39. 2019年7月30日 19:45:40 : tA8qE7CqvU : eWNvVS5XWHRtaDY=[1]
はあ?
山本太郎さんはポピュリズム(大衆主権)やぞ
なんでコミュニズム(一部の優秀な奴主権)の共産党が一緒になれる?
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山本太郎さんはポピュリズム(大衆主権)やぞ
なんでコミュニズム(一部の優秀な奴主権)の共産党が一緒になれる?
「ドル外交時代」の申し子であるラモントは、イタリアからの外債引き受けを狙っていた。イタリア・リラの通貨危機を契機としてイタリアに急接近した彼は、アメリカ政府に働きかけ、イタリアに有利な条件で戦時債務の問題を解決させることに成功する。そして、さっそくラモントは、一億ドルのイタリア向け借款を決定した。
まぁ、ステファニが行った対イタリア投資に対して税制的にもかなりの優遇政策がとられていたので、もともと海外の投資家にとっては魅力的な国でもあった。
ウォール街でムッソリーニの支持者だったのは、ラモントだけではなかった。ジャック・モルガンもジョージ・ホイットニーも、ムッソリーニを偉大な愛国者と歓迎し、クーン・ローブ商会のオットー・カーンは、彼の冷酷な統治ぶりを破産会社をてきぱきと整理する意思堅固な管財人の腕にたとえた。またギャランティ・トラスト社のウィリス・ブースは、ムッソリーニが「イタリアを絶望の泥沼から前途有望な国へと蘇らせた」と称え、USスチールのエルバート・ゲアリー会長らも、ムッソリーニのファン・クラブの一員となった。
(モルガン家 上 より引用)
ウォール街だけではなく、ヨーロッパの国々からも「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」と称える動きがあり、イギリスのウィンストン・チャーチルも「偉大な指導者の一人」と彼を高く評価した。
ウォール街はムッソリーニをスト続きで荒廃したイタリアを共産党の手から救った人物と寛容な目で見て、1921年の総選挙で多数の人々を殺害した同党黒シャツ隊のテロ行為などは都合よく見逃していた。当時のイタリアを旅行中だったジャック・モルガンは、友人宛ての手紙に「ムッソリーニ氏の革命の成果を見て、大いに満足した」と書いている。はじめの頃のムッソリーニは、保守的な金融政策を堅持する一方で、取巻きを大事な金融面の地位につけないなどして、イタリア金融政策は他国のお手本の観があった。
(モルガン家 上 より引用)
でも、
イタリア金融政策が他国のお手本ですか・・・ にわかには信じられませんな。。。
ただ、
この時代のイタリアの通貨政策を調べているうちに分かったことなのだが・・・
イタリアも
政府紙幣を発行していた。。。
しかも かなり フツー に。。。
http://www.asyura2.com/19/senkyo263/msg/762.html#c56
ファシズムであるか否かの、、、、、
1つのポイントがあるか、、、、、、
http://www.asyura2.com/19/senkyo263/msg/762.html#c57
それで全て片付く
人民公社(じんみんこうしゃ)とは、かつて中華人民共和国において農村に存在した組織である[1][2]。一郷一社の規模を基本単位とし、末端行政機関であると同時に集団所有制の下に、工業、農業、商業等の経済活動のみならず、教育、文化さらには軍事の機能を営んだ[1]。すなわち、従来の権力機構(郷人民政府と郷人民代表大会)と「合作社」を一体化した「政社合一」の組織であった[2]。中国がヨシフ・スターリンによる農業集団化を模倣して、1958年から開始した大躍進運動の一環で導入されたが、数百万人以上を餓死させた[3]。(wikipedia)
http://www.asyura2.com/19/senkyo263/msg/761.html#c47
スターリンとは不正選挙
リベラルとは経済の自由、リバタリアニズムとは個人も経済も自由 こう言う事である
リベラル(リベラリズム)とは経済の上のみの自由だから
すなわち資本の自由を言い、政府が資本に干渉しない事
個人を資本が支配するのは資本の勝手という意味で
リバタリアニズムとは経済・資本だけではなく個人も自由
すなわち政府は、資本に干渉しないだけでなく個人にも干渉しないという意味と
資本が個人を支配する場合、個人の資本からの自由に対してのみ干渉すると言う事
このリバタリアニズムが発展して、より個人の権利を強化した上で政府干渉より上位のルールを敷いてしまおうとの考え方が新自由主義
だから図にすると
●リベラル 資本→支配→個人 各国政府不干渉 個人は資本から守られない
●リバタリアニズム 資本→支配→これには各国政府は干渉する→個人は資本から自由
●ネオリベ 資本→支配→国際社会がルールによって監視→個人は資本から自由
リバタリアニズムは、個人の自由を守るための定義が「各国政府の善意」
ネオリベは、干渉する者の定義として「国際社会が作った普遍なルール」
資本の個人への支配を制御するとの考え方
リベラルは、個人の自由を守るための定義が「資本の善意」
すなわち干渉する者は不在
http://www.asyura2.com/19/senkyo263/msg/786.html#c13
現代政治用語がよく理解できるはずである
