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[近代史3] 補助金なしの価格では日本の農作物はアメリカや欧州より安く、日本の農業は欧米より効率的 中川隆
13. 中川隆[-8392] koaQ7Jey 2024年11月25日 07:05:41 : EJVPzZhuvo : eTV2Rk9yUXZRMTY=[1]
【金子勝】「経済のどん詰まりを打破するために」(日刊ゲンダイオンライン講座)
日刊ゲンダイ 2024/11/23
https://www.youtube.com/watch?v=NvhYhUAwLsk

多くの国民は知らないが、今年の通常国会で食料・農業・農村基本法が改正された。この改正に金子教授は危機感を強くし、今度、改正法の問題点をえぐるブックレットを出した。なにしろ、戦時統制下のような発想で、いざとなれば、食糧を強制確保すればいい。あるいは、スマート農業で大規模化すればいい。そんな荒っぽい発想で、農家が直面している問題に真摯に向き合っていないのだ。日本の世帯は単身世帯、夫婦だけ世帯が多くなり、その食生活は生鮮食料品を買って調理するのではなく、加工食品で済ませるものに変わりつつある。この加工品の原材料は輸入品だ。これを国産にする発想が必要だと説く。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/528.html#c13

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
250. 中川隆[-8392] koaQ7Jey 2024年11月25日 11:49:03 : EJVPzZhuvo : eTV2Rk9yUXZRMTY=[4]
<■208行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳 2024年11月23日
原武史『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』
https://sicambre.seesaa.net/article/202411article_23.html

https://www.amazon.co.jp/%E8%B1%A1%E5%BE%B4%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E5%AE%9F%E5%83%8F-%E3%80%8C%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%8B%9D%E8%AC%81%E8%A8%98%E3%80%8D%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%B0%E8%B5%A4%E7%89%88-2038-%E6%AD%A6%E5%8F%B2/dp/4004320380


 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2024年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は「昭和天皇拝謁記」に基づいて、思想や政治情勢の認識や人物評価など、昭和天皇の「実像」を浮き彫りしていきます。「昭和天皇拝謁記」とは、2021〜2023年に岩波書店から刊行された『昭和天皇拝謁記 初代宮内庁長官田島道治の記録』全7巻のことです。『昭和天皇拝謁記』は、第二次世界大戦後に第2代宮内府長官、さらには初代宮内庁長官を務めた田島道治(1885〜1968年)が、おもに宮内庁長官時代に昭和天皇とのやりとりをまとめた狭義の「拝謁記」(第1巻〜第5巻)と、田島の宮内府長官就任から宮内庁長官退任までの「日記」(第6巻)と、田島の退任後の日記や田島宛の書簡などの「関連資料」(第7巻)の総称です。本書がとくに重視するのは狭義の「拝謁記」で、天皇とのやり取りが口調まで忠実に再現されているそうです。本書は昭和天皇が田島には饒舌に語っていたことを指摘し、おそらくは私も含めて多少なりとも幼少期以降に昭和天皇と同時代を生きた人々にとって、やや意外な昭和天皇像と言えそうです。

 本書は、2015〜2019年にかけて宮内庁書陵部編修課によって編纂された『昭和天皇実録』全19冊などでは必ずしも明らかにならない、昭和天皇の等身大の人間像が『昭和天皇拝謁記』によって浮き彫りになる、とその史料的価値を高く評価しています。田島道治が宮内府長官を務めたのは1949〜1953年で、この期間の首相は吉田茂でした。田島が昭和天皇に拝謁した場所は多くの場合、宮内庁の庁舎3階の「御座所(表御座所)」か、空襲を想定して1942年12月に完成した御文庫だったそうです。この『昭和天皇拝謁記』からは、昭和天皇が政局や時局に公表できないような本音を吐露したり、日本国憲法の改正を主張したりと、日本国憲法となっても昭和天皇の意識はほぼ大日本帝国憲法のままだったことが窺える、と本書は評価しています。本書は、昭和天皇の発言の時系列に拘らず、一貫しているように見える昭和天皇の認識の分析を試み、それは、天皇観や政治および軍事観や戦前および戦中観や国土観や外国観や人物観や神道および宗教観や空間認識などです。以下、とくに興味深い昭和天皇の発言と本書の解釈を、備忘録として記していきます。

 昭和天皇は日本国憲法に規定された「象徴」としての天皇の地位について突き詰めて考えた形跡がなく、その天皇観は戦前の思考から抜けきらなかった、と評価しています。ただ、本書で取り上げられている他の昭和天皇の発言からは、日本国憲法下では華族のような「藩屏」がおらず、国民の支持を得ることが重要と理解しているように窺え、本書の評価は昭和天皇にやや厳しすぎるようにも思います。ただ、昭和天皇が日本国憲法に対して不満を抱き、政治外交への関与を志向していた、との本書の指摘は妥当なように思います。昭和天皇の政治観としては、共産主義への強い警戒感と、民主主義への懐疑が目立ちます。これは、政党政治に対する不信感でもあり、戦前の体験が大きく影響していたようです。軍備に関して、昭和天皇は日本国憲法に第9条にたいへん不満だったようで、再軍備は必要と確信していたようです。戦前から戦中の判断については、昭和天皇に言い訳がましさを感じますが、昭和天皇の個人的立場としてはそう言いたくなる気持ちも分かります。ただ、これは国民には絶対公表できないことでしょうし、昭和天皇も国民に公表されないことを前提に、そう発言しているのでしょう。

 日本の範囲について昭和天皇は、日清戦争前の領土を日本固有の領土と考えていたようです。昭和天皇は北海道への訪問に強いこだわりがあり、それは地理的にソ連からの侵略を受けやすいからでした。これは、共産主義とともに、ソ連が日ソ中立条約を破ったことへの強い警戒感もありました。『昭和天皇拝謁記』の頃のほとんどの期間においてソ連の最高権力者はスターリンで、昭和天皇はスターリン体制をマルクス主義より遊離している帝国主義と評価しているのは、昭和天皇の認識を理解するうえで興味深いと思います。昭和天皇は一方でアメリカ合衆国に対しては、急進的な改革の日本への押しつけが国民を共産主義に追いやるのではないか、などと不満もありつつも、第二次世界大戦後の日本への「寛容な」方針を感謝していました。中華人民共和国に対して、やはり共産主義であることや、チベットなどへの侵略国として昭和天皇は警戒していましたが、ソ連よりはましと考えていたようです。昭和天皇は朝鮮戦争に強い関心を抱いており、それは日本に近い朝鮮半島が共産主義国として統一されることへの警戒感に由来しますが、朝鮮については、「常にいづれかに隷属していた国民だから、どうも武か何か圧力で行くより仕方のない人種だよ。日本も鴨緑江でやめておくべきだった」と考えており、つまりは日本による韓国併合は妥当だった、と認識していたわけです。本書は、こうした昭和天皇の蔑視的な朝鮮観が当時の日本の知識人に共有されていたことを指摘します。

 こうした昭和天皇の「本音」が、昭和時代に日本国民に漏れることはほぼなく、昭和天皇自身も、自身の意見や好みなどが日本国民に伝わらないよう、節制していた、と昭和天皇と短いながら同時代を生きた私には思えます。それだけに、昭和天皇が1973年放送の大河ドラマ『国盗り物語』を視聴していたとか、大相撲で関脇まで昇進した蔵間関がなかなか大関に昇進しないことを気にしていたとか、昭和天皇の個人的な嗜好や人柄や認識などが窺える逸話に、野次馬的というか下衆的な興味を抱く人は私も含めて少なくないでしょう。そうした低俗な関心で注目度が高いのはやはり人物評で、それは昭和天皇の認識や歴史の解明において重要な情報ではあるものの、低俗な人間の一人として、私もつい醜聞的な曝露への関心からも昭和天皇の人物評を楽しみに読んでしまいました。

 本書は昭和天皇の人物評でも、『昭和天皇拝謁記』で言及が多いこともあり、その母親である貞明皇太后を大きく取り上げています。昭和天皇と貞明皇太后の関係は悪かったようで、昭和天皇には、強硬派の貞明皇太后が終戦の決断を妨げた、といった恨み節に近い感情もあったようです。昭和天皇は母親を感情的で意見がすぐ変わる不安定な人として、不満が多かったようです。こうした貞明皇太后観は昭和天皇だけではなく、昭和天皇の弟の高松宮など、皇族では広く共有されていたようです。『昭和天皇拝謁記』の頃の首相だった吉田茂も、貞明皇太后を「二重人格」と言っていたそうです。昭和天皇は母について、時流に阿る性格があることも指摘しています。貞明皇太后は戦中に、軍人を招いて激励することがあり、昭和天皇はこれに悩んでいたそうです。ところが、敗戦後には、母は合法化された日本共産党に同情的になっている、と昭和天皇は認識していました。また、貞明皇太后は話上手の人物を好み、それ故に自分より弟の秩父宮を気に入っていた、とも昭和天皇は考えていたようです。一方で田島は日記に貞明皇太后と会ったことも書き残しており、貞明皇太后の方は、高松宮への不満を自分に対して興奮気味に語る昭和天皇が、帝としては感情的に過ぎるのではないか、と不満を抱いていたようです。昭和天皇は戦前から母に会うと冷静ではいられない傾向があったようで、昭和天皇が母親を感情的と考えていたように、母親も息子が感情的と考えていたようです。昭和天皇が母の前では冷静でいられないのは、摂政時代に女官制度の改革や宮中祭祀で母と対立し、その件で母を恐れていたからで、それは昭和天皇の皇后も同様でした。昭和天皇は田島が貞明皇太后に会っていたのかどうかも気にしており、これには貞明皇太后の機嫌を探る目的があったようです。田島はこうした貞明皇太后と昭和天皇の母子関係について、昭和天皇に対して困惑していたというか、批判的だったようにも見えます。昭和天皇は、1946年2月に巡幸を開始すると、貞明皇太后も1948年から本格的に行啓を始めたことにも不満だったようです。貞明皇太后は1951年5月17日に急逝しますが、その後も昭和天皇の母への言及は続き、むしろ気兼ねなく語れるようになったのではないか、と本書は指摘します。昭和天皇は、両親(大正天皇と貞明皇太后)の仲がよくなかったのではないか、とも考えていました。田島は昭和天皇に、両親の仲を詮索しないよう、忠告しています。貞明皇太后の死後1ヶ月ほど経過して、まだ皇后だった頃の1926年10月22日付の貞明皇太后の遺書が発見されました。この遺書は公表されておらず、高松宮の日記で概要が書き残されているだけですが、『昭和天皇拝謁記』にはこの遺書に関する昭和天皇と田島のやり取りが見えます。貞明皇太后の遺書には、遺品を寺院に下賜せよ、とあったようです。また貞明皇太后の遺書には、秩父宮と三笠宮には由緒ある家宝を伝えたい、とあったようですが、これが何か、昭和天皇は判断を悩み、三種の神器である可能性も考えました。しかし、さすがにそれは無理なので、違うことをやるしかない、と昭和天皇は判断します。一方で、昭和天皇は父親である大正天皇について、田島に語ることは少なく、もっと親孝行すべきだった、とのべているくらいです。

 昭和天皇は妻の香淳皇后や他の皇族についても、田島に語っています。昭和天皇は妻を、その名前(良子)に因んで「良宮」と呼んでいます。昭和天皇の結婚は、良子女王が色覚異常関連の遺伝子を有している、との懸念から「宮中某重大事件」に至之くしたが、昭和天皇は妻が色覚異常であることを「うそではない」と田島に述べています。昭和天皇は妻の生理の回数や周期を把握しており、これには、伊勢神宮への参拝で「血の穢れ」を避けるためといった目的もありました。本書は、昭和天皇が妻を単なる生物のように無感情に観察していたのではないか、と指摘しますが、さすがにこれには、昭和天皇への悪意が込められているのではないか、と考えたくもなります。昭和天皇は皇太子(現在の明仁上皇)を「東宮ちゃん」と呼んでおり、成人して自分が譲位しても、新天皇と母親(香淳皇后)との間に面倒なことが起きるのではないか、と懸念していました。昭和天皇は、自身の苦い経験を息子にも投影していたわけです。昭和天皇は二・二六事件での言動から弟の秩父宮を、自分に代わって即位するつもりではないか、と警戒していたようですが、結核での療養が長引いていたことと、敗戦後に貞明皇太后や高松宮や三笠宮が退位を主張したのに対して、秩父宮は退位を主張しなかった、と認識していたことから、『昭和天皇拝謁記』の頃には秩父宮には同情的でした。一方で昭和天皇は、秩父宮の下の弟である高松宮とは、サイパン陥落の頃に高松宮が早期講和を進言したのに対して、自身は「一撃講和論」を主張したことから、関係が微妙だったようです。上述のように、昭和天皇は母に対して高松宮への不満を感情的に語っていました。本書は、昭和天皇が退位しないと決めたのには、高松宮が摂政になることへの反発もあったのではないか、と推測しています。昭和天皇は末弟の三笠宮に対しても不満を抱いており、末っ子であることで甘やかされて育ち、我儘になった、と考えていました。また、三笠宮が左派の学者と付き合い、左派的な言動を繰り返していることには、昭和天皇も田島も懸念していました。昭和天皇は次男の正仁親王(常陸宮)が高校生の頃にキリスト教に強い関心を抱いていることを懸念し、仏教や神道も知ってもらいたい、と田島に語っていますが、田島はキリスト教信仰と学業の進歩は関連している、と昭和天皇に語り、キリスト教自体は悪くないと考えていた昭和天皇は、この件で次男を叱責しませんでした。

 昭和天皇の人物評は、皇族以外も対象となっています。昭和天皇はマッカーサーに対して、共産党を過小評価している点に不満を抱きつつも、天皇制存続の決断には感謝していました。共産党を過小評価している点では、昭和天皇は首相の吉田茂にも不満を抱いていました。ただ本書は、昭和天皇が共産党を過大評価していた、と指摘します。また昭和天皇は、吉田首相が再軍備に否定的なことや、神奈川県の大磯にある私邸に平日も籠って閣議に出ないことにも不満でした。昭和天皇は吉田首相にこうした不満を抱きつつも、現実的には代わりの首相はいない、とも考えていました。その他の政治家では、戦後に一時的に公職追放となった鳩山一郎と岸信介にも昭和天皇は言及しています。鳩山一郎について昭和天皇は、張作霖爆殺事件の時の田中義一内閣の書記官長だった点を問題にしています。昭和天皇は岸信介に対して、対米英開戦時の閣僚で主戦的だったことを問題にしています。戦前と戦中の首相では、近衛文麿は無責任と指摘し、東条英機の方をより高く評価しています。知識人で昭和天皇が否定的に評価していた人物には、全面講和と退位を主張した南原繁がいます。また昭和天皇は、平泉澄など右派的な学者への不満も田島に語っており、その「皇国史観」に対しては批判だったようです。

