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[番外地10] 嫌な事が有ったらすぐに自殺したくなる子供が多いだけだよ。イジメは単なる切っ掛けで、他の嫌な事でも同じ様にすぐに自殺して… 中川隆
3. 中川隆[-15346] koaQ7Jey 2021年11月12日 03:34:11 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[1]
嫌な事が有ったらすぐに自殺したくなる子供が多いだけだよ。イジメは単なる切っ掛けで、他の嫌な事でも同じ様にすぐに自殺していたでしょうね:
─ エスキモーの自殺率が高いということですが、自殺率はもともと高かったように聞いていますが。

岸上 これは難しいです。本多勝一さんの本でも、もともと高いといっています。それから、年寄りが自分から置き去りにしていけといって、集団を救うために自分が犠牲になるということがあったのは事実です。
ただ、今の50代とか60代の人たちに聞いたらね、確かに自分たちが10代とか20代のころにも自殺はあったと。でも、質が違う気がするといいますね。
今の自殺は理由がよく分からないんです。若者、とくに10代を中心として、何かをきっかけにすぐに自殺してしまう。誰かが死ぬとその親しい友達がすぐに後追い自殺をするというふうな現象が続いてます。
人口が400人の村で、年間二人も若者が死んだらこれは大変なことですよね。それがひとつの村だけでなくて、14の村でまんべんなくおこっているわけですよ。だから、自殺の率でいうと、カナダの他の地域の三倍、四倍ではきかないんです。さらにいうと、村の中ではっきり死んだ人が年間一、二名だとしても自殺未遂というのはその数倍ですよ。そうすると、村の子どもの数を数えたら、どう考えても、多くの子が一回ぐらいはやってないと数が合わない。それぐらい厳しい状況なんですよ。

─ 原因の研究はあるんですか。

岸上 あります。精神分析医のグループと文化人類学のグループによる二つの研究があります。でも、死んだ人にはインタビューできないんで結局わからないんですよ。ただ状況から判断すると、やはり酒の問題があります。それから麻薬ですね。あと、レイプとか家庭内暴力といった、いろんな複雑な人間関係が絡んでいます。それから、何もやることがない、学校行ってもおもしろくない、学校行かなきゃ仕事がない、無意味に生きていると。で、何かきっかけがあったら自殺に走ってしまう。
でもそれはイヌイットだけではなくて、ほかの先住民グループ、それから南アメリカの先住民でも同じような傾向があるらしいですね。やっぱり構造的な要因があるんだろうといわれる。文化人類学ではそれを、いやこれは文化的欲求不満だからということで一応片づけてますが………。
https://older.minpaku.ac.jp/museum/showcase/fieldnews/shigotoba/kishigami/wp09

旭川の爽彩さんも

・登校拒否する
・警察に行く
・わざわざ公園に苛めっ子に会いに行かない
・スマホを捨てる

のどれかをしていれば簡単に解決した問題ですね。

基本的にイジメで自殺した場合は自殺した人間にすべて責任が有ります。
ただ、爽彩さんの場合は家庭内性虐待、覚醒剤障害、児童売春強制等の可能性もあるので、単なるイジメ被害ではないですね。

爽彩さんの家庭については悪い噂が広まっていた様なので、校長・教頭・担任もそういう事情をかなり良く知っていて、ああいう言動になったのですね:

#282 2021/05/20 08:15
担任の菅野未里先生がこの噂を信じていたのは間違いないみたい
知人とのLINEで「デートと言って断ってやったわ」「子供ほったらかしてる分際で」と送信してる

 遺族の弁護団・石田達也弁護士:「『それ(画像)も消しましたので』と学校が説明してきました。『いや、でもそれ、わいせつ動画が拡散しているなんて、怖いじゃないですか』と私(母親)が言うと『僕は怖くない』と教頭に言われました」
しかし実際に教頭が言った言葉は『僕が守るから怖くないよ』

▲△▽▼

本当にイジメだったのか?、単なる被害妄想だったのか?
自殺未遂した爽彩さんは統合失調症か覚せい剤中毒と診断されて、精神病院に二か月も措置入院させられていました。
死体検案書にも統合失調症だったと明記されていたのです。

第三者委員会のメンバーの大半が精神科医や心理学者で、加害者への聞き取り調査を一切していないのも、旭川少女凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、統合失調症か覚醒剤中毒による被害妄想・パニック障害だと判断していたからです。

【2019年6月】
 公園のベンチで広瀬さんが隣に座ってきた C男に向かってふざけてたたくなどしていたが、その後パニックになり、「私のことは誰もわかってくれない。死んできます」などと言いながら、公園から川のコンクリートの土手を滑り降りてひざ下程度の水深の川へ入った。

 当時現場には多くの小学生や中学生が取り囲む状況で、広瀬さんは川に入りながら自分のスマートフォンで中学校に電話し、泣きながら「死にたい」と訴える。
 すぐに3人の教員が現場に駆け付けて川から引き上げ、学校に連れて行った。


失踪・凍死事件では警察は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断して、初期捜査を殆ど行いませんでした。
そもそも警察は自殺未遂事件で爽彩さんが退院して以降は、爽彩さんを毎月呼び出して、母親との関係、売春していないかどうか、覚醒剤使用の有無等を聞いていた様です。 従って警察は爽彩さんの病状や家庭の状況を完全に把握した上で、失踪・凍死事件は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断したのです。

爽彩さんは精神病院に二か月も入院させられていたので、唯のパニック障害なら、退院後も病院でカウンセリングを受けるのが普通ですが、病院ではなく警察に毎月呼び出したというのは、警察は爽彩さんのパニック障害はイジメが原因ではなく、家庭環境や覚醒剤障害が原因だと判断していた可能性が高いのです。

▲△▽▼

旭川の人々の本心は

『少女が勝手に自分の画像を男子に送り騒いでる』
『彼女の家はモンスターペアレント』
『いじめではなく性的いじりなのに騒いでる』
『橋の上で男子生徒と揉めて、勝手に身投げした』
『2年前の話でしっかり謝罪した』
『彼女が自殺したのは家庭の問題』
『いじめと自殺は関係ない』

朝日新聞も同様の書き方していた
これが旭川の多くの人々の認識
だから2年前の謝罪で終わってるのに犯人扱いされて、未成年なのに家族まで特定されて『名誉毀損』

ほぼこれ
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/158.html#c3

[リバイバル4] オーディオ・ノート 300B プッシュプル パワーアンプ 8,250,000円 中川隆
5. 2021年11月12日 04:09:19 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[2]
音楽の神、ここに宿れり。匠の技術によって生まれたパワーアンプ「Kagura2」、至高のサウンドを聴く
林 正儀 2021年11月11日
https://www.phileweb.com/review/article/202111/11/4513.html


日本を代表するハイエンド・オーディオブランドのひとつであるオーディオ・ノート。そんな同社において不動のフラグシップを誇るのが「Kagura」である。2020年8月に誕生した後継モデルの「Kagura2」。これまで3回に渡ってこの匠の技術を紹介してきたが、この最終回では搭載されている真空管の話を交えながら、最後はその音質を堪能することにしよう。

■芸術作品の領域といえる合理的な設計

“神楽”物語が、いよいよ最終章となる。超ド級ターンテーブル「Ginga」誕生の翌年。2013年に登場した稀代のモノラルパワーアンプだが、7年の歳月を経て2020年に「Kagura2」へと進化を遂げ、世界の音楽ファンを魅了。オーディオ・ノートの名声をさらに高めた意欲作である。

AUDIO NOTE「Kagura2」(15,620,000円/ペア/税込)

工房で受注した「Kagura2」の組み立てが行われていた絶好のタイミングで取材にお邪魔した。エピローグにふさわしい舞台ではないか! 美しい純銅製シャーシに大型直熱管211(パラレルシングル構成)や新設計の出力トランス。そして精密かつ大規模な電源部(全体の2/3を占める)を擁する構成だ。サウンドディレクターの廣川嘉行さんにはこれまで3回に渡り「Kagura2」の全回路を解説していただいたが、実際にこうしてモジュール化され立体的に展開された高級パーツの数々を見れば納得。芸術作品の領域といってよい。

同社の工房で「Kagura2」の組み立て工程を見学

縦にぐっと空間を広げ、2階建〜3階建のレイウトにすると、こうした最短結線ができるわけで、シグナル・電源とも長く引き回すことがない合理的な設計といえる。世界のどのアンプもやっていない同社オリジナル技術だ。「Kagura2」2台をもし平置き配線にすれば、たたみ1畳分になるのではないか。

■刷新された出力トランスとオリジナル真空管ソケット

改めて「Kagura2」の進化をまとめよう。最大の変更点は、出力トランスの刷新とオリジナル真空管ソケットの搭載だ。

出力トランスは4、8、16Ωの出力線を単独で引き出せ便利になったこともそうだが、それよりもボビン(巻枠)の形状から設計し直した点に注目したい。間にはさむ“層間紙”にもこだわった設計だ。その効果は前回解説したとおり、中低域の厚みや表現力が劇的に向上。オーディオ・ノート伝統の銀線巻きトランスの魅力がさらに引き出された印象である。

新型ソケットの開発は国産タイトソケットの入手が困難になった中での決断である。「Kagura2を作るにあたって、今までのソケット(一般流通品)を変えようということになりました。コンタクトの確実性や接触抵抗の低減はもちろん、オーディオ・ノート・サウンドの世界観をもった高性能ソケットを開発し全面採用したのです」。そう言って芦澤雅基社長が取り出したのが、211用の4ピンソケットとMT9ピンタイプ。それにGT管用の8ピンソケットだ。

「Kagura2」用に開発された完全オリジナルの真空管ソケット。2点接触構造により情報量の増加を実現。極厚純銀メッキとパラジウムメッキにも膨大なコストを投入している

211用を見ると、一番音に影響する端子部のみ自社のオリジナルとした。端子の交換は社内で行っているそうだが、211をソケットに差す際、ちょっとでも傾けば点接触になるだろう。これを解決する切り札が2点接触だったという。試行錯誤の結果、パーツにスリットを入れることで接触カ所を増やして情報量の増加を実現。2つの接触部分の幅をあえて不均一にしたのは、優等生的過ぎず音楽的な楽しさをめざしたためだ。生き生きとした質感が加わり211の個性が生きるソケットの誕生である。

素材とメッキはどう工夫したのか。「優秀なメッキ業者の協力を得て、銅合金の端子に15ミクロン(MT9ピンは5ミクロン)もの非常に質のよい“極厚純銀メッキ”を施すことができました」。メッキの世界では3ミクロンでも十分に厚いわけだが、それが何と5倍である。

しかもその上に0.1ミクロンの白金属系のパラジウムメッキを施したものだ。清潔感のある柔らかな質感がのり、極めて高品位ながら自然な音色のソケットが完成したそうだ。「金型やプレスよりもメッキ加工の方が高価でしたね」と笑う。

そして輝きに品があり美しい。ギラギラじゃなくキラッキラ。まるで宝石だ。飾っておきたくなるような神秘の輝きである。現在「Kagura2」だけのプレミアムなソケットであり、世界最高性能といっていい。

そのソケットと対をなすのが真空管だ。出力管の211はゴールデンドラゴンの選別品を社内でさらに選別。エージングしたものをのせている。初段と整流管は銘柄がかわって、ゴールデンドラゴンからJJへ、整流管はJJからゴールドライオンに変更。全面刷新というより音質調整の範囲内だろう。「出力トランスやソケットの変更に伴う最適化ですね」。

■みずみずしい空気感の生きた、有機的なサウンド

「Kagura2」が奏でるサウンドは、ただのハイエンドアンプとは違う。15インチウーファー搭載のB&W「801D」から軽々とグリップ力を引き出し、どんな複雑な動きにもレスポンスが完璧でありながら、ハイファイくささがない。この日は大管弦楽ものや清涼な北欧ジャズ、ヴォーカルなど聴いたが、響きが実に有機的で風の向こうに音楽そのものを体感させるのだ。

例えばムラヴィンスキー指揮/レニングラードフィルのライブ盤。これはロシアの郷愁たっぷりで、ぶ厚く重厚にうなりを発して襲いかかる低弦セクションのリアルさに鳥肌が立つ。ショルティの「幻想」は、空間にぽっと浮かぶ木管とそれに応える弱音弦のさざ波が極上だ。ジェイコブ・ヤングのギターとヴォーカルデュオは、繊細でしっとりと品のある表情を楽しみたい。これぞ圧倒的なS/Nやみずみずしい空気感の生きた再生だ。夜中の2時に聴きたいレコードだと改めて思った。

音楽的で神々しい、感動すべきサウンドである。「Kagura2」に盛り込まれたすべての要素が結実しており、オーディオ・ノートの集大成にふさわしい。“神が宿る”至高のサウンドに浸りたい。

(提供:オーディオ・ノート)
本記事は『季刊・analog vol.72』からの転載です

https://www.phileweb.com/review/article/202111/11/4513.html
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/148.html#c5

[近代史7] エドヴァルド・ムンクの画を部屋に飾ろう 中川隆
25. 中川隆[-15345] koaQ7Jey 2021年11月12日 04:36:30 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[3]
ムンクは同名の複数の絵を描いています。
ムンクの絵の年代と所蔵美術館は wikipedia の挿入画を見て確認して下さい:


エドヴァルド・ムンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%82%AF


エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch (ノルウェー語: [ˈɛdvɑʈ muŋk] ( 音声ファイル)), 1863年12月12日 - 1944年1月23日)は、19世紀 - 20世紀のノルウェー出身の画家。『叫び』の作者として世界的に有名で、ノルウェーでは国民的な画家である。


目次
1 概要
2 生涯
2.1 子供時代
2.2 王立絵画学校とクリスチャニア・ボヘミアン
2.3 パリ留学(1889年10月-1892年3月)
2.4 帰国、ベルリン(1892年3月-1896年2月)
2.5 パリ(1896年2月-1897年7月)
2.6 オースゴールストラン(1897年7月-1902年)
2.7 ドイツでの活動(1903年-1908年9月)
2.8 精神病院(1908年10月-1909年5月)
2.9 ノルウェーへの帰還、講堂壁画(1909年5月-1916年)
2.10 晩年(1916年-1944年)
3 時代背景と作風
4 受容と評価
4.1 日本
5 主な作品
5.1 『叫び』
5.2 生命のフリーズ
5.3 肖像画
5.4 版画
5.5 壁画
6 脚注
6.1 注釈
6.2 出典
7 参考文献
8 外部リンク


概要
ムンクは1863年、ノルウェーのロイテンで医師の父のもとに生まれ、間もなく首都クリスチャニア(現オスロ)に移った。1868年に母が病気で亡くなり、1877年には姉が亡くなるという不幸に見舞われ、後の絵画作品に影響を与えている(→子供時代)。1880年、王立絵画学校に入学し、1883年頃から、画家クリスチャン・クローグや作家ハンス・イェーゲルを中心とするボヘミアン・グループとの交際を始めるとともに、展覧会への出品を始めたが、作品への評価は厳しかった(→王立絵画学校とクリスチャニア・ボヘミアン)。1889年から1892年にかけて、ノルウェー政府の奨学金を得てパリに留学した。この頃、「これからは、息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描く」という「サン=クルー宣言」を書き残している。フランス滞在中に、印象派、ポスト印象派、ナビ派など、最先端の芸術に触れ、技法を学んだ(→パリ留学)。1892年、ノルウェーに帰国してから、「生命のフリーズ」という、テーマを持った連作の構想を固め始めた。この年、ベルリン芸術家協会の招きにより個展を開いたが、これが新聞に激しく攻撃され、1週間で打ち切りとなるというスキャンダルになってしまった。その後もベルリンに住み、北欧の芸術家らと親交を深めながら『叫び』、『マドンナ』、『思春期』といった代表作を次々生み出していき、これが「生命のフリーズ」を構成する作品となった(→帰国、ベルリン)。1896年にはパリに移り住み、版画の制作などに注力した(→パリ)。1897年からはノルウェー海沿いの村オースゴールストランを一つの拠点とし、イタリア、ドイツ、フランスの各地と行き来しながら、「生命のフリーズ」を完結する作品を制作していった。この頃にムンクはトゥラ・ラーセンという女性と交際していたが、徐々に彼女を避けるようになっていた(→オースゴールストラン)。ノルウェーでの評価の行き詰まりから、1902年からはドイツを中心に活動したが、この年、ラーセンと口論の末、暴発したピストルで手にけがを負うという事件があった。1903年頃からは友人のマックス・リンデのための連作を制作したり、イプセンの舞台装置の下絵を書いたりした(→ドイツでの活動)。1908年、コペンハーゲンの精神病院に入院し、療養生活を送った。この時にはノルウェー政府から勲章を与えられたり、国立美術館がムンクの作品を購入したりして、ムンクの評価は決定的になっていた(→精神病院)。1909年に退院するとノルウェーに戻り、クリスチャニア大学講堂の壁画や労働者シリーズを手がけた(→ノルウェーへの帰還、講堂壁画)。1916年からはオスロ郊外のエーケリーに住み、制作を続けていたが1944年に亡くなった(→晩年)。

ムンクが代表作の多くを制作した1890年代のヨーロッパは世紀末芸術と呼ばれる時代であり、同時代の画家たちと同様、リアリズムを離れ、人間の心の神秘の追求に向かった。『叫び』に代表される作品には、説明し難い不安が通底しているが、ムンクが鋭敏な感受性をもって、人間の心の闇の世界を表現したものといえる(→時代背景と作風)。

作品の多くはムンク美術館等の美術館に収蔵されている(→主な作品)。その中でも、『叫び』は世界的に抜群の知名度を誇り、複数バージョンのうち個人所蔵のパステル画が、2012年にオークションで手数料込み1億1990万ドル(約96億円)で落札されたことは、大きなニュースとなった(→『叫び』)。


生涯

子供時代
ムンクは1863年12月12日、ノルウェーのヘードマルク県ロイテン(英語版)に生まれた。父クリスティアン・ムンク(1817年 - 1889年)は医者であり、1843年から船医、1849年からは陸軍軍医を務めノルウェー各地の駐屯地を転々としていたが、1861年にラウラ・カトリーネ・ビョルスタ (ノルウェー語版)と出逢い間もなく結婚した。2人の間にはエドヴァルドの前に長女ヨハンネ・ソフィーエ(1862年生)が生まれていた[1]。エドヴァルドが生まれた直後の1864年早々、一家はクリスチャニア(現オスロ)に移り住んだ。ここで次男ペーテル・アンドレアース(1865年生)、次女ラウラ・カトリーネ(1867年生)が生まれた。しかし母ラウラ・カトリーネが結核に冒され、いったん持ちこたえて三女インゲル・マリーエ(1868年生)を産んだものの1868年12月29日に亡くなった。以後、母の妹カーレン・ビョルスタ (ノルウェー語版)がムンク家の世話をすることになった[2]。

ムンクの父はもともと信心深い性格であったが、妻の死後は狂信的なほどキリスト教への信仰にのめり込み、子どもたちを叱るときは異常なほどに厳しかった。ムンクは父の狂信的な考えに反発して口論した日の夜、父の寝室を覗き、父がベッドの前にひざまずいて祈っているのを目撃して衝撃を受けたことを後に回想している。ムンクはその光景をすぐにスケッチに描くことによって、ようやく落ち着いて寝入ることができたという[3]。ムンクは「病と狂気と死が、私の揺りかごを見守る暗黒の天使だった」と語っている[4]。

1875年、一家はクリスチャニア市内のグリューネル・ルッケン地区に引っ越した。しかしその後、ムンクは慢性気管支炎を患った。ムンクの手記によれば1876年末頃、彼は血を吐き結核だと思い自分の死が近いことを覚悟した[5]。さらに姉のヨハンネ・ソフィーエが結核に感染し、1877年11月15日に15歳で亡くなった[6]。ムンクにとって姉は、きょうだいの中でも特別で、亡き母に代わって愛情を注いでくれる存在であったため衝撃は大きかった[7]。こうして身近に「死」を実感したことが後のムンクの芸術に生涯影響を与え続け、特に『病室での死』(1893頃)『病める子』(1886)といったムンクの初期の諸作品では直接のモチーフになっている[8]。

ムンクは通っていた学校を1879年に中退している。この頃から画家になりたいという希望を持っていたが父の反対に遭い、技師になるためクリスチャニア工業学校に通うことになった。しかしムンクはリューマチ熱のため欠席が続き1880年11月8日に退学。その日、ムンクは日記に「僕の運命は今や――まさに画家になることだ」と書いている[9]。

それまでも水彩画や鉛筆画で風景や家屋のスケッチをしていたが、ムンクの日記によれば1880年5月22日に油絵用の画材一式を買い、5月25日に古アーケル教会を写生している[10]。


王立絵画学校とクリスチャニア・ボヘミアン
ムンクは父を説得し、同年(1880年)12月16日、ノルウェー王立絵画学校(現・オスロ国立芸術大学)の夜間コースに入学した。1881年8月にフリーハンド・クラス、1882年夏頃にモデル・クラスに編入した。ムンクはこの学校で健康を取り戻し、教官の彫刻家ユーリウス・ミッデルトゥーンの指導を受けた。また、同年(1882年)初め頃、友人6名とともにカール・ヨハン通りの国会広場に面して建つ「プルトステン」ビルの屋根裏にアトリエを借り、そこで画家クリスチャン・クローグの指導を受けた[11]。ムンクは後に「私を彼の弟子の一人とみなすのはどうしても無理がある。……とはいえ、私たちはみなクローグを非常に好ましく思い、また立派な画家と考えていた。」と書いている[12]。

同年(1882年)夏、ヘードマルク県に滞在し、同年秋にはクリスチャニア西郊をスケッチして回った。1883年秋、親類の画家フリッツ・タウロウが主催するモードゥム(英語版)野外アカデミーに参加して制作や討論を行った。これがきっかけで、クリスチャニア・ボヘミアンという当時の前衛作家・芸術家のグループと交際するようになる[13]。この年(1883年)、彼は産業及び芸術展覧会に油絵『習作・若い女の頭部』、第2回秋季展(芸術家展)に『ストーブに火をつける少女』を出品した。さらに、1884年の秋季展(官立芸術展と改称)に『朝(ベッドの端に腰掛ける少女)』を出品したが、ノルウェー国内では酷評された[14]。


『朝』1884年。油彩、キャンバス、96.5 × 103.5 cm。ベルゲン美術館。

一方、フリッツ・タウロウはムンクの才能を認めており、ムンクにパリのサロンを見学する機会を提供したいと同年(1884年)3月、父クリスティアンに支援を申し出ている。ムンクの病気のためパリ行きはいったん延期されたものの、1885年5月に友人の画家エイヨルフ・ソート(英語版)とともにパリに向かった。そこでサロンとルーヴル美術館に通い詰め、エドゥアール・マネの多くの作品に接して、色彩の表現や、画面の中の一点を強調する技法を学んだ[15]。他方、サロンで尊敬を集めているアカデミズム絵画のブグローについては「ブルジョア連中の関心を引いていたにすぎない」と切り捨てている[16]。この年の秋季展には『画家カール・イェンセン=イェル像』を出品したがこれも酷評された[17]。

同年(1885年)4月、ムンク一家はスカウ広場に面した建物に移った。ムンクはここで『春』『思春期』(第1作)『病める子(英語版)』『その翌朝』を描いた[18][注釈 1]。亡くなった母や姉を重ね合わせた『病める子』は1年近くかけて描き上げたもので、1886年の秋季展に出展したが、これも保守系日刊紙『モルゲンブラーデ』から「当然必要な下塗りさえしていない」「近づけば近づくほど、何が何やら分からなくなり、しまいには雑多な色の斑点だけになってしまう」と書かれるなど激しく攻撃された[19]。ムンクは後に『病める子』について、新しい道を切り開いた作品だと位置付けつつ「ノルウェーではこれほどスキャンダルを巻き起こした絵はない」と自ら記し、展覧会初日の会場で、哄笑や非難の声が聞こえてきたことを振り返っている[20]。唯一クリスチャン・クローグだけは『病める子』を弁護してくれて、ムンクはこの絵をクローグに贈った[21]。

この頃、クリスチャニア・ボヘミアンのリーダー格であるアナーキスト作家のハンス・イェーゲルと知り合った[22]。伝統的なキリスト教的道徳に公然と異を唱え、自由恋愛主義を訴えるイェーゲルに、当時のクリスチャニアの若者たちが熱狂したのと同様、ムンクもその信奉者となった[23]。ムンクにとってボヘミアン時代は、霊感と活気を与えてくれる時代であったが、同時に独断主義的なボヘミアンのメンバーに対して「反吐の出そうな馬鹿者」と嫌悪感を表してもいる[24]。また、ムンクは1885年から数年間、人妻ミリー・タウロウ[注釈 2]との禁じられた恋愛に陥り、苦しい思いをした[25]。


『病める子』1885-86年。油彩、キャンバス、120 × 118.5 cm。オスロ国立美術館[26]。

1888年秋、ムンクはクリスチャニア南西の海辺の村オースゴールストランを訪れ『郵便船の到着』などの写生的な油絵を描いた[27]。1889年初頭に重病を患い、回復途中に『春』を描いた。これはこの時期の最高傑作とされる[28]。同年5月9日からカール・ヨハン通りの学生協会の小ホールに『ハンス・イェーゲル像』『春』などの自作110点を並べる個展を開催した。当時のノルウェーでは、個展というものが開催されること自体が初めての試みであった[29]。


『春』1889年。油彩、キャンバス、169.5 × 264.2 cm。オスロ国立美術館[30]。

『浜辺のインゲル(英語版)(夏の夜)』1889年。油彩、キャンバス、126 × 161 cm。ベルゲン美術館。

パリ留学(1889年10月-1892年3月)
フランスイギリスオランダドイツベルギールクセンブルクオーストリアスイスイタリアスペインRed pog.svgパリサン=クルーRed pog.svgニースRed pog.svgRed pog.svgル・アーヴルRed pog.svgアントウェルペン地中海
同年(1889年)10月、1500クローネの政府奨学金が与えられた。それと同時にパリで1年間デッサンを学ぶことを命じられ、ムンクはパリに赴いた[31]。ところがその年の12月に突然、父クリスティアンが亡くなったことが叔母カーレンから伝えられ衝撃を受けた。ムンクはその直後、パリ郊外のサン=クルーに移ってデンマークの詩人エマヌエル・ゴルスタイン (Emanuel Goldstein) と同居した。1890年にゴルスタインをモデルにして描いた『サン=クルーの夜』には孤独と不安が表れている[32]。この頃、エドヴァルドは手帳に次のような走り書きを残しており、後の「生命のフリーズ」の構想の端緒となったものとして「サン=クルー宣言」と呼ばれている[33]。

〔……〕私は、そのような作品をこれから数多く制作しなければならぬ。もうこれからは、室内画や、本を読んでいる人物、また編み物をしている女などを描いてはならない。息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描くのだ。〔……〕[33]
1890年、秋季展に作品を提出し2回目の政府奨学金が認められて11月にパリへ向かった。しかし、航海中にリューマチ熱を発してル・アーヴルで下船し、2か月間入院した[34]。

1891年1月に退院すると、パリ、更に温暖な南仏ニースを訪れ「思っていたよりもはるかに美しい街です」と友人に書き送っている[35]。夏の間、オースゴールストランに戻ったが、この時にクリスチャン・クローグの妻オーダ・クローグ(英語版)から誘惑を受け、クローグ夫妻とオーダ・クローグの愛人ヤッペ・ニルセンをめぐる複雑な恋愛関係に巻き込まれた。ムンクはこの人間関係を『メランコリー』に描き秋季展に提出した。ムンクは3回目の奨学金を期待したが、病気で創作活動を十分行えていないムンクが奨学金を受給することを批判する論説が新聞に載った[36]。その冬はニースを再訪して南仏で過ごした。しかしこの頃、妹ラウラが精神病を悪化させて入院したこともあって、ムンクは精神的に追い詰められてカジノで奨学金を浪費してしまった[37]。

ムンクはこうしてフランスに滞在している間に、印象派の画家たち、特にクロード・モネとカミーユ・ピサロから大きな影響を受けた。それに加えてエミール・ベルナール、エドゥアール・ヴュイヤール、フェリックス・ヴァロットン、フィンセント・ファン・ゴッホ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックなどの作品から技法を学んだ[38]。『カール・ヨハンの春の日』(1890年)『ラファイエット街』(1891年)など、印象派の影響を受けた点描風の油絵作品も多い[39]。一方、当初デッサンを学ぶために師事したレオン・ボナとは、色彩の使い方について相容れず対立した[40]。


『サン=クルーの夜』1890年。油彩、キャンバス、64.5 × 54 cm。オスロ国立美術館[41]。

『カール・ヨハンの春の日』1890年。ベルゲン美術館。

『ラファイエット街』1891年。油彩、キャンバス、92 × 73 cm。オスロ国立美術館[42]。

『ニースの夜』1891年。油彩、キャンバス、48 × 54 cm。オスロ国立美術館[43]。

帰国、ベルリン(1892年3月-1896年2月)
ムンクは1892年3月、パリ留学からノルウェーに帰国した頃から「生命のフリーズ」という構想を固め始めた。これはフリーズの装飾のように、自分の作品をいくつかのテーマによって結び合わせていこうというものである[44]。また、この頃から彼の画風は大きく変わり、ナビ派のような形態の単純化・平面的色彩に加え、強いデフォルメを行うようになった[45]。『メランコリー/黄色いボート』『幻想』『絶望』大作『妹インゲルの肖像』といった作品を制作していった[46]。同年(1892年)秋にはカール・ヨハン通りで再び個展を開いた。このときは前回ほどの悪評にはさらされなかった[47]。国立美術館が彼の『ニースの夜』を買い上げるという朗報もあった[48]。


『カール・ヨハン通りの夕べ』1892年。油彩、キャンバス、84.5 × 121 cm。ベルゲン美術館。

『メランコリー/黄色いボート(英語版)』1892年。油彩、キャンバス、64 × 96 cm。オスロ国立美術館[49]。

同年(1892年)11月5日から、ベルリン芸術家協会(ドイツ語版)の委員であったノルウェー人画家アデルスティーン・ノーマンの招きにより、ベルリンでムンクの個展が開かれた。ムンクはこの個展に『朝』『接吻』『不安』『メランコリー』『春』『病める子』『その翌朝』『カール・ヨハンの春の日』『雨のカール・ヨハン街』といった重要な作品を含む55点を送った。「生命のフリーズ」の最初の展示といえるものであった。しかしこれがベルリンの各新聞で激しく攻撃され、わずか1週間で個展は打ち切りとなってしまった(この出来事は「ムンク事件」と呼ばれる)[50][51]。それでもムンクは大手画商エドゥアルド・シュルテの支援を得て、個展はその後デュッセルドルフ、ケルン、再びベルリンと巡回した。次いで1893年にはコペンハーゲン、ブレスラウ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンと開催され、賛否両論の中にも愛好者を増やしていった[52]。


1892年12月からムンクはベルリンに落ち着くことにし、カフェ「黒仔豚亭」に集まるスウェーデン人作家のヨハン・アウグスト・ストリンドベリ、ポーランド人学生スタニスワフ・プシビシェフスキなど、北欧の芸術家らと親交を深めた[53][51]。彼らはショーペンハウエルやニーチェについて熱く論じ合った[54]。ここにはノルウェーの女性ダグニー・ユール(英語版)も加わり、彼女はプシビシェフスキと結婚した。ムンクとは愛人関係にあったとも言われており、ムンクの作品『嫉妬』の中ではムンクとダグニーが恋人同士として描かれ、プシビシェフスキが嫉妬に苦しんでいる[55]。

ムンクはベルリン市内外の安宿を転々としながら『吸血鬼(英語版)(愛と痛み)』『マドンナ』シリーズ、『星月夜(英語版)』『死んだ母親』『病室での死』シリーズといった多くの代表作を制作していった。『叫び』や『不安(英語版)』を制作したのもこの時期である[56]。1893年3月には、デンマークの画家ヨハン・ローデ(英語版)に次のような手紙を送っている[57]。

私は目下シリーズ画を描いております。……一度それを一堂に並べたら、より容易に理解いただけるものと信じています。シリーズは、愛と死を扱ったものとなるでしょう。

1894年頃にはエッチングやリトグラフ、木版の技法を身につけ、表現の可能性を広げることになった[58]。

1894年、スタニスワフ・プシビシェフスキがムンクに関する最初の本を出版した。ユリウス・マイヤー=グラーフェ、フランツ・セルヴェース(ドイツ語版)、ヴィリー・パストール(ドイツ語版)との共著である。4人の友人によるムンクの評論として、信頼性を持った資料となっている[59]。

1895年3月、ムンクはベルリンのウンター・デン・リンデン通りの画廊でアクセリ・ガッレン=カッレラとの共同展覧会を開いた[60]。6月、美術評論家ユリウス・マイヤー=グラーフェがベルリンでムンクのエッチング作品集を出版し、これがムンクの最初の画集となった[61]。また、同年10月クリスチャニアのカール・ヨハン通りのブロムクヴィスト画廊(ノルウェー語版)で大規模な作品展が開催され、『マドンナ』『手』『灰』『嫉妬(英語版)』など、ベルリン時代に制作した「生命のフリーズ」の重要な作品が展示された[62]。この時、国立美術館は『煙草を持つ自画像』の購入を決定した[63]。劇作家のヘンリック・イプセンもこの展覧会を訪れ、後輩であるムンクに「僕を信じたまえ。敵が多ければ多いほど、味方も多いものだ。」と言って激励した[64]。他方で、学生会館ではムンクの精神状態を論じる公開討論会が開かれ、批判派は「ムンクの絵は狂人のもの」と論じた[65]。

家族の中では、医者になっていた弟のペーテル・アンドレアースが1895年12月半ばに肺炎で亡くなり、また妹ラウラ・カトリーネも精神病で入院を続けていた。こうした不幸は改めてムンクに死と生の不安を呼び起こした。1895年に描かれた作品は、『死の床』など不吉なものばかりである[66]。ムンクはドイツで展覧会を数多く開き、名前は知られるようになっていったが絵はほとんど売れず、ムンクや家族の生活は経済的にも厳しかった[67]。


『月光』1893年。油彩、キャンバス、140.5 × 137 cm。オスロ国立美術館[68]。

『星月夜』1893年。油彩、キャンバス、135.9 × 140.3 cm。J・ポール・ゲティ美術館(ロサンゼルス)[69]。

『叫び』1893年。油彩、キャンバス、91.0 × 73.5 cm。オスロ国立美術館[70]。

『少女と死』1893年。油彩、キャンバス、128.5 × 86 cm。ムンク美術館[71]。

『不安』1894年。油彩、キャンバス、94 × 74 cm。ムンク美術館[72]。

『思春期』1894-95年。油彩、キャンバス、151.5 × 110 cm。オスロ国立美術館[73]。

『吸血鬼(愛と痛み)』1895年。油彩、キャンバス、91 × 109 cm。ムンク美術館[74]。

『マドンナ』1895年。油彩、キャンバス、90 × 71 cm。ハンブルク美術館。

『嫉妬』1895年。油彩、キャンバス、67 × 100.5 cm。ベルゲン美術館。

『煙草を持つ自画像』1895年。油彩、キャンバス、110.5 × 85.5 cm。オスロ国立美術館[75]。

『自画像』1895年。リトグラフ、45.8 × 31.4 cm。ムンク美術館[76]。

パリ(1896年2月-1897年7月)
ムンクは1895年6月と9月にそれぞれ短期間パリを訪れた後、1896年2月にベルリンを離れてパリに移り住んだ[77]。

パリでは1896年春のアンデパンダン展に出品したほか、サミュエル・ビング画廊のアール・ヌーヴォー展にも出展した。ここでも否定的反応は多かったが『ラ・プレス(英語版)』紙のエドワール・ジェラールは次のような好意的評価を書いている[78]。

〔……〕彼の作品の中に、我々はともすれば恐怖に満ちた幻想を見るが、それは、それは、常に苦悩に溢れているものである。ムンクが自己の内面から創造した奇妙な顔つきをした暗い影を持つ人物は、彼の魂の悲しみの子なのであり、決して外面的なモデルとしてコピーされたものではない。我々は、そのことに感銘を受けるのだ。〔……〕[78]
ムンクはパリで、ステファヌ・マラルメ邸で行われる「火曜会」に呼ばれ、パリの画家や文学者らと知り合った[79]。また、パリに移っていたストリンドベリと再会した。ストリンドベリはアール・ヌーヴォー展でムンクに好意的な寄稿を書いたが、オカルトや錬金術にのめりこんだストリンドベリは、ムンクが刺客だと思い込むようになって連絡を断ち、2人の友人関係は終わった[80]。

ムンクはこの時期に版画の技術をますます完成させ、シャルル・ボードレールの詩集『悪の華』のために挿絵を描いたりした[81][注釈 3]。版画の利点は売りやすいことと、我が子のように思う絵画を手放さなくてよいことであった。ムンクはアトリエを大きな版画工房のそばに移し、職人から版画の技法を学んだ[82]。版画のテーマの多くは旧作の油絵に基づくものであり、新たな油絵の創作はされなかった[83]。

1897年のアンデパンダン展に出品したが評価はやはり賛否両論で、絵は一向に売れずムンクはパリを去ることにした[84]。


『別離』1896年。油彩、キャンバス、96.5 × 127 cm。ムンク美術館[85]。

『病める子』1896年。リトグラフ、43.2 × 57.1 cm。ムンク美術館[86]。

オースゴールストラン(1897年7月-1902年)
ムンクは1897年7月、オースゴールストランにサマー・ハウスを買い、油絵の制作を再開した[87]。クリスチャニアには、友人の画家アルフレッド・ハウゲとともにアトリエを共同で借りた[88]。同年9月、クリスチャニアのカール・ヨハン通り、ディオラマ館 (Dioramalokalet) で個展を開き、油絵85点、リトグラフ30点、木版9点、エッチング25点、亜鉛板5点、デッサンとスケッチ30点という大規模な展示を行った。この頃にはクリスチャニアの新聞でも好意的な批評が現れるようになってきた[89]。

1898年、トゥラ・ラーセン (Tulla Larsen) という女性と出会い交際を始めた。1899年4月、トゥラとともに北イタリアからローマに旅をし、ラファエロの作品に感銘を受けた。この旅に触発されて生涯唯一の宗教画『ゴルゴタ』を描いている[90]。

それ以降、ムンクはイタリア、ドイツ、フランスと、オースゴールストランとを行き来しながら『赤い蔦』『メランコリー/ラウラ』『生命の踊り』といった作品を制作し、「生命のフリーズ」の終結に向かった[91]。『生命の踊り』の左と右の女性はトゥラ・ラーセン、中央の女性はミリー・タウロウがモデルであると言われる[92]。1900年にはドレスデンやクリスチャニアのディオラマ館で展覧会を開いた。1901年の夏はオースゴールストランで過ごし、9月にクリスチャニアで72点の展覧会を開き、11月にはベルリンに移り住んだ[93]。1902年には、ベルリン分離派展で22点の作品で構成される「生命のフリーズ」を展示した[94]。なお、この頃はまだ「生命のフリーズ」という言葉は使っていなかったが、ベルリン分離派展で「フリーズ:生のイメージの連作の展示」というタイトルを付けており、「フリーズ」という言葉により、単なる連作ではなく一つの装飾プロジェクトであるという意思を明らかにしたといえる[95]。

この頃トゥラが結婚を迫るのに対し、ムンクは次第にトゥラを避けるようになっていった。トゥラはストーカーのようにムンクを追いかけ回したり、ムンクに対し訴訟を起こしたりし、ムンクのアトリエを訪れては制作を妨げた[96]。


『新陳代謝(メタボリズム)』1898-99年。油彩、キャンバス、172.5 × 142 cm。ムンク美術館[97]。

『ゴルゴタ』1900年。油彩、キャンバス、80 × 120 cm。ムンク美術館[98]。

『赤い蔦』1898-1900年。油彩、キャンバス、121 × 119.5 cm。ムンク美術館[99]。

『生命の踊り』1899-1900年。油彩、キャンバス、125 × 191 cm。オスロ国立美術館[100]。

『橋の上の少女たち』1901年。油彩、キャンバス、136 × 125 cm。オスロ国立美術館[101]。

ドイツでの活動(1903年-1908年9月)
ノルウェーで評価を得られずに行き詰まったムンクは、再びベルリンにアトリエを構えて活動するようになった。この頃、ベルリン分離派のマックス・リーバーマンがムンクを支援してくれるようになり、その勧めにより1902年の分離派展に作品22展を出品した。後に「生命のフリーズ」と呼ばれる作品群が完全な形をとったのはこの時であった(→生命のフリーズ)。この展示は大成功を収め、ムンクは日記に「あの悲惨な時代は終わった」と書いている[103]。実業家アルベルト・コルマン(ドイツ語版)からの支援も受けるようになった[104]。さらにコルマンの紹介で、リューベックの眼科医で美術愛好家のマックス・リンデ(英語版)と交友するようになり、リンデの子供部屋に飾るための絵の依頼を受けて制作に取りかかった[105]。

ムンクは同年(1902年)夏、オースゴールストランに戻った[106]。ある日、トゥラ・ラーセンの女友達がムンクに、トゥラが自殺を図っていると言ってトゥラと会うことを求め、ムンクはそれに応じた。この時、トゥラとムンクとの間でどのようなやり取りがあったのか詳しいことは明らかではないが、小競り合いのうちにピストルが発射され、ムンクは左手中指の第2関節を撃ち砕くけがを負うという事件が起こった[107]。この時の中指に弾丸が刺さった様子を写したレントゲン写真が残っている[108][109]。この事件で2人の関係は破局し、ムンクは1909年になっても友人のヤッペ・ニルセンに手の痛みを訴えつつ、「彼女の卑劣な行為が僕の人生を滅茶苦茶にしたんだ。」と罵っている[110]。

1903年1月ベルリンで個展を開き、同年4月にはパリのアンデパンダン展に何点かの新作を出品し好評を得た[111]。ムンクはこの年、イギリスの女流ヴァイオリニスト、エヴァ・ムドッチ (Eva Mudocci) を知り、彼女を愛するようになった。彼女をモデルに『ブローチをつけた婦人』といった優れたリトグラフ作品を残している[112]。他方でこの頃、酒に酔って人とけんか騒ぎをすることが度々あり、ムンク自身も自分の精神状態に不安を覚えるようになっていた[113]。

