316. 中川隆[-8772] koaQ7Jey 2024年10月23日 08:46:18 : YhuGunAu6Q : NGRZWVVEUkMvcWs=[1]
土井ヶ浜遺跡の弥生時代の人類のゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202410article_17.html
土井ヶ浜遺跡の弥生時代の女性1個体のゲノムデータを報告した研究(Kim et al., 2024)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。日本語の解説記事もあります。山口県下関市豊北町にある土井ヶ浜遺跡は、弥生時代の「渡来系」とされる人類集団が発見されたことで有名です。本論文は、土井ヶ浜遺跡の弥生時代の女性1個体(D1604)のゲノムデータを報告し、既知の古代人および現代人集団と比較することで、D1604が、本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」現代人集団的な3系統の遺伝的構成要素をすでに有している、と示しました。その遺伝的構成要素とは、「縄文人」関連とアジア東部および北東部関連です。
本論文は、日本列島「本土」現代人集団の遺伝的な形成過程の解明に大きく貢献するでしょうが、弥生時代の人類集団においては遺伝的異質性が高いことにも注目せねばならないでしょう。こうした点も含めて、最後に「私見」の項目で日本列島「本土」現代人集団の形成過程について少し言及します。査読前論文(Ishiya et al., 2024)ですが、土井ヶ浜遺跡ではD1604だけではなく男性1個体のゲノムデータも得られており、こちらはD1604よりずっと高品質で、さらに、群馬県吾妻郡長野原町にある居家以岩陰遺跡の縄文時代早期の女性1個体の高品質なゲノムデータも報告されているので、査読誌に掲載されたら当ブログで取り上げる予定です。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。時代区分の略称は以下の通りです。新石器時代(Neolithic、略してN)、前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)、中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)。
●要約
本土日本人は、在来の縄文人とユーラシア東部大陸部からの移民に由来する二重祖先系統を有している、と認識されてきました。大陸から日本列島への移住は弥生時代から古墳時代にかけて続きましたが、これらの遺民、とくにその起源に関する理解は、弥生時代の高品質なゲノム標本の不足のため不充分なままで、混合過程についての予測を複雑にしています。これに対処するため、日本の山口県の土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体の全核ゲノムが配列決定されました。土井ヶ浜遺跡弥生時代1個体と、アジア東部とアジア北東部の古代および現代の人口集団の包括的な集団遺伝学的分析から、土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体は古墳時代個体群および現代本土日本人と同様に、縄文関連とアジア東部関連とシベリア北東部関連の異なる3遺伝的祖先系統祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有していた、と明らかになりました。非日本人集団のうち、アジア東部関連とシベリア北東部関連祖先系統を有する韓国人集団が、土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体との最高度の遺伝的類似性を示しました。弥生時代個体群と古墳時代個体群と現代日本人についての混合モデル化の分析は、縄文関連と韓国関連の祖先系統を仮定する2方向混合モデルを裏づけました。これらの結果から、弥生時代と古墳時代の間の日本列島への遺民の大半はおもに朝鮮半島に由来した、と示唆されます。
●研究史
日本列島の先史時代は、新石器時代である「縄文時代」により表されます【縄文時代が新石器時代と言えるのか、異論もあるかもしれませんが】。「縄文」という名称は「縄の文様」を意味しており、縄を用いて製作される固有の文様のある土器によって特徴づけられる、縄文文化の独特な特徴を反映しています。縄文時代の期間についてさまざまな意見がありますが、考古学的証拠では、16500年前頃に始まり、少なくとも1万年間ユーラシア大陸部から孤立して存続した、と広く裏づけられています。縄文時代の主要な生計活動は狩猟と採集でした。水田での稲作は日本の九州北部へと3000年前頃となる縄文時代晩期末にもたらされ、弥生時代の開始を示しています。稲作はその後、中期〜後期弥生時代に日本全域へと次第に広がりました。
日本人の歴史を説明するさまざまな仮説がありました。たとえば、「変容モデル」では、人々ではなく文化だけが大陸から到来した、と仮定されました。「置換モデル」は弥生人による在来の縄文人の完全な置換を示唆していますが、「交雑モデル」は在来の縄文人と大陸からの遺民との間の混合を提案しています。現時点では、古代の縄文時代と弥生時代の個体群の骨格の特徴に基づいて埴原和郎氏によって提案された、交雑モデルの一つである「二重構造モデル」が広く受け入れられています。集団遺伝学的研究を通じて、二重構造モデルを裏づける強力な証拠が蓄積されてきました。アジア東部大陸部の人々で一般的に見られるミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)の存在だけではなく、ユーラシア大陸部の人々では一般的ではないものの、縄文人では一般的であるN9bおよびM7aなどのmtHg[8]や、D1a2a1a(M125)などのYHg[11]も、日本列島における縄文人とユーラシア大陸部からの遺民との間の交雑との仮説を裏づけます。
