4. 2022年2月15日 19:41:14 : FuX5qgk2ak : MDZBaUhhLzhjQzI=[1]
なるほど、そうかもしれない
私の回りでも生まれた子供の数より、死んだ人間のほうがはるかに多い
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私の回りでも生まれた子供の数より、死んだ人間のほうがはるかに多い
■https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1396514148
●敵を討ち取った場合は、即座に首を切り落として確保していました。
でないと味方に奪われて手柄を横取りされる可能性が大きいですので。
現に他の味方の者に盗まれたり、強奪されてトラブルになった例も数多くあります。
切り取った首は髷を解いて腰に結びつけたりしましたが、その姿がむごたらしいという理由で、戦国時代の頃になると、麻縄で編んだ網袋に入れたり、紐でくくって腰に結ぶようになりました。
また馬の鞍に結びつけたり、討ち取った相手の衣服で首を包んだり(分捕った衣服などは、敵の誰々を討ち取った証拠になる)、分捕った旗に包んで持ち帰ることもありました。
討ち取った運搬方法は自ら持って帰ったり、戦闘中でもあっても、功名首は足軽たちに首を持たせて後方に搬送されました。
運ばれてきた首は死化粧されます。
まず首に付着している血や土を洗い落し、髻(もとどり、髪を束ねる紐)を使って髷を高く結い上げる。お歯黒や、紅、おしろいで化粧している首であれば、それと同様の化粧を施してから首実検の場に持って行きます。
また首が少しでも身分の高い武将に見えるように、化粧をしたり、お歯黒をするなどの細工をしたといいます。
首には姓名と討ち取った者の名が付いた首札が付けられ、大将首は45センチ四方の脚付きの台に載せられ、部将クラスクラスの首は一回り小さな首板に載せられました。
なお首実検が行われる場所は、合戦場の陣中もしくは主君の城で行われ、城が遠方にある場合は、首は塩漬けなどの防腐処置を施されてから送られることもありました。それと首実検にかける対象首は、名のある高位の武将でした。
●戦国期になると「首」は重いので、耳や鼻を削いであとで証拠にすることが多くなります
可児才蔵という武士は証拠に、殺した相手の口(?)に笹の葉をくわえさせておいたそうです
もちろん、身分のある敵を討ち取ったときは、首ごと(兜付きで)持ち帰って、軍目付などに検分してもらったのです
●武士にとって討ち取った相手の首は、戦が終わった後に(もちろん勝った場合ですが)総大将から恩賞をもらうための大切な戦功証明書ですから、戦が終わるまで自分で確保しておく(身に付けておく)必要がありました。
しかし成人男子の生首は1つ7kg〜10kgほどもあるとも言います。
現代の身近な品物に例えるとボウリングのボールくらいでしょうか。鎌倉時代以降、合戦の規模が大きくなると首を取るとすぐ次の敵と戦わなくてはならず、そんな重い物を腰にいくつもぶら下げた状態では著しく戦闘能力が落ち、逆に敵に討ち取られるケースが多くなりました。
そのため、足利尊氏の側近だった高師直(こうのもろなお)が採用したのが「分捕切棄(ぶんどりきりすて)の法」という新しい戦法です。
これは戦場に「軍(いくさ)奉行」という戦果確認のための専門の役職者を置き、その軍奉行に戦果を確認してもらうことで、討ち取った首を確認後その場に捨てさせ、戦が長時間に及んでも軍全体の戦闘能力が落ちないようにしたのです。
これによって足利尊氏軍は常に高い戦闘力を維持して鎌倉幕府を倒す大きな原動力となり、これがその後のスタンダードになりました。
(略)
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「髑髏杯」というのは、織田信長がやってたのをテレビで見た記憶が有ります。
しかし後世の創作だという説もあります。
つまり「百姓・日本」が正しいのです。
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