★阿修羅♪ > dWE0NWRmMlhZcm8= > 100000
 
g検索 dWE0NWRmMlhZcm8=  
 
dWE0NWRmMlhZcm8= コメント履歴 No: 100000
http://www.asyura2.com/acat/d/dw/dwe/dWE0NWRmMlhZcm8=/100000.html
[近代史4] 政策金利 中川隆
4. 中川隆[-9149] koaQ7Jey 2024年9月13日 05:56:55 : P3g0N01uLY : dWE0NWRmMlhZcm8=[1]
一生に一度の売り場か!?
石原順チャンネル 2024/09/10
https://www.youtube.com/watch?v=nD_xhGqonNM&t=721s

<チャプター>
00:00 一生に一度の売り場か!?
09:50 クレジットカードの負債総額は過去最高、個人貯蓄率は過去最低
12:45 平均所得に対する住宅価格が史上最高水準に到達!
16:00 貧富の格差や富の偏在が起こると
17:35 日経平均(月足)
20:50 史上最長の利回り曲線の逆転
22:05 米国のイールドカーブ(3か月〜30年の利回り曲線)とS&P500の推移(2000年〜2001年)
23:25 米国のイールドカーブ(3か月〜30年の利回り曲線)とS&P500の推移(2006年〜2007年)
24:35 1955年以降のFF金利と今後3年間のFF金利予測
25:13 米国のイールドカーブ(3か月〜30年の利回り曲線)とS&P500の推移(2024年9月9日現在)
26:40 S&P500、10年・2年イールドカーブ、FFレートの推移
28:49 急増するウォーレン・バフェットの現金の山
35:44 バークシャー・ハザウェイの手元現金残高とNYダウの推移
42:28 米国の失業率とバフェット指標(ウイルシャー5000の時価総額÷GDP)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1603.html#c4

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
446. 中川隆[-9146] koaQ7Jey 2024年9月13日 05:59:18 : P3g0N01uLY : dWE0NWRmMlhZcm8=[4]
一生に一度の売り場か!?
石原順チャンネル 2024/09/10
https://www.youtube.com/watch?v=nD_xhGqonNM&t=721s

<チャプター>
00:00 一生に一度の売り場か!?
09:50 クレジットカードの負債総額は過去最高、個人貯蓄率は過去最低
12:45 平均所得に対する住宅価格が史上最高水準に到達!
16:00 貧富の格差や富の偏在が起こると
17:35 日経平均(月足)
20:50 史上最長の利回り曲線の逆転
22:05 米国のイールドカーブ(3か月〜30年の利回り曲線)とS&P500の推移(2000年〜2001年)
23:25 米国のイールドカーブ(3か月〜30年の利回り曲線)とS&P500の推移(2006年〜2007年)
24:35 1955年以降のFF金利と今後3年間のFF金利予測
25:13 米国のイールドカーブ(3か月〜30年の利回り曲線)とS&P500の推移(2024年9月9日現在)
26:40 S&P500、10年・2年イールドカーブ、FFレートの推移
28:49 急増するウォーレン・バフェットの現金の山
35:44 バークシャー・ハザウェイの手元現金残高とNYダウの推移
42:28 米国の失業率とバフェット指標(ウイルシャー5000の時価総額÷GDP)

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c446

[リバイバル3] 優良株の長期投資以外はすべてギャンブル 中川隆
53. 中川隆[-9145] koaQ7Jey 2024年9月13日 07:38:08 : P3g0N01uLY : dWE0NWRmMlhZcm8=[5]
一生に一度の売り場か!?
石原順チャンネル 2024/09/10
https://www.youtube.com/watch?v=nD_xhGqonNM&t=721s

<チャプター>
00:00 一生に一度の売り場か!?
09:50 クレジットカードの負債総額は過去最高、個人貯蓄率は過去最低
12:45 平均所得に対する住宅価格が史上最高水準に到達!
16:00 貧富の格差や富の偏在が起こると
17:35 日経平均(月足)
20:50 史上最長の利回り曲線の逆転
22:05 米国のイールドカーブ(3か月〜30年の利回り曲線)とS&P500の推移(2000年〜2001年)
23:25 米国のイールドカーブ(3か月〜30年の利回り曲線)とS&P500の推移(2006年〜2007年)
24:35 1955年以降のFF金利と今後3年間のFF金利予測
25:13 米国のイールドカーブ (3か月〜30年の利回り曲線)とS&P500の推移(2024年9月9日現在)
26:40 S&P500、10年・2年イールドカーブ、FFレートの推移
28:49 急増するウォーレン・バフェットの現金の山
35:44 バークシャー・ハザウェイの手元現金残高とNYダウの推移
42:28 米国の失業率とバフェット指標(ウイルシャー5000の時価総額÷GDP)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/907.html#c53

[リバイバル3] 資産を増やすには ほったらかし投資法が断然優れている 中川隆
61. 中川隆[-9144] koaQ7Jey 2024年9月13日 07:38:40 : P3g0N01uLY : dWE0NWRmMlhZcm8=[6]
一生に一度の売り場か!?
石原順チャンネル 2024/09/10
https://www.youtube.com/watch?v=nD_xhGqonNM&t=721s

<チャプター>
00:00 一生に一度の売り場か!?
09:50 クレジットカードの負債総額は過去最高、個人貯蓄率は過去最低
12:45 平均所得に対する住宅価格が史上最高水準に到達!
16:00 貧富の格差や富の偏在が起こると
17:35 日経平均(月足)
20:50 史上最長の利回り曲線の逆転
22:05 米国のイールドカーブ(3か月〜30年の利回り曲線)とS&P500の推移(2000年〜2001年)
23:25 米国のイールドカーブ(3か月〜30年の利回り曲線)とS&P500の推移(2006年〜2007年)
24:35 1955年以降のFF金利と今後3年間のFF金利予測
25:13 米国のイールドカーブ (3か月〜30年の利回り曲線)とS&P500の推移(2024年9月9日現在)
26:40 S&P500、10年・2年イールドカーブ、FFレートの推移
28:49 急増するウォーレン・バフェットの現金の山
35:44 バークシャー・ハザウェイの手元現金残高とNYダウの推移
42:28 米国の失業率とバフェット指標(ウイルシャー5000の時価総額÷GDP)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/975.html#c61