常染色体上の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)に関する研究では、現代日本人の遺伝的構成要素は、アイヌ関連祖先系統とアジア東部大陸部関連祖先系統の混合として説明できる、と示唆されてきており、二重構造モデルの追加の証拠を提供します。さらに、地理的距離にも関わらず北海道のアイヌ集団と沖縄県の琉球諸島集団との間のより密接な遺伝的類似性を明らかにした研究は、日本列島本土へのユーラシア大陸部の人々の移住を示唆しています。二重構造モデルは基本的に正しいと考えられていますが、本土日本人の間では遺伝的異質性があり[19]、これは部分的には、縄文関連祖先系統の割合の差異に起因します[21]。これは、縄文人とユーラシア大陸部の遺民の混合が日本列島本土全体で均一に進行しなかったことを示唆しています。いくつかの研究も、古代の核ゲノムの解析を通じて、縄文人の起源を調べました。縄文人のゲノム解析から、縄文人系統は他のユーラシア東部系統の基底部に位置する、と明らかになりました[22〜24]。しかし、弥生時代から古墳時代にかけて日本列島へと移住したユーラシア大陸部の移民の起源は、弥生時代個体群の高品質な核ゲノムデータの不足のため、不明なままです。
最近の研究[25]は、古墳時代の3個体の新たに報告されたゲノムと、日本の長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体の以前に刊行されたゲノム[26]を用いて、弥生時代と古墳時代との間の日本人【日本列島の人類集団】の遺伝的特性における突然の変化を報告しました。先行研究[25]は、弥生時代と古墳時代の個体間の遺伝的構成要素の違いに基づいて、弥生時代にシベリア北東部から遺伝子流動が起き、古墳時代には、中国の漢人などアジア東部人からの独立した遺伝子流動が起きた、と示唆し、現代本土日本人の3方向混合モデルを提案しました。
しかし、3方向混合モデルを提案した論文[25]で提示された分析の特定の側面は、さらなる検討が必要です。大きな懸念は、使用された弥生時代標本の代表性です。九州北部とその周辺地域から発掘された弥生時代のヒト骨格遺骸は、測定分析に基づいて主要な2群に分類されてきました。九州北西部地域(長崎県とその近隣地域が含まれます)の弥生人は、低い顔面と低身長など縄文人と類似した形態学的特徴を示します。対照的に、九州北部と山口県地域の弥生人は、縄文人と比較してのより高い顔面と身長によって特徴づけられ、移民からの顕著な遺伝的影響が示唆されます。先行研究[25]で使用された弥生時代標本、具体的には下本山2号および3号は九州北西部集団に属しており、縄文人とアジア大陸部から到来した移民両方の構成要素を有している、と示されました[26]。弥生人の遺伝的特徴の包括的理解を得るためには、九州北部と山口県の集団からの標本調査も不可欠です。さらに、下本山2号および3号の配列データの品質は高くなく、網羅率は0.1倍未満です。したがって、弥生人と古墳人との間に顕著な遺伝的差異があったのかどうか、という問題にはさらなる研究の余地があります。
この研究では、日本の山口県の土井ヶ浜遺跡の古代の弥生時代1個体の全核ゲノム配列が決定されました。この個体は九州北部および山口県の弥生時代集団に属します。弥生時代から古墳時代にかけてのユーラシア大陸部からの移民の起源を解明するため、混合モデル化を含めて、土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体のさらなる集団遺伝学的分析が行なわれました。
●資料と手法
山口県下関市豊北町土井ヶ浜にある弥生時代前期〜中期の墓地である土井ヶ浜遺跡では、300点以上の弥生時代の個体の骨が発見されてきました。この研究では、ほぼ全身骨格を含む、土井ヶ浜遺跡で発見された標本ST1604のDNA解析が実行されました。ST1604の年齢は、3点の頭蓋縫合線の内側と外側が両方とも開いていることで証明されているように、若い世人と考えられています。ST1604の性別は、眼窩上弓に隆起がないことと、大坐骨切痕の角度がより大きいため、女性と考えられています。大腿骨の最大長から、ST1604の身長は149cmと推定されました。注目すべきことに、ST1604は長い形態の顔や高身長など、縄文人の典型的な形態学的特徴とは異なる独特な特徴を示しました。ST1604標本の放射性炭素(¹⁴C)年代は、2305±20年前(非較正)でした。IntCal20を用いての較正年代(95.4%の確率)は、紀元前405〜紀元前361年(90.7%の確率)、紀元前275〜紀元前263年(3.1%の確率)、紀元前243〜紀元前235年(1.7%の確率)の範囲でした。本論文では以後、ST1604標本は、DNA解析の対象であるD1604標本と呼ばれます。
DNAはD1604の右側錐体骨から抽出され、mtHgが決定されました。核ゲノム解析には1本鎖ライブラリが用いられました。D1604の性別はX染色体とY染色体のマッピング(多少の違いを許容しつつ、ゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理)された読み取りの数に基づいて推定されました。他集団との比較のため、古代人についてはAADR(The Allen Ancient DNA Resource、アレン古代DNA情報源)第54.1.p1版の124万SNPデータセット[51]、現代人についてはヒトゲノム多様性計画(Human Genome Diversity Project、略してHGDP)[52]とサイモンズゲノム多様性計画(Simons Genome Diversity Project、略してSGDP)[53]が用いられました。KING血縁係数で0.0844以上の各組み合わせから、1個体が無作為に除外されました。主成分分析(principal component analysis、略してPCA)の結果が信頼できないと思われる、外れ値個体も除外されました。124万データセットからユーラシア古代人のゲノムも抽出され[25、26、56〜58]、さらに日本もしくは韓国の古代人のゲノム[23、26、59]が統合されました(古代人遺骸が発見された遺跡の場所は補足図1で示されます)。以下は本論文の補足図1です。