 敗戦について昭和天皇は本音では、祖先に対する責任は感じていても、国民への責任を感じていなかったのではないか、と本書は推測します。昭和天皇は伊勢神宮というか天照大神に対しては宗教性を感じていたものの、宮中祭祀は宗教性があるものの宗教ではない、と考えていました。宮中祭祀を天理教などの神道と考えるのは、間違いというわけです。昭和天皇は戦後、靖国神社への参拝が「反米思想」に利用されることを懸念しており、この場合の「反米思想」とは、アメリカ合衆国への報復を願う右派的なものでした。上述のように、昭和天皇はキリスト教には好意的で、日本人の大半がキリスト教徒になれば、キリスト教への回収も象徴としてはよいかもしれない、と考えていましたが、それが現実的ではないことも認識していました。仏教に対しては、昭和天皇は冷淡だったようです。
https://sicambre.seesaa.net/article/202411article_23.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c250

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
103. 中川隆[-8391] koaQ7Jey 2024年11月25日 11:49:22 : EJVPzZhuvo : eTV2Rk9yUXZRMTY=[5]
<■208行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳 2024年11月23日
原武史『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』
https://sicambre.seesaa.net/article/202411article_23.html

https://www.amazon.co.jp/%E8%B1%A1%E5%BE%B4%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E5%AE%9F%E5%83%8F-%E3%80%8C%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%8B%9D%E8%AC%81%E8%A8%98%E3%80%8D%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%B0%E8%B5%A4%E7%89%88-2038-%E6%AD%A6%E5%8F%B2/dp/4004320380


 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2024年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は「昭和天皇拝謁記」に基づいて、思想や政治情勢の認識や人物評価など、昭和天皇の「実像」を浮き彫りしていきます。「昭和天皇拝謁記」とは、2021〜2023年に岩波書店から刊行された『昭和天皇拝謁記 初代宮内庁長官田島道治の記録』全7巻のことです。『昭和天皇拝謁記』は、第二次世界大戦後に第2代宮内府長官、さらには初代宮内庁長官を務めた田島道治(1885〜1968年)が、おもに宮内庁長官時代に昭和天皇とのやりとりをまとめた狭義の「拝謁記」(第1巻〜第5巻)と、田島の宮内府長官就任から宮内庁長官退任までの「日記」(第6巻)と、田島の退任後の日記や田島宛の書簡などの「関連資料」(第7巻)の総称です。本書がとくに重視するのは狭義の「拝謁記」で、天皇とのやり取りが口調まで忠実に再現されているそうです。本書は昭和天皇が田島には饒舌に語っていたことを指摘し、おそらくは私も含めて多少なりとも幼少期以降に昭和天皇と同時代を生きた人々にとって、やや意外な昭和天皇像と言えそうです。

 本書は、2015〜2019年にかけて宮内庁書陵部編修課によって編纂された『昭和天皇実録』全19冊などでは必ずしも明らかにならない、昭和天皇の等身大の人間像が『昭和天皇拝謁記』によって浮き彫りになる、とその史料的価値を高く評価しています。田島道治が宮内府長官を務めたのは1949〜1953年で、この期間の首相は吉田茂でした。田島が昭和天皇に拝謁した場所は多くの場合、宮内庁の庁舎3階の「御座所(表御座所)」か、空襲を想定して1942年12月に完成した御文庫だったそうです。この『昭和天皇拝謁記』からは、昭和天皇が政局や時局に公表できないような本音を吐露したり、日本国憲法の改正を主張したりと、日本国憲法となっても昭和天皇の意識はほぼ大日本帝国憲法のままだったことが窺える、と本書は評価しています。本書は、昭和天皇の発言の時系列に拘らず、一貫しているように見える昭和天皇の認識の分析を試み、それは、天皇観や政治および軍事観や戦前および戦中観や国土観や外国観や人物観や神道および宗教観や空間認識などです。以下、とくに興味深い昭和天皇の発言と本書の解釈を、備忘録として記していきます。

 昭和天皇は日本国憲法に規定された「象徴」としての天皇の地位について突き詰めて考えた形跡がなく、その天皇観は戦前の思考から抜けきらなかった、と評価しています。ただ、本書で取り上げられている他の昭和天皇の発言からは、日本国憲法下では華族のような「藩屏」がおらず、国民の支持を得ることが重要と理解しているように窺え、本書の評価は昭和天皇にやや厳しすぎるようにも思います。ただ、昭和天皇が日本国憲法に対して不満を抱き、政治外交への関与を志向していた、との本書の指摘は妥当なように思います。昭和天皇の政治観としては、共産主義への強い警戒感と、民主主義への懐疑が目立ちます。これは、政党政治に対する不信感でもあり、戦前の体験が大きく影響していたようです。軍備に関して、昭和天皇は日本国憲法に第9条にたいへん不満だったようで、再軍備は必要と確信していたようです。戦前から戦中の判断については、昭和天皇に言い訳がましさを感じますが、昭和天皇の個人的立場としてはそう言いたくなる気持ちも分かります。ただ、これは国民には絶対公表できないことでしょうし、昭和天皇も国民に公表されないことを前提に、そう発言しているのでしょう。

 日本の範囲について昭和天皇は、日清戦争前の領土を日本固有の領土と考えていたようです。昭和天皇は北海道への訪問に強いこだわりがあり、それは地理的にソ連からの侵略を受けやすいからでした。これは、共産主義とともに、ソ連が日ソ中立条約を破ったことへの強い警戒感もありました。『昭和天皇拝謁記』の頃のほとんどの期間においてソ連の最高権力者はスターリンで、昭和天皇はスターリン体制をマルクス主義より遊離している帝国主義と評価しているのは、昭和天皇の認識を理解するうえで興味深いと思います。昭和天皇は一方でアメリカ合衆国に対しては、急進的な改革の日本への押しつけが国民を共産主義に追いやるのではないか、などと不満もありつつも、第二次世界大戦後の日本への「寛容な」方針を感謝していました。中華人民共和国に対して、やはり共産主義であることや、チベットなどへの侵略国として昭和天皇は警戒していましたが、ソ連よりはましと考えていたようです。昭和天皇は朝鮮戦争に強い関心を抱いており、それは日本に近い朝鮮半島が共産主義国として統一されることへの警戒感に由来しますが、朝鮮については、「常にいづれかに隷属していた国民だから、どうも武か何か圧力で行くより仕方のない人種だよ。日本も鴨緑江でやめておくべきだった」と考えており、つまりは日本による韓国併合は妥当だった、と認識していたわけです。本書は、こうした昭和天皇の蔑視的な朝鮮観が当時の日本の知識人に共有されていたことを指摘します。

 こうした昭和天皇の「本音」が、昭和時代に日本国民に漏れることはほぼなく、昭和天皇自身も、自身の意見や好みなどが日本国民に伝わらないよう、節制していた、と昭和天皇と短いながら同時代を生きた私には思えます。それだけに、昭和天皇が1973年放送の大河ドラマ『国盗り物語』を視聴していたとか、大相撲で関脇まで昇進した蔵間関がなかなか大関に昇進しないことを気にしていたとか、昭和天皇の個人的な嗜好や人柄や認識などが窺える逸話に、野次馬的というか下衆的な興味を抱く人は私も含めて少なくないでしょう。そうした低俗な関心で注目度が高いのはやはり人物評で、それは昭和天皇の認識や歴史の解明において重要な情報ではあるものの、低俗な人間の一人として、私もつい醜聞的な曝露への関心からも昭和天皇の人物評を楽しみに読んでしまいました。

 本書は昭和天皇の人物評でも、『昭和天皇拝謁記』で言及が多いこともあり、その母親である貞明皇太后を大きく取り上げています。昭和天皇と貞明皇太后の関係は悪かったようで、昭和天皇には、強硬派の貞明皇太后が終戦の決断を妨げた、といった恨み節に近い感情もあったようです。昭和天皇は母親を感情的で意見がすぐ変わる不安定な人として、不満が多かったようです。こうした貞明皇太后観は昭和天皇だけではなく、昭和天皇の弟の高松宮など、皇族では広く共有されていたようです。『昭和天皇拝謁記』の頃の首相だった吉田茂も、貞明皇太后を「二重人格」と言っていたそうです。昭和天皇は母について、時流に阿る性格があることも指摘しています。貞明皇太后は戦中に、軍人を招いて激励することがあり、昭和天皇はこれに悩んでいたそうです。ところが、敗戦後には、母は合法化された日本共産党に同情的になっている、と昭和天皇は認識していました。また、貞明皇太后は話上手の人物を好み、それ故に自分より弟の秩父宮を気に入っていた、とも昭和天皇は考えていたようです。一方で田島は日記に貞明皇太后と会ったことも書き残しており、貞明皇太后の方は、高松宮への不満を自分に対して興奮気味に語る昭和天皇が、帝としては感情的に過ぎるのではないか、と不満を抱いていたようです。昭和天皇は戦前から母に会うと冷静ではいられない傾向があったようで、昭和天皇が母親を感情的と考えていたように、母親も息子が感情的と考えていたようです。昭和天皇が母の前では冷静でいられないのは、摂政時代に女官制度の改革や宮中祭祀で母と対立し、その件で母を恐れていたからで、それは昭和天皇の皇后も同様でした。昭和天皇は田島が貞明皇太后に会っていたのかどうかも気にしており、これには貞明皇太后の機嫌を探る目的があったようです。田島はこうした貞明皇太后と昭和天皇の母子関係について、昭和天皇に対して困惑していたというか、批判的だったようにも見えます。昭和天皇は、1946年2月に巡幸を開始すると、貞明皇太后も1948年から本格的に行啓を始めたことにも不満だったようです。貞明皇太后は1951年5月17日に急逝しますが、その後も昭和天皇の母への言及は続き、むしろ気兼ねなく語れるようになったのではないか、と本書は指摘します。昭和天皇は、両親(大正天皇と貞明皇太后)の仲がよくなかったのではないか、とも考えていました。田島は昭和天皇に、両親の仲を詮索しないよう、忠告しています。貞明皇太后の死後1ヶ月ほど経過して、まだ皇后だった頃の1926年10月22日付の貞明皇太后の遺書が発見されました。この遺書は公表されておらず、高松宮の日記で概要が書き残されているだけですが、『昭和天皇拝謁記』にはこの遺書に関する昭和天皇と田島のやり取りが見えます。貞明皇太后の遺書には、遺品を寺院に下賜せよ、とあったようです。また貞明皇太后の遺書には、秩父宮と三笠宮には由緒ある家宝を伝えたい、とあったようですが、これが何か、昭和天皇は判断を悩み、三種の神器である可能性も考えました。しかし、さすがにそれは無理なので、違うことをやるしかない、と昭和天皇は判断します。一方で、昭和天皇は父親である大正天皇について、田島に語ることは少なく、もっと親孝行すべきだった、とのべているくらいです。

 昭和天皇は妻の香淳皇后や他の皇族についても、田島に語っています。昭和天皇は妻を、その名前(良子)に因んで「良宮」と呼んでいます。昭和天皇の結婚は、良子女王が色覚異常関連の遺伝子を有している、との懸念から「宮中某重大事件」に至之くしたが、昭和天皇は妻が色覚異常であることを「うそではない」と田島に述べています。昭和天皇は妻の生理の回数や周期を把握しており、これには、伊勢神宮への参拝で「血の穢れ」を避けるためといった目的もありました。本書は、昭和天皇が妻を単なる生物のように無感情に観察していたのではないか、と指摘しますが、さすがにこれには、昭和天皇への悪意が込められているのではないか、と考えたくもなります。昭和天皇は皇太子(現在の明仁上皇)を「東宮ちゃん」と呼んでおり、成人して自分が譲位しても、新天皇と母親(香淳皇后)との間に面倒なことが起きるのではないか、と懸念していました。昭和天皇は、自身の苦い経験を息子にも投影していたわけです。昭和天皇は二・二六事件での言動から弟の秩父宮を、自分に代わって即位するつもりではないか、と警戒していたようですが、結核での療養が長引いていたことと、敗戦後に貞明皇太后や高松宮や三笠宮が退位を主張したのに対して、秩父宮は退位を主張しなかった、と認識していたことから、『昭和天皇拝謁記』の頃には秩父宮には同情的でした。一方で昭和天皇は、秩父宮の下の弟である高松宮とは、サイパン陥落の頃に高松宮が早期講和を進言したのに対して、自身は「一撃講和論」を主張したことから、関係が微妙だったようです。上述のように、昭和天皇は母に対して高松宮への不満を感情的に語っていました。本書は、昭和天皇が退位しないと決めたのには、高松宮が摂政になることへの反発もあったのではないか、と推測しています。昭和天皇は末弟の三笠宮に対しても不満を抱いており、末っ子であることで甘やかされて育ち、我儘になった、と考えていました。また、三笠宮が左派の学者と付き合い、左派的な言動を繰り返していることには、昭和天皇も田島も懸念していました。昭和天皇は次男の正仁親王(常陸宮)が高校生の頃にキリスト教に強い関心を抱いていることを懸念し、仏教や神道も知ってもらいたい、と田島に語っていますが、田島はキリスト教信仰と学業の進歩は関連している、と昭和天皇に語り、キリスト教自体は悪くないと考えていた昭和天皇は、この件で次男を叱責しませんでした。

