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[近代史4] 英米はドイツ軍がソ連に勝てないとわかる迄は、ウォール街のエージェントのヒトラーと戦う気は全く無かった 中川隆
14. 2022年9月16日 09:03:46 : VJXIRfYHjw : LkQ2d3pja2QvVTY=[1]

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窮地にあるウクライナ政府や欧米の好戦派は「核戦争カード」を出してきた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202209150000/

 アンドリー・イェルマーク・ウクライナ大統領府長官とアナス・ラスムセンNATO前事務総長は9月13日、​「キエフ安全保障協定」の草案を発表​した。軍需産業への投資、兵器輸送、同盟国からの情報活動の支援、徹底した軍事訓練、EUやNATOの一員として合同軍事演習に参加するといったことを勧告、ウクライナを事実上、NATOの戦争マシーンに組み込むという。ロシアに対する宣戦布告に等しい内容だ。

 アメリカ海兵隊の元情報将校でUNSCOM(国連大量破壊兵器廃棄特別委員会)の主任査察官を務めた​スコット・リッターが指摘​しているように、ウクライナ軍として戦わせるために相当数の兵士がNATO加盟国で軍事訓練を受け、最新兵器を扱えるように訓練されている。ハリコフへの攻撃にはイギリスで訓練を受けていた部隊が投入されたと言われている。軍事情報は以前から提供されていたが、そのランクが上げられ、NATOが作戦の指揮をとり始めたようだ。すでに協定は実行され始めていると言えるが、それが文書化される意味は重い。

 ウクライナがNATOへ加盟させることをロシアが危険視する理由はバルバロッサ作戦を思い起こせば理解できる。1941年6月にドイツ軍はソ連に対する侵略戦争を開始。バルバロッサ作戦だ。この作戦で東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は90万人だけだと言われている。7月にドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫った。


 そこでソ連軍は敗北して再び立ち上がることはないと10月3日にアドルフ・ヒトラーはベルリンで語り、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 ところがそうした見通しは外れ、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏、8月にはスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じた。ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、1943年1月にドイツ軍は降伏する。このシナリオをアメリカのプロパガンダ担当者はドンバスで利用しているが、現実は違う。

 スターリングラードでの敗北でドイツの降伏は決定的になり、ソ連の敗北を期待していたイギリスは慌てる。しかも、このまま終わるとソ連がドイツに勝ったということになってしまう。

 ポツダム宣言は即時無条件降伏を要求しているが、「無条件降伏」という語句が出てきたのは1943年1月。フランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相がフランスのシャルル・ド・ゴールらとカサブランカで会談した際のことだ。この会談で無条件降伏が主張されなければ、早い段階でドイツは降伏していただろう

 イギリスはアメリカと会談、1943年7月に両国軍はシチリア島への上陸作戦を実行した。ハリウッド映画で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからだ。すでに主力が壊滅しているドイツ軍の戦闘能力は大幅に低下していた。そうした中、米英が敵視していたのはソ連とレジスタンスだ。これは本ブログで繰り返し説明してきた。

 同じアングロ・サクソン系の国とはいうものの、反ファシストのルーズベルト米大統領とチャーチル英首相の関係は良くなかった。ルーズベルトが率いるニューディール派はウォール街、つまりアメリカの金融資本と敵対関係にあり、1933年から34年にかけての時期、ウォール街の大物たちはルーズベルト政権を倒してファシズム体制を樹立させようとクーデターを計画している。これはスメドレー・バトラー退役少将によって阻止されている。ウォール街はシティ、つまりイギリスの金融資本と緊密な関係にある。

 そのルーズベルトは1945年4月に急死、その翌月にドイツは降伏する。その直後にチャーチル英首相はソ連への奇襲攻撃を目論む。JPS(合同作戦本部)に対して作戦を立案を命令し、5月22日には「アンシンカブル作戦」が提出された。

 その作戦によると、攻撃を始めるのは1945年7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦は発動しなかったのは、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 その頃、アメリカとイギリスは核兵器を開発していたが、7月16日にニューメキシコ州のトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が行われて成功、7月24日にハリー・トルーマン米大統領は原子爆弾の投下を許可した。そして7月26日にポツダム宣言が発表される。

 アメリカ軍は1945年8月6日にウラン型原爆「リトル・ボーイ」を広島へ投下、9日に長崎へプルトニウム型「ファット・マン」が落とされた。これ以降、アメリカは核戦争が軍事戦略の中心に据えられる。

 スターリングラードでドイツ軍が降伏した頃からナチスとウォール街人脈は接触を開始、ルーズベルト大統領には無断でナチスの高官を保護する方策を協議している。サンライズ作戦だ。その後、アメリカの軍や情報機関はナチスの幹部や協力者を逃走させたり、保護したり、雇用していく。それらにはラットライン、ブラッドストーン作戦、ペーパークリップ作戦などという暗号名が付けられた。ドイツが降伏する前の月にルーズベルト大統領が急死したのは、こうした工作を進めていた人びとにとっては好都合だった。そしてレッドパージが始まって反ファシスト派が粛清され、冷戦が始まる。