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PCAでは、現代の個体群から計算された主成分(PC)空間に古代人のゲノムが投影されました。ADMIXTUREはK(系統構成要素数)=2〜5で実行されました。TreeMix第1.3版を用いて、最尤系統樹が再構築されました。縄文時代個体群は「縄文」の分類表示で1群に統合され、単純な系統樹が描かれました。フランス人、パプア人、ミヘー人(Mixe)、ウリチ人(Ulchi)、韓国人、日本人、漢人、シェ人(She)、アミ人(Ami)といった現代の個体群もしくは人口集団と、土井ヶ浜_弥生(D1604)、日本_本州_古墳、韓国の金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)遺跡で発見された個体群(韓国_金海_大成洞)[56]、縄文人など古代の個体群もしくは人口集団が含められました。いずれの集団にも呼び出し情報のないSNPの除外後に、940570のSNPが残りました。
f統計ではまず、ムブティ人を外群とするf3(ムブティ人;土井ヶ浜_弥生、X)が計算され、Xは本論文のデータセットのうち1人口集団です。外群f3は、土井ヶ浜遺跡弥生時代標本と最も密節那遺伝的類似性のある現代の人口集団の特定に用いられました。次に、f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;現代の韓国人もしくは日本人、X)でf4統計が計算され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体との遺伝的類似性の観点ではどの人口集団も現代の韓国人もしくは日本人集団を上回らない、との仮説が厳密に検証されました。これらの分析では、標準誤差の単位でのゼロからのf統計の偏差であるZ値も計算されました。さらに、f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;縄文人1、縄文人2)が計算され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体との遺伝的類似性がきわめて高いことを示す、縄文時代の下位集団が調べられました。縄文人1と縄文人2は、縄文時代早期となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡の個体(JpKa6904)に代表される日本_四国_縄文時代早期、縄文時代前期となる岡山県倉敷市の船倉貝塚の個体(JpFu1)に代表される日本_本州_縄文時代前期_船倉、縄文時代前期となる富山県富山市の小竹貝塚の4個体に代表される日本_本州_縄文時代前期_小竹、縄文時代後期となる千葉県船橋市の古作貝塚の4個体に代表される日本_本州_中後期縄文、愛媛県愛南町の縄文時代後期となる平城貝塚の1個体(JpHi01)に代表される日本_四国_縄文時代後期、千葉市六通貝塚の縄文時代個体群に代表される六通_縄文、北海道の礼文島の船泊遺跡の3800年前頃となる縄文時代2個体に代表される船泊_縄文、愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の縄文文化関連個体(IK002)に代表される伊川津_縄文から選択されました。混合モデル化では、これら縄文人集団が「縄文人」という分類名称の単一集団に統合されました。qpF4ratio第400版を用いて、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体の混合モデルの適合性と混合比が評価されました。フランス人が外群(outgroup、略してo)と設定されました。古代と現代両方の日本人(x)について、潜在的なユーラシア東部からの遺伝子流動源(b)と縄文人供給源(c)で混合モデルが検証されました。想定モデルの詳細は図1に示されています。以下は本論文の図1です。
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qpWaveとqpAdm第1520版も実行され、ユーラシア大陸部人口集団の祖先系統もしくは遺伝子流動の最適な供給源での混合モデルが見つかりました。qpAdmモデル化の外群として、ムブティ人、イタリアのヴィッラブルーナ(Villabruna)遺跡の上部旧石器時代の狩猟採集民(hunter-gatherer、略してHG)個体[66]に代表される北イタリア_ヴィッラブルーナ_HG、イランのガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡の新石器時代個体群[67]に代表されるイラン_ガンジュダレー_N、北京近郊の田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体[68]に代表される田園洞、アラスカのアップウォードサン川(Upward Sun River、略してUSR)で発見された11600〜11270年前頃の1個体(USR1)[69]に代表されるUSR1、アミ人、中国山東省の變變(Bianbian)遺跡の9500年前頃の個体に代表される變變_EN[70]、中国福建省連江県の亮島(Liangdao)遺跡の前期新石器時代個体[70]に代表される亮島_EN、シェ人が用いられました。qpWaveが実行され、P=0.01の閾値で外群人口集団の独立性が評価された後で、qpAdmを用いて、古代と現代の日本人集団の祖先系統の供給源として、縄文人とアジア東部大陸部人口集団で2方向混合モデルが検証されました。さらに、標的人口集団について祖先系統の供給源として縄文時代とアジア東部とアジア北東部の人口集団を用いて、以前に提案された3方向混合モデルが評価されました。先行研究[25]で潜在的な遺伝子流動供給源として提案された、ハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡個体(中国_HMMH_MN)がアジア北東部関連祖先系統の供給源として含められ、3方向混合モデルの適合性が判断されました。
●標本のゲノム情報
集団遺伝学的分析の実行前に、D1604のゲノム情報の品質が評価され、データの信頼性が確かめられました。正確な数値指標は補足表3および4に示されています。D1604の常染色体平均網羅率は2倍をわずかに超えており、124万SNPの常染色体SNPのうち約84.5%(1150639ヶ所のうち971776ヶ所)を網羅しています。これは、他の刊行されている弥生時代個体のゲノム[26、57]の網羅率が0.1倍を超えず、網羅されている124万SNPの数が5万ヶ所を超えないため、とくに注目に値します。