コンサバティブ(保守)とは経済概念で、経済の政府からの不自由(政府と経済の融合)
●国家と資本の融合 コンサバティブ 共産体制(シオニズム)
●国際社会が作った普遍なルール と 資本の融合 ネオコンサバティブ(新保守主義・個人の自由を含まない)
●国際社会が作った普遍なルール と 資本の分離 ネオリベラリズム(新自由主義・個人の自由を含む)
現在のネオコンサバティブとは、かつてのリベラルが転向した者であるのはこう言うこと
「ネオコンになり損なったリベラル」これが日本の野党
だから「主義が無い」未だにリベラルだとか言ってる
日本の野党が最も近いのは「シオニズム」政府と経済の共同体として国際社会から孤立する主義
http://www.asyura2.com/19/senkyo263/msg/786.html#c14
しかし,国際化として自由化なら可能だ。
TPPとは,司法関係者の自由化だから。
ソフトバンクの、在日コリアンと中国人なら格安を上回る、ただの人種差別。
生活保護者が生きてい行ける理由など、無い
生活保護者を蔑ろにするのでは、ない
本当に、誰かを助けながら生きるなんてことは、不可能なレベルまで行ってしまっているということだ
喧嘩するなと言ってるようなもん
お互い嫌いあってる仲なんだから、、、
接近遭遇しない努力を、お互いがすれば良い
日韓を、親交させようとする者こそ、戦争を望んでいる者である
http://www.asyura2.com/19/senkyo263/msg/863.html#c12
どちらも,国家権力より強い者を定理している。
ポピュラー(大衆)x ism(意思決定者),ソーシャル(世界的上流階級とか世界的知識人階級)x ism(意思決定者)は,いずれも国家の官僚より上位の存在という理念である。
国家に限定されたソーシャリズムとは,国家限定の上流階級および国家限定の知識人階級が,グローバル化を否定している状態を指し,結束(fascist)しているわけである。
ファシズムは,この結束主義という意味なので,自然,ファシズムの対語がグローバリズムである。
ファシスト(結束)する具体的な組織客体とは,官僚(国家・ナショナル)と市場(国家限定のソーシャル)だ。
ファシスト(結束)する事で,国内生産の様態を表現したものが国家と社会の共同生産(共産)である。
ストレートに英語を当てれば,コンサバティブ(conservative)となる。
この国家社会主義とは,それを理想とした国際組織があったので,組織の名称の頭文字x ismによって,Nazism(NAZI+ ism)と呼ばれた。
N(ナショナル)A(アソシエイツ)Z(シオニスト)I(インターナショナル)・国際シオニスト会議。
これが,反グローバリズムの行き着く先である。
だから,ソーシャリズム(社会主義)とは,もともと戦争屋至上主義である。
ソーシャルの媒体とは,第1インターナショナルが壊滅して第2インターナショナルが組織され,さらに第2インターナショナルが第一次世界大戦の突入によって自然消滅したのち,第2インターナショナルの残党で,ハンガリー国籍の黄色人種ユダヤ人でプロテスタント牧師であったウラジミールレーニンが結成した第3インターナショナルがこれを引き継いだ。
第3インターナショナルは,レーニンの死後,しばらくは第3インターナショナルの最高官僚組織であるソビエトと共にリベラル陣営やNAZIと戦っていたが,1943年6月7日,ソビエトは突如,第3インターナショナルの予算執行を停止した。
理由は公表されていないので,憶測を披露することは避け,ソーシャリズムの定義に戻る。
このスターリンによる第3インターナショナルの予算執行停止によって,国際学派至上主義であったソーシャリズムは,その定義を失った。
スターリンが打ち出した理念とは,「一国社会主義」との発信名称で知られているわけであるが,要するに「国家と言うか一国と言うか」の違いだけで,スターリンとNAZIとは,国家社会主義という形態自体は同義一元の組織と成り果てたのである。
日本のソーシャリズムとは,この「ソビエト」を地球のリーダーとして,その尖兵として戦うため,日本に結成されている。
日本の社会主義者と名乗る者たちが,あまりにも国家社会主義(シオニズム)の理想に気触れてているのは,以上のような理由によって,社会主義と発信していた組織媒体が,その理念を国家社会主義に入れ替えられてしまっているからである。
我が国では,当選者は,開票者が決定する。
ヤルタ会談において,「ここで約束したことは,それを国民に告げた瞬間,私は約束を果たすその時に大統領でいられないから,その約束を果たすことは不可能だ」と,
ルーズヴェルトが答えた時に,スターリンが返した言葉である。
政党ってのは,「どんな理想を持っています」と公表しているものを言い,「どんな理想」が同じなら,そもそも別の党にする必要はない。
「どんな手法を取る」は,その党内にて決定すべきことだ。
それを,,,党を割って,ああだこうだとやってる時点で,政党の要件は不在と言っていいだろう。
党名とは,その理念を表明すべきものだから,現在,世界に4つしか存在しない政治様態定義に従って,その党と表明すれば良い。
新保守主義の主権者は,コングロマリットと定理される一家資本とか同業者資本といった,多国籍資本であり,国会議員は,多国籍資本の擁立する政治家が,世界の秩序とバランスに照らして,国政の舵を切るというのが,所謂新保守主義と言っていいだろう。
