12. 2020年11月20日 06:07:52 : S5bGioZVpw : LjkueHFzZmNmeFU=[1]
日本における伝染病対策の中心は国立感染研究所であり、PCR検査のデータもそこへ集められていた。この研究所はかつて国立予防衛生研究所(予研)と呼ばれていた。予研が設立されたのは1947年だが、その歴史は私立衛生会附属伝染病研究所(伝研)が作られた1892年までさかのぼれる。1916年に東京帝国大学附属伝染病研究所となり、その教授や助教授の半数が予研所員となった。
東京帝国大学は1930年代から京都帝国大学や陸軍の軍医学校と共に病原体を兵器として使う研究開発を進めていた。その研究開発で生体実験を行うために中国で部隊が編成される。当初は加茂部隊や東郷部隊と呼ばれたが、1941年からは第731部隊と呼ばれている。東京帝大で病原体を研究していた伝研も重要な役割を演じることになり、その人脈は予研、感染研に引き継がれたわけだ。
第731部隊の隊長は1936年から42年、そして日本の敗戦が決定的になっていた45年3月から敗戦までが石井四郎、その間、42年から45年2月までを北野政次が務めている。1945年8月には関東軍司令官の山田乙三大将の名前で部隊に関連した建物は破壊され、貴重な資料や菌株は運び出された。捕虜の多くは食事に混ぜた青酸カリで毒殺されたが、事態に気づいて食事をとならなかった者は射殺され、死体は本館の中庭で焼かれ、穴の中に埋められたという。
1950年6月に朝鮮戦争が勃発するとアメリカ軍は輸血体制を増強する必要に迫られ、その年の11月に「日本ブラッドバンク」が設立される。その時に中心的な役割を果たした内藤良一は軍医学校防疫研究室に所属していた人物。1964年にこの会社はミドリ十字へ社名を変更、北野は同社の役員になった。ミドリ十字は薬害エイズやフィブリノゲン問題を引き起こした。その後、同社は合併を繰り返して現在は田辺三菱製薬に含まれている。
本ブログでは繰り返し書いてきたように、日本へ逃げ帰った石井は自宅でCIC(アメリカ陸軍対諜報部隊)の尋問を受けているが、厳しいものではなく、石井の娘によると、GHQ/SCAPのG-2(情報部門)を率いていたチャールズ・ウィロビー少将と夕食を一緒に食べるまでになる。それ以降、同少将は石井たちの擁護者となった。(Peter Williams & David Wallace, “Unit 731”, Free Press, 1989)
1947年にはアメリカ陸軍の生物化学兵器の拠点であるメリーランド州のキャンプ・デトリック(後のフォート・デトリック)からノーバート・フェルという研究者がやって来て、第731部隊の幹部を尋問しているが、その直前、厚木基地からほど近い倉庫でアメリカ軍極東医療分隊に所属する「406医療一般研究所」が活動を開始、後に丸の内の三菱ビル内に本部を移した。朝鮮戦争中、この部隊は戦闘地域へ要員を派遣している。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, "The United States And Biological Warfare", Indiana University Press, 1998)
フォート・デトリックは現在でも生物化学兵器開発の拠点だが、昨年夏、数カ月にわたって施設が閉鎖されたと伝えられている。廃液に絡む安全上の問題が発覚したことが原因のようだが、詳細は不明だ。
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