は奇妙にもうまくいっているようだ」
 日本を巡る謎が深まるばかりかと思われた最中の5月2日、研究プラットホームサイト「Cambridge Open Engage」に興味深い論文が掲載された。

 論文を執筆したのは、上久保靖彦・京都大学大学院医学研究科特定教授と高橋淳・吉備国際大学教授である。

 上久保氏らは「武漢型」の流行以前に出現していた新たなウイルスの型を特定した上で、「日本の入国制限が遅れたことが結果的に奏効した」と結論づけている。

 どういうことだろうか。

 上久保氏らが注目したのは「ウイルス干渉」という現象である。ウイルス干渉とは、1個の細胞に複数のウイルスが同時に感染したときに、一方のウイルスの増殖が抑制されることを指す。

 日本では昨年秋からインフルエンザの感染が始まっていたが、その後感染の拡大が止まってしまった。上久保氏らは「この現象は新型コロナウイルスの未知の型がインフルエンザの感染拡大を抑えたのではないか」と考えたことで、これまで見過ごされてきた新型コロナウイルスの型を2種類(S型とK型)発見することに成功したという。

 上久保氏らが発見したとされるS型のウイルスは昨年10〜12月に、K型のウイルスは12月から今年2月にかけて広まったとされているが、2種類のウイルスはその後に発生・急拡大した「武漢型」との関係で大きな違いがあるようだ。

 具体的に言えば、S型に感染したことがある細胞は、その後武漢型ウイルスの侵入が容易になる傾向があるのに対し、K型に感染したことがある細胞は、武漢型ウイルスの侵入を防ぐ機能を有することになるのである。このことは、武漢ウイルスにとって、S型がアクセルの働きをするのに対し、K型はブレーキの役割を果たすことを意味する。

 S型とK型に共に感染すればその効果を打ち消しあうだろうが、S型にのみ感染すれば武漢型ウイルスの被害を助長することになる。

 ここで問題になるのは各国の入国制限措置の発動時期である。

 中国の武漢市が1月23日に封鎖されたことを受け、イタリアは2月1日、中国との直行便を停止し、米国も同2日、14日以内に中国に滞在した外国人の入国を認めない措置を実施した。

 これに対し、日本が発行済み査証(ビザ)の効力を停止し、全面的な入国制限を強化したのは3月9日だった。入国制限が遅かったことから、「大量の中国人が入国したことにより、日本での感染拡大が生じた」との批判が生じたが、入国制限が遅れることにより、K型(武漢型に対するワクチン)が日本で広がるという幸運に恵まれた。

 皮肉としか言いようがないが、日本よりも1ヶ月も早く入国制限を実施した欧米ではK型の流行を防いでしまい、集団免疫ができるチャンスを逸してしまったのである。

 欧米での新型コロナウイルスによる重症者は発症者の20%であるのに比べ、日本では5%と低い率であるという事実は、これによりある程度説明できるのではないだろうか。熊本市内のコロナは「武漢系」か「欧州系」
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/867.html#c1

[近代史4] 中国人は頭がおかしい 中川隆
6. 2020年7月21日 18:09:35 : NKWW1U9Yak : NU9jdXVOR0hvSFE=[12]
やりたい放題の違法行為にブチ切れ宣言
2020/07/21






http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/555.html#c6
[近代史5] 文革輸出とBLM・ANTIFAそして香港 中川隆
2. 2020年7月21日 19:05:46 : NKWW1U9Yak : NU9jdXVOR0hvSFE=[13]
北京が香港に送り込んだバケモノの過去
2020/07/13





http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/204.html#c2
[近代史5] トランプはユダヤのエージェントでキリスト教原理主義のネオコンだった 中川隆
20. 2020年7月21日 19:13:17 : NKWW1U9Yak : NU9jdXVOR0hvSFE=[14]

暴露本は中共にとってはダメージ
2020/06/22





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