111. 2020年7月28日 16:04:07 : VT6SnNCybU : enJXWlhZckNvbzI=[1]
言語学に語用論という理論がある。
簡単に言えば、言語表現とその使用者と解釈者との関係を取り扱う学問である。
つまり、言葉そのものはAだが、使用者の真意はAではないこともあるし、解釈者の解釈もAであったり、Aでなかったりするということだ。くわえて、その発語がなされた環境も左右する。
さて、植草氏は大西氏の言葉をそのままに写したのち、「誤解が生じる隙もないほどに大西氏は明確に自分の考え方を述べている」と言い、そのうえで、「大西氏の発言は死生観を論じたものではなく、政治のあり方を論じたものであり、そのなかで、はっきりと《生命の選別》について《高齢者から先に逝ってもらう》選択を政治がするべきだと述べている」と書く。
私は大西氏の擁護者ではないが、このまま植草氏の論を正として認めるわけにはいかない。上記の言葉をもって一方的に大西悪と結論付ける植草の論理も破綻しているからである。
植草氏の結論としている「大西氏は高齢者から先に逝ってもらう選択を政治がするべきと言っている」事柄の根拠として挙げているのが「大西氏の発言は死生観を論じたものではなく、政治のあり方を論じたもの」という植草氏の言葉だけである。何が問題かって、これもまた植草氏による言葉使用である。
言葉はときに人を騙す。本当の犯人は言葉ではなく、その使用者である。
今、安楽死の問題が浮上している。「安楽死を認める」法律を作るべきか否か、多様かつ深淵に論じ合うときではないのか。
ちなみに、これって死生観ではなく、政治の話かな?
http://www.asyura2.com/20/senkyo274/msg/513.html#c111