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http://www.asyura2.com/acat/d/dg/dgh/dGhQLjRSQk5RSlE=/100118.html
[近代史4] 中川隆投稿集 _ 「ラブドール」は女性の代わりにならない 中川隆
2. 中川隆[-13763] koaQ7Jey 2020年2月15日 15:42:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-377]

日本のフツーの男はみんなロリコンだった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/108.html

高齢化する風俗嬢。60代どころか70代の風俗嬢さえも日本では現れている
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/757.html

中国の お見合いは人身売買の事
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/107.html

風俗嬢に沖縄出身女性が多い理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/224.html

現代の派遣社員? 江戸時代、女性の隠れた人気職業は「妾」だった!
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/106.html

性欲を満たすために行く場所ではなかった!? 意外と知られていない吉原の実態
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/152.html

梅毒にかかっても治療せず、日本中を這い回って拡散していた風俗嬢
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/758.html

中国人は日本人に復讐する為に日本女性とセックスしたがる _ 風俗嬢に「過去の過ちを体で償うと言え」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/111.html

一緒になる相手は「自分が好きな女性を選ぶよりも、自分を好きになってくれる女性を選ぶ」方が合理的である
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/771.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/145.html#c2

[近代史4] 中川隆投稿集 _ 「ラブドール」は女性の代わりにならない 中川隆
3. 中川隆[-13762] koaQ7Jey 2020年2月15日 15:55:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-376]

中国人客急増で梅毒大流行 _ 性病地獄に堕ちていく日本の風俗嬢
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/251.html

筧千佐子被告 資産家の高齢男性を次々と籠絡していった手口
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/877.html

雅子という女は凄い女 _ 気に入った相手とは手当たり次第という感じ _ 男性経験は20人は超えている
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/265.html

高円宮承子様のタトゥーや茶髪画像とタバコがやばい!性病との噂だが現在結婚はしてる?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/366.html

「紀州のドンファン」こと野崎幸助さん 急性覚醒剤中毒死 _ 55歳下の新婚妻は AV女優だった?
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/198.html

ヤクザは女性に言う事をなんでも聞かせる為に刺青をしている
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/194.html

牧野田 彩(AYA)が AV に出演させられた理由とは
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/190.html

中国政府は意図的に中国女性の日本人との偽装結婚を支援している
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/675.html

中国のハニートラップ戦略
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/153.html

プチエンジェル事件の深すぎる闇
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/358.html

プチエンジェル事件の顧客と噂されている秋篠宮・高円宮はロリコンなのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/362.html

中国美女も日本男性が大好き _ 小沢先生と行く中国ハニートラップの旅
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/290.html

中国人は女性を拷問するのが大好き
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/263.html

セックスドールに中国男性は夢中
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/284.html

毛沢東はセッ○ス狂
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/760.html



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/145.html#c3

[近代史4] 中川隆投稿集 _ 「ラブドール」は女性の代わりにならない 中川隆
4. 中川隆[-13764] koaQ7Jey 2020年2月15日 16:00:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-378]
まともな人間に芸術は理解できない _ ゴッホは何故ゴッホになれたのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/481.html

ディープ世界への入り口 平賀敬美術館 _ ゴーギャンがヨーロッパを捨てた理由
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/297.html

母を尋ねて三千里
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/865.html

欧米人の恋愛は性的倒錯の一種
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/200.html

いい日旅立ち _ 山の向こう側にいるのは…
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html

旧家の男子と乳母との心の繋がりが実の母親より遥かに大きい理由 _ 太宰治は本当に性的虐待を受けたのか?
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/348.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/145.html#c4

[近代史4] 中川隆投稿集 _ 「ラブドール」は女性の代わりにならない 中川隆
5. 中川隆[-13763] koaQ7Jey 2020年2月15日 16:02:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-377]

江戸時代の銭湯は男女混浴。出会いの場所としての期待も大きかった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/201.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/145.html#c5
[近代史4] 中川隆投稿集 _ 「ラブドール」は女性の代わりにならない 中川隆
6. 中川隆[-13762] koaQ7Jey 2020年2月15日 16:05:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-376]

私はアルビノ Nastya Kumarova
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/401.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/145.html#c6
[番外地6] Nastya Kumarova 中川隆
2. 中川隆[-13761] koaQ7Jey 2020年2月15日 16:07:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-375]

私はアルビノ

Dreams of Nature



Nastya Zhidkova (Russian Albino)


http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/401.html#c2
[近代史4] 中川隆投稿集 _ 「ラブドール」は女性の代わりにならない 中川隆
7. 中川隆[-13760] koaQ7Jey 2020年2月15日 16:29:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-374]
朝鮮人の見た日本人の姿
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/405.html

風俗嬢「涙の極貧物語」
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/286.html

堤義明 華麗なる女性関係…愛人は大物女優から秘書まで (夕刊フジ)
http://www.asyura2.com/0502/nihon16/msg/303.html

一度は行ってみたい _ 高樹沙耶が経営している石垣島『キャンピングロッジ 虹の豆』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/707.html

超絶人気の名曲喫茶ネルケンのマダム _ クラシック・ファンが本当に求めているのは…
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/281.html

現代顔面考 美男美女は天然? _ 極端なブスや美人は近親相姦で生まれる
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/833.html

あの名画の舞台となった伊香保温泉は今…_『浮雲』
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/355.html_

あの名画の舞台となった伊香保温泉は今… _2 _『カルメン故郷に帰る』
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/356.html

あの名画の舞台となった銀山温泉は今…_『乱れる』
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/351.html

伝説の名湯 岩内 朝日温泉 _ 飢餓海峡の世界
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/230.html

ヤマトンチュには絶対に話してはいけない パナリ(新城)島の秘密
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/706.html

沖縄パナリの秘祭 _ 臨月になった美女を引き出して洞の中で行う秘密の儀式とは
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/446.html

嫁は夫ではなく家の所有物
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/272.html

親子丼
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/273.html

他人には絶対に知られたくない秘密って沢山あるよ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/418.html

こんな女に誰がした (天皇陛下を恨んでね)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/332.html

西洋の達人が悟れない理由 _ 秘密仏教(密教)の秘密とは…
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/385.html

サルはなぜサルか _ 黒澤明 『羅生門』
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/397.html

温泉四方山話
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/734.html

旦那に対するささやかな愚痴
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/787.html

多重人格者だった恋人の話
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/737.html

秘湯〜夢蛾はここにいる〜
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/736.html



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/145.html#c7

[近代史4] 中川隆投稿集 _ 「ラブドール」は女性の代わりにならない 中川隆
8. 中川隆[-13762] koaQ7Jey 2020年2月15日 16:35:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-373]
被差別部落支配層の性教育
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/317.html

血族結婚部落の優生学的調査概報
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/418.html

ドッグヴィルの世界 _ 奈良県 月ヶ瀬村
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/269.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/145.html#c8

[リバイバル3] 中川隆 _ 美術・文芸関係投稿リンク 中川隆
181. 2020年2月15日 16:38:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-372]
アンチクライスト
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/484.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/452.html#c181
[近代史4] 中川隆投稿集 _ 「ラブドール」は女性の代わりにならない 中川隆
9. 中川隆[-13761] koaQ7Jey 2020年2月15日 16:38:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-371]

アンチクライスト
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/484.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/145.html#c9
[近代史02] 中国最後の皇帝 毛沢東 _ 共産革命とは一体何であったのか? 中川隆
28. 中川隆[-13760] koaQ7Jey 2020年2月15日 17:20:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-370]

2020年02月15日
習近平一族の不正蓄財 タックスヘイブンに数兆円の資産を保有


「赤い皇帝」習近平の義理の兄は、数兆円の隠し資産を外国に保有していた


引用:http://image.cache.storm.mg/styles/smg-800x533-fp-wm/s3/thumbnails/image/LU7_0383.jpg

数年前カリブ海の脱税請負国家の顧客リスト「パナマ文書」が流出し話題になった。


パナマ文書には習近平が親族名義の会社を租税回避地に作り、数兆円も溜め込んでいるのが掛かれていた。

それだけではなく「建国の父」の毛沢東や、李鵬の親族も同じように不正蓄財し、冨と権力を握っていました。

中国権力者の海外不正蓄財

非課税国家で不正蓄財を請け負っていた法律事務所の顧客名簿が流出した「パナマ文書」に中国要人の名前が多く記載されていました。

中国ではパナマ文書に関する報道やネット投稿は厳しく取り締まられたが、それでも完全に消す事はできない。


習近平国家主席や、毛沢東初代主席の近親者も記載されていて、数十年前から不正蓄財をしていました。



習近平主席の姉の夫(義兄)は、バージン諸島の「エクセレンス・エフォート不動産開発」の役員だった。

義兄は別の3社の株主でもあったが、何をする会社なのかはいずれも不明となっています。

習近平が指導する共産党幹部でも、不正蓄財リストに載っていました。


習近平指導部の劉雲山(リウユンシャン)党政治局常務委員の義理の娘がタックスヘイブン役員として名前が挙がりました。

張高麗(チャンカオリー)筆頭副首相の義理の息子は、3社の株主になっていました。

習近平は反腐敗運動で権力を握り、ライバルの江沢民派を腐敗疑惑で潰してきました。


中国共産主義の父である毛沢東ら5人の元常務委員も、タックスヘイブンに蓄財企業を作っていました。

李鵬の娘夫婦がオーナーだった「コフィック投資」は、欧州からの産業機器輸入で得た巨額の利益を中国に送金せず蓄財した。

李鵬の娘は今も中国の電力業界で特権を振るい、要職に就いて利益を得ています。

習近平一族の錬金術

賈慶林(チアチンリン)元全国政治協商会議主席の孫は、バージン諸島に二つの会社を保有していました。

不正蓄財で得た資金でその後、不動産とエンターテインメント企業を起こして成功しています。

毛沢東の義理の孫息子の陳東昇は、ヴァージン諸島に会社を所有し、現在は保険や美術オークション会社を経営しています。


習近平の姉は斉橋橋という名前で、不動産業で成功したケ家貴という男と結婚していました。

習近平の父の習仲勲は「八大元老」の一人で、戦前から革命思想を庶民に植え付けたり、軍の中心人物として活躍していた。

共産党の要職を歴任して退職したが、息子の習近平が権力を相続し、国家主席の座に上り詰めた。


習のようなエリート一族は「赤い貴族」と呼ばれ特権階級化しています。

ブルームバーグは以前、その習の姉であるケ夫妻が何百万ドル(数兆円)もの隠し資産を保有していると報道しました。

夫妻は弟の習近平が出世していくのと同時期に、タックスヘイブンに「シュープリーム・ビクトリー・エンタープライズ」を設立しました。


名義はケ家貴になっていたが、その後もコロコロと合計4つの会社を消しては作り、資産を移転させていました。

姉夫婦が不正蓄財に励んでいる頃、習近平は不正撲滅運動を華々しく開始し、次々に党幹部を逮捕していった。

だが不思議な事に逮捕者の中に「習派」は一人も居らず、敵対する「江沢民派」だけが逮捕されていった。

中国からの脱出ゲーム

姉夫婦が習近平の代理として数兆円を海外で蓄え、国内では腐敗撲滅と称して、敵対グループを叩いた。

中国では法律によって年間数百万円しか資産を外国に持ち出せないが、権力者は堂々とこれを反故にしています。

富裕層もまた、国内の腐敗狩りなどで捕まると、一瞬にして無一文になるので、危険を犯してでも外国に資産移転します。


上から下まで資産脱出に精を出していることが、外国での土地や会社の「爆買い」にも繋がっています。

中国に留めて置けば当局から没収され無になるのだから、外国で投資してマイナスになっても、その方がマシと考えています。


習近平は現在ウイルス対策失敗で糾弾されているが、失脚して海外に逃亡しても10兆円を下らない個人資産があると見られる。
http://www.thutmosev.com/archives/58533485.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/537.html#c28

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
26. 中川隆[-13759] koaQ7Jey 2020年2月15日 17:22:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-369]

2020年02月15日
習近平一族の不正蓄財 タックスヘイブンに数兆円の資産を保有


「赤い皇帝」習近平の義理の兄は、数兆円の隠し資産を外国に保有していた


引用:http://image.cache.storm.mg/styles/smg-800x533-fp-wm/s3/thumbnails/image/LU7_0383.jpg

数年前カリブ海の脱税請負国家の顧客リスト「パナマ文書」が流出し話題になった。


パナマ文書には習近平が親族名義の会社を租税回避地に作り、数兆円も溜め込んでいるのが掛かれていた。

それだけではなく「建国の父」の毛沢東や、李鵬の親族も同じように不正蓄財し、冨と権力を握っていました。

中国権力者の海外不正蓄財

非課税国家で不正蓄財を請け負っていた法律事務所の顧客名簿が流出した「パナマ文書」に中国要人の名前が多く記載されていました。

中国ではパナマ文書に関する報道やネット投稿は厳しく取り締まられたが、それでも完全に消す事はできない。


習近平国家主席や、毛沢東初代主席の近親者も記載されていて、数十年前から不正蓄財をしていました。



習近平主席の姉の夫(義兄)は、バージン諸島の「エクセレンス・エフォート不動産開発」の役員だった。

義兄は別の3社の株主でもあったが、何をする会社なのかはいずれも不明となっています。

習近平が指導する共産党幹部でも、不正蓄財リストに載っていました。


習近平指導部の劉雲山(リウユンシャン)党政治局常務委員の義理の娘がタックスヘイブン役員として名前が挙がりました。

張高麗(チャンカオリー)筆頭副首相の義理の息子は、3社の株主になっていました。

習近平は反腐敗運動で権力を握り、ライバルの江沢民派を腐敗疑惑で潰してきました。


中国共産主義の父である毛沢東ら5人の元常務委員も、タックスヘイブンに蓄財企業を作っていました。

李鵬の娘夫婦がオーナーだった「コフィック投資」は、欧州からの産業機器輸入で得た巨額の利益を中国に送金せず蓄財した。

李鵬の娘は今も中国の電力業界で特権を振るい、要職に就いて利益を得ています。

習近平一族の錬金術

賈慶林(チアチンリン)元全国政治協商会議主席の孫は、バージン諸島に二つの会社を保有していました。

不正蓄財で得た資金でその後、不動産とエンターテインメント企業を起こして成功しています。

毛沢東の義理の孫息子の陳東昇は、ヴァージン諸島に会社を所有し、現在は保険や美術オークション会社を経営しています。


習近平の姉は斉橋橋という名前で、不動産業で成功したケ家貴という男と結婚していました。

習近平の父の習仲勲は「八大元老」の一人で、戦前から革命思想を庶民に植え付けたり、軍の中心人物として活躍していた。

共産党の要職を歴任して退職したが、息子の習近平が権力を相続し、国家主席の座に上り詰めた。


習のようなエリート一族は「赤い貴族」と呼ばれ特権階級化しています。

ブルームバーグは以前、その習の姉であるケ夫妻が何百万ドル(数兆円)もの隠し資産を保有していると報道しました。

夫妻は弟の習近平が出世していくのと同時期に、タックスヘイブンに「シュープリーム・ビクトリー・エンタープライズ」を設立しました。


名義はケ家貴になっていたが、その後もコロコロと合計4つの会社を消しては作り、資産を移転させていました。

姉夫婦が不正蓄財に励んでいる頃、習近平は不正撲滅運動を華々しく開始し、次々に党幹部を逮捕していった。

だが不思議な事に逮捕者の中に「習派」は一人も居らず、敵対する「江沢民派」だけが逮捕されていった。

中国からの脱出ゲーム

姉夫婦が習近平の代理として数兆円を海外で蓄え、国内では腐敗撲滅と称して、敵対グループを叩いた。

中国では法律によって年間数百万円しか資産を外国に持ち出せないが、権力者は堂々とこれを反故にしています。

富裕層もまた、国内の腐敗狩りなどで捕まると、一瞬にして無一文になるので、危険を犯してでも外国に資産移転します。


上から下まで資産脱出に精を出していることが、外国での土地や会社の「爆買い」にも繋がっています。

中国に留めて置けば当局から没収され無になるのだから、外国で投資してマイナスになっても、その方がマシと考えています。


習近平は現在ウイルス対策失敗で糾弾されているが、失脚して海外に逃亡しても10兆円を下らない個人資産があると見られる。
http://www.thutmosev.com/archives/58533485.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c26

[近代史3] ロベルト・シューマン 交響曲第4番 中川隆
9. 中川隆[-13758] koaQ7Jey 2020年2月15日 17:32:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-368]
自分という他人( ロベルト・シューマンの場合)2020 FEB 14 by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2020/02/14/自分という他人%ef%bc%88-ロベルト・シューマンの場合%ef%bc%89/

シューマンはクララ・ヴィークと結婚してから歌曲、交響曲、室内楽の年を迎えるが、独身時代の作品群はというとピアノ曲一色である。これを僕は奇異に思っていた。なぜなら、彼は機械による特訓があだとなって指を故障してしまい、右手が使えなくなっていたからだ。ピアニストで身を立てようとしていたシューマンは簡単に気持ちの整理がつかなかったのだろう、チェロや神学の道まで模索し、「ツヴィッカウ交響曲」を試作もしている。であるのに、クライスレリアーナや幻想曲ハ長調みたいな技巧を要する曲をどうして書いたんだろう。しかもピアノ曲ばかり」続々とまるで熱病にかかったみたいに・・・?

その疑問は、しかし、恋する若者の気持ちになってシンプルに考えると解けるように思う。彼は父親フリードリヒ・ヴィークに邪魔されてクララに会えないロメオとジュリエットの事態に直面していた。罵詈雑言を浴びせられ、ツバまで吐きかけられ、ついに名誉棄損で訴えてしまうのだから半端ではない。だが、もっと辛いのは間にいるクララだ。熱いラブレターで恋情をアピールし、ライバルを蹴落とし、自分に目を向けさせなくてはいけない。手紙は検閲される。ならばピアノだ。クララの主題や思い出のパッセージを暗号のように入れこもう、けっして他人にわからないように。そして彼女がそれを弾く。親父も娘の気持ちを察するだろう。素晴らしい曲だと言わせてやろう。見直させて結婚を許してもらおう。

そんなところではないか?その証拠といってしまえるかどうか、勝訴してクララと結婚するとピアノ曲の創作はぱったりと途絶えてしまうのである。シューマンは突発性の男だ。何かにとりつかれると寝ても覚めてもそればかりで、ある日突然、まったく別なものに夢中になっている。気まぐれというレベルではない。1839年の時点では「声楽曲は器楽曲より程度が低い。声楽曲を偉大な芸術とは認めがたい」と述べていたが翌40年には歌曲ばかり書きまくる。声楽の評価に重大な方針転換でもあったのかと思えばそうでもなく、41年は交響曲、42年は室内楽と猫の目のように関心が変転する。

シューマンのこの性格を見ると、フリードリヒ・ヴィークに同情しないでもない。僕もそんな奴とつきあうのは御免だからだ。その気持ちが生じるのはなぜだろう?自問すると意外なことに気づく。自分も突発性の人間だからだ。小学校時代、悪くてあらゆるいたずらをした(と担任にいわれた)。そういう何をしでかすかわからないAと、0.1ミリの狂いも許さない小姑みたいに冷静でうるさいBが僕の中には棲んでいる。アクセル役のAはつまんない邪魔な奴だとBを煙たがっており、ブレーキ役のBは向こう見ずでいい加減なAを軽蔑している。シューマンをつきあいたくない奴と判断しているのはBなのだ。それでわかる。計算づくで尊大でシニカルなマーラーを嫌っているのはAなのだ。


シューマンの内面のふたり、フロレスタン(F)とオイゼビウス(E)がそんなものだったか敷衍するすべはないが、多分にそうだろうと僕は考えている。古代ギリシャでは人間の気質とはフモール(Humor、体液)の産物で四大元素のブレンド具合で変わると考えた。ルネッサンス由来のそうした知識がフランス7月革命を経た自由主義思想に燃えるドイツロマン派革命文学に持ち込まれ、その泰斗ジャン・パウル、E.T.A.ホフマンからシューマンに伝播したことは否定し難い。彼自身がプラトンの対話法を用いてFとEによる音楽評論を試みたともいわれる。同じ人間が今日明日は別人ということがあり得るという考えを彼らは肯定的に許容したわけである。そして、それを上の方から眺めて許容し、両人がお互い鏡になって指摘し合えばもっといい人になれるとヘーゲル流に正当化した。

シューマンは23才のころ兄と兄嫁が亡くなって「気が狂うという固定観念にとりつかれている」と書き、激しい情動の振幅が現れ、それは動と静、激情と慰撫、衝動と耽溺、喝欲と夢想、などの二律背反する気質として音楽にまばらに出現するようになる。ベルリオーズは阿片で狂ったが、シューマンは病気だった。後にイ音の幻聴が現れ死に至るほど精神を病むのは梅毒第三期の症状といわれ、この時点の躁鬱の頻繁な交差がその前兆かは否かは文献を見ないが、立派な躁鬱病ではあろう。しかし彼の理性はしっかりその背反をFとEの役者に当てはめ弁証法的に解決してしまう。E.T.A.ホフマンの「牡猫ムルの人生観」は学識ある猫の自伝だが、クライスラーの自伝とドッペル状態で進行し、ホフマンがそれをまとめる。シューマン、F、Eの関係はその模倣だが、シューマンという人間そのものでもあった。


我が心中の二人は、

A(経験、直観、革命、冒険、新奇、酔狂、気儘、陽気、短気、横暴、帰納、金色、赤色)、

B(論理、合理、慎重、頑固、忍耐、集中、緻密、冷徹、陰気、演繹、銀色、黒色)

が相当する。例外的にビジネスはA、学業はBが優位におこなったが、それ以外で両者は自立してお互いに対して対等に批判的であり、それは子供時分から不変で今後も変わらないだろう。A・Bの対立でもう一段すぐれた人間になったかというとそういうことはない。

ヘーゲルは科学者でなく弁証法は数学的に証明できないから何となく合理性がありそうな後講釈以上のものではない(ということは共産主義しかり)。シューマンにおいてもそれはない。フロレスタン(F)とオイゼビウス(E)がクライスラーと猫ムルの如く交互に主張する独身時代のピアノ音楽にこじつけ以上の形式論理はない。

7月革命のイメージ『民衆を導く自由の女神』ウジェーヌ・ドラクロワ 1830年 ルーヴル美術館所蔵
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2020/02/14/自分という他人%ef%bc%88-ロベルト・シューマンの場合%ef%bc%89/1280px-eugene_delacroix_-_la_liberte_guidant_le_peuple/


急進的文学集団である「青年ドイツ(Junges Deutschland)」はヘーゲル的発展を政治と文学に求め、その運動はシューマンの評論活動を通じて音楽に波及したが、弁証法に数学的予見性は何らないからそれは新興若手インテリ集団の熱病にすぎなかったことになる。しかし時代のパラダイムとしてはベートーベンを超える者が現れる “必然” があり、シューマンにとってそれは自分である証明をするモチベーションから交響曲第1番「春」が生まれる。そこにクライスレリアーナの終曲の主題を持ち込んだのは、同曲が結婚へ向けての苦境と呻吟の、しかし勝利を勝ち取るエネルギーを注ぎ込んだ産物であり、そして、作曲の新時代のメシアが自分であり、春を告げる交響曲がその子供として産声をあげたのだというシューマンの心象風景の象徴と思う。

にもかかわらずブラームスにベートーベンの第10交響曲の地位を奪われてしまうのだが、そのことがシューマンその人やクライスレリアーナや第1交響曲の価値を些かも下げたとは理解されていない。何故なら二律背反するフロレスタン(F)とオイゼビウス(E)はベートーベンには棲んだかもしれないがブラームスにはないからである。

2/15/2020 | 1:10 AM Permalink
シューマンの音楽は危うい均衡の上に成り立っており、作品としてまとまること自体が奇跡的と感ずる。崩壊した土台に辛うじて立っている。表面的な美しさだけを受け止めることも可能だが、透けて見える断絶の苦悩の深さを感じ取ってこそシューマンは理解できるだろうと私は思います。

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2020/02/14/自分という他人%ef%bc%88-ロベルト・シューマンの場合%ef%bc%89/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/895.html#c9

[番外地6] 大富豪投資家ジム・ロジャーズ氏の奇妙なコメント 中川隆
9. 中川隆[-13763] koaQ7Jey 2020年2月15日 18:53:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-367]
「日本人は早急に資金を海外に移せ」天才投資家ジム・ロジャーズが警告する真意とは=俣野成敏 2020年1月20日
https://www.mag2.com/p/money/881966


前回に引き続き、ジム・ロジャーズ氏の名言を取り上げます。

ロジャーズ氏は、かなり辛い発言をすることで有名です。しかしそれは、「読者への愛情の裏返しである」と考えることで、氏の本意が見えてくるのではないかと思います。(俣野成敏の『トップ1%の人だけが知っている「お金の真実」』実践編)

日本にお金を置いておいても増えない。私たちは庶民はどうする?


1. 自分の大事なお金を安全な場所で増やしていくには?


「早急に資金を海外に移すことを考えたほうがいい」

俣野:さて。今回、取り上げる書籍は、前回に引き続き、ジム・ロジャーズ氏の最新作です。内容は、「日本への警告の書」となっています。


最初に解説するのは、こちらの名言です。


<名言ピックアップ その1>
「日本人にとって、日本国外に投資をすることはきわめて重要だ。日本国内にほとんどの資金を保有している日本人は、早急に資金を海外に移すことを考えたほうがいいだろう」

出典:『日本への警告 米中朝鮮半島の激変から人とお金の動きを見抜く』著:ジム・ロジャーズ/刊:講談社+α新書


<名言1のポイント:「今後、日本円の価値は下がっていく」>

俣野:大前さん、本日もよろしくお願いします。早速ですが、この名言は、為替の専門家から見て、いかがでしょうか?

大前:ロジャーズ氏は、前々から「以後、日本は衰退していく。だから日本円の価値も下がっていく」ということを一貫しておっしゃっています。「お金が増えない日本に、お金を置いておくのは理にかなっていない。早急に資産を海外に移したほうがいい」というのは、非常にごもっともな意見ですよね。

そうはいっても、現在、日本で生活している人が、「『海外送金する』とか『海外投資をする』のは、なかなかハードルが高い」と感じているのも、無理からぬことだと思います。

仮に、勇気を奮い起こして、お金を海外に送ろうとしたとしましょう。やってみればわかりますが、実は、海外送金をするのは、年々難しくなっています。

ご存じのように、“送金”という技術自体は、どんどん進化していて、送金費用も下がってきています。なのに、国内外を問わず、金融機関はどこも、海外送金を容易には受け付けてくれませんし、海外口座も開けなくなっています。理由は、マネーロンダリング対策のためです。

本来であれば、最新の送金技術を享受するのが我々ユーザーのはずなのに、実際は「お金を動かしてはいけない」という真逆の動きが起きているのです。

とはいえ、「日本にお金を置いておいても増えない」という現実がある以上、「上手くいっているエリアに、ある程度のお金を移すことを考えていく」というのは、やはり必要なことなのではないかと思います。


現実的なのは「海外投資」


大前:今現在、すでにそれができているのは、たまたま身近に投資の目利きができる人がいるとか、すでにある程度の資産を築いていて、資産保全が不可欠な状態になっているとか、かなり恵まれた環境にいる人だけでしょう。
残念ながら、今の日本には、他人に資産運用を相談できるような環境が整っておらず、自分で投資商品の是非を判断できるだけの教育も行われていません。

そういった土壌ができていないことが、個人的には、一番の問題なのではないかと考えています。

現在、一般の方が、海外に資金を移す現実的な方法が何かというと、やはり海外投資をすることでしょう。これなら、資金の受け皿として、銀行口座を開設する理由づけにもなります。

何のために、いくら資産を増やすのか。しっかり考えることが重要
大前:ご注意いただきたいのが、単に「お金を増やしたい」というだけでは、海外投資を始める理由としては弱い、ということです。自分から遠く離れたところにお金を置こうとするなら、強力な動機がないと続きません。

動機とは、「なぜ、何のために投資をしたいのか?」「いくらに増やしたいのか?」といった目的意識のことです。

俣野:多くの人は、ただ「お金が欲しい」とか、「お金は、あればあるだけ良い」と思いがちです。どうしたら、目的意識を持つことができるでしょうか?
大前:海外投資をしたい、ということであれば、まずは視野を広げるところから始めてみてはいかがでしょうか。最初は旅行でもいいと思います。

それから、意外に忘れがちなのが、投資を始める際の前提条件として「ご自身の資産基盤がしっかりしていなくては、そもそも投資ができない」ということです。
特に海外投資を行う場合、たとえ利回りが年10%ついたとしても、海外に送金したり、現地の専門家に相談すれば、その都度、手数料を取られます。最終的に、投資金を日本円に戻す際にも、また手数料がかかります。もともと、「海外なら必ず儲かるという保証もない」ですから。

そうした手数料を加味して、それでも十分にお金を増やせるだけの金額と年数をかけられる人が、海外投資で成功を収めることが可能となるのです。
日本の資産も海外にシフトしている


俣野:貯金がない方は、積立投資という方法もあります。しかし、「いくらであれば、長期間に渡って問題なく捻出できるのか?」ということが事前にわかっていないと、結局、「お金が続かなくなって途中解約」というパターンに陥りがちです。
当てずっぽうに投資をするのではなく、そのための準備から手をつけていくべきだ、ということですね。


大前:はい。ちなみに今、もっとも資産を海外にシフトしているのは、他ならぬ日本国だということを、ご存じでしょうか。

日本は、外貨準備高でいうと、中国に次いで世界第2位(2018年)ですし、米国債保有率も世界一(2019年8月)です。我々の年金の運用に関しても、現在、外債比率が増えてきていることは、メルマガの「Vol.152」でお伝えした通りです。

国の資産運用は、安全を基準に行うことが定められています。その国でさえも、外債の比率を増やしてきているわけですから、そういうところからヒントを得るのも、1つの方法ではないかと思います。


<名言1の結論>
「国すらも、資産を海外にシフトさせている。いきなりは無理でも、それに向けた小さな一歩を踏み出そう」


2. もっと「日本人であること」のメリットを活かそう!
俣野:次の名言はこちらです。

<名言ピックアップ その2>
「統計によると、日本のパスポート保有率(2017年)は22.8%にとどまっているという。アメリカの同年のパスポート保有率が42%であることを踏まえると、日本の低さがわかるのではないだろうか」

出典:『日本への警告 米中朝鮮半島の激変から人とお金の動きを見抜く』著:ジム・ロジャーズ/刊:講談社+α新書


<名言2のポイント:「自分の持っているモノの価値を知る」>


俣野:ロジャーズ氏によると、「日本のパスポートは、ビザなしで入国できる国が189カ国もあり、パスポートの自由度では韓国と並んで世界一」だということです。

実際、当事者である日本人のほうが、かえって日本のパスポートの価値を認識していなかったりします。

大前:俣野さんは、以前から「自分が持っているリソース(資源)を最大限に活用する」ことを提唱されていますよね。

俣野:はい。パスポートや国籍などは、まさに私たち1人1人が生まれながらに持っているリソースの1つだと言えるでしょう。「これを活用しない手はない」、というのがロジャーズ氏の主張です。

実際の数字を見てみたいと思います。外務省が発表している旅券統計(平成30年1〜12月)によると、2018年の旅券発行数は約433万冊で、対前年比で5.3%増。18年末現在の有効旅券は3000万冊弱であり、国民の4人に1人が所持している計算になります。

パスポートの申請者は、2015年から3年連続の増加ということですが、この数字を多いと見るか、少ないと見るか、いかがでしょうか。

大前:日本政府観光局(JNTO)の数字を見ても、確かに2016年から日本人の海外出国者は増加傾向にあります(推計値)。ただし、パスポートの保持者が4人に1人なので、同じ人が行き来している可能性はありますよね。

私自身は、日本人はもっと海外へ行くべきだと思っています――
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/633.html#c9

[番外地6] 大富豪投資家ジム・ロジャーズ氏の奇妙なコメント 中川隆
10. 中川隆[-13762] koaQ7Jey 2020年2月15日 19:25:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-366]
天才投資家ジム・ロジャーズが言う「早く日本から逃げろ」は本当か?金融のプロが裏読み=俣野成敏 2020年1月17日
https://www.mag2.com/p/money/881745


本号では、ジム・ロジャーズ氏の名言を取り上げたいと思います。親日家であると同時に、かなり辛口なのが、ロジャーズ氏の発言の特徴です。氏からのメッセージを、どう受け止めればいいのか?について、金融の専門家とともに紐解いていきたいと思います。


「中国や韓国に移住したほうが、よほど豊かに生活できる」本当?


1. 海外に逃げられない日本人を待っている未来とは

今回も、金融事情に詳しい大前雅夫さんをゲストにお呼びしています。大前さんは、当メルマガの金融情報監修をしてくださっているFAN GLOBAL SOLUTION PTE. LTD.のCEOにして、外国為替、金融商品の専門家でいらっしゃいます。

【「早く日本から逃げろ!」は本当か?】

それでは、最初に解説するのは、こちらの名言です。

<名言ピックアップ その1>

「私が日本に住む10歳の子どもであれば、一刻も早く日本を飛び出すことを考えるだろう。中国や韓国に移住したほうが、よほど豊かに生活できるのだから」
出典:『日本への警告 米中朝鮮半島の激変から人とお金の動きを見抜く』著:ジム・ロ
ジャーズ/刊:講談社+α新書


俣野:では大前さん、本日もよろしくお願いします。
今回、取り上げる書籍は、ジム・ロジャーズ氏の最新作です。タイトルにあるように、日本への警告の書、という内容となっています。

書籍の中には、日本が抱えているさまざまな問題点や、今後、考えられる未来、次に台頭してくるのはどこの国か、なぜそこに将来性があるのか、といったことが書かれています。

ロジャーズ氏が、日本に関して特に憂慮しているのが、少子高齢化による人口減と、国による膨大な借金です。それらを受けて、読者に「日本から早く逃げろ」と呼びかけているのが、上記に取り上げた名言になります。

氏は、「歴史に学べ」「変化を感じなさい」というキーワードを、本書の中ですごく主張されています。実際、それで実績を出されてきた方なので、説得力があると思いますが、大前さんはどうお感じでしょうか?

大前:著名な投資家であるジム・ロジャース氏に物を申すとは、大変恐縮ではありますが、実はこの方は、日本に限らず、香港やタイなどに対しても、割とネガティブな発言をしています。もとから、そういう口調の方なのだと思います。

よって、ロジャーズ氏の主張としては、「ヤバイぞ、逃げろ」ではなくて、「現状に甘んじていないで、変化を受け入れ行動しなさい」という、叱咤激励のほうだと思います。

もともと氏は、日本のことを「逃げ出さなければならないようなひどい国だ」とは言っていません。むしろ、日本のクオリティを賞賛しています。


海外移住は逃げるための手段にはならない


俣野:本の中では、「今後はロシア、韓国、北朝鮮、中国に将来性がある」という主張に、多くのページが割かれています。

それに対して、「日本はもう斜陽だ」という意見は、私たちの周りでもしばしば耳にします。これについては、どうお考えでしょうか?

大前:ロジャーズ氏は、前々から「以後は、このような世の中になるから、お金もそちらに向かって動く」「だから、こういうチャンスがある」ということを主張してきています。

氏は、単に世の中の趨勢(すうせい)を話しているだけであって、それをどう取るかの判断は、個人に委ねられているのではないでしょうか。

そもそも、「日本がダメになる」「借金で破産する」というのは、もうずいぶん前から言われてきていることです。

仮に、「日本はダメだから他の国に移住しよう」といったところで、簡単なことではありません。

ほとんどの日本の方は、当然、日本に根付いていますから、それを移住するとなれば、莫大な労力とコストがかかります。それに万一、移住先で上手くいかなかった場合はどうするのか?といった問題もあります。

たとえば現在、中国の人々も世界中に移民しています。ところがよく見ると、移住先に出身地をベースとした互助会があったり、または宗教的なネットワーク等でつながり、新天地でもサポート基盤があったり、といった受け入れ態勢が整っている場合が大半です。

もちろん日本の方々も、海外に日本人コミュニティなどをつくってはいますが、規模と結束力の点で、中国の華僑ネットワークほどではありません。

要は、人はどこへ行こうが、人間関係もなく、社会から切り離された状態で生きていくのは難しい、ということです。

俣野:移住は逃げるための手段ではない、ということですね?


大前:はい。かえって「日本は危ない」と言う人が出て行くことによって、人材間の競争が少なくなり、日本に残ったほうが、逆に優位になるかもしれません。

結局、場所だけ変えても意味がないのです。
沈みゆく日本で、自分はどう振る舞うのか?

大前:今から45年ほど前に、日本ではオイルショックが起きたことをご存じでしょうか?これは中東で戦争が勃発し、OPEC(石油輸出国機構)が原油の供給制限を行い、輸出価格を大幅に引き上げたことが発端でした。

人々は、「石油の供給が止まれば、日本はモノ不足に陥るのでは」とパニックになり、買い占めが起きて、お店の商品棚が空っぽになりました。
当時は、「あと30年で地球上の石油が掘り尽くされる」と言われていて、みんな本気で心配したものです。

ところが、それから45年経った今でも、石油はまだあります。脱石油化の流れや、シェール革命等の技術革新、採掘の精度などが上がったからです。

確かに、ロジャーズ氏の言う「『今度は違う』『日本はそうはならない』と考えるのは危険だ」という呼びかけは、私たちに重要な示唆を与えてくれます。

だからと言って、「ここから逃げろ」というのは、また話が別だと思います。
それよりも、そういう危機があることを認識しつつ、リスクをどのように自らの中でヘッジしていくのか?と考えることが先決ではないでしょうか。

実際のところ、日本では今、出て行く人よりも、入ってくる人のほうが増えていますよね?コンビニや飲食店などで、働いている外国人の姿を見かけることも珍しくはなくなりました。

俣野:日本に魅力を感じてやってきている外国の方もたくさんいる、という事実にも目を向けるべきだ、ということですね。

【日本はすでに“移民大国”になっている!?】

俣野:ちょうど、外国人労働者の話が出たところで、次の名言に移りたいと思います。次の名言は、こちらです。


<名言ピックアップ その2>

「移民は国にアイデアをもたらし、活気を生み出してくれる。アメリカの場合、グーグル、アマゾン、アップル、フェイスブックに代表される刺激的な企業のほとんどは、移民にルーツを持つ人物が創業したものだ」
出典:『日本への警告 米中朝鮮半島の激変から人とお金の動きを見抜く』著:ジム・ロ
ジャーズ/刊:講談社+α新書

俣野:少子高齢化が進む日本では、早くから移民政策について議論されてきたものの、これまでは地理的・歴史的経緯などから、日本人の外国人に対する警戒感には根強いものがありました。

しかし、昨今の労働力不足はいかんともしがたく、今年(2019年)の4月、改正出入国管理法が施行されています。この改正は、外国人に単純労働の道を開くもので、5年間で約34万5,000人の受け入れを予定しています。

ロジャーズ氏は、「人々が移民を嫌がる第一の理由は、外国人に仕事を奪われることだ」と書いています。世間には、「アメリカはもともと移民の国だから、あれだけ世界をリードする企業が誕生したのであって、日本でもそうなるとは限らない」という意見もあります。

大前さんはどうお考えでしょうか。

大前: 現実問題として、集約型労働者は、明らかに足りない状態です。「だったら、それをロボットにやらせよう」といっても、まだまだ人間でなければできないことはたくさんあります。そうなれば、必然的に「安い労働力をどこからか持ってくるしかない」という発想になりますよね。

ですから、「外国人に自分たちの仕事を奪われる」と言ったところで、実際はいわゆる3K(キツい、汚い、危険)と呼ばれる安い仕事の多くを請け負っているのが外国人、ということです――
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/633.html#c10

[番外地6] 大富豪投資家ジム・ロジャーズ氏の奇妙なコメント 中川隆
11. 中川隆[-13761] koaQ7Jey 2020年2月15日 19:37:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-365]
ジム・ロジャーズもかつて破産。天才投資家の「失敗」から学ぶ時間管理術=俣野成敏 2018年7月15日
https://www.mag2.com/p/money/491485


以前、名言シリーズとしてウォーレン・バフェット氏を特集したところ多くの反響が寄せられました。そこで今回は名言シリーズの第2弾として、ジム・ロジャーズ氏をお送りいたします。

ロジャーズ氏は日本びいきとしても有名ですが、反面、日本の未来に対しては懐疑的な意見を崩していません。私たちは氏の言葉から何を学び、どう自分の人生に活かしていけばいいのか? 今回の特集を通じて考えてみたいと思います。


「一所懸命にやるべきことをやるだけ」天才投資家の頭の中とは?

「失敗を恐れるな。できれば早いうちに、2回破産するといい」

世界3大投資家の1人と言われているジム・ロジャーズ氏は、かつて空売りに失敗して破産したことがあります。

それはまだ氏が駆け出しの投資家だった1970年のこと。「株価は暴落する」と予想した氏は、有り金をはたいて空売りを仕掛けました。当時は「自分の読みに絶対の自信を持っていた」と言うロジャーズ氏。ところが株価は上昇を続け、耐えられなくなった氏は、高くても株を買い戻さざるを得なくなります。ついにはすべてを失い、借金だけが残りました。

その後、氏が空売りを仕掛けていた6社は、3年以内にすべて倒産しました。予測自体は当たっていたのに、それに耐えられるだけの資金を残しておかなかったのが敗因でした。

この経験によって、自分がいかに市場のことを理解していなかったのかを思い知らされた氏は、後年、コロンビア大学で講義をした際に、学生にこう言いました。

「失敗を恐れるな。できれば早いうちに、2回破産するといい。失敗しても立ち直ることができれば、より大きな成功を収められる」と。

本特集では、ロジャーズ氏の名言を『世界的な大富豪が人生で大切にしてきたこと60』(プレジデント社)から採用しました。

同書は、氏の名言を並べただけの非常にシンプルなつくりとなっています。読みやすい反面、書籍を読むだけでは、氏がなぜこの名言を述べたのか?という前後関係がわかりにくくなっているのは否めないところです。

そこを俣野の解説で補えば、名言を理解する際の手助けになるのではないか?と考えたわけです。


幼少期から商才を発揮

まず、最初に「ロジャーズ氏のことをよく知らない」という方のために、簡単にロジャーズ氏の半生を振り返っておくことにしたいと思います。

ビジネスの上手な人の多くに共通してみられるのが、幼少の頃から商売の才能を発揮していた、ということです。

ロジャーズ氏は5歳にして最初の商売を始めていますが、これはバフェット氏も同様です。

「できた」と思っても、念のために「あともう少しやる」

ロジャーズ氏は1942年、アメリカのアラバマ州のデモポリスで生を受けました。氏の父親は第二次大戦でドイツへ従軍した後、デモポリスで工場を営んでいた伯父のところでマネジャーとして働くようになります。一家は働き者揃いで、氏は後に「実家では誰もがよく働き、『後でやる』とか『怠ける』といったことは聞いたことがありませんでした」と話しています。

一家の血を継いだロジャーズ氏は、5歳で野球場の空き缶拾いのアルバイトから始め、ソフトドリンクやピーナッツを売り歩くようになります。それ以降も様々なアルバイトをこなしました。

その基本姿勢は一貫して「一所懸命に、やるべきことをやる」というものでした。勉強に対しても一途な姿勢は変わらず、氏は「自分が十分な知識を得たと思えるまで、勉強の手を緩めない」と心に決めます。「念には念を入れて調べる」習慣は、この頃に築かれました。

終始、その姿勢を貫いた結果、氏は公立高校を首席で卒業。奨学金を受けて名門イェール大学へ進学、さらに奨学金を得てオックスフォード大学のベリオル・カレッジに進みました。


ジョージ・ソロス氏との運命的な出会い

ロジャーズ氏と投資との出会いは、大学時代に投資会社でアルバイトをしたことがきっかけでした。投資会社での仕事を通じて、「市場は世界で起こった出来事によって動いている」ことを知ります。氏は卒業後、1968年に兵役を終えるとウォール街で働き始めました。

そこで氏は、同じく世界3大投資家の1人であるジョージ・ソロス氏と出会います。当時、世界最強だったアメリカでは、海外投資に目を向ける人は少なく、ウォール街ですら海外投資を扱っている会社は2社しかありませんでした。そのうちの1社の副社長をしていたのが、ソロス氏です。ハンガリーで育ったソロス氏は、20代半ばまでイギリスにいて、ヨーロッパの金融市場でトレーダーをしていた経験がありました。

意気投合した2人は1973年、クォンタム・ファンドを設立。ソロス氏は、人々に先んじて掘り出し物を見つける能力に長けており、一方のロジャーズ氏は、持ち前の粘り強さでもって可能な限りの資料に当たり、分析を行いました。

2人は世界を視野に投資を行い、10年間に4000%を超えるリターンを叩き出します。しかし、富よりも自由を愛するロジャーズ氏は37歳にして引退。以後はバイクや車で世界を1周するなど、冒険投資家として知られています。

ロジャーズ氏のご紹介はこれくらいにして、以下より早速、氏の名言を解説することにしましょう。

実は暇な人ほど「時間がない」

<名言1>

「本当に忙しい人よりも、実は暇な人の方がいつも『時間がない』と言っているのです。要するに、忙しくない人というのは怠惰で時間管理能力が低いのです。私はリタイア直後にこのことを思い知りました。退職後の数ヶ月間、時間はたっぷりあったのですが、何も成し遂げることはできなかった。仕事で忙しい時のほうが、よほど効率的に動けたのです。そこで、オートバイで世界1周旅行に挑むことにしたのです」

これは「ロジャーズ流タイムマネジメント」ともいえる言葉です。氏の日常がどんなものかというと、毎日6時に起床し、2人の娘を自転車で学校に送り届けた後、午前中はエクササイズをしながらニュースやメールをチェック。合間にヘッドフォンを付けて電話インタビューを受けたり、電話会議をしたりして過ごします。午後には子供を迎えに行き、夕方から夜にかけては自宅で会議を開くこともあるようです。氏は2007年、アメリカからシンガポールに移住しています。

運動しながらニュースやメールのチェックをするというのは、一見すると集中力を欠くような行為にも見えますが、それは組み合わせ方にもよります。たとえば、2人の記者から同時に取材を受けることはできません。しかし取材と運動であれば、頭と体という別々の作業になりますから、並行して行うことは可能です。もちろんこれは、氏が同時並行でも重要な情報は漏れなく拾えるよう、投資家としての能力を研ぎ澄ませてきた、ということでもあります。

今の私たちがロジャーズ氏をマネようとしても、いきなりここまではできないかもしれません。とはいえ、忙しい時のほうがかえって時間を有効に活用できることは、誰しも経験しています。それは、忙しい時のほうが活発に頭や体を使っているために、その勢いで何をするにもテンポよく行動できるからでしょう。
時間があるはずの土日が無駄に流れていく

休みの日に、「今日は時間があるからいろいろなことができるな」と思ったのに、結局、1日ダラダラ無駄に過ごしてしまう、というのはよくある話です。

人は「自由にしていいですよ」と言われると、かえって管理をすることが難しくなります。特にそれまで時間を拘束されていたサラリーマンの方が、退職などでいきなり24時間フリーになってしまうと、急に「後でもいいや」となって、行動の質が薄まりがちです。

時間を無駄なく使えるようになるためには、ある程度の“型”が必要なのです。たとえば、私もビジネスオーナーですから時間はほぼ自由です。そこで私は他人と約束することで、行動に強制力を持たせています。


「忙しい人」には2種類ある

「忙しい人」というのは、大きく言うと2種類に分けられます。それは「人々に求められて仕事が殺到している人」か、「現在、修行中の人」かのどちらかです。

仕事が殺到している人は、自分で選べる立場にいます。それでもなお、忙しくしているのだとしたら、おそらくそのほうがご本人にとって楽しいからなのでしょう。けれど実際、「忙しさ」の多くの要因は、その人が“修行中の身”であることと関係しています。修行中というのは比喩であり、それを「自分で自分の顧客を獲得できるようになるまでの期間のこと」と定義しましょう。要は「独立の過程」という意味です。

このように考えると、会社に雇われているサラリーマンは、終始修行中の身である、と言えるのかもしれません。しかしそうではなくて、「本当はいつでも独立できるけれど、自ら選んでサラリーマンをしている」というのであれば、すでに修行は終わっている、と言えるでしょう。

とどのつまり、サラリーマンとはお金を得るために働いているのではなく、仕事をしながら学んでいる最中なのだとしたら、仕事量を自分で決めることができないのもやむを得ません。

ロジャーズ氏も、クォンタム・ファンドの共同設立者ではありましたが、会社はソロス氏のものでしたから、結局はサラリーマンに過ぎませんでした。けれど氏はそれをやり切ったからこそ、投資家として自立できたのです。

この名言は、逆を言うと「忙しい人ほどチャンスがある」ということを示唆してもいるのです。

2. 偉大な投資家の情報収集術とは

続いて、サラリーマンの方によく聞かれる「情報収集術」についての名言を取り上げます。

先ほどのタイムマネジメントと、この情報収集術は、私がよく聞かれる質問ベスト5の中に必ず入る話題です。まずは、ロジャーズ氏が何を語っているのかを見てみましょう。

無料の情報の中に「掘り出し物」はほとんどない

<名言2>

「テレビや雑誌、インターネットで得られる知識や情報に頼ってはいけません。賢明な投資家であるためには自分自身で経験し、自分の頭で考えること。だから私はテレビを見ません。若い人はインターネットに依存していますが、ネット上の情報で『世の中を理解した』と信じている人の視野は狭い。投資で成功したいなら、それを心に留めて、自分の眼力を磨いてください」

現在は、無料の情報が世の中に溢れています。たとえば、お店を探したい時や、ちょっとした調べものをしたい時などには重宝するでしょう。

とはいえ、もともと世の中に無料のものなど1つもありません。ですから、無料の情報を流している人は、「どこかで必ず資金の回収をしている」と考えるのが普通です。つまり無料の情報を流している、というのは「そうすることによって利益が得られるから意図的に無料の情報を流している」のです。

たとえば、テレビの情報は基本的に無料です。けれど、そのほとんどは意味のないものです。「何の苦労もなく、ただテレビを観ているだけで、自分の必要としている情報がすべて集まってくる」などということはあり得ません。

元来、テレビとは企業のマーケティングツールですから、視聴者に自社商品を覚えてもらい、買ってもらうのが本来の目的です。テレビを観て、お金が「減る」ことはあっても、「稼ぐ」とか「殖やす」という要素はありません。

選別眼がなければ、テレビ・ネットは時間を無駄にするだけ

確かに、テレビを観てビジネスのインスピレーションを得る、ということはあるでしょう。しかし、何にもせずに純粋にテレビで観た内容から、いきなりアイデアを思いつくことはありません。それができる人は、必ず何らかの前段階を経ているはずです。たとえば日頃から新しい企画ネタを探してたくさん本を読んでいる、とか、会社から重要なプロジェクトを任され、それについて日夜考え続けている、といったようにです。テレビは単なるきっかけにすぎません。

たとえると、インターネットサイトの中からとびきりの情報を得ようとするのは、海辺の砂浜の中から砂金を見つけようとするようなものでしょう。たとえ決死の覚悟で探したところで、無料の情報の中に大金星が混ざっている保証はありません。

もし、選別眼を持っている人であれば、その中からでも見分けることは可能でしょうが、選別眼を持っていない人は、情報の渦に呑まれるのが関の山です。そうしている間にも、貴重な時間はなす術もなく過ぎていきます。

本業と投資をどう両立する?

私でオススメしているのは、ハイブリッドクワドラントです。つまり投資家を本業にするのではなく、本業(サラリーマン、自営業など)を別に持ちつつ、投資家と掛け持ちをすることです。

こう考えた場合、どこにもっとも自分の時間を投じるべきなのかと言えば、それは「一番お金を稼げる本業」にです。いわば副業に相当する投資に、本業以上の時間をかけるべきではないのです。

それでは、副業に過ぎない投資で、なるべく時間をかけずに成果を出すにはどうしたらいいのかと言うと――
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/633.html#c11

[近代史02] 幻の柴田罫線 中川隆
133. 中川隆[-13760] koaQ7Jey 2020年2月15日 19:56:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-364]

ジム・ロジャーズもかつて破産。天才投資家の「失敗」から学ぶ時間管理術=俣野成敏 2018年7月15日
https://www.mag2.com/p/money/491485

以前、名言シリーズとしてウォーレン・バフェット氏を特集したところ多くの反響が寄せられました。そこで今回は名言シリーズの第2弾として、ジム・ロジャーズ氏をお送りいたします。

ロジャーズ氏は日本びいきとしても有名ですが、反面、日本の未来に対しては懐疑的な意見を崩していません。私たちは氏の言葉から何を学び、どう自分の人生に活かしていけばいいのか? 今回の特集を通じて考えてみたいと思います。


「一所懸命にやるべきことをやるだけ」天才投資家の頭の中とは?

「失敗を恐れるな。できれば早いうちに、2回破産するといい」

世界3大投資家の1人と言われているジム・ロジャーズ氏は、かつて空売りに失敗して破産したことがあります。

それはまだ氏が駆け出しの投資家だった1970年のこと。「株価は暴落する」と予想した氏は、有り金をはたいて空売りを仕掛けました。当時は「自分の読みに絶対の自信を持っていた」と言うロジャーズ氏。ところが株価は上昇を続け、耐えられなくなった氏は、高くても株を買い戻さざるを得なくなります。ついにはすべてを失い、借金だけが残りました。

その後、氏が空売りを仕掛けていた6社は、3年以内にすべて倒産しました。予測自体は当たっていたのに、それに耐えられるだけの資金を残しておかなかったのが敗因でした。

この経験によって、自分がいかに市場のことを理解していなかったのかを思い知らされた氏は、後年、コロンビア大学で講義をした際に、学生にこう言いました。

「失敗を恐れるな。できれば早いうちに、2回破産するといい。失敗しても立ち直ることができれば、より大きな成功を収められる」と。

本特集では、ロジャーズ氏の名言を『世界的な大富豪が人生で大切にしてきたこと60』(プレジデント社)から採用しました。

同書は、氏の名言を並べただけの非常にシンプルなつくりとなっています。読みやすい反面、書籍を読むだけでは、氏がなぜこの名言を述べたのか?という前後関係がわかりにくくなっているのは否めないところです。

そこを俣野の解説で補えば、名言を理解する際の手助けになるのではないか?と考えたわけです。


幼少期から商才を発揮

まず、最初に「ロジャーズ氏のことをよく知らない」という方のために、簡単にロジャーズ氏の半生を振り返っておくことにしたいと思います。

ビジネスの上手な人の多くに共通してみられるのが、幼少の頃から商売の才能を発揮していた、ということです。

ロジャーズ氏は5歳にして最初の商売を始めていますが、これはバフェット氏も同様です。

「できた」と思っても、念のために「あともう少しやる」

ロジャーズ氏は1942年、アメリカのアラバマ州のデモポリスで生を受けました。氏の父親は第二次大戦でドイツへ従軍した後、デモポリスで工場を営んでいた伯父のところでマネジャーとして働くようになります。一家は働き者揃いで、氏は後に「実家では誰もがよく働き、『後でやる』とか『怠ける』といったことは聞いたことがありませんでした」と話しています。

一家の血を継いだロジャーズ氏は、5歳で野球場の空き缶拾いのアルバイトから始め、ソフトドリンクやピーナッツを売り歩くようになります。それ以降も様々なアルバイトをこなしました。

その基本姿勢は一貫して「一所懸命に、やるべきことをやる」というものでした。勉強に対しても一途な姿勢は変わらず、氏は「自分が十分な知識を得たと思えるまで、勉強の手を緩めない」と心に決めます。「念には念を入れて調べる」習慣は、この頃に築かれました。

終始、その姿勢を貫いた結果、氏は公立高校を首席で卒業。奨学金を受けて名門イェール大学へ進学、さらに奨学金を得てオックスフォード大学のベリオル・カレッジに進みました。


ジョージ・ソロス氏との運命的な出会い

ロジャーズ氏と投資との出会いは、大学時代に投資会社でアルバイトをしたことがきっかけでした。投資会社での仕事を通じて、「市場は世界で起こった出来事によって動いている」ことを知ります。氏は卒業後、1968年に兵役を終えるとウォール街で働き始めました。

そこで氏は、同じく世界3大投資家の1人であるジョージ・ソロス氏と出会います。当時、世界最強だったアメリカでは、海外投資に目を向ける人は少なく、ウォール街ですら海外投資を扱っている会社は2社しかありませんでした。そのうちの1社の副社長をしていたのが、ソロス氏です。ハンガリーで育ったソロス氏は、20代半ばまでイギリスにいて、ヨーロッパの金融市場でトレーダーをしていた経験がありました。

意気投合した2人は1973年、クォンタム・ファンドを設立。ソロス氏は、人々に先んじて掘り出し物を見つける能力に長けており、一方のロジャーズ氏は、持ち前の粘り強さでもって可能な限りの資料に当たり、分析を行いました。

2人は世界を視野に投資を行い、10年間に4000%を超えるリターンを叩き出します。しかし、富よりも自由を愛するロジャーズ氏は37歳にして引退。以後はバイクや車で世界を1周するなど、冒険投資家として知られています。

ロジャーズ氏のご紹介はこれくらいにして、以下より早速、氏の名言を解説することにしましょう。


実は暇な人ほど「時間がない」

<名言1>

「本当に忙しい人よりも、実は暇な人の方がいつも『時間がない』と言っているのです。要するに、忙しくない人というのは怠惰で時間管理能力が低いのです。私はリタイア直後にこのことを思い知りました。退職後の数ヶ月間、時間はたっぷりあったのですが、何も成し遂げることはできなかった。仕事で忙しい時のほうが、よほど効率的に動けたのです。そこで、オートバイで世界1周旅行に挑むことにしたのです」

これは「ロジャーズ流タイムマネジメント」ともいえる言葉です。氏の日常がどんなものかというと、毎日6時に起床し、2人の娘を自転車で学校に送り届けた後、午前中はエクササイズをしながらニュースやメールをチェック。合間にヘッドフォンを付けて電話インタビューを受けたり、電話会議をしたりして過ごします。午後には子供を迎えに行き、夕方から夜にかけては自宅で会議を開くこともあるようです。氏は2007年、アメリカからシンガポールに移住しています。

運動しながらニュースやメールのチェックをするというのは、一見すると集中力を欠くような行為にも見えますが、それは組み合わせ方にもよります。たとえば、2人の記者から同時に取材を受けることはできません。しかし取材と運動であれば、頭と体という別々の作業になりますから、並行して行うことは可能です。もちろんこれは、氏が同時並行でも重要な情報は漏れなく拾えるよう、投資家としての能力を研ぎ澄ませてきた、ということでもあります。

今の私たちがロジャーズ氏をマネようとしても、いきなりここまではできないかもしれません。とはいえ、忙しい時のほうがかえって時間を有効に活用できることは、誰しも経験しています。それは、忙しい時のほうが活発に頭や体を使っているために、その勢いで何をするにもテンポよく行動できるからでしょう。
時間があるはずの土日が無駄に流れていく

休みの日に、「今日は時間があるからいろいろなことができるな」と思ったのに、結局、1日ダラダラ無駄に過ごしてしまう、というのはよくある話です。

人は「自由にしていいですよ」と言われると、かえって管理をすることが難しくなります。特にそれまで時間を拘束されていたサラリーマンの方が、退職などでいきなり24時間フリーになってしまうと、急に「後でもいいや」となって、行動の質が薄まりがちです。

時間を無駄なく使えるようになるためには、ある程度の“型”が必要なのです。たとえば、私もビジネスオーナーですから時間はほぼ自由です。そこで私は他人と約束することで、行動に強制力を持たせています。


「忙しい人」には2種類ある

「忙しい人」というのは、大きく言うと2種類に分けられます。それは「人々に求められて仕事が殺到している人」か、「現在、修行中の人」かのどちらかです。

仕事が殺到している人は、自分で選べる立場にいます。それでもなお、忙しくしているのだとしたら、おそらくそのほうがご本人にとって楽しいからなのでしょう。けれど実際、「忙しさ」の多くの要因は、その人が“修行中の身”であることと関係しています。修行中というのは比喩であり、それを「自分で自分の顧客を獲得できるようになるまでの期間のこと」と定義しましょう。要は「独立の過程」という意味です。

このように考えると、会社に雇われているサラリーマンは、終始修行中の身である、と言えるのかもしれません。しかしそうではなくて、「本当はいつでも独立できるけれど、自ら選んでサラリーマンをしている」というのであれば、すでに修行は終わっている、と言えるでしょう。

とどのつまり、サラリーマンとはお金を得るために働いているのではなく、仕事をしながら学んでいる最中なのだとしたら、仕事量を自分で決めることができないのもやむを得ません。

ロジャーズ氏も、クォンタム・ファンドの共同設立者ではありましたが、会社はソロス氏のものでしたから、結局はサラリーマンに過ぎませんでした。けれど氏はそれをやり切ったからこそ、投資家として自立できたのです。

この名言は、逆を言うと「忙しい人ほどチャンスがある」ということを示唆してもいるのです。


2. 偉大な投資家の情報収集術とは

続いて、サラリーマンの方によく聞かれる「情報収集術」についての名言を取り上げます。

先ほどのタイムマネジメントと、この情報収集術は、私がよく聞かれる質問ベスト5の中に必ず入る話題です。まずは、ロジャーズ氏が何を語っているのかを見てみましょう。


無料の情報の中に「掘り出し物」はほとんどない

<名言2>

「テレビや雑誌、インターネットで得られる知識や情報に頼ってはいけません。賢明な投資家であるためには自分自身で経験し、自分の頭で考えること。だから私はテレビを見ません。若い人はインターネットに依存していますが、ネット上の情報で『世の中を理解した』と信じている人の視野は狭い。投資で成功したいなら、それを心に留めて、自分の眼力を磨いてください」

現在は、無料の情報が世の中に溢れています。たとえば、お店を探したい時や、ちょっとした調べものをしたい時などには重宝するでしょう。

とはいえ、もともと世の中に無料のものなど1つもありません。ですから、無料の情報を流している人は、「どこかで必ず資金の回収をしている」と考えるのが普通です。つまり無料の情報を流している、というのは「そうすることによって利益が得られるから意図的に無料の情報を流している」のです。

たとえば、テレビの情報は基本的に無料です。けれど、そのほとんどは意味のないものです。「何の苦労もなく、ただテレビを観ているだけで、自分の必要としている情報がすべて集まってくる」などということはあり得ません。

元来、テレビとは企業のマーケティングツールですから、視聴者に自社商品を覚えてもらい、買ってもらうのが本来の目的です。テレビを観て、お金が「減る」ことはあっても、「稼ぐ」とか「殖やす」という要素はありません。

選別眼がなければ、テレビ・ネットは時間を無駄にするだけ

確かに、テレビを観てビジネスのインスピレーションを得る、ということはあるでしょう。しかし、何にもせずに純粋にテレビで観た内容から、いきなりアイデアを思いつくことはありません。それができる人は、必ず何らかの前段階を経ているはずです。たとえば日頃から新しい企画ネタを探してたくさん本を読んでいる、とか、会社から重要なプロジェクトを任され、それについて日夜考え続けている、といったようにです。テレビは単なるきっかけにすぎません。

たとえると、インターネットサイトの中からとびきりの情報を得ようとするのは、海辺の砂浜の中から砂金を見つけようとするようなものでしょう。たとえ決死の覚悟で探したところで、無料の情報の中に大金星が混ざっている保証はありません。

もし、選別眼を持っている人であれば、その中からでも見分けることは可能でしょうが、選別眼を持っていない人は、情報の渦に呑まれるのが関の山です。そうしている間にも、貴重な時間はなす術もなく過ぎていきます。


本業と投資をどう両立する?

私でオススメしているのは、ハイブリッドクワドラントです。つまり投資家を本業にするのではなく、本業(サラリーマン、自営業など)を別に持ちつつ、投資家と掛け持ちをすることです。

こう考えた場合、どこにもっとも自分の時間を投じるべきなのかと言えば、それは「一番お金を稼げる本業」にです。いわば副業に相当する投資に、本業以上の時間をかけるべきではないのです。

それでは、副業に過ぎない投資で、なるべく時間をかけずに成果を出すにはどうしたらいいのかと言うと――

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/429.html#c133

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
263. 中川隆[-13759] koaQ7Jey 2020年2月15日 19:57:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-363]

ジム・ロジャーズもかつて破産。天才投資家の「失敗」から学ぶ時間管理術=俣野成敏 2018年7月15日
https://www.mag2.com/p/money/491485

以前、名言シリーズとしてウォーレン・バフェット氏を特集したところ多くの反響が寄せられました。そこで今回は名言シリーズの第2弾として、ジム・ロジャーズ氏をお送りいたします。

ロジャーズ氏は日本びいきとしても有名ですが、反面、日本の未来に対しては懐疑的な意見を崩していません。私たちは氏の言葉から何を学び、どう自分の人生に活かしていけばいいのか? 今回の特集を通じて考えてみたいと思います。


「一所懸命にやるべきことをやるだけ」天才投資家の頭の中とは?

「失敗を恐れるな。できれば早いうちに、2回破産するといい」

世界3大投資家の1人と言われているジム・ロジャーズ氏は、かつて空売りに失敗して破産したことがあります。

それはまだ氏が駆け出しの投資家だった1970年のこと。「株価は暴落する」と予想した氏は、有り金をはたいて空売りを仕掛けました。当時は「自分の読みに絶対の自信を持っていた」と言うロジャーズ氏。ところが株価は上昇を続け、耐えられなくなった氏は、高くても株を買い戻さざるを得なくなります。ついにはすべてを失い、借金だけが残りました。

その後、氏が空売りを仕掛けていた6社は、3年以内にすべて倒産しました。予測自体は当たっていたのに、それに耐えられるだけの資金を残しておかなかったのが敗因でした。

この経験によって、自分がいかに市場のことを理解していなかったのかを思い知らされた氏は、後年、コロンビア大学で講義をした際に、学生にこう言いました。

「失敗を恐れるな。できれば早いうちに、2回破産するといい。失敗しても立ち直ることができれば、より大きな成功を収められる」と。

本特集では、ロジャーズ氏の名言を『世界的な大富豪が人生で大切にしてきたこと60』(プレジデント社)から採用しました。

同書は、氏の名言を並べただけの非常にシンプルなつくりとなっています。読みやすい反面、書籍を読むだけでは、氏がなぜこの名言を述べたのか?という前後関係がわかりにくくなっているのは否めないところです。

そこを俣野の解説で補えば、名言を理解する際の手助けになるのではないか?と考えたわけです。


幼少期から商才を発揮

まず、最初に「ロジャーズ氏のことをよく知らない」という方のために、簡単にロジャーズ氏の半生を振り返っておくことにしたいと思います。

ビジネスの上手な人の多くに共通してみられるのが、幼少の頃から商売の才能を発揮していた、ということです。

ロジャーズ氏は5歳にして最初の商売を始めていますが、これはバフェット氏も同様です。

「できた」と思っても、念のために「あともう少しやる」

ロジャーズ氏は1942年、アメリカのアラバマ州のデモポリスで生を受けました。氏の父親は第二次大戦でドイツへ従軍した後、デモポリスで工場を営んでいた伯父のところでマネジャーとして働くようになります。一家は働き者揃いで、氏は後に「実家では誰もがよく働き、『後でやる』とか『怠ける』といったことは聞いたことがありませんでした」と話しています。

一家の血を継いだロジャーズ氏は、5歳で野球場の空き缶拾いのアルバイトから始め、ソフトドリンクやピーナッツを売り歩くようになります。それ以降も様々なアルバイトをこなしました。

その基本姿勢は一貫して「一所懸命に、やるべきことをやる」というものでした。勉強に対しても一途な姿勢は変わらず、氏は「自分が十分な知識を得たと思えるまで、勉強の手を緩めない」と心に決めます。「念には念を入れて調べる」習慣は、この頃に築かれました。

終始、その姿勢を貫いた結果、氏は公立高校を首席で卒業。奨学金を受けて名門イェール大学へ進学、さらに奨学金を得てオックスフォード大学のベリオル・カレッジに進みました。


ジョージ・ソロス氏との運命的な出会い

ロジャーズ氏と投資との出会いは、大学時代に投資会社でアルバイトをしたことがきっかけでした。投資会社での仕事を通じて、「市場は世界で起こった出来事によって動いている」ことを知ります。氏は卒業後、1968年に兵役を終えるとウォール街で働き始めました。

そこで氏は、同じく世界3大投資家の1人であるジョージ・ソロス氏と出会います。当時、世界最強だったアメリカでは、海外投資に目を向ける人は少なく、ウォール街ですら海外投資を扱っている会社は2社しかありませんでした。そのうちの1社の副社長をしていたのが、ソロス氏です。ハンガリーで育ったソロス氏は、20代半ばまでイギリスにいて、ヨーロッパの金融市場でトレーダーをしていた経験がありました。

意気投合した2人は1973年、クォンタム・ファンドを設立。ソロス氏は、人々に先んじて掘り出し物を見つける能力に長けており、一方のロジャーズ氏は、持ち前の粘り強さでもって可能な限りの資料に当たり、分析を行いました。

2人は世界を視野に投資を行い、10年間に4000%を超えるリターンを叩き出します。しかし、富よりも自由を愛するロジャーズ氏は37歳にして引退。以後はバイクや車で世界を1周するなど、冒険投資家として知られています。

ロジャーズ氏のご紹介はこれくらいにして、以下より早速、氏の名言を解説することにしましょう。


実は暇な人ほど「時間がない」

<名言1>

「本当に忙しい人よりも、実は暇な人の方がいつも『時間がない』と言っているのです。要するに、忙しくない人というのは怠惰で時間管理能力が低いのです。私はリタイア直後にこのことを思い知りました。退職後の数ヶ月間、時間はたっぷりあったのですが、何も成し遂げることはできなかった。仕事で忙しい時のほうが、よほど効率的に動けたのです。そこで、オートバイで世界1周旅行に挑むことにしたのです」

これは「ロジャーズ流タイムマネジメント」ともいえる言葉です。氏の日常がどんなものかというと、毎日6時に起床し、2人の娘を自転車で学校に送り届けた後、午前中はエクササイズをしながらニュースやメールをチェック。合間にヘッドフォンを付けて電話インタビューを受けたり、電話会議をしたりして過ごします。午後には子供を迎えに行き、夕方から夜にかけては自宅で会議を開くこともあるようです。氏は2007年、アメリカからシンガポールに移住しています。

運動しながらニュースやメールのチェックをするというのは、一見すると集中力を欠くような行為にも見えますが、それは組み合わせ方にもよります。たとえば、2人の記者から同時に取材を受けることはできません。しかし取材と運動であれば、頭と体という別々の作業になりますから、並行して行うことは可能です。もちろんこれは、氏が同時並行でも重要な情報は漏れなく拾えるよう、投資家としての能力を研ぎ澄ませてきた、ということでもあります。

今の私たちがロジャーズ氏をマネようとしても、いきなりここまではできないかもしれません。とはいえ、忙しい時のほうがかえって時間を有効に活用できることは、誰しも経験しています。それは、忙しい時のほうが活発に頭や体を使っているために、その勢いで何をするにもテンポよく行動できるからでしょう。
時間があるはずの土日が無駄に流れていく

休みの日に、「今日は時間があるからいろいろなことができるな」と思ったのに、結局、1日ダラダラ無駄に過ごしてしまう、というのはよくある話です。

人は「自由にしていいですよ」と言われると、かえって管理をすることが難しくなります。特にそれまで時間を拘束されていたサラリーマンの方が、退職などでいきなり24時間フリーになってしまうと、急に「後でもいいや」となって、行動の質が薄まりがちです。

時間を無駄なく使えるようになるためには、ある程度の“型”が必要なのです。たとえば、私もビジネスオーナーですから時間はほぼ自由です。そこで私は他人と約束することで、行動に強制力を持たせています。


「忙しい人」には2種類ある

「忙しい人」というのは、大きく言うと2種類に分けられます。それは「人々に求められて仕事が殺到している人」か、「現在、修行中の人」かのどちらかです。

仕事が殺到している人は、自分で選べる立場にいます。それでもなお、忙しくしているのだとしたら、おそらくそのほうがご本人にとって楽しいからなのでしょう。けれど実際、「忙しさ」の多くの要因は、その人が“修行中の身”であることと関係しています。修行中というのは比喩であり、それを「自分で自分の顧客を獲得できるようになるまでの期間のこと」と定義しましょう。要は「独立の過程」という意味です。

このように考えると、会社に雇われているサラリーマンは、終始修行中の身である、と言えるのかもしれません。しかしそうではなくて、「本当はいつでも独立できるけれど、自ら選んでサラリーマンをしている」というのであれば、すでに修行は終わっている、と言えるでしょう。

とどのつまり、サラリーマンとはお金を得るために働いているのではなく、仕事をしながら学んでいる最中なのだとしたら、仕事量を自分で決めることができないのもやむを得ません。

ロジャーズ氏も、クォンタム・ファンドの共同設立者ではありましたが、会社はソロス氏のものでしたから、結局はサラリーマンに過ぎませんでした。けれど氏はそれをやり切ったからこそ、投資家として自立できたのです。

この名言は、逆を言うと「忙しい人ほどチャンスがある」ということを示唆してもいるのです。


2. 偉大な投資家の情報収集術とは

続いて、サラリーマンの方によく聞かれる「情報収集術」についての名言を取り上げます。

先ほどのタイムマネジメントと、この情報収集術は、私がよく聞かれる質問ベスト5の中に必ず入る話題です。まずは、ロジャーズ氏が何を語っているのかを見てみましょう。


無料の情報の中に「掘り出し物」はほとんどない

<名言2>

「テレビや雑誌、インターネットで得られる知識や情報に頼ってはいけません。賢明な投資家であるためには自分自身で経験し、自分の頭で考えること。だから私はテレビを見ません。若い人はインターネットに依存していますが、ネット上の情報で『世の中を理解した』と信じている人の視野は狭い。投資で成功したいなら、それを心に留めて、自分の眼力を磨いてください」

現在は、無料の情報が世の中に溢れています。たとえば、お店を探したい時や、ちょっとした調べものをしたい時などには重宝するでしょう。

とはいえ、もともと世の中に無料のものなど1つもありません。ですから、無料の情報を流している人は、「どこかで必ず資金の回収をしている」と考えるのが普通です。つまり無料の情報を流している、というのは「そうすることによって利益が得られるから意図的に無料の情報を流している」のです。

たとえば、テレビの情報は基本的に無料です。けれど、そのほとんどは意味のないものです。「何の苦労もなく、ただテレビを観ているだけで、自分の必要としている情報がすべて集まってくる」などということはあり得ません。

元来、テレビとは企業のマーケティングツールですから、視聴者に自社商品を覚えてもらい、買ってもらうのが本来の目的です。テレビを観て、お金が「減る」ことはあっても、「稼ぐ」とか「殖やす」という要素はありません。

選別眼がなければ、テレビ・ネットは時間を無駄にするだけ

確かに、テレビを観てビジネスのインスピレーションを得る、ということはあるでしょう。しかし、何にもせずに純粋にテレビで観た内容から、いきなりアイデアを思いつくことはありません。それができる人は、必ず何らかの前段階を経ているはずです。たとえば日頃から新しい企画ネタを探してたくさん本を読んでいる、とか、会社から重要なプロジェクトを任され、それについて日夜考え続けている、といったようにです。テレビは単なるきっかけにすぎません。

たとえると、インターネットサイトの中からとびきりの情報を得ようとするのは、海辺の砂浜の中から砂金を見つけようとするようなものでしょう。たとえ決死の覚悟で探したところで、無料の情報の中に大金星が混ざっている保証はありません。

もし、選別眼を持っている人であれば、その中からでも見分けることは可能でしょうが、選別眼を持っていない人は、情報の渦に呑まれるのが関の山です。そうしている間にも、貴重な時間はなす術もなく過ぎていきます。


本業と投資をどう両立する?