[近代史5] 株式投資で常時監視すべき情報 中川隆
44. 中川隆[-9143] koaQ7Jey 2024年9月13日 07:39:57 : P3g0N01uLY : dWE0NWRmMlhZcm8=[7]
一生に一度の売り場か!?
石原順チャンネル 2024/09/10
https://www.youtube.com/watch?v=nD_xhGqonNM&t=721s

<チャプター>
00:00 一生に一度の売り場か!?
09:50 クレジットカードの負債総額は過去最高、個人貯蓄率は過去最低
12:45 平均所得に対する住宅価格が史上最高水準に到達!
16:00 貧富の格差や富の偏在が起こると
17:35 日経平均(月足)
20:50 史上最長の利回り曲線の逆転
22:05 米国のイールドカーブ(3か月〜30年の利回り曲線)とS&P500の推移(2000年〜2001年)
23:25 米国のイールドカーブ(3か月〜30年の利回り曲線)とS&P500の推移(2006年〜2007年)
24:35 1955年以降のFF金利と今後3年間のFF金利予測
25:13 米国のイールドカーブ (3か月〜30年の利回り曲線)とS&P500の推移(2024年9月9日現在)
26:40 S&P500、10年・2年イールドカーブ、FFレートの推移
28:49 急増するウォーレン・バフェットの現金の山
35:44 バークシャー・ハザウェイの手元現金残高とNYダウの推移
42:28 米国の失業率とバフェット指標(ウイルシャー5000の時価総額÷GDP)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/349.html#c44

[番外地12] >廣瀬爽彩さんが抱えていたという発達障害について >彼女は自閉症スペクトラム障害(ASD)であり、いじめ被害に遭うリスクが高… 中川隆
1. 中川隆[-9142] koaQ7Jey 2024年9月13日 08:33:13 : P3g0N01uLY : dWE0NWRmMlhZcm8=[8]
<■113行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
>尾木ママが語る旭川いじめの教訓 「つらかったら緊急避難して」
>廣瀬爽彩さんが抱えていたという発達障害について
>彼女は自閉症スペクトラム障害(ASD)であり、いじめ被害に遭うリスクが高かった。いじめ被害によって心的外傷後ストレス障害(PTSD)を二次障害として発症していたため、つらい体験が何度も長期にわたってフラッシュバックし、長く苦しんでいました。
>彼女はいじめというトラウマ的ストレスに起因する心的外傷後ストレス障害(PTSD)に長く苦しみ続けた。

これはPTSDについて完全に誤解しています。 PTSDは戦争体験を除いては家庭内の性的虐待でしか起きません。
廣瀬爽彩さんは家に帰るのを非常に嫌がって公園に長時間居る事が多かったのですが、家に帰ると母親の愛人から性的虐待を受けるからだと噂されていました。そもそも爽彩さんが死にたい、死にたいと騒いでパニック状態になったのは小学生の時からなので中学でのイジメとは関係ありません。

爽彩さんの自殺未遂事件では警察は爽彩さんと母親の関係が原因だと判断して、爽彩さんを精神病院に二か月も入院させて母親とは会わせませんでした。
失踪・凍死事件では警察は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断して、初期捜査を殆ど行いませんでした。
そもそも警察は自殺未遂事件で爽彩さんが退院して以降は、爽彩さんを毎月呼び出して、母親との関係、売春していないかどうか、覚醒剤使用の有無等を聞いていたと思われます。 つまり警察は爽彩さんの病状や家庭の状況を完全に把握した上で、失踪・凍死事件は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断したのです。
校長や教頭、担任、教育委員会も失踪・凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと何度も指摘しています。
そもそも廣瀬爽彩さんの検死書では廣瀬爽彩さんは統合失調症とされていました。 統合失調症は覚醒剤中毒と症状も治療薬も全く同じなので、警察では廣瀬爽彩さんを覚醒剤中毒だと判断していた可能性が高いです:

PTSDになるのは家庭内性虐待か覚醒剤中毒のどちらかしか有り得ない

亡くなる前の爽彩さんの様子について、母親がこう話す。。
急に泣いたり叫んでしまったり、震えたり、過呼吸が起きたり、吐いちゃったりとか。それが本当に1日の間に10回以上とか、ひどいときには20回以上、起きることが続いていた。(2021年9月27日放送)
複雑性PTSDは虐待のような悲惨な体験を長期間受け続けた人に生じる心の病
精神科医・和田秀樹「複雑性PTSDなんかではない」眞子さまの本当の病名は
宮内庁は10月1日、眞子さま(29)と小室圭さん(29)が同月26日に結婚されると正式発表するとともに、眞子さまが「複雑性PTSD」と診断されたことを明らかにした。精神科医の和田秀樹さんは「会見に同席した精神科医は『結婚について周囲から温かい見守りがあれば、健康の回復が速やかに進むとみられる』と発言しましたが、これは国民に誤解を与え、現実に複雑性PTSDの症状に苦しむ虐待サバイバーに脅威を与えるおそれがある」という。その理由とは――。

■精神科医が腰を抜かすほど驚いた「眞子さまは複雑性PTSD」
 宮内庁は1日、秋篠宮家の長女・眞子さま(29)が「複雑性心的外傷後ストレス障害(PTSD)」と診断されたことを明らかにした。
 1991〜94年にアメリカに留学して以来、この疾患に向き合ってきた私は、宮内庁のその後の説明を聞くにつけて、腰を抜かすほど驚いてしまった。 なぜなら、複雑性PTSDとは虐待のような悲惨な体験を長期間受け続けた人に生じる心の病であり、治療も大変困難なものとされているからだ。

 眞子さまの場合、もし、環境が変わり周囲の批判がなくなった結果、秋山医師が断言したように「健康の回復が速やかに進むとみられる」ならば、それは複雑性PTSDなどという心の重病でない。眞子さまはおそらく適応障害にあたるのではないかと思う。

 1970年代、ベトナム戦争で兵士が受けた心理的後遺症やレイプトラウマの研究が進み、1980年に発表されたアメリカ精神医学会の診断基準第3版(DSM-3)に「PTSD」という病名が採用された。

 その後もトラウマ研究が進み、児童虐待のような長期反復型のトラウマ体験の場合は、もっと深刻な病状が生じることがわかってきた。

 当時のアメリカにおけるトラウマ研究の第一人者であるジュディス・ハーマン(ハーバード大学准教授)は、その主著と言える『心的外傷と回復』(みすず書房)において、複雑性PTSDという病名を提起した。