かつて20世紀には,単純にリベラル(自由党)と発信したグループと言える。
もう一つの定義であるデモクラシーとは,日本では民主と訳されるが,デモクラシー自体が主語は民との特定を成す用語ではない。
デモクラシーとは,デモ(威圧)でクラッシー(支配)するということなので,実力行使主義というのがストレートな表現である。
主権者は曖昧で,何かの定理に沿って何かを要求するのではなく,現況に反対する場合,現況に対する反動として現状を崩壊させるという語彙があり,最も近い考え方だと,アナーキズム無政府主義がデモクラシーの定義に近いだろう。
破壊神と言ってもいい。
破壊はするけど,その後の創造まで担保するものではないというのが,アナーキズムとかデモクラシーの定義と言えば大きく違わないだろう。
デモクラシーとは反対に,威圧ではなくルールで現状を拘束しようというのが新自由主義。
こちらは何から何まで創造ゞのオンパレード,新国際理念の構築が大命題である。
新自由主義には国家は不要で,国際ルールがあれば良く,人類の警察官として国連軍を組織するだけで,各国から軍隊は無くしてしまえという定義が新自由主義のものである。
この3大非国家主義理念に対して,個別の国家が個別の国家ごとに政治も経済も一致団結して存立するというのが,結束主義ファシズムである。
ファシズムの経済概念が役所と市場と一体化,共同生産至上主義で,共同生産のことを英語でコンサバティブと書き,保守とも訳す。
ファシズム,共産,保守,その考え方を理想と掲げたスイスの思想集団(国際シオニスト会議)の名前をそのまま使って,シオニズムとも発する。
シオニズムの頭文字,ナショナルN,アソシエイツA,シオニストZ,インターナショナルI,と略してナチズムと発するのも,ファシズム,共産,保守,と同じ語彙である。
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/368.html#c16
●旧自由主義リベラル,現在の新保守主義なのか?
●デモクラシー,アナーキズム無政府主義なのか?
●新自由主義なのか?
●シオニズム,共産主義なのか?
この4概念のうち,どれを取るのか?はっきり表明すべきである。
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/368.html#c17
自民党は,新保守主義ネオコンサバティブ。
共産党は,シオニズム・ファシズム。
維新の会と社民党も,シオニズム・ファシズムで共産主義政党の別派閥。
これだけだ。
他民主党系は,まあ言ってみればアナーキズムに当たるのではないか?
新自由主義政党が無いのである。
これが問題だ。
デモクラシーとは,現在を破壊するための理念なので,,,そっから先のことは,はっきり言って考えてないのである。
考えてないものを言えと言っても,言えるわけがない。
敢えて言うなら,デモクラシーが破壊専門なら,創造専門という概念が新自由主義である。
デモクラシーの破壊すべき対象は,新保守主義であるはずで,デモクラシーと新自由主義が融合できれば,2者は政治上の対立概念となる。
この2大政党制(新保守主義・新自由主義の並立)を確立しようとした偉大な政治家が,実は日本にも存在した。
彼は,シオニズムの国家官僚グループによって人物破壊を受け,現在,政治能力の多くを喪失させられたのである。
新自由主義者で,小沢一郎のスポークスマンでもある上杉が,NHKの独占をダイバーシティ化するのに辣腕を振るうのは,むしろ当然。
ネオ・ネオコン(新・新保守主義)とか,新共産主義という概念で,それまで大衆主権とは100%国際主義に含まれ,国家主義を否定するところにあったものを,国家資本と当事国限定の国民主権とをブレンドするという考え方。
山本太郎も近い方針だろう。
何らかの対策を講じる必要に迫られ,安全保障を自国で担保するには,一定の国家資本を設置するしかないというのが,止むに止まれぬ思想背景である。
しかし,国家資本主義となると主権は財務官僚ということになり,財務官僚を如何に制御できるかが,ネオ・ネオコンとか新共産主義の成否の鍵となる。
自然,ファシズムにすると官僚主義に傾いてしまう。
ナチス を選択したドイツは,紛れもなく,大衆の意思によってヒトラーに独裁権を付与し,相対主義を放棄して絶対主義を選択した。
これが民主(大衆)主義ポピュリズムの,人類における現時点での失敗である。
なぜ,人間は「官」になると腐るのか?
官にならない(なれない)人間は,布施の心/愛語の心/利行の心/同事の心を持っている。
これは,本来なら「官」の立場に着く者にこそ求められる資質である。
しかし,人間は「官」になった瞬間,この心を失う。
「官」とは何か?
戦争というものを司る国家という組織媒体が,その主事を付託する同業者組合である。
すなわち,国が棲家で,官が寄生虫である。
国を失くせば,「官」は失われる。
国は,大衆に何をもたらす?
不幸だけ?
多額の賦役を課す「官」に,その権力を与えるだけではないか?
国は必要なのか?
真面目に,自問してみよ。
「官」を無くさねばならない。
この世から永遠にである。
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/425.html#c14
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