 昭和天皇の人物評は、皇族以外も対象となっています。昭和天皇はマッカーサーに対して、共産党を過小評価している点に不満を抱きつつも、天皇制存続の決断には感謝していました。共産党を過小評価している点では、昭和天皇は首相の吉田茂にも不満を抱いていました。ただ本書は、昭和天皇が共産党を過大評価していた、と指摘します。また昭和天皇は、吉田首相が再軍備に否定的なことや、神奈川県の大磯にある私邸に平日も籠って閣議に出ないことにも不満でした。昭和天皇は吉田首相にこうした不満を抱きつつも、現実的には代わりの首相はいない、とも考えていました。その他の政治家では、戦後に一時的に公職追放となった鳩山一郎と岸信介にも昭和天皇は言及しています。鳩山一郎について昭和天皇は、張作霖爆殺事件の時の田中義一内閣の書記官長だった点を問題にしています。昭和天皇は岸信介に対して、対米英開戦時の閣僚で主戦的だったことを問題にしています。戦前と戦中の首相では、近衛文麿は無責任と指摘し、東条英機の方をより高く評価しています。知識人で昭和天皇が否定的に評価していた人物には、全面講和と退位を主張した南原繁がいます。また昭和天皇は、平泉澄など右派的な学者への不満も田島に語っており、その「皇国史観」に対しては批判だったようです。

 敗戦について昭和天皇は本音では、祖先に対する責任は感じていても、国民への責任を感じていなかったのではないか、と本書は推測します。昭和天皇は伊勢神宮というか天照大神に対しては宗教性を感じていたものの、宮中祭祀は宗教性があるものの宗教ではない、と考えていました。宮中祭祀を天理教などの神道と考えるのは、間違いというわけです。昭和天皇は戦後、靖国神社への参拝が「反米思想」に利用されることを懸念しており、この場合の「反米思想」とは、アメリカ合衆国への報復を願う右派的なものでした。上述のように、昭和天皇はキリスト教には好意的で、日本人の大半がキリスト教徒になれば、キリスト教への回収も象徴としてはよいかもしれない、と考えていましたが、それが現実的ではないことも認識していました。仏教に対しては、昭和天皇は冷淡だったようです。
https://sicambre.seesaa.net/article/202411article_23.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c103

[近代史3] 昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは 中川隆
12. 中川隆[-8390] koaQ7Jey 2024年11月25日 11:50:29 : EJVPzZhuvo : eTV2Rk9yUXZRMTY=[6]
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雑記帳 2024年11月23日
原武史『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』
https://sicambre.seesaa.net/article/202411article_23.html

https://www.amazon.co.jp/%E8%B1%A1%E5%BE%B4%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E5%AE%9F%E5%83%8F-%E3%80%8C%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%8B%9D%E8%AC%81%E8%A8%98%E3%80%8D%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%B0%E8%B5%A4%E7%89%88-2038-%E6%AD%A6%E5%8F%B2/dp/4004320380


 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2024年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は「昭和天皇拝謁記」に基づいて、思想や政治情勢の認識や人物評価など、昭和天皇の「実像」を浮き彫りしていきます。「昭和天皇拝謁記」とは、2021〜2023年に岩波書店から刊行された『昭和天皇拝謁記 初代宮内庁長官田島道治の記録』全7巻のことです。『昭和天皇拝謁記』は、第二次世界大戦後に第2代宮内府長官、さらには初代宮内庁長官を務めた田島道治(1885〜1968年)が、おもに宮内庁長官時代に昭和天皇とのやりとりをまとめた狭義の「拝謁記」(第1巻〜第5巻)と、田島の宮内府長官就任から宮内庁長官退任までの「日記」(第6巻)と、田島の退任後の日記や田島宛の書簡などの「関連資料」(第7巻)の総称です。本書がとくに重視するのは狭義の「拝謁記」で、天皇とのやり取りが口調まで忠実に再現されているそうです。本書は昭和天皇が田島には饒舌に語っていたことを指摘し、おそらくは私も含めて多少なりとも幼少期以降に昭和天皇と同時代を生きた人々にとって、やや意外な昭和天皇像と言えそうです。

 本書は、2015〜2019年にかけて宮内庁書陵部編修課によって編纂された『昭和天皇実録』全19冊などでは必ずしも明らかにならない、昭和天皇の等身大の人間像が『昭和天皇拝謁記』によって浮き彫りになる、とその史料的価値を高く評価しています。田島道治が宮内府長官を務めたのは1949〜1953年で、この期間の首相は吉田茂でした。田島が昭和天皇に拝謁した場所は多くの場合、宮内庁の庁舎3階の「御座所(表御座所)」か、空襲を想定して1942年12月に完成した御文庫だったそうです。この『昭和天皇拝謁記』からは、昭和天皇が政局や時局に公表できないような本音を吐露したり、日本国憲法の改正を主張したりと、日本国憲法となっても昭和天皇の意識はほぼ大日本帝国憲法のままだったことが窺える、と本書は評価しています。本書は、昭和天皇の発言の時系列に拘らず、一貫しているように見える昭和天皇の認識の分析を試み、それは、天皇観や政治および軍事観や戦前および戦中観や国土観や外国観や人物観や神道および宗教観や空間認識などです。以下、とくに興味深い昭和天皇の発言と本書の解釈を、備忘録として記していきます。

 昭和天皇は日本国憲法に規定された「象徴」としての天皇の地位について突き詰めて考えた形跡がなく、その天皇観は戦前の思考から抜けきらなかった、と評価しています。ただ、本書で取り上げられている他の昭和天皇の発言からは、日本国憲法下では華族のような「藩屏」がおらず、国民の支持を得ることが重要と理解しているように窺え、本書の評価は昭和天皇にやや厳しすぎるようにも思います。ただ、昭和天皇が日本国憲法に対して不満を抱き、政治外交への関与を志向していた、との本書の指摘は妥当なように思います。昭和天皇の政治観としては、共産主義への強い警戒感と、民主主義への懐疑が目立ちます。これは、政党政治に対する不信感でもあり、戦前の体験が大きく影響していたようです。軍備に関して、昭和天皇は日本国憲法に第9条にたいへん不満だったようで、再軍備は必要と確信していたようです。戦前から戦中の判断については、昭和天皇に言い訳がましさを感じますが、昭和天皇の個人的立場としてはそう言いたくなる気持ちも分かります。ただ、これは国民には絶対公表できないことでしょうし、昭和天皇も国民に公表されないことを前提に、そう発言しているのでしょう。

 日本の範囲について昭和天皇は、日清戦争前の領土を日本固有の領土と考えていたようです。昭和天皇は北海道への訪問に強いこだわりがあり、それは地理的にソ連からの侵略を受けやすいからでした。これは、共産主義とともに、ソ連が日ソ中立条約を破ったことへの強い警戒感もありました。『昭和天皇拝謁記』の頃のほとんどの期間においてソ連の最高権力者はスターリンで、昭和天皇はスターリン体制をマルクス主義より遊離している帝国主義と評価しているのは、昭和天皇の認識を理解するうえで興味深いと思います。昭和天皇は一方でアメリカ合衆国に対しては、急進的な改革の日本への押しつけが国民を共産主義に追いやるのではないか、などと不満もありつつも、第二次世界大戦後の日本への「寛容な」方針を感謝していました。中華人民共和国に対して、やはり共産主義であることや、チベットなどへの侵略国として昭和天皇は警戒していましたが、ソ連よりはましと考えていたようです。昭和天皇は朝鮮戦争に強い関心を抱いており、それは日本に近い朝鮮半島が共産主義国として統一されることへの警戒感に由来しますが、朝鮮については、「常にいづれかに隷属していた国民だから、どうも武か何か圧力で行くより仕方のない人種だよ。日本も鴨緑江でやめておくべきだった」と考えており、つまりは日本による韓国併合は妥当だった、と認識していたわけです。本書は、こうした昭和天皇の蔑視的な朝鮮観が当時の日本の知識人に共有されていたことを指摘します。

 こうした昭和天皇の「本音」が、昭和時代に日本国民に漏れることはほぼなく、昭和天皇自身も、自身の意見や好みなどが日本国民に伝わらないよう、節制していた、と昭和天皇と短いながら同時代を生きた私には思えます。それだけに、昭和天皇が1973年放送の大河ドラマ『国盗り物語』を視聴していたとか、大相撲で関脇まで昇進した蔵間関がなかなか大関に昇進しないことを気にしていたとか、昭和天皇の個人的な嗜好や人柄や認識などが窺える逸話に、野次馬的というか下衆的な興味を抱く人は私も含めて少なくないでしょう。そうした低俗な関心で注目度が高いのはやはり人物評で、それは昭和天皇の認識や歴史の解明において重要な情報ではあるものの、低俗な人間の一人として、私もつい醜聞的な曝露への関心からも昭和天皇の人物評を楽しみに読んでしまいました。

 本書は昭和天皇の人物評でも、『昭和天皇拝謁記』で言及が多いこともあり、その母親である貞明皇太后を大きく取り上げています。昭和天皇と貞明皇太后の関係は悪かったようで、昭和天皇には、強硬派の貞明皇太后が終戦の決断を妨げた、といった恨み節に近い感情もあったようです。昭和天皇は母親を感情的で意見がすぐ変わる不安定な人として、不満が多かったようです。こうした貞明皇太后観は昭和天皇だけではなく、昭和天皇の弟の高松宮など、皇族では広く共有されていたようです。『昭和天皇拝謁記』の頃の首相だった吉田茂も、貞明皇太后を「二重人格」と言っていたそうです。昭和天皇は母について、時流に阿る性格があることも指摘しています。貞明皇太后は戦中に、軍人を招いて激励することがあり、昭和天皇はこれに悩んでいたそうです。ところが、敗戦後には、母は合法化された日本共産党に同情的になっている、と昭和天皇は認識していました。また、貞明皇太后は話上手の人物を好み、それ故に自分より弟の秩父宮を気に入っていた、とも昭和天皇は考えていたようです。一方で田島は日記に貞明皇太后と会ったことも書き残しており、貞明皇太后の方は、高松宮への不満を自分に対して興奮気味に語る昭和天皇が、帝としては感情的に過ぎるのではないか、と不満を抱いていたようです。昭和天皇は戦前から母に会うと冷静ではいられない傾向があったようで、昭和天皇が母親を感情的と考えていたように、母親も息子が感情的と考えていたようです。昭和天皇が母の前では冷静でいられないのは、摂政時代に女官制度の改革や宮中祭祀で母と対立し、その件で母を恐れていたからで、それは昭和天皇の皇后も同様でした。昭和天皇は田島が貞明皇太后に会っていたのかどうかも気にしており、これには貞明皇太后の機嫌を探る目的があったようです。田島はこうした貞明皇太后と昭和天皇の母子関係について、昭和天皇に対して困惑していたというか、批判的だったようにも見えます。昭和天皇は、1946年2月に巡幸を開始すると、貞明皇太后も1948年から本格的に行啓を始めたことにも不満だったようです。貞明皇太后は1951年5月17日に急逝しますが、その後も昭和天皇の母への言及は続き、むしろ気兼ねなく語れるようになったのではないか、と本書は指摘します。昭和天皇は、両親(大正天皇と貞明皇太后)の仲がよくなかったのではないか、とも考えていました。田島は昭和天皇に、両親の仲を詮索しないよう、忠告しています。貞明皇太后の死後1ヶ月ほど経過して、まだ皇后だった頃の1926年10月22日付の貞明皇太后の遺書が発見されました。この遺書は公表されておらず、高松宮の日記で概要が書き残されているだけですが、『昭和天皇拝謁記』にはこの遺書に関する昭和天皇と田島のやり取りが見えます。貞明皇太后の遺書には、遺品を寺院に下賜せよ、とあったようです。また貞明皇太后の遺書には、秩父宮と三笠宮には由緒ある家宝を伝えたい、とあったようですが、これが何か、昭和天皇は判断を悩み、三種の神器である可能性も考えました。しかし、さすがにそれは無理なので、違うことをやるしかない、と昭和天皇は判断します。一方で、昭和天皇は父親である大正天皇について、田島に語ることは少なく、もっと親孝行すべきだった、とのべているくらいです。

 昭和天皇は妻の香淳皇后や他の皇族についても、田島に語っています。昭和天皇は妻を、その名前(良子)に因んで「良宮」と呼んでいます。昭和天皇の結婚は、良子女王が色覚異常関連の遺伝子を有している、との懸念から「宮中某重大事件」に至之くしたが、昭和天皇は妻が色覚異常であることを「うそではない」と田島に述べています。昭和天皇は妻の生理の回数や周期を把握しており、これには、伊勢神宮への参拝で「血の穢れ」を避けるためといった目的もありました。本書は、昭和天皇が妻を単なる生物のように無感情に観察していたのではないか、と指摘しますが、さすがにこれには、昭和天皇への悪意が込められているのではないか、と考えたくもなります。昭和天皇は皇太子(現在の明仁上皇)を「東宮ちゃん」と呼んでおり、成人して自分が譲位しても、新天皇と母親(香淳皇后)との間に面倒なことが起きるのではないか、と懸念していました。昭和天皇は、自身の苦い経験を息子にも投影していたわけです。昭和天皇は二・二六事件での言動から弟の秩父宮を、自分に代わって即位するつもりではないか、と警戒していたようですが、結核での療養が長引いていたことと、敗戦後に貞明皇太后や高松宮や三笠宮が退位を主張したのに対して、秩父宮は退位を主張しなかった、と認識していたことから、『昭和天皇拝謁記』の頃には秩父宮には同情的でした。一方で昭和天皇は、秩父宮の下の弟である高松宮とは、サイパン陥落の頃に高松宮が早期講和を進言したのに対して、自身は「一撃講和論」を主張したことから、関係が微妙だったようです。上述のように、昭和天皇は母に対して高松宮への不満を感情的に語っていました。本書は、昭和天皇が退位しないと決めたのには、高松宮が摂政になることへの反発もあったのではないか、と推測しています。昭和天皇は末弟の三笠宮に対しても不満を抱いており、末っ子であることで甘やかされて育ち、我儘になった、と考えていました。また、三笠宮が左派の学者と付き合い、左派的な言動を繰り返していることには、昭和天皇も田島も懸念していました。昭和天皇は次男の正仁親王(常陸宮)が高校生の頃にキリスト教に強い関心を抱いていることを懸念し、仏教や神道も知ってもらいたい、と田島に語っていますが、田島はキリスト教信仰と学業の進歩は関連している、と昭和天皇に語り、キリスト教自体は悪くないと考えていた昭和天皇は、この件で次男を叱責しませんでした。