私でオススメしているのは、ハイブリッドクワドラントです。つまり投資家を本業にするのではなく、本業(サラリーマン、自営業など)を別に持ちつつ、投資家と掛け持ちをすることです。

こう考えた場合、どこにもっとも自分の時間を投じるべきなのかと言えば、それは「一番お金を稼げる本業」にです。いわば副業に相当する投資に、本業以上の時間をかけるべきではないのです。

それでは、副業に過ぎない投資で、なるべく時間をかけずに成果を出すにはどうしたらいいのかと言うと――

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c263

[近代史3] リビアの戦乱を引き起こしたのはアメリカ政府を操ってきたネオコン(シオニストの一派) 中川隆
1. 中川隆[-13758] koaQ7Jey 2020年2月15日 20:28:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-362]
2020.02.15
大統領候補として売り出されているブータジャジはイスラエルとCIAが後ろ盾
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002150000/


 民主党の大統領候補としてピート・ブータジャジが売り出されている。今年の1月まで世論調査でトップだったジョー・バイデンは急速に支持率を落としているが、これはウクライナの汚職事件を封印し損なったことが大きいのだろう。

 しかし、2月に入って世論調査でトップに躍り出たのはバーニー・サンダース。草の根で人気のあるサンダースは2016年の大統領選挙でも少なからぬ人が支持、ヒラリー・クリントンを内定してた民主党幹部たちに足を引っ張られた。そうした工作の一端を明らかにしたのがウィキリークだ。

 人気の点ではトップのサンダースだが、「最有力候補」とは言えない。内政でも外交でも彼の政策が支配層に嫌われているだろうからだ。彼が候補者になり、大統領に選ばれるためには政策を支配層へ近づけねばならない。

 本ブログでは繰り返し書いてきたように、アメリカでは国内の収容所化と国外での侵略が推進されている。そうした流れは1991年12月のソ連が消滅した後に加速、2001年9月に再加速された。

 リチャード・ニクソンの辞任を受け、1974年に登場したジェラルド・フォード政権で親イスラエル派のネオコンが表舞台で影響力を強めはじめ、2001年9月からは圧倒的な力を持った。今では民主党も共和党も関係なく、大多数の議員がイスラエルを盲目的に支持している。

 しかし、世界的に見るとパレスチナ人を弾圧、殺戮と破壊を繰り返すイスラエルを批判する声は高まり、イスラエルに対するBDS(ボイコット、資本の引き揚げ、制裁)運動が広がっている。

 そうした運動が広がることを恐れ、アメリカでは反BDSが法律化されつつある。ジョージア州では2016年に州と1000ドル相当以上の契約をしている場合、イスラエル支持を誓うことが義務づけられた。そのジョージア州の大学で講演が予定されていたジャーナリストのアビー・マーチンはイスラエルに忠誠を誓うことを拒否、その結果、講演はキャンセルされた。

 アメリカと同じアングロ・サクソン系の国であるイギリスにおいてもイスラエルを批判する声はある。大きな節目になったのは1982年のイスラエル軍によるベイルート侵攻。1万数千人の市民を虐殺、さらにファランジスト党の手を借りて無防備のサブラとシャティーラにあったパレスチナ難民のキャンプを攻めて数百人、あるいは3000人以上の難民を虐殺している。

 歴史的に親イスラエルだったイギリスの労働党もパレスチナ人支持へ転換、イスラエルの残虐行為を擁護するアメリカへの批判が高まった。

 そこでアメリカのロナルド・レーガン政権はイギリスとの結びつきを強めるため、メディア界の大物を呼び寄せて善後策を協議した。そこで組織されたのがBAP(英米後継世代プロジェクト)だ。このプロジェクトには少なからぬメディアの記者や編集者が参加する。

 そうした中、目をつけられた政治家がトニー・ブレア。1994年1月に妻とイスラエルへ招待され、3月にブレアはロンドンのイスラエル大使館で富豪のマイケル・レビーを紹介された。その後、ブレアの重要なスポンサーになるのだが、言うまでもなく真の金主はイスラエルだ。

 米英の親イスラエル人脈にとって好都合なことに、労働党の党首だったジョン・スミスが1994年5月に急死、その1カ月後に行われた投票でブレアが勝利、党首になる。

 レビーだけでなく、イスラエルとイギリスとの関係強化を目的としているという団体LFIを資金源にしていたブレアは労働組合を頼る必要がない。そこで国内政策はマーガレット・サッチャーと同じ新自由主義、国外では親イスラエル的で好戦的なものになる。これが日本でも評判になったニュー・レイバーにほかならない。労働党をブレア以前に戻したのがジェレミー・コービン。彼を有力メディアが「反ユダヤ」だと攻撃したのはそのためだ。

 アメリカでは民主党の大統領候補選びでバイデンが失速した後、親イスラエル派に支持されているのはインディアナ州サウスベンド市長だったピート・ブータジャジである。

 この人物の有力スポンサーと言われているのがヘッジ・ファンドを経営するセス・クラーマン。この人物は熱烈なイスラエル支持者で、違法入植にも賛成している。今回の大統領選挙でこの人物はブータジャジのほか上院議員のアミー・クロウバシャーなどへ寄付しているようだ。

 また、昨年からデイビッド・コーエン元副長官やCIAの中東工作の責任者だったジョン・ブレアなど少なからぬCIAの元スタッフがブータジャジを支援していることが話題になっている。

 ブータジャジの支持者の中にはベネズエラの体制転覆を目論んでいる人もいる。そのひとりがドナルド・トランプ政権で国家安全保障会議の南アメリカ担当者だったフェルナンド・クッツ。CIAと関係が深くネオコンが拠点のひとつにしているCSISの秘密会議に出席したことでも知られている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002150000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/847.html#c1

[近代史3] トランプは反グローバリズムの旗手なのか? それとも自分の支持率や人気を上げる事しか考えていない無知蒙昧なアホなのか? 中川隆
13. 中川隆[-13757] koaQ7Jey 2020年2月15日 20:29:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-361]
2020.02.15
大統領候補として売り出されているブータジャジはイスラエルとCIAが後ろ盾
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002150000/


 民主党の大統領候補としてピート・ブータジャジが売り出されている。今年の1月まで世論調査でトップだったジョー・バイデンは急速に支持率を落としているが、これはウクライナの汚職事件を封印し損なったことが大きいのだろう。

 しかし、2月に入って世論調査でトップに躍り出たのはバーニー・サンダース。草の根で人気のあるサンダースは2016年の大統領選挙でも少なからぬ人が支持、ヒラリー・クリントンを内定してた民主党幹部たちに足を引っ張られた。そうした工作の一端を明らかにしたのがウィキリークだ。

 人気の点ではトップのサンダースだが、「最有力候補」とは言えない。内政でも外交でも彼の政策が支配層に嫌われているだろうからだ。彼が候補者になり、大統領に選ばれるためには政策を支配層へ近づけねばならない。

 本ブログでは繰り返し書いてきたように、アメリカでは国内の収容所化と国外での侵略が推進されている。そうした流れは1991年12月のソ連が消滅した後に加速、2001年9月に再加速された。

 リチャード・ニクソンの辞任を受け、1974年に登場したジェラルド・フォード政権で親イスラエル派のネオコンが表舞台で影響力を強めはじめ、2001年9月からは圧倒的な力を持った。今では民主党も共和党も関係なく、大多数の議員がイスラエルを盲目的に支持している。

 しかし、世界的に見るとパレスチナ人を弾圧、殺戮と破壊を繰り返すイスラエルを批判する声は高まり、イスラエルに対するBDS(ボイコット、資本の引き揚げ、制裁)運動が広がっている。

 そうした運動が広がることを恐れ、アメリカでは反BDSが法律化されつつある。ジョージア州では2016年に州と1000ドル相当以上の契約をしている場合、イスラエル支持を誓うことが義務づけられた。そのジョージア州の大学で講演が予定されていたジャーナリストのアビー・マーチンはイスラエルに忠誠を誓うことを拒否、その結果、講演はキャンセルされた。

 アメリカと同じアングロ・サクソン系の国であるイギリスにおいてもイスラエルを批判する声はある。大きな節目になったのは1982年のイスラエル軍によるベイルート侵攻。1万数千人の市民を虐殺、さらにファランジスト党の手を借りて無防備のサブラとシャティーラにあったパレスチナ難民のキャンプを攻めて数百人、あるいは3000人以上の難民を虐殺している。

 歴史的に親イスラエルだったイギリスの労働党もパレスチナ人支持へ転換、イスラエルの残虐行為を擁護するアメリカへの批判が高まった。

 そこでアメリカのロナルド・レーガン政権はイギリスとの結びつきを強めるため、メディア界の大物を呼び寄せて善後策を協議した。そこで組織されたのがBAP(英米後継世代プロジェクト)だ。このプロジェクトには少なからぬメディアの記者や編集者が参加する。

 そうした中、目をつけられた政治家がトニー・ブレア。1994年1月に妻とイスラエルへ招待され、3月にブレアはロンドンのイスラエル大使館で富豪のマイケル・レビーを紹介された。その後、ブレアの重要なスポンサーになるのだが、言うまでもなく真の金主はイスラエルだ。

 米英の親イスラエル人脈にとって好都合なことに、労働党の党首だったジョン・スミスが1994年5月に急死、その1カ月後に行われた投票でブレアが勝利、党首になる。

 レビーだけでなく、イスラエルとイギリスとの関係強化を目的としているという団体LFIを資金源にしていたブレアは労働組合を頼る必要がない。そこで国内政策はマーガレット・サッチャーと同じ新自由主義、国外では親イスラエル的で好戦的なものになる。これが日本でも評判になったニュー・レイバーにほかならない。労働党をブレア以前に戻したのがジェレミー・コービン。彼を有力メディアが「反ユダヤ」だと攻撃したのはそのためだ。

 アメリカでは民主党の大統領候補選びでバイデンが失速した後、親イスラエル派に支持されているのはインディアナ州サウスベンド市長だったピート・ブータジャジである。

 この人物の有力スポンサーと言われているのがヘッジ・ファンドを経営するセス・クラーマン。この人物は熱烈なイスラエル支持者で、違法入植にも賛成している。今回の大統領選挙でこの人物はブータジャジのほか上院議員のアミー・クロウバシャーなどへ寄付しているようだ。

 また、昨年からデイビッド・コーエン元副長官やCIAの中東工作の責任者だったジョン・ブレアなど少なからぬCIAの元スタッフがブータジャジを支援していることが話題になっている。

 ブータジャジの支持者の中にはベネズエラの体制転覆を目論んでいる人もいる。そのひとりがドナルド・トランプ政権で国家安全保障会議の南アメリカ担当者だったフェルナンド・クッツ。CIAと関係が深くネオコンが拠点のひとつにしているCSISの秘密会議に出席したことでも知られている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002150000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/493.html#c13

[近代史3] 平和主義者だったトランプがイラン革命防衛隊の精鋭組織コッズ部隊の司令官を殺害した理由 中川隆
51. 中川隆[-13756] koaQ7Jey 2020年2月15日 20:29:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-360]
2020.02.15
大統領候補として売り出されているブータジャジはイスラエルとCIAが後ろ盾
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002150000/


 民主党の大統領候補としてピート・ブータジャジが売り出されている。今年の1月まで世論調査でトップだったジョー・バイデンは急速に支持率を落としているが、これはウクライナの汚職事件を封印し損なったことが大きいのだろう。

 しかし、2月に入って世論調査でトップに躍り出たのはバーニー・サンダース。草の根で人気のあるサンダースは2016年の大統領選挙でも少なからぬ人が支持、ヒラリー・クリントンを内定してた民主党幹部たちに足を引っ張られた。そうした工作の一端を明らかにしたのがウィキリークだ。

 人気の点ではトップのサンダースだが、「最有力候補」とは言えない。内政でも外交でも彼の政策が支配層に嫌われているだろうからだ。彼が候補者になり、大統領に選ばれるためには政策を支配層へ近づけねばならない。

 本ブログでは繰り返し書いてきたように、アメリカでは国内の収容所化と国外での侵略が推進されている。そうした流れは1991年12月のソ連が消滅した後に加速、2001年9月に再加速された。

 リチャード・ニクソンの辞任を受け、1974年に登場したジェラルド・フォード政権で親イスラエル派のネオコンが表舞台で影響力を強めはじめ、2001年9月からは圧倒的な力を持った。今では民主党も共和党も関係なく、大多数の議員がイスラエルを盲目的に支持している。

 しかし、世界的に見るとパレスチナ人を弾圧、殺戮と破壊を繰り返すイスラエルを批判する声は高まり、イスラエルに対するBDS(ボイコット、資本の引き揚げ、制裁)運動が広がっている。

 そうした運動が広がることを恐れ、アメリカでは反BDSが法律化されつつある。ジョージア州では2016年に州と1000ドル相当以上の契約をしている場合、イスラエル支持を誓うことが義務づけられた。そのジョージア州の大学で講演が予定されていたジャーナリストのアビー・マーチンはイスラエルに忠誠を誓うことを拒否、その結果、講演はキャンセルされた。

 アメリカと同じアングロ・サクソン系の国であるイギリスにおいてもイスラエルを批判する声はある。大きな節目になったのは1982年のイスラエル軍によるベイルート侵攻。1万数千人の市民を虐殺、さらにファランジスト党の手を借りて無防備のサブラとシャティーラにあったパレスチナ難民のキャンプを攻めて数百人、あるいは3000人以上の難民を虐殺している。

 歴史的に親イスラエルだったイギリスの労働党もパレスチナ人支持へ転換、イスラエルの残虐行為を擁護するアメリカへの批判が高まった。

 そこでアメリカのロナルド・レーガン政権はイギリスとの結びつきを強めるため、メディア界の大物を呼び寄せて善後策を協議した。そこで組織されたのがBAP(英米後継世代プロジェクト)だ。このプロジェクトには少なからぬメディアの記者や編集者が参加する。

 そうした中、目をつけられた政治家がトニー・ブレア。1994年1月に妻とイスラエルへ招待され、3月にブレアはロンドンのイスラエル大使館で富豪のマイケル・レビーを紹介された。その後、ブレアの重要なスポンサーになるのだが、言うまでもなく真の金主はイスラエルだ。

 米英の親イスラエル人脈にとって好都合なことに、労働党の党首だったジョン・スミスが1994年5月に急死、その1カ月後に行われた投票でブレアが勝利、党首になる。

 レビーだけでなく、イスラエルとイギリスとの関係強化を目的としているという団体LFIを資金源にしていたブレアは労働組合を頼る必要がない。そこで国内政策はマーガレット・サッチャーと同じ新自由主義、国外では親イスラエル的で好戦的なものになる。これが日本でも評判になったニュー・レイバーにほかならない。労働党をブレア以前に戻したのがジェレミー・コービン。彼を有力メディアが「反ユダヤ」だと攻撃したのはそのためだ。

 アメリカでは民主党の大統領候補選びでバイデンが失速した後、親イスラエル派に支持されているのはインディアナ州サウスベンド市長だったピート・ブータジャジである。

 この人物の有力スポンサーと言われているのがヘッジ・ファンドを経営するセス・クラーマン。この人物は熱烈なイスラエル支持者で、違法入植にも賛成している。今回の大統領選挙でこの人物はブータジャジのほか上院議員のアミー・クロウバシャーなどへ寄付しているようだ。

 また、昨年からデイビッド・コーエン元副長官やCIAの中東工作の責任者だったジョン・ブレアなど少なからぬCIAの元スタッフがブータジャジを支援していることが話題になっている。

 ブータジャジの支持者の中にはベネズエラの体制転覆を目論んでいる人もいる。そのひとりがドナルド・トランプ政権で国家安全保障会議の南アメリカ担当者だったフェルナンド・クッツ。CIAと関係が深くネオコンが拠点のひとつにしているCSISの秘密会議に出席したことでも知られている。
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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/786.html#c51

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
90. 中川隆[-13755] koaQ7Jey 2020年2月15日 20:31:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-359]
2020.02.15
大統領候補として売り出されているブータジャジはイスラエルとCIAが後ろ盾
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002150000/


 民主党の大統領候補としてピート・ブータジャジが売り出されている。今年の1月まで世論調査でトップだったジョー・バイデンは急速に支持率を落としているが、これはウクライナの汚職事件を封印し損なったことが大きいのだろう。

 しかし、2月に入って世論調査でトップに躍り出たのはバーニー・サンダース。草の根で人気のあるサンダースは2016年の大統領選挙でも少なからぬ人が支持、ヒラリー・クリントンを内定してた民主党幹部たちに足を引っ張られた。そうした工作の一端を明らかにしたのがウィキリークだ。

 人気の点ではトップのサンダースだが、「最有力候補」とは言えない。内政でも外交でも彼の政策が支配層に嫌われているだろうからだ。彼が候補者になり、大統領に選ばれるためには政策を支配層へ近づけねばならない。

 本ブログでは繰り返し書いてきたように、アメリカでは国内の収容所化と国外での侵略が推進されている。そうした流れは1991年12月のソ連が消滅した後に加速、2001年9月に再加速された。

 リチャード・ニクソンの辞任を受け、1974年に登場したジェラルド・フォード政権で親イスラエル派のネオコンが表舞台で影響力を強めはじめ、2001年9月からは圧倒的な力を持った。今では民主党も共和党も関係なく、大多数の議員がイスラエルを盲目的に支持している。

 しかし、世界的に見るとパレスチナ人を弾圧、殺戮と破壊を繰り返すイスラエルを批判する声は高まり、イスラエルに対するBDS(ボイコット、資本の引き揚げ、制裁)運動が広がっている。

 そうした運動が広がることを恐れ、アメリカでは反BDSが法律化されつつある。ジョージア州では2016年に州と1000ドル相当以上の契約をしている場合、イスラエル支持を誓うことが義務づけられた。そのジョージア州の大学で講演が予定されていたジャーナリストのアビー・マーチンはイスラエルに忠誠を誓うことを拒否、その結果、講演はキャンセルされた。

 アメリカと同じアングロ・サクソン系の国であるイギリスにおいてもイスラエルを批判する声はある。大きな節目になったのは1982年のイスラエル軍によるベイルート侵攻。1万数千人の市民を虐殺、さらにファランジスト党の手を借りて無防備のサブラとシャティーラにあったパレスチナ難民のキャンプを攻めて数百人、あるいは3000人以上の難民を虐殺している。

 歴史的に親イスラエルだったイギリスの労働党もパレスチナ人支持へ転換、イスラエルの残虐行為を擁護するアメリカへの批判が高まった。

 そこでアメリカのロナルド・レーガン政権はイギリスとの結びつきを強めるため、メディア界の大物を呼び寄せて善後策を協議した。そこで組織されたのがBAP(英米後継世代プロジェクト)だ。このプロジェクトには少なからぬメディアの記者や編集者が参加する。

 そうした中、目をつけられた政治家がトニー・ブレア。1994年1月に妻とイスラエルへ招待され、3月にブレアはロンドンのイスラエル大使館で富豪のマイケル・レビーを紹介された。その後、ブレアの重要なスポンサーになるのだが、言うまでもなく真の金主はイスラエルだ。

 米英の親イスラエル人脈にとって好都合なことに、労働党の党首だったジョン・スミスが1994年5月に急死、その1カ月後に行われた投票でブレアが勝利、党首になる。

 レビーだけでなく、イスラエルとイギリスとの関係強化を目的としているという団体LFIを資金源にしていたブレアは労働組合を頼る必要がない。そこで国内政策はマーガレット・サッチャーと同じ新自由主義、国外では親イスラエル的で好戦的なものになる。これが日本でも評判になったニュー・レイバーにほかならない。労働党をブレア以前に戻したのがジェレミー・コービン。彼を有力メディアが「反ユダヤ」だと攻撃したのはそのためだ。

 アメリカでは民主党の大統領候補選びでバイデンが失速した後、親イスラエル派に支持されているのはインディアナ州サウスベンド市長だったピート・ブータジャジである。

 この人物の有力スポンサーと言われているのがヘッジ・ファンドを経営するセス・クラーマン。この人物は熱烈なイスラエル支持者で、違法入植にも賛成している。今回の大統領選挙でこの人物はブータジャジのほか上院議員のアミー・クロウバシャーなどへ寄付しているようだ。

 また、昨年からデイビッド・コーエン元副長官やCIAの中東工作の責任者だったジョン・ブレアなど少なからぬCIAの元スタッフがブータジャジを支援していることが話題になっている。

 ブータジャジの支持者の中にはベネズエラの体制転覆を目論んでいる人もいる。そのひとりがドナルド・トランプ政権で国家安全保障会議の南アメリカ担当者だったフェルナンド・クッツ。CIAと関係が深くネオコンが拠点のひとつにしているCSISの秘密会議に出席したことでも知られている。
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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c90

[近代史3] ユダヤ陰謀論とグローバリズムを考える _ ヨーロッパ化されたキリスト教がユダヤ思想の正体で、ユダヤ教やユダヤ人とは何の関係… 中川隆
20. 中川隆[-13754] koaQ7Jey 2020年2月15日 20:31:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-358]
2020.02.15
大統領候補として売り出されているブータジャジはイスラエルとCIAが後ろ盾
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002150000/


 民主党の大統領候補としてピート・ブータジャジが売り出されている。今年の1月まで世論調査でトップだったジョー・バイデンは急速に支持率を落としているが、これはウクライナの汚職事件を封印し損なったことが大きいのだろう。

 しかし、2月に入って世論調査でトップに躍り出たのはバーニー・サンダース。草の根で人気のあるサンダースは2016年の大統領選挙でも少なからぬ人が支持、ヒラリー・クリントンを内定してた民主党幹部たちに足を引っ張られた。そうした工作の一端を明らかにしたのがウィキリークだ。

 人気の点ではトップのサンダースだが、「最有力候補」とは言えない。内政でも外交でも彼の政策が支配層に嫌われているだろうからだ。彼が候補者になり、大統領に選ばれるためには政策を支配層へ近づけねばならない。

 本ブログでは繰り返し書いてきたように、アメリカでは国内の収容所化と国外での侵略が推進されている。そうした流れは1991年12月のソ連が消滅した後に加速、2001年9月に再加速された。

 リチャード・ニクソンの辞任を受け、1974年に登場したジェラルド・フォード政権で親イスラエル派のネオコンが表舞台で影響力を強めはじめ、2001年9月からは圧倒的な力を持った。今では民主党も共和党も関係なく、大多数の議員がイスラエルを盲目的に支持している。

 しかし、世界的に見るとパレスチナ人を弾圧、殺戮と破壊を繰り返すイスラエルを批判する声は高まり、イスラエルに対するBDS(ボイコット、資本の引き揚げ、制裁)運動が広がっている。

 そうした運動が広がることを恐れ、アメリカでは反BDSが法律化されつつある。ジョージア州では2016年に州と1000ドル相当以上の契約をしている場合、イスラエル支持を誓うことが義務づけられた。そのジョージア州の大学で講演が予定されていたジャーナリストのアビー・マーチンはイスラエルに忠誠を誓うことを拒否、その結果、講演はキャンセルされた。

 アメリカと同じアングロ・サクソン系の国であるイギリスにおいてもイスラエルを批判する声はある。大きな節目になったのは1982年のイスラエル軍によるベイルート侵攻。1万数千人の市民を虐殺、さらにファランジスト党の手を借りて無防備のサブラとシャティーラにあったパレスチナ難民のキャンプを攻めて数百人、あるいは3000人以上の難民を虐殺している。

 歴史的に親イスラエルだったイギリスの労働党もパレスチナ人支持へ転換、イスラエルの残虐行為を擁護するアメリカへの批判が高まった。

 そこでアメリカのロナルド・レーガン政権はイギリスとの結びつきを強めるため、メディア界の大物を呼び寄せて善後策を協議した。そこで組織されたのがBAP(英米後継世代プロジェクト)だ。このプロジェクトには少なからぬメディアの記者や編集者が参加する。

 そうした中、目をつけられた政治家がトニー・ブレア。1994年1月に妻とイスラエルへ招待され、3月にブレアはロンドンのイスラエル大使館で富豪のマイケル・レビーを紹介された。その後、ブレアの重要なスポンサーになるのだが、言うまでもなく真の金主はイスラエルだ。

 米英の親イスラエル人脈にとって好都合なことに、労働党の党首だったジョン・スミスが1994年5月に急死、その1カ月後に行われた投票でブレアが勝利、党首になる。

 レビーだけでなく、イスラエルとイギリスとの関係強化を目的としているという団体LFIを資金源にしていたブレアは労働組合を頼る必要がない。そこで国内政策はマーガレット・サッチャーと同じ新自由主義、国外では親イスラエル的で好戦的なものになる。これが日本でも評判になったニュー・レイバーにほかならない。労働党をブレア以前に戻したのがジェレミー・コービン。彼を有力メディアが「反ユダヤ」だと攻撃したのはそのためだ。

 アメリカでは民主党の大統領候補選びでバイデンが失速した後、親イスラエル派に支持されているのはインディアナ州サウスベンド市長だったピート・ブータジャジである。

 この人物の有力スポンサーと言われているのがヘッジ・ファンドを経営するセス・クラーマン。この人物は熱烈なイスラエル支持者で、違法入植にも賛成している。今回の大統領選挙でこの人物はブータジャジのほか上院議員のアミー・クロウバシャーなどへ寄付しているようだ。

 また、昨年からデイビッド・コーエン元副長官やCIAの中東工作の責任者だったジョン・ブレアなど少なからぬCIAの元スタッフがブータジャジを支援していることが話題になっている。

 ブータジャジの支持者の中にはベネズエラの体制転覆を目論んでいる人もいる。そのひとりがドナルド・トランプ政権で国家安全保障会議の南アメリカ担当者だったフェルナンド・クッツ。CIAと関係が深くネオコンが拠点のひとつにしているCSISの秘密会議に出席したことでも知られている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002150000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/504.html#c20

[文化2] ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン 中川隆
224. 中川隆[-13762] koaQ7Jey 2020年2月15日 21:31:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-360]
55名無しさん@ゲレンデいっぱい。2020/02/15(土) 20:55:23.01

幼稚園にかかる学費(授業料/給食費/園外活動費)
公立幼稚園…年22万2264円/3年間666万6792円
私立幼稚園…年49万80008円/3年間149万4024円

小学校にかかる学費(授業料/学校給食費/学校外活動費/修学旅行/学校納付金/学用品/通学費)
公立小学校…年32万1708円/6年間…193万248円
私立小学校…年153万5789円/6年間…921万4734円

中学校にかかる学費(授業料/学校教育費/学校給食費/学校外活動費)
公立中学校…年48万1841円/3年間…144万5523円
私立中学校…年133万8623円/3年間…401万5869円

高校にかかる学費(授業料/学校教育費/学校外活動費)
公立高校…年40万9979円/3年間122万9937円
私立高校…年99万5295円/3年間298万5885円

大学にかかる学費(入学費用/在学費)
国公立…4年間484万9000円
私立文系…4年間695万1000円
私立理系…4年間879万7000円

小中高の無償化は「授業料だけ」
制服、教材、給食費、設備、旅行、社会学習はすべて自腹…有料だよ
部活動、塾、習い事…贅沢させるともっとお金かかる!!!
東京下宿させると年220万円(月額18万3416円)が必要
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html#c224

[近代史3] 日本円と日本の物価は異常に安過ぎる _ 1ドル=50円 が適正価格 中川隆
27. 中川隆[-13764] koaQ7Jey 2020年2月15日 21:32:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-362]

55名無しさん@ゲレンデいっぱい。2020/02/15(土) 20:55:23.01

幼稚園にかかる学費(授業料/給食費/園外活動費)
公立幼稚園…年22万2264円/3年間666万6792円
私立幼稚園…年49万80008円/3年間149万4024円

小学校にかかる学費(授業料/学校給食費/学校外活動費/修学旅行/学校納付金/学用品/通学費)
公立小学校…年32万1708円/6年間…193万248円
私立小学校…年153万5789円/6年間…921万4734円

中学校にかかる学費(授業料/学校教育費/学校給食費/学校外活動費)
公立中学校…年48万1841円/3年間…144万5523円
私立中学校…年133万8623円/3年間…401万5869円

高校にかかる学費(授業料/学校教育費/学校外活動費)
公立高校…年40万9979円/3年間122万9937円
私立高校…年99万5295円/3年間298万5885円

大学にかかる学費(入学費用/在学費)
国公立…4年間484万9000円
私立文系…4年間695万1000円
私立理系…4年間879万7000円

小中高の無償化は「授業料だけ」
制服、教材、給食費、設備、旅行、社会学習はすべて自腹…有料だよ
部活動、塾、習い事…贅沢させるともっとお金かかる!!!
東京下宿させると年220万円(月額18万3416円)が必要
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/189.html#c27

[近代史3] 新自由主義を放置すると中間階層が転落してマルクスの預言した階級社会になる理由 中川隆
56. 中川隆[-13763] koaQ7Jey 2020年2月15日 21:33:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-361]
55名無しさん@ゲレンデいっぱい。2020/02/15(土) 20:55:23.01
幼稚園にかかる学費(授業料/給食費/園外活動費)
公立幼稚園…年22万2264円/3年間666万6792円
私立幼稚園…年49万80008円/3年間149万4024円

小学校にかかる学費(授業料/学校給食費/学校外活動費/修学旅行/学校納付金/学用品/通学費)
公立小学校…年32万1708円/6年間…193万248円
私立小学校…年153万5789円/6年間…921万4734円

中学校にかかる学費(授業料/学校教育費/学校給食費/学校外活動費)
公立中学校…年48万1841円/3年間…144万5523円
私立中学校…年133万8623円/3年間…401万5869円

高校にかかる学費(授業料/学校教育費/学校外活動費)
公立高校…年40万9979円/3年間122万9937円
私立高校…年99万5295円/3年間298万5885円

大学にかかる学費(入学費用/在学費)
国公立…4年間484万9000円
私立文系…4年間695万1000円
私立理系…4年間879万7000円

小中高の無償化は「授業料だけ」
制服、教材、給食費、設備、旅行、社会学習はすべて自腹…有料だよ
部活動、塾、習い事…贅沢させるともっとお金かかる!!!
東京下宿させると年220万円(月額18万3416円)が必要
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html#c56

[近代史3] 新自由主義を放置すると中間階層が転落してマルクスの預言した階級社会になる理由 中川隆
57. 中川隆[-13762] koaQ7Jey 2020年2月15日 21:36:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-360]
2020年02月15日
アメリカの学生ローン地獄 破産認められず貧困に陥る人多数

米有名大学は学費だけで4年間1200万円、生活費込みで2000万円必要

画像引用:https://s10851.pcdn.co/wp-content/uploads/2015/01/Between-2014-Aug-Sep-Chart1.png


サブプライムローンと類似する学生ローン

アメリカではリーマンショック以降学生ローン残高が増加し続け、第二のサブプライムローンと言われています。

サブプライムローンとはクリントン大統領時代に始めたホームレスや浮浪者向け住宅ローンでした。

キューバや中南米諸国からの亡命者や不法難民、路上生活のホームレスにまで幅広く融資しました。

これは2000年代に日本でも「債務の証券化」などと言われて脚光を浴び、日本でも真似しようという人が多かった。

手法は路上のホームレスに声をかけて借用書にサインさせ、数千万円の新築住宅に住まわせます。

彼の借金は証券として売り出されるが、全部ごちゃ混ぜにするので元の借金主がホームレスとばれないようにしてあります。


こうして売り出されたのが金融デリバティブ商品で、高金利なので大人気で金持ちや庶民まで競って投資しました。

だが当然ながらホームレスや難民は住宅ローンを滞納するようになり、2007年7月頃サブプライムショックが起きた。

住宅ローン会社から銀行まで幅広く連鎖倒産し、翌2008年に起きたのがリーマンショックでした。


今振り返るとそうなって当たり前ですが、当時はデリバティブ商品がホームレス住宅という事実は隠されていた。

現在起きている学生ローン危機も同じようなことで、借り手は無収入の学生で、最大数千万円を融資しています。

アメリカは大学進学率が高いので、キャリアを積むには有名大学でなくてはならず、有名大学には数千万円かかるのです。


こまった事にアメリカでは日本で違法な「裏口入学」が合法で、教授に賄賂を贈って推薦して猿の子供でも有名大学に入れる。

この手口で娘をハーバードに入学させたのがオバマ大統領で、彼の娘は取材記者の間で成績が悪いので知られていた。

こうした人が居るので有名大学に入る費用は高騰し、入学してからも際限なくお金を毟られます。


アメリカには世界中から学生が集まるが、その理由の一つは「賄賂を渡せば学歴を買える」から金持ちに人気なのです。


自己破産も免責もない永久債務

2019年末のアメリカの学生ローン残高は1兆5080億ドル(約165兆円)で過去最高を更新しつづけている。

リーマンショック前は学生だった若者もとしを取り、債務者の42%が40歳以上になっています。

これは20歳前後で借りて50歳以上になっても学生ローンを払い続けている人が居るのを意味しています。


日本ではリボルビング払いが「終わらない借金」と批判されているが、アメリカでは学生ローンの方が悪質です。

アメリカには「公的債務に自己破産の免責はできない」というルールがあり、学生ローンは公的機関が貸し付けています。


つまり18歳で2000万円借りた人はどんな事があっても返済する必要があり、途中で辞めることができない。


これが住宅ローンなら住宅という資産があるので、売却すればチャラにはならなくともかなり減額される。

学生ローンは学歴を金で買うものだが、大学を卒業した人全員が高収入になるわけではない。

ここで登場するのがアメリカの住居費の高さで、ニューヨークの月平均35万円など、ほとんどの主要都市の平均家賃はワンルーム30万円以上です。


アメリカのワンルームはベッドを2つ置けるので2人で住めるが、これを1人の労働者の収入で払うのは大変な事です。

家賃だけで年400万円かかったら年収600万円でも残りは200万円、日本で例えたら実質300万円以下の収入にしかなりません。

そのうえ学生ローンで月10万円支払う必要があったら、年収700万円でもギリギリの生活になる。


年収600万円のホームレスが居る国

しかも大学を卒業しても年収300万円とかの人も居る訳で、この人たちは収入の多くを学生ローンで差し引かれます。

こんな状況なので有名大学を卒業して年収600万円程度なのに、シリコンバレーで働き路上生活や車上生活を送る人が居ます。


アメリカの主要都市の平均家賃が30万円以上で日本は10万円以下という事は、アメリカ人の年収は250万から300万円差し引いて考える必要がある。


有名企業は都市にあるのでそこで働く人は家賃30万払っていて、さらに学生ローンがのしかかるのです。

1人あたりの借金は平均約3万ドルで、大学卒業時点で300万円の借金を抱えてスタートする。

学生ローン残高は10年前の2倍に拡大し、自動車ローン(1.33兆ドル)やクレジットカードローン(0.93兆ドル)より多い。


学生ローンが自動車や住宅と違うのは、車や家は収入や貯蓄ができた後で買うのに対し、無収入の学生に数百万から1000万以上貸し付けている点です。

学生は将来高収入になる「可能性」があるものの、貸し付けた時点ではホームレスと同じ無職で無収入にすぎない。

日本でも奨学金を返せない人が問題になっているが、日本では奨学金理由の自己破産免責は可能です。


アメリカの学生ローンがいかに悪質か想像できる。
http://www.thutmosev.com/archives/82199157.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html#c57

[近代史3] 長い旅に出て、過去を消して人生をリセットしよう 中川隆
3. 中川隆[-13767] koaQ7Jey 2020年2月15日 23:39:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-359]

ポツンと一軒家 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%B3%E3%81%A8%E4%B8%80%E8%BB%92%E5%AE%B6









この社会から逃げたい! 誰も来ない山奥で、自給自足の生活に憧れる人々 2020年02月15日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1031.html

 

 「ポツンと一軒家」というテレ朝の番組が、多極化分散した現代にあって、指折りの高視聴率をたたき出している。
 20%という数字は、たぶんテレビ番組の少なかった半世紀前の視聴率だろう。

 
「ポツンと一軒家」が視聴者を釘付けにし続ける理由
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64461

  『ポツンと一軒家』、視聴率20%超え!“圧倒的” な支持を集める理由
 https://www.jprime.jp/articles/-/15372

  ポツンと一軒家 なぜ人気?
  https://totibaikyaku.com/2018/11/ikkenya.html

 上のリンクに紹介したように、さまざまな分析アプローチが出回っているのだが、私の視点は誰とも異なる。

 私が、「ポツン……」が、高い視聴率を獲得している理由と考えるのは

 @ 嘘のないドギュメンタリー番組であるということ。多くの視聴者は、テレビ局の、計算尽くの仕掛け、仕込みの嘘に飽き飽きしているのだ。
 どこのチャンネルを回しても、作られた嘘の番組ばかり……。もう見たくもない。
 もちろん、「ポツン……」にも、事前のリサーチや、仕掛けがあるに決まっているが、番組の性質上、計算された準備は、かえって邪魔でしかなく、番組構成を貶めるものにしかならないから、基本的に、「嘘のない番組」と認識させるだけのリアリティを持っている。

 A 実は、視聴者の多くが、自民党政権による増税に次ぐ増税、安倍政権による不正に満ちた、縁故主義や我田引水など、生活の圧迫から逃れたいと願っていて、山奥で、誰の世話にもならない自給自足の生活に憧れていると私は考える。
 ポツンと一軒家のなかでは、ありふれた人物が、公共交通機関などのインフラからはじき出された過疎の山奥で、創意工夫を凝らしながら、自給自足に近い生活を行っていて、誰にも邪魔されない自由な生活を満喫しているように見える。
 このことは、「ポツンと……」に魅入られた人々にとって、自分のかなえられる夢を実現している住人に対する、畏敬と羨望を与えているのだと私は思う。

 B 誰もが、静かな荒らされない自然のなかで、密かに生きてみたいと願っている。
 しかし、都会に住んでいれば、食べるものも、住む場所も、病気になったときも、葬式も、社会的常識という重荷に押しつぶされて、自由な自分の意思は「世間体」の前に通すことができない。
 だけど、医療機関などなくとも、どうせ死を免れないのだし、世間体に左右されない、自分の人生のなかで生きて、手厚い看護なんかいらないから、静かに死んでゆきたいと、実は多くの人々が心の底で願っているのではないか?
 「本当に自然な人生」がテレビ番組のなかに見えるのだ。100歳に近い老人が、誰の助けも借りずに、自然のなかで自然の一部であるかのように生きている姿は実に魅力的なのだ。

 少し、重複した内容になってしまったが、私は、人々が心の底で憧れ続けてきた人生を実現している人の姿に、強い畏敬心を抱き、もっと、その姿を見てみたい……と思う気持ちが、この番組の異常なほどの人気を作っているのだと思う。

  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-298.html

  我々は、本当に必要な数百倍もの浪費生活を強いられていること
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-739.html

 何よりも、安倍晋三自民党政権の大増税が、どれほど底辺に生きる人々の生活を圧迫しているか? こんな苦しい生活から逃げたいと思っているか?
 自民党と竹中平蔵の進めてきた新自由主義が、ポツンと一軒家の視聴率を生み出していると思えないだろうか?

 逆にいえば、消費税のない、自由で解放された、豊かな生活に満足している人が大部分だったなら、たぶん、この番組が生まれることさえなかっただろう。
 自民党政権=安倍晋三と竹中平蔵がいる限り、ポツンと一軒家の人気は、どんどん高まってゆくのだ。

 私は、「集合無意識」について、何回か書いた。
 人は決して一人で生きているのではない。幸島と高崎山の猿だって、集合無意識を共有していることが知られた。
 https://www.nazotoki.com/hundredth_monkey.html

 人間が、集合無意識に支配されていることは、さまざまな証拠がある。
 上にリンクした「百匹目のサル現象」と、まったく同じことが人間界でも、野生動物界でも頻繁に見られるのだ。

 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/100sarugen.pdf

 だから、私は「安倍晋三と竹中平蔵は嫌だ!」という共通認識が、人間社会でも百を超えたとき、全国に伝播して、一斉に「安倍と竹中を追放しろ!」という具体的行動が、「星火燎原」のように、一斉に燃え上がるだろうと予想している。
 それまで芋を洗わなかった猿たちが、地域の壁を越えて、全国で一斉に芋を洗う習慣を持ったのと同じことが起きると信じているのだ。

 私は、「ポツンと一軒家」が示した、過疎地における自給自足、自律生活への憧れが、このまま「百匹目の猿現象」のように、大勢の人々に伝播してゆくものと予想している。

 時、奇しくも、新型コロナインフルエンザの劇的なパンデミックが始まろうとしていて、その致死率が5%を超えると報道されるようになり、糖尿病などの基礎疾患を抱えた人や妊婦、私のように間質性肺炎やCOPDを患っている者が、感染すると、致死率が50%を超える可能性もあって、そうなると、過疎の田舎に引っ込んで、人との接触を避けながら静かにパンデミックの嵐をやり過ごすことしか手がないので、そんな過疎の安い中古家屋の需要が増すだろうと思っている。

 今年は、絶望的な災厄の年になるという予言もたくさん出ていて、南海トラフの巨大地震や、世界経済大崩壊も避けられない事態となっていて、いずれも、大都市での生活が危機にさらされることになり、やはり安全な過疎の田舎での生活が重要性を増しているように思える。

 私の予測では、これから大都会の学校は、過疎地での廃校を利用した疎開生活をカリキュラムとして体験するようになるような気がしている。
 時代は、いずれも「大都会を離れよ!」と語りかけているように感じるのだ。 

  https://www.gifu-np.co.jp/news/20200212/20200212-214506.html

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1031.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/357.html#c3
[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
568. 中川隆[-13766] koaQ7Jey 2020年2月15日 23:53:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-358]
ポツンと一軒家 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%B3%E3%81%A8%E4%B8%80%E8%BB%92%E5%AE%B6





この社会から逃げたい! 誰も来ない山奥で、自給自足の生活に憧れる人々 2020年02月15日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1031.html

 

 「ポツンと一軒家」というテレ朝の番組が、多極化分散した現代にあって、指折りの高視聴率をたたき出している。
 20%という数字は、たぶんテレビ番組の少なかった半世紀前の視聴率だろう。

 
「ポツンと一軒家」が視聴者を釘付けにし続ける理由
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64461

  『ポツンと一軒家』、視聴率20%超え!“圧倒的” な支持を集める理由
 https://www.jprime.jp/articles/-/15372

  ポツンと一軒家 なぜ人気?
  https://totibaikyaku.com/2018/11/ikkenya.html

 上のリンクに紹介したように、さまざまな分析アプローチが出回っているのだが、私の視点は誰とも異なる。

 私が、「ポツン……」が、高い視聴率を獲得している理由と考えるのは

 @ 嘘のないドギュメンタリー番組であるということ。多くの視聴者は、テレビ局の、計算尽くの仕掛け、仕込みの嘘に飽き飽きしているのだ。
 どこのチャンネルを回しても、作られた嘘の番組ばかり……。もう見たくもない。
 もちろん、「ポツン……」にも、事前のリサーチや、仕掛けがあるに決まっているが、番組の性質上、計算された準備は、かえって邪魔でしかなく、番組構成を貶めるものにしかならないから、基本的に、「嘘のない番組」と認識させるだけのリアリティを持っている。

 A 実は、視聴者の多くが、自民党政権による増税に次ぐ増税、安倍政権による不正に満ちた、縁故主義や我田引水など、生活の圧迫から逃れたいと願っていて、山奥で、誰の世話にもならない自給自足の生活に憧れていると私は考える。
 ポツンと一軒家のなかでは、ありふれた人物が、公共交通機関などのインフラからはじき出された過疎の山奥で、創意工夫を凝らしながら、自給自足に近い生活を行っていて、誰にも邪魔されない自由な生活を満喫しているように見える。
 このことは、「ポツンと……」に魅入られた人々にとって、自分のかなえられる夢を実現している住人に対する、畏敬と羨望を与えているのだと私は思う。

 B 誰もが、静かな荒らされない自然のなかで、密かに生きてみたいと願っている。
 しかし、都会に住んでいれば、食べるものも、住む場所も、病気になったときも、葬式も、社会的常識という重荷に押しつぶされて、自由な自分の意思は「世間体」の前に通すことができない。
 だけど、医療機関などなくとも、どうせ死を免れないのだし、世間体に左右されない、自分の人生のなかで生きて、手厚い看護なんかいらないから、静かに死んでゆきたいと、実は多くの人々が心の底で願っているのではないか?
 「本当に自然な人生」がテレビ番組のなかに見えるのだ。100歳に近い老人が、誰の助けも借りずに、自然のなかで自然の一部であるかのように生きている姿は実に魅力的なのだ。

 少し、重複した内容になってしまったが、私は、人々が心の底で憧れ続けてきた人生を実現している人の姿に、強い畏敬心を抱き、もっと、その姿を見てみたい……と思う気持ちが、この番組の異常なほどの人気を作っているのだと思う。

  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-298.html

  我々は、本当に必要な数百倍もの浪費生活を強いられていること
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-739.html

 何よりも、安倍晋三自民党政権の大増税が、どれほど底辺に生きる人々の生活を圧迫しているか? こんな苦しい生活から逃げたいと思っているか?
 自民党と竹中平蔵の進めてきた新自由主義が、ポツンと一軒家の視聴率を生み出していると思えないだろうか?

 逆にいえば、消費税のない、自由で解放された、豊かな生活に満足している人が大部分だったなら、たぶん、この番組が生まれることさえなかっただろう。
 自民党政権=安倍晋三と竹中平蔵がいる限り、ポツンと一軒家の人気は、どんどん高まってゆくのだ。

 私は、「集合無意識」について、何回か書いた。
 人は決して一人で生きているのではない。幸島と高崎山の猿だって、集合無意識を共有していることが知られた。
 https://www.nazotoki.com/hundredth_monkey.html

 人間が、集合無意識に支配されていることは、さまざまな証拠がある。
 上にリンクした「百匹目のサル現象」と、まったく同じことが人間界でも、野生動物界でも頻繁に見られるのだ。

 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/100sarugen.pdf

 だから、私は「安倍晋三と竹中平蔵は嫌だ!」という共通認識が、人間社会でも百を超えたとき、全国に伝播して、一斉に「安倍と竹中を追放しろ!」という具体的行動が、「星火燎原」のように、一斉に燃え上がるだろうと予想している。
 それまで芋を洗わなかった猿たちが、地域の壁を越えて、全国で一斉に芋を洗う習慣を持ったのと同じことが起きると信じているのだ。

 私は、「ポツンと一軒家」が示した、過疎地における自給自足、自律生活への憧れが、このまま「百匹目の猿現象」のように、大勢の人々に伝播してゆくものと予想している。

 時、奇しくも、新型コロナインフルエンザの劇的なパンデミックが始まろうとしていて、その致死率が5%を超えると報道されるようになり、糖尿病などの基礎疾患を抱えた人や妊婦、私のように間質性肺炎やCOPDを患っている者が、感染すると、致死率が50%を超える可能性もあって、そうなると、過疎の田舎に引っ込んで、人との接触を避けながら静かにパンデミックの嵐をやり過ごすことしか手がないので、そんな過疎の安い中古家屋の需要が増すだろうと思っている。

 今年は、絶望的な災厄の年になるという予言もたくさん出ていて、南海トラフの巨大地震や、世界経済大崩壊も避けられない事態となっていて、いずれも、大都市での生活が危機にさらされることになり、やはり安全な過疎の田舎での生活が重要性を増しているように思える。

 私の予測では、これから大都会の学校は、過疎地での廃校を利用した疎開生活をカリキュラムとして体験するようになるような気がしている。
 時代は、いずれも「大都会を離れよ!」と語りかけているように感じるのだ。 

  https://www.gifu-np.co.jp/news/20200212/20200212-214506.html

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1031.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c568
[リバイバル3] 中川隆 _ 心理学、大脳生理学、文化人類学、文化関係投稿リンク 中川隆
88. 2020年2月16日 05:26:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-357]
精神科病院の深い闇
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/905.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/807.html#c88
[近代史3] 表に出始めた明治維新の真実 中川隆
3. 中川隆[-13765] koaQ7Jey 2020年2月16日 06:28:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-356]
大河ドラマが嘘だらけな理由 西鋭夫
http://www.prideandhistory.jp/lp/nikoumj/lp2/ydn11.html?yclid=YJAD.1581801748.uiLiEp.dcq2Vdl5qC94CegKfwJVkbdEgGoGkSKAQPb3ykwOFkswBquytenexSnzGkU_VaRB8pm.J8WAiqjFTxCBc7B7.sVeEH8W0McT9Y2R1LRw-


ここ10年ほどの大河ドラマを眺めると、ほぼ半分の主人公が幕末維新の人物。

天璋院篤姫 → (直江兼続) → 坂本龍馬 → (徳川秀忠の正室) → (平清盛)→ 新島八重 → (黒田官兵衛) → 吉田松蔭の妹 → (真田丸) → (井伊直虎) → 西郷隆盛


これほど大河で幕末のヒーローが取り上げられるのは、日本人がこの時代、人物に憧れを持つからではないでしょうか。実際、私たちはこのヒーローたちが好きですし、「彼らが日本を駆け回り、人に影響を与え、大きな決断をし、行動していった。だからこそ、強大な力を持つ幕府が倒されて、明治維新を成しとげた」と信じている人がほとんどです。

ですが、このストーリーがまったくの「嘘」の上に作られていることをご存知でしたか? この時代を動かしていたのは、私たちが知る英雄たちではなく、誰かが書いたシナリオ通りに彼らが動いていただけだったとしたら?

その証拠となるのが、幕末に膨大にある都合の良い謎の数々です。その謎を追っていくと、あなたが知っている幕末のストーリーの至るところに矛盾が見えてきます。そして、ドラマには決して出てこない、この時代を操っていた「ある存在」の姿が浮かび上がってくるでしょう。「ただ楽しく何も考えないで歴史ドラマを観たい」というなら、これから先は読まないほうがいいかもしれません・・・
例えば・・・

維新のヒーロー坂本龍馬に誰がカネを出したのか?

海援隊という5〜60人の働いてない男たち を養うカネはどこからでてきたのか?
大量の武器(今の価値で50億円とも言われます)を買うカネはどこからでてきたのか?
軍艦を買う金は?
全国各地に出張しまくるカネは?
一体、誰が何の目的でそのカネをだしたのか?

日本中の刺客から狙われていた坂本龍馬、一体だれが殺したのか?
なぜ犯人が分からなかったのか?

「攘夷!攘夷!」と叫び、外国人の追い出し活動に走り回った伊藤博文などの長州藩の志士。それがなぜ、明治維新前に突然、手のひらを返して敵国であるイギリスに留学したのか?

中国にアヘンをばらまき中毒者だらけにすることで、巨大な中国を骨抜きにし、侵略したイギリス。なぜ、同じ手を次の標的の日本に使わなかったのか?

現在も世界最大手のイギリス系金融グループの銀行が、明治維新前に既に横浜に支店を開設していたのはなぜか?

100万人の幕府軍は簡単に圧勝できたのに、なぜ突然、戦闘を放棄したのか?

新政府軍が旧幕府軍と戦った戊辰戦争。降参したらそこまで追い詰めなかったサムライ文化のはずが、会津・函館と最後まで徹底的に皆殺しにしたのはなぜか?

これはまだほんの一部ですが、ここまで見ても、私たちが知っている美しい、憧れの明治維新とは全く違った、現実の姿を教えてくれます。この講演録を読み終わった後には、きっとあなたの「幕末維新のイメージ」は完全に変わっているでしょう。


さらに、歴史ドラマや小説はもちろんのこと、その後の歴史の見方そのものが変わるかもしれません。

明治維新以降の日本は、なぜ終戦で焼け野原になるまで、戦争をしまくっていたのか・・・。

そんな秘密まで明治維新に隠されていたなんて、考えたことはありましたか? 
その後の歴史も全く違った視点から見ることができるようになるでしょう。


西鋭夫教授曰く、

われわれが知っている明治維新はその時の御用学者が書いた歴史で、真実とは違うようです。

ぜひ、この講演録からあなた自身で何が真実なのかを判断してください。


忍山様 「歴史は金の流れを追いかけろ」との言葉は新鮮な驚きでした。事実その通りであると納得しました。そして坂本龍馬は武器商人、それ故に薩摩でもあんなに大事にもてなされたのかと納得がいきました。北朝鮮が武器輸出を大事な柱としているのも当然です。西先生の話が教科書に一部でも載っていれば、明治以降の近代史も面白く学べると思います。私は昭和20年の生まれなので歴史の勉強と言えば明治維新で終わってしまっています。日本が何故あの無謀な太平洋戦争に突入したのか、その理由を勉強すれば子供たちにとって素晴らしい生きた勉強になるはずと思います。


山田様 もう何十回聴いただろう。とにかく引き込まれる。
現代日本人が常識と思っていた、学校やメディアから習った明治維新から今までの近代史が、上っ面だけの知識だった事にショックを受ける。ずっとコントロールされて近代を作って来た日本。日本が再生して、世界に出て行く手伝いを、微力ながらしていきたいと思わせてくれる。乱暴な話し方をされるときもありますが、それも含めて魅力あるすばらしい先生です。


岡田様 ずっと昔からイギリスやアメリカにより、財産を搾取され裏で操られ、何でも言うことを聞かせれてきた日本。今後も沖縄の基地問題やTPPに関しても、日本は良い様に操られてしまうのだろうか。なぜ日本の教育では真実を教えてくれないのか?なぜ、麻薬で大きくなった会社の片棒を担いでいた男を、英雄に仕立て上げる必要があったのか?今まで見てきたことや聞いたことを一度クリアにして、真実は何かを見極め、日本人としてやるべきことは何か考えていかねばならない、と痛切に感じた。


長谷川様 実に明快な新説を拝聴させて頂いた。明治維新で動き回った維新の志士たちの活動費をどこから調達していたかについての疑問が、講演を拝聴してすっきりした。それぞれの国がすべて、国益を第一に考えてあの手この手を打っているのに、この日本だけが戦後まったくの、野放し状態が71年も続いている。大東亜戦争に出兵した亡き父が話していた戦後の在り方についての話は、改めて正しい認識に立っていたと思った。大正時代に生まれ、昭和初期の不況を経験し、大東亜戦争を生き抜いて来た人たちの話は事実だったと、西先生の講演から強く感じた。子供たちに伝えて行かなければならない、日本史だと受け止めました。

http://www.prideandhistory.jp/lp/nikoumj/lp2/ydn11.html?yclid=YJAD.1581801748.uiLiEp.dcq2Vdl5qC94CegKfwJVkbdEgGoGkSKAQPb3ykwOFkswBquytenexSnzGkU_VaRB8pm.J8WAiqjFTxCBc7B7.sVeEH8W0McT9Y2R1LRw-
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/742.html#c3

[番外地7] 沖縄住民が戦後一貫して自民党支持だったのは米軍に金を落として貰いたいから 中川隆
2. 2020年2月16日 06:55:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-355]
左翼ではなく、保守の沖縄住民が戦後一貫して自民党支持だったのは米軍に金を落として貰いたいから
ケビン・メア日本部長のお言葉 
 日本の文化は合意に基づく和の文化だ。合意形成は日本文化において重要だ。 しかし、彼らは合意と言うが、ここで言う合意とはゆすりで、日本人は合意文化をゆすりの手段に使う。合意を追い求めるふりをし、できるだけ多くの金を得ようとする。沖縄の人は日本政府に対するごまかしとゆすりの名人だ。
 沖縄の主産業は観光だ。農業もあり、ゴーヤー(ニガウリ)も栽培しているが、他県の栽培量の方が多い。沖縄の人は怠惰で栽培できないからだ。 日本に行ったら本音と建前について気を付けるように。言葉と本当の考えが違うということだ。私が沖縄にいたとき、「普天間飛行場は特別に危険ではない」と言ったところ、沖縄の人は私のオフィスの前で抗議をした。

 沖縄の人はいつも普天間飛行場は世界で最も危険な基地だと言うが、彼らは、それが本当でないと知っている。(住宅地に近い)福岡空港や伊丹空港だって同じように危険だ。 

 日本の政治家はいつも本音と建前を使う。沖縄の政治家は日本政府との交渉では合意しても沖縄に帰ると合意していないと言う。日本文化はあまりにも本音と建前を重視するので、駐日米国大使や担当者は真実を言うことによって批判され続けている。 (共同)
____


2000年7月16日付、「琉球新報」によると、1968年11月に行われた沖縄の日本「返還」後初の沖縄知事選挙(当時は主席公選と呼んだ)において、米国CIAが自民党の知事候補に選挙資金を援助し、自民党を勝たせるように裏工作していた事実が報道されている。

 この記事では、米国大使館から出された、「自民党にCIA資金を選挙の裏金として渡すよう」指示した、68年8月16日付の電文がスクープ掲載されている。CIAが「日本の政治家の買収資金を提供」するのは、「沖縄での米軍の駐留・永久化」のためであった。歴代自民党政権は、このCIA資金に買収され、「沖縄を米軍に売り渡し」、その見返りにCIA資金の提供を受け、その資金で選挙に「勝利」してきた売国政権でった。

 なお、この沖縄知事選挙で自民党幹部職員として選挙を担当していた金尚氏によると、CIAの代理人として沖縄でCIA資金2000万円の授受を担当していたのは、小泉純一郎元首相である(週刊文春2002年8月15日、22日合併号)。

 小泉純一郎元首相は、40年前からCIA工作員であった。


CIA極秘ファイルの破壊力 霍見芳浩

これまでに判明していることがある。米国政府がとくに、一九五一年のサンフランシスコ講和条約直前にA級戦犯を解かれた岸信介の要求を入れて、岸の政界復帰のためにCIAの対外工作機密費から毎年、資金と政治的援助を開始して以来、自民党の代々の首相や派閥のボスたちは、「米国の日本探偵(エージェント)」として、CIAの機密費を受け取ってきた。このために国務省とCIAは協力して、自民党の首相や派閥ボスたちについて、詳細な「人物と信用調査ファイル」を作成している。

 ○一年一月、ブッシュは小泉より一足先に米大統領になり、四月の日本の自民党総裁選挙では裏から小泉支持に回った。「ブッシュのポチ」としてしつけやすいと見抜いたからだった。私の開くところでは(ブッシュにごく近い筋から)、小泉ファイルを土台にした心理分析で、ブッシュと似た性格で、おだてと脅しの使い分けで自由に操作できるとの人物八卦(はっけ)だった。万一の場合、脅しの種としていくつかのメニューがあったとされる。私がCIA筋から聞いた話では、小泉が慶應義塾大学四年生の春に起こしたデートについての不行跡、そしてロンドンヘ逃避(留学名目)した事情がある。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/474.html#c2

[近代史3] 国家を亡ぼす「狂った税制」 中川隆
8. 中川隆[-13773] koaQ7Jey 2020年2月16日 07:29:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-357]
2020年02月16日
日本の税率は何%なのか 全員の平均は50%納税


国家予算が100兆円くらいというのはフィクションで、全て合計すると500兆円近い

引用:http://dilemmaplus.nhk-book.co.jp/resource/af5a5000860f2b9eddeefa4f27dc115e.jpg


消費税など税金を巡る議論が活発ですが、そもそも日本人は何%の税金を払っているのでしょうか。

人によって違うとして片付けられるが、全ての国民(居住者)所得合計の約50%を支払っています。


税金は分かりにくく作られている

消費税を10%にしたばかりなのに、財務省とIMF(実際は財務省から出向した財務官僚)、消費税を15%に上げるべきだと言っています。

税金は多くの項目に分かれているので、簡単には合計出来ないが、実は小学生の算数で割り出せる。

GDPは国民総生産ですが、国民総所得でもあり、日本人全員と企業の収入を合計するとGDPになります。


税金のほうは奇奇怪怪で不明だが、政府の支出は毎年発表されています。

中央政府の予算と地方予算、それに社会保険などを合計すると出せるような気がします。

実際はNHKの受信料も国民全員から取るから税金だし、国保や年金も義務なので税金です。


日本のGDPは2019年9月に名目558兆円だったので、区切り良く550兆円という事にします。

地方財政白書というサイトでは、2009年にGDPの24.5%を政府部門が支出していたと書かれています。

内訳は社会保障7.9%(37兆円)、中央4.6%(37%兆円)、地方12%(57兆円)と書かれています。


日本政府(中央)の予算規模はこの頃90兆円を超えていたので、予算と支出はまったく違うものだと分かります。

原因は「政府支出」は人を雇うために使われた金額を表している為、例えば政府の補助金を地方や企業に配ったら、地方や企業の支出にカウントされるからです。

「支出」を計算しても税率に辿り着けないので、「予算」から確認してみます。

全ての日本人の平均は50%

日本政府の予算は約100兆円規模ですが、実はそれは全ての予算のごく一部しか表していません。

国会で議論する「予算」は100兆円ですが、これとは別に日本には特別会計という予算が350兆円以上存在します。

地方予算とか社会保障費とか、諸々を丸ごとひっくるめたのが特別会計で、一般会計と合計すると500兆円に迫る金額です。


ところが各省庁がバラバラに計算しているので、重複する予算を何度も繰り返し計算し、実際より多く書かれています。

個別に計算しても答えは出ないので、ここは専門家の分析結果を信じる事にします。

2013年の例ではGDP482兆円だったのに、全ての予算の総額は481.8兆円も使っていました。


このうち重複分の256.6兆円を除くと225.2兆円に過ぎない、と元財務官僚の小黒一正という人が説明しています。

2016年の国家予算総額も、ここから少し増えたとして230兆か240兆円だろうと推測できます。

すると日本のGDP500兆円に占める予算の割合は、国家総予算240兆円として48%だと分かります。


この中には国保や社保や年金も含まれているが、NHK受信料は含まれていません。

他にも免許更新の「手数料」とか、役所の印紙代とか必ず取られるお金は税金に含めて良いと思います。

すると日本人全員が納めている税金の税率は、ちょうど50%くらいになります。


消費税を15%や20%に上げるという事は、現在の50%を、55%程度に上げるのを意味しています。

税率を上げれば消費など他の支出がその分減るので、GDP成長率が低下して、結局増税しなかったより税収が減ります。
http://www.thutmosev.com/archives/60785358.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/730.html#c8

[リバイバル3] German Physiks 友の会 中川隆
7. 中川隆[-13772] koaQ7Jey 2020年2月16日 08:24:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-356]
2020年 02月 15日
ユニコーン カスタム 製造と到着まで
https://tannoy.exblog.jp/31054087/

記憶を確かめる為に、あの頃のメールをあたってみました。すると、リクエストから受注までの10日間の間に、45通ものメールを交わしていました。そのほとんどが、形状と細部の仕上げのやりとりです。最終的には、UNICORNさんの仕様と同じになったのですが、ネットワークだけは、Troubadourシリーズのように外部に出すことになりました。キャビネット内部におおきなコンデンサーを入れ込む作業は大変だし、外にあった方が振動の影響も少ないと言うことでした。それにチタンとカーボンのユニットを交換するときには、外部のネットワーク(イコライザー)の方が、簡単に交換できます。

最終的な合意に達し、発注を掛けたのは6月の末でした。いずれにしても、実際の製造は夏休み明けの8月末からになるでしょう。夏休み前に、製造の図面を探し出し用意しておくと言うことでした。怒濤のような打ち合わせを重ねましたが、キャビネットの製造工程は順番もあり、また時間も掛かる製造方法です。賽は投げられましたから、後はゆっくり結果を待つだけです。


その間に、Troubadourの40と80はチタンとカーボンバージョンも頼んでみました。カーボンのDDDはチタンの欠点であった、丈夫さが桁違いで、チタンはアルミ箔ほどの薄さしかありませんので、触ることは厳禁です。一方カーボンは強度や復元力が桁違いで、押しても元に戻ります。厚みも一桁違います。私自身は、その時点でカーボン製のDDDユニットを聞いたことはありませんでした。Troubadourシリーズは、200Hz以下には、別のウーファーが必要です。GermanではめずらしいDIYの製品なのです。


興味を持った我々は、シングルの40と二つユニットを使って上下にスタックした形の80のチタンとカーボンを発注してみました。実験ですね。ウーファー部分は、大山さんに作っていただくつもりでした。そのTroubadour40と80は八月には空輸されてきました。そのチタンの80は、横浜のMさんのところに運ばれたのです。

ユニコーン カスタム 製造と到着まで_f0108399_18441697.jpg

パラゴンの上にのせられたTroubadourは200Hzぐらいまでしっかり出ますから、パラゴンの筐体に相当響きます。そこでフローティングボードを入れて、その振動をとってみました。そして、G1のウーファーと組み合わされて、今まで聞いたこと無い迫力のある音が、80から聞こえてきたのです。ダブルにスタックされたDDDドライバーは、シングルの40と比べて、倍では無く4倍の迫力有ることを聞かせてくれたのです。80の将来性を感じた実験でした。


夏が過ぎ、九月に入った頃、ユニコーンの木工部分の製作が始まったと言って来ました。しかし、時間が掛かるのは、塗装の部分です。光沢仕上げの塗装は、何度も塗っては磨く工程を繰り返します。六台もありますから、仕上がるのはまだまだでしょう。同時に、特注のMK2の仕上げも聞いてきました。こちらは、UNICORNさんと同じのAmerican Cherryにしました。ユニットの回りのグレーの飾りや、下のプレートのグレーもやめて、同じ材質にして貰いました。特注ですから費用は掛かるのですが、見栄えは随分変わります。


10月の中旬には、順調にいけば11月中にはとの返事が来ました。塗装工程は、やはり時間が掛かります。気持ちを長くして待ちましょう。でも、待てば待つだけ、期待が高まりますね。


11月中にはといわれていたので、航空便だけどもしかしたらクリスマス時期になり、そうなると大きな荷物の場合、空港で順番待ちになり少し時間が掛かることもあります。最終的に出荷の案内が来たのは、12月の中旬になっていました。この分だと、到着はクリスマスのあとになりますね。案の定、到着の案内が来たのは、年末でした。正月は通関業務も急ぎで無ければ、正月明けになるので、保税倉庫で年を越しました。日本に到着しているのに、引き取れないというのも半年待った身には切ないですね。

ユニコーン カスタム 製造と到着まで_f0108399_01155238.jpg


仕事用に借りている倉庫に入荷したのは、一月の第三週になる頃でした。ペアーの大きさは、German が大きくなるよと言われたようにこの大きさです。ペアーでパレットに乗りその上にネットワークの箱が乗っています。大きいです。その理由は、私がこだわった裾の部分のホーンですね。裾が広がり大きな空間が生まれています。

ユニコーン カスタム 製造と到着まで_f0108399_17074082.jpg

でも、一緒に来たMK2の大きさもほとんど変わりません(笑)。ほんの少しですね。こちらのAmerican CherryはユニコーンさんのMk1.5と同じ仕上げできれいです。ユニットの周りのグレーの首輪?が無くすっきりしています。

ユニコーン カスタム 製造と到着まで_f0108399_01290295.png


半年間待ってようやく到着したユニコーンたちは、6 +1で全部で七つがいもいました。パレットが七つもあると壮観です。半年前にユニット交換をしただけだったのに、倉庫一杯に並んだパレットを見て、感慨深いモノがありました。これだけの大きさになると、倉庫からの運送も、トラックをチャーターしなければ運べません。倉庫が空になるには一週間もかかりました。

ユニコーン カスタム 製造と到着まで_f0108399_01495933.png


他の箱も空けてみました。本当に美しいですね。しばらく見惚れていました。

Commentedby パグ太郎 at 2020-02-15 12:14
こうやって拝見するとやはり、ユニコーンのオリジナルは「貴婦人と一角獣」の様な気品に溢れた工芸品ですね。そして、どこか秘密を隠し持っている佇まいも似ています。これは家人には見せられません。

Commentedby TANNOY-GRF at 2020-02-15 17:11
パグ太郎さん そうです。怪しいでしょう〜!ダースベーダー卿は受け入れても、この貴婦人は家庭内争議をもたらすかもしれませんね。秘密の個室に閉じ込めておかないと・・・


https://tannoy.exblog.jp/31054087/

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1036.html#c7

[近代史4] 中川隆投稿集 _ 世界の料理 中川隆
2. 中川隆[-13771] koaQ7Jey 2020年2月16日 11:28:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-355]

アメリカの大富豪は毎日何を食べているのか? _ アメリカ人には料理の味も文学も芸術も全く理解できなかった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/436.html

ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズの正体
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/727.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/139.html#c2

[近代史4] 犯罪者の心理 中川隆
1. 中川隆[-13770] koaQ7Jey 2020年2月16日 12:00:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-354]

「認知の歪み」が酷い人が日常的に体験している恐怖体験とは


【ホラー】 コワイ女 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%80%90%E3%83%9B%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%80%91%E3%80%80%E3%82%B3%E3%83%AF%E3%82%A4%E5%A5%B3





http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/146.html#c1
[近代史4] 犯罪者の心理 中川隆
2. 中川隆[-13769] koaQ7Jey 2020年2月16日 12:01:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-353]

凶悪な性犯罪

女子高生コンクリート詰め殺人事件
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/458.html

中学で一番の美少女に毎朝精液を飲ませていた旭川女子中学生校内集団レイプ事件
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/738.html

北九州一家監禁殺人事件
http://amezor-iv.net/shisou/150920200912.html

殺人容疑で捜査継続検討 島根の女子大生遺棄事件
http://www.asyura2.com/11/nihon30/msg/541.html

島根の女子大生遺棄事件 _ ロリータ・デートクラブ プチエンジェルの背後にいたのは?
http://www.asyura2.com/11/nihon30/msg/541.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/146.html#c2

[近代史4] 犯罪者の心理 中川隆
3. 中川隆[-13768] koaQ7Jey 2020年2月16日 12:01:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-352]

外国人犯罪

日本人女性2人、リゾート地・セブ島で知り合った韓国人の男2人と飲酒→集団強姦される…フィリピン
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/334.html

外国人犯罪は増えていた 警察庁が偽グラフで減少に見せかけた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/806.html

多文化共生とは移民がレイプしまくるのを放任する事
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/886.html

多文化共生は大量殺人を引き起こす
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/373.html

ロマ(ジプシー)が嫌われる理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/324.html

平和よりも、もっと大切なものがある
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/339.html

移民を入れると日本女性はみんな移民の男に取られ大和民族は消滅する
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/233.html

黒人は劣等民族だった _ 言ってはいけない残酷すぎる真実
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/227.html

セックスドールに中国男性は夢中
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/284.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/146.html#c3

[近代史4] 犯罪者の心理 中川隆
4. 中川隆[-13767] koaQ7Jey 2020年2月16日 12:02:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-351]

女性の犯罪


筧千佐子被告 資産家の高齢男性を次々と籠絡していった手口
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/877.html

「紀州のドンファン」こと野崎幸助さん 急性覚醒剤中毒死 _ 55歳下の新婚妻は AV女優だった?
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/198.html

柏原芳恵のバイブレーター騒動 _ 宮内庁が皇太子妃候補 No.1 を引き摺り降ろした手口
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/117.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/146.html#c4

[近代史4] 犯罪者の心理 中川隆
5. 中川隆[-13766] koaQ7Jey 2020年2月16日 12:02:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-350]

精神異常者の犯罪


淡路島5人殺害事件
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/750.html

津久井やまゆり園 障害者19人殺害事件
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/752.html

陰謀論大好き _ 京都アニメーション集団放火殺戮事件でささやかれるCIA黒幕説
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/563.html

反社会的人格障害者が何故か女性に好かれる理由
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/900.html

これ読めば、自分のどこが逝かれてるか良くわかるよ : ダメダメ家庭の目次録
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/927.html

親子間の虐めや家庭内暴力の原因
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/290.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/146.html#c5

[近代史4] 犯罪者の心理 中川隆
6. 中川隆[-13765] koaQ7Jey 2020年2月16日 12:03:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-349]
革命家の犯罪

リベラル派と保守派、脳構造に違いがあった 英研究
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/295.html

若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html

右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/296.html

欧米人が植民地経営の方法として洗練させていった分割統治政策とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/297.html

重信房子、北朝鮮、オウム真理教の深い関係
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/300.html

不破哲三の正体
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/650.html

中国・韓国・北朝鮮の工作員がマスコミを押さえてしまった
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/280.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/146.html#c6

[近代史4] 犯罪者の心理 中川隆
7. 中川隆[-13764] koaQ7Jey 2020年2月16日 12:03:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-348]

弱い者苛め


人間社会は常に「弱者」を作り出す
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/237.html

精神科病院の深い闇
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/905.html

狂気の裁判員裁判
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/418.html

加害者家族を追い詰めるメディアとネットユーザー _ 「引っ越し先にも報道陣」「自殺するしかないという気に」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/431.html

すべてを捨てて逃げる _ 身分証明書も現金も携帯電話も何もかも捨てて家出して生きられるのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/467.html

大矢誠が猫グロ虐待で逮捕! 2ちゃん生き物苦手板のカールおじさん
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/751.html

苛めは愉しい _ 大矢誠が猫 13匹 を拷問して逮捕される!
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/836.html

犬猫をたくさん飼った末に起きた「惨状」の数々
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/692.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/146.html#c7

[近代史4] CIA の犯罪 中川隆
1. 中川隆[-13763] koaQ7Jey 2020年2月16日 12:21:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-347]

CIA系売春組織の犯罪


プチエンジェル事件の顧客と噂されている秋篠宮・高円宮はロリコンなのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/362.html

高円宮が 47歳の若さで腹上死(?)しなければならなかった理由とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/370.html

プチエンジェル事件の深すぎる闇
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/358.html

中国美女も日本男性が大好き _ 皇族・政治家を中国のハニートラップにかけたプチエンジェル事件の黒幕は小沢一郎だった?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/290.html

牧野田 彩(AYA)が AV に出演させられた理由とは
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/190.html

ルーシー・ブラックマンさん殺害事件まとめ
http://www.asyura2.com/0601/nihon19/msg/394.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/147.html#c1

[近代史4] CIA の犯罪 中川隆
2. 中川隆[-13762] koaQ7Jey 2020年2月16日 12:23:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-346]

CIA のエージェント 小沢一郎の犯罪

中国美女も日本男性が大好き _ 小沢先生と行く中国ハニートラップの旅
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/290.html

日本を売った小沢一郎 _ 小沢の嫁は創価の幹部
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/232.html

衝撃!! 小沢一郎民主党代表の美人秘書(韓国籍)の真実
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/723.html

「小沢一郎」研究。料亭の女将から隠し子疑惑の元秘書、リポーターまで
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/316.html

小沢一郎先生の嫁が鬼になった理由
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/317.html

飼い主を裏切ったポチ君の運命 _ 小沢一郎先生は何故落ちぶれたのか?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/232.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/233.html

こういう風に恫喝、脅迫や賄賂で言論弾圧しようとするのが小沢一郎・小沢信者の手口
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/863.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/147.html#c2

[近代史4] CIA の犯罪 中川隆
3. 中川隆[-13761] koaQ7Jey 2020年2月16日 12:23:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-345]

CIA系カルト宗教の犯罪

闇の組織とは? _ 創価学会は鳥人コンテストが好き?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/270.html

カルトの世界 _ 創価学会とオウム真理教を背後から操っている組織とは…
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/215.html

オウムを操った統一教会とは、どんな団体なのか?
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/401.html

統一協会は何故危険なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/299.html

お金とアレにしか興味が無い大川隆法先生を背後から操っている組織とは…
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/218.html

景山民夫を殺した“組織”とは?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/263.html

景山民夫を殺したのは? _ 景山民夫の人生を狂わせた幸福の科学と夫人との出合い
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/228.html
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/229.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/147.html#c3

[近代史4] 田舎の権力者の犯罪 中川隆
1. 中川隆[-13758] koaQ7Jey 2020年2月16日 13:00:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-342]

横溝正史 八つ墓村(松竹 1977年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/220.html

横溝正史 犬神家の一族(東宝 1976年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/221.html

横溝正史 女王蜂(東宝 1978年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/222.html

横溝正史 霧の山荘(TBS 1985年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/227.html

横溝正史 悪霊島(TBS 1999年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/523.html

横溝正史 湖泥(TBS 1996年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/524.html

横溝正史 幽霊座(TBS 1997年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/526.html

横溝正史 仮面舞踏会(テレビ朝日 1986年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/531.html

横溝正史 黒蘭姫(NHK 2016年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/534.html

横溝正史 殺人鬼(NHK 2016年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/535.html

横溝正史 百日紅の下にて(NHK 2016年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/536.html

横溝正史 真珠郎(テレビ朝日 1983年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/540.html

横溝正史 迷路荘の惨劇(テレビ東京 2002年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/545.html

横溝正史 悪魔の手毬唄(フジテレビ 2009年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/555.html

横溝正史 ミイラの花嫁(TBS 1983年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/219.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/149.html#c1

[近代史4] 田舎の権力者の犯罪 中川隆
2. 中川隆[-13757] koaQ7Jey 2020年2月16日 13:05:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-341]

柳田国男 山の人生
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/420.html

柳田国男 遠野物語
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/421.html

折口信夫 國文學の發生(第三稿)まれびと の意義
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/424.html

折口信夫 鬼の話
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/422.html

折口信夫 河童の話
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/423.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/149.html#c2

[近代史4] 田舎の権力者の犯罪 中川隆
3. 中川隆[-13756] koaQ7Jey 2020年2月16日 13:08:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-340]

ヤマトンチュには絶対に話してはいけない パナリ(新城)島の秘密
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/706.html

沖縄パナリの秘祭 _ 臨月になった美女を引き出して洞の中で行う秘密の儀式とは
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/446.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/149.html#c3

[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
14. 中川隆[-13755] koaQ7Jey 2020年2月16日 13:32:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-339]
2020年02月16日
中国ウイルスショックで世界経済吹き飛び、日本でも600万人感染のおそれ
http://www.thutmosev.com/archives/82215849.html


中国で爆発的増加が止まらず、日本でも市中感染が起きている

画像引用:https://afpbb.ismcdn.jp/mwimgs/a/8/-/img_a8b6e6ee808012f1f153e848cc2eabe1184577.jpg



中国ウイルスショック

中国コロナウイルスに関して現在、いくつかの事が世界で同時に起きています。

ひとつは中国国内で爆発的感染が止まらず、政府が否定していた感染者数を順次認めてきている。

2月15日現在中国全土で約6.6万人、なくなった人は1500人だがもはや信じる人は誰もいなくなった。




発表している中国政府や湖北省のの役人自身ですら「これは検査した人数だけです」と言っているほどです。

後に中国政府は臨床診断で感染と判断した人も感染者に含めたが、これも「CTスキャンした人だけ」だそうです。

武漢ではほとんどの感染者は高熱を発しているのに病院をたらいまわしにされ、外出禁止なので外に出たら拘束されている。


こうした状況なので本当の感染者は少なく見ても中国政府発表の10倍、多ければ100倍以上に達している。

2つめの出来事は中国政府による言論統制で、武漢や湖北省から情報発信していたユーチューバーは2月初めに全員拘束され交信が途絶えました。

日本のマスコミや世界のメディアは中国が発表した数字を連呼するだけで、世界中が人民日報になったかのようです。


中国による統制は日本にも及んでいて、厚労省と日本政府は中国に配慮して入国禁止措置を取らなかった。

日本以外の主要国は全て中国からの入国を規制したのに、2月16日現在も日本だけが規制していない。

その結果日本国内で爆発的な感染者増加が起きようとしていて、日本人から日本人への感染が連日数人発表されている。



習近平に忖度する安倍首相

日本政府と厚労省は、「厚労省が許可した者以外検査するな」と保健所に命令しているので、実際の感染者数は発表の10倍以上でしょう。

安倍首相は「全力で防止する」と言ったが、実際には武漢ウイルスが発覚した1月20日から何もしていません。

その理由はおそらく中国から情報統制の要請があったからで、河野防衛大臣は「訪中時に日本国内の情報統制を要請された」と証言している。


河野大臣によると中国側は4月の習近平訪日の条件として「日本国内の情報統制」を要求し、日本が応じなければ訪日中止を示唆した。

安倍首相は新型ウイルス防止より習近平訪日を優先し、いかなる入国防止策もとってはならないと指示した。

このパターンは実は2度目であり、2014年に中国のサンゴ漁船1000隻以上が日本列島を包囲する事件があった。


そのうち数百隻は小笠原近海で密漁していたが、この「サンゴ漁船」を中国海軍が指揮していたのは公然の秘密でした。

漁船の中には一定割合で北朝鮮工作船のように、長いアンテナを伸ばした不審船が含まれていました。

不審船は一切漁をせず、軍人と思しき人間が乗っており、船団に指示し本国と連絡を取っていると推測されました。


この時安倍首相は「漁船を絶対に拘束するな」「漁港に入れて保護しろ」と驚くべき指示を出した。

11月10日に北京で、アジア太平洋経済協力会議(APEC)の会場で安倍首相と習近平の日中首脳会談が実現しました。

この数日前から中国側は「首脳会談をしたいのなら中国漁船を、取り締まってはならない」と広報官などが日本に警告していました。


安倍首相が習近平に事実上の謝罪を表明すると、その週のうちに中国船団は姿を消しました。

明らかに安倍首相は習近平の要請によって中国漁船を保護し、逮捕を禁止しました。

安倍首相は首脳会談の後、大きな成果だとして自画自賛した。



中国が丸ごと消える

3つ目のできごとは武漢ウイルスが中国経済をマヒさせ、世界経済に深刻なダメージを与え始めている点です。

日産、ソフトバンク、楽天、東芝、DENA、電通、ソフトバンクら名だたる日本企業が赤字転落しました。

世界でもボーイングとエアバス、ついでに三菱重工も赤字で、しかもこれらは「去年の不振」で赤字なのです。


まだ武漢ウイルスをほとんどの企業は業績発表に織り込んでいないので、悪影響はこれからです。

最終的にどの程度の影響があるかですが、最悪の場合「中国が丸ごと消える」ほどの影響があります。

欧米大学や研究チームの予測では武漢ウイルスの感染者数は中国で1億人が視野に入ってきました。


アメリカでは「旧型ウイルス」がすでに2000万人に感染していますが、中国で同じ程度の感染率を予想すると9000万人から1億人になります。

またクルーズ船ダイヤモンドプリンセスでは約3700人中285人が感染したので感染率は7.7%です。

乗船客は高齢者が多かったのを割り引いても、中国全土で5%以上を覚悟する必要があります。


すると中国から無制限に入国させている日本でも、1億2600万人の5%にあたる600万人以上が感染する可能性があります。

「日本は医療が優れているから広がらない」という意見には「それではアメリカで2000万人感染したのはなぜか?」と質問してみたい。



アメリカで起きた事は日本でも起きると想定するべきで、日本だけ広まらないというのは「日本では地震が起きない」と言うのと同じです。


最後に武漢から投稿していて中国政府に拘束されたユーチューバーの動画を貼ります

投稿者が生きている可能性は低く、この動画もすぐ消されるのかも知れません


公安に拘束され、今も生きている可能性は限りなくゼロ




方斌もこの後公安に拘束された


http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c14
[リバイバル3] 酷い音のインチキ・レプリカを量産して伝説の評価を落とした Goodmans Axiom80 中川隆
61. 中川隆[-13754] koaQ7Jey 2020年2月16日 14:59:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-338]

「AXIOM80」2発同時鳴らしへの挑戦 - 「音楽&オーディオ」の小部屋 2020年02月14日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/08a9e1d216aaf0487c31b15fa673957e


前々回 >>54 の「美空ひばりが此処にいるじゃない!」からの続きです。


さあ、いよいよ「AXIOM80」2発同時鳴らしへの挑戦である。これまで、ずっと長いこと1発で鳴らしてきたが少々限界を感じていたので丁度いい機会だ。

組み合わせは左右両チャンネルともに「最初期版+復刻版」となる。

何も命まで取られるわけではなし、ダメなときには元に戻せばいいだけの話だから気楽にいける(笑)。

現用のボックス(板厚1.5cm)はちょうど3年前のこの時期に仲間に加勢してもらって作ったものだが、予備のバッフルが残っていればしめたものだがと、倉庫の中を探すと辛うじて”まっさら”が「1ペア」ありました。助かった!

こうなると話は早い。じっくりと作業手順を考え、ペンキの有無やSPケーブル、取り付けネジの在庫などの小物類の確認をすること小1時間ほどで、作業に取り掛かった。

まず「1枚のバッフルに2個の穴を開ける」のが先決。

慎重に寸法を測ったうえで「ジグソー」を使い玄関先で「バリバリ」と大きな音をたてながら穴を開けた。計4個の穴だからたいへんだが、丁度真冬の時期とあってご近所さんはすべて「冬ごもり」なのでまだ救われる。

ずっと以前のこと、夏に作業をやっていたら隣の奥様が何ごとですかと出てこられたのでひたすら恐縮したことがある(笑)。

30分ほどで無事終了。それからバッフルのペンキ塗り(ブラック)。乾くのを待ってからAXIOM 80を4発取り付けた。

1個で4か所、計16か所をドリルで穴を開けてネジ止めするのだからこれに一番時間がかかった。

とても好きじゃないとやってられません!(笑)

完成後がこれ。

素人工作なので「見てくれ」なんてどうだってよろし(笑)。

AXIOM80は上が「最初期版」で、下が「復刻版」です。コーン紙の色が違うので一目瞭然ですね。

第1案

「最初期版」をフルレンジで鳴らし、「復刻版」はムンドルフ(ドイツ)のコイル「8.2mh(ミリヘンリー)」を使って「650ヘルツ」(−6db/oct)あたりでハイカットして聴いてみた。

アドバイスをいただいたSさん(関東地方)の仰っていたやり方である。

この時の心境たるやもうハラハラドキドキワクワクで「いい歳」をして胸の高まりを抑えきれないほどだった(笑)。

だがしかし、「アレっ、1本で鳴らしたときとあまり変わらんなあ」とガックリ。ヒノオーディオさん製作のボックスとは違うし、いろいろと条件が違うせいだろう。

しばらくアンプを代えたりしてあれこれ試してみた結果、少しは良くなったものの劇的に変わるほどではなかったのでやむなく方向転換を図った。

第2案

チャンデバを使ってみようと思い立った。ウェストミンスター(改)でうまくいったものだから、ちゃっかり予備のチャンデバの同じものを手に入れたばかりだった。

こうなるとクロスオーバーは自由自在である。「復刻版」を「〜250ヘルツ」、「最初期版」を「250〜8000ヘルツ」、ツィーター「8000ヘルツ〜」にはJBLの「075」をあてがって「3ウェイの構成」にしてみた。

あてがうアンプは順次「6098シングル」、「300Bシングル」(銅板シャーシ)、「71A(レイセオン)シングル」となった。

「6098シングル」は我が家のアンプの中では「低音域の伸びが一番」なのでもってこいだし、「250〜8000ヘルツ」の一番美味しい帯域は何といっても「300Bシングル」の出番でしょうよ。

そして、これで聴いてみると「う〜ん!」と思わず唸った!