■複雑性PTSDの症状…自傷行為、性的逸脱、解離症状、希望喪失

 ハーマンが提起し、94年に発表されたアメリカ精神医学会の診断基準第4版(DSM-4)の「複雑性PTSD」に加えることが検討された症状には以下のようなものが列挙された。

1:感情制御の変化(自傷行為や性的逸脱など)
2:意識変化(解離症状など)
3:自己の感覚の変化(恥の意識など)
4:加害者への感覚の変化(復讐への没頭だけでなく、加害者を理想化することもある)
5:他者との関係の変化(孤立・ひきこもりなど)
6:意味体系の変化(希望喪失など)

 実際、私の留学中も虐待の被害者の患者をかなりの数で診たが、この指摘には心当たりがある。ここで注目したいのは、2の項目にある「解離」という症状だ。

 解離は、自分の忌まわしい記憶をふだんとは別の意識状態に置くことで生じると考えられている。要するにトラウマ的な出来事を覚えている意識状態と、普段の意識状態は、別の意識状態になっている。

 そのため、その人は、トラウマ的出来事を覚えている意識状態になったときのことは覚えていないし、その意識状態は、普段の意識状態と連続性をもたない。

 解離性健忘の場合、その解離状態の時の言動を覚えておらず、かなりの暴言を吐いても、犯罪的な行為(万引きや暴行など)や性的逸脱を行っても、それを覚えていない。

 別の意識状態になったときにアイデンティティ(自分が子どもか大人かとか、ふだんの名前や役職など)まで変わってしまう状態は多重人格と呼ばれてきたが、DSM-4では解離性同一性(アイデンティティ)障害と呼ばれるようになった。

■「複雑性PTSDとは、悪口レベルの外傷的体験ではない」
 実際、この診断基準で挙げられている逃れることが困難もしくは不可能な状況で、長期間・反復的に、著しい脅威や恐怖をもたらす出来事の例としては、「反復的な小児期の性的虐待・身体的虐待」のほか、「拷問」「奴隷」「集団虐殺」が挙げられている。けっして悪口レベルの外傷的体験などではない。

 ※児童虐待を受けたあと、生き残り、心の病に苦しんでいる人たち。

 自らが虐待サバイバーで複雑性PTSDの実際の症状を赤裸々に記録した『わたし、虐待サバイバー』(ブックマン社)の著者である羽馬千恵さんは、自身が発行するメルマガ(※)の中で、「虐待が終わってからが、本当の地獄だった」と記している。

 虐待を受けた子供たちは大人になり複雑性PTSDに苦しむわけだが、親元を離れ、虐待を受けなくなったり、多少周囲が温かくしてくれたりしところで、そう簡単に治るものではない。

 つい最近も3歳児が母親の同居人の虐待で死亡した事件があったが、それに関するニュースの多くは、初動で行政がしっかり対応していたら死ななくてすんだという類のものだった。

 たしかにそういう面もあるかもしれない。しかし、もっと重要なのは子供の今後の人生だ。「運よく生き残ったから、よかった」で済む問題ではない。生き残った子供たちは下手をすると生涯にわたる複雑性PTSDに苦しむのである。

 人格変化のために周囲の人が犠牲になることさえある。古くは永山則夫事件、あるいは大阪・池田小事件の宅間死刑囚、そして山口県光市の母子殺しの少年など、子供時代などに虐待を受けた人物が起こす重大事件は枚挙に暇がない。

 銃社会のアメリカでは、虐待を受けた子供が将来重大犯罪を起こすことが多いことも、虐待を受けた子供を親元に返さない大きな理由となっている。

 その一方、虐待をしてしまった親に対するカウンセリングも重要だ。アメリカではこれが盛んに行われ、カウンセラーが認めれば、子供はその親元に返される。
http://www.asyura2.com/24/ban12/msg/200.html#c1

[近代史02] アタマに効く温泉 中川隆
39. 中川隆[-9141] koaQ7Jey 2024年9月13日 10:21:28 : P3g0N01uLY : dWE0NWRmMlhZcm8=[9]
なぜ、植物油で癲癇 パーキンソン病 統合失調症が悪化するのか? 神経疾患は偶然じゃない、食原病です
吉野敏明チャンネル〜日本の病を治す〜
https://www.youtube.com/watch?v=_wk0j3zLSoI
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/345.html#c39
[番外地7] アタマに効く温泉・アトピーに効く温泉 中川隆
1. 中川隆[-9140] koaQ7Jey 2024年9月13日 10:21:45 : P3g0N01uLY : dWE0NWRmMlhZcm8=[10]
なぜ、植物油で癲癇 パーキンソン病 統合失調症が悪化するのか? 神経疾患は偶然じゃない、食原病です
吉野敏明チャンネル〜日本の病を治す〜
https://www.youtube.com/watch?v=_wk0j3zLSoI
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/396.html#c1
[近代史4] 売国政治家列伝 _ 小泉進次郎 中川隆
11. 中川隆[-9139] koaQ7Jey 2024年9月13日 11:50:00 : P3g0N01uLY : dWE0NWRmMlhZcm8=[11]
【Front Japan 桜】「小泉進次郎は売国奴である」これだけの理由 [桜R6/9/13]
https://www.youtube.com/watch?v=cMw0bHgUQZA
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/791.html#c11
[近代史4] 統合失調症患者が体験する世界 中川隆
11. 中川隆[-9138] koaQ7Jey 2024年9月13日 14:06:56 : P3g0N01uLY : dWE0NWRmMlhZcm8=[12]
なぜ、植物油で癲癇 パーキンソン病 統合失調症が悪化するのか? 神経疾患は偶然じゃない、食原病です
吉野敏明チャンネル〜日本の病を治す〜
https://www.youtube.com/watch?v=_wk0j3zLSoI
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/419.html#c11
[近代史3] みんなが騙された悪質なデマ _ 「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗… 中川隆
8. 中川隆[-9137] koaQ7Jey 2024年9月13日 16:57:52 : P3g0N01uLY : dWE0NWRmMlhZcm8=[13]
<■93行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
『後期日中戦争華北戦線:太平洋戦争下の中国戦線U』 著・広中一成
2024年9月12日
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677


https://www.amazon.co.jp/%E5%BE%8C%E6%9C%9F%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89-%E8%8F%AF%E5%8C%97%E6%88%A6%E7%B7%9A-%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%B8%8B%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%88%A6%E7%B7%9A2-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%BA%83%E4%B8%AD/dp/4040824334#:~:text=%E5%BA%83%E4%B8%AD%20%E4%B8%80%E6%88%90%20(%E8%91%97)