 昭和天皇の人物評は、皇族以外も対象となっています。昭和天皇はマッカーサーに対して、共産党を過小評価している点に不満を抱きつつも、天皇制存続の決断には感謝していました。共産党を過小評価している点では、昭和天皇は首相の吉田茂にも不満を抱いていました。ただ本書は、昭和天皇が共産党を過大評価していた、と指摘します。また昭和天皇は、吉田首相が再軍備に否定的なことや、神奈川県の大磯にある私邸に平日も籠って閣議に出ないことにも不満でした。昭和天皇は吉田首相にこうした不満を抱きつつも、現実的には代わりの首相はいない、とも考えていました。その他の政治家では、戦後に一時的に公職追放となった鳩山一郎と岸信介にも昭和天皇は言及しています。鳩山一郎について昭和天皇は、張作霖爆殺事件の時の田中義一内閣の書記官長だった点を問題にしています。昭和天皇は岸信介に対して、対米英開戦時の閣僚で主戦的だったことを問題にしています。戦前と戦中の首相では、近衛文麿は無責任と指摘し、東条英機の方をより高く評価しています。知識人で昭和天皇が否定的に評価していた人物には、全面講和と退位を主張した南原繁がいます。また昭和天皇は、平泉澄など右派的な学者への不満も田島に語っており、その「皇国史観」に対しては批判だったようです。

 敗戦について昭和天皇は本音では、祖先に対する責任は感じていても、国民への責任を感じていなかったのではないか、と本書は推測します。昭和天皇は伊勢神宮というか天照大神に対しては宗教性を感じていたものの、宮中祭祀は宗教性があるものの宗教ではない、と考えていました。宮中祭祀を天理教などの神道と考えるのは、間違いというわけです。昭和天皇は戦後、靖国神社への参拝が「反米思想」に利用されることを懸念しており、この場合の「反米思想」とは、アメリカ合衆国への報復を願う右派的なものでした。上述のように、昭和天皇はキリスト教には好意的で、日本人の大半がキリスト教徒になれば、キリスト教への回収も象徴としてはよいかもしれない、と考えていましたが、それが現実的ではないことも認識していました。仏教に対しては、昭和天皇は冷淡だったようです。
https://sicambre.seesaa.net/article/202411article_23.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/754.html#c12

[近代史3] ディビット・バーガミニ _ 天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた 中川隆
11. 中川隆[-8389] koaQ7Jey 2024年11月25日 11:52:50 : EJVPzZhuvo : eTV2Rk9yUXZRMTY=[7]
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雑記帳 2024年11月23日
原武史『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』
https://sicambre.seesaa.net/article/202411article_23.html

https://www.amazon.co.jp/%E8%B1%A1%E5%BE%B4%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E5%AE%9F%E5%83%8F-%E3%80%8C%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%8B%9D%E8%AC%81%E8%A8%98%E3%80%8D%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%B0%E8%B5%A4%E7%89%88-2038-%E6%AD%A6%E5%8F%B2/dp/4004320380


 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2024年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は「昭和天皇拝謁記」に基づいて、思想や政治情勢の認識や人物評価など、昭和天皇の「実像」を浮き彫りしていきます。「昭和天皇拝謁記」とは、2021〜2023年に岩波書店から刊行された『昭和天皇拝謁記 初代宮内庁長官田島道治の記録』全7巻のことです。『昭和天皇拝謁記』は、第二次世界大戦後に第2代宮内府長官、さらには初代宮内庁長官を務めた田島道治(1885〜1968年)が、おもに宮内庁長官時代に昭和天皇とのやりとりをまとめた狭義の「拝謁記」(第1巻〜第5巻)と、田島の宮内府長官就任から宮内庁長官退任までの「日記」(第6巻)と、田島の退任後の日記や田島宛の書簡などの「関連資料」(第7巻)の総称です。本書がとくに重視するのは狭義の「拝謁記」で、天皇とのやり取りが口調まで忠実に再現されているそうです。本書は昭和天皇が田島には饒舌に語っていたことを指摘し、おそらくは私も含めて多少なりとも幼少期以降に昭和天皇と同時代を生きた人々にとって、やや意外な昭和天皇像と言えそうです。

 本書は、2015〜2019年にかけて宮内庁書陵部編修課によって編纂された『昭和天皇実録』全19冊などでは必ずしも明らかにならない、昭和天皇の等身大の人間像が『昭和天皇拝謁記』によって浮き彫りになる、とその史料的価値を高く評価しています。田島道治が宮内府長官を務めたのは1949〜1953年で、この期間の首相は吉田茂でした。田島が昭和天皇に拝謁した場所は多くの場合、宮内庁の庁舎3階の「御座所(表御座所)」か、空襲を想定して1942年12月に完成した御文庫だったそうです。この『昭和天皇拝謁記』からは、昭和天皇が政局や時局に公表できないような本音を吐露したり、日本国憲法の改正を主張したりと、日本国憲法となっても昭和天皇の意識はほぼ大日本帝国憲法のままだったことが窺える、と本書は評価しています。本書は、昭和天皇の発言の時系列に拘らず、一貫しているように見える昭和天皇の認識の分析を試み、それは、天皇観や政治および軍事観や戦前および戦中観や国土観や外国観や人物観や神道および宗教観や空間認識などです。以下、とくに興味深い昭和天皇の発言と本書の解釈を、備忘録として記していきます。

 昭和天皇は日本国憲法に規定された「象徴」としての天皇の地位について突き詰めて考えた形跡がなく、その天皇観は戦前の思考から抜けきらなかった、と評価しています。ただ、本書で取り上げられている他の昭和天皇の発言からは、日本国憲法下では華族のような「藩屏」がおらず、国民の支持を得ることが重要と理解しているように窺え、本書の評価は昭和天皇にやや厳しすぎるようにも思います。ただ、昭和天皇が日本国憲法に対して不満を抱き、政治外交への関与を志向していた、との本書の指摘は妥当なように思います。昭和天皇の政治観としては、共産主義への強い警戒感と、民主主義への懐疑が目立ちます。これは、政党政治に対する不信感でもあり、戦前の体験が大きく影響していたようです。軍備に関して、昭和天皇は日本国憲法に第9条にたいへん不満だったようで、再軍備は必要と確信していたようです。戦前から戦中の判断については、昭和天皇に言い訳がましさを感じますが、昭和天皇の個人的立場としてはそう言いたくなる気持ちも分かります。ただ、これは国民には絶対公表できないことでしょうし、昭和天皇も国民に公表されないことを前提に、そう発言しているのでしょう。

 日本の範囲について昭和天皇は、日清戦争前の領土を日本固有の領土と考えていたようです。昭和天皇は北海道への訪問に強いこだわりがあり、それは地理的にソ連からの侵略を受けやすいからでした。これは、共産主義とともに、ソ連が日ソ中立条約を破ったことへの強い警戒感もありました。『昭和天皇拝謁記』の頃のほとんどの期間においてソ連の最高権力者はスターリンで、昭和天皇はスターリン体制をマルクス主義より遊離している帝国主義と評価しているのは、昭和天皇の認識を理解するうえで興味深いと思います。昭和天皇は一方でアメリカ合衆国に対しては、急進的な改革の日本への押しつけが国民を共産主義に追いやるのではないか、などと不満もありつつも、第二次世界大戦後の日本への「寛容な」方針を感謝していました。中華人民共和国に対して、やはり共産主義であることや、チベットなどへの侵略国として昭和天皇は警戒していましたが、ソ連よりはましと考えていたようです。昭和天皇は朝鮮戦争に強い関心を抱いており、それは日本に近い朝鮮半島が共産主義国として統一されることへの警戒感に由来しますが、朝鮮については、「常にいづれかに隷属していた国民だから、どうも武か何か圧力で行くより仕方のない人種だよ。日本も鴨緑江でやめておくべきだった」と考えており、つまりは日本による韓国併合は妥当だった、と認識していたわけです。本書は、こうした昭和天皇の蔑視的な朝鮮観が当時の日本の知識人に共有されていたことを指摘します。

 こうした昭和天皇の「本音」が、昭和時代に日本国民に漏れることはほぼなく、昭和天皇自身も、自身の意見や好みなどが日本国民に伝わらないよう、節制していた、と昭和天皇と短いながら同時代を生きた私には思えます。それだけに、昭和天皇が1973年放送の大河ドラマ『国盗り物語』を視聴していたとか、大相撲で関脇まで昇進した蔵間関がなかなか大関に昇進しないことを気にしていたとか、昭和天皇の個人的な嗜好や人柄や認識などが窺える逸話に、野次馬的というか下衆的な興味を抱く人は私も含めて少なくないでしょう。そうした低俗な関心で注目度が高いのはやはり人物評で、それは昭和天皇の認識や歴史の解明において重要な情報ではあるものの、低俗な人間の一人として、私もつい醜聞的な曝露への関心からも昭和天皇の人物評を楽しみに読んでしまいました。

 本書は昭和天皇の人物評でも、『昭和天皇拝謁記』で言及が多いこともあり、その母親である貞明皇太后を大きく取り上げています。昭和天皇と貞明皇太后の関係は悪かったようで、昭和天皇には、強硬派の貞明皇太后が終戦の決断を妨げた、といった恨み節に近い感情もあったようです。昭和天皇は母親を感情的で意見がすぐ変わる不安定な人として、不満が多かったようです。こうした貞明皇太后観は昭和天皇だけではなく、昭和天皇の弟の高松宮など、皇族では広く共有されていたようです。『昭和天皇拝謁記』の頃の首相だった吉田茂も、貞明皇太后を「二重人格」と言っていたそうです。昭和天皇は母について、時流に阿る性格があることも指摘しています。貞明皇太后は戦中に、軍人を招いて激励することがあり、昭和天皇はこれに悩んでいたそうです。ところが、敗戦後には、母は合法化された日本共産党に同情的になっている、と昭和天皇は認識していました。また、貞明皇太后は話上手の人物を好み、それ故に自分より弟の秩父宮を気に入っていた、とも昭和天皇は考えていたようです。一方で田島は日記に貞明皇太后と会ったことも書き残しており、貞明皇太后の方は、高松宮への不満を自分に対して興奮気味に語る昭和天皇が、帝としては感情的に過ぎるのではないか、と不満を抱いていたようです。昭和天皇は戦前から母に会うと冷静ではいられない傾向があったようで、昭和天皇が母親を感情的と考えていたように、母親も息子が感情的と考えていたようです。昭和天皇が母の前では冷静でいられないのは、摂政時代に女官制度の改革や宮中祭祀で母と対立し、その件で母を恐れていたからで、それは昭和天皇の皇后も同様でした。昭和天皇は田島が貞明皇太后に会っていたのかどうかも気にしており、これには貞明皇太后の機嫌を探る目的があったようです。田島はこうした貞明皇太后と昭和天皇の母子関係について、昭和天皇に対して困惑していたというか、批判的だったようにも見えます。昭和天皇は、1946年2月に巡幸を開始すると、貞明皇太后も1948年から本格的に行啓を始めたことにも不満だったようです。貞明皇太后は1951年5月17日に急逝しますが、その後も昭和天皇の母への言及は続き、むしろ気兼ねなく語れるようになったのではないか、と本書は指摘します。昭和天皇は、両親(大正天皇と貞明皇太后)の仲がよくなかったのではないか、とも考えていました。田島は昭和天皇に、両親の仲を詮索しないよう、忠告しています。貞明皇太后の死後1ヶ月ほど経過して、まだ皇后だった頃の1926年10月22日付の貞明皇太后の遺書が発見されました。この遺書は公表されておらず、高松宮の日記で概要が書き残されているだけですが、『昭和天皇拝謁記』にはこの遺書に関する昭和天皇と田島のやり取りが見えます。貞明皇太后の遺書には、遺品を寺院に下賜せよ、とあったようです。また貞明皇太后の遺書には、秩父宮と三笠宮には由緒ある家宝を伝えたい、とあったようですが、これが何か、昭和天皇は判断を悩み、三種の神器である可能性も考えました。しかし、さすがにそれは無理なので、違うことをやるしかない、と昭和天皇は判断します。一方で、昭和天皇は父親である大正天皇について、田島に語ることは少なく、もっと親孝行すべきだった、とのべているくらいです。

 昭和天皇は妻の香淳皇后や他の皇族についても、田島に語っています。昭和天皇は妻を、その名前(良子)に因んで「良宮」と呼んでいます。昭和天皇の結婚は、良子女王が色覚異常関連の遺伝子を有している、との懸念から「宮中某重大事件」に至之くしたが、昭和天皇は妻が色覚異常であることを「うそではない」と田島に述べています。昭和天皇は妻の生理の回数や周期を把握しており、これには、伊勢神宮への参拝で「血の穢れ」を避けるためといった目的もありました。本書は、昭和天皇が妻を単なる生物のように無感情に観察していたのではないか、と指摘しますが、さすがにこれには、昭和天皇への悪意が込められているのではないか、と考えたくもなります。昭和天皇は皇太子(現在の明仁上皇)を「東宮ちゃん」と呼んでおり、成人して自分が譲位しても、新天皇と母親(香淳皇后)との間に面倒なことが起きるのではないか、と懸念していました。昭和天皇は、自身の苦い経験を息子にも投影していたわけです。昭和天皇は二・二六事件での言動から弟の秩父宮を、自分に代わって即位するつもりではないか、と警戒していたようですが、結核での療養が長引いていたことと、敗戦後に貞明皇太后や高松宮や三笠宮が退位を主張したのに対して、秩父宮は退位を主張しなかった、と認識していたことから、『昭和天皇拝謁記』の頃には秩父宮には同情的でした。一方で昭和天皇は、秩父宮の下の弟である高松宮とは、サイパン陥落の頃に高松宮が早期講和を進言したのに対して、自身は「一撃講和論」を主張したことから、関係が微妙だったようです。上述のように、昭和天皇は母に対して高松宮への不満を感情的に語っていました。本書は、昭和天皇が退位しないと決めたのには、高松宮が摂政になることへの反発もあったのではないか、と推測しています。昭和天皇は末弟の三笠宮に対しても不満を抱いており、末っ子であることで甘やかされて育ち、我儘になった、と考えていました。また、三笠宮が左派の学者と付き合い、左派的な言動を繰り返していることには、昭和天皇も田島も懸念していました。昭和天皇は次男の正仁親王(常陸宮)が高校生の頃にキリスト教に強い関心を抱いていることを懸念し、仏教や神道も知ってもらいたい、と田島に語っていますが、田島はキリスト教信仰と学業の進歩は関連している、と昭和天皇に語り、キリスト教自体は悪くないと考えていた昭和天皇は、この件で次男を叱責しませんでした。