「苦節50年にしてようやく求めていたサウンドに出会えたか」と、胸がキュンと切なくなるほどだった。

だが、好事魔多しでクラシックはいいにしてもジャズの一部の荒々しいソースとなると低音域にやや不安が残るかなあ。贅沢を言うとキリがないんだけど・・・。

そこで、いよいよ第3案へ。

以下、続く。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/08a9e1d216aaf0487c31b15fa673957e


「振るいつきたくなるような美音」とは 2020年02月16日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/f09f81ce4f7d2b5a08c11a469e498cbb

それでは前回からの続きです。

自分にとっては今回の「2発騒動」は50年近いオーディオ歴の中でも一時代を画すほどの意義のある出来事だった。


「AXIOM80」の2発同時鳴らしも「第1案」はイマイチだったし、「第2案」はほぼ満足したものの、もっと欲が出ていよいよ「第3案」へ突入。


第3案

「AXIOM80」の「復刻版」に代えて倉庫に仕舞い込んでいたJBL「D123」を試してみた。

ほかの候補としては同じ口径30センチの「スーパー12」(ワーフェデール)、グッドマンの「AXIOM150マークU」「トライアクショム」などがあるが、JBLの「コーン型ユニット」独特の浅いカーブを持った形状がいかにもAXIOM80のスピードと合っていそうなのだ。

もちろん市販のサブ・ウーファーを使う手もあるが、ああいうのは単なる量感が増えるだけで分解能に乏しいのがネックで「AXIOM80」には合わない。実際にこれまでいろいろ試してきたがすべてアウトだった。

ただ、この「D123」はコーン紙が重たそうなので駆動するアンプもそれなりに力が要るが「6098シングル」なら不足はないだろう。

木製の植木鉢の底を取っ払ったものに収める方法で、「250ヘルツ以下」を対象に、ユニットの裏側から出る逆相の音をウェストミンスターの隙間から奥の方の空間に流し込もうという算段である。

この方式は以前にもやったことがあるが、その時はネットワーク方式で専用アンプを使っていなかったため音量のコントロールができず程なくお蔵入りした経緯がある。

はたして今回はどうかなと固唾を呑んで聴いてみたところ、予想がピタリと当たった。聴いてる音に違和感が無く、十分いけそうなのだ(笑)。

「最初期版」と「D123」との置き場所の違い(距離にしておよそ60センチ)による位相の差も問題なし。

というのも、「音速=周波数×波長」という公式がある。

音速は1秒間に約「330m」だし、クロスオーバーの周波数は「250ヘルツ」だからこのときの波長は「1.32m」となり、「60センチ」はこの範囲に十分収まっていることになる。

ちなみに、クロスオーヴァー1万ヘルツの場合は波長が3.3センチとなるからスコーカーとツィーターの振動板のシビアな位置調整が必要になる。

と、まあ勝手に思っているのだが「知ったかぶり」かもしれない。はたして真相はどうなんでしょう?(笑)

いずれにしても、「D123」と「復刻版」の切り替えはバナナプラグで簡単に出来るようにしているので、ごく一部のジャズや大編成のクラシックは前者で聴けばいいし、小編成やボーカルは後者で楽しめばよい。

まあ、前者の出番といえばめったに無さそうで本命は当然後者となる。そうじゃないとわざわざ2発で鳴らすように改造した意味がない(笑)。

結局、作業開始から完成形まで丸2日かかったことになるが、自画自賛で恐縮だが「自分で自分を褒めてやりたい」ほどスムーズに事が運んだ。

今回の改造により「AXIOM80」の新たな魅力を引き出せたような気がしているし、この素晴らしいサウンドを前にしていったいどう形容したらいいのだろうかとしばらく自問自答してみた。

すると、「振るいつきたくなるような美音!」、「ずっといつまでも聴き続けたい音」など、観念的な言葉しか思いつかないのが残念。少なくとも低音とか高音とかがどうのこうのという物理的に表現できる音ではないのは断言できる。

「振るいつきたくなる → 惚れ込む → 色気がある」は同義語だと思っているが、経験を積めば積むほど「サウンドに色気があるかないか」が大切な要素になってくるのは自分だけかな〜(笑)。

ただし、これでスンナリ終わったわけではなかった。

後日、近所にお住いの「Y」さんともども試聴したときに実に興味深い波乱があったのだが、それはまた続編として稿を改めよう。

とにかく、これで我が家の真空管アンプは「ウェストミンスター」用で3台使い、「AXIOM80×2発」用で3台と、9台のうち計6台がフル稼働になったのはまことに喜ばしい限り。

けっして無駄な投資じゃなかった証しになる!(笑)

最後に、全国の「AXIOM80」のファンの皆様、この空前絶後のユニットについて、これを機会に使い方のノウハウなど(このブログが)ぜひ意見を寄せ合う場になるといいですね。

これよりももっと巧い使い方をして、「魅力的なサウンド」を出している方がきっといらっしゃるはずだし、「雄大なスケール感」は無い物ねだりにしても「リアリティ、透明感、色気」においては「世界有数の音」と言っても過言ではないでしょうからさらに極めていく価値が大いにありです。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/f09f81ce4f7d2b5a08c11a469e498cbb
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/686.html#c61

[近代史3] ドキュメント沖縄戦 中川隆
1. 中川隆[-13753] koaQ7Jey 2020年2月16日 15:53:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-337]
nhkスペシャル 沖縄戦 全記録まとめ


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/763.html#c1
[近代史4] 沖縄は日本なのか? 中川隆
1. 2020年2月16日 16:43:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-336]

有史以来 戦争に勝った事が一度も無い漢民族が巨大な領土を手に入れた手口
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/204.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/151.html#c1
[近代史02] 命を賭して悪の帝国と闘ったサダム・フセイン (小沢先生もこれ位カッコ良ければなあ) 中川隆
91. 中川隆[-13752] koaQ7Jey 2020年2月16日 20:28:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-335]
『イラク 米軍脱走兵、真実の告発』 著 ジョシュア・キー
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4772604235/ref=dbs_a_def_rwt_hsch_vapi_taft_p1_i0


書評・テレビ評2020年2月16日

 アメリカが2003年にイラク侵攻を開始したときの大義名分は「イラクは大量破壊兵器を隠し持っている」「今こそサダム・フセインを倒してイラクに民主主義をもたらす」であった。ところがそれらはすべてでっちあげであり、アメリカの侵略であったことが明白な事実となっている。本書はあの時、ブッシュ大統領が掲げたイラク戦争開戦の大義を信じ「イラクの自由作戦」に参加した米軍兵士による告発本である。

 1978年生まれのジョシュア・キーは幼少期、義父が母親に暴力を振るうような家庭環境で育った。救いは優しい祖母、そして朝鮮戦争に兵士として派遣された経験を持つ祖父から、「無防備な人を攻撃することは悪いことだ」と教えられて育ったことだ。

 彼は20歳前後で結婚し2人の子どもに恵まれるが、経済的な困難に直面し家族を養うために新兵募集センターのドアを叩くことになった。新兵募集センターでは、リクルーターが「軍事基地での生活は安全で、どんなアメリカ人労働者も満足できる清潔できちんとした住宅に住むことができる。基地では家賃は無料だ。そして家族全員が総合的な健康保険に入れるし、大学の授業料は援助が受けられる」「遠方に送られることはない。戦闘などはさせない」といった。

 だが2003年3月、彼が最初に送られたのはイラクだった。彼は本書のなかでこう記している。「戦場には行きたくなかったが、つまるところ、テロをぶちのめしてアメリカを守る仕事を子どもたちの世代にやらせてはいけない、これは今自分がやるべき仕事だと考えた」と。

 イラクに行く前の訓練中、米兵らはイラク人のことを「砂漠のニガー」と呼び、イスラム教徒はみなテロリストで、唯一の解決法はできる限り多くのイラク人を殺すことだと思い込まされた。米兵が連日イラクでやったことは、テロリストを捕まえ、テロ活動の証拠を見つけると称した「家宅捜索」だった。家族の寝込みを襲い恐怖に陥れるために一晩に1軒、多いときで4軒の家を急襲する。米兵は徐々に盗み、殺し、レイプなど好き放題におこなうようになっていく。

 そして来る日も来る日もイラク人の家からは何一つ出てこないのに米兵は何もしていない男たちを拘束し、家の中を荒らし回る。その様子を怒りのこもった目で見つめる無抵抗な女子どもたち。彼は「一体われわれ米兵は何をしているのだろうか」と疑問を抱き始める。

 ある日、アメリカ軍に対する印象を激変させる出来事が起きる。錯乱状態の米兵たちが、イラク人の切断された頭部を笑いながら蹴飛ばしていた。明らかにおもしろがってやっている。この時の状況をこう記す。「狂気のサッカーゲームだ。ぼくは凍りついた。自分の目が信じられなかった。しかし確かに見たのだ」「ぼくがかろうじて保っていた国家に対する信頼の糸を断ち切り、戦場で持つべき信念を打ち砕いた。ずっとぼくたちアメリカ人は世界の正義を守る立場にいると信じてきた。しかし、このとき、イラクでわれわれがしていることのいかがわしさを思い知ったのだ」と。正常な感覚を喪失して殺人マシーンへと変貌していく仲間たち、そして自分。さらにイラク人による暴動も頻発し、常に緊張状態が続き見えない敵に狙われているような恐怖感を抱いていく。

目の前で殺された少女

 彼は警護のなかでわが子と同じくらいのイラク人の少女と出会う。食事もろくにできない貧しい少女にフェンス越しに食べ物をあげるようになる。それは殺伐とした戦場での心安まるひとときになっていた。

 その日もフェンス越しに食料を渡したとたん、自分の目の前で少女の頭が銃で吹き飛ばされる。罪のないイラク少女がまた米兵仲間によって銃殺されたのだ。そのような経験をくり返すなかで、イラクの人たちの平穏な日々を踏みにじり何の罪もない人々の生活や命を破壊しているのが自分たち米軍であり、「アメリカこそテロリスト」であることを思い知っていく。

 6カ月余りのイラク滞在ののち、2週間ほど本国へ帰還したとき彼はイラクには戻らないことを決断する。脱走は銃殺に値することを覚悟しつつ、家族を守るためにカナダに逃亡する。「ぼくはアメリカ軍から脱走したことについて、絶対に謝罪しようとは思わない。ぼくは不正義から脱走したのであり、それは進むべき正しい道だった。謝罪すべきことがあるとすれば、ただひとつ、それはイラクの人々に謝罪するしかない」と。

 アメリカで貧しい家庭で育った若者たちが、経済的援助などをチラつかされて軍隊に誘導されて戦場に送り込まれ、殺人マシーンへと変貌させられていった事実が実体験としてなまなましく記されている。そしてイラク帰還米兵は2014年段階で1日に22人、1年に約8000人がみずから命を絶っている。

 イラク戦争に賛成を表明し自衛隊を派遣したのが日本であり、その後もアメリカの侵略戦争に積極的に加担してきた。

 今年に入り、安倍政府は中東地域に自衛隊をあいついで派遣した。アラブ諸国側から見ればアメリカ戦略下のもとでの明白な軍事行動に他ならず、アメリカへの盲従がいかに日本と世界の平和を脅かすものであるか、それを改めて考えさせられる一冊である。
https://www.chosyu-journal.jp/review/15903
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/298.html#c91

[近代史4] 尖閣は本当に日本の領土なのか? 中川隆
1. 中川隆[-13751] koaQ7Jey 2020年2月16日 20:36:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-334]
有史以来ずっと台湾先住民の漁場だった尖閣諸島はどこの国の領土になるのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/214.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/152.html#c1
[近代史4] 沖縄は日本なのか? 中川隆
2. 中川隆[-13750] koaQ7Jey 2020年2月16日 20:37:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-333]

日本、米軍の特権見直しを要望 米側はほとんど拒否 60年前の地位協定締結時 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/810.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/151.html#c2
[近代史4] CIA の犯罪 中川隆
4. 中川隆[-13749] koaQ7Jey 2020年2月16日 20:40:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-332]
飯島愛が殺された理由 _ ジャニーズ・プチエンジェル事件との関係
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/720.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/147.html#c4
[近代史4] 動物たちが持つ信じられないような能力 中川隆
1. 中川隆[-13748] koaQ7Jey 2020年2月16日 20:42:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-331]
死ぬまで拘束…日本人が知らない「乳牛の残酷生涯」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/719.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/138.html#c1
[近代史4] ヤクザの犯罪 中川隆
2. 中川隆[-13747] koaQ7Jey 2020年2月16日 20:47:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-330]
貧困に堕ちた移民が最も効率良く稼げる非合法ビジネスが「ドラッグ売買」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/621.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/148.html#c2
[リバイバル3] 孫正義の詐欺の手口 中川隆
17. 中川隆[-13746] koaQ7Jey 2020年2月16日 20:58:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-329]
ソフトバンク、投資事業で巨額赤字、成果出ず戦略狂う…甘いリスク管理、市場で警戒広がる
https://biz-journal.jp/2020/02/post_142097.html
2020.02.15 文=真壁昭夫/法政大学大学院教授 Business Journal


ソフトバンクG、19年10-12月期決算を発表(写真:つのだよしお/アフロ)


 市場参加者の間で、ソフトバンクグループの事業戦略に対する懸念が高まりつつある。株主のなかには、ソフトバンクに自社株買いによる株主価値の向上や、投資の意思決定を監督する委員会の設置などを求める者もいる。

 その背景の一つとして、ソフトバンクが出資した米国のシェアオフィス大手、ウィーワークを運営するウィーカンパニー(ウィー社)が上場を断念し、損失が発生した影響は大きい。昨年7〜9月期、この損失が響きソフトバンクの連結決算は約7000億円の最終赤字となった。

 示唆されることは、ソフトバンクに成長を急ぎすぎた部分があることだろう。同時に、長期的に考えると、先端分野に投資し成長を目指す同社会長兼社長の孫正義氏の発想には、重要かつ有効と考えられる部分もある。孫氏のように成長を目指して大胆かつ迅速に意思決定を下すことのできる企業家も多くはない。

 現在、新型コロナウイルスによる新型肺炎の感染拡大など、世界経済のリスクは増えつつある。同社には、強力なリーダーシップを発揮すると同時にリスク管理の体制を整え、さらなる成果を実現することが求められる。

■先端分野への投資を重視するソフトバンク

 近年、ソフトバンクは投資会社としての性格を強めてきた。具体的に同社は、10兆円規模のソフトバンク・ビジョン・ファンド(SVF)を設定し、先端テクノロジーの開発や、それを用いたエコシステムの拡大を目指す企業への出資や買収を行っている。背景には、人工知能(AI)などの実用化によって、新しい人々の生き方を創出し、付加価値を生み出すことができるとの期待がある。その考えに基づき、世界各国でAIやブロックチェーン、量子コンピューターなどの開発が急速に進んでいる。これは企業だけでなく、国家をも巻き込む競争だ。2018年以降、米中の貿易摩擦が熾烈化した要因の一つには、IT先端分野における大国同士の覇権争いがある。

 私たちの日常生活を振り返ると、先端テクノロジーを実用化する企業の影響力がよくわかるだろう。端的に、新しいIT機器、関連サービスの登場は、常識を覆す。たとえば、アマゾンなどのEC(電子商取引)のプラットフォーマーの登場により、好きな時に、好きなところで、必要なモノを買うことができる。それは、IoT(モノのインターネット化)などの技術を用いた物流革命といえる。

 また、SNSのテクノロジーを活かすことでシェアリングエコノミー(特定のモノを複数人で共有すること)も普及した。カーシェアやライドシェアなどはその例だ。シェアリングエコノミーは、特定のモノに対する所有権を独占するよりも、そのときどきのニーズに応じて幅広いモノやサービスを利用する権利にアクセスすることを重視する人々の価値観を反映した、新しい経済活動といえる。

 ECやシェアリングエコノミー等に共通するのは、最先端のテクノロジーを用いて新しい発想を実用化できる企業が、需要を生み出すということだ。ソフトバンクは創業者である孫氏の企業家の資質を見抜く力(眼力)に頼りつつ、スタートアップ企業などに他社に先駆けて資金を提供し、競争を有利に進めようとしてきた。

■ウィーカンパニーからの損失発生の影響

 その発想に基づき、ソフトバンクとSVFは、ウィーカンパニーに出資した。ソフトバンクには、シェアオフィス事業の成長を背景にウィー社が上場を実現し、大きな利得を手にできるとの期待があった。

 しかし、昨年の秋口ころから、一部の市場参加者はそうした期待よりも、ウィー社のビジネスモデルやコーポレートガバナンスの体制などに懸念を持ち始めた。それを受けて、ウィー社は上場を断念し、企業価値が毀損した。その結果、ソフトバンクは昨年7〜9月期決算にてウィー社への投資から総額9000億円程度の損失を計上した。

 ウィー社からの損失発生から示唆されることは、先端分野のスタートアップ企業などに資金を提供して成長を取り込むというソフトバンクの戦略に、見直されるべき部分があることだろう。突き詰めていえば、ソフトバンクはリスクを客観的かつ冷静に評価したうえで投資の意思決定を行う体制を整備できていなかった恐れがある。

 見方を変えれば、ソフトバンクには、成長を急ぎすぎた部分があっただろう。同社は、リスクの評価よりも、ライバルに先駆けてスタートアップ企業などに出資し、将来的な成長の取り込みに、過度に執着してしまったとの印象を持つ。

 上場を断念した後、ウィー社はリストラを進めて資金繰りをつながなければならなくなっている。ソフトバンクが重視してきたシェアオフィス事業の成長を見込むには、あまりに不確定要素が多い。他の出資先に関しても、インドのスタートアップ企業であるオヨ・ホテルズ・アンド・ホームズなど想定通りに成果が出ていない案件もあるようだ。

 さらに、孫氏が注力する第2号のSVFの資金調達は難航していると報じられている。これまでの投資体制とスタンスを維持したままでソフトバンクがさらなる成長を実現できるか否か、先行きを慎重に考える市場参加者は増えつつあるとみられる。

■不可欠なリスク管理の徹底

 今後、ソフトバンクに求められる取り組みは、リスク管理を徹底することだろう。投資に不確実性はつきものだ。どれだけ優秀な人材を確保できた企業であっても、100%の確率で長期の成長を実現できるとは限らない。

 今後、ソフトバンクに求められる取り組みは、リスク管理を徹底することだろう。投資に不確実性はつきものだ。どれだけ優秀な人材を確保できた企業であっても、100%の確率で長期の成長を実現できるとは限らない。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/965.html#c17

[近代史3] ソフトバンク 孫正義は日本人の敵 中川隆
17. 中川隆[-13745] koaQ7Jey 2020年2月16日 20:58:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-328]
ソフトバンク、投資事業で巨額赤字、成果出ず戦略狂う…甘いリスク管理、市場で警戒広がる
https://biz-journal.jp/2020/02/post_142097.html
2020.02.15 文=真壁昭夫/法政大学大学院教授 Business Journal


ソフトバンクG、19年10-12月期決算を発表(写真:つのだよしお/アフロ)


 市場参加者の間で、ソフトバンクグループの事業戦略に対する懸念が高まりつつある。株主のなかには、ソフトバンクに自社株買いによる株主価値の向上や、投資の意思決定を監督する委員会の設置などを求める者もいる。

 その背景の一つとして、ソフトバンクが出資した米国のシェアオフィス大手、ウィーワークを運営するウィーカンパニー(ウィー社)が上場を断念し、損失が発生した影響は大きい。昨年7〜9月期、この損失が響きソフトバンクの連結決算は約7000億円の最終赤字となった。

 示唆されることは、ソフトバンクに成長を急ぎすぎた部分があることだろう。同時に、長期的に考えると、先端分野に投資し成長を目指す同社会長兼社長の孫正義氏の発想には、重要かつ有効と考えられる部分もある。孫氏のように成長を目指して大胆かつ迅速に意思決定を下すことのできる企業家も多くはない。

 現在、新型コロナウイルスによる新型肺炎の感染拡大など、世界経済のリスクは増えつつある。同社には、強力なリーダーシップを発揮すると同時にリスク管理の体制を整え、さらなる成果を実現することが求められる。

■先端分野への投資を重視するソフトバンク

 近年、ソフトバンクは投資会社としての性格を強めてきた。具体的に同社は、10兆円規模のソフトバンク・ビジョン・ファンド(SVF)を設定し、先端テクノロジーの開発や、それを用いたエコシステムの拡大を目指す企業への出資や買収を行っている。背景には、人工知能(AI)などの実用化によって、新しい人々の生き方を創出し、付加価値を生み出すことができるとの期待がある。その考えに基づき、世界各国でAIやブロックチェーン、量子コンピューターなどの開発が急速に進んでいる。これは企業だけでなく、国家をも巻き込む競争だ。2018年以降、米中の貿易摩擦が熾烈化した要因の一つには、IT先端分野における大国同士の覇権争いがある。

 私たちの日常生活を振り返ると、先端テクノロジーを実用化する企業の影響力がよくわかるだろう。端的に、新しいIT機器、関連サービスの登場は、常識を覆す。たとえば、アマゾンなどのEC(電子商取引)のプラットフォーマーの登場により、好きな時に、好きなところで、必要なモノを買うことができる。それは、IoT(モノのインターネット化)などの技術を用いた物流革命といえる。

 また、SNSのテクノロジーを活かすことでシェアリングエコノミー(特定のモノを複数人で共有すること)も普及した。カーシェアやライドシェアなどはその例だ。シェアリングエコノミーは、特定のモノに対する所有権を独占するよりも、そのときどきのニーズに応じて幅広いモノやサービスを利用する権利にアクセスすることを重視する人々の価値観を反映した、新しい経済活動といえる。

 ECやシェアリングエコノミー等に共通するのは、最先端のテクノロジーを用いて新しい発想を実用化できる企業が、需要を生み出すということだ。ソフトバンクは創業者である孫氏の企業家の資質を見抜く力(眼力)に頼りつつ、スタートアップ企業などに他社に先駆けて資金を提供し、競争を有利に進めようとしてきた。

■ウィーカンパニーからの損失発生の影響

 その発想に基づき、ソフトバンクとSVFは、ウィーカンパニーに出資した。ソフトバンクには、シェアオフィス事業の成長を背景にウィー社が上場を実現し、大きな利得を手にできるとの期待があった。

 しかし、昨年の秋口ころから、一部の市場参加者はそうした期待よりも、ウィー社のビジネスモデルやコーポレートガバナンスの体制などに懸念を持ち始めた。それを受けて、ウィー社は上場を断念し、企業価値が毀損した。その結果、ソフトバンクは昨年7〜9月期決算にてウィー社への投資から総額9000億円程度の損失を計上した。

 ウィー社からの損失発生から示唆されることは、先端分野のスタートアップ企業などに資金を提供して成長を取り込むというソフトバンクの戦略に、見直されるべき部分があることだろう。突き詰めていえば、ソフトバンクはリスクを客観的かつ冷静に評価したうえで投資の意思決定を行う体制を整備できていなかった恐れがある。

 見方を変えれば、ソフトバンクには、成長を急ぎすぎた部分があっただろう。同社は、リスクの評価よりも、ライバルに先駆けてスタートアップ企業などに出資し、将来的な成長の取り込みに、過度に執着してしまったとの印象を持つ。

 上場を断念した後、ウィー社はリストラを進めて資金繰りをつながなければならなくなっている。ソフトバンクが重視してきたシェアオフィス事業の成長を見込むには、あまりに不確定要素が多い。他の出資先に関しても、インドのスタートアップ企業であるオヨ・ホテルズ・アンド・ホームズなど想定通りに成果が出ていない案件もあるようだ。

 さらに、孫氏が注力する第2号のSVFの資金調達は難航していると報じられている。これまでの投資体制とスタンスを維持したままでソフトバンクがさらなる成長を実現できるか否か、先行きを慎重に考える市場参加者は増えつつあるとみられる。

■不可欠なリスク管理の徹底

 今後、ソフトバンクに求められる取り組みは、リスク管理を徹底することだろう。投資に不確実性はつきものだ。どれだけ優秀な人材を確保できた企業であっても、100%の確率で長期の成長を実現できるとは限らない。

 今後、ソフトバンクに求められる取り組みは、リスク管理を徹底することだろう。投資に不確実性はつきものだ。どれだけ優秀な人材を確保できた企業であっても、100%の確率で長期の成長を実現できるとは限らない。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/549.html#c17

[番外地7] あるユダヤ人の懺悔「日本人に謝りたい」(復刻版) – 2019 モルデカイ・モーゼ (著), 久保田政男 (寄稿) 中川隆
1. 中川隆[-13744] koaQ7Jey 2020年2月16日 23:30:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-327]
モルデカイ・モーゼは日本人。
マルクスのユダヤ名がモーゼス・モルデカイ・レヴィであることから発想して自称したと思われる。
モルデカイはそもそもモーゼのことで、モルデカイ・モーゼはあり得ないユダヤ名。
その思想は日本会議系で、戦前のユダヤ研究を引き継ぐもの。江崎道朗氏と同じ系統。

本書は、オデッサ出身のユダヤの長老がユダヤ人の立場からユダヤ陰謀論を肯定する内容になっていますが、山本ベンダサン同様、「訳者」久保田政男がユダヤ人を騙って書いた本であることは明白でしょう。根拠は以下の通りです。


1.訳書なら必ずある、原著の版権表示がない。


2.我々ユダヤ人はスクリーン、スリル、セックスの3Sで非ユダヤ人の思考力を奪い家畜化してきた云々という記述は、外国語が出来ない日本人に特有の誤りを含んでいる。(スリルの綴りはthrillです。sではありません)


3.エノラゲイはイディッシュ語で「天皇を殺せ」という意味だなどというデタラメを申し立てている。(「エノラ」も「ゲイ」もイディッシュ語の動詞の命令形とは語形が全く違います。それに、天皇に該当するイディッシュ語の名詞Keyserはどこにある?)


4.ロシア系ユダヤ人に「モーゼ」などという苗字はない。(モイセーエフ、モイセイヴィッチ等ならわかりますが)

山本ベンダサンは無知なりにユダヤ人に敬意を払っていましたが、久保田モーゼにはそれもありません。それも、イディッシュ語に対する一般日本人の無知につけこんで「天皇を殺せという意味だ」などという悪質なデマを流す段に至っては、ほとんど犯罪です。「ユダヤ陰謀論自体が一つの巨大な陰謀である」という皮肉なセオリーを雄弁に証明する一冊と言えるでしょう。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/483.html#c1

[番外地7] アラブ人とユダヤ人は犬猿の仲 中川隆
1. 2020年2月17日 00:01:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-326]
アラブ人とユダヤ人は犬猿の仲
イスラム教を作ったのはユダヤ人とか妄想ですね。
そもそもアラブ人もユダヤ人も出が同じ遊牧民です。 パレスチナに定住したのがユダヤ人で、その恵まれた定住生活をアラブ人から妬まれて、昔から現在まで一貫して犬猿の仲だったのです。 そういう関係のユダヤ人がアラブ人の為に宗教をつくる筈もないです。

ムハンマドはヒトラーのホロコーストよりずっと前に自分の支配地域からユダヤ人を駆除し、西暦627年降伏した「クアライザ」(Quraiza)というユダヤ人部族の虐殺を指揮したのもムハンマド自身であった。


彼はその900人の捕虜の中のライハナという19歳の可愛い処女を見初め、彼女に結婚を申し込んだ。気高いライハナはそれを拒否し、ムハンマドの妻にはならなかったため、預言者の「破康恥な」女性奴隷グループ、つまりセックス・スレイブ・コレクションに入れられた。ムハンマドは彼女の部族を殺したその日の夜、彼女を犯したそうだ。

また、ムハンマドはムスタリク(Mustaliq)という部族を支配下においた際、女性200人を兵士たちにあてがった。

ムハンマド自身は族長の娘を奴隷にした。彼女の夫が部下によって殺されている間に、ムハンマドは彼女とセックス(レープ?)したということだ。

カイバー(Khaibar)のユダヤ人を奇襲した際、ユダヤ人部族長の17歳の妻であったサフィヤ(Safiya)が同じ悲惨な運命に遭った。その間ムハンマドの兵士達は彼女の夫の胸に火を押し付けて拷問し、殺した。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/486.html#c1

[リバイバル3] ジャズ喫茶「ベイシー」の選択 _ JBLの本当の音とは 富山誠
164. 中川隆[-13743] koaQ7Jey 2020年2月17日 09:26:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-325]
世界中から客が集う岩手のジャズ喫茶のドキュメンタリー
『ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)』公開決定 2020/02/10
http://amass.jp/131146/


岩手県一関市、世界中から客が集うジャズ喫茶「ベイシー」。

マスター・菅原正二が50年にわたってこだわり抜いた唯一無二の音と

“ジャズな生き様”を炙り出すドキュメンタリー映画『ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)』

が2020年5月29日(金)より アップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開されます。Swiftyは、カウント・ベイシー命名による菅原正二のニックネーム。

以下インフォメーションより


その男は、レコードを演奏する。

「確かに便利な世の中になっているようだ 音楽も持ち歩ける時代だ
しかし便利を優先して感動を置き忘れてはいないか?」

岩手県一関市、世界中から客が集うジャズ喫茶「ベイシー」
マスター・菅原正二が50年にわたってこだわり抜いた唯一無二の音と
“ジャズな生き様”を炙り出すドキュメンタリー

日本独自の文化であり、世界が注目する“ジャズ喫茶”。岩手県一関市で50年営業を続ける「ベイシー」には、連日マスターの菅原正二が生み出す“音”を求め、日本のみならず世界中からジャズファン・オーディオファンが訪れる。
より良い音を再現するため、菅原は、開店以来使い続けるJBLのオーディオシステムに日々調整を重ねる。故に、菅原が不在で営業したことは1日たりとも、ない。

そうして生み出された音は、聴く者に、演奏者がその場に現れたかのような錯覚を起こさせる。本作では、菅原がかける名だたるプレイヤーのレコードを、アナログ録音の伝説的名器「ナグラ」で生収録。菅原が再生する極上の音が、「ベイシー」の空気感も含めて収められている。

本作は菅原のインタビューを中心に、渡辺貞夫、坂田明、村上“ポンタ”秀一、ペーター・ブロッツマンなど世界的なミュージシャンによる「ベイシー」での生演奏や、阿部薫、エルヴィン・ジョーンズの貴重な生前のライブ映像、さらに各界著名人らのインタビューで綴られる。本作のために、5年にわたりのべ150時間もの映像を撮り続けたのは、本作が初監督となる星野哲也。バーのオーナーであり、クリエイターでもある。親交の深い彼だからこそ捉えられる菅原の素顔が収められている。

菅原正二の考える「ジャズ」、そして「ジャズな人」とは? ジャズファンはもちろん、ジャズを知らずとも、菅原自身の魅力を通して、ジャズ・オーディオの世界に引き込まれていく。

■『ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)』
2020年5月29日(金)より アップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開

監督:星野哲也 
編集:田口拓也
菅原正二、島地勝彦、厚木繁伸、村上“ポンタ”秀一、坂田明、ペーター・ブロッツマン、阿部薫、中平穂積、安藤吉英、磯貝建文、小澤征爾、豊嶋泰嗣、中村誠一、安藤忠雄、鈴木京香、エルヴィン・ジョーンズ、渡辺貞夫 (登場順) ほか ジャズな人々

2019/日本/104分/1.85 : 1/DCP 
配給・宣伝:アップリンク

■公式HP: https://www.uplink.co.jp/Basie

http://amass.jp/131146/
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[近代史4] ほったらかし投資法の勧め 中川隆
1. 中川隆[-13742] koaQ7Jey 2020年2月17日 09:38:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-324]
トヨタ株の株価の上げ下げのほとんどは円相場で説明できる
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1042.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/132.html#c1
[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
264. 中川隆[-13741] koaQ7Jey 2020年2月17日 09:43:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-323]

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相場のチャート分析の歴史
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ほったらかし投資法の勧め
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絶対にやってはいけない丁半バクチ投資
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伝説の相場師・詐欺師
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マスコミと経済評論家の相場情報の 99% は嘘
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/129.html

バブル崩壊の歴史
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[近代史02] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 中川隆
571. 中川隆[-13740] koaQ7Jey 2020年2月17日 09:45:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-322]
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[近代史02] 株で損した理由教えてあげる 中川隆
567. 中川隆[-13739] koaQ7Jey 2020年2月17日 09:46:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-321]
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[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
71. 中川隆[-13738] koaQ7Jey 2020年2月17日 09:48:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-320]
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238. 中川隆[-13737] koaQ7Jey 2020年2月17日 09:48:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-319]
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[近代史02] 幻の柴田罫線 中川隆
134. 中川隆[-13736] koaQ7Jey 2020年2月17日 09:49:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-318]

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[リバイバル3] ドイツの音楽はドイツの真空管アンプで聴こうよ 中川隆
50. 中川隆[-13735] koaQ7Jey 2020年2月17日 10:11:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-317]
エアーモーション トランスデューサー ヘッドフォンの私的インプレッション:ドイツから来た男
# by pansakuu | 2020-02-09 23:51 | オーディオ機器
https://pansaku.exblog.jp/28839243/

Was nicht ist, kann noch werden.
ないものも、あるようにできる。
(ドイツの諺)


Introduction:

ずっと前から聞きたかったヘッドホンを、またひとつ聞けたので簡単に書き残しておこうと思う。

ADAMというモニタースピーカーのメーカーがドイツにあるのをご存知だろうか。
20年ほど前にベルリンで設立されたプロ用のモニタースピーカーを作る会社である。

ARTと呼ばれる広帯域をカバーし、レスポンスに優れたツィーターを自社で開発、これを搭載したモニタースピーカーを販売している。

メーカーのキーテクノロジーであるARTとはAccelerating Ribbon Technologyの略であり、加速するリボンツィータ技術とでも訳すのだろうか。

これはオスカー ハイルというドイツ人が1960年代に発明したAir Motion Transformerという動作原理を基にしたテクノロジーで、前後にピストン運動するダイアフラムによって音を出すのではなく、プリーツ状に折りたたまれたダイアフラムがアコーディオンのように収縮を繰り返して発音する仕組みである。

従来のピストン運動するスピーカーの動作と比べて4倍の速さで空気を動かすことが可能だという。

実際にADAM製のモニタースピーカーを聴くと、カバーする帯域の広さはもちろん、過渡特性の良さ、定位の良さ、音全体のバランスの良さや実在感の強さに感心する。

次にその価格を見て、コストパフォーマンスの良さにも少し驚く。
リボンツィーターというのはPIEGAなどを見ても分かるように、ハイエンドオーディオ界では一般に安くないのだが、ADAMのスピーカーはそれほど高価ではない。

今回取り上げるヘッドホンを製造するHEDDという会社は、このADAM社を創業したエンジニアが新たに立ち上げた会社と聞いており、やはりスタジオモニタースピーカーを主力製品としている。

そして事情はよく分からないが、このメーカーもADAMで使っているものとよく似たツィーターを、エアーモーショントランスフォーマーと称してスピーカーに使っている。

ここまでだとADAMの後追いというか分家(実はこちらが本家?)というイメージしかない。だが、HEDDはこのツィーター用のエアーモーショントランスフォーマーを元に、10Hz〜40KHzにわたるフルレンジをカバーする新たなドライバーを新規に開発、全く新たなヘッドホンを作り出した。

つまり本家ADAMの造らなかったものを作ったことになる。私は幸か不幸か、分家のHEDDのモニタースピーカーの音を聞いたことはない。ADAMでいいじゃないかと思っている。だがヘッドホンとなると話は別である。


実はHEDDphoneについては、二年くらい前から噂では聞いていた。
当初の噂はADAMがヘッドホンを作るらしいという話であったが、
だんだん、内容が変わってADAMから派生した会社が3Dプリンターを駆使してプロトタイプを製作して、プロオーディオのショウに出しているらしいという話になっていった。こうして噂は進んでゆくのだが、日本で私が製品を聞ける機会はなかなか巡ってこなかった。

Exterior:

実物と対峙すると、これは随分と武骨な男の道具である。

まず重たいヘッドホンなのだ。700gくらいある。ここ一年ほど、ジムで首の筋肉を鍛えているのだが、それでもこの重量では一時間くらいが連続的なリスニングの限界だろう。こいつは強靭な男性向けのヘッドホンという意味で既に武骨である。
そしてマットブラック仕上げ、叩くとカンカン鳴る金属製のハウジングは正方形に近い四角いもので、まるで黒いサイコロのようである。さらに分厚いイヤーパッド、これまた分厚くて弾力のあるヘッドバンドもますます男らしく見えてくる。確かにこのざっくりと作られたようなハウジングは、ともすると盛大に鳴きそうに見えるので、なにが音は良くないのではないかと聞く前に勘繰ってみたが、いざ聞いてみると、それはまるで杞憂であった。やはりオーディオは難しい。定石は通用しない場合もある。
さらに、ハウジングのパンチングメタルの奥に見える黄色いリボンツィーター、それはADAMのシンボルであるリボンツィーターをただちに想起させる。だが、これはHEDD製のフルレンジドライバーであり、ADAMのものとは似て非なるものなのだろう。

ヘッドホンケーブルの末端はミニXLRで始末されていて、Audezeなどのものと同一らしい。なおハウジングとヘッドホンケーブルの端子の接続部はシンプルだが頑丈にできているように見えて好ましい。Audezeの製品などではハウジングが木で出来ているため、この接続部の周囲が割れてきたこともあったが、ここではそういう脆弱性は感じられない。ただ、造りがしっかりし過ぎのせいで、逆に道具としての美しさは感じにくい。特別なドライバーを搭載するという意味では類似したEmpyreanと並べると、デザインのコンセプトが全く異なるのが一目瞭然である。またMysphereのような計測器じみた精密さもない。あれほどのつくりの良さのあるヘッドホンは、この先もなかなかない出てこないだろうと思うほどだが、HEDDは作りや仕上げの良さに殊更に注意を払うつもりはなさそうだ。HEDDphoneについては技術力のほぼ全てがドライバーに集中しているという感じである。とにかく、これはオーディオマニアのリスニング用のハイエンドヘッドホンではなく、あくまでサウンドエンジニア用のモニターヘッドホンなのである。
機材の壊れにくさや音の正確さが重要なのであって、見た目や造りの精巧さなどは二の次だと言わんばかりである。なんだか男らしい。ドイツの男とはこんな感じなのだろうか。


この重たいヘッドホンを実際に頭に装着すると、重さ以外にも困難があることに気づく。ヘッドバンドのスライダーを目いっぱい伸ばしても長さが足りない場合がありそうなのだ。つまり、スライダーをMAXまで伸ばしたうえで、かなりヘッドホンを深くかぶらないと耳を覆う位置までドライバーが下りてこない。日本人の耳は、貴方が考えるよりもっと下についているのだと、HEDDの中の人に教えてあげたい。
私の場合はかろうじて、耳介をイヤパッドの中に収めることができたが、頭頂部はややきつい。その分しっかりと頭に食いついているので、頭を多少振ってもヘッドホンがずれることはなさそうなのは良いが・・・・。確かにヘッドホンの自重がかなりあるから、こうでもしないとすぐずり落ちてしまうのか。でもこれでいいのか?
この問題は外国でも指摘されているらしく、そのうちメーカー側で改良するという話もあるが、果たしていつのことになるやら。
また、イヤーパッドについては耳の周囲をピッタリと密閉するようにして覆い、接触面積が広い。ここから音は漏れないが、完全な開放型なので、ハウジングの片面を覆うパンチングメタルからの音漏れは盛大である。

なお、HEDDphoneを実際に開梱すると箱の中には本体以外には簡単なマニュアルとシングルエンドの6.35mmの標準フォーンプラグのついた2mほどの長さのヘッドホンケーブルが一本ついているだけである。純正のバランスケーブルや専用トランク、スペアのイヤーパッドなどはついていない。パッケージの中身としてはかなりシンプルであり、リケーブルなどは自前で用意しなくてはならない。

今回の試聴はSPLのPhoniter2をヘッドホンアンプとして使った。
SPLのアンプの音はど真ん中のモニターサウンドであり、定位がすこぶる良いが音がやや硬く、音場よりも音像をしっかりと描く傾向にある。ここではあらかじめアンプの音調も踏まえたうえでHEDDphoneのサウンドについて述べていこうと思う。


The Sound:

HEDDphoneの外観や装着感などは、総合的にはまずまずというか、
私にしてみれば可もなく不可もないというレベルであり、殊更にほめるべきところはない。だが、このヘッドホンのサウンドに関してだけはかなり素晴らしく感じられた。今まで得られなかった新しいヘッドホンサウンドでありながら、音の各要素のバランスが良く、全体を通じて破綻がほとんどないのである。新しいのにオーソドックスで安心感のある音なのだ。
私はSR1aやMysphreなど、オーソドックスなヘッドホンとは趣きを異にする、特殊な技術的側面を強くもつ革新系の製品を続けざまに使ってきた。そこで多かれ少なかれ感じる、微妙だが明らかに特殊な音の出方、微かだがはっきりとした違和感のようなものがない。私は最初の試聴、20分ほど経過した時点で購入を宣言していた。こんな衝動買いはFinal D8000を聴いて以来のことだった。

では、他のヘッドホンの出音と比べてどこが違うのか。
まず一つは音像の強さである。この芯のある音の実体感は今までなかったレベルにまで高められている。音像に躊躇なき迫真性があり、そこが他のヘッドホンの出音とは一味違うのだ。あらゆる音に確固たる実在感が宿り、そこから来る浸透力の高さは半端ないものがある。また音場よりは音像の描写を中心とするヘッドホンやスピーカーにありがちな音の痩せがないのもポイントが高い。HEDDの音像は常に豊かで複雑なニュアンスを伴う。聞きなれた音楽を聴いても、音がいつもより鮮度を高めて、こちらに強くせり出してくる。ここでは音像の彫りの深い立体感、エネルギッシュな押し出しの良さ、そしてなにより音のテンションの高さが印象的である。さらに音像の大小や定位もよく分かるし、細かな音の質感も音像の張り出しに比べて控え目ではあるが、ひしひしと伝わってくる。


ヘッドホンアンプの音の傾向を差し引いても、これはモニター的な傾向の強い音だ。このような音像の描写はHD650やHD600などの従来のプロフェッショナルモニターヘッドホンでも聞かれる特徴だが、それらよりももっと主張しているように聞こえるし、キレもいい。これほどしっかりとした辛口の音を最新のヘッドホンから聞けるとは思わなんだ。

音色の濃さもかなりはっきりと感じられる。巨匠が入念に仕上げた一枚の油絵を眺めるような濃厚ではっきりとした色あいが脳裏に浮かび、スムーズに変化してゆく。次々に展開するビビッドな音の色彩の移り変わりはあまりにも美しく、私は心の眼を閉じることはできなかった。このような音像や音色の見事さは音楽の主題を背景から見事に際立たせ、演奏される楽器の主役と脇役の主従関係がはっきりとしてくるのが面白い。また、これほど克明な音でありながら、トランジェントの良さは特筆できる。音の立ち上がりや立下りが非常に早く、濃いばかりではなくスッキリとして透明感がある音のニュアンスも十分に伝える。


音の温度感としてはややホットであり、若干乾いたトーンだろうか。
まとわりつくような深い情けを感じるようなウェットなサウンドでないことは確かであり、クールでよそよそしい傍観者の態度を取ることもなく、静かで正確さを失わないが、常に思いを熱く語る男のようなサウンドである。これもドイツの男の在り方なのだろうか。

音場の広がりについては音像に気を取られていると多少の控え目に感じられるかもしれないが、集中して聞けば、その描写は的確であることもすぐに感得できる。HD800のような左右、そして奥行きのある音の遠近法こそ持たないものの、音楽に与えられた音場の広がりを過不足なく表現してくれる。HEDDphoneは密閉型ヘッドホンのような音の濃さに開放型の音の解放感や広がりを併せ持つ稀有なるものだ。
このヘッドホンの低域は重心はヘッドホンとしてはかなり低く、程よい量感も伴うにも関わらずスピードがある。高域の自然な伸び、中域の厚みと解像度の高さの両立とども褒めちぎりたいポイントである。

そして、なによりこれらの音の各要素がバランスよく配合されて一つの音として収束しているのが素晴らしく、心底安心できるのだ。こういう先進的な試みは常にピーキーな挙動の不確かさと隣り合わせであり、音楽のジャンルや再生される音楽の音作りによって、合う合わないが出て来るケースもあるのだが、このヘッドホンに関しては、音のバランスがオーソドックスなので得手不得手は少ないのではないかと思う。

昨今は強力なヘッドホンが出そろっており、その一角に加わって競争するのは容易ではない。優秀な機材がこの界隈にはすでに多く存在しているのである。だがHEDDの音は現代を代表するハイエンドヘッドホンたち、例えばD8000、HD800s, Empyrean、Utopia、Stellia、MDR-Z1R、ADX5000、SUSVARA、GS300E、TH900、それらどれとも異なる。
このヘッドホンにはおそらくライバルはいない。普通の音と言って、言えなくはないのだが、ブラインドでもはっきりと他と区別できるほどの音でもある。これはやはり音像の描写の確かさがこのヘッドホンの存在を決定づけているのだと思う。こんなにしっかりした強い音が出せるヘッドホンは昨今はほぼない。

このような傾向はモノに関するドイツ的な実直さの表れとも取れる。
例えばドイツ製の時計だ。
ランゲやNomos、GOやドンブリュートやヘンチェル、ダマスコなどのドイツの時計を見ていると、まずは今何時かがはっきりと読めることを前提とした文字盤や針のデザインが多い。
(私はヘンチェルを普段使いにしているが、実際に日々そう感じる。)
一番大事なことはなんなのか、常に強く意識しているのがドイツ人であるように思う。音についても、その一番大切な部分と思われる音像をまずはリスナーに示すのだ。HEDDphoneを聴いていると、子音を鮮明に聞かせるあたりからして、既にジャーマンサウンドらしい香りもあるのだが、もっと深い態度のようなところでも「ドイツらしさ」が明快に出ているヘッドホンだと思う。

HEDDphoneには音響空間に漂う、憶測でしか至ることのできないような微かなニュアンスを丁寧に拾い上げるような繊細な態度は備わっていない。こいつのサウンドは、まずは核心をズバリと突いてくる音である。幽玄な音をあえて先にとらえるような繊細さがここにはない。まず眼前に明白な主題を提示して音楽の骨格・あらすじをしっかりと伝える。細部や音場はその次にじっくりと表現してゆく。それがこの男の流儀だ。
思えば昔のヘッドホンの音楽の表現の仕方がこうだったのかもしれない。
しかし単純なリバイバルでは到底片付けられない、豊かで機動力のあるサウンドがここにはある。この装着感の煮え切らなさや重さは問題であるが、そこを差し引いても自分の部屋で、自分の機材でじっくりと使ってみたいと思わせるものがある。


Summary:

まあ、そんなこんなで、これは買うことになった。

このヘッドホンはMysphereと同じく一度は自分のものとして使ってみなくてはならないだろう。音以外では、このヘッドホンのデザインが黒を基調としていることも私にはうれしいポイントである。自分の機材はなるべく黒で統一したいからだ。Model406もBartokも黒である。ChordのCodaも黒を選んでいる。黒という色は引き締まっていて機材を男っぽく精悍に見せてくれることに気づいて最近好きになった色だ。


HEDDphoneをつらつらと聞いていると、音だけで他と勝負しようという気概を強烈に感じる。
このAMTドライバーにエンジニアがゾッコンと惚れ込んでいるのが目に見えるようだ。確かにヘッドホンで一番大事なところはそこだろう。そこは動かしがたい事実である。しかし、現代のヘッドホンの世界を見回しても、優れたドライバーの新開発は困難を極めているように見える。ことにAMTドライバのような新たな動作原理を用いたドライバーとなると、スピーカーと同じくほとんど世に出てきていない。
ハイエンドオーディオ界の停滞の原因のひとつがここにあると私は思うのだが、HEDDphoneの登場でヘッドホンの世界については、また一つ新たな多様性が加わったことになる。


また見逃せないのは、この手の革新的なヘッドホンにありがちな高価格性がないことである。少量生産が見込まれる特殊な機材は高くなりやすい。最近のハイエンドヘッドホンにおいて新型機は30万円オーバーは珍しくない。しかしHEDDphoneはほぼ20万円で売られている。ADAMのモニタースピーカー同様にコストパフォーマンスに優れると言えよう。
ただ、日本の正規代理店のようなものができた場合にHEDDphoneがいくらになるかは私には分からない。
だから正規のアナウンスが出る前に買っておこうという魂胆である。

なにしろ、こうやって次々に新しいモノを、比較的気楽に買って楽しめるところがハイエンドヘッドホンのよいところである。ハイエンドスピーカーではこうはいかない。
財力も手間も時間も、スピーカーでは数倍いや数十倍かかり、負担が大きすぎて楽しめない。良い音で音楽を聴きたいだけでは終わらないのがオーディオではないか。
まずは色々と試して、実際に使ってみてオーディオの多様性を愉しみたいのである。


それにしてもこれほどの多様性がヘッドホンの世界に生まれることを10年前に誰が予測しえたであろうか。
試行錯誤を重ね、紆余曲折を経て、栄枯盛衰はありながら、まだハイエンドヘッドホンは前進していると、ドイツの英知が創り出した男っぽいヘッドホンを聴きつつ、私は確信したのである。
https://pansaku.exblog.jp/28839243/


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/698.html#c50

[昼休み53] 風俗嬢「涙の極貧物語」 中川隆
41. 中川隆[-13734] koaQ7Jey 2020年2月17日 10:36:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-316]

◆セックス産業で稼ぐ女たちの金銭事情。稼げる女性と困窮する女性のこと
2019.04.24
https://blackasia.net/?p=12677

野良犬の女たち

先日会った場末のデリヘル嬢は、異様なまでに太った40代の女性だった。彼女は二度離婚して精神的に変調を来して睡眠薬や精神安定剤を多用していた。朝、起きれないので普通のパートに出ることすらもできず、激安デリヘルに勤めているのだが客が付かずに家賃の支払いすらも滞っていた。

「とにかく、おカネがない。家賃が払えない」と彼女はつぶやいていた。

私は一ヶ月に一度か二度は必ず「どん底の中のどん底」に生きているセックス産業の女性と会って、いろんな話を聞くようにしている。

(ブラックアジア:野良犬の女たち(ストリート売春、そして流れ者の女))
https://blackasia.net/?p=10257


セックス産業で要領よく生きている女たちも多いが、私の目の前に現れる場末の女たちはまったくの逆で、セックスを売って稼いでいるにも関わらず、明日の食事すらも困るような生活をしていることが多い。

なぜそんなことになっているのかというと、彼女たちは性風俗で稼げる容姿や年齢ではなくなっているのに、そこにいるからだ。彼女たちはセックス産業にいても、1日6000円も持って帰れない日もある。

仮に彼女たちが頑張って月20日出勤できたとしても、6000円では12万円にしかならない。実際には彼女たちは20日も真面目に出勤しないので、手取りはもっと少ない。10万円いかない月もあるはずだ。セックス産業にいて月10万円いかないのであれば、どん底だと思わないだろうか?
https://blackasia.net/?p=12677
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/286.html#c41

[リバイバル3] youtube で聴く世界の名曲 中川隆
10. 中川隆[-13733] koaQ7Jey 2020年2月17日 10:49:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-315]
2018年09月03日
YouTubeの音楽を違法にぶっこ抜く「ストリームリッピングサイト」がレコード業界の訴訟に屈して次々と閉鎖
https://gigazine.net/news/20180903-stream-ripping-site-down/

YouTubeのムービーをダウンロードしてMP3ファイルを違法に抽出する「ストリームリッピングサイト」に対して、アメリカとイギリスのレコード業界が大規模な訴訟を起こし、大手ストリームリッピングサイトが次々と閉鎖する事態となっています。

YouTube Download Sites Throw in the Towel Under Legal Pressure - TorrentFreak
https://torrentfreak.com/youtube-download-sites-throw-in-the-towel-under-legal-pressure-180614/

YouTube download sites are biggest piracy threat to music industry | The Independent
https://www.independent.co.uk/life-style/gadgets-and-tech/news/youtube-mp3-converter-download-piracy-a8505131.html

2018年6月、1日に何百万ものPVを抱えていた大手ストリーミングリッピングサイト「YouTube-MP3」が無期限のシャットダウンを宣言しました。YouTube-MP3は2017年にアメリカレコード協会(RIAA)から訴えを起こされていて、和解金を支払ってドメインをRIAAに引き渡す条件に合意したとみられています。

さらに、RIAAやイギリスレコード産業協会(BPI)は「Pickvideo.net」や「Video-download.co」など他の大手ストリーミングリッピングサイトを次々と訴え、そのどれもが和解に応じ、サイトを閉鎖しています。



しかし、同様のストリームリッピングサイトは依然として数十サイトも存在する上に、「YouTubeのムービーからMP3をリッピングする方法を解説するムービー」がYouTubeにアップされて何万もの再生回数を稼いでいるという始末です。The Independentの調査によると、16〜24歳のイギリス人のおよそ3分の1が、違法なストリーミングリッピングサイトを利用しているとのことです。

また、違法なストリームリッピングサイトはオンライン広告による収入を得ていて、The Pirate Bayのような違法トレントサイトよりもはるかに大きな経済規模となっています。BPIのCEOであるジェフ・テイラー氏は、違法なストリーミングリッピングサイトがはびこることで、SpotifyやApple Musicなど、合法なストリーミングサービスが縮小してしまう可能性があると述べています。



テイラー氏は「ストリーミングリッピングサイトは音楽業界の協力によって閉鎖に追い込まれつつあります。アーティストやレーベルに還元せず、広告収入で大金を稼ぐ違法なサイトへの対策は今後も続けていかなければなりません」と語り、今後もストリームリッピングサイトに対して厳しい対応を続けていく意志を示しました。

一方で、ストリーミングリッピングそのものは正当なサービスであると主張する声もあります。例えば、電子フロンティア財団はアメリカ合衆国通商代表部に対して、「インターネット上に存在する、無料でダウンロードや改ざんを許諾されたムービーには、著作権の対象にならない楽曲が含まれています。ほとんどの音声抽出はフェアユースの対象となります。たとえ一部のユーザーが著作権を侵害していたとしても、合法的な目的のために音声を抽出できるサービスを提供すること自体は正当です」と主張しています。

YouTubeの広報担当者はThe Independentの取材に対して、「YouTubeの利用規約では、著作権者の明示的な同意なしにYouTubeにアップされているムービーのダウンロードやコピーを行うことを禁じています。コンテンツの所有者の許可なくYouTubeのムービーをダウンロードできるサービスが通知されたら、適切な措置を講じます」と述べています。

https://gigazine.net/news/20180903-stream-ripping-site-down/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/742.html#c10

[番外地7] YouTube音源 は mp3, AACに続く後発の音声圧縮形式 Opus形式で再生できる 中川隆
1. 中川隆[-13732] koaQ7Jey 2020年2月17日 10:51:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-314]
2018年09月03日
YouTubeの音楽を違法にぶっこ抜く「ストリームリッピングサイト」がレコード業界の訴訟に屈して次々と閉鎖
https://gigazine.net/news/20180903-stream-ripping-site-down/

YouTubeのムービーをダウンロードしてMP3ファイルを違法に抽出する「ストリームリッピングサイト」に対して、アメリカとイギリスのレコード業界が大規模な訴訟を起こし、大手ストリームリッピングサイトが次々と閉鎖する事態となっています。

YouTube Download Sites Throw in the Towel Under Legal Pressure - TorrentFreak
https://torrentfreak.com/youtube-download-sites-throw-in-the-towel-under-legal-pressure-180614/

YouTube download sites are biggest piracy threat to music industry | The Independent
https://www.independent.co.uk/life-style/gadgets-and-tech/news/youtube-mp3-converter-download-piracy-a8505131.html

2018年6月、1日に何百万ものPVを抱えていた大手ストリーミングリッピングサイト「YouTube-MP3」が無期限のシャットダウンを宣言しました。YouTube-MP3は2017年にアメリカレコード協会(RIAA)から訴えを起こされていて、和解金を支払ってドメインをRIAAに引き渡す条件に合意したとみられています。

さらに、RIAAやイギリスレコード産業協会(BPI)は「Pickvideo.net」や「Video-download.co」など他の大手ストリーミングリッピングサイトを次々と訴え、そのどれもが和解に応じ、サイトを閉鎖しています。



しかし、同様のストリームリッピングサイトは依然として数十サイトも存在する上に、「YouTubeのムービーからMP3をリッピングする方法を解説するムービー」がYouTubeにアップされて何万もの再生回数を稼いでいるという始末です。The Independentの調査によると、16〜24歳のイギリス人のおよそ3分の1が、違法なストリーミングリッピングサイトを利用しているとのことです。

また、違法なストリームリッピングサイトはオンライン広告による収入を得ていて、The Pirate Bayのような違法トレントサイトよりもはるかに大きな経済規模となっています。BPIのCEOであるジェフ・テイラー氏は、違法なストリーミングリッピングサイトがはびこることで、SpotifyやApple Musicなど、合法なストリーミングサービスが縮小してしまう可能性があると述べています。



テイラー氏は「ストリーミングリッピングサイトは音楽業界の協力によって閉鎖に追い込まれつつあります。アーティストやレーベルに還元せず、広告収入で大金を稼ぐ違法なサイトへの対策は今後も続けていかなければなりません」と語り、今後もストリームリッピングサイトに対して厳しい対応を続けていく意志を示しました。

一方で、ストリーミングリッピングそのものは正当なサービスであると主張する声もあります。例えば、電子フロンティア財団はアメリカ合衆国通商代表部に対して、「インターネット上に存在する、無料でダウンロードや改ざんを許諾されたムービーには、著作権の対象にならない楽曲が含まれています。ほとんどの音声抽出はフェアユースの対象となります。たとえ一部のユーザーが著作権を侵害していたとしても、合法的な目的のために音声を抽出できるサービスを提供すること自体は正当です」と主張しています。

YouTubeの広報担当者はThe Independentの取材に対して、「YouTubeの利用規約では、著作権者の明示的な同意なしにYouTubeにアップされているムービーのダウンロードやコピーを行うことを禁じています。コンテンツの所有者の許可なくYouTubeのムービーをダウンロードできるサービスが通知されたら、適切な措置を講じます」と述べています。

https://gigazine.net/news/20180903-stream-ripping-site-down/
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/481.html#c1

[近代史4] CDプレーヤー・DAC・パソコンオーディオ 中川隆
1. 中川隆[-13731] koaQ7Jey 2020年2月17日 10:53:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-313]

YouTube音源 は mp3, AACに続く後発の音声圧縮形式 Opus形式
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/481.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/119.html#c1
[リバイバル3] 最高の音を一番安く手に入れる方法 _ パソコンの iTunes ファイル + プリ機能付き DAC + フルレンジスピーカー 中川隆
99. 中川隆[-13730] koaQ7Jey 2020年2月17日 10:54:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-312]

YouTube音源 は mp3, AACに続く後発の音声圧縮形式 Opus形式
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/481.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1002.html#c99
[リバイバル3] CD/SACDプレーヤーからPC・ネットワークオーディオへ 中川隆
51. 中川隆[-13729] koaQ7Jey 2020年2月17日 10:55:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-311]

YouTube音源 は mp3, AACに続く後発の音声圧縮形式 Opus形式
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/481.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/854.html#c51
[近代史4] 中川隆投稿集 _ アイヌ人は先住民ではない? 中川隆
1. 中川隆[-13728] koaQ7Jey 2020年2月17日 11:22:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-310]
チャンネル桜 : アイヌは先住民ではない、民族ですらない
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/487.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/150.html#c1
[番外地7] チャンネル桜 : アイヌは先住民ではない、民族ですらない 中川隆
1. 中川隆[-13727] koaQ7Jey 2020年2月17日 11:28:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-309]

しかし、チャンネル桜の関係者は何故、

遺伝学や人類学、考古学、民族学、歴史学の知識が完全にゼロのフツーのお医者さんの
的場 光昭(医療法人健光会理事長)

が言った事をそんなに簡単に信じられるのかな?
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/487.html#c1

[番外地7] メモ帳 _ 音楽・オーディオ 中川隆
6. 2020年2月17日 11:34:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-308]
最近、DELL の 800円の中国製スピーカーで youtube のフルトヴェングラーやワルターの昔の録音を聴いているけど

YouTube音源 : mp3, AACに続く後発の音声圧縮形式 Opus形式

は低音も十分出ていい音だね

タンノイとか名曲喫茶はもう必要ないよ
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/337.html#c6

[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
15. 2020年2月17日 11:57:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-307]
2020年02月17日
中国と日本は間違った隔離によって感染者を増やした


日本と中国は同じ建物内で隔離し感染者を増やした

画像引用:https://external-preview.redd.it/c6Mo9ipQKffPlxLyEWRgFVfM9gescKe8yyc_JVy6GIM.jpg?auto=webp&s=f63e5974d337b95b8635ca24f0c906578bdd3f01

日本政府が帰国者を感染させた疑い

中国政府は2月17日、武漢ウイルスの感染者が7万人超、なくなった人は1765人になったと発表した。

日本にチャーター機が帰国した時から20万人超の疑いがあったが、やっと10万人に近づいてきた。

武漢から日本に帰国したチャーター機では、第4便までで764人中13人が感染していました。


これは2020年1月末に武漢を離れた人たちなので、その時点での武漢市内の感染率を示していると考えられる。

日本のチャーター機第一便は1月29日で第3便は31日、第4便は6日に武漢の空港から離陸していた。

第一便から第4便まですべてに感染者が確認され、764人中13人は1.7%の感染率でした。


日本以外の各国もチャーター機を派遣し、韓国は1月31日に第1便で368人、2月1日に第2便で333人が帰国し第1便で2人が感染していた。

韓国は2月12日にもチャーター機で147人が帰国したが、感染者はいなかった。

英仏米カナダなど多くの国も武漢からチャーター機で帰国させたが、感染者は少なかった。


なぜ日本人帰国者だけ感染していたのかの解釈としては、帰国する前は感染していなかったのではないかという疑惑が浮上する。

日本政府は帰国者をホテルで隔離したが、帰国後にホテル内で感染した疑いも否定できない。

日本以外の国では戸建てのコテージに収容したり、1人1人別の部屋に収容した国が多かったでしょう。

大半は室内や車内で感染

日本は部屋数が足りないという理由で感染者と相部屋にされた例もあった。

あるいは日本人は帰国前に武漢市内や空港で集合し、その時に多くの人が感染したのかも知れません。

日本人帰国者だけが感染していて、他の国の帰国者は感染が少ないのには、何か理由がある筈です。


あるいは日本だけが厳重な検査を行い、他の国はいい加減な検査だったり、本当は感染しているのに隠している可能性もある。

そして横浜港のクルーズ船、ダイヤモンドプリンセスでは2月16日までに3700人中355人が感染している。

クルーズ船が最初出航したのは1月20日に横浜からで、香港で降りた中国人がウイルスを持ち込んだようです。


約25日間で1人から355人に感染したという事で、これもクルーズ船という同じ建物で空調などが共用でした。

日本国内の感染者の大半は、バスの中やタクシー内、病院内など「同じ建物や乗り物」で感染した人でした。

中国の研究者によれば室内や車内で感染者と一緒になり、数秒で感染した例があったという事です。(防犯カメラから確認)


日本政府がやってきた「同じ建物内や船内で隔離」はまったく隔離になっておらず、感染を広めた事になります。

隔離するなら1人1人別の建物で、空調などを共有しないようにする必要があります。

気になるのは中国で、体育館に感染者を集めたり、外出禁止て家族単位で家に隔離したりしている。


感染の疑いがある人を一か所に集めたら、感染していない人まで感染してしまい、より一層感染を拡大します。

間違った隔離によって感染者を増やした

中国は2月16日、湖北省全体に外出禁止令を出し、2日に1度家族の1人しか買い物してはならないとした。

今までも武漢では外出禁止だったが湖北省全体に拡大し、湖北省周辺ではほとんどの市や村で移動が禁止されている。

日本政府と中国政府の間違いは、感染者と「感染の疑いがある人」を一緒に隔離した事で、これでは感染していない人も感染させてしまいます。


全員を1人ずつ別の個室で、空調などを共有しないようにしなくてはならないが、人数が多いとそのような施設がない。

キャンプ場にテントや仮設住宅を建てる方法もあるが、季節は冬なので体調悪化するでしょう。

日本国内で状況を悪化させたのは政府と厚生労働省がウイルス検査を禁止したことで、数人の感染者が最初「検査を拒否された」と証言している。


政府は表面上感染者数を増やさないために「検査しなければ感染者は増えない」と思って検査を禁止したが、これは考えうる最悪の対処でした。

感染者が1人の時対処すれば全員を個室に収容できたが、2週間も放置して感染者が数十人に増えたら、接触者は数千人や数万人になっています。

こうなってはもう1人1人の隔離は不可能なので、増えていく感染者を眺めるしかない。


「検査するな」と指示を出したのは厚労省の官僚か大臣か、あるいは安倍首相なのか分からない。

中国では感染が広まった地域でインターネットによる発信が規制され、現地情報はほぼ途絶えてしまった。

ユーチューバーは全員が拘束され生きているのかすら不明、こうした状況で中国の外相は「沈静化しつつある」と終息宣言を出した。


収束しつつあるというのだが、それならユーチューバーを釈放して外国メディアに取材させたらどうか?
http://www.thutmosev.com/archives/82224373.html
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c15

[リバイバル3] 中川隆 _ 朝鮮関係投稿リンク 中川隆
32. 中川隆[-13726] koaQ7Jey 2020年2月17日 12:21:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-306]
韓国ではエリートが役所や財閥企業に就職し、そこから落ちこぼれた人たちは中小企業に入って、いくら努力をしても財閥に土足で踏みにじられる
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/906.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/973.html#c32
[番外地7] メモ帳 _ 音楽・オーディオ 中川隆
7. 中川隆[-13725] koaQ7Jey 2020年2月17日 13:12:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-305]
725名無しの笛の踊り2020/02/15(土) 22:35:36.36ID:1lgnZsuD
中学生は第九のアダージョの崇高さとか全然わからないから、トスカニーニの方がワルターよりいいんだよ

726名無しの笛の踊り2020/02/16(日) 22:34:28.98ID:dpe8M2je
>>719
20世紀の名匠・巨匠たちの遺した運命、英雄、新世界、ジュピター等には、人類の至宝というべき録音が沢山ある。
ところが、それらをそれほどいい物と思わない連中が多いおかげで、現代の若造どもが何とか音楽家面できている。

727名無しの笛の踊り2020/02/17(月) 13:05:30.82ID:+i5vItxX
演奏がいくら凄くても中高生向けの曲は聴きたくないだけだよ

728名無しの笛の踊り2020/02/17(月) 13:09:04.66ID:+i5vItxX
ホロヴィッツとかコルトーはハンマークラヴィーア・ソナタとかブラームスの晩年の作品は絶対に弾かなかった
一般大衆のレベルに合わせてるんだ

トスカニーニやフルトヴェングラーも同じだ

729名無しの笛の踊り2020/02/17(月) 13:11:13.01ID:+i5vItxX
トスカニーニはシベリウスの第二は演奏したけど、第四や第六は絶対に演奏しなかった
レパートリーを一般大衆向けに限っているんだよ
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/337.html#c7

[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
16. 中川隆[-13724] koaQ7Jey 2020年2月17日 14:06:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-304]
世界第二位の経済大国なのに、人民の8割が保険適用されない国。
誰得なんだ?それは…|ゲスト:篠原常一郎(@polyanochika)|山岡鉄秀


http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c16
[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
27. 中川隆[-13723] koaQ7Jey 2020年2月17日 14:08:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-303]
世界第二位の経済大国なのに、人民の8割が保険適用されない国。
誰得なんだ?それは…|ゲスト:篠原常一郎(@polyanochika)|山岡鉄秀


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c27
[番外地7] 安倍総理「器」論 中川隆
1. 中川隆[-13722] koaQ7Jey 2020年2月17日 16:19:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-302]
2020年2月17日
【三橋貴明】緊縮財政という扇の要


【今週のNewsピックアップ】
緊縮財政という「扇の要」(前編)
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12574773141.html

緊縮財政という「扇の要」(中編)
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12575009553.html

緊縮財政という「扇の要」(後編)
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12575237311.html


日本国民を苦しめ、食い物とし、我が国の「経世済民」を妨害している「グループ」は、複数あります。
(政治的なパワーが大きそうな順番に 書いてみます)

1.アメリカ合衆国
2.中国共産党
3.財務省
4.レントシーカー(グローバリスト)
5.経済界
6.マスコミ
7.経済学者(主流派)


日本では、政権が上記の「グループ」に逆らわなければ「長期政権」になります。
緊縮財政を始めた橋本内閣、構造改革を本格化させた小泉内閣、そして構造改革を
「完成」させようとしている安倍内閣。全てがそうです。
(橋本政権は選挙で負け、崩壊したため、 残りの二つほど長くはなりませんでしたが)

アメリカと中国が「覇権戦争」を繰り広げている状況で、日本は「アメリカ様」が望む構造改革を進めつつ、同時に経済界の要望もあり「媚中路線」を歩んでいます。

新型コロナウイルスの脅威がここまで高まったにも関わらず、未だに中国全土に
対する入国規制をかけない。

茂木敏充外相は、2月10日の記者会見で、習近平の国賓来日について、
「現時点では予定通り。 準備を粛々と進めていきたい」と答えています。

我が国の場合、元首級である国賓が来日した際には、天皇陛下がもてなす
最上級の歓迎となります。
この状況で、習近平を国賓で招く・・・。

もっとも、安倍政権が政権を維持したいならば、アメリカや中国に媚びへつらい、
財務省やレントシーカー(竹中平蔵氏など)、経団連の要望を訊き、マスコミを活用して支持率を維持しなければなりません。

まさに、その通りのことをした結果、安倍政権は長期政権になったのです。

そして、特に影響力が強烈な上位四つの内、実は最も「手ごわくない」のが
財務省なのです。

何しろ、現在は財務省をはじめ高級官僚の人事権を内閣官房が握っています。
政権が本気になれば、緊縮財政の転換は可能です。

(代わりに、政権にスキャンダルが 頻発することになると思いますが)

そもそも、現在の緊縮財政(プライマリーバランス黒字化目標)は閣議決定により決められています。
ということは、閣議決定で廃することも可能です。
財政法四条や五条、財務省設置法三条は、国会での議決が必要です。ところが、
PB目標の破棄は閣議決定のみなのです。
そして、財務省の緊縮財政を潰し、
デフレ脱却を果たせれば、
4のレントシーカーが望む規制緩和、
自由貿易といった構造改革は正当性を
失います。
さらには、防衛力を強化し、
「アメリカとの対等なパートナーシップ」
の下で、中国共産党に対抗。
アジアの軍事バランス維持が実現できます。
(アメリカの属国の立場の解消は、
 短期的には著しく困難です)
財務省は経済界、マスコミ、経済学者を活用し、
財政破綻論を展開してきます。
とはいえ、最悪の毒針たるPB目標の破棄は、
世論の後押しがなかったとしても可能なのです。
何しろ、必要なのは閣議決定のみです。
というわけで、短期的に日本国民は
「扇の要」の役割を果たしている
緊縮財政の打破、具体的には
PB目標破棄の閣議決定を目指すべきです。
無論、容易い目標ではないのですが、
「他」はPB目標破棄以上に難しいのです。
残念ながら、「これ」が現在の我々が
置かれている状況ということです。

https://38news.jp/default/15381
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/479.html#c1

[近代史3] 安倍晋三は会う人ごとに「相手が望むこと」を言っている 中川隆
15. 中川隆[-13721] koaQ7Jey 2020年2月17日 16:21:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-301]
2020年2月17日
【三橋貴明】緊縮財政という扇の要


【今週のNewsピックアップ】
緊縮財政という「扇の要」(前編)
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12574773141.html

緊縮財政という「扇の要」(中編)
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12575009553.html

緊縮財政という「扇の要」(後編)
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12575237311.html


日本国民を苦しめ、食い物とし、我が国の「経世済民」を妨害している「グループ」は、複数あります。
(政治的なパワーが大きそうな順番に 書いてみます)

1.アメリカ合衆国
2.中国共産党
3.財務省
4.レントシーカー(グローバリスト)
5.経済界
6.マスコミ
7.経済学者(主流派)


日本では、政権が上記の「グループ」に逆らわなければ「長期政権」になります。
緊縮財政を始めた橋本内閣、構造改革を本格化させた小泉内閣、そして構造改革を
「完成」させようとしている安倍内閣。全てがそうです。
(橋本政権は選挙で負け、崩壊したため、 残りの二つほど長くはなりませんでしたが)

アメリカと中国が「覇権戦争」を繰り広げている状況で、日本は「アメリカ様」が望む構造改革を進めつつ、同時に経済界の要望もあり「媚中路線」を歩んでいます。

新型コロナウイルスの脅威がここまで高まったにも関わらず、未だに中国全土に
対する入国規制をかけない。

茂木敏充外相は、2月10日の記者会見で、習近平の国賓来日について、
「現時点では予定通り。 準備を粛々と進めていきたい」と答えています。

我が国の場合、元首級である国賓が来日した際には、天皇陛下がもてなす
最上級の歓迎となります。
この状況で、習近平を国賓で招く・・・。

もっとも、安倍政権が政権を維持したいならば、アメリカや中国に媚びへつらい、
財務省やレントシーカー(竹中平蔵氏など)、経団連の要望を訊き、マスコミを活用して支持率を維持しなければなりません。

まさに、その通りのことをした結果、安倍政権は長期政権になったのです。

そして、特に影響力が強烈な上位四つの内、実は最も「手ごわくない」のが
財務省なのです。

何しろ、現在は財務省をはじめ高級官僚の人事権を内閣官房が握っています。
政権が本気になれば、緊縮財政の転換は可能です。

(代わりに、政権にスキャンダルが 頻発することになると思いますが)

そもそも、現在の緊縮財政(プライマリーバランス黒字化目標)は閣議決定により決められています。
ということは、閣議決定で廃することも可能です。
財政法四条や五条、財務省設置法三条は、国会での議決が必要です。ところが、
PB目標の破棄は閣議決定のみなのです。
そして、財務省の緊縮財政を潰し、
デフレ脱却を果たせれば、
4のレントシーカーが望む規制緩和、
自由貿易といった構造改革は正当性を
失います。
さらには、防衛力を強化し、
「アメリカとの対等なパートナーシップ」
の下で、中国共産党に対抗。
アジアの軍事バランス維持が実現できます。
(アメリカの属国の立場の解消は、
 短期的には著しく困難です)
財務省は経済界、マスコミ、経済学者を活用し、
財政破綻論を展開してきます。
とはいえ、最悪の毒針たるPB目標の破棄は、
世論の後押しがなかったとしても可能なのです。
何しろ、必要なのは閣議決定のみです。
というわけで、短期的に日本国民は
「扇の要」の役割を果たしている
緊縮財政の打破、具体的には
PB目標破棄の閣議決定を目指すべきです。
無論、容易い目標ではないのですが、
「他」はPB目標破棄以上に難しいのです。
残念ながら、「これ」が現在の我々が
置かれている状況ということです。

https://38news.jp/default/15381
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/629.html#c15

[近代史3] 人類進化史 中川隆
39. 中川隆[-13720] koaQ7Jey 2020年2月17日 16:42:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-300]
2020年02月17日
門脇誠二「現生人類の出アフリカと西アジアでの出来事」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_38.html


 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された

西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』
https://www.amazon.co.jp/アフリカからアジアへ-現生人類はどう拡散したか-朝日選書-西秋良宏/dp/4022630949/ref=sr_1_1?qid=1581925286&s=books&sr=1-1&text=%E8%A5%BF%E7%A7%8B%E8%89%AF%E5%AE%8F


所収の論文です。本論文は、現生人類(Homo sapiens)がアフリカからアジア西部へと拡散した頃の考古記録を取り上げています。アジア西部は、アフリカ起源の現生人類がアフリカ外へと最初に拡散した地域で、現生人類とは異なる系統のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺骸も発見されているため、遺伝的・文化的な両者の相互作用という観点からも大いに注目されています。

 アジア西部で最古となる現生人類候補の化石はレヴァントで発見されており、年代は19万〜18万年前頃ですが(関連記事)、現時点で発見されているネアンデルタール人遺骸はこれよりも後となります。ネアンデルタール人遺骸はレヴァントで7万〜5万年前頃にも確認されており、現生人類が一度拡散した地域に後からネアンデルタール人が再度拡散してきた事例は、現時点で化石記録ではアジア西部、とくにレヴァントだけです。本論文は、アジア西部にネアンデルタール人が拡散してきた時、現生人類がレヴァントにいなかった(アフリカへ撤退もしくは絶滅)可能性と、共存していた可能性を提示しています。レヴァントではイスラエルのマノット洞窟(Manot Cave)55000年前頃の現生人類遺骸が発見されており(関連記事)、この頃にネアンデルタール人と現生人類が交雑したと推測されているだけに、注目されます。5万年前頃以降になると、アジア西部で明確なネアンデルタール人遺骸は発見されておらず、現生人類遺骸のみが確認されていることから、アジア西部のネアンデルタール人は絶滅し、現生人類のみが人口を増加させ、アジア西部に定着した、と考えられます。

 現生人類のアフリカからアジア西部への拡散については、気候変動との関連が指摘されています。13万〜7万年前頃となる洋酸素同位体ステージ(MIS)5には何度か、アフリカ北部からアラビア半島にかけての広大な砂漠地帯も「緑化」したと明らかになっており、サハラ砂漠以南のアフリカと類似した気候になったことから、現生人類がアフリカから拡散したのではないか、と考えられます。類似した環境では行動や技術が大きく変わる必要なく、じっさい、この時期のアラビア半島のジェベルフアヤ(Jebel Faya)遺跡C層やドファール地域の石器は、同時代のアフリカ東部から北東部の石器と形態や製作技術が似ている、と指摘されています(関連記事)。具体的には、両面加工の木葉形の石器やヌビア型ルヴァロワ(Levallois)方式と分類される剥片石器です。

 一方レヴァントではタブン(Tabun)C型というレヴァント独自の石器技術が見られるものの、同時代のアフリカ北東部で流行していたヌビア型との類似性を指摘する見解もあります。当時のレヴァントは、湿潤化したアラビア半島とは気候変動パターンが異なり比較的乾燥しており、石器技術はその違いを反映しているかもしれない、と本論文は指摘します。本論文は、アラビア半島からレヴァントにかけて拡散した初期現生人類集団は、ずっと安定した好適環境にいたわけではなく、しばしば生じた気候変動に応じて再移動したり技術を変えたりする必要があり、また集団構造による文化伝達の相違も技術変化の要因だったかもしれない、と指摘します。

 このように中部旧石器時代前期〜中期にかけて現生人類がアジア西部へと初めて拡散しますが、中部旧石器時代後期にはネアンデルタール人が増加し、現生人類は減少したと考えられています。ネアンデルタール人はヨーロッパで進化史、アジア西部へと南下してきたようです。MIS4に地球規模の寒冷化があり、アフリカやアジア西部よりも高緯度のヨーロッパではその影響が強かったでしょうから、ネアンデルタール人は南下してきたのではないか、というわけです。そのため、アジア西部における現生人類の分布は縮小したと考えられるものの、アフリカではネアンデルタール人遺骸は発見されていないので、ネアンデルタール人の南下はアジア西部のどこかで止まったはずです。本論文は、当時アラビア半島からアフリカ北部にかけては寒冷化の影響で乾燥帯が広がっていた一方で、レヴァントは死海堆積物の分析から比較的湿潤だったと明らかになっているので、乾燥帯がネアンデルタール人の南下の障壁になった、と推測しています。一方、アジア西部における現生人類の分布が縮小したのは、気候変動とネアンデルタール人の侵入の両方が関わっており、現生人類はナイル川流域やアラビア半島南西部やレヴァントといった退避地にのみ分布していた可能性がある、と本論文は指摘します。当時レヴァントでは、ネアンデルタール人と現生人類が遭遇した可能性も充分あった、というわけです。

 当時、ネアンデルタール人も現生人類もルヴァロワ方式を用いて石器を製作していました。ルヴァロワ方式では大きく定形的な剥片を製作できますが、レヴァント地方のルヴァロワ方式の特徴は、三角形のポイントが多いことです。食性についても、ネアンデルタール人と現生人類の間で大きな違いはなかったようで、ともに主要な狩猟対象は、オーロクスやアカシカといった大型有蹄類の他は、ノロジカやダマジカやロバやガゼルなどの小型有蹄類でした。また、捕まえやすいカメやトカゲなどの小動物も利用され、海岸部の遺跡では貝を食べていた痕跡も確認されています。有蹄類の狩猟では、身体の大きい成獣が主要な標的とされていました。植物では、マメ類が利用されています。埋葬もレヴァントのネアンデルタール人と現生人類の両方で見られ、またともに動物の角や骨といった副葬品を伴う場合もあります。

 このように、中部旧石器時代のレヴァントにおけるネアンデルタール人と現生人類の行動様式には共通点が多く見られますが、違いの一つは貝製ビーズの利用で、現時点ではスフール(Skhul)およびカフゼー(Qafzeh)という現生人類の洞窟遺跡でしか見つかっていません。これをネアンデルタール人と現生人類の象徴能力の差と考える見解もありますが、同時代のヨーロッパのネアンデルタール人が装飾品を残した事例も確認されており(関連記事)、本論文は、中部旧石器時代の現生人類とネアンデルタール人の行動様式は、違いよりも共通点の方が多かった、と推測しています。

 このように、アジア西部では10万年以上にわたってネアンデルタール人と現生人類とが共存していた可能性もありますが、最終的にはネアンデルタール人は消滅しました。レヴァントにおける最後のネアンデルタール人遺骸の年代は、現時点では5万年前頃です。上述のようにイスラエルのマノット洞窟では55000年前頃の現生人類遺骸が発見されているので、アジア西部においてネアンデルタール人が消滅した頃、現生人類が存在していたとしても不思議ではありません。ネアンデルタール人の消滅と現生人類の運命を分けた要因は、高い関心を集めています。本論文はまず、ネアンデルタール人および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の共通祖先系統が現生人類系統と50万年以上前に分岐して以降、ネアンデルタール人とデニソワ人の系統は人口が減少し続けたと推定されている(関連記事)、という長期的な人口動向を指摘します。アジア西部でのネアンデルタール人の消滅も長期的な人口減少の結末だった、というわけです。ただ、この長期的な人口史については、異論も提示されています(関連記事)。

 また本論文は、現生人類の方も20万年前頃から5万〜4万年前頃にかけて個体数が減少しており、それは非アフリカ系集団において強く認められる一方で、この時期に世界中に現生人類が拡散していったことに注目しています。そのため本論文は、当時のユーラシアでは現生人類にとってもデニソワ人やネアンデルタール人のような古代型ホモ属にとっても個体数の維持は難しく、それは、気候変動による資源環境の変化や、拡散先での新たな環境への対応や、拡散のために集団が細分化したことなどが背景にあるのではないか、と推測しています。長期的な人口減少が現生人類にも古代型ホモ属にも見られ、そのピークが5万〜4万年前頃だったとすると、古代型ホモ属は「絶滅」に至り、現生人類は「ボトルネック(瓶首効果)」ですんだおかげで現代も存続している、と本論文は指摘します。

 本論文は5万〜4万年前頃に現生人類と古代型ホモ属で運命が分かれた理由を、考古学的に検証しています。ネアンデルタール人が消滅した5万年前頃のアジア西部では、ハインリッヒイベント(HE)5による大規模な寒冷化が明らかになっています。これをネアンデルタール人消滅の要因とする見解もありますが、実際にどの程度生物相に影響を与えたかについては、論争が続いています。たとえば、アジア西部における最後のネアンデルタール人遺骸が発見されているイスラエル北部のアムッド洞窟(Amud Cave)では、5万年前頃になっても小動物骨の構成に大きな変化はなく、シリアのデデリエ(Dederiyeh)洞窟では、乾燥化したのではなく、逆に湿潤化したと解釈されるような証拠も見つかっています。ただ、イスラエル北部のケバラ(Kebara)洞窟では、ネアンデルタール人と関連している層で新しくなるほど、大型有蹄類の比率が減少し、小型有蹄類でも若齢個体の比率が増加しており、頭蓋比率の減少から狩猟場が遠くなったと推測されていることから、気候変動による動物資源の変化が指摘されています。ただ、長年の狩猟により動物資源が枯渇した可能性も提示されています。現時点では、ネアンデルタール人が絶滅した頃のレヴァントの気候や資源環境について、まだ合意は形成されていないようです。

 アジア西部でネアンデルタール人が消滅した頃、上部旧石器時代が始まります。この大きな考古記録の変化に伴い、ネアンデルタール人の遺骸は発見されなくなり、現生人類遺骸のみが発見されるので、上部旧石器文化の担い手は現生人類のみと考えられています。ヨーロッパやアジア北部では、中部旧石器が古代型ホモ属、上部旧石器が現生人類と考えられてきましたが、アジア西部では中部旧石器文化の担い手がネアンデルタール人と現生人類の両方だったので、この図式は当てはまりません。

 この大きな文化変化は、石器に関しては石刃の増加により示されます。レヴァントでは、中部旧石器時代には20%程度だった石刃が、上部旧石器時代初期には40%、それに続く4万年前頃以降の上部旧石器時代前期には60%程度まで増加します。また、上部旧石器時代初期から前期にかけて、石刃のサイズが減少していく傾向にあります。小型の石刃は小石刃と呼ばれています。石刃はそのままでナイフとして用いられますが、さらに加工して定形的な道具が作られることもあります。上部旧石器時代で特徴的なのは、動物の皮をなめす掻器(エンドスクレーパー)や骨などに溝を掘る彫刻刀型石器(ビュラン)です。また、石刃の先端部を尖らせて作られる尖頭器も増加し、小石刃から作られる小型尖頭器も顕著に増えます。

 中部旧石器時代から上部旧石器時代にかけてのこうした石器形態や製作技術の変化の意義は、まだ明らかになっていません。皮をなめす道具(サイドスクレーパー)もビュランも中部旧石器時代にありました。小型尖頭器に関しては、投槍などの射的武器の先端に装着して新たな狩猟法をもたらし、現生人類の人口増加の一因になった、との見解も提示されています。ただ本論文は、小型尖頭器の出現は上部旧石器時代前期になってからなので、ネアンデルタール人の消滅とは関係ないだろう、と指摘します。また、石刃生産への集約は石材をより効率的に消費できる、と以前は指摘されていましたが、最近の研究では、石刃技術でも刃部の獲得効率が上昇するとは限らないと明らかになっており、石刃技術が現生人類の生存とその後の繁栄に役立ったのか、まだ確証は得られていないようです。

 中部旧石器時代から上部旧石器時代にかけての行動変化のもう一つの指標は動物資源の利用です。中部旧石器時代と比較して上部旧石器時代には、より広範な種類の小型動物が利用されるようになります。たとえば、ウサギやリスや鳥や魚です。これらの小型動物は、カメなどと比較して捕獲に工夫が必要で、1個体あたりの可食部も限られているので、捕獲コストに対する収率という観点から「低ランク資源」と呼ばれています。低ランク資源の利用は、上述のケバラ洞窟の事例で示されるように、すでに中部旧石器時代後期には進行していた、とも指摘されています。