 敗戦から79回目の夏を迎え、先の大戦がなぜ起こったのか、二度とあのような悲劇を起こさないためになにができるかをめぐって論議が活発になっている。

 この本は、太平洋戦争の真っ最中に中国戦線で何が起きていたのかをテーマにしている。日中戦争は、1937年の盧溝橋事件から日本が敗戦を迎えた1945年8月まで続くが、その途上の41年12月に日米戦争が開戦してからはそれまでと様相が一変してしまったのに、戦後の研究では注目されないままにきていた。1978年生まれ、愛知学院大学准教授の著者は、これまでの研究の蓄積を踏まえつつ、日米戦争開戦以降の中国戦線、それも華北戦線(主に河北・山西・山東・河南の四省)に着目し、そこで何が起こったかをまとめた。2021年に同じ著者が著した『後期日中戦争―太平洋戦争下の中国戦線』の続編である。

 日中戦争の開戦時から敗戦まで、中国には日本陸軍の100万人以上の兵士が釘付けになっていた。1941年当時、華北には日本陸軍の北支那方面軍35万4000人がいたが、八路軍の遊撃戦に翻弄され、広大な中国大陸の点と線の支配しかできていなかった日本軍は、次第に追い詰められていた。業を煮やした日本軍が使ったのが毒ガスと細菌兵器であり、三光作戦(焼き尽くす・殺し尽くす・奪い尽くす)だった。

 この本にはたくさんの兵士の証言が掲載されている。そのなかには「日本のためにならない匪(ひ)賊を退治するのが戦争だと学校の先生も、お役人も、坊さんもそう教えた。私はお国のために尽くせる兵隊となって戦地に渡った。だが、戦場は違った」「“部落掃討、火をつけろ”という大隊長の命令が伝わるや、和やかだった部落に日本兵の怒号が響く。100軒あまりの家が1軒残らず焼き払われ、逃げ遅れた婦人や子供、老人や病人、数十人の人たちが、家もろともに焼き殺され、あるいは刺し殺された」という証言がある。

 しかし日本軍は八路軍を撃退できなかったばかりか、かえって戦力を増大させて反撃を受けた。ある将校は戦後、「日本軍はバカの一つ覚えのように、満州事変頃と同じ匪賊討伐をくり返し、その観念から抜けきれなかった。そして八路軍の勢力が伸張していくのは、思想の力でも首脳部の領導のよさでもなく、具体的に民衆の訴えに応えてやる者が彼らしかいなかったからだ」と書いている。

 一方、一銭五厘の赤紙で召集された日本の兵士も悲惨なものだった。1944年4月、大本営は「米軍が使っている中国南西部の飛行場を撃滅せよ」とって、51万人の日本兵に1500`の行軍を強いた。これは「大陸打通作戦」と呼ばれるが、米軍の空襲を避けながらの強行軍で、アメーバ赤痢やマラリアにかかって脱落する兵士があいつぎ、約10万人が戦病死したという。中国戦線でももはや武器弾薬も食料もなく、まともに戦える状態ではなかった。

 この頃から華北では、八路軍の反転攻勢が始まる。日本軍の補給路を断ち、日本側の拠点を次々と奪取したこと、日本軍の支配から解放した地区では農民たちに対する租税減免を徹底したことなどが記されている。ヨーロッパ戦線に目を転じれば、43年頃からソ連軍がドイツ軍に対して優位に立った。

 この頃の日本軍占領地について、北支那方面軍の参謀だった寒川吉溢はこう振り返っている。「方面軍占領地域である三特別市(北京・天津・青島)と400県において、治安良好なのは3特別市の他七県(1・6%)に過ぎず、八路軍の支配と認めざるをえないものが139県(31・5%)。全体の66・9%に当たる295県でも、日本軍は県城を中心に若干の郷村に分駐しているだけで、民心はむしろ八路軍側に傾くものが多い」という実情だった。

 済南に米軍上陸を阻止するための陣地を構築していた第42大隊歩兵砲中隊の真壁秀松は、当時をこう振り返っている。「四方八方敵だらけ、八路軍が集合し攻撃をかけてきたようである。あっという間もなく旅団長が倒れる。司令部が慌てふためく。旅団にしてもわが大隊にしても、指揮系統が乱れて烏合の衆といってよく、まったく処置なしである」

勝利の見込みなく日米開戦

 著者は以上のことから、「太平洋戦争で日本は完膚なきまでに叩きのめされた。だが、もう一つ知っておかねばならないのは、華北戦線でも八路軍の反転攻勢で日本軍は一気に崩壊し、完全に敗北したということだ。このことを認めれば、アジア太平洋戦争に対するわれわれの歴史認識もさらに正確なものになるだろう」と指摘している。

 さらにいえば、すでに1941年の日米開戦時に、中国戦線での日本軍の戦死者は18万5000人を数え、勝利の見込みは断ち切られていた。太平洋戦争でアメリカに負ける前に、中国でさんざんにやられていたのだ。当時、アメリカと日本の戦争の最大争点は中国市場の争奪にあり、日本がアメリカの蒋介石への支援ルートを断とうとすると、アメリカは在米資産凍結、石油輸出の全面禁止をやり、中国からの日本軍の全面撤退を要求した。しかし天皇をはじめ日本の権力中枢は、中国に敗北したとなれば自分たちの権威は丸つぶれとなり、そこから内乱・革命に発展することを恐れて、日米開戦に進み、最後には日本全国を焦土にしてアメリカの単独占領を受け入れた。彼らは国民がどうなろうが、自分たちの地位を守ることにしか関心がない。こうしたことを含め、第二次大戦の性質をめぐる研究がさらに進むことが期待される。

 (角川新書、302ページ、定価960円+税)
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/747.html#c8

[近代史3] 鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた 中川隆
22. 中川隆[-9136] koaQ7Jey 2024年9月13日 16:58:15 : P3g0N01uLY : dWE0NWRmMlhZcm8=[14]
<■93行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
『後期日中戦争華北戦線:太平洋戦争下の中国戦線U』 著・広中一成
2024年9月12日
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677


https://www.amazon.co.jp/%E5%BE%8C%E6%9C%9F%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89-%E8%8F%AF%E5%8C%97%E6%88%A6%E7%B7%9A-%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%B8%8B%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%88%A6%E7%B7%9A2-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%BA%83%E4%B8%AD/dp/4040824334#:~:text=%E5%BA%83%E4%B8%AD%20%E4%B8%80%E6%88%90%20(%E8%91%97)