 昭和天皇の人物評は、皇族以外も対象となっています。昭和天皇はマッカーサーに対して、共産党を過小評価している点に不満を抱きつつも、天皇制存続の決断には感謝していました。共産党を過小評価している点では、昭和天皇は首相の吉田茂にも不満を抱いていました。ただ本書は、昭和天皇が共産党を過大評価していた、と指摘します。また昭和天皇は、吉田首相が再軍備に否定的なことや、神奈川県の大磯にある私邸に平日も籠って閣議に出ないことにも不満でした。昭和天皇は吉田首相にこうした不満を抱きつつも、現実的には代わりの首相はいない、とも考えていました。その他の政治家では、戦後に一時的に公職追放となった鳩山一郎と岸信介にも昭和天皇は言及しています。鳩山一郎について昭和天皇は、張作霖爆殺事件の時の田中義一内閣の書記官長だった点を問題にしています。昭和天皇は岸信介に対して、対米英開戦時の閣僚で主戦的だったことを問題にしています。戦前と戦中の首相では、近衛文麿は無責任と指摘し、東条英機の方をより高く評価しています。知識人で昭和天皇が否定的に評価していた人物には、全面講和と退位を主張した南原繁がいます。また昭和天皇は、平泉澄など右派的な学者への不満も田島に語っており、その「皇国史観」に対しては批判だったようです。

 敗戦について昭和天皇は本音では、祖先に対する責任は感じていても、国民への責任を感じていなかったのではないか、と本書は推測します。昭和天皇は伊勢神宮というか天照大神に対しては宗教性を感じていたものの、宮中祭祀は宗教性があるものの宗教ではない、と考えていました。宮中祭祀を天理教などの神道と考えるのは、間違いというわけです。昭和天皇は戦後、靖国神社への参拝が「反米思想」に利用されることを懸念しており、この場合の「反米思想」とは、アメリカ合衆国への報復を願う右派的なものでした。上述のように、昭和天皇はキリスト教には好意的で、日本人の大半がキリスト教徒になれば、キリスト教への回収も象徴としてはよいかもしれない、と考えていましたが、それが現実的ではないことも認識していました。仏教に対しては、昭和天皇は冷淡だったようです。
https://sicambre.seesaa.net/article/202411article_23.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/760.html#c11

[近代史4] J・F・ケネディ-はヤラセの東西冷戦体制を終わらせようとしたのでユダヤ金融資本に殺された 中川隆
22. 中川隆[-8388] koaQ7Jey 2024年11月25日 12:44:18 : EJVPzZhuvo : eTV2Rk9yUXZRMTY=[8]
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2024.11.24XML
JFK暗殺:ソ連に対する先制核攻撃を目論む勢力のクーデター
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202411240000/

 キューバ危機を話し合いで解決、ソ連との核戦争を回避することに成功したジョン・F・ケネディ大統領は1963年6月10日、アメリカン大学の学位授与式でソ連と平和共存する道を歩き始めると宣言した。いわゆる「平和の戦略」を打ち出したのだ。それから5カ月後の11月22日、テキサス州ダラスでケネディ大統領は暗殺された。この出来事をクーデターと考える人は少なくない。

 アメリカが軍事力で世界に押しつける「パックス・アメリカーナ(アメリカ支配による平和)」を否定することから演説は始まり、アメリカ市民は「まず内へ目を向けて、平和の可能性に対する、ソ連に対する、冷戦の経過に対する、また米国内の自由と平和に対する、自分自身の態度を検討しはじめるべき」(長谷川潔訳『英和対訳ケネディ大統領演説集』南雲堂、2007年)だと語りかけた。

 ケネディ大統領はソ連とアメリカとの間で全面戦争が起これば、いずれの国も破壊されると指摘、冷戦の段階でも「両国はともに無知と貧困と病気を克服するためにあてることができるはずの巨額のカネを、大量の兵器に投じている」と警鐘を鳴らしている。

 相手国に対して「屈辱的な退却か核戦争」を強いるのではなく、緊張の緩和を模索するべきだとしたうえで、自分たちの遠大な関心事は「全面完全軍縮」だと表明、核実験の禁止を訴え、他国がしない限りという条件付きで、アメリカは大気圏の核実験をしないと宣言している。

 第2次世界大戦後、敗戦国の日本やドイツだけでなく、戦場になったヨーロッパやロシアも疲弊していた。そうした中、アメリカは国土の大半が戦場にはならず、軍事物資の生産や金融などで大儲け、しかもドイツや日本が戦争中に略奪した財宝も手に入れていたと見られている。軍事的にも経済的にもアメリカは優位な立場にあった。

 それだけでなく、1944年7月22日にはアメリカのニュー・ハンプシャー州ブレトン・ウッズに連合国44カ国の代表が集まって会議を開いて通貨金融に関する協定を締結、戦後の国際通貨金融システムのあり方を決め、アメリカは国際通貨金融を支配できるようになる。世界を支配するための障害はソ連だけだったが、そのソ連はドイツとの戦争で疲弊していた。

 ドイツ軍は1941年6月にソ連に対する奇襲攻撃、バルバロッサ作戦を開始している。西側には約90万人だけを残し、310万人を東側へ投入するという非常識なものだが、これはアドルフ・ヒトラーの命令で実行されたという。これだけの作戦を実行するためには半年から1年は準備のために必要なはずだが、1940年9月から41年5月までの間、ドイツ軍はイギリスを空爆していた。これは陽動作戦だったと見ることもできる。

 1941年7月にドイツ軍はレニングラードを包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達した。ヒトラーはソ連軍が敗北したと確信、再び立ち上がることはないと10月3日にベルリンで語っている。またウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官でNATOの初代事務総長に就任するヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測しながら傍観していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 しかし、ソ連軍の抵抗でこうした予想通りにことは進まず、ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入するものの、ここでソ連軍に敗北し、1943年1月に降伏。この段階でドイツの敗北は決定的だ。

 そこでアメリカやイギリスの支配層は慌て始め、1943年1月にフランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相はフランスのシャルル・ド・ゴールらとカサブランカで会談している。この時に出てきた「無条件降伏」は戦争を長引かせ、ソ連対策を講じようとしたのだとも言われている。「ソ連勝利」の事実を隠蔽するために使われたのはハリウッド映画だ。

 その当時、アメリカでは原子爆弾の研究開発プロジェクトが進められていた。「マンハッタン計画」だが、これを主導した国はイギリスだった。1940年2月にバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいてプロジェクトが始まり、MAUD委員会なるものが設立されている。

 1943年には核兵器用のウランとプルトニウムを製造するため、テネシー州オーク・リッジに4施設が建設され、そのひとつはオーク・リッジ国立研究所へと発展した。ワシントン州に建設されたハンフォード・サイトではプルトニウムを製造するため、1944年9月にB原子炉が作られている。

 この「マンハッタン計画」を統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将(当時)は1944年、同計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、その計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 ルーズベルトは1945年4月12日に急死、その翌月の上旬にドイツは降伏するが、その直後にチャーチルはソ連への奇襲攻撃を目論む。そこでJPS(合同作戦本部)に対して作戦を立案を命令し、5月22日には「アンシンカブル作戦」が提出された。

 その作戦によると、1945年7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で奇襲攻撃、「第3次世界大戦」を始めることになっていた。この作戦が実行されなかったのは、参謀本部が計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 チャーチルは1945年7月26日に退陣するが、大戦後の46年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行い、「冷戦」の幕開けを宣言した。FBIの文書によると、チャーチルは1947年にアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている。(Daniel Bates, “Winston Churchill’s ‘bid to nuke Russia’ to win Cold War - uncovered in secret FBI files,” Daily Mail, 8 November 2014)

 日本がポツダム宣言の受諾を通告してから約1カ月後、アメリカの統合参謀本部では必要なら先制攻撃を行うことが決められた。この決定は「ピンチャー」という暗号名で呼ばれ、1946年6月18日に発効している。(Annie Jacobsen, “Area 51”, Little, Brown, 2011)

 原爆を手にしたアメリカの支配階級はソ連を先制核攻撃する計画を立てる。1949年に出された統合参謀本部の研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 アメリカは1952年11月に水爆実験を成功させ、核分裂反応を利用した原子爆弾から核融合反応を利用した水素爆弾に核兵器の主役は移っていく。勿論、核兵器を使うには運搬手段が必要。この当時、原爆の輸送手段は爆撃機で、その任務を負っていたのがSAC(戦略空軍総司令部)だ。1948年から57年にかけてSACの司令官を務めたのは日本の諸都市で市民を焼夷弾で焼き殺し、広島や長崎に原爆を落とし、朝鮮戦争では3年間に人口の20%を殺したカーティス・ルメイ中将にほかならない。

 中国を核攻撃する場合、日本や沖縄が出撃拠点になるが、その沖縄では1950年代に「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収され、軍事基地化が推し進められていた。1953年4月に公布/施行された布令109号「土地収用令」に基づき、武装米兵を動員した暴力的な土地接収が実施され、55年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になっている。

 SACは1954年に600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%を殺すという計画を立て、57年に作成された「ドロップショット作戦」では300発の核爆弾をソ連の100都市に落とすることになっていた。

 その頃、アメリカではICBMの準備が進められ、​統合参謀本部議長のライマン・レムニッツァーや空軍参謀長だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年後半までにソ連を先制核攻撃する計画をたてた​。まだソ連がICBMの準備ができていない時点で攻撃したかったのだ。その作戦の障害になっていたケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されたのだ。

 しかし、ケネディ大統領の暗殺計画はその前から動いていた。大統領は1963年11月2日にシカゴを訪れる予定になっていたが、そのシカゴで大統領を暗殺する計画があるとする警告が警備当局に対し、2カ所からもたらされている。ひとつはFBIの情報提供者「リー」から、もうひとつはシカゴ警察のバークレー・モイランド警部補からだ。

 FBIが入手した情報によると、パレードの途中で4名のスナイパーが高性能ライフルで大統領を狙うとされていた。その情報はシークレット・サービスへも伝えられている。ちなみに、ケネディ大統領暗殺の容疑者として逮捕され、警察で殺されたリー・ハーベイ・オズワルドはFBIの情報提供者だと言われている。シークレット・サービスのシカゴ支部は容疑者を監視、11月1日に2名を逮捕したが、残りの2名には逃げられてしまう。

 また、モイランド警部補の話は「ケネディ嫌いの男がいる」というもの。10月の後半にシカゴのカフェテリアで食事をしていたモイランドは、そこの経営者からケネディ大統領に関して不穏当な話をする常連客がいることを知らされたのだ。そこで警部補はその男が来るのを待ち、トーマス・アーサー・ベイリーだと確認してからシークレット・サービスに連絡している。(James W. Douglass, “JFK”, Orbis, 2008)

 ベイリーは元海兵隊員で、ジョン・バーチ協会に所属。海兵隊時代にはJTAG(統合技術顧問グループ)のメンバーとして日本にいた。オズワルドも1956年7月に日本の厚木基地の第1航空管制大隊へ配属されている。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 ケネディ大統領がシカゴのオハラ空港へ到着する予定時刻の30分前、11月2日午前9時10分(東部時間10時10分)にベイリーは逮捕され、シークレット・サービスの取り調べを受けてから収監されたのだが、シークレット・サービスのエージェントは暗殺未遂事件に関する文書を作成していないという。担当の特別エージェント、モーリス・マーティノーの命令だった。

 ケネディ大統領のシカゴ訪問が取りやめになったことは東部時間で10時15分に発表されている。少なくともその10分前に取りやめは決まっていたはずで、このケースでは10時に関係者は決定を聞いていたと言われている。つまり、大統領の訪問中止が決まった約10分後に警察はベイリーを逮捕したことになる。

 そうした情況にあったため、大統領の周辺、例えばウイリアム・フルブライト上院議員たちは大統領に対し、ダラス行きを中止するようにワシントンDCで20日に忠告しているのだが、取りやめにならなかった。(Anthony Summers, "The Kennedy Conspiracy," Paragon House, 1989

 ケネディ大統領のダラス訪問は1963年4月にリンドン・ジョンソン副大統領が発表している。ダラスに不穏な空気が漂っていたことは大統領自身も承知していたはずだが、大統領は予定を変えず、11月21日の夜にフォート・ワース入りした。

 その日から翌日の未明まで、警備を担当するシークレット・サービスのエージェントの多くが「セラー(穴蔵)」というナイトクラブへ繰り出して騒いでいた。そのナイトクラブを経営するパット・カークウッドはジャック・ルビー、つまり、オズワルドを警察署で射殺したとされている人物の友人だという。(Robert J. Groden, “The Killing Of A President”, Bloomsbury, 1993)

 大統領一行は11月22日の朝にフォート・ワースのカーズウェル空軍基地からダラスのラブ・フィールドへ移動、パレード用のリンカーン・コンバーティブルに乗り込んだ。

 このリムジンは防弾仕様でなく、屋根はシークレット・サービスのウィンストン・ローソンの指示で取り外されていた。またリムジンのリア・バンパーの左右には人の立てるステップがあり、手摺りもついているのだが、パレードのときには誰も乗っていない。大統領の指示だったという話もあるが、エージェントだったジェラルド・ベーンは大統領がそうした発言をするのを聞いていないと証言している。元エージェントのロバート・リリーに言わせると、大統領はシークレット・サービスに協力的で警備の方法に口出しすることはなかった。

 12時30分頃、ケネディ大統領は暗殺された。後ろの教科書ビルから撃たれたことになっているが、映像を見ても証言を調べても、致命傷になったであろう銃撃は前方からのものだった可能性がきわめて高い。教科書ビルの所有者はリンドン・ジョンソンの親友だったデイビッド・バード。そのビルに入っていてオズワルドが働いていたテキサス評価書倉庫なる会社のオーナーは、FBIに君臨していたJ・エドガー・フーバーの友人、ジャック・ケイソンだ。