ムンクはリンデの依頼に応じた制作を再開し、1903年にエッチング集『リンデ博士の家庭から』を完成させ、同じ年に次いで油絵『リンデ博士の4人の息子』を制作した。これらの一連の作品は「リンデ・フリーズ」と呼ばれ1904年末に全作品が完成した。もっともリンデは子供部屋にはふさわしくないと考えたためか、その引取りを拒否したが[注釈 4]、2人の交友関係はその後も続いた[114]。

1904年にはベルリン分離派の正会員となった[115]。同年9月にはコペンハーゲンのデンマーク分離派展で全作品の回顧展示を行い成功を収めた[116]。同じ年、ハンブルクのコメーター画廊(ドイツ語版)が油彩画の独占販売契約を結び、ベルリンのブルーノ・カッシーラー画廊が版画の独占販売契約を結んだ[117]。カッシーラーがベルリンで開いた肖像画の個展が成功すると肖像画の注文が殺到した[118]。ハリー・ケスラー(英語版)伯爵の招きに応じてヴァイマルに赴き、ケスラーの肖像画を描いたり、銀行家エルネスト・ティール(英語版)の依頼により故フリードリヒ・ニーチェの肖像画を描いたりした[119]。


『地獄の自画像』1903年。油彩、キャンバス、82 × 66 cm。ムンク美術館[120]。

『リンデ博士の4人の息子』1903年。油彩、キャンバス、144 × 199.5 cm。ベーンハウス(英語版)(リューベック)。

『オースゴールストランの4人の少女』1903年。油彩、キャンバス、87 × 111 cm。ムンク美術館[121]。

『青いエプロンの2人の少女』1904-05年。油彩、キャンバス、115.5 × 93 cm。ムンク美術館[122]。

『フリードリヒ・ニーチェの肖像』1906年。油彩、キャンバス、201 × 160 cm。ティール・ギャラリー(英語版)(ストックホルム)。

1905年2月から3月にかけて、プラハのマーネス芸術協会(英語版)で油彩画75点、版画50点の個展が開かれ、若い芸術家たちに熱狂的に支持された。ムンクは1900年代以降の個展の成功の中でも、この個展について「まるで王侯のようなもてなしを受けた」と、美しい想い出として何度も回想している[123]。

1906年ベルリンの演出家マックス・ラインハルトの依頼で、ヘンリック・イプセンの『幽霊(英語版)』と『ヘッダ・ガーブレル』の舞台装置の下絵を描いた。1907年には室内劇場の休憩所の装飾を依頼され「ラインハルト・フリーズ」を完成させていった[124]。ただし、この劇場は実際にはほとんど使われず、ムンクの作品は散逸してしまった[125]。この1907年と翌1908年の夏には避暑先をオースゴールストランからドイツ北部の保養地ヴァーネミュンデに変えつつ、「水浴トリプティーク(三幅対)」と「マラーの死」の油絵シリーズを手がけた[126][注釈 5]。「マラーの死」はジャック=ルイ・ダヴィッドの『マラーの死』と同じ主題であるが、トゥラ・ラーセンを殺人犯シャルロット・コルデーに、ムンク自身をジャン=ポール・マラーに見立て、銃撃事件を描いた作品となっている[127]。「水浴トリプティーク」はヴァーネミュンデのヌーディストビーチにキャンバスを立てて制作した作品であるが、フィンランドの美術館が購入した際には新聞で騒ぎとなった[128]。

1902年以降、画業の成功とは裏腹にムンクに精神的危機が深まっていった。若い時から生への不安は続いていたが、トゥラとの恋愛事件で受けた打撃などを機に、妄想を伴う不安が高まり続けた。その結果アルコールにのめり込んでいった。1905年には画家仲間とのつかみ合いのけんかを起こすなど暴力性も現れた。ベルリンで「街に出られない」という対人恐怖症の発作に度々襲われたりもした。1908年にはその症状が頂点に達した[129]。


『ワインのある自画像』1906年。油彩、キャンバス、110.5 × 120.5 cm。ムンク美術館[130]。

「幽霊」の舞台デザイン。1906年。

『メランコリー』(ラインハルト・フリーズ)1906-07年。テンペラ、キャンバス、90 × 160 cm。ベルリン美術館(新ナショナルギャラリー)。

『水浴する男たち』1907年。油彩、キャンバス、206 × 227 cm。アテネウム美術館(ヘルシンキ)。三幅対(トリプティーク)の中央部分。

『マラーの死』1907年。油彩、キャンバス、153 × 149 cm。ムンク美術館[131]。

『アモルとプシュケー』1907年。油彩、キャンバス、119.5 × 99 cm。ムンク美術館[132]。


精神病院(1908年10月-1909年5月)
ムンクは1908年10月、アルコール依存症を治すためコペンハーゲンのダニエル・ヤーコブソン教授の精神病院に自発的に入院した。ヤーコブソンはアルコール中毒による麻痺性痴呆と診断した[133]。8か月の入院中、国立美術館(英語版)(現オスロ国立美術館)の館長であり旧友でもあるイェンス・ティースや、ヤッペ・ニルセンがムンクを見舞って彼を精神的に支えた[134]。

同年秋にはノルウェー王国政府から聖オーラヴ勲章騎士章を与えられた。1909年春には、イェンゥ・ティースとヤッペ・ニルセンが協力して、ブロムクヴィスト画廊で油絵100点、版画200点の大ムンク展を開いた[135]。ノルウェー国立美術館が油絵5点を買い上げ、ベルゲンの著名なコレクターであるラスムス・メイエルがムンクの作品を多量に購入したことで、ムンクに対するノルウェーでの評価は決定的になった[136]。ただ、かつての師クリスチャン・クローグはムンクを誹謗する論陣を張ったが、今や世代交代を印象づけるだけであった[137]。

同じ1909年には精神療法も兼ねて、詩文集『アルファとオメガ』を執筆した[138]。これは妻のオメガに籠絡される夫アルファの寓話であり、女性たちに傷つけられた自らを浄化する意味があったと言われる[139]。ムンクは「この連作を描いていると、奇妙に心が安らぐのを覚えた。まるであらゆる苦痛が身体から抜け出していくような気がする。」と書いている[140]。同年、ムンクは健康と精神的落ち着きを取り戻して退院した[141]。もっともそれと引換えのように、ムンクの作品は初期の緊張感を失い、生気のないものに変わっていったとも指摘されている[142]。


『病院での自画像』1909年。油彩、キャンバス、100 × 110 cm。ベルゲン美術館。

『アルファとオメガ』表紙、1908年。


ノルウェーへの帰還、講堂壁画(1909年5月-1916年)
ムンクは1909年に退院すると、コペンハーゲンからノルウェーに戻りクラーゲリョーの小さな町に住み始めた。1910年11月にはオスロ・フィヨルドの東岸ヴィトステーン(英語版)に土地を買って、ここも制作の拠点に加えた。1913年にはさらにその南、モス(英語版)近郊の建物を借りてアトリエとした[143]。イェンス・ティース、ヤッペ・ニルセンら10人余りの限られた友人とのみ付き合い、彼らの肖像画を描き、アトリエに大事に置いていた[144]。ムンクのアトリエを訪れた人は、彼が作品に「荒療治」を施すのを目にした。これは、作品をあえて野外に放置し、風雨や日光にさらされたり犬が引っかいたりするのに任せ、色彩が「落ち着く」まで待つという独特の方法であった。逆に、絵にワニスをかけて保護することに対しては、絵の呼吸を妨げるとして反対した[145]。

ムンクは親類から勧められて、クリスチャニア大学講堂壁画コンテストに応募するための下絵を描き始めた。正面の大壁に『太陽』、その向かい側に『人間の山』、左右の横長の壁に『歴史』と『アルマ・マーテル(母校)』を配する構想を提出し、1911年のコンテストでは第1位を得たが大学当局に拒絶された。しかしその後、ムンク支持の運動が起き[注釈 6]、1914年に大学学部長会がムンク案の採用を決議した[146]。規格外の大きなキャンバスであったことから完成までに7年を要し、上の方は脚立に乗って作業するなど、肉体的にも苦闘を強いられた作品であった。その間、大学当局は受入れをめぐって煮え切らない態度を続けたり値切ろうとしたりして、ムンクはいらだちを募らせた[147]。

この時期、ムンクは『労働者とその子』(1907年-08年)『左官屋と機械工』(1908年)『木こり』(1913年)『雪かき人夫(雪の中の労働者)』(1913年-14年)『家路につく労働者』(1913年-15年)などの200点にのぼる「労働者シリーズ」に取り組んだ。また『クラーゲリョーの冬』(1912年)のような風景画も制作した[148]。1912年ケルンの分離派(ゾンダーブント(英語版))展の招待作家となり、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンと並んで特別展示室を与えられた[149]。ムンクはそれ以前から、マックス・ベックマン、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、オットー・ミュラーといったドイツ表現主義の画家たちに大きな影響を及ぼしていたが、この頃ドイツでのムンクの高い評価が確立した[150]。

しかし、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ドイツとの関係が深いムンクは、反ドイツ的なノルウェーの若者から冷ややかな視線を送られるようになった。ノルウェー政府は中立を称し両陣営に軍需品を供給して金儲けを図るが、ドイツの潜水艦に軍需品を運ぶ貨物船をイギリスから狙い撃ちされ、商船員の命を失うことになった。ムンクはノルウェー美術展のポスターを依頼された際、こうした政府の態度を批判した『中立』という作品を提出した[151]。戦争中の1916年ようやくクリスチャニア大学の講堂壁画が完成し除幕式を迎えた[152]。


『黄色い丸太』1912年。油彩、キャンバス、129.5 × 159.5 cm。ムンク美術館[153]。

『家路につく労働者』1913-15年。227 × 201 cm。ムンク美術館[154]。

『太陽』1911-16年。油彩、455 × 780 cm。現オスロ大学講堂壁画。

『歴史』1916年。現オスロ大学講堂壁画。

晩年(1916年-1944年)
1916年から没年まではオスロ郊外のエーケリー(ノルウェー語版)に邸宅を買って定住した[156]。ここは、かつて農園だった4万5000平方メートルの広大な地所で、講堂壁画の制作が終わった1916年に7万5000クローネで購入した。ムンクはここで、キャベツ畑、果樹園、畑を耕す馬、労働者、家から見える夜景、自画像、モデル志願者を描いたヌード画など、身近な題材を描くようになった[157]。ノルウェーの新聞はムンクを大金持ちとして書き立て、彼は施しを乞う手紙に困惑した。また、何者かに庭の飼い犬を撃ち殺される、若者が時間を問わず電話や玄関の呼び鈴を鳴らす、といった嫌がらせにも悩まされた[158]。

1918年、ブロムクヴィスト画廊で「生命のフリーズ」を全てまとめた個展を開いたが、観客や新聞の反応は芳しくなかった[159]。この年にムンクはスペインかぜを患い生死の境をさまよったが、何とか回復すると『スペインかぜをひいた自画像』を制作した[160]。

1920年頃からはアトリエでの人体習作に比重を置き始めたほか、風景画『星月夜』(1923年-24年)も制作している。また、フレイア(英語版)・チョコレート工場の食堂の壁画(1922年)を手がけた[161]。1925年にクリスチャニアがオスロと改名し新市庁舎の建設計画が始まった。新市庁舎の大広間にムンクの絵が発注されることとなり、「これからは労働者の時代だ」と考えていたムンクは『雪の中の労働者たち』を主題に選び作品を制作した。しかし、貧困、隷属、喪失を生々しく描いた彼の作品は受け入れられず、代わりにフレスコ兄弟の作品が飾られることになった[162]。ムンクの長年のライバルである彫刻家グスタフ・ヴィーゲランがオスロ市から自宅やスタジオ、公園までを提供されるという厚遇を受けていたのと対比しても、ムンクの不遇は明らかであり、彼はこの敗北で大きな精神的打撃を受けた[163]。ただ支援者のトマス・オルセンが後に、ムンクの無念な思いを察し、所有する大作『人生』を市に寄贈した。これは市庁舎の一室に飾られ、その部屋は「ムンクの部屋」と名付けられた[164]。

1926年、ヴェネツィア、ミュンヘン、コペンハーゲン、パリ、マンハイムなどで中規模の展覧会が開かれた後、1927年、ベルリンのナショナル・ギャラリーで油彩画223点、素描21点という史上最大の回顧展が開かれ、更に同年秋にはオスロ国立美術館に巡回した[165][166]。


『星月夜』1922-24年。油彩、キャンバス、100 × 120.5 cm。ムンク美術館[167]。

『安楽椅子のそばのモデル(英語版)』1919-21年。油彩、キャンバス、122.5 × 100 cm。ムンク美術館[168]。

ムンクの左眼は視力が落ち、右眼を頼りに仕事をしていたが、1930年5月に右眼の血管が破裂し、視界の大部分が凝血で遮られてしまった。眼科の専門医から治療法はないと言われた。絵の制作ができない間、限られた視力で文章の執筆に取り組んだ。その後、視力は徐々に回復し、1933年頃には再び絵の制作ができるようになった[170]。1932年、ドイツのパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領からゲーテ勲章を授与された[171]。70歳となる1933年、ノルウェー政府から聖オーラヴ勲章大十字章を授けられた[172]。フランス政府からはレジオンドヌール勲章を与えられた[173]。

ドイツでナチスが台頭すると、ムンクの作品は1937年、退廃芸術としてドイツ国内の美術館から一斉に外された[174]。1940年4月9日、ドイツがノルウェーに侵攻すると、ノルウェーの元陸軍大臣ヴィドクン・クヴィスリングが内応して親ドイツのクヴィスリング政権を立ち上げたが、ムンクは政権の懐柔に応じずアトリエに引きこもった[175]。この時期には『窓側の自画像』(1940年)『自画像/深夜2時15分』(1940年-44年)、最後の自画像『自画像/時計とベッドの間』(1940年-44年)などを制作した[176]。1943年12月12日、エーケリーで80歳の誕生日を祝ったがその1週間後、自宅の近くでレジスタンスによる破壊工作があり、自宅の窓ガラスが爆発で吹き飛ばされた。凍える夜気にムンクは気管支炎を起こし、翌1944年1月23日に亡くなった。満80歳没[177]。最期の日、ムンクは愛読するドストエフスキーの『悪霊』を読んでいた[178]。

その後間もなく、妹インゲルとムンクの友人たちの抵抗にもかかわらずナチスが仰々しい国葬を営むことになり、ムンクの死はナチスの宣伝に使われた。亡骸は両親やソフィーエと同じ墓ではなく、偉人たちのための救世主墓地に埋葬された[179]。ナチス・ドイツの降伏で戦争が終結したのはその後の1945年5月7日であった。

ムンクの遺言により、エーケリーの地所に残した作品約2万2000点を含む創作物、資料、画材などがオスロ市に遺贈された。自国では正当に評価されなかったという恨みはあったが、ナチスによる作品の押収を恐れたためであったという[180]。


『自画像/時計とベッドの間』1940年-44年。油彩、キャンバス、150 × 120 cm。ムンク美術館。


時代背景と作風
ムンクが代表作の多くを制作した1890年代は、フランスではアール・ヌーヴォー、ドイツ、オーストリアではユーゲント・シュティールと呼ばれる芸術運動が起こった時代であり、世紀末芸術と総称される[181]。

クールベの写実主義からモネらの印象派に至るヨーロッパ美術の流れは、自然をキャンバスの上に再現しようとするものであった。これに対し、ゴッホ、ゴーギャン、ルドンらポスト印象派の画家たちは、絵画の役割を、眼に見えない心の内部を表現することに大きく変えていった。その次の世代に当たる世紀末芸術の芸術家たちも、人間の心の神秘の追求に向かった。ムンク自身、芸術について次のように述べている[181]。

芸術は自然の対立物である。芸術作品は、人間の内部からのみ生まれるものであって、それは取りも直さず、人間の神経、心臓、頭脳、眼を通して現れてきた形象にほかならない。芸術とは、結晶への人間の衝動なのである。
こうしてムンクや他の世紀末芸術の芸術家たちが追求した「内部の世界」は、印象派の明るい世界ではなく、不安に満ちた夜の闇の世界であった。病的なまでに鋭敏な感受性に恵まれたムンクは、生命の内部に潜む説明し難い不安を表現することに才能を発揮した。幼い時から家族に次々襲いかかってきた病気と死は、ムンクの芸術に影響を与えたと考えられる[182]。また、ムンクはクリスチャニアで既成道徳に対する徹底的な反抗、反俗的芸術至上主義をモットーとするボヘミアン・グループに属していた。印象派の画家たちには見られないこうした市民社会への反抗精神や、パリ留学で最新の絵画活動に触れたことも、ムンクの芸術に大きな影響を与えた[183]。ムンクは内面の表現の可能性を探求して、ゴッホよりはるかに先まで進んだ画家の一人だと評されている[184]。

実際、1890年代の『叫び』や『思春期』といった一連の作品では、死と隣り合わせの生命、愛とその裏切り、男と女、生命の神秘など、生命の本質の問題が扱われており、その全てに、説明し難い不安が通底している[185]。

表現手法は、リアリズムよりも平坦な画面構成、装飾性に向かっているが、これはナビ派やフェルディナント・ホドラー、グスタフ・クリムトなど、同時代の他のヨーロッパの画家たちと共通する傾向である[186]。また、ムンクが好んで描いた女性のうねるような長い髪の毛が、男性を絡めとる魔性を暗示するように、線描それ自体の中に、生の神秘が象徴的に表現されていて、見る者に訴えかける力を持っている[187]。

受容と評価
ムンクの作品は初期から激しい非難を浴び、1892年にベルリン芸術家協会の招きで開いた個展は、理事の過半数の反対表決で1週間で打ち切りを強いられた。しかしこの事件がきっかけで、ドイツの詩人、画家、批評家の中でムンクの支持者も現れるようになった[188]。また、この「ムンク事件」はベルリン芸術家協会の中の対立を顕在化させ、1898年にベルリン分離派が誕生するきっかけとなった[189]。

1896年のパリのアンデパンダン展、アール・ヌーヴォー展では好意的評価も増えてきた。ムンクは後に「〈生命のフリーズ〉に属するこれらの作品が最もよく理解されたのは、フランスにおいてであった。」と回想している。ようやく分離派が印象派に追いついたベルリンよりも、既に印象派とポスト印象派を経験しているフランスの方が、ムンク受容の土壌が育っていたと考えられる[190]。

20世紀初頭になると、ムンクはドイツで表現主義の若い画家たちから、ゴッホやゴーギャンと並んで熱狂的に支持された。ドイツでのムンクの影響は、フランスでのセザンヌに匹敵するほど大きく、ムンクはドイツ表現主義の先駆者とみなされている[191]。

1922年にはチューリッヒなどで版画を中心とした大回顧展が開かれ、1927年にはオスロやベルリンの国立美術館で回顧展が開かれるなど、ムンクの評価は確立した[192]。1924年3月には、ベルゲン美術館でラスムス・メイエル・コレクションが一般公開された[165]。

1933年にはノルウェー政府から聖オラヴ大十字章、フランス政府からレジオンドヌール勲章を授与されるなど、最高の栄誉を受けた。しかし、晩年はナチスの台頭とノルウェーでの親ドイツ政権の成立で不遇の時を過ごしていた。

2001年から、1000ノルウェー・クローネの紙幣に採用され、表面はムンクの若い時の肖像と背景に作品『メランコリー』、裏面は作品『太陽』が描かれている[193]。

2020年6月、ムンク美術館がオスロの文化発信地区ビョルヴィカに13階建ての美術館として移転増築される予定であり、個人の名を冠した美術館としては世界最大規模のものとなる見込みである[194]。

日本
ムンクが日本に最初に紹介されたのは、1911年(明治44年)6月号の『白樺』に銅版画『コラ (Cora)』の図版が掲載された時であった[195]。その後、1912年(明治45年)4月号の『白樺』に、武者小路実篤が特集記事を書き、この号には図版も8点掲載された[196]。

主な作品

有名な作品が19世紀末の1890年代に集中しており「世紀末の画家」のイメージがあるが、晩年まで作品があり、没したのは第二次世界大戦中の1944年である。気に入った作品は売らずに手元に残しており、死後は遺言によって、手元に残していた全作品がオスロ市に寄贈された。このため代表作の多くは1963年にオープンしたオスロ市立ムンク美術館に収蔵されている[197]。オスロ市に残された作品は、油絵約1150点、版画約1万7800点、水彩画と素描約4500点、彫刻13点などであった[198]。良質な作品の7割近くがムンク美術館を中心に収蔵されているとされ、美術市場に現れる作品は少ない[199]。そのため日本にあるムンクの絵画作品は、『オースゴールストランの夏』(群馬県立近代美術館蔵、1890年代[200])、『イプセン『幽霊』からの一場面』(愛知県美術館蔵、1906年[201])、『マイスナー嬢の肖像』(ひろしま美術館蔵、1907年[202])、『雪の中の労働者たち』(個人蔵(旧松方コレクション、国立西洋美術館寄託)、1910年[203]、『犬のいる自画像』(ポーラ美術館蔵、1925-26年頃[204])の5点のみである。

2005年、ドイツのブレーメン美術館でX線調査の結果、ムンクの『死と子供』のキャンバスの下に裸婦と男たちの顔が描かれたもう1枚のキャンバスが隠れていることが分かり、新たな作品の発見となった[205]。

『叫び』

詳細は「叫び (エドヴァルド・ムンク)」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AB%E3%81%B3_(%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%82%AF)


『叫び』の4バージョン

パステル、厚紙(1893年)。ムンク美術館。

油彩・カゼイン・パステル、厚紙(1893年)。オスロ国立美術館。

パステル、厚紙(1895年)。サザビーズ落札品。

テンペラ、厚紙(1910年)。ムンク美術館。
『叫び』はその遠近法を強調した構図、血のような空の色、フィヨルドの不気味な形、極度にデフォルメされた人物などが印象的な作品で、最もよく知られ、ムンクの代名詞となっている。絵葉書に始まり、様々な商品に意匠として採用されており、世界中で『モナ・リザ』と並び美術愛好家以外にも抜群の知名度を誇る作品でもある[206][207]。

ムンクはこの作品の制作について、次のように自らの経験に基づくものであると説明している。

僕は、2人の友人と散歩していた。日が沈んだ。突然空が血のように赤く染まり、僕は憂鬱な気配に襲われた。立ち止まり、欄干に寄りかかった。青黒いフィヨルドと市街の上空に、血のような、炎を吐く舌のような空が広がっていた。僕は一人不安に震えながら立ちすくんでいた。自然を貫く、ひどく大きな、終わりのない叫びを、僕はその時感じたのだ[208]。
映画『ホーム・アローン』で少年が叫ぶシーンにイメージが転用されるなど、パロディ化の影響もあって、橋の上の男が、自ら叫んでいるように誤解されることも多いが、実際には自然から発せられる幻聴に耐えかねて、耳を押さえている様子が描かれている[209]。

『叫び』は1893年以降4点制作され(リトグラフ作品を除く)、ムンク美術館に2点所蔵されているほか、オスロ国立美術館所蔵と個人所蔵のものが1点ずつある。

このうち、オスロ国立美術館蔵のものは1994年2月12日、強盗団に盗み出される被害に遭ったがその後容疑者が逮捕され作品も取り戻された。2004年8月22日にはムンク美術館所蔵のテンペラ画が、同じく展示されていた『マドンナ』とともに、白昼、銃を持った強盗団に盗み出される被害に遭った[210]。容疑者が逮捕されて有罪判決を受けた後、『叫び』と『マドンナ』は2006年8月31日に警察によって発見された[211]。

個人所蔵のパステル画は、長年ノルウェーの実業家オルセン・ファミリーが所有していたが、ペッター・オルセンがニューヨークのサザビーズに出品し、2012年5月2日オークションにかけられた。その結果、1億0700万ドル(手数料込みで1億1990万ドル[注釈 7])という史上最高額[注釈 8]で落札された。買主は公表されていない。ここまでの高額の落札になったのは、作家の評価と作品の知名度が高いことに加え、唯一の個人所蔵作品で市場における希少性があることや、来歴が確かでコンディションも良いといった条件がそろっていたことによる[212][207]。

生命のフリーズ

ウィキメディア・コモンズには、生命のフリーズに関連するメディアがあります。


The Frieze of Life (Edvard Munch) - Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/The_Frieze_of_Life_(Edvard_Munch)?uselang=ja


ムンクは主に1890年代に制作した『叫び』『接吻』『吸血鬼』『マドンナ』『灰』などの一連の作品を「生命のフリーズ」と称し連作と位置付けている。「フリーズ」とは、西洋の古典様式建築の柱列の上方にある横長の帯状装飾部分のことで、ここでは「シリーズ」に近い意味で使われている。これらの作品に共通するテーマは「愛」と「死」、そして愛と死がもたらす「不安」である。

1902年の第5回ベルリン分離派展では、22点の作品が「愛の芽生え」「愛の開花と移ろい」「生の不安」「死」という4つのセクションに分けられていた。「愛の芽生え」のセクションには『接吻』『マドンナ』など、「愛の開花と移ろい」には『吸血鬼』『生命の踊り』など、「生の不安」には『不安』『叫び』など、「死」には『病室での死』『新陳代謝(メタボリズム)』などの作品が展示された[213]。一つの部屋の四方の壁がそれぞれのセクションに割り当てられ、絵が部屋を囲むように高いところにぐるりと展示されていた。ムンクはこの時「フリーズ」という言葉を用いて、装飾的意図があることを明らかにしている[214]。

その時の展示状況は写真に残されていないが、翌1903年3月、ライプツィヒで開催した展覧会の展示状況は、その写真が現存している。それによると展示室の壁の高い位置に白い水平の帯状の区画が設けられ、その区画内に作品が連続して展示されている[215][213]。

1904年にはクリスチャニア、1905年にはプラハで連作展示が行われた。1909年にはラスムス・メイエルが『メランコリー』や『嫉妬』などをまとめて購入した際、次のように書き送っている[216]。

実際のところ、これらの作品は、一つの壁画装飾のためのモデルにするつもりで描かれました。長年心に抱いていたある考えについてたまたま考えていたのですが、これらの作品をフリーズとして飾った芸術の礼拝堂を造ろうとしてスケッチを描いています。
ムンクは1918年にブロムクヴィスト画廊で「生命のフリーズ」の展示会を開くに際し、その成立について次のように振り返っている[217]。この文章によって初めて「生命のフリーズ」という名称が与えられた[218]。

僕はこのフリーズと、かなり途切れ途切れではあるが、約30年にわたって取り組んできた。最初のスケッチ風の構想は、1888年から1889年にかけてできている。『接吻』、『黄色いボート』、『謎』、『男と女』、そして『不安』は1890年から1891年に描かれ、1892年の初め、この町のトーストルップハウスで、更に同年ベルリンでの僕の最初の個展でも展示された。翌年、このシリーズに『吸血鬼』、『叫び』、『マドンナ』を含む新しい作品が付け加えられ、その後独立したフリーズとして、ベルリンのウンター・デン・リンデン画廊に展示された。1902年のベルリン分離派展では、その一部が「現代人の精神生活から」のタイトルで大ホールの壁にぐるりと並んだのが見られた。そのフリーズは一連の装飾的な絵と考えられ、集められているが、むしろ『生命の絵』とするべきであろう。〔……〕そのフリーズは、生命、愛、死についての一つの詩なのだ。
肖像画
ムンクは優れた肖像画を残している。初期には自画像や家族の肖像画が多い。また、ハンス・イェーゲルなど、クリスチャニア・ボヘミアンの詩人や芸術家たちを描いた。1890年代にはベルリンやパリの友人たちを描いている。もっとも肖像画のモデルとなった友人たちは、自分たちの肖像画に驚いたり、不満を漏らしたりすることが少なくなかった。1900年代には多くの等身大の肖像画を描いた。晩年、ムンクは友人たちの肖像画をエーケリーの邸宅に集め「私の芸術の護衛兵」と呼んで、求められても手放そうとしなかった[219]。


『ハンス・イェーゲルの肖像』1889年。油彩、キャンバス、109 × 84 cm。オスロ国立美術館[220]。

『インゲルの肖像』1892年。油彩、キャンバス、172.5 × 122.5 cm。オスロ国立美術館[221]。

『ストリンドベリの肖像』1892年。スウェーデン国立美術館。

『ダニエル・ヤーコブソン教授の肖像』1908-09年。油彩、キャンバス、204 × 111.5 cm。ムンク美術館[222]。


版画

版画、特にリトグラフやエッチングは、1890年頃のフランスで隆盛を迎えていた。1891年にトゥールーズ=ロートレックがムーラン・ルージュのカラー・リトグラフを制作したのと同じ頃から、ムンクも多数の版画の制作を始めた。1894年までにドライポイントの技術を身に付け、間もなくアクアチント、さらに1895年にはエッチングも習得した。これらの凹版画に加え、1894年終わりにはリトグラフも習得した。1895年から1896年のパリ滞在時に『病める子』のカラー・リトグラフを制作して実験を重ねた。最後に木版画も用いるようになった。初期版画のほとんどは油彩画の主題をコピーしたものである。多くの場合、ムンクは銅版、石版、木版の上に直接描したため、刷り上がりは左右が逆になった[223]。アクアチントとドライポイント、リトグラフと木版画、といったように、複数の版画技法を併用している点がムンクの特徴であり、版木をいくつかの部分に分解して刷るといった、新しい試みも行っている[224]。1920年以降は新しい版画制作は減り1930年頃までにほぼ終了した[225]。

ムンクは一つの版画から多くの刷りを重ねており、全部で700以上の版画から、約2万5000の刷りがある。そのうち約1万5000点がムンク美術館に収蔵されている[226]。ムンクと交友を持った美術愛好家グスタフ・シーフラー(ドイツ語版)が、1907年と1928年に、2巻から成る版画の作品目録を出版し、ムンクの版画研究の基礎資料となっている[227]。


『病める子』1894年。エッチング。

『マドンナ』1895-1902年。リトグラフ、60.5 × 44.4 cm。大原美術館。

『叫び』1895年。リトグラフ、35.5 × 25.4 cm。ムンク美術館。

『宇宙での出会い』1905年。木版画。


壁画

ムンクは1916年に完成したオスロ大学講堂壁画をはじめ、1906年から翌年にかけて制作した、ベルリンの小劇場のための「ラインハルト・フリーズ」、オスロ郊外のフレイア・チョコレート工場の社員食堂のために制作した「フレイア・フリーズ」(1922年完成)など、建築内部装飾のための大作をたびたび手がけている。

また、ムンクは大学講堂壁画と生命のフリーズとの関係について次のように語っている[228]。

「生命のフリーズ」は、大学の装飾との関連で見られるのでなければならない。「生命のフリーズ」は多くの点で講堂装飾壁画の先駆的作品であり、「生命のフリーズ」がなければ講堂壁画はおそらく存在しなかっただろう。「生命のフリーズ」は、私の装飾に対する感覚を発展させた。〔……〕「生命のフリーズ」では個人の悲しみと喜びが等身大に描かれ、これに対し大学の壁画は偉大で永遠なる諸力が描かれたのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%82%AF



http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/207.html#c25

[近代史7] 絶世の美女 ダグニー・ユールを描いたエドヴァルド・ムンク『マドンナ』 中川隆
1. 中川隆[-15344] koaQ7Jey 2021年11月12日 05:05:31 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[4]
マドンナ 大原美術館所蔵リトグラフの複製画

エドヴァルド・ムンク マドンナ Madonna 1895-1902年
リトグラフ 大原美術館 キャラクロ K-MNC-008S1 (585mm×788mm)
https://item.rakuten.co.jp/real-inter/k-mnc-008s1/?scid=af_pc_etc&sc2id=af_113_0_10001868&icm_acid=227-088-5686&icm_agid=54974344934&rafct=i_1&icm_cid=1425274689&gclid=Cj0KCQiA-K2MBhC-ARIsAMtLKRv5bgdObm6nHomCxuNuCv3FFYnBeiWBHRhCoLE0tZk-RPBQbZBF2mIaAlUVEALw_wcB


価格 5,500円 (税込)
送料無料

絵画風 壁紙ポスター(はがせるシール式)

【製品仕様】

◆サイズ:585mm×788mm

◆キャラクロ(キャラクターインテリアクロス):壁紙の上からでも床や天井や窓ガラスでもどこでもぴたっと貼れる特殊繊維素材の『はがせるシール式壁紙ポスター』です。

◆シート材質:ポリエステル製布地+耐水・耐候性塗料による建築用壁紙のため、紙のポスターとは違い光沢のない質感と耐久性・耐水(湿気)性が特徴です。

◆シール材質:水性糊(のり)の粘着シール材のため何度でも貼り直しが可能です。(粘着剤や汚れも残りません)

★「画びょうやテープが不要!」、「貼り替え自由自在!」、「しわ・たるみ・破れなし!」のため一般的な紙ポスターとの違いが歴然です。


【キャラクロとは】

●『キャラクロ』とは、様々な価値あるシーンや画像が耐水・対候性の高色彩インクでプリントされたインテリアクロスです。

●「インテリアクロス」とは、壁紙の上から貼れる耐久性に優れた新素材のシール式壁紙です。

●表面は普通の紙ポスターのような光沢がないため絵画風の上質な質感で、裏面は貼り直し可能な水性糊の粘着シールになっています。

【貼り方、はがし方】

★ご使用の前に商品同封の「貼り方等説明書」をお読みください。


【ご使用にあたっての注意事項】

●この壁紙ポスター(キャラクロ)は樹脂製繊維の布でできていますので、切り口から繊維がほつれることがありますが、品質には問題ありません。

●この壁紙ポスターは何度でも貼り直しができますが、粘着面が汚れると粘着力が弱くなりますので、貼りたい場所の汚れやホコリをきれいに拭き取ってから貼ってください。

●粘着力の弱い水性糊(のり)を使っていますが、下地の素材によっては表面を傷める場合があります。

●耐水素材と耐候性の高い顔料インクを用いて印刷していますが、水ぬれした場合は乾いた布で上から押さえるように拭き、こすらないようにしてください。

●シワができた場合は、貼り付ければシワは徐々に消えていきます。また、黒系色には擦れや擦り傷等がつきやすいですが、貼り付ければほとんど目立たなくなります。


《浴室でのご使用の場合》

★貼り付け面がぬれていると粘着力が弱くなりますので、貼り付け面をよく拭いて乾いた状態で貼ってください。※粘着糊がぬれた場合でも、乾けば粘着力は復活します。

★耐水・耐候性の顔料インクのため浴室(お風呂場)でもご使用できますが、浴室専用完全防水のコーティング製品ではないため、ぬれた状態でシート(繊維)表面を拭かないでください。※ぬれた状態で拭くと色落ちする場合があります。
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/388.html#c1

[近代史7] 絶世の美女 ダグニー・ユールを描いたエドヴァルド・ムンク『マドンナ』 中川隆
2. 中川隆[-15343] koaQ7Jey 2021年11月12日 05:07:33 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[5]
マドンナ(1894年-1895年、91×70.5cm、ムンク美術館所蔵)の複製画

ムンク マドンナ 複製画ポスター
A1/594ミリ×841ミリ
http://succeed21.com/shopdetail/000000001524/

価格 : 4,000円 (税込 4,400円)
 11,000円(税込)以上は配送料無料(沖縄・離島を除く)


【作品技法】
・ジークレー技法により色彩鮮やかに複製画ポスターです。

・原画のオリジナル画像から弊社独自の色彩調整を行ない、独特な描写タッチや繊細な表現方法を見ていただくためイメージの色合いを豊かに再現しております。

・原画上の劣化(キズや汚れ、ひび割れ等)は、作品の歴史を感じさせる個性として残している場合がございます。

※ご使用のパソコンモニター画面環境により、色合いが実物と異なる場合がございますので予めご了承下さい。

【作品仕様】

・紙質/破れにくく平面性の高いマット合成紙(表面/マット調・裏面/ポリプロピレン)

・原画イメージ全体を再現するために、原画のトリミングをせず各サイズ紙の中にマージン(余白)を設けて刷られています。 (写真参照)。

・ポスターフレームもご用意しております。
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/388.html#c2

[近代史7] 絶世の美女 ダグニー・ユールを描いたエドヴァルド・ムンク『マドンナ』 中川隆
3. 中川隆[-15342] koaQ7Jey 2021年11月12日 05:17:32 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[6]
2020.11.16
ムンクの「マドンナ」のモデルのファム・ファタールな人生を紹介!
https://omochi-art.com/wp/madonna-munch/

こんにちは!

今回は、ムンクの《マドンナ》を解説します。

早速見ていきましょう!

マドンナ

エドヴァルド・ムンク《マドンナ》1894年

この絵のモデル、ダグニー・ユールは、ムンクと同じノルウェー人で4歳年下でした。

彼女の叔父はノルウェーの首相、父親は医者という裕福な家庭に生まれました。

ベルリンの「黒仔豚亭」というカフェ(現存せず)で、芸術家グループのマドンナ的存在だったダグニーは、その性的奔放さから「アスパシア(有名な遊女の名前)」というあだ名で呼ばれていました。

ミステリアスな雰囲気と美貌と知性で多くの男性を魅了しました。

30代前半のムンクも、「黒仔豚亭」のメンバーと同じように彼女に夢中になり、自由奔放な彼女にかなり嫉妬したそう。

結局「黒仔豚亭」のメンバーの中から彼女が選んだのは、ポーランドの作家ブシビシェフスキでした。


エドヴァルド・ムンク《マドンナ》1894-1895年

《マドンナ》というタイトルはムンクが付けたわけではなく、この作品を購入したオスロ国立美術館長が付けた題名です。

「マドンナ」の語源は、古いラテン語の「MEA DOMINA(私の女主人)」です。

キリスト教では伝統で「聖母マリア」という特別な意味で使われるようになりました。

比喩的に「憧れの女性」という意味も含んでいます。

頭部にある赤いものは帽子ではなくて聖なる光輪です。怪しげ…。

このポーズと恍惚とした表情から、男性を誘惑しているように見えます。


エドヴァルド・ムンク《マドンナ》1895-1897年

ブシビシェフスキは3人目を妊娠中だった愛人を捨て(彼女は後に不審死。ブシビシェフスキが殺したのではと警察に疑われましたが、自殺か事故ということに)、ダグニーと結婚しました。

息子が生まれましたが、幸せは長くは続きませんでした。


エドヴァルド・ムンク《マドンナ》1893-1895年

ブシビシェフスキは友人の妻と不倫、別の女性を妊娠させ、アルコール依存症に。

ダグニーは息子を両親に預け、独身時代と同じように自由な生活を送りました。

ダグニーは34歳の誕生日の3日前に、グルジア(現在はジョージア)のトビリシ市にある小さなホテルで、彼女に好意を寄せていたグルジア人青年にピストルで頭を撃ち抜かれて亡くなります。

彼も翌日自殺しています。

母親が射殺されるのを5歳の息子が目撃していたとも、ブシビシェフスキが事件に関与していたともいわれていますがよくわかっていません。


エドヴァルド・ムンク《マドンナ》1895-1902年

油彩で描くだけでなく、上のようなリトグラフも制作しました。

赤い枠には精子と不気味な胎児が描かれています。


エドヴァルド・ムンク《マドンナ》1895-1902年


https://omochi-art.com/wp/madonna-munch/
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/388.html#c3

[近代史7] ニーチェやドストエフスキーはエドヴァルド・ムンクにどんな影響を与えたか 中川隆
1. 中川隆[-15341] koaQ7Jey 2021年11月12日 07:58:38 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[7]
ドストエフスキー作品集
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person363.html#sakuhin_list_1  

ドストエフスキーの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/334.html

ニーチェの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/335.html

ニーチェが耽溺したワーグナー トリスタンとイゾルデの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/375.html

作曲家 フリードリヒ・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844 - 1900)
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/821.html

作曲家 フリードリヒ・ニーチェ ヴァイオリンソナタ『大晦日』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/823.html

作曲家 フリードリヒ・ニーチェ『マンフレッド瞑想曲』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/822.html
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/389.html#c1

[近代史5] テレビ・新聞による情報操作と Google・Appl・Facebook・Amazon による検閲・言論統制に歯止めがかからない 中川隆
26. 中川隆[-15340] koaQ7Jey 2021年11月12日 09:23:33 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[8]
「Facebookは乗っ取られた」背後にビル・ゲイツ…Metaと全人類を支配計画をジェームズ斉藤が解説!
2021.11.11
https://tocana.jp/2021/11/post_225261_entry.html

【連載:某国諜報機関関係者で一切の情報が国家機密扱いのジェームズ斉藤(@JamesSaito33)が斬る! 国際ニュース裏情報】

──先日Facebookが社名をMetaに変えましたが、なにかキナ臭い動きが裏であるらしいですね。
ジェームズ 簡単に言えば、Facebookが乗っ取られたと言っていいのではないでしょうか。

──乗っ取りですか!? 社名変更は株価を上げるためとか言われていますけど。

ジェームズ それは当然あります。そもそも最近、Facebookは株価が下がる話ばかりだったじゃないですか。仮想通貨のリブラの失敗とかありましたし、情報管理の甘さも指摘されていました。それを象徴するように、先月の3日には元従業員のフランシス・ホーゲンというアイオワ出身の白人の女性が内部資料をリークして、Facebookを糾弾しています。アメリカ議会の公聴会に呼ばれたホーゲンは「Facebookは過激なコンテンツを野放しにしている。儲けのためにフェイクニュースを意図的に拡散している」と言ったんです。そしてその2日後の5日には例の大障害が起こりました。

──Facebookが20時間ぐらい止まってしまった事件ですね。

ジェームズ あれは大打撃でした。Facebookだけでなく、グループ内のWhatsApp、Instagramも止まっています。これによってFacebookはソフトの管理だけでなく、ハードの管理も杜撰だというイメージがついてしまったのです。

 しかし、これらの話をよく見ると変な話ばかりなんですよ。まず、10月5日の大障害ですが、あれは明らかに内部犯行でした。

 そして、ホーゲンの証言ですが、これもおかしいのです。彼女が批判したのは1月6日の議会突入の件でした。実はあの議会突入デモの募集はFacebookを使って行われていたんです。Facebookで議会突入デモの参加者の募集がかけられて、それで議会突入デモが起きたんです。ですから、彼女は「Facebookは過激なコンテンツを野放しにしている」と言っているわけです。

 しかし、Facebookはトランプ派に対してずっと制限をかけていました。あの議会突入デモの募集だけ、野放しにしていたんです。


──つまり、それも内部犯行の可能性があると。

ジェームズ あります。少なくともFacebookは議会突入だけピンポイントで野放しにしているんですから。ホーゲンはそれを指摘しているわけですが、問題はその結果、何が起こるかです。間違いなくトランプ側への締付けが強化されるでしょうね。アルゴリズムのレベルで、トランプ支持者は封じ込められるでしょう。民主党の一党独裁になることは間違いありませんし、民主党の後ろにいる超国家的な人々の意に反する発言もアルゴリズムレベルで封じられることになるわけです。

──バックにはビル・ゲイツなどの超国家的な人々がいるんですね。

ジェームズ その通りです。ただし、問題は実際に手を下したのは誰なのか、なんですよ。先ほどから言っているように一連の事件は内部犯行ですから。そうすると、気になってくるのが例の告発者のフランシス・ホーゲンです。彼女がFacebook時代に勤務していた部署とは脅威インテリジェンス部門なのです。

──脅威インテリジェンス部門?