 そうした中、1949年4月にNATO(北大西洋条約機構)が創設された。創設時の参加国はアメリカとカナダの北米2カ国に加え、イギリス、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルクの欧州10カ国だ。

 この軍事同盟を組織した目的はソ連に対抗することだとされているのだが、当時のソ連には西ヨーロッパへ攻め込む能力はなかった。ドイツとの戦闘でソ連の国民は2000万人以上が殺され、工業地帯の3分の2を含む全国土の3分の1が破壊され、惨憺たる状態だったのである。NATOはヨーロッパを支配する仕組みとして組織されたと言うべきだろう。

 大戦の終盤、アメリカとイギリスの情報機関はジェドバラというゲリラ戦部隊を編成している。戦争が終わった後、その人脈はアメリカ軍の特殊部隊、あるいは極秘の破壊工作組織OPCの中核になり、ヨーロッパでも秘密組織を編成している。

 NATOが登場するとその秘密組織はそこへ入り込み、1951年からはCPC(秘密計画委員会)の下で活動するようになる。SACEUR(欧州連合軍最高司令官)の命令でCPCの下部組織として1957年にはACC(連合軍秘密委員会)が創設された。この委員会を通じてアメリカがNATO加盟国に設置した秘密部隊のネットワークを操っているとも言われている。イタリアのグラディオもそうした秘密部隊のひとつだ。イタリアのグラディオは極左を装い、1960年代から80年代にかけて爆弾テロを繰り返し、クーデターも計画した。

 ウクライナでは昨年11月からバレリー・ザルジニー軍最高司令官の顧問をドミトロ・ヤロシュが務めているが、この人物はNATOの秘密部隊ネットワークに所属していると言われている。

 大戦中、レジスタンスに加わっていたシャルル・ド・ゴールも米英の支配層は敵視していた。フランスでは1961年にOAS(秘密軍事機構)が組織された。その背後にはフランスの情報機関SDECE(防諜外国資料局)や第11ショック・パラシュート大隊がいて、その後ろにはイギリスやアメリカの情報機関が存在していた。

 OASはその年の4月12日にスペインのマドリッドで秘密会議を開き、アルジェリアでのクーデター計画について討議している。会議にはCIAの人間も参加していた。

 アルジェリアの主要都市の支配を宣言した後でパリを制圧するという計画で、その中心には直前まで中央欧州連合軍司令官(CINCENT)を務めていたモーリス・シャレをはじめとする4名の将軍がいて、1961年4月22日にクーデターは実行に移される。

 それに対し、アメリカ大統領だったジョン・F・ケネディはジェームズ・ガビン駐仏大使に対し、必要なあらゆる支援をする用意があるとド・ゴールへ伝えるように命じている。クーデターを進めるとCIAとアメリカ軍が衝突する可能性が高まる。結局、クーデターは4日間で崩壊してしまう。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 フランスのクーデターを失敗させたとも言えるケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された。その葬儀にド・ゴール自身も出席している。帰国したフランス大統領は情報大臣だったアラン・ペールフィットに対し、ケネディに起こったことは自分に起こりかけたことだと語ったという。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 ケネディ大統領が暗殺されてから3年後にフランス軍はNATOの軍事機構から離脱、翌年にはSHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出す。その司令部はベルギーのモンス近郊へ移動した。

 ド・ゴールは1968年5月の「五月革命」で追い詰められ、翌年に辞任。後任大統領のジョルジュ・ポンピドゥーはアメリカとの関係強化を推進、SDECEの局長に親米派のアレクサンドル・ド・マレンシェを据えた。この新局長はポンピドゥーの命令に従い、アメリカとの関係強化に邪魔だと見なされるメンバー815名を解雇した。

 NATOに加盟するということは、米英金融資本の属国になることを意味する。NATOの東方拡大は米英金融資本の支配地拡大を意味し、最終的にロシアを侵略することになる。

 1998年4月、アメリカ上院はNATOの拡大を承認したが、「封じ込め政策」で有名な​ジョージ・ケナンはそうした政策はロシアを新たな冷戦に向かわせると警告​している。ケナンは反コミュニストの外交官として有名だが、それでも危険だと感じたのだ。また​ヘンリー・キッシンジャーはスイスのダボスで開かれたWEF(世界経済フォーラム)の年次総会で、平和を実現するためにドンバスやクリミアを割譲するべきだと語っている​。

 1999年3月にNATOはユーゴスラビアを先制攻撃、さらにアフガニスタン、イラク、リビアなどで軍事作戦を実行している。NATOの目的を防衛にあると信じている人は変質と考えるかもしれないが、これが正体なのだ。

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