 銃撃が始まると、大統領を乗せたリムジンの後ろを走る自動車にいた特別エージェントのエモリー・ロバーツは部下のエージェントに対し、銃撃だと確認されるまで動くなと命令するが、これを無視してエージェントのクリント・ヒルは前のリムジンに飛び乗った。

 ヒルによると、銃撃の後に喉を押さえるケネディ大統領を見てのことで、まだステップに足がかかる前、血、脳の一部、頭骨の破片が自分に向かって飛んできて、顔、衣類、髪の毛についたとしている。ステップにヒルの足がかかった時、大統領夫人のジャクリーンもボンネットの上に乗り、大統領の頭部の一部を手に触れようとしていた。その時、大統領の頭部の中が見えたという。リムジンの前方から銃撃されたことは決定的だ。(Clint Hill with Lisa McCubin, “Mrs. Kennedy and Me”, Gallery Books, 2012)事件を調査したウォーレン委員会でジャクリーンは髪の毛を元に戻そうとしたと証言しているが、委員会の報告書からは削除された。

 銃撃の直後、ダラス警察のジョー・マーシャル・スミスはパレードの前方にあった「グラッシー・ノール(草で覆われた丘)」へ駆けつけ、硝煙の臭いを嗅いでいる。そこで近くの駐車場にいた自動車修理工のように見えた男を職務質問したところ、シークレット・サービスのエージェントだということを示されたのだが、そこにシークレット・サービスの人間は配置されていなかったことが後に判明している。

 兵士のゴードン・アーノルドは銃撃の直前、「シークレット・サービスのエージェント」をそこで見たと語っている。パレードを見やすい場所を探してグラッシー・ノールに近づいたところ、私服の男に遮られ、近づかないようにと言われたというのだ。アーノルドが抗議したところバッジを見せながらシークレット・サービスだと名乗ったという。

 銃撃が収まってから、今度はふたりの制服を着た「警察官」がアーノルドに近づいて、フィルムを渡すように命じた。アーノルドは素直に渡している。そのフィルムがどうなったかは不明だ。やはり銃撃後、グラッシー・ノールのフェンス近くを走っていたジーン・ヒルもシークレット・サービスを名乗る人物からフィルムを全て取り上げられている。ただ、エイブラハム・ザプルーダーが撮影した8ミリフィルムは後に公開されている。

 事件直後、そのフィルムに関する全ての権利を写真雑誌LIFEの編集者リチャード・ストーリーが5万ドルでザプルーダーから買い取ってシカゴの現像所へ運び、オリジナルはシカゴに保管、コピーをニューヨークへ送ったとされていた。

 ジャクソンはフィルムが外部に漏れることを警戒し、ストーリーに対して動画に関する権利も買い取るように指示。この契約でLIFEはザプルーダー側へさらに10万ドル、合計15万ドルを支払っている。後にオリジナルのほか3本のコピーが作られ、オリジナルはCIAと国防総省の共同プロジェクトとして設立されたNPIC(国家写真解析センター)へ送られたことがわかる。なお、NPICは1996年にNIMA(国家画像地図局)に組み込まれた。現在のNGA(国家地理空間情報局)だ。

 このフィルムをNPICが保管していることを知ったCIA長官のジョン・マコーンは持ってくるように指示、映像を見ている。NPICはそれをオリジナルだとしていたが、本当のところは不明。マコーンはロバート・ケネディに対し、銃撃にはふたりの人間が関係しているという映像から受けた印象を語ったという。またNPICのスタッフで事件直後に映像を見たホーマー・マクマホンによると、銃撃は約8回、少なくとも3方向から撃たれているとしている。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 ザプルーダー・フィルムは長い間、一般に公表されていない。フィルムを隠したC・D・ジャクソンはアイゼンハワー大統領のスピーチライターを務めた人物で、アレン・ダレス、フランク・ウィズナー、リチャード・ヘルムズ、フィリップ・グラハムを中心とするメディア支配プロジェクトの協力者でもあった。

 このフィルムを公開させたのがルイジアナ州ニュー・オーリンズの地方検事だったジム・ギャリソン。これがオリジナルである保証はないのだが、ともかくそれを1969年2月に法廷で映写させた。ただ、フィルムには大きな傷があり、見えない部分がある。

 その傷に関し、LIFE側は現像所の技術的なミスで損傷を与えたと説明したが、有名写真雑誌のプロがそうしたミスをするとは考えにくい。いつ、どのようにして傷つけたかを明確にするべきだが、現在に至るまで納得のできる説明はない。

 本来ならフィルムを隠したC・D・ジャクソンから事情を聞くべきなのだが、大統領が暗殺された翌年、1964年9月18日に彼は62歳で死亡している。

 ケネディ大統領の死亡が確認されたのはダラスのパークランド記念病院。死体を見た同病院のスタッフ21名は前から撃たれていたと証言、確認に立ち会ったふたりの医師、マルコム・ペリーとケンプ・クラークは大統領の喉仏直下に入射口があると記者会見で語っている。前から撃たれたということだ。

 その後、ペリーにベセズダ海軍病院から電話が執拗にかかり、記者会見での発言を撤回するように求められたという。これは同病院で手術や回復のための病室を統括していた看護師、オードリー・ベルの証言。ペリー本人から23日に聞いたというが、数カ月後にそのペリーは記者会見での発言を取り消し、喉の傷は出射口だとする。ウォーレン委員会でもそのように証言した。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyborse, 2013)

 大統領の死体は法律を無視してパークランド記念病院から強引に運び出され、検死解剖はワシントンDCのベセズダ海軍病院で行われた。担当した軍医のジェームズ・ヒュームスは検死に不慣れだったとも言われている。

 ケネディ大統領の暗殺を調査するため、リンドン・ジョンソン新大統領は1963年11月29日に「ケネディ大統領暗殺に関する大統領委員会」を設置、アール・ウォーレン最高裁長官を委員長に据えた。委員長の名前から「ウォーレン委員会」と呼ばれることが多い。

 委員会のメンバーはウォーレンのほか、リチャード・ラッセル上院議員(当時、以下同じ)、ジョン・クーバー上院議員、ヘイル・ボッグス下院議員、ジェラルド・フォード下院議員、アレン・ダレス元CIA長官、ジョン・マックロイ元世界銀行総裁がいた。そして主席法律顧問はリー・ランキンだ。

 ダレスはウォール街の大物弁護士で、大戦中からOSSの幹部として破壊活動を指揮、戦後CIA長官になるが、ケネディ大統領に解任させられている。マックロイはウォール街の大物で、大戦の後に世界銀行の総裁を経てドイツの高等弁務官としてナチスの大物たちを守った。フォードはJ・エドガー・フーバーFBI長官に近く、ランキンはCIAとFBIにつながっている。ダレスは委員会の中で唯一の専従だった。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 この委員会にはCIAやFBIから情報が提供されたが、1964年1月にはCIAとの連絡係としてジェームズ・アングルトンが任命された。FBIはウィリアム・サリバンが担当している。(Michael Holzman, “James Jesus Angleton,” University of Massachusetts Press Amherst, 2008)

 ウォーレン委員会が暗殺に関する報告書と出した3週間後の1964年10月12日、ケネディ大統領と親密な関係にあったマリー・ピンチョット・メイヤーが散歩中に射殺された。銃弾の1発目は後頭部、2発目は心臓へ至近距離から撃ち込まれている。プロの仕業だ。

 ウォーレン委員会の結論はリー・ハーベイ・オズワルドの単独犯行だが、この結論をヘイル・ボッグスは口頭で批判していたという。ボッグスは1966年、委員会の腐敗した状況をジム・ギャリソンに話しているという。ボッグスを乗せたセスナ310は1972年10月16日、アラスカで行方不明になった。(Joan Mellen, “A Farewell to Justice,” Potomac Books, 2007)

 ケネディ暗殺の際、CIA、シークレット・サービス、警察などに不可解な動きがあり、複数の狙撃者がいたことを示す証拠や証言が次々と明らかになる。それに対抗し、単独犯説を主張する勢力は「陰謀論」という呪文を考えつき、連呼するようになった。事実を隠蔽する呪文として多用されている「陰謀論」はこの時から盛んに使われている。
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[近代史3] ケネディはヤラセの東西冷戦体制を終わらせようとしたのでユダヤ金融資本に殺された 中川隆
24. 中川隆[-8387] koaQ7Jey 2024年11月25日 12:44:40 : EJVPzZhuvo : eTV2Rk9yUXZRMTY=[9]
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2024.11.24XML
JFK暗殺:ソ連に対する先制核攻撃を目論む勢力のクーデター
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 キューバ危機を話し合いで解決、ソ連との核戦争を回避することに成功したジョン・F・ケネディ大統領は1963年6月10日、アメリカン大学の学位授与式でソ連と平和共存する道を歩き始めると宣言した。いわゆる「平和の戦略」を打ち出したのだ。それから5カ月後の11月22日、テキサス州ダラスでケネディ大統領は暗殺された。この出来事をクーデターと考える人は少なくない。

 アメリカが軍事力で世界に押しつける「パックス・アメリカーナ(アメリカ支配による平和)」を否定することから演説は始まり、アメリカ市民は「まず内へ目を向けて、平和の可能性に対する、ソ連に対する、冷戦の経過に対する、また米国内の自由と平和に対する、自分自身の態度を検討しはじめるべき」(長谷川潔訳『英和対訳ケネディ大統領演説集』南雲堂、2007年)だと語りかけた。

 ケネディ大統領はソ連とアメリカとの間で全面戦争が起これば、いずれの国も破壊されると指摘、冷戦の段階でも「両国はともに無知と貧困と病気を克服するためにあてることができるはずの巨額のカネを、大量の兵器に投じている」と警鐘を鳴らしている。

 相手国に対して「屈辱的な退却か核戦争」を強いるのではなく、緊張の緩和を模索するべきだとしたうえで、自分たちの遠大な関心事は「全面完全軍縮」だと表明、核実験の禁止を訴え、他国がしない限りという条件付きで、アメリカは大気圏の核実験をしないと宣言している。

 第2次世界大戦後、敗戦国の日本やドイツだけでなく、戦場になったヨーロッパやロシアも疲弊していた。そうした中、アメリカは国土の大半が戦場にはならず、軍事物資の生産や金融などで大儲け、しかもドイツや日本が戦争中に略奪した財宝も手に入れていたと見られている。軍事的にも経済的にもアメリカは優位な立場にあった。

 それだけでなく、1944年7月22日にはアメリカのニュー・ハンプシャー州ブレトン・ウッズに連合国44カ国の代表が集まって会議を開いて通貨金融に関する協定を締結、戦後の国際通貨金融システムのあり方を決め、アメリカは国際通貨金融を支配できるようになる。世界を支配するための障害はソ連だけだったが、そのソ連はドイツとの戦争で疲弊していた。

 ドイツ軍は1941年6月にソ連に対する奇襲攻撃、バルバロッサ作戦を開始している。西側には約90万人だけを残し、310万人を東側へ投入するという非常識なものだが、これはアドルフ・ヒトラーの命令で実行されたという。これだけの作戦を実行するためには半年から1年は準備のために必要なはずだが、1940年9月から41年5月までの間、ドイツ軍はイギリスを空爆していた。これは陽動作戦だったと見ることもできる。

 1941年7月にドイツ軍はレニングラードを包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達した。ヒトラーはソ連軍が敗北したと確信、再び立ち上がることはないと10月3日にベルリンで語っている。またウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官でNATOの初代事務総長に就任するヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測しながら傍観していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 しかし、ソ連軍の抵抗でこうした予想通りにことは進まず、ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入するものの、ここでソ連軍に敗北し、1943年1月に降伏。この段階でドイツの敗北は決定的だ。

 そこでアメリカやイギリスの支配層は慌て始め、1943年1月にフランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相はフランスのシャルル・ド・ゴールらとカサブランカで会談している。この時に出てきた「無条件降伏」は戦争を長引かせ、ソ連対策を講じようとしたのだとも言われている。「ソ連勝利」の事実を隠蔽するために使われたのはハリウッド映画だ。

 その当時、アメリカでは原子爆弾の研究開発プロジェクトが進められていた。「マンハッタン計画」だが、これを主導した国はイギリスだった。1940年2月にバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいてプロジェクトが始まり、MAUD委員会なるものが設立されている。

 1943年には核兵器用のウランとプルトニウムを製造するため、テネシー州オーク・リッジに4施設が建設され、そのひとつはオーク・リッジ国立研究所へと発展した。ワシントン州に建設されたハンフォード・サイトではプルトニウムを製造するため、1944年9月にB原子炉が作られている。

 この「マンハッタン計画」を統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将(当時)は1944年、同計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、その計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 ルーズベルトは1945年4月12日に急死、その翌月の上旬にドイツは降伏するが、その直後にチャーチルはソ連への奇襲攻撃を目論む。そこでJPS(合同作戦本部)に対して作戦を立案を命令し、5月22日には「アンシンカブル作戦」が提出された。

 その作戦によると、1945年7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で奇襲攻撃、「第3次世界大戦」を始めることになっていた。この作戦が実行されなかったのは、参謀本部が計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 チャーチルは1945年7月26日に退陣するが、大戦後の46年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行い、「冷戦」の幕開けを宣言した。FBIの文書によると、チャーチルは1947年にアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている。(Daniel Bates, “Winston Churchill’s ‘bid to nuke Russia’ to win Cold War - uncovered in secret FBI files,” Daily Mail, 8 November 2014)

 日本がポツダム宣言の受諾を通告してから約1カ月後、アメリカの統合参謀本部では必要なら先制攻撃を行うことが決められた。この決定は「ピンチャー」という暗号名で呼ばれ、1946年6月18日に発効している。(Annie Jacobsen, “Area 51”, Little, Brown, 2011)

 原爆を手にしたアメリカの支配階級はソ連を先制核攻撃する計画を立てる。1949年に出された統合参謀本部の研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 アメリカは1952年11月に水爆実験を成功させ、核分裂反応を利用した原子爆弾から核融合反応を利用した水素爆弾に核兵器の主役は移っていく。勿論、核兵器を使うには運搬手段が必要。この当時、原爆の輸送手段は爆撃機で、その任務を負っていたのがSAC(戦略空軍総司令部)だ。1948年から57年にかけてSACの司令官を務めたのは日本の諸都市で市民を焼夷弾で焼き殺し、広島や長崎に原爆を落とし、朝鮮戦争では3年間に人口の20%を殺したカーティス・ルメイ中将にほかならない。

