7. 中川隆[-12022] koaQ7Jey 2023年12月10日 08:05:12 : 9MLGdSYR5I : eHR5QmFPZ0czLkU=[1]
今年の12月で真珠湾攻撃から82年、レノン暗殺から43年
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今から82年前の1941年12月7日に日本軍はハワイの真珠湾にあるアメリカ太平洋艦隊の基地を攻撃、43年前の1980年12月8日にジョン・レノンがニューヨーク市にあるダコタの入り口で射殺された。
真珠湾を攻撃する直前、日本軍はマレー半島を攻撃している。その時点でアメリカ側は日本側の機密情報を入手していた。ドイツの外交官ハンス・トムセンは日本の外務省が使っていた暗号機B型(パープル)の暗号をアメリカが解読しているとヨアヒム・フォン・リッベントロップ独外相へ報告、その情報は日本側へ伝えられていたのだが、日本の外務省はそれを使い続けている。
ちなみに、アメリカでは第2次世界大戦が始まった後、通信傍受と暗号解読を目的とするSSA(通信安全保障局)を設立、1942年3月には日本海軍が使っていた呂暗号(JN-25)も解読に成功、同年6月に実行されたミッドウェー諸島攻略作戦の内容を事前に入手していた。
日本軍が太平洋で軍事作戦を計画していたことをアメリカ側は知っていた可能性が高いのだが、どこを攻撃するかはつかんでいなかった。真珠湾は遠浅のため攻撃が技術的に難しく、守りの堅い軍港。攻撃のリスクは高い。
その前、アメリカ政府の内部では日本に対する石油の輸出が議論されていた。財務省は積極的だったが、フランクリン・ルーズベルト大統領は石油の禁輸が「日本をインドシナへ駆り立てる」と考え、1937年より前の日本に対する石油輸出量は維持すると主張していた。(岩間敏「戦争と石油(1)」石油・天然ガスレビュー、2006年1月)
日本軍はマレー半島を攻撃するという考えが常識的だろう。実際、最初に攻撃したのは石油があるマレー半島だ。そこへ日本の艦船が近づいていることもわかっていた。
イギリスのウィンストン・チャーチル首相も日本のそうした動きを察知、1941年11月にベンガル(現在のバングラデシュ周辺)で「拒否政策」と呼ばれる焦土作戦を打ち出す。日本軍の食糧にしないということでサイロや倉庫から種籾を含む全ての米を押収、また輸送手段を奪うということで漁民の船や自転車を取り上げたのだ。
その政策を推進中の1942年10月にベンガル地方はサイクロンに襲われた。死傷者が出ただけでなく農作物が大きな打撃を受け、食糧不足は避けられない状態になる。ところが飢餓が見通されてもチャーチル政権は米の運び出しを続ける。チャーチルは1943年1月、イギリスの食糧と資源の備蓄を強化するため、インド洋で活動していた商船は全て大西洋へ移動させていた。(Madhusree Mukerjee, “Churchill’s Secret War,” Basic Books, 2010)
それに対し、現地の提督は1943年10月に政策の継続は大惨事を招くとチャーチル首相に警告、イギリス下院では満場一致で食糧を送ると議決したが、首相は無視した。食糧を送るというルーズベルト大統領の提案も拒否している。その結果、ベンガルでは1943年から44年にかけて大規模な飢饉が引き起こされ、餓死者の人数はベンガル周辺だけで100万人から300万人に達したと推計されている。
チャーチルが焦土作戦を実行したのは日本軍がインドへ侵攻してくると考えたからだが、そうなるとアメリカの参戦なしにイギリス軍は日本軍に勝てないとイギリス政府は見ていた。日本軍の真珠湾攻撃を見てチャーチルは大英帝国が存続できると考えただろう。(Nu’man Abd Al-Wahid, “Debunking the Myth of America’s Poodle, Zero Books, 2020)
真珠湾を攻撃した頃、ドイツ軍はモスクワでの戦いでの敗北が決定的になっていた。これが独ソ戦の転換点だ。そして1942年8月にドイツ軍はスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まるが、11月になるとソ連軍が猛反撃でドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、43年1月には生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。
これを見て慌てたのがチャーチル。ルーズベルトやフランスのシャルル・ド・ゴールとカサブランカで会談、そこで「無条件降伏」という語句が出てきた。これはドイツの降伏を遅らせ、米英が軍事作戦を行う時間的な余裕を作るためだったとも言われている。
そして1943年7月に米英両国軍はシチリア島へ上陸。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからだ。コミュニストの影響力が強かったシチリア島へ上陸するため、アメリカ軍はマフィアの協力を得ている。
アメリカ海軍のONI(対諜報部)はユダヤ系ギャングの大物だったメイヤー・ランスキーの仲介でイタリア系犯罪組織の大物ラッキー・ルチアーノに接触、協力させることに成功した。ランスキーとルチアーノは子ども時代からの友人。ふたりともアーノルド・ロスティンの子分だった。
当時、ルチアーノは30年から50年の強制労働という不定期刑が言い渡されていた。優雅に暮らしていたとはいうものの、死ぬまで刑務所から出られそうになかった。そこに救いの手をさしのべてきたのがONIである。
ルチアーノはシチリア島の大ボスだったカロージェロ・ビッツィーニを紹介、ビッツィーニの要請で島内のボスはイタリア軍やドイツ軍に関する情報を米軍に提供したうえ、破壊活動にも協力した。シチリア島で強い影響力を持っていたコミュニストを押さえ込むため、マフィアを利用したという側面もある。大戦後、シチリア島がマフィアの支配地になるのはそのためだ。1946年2月9日、ルチアーノは「好ましからざる人物」という名目で刑務所を出され、国外に追放された。自由の身になったということだ。
真珠湾攻撃の39年後にレノンは殺された。レノンの右側、2.5メートルほど離れたところにいたマーク・チャップマンが発射した4発の銃弾がレノンの左側から命中している。至近距離から撃たれたことが医学的に示されている。殺される直前、レノンは反戦運動の前面に出ようとしていた。
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