ジェームズ 例えば、Facebook上で過激な発言をしている者とかを監視するところです。彼女はその部署の出身ですが、実はその部署はCIAやFBIのNSB(連邦捜査局国家保安部)などのOBが働くところなんです。

──えっ!? Facebookの中に諜報機関があるってことですか?

ジェームズ そうです。なにしろ、Facebookの求人募集で、脅威インテリジェンス部門は最低5年の諜報機関における経験が必要だと書かれているのですから。事実上、諜報機関の影響下にある部署です。

──ということは、ホーゲンは諜報機関の人間なんですね? 

ジェームズ ところがそうではなさそうなのです。調べたところ、インテリジェンス機関に所属していた過去はないようです。地方の大学を卒業してハーバードビジネススクールでMBAを取った、どちらかというと民間企業のエリートなんですよ。出会い系アプリの開発とかに関わってGoogleに7年ぐらい勤務したあとにFacebookに移った人です。ですから、本来、脅威インテリジェンス部門にいるほうがおかしいんです。

──ということはどういうことですか?

ジェームズ 一応、米国では脅威インテリジェンス部門のような所でも、素人枠はあります。彼女はその素人枠での採用だと思います。ただし、そういう人は往々にして告発用の操り人形の役割を担わされます。特に彼女の場合はそれが顕著です。容姿も悪くないですし、純粋な白人というのが売りです。そんな彼女が保守派を攻撃することが重要なんです。なにしろ、彼女は「Facebookの規制に対する本気度が低い。もっとアルゴリズムレベルで規制をかけて過激な発言は徹底的に取り締まるほうがいい」と言っているんです。おそらく彼女は「無自覚のエージェント」です。正義感を持って自分が世界を変えるという臨場感にドップリ浸かっているのでしょう。なにしろ、彼女は民主党本部に何度も個人で献金しているような人ですから、彼女は自分が正義だと思い込めるんですよ。しかし、実際には諜報機関の完全な操り人形にされています。


Gerd AltmannによるPixabayからの画像
 諜報機関はこういう仕掛けをよくやります。有名なのは湾岸戦争が始まる前にアメリカ議会の公聴会の場で、イラク人の少女を名乗る者が泣きながら英語でサダム・フセインの蛮行を暴露した件です。彼女の発言で一気にフセインは悪者だというふうになって戦争に突入していったんですが、あとでこの少女がワシントンにあるクエート大使館の大使の娘だったことが発覚しています。ブッシュ家に雇われたヒューゼンノールという広告代理店が仕掛けた茶番だったんです。今回も同じ構図で、世論を煽ってますます規制をかけさせることが狙いでしょう。と同時に、Facebookの信用を毀損して乗っ取ろうということです。

──つまり、Facebookを乗っ取ろうとしているのはアメリカの諜報機関だということですか?

ジェームズ その通りです。正確に言えば、そもそもGoogleやFacebookは諜報機関の後押しでできたプロジェクトです。彼ら諜報機関のやり方はまず民間にやらせて、うまく軌道に乗ってきたら乗っ取るというやり方なんですよ。ですから、いまFacebookは乗っ取り段階に来たということです。

──収穫の時期が来たと。

ジェームズ そうです。だいたい、ソーシャルメディアを作った勢力というのは私が昔から言っていたCIA左派になります。シリコンバレー系の関係者も全部CIA左派なんです。彼らは最初から乗っ取りつもりで金を出していたわけです。

 そういう中での社名変更ですから、ザッカーバーグは白旗を上げたということでしょう。Facebookはもうくれてやって、自分は別の会社を起業するか、セミリタイアするかということでしょう。ともかく、今回の社名変更でFacebookの乗っ取りは成功したと言っていいのではないでしょうか。そして、世界はますます超国家的な人々の自由になっていくという合図なのです。

 それを象徴するが如く、社名がただの「卒業アルバム」という意味のFacebookから、「超える」を意味するMetaに変わりました。つまり、全人類のカタログ化のための「卒業アルバム」の段階は終わり、今後は本格的に全人類を支配する「Meta」(人を超える)の段階に入ったということです。Meta時代は現代のビッグブラザーになっていくのではないでしょうか。
文=ジェームズ斉藤

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/513.html#c26

[近代史3] ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズの正体 中川隆
22. 中川隆[-15339] koaQ7Jey 2021年11月12日 09:26:55 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[9]
「Facebookは乗っ取られた」背後にビル・ゲイツ…Metaと全人類を支配計画をジェームズ斉藤が解説!
2021.11.11
https://tocana.jp/2021/11/post_225261_entry.html
【連載:某国諜報機関関係者で一切の情報が国家機密扱いのジェームズ斉藤(@JamesSaito33)が斬る! 国際ニュース裏情報】

──先日Facebookが社名をMetaに変えましたが、なにかキナ臭い動きが裏であるらしいですね。
ジェームズ 簡単に言えば、Facebookが乗っ取られたと言っていいのではないでしょうか。

──乗っ取りですか!? 社名変更は株価を上げるためとか言われていますけど。

ジェームズ それは当然あります。そもそも最近、Facebookは株価が下がる話ばかりだったじゃないですか。仮想通貨のリブラの失敗とかありましたし、情報管理の甘さも指摘されていました。それを象徴するように、先月の3日には元従業員のフランシス・ホーゲンというアイオワ出身の白人の女性が内部資料をリークして、Facebookを糾弾しています。アメリカ議会の公聴会に呼ばれたホーゲンは「Facebookは過激なコンテンツを野放しにしている。儲けのためにフェイクニュースを意図的に拡散している」と言ったんです。そしてその2日後の5日には例の大障害が起こりました。

──Facebookが20時間ぐらい止まってしまった事件ですね。

ジェームズ あれは大打撃でした。Facebookだけでなく、グループ内のWhatsApp、Instagramも止まっています。これによってFacebookはソフトの管理だけでなく、ハードの管理も杜撰だというイメージがついてしまったのです。

 しかし、これらの話をよく見ると変な話ばかりなんですよ。まず、10月5日の大障害ですが、あれは明らかに内部犯行でした。

 そして、ホーゲンの証言ですが、これもおかしいのです。彼女が批判したのは1月6日の議会突入の件でした。実はあの議会突入デモの募集はFacebookを使って行われていたんです。Facebookで議会突入デモの参加者の募集がかけられて、それで議会突入デモが起きたんです。ですから、彼女は「Facebookは過激なコンテンツを野放しにしている」と言っているわけです。

 しかし、Facebookはトランプ派に対してずっと制限をかけていました。あの議会突入デモの募集だけ、野放しにしていたんです。


──つまり、それも内部犯行の可能性があると。

ジェームズ あります。少なくともFacebookは議会突入だけピンポイントで野放しにしているんですから。ホーゲンはそれを指摘しているわけですが、問題はその結果、何が起こるかです。間違いなくトランプ側への締付けが強化されるでしょうね。アルゴリズムのレベルで、トランプ支持者は封じ込められるでしょう。民主党の一党独裁になることは間違いありませんし、民主党の後ろにいる超国家的な人々の意に反する発言もアルゴリズムレベルで封じられることになるわけです。

──バックにはビル・ゲイツなどの超国家的な人々がいるんですね。

ジェームズ その通りです。ただし、問題は実際に手を下したのは誰なのか、なんですよ。先ほどから言っているように一連の事件は内部犯行ですから。そうすると、気になってくるのが例の告発者のフランシス・ホーゲンです。彼女がFacebook時代に勤務していた部署とは脅威インテリジェンス部門なのです。

──脅威インテリジェンス部門?

ジェームズ 例えば、Facebook上で過激な発言をしている者とかを監視するところです。彼女はその部署の出身ですが、実はその部署はCIAやFBIのNSB(連邦捜査局国家保安部)などのOBが働くところなんです。

──えっ!? Facebookの中に諜報機関があるってことですか?

ジェームズ そうです。なにしろ、Facebookの求人募集で、脅威インテリジェンス部門は最低5年の諜報機関における経験が必要だと書かれているのですから。事実上、諜報機関の影響下にある部署です。

──ということは、ホーゲンは諜報機関の人間なんですね? 

ジェームズ ところがそうではなさそうなのです。調べたところ、インテリジェンス機関に所属していた過去はないようです。地方の大学を卒業してハーバードビジネススクールでMBAを取った、どちらかというと民間企業のエリートなんですよ。出会い系アプリの開発とかに関わってGoogleに7年ぐらい勤務したあとにFacebookに移った人です。ですから、本来、脅威インテリジェンス部門にいるほうがおかしいんです。

──ということはどういうことですか?

ジェームズ 一応、米国では脅威インテリジェンス部門のような所でも、素人枠はあります。彼女はその素人枠での採用だと思います。ただし、そういう人は往々にして告発用の操り人形の役割を担わされます。特に彼女の場合はそれが顕著です。容姿も悪くないですし、純粋な白人というのが売りです。そんな彼女が保守派を攻撃することが重要なんです。なにしろ、彼女は「Facebookの規制に対する本気度が低い。もっとアルゴリズムレベルで規制をかけて過激な発言は徹底的に取り締まるほうがいい」と言っているんです。おそらく彼女は「無自覚のエージェント」です。正義感を持って自分が世界を変えるという臨場感にドップリ浸かっているのでしょう。なにしろ、彼女は民主党本部に何度も個人で献金しているような人ですから、彼女は自分が正義だと思い込めるんですよ。しかし、実際には諜報機関の完全な操り人形にされています。


Gerd AltmannによるPixabayからの画像
 諜報機関はこういう仕掛けをよくやります。有名なのは湾岸戦争が始まる前にアメリカ議会の公聴会の場で、イラク人の少女を名乗る者が泣きながら英語でサダム・フセインの蛮行を暴露した件です。彼女の発言で一気にフセインは悪者だというふうになって戦争に突入していったんですが、あとでこの少女がワシントンにあるクエート大使館の大使の娘だったことが発覚しています。ブッシュ家に雇われたヒューゼンノールという広告代理店が仕掛けた茶番だったんです。今回も同じ構図で、世論を煽ってますます規制をかけさせることが狙いでしょう。と同時に、Facebookの信用を毀損して乗っ取ろうということです。

──つまり、Facebookを乗っ取ろうとしているのはアメリカの諜報機関だということですか?

ジェームズ その通りです。正確に言えば、そもそもGoogleやFacebookは諜報機関の後押しでできたプロジェクトです。彼ら諜報機関のやり方はまず民間にやらせて、うまく軌道に乗ってきたら乗っ取るというやり方なんですよ。ですから、いまFacebookは乗っ取り段階に来たということです。

──収穫の時期が来たと。

ジェームズ そうです。だいたい、ソーシャルメディアを作った勢力というのは私が昔から言っていたCIA左派になります。シリコンバレー系の関係者も全部CIA左派なんです。彼らは最初から乗っ取りつもりで金を出していたわけです。

 そういう中での社名変更ですから、ザッカーバーグは白旗を上げたということでしょう。Facebookはもうくれてやって、自分は別の会社を起業するか、セミリタイアするかということでしょう。ともかく、今回の社名変更でFacebookの乗っ取りは成功したと言っていいのではないでしょうか。そして、世界はますます超国家的な人々の自由になっていくという合図なのです。

 それを象徴するが如く、社名がただの「卒業アルバム」という意味のFacebookから、「超える」を意味するMetaに変わりました。つまり、全人類のカタログ化のための「卒業アルバム」の段階は終わり、今後は本格的に全人類を支配する「Meta」(人を超える)の段階に入ったということです。Meta時代は現代のビッグブラザーになっていくのではないでしょうか。
文=ジェームズ斉藤
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/727.html#c22

[リバイバル3] フリーランスの実態 本業でも年収200万円台が大半 中川隆
1. 2021年11月12日 09:51:37 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[10]

2021年11月12日
フリーランスの4割以上が年収200万円未満

平均的なフリーランスは年収200万円以下だが満足している


フリーランスの実態は

2020年から21年にかけてコロナによって失業したり収入が減った人が多かったと思います。

フリーランスが注目を集め、副業あるいは本業として始めた人も多かった。

オンラインプログラミングスクール「デイトラ」のアンケートでは、フリーランスの甘くない現状が浮かび上がった。

フリーランスの年収で200万円未満と答えた人が約43%、なおアンケート調査なので正確ではない。

もしかしたら特定の収入や特定の層にかたよっているのかも知れないが、他の調査でもフリーランスの収入は多くない。

200万円から400万円が約28%で、合計すると7割のフリーランスが年収400万円未満となる。


一日の労働時間は3時間から6時間と、6時間から9時間がそれぞれ35%ほどを占めた。

労働時間はサービス残業当たり前のサラリーマンより少なく、3時間未満の人も15%いた。

フリーランスになるまでの準備期間、これは修行や勉強に要した期間で、2年以上が半数を占めた。


2番目に多かったのは3か月未満で約30%、3か月より長く2年より短い人は21%しかいなかった。

フリーランスになるために長期間準備した人と、「えいやっ」と始めた人の両極端に分かれています。

これは次の質問の職種にも関係しています。

フリーランスは金は無くても満足

フリーランスの職種で最も多いのはライター(10%)、デザイナー(8%)、コンサルタント(7%)、プログラマー、イラストレーター、動画編集、ブロガーと続きます。

最も多いライターでやっと10%、多いイメージがあるプログラマーは5%で、特定の職種に偏っていない。

これらの中では2年以上準備が必要だったり、思いついたらその日からできたりします。


例えばユーチューバーやブロガーは趣味で数千円の収入があっても「フリーランス」と言わないでしょう。

月に10万円とか20万円以上の収入になったら、「思い立ったらその日から」フリーランスになれます。


Youtubeやブログはヒット1本で、突然それだけで生活できるようになる場合があります。

デザイナー、プログラマー、イラストレーターなどは顧客を獲得する必要があり、独立できる環境を作るのに時間がかかるでしょう。

そうした専門職は取引先が必要ですが、フリーランスの初仕事は26%は「元々の取引先」、24%は知人からの注文でした。


想像ではこの5割は会社に勤めていた時の取引先や仕事仲間から仕事を得たのでしょう。

これに「紹介」(17%)を含めるとフリーランスの初仕事の67%は縁故や知人から得ている。

フリーランスの満足度では低収入にも拘わらず7割が「満足している」と回答しています。


不満足と回答したのは21%だけなので、フリーランスの満足度は非常に高い。

https://www.thutmosev.com/archives/87126229.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1139.html#c1

[リバイバル3] 敷金礼金ゼロで家賃半額も…超安値の「いわく付き」事故物件に人気殺到!首都圏にも多数 中川隆
61. 2021年11月12日 10:08:49 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[11]
【ゆっくり解説】恐怖!大阪日本一。大島てるの事故物件。
2021/11/10




心霊&怪奇現象 体験談。怖い話「お前たち、あの地蔵を動かしたのか。」体験談。守ってくれていたのに感謝せず。いつもこのパターン。誰かが必ず大迷惑。ゆっくり解説していきます。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/662.html#c61
[近代史5] 成仏不動産 | 事故物件の買取・売却・流通専門サイト 中川隆
21. 中川隆[-15338] koaQ7Jey 2021年11月12日 10:09:09 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[12]
【ゆっくり解説】恐怖!大阪日本一。大島てるの事故物件。
2021/11/10




心霊&怪奇現象 体験談。怖い話「お前たち、あの地蔵を動かしたのか。」体験談。守ってくれていたのに感謝せず。いつもこのパターン。誰かが必ず大迷惑。ゆっくり解説していきます。

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/503.html#c21
[近代史5] メキシコ _ 国までを支配⁉︎恐ろしすぎるギャング組織について 中川隆
3. 2021年11月12日 10:58:12 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[13]
◆ドラッグ依存の売春女性が路上で男に使い捨てされる現場
2015.12.22


メキシコのドラッグ・カルテルが凄まじいまでの勢力を持っているのを見ても分かる通り、世界はドラッグの蔓延で地獄のような惨状になっている。

ドラッグに満ちているということは、すなわちドラッグに堕ちた依存者も山ほど存在するということだ。日本ではドラッグでフラフラになってストリート売春をしている女性の姿は皆無だが、世界はそうではない。

アメリカでも中南米諸国でも欧米でも、こうした女性たちは当たり前に存在する。街の至るところで朦朧とした表情をしながら、自分に金を与えてくれる男を待っている。

すでに廃人寸前になっているような女性も多い。

老いて歯も失ったような売春女性もいる。下半身がボロボロになった売春女性もいる。自分の子供を薬物依存にして売春させる「ヘロイン・ママ」もいる。

ドラッグ依存は正常な判断を喪失させる。善悪の判断も消し去られ、羞恥心すらも消え去る。そのため、ドラッグ依存の女性の何人かは路上で売春ビジネスをする。

中には朦朧とした意識であることを見透かされ、男に金をもらうこともなく路上でセックスされ、そのまま使い捨てにされるような女性も出てくる。

https://blackasia.net/?p=1451
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/799.html#c3

[番外地10] 僕はずっと爆サイ情報を元にコメントしていたけど、最近そのデタラメさに気付いて判断を変えたんだ。 中川隆
1. 中川隆[-15337] koaQ7Jey 2021年11月12日 11:47:39 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[14]
爽彩さんのパニック障害・PTSDは小学生の時に発病したもので、中学校でのイジメとは全く関係ありません。パニック障害・PTSDは家庭内性虐待、レイプ、覚醒剤障害のどれかが原因だとされていますので、爽彩さんは小学生高学年で家庭内性虐待、レイプ、覚醒剤障害のどれかを受けたという事になります。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/160.html#c1
[番外地10] 僕はずっと爆サイ情報を元にコメントしていたけど、最近そのデタラメさに気付いて判断を変えたんだ。 中川隆
2. 中川隆[-15336] koaQ7Jey 2021年11月12日 12:48:11 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[15]
実際には単にフラッシュバックでパニック障害が起きただけみたいですね:
【2019年6月】
 公園のベンチで広瀬さんが隣に座ってきた C男に向かってふざけてたたくなどしていたが、その後パニックになり、「私のことは誰もわかってくれない。死んできます」などと言いながら、公園から川のコンクリートの土手を滑り降りてひざ下程度の水深の川へ入った。

 当時現場には多くの小学生や中学生が取り囲む状況で、広瀬さんは川に入りながら自分のスマートフォンで中学校に電話し、泣きながら「死にたい」と訴える。
 すぐに3人の教員が現場に駆け付けて川から引き上げ、学校に連れて行った。

学校に連れて行った後でもパニック障害が収まらなかったので精神病院に措置入院させて母親から遠ざけたんですね。
警察も学校も、爽彩さんと母親との関係がパニック障害の原因だと判断したのです。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/160.html#c2

[近代史5] 日本人の起源 中川隆
12. 2021年11月12日 13:05:21 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[16]
雑記帳
2021年11月12日
アジア北東部集団の形成の学際的研究
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html


 アジア北東部集団の形成の学際的研究に関する研究(Nyakatura et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。トランスユーラシア語族、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族の起源と初期の拡散は、ユーラシア人口史の最も論争となっている問題の一つです。重要な問題は、言語拡散と農耕拡大と人口移動との間の関係です。

 本論文は、統一的観点で遺伝学と考古学と言語学を「三角測量」することにより、この問題に取り組みます。本論文は、包括的なトランスユーラシア言語の農耕牧畜および基礎語彙を含む、これらの分野からの広範なデータセットを報告します。その内訳は、アジア北東部の255ヶ所の新石器時代から青銅器時代の遺跡の考古学的データベースと、韓国と琉球諸島と日本の初期穀物農耕民の古代ゲノム回収で、アジア東部からの既知のゲノムを保管します。

 伝統的な「牧畜民仮説」に対して本論文が示すのは、トランスユーラシア言語の共通の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)と主要な拡散が、新石器時代以降のアジア北東部全域の最初の農耕民の移動にたどれるものの、この共有された遺産は青銅器時代以降の広範な文化的相互作用により隠されてきた、ということです。言語学と考古学と遺伝学の個々の分野における顕著な進歩を示しただけではなく、それらの収束する証拠を組み合わせることにより、トランスユーラシア言語話者の拡大は農耕により促進された、と示されます。

 古代DNA配列決定における最近の躍進により、ユーラシア全域におけるヒトと言語と文化の拡大の間のつながりが再考されるようになってきました。しかし、ユーラシア西部(関連記事1および関連記事2)と比較すると、ユーラシア東部はまだよく理解されていません。モンゴル南部(内モンゴル)や黄河や遼河やアムール川流域やロシア極東や朝鮮半島や日本列島を含む広大なアジア北東部は、最近の文献ではとくに過小評価されています。遺伝学にとくに重点を置いている(関連記事1および関連記事2および関連記事3)か、既存のデータセットの再調査に限定されるいくつかの例外を除いて、アジア北東部への真の学際的手法はほとんどありません。

 「アルタイ諸語」としても知られるトランスユーラシア語族は、言語の先史時代で最も議論となっている問題の一つです。トランスユーラシア語族はヨーロッパとアジア北部全域にまたがる地理的に隣接する言語の大規模群を意味し、5つの議論の余地のない語族が含まれ、それは日本語族と朝鮮語族とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です(図1a)。これら5語族が単一の共通祖先から派生したのかどうかという問題は、継承説と借用説の支持者間の長年の主題でした。最近の評価では、多くの共通の特性がじっさいに借用によるものだとしても、それにも関わらず、トランスユーラシア語族を有効な系譜群として分類する信頼できる証拠の核がある、と示されています。

 しかし、この分類を受け入れると、祖先のトランスユーラシア語族話者共同体の時間的深さと場所と文化的帰属意識と拡散経路について、新たな問題が生じます。本論文は、「農耕仮説」を提案することにより、伝統的な「牧畜民仮説」に異議を唱えます。「牧畜民仮説」では、紀元前二千年紀にユーラシア東部草原地帯で始まる遊牧民の拡大を伴う、トランスユーラシア語族の第一次拡散を特定します。一方「農耕仮説」では、「農耕/言語拡散仮説」の範囲にそれらの拡散を位置づけます。これらの問題は言語学をはるかに超えているので、考古学と遺伝学を「三角測量」と呼ばれる単一の手法に統合することで対処されます。


●言語学

 方言や歴史的な違いも含めた、98のユーラシア語族の言語で、254の基本的な語彙概念を表す3193の同語源一式の新たなデータセットが収集されました。ベイズ法の適用により、トランスユーラシア語族の言語の年代のある系統発生が推定されました。その結果、トランスユーラシア語族祖語の分岐年代は最高事後密度(highest posterior density、HPD)95%で12793〜5595年前(9181年前)、アルタイ諸語祖語(テュルク語族とモンゴル語族とツングース語族の祖語)では6811年前(95% HPDで10166〜4404年前)、モンゴル語族とツングース語族では4491年前(95% HPDで6373〜2599年前)、日本語族と朝鮮語族では5458年前(95% HPDで8024〜3335年前)と示唆されました(図1b)。これらの年代は、特定の語族が複数の基本的な亜集団に最初に分岐する時間的深さを推定します。これらの語彙データセットを用いて、トランスユーラシア語族の地理的拡大がモデル化されました。ベイズ系統地理学を適用して、語彙統計学や多様性ホットスポット還俗や文化的再構築などの古典的手法が補完されました。

 アルタイ山脈から黄河や大興安嶺山脈やアムール川流域に及ぶ、以前に提案された起源地とは対照的に、トランスユーラシア語族の起源は前期新石器時代の西遼河地域にある、との裏づけが見つかりました。新石器時代におけるトランスユーラシア語族の最初の分散後、さらなる拡散が後期新石器時代および青銅器時代に起きました。モンゴル語族の祖先はモンゴル高原へと北に広がり、テュルク語族祖語はユーラシア東部草原を越えて西方へと移動し、他の分岐した語族は東方へと移動しました。それは、アムール川とウスリー川とハンカ湖の地域に広がったツングース語族祖語と、朝鮮半島に広がった朝鮮語族祖語と、朝鮮半島および日本列島に広がった日本語族祖語です(図1b)。以下は本論文の図1です。
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 祖語の再構築された語彙で明らかにされた農耕牧畜単語を調べた定性分析を通じて、特定の期間における特定地域の祖先的話者共同体にとって文化的診断となるような項目が、さらに特定されました。祖語の再構築された語彙で明らかにされた農牧民の言葉を調べた定性分析(補足データ5)を通じて、特定の地域の特定の時間における先祖の言語共同体の文化的診断となる項目がさらに特定されました。トランスユーラシア語族祖語やアルタイ諸語祖語やモンゴル語族およびツングース語族祖語や日本語族および朝鮮語族祖語など、新石器時代に分離した共通の祖先語は、耕作(「畑」や「種蒔き」や「植物」や「成長」や「耕作」や「鋤」)、(コメや他の穀類ではない)キビやアワやヒエといった雑穀(「雑穀の種子」や「雑穀の粥」や農家の内庭の「雑穀」)、食糧生産と保存(「発酵」や「臼で引く」や「軟塊に潰す」や「醸造」)、定住を示唆する野生食糧(「クルミ」や「ドングリ」や「クリ」)、織物生産(「縫う」や「織布」や「織機で織る」や「紡ぐ」や「生地の裁断」や「カラムシ」や「アサ」)、家畜化された動物としてのブタやイヌと関連する、継承された単語の小さな核を反映しています。

 対照的に、テュルク語族やモンゴル語族やツングース語族や朝鮮語族や日本語族など青銅器時代に分離した個々の下位語族は、イネやコムギやオオムギの耕作、酪農、ウシやヒツジやウマなどの家畜化された動物、農耕、台所用品、絹など織物に関する新たな生計用語を挿入しました。これらの言葉は、さまざまなトランスユーラシア語族および非トランスユーラシア語族言語を話す青銅器時代人口集団間の言語的相互作用から生じる借用です。要約すると、トランスユーラシア語族の年代と故地と元々の農耕語彙と接触特性は、農耕仮説を裏づけ、牧畜民仮説を除外します。


●考古学

 新石器時代のアジア北東部は広範な植物栽培を特徴としていましたが、穀物農耕が栽培化のいくつかの中心地から拡大し、そのうちトランスユーラシア語族にとって最重要なのが西遼河地域で、キビの栽培が9000年前頃までに始まりました。文献からデータが抽出され、新石器時代および青銅器時代の255ヶ所の遺跡(図2a)の172の考古学的特徴が記録されて、中国北部と極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域と韓国と日本の、直接的に放射性炭素年代測定された初期の作物遺骸269点の目録がまとめられました。

 文化的類似性にしたがって255ヶ所の遺跡がまとまるベイズ分析の主要な結果は、図2bに示されます。西遼河地域の新石器時代文化のまとまりが見つかり、そこから雑穀(キビやアワやヒエ)農耕と関連する二つの分枝が分離します。一方は朝鮮半島の櫛形文(Chulmun)で、もう一方はアムール川とプリモライ地域と遼東半島に及ぶ新石器時代文化です。これは、5500年前頃までの朝鮮半島、および5000年前頃までのアムール川経由でのプリモライ地域への雑穀農耕拡散についての以前の知見を確証します。

 分析の結果、韓国の無文(Mumun)文化および日本の弥生文化遺跡と、西遼河地域の青銅器時代遺跡がまとまりました。これは、紀元前二千年紀に遼東半島および山東半島地域の農耕一括にイネとコムギが追加されたことを反映しています。これらの作物は前期青銅器時代(3300〜2800年前頃)に朝鮮半島に伝わり、3000年前頃以後には朝鮮半島から日本列島へと伝わりました(図2b)。以下は本論文の図2です。
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 人口移動は単形質的な考古学的文化とはつながりませんが、アジア北東部における新石器時代の農耕拡大は、耕作や収穫や織物の技術の石器など、いくつかの診断的特徴と関連していました。動物の家畜化と酪農は、ユーラシア西部では新石器時代の拡大に重要な役割を果たしましたが、本論文のデータでは、イヌとブタを除いて、青銅器時代前のアジア北東部における動物の家畜化の証拠はほとんどありません。農耕と人口移動との間のつながりは、朝鮮半島と西日本との間の土器や石器や家屋および埋葬建築の類似性からとくに明らかです。

 先行研究をふまえて、本論文では研究対象地域全体の雑穀農耕の導入と関連する人口動態の変化が概観されました。手の込んだ水田に投資した水稲農耕民は一ヶ所に留まる傾向にあり、余剰労働力を通じて人口増加を吸収しましたが、雑穀農民は通常、より拡大的な居住パターンを採用しました。新石器時代の人口密度はアジア北東部全域で上昇しましたが、後期新石器時代には人口が激減しました。その後、青銅器時代には中国と朝鮮半島と日本列島で人口が急激に増加しました。


●遺伝学

 本論文は、アムール川地域と朝鮮半島と九州と沖縄の証明された古代人19個体のゲノム分析を報告し、それをユーラシア東部草原地帯と西遼河地域とアムール川地域と黄河地域と遼東半島と山東半島と極東ロシアのプリモライ地域と日本列島にまたがる、9500〜300年前頃の既知の古代人のゲノムと組み合わせました(図3a)。それらはユーラシア現代人149集団とアジア東部現代人45集団の主成分分析に投影されました。図3bでは、主要な古代人集団が5つの遺伝的構成要素の混合としてモデル化されています。その遺伝的構成要素とは、アムール川流域を表すジャライノール(Jalainur)遺跡個体、黄河地域を表す仰韶(Yangshao)文化個体、「縄文人」を表す六通貝塚個体と、黄河流域個体およびアムール川地域個体のゲノムで構成される西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体と夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体です。

 アムール川地域の現代のツングース語とニヴフ語の話者は緊密なまとまりを形成します(関連記事)。バイカル湖とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯の新石器時代狩猟採集民は、西遼河地域やアムール川地域の農耕民とともに、全てこのまとまりの内部に投影されます。黒竜江省チチハル市の昂昂渓(Xiajiadian)区の後期新石器時代遺跡個体は、高いアムール川地域的な祖先系統を示しますが、西遼河地域雑穀農耕民は、経時的に黄河地域集団のゲノムへと前進的に移行するアムール川地域的な祖先系統(関連記事)のかなりの割合を示します(図3b)。

 西遼河地域の前期新石器時代個体のゲノムは欠けていますが、アムール川地域的な祖先系統は、バイカル湖とアムール川地域とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯西遼河地域にまたがる、在来の新石器時代よりも前(もしくは後期旧石器時代)の狩猟採集民の元々の遺伝的特性を表している可能性が高そうで、この地域の初期農耕民において継続しています。これは、モンゴルとアムール川地域の古代人のゲノムにおける黄河地域集団の影響の欠如は、トランスユーラシア語族の西遼河地域の遺伝的相関を裏づけない、と結論付けた最近の遺伝学的研究(関連記事)と矛盾しています。以下は本論文の図3です。
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 主成分分析は、モンゴルの新石器時代個体群が高いアムール川地域祖先系統を有し、青銅器時代から中世にかけて増加するユーラシア西部からの広範な遺伝子流動を伴う、という一般的傾向を示します(関連記事)。テュルク語族話者の匈奴と古ウイグルと突厥の個体がひじょうに散在しているのに対して、モンゴル語族話者の鉄器時代の鮮卑の個体は、室韋(Shiwei)や楼蘭(Rouran)やキタイ(契丹)や古代および中世のモンゴルのハン国よりも、アムール川地域のまとまりの方に近くなっています。

 アムール川地域関連祖先系統は、日本語と朝鮮語の話者へとたどれるので、トランスユーラシア語族の全ての話者に共通する元々の遺伝的構成要素だったようです。韓国の古代人ゲノムの分析により、「縄文人」祖先系統が朝鮮半島に6000年前頃までには存在していた、と明らかになりました(図3b)。朝鮮半島の古代人について近位qpAdmモデル化が示唆するのは、前期新石器時代の安島(Ando)遺跡個体(非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃)がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統に由来するのに対して、同じく前期新石器時代の煙台島(Yŏndaedo)遺跡と長項(Changhang)遺跡個体は高い割合の紅山文化集団関連祖先系統と「縄文人」祖先系統の混合としてモデル化できるものの、煙台島遺跡個体の解像度は限定的でしかない、ということです(図3b)。

 朝鮮半島南岸の欲知島(Yokchido)遺跡個体は、ほぼ95%の「縄文人」関連祖先系統を含んでいます。本論文の遺伝学的分析では、朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡個体(紀元前761〜紀元前541年)のあり得るアジア東部祖先系統を区別できませんが、その年代が青銅器時代であることを考えると、夏家店上層文化関連祖先系統として最もよくモデル化でき、あり得るわずかな「縄文人」祖先系統の混合は統計的に有意ではありません。したがって、現代韓国人への「縄文人」の遺伝的寄与がごくわずかであることに示されるように、新石器時代の朝鮮半島における「縄文人」祖先系統の混成の存在(0〜95%)と、それが時間の経過とともに最終的には消滅した、と観察されます。

 Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素の欠如から、現代韓国人と関連する「縄文人」祖先系統が検出されない初期集団は、稲作農耕との関連で朝鮮半島に移動し、一部の「縄文人」との混合がある集団を置換した、と示唆されますが、限定的な標本規模と網羅率のため、本論文の遺伝データにはこの仮説を検証するだけの解像度はありません。したがって、朝鮮半島への農耕拡大はアムール川地域および黄河地域からの遺伝子流動のさまざまな波と関連づけられ、雑穀農耕の新石器時代の導入は紅山文化集団で、青銅器時代の追加の稲作農耕は夏家店上層文化集団によりモデル化されます。

 本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」について、弥生時代農耕民(ともに弥生時代中期となる、福岡県那珂川市の安徳台遺跡個体と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡個体)はゲノム分析により、在来の「縄文人」祖先系統と青銅器時代の夏家店上層文化関連祖先系統との混合としてモデル化できます(安徳台遺跡個体の方が「縄文人」構成要素の割合は高くなります)。本論文の結果は、青銅器時代における朝鮮半島から日本列島への大規模な移動を裏づけます。

 沖縄県宮古島市の長墓遺跡の個体群のゲノムは、琉球諸島の古代人のゲノム規模データとしては最初の報告となります。完新世人口集団は台湾から琉球諸島人部に到達した、との以前の知見とは対照的に、本論文の結果は、先史時代の長墓遺跡個体群が北方の縄文文化に由来する、と示唆します。近世以前の縄文時代人的祖先系統から弥生時代人的祖先系統への遺伝的置換は、この地域における農耕と琉球諸語の日本列島「本土」と比較しての遅い到来を反映しています。


●考察

 言語学と考古学と遺伝学の証拠の「三角測量」は、トランスユーラシア語族の起源が雑穀農耕の開始とアジア北東部新石器時代のアムール川地域の遺伝子プールにさかのぼれる、と示します。これらの言語の拡大は主要な2段階を含んでおり、それは農耕と遺伝子の拡散を反映しています(図4)。第一段階はトランスユーラシア語族の主要な分岐により表され、前期〜中期新石器時代にさかのぼります。この時、アムール川地域遺伝子と関連する雑穀農耕民が西遼河地域から隣接地域に拡大しました。第二段階は5つの子孫系統間の言語的接触により表され、後期新石器時代と青銅器時代と鉄器時代にさかのぼります。この時、かなりのアムール川地域祖先系統を有する雑穀農耕民は次第に黄河地域関連集団やユーラシア西部集団や「縄文人」集団と混合し、稲作やユーラシア西部の穀物や牧畜が農耕一括に追加されました。以下は本論文の図4です。
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 時空間および生計パターンをまとめると、3分野間の明確な関連性が見つかります。紀元前七千年紀頃の西遼河地域の雑穀栽培の開始は、かなりのアムール川地域祖先系統と関連し、トランスユーラシア語族話者共同体の祖先と時空間で重なっている可能性があります。8000年前頃と推定されるシナ・チベット語族間の最近の関連性(関連記事)と一致して、本論文の結果から、アジア北東部における雑穀栽培化の二つの中心地を、二つの主要な語族、つまり黄河地域のシナ・チベット語族と西遼河地域のトランスユーラシア語族の起源と関連づけられます。トランスユーラシア語族祖語とその話者の遺伝子における黄河地域の影響の証拠の欠如は、植物考古学で示唆されている雑穀栽培の複数の中心的な起源と一致します。

 紀元前七千年紀〜紀元前五千年紀における雑穀農耕の初期段階には人口増加が伴い、西遼河地域における環境的もしくは社会的に分離された下位集団の形成と、アルタイ諸語と日本語族および朝鮮語族の話者間の接続の切断につながります。紀元前四千年紀半ば頃、これら農耕民の一部が黄海から朝鮮半島へと東方へ、プリモライ地域へと北東へ移動を開始し、西遼河地域から、追加のアムール川地域祖先系統をプリモライ地域に、朝鮮半島へアムール川地域と黄河地域の混合祖先系統をもたらしました。本論文で新たに分析された朝鮮半島古代人のゲノムは、日本列島外で「縄文人」関連祖先系統との混合の存在を証明している点で、注目に値します。

 後期青銅器時代には、ユーラシア草原地帯全域で広範な文化交換が見られ、西遼河地域およびユーラシア東部草原地帯の人口集団のユーラシア西部遺伝系統との混合をもたらしました。言語学的には、この相互作用はモンゴル語族祖語およびテュルク語族祖語話者による農耕牧畜語彙の借用に反映されており、とくにコムギとオオムギの栽培や放牧や酪農やウマの利用と関連しています。

 3300年前頃、遼東半島地域と山東半島地域の農耕民が朝鮮半島へと移動し、雑穀農耕にイネとオオムギとコムギを追加しました。この移動は、本論文の朝鮮半島青銅器時代標本では夏家店上層文化集団としてモデル化される遺伝的構成と一致しており、日本語族と朝鮮語族との間の初期の借用に反映されています。それは考古学的には、夏家店上層文化の物質文化にとくに限定されることなく、より大きな遼東半島地域および山東半島地域の農耕と関連しています。

 紀元前千年紀に、この農耕一括は九州へと伝えられ、本格的な農耕への移行と、縄文時代人祖先系統から弥生時代人祖先系統への置換と、日本語族への言語的移行の契機となりました。琉球諸島南部の宮古島の長墓遺跡の独特な標本の追加により、トランスユーラシア語族世界の端に至る農耕/言語拡散をたどれます。南方の宮古島にまで及ぶ「縄文人」祖先系統が証明され、この結果は台湾からのオーストロネシア語族集団の北方への拡大との以前の仮定と矛盾します。朝鮮半島の欲知島遺跡個体で見られる「縄文人」特性と合わせると、本論文の結果は、「縄文人」のゲノムと物質文化が重なるとは限らないことを示します。したがって、古代DNAからの新たな証拠を進めることにより、本論文は日本人集団と韓国人集団が西遼河地域祖先系統を有する、との最近の研究(関連記事)を確証しますが、トランスユーラシア語族の遺伝的相関はない、と主張するその研究とは矛盾します。

 一部の先行研究は、トランスユーラシア語族地帯は農耕に適した地域を越えているとみなしましたが、本論文で確証されたのは、農耕/言語の拡散仮説は、ユーラシア人口集団の拡散の理解にとって依然として重要なモデルである、ということです。言語学と考古学と遺伝学の「三角測量」は、牧畜仮説と農耕仮説との間の競合を解決し、トランスユーラシア語族話者の初期の拡大は農耕により促進された、と結論づけます。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、言語学と考古学と遺伝学の学際的研究により、(言語学には疎いので断定できませんが、おそらくその設定自体が議論になりそうな)トランスユーラシア語族の拡大が初期農耕により促進され、牧畜の導入は拡大後のことだった、と示しました。言語学と考古学はもちろんですが、遺伝学というか古代ゲノム研究はとくに、今後急速な発展が期待できるだけに、本論文の見解も今後、どの程度になるは不明ではあるものの、修正されていくことも考えられます。その意味で、本論文の見解が完新世アジア北東部人口史の大きな枠組みになる、とはまだ断定できないように思います。

 本論文には査読前の公表時点から注目していましたが(関連記事)、私にとって大きく変わった点は、紀元前761〜紀元前541年頃となる朝鮮半島中部西岸のTaejungni個体のゲノムのモデル化です。査読前には、Taejungni個体は高い割合の夏家店上層文化集団構成要素と低い割合の「縄文人」構成要素との混合とモデル化され、現代日本人と類似していましたが、本論文では上述のように、Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素は欠如している、と指摘されています。

 Taejungni個体を根拠に、紀元前千年紀半ば以前の朝鮮半島の人類集団のゲノムには一定以上の「縄文人」構成要素が残っており、夏家店上層文化集団と遺伝的に近い集団が朝鮮半島に到来して在来集団と混合し、現代日本人に近い遺伝的構成の集団が紀元前二千年紀末には朝鮮半島で形成され、その後日本列島へと到来した、と想定していましたが、これは見直さねばなりません。査読前論文に安易に依拠してはいけないな、と反省しています。当然、査読論文にも安易に依拠してはなりませんが。ただ、欲知島遺跡個体の事例から、朝鮮半島南端には少なくとも中期新石器時代まで「縄文人」構成要素でゲノムをモデル化できる個体が存在しており、そうした人々とTaejungni個体と遺伝的に近い集団が混合して形成された現代日本人に近い遺伝的構成の集団が、その後で日本列島に到来した可能性もまだ考えられるように思います。

