1. 中川隆[-14674] koaQ7Jey 2021年12月09日 10:00:50 : jKojnsGz2s : NS5ieTFFVDVmWWc=[1]
日清・日露戦争、朝鮮併合はすべて英米の指示で行われた
琉球併合から真珠湾攻撃への道を先導した米英の金融資本は今も日本を操る
言うまでもなく、アメリカとの戦争を始める背景には中国における戦争が泥沼化していたことにある。
日本の大陸侵略は1894年に勃発した日清戦争から始まったと言えるだろうが、そこへ到達する道を作ったのはイギリスとアメリカだった。イギリスの外交官として日本にいたアーネスト・サトウ、あるいはアメリカの駐日公使だったチャールズ・デロングや厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルたちは日本政府に対して大陸を侵略するようにけしかけている。
ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任して帰国する途中、日本に立ち寄ったが、そのルジャンドルをデロングは日本の外務省に対し、顧問として雇うように推薦する。そして外務卿だった副島種臣の顧問になり、台湾への派兵を勧めた。その口実を作るため、日本政府は琉球を急遽、併合したわけである。
1874年に日本は台湾へ派兵、続いて75年には李氏朝鮮の首都を守る要衝の江華島へ軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功した。さらに無関税特権を認めさせ、釜山、仁川、元山を開港させている。
1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。この戦争で日本は勝利し、大陸侵略を始めたわけである。
朝鮮では高宗の父にあたる興宣大院君と高宗の妻だった閔妃と対立、主導権は閔妃の一族が握っていた。閔妃がロシアとつながることを恐れた日本政府は1895年に日本の官憲と「大陸浪人」を使って宮廷を襲撃し、閔妃を含む女性3名を殺害した。その際、性的な陵辱を加えたとされている。その中心にいた三浦梧楼公使はその後、枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。
閔妃惨殺の4年後、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、この運動を口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ15万の兵を派遣する。その翌年には事件を処理するために北京議定書が結ばれ、列強は北京郊外に軍隊を駐留させることができるようになった。
イギリスはロシアに対抗するため、1902年に日本と同盟協約を締結し、その日本は04年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃、日露戦争が始まる。日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。詳細は割愛するが、1905年5月にロシアのバルチック艦隊は「日本海海戦」で日本海軍に敗北する。
そこで登場してくるのが「棍棒外交」のセオドア・ルーズベルト米大統領。講和勧告を出したのだ。9月に講和条約が調印され、日本の大陸における基盤ができた。講和条約が結ばれた2カ月後、桂太郎首相はアメリカで「鉄道王」と呼ばれていたエドワード・ハリマンと満鉄の共同経営に合意したのだが、ポーツマス会議で日本全権を務めた小村寿太郎はこの合意に反対し、覚書は破棄されている。
一連の動きの中で金子堅太郎の果たした役割は大きい。金子は小村と同じようにハーバード大学で法律を学んでいるが、彼らの2年後輩がセオドア・ルーズベルトだ。1890年に金子とルーズベルトはルーズベルトの自宅で合い、親しくなった。なお、金子の親友だった団琢磨は同じ時期にマサチューセッツ工科大学で学び、三井財閥の大番頭と呼ばれるようになる。
日本政府の使節としてアメリカにいた金子は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説し、同じことをシカゴやニューヨークでも語っていた。日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係が韓国併合に結びつくわけだ。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)
当然のことながら、朝鮮側では独立運動が起こる。その拠点になったのが中国吉林省の間島地方だった。そうした事情もあり、日本では中国東北部への支配願望が強まり、1932年の「満州国」樹立につながる。この傀儡国家の矛先はソ連にも向けられていただろうが、それはイギリスやアメリカの金融資本の思惑とも合致していた。
ところが、その金融資本を震撼させる出来事が1932年にアメリカであった。彼らが担いでいた現職のハーバート・フーバーがニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れたのだ。
フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物で、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれたと言われている。大統領として大企業/富裕層を優遇する政策を続け、庶民の怒りを買っていた。その怒りが選挙結果に表れたわけだ。そのフーバーが大統領の任期を終える直前に駐日大使として日本へ送り込んだのがジョセフ・グルー。
この人物は皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持っていたが、特に親しかったとされている人物が松岡洋右。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたり、岸もグルーと親しい関係にあった。秩父宮雍仁もグルーの友人として知られている。
グルーのいとこであるジェーンはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻。しかもグルーが結婚していたアリスの曾祖父オリバー・ペリーはアメリカ海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。
大統領就任式は1933年3月に予定されていたが、その直前、2月15日にフロリダ州マイアミで開かれた集会でルーズベルトは銃撃事件に巻き込まれる。イタリア系のレンガ職人、ジュゼッペ・ザンガラが32口径のリボルバーから5発の弾丸を発射したのだ。誰を狙ったか不明だが、当時の状況から次期大統領を狙っていた可能性が高い。
フランクリン・ルーズベルトを中心とするニューディール派の政権が誕生した後、ウォール街の巨大金融資本はニューディール派を排除し、ファシズム体制を樹立する目的でクーデターを計画した。この事実を明らかにしたのは名誉勲章を2度授与されたアメリカ海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラー少将だ。
バトラー少将によると、1933年7月に在郷軍人会の幹部ふたりが少将の自宅を訪問したところから話は始まる。在郷軍人会の改革に協力して欲しいということだったが、訪問の目的を図りかねたバトラーは明確に答えず、口を濁している。
そのふたりは1カ月後に再びバトラーの家を訪れ、シカゴで開かれる在郷軍人会の大会へ数百人の退役兵士を引き連れて参加し、演説して欲しいと要請する。必要な経費を負担するということだった。ふたりは演説の原稿を置いて帰ったが、その原稿に金本位制への復帰を求める文言が含まれていたという。
後にふたりはバトラーから急かされる形でスポンサーのひとりがグレイソン・マレット-プレボスト・マーフィだということを明かす。マーフィは在郷軍人会を創設したメンバーのひとりで、ウォール街で証券会社を経営するほか、モルガン系のギャランティー・トラストの重役でもあった。(Jules Archer, “The Plot to Seize the White House,” Skyhorse Publishing, 2007)
ウォール街からの訪問者は、ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。50万名規模の組織を編成して政府を威圧し、「スーパー長官」のようなポストを新たに設置して大統領の重責を引き継ぐとしていた。
クーデターの計画を聞き出した上でバトラーはカウンター・クーデターを宣言、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分は50万人以上を動かして対抗すると宣言する。内戦を覚悟するようにバトラーは警告したのだ。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/202.html#c1