D1604標本の遺伝的性別は、性染色体のマッピングされた読み取り数に基づいて評価されました。この手法では、RY指標(Y染色体/[Y染色体+X染色体])信の頼区間(confidence interval、略してCI)95%の上限が、0.016未満ならば女性、0.075超ならば男性と分類されます。D1604のRY指標は0.00051で、95%CIの上限が0.00053なので、D1604の性別は女性と推定され、形態学的評価と一致します。
●mtHg
平均深度297倍で、D1604の完全なミトコンドリアゲノム配列が得られました。ミトコンドリアゲノム全体の一致率は0.993超でした。この配列は古代DNA的な脱アミノ化パターンを示した、と確証されました。D1604のmtHgはD4h1a2と推定されました。mtHg-D4hの下位系統(つまり、D4h1b、D4h1d、D4h1e、D4h3b)は、中国の北部および中央部で顕著と報告されました[71]。
●D1604の古代および現在の韓国人集団との遺伝的類似性
土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)やアジア東部の古代人および現代人を含めてのPCA図は、図2で示されています。縄文時代個体群は本論文で調べられた他のアジア東部人口集団とは明確に離れて位置しており(図2A)、縄文人の祖先は他のアジア東部人と最初に分岐した、と示唆されます。土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は古墳時代個体群とともに現代日本人クラスタ(まとまり)内に収まり、縄文クラスタとアジア東部大陸部クラスタの間に位置しています。日本人と韓国人と漢人の個体群のみのPCAでは、弥生時代の土井ヶ浜遺跡個体は遺伝的に、中国の漢人とよりも現代と古代両方の韓国の個体群と密接である、と示唆されました(図2B)。以下は本論文の図2です。
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●D1604の遺伝的祖先系統
ADMIXTURE分析では、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)の遺伝的祖先系統が、アジア東部とシベリア北東部の現代人、日本列島と朝鮮半島の古代の個体群とともに推定されました。交差検証誤差値に基づいて、K=3が現在の人口集団一式にとって祖先供給源人口集団の最も妥当な数と判断されました(図3A)。混合棒図示では、赤色と青色と黄色の構成要素が、それぞれ縄文関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統に由来する、と解釈されました。以下は本論文の図3です。
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以前に報告されたように[25、72]、現代日本人は3系統の遺伝的構成要素を示しました。現代日本人28個体のうち、縄文関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統の平均割合は、それぞれ約10%と約80%と約10%でした。土井ヶ浜遺跡弥生時代個体の各祖先系統の割合は、縄文関連が約7%、アジア東部関連が約67%、シベリア北東部関連が約26%でした。この割合は、福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の弥生時代1個体や古墳時代個体群や現代日本人と類似していました。土井ヶ浜遺跡弥生時代個体におけるアジア東部関連構成要素の顕著な量の観察は、アジア東部関連祖先系統の人口集団が古墳時代に日本列島へと移住した、と主張した上述の先行研究[25]と矛盾します。
興味深いことに、一部の古代の韓国の個体は、かなりの縄文関連祖先系統を有していました(図3B)。たとえば、朝鮮半島南岸の欲知島(Yokchido)遺跡から発掘された1個体(TYJ001)は、先行研究[57]で報告されたように、ほぼ100%の縄文祖先系統を示しました。対照的に、現代の韓国の個体群は縄文関連祖先系統をほとんど示しませんでした。
●D1604とアジア東部人口集団との系統発生的関係
TreeMixを用いて、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)とアジア東部人口集団との系統発生的関係が調べられました(図4)。混合事象を仮定下系統樹は本論文では示されず、それは、妥当な仮定的状況が再現されなかったからです。TreeMix系統樹では、縄文人集団がアジア東部大陸部クラスタと日本人クラスタの分岐前に他のアジア東部人口集団と分岐し、縄文人系統が系統発生的に他のアジア東部人口集団の基底部に位置することを裏づけます。以下は本論文の図4です。
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アジア東部人口集団は、図4では異なる2クラスタに区分されました。一方のクラスタには、現代の韓国人や中国の漢人やシェ人やアミ人などアジア東部大陸部人口集団が含まれました(アジア東部大陸部クラスタと呼ばれます)。もう一方のクラスタは、現代日本人や土井ヶ浜遺跡弥生時代個体や日本_本州_古墳や韓国_金海_大成洞といった人口集団で構成されています(日本クラスタと呼ばれます)。アジア東部人口集団のうち、現代韓国人集団は日本人クラスタの共通祖先に最も近い、と特定されました。この観察はPCAの結果と一致します(図2)。これらの結果から、韓国の個体群は遺伝的に中国の漢人の場合よりも日本人に近い、と示唆されます。
古代韓国の人口集団である韓国_金海_大成洞は、日本クラスタに含まれました(図4)。この明らかなクラスタ化は、先行研究[56]で示唆されているように、縄文人集団から韓国_金海_大成洞人口集団への遺伝子流動に起因するかもしれません。韓国_金海_大成洞人口集団と日本人集団との間の関係は、TreeMix系統樹から推測されるように、将来の研究で慎重に調べられるべきです。