 朝鮮半島南端の新石器時代人のゲノムの「縄文人」構成要素が、日本列島から新石器時代にもたらされたのか、元々朝鮮半島に存在したのか、「縄文人」の形成過程も含めて不明で、今後の古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。しかし、朝鮮半島南端の新石器時代個体のうち、非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃となる安島遺跡個体がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統でモデル化できることから、朝鮮半島には元々前期新石器時代から遼河地域集団と遺伝的に近い集団が存在し、九州から朝鮮半島への「縄文人」の到来は南部に限定されていた可能性が高いように思います。また、主成分分析で示されるように(捕捉図7)、Taejungni個体が現代韓国人と遺伝的には明確に異なることも確かで、古代ゲノムデータの蓄積を俟たねばなりませんが、朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成が紀元前千年紀半ば以降に大きく変わった可能性は高いように思います。以下は本論文の補足図7です。
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 最近の西日本「縄文人」や古墳時代の人類遺骸のゲノム解析結果(関連記事)から、弥生時代の人類集団の「渡来系」の遺伝的要素は青銅器時代西遼河地域集団に近く、古墳時代になると黄河地域集団の影響が強くなる、と指摘されています。この研究は弥生時代の人類を、「縄文人」構成要素の割合が高い長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させているところに疑問が残りますが、その2個体よりも現代日本人にずっと近い福岡県の安徳台遺跡個体と隈・西小田遺跡個体も含めての、ユーラシア東部の包括的な古代ゲノム研究ではどのような結果になるのか、今後の研究の進展が期待されます。また、日本列島の「縄文人」は時空間的に広範に遺伝的には均質だった可能性が高いものの(関連記事)、弥生時代と古墳時代に関しては、時空間的に遺伝的違いが大きいこと(関連記事)も考慮する必要があるでしょう。

 長墓遺跡の先史時代個体群が遺伝的には既知の「縄文人」と一まとまりを形成する、との結果は、先史時代の先島諸島には縄文文化の影響がないと言われていただけに、意外な結果です。本論文も指摘するように、朝鮮半島の欲知島遺跡個体の事例からも、遺伝的な「縄文人」と縄文文化とを直結させることはできなくなりました。もっとも、これは物質文化のことで、言語も含めて精神文化では高い共通性があった、と想定できなくもありませんが、これに反証することはできないとしても、証明することもできず、可能性は高くないように思います。遺伝的な「縄文人」は多様な文化を築き、おそらく縄文時代晩期に北海道の(一部)集団で話されていただろうアイヌ語祖語は、同時代の西日本はもちろん関東の言語ともすでに大きく異なっていたかもしれません。「縄文人」と現代日本人の形成過程にはまだ未解明のところが多く、今後の古代ゲノム研究の進展によりじょじょに解明されていくのではないか、と期待しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


言語学:トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった

 トランスユーラシア語族(日本語、韓国語、ツングース語、モンゴル語、チュルク語からなる)は、約9000年前の中国に起源があり、その普及は農業によって促進された可能性があることを明らかにした論文が、Nature に掲載される。今回の研究は、東ユーラシア言語史における重要な時期について解明を進める上で役立つ。

 トランスユーラシア語族は、東は日本、韓国、シベリアから西はトルコに至るユーラシア大陸全域に広範に分布しているが、この語族の起源と普及については、人口の分散、農業の拡大、言語の分散のそれぞれが議論を複雑化させ、激しい論争になっている。

 今回、Martine Robbeetsたちは、3つの研究分野(歴史言語学、古代DNA研究、考古学)を結集して、トランスユーラシア語族の言語が約9000年前の中国北東部の遼河流域の初期のキビ農家まで辿れることを明らかにした。その後、農民たちが北東アジア全体に移動するにつれて、これらの言語は、北西方向にはシベリアとステップ地域へ、東方向には韓国と日本へ広がったと考えられる。

 トランスユーラシア語族に関しては、もっと最近の紀元前2000〜1000年ごろを起源とし、東部のステップから移動してきた遊牧民が分散を主導したとする「遊牧民仮説」が提唱されているが、今回の知見は、この仮説に疑問を投げ掛けている。


参考文献:
Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8


https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/465.html#c12

[近代史5] 弥生人の起源 中川隆
27. 中川隆[-15335] koaQ7Jey 2021年11月12日 13:05:45 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[17]
雑記帳
2021年11月12日
アジア北東部集団の形成の学際的研究
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html


 アジア北東部集団の形成の学際的研究に関する研究(Nyakatura et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。トランスユーラシア語族、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族の起源と初期の拡散は、ユーラシア人口史の最も論争となっている問題の一つです。重要な問題は、言語拡散と農耕拡大と人口移動との間の関係です。

 本論文は、統一的観点で遺伝学と考古学と言語学を「三角測量」することにより、この問題に取り組みます。本論文は、包括的なトランスユーラシア言語の農耕牧畜および基礎語彙を含む、これらの分野からの広範なデータセットを報告します。その内訳は、アジア北東部の255ヶ所の新石器時代から青銅器時代の遺跡の考古学的データベースと、韓国と琉球諸島と日本の初期穀物農耕民の古代ゲノム回収で、アジア東部からの既知のゲノムを保管します。

 伝統的な「牧畜民仮説」に対して本論文が示すのは、トランスユーラシア言語の共通の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)と主要な拡散が、新石器時代以降のアジア北東部全域の最初の農耕民の移動にたどれるものの、この共有された遺産は青銅器時代以降の広範な文化的相互作用により隠されてきた、ということです。言語学と考古学と遺伝学の個々の分野における顕著な進歩を示しただけではなく、それらの収束する証拠を組み合わせることにより、トランスユーラシア言語話者の拡大は農耕により促進された、と示されます。

 古代DNA配列決定における最近の躍進により、ユーラシア全域におけるヒトと言語と文化の拡大の間のつながりが再考されるようになってきました。しかし、ユーラシア西部(関連記事1および関連記事2)と比較すると、ユーラシア東部はまだよく理解されていません。モンゴル南部(内モンゴル)や黄河や遼河やアムール川流域やロシア極東や朝鮮半島や日本列島を含む広大なアジア北東部は、最近の文献ではとくに過小評価されています。遺伝学にとくに重点を置いている(関連記事1および関連記事2および関連記事3)か、既存のデータセットの再調査に限定されるいくつかの例外を除いて、アジア北東部への真の学際的手法はほとんどありません。

 「アルタイ諸語」としても知られるトランスユーラシア語族は、言語の先史時代で最も議論となっている問題の一つです。トランスユーラシア語族はヨーロッパとアジア北部全域にまたがる地理的に隣接する言語の大規模群を意味し、5つの議論の余地のない語族が含まれ、それは日本語族と朝鮮語族とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です(図1a)。これら5語族が単一の共通祖先から派生したのかどうかという問題は、継承説と借用説の支持者間の長年の主題でした。最近の評価では、多くの共通の特性がじっさいに借用によるものだとしても、それにも関わらず、トランスユーラシア語族を有効な系譜群として分類する信頼できる証拠の核がある、と示されています。

 しかし、この分類を受け入れると、祖先のトランスユーラシア語族話者共同体の時間的深さと場所と文化的帰属意識と拡散経路について、新たな問題が生じます。本論文は、「農耕仮説」を提案することにより、伝統的な「牧畜民仮説」に異議を唱えます。「牧畜民仮説」では、紀元前二千年紀にユーラシア東部草原地帯で始まる遊牧民の拡大を伴う、トランスユーラシア語族の第一次拡散を特定します。一方「農耕仮説」では、「農耕/言語拡散仮説」の範囲にそれらの拡散を位置づけます。これらの問題は言語学をはるかに超えているので、考古学と遺伝学を「三角測量」と呼ばれる単一の手法に統合することで対処されます。


●言語学

 方言や歴史的な違いも含めた、98のユーラシア語族の言語で、254の基本的な語彙概念を表す3193の同語源一式の新たなデータセットが収集されました。ベイズ法の適用により、トランスユーラシア語族の言語の年代のある系統発生が推定されました。その結果、トランスユーラシア語族祖語の分岐年代は最高事後密度(highest posterior density、HPD)95%で12793〜5595年前(9181年前)、アルタイ諸語祖語(テュルク語族とモンゴル語族とツングース語族の祖語)では6811年前(95% HPDで10166〜4404年前)、モンゴル語族とツングース語族では4491年前(95% HPDで6373〜2599年前)、日本語族と朝鮮語族では5458年前(95% HPDで8024〜3335年前)と示唆されました(図1b)。これらの年代は、特定の語族が複数の基本的な亜集団に最初に分岐する時間的深さを推定します。これらの語彙データセットを用いて、トランスユーラシア語族の地理的拡大がモデル化されました。ベイズ系統地理学を適用して、語彙統計学や多様性ホットスポット還俗や文化的再構築などの古典的手法が補完されました。

 アルタイ山脈から黄河や大興安嶺山脈やアムール川流域に及ぶ、以前に提案された起源地とは対照的に、トランスユーラシア語族の起源は前期新石器時代の西遼河地域にある、との裏づけが見つかりました。新石器時代におけるトランスユーラシア語族の最初の分散後、さらなる拡散が後期新石器時代および青銅器時代に起きました。モンゴル語族の祖先はモンゴル高原へと北に広がり、テュルク語族祖語はユーラシア東部草原を越えて西方へと移動し、他の分岐した語族は東方へと移動しました。それは、アムール川とウスリー川とハンカ湖の地域に広がったツングース語族祖語と、朝鮮半島に広がった朝鮮語族祖語と、朝鮮半島および日本列島に広がった日本語族祖語です(図1b)。以下は本論文の図1です。
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 祖語の再構築された語彙で明らかにされた農耕牧畜単語を調べた定性分析を通じて、特定の期間における特定地域の祖先的話者共同体にとって文化的診断となるような項目が、さらに特定されました。祖語の再構築された語彙で明らかにされた農牧民の言葉を調べた定性分析(補足データ5)を通じて、特定の地域の特定の時間における先祖の言語共同体の文化的診断となる項目がさらに特定されました。トランスユーラシア語族祖語やアルタイ諸語祖語やモンゴル語族およびツングース語族祖語や日本語族および朝鮮語族祖語など、新石器時代に分離した共通の祖先語は、耕作(「畑」や「種蒔き」や「植物」や「成長」や「耕作」や「鋤」)、(コメや他の穀類ではない)キビやアワやヒエといった雑穀(「雑穀の種子」や「雑穀の粥」や農家の内庭の「雑穀」)、食糧生産と保存(「発酵」や「臼で引く」や「軟塊に潰す」や「醸造」)、定住を示唆する野生食糧(「クルミ」や「ドングリ」や「クリ」)、織物生産(「縫う」や「織布」や「織機で織る」や「紡ぐ」や「生地の裁断」や「カラムシ」や「アサ」)、家畜化された動物としてのブタやイヌと関連する、継承された単語の小さな核を反映しています。

 対照的に、テュルク語族やモンゴル語族やツングース語族や朝鮮語族や日本語族など青銅器時代に分離した個々の下位語族は、イネやコムギやオオムギの耕作、酪農、ウシやヒツジやウマなどの家畜化された動物、農耕、台所用品、絹など織物に関する新たな生計用語を挿入しました。これらの言葉は、さまざまなトランスユーラシア語族および非トランスユーラシア語族言語を話す青銅器時代人口集団間の言語的相互作用から生じる借用です。要約すると、トランスユーラシア語族の年代と故地と元々の農耕語彙と接触特性は、農耕仮説を裏づけ、牧畜民仮説を除外します。


●考古学

 新石器時代のアジア北東部は広範な植物栽培を特徴としていましたが、穀物農耕が栽培化のいくつかの中心地から拡大し、そのうちトランスユーラシア語族にとって最重要なのが西遼河地域で、キビの栽培が9000年前頃までに始まりました。文献からデータが抽出され、新石器時代および青銅器時代の255ヶ所の遺跡(図2a)の172の考古学的特徴が記録されて、中国北部と極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域と韓国と日本の、直接的に放射性炭素年代測定された初期の作物遺骸269点の目録がまとめられました。

 文化的類似性にしたがって255ヶ所の遺跡がまとまるベイズ分析の主要な結果は、図2bに示されます。西遼河地域の新石器時代文化のまとまりが見つかり、そこから雑穀(キビやアワやヒエ)農耕と関連する二つの分枝が分離します。一方は朝鮮半島の櫛形文(Chulmun)で、もう一方はアムール川とプリモライ地域と遼東半島に及ぶ新石器時代文化です。これは、5500年前頃までの朝鮮半島、および5000年前頃までのアムール川経由でのプリモライ地域への雑穀農耕拡散についての以前の知見を確証します。

 分析の結果、韓国の無文(Mumun)文化および日本の弥生文化遺跡と、西遼河地域の青銅器時代遺跡がまとまりました。これは、紀元前二千年紀に遼東半島および山東半島地域の農耕一括にイネとコムギが追加されたことを反映しています。これらの作物は前期青銅器時代(3300〜2800年前頃)に朝鮮半島に伝わり、3000年前頃以後には朝鮮半島から日本列島へと伝わりました(図2b)。以下は本論文の図2です。
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 人口移動は単形質的な考古学的文化とはつながりませんが、アジア北東部における新石器時代の農耕拡大は、耕作や収穫や織物の技術の石器など、いくつかの診断的特徴と関連していました。動物の家畜化と酪農は、ユーラシア西部では新石器時代の拡大に重要な役割を果たしましたが、本論文のデータでは、イヌとブタを除いて、青銅器時代前のアジア北東部における動物の家畜化の証拠はほとんどありません。農耕と人口移動との間のつながりは、朝鮮半島と西日本との間の土器や石器や家屋および埋葬建築の類似性からとくに明らかです。

 先行研究をふまえて、本論文では研究対象地域全体の雑穀農耕の導入と関連する人口動態の変化が概観されました。手の込んだ水田に投資した水稲農耕民は一ヶ所に留まる傾向にあり、余剰労働力を通じて人口増加を吸収しましたが、雑穀農民は通常、より拡大的な居住パターンを採用しました。新石器時代の人口密度はアジア北東部全域で上昇しましたが、後期新石器時代には人口が激減しました。その後、青銅器時代には中国と朝鮮半島と日本列島で人口が急激に増加しました。


●遺伝学

 本論文は、アムール川地域と朝鮮半島と九州と沖縄の証明された古代人19個体のゲノム分析を報告し、それをユーラシア東部草原地帯と西遼河地域とアムール川地域と黄河地域と遼東半島と山東半島と極東ロシアのプリモライ地域と日本列島にまたがる、9500〜300年前頃の既知の古代人のゲノムと組み合わせました(図3a)。それらはユーラシア現代人149集団とアジア東部現代人45集団の主成分分析に投影されました。図3bでは、主要な古代人集団が5つの遺伝的構成要素の混合としてモデル化されています。その遺伝的構成要素とは、アムール川流域を表すジャライノール(Jalainur)遺跡個体、黄河地域を表す仰韶(Yangshao)文化個体、「縄文人」を表す六通貝塚個体と、黄河流域個体およびアムール川地域個体のゲノムで構成される西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体と夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体です。

 アムール川地域の現代のツングース語とニヴフ語の話者は緊密なまとまりを形成します(関連記事)。バイカル湖とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯の新石器時代狩猟採集民は、西遼河地域やアムール川地域の農耕民とともに、全てこのまとまりの内部に投影されます。黒竜江省チチハル市の昂昂渓(Xiajiadian)区の後期新石器時代遺跡個体は、高いアムール川地域的な祖先系統を示しますが、西遼河地域雑穀農耕民は、経時的に黄河地域集団のゲノムへと前進的に移行するアムール川地域的な祖先系統(関連記事)のかなりの割合を示します(図3b)。

 西遼河地域の前期新石器時代個体のゲノムは欠けていますが、アムール川地域的な祖先系統は、バイカル湖とアムール川地域とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯西遼河地域にまたがる、在来の新石器時代よりも前(もしくは後期旧石器時代)の狩猟採集民の元々の遺伝的特性を表している可能性が高そうで、この地域の初期農耕民において継続しています。これは、モンゴルとアムール川地域の古代人のゲノムにおける黄河地域集団の影響の欠如は、トランスユーラシア語族の西遼河地域の遺伝的相関を裏づけない、と結論付けた最近の遺伝学的研究(関連記事)と矛盾しています。以下は本論文の図3です。
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 主成分分析は、モンゴルの新石器時代個体群が高いアムール川地域祖先系統を有し、青銅器時代から中世にかけて増加するユーラシア西部からの広範な遺伝子流動を伴う、という一般的傾向を示します(関連記事)。テュルク語族話者の匈奴と古ウイグルと突厥の個体がひじょうに散在しているのに対して、モンゴル語族話者の鉄器時代の鮮卑の個体は、室韋(Shiwei)や楼蘭(Rouran)やキタイ(契丹)や古代および中世のモンゴルのハン国よりも、アムール川地域のまとまりの方に近くなっています。

 アムール川地域関連祖先系統は、日本語と朝鮮語の話者へとたどれるので、トランスユーラシア語族の全ての話者に共通する元々の遺伝的構成要素だったようです。韓国の古代人ゲノムの分析により、「縄文人」祖先系統が朝鮮半島に6000年前頃までには存在していた、と明らかになりました(図3b)。朝鮮半島の古代人について近位qpAdmモデル化が示唆するのは、前期新石器時代の安島(Ando)遺跡個体(非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃)がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統に由来するのに対して、同じく前期新石器時代の煙台島(Yŏndaedo)遺跡と長項(Changhang)遺跡個体は高い割合の紅山文化集団関連祖先系統と「縄文人」祖先系統の混合としてモデル化できるものの、煙台島遺跡個体の解像度は限定的でしかない、ということです(図3b)。

 朝鮮半島南岸の欲知島(Yokchido)遺跡個体は、ほぼ95%の「縄文人」関連祖先系統を含んでいます。本論文の遺伝学的分析では、朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡個体(紀元前761〜紀元前541年)のあり得るアジア東部祖先系統を区別できませんが、その年代が青銅器時代であることを考えると、夏家店上層文化関連祖先系統として最もよくモデル化でき、あり得るわずかな「縄文人」祖先系統の混合は統計的に有意ではありません。したがって、現代韓国人への「縄文人」の遺伝的寄与がごくわずかであることに示されるように、新石器時代の朝鮮半島における「縄文人」祖先系統の混成の存在(0〜95%)と、それが時間の経過とともに最終的には消滅した、と観察されます。

 Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素の欠如から、現代韓国人と関連する「縄文人」祖先系統が検出されない初期集団は、稲作農耕との関連で朝鮮半島に移動し、一部の「縄文人」との混合がある集団を置換した、と示唆されますが、限定的な標本規模と網羅率のため、本論文の遺伝データにはこの仮説を検証するだけの解像度はありません。したがって、朝鮮半島への農耕拡大はアムール川地域および黄河地域からの遺伝子流動のさまざまな波と関連づけられ、雑穀農耕の新石器時代の導入は紅山文化集団で、青銅器時代の追加の稲作農耕は夏家店上層文化集団によりモデル化されます。

 本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」について、弥生時代農耕民(ともに弥生時代中期となる、福岡県那珂川市の安徳台遺跡個体と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡個体)はゲノム分析により、在来の「縄文人」祖先系統と青銅器時代の夏家店上層文化関連祖先系統との混合としてモデル化できます(安徳台遺跡個体の方が「縄文人」構成要素の割合は高くなります)。本論文の結果は、青銅器時代における朝鮮半島から日本列島への大規模な移動を裏づけます。

 沖縄県宮古島市の長墓遺跡の個体群のゲノムは、琉球諸島の古代人のゲノム規模データとしては最初の報告となります。完新世人口集団は台湾から琉球諸島人部に到達した、との以前の知見とは対照的に、本論文の結果は、先史時代の長墓遺跡個体群が北方の縄文文化に由来する、と示唆します。近世以前の縄文時代人的祖先系統から弥生時代人的祖先系統への遺伝的置換は、この地域における農耕と琉球諸語の日本列島「本土」と比較しての遅い到来を反映しています。


●考察

 言語学と考古学と遺伝学の証拠の「三角測量」は、トランスユーラシア語族の起源が雑穀農耕の開始とアジア北東部新石器時代のアムール川地域の遺伝子プールにさかのぼれる、と示します。これらの言語の拡大は主要な2段階を含んでおり、それは農耕と遺伝子の拡散を反映しています(図4)。第一段階はトランスユーラシア語族の主要な分岐により表され、前期〜中期新石器時代にさかのぼります。この時、アムール川地域遺伝子と関連する雑穀農耕民が西遼河地域から隣接地域に拡大しました。第二段階は5つの子孫系統間の言語的接触により表され、後期新石器時代と青銅器時代と鉄器時代にさかのぼります。この時、かなりのアムール川地域祖先系統を有する雑穀農耕民は次第に黄河地域関連集団やユーラシア西部集団や「縄文人」集団と混合し、稲作やユーラシア西部の穀物や牧畜が農耕一括に追加されました。以下は本論文の図4です。
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 時空間および生計パターンをまとめると、3分野間の明確な関連性が見つかります。紀元前七千年紀頃の西遼河地域の雑穀栽培の開始は、かなりのアムール川地域祖先系統と関連し、トランスユーラシア語族話者共同体の祖先と時空間で重なっている可能性があります。8000年前頃と推定されるシナ・チベット語族間の最近の関連性(関連記事)と一致して、本論文の結果から、アジア北東部における雑穀栽培化の二つの中心地を、二つの主要な語族、つまり黄河地域のシナ・チベット語族と西遼河地域のトランスユーラシア語族の起源と関連づけられます。トランスユーラシア語族祖語とその話者の遺伝子における黄河地域の影響の証拠の欠如は、植物考古学で示唆されている雑穀栽培の複数の中心的な起源と一致します。

 紀元前七千年紀〜紀元前五千年紀における雑穀農耕の初期段階には人口増加が伴い、西遼河地域における環境的もしくは社会的に分離された下位集団の形成と、アルタイ諸語と日本語族および朝鮮語族の話者間の接続の切断につながります。紀元前四千年紀半ば頃、これら農耕民の一部が黄海から朝鮮半島へと東方へ、プリモライ地域へと北東へ移動を開始し、西遼河地域から、追加のアムール川地域祖先系統をプリモライ地域に、朝鮮半島へアムール川地域と黄河地域の混合祖先系統をもたらしました。本論文で新たに分析された朝鮮半島古代人のゲノムは、日本列島外で「縄文人」関連祖先系統との混合の存在を証明している点で、注目に値します。

 後期青銅器時代には、ユーラシア草原地帯全域で広範な文化交換が見られ、西遼河地域およびユーラシア東部草原地帯の人口集団のユーラシア西部遺伝系統との混合をもたらしました。言語学的には、この相互作用はモンゴル語族祖語およびテュルク語族祖語話者による農耕牧畜語彙の借用に反映されており、とくにコムギとオオムギの栽培や放牧や酪農やウマの利用と関連しています。

 3300年前頃、遼東半島地域と山東半島地域の農耕民が朝鮮半島へと移動し、雑穀農耕にイネとオオムギとコムギを追加しました。この移動は、本論文の朝鮮半島青銅器時代標本では夏家店上層文化集団としてモデル化される遺伝的構成と一致しており、日本語族と朝鮮語族との間の初期の借用に反映されています。それは考古学的には、夏家店上層文化の物質文化にとくに限定されることなく、より大きな遼東半島地域および山東半島地域の農耕と関連しています。

 紀元前千年紀に、この農耕一括は九州へと伝えられ、本格的な農耕への移行と、縄文時代人祖先系統から弥生時代人祖先系統への置換と、日本語族への言語的移行の契機となりました。琉球諸島南部の宮古島の長墓遺跡の独特な標本の追加により、トランスユーラシア語族世界の端に至る農耕/言語拡散をたどれます。南方の宮古島にまで及ぶ「縄文人」祖先系統が証明され、この結果は台湾からのオーストロネシア語族集団の北方への拡大との以前の仮定と矛盾します。朝鮮半島の欲知島遺跡個体で見られる「縄文人」特性と合わせると、本論文の結果は、「縄文人」のゲノムと物質文化が重なるとは限らないことを示します。したがって、古代DNAからの新たな証拠を進めることにより、本論文は日本人集団と韓国人集団が西遼河地域祖先系統を有する、との最近の研究(関連記事)を確証しますが、トランスユーラシア語族の遺伝的相関はない、と主張するその研究とは矛盾します。

 一部の先行研究は、トランスユーラシア語族地帯は農耕に適した地域を越えているとみなしましたが、本論文で確証されたのは、農耕/言語の拡散仮説は、ユーラシア人口集団の拡散の理解にとって依然として重要なモデルである、ということです。言語学と考古学と遺伝学の「三角測量」は、牧畜仮説と農耕仮説との間の競合を解決し、トランスユーラシア語族話者の初期の拡大は農耕により促進された、と結論づけます。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、言語学と考古学と遺伝学の学際的研究により、(言語学には疎いので断定できませんが、おそらくその設定自体が議論になりそうな)トランスユーラシア語族の拡大が初期農耕により促進され、牧畜の導入は拡大後のことだった、と示しました。言語学と考古学はもちろんですが、遺伝学というか古代ゲノム研究はとくに、今後急速な発展が期待できるだけに、本論文の見解も今後、どの程度になるは不明ではあるものの、修正されていくことも考えられます。その意味で、本論文の見解が完新世アジア北東部人口史の大きな枠組みになる、とはまだ断定できないように思います。

 本論文には査読前の公表時点から注目していましたが(関連記事)、私にとって大きく変わった点は、紀元前761〜紀元前541年頃となる朝鮮半島中部西岸のTaejungni個体のゲノムのモデル化です。査読前には、Taejungni個体は高い割合の夏家店上層文化集団構成要素と低い割合の「縄文人」構成要素との混合とモデル化され、現代日本人と類似していましたが、本論文では上述のように、Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素は欠如している、と指摘されています。

 Taejungni個体を根拠に、紀元前千年紀半ば以前の朝鮮半島の人類集団のゲノムには一定以上の「縄文人」構成要素が残っており、夏家店上層文化集団と遺伝的に近い集団が朝鮮半島に到来して在来集団と混合し、現代日本人に近い遺伝的構成の集団が紀元前二千年紀末には朝鮮半島で形成され、その後日本列島へと到来した、と想定していましたが、これは見直さねばなりません。査読前論文に安易に依拠してはいけないな、と反省しています。当然、査読論文にも安易に依拠してはなりませんが。ただ、欲知島遺跡個体の事例から、朝鮮半島南端には少なくとも中期新石器時代まで「縄文人」構成要素でゲノムをモデル化できる個体が存在しており、そうした人々とTaejungni個体と遺伝的に近い集団が混合して形成された現代日本人に近い遺伝的構成の集団が、その後で日本列島に到来した可能性もまだ考えられるように思います。

 朝鮮半島南端の新石器時代人のゲノムの「縄文人」構成要素が、日本列島から新石器時代にもたらされたのか、元々朝鮮半島に存在したのか、「縄文人」の形成過程も含めて不明で、今後の古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。しかし、朝鮮半島南端の新石器時代個体のうち、非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃となる安島遺跡個体がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統でモデル化できることから、朝鮮半島には元々前期新石器時代から遼河地域集団と遺伝的に近い集団が存在し、九州から朝鮮半島への「縄文人」の到来は南部に限定されていた可能性が高いように思います。また、主成分分析で示されるように(捕捉図7)、Taejungni個体が現代韓国人と遺伝的には明確に異なることも確かで、古代ゲノムデータの蓄積を俟たねばなりませんが、朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成が紀元前千年紀半ば以降に大きく変わった可能性は高いように思います。以下は本論文の補足図7です。
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 最近の西日本「縄文人」や古墳時代の人類遺骸のゲノム解析結果(関連記事)から、弥生時代の人類集団の「渡来系」の遺伝的要素は青銅器時代西遼河地域集団に近く、古墳時代になると黄河地域集団の影響が強くなる、と指摘されています。この研究は弥生時代の人類を、「縄文人」構成要素の割合が高い長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させているところに疑問が残りますが、その2個体よりも現代日本人にずっと近い福岡県の安徳台遺跡個体と隈・西小田遺跡個体も含めての、ユーラシア東部の包括的な古代ゲノム研究ではどのような結果になるのか、今後の研究の進展が期待されます。また、日本列島の「縄文人」は時空間的に広範に遺伝的には均質だった可能性が高いものの(関連記事)、弥生時代と古墳時代に関しては、時空間的に遺伝的違いが大きいこと(関連記事)も考慮する必要があるでしょう。

 長墓遺跡の先史時代個体群が遺伝的には既知の「縄文人」と一まとまりを形成する、との結果は、先史時代の先島諸島には縄文文化の影響がないと言われていただけに、意外な結果です。本論文も指摘するように、朝鮮半島の欲知島遺跡個体の事例からも、遺伝的な「縄文人」と縄文文化とを直結させることはできなくなりました。もっとも、これは物質文化のことで、言語も含めて精神文化では高い共通性があった、と想定できなくもありませんが、これに反証することはできないとしても、証明することもできず、可能性は高くないように思います。遺伝的な「縄文人」は多様な文化を築き、おそらく縄文時代晩期に北海道の(一部)集団で話されていただろうアイヌ語祖語は、同時代の西日本はもちろん関東の言語ともすでに大きく異なっていたかもしれません。「縄文人」と現代日本人の形成過程にはまだ未解明のところが多く、今後の古代ゲノム研究の進展によりじょじょに解明されていくのではないか、と期待しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


言語学:トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった

 トランスユーラシア語族(日本語、韓国語、ツングース語、モンゴル語、チュルク語からなる)は、約9000年前の中国に起源があり、その普及は農業によって促進された可能性があることを明らかにした論文が、Nature に掲載される。今回の研究は、東ユーラシア言語史における重要な時期について解明を進める上で役立つ。

 トランスユーラシア語族は、東は日本、韓国、シベリアから西はトルコに至るユーラシア大陸全域に広範に分布しているが、この語族の起源と普及については、人口の分散、農業の拡大、言語の分散のそれぞれが議論を複雑化させ、激しい論争になっている。

 今回、Martine Robbeetsたちは、3つの研究分野(歴史言語学、古代DNA研究、考古学)を結集して、トランスユーラシア語族の言語が約9000年前の中国北東部の遼河流域の初期のキビ農家まで辿れることを明らかにした。その後、農民たちが北東アジア全体に移動するにつれて、これらの言語は、北西方向にはシベリアとステップ地域へ、東方向には韓国と日本へ広がったと考えられる。

 トランスユーラシア語族に関しては、もっと最近の紀元前2000〜1000年ごろを起源とし、東部のステップから移動してきた遊牧民が分散を主導したとする「遊牧民仮説」が提唱されているが、今回の知見は、この仮説に疑問を投げ掛けている。


参考文献:
Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8


https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/255.html#c27

[近代史5] 日本語の起源 中川隆
17. 中川隆[-15334] koaQ7Jey 2021年11月12日 13:06:07 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[18]
雑記帳
2021年11月12日
アジア北東部集団の形成の学際的研究
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html


 アジア北東部集団の形成の学際的研究に関する研究(Nyakatura et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。トランスユーラシア語族、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族の起源と初期の拡散は、ユーラシア人口史の最も論争となっている問題の一つです。重要な問題は、言語拡散と農耕拡大と人口移動との間の関係です。

 本論文は、統一的観点で遺伝学と考古学と言語学を「三角測量」することにより、この問題に取り組みます。本論文は、包括的なトランスユーラシア言語の農耕牧畜および基礎語彙を含む、これらの分野からの広範なデータセットを報告します。その内訳は、アジア北東部の255ヶ所の新石器時代から青銅器時代の遺跡の考古学的データベースと、韓国と琉球諸島と日本の初期穀物農耕民の古代ゲノム回収で、アジア東部からの既知のゲノムを保管します。

 伝統的な「牧畜民仮説」に対して本論文が示すのは、トランスユーラシア言語の共通の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)と主要な拡散が、新石器時代以降のアジア北東部全域の最初の農耕民の移動にたどれるものの、この共有された遺産は青銅器時代以降の広範な文化的相互作用により隠されてきた、ということです。言語学と考古学と遺伝学の個々の分野における顕著な進歩を示しただけではなく、それらの収束する証拠を組み合わせることにより、トランスユーラシア言語話者の拡大は農耕により促進された、と示されます。

 古代DNA配列決定における最近の躍進により、ユーラシア全域におけるヒトと言語と文化の拡大の間のつながりが再考されるようになってきました。しかし、ユーラシア西部(関連記事1および関連記事2)と比較すると、ユーラシア東部はまだよく理解されていません。モンゴル南部(内モンゴル)や黄河や遼河やアムール川流域やロシア極東や朝鮮半島や日本列島を含む広大なアジア北東部は、最近の文献ではとくに過小評価されています。遺伝学にとくに重点を置いている(関連記事1および関連記事2および関連記事3)か、既存のデータセットの再調査に限定されるいくつかの例外を除いて、アジア北東部への真の学際的手法はほとんどありません。

 「アルタイ諸語」としても知られるトランスユーラシア語族は、言語の先史時代で最も議論となっている問題の一つです。トランスユーラシア語族はヨーロッパとアジア北部全域にまたがる地理的に隣接する言語の大規模群を意味し、5つの議論の余地のない語族が含まれ、それは日本語族と朝鮮語族とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です(図1a)。これら5語族が単一の共通祖先から派生したのかどうかという問題は、継承説と借用説の支持者間の長年の主題でした。最近の評価では、多くの共通の特性がじっさいに借用によるものだとしても、それにも関わらず、トランスユーラシア語族を有効な系譜群として分類する信頼できる証拠の核がある、と示されています。

 しかし、この分類を受け入れると、祖先のトランスユーラシア語族話者共同体の時間的深さと場所と文化的帰属意識と拡散経路について、新たな問題が生じます。本論文は、「農耕仮説」を提案することにより、伝統的な「牧畜民仮説」に異議を唱えます。「牧畜民仮説」では、紀元前二千年紀にユーラシア東部草原地帯で始まる遊牧民の拡大を伴う、トランスユーラシア語族の第一次拡散を特定します。一方「農耕仮説」では、「農耕/言語拡散仮説」の範囲にそれらの拡散を位置づけます。これらの問題は言語学をはるかに超えているので、考古学と遺伝学を「三角測量」と呼ばれる単一の手法に統合することで対処されます。


●言語学

 方言や歴史的な違いも含めた、98のユーラシア語族の言語で、254の基本的な語彙概念を表す3193の同語源一式の新たなデータセットが収集されました。ベイズ法の適用により、トランスユーラシア語族の言語の年代のある系統発生が推定されました。その結果、トランスユーラシア語族祖語の分岐年代は最高事後密度(highest posterior density、HPD)95%で12793〜5595年前(9181年前)、アルタイ諸語祖語(テュルク語族とモンゴル語族とツングース語族の祖語)では6811年前(95% HPDで10166〜4404年前)、モンゴル語族とツングース語族では4491年前(95% HPDで6373〜2599年前)、日本語族と朝鮮語族では5458年前(95% HPDで8024〜3335年前)と示唆されました(図1b)。これらの年代は、特定の語族が複数の基本的な亜集団に最初に分岐する時間的深さを推定します。これらの語彙データセットを用いて、トランスユーラシア語族の地理的拡大がモデル化されました。ベイズ系統地理学を適用して、語彙統計学や多様性ホットスポット還俗や文化的再構築などの古典的手法が補完されました。

 アルタイ山脈から黄河や大興安嶺山脈やアムール川流域に及ぶ、以前に提案された起源地とは対照的に、トランスユーラシア語族の起源は前期新石器時代の西遼河地域にある、との裏づけが見つかりました。新石器時代におけるトランスユーラシア語族の最初の分散後、さらなる拡散が後期新石器時代および青銅器時代に起きました。モンゴル語族の祖先はモンゴル高原へと北に広がり、テュルク語族祖語はユーラシア東部草原を越えて西方へと移動し、他の分岐した語族は東方へと移動しました。それは、アムール川とウスリー川とハンカ湖の地域に広がったツングース語族祖語と、朝鮮半島に広がった朝鮮語族祖語と、朝鮮半島および日本列島に広がった日本語族祖語です(図1b)。以下は本論文の図1です。
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 祖語の再構築された語彙で明らかにされた農耕牧畜単語を調べた定性分析を通じて、特定の期間における特定地域の祖先的話者共同体にとって文化的診断となるような項目が、さらに特定されました。祖語の再構築された語彙で明らかにされた農牧民の言葉を調べた定性分析(補足データ5)を通じて、特定の地域の特定の時間における先祖の言語共同体の文化的診断となる項目がさらに特定されました。トランスユーラシア語族祖語やアルタイ諸語祖語やモンゴル語族およびツングース語族祖語や日本語族および朝鮮語族祖語など、新石器時代に分離した共通の祖先語は、耕作(「畑」や「種蒔き」や「植物」や「成長」や「耕作」や「鋤」)、(コメや他の穀類ではない)キビやアワやヒエといった雑穀(「雑穀の種子」や「雑穀の粥」や農家の内庭の「雑穀」)、食糧生産と保存(「発酵」や「臼で引く」や「軟塊に潰す」や「醸造」)、定住を示唆する野生食糧(「クルミ」や「ドングリ」や「クリ」)、織物生産(「縫う」や「織布」や「織機で織る」や「紡ぐ」や「生地の裁断」や「カラムシ」や「アサ」)、家畜化された動物としてのブタやイヌと関連する、継承された単語の小さな核を反映しています。

 対照的に、テュルク語族やモンゴル語族やツングース語族や朝鮮語族や日本語族など青銅器時代に分離した個々の下位語族は、イネやコムギやオオムギの耕作、酪農、ウシやヒツジやウマなどの家畜化された動物、農耕、台所用品、絹など織物に関する新たな生計用語を挿入しました。これらの言葉は、さまざまなトランスユーラシア語族および非トランスユーラシア語族言語を話す青銅器時代人口集団間の言語的相互作用から生じる借用です。要約すると、トランスユーラシア語族の年代と故地と元々の農耕語彙と接触特性は、農耕仮説を裏づけ、牧畜民仮説を除外します。


●考古学

 新石器時代のアジア北東部は広範な植物栽培を特徴としていましたが、穀物農耕が栽培化のいくつかの中心地から拡大し、そのうちトランスユーラシア語族にとって最重要なのが西遼河地域で、キビの栽培が9000年前頃までに始まりました。文献からデータが抽出され、新石器時代および青銅器時代の255ヶ所の遺跡(図2a)の172の考古学的特徴が記録されて、中国北部と極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域と韓国と日本の、直接的に放射性炭素年代測定された初期の作物遺骸269点の目録がまとめられました。

 文化的類似性にしたがって255ヶ所の遺跡がまとまるベイズ分析の主要な結果は、図2bに示されます。西遼河地域の新石器時代文化のまとまりが見つかり、そこから雑穀(キビやアワやヒエ)農耕と関連する二つの分枝が分離します。一方は朝鮮半島の櫛形文(Chulmun)で、もう一方はアムール川とプリモライ地域と遼東半島に及ぶ新石器時代文化です。これは、5500年前頃までの朝鮮半島、および5000年前頃までのアムール川経由でのプリモライ地域への雑穀農耕拡散についての以前の知見を確証します。

 分析の結果、韓国の無文(Mumun)文化および日本の弥生文化遺跡と、西遼河地域の青銅器時代遺跡がまとまりました。これは、紀元前二千年紀に遼東半島および山東半島地域の農耕一括にイネとコムギが追加されたことを反映しています。これらの作物は前期青銅器時代(3300〜2800年前頃)に朝鮮半島に伝わり、3000年前頃以後には朝鮮半島から日本列島へと伝わりました(図2b)。以下は本論文の図2です。
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 人口移動は単形質的な考古学的文化とはつながりませんが、アジア北東部における新石器時代の農耕拡大は、耕作や収穫や織物の技術の石器など、いくつかの診断的特徴と関連していました。動物の家畜化と酪農は、ユーラシア西部では新石器時代の拡大に重要な役割を果たしましたが、本論文のデータでは、イヌとブタを除いて、青銅器時代前のアジア北東部における動物の家畜化の証拠はほとんどありません。農耕と人口移動との間のつながりは、朝鮮半島と西日本との間の土器や石器や家屋および埋葬建築の類似性からとくに明らかです。

 先行研究をふまえて、本論文では研究対象地域全体の雑穀農耕の導入と関連する人口動態の変化が概観されました。手の込んだ水田に投資した水稲農耕民は一ヶ所に留まる傾向にあり、余剰労働力を通じて人口増加を吸収しましたが、雑穀農民は通常、より拡大的な居住パターンを採用しました。新石器時代の人口密度はアジア北東部全域で上昇しましたが、後期新石器時代には人口が激減しました。その後、青銅器時代には中国と朝鮮半島と日本列島で人口が急激に増加しました。


●遺伝学

 本論文は、アムール川地域と朝鮮半島と九州と沖縄の証明された古代人19個体のゲノム分析を報告し、それをユーラシア東部草原地帯と西遼河地域とアムール川地域と黄河地域と遼東半島と山東半島と極東ロシアのプリモライ地域と日本列島にまたがる、9500〜300年前頃の既知の古代人のゲノムと組み合わせました(図3a)。それらはユーラシア現代人149集団とアジア東部現代人45集団の主成分分析に投影されました。図3bでは、主要な古代人集団が5つの遺伝的構成要素の混合としてモデル化されています。その遺伝的構成要素とは、アムール川流域を表すジャライノール(Jalainur)遺跡個体、黄河地域を表す仰韶(Yangshao)文化個体、「縄文人」を表す六通貝塚個体と、黄河流域個体およびアムール川地域個体のゲノムで構成される西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体と夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体です。

 アムール川地域の現代のツングース語とニヴフ語の話者は緊密なまとまりを形成します(関連記事)。バイカル湖とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯の新石器時代狩猟採集民は、西遼河地域やアムール川地域の農耕民とともに、全てこのまとまりの内部に投影されます。黒竜江省チチハル市の昂昂渓(Xiajiadian)区の後期新石器時代遺跡個体は、高いアムール川地域的な祖先系統を示しますが、西遼河地域雑穀農耕民は、経時的に黄河地域集団のゲノムへと前進的に移行するアムール川地域的な祖先系統(関連記事)のかなりの割合を示します(図3b)。

 西遼河地域の前期新石器時代個体のゲノムは欠けていますが、アムール川地域的な祖先系統は、バイカル湖とアムール川地域とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯西遼河地域にまたがる、在来の新石器時代よりも前(もしくは後期旧石器時代)の狩猟採集民の元々の遺伝的特性を表している可能性が高そうで、この地域の初期農耕民において継続しています。これは、モンゴルとアムール川地域の古代人のゲノムにおける黄河地域集団の影響の欠如は、トランスユーラシア語族の西遼河地域の遺伝的相関を裏づけない、と結論付けた最近の遺伝学的研究(関連記事)と矛盾しています。以下は本論文の図3です。
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 主成分分析は、モンゴルの新石器時代個体群が高いアムール川地域祖先系統を有し、青銅器時代から中世にかけて増加するユーラシア西部からの広範な遺伝子流動を伴う、という一般的傾向を示します(関連記事)。テュルク語族話者の匈奴と古ウイグルと突厥の個体がひじょうに散在しているのに対して、モンゴル語族話者の鉄器時代の鮮卑の個体は、室韋(Shiwei)や楼蘭(Rouran)やキタイ(契丹)や古代および中世のモンゴルのハン国よりも、アムール川地域のまとまりの方に近くなっています。