 上部旧石器時代には、貝殻製ビーズのような装飾品も増加しました。ただ、アジア西部でネアンデルタール人遺骸の発見されている中部旧石器時代後期の遺跡では、貝製ビーズの発見がまだ報告されていません。上述のようにこの頃には現生人類も共存していた可能性があるわけですが、貝製ビーズが見つからない理由はよく分かりません。上部旧石器時代には、レヴァントだけではなくヨーロッパなど広範な地域でビーズの利用が見られ、ビーズの形やサイズは類似していた、と指摘されています。ビーズは複数をつないで組み合わせ、多様なシグナルを創出するので、その形は均質であることが求められたのだろう、と本論文は推測しています。また、イベリア半島からレヴァントまでという広範な地域でのビーズの共通性は、ビーズ交換などを通じて築かれた社会ネットワークが、広範囲に連結した結果と解釈されています。狩猟採集民社会の互恵的な関係では、ネットワークへの参加により環境・社会的なリスクが軽減されたかもしれない、というわけです。

 上部旧石器時代における行動の変化に関しては、これらに加えて資源の収集範囲や居住移動パターンや居住空間構造などが指摘されてきましたが、それらが現生人類の存続とネアンデルタール人の消滅という結果の要因だったのか明らかではない、と本論文は指摘します。かつて、ユーラシア西部の上部旧石器時代やアフリカの後期石器時代に特徴的な考古記録は「現代人的行動」という概念でまとめられ、古代型ホモ属との違いが指摘されていました。しかし、現生人類の拡散・定着という観点から研究が進展すると、「現代人的行動」は地域により多様であることが明らかになってきました。たとえば、ユーラシア西部から北部の上部旧石器時代に特徴的な石刃小石刃は、アジア南東部やオセアニアではほとんど見られません。さらに、石刃や装飾品などの「現代人的行動」がネアンデルタール人でも確認されるようになってきました。

 一方、現生人類の起源地であるアフリカでさえも、「現代人的行動」の記録が一様に発達してきたわけではなく、地域によってはなかったり、一度生じても後で消えてしまったりするようなモザイク的な消長パターンである、と明らかになってきました(関連記事)。本論文は、5万〜4万年前頃に現生人類とネアンデルタール人は広範に分布しており、各集団が経験したボトルネックや絶滅の背景となる環境は多様だったと考えられる、と指摘します。じっさい、ネアンデルタール人と現生人類それぞれの内部での多様性と、両者の間の共通説も明らかになってきており、両者の運命を分けた要因について、特定の行動要素に一般化することは難しくなっている、と指摘します。

 現在では、現生人類が多様な環境に拡散して定着できた要因として、「変動する状況や環境に応じて革新を生み出す才能や柔軟性」や「技術の根底にある創意工夫の才や柔軟性」が挙げられています。本論文は、この抽象的な説明を具体化できるのが考古学である、と指摘します。まず、現生人類が拡散していった時期の考古記録の地理的変異を整理することで、その文化地理的パターンは自然環境に対応して説明できるかもしれませんし、そうでない場合は文化伝達プロセスなどが要因として考えられます。次に、現生人類の特徴的行動の発生プロセスを明らかにすることが挙げられています。本論文は、これらの研究を進めるには、まず考古記録の年代決定が重要になる、と指摘します。

 本論文は、その具体的事例として、レヴァントのヨルダン南部を取り上げています。ヨルダン南部は、旧石器時代には現在よりも湿潤だった時期もあるものの、それでも同時代のレヴァント北部と比較するとより乾燥していたようで、シカやイノシシなど森林性の動物遺骸は発見されていません。このように資源には制約のあったヨルダン南部ですが、旧石器時代の多くの遺跡が残っています。ヨルダン南部における中部旧石器時代から上部旧石器時代にかけての石器の形態や製作技術の変化の大きな傾向として、ルヴァロワ方式から石刃の増加と、その後の石刃の小型化が指摘されています。石刃の増加と小型化は、現生人類が拡散・定着していった時期のユーラシア西部・中央部・北部で広範に見られる現象です。また、鳥などの小型動物の利用が増加し、装飾品が出現するのも特徴です。ヨルダン南部では上部旧石器時代に185km離れた地中海や55km離れた紅海の貝殻が見つかるようになりますが、そのほとんどは小型で食用とは考えられず、次第にビーズに加工されたものが増加していきます。これに関しては、ヨルダン南部の住民が海岸まで移動して集めてきた可能性と、社会的ネットワークを通じて海岸に近い集団から入手した可能性が指摘されています。


参考文献:
門脇誠二(2020)「現生人類の出アフリカと西アジアでの出来事」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第1章P7-52

https://sicambre.at.webry.info/202002/article_38.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/581.html#c39

[番外地7] アイヌ人の起源 中川隆
9. 中川隆[-13719] koaQ7Jey 2020年2月17日 17:03:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-299]

縄文人はアイヌ語を話していた、日本に1万年以上前に渡来した民族です。
日本人は紀元2世紀に chousen から渡来した民族です。

東北北部では古墳時代に縄文人の子孫と日本人が混血して蝦夷になりました。。
北海道では鎌倉時代に縄文人の子孫とオホーツク人と混血してアイヌ人になりました。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/416.html#c9

[番外地7] アイヌ人の起源 中川隆
10. 中川隆[-13718] koaQ7Jey 2020年2月17日 17:08:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-298]
縄文人はアイヌ語を話していた、日本に1万年以上前に渡来した民族です。
日本人は紀元2世紀に chousen から渡来した民族です。
東北北部では古墳時代に縄文人の子孫と日本人が混血して蝦夷になりました。。
北海道では鎌倉時代に縄文人の子孫とオホーツク人と混血してアイヌ人になりました。

蝦夷というのは古墳時代にオホーツク人が北海道まで南下して来た時に、押し出されて北海道の続縄文人が東北まで南下して来た時の東北原住民の名前です。現在、東北北部に沢山有るアイヌ語地名は蝦夷が残した地名です。 マタギの言葉もアイヌ語だし、恐山のイタコもアイヌのシャーマンですね。
現在の津軽半島の住民の遺伝子はアイヌ人と同じだとわかっています。


アイヌの祖先は擦文時代には鉄製農具を使って大規模農耕をしていましたが、和人から鉄製農具の輸出を禁じられて狩猟民に戻ったのです。 その時点で寒冷地に適したニヴフの狩猟文化を取り込んだので縄文時代からの文化伝統と乖離してニヴフに近い文化に変わっています。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/416.html#c10

[リバイバル3] 輸入肉を食べると癌になる 中川隆
16. 中川隆[-13717] koaQ7Jey 2020年2月17日 17:59:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-297]
約40年で消費量半分に 「アメリカ人の牛肉離れ」の背景に何が 2020/02/17
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/約40年で消費量半分に-「アメリカ人の牛肉離れ」の背景に何が/ar-BB104208?ocid=ientp



アメリカの精肉売り場では、「HRMONES FREE(肥育ホルモン剤不使用)」と表示された牛肉が人気(Getty Images)

 関税率の引き下げに伴い、米国産牛肉の輸入が増加している。消費者にとっては価格が安くなって有難いかもしれないが、その一方で米国産牛肉の多くは「肥育ホルモン剤」としてエストロゲンなどの女性ホルモンを投与されて育てられているという現実がある。

 家畜における合成肥育ホルモンの継続的な使用が安全であるかどうかについて、因果関係の立証は難しいが、EU諸国では肥育ホルモンを使用して育てた牛肉の輸入を一切認めていない。ボストン在住の内科医・大西睦子さんはこう語る。

「1970年代半ばから1980年代初めにかけて、プエルトリコなどで幼い女の子の乳房がふくらんだり、月経が起きるなど、性的に異常な発育が続出しました。その原因がアメリカ産の牛肉に残留した合成肥育ホルモン剤『ジエチルスチルペストロール』だとされたのです。そこで、アメリカでは1979年に、EC(現在のEUの前身)では1981年に使用が禁止されました。

 ただし、同種の合成女性ホルモンは使用され続けてきました。そこでヨーロッパでは家畜へのホルモン投与反対運動が起こった。1988年に使用の全面禁止、1989年には合成女性ホルモン剤を使用したアメリカ産の牛肉などが輸入禁止になりました。最近では、女性ホルモンを多く利用・服用すると乳がんが増えるという研究データもあり、ホルモン剤の使用はさらに疑問視されています」

 一方で、「アメリカ人も食べているわけだから大丈夫でしょう?」という素朴な疑問も浮かぶ。米国メディア日本特派員が話す。

「実は、アメリカ人も肥育ホルモン剤を使った牛肉を食べることを嫌って、どんどん“牛肉離れ”が進んでいるんです」

 アメリカの食事といえば、ワイルドなステーキなど牛肉なくして成り立たないイメージがあるが、それは古い感覚のようだ。

「たしかに、かつては牛肉はアメリカで最も多く消費されていた肉類でしたが、それは過去の話。1976年に牛肉が肉全体の年間消費量のおよそ半分を占め、1人あたり年間40kgほど食べていた。しかし、2018年になるとそれが肉全体に占める割合は2割を切り、1人あたり20kgほどしか食べなくなっているんです」(前出・特派員)
 たとえ牛肉を食べるにしても、選別が進んでいるようだ。

「アメリカでは牛肉に『オーガニック』とか『ホルモンフリー』と表示したものが売られていて、経済的に余裕のある人たちはそれを選んで買うのがもはや常識になっています。自分や家族が病気になっては大変ですからね。健康志向の人の中には、大豆など植物由来の『ダミービーフ』を使う人もいます」(ニューヨークで暮らす日本人商社マン)

 ホルモンフリーの商品は通常の牛肉より4割ほど高価になるのだが、これを扱う高級スーパーや飲食店が5年前くらいから急増しているそうだ。健康志向を持つ人や富裕層といわれるハイクラスのアメリカ人は、とっくに肥育ホルモンの使われた牛肉など口にしないのだ。

 ホルモンフリーの牛肉は高いが、体にいい肉を食べたいのは中産階級も同じ。昨年夏、日本にもある人気ファストフード店のバーガーキングが「インポッシブル・ワッパー」というメニューを発売し、全米で話題になったという。

「100%大豆由来の“ダミー肉”を使ったハンバーガーですが、値段は通常の牛肉のハンバーガーより1ドル高いだけ。味もよくて、知らずに食べたら気づかないレベルです。しかも、かじるとまるで血がしたたるようにジューシー。それでいて脂肪15%減、コレステロール90%減、というのがアメリカ人の胸に響いたようで、人気を集めています」(在米留学生)

 このような「植物由来のダミー肉」はアメリカ国内の3万店舗以上のスーパーマーケットで売られている。バーガーキングのように通常の肉と比べて値段は少ししか変わらないとあって、若者や中産階級にも充分手が届く価格なのが魅力だ。市場規模は急速に拡大を続け、今年中に52億ドルに達するといわれている。

「大学のクラスメートと話していても、オーガニックミートの話はよく出ます。私はベジタリアンではないし、乳製品も摂らないヴィーガンとも違うけれど、やっぱりこちらの生活では意識しないと肉食が多くなる。がんも怖いし、積極的に取り入れています。“安い牛肉を食べるのはダサい”みたいな風潮すらあります」(別の在米留学生)

 では、アメリカで大量に育てられているはずの肥育ホルモン入り牛肉はどこへ行くのだろうか――そう、ホルモン剤入り牛肉を食べさせられているのは日本人だ。耳を澄ませば、トランプ大統領の高笑いが聞こえてこないだろうか。まさに何も知らないのは、日本人だけなのだ。

「安くなった」と小躍りして子供たちにアメリカ産牛肉のステーキを食べさせている場合ではない。

※女性セブン2020年2月20日号

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/約40年で消費量半分に-「アメリカ人の牛肉離れ」の背景に何が/ar-BB104208?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/733.html#c16

[不安と不健康15] コンビニ弁当やお握りは辞めた方がいいです。『拡散』 (カズちゃんのブログ)  赤かぶ
338. 中川隆[-13716] koaQ7Jey 2020年2月17日 18:00:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-296]
約40年で消費量半分に 「アメリカ人の牛肉離れ」の背景に何が 2020/02/17
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/約40年で消費量半分に-「アメリカ人の牛肉離れ」の背景に何が/ar-BB104208?ocid=ientp



アメリカの精肉売り場では、「HRMONES FREE(肥育ホルモン剤不使用)」と表示された牛肉が人気(Getty Images)

 関税率の引き下げに伴い、米国産牛肉の輸入が増加している。消費者にとっては価格が安くなって有難いかもしれないが、その一方で米国産牛肉の多くは「肥育ホルモン剤」としてエストロゲンなどの女性ホルモンを投与されて育てられているという現実がある。

 家畜における合成肥育ホルモンの継続的な使用が安全であるかどうかについて、因果関係の立証は難しいが、EU諸国では肥育ホルモンを使用して育てた牛肉の輸入を一切認めていない。ボストン在住の内科医・大西睦子さんはこう語る。

「1970年代半ばから1980年代初めにかけて、プエルトリコなどで幼い女の子の乳房がふくらんだり、月経が起きるなど、性的に異常な発育が続出しました。その原因がアメリカ産の牛肉に残留した合成肥育ホルモン剤『ジエチルスチルペストロール』だとされたのです。そこで、アメリカでは1979年に、EC(現在のEUの前身)では1981年に使用が禁止されました。

 ただし、同種の合成女性ホルモンは使用され続けてきました。そこでヨーロッパでは家畜へのホルモン投与反対運動が起こった。1988年に使用の全面禁止、1989年には合成女性ホルモン剤を使用したアメリカ産の牛肉などが輸入禁止になりました。最近では、女性ホルモンを多く利用・服用すると乳がんが増えるという研究データもあり、ホルモン剤の使用はさらに疑問視されています」

 一方で、「アメリカ人も食べているわけだから大丈夫でしょう?」という素朴な疑問も浮かぶ。米国メディア日本特派員が話す。

「実は、アメリカ人も肥育ホルモン剤を使った牛肉を食べることを嫌って、どんどん“牛肉離れ”が進んでいるんです」

 アメリカの食事といえば、ワイルドなステーキなど牛肉なくして成り立たないイメージがあるが、それは古い感覚のようだ。

「たしかに、かつては牛肉はアメリカで最も多く消費されていた肉類でしたが、それは過去の話。1976年に牛肉が肉全体の年間消費量のおよそ半分を占め、1人あたり年間40kgほど食べていた。しかし、2018年になるとそれが肉全体に占める割合は2割を切り、1人あたり20kgほどしか食べなくなっているんです」(前出・特派員)
 たとえ牛肉を食べるにしても、選別が進んでいるようだ。

「アメリカでは牛肉に『オーガニック』とか『ホルモンフリー』と表示したものが売られていて、経済的に余裕のある人たちはそれを選んで買うのがもはや常識になっています。自分や家族が病気になっては大変ですからね。健康志向の人の中には、大豆など植物由来の『ダミービーフ』を使う人もいます」(ニューヨークで暮らす日本人商社マン)

 ホルモンフリーの商品は通常の牛肉より4割ほど高価になるのだが、これを扱う高級スーパーや飲食店が5年前くらいから急増しているそうだ。健康志向を持つ人や富裕層といわれるハイクラスのアメリカ人は、とっくに肥育ホルモンの使われた牛肉など口にしないのだ。

 ホルモンフリーの牛肉は高いが、体にいい肉を食べたいのは中産階級も同じ。昨年夏、日本にもある人気ファストフード店のバーガーキングが「インポッシブル・ワッパー」というメニューを発売し、全米で話題になったという。

「100%大豆由来の“ダミー肉”を使ったハンバーガーですが、値段は通常の牛肉のハンバーガーより1ドル高いだけ。味もよくて、知らずに食べたら気づかないレベルです。しかも、かじるとまるで血がしたたるようにジューシー。それでいて脂肪15%減、コレステロール90%減、というのがアメリカ人の胸に響いたようで、人気を集めています」(在米留学生)

 このような「植物由来のダミー肉」はアメリカ国内の3万店舗以上のスーパーマーケットで売られている。バーガーキングのように通常の肉と比べて値段は少ししか変わらないとあって、若者や中産階級にも充分手が届く価格なのが魅力だ。市場規模は急速に拡大を続け、今年中に52億ドルに達するといわれている。

「大学のクラスメートと話していても、オーガニックミートの話はよく出ます。私はベジタリアンではないし、乳製品も摂らないヴィーガンとも違うけれど、やっぱりこちらの生活では意識しないと肉食が多くなる。がんも怖いし、積極的に取り入れています。“安い牛肉を食べるのはダサい”みたいな風潮すらあります」(別の在米留学生)

 では、アメリカで大量に育てられているはずの肥育ホルモン入り牛肉はどこへ行くのだろうか――そう、ホルモン剤入り牛肉を食べさせられているのは日本人だ。耳を澄ませば、トランプ大統領の高笑いが聞こえてこないだろうか。まさに何も知らないのは、日本人だけなのだ。

「安くなった」と小躍りして子供たちにアメリカ産牛肉のステーキを食べさせている場合ではない。

※女性セブン2020年2月20日号

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/約40年で消費量半分に-「アメリカ人の牛肉離れ」の背景に何が/ar-BB104208?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/09/health15/msg/764.html#c338

[不安と不健康16] “早死にする人”ランキング 短命にある共通点とは…(ZAK×SPA!)  赤かぶ
159. 中川隆[-13715] koaQ7Jey 2020年2月17日 18:01:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-295]
約40年で消費量半分に 「アメリカ人の牛肉離れ」の背景に何が 2020/02/17
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/約40年で消費量半分に-「アメリカ人の牛肉離れ」の背景に何が/ar-BB104208?ocid=ientp



アメリカの精肉売り場では、「HRMONES FREE(肥育ホルモン剤不使用)」と表示された牛肉が人気(Getty Images)

 関税率の引き下げに伴い、米国産牛肉の輸入が増加している。消費者にとっては価格が安くなって有難いかもしれないが、その一方で米国産牛肉の多くは「肥育ホルモン剤」としてエストロゲンなどの女性ホルモンを投与されて育てられているという現実がある。

 家畜における合成肥育ホルモンの継続的な使用が安全であるかどうかについて、因果関係の立証は難しいが、EU諸国では肥育ホルモンを使用して育てた牛肉の輸入を一切認めていない。ボストン在住の内科医・大西睦子さんはこう語る。

「1970年代半ばから1980年代初めにかけて、プエルトリコなどで幼い女の子の乳房がふくらんだり、月経が起きるなど、性的に異常な発育が続出しました。その原因がアメリカ産の牛肉に残留した合成肥育ホルモン剤『ジエチルスチルペストロール』だとされたのです。そこで、アメリカでは1979年に、EC(現在のEUの前身)では1981年に使用が禁止されました。

 ただし、同種の合成女性ホルモンは使用され続けてきました。そこでヨーロッパでは家畜へのホルモン投与反対運動が起こった。1988年に使用の全面禁止、1989年には合成女性ホルモン剤を使用したアメリカ産の牛肉などが輸入禁止になりました。最近では、女性ホルモンを多く利用・服用すると乳がんが増えるという研究データもあり、ホルモン剤の使用はさらに疑問視されています」

 一方で、「アメリカ人も食べているわけだから大丈夫でしょう?」という素朴な疑問も浮かぶ。米国メディア日本特派員が話す。

「実は、アメリカ人も肥育ホルモン剤を使った牛肉を食べることを嫌って、どんどん“牛肉離れ”が進んでいるんです」

 アメリカの食事といえば、ワイルドなステーキなど牛肉なくして成り立たないイメージがあるが、それは古い感覚のようだ。

「たしかに、かつては牛肉はアメリカで最も多く消費されていた肉類でしたが、それは過去の話。1976年に牛肉が肉全体の年間消費量のおよそ半分を占め、1人あたり年間40kgほど食べていた。しかし、2018年になるとそれが肉全体に占める割合は2割を切り、1人あたり20kgほどしか食べなくなっているんです」(前出・特派員)
 たとえ牛肉を食べるにしても、選別が進んでいるようだ。

「アメリカでは牛肉に『オーガニック』とか『ホルモンフリー』と表示したものが売られていて、経済的に余裕のある人たちはそれを選んで買うのがもはや常識になっています。自分や家族が病気になっては大変ですからね。健康志向の人の中には、大豆など植物由来の『ダミービーフ』を使う人もいます」(ニューヨークで暮らす日本人商社マン)

 ホルモンフリーの商品は通常の牛肉より4割ほど高価になるのだが、これを扱う高級スーパーや飲食店が5年前くらいから急増しているそうだ。健康志向を持つ人や富裕層といわれるハイクラスのアメリカ人は、とっくに肥育ホルモンの使われた牛肉など口にしないのだ。

 ホルモンフリーの牛肉は高いが、体にいい肉を食べたいのは中産階級も同じ。昨年夏、日本にもある人気ファストフード店のバーガーキングが「インポッシブル・ワッパー」というメニューを発売し、全米で話題になったという。

「100%大豆由来の“ダミー肉”を使ったハンバーガーですが、値段は通常の牛肉のハンバーガーより1ドル高いだけ。味もよくて、知らずに食べたら気づかないレベルです。しかも、かじるとまるで血がしたたるようにジューシー。それでいて脂肪15%減、コレステロール90%減、というのがアメリカ人の胸に響いたようで、人気を集めています」(在米留学生)

 このような「植物由来のダミー肉」はアメリカ国内の3万店舗以上のスーパーマーケットで売られている。バーガーキングのように通常の肉と比べて値段は少ししか変わらないとあって、若者や中産階級にも充分手が届く価格なのが魅力だ。市場規模は急速に拡大を続け、今年中に52億ドルに達するといわれている。

「大学のクラスメートと話していても、オーガニックミートの話はよく出ます。私はベジタリアンではないし、乳製品も摂らないヴィーガンとも違うけれど、やっぱりこちらの生活では意識しないと肉食が多くなる。がんも怖いし、積極的に取り入れています。“安い牛肉を食べるのはダサい”みたいな風潮すらあります」(別の在米留学生)

 では、アメリカで大量に育てられているはずの肥育ホルモン入り牛肉はどこへ行くのだろうか――そう、ホルモン剤入り牛肉を食べさせられているのは日本人だ。耳を澄ませば、トランプ大統領の高笑いが聞こえてこないだろうか。まさに何も知らないのは、日本人だけなのだ。

「安くなった」と小躍りして子供たちにアメリカ産牛肉のステーキを食べさせている場合ではない。

※女性セブン2020年2月20日号

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/約40年で消費量半分に-「アメリカ人の牛肉離れ」の背景に何が/ar-BB104208?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/13/health16/msg/134.html#c159

[番外地7] ネトウヨは、野党が国会で新型コロナウイルス対策についての質問をしているのを見なかったことにして、「桜を見る会」問題など… 中川隆
1. 2020年2月17日 19:06:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-297]
ネトウヨは、野党が国会で新型コロナウイルス対策についての質問をしているのを見なかったことにして、「桜を見る会」問題などの追及をバッシングしている

こうした遅々とした政府対応については、国会でも野党が早い段階から批判してきた。

安倍応援団やネトウヨたちは、野党が国会で新型コロナウイルス対策についての質問をしているのを見なかったことにして、「桜を見る会」問題などの追及をあげつらい「いま、そんなことしてる場合か」とバッシングしているが、いったい、何をほざいているのだろう。

 むしろ、国民から「いま、そんなことしてる場合か」と言われなければならないのは、安倍首相のほうだ。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/485.html#c1

[昼休み54] 原子力発電は本当に危険なのか? 中川隆
10. 中川隆[-13717] koaQ7Jey 2020年2月17日 20:05:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-296]
2020年02月17日
菅、枝野、北沢が妨害しなければ福島原発事故は起きなかった


「炉心溶融はない」「放射能は漏れていない」「健康被害はない」と言った枝野幸男

引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-b5-6d/level4level4/folder/172944/49/29051549/img_0


福島原発の事故では菅首相の指示で「炉心溶融」を2ヶ月間隠していました。

菅内閣は当時他にも、放射能漏れや、健康被害の可能性も隠していました


あの日責任者達は何をしていたのか

2011年の福島原発事故ではメルトダウン(炉心溶融)の公表が発生から2ヶ月遅れ、政府が意図的に隠していたのが分かっている

東京電力の依頼で調べていた弁護士らの第三者委員会が調査していました。

福島第一原発は2011年3月11日の津波で冷却水用発電機が海水を被り、全電源停止に至りました。


翌3月12日には建屋が次々に充満した水素で爆発し、冷却水の水位が下がって燃料棒が剥き出しになりました。

燃料棒は冷却水が循環する事で冷やされているが、水から露出すると高温になり、やがて自らの熱で溶け出します。

燃料棒が溶けて下に落ちる状態がメルトダウン(炉心溶融)で、原発事故で最も深刻な事態とされています。


福島原発では隔壁で仕切られた原子炉の中に溶けた燃料棒が溜まっていると考えられるが、チェルノブイリでは外部に放出されました。

この炉心溶融が事故当時秘密にされ、事故から2ヵ月後にようやく明らかにされました。

事故直後は放射能漏れも否定していて、枝野官房長官が「人体には影響が無い」と何度も強調していたのが印象的でした。


後に枝野官房長官は人体に影響があるのを知っていたと認めたが「ただちに影響がないとはとは言っていない」という名言を残しました。

枝野は炉心溶融も知っていたし、放射能漏れも知っていたが、同じような論法で言い逃れていました。

「炉心溶融は起きていない」と記者会見で何回も断言していたが、それも嘘でした。

「炉心溶融」を禁止したのは菅直人

調査報告書では事故3日後の3月14日に、記者会見中だった武藤副社長に広報担当者からメモが渡されていました。

メモには「炉心溶融」という言葉を使わないように、清水正孝社長からの手書きの指示が書かれていました。

清水社長から副社長には、炉心溶融を使ってはならないという、官邸からの指示があったと説明していました。


東京電力は「明確な定義がなく誤解を与えるので炉心溶融を使わなかった」という嘘の説明をしていました。

事故後の報道によると、東電の清水社長は地震の30分後に自衛隊幹部に電話を掛け「メルトダウンは避けられない」と助けを求めた。

自衛隊の動きは素早く、必要な機材を大型ヘリで運んだり人員を投入する準備を始めました。


また地震直後には偵察機やヘリを離陸させ上空からの映像を撮影したが、これが大問題になった。

菅・枝野・北沢の3人は「自衛隊が命令なしに出動したのはクーデターだ!」と激怒して自衛隊の出動を禁じた。

そのせいで自衛隊は津波が襲ってくるのを知りながら活動できず、救助活動を始めたのはずっと後でした。


なお新潟地震や九州地震など他のすべての地震では、自衛隊は命令なしに出動するのが慣例になっていました。

なぜなら法律では県知事の出動要請を受けないと人命救助もできないが、それでは遅すぎるからです。

防衛大臣や総理大臣の命令を待っていても手遅れになるので、自衛隊は先回りをして出動後に許可を得ています。


3月11日に清水社長は名古屋に居たので、東京で指示を出す為、自衛隊機に乗せて羽田に向いました。

だが枝野官房長官と北沢防衛長官の2人が「無断で自衛隊が動いているのは軍事クーデターだ」と大騒ぎして、着陸数分前に名古屋に引き返させました。

清水社長は翌日未明に陸路で東京に戻ったが、この間に貴重な10時間ほどが失われました。


枝野、北沢、菅の3人は自衛隊が東京電力と電話する事を禁止し、今後一切自衛隊は福島原発に関わるなと命令しました。

自衛隊の支援を絶たれた東京電力は大混乱に陥ったが、冷却の為に海水を入れることと、水素ガスの放出が必要と判断しました。

燃料棒は水から出ると水素を放出するので、建屋に水素が充満しているのは、燃料棒が露出していると考えられました。


菅、枝野、北沢は「現場から逃げ出そうとした東電を止めた」などと大嘘をついて、全てを吉田所長のせいにした

引用:http://livedoor.blogimg.jp/kimito39/imgs/9/4/94c1b802.jpg

「なんだ、馬鹿野郎」

ここで菅直人首相は歴史に残る名言「ボクは原発の事は良く分かっている」と口にし、水素放出と海水注入の許可を出しませんでした。

菅首相は翌3月12日朝、ヘリコプターで原発を視察する為に、水素放出を禁じたといわれています。

首相の視察が終わった後でようやく水素放出が許可されたが、この頃には圧力が上がりすぎて弁が動かず、放出が不可能になっていました。


結局建屋は次々に爆発し、福島原発の吉田所長と東電本社の珍問答が延々と続けられます。

所長は海水注入の許可を求めたが東電本社は禁止し、禁止した理由は菅首相が「海水を入れたら爆発する」と主張したからとされている。

しかも菅首相は「自分が海水注入や水素放出を指示した事にしろ」と言って東電に責任をなすりつけ、「東電が東電が」と騒いでいました。


自分が東電の清水社長を名古屋に追い返しておきながら「東電の社長は連絡もしない」などと言っていました。

自衛隊についても自分が活動を禁止したのに、「自衛隊の動きが遅い」などいかにも自分が自衛隊を急がせているように装っていた。

アメリカ軍についても、核処理部隊の協力申し出が初日に来ていたのに「米軍は地震を利用して日本占領を目論んでいる」などと言っていました。


吉田所長は東電社長や菅首相の命令を無視して、無断で海水注入し、本当の核爆発だけは防止しました。

海水注入の是非を検討する会議では所長が菅首相に「なんだ、馬鹿野郎」と言ったとされています。

嘘だらけの閣僚達

その後も菅首相は「東電の吉田所長は原発を放棄して逃げ出そうとしたが、私が止めました」などと嘘八百を繰り返しました。

菅、枝野、北沢、海江田らの閣僚は次から次に事故対策を妨害し、例えば消防には最初福島入りを禁止していました。

だが次の瞬間には直ぐに現場入りするよう指示し、現場に入ったら「指示があるまで何もするな」といって活動を禁止しました。


だがそう言った次の瞬間には「なぜ早く原子炉を冷やさないんだ、さっさとやれ」と罵倒したりもしました。

要するに「自分のお陰で危機から救われた」という演出をしたいがために、テレビの前で自分が指示したかったのでした。

こういった行動が現場を大混乱に落しいれ、例えば菅首相は「ヘリで原子炉に水を撒け」と指示しました。


空から少量の水を撒いても、水は空中に拡散するだけで、作業を妨害しただけでした。

だが次の瞬間には、「消防車で原子炉に水を入れろ」とまるで自分が思いついたように指示していた。

果たして菅、枝野、北沢そして海江田らが閣僚でなかったら、原発は爆破しなかったのか、推測はできるが仮定にすぎない。


だがもし森首相や小泉首相や安倍首相であったら、大型ヘリで発電機やポンプを原発に輸送し、自衛隊は原子炉を冷却しようとしたでしょう。

最初から水素は放出され海水注入が行われたら、おそらく単なる放射能漏れで済んだでしょう。

その上でやっぱり水素が充満して爆発した可能性もあるが、その可能性はかなり低い。

なにより緊急時に最善を尽くさず、作業の妨害ばかりしていた閣僚らが、未だに罪を裁かれていないのは納得出来ないのではないか。

http://www.thutmosev.com/archives/62021694.html
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/148.html#c10

[近代史4] トランジスターアンプの世界 中川隆
2. 中川隆[-13716] koaQ7Jey 2020年2月17日 22:54:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-295]

オーディオ専門誌「無線と実験」に掲載されていた「安井章」先生創案のアンプ
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/435.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/115.html#c2
[近代史4] 中川隆 _ アンティーク・オーディオ関係投稿リンク 中川隆
4. 中川隆[-13715] koaQ7Jey 2020年2月17日 22:56:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-294]
サブウーファー考
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/431.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/109.html#c4
[番外地7] 新型コロナウィルスの細菌兵器説 中川隆
1. 中川隆[-13714] koaQ7Jey 2020年2月17日 23:23:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-293]

2020.02.14
米軍は細菌兵器の研究開発を進め、ロシアや中国の周辺に配備してきた


 細菌兵器を開発する一環として​アメリカ軍がロシア人や中国人のDNAを集めている​とロシア軍のイゴール・キリロフ少将は批判、同じ事が中国でも言われていた。キリロフ少将は​アメリカがロシアや中国の周辺に生物兵器を配備している​とも主張している。

 2013年夏頃、アメリカ軍がウクライナ東部にあるハルキーフやメレファで危険な病原体を研究する施設を建設しようとしていると問題になったことがあるが、その段階でウクライナには似た9つの施設が存在していた。キエフにおけるクーデター後に住民がロシアを選択したクリミアにあった施設は閉鎖されたと思われるが、11施設になっているようだ。

 すでに本ブログでも書いたことだが、​そうした施設はウクライナだけでなくアゼルバイジャン、アルメニア、カザフスタン、キルギスタン、モルドバ、タジキスタン、ウズベキスタン、ジョージアにあった​。

 ​ウクライナの東部では2016年にキエフ軍が送り込んだ兵士が薬の効かないウィルス性の病気になり、20名以上が死亡した​と報道されたが、ハルキーフやメレファの施設から近いことから細菌兵器が漏れたのではないかという推測もある。

 アフリカ西部のギニアでは2013年12月からエボラ出血熱が広がりはじめ、リベリア、シエラレオネ、ナイジェリア、さらにアメリカやヨーロッパへ伝染、1万1323名が死亡(致死率:70から71%)、大きな騒動になった。

 その際、生物兵器を研究している学者が数年にわたってギニア、リベリア、シエラレオネのあたりで活動していたと話題になっている。その学者が所属していたのは生物化学兵器を研究開発しているアメリカ軍のフォート・デトリック、そしてテュレーン大学だ。

 感染が問題になり始めた2014年7月、シエラレオネの健康公衆衛生省はテュレーン大学に対し、エボラに関する研究を止めるようにという声明を出す。その研究が予防や治療が目的でないと判断したのだろう。

 このときは突如、有効な治療法が出現したことも話題になった。2014年8月に現地で治療していたふたりのアメリカ人、ナンシー・ライトボールとケント・ブラントリーが感染したのだが、アメリカへ運ばれて治療を受け、ふたりは回復している。ふたりはリーフバイオ社とデフィルス社が開発したZMappが投与されたほか、現地で回復した少女の血が輸血されたとされている。ZMappにしろ輸血にしろ、それが病気に対して有効だということをアメリカの関係者が知っていたなら、なぜアフリカ人に対しては使われなかったのかという疑問も出た。なお、後にZMappの効果には否定的な評価がなされている。

 9月になるとアメリカのバラク・オバマ大統領はナイジェリア、リベリア、シエラレオネへ3000名程度の部隊を派遣すると言い始める。「エボラとの戦争」ということなのだろうが、実際は資源絡みだと見られている。

 エボラ出血熱がスーダンやザイールで見つかったのは1978年のことだが、80年代の前半からこの病気を引き起こすウィルスを含む病原体を細菌兵器にしようとする極秘の研究「プロジェクト・コースト」が南アフリカで始まる。その中心にいた研究者がウーター・ベイソン。

 ベイソンは1985年にイギリスを訪問、デイビッド・ケリーという研究者に会うが、このケリーは2003年7月、つまりアメリカ軍が従属国の軍隊を引き連れてイラクを先制攻撃した4カ月後に死亡している。

 アメリカのジョージ・W・ブッシュ政権はイラク侵略を正当化するためにフェイク・ニュースを広めていたが、その際にイギリスのトニー・ブレア政権はフェイク・ニュースを本当らしく見せるために改竄文書を作成している。その事実をBBCのアンドリュー・ギリガン記者に知らせたのがケリーだった可能性が高い。

 手首を切っての「自殺」だとされているが、それにしては出血が少なく、心臓の活動が停止した後に切ったと疑いが強い。死の直前、イギリスの治安機関MI5がケリーからベイソンの件で話を聞いたともいう。なお、事実を国民に伝えたBBCはブレア政権から激しく攻撃された。執行役員会会長とBBC会長は辞任に追い込まれ、ギリガンもBBCを離れることになる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002130000/

http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/489.html#c1

[番外地7] アイヌ人の起源 中川隆
11. 中川隆[-13713] koaQ7Jey 2020年2月18日 05:54:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-292]
『有名人のハプログループ』というのは、東山天皇のY-DNAが縄文人と同じだというソースが存在しないデマを拡散している、ネトウヨのやっている悪名高いデマサイトです。 アイヌ人のY-DNAの D1 は縄文人と同じタイプですが、日本人の D1a2a(旧D1b1) は縄文人の タイプ D1a2b とは違います、つまり日本人は縄文人の子孫ではありません:

2019年09月09日
Y染色体ハプログループDの改訂

2019年6月19日に遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)がY染色体ハプログループ(YHg)Dの分類を改訂しました。YHg-Dは世界でも珍しく、日本人の「特異性」の遺伝的根拠として、「愛国的な」人々がよく言及しているように思います。そのため、現代日本社会ではYHg-Dへの注目度が高いようで、このYHg-Dの改訂も「愛国的な」人々の一部の間では割と早くから知られていたようです。

 具体的な改訂点ですが、現代日本人で多数派の YHg- D1b1 が D1a2a に変更されています。「縄文人」で確認されている D1b2 は D1a2b に変更されています。

なお「縄文人」では、現代日本人で多数派の D1a2a(旧D1b1)はまだ確認されていません(関連記事)。

これは、現代日本人の D1a2a が弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した可能性を示唆します(関連記事)。

現時点では、現代日本人の D1a2aが「縄文人」ではなく弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団に由来する、という想定も有力な仮説の一つとして扱われるべきだと思います。

なお、チベットで多数派のD1a2はD1a1bに、フィリピンで見られるD2はD1bに変更されています。
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_24.html
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/416.html#c11

[番外地7] チャンネル桜 : アイヌは先住民ではない、民族ですらない 中川隆
2. 中川隆[-13712] koaQ7Jey 2020年2月18日 05:55:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-291]
『有名人のハプログループ』というのは、東山天皇のY-DNAが縄文人と同じだというソースが存在しないデマを拡散している、ネトウヨのやっている悪名高いデマサイトです。 アイヌ人のY-DNAの D1 は縄文人と同じタイプですが、日本人の D1a2a(旧D1b1) は縄文人の タイプ D1a2b とは違います、つまり日本人は縄文人の子孫ではありません:

2019年09月09日
Y染色体ハプログループDの改訂

2019年6月19日に遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)がY染色体ハプログループ(YHg)Dの分類を改訂しました。YHg-Dは世界でも珍しく、日本人の「特異性」の遺伝的根拠として、「愛国的な」人々がよく言及しているように思います。そのため、現代日本社会ではYHg-Dへの注目度が高いようで、このYHg-Dの改訂も「愛国的な」人々の一部の間では割と早くから知られていたようです。

 具体的な改訂点ですが、現代日本人で多数派の YHg- D1b1 が D1a2a に変更されています。「縄文人」で確認されている D1b2 は D1a2b に変更されています。

なお「縄文人」では、現代日本人で多数派の D1a2a(旧D1b1)はまだ確認されていません(関連記事)。

これは、現代日本人の D1a2a が弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した可能性を示唆します(関連記事)。

現時点では、現代日本人の D1a2aが「縄文人」ではなく弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団に由来する、という想定も有力な仮説の一つとして扱われるべきだと思います。

なお、チベットで多数派のD1a2はD1a1bに、フィリピンで見られるD2はD1bに変更されています。
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_24.html
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/487.html#c2

[番外地7] 日本人は北海道の侵略者 中川隆
2. 中川隆[-13711] koaQ7Jey 2020年2月18日 05:56:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-290]
『有名人のハプログループ』というのは、東山天皇のY-DNAが縄文人と同じだというソースが存在しないデマを拡散している、ネトウヨのやっている悪名高いデマサイトです。 アイヌ人のY-DNAの D1 は縄文人と同じタイプですが、日本人の D1a2a(旧D1b1) は縄文人の タイプ D1a2b とは違います、つまり日本人は縄文人の子孫ではありません:

2019年09月09日
Y染色体ハプログループDの改訂

2019年6月19日に遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)がY染色体ハプログループ(YHg)Dの分類を改訂しました。YHg-Dは世界でも珍しく、日本人の「特異性」の遺伝的根拠として、「愛国的な」人々がよく言及しているように思います。そのため、現代日本社会ではYHg-Dへの注目度が高いようで、このYHg-Dの改訂も「愛国的な」人々の一部の間では割と早くから知られていたようです。

 具体的な改訂点ですが、現代日本人で多数派の YHg- D1b1 が D1a2a に変更されています。「縄文人」で確認されている D1b2 は D1a2b に変更されています。

なお「縄文人」では、現代日本人で多数派の D1a2a(旧D1b1)はまだ確認されていません(関連記事)。

これは、現代日本人の D1a2a が弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した可能性を示唆します(関連記事)。

現時点では、現代日本人の D1a2aが「縄文人」ではなく弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団に由来する、という想定も有力な仮説の一つとして扱われるべきだと思います。

なお、チベットで多数派のD1a2はD1a1bに、フィリピンで見られるD2はD1bに変更されています。
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_24.html
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/450.html#c2

[番外地7] 蝦夷の起源 中川隆
1. 中川隆[-13710] koaQ7Jey 2020年2月18日 05:57:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-289]
『有名人のハプログループ』というのは、東山天皇のY-DNAが縄文人と同じだというソースが存在しないデマを拡散している、ネトウヨのやっている悪名高いデマサイトです。 アイヌ人のY-DNAの D1 は縄文人と同じタイプですが、日本人の D1a2a(旧D1b1) は縄文人の タイプ D1a2b とは違います、つまり日本人は縄文人の子孫ではありません:

2019年09月09日
Y染色体ハプログループDの改訂

2019年6月19日に遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)がY染色体ハプログループ(YHg)Dの分類を改訂しました。YHg-Dは世界でも珍しく、日本人の「特異性」の遺伝的根拠として、「愛国的な」人々がよく言及しているように思います。そのため、現代日本社会ではYHg-Dへの注目度が高いようで、このYHg-Dの改訂も「愛国的な」人々の一部の間では割と早くから知られていたようです。

 具体的な改訂点ですが、現代日本人で多数派の YHg- D1b1 が D1a2a に変更されています。「縄文人」で確認されている D1b2 は D1a2b に変更されています。

なお「縄文人」では、現代日本人で多数派の D1a2a(旧D1b1)はまだ確認されていません(関連記事)。

これは、現代日本人の D1a2a が弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した可能性を示唆します(関連記事)。

現時点では、現代日本人の D1a2aが「縄文人」ではなく弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団に由来する、という想定も有力な仮説の一つとして扱われるべきだと思います。

なお、チベットで多数派のD1a2はD1a1bに、フィリピンで見られるD2はD1bに変更されています。
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_24.html
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/482.html#c1

[番外地7] 縄文人は日本人の先祖ではない 中川隆
1. 中川隆[-13709] koaQ7Jey 2020年2月18日 05:58:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-288]
『有名人のハプログループ』というのは、東山天皇のY-DNAが縄文人と同じだというソースが存在しないデマを拡散している、ネトウヨのやっている悪名高いデマサイトです。 アイヌ人のY-DNAの D1 は縄文人と同じタイプですが、日本人の D1a2a(旧D1b1) は縄文人の タイプ D1a2b とは違います、つまり日本人は縄文人の子孫ではありません:

2019年09月09日
Y染色体ハプログループDの改訂

2019年6月19日に遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)がY染色体ハプログループ(YHg)Dの分類を改訂しました。YHg-Dは世界でも珍しく、日本人の「特異性」の遺伝的根拠として、「愛国的な」人々がよく言及しているように思います。そのため、現代日本社会ではYHg-Dへの注目度が高いようで、このYHg-Dの改訂も「愛国的な」人々の一部の間では割と早くから知られていたようです。

 具体的な改訂点ですが、現代日本人で多数派の YHg- D1b1 が D1a2a に変更されています。「縄文人」で確認されている D1b2 は D1a2b に変更されています。

なお「縄文人」では、現代日本人で多数派の D1a2a(旧D1b1)はまだ確認されていません(関連記事)。

これは、現代日本人の D1a2a が弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した可能性を示唆します(関連記事)。

現時点では、現代日本人の D1a2aが「縄文人」ではなく弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団に由来する、という想定も有力な仮説の一つとして扱われるべきだと思います。

なお、チベットで多数派のD1a2はD1a1bに、フィリピンで見られるD2はD1bに変更されています。
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_24.html
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/428.html#c1

[番外地7] アイヌ人の起源 中川隆
12. 中川隆[-13708] koaQ7Jey 2020年2月18日 06:13:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-287]
2019年09月09日
Y染色体ハプログループDの改訂

2019年6月19日に遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)がY染色体ハプログループ(YHg)Dの分類を改訂しました。YHg-Dは世界でも珍しく、日本人の「特異性」の遺伝的根拠として、「愛国的な」人々がよく言及しているように思います。そのため、現代日本社会ではYHg-Dへの注目度が高いようで、このYHg-Dの改訂も「愛国的な」人々の一部の間では割と早くから知られていたようです。

 具体的な改訂点ですが、現代日本人で多数派の YHg- D1b1 が D1a2a に変更されています。「縄文人」で確認されている D1b2 は D1a2b に変更されています。

なお「縄文人」では、現代日本人で多数派の D1a2a(旧D1b1)はまだ確認されていません(関連記事)。

これは、現代日本人の D1a2a が弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した可能性を示唆します(関連記事)。

現時点では、現代日本人の D1a2aが「縄文人」ではなく弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団に由来する、という想定も有力な仮説の一つとして扱われるべきだと思います。

なお、チベットで多数派のD1a2はD1a1bに、フィリピンで見られるD2はD1bに変更されています。
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_24.html

そもそも、アイヌ人の核DNA は縄文人の核DNAと70%が同じだとわかっているので、アイヌ人が縄文人の直系の子孫だというのは間違いありません。
日本人の核DNA は縄文人の核DNAと12%しか共通しないので、日本人は縄文人の子孫ではありません。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/416.html#c12

[番外地7] チャンネル桜 : アイヌは先住民ではない、民族ですらない 中川隆
3. 中川隆[-13707] koaQ7Jey 2020年2月18日 06:14:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-286]
2019年09月09日
Y染色体ハプログループDの改訂

2019年6月19日に遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)がY染色体ハプログループ(YHg)Dの分類を改訂しました。YHg-Dは世界でも珍しく、日本人の「特異性」の遺伝的根拠として、「愛国的な」人々がよく言及しているように思います。そのため、現代日本社会ではYHg-Dへの注目度が高いようで、このYHg-Dの改訂も「愛国的な」人々の一部の間では割と早くから知られていたようです。

 具体的な改訂点ですが、現代日本人で多数派の YHg- D1b1 が D1a2a に変更されています。「縄文人」で確認されている D1b2 は D1a2b に変更されています。

なお「縄文人」では、現代日本人で多数派の D1a2a(旧D1b1)はまだ確認されていません(関連記事)。

これは、現代日本人の D1a2a が弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した可能性を示唆します(関連記事)。

現時点では、現代日本人の D1a2aが「縄文人」ではなく弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団に由来する、という想定も有力な仮説の一つとして扱われるべきだと思います。

なお、チベットで多数派のD1a2はD1a1bに、フィリピンで見られるD2はD1bに変更されています。
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_24.html

そもそも、アイヌ人の核DNA は縄文人の核DNAと70%が同じだとわかっているので、アイヌ人が縄文人の直系の子孫だというのは間違いありません。
日本人の核DNA は縄文人の核DNAと12%しか共通しないので、日本人は縄文人の子孫ではありません。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/487.html#c3

[番外地7] 蝦夷の起源 中川隆
2. 中川隆[-13706] koaQ7Jey 2020年2月18日 06:14:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-285]
2019年09月09日
Y染色体ハプログループDの改訂

2019年6月19日に遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)がY染色体ハプログループ(YHg)Dの分類を改訂しました。YHg-Dは世界でも珍しく、日本人の「特異性」の遺伝的根拠として、「愛国的な」人々がよく言及しているように思います。そのため、現代日本社会ではYHg-Dへの注目度が高いようで、このYHg-Dの改訂も「愛国的な」人々の一部の間では割と早くから知られていたようです。

 具体的な改訂点ですが、現代日本人で多数派の YHg- D1b1 が D1a2a に変更されています。「縄文人」で確認されている D1b2 は D1a2b に変更されています。

なお「縄文人」では、現代日本人で多数派の D1a2a(旧D1b1)はまだ確認されていません(関連記事)。

これは、現代日本人の D1a2a が弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した可能性を示唆します(関連記事)。

現時点では、現代日本人の D1a2aが「縄文人」ではなく弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団に由来する、という想定も有力な仮説の一つとして扱われるべきだと思います。

なお、チベットで多数派のD1a2はD1a1bに、フィリピンで見られるD2はD1bに変更されています。
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_24.html

そもそも、アイヌ人の核DNA は縄文人の核DNAと70%が同じだとわかっているので、アイヌ人が縄文人の直系の子孫だというのは間違いありません。
日本人の核DNA は縄文人の核DNAと12%しか共通しないので、日本人は縄文人の子孫ではありません。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/482.html#c2

[番外地7] 縄文人は日本人の先祖ではない 中川隆
2. 中川隆[-13705] koaQ7Jey 2020年2月18日 06:15:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-284]
2019年09月09日
Y染色体ハプログループDの改訂

2019年6月19日に遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)がY染色体ハプログループ(YHg)Dの分類を改訂しました。YHg-Dは世界でも珍しく、日本人の「特異性」の遺伝的根拠として、「愛国的な」人々がよく言及しているように思います。そのため、現代日本社会ではYHg-Dへの注目度が高いようで、このYHg-Dの改訂も「愛国的な」人々の一部の間では割と早くから知られていたようです。

 具体的な改訂点ですが、現代日本人で多数派の YHg- D1b1 が D1a2a に変更されています。「縄文人」で確認されている D1b2 は D1a2b に変更されています。

なお「縄文人」では、現代日本人で多数派の D1a2a(旧D1b1)はまだ確認されていません(関連記事)。

これは、現代日本人の D1a2a が弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した可能性を示唆します(関連記事)。

現時点では、現代日本人の D1a2aが「縄文人」ではなく弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団に由来する、という想定も有力な仮説の一つとして扱われるべきだと思います。

なお、チベットで多数派のD1a2はD1a1bに、フィリピンで見られるD2はD1bに変更されています。
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_24.html

そもそも、アイヌ人の核DNA は縄文人の核DNAと70%が同じだとわかっているので、アイヌ人が縄文人の直系の子孫だというのは間違いありません。
日本人の核DNA は縄文人の核DNAと12%しか共通しないので、日本人は縄文人の子孫ではありません。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/428.html#c2

[リバイバル3] 高配当銘柄を買うとこういう目に遭う _ JT 日本たばこ産業 (2914) 中川隆
13. 中川隆[-13704] koaQ7Jey 2020年2月18日 06:49:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-283]

無煙たばこの発売相次ぐ 4月からの屋内禁煙で脚光と期待
2020年2月17日
https://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2020021701002375.html


 日本たばこ産業(JT)と英ブリティッシュ・アメリカン・タバコ(BAT)・ジャパンが、口に含んでニコチンを摂取するタイプの無煙たばこを相次いで発売した。4月の改正健康増進法の全面施行で屋内が原則禁煙となるため、各社は紙巻きたばこや加熱式たばこの代替製品として脚光を浴びると期待し、販売に力を入れている。

 こうした商品は「かぎたばこ」と呼ばれ、タバコの葉を包んだ袋を唇の裏に挟んで使用する。スウェーデンなどで愛好されており、灰や煙が出ないことから、改正健康増進法の全面施行後も屋内で使用できる。

(共同)


 無煙たばこの新商品。左二つが日本たばこ産業の「ゼロスタイル・スヌース」。右は英ブリティッシュ・アメリカン・タバコ・ジャパンの「VELO」


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/976.html#c13

[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
26. 中川隆[-13703] koaQ7Jey 2020年2月18日 07:40:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-282]

プッチーニ オペラ 『ラ・ボエーム』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/907.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c26
[番外地7] チャンネル桜 : アイヌは先住民ではない、民族ですらない 中川隆
4. 中川隆[-13702] koaQ7Jey 2020年2月18日 09:01:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-281]
>船泊遺跡の人骨はD1a2b1。アイヌ人はD1a2*

D1a2* の * というのは詳細を書かないが、D1a2系統だという意味です。
D1a2b1 も D1a2* に含まれます。

わざわざ D1a2*=81.25、D1a2a1=6.25 と書いてあるという事は、
D1a2b1 =81.25、D1a2a1=6.25 という意味ですね。

即ち、現代アイヌ人の遺伝子の 81.25%は縄文系、6.25%が和人系、それ以外はオホーツク人系という事になります。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/487.html#c4

[番外地7] アイヌ人の起源 中川隆
13. 中川隆[-13701] koaQ7Jey 2020年2月18日 09:01:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-280]
>船泊遺跡の人骨はD1a2b1。アイヌ人はD1a2*

D1a2* の * というのは詳細を書かないが、D1a2系統だという意味です。
D1a2b1 も D1a2* に含まれます。

わざわざ D1a2*=81.25、D1a2a1=6.25 と書いてあるという事は、
D1a2b1 =81.25、D1a2a1=6.25 という意味ですね。

即ち、現代アイヌ人の遺伝子の 81.25%は縄文系、6.25%が和人系、それ以外はオホーツク人系という事になります。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/416.html#c13

[近代史3] プッチーニ オペラ 『蝶々夫人』 中川隆
1. 中川隆[-13700] koaQ7Jey 2020年2月18日 10:39:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-279]

オペラに描かれたダメダメ家庭 配信日 05年2月11日  (10年4月8日に大幅に改訂)
タイトル 蝶々夫人(原題:Madama Butterfly)
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/05-02/05-02-11.htm
https://medium.com/dysfunciton/オペラ-蝶々夫人-作曲者はプッチーニ-8c18eefbcbd9


作曲 ジャコモ・プッチーニ
初演 1904年 ミラノ スカラ座


先日のインド洋の津波で、救援のため、アメリカ海軍の空母「リンカーン号」が出動しました。

アメリカ軍の船のリンカーン号は、オペラにも出てきます。勿論のこと、かなり前の代のものでしょうが。

リンカーン号が出て来るオペラは、あの有名な作品、プッチーニ作曲の「蝶々夫人」です。

長崎を舞台に、アメリカ軍人のピンカートンに捨てられたチョーチョーさんが自決する話です。

ピンカートンはリンカーン号に乗って長崎にやってくるんですね。
どうやらアメリカ軍においては、リンカーン号は、太平洋周辺で活動するのが慣わしとなっているんでしょうね。

今まで、このカテゴリー「作品の中で描かれたダメダメ家庭」では、多くの映画を取り上げて来ました。今回は趣を変えてオペラにしてみます。

オペラ「蝶々夫人」って、名前くらいは聞いたことあるでしょ?

「ピンカートンとチョーチョーさんの家庭がダメダメ家庭なの?」と思われる方もいらっしゃるでしょうが、そう言うことではありません。むしろチョーチョーさんの発想のスタイルが、ダメダメ家庭出身者の発想スタイルの典型と言えるわけ。
最近はオペラのCDは図書館で借りることもできます。図書館によってはヴィデオやDVDを借りることができるところもあります。

ご興味が出てきましたら、対訳を読みながらCDを聞いたり、字幕つきのDVDやヴィデオで見たりしてみては?

では、チョーチョーさんのどんなところがダメダメ家庭的なのでしょうか?具体的に検証してみましょう。

1. 家柄自慢・・・ダメダメ家庭出身者は意外にも、自分の出身家庭の家柄を自慢したりするわけ。そもそもダメダメ家庭では地縁,血縁に拘ることが多いことは、このメールマガジンで何回も書いています。このチョーチョーさんも「私の家はお侍で、本当はこんな芸者稼業をする人ではないのよ!」と言っています。自分の出身家庭に誇りをもつことは結構。しかし、そんな感情が「自分の本当の姿はこんなモンじゃないんだ!」という現在の自分への否定的な感情なり、被害者意識につながって行きやすいわけ。

2. 母とは疎遠・・・非業の死を遂げた父のことは語れても、まだ存命中の母親のことについては語れない。どうも折り合いが悪そう。ピンカートンから捨てられた後で、母親と相談してもいいのに、どうしてそうしないの?あるいは、結婚式において、チョーチョーさんが叔父さんにいじめられている時に、間に割って入って、娘をかばうのが本来の母親の役目でしょ?それにアメリカ軍人との「結婚」がどういう意味を持つのか?大人である母親がもっと娘に説明する必要があるでしょ?どうもチョーチョーさんの母親は、母親の役割を果たしていないわけ。

だからこそチョーチョーさんは、家柄自慢はしても、家族自慢はしない。亡き父親を語っても、母親は語れないわけ。

3. 親戚の問題・・・チョーチョーさんの親族は、それこそ自決した父親、影の薄い母親、アルコール中毒の叔父、宗教に入れ込んでいる叔父・・・と、こんなメンツ。いかにもダメダメ家庭の親戚ですよね?

4. 近隣から孤立・・・チョーチョーさんの結婚式の際に出て来るご近所さんの対応をみるにつけ、このチョーチョーさんはご近所から「浮いて」いたことがよくわかります。まあ、ダメダメ家庭の人間は会話ができないので、どうしても地域から「浮いて」しまいがち。その上、最初の家柄自慢が加わるので、ますます疎遠になってしまう。それに、ちょっとのことでスグに逆上したりする傾向があるので、ご近所さんも警戒したりする。だからどうしても孤立しやすい。

5. 発想が極端・・・ピンカートンと結婚する段になって、チョーチョーさんは従来の宗教を捨てて、キリスト教に改宗する。それはそれでいいのですが、ピンカートンはそんなことは求めていません。チョーチョーさんの宗教が何だろうと関係ないと思っているわけ。まあ、サスガにお歯黒はイヤがりますが、宗教なんてどうでもいいわけです。

実際にピンカートンは仏像を「大切にしようね!」って、言っているくらいです。ピンカートンにしてみれば、チョーチョーさんは、どうせ現地妻なんですからね。宗教よりも容姿ですよ。ただダメダメ家庭の人間は往々にして発想が極端。そして相手に入れ込んでしまうことになる。退路を断つというよりも、もともと大切なものを持っていないわけ。

だからこそ、宗教だって、簡単に乗り換えることができてしまう。それに、仏像を捨てられるということは、従来のお寺とのやり取りも、うまく行っていなかったということでしょ?

6. 玉の輿狙い・・・「いつも上手く行かない!」と思っている女性は、いい男をゲットして一発大逆転の玉の輿を狙おうとする。おまけにダメダメ家庭の人間は「恋に恋する」妄想癖がある。現実離れした男を「すばらしい!」と思ったりするわけ。

あるいは自分の家柄自慢に引っ張られて、「家柄がよければOK!」という無謀な玉の輿を狙ったりするんですね。チョーチョーさんもそのタイプ。そして結婚後は、周囲に対して「これからは私をピンカートン夫人とお呼び!」と言い放ったりするわけ。

しかし、会話のできないダメダメ家庭出身の女性と結婚するような男性は、何か問題があるもの。マトモな男性なら、会話の楽しい女性と結婚するものでしょ?
結局は、とんでもない事態になってしまうんですね。

7. 会話が無い・・・日本女性とアメリカ男性の国際結婚なのだから、いたしかたがない面もありますが、この夫婦には会話がない。まあ、イタリアオペラなんだからイタリア語で会話がちょっとありますが。会話がないから、捨てられたチョーチョーさんがピンカートンの思い出を語ることも出来ないわけ。せめて「あの時の会話は楽しかったわ!」くらいなら、まだいいのですが・・・会話が無いから思い出もないわけ。「あの時には、一緒にこんなことをした。」そんな思い出話もない。そもそも、この「蝶々夫人」というオペラは、結婚前の情景と、夫が立ち去った後の情景の2幕でできています。逆に言うと、結婚生活は描かれていないわけ。つまり、愛情あふれる結婚生活を描いているわけではなく、それが「失われた」と言っても、それが本当に存在していたとはいえないわけ。

有名なオペラであるヴェルディ作曲のオペラ「椿姫」では、ヴィオレッタとアルフレードの楽しい新婚生活が描かれています。だから、それが失われるがゆえに、喪失感なり悲痛な心情を持つわけ。。

その「椿姫」も、結婚生活を描いた第2幕がないと、印象が変わるでしょ?
オペラ「蝶々夫人」は、意識的に、その結婚生活の描写がないわけです。

8. 現実を見ない・・・ダメダメ家庭は現実を受け入れることをしない。結局は妄想の中で生きているわけ。チョーチョーさんはピンカートンに捨てられたのを受け入れない。ただ「帰ってくるわ!」「帰ってくるわ!」の一点張り。そしてドンドンと妄想の深みにはまって行く。しかし、現実を受け入れないことで、次善策をとらなくてもいい。「帰ってこないのなら、じゃあ、どうしよう?」そんな発想から逃避している。結局は、精神的にラクしているだけなんですね。逆に言うと、そのような現実逃避的な傾向を持っているがゆえに、外国人との結婚という現実離れした夢に親和性を持つわけ。

9. チャリティーおたく・・・ピンカートンに捨てられたチョーチョーさんはお金がなくなって来たのに、有り金を恵まれない人に寄付してしまう。そんなことやっている場合ではないのに・・・子供の食費はどうなるの?しかし、現実を見たくない人間は、そんな善行をすることで、現実から目をそらすわけです。そして、「ああ、恵まれない人に恵んでやっているワタシって、なんていい人なの?」と自画自賛。そして「こんないい人のワタシなのに、うまく行かないのは、全部○○のせいだ!」と誰かに責任を押し付けることになる。

10. 味方を作ろうとしない・・・このオペラで出てくる男性で、実にマトモなのはアメリカの長崎領事のシャープレスさん。結婚前のピンカートンに「女性を悲しませてはダメだ!」「彼女は入れ込むタイプだぞ!」と忠告したり、捨てられたチョーチョーさんに、「別の生き方を見つけては?」とアドヴァイスしている。本当にいい人。

ヘンな話、チョーチョーさんも、このシャープレスさんの長崎の現地妻にでもなればいいじゃないの?確かに年齢はいっているでしょうが、常識は持っているわけだし、何より品性がある。シャープレスさんなら、チョーチョーさん本人にも、チョーチョーさんの子供にも十分な配慮をしてくれることは確実です。あるいは「人を見る目」があるシャープレスさんを後見人にして、新たな男性の2号さん?になればいいじゃないの?

しかし、そんなシャープレスの現実的な解決案を受け入れないチョーチョーさんは、折角の現実的なアドヴァイスも「アンタなんか、ワタシのことは何もわかっていないわ!」と逆上したりするわけ。これでは味方もいなくなってしまいますよね?ちなみに「逆切れ」はダメダメ家庭出身者のオハコであることは言うまでもないことでしょ?

11. 子供だけが頼り・・・ダメダメ家庭では味方を作ろうとしない。それにもともと会話の能力も低い。だから話し相手は自分の子供だけ。だから子供を取り上げられると何も残っていない。だから死なないといけないわけ。

12.約束の地・・・チョーチョーさんは「夫が帰ってくれば、今の困難な状況もすべて解決!」そんな極端な解決策しか持っていない。逆に言うと、そのように自分に言い聞かせることで、現状認識から逃避し、将来展望も封印してしまう。だから地道に対処する発想もない。常に一発大逆転を狙うばかり。

確かにお涙頂戴のオペラなんですが、色々とチェックしてみるとダメダメ家庭出身者の要素がテンコ盛状態。

ちなみに、このオペラは全2幕のオペラです。第1幕にも第2幕にも「花を撒き散らす」シーンがあります。第1幕ではチョーチョーさんの結婚を祝う、純粋に「喜ばしい」シーン。第2幕はピンカートンが長崎に帰ってくることがわかっての喜びのシーン。ただこの後でチョーチョーさんがピンカートンに捨てられたことがはっきりわかって自決することになってしまう。つまり第2幕でのシーンは「喜びの中に悲劇を内包」しているシーンと言えるわけ。

ということで、ちょっとニュアンスが違っています。

作曲者のプッチーニはバックのオーケストラによって、撒き散らされた「花の匂い」を表現し分けています。第1幕の花の匂いと、第2幕の花の匂いの違いを音で描き分けているわけ。

単なるお涙頂戴ではなく、緻密に計算されているオペラなんですね。だから何回も泣けるわけ。単なるお涙頂戴の劇なら、1回しか泣けないでしょ?

このように「花の匂い」をオーケストラによって表現するのは、20世紀の音楽ならではのオーケストラの扱いと言えます。音楽表現の進歩が必要とされているわけです。

音楽表現は時代によって進歩していますが、人間そのものは、いつの時代にも変わらないでしょ?

このような現実逃避で自己逃避の女性というのは、このチョーチョーさんばかりではないもの。

それこそ・ジャン・ジャック・ベネックス監督の映画「ベティ・ブルー」のベティさんもその典型ですし、あるいはトルストイの「アンナ・カレーニナ」のアンナさんも、まさにその典型。

彼女たちは、都合が悪くなると「そんなものは、ワタシに見せないでよ!」とスグに逆切れして、常に問題を先送り。そして、「うまく行けばいいなぁ・・・」「誰かワタシを助けてくれないかなぁ・・・」と周囲の人に期待しても、自分では何も努力しない。

結局は、はじめの頃にはあった出口も自分でふさいでしまって、すべての出口がなくなり、ドッカーンとなってしまう。そんなパターンは、ダメダメ家庭出身者には、実にポピュラーなパターン。

チョーチョーさんのような人は、いつの時代にも、どこの場所でもいらっしゃいますからね。

それに長崎はこの当時から、ダメダメ家庭のメッカだったこともわかります。進歩がないわけ。

オペラというと、「舞台の上で、太った女性と男性が大きな声でオーバーな演技。」と思っていらっしゃる方も多いでしょうが、後々まで「残る」ような作品は、それなりのリアリティがあるわけです。

そのリアリティに観客が共感するわけですね。

ちなみに、このオペラ「蝶々夫人」のタイトルは「Madama Butterfly」。ちょっと考えれば、ヘンなタイトルですよね?

「Madama」はイタリア語で「夫人」と言う意味。「Butterfly」は英語で「蝶々」。だから合わせて「蝶々夫人」となる。しかし、オペラ「蝶々夫人」はイタリアオペラなんだから「蝶々夫人」をそのままイタリア語にすると「Madama Farfalla」(ファルファーレって、パスタにあるでしょ?蝶々の形をしたヤツ)となる。あるいはアメリカ軍人ピンカートンに合わせて「蝶々夫人」を英語にすると「Mrs.Butterfly」になる。

結局は、チョーチョーさんは、アメリカ軍人ピンカートンの「ミセス」にはなれなかった。「Madama」という、あいまいな・・・リアリティのない立場だった・・・ということなんですね。

ちなみに、この文章をお読みになられた方で「オマエはチョーチョーさんを、かわいそうとは思わないのか?この人でなしめ!」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私は別にチョーチョーさんを冷笑的に見ているわけではありませんよ。やっぱりかわいそうですよね?

ただ、私はシャープレスさんの方に共感してしまいます。そのシャープな(なんと名前はSHARP・LESS ・・・シャレなんでしょうが)洞察力で、当事者たちに十分に警告していても、結局は当事者たちはカタストロフに突進してしまう。それをわかっていて散々忠告しながらも、結果的にカタストロフを見守る役目は辛いもの。
酔っ払いよりも、酔っ払いを介抱する方がシンドイものです。

このようにオペラ「蝶々夫人」という作品を、現実逃避的で「恋に恋する」妄想癖のあるダメダメ家庭出身者の女性が、自分自身で出口を塞いで行き、ついに唯一の出口に到達する・・・そのような心理劇と見る発想は、世界広しと言えども私だけかな?と思っていましたが、同じことを言っている人がいました。

イタリアの指揮者のジュゼッペ・シノポリという人。彼が指揮した「蝶々夫人」のCDに彼のインタビューが載っていますが、私と同じことを言っています。たまたま調べていたら私と同じことを言っているのに、私もビックリしました。

彼は「『蝶々夫人』は日本のオペラとは言えない。彼女のような女性はヨーロッパに多くいる。」と、おっしゃっています。ダメダメ家庭はヨーロッパにも多くあるわけですから、「蝶々夫人」の問題は日本固有の問題ではなく、世界的な問題なんですね。

このシノポリさんは、精神分析で博士号を取った方、作曲もなさって、売れっ子指揮者としての激務の傍ら、考古学の博士号も取られた方です。
そんな生き急いでいたので、50歳代で心臓麻痺で死んでしまうことになるのでしょうが。

オペラ「蝶々夫人」を心理劇と見ることは、彼の精神分析者としての立場から来る面もあるのでしょうが、私はむしろオペラを作曲した経験から来る面もあるのでは?と考えています。

オペラとか芝居とか映画などの舞台劇には、鉄則があります。

「ドラマの進行には役に立たない人間は登場させない。」ということ。

小説のような本を読む場合には、ページを読み返して、ちょっとわからなくなった登場人物をチェックすることができる。しかし、舞台劇ではそうは行かない。あまり多くの登場人物が出てくると観客は困ってしまうわけ。

舞台劇の場合には、登場人物の数そのものを絞る必要があるわけ。原作において役割の薄い人物は2,3人を1人にまとめたりして、観客にわかりやすくするようなことが必要なんですね。

少ない登場人物で、濃密なやり取り・・・それが舞台劇のスタイル。
しかし、オペラ「蝶々夫人」において、チョーチョーさんの母親は役割が薄い。ちょっと出てきて挨拶をするだけ。オペラ作品の登場人物なのに、歌を歌うわけでもない。

娘の結婚を祝う歌くらいは、シチュエーション的に設定できるでしょ?
もし、私が一般的なオペラ作家なら、チョーチョーさんの母親は、夫が自決したあとで後追い自決をしたことにして、娘の結婚の際には死んでいたことにしますよ。
それだったら、チョーチョーさんの孤独な境遇を強調できるし、最後のカタストロフを暗喩することもできる。いずれにせよ、本来ならチョーチョーさんの母親は、あえてオペラに登場させる意味はないわけ。

オペラ「蝶々夫人」において、チョーチョーさんの母親は、ドラマの進行において実に中途半端で、役割を果たしていません。

しかし、「母親の役割を果たしていない母親」という「役割」を果たしている・・・そう言えるのでしょう。そこがまさにダメダメ家庭のドラマなんですね。
(終了)
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発信後記

またまた怒涛の長さになってしまって・・・

しかし、こうやって考えてみると「蝶々夫人」というオペラは実に現代的でしょ?
本文中で言及した指揮者のジュゼッペ・シノポリさんは、医学部で精神医学を学ぶ傍ら、音楽院で勉強した人。精神分析で博士号を取って、指揮者としても引っ張りだこで、その傍ら考古学で博士号をとって・・・まあ、そりゃ死んじゃうよね。
精神分析やったり、指揮者をやったり、考古学をやったり・・・とマルチな才能とも言えるのでしょうが、多分、本人はそうとは思ってはいなかったはず。
楽譜を見て、「この音楽をどのように演奏しようか・・・」と考える演奏家が大多数でしょうが、「この音楽を作曲した作曲家は、どのようなことを考えて作曲したのだろうか?」と考えるタイプの演奏家もいるわけ。

そのようなタイプは当然のこととして、「この患者はどうして、このようなことを言ったりするのだろうか?」という精神分析にも興味を持つ。

それに「この古文書や遺跡を作った昔の人は、どのようなことを考えて遺跡を作ったのだろうか?」とも考えることになる。
結局、皆同じ発想なんですね。

学問をジャンル分けした人は、それほど頭のいい人ではないので、既存のジャンル分けを前提にモノを考えるとかえってわかりにくくなる。
知性というものはシンプルなもの。

ただ、シノポリさんのように、狂気のように、自分の生命を削るように、思考に突進して行ったのは、それなりのわけがあるのでしょう。彼も色々とモノが見えた人なんでしょうね。

他人の思考を読まずにはいられない、そのシノポリさんの精神を、私が読もうとしていたりする。

似たもの同士はタチが悪い。
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/05-02/05-02-11.htm
https://medium.com/dysfunciton/オペラ-蝶々夫人-作曲者はプッチーニ-8c18eefbcbd9

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/908.html#c1

[近代史3] プッチーニ オペラ 『蝶々夫人』 中川隆
2. 中川隆[-13699] koaQ7Jey 2020年2月18日 10:40:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-278]
『蝶々夫人』の謎
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プッチーニ作曲の歌劇 『蝶々夫人』、これほど日本人に良く知られたオペラもないだろう。
明治時代初めの頃の長崎が舞台。芸者に身を落とした蝶々さんが、アメリカ海軍士官ピンカートンに落籍され、やがてピンカートンは母国に帰るものの、蝶々さんは産まれた息子と女中スズキと一緒に丘の上の家に住み、彼を待ち続けて3年。やっと帰ってきたピンカートンは故国で結婚して妻ケイトと一緒の赴任。蝶々さんは息子を引き取ると言われ、絶望の果てに一人死を選ぶ・・・というお話。
日本では、このオペラを見たことがない人でも大体の筋は知ってるし、「ある晴れた日に」というアリアは、まるでオペラの代名詞のように流通している。
でも、日本ではよく上演されるのに、最愛のオペラだと言う人が意外に少ないようだ。ご当地物って、点が辛くなってしまうのかも。
私も『蝶々夫人』というオペラが好きだとは言えない。だいたい、日本人にとっては映像でも舞台でも違和感ありすぎの舞台設定や演出が多すぎるからかもしれない。その最たる物のひとつが、ポネル演出、カラヤン指揮、ウィーンでのフレーニ、ドミンゴのDVD。これはもう、目が点になってしまう。
違和感は演出だけでなく、筋立てにもあるようだ。非常にシンプルな筋なのに感情移入しにくいのは、ピンカートンに対する蝶々さんの愛に共感できないからかも。
それなのに、このオペラ、良い演奏に当たると本当に泣ける。特に後半、ケイトとのやり取りから終幕にかけて。これはもう、音楽が泣かせているとしか思えない。
しかし、聴けば聴くほど謎が多くて、解明しないことにはどうにも落ち着かない。

 プッチーニの執着の謎

プッチーニはもちろん、原作の「蝶々夫人」の作者、ジョン・ルーサー・ロングも来日したことはない。しかし、ロング氏の妹のコレル夫人は宣教師の夫と一緒に中国に赴任するはずだったのだが、途中で病気になって着任先を日本に変えたそうだ。それが1886年(明治19年)。夫のアーヴィン・コレルは最初横浜に赴任後、長崎の鎮西学館の5代目の校長に就任して、長崎に暮らしたとか。
ロングにいろいろな長崎の話をしたのは、コレル夫人が一時期国でアメリカに帰った時で、蝶々さんのモデルになった芸者の話もその時に伝えられたようだ。夫人が話したものは知り合いの商人から聞いた実話だったそうだが、アメリカの海軍士官ではなく、ロシアの海軍士官に捨てられた女の話で、なぜアメリカの士官に変わったのかも興味をひく。一応、二枚目役だから、自国の士官としたかっただけかも知れないけれど・・・ 。
プッチーニはダヴィッド・ベラスコによって戯曲化された「蝶々夫人」の舞台を見てオペラ化を思い立ったそうだ。
しかし、プッチーニが見た舞台はロンドンでの公演で、英語による物だったはずなので、英語がわからない彼が本当にどこまで内容がわかっていたのか疑問。でもプッチーニは楽屋に押しかけてその場でオペラ化の許可を求めたのだ。かなりの感激症体質だったのかもしれない。
初演は一幕が長すぎて退屈だったせいか、また異国情緒ありすぎで違和感を持たれたせいか不評だったが、プッチーニは改訂を重ねる。2幕も2場に分け、ピンカートンも後悔させたりして和らげた。
プッチーニは、よほどこのオペラに愛着を持っていたようだ。蝶々さんは『ラ・ボエーム』のミミと双璧の、プッチーニ好みの可憐で一途なヒロインと捉えられていたのだろう。

 ピンカートンという男の謎

オペラ史上、最も憎まれる役ではないだろうか。METでの『蝶々夫人』では、観客にはさんざん「悪いヤツだ」と言われ、テノール歌手の出来は悪くないのにブーが飛んでたというような目撃談もあった。
『カヴァレリア・ルスティカーナ』のトゥリドゥもピンカートンに匹敵するくらい酷い男だと思うが、彼は心を病んだ戦争帰還兵だとも考えられるし、最後死んでしまうのでまだマシなような気になってしまう。
それに比べるとピンカートンは最初っからだます気で、おまけに能天気に明るく、最後になってどんなに後悔しても許しがたい気がするのだ。蝶々さんが3年も待ち続け、しかも子供がいるとスズキが告げると、彼はいたたまれずに逃げ出す。妻のケイトを領事と共にその場に残して。自分のしでかしたことから逃げるだけ。
はい、ここで私は、ピンカートンはマザコンの子供だと言いたい。
代わりにケイトが子供を引き取る交渉もして、後始末に追われるのである。この夫婦、妻がしっかり夫の世話を焼いてるじゃないの。

どう見ても良いところのないピンカートンだが、ちょっと視点を変えてピンカートンの目から見てみよう。
まず、アメリカという国はピューリタンの国。現在よりずっとピューリタニズムは強かっただろう。謹厳実直、清廉潔白を重んじる傾向があるが、ピンカートンもそういう風土、そういう家庭で育ったものと思われる。そして、アメリカ海軍も同様の気風を持っていたようだ。厳格な家庭、風土の中で育ったお坊ちゃまが、海のかなたの非キリスト教国にやってきたわけである。
よくあることだが、それまでの抑圧から解き放たれて、自由を謳歌したくなるのも無理はないかもしれない。理解しがたい風習の日本という国で、強い米ドルに支えられて、女を囲ってままごとのような息抜きの場を求めたというところではないか。
彼のピューリタンとしてのモラルは、あくまでキリスト教徒の白人女性に対してのもので、貧しい未開国の黄色人種の女性に対してのものではなかったという見方もある。人種差別だと怒ってもしようがない。当時は帝国主義全盛の時代、欧米列強国にとって弱小国など、殖民支配を狙う対象でしかなかったのだから。
女衒のゴローの仲介ということもあり、蝶々さんは所詮娼婦と見られていたと言ってもいいだろう。ピンカートンにとっては、契約で買った異国の妾に過ぎないのだが、蝶々さんが本気になってしまったのが悲劇のもとだった。彼にしてみたら、何でこんなことになるんだという思いがあるのではないだろうか。

う〜ん、それでもやっぱり、ピンカートンを許せない気になるのは、私が日本人の女だから?

 蝶々さんという女の謎

さて一方、蝶々さんはどういう女なんだろう。
歳は15歳。長崎の色町で芸者をしていた。オペラの中の記述から、父親は大村藩の裕福な士族でしたが、西南の役で薩摩方に加担して、切腹させられたらしい。当然、家は没落し、食うにも事欠いて蝶々さんは芸者に出されたのだろうと思われる。
士族の娘が芸者になってうまくいったという話はあまり聞かないけれど、蝶々さんも周りの芸者衆と折り合いよくいっていたとは思えない。ピンカートンに落籍されて結婚式風の宴席に集まった芸者衆は、陰でけっこう辛らつな言を放っているのだから。
仲間にも恵まれず辛いお座敷勤めの中で、ピンカートンの明るさや口先のうまさにすっかりその気になってしまったというのが本当のところではないだろうか。日本の男にはない臆面もない愛情表現(どこまで本気かは実は別だけど)、レディファーストの習慣によって培われた優しげな行動様式、そういうものにころっと参っちゃったとしても不思議はないかも。なんせ、まだまだ15歳の若さなのだ。もっと歳のいった日本の女たちがラテン系の国へ行って男の口先の優しさにだまされて身の破滅ってなこと、現代でもあるらしいから。
いえ、何よりもピンカートンの「自由闊達」な雰囲気に、蝶々さんは惹かれたのかもしれない。
自分の境遇が金で売り買いされる物であるとはわかっていても、蝶々さんは愛を信じてしまったのだ。いや、その愛を信じないでは生きていけなかったと言うべきか・・・。
しかし、一途な彼女はどんどん自分を追い込んでいってしまうのだ。改宗ということの重大さをわかっていたのか、いなかったのか。そう、蝶々さんはピンカートンと同棲する前日にキリスト教に改宗してしまうのだ。ピンカートンが信じる神を自分も信じると言って。
確かに女は嫁いだ先の宗派に自動的に変わるのが普通だったが、相手は仏教の宗派ではなくキリスト教なのだ。それでも、彼女の中でちゃんと割り切りができていたものと思いたいのだけど・・・。結局、その改宗の事実がばれて親類縁者からさえも勘当されてしまうのだ。
とはいえ、陰で悪口ややっかみを言う人たちと縁が切れて、私ならかえってすっきりすると思うのだけどね。

そうして、ピンカートンが去った後も、3年もの間、彼女は待ち続ける。彼が去る時にはまだ生まれていなかった息子も、既に2歳半くらいにはなっていたはず。(オペラでは、この子供役が大きすぎるのが不満ですが、2歳半の子供を舞台に乗せるのは難しいのでだろう。)
周りがいくらいさめても、蝶々さんはまだピンカートンが自分の元へ帰ってくると信じている。ヤマドリという公爵が求愛しに来てもすげなく追い払ってしまう。(ま、これも女衒のゴローの仲介ですから、求婚ではなく妾にという話だろう。)
諸般の事情から見て、蝶々さんは働いているわけではないので生活費をどうしているのか気になるのだが、ピンカートンが別れ際にある程度まとまったお金を渡していたものと思われる。とはいえ、ピンカートンが帰ってくるのが3年後ではなく5年後、10年後だったらどうなってたかしらね・・・。
実は、蝶々さんはそのあたりでもうかなりおかしくなってたんじゃないかという説もある。確かに、あの「ある晴れた日に」のアリアは、狂乱のアリアと言ってもいいのではないかしら。期待と想像と現実がめちゃくちゃに入り混じっているんだもの。
自分で選んだ道とはいえ、蝶々さんは追い詰められているのだ。
だからこそ、ピンカートンの船が入港してきた時の蝶々さんの喜びようがあまりにも印象的なのよね。桜の花を敷き詰めて彼を迎えるなんていじらしい・・・。きっともう、贅沢な宴を張るお金もなかったから? でも、その桜の花を末期の褥として、蝶々さんは死を選ばざるを得なくなるというのも、哀しい。桜が武士の娘の死を彩るというのは、とても意味深に思える。

 結婚式の謎

第一幕で行われる蝶々さんとピンカートンの結婚式も、大きな謎だ。
掲示板では、「蝶々さんと結婚式を挙げたピンカートンがケイトと結婚しているのは重婚罪ではないか?」という意見が出た。
第1幕で領事が、信じきっているのに騙すのはむごいと意見していますから、結婚式をやってもちゃんと結婚届を出したとは思えない。
そもそも、未成年だから、家長または後見人の承諾が必要だったはずだが、父も亡くなり、親戚一同から勘当された蝶々さんの婚姻届に署名する人はいなかったのではないか。
おまけに、結婚式は教会でではなく神式で執り行われていたから、教会記録から結婚証明書を取ることもできない。そのため重婚罪で訴えるのは勝ち目がないという意見もあった。
当時の長崎では、洋妾(ラシャメン)として、日本に駐在する外国人の軍人や商人の現地妻となった女性が多く存在していた。その女性達がどういう風に同棲生活に入っていったのかと、ちょっと調べてみた。開国前後の混乱期に長崎居留の外国人と日本人女性との同居による問題発生を管理したい長崎奉行が公認して届けを出させていたらしい。もしかすると、蝶々さんの結婚式でサインされた書類は、その届出用紙だったかもしれない。あるいは、単にピンカートンとの契約書だったかもしれないが。


 宗教と子供の謎

私、蝶々さんはあまりにも救いのない悲劇なので、見ていてとても辛い。
キリスト教に改宗しても結局救われずに終わった蝶々さんは、最後には神の禁じる自殺と言う手段しか残っていなかったのだもの。
改宗ということの意味がポイントになってくると思う。
すべてを捨てて愛したのに、すべてを(魂の救済まで)失った蝶々さん、哀れすぎる。
私が蝶々夫人で一番胸をつかれる思いを味わうのは、最後に子供に向かって「小さな神様」と呼び、「天高き楽園より降りて来た私の坊や」と言うところ。
自分が天の高みから見守っていてあげるとは、彼女には言えないのよね。
子供が金髪で碧眼だというのも、遺伝的には稀なはずだが、そのために蝶々さんは子供の未来には明るい希望が持てるのだろう。
だからこそ、彼女は息子をピンカートン夫妻に託すことを承認したのだと思う。
改宗したはずのキリスト教は蝶々さんを見捨てるのだけど、子供は神の恩寵を受けられると信じているから、終幕のあの言葉が出てくるのだろう。
私には、男に捨てられたことよりも、神に救われなかったことのほうが哀れに思える。

 演出と音楽的伏線

『蝶々夫人』の劇としての初演は、確か当時最新鋭の電気照明による物だったはず。舞台効果は画期的な飛躍を遂げたのではないかと思う。
プッチーニはそういう照明効果も大いに考慮して、エキゾチックな東洋趣味を前面に出してきたのだと考えられる。初演の不評は、やりすぎたからというのも原因のひとつだったかも。ま、1幕が長すぎて冗長だったからという説が有力だけど。

『蝶々夫人』の第1幕で道具類をピンカートンに見せる場面があるのだが、その時なぜか「さくら、さくら」のメロディーが流れている。
以前は日本の物品が出てくるからかと思っていたのだが、どうもそれだけではなさそうだ。

そこで父親の短刀も取り出すので、「武士=さくら」 の図式か、もしくは 蝶々さん自身の死も暗示していたのだろうか。
音楽的にも伏線が多いオペラだ。
最初は気づかずにいたものが、何度か聞くうちにひとつづつ謎が解けていくような面白さがある。気がつかなくても無意識のうちに影響されているのではないかと思う。
「さくら」ひとつとっても、いろいろな読みが出来る。
http://earth7157.emwpartners.com/~bs0222/nazo/butterfly.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/908.html#c2

[近代史3] プッチーニ オペラ 『蝶々夫人』 中川隆
3. 中川隆[-13698] koaQ7Jey 2020年2月18日 10:41:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-277]

日本人女性を描いた傑作オペラ『蝶々夫人』これのどこがエエ話?
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2019/07/13/114978

日本人女性を描いた傑作オペラとして名高い『蝶々夫人』をご存知ですか?