●D1604と遺伝的に近い人口集団
2人口集団間で共有される浮動を明らかにする手段である外群f3統計分析で、日本人集団(古代の日本_本州_古墳と現代日本人)が土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)と遺伝的に最も密接で、古代と現代の韓国の人口集団がそれに次いで近い、と明らかになりました(図5)。韓国の古代人のうち、安島(Ando)遺跡の新石器時代個体(韓国_安島)は土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と最も密接な類似性を示し、弥生時代における日本列島への移民は、韓国の古代の群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の6世紀半ば個体群や金海の大成洞遺跡個体群とよりも、韓国_安島の方と遺伝的に近い、と示唆されます。日本の古代人および現代人集団と現代の韓国人集団についてのf3統計は他のアジア東部現代人集団よりも大きかったものの、|Z|≤1の範囲を表す誤差棒は、一部のアジア人口集団と重なりました。以下は本論文の図5です。
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さらに、f4(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;現代の韓国人もしくは日本人、X)が計算され、日本人集団と韓国人集団が土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と最も密接な現代人集団なのかどうか、確認されました。人口集団Xは|Z|=3の境界に基づいて分類されました。Z≥3の人口集団Xは観察されませんでしたが、−3 < Z < 3を示す人口集団Xは、日本の古代人集団か日本の現代人集団か韓国の古代人集団か韓国の現代人集団がXだった場合のみ検出されました。他のすべてのモデルで、Z値は−3未満でした。したがって、少なくとも本論文で検証された現代人集団では、日本人および韓国人集団に匹敵する程度で土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と遺伝的に密接な人口集団は存在しない、と結論づけられました。
●D1604と縄文時代個体群との間の遺伝的類似性
f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;縄文人1、縄文人2)のf4検定が実行され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)と最高の遺伝的類似性を有する縄文人集団が特定されました。本質的に、f4統計は土井ヶ浜遺跡弥生時代個体が遺伝的に縄文人2よりも縄文人1の方と密接な場合に正となり、逆の場合は負となります。この分析にはさまざまな期間とイセキの縄文人集団が含められました。各人口集団の古代人のゲノムの数が限定的であることを考えて、結果は|Z|=2の緩やかな基準を用いて解釈されました。f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;日本_四国_縄文時代後期、他の縄文人個体)ではZ < −2の負の値が得られ、日本_四国_縄文時代後期は他の縄文人個体と比較して土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と有意により強い類似性を示した、と示唆されます。
注目すべきことに、日本_四国_縄文時代後期が発掘された四国地域は、本論文のデータセットの他の縄文人標本が発掘された地域では、地理的に土井ヶ浜遺跡の最も近くに位置しています。この観察から、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体の縄文関連祖先系統は山口県の近くの地域に暮らしていた縄文人に由来した、と示唆されます。高品質な古代人のゲノムの限定的な数のため、決定的な証拠はまだ報告されていませんが、この結果は、縄文人集団における人口分化の可能性を示唆しています。これは、日本列島全域のさまざまな遺跡の高品質な縄文人ゲノムを用いて、さらに調べられるべきです。
●D1604の混合モデル化
モデルの適合性を評価し、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)を含めて古代と現代の日本の個体群における縄文関連祖先系統の割合を推定するため、f4比検定が実行されました。[0, 1]区間外にある混合割合は、モデルにおける適合性の欠如を示唆します。補足表6では、そうしたモデルの混合割合が赤色で示されています。図1で現代韓国人を「b」、他のアジア東部人を「a」に割り当てると、モデルが適切に整合しました。しかし、他のアジア東部人を「b」、現代韓国人を「a」と仮定する逆の筋書きは、混合割合(α)が1を超過したように、良好な適合を示しませんでした。シベリア北東部人と遺伝的に近い人口集団である、ホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)もしくはオロチョン人(Oroqen)のいずれかを「b」として仮定するモデルは、良好に適合しませんでした。これは、シベリア北東部系統と縄文人系統との間で共有される祖先系統に起因するようです[23、24]。
したがって、縄文人と現代韓国人を混合の供給源として仮定し、フランス人漢人をそれぞれ「o」および「a」と指定して、日本人集団について混合割合が推定されました(図6A)。このモデルでは、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は韓国人関連祖先系統を89.6%、縄文人関連祖先系統を10.4%有している、と推定されました。古墳時代個体群と現代日本人も、約6〜7%の縄文関連祖先系統を示しました。一方で、下本山岩陰遺跡の弥生時代1個体の縄文関連祖先系統の割合は、他の個体より顕著に高くなっていました。これはPCAの結果と一致し、PCAでは、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体は縄文人の近くに位置していました(図2B)。以下は本論文の図6です。