 アムール川地域関連祖先系統は、日本語と朝鮮語の話者へとたどれるので、トランスユーラシア語族の全ての話者に共通する元々の遺伝的構成要素だったようです。韓国の古代人ゲノムの分析により、「縄文人」祖先系統が朝鮮半島に6000年前頃までには存在していた、と明らかになりました(図3b)。朝鮮半島の古代人について近位qpAdmモデル化が示唆するのは、前期新石器時代の安島(Ando)遺跡個体(非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃)がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統に由来するのに対して、同じく前期新石器時代の煙台島(Yŏndaedo)遺跡と長項(Changhang)遺跡個体は高い割合の紅山文化集団関連祖先系統と「縄文人」祖先系統の混合としてモデル化できるものの、煙台島遺跡個体の解像度は限定的でしかない、ということです(図3b)。

 朝鮮半島南岸の欲知島(Yokchido)遺跡個体は、ほぼ95%の「縄文人」関連祖先系統を含んでいます。本論文の遺伝学的分析では、朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡個体(紀元前761〜紀元前541年)のあり得るアジア東部祖先系統を区別できませんが、その年代が青銅器時代であることを考えると、夏家店上層文化関連祖先系統として最もよくモデル化でき、あり得るわずかな「縄文人」祖先系統の混合は統計的に有意ではありません。したがって、現代韓国人への「縄文人」の遺伝的寄与がごくわずかであることに示されるように、新石器時代の朝鮮半島における「縄文人」祖先系統の混成の存在(0〜95%)と、それが時間の経過とともに最終的には消滅した、と観察されます。

 Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素の欠如から、現代韓国人と関連する「縄文人」祖先系統が検出されない初期集団は、稲作農耕との関連で朝鮮半島に移動し、一部の「縄文人」との混合がある集団を置換した、と示唆されますが、限定的な標本規模と網羅率のため、本論文の遺伝データにはこの仮説を検証するだけの解像度はありません。したがって、朝鮮半島への農耕拡大はアムール川地域および黄河地域からの遺伝子流動のさまざまな波と関連づけられ、雑穀農耕の新石器時代の導入は紅山文化集団で、青銅器時代の追加の稲作農耕は夏家店上層文化集団によりモデル化されます。

 本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」について、弥生時代農耕民(ともに弥生時代中期となる、福岡県那珂川市の安徳台遺跡個体と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡個体)はゲノム分析により、在来の「縄文人」祖先系統と青銅器時代の夏家店上層文化関連祖先系統との混合としてモデル化できます(安徳台遺跡個体の方が「縄文人」構成要素の割合は高くなります)。本論文の結果は、青銅器時代における朝鮮半島から日本列島への大規模な移動を裏づけます。

 沖縄県宮古島市の長墓遺跡の個体群のゲノムは、琉球諸島の古代人のゲノム規模データとしては最初の報告となります。完新世人口集団は台湾から琉球諸島人部に到達した、との以前の知見とは対照的に、本論文の結果は、先史時代の長墓遺跡個体群が北方の縄文文化に由来する、と示唆します。近世以前の縄文時代人的祖先系統から弥生時代人的祖先系統への遺伝的置換は、この地域における農耕と琉球諸語の日本列島「本土」と比較しての遅い到来を反映しています。


●考察

 言語学と考古学と遺伝学の証拠の「三角測量」は、トランスユーラシア語族の起源が雑穀農耕の開始とアジア北東部新石器時代のアムール川地域の遺伝子プールにさかのぼれる、と示します。これらの言語の拡大は主要な2段階を含んでおり、それは農耕と遺伝子の拡散を反映しています(図4)。第一段階はトランスユーラシア語族の主要な分岐により表され、前期〜中期新石器時代にさかのぼります。この時、アムール川地域遺伝子と関連する雑穀農耕民が西遼河地域から隣接地域に拡大しました。第二段階は5つの子孫系統間の言語的接触により表され、後期新石器時代と青銅器時代と鉄器時代にさかのぼります。この時、かなりのアムール川地域祖先系統を有する雑穀農耕民は次第に黄河地域関連集団やユーラシア西部集団や「縄文人」集団と混合し、稲作やユーラシア西部の穀物や牧畜が農耕一括に追加されました。以下は本論文の図4です。
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 時空間および生計パターンをまとめると、3分野間の明確な関連性が見つかります。紀元前七千年紀頃の西遼河地域の雑穀栽培の開始は、かなりのアムール川地域祖先系統と関連し、トランスユーラシア語族話者共同体の祖先と時空間で重なっている可能性があります。8000年前頃と推定されるシナ・チベット語族間の最近の関連性(関連記事)と一致して、本論文の結果から、アジア北東部における雑穀栽培化の二つの中心地を、二つの主要な語族、つまり黄河地域のシナ・チベット語族と西遼河地域のトランスユーラシア語族の起源と関連づけられます。トランスユーラシア語族祖語とその話者の遺伝子における黄河地域の影響の証拠の欠如は、植物考古学で示唆されている雑穀栽培の複数の中心的な起源と一致します。

 紀元前七千年紀〜紀元前五千年紀における雑穀農耕の初期段階には人口増加が伴い、西遼河地域における環境的もしくは社会的に分離された下位集団の形成と、アルタイ諸語と日本語族および朝鮮語族の話者間の接続の切断につながります。紀元前四千年紀半ば頃、これら農耕民の一部が黄海から朝鮮半島へと東方へ、プリモライ地域へと北東へ移動を開始し、西遼河地域から、追加のアムール川地域祖先系統をプリモライ地域に、朝鮮半島へアムール川地域と黄河地域の混合祖先系統をもたらしました。本論文で新たに分析された朝鮮半島古代人のゲノムは、日本列島外で「縄文人」関連祖先系統との混合の存在を証明している点で、注目に値します。

 後期青銅器時代には、ユーラシア草原地帯全域で広範な文化交換が見られ、西遼河地域およびユーラシア東部草原地帯の人口集団のユーラシア西部遺伝系統との混合をもたらしました。言語学的には、この相互作用はモンゴル語族祖語およびテュルク語族祖語話者による農耕牧畜語彙の借用に反映されており、とくにコムギとオオムギの栽培や放牧や酪農やウマの利用と関連しています。

 3300年前頃、遼東半島地域と山東半島地域の農耕民が朝鮮半島へと移動し、雑穀農耕にイネとオオムギとコムギを追加しました。この移動は、本論文の朝鮮半島青銅器時代標本では夏家店上層文化集団としてモデル化される遺伝的構成と一致しており、日本語族と朝鮮語族との間の初期の借用に反映されています。それは考古学的には、夏家店上層文化の物質文化にとくに限定されることなく、より大きな遼東半島地域および山東半島地域の農耕と関連しています。

 紀元前千年紀に、この農耕一括は九州へと伝えられ、本格的な農耕への移行と、縄文時代人祖先系統から弥生時代人祖先系統への置換と、日本語族への言語的移行の契機となりました。琉球諸島南部の宮古島の長墓遺跡の独特な標本の追加により、トランスユーラシア語族世界の端に至る農耕/言語拡散をたどれます。南方の宮古島にまで及ぶ「縄文人」祖先系統が証明され、この結果は台湾からのオーストロネシア語族集団の北方への拡大との以前の仮定と矛盾します。朝鮮半島の欲知島遺跡個体で見られる「縄文人」特性と合わせると、本論文の結果は、「縄文人」のゲノムと物質文化が重なるとは限らないことを示します。したがって、古代DNAからの新たな証拠を進めることにより、本論文は日本人集団と韓国人集団が西遼河地域祖先系統を有する、との最近の研究(関連記事)を確証しますが、トランスユーラシア語族の遺伝的相関はない、と主張するその研究とは矛盾します。

 一部の先行研究は、トランスユーラシア語族地帯は農耕に適した地域を越えているとみなしましたが、本論文で確証されたのは、農耕/言語の拡散仮説は、ユーラシア人口集団の拡散の理解にとって依然として重要なモデルである、ということです。言語学と考古学と遺伝学の「三角測量」は、牧畜仮説と農耕仮説との間の競合を解決し、トランスユーラシア語族話者の初期の拡大は農耕により促進された、と結論づけます。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、言語学と考古学と遺伝学の学際的研究により、(言語学には疎いので断定できませんが、おそらくその設定自体が議論になりそうな)トランスユーラシア語族の拡大が初期農耕により促進され、牧畜の導入は拡大後のことだった、と示しました。言語学と考古学はもちろんですが、遺伝学というか古代ゲノム研究はとくに、今後急速な発展が期待できるだけに、本論文の見解も今後、どの程度になるは不明ではあるものの、修正されていくことも考えられます。その意味で、本論文の見解が完新世アジア北東部人口史の大きな枠組みになる、とはまだ断定できないように思います。

 本論文には査読前の公表時点から注目していましたが(関連記事)、私にとって大きく変わった点は、紀元前761〜紀元前541年頃となる朝鮮半島中部西岸のTaejungni個体のゲノムのモデル化です。査読前には、Taejungni個体は高い割合の夏家店上層文化集団構成要素と低い割合の「縄文人」構成要素との混合とモデル化され、現代日本人と類似していましたが、本論文では上述のように、Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素は欠如している、と指摘されています。

 Taejungni個体を根拠に、紀元前千年紀半ば以前の朝鮮半島の人類集団のゲノムには一定以上の「縄文人」構成要素が残っており、夏家店上層文化集団と遺伝的に近い集団が朝鮮半島に到来して在来集団と混合し、現代日本人に近い遺伝的構成の集団が紀元前二千年紀末には朝鮮半島で形成され、その後日本列島へと到来した、と想定していましたが、これは見直さねばなりません。査読前論文に安易に依拠してはいけないな、と反省しています。当然、査読論文にも安易に依拠してはなりませんが。ただ、欲知島遺跡個体の事例から、朝鮮半島南端には少なくとも中期新石器時代まで「縄文人」構成要素でゲノムをモデル化できる個体が存在しており、そうした人々とTaejungni個体と遺伝的に近い集団が混合して形成された現代日本人に近い遺伝的構成の集団が、その後で日本列島に到来した可能性もまだ考えられるように思います。

 朝鮮半島南端の新石器時代人のゲノムの「縄文人」構成要素が、日本列島から新石器時代にもたらされたのか、元々朝鮮半島に存在したのか、「縄文人」の形成過程も含めて不明で、今後の古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。しかし、朝鮮半島南端の新石器時代個体のうち、非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃となる安島遺跡個体がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統でモデル化できることから、朝鮮半島には元々前期新石器時代から遼河地域集団と遺伝的に近い集団が存在し、九州から朝鮮半島への「縄文人」の到来は南部に限定されていた可能性が高いように思います。また、主成分分析で示されるように(捕捉図7)、Taejungni個体が現代韓国人と遺伝的には明確に異なることも確かで、古代ゲノムデータの蓄積を俟たねばなりませんが、朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成が紀元前千年紀半ば以降に大きく変わった可能性は高いように思います。以下は本論文の補足図7です。
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 最近の西日本「縄文人」や古墳時代の人類遺骸のゲノム解析結果(関連記事)から、弥生時代の人類集団の「渡来系」の遺伝的要素は青銅器時代西遼河地域集団に近く、古墳時代になると黄河地域集団の影響が強くなる、と指摘されています。この研究は弥生時代の人類を、「縄文人」構成要素の割合が高い長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させているところに疑問が残りますが、その2個体よりも現代日本人にずっと近い福岡県の安徳台遺跡個体と隈・西小田遺跡個体も含めての、ユーラシア東部の包括的な古代ゲノム研究ではどのような結果になるのか、今後の研究の進展が期待されます。また、日本列島の「縄文人」は時空間的に広範に遺伝的には均質だった可能性が高いものの(関連記事)、弥生時代と古墳時代に関しては、時空間的に遺伝的違いが大きいこと(関連記事)も考慮する必要があるでしょう。

 長墓遺跡の先史時代個体群が遺伝的には既知の「縄文人」と一まとまりを形成する、との結果は、先史時代の先島諸島には縄文文化の影響がないと言われていただけに、意外な結果です。本論文も指摘するように、朝鮮半島の欲知島遺跡個体の事例からも、遺伝的な「縄文人」と縄文文化とを直結させることはできなくなりました。もっとも、これは物質文化のことで、言語も含めて精神文化では高い共通性があった、と想定できなくもありませんが、これに反証することはできないとしても、証明することもできず、可能性は高くないように思います。遺伝的な「縄文人」は多様な文化を築き、おそらく縄文時代晩期に北海道の(一部)集団で話されていただろうアイヌ語祖語は、同時代の西日本はもちろん関東の言語ともすでに大きく異なっていたかもしれません。「縄文人」と現代日本人の形成過程にはまだ未解明のところが多く、今後の古代ゲノム研究の進展によりじょじょに解明されていくのではないか、と期待しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


言語学:トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった

 トランスユーラシア語族(日本語、韓国語、ツングース語、モンゴル語、チュルク語からなる)は、約9000年前の中国に起源があり、その普及は農業によって促進された可能性があることを明らかにした論文が、Nature に掲載される。今回の研究は、東ユーラシア言語史における重要な時期について解明を進める上で役立つ。

 トランスユーラシア語族は、東は日本、韓国、シベリアから西はトルコに至るユーラシア大陸全域に広範に分布しているが、この語族の起源と普及については、人口の分散、農業の拡大、言語の分散のそれぞれが議論を複雑化させ、激しい論争になっている。

 今回、Martine Robbeetsたちは、3つの研究分野(歴史言語学、古代DNA研究、考古学)を結集して、トランスユーラシア語族の言語が約9000年前の中国北東部の遼河流域の初期のキビ農家まで辿れることを明らかにした。その後、農民たちが北東アジア全体に移動するにつれて、これらの言語は、北西方向にはシベリアとステップ地域へ、東方向には韓国と日本へ広がったと考えられる。

 トランスユーラシア語族に関しては、もっと最近の紀元前2000〜1000年ごろを起源とし、東部のステップから移動してきた遊牧民が分散を主導したとする「遊牧民仮説」が提唱されているが、今回の知見は、この仮説に疑問を投げ掛けている。


参考文献:
Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8


https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/254.html#c17

[近代史5] 稲作とオーストロネシア語族集団の起源 中川隆
8. 中川隆[-15333] koaQ7Jey 2021年11月12日 13:06:33 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[19]
雑記帳
2021年11月12日
アジア北東部集団の形成の学際的研究
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html


 アジア北東部集団の形成の学際的研究に関する研究(Nyakatura et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。トランスユーラシア語族、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族の起源と初期の拡散は、ユーラシア人口史の最も論争となっている問題の一つです。重要な問題は、言語拡散と農耕拡大と人口移動との間の関係です。

 本論文は、統一的観点で遺伝学と考古学と言語学を「三角測量」することにより、この問題に取り組みます。本論文は、包括的なトランスユーラシア言語の農耕牧畜および基礎語彙を含む、これらの分野からの広範なデータセットを報告します。その内訳は、アジア北東部の255ヶ所の新石器時代から青銅器時代の遺跡の考古学的データベースと、韓国と琉球諸島と日本の初期穀物農耕民の古代ゲノム回収で、アジア東部からの既知のゲノムを保管します。

 伝統的な「牧畜民仮説」に対して本論文が示すのは、トランスユーラシア言語の共通の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)と主要な拡散が、新石器時代以降のアジア北東部全域の最初の農耕民の移動にたどれるものの、この共有された遺産は青銅器時代以降の広範な文化的相互作用により隠されてきた、ということです。言語学と考古学と遺伝学の個々の分野における顕著な進歩を示しただけではなく、それらの収束する証拠を組み合わせることにより、トランスユーラシア言語話者の拡大は農耕により促進された、と示されます。

 古代DNA配列決定における最近の躍進により、ユーラシア全域におけるヒトと言語と文化の拡大の間のつながりが再考されるようになってきました。しかし、ユーラシア西部(関連記事1および関連記事2)と比較すると、ユーラシア東部はまだよく理解されていません。モンゴル南部(内モンゴル)や黄河や遼河やアムール川流域やロシア極東や朝鮮半島や日本列島を含む広大なアジア北東部は、最近の文献ではとくに過小評価されています。遺伝学にとくに重点を置いている(関連記事1および関連記事2および関連記事3)か、既存のデータセットの再調査に限定されるいくつかの例外を除いて、アジア北東部への真の学際的手法はほとんどありません。

 「アルタイ諸語」としても知られるトランスユーラシア語族は、言語の先史時代で最も議論となっている問題の一つです。トランスユーラシア語族はヨーロッパとアジア北部全域にまたがる地理的に隣接する言語の大規模群を意味し、5つの議論の余地のない語族が含まれ、それは日本語族と朝鮮語族とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です(図1a)。これら5語族が単一の共通祖先から派生したのかどうかという問題は、継承説と借用説の支持者間の長年の主題でした。最近の評価では、多くの共通の特性がじっさいに借用によるものだとしても、それにも関わらず、トランスユーラシア語族を有効な系譜群として分類する信頼できる証拠の核がある、と示されています。

 しかし、この分類を受け入れると、祖先のトランスユーラシア語族話者共同体の時間的深さと場所と文化的帰属意識と拡散経路について、新たな問題が生じます。本論文は、「農耕仮説」を提案することにより、伝統的な「牧畜民仮説」に異議を唱えます。「牧畜民仮説」では、紀元前二千年紀にユーラシア東部草原地帯で始まる遊牧民の拡大を伴う、トランスユーラシア語族の第一次拡散を特定します。一方「農耕仮説」では、「農耕/言語拡散仮説」の範囲にそれらの拡散を位置づけます。これらの問題は言語学をはるかに超えているので、考古学と遺伝学を「三角測量」と呼ばれる単一の手法に統合することで対処されます。


●言語学

 方言や歴史的な違いも含めた、98のユーラシア語族の言語で、254の基本的な語彙概念を表す3193の同語源一式の新たなデータセットが収集されました。ベイズ法の適用により、トランスユーラシア語族の言語の年代のある系統発生が推定されました。その結果、トランスユーラシア語族祖語の分岐年代は最高事後密度(highest posterior density、HPD)95%で12793〜5595年前(9181年前)、アルタイ諸語祖語(テュルク語族とモンゴル語族とツングース語族の祖語)では6811年前(95% HPDで10166〜4404年前)、モンゴル語族とツングース語族では4491年前(95% HPDで6373〜2599年前)、日本語族と朝鮮語族では5458年前(95% HPDで8024〜3335年前)と示唆されました(図1b)。これらの年代は、特定の語族が複数の基本的な亜集団に最初に分岐する時間的深さを推定します。これらの語彙データセットを用いて、トランスユーラシア語族の地理的拡大がモデル化されました。ベイズ系統地理学を適用して、語彙統計学や多様性ホットスポット還俗や文化的再構築などの古典的手法が補完されました。

 アルタイ山脈から黄河や大興安嶺山脈やアムール川流域に及ぶ、以前に提案された起源地とは対照的に、トランスユーラシア語族の起源は前期新石器時代の西遼河地域にある、との裏づけが見つかりました。新石器時代におけるトランスユーラシア語族の最初の分散後、さらなる拡散が後期新石器時代および青銅器時代に起きました。モンゴル語族の祖先はモンゴル高原へと北に広がり、テュルク語族祖語はユーラシア東部草原を越えて西方へと移動し、他の分岐した語族は東方へと移動しました。それは、アムール川とウスリー川とハンカ湖の地域に広がったツングース語族祖語と、朝鮮半島に広がった朝鮮語族祖語と、朝鮮半島および日本列島に広がった日本語族祖語です(図1b)。以下は本論文の図1です。
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 祖語の再構築された語彙で明らかにされた農耕牧畜単語を調べた定性分析を通じて、特定の期間における特定地域の祖先的話者共同体にとって文化的診断となるような項目が、さらに特定されました。祖語の再構築された語彙で明らかにされた農牧民の言葉を調べた定性分析(補足データ5)を通じて、特定の地域の特定の時間における先祖の言語共同体の文化的診断となる項目がさらに特定されました。トランスユーラシア語族祖語やアルタイ諸語祖語やモンゴル語族およびツングース語族祖語や日本語族および朝鮮語族祖語など、新石器時代に分離した共通の祖先語は、耕作(「畑」や「種蒔き」や「植物」や「成長」や「耕作」や「鋤」)、(コメや他の穀類ではない)キビやアワやヒエといった雑穀(「雑穀の種子」や「雑穀の粥」や農家の内庭の「雑穀」)、食糧生産と保存(「発酵」や「臼で引く」や「軟塊に潰す」や「醸造」)、定住を示唆する野生食糧(「クルミ」や「ドングリ」や「クリ」)、織物生産(「縫う」や「織布」や「織機で織る」や「紡ぐ」や「生地の裁断」や「カラムシ」や「アサ」)、家畜化された動物としてのブタやイヌと関連する、継承された単語の小さな核を反映しています。

 対照的に、テュルク語族やモンゴル語族やツングース語族や朝鮮語族や日本語族など青銅器時代に分離した個々の下位語族は、イネやコムギやオオムギの耕作、酪農、ウシやヒツジやウマなどの家畜化された動物、農耕、台所用品、絹など織物に関する新たな生計用語を挿入しました。これらの言葉は、さまざまなトランスユーラシア語族および非トランスユーラシア語族言語を話す青銅器時代人口集団間の言語的相互作用から生じる借用です。要約すると、トランスユーラシア語族の年代と故地と元々の農耕語彙と接触特性は、農耕仮説を裏づけ、牧畜民仮説を除外します。


●考古学

 新石器時代のアジア北東部は広範な植物栽培を特徴としていましたが、穀物農耕が栽培化のいくつかの中心地から拡大し、そのうちトランスユーラシア語族にとって最重要なのが西遼河地域で、キビの栽培が9000年前頃までに始まりました。文献からデータが抽出され、新石器時代および青銅器時代の255ヶ所の遺跡(図2a)の172の考古学的特徴が記録されて、中国北部と極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域と韓国と日本の、直接的に放射性炭素年代測定された初期の作物遺骸269点の目録がまとめられました。

 文化的類似性にしたがって255ヶ所の遺跡がまとまるベイズ分析の主要な結果は、図2bに示されます。西遼河地域の新石器時代文化のまとまりが見つかり、そこから雑穀(キビやアワやヒエ)農耕と関連する二つの分枝が分離します。一方は朝鮮半島の櫛形文(Chulmun)で、もう一方はアムール川とプリモライ地域と遼東半島に及ぶ新石器時代文化です。これは、5500年前頃までの朝鮮半島、および5000年前頃までのアムール川経由でのプリモライ地域への雑穀農耕拡散についての以前の知見を確証します。

 分析の結果、韓国の無文(Mumun)文化および日本の弥生文化遺跡と、西遼河地域の青銅器時代遺跡がまとまりました。これは、紀元前二千年紀に遼東半島および山東半島地域の農耕一括にイネとコムギが追加されたことを反映しています。これらの作物は前期青銅器時代(3300〜2800年前頃)に朝鮮半島に伝わり、3000年前頃以後には朝鮮半島から日本列島へと伝わりました(図2b)。以下は本論文の図2です。
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 人口移動は単形質的な考古学的文化とはつながりませんが、アジア北東部における新石器時代の農耕拡大は、耕作や収穫や織物の技術の石器など、いくつかの診断的特徴と関連していました。動物の家畜化と酪農は、ユーラシア西部では新石器時代の拡大に重要な役割を果たしましたが、本論文のデータでは、イヌとブタを除いて、青銅器時代前のアジア北東部における動物の家畜化の証拠はほとんどありません。農耕と人口移動との間のつながりは、朝鮮半島と西日本との間の土器や石器や家屋および埋葬建築の類似性からとくに明らかです。

 先行研究をふまえて、本論文では研究対象地域全体の雑穀農耕の導入と関連する人口動態の変化が概観されました。手の込んだ水田に投資した水稲農耕民は一ヶ所に留まる傾向にあり、余剰労働力を通じて人口増加を吸収しましたが、雑穀農民は通常、より拡大的な居住パターンを採用しました。新石器時代の人口密度はアジア北東部全域で上昇しましたが、後期新石器時代には人口が激減しました。その後、青銅器時代には中国と朝鮮半島と日本列島で人口が急激に増加しました。


●遺伝学

 本論文は、アムール川地域と朝鮮半島と九州と沖縄の証明された古代人19個体のゲノム分析を報告し、それをユーラシア東部草原地帯と西遼河地域とアムール川地域と黄河地域と遼東半島と山東半島と極東ロシアのプリモライ地域と日本列島にまたがる、9500〜300年前頃の既知の古代人のゲノムと組み合わせました(図3a)。それらはユーラシア現代人149集団とアジア東部現代人45集団の主成分分析に投影されました。図3bでは、主要な古代人集団が5つの遺伝的構成要素の混合としてモデル化されています。その遺伝的構成要素とは、アムール川流域を表すジャライノール(Jalainur)遺跡個体、黄河地域を表す仰韶(Yangshao)文化個体、「縄文人」を表す六通貝塚個体と、黄河流域個体およびアムール川地域個体のゲノムで構成される西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体と夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体です。

 アムール川地域の現代のツングース語とニヴフ語の話者は緊密なまとまりを形成します(関連記事)。バイカル湖とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯の新石器時代狩猟採集民は、西遼河地域やアムール川地域の農耕民とともに、全てこのまとまりの内部に投影されます。黒竜江省チチハル市の昂昂渓(Xiajiadian)区の後期新石器時代遺跡個体は、高いアムール川地域的な祖先系統を示しますが、西遼河地域雑穀農耕民は、経時的に黄河地域集団のゲノムへと前進的に移行するアムール川地域的な祖先系統(関連記事)のかなりの割合を示します(図3b)。

 西遼河地域の前期新石器時代個体のゲノムは欠けていますが、アムール川地域的な祖先系統は、バイカル湖とアムール川地域とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯西遼河地域にまたがる、在来の新石器時代よりも前(もしくは後期旧石器時代)の狩猟採集民の元々の遺伝的特性を表している可能性が高そうで、この地域の初期農耕民において継続しています。これは、モンゴルとアムール川地域の古代人のゲノムにおける黄河地域集団の影響の欠如は、トランスユーラシア語族の西遼河地域の遺伝的相関を裏づけない、と結論付けた最近の遺伝学的研究(関連記事)と矛盾しています。以下は本論文の図3です。
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 主成分分析は、モンゴルの新石器時代個体群が高いアムール川地域祖先系統を有し、青銅器時代から中世にかけて増加するユーラシア西部からの広範な遺伝子流動を伴う、という一般的傾向を示します(関連記事)。テュルク語族話者の匈奴と古ウイグルと突厥の個体がひじょうに散在しているのに対して、モンゴル語族話者の鉄器時代の鮮卑の個体は、室韋(Shiwei)や楼蘭(Rouran)やキタイ(契丹)や古代および中世のモンゴルのハン国よりも、アムール川地域のまとまりの方に近くなっています。

 アムール川地域関連祖先系統は、日本語と朝鮮語の話者へとたどれるので、トランスユーラシア語族の全ての話者に共通する元々の遺伝的構成要素だったようです。韓国の古代人ゲノムの分析により、「縄文人」祖先系統が朝鮮半島に6000年前頃までには存在していた、と明らかになりました(図3b)。朝鮮半島の古代人について近位qpAdmモデル化が示唆するのは、前期新石器時代の安島(Ando)遺跡個体(非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃)がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統に由来するのに対して、同じく前期新石器時代の煙台島(Yŏndaedo)遺跡と長項(Changhang)遺跡個体は高い割合の紅山文化集団関連祖先系統と「縄文人」祖先系統の混合としてモデル化できるものの、煙台島遺跡個体の解像度は限定的でしかない、ということです(図3b)。

 朝鮮半島南岸の欲知島(Yokchido)遺跡個体は、ほぼ95%の「縄文人」関連祖先系統を含んでいます。本論文の遺伝学的分析では、朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡個体(紀元前761〜紀元前541年)のあり得るアジア東部祖先系統を区別できませんが、その年代が青銅器時代であることを考えると、夏家店上層文化関連祖先系統として最もよくモデル化でき、あり得るわずかな「縄文人」祖先系統の混合は統計的に有意ではありません。したがって、現代韓国人への「縄文人」の遺伝的寄与がごくわずかであることに示されるように、新石器時代の朝鮮半島における「縄文人」祖先系統の混成の存在(0〜95%)と、それが時間の経過とともに最終的には消滅した、と観察されます。

 Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素の欠如から、現代韓国人と関連する「縄文人」祖先系統が検出されない初期集団は、稲作農耕との関連で朝鮮半島に移動し、一部の「縄文人」との混合がある集団を置換した、と示唆されますが、限定的な標本規模と網羅率のため、本論文の遺伝データにはこの仮説を検証するだけの解像度はありません。したがって、朝鮮半島への農耕拡大はアムール川地域および黄河地域からの遺伝子流動のさまざまな波と関連づけられ、雑穀農耕の新石器時代の導入は紅山文化集団で、青銅器時代の追加の稲作農耕は夏家店上層文化集団によりモデル化されます。

 本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」について、弥生時代農耕民(ともに弥生時代中期となる、福岡県那珂川市の安徳台遺跡個体と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡個体)はゲノム分析により、在来の「縄文人」祖先系統と青銅器時代の夏家店上層文化関連祖先系統との混合としてモデル化できます(安徳台遺跡個体の方が「縄文人」構成要素の割合は高くなります)。本論文の結果は、青銅器時代における朝鮮半島から日本列島への大規模な移動を裏づけます。

 沖縄県宮古島市の長墓遺跡の個体群のゲノムは、琉球諸島の古代人のゲノム規模データとしては最初の報告となります。完新世人口集団は台湾から琉球諸島人部に到達した、との以前の知見とは対照的に、本論文の結果は、先史時代の長墓遺跡個体群が北方の縄文文化に由来する、と示唆します。近世以前の縄文時代人的祖先系統から弥生時代人的祖先系統への遺伝的置換は、この地域における農耕と琉球諸語の日本列島「本土」と比較しての遅い到来を反映しています。


●考察

 言語学と考古学と遺伝学の証拠の「三角測量」は、トランスユーラシア語族の起源が雑穀農耕の開始とアジア北東部新石器時代のアムール川地域の遺伝子プールにさかのぼれる、と示します。これらの言語の拡大は主要な2段階を含んでおり、それは農耕と遺伝子の拡散を反映しています(図4)。第一段階はトランスユーラシア語族の主要な分岐により表され、前期〜中期新石器時代にさかのぼります。この時、アムール川地域遺伝子と関連する雑穀農耕民が西遼河地域から隣接地域に拡大しました。第二段階は5つの子孫系統間の言語的接触により表され、後期新石器時代と青銅器時代と鉄器時代にさかのぼります。この時、かなりのアムール川地域祖先系統を有する雑穀農耕民は次第に黄河地域関連集団やユーラシア西部集団や「縄文人」集団と混合し、稲作やユーラシア西部の穀物や牧畜が農耕一括に追加されました。以下は本論文の図4です。
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 時空間および生計パターンをまとめると、3分野間の明確な関連性が見つかります。紀元前七千年紀頃の西遼河地域の雑穀栽培の開始は、かなりのアムール川地域祖先系統と関連し、トランスユーラシア語族話者共同体の祖先と時空間で重なっている可能性があります。8000年前頃と推定されるシナ・チベット語族間の最近の関連性(関連記事)と一致して、本論文の結果から、アジア北東部における雑穀栽培化の二つの中心地を、二つの主要な語族、つまり黄河地域のシナ・チベット語族と西遼河地域のトランスユーラシア語族の起源と関連づけられます。トランスユーラシア語族祖語とその話者の遺伝子における黄河地域の影響の証拠の欠如は、植物考古学で示唆されている雑穀栽培の複数の中心的な起源と一致します。

 紀元前七千年紀〜紀元前五千年紀における雑穀農耕の初期段階には人口増加が伴い、西遼河地域における環境的もしくは社会的に分離された下位集団の形成と、アルタイ諸語と日本語族および朝鮮語族の話者間の接続の切断につながります。紀元前四千年紀半ば頃、これら農耕民の一部が黄海から朝鮮半島へと東方へ、プリモライ地域へと北東へ移動を開始し、西遼河地域から、追加のアムール川地域祖先系統をプリモライ地域に、朝鮮半島へアムール川地域と黄河地域の混合祖先系統をもたらしました。本論文で新たに分析された朝鮮半島古代人のゲノムは、日本列島外で「縄文人」関連祖先系統との混合の存在を証明している点で、注目に値します。

 後期青銅器時代には、ユーラシア草原地帯全域で広範な文化交換が見られ、西遼河地域およびユーラシア東部草原地帯の人口集団のユーラシア西部遺伝系統との混合をもたらしました。言語学的には、この相互作用はモンゴル語族祖語およびテュルク語族祖語話者による農耕牧畜語彙の借用に反映されており、とくにコムギとオオムギの栽培や放牧や酪農やウマの利用と関連しています。

 3300年前頃、遼東半島地域と山東半島地域の農耕民が朝鮮半島へと移動し、雑穀農耕にイネとオオムギとコムギを追加しました。この移動は、本論文の朝鮮半島青銅器時代標本では夏家店上層文化集団としてモデル化される遺伝的構成と一致しており、日本語族と朝鮮語族との間の初期の借用に反映されています。それは考古学的には、夏家店上層文化の物質文化にとくに限定されることなく、より大きな遼東半島地域および山東半島地域の農耕と関連しています。

 紀元前千年紀に、この農耕一括は九州へと伝えられ、本格的な農耕への移行と、縄文時代人祖先系統から弥生時代人祖先系統への置換と、日本語族への言語的移行の契機となりました。琉球諸島南部の宮古島の長墓遺跡の独特な標本の追加により、トランスユーラシア語族世界の端に至る農耕/言語拡散をたどれます。南方の宮古島にまで及ぶ「縄文人」祖先系統が証明され、この結果は台湾からのオーストロネシア語族集団の北方への拡大との以前の仮定と矛盾します。朝鮮半島の欲知島遺跡個体で見られる「縄文人」特性と合わせると、本論文の結果は、「縄文人」のゲノムと物質文化が重なるとは限らないことを示します。したがって、古代DNAからの新たな証拠を進めることにより、本論文は日本人集団と韓国人集団が西遼河地域祖先系統を有する、との最近の研究(関連記事)を確証しますが、トランスユーラシア語族の遺伝的相関はない、と主張するその研究とは矛盾します。

 一部の先行研究は、トランスユーラシア語族地帯は農耕に適した地域を越えているとみなしましたが、本論文で確証されたのは、農耕/言語の拡散仮説は、ユーラシア人口集団の拡散の理解にとって依然として重要なモデルである、ということです。言語学と考古学と遺伝学の「三角測量」は、牧畜仮説と農耕仮説との間の競合を解決し、トランスユーラシア語族話者の初期の拡大は農耕により促進された、と結論づけます。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、言語学と考古学と遺伝学の学際的研究により、(言語学には疎いので断定できませんが、おそらくその設定自体が議論になりそうな)トランスユーラシア語族の拡大が初期農耕により促進され、牧畜の導入は拡大後のことだった、と示しました。言語学と考古学はもちろんですが、遺伝学というか古代ゲノム研究はとくに、今後急速な発展が期待できるだけに、本論文の見解も今後、どの程度になるは不明ではあるものの、修正されていくことも考えられます。その意味で、本論文の見解が完新世アジア北東部人口史の大きな枠組みになる、とはまだ断定できないように思います。

 本論文には査読前の公表時点から注目していましたが(関連記事)、私にとって大きく変わった点は、紀元前761〜紀元前541年頃となる朝鮮半島中部西岸のTaejungni個体のゲノムのモデル化です。査読前には、Taejungni個体は高い割合の夏家店上層文化集団構成要素と低い割合の「縄文人」構成要素との混合とモデル化され、現代日本人と類似していましたが、本論文では上述のように、Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素は欠如している、と指摘されています。

 Taejungni個体を根拠に、紀元前千年紀半ば以前の朝鮮半島の人類集団のゲノムには一定以上の「縄文人」構成要素が残っており、夏家店上層文化集団と遺伝的に近い集団が朝鮮半島に到来して在来集団と混合し、現代日本人に近い遺伝的構成の集団が紀元前二千年紀末には朝鮮半島で形成され、その後日本列島へと到来した、と想定していましたが、これは見直さねばなりません。査読前論文に安易に依拠してはいけないな、と反省しています。当然、査読論文にも安易に依拠してはなりませんが。ただ、欲知島遺跡個体の事例から、朝鮮半島南端には少なくとも中期新石器時代まで「縄文人」構成要素でゲノムをモデル化できる個体が存在しており、そうした人々とTaejungni個体と遺伝的に近い集団が混合して形成された現代日本人に近い遺伝的構成の集団が、その後で日本列島に到来した可能性もまだ考えられるように思います。

 朝鮮半島南端の新石器時代人のゲノムの「縄文人」構成要素が、日本列島から新石器時代にもたらされたのか、元々朝鮮半島に存在したのか、「縄文人」の形成過程も含めて不明で、今後の古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。しかし、朝鮮半島南端の新石器時代個体のうち、非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃となる安島遺跡個体がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統でモデル化できることから、朝鮮半島には元々前期新石器時代から遼河地域集団と遺伝的に近い集団が存在し、九州から朝鮮半島への「縄文人」の到来は南部に限定されていた可能性が高いように思います。また、主成分分析で示されるように(捕捉図7)、Taejungni個体が現代韓国人と遺伝的には明確に異なることも確かで、古代ゲノムデータの蓄積を俟たねばなりませんが、朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成が紀元前千年紀半ば以降に大きく変わった可能性は高いように思います。以下は本論文の補足図7です。
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 最近の西日本「縄文人」や古墳時代の人類遺骸のゲノム解析結果(関連記事)から、弥生時代の人類集団の「渡来系」の遺伝的要素は青銅器時代西遼河地域集団に近く、古墳時代になると黄河地域集団の影響が強くなる、と指摘されています。この研究は弥生時代の人類を、「縄文人」構成要素の割合が高い長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させているところに疑問が残りますが、その2個体よりも現代日本人にずっと近い福岡県の安徳台遺跡個体と隈・西小田遺跡個体も含めての、ユーラシア東部の包括的な古代ゲノム研究ではどのような結果になるのか、今後の研究の進展が期待されます。また、日本列島の「縄文人」は時空間的に広範に遺伝的には均質だった可能性が高いものの(関連記事)、弥生時代と古墳時代に関しては、時空間的に遺伝的違いが大きいこと(関連記事)も考慮する必要があるでしょう。

 長墓遺跡の先史時代個体群が遺伝的には既知の「縄文人」と一まとまりを形成する、との結果は、先史時代の先島諸島には縄文文化の影響がないと言われていただけに、意外な結果です。本論文も指摘するように、朝鮮半島の欲知島遺跡個体の事例からも、遺伝的な「縄文人」と縄文文化とを直結させることはできなくなりました。もっとも、これは物質文化のことで、言語も含めて精神文化では高い共通性があった、と想定できなくもありませんが、これに反証することはできないとしても、証明することもできず、可能性は高くないように思います。遺伝的な「縄文人」は多様な文化を築き、おそらく縄文時代晩期に北海道の(一部)集団で話されていただろうアイヌ語祖語は、同時代の西日本はもちろん関東の言語ともすでに大きく異なっていたかもしれません。「縄文人」と現代日本人の形成過程にはまだ未解明のところが多く、今後の古代ゲノム研究の進展によりじょじょに解明されていくのではないか、と期待しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


言語学:トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった

 トランスユーラシア語族(日本語、韓国語、ツングース語、モンゴル語、チュルク語からなる)は、約9000年前の中国に起源があり、その普及は農業によって促進された可能性があることを明らかにした論文が、Nature に掲載される。今回の研究は、東ユーラシア言語史における重要な時期について解明を進める上で役立つ。

 トランスユーラシア語族は、東は日本、韓国、シベリアから西はトルコに至るユーラシア大陸全域に広範に分布しているが、この語族の起源と普及については、人口の分散、農業の拡大、言語の分散のそれぞれが議論を複雑化させ、激しい論争になっている。

 今回、Martine Robbeetsたちは、3つの研究分野(歴史言語学、古代DNA研究、考古学)を結集して、トランスユーラシア語族の言語が約9000年前の中国北東部の遼河流域の初期のキビ農家まで辿れることを明らかにした。その後、農民たちが北東アジア全体に移動するにつれて、これらの言語は、北西方向にはシベリアとステップ地域へ、東方向には韓国と日本へ広がったと考えられる。

 トランスユーラシア語族に関しては、もっと最近の紀元前2000〜1000年ごろを起源とし、東部のステップから移動してきた遊牧民が分散を主導したとする「遊牧民仮説」が提唱されているが、今回の知見は、この仮説に疑問を投げ掛けている。


参考文献:
Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8


https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/258.html#c8

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
302. 中川隆[-15332] koaQ7Jey 2021年11月12日 13:07:09 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[20]
雑記帳
2021年11月12日
アジア北東部集団の形成の学際的研究
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html


 アジア北東部集団の形成の学際的研究に関する研究(Nyakatura et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。トランスユーラシア語族、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族の起源と初期の拡散は、ユーラシア人口史の最も論争となっている問題の一つです。重要な問題は、言語拡散と農耕拡大と人口移動との間の関係です。

 本論文は、統一的観点で遺伝学と考古学と言語学を「三角測量」することにより、この問題に取り組みます。本論文は、包括的なトランスユーラシア言語の農耕牧畜および基礎語彙を含む、これらの分野からの広範なデータセットを報告します。その内訳は、アジア北東部の255ヶ所の新石器時代から青銅器時代の遺跡の考古学的データベースと、韓国と琉球諸島と日本の初期穀物農耕民の古代ゲノム回収で、アジア東部からの既知のゲノムを保管します。

 伝統的な「牧畜民仮説」に対して本論文が示すのは、トランスユーラシア言語の共通の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)と主要な拡散が、新石器時代以降のアジア北東部全域の最初の農耕民の移動にたどれるものの、この共有された遺産は青銅器時代以降の広範な文化的相互作用により隠されてきた、ということです。言語学と考古学と遺伝学の個々の分野における顕著な進歩を示しただけではなく、それらの収束する証拠を組み合わせることにより、トランスユーラシア言語話者の拡大は農耕により促進された、と示されます。