 敗戦から79回目の夏を迎え、先の大戦がなぜ起こったのか、二度とあのような悲劇を起こさないためになにができるかをめぐって論議が活発になっている。

 この本は、太平洋戦争の真っ最中に中国戦線で何が起きていたのかをテーマにしている。日中戦争は、1937年の盧溝橋事件から日本が敗戦を迎えた1945年8月まで続くが、その途上の41年12月に日米戦争が開戦してからはそれまでと様相が一変してしまったのに、戦後の研究では注目されないままにきていた。1978年生まれ、愛知学院大学准教授の著者は、これまでの研究の蓄積を踏まえつつ、日米戦争開戦以降の中国戦線、それも華北戦線(主に河北・山西・山東・河南の四省)に着目し、そこで何が起こったかをまとめた。2021年に同じ著者が著した『後期日中戦争―太平洋戦争下の中国戦線』の続編である。

 日中戦争の開戦時から敗戦まで、中国には日本陸軍の100万人以上の兵士が釘付けになっていた。1941年当時、華北には日本陸軍の北支那方面軍35万4000人がいたが、八路軍の遊撃戦に翻弄され、広大な中国大陸の点と線の支配しかできていなかった日本軍は、次第に追い詰められていた。業を煮やした日本軍が使ったのが毒ガスと細菌兵器であり、三光作戦(焼き尽くす・殺し尽くす・奪い尽くす)だった。

 この本にはたくさんの兵士の証言が掲載されている。そのなかには「日本のためにならない匪(ひ)賊を退治するのが戦争だと学校の先生も、お役人も、坊さんもそう教えた。私はお国のために尽くせる兵隊となって戦地に渡った。だが、戦場は違った」「“部落掃討、火をつけろ”という大隊長の命令が伝わるや、和やかだった部落に日本兵の怒号が響く。100軒あまりの家が1軒残らず焼き払われ、逃げ遅れた婦人や子供、老人や病人、数十人の人たちが、家もろともに焼き殺され、あるいは刺し殺された」という証言がある。

 しかし日本軍は八路軍を撃退できなかったばかりか、かえって戦力を増大させて反撃を受けた。ある将校は戦後、「日本軍はバカの一つ覚えのように、満州事変頃と同じ匪賊討伐をくり返し、その観念から抜けきれなかった。そして八路軍の勢力が伸張していくのは、思想の力でも首脳部の領導のよさでもなく、具体的に民衆の訴えに応えてやる者が彼らしかいなかったからだ」と書いている。

 一方、一銭五厘の赤紙で召集された日本の兵士も悲惨なものだった。1944年4月、大本営は「米軍が使っている中国南西部の飛行場を撃滅せよ」とって、51万人の日本兵に1500`の行軍を強いた。これは「大陸打通作戦」と呼ばれるが、米軍の空襲を避けながらの強行軍で、アメーバ赤痢やマラリアにかかって脱落する兵士があいつぎ、約10万人が戦病死したという。中国戦線でももはや武器弾薬も食料もなく、まともに戦える状態ではなかった。

 この頃から華北では、八路軍の反転攻勢が始まる。日本軍の補給路を断ち、日本側の拠点を次々と奪取したこと、日本軍の支配から解放した地区では農民たちに対する租税減免を徹底したことなどが記されている。ヨーロッパ戦線に目を転じれば、43年頃からソ連軍がドイツ軍に対して優位に立った。

 この頃の日本軍占領地について、北支那方面軍の参謀だった寒川吉溢はこう振り返っている。「方面軍占領地域である三特別市(北京・天津・青島)と400県において、治安良好なのは3特別市の他七県(1・6%)に過ぎず、八路軍の支配と認めざるをえないものが139県(31・5%)。全体の66・9%に当たる295県でも、日本軍は県城を中心に若干の郷村に分駐しているだけで、民心はむしろ八路軍側に傾くものが多い」という実情だった。

 済南に米軍上陸を阻止するための陣地を構築していた第42大隊歩兵砲中隊の真壁秀松は、当時をこう振り返っている。「四方八方敵だらけ、八路軍が集合し攻撃をかけてきたようである。あっという間もなく旅団長が倒れる。司令部が慌てふためく。旅団にしてもわが大隊にしても、指揮系統が乱れて烏合の衆といってよく、まったく処置なしである」

勝利の見込みなく日米開戦

 著者は以上のことから、「太平洋戦争で日本は完膚なきまでに叩きのめされた。だが、もう一つ知っておかねばならないのは、華北戦線でも八路軍の反転攻勢で日本軍は一気に崩壊し、完全に敗北したということだ。このことを認めれば、アジア太平洋戦争に対するわれわれの歴史認識もさらに正確なものになるだろう」と指摘している。

 さらにいえば、すでに1941年の日米開戦時に、中国戦線での日本軍の戦死者は18万5000人を数え、勝利の見込みは断ち切られていた。太平洋戦争でアメリカに負ける前に、中国でさんざんにやられていたのだ。当時、アメリカと日本の戦争の最大争点は中国市場の争奪にあり、日本がアメリカの蒋介石への支援ルートを断とうとすると、アメリカは在米資産凍結、石油輸出の全面禁止をやり、中国からの日本軍の全面撤退を要求した。しかし天皇をはじめ日本の権力中枢は、中国に敗北したとなれば自分たちの権威は丸つぶれとなり、そこから内乱・革命に発展することを恐れて、日米開戦に進み、最後には日本全国を焦土にしてアメリカの単独占領を受け入れた。彼らは国民がどうなろうが、自分たちの地位を守ることにしか関心がない。こうしたことを含め、第二次大戦の性質をめぐる研究がさらに進むことが期待される。

 (角川新書、302ページ、定価960円+税)
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html#c22