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最後に、qpAdm分析が実行され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体を含めて日本人集団について混合モデルが検証されました。この分析では、ひじょうに低いP値のモデルはデータと一致せず却下でき、[0, 1]区間外の推定された混合割合は無意味です。したがって、そうしたモデルはデータに不適切と考えられました。2方向混合モデルについて、縄文人および漢人祖先系統を仮定するモデルは、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体に適合しませんでした。対照的に、縄文人祖先系統と韓国人祖先系統を仮定するモデルは土井ヶ浜遺跡弥生時代個体のみならず、古墳時代個体群および現代日本人でもより良好に適合しました。qpAdm分析から得られた日本人集団の混合割合の棒図は、図6Bに示されています。
qpAdm検定では、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は12.9%の縄文人関連祖先系統と87.1%の韓国人関連祖先系統を有する、と説明されました(図6B)。qpAdm分析は外群人口集団一式の選択に対して顕著に敏感ですが、上述のf4比検定と類似の結果が得られ、本論文のqpAdm分析における外群一式は適切だった、と示唆されます。
同じ外群一式を用いて、縄文人関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統とアジア北東部関連祖先系統という、祖先系統の3供給源を仮定した3方向混合モデルの適合性も調べられました。この分析では、アジア東部関連祖先系統の供給源として漢人もしくは現代韓国人個体群が用いられた一方で、中国_HMMH_MNはアジア北東部関連祖先系統の供給源として用いられました。中国_HMMH_MNの1個体は、中華人民共和国内モンゴル自治区のホルチン左翼中旗(Kezuozhongqi、科爾沁左翼中旗)のHMMH遺跡で発掘された古代人の標本1点です。中国_HMMH_MN個体がアジア北東部関連祖先系統の供給源として選択され、それは、中国_HMMH_MN個体が3方向混合モデルを提案した先行研究[25]でこの目的のため用いられたからです。漢人をアジア東部人口集団とみなすと、3方向混合モデルは日本人集団について適切な混合割合をもたらしませんでした(つまり、1もしくは複数の推定された混合割合が[0, 1]区間外となりました)。現代韓国人をアジア東部関連祖先系統の供給源として用いると、混合割合は土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と日本_本州_古墳については許容可能な範囲内に収まりました。しかし、中国_HMMH_MNの混合割合は、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と日本_本州_古墳が対象の事例では標準誤差より小さく、推定された混合割合が強く裏づけられなかったことを示唆しています。したがって、本論文の分析では、調べられた3方向混合モデルが限定的だったものの、3方向混合モデルが2方向混合モデルより優れて至る、との結論を裏づける肯定的結果は得られませんでした。
●考察
本論文の重要な調査結果の一つは、すべての分析において、現代人集団のうち、韓国人集団が日本人を除く他のアジア東部人口集団よりも土井ヶ浜遺跡弥生時代個体との多くの遺伝的類似性を示したことです。これは、弥生時代における日本列島への移民がおもに朝鮮半島に由来することを示唆します。したがって、縄文人と移民の混合に関する遺伝学的研究はまず、韓国人が日本列島への移民の主要な供給源だった可能性を考慮すべきです。最も妥当な供給源人口集団を混合モデル化に用いない場合、結果は実際の歴史から大きく逸れるかもしれません。
本論文では、現代と古代の韓国の個体群は、先行研究[74]と一致して、かなりのユーラシア北東部関連構成要素とアジア東部関連構成要素を有している、と分かりました。したがって、縄文人集団との韓国人集団の混合、およびそれに続く日本列島の混合人口集団内の遺伝的浮動が、日本人で観察される主要な遺伝的祖先系統を説明できるかもしれません。日本人のゲノムにおける、縄文人構成要素に加えてアジア東部関連構成要素とシベリア北東部関連構成要素の両方の存在は、一方は弥生時代におけるシベリア北東部関連祖先系統を有する人口集団、もう一方は古墳時代におけるアジア東部関連祖先系統を有する人口集団と、別々の2人口集団が日本列島に独自に移住したことを必ずしも意味しない、と強調せねばなりません。
先行研究[25]では、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体と古墳時代個体群で見られるユーラシア北東部関連構成要素は弥生時代にもたらされ、古墳時代個体群で観察され、弥生時代個体群では観察されない新たなアジア東部関連構成要素は古墳時代に出現した、と主張されました。しかし本論文では、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体より年代の古い土井ヶ浜遺跡弥生時代個体が、縄文人関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統のみならず、かなりのアジア東部関連祖先系統も有している、と分かりました(図3B)。先行研究[25]では3方向混合モデルが提案されましたが、弥生時代と古墳時代と現代の日本の個体群に関する混合モデル化の本論文の分析は、縄文人関連祖先系統と韓国人関連祖先系統を仮定する2方向混合モデルを強く裏づけました。