 古代DNA配列決定における最近の躍進により、ユーラシア全域におけるヒトと言語と文化の拡大の間のつながりが再考されるようになってきました。しかし、ユーラシア西部(関連記事1および関連記事2)と比較すると、ユーラシア東部はまだよく理解されていません。モンゴル南部(内モンゴル)や黄河や遼河やアムール川流域やロシア極東や朝鮮半島や日本列島を含む広大なアジア北東部は、最近の文献ではとくに過小評価されています。遺伝学にとくに重点を置いている(関連記事1および関連記事2および関連記事3)か、既存のデータセットの再調査に限定されるいくつかの例外を除いて、アジア北東部への真の学際的手法はほとんどありません。

 「アルタイ諸語」としても知られるトランスユーラシア語族は、言語の先史時代で最も議論となっている問題の一つです。トランスユーラシア語族はヨーロッパとアジア北部全域にまたがる地理的に隣接する言語の大規模群を意味し、5つの議論の余地のない語族が含まれ、それは日本語族と朝鮮語族とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です(図1a)。これら5語族が単一の共通祖先から派生したのかどうかという問題は、継承説と借用説の支持者間の長年の主題でした。最近の評価では、多くの共通の特性がじっさいに借用によるものだとしても、それにも関わらず、トランスユーラシア語族を有効な系譜群として分類する信頼できる証拠の核がある、と示されています。

 しかし、この分類を受け入れると、祖先のトランスユーラシア語族話者共同体の時間的深さと場所と文化的帰属意識と拡散経路について、新たな問題が生じます。本論文は、「農耕仮説」を提案することにより、伝統的な「牧畜民仮説」に異議を唱えます。「牧畜民仮説」では、紀元前二千年紀にユーラシア東部草原地帯で始まる遊牧民の拡大を伴う、トランスユーラシア語族の第一次拡散を特定します。一方「農耕仮説」では、「農耕/言語拡散仮説」の範囲にそれらの拡散を位置づけます。これらの問題は言語学をはるかに超えているので、考古学と遺伝学を「三角測量」と呼ばれる単一の手法に統合することで対処されます。


●言語学

 方言や歴史的な違いも含めた、98のユーラシア語族の言語で、254の基本的な語彙概念を表す3193の同語源一式の新たなデータセットが収集されました。ベイズ法の適用により、トランスユーラシア語族の言語の年代のある系統発生が推定されました。その結果、トランスユーラシア語族祖語の分岐年代は最高事後密度(highest posterior density、HPD)95%で12793〜5595年前(9181年前)、アルタイ諸語祖語(テュルク語族とモンゴル語族とツングース語族の祖語)では6811年前(95% HPDで10166〜4404年前)、モンゴル語族とツングース語族では4491年前(95% HPDで6373〜2599年前)、日本語族と朝鮮語族では5458年前(95% HPDで8024〜3335年前)と示唆されました(図1b)。これらの年代は、特定の語族が複数の基本的な亜集団に最初に分岐する時間的深さを推定します。これらの語彙データセットを用いて、トランスユーラシア語族の地理的拡大がモデル化されました。ベイズ系統地理学を適用して、語彙統計学や多様性ホットスポット還俗や文化的再構築などの古典的手法が補完されました。

 アルタイ山脈から黄河や大興安嶺山脈やアムール川流域に及ぶ、以前に提案された起源地とは対照的に、トランスユーラシア語族の起源は前期新石器時代の西遼河地域にある、との裏づけが見つかりました。新石器時代におけるトランスユーラシア語族の最初の分散後、さらなる拡散が後期新石器時代および青銅器時代に起きました。モンゴル語族の祖先はモンゴル高原へと北に広がり、テュルク語族祖語はユーラシア東部草原を越えて西方へと移動し、他の分岐した語族は東方へと移動しました。それは、アムール川とウスリー川とハンカ湖の地域に広がったツングース語族祖語と、朝鮮半島に広がった朝鮮語族祖語と、朝鮮半島および日本列島に広がった日本語族祖語です(図1b)。以下は本論文の図1です。
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 祖語の再構築された語彙で明らかにされた農耕牧畜単語を調べた定性分析を通じて、特定の期間における特定地域の祖先的話者共同体にとって文化的診断となるような項目が、さらに特定されました。祖語の再構築された語彙で明らかにされた農牧民の言葉を調べた定性分析(補足データ5)を通じて、特定の地域の特定の時間における先祖の言語共同体の文化的診断となる項目がさらに特定されました。トランスユーラシア語族祖語やアルタイ諸語祖語やモンゴル語族およびツングース語族祖語や日本語族および朝鮮語族祖語など、新石器時代に分離した共通の祖先語は、耕作(「畑」や「種蒔き」や「植物」や「成長」や「耕作」や「鋤」)、(コメや他の穀類ではない)キビやアワやヒエといった雑穀(「雑穀の種子」や「雑穀の粥」や農家の内庭の「雑穀」)、食糧生産と保存(「発酵」や「臼で引く」や「軟塊に潰す」や「醸造」)、定住を示唆する野生食糧(「クルミ」や「ドングリ」や「クリ」)、織物生産(「縫う」や「織布」や「織機で織る」や「紡ぐ」や「生地の裁断」や「カラムシ」や「アサ」)、家畜化された動物としてのブタやイヌと関連する、継承された単語の小さな核を反映しています。

 対照的に、テュルク語族やモンゴル語族やツングース語族や朝鮮語族や日本語族など青銅器時代に分離した個々の下位語族は、イネやコムギやオオムギの耕作、酪農、ウシやヒツジやウマなどの家畜化された動物、農耕、台所用品、絹など織物に関する新たな生計用語を挿入しました。これらの言葉は、さまざまなトランスユーラシア語族および非トランスユーラシア語族言語を話す青銅器時代人口集団間の言語的相互作用から生じる借用です。要約すると、トランスユーラシア語族の年代と故地と元々の農耕語彙と接触特性は、農耕仮説を裏づけ、牧畜民仮説を除外します。


●考古学

 新石器時代のアジア北東部は広範な植物栽培を特徴としていましたが、穀物農耕が栽培化のいくつかの中心地から拡大し、そのうちトランスユーラシア語族にとって最重要なのが西遼河地域で、キビの栽培が9000年前頃までに始まりました。文献からデータが抽出され、新石器時代および青銅器時代の255ヶ所の遺跡(図2a)の172の考古学的特徴が記録されて、中国北部と極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域と韓国と日本の、直接的に放射性炭素年代測定された初期の作物遺骸269点の目録がまとめられました。

 文化的類似性にしたがって255ヶ所の遺跡がまとまるベイズ分析の主要な結果は、図2bに示されます。西遼河地域の新石器時代文化のまとまりが見つかり、そこから雑穀(キビやアワやヒエ)農耕と関連する二つの分枝が分離します。一方は朝鮮半島の櫛形文(Chulmun)で、もう一方はアムール川とプリモライ地域と遼東半島に及ぶ新石器時代文化です。これは、5500年前頃までの朝鮮半島、および5000年前頃までのアムール川経由でのプリモライ地域への雑穀農耕拡散についての以前の知見を確証します。

 分析の結果、韓国の無文(Mumun)文化および日本の弥生文化遺跡と、西遼河地域の青銅器時代遺跡がまとまりました。これは、紀元前二千年紀に遼東半島および山東半島地域の農耕一括にイネとコムギが追加されたことを反映しています。これらの作物は前期青銅器時代(3300〜2800年前頃)に朝鮮半島に伝わり、3000年前頃以後には朝鮮半島から日本列島へと伝わりました(図2b)。以下は本論文の図2です。
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 人口移動は単形質的な考古学的文化とはつながりませんが、アジア北東部における新石器時代の農耕拡大は、耕作や収穫や織物の技術の石器など、いくつかの診断的特徴と関連していました。動物の家畜化と酪農は、ユーラシア西部では新石器時代の拡大に重要な役割を果たしましたが、本論文のデータでは、イヌとブタを除いて、青銅器時代前のアジア北東部における動物の家畜化の証拠はほとんどありません。農耕と人口移動との間のつながりは、朝鮮半島と西日本との間の土器や石器や家屋および埋葬建築の類似性からとくに明らかです。

 先行研究をふまえて、本論文では研究対象地域全体の雑穀農耕の導入と関連する人口動態の変化が概観されました。手の込んだ水田に投資した水稲農耕民は一ヶ所に留まる傾向にあり、余剰労働力を通じて人口増加を吸収しましたが、雑穀農民は通常、より拡大的な居住パターンを採用しました。新石器時代の人口密度はアジア北東部全域で上昇しましたが、後期新石器時代には人口が激減しました。その後、青銅器時代には中国と朝鮮半島と日本列島で人口が急激に増加しました。


●遺伝学

 本論文は、アムール川地域と朝鮮半島と九州と沖縄の証明された古代人19個体のゲノム分析を報告し、それをユーラシア東部草原地帯と西遼河地域とアムール川地域と黄河地域と遼東半島と山東半島と極東ロシアのプリモライ地域と日本列島にまたがる、9500〜300年前頃の既知の古代人のゲノムと組み合わせました(図3a)。それらはユーラシア現代人149集団とアジア東部現代人45集団の主成分分析に投影されました。図3bでは、主要な古代人集団が5つの遺伝的構成要素の混合としてモデル化されています。その遺伝的構成要素とは、アムール川流域を表すジャライノール(Jalainur)遺跡個体、黄河地域を表す仰韶(Yangshao)文化個体、「縄文人」を表す六通貝塚個体と、黄河流域個体およびアムール川地域個体のゲノムで構成される西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体と夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体です。

 アムール川地域の現代のツングース語とニヴフ語の話者は緊密なまとまりを形成します(関連記事)。バイカル湖とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯の新石器時代狩猟採集民は、西遼河地域やアムール川地域の農耕民とともに、全てこのまとまりの内部に投影されます。黒竜江省チチハル市の昂昂渓(Xiajiadian)区の後期新石器時代遺跡個体は、高いアムール川地域的な祖先系統を示しますが、西遼河地域雑穀農耕民は、経時的に黄河地域集団のゲノムへと前進的に移行するアムール川地域的な祖先系統(関連記事)のかなりの割合を示します(図3b)。

 西遼河地域の前期新石器時代個体のゲノムは欠けていますが、アムール川地域的な祖先系統は、バイカル湖とアムール川地域とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯西遼河地域にまたがる、在来の新石器時代よりも前(もしくは後期旧石器時代)の狩猟採集民の元々の遺伝的特性を表している可能性が高そうで、この地域の初期農耕民において継続しています。これは、モンゴルとアムール川地域の古代人のゲノムにおける黄河地域集団の影響の欠如は、トランスユーラシア語族の西遼河地域の遺伝的相関を裏づけない、と結論付けた最近の遺伝学的研究(関連記事)と矛盾しています。以下は本論文の図3です。
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 主成分分析は、モンゴルの新石器時代個体群が高いアムール川地域祖先系統を有し、青銅器時代から中世にかけて増加するユーラシア西部からの広範な遺伝子流動を伴う、という一般的傾向を示します(関連記事)。テュルク語族話者の匈奴と古ウイグルと突厥の個体がひじょうに散在しているのに対して、モンゴル語族話者の鉄器時代の鮮卑の個体は、室韋(Shiwei)や楼蘭(Rouran)やキタイ(契丹)や古代および中世のモンゴルのハン国よりも、アムール川地域のまとまりの方に近くなっています。

 アムール川地域関連祖先系統は、日本語と朝鮮語の話者へとたどれるので、トランスユーラシア語族の全ての話者に共通する元々の遺伝的構成要素だったようです。韓国の古代人ゲノムの分析により、「縄文人」祖先系統が朝鮮半島に6000年前頃までには存在していた、と明らかになりました(図3b)。朝鮮半島の古代人について近位qpAdmモデル化が示唆するのは、前期新石器時代の安島(Ando)遺跡個体(非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃)がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統に由来するのに対して、同じく前期新石器時代の煙台島(Yŏndaedo)遺跡と長項(Changhang)遺跡個体は高い割合の紅山文化集団関連祖先系統と「縄文人」祖先系統の混合としてモデル化できるものの、煙台島遺跡個体の解像度は限定的でしかない、ということです(図3b)。

 朝鮮半島南岸の欲知島(Yokchido)遺跡個体は、ほぼ95%の「縄文人」関連祖先系統を含んでいます。本論文の遺伝学的分析では、朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡個体(紀元前761〜紀元前541年)のあり得るアジア東部祖先系統を区別できませんが、その年代が青銅器時代であることを考えると、夏家店上層文化関連祖先系統として最もよくモデル化でき、あり得るわずかな「縄文人」祖先系統の混合は統計的に有意ではありません。したがって、現代韓国人への「縄文人」の遺伝的寄与がごくわずかであることに示されるように、新石器時代の朝鮮半島における「縄文人」祖先系統の混成の存在(0〜95%)と、それが時間の経過とともに最終的には消滅した、と観察されます。

 Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素の欠如から、現代韓国人と関連する「縄文人」祖先系統が検出されない初期集団は、稲作農耕との関連で朝鮮半島に移動し、一部の「縄文人」との混合がある集団を置換した、と示唆されますが、限定的な標本規模と網羅率のため、本論文の遺伝データにはこの仮説を検証するだけの解像度はありません。したがって、朝鮮半島への農耕拡大はアムール川地域および黄河地域からの遺伝子流動のさまざまな波と関連づけられ、雑穀農耕の新石器時代の導入は紅山文化集団で、青銅器時代の追加の稲作農耕は夏家店上層文化集団によりモデル化されます。

 本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」について、弥生時代農耕民(ともに弥生時代中期となる、福岡県那珂川市の安徳台遺跡個体と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡個体)はゲノム分析により、在来の「縄文人」祖先系統と青銅器時代の夏家店上層文化関連祖先系統との混合としてモデル化できます(安徳台遺跡個体の方が「縄文人」構成要素の割合は高くなります)。本論文の結果は、青銅器時代における朝鮮半島から日本列島への大規模な移動を裏づけます。

 沖縄県宮古島市の長墓遺跡の個体群のゲノムは、琉球諸島の古代人のゲノム規模データとしては最初の報告となります。完新世人口集団は台湾から琉球諸島人部に到達した、との以前の知見とは対照的に、本論文の結果は、先史時代の長墓遺跡個体群が北方の縄文文化に由来する、と示唆します。近世以前の縄文時代人的祖先系統から弥生時代人的祖先系統への遺伝的置換は、この地域における農耕と琉球諸語の日本列島「本土」と比較しての遅い到来を反映しています。


●考察

 言語学と考古学と遺伝学の証拠の「三角測量」は、トランスユーラシア語族の起源が雑穀農耕の開始とアジア北東部新石器時代のアムール川地域の遺伝子プールにさかのぼれる、と示します。これらの言語の拡大は主要な2段階を含んでおり、それは農耕と遺伝子の拡散を反映しています(図4)。第一段階はトランスユーラシア語族の主要な分岐により表され、前期〜中期新石器時代にさかのぼります。この時、アムール川地域遺伝子と関連する雑穀農耕民が西遼河地域から隣接地域に拡大しました。第二段階は5つの子孫系統間の言語的接触により表され、後期新石器時代と青銅器時代と鉄器時代にさかのぼります。この時、かなりのアムール川地域祖先系統を有する雑穀農耕民は次第に黄河地域関連集団やユーラシア西部集団や「縄文人」集団と混合し、稲作やユーラシア西部の穀物や牧畜が農耕一括に追加されました。以下は本論文の図4です。
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 時空間および生計パターンをまとめると、3分野間の明確な関連性が見つかります。紀元前七千年紀頃の西遼河地域の雑穀栽培の開始は、かなりのアムール川地域祖先系統と関連し、トランスユーラシア語族話者共同体の祖先と時空間で重なっている可能性があります。8000年前頃と推定されるシナ・チベット語族間の最近の関連性(関連記事)と一致して、本論文の結果から、アジア北東部における雑穀栽培化の二つの中心地を、二つの主要な語族、つまり黄河地域のシナ・チベット語族と西遼河地域のトランスユーラシア語族の起源と関連づけられます。トランスユーラシア語族祖語とその話者の遺伝子における黄河地域の影響の証拠の欠如は、植物考古学で示唆されている雑穀栽培の複数の中心的な起源と一致します。

 紀元前七千年紀〜紀元前五千年紀における雑穀農耕の初期段階には人口増加が伴い、西遼河地域における環境的もしくは社会的に分離された下位集団の形成と、アルタイ諸語と日本語族および朝鮮語族の話者間の接続の切断につながります。紀元前四千年紀半ば頃、これら農耕民の一部が黄海から朝鮮半島へと東方へ、プリモライ地域へと北東へ移動を開始し、西遼河地域から、追加のアムール川地域祖先系統をプリモライ地域に、朝鮮半島へアムール川地域と黄河地域の混合祖先系統をもたらしました。本論文で新たに分析された朝鮮半島古代人のゲノムは、日本列島外で「縄文人」関連祖先系統との混合の存在を証明している点で、注目に値します。

 後期青銅器時代には、ユーラシア草原地帯全域で広範な文化交換が見られ、西遼河地域およびユーラシア東部草原地帯の人口集団のユーラシア西部遺伝系統との混合をもたらしました。言語学的には、この相互作用はモンゴル語族祖語およびテュルク語族祖語話者による農耕牧畜語彙の借用に反映されており、とくにコムギとオオムギの栽培や放牧や酪農やウマの利用と関連しています。

 3300年前頃、遼東半島地域と山東半島地域の農耕民が朝鮮半島へと移動し、雑穀農耕にイネとオオムギとコムギを追加しました。この移動は、本論文の朝鮮半島青銅器時代標本では夏家店上層文化集団としてモデル化される遺伝的構成と一致しており、日本語族と朝鮮語族との間の初期の借用に反映されています。それは考古学的には、夏家店上層文化の物質文化にとくに限定されることなく、より大きな遼東半島地域および山東半島地域の農耕と関連しています。

 紀元前千年紀に、この農耕一括は九州へと伝えられ、本格的な農耕への移行と、縄文時代人祖先系統から弥生時代人祖先系統への置換と、日本語族への言語的移行の契機となりました。琉球諸島南部の宮古島の長墓遺跡の独特な標本の追加により、トランスユーラシア語族世界の端に至る農耕/言語拡散をたどれます。南方の宮古島にまで及ぶ「縄文人」祖先系統が証明され、この結果は台湾からのオーストロネシア語族集団の北方への拡大との以前の仮定と矛盾します。朝鮮半島の欲知島遺跡個体で見られる「縄文人」特性と合わせると、本論文の結果は、「縄文人」のゲノムと物質文化が重なるとは限らないことを示します。したがって、古代DNAからの新たな証拠を進めることにより、本論文は日本人集団と韓国人集団が西遼河地域祖先系統を有する、との最近の研究(関連記事)を確証しますが、トランスユーラシア語族の遺伝的相関はない、と主張するその研究とは矛盾します。

 一部の先行研究は、トランスユーラシア語族地帯は農耕に適した地域を越えているとみなしましたが、本論文で確証されたのは、農耕/言語の拡散仮説は、ユーラシア人口集団の拡散の理解にとって依然として重要なモデルである、ということです。言語学と考古学と遺伝学の「三角測量」は、牧畜仮説と農耕仮説との間の競合を解決し、トランスユーラシア語族話者の初期の拡大は農耕により促進された、と結論づけます。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、言語学と考古学と遺伝学の学際的研究により、(言語学には疎いので断定できませんが、おそらくその設定自体が議論になりそうな)トランスユーラシア語族の拡大が初期農耕により促進され、牧畜の導入は拡大後のことだった、と示しました。言語学と考古学はもちろんですが、遺伝学というか古代ゲノム研究はとくに、今後急速な発展が期待できるだけに、本論文の見解も今後、どの程度になるは不明ではあるものの、修正されていくことも考えられます。その意味で、本論文の見解が完新世アジア北東部人口史の大きな枠組みになる、とはまだ断定できないように思います。

 本論文には査読前の公表時点から注目していましたが(関連記事)、私にとって大きく変わった点は、紀元前761〜紀元前541年頃となる朝鮮半島中部西岸のTaejungni個体のゲノムのモデル化です。査読前には、Taejungni個体は高い割合の夏家店上層文化集団構成要素と低い割合の「縄文人」構成要素との混合とモデル化され、現代日本人と類似していましたが、本論文では上述のように、Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素は欠如している、と指摘されています。

 Taejungni個体を根拠に、紀元前千年紀半ば以前の朝鮮半島の人類集団のゲノムには一定以上の「縄文人」構成要素が残っており、夏家店上層文化集団と遺伝的に近い集団が朝鮮半島に到来して在来集団と混合し、現代日本人に近い遺伝的構成の集団が紀元前二千年紀末には朝鮮半島で形成され、その後日本列島へと到来した、と想定していましたが、これは見直さねばなりません。査読前論文に安易に依拠してはいけないな、と反省しています。当然、査読論文にも安易に依拠してはなりませんが。ただ、欲知島遺跡個体の事例から、朝鮮半島南端には少なくとも中期新石器時代まで「縄文人」構成要素でゲノムをモデル化できる個体が存在しており、そうした人々とTaejungni個体と遺伝的に近い集団が混合して形成された現代日本人に近い遺伝的構成の集団が、その後で日本列島に到来した可能性もまだ考えられるように思います。

 朝鮮半島南端の新石器時代人のゲノムの「縄文人」構成要素が、日本列島から新石器時代にもたらされたのか、元々朝鮮半島に存在したのか、「縄文人」の形成過程も含めて不明で、今後の古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。しかし、朝鮮半島南端の新石器時代個体のうち、非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃となる安島遺跡個体がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統でモデル化できることから、朝鮮半島には元々前期新石器時代から遼河地域集団と遺伝的に近い集団が存在し、九州から朝鮮半島への「縄文人」の到来は南部に限定されていた可能性が高いように思います。また、主成分分析で示されるように(捕捉図7)、Taejungni個体が現代韓国人と遺伝的には明確に異なることも確かで、古代ゲノムデータの蓄積を俟たねばなりませんが、朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成が紀元前千年紀半ば以降に大きく変わった可能性は高いように思います。以下は本論文の補足図7です。
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 最近の西日本「縄文人」や古墳時代の人類遺骸のゲノム解析結果(関連記事)から、弥生時代の人類集団の「渡来系」の遺伝的要素は青銅器時代西遼河地域集団に近く、古墳時代になると黄河地域集団の影響が強くなる、と指摘されています。この研究は弥生時代の人類を、「縄文人」構成要素の割合が高い長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させているところに疑問が残りますが、その2個体よりも現代日本人にずっと近い福岡県の安徳台遺跡個体と隈・西小田遺跡個体も含めての、ユーラシア東部の包括的な古代ゲノム研究ではどのような結果になるのか、今後の研究の進展が期待されます。また、日本列島の「縄文人」は時空間的に広範に遺伝的には均質だった可能性が高いものの(関連記事)、弥生時代と古墳時代に関しては、時空間的に遺伝的違いが大きいこと(関連記事)も考慮する必要があるでしょう。

 長墓遺跡の先史時代個体群が遺伝的には既知の「縄文人」と一まとまりを形成する、との結果は、先史時代の先島諸島には縄文文化の影響がないと言われていただけに、意外な結果です。本論文も指摘するように、朝鮮半島の欲知島遺跡個体の事例からも、遺伝的な「縄文人」と縄文文化とを直結させることはできなくなりました。もっとも、これは物質文化のことで、言語も含めて精神文化では高い共通性があった、と想定できなくもありませんが、これに反証することはできないとしても、証明することもできず、可能性は高くないように思います。遺伝的な「縄文人」は多様な文化を築き、おそらく縄文時代晩期に北海道の(一部)集団で話されていただろうアイヌ語祖語は、同時代の西日本はもちろん関東の言語ともすでに大きく異なっていたかもしれません。「縄文人」と現代日本人の形成過程にはまだ未解明のところが多く、今後の古代ゲノム研究の進展によりじょじょに解明されていくのではないか、と期待しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


言語学:トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった

 トランスユーラシア語族(日本語、韓国語、ツングース語、モンゴル語、チュルク語からなる)は、約9000年前の中国に起源があり、その普及は農業によって促進された可能性があることを明らかにした論文が、Nature に掲載される。今回の研究は、東ユーラシア言語史における重要な時期について解明を進める上で役立つ。

 トランスユーラシア語族は、東は日本、韓国、シベリアから西はトルコに至るユーラシア大陸全域に広範に分布しているが、この語族の起源と普及については、人口の分散、農業の拡大、言語の分散のそれぞれが議論を複雑化させ、激しい論争になっている。

 今回、Martine Robbeetsたちは、3つの研究分野(歴史言語学、古代DNA研究、考古学)を結集して、トランスユーラシア語族の言語が約9000年前の中国北東部の遼河流域の初期のキビ農家まで辿れることを明らかにした。その後、農民たちが北東アジア全体に移動するにつれて、これらの言語は、北西方向にはシベリアとステップ地域へ、東方向には韓国と日本へ広がったと考えられる。

 トランスユーラシア語族に関しては、もっと最近の紀元前2000〜1000年ごろを起源とし、東部のステップから移動してきた遊牧民が分散を主導したとする「遊牧民仮説」が提唱されているが、今回の知見は、この仮説に疑問を投げ掛けている。


参考文献:
Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8


https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c302

[近代史5] 中国人の起源 中川隆
15. 中川隆[-15331] koaQ7Jey 2021年11月12日 13:07:46 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[21]
雑記帳
2021年11月12日
アジア北東部集団の形成の学際的研究
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html


 アジア北東部集団の形成の学際的研究に関する研究(Nyakatura et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。トランスユーラシア語族、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族の起源と初期の拡散は、ユーラシア人口史の最も論争となっている問題の一つです。重要な問題は、言語拡散と農耕拡大と人口移動との間の関係です。

 本論文は、統一的観点で遺伝学と考古学と言語学を「三角測量」することにより、この問題に取り組みます。本論文は、包括的なトランスユーラシア言語の農耕牧畜および基礎語彙を含む、これらの分野からの広範なデータセットを報告します。その内訳は、アジア北東部の255ヶ所の新石器時代から青銅器時代の遺跡の考古学的データベースと、韓国と琉球諸島と日本の初期穀物農耕民の古代ゲノム回収で、アジア東部からの既知のゲノムを保管します。

 伝統的な「牧畜民仮説」に対して本論文が示すのは、トランスユーラシア言語の共通の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)と主要な拡散が、新石器時代以降のアジア北東部全域の最初の農耕民の移動にたどれるものの、この共有された遺産は青銅器時代以降の広範な文化的相互作用により隠されてきた、ということです。言語学と考古学と遺伝学の個々の分野における顕著な進歩を示しただけではなく、それらの収束する証拠を組み合わせることにより、トランスユーラシア言語話者の拡大は農耕により促進された、と示されます。

 古代DNA配列決定における最近の躍進により、ユーラシア全域におけるヒトと言語と文化の拡大の間のつながりが再考されるようになってきました。しかし、ユーラシア西部(関連記事1および関連記事2)と比較すると、ユーラシア東部はまだよく理解されていません。モンゴル南部(内モンゴル)や黄河や遼河やアムール川流域やロシア極東や朝鮮半島や日本列島を含む広大なアジア北東部は、最近の文献ではとくに過小評価されています。遺伝学にとくに重点を置いている(関連記事1および関連記事2および関連記事3)か、既存のデータセットの再調査に限定されるいくつかの例外を除いて、アジア北東部への真の学際的手法はほとんどありません。

 「アルタイ諸語」としても知られるトランスユーラシア語族は、言語の先史時代で最も議論となっている問題の一つです。トランスユーラシア語族はヨーロッパとアジア北部全域にまたがる地理的に隣接する言語の大規模群を意味し、5つの議論の余地のない語族が含まれ、それは日本語族と朝鮮語族とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です(図1a)。これら5語族が単一の共通祖先から派生したのかどうかという問題は、継承説と借用説の支持者間の長年の主題でした。最近の評価では、多くの共通の特性がじっさいに借用によるものだとしても、それにも関わらず、トランスユーラシア語族を有効な系譜群として分類する信頼できる証拠の核がある、と示されています。

 しかし、この分類を受け入れると、祖先のトランスユーラシア語族話者共同体の時間的深さと場所と文化的帰属意識と拡散経路について、新たな問題が生じます。本論文は、「農耕仮説」を提案することにより、伝統的な「牧畜民仮説」に異議を唱えます。「牧畜民仮説」では、紀元前二千年紀にユーラシア東部草原地帯で始まる遊牧民の拡大を伴う、トランスユーラシア語族の第一次拡散を特定します。一方「農耕仮説」では、「農耕/言語拡散仮説」の範囲にそれらの拡散を位置づけます。これらの問題は言語学をはるかに超えているので、考古学と遺伝学を「三角測量」と呼ばれる単一の手法に統合することで対処されます。


●言語学

 方言や歴史的な違いも含めた、98のユーラシア語族の言語で、254の基本的な語彙概念を表す3193の同語源一式の新たなデータセットが収集されました。ベイズ法の適用により、トランスユーラシア語族の言語の年代のある系統発生が推定されました。その結果、トランスユーラシア語族祖語の分岐年代は最高事後密度(highest posterior density、HPD)95%で12793〜5595年前(9181年前)、アルタイ諸語祖語(テュルク語族とモンゴル語族とツングース語族の祖語)では6811年前(95% HPDで10166〜4404年前)、モンゴル語族とツングース語族では4491年前(95% HPDで6373〜2599年前)、日本語族と朝鮮語族では5458年前(95% HPDで8024〜3335年前)と示唆されました(図1b)。これらの年代は、特定の語族が複数の基本的な亜集団に最初に分岐する時間的深さを推定します。これらの語彙データセットを用いて、トランスユーラシア語族の地理的拡大がモデル化されました。ベイズ系統地理学を適用して、語彙統計学や多様性ホットスポット還俗や文化的再構築などの古典的手法が補完されました。

 アルタイ山脈から黄河や大興安嶺山脈やアムール川流域に及ぶ、以前に提案された起源地とは対照的に、トランスユーラシア語族の起源は前期新石器時代の西遼河地域にある、との裏づけが見つかりました。新石器時代におけるトランスユーラシア語族の最初の分散後、さらなる拡散が後期新石器時代および青銅器時代に起きました。モンゴル語族の祖先はモンゴル高原へと北に広がり、テュルク語族祖語はユーラシア東部草原を越えて西方へと移動し、他の分岐した語族は東方へと移動しました。それは、アムール川とウスリー川とハンカ湖の地域に広がったツングース語族祖語と、朝鮮半島に広がった朝鮮語族祖語と、朝鮮半島および日本列島に広がった日本語族祖語です(図1b)。以下は本論文の図1です。
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 祖語の再構築された語彙で明らかにされた農耕牧畜単語を調べた定性分析を通じて、特定の期間における特定地域の祖先的話者共同体にとって文化的診断となるような項目が、さらに特定されました。祖語の再構築された語彙で明らかにされた農牧民の言葉を調べた定性分析(補足データ5)を通じて、特定の地域の特定の時間における先祖の言語共同体の文化的診断となる項目がさらに特定されました。トランスユーラシア語族祖語やアルタイ諸語祖語やモンゴル語族およびツングース語族祖語や日本語族および朝鮮語族祖語など、新石器時代に分離した共通の祖先語は、耕作(「畑」や「種蒔き」や「植物」や「成長」や「耕作」や「鋤」)、(コメや他の穀類ではない)キビやアワやヒエといった雑穀(「雑穀の種子」や「雑穀の粥」や農家の内庭の「雑穀」)、食糧生産と保存(「発酵」や「臼で引く」や「軟塊に潰す」や「醸造」)、定住を示唆する野生食糧(「クルミ」や「ドングリ」や「クリ」)、織物生産(「縫う」や「織布」や「織機で織る」や「紡ぐ」や「生地の裁断」や「カラムシ」や「アサ」)、家畜化された動物としてのブタやイヌと関連する、継承された単語の小さな核を反映しています。

 対照的に、テュルク語族やモンゴル語族やツングース語族や朝鮮語族や日本語族など青銅器時代に分離した個々の下位語族は、イネやコムギやオオムギの耕作、酪農、ウシやヒツジやウマなどの家畜化された動物、農耕、台所用品、絹など織物に関する新たな生計用語を挿入しました。これらの言葉は、さまざまなトランスユーラシア語族および非トランスユーラシア語族言語を話す青銅器時代人口集団間の言語的相互作用から生じる借用です。要約すると、トランスユーラシア語族の年代と故地と元々の農耕語彙と接触特性は、農耕仮説を裏づけ、牧畜民仮説を除外します。


●考古学

 新石器時代のアジア北東部は広範な植物栽培を特徴としていましたが、穀物農耕が栽培化のいくつかの中心地から拡大し、そのうちトランスユーラシア語族にとって最重要なのが西遼河地域で、キビの栽培が9000年前頃までに始まりました。文献からデータが抽出され、新石器時代および青銅器時代の255ヶ所の遺跡(図2a)の172の考古学的特徴が記録されて、中国北部と極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域と韓国と日本の、直接的に放射性炭素年代測定された初期の作物遺骸269点の目録がまとめられました。

 文化的類似性にしたがって255ヶ所の遺跡がまとまるベイズ分析の主要な結果は、図2bに示されます。西遼河地域の新石器時代文化のまとまりが見つかり、そこから雑穀(キビやアワやヒエ)農耕と関連する二つの分枝が分離します。一方は朝鮮半島の櫛形文(Chulmun)で、もう一方はアムール川とプリモライ地域と遼東半島に及ぶ新石器時代文化です。これは、5500年前頃までの朝鮮半島、および5000年前頃までのアムール川経由でのプリモライ地域への雑穀農耕拡散についての以前の知見を確証します。

 分析の結果、韓国の無文(Mumun)文化および日本の弥生文化遺跡と、西遼河地域の青銅器時代遺跡がまとまりました。これは、紀元前二千年紀に遼東半島および山東半島地域の農耕一括にイネとコムギが追加されたことを反映しています。これらの作物は前期青銅器時代(3300〜2800年前頃)に朝鮮半島に伝わり、3000年前頃以後には朝鮮半島から日本列島へと伝わりました(図2b)。以下は本論文の図2です。
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 人口移動は単形質的な考古学的文化とはつながりませんが、アジア北東部における新石器時代の農耕拡大は、耕作や収穫や織物の技術の石器など、いくつかの診断的特徴と関連していました。動物の家畜化と酪農は、ユーラシア西部では新石器時代の拡大に重要な役割を果たしましたが、本論文のデータでは、イヌとブタを除いて、青銅器時代前のアジア北東部における動物の家畜化の証拠はほとんどありません。農耕と人口移動との間のつながりは、朝鮮半島と西日本との間の土器や石器や家屋および埋葬建築の類似性からとくに明らかです。

 先行研究をふまえて、本論文では研究対象地域全体の雑穀農耕の導入と関連する人口動態の変化が概観されました。手の込んだ水田に投資した水稲農耕民は一ヶ所に留まる傾向にあり、余剰労働力を通じて人口増加を吸収しましたが、雑穀農民は通常、より拡大的な居住パターンを採用しました。新石器時代の人口密度はアジア北東部全域で上昇しましたが、後期新石器時代には人口が激減しました。その後、青銅器時代には中国と朝鮮半島と日本列島で人口が急激に増加しました。


●遺伝学

 本論文は、アムール川地域と朝鮮半島と九州と沖縄の証明された古代人19個体のゲノム分析を報告し、それをユーラシア東部草原地帯と西遼河地域とアムール川地域と黄河地域と遼東半島と山東半島と極東ロシアのプリモライ地域と日本列島にまたがる、9500〜300年前頃の既知の古代人のゲノムと組み合わせました(図3a)。それらはユーラシア現代人149集団とアジア東部現代人45集団の主成分分析に投影されました。図3bでは、主要な古代人集団が5つの遺伝的構成要素の混合としてモデル化されています。その遺伝的構成要素とは、アムール川流域を表すジャライノール(Jalainur)遺跡個体、黄河地域を表す仰韶(Yangshao)文化個体、「縄文人」を表す六通貝塚個体と、黄河流域個体およびアムール川地域個体のゲノムで構成される西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体と夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体です。

 アムール川地域の現代のツングース語とニヴフ語の話者は緊密なまとまりを形成します(関連記事)。バイカル湖とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯の新石器時代狩猟採集民は、西遼河地域やアムール川地域の農耕民とともに、全てこのまとまりの内部に投影されます。黒竜江省チチハル市の昂昂渓(Xiajiadian)区の後期新石器時代遺跡個体は、高いアムール川地域的な祖先系統を示しますが、西遼河地域雑穀農耕民は、経時的に黄河地域集団のゲノムへと前進的に移行するアムール川地域的な祖先系統(関連記事)のかなりの割合を示します(図3b)。

 西遼河地域の前期新石器時代個体のゲノムは欠けていますが、アムール川地域的な祖先系統は、バイカル湖とアムール川地域とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯西遼河地域にまたがる、在来の新石器時代よりも前(もしくは後期旧石器時代)の狩猟採集民の元々の遺伝的特性を表している可能性が高そうで、この地域の初期農耕民において継続しています。これは、モンゴルとアムール川地域の古代人のゲノムにおける黄河地域集団の影響の欠如は、トランスユーラシア語族の西遼河地域の遺伝的相関を裏づけない、と結論付けた最近の遺伝学的研究(関連記事)と矛盾しています。以下は本論文の図3です。
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 主成分分析は、モンゴルの新石器時代個体群が高いアムール川地域祖先系統を有し、青銅器時代から中世にかけて増加するユーラシア西部からの広範な遺伝子流動を伴う、という一般的傾向を示します(関連記事)。テュルク語族話者の匈奴と古ウイグルと突厥の個体がひじょうに散在しているのに対して、モンゴル語族話者の鉄器時代の鮮卑の個体は、室韋(Shiwei)や楼蘭(Rouran)やキタイ(契丹)や古代および中世のモンゴルのハン国よりも、アムール川地域のまとまりの方に近くなっています。

 アムール川地域関連祖先系統は、日本語と朝鮮語の話者へとたどれるので、トランスユーラシア語族の全ての話者に共通する元々の遺伝的構成要素だったようです。韓国の古代人ゲノムの分析により、「縄文人」祖先系統が朝鮮半島に6000年前頃までには存在していた、と明らかになりました(図3b)。朝鮮半島の古代人について近位qpAdmモデル化が示唆するのは、前期新石器時代の安島(Ando)遺跡個体(非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃)がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統に由来するのに対して、同じく前期新石器時代の煙台島(Yŏndaedo)遺跡と長項(Changhang)遺跡個体は高い割合の紅山文化集団関連祖先系統と「縄文人」祖先系統の混合としてモデル化できるものの、煙台島遺跡個体の解像度は限定的でしかない、ということです(図3b)。

 朝鮮半島南岸の欲知島(Yokchido)遺跡個体は、ほぼ95%の「縄文人」関連祖先系統を含んでいます。本論文の遺伝学的分析では、朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡個体(紀元前761〜紀元前541年)のあり得るアジア東部祖先系統を区別できませんが、その年代が青銅器時代であることを考えると、夏家店上層文化関連祖先系統として最もよくモデル化でき、あり得るわずかな「縄文人」祖先系統の混合は統計的に有意ではありません。したがって、現代韓国人への「縄文人」の遺伝的寄与がごくわずかであることに示されるように、新石器時代の朝鮮半島における「縄文人」祖先系統の混成の存在(0〜95%)と、それが時間の経過とともに最終的には消滅した、と観察されます。

 Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素の欠如から、現代韓国人と関連する「縄文人」祖先系統が検出されない初期集団は、稲作農耕との関連で朝鮮半島に移動し、一部の「縄文人」との混合がある集団を置換した、と示唆されますが、限定的な標本規模と網羅率のため、本論文の遺伝データにはこの仮説を検証するだけの解像度はありません。したがって、朝鮮半島への農耕拡大はアムール川地域および黄河地域からの遺伝子流動のさまざまな波と関連づけられ、雑穀農耕の新石器時代の導入は紅山文化集団で、青銅器時代の追加の稲作農耕は夏家店上層文化集団によりモデル化されます。

 本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」について、弥生時代農耕民(ともに弥生時代中期となる、福岡県那珂川市の安徳台遺跡個体と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡個体)はゲノム分析により、在来の「縄文人」祖先系統と青銅器時代の夏家店上層文化関連祖先系統との混合としてモデル化できます(安徳台遺跡個体の方が「縄文人」構成要素の割合は高くなります)。本論文の結果は、青銅器時代における朝鮮半島から日本列島への大規模な移動を裏づけます。

 沖縄県宮古島市の長墓遺跡の個体群のゲノムは、琉球諸島の古代人のゲノム規模データとしては最初の報告となります。完新世人口集団は台湾から琉球諸島人部に到達した、との以前の知見とは対照的に、本論文の結果は、先史時代の長墓遺跡個体群が北方の縄文文化に由来する、と示唆します。近世以前の縄文時代人的祖先系統から弥生時代人的祖先系統への遺伝的置換は、この地域における農耕と琉球諸語の日本列島「本土」と比較しての遅い到来を反映しています。


●考察

 言語学と考古学と遺伝学の証拠の「三角測量」は、トランスユーラシア語族の起源が雑穀農耕の開始とアジア北東部新石器時代のアムール川地域の遺伝子プールにさかのぼれる、と示します。これらの言語の拡大は主要な2段階を含んでおり、それは農耕と遺伝子の拡散を反映しています(図4)。第一段階はトランスユーラシア語族の主要な分岐により表され、前期〜中期新石器時代にさかのぼります。この時、アムール川地域遺伝子と関連する雑穀農耕民が西遼河地域から隣接地域に拡大しました。第二段階は5つの子孫系統間の言語的接触により表され、後期新石器時代と青銅器時代と鉄器時代にさかのぼります。この時、かなりのアムール川地域祖先系統を有する雑穀農耕民は次第に黄河地域関連集団やユーラシア西部集団や「縄文人」集団と混合し、稲作やユーラシア西部の穀物や牧畜が農耕一括に追加されました。以下は本論文の図4です。
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 時空間および生計パターンをまとめると、3分野間の明確な関連性が見つかります。紀元前七千年紀頃の西遼河地域の雑穀栽培の開始は、かなりのアムール川地域祖先系統と関連し、トランスユーラシア語族話者共同体の祖先と時空間で重なっている可能性があります。8000年前頃と推定されるシナ・チベット語族間の最近の関連性(関連記事)と一致して、本論文の結果から、アジア北東部における雑穀栽培化の二つの中心地を、二つの主要な語族、つまり黄河地域のシナ・チベット語族と西遼河地域のトランスユーラシア語族の起源と関連づけられます。トランスユーラシア語族祖語とその話者の遺伝子における黄河地域の影響の証拠の欠如は、植物考古学で示唆されている雑穀栽培の複数の中心的な起源と一致します。