[近代史3] ディビット・バーガミニ _ 天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた 中川隆
9. 中川隆[-9135] koaQ7Jey 2024年9月13日 16:58:31 : P3g0N01uLY : dWE0NWRmMlhZcm8=[15]
<■93行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
『後期日中戦争華北戦線:太平洋戦争下の中国戦線U』 著・広中一成
2024年9月12日
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677


https://www.amazon.co.jp/%E5%BE%8C%E6%9C%9F%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89-%E8%8F%AF%E5%8C%97%E6%88%A6%E7%B7%9A-%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%B8%8B%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%88%A6%E7%B7%9A2-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%BA%83%E4%B8%AD/dp/4040824334#:~:text=%E5%BA%83%E4%B8%AD%20%E4%B8%80%E6%88%90%20(%E8%91%97)

 敗戦から79回目の夏を迎え、先の大戦がなぜ起こったのか、二度とあのような悲劇を起こさないためになにができるかをめぐって論議が活発になっている。

 この本は、太平洋戦争の真っ最中に中国戦線で何が起きていたのかをテーマにしている。日中戦争は、1937年の盧溝橋事件から日本が敗戦を迎えた1945年8月まで続くが、その途上の41年12月に日米戦争が開戦してからはそれまでと様相が一変してしまったのに、戦後の研究では注目されないままにきていた。1978年生まれ、愛知学院大学准教授の著者は、これまでの研究の蓄積を踏まえつつ、日米戦争開戦以降の中国戦線、それも華北戦線(主に河北・山西・山東・河南の四省)に着目し、そこで何が起こったかをまとめた。2021年に同じ著者が著した『後期日中戦争―太平洋戦争下の中国戦線』の続編である。

 日中戦争の開戦時から敗戦まで、中国には日本陸軍の100万人以上の兵士が釘付けになっていた。1941年当時、華北には日本陸軍の北支那方面軍35万4000人がいたが、八路軍の遊撃戦に翻弄され、広大な中国大陸の点と線の支配しかできていなかった日本軍は、次第に追い詰められていた。業を煮やした日本軍が使ったのが毒ガスと細菌兵器であり、三光作戦(焼き尽くす・殺し尽くす・奪い尽くす)だった。

 この本にはたくさんの兵士の証言が掲載されている。そのなかには「日本のためにならない匪(ひ)賊を退治するのが戦争だと学校の先生も、お役人も、坊さんもそう教えた。私はお国のために尽くせる兵隊となって戦地に渡った。だが、戦場は違った」「“部落掃討、火をつけろ”という大隊長の命令が伝わるや、和やかだった部落に日本兵の怒号が響く。100軒あまりの家が1軒残らず焼き払われ、逃げ遅れた婦人や子供、老人や病人、数十人の人たちが、家もろともに焼き殺され、あるいは刺し殺された」という証言がある。

 しかし日本軍は八路軍を撃退できなかったばかりか、かえって戦力を増大させて反撃を受けた。ある将校は戦後、「日本軍はバカの一つ覚えのように、満州事変頃と同じ匪賊討伐をくり返し、その観念から抜けきれなかった。そして八路軍の勢力が伸張していくのは、思想の力でも首脳部の領導のよさでもなく、具体的に民衆の訴えに応えてやる者が彼らしかいなかったからだ」と書いている。

 一方、一銭五厘の赤紙で召集された日本の兵士も悲惨なものだった。1944年4月、大本営は「米軍が使っている中国南西部の飛行場を撃滅せよ」とって、51万人の日本兵に1500`の行軍を強いた。これは「大陸打通作戦」と呼ばれるが、米軍の空襲を避けながらの強行軍で、アメーバ赤痢やマラリアにかかって脱落する兵士があいつぎ、約10万人が戦病死したという。中国戦線でももはや武器弾薬も食料もなく、まともに戦える状態ではなかった。

 この頃から華北では、八路軍の反転攻勢が始まる。日本軍の補給路を断ち、日本側の拠点を次々と奪取したこと、日本軍の支配から解放した地区では農民たちに対する租税減免を徹底したことなどが記されている。ヨーロッパ戦線に目を転じれば、43年頃からソ連軍がドイツ軍に対して優位に立った。

 この頃の日本軍占領地について、北支那方面軍の参謀だった寒川吉溢はこう振り返っている。「方面軍占領地域である三特別市(北京・天津・青島)と400県において、治安良好なのは3特別市の他七県(1・6%)に過ぎず、八路軍の支配と認めざるをえないものが139県(31・5%)。全体の66・9%に当たる295県でも、日本軍は県城を中心に若干の郷村に分駐しているだけで、民心はむしろ八路軍側に傾くものが多い」という実情だった。

 済南に米軍上陸を阻止するための陣地を構築していた第42大隊歩兵砲中隊の真壁秀松は、当時をこう振り返っている。「四方八方敵だらけ、八路軍が集合し攻撃をかけてきたようである。あっという間もなく旅団長が倒れる。司令部が慌てふためく。旅団にしてもわが大隊にしても、指揮系統が乱れて烏合の衆といってよく、まったく処置なしである」

勝利の見込みなく日米開戦

 著者は以上のことから、「太平洋戦争で日本は完膚なきまでに叩きのめされた。だが、もう一つ知っておかねばならないのは、華北戦線でも八路軍の反転攻勢で日本軍は一気に崩壊し、完全に敗北したということだ。このことを認めれば、アジア太平洋戦争に対するわれわれの歴史認識もさらに正確なものになるだろう」と指摘している。

 さらにいえば、すでに1941年の日米開戦時に、中国戦線での日本軍の戦死者は18万5000人を数え、勝利の見込みは断ち切られていた。太平洋戦争でアメリカに負ける前に、中国でさんざんにやられていたのだ。当時、アメリカと日本の戦争の最大争点は中国市場の争奪にあり、日本がアメリカの蒋介石への支援ルートを断とうとすると、アメリカは在米資産凍結、石油輸出の全面禁止をやり、中国からの日本軍の全面撤退を要求した。しかし天皇をはじめ日本の権力中枢は、中国に敗北したとなれば自分たちの権威は丸つぶれとなり、そこから内乱・革命に発展することを恐れて、日米開戦に進み、最後には日本全国を焦土にしてアメリカの単独占領を受け入れた。彼らは国民がどうなろうが、自分たちの地位を守ることにしか関心がない。こうしたことを含め、第二次大戦の性質をめぐる研究がさらに進むことが期待される。

 (角川新書、302ページ、定価960円+税)
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/760.html#c9