プッチーニ 《蝶々夫人》 「ある晴れた日に」三浦環



女子フィギュア界で長いこと最前線にいた浅田真央選手が好んだ曲として聞いたことがある方は少なくないでしょう。

浅田真央(mao asada) 「蝶々夫人」和訳字幕入り 〜 お帰り!



あるいは宮原知子選手も同曲で華麗な舞を演じられておりました。

2017/12/23 全日本選手権 FS 宮原知子 蝶々夫人



もはや日本人女子選手の定番演目とすら思えてきますが、ここでちょっと立ち止まりたい。
この蝶々夫人って、本当にいい話なのでしょうか?
皆さんおそらく中身までは把握されてないと思われますので、あらすじをざっと書き出してみますね。


【あらすじ】
舞台は1890年代(明治20年代)の日本。
父が没落した武家の娘・蝶々さん(15)は、アメリカの海軍士官ピンカートンと結婚します。
新婚、しかも身重の蝶々さんを残し、ピンカートンは帰国。
三年後、三歳の子と共に蝶々さんは夫の帰りを待っておりました。
彼女は知らなかったのです。ピンカートンはアメリカに正妻がいたことを……。
やっとピンカートンの軍艦が来ると知った蝶々さんは、喜んで夫を出迎えます。
しかし、そこにいたのは、正妻のケイト。
ショックを受けた蝶々さんは、父の形見の短刀で自害を選ぶのでした。
いやいや、いやいや。これ、いい話ちゃうやろ。
正妻いるのを伏せて15歳と結婚して子供を産ませるとか、ピンカートンはガチクズでしかない。
確かにオペラなんてそんなものかもしれません。
『ドン・ジョバンニ』の元ネタだってしょうもありませんし、歌舞伎だって「クズが遊ぶ金欲しさに親戚を殺した」だけの話(『女殺油地獄』)とかありますしね。

本物のドン・ファンってどんな人?紀州ではないリアルな「プレイボーイ伝説」に迫る
https://bushoojapan.com/world/spaport/2018/06/09/113466


しかし、何もここでピンカートンやプッチーニを罵倒したいわけではありません。
なぜこんなお話が作られたのか?
それを掘り下げてみたいと思います。



幕末から明治、それは国際ロマンスが目覚めた時代

黒船来航を機に、日本の地を踏みしめた外国人たち。
お歯黒や眉を剃った女性の姿にさぞやビックリしたと思いきゃ、実はそうでもなかったようです。
「切れ長の目、黒い髪、クールビューティだ!」
日本人女性の東洋的な美貌にぞっこんになり、ペンダントをちぎって渡したり、写真を撮ったり、そんな外国人男性が数多くおりました。
例えば、日本が好きでたまらなかった青年ヒュースケンには、複数の日本人妻がいたようです。

幕末のヒュースケン殺害事件とは?日本を愛したオランダ人好青年の哀しい予感
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2019/08/29/111357


「えっ、唐人お吉みたいな例もあるよね?」
その通りです。
彼女の場合は運が悪かった。
お相手と誤解されたハリスは敬虔なプロテスタントであり、生涯純潔を誓った人物でした。世間で噂されるような関係では一切なかったにも関わらず、悲痛な最期を迎えます。

斎藤きち(唐人お吉)の悲しすぎる最期 人々の勘違い偏見に追い込まれ……
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2019/03/27/97402


むろんそこまでお堅くない外国人は、お座敷で芸者にデレデレと鼻の下を伸ばしたり、恋人をちゃっかり作ったりしておりました。
相手となった女性たちも、お吉ほどメンタルが繊細でなく、楽しいアバンチュールと割り切って、それなりに楽しんでいたようです。
ヒュースケンの日本人妻はにこやかにポーズをとって写真におさまっており、屈託はまるでありません。
明治時代に来日したフランス海軍士官ピエール・ロティは、日本人女性とのロマンスを『お菊さん』という小説にしました。
そこで彼は、ギャラを払った彼女が本物かどうか確認する場面を見て、
「なんかガッカリだなあ」
と失望しております。
いや、あんたこそ斡旋業者を使って彼女と知り合っておいて、何を期待しているのでしょう。

『お菊さん』を著したピエール・ロティ/wikipediaより引用

それでも当時の外国人男性からすると、
「異国で可愛い日本人女性とつきあうとか、最高かよ」
と、あこがれの眼差しで見られていたようです。
当時、ヨーロッパでは川上貞奴が大人気で、ジャパニーズビューティへの憧れがありました。

日本初の女優・川上貞奴 ピカソやロダン、さらには伊藤博文をも魅了す
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2019/12/07/10635


そんなわけで、外国人男性はうっとりとしながら東洋美人とのロマンスを夢見ていたわけですが、まだそこに、「蝶々夫人」のような弱々しさはありません。

一方で、外国人との結婚に嫌悪感を抱く女性もおりました。
フランス系アメリカ人のチャールズ・ウィリアム・ジョセフ・エミール・ルジャンドルに嫁いだ池田絲
いと
が、その典型例です。

チャールズ・ルジャンドル/wikipediaより引用


絲の父は、あの松平春嶽です。
母は松平家の腰元であり、娘を産んだあと自害しておりました。
絲は家臣の池田家に預けられ、維新後の困窮で彼女を芸者とするほかありませんでした。
維新後の春嶽は世捨て人のような暮らしを送っており、娘のことに構っていられなかったのでしょう。

松平春嶽(松平慶永)63年の生涯をスッキリ解説!調停、調停、また調停!
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2019/06/19/111115


幕末お姫様8名 それぞれの意外な行く末〜鹿鳴館の華、籠城戦の指揮……etc
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2019/03/01/121200


芸者として落ちぶれたものの、著名な大名の落胤となれば、使い道があります。
ルジャンドルは、南北戦争で活躍した英雄。
何としても、日本に引き留めたい。それにはどうすべきか?
こういうときは、女の黒髪で引き留めろ、という発想が出てくるわけですな。
高貴なお姫様を妻にすれば、日本に留まるだろうと……。ちなみにルジャンドルは、母国にクララという正妻と子がおりました。
大隈重信、伊藤博文といった大物から説得され、16歳の絲は泣く泣く、43歳、親子ほど歳の離れたルジャンドルに嫁ぐこととなったのです。
このような状況で結婚した夫婦は、心がなかなか通いません。
しかもルジャンドルは、こうつぶやいてしまったのです。
「この国で西洋人の血を引いた子は、きっと苦労するだろう。女の子ならまだしも、男の子だったら大変だろう」
絲は男児を出産し、そのまますぐに養子に出してしまいました。
この男児はのちに、父親譲りのしなやかなスタイルと、母親譲りの上品な顔立ちを持つ歌舞伎役者・十五代目市村羽左衛門となりました。
その出生の秘密は長いこと伏せられていたと伝わります。

十五代目市村羽左衛門/wikipediaより引用

ルジャンドル夫妻の間に生まれた女子・愛子の娘は、声楽家として活躍した関屋敏子です。

関屋敏子/wikipediaより引用

自害こそしませんでしたが、メンタル的にはこの池田絲は、蝶々夫人に近いものがあるかもしれません。
ただ、この性格だと夫とラブラブとはならないでしょうね。


「蝶々夫人」は誰でしょう?

さて、そんな蝶々夫人のモデル探しはなかなか難しいものです。

・海軍士官の妻
・自害した
・幸薄い少女

そんな条件を絞るとかえってみつかりにくくなるのです。
それもそうでしょう、そういう人は実在しなかった可能性があります。
ただ、モチーフの「蝶々」で探すと、モデルが見つかります。
グラバー夫人のツルです。

蝶々夫人のモデルの一人とされるグラバーの妻・ツル/wikipediaより引用
ツルは夫との結婚後も生涯和服で過ごし、家紋とは異なるしゃれたモンシロチョウの紋を身につけていたことで知られます。

グラバー(右)と岩崎弥之助/wikipediaより引用
『蝶々夫人』の原作は、ジョン・ルーサー・ロングの『マダム・バタフライ』。
ロングの姉は宣教師の妻として来日しており、そこから発想を得たと思われます。

ジョン・ルーサー・ロング/wikipediaより引用
実はこの原作で、蝶々夫人は自殺していません。
確かに原作でも姿は消すのですが、生存の可能性が強く示されています。
20年後を舞台とした続編もあります。
18歳で勝手に殺したのは、戯曲化したデーヴィッド・ベラスコの発案。
ゆえに18歳で自害する現地妻というのは、彼の妄想の産物とみるほうが妥当かと思われます。

デーヴィッド・ベラスコ、あんたのせいか!/wikipediaより引用

1900年、『蝶々夫人』舞台版のニューヨーク公演とロンドン公演は、連日満員御礼の大ヒット。
その観客に、一人のイタリア人がおりました。
自作『トスカ』のロンドン公演を見に来たプッチーニです。
「これこそ、我が自作のよい題材になる」
ピンと来たプッチーニは、楽屋でベラスコに是非ともオペラにさせてくださいと頼みこんだのです。

初演はリンチ状態だった『蝶々夫人』
プッチーニは、ありとあらゆる神話や演劇を貪欲に吸収する作家でした。

ジャコモ・プッチーニ/wikipediaより引用

これまたフィギュアスケートの定番『トゥーランドット』は中国を題材にしておりますね。



※荒川静香選手、トリノ五輪での『トゥーランドット』



※宇野昌磨選手、平昌五輪での『トゥーランドット』



※紫禁城での『トゥーランドット』



プッチーニはこのとき、
『コレはデカイ当たりが来る!』
と、手応えを感じていたことでしょう。
当時は川上貞奴の妖艶な美貌がヨーロッパ中を虜にしておりました。
オペレッタ『ミカド』も大ヒット。




シャーロック・ホームズシリーズでも、ホームズは日本の武術「バリツ」を修得している設定ですし。

だからシャーロック・ホームズは19世紀の英国に生まれた! 名探偵、渇望の時代
https://bushoojapan.com/world/england/2019/02/25/100705


ゴッホも、浮世絵に夢中でした。

ゴッホが自殺を図った理由はなに? 狂気の天才画家、その生涯
https://bushoojapan.com/world/painter/2019/07/27/26107


日本風というだけで、興味関心を惹きつけヒットするーーそんな時代だったのです。
といっても、これを単純に「日本スゴイ!」と言うことはできません。
『ミカド』はハチャメチャな内容で、現在、上演されると「差別的」とブーイングされるコンテンツですし、女性の見方にしたって一方的で妄想まじり、実態からは乖離したものであったことは否めません。
プッチーニは、駐在イタリア公使・大山綱介の妻・久子(野村素介の娘)の助言を得て、日本音楽に関する資料を取り寄せました。
異国情緒をたっぷりちりばめて、悲恋のストーリーを組み立てて、こりゃヒット間違いなし!
自動車事故で重傷を負う等苦労はありましたが、1904年、ついにオペラ『蝶々夫人』はついにイタリア公演にこぎつけます。
初演は散々な評判でした。
終演後までブーイングと口笛の嵐に見舞われ、プッチーニはこう漏らします。
「まるでリンチされているみたいだ」
さしもの東洋ブームも、イタリアにはまだ及んでいなかったとか?
プッチーニは改稿を重ね続け、やっと好評を得ることに成功しました。
1906年のパリ公演のために用意された第6版が、現在に至るまで定番とされております。


『蝶々夫人』の呪いを吹っ飛ばせ
このようにたどってきますと、『蝶々夫人』というのは当時蔓延していた妄想の塊であり、21世紀現在から見ますと「それはどうなんや」と突っ込みどころが満載の作品ではあります。
ただ、名作であることは確かです。
1970年代のベトナム戦争に舞台を置き換え、米兵と現地女性のロマンスに翻案した『ミス・サイゴン』。




『蝶々夫人』以来の東洋人感に酔いしれた西洋人が、思わぬしっぺ返しをくらう、『Mバタフライ』という作品もあります。



『蝶々夫人』の描いた「従順で性的に魅力的なアジア系女性」という像は、21世紀現在では「人種ステレオタイプ」として批判の対象となります(所謂「イエローフェイス」)。

ガキ使「ブラックフェイス」問題は歴史アプローチでコトの本質が見えてくる
https://bushoojapan.com/world/2018/01/12/108866


そしてこのアジア女性にかけられた呪いは、21世紀現在においても効力を持っています。

◆#MeToo は誰でも言えるわけじゃない。アジア系女性たちの悩み
https://www.buzzfeed.com/jp/susancheng/metoo-for-asian-american-women-in-hollywood?utm_term=.jmvnNnl7K

「アジア系米国人やアジアの女性には、小さくて内気でソフトだという固定観念があります。そのため、男性たちは過度に女性として意識し、性差別的な言葉をかけやすいと感じるのです。そして、私たちはそれを受け流すべきことだととらえるようになりました」とタンチャローエンは話す。
「私は今日、アジア系女性のために行進します。アジア系女性は無視され、決めつけられ、フェティシズムの対象にされ、かわいい女の子はこうあってほしいという欲望を満たすよう期待されてきました」とウーは宣言し、聴衆から拍手喝采を受けた。
小さくて、内気で、ソフト。
決めつけられ、フェティシズムの対象にされ、かわいい女の子はこうあってほしいという欲望を満たすよう期待されてきた。
これぞまさに『蝶々夫人』です。
繰り返しますが、『蝶々夫人』は実在した日本人、あるいはアジア人女性からはほど遠い存在です。
蝶々の紋章を好んだグラバー夫人ツルは、たくましく長く生き延びました。
ルジャンドル夫人は武家の娘として気丈に堪えましたが、自殺はしていません。
ロティの愛人は、金勘定をして愛人になるほど、したたかな女性でした。
西洋人男性が「こういうかわいい愛人いたら最高だよね」と妄想しながら作り上げた像、それが蝶々夫人であり、「ハイクを詠むニンジャスレイヤー」と同じくらい、事実からほど遠いものです。
そんな像に未だに縛られ、これぞ日本人女性の理想像と言われたところで、だから何だ、現実を見ろ、知らねーし、という反応でよいのではないでしょうか。
アジア人女性も、映画作品等ではソフトでかわいらしい印象から抜けだし、強い像となりつつあります。
いくら名作だろうと『蝶々夫人』は時代遅れ。
次の日本人女性、アジア人女性の像が求められるところです。

『デッドプール2』に登場した日本人ミュータント・ユキオ。
めちゃんこ強いので続編に期待しよう!!


https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2019/07/13/114978

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/908.html#c3
[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
27. 中川隆[-13697] koaQ7Jey 2020年2月18日 10:42:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-276]
プッチーニ オペラ 『蝶々夫人』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/908.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c27
[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
28. 中川隆[-13696] koaQ7Jey 2020年2月18日 13:19:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-275]

ビゼー 『カルメン』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/909.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c28
[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
29. 中川隆[-13695] koaQ7Jey 2020年2月18日 13:43:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-274]
ビゼー 『アルルの女』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/910.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c29
[近代史3] ビゼー 『カルメン』 中川隆
1. 中川隆[-13694] koaQ7Jey 2020年2月18日 13:47:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-273]

カルメンはビゼー最晩年35才の作品だが、そうはいっても36才で亡くなった人だ、還暦まで生きていればずいぶん若書きの作品であって、やはり35才でモーツァルトが書いた魔笛に匹敵する。僕の中ではカルメン、魔笛、ボエームが三大オペラで隅々まで全部覚えるほど聴いて血肉となっているが、それでいながら何度でも聴きたいし、聴くたびに感動するというのだから強烈なオーラを放つ究極の名曲としか書きようがない。

そのビゼーの真の意味での若書きが交響曲ハ長調である。これを書いたのがなんと17才、今なら高校2年というのは、メンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲 変ホ長調 Op.20」が16才、『夏の夜の夢』序曲がやはり17才の作であると知った驚きにいささかも劣らない。天与の才があることを gifted というが、神様からギフトをもらって生まれてきた3羽ガラスというなら並みいる歴史的天才の中でもモーツァルト、メンデルスゾーン、ビゼーということになると思う。

なにせ3人とも苦学臭が皆無である。勉強でも東大には何の苦労もなく物凄くできる人がいて、何倍も時間をかけて刻苦勉励するガリ勉くんより点が良かったりするが、あれと同じだ。日本ハムの4番打者中田が大谷の打撃を見て「練習するのがあほらしくなる」と言ったがそういうことで、勉強でもそういう輩と競争するのは何の生産性もない。gift とはそういうものだ。

この3人に比べるとベートーベンやブラームスもガリ勉に見えてしまうので困る。神様の gift にも品目が各種あるということであって、苦しんでもあそこまでの高みに登れば100年や200年たっても余人の及ぶところではないのだが、彼らの17才は演奏家という人間の仕事では図抜けていたものの、作曲という創造主の仕事では3人に比してたいした成果がない。

ついでにもうひと種目挙げれば、美しい旋律を創るメロディーメーカーの才の3羽ガラスはモーツァルト、ヨハン・シュトラウス2世、ドヴォルザークだろう。あとの2人はブラームスが羨望の言葉を吐いたほどだが、またモーツァルトなの?といわれるとこれはもうどうしようもない、彼はあらゆる角度から本当の天才なのだから。

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2016/12/09/ビゼー-交響曲ハ長調/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/909.html#c1

[近代史3] プッチーニ オペラ 『蝶々夫人』 中川隆
4. 中川隆[-13693] koaQ7Jey 2020年2月18日 13:53:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-272]
イタリア - クラシック音楽 一口感想メモ

ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini, 1858 - 1924)

甘く流麗なメロディーが魅力の20世紀を代表するオペラ作曲家。

蝶々婦人以外は断片しか知らないのだが、蝶々婦人の1幕最後の二重唱に関しては甘く切なくとろけそうな時間が延々と続いて最高に楽しくて大好きである。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/イタリア

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/908.html#c4

[近代史3] プッチーニ オペラ 『ラ・ボエーム』 中川隆
1. 中川隆[-13692] koaQ7Jey 2020年2月18日 13:54:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-271]

イタリア - クラシック音楽 一口感想メモ

ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini, 1858 - 1924)

甘く流麗なメロディーが魅力の20世紀を代表するオペラ作曲家。

蝶々婦人以外は断片しか知らないのだが、蝶々婦人の1幕最後の二重唱に関しては甘く切なくとろけそうな時間が延々と続いて最高に楽しくて大好きである。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/イタリア
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/907.html#c1

[近代史3] 人類進化史 中川隆
40. 中川隆[-13691] koaQ7Jey 2020年2月18日 14:27:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-270]
2020年02月18日
西秋良宏「東アジアへ向かった現生人類、二つの適応」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_39.html


 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された

西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』
https://www.amazon.co.jp/アフリカからアジアへ-現生人類はどう拡散したか-朝日選書-西秋良宏/dp/4022630949


所収の論文です。


本論文はまず、現生人類がアフリカからアジアへ拡散前に存在したアジアの先住人類を取り上げています。その代表格というか最もよく知られているのはネアンデルタール人で、東方ではアルタイ地域まで拡散したことが確認されています。これは北方でのことで、南方では、現在のパキスタンとインドあたりまでネアンデルタール人の用いたムステリアン(Mousterian)石器が確認されています。ただ、パキスタンとインドでは明確なネアンデルタール人遺骸は確認されていません。また本論文は、ムステリアン石器が中華人民共和国内モンゴル自治区で発見されていることから(関連記事)、ユーラシア北方ではアジア東部までネアンデルタール人が拡散した可能性も指摘しています。

 本論文は、ヨーロッパで進化したネアンデルタール人がアジアにまで拡散した一因として、7万〜5万年前頃となる海洋酸素同位体ステージ(MIS)4の寒冷乾燥化を挙げています。ただ、本論文が指摘するように、アルタイ地域ではMIS4よりも前のネアンデルタール人の存在が確認されています。そこで本論文は、ネアンデルタール人の東方への拡散は少なくとも2回あった、と指摘します。本論文はその考古学的証拠として、MIS5にさかのぼるネアンデルタール人の存在が確認されているアルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)の石器群と、近隣のチャグルスカヤ(Chagyrskaya)洞窟やオクラドニコフ(Okladnikov)洞窟の石器群とが異なることを挙げています。どちらもルヴァロワ技術を用いていたものの、チャグルスカヤ洞窟やオクラドニコフ洞窟では表裏非対称な両面加工の削器が頻用されていたのに対して、デニソワ洞窟ではそれが見られません。両面加工削器は、ヨーロッパでは中部旧石器時代後半のヨーロッパ中部および東部で流行したカイルメッサーグループ(Keilmessergruppen)に固有です。チャグルスカヤ洞窟やオクラドニコフ洞窟のネアンデルタール人は、ヨーロッパ中部および東部のカイルメッサーグループ集団がアルタイ地域にまで拡散してきたのに対して、デニソワ洞窟のネアンデルタール人はカイルメッサーグループが流行する前のヨーロッパ、もしくは流行していなかったヨーロッパから到来したのだろう、というわけです。ヨーロッパからアルタイ地域への移動で障壁になりそうなのはウラル川ですが、ウラル川が縮小した乾燥期にネアンデルタール人は渡河したのだろう、と本論文は推測します。本論文のこうした見解は、今年(2020年)公表された研究でも支持されており、ユーラシア草原地帯をネアンデルタール人は東進したのだろう、と推測されています(関連記事)。

 アジアの非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)としてはネアンデルタール人が有名ですが、2010年に初めて存在の確認された古代型ホモ属が、種区分未定のデニソワ人(Denisovan)です。デニソワ人はまずデニソワ洞窟でその存在が確認され、ネアンデルタール人と近縁な系統で、現生人類やネアンデルタール人との交雑が確認されています(関連記事)。アジア東部には種区分の曖昧な中期〜後期更新世のホモ属遺骸が少なからずあるので、それらの中にデニソワ人に分類できるものがある可能性は低くなさそうです。

 現生人類がアフリカからアジアへと拡散していった時期には、ホモ・エレクトス(Homo erectus)がまだ存在していた可能性もあります。アジア南部の十数万年前頃のホモ属遺骸の分類に関してはまだ議論が続いていますが、エレクトスも用いた握斧がアジア南部では13万年前頃まで使われており、中部旧石器の出現がその頃以降なので、現代人の主要な祖先集団ではないとしても、最初期の現生人類がアジア南部でエレクトスと遭遇した可能性も考えられます。

 アジア南東部では、エレクトス系統と考えられる(異論は根強いというか、むしろやや優勢かもしれませんが)人類が後期更新世まで存続していました。フローレス島においては5万年前頃までホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)が存続し、ルソン島では67000〜50000年以上前と推定されているホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)が存在していました(関連記事)。これらのホモ属は、現生人類と遭遇した可能性があります。フロレシエンシスの場合は、アジア南東部やオセアニアの現代人の主要な祖先集団が拡散してきた頃まで存在が確認されているので、あるいは現生人類との遭遇が絶滅の主因だった可能性もじゅうぶん考えられます。本論文は、アジア南部および南東部はアジア西部やヨーロッパや日本列島と比較して考古学の調査密度が格段に低いことから、今後も驚異的な発見がなされる可能性は高い、と指摘します。

 人類遺骸・考古学・遺伝学の証拠から、6万〜5万年前頃以降に現生人類がアジア各地に本格的に拡散していったことはほぼ確実とされています。一方、その前の20万年前頃にも現生人類はアジア西部まで拡散していました。本論文は、6万年前頃よりも前の現生人類のアフリカからの拡散を第一次出アフリカ、それ以後の拡散を第二次出アフリカと呼んでいます。第一次出アフリカで現生人類は現在のギリシアまで拡散していたようですが(関連記事)、それよりも西方のヨーロッパ地域にまで拡散していた証拠はまだありません。東方への拡散に関しては、ヒマラヤ山脈の北方を通りアジア中央部から北東部へと拡散する経路と、南方を通りアジア南部から南東部へと拡散する経路が考えられます。

 北方経路に関しては、第一次出アフリカの確実な証拠はまだありません。近年、これに関して注目されているのは、ウズベキスタンのオビラハマート(Obi-Rakhmat)洞窟の人類遺骸です。じゅうらい、その年代は中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行期となる5万年前頃と推定されていましたが、2018年に11万〜10万年前頃と報告されています。以前から、オビラハマート洞窟の少年の歯はネアンデルタール人的である一方で、頭蓋断片はネアンデルタール人的特徴と現生人類的特徴とが混在している、と指摘されていました(関連記事)。本論文は、この少年遺骸と共伴する石器群が、アジア西部で最古となる19万〜18万年前頃の現生人類的遺骸が発見されているミスリヤ洞窟(Misliya Cave)の石器群(関連記事)と類似していることに注目しています。

 類似した石器群は、ウズベキスタンのホジョケント(Khodjakent)遺跡でも発見されています。中部旧石器時代前期となるこれらの石器群は、イスラエルのタブン(Tabun)洞窟の層位的証拠に基づいてタブンD型と呼ばれています。タブンD型石器群はアジア西部および中央部だけではなく、ジョージア(グルジア)のデジュルジュラ(Djruchula)洞窟でも発見されており、年代は20万年以上前と推定されています。デジュルジュラ洞窟ではホモ属の歯が1点発見されており、ネアンデルタール人と推定されています。アジア西部のタブンD型石器群は25万〜10万年前頃と推定されています。本論文は、オビラハマート洞窟とデジュルジュラ洞窟のホモ属遺骸がともにネアンデルタール人だとすると、アジア西部の現生人類とは独立して類似したタブンD型技術を発展させたか、アジア西部の初期現生人類集団と交雑も含めた交流があったかもしれない、と指摘します。さらに東方となると、中国北東部ではタブンD型もその後のルヴァロワ技術で幅広剥片を多産するタブンC型も発見されていません。そのため本論文は、第一次出アフリカの北方経路に関しては、仮にあったとしても、アジア東部にまでは到達しなかっただろう、と指摘します。

 南方経路に関しては、アフリカの初期現生人類の石器と類似した石器がアラビア半島やアジア南部で発見されていることと、アジア南東部やオセアニアで5万年前以前の現生人類の痕跡が報告されていることから、以前より可能性が高いと主張されていました。12万〜10万年前頃と推定されているアラビア半島南部のジェベルフアヤ(Jebel Faya)遺跡C層では、アフリカ東部の初期現生人類に好まれていた両面加工石器(下部旧石器時代の握斧とは異なり、細長い形態も含まれます)が発見されました。同時代のアフリカ北東部で流行していたヌビア型との類似性を指摘するアラビア半島南部の石器群も報告されています。本論文は、この両面加工石器の存在から、現在のイラン南部やパキスタンあたりまで初期現生人類が拡散していた可能性を指摘します。また、パキスタンのタール渓谷では、ヌビア型石核剥離技術の石器が報告されています。

 インド東部中央のジュワラプラム(Jwalapuram)遺跡では、タブンC型に類似したルヴァロワ技術が確認されており、これもアジア南部への現生人類拡散の根拠とされています。昨年(2019年)、インドのサンダヴ(Sandhav)遺跡の11万年前頃のルヴァロワ石器群が報告されており(関連記事)、南方経路での第一次出アフリカのさらなる証拠と言えるかもしれません。ただ本論文は、アジア南部のこれら中部旧石器時代の石器群について、どれも確実とは言えない、と指摘します。アジア南部の両面加工石器群はどれも表面採集で年代が確定的ではなく、ジュワラプラム遺跡の74000年前頃よりも古い層では、両面加工石器やヌビア型石器は発見されていない、というわけです。南方経路に関しては、アジア南部で確定的な証拠が発見されていなくとも、さらに東方のアジア南東部やオセアニアで発見されていれば確証される、とも言えそうです。これに関しては、オーストラリアやスマトラ島などで6万年以上前の現生人類の痕跡が主張されていますが、それらの年代には疑問も呈されています(関連記事)。

 第二次出アフリカの証拠は一気に増え、考古学的な時代区分では上部旧石器時代初頭となります。その特徴は、中部旧石器時代のルヴァロワ方式の伝統を残しながら石刃を生産する石核剥離技術です。そうした石器群がアルタイ地域のカラボム(Kara-Bom)遺跡で発見されており、年代は47000〜45000年前頃と推定されています。当初、この石器群は在地における中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行と解釈されていましたが、現在では、西方からの集団の拡散とする見解の方が有力なようです。類似した石器群はモンゴルのトルボル(Tolbor)遺跡で発見されており、年代は45000年前頃と推定されています。類似した石器群は、東方では中華人民共和国寧夏回族自治区の水洞溝遺跡まで広がっており、年代は4万年以上前と推定されています。上部旧石器時代初頭の石器群は50000〜47000年前頃にレヴァントで出現したと推測されており、数千年で中国西部まで拡散したことになります。ただ、レヴァントとアルタイ地域の間のイラン北部やアジア中央部西方では、まだ発見されていません。チェコでは類似した石器群が発見されているので、ユーラシア北方草原地帯経由だったかもしれません。

 以上は北方経路でしたが、南方経路では、イラン南部での最古の上部旧石器こそ4万年前頃までしかさかのぼりませんが、そのずっと東方のアジア南東部やオセアニアでは、同じ頃かややさかのぼる頃の現生人類の痕跡が確認されています。たとえば、オーストラリアのウィランドラ湖群(Willandra Lakes)地域のマンゴー湖(Lake Mungo)やボルネオ島のニア洞窟群(Niah Caves)では4万年前頃の現生人類遺骸が発見されています。現生人類がどのようにアフリカやアジア西部からユーラシア南東部やオセアニアにまで到達したのかという問題で、本論文はインドのパトネ地方の遺跡群で発見されている半月形の幾何学石器群に注目しています。類似した6万数千〜5万年前頃の石器群が、タンザニアのムンバ(Mumba)岩陰遺跡や南アフリカ共和国のクラシーズ(Klasies)河口遺跡群などで発見されていることから、アフリカからアジア南部への直接的な拡散の可能性も指摘されています。また、ダチョウの卵殻で造られたビーズや線刻製品なども、アフリカとインドで発見されています。ただ本論文はこの仮説の難点として、両地域の中間地帯となるアラビア半島南部で類似した石器群が発見されていないことを挙げています。アラビア半島南部のジェベルフアヤ遺跡では、上述のように12万〜10万年前頃の石器群が発見されていますが、4万年前頃の層では、幾何学石器とは大きく異なる剥片主体の石器群が発見されています。アフリカとインドの幾何学石器については、現在では水没した地域に痕跡が残っている、との見解もありますが、収束進化との見解の方が有力なようです。

 考古学と人類化石の証拠からは、アフリカからアジアへの拡散は20万年前頃よりしばしばあったものの、最も成功したのは6万〜5万年前頃以降の拡散と考えられ、それはゲノム分析とも整合的です。その理由として、現生人類の認知能力が変異により飛躍的に進化史、象徴能力や短期記憶や学習能力が格段に高度になったから、との見解が提示されています。これは主に、現生人類と古代型ホモ属との考古学的記録の比較に基づいています。両者の間で最も目立つのは社会活動に関する遺構や遺物で、アジア西部に当てはまるとされていますが、北回り・南回りを問わず、他のアジア地域でも同様です。たとえば、集団内もしくは集団間の絆を示すような装身具や、洞窟壁画や、遠隔地素材を用いた道具などです。一方、ネアンデルタール人が装飾品を用いた事例もありますが、限定的です。ただ本論文は、こうした行動に関する証拠は、生得的な認知能力だけではなく、生まれ育った社会の歴史や文化、また選好や自然環境などにより変わることから、認知能力の飛躍的な進化を考古学的証拠のみで検証することに慎重です。

 本論文はこの問題との関連で、現生人類の拡散において、北回りではアジア西部、中でもレヴァントの石器製作技術が中国北部にまで及んでいた一方で、南回りではそうした明瞭な広域的類似が考古学的記録に見られない、と指摘します。これは研究進展度の違いに起因しているかもしれないものの、北と南の生態環境の違いを反映しているのではないか、と本論文は指摘します。生態環境によりヒトの生存戦略は違ってくるだろう、というわけです。北回りでも南回りでも温帯が中心ですが、北回りは寒帯と亜寒帯、南回りは熱帯と亜熱帯にも広がっています。

 北回りで現生人類遺跡の密集域は天山・ヒマラヤ山脈とその北縁の草原地帯と山麓地帯で、「シルクロード」ともほぼ重なり、更新世においても移動しやすい経路だったと考えられます。東西方向の移動は、類似した自然環境である場合が多く、一般的に南北方向の移動よりも容易です。北回りの現生人類集団の技術的特徴は石刃製作で、これは細長く規格的なので携帯性が優れていたからではないか、と本論文は推測しています。北回りでは資源密度が低く、単位集団あたりの領域は広かったと考えられるので、長距離移動を強いられる条件下では、携帯性に優れた道具が有利だった、というわけです。また、石刃は原石を有効に活用できることも利点だった、と本論文は指摘します。こうした石刃は槍に利用されていたと考えられ、さらに投槍器が用いられていた可能性もあります。

 一方南回りでは、アジア南部において、第二次出アフリカの痕跡を示す石刃石器群の分布が途絶えます。さらに、第一次出アフリカの痕跡も、ネアンデルタール人の痕跡も、アジア南部で途絶えます。本論文はその理由として、生態環境の違いによる適応技術の変更を挙げています。南回りでは、東西方向の移動とはいえ、モンスーン地域への適応を必要としました。アジア西部が地中海からの湿気による冬雨地域であるのに対して、アジア南部以東は日本列島と同じく大洋性の夏雨地帯で、夏は高温多湿で森林も発達しています。狩猟対象となるのも、ガゼルやロバなど草原性の動物から、スイギュウやサルや昆虫など大小さまざまな森林性動物へと変わります。また南回りでは、海洋や島嶼環境への適応も求められました。南回りでは、多様な技術を反映して、北回りよりもずっと現生人類拡散の考古学的証拠を見つけにくくなっています。また、アジア南東部以東で目立つのは特徴をとらえにくい剥片製の不定形石器で、中国南部では鋸歯縁をつけた不定形石化が目立つとされますが、中部旧石器時代の石器群と明瞭な違いを示すわけではないため、現生人類到達の指標とはしにくい、と本論文は指摘します。アジアのモンスーン地帯での現生人類の適応に関しては、民族誌から有機質の材料、とくに竹が石器の代替品とされていた可能性が指摘されています。ただ本論文は、竹を利用できたから現生人類がアジアのモンスーン地帯で成功した、というような見解には慎重で、古代型ホモ属も竹を利用できたはずと指摘します。また本論文は、南回りでの特徴として、島々へ渡海する技術や貝製釣り針を活用した釣魚技術などの開発を挙げています。現生人類の第二次出アフリカにおいて、南回りは斉一的な技術展開の北回りとは異なり、地域によりきわめて多様な適応が進みました。

 こうした石器技術の地理的差異は、すでに現生人類出現前の下部旧石器時代(サハラ砂漠以南のアフリカでは前期石器時代)に見られました。両面加工石器である握斧(ハンドアックス)は、アフリカやヨーロッパでは多数発見されていますが、アジア南東部以東ではめったに見られません。アジア南東部以東では、握斧以前の石器技術が長く用いられ続けました。この違いについては、開けた草原地帯と植生豊かな森林地帯とでは、社会の在り様、さらには文化の創造と伝達過程が異なったのではないか、との見解も提示されています。西方の草原地帯では、資源がオアシスなど特定地域に偏在する傾向にあり、ライオンなどからの捕食圧もあるので、比較的大きな集団での生活が有利だったのに対して、アジア南東部などの温暖森林では、どこでも一定の資源が得られ、捕食圧も低いため、集団が分散して少人数での生活が可能だった、というわけです。さらに、集団規模が大きいと社会学習が有効に機能するため複雑な技術も継承されやすく、確固たる石器製作技術伝統が発展する一方で、単位社会あたりの人口が少ないと、伝統を維持するよりは個体学習により地域的な文化を生み出す可能性が高くなる、との見解も提示されています。これは現生人類拡散前の地域的な石器技術の違いに関する説明ですが、現生人類についても示唆を与えるものと本論文は評価しています。


参考文献:
西秋良宏(2020)「東アジアへ向かった現生人類、二つの適応」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第2章P53-94


https://sicambre.at.webry.info/202002/article_39.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/581.html#c40

[番外地7] メモ帳 _ 音楽・オーディオ 中川隆
8. 中川隆[-13690] koaQ7Jey 2020年2月18日 15:11:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-269]
iPodやパソコン のヘッドフォン・ジャックからアンプに接続するのが一番いい音だった

何百万円のCDプレーヤーとて、iPod の前には惨敗で
私が行きつけのヴァイオリン店でも
 私が上述の方法でiPodの音を店内スピーカで再生すると
 そのお店の社長さん以下全店員さん方が驚き
 その場で購入が決まり
私が行きつけのヴァイオリン工房の職工の方も
 私が上述の方法でiPodを再生すると
 驚きのあまり「それを買います」と仰られ
 翌日には買いに出かけられたほどです。

などと書きますと
「あんなオモチャみたいな装置の再生音に驚くほど
 ヴァイオリン弾きや
 ヴァイオリン店の社長や店員や
 ヴァイオリンの職工は、耳が悪いのか?」と思われる方も居るかもしれませんが
 それは大きな誤りです。
そもそも
 長年に渡り海外から楽器を買い付け販売して信用を築いて来た店の
 社長や従業員が、良い音が判らないはずがなく
さらには
 日本を代表する名奏者が集う名工であるとともに
 自ら大変なオーディオマニアとして
 オーディオマニアならば誰もが知る垂涎の的である一流機器を取り揃えている
 ヴァイオリンの職工が、耳が悪いはずがありません。

パソコンのスピーカー端子からアナログ信号をアンプに流した方が名曲喫茶のオーディオよりいい音になるんだよ
だからパソコンの 800円のスピーカーで聴く youtube はいい音なんだ。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/337.html#c8

[番外地7] メモ帳 _ 音楽・オーディオ 中川隆
9. 2020年2月18日 15:21:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-268]
– iPhone・iPod・パソコン用ケーブル –
https://procable.jp/ipod
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/337.html#c9
[リバイバル3] 小型車を制した物が覇者になる歴史 _ 高級大型車メーカーはやがて淘汰される 中川隆
1. 中川隆[-13689] koaQ7Jey 2020年2月18日 15:43:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-267]
2020年02月18日
自動車メーカーの地殻変動 テスラが急上昇しルノーと日産は消滅危機


テスラはトラックEVも好調

画像引用:https://api.time.com/wp-content/uploads/2019/11/gettyimages-1183832931.jpg?quality=85&w=1012&h=569&crop=1

ルノーと日産は経営危機

2019年から自動車業界に変化が見えていたが、2020年は中国ウイルス騒動で勝ち負けがはっきりしている。

まず負け組筆頭はルノーと日産でどちらも2019年の販売台数は大幅減で、通年で営業赤字を計上した。

ゴーン時代にルノーと日産は車体やエンジンを共同開発していたが、最近は行われていないという話も聞きます。


ルノーは仏マクロン大統領と組んで日産乗っ取りを企み、反発した日産側が東京地検にゴーン逮捕を仕掛けたと言われている。

日産はルノーから離脱をもくろんだがあまりの業績低迷で難しくなり、ルノーも苦しんでいる。

ルノーは資金繰りが苦しくなり保有する日産株売却を検討していると報じられ、買い手候補に上がっているのがホンダです。


ホンダと日産の年間販売台数はほぼ同じで、ホンダも日産ほどではないが業績が低迷している。

ホンダは他社とグループを形成していないが、EVなど新技術では多額のコストが必要になり、他社と協力せざるを得ない。

ホンダが組む相手は小さすぎては助けにならず、大きすぎれば他社に支配されてしまう。


ホンダの同じ規模の日産はもっともふさわしい同盟相手なので、ホンダが既に日産株取得に動いているという噂がある。

2019年の自動車販売台数1位はVW、2位はトヨタだったがVWは数字以上に苦戦している。

VWは全車EV転換を発表したが、今のところヒット車種はなくテスラや中国メーカーの後塵を拝している。

絶好調テスラ

VWグループ、メルセデス、BMWのドイツ車は転換期を迎えてどこも苦戦している。

これはドイツ自動車産業の問題があり、今まで10年ほど高級車ブームで大儲けしてきました。

ドイツが得意とするのは鉄板をプレスするような重厚長大産業で、ドイツのIT企業は活発ではない。


排ガス不正騒動の結果ドイツ車は全車EV転換を打ち出したが、ドイツで生産するものは殆どない。

EVのモーターは日本製、バッテリーは日中韓、センサーやカメラは日本製という具合です。

高級車ブームによってレクサスなど外国勢がドイツ車の牙城に食い込み、もはや高級車=ドイツ車ではなくなった。


象徴的な出来事は新興EVメーカーのテスラがVWの時価総額を上回った事で、トヨタに次ぐ自動車メーカー2位になった。

ほとんどのメーカーが2019年に販売台数を減らしたが、唯一テスラだけが大幅販売増を続けている。

と言っても19年のテスラの販売台数は36万7500台に過ぎず、トヨタやVWら1000万台勢の背中から1キロは離されている。

トヨタは高コスト体質になった

テスラは19年に過去最高の生産台数を記録したほか、新型車モデルYやトラックを発表し、20年に中国での生産も開始した。

株価については過大評価という声があるが、株価が上がると資金調達が楽になり、設備や技術や新型車開発に投資できる。

テスラは今までメルセデス以上に高級車に偏っていて、高い車が売れる事が強みだった。


年間100万台を超えても成長を続けられるか、高級車に慣れたメーカーが低価格車を販売できるのかが注目される。

歴史を振り返ると小型車を作るメーカーが大型高級車メーカーを倒しており、高級車から始めて大メーカーになった例が少ない。

トヨタは一見盤石に見えるが弱みを抱えており、リードしているといわれる技術そのものが負担になっている。


ハイブリッドにEVにガソリンに水素とすべての技術にまんべんなく投資しているが、将来主流になるのは一つなので3つは無駄になる。

トヨタが成功したレクサスの高級路線はバブル期には利益を最大化するが、経済危機では足を引っ張るでしょう。

一度高級車にあぐらをかいたメーカーは、もう2度と格安小型車に戻れず、衰退するのが自動車の歴史です。
http://www.thutmosev.com/archives/82219619.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1039.html#c1

[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
17. 中川隆[-13688] koaQ7Jey 2020年2月18日 15:47:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-266]
2020年02月18日1
武漢YouTuberの多くが失踪 ウイルス鎮静宣言して工場再開


2月の武漢市内、工場停止し車も走っていないのに濃いスモッグが立ち込めている

画像引用:https://i1.wp.com/anonymous-post.mobi/wp-content/uploads/2020/02/45E5F244-6F5F-4E08-949B-D1B0AD1FD9D4.jpeg?fit=1024%2C574&ssl=1

武漢で数万人火葬か

武漢ウイルスについて中国外務省は2月17日、沈静化し克服されつつあると記者会見で説明しました。

だがこの前の1週間ほどで中国国内では情報統制が行われ、ネット上で政府批判した全員が「行方不明」になった。

公民記者(市民ジャーナリスト)でYouTuberの弁護士、陳秋実は2月4日の投稿を最後に行方不明になった。


衣類販売業の公民記者でYouTuberの方斌も2月7日、公安に拘束されたが釈放され、さらに政府批判の投稿をしたところ行方不明になった。

2月6日または7日には、最初に武漢ウイルスを告発した医師の李文亮がなくなっている。

李文亮は病気でなくなった事になっているが、中国政府は6日夜李文亮が亡くなったのをデマと否定し、翌7日朝になくなったと発表した。


なぜ亡くなった時間を数時間遅らせ隠そうとしたのか、他の活動家の拘束と同じ日だったのかを考えると興味深い。

中国の東大にあたる清華大教授の許章潤はウイルス対策で習近平を否定し停職になり、2月12日後一切の消息が途絶えた。

これらは有名な人だけなので、実際には1週間ほどの間にネットで政府批判をした無数の市民が拘束された。


中国政府が言うように「ウイルスは沈静化しつつある」なら、YouTuberらを病院に連れていきそのまま報道させればいい。

事実は「ウイルスは拡大を続けている」のに政府はそれを隠したい、だから真実を伝えるYouTuberの存在が不都合になった。

中国ではユーチューブを見る事すら違法で配信すれば重罪、だがユーチューブしか活動場所がない。

中国のYouTuber

中国にも多くの動画サイトが存在し、最初陳秋実と方斌も中国サイトに投稿したがすぐアカウント抹消された。

中国内のどんなサイトであれ政府批判をしたら良くてアカウント抹消、悪ければ部屋に公安が突入してくる。

中国のインターネットには匿名はなく、すべてのサイトは実名登録で公安や警察がリアルタイムで監視している。


こういう事なので中国でまともな事を言うには、ユーチューブやツイッターなど米国サイトでやるしかない。

中国政府は米国サイトを中国から接続できなくしているが、方斌によるとプロキシを使えば簡単にできるという。

実際ユーチューブには中国国内から投稿していると思われる配信者も多いが、ほとんどは匿名のうえ政府批判を避けている。


もし実名や顔を晒して政府批判したり「真実」を言ってしまうと、陳秋実や方斌と同じ目に遭う。

あるいは李文亮のように感染した事にして隔離され、病気でなくなった事にされてしまう。

許章潤は超エリート大学の教授で一生を約束されていたが、政府批判をしたため失職し行方不明になった。


こんな事をする中国が「ウイルスは沈静化している」と言っても、逆の意味にしか聞こえない。

最近武漢では異常な量の光化学スモッグが衛星で観測され、市内では濃いガスが立ち込めている。

武漢をはじめとする湖北省はすべての工場が停止し、自動車も政府と緊急車両しか走行していない。

なのになぜ武漢市内ではスモッグが発生したのだろうか?


4時間6万3000円で武漢火葬場の労働者を募集している


沈静化した事にして工場再開

武漢に立ち込める濃いガスの発生源は一つしか考えられず、それは武漢各地にある火葬場です。

市内には救急車やトラックが走り回り、患者ではなくなくなった人を火葬場に直送している。

病院に運んだりどこかに安置するとそこから感染するからで、基本的になくなったその日に火葬する。


武漢の火葬場が労働者を募集していて、深夜の4時間で日給4000元(約6万3000円)で現金手渡しという考えられない条件です。

中国各地から武漢の火葬場に応援チームが急派され、すべての火葬場がフル稼働している。

武漢には約50か所の火葬場があり、湖北省全体では数百か所あるのだが、中でも最大なのが漢口葬祭場です。


1台をフル操業だと一日24体、漢口葬祭場では14台の焼却炉があり一日最大288の処理能力がある。

武漢全体では優に一日千人の処理能力があり、それだけ燃やすと市中に焼却したスモッグが立ち込める。

中国政府発表の感染者数は7万人でなくなった人は約1800人だが、絵空事とはこの事でしょう。


中国政府は明らかに2月17日を目安にしていたようで、この日日本企業など多くの企業が操業を再開した。

経済活動を止めないためには「ウイルスは沈静化した」と言う必要があったのだが、実際には沈静化していない。

中国は国民のごく一部しか感染検査しておらず、工場の労働者にも感染者が紛れ込んでいる。


この状態で工場を再開したので工業地帯に感染が広がる恐れがあり、今後の動向に注意したい。

http://www.thutmosev.com/archives/82232585.html
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c17

[近代史3] サン=サーンス 『動物の謝肉祭 白鳥』 中川隆
1. 中川隆[-13687] koaQ7Jey 2020年2月18日 17:31:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-265]
バレエ 『瀕死の白鳥』 (Умирающий лебедь)


アンナ・パブロワのバレエ『瀕死の白鳥』


Anna Pavlova as The Swan


The Dying Swan Anna Pavlova 1907 and Vera Karalli 1914



Anna Pavlovna Pavlova 1881-1931



Анна Павлова








▲△▽▼

『瀕死の白鳥』 (Умирающий лебедь) は、ミハイル・フォーキン振り付けによるバレエ作品である。

カミーユ・サン=サーンスによる組曲「動物の謝肉祭」の「白鳥」を用いて、 湖に浮かぶ一羽の傷ついた白鳥が、生きるために必死にもがき、やがて息絶えるまで描いた小作品。 ミハイル・フォーキンが1907年にアンナ・パブロワのために振り付けたとされる。

アンナ・パブロワの代表的な作品であり、至高の出来と評価される踊りであったために、アンナ・パブロワの死後、彼女の名を汚さぬよう、またパヴロワと比較されてしまうのを恐れて、『瀕死の白鳥』 は以後同じロシアの偉大なバレエダンサーマイヤ・プリセツカヤが違う振り付けで踊るまで20年間誰も踊ることがなかった。

アンナ・パブロワは欧米だけでなく、飛行機での旅行のない時代に中南米をはじめ、インド、エジプト、オーストラリアなど繰り返し世界ツアーを行い、世界各地で瀕死の白鳥を踊っている。アンナ・パブロワは1922年に日本でも瀕死の白鳥を踊り、芥川龍之介もこのアンナ・パブロワの瀕死の白鳥を見て絶賛したという。

アンナ・パブロワの踊る瀕死の白鳥の映画フィルムは、劣化しかすれた非常に低品質なモノクロ画像ではあるが現代に残っていて、ビデオで市販もされている。

現代ではフォーキンの原振付けあるいは改定した振付けで瀕死の白鳥を踊るバレエダンサーは少なくない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/瀕死の白鳥


▲△▽▼


アンナ・パヴロヴナ・パヴロワ (露: А́нна Па́вловна Па́влова, Anna Pavlovna Pavlova, 1881年2月12日 - 1931年1月26日)は、20世紀初頭のロシアのバレリーナ。

サンクトペテルブルクの貧しい家庭に生まれる。戸籍上は退役兵マトヴェイ・パヴロフと洗濯婦リュボーフィ・フョードロヴナ・パヴロワの娘となっており、本名はアンナ・マトヴェーヴナ・パヴロワ (А́нна Матве́евна Па́влова)。しかしパヴロワ本人によれば、実父はマトヴェイとは別人で2歳のときに亡くなったといい、1913年の新聞報道ではユダヤ系銀行家ラザル・ポリャコフの私生児とも報じられ、真相は謎に包まれている。

9歳の頃、母親とともに 『眠れる森の美女』 の初演を観てバレエダンサーを志す[2]。帝室バレエ学校に学び、1899年に卒業する。卒業時の試験が優秀であったため群舞を経ずにコリフェとしてマリインスキー・バレエに入団した。色白・細長の顔に狭い肩幅、美しい足という理想的な体型を持っており、最晩年のM・プティパに才能を認められたため、貧しい家の出であったにもかかわらず順調な昇進を果たした。1903年、プティパによる改訂版『ジゼル』 で成功を収めたほか、バレリーナ昇進後の1907年には慈善公演でM・フォーキン振付の小品 『白鳥』[3]を踊って話題となった。後者はのちに 『瀕死の白鳥』 と呼ばれるようになり、パヴロワの代名詞のようになった。マリインスキーの若きソリスト、V・ニジンスキーと初めて踊ったのもこの頃である。

1908年、パヴロワはマリインスキーの舞踏手20名を率いて墺、独、瑞などを巡演した。同じ頃バレエ・リュスの旗揚げを企てていたS・ディアギレフは、看板ダンサーとしてニジンスキーとパヴロワの組み合わせを考え、こちらは1909年6月にパリにおいて 『レ・シルフィード』 公演として実現した。

パヴロワは徐々に海外巡演に興味を示すようになり、マリインスキー劇場に籍をおきながら別の団体とともに英国、米国で踊っていたが、1910年、さらなる海外公演のため2年間の休業を申し出たところ認められず、マリインスキーとの契約は破棄された。


訪日時のパヴロワ

1911年、自前のバレエ団パヴロワ・カンパニー (Pavlova Company) を作る。翌年ロンドンに移住し、イギリスを中心に世界を巡演した。1922年 (大正11年) に全国8都市で行われた訪日公演では西洋舞踏を初めて日本に広く知らしめ、のちに日本においてバレエが定着・普及するきっかけを作った。このため、エリアナ・パヴロワ、オリガ・パヴロワ (オリガ・サファイア) とともに日本バレエ界の恩人「三人のパヴロワ」の一人に数えられている。


死去

パヴロワは1931年1月、風邪をこじらせたまま巡演に出発し肺炎となった[2]。症状はさらに悪化し、オランダのハーグ到着後に胸膜炎と診断された。外科手術を勧められたが、手術をすれば舞踏手としては再起不能になると告げられたためにこれを拒否し、闘病の末に亡くなった。50歳の生涯だった。パヴロワが出演を予定されていた公演は通常通り行われ、『瀕死の白鳥』 の曲が流れると共にパヴロワがいつも踊っていた軌跡をたどるようにスポットライトが無人の舞台を照らし、観客はパヴロワの早い死を悼んだという。パヴロワの名を汚さぬよう、またパヴロワと比較されてしまうのを恐れて、『瀕死の白鳥』 は以後同じロシアの偉大なバレエダンサー、マイヤ・プリセツカヤが違う振り付けで踊るまで20年間誰も踊ることがなかった。

パヴロワの遺体はロンドンで火葬されたが、遺族によって2001年に、1944年に亡くなった夫のビクター・ダンドレの遺灰と共にモスクワのノヴォデヴィチ墓地に改葬された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アンナ・パヴロワ



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/911.html#c1
[近代史3] サン=サーンス 『動物の謝肉祭 白鳥』 中川隆
2. 中川隆[-13686] koaQ7Jey 2020年2月18日 17:33:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-264]


バレエ『瀕死の白鳥』


настасия Волочкова - Умирающий лебедь


▲△▽▼


Майя Плисецкая. Умирающий лебедь.



▲△▽▼


Ульяна Лопаткина. К. Сен-Санс. "Умирающий лебедь"



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The Dying Swan


Svetlana Zakharova's gala performance in 2010.


▲△▽▼



Uliana Lopatkina - Dying swan


X International Ballet Festival Mariinsky - Gala in Mariinsky Concert hall


▲△▽▼



Svetlana Zakharova The Dying Swan Ballet Gala a La Scalla 30 10 20151 xvid


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/911.html#c2
[近代史3] サン=サーンス 『動物の謝肉祭 白鳥』 中川隆
3. 中川隆[-13685] koaQ7Jey 2020年2月18日 17:39:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-263]

サンサーンスは3歳で作曲してモーツァルトの再来といわれ、ケンブリッジ大学から音楽博士の称号を贈られ、音楽以外も博識で詩、天文学、数学、絵画にも秀でたレオナルド・ダヴィンチのような人です。

フランス人の強固なプライドがあり目線の先には先人アブネックがいて、パリで紹介されたベートーベンがあった。

だから彼とセザール・フランクは交響曲を書き「国民音楽協会」をつくった。
それほど器楽の世界にベートーベンは君臨したし、彼はその脈絡の中でのエリート中のエリートであり、そういう人が「保守派」になるのは世の常です。

そこにベートーベンを崇拝しない、だから交響曲にこだわらないドビッシーとラヴェルが出現してフランス音楽の歴史を根底から変えてしまう。

僕は極めて良くできた交響曲3番を聴くとエリートの悲哀と不毛を感じてしまうようになりました。音楽というよりむしろ歴史観ですね、それで3番から遠ざかるようになってしまったと思います。そのことは彼の桁外れの才能を前にしては、いつも申し訳なく思います。

この3番という交響曲、そんなに愛してたのに、どういうわけか僕の心はすきま風だ。

好きな方は多いだろうし申し訳ないが、書いたように細部は非常に優れたところがあるものの、全体として聴後の印象はフランス3大交響曲の幻想、フランクのニ短調と比べると格落ち感がある。

立派に知的に書けた曲なんだけど、感情の表層を心地良く撫でてくれるが、あれこれ小道具が満載な割に体の芯があったまらずポップスみたいに通り過ぎてしまう。

無責任なようだが新世界と同じく僕にとってはもう特に聴くことはない思い出のなかの音楽だ。

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2018/04/10/サンサーンス-交響曲第%ef%bc%93番ハ短調-作品%ef%bc%97%ef%bc%98/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/911.html#c3

[近代史3] サン=サーンス 『動物の謝肉祭 白鳥』 中川隆
4. 中川隆[-13684] koaQ7Jey 2020年2月18日 17:43:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-262]

クラシック音楽 一口感想メモ
カミーユ・サン=サーンス(Camille Saint-Saëns,1835 - 1921)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/サン・サーンス

ドイツ的ながっちりとした作風で聴きやすい。ユーモアのある作品もあるが、作風が保守的で品格を重んじていることが、成功作では素晴らしい造型につながり、失敗作では心が躍らない地味なつまらなさになっている。

交響曲

第1番変ホ長調 作品2(1851年)
3.5点
シューマンの影響が濃いように聴こえる。とても爽やかで心地よく、気持ちいい曲だ。期待をいい意味で裏切られる。まだ素朴で未熟感も無くはないが、ほぼ気にならない。曲の魅力度合いや密度など、シューマンの交響曲と同レベルに聴こえる。スッキリとしたブルックナー的な開放感やスケール感があり、むしろ厚ぼったい後年の作品より魅力的なくらいだ。名旋律はないが、十分に旋律に魅力がある。これは掘り出し物である。

第2番イ短調 作品55(1858年)
2.5点
1楽章も2楽章も3楽章も地味さが気になる。悪くはないが、煮え切らず、盛り上がらない。耳を捉えるよい旋律もない。内容も厚ぼったい聞きにくさが出てしまっている。なんともいえないつまらなさ、心が踊らない後味の悪さがつらい。

第3番ハ短調 作品78「オルガン付き」(1886年)
4.5点
後期ロマン派のような肥大化したロマンチシズムに覆われているが、サンサーンスらしいまとまりの良さが歯止めとなっている、ロマン派の交響曲の傑作。凄みのある内容は「全てを注ぎ込んだ」という作曲者の言葉が伊達じゃないと感じさせる。スケールが大きくて壮麗で雰囲気に気持ちよく音楽に浸る事が出来るし、オルガンが格好いい。

ヴァイオリンと管弦楽のための作品

ヴァイオリン協奏曲第1番イ長調 作品20(1859年)
3.3点
1つの楽章の中に3つの楽章の要素を持っている曲であり、幻想曲のようなタイトルの方がしっくりくる。全般にメロディーにも甘さと強く情感に訴える艶めかしさがある。音に酔える感じで言えば、ヴァイオリン協奏曲のなかでかなり上位である。かなり華があり表情豊かであり、楽しめる。これは掘り出し物。

ヴァイオリン協奏曲第2番ハ長調 作品58(1858年)
2.8点
初めての協奏曲。1楽章はなんという垢抜けなさであろう。華やかなソロは派手だが、なんというか自分の中から出てきたものというより、雰囲気に流されて書かれたものに聴こえる。2楽章は憂いを帯びた曲だが、これまた初々しさがよい。表情は多くつけられており悪い曲ではないし意欲的だが、個性が足りない。3楽章は連続して続く。これも華があるが個性が足りない。1流作曲家と呼ぶに足レベルにはまだ達していない感じがする。

ヴァイオリン協奏曲第3番ロ短調 作品61(1880年)
3.8点
2楽章のメロディーの美しさが印象的で非常に素晴らしい。管弦楽が厚くて充実感のある交響的な響きでありながらヴァイオリンが全面に出て活躍する楽しさ、メロディーの豊富さや力強さが素晴らしい。サンサーンスの良さが出ている曲。

序奏とロンド・カプリチオーソ イ短調 作品28(1863年)
3.8点
序奏もロンド主題も耳から離れない印象的なもの。エキゾチックな雰囲気の中でヴァイオリン独奏が大活躍するのが楽しい。


ピアノと管弦楽のための作品

ピアノ協奏曲第1番ニ長調 作品17(1858年)
3.0点
1楽章はピアノは派手だが、曲としてはこれという目立つ良さが無い、二流感のある曲。2楽章も派手であり、チャイコフスキーの協奏曲のような管弦楽と対比されたピアノの活躍がある。一流ではないにしても侮れない良さがある。3楽章は深みに欠けるものの、やはりピアノの活躍を楽しめる。

ピアノ協奏曲第2番ト短調 作品22(1868年)
3.8点
どの楽章も華やかであり、ピアノが前面に出て活躍し、ピアノ協奏曲の醍醐味を十分に味わえる。ロマンチックな情緒や激しさなど、手堅い感じは残りながらも素敵なメロディーや表現に富んでいて楽しい。

ピアノ協奏曲第3番変ホ長調 作品29(1869年)
3.0点
1楽章は独奏が派手だがあまり内容が無い。2楽章はまあまあ。3楽章は派手なピアノで、やや通俗的な感があるが、エネルギッシュさを楽しめて割と良い。

ピアノ協奏曲第4番ハ短調 作品44(1875年)
3.8点
全体的にはシューマンの影響を感じる。1楽章は地味だが、柔らかくて控え目ながらもピアノもいい活躍の良作。2楽章はシューマンのよう。キャッチーで華がある。3楽章は名人芸を披露されて楽しい。

ピアノ協奏曲第5番ヘ長調 作品103「エジプト風」(1896年)
3.5点
爽やかで田園的なところもある絵画的な1楽章。2楽章のエキゾチックな主題を初めとした豊富なメロディー。3楽章のノリの良さ。どの楽章も華やかで楽しい気分で聴ける。

幻想曲「アフリカ」作品89(1891年)
2.8点
アフリカ的なエキゾチックなメロディーの動機を使いながら、華やかなピアノが大活躍する曲。サンサーンスの中でもピアノの活躍度は高い。たいした曲ではないが、聴き映えはする。


チェロと管弦楽のための作品

チェロ協奏曲第1番イ短調 作品33(1873年)
2.8点
壮年期の力作として情熱的にきっちり書かれているし、渋くて格好いいし充実感がある。さらに短くて聴きやすいかもしれない。しかしながら、響きもメロディーも堅すぎて、案外表情に乏しい感じがしてしまい、あまり楽しめない。

ロマンス ヘ長調 作品36(1874年)

アレグロ・アパショナート 作品43(1875年)
3.0点
情熱的なチェロ独奏を伴う協奏曲の小品。艶のあるチェロの渋くてかっこいい音色を楽しめる。何か凄さのある曲という印象ではないが。

チェロ協奏曲第2番ニ短調 作品119(1902年)
2.8点
1番と違いほとんど演奏されないそうだ。古典的な完成度では劣るのかもしれないが、自由自在なチェロ独奏の楽しさなどの刺激的な楽しさがあり、自分のようなライトなファンには1番以上に楽しめると思った。


その他の協奏的作品

「ミューズと詩人」(La Muse et le poete)作品132(1910年)
3.3点
ヴァイオリンとチェロの二重協奏曲の構成。耽美的で豊穣な音楽的充実感、自然な筆致、ヴァイオリンやチェロの扱いや2本の絡ませ方の巧さ、イメージの豊さなど、なかなか優秀な曲である。「ミューズと詩人」は出版社が名付けた題名だそうだが、2本の楽器の織りなす詩的なイメージの豊富さから受ける印象を的確に表しているのでまさにピッタリだと思う。

管弦楽作品

交響詩「ファエトン」(Phaeton)作品39(1873年)
3.3点
運動会の音楽のようなダイナミックなノリの良さで親しみやすく楽しめる。ギリシャ神話を題材にしているのにふさわしい雰囲気もある。凄さはないにしても、十分に品質の高い佳作。

交響詩「死の舞踏」(Danse macabre)作品40(1874年)
3.5点
小品の名作。舞踏性と怪奇的な描写的な音が面白い世界を作り上げている。アイデアがたくさん投入される。リストによりピアノ独奏用に編曲されたが、この曲のアイデアを果敢に音にする姿勢や派手な音の動きはかなりリストっぽいと思う。

交響詩「ヘラクレスの青年時代」作品50(1877年)
2.5点
随分と力の入っており、沢山の素材をつぎ込んで書かれているように聞こえた。しかし、音楽が堅くて、頭で書いた印象が拭えない。

アルジェリア組曲(Suite algerienne)作品60(1879年 - 1880年)(4曲)

『スパルタクス』序曲 (1863年)
2.0点
所々で後の展開に期待を持たせるが何も起きず。あまり面白くない。

室内楽作品

組曲「動物の謝肉祭」(Le carnaval des animaux)(1886年)
4.5点
パロディをうまく使いながらのユーモラスな動物の描写と楽器の使い方、ピアノのユニークな大活躍ぶりがとても愉しい曲である。有名な「白鳥」は豊かな詩情をたたえた美しく完璧な旋律の名作。水上の優雅な白鳥の泳ぎを見事に連想させる。


ピアノ四重奏曲変ホ長調 (1853年)
3.0点
作品番号なし。1楽章はメランコリックな感情を全面に出した曲であり、少なからず地味なサンサーンスの室内楽では異色である。2楽章も感傷的であり、傷ついた心を表しているかのよう。3楽章は少し前向きな感情になり、室内楽らしいアンサンブルの楽しみを感じられ、所々に感傷的な感動もある。作品番号なしの若書きではあるが、積極的な若さも出ていて、むしろ作品番号ありの変ロ長調より魅力的。

ピアノ四重奏曲ロ長調 作品41(1875年)
3.3点
全般的にわたり念入りに作り込まれてしっかりと書かれた曲という印象がとにかく強い。心を奪われるかと言われるとそうではないが、4楽章は奪われるものがある。やはりモチーフの積み重ねだけでなく、よい旋律があることは重要であると感じる。ただ、内容の密度の濃さは巨匠だなあと感心してしまう。無骨で分厚いピアノとつくり込みぶりはブラームスを彷彿とさせる。4楽章が良いため聴後の印象がよい。

ピアノ三重奏曲第1番ヘ長調 作品18(1869年)
3.0点
1楽章がつまらなくて先行き不安になる。しかし2楽章はドイツものにはない独特の流麗さを深みのある緩徐楽章に活かしおり、雰囲気がよいので楽しめる。3楽章はユーモラスで新鮮。なかなか面白い。4楽章の快活さもフランスらしい洗練があって悪くない。全体にピアノ三重奏曲のバランスの取り方は割と良い。

ピアノ三重奏曲第2番ホ短調 作品92(1892年)
3.5点
1楽章が憂愁をたたえていて感動的であり特に秀逸。他の楽章もなかなか優れている。どこかこなれていない感のある1番よりもアンサンブルも音楽の緊密さも音楽的な深みずっと上であり、巨匠的と言えるレベルの作品に仕上がっている。

七重奏曲変ホ長調 作品65(1881年) (トランペット、弦五部、ピアノ)
3.5点
トランペット、ピアノ、弦楽の構成。ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲1番を連想する構成である。ドイツ的な堅さのあるがっちりとしたまとまりが主体だが、トランペットが中心となって開放感や軽いエスプリを演出している。こじんまりとしていながら華があり聴きやすい。どの楽章もそれなりによく出来ている。

弦楽四重奏曲第1番ホ短調 作品112(1899年)
3.0点
マイナー曲であるが、案外渋くてしっかりした曲であり、けっして悪く無い。地味ではあるが、後期ロマン派らしい耽美的な情緒と、ドイツ的なガッチリとした骨格の太い構築感を感じる。華はあまり無いが、地味すぎることはない。ブラームスが時にみせる根暗なジメジメした感じはある。また、とりとめのない方向感の掴みにくさが大きな欠点となっており、短くないこの曲を聴くのに苦痛を感じるのが不人気の原因か。

弦楽四重奏曲第2番ト長調 作品153(1919年)
3.5点
全3楽章。83歳の作品。音楽が崩れていく一方の時代に、この曲は特に1楽章は非常に古風で端正な形式と和声を持っている。しかし、単なる古臭い古典の模倣ではなく、耽美的なロマンチックさを内包しており、長い時の流れと時代の移り変わりと自身の老いを想うような気分を持っている。その晩年らしい純化された精神世界がなかなか感動する。結構地味ではあるが、隠れた名曲だと思うし、サン・サーンスの音楽は何気に弦楽四重奏に向いていると思う。

ヴァイオリン・ソナタ第1番ニ短調 作品75(1885年)
2.0点
1楽章はピアノの練習曲かと思うほどピアニスティックで驚く。2楽章はメランコリーの表現が個性的。3楽章は長くて音が多いのだが、ちっともいい曲でない。全体的に珍曲に近い曲という印象である。

ヴァイオリン・ソナタ第2番変ホ長調 作品102(1896年)
2.3点
音がふわふわとしていて優雅であり、フランス的である。しかしメロディーは冴えないし、音に重みが無さすぎるし、あまりいい所がなく、いまいちである。3楽章がメロディーに多少の説得力があり、伴奏がタイス瞑想曲に似た夢みる感じで少し評価できる程度。

チェロ・ソナタ第1番ハ短調 作品32(1871年 - 1872年)
2.8点
チェロの機能の活用に関してはかなりのレベルに感じる。低音域が多い。雰囲気が次々と移り変わる。表情豊かともいえるしまとまりがないとも言える。いずれにせよ、いろいろな事をやっていて優秀だが、芸術性が高いという印象でない。

チェロ・ソナタ第2番ヘ長調 作品123(1905年)
3.0点
30分の大作でありかなりの力作。ピアノが大活躍であり、チェロも渋めではあるが機能を生かしたスケールの大きさを見せている。メロディーは印象には残らないものの全体に漲る迫力と作曲者の力の入りように驚く。渋くて男臭い雰囲気が支配的。

オーボエ・ソナタ ニ長調 作品166(1921年)
3.5点
お洒落で都会的だったり、メランコリーな気分になったりと、表情豊かな曲。六人組の音楽に近い所があり、老人とは思えない創造力である。

クラリネット・ソナタ変ホ長調 作品167(1921年)
5.0点
1楽章は今までの長い人生を回想するような無邪気な童心に帰ったような透明な音楽で、大変強く心に響いて泣きそうになる。2、3、4楽章も優秀な素晴らしい曲。最後にまた1楽章の冒頭のメロディーをそのまま回想する部分が人生の締めくくりを感じさせてまた泣ける。86歳のおじいちゃんが書いた大傑作。

バスーン・ソナタ ト長調 作品168(1921年)
3.0点
夢の中に入っていくような1楽章の最初が印象的。回想的な3楽章もなかなか良い。しかし同時期のクラリネットソナタと比較すると普通の曲。


https://classic.wiki.fc2.com/wiki/サン・サーンス
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/911.html#c4

[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
30. 中川隆[-13683] koaQ7Jey 2020年2月18日 17:44:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-261]
サン=サーンス 『動物の謝肉祭 白鳥』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/911.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c30
[リバイバル3] 古いアンプやスピーカーにはリスクが有る 中川隆
66. 中川隆[-13682] koaQ7Jey 2020年2月18日 17:52:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-260]

ようやく3ウェイチャンデバ TA-4300Fを入手 - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2020年02月17日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/3e842785b30eec98daa3b05844b054c8


昨日の15時半頃、やっとTA-4300Fが入荷しました。早速3ウェイで接続して鳴らしだしています。

プリアンプはC3をそのまま使っています。スピーカーは低域に#4425、中域にD208、高域にPYRAMID TW47を組み合わせ、アンプは低域用にM4、中域用にディネッセン、高域用にGE6550Sアンプを使っています。

取り敢えずは「音出し確認」をして異常が無いかを確認しています。今の処問題無い様です。6連のボリュームを分解して酸化膜を取ってある整備品だけあって、初めから問題なく使えています。「ボー・・・」とした音は出ません。

TA-4300Fの接続ケーブルは、長さの関係や負荷の問題から「一般のケーブル」にしています。正直言って従来の#4425のサウンドからはかなり「音質」が下がりました。まだ鳴らし始めたばかりですので馴染むまでは「音痩せ」が続くでしょう。それでも3台のパワーアンプを使った効果は出て来そうです。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/3e842785b30eec98daa3b05844b054c8

サブシステムを3ウェイマルチアンプ化 2020年02月18日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/d056f33596b16118ffa92b40799207d4


サブシステム2セット+ツィーターを使って、TA-4300Fチャンデバで3ウェイマルチアンプシステムを作りました。TA-4300Fは自宅システム様に購入したのですが、前準備としてサブシステムでドライブをして見ました。

50年前の機種ですし、多分に眠っていた時間が多かったと思われるので、初めは「ノイズまみれのふん詰まった音」がすると予想していましたが、6連ボリュームの分解清掃をしてある整備品を購入したおかげでその予想は的外れでした。古い機種の場合、チョッと割高でも整備済のブツを手に入れて使うのが利口だと感じます。

C3やM4は一応正常品を購入しましたが、使うにつけトラブルが出て来て、結局は「修理代」を考えると高く付きました。今回のTA-4300Fは初めからキレのあるサウンドが出て、直ぐに使える様な状況です。この分なら自宅システムに使う日が近いと思います。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/d056f33596b16118ffa92b40799207d4
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/832.html#c66

[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
31. 中川隆[-13681] koaQ7Jey 2020年2月18日 21:16:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-259]

ガブリエル・フォーレ 『夢の中に』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/912.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c31
[近代史3] ガブリエル・フォーレ 『夢の中に』 中川隆
1. 中川隆[-13680] koaQ7Jey 2020年2月18日 21:24:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-258]

クラシック音楽 一口感想メモ
ガブリエル・フォーレ(Gabriel Fauré, 1845 - 1924)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/フォーレ


半音階的にじわじわ変化するニュアンスの妙が特徴。
それが弦楽を主体とする室内楽にマッチしているため、重要作を沢山書いてる。
ピアノ曲もフランス人作曲家の中では重要である。

昔は、はっきりしない音楽性がピアノの打楽器的要素を活かさない点でイマイチだと思っていたが、慣れてくると案外いろいろな曲があることも分かり、楽しめるようになった。

管弦楽曲

ペレアスとメリザンド Op.80(Pelléas et Mélisande, 1898年)
3.0点
4曲目「シシリエンヌ」5.0点

劇付随音楽からの抜粋の組曲。悪くはないし、フォーレらしさはそれなりに発揮されていて、場面描写音楽として素直に楽しめる。しかし、3曲目までは素晴らしいという程ではなく、よくありがちな音楽だと思ってしまう。4曲目のシシリエンヌは有名な曲であり、これだけは別格に美しい名曲である。メロディーの美しさ、声部の重ね方、和声の妙が非常に素晴らしい。ケクランによる編曲も見事。

室内楽曲

ピアノ五重奏曲第1番 ニ短調 Op.89(1903年 - 1906年)
3.8点
1楽章の弦の持続音とピアノの分散和音による渋い世界はなかなか。2楽章は名曲。冬の寒さ、透き通った空気と夜の暗さと、その静寂の中を生きる孤独な魂を感じる。3楽章はあえて音の動きを制限しているかのように始まり、中間はじわじわと奔流のように渋く盛り上げていく。フォーレの魅力に溢れた名作だが、3楽章後半が惜しい。じわじわと調性感を薄めて盛り上げたにも関わらず、最後だけ急に平凡な古典的音楽のように終了するのは、意図的にそういう面白さを狙ったのかもしれないが個人的には残念に感じた。

ピアノ五重奏曲第2番 ハ短調 Op.115(1919年 - 1921年)
3.8点
晩年に入り、音の輪郭がぼんやりしている。半音階的な和声の変化が美しい1楽章はなかなか。3楽章の緩徐楽章は、クリスマスのように肌を突き刺す厳冬と心のほかほかとした温かさを両立させた、感動的な名曲。これは泣ける。この楽章だけでも曲の価値の半分以上がある。4楽章の地味なじわじわとした渋い終楽章の盛り上げ方は味がある。

弦楽四重奏曲 ホ短調 Op.121(1924年)
3.5点
最後の曲。渋いが、ピアノが無いことが良いほうに作用し、非常に純度が高く深みがあって、自分としては聞きやすい。フォーレの晩年の音楽にこの形式は合っていると思う。豊潤な音の泉のようなフォーレの室内楽であるが、この曲はその中でも特に身を浸すように聴ける。

ピアノ四重奏曲第1番 ハ短調 Op.15(1879年)
3.5点
典型的な初期から中期のフォーレの室内楽という印象。玄妙な1楽章もよいが、一番素晴らしいのは力強いエネルギーに溢れている4楽章だろう。かなり聞き応えがある。ピアノ四重奏のバランスと弦楽器の音の重ねかたの妙など、室内楽の醍醐味を満喫できるかなりの力作である。

ピアノ四重奏曲第2番 ト短調 Op.45(1886年)
4.0点
1楽章は渋くてかっこいい。2楽章はそれに輪をかけね濃厚で重たくて、ピアノのトレモロやユニゾン醸し出す重厚さに痺れる。3楽章のしっとりしたピアノは心を揺さぶるものがある。悲しげな呟くような弦も素敵。4楽章のじわじわとした盛り上げ方も素晴らしい。

ピアノ三重奏曲 ニ短調 Op.120(1922年 - 1923年)
3.5点
弦楽器はシンプルな書法だがつまらなくはなく、後期らしい世界にどっぷり浸かれる。たっぷり楽しんで20分弱という短さなのは驚きで、密度が濃いためもっと長く感じる。ピアノの中音が強いため、ヴィオラが無いのはむしろバランス的に良い。明快さは無く曇った音楽だし、割り切れない印象なのは他と変わらないのだが、割と聴きやすい。

ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ長調 Op.13(1876年)
3.3点
フォーレの独特の弦楽器の積み重ねの醍醐味がない代わりに、すっきりした端正さがある。内容的に、フランクを頂点とする後のフランスの一連のヴァイオリンソナタの嚆矢となった作品だとどうしても思ってしまう。特段に優れている楽章はないと思うが、独特のフォーレらしい諸特徴に追加して、割合と優雅さであり、憂いを含みながらも心地よい印象があり、楽しんで聴ける。

ヴァイオリン・ソナタ第2番 ホ短調 Op.108(1916年 - 1917年)
2.5点
1楽章も2楽章も3楽章も転調が多すぎて、よく解らない変な謎の音楽という印象。後期らしい深みや謎めいた美しさを多少感じるところはあるが、ヴァイオリンソナタはシンプルな編成であるだけに欠点が目立つ。

チェロ・ソナタ第1番 ニ短調 Op.109(1917年)
3.0点
チェロソナタはただでさえ渋いフォーレの音楽がさらに渋くなり、特殊な世界の感が強まる。とはいえ2楽章や3楽章はどことない新鮮な目新しさがあり、おっと思わせるものがある。ただ、最初から最後までやはり不明瞭な突き抜けない音楽のままであり、良作とは思えない。

チェロ・ソナタ第2番 ト短調 Op.117(1921年)
2.8点
調性を不明確になるように半音階的な音を繋げる1楽章。連綿と悲しく渋い独白をする2楽章。3楽章は明るくならず玄妙だがすっきりせず、あまり出来が良くないと思う。全体に晦渋で分かりにくい。フォーレがよく見せるチェロの魅力の一面を引き出してたっぷり堪能させるものの、十分な成功作とは思えずマニア向けのレベルに留まっている。

シシリエンヌ ト短調 Op.78(1898年)

即興曲 変ニ長調 Op.86(1904年)
2.8点
ハープ独奏。フォーレらしさを上手く生かした内容充実の名作のようにも聞こえるし、ピアノ曲の書き方をそのままハープに使っていていまいちのようにも聞こえる。ピアノ曲の即興曲よりも大作。展開が自由で、本当に即興的なようにも聞こえる。ハープ独奏曲をほとんど聴いた事がない自分には評価の基準がなくて聴き方もよく分からない。所々なかなか良いと思う箇所がある程度で、それほど良い曲という印象がないのが率直な感想である。


ピアノ曲

ヴァルス・カプリス

1. イ長調 Op.30
3.5点
他のピアノ曲と全く違う外面的な華麗な華やかさと優雅さに満ちたワルツで驚く。ショパンのワルツをいやでも想起する。規模が大きくて多くのメロディーが入っていて愉しい。もちろん、フォーレらしい渋い音の動きも多くの箇所で見られる。カプリスの名称が付いているだけあって、曲の変化が多い。

2. 変ニ長調 Op.38
3.5点
1番と同じにならないように、様々な工夫をしているように感じる。1番よりやや渋いが、基本的に外面的な華やかさの楽しさは1番と同じである。

3. 変ト長調 Op.59
3.5点
中期に入ってからの曲であり、凝った構成を作る熟練度の高さが聴いただけでも伝わってくる。外面的な分かりやすさは減っているが、やはり愛すべき優雅なサロン風の作品であるし、多様な楽想が入った力作と感じる。

4. 変イ長調 Op.62
3.5点
3番よりさらに分かりにくくなり、リズムの軽やかさが幾分失われて平板な音の連なりになり、他のピアノ曲に近付いている。とはいえ、ワルツカプリスらしい外面的な華麗さや音自体の活力を完全に失ったわけではなく、舟唄や夜想曲とは違う聴いていて愉しい気分にさせてくれる所は十分にある。内容的にも密度の濃さを感じる力作である。