 中国を核攻撃する場合、日本や沖縄が出撃拠点になるが、その沖縄では1950年代に「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収され、軍事基地化が推し進められていた。1953年4月に公布/施行された布令109号「土地収用令」に基づき、武装米兵を動員した暴力的な土地接収が実施され、55年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になっている。

 SACは1954年に600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%を殺すという計画を立て、57年に作成された「ドロップショット作戦」では300発の核爆弾をソ連の100都市に落とすることになっていた。

 その頃、アメリカではICBMの準備が進められ、​統合参謀本部議長のライマン・レムニッツァーや空軍参謀長だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年後半までにソ連を先制核攻撃する計画をたてた​。まだソ連がICBMの準備ができていない時点で攻撃したかったのだ。その作戦の障害になっていたケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されたのだ。

 しかし、ケネディ大統領の暗殺計画はその前から動いていた。大統領は1963年11月2日にシカゴを訪れる予定になっていたが、そのシカゴで大統領を暗殺する計画があるとする警告が警備当局に対し、2カ所からもたらされている。ひとつはFBIの情報提供者「リー」から、もうひとつはシカゴ警察のバークレー・モイランド警部補からだ。

 FBIが入手した情報によると、パレードの途中で4名のスナイパーが高性能ライフルで大統領を狙うとされていた。その情報はシークレット・サービスへも伝えられている。ちなみに、ケネディ大統領暗殺の容疑者として逮捕され、警察で殺されたリー・ハーベイ・オズワルドはFBIの情報提供者だと言われている。シークレット・サービスのシカゴ支部は容疑者を監視、11月1日に2名を逮捕したが、残りの2名には逃げられてしまう。

 また、モイランド警部補の話は「ケネディ嫌いの男がいる」というもの。10月の後半にシカゴのカフェテリアで食事をしていたモイランドは、そこの経営者からケネディ大統領に関して不穏当な話をする常連客がいることを知らされたのだ。そこで警部補はその男が来るのを待ち、トーマス・アーサー・ベイリーだと確認してからシークレット・サービスに連絡している。(James W. Douglass, “JFK”, Orbis, 2008)

 ベイリーは元海兵隊員で、ジョン・バーチ協会に所属。海兵隊時代にはJTAG(統合技術顧問グループ)のメンバーとして日本にいた。オズワルドも1956年7月に日本の厚木基地の第1航空管制大隊へ配属されている。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 ケネディ大統領がシカゴのオハラ空港へ到着する予定時刻の30分前、11月2日午前9時10分(東部時間10時10分)にベイリーは逮捕され、シークレット・サービスの取り調べを受けてから収監されたのだが、シークレット・サービスのエージェントは暗殺未遂事件に関する文書を作成していないという。担当の特別エージェント、モーリス・マーティノーの命令だった。

 ケネディ大統領のシカゴ訪問が取りやめになったことは東部時間で10時15分に発表されている。少なくともその10分前に取りやめは決まっていたはずで、このケースでは10時に関係者は決定を聞いていたと言われている。つまり、大統領の訪問中止が決まった約10分後に警察はベイリーを逮捕したことになる。

 そうした情況にあったため、大統領の周辺、例えばウイリアム・フルブライト上院議員たちは大統領に対し、ダラス行きを中止するようにワシントンDCで20日に忠告しているのだが、取りやめにならなかった。(Anthony Summers, "The Kennedy Conspiracy," Paragon House, 1989

 ケネディ大統領のダラス訪問は1963年4月にリンドン・ジョンソン副大統領が発表している。ダラスに不穏な空気が漂っていたことは大統領自身も承知していたはずだが、大統領は予定を変えず、11月21日の夜にフォート・ワース入りした。

 その日から翌日の未明まで、警備を担当するシークレット・サービスのエージェントの多くが「セラー(穴蔵)」というナイトクラブへ繰り出して騒いでいた。そのナイトクラブを経営するパット・カークウッドはジャック・ルビー、つまり、オズワルドを警察署で射殺したとされている人物の友人だという。(Robert J. Groden, “The Killing Of A President”, Bloomsbury, 1993)

 大統領一行は11月22日の朝にフォート・ワースのカーズウェル空軍基地からダラスのラブ・フィールドへ移動、パレード用のリンカーン・コンバーティブルに乗り込んだ。

 このリムジンは防弾仕様でなく、屋根はシークレット・サービスのウィンストン・ローソンの指示で取り外されていた。またリムジンのリア・バンパーの左右には人の立てるステップがあり、手摺りもついているのだが、パレードのときには誰も乗っていない。大統領の指示だったという話もあるが、エージェントだったジェラルド・ベーンは大統領がそうした発言をするのを聞いていないと証言している。元エージェントのロバート・リリーに言わせると、大統領はシークレット・サービスに協力的で警備の方法に口出しすることはなかった。

 12時30分頃、ケネディ大統領は暗殺された。後ろの教科書ビルから撃たれたことになっているが、映像を見ても証言を調べても、致命傷になったであろう銃撃は前方からのものだった可能性がきわめて高い。教科書ビルの所有者はリンドン・ジョンソンの親友だったデイビッド・バード。そのビルに入っていてオズワルドが働いていたテキサス評価書倉庫なる会社のオーナーは、FBIに君臨していたJ・エドガー・フーバーの友人、ジャック・ケイソンだ。

 銃撃が始まると、大統領を乗せたリムジンの後ろを走る自動車にいた特別エージェントのエモリー・ロバーツは部下のエージェントに対し、銃撃だと確認されるまで動くなと命令するが、これを無視してエージェントのクリント・ヒルは前のリムジンに飛び乗った。

 ヒルによると、銃撃の後に喉を押さえるケネディ大統領を見てのことで、まだステップに足がかかる前、血、脳の一部、頭骨の破片が自分に向かって飛んできて、顔、衣類、髪の毛についたとしている。ステップにヒルの足がかかった時、大統領夫人のジャクリーンもボンネットの上に乗り、大統領の頭部の一部を手に触れようとしていた。その時、大統領の頭部の中が見えたという。リムジンの前方から銃撃されたことは決定的だ。(Clint Hill with Lisa McCubin, “Mrs. Kennedy and Me”, Gallery Books, 2012)事件を調査したウォーレン委員会でジャクリーンは髪の毛を元に戻そうとしたと証言しているが、委員会の報告書からは削除された。

 銃撃の直後、ダラス警察のジョー・マーシャル・スミスはパレードの前方にあった「グラッシー・ノール(草で覆われた丘)」へ駆けつけ、硝煙の臭いを嗅いでいる。そこで近くの駐車場にいた自動車修理工のように見えた男を職務質問したところ、シークレット・サービスのエージェントだということを示されたのだが、そこにシークレット・サービスの人間は配置されていなかったことが後に判明している。

 兵士のゴードン・アーノルドは銃撃の直前、「シークレット・サービスのエージェント」をそこで見たと語っている。パレードを見やすい場所を探してグラッシー・ノールに近づいたところ、私服の男に遮られ、近づかないようにと言われたというのだ。アーノルドが抗議したところバッジを見せながらシークレット・サービスだと名乗ったという。

 銃撃が収まってから、今度はふたりの制服を着た「警察官」がアーノルドに近づいて、フィルムを渡すように命じた。アーノルドは素直に渡している。そのフィルムがどうなったかは不明だ。やはり銃撃後、グラッシー・ノールのフェンス近くを走っていたジーン・ヒルもシークレット・サービスを名乗る人物からフィルムを全て取り上げられている。ただ、エイブラハム・ザプルーダーが撮影した8ミリフィルムは後に公開されている。

 事件直後、そのフィルムに関する全ての権利を写真雑誌LIFEの編集者リチャード・ストーリーが5万ドルでザプルーダーから買い取ってシカゴの現像所へ運び、オリジナルはシカゴに保管、コピーをニューヨークへ送ったとされていた。

 ジャクソンはフィルムが外部に漏れることを警戒し、ストーリーに対して動画に関する権利も買い取るように指示。この契約でLIFEはザプルーダー側へさらに10万ドル、合計15万ドルを支払っている。後にオリジナルのほか3本のコピーが作られ、オリジナルはCIAと国防総省の共同プロジェクトとして設立されたNPIC(国家写真解析センター)へ送られたことがわかる。なお、NPICは1996年にNIMA(国家画像地図局)に組み込まれた。現在のNGA(国家地理空間情報局)だ。

 このフィルムをNPICが保管していることを知ったCIA長官のジョン・マコーンは持ってくるように指示、映像を見ている。NPICはそれをオリジナルだとしていたが、本当のところは不明。マコーンはロバート・ケネディに対し、銃撃にはふたりの人間が関係しているという映像から受けた印象を語ったという。またNPICのスタッフで事件直後に映像を見たホーマー・マクマホンによると、銃撃は約8回、少なくとも3方向から撃たれているとしている。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 ザプルーダー・フィルムは長い間、一般に公表されていない。フィルムを隠したC・D・ジャクソンはアイゼンハワー大統領のスピーチライターを務めた人物で、アレン・ダレス、フランク・ウィズナー、リチャード・ヘルムズ、フィリップ・グラハムを中心とするメディア支配プロジェクトの協力者でもあった。

 このフィルムを公開させたのがルイジアナ州ニュー・オーリンズの地方検事だったジム・ギャリソン。これがオリジナルである保証はないのだが、ともかくそれを1969年2月に法廷で映写させた。ただ、フィルムには大きな傷があり、見えない部分がある。

 その傷に関し、LIFE側は現像所の技術的なミスで損傷を与えたと説明したが、有名写真雑誌のプロがそうしたミスをするとは考えにくい。いつ、どのようにして傷つけたかを明確にするべきだが、現在に至るまで納得のできる説明はない。

 本来ならフィルムを隠したC・D・ジャクソンから事情を聞くべきなのだが、大統領が暗殺された翌年、1964年9月18日に彼は62歳で死亡している。

 ケネディ大統領の死亡が確認されたのはダラスのパークランド記念病院。死体を見た同病院のスタッフ21名は前から撃たれていたと証言、確認に立ち会ったふたりの医師、マルコム・ペリーとケンプ・クラークは大統領の喉仏直下に入射口があると記者会見で語っている。前から撃たれたということだ。

 その後、ペリーにベセズダ海軍病院から電話が執拗にかかり、記者会見での発言を撤回するように求められたという。これは同病院で手術や回復のための病室を統括していた看護師、オードリー・ベルの証言。ペリー本人から23日に聞いたというが、数カ月後にそのペリーは記者会見での発言を取り消し、喉の傷は出射口だとする。ウォーレン委員会でもそのように証言した。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyborse, 2013)

 大統領の死体は法律を無視してパークランド記念病院から強引に運び出され、検死解剖はワシントンDCのベセズダ海軍病院で行われた。担当した軍医のジェームズ・ヒュームスは検死に不慣れだったとも言われている。

 ケネディ大統領の暗殺を調査するため、リンドン・ジョンソン新大統領は1963年11月29日に「ケネディ大統領暗殺に関する大統領委員会」を設置、アール・ウォーレン最高裁長官を委員長に据えた。委員長の名前から「ウォーレン委員会」と呼ばれることが多い。

 委員会のメンバーはウォーレンのほか、リチャード・ラッセル上院議員(当時、以下同じ)、ジョン・クーバー上院議員、ヘイル・ボッグス下院議員、ジェラルド・フォード下院議員、アレン・ダレス元CIA長官、ジョン・マックロイ元世界銀行総裁がいた。そして主席法律顧問はリー・ランキンだ。

 ダレスはウォール街の大物弁護士で、大戦中からOSSの幹部として破壊活動を指揮、戦後CIA長官になるが、ケネディ大統領に解任させられている。マックロイはウォール街の大物で、大戦の後に世界銀行の総裁を経てドイツの高等弁務官としてナチスの大物たちを守った。フォードはJ・エドガー・フーバーFBI長官に近く、ランキンはCIAとFBIにつながっている。ダレスは委員会の中で唯一の専従だった。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 この委員会にはCIAやFBIから情報が提供されたが、1964年1月にはCIAとの連絡係としてジェームズ・アングルトンが任命された。FBIはウィリアム・サリバンが担当している。(Michael Holzman, “James Jesus Angleton,” University of Massachusetts Press Amherst, 2008)

 ウォーレン委員会が暗殺に関する報告書と出した3週間後の1964年10月12日、ケネディ大統領と親密な関係にあったマリー・ピンチョット・メイヤーが散歩中に射殺された。銃弾の1発目は後頭部、2発目は心臓へ至近距離から撃ち込まれている。プロの仕業だ。

 ウォーレン委員会の結論はリー・ハーベイ・オズワルドの単独犯行だが、この結論をヘイル・ボッグスは口頭で批判していたという。ボッグスは1966年、委員会の腐敗した状況をジム・ギャリソンに話しているという。ボッグスを乗せたセスナ310は1972年10月16日、アラスカで行方不明になった。(Joan Mellen, “A Farewell to Justice,” Potomac Books, 2007)

 ケネディ暗殺の際、CIA、シークレット・サービス、警察などに不可解な動きがあり、複数の狙撃者がいたことを示す証拠や証言が次々と明らかになる。それに対抗し、単独犯説を主張する勢力は「陰謀論」という呪文を考えつき、連呼するようになった。事実を隠蔽する呪文として多用されている「陰謀論」はこの時から盛んに使われている。
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[近代史3] 東南アジアでみんなに嫌われているベトナム人の民族性とは 中川隆
16. 中川隆[-8389] koaQ7Jey 2024年11月25日 17:12:22 : EJVPzZhuvo : eTV2Rk9yUXZRMTY=[10]
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ベトナムの貧困率が下がっても、ベトナムが豊かになったという意味ではない理由
2024.11.24
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ブラジルで開催されたG20で、ベトナムのファム・ミン・チン首相が「ベトナムの貧困率が下がった」と報告している。これを聞くと、ベトナムは豊かになったのかと勘違いしてしまうかもしれない。しかし、貧困率が下がっても、ベトナムが豊かになったという意味ではない。(鈴木傾城)