先行研究[25]と本論文の間の不一致は、先行研究で分析された下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体の独特な遺伝的特性に起因したのかもしれません。これら下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体は、遺伝的に縄文人に近い、と報告されてきました[26]。本論文では一貫して、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体はPCA図では縄文人の近くに位置し(図2B)、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体における縄文人関連祖先系統の推定割合は、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体よりもずっと高くなりました(図3B)。移民はアジア東部大陸部から到来したので、遺伝的に縄文人からより遠く、アジア東部大陸部人により近い弥生時代個体群は、移民の起源を解明するための分析により適しているようです。この文脈では、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体ではなく土井ヶ浜遺跡弥生時代個体が、日本列島における混合の研究において弥生時代個体群の代表として用いられるべきです。
外群f3の分析から、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は他の古代韓国の個体とよりも、現代韓国人および韓国_安島の方と多くの遺伝的浮動を共有していた、と示唆されました(図5)。したがって、弥生時代における日本列島への移民は、現代韓国人もしくは韓国_安島と遺伝的により近い人口集団に由来していたかもしれません。現時点では、朝鮮半島のどの地域に移民の起源があるのか明確ではなく、弥生時代の始まった3000年前頃以降の多くの韓国の古代人のゲノムが、朝鮮半島からの移民がおもにどの地域に由来するのか、判断するのに役立つかもしれません。
ユーラシア東部人口集団は、南北の軸にそって遺伝的勾配を示す、と報告されてきました。ユーラシア東部大陸部では、より北方の人口集団がより高い割合のシベリア北東部関連祖先系統を有する一方で、より南方の人口集団はより多くのアジア東部関連祖先系統を有する傾向があります。本論文のすべての結果を考慮すると、最も妥当な仮定的状況では、アジア東部関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統の両方を有する朝鮮半島の人口集団が、弥生時代から古墳時代にかけて日本列島に連続的に移住した、となります(補足図4)。この移住には、在来の縄文人との混合が含まれていました。現代本土日本人は、この混合人口集団の子孫と考えられます。日本列島のさまざまな遺跡の弥生時代と古墳時代の個体のゲノムのさらなる分析は、移民が縄文人と混合しながら日本列島全域にどのように拡大したのかについて、光を当てるでしょう。以下は本論文の補足図4です。
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●私見
本論文は弥生時代の「渡来系」とされる人類の遺跡として有名な土井ヶ浜遺跡で発見された女性1個体の、他の弥生時代個体よりも高品質なゲノムデータを報告しており、たいへん貴重な成果として注目されます。本論文は、日本列島における人類進化史について、弥生時代にアジア北東部(本論文ではシベリア北東部)関連祖先系統を有する集団が到来して縄文時代から日本列島に存在する在来人類集団と混合し、古墳時代にアジア東部関連祖先系統を有する集団が到来して、弥生時代人類集団と混合して現代の日本人集団の遺伝的構成が形成された、とする先行研究[25]で提示された三重構造説に否定的な結果を提示しています。
確かに、本論文が新たに提示したゲノムデータは土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体(D1604)だけです。しかし、土井ヶ浜遺跡出土の男性1個体の高品質なゲノムデータを報告した査読前論文(Ishiya et al., 2024)とも大きく齟齬しない結果のようです。さらに、土井ヶ浜遺跡で発見された多数の人類遺骸の形態学的分析からも、D1604が土井ヶ浜遺跡の弥生時代人類集団において外れ値個体である可能性は低そうです。故に、すでに弥生時代中期の西日本においてアジア東部関連祖先系統をかなりの割合で有する人類集団が定着していた可能性はきわめて高そうという意味で、先行研究[25]で主張された三重構造説は支持されないことが示されたように思います。先行研究[25]でも、すでに弥生時代に古墳時代以降の人類集団と類似した遺伝的構成の集団の存在の可能性が指摘されており、その懸念が的中したわけです。
ただ、本論文でも改めて示されたように、D1604より新しく、地理的にも九州北西部と土井ヶ浜遺跡から比較的近い下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体で、D1604よりずっと高い割合の縄文人関連祖先系統が確認されたことは、弥生時代における日本列島の人類集団の遺伝的異質性の高さと、複雑な人口史を再び強く示唆しているように思います。弥生時代中期にはすでに現代日本人的な遺伝的構成の集団が日本列島本土に広く存在したわけではなく、日本列島本土現代人集団の形成過程はかなり複雑だった可能性が高そうです。じっさい、古墳時代にも、日本列島本土現代人集団よりもずっと高い割合の縄文人関連祖先系統を有する個体が確認されています(安達他.,2021)。現時点では思いつきにすぎませんが、日本列島本土現代人集団の遺伝的構成の確立は、10世紀における多くの古代集落の消滅、その後の中世後期〜近世にかけての「伝統社会」の成立まで見据える必要があるのではないか、と考えています。もちろん、近代や高度成長期における人口移動も無視できません。