即興曲

1. 変ホ長調 Op.25
3.5点
サロン風の曲。ショパンの即興曲の影響も感じられるが、曲の雰囲気は前奏曲や練習曲にもっと似ているものがあると思う。外面的な華やかさと霊感に満ちた各部分は、軽やかさもあり聞きやすく愉しい。

2. ヘ短調 Op.31
3.8点
1番に通じる華やかさと軽やかさに加えて、優雅で高貴でしなやかな抒情性があり、名曲と呼べるレベルの完成度と魅力を持った曲になっている。

3. 変イ長調 Op.34
4.0点
これは名曲。旋律の優美さと品の良さ、内容的豊富さ、和声やパッセージの絶妙な移りゆく流れの良さなど、際立って完成度が高い。

4. 変ニ長調 Op.91
3.0点
あまりにも複雑にメロディーがスパゲティのように絡み合っていて、よく理解できない。複雑さが産む謎めいた感じや、フォーレらしい奥ゆかしさは悪くない。

5. 嬰ヘ短調 Op.102
3.5点
これは面白い曲。無窮動で激しく動き回る右手と左手の音の転がりは、とても刺激的であり様々な様相を呈する。印象派的であるが、もっと強靭な力強さがある狂詩曲の方が近い。フォーレ作曲であることが驚きの作品。


夜想曲

1. 変ホ短調 Op.33-1
3.8点
静謐で漆黒の闇の夜を描いたような曲。ずっと静かな雰囲気であり、ショパンどころかフィールドまで思い出す。ある意味で直球勝負の曲であり、メロディーが魅力的であるため成功している。初期らしい純粋さが魅力。

2. ロ長調 Op.33-2
3.5点
1曲目と比較すれば、激しさがあったり、明るさを含んだ憧憬を見せたりと変化がある。変化の付け方はショパンの影響が明白。この曲もメロディーが魅力的で成功している曲。

3. 変イ長調 Op.33-3
3.0
儚く非常に繊細で静かな曲。雰囲気は悪くないが、メロディーの魅力が足りないので、凡庸な曲という印象を拭えない。

4. 変ホ長調 Op.36
3.8点
色とりどりの繊細なニュアンスに満ちている美しい曲。ノクターンらしい曲である。メロディーが特に優れているわけではないが、自由に変化し続ける雰囲気の精妙さや叙情性はかなり良い。

5. 変ロ長調 Op.37
3.3点
美しい箇所は所々にある。特に中間の大きな感情のうねりと高まりは感動的な演出である。しかしながら、曲が長すぎであり、飽きてきてしまう。冗長な作品だと思う。

6. 変ニ長調 Op.63
4.0点
大いなる感情に揺り動かされる感じが非常に感動を与える曲。高貴さ、深遠さを持ち、神秘的ともいえる儀式のような出来事が展開されるさまに圧倒される。この曲独自の世界を作り上げていて、メロディーの印象深さとともに忘れがたいものを残す。とにかく「特別な音楽である」感が凄い。それを楽しむ曲である気がする。

7. 嬰ハ短調 Op.74
3.3点
力強さやゴツゴツとした印象など、それまでとは違う世界を感じる。規模の大きな作品。メロディーにさほど魅力を感じないし、展開も感動するほどではないが、野心的に新しい世界に踏み出しているのは分かる。ただ、曲が長すぎると思う。

8. 変ニ長調 Op.84-8
3.5点
短い2分半の曲。夢を見るような雰囲気は、この短さでまとめてしまうのはもったいないほど魅力的だと思う。左手の分散和音は常套手段だが、この曲では特に成功しているように聞こえる。

9. ロ短調 Op.97
2.8点
分散和音でないゴツゴツとしたぎこちない伴奏の上で、曖昧なメロディーが半音階的に謎めいた進行をするのを最後まで続ける曲。その雰囲気自体は慣れれば悪くないと感じるが、変化があまりに乏しい。

10. ホ短調 Op.99
3.0点
夜想曲9番と同様の半音階的で曖昧な雰囲気でメロディーに魅力を感じないが、途中からドラマチックになる場面があり盛り上がれるなど、変化があるのがよい。

11. 嬰ヘ短調 Op.104-1
3.3点
憂いやロマンティックな感情を含んだメロディーに魅力がある。9番や10番より普通の曲。

12. ホ短調 Op.107
3.3点
ピアニステイックに劇的な盛り上がりを作る曲。それと晩年らしいくすんだ音色の取り合わせが独特の効果を産んでいる。

13. ロ短調 Op.119
3.5点
バラード的な物語性がある曲。規模が大きくて、それに見合うメロディーの魅力や構成の複雑さがあり、聞き応えのある魅力的な力作。古い物語がその場で語られているかのようなワクワクする感じがある。


舟歌

1. イ短調 Op.26
3.0点
柔らかくて舟歌らしい美しいメロディーで最初は良い感じなのだが、リズムや和声が平板なまま曲が続くので後半は飽きてしまう。

2. ト長調 Op.41
2.5点
メロディーが少なくてメロディーの部分もはっきりしないために、曲が頭に入ってこない。アルペジオを主体とした華やかな美しさは所々に見せるのだが、やはりメロディーが無いと楽しみが少なくなる。

3. 変ト長調 Op.42
3.3点
陰影に富み、ショパンのような洗練された美しい発想を随所で聴かせる曲。テクニカルな部分もあり、7分を飽きずに聴かせる。

4. 変イ長調 Op.44
3.0点
3番のようなテクニカルさはあるが、3番ほど陰影は深くなく、どちらかというと単純な美しくて分かりやすいメロディーの繰り返しにより曲が構成される印象が強い。そのメロディーは柔らかくてキラキラとした水面のようで美しい。

5. 嬰ヘ短調 Op.66
3.3点
力強さや明るい運動的な華やかさがある曲。とはいえ、コルトーの言うように舟歌の最高傑作かと考えると、はっきりした明快な良さが無い謎な曲しか自分には思えないため、ピンと来ない。

6. 変ホ長調 Op.70
3.8点
明るくキラキラとしていて、風光明媚な観光地を連想するような曲。分かりやすいし素敵な曲。中間は精密で玄妙。

7. ニ短調 Op.90
3.5点
3分の短い曲。キラキラとした印象的な分散和音が素敵。華やかな前向きの推進力があり、なかなか良い。

8. 変ニ長調 Op.96
3.0点
頻出する音階が演出する前向きの力強さは良いのだが、メロディーにあまり魅力がないのが残念。

9. イ短調 Op.101
3.5点
室内楽的なダイナミックでピアニスティックな盛り上がりや力強さがあり、メロディーも魅力的。分かりやすくて、聞き応えがある作品。

10. イ短調 Op.104-2
3.0点
短い曲。しかし、くすんだ色の、はっきりしない雰囲気が続き、なんとなく終わる曲。

11. ト短調 Op.105-1
3.0点
ピアニスティックな力強さがあるのは良い。しかし、メロディーはくすんでいて、はっきりしないした色がないのは10番と同じ。

12. 変ホ長調 Op.105-2
3.5点
6番と同様の風光明媚な観光地のような明るい雰囲気と、キラキラした水の描写が素敵な曲。

13. ハ長調 Op.116
3.5点
12番ほど明快なメロディーの魅力があるわけではないにしろ、この曲も素敵なメロディーと雰囲気があるとともに、内容の充実感を感じる。満足感を感じながら聞き終われる。

前奏曲集 Op.103(1910年)

【1. 変ニ長調 / 2. 嬰ハ短調 / 3. ト短調 / 4. ヘ長調 / 5. ニ短調 / 6. 変ホ短調 / 7. イ長調 / 8. ハ短調 / 9. ホ短調】
3.3点

全9曲。曲が3分程度と短くて、かなりバラエティーに富んでおり聴きやすい。舟歌や夜想曲と違い、テクニカルな曲、アンニュイな曲、厳格なカノンまであり、フォーレがこのように様々な曲を書けたのかと驚くほどである。全体の曲の配列は順番に通して楽しめるようにある程度のストーリーがある。書いた年代も同じであるため、ひとまとまりの曲集として聞ける。

その他ピアノ曲

3つの無言歌 Op.17 (1863年?)
1曲目はあまり大した曲ではないが、2曲目は割と良いメロディーで印象に残る。素晴らしいのは3曲目でメンデルスゾーン的な軽快さとフォーレらしい音の使い方という異質なものが驚くべき適切な融合をみせて、耳に残る楽しい作品になっている。

バラード 嬰ヘ長調 Op.19 (1879年)
3.5点
フォーレとしては長い曲。明るく華やかでバラードらしい物語性もある。移りゆく雰囲気の変遷と、フォーレらしい半音階的な和声の玄妙さも味わえるという、かなり素晴らしい曲。

マズルカ 変ロ長調 Op.32 (1878年頃)
2.0点
これは駄作だろう。そもそもマズルカっぽさが主題の一瞬だけである。メロディーに魅力がなくてマズルカを書こうとしてしとした感が強い。6分というマズルカにしては長い曲だが展開も主題の魅力のなさを引きずっていて、いろいろやっているのだがどうも楽しくない。

ピアノ組曲『ドリー』(Dolly)Op.56(1893年 - 1896年)
【1. 子守歌 / 2. ミ-ア-ウ / 3. ドリーの庭 / 4. キティー・ヴァルス / 5. 優しさ / 6. スペインの踊り】
4.0点

チャイコフスキーのくるみ割人形を思い起こすような、メルヘンチックでバラエティーに富んだ、分かりやすくて天才的なメロディーの曲ばかり。晦渋で難解な作品の多いフォーレだが、本気で親しみやすい曲を書けばこれほどの才能があったのかと驚く名作。

『主題と変奏』(Thème et Variations)嬰ハ短調 Op.73(1895年)
4.0点
気高く美しい主題。変奏もずっと緊張の糸を切らさず、ベートーヴェンに匹敵する厳しく深い精神性を保った真剣で真摯な音楽が続く。フォーレにしては明確な和声と主題であり分かりやすい。後半になってフォーレらしい曖昧さが効果的に使われる所もうまい。ロマン派を代表するピアノ用の変奏曲の一つ。フォーレのピアノ曲が苦手な人にも自信をもって薦められる。

8つの小品 Op.84 (1896-1902年)
3.3点
1分から3分の小品。なかなかの音楽的華やかさがあり、精神的深みと両立していて聞きやすく楽しい小品修正。対位法的作品の2作は若いときの作品だそうだが、聴いた印象は違和感がないし優れている。


宗教曲・合唱曲

レクイエム Op.48(1887年)
4.5点
柔らかいメロディー、優しく包み込むような静かで包容力のある管弦楽。静謐な祈りと哀惜感の強さが心を激しく揺さぶり、強く感動させられる。3曲目と4曲目が特に好き。少年合唱の生み出す透明感と純真は最高である。分かりやすくないフォーレの大作の中にあって、この曲は誰でもすぐに魅力が分かる。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/フォーレ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/912.html#c1

[近代史3] アフター・ヒトラー 中川隆
3. 中川隆[-13679] koaQ7Jey 2020年2月18日 22:21:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-257]
2020.02.18
ドレスデン空爆で米英軍が市民を虐殺して75年


 今から75年前の2月13日から15日にかけて、イギリスとアメリカの空軍はドイツのドレスデンを空爆した。市街は廃墟と化し、約2万5000名の市民が殺されたと言われている。当時は文化都市として有名で世界的に知られた芸術作品がそこにはあったのだが、爆撃によってその多くが失われた。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、第2次世界大戦はドイツ軍の主力がスターリングラードの戦いで破れた1943年初めの時点で事実上、終わっている。

 ドイツがソ連へ向かって進撃を始めたのは1941年6月のことだった。バルバロッサ作戦だ。アドルフ・ヒトラーの忠実な部下だったルドルフ・ヘスが単身飛行機でスコットランドへ渡った翌月のことである。その時にヘスはイギリス政府の首脳と会談したはずだが、その内容は未だに明かされていない。

 ソ連を侵略するためにアドルフ・ヒトラーは約300万人を投入した。西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人。ドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、ヒトラーに退けられたとされている。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)

 軍の幹部が東と西で半々にしようと提案したのは西側からの攻撃にも備えなければならないという判断からだが、ヒトラーはそうした攻撃に備える必要がないと考えていたとしか思えない。そこで、西側からイギリスなどが攻撃してこないことをヒトラーは知っていたのではないかと推測する人もいるが、ありえないとは言えないだろう。

 ドイツ軍が東へ向かっている様子をイギリスやアメリカは傍観している。両国が動き始めるのはスターリングラードでドイツ軍が降伏した後。

 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するのだが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。

 それを見たイギリスやアメリカは5月にワシントンDCで会談し、ドイツに対する軍事作戦を作成、7月に両国軍はマフィアの協力を得てシチリア島へ上陸した。ハリウッド映画の宣伝で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。この上陸作戦に対する防衛を巡り、ドイツ軍の内部でヒトラーへの不審が強まり、暗殺計画につながったとする見方もある。

 その1944年当時、OSSの幹部でウォール街の弁護士でもあるアレン・ダレスたちはフランクリン・ルーズベルト大統領には無断で1944年にドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将らと接触していた。その仲介役はダレスの部下でウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナーだ。大戦後、ウィズナーは極秘の破壊工作機関OPCを指揮することになる。

 ウォール街の要人たちはナチス元高官らをラテン・アメリカへ逃がすラットラインを作り、国務省やCIAはそうした人びとやドイツの科学者を雇う。ブラッドストーン作戦とペーパークリップ作戦だ。

 こうした作戦を推進したグループとは違って反ファシズムの立場だったルーズベルト大統領は1945年4月に急死、5月上旬にドイツは降伏する。その直後にイギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連へ軍事侵攻するための作戦を立てるようにJPS(合同作戦本部)にを命令、アンシンカブル作戦が提出された。

 その作戦によると、攻撃を始めるのは7月1日で、アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が発動しなかったのは参謀本部が計画を拒否したからだという。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 この後、7月16日にニューメキシコ州のトリニティー・サイトで原子爆弾の爆破実験が行われ、成功。8月6日には広島、8月9日には長崎に原爆が投下され、世界は核兵器の時代へ移行していく。

 トリニティ実験の10日後にチャーチルは下野するが、翌年の3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行う。その翌年には​アメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている​。

 ドレスデンへの空爆は広島や長崎への原爆投下と同じように第2次世界大戦の終結との関係性は薄い。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002180000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/405.html#c3

[近代史3] ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 _ ヨーロッパの戦い こうして始まった!  中川隆
15. 中川隆[-13678] koaQ7Jey 2020年2月18日 22:22:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-256]
2020.02.18
ドレスデン空爆で米英軍が市民を虐殺して75年


 今から75年前の2月13日から15日にかけて、イギリスとアメリカの空軍はドイツのドレスデンを空爆した。市街は廃墟と化し、約2万5000名の市民が殺されたと言われている。当時は文化都市として有名で世界的に知られた芸術作品がそこにはあったのだが、爆撃によってその多くが失われた。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、第2次世界大戦はドイツ軍の主力がスターリングラードの戦いで破れた1943年初めの時点で事実上、終わっている。

 ドイツがソ連へ向かって進撃を始めたのは1941年6月のことだった。バルバロッサ作戦だ。アドルフ・ヒトラーの忠実な部下だったルドルフ・ヘスが単身飛行機でスコットランドへ渡った翌月のことである。その時にヘスはイギリス政府の首脳と会談したはずだが、その内容は未だに明かされていない。

 ソ連を侵略するためにアドルフ・ヒトラーは約300万人を投入した。西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人。ドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、ヒトラーに退けられたとされている。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)

 軍の幹部が東と西で半々にしようと提案したのは西側からの攻撃にも備えなければならないという判断からだが、ヒトラーはそうした攻撃に備える必要がないと考えていたとしか思えない。そこで、西側からイギリスなどが攻撃してこないことをヒトラーは知っていたのではないかと推測する人もいるが、ありえないとは言えないだろう。

 ドイツ軍が東へ向かっている様子をイギリスやアメリカは傍観している。両国が動き始めるのはスターリングラードでドイツ軍が降伏した後。

 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するのだが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。

 それを見たイギリスやアメリカは5月にワシントンDCで会談し、ドイツに対する軍事作戦を作成、7月に両国軍はマフィアの協力を得てシチリア島へ上陸した。ハリウッド映画の宣伝で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。この上陸作戦に対する防衛を巡り、ドイツ軍の内部でヒトラーへの不審が強まり、暗殺計画につながったとする見方もある。

 その1944年当時、OSSの幹部でウォール街の弁護士でもあるアレン・ダレスたちはフランクリン・ルーズベルト大統領には無断で1944年にドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将らと接触していた。その仲介役はダレスの部下でウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナーだ。大戦後、ウィズナーは極秘の破壊工作機関OPCを指揮することになる。

 ウォール街の要人たちはナチス元高官らをラテン・アメリカへ逃がすラットラインを作り、国務省やCIAはそうした人びとやドイツの科学者を雇う。ブラッドストーン作戦とペーパークリップ作戦だ。

 こうした作戦を推進したグループとは違って反ファシズムの立場だったルーズベルト大統領は1945年4月に急死、5月上旬にドイツは降伏する。その直後にイギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連へ軍事侵攻するための作戦を立てるようにJPS(合同作戦本部)にを命令、アンシンカブル作戦が提出された。

 その作戦によると、攻撃を始めるのは7月1日で、アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が発動しなかったのは参謀本部が計画を拒否したからだという。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 この後、7月16日にニューメキシコ州のトリニティー・サイトで原子爆弾の爆破実験が行われ、成功。8月6日には広島、8月9日には長崎に原爆が投下され、世界は核兵器の時代へ移行していく。

 トリニティ実験の10日後にチャーチルは下野するが、翌年の3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行う。その翌年には​アメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている​。

 ドレスデンへの空爆は広島や長崎への原爆投下と同じように第2次世界大戦の終結との関係性は薄い。
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[近代史3] 馬渕睦夫 deep state の世界を語る _ 朝鮮戦争も東西冷戦もアラブの春も対テロ戦争もすべてヤラセだった 中川隆
58. 中川隆[-13677] koaQ7Jey 2020年2月18日 22:23:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-255]
2020.02.18
ドレスデン空爆で米英軍が市民を虐殺して75年


 今から75年前の2月13日から15日にかけて、イギリスとアメリカの空軍はドイツのドレスデンを空爆した。市街は廃墟と化し、約2万5000名の市民が殺されたと言われている。当時は文化都市として有名で世界的に知られた芸術作品がそこにはあったのだが、爆撃によってその多くが失われた。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、第2次世界大戦はドイツ軍の主力がスターリングラードの戦いで破れた1943年初めの時点で事実上、終わっている。

 ドイツがソ連へ向かって進撃を始めたのは1941年6月のことだった。バルバロッサ作戦だ。アドルフ・ヒトラーの忠実な部下だったルドルフ・ヘスが単身飛行機でスコットランドへ渡った翌月のことである。その時にヘスはイギリス政府の首脳と会談したはずだが、その内容は未だに明かされていない。

 ソ連を侵略するためにアドルフ・ヒトラーは約300万人を投入した。西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人。ドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、ヒトラーに退けられたとされている。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)

 軍の幹部が東と西で半々にしようと提案したのは西側からの攻撃にも備えなければならないという判断からだが、ヒトラーはそうした攻撃に備える必要がないと考えていたとしか思えない。そこで、西側からイギリスなどが攻撃してこないことをヒトラーは知っていたのではないかと推測する人もいるが、ありえないとは言えないだろう。

 ドイツ軍が東へ向かっている様子をイギリスやアメリカは傍観している。両国が動き始めるのはスターリングラードでドイツ軍が降伏した後。

 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するのだが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。

 それを見たイギリスやアメリカは5月にワシントンDCで会談し、ドイツに対する軍事作戦を作成、7月に両国軍はマフィアの協力を得てシチリア島へ上陸した。ハリウッド映画の宣伝で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。この上陸作戦に対する防衛を巡り、ドイツ軍の内部でヒトラーへの不審が強まり、暗殺計画につながったとする見方もある。

 その1944年当時、OSSの幹部でウォール街の弁護士でもあるアレン・ダレスたちはフランクリン・ルーズベルト大統領には無断で1944年にドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将らと接触していた。その仲介役はダレスの部下でウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナーだ。大戦後、ウィズナーは極秘の破壊工作機関OPCを指揮することになる。

 ウォール街の要人たちはナチス元高官らをラテン・アメリカへ逃がすラットラインを作り、国務省やCIAはそうした人びとやドイツの科学者を雇う。ブラッドストーン作戦とペーパークリップ作戦だ。

 こうした作戦を推進したグループとは違って反ファシズムの立場だったルーズベルト大統領は1945年4月に急死、5月上旬にドイツは降伏する。その直後にイギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連へ軍事侵攻するための作戦を立てるようにJPS(合同作戦本部)にを命令、アンシンカブル作戦が提出された。

 その作戦によると、攻撃を始めるのは7月1日で、アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が発動しなかったのは参謀本部が計画を拒否したからだという。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 この後、7月16日にニューメキシコ州のトリニティー・サイトで原子爆弾の爆破実験が行われ、成功。8月6日には広島、8月9日には長崎に原爆が投下され、世界は核兵器の時代へ移行していく。

 トリニティ実験の10日後にチャーチルは下野するが、翌年の3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行う。その翌年には​アメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている​。

 ドレスデンへの空爆は広島や長崎への原爆投下と同じように第2次世界大戦の終結との関係性は薄い。
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[近代史3] 馬渕睦夫のユダヤ陰謀論はどこまで本当なのか? 中川隆
46. 中川隆[-13676] koaQ7Jey 2020年2月18日 22:25:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-254]
2020.02.18
ドレスデン空爆で米英軍が市民を虐殺して75年


 今から75年前の2月13日から15日にかけて、イギリスとアメリカの空軍はドイツのドレスデンを空爆した。市街は廃墟と化し、約2万5000名の市民が殺されたと言われている。当時は文化都市として有名で世界的に知られた芸術作品がそこにはあったのだが、爆撃によってその多くが失われた。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、第2次世界大戦はドイツ軍の主力がスターリングラードの戦いで破れた1943年初めの時点で事実上、終わっている。

 ドイツがソ連へ向かって進撃を始めたのは1941年6月のことだった。バルバロッサ作戦だ。アドルフ・ヒトラーの忠実な部下だったルドルフ・ヘスが単身飛行機でスコットランドへ渡った翌月のことである。その時にヘスはイギリス政府の首脳と会談したはずだが、その内容は未だに明かされていない。

 ソ連を侵略するためにアドルフ・ヒトラーは約300万人を投入した。西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人。ドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、ヒトラーに退けられたとされている。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)

 軍の幹部が東と西で半々にしようと提案したのは西側からの攻撃にも備えなければならないという判断からだが、ヒトラーはそうした攻撃に備える必要がないと考えていたとしか思えない。そこで、西側からイギリスなどが攻撃してこないことをヒトラーは知っていたのではないかと推測する人もいるが、ありえないとは言えないだろう。

 ドイツ軍が東へ向かっている様子をイギリスやアメリカは傍観している。両国が動き始めるのはスターリングラードでドイツ軍が降伏した後。

 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するのだが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。

 それを見たイギリスやアメリカは5月にワシントンDCで会談し、ドイツに対する軍事作戦を作成、7月に両国軍はマフィアの協力を得てシチリア島へ上陸した。ハリウッド映画の宣伝で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。この上陸作戦に対する防衛を巡り、ドイツ軍の内部でヒトラーへの不審が強まり、暗殺計画につながったとする見方もある。

 その1944年当時、OSSの幹部でウォール街の弁護士でもあるアレン・ダレスたちはフランクリン・ルーズベルト大統領には無断で1944年にドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将らと接触していた。その仲介役はダレスの部下でウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナーだ。大戦後、ウィズナーは極秘の破壊工作機関OPCを指揮することになる。

 ウォール街の要人たちはナチス元高官らをラテン・アメリカへ逃がすラットラインを作り、国務省やCIAはそうした人びとやドイツの科学者を雇う。ブラッドストーン作戦とペーパークリップ作戦だ。

 こうした作戦を推進したグループとは違って反ファシズムの立場だったルーズベルト大統領は1945年4月に急死、5月上旬にドイツは降伏する。その直後にイギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連へ軍事侵攻するための作戦を立てるようにJPS(合同作戦本部)にを命令、アンシンカブル作戦が提出された。

 その作戦によると、攻撃を始めるのは7月1日で、アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が発動しなかったのは参謀本部が計画を拒否したからだという。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 この後、7月16日にニューメキシコ州のトリニティー・サイトで原子爆弾の爆破実験が行われ、成功。8月6日には広島、8月9日には長崎に原爆が投下され、世界は核兵器の時代へ移行していく。

 トリニティ実験の10日後にチャーチルは下野するが、翌年の3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行う。その翌年には​アメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている​。

 ドレスデンへの空爆は広島や長崎への原爆投下と同じように第2次世界大戦の終結との関係性は薄い。
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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/212.html#c46

[近代史3] 右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた 中川隆
63. 中川隆[-13675] koaQ7Jey 2020年2月18日 22:26:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-253]
2020.02.18
ドレスデン空爆で米英軍が市民を虐殺して75年


 今から75年前の2月13日から15日にかけて、イギリスとアメリカの空軍はドイツのドレスデンを空爆した。市街は廃墟と化し、約2万5000名の市民が殺されたと言われている。当時は文化都市として有名で世界的に知られた芸術作品がそこにはあったのだが、爆撃によってその多くが失われた。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、第2次世界大戦はドイツ軍の主力がスターリングラードの戦いで破れた1943年初めの時点で事実上、終わっている。

 ドイツがソ連へ向かって進撃を始めたのは1941年6月のことだった。バルバロッサ作戦だ。アドルフ・ヒトラーの忠実な部下だったルドルフ・ヘスが単身飛行機でスコットランドへ渡った翌月のことである。その時にヘスはイギリス政府の首脳と会談したはずだが、その内容は未だに明かされていない。

 ソ連を侵略するためにアドルフ・ヒトラーは約300万人を投入した。西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人。ドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、ヒトラーに退けられたとされている。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)

 軍の幹部が東と西で半々にしようと提案したのは西側からの攻撃にも備えなければならないという判断からだが、ヒトラーはそうした攻撃に備える必要がないと考えていたとしか思えない。そこで、西側からイギリスなどが攻撃してこないことをヒトラーは知っていたのではないかと推測する人もいるが、ありえないとは言えないだろう。

 ドイツ軍が東へ向かっている様子をイギリスやアメリカは傍観している。両国が動き始めるのはスターリングラードでドイツ軍が降伏した後。

 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するのだが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。

 それを見たイギリスやアメリカは5月にワシントンDCで会談し、ドイツに対する軍事作戦を作成、7月に両国軍はマフィアの協力を得てシチリア島へ上陸した。ハリウッド映画の宣伝で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。この上陸作戦に対する防衛を巡り、ドイツ軍の内部でヒトラーへの不審が強まり、暗殺計画につながったとする見方もある。

 その1944年当時、OSSの幹部でウォール街の弁護士でもあるアレン・ダレスたちはフランクリン・ルーズベルト大統領には無断で1944年にドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将らと接触していた。その仲介役はダレスの部下でウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナーだ。大戦後、ウィズナーは極秘の破壊工作機関OPCを指揮することになる。

 ウォール街の要人たちはナチス元高官らをラテン・アメリカへ逃がすラットラインを作り、国務省やCIAはそうした人びとやドイツの科学者を雇う。ブラッドストーン作戦とペーパークリップ作戦だ。

 こうした作戦を推進したグループとは違って反ファシズムの立場だったルーズベルト大統領は1945年4月に急死、5月上旬にドイツは降伏する。その直後にイギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連へ軍事侵攻するための作戦を立てるようにJPS(合同作戦本部)にを命令、アンシンカブル作戦が提出された。

 その作戦によると、攻撃を始めるのは7月1日で、アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が発動しなかったのは参謀本部が計画を拒否したからだという。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 この後、7月16日にニューメキシコ州のトリニティー・サイトで原子爆弾の爆破実験が行われ、成功。8月6日には広島、8月9日には長崎に原爆が投下され、世界は核兵器の時代へ移行していく。

 トリニティ実験の10日後にチャーチルは下野するが、翌年の3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行う。その翌年には​アメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている​。

 ドレスデンへの空爆は広島や長崎への原爆投下と同じように第2次世界大戦の終結との関係性は薄い。
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[番外地7] メモ帳 _ 音楽・オーディオ 中川隆
10. 2020年2月19日 10:41:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-252]
オーディオの音はケーブルで殆ど決まってしまうからね。
ベルデンやウェスタンならいい音になるけど、秋葉原で売ってる国産だとまともな音にならないんだよ

「Café 新空間」

スピーカー(TANNOY Canterbury GR + Super Tweeter ST-200)
CDプレーヤー(Accuphase DP-720)
プリアンプ(Accuphase EQ AMP内臓 C-2850)
メインアンプ自作「6F6オルソンアンプ」

TANNOY Canterbury はどうしようもないダメスピーカー
オーディオで音に一番影響するプリアンプがアキュフェーズとか、どうしようもないバカだね

それから、自作アンプは安物の半田やケーブルを使うからまともな音にならない。
半田はナッソーみたいなアンティーク品でないといい音にならないんだよ
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/337.html#c10

[番外地7] メモ帳 _ 音楽・オーディオ 中川隆
11. 2020年2月19日 10:45:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-251]
自分でトランスを巻ける様な人でないと自作アンプを作っても自己満足にしかならない。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/337.html#c11
[近代史3] アジア東部集団の形成過程 中川隆
3. 中川隆[-13674] koaQ7Jey 2020年2月19日 10:52:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-250]
2020年02月19日
Robin Dennell「現生人類はいつ東アジアへやってきたのか」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_40.html


 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された

西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』
https://www.amazon.co.jp/アフリカからアジアへ-現生人類はどう拡散したか-朝日選書-西秋良宏/dp/4022630949


所収の論文です。本論文は、中国を中心としたアジア東部における現生人類(Homo sapiens)の起源、つまり現生人類がいつアジア東部に到来したのか、という問題を取り上げています。これに関しては、現生人類の拡散は1回だけで、6万年前頃にアフリカから拡散し始め、アジアやオーストラリアへ一気に拡散した、という見解と、主要な拡散は2回あり、最初は10万年前頃、2回目は6万年前頃だった、という見解が提示されています。

 本論文はまず、アジア東部の環境を取り上げます。中国の自然環境は南北に二分されます。北部は旧北区の亜乾燥地域で、南部は降水量が多く、典型的な亜熱帯・熱帯の植生が広がっています。もちろん、これは現代の気候ですが、中国は過去250万年の古気候記録も豊富で、人類拡散の研究に役立っています。本論文では、現生人類のアジア東部への拡散と関わってくる、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5および4の植生復元図が掲載されており、温暖なMIS5では現在とさほど変わらない地形ですが、寒冷なMIS4(MISは奇数が温暖期、偶数が寒冷期)では、砂漠が拡大するとともに、海水面の低下により陸地が増大し、現在とは大きく異なる地形であることが改めて了解されます。温暖で湿潤な時期には中国北部では砂漠が縮小し、西方や北方からの移住が容易となった一方で、中国南部では密集した森林の発達により移住はやや困難となります。逆に寒冷期には、南部への移住は容易になるものの、北部では北方や西方からの移住は拡大した砂漠により困難となります。中国への南方からの移住は、難易度の違いはあれどもどの時期にも可能だったのに対して、北方への移住は温暖な時期にのみ可能だったことになります。こうした人類の移住パターンは過去50万年以上にわたって繰り返されていただろう、と本論文は指摘します。

 黄土高原の気候復元データからは、過去50万年に温暖湿潤な時期は4回あった、と明らかになっています。この時期の中国北部の人類遺骸としては、MIS7における遼寧省営口市の金牛山(Jinniushan)遺跡や陝西省渭南市の大茘(Dali)遺跡の頭蓋骨があります。年代は、大茘人の方がやや新しい20万年前頃と推定されています。本論文は両者をハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)と分類していますが、ハイデルベルゲンシスという分類群には大きな問題があると思うので(関連記事)、とりあえず非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と考えておきます。

 本論文は、中国北部で確認されているホモ・エレクトス(Homo erectus)は金牛山遺跡や大茘遺跡の古代型ホモ属の祖先ではない、という見解を採用しています。中国北部の河北省張家口市陽原県の許家窯(Xujiayao)遺跡のホモ属遺骸(関連記事)については、33万年前頃、20万〜16万年前頃、16万年前頃よりもずっと新しいなど、年代が確定していませんが、分類も難しい、と本論文は指摘します。エレクトスでもハイデルベルク人でもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)でもなく、交雑系統かもしれない、と本論文は推測しています。河南省許昌市(Xuchang)霊井(Lingjing)遺跡で発見された、MIS 5となる125000〜105000年前頃の頭蓋骨(関連記事)について本論文は、在地の古い集団から連続する特徴とネアンデルタール人的特徴とが混在していることから、交雑の可能性を指摘しています。このように、現生人類が中国に拡散してきた時、すでに異なる系統のホモ属が存在しており、交雑が起きた可能性も考えられます。

 早期現生人類の証拠としてアジア南東部で挙げられているのは、ラオスのフアパン(Huà Pan)県にあるタンパリン(Tam Pa Ling)洞窟遺跡(関連記事)、ボルネオ島のニア洞窟群(Niah Caves)遺跡、スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡(関連記事)です。このうち、現生人類の痕跡として最古となりそうなのは、73000〜63000年前頃の現生人類の歯が発見されているリダアジャー遺跡ですが、疑問も呈されています(関連記事)。タンパリンの現生人類遺骸の推定年代は63000〜44000年前頃です。ニア洞窟では45000年前頃の現生人類頭蓋骨が発見されており、熱帯雨林における適応の最古級の事例という点で注目されます。なお、ニア洞窟では10万年以上前の人類の痕跡も報告されています(関連記事)。

 中国南部では、広西壮族(チワン族)自治区崇左市の智人洞窟(Zhirendong)で10万年以上前とされる現生人類の下顎骨と歯が発見されています(関連記事)。これは在地の人類集団と外来の現生人類との交雑集団である可能性も指摘されています。また本論文は、これが単に新しいホモ・エレクトス(Homo erectus)である可能性も提示しています。さらに、この智人洞窟の人類遺骸については、年代に疑問が呈されています。年代は洞窟の床面の一部に堆積したフローストーン(流華石)に基づいていますが、数cmの幅に密集して堆積した流華石の最上部が55000年前頃、最下部が10万年前頃と推定されており、どの部分が下顎骨と関連しているのか決定するのは不可能だろう、というわけです。湖南省永州市(Yongzhou)道県(Daoxian)の福岩洞窟(Fuyan Cave)では、10万〜8万年前頃の現生人類の歯が48本発見されています(関連記事)。福岩洞窟では床面全体が8万年前頃の流華石に覆われており、中国南部には8万年前頃に現生人類が到来していたことになります。しかし本論文は、現生人類の歯が出土した層の形成過程について、さらに詳細に調査されるべきである、と慎重な姿勢を示します。

 このように、中国南部には10万〜8万年前頃に現生人類が到来していた可能性もあるものの、その年代についてはまだ議論の余地があるようです。雲南省の馬鹿洞(Maludong)遺跡では、14310±340〜13590±160年前のホモ属遺骸が発見されています(関連記事)。馬鹿洞人には祖先的特徴も見られ、未知のホモ属系統である可能性も指摘されていますが、山間盆地の点在する環境なので、非現生人類種とは言えないまでも孤立した集団ではないか、と本論文は指摘しています。モンゴル国東部に位置するヘンティー(Khentii)県ノロヴリン(Norovlin)郡のサルキット渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950〜33900年前頃の頭蓋に関しては、祖先的特徴が指摘されていますが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では現生人類の変異内に収まる、と明らかになっています(関連記事)。本論文は、形態から種を決定するのは難しくなってきており、また現生人類とネアンデルタール人との交雑集団をどう区分すべきなのか、といった問題が生じてきている、と指摘します。

 中国北部は、現生人類の到来を検証するうえで重要となる8万〜3万年前頃には、砂漠と草原との間の変化が何回も起きていたように、ひじょうに不安定な気候だった、と明らかになっています。中国北部では、さらに北方からの人類移住の証拠も見られ、防寒性の高い服がすでに使用されていたことを示唆します。チベット北部のチャンタン(Changthang)地域にある、海抜約4600mに位置する尼阿底(Nwya Devu)遺跡では4万〜3万年前頃の現生人類のものと思われる石器群が発見されており(関連記事)、これも当時の人類の寒冷適応を示しています。内モンゴル自治区の金斯太(Jinsitai)洞窟遺跡では47000〜37000年前頃のムステリアン(Mousterian)石器群が発見されており(関連記事)、本論文はその製作者を、ネアンデルタール人もしくはネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との交雑集団と推測しています。

 中国北部において確実な現生人類の痕跡として最古のものは、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類の下顎と足の骨で、石器の共伴はありませんが、形態学でも遺伝学でも現生人類に分類されています(関連記事)。田园洞窟の現生人類男性は日常的に履物を使用していた、と推測されています(関連記事)。北京市房山区の周口店(Zhoukoudian)遺跡では現生人類の頭蓋骨と、ヨーロッパの上部旧石器時代初頭のものとよく似たビーズが発見されており、年代は36000年前頃と推定されています。

 寧夏回族自治区の水洞溝1遺跡では、4万年前頃の上部旧石器時代初頭の石器群が発見されており、少なくとも2種類の石刃剥離工程を示すものも含まれ、モンゴルやシベリアの同時代石器群と対比されていますが、中国南部の石器群とは大きく異なります。水洞溝2遺跡では、36000〜28000年前頃にかけて断続的にヒトが居住した、と推測されています。水洞溝2遺跡の石器群や装身具はシベリアで発見されたものとよく似ています。中国北部の早期現生人類と関連していると推測される考古学的記録はモンゴルやシベリアのそれとの共通性が高く、中国南部と異なっていますが、これは上述の自然環境の違いを反映しているようです。25000年前頃以降には、中国北部に細石刃石器群が出現し、シベリアやモンゴルや朝鮮半島や日本列島北部でも発見されていることから、北方からの移住は繰り返されていた、と示唆されます。中国北部への現生人類の拡散は、水洞溝1遺跡のような大型石刃石器群を有する集団、次に水洞溝2遺跡のような小型石刃石器群を有する集団、その次に細石刃石刃石器群を有する集団の3回ほどあっただろう、と推測しています。

 本論文は、以上のように中国における人類史は複雑で、それは広大な面積と多様な自然環境に起因する、と指摘します。中国には、現生人類の到来前に他の人類がすでに存在していました。本論文は、上述の金斯太洞窟遺跡の事例から、現生人類が中国北部の環境に適応できた一因として、ネアンデルタール人もしくはネアンデルタール人とデニソワ人の交雑集団から技術を学んだ可能性すら考慮すべきである、と指摘します。中国を含めてアジア東部への現生人類の拡散は、以前の想定よりもずっと複雑だったようで、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Dennell R. 、西秋良宏翻訳(2020)「現生人類はいつ東アジアへやってきたのか」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第3章P95-126

https://sicambre.at.webry.info/202002/article_40.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/739.html#c3

[番外地7] メモ帳 _ 音楽・オーディオ 中川隆
12. 2020年2月19日 11:18:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-249]
751名無しの笛の踊り2020/02/19(水) 11:14:09.60ID:H9dinePe
「2018九州ハイエンド・オーディオ・フェア」(会場:福岡市、「マックス・オーデイオ」主催)に行ってきた。         
タンノイさんの「カンタベリー」(356万円)だが、これも感心できなかった。
やたらに高音域がうるさく何だか金属的な響きがするし、低音域の沈み込みも明らかに足りない。
昔のタンノイは良くも悪くも「いぶし銀のような音」に特徴があったのだが、まさに隔世の感がある。
クラシック再生に限らずジャズの再生も併せて狙ったような音だったが
どうも周波数レンジを広げ過ぎて音の密度を薄くしたような印象で、
このスピーカーもただでくれるといっても要らない。

752名無しの笛の踊り2020/02/19(水) 11:15:49.93ID:H9dinePe
音楽も音も全然わからない自作アンプマニアが名曲喫茶をやるのが間違っているんだよ
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/337.html#c12

[近代史3] ロベルト・シューマン 交響曲第4番 中川隆
10. 中川隆[-13673] koaQ7Jey 2020年2月19日 11:45:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-248]
シューマンの楽譜と病気の関係 2020 FEB 18 by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2020/02/18/シューマンの楽譜と病気の関係/


シューマンの楽譜を見ていると、大学で初めて憲法や民法を読んだ時のことを思い出すことがある。法文は読み手の呼吸と合わないから意味がすんなり入ってこず、へたくそな文章だと思った。しかし慣れてくるとわかる。『書かれるべきこと』を必要最小限の文字に落とし込み、読み手が勝手に解釈する余地も最小限にするとそうなるのだ。

後に仕事で契約書に遭遇する。契約は訴訟になったらという前提だから書きかたは確立していて、回りくどくて解りにくい箇所は往々にしてその契約の個性ある守りの難所なのだ。法学部という所はいわばそういうややこしい文章の訓練所であり、拙ブログもそうだが、くどいけど念押しまでして正確に伝えることがもはや僕の抜きさし難い習性となってしまっている。そのことは「精読」して下さる読者の方だけがわかる。内容が『書かれるに値すること』だったかどうか?それは、ぜんぜん別なことだ。

シューマンの譜面に一抹のぎこちなさを感じるのは、例えば、トロイメライの旋律と拍節の見かけの不一致とか、第3交響曲の冒頭について書いたこのブログのような箇所だ(シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第1楽章))。どうしてこうなるかというと、彼は心に浮かんだ楽想を『書かれるべきこと』として「採譜」したのだと思われる。立法者が必要なコンテンツを法律にするのと同じで、そのどちらの作業も英語はコンポーズ(compose)だ。そこだけ切り出せばエンジニアの如くメカニックな作業である。

シューマンは自著

「音楽と音楽家」
https://www.amazon.co.jp/音楽と音楽家-岩波文庫-青-502-1-シューマン/dp/4003350219


の「音楽の座右銘」の章にこう書いている(吉田秀和訳、岩波文庫、230ページ):

作曲をするようになったら、まず頭の中ですっかり作ってしまうこと。そうして、その曲がすっかりできるまで、楽器で弾かないように。心の中から湧いてきた音楽なら、他の人がきいても、やはり同じようにうたれるだろう。もし、君が幸いにも活発な幻想力を天から恵まれていたら、さぞ君もただ一人でピアノの前に釘づけになったように何時間も座り込んで、和声の中に心の内を表現しようとするだろう。
以上は「子供のための小品集」の出版に際して子供に向けて書いた文章だが、彼の作曲法(過程)をうかがうことができる。「心の中から湧いてきた音楽」を和声まですっかり作ってからピアノで弾きなさい(つまり、譜面に書きなさい)と言っている。まさにこうして、ラインの冒頭はあの譜面になったのだろう。

シューマンの音楽はファンタスティックなものであるが、それは心の中から湧いてきた音楽という原石がそうだという話であり、それを採譜する作業にファンタジーがまぎれこむなんてことはあり得ない。そしてその作業の精度と速度は最晩年に精神の変調してをきたしてからもいささかも衰えを知らないということは、

「チェロ協奏曲は1850年10月10日から24日にかけて、交響曲第3番は1850年11月2日から12月9日にかけて、ヴァイオリンソナタ第1番は4日間、同第2番は6日間、ピアノ三重奏曲第3番が7日間と、驚くべき速筆で書かれている。『ヘルマンとドロテア』序曲はわずか数時間で作曲された」(wikipedia)

という事実で実証されている。つまり、それがロジカルに意味するところは、採譜された楽譜を深く研究しそのままを弾けば原石のファンタジーは現れるし、現れるように弾くことが良いシューマンの演奏ということになる。

シューマンは子供のころから晩年に至るまで日記を書き続けている。僕もそうなので想像してしまうが、何かの目的のためというよりは日々の出来事を書き残しておきたいからだ。シューマンは性生活まで書きこんでいるが、べつに何のためでもなくそういう性格なのだ。昨今だとそれって変質狂ですよなんて平気で病気にされかねないが、そんな風潮自体が成熟社会の病気だ。僕は数を数えるくせがあって、階段は縁起が悪い4、13回のステップにならないようにしたりするが、今どきはニュメロマニア(計算狂)なんて病気にされてしまう。高所恐怖症も閉所恐怖症も心療内科に行けばきっと病気だろう。

シューマンにはいろんな普通ではない個性があって、誘因となり得る病名は学者によると躁鬱病、梅毒、統合失調症、結核性髄膜炎、脳腫瘍と多彩である。どれであれたしかに病気だ。しかし、ひとつのことに異常にこだわり執拗に気に入ったリズムくりかえすなどは、そういう症状を生む病気があるかどうかは知らないが、常識的には「性格」であり遺伝的形質と考えるのが自然だろう。ライン川に投身するのは尋常でないが、姉のエミーリエも29歳で入水自殺しておりそれも遺伝かもしれない。彼の「心の中から湧いてきた音楽」は持って生まれたものの投影であり、遺伝的性格の産物であったという考え方は自然に成り立つと思う。

逆に、日本では狂おしい病気が往々にして彼の楽想のファンタジーに関係づけられてしまう傾向を見る。それを言う人はほとんど「心の中から湧いてきた音楽」と「採譜するメカニックな工程」の区別に気づいていない。候補とされたどの病気の罹患者もファンタジーを好む性向になるという科学的論拠は聞かないし、僕の知るドイツ人、英国人のシューマン好きでそんなことを言う人は一人もいなかった。戦前の私小説で「肺をやる(病む)」「吐血する」が一種のマゾヒスティックな美学風に取り扱われたのを思い起こさないでもない(僕はその風情がおぞましくて読まなくなった)。日本病の一環かもしれない。

また、彼の管弦楽法を未熟と見て改定するのは完璧な誤り(error perfectus)である。見た通り、シューマンの「心の中から湧いてきた音楽」を「採譜」する能力は年齢でも病気でも微塵も衰えなかった。ということは、彼のスコアは忠実にその「音楽」を書き取ったものの具現であるはずで、地味に響こうが金管の書法が20世紀の進化した楽器にとって無用にぎこちなかろうが、マーラーやシューリヒトが違う風に書き直すことにソフィスティケイトされたいかなる意義、インテリジェンスも見出すことは僕には不可能だ。同じ意味で、「シューマンの音楽はファンタスティックなものである」と、楽譜に指示のない自己流を “ファンタスティック風に” 演奏する人にも、かけらも関心を持ちようがない。なぜかは彼に代弁してもらおう。

いわゆる華麗なひき方が、達者にこなせるようになろうと心がけないように。ある曲をひく時には、作曲家の考えていた印象をよび起こすよう努めなければいけない。それ以上をねらってはいけない。作家の意図を超えたものは、漫画と同じだ。
(ロベルト・シューマン、上掲書232〜3ページ)


https://sonarmc.com/wordpress/site01/2020/02/18/シューマンの楽譜と病気の関係/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/895.html#c10

[リバイバル3] 音楽はこういう部屋で聴きたい 中川隆
82. 中川隆[-13672] koaQ7Jey 2020年2月19日 12:02:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-247]

音楽カフェ Blossom :ブロッサム

埼玉県越谷市東大沢5丁目15番3

営業時間:午後2時30分〜8時30分(ラストオーダー) 午後9時30分閉店

定休日:火曜日・水曜日
https://www.cafe-blossom.jp/about/index.html


音楽カフェブロッサム(Blossom): 音楽を楽しめるレストラン・レンタルスペース。グランドピアノ, タンノイオートグラフミレニアム、真空管アンプ、-埼玉県越谷市
https://www.cafe-blossom.jp/owner/index.html#audio


建物

(1) 建物はカナダより輸入。 イギリス風外観

(2) 音楽を楽しむために、遮音、内装材、床構造に配慮しました。 コンクリートベース+構造用合板+遮音マットの上に、直接ブラックウォルナットの無垢床材を貼っております。

(3) 建物は2x6工法を採用し、外部との遮音を行うため壁の厚みは20cm程度と十分確保しました。壁材はスピーカ背面はオーク他の面は吸音壁と腰板の組み合わせ、音響を配慮した天井材を使用しています。

(4) 室内面積は、約30畳(50m2)。天井高さは 5.5m と充分確保しました。

オーディオ装置


(1) 使用スピーカは英国製大型スピーカ、タンノイオートグラフミレニアム(右欄写真)。

レコードプレーヤはトーレンス TD520 に、SME3012トーンアームを取り付け、カートリッジはオルトフォン MC20Wを使用。


(2) プリアンプは、真空管式CRイコライザ+超低歪率フラットアンプを使用。

写真でのアンプ右側にあるのは、FET式MCカートリッジ用ヘッドアンプ。
(上田順筰氏 特製)


(3) ボリューム、フラットアンプ インピーダンス変換機能付 入出力切り替え装置。

スピーカ 2系統、メインアンプ 3系統、ライン入力 3系統を 瞬時に比較試聴可能。

ディジタルコントロール 高信頼性クロスバーリレー使用。
(上田順筰氏 特製)

(4)メインアンプは大型直熱真空管 845 を使用した三段直結アンプ。 モノラルアンプ 2台
(上田順筰氏 特製)

https://www.cafe-blossom.jp/owner/index.html#audio
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/655.html#c82

[リバイバル3] 中川隆 _ 経済、ビジネス関係投稿リンク 中川隆
154. 中川隆[-13671] koaQ7Jey 2020年2月19日 12:18:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-246]
パチンコを根絶したらGDPが減り失業者が増えるだけ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/913.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/813.html#c154
[リバイバル3] 輸入肉を食べると癌になる 中川隆
17. 中川隆[-13670] koaQ7Jey 2020年2月19日 12:38:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-245]
発がんリスク指摘の米国産牛肉、無邪気に食べるのは日本人だけ 2020/02/19


© マネーポストWEB 提供 将来、アメリカ産牛肉の輸入量は国産牛の倍以上に
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/発がんリスク指摘の米国産牛肉、無邪気に食べるのは日本人だけ/ar-BB108osL?ocid=ientp&fullscreen=true#image=1


 発がんリスクのある「肥育ホルモン」が含まれたアメリカ産牛肉が激増──。2月7日の財務省の速報で、アメリカ産牛肉の輸入量が前年の122%に増加したことがわかった。ますます増える“恐怖の牛肉”は、そこかしこに潜んでいる。

 都内にある全国チェーンのファミリーレストラン。パート主婦の坂田さん(仮名)は家族で来ることが多いという。

「ここなら、家族みんなの食べたいものがあります。夫はサーロインステーキ、中学生の息子はチーズハンバーグ、小学生の娘はビーフシチューがお気に入り。食材を買って自炊するより安いメニューもあるんですよ! 月に何回かは利用しています」

 カラフルなメニュー表を見ると、ステーキには「アンガス牛」の表示。ただ、ハンバーグにもビーフシチューにも、表示はなかった。実はそれ、すべてアメリカからの輸入牛である。

 今年1月から関税率が下がり、輸入量が激増しているアメリカ産牛肉には恐るべき問題点がある。

 多くのアメリカ産牛肉には、牛の生育を早め、飼育コストを下げることを目的に天然や合成の性ホルモンから作った「肥育ホルモン剤」として女性ホルモン(エストロゲン、プロゲステロン)が投与されている。1970〜1980年代にかけて、そうした肉を食べた幼い女の子の乳房がふくらんだり、月経が起きるなどの異常な性発育が続出した騒動以来、EUでは1988年に肥育ホルモンの使用が、1989年には肥育ホルモンを使った肉の輸入が全面禁止となった。その後、EU諸国では乳がん死亡率が20%以上減ったという。

 一方、国産牛肉と比較した研究では、アメリカ産牛肉からは赤身で600倍、脂身で140倍もの女性ホルモン(エストロゲン)が検出されたという報告がある。
 倫理上“人体実験”ができないため、人体への影響は完全には証明できない。しかし、肥育ホルモン使用牛のリスクは見逃せるものではない。当の米国でも「ホルモンフリー」の肉が人気を博すなど、世界中で問題視され、避けられている。無邪気に食べているのは日本人だけなのだ──。

「スーパーで原産地表示を確認して、アメリカ産牛肉を買わなければいいのでは?」と思う人もいるだろう。

 たしかにスーパーの生鮮食品は、原産国名表示が必須。しかし、果たしてその「アメリカ産」だけを避ければ、口にしなくて済むのだろうか。

「加工食品は、重量が最も多い食材が肉でない限り、産地を明記する義務はありません。レトルトカレーから冷凍コロッケまで、さまざまな商品に牛肉は入っています。また、お総菜など、作ったその場で販売される食品は、『お店の人に確認することができるから』という理由で、原料原産地表示は不要。肉じゃがや牛肉の炒め物、最近ブームの牛カツだって、安いアメリカ産である可能性は充分あります」(食品ジャーナリスト)


 産地を尋ねられて即座に答えられる店員が、果たしてどれくらいいるのだろう。

※女性セブン2020年2月27日号

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/発がんリスク指摘の米国産牛肉、無邪気に食べるのは日本人だけ/ar-BB108osL?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/733.html#c17

[不安と不健康15] コンビニ弁当やお握りは辞めた方がいいです。『拡散』 (カズちゃんのブログ)  赤かぶ
339. 中川隆[-13669] koaQ7Jey 2020年2月19日 12:38:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-244]
発がんリスク指摘の米国産牛肉、無邪気に食べるのは日本人だけ 2020/02/19


© マネーポストWEB 提供 将来、アメリカ産牛肉の輸入量は国産牛の倍以上に
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/発がんリスク指摘の米国産牛肉、無邪気に食べるのは日本人だけ/ar-BB108osL?ocid=ientp&fullscreen=true#image=1


 発がんリスクのある「肥育ホルモン」が含まれたアメリカ産牛肉が激増──。2月7日の財務省の速報で、アメリカ産牛肉の輸入量が前年の122%に増加したことがわかった。ますます増える“恐怖の牛肉”は、そこかしこに潜んでいる。

 都内にある全国チェーンのファミリーレストラン。パート主婦の坂田さん(仮名)は家族で来ることが多いという。

「ここなら、家族みんなの食べたいものがあります。夫はサーロインステーキ、中学生の息子はチーズハンバーグ、小学生の娘はビーフシチューがお気に入り。食材を買って自炊するより安いメニューもあるんですよ! 月に何回かは利用しています」

 カラフルなメニュー表を見ると、ステーキには「アンガス牛」の表示。ただ、ハンバーグにもビーフシチューにも、表示はなかった。実はそれ、すべてアメリカからの輸入牛である。

 今年1月から関税率が下がり、輸入量が激増しているアメリカ産牛肉には恐るべき問題点がある。

 多くのアメリカ産牛肉には、牛の生育を早め、飼育コストを下げることを目的に天然や合成の性ホルモンから作った「肥育ホルモン剤」として女性ホルモン(エストロゲン、プロゲステロン)が投与されている。1970〜1980年代にかけて、そうした肉を食べた幼い女の子の乳房がふくらんだり、月経が起きるなどの異常な性発育が続出した騒動以来、EUでは1988年に肥育ホルモンの使用が、1989年には肥育ホルモンを使った肉の輸入が全面禁止となった。その後、EU諸国では乳がん死亡率が20%以上減ったという。

 一方、国産牛肉と比較した研究では、アメリカ産牛肉からは赤身で600倍、脂身で140倍もの女性ホルモン(エストロゲン)が検出されたという報告がある。
 倫理上“人体実験”ができないため、人体への影響は完全には証明できない。しかし、肥育ホルモン使用牛のリスクは見逃せるものではない。当の米国でも「ホルモンフリー」の肉が人気を博すなど、世界中で問題視され、避けられている。無邪気に食べているのは日本人だけなのだ──。

「スーパーで原産地表示を確認して、アメリカ産牛肉を買わなければいいのでは?」と思う人もいるだろう。

 たしかにスーパーの生鮮食品は、原産国名表示が必須。しかし、果たしてその「アメリカ産」だけを避ければ、口にしなくて済むのだろうか。

「加工食品は、重量が最も多い食材が肉でない限り、産地を明記する義務はありません。レトルトカレーから冷凍コロッケまで、さまざまな商品に牛肉は入っています。また、お総菜など、作ったその場で販売される食品は、『お店の人に確認することができるから』という理由で、原料原産地表示は不要。肉じゃがや牛肉の炒め物、最近ブームの牛カツだって、安いアメリカ産である可能性は充分あります」(食品ジャーナリスト)


 産地を尋ねられて即座に答えられる店員が、果たしてどれくらいいるのだろう。

※女性セブン2020年2月27日号

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/発がんリスク指摘の米国産牛肉、無邪気に食べるのは日本人だけ/ar-BB108osL?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/09/health15/msg/764.html#c339

[不安と不健康16] “早死にする人”ランキング 短命にある共通点とは…(ZAK×SPA!)  赤かぶ
160. 中川隆[-13668] koaQ7Jey 2020年2月19日 12:39:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-243]
発がんリスク指摘の米国産牛肉、無邪気に食べるのは日本人だけ 2020/02/19


© マネーポストWEB 提供 将来、アメリカ産牛肉の輸入量は国産牛の倍以上に
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/発がんリスク指摘の米国産牛肉、無邪気に食べるのは日本人だけ/ar-BB108osL?ocid=ientp&fullscreen=true#image=1


 発がんリスクのある「肥育ホルモン」が含まれたアメリカ産牛肉が激増──。2月7日の財務省の速報で、アメリカ産牛肉の輸入量が前年の122%に増加したことがわかった。ますます増える“恐怖の牛肉”は、そこかしこに潜んでいる。

 都内にある全国チェーンのファミリーレストラン。パート主婦の坂田さん(仮名)は家族で来ることが多いという。

「ここなら、家族みんなの食べたいものがあります。夫はサーロインステーキ、中学生の息子はチーズハンバーグ、小学生の娘はビーフシチューがお気に入り。食材を買って自炊するより安いメニューもあるんですよ! 月に何回かは利用しています」

 カラフルなメニュー表を見ると、ステーキには「アンガス牛」の表示。ただ、ハンバーグにもビーフシチューにも、表示はなかった。実はそれ、すべてアメリカからの輸入牛である。

 今年1月から関税率が下がり、輸入量が激増しているアメリカ産牛肉には恐るべき問題点がある。

 多くのアメリカ産牛肉には、牛の生育を早め、飼育コストを下げることを目的に天然や合成の性ホルモンから作った「肥育ホルモン剤」として女性ホルモン(エストロゲン、プロゲステロン)が投与されている。1970〜1980年代にかけて、そうした肉を食べた幼い女の子の乳房がふくらんだり、月経が起きるなどの異常な性発育が続出した騒動以来、EUでは1988年に肥育ホルモンの使用が、1989年には肥育ホルモンを使った肉の輸入が全面禁止となった。その後、EU諸国では乳がん死亡率が20%以上減ったという。

 一方、国産牛肉と比較した研究では、アメリカ産牛肉からは赤身で600倍、脂身で140倍もの女性ホルモン(エストロゲン)が検出されたという報告がある。
 倫理上“人体実験”ができないため、人体への影響は完全には証明できない。しかし、肥育ホルモン使用牛のリスクは見逃せるものではない。当の米国でも「ホルモンフリー」の肉が人気を博すなど、世界中で問題視され、避けられている。無邪気に食べているのは日本人だけなのだ──。

「スーパーで原産地表示を確認して、アメリカ産牛肉を買わなければいいのでは?」と思う人もいるだろう。

 たしかにスーパーの生鮮食品は、原産国名表示が必須。しかし、果たしてその「アメリカ産」だけを避ければ、口にしなくて済むのだろうか。

「加工食品は、重量が最も多い食材が肉でない限り、産地を明記する義務はありません。レトルトカレーから冷凍コロッケまで、さまざまな商品に牛肉は入っています。また、お総菜など、作ったその場で販売される食品は、『お店の人に確認することができるから』という理由で、原料原産地表示は不要。肉じゃがや牛肉の炒め物、最近ブームの牛カツだって、安いアメリカ産である可能性は充分あります」(食品ジャーナリスト)


 産地を尋ねられて即座に答えられる店員が、果たしてどれくらいいるのだろう。

※女性セブン2020年2月27日号

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/発がんリスク指摘の米国産牛肉、無邪気に食べるのは日本人だけ/ar-BB108osL?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/13/health16/msg/134.html#c160

[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
18. 2020年2月19日 12:45:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-245]
2020年02月19日
新型コロナ日本国内感染は正味約30人、政府と厚労省の生ぬるさが不安材料


615人から船、チャーター機、中国人や帰国者を除くと30人前後になる

画像引用:【まとめ】国内で確認の感染者は615人に(18日) :朝日新聞デジタルhttps://www.asahi.com/articles/ASN2L3QJMN2LUEHF002.html

日本国内の感染状況と政府の動向

新型コロナウイルス感染者数は2月19日午前に世界で約7万5000人、中国は約7万4000人で日本は615人となっています。

日本はこのうちクルーズ船が454人、武漢から帰国したチャーター機が13人、その他が53人だった。

その他の感染者の中で日本国籍は37人で、中国や中国人と接点がない感染者は2月13日に初めて確認された。


神奈川県の80代女性は義理の息子のタクシー運転手の男性も感染しており、タクシー乗客から移された可能性が高い。

2月13日には千葉県のITエンジニアも感染が確認され、発熱後も都内の満員電車などを利用していた。

本人を名乗る人物がネットに投稿していて、40度の熱が一週間続き、なんども新型ウイルス検査を申し込んだが保健所に断られたと書かれている。


特に治療も隔離も受けず放っておかれたが新型コロナ感染が分かったので、これから隔離されると書かれていた。

千葉の空港職員の場合もほとんど同じで、受診した病院が何度もウイルス検査を依頼したが、保健所は最初「武漢渡航者との接触を証明しろ」と犯罪者扱いし検査を拒否した。

厚生労働省から保健所にウイルス検査禁止の命令が出ていたようで、こんな指示が出せるのは本省か厚労大臣か首相だけです。


こんな指示を出す理由も「感染者を隠して少なく見せかけたい」しか考えられず、後々大問題に発展するかもしれません。

厚労省と保健所は新型ウイルスの当初から「人から人には感染しない」「日本人には感染しない」「国内感染はしない」と言い続けた。

国内で感染者が見つかった後も「潜伏期間はない」「発熱していなければ感染していない」「湖北省渡航者と接触なければ感染しない」と言っていました。


これらすべてがウソだったのが分かっているが、現在も「過剰な警戒はしないよう」呼びかけ、中国からの入国禁止に反対している。

厚労省と安倍政権の態度

習近平の訪日が4月に迫っていて、河野大臣によると中国側は「訪日してほしければ情報統制しなさい」と日本に要求している。

安倍首相周辺は習訪日に前のめりで、中国が強く反発している「中国からの入国禁止」に反対している。

もし日本政府が中国からの入国禁止を決めたら、4月の習近平訪日は中止になり、安倍首相の外交成果が潰され親中派の二階幹事長が反安倍に転じるかも知れない。


おそらく安倍首相はこうした事情で中国からの入国禁止をしていないが、日本人の命より中国人を優先していると批判されている。

もっとも日本政府は表ざたにならないよう動いていて、中国からの新規のビザ発給を停止したとかこれから停止すると言われている。

入国する中国人は減少しているが、ダイヤモンドプリンセスは乗客のたった一人の中国人から450人以上に感染した。


1人の感染者を入国させると100人や1000人に感染し、その人たちからまた感染が拡大する恐れがある。

中国人との接点がない日本人感染者10人程は、日本人同士の接触や接近で感染したと見られ、院内感染や市中感染が起きている。

感染者の治療に当たった医療スタッフや救急隊員、保健所や厚労省職員も感染していて、厚労省と政府の甘さが目立つ。


厚労省はクルーズ船の船内で検査する時、規則だからと医師や職員に防護服着用を禁止し、マスクは使い回ししていた。

この体たらくでは他に無数のミスをしている筈で、今後も日本人同士の市中感染は増加するでしょう。

安倍首相や内閣は「桜疑惑」で国会にかかりっきりで、ウイルスの事など頭の片隅にも無いように見える。


中国政府は日本政府の支援に感謝するという声明を出し安倍首相は喜んでいるが、感謝されるより憎まれる方が良い。
http://www.thutmosev.com/archives/82240888.html


http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c18

[番外地7] 習近平に忖度する安倍首相 中川隆
1. 中川隆[-13670] koaQ7Jey 2020年2月19日 12:50:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-244]
誤解しているみたいだけど、習近平が日本に来たい訳じゃないよ:
習近平に忖度する安倍首相
日本政府と厚労省は、「厚労省が許可した者以外新型ウイルス検査するな」と保健所に命令している。安倍首相は「全力で防止する」と言ったが、実際には武漢ウイルスが発覚した1月20日から何もしていません。

その理由はおそらく中国から情報統制の要請があったからで、河野防衛大臣は「訪中時に日本国内の情報統制を要請された」と証言している。
河野大臣によると中国側は4月の習近平訪日の条件として「日本国内の情報統制」を要求し、日本が応じなければ訪日中止を示唆した。
安倍首相は新型ウイルス防止より習近平訪日を優先し、いかなる入国防止策もとってはならないと指示した。
このパターンは実は2度目であり、2014年に中国のサンゴ漁船1000隻以上が日本列島を包囲する事件があった。
そのうち数百隻は小笠原近海で密漁していたが、この「サンゴ漁船」を中国海軍が指揮していたのは公然の秘密でした。
漁船の中には一定割合で北朝鮮工作船のように、長いアンテナを伸ばした不審船が含まれていました。
不審船は一切漁をせず、軍人と思しき人間が乗っており、船団に指示し本国と連絡を取っていると推測されました。
この時安倍首相は「漁船を絶対に拘束するな」「漁港に入れて保護しろ」と驚くべき指示を出した。
11月10日に北京で、アジア太平洋経済協力会議(APEC)の会場で安倍首相と習近平の日中首脳会談が実現しました。
この数日前から中国側は「首脳会談をしたいのなら中国漁船を、取り締まってはならない」と広報官などが日本に警告していました。
安倍首相が習近平に事実上の謝罪を表明すると、その週のうちに中国船団は姿を消しました。
明らかに安倍首相は習近平の要請によって中国漁船を保護し、逮捕を禁止しました。

安倍首相は首脳会談の後、大きな成果だとして自画自賛した。
___

2月13日には千葉県のITエンジニアも感染が確認され、発熱後も都内の満員電車などを利用していた。本人を名乗る人物がネットに投稿していて、40度の熱が一週間続き、なんども新型ウイルス検査を申し込んだが保健所に断られたと書かれている。特に治療も隔離も受けず放っておかれたが新型コロナ感染が分かったので、これから隔離されると書かれていた。

千葉の空港職員の場合もほとんど同じで、受診した病院が何度もウイルス検査を依頼したが、保健所は最初「武漢渡航者との接触を証明しろ」と犯罪者扱いし検査を拒否した。
厚生労働省から保健所にウイルス検査禁止の命令が出ていたようで、こんな指示が出せるのは本省か厚労大臣か首相だけです。

厚労省と保健所は新型ウイルスの当初から「人から人には感染しない」「日本人には感染しない」「国内感染はしない」と言い続けた。

国内で感染者が見つかった後も「潜伏期間はない」「発熱していなければ感染していない」「湖北省渡航者と接触なければ感染しない」と言っていました。
これらすべてがウソだったのが分かっているが、現在も「過剰な警戒はしないよう」呼びかけ、中国からの入国禁止に反対している。

習近平の訪日が4月に迫っていて、河野大臣によると中国側は「訪日してほしければ情報統制しなさい」と日本に要求している。

安倍首相周辺は習訪日に前のめりで、中国が強く反発している「中国からの入国禁止」に反対している。

もし日本政府が中国からの入国禁止を決めたら、4月の習近平訪日は中止になり、安倍首相の外交成果が潰され親中派の二階幹事長が反安倍に転じるかも知れない。厚労省はクルーズ船の船内で検査する時、規則だからと医師や職員に防護服着用を禁止し、マスクは使い回ししていた。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/490.html#c1

[近代史3] 中国人の命は安い 中川隆
1. 中川隆[-13668] koaQ7Jey 2020年2月19日 13:22:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-242]
人体標本になった23歳の女性
https://secret-china.com/最新記事/23/2/

人体標本になった女性

陳情に行った女の子
似ているように見えますが、同じ人なんでしょうか。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/914.html#c1

[近代史3] 内閣官房参与をクビにされた藤井聡先生、遂に本音を語る 中川隆
59. 中川隆[-13673] koaQ7Jey 2020年2月19日 17:10:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-244]
2020年2月19日
「名目」GDPの落ち込みが、半端なくヤバイ 〜安倍増税ショックの真実〜
From 藤井聡@京都大学大学院教授
https://38news.jp/economy/15392

令和2年2月17日、消費増税直後の四半期である令和元年10−12月期のGDP統計が公表されました。その結果、激しい経済の冷え込みが明らかにされました。

(前期比)年率で6・3%も下落するという値が示されたのです。
年率6・3%と言えば、一年で35兆円もGDPが縮小するという勢い。それは国民一人あたり、おおよそ30万円ものオカネを失っていくという、途轍もない冷え込みを示しています。

では、過去二回の増税時と比べて、今回の6・3%の下落というのは、どれくらいのものなのかを見みましょう。


https://www.facebook.com/photo.php?fbid=2310086432425620&set=a.236228089811475&type=3&theater

ご覧の様に、今回の増税直後に、実質GDPが大きく下落している様子が見て取れます。その下落は、97年増税時よりも激しいもの。

ただし、14年増税時と比べると、同程度の下落水準。

ですが、今回「2%」であった増税幅が14年増税時は「3%」ですから、実質GDPの凹み方は、14年の方が「3/2倍」(1・5倍)であっても良いはず・・・なので、それを差し引くと、今回の方が激しく下落していると言えそうです。

ただし・・・今回の増税のヤバさは、こっちの「名目値」の方がクッキリ表れています。
こちらをご覧下さい。


https://www.facebook.com/photo.php?fbid=2310098469091083&set=a.236228089811475&type=3&theater

ご覧の様に、過去二回の増税時、「名目」GDPは実は、消費増税後に全く凹んで無かったのですが・・・今回は激しく凹んでしまっているのです!

過去二回の増税時には、名目GDPは、0%〜2%弱という「プラス」の水準だったわけです。にも関わらず、その時、先にも示したように、「実質」GDPは凹んでいました。これはつまり、「実質」GDPの凹みの原因は、「消費増税がもたらした強制的な物価上昇」だけだったわけで、「国民が払ったカネの総額」は、実は全く減っていなかったわけです。

ところが今回は、この図に示されたように「国民が払ったカネの総額」も実に5%近くも縮小してしまったわけです。

つまり前回までは、「国民のカネの支払い総額(名目GDP)は減らなかったが、モノの値段が上がったが故に、買うモノの総量(実質GDP)が減った」という話だったのが、今回は、「モノの値段が上がったが上に、国民のカネの支払い総額も減って、買うモノの総量が(ダブルの効果で)激しく減った」という事になったのです!
これはもう、異常事態。

これからコロナショックがデータに反映されていく事を考えれば、日本経済が奈落の底に沈んでいく事は、もう確実と言えるでしょう。
・・・では、なぜこんな事になったのでしょうか・・・?
ついてはまず、名目GDPの各項目に注目してみましょう。

————————–
消費    -9.0 %
住宅投資  -3.6 %
民間投資  -13.7 %
政府支出  -1.5 %
輸出    -2.3 %
輸入    -13.2 %
————————–
GDP   -4.9 %
————————–

(いずれも名目値、対前期年率変化率)

まず目立つのが、「投資」と「消費」の縮小。
その縮小率は13・7%と9・0%。
両者とも実に1割前後縮小したわけです。

それと同程度の下落を見せたのが「輸入」。実に13・2%も縮小しています。これはもちろん、国内の「購買力」の減退を反映したものですが、統計上は、これは激しく「プラス」に作用する変化です。

つまり、(購買力の減退故に)輸入が1割以上も「減る」事を通して名目GDPに対して大きくプラスの影響があったにも関わらず、(同じく購買力の減退故に)消費と投資がそれを上回る水準で下落したため、トータルとして5%も名目GDPが縮小してしまったのです。

以上を踏まえると、今までの二度の増税では見られなかった「支払総額=名目GDPの下落」が、今回、起こってしまったのは、今回の消費増税では過去二回に比べてより激しく「購買力を減退」したからだという背景が見えて参ります。
ではなぜ、今回、「購買力の減退」が激しく起こったのかと言えば・・・一つの有力な仮説が、「10%という税率が、超絶に分かり易く、誰でもスグに税率を計算できるから」というもの。

これまで、 https://www.mag2.com/p/money/339998 などで詳しく解説して参りましたが、消費税というものは、「計算しやすければしやすいほど、購買力を減退させる効果」が大きくなることは、心理学研究から明らかにされてきていたのです。そして、「10%」=「1割」という数字は途轍もなく計算しやすくなるため、購買力減退が激しく生ずることになるのです。

・・・この仮説の真偽の程は引きつづき、確認していくことが必要ではありますが、いずれにしても、今回、今まで見られなかった「購買力の異様な減退」が生じているのは事実。

これに加えて、今は、外需が下落しているという背景もあるわけですから、日本経済はまさにこれから「地獄」になることは必至・・・。
にも関わらず、我が国のリーダーは、以上のデータが公表された直後に、こんな事を公衆の面前で臆面も無く嘯いています。

「経済対策の効果もあり基調として緩やかな回復が続く」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200217-00000043-reut-bus_all&

・・・・絶句する他ありません。
つまり、現下の大不況の最大の根本的原因は、「10%への消費増税」というよりもむしろ、我が国の政治リーダーの「無見識」と「無責任さ」なのです。
誠に遺憾です。

追伸1:
こうした国家を滅亡に導きかねない政治リーダー達の「ウソ」について、徹底的に批判しました。是非、ご一読ください。
『ウソ』で自滅する国家 安倍・トランプ・文在寅
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B084B14TY6/

追伸2:
感染症対策と同様、「安全保障」問題においても日本は不十分な対応しか出来ていません・・・是非、ご一読ください。
政府は「プライマリーバランス」より「日本」を守ることを優先せよ! 〜奄美大島の基地視察が教えてくれた西南諸島“防衛”物語〜
https://foomii.com/00178/2020021411000063573

追伸3:
コチラの動画も是非、ご覧下さい!
https://www.youtube.com/watch?v=jglMLZLEE9U

https://38news.jp/economy/15392

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/140.html#c59

[近代史3] 日本や中国のバブルは簡単に崩壊するけれど、アメリカのバブルだけは絶対に崩壊しない理由 中川隆
48. 中川隆[-13672] koaQ7Jey 2020年2月19日 17:15:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-243]
2020年02月19日
コロナショックも各国は株高、中国が消えても世界は困らない
http://www.thutmosev.com/archives/82242873.html


各国株価の反応は「中国が消えても困らない」だった(NY証券取引所)

画像引用:https://sa.kapamilya.com/absnews/abscbnnews/media/2019/reuters/07/31/nyse.jpg

中国危機なのに各国は株高の謎

武漢で新型コロナウイルスが”発見”されたのが1月20日で、それから約1か月が経ったが株価は高いままです。

米ダウは最高値を何度も更新し2月12日に2万9551ドルをつけ、日経平均は高値圏である2万3000円台を維持している。

震源地の上海総合は1月13日に3115だったのが2月3日に2746まで落ち込んだが、今週は約3000まで回復している。


各国は株式市場などの暴落を予想し公的資金を投入して買い支え、政府系ファンドと呼ばれる公的ファンドが活躍した。

中国人民銀行は2月2日、1兆2000億元(約18兆7000億円)を金融市場に供給すると発表し連日大規模オペを実施していた。

日本政府も年金や日銀など公的資金を活用して買い支えたのは想像に難くなく、ネットでは日銀砲や年金砲などの言葉が飛び交っている。


アメリカはトランプ大統領の弾劾裁判が行われたが、早々に却下され大統領選でもトランプ有利が伝わり株高になっている。

2002年から2003年の中国発SARSウイルスの時にも、実は各国株価は短期間少し下げただけで、むしろ値上がりしていました。

もっとも悪化した時でも株価は10%下げただけで、収束に向かうと下落率を超える上昇を見せました。


2015年には人民元や中国株が暴落するチャイナショックがあったが、これも永次機はせず世界は資産バブルを強めていった。

こうした過去の出来事を見ると少なくとも中国国内の危機で、世界各国が深刻な危機に陥ることは無いでしょう。

2007年にアメリカで住宅ローンが破綻したのがきっかけでリーマンショックに至ったが、それはアメリカの影響力が世界的なものだったからです。


1990年頃日本の経済力は世界2位で現在の中国に匹敵する経済規模だったが、日本のバブル崩壊で困ったのは日本だけでした。

中国の経済規模が大きいといっても1990年の日本程度にすぎず、アメリカとは比較できません。

従って例え中国がウイルスで崩壊したとしても、それで困るのは中国人だけだと予言できる。

中国崩壊で困るのは中国だけ

例えば1940年にドイツは世界2位の大国だったが4年後にあっけなく倒れ、世界2位の大国だったソ連も1991年に崩壊した。

それで困ったのは当事者のドイツ人やロシア人だけで、世界的な影響はありませんでした。

世界2位の大国の影響力はこんなものでしかないので、中国がなくなっても誰も困りません。


SARSの時は1.7兆ドルだった中国のGDPは19年に15兆ドル、世界GDPの15%以上を占めている(と中国は主張している)

中国GDPは過大に発表されている疑いが強く、例えば2割多いと中国経済の世界シェアは約14%になる。

1994年に日本のGDPは全世界の17.9%も占めていたが、その後数年で半減してしまった。


GDPはその国の株価あるいは地価と相関関係があり、日本は1990年末の土地資産約2456兆円だったのが、2006年末には約1228兆円に減少した。

バブル崩壊後10年で土地資産と株式資産が半減になり、日本の国が半分になるほどのダメージを負った。

ソ連崩壊やドイツ崩壊、日本の敗戦や戦前の中華民国崩壊を見ても、もし中国が崩壊したら国の資産の半分が吹き飛ぶと予想できます。


資産が吹き飛ぶのはバブルだったからで、バブル期の日本は山を崩してゴルフ場にして数千億円の会員権を売るような商売をしていました。

2000年代からの中国は開発そのもので経済成長し、鬼城と呼ぶ無人都市を建設して、建設することで資産価値を増やしました。

それはゴルフ会員権を数千億円で売り出すのと同じ愚かな行為で、もともと価値が無いのだからいつかは無に帰るものです。

http://www.thutmosev.com/archives/82242873.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/121.html#c48

[近代史3] アメリカが No.2 になった国を潰した方法 中川隆
6. 中川隆[-13671] koaQ7Jey 2020年2月19日 17:16:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-242]
2020年02月19日
コロナショックも各国は株高、中国が消えても世界は困らない
http://www.thutmosev.com/archives/82242873.html


各国株価の反応は「中国が消えても困らない」だった(NY証券取引所)

画像引用:https://sa.kapamilya.com/absnews/abscbnnews/media/2019/reuters/07/31/nyse.jpg

中国危機なのに各国は株高の謎

武漢で新型コロナウイルスが”発見”されたのが1月20日で、それから約1か月が経ったが株価は高いままです。

米ダウは最高値を何度も更新し2月12日に2万9551ドルをつけ、日経平均は高値圏である2万3000円台を維持している。

震源地の上海総合は1月13日に3115だったのが2月3日に2746まで落ち込んだが、今週は約3000まで回復している。


各国は株式市場などの暴落を予想し公的資金を投入して買い支え、政府系ファンドと呼ばれる公的ファンドが活躍した。

中国人民銀行は2月2日、1兆2000億元(約18兆7000億円)を金融市場に供給すると発表し連日大規模オペを実施していた。

日本政府も年金や日銀など公的資金を活用して買い支えたのは想像に難くなく、ネットでは日銀砲や年金砲などの言葉が飛び交っている。


アメリカはトランプ大統領の弾劾裁判が行われたが、早々に却下され大統領選でもトランプ有利が伝わり株高になっている。

2002年から2003年の中国発SARSウイルスの時にも、実は各国株価は短期間少し下げただけで、むしろ値上がりしていました。

もっとも悪化した時でも株価は10%下げただけで、収束に向かうと下落率を超える上昇を見せました。


2015年には人民元や中国株が暴落するチャイナショックがあったが、これも永次機はせず世界は資産バブルを強めていった。

こうした過去の出来事を見ると少なくとも中国国内の危機で、世界各国が深刻な危機に陥ることは無いでしょう。

2007年にアメリカで住宅ローンが破綻したのがきっかけでリーマンショックに至ったが、それはアメリカの影響力が世界的なものだったからです。


1990年頃日本の経済力は世界2位で現在の中国に匹敵する経済規模だったが、日本のバブル崩壊で困ったのは日本だけでした。

中国の経済規模が大きいといっても1990年の日本程度にすぎず、アメリカとは比較できません。

従って例え中国がウイルスで崩壊したとしても、それで困るのは中国人だけだと予言できる。

中国崩壊で困るのは中国だけ

例えば1940年にドイツは世界2位の大国だったが4年後にあっけなく倒れ、世界2位の大国だったソ連も1991年に崩壊した。

それで困ったのは当事者のドイツ人やロシア人だけで、世界的な影響はありませんでした。

世界2位の大国の影響力はこんなものでしかないので、中国がなくなっても誰も困りません。


SARSの時は1.7兆ドルだった中国のGDPは19年に15兆ドル、世界GDPの15%以上を占めている(と中国は主張している)

中国GDPは過大に発表されている疑いが強く、例えば2割多いと中国経済の世界シェアは約14%になる。

1994年に日本のGDPは全世界の17.9%も占めていたが、その後数年で半減してしまった。


GDPはその国の株価あるいは地価と相関関係があり、日本は1990年末の土地資産約2456兆円だったのが、2006年末には約1228兆円に減少した。

バブル崩壊後10年で土地資産と株式資産が半減になり、日本の国が半分になるほどのダメージを負った。

ソ連崩壊やドイツ崩壊、日本の敗戦や戦前の中華民国崩壊を見ても、もし中国が崩壊したら国の資産の半分が吹き飛ぶと予想できます。


資産が吹き飛ぶのはバブルだったからで、バブル期の日本は山を崩してゴルフ場にして数千億円の会員権を売るような商売をしていました。

2000年代からの中国は開発そのもので経済成長し、鬼城と呼ぶ無人都市を建設して、建設することで資産価値を増やしました。

それはゴルフ会員権を数千億円で売り出すのと同じ愚かな行為で、もともと価値が無いのだからいつかは無に帰るものです。

http://www.thutmosev.com/archives/82242873.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/745.html#c6

[近代史02] 株で損した理由教えてあげる 中川隆
568. 中川隆[-13670] koaQ7Jey 2020年2月19日 17:17:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-241]
2020年02月19日
コロナショックも各国は株高、中国が消えても世界は困らない
http://www.thutmosev.com/archives/82242873.html


各国株価の反応は「中国が消えても困らない」だった(NY証券取引所)

画像引用:https://sa.kapamilya.com/absnews/abscbnnews/media/2019/reuters/07/31/nyse.jpg