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
248. 中川隆[-9134] koaQ7Jey 2024年9月13日 17:00:50 : P3g0N01uLY : dWE0NWRmMlhZcm8=[16]
<■93行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
『後期日中戦争華北戦線:太平洋戦争下の中国戦線U』 著・広中一成
2024年9月12日
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677


https://www.amazon.co.jp/%E5%BE%8C%E6%9C%9F%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89-%E8%8F%AF%E5%8C%97%E6%88%A6%E7%B7%9A-%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%B8%8B%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%88%A6%E7%B7%9A2-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%BA%83%E4%B8%AD/dp/4040824334#:~:text=%E5%BA%83%E4%B8%AD%20%E4%B8%80%E6%88%90%20(%E8%91%97)

 敗戦から79回目の夏を迎え、先の大戦がなぜ起こったのか、二度とあのような悲劇を起こさないためになにができるかをめぐって論議が活発になっている。

 この本は、太平洋戦争の真っ最中に中国戦線で何が起きていたのかをテーマにしている。日中戦争は、1937年の盧溝橋事件から日本が敗戦を迎えた1945年8月まで続くが、その途上の41年12月に日米戦争が開戦してからはそれまでと様相が一変してしまったのに、戦後の研究では注目されないままにきていた。1978年生まれ、愛知学院大学准教授の著者は、これまでの研究の蓄積を踏まえつつ、日米戦争開戦以降の中国戦線、それも華北戦線(主に河北・山西・山東・河南の四省)に着目し、そこで何が起こったかをまとめた。2021年に同じ著者が著した『後期日中戦争―太平洋戦争下の中国戦線』の続編である。

 日中戦争の開戦時から敗戦まで、中国には日本陸軍の100万人以上の兵士が釘付けになっていた。1941年当時、華北には日本陸軍の北支那方面軍35万4000人がいたが、八路軍の遊撃戦に翻弄され、広大な中国大陸の点と線の支配しかできていなかった日本軍は、次第に追い詰められていた。業を煮やした日本軍が使ったのが毒ガスと細菌兵器であり、三光作戦(焼き尽くす・殺し尽くす・奪い尽くす)だった。

 この本にはたくさんの兵士の証言が掲載されている。そのなかには「日本のためにならない匪(ひ)賊を退治するのが戦争だと学校の先生も、お役人も、坊さんもそう教えた。私はお国のために尽くせる兵隊となって戦地に渡った。だが、戦場は違った」「“部落掃討、火をつけろ”という大隊長の命令が伝わるや、和やかだった部落に日本兵の怒号が響く。100軒あまりの家が1軒残らず焼き払われ、逃げ遅れた婦人や子供、老人や病人、数十人の人たちが、家もろともに焼き殺され、あるいは刺し殺された」という証言がある。

 しかし日本軍は八路軍を撃退できなかったばかりか、かえって戦力を増大させて反撃を受けた。ある将校は戦後、「日本軍はバカの一つ覚えのように、満州事変頃と同じ匪賊討伐をくり返し、その観念から抜けきれなかった。そして八路軍の勢力が伸張していくのは、思想の力でも首脳部の領導のよさでもなく、具体的に民衆の訴えに応えてやる者が彼らしかいなかったからだ」と書いている。

 一方、一銭五厘の赤紙で召集された日本の兵士も悲惨なものだった。1944年4月、大本営は「米軍が使っている中国南西部の飛行場を撃滅せよ」とって、51万人の日本兵に1500`の行軍を強いた。これは「大陸打通作戦」と呼ばれるが、米軍の空襲を避けながらの強行軍で、アメーバ赤痢やマラリアにかかって脱落する兵士があいつぎ、約10万人が戦病死したという。中国戦線でももはや武器弾薬も食料もなく、まともに戦える状態ではなかった。

 この頃から華北では、八路軍の反転攻勢が始まる。日本軍の補給路を断ち、日本側の拠点を次々と奪取したこと、日本軍の支配から解放した地区では農民たちに対する租税減免を徹底したことなどが記されている。ヨーロッパ戦線に目を転じれば、43年頃からソ連軍がドイツ軍に対して優位に立った。

 この頃の日本軍占領地について、北支那方面軍の参謀だった寒川吉溢はこう振り返っている。「方面軍占領地域である三特別市(北京・天津・青島)と400県において、治安良好なのは3特別市の他七県(1・6%)に過ぎず、八路軍の支配と認めざるをえないものが139県(31・5%)。全体の66・9%に当たる295県でも、日本軍は県城を中心に若干の郷村に分駐しているだけで、民心はむしろ八路軍側に傾くものが多い」という実情だった。

 済南に米軍上陸を阻止するための陣地を構築していた第42大隊歩兵砲中隊の真壁秀松は、当時をこう振り返っている。「四方八方敵だらけ、八路軍が集合し攻撃をかけてきたようである。あっという間もなく旅団長が倒れる。司令部が慌てふためく。旅団にしてもわが大隊にしても、指揮系統が乱れて烏合の衆といってよく、まったく処置なしである」

勝利の見込みなく日米開戦

 著者は以上のことから、「太平洋戦争で日本は完膚なきまでに叩きのめされた。だが、もう一つ知っておかねばならないのは、華北戦線でも八路軍の反転攻勢で日本軍は一気に崩壊し、完全に敗北したということだ。このことを認めれば、アジア太平洋戦争に対するわれわれの歴史認識もさらに正確なものになるだろう」と指摘している。

 さらにいえば、すでに1941年の日米開戦時に、中国戦線での日本軍の戦死者は18万5000人を数え、勝利の見込みは断ち切られていた。太平洋戦争でアメリカに負ける前に、中国でさんざんにやられていたのだ。当時、アメリカと日本の戦争の最大争点は中国市場の争奪にあり、日本がアメリカの蒋介石への支援ルートを断とうとすると、アメリカは在米資産凍結、石油輸出の全面禁止をやり、中国からの日本軍の全面撤退を要求した。しかし天皇をはじめ日本の権力中枢は、中国に敗北したとなれば自分たちの権威は丸つぶれとなり、そこから内乱・革命に発展することを恐れて、日米開戦に進み、最後には日本全国を焦土にしてアメリカの単独占領を受け入れた。彼らは国民がどうなろうが、自分たちの地位を守ることにしか関心がない。こうしたことを含め、第二次大戦の性質をめぐる研究がさらに進むことが期待される。