本論文の見解をより深く理解するには、ユーラシア北東部の完新世の人口史を把握する必要があります。ユーラシア北東部の完新世人類集団の遺伝的構造は、ユーラシア西部現代人とアメリカ大陸先住民に大きな遺伝的影響を残した古代北ユーラシア人からの遺伝的寄与をひとまず考慮しないと、地理を反映して、アムール川地域と黄河地域を対極として、西遼河地域がその中間に位置します(Ning et al., 2020)。アムール川地域の完新世人類集団の遺伝的構成は比較的安定しているのに対して、西遼河地域の完新世人類集団の遺伝的構成は、アムール川地域関連祖先系統と黄河新石器時代関連祖先系統の割合が経時的に大きく変化します(Ning et al., 2020)。黄河地域完新世人類集団の遺伝的構成も経時的に変化しており、後期新石器時代には前期新石器時代華南集団関連祖先系統の割合が増加します(Ning et al., 2020)。分析対象集団やK(系統構成要素数)の異なるADMIXTUREの結果を安易に比較できませんが、本論文のアジア東部関連祖先系統とはおおむね、黄河新石器時代関連祖先系統を主体としつつ、前期新石器時代華南集団関連祖先系統が混合したもので、本論文のシベリア北東部関連祖先系統とは、おおむねアムール川地域関連祖先系統に相当する、と把握するのが妥当なように思います。
最近の研究(Zhu et al., 2024)で、西遼河地域南部の青銅器時代となる夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化では、アムール川地域関連祖先系統が4割程度の個体群や、ほぼ完全にアムール川地域関連祖先系統でモデル化できる外れ値個体が確認されている一方で、雑穀農耕地帯の1個体のゲノムは、ほぼ完全に黄河地域後期新石器時代集団関連祖先系統でモデル化できる、と示されています。完新世の西遼河地域は、本論文で云うところのシベリア北東部関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統の交わる地域で、本論文によると、朝鮮半島も少なくとも中期新石器時代以降の人類集団は両祖先系統の交錯する地域で、三国時代の頃までは、これに縄文人関連祖先系統も加わっていたわけです。韓国の古代の個体でも、青銅器時代のTaejungni遺跡個体はほぼ完全にシベリア北東部関連祖先系統でモデル化されており、弥生時代の日本列島や青銅器時代までの西遼河地域と同様に、朝鮮半島でも少なくとも青銅器時代まで遺伝的異質性が高かったことを示唆しています。
ただ、こうした解釈には問題があります。それは、青銅器時代のTaejungni遺跡個体のゲノムデータの品質がひじょうに悪いことです[56]。これは、PCAでもADMIXTUREでも不正確な結果を招く危険性があります。同じことは、本論文で提示された宮古島の長墓遺跡個体群の解析結果にも当てはまります。長墓遺跡の2800年前頃の個体群は、ADMIXTUREほぼ完全に縄文人関連祖先系統で占められており、これは先行研究[57]と整合的です。しかし、4000年前頃の1個体(NAG016)は、PCAでは長墓遺跡の2800年前頃の個体群と明らかに離れて位置し、ADMIXTUREでは4割近くがシベリア北東部関連祖先系統で占められています。これは、宮古島の人口史における重要な手がかりとなるのかもしれませんが、先行研究(Jeong et al., 2023)で指摘されているように、NAG016の汚染が重度だったことと、その網羅率が低いことから、正確な遺伝的関係を反映していない、と考えるべきかもしれません。本論文で提示された日本列島と朝鮮半島の古代人のゲノムで高品質なのは北海道の北海道礼文島の船泊貝塚の3700年前頃となる1個体(F23)だけでしょうから、日本列島や朝鮮半島やその周辺地域の高品質な古代人のゲノムデータを蓄積することで、これらの地域のより高精度な人口史を再構築できるようになるでしょう。
ゲノムデータの品質の問題とともに、本論文の見解の一般層の受容においてもう一つ問題になるのは、古代人個体A(によって表される集団)と古代人個体B(によって表される集団)の遺伝的混合で現代人集団Cのゲノムがモデル化できるとしても、現代人集団Cの直接的な祖先が古代人個体Aによって表される集団と古代人個体Bによって表される集団と証明されたわけではない、ということです。本論文では、現代韓国人もしくは中期新石器時代の韓国_安島と遺伝的により近い人類集団が、弥生時代以降に日本列島に継続的(あるいは何度かの大きな移民の波があったのかもしれませんが)に到来した移民の祖先だった可能性を示唆します。ただ、これは現時点でゲノムが解析されているごく少数の古代人との比較からの推測です。朝鮮半島やその周辺地域においてゲノム解析された古代人の数はまだ限定的であることを考えると、弥生時代以降に日本列島に到来した現代日本人の主要な祖先集団はまだゲノム解析されていない可能性が高そうですし、そうした集団が中期新石器時代の時点ですでに朝鮮半島、さらには朝鮮半島南岸にまで達していたかはまだ不明で、当時は朝鮮半島以外の西遼河地域やその周辺地域に存在した可能性もじゅうぶんに考えられるでしょう。たとえば、そうした集団が西遼河地域やその周辺地域に存在し、現代韓国人の主要な祖先集団もその近くに存在して遺伝的に近縁だったならば、現代韓国人集団と縄文人集団で現代日本人集団をモデル化できることになりそうです。現代韓国人集団の主要な祖先集団が中期新石器時代からずっと朝鮮半島に存在したとは限らず、朝鮮半島でも新石器時代から三国時代にかけて、人類集団の遺伝的構成が大きく変容した可能性も、私は想定しています。
本論文は、現代本土日本人集団の遺伝的形成について、先行研究[25]の三重構造説に否定的な結果を提示し、上述のようにこの見解自体はおおむね妥当と思われます。ただ、これで二重構造説が復権したとは断定できず、日本列島やユーラシア東部大陸部の古代人の高品質なゲノムデータが蓄積されていけば、さらに細かい遺伝的区分が可能となり、三重構造説よりずっと複雑な日本列島の人口史が浮き彫りになるかもしれません。ただ、今後の現代本土日本人集団の遺伝的形成に関する研究がどう展開していくのか、現時点では想像が難しいところだとしても、縄文時代の日本列島の人類集団からの現代本土日本人集への遺伝的影響が、地域差はあれども10%前後でかなり小さい、との見解が大きく変わる可能性は低そうです。現代本土日本人集団の遺伝的形成について、述べ忘れていることがかなり多そうですが、気力が続かないので今回はここまでとします。
https://sicambre.seesaa.net/article/202410article_17.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c316