1日1.90ドル以下で生活する人が貧困者
日本国内でベトナム人が万引き・窃盗・強盗・ドラッグ密売などの事件に関与していて社会問題になっている。

彼らは借金をして日本にきている。日本で低賃金・悪条件の仕事に従事し、耐えきれずに仕事をやめたら借金だけが残るので、どうしてもアンダーグラウンドに取り込まれてしまう。

そうした現状を知っていると、ブラジルのリオデジャネイロで開催されたG20で、ベトナムのファム・ミン・チン首相が「ベトナムの貧困率が下がった」と報告しているのを聞くと、「そうなのか?」と疑問も湧き上がる。

実際、統計データによると、1998年に37.4%だったベトナムの貧困率は、2008年には13.4%まで減少し、2021年の調査では、全国の貧困世帯率は2.23%(約61万世帯)となっている。2024年時点でわずか1.9%にまで低下したと報告されている。

そんなに貧困率が下がっているのであれば、なぜベトナム人は日本で「出稼ぎ労働」をして、日本で犯罪に手を出しているのか。

それは、ベトナム政府がいう「貧困」というのは「絶対貧困」のことであり、具体的にいえば「1日1.90ドル以下で生活する人口」を指しているからだ。

要するにベトナム政府は「絶対貧困は減った」といっているだけで、たとえばベトナム人がみんな月収20万円以上の収入を得られるようになったという意味ではないことには留意する必要がある。

ちなみに、現在のベトナム人の平均月収は760万ドン(約4万6,730円)だ。

日本で「月収4万6,730円」といえば貧困かもしれないが、ベトナムでは貧困には入っていない。ファム・ミン・チン首相が「貧困率が下がった」といっても、ベトナム人が先進国並みに豊かになったのではない。

インターネットの闇で熱狂的に読み継がれてきたタイ歓楽街での出会いと別れのリアル。『ブラックアジア タイ編』はこちらから

絶対貧困ではないが、貧しい
ベトナムはかつて、長期的な戦争と経済制裁により荒廃した国であり、深刻な貧困に直面していた。つまり、絶対貧困の人々が国にあふれていた。絶対貧困というのは、「今日の食事も食べられない」くらいの生死にかかわる貧困だ。

曲がりなりにも、そうした人たちが減っているのであれば、それはそれで、よろこばしいことではある。だが、絶対貧困が低下したとしても、まだまだベトナムは「豊か」ではない。

生活の質や社会的な不平等の問題も、解決されているわけではない。

最近、マレーシアでバイシュン摘発があって多数の「外国人セックスワーカー」が逮捕されているのだが、その中には多くのベトナム人女性が含まれていた。

カンボジアでもベトナム人女性がセックスワークしているし、貧しいベトナム女性が中国の農村に売られるような事件も相変わらずある。(ブラックアジア:ディエンビエン省・広西チワン族自治区・雲南省の山岳地帯にある人身売買の闇)

これらは、すべて山岳地帯や地方の僻地で取り残された人たちだ。

あと、例に漏れず農村部と都市部の格差も深刻だ。都市部の住民はそれなりに経済成長の恩恵を受けられても、農村部の住民はなかなかその恩恵にあずかれない。農村部の平均月収は都市部の半分しかない。絶対貧困ではないが、貧しいのは間違いない。

農家の収入が、これから都市部に追いつけるのかというと、厳しいものがある。ベトナムは地理的に台風や洪水などの自然災害に頻繁に見舞われる地域に位置している。これらの災害は農家に大きなダメージを与える。

気候変動の影響でベトナムの農業生産性が低下するリスクが指摘されている。すでにメコンデルタ地域では、海面上昇や塩害の進行により、稲作の生産量が大幅に減少しつつある。

グローバルな気候変動の影響を考慮すると、今後の見通しは一筋縄ではいかない。さらに農村部は、インフラ整備や教育機会の不足により、貧困から抜け出すことが難しい現状にある。


なかなか良い仕事にはつけない理由
では、都会に出て農業ではない仕事にでも就けば貧困から脱却できるのか。じつは、ベトナムでも農村から都市部の流入によって大きな社会問題が起こっている。

急速に進む都市化は、雇用の集中と生活コストの上昇を引き起こし、都市部の貧困層をも増加させているのだ。たとえば、ホーチミン市やハノイ市では、低所得層が高騰する住宅費に対応できず、スラム化が進行している地域が存在する。

ホーチミン市でいえば、8区のドイ運河周辺が古くから貧困層が住むエリアとして知られており、特にドイ運河周辺の地域がスラム化している。多くの家屋は川に反り出す形で建てられており、これらの多くは違法建築だ。運河沿いの住居の多くが生活排水を直接川に流している。

スラムの住民は、都市部にいるとはいえども、なかなか良い仕事にはつけない。それは、教育格差もあるからだ。

ベトナムでは教育へのアクセスが改善されたものの、地域間の教育水準の差は依然として大きい。これは、労働市場での競争力を低下させ、貧困の連鎖を断ち切る妨げとなっている。

とくに最近では、ベトナムでもハイテクが急激に社会に取り入れられており、この技術革新に伴って、高度なスキルを持つ労働者の需要が増加しているのだが、多くの貧困層は基礎教育がないので、そこに入れない。

低スキルの労働者が成長市場から排除される姿はどこの国でも似通っている。ベトナムの大学進学率は約30%程度だ。この30%は「良い仕事」を得られる確率は高いが、逆に70%は高スキル・高収入の仕事からは排除されるということになる。

ベトナム政府は2030年までに中等教育以降の教育就学率を45%に引き上げることを目標としているが、多くの家庭にとって、大学教育にかかる費用が負担となる。特に地方では、大学進学が経済的に困難な場合が多い。

教育の面から格差の解消は、まだまだ時間がかかるはずだ。

ベトナムは「化ける」可能性もある
ただ、それでもベトナムがじわじわと豊かになっていこうとしているのは感じられる。かつてのベトナム戦争で荒廃した大地と経済の傷跡は、今も完全に消えたわけではないのだが、もう過去のものになろうとしている。

おそらく、ベトナム経済自体は今後も伸びていくはずだ。少なくとも、世界の投資家はそのように見ている。

ベトナムには、若く豊富な労働力がある。人口の約70%が35歳以下ということは、これからベトナムは若者がハイテクを存分に吸収して、社会を変えていくバイタリティーを持ち合わせているということでもある。

技術革新に対応する柔軟性を持つというのは、グローバル企業の求める人材としての価値を高めていけるという意味であり、このあたりをうまく汲み取ることができれば、ベトナムは「化ける」可能性もある。

最近は中国が西側諸国の「敵」として認識されつつあり、欧米の企業は「脱中国」を目指している。中国を脱して、インドと共にベトナムが選択されることも多くなってきている。

スマートフォンや電子部品、衣料品などの輸出額は年々増加しており、2023年には輸出総額が4,000億ドルを超えた。第二次トランプ政権も中国と激しく対立することが予測されるのだが、そうなればなるほどベトナムは有利になる。

中国が世界の敵性国家になっていけばいくほど、ベトナムはインドと共に、グローバルなサプライチェーンの重要な拠点としての地位を確立していくことになるはずだ。

ベトナムはすべてが順調なわけではない。しかし、地政学的な面で非常に有利なポジションにいる。私自身は、今後の東南アジアでも、ベトナムはかなり伸びしろがある国なのではないかと前向きに考えている。
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[リバイバル3] ハイエンド・スピーカーの世界 中川隆
194. 中川隆[-8388] koaQ7Jey 2024年11月25日 22:35:32 : EJVPzZhuvo : eTV2Rk9yUXZRMTY=[11]
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2024年 11月 24日
究極のシスコン! アレキサンドライト伯爵邸 : GRFのある部屋
https://tannoy.exblog.jp/36977182/

究極のシスコンを目指しているアレキサンドライト伯爵邸に、あの「ダブルウーファーズ」の会長さんご愛用だった、4350が導入されたと言う噂は、ずいぶん前からお聞きしていました。完成したら、いつもの横浜のMさんとご一緒にお伺いしようと決めていました。今回ようやくその4350の音がまとまって来たのでとご連絡をいただきました。勿論、夜香さんの解説付きです。もうひと方ご一緒させていただいたのは、オーディオ関係の技術者でもある、ムサシさんです。初めてお目にかかります。いつもの様に最寄りの駅で、横浜から来られるMさんの到着を待って、アレキサンドライト邸へ。

アレキサンドライト邸は、過去三回ほどお邪魔させていただいています。最初は、もう、12年も前の2012年の暮れでした。夜香さんのご案内で、横浜のMさんがご一緒でした。JBLのK2/9500の豪華な音を聞かせていただきました。GEMSとELACのツイーターが上に載っていました。天井にはその頃最高峰のSONYのプロジェクターがあり、サラウンドはなんと後方にいま一組あるK2/9500がなります。驚きました。出していただいたワインが美味しく、その感動もいまだに忘れません。その後、横浜のMさんとの感想戦が面白く、練馬で別れずに、池袋までそのまま各駅停車で戻り、新宿駅で別れるまで大変盛り上がりました。12年前は、やはり若かったです。
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これは12年前の装置です

二回目は、2017年の夏でした。JBLのK2は一番上にあった、ELACの無指向性ツイーターがなくなり、全体のバランスをトリノフで整えてありました。その効果は大きく、まとまりが一層深まっていました。この時は、有機ELの55インチが、リヴィングルームに入り、夜香さんの究極の調整がされていました。その絵も素敵でしたが、ハーベスのHL-5を鳴らしている小さなゴールドムンドのアンプにも魅了されました。
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こちらは7年前です

コロナが猛威を振り始めた2020年の9月に、アレキサンドライト邸に大変なSPが導入されたとのことで、横浜のMさんとお二人でお伺いしました。コロナ禍で交流ができなくなりつつあったMさんは、パラゴンの部屋に、大型のSPマッキンのXR-290導入されていました。ここに大型のスクリーンを導入されて、コロナの間は、映画館にされるそうです。その大きさにびっくりしていたら、XR-290は上下に二分割されて運搬ができるそうで、見掛けほど重くないと言う話をしていました。

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そこに、アレキサンドライト邸になんと、チェロのストラディバリウス・グランドマスターが入ったとのニュースが!これはぜひ伺わなければと、二人でまた駆けつけました。オールチェロのシスコン(システムコンポーネント)ですが、今まで聞いたシスコンの中では、飛び抜けた音がしていました。ピーンと張り詰めた緊張感と、どこまでも柔らかい生の音楽が再現されていたからです。よそのお宅で聞いていただいた中でもダントツのいい音ですね。今回も、この音を聴かれたムサシさんが感動されていました。
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その大きなグランドマスターの手前の部屋には、ゴールドムンドのシスコンが。カチッとしたサウンドで、チェロと対照的な音でした。この装置にハーベスのHL-5が繋がっていて、有機ELのテレビを鳴らしていました。

二階のメインのK2のシステムは、完成度が増し、トリノフにコントロールされた音は一段とまとまりとパワーを感じさせる音になっていました。熟成を感じましたね。こちらの装置は個人用で、中央のソファの一点だけでバランスをとっているそうで、大きなヘッドフォンだと言われてました。こちらも熟成が進み、DACやアンプの構成も変わりとてもまとまった音です。

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こちらが今回の装置です

さて、今日の目的のJBL4350ですが、到着した時にSpの前の方で聴かせていただいた時は、音が散らばり、まとまりがまだついていませんでした。前回夜香さんが聴かれたときとは、メインアンプの構成が逆で、クレルで中低音を鳴らされていたそうですが、今日は最低域のダブルウーファーを鳴らされてたそうです。昔のネット枠を使ったJBLの音がしていました。ほとんどのお宅では、この様な音が鳴らされているのでしょう。

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初めて来られたムサシさんへのご披露目もあって、一通り全ての音を聞かせていただきました。私好みの音がするチェロのシステムは相変わらずダントツの音です。このスピーカーの圧倒的な低音のバランスがあって、初めてチェロのアンプ群の研ぎ澄まされた音が生きてくると思いました。

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ここで休憩、伯爵からマグナムのラサールが出されました。多人数もありますが、シャンパンはマグナムが美味しいです。深さと柔らかさが出ますね。皆さんで乾杯をした後、今一度JBLの4350を聞かせていただきました。今回は、前方ではなく、食堂のテーブルの反対側まで下がりました。JBL使いの横浜のMさんや夜香さんからアドヴァイスが飛びます。テーブルの後方席まだ離れるとまとまりが出て来ます。個人的には、夜香さんのOLYMPUSの様にダイヤモンドのツイーターが導入されれば、一発でも纏まるのにと思っていました。それほどダイヤモンドツィーターの支配力は大きいのです。
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この場所は、以前は食堂用のテレビが置かれていた場所です。そこのソファーをなくして、スペースを作りこのJBL4350を持ち込みました。奥様の協力がなければできませんね!4350はさすがに大きいのですが、この部屋ではちょうどいい大きさに収まっています。今後パワーアンプの相性だとか、チャンネルデバイダーの調整や、パワーアンプの選択がうまくいけば、大きなポテンシャルを持っていると思いました。何よりもダブルウーファーズの愛機がここで活躍していくのは嬉しいことです。

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暗くなってからいつもの中華料理屋さんに!美味しいお料理と熟成した紹興酒、楽しい仲間と素敵な名器の鑑賞。充実した日になりました。アレキサンドライト伯爵、ご案内と解説をしていただいた夜香さん、鋭いでも、また暖かいアドヴァイスをされる横浜のMさん。こうした気のおけない会話を垣間見たお若いムサシさんにも、参考になられたと思います。

Mさんと石神井公園で各駅停車から準急に乗り換えたら、次の駅は練馬でした。向かい側ホームの元町中華街行きに乗り換えるMさんと別れ、私は長いエスカレーターを降り継ぎ大江戸線のホームに。中野坂上でまた長いエスカレーターを乗り継ぎ、地表から近い丸の内線がいかに便利かを思いました。

地下鉄から降りて家まで歩く時は、シャンパンの余韻か、紹興酒のおかげか、大好きな11月の素敵な夜を満喫しました。アレキサンドライト伯爵、素敵なホスピタリティをいつもありがとうございました。
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