 (角川新書、302ページ、定価960円+税)
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c248

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
101. 中川隆[-9133] koaQ7Jey 2024年9月13日 17:01:07 : P3g0N01uLY : dWE0NWRmMlhZcm8=[17]
<■93行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
『後期日中戦争華北戦線:太平洋戦争下の中国戦線U』 著・広中一成
2024年9月12日
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677


https://www.amazon.co.jp/%E5%BE%8C%E6%9C%9F%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89-%E8%8F%AF%E5%8C%97%E6%88%A6%E7%B7%9A-%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%B8%8B%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%88%A6%E7%B7%9A2-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%BA%83%E4%B8%AD/dp/4040824334#:~:text=%E5%BA%83%E4%B8%AD%20%E4%B8%80%E6%88%90%20(%E8%91%97)

 敗戦から79回目の夏を迎え、先の大戦がなぜ起こったのか、二度とあのような悲劇を起こさないためになにができるかをめぐって論議が活発になっている。

 この本は、太平洋戦争の真っ最中に中国戦線で何が起きていたのかをテーマにしている。日中戦争は、1937年の盧溝橋事件から日本が敗戦を迎えた1945年8月まで続くが、その途上の41年12月に日米戦争が開戦してからはそれまでと様相が一変してしまったのに、戦後の研究では注目されないままにきていた。1978年生まれ、愛知学院大学准教授の著者は、これまでの研究の蓄積を踏まえつつ、日米戦争開戦以降の中国戦線、それも華北戦線(主に河北・山西・山東・河南の四省)に着目し、そこで何が起こったかをまとめた。2021年に同じ著者が著した『後期日中戦争―太平洋戦争下の中国戦線』の続編である。

 日中戦争の開戦時から敗戦まで、中国には日本陸軍の100万人以上の兵士が釘付けになっていた。1941年当時、華北には日本陸軍の北支那方面軍35万4000人がいたが、八路軍の遊撃戦に翻弄され、広大な中国大陸の点と線の支配しかできていなかった日本軍は、次第に追い詰められていた。業を煮やした日本軍が使ったのが毒ガスと細菌兵器であり、三光作戦(焼き尽くす・殺し尽くす・奪い尽くす)だった。

 この本にはたくさんの兵士の証言が掲載されている。そのなかには「日本のためにならない匪(ひ)賊を退治するのが戦争だと学校の先生も、お役人も、坊さんもそう教えた。私はお国のために尽くせる兵隊となって戦地に渡った。だが、戦場は違った」「“部落掃討、火をつけろ”という大隊長の命令が伝わるや、和やかだった部落に日本兵の怒号が響く。100軒あまりの家が1軒残らず焼き払われ、逃げ遅れた婦人や子供、老人や病人、数十人の人たちが、家もろともに焼き殺され、あるいは刺し殺された」という証言がある。

 しかし日本軍は八路軍を撃退できなかったばかりか、かえって戦力を増大させて反撃を受けた。ある将校は戦後、「日本軍はバカの一つ覚えのように、満州事変頃と同じ匪賊討伐をくり返し、その観念から抜けきれなかった。そして八路軍の勢力が伸張していくのは、思想の力でも首脳部の領導のよさでもなく、具体的に民衆の訴えに応えてやる者が彼らしかいなかったからだ」と書いている。

 一方、一銭五厘の赤紙で召集された日本の兵士も悲惨なものだった。1944年4月、大本営は「米軍が使っている中国南西部の飛行場を撃滅せよ」とって、51万人の日本兵に1500`の行軍を強いた。これは「大陸打通作戦」と呼ばれるが、米軍の空襲を避けながらの強行軍で、アメーバ赤痢やマラリアにかかって脱落する兵士があいつぎ、約10万人が戦病死したという。中国戦線でももはや武器弾薬も食料もなく、まともに戦える状態ではなかった。

 この頃から華北では、八路軍の反転攻勢が始まる。日本軍の補給路を断ち、日本側の拠点を次々と奪取したこと、日本軍の支配から解放した地区では農民たちに対する租税減免を徹底したことなどが記されている。ヨーロッパ戦線に目を転じれば、43年頃からソ連軍がドイツ軍に対して優位に立った。

 この頃の日本軍占領地について、北支那方面軍の参謀だった寒川吉溢はこう振り返っている。「方面軍占領地域である三特別市(北京・天津・青島)と400県において、治安良好なのは3特別市の他七県(1・6%)に過ぎず、八路軍の支配と認めざるをえないものが139県(31・5%)。全体の66・9%に当たる295県でも、日本軍は県城を中心に若干の郷村に分駐しているだけで、民心はむしろ八路軍側に傾くものが多い」という実情だった。

 済南に米軍上陸を阻止するための陣地を構築していた第42大隊歩兵砲中隊の真壁秀松は、当時をこう振り返っている。「四方八方敵だらけ、八路軍が集合し攻撃をかけてきたようである。あっという間もなく旅団長が倒れる。司令部が慌てふためく。旅団にしてもわが大隊にしても、指揮系統が乱れて烏合の衆といってよく、まったく処置なしである」

勝利の見込みなく日米開戦

 著者は以上のことから、「太平洋戦争で日本は完膚なきまでに叩きのめされた。だが、もう一つ知っておかねばならないのは、華北戦線でも八路軍の反転攻勢で日本軍は一気に崩壊し、完全に敗北したということだ。このことを認めれば、アジア太平洋戦争に対するわれわれの歴史認識もさらに正確なものになるだろう」と指摘している。

 さらにいえば、すでに1941年の日米開戦時に、中国戦線での日本軍の戦死者は18万5000人を数え、勝利の見込みは断ち切られていた。太平洋戦争でアメリカに負ける前に、中国でさんざんにやられていたのだ。当時、アメリカと日本の戦争の最大争点は中国市場の争奪にあり、日本がアメリカの蒋介石への支援ルートを断とうとすると、アメリカは在米資産凍結、石油輸出の全面禁止をやり、中国からの日本軍の全面撤退を要求した。しかし天皇をはじめ日本の権力中枢は、中国に敗北したとなれば自分たちの権威は丸つぶれとなり、そこから内乱・革命に発展することを恐れて、日米開戦に進み、最後には日本全国を焦土にしてアメリカの単独占領を受け入れた。彼らは国民がどうなろうが、自分たちの地位を守ることにしか関心がない。こうしたことを含め、第二次大戦の性質をめぐる研究がさらに進むことが期待される。

 (角川新書、302ページ、定価960円+税)
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c101

   

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > dWE0NWRmMlhZcm8= > 100000  g検索 dWE0NWRmMlhZcm8=

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。