32. 2020年8月21日 06:17:40 : 242wGJHkM6 : MUJocGtuaXBLaWs=[1]
>>31 のつづき
満州国は、麻薬売買の里見 甫(さとみ はじめ)なしに成立することはできなかった。
現在の電通は、里見を筆頭に満州鉄道人脈・麻薬密売人脈・特務機関の軍人なしには有り得なかった。
現状に見る悲惨な日本は、悪の麻薬密売組織・特務機関・犯罪集団=「朝鮮電通」なしには有り得ない。
電通が「倒せ!」と命令すれば、内閣は倒され、無実の人間が冤罪で逮捕・投獄され、死刑にもできる。
電通が「改革は善!」と号令をかければ大量の小泉チルドレンが誕生し、売国と奴隷化が推進される。
現在の日本は、関東軍・里見機関がでっち上げた満州国に酷似しているような気がしてならない。
謀略機関の電通に対し、基本的人権・民主主義・公正な選挙などの美辞麗句は幻想・画餅である。
従って、傀儡の雇われ政治集団(政府)が奴隷(国民)から吸い上げた税をご主人様(電通)に献納
するのは当然と言えるだろう。既に選挙は投票ごっこであり、民主主義が画餅に過ぎないのだから。
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●里見 甫(さとみ はじめ、1896年1月22日 – 1965年3月21日)は、ジャーナリスト、実業家。三井物産のもとで関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。__wiki
●来歴・人物__
安房里見氏の末裔であり、元海軍軍医で退役後に日本各地の無医村をまわっていた里見乙三郎とスミの長男として、赴任地の秋田県山本郡能代町(現・能代市)に生まれる。弟に皋(たかし)。妻は相馬ウメ(=里見由美)(1933.9〜1959.6離婚)、湯村治子(1959.7〜)。子は里見泰啓(1959.11誕生)。福岡県立中学修猷館を卒業し、1913年9月、玄洋社第二代社長進藤喜平太の助力により、福岡市からの留学生として上海の東亜同文書院に入学する。
1916年5月、東亜同文書院を卒業後、青島の貿易会社に一時期勤務するが退社し、帰国して東京で日雇い労働者となる。1919年8月、同文書院の後輩である朝日新聞北京支局の記者であった中山優のはからいで、橘樸が主筆を務める天津の邦字紙である京津日日新聞の記者となる。1922年5月には第一次奉直戦争に際して張作霖との単独会見を行っている。1923年6月、京津日日新聞の北京版として北京新聞が創刊されるとその主幹兼編集長に就任する。
ここでの新聞記者活動を通じて、関東軍の参謀であった板垣征四郎や石原莞爾と知己となり、国民党の郭沫若と親交を結び、蒋介石との会見を行うなどして、国民党との人脈も形成された。1928年5月の済南事件では、日本軍の建川美次少将、原田熊吉少佐、田中隆吉大尉から国民党との調停を依頼され、2ヶ月にわたる秘密工作の末、国民党側との協定文書の調印を取り付けている。
1928年8月、南満州鉄道(以下「満鉄」)南京事務所の嘱託となり南京に移る [1]。 ここで、国民政府に対し満鉄の機関車売り込みに成功するなど華々しい業績をあげている。
1931年9月に満州事変が勃発すると、翌10月に関東軍で対満政策を担当する司令部第4課の嘱託辞令を受けて奉天に移り、奉天特務機関長土肥原賢二大佐の指揮下で、甘粕正彦と共に諜報・宣伝・宣撫活動を担当する。これらの活動を通じ、中国の地下組織との人脈が形成された。また、司令部第4課課長松井太久郎の指示により、満州におけるナショナル・ニュース・エージェンシー(国家代表通信社)設立工作に務め、陸軍省軍務局課長鈴木貞一の協力のもと、新聞聯合社(以下「聯合」)の創設者岩永裕吉や総支配人古野伊之助、電通の創業者光永星郎との交渉を行い、1932年12月、満州における聯合と電通の通信網を統合した国策会社である満州国通信社(以下「国通」)が設立され、初代主幹(事実上の社長)兼主筆に就任する [2]。
1933年5月には、聯合上海支局長であった松本重治に、ロイター通信社極東支配人であり、後に同社総支配人(社長)となるクリストファー・チャンセラー(Christopher Chancellor)との交渉の斡旋を依頼して、交渉の末ロイターとの通信提携契約を結び、国通の名を国際的に印象付けている。1935年10月国通を退社し、同年12月、関東軍の意向により、天津の華字紙「庸報」の社長に就任する。1936年9月、5年住んだ満洲を去る。
1937年11月、上海に移り、参謀本部第8課(謀略課)課長影佐禎昭に、中国の地下組織や関東軍との太い人脈と、抜群の中国語力を見込まれ、陸軍特務部の楠本実隆大佐を通じて
___特務資金調達のための阿片売買を依頼される。
___1938年3月、阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設置された宏済善堂[3]の
___副董事長(事実上の社長)に就任する。
___ここで、三井物産・三菱商事・大倉商事が共同出資して設立された商社であり
___実態は陸軍の特務機関であった昭和通商や、中国の地下組織青幇や紅幇などとも連携し、
___1939年、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立[4]。
___ペルシャ産や蒙古産の阿片の売買によって得た莫大な利益を関東軍の戦費に充て、
___一部は日本の傀儡であった汪兆銘の南京国民政府にも回した。
___また、里見機関は、関東軍が極秘に生産していた満州産阿片や
___日本軍が生産していた海南島産阿片も取り扱っている。
___この活動を通じて、青幇の杜月笙・盛文頤や、笹川良一、児玉誉士夫、吉田裕彦、
___岩田幸雄、許斐氏利、阪田誠盛、清水行之助らとの地下人脈が形成された[5]。
1943年12月、宏済善堂を辞し、満鉄と中華航空の顧問となる。1945年9月に帰国し京都や東京に潜伏するが、1946年3月に民間人第一号のA級戦犯容疑者としてGHQにより逮捕され、巣鴨プリズンに入所する。1946年9月、極東国際軍事裁判に出廷して証言を行い、同月不起訴となり無条件で釈放される。その後、渋谷峰岸ビル(現在のQFRONT)に日本商事(医薬品関連の日本商事とは別)を構え代表に就任する。戦後、祖神道本部の熱心な信者となった。
1965年3月21日、家族と歓談中に心臓麻痺に襲われ死去。享年70。千葉県市川市国府台の總寧寺にある里見の墓の墓碑銘「里見家之墓」は、岸信介元首相の揮毫による。
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