 紀元前七千年紀〜紀元前五千年紀における雑穀農耕の初期段階には人口増加が伴い、西遼河地域における環境的もしくは社会的に分離された下位集団の形成と、アルタイ諸語と日本語族および朝鮮語族の話者間の接続の切断につながります。紀元前四千年紀半ば頃、これら農耕民の一部が黄海から朝鮮半島へと東方へ、プリモライ地域へと北東へ移動を開始し、西遼河地域から、追加のアムール川地域祖先系統をプリモライ地域に、朝鮮半島へアムール川地域と黄河地域の混合祖先系統をもたらしました。本論文で新たに分析された朝鮮半島古代人のゲノムは、日本列島外で「縄文人」関連祖先系統との混合の存在を証明している点で、注目に値します。

 後期青銅器時代には、ユーラシア草原地帯全域で広範な文化交換が見られ、西遼河地域およびユーラシア東部草原地帯の人口集団のユーラシア西部遺伝系統との混合をもたらしました。言語学的には、この相互作用はモンゴル語族祖語およびテュルク語族祖語話者による農耕牧畜語彙の借用に反映されており、とくにコムギとオオムギの栽培や放牧や酪農やウマの利用と関連しています。

 3300年前頃、遼東半島地域と山東半島地域の農耕民が朝鮮半島へと移動し、雑穀農耕にイネとオオムギとコムギを追加しました。この移動は、本論文の朝鮮半島青銅器時代標本では夏家店上層文化集団としてモデル化される遺伝的構成と一致しており、日本語族と朝鮮語族との間の初期の借用に反映されています。それは考古学的には、夏家店上層文化の物質文化にとくに限定されることなく、より大きな遼東半島地域および山東半島地域の農耕と関連しています。

 紀元前千年紀に、この農耕一括は九州へと伝えられ、本格的な農耕への移行と、縄文時代人祖先系統から弥生時代人祖先系統への置換と、日本語族への言語的移行の契機となりました。琉球諸島南部の宮古島の長墓遺跡の独特な標本の追加により、トランスユーラシア語族世界の端に至る農耕/言語拡散をたどれます。南方の宮古島にまで及ぶ「縄文人」祖先系統が証明され、この結果は台湾からのオーストロネシア語族集団の北方への拡大との以前の仮定と矛盾します。朝鮮半島の欲知島遺跡個体で見られる「縄文人」特性と合わせると、本論文の結果は、「縄文人」のゲノムと物質文化が重なるとは限らないことを示します。したがって、古代DNAからの新たな証拠を進めることにより、本論文は日本人集団と韓国人集団が西遼河地域祖先系統を有する、との最近の研究(関連記事)を確証しますが、トランスユーラシア語族の遺伝的相関はない、と主張するその研究とは矛盾します。

 一部の先行研究は、トランスユーラシア語族地帯は農耕に適した地域を越えているとみなしましたが、本論文で確証されたのは、農耕/言語の拡散仮説は、ユーラシア人口集団の拡散の理解にとって依然として重要なモデルである、ということです。言語学と考古学と遺伝学の「三角測量」は、牧畜仮説と農耕仮説との間の競合を解決し、トランスユーラシア語族話者の初期の拡大は農耕により促進された、と結論づけます。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、言語学と考古学と遺伝学の学際的研究により、(言語学には疎いので断定できませんが、おそらくその設定自体が議論になりそうな)トランスユーラシア語族の拡大が初期農耕により促進され、牧畜の導入は拡大後のことだった、と示しました。言語学と考古学はもちろんですが、遺伝学というか古代ゲノム研究はとくに、今後急速な発展が期待できるだけに、本論文の見解も今後、どの程度になるは不明ではあるものの、修正されていくことも考えられます。その意味で、本論文の見解が完新世アジア北東部人口史の大きな枠組みになる、とはまだ断定できないように思います。

 本論文には査読前の公表時点から注目していましたが(関連記事)、私にとって大きく変わった点は、紀元前761〜紀元前541年頃となる朝鮮半島中部西岸のTaejungni個体のゲノムのモデル化です。査読前には、Taejungni個体は高い割合の夏家店上層文化集団構成要素と低い割合の「縄文人」構成要素との混合とモデル化され、現代日本人と類似していましたが、本論文では上述のように、Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素は欠如している、と指摘されています。

 Taejungni個体を根拠に、紀元前千年紀半ば以前の朝鮮半島の人類集団のゲノムには一定以上の「縄文人」構成要素が残っており、夏家店上層文化集団と遺伝的に近い集団が朝鮮半島に到来して在来集団と混合し、現代日本人に近い遺伝的構成の集団が紀元前二千年紀末には朝鮮半島で形成され、その後日本列島へと到来した、と想定していましたが、これは見直さねばなりません。査読前論文に安易に依拠してはいけないな、と反省しています。当然、査読論文にも安易に依拠してはなりませんが。ただ、欲知島遺跡個体の事例から、朝鮮半島南端には少なくとも中期新石器時代まで「縄文人」構成要素でゲノムをモデル化できる個体が存在しており、そうした人々とTaejungni個体と遺伝的に近い集団が混合して形成された現代日本人に近い遺伝的構成の集団が、その後で日本列島に到来した可能性もまだ考えられるように思います。

 朝鮮半島南端の新石器時代人のゲノムの「縄文人」構成要素が、日本列島から新石器時代にもたらされたのか、元々朝鮮半島に存在したのか、「縄文人」の形成過程も含めて不明で、今後の古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。しかし、朝鮮半島南端の新石器時代個体のうち、非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃となる安島遺跡個体がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統でモデル化できることから、朝鮮半島には元々前期新石器時代から遼河地域集団と遺伝的に近い集団が存在し、九州から朝鮮半島への「縄文人」の到来は南部に限定されていた可能性が高いように思います。また、主成分分析で示されるように(捕捉図7)、Taejungni個体が現代韓国人と遺伝的には明確に異なることも確かで、古代ゲノムデータの蓄積を俟たねばなりませんが、朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成が紀元前千年紀半ば以降に大きく変わった可能性は高いように思います。以下は本論文の補足図7です。
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 最近の西日本「縄文人」や古墳時代の人類遺骸のゲノム解析結果(関連記事)から、弥生時代の人類集団の「渡来系」の遺伝的要素は青銅器時代西遼河地域集団に近く、古墳時代になると黄河地域集団の影響が強くなる、と指摘されています。この研究は弥生時代の人類を、「縄文人」構成要素の割合が高い長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させているところに疑問が残りますが、その2個体よりも現代日本人にずっと近い福岡県の安徳台遺跡個体と隈・西小田遺跡個体も含めての、ユーラシア東部の包括的な古代ゲノム研究ではどのような結果になるのか、今後の研究の進展が期待されます。また、日本列島の「縄文人」は時空間的に広範に遺伝的には均質だった可能性が高いものの(関連記事)、弥生時代と古墳時代に関しては、時空間的に遺伝的違いが大きいこと(関連記事)も考慮する必要があるでしょう。

 長墓遺跡の先史時代個体群が遺伝的には既知の「縄文人」と一まとまりを形成する、との結果は、先史時代の先島諸島には縄文文化の影響がないと言われていただけに、意外な結果です。本論文も指摘するように、朝鮮半島の欲知島遺跡個体の事例からも、遺伝的な「縄文人」と縄文文化とを直結させることはできなくなりました。もっとも、これは物質文化のことで、言語も含めて精神文化では高い共通性があった、と想定できなくもありませんが、これに反証することはできないとしても、証明することもできず、可能性は高くないように思います。遺伝的な「縄文人」は多様な文化を築き、おそらく縄文時代晩期に北海道の(一部)集団で話されていただろうアイヌ語祖語は、同時代の西日本はもちろん関東の言語ともすでに大きく異なっていたかもしれません。「縄文人」と現代日本人の形成過程にはまだ未解明のところが多く、今後の古代ゲノム研究の進展によりじょじょに解明されていくのではないか、と期待しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


言語学:トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった

 トランスユーラシア語族(日本語、韓国語、ツングース語、モンゴル語、チュルク語からなる)は、約9000年前の中国に起源があり、その普及は農業によって促進された可能性があることを明らかにした論文が、Nature に掲載される。今回の研究は、東ユーラシア言語史における重要な時期について解明を進める上で役立つ。

 トランスユーラシア語族は、東は日本、韓国、シベリアから西はトルコに至るユーラシア大陸全域に広範に分布しているが、この語族の起源と普及については、人口の分散、農業の拡大、言語の分散のそれぞれが議論を複雑化させ、激しい論争になっている。

 今回、Martine Robbeetsたちは、3つの研究分野(歴史言語学、古代DNA研究、考古学)を結集して、トランスユーラシア語族の言語が約9000年前の中国北東部の遼河流域の初期のキビ農家まで辿れることを明らかにした。その後、農民たちが北東アジア全体に移動するにつれて、これらの言語は、北西方向にはシベリアとステップ地域へ、東方向には韓国と日本へ広がったと考えられる。

 トランスユーラシア語族に関しては、もっと最近の紀元前2000〜1000年ごろを起源とし、東部のステップから移動してきた遊牧民が分散を主導したとする「遊牧民仮説」が提唱されているが、今回の知見は、この仮説に疑問を投げ掛けている。


参考文献:
Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8


https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/272.html#c15

[リバイバル3] ムツゴロウの黒い噂 と 伝説の御蔵入りインタビューなど 中川隆
18. 中川隆[-15330] koaQ7Jey 2021年11月12日 13:23:35 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[22]
「今は犬1頭と猫1匹だけ…」借金3億を背負って「動物王国」を閉園したムツゴロウさん(86)が辿り着いた“北海道のログハウス生活”「今は自分が生きていくだけでやっとです」
ムツゴロウさんインタビュー♯1
「文春オンライン」
https://bunshun.jp/articles/-/49896


 動物が登場する番組はテレビでもYouTubeでも鉄板の一大ジャンルだが、その元祖と言えば“ムツゴロウ”こと畑正憲さん(86)だろう。


この記事の画像(78枚)
https://bunshun.jp/articles/photo/49896?


 ライオンの頭を無防備になで、ワニの口に笑顔で頭を入れる。ライオンに右手の中指を食べられてもまったく懲りる気配すらない。“動物愛”という枠を大きくはみ出した畑さんの生き方は日本中を魅了した。1980年に始まった「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」はあっという間に人気番組になり、平均視聴率は20%に迫った。

 しかしTVシリーズは2001年に終了し、2000年代後半には北海道の中標津から東京のあきる野市に移転した「ムツゴロウ動物王国」も閉園。3億円とも言われる巨大な借金を抱えたが、それもあふれるバイタリティで完済し、現在は40年前に移り住んだ北海道の中標津にある大自然に囲まれたログハウスで生活している。


 トレードマークの黒ブチ眼鏡にやさしい声の“ムツゴロウ”さんは、ゆっくり椅子に腰掛けると、煙草を一服しながら破天荒な人生について語り始めた。(全3回の1回目/#2、#3を読む)



現在は大型犬1頭と猫1匹と一緒に生活
ムツゴロウ よくこんなところまで来てくれましたね。東京からですか? 家族以外の方と話すのも久しぶりですよ。もう隠し事もありませんから、何でも聞いてください。年のせいか、すぐに忘れちゃうこともありますけどね(笑)。

――今日はお時間いただきありがとうございます。お元気そうで安心しました。

ムツゴロウ あ、僕はタバコをたくさん吸いますのでそれだけは勘弁してくださいね。フィンランドから運んだヨーロッパアカマツでこの家を作るときもね、タバコの煙が抜けるように作ったんですよ。

フィンランドから運んだヨーロッパアカマツで建てたログキャビンハウス
フィンランドから運んだヨーロッパアカマツで建てたログキャビンハウス
――素敵なログキャビンハウスですね。そして中標津も初めてきました。

ムツゴロウ もう引っ越してきて40年くらいになりますけど、広くて、川が流れていて、馬が喜んで草を食べるところがいいなと思って選びました。広さはわからんのですけど、100万坪くらいだと思います。それと来る時に、道に梨がいっぱい落ちていたでしょう? 森や川は動物の食べ物を作ってくれるんです。時々、この家にもエゾリスやモモンガが来て窓を叩きますよ。気がついたら食べ物をあげたりして、そんな付き合いをしています。

――今はどんな動物たちと生活しているんですか。

ムツゴロウ 一緒に家で暮らしているのは、大型犬のルナと猫のマヤだけです。今は年を取ってね、自分の手で飼えるだけ。1頭と1匹で精一杯です。あとはすぐ近くの(ムツ)牧場に数頭の馬がいますが、自分が生きていくだけでやっとです。


「僕は男5人兄弟の3番めで、一番上と一番下が戦争で死にました」
――ムツゴロウさんと動物の関係は一番最初はどうやって始まったんでしょう。

ムツゴロウ 僕は1935年に福岡で生まれたんですけど、戦争中に医者だった父に連れられて開拓団として満州に移りましてね、満州で住んでいた家は周りを見渡しても何もないところで、昼間はオオカミの遠吠えが聞こえるし、キジやハトがいくらでも獲れました。ナマズやフナを僕が釣って帰ると、おかずになるからって家族に喜ばれましたね。それが動物との最初の出会いでした。

ムツゴロウさんの家で一緒に暮らす猫のマヤ
ムツゴロウさんの家で一緒に暮らす猫のマヤ
――戦争の記憶と結びついているのですね。


ムツゴロウ 僕は男5人兄弟の3番めで、一番上と一番下が戦争で死にました。当時は日本の幼年学校に入らないと日本軍の大将になれないので、父親が兄を幼年学校に通わせるために、僕も一緒に小学校2年の終わりくらいに日本に送り返されました。帰ってきてから兄貴は必死で勉強してましたけど僕は野放しで、母の本ばかり読んでいました。バルザックとかプーシキンの小説が好きでしたね。漢字も大体覚えてしまって、新聞を読んでいる祖父に「正憲、これはなんて読むんだ」と呼ばれる役目でした。そうこうしているうちに戦争は終わっていましたね。



――野放しとは言いますが、大分県立日田高校から東京大学の理学部へ入られています。

ムツゴロウ 親は医者になれとうるさかったんだけど、僕は医者になる気はまったくなかったんですよ(笑)。当時は東大の理科2類から医学部に行くこともできたので、それで親を説得しました。でも大学では医者になる勉強はせず、アメーバの研究に没頭してました。自分の血を抜いて白血球を取り出してね。アメーバってあらゆる動物の命のもとなんですよ。

会社員時代は犬1頭さえ飼っていなかった
――大学卒業後は会社員生活を経て、36歳の時に「動物との共存」を求めて北海道へ移住されました。23歳で結婚されて、36歳の時には娘さんも生まれていたと思うんですが、その決断はどうやってしたのでしょう。

60年以上連れ添った妻・畑純子さんとムツゴロウさん
60年以上連れ添った妻・畑純子さんとムツゴロウさん
ムツゴロウ 女房と結婚したのは大学を出てすぐでしたね。女房とは中学2年生の時からの付き合いで、娘ができたので安定した仕事をしなければならないと思って、学研という出版社に就職しました。僕は誰もいない土地が好きで毎年夏になるたびに、家族旅行はスキー場へ1週間とか2週間とか行っていました。夏は誰もいませんからね(笑)。そのスキー場である出来事があって、移住を考えるようになりました。

――どういうことでしょう?

ムツゴロウ 一緒に山を歩いていた時に、3歳の娘が虫に刺されて泣いたことがありました。それを見て、僕は自然にかこまれたところで育ったけれど子供たちが自然からずいぶん離れていることに気づいてショックをウケたんです。東京での生活自体を変えないといけない、自然を身に浴びて生活しないと、心が育たない部分があるんじゃないかと思ったんです。会社員時代は生活にヒーヒー言っている状態、家には犬一頭さえ飼っていませんでした。


500匹以上の動物と40人のスタッフ
――36歳だった1971年に北海道の嶮暮帰島へ移住、次の1972年には浜中町に「ムツゴロウ動物王国」ができています。

ムツゴロウ 無人島で人間がいないところで生活しつつ、浜中町の土地を借りて道産馬などの日本古来の馬の繁殖をしようというのが当初の計画でした。それがいつのまにか犬や猫、牛や馬に鶏などの動物がどんどん増えていって、気づけば500匹以上の動物と、世話をする40人のスタッフという大所帯の奇妙な共同生活が始まりました。

自宅の壁に飾られた絵や賞状たち
自宅の壁に飾られた絵や賞状たち
――生活資金は大丈夫だったのでしょうか。


ムツゴロウ 出版社にいた会社員の時は手取り10万円くらいで何とか食べていける暮らしでしたが、会社を辞める数年前くらいから他の会社から執筆の仕事依頼が増えました。それである程度の生計が立てられるようになったので、北海道へ渡っても執筆の仕事でやりくりできました。

今も原稿は手書き。消しゴムはほとんど使わないという
今も原稿は手書き。消しゴムはほとんど使わないという
「僕のすべてをぶつけます、手加減しませんよ」
――そして1980年に「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」が始まります。きっかけは何だったんですか?

ムツゴロウ 北海道に引っ越してからもエッセイなどを書いていたので東京のマスコミの人とはつながりはありました。「ゆかいな仲間たち」の始まりは、後にフジテレビの社長になる日枝久さんと新橋でご飯を食べていた時に「誰も行ったことがないような場所へ行って思う存分動物と触れ合いたい」という話を僕がしたんです。そうしたら日枝さんがいきなり立ち上がって、僕の手を握りながら「畑さんそれやりましょう」と盛り上がったんですね。「僕のすべてをぶつけます、手加減しませんよ」と宣言はしていたんですけど、番組スタッフの方には「大丈夫? 野生動物だから一歩間違えたら死んじゃうよ」ってずいぶん心配されましたね(笑)。

ライオンに食べられて中指がなくなった右手でタバコを吸う様も堂に入っている
ライオンに食べられて中指がなくなった右手でタバコを吸う様も堂に入っている
――「ゆかいな仲間たち」は、ムツゴロウさんとゾウが触れ合っていたりとまさに手加減なしでした。台本などは当然なかったということですよね。

ムツゴロウ 相手は野生動物ですからね(笑)。番組のスタッフにも「事前に動物についての説明をしないでほしい」とお願いしていました。前もって動物を馴らしておいたり、なんなら前日に餌をあげておけば簡単に仲のいいシーンが撮りやすいかもしれないけど、僕はそれはやりたくない。とにかく僕と動物が会った初見の場面を見てもらいたかったんです。


野生動物相手でも、撮影の打合せは一切なし
――危険なことや予想外のこともあったのではないですか?

ムツゴロウ もちろん危ないこともあるんですけど、それ以上に僕が残念に思っていたのは、僕と動物の物語が始まる“最初”の肝心な部分を、カメラマンが撮れないこと。ただそれも仕方なくて、僕が動物のどこに触って何を話すかを打ち合わせしていなかったので、カメラマンもどう撮っていいかわからなかったんでしょう。



――自分がカメラマンだったと想像しても、野生動物の動きも予想できませんしムツゴロウさんの動きも読める気がしません。


ムツゴロウ 例えば、35年前に動物園から野生に戻ったゾウと会うとするじゃないですか。そういう時僕は、ゾウの前に立って一度全身の力を抜くんです。そして呼吸を読まれないように、何も言わないし何も動かないようにする。すると最初は警戒してたゾウが、「何だろ」って近づいて来るんです。それに僕も「どうした?」って応じて、そこからスキンシップが始まる。そのお互いの呼吸を撮りたかったんですけど、ほとんど実現しませんでしたね。

――それでも事前にスタッフに説明することはしなかったんですね。

ムツゴロウ それを伝えると嘘になるからです。事前に動きや性質を説明して狙って撮ってしまったら、小学校の理科の本のようになっちゃう。それじゃダメだと思ってたんですよ。



 そのぶっつけ本番のスタイルは、撮影中にライオンに襲われて中指を食べられる、という衝撃の事件を引き起こしてしまう。しかしムツゴロウさんは、それをまるで何事もなかったように、楽しそうな表情で話しだした。(♯2につづく)

https://bunshun.jp/articles/-/49896?page=4
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/621.html#c18

[リバイバル3] ムツゴロウの黒い噂 と 伝説の御蔵入りインタビューなど 中川隆
19. 中川隆[-15329] koaQ7Jey 2021年11月12日 13:26:52 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[23]
「よし、指1本やるから勘弁しろ」ムツゴロウさんがライオンに中指を食べられても、ギャングに囲まれても相手を恨まない理由
ムツゴロウさんインタビュー ♯2
「文春オンライン」
https://bunshun.jp/articles/-/49897


 ライオン、オオカミ、ワニなど世界中の猛獣から大型犬に子猫まで、ムツゴロウさんと触れ合った動物たちは不思議と心を開いていく。1980年に始まった「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」(フジテレビ系)は最高視聴率30.2%を記録し、生きた野生動物の姿を多くの日本人が知るきっかけになった。


この記事の画像(70枚)
https://bunshun.jp/articles/photo/49897?


 しかし相手は本物の野生動物たち。ゾウなどと触れ合ってムツゴロウさんが怪我することも一度や二度ではなく、2000年にはブラジルでライオンに右手中指を食いちぎられている。

 一見するとほのぼのした動物番組である「ゆかいな仲間たち」を支えていた、ムツゴロウさんのストイックすぎる撮影哲学。その現場で起きていた出来事を、ムツゴロウさんは楽しそうに語りだした。(全3回の2回目/#1、#3を読む)


一番怖かったのは「やっぱり人間」
――21年間続いた「ゆかいな仲間たち」の中で、特に印象に残っているものはありますか?

ムツゴロウ 一番怖かったのはやっぱり人間ですね。1982年頃、ライオンやゾウに会いに南アフリカのケープタウンへ行った時でした。ホテルの向かいにある銀行へ両替に行こうと思ってホテルのスタッフに治安を聞いたら「ダイジョウブ、ダイジョウブ」という答え。それで出かけたら、あっという間に屈強な6人組に囲まれました。



――南アフリカの治安について「ダイジョウブ」というイメージはありませんね……。

ムツゴロウ 僕らを囲んだ6人組はみんなナイフを持っていました。でもよく見ると、自分にナイフを突きつけている毛深い手が、ブルブル震えてるんですよ。それで僕は、男たちにわからないように日本語で同行者と「やってやろう。ケガしたらその時だ」と相談して、1、2、3とタイミングを合わせて大声で「コノヤローーー!」って叫んだんです。そしたら向こうが逃げました(笑)。


――良い子には真似してほしくない対応です(笑)。

ムツゴロウ でもね、一緒に囲まれたプロデュ―サーが車で犯人を捜してやるって怒ってたんですけど、それは止めたんです。生まれた国は貧富の差が激しくて、そこへ僕らみたいなのが来たら襲う気持ちだってわかるから。それに僕らが警察に通報したら、彼らはその国でさらに生きづらくなってしまうでしょう。


ライオンに「あとで遊ぼうな」
――人間以外の動物だといかがでしょう? 怪我だけでも、1990年にはアメリカでワニに引き込まれて左耳の内耳損傷の大手術、1999年にはアフリカのナミビアでライオンに首を噛まれ、2000年にはブラジルでライオンに右手中指を食いちぎられる大ケガを負っています。



ムツゴロウ 僕の中指を食ったライオンは大きなオスでね。「人に慣れていないから危ない」ってみんな言ってたんだけど、僕はひと目見て大丈夫そうだと思っていました。それで鉄製の檻の側までいったら、思った通り僕の顔を触ったり舐めたりする。ライオンがここまでやるのは慣れたも同然ですから心が通じたと思って「オマエ、いい子じゃないか。あとで遊ぼうな」って声をかけていました。でもその瞬間に僕の背後で人が急に動いて、それでライオンが驚いちゃったんですね。

――それでどうなったのでしょう。


ムツゴロウ ライオンが急に檻に向かってドーンとぶつかってきて、檻に掛けていた僕の右手の人差し指、中指、薬指がライオンの口の中に入ってしまったんです。3本も取られたら文字が書けなくて困るなと思って、指を抜こうとしてもライオンは口の力が強いから当然抜けない。「オマエ、引っ張るなよ」って言っても離さないんで「よし、指1本やるから勘弁しろ」って右手をすっと引き抜きました。そしたら中指だけなかったんです。すぐに病院へ行きましたけど、繋がりませんでした。

画材で埋め尽くされたアトリエ。ここに籠って絵を描く日も多い
画材で埋め尽くされたアトリエ。ここに籠って絵を描く日も多い
ライオンはそういう生き物だから
――怪我をしても動物が怖くなったりはしないんですか?

ムツゴロウ 後でライオンには「オマエ、やってくれたなー」って言いましたけど、怖くなったり恨んだりはしていませんね。指を檻にかけていた人間が悪いんですから。

――ムツゴロウさんが指を噛まれて血を流しているシーンがテレビで放送されたのも衝撃でした。

ムツゴロウ お蔵入りになりかけましたけど、お願いして放送してもらいましたよ。だってライオンはそういう生き物じゃないですか。



――そのライオンの事故から半年後の2001年3月に、「ゆかいな仲間たち」シリーズは21年の歴史に幕を下ろしました。番組終了はどのような経緯だったのでしょうか。

ムツゴロウ 一番は僕の体力的な問題でした。ガラパゴス諸島で海に潜った時に、昔は素潜りで40mはいけたのに20mくらいで息が切れたんです。翌日に挑戦しても30mが限界で、自分の衰えを感じました。日本に帰ってから考えこんじゃって、「僕はもう向かないんじゃないかと思います」と自分から番組の終了を提案しました。


「トイレまで撮りにくるの?」
――「ゆかいな仲間たち」ではムツゴロウ動物王国や自宅でのシーンも多く登場していましたが、常に撮影スタッフに囲まれていたのですか?

ムツゴロウ 牛の出産や緊急の時にカメラマンが来て、撮影をしていました。番組が始まった頃は僕もカメラを向けられることに慣れていなくて、どうしても固くなっちゃうとカメラマンに相談したら、「じゃあずっと回しっぱなしにしましょう」と言われて、スタッフが長時間、家にいて撮影するようになりました。どんなロケよりも、1人になれないことが一番つらかったですね。

1983年頃、40代のムツゴロウさん
1983年頃、40代のムツゴロウさん
――人間だらけの東京を避けて北海道へ来たのに、また囲まれてしまったのですね。


ムツゴロウ 本当にずっと撮るもんだから「トイレまで撮りにくるの?」って皮肉を言ったこともあります。でも何年かしたら僕も慣れてきてね、動物を世話していてもカメラの向きを気にするようになっちゃった(笑)。一緒に出ているタレントさんが動物に夢中になっている時も「カメラこっちだよ」って引っ張ったりしてね。

――テレビに出て有名になったことで生活も変わったのではないですか?

ムツゴロウ もう1回目からすごい反響でビックリしましたよ。東京を歩いてるとどこでも声をかけられるようになっちゃって、しかも僕は人と話すこと自体は好きだから、つい話しこんでしまう。それでちょっとした距離を移動するのに3、4時間かかったりして、スタッフに注意されました。

1990年頃、シベリアンハスキーたちを優しく眺めるムツゴロウさん
1990年頃、シベリアンハスキーたちを優しく眺めるムツゴロウさん
「動物を数で数えるな」
――全盛期で、動物王国にはどれくらいの動物がいたんでしょう。

ムツゴロウ それはよくわからんのです。取材に来た人はみんな「動物は何匹ですか?」って聞くんですけど、「そんなこと僕が知るか!」って答えてました(笑)。飼えなくなった犬を連れてきて置いていこうとする人も多くて、僕はそういうのは断っていたんだけどスタッフが勝手に引き取っちゃうこともあってね。「動物を数で数えるな」というのが僕の教えでしたから、しょうがない部分もありますけど。

――住み込みのスタッフの方も多くいたんですよね。

ムツゴロウ 動物もですけど、人間も正確に何人いたかはよくわからないんですよね。生活を捨てて北海道にたどり着いた人がいついちゃったり、弟子にしてくれと言って来たり、いろんな人がいましたから。食事はみんなで一緒にしていましたけど、見慣れない顔だなと思って「最近来た人?」と声をかけたら「3年前からいます」なんてこともありました。

――どんな人が多かったんですか?

ムツゴロウ 僕が来てほしかったのは、馬なら馬に潜り込んじゃうような人。好きになった動物と一緒に寝て、一緒に食事をして、家の中にも連れてきて、出掛ける時も連れて回るような人が現れないかなと思ってたんですよ。でもそんな根性のある人は1人もいなくてね。だから僕に“弟子”は1人もいないんです。

――ムツゴロウさんにとって、動物と人間の間に線はあるのですか?

ムツゴロウ 人間について「同じ仲間」という意識はあります。だから僕はどんな動物でも食べるけれど、人間だけは食べないことにしてるんです。もちろん「食べたらどうなるんだろう」と考えることはありますよ。でも、それは神に反するおそれ多いことでしょう。


残ったのは3億円の借金だけ
――「ゆかいな仲間たち」が終わってから3年後の2004年7月に、ムツゴロウ王国は北海道の中標津から東京のあきるの市の「東京サマーランド」の中に移転しました。動物やスタッフもほとんどが東京へ移転しましたが、ムツゴロウさんは北海道の自宅に残りました。どういう経緯だったのでしょう。

ムツゴロウ ムツゴロウ王国を東京で運営したいと、運営会社の人が話を持ってきました。それで僕は「スタッフのみんながOKならそれでいいよ」と言ったんです。「ムツゴロウさんも東京に来て住んでほしい」と言われたけど、行ったら自分が展示物になっちゃうなと思って断りました。1週間に1度くらいは顔を出していましたけどね。

――しかし東京に移った「ムツゴロウ動物王国」は、開園からわずか2年で運営会社が破綻し、賃料や従業員の給料が滞納される事態も起きました。


ムツゴロウ 結局、「ムツゴロウ」という名前と動物やスタッフを欲しかっただけなんでしょうね。僕はグッズのお金も一銭ももらってないし、残ったのは3億円の借金だけ。追剥ぎにあったような気分です。

どこへ行くにもムツゴロウさんの傍を離れないルナ
どこへ行くにもムツゴロウさんの傍を離れないルナ
――運営会社などについて思うところはあるのですか?

ムツゴロウ 恨んでもお金が返ってくるわけではないですからね。

――最終的に、2007年11月に東京の動物王国は閉園しました。犬と猫が合わせて約150匹、馬が十数頭はどこへ行ったのでしょう。

ムツゴロウ 犬や猫は王国の動物でしたが、東京ムツゴロウ動物王国でも夜はスタッフがそれぞれ自分の犬、猫として数匹ずつ自宅で世話をしていました。閉園になって、動物たちはそのままスタッフが引き取ってくれました。しかし、北海道のムツ牧場に帰って来た馬の姿を見た時は、あまりにやせ衰えていて涙が出ました。僕はいくら貧乏な時でも、あんな風に馬を痩せさせたことはない。僕の牧場に放牧してしばらくすると、まるまると元気に太って安心しました。東京では一体何を食べさせていたんでしょうね……。

動物の番組はまったく見ない
ムツ牧場には今も多くの馬が放牧されている
ムツ牧場には今も多くの馬が放牧されている
――「ムツゴロウ王国」は無くなってしまいましたが、近年また動物を扱うテレビ番組が増えています。坂上忍さんの「坂上どうぶつ王国」という番組も人気です。

ムツゴロウ 2018年に始まる時に、坂上さん本人が「どうぶつ王国」と付けてもいいですかって訪ねて来たので、勝手にどうぞとお伝えしました。僕の特許でもないですからね。

――番組をご覧になることはありますか。

ムツゴロウ 坂上さんの番組に限らず、動物の番組はまったく見ませんね。それは、自分の理想と違うから。僕にとっての理想は、“動物たちのありのままを受け止める”ことですよ。彼らのことを知りたいと思ったら、一緒に寝て、一緒に暮らすこと。けど、そんな風に作っている番組は1つもないでしょう。もし観たら1シーンずつぶつぶつ文句を言いそうで、それはつまらんじゃないですか(笑)。

妻の純子さんとは結婚して60年以上になる
妻の純子さんとは結婚して60年以上になる

 ムツゴロウさんの人生には、動物王国の建国、東京進出の失敗など数多くの大勝負と借金が何度も登場する。芸能界最強とも名高い麻雀や競馬、パチンコなどギャンブルとの関わりも深い。その“勝負師”としての顔は今も健在だった。(#3につづく)

https://bunshun.jp/articles/-/49897?page=4
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/621.html#c19

[リバイバル3] ムツゴロウの黒い噂 と 伝説の御蔵入りインタビューなど 中川隆
20. 中川隆[-15328] koaQ7Jey 2021年11月12日 13:30:51 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[24]
「このムツゴロウが徹マンで負けた記録がありますか」ムツゴロウさんが語るギャンブルへの愛と、独特すぎる金銭感覚
ムツゴロウさんインタビュー♯3
「文春オンライン」特集班
https://bunshun.jp/articles/-/49898


 動物学者で小説家、エッセイストでもあるムツゴロウさん。86歳となった“ゆかいな動物たちの父”の人生には、常に勝負事があった。勝つ時があれば負ける時があるのも勝負事の常。ムツゴロウさんも人生で2度、巨大な借金を抱えている。北海道の自宅で奥様と暮らしながら、病と懸命に闘っていた。


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https://bunshun.jp/articles/photo/49898?


――ムツゴロウさんといえば動物のイメージが強いですが、作家、起業、ギャンブルと“勝負師”の印象も強くあります。ムツゴロウさんの金銭感覚や勝負事についての考え方をお聞きしたいのですが。

ムツゴロウ 作家は小さい頃からの夢でね。学生時代も「ご飯より本を食べる」と友達によく言われるくらい本が好きでした。サラリーマンだった1967年に出した「われら動物みな兄弟」が賞をもらって、それから色々書くようになりました。でも動物王国を作る時は餌代や広大な土地にフェンスなども作らなきゃいけないので、会社からの給料と本のお金では全然足りなくて銀行から相当な借金をしましたよ。


――ムツゴロウさんのエッセイには、借金生活もよく登場しますよね。

ムツゴロウ だってライオンに中指を食べられた時に真っ先に心配したのは、鉛筆が持てなくて原稿が書けなかったら借金を返せなくなるんじゃないか、ということでしたから(笑)。でもすぐに左手を添えて書く方法を練習して、締め切りは1回も破りませんでしたよ。

中指のない右手を、左手で支えて文字を書く
中指のない右手を、左手で支えて文字を書く
「何でも買っていいよ」
――「ゆかいな仲間たち」が全盛期だった80年代や90年代はテレビも景気が良い時代でしたが。

ムツゴロウ テレビ局にはずいぶん助けてもらって、おおいに感謝してます。値段は言えませんけどね(笑)。景気もよくて、一度フジテレビの日枝(久)さんに「何でも買っていいよ」と言われたことがあって、その時はエルメスの鞍を買ってもらいました。ただエルメスの鞍が想像よりもあまりに高くてフジテレビの予算を超えてしまって、残りは自分で出しました。その鞍は今でも宝物です。


――ムツゴロウさんにとって、お金ってどういうものなんですか?

ムツゴロウ あまり将来のお金の心配はしない方ですね。僕はきれいな湿原や森を見ると、つい買ってしまうんです。自然とは言いますがいい状態で保存するにはお金がかかる。でも放っておいたらその景色は無くなってしまう。それなら借金してでも自分で買って、なんとかその自然を守りたい。後からもちろん苦労はしますけど、でもそれは僕にとってはしょうがないことなんですよ。


「命懸けの瞬間が好きなんですよ」
――その金銭感覚は、ギャンブルへの情熱とも通じていそうです。

ムツゴロウ ギャンブルは大好きですね。僕は、どうなるかわからない命懸けの瞬間が好きなんですよ。たとえば競馬なら10万円くらいの馬券を買って、胸のポケットに入れてレースを見るんです。その馬が勝って500万円くらいになれば、もうしばらく競馬ができる。それを考えたら、頭がパーっとなるんですよ。



――ムツゴロウさんの馬を見る目はすごそうです。


ムツゴロウ 競馬の話をすると「いくら勝ったんですか?」と聞く人はよくいるけど、そんなことはどうだっていいんですよ。もっと大切なことが競馬にはあるんです。

――どういうことでしょう?

ムツゴロウ 自分が賭けた馬が負けたとするじゃないですか。そうしたら、どうして1着に来なかったかを考えるんです。それを知るために自分で馬を育てて、調教して、自分で乗って草競馬に出る。それで負けたらまた調教をし直す。それを何度もやらなきゃ馬のことはわかりません。第4コーナーを抜けて直線の端に立ったときのね、胸が開いていくような感激と嬉しさはちょっと他のものでは味わえませんよ。

ムツゴロウさんの視線は時に鋭い
ムツゴロウさんの視線は時に鋭い
「お金があるならいくらでも勝負してやる」
――「見る、賭ける」と「乗る」がつながっているんですね。ギャンブルと言えば、ムツゴロウさんは日本プロ麻雀連盟の最高顧問も務められています。

ムツゴロウ 麻雀は兄貴の影響で高校2年生から始めました。30代の頃は麻雀に明け暮れていましたね。もう50年前だから時効だと思いますけど、大晦日と正月をまたいで10日間連続で打ち続けたこともありました。

――それはすさまじいです。当時はもう結婚されていましたよね?

ムツゴロウ 12月28日に雀荘に入って、寝ないで打ち続けていたら財布がどんどん厚くなっていってね。でも負けはじめると今度は薄くなっていく。そういう増減がおもしろかったんですよ。「お金があるならいくらでも勝負してやる」なんて言いながら打ち続けて、結局1月7日に11日ぶりに家に帰ったのかな。家のドアを開けたら女房に「テメー何してるんだよ!」って怒鳴られましたよ(笑)。僕は「すみません、すみません」って謝りっぱなしでした。



――「雀聖」と呼ばれる阿佐田哲也氏との勝負も伝説になっています。

ムツゴロウ 阿佐田哲也さんは人の悪口を絶対に言わない人でね、一緒に打つのは楽しかったですよ。40代くらいの頃は北海道から東京へ出てくる時にホテルオークラを定宿にしていたんですが、ホテルに到着するといつも阿佐田さんから「今晩どうですか」って電話が来るんです。「今、東京に着いたばかりですよ」と言っても、「いいじゃないですか。今晩やりましょう」って。

――阿佐田氏との勝負はどうだったんですか。

ムツゴロウ 僕が阿佐田さんに負けたという記録はどこかに残っていますか? ないでしょう。このムツゴロウが徹マンで誰かに負けたという記録を持っている人がいたら見せてもらいたいものですね(笑)。動物の原理に比べれば、麻雀の原理なんて大したことありません。僕は会社の給料袋だって、封を切らずにそのまま女房に渡してたんですよ。自分のお金はギャンブルで稼ぐって決めてましたから。


病院で喫煙をナースに怒られた
――今は雀荘も減りました。タバコもお好きだと思いますが、吸える場所はずいぶん減りましたよね。愛煙家のムツゴロウさんにとってはいかがですか。



ムツゴロウ 僕は喫煙歴60年を超えてますからね、困ったもんだなと思ってます。覚えたのは大学生の頃で、渋谷にできた東急百貨店の2階に洋モクを置いてるタバコ売り場ができまして、それを1本ずつ味わいながら吸いましたね。今はタバコが目の敵にされることが多くって、いっそこんな世の中なら早いことおさらばしようかと思う時さえありますよ(笑)。

――心臓の病気などもされていますが、禁煙しようと思われたことはあるのですか?


ムツゴロウ ありませんね。82歳でドクターヘリで搬送されて入院したときも、病室の窓から上半身を外側に乗り出してタバコを吸っていたらすぐにナースが飛んできて、僕は「上半身は病院の外だよ」って説明したけど通じなくて怒られました。今度同じことをしたら病院を出ていってください、とね。



「死」っていう言葉は口にしないように
――大怪我や重病などを何度も経験されているムツゴロウさんですが、「死」について考えることはあるんですか。

ムツゴロウ 「死」っていう言葉は口にしないように、心に鍵をかけて辛抱していたんですけど、最近は考えるようになりました。年を取るのは辛いもので、何ひとつ自分の思った通りにはできなくなるんです。最近は「僕が死んだら」とか平気で言ってしまって、心が弱くなったのかもしれません。でもあの世に行く前に、僕の経験したことを全部話しておきたい気持ちが強くて、それでYouTubeもはじめたし、絵を描いたりこうしてお話ししたりしてるんです。



――YouTubeの「ムツゴロウの656」拝見しています。

ムツゴロウ 656はムツゴロウの語呂合わせなんですけど、全656回かけて自分の体験したことを全部話そうと思ってるんです。でもまだ46回(11月10日現在)ですから、すぐには死ねません(笑)。家の周りを散歩したりして、自分の体や血液を鍛え直しているところです。

――ムツゴロウさんは今もエッセイを書かれたり、11月1日からは銀座で絵の個展「ムツゴロウ世界をまわる」も開催されるなど発信を続けています。どんなことを「話しておきたい」と感じているのですか?


