1. 中川隆[-8767] koaQ7Jey 2020年12月31日 09:13:39 : LuroSTCGT6 : NlI1WTJlZDlaemM=[1]
林千勝さんの話はすべてデタラメです。 中国共産党はアメリカ産軍複合体の傀儡政権ですが、中共は国家社会主義の儒教国家であってマルクス主義国ではありません。ソ連や中共みたいな階級がある国がマルクス主義という事は絶対に有り得ないのです。 そもそもロスチャイルドやロスチャイルドのエージェントだったチャーチルは反共ファシストです:
ソ連を核攻撃したいことチャーチルが考えていたことを示す新たな文書が出てきた
ウィンストン・チャーチル1951年4月に自宅でニューヨーク・タイムズ紙のジェネラル・マネージャーだったジュリアス・アドラーに対し、ソ連に最後通牒を突きつけ、それを拒否したなら20から30発の原爆をソ連の都市に落とすと脅そうと考えていると話していたことを示す文書が発見されたという。1951年10月にチャーチルが首相へ返り咲く直前のことである。
第2次世界大戦の当時からチャーチルはソ連を敵視している。アドルフ・ヒトラーの側近だったルドルフ・ヘスが単身、飛行機でスコットランドへ渡った翌月の1941年6月、ドイツ軍は全兵力の4分の3がソ連へ攻め込んだが、その際にイギリスとアメリカが傍観したのもそのためだろう。そうした米英の姿勢をヒトラーも知っていたかのようだ。
米両国が動き始めるのはドイツ軍が43年2月にスターリングラードで降伏してから。その年の5月に慌てて両国の首脳は協議、7月にシチリア島上陸作戦を敢行した。その際、コミュニスト対策で手を組んだ相手がマフィアだ。
スターリングラードの戦いでドイツ軍が敗亡したことによって戦争の帰趨は決したのだが、しばらく戦争は続く。そして1945年4月にフランクリン・ルーズベルト米大統領が急死して親ファシストのウォール街がホワイトハウスを奪還、5月にドイツは降伏する。
その直後にチャーチルはソ連に対する奇襲攻撃を目論んだ。そして作成されたのがアンシンカブル作戦。7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めるというものだったが、参謀本部がこの計画を拒否したので実行されていない。
アメリカでは1945年7月16日にニューメキシコ州のトリニティ(三位一体)実験場でプルトニウム原爆の爆発実験を行って成功した。この日程はポツダム会談が始まる前日に行いたいというハリー・トルーマンの求めで決められた。
この成功を受けてトルーマンは原爆の投下を許可、26日にポツダム宣言が発表され、8月6日に広島へウラン型が投下された。長崎へプルトニウム型原爆が投下されたのはその3日後だ。
チャーチルは1945年7月26日に辞任するが、46年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行って「冷戦」の開幕を宣言、その翌年にはアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている。その5年後、チャーチルのソ連を核攻撃したいという欲望はさらに膨らんだわけだ。
その欲望はアメリカの好戦派も共有、ソ連や中国に対する核攻撃計画を作成しはじめる。1950年代に沖縄の軍事基地化が進んだのはそのためだ。沖縄のアメリカ軍基地は攻撃のためのものであり、そこの部隊は「殴り込み」が目的だ。
アメリカの軍や情報機関の好戦派は1957年初頭にソ連を核攻撃する目的で「ドロップショット作戦」を作成、テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、攻撃は1963年後半に実行されることになっていた。1963年11月22日にソ連との平和共存を訴えていたジョン・F・ケネディ大統領が暗殺され、それを口実にしてソ連との戦争を始めようという動きがあったが、これは挫折している。
林千勝さんが決して語らない フランクリン・ルーズベルト vs. フーバー 1932年 アメリカ大統領選挙の真相
1932年にはアメリカでも大きな出来事が引き起こされている。巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とする現職のハーバート・フーバーを選挙で破ったのだ。
フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた。利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。
当時、アメリカの大統領就任式は3月に行われていた。その前、2月15日にルーズベルトはフロリダ州マイアミで開かれた集会で狙撃事件に巻き込まれている。ジュゼッペ・ザンガラなる人物が32口径のリボルバーから5発の弾丸を発射、ルーズベルトの隣にいたシカゴのアントン・セルマック市長に弾丸が命中して市長は死亡した。
群衆の中、しかも不安定な足場から撃ったので手元が狂い、次期大統領を外した可能性があり、本来なら事件の背景を徹底的に調査する必要があるのだが、真相は明らかにされなかった。ザンガラは3月20日に処刑されてしまったのである。
そして1934年、名誉勲章を2度授与された伝説的な軍人、海兵隊のスメドレー・バトラー退役少将がアメリカ下院の「非米活動特別委員会」でウォール街の大物たちによるクーデター計画を明らかにしている。少将の知り合いでクーデター派を取材したジャーナリストのポール・フレンチは、クーデター派が「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と語っていたと議会で証言している。
バトラーに接触してきた人物はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領を健康問題で攻撃し、フランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」のような50万名規模の組織を編成して大統領をすげ替えることにしていたという。クーデター計画と並行する形で、ニューディール政策に反対する民主党の議員は「アメリカ自由連盟」を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だった。