中国危機なのに各国は株高の謎

武漢で新型コロナウイルスが”発見”されたのが1月20日で、それから約1か月が経ったが株価は高いままです。

米ダウは最高値を何度も更新し2月12日に2万9551ドルをつけ、日経平均は高値圏である2万3000円台を維持している。

震源地の上海総合は1月13日に3115だったのが2月3日に2746まで落ち込んだが、今週は約3000まで回復している。


各国は株式市場などの暴落を予想し公的資金を投入して買い支え、政府系ファンドと呼ばれる公的ファンドが活躍した。

中国人民銀行は2月2日、1兆2000億元(約18兆7000億円)を金融市場に供給すると発表し連日大規模オペを実施していた。

日本政府も年金や日銀など公的資金を活用して買い支えたのは想像に難くなく、ネットでは日銀砲や年金砲などの言葉が飛び交っている。


アメリカはトランプ大統領の弾劾裁判が行われたが、早々に却下され大統領選でもトランプ有利が伝わり株高になっている。

2002年から2003年の中国発SARSウイルスの時にも、実は各国株価は短期間少し下げただけで、むしろ値上がりしていました。

もっとも悪化した時でも株価は10%下げただけで、収束に向かうと下落率を超える上昇を見せました。


2015年には人民元や中国株が暴落するチャイナショックがあったが、これも永次機はせず世界は資産バブルを強めていった。

こうした過去の出来事を見ると少なくとも中国国内の危機で、世界各国が深刻な危機に陥ることは無いでしょう。

2007年にアメリカで住宅ローンが破綻したのがきっかけでリーマンショックに至ったが、それはアメリカの影響力が世界的なものだったからです。


1990年頃日本の経済力は世界2位で現在の中国に匹敵する経済規模だったが、日本のバブル崩壊で困ったのは日本だけでした。

中国の経済規模が大きいといっても1990年の日本程度にすぎず、アメリカとは比較できません。

従って例え中国がウイルスで崩壊したとしても、それで困るのは中国人だけだと予言できる。

中国崩壊で困るのは中国だけ

例えば1940年にドイツは世界2位の大国だったが4年後にあっけなく倒れ、世界2位の大国だったソ連も1991年に崩壊した。

それで困ったのは当事者のドイツ人やロシア人だけで、世界的な影響はありませんでした。

世界2位の大国の影響力はこんなものでしかないので、中国がなくなっても誰も困りません。


SARSの時は1.7兆ドルだった中国のGDPは19年に15兆ドル、世界GDPの15%以上を占めている(と中国は主張している)

中国GDPは過大に発表されている疑いが強く、例えば2割多いと中国経済の世界シェアは約14%になる。

1994年に日本のGDPは全世界の17.9%も占めていたが、その後数年で半減してしまった。


GDPはその国の株価あるいは地価と相関関係があり、日本は1990年末の土地資産約2456兆円だったのが、2006年末には約1228兆円に減少した。

バブル崩壊後10年で土地資産と株式資産が半減になり、日本の国が半分になるほどのダメージを負った。

ソ連崩壊やドイツ崩壊、日本の敗戦や戦前の中華民国崩壊を見ても、もし中国が崩壊したら国の資産の半分が吹き飛ぶと予想できます。


資産が吹き飛ぶのはバブルだったからで、バブル期の日本は山を崩してゴルフ場にして数千億円の会員権を売るような商売をしていました。

2000年代からの中国は開発そのもので経済成長し、鬼城と呼ぶ無人都市を建設して、建設することで資産価値を増やしました。

それはゴルフ会員権を数千億円で売り出すのと同じ愚かな行為で、もともと価値が無いのだからいつかは無に帰るものです。

http://www.thutmosev.com/archives/82242873.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/428.html#c568

[近代史02] 平成バブル崩壊と ソロモン・ブラザース証券 相場師列伝3 スットン教
41. 中川隆[-13668] koaQ7Jey 2020年2月19日 17:17:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-239]
59. 中川隆[-13669] koaQ7Jey 2020年2月19日 17:17:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-240]
2020年02月19日
コロナショックも各国は株高、中国が消えても世界は困らない
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各国株価の反応は「中国が消えても困らない」だった(NY証券取引所)

画像引用:https://sa.kapamilya.com/absnews/abscbnnews/media/2019/reuters/07/31/nyse.jpg

中国危機なのに各国は株高の謎

武漢で新型コロナウイルスが”発見”されたのが1月20日で、それから約1か月が経ったが株価は高いままです。

米ダウは最高値を何度も更新し2月12日に2万9551ドルをつけ、日経平均は高値圏である2万3000円台を維持している。

震源地の上海総合は1月13日に3115だったのが2月3日に2746まで落ち込んだが、今週は約3000まで回復している。


各国は株式市場などの暴落を予想し公的資金を投入して買い支え、政府系ファンドと呼ばれる公的ファンドが活躍した。

中国人民銀行は2月2日、1兆2000億元(約18兆7000億円)を金融市場に供給すると発表し連日大規模オペを実施していた。

日本政府も年金や日銀など公的資金を活用して買い支えたのは想像に難くなく、ネットでは日銀砲や年金砲などの言葉が飛び交っている。


アメリカはトランプ大統領の弾劾裁判が行われたが、早々に却下され大統領選でもトランプ有利が伝わり株高になっている。

2002年から2003年の中国発SARSウイルスの時にも、実は各国株価は短期間少し下げただけで、むしろ値上がりしていました。

もっとも悪化した時でも株価は10%下げただけで、収束に向かうと下落率を超える上昇を見せました。


2015年には人民元や中国株が暴落するチャイナショックがあったが、これも永次機はせず世界は資産バブルを強めていった。

こうした過去の出来事を見ると少なくとも中国国内の危機で、世界各国が深刻な危機に陥ることは無いでしょう。

2007年にアメリカで住宅ローンが破綻したのがきっかけでリーマンショックに至ったが、それはアメリカの影響力が世界的なものだったからです。


1990年頃日本の経済力は世界2位で現在の中国に匹敵する経済規模だったが、日本のバブル崩壊で困ったのは日本だけでした。

中国の経済規模が大きいといっても1990年の日本程度にすぎず、アメリカとは比較できません。

従って例え中国がウイルスで崩壊したとしても、それで困るのは中国人だけだと予言できる。

中国崩壊で困るのは中国だけ

例えば1940年にドイツは世界2位の大国だったが4年後にあっけなく倒れ、世界2位の大国だったソ連も1991年に崩壊した。

それで困ったのは当事者のドイツ人やロシア人だけで、世界的な影響はありませんでした。

世界2位の大国の影響力はこんなものでしかないので、中国がなくなっても誰も困りません。


SARSの時は1.7兆ドルだった中国のGDPは19年に15兆ドル、世界GDPの15%以上を占めている(と中国は主張している)

中国GDPは過大に発表されている疑いが強く、例えば2割多いと中国経済の世界シェアは約14%になる。

1994年に日本のGDPは全世界の17.9%も占めていたが、その後数年で半減してしまった。


GDPはその国の株価あるいは地価と相関関係があり、日本は1990年末の土地資産約2456兆円だったのが、2006年末には約1228兆円に減少した。

バブル崩壊後10年で土地資産と株式資産が半減になり、日本の国が半分になるほどのダメージを負った。

ソ連崩壊やドイツ崩壊、日本の敗戦や戦前の中華民国崩壊を見ても、もし中国が崩壊したら国の資産の半分が吹き飛ぶと予想できます。


資産が吹き飛ぶのはバブルだったからで、バブル期の日本は山を崩してゴルフ場にして数千億円の会員権を売るような商売をしていました。

2000年代からの中国は開発そのもので経済成長し、鬼城と呼ぶ無人都市を建設して、建設することで資産価値を増やしました。

それはゴルフ会員権を数千億円で売り出すのと同じ愚かな行為で、もともと価値が無いのだからいつかは無に帰るものです。

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[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
72. 中川隆[-13667] koaQ7Jey 2020年2月19日 17:18:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-238]
2020年02月19日
コロナショックも各国は株高、中国が消えても世界は困らない
http://www.thutmosev.com/archives/82242873.html


各国株価の反応は「中国が消えても困らない」だった(NY証券取引所)

画像引用:https://sa.kapamilya.com/absnews/abscbnnews/media/2019/reuters/07/31/nyse.jpg

中国危機なのに各国は株高の謎

武漢で新型コロナウイルスが”発見”されたのが1月20日で、それから約1か月が経ったが株価は高いままです。

米ダウは最高値を何度も更新し2月12日に2万9551ドルをつけ、日経平均は高値圏である2万3000円台を維持している。

震源地の上海総合は1月13日に3115だったのが2月3日に2746まで落ち込んだが、今週は約3000まで回復している。


各国は株式市場などの暴落を予想し公的資金を投入して買い支え、政府系ファンドと呼ばれる公的ファンドが活躍した。

中国人民銀行は2月2日、1兆2000億元(約18兆7000億円)を金融市場に供給すると発表し連日大規模オペを実施していた。

日本政府も年金や日銀など公的資金を活用して買い支えたのは想像に難くなく、ネットでは日銀砲や年金砲などの言葉が飛び交っている。


アメリカはトランプ大統領の弾劾裁判が行われたが、早々に却下され大統領選でもトランプ有利が伝わり株高になっている。

2002年から2003年の中国発SARSウイルスの時にも、実は各国株価は短期間少し下げただけで、むしろ値上がりしていました。

もっとも悪化した時でも株価は10%下げただけで、収束に向かうと下落率を超える上昇を見せました。


2015年には人民元や中国株が暴落するチャイナショックがあったが、これも永次機はせず世界は資産バブルを強めていった。

こうした過去の出来事を見ると少なくとも中国国内の危機で、世界各国が深刻な危機に陥ることは無いでしょう。

2007年にアメリカで住宅ローンが破綻したのがきっかけでリーマンショックに至ったが、それはアメリカの影響力が世界的なものだったからです。


1990年頃日本の経済力は世界2位で現在の中国に匹敵する経済規模だったが、日本のバブル崩壊で困ったのは日本だけでした。

中国の経済規模が大きいといっても1990年の日本程度にすぎず、アメリカとは比較できません。

従って例え中国がウイルスで崩壊したとしても、それで困るのは中国人だけだと予言できる。

中国崩壊で困るのは中国だけ

例えば1940年にドイツは世界2位の大国だったが4年後にあっけなく倒れ、世界2位の大国だったソ連も1991年に崩壊した。

それで困ったのは当事者のドイツ人やロシア人だけで、世界的な影響はありませんでした。

世界2位の大国の影響力はこんなものでしかないので、中国がなくなっても誰も困りません。


SARSの時は1.7兆ドルだった中国のGDPは19年に15兆ドル、世界GDPの15%以上を占めている(と中国は主張している)

中国GDPは過大に発表されている疑いが強く、例えば2割多いと中国経済の世界シェアは約14%になる。

1994年に日本のGDPは全世界の17.9%も占めていたが、その後数年で半減してしまった。


GDPはその国の株価あるいは地価と相関関係があり、日本は1990年末の土地資産約2456兆円だったのが、2006年末には約1228兆円に減少した。

バブル崩壊後10年で土地資産と株式資産が半減になり、日本の国が半分になるほどのダメージを負った。

ソ連崩壊やドイツ崩壊、日本の敗戦や戦前の中華民国崩壊を見ても、もし中国が崩壊したら国の資産の半分が吹き飛ぶと予想できます。


資産が吹き飛ぶのはバブルだったからで、バブル期の日本は山を崩してゴルフ場にして数千億円の会員権を売るような商売をしていました。

2000年代からの中国は開発そのもので経済成長し、鬼城と呼ぶ無人都市を建設して、建設することで資産価値を増やしました。

それはゴルフ会員権を数千億円で売り出すのと同じ愚かな行為で、もともと価値が無いのだからいつかは無に帰るものです。

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http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/895.html#c72

[近代史3] セザール・フランク 『前奏曲・コラールとフーガ 』 中川隆
1. 中川隆[-13684] koaQ7Jey 2020年2月19日 20:50:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-240]

ヴィスコンティ 熊座の淡き星影 Vaghe stelle dell'orsa








制作 65年 イタリア

キャスト クライディア・カルディナーレ,ジャン・ソレル,マリー・ベル 等々

使われた音楽 セザール・フランク作曲「前奏曲・コラールとフーガ」

使われた意図 ヨーロッパの精神世界の迷宮


かなり昔・・・もう10年以上前になるかな?それとも5年くらい前かな?
あのギリシャで大きな地震がありました。それを伝えた民放のニュース番組でこのように言っていました。

「あの有名な観光地のパルテノン神殿も被害を受けました!!」
私もその番組の正確な言葉は忘れてしまいましたが・・・
実際のところはパルテノン神殿の被害はそれほどなかったはずだし・・・
ダテに大昔から建っているわけではありませんよね?

しかし、地震そのものよりも私の心を揺さぶったのは、「観光地のパルテノン神殿」という言葉です。
これは驚きでしょ?
本来ならギリシャ政府からクレームが来てもおかしくないくらいですよ!
あの「パルテノン神殿」を「東京ディズニーランド」と同じ観光地扱いとは?!

ただ遊ぶだけだったら、「ディズニーランド」の方が楽しいでしょう。
パルテノン神殿は遊ぶというより、過去と対話する場所ですよね?
より的確な言葉だと、文化遺産という言葉になるでしょう。

しかし、パルテノン神殿だって、残された遺物から、その当時の人間の営みを連想できないような人には、単なるオブジェであり、まさに観光地なんですね。

過去を持たない人間や過去を考えることのない人間はつまらない。
しかし、過去を振り返らない姿勢は、別の言い方をすると、未来志向とも言えるのかも?
そのように肯定的に捉えることもできるでしょう。

しかし、すべての人間がそんなに簡単に過去を捨て去ってしまっていいの?
ウィーンの作家のフーゴ・フォン・ホフマンスタールは手紙の中で書いています。

「人間は生きるためには、過去を忘れ、過去を捨てないといけない。
しかし、人間の尊厳は、過去を忘れないこと、過去を捨てないことにかかっている。」

前向きに生きるというと、印象はいいのですが、人間の尊厳から外れることにもなりかねないわけ。
だから、過去にこだわる人間は、過去を簡単に捨ててしまうような人間を軽蔑し、敵意を持ったりする。

この「過去にこだわるもの」と「過去を捨て去ってしまうもの」・・・その間に横たわる無理解と対立が、描かれている作品、それがヴィスコンティ監督の「熊座の淡き星影」という作品です。

映画のあらすじは以下のようなもの。

イタリア人女性とアメリカ人男性の夫婦がアメリカに住んでいる。ちなみに、イタリア人女性には弟がいて、ロンドンに住んでいる。その姉弟の父親はユダヤ人。第2次大戦中に非業の死を遂げた父親の記念のための記念碑の除幕式のために、夫婦は妻のイタリアの故郷に戻ってくる。

実家に戻った妻は弟に再会し、かつての日々の思い出に囚われ、そこから逃れられなくなってくる。
そんな妻の姿をアメリカ人の夫は理解できない。
やがて・・・

さてさて、ここで「映画の中のクラシック音楽」を考えてみましょう。
使われている音楽はセザール・フランク作曲の「前奏曲・コラールとフーガ」というもったいぶったタイトルのピアノ曲です。その曲が最初に演奏されるのはジュネーヴでのサロンでのこと。女性ピアニストが演奏いたします。

しかし、これはヘンな選曲だ!
お酒が伴うようなサロンでピアニストが弾く曲が何故にセザール・フランクなの?
これをヘンと思わない人は、あの作品を理解したことにはならないでしょう。
だって、サロンでピアニストが弾く曲だったら、常識的にはショパンでしょ?
次に考えられるのはリストとか・・

この映画は第2次大戦が終わってかなり経った時代を舞台としています。いわば、当時の現代ものといえるでしょう。つまり舞台は1960年頃のこと。だから当時のサロンで弾かれる曲としては、ドビュッシーでもラヴェルでもいい。またモーツァルトでもいいわけです。エスプリがある人だったらフォーレの初期作品とか、すごく「粋」な人だったらクープランをもってくるとか・・・

あるいは、ヴィスコンティの最後の作品「イノセント」では、ショパンとモーツァルトとリストという選曲でした。まあ、これがサロンにおける「普通」の選曲。

いずれにせよ、フランクの曲をサロンで演奏するのは場違いなんですね。
だからサロンに集まっている人は、ピアノの演奏を聞いていないわけ。

大体、フランクの曲は華やかな響きもないし、甘いメロディーもない・・・いわば晦渋な音楽です。それにその曲のタイトルや、音楽のオルガン的な響きでわかるように宗教的な音楽。

私は、「山猫」という作品でのヴィスコンティの音楽の使い方・・・つまり、あえてミスマッチな「椿姫」の音楽を使用することによって、演奏者の知性の欠落を表現した例・・・について書いていますが、ここでも、敢えて映像の流れとは「合わない」音楽を演奏させていることになるんです。

そう!
ヴィスコンティはショパンの音楽が鳴らされるのにふさわしい場所で、晦渋で迷宮に満ちたセザール・フランクの音楽を演奏させることによって、これから展開されるストーリーの「前奏曲」としているわけですね。

「さあ!これから、晦渋で、精神的なお話が始まりますよ!!」というわけです。
映像から簡単に推測されるショパンと、実際に演奏されているフランクの対比・・・これはこの作品を理解するのに重要になるわけです。

大体、フランクのピアノ・ソロの曲なんて、生演奏で聴いたことがある人は何人いるでしょうか?

いや!プロのピアニストだって一生フランクのソロ・ピアノ曲なんて演奏せずにキャリアを終わる人の方が多いんじゃないですか?

フランクの曲は、例の「交響曲」と「ヴァイオリン・ソナタ」くらいしか、一般的には演奏されませんし・・・

演奏する側にとってもあまり面白くない・・・演奏家としての技量が発揮させにくい音楽といえるわけです。そのくせ音楽性の欠落は聞き手にわかってしまう。損な音楽なんですね。

聞き手にとっても、そう。
聞いていて面白くはない。目立つフレーズが出てくるわけではない。
聞きながら色々と考えなくてはならない音楽と言えるわけです。気軽に聞くことができない。

ショパンを演奏しておけば、ピアニストの音楽性が多少欠落していても、目立つフレーズでごまかすこともできるし、聞き手も楽しい。

フランクを演奏することは、芸術的に難しいことであると同時に、興行的にみてもリスクを伴うものと言えるわけです。

ですからサロンでショパンが演奏されていたら、「ごく一般的」のサロンであると言えますし、その場所がヨーロッパなくても成立いたしますが、フランクが演奏されるサロンはヨーロッパ以外にありえない。ヨーロッパ世界の晦渋さと迷宮が、このフランクの曲で象徴されているわけです。

ちなみに、このフランクの曲は、ジュネーヴのサロンで演奏されるだけではありません。一種の映画音楽としてピアノの演奏シーンのないところでも流されています。

例えば、妻の実家に向けてヨーロッパをドライブしているシーンで、このフランクの曲が流されるわけ。

オイオイ?!
これはムチャクチャですよ!

太陽の光を浴びながらオープンカーでドライブしているシーンに、どうしてフランクの重苦しい晦渋な曲が流れるの?

もっと「軽い」音楽の方がいいに決まっていますよね?
別にクラシック音楽でなくてもいいわけだし。だって、たかがドライブの時の伴奏音楽でしょ?

フランクの曲なんて、一番「場違い」の曲ですよ!
まだ、ストラヴィンスキーの「春の祭典」の方が景気いいというもの。

しかし、このような「場違い」によって、これから起こり行く「重苦しく」「晦渋」なドラマを予感させているわけ。
ヨーロッパの精神世界の迷宮に向かって、「堕ちていく」メタファーといえるわけです。

ここで、ちょっとクラシック音楽から離れてみましょう。

この作品を理解するためのチェックポイントのひとつとして、アメリカ人の男性はいつも「8mmカメラ」を持っているというのがあります。まあ、この作品は、65年の古い作品(モノクロ)なので、今のように「8mmヴィデオ」というわけにはいかない。またこの夫婦はたいそうブルジョワなので、写真を撮るだけの「ただのカメラ」でもないわけ。「65年当時の8mmカメラ」なんですね。

ご主人はイタリアの珍しい「観光地」を、その「8mmカメラ」で一生懸命撮っている。

おお!まさに一時代前の典型的アメリカ人観光客ですね。今日の映画制作において、このカメラを手放さない観光客の役回りが、アメリカ人から別の国の人に変更されているのは、皆さんもご存知のとおり。

しかし、さすがに、妻のイタリア人はそんなことはしない。もともと自分の故郷なんだし・・・名家の育ちだし、今更ね。

エトルリア時代の遺跡を見ても、それを「観光地」と捉えて、「フィルムに収めて満足する」アメリカ人と、「過去の世界」に思いをはせるイタリア人。

アメリカ人の必須アイテムの「8mmカメラ」によって、この対比が明確に表現されているわけです。

また別のチェックポイントとして、そのイタリア人の妻が部屋のドアを開けるシーンがあります。そのシチュエーションが実に多いわけ。そんなことを書くと、
「今更、人間が『部屋のドアを開けるシーン』が映画的に見て意味があるのか?」
と疑問を持たれる方も多いでしょう?

ヴィスコンティ監督の「熊座の淡き星影」では、「部屋のドアを開ける」という行為は、過去を解き明かす・・・あるいは、「心の迷宮に分け入る」・・ということのメタファーになっているわけです。

だから、「部屋のドア」を開けるのは、常にイタリア人の妻の方で、アメリカ人の夫ではないわけ。アメリカ人は「積み重なる過去の問題」や「心の迷宮」などに分け入る気持ちはさらさらないというわけです。

イタリア人は・・・いやヨーロッパ人は、「過去の迷宮」に入らざるを得ない。まさに妄執に執りつかれたように、部屋へ部屋へと入り込んでいきます。さながら「青ひげ公」におけるユーディットのように・・・

ドアを開け、部屋に入っていくとそこから立ち上る毒に「魅了され」次々と、他の部屋に入っていくことになる。いわば「毒が毒を呼ぶ」状態。

こうして、イタリア人の妻は多くの部屋のドアを次々開けていき、その迷宮から逃れられなくなっていくわけです。

このようにヨーロッパ人は過去にとらわれている。しかし、ヨーロッパ人すべてが過去にとらわれているわけではありません。
やっぱり過去などにこだわらない人も多くいる。

この作品で、ジラルディーノというオヤジが登場しています。この姉弟は、そのオヤジさんをやたら嫌っている。映画の中では、自分たちの父親の非業の死に関係があると思っていることになっています。

しかし、本当かな?

このジラルディーノはそんなに悪い人なの?
そうでもないんですね。このジラルディーノのキャラクターについては、実に上手に描かれています。

アメリカ人の夫が主催した晩餐の席でのこと。

ジラルディーノは料理に手をつけ、その後で料理に粉チーズをかけ、ソースのような調味料もかけている。

今の日本では、このような食べ方を的確に表現する言葉があります。
「汁だく」という言葉。

そんな食べ方は、お世辞にも上品な食べ方とはいえないでしょ?

しかし、「汁だく」愛好家が権謀術数をめぐらす悪人である例はないでしょう。
このあたりのキャラクター描写は、それこそ「山猫」において、わざわざ「場違い」な、「椿姫」の音楽を演奏した農民出身のオルガン奏者と、描写の雰囲気が共通しています。

そんな人たちは、つまらない人かもしれませんが、決して「悪い人」ではないでしょ?

そんなこと、その姉弟くらいの知性があれば、スグにわかることです。
つまりこの姉弟が抱いているジラルディーノへの反感は、「過去を軽んじる」ものへの反感なんですね。

ジラルディーノは良くも悪くも「前向きに生きる人」。だからアメリカ人の夫とも話があう。

しかし、「過去にこだわる」キャラクターを持つ人間、たとえば、この映画における姉弟にしてみれば、軽蔑すべき存在に写る。

いわば、ソフォクレスの「エレクトラ」におけるクリテムネストラの役回りは、このジラルディーノが担っているといえるでしょう。「本来は自分たちの過去にこだわり、その遺産を受け継ぐべきイタリア人のクセに、どうしてそんなに過去を捨ててしまっているのか?」そのような近親憎悪的な反感があるわけ。

ご存知のように、ソフォクレスの「エレクトラ」を、ホフマンスタールが翻案した戯曲もあります。ホフマンスタール版の方は、エレクトラが過去にこだわる女性で、クリテムネストラが過去を忘れる女性というキャラクターの対比の作品でした。「本来は、あの人も、自分と同じように過去に拘るべきなのに・・・」そう思うからこそ、エレクトラがクリテムネストラへ寄せる憎悪は深まるわけです。

姉弟は過去にこだわるがゆえに、結びつく。過去を忘れないという尊厳ゆえに結びつくわけ。その姉弟をイタリア人女優と、フランス人俳優が演じているのは、全くの偶然とはいえないでしょう。

フランスという国もイタリアという国も、同じ祖先を持つものですからね。

ヴィスコンティのような「迷宮に満ちたヨーロッパ」という考えは、今現存している映画作家ですと、ラース・フォン・トリアーが一番です。ラース・「フォン」・トリアーとルキノ・「ヴィスコンティ」。まさに迷宮に満ちた宮廷政治の後継者というわけですね。

彼らは、アメリカのすがすがしい清潔さの価値を認めながら、毒に満ち満ちたヨーロッパを愛しているわけです。フォン・トリアーもヴィスコンティもアメリカ人の単純さを軽蔑している・・・ヴィスコンティが見つめる「過去を持たぬもの」と「芳醇な過去」を持つものの対比の構図は、63年の「山猫」や、この「熊座の淡き星影」以降に顕著に現れてきます。

ちなみに、この「熊座の淡き星影」はヴィスコンティ唯一のミステリーなんだそうな・・・

この作品で、この「姉弟の過去に何があったか?」とか「姉弟の父親の殺害したものは誰か?」ということについて真実は最後まで明らかにされません。だってそんなことはどうでもいいことなんですからね。
過去に何か事件があって、謎が謎を呼ぶ、それで十分なんです。事件の内容が重要なのではない・・・解決されていない謎が存在する・・・そのことが重要なんですね。

つまり最大のミステリーはヨーロッパの精神世界そのものと言えるわけです。
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/03-09/03-9-23.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/915.html#c1
[近代史3] セザール・フランク 『前奏曲・コラールとフーガ 』 中川隆
2. 中川隆[-13683] koaQ7Jey 2020年2月19日 20:58:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-239]

クラシック音楽 一口感想メモ
セザール・フランク(Césart Franck, 1822 - 1890)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/フランク


ドイツ的な構築性を持ち、フランス的な美的な感覚や感性もあるいい作曲家。
音楽に温かみと繊細さと深さがある。


管弦楽作品

交響曲 ニ短調(1888年)
3.0点
この曲はフランスを代表する交響曲と評価が高い。しかし正直いって、音色が鈍くて展開もはっきりせず、耳につくメロディーも無いし雰囲気は陰鬱で、はっとさせられる場面もなく、フランクの室内楽の明快な素晴らしさと比べて非常に分かりにくい。1楽章が特に分かりにくく2、3楽章はまだそれなりに理解しやすい。ブルックナーと同様に聴く側に修行が必要で、名演奏であることが必要な曲なのだろう。私はまだ修行が足りない。


交響的間奏曲「贖罪(改訂版)」(1874年)
3.3点
ワーグナーに似すぎだろう。豊かさのあるネチネチとした耽美に威勢のよいファンファーレを合わせる中間など、そのままである。たっぷりとした弦の歌わせ方もそのままだ。そのコピーぶりはオリジナリティ重視の観点ではあまり評価できないが、曲としてはなかなか良い。それなりに感動できる。

交響詩「アイオリスの人々」(1876年)
3.0点
かなりワーグナー色が強い。しかしながら地味だし、それこそワーグナーの楽劇の中のとある一場面程度の重さしかないような、軽くて一つの作品としての独立した価値に欠ける。つまらなくはないが、あまり良い作品と思わない。

交響詩「呪われた狩人」(1883年)
3.5点
驚いたことに、ワーグナー的な描写性と音の躍動感がかなり優れている、活発で劇的な曲である。偏見と知識不足だったのかもしれないが、これほど活発な音楽を書く人とは思っていなかったためかなり驚いた。ワクワクさせられる楽しい曲で、渋さの要素はほとんどない。音のセンスは充分で、軽薄すぎない大作曲家らしい曲になっていると思う。ドイツ風であり、フランス風味が少ないからそう感じるのかもしれない。

交響詩「プシュケ」(1888年)

管弦楽とピアノのための作品

ピアノ協奏曲第2番ロ短調作品11
2.0点
ショパンの協奏曲を強く連想する。単純素朴で十分に機能していないオケの伴奏が特に似ている。ピアノ独奏がこなれていないところも似ている。どちらも書法の質はショパン以下だと思うし、ショパンと違い曲としての聞き所や魅力も特にない。若き日の作品だが、これだけ聴くと後年の大成を予想するのは難しいだろう。そのような歴史的価値しかない曲だと思う。

交響的変奏曲(ピアノと管弦楽のための)(1885年)
3.3点
晦渋な主題を少しずつ変奏していく前半は地味であり、出来はよい曲だが繊細な微妙なニュアンスを感じとるのは大変である。後半はピアノ協奏曲らしい華やかな曲になって終わる。

交響詩「鬼神(ジン)」(1884年)
3.0点
独特のピアノ独奏付きの交響詩。ピアノは華やかに活躍するが、しかしそれが主目的の曲という感じでもない。フランスとドイツの混ざった独特の中立的な音楽とは思う。しかし、聴き方が良く分からないのも確か。

ピアノ曲

前奏曲、フーガと変奏曲(1873年)
3.0点
3つの部分の雰囲気があまり大きく変わらない。悲劇性を帯びた渋い曲想は分かりやすくかっこいい。しかし、オリジナルがオルガン曲であるためピアノ曲にしては鈍重すぎるきらいがある。

前奏曲、コラールとフーガ(1884年)
2.8点
ベートーヴェン的な精神的な深みはあるが、鈍く音を重ねて雰囲気が作られており、ピアノ的でないので聞きやすくない。最後にフーガが入る事で曲の見通しが良くなる点が次作より聞きやすいところ。しかしまとまっな完成度では一歩劣るか。

前奏曲、アリアと終曲(1887年)
2.8点
3楽章のソナタのような規模である。前半の2つの曲はコラールのような静かな曲で、最後の楽章は活発になる。オルガニストだからか、ピアノ曲らしい軽やかさが無い。メロディーや雰囲気はフランクらしい精神的な深みと高みがあるのだが、書法の問題か印象に残りにくいので分かりにくい。

室内楽曲

ピアノ五重奏曲 ヘ短調(1879年)
4.0点
1楽章や2楽章は夜の雨の中を歩くような雰囲気での、情熱や憂鬱や高潔さが混じった雰囲気が素晴らしい。3楽章の内面的な情熱と感動も良い。ピアノが全般に静かで、ピアノ五重奏ではこれがバランスとしていいのかもしれない。分かりやすい曲ではないが、ピアノ五重奏の代表作の一つ。


ヴァイオリンソナタ イ長調(1886年)
5.0点
曲の人気からも明白なように、ロマン派以降のヴァイオリンソナタの中でずば抜けた魅力がある。美しいメロディー、精妙な和声、透明感、堅固な構築性、艶めかしい美しさと胸の内から湧き出す情熱など、魅力が一杯である。全ての楽章の全ての場面が傑作で緩みがなく、しかも全体のバランスが良い。空想的な3つの楽章の後に奏される、4楽章のカノン風に掛け合いされる純粋な美しさの主題が特に印象的で、一度聴くと頭から離れなくなる。

弦楽四重奏曲 ニ長調(1890年)
3.3点
フランクの奥ゆかしい繊細な音楽性は弦楽四重奏の響きと相性がよいと予想して聴いた。聴いてみてその予想はある程度は当たった。残念ながら1楽章は響きが重くて厚ぼったく心地よさが足りず、15分もあるので嫌になってくる。2楽章は響きが軽くなりいい感じ。3楽章は繊細な織物のような曲で奥ゆかしくて、期待通りの素晴らしさ。ただし冗長。4楽章は活発な曲でシューマン的な高揚感を出しながらも奥ゆかしさがあり良い感じ。

オルガン曲

6つの作品(幻想曲ハ長調、交響的大曲、前奏曲、フーガと変奏曲、パストラール、祈り、終曲)(1862年)

幻想曲ハ長調
3.0点
瞑想的似た薄い音を動かす場面が多い。和声がシンプルで、少し古い時代の曲のようだ。次々と新しい場面に移り変わっていく幻想性は好きなのだが、やはり単純すぎて凡庸な曲に聞こえてしまうので、残念な気分で聞いてしまう。

交響的大曲
3.5点
基本的に大曲好きな自分だからかもしれないが、この曲はなかなか気に入った。交響曲ほどではないにしても、かなりの内容ボリュームであり、がっつり聴かせる。感動あり、怖れあり、反省あり、いろいろな感情が渦巻いている。それを、ある意味でオーケストラよりも大きなオルガンでひと続きに聴かせるのは圧巻だ。曲の長さでいえばリストのピアノソナタと同程度。さすがに密度や完成度は差があるにしても、スケール感などは似たものを感じる。

前奏曲、フーガと変奏曲
3.0点
とても物悲しい雰囲気で悪くはないのだが、分かりやすいすぎて、まるでロールプレイングゲームの悲しい場面の音楽のようだ。オルガンの使い方があまりに陳腐である。嫌いではないが、これを人に勧めるのははばかられる。

パストラール
3.0点
最初と最後は穏やかで柔らかい曲であり、パストラールの標題も分からなくはない。しかし、中間は瞑想的であまりそぐわない。パイプオルガンの音が少し軽く聞こえてしまうし、全体にやや平凡な感があり、曲集の一つとしてはよいが全体としてはいまいち物足りない。

祈り
3.0点
孤独の中で祈りを捧げる精神と身体をうまく表現されている曲であると思う。名作とは思わないが、独特な表現に成功している面白い曲としては評価できる。

終曲
3.0点
壮大な終局をみせる終曲である。予想できる範囲内の出来ではあるが、それなりのスケールで締めくくってくれる。

3つの作品(幻想曲イ長調、カンタービレ、英雄的作品)(1878年)

幻想曲イ長調
3.3点
モーツァルトの幻想曲のような瞑想的な雰囲気であり、展開のされ方にもどことなく似たものを感じる曲。雰囲気も展開もなかなか楽しめるものであり聞き入ってしまう。

カンタービレ
3.3点
まさに歌うようなしみじみとしたメロディーを聞かせる曲。ベタなようでもけっこう心にぐっとくるものがある。オルガンの素敵さの一端を感じさせてくれる。

英雄的作品
3.0点
がっつりと英雄的な強靭さを聞かせる曲。しかし、フランクらしい半音階的な中で聞かせるので、単純ではない。生で聴いたらさぞかっこいいことだろう。

3つのコラール(1890年)

コラール1番
3.5点
最晩年の3つの大作コラールの1曲目。半音階的な複雑な和声進行が印象に強く残り、ブルックナーの交響曲9番の3楽章のような神に捧げる祈りの音楽になっている。最初ずっと同じ雰囲気で十分に満足できるだけの時間を祈りに使ったあと、中間からは強烈な和音に始まり不安をかきたてる。これも平凡さがない独創性があり、非常に効果的。最後は感動的にしめくくる。作曲技術の高さとたどり着いた境地の高さに驚く曲。

コラール2番
3.8点
短調でドロドロとした暗黒の世界が最初は続く。オルガンしか出来ない不思議な世界観であり、かなり前衛的にも感じる。突然の悲劇的な悲鳴に続いて、かなり焦燥的ともいえるような不思議な切迫感のある部分に移る。ここはかなり聞き入った。秀逸だと思う。オルガンならではの独特な表現と半音階的なフランクの音楽が非常に独創的な世界を築いていて、未来的ともいえるほど。オルガンはすごい楽器だ。かなり驚いた。

コラール3番
3.0点
感傷的な甘さのある前半部分。前の2曲ほど超越的でなく人間的なのが分かりやすい。しかし、圧倒感のある魅力がない。後半部分がかなり平凡なのはもっと残念で、聴き終わったあとに残念感がかなりある。前の2曲が凄かっただけに残念である。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/フランク
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/915.html#c2

[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
32. 中川隆[-13703] koaQ7Jey 2020年2月19日 22:27:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-238]

ベルリオーズ 『幻想交響曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html

セザール・フランク 『前奏曲・コラールとフーガ 』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/915.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c32

[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
19. 中川隆[-13702] koaQ7Jey 2020年2月19日 23:00:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-237]
クルーズ船を「第二の感染源」に変えた安倍政権の科学軽視
木村 正人 2020/02/19
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/クルーズ船を%ef%bd%a2第二の感染源%ef%bd%a3に変えた安倍政権の科学軽視/ar-BB109tiT?ocid=ientp



© PRESIDENT Online クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」前で報道する海外メディア=2020年2月18日、横浜市の大黒ふ頭


日本政府の新型コロナウイルス対応は、なぜ間違ったのか。ロンドン在住ジャーナリストの木村正人氏は「日本政府の対応は海外メディアから厳しく非難されている。科学者が先頭に立ち、官僚が支えるシステムを大至急、整えるべきだ」という——。

感染拡大を防げなかった日本政府のお粗末

こんなことが許されるのだろうか。森友学園、加計学園、「桜を見る会」問題で繰り返されてきた安倍政権の隠蔽(いんぺい)体質がクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」で新型コロナウイルスの感染を拡大させてしまったようだ。

世界の感染症を分析している英インペリアル・カレッジ・ロンドンMRCセンターによると、新型コロナウイルスは患者1人から2.6人に感染、致死率の推定値は約1%とみられている。感染対策を施さなければ罹患率は60〜80%に達する恐れがある。
英国船籍のクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」(乗員乗客3711人)について安倍政権は2月3日から検疫法に基づき横浜港で検疫を実施している。にもかかわらず船内の感染者は増え続け、18日にも88人の感染が確認され感染者はついに計542人となった。

「ダイヤモンド・プリンセス」の乗客の最年長は90歳代で70歳代は約1000人、60歳代は約900人(橋本岳厚生労働副大臣のブログより)。致死率の約1%を単純に掛けただけでも5人以上の犠牲者が出てもおかしくない。
十分な感染対策を施さずに検疫を実施したら隔離されている人に感染を広げることになり、それはもはや犯罪に等しい。


感染症のプロ、岩田教授の衝撃告発

SARS(重症急性呼吸器症候群)やエボラ出血熱を現地で経験した感染症のプロ、岩田健太郎神戸大学教授が18日「ダイヤモンド・プリンセス」の船内に入り、ユーチューブで信じられないような内部告発を行っている。これが安倍政権の体質だと言われても仕方あるまい。

告発のポイントは次の通りだ。

「ダイヤモンド・プリンセスは感染者がどんどん増えていくので感染対策はうまくいっていないのではという懸念があった」

「日本環境感染学会が入り、実地疫学専門家養成コース(FETP-J)が入ったが、あっという間に出て行ってしまって中がどうなっているかよく分からない状態だった」

「中の方から恐い、感染が広がっていくのではということで私に助けを求めてきた」

「船内に入ると、それはもうひどいものだった。この仕事を20年以上やっていてアフリカのエボラ出血熱とか中国のSARSとかいろんな感染症と立ち向かってきたので身の危険を感じることも多々あった」

「しかし自分が感染症にかかる恐怖というのはそんなに感じたことはない。僕はプロなので自分が感染しない方法、他の人を感染させない方法、施設の中でどういうふうにすれば感染がさらに広がらないかということも熟知している」


危険ゾーンと安全ゾーンの区別はなかった

岩田教授はダイヤモンド・プリンセスの船内の様子をこう表現した。

「悲惨な状態で心の底から恐いと思った」

「これは自分が新型コロナウイルスに感染しても仕方ないと本気で思いました」

続けて動画では、感染のリスクについてこう説明する。

「ウイルスが全くない安全なグリーンゾーンとウイルスがいるかもしれない危ないレッドゾーンを分けて、レッドゾーンでは完全に防護服をつけ、グリーンゾーンでは何もしなくていいと区別するのが鉄則」

「しかしダイヤモンド・プリンセスの中はグリーンもレッドもぐちゃぐちゃになっていて、どこが危なくてどこが危なくないのか全く区別がつかない。どこの手すり、どこの絨毯(じゅうたん)にウイルスがいるのかさっぱり分からない状態だった」

船内で日常的に感染者とすれ違う

「熱のある方が自分の部屋から歩いて医務室に行ったり、感染者とすれ違ったりするのが日常的に行われている。災害派遣医療チーム(DMAT)や検疫官の方が感染したと聞いていたが、それもむべなるかなと思った」

「中の方に聞いたら、われわれも自分たちも感染するなと思っていると言われてびっくりした。感染症のミッションに出る時は必ず自分たち医療従事者の身を守るのが大前提」

「自分たちの感染リスクを放ったらかしにして患者や一般の方に向かったらルール違反だ。自らの安全が保証できない時に他の方の安全は守れない。いつ感染が起きたのか分かるようなデータも全然取っていない」

「そもそも常駐しているプロの感染対策の専門家が一人もいない。やばいなと思って箴言しても何も聞いてもらえない。やっているのは厚労省の官僚たちで、聞く耳を持たない」

「DMATの方が医療現場に戻ると今度はそこからまた院内感染が広がってしまいかねない。アフリカや中国に比べてもひどい感染対策をしている」


「検疫は機能している」と言い続ける安倍政権

「日本にはCDC(疾病予防管理センター)がないとはいえ、まさかここまでひどいとは思ってもいなかった。学術界とか国際的な団体は日本に変わるように促していただきたい」

「中国のSARSでは隠蔽が問題になったが、ダイヤモンド・プリンセスのカオスの状態に比べるとはるかに楽だった。日本はダイヤモンド・プリンセスの中で起きている情報を全然出していない」

「マズイ対応であることがバレるのは恥ずかしいことかもしれないが、これを隠蔽するともっと恥ずかしい」

最大の問題はやはり安倍晋三首相→加藤勝信厚労相→厚労省官僚・医系技官という指揮命令系統の中に感染症のプロが全く入っていないことだろう。日本最大の問題は組織から岩田教授のような職人気質の専門家を排除してしまうことだ。

そのためグリーンゾーンとレッドゾーンの区別、感染者や疑い例の患者と接触する際の手順、感染症対策の基本となるデータの収集が全く行われていない。にもかかわらず安倍政権は世界に対して検疫は完全に機能していると言い続けてきた。

安倍政権がこれまでと同じように頬かむりするつもりだとしてもそうはいかない。「ダイヤモンド・プリンセス」の集団感染は日本人だけでなく56カ国・地域の乗客の命を危険にさらしてしまった。隠蔽は許されない。全てのデータを即刻、開示すべきだ。


安倍政権の対応に海外の厳しい目が向けられている

海外メディアも日本の検疫が失敗した理由について厳しい目を向けている。特に44人が感染、約330人をチャーター機2機で帰国させた米国のメディアは日本のやり方を徹底的に批判している。

米ABCテレビは「第二の感染中心地が日本の港につくられつつあり、憂慮すべき事態」と警鐘を鳴らし、米紙ニューヨーク・タイムズは「日本政府の対応は公衆衛生危機の際に行ってはいけない対応の見本」と批判する専門家の意見を紹介した。

もともとクルーズ船ではノロウイルスの感染が頻繁に起きており「海に浮かぶ培養皿」と呼ばれるほど感染症には脆弱(ぜいじゃく)だ。しかし船内では世界保健機関(WHO)が1月30日に緊急事態宣言を出してからもパーティーが開かれていた。

米国立アレルギー・感染症研究所のアンソニー・フォウチ所長は米USAトゥデーに「クルーズ船上で人々を安全に検疫しようという最初の考えは無理ではなかった」としながらも「検疫のプロセスが破綻した」と指摘し「あまり厳しいことは言いたくないが、これは失敗だ。検疫が失敗し、多くの感染者を出してしまった」と話している。

英キングス・カレッジ・ロンドンの感染症の専門家ナタリー・マクダーモット博士は「明らかに検疫は機能していない。この船は現在、感染源になっている」と手厳しい。

「船内での検疫の実施方法、空気浄化、客室へのアクセス、廃棄物の処理方法を理解する必要がある」

「私たちが馴染(なじ)みのない別の感染経路が存在する可能性はあるものの、乗員や乗客がウイルスで汚染された表面を触るのを防ぐディープクリーニングが適切に行われていれば、検疫が機能しなかったはずがない」

感染させるために培養皿の中に閉じ込めた

米紙ウォール・ストリート・ジャーナルは「ダイヤモンド・プリンセス」に乗客として乗船していた米テネシー州の総合医アーノルド・ホプランド氏(75)から取材。ホプランド氏は「1日10回も乗員が食事やトイレットペーパー、チョコレートを持ってきた」と証言している。

乗客はマスクもせずにバルコニーに洗濯物を干し、バルコニー越しに乗客同士が話し合っていた。これでは検疫にはならないと注意したホプランド氏の妻は感染し、部屋の世話係だった乗員は重症化していることが分かったという。

ホプランド氏は「私が感染していなかったことが驚きだ。ウイルスは野火のようにこの船に広がった。彼ら(日本政府)はわれわれを感染させるために培養皿の中に閉じ込めたというのが私の推論だ」と語っている。

AP通信に対して英イースト・アングリア大学のポール・ハンター医学部教授は「私たちが考えていたほど人々は他の人々から隔離されていなかったと思われる。ウイルスの継続的な拡散は手順を守っていなかった可能性がある」と指摘している。
「船舶環境で検疫を実施することは困難だ。3700人以上を船内で検疫しようとすることはロジスティクスとして無理があった」


肘と肘が当たる距離で働いていた乗員

乗員1000人は肘と肘とが当たる距離での仕事を強いられ、食堂のビュッフェで一同に介して食事をとっていた。検疫は乗客向けだったわけだが、乗員は客室に食べ物を提供し続けていた。これが「ダイヤモンド・プリンセス」で行われたずさん過ぎる検疫の実態だった。

「ダイヤモンド・プリンセス」の乗客には届かなかった差し入れの崎陽軒シウマイ弁当4000食の写真を撮影してソーシャルメディアにアップして日本でも一躍有名になった英国人乗客デービッド・アベルさん夫妻は検疫官に英語が全く通じず「陽性」か「陰性」か振り回された。

結局、3人目の医師がしっかりとした英語を話せて、陽性であることが確定、病院の空きが出るまでホステルで待機することが分かったという。アベルさんの息子は英BBC放送に出演し、両親の状態を心配していた。アベルさんがショックのあまり吐いていたからだ。アベルさんは「完全なミスコミュニケーションだ」と怒りを通り越してあきれ果てている。

かつて7つの海を支配した英国ではコレラが大流行した19世紀に首席医務官を設け、公衆衛生の土台とワクチンの予防接種システムを構築した。これに対して日本では「科学」が「政治」と「官僚」に埋もれてしまっている。

英国は科学を重視して先の大戦に勝利し、日本は科学無視の精神論を振りかざして焼け野原と化した。新型コロナウイルスとの闘いはこれからが本番だ。今からでも遅くはない。科学者が先頭に立ち、官僚が支えるシステムを大至急、整えるべきだ。


「ダイヤモンド・プリンセス」集団感染の経過

1月20日、横浜を出発
1月22日、鹿児島に寄港
1月25日、香港に到着。問題の男性が下船。その後、ベトナムや台湾を巡る
1月30日、WHOが緊急事態宣言
2月1日、横浜から乗船し、香港で下船した男性の感染が判明。この男性が使ったサウナやレストランは通常通り営業
2月3日、日本の検疫官が横浜港で臨船検疫
2月5日、乗客の客室待機など感染拡大を予防する措置を徹底。10人の感染が判明
2月6日、新たに10人の感染が判明(計20人に)
2月7日、新たに41人の感染が判明(計61人に)
2月10日、感染者計161人に。菅義偉官房長官が「全員に対する検査は難しい」と説明
2月12日、感染者計174人に。検疫官も感染
2月13日、感染者計218人に。厚労省が高齢者や持病のある人から優先的に検査を実施し、陰性が確認された希望者を下船させる方針を発表
2月16日、感染者計355人に
2月17日、陰性が確認された米国人乗客約330人が帰国の途に
2月18日、感染者計542人
2月19日、検疫終了。順次下船(21日まで)。WHOは「世界中に乗客が散らばってしまうより好ましかった。しかし船内で感染者が増え続けたのは残念だった」と言及

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/クルーズ船を%ef%bd%a2第二の感染源%ef%bd%a3に変えた安倍政権の科学軽視/ar-BB109tiT?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c19

[番外地7] メモ帳 _ 音楽・オーディオ 中川隆
13. 中川隆[-13701] koaQ7Jey 2020年2月19日 23:07:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-236]
758名無しの笛の踊り2020/02/19(水) 22:47:16.55ID:H9dinePe
>>757
「カンタベリー」(356万円)を買う程金が有り余ってるにに、そんな僅かな金を惜しむ訳ないだろ
ガレージメーカーの真空管アンプなら30万円で買えるヨ

759名無しの笛の踊り2020/02/19(水) 22:49:03.99ID:H9dinePe
「Cafe 新空間」と同じレベルの音は せいぜい 100万円だよ

760名無しの笛の踊り2020/02/19(水) 23:06:22.78ID:H9dinePe
Super Tweeter 付けるとか、レンジを広げると音が薄味になるんだよ

マークレビンソンなんか態々レンジを狭くしてるだろ
それが音がわかるかどうかの違い
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/337.html#c13

[近代史3] ベルリオーズ 『幻想交響曲』 中川隆
1. 中川隆[-13703] koaQ7Jey 2020年2月19日 23:50:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-235]
ベルリオーズ 「幻想交響曲」 作品14 2014 JUL 28 by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/07/28/ベルリオーズ-「幻想交響曲」-作品%ef%bc%91%ef%bc%94/

ほれた女にふられるならまだいいが、無視されるのは堪え難いというのは男性諸氏は共感できるのではないか。

まだ無名だった24歳のベルリオーズは、パリのオデオン座でイギリスから来たシェイクスピア劇団の舞台に接し、ハムレットのオフィーリアを演じたアイルランド人の女優、ハリエット・スミッソン(左)に夢中になってしまった。熱烈なラブレターを出すがしかし彼女は意に介さず、面会すらもできない。激しい嫉妬にさいなまれた彼はやがて彼女に憎しみを抱いてゆくことになる。

間もなく劇団はパリを去ってしまい、ハリエットをあきらめた彼はマリー・モークというピアニストと婚約した。ところが、踏んだりけったりとはこのことで、ローマ賞の栄冠に輝いてイタリア留学に行くとすぐに、モークの母から娘を別な男に嫁がせることにしたという手紙が届く。怒ったベルリオーズはパリに引き返し女中に変装してモーク母子を殺害して自殺しようと企んだ。婦人服一式、ピストル、自殺用の毒薬を買い馬車にまで乗ったのだから本気だった。幸いにして途中(ニース)で思いとどまったが彼は危ないところだった。

しかし、この事件の前に、彼はすでに殺人を犯し、自殺していた。
それは1830年にできたこの曲の中でのことである(幻想交響曲)。
恋に深く絶望し阿片を吸った芸術家の物語だが、その芸術家は彼自身である。

彼はおそらくハリエットを殺しており死刑になる。ギロチンで切られた彼の首がころがる。化け物になったハリエットが彼の葬儀に現れ奇っ怪な踊りをくりひろげる。
これと同じことがモークの件で現実になる所だったわけだ。

ベルリオーズが本当に阿片を吸ったかどうかはわからない。阿片は17世紀は医薬品とされ、19世紀にはイギリス、フランスなどで医薬用外で大流行し、詩人キーツのように常用した文化人がいた。ピストルと毒薬を買って殺人を企図したベルリオーズが服用したとしてもおかしくない。

そう思ってしまうほど幻想交響曲はぶっ飛んだ曲であり、「幻想」(fantastique、空想、夢幻)とはよく名づけたものだ。これが交響曲という古典的な入れ物に収まっていることが、かろうじてベートーベンの死後2年目にできた曲なのだと信じさせてくれる唯一の手掛かりだ。

逆にその2年間にベルリオーズは入れ物以外をすべて粉々にぶち壊し、それでいてただ新奇なだけでなくスタンダードとして長く聴かれる曲に仕立て上げた。
そういう音楽を探せと言われて、僕は幻想と春の祭典以外に思い浮かぶものはない。高校時代、この2つの音楽は寝ても覚めても頭の中で鳴りまくっていて受験会場で困った。

この曲のスコアを眺めることは喜びの宝庫である。これと春の祭典の相似は多い。
第5楽章の冒頭の怪しげなムードは第2部の冒頭であり、お化けになったハリエットのEsクラリネットは第1部序奏で叫び声をあげる。練習番号68の後打ちの大太鼓のドスンドスンなどそのものだ。

第4楽章のティンパニ・アンサンブル(最高音のファは祭典ではシに上がる)なくして祭典が書かれようか。
第4楽章のファゴットソロ(同50)の最高音はラであり、これが祭典の冒頭ソロではレに上がる。
第3楽章のコールアングレがそれに続くソロを思わせる。「賢者の行進」は「怒りの日と魔女のロンド」(同81)だ。
第5楽章のスコアは一見して春の祭典と見まがうほどで僕にはわくわくの連続だ。

この交響曲の第1楽章と第3楽章は、まことにサイケデリックな音楽である。
第1楽章「夢、情熱」の序奏部ハ短調の第1ヴァイオリンのパートをご覧いただきたい。弱音器をつけpからffへの大きな振幅のある、しかし4回もフェルマータで分断される主題は悩める若者の不安な声である。交響曲の開始としては異例であり、さらにベートーベンの第九のような自問自答が行われる。

感情が赤の部分へ向けてふくらんでfに登りつめると、チェロが5度で心臓の高鳴りのような音を入れる。そこで若者は同じ問いかけを2回する。
青の部分、コントラバスがピッチカートでそれに答える。1度目はppでやさしく、2度目はfで決然と。
まるでオペラであり、ワーグナーにこだまするものの萌芽を見る思いだ。

若者は納得し(弱音器を外す)、音楽は変イの音ただひとつになる。それがト音に自信こめたようにfで半音下がると、ハ長調でPiu mosso.となり若者は束の間の元気を取り戻す。

この、まるで夢から覚めていきなり雑踏ではしゃいでいるような唐突で非現実的な場面転換、そこに至る2小節の混沌とした感じは、まったく筆者の主観であるが、レノン・マッカートニーがドラッグをやって書いた後期アルバムみたいだ。

両者にそういう共通の遠因があったかどうかはともかく、常人の思いつく範疇をはるかに超え去ったぶっ飛んだ楽想である。

この後、弦による冒頭の不安な楽想と木管によるPiu mossoの楽想が混ざり、心臓高鳴りの動機で中断すると、再び第1ヴァイオリンと低弦の問答になる。ここでの木管の後打ちリズムはこの曲全体にわたって出現し、ざわざわした不安定な感情をあおる。やがて弦5部がそのリズムに引っぱられてシンコペートする。これが第2のサイケデリックな混沌だ。ここから長い長い低弦の変イ音にのっかって変ニ長調(4度上、明るい未来)になり、しばし夢の中に遊ぶ。
フルート、クラリネットの和音にpppの第1ヴァイオリンとpのホルン・ソロがからむデリケートなこの部分の管弦楽法の斬新さはものすごい!
これはリムスキー・コルサコフを経てストラヴィンスキーに遺伝し、火の鳥の、そして春の祭典のいくつかのページを強く連想させるものである。

この変イ音のバスが半音上がり、a、f、g、cというモーツァルトが偏愛した古典的進行を経てハ長調が用意される。ここからハリエットのイデー・フィックス(固定楽想)である第1主題がやっと出てきて提示部となる。つまりそこまでの色々は序奏部なのだ。この第1主題、フルートと第1ヴァイオリンが奏でるソードソーミミファーミミレードドーシである。山型をしている。ファが頂上だが、ミミファーと半音ずり上がる情熱と狂気の盛り上げは随所に出てくる。第2主題はフルートとクラリネットで出るがどこか影が薄い。しかしこの気分が第3楽章で支配的になる大事な主題だ。これはすぐに激した弦の上昇で断ち切られffのトゥッティを経て今度は深い谷型のパッセージが現れる。すべてが目まぐるしく、落ち着くという瞬間もない。ここからの数ページは、やはり感情が激して落ち着く間もないチャイコフスキーの悲愴の第1楽章展開部を想起させる。

展開部ではさらに凄いことが起こる。練習番号16からオーボエが主導する数ページの面妖な和声はまったく驚嘆すべきものだ。第381小節から記してみると、

A、B♭m、B♭、Bm、B、Cm、C、C#m、C#、Csus4、C、Bsus4、B、B♭sus4、B♭、Bm、B、Cm、C、C#m、C#、Dm、D、D#m・・・・

なんだこれは?何かが狂っている。和声の三半規管がふらふらになり、熱病みたいにうなされる。古典派ではまったくもってありえないコードプログレッションである。

ベルリオーズは正式にピアノを習っておらず、彼の楽器はギターとフルートだった。
この和声連結はピアノよりギター的だ。それが不自然でなく熱病になってしまう。
チャイコフスキーは同じようなものを4番の第1楽章で「ピアノ的」に書いた。
それをバーンスタインがyoung peoples’でピアノを弾いてやっている。

ところで、ハリエットは第4楽章でギロチンに首を乗せると幻影が脳裏に現れてあの世である終楽章でお化けになることになっているが、僕は異説を唱えたい。最初から殺されていて、全部がお化けだ。

第1楽章の熱病部分に続くffのハリエット主題はG7が呼び覚ますが、そこでイヒヒヒヒと魔女の笑いが聞こえ終楽章の空飛ぶ妖怪の姿になっている。そこからもう一度ややしおらしくなって出てくるが、それに興奮して騒いだ彼の首がギロチンで落ちるピッチカートの予告だってもうここに聞こえているではないか。しかしそれはコーダの、この曲で初めてかつ唯一の讃美歌のような宗教的安らぎでいったん浄化される。だからとても印象に残るのだ。本当に天才的な曲だ!

このC→Fm(Fではなく)→Cはワーグナーが長大な楽劇を閉じて聴衆の心に平安をもたらす常套手段となるが、ここにお手本があった。この第1楽章に勝るとも劣らないぶっ飛んだ第3楽章について書き出すとさすがに長くなる。別稿にしよう。

第2楽章「舞踏会」。ここの和声Am、F、D7、F#7、F#、Bm、G・・・も聞き手に胸騒ぎを引き起こす。スコアはハープ4台を要求しているが、この楽器が交響曲に登場してくるのがベートーベンをぶっ壊している。第3楽章のコールアングレ、終楽章の鐘、コルネット、オフィクレイドもそうだ。ティンパニ奏者は2人で4つを叩きコーダで2人のソロで合奏!になる。ラ♭、シ♭、ド、ファという不思議な和音を叩くがこのピッチがちゃんと聴こえた経験はない。同様に第4楽章の冒頭でコントラバスのピッチカートが4パートの分奏(!)でト短調の主和音を弾くが、これもピッチはわからない。これは春の祭典の最後のコントラバス(選ばれた乙女の死を示す暗号?)のレ・ミ・ラ・レ(dead!)の和音を思い出す。

この交響曲の初演指揮を委ねられたのはベルリオーズの友人であったフランソワ・アブネックであった。彼についてはこのブログに書いた。

ベートーベン第9初演の謎を解く
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2013/09/17/ベートーベン交響曲第%ef%bc%99番に寄せて/

幻想交響曲はハリエットという女性への狂おしい思いが誘因となり、シュークスピアに触発されたものだが、音楽的には彼がパリで聴いたアブネック指揮のベートーベンの交響曲演奏に触発されたものである。

ベートーベンの音楽が絶対音楽としてドイツロマン派の始祖となったことは言うまでもないが、もう一方で、ベルリオーズ、リスト、ワーグナーを経て標題音楽にも子孫を脈々と残し、20世紀に至って春の祭典やトゥーランガリラ交響曲を産んだことは特筆したい。そのビッグバンの起点が交響曲第3番エロイカであり、そこから生まれたアダムとイヴ、5番と6番である。このことは僕の西洋音楽史観の基本であり、ご関心があれば3,5,6番それぞれのブログをお読み下さい
(カテゴリー⇒クラシック音楽⇒ベートーベンと入れば出てきます)。

最後に一言。男にこういう奇跡をおこさせてしまう女性の力というものはすごい。
我がことを考えても男は女に支配されているとつくづく思う。
そういえばモーツァルトもアロイジア・ウェーバーにふられた。彼が本当にブレークするのはそれを乗り越えてからだ。彼はアロイジアの妹コンスタンツェを選んだ。姉の名はマニアしか知らないだろうが天才の妻になった妹は歴史の表舞台に名を残した。

しかしベルリオーズの方は後日談がある。幻想の作曲から2年して再度パリを訪れたハリエットはローマ留学から帰ったベルリオーズ主催の演奏会に行く。そこで幻想交響曲を聞き、そのヒロインが自分であることに気づく。感動した彼女は結局ベルリオーズと結ばれた。彼女の方は大作曲家の妻という名声ばかりか、天下の名曲の主題として永遠に残った。

シャルル・ミュンシュ / パリ管弦楽団
Berlioz Symphonie Fantastique Charles Munch 1967
Orchestre de Paris


僕はEMIのスタジオ録音でこの曲を知ったしそれは嫌いではない。ただし彼の演奏はかなりデフォルメがあり細部はアバウト、良くいえば一筆書きの勢いを魅力とする。それが好きない人にはたまらないだろうということで、どうせならその最たるものでこれを挙げる。

鐘の音がスタジオ盤と同じでどこか安心する。幻想のスコアを眺めていると、書かれた記号にどこまで真実があるのかどうもわからない。そのまま音化して非常につまらなくなったブーレーズ盤がそれを物語る。

これがベストとは思わないが、面白く鳴らすしかないならこれもありということ。
フルトヴェングラーの運命の幻想版という感じだ。EMI盤と両方そろえて悔いはないだろう。


ジェームズ・コンロン/ フランス国立管弦楽団

この曲はフランスのオケで聴きたいという気持ちがいつもある。
マルティノンもいいが、これがなかなか美しい。
LP(右、フランスErato盤)の音のみずみずしさは絶品で愛聴している。
演奏もややソフトフォーカスでどぎつさがないのは好みである(音楽が充分にどぎついのだから)。パリのコンサートで普通にやっている演奏という日常感がたまらなくいい。料亭メシに飽きたらこのお茶漬けさらさらが恋しい。終楽章のハリエットですら妖怪ではなく人間の女性という感じだからこんなの幻想ではないという声もありそうだが。

オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団
Hector Berlioz: Symphonie fantastique / Otto Klemperer
Philharmonia Orchestra
Otto Klemperer
London, 1963



ロンドン時代にLPで聴き、まず第一に音が良いと思った。音質ではない。音の鳴らし具合である。この曲のハーモニーが尖ることなく「ちゃんと」鳴っている。だからモーツァルトやベートーベンみたいに音楽的に聞こえる。簡単なようだがこんな演奏はざらにはない。第2楽章にコルネットが入る改訂版をなぜ選んだかは不明だが、彼なりに彼の眼力でスコアを見据えていておざなりにスコアをなぞった演奏ではない。ご自身かなりぶっ飛んだ方であられたクレンペラーの波長が音楽と共振している。第4楽章の細部から入念に組み立ててリズムが浮わつかない凄味。終楽章もスコアのからくりを全部見通したうえで音自体に最大の効果をあげさせるアプローチである。こういうプロフェッショナルな指揮は心から敬意を覚える。


(補遺、2月29日)
ダニエル・バレンボイム / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ベルリン・イエス・キリスト教会の広大な空間を感じる音場で、オーケストラが残響と音のブレンドを自ら楽しむように気持ちよく弾き、良く鳴っていることに関して屈指の録音である。音を聞くだけでも最高の快感が得られる。第1楽章は提示部をくり返し、コーダは加速する。第2楽章はワルツらしくない。第3楽章の雷鳴は超弩級で、どうせ聴こえない音程より音量を採ったのか。第4楽章のティンパニの高いf がきれいに聞こえるのが心地よい。終楽章コーダは最も凄まじい演奏のひとつである。たしかBPOのCBSデビュー録音で、僕は89年にロンドンで中古で安いので買っただけだが、バレンボイムの振幅の大きい表現にBPOが自発性をもって乗っていて感銘を受けたのを昨日のように覚えている。ライブだったら打ちのめされたろう。彼はつまらない演奏も多いが、時にこういうことをやるから面白い。

Berlioz: Symphonie Fantastique conducted by Barenboim (HD)
Daniel Barenboim
Orchestre De Paris



(補遺、2018年8月25日)
ポール・パレー / デトロイト交響楽団
Detroit Symphony Orchestra - Paul Paray


第2楽章の快速で乾燥したアンサンブルはパレーの面目躍如。これだけ内声部が浮き彫りに聞こえるのも珍しい。第3楽章も室内楽で、田園交響曲の末裔の音を感知させる面白さだ。ティンパニの音程が最もよくわかる録音かもしれない。指揮台にマイクを置いたかのようなMercuryのアメリカンなHiFi概念は鑑賞の一形態を作った。終楽章の細密な音響は刺激的でさえある。パレーは木管による妖怪のグリッサンドをせず常時楷書的だが、それをせずともスコアは十分に妖怪的なのであり、僕は彼のザッハリッヒ(sachlich)な解釈の支持者だ。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/07/28/ベルリオーズ-「幻想交響曲」-作品%ef%bc%91%ef%bc%94/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html#c1
[近代史3] ベルリオーズ 『幻想交響曲』 中川隆
2. 中川隆[-13702] koaQ7Jey 2020年2月20日 00:03:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-234]

クリュイタンス


Berlioz :Symphonie fantastique 1964



Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire
André Cluytens
( Japan, live recording.1964)


アンドレ・クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団
Altus。1964年5月10日、東京文化会館ライヴ、NHKによる録音。

3日前のラヴェル・プログラムの演奏会はモノラルで出ているが、この幻想はうれしいことにステレオである。

私は学生時代にキングからCD化されたのを聴いたことがあった。その後長く廃盤だったが、2000年秋になってようやくAltusから復活した(写真左)。

スタジオ録音とはだいぶ違う、圧倒的な盛り上がりである。(終楽章の鐘の音程が音痴なのが気になるが。)
http://classic.music.coocan.jp/sym/berlioz/berlioz.htm

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Berlioz: Symphonie fantastique, Cluytens & The Phil (1958)



André Cluytens (1905-1967), Conductor
Philharmonia Orchestra

Rec. 4-5 November 1958, at Kingsway Hall, in London


アンドレ・クリュイタンス指揮フィルハーモニア管弦楽団
EMI。1958年録音。セラフィム輸入盤。

フランス国立放送管との録音がモノラルなのにホンワカしているのに対して、こちらは相当締まりのある音である。
http://classic.music.coocan.jp/sym/berlioz/berlioz.htm


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Berlioz: Symphonie fantastique, Cluytens & ONRTF (1955)



André Cluytens (1905-1967), Conductor
Orchestre national de la RTF (French National Radio Orchestra; Orchestre National de France)

Rec. October 1955, at Salle de la Mutualité, in Paris


アンドレ・クリュイタンス指揮フランス国立放送管弦楽団
EMI原盤。1955年録音。
いかにもフランスのエスプリといった感じの名演だ。
http://classic.music.coocan.jp/sym/berlioz/berlioz.htm



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Berlioz - Symphonie fantastique - Czech Ph / Cluytens



Česká filharmonie
André Cluytens
Live recording, Prague, 30.V.1955

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html#c2
[近代史3] ベルリオーズ 『幻想交響曲』 中川隆
3. 中川隆[-13701] koaQ7Jey 2020年2月20日 00:36:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-233]

ピエール・モントゥー


Berlioz: Symphonie fantastique, Monteux (1930)






Pierre Monteux (1875-1964), Conductor
Orchestre symphonique de Paris

Rec. January 1930, in Paris


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Berlioz “Symphonie Fantastique” (Pierre Monteux ・ Concertgebouw, 20 May 1948)



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Berlioz: Symphonie fantastique, Monteux & SFS (1950)







Pierre Monteux (1875-1964), Conductor
San Francisco Symphony

Rec. 27 February 1950, at War Memorial Opera House, in San Francisco


ピエール・モントゥー指揮サンフランシスコ交響楽団

RCA。1950年2月27日、サンフランシスコのWar Memorial Opera Hauseでの録音。

モントゥーが自分のオケというものを持っていた、といえるのは、17年に及ぶサンフランシスコ時代だけであり、その意味で彼が残した5種類のこの曲の録音の中で最高のもの、という評価がなされている。
http://classic.music.coocan.jp/sym/berlioz/berlioz.htm


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Berlioz “Symphonie fantastique” (Pierre Monteux ・San Francisco Symphony, 1952





ベルリオーズ 幻想交響曲 Op 14 ピエール・モントゥー






ピエール・モントゥー
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1958年 録音

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Berlioz “Symphonie Fantastique” (Pierre Monteux ・ NDR, 1964)



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Audiofile:Monteux/Berlioz/Symphonie Fantastique/Hamburg



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Berlioz: Symphonie Fantastique | Pierre Monteux | RAI Milano (10.4.1964)



Orchestra Sinfonica di Milano della Rai diretta da Pierre Monteux
Registrazione del 10 aprile 1964



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html#c3
[近代史3] ベルリオーズ 『幻想交響曲』 中川隆
4. 中川隆[-13700] koaQ7Jey 2020年2月20日 00:40:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-232]
>>3 に追記

ピエール・モントゥー指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団

コンサートホール原盤。1964年2月、モントゥーの死の4ヵ月前の録音である。
1965年度のACCディスク大賞及びADFディスク大賞を受賞している。

第1・第2ヴァイオリンを左右に分けているため、かけあいになっているのが良くわかる。また、金管のあまり大きくないつぶれた音が古楽器のような雰囲気がある。しかしこれは単に音質が悪いだけかもしれない。リマスター版ももとの音の悪さをカバーできてはいないようだ。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html#c4

[近代史3] ベルリオーズ 『幻想交響曲』 中川隆
5. 中川隆[-13699] koaQ7Jey 2020年2月20日 01:11:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-231]

シャルル・ミュンシュ


BERLIOZ: Symphonie Fantastique op. 14 / Munch · Orchestre de Paris









Charles Munch (conductor)
Orchestre de Paris
1967/10/23, 26 (ⓟ 1967) Stereo, Salle Wagram, Paris



シャルル・ミュンシュ指揮
パリ管弦楽団
EMI。1967年10月23-26日、サル・ワグラムでの録音。

パリ音楽院管弦楽団を発展的に解消し、フランスの国威をかけて創設されたパリ管が、フランス最高の指揮者を迎えての伝説的デビュー録音である。
http://classic.music.coocan.jp/sym/berlioz/berlioz.htm


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BERLIOZ: Symphonie Fantastique op. 14 / Munch · Budapest Symphony Orchestra



Charles Munch (conductor)
Budapest Symphony Orchestra
1966 (ⓟ 1975) Stereo, Hungarian Radio Studio, Budapest

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Berlioz - Symphonie fantastique - ONF / Munch


Orchestre National de France
Charles Munch
Live recording, Lisbon, 23.VI.1963

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BERLIOZ: Symphonie Fantastique op. 14 / Munch · Boston Symphony Orchestra


Charles Munch (conductor)
Boston Symphony Orchestra
1962/04/17 Mono, Sanders Theatre, Harvard University


ボストン交響楽団
RCA。1962年録音。
パリ管のはやや踏み外し的であるが、こちらは、古典的名盤、とも言える。

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Berlioz, Symphonie fantastique Charles Münch, Orchestre Symphonique de Radio Canada



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BERLIOZ: Symphonie Fantastique op. 14 / Munch · Boston Symphony Orchestra





Charles Munch (conductor)
Boston Symphony Orchestra
1954/11/14, 15 Stereo, Symphony Hall, Boston


ボストン交響楽団
RCA。SACD Hybrid。1954年11月14-15日、ステレオ録音。


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Berlioz - Symphonie fantastique - New York / Munch


New York Philharmonic
Charles Munch
Live recording, New York, 1.II.1948

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html#c5
[近代史3] ベルリオーズ 『幻想交響曲』 中川隆
6. 中川隆[-13698] koaQ7Jey 2020年2月20日 01:17:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-230]

ストコフスキー


Leopold Stokowski, Berlioz - Symphonie fantastique, Op.54






New Philharmonia Orchestra
Leopold Stokowski

London, June 1968

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Berlioz: Symphonie fantastique - American Symphony Orchestra/Stokowski (1970)



American Symphony Orchestra
LEOPOLD STOKOWSKI, cond.
Recording: Carnegie Hall, New York City, 26-27 April 1970

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html#c6
[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
20. 中川隆[-13697] koaQ7Jey 2020年2月20日 01:46:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-229]
「エアロゾル感染」認める 中国政府 新型肺炎 「飛沫」より感染力
2020/02/19

 【北京=西見由章】中国国家衛生健康委員会は19日、新型コロナウイルスの感染ルートについて、従来の飛沫(ひまつ)感染と接触感染に加えて、霧状に浮遊する粒子に混じったウイルスを吸引する「エアロゾル感染」の可能性があるとの見方を示した。中国政府が公式見解で認めたのは初めて。

 同委が発表した文書は「比較的密閉された環境で長時間、高濃度のエアロゾルにさらされた場合に感染の可能性がある」と指摘した。エアロゾル感染は、感染力が非常に大きい空気感染とは異なるとされるが、患者のせきやくしゃみによる飛沫感染と比べると感染範囲は拡大する。

 エアロゾル感染については上海市当局が2月8日、専門家の意見として主な感染ルートと認められると発表。一方、中国疾病予防コントロールセンターは翌9日の記者会見で「エアロゾルを介して感染することを示す証拠はない」と否定するなど、中国国内でも見方が割れていた。
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/「エアロゾル感染」認める-中国政府-新型肺炎-「飛沫」より感染力/ar-BB109hZw?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c20

[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
21. 中川隆[-13696] koaQ7Jey 2020年2月20日 01:50:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-228]

2020年02月19日
隠蔽工作に利用された科学者/ 危機意識の薄い日本
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/


想像力が欠乏しした自衛官

   既に予想されたことではあるが、武漢肺炎がジワジワと我が国で拡散してきた。今さら嘆いてもしょうがないが、本当に我が国の対応は情けない。だいたい、支那大陸で感染者が続出し、武漢のみならず、周辺の省や上海、北京までもが封鎖されたのに、安倍政権は“どこ吹く風”といった調子で、支那人の入国を許していたんだから、脳天気を通り越して脳震盪でも起こしているんじゃないかと思えてくる。現在、新型コロナウイルスは日本各地に拡大しているが、このウイルス騒動は日本政府の鈍感さだけではなく、有事に対する認識の欠如も露わにしていた。多少なりとも教養のある日本人なら、厚労省が拡散防止の音頭を取っているのはおかしい、と気づくはずだ。それなのに、「武漢以外の支那人ならまだ歓迎します」という有様なんだから、「事態を解っているのか?」と言いたくなる。(今は全面禁止になったけど。) もしこれが米国や英国なら、政府直属のウイルス研究者とか、細菌戦を担当する陸軍の将校が任務に当たり、大統領や首相が主導権を執って陣頭に立つはずだ。ところが、日本じゃ大蔵省上がりの加藤勝信が担当なんだから、天を仰ぎたくなるじゃないか。加藤六月の娘婿なんか、せいぜい“神輿の飾り”程度だろう。

(左 / 渡部悦和 )

  もっと驚くのは、チャンネル桜の討論会に参加していた渡部悦和(わたなべ・よしかず)陸将だ。渡部氏は退官前、陸上自衛隊で東部方面総監を務めており、『中国人民解放軍の全貌』や『米中戦争』、『日本の有事』といった著作もある。最近ではインターネット放送の「チャンネルくらら」や「文化人放送局」に出演し、軍事問題について語っているから、一般人でも馴染みがあるんじゃないか。たぶん、こうした経歴からチャンネル桜への登場となったのだろう。しかし、彼の判断力や認識力には疑問がある。というのも、討論の中で武漢肺炎が話題となった時、渡部氏は新型コロナウイルスを“自然発生的”であると考えていたのだ。渡部氏によれば、武漢にある病毒研究所は「レベル4」の施設で、もし、生物兵器を開発しているのであれば、非常に毒性の強いウイルス兵器を研究しているはず。ところが、今回の新型コロナウイルスは、あまりにも“お粗末”で、レベルが低すぎるというのだ。渡部氏は自信ありげに言う。もし、研究所から流出したものであれば、たいへんな“失敗作”だ、と。

  この意見を受け、同席していた河添恵子は反論した。彼女は北京政府の発表に疑問を呈し、武漢にある病毒研究所から“何らかの形”で漏れ出したんじゃないか、と疑問を呈する。しかし、渡部氏はイスラエルの専門家に取材した「ワシントン・タイムズ」紙の記事を怪しみ、これを否定する「ワシントン・ポスト」紙の記事を取り上げた。さらに、BBCも「ワシントン・タイムズ」の主張を疑っているぞと紹介し、河添氏の反論を斥けた。実際、渡部氏も海外のニュース記事を読んでみたが、かなり多くのフェイク・ニュースが混ざっていることが判り、「流出説」には信憑性が無いと斬り捨てていた。彼は「陰謀説」に加担することを恐れていたのか、それとも自己保全に努めていたのか、野生動物からの自然発生的な感染を力説する。もし、「BSL-4(Biosafty Level 4)」の研究所で製造されたウイルス兵器なら、もっと強力な毒性と高い致死性を有するはずで、あの程度の毒性ではおかしい、と考えていた。そして、もし、外国に対して使用するならば、ちゃんとした完成品でないと駄目だ、と付け加えていた。

  でも、渡部氏の論点はおかしい。どうして彼は人民解放軍による“意図的な使用”にばかりこだわるのか? なるほど、ウイルス兵器は扱いにくく、使用するにしても危険で、ターゲットだけを攻撃するには不向きな代物だ。確かに、エボラウイルスと比べたら、新型コロナウイルスの毒性は低いけど、どうして武漢の研究所が低レベルの生物兵器を開発しちゃダメなんだ? 三越百貨店とか松坂屋にある洋菓子店には、1個2000円の高級スウィーツがある一方で、隣の棚には1個500円とか200円のショートケーキがあるじゃないか。商品の全部が高値のケーキである必要は無い。北京政府がレベル4の研究所に対し、「毒性の低いウイルスも用意しろ」と命令したっていいじゃないか。毒性が低くても感染力の強いウイルスをターゲット国にばら撒けば、患者が爆発的に増え、医療施設がパンクするから、敵国政府は大慌てになるだろう。ところが、もしウイルスの毒性が強烈で、即死の患者ばかりになれば、面倒な介護と対策が必要なくなるから、却ってホッとするかも知れないぞ。

「うっかりミス」によるバイオハザード

  渡部陸将の見解を論ずる上で、ソ連時代に起こった「炭疽菌の流出事件」は参考になる。渡部氏はロシアが謳う生物兵器開発の放棄を信じているようだが、筆者は非常に懐疑的だ。あのロシア人が戦争に負けたわけじゃないのに、強力兵器を放棄したとは考えにくい。筆者は単なる平民だから確実な証拠は持っていないけど、ロシアは研究施設の看板を変えただけで、密かに作っていると思っている。

  今回の話は共産党時代に遡る。ボルシェヴィキにより建国されたソ連は、昔から生物・化学兵器に多大な関心を示していた。地上最強の軍隊を目指す共産主義者らは、この新しい兵器に将来的な価値を見出していた。というのも、チフスの大流行を覚えているソ連の軍事指導者にとって、細菌兵器というのは恐ろしい響きをもつからだ。何しろ、当時はまだワクチンとか抗生物質は無いから、その病原菌が強力な戦術兵器になることは誰でも理解できた。赤軍にとって「勝利」は鉄則だ。倫理道徳など無視して構わない。だから、1928年、ボルシェヴィキ政権はチフス菌を兵器として開発する法令を密かに命じたという。1930年代半ばになると、レニングラード士官学校に生物戦研究施設が建設され、白海に浮かぶソロヴェツキー島が実験場となったそうだ。そこではチフスやQ熱、馬鼻疽の研究が行われていたというから、冷たい汗が背筋に流れてくるじゃないか。しかし、第二次大戦が勃発すると、ドイツ軍の進撃を懸念したソ連は、この秘密施設をウィヤトカ川沿のキーロフに移し、「微生物学研究所」と名付けて最高機密の研究を続けたらしい。(トム・マンゴールド / ジェフ・ゴールドバーグ共著 『細菌戦争の世紀』 上野元美 訳、原書房、2000年、p.58.)

( 左 / ラヴレンティ・ベリヤ )
  戦後、NKVD(ソ連の秘密警察)を率いたラヴレンティ・ベリヤ(Lavrentiy Beria)が、スターリンの命令を受け、生物戦計画の総責任者となったそうだ。しかし、ベリアヤが失脚すると、ソ連軍参謀本部第七局がこの任務を引き継ぎ、エフィム・スミルノフ将軍が指揮を執って生物兵器の開発を続けたという。ソ連はキーロフに加え、モスクワから70kmにあるザゴルスクにも生物戦研究所を設立し、「軍事微生物研究所」という看板を掲げたそうだ。しかし、そこで行われたのは、炭疽や野兎病、ブルセラ属、ペスト、ボツリヌス、ヴェネズエラ馬脳炎、チフス、Q熱の研究と実験。この研究所はアラル海に浮かぶヴォズロデニエ島にも実験場を持っており、「生物戦における防護手段の開発」という名目で、攻撃用兵器の開発を行っていたという。

  地獄の島と化したヴォズロズデニエでは、何トンもの炭疽菌やペスト菌、あるいは様々なウィルスが実験材料として使われ、スプレーで噴霧されたり、砲弾に詰められ爆破されたりしたそうだ。使用後は危険を伴うが、適当に廃棄された。生物兵器の研究と言えば、動物実験が付き物だ。実験用動物として好まれたのは、最も人間に近いとされるマントヒヒ。当時、ソ連軍は1頭500ドルから700ドルという法外な値段で年間数百頭も購入したそうだ。想像しただけでも可哀想に思えるが、ロシア人は1回の実験で100頭ほどのヒヒを柱に鎖で縛りつけ、病原体を噴射することで、その効果を試したらしい。このおぞましい実験が終わると、防護服を着た兵卒が瀕死のヒヒや死んだヒヒを集め、保管場所へ運んで検死を行ったそうだ。その後、廃棄係の兵卒は動物の死体を焼却し、島にある集団墓地に遺灰を埋めたという。(上掲書 pp.61-61)

  ソ連は各実験が終わる度に島の内部を消毒したが、うまく遂行できなかったので、しばしば本土に汚染が広がってしまい、近くの住民が犠牲者となったらしい。1972年、カザフ人が乗る漁船が港を出航した後、行方不明となる事件が起きた。しばらくしてから湖を漂流する船が見つかったというが、乗っていた漁師は全員ペストで死亡していた。しかし、ソ連政府はこの事故を正式に認めず、死亡者の数ですら明らかにしなかったという。それゆえ、遺族はビタ一文も賠償金を貰えず、いつも通りの泣き寝入り。一方、軍部は生物戦研究において、ソ連が西側を大きくリードしていると喜んでいた。そして、この新しい大量破壊兵器を正式に軍事計画に組み込み、生物製剤を「特別指定の兵器」と名付けていた。まさしく、ロシア人には悪魔の仮面が似合っている。

  1979年、最高機密とされた軍事施設のスヴェルドロフスク(Sverdlovsk)で、生物兵器史上最悪の事件が起こった。モスクワの東から約1,500kmの距離にある、この百万人都市には、1947年に建設された「微生物・ウィルス学研究所」という軍事施設があった。有刺鉄線のフェンスで囲まれた内部には、最高機密の製造工場と研究室の他に、特殊な換気装置や煙突、動物用の檻、冷蔵設備、コンクリート製の貯蔵壕、特別線路などがあったそうだ。さらに、施設の周辺には陸軍の基地や一戸建ての住宅、集合団地、工場、商店、学校などもあったというから、本当に共産主義国というのは恐ろしい。

  1979年4月2日の朝、第十九施設の作業員が炭疽菌製造機を稼働させたことで悲劇の幕開けとなる。この事故が発生した原因は、先週の金曜日にあった。製造機には直径60cmの丸いフィルターがあり、金属の枠には特殊合成の繊維が貼られていた。通常は、製造機の定期点検を行う作業員が、乾燥粉砕機のシステムにある排気フィルターを外し、新しいフィルターに取り換えるはずなのだが、当日、交換を行った作業員は、古いフィルターを外したものの、新しいフィルターを嵌めず、“うっかり”忘れていたのだ。こうした交換は、1週間に1度行われていたという。人為的なミスというのは何処でも起こりがちで、高度な研究所であっても例外ではない。金曜日に作業がなされた機械は、誰にも再確認されず、フィルターが無いまま翌週の月曜日に稼働した。(上掲書 p. 90.)

  このヒューマン・エラーで猛毒の粉末が大量に換気口から排出された。炭疽菌の芽胞は空中を漂い、第十九施設の南にある第十三施設や附近の住宅、500mほど先にある陶器パイプ工場にまで達したそうだ。さらに、菌は風に乗って分散し、人の目に触れぬまま、南の村へと飛散したというから、まるでホラー映画の現実化みたいだ。炭疽菌の感染経路は三つある。

 @ 肌や傷口に接触することでの皮膚感染
 A 汚染された肉を食べることによる胃腸からの感染
 B 空気を吸って肺から感染する場合

  特に、息をして炭疽菌を吸入すると、1日か2日後に最初の症状が現れる。体がふらつき、頭痛、咳、微熱、寒気がするそうだ。体内に取り込まれた芽胞が活性化すると、急速に増加するから、免疫系を圧倒する程の毒素が分泌される。一次死傷者の大半は、炭疽菌工場の風下数百メートルに居て、たまたま部屋の窓を開けていたり、屋外に立っていた、あるいは道を歩いていた人であるという。最も甚大な被害を受けたのは、工場で作業をしていた軍の職員や、隣接する第三十二施設に駐屯する兵卒、通勤途中の人々、陶器工場で働いていた従業員であった。体に変調をきたした者は、最初、風邪かインフルエンザに罹ったのか、と思ったらしい。だが、次第に呼吸困難に陥り、高熱や嘔吐に苦しみ、唇が紫に変色する人まで出てきたから、得体の知れない戦慄が走ったという。

  案の定、重症の患者が病院に搬送されたが、担当した医師は困惑の色を隠せない。それもそのはず。政府や軍から何も知らされていなかったのだから。未知の恐怖は更なる恐怖を招く。いくら病院のスタッフがプロとはいえ、致命的な伝染病かも知れない思えば、パニック症状くらい起こすだろう。事態を理解できない医者もパニック状態に陥り、ペニシリン、抗生物質、ステロイドなど、あらゆる治療薬を使ってみたそうだ。しかし、医療チームは患者の死を食い止めることは出来なかった。情報の隠蔽は恐怖と混乱を招くだけ。細菌兵器の流失は目に見えないだけに、実に恐ろしい。第二十病院だけでも42名の遺体があったし、病院に行かず家で亡くなった人もいたそうだ。中には、意識不明で道路に倒れている人もいたという。現地の医療スタッフや医師達は、炭疽菌を吸引した患者を診たことがなかったし、街に軍の秘密工場があるも知らなかったから、適切な処置を取れなくても当然だ。しかし、数日後、経験豊富な病理学者が検死を行った事で、患者の出現が炭疽菌によるものであると判った。

  混乱と恐怖の一週間が過ぎた頃、全病院の医師達は、残りの患者と新しく運び込まれた患者を伝染病棟へ移すよう、政府からの命令を受けた。隔離された人々は集中治療室に収容されたというが、最終的にどうなったのかは分からない。ただ、漏洩事故の深刻さを理解していた政府が動き出した。ソ連の保健省と軍の高官も顔を出してきたというから、本腰を入れたのだろう。ところが、彼らは危険地域に足を踏み込まない。現場の上空をヘリコプターで視察しただけ。なんか、今の習近平みたい。一方、民衆は政府筋や国営の報道機関からの公式発表が無いので疑心暗鬼のまま。一部の人々は途方もないデマを流していたそうだ。驚くのは、現地のKGB支局長さえ、第十九施設で何が行われていたのか知らなかったという、ソ連の秘密主義的体質だ。これじゃあ、一般大衆が出鱈目な噂を信じても無理はない。聾桟敷(つんぼさじき)に置かれていた局長は、相当頭にきたのか、部下に秘密研究所の電話を盗聴させ、ようやく事件の真実を掴んだという。まるで、現在の支那みたい。

ソ連の十八番、隠蔽作戦


  支那人と同じくロシア人も隠蔽の常習犯である。モスクワのKGB本部は、この失態についての情報を固く封印した。ソ連は国家安全保障の観点からだけではなく、政治的・外政的理由から、決して事件を認める訳には行かなかったという。KGBはソ連の医療文書の中で炭疽を意味する「コード202」とその関連事項、病院の記録、検死報告書、流行病の調査報告書を全て押収すると共に、肺炭疽に関する部分を次々と削除し、“偽の報告書”を作成した。しかし、隠蔽工作には死因の説明が必要だ。そこで、何となく“うなづける”ような理由を作り出した。先ず、保健省は地元住民に5万枚のパンフレットを配布し、汚染肉を食べたり、迷い出た家畜に触らぬよう警告したそうだ。そして、大ぼら話を信用させるため、野生動物と野良犬が捕獲され処分されたという。さらに、未検査の肉までが没収され、焼却処分にされたというから実に念が入っている。

  生物兵器の流出事故は誠に厄介だ。炭疽菌を除去しようと危険な作業に取りかかっても、却って埃が宙に舞ってしまい、更なる死亡者が出る始末。最終的な死亡者数は分からないが、推定では64名から600名ほどなんじゃないか、と考えられている。だが、こんなモノはソ連が勝手にはじき出した数字だ。とても信じることはできない。この点は、現在の北京政府も一緒。実際、スヴェルドロフスクの医師達は、モスクワの最終報告書を読んで、「あまりにも少なすぎる」と言っていたくらいだから、桁が二つ三つ違っているんじゃないか。とにかく、炭疽菌で死んだ人の多くは、街の東墓地にある第十五区画に埋葬され、立入禁止区域になったという。

  1979年になる頃には、大規模な隠蔽工作が成功していたそうで、真相を知るのは、現地駐屯軍の高官とKGB、そしてモスクワの政府高官くらいだった。問題は、ソ連が生物兵器禁止条約に違反していることを“どうやって”隠し通すのかだ。すなわち、国連やカーター政権、その次のレーガン政権、ブッシュ政権を如何に欺くかという点である。何しろ、スヴェルドロフスクの事故が起きると、直ちに歐米諸国が噂を聞きつけ、不都合な事実を詮索し始めたから、ソ連としては有効な対策を練らなければならなかった。英国のMI6(対外諜報機関)は、ソ連から東ドイツを旅行したドイツ系イギリス人の話を聞き、どうやら生物兵器工場から病原菌が流出したのではないか、との情報を得た。しかし、この報告は確証に乏しく、当時の英国外務省は生物兵器禁止条約の効力を証明することで頭がいっぱいだったから、確固たる証拠も無いのにソ連が条約に違反していると騒ぎたくなかったそうである。英国の統合情報委員会に対し、穏健路線を取るよう働きかけたのは、このグループであったという。

  ところが、事故から半年が経つと、西側のマスコミにちらほらと真実の断片が届き始めた。当時、フランクフルトで発行されていたロシア語新聞の『ポセフ』には、ソ連の噂やゴシップが定期的に掲載されており、スヴェドロフスクの「怪奇事件」も報道されていた。しかし、日付や場所の情報が間違っており、死亡者数も数千人と曖昧で、炭疽菌についても触れられていなかったから、ほとんど信用されていなかった。しかも、思想的に偏った新聞と見なされていたから、その記事は黙殺されていたのだ。三週間後、ロンドンのニューズ雑誌『ナウ』にも例の事件に関する記事が掲載されたが、その内容は『ポセフ』と旅行者の話をネタにして書かれているだけだった。それでも、『ポセフ』は第二弾の記事を掲載し、スヴェルドロフスクの近くで爆発が起こり、村に炭疽菌が放出されたことや、死亡者が千人くらい出たこと、軍が鎮静化に乗り出し、市民がワクチンの摂取を受けた、という情報を書いた。(上掲書 p. 69.)

  この記事が切っ掛けとなって、ドイツの大衆紙である『ビルト・ツァイトゥング』やロンドンの『デイリー・テレグラフ』紙が動き出し、恐ろしい細菌が軍事施設から漏洩したのでは、との報道を流し始めた。『ビルト・ツァイトゥング』の記事は、西側のマスコミをたいそう刺戟したらしく、一般人が大きな関心を示した。これが引き金となったのか、ソ連政府は対応を迫られた。しかし、こんな騒動くらいでロシア人は正直にならないし、動揺することもない。2月19日、プロパガンダ機関の一つである国営のタス通信社は、炭疽菌に関する西側の報道を「悪意に満ちた作り話」と呼んで斥けていた。ところが1980年、米国のCIAは1979年に撮影された衛星写真の“価値”に気づいたそうだ。CIAの分析官が事件の前と後に撮影された写真を見比べたところ、除染作業車や隔離用の検問所が目に付いた。ここで素朴な疑問が浮かんできた。「なぜソ連は汚染肉の事件くらいで軍事施設を封鎖したのか?」、と。

(左 / ディミートリ・ユスチノフ )
  CIAは重要人物の行動から更に疑念を深めることになった。何と、ディミートリ・ユスチノフ国防相が事件後にスヴェルドロフスクを訪ねたのだ。汚染肉が出回ったくらいでトップ・クラスの軍人が来訪なんておかしい。二日後、今度は著名な伝染病学者でもある保健相がモスクワから駆けつけ、「事件は解決した」との会見を行ったのである。こんな急場しのぎの茶番劇を見れば、CIAが怪しんだのも当然じゃないか。さらに、CIAはロシア人の科学ライターであるマーク・ポポフスキーから貴重な情報を得た。ポポフスキーは地下チャンネルでこっそり持ち出された手紙によって、スヴェルドロフスクの事を知ったという。また、イスラエルへ移住したソ連のユダヤ人から、第十九施設で炭疽菌放出が起こったという話や、それを裏付ける情報が入ったのだ。最も役立ったのは、スヴェルドロフスクで患者を治療した医師の詳しい話だった。被害者の症状は高熱と呼吸困難で、この医者が人づてに聞いた検死結果によると、患者の肺には体液が溜まっていたそうだ。CIAは数百名くらいが亡くなったんじゃないか、と推測したらしい。

  1980年三月、CIAからの報告を受けたカーター大統領は、「病気発生」に関する説明をソ連側に求めた。当時、ソ連はアフガニスタンを侵掠していたから、米国が生ぬるい対応をせず、厳しく追及しようと気構えても不思議じゃない。アメリカ国務省のスポークスマンは、“極めて危険な生物製剤”がスヴェルドロフスクから放出された可能性があると正式に認めた。つまり、生物兵器禁止条約の違反という“疑惑”が浮上した訳だ。これを受けて、ソ連の外務省はアメリカの非難を“あからさまな中傷”とか、アメリカを宣伝するための“でっち上げ”、反ソ連の機運を高めようとする“捏造”であると糾弾した。一方、ロシア人の報道官は、ふてぶてしく、「ソ連は常に生物兵器禁止条約の全規定を厳重に遵守してきた」と豪語した。しかも、この高官は驚愕の声明を発表する。曰わく、「ソ連は“良心に照らして”その義務を守ってきた。それなのに、米国はソ連に疑問を投げかけるとは ! 我々はこんな仕打ちに耐えられない ! 断固拒否する !」、と。(上掲書 p.99)

  もし、アカデミー賞に「陰謀部門」があった、ロシア人が毎年必ず獲得するだろう。ソ連はアメリカの戦術に対する怒りを露わにし、急速に拡大する宣伝合戦の形勢逆転を狙ったそうだ。ソ連側は質問状に対して正式な回答を発表する前、つまり公正な機会が与えられないうちに、正式な非難を受けたと憤慨してみせた。そして、返す刀で、逆にアメリカ側の条約違反を訴えかけたというから、呆れてモノが言えないじゃないか。1975年の条約では、条約違反の申し立てがあった場合には、当事者が相互に“協議”し、協力する事を容認していた。だから、ソ連側は条約内容を楯に取り、アメリカが「その精神を蔑ろにして公然とソ連を非難している !」と抗議し、協力の拒否を正当化したのである。

  続いて3月20日、ソ連外務省は報復攻撃を開始した。ロシア人は“もっともらしい”説明を披露して、猜疑心を抱く人々を安心させようと謀る。ソ連側の見解は次の通り。スヴェルドロフスクで起こった騒動は、ちっとも珍しくない。“ちょっとした”公衆衛生上の問題である。すなわち、「杜撰な食品管理により、炭疽菌に汚染された食肉が闇市場で販売され、その結果、病気が発生した」というのだ。この説明だと、被害者は汚染された肉を食べたことで病気となり、腸炭疽で死亡したとこになる。ソ連の報道官は、「家畜の炭疽感染や闇市での食肉販売などは、この地域ではよくあることだ」と述べていた。

  さすが、ロシア人はプロパガンダの達人だ。ラスヴェガスの手品師だって騙されるんじゃないか。ソ連の嘘は瞬く間に広がり、効果覿面(てきめん)。プリンセス天功も三舎を避ける。このペテン話を以てソ連は生物兵器条約違反の容疑を一挙に解決した。でも、ロシア人は「念には念を入れる」老獪な詐欺師。5月になると、ソ連はモスクワで発行される医学雑誌に、事故を科学的に解説する論文を掲載した。伝染病を専門とする二人の医者が政府公認の論文を執筆し、今回流行った炭疽事件の原因は、青空市場で汚染肉を購入した二家族であると称したのだ。また、この論文の中では、別の家族が病気に罹った羊の肉を食べたせいだ、とも語られていた。(上掲書 p.100) ソ連は自身の信憑性を高めるためなら何でもする。この共産国は、家畜の炭疽感染が珍しくないことを印象づけるため、スヴェルドロフスクの地域では1936年から1968年にかけて、土壌汚染による炭疽が159回も発生したと述べていたのだ。今では白々しい「嘘」と分かるが、当時は権威ある雑誌に発表された論文なので、多くの人々が信用してしまったという。

(左 / レス・アスピン )
  しかし、米国にはこのヨタ話を信じない“強硬派”がいた。下院の情報監視小委員会は、極秘の調査会を開き、CIAと国務省および軍備管理局の証人から話を聞いたという。当時、連邦下院議員だったレス・アスピン(Les Aspin, Jr.)は小委員会の議長を務めており、委員会の結論を鑑みて、ソ連が西側を欺いて生物兵器の研究開発を行っていたと判断したそうだ。(アスピン議員は後にクリントン政権で国防長官になった人物。) 一方、ソ連はあらゆる努力を怠らなかった。ロシア人は名女優さながらの演技を披露する。ソ連は公衆衛生上の悲劇を経験し、その惨劇だけでも充分苦しんでいるのに、アメリカはさらに“この傷口”を広げるような嫌がらせをするんだから、と。ソ連の茶番劇はまだ続く。「これはソ連のアフガニスタン侵攻に対する“報復”であり、モスクワ・オリンピックのボイコットを奨励する脅しかも知れぬ」、とのセリフを述べていた。ロシア人は掩護射撃も忘れない。国営のタス通信は、アメリカが“心理戦争”を行っていると非難。だが、こうした中傷合戦は、重要な国際問題の中に埋もれて行き、次第に米ソの引き分けで終わりそうな雰囲気だった。

利用されただけの馬鹿

(左 / マシュー・メセルソン )
  ところが、ソ連には思いがけぬ幸運が飛び込んできた。ハーヴァード大学で微生物学を教えるマシュー・メセルソン(Matthew Meselson)が助け船を出したのだ。ロシア人は西側に棲息する「便利な馬鹿(useful idiot)」を操るのが殊のほか上手である。将棋界で言えば、名人と竜王のタイトルを連続20期も保持した天才に等しい。藤井聡太も真っ青だ。話を戻す。かいつまんで言えば、メセルソンはソ連の欺瞞と情報攪乱作戦に加担した米国の「間抜け」ということだ。彼は1960年代、合衆国の軍備管理・軍縮局でコンサンタントを務めた人物で、政治活動にも熱心だった。メセルソンは相当な自惚れ屋だったのか、積極的にロビー活動を展開し、生物兵器の禁止条約締結に多大な貢献をしたと自負していたそうだ。ところが、実際のメセルソンは自発的なソ連の操り人形に過ぎなかった。彼は合衆国政府の見解と対立し、ソ連の主張である「汚染肉理論」を支持していたそうだ。この有名教授は、心からソ連の主張を信じ、レーガン政権の反対意見を退けていたというから、紛れもなく筋金入りの左翼と言えよう。彼は事故の原因を汚染肉と確信し、生物兵器の秘密工場とは無関係、という立場を全く変えなかった。

  一般人は「権威」に弱い。特に理系の知識人、とりわけ高名な科学者となれば、理性を忘れて盲目的に信じてしまう。米国のマスコミはこぞってメセルソンの意見を求め、彼の意見は真面目な論調の新聞や書物、そして権威ある科学雑誌にも大きく取り上げられた。事故から7年近く経った1986年、メセルソンはスヴェドロフスク事件の証拠を探すことにした。彼はソ連の高官らと協議するため、モスクワ訪問の許可をソ連側に求め、ようやくその許可が下りたという。ソ連保健省の高官らは、「アホがノコノコやって来た」と思ったんじゃないか。彼らはメセルソンを歓迎し、病気の発生について詳細な事情を語ったそうだ。ロシア人曰わく、「牛の餌が原因」であるという。つまり、死んだ牛と羊から取った骨粉を殺菌しないまま飼料に混ぜてしまい、それを誤って家畜に与えてしまったから、病気が蔓延したというのである。

( 左 / ピョートル・ブルガソフ )
  この「嘘」を作り出したのは、保健省の副大臣を務める科学者で、メセルソンを接待したピョートル・ブルガソフ(Piotr Nikolaevich Burgasov)博士。この科学者はソ連陸軍の少将でもあり、1958年から63年まで、第十九施設で行われた生物戦争計画の責任者であった。さらに驚くのは、1979年にスヴェルドロフスクで例の“事件”が起発生すると、急遽モスクワから派遣され、隠蔽工作の手伝いをするよう命じられたそうだ。1986年の時点でも、彼はまだ軍の攪乱作戦を率いていた。ソ連は何も知らないメセルソンを利用することで、アメリカの面子を潰さず、ひっそりと幕引きを行おうと考えていたそうだ。一方、マセルソンはスヴェルドロフスクへの訪問を要求したが、それは叶わず、モスクワで高官四人と話しただけであった。彼は帰国しても結果を発表せず、その代わり、ブルガソフとソ連の高官に訪米の提案を持ちかけ、新たに発見した医学的証拠を講演会で披露してはどうか、と勧めたそうだ。

  それから1年半後の1988年、ブルガソンとソ連保健省の高官が米国にやって来た。彼らは講演会で堂々と嘘を垂れ流すべく、ワシントンにある米国科学アカデミーと名門のジョンズ・ホプキンス大学にある公衆衛生学部、およびアメリカ人文科学学会で喋りまくった。すると、どの講演も大盛況。聴衆の中には、事件に高い関心を持つ科学者や医療関係者、軍縮管理に携わる官僚、ジャーナリストが混じっていたというが、ブルガソフは以前メセルソンに吹き込んだ「作り話」を繰り返したにすぎない。彼は汚染された飼料の逸話を吹聴し、時折、悲しい表情を浮かべながら、アメリカ人の猜疑心を全く理解できない、と嘆いたそうだ。これに加勢すべく、協力者のメセルソンも登場し、ソ連の説明は誠に“ごもっとも”と演説をぶった。彼はブルガソフの話が医学論文や過去の記録とも一致すると太鼓判を押したそうだから、「どこまでお人好しなんだ?」と言いたくなる。

  でも、一般のアメリカ人もソ連の巧みな目くらましに引っかかっていた。というのも、ソ連からやって来た三人の博士は、よく事情に通じ、“誠意”ある態度で講演を行ったから、アメリカ側としても無碍に否定することは出来なかったのだ。さらに困った事は、CIAやDIAがロシア人科学者の主張を反駁するための根拠を公開せず、真相の暴露を頑なに拒否していた点だ。これだと、米国の強硬派は黙って屈辱に耐えるしかない。「メセルソンは?」と言えば、ソ連側の声明に矛盾や疑問点があっても無視。逆に、アメリカ政府の分析は偏っていると仄めかしたそうだ。これって、日本の進歩的知識人とよく似ているぞ。

( 左 / ピーター・ガンベル)
  しかし、ソ連崩壊で真実が明るみに出た。1991年10月、『ウォール・ストリート・ジャーナル』でモスクワ支局長を務めていたピーター・ガンベル(Peter Gumbel)が、スヴェルドロフスクを三度訪れ、現地の市民や医者から話を聞き、それまで隠されていた医療記録を発見したそうだ。そのうえ、彼はメセルソンの学説を大きく揺るがす事実を発見した。1988年、メセルソンはブルガソフから提供されたデータを基にして論文を書いていた。それによると、スヴェルドロフスク近郊にある飼料製造工場では、殺菌作業がかなり杜撰で、汚染された骨粉が混ざっていたという。ところが、信じられないことに、この工場自体が存在していなかったのだ。さらに唖然とするのは、メセルソンが情報を確認せず、ソ連側の偽情報を鵜呑みにし、しゃあしゃあと論文を書いていた、という裏話である。

(左 / ボリス・エリツィン )
  こうして、真実の水門はさらに開かれた。ガンベルの記事が掲載された約一ヶ月後、ウラル軍管区で対スパイ活動部長代理を務めていたアンドレイ・ミロニュク将軍が、スヴェルドロフスクでの事故が作業ミスによるものであった、との情報を認めてしまったのだ。次に、元KGBのスヴェルドロフスク支局長を務めていたユウ・コルニロフ将軍が重い口を開いた。彼はKGB長官のユーリ・アンドロポフから指令を受けて、第十九施設内の清掃作業を監督していたというのだ。将軍によると、除染作業は徹底しており、研究所の床を張り替え、壁の漆喰をも剝がしていたという。これに加えて、衝撃の事実が浮かび上がってきた。事件が起きた1997年、スヴェルドロフスクの行政区で共産党局長をしていたのは、他ならぬボリス・エリツィンであったのだ。1992年、新生ロシアの大統領になったエリツィンは、病気の原因が自然発生的なものではなく、生物兵器施設での事故によるものであった、と認めたのである。この発表がロシア政府の公式見解となっており、今でも変わっていない。

  ところが、不思議なことに、作り話を流布したメセルソンが狼狽していなかったのだ。ロシア政府のトップに立つエリツィンが公式に認めたのに、彼は専門家チームを結成し、1992年6月、スヴェドロフスクへと赴く。彼らは第四十病院で検死を行った二人の医者、ファイナ・アブラモーワとシヴ・グリンベルグから話を聞いたという。このロシア人医師二名は、炭疽菌による死亡を証明する医学的な証拠を保管し、14年間もKGBの目から隠し通していたのだ。後に、図々しいメセルソンは、この二人から重要な新証拠を引き出したのは自分だ、と主張したが、肝心の医者二名は既に“この特ダネ”をソ連の記者やウォール・ストリート・ジャーナル紙に伝えており、メセルソンは発表済みの古い情報を掴んだだけである。しかし、メセルソンはこうした証拠が有効であると最終的に判断したのは自分達だ、と言い張った。二度目のスヴェルドロフスク訪問となった1994年、メセルソンは有名な『サイエンス』誌に結論を発表し、ようやく汚染肉の話が“まやかし”であったことを認めたそうだ。ただし、15年間に亙って合衆国政府が正しかったこと、そして彼が間違っていたことだけは、意地でも認めなかったらしい。

  後に、メセルソンは自分が関わった事件をまるで他人事のように扱い、これで伝染病の発生源に関する論争は終結するだろう、と語っていた。メセルソンは“まんまと”ソ連の策略に引っかかったのに、自己弁護だけは一貫して続けていたらしい。もう、彼の釈明は呆れるほかない。一般的に学者というのは頑固なものだが、こうも意固地だと頭にくる。なぜなら、事故を起こしたのは炭疽菌の解毒剤を研究する施設であって、生物兵器の製造施設ではない、と論点をすり替えていたからだ。しかも、彼はソ連の条約違反を咎めず、むしろ擁護するように、ソ連の科学者は条約の許容範囲内で研究を行っていたのだ、と語っていた。日本人なら分かると思うが、こういった馬鹿には附ける薬が無い。

( 左 / フランシス・ボイル )
  長々とソ連時代の不祥事を述べてしまったが、こうした過去の事例を思い出すと、支那で発生したウイルス騒動の説明を疑いたくなる。渡部陸将は野生動物からの感染だと考えていたが、本当にそうだろうか? 米国では1月31日に、イリノイ大学教授のフランシス・ボイル博士(Dr. Francis Boyle)が「Geopolitics & Empire」という番組に登場し、新型コロナウイルスが人工的に作られた生物兵器であると、述べていた。彼は国際法の専門家であるが、ジョージ・H・W・ブッシュ政権時代、生物兵器条約の草案に携わった学者であるから、まんざら嘘とは思えない。もしかしたら、軍か政府の高官から内輪話を聞いていたのかも知れない。ボンクラな日本政府と違い、合衆国政府はウイルス騒動に敏感だから、おそらくCDC(米国疾病対策センター)からの分析を受け取っているはずだ。さらに、CIAから詳しい報告書を得ているはずだから、極秘ファイルの情報を計算尽くで公表する場合もある。トランプ大統領は交渉や脅迫が得意だから、国益を考えてわざと真相を隠すかも知れないし、気前よく公開して支那に揺さぶりをかける可能性だったある。冷徹な国際政治の世界では、「日本政府だけが蚊帳の外」という状況だってあるんだぞ。

  新型コロナウイルスの科学的分析がまだ公表されていないから、何とも断定できないが、渡部陸将の推測が誤っているという確率はかなり高い。支那大陸では行方不明となった科学者の黄燕珍が何をしていたのか、という噂話や、武漢ウイルス研究所で主任を務めている石正麗の話題が盛り上がっている。さらに、武漢市内での壮絶な光景が色々な情報筋で流されているのだ。僅か10日で建設された「火神山医院」は、実質的な“絶滅収容所”である。ここに運ばれた患者は治療を受けることはない。ただ苦しみながら死ぬだけだ。窓に鉄格子が設置されているのは、逃亡を防止する為である。ゴースタウン化した武漢で活発なのは、死体を処分する焼却炉だけ。武漢には人民解放軍のロケット部隊とサイバー部隊が派遣され、人民の監視と弾圧が行われているという。

  こうした惨劇が起こっていたのに、渡部陸将は頑なに「人工兵器説」と「偶発的流出説」を否定していた。これって、おかしくないか。自衛隊の上級将校や中堅士官は、チャンネル桜での討論をじっくり観てみるべきだ。何度も繰り返して渡部氏の発言を聞けば、何となく「妙だ !」と気づくはず。でも、複雑な人間関係と役職や義理人情で雁字搦めにされた自衛官は、退官した高級将校の正体を吟味することはできない。嫌なモノには蓋をするのが、巨大組織で働く日本人の性(サガ)だ。渡部氏が単なる断固者なのか、支那に忖度をする自衛官なのか、それとも他に理由を抱えた謎の人物なのか、筆者には判らない。ただ、筆者は百名の愛国的自衛官を集めて、各人の意見を聞きたいと望んでいる。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c21

[近代史3] ベルリオーズ 『幻想交響曲』 中川隆
7. 中川隆[-13695] koaQ7Jey 2020年2月20日 09:27:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-227]

Berlioz Symphonie Fantastique (Davis / Royal Concertgebouw)

コリン・デイヴィス指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
PHILIPS。1974年録音。96kHz-24bitリマスター輸入盤。

コンセルトヘボウの音色が素晴らしく、魅力的な演奏になっている。
特に前半3つの楽章のヴェールを隔てたような感じが良い。
http://classic.music.coocan.jp/sym/berlioz/berlioz.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html#c7

[近代史3] ベルリオーズ 『幻想交響曲』 中川隆
8. 中川隆[-13694] koaQ7Jey 2020年2月20日 09:28:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-226]
コリン・デイヴィス

Berlioz Symphonie Fantastique (Davis / Royal Concertgebouw)


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html#c8
[近代史02] タイは天国に二番目に近い国 2 _ 誰が私をこんな女にした 中川隆
6. 中川隆[-13693] koaQ7Jey 2020年2月20日 10:35:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-225]
差別されるセックスワーカーの悲哀を見てきた

タイは寛容な国として知られているのだが、この国には差別がないのか。
タイ人はとても柔軟で、誰でも受け入れる包容力があって、流れ者にはとても居心地が良い。あまりの優しさと包容力の深さに、抜け出せなくなるような安心感が社会にある。

しかし、このタイでも差別意識はある。私は売春に従事する膨大な女性に出会ってきたが、彼女たちはそのビジネス故に、そして貧しさ故にあまり良く思われていないのは、部外者である私も徐々に知るようになった。

タイは階層社会だ。上流階級と貧困階級はまったく違う世界に生きている。その中で夜の女というのは、最底辺のそのまた下のクラスに見られているというのは、一緒にいる私でさえも肌感覚で分かるようになった。

そしてタイは学歴社会でもある。学歴のある人間とない人間の差はあまりにも明確に線引きされており、学歴のない人間はどれだけ有能でも出世できないという社会でもある。

現在のシンガポールは多民族国家だが、それでは差別がなかったのだろうか。私はあるスリランカ女性が好きになって、彼女としばらく一緒にいたことがある。

(ブラックアジア:リーパ。ゲイランの街に立つ女の凶悪な目付きに惹かれた)
https://blackasia.net/?p=3262


ところが、私の泊まっていたホテルの中国系シンガポール人は、彼女のことを「ダーティー・ブラック・スキン」の女だと言って侮蔑した。「薄汚い黒い肌の女」だというのである。

そして、「そんな女をこのホテルに連れ込むな」と私に言い放った。客の私にそのようなことを言い放つのだから、その差別感情に私はショックを受けるしかなかった。

カンボジアではどうだったか。カンボジア人は昔から激しい差別感情をベトナム人に持っているのは有名な話だ。

そのカンボジアの売春地帯では、貧しいベトナム女性が大量に売られて売春していたのだが、それがまたベトナム人差別を増長させていた。

私が売春で生きているベトナム女性と一緒にプノンペンの街を歩いていたら、あるカンボジア人の老人が彼女にツバを吐きかけた。街を歩いているだけの女性に向かって、ツバを吐くという行為にその拒絶感の強さが窺い知れた。

理解? 配慮? そんなものはどこにもなかった

貧しいというのは差別につながる。売春ビジネスもまた差別につながる。だから貧しいセックスワーカーが置かれている立場というのは、どこの国でも激しい差別の渦の中にある。

バングラデシュでも貧しいセックスワーカーは激しい差別の中にあって、彼女たちが病気になっても医者は診察を拒絶し、彼女たちが死んでも葬儀屋は葬儀を拒み、共同墓地での埋葬すらも断られる。

スリランカで私が売春する貧しい女性と一緒に店に入ったら、私たちの目の前にいたテーブルのスリランカ人は彼女を見て途中で席を立って消えていった。

普通のスリランカ人が彼女を見る侮蔑の表情、そして一緒にいる私に対する嫌悪の表情はとても深い断絶に思えた。スリランカ社会が彼女を見る「冷たい目」はすべて真実である。恐ろしほどの冷たさであった。

彼女たちは、そういった拒絶感を朝から晩まで受けている。どこの国に行っても、私が好きになった夜の女たちの99%は社会から嫌われ差別されていた。
理解? 配慮? そんなものはどこにもなかった。ある時は陰湿に、ある時は露骨に、差別感情がそこに見出された。それが現実だ。

アジアの底辺で、社会から拒絶されながら生きている女性たちの姿を見て感じたのは、人間は「違い」に対する拒絶感をどうしても克服できないという冷徹な現実だったのである。

人は多様であり、人種も、人生も、考え方も、非常に大きな違いが存在する。その「違い」の中に対立や拒否感が生まれると、それが差別という感情になって育っていく。どうあがいても、人間はそこから逃れられない。

この「違いを排除する」という人間社会にある感情は、やがては深い対立を生み出すことになる。現代社会はこの感情を消す処方箋を持っていない。
https://blackasia.net/?p=17236
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/378.html#c6

[近代史3] 今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」_ 吉田清治の話はやっぱり事実だった 中川隆
11. 中川隆[-13692] koaQ7Jey 2020年2月20日 10:35:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-224]
差別されるセックスワーカーの悲哀を見てきた

タイは寛容な国として知られているのだが、この国には差別がないのか。
タイ人はとても柔軟で、誰でも受け入れる包容力があって、流れ者にはとても居心地が良い。あまりの優しさと包容力の深さに、抜け出せなくなるような安心感が社会にある。

しかし、このタイでも差別意識はある。私は売春に従事する膨大な女性に出会ってきたが、彼女たちはそのビジネス故に、そして貧しさ故にあまり良く思われていないのは、部外者である私も徐々に知るようになった。

タイは階層社会だ。上流階級と貧困階級はまったく違う世界に生きている。その中で夜の女というのは、最底辺のそのまた下のクラスに見られているというのは、一緒にいる私でさえも肌感覚で分かるようになった。

そしてタイは学歴社会でもある。学歴のある人間とない人間の差はあまりにも明確に線引きされており、学歴のない人間はどれだけ有能でも出世できないという社会でもある。

現在のシンガポールは多民族国家だが、それでは差別がなかったのだろうか。私はあるスリランカ女性が好きになって、彼女としばらく一緒にいたことがある。

(ブラックアジア:リーパ。ゲイランの街に立つ女の凶悪な目付きに惹かれた)
https://blackasia.net/?p=3262


ところが、私の泊まっていたホテルの中国系シンガポール人は、彼女のことを「ダーティー・ブラック・スキン」の女だと言って侮蔑した。「薄汚い黒い肌の女」だというのである。

そして、「そんな女をこのホテルに連れ込むな」と私に言い放った。客の私にそのようなことを言い放つのだから、その差別感情に私はショックを受けるしかなかった。

カンボジアではどうだったか。カンボジア人は昔から激しい差別感情をベトナム人に持っているのは有名な話だ。

そのカンボジアの売春地帯では、貧しいベトナム女性が大量に売られて売春していたのだが、それがまたベトナム人差別を増長させていた。

私が売春で生きているベトナム女性と一緒にプノンペンの街を歩いていたら、あるカンボジア人の老人が彼女にツバを吐きかけた。街を歩いているだけの女性に向かって、ツバを吐くという行為にその拒絶感の強さが窺い知れた。

理解? 配慮? そんなものはどこにもなかった

貧しいというのは差別につながる。売春ビジネスもまた差別につながる。だから貧しいセックスワーカーが置かれている立場というのは、どこの国でも激しい差別の渦の中にある。

バングラデシュでも貧しいセックスワーカーは激しい差別の中にあって、彼女たちが病気になっても医者は診察を拒絶し、彼女たちが死んでも葬儀屋は葬儀を拒み、共同墓地での埋葬すらも断られる。

スリランカで私が売春する貧しい女性と一緒に店に入ったら、私たちの目の前にいたテーブルのスリランカ人は彼女を見て途中で席を立って消えていった。

普通のスリランカ人が彼女を見る侮蔑の表情、そして一緒にいる私に対する嫌悪の表情はとても深い断絶に思えた。スリランカ社会が彼女を見る「冷たい目」はすべて真実である。恐ろしほどの冷たさであった。

彼女たちは、そういった拒絶感を朝から晩まで受けている。どこの国に行っても、私が好きになった夜の女たちの99%は社会から嫌われ差別されていた。
理解? 配慮? そんなものはどこにもなかった。ある時は陰湿に、ある時は露骨に、差別感情がそこに見出された。それが現実だ。

アジアの底辺で、社会から拒絶されながら生きている女性たちの姿を見て感じたのは、人間は「違い」に対する拒絶感をどうしても克服できないという冷徹な現実だったのである。

人は多様であり、人種も、人生も、考え方も、非常に大きな違いが存在する。その「違い」の中に対立や拒否感が生まれると、それが差別という感情になって育っていく。どうあがいても、人間はそこから逃れられない。

この「違いを排除する」という人間社会にある感情は、やがては深い対立を生み出すことになる。現代社会はこの感情を消す処方箋を持っていない。
https://blackasia.net/?p=17236
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/132.html#c11

[近代史3] 元「中国人慰安婦」の“ウソ”と真実。遺族の証言はどこまで信じられるか? 中川隆
1. 中川隆[-13691] koaQ7Jey 2020年2月20日 10:36:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-223]
差別されるセックスワーカーの悲哀を見てきた

タイは寛容な国として知られているのだが、この国には差別がないのか。
タイ人はとても柔軟で、誰でも受け入れる包容力があって、流れ者にはとても居心地が良い。あまりの優しさと包容力の深さに、抜け出せなくなるような安心感が社会にある。

しかし、このタイでも差別意識はある。私は売春に従事する膨大な女性に出会ってきたが、彼女たちはそのビジネス故に、そして貧しさ故にあまり良く思われていないのは、部外者である私も徐々に知るようになった。

タイは階層社会だ。上流階級と貧困階級はまったく違う世界に生きている。その中で夜の女というのは、最底辺のそのまた下のクラスに見られているというのは、一緒にいる私でさえも肌感覚で分かるようになった。

そしてタイは学歴社会でもある。学歴のある人間とない人間の差はあまりにも明確に線引きされており、学歴のない人間はどれだけ有能でも出世できないという社会でもある。

現在のシンガポールは多民族国家だが、それでは差別がなかったのだろうか。私はあるスリランカ女性が好きになって、彼女としばらく一緒にいたことがある。

(ブラックアジア:リーパ。ゲイランの街に立つ女の凶悪な目付きに惹かれた)
https://blackasia.net/?p=3262


ところが、私の泊まっていたホテルの中国系シンガポール人は、彼女のことを「ダーティー・ブラック・スキン」の女だと言って侮蔑した。「薄汚い黒い肌の女」だというのである。

そして、「そんな女をこのホテルに連れ込むな」と私に言い放った。客の私にそのようなことを言い放つのだから、その差別感情に私はショックを受けるしかなかった。

カンボジアではどうだったか。カンボジア人は昔から激しい差別感情をベトナム人に持っているのは有名な話だ。

そのカンボジアの売春地帯では、貧しいベトナム女性が大量に売られて売春していたのだが、それがまたベトナム人差別を増長させていた。

私が売春で生きているベトナム女性と一緒にプノンペンの街を歩いていたら、あるカンボジア人の老人が彼女にツバを吐きかけた。街を歩いているだけの女性に向かって、ツバを吐くという行為にその拒絶感の強さが窺い知れた。

理解? 配慮? そんなものはどこにもなかった

貧しいというのは差別につながる。売春ビジネスもまた差別につながる。だから貧しいセックスワーカーが置かれている立場というのは、どこの国でも激しい差別の渦の中にある。

バングラデシュでも貧しいセックスワーカーは激しい差別の中にあって、彼女たちが病気になっても医者は診察を拒絶し、彼女たちが死んでも葬儀屋は葬儀を拒み、共同墓地での埋葬すらも断られる。

スリランカで私が売春する貧しい女性と一緒に店に入ったら、私たちの目の前にいたテーブルのスリランカ人は彼女を見て途中で席を立って消えていった。

普通のスリランカ人が彼女を見る侮蔑の表情、そして一緒にいる私に対する嫌悪の表情はとても深い断絶に思えた。スリランカ社会が彼女を見る「冷たい目」はすべて真実である。恐ろしほどの冷たさであった。

彼女たちは、そういった拒絶感を朝から晩まで受けている。どこの国に行っても、私が好きになった夜の女たちの99%は社会から嫌われ差別されていた。
理解? 配慮? そんなものはどこにもなかった。ある時は陰湿に、ある時は露骨に、差別感情がそこに見出された。それが現実だ。

アジアの底辺で、社会から拒絶されながら生きている女性たちの姿を見て感じたのは、人間は「違い」に対する拒絶感をどうしても克服できないという冷徹な現実だったのである。

人は多様であり、人種も、人生も、考え方も、非常に大きな違いが存在する。その「違い」の中に対立や拒否感が生まれると、それが差別という感情になって育っていく。どうあがいても、人間はそこから逃れられない。

この「違いを排除する」という人間社会にある感情は、やがては深い対立を生み出すことになる。現代社会はこの感情を消す処方箋を持っていない。
https://blackasia.net/?p=17236
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/483.html#c1

[アジア13] 悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない 中川隆
626. 中川隆[-13690] koaQ7Jey 2020年2月20日 10:38:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-222]
差別されるセックスワーカーの悲哀を見てきた

タイは寛容な国として知られているのだが、この国には差別がないのか。
タイ人はとても柔軟で、誰でも受け入れる包容力があって、流れ者にはとても居心地が良い。あまりの優しさと包容力の深さに、抜け出せなくなるような安心感が社会にある。

しかし、このタイでも差別意識はある。私は売春に従事する膨大な女性に出会ってきたが、彼女たちはそのビジネス故に、そして貧しさ故にあまり良く思われていないのは、部外者である私も徐々に知るようになった。

タイは階層社会だ。上流階級と貧困階級はまったく違う世界に生きている。その中で夜の女というのは、最底辺のそのまた下のクラスに見られているというのは、一緒にいる私でさえも肌感覚で分かるようになった。

そしてタイは学歴社会でもある。学歴のある人間とない人間の差はあまりにも明確に線引きされており、学歴のない人間はどれだけ有能でも出世できないという社会でもある。

現在のシンガポールは多民族国家だが、それでは差別がなかったのだろうか。私はあるスリランカ女性が好きになって、彼女としばらく一緒にいたことがある。

(ブラックアジア:リーパ。ゲイランの街に立つ女の凶悪な目付きに惹かれた)
https://blackasia.net/?p=3262


ところが、私の泊まっていたホテルの中国系シンガポール人は、彼女のことを「ダーティー・ブラック・スキン」の女だと言って侮蔑した。「薄汚い黒い肌の女」だというのである。

そして、「そんな女をこのホテルに連れ込むな」と私に言い放った。客の私にそのようなことを言い放つのだから、その差別感情に私はショックを受けるしかなかった。

カンボジアではどうだったか。カンボジア人は昔から激しい差別感情をベトナム人に持っているのは有名な話だ。

そのカンボジアの売春地帯では、貧しいベトナム女性が大量に売られて売春していたのだが、それがまたベトナム人差別を増長させていた。

私が売春で生きているベトナム女性と一緒にプノンペンの街を歩いていたら、あるカンボジア人の老人が彼女にツバを吐きかけた。街を歩いているだけの女性に向かって、ツバを吐くという行為にその拒絶感の強さが窺い知れた。

理解? 配慮? そんなものはどこにもなかった

貧しいというのは差別につながる。売春ビジネスもまた差別につながる。だから貧しいセックスワーカーが置かれている立場というのは、どこの国でも激しい差別の渦の中にある。

バングラデシュでも貧しいセックスワーカーは激しい差別の中にあって、彼女たちが病気になっても医者は診察を拒絶し、彼女たちが死んでも葬儀屋は葬儀を拒み、共同墓地での埋葬すらも断られる。

スリランカで私が売春する貧しい女性と一緒に店に入ったら、私たちの目の前にいたテーブルのスリランカ人は彼女を見て途中で席を立って消えていった。

普通のスリランカ人が彼女を見る侮蔑の表情、そして一緒にいる私に対する嫌悪の表情はとても深い断絶に思えた。スリランカ社会が彼女を見る「冷たい目」はすべて真実である。恐ろしほどの冷たさであった。

彼女たちは、そういった拒絶感を朝から晩まで受けている。どこの国に行っても、私が好きになった夜の女たちの99%は社会から嫌われ差別されていた。
理解? 配慮? そんなものはどこにもなかった。ある時は陰湿に、ある時は露骨に、差別感情がそこに見出された。それが現実だ。

アジアの底辺で、社会から拒絶されながら生きている女性たちの姿を見て感じたのは、人間は「違い」に対する拒絶感をどうしても克服できないという冷徹な現実だったのである。

人は多様であり、人種も、人生も、考え方も、非常に大きな違いが存在する。その「違い」の中に対立や拒否感が生まれると、それが差別という感情になって育っていく。どうあがいても、人間はそこから逃れられない。

この「違いを排除する」という人間社会にある感情は、やがては深い対立を生み出すことになる。現代社会はこの感情を消す処方箋を持っていない。
https://blackasia.net/?p=17236
http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html#c626

[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
22. 中川隆[-13689] koaQ7Jey 2020年2月20日 10:42:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-221]
人間は「違い」に対する拒絶感をどうしても克服できないという冷徹な現実2020.02.20
https://blackasia.net/?p=17236


人間はさまざまな理由で特定の人間を排除したり差別したりする。人種が違うと言って差別し、国が違うと言って差別し、同郷ではないと言って差別し、文化が違うと言って差別し、知らない人間だと言って差別する。性別が違うと言って差別し、障害があると言って差別し、貧しいと言って差別し、宗教が違うと言って差別し、同性愛だと言って差別する。(鈴木傾城)


新型コロナウイルスが排除や差別を生み出している

新型コロナウイルスがアジアで広がるにつれて、世界各国で東アジア人が排除されたり、差別されたりするようになっている。

たとえば、フランス・パリ郊外の日本食レストランの窓に「コロナウイルス、出ていけ」と落書きされたり、面と向かって「俺に近づくな、ウイルス野郎」と言われたりしたという事象が次々と上がっている。

ニューヨークではアジア系の女性を見た黒人男性が「俺に近づくな」と女性を罵りながら殴りつけるような事件も起きていた。

イタリアのサンタチェチ―リア国立音楽院は「すべての東洋人へのレッスンを中止する」と発表して「それは差別ではないのか」「いや自己防衛だ」と問題になった。

ドイツではアジア人が電車やバスに乗ると、まわりの白人がみんな席を立って消えてしまったり、あからさまに嫌悪の表情を浮かべたりしている。またアジア人が近づくと無言で去って行ったりする。また欧米各国でアジア人はタクシーも乗車拒否されるようになっている。

私自身は現実主義者だ。中国でこのような激烈な疫病が流行したら世界中が東アジア人を警戒し、排除・拒絶・差別につながるというのは「必ず起こり得ること」として最初から想定内の範囲に入れている。

アフリカでエボラが流行したら世界中の人々はアフリカ人を避けるだろうし、欧米で黒死病みたいなものが流行ったら世界中の人々は欧米人を避けるだろう。そういうことだ。明らかに自分たちと違っている対象は警戒するのである。

排除が極端になり、その排除が根拠なく固定化されると差別になる。差別はなくなると思うだろうか。


差別を生み出す根本となるのは、違うという感覚

人間はさまざまな理由で特定の人間を排除したり差別したりする。人種が違うと言って差別し、国が違うと言って差別し、同郷ではないと言って差別し、文化が違うと言って差別し、知らない人間だと言って差別する。

性別が違うと言って差別し、障害があると言って差別し、貧しいと言って差別し、宗教が違うと言って差別し、同性愛だと言って差別する。差別する理由は山ほどあって、どこかを改善しても、また新しい何かで差別が生み出される。

この差別を生み出す根本となるのは、「違う」という感覚である。白人社会の中で、黒人や黄色人種が入り込めば、肌の色が「違う」という感情が拒絶感につながり、差別となる。

また相手が貧しくて、自分たちよりも劣っているという感情が入り込めば、やはりそこに拒絶感が生まれ、差別となって排除されていく。学歴の違いという些細なものでさえも、いつしか差別になっていく。

差別と言えば、インドのカースト制度は今も隠然と残っており、低カーストやダリットと呼ばれる人々が社会から見捨てられているのがよく知られている。
インドの凄まじい現状と、そんな中で売春ビジネスをして生きる女性のことはこちらに書いた。インドは差別意識があまりにも剥き出しだ。(売春地帯をさまよい歩いた日々:インド・バングラ編)

「自分と違う」という現象は、ある人々にとってはとても興味深く、深い関心を呼び起こし、理解することによって感銘を受けたり影響を受けたりするものだ。しかし、逆に別のある人々にとっては、激しい嫌悪と拒絶感を生み出す。
嫌悪や拒絶感の根本にあるのは「違い」を認められない人間感情なのである。
海外に出たことのある人は、必ず自分の国籍や肌の色で何らかの差別を受けることになる。遅かれ早かれ、そういった不愉快な出来事に遭遇する。違いを受け入れてくれる人もいるのだが、逆に排除する人もいるからである。
https://blackasia.net/?p=17236
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[近代史3] 新自由主義を放置すると中間階層が転落してマルクスの預言した階級社会になる理由 中川隆
58. 中川隆[-13688] koaQ7Jey 2020年2月20日 10:57:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-220]
2020年02月20日
働かない人の収入が働く人より多い世界 マネー経済が実体経済を圧倒


上位数人が下位半分の資産を所有している
働くより金転がしが儲かるのでこうなる

画像引用:https://fashionmarketingjournal.com/wp/wp-content/uploads/2017/02/thejick01-1.png

マネー経済が実体経済を圧倒

1%の超富裕層が富の半分を所有している、というような説明を聞いたことがあると思います。

アメリカでは上位3人(ゲイツ、バフェット、ベゾス)の合計資産約30兆円が下位半分の資産を上回っている。

アメリカ人の5人に1人が資産ゼロで、3割程度が10万円ほどの預金額しか持っていない。


さらに世界の上位62人は世界の個人資産の半分を持っていて、彼らの大半は世襲や相続で資産を引き継いだ。

この状況は19世紀以前に王や皇帝や貴族が支配していた頃と同じで、封建時代より格差が酷いという。

江戸時代の殿様は意外に貧乏で、食事や生活は質素だったので、現在より格差が小さかったかも知れない。


現代の格差拡大はマネー経済の拡大と実体経済の縮小が原因と言われています。

実体経済は生産や移動やサービスなど物理的な行動を伴う経済で、GDPという数字で表されます。

対して「ビットコインが値上がりした」ように物理的な行為が伴わないものを、マネー経済などと呼んでいます。


現金と預金などの通貨流通量は100兆ドルで世界のGDP合計は約80兆ドル(2018年頃)とマネーの方が大きい。

GDPは物理的行為をお金に換算した合計なので、働くよりお金を転がした方が儲かるのを意味している。

例えば苦労して東大に入り一流企業に入り経営者に上り詰めた人より、親から相続したお金を転がして遊んでいるほうが儲かる。


これが格差を拡大していて、まじめに働くより寝ていた方が儲かるから、どんどん差が開いています。

働いたら負けの社会

マネー経済の拡大によって2030年には上位1%の資産家が全世界の富の3分の2を所有する、とオックスフォード大教授などが言っています。

超格差を予言したピケティ教授の『21世紀の資本』がベストセラーになったが、当時は空想と思えたことが現実になっている。

ビケティによると格差が拡大する理由は労働によって得られる賃金より、不労所得である財産の伸び率が高いからです。


その結果が全世界GDP合計80兆ドルに対して通貨流通量は100兆ドルになったので、今後さらに差が開きます。

こうした社会では一生寝ずに働いたとしても、寝転んで資産運用する人よりずっと少ない資産しか作れません。

10年ほど前にネットで「働いたら負け」という言葉が流行したが、今の世界は正に働いたら負けで、働かない人が巨万の富を持っている。


千年以上前から「労働は美徳」としてきた日本人はこういう生き方が苦手であり、労働によって尊敬や称賛を得るのが当然だと考えて来た。

欧米では労働は刑罰であり、偉い人は働かず命令したり遊んだり、非生産的な事ばかりしてきた。

例えば10億円を持っている人が年2%で運用したら2000万円を得られるが、労働で2000万円得られるのは芸能人など限られた職業です。


非正規や派遣労働者の多くは年収200万円程度ですが、これは1億円を2%で運用するのと同じ金額です。

年2%なら投資の才能がゼロでもこつこつ積み立てるだけで良いので、ほぼノーリスクで得られるリターンです。

日本では実質賃金が増えていないが先進国共通の現象で、全世界「働いたら負け」になっています。


こうした世界がいつまで続くかですが、マネー経済は何も生み出していないので、実体経済が作ったものを浪費しているだけです。

実体経済が生み出したお金をマネーゲームの勝者が総取りする不合理な経済が、永遠に続くとは思えない。

王や貴族の支配が終わったように、マネー貴族の世界もいつかは終わるでしょう。

http://www.thutmosev.com/archives/82236298.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html#c58

[近代史3] マルクスがイギリスで共産主義を考えた理由 中川隆
1. 中川隆[-13687] koaQ7Jey 2020年2月20日 10:58:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-219]
2020年02月20日
働かない人の収入が働く人より多い世界 マネー経済が実体経済を圧倒


上位数人が下位半分の資産を所有している
働くより金転がしが儲かるのでこうなる

画像引用:https://fashionmarketingjournal.com/wp/wp-content/uploads/2017/02/thejick01-1.png

マネー経済が実体経済を圧倒

1%の超富裕層が富の半分を所有している、というような説明を聞いたことがあると思います。

アメリカでは上位3人(ゲイツ、バフェット、ベゾス)の合計資産約30兆円が下位半分の資産を上回っている。

アメリカ人の5人に1人が資産ゼロで、3割程度が10万円ほどの預金額しか持っていない。


さらに世界の上位62人は世界の個人資産の半分を持っていて、彼らの大半は世襲や相続で資産を引き継いだ。

この状況は19世紀以前に王や皇帝や貴族が支配していた頃と同じで、封建時代より格差が酷いという。

江戸時代の殿様は意外に貧乏で、食事や生活は質素だったので、現在より格差が小さかったかも知れない。


現代の格差拡大はマネー経済の拡大と実体経済の縮小が原因と言われています。

実体経済は生産や移動やサービスなど物理的な行動を伴う経済で、GDPという数字で表されます。

対して「ビットコインが値上がりした」ように物理的な行為が伴わないものを、マネー経済などと呼んでいます。


現金と預金などの通貨流通量は100兆ドルで世界のGDP合計は約80兆ドル(2018年頃)とマネーの方が大きい。

GDPは物理的行為をお金に換算した合計なので、働くよりお金を転がした方が儲かるのを意味している。

例えば苦労して東大に入り一流企業に入り経営者に上り詰めた人より、親から相続したお金を転がして遊んでいるほうが儲かる。


これが格差を拡大していて、まじめに働くより寝ていた方が儲かるから、どんどん差が開いています。

働いたら負けの社会

マネー経済の拡大によって2030年には上位1%の資産家が全世界の富の3分の2を所有する、とオックスフォード大教授などが言っています。

超格差を予言したピケティ教授の『21世紀の資本』がベストセラーになったが、当時は空想と思えたことが現実になっている。

ビケティによると格差が拡大する理由は労働によって得られる賃金より、不労所得である財産の伸び率が高いからです。


その結果が全世界GDP合計80兆ドルに対して通貨流通量は100兆ドルになったので、今後さらに差が開きます。

こうした社会では一生寝ずに働いたとしても、寝転んで資産運用する人よりずっと少ない資産しか作れません。

10年ほど前にネットで「働いたら負け」という言葉が流行したが、今の世界は正に働いたら負けで、働かない人が巨万の富を持っている。


千年以上前から「労働は美徳」としてきた日本人はこういう生き方が苦手であり、労働によって尊敬や称賛を得るのが当然だと考えて来た。

欧米では労働は刑罰であり、偉い人は働かず命令したり遊んだり、非生産的な事ばかりしてきた。

例えば10億円を持っている人が年2%で運用したら2000万円を得られるが、労働で2000万円得られるのは芸能人など限られた職業です。


非正規や派遣労働者の多くは年収200万円程度ですが、これは1億円を2%で運用するのと同じ金額です。

年2%なら投資の才能がゼロでもこつこつ積み立てるだけで良いので、ほぼノーリスクで得られるリターンです。

日本では実質賃金が増えていないが先進国共通の現象で、全世界「働いたら負け」になっています。


こうした世界がいつまで続くかですが、マネー経済は何も生み出していないので、実体経済が作ったものを浪費しているだけです。

実体経済が生み出したお金をマネーゲームの勝者が総取りする不合理な経済が、永遠に続くとは思えない。

王や貴族の支配が終わったように、マネー貴族の世界もいつかは終わるでしょう。

http://www.thutmosev.com/archives/82236298.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/891.html#c1

[近代史3] “独立”する富裕層  政府による所得再分配は努力して金持ちになった人の金を盗む行為だから許せない 中川隆
1. 中川隆[-13686] koaQ7Jey 2020年2月20日 10:59:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-218]
2020年02月20日
働かない人の収入が働く人より多い世界 マネー経済が実体経済を圧倒


上位数人が下位半分の資産を所有している
働くより金転がしが儲かるのでこうなる

画像引用:https://fashionmarketingjournal.com/wp/wp-content/uploads/2017/02/thejick01-1.png

マネー経済が実体経済を圧倒

1%の超富裕層が富の半分を所有している、というような説明を聞いたことがあると思います。

アメリカでは上位3人(ゲイツ、バフェット、ベゾス)の合計資産約30兆円が下位半分の資産を上回っている。

アメリカ人の5人に1人が資産ゼロで、3割程度が10万円ほどの預金額しか持っていない。


さらに世界の上位62人は世界の個人資産の半分を持っていて、彼らの大半は世襲や相続で資産を引き継いだ。

この状況は19世紀以前に王や皇帝や貴族が支配していた頃と同じで、封建時代より格差が酷いという。

江戸時代の殿様は意外に貧乏で、食事や生活は質素だったので、現在より格差が小さかったかも知れない。


現代の格差拡大はマネー経済の拡大と実体経済の縮小が原因と言われています。

実体経済は生産や移動やサービスなど物理的な行動を伴う経済で、GDPという数字で表されます。

対して「ビットコインが値上がりした」ように物理的な行為が伴わないものを、マネー経済などと呼んでいます。


現金と預金などの通貨流通量は100兆ドルで世界のGDP合計は約80兆ドル(2018年頃)とマネーの方が大きい。

GDPは物理的行為をお金に換算した合計なので、働くよりお金を転がした方が儲かるのを意味している。

例えば苦労して東大に入り一流企業に入り経営者に上り詰めた人より、親から相続したお金を転がして遊んでいるほうが儲かる。


これが格差を拡大していて、まじめに働くより寝ていた方が儲かるから、どんどん差が開いています。

働いたら負けの社会

マネー経済の拡大によって2030年には上位1%の資産家が全世界の富の3分の2を所有する、とオックスフォード大教授などが言っています。

超格差を予言したピケティ教授の『21世紀の資本』がベストセラーになったが、当時は空想と思えたことが現実になっている。

ビケティによると格差が拡大する理由は労働によって得られる賃金より、不労所得である財産の伸び率が高いからです。


その結果が全世界GDP合計80兆ドルに対して通貨流通量は100兆ドルになったので、今後さらに差が開きます。

こうした社会では一生寝ずに働いたとしても、寝転んで資産運用する人よりずっと少ない資産しか作れません。

10年ほど前にネットで「働いたら負け」という言葉が流行したが、今の世界は正に働いたら負けで、働かない人が巨万の富を持っている。


千年以上前から「労働は美徳」としてきた日本人はこういう生き方が苦手であり、労働によって尊敬や称賛を得るのが当然だと考えて来た。

欧米では労働は刑罰であり、偉い人は働かず命令したり遊んだり、非生産的な事ばかりしてきた。

例えば10億円を持っている人が年2%で運用したら2000万円を得られるが、労働で2000万円得られるのは芸能人など限られた職業です。


非正規や派遣労働者の多くは年収200万円程度ですが、これは1億円を2%で運用するのと同じ金額です。

年2%なら投資の才能がゼロでもこつこつ積み立てるだけで良いので、ほぼノーリスクで得られるリターンです。

日本では実質賃金が増えていないが先進国共通の現象で、全世界「働いたら負け」になっています。


こうした世界がいつまで続くかですが、マネー経済は何も生み出していないので、実体経済が作ったものを浪費しているだけです。

実体経済が生み出したお金をマネーゲームの勝者が総取りする不合理な経済が、永遠に続くとは思えない。

王や貴族の支配が終わったように、マネー貴族の世界もいつかは終わるでしょう。

http://www.thutmosev.com/archives/82236298.html

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[番外地6] ピケティで明けました 中川隆
33. 中川隆[-13685] koaQ7Jey 2020年2月20日 11:02:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-217]
2020年02月20日
働かない人の収入が働く人より多い世界 マネー経済が実体経済を圧倒


上位数人が下位半分の資産を所有している
働くより金転がしが儲かるのでこうなる

画像引用:https://fashionmarketingjournal.com/wp/wp-content/uploads/2017/02/thejick01-1.png

マネー経済が実体経済を圧倒

1%の超富裕層が富の半分を所有している、というような説明を聞いたことがあると思います。

アメリカでは上位3人(ゲイツ、バフェット、ベゾス)の合計資産約30兆円が下位半分の資産を上回っている。

アメリカ人の5人に1人が資産ゼロで、3割程度が10万円ほどの預金額しか持っていない。


さらに世界の上位62人は世界の個人資産の半分を持っていて、彼らの大半は世襲や相続で資産を引き継いだ。

この状況は19世紀以前に王や皇帝や貴族が支配していた頃と同じで、封建時代より格差が酷いという。

江戸時代の殿様は意外に貧乏で、食事や生活は質素だったので、現在より格差が小さかったかも知れない。


現代の格差拡大はマネー経済の拡大と実体経済の縮小が原因と言われています。

実体経済は生産や移動やサービスなど物理的な行動を伴う経済で、GDPという数字で表されます。

対して「ビットコインが値上がりした」ように物理的な行為が伴わないものを、マネー経済などと呼んでいます。


現金と預金などの通貨流通量は100兆ドルで世界のGDP合計は約80兆ドル(2018年頃)とマネーの方が大きい。

GDPは物理的行為をお金に換算した合計なので、働くよりお金を転がした方が儲かるのを意味している。

例えば苦労して東大に入り一流企業に入り経営者に上り詰めた人より、親から相続したお金を転がして遊んでいるほうが儲かる。


これが格差を拡大していて、まじめに働くより寝ていた方が儲かるから、どんどん差が開いています。

働いたら負けの社会

マネー経済の拡大によって2030年には上位1%の資産家が全世界の富の3分の2を所有する、とオックスフォード大教授などが言っています。

超格差を予言したピケティ教授の『21世紀の資本』がベストセラーになったが、当時は空想と思えたことが現実になっている。

ビケティによると格差が拡大する理由は労働によって得られる賃金より、不労所得である財産の伸び率が高いからです。


その結果が全世界GDP合計80兆ドルに対して通貨流通量は100兆ドルになったので、今後さらに差が開きます。

こうした社会では一生寝ずに働いたとしても、寝転んで資産運用する人よりずっと少ない資産しか作れません。

10年ほど前にネットで「働いたら負け」という言葉が流行したが、今の世界は正に働いたら負けで、働かない人が巨万の富を持っている。


千年以上前から「労働は美徳」としてきた日本人はこういう生き方が苦手であり、労働によって尊敬や称賛を得るのが当然だと考えて来た。

欧米では労働は刑罰であり、偉い人は働かず命令したり遊んだり、非生産的な事ばかりしてきた。

例えば10億円を持っている人が年2%で運用したら2000万円を得られるが、労働で2000万円得られるのは芸能人など限られた職業です。


非正規や派遣労働者の多くは年収200万円程度ですが、これは1億円を2%で運用するのと同じ金額です。

年2%なら投資の才能がゼロでもこつこつ積み立てるだけで良いので、ほぼノーリスクで得られるリターンです。

日本では実質賃金が増えていないが先進国共通の現象で、全世界「働いたら負け」になっています。


こうした世界がいつまで続くかですが、マネー経済は何も生み出していないので、実体経済が作ったものを浪費しているだけです。

実体経済が生み出したお金をマネーゲームの勝者が総取りする不合理な経済が、永遠に続くとは思えない。

王や貴族の支配が終わったように、マネー貴族の世界もいつかは終わるでしょう。

http://www.thutmosev.com/archives/82236298.html

http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/562.html#c33

[リバイバル3] マルクスはやはり正しかった _ もうすぐ共産革命の嵐が吹き荒れる時代がやって来る 中川隆
270. 中川隆[-13684] koaQ7Jey 2020年2月20日 11:03:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-216]
2020年02月20日
働かない人の収入が働く人より多い世界 マネー経済が実体経済を圧倒


上位数人が下位半分の資産を所有している
働くより金転がしが儲かるのでこうなる

画像引用:https://fashionmarketingjournal.com/wp/wp-content/uploads/2017/02/thejick01-1.png

マネー経済が実体経済を圧倒

1%の超富裕層が富の半分を所有している、というような説明を聞いたことがあると思います。

アメリカでは上位3人(ゲイツ、バフェット、ベゾス)の合計資産約30兆円が下位半分の資産を上回っている。

アメリカ人の5人に1人が資産ゼロで、3割程度が10万円ほどの預金額しか持っていない。


さらに世界の上位62人は世界の個人資産の半分を持っていて、彼らの大半は世襲や相続で資産を引き継いだ。

この状況は19世紀以前に王や皇帝や貴族が支配していた頃と同じで、封建時代より格差が酷いという。

江戸時代の殿様は意外に貧乏で、食事や生活は質素だったので、現在より格差が小さかったかも知れない。


現代の格差拡大はマネー経済の拡大と実体経済の縮小が原因と言われています。

実体経済は生産や移動やサービスなど物理的な行動を伴う経済で、GDPという数字で表されます。

対して「ビットコインが値上がりした」ように物理的な行為が伴わないものを、マネー経済などと呼んでいます。


現金と預金などの通貨流通量は100兆ドルで世界のGDP合計は約80兆ドル(2018年頃)とマネーの方が大きい。

GDPは物理的行為をお金に換算した合計なので、働くよりお金を転がした方が儲かるのを意味している。

例えば苦労して東大に入り一流企業に入り経営者に上り詰めた人より、親から相続したお金を転がして遊んでいるほうが儲かる。


これが格差を拡大していて、まじめに働くより寝ていた方が儲かるから、どんどん差が開いています。

働いたら負けの社会

マネー経済の拡大によって2030年には上位1%の資産家が全世界の富の3分の2を所有する、とオックスフォード大教授などが言っています。

超格差を予言したピケティ教授の『21世紀の資本』がベストセラーになったが、当時は空想と思えたことが現実になっている。

ビケティによると格差が拡大する理由は労働によって得られる賃金より、不労所得である財産の伸び率が高いからです。


その結果が全世界GDP合計80兆ドルに対して通貨流通量は100兆ドルになったので、今後さらに差が開きます。

こうした社会では一生寝ずに働いたとしても、寝転んで資産運用する人よりずっと少ない資産しか作れません。

10年ほど前にネットで「働いたら負け」という言葉が流行したが、今の世界は正に働いたら負けで、働かない人が巨万の富を持っている。


千年以上前から「労働は美徳」としてきた日本人はこういう生き方が苦手であり、労働によって尊敬や称賛を得るのが当然だと考えて来た。

欧米では労働は刑罰であり、偉い人は働かず命令したり遊んだり、非生産的な事ばかりしてきた。

例えば10億円を持っている人が年2%で運用したら2000万円を得られるが、労働で2000万円得られるのは芸能人など限られた職業です。


非正規や派遣労働者の多くは年収200万円程度ですが、これは1億円を2%で運用するのと同じ金額です。

年2%なら投資の才能がゼロでもこつこつ積み立てるだけで良いので、ほぼノーリスクで得られるリターンです。

日本では実質賃金が増えていないが先進国共通の現象で、全世界「働いたら負け」になっています。


こうした世界がいつまで続くかですが、マネー経済は何も生み出していないので、実体経済が作ったものを浪費しているだけです。

実体経済が生み出したお金をマネーゲームの勝者が総取りする不合理な経済が、永遠に続くとは思えない。

王や貴族の支配が終わったように、マネー貴族の世界もいつかは終わるでしょう。

http://www.thutmosev.com/archives/82236298.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/704.html#c270

[近代史3] ベルリオーズ 『幻想交響曲』 中川隆
9. 中川隆[-13683] koaQ7Jey 2020年2月20日 11:24:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-215]

ベルリオーズ 「幻想交響曲」 〜シャルル・ミュンシュの名盤〜:
ハルくんの音楽日記 2012年9月 6日
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-514d.html


ベルリオーズの作曲した「幻想交響曲」の解説で、必ず登場するのがアイルランド出身の女優ハリエッタ・スミスソンです。彼女は15歳で地元ダブリンの劇場でデビューして、18歳の時にロンドンへ移りますが成功しませんでした。けれども28歳の時にフランス、パリのオデオン座でシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」や「ハムレット」でヒロイン役を演じると一躍人気女優となりました。

当時25歳のベルリオーズは、その公演を観て彼女に激しい恋心を抱き、劇場に通い詰めては、彼女にせっせと求愛の手紙を送りましたが、既に人気女優となったハリエッタが、まだ無名で3歳年下のベルリオーズに振り向くわけは有りません。
失恋したベルリオーズは徐々に彼女に憎悪の念を抱くようになり(まぁ、よく有る話です)(笑)、アヘンを服用しながら、この「幻想交響曲」を作曲しました。

「恋に深く絶望し、アヘンを吸った、豊かな想像力を持つある芸術家」の物語を音楽で表現したのですが、それが自分自身であったことは言うまでもありません。

その後、徐々に名が知られてきたベルリオーズは女流ピアニストと恋愛して、またも破断の目に遭います。そして、29歳の時にパリで「幻想交響曲」の演奏会を開きますが、ちょうど同じ時に、あのハリエッタ・スミスソンの劇団がパリに滞在していたために、偶然彼女は演奏会に出向きました。彼女はベルリオーズのことなどは、すっかり忘れ去っていましたし、ましてや演奏曲目が自分自身を主題にしたなどとは全く知らなかったのです。ところがプログラムに書かれた解説を呼んでいるうちに、それが自分のことであるのに気が付き、大変な衝撃を受けました。

その演奏会をきっかけに二人の交際が始まり、翌年には結婚しました。いやー、天才芸術家の人生は何ともドラマティックですね。もっとも二人の仲は結婚後に徐々に冷え込んでゆき、結局は離婚してしまいますが・・・。

ここで、曲の物語の概略を記しておきます。

病的な感受性と想像力に富んだ若い音楽家が、恋の悩みに絶望してアヘンによる服毒自殺を図る。彼は重苦しい眠りの中で奇怪な幻想を見て、彼の病んだ脳の中に音楽的な映像となって現れる。


第1楽章「夢・情熱」
彼は情熱の熱病、憂鬱、喜びをわけも無く感じ、愛する彼女を見る。そして彼女が呼び起こす火山のような愛情、胸を締めつけるような熱狂、発作的な嫉妬、優しい愛の回帰、厳かな慰み。

第2楽章「舞踏会」
ある舞踏会の華やかなざわめきの中で、彼は再び愛する彼女にめぐり合う。

第3楽章「野の風景」
ある夏の夕べ、野原で羊飼いが吹く笛を聞く。風にそよぐ木々のざわめきが心に平安をもたらす。しかし彼女が再び現れ、不安で心が締めつけられる。遠くの雷鳴、孤独、静寂。

第4楽章「断頭台への行進」
彼は夢の中で愛する彼女を殺し、死刑を宣告され、断頭台へと引かれてゆく。そして行進は、最後の愛の思いのように、死の一撃によって遮られる。

第5楽章「魔女の夜宴の夢」
魔女の饗宴の場に居る自分。周りには亡霊や化け物が、彼の葬儀に集まって大騒ぎをしている。そこへ殺した彼女が娼婦のような姿に変わり果てた姿で現れて悪魔の大饗宴に加わる。弔の鐘が鳴り、もはや饗宴と怒りの日がいっしょくたになってしまう。


交響曲というジャンルに、これほどまでの物語性を込めたのは音楽史上初めてのことであり、シューベルトやウエーバーから始まったロマン派が飛躍的に進化した記念碑的な作品となりました。全5楽章という構成も形にとらわれずにユニークですし、各楽章が全て個性的で魅力にあふれます。燃え上がるほどに情熱的な第1楽章、美しく華やかにもかかわらず翳りを感じる第2楽章、美しく静寂と葛藤が交錯する第3楽章、乱痴気騒ぎの行進曲だがアイロニーに溢れた第4楽章、正に踊り狂う大饗宴の第5楽章と、どの楽章も非常な傑作です。見ようによっては2楽章のワルツはメヌエット楽章の異形、4楽章の行進曲はスケルツォ楽章の異形と考えられなくもないような気がします。

また、管弦楽の色彩感の豊かさも驚くほどです。ティンパニーを倍にしたアイディアと演奏効果は抜群です。第2楽章にはベルリオーズ本人の手で後からオブリガート的に書き加えられたコルネット入りの版が有りますが、パリの社交界の華やかさが強調されているように感じられます。最終稿では再び削除されていますが、このコルネット入り版も多く録音されています。そして、第5楽章で使われる弔いの鐘も極めて印象的です。

この曲こそは、近代管弦楽の元祖だと言えるでしょう。ベートーヴェンの時代から、まだほんの僅かの時間しか経っていないというのに、ベルリオーズは驚くほどの天才でした。

この曲を演奏する場合には、標題音楽である以上、この破天荒な内容に相応しい演奏で無ければなりません。そうなると、昔からこの曲のスペシャリストとして余りに有名なシャルル・ミュンシュを第一に上げるのが、やはり妥当だと思います。他のどんな指揮者と比べてもミュンシュの演奏は情熱的であり、炎の中に飛び込むような切羽詰まった感情を表現し尽しているからです。基本テンポは相当に速いのですが、音を溜めるべきところではグッと溜めて力を込めた音を鳴らします。ですので他の誰よりも聴き応えが有ります。

ミュンシュの「幻想」には多くの録音が残されていますが、その中から僕の愛聴盤をご紹介します。

シャルル・ミュンシュ指揮ボストン響(1962年録音/RCA盤) 

ミュンシュのRCAへのステレオ録音には1954年盤と1962年盤の二種類が有りますが、僕は62年盤で聴いています。RCAの録音が優れているので、最も録音条件の良い演奏を聴きたければこのディスクがお勧めです。但しパリ管盤と比べると整い過ぎていて、ミュンシュにしては少々大人しい印象を受けます(他の指揮者と比べれば充分に熱いですが)。あくまでもパリ管盤の補完的存在と考えるべきです。

シャルル・ミュンシュ指揮フランス国立管(1963年録音/ディスク・モンターニュ盤) リスボンでのライブです。モノラル録音ですが、音のバランスが良いので聴き易いと言えます。後年のパリ管との演奏に比べると、表現の幅では幾らか聴き劣りしますが、終楽章などでは、さすがにミュンシュのライブだけあって、凄まじい熱演となっています。但しパリ管のライブ盤が出てしまった以上は、モノラル録音である当盤の存在意義は非常に薄れてしまったと言えるでしょう。

シャルル・ミュンシュ指揮パリ管(1967年録音/EMI盤) 

ミュンシュの、そしてこの曲の代表盤として昔から定評のある演奏です。パリ音楽院管が発展して、パリ管に新たに生まれ変わりましたが、フランス文化省の肝入りだけあって、名実ともに大成功となりました。とにかくオーケストラが異常なほどに熱く燃え上がった演奏です。破天荒なこの名曲は、やはりこのような破格の演奏でなければいけません。問題は元々の録音が余り明瞭でないために、CDのマスタリングを高音域強調にしてしまい、音が耳に刺激的なことです。僕のアナログ盤は米Angel盤ですが、弦のふわりとした柔らかさが心地良いです。CDは、国内盤も海外盤(写真)も大きな違いは有りません。


シャルル・ミュンシュ指揮パリ管(1967年録音/Altus盤) 

有名なEMI録音から1か月後にシャンゼリゼ劇場でパリ管創設記念演奏会が開かれました。これはその時のライブです。3年前に初めて聴いた時には、残響の少ないデッド気味の音質にやや聴きづらさを感じましたが、耳が慣れると、その生々しい音にむしろ好印象を受けます。スタジオ録音で、あれほどの熱演をしていたミュンシュ/パリ管が実演のそれも記念演奏会となれば、どうなるかは想像出来ますが、果たして予想通りか、それ以上の熱演です。表情の彫は深く、溶解寸前まで熱くなっている演奏を言葉では到底表せません。EMI盤と合わせて座右に置きたい歴史的な名盤です。

この他にも、ボストン響との1954年スタジオ録音や、1962年日本ツアーでのライブ盤があります。変わったところでは1966年のブダペストでのハンガリー放送響とのライブ録音もありました。けれども究極的には、やはりパリ管とのEMI盤とライブ盤の二つに尽きると思います。

「幻想交響曲の演奏はミュンシュに限る」と言っても過言では無いと思いますし、それで少しも困りはしないのですが、これほどの名曲がそれではやはり勿体無いので、次回はミュンシュ以外の愛聴盤についてご紹介する予定です。
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-514d.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html#c9

[近代史3] ベルリオーズ 『幻想交響曲』 中川隆
10. 中川隆[-13682] koaQ7Jey 2020年2月20日 11:27:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-214]

ベルリオーズ 「幻想交響曲」 〜ミュンシュ以外の名盤〜: ハルくんの音楽日記| 日本の領土を守れ その4 »
2012年9月13日 (木)

ベルリオーズ 「幻想交響曲」 〜ミュンシュ以外の名盤〜

フランス人は本当に洒脱です。ベルリオーズは失恋が原因で精神異常とも言えるほどに憔悴し切って作曲したというのに、この曲には「悲しみ」というよりは「情熱」と「美しさ」と「狂騒」がふんだんに詰まっています。服用したアヘンの影響も大きいのでしょうが、たとえば第4楽章「断頭台の行進」を聴いて下さい。冒頭こそ重々しい足取りで開始されますが、徐々に高揚してゆき、なんだかまるで「阿波踊り」のようなお祭り騒ぎです(そういえばリズムも似ています)。ギロチン台に連れて行かれる自分自身をこれほどおチャラかすのは、フランス人でなければ出来ない芸当でしょう。別の視点からは、ギロチン処刑の見物に集まった聴衆たちの楽しみと興奮ぶりという見方もあるのかもしれません。

そんなこの曲を聴くには、やはり総じてフランス人の指揮者が洒脱さを良く表現していて望ましいように思います。あるいはフランスのオーケストラによる音には華やかさと軽味が有って曲に相応しいと思います。

ただ、そうは言ってもフランス以外の演奏家にも好きな演奏は有りますし、フランス人でもピエール・ブーレーズの遅く荘重な、まるで司祭様が指揮したような演奏も有りますので、一概には言えません。

さて、「幻想交響曲」と言えばミュンシュ、ミュンシュと言えば「幻想」ですので、前回はシャルル・ミュンシュ演奏の名盤をまとめてご紹介しました。そこで今回は、ミュンシュ以外の愛聴盤のご紹介です。

ポール・パレ―指揮デトロイト響(1959年録音/マーキュリー盤) 

パレーの出す音は、フランス語の鼻に抜けるような発音では無く、ずっと明確な音です。基本テンポも速く、強固に引き締まった造形は、「フランスのムラヴィンスキー」と呼びたいところです。この曲でも、1楽章と5楽章の速さはミュンシュ以上に常軌を逸していて、大炎上する恋の炎の中に一直線に飛び込んでゆくかのようです。この曲はやはりこのような演奏でなければいけません。年代の割には録音も明瞭なので、演奏の真価を損なうことなく味わえます。ミュンシュ盤と聴き比べてみると楽しいです。

イーゴリ・マルケヴィチ指揮パリ・ラムルー管(1961年録音/グラモフォン盤) 

鬼才マルケヴィチは、ミュンシュやパレーが速いテンポで燃え上がるのとは反対に、テンポを大きく伸縮させており、遅い部分では心の底に深く沈滞するような演奏です。それでいて高揚感にも不足は感じません。やはり曲の本質に近づいた良い演奏だと思います。但し、不満が残るとすれば、オケの響きと性能が極上とは僅かに言い難いことです。


アンドレ・クリュイタンス指揮パリ音楽院管(1964年録音/Altus盤) 

東京文化会館での歴史的な名演奏です。ドラマティックな白熱度ではミュンシュに僅かに及ばないとしても、相当な熱気を帯びています。それでいて至る所に気品が漂うあたりはさすがにクリュイタンスです。好みで、こちらを取る人も多いと思います。NHKによる録音は当時としては優秀で、ミュンシュのライブ盤よりも音質もバランスもずっと上です。

小澤征爾指揮ボストン響(1973年録音/グラモフォン盤) 

小澤がボストン響の監督になって初めて来日したのが1978年ですが、僕はその時に東京文化会館で「幻想交響曲」を聴きました。それは若き小澤の情熱と熱気がほとばしるような素晴らしい演奏でした。それに比べると、5年前のボストン響とのデビュー録音は、若々しく新鮮な演奏には違いありませんが、少々軽過ぎるように感じます。健康的な印象も、この曲にはどうかなと思ってしまいます。ただ、そうは言いつつも、若き小澤征爾の想い出深い演奏ですので忘れられません。

ジャン・マルティノン指揮フランス国立放送管(1973年録音/EMI盤) 

ある意味では最もフランス的な演奏かもしれません。鼻に抜けるような軽味がいかにも生粋のパリジャンを想わせます。ドイツ系の血が流れるミュンシュやベルギー生れのクリュイタンスの力のこもった音とは明らかに異なります。沈み込むような深刻さは余り感じません。2楽章は録音当時としては少数派のコルネット入り版を使用しています。その洒脱な演奏が、いかにもパリの社交界の雰囲気です。

小林研一朗指揮/チェコ・フィル(1996年録音/CANYON盤) 

コバケンはこの曲を得意にしていますが、実演で聴いたのは何年か前に東京文化会館でN響を指揮した演奏会です。それは非常にドラマティックな演奏で大いに楽しめました。このCDは相性の良いチェコ・フィルとの演奏ですが、弦も管も音が非常に美しく聞こえます。ただ、コバケンが本領を発揮するのは、やはりライブです。この曲にしては幾らか大人しく感じますが、CANYONの録音も優秀ですし、じっくりと聴くのには良い演奏です。

クリストフ・エッシェンバッハ指揮パリ管(2002年録音/