ムツゴロウ 僕はね、動物でも人間でも命と付きあっていると、互いに何か伝わるものがあるんじゃないかと思っているんですよ。自分のありのままの命とも、もう少し付きあってみようと思ってます。

https://bunshun.jp/articles/-/49898?page=3
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/621.html#c20

[近代史5] 琉球人の起源と歴史 中川隆
1. 2021年11月12日 15:26:05 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[26]
宮古島の先史人は北方の縄文系 DNA100%一致、従来の「南方説」覆す 英ネイチャー誌論文
2021年11月12日

宮古島市の長墓遺跡周辺の発掘調査で出土した人骨=2008年7月

 宮古島市平良島尻の長墓遺跡周辺から出土した先史時代の人骨と、日本の縄文時代の人骨はDNAのゲノム(全遺伝情報)が100%一致するとの結果を含む研究論文を、ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に沖縄を含む日本や韓国、中国、米国などの研究者42人が共著で11日までにまとめた。従来、宮古島の先史時代の人々はフィリピンや台湾など南から渡ってきたとする「南方説」が有力だった。今回のゲノム解析結果は沖縄島など北から渡ってきた可能性を示しており、今後の研究の進展が注目される。

 論文名は「トランスユーラシア言語が農耕と共に新石器時代に拡散した―歴史言語学、考古学と遺伝子の学際的研究成果」。日本語、琉球語、朝鮮語、モンゴル語などを使う人々の移動経路を研究し、英科学誌ネイチャーで発表した。

 長墓遺跡は2005年から発掘調査を実施して、先史時代の人骨や装飾品などが見つかった。出土した人骨のDNAを解析し、今回の論文にまとめた。

 論文は新石器時代に中国の西遼河地域でキビやアワを栽培した農耕民を起源に、農耕や言語が朝鮮、九州を経て沖縄へ伝わったことを想定する。論文共著者の鹿児島大学国際島嶼教育研究センターの高宮広土教授=那覇市出身=は「琉球列島の方言と人の起源が明らかになり、農耕の変遷時期も分かった。人骨や農耕による穀類などデータをさらに蓄積することも必要だ」と指摘した。

 同じく共著者で、宮古島市教育委員会文化財係の久貝弥嗣さんは「宮古の先史時代の人骨をDNA分析したことはなかった。日本の遺跡から出た人骨のDNAと比べる新しい視点が入ってきたことは大事なことだ」と指摘した。

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1422520.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/608.html#c1

[近代史5] 琉球人の起源 中川隆
6. 中川隆[-15326] koaQ7Jey 2021年11月12日 15:26:51 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[27]
宮古島の先史人は北方の縄文系 DNA100%一致、従来の「南方説」覆す 英ネイチャー誌論文
2021年11月12日
宮古島市の長墓遺跡周辺の発掘調査で出土した人骨=2008年7月

 宮古島市平良島尻の長墓遺跡周辺から出土した先史時代の人骨と、日本の縄文時代の人骨はDNAのゲノム(全遺伝情報)が100%一致するとの結果を含む研究論文を、ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に沖縄を含む日本や韓国、中国、米国などの研究者42人が共著で11日までにまとめた。従来、宮古島の先史時代の人々はフィリピンや台湾など南から渡ってきたとする「南方説」が有力だった。今回のゲノム解析結果は沖縄島など北から渡ってきた可能性を示しており、今後の研究の進展が注目される。

 論文名は「トランスユーラシア言語が農耕と共に新石器時代に拡散した―歴史言語学、考古学と遺伝子の学際的研究成果」。日本語、琉球語、朝鮮語、モンゴル語などを使う人々の移動経路を研究し、英科学誌ネイチャーで発表した。

 長墓遺跡は2005年から発掘調査を実施して、先史時代の人骨や装飾品などが見つかった。出土した人骨のDNAを解析し、今回の論文にまとめた。

 論文は新石器時代に中国の西遼河地域でキビやアワを栽培した農耕民を起源に、農耕や言語が朝鮮、九州を経て沖縄へ伝わったことを想定する。論文共著者の鹿児島大学国際島嶼教育研究センターの高宮広土教授=那覇市出身=は「琉球列島の方言と人の起源が明らかになり、農耕の変遷時期も分かった。人骨や農耕による穀類などデータをさらに蓄積することも必要だ」と指摘した。

 同じく共著者で、宮古島市教育委員会文化財係の久貝弥嗣さんは「宮古の先史時代の人骨をDNA分析したことはなかった。日本の遺跡から出た人骨のDNAと比べる新しい視点が入ってきたことは大事なことだ」と指摘した。

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1422520.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/199.html#c6

[近代史3] 琉球人は沖縄の先住民なのか? 中川隆
10. 中川隆[-15325] koaQ7Jey 2021年11月12日 15:27:15 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[28]
宮古島の先史人は北方の縄文系 DNA100%一致、従来の「南方説」覆す 英ネイチャー誌論文
2021年11月12日
宮古島市の長墓遺跡周辺の発掘調査で出土した人骨=2008年7月

 宮古島市平良島尻の長墓遺跡周辺から出土した先史時代の人骨と、日本の縄文時代の人骨はDNAのゲノム(全遺伝情報)が100%一致するとの結果を含む研究論文を、ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に沖縄を含む日本や韓国、中国、米国などの研究者42人が共著で11日までにまとめた。従来、宮古島の先史時代の人々はフィリピンや台湾など南から渡ってきたとする「南方説」が有力だった。今回のゲノム解析結果は沖縄島など北から渡ってきた可能性を示しており、今後の研究の進展が注目される。

 論文名は「トランスユーラシア言語が農耕と共に新石器時代に拡散した―歴史言語学、考古学と遺伝子の学際的研究成果」。日本語、琉球語、朝鮮語、モンゴル語などを使う人々の移動経路を研究し、英科学誌ネイチャーで発表した。

 長墓遺跡は2005年から発掘調査を実施して、先史時代の人骨や装飾品などが見つかった。出土した人骨のDNAを解析し、今回の論文にまとめた。

 論文は新石器時代に中国の西遼河地域でキビやアワを栽培した農耕民を起源に、農耕や言語が朝鮮、九州を経て沖縄へ伝わったことを想定する。論文共著者の鹿児島大学国際島嶼教育研究センターの高宮広土教授=那覇市出身=は「琉球列島の方言と人の起源が明らかになり、農耕の変遷時期も分かった。人骨や農耕による穀類などデータをさらに蓄積することも必要だ」と指摘した。

 同じく共著者で、宮古島市教育委員会文化財係の久貝弥嗣さんは「宮古の先史時代の人骨をDNA分析したことはなかった。日本の遺跡から出た人骨のDNAと比べる新しい視点が入ってきたことは大事なことだ」と指摘した。

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1422520.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/704.html#c10

[近代史7] 絶世の美女 ダグニー・ユールを描いたエドヴァルド・ムンク『マドンナ』 中川隆
4. 中川隆[-15324] koaQ7Jey 2021年11月12日 15:57:13 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[29]
名画の見られる日本の美術館
ムンク『マドンナ』
2017.12.13
https://paradjanov.biz/japan/art/111/

Munch_madonna
https://paradjanov.biz/japan/art/111/

Title:マドンナ
Artist:エドゥアルド・ムンク
Date:1895-1902年
Dimensions:66.5×44.2cm
Medium:リトグラフ
Collection:大原美術館

作品解説
『マドンナ』は、ベルリンの「黒豚亭」という居酒屋に集まるグループのミューズ的な存在であったダグニー・ユールがモデルです。ノルウェーの首相一族であるダグニーは、その美貌と奔放な言動でグループのメンバーの憧れの的でした。

ダグニー・ユール
https://paradjanov.biz/japan/art/111/


ムンクはダグニーに想いを寄せていましたが、ダグニーはグループのメンバーのブシビシェフスキーと結婚します。夫がいても奔放な生活をしていたダグニーは、後に愛人であるロシアの青年に撃たれて死ぬことになります。

ムンクは『マドンナ』というタイトルの作品を1893年頃から多数制作しましたが、これらの作品に描かれた女性は「マドンナ」=聖母のイメージとは程遠いものです。

左隅の胎児と周囲を縁取る精子や、女性の恍惚とした表情から、生・性がテーマのようでありながら、死を感じさせる不吉な雰囲気もたたえています。

女性を美の対象として神聖化する一方、男性を誘惑して破滅に導く「ファム・ファタール」と捉えていたムンクの女性観が色濃く反映されています。

https://paradjanov.biz/japan/art/111/
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/388.html#c4

[近代史7] 絶世の美女 ダグニー・ユールを描いたエドヴァルド・ムンク『マドンナ』 中川隆
5. 中川隆[-15323] koaQ7Jey 2021年11月12日 16:06:34 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[30]
ダグニー・ユール Dagny Juel - 画像
https://www.bing.com/images/search?q=Dagny+Juel&form=HDRSC2&first=1&tsc=ImageBasicHover

ダグニー・ユール・プシビシェフスカ
https://en.wikipedia.org/wiki/Dagny_Juel


ダグニー・ユール・プシビシェフスカ‎‎‎(1867年6月8日-1901年6月5日)は、様々な著名な芸術家との連絡で有名な‎‎ノルウェー‎‎の作家であり、彼女の死の劇的な状況で有名でした。

彼女は‎‎エドヴァルド・ムンク‎‎の絵画の‎‎モデル‎‎でした。彼女はムンクと関係を持ち、‎‎スウェーデンの‎‎劇作家で画家の‎‎アウグスト・ストリンドバーグ‎‎と簡単に関係を持っていました。

1893年、彼女はポーランドの作家‎‎スタニスワフ・ブシビシェフスキと‎‎結婚しました。一緒に彼らは2人の子供を持っていました。彼女は34歳の誕生日の3日前の1901年にジョージア州‎‎トビリシ‎‎のホテルの部屋で撃たれました。‎


‎内容‎
1 ‎家族の背景‎
2 ‎早期教育‎
3 ‎エアフルトとオスロ‎
4 ‎ベルリン‎
5 ‎結婚‎
6 ‎放棄と死‎
7 ‎作品‎
8 ‎本や映画で‎
9 ‎参照‎
10 ‎ソース‎
11 ‎さらに読む‎
12 ‎外部リンク‎


‎家族の背景‎
‎ダニーはノルウェーの‎‎コングスビンガー‎‎で生まれ、ハンス・レムミッヒ・ジュエル博士と妻のミンディ(ネ・ブレア)の4人の娘の2番目です。若い女性としてダニーは彼女の名前のスペルを「ジュエル」から「ジュエル」に変更しました。一番上の姉、グドゥンは美しく自信を持っていました。ダニーは2番目に生まれました。3人目の生まれは1年しか生きていない息子のハンス・レムミッヒでした。その後、未婚のままで母親と一緒にいた無効なアストリッドが来ました。そして最後に、ダニーに最も近いラグンヒルドがいて、やがて有名な‎‎オペラ‎‎歌手になりました。‎

‎早期教育‎
‎ダニーの初期の教育は、コングスヴィンガーに女の子のための私立学校を設立した‎‎アンナ・スタン‎‎によって手に取られました。スタングはノルウェーにおける‎‎女性の権利‎‎を主張する最初の一人であり、‎‎初期のフェミニズム‎‎において積極的な力を持っていた。ダニーは1875年に勉強を始め、6年後に中学校入学試験を修了しました。数年間、自然、歴史、地理学、数学、英語、ドイツ語、ノルウェー語などの科目を学びました。彼女の結果は、彼女が勤勉な学生だったことを示しています。‎

‎エアフルトとオスロ‎
‎確認の2日後の1882年11月3日、彼女は‎‎エアフルト‎‎で音楽を学ぶためにヨーロッパに向けて出発した。1890年1月、ダニーと妹のラグンヒルトは‎‎オスロ‎‎(当時はクリスティアニアと名付けられた)に移り、研究を続けました。そこでダニーは、都市の‎‎ボヘミアン‎‎な生活に関与するようになりました。彼女は2月と3月に作家‎‎のヒャルマール・クリステンセン‎‎と短い関係を築いた。‎‎おそらくクリスティアニアで、彼女は画家‎‎エドヴァルド・ムンク‎‎と密接な関係を始めました.‎‎[‎‎引用が必要‎‎]‎

‎ベルリン‎
‎ダニーは、ベルリンの芸術家連合が彼の作品の11月の展覧会を上演するために彼を招待した後、おそらく彼女が1892年の秋にそこに旅行したムンクと一緒にいることができるという理由で、ベルリンで彼女の研究を続けることを選びました。展覧会の結果として生じたスキャンダルは、ムンクをベルリンで注目すべき人物にし、彼はそこにとどまることに決めました。‎

‎ダニーは1893年3月8日にベルリン‎‎のバーツム・シュワルツェン・フェルケル‎‎に初めて出席しました。そこで彼女は‎‎アウグスト・ストリンドバーグに‎‎会った。ストリンドバーグと彼の友人は彼女に「‎‎アスアジア‎‎」というニックネームを付けました。彼女はストリンドバーグと短い関係(約3週間)を過ごしました。‎‎アドルフ・ポール‎‎も彼女の美しさで撮影されました。彼女は様々なスカンジナビアのアーティストをモデルにし、一時期ムンクのミューズでした。彼女はほぼ確実にムンクの絵画‎‎嫉妬‎‎のモデルです.‎

‎結婚‎

‎ジュエルとブシビシェフスキ
ブシビシェフスキキは,共通の妻マーサ・フォアダーとその2人の子供(1892年2月と11月に生まれた)を残し,1893年8月18日にダニーと結婚しました。プシビシェフスキとダニーには2人の子供が生まれ,ダニーと結婚している間,もう一人の子供をマーサと父親にしました(この第3子は1895年2月6日に生まれました)。マーサは1896年6月9日に自宅で死亡しているのが見つかり、プシビシェフスキは殺人の容疑で逮捕されたが、2週間刑務所で過ごした後、彼女が一酸化炭素による中毒で死亡したと判断され、ほぼ確実に自殺したと判断され、釈放された。ダニーの著作のいくつかの生き残った断片は、彼女が3分の1の死を引き起こしている2人の恋人のテーマに戻ることを示しています。‎


‎彼女の息子ゼノンとダニー・ジュエル‎
‎ダニーはマーサの3人の母親のいない子供を育てることを拒否しました。実際、ダニーは愛する母親ですが、自分の2人の子供(1895年9月28日に生まれたゼノンと、1897年10月2日または5日に生まれたイヴィ[Iwa]は、おそらく‎‎帝王切開‎‎で生まれました)をコングスヴィンガーの両親と一緒に一定期間残す習慣がありました。ベルリンでますますアルコール依存のPrzybyszewskiとの退廃的で財政的に不安定な生活は、子供を育てるのに適した環境から遠く離れていました。‎

‎放棄と死‎

‎コンラート・クシジャノフスキ‎‎のダニー・ジュエル・プシビシェフスカの肖像‎
‎ダニーはプシビシェフスキと‎‎クラクフ‎‎に同行し、‎‎ポーランドの若き‎‎運動の重要人物となり、ジャーナル‎‎ジシエ‎‎の編集者となった。ガリシアを旅行中、プシビシェフスキは友人の‎‎ヤン・カスプロヴィッチ‎‎の妻と関わり、ダニーを捨てた。‎

‎スタニスワフ・プシビシェフスキは‎‎、‎‎ダニーと‎‎ヘンリク・シエンキエヴィチ‎‎(ポーランドのプシビシェフスキ才能アカデミーから3200オーストリア・クローネンの助成金を手配した)と、鉱山所有者の息子ヴワディスワフ・エメリクとの関係を奨励したかもしれない。‎

‎プシビシェフスキとエメリクが彼女の殺害‎‎を‎‎企てたかもしれないという証拠がいくつかあるダニーの死の時、プジビシェフスキはポーランドのジャドウィガ・カスプロウィツォワと‎‎アニエラ・パヨンコウナ‎‎の2人の女性と関わっていましたが、その2人の娘はプシビシェフスキの1人で、ダニーはエメリクを含むパリで少なくとも3人の男性とロマンチックな関係を築いていました。エメリクはプシビシェフスキとダニーをコーカサスの家族を訪問する旅行に招待しました。土壇場でプシビシェフスキは、彼が後で彼らに参加すると言って、後退しました。‎

‎1901年6月5日、グルジアの首都‎‎ティフリス‎‎(現トビリシ)にある小さな「グランドホテル」の部屋で、エメリクはジュエルの頭を撃った。次の日、彼は自分自身を撃とうとしました。ジュエルの5歳の息子ゼノンは母親の殺害を目撃した。‎‎彼女‎‎はティフリスのローマカトリック教会に埋葬され、1999年にクキア墓地の教会の庭に埋葬された[‎

‎作品‎
‎短編小説『レディビバ』(1893年、1977年に死後出版)。‎
‎ドラマ‎‎・デン・スターケール‎‎(‎‎ザ・ストロング)が‎‎1895年にクリスティアニア劇場に提出されました。定期‎‎サムティテン‎‎1896に出版のために受け入れられました。‎‎ ‎‎[2]‎‎ ‎
‎書籍や映画‎
‎1977年には、ダニー・ジュエルの生涯を題にしたポーランド/ノルウェー映画「‎‎ダニー‎‎」が上映されました。‎

‎ゼノンは、‎‎インゲランナ・クローン・ニダル‎‎の2005年のノルウェーのドキュメンタリー映画で娘のアンと一緒に登場します - ‎‎ ‎‎Død Madonna‎‎ ‎‎ (‎‎デッドマドンナ:ダニー・ジュエル・プシビシェフスカ‎‎).‎

‎ダニー・ジュエルの死は、ロシアの著名な作家J.ナギビンとロシアの映画‎‎「モデル‎‎」による短編小説「‎‎三人の男と女ともう一人の男‎‎」の主題でした。‎

‎UCLAのスカンジナビア文化と言語のテニュア教授であるメアリー・ケイ・ノルセンが書いた伝記小説は、1991年に出版されました。 そして、ダニー・ジュエルの家族と個人的なインタビューを行い、その過程で以前に知られていなかった彼女の人生から新しい詩と詳細を明らかにしました。‎

‎ジョージアの作家ズラブ・カルミゼの著書『‎‎ダニー・オア・ラブ・フィースト‎‎』は2011年に出版された。‎

https://en.wikipedia.org/wiki/Dagny_Juel

http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/388.html#c5

[近代史5] 明治維新と太平洋戦争の真相 中川隆
30. 中川隆[-15322] koaQ7Jey 2021年11月12日 17:11:33 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[31]
日本のゴールド「天皇の金塊」をジェームズ斉藤が徹底解説! 知られざる日本の財宝、驚愕の金額…米デフォルトと関連
2021.11.12
https://tocana.jp/2021/11/post_225242_entry.html


【連載:某国諜報機関関係者で一切の情報が国家機密扱いのジェームズ斉藤(@JamesSaito33)が斬る! 国際ニュース裏情報】

※本記事は、公開するにあたって非常にリスクの高い危険な内容を含む記事となっておりますので、後半部分は有料化します。本記事の内容を拡散・コピペ・引用することは固く禁じます。

ジェームズ 今日はアメリカのデフォルトにからんだ日本のゴールドの話をしましょう。

──アメリカのデフォルトと日本のゴールドが何か関係しているんですか? 

ジェームズ 密接な関係です。まず、アメリカのデフォルトの説明からしていくと、今年の9月28日にイエレン米財務長官が「このままではアメリカは10月18日にデフォルトする。議会は連邦債務の上限を引き上げるか、上限を停止しないといけない」と訴えていました。実は今年の夏頃からデフォルトの話は出ていたんですが、9月28日に米議会が債務の上限の引き上げを拒否したんで改めて財務長官が訴えたわけです。その後、米議会は一旦、否決していた連邦債務の法定上限を引き上げることにし、デフォルトの期限は12月3日まで延びたんですが、根本的な問題は解決していません。

──それはわかるんですけど、デフォルトはアメリカの国内問題じゃないですか?

ジェームズ もちろん、アメリカの問題です。ただし、アメリカは10月の間、何度も「ゴールドを送れ」と日本に言ってきているのです。それは日本のゴールドの担当の一人から聞いています。

──すいません、それはどういうことですか? なぜ、日本がアメリカの借金返済にゴールドを送らないといけないんですか? というか、日本のゴールドって何ですか? ゴールドの担当って何ですか?

ジェームズ 日本のゴールドについてはきちんと話したものってそれほどないのでわからない人も多いのですが、昔、高橋五郎さんという人が書いた『天皇の金塊』が最も詳しいでしょう。

──あっ、それは読みました。でも、あれって本当なんですか? 超スパイのベラスコとか。

ジェームズ 基本的に間違っていません。超スパイのベラスコはイエズス会の神父でバチカンの使者です。彼は第二次大戦中、天皇のスパイとして、つまり、天皇の手足として働いていました。彼はマンハッタン計画にもエージェントを送り込んでいました。


Leonhard NiederwimmerによるPixabayからの画像
──えっ、あの原爆計画ですか!?

ジェームズ はい。天皇は計画の初期の頃からかなり正確な情報を掴んでいたはずです。それもベラスコがバチカン経由で、エージェントを送り込んでいたからです。そのベラスコが天皇に近づいた理由は天皇のゴールドです。

──なんか凄い話になりそうですけど、そもそも天皇のゴールドって第二次大戦中に東南アジア各地で集めた金塊で山下財宝とかそういう話ですよね。

ジェームズ そうです。それが日本のゴールドの一部です。

──でも、山下財宝とかってフィリピンのマルコスが盗んだとか、マッカーサーが掘り起こしてしまってもうないって話じゃないんですか?

ジェームズ 『天皇の金塊』にはそうは書いてないですよね? 日本のゴールドはいまでもあるのです。だいたい、ちょっと考えてみればわかるじゃないですか? なぜ、敗戦国の日本が急激に復興できたんですか? 1960年代にはGDPで世界ナンバー2になっていますよ。あれは全部、天皇のゴールドを使ったからですよ。

──そうなんですか? 朝鮮動乱による戦争経済で発展したというのは。

ジェームズ それもありますが、大元である工場とかはどうしたんですか? 日本の都市という都市は焼け野原だったんですよ。単純な話、その復興の資金はどこから出ているんですか? あと極めつけは日米安保条約です。日本は米国に一方的に守ってもらうという条約ですよね。普通に考えたら、米国にとって不平等条約ですよ、あれは。なぜ、そんな条約を戦勝国が結んでいるんですか? 現に米韓同盟を見てください。韓国は軍隊を持ち、徴兵制まで敷いて米国の極東戦略に貢献しようとしています。なのに日本は軍隊を持ちたくないと言って拒否してますよ。そんなことは国際条約では普通は有りえません。常にギブ&テイクが国際関係です。

──つまり、日本のギブは天皇のゴールドだったと。

ジェームズ その通りです。そもそも日本のゴールドは米国に日本の防衛をしてもらうために昭和天皇とマッカーサーが合意し、吉田茂首相が米国と協力して1951年の日米安保条約調印の時に秘密条項として制度化したものです。ちなみに、国際条約には必ず秘密協定があります。これは世界の常識で、知らないのは国際法の学者ぐらいです。しかも国際条約の秘密条項にはほぼ必ずバチカン関連のゴールドが運用されます。

 つまり、条約締結国家が違反をすると経済的な締め上げをくらうということです。このようなことができるのは超国家勢力でしかも「神」の力をバックにしたバチカンくらいでしょう。やはりGHQも日米安保条約締結前には、イエズス会の大物であった、エドマンド・ワルシュ神父を来日させて、様々な調整をさせていました。日米安保条約では、米国は日本を守り、日本は米国にゴールドを貢ぐという役割分担です。これによって世界史でも唯一と言っていい、「片一方が軍隊を持たない軍事同盟」という奇妙な体制ができあがったわけです。ですから、日本はその密約によって、米国が困った時にはゴールドを供出する義務があるのです。

──そんな密約がまだ有効なんですか?

ジェームズ 当然です。日米安保が有効である以上、有効です。ですから、日本にゴールドがある限り、尖閣は大丈夫とも言えます。

──う〜ん、なんだか、半信半疑ですが。だって、日本のゴールドはGHQが既に隠退蔵物資として接収しまくっていたという話もあります。

ジェームズ いえいえ、あれは銀行等に預けてあった貴金属やダイヤなんかを持っていっただけです。実際にGHQは日銀の金庫の一部に捜査に入っています。一方、退蔵物資は日本中に隠していました。天皇のゴールドはいまでも日本国内にありますし、フィリピンにもあります。また、スイスの銀行にも天皇の名義で保管されています。もちろん、かなりの量、アメリカに取られていますが、それでもまだ大量に残っていると聞いています。

──実際いくらぐらいなんですか?

https://tocana.jp/2021/11/post_225242_entry.html  
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/390.html#c30

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
95. 中川隆[-15321] koaQ7Jey 2021年11月12日 17:12:29 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[32]
日本のゴールド「天皇の金塊」をジェームズ斉藤が徹底解説! 知られざる日本の財宝、驚愕の金額…米デフォルトと関連
2021.11.12
https://tocana.jp/2021/11/post_225242_entry.html


【連載:某国諜報機関関係者で一切の情報が国家機密扱いのジェームズ斉藤(@JamesSaito33)が斬る! 国際ニュース裏情報】

※本記事は、公開するにあたって非常にリスクの高い危険な内容を含む記事となっておりますので、後半部分は有料化します。本記事の内容を拡散・コピペ・引用することは固く禁じます。

ジェームズ 今日はアメリカのデフォルトにからんだ日本のゴールドの話をしましょう。

──アメリカのデフォルトと日本のゴールドが何か関係しているんですか? 

ジェームズ 密接な関係です。まず、アメリカのデフォルトの説明からしていくと、今年の9月28日にイエレン米財務長官が「このままではアメリカは10月18日にデフォルトする。議会は連邦債務の上限を引き上げるか、上限を停止しないといけない」と訴えていました。実は今年の夏頃からデフォルトの話は出ていたんですが、9月28日に米議会が債務の上限の引き上げを拒否したんで改めて財務長官が訴えたわけです。その後、米議会は一旦、否決していた連邦債務の法定上限を引き上げることにし、デフォルトの期限は12月3日まで延びたんですが、根本的な問題は解決していません。

──それはわかるんですけど、デフォルトはアメリカの国内問題じゃないですか?

ジェームズ もちろん、アメリカの問題です。ただし、アメリカは10月の間、何度も「ゴールドを送れ」と日本に言ってきているのです。それは日本のゴールドの担当の一人から聞いています。

──すいません、それはどういうことですか? なぜ、日本がアメリカの借金返済にゴールドを送らないといけないんですか? というか、日本のゴールドって何ですか? ゴールドの担当って何ですか?

ジェームズ 日本のゴールドについてはきちんと話したものってそれほどないのでわからない人も多いのですが、昔、高橋五郎さんという人が書いた『天皇の金塊』が最も詳しいでしょう。

──あっ、それは読みました。でも、あれって本当なんですか? 超スパイのベラスコとか。

ジェームズ 基本的に間違っていません。超スパイのベラスコはイエズス会の神父でバチカンの使者です。彼は第二次大戦中、天皇のスパイとして、つまり、天皇の手足として働いていました。彼はマンハッタン計画にもエージェントを送り込んでいました。


Leonhard NiederwimmerによるPixabayからの画像
──えっ、あの原爆計画ですか!?

ジェームズ はい。天皇は計画の初期の頃からかなり正確な情報を掴んでいたはずです。それもベラスコがバチカン経由で、エージェントを送り込んでいたからです。そのベラスコが天皇に近づいた理由は天皇のゴールドです。

──なんか凄い話になりそうですけど、そもそも天皇のゴールドって第二次大戦中に東南アジア各地で集めた金塊で山下財宝とかそういう話ですよね。

ジェームズ そうです。それが日本のゴールドの一部です。

──でも、山下財宝とかってフィリピンのマルコスが盗んだとか、マッカーサーが掘り起こしてしまってもうないって話じゃないんですか?

ジェームズ 『天皇の金塊』にはそうは書いてないですよね? 日本のゴールドはいまでもあるのです。だいたい、ちょっと考えてみればわかるじゃないですか? なぜ、敗戦国の日本が急激に復興できたんですか? 1960年代にはGDPで世界ナンバー2になっていますよ。あれは全部、天皇のゴールドを使ったからですよ。

──そうなんですか? 朝鮮動乱による戦争経済で発展したというのは。

ジェームズ それもありますが、大元である工場とかはどうしたんですか? 日本の都市という都市は焼け野原だったんですよ。単純な話、その復興の資金はどこから出ているんですか? あと極めつけは日米安保条約です。日本は米国に一方的に守ってもらうという条約ですよね。普通に考えたら、米国にとって不平等条約ですよ、あれは。なぜ、そんな条約を戦勝国が結んでいるんですか? 現に米韓同盟を見てください。韓国は軍隊を持ち、徴兵制まで敷いて米国の極東戦略に貢献しようとしています。なのに日本は軍隊を持ちたくないと言って拒否してますよ。そんなことは国際条約では普通は有りえません。常にギブ&テイクが国際関係です。

──つまり、日本のギブは天皇のゴールドだったと。

ジェームズ その通りです。そもそも日本のゴールドは米国に日本の防衛をしてもらうために昭和天皇とマッカーサーが合意し、吉田茂首相が米国と協力して1951年の日米安保条約調印の時に秘密条項として制度化したものです。ちなみに、国際条約には必ず秘密協定があります。これは世界の常識で、知らないのは国際法の学者ぐらいです。しかも国際条約の秘密条項にはほぼ必ずバチカン関連のゴールドが運用されます。

 つまり、条約締結国家が違反をすると経済的な締め上げをくらうということです。このようなことができるのは超国家勢力でしかも「神」の力をバックにしたバチカンくらいでしょう。やはりGHQも日米安保条約締結前には、イエズス会の大物であった、エドマンド・ワルシュ神父を来日させて、様々な調整をさせていました。日米安保条約では、米国は日本を守り、日本は米国にゴールドを貢ぐという役割分担です。これによって世界史でも唯一と言っていい、「片一方が軍隊を持たない軍事同盟」という奇妙な体制ができあがったわけです。ですから、日本はその密約によって、米国が困った時にはゴールドを供出する義務があるのです。

──そんな密約がまだ有効なんですか?

ジェームズ 当然です。日米安保が有効である以上、有効です。ですから、日本にゴールドがある限り、尖閣は大丈夫とも言えます。

──う〜ん、なんだか、半信半疑ですが。だって、日本のゴールドはGHQが既に隠退蔵物資として接収しまくっていたという話もあります。

ジェームズ いえいえ、あれは銀行等に預けてあった貴金属やダイヤなんかを持っていっただけです。実際にGHQは日銀の金庫の一部に捜査に入っています。一方、退蔵物資は日本中に隠していました。天皇のゴールドはいまでも日本国内にありますし、フィリピンにもあります。また、スイスの銀行にも天皇の名義で保管されています。もちろん、かなりの量、アメリカに取られていますが、それでもまだ大量に残っていると聞いています。

──実際いくらぐらいなんですか?

https://tocana.jp/2021/11/post_225242_entry.html  
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c95

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
242. 中川隆[-15320] koaQ7Jey 2021年11月12日 17:13:14 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[33]
日本のゴールド「天皇の金塊」をジェームズ斉藤が徹底解説! 知られざる日本の財宝、驚愕の金額…米デフォルトと関連
2021.11.12
https://tocana.jp/2021/11/post_225242_entry.html


【連載:某国諜報機関関係者で一切の情報が国家機密扱いのジェームズ斉藤(@JamesSaito33)が斬る! 国際ニュース裏情報】

※本記事は、公開するにあたって非常にリスクの高い危険な内容を含む記事となっておりますので、後半部分は有料化します。本記事の内容を拡散・コピペ・引用することは固く禁じます。

ジェームズ 今日はアメリカのデフォルトにからんだ日本のゴールドの話をしましょう。

──アメリカのデフォルトと日本のゴールドが何か関係しているんですか? 

ジェームズ 密接な関係です。まず、アメリカのデフォルトの説明からしていくと、今年の9月28日にイエレン米財務長官が「このままではアメリカは10月18日にデフォルトする。議会は連邦債務の上限を引き上げるか、上限を停止しないといけない」と訴えていました。実は今年の夏頃からデフォルトの話は出ていたんですが、9月28日に米議会が債務の上限の引き上げを拒否したんで改めて財務長官が訴えたわけです。その後、米議会は一旦、否決していた連邦債務の法定上限を引き上げることにし、デフォルトの期限は12月3日まで延びたんですが、根本的な問題は解決していません。

──それはわかるんですけど、デフォルトはアメリカの国内問題じゃないですか?

ジェームズ もちろん、アメリカの問題です。ただし、アメリカは10月の間、何度も「ゴールドを送れ」と日本に言ってきているのです。それは日本のゴールドの担当の一人から聞いています。

──すいません、それはどういうことですか? なぜ、日本がアメリカの借金返済にゴールドを送らないといけないんですか? というか、日本のゴールドって何ですか? ゴールドの担当って何ですか?

ジェームズ 日本のゴールドについてはきちんと話したものってそれほどないのでわからない人も多いのですが、昔、高橋五郎さんという人が書いた『天皇の金塊』が最も詳しいでしょう。

──あっ、それは読みました。でも、あれって本当なんですか? 超スパイのベラスコとか。

ジェームズ 基本的に間違っていません。超スパイのベラスコはイエズス会の神父でバチカンの使者です。彼は第二次大戦中、天皇のスパイとして、つまり、天皇の手足として働いていました。彼はマンハッタン計画にもエージェントを送り込んでいました。


Leonhard NiederwimmerによるPixabayからの画像
──えっ、あの原爆計画ですか!?

ジェームズ はい。天皇は計画の初期の頃からかなり正確な情報を掴んでいたはずです。それもベラスコがバチカン経由で、エージェントを送り込んでいたからです。そのベラスコが天皇に近づいた理由は天皇のゴールドです。

──なんか凄い話になりそうですけど、そもそも天皇のゴールドって第二次大戦中に東南アジア各地で集めた金塊で山下財宝とかそういう話ですよね。

ジェームズ そうです。それが日本のゴールドの一部です。

──でも、山下財宝とかってフィリピンのマルコスが盗んだとか、マッカーサーが掘り起こしてしまってもうないって話じゃないんですか?

ジェームズ 『天皇の金塊』にはそうは書いてないですよね? 日本のゴールドはいまでもあるのです。だいたい、ちょっと考えてみればわかるじゃないですか? なぜ、敗戦国の日本が急激に復興できたんですか? 1960年代にはGDPで世界ナンバー2になっていますよ。あれは全部、天皇のゴールドを使ったからですよ。

──そうなんですか? 朝鮮動乱による戦争経済で発展したというのは。

ジェームズ それもありますが、大元である工場とかはどうしたんですか? 日本の都市という都市は焼け野原だったんですよ。単純な話、その復興の資金はどこから出ているんですか? あと極めつけは日米安保条約です。日本は米国に一方的に守ってもらうという条約ですよね。普通に考えたら、米国にとって不平等条約ですよ、あれは。なぜ、そんな条約を戦勝国が結んでいるんですか? 現に米韓同盟を見てください。韓国は軍隊を持ち、徴兵制まで敷いて米国の極東戦略に貢献しようとしています。なのに日本は軍隊を持ちたくないと言って拒否してますよ。そんなことは国際条約では普通は有りえません。常にギブ&テイクが国際関係です。

──つまり、日本のギブは天皇のゴールドだったと。

ジェームズ その通りです。そもそも日本のゴールドは米国に日本の防衛をしてもらうために昭和天皇とマッカーサーが合意し、吉田茂首相が米国と協力して1951年の日米安保条約調印の時に秘密条項として制度化したものです。ちなみに、国際条約には必ず秘密協定があります。これは世界の常識で、知らないのは国際法の学者ぐらいです。しかも国際条約の秘密条項にはほぼ必ずバチカン関連のゴールドが運用されます。

 つまり、条約締結国家が違反をすると経済的な締め上げをくらうということです。このようなことができるのは超国家勢力でしかも「神」の力をバックにしたバチカンくらいでしょう。やはりGHQも日米安保条約締結前には、イエズス会の大物であった、エドマンド・ワルシュ神父を来日させて、様々な調整をさせていました。日米安保条約では、米国は日本を守り、日本は米国にゴールドを貢ぐという役割分担です。これによって世界史でも唯一と言っていい、「片一方が軍隊を持たない軍事同盟」という奇妙な体制ができあがったわけです。ですから、日本はその密約によって、米国が困った時にはゴールドを供出する義務があるのです。

──そんな密約がまだ有効なんですか?

ジェームズ 当然です。日米安保が有効である以上、有効です。ですから、日本にゴールドがある限り、尖閣は大丈夫とも言えます。

──う〜ん、なんだか、半信半疑ですが。だって、日本のゴールドはGHQが既に隠退蔵物資として接収しまくっていたという話もあります。

ジェームズ いえいえ、あれは銀行等に預けてあった貴金属やダイヤなんかを持っていっただけです。実際にGHQは日銀の金庫の一部に捜査に入っています。一方、退蔵物資は日本中に隠していました。天皇のゴールドはいまでも日本国内にありますし、フィリピンにもあります。また、スイスの銀行にも天皇の名義で保管されています。もちろん、かなりの量、アメリカに取られていますが、それでもまだ大量に残っていると聞いています。

──実際いくらぐらいなんですか?

https://tocana.jp/2021/11/post_225242_entry.html  
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c242

[リバイバル3] オーディオ・ノートの旗艦パワーアンプ「Kagura 2」15,620,000円/ペア/税込 中川隆
3. 中川隆[-15319] koaQ7Jey 2021年11月12日 20:17:25 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[34]
音楽の神、ここに宿れり。匠の技術によって生まれたパワーアンプ「Kagura2」、至高のサウンドを聴く
林 正儀 2021年11月11日
https://www.phileweb.com/review/article/202111/11/4513.html

日本を代表するハイエンド・オーディオブランドのひとつであるオーディオ・ノート。そんな同社において不動のフラグシップを誇るのが「Kagura」である。2020年8月に誕生した後継モデルの「Kagura2」。これまで3回に渡ってこの匠の技術を紹介してきたが、この最終回では搭載されている真空管の話を交えながら、最後はその音質を堪能することにしよう。

■芸術作品の領域といえる合理的な設計

“神楽”物語が、いよいよ最終章となる。超ド級ターンテーブル「Ginga」誕生の翌年。2013年に登場した稀代のモノラルパワーアンプだが、7年の歳月を経て2020年に「Kagura2」へと進化を遂げ、世界の音楽ファンを魅了。オーディオ・ノートの名声をさらに高めた意欲作である。

AUDIO NOTE「Kagura2」(15,620,000円/ペア/税込)

工房で受注した「Kagura2」の組み立てが行われていた絶好のタイミングで取材にお邪魔した。エピローグにふさわしい舞台ではないか! 美しい純銅製シャーシに大型直熱管211(パラレルシングル構成)や新設計の出力トランス。そして精密かつ大規模な電源部(全体の2/3を占める)を擁する構成だ。サウンドディレクターの廣川嘉行さんにはこれまで3回に渡り「Kagura2」の全回路を解説していただいたが、実際にこうしてモジュール化され立体的に展開された高級パーツの数々を見れば納得。芸術作品の領域といってよい。

同社の工房で「Kagura2」の組み立て工程を見学

縦にぐっと空間を広げ、2階建〜3階建のレイウトにすると、こうした最短結線ができるわけで、シグナル・電源とも長く引き回すことがない合理的な設計といえる。世界のどのアンプもやっていない同社オリジナル技術だ。「Kagura2」2台をもし平置き配線にすれば、たたみ1畳分になるのではないか。

■刷新された出力トランスとオリジナル真空管ソケット

改めて「Kagura2」の進化をまとめよう。最大の変更点は、出力トランスの刷新とオリジナル真空管ソケットの搭載だ。

出力トランスは4、8、16Ωの出力線を単独で引き出せ便利になったこともそうだが、それよりもボビン(巻枠)の形状から設計し直した点に注目したい。間にはさむ“層間紙”にもこだわった設計だ。その効果は前回解説したとおり、中低域の厚みや表現力が劇的に向上。オーディオ・ノート伝統の銀線巻きトランスの魅力がさらに引き出された印象である。

新型ソケットの開発は国産タイトソケットの入手が困難になった中での決断である。「Kagura2を作るにあたって、今までのソケット(一般流通品)を変えようということになりました。コンタクトの確実性や接触抵抗の低減はもちろん、オーディオ・ノート・サウンドの世界観をもった高性能ソケットを開発し全面採用したのです」。そう言って芦澤雅基社長が取り出したのが、211用の4ピンソケットとMT9ピンタイプ。それにGT管用の8ピンソケットだ。

「Kagura2」用に開発された完全オリジナルの真空管ソケット。2点接触構造により情報量の増加を実現。極厚純銀メッキとパラジウムメッキにも膨大なコストを投入している

211用を見ると、一番音に影響する端子部のみ自社のオリジナルとした。端子の交換は社内で行っているそうだが、211をソケットに差す際、ちょっとでも傾けば点接触になるだろう。これを解決する切り札が2点接触だったという。試行錯誤の結果、パーツにスリットを入れることで接触カ所を増やして情報量の増加を実現。2つの接触部分の幅をあえて不均一にしたのは、優等生的過ぎず音楽的な楽しさをめざしたためだ。生き生きとした質感が加わり211の個性が生きるソケットの誕生である。

素材とメッキはどう工夫したのか。「優秀なメッキ業者の協力を得て、銅合金の端子に15ミクロン(MT9ピンは5ミクロン)もの非常に質のよい“極厚純銀メッキ”を施すことができました」。メッキの世界では3ミクロンでも十分に厚いわけだが、それが何と5倍である。

しかもその上に0.1ミクロンの白金属系のパラジウムメッキを施したものだ。清潔感のある柔らかな質感がのり、極めて高品位ながら自然な音色のソケットが完成したそうだ。「金型やプレスよりもメッキ加工の方が高価でしたね」と笑う。

そして輝きに品があり美しい。ギラギラじゃなくキラッキラ。まるで宝石だ。飾っておきたくなるような神秘の輝きである。現在「Kagura2」だけのプレミアムなソケットであり、世界最高性能といっていい。

そのソケットと対をなすのが真空管だ。出力管の211はゴールデンドラゴンの選別品を社内でさらに選別。エージングしたものをのせている。初段と整流管は銘柄がかわって、ゴールデンドラゴンからJJへ、整流管はJJからゴールドライオンに変更。全面刷新というより音質調整の範囲内だろう。「出力トランスやソケットの変更に伴う最適化ですね」。

■みずみずしい空気感の生きた、有機的なサウンド

「Kagura2」が奏でるサウンドは、ただのハイエンドアンプとは違う。15インチウーファー搭載のB&W「801D」から軽々とグリップ力を引き出し、どんな複雑な動きにもレスポンスが完璧でありながら、ハイファイくささがない。この日は大管弦楽ものや清涼な北欧ジャズ、ヴォーカルなど聴いたが、響きが実に有機的で風の向こうに音楽そのものを体感させるのだ。

例えばムラヴィンスキー指揮/レニングラードフィルのライブ盤。これはロシアの郷愁たっぷりで、ぶ厚く重厚にうなりを発して襲いかかる低弦セクションのリアルさに鳥肌が立つ。ショルティの「幻想」は、空間にぽっと浮かぶ木管とそれに応える弱音弦のさざ波が極上だ。ジェイコブ・ヤングのギターとヴォーカルデュオは、繊細でしっとりと品のある表情を楽しみたい。これぞ圧倒的なS/Nやみずみずしい空気感の生きた再生だ。夜中の2時に聴きたいレコードだと改めて思った。

音楽的で神々しい、感動すべきサウンドである。「Kagura2」に盛り込まれたすべての要素が結実しており、オーディオ・ノートの集大成にふさわしい。“神が宿る”至高のサウンドに浸りたい。

(提供:オーディオ・ノート)
本記事は『季刊・analog vol.72』からの転載です

https://www.phileweb.com/review/article/202111/11/4513.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1161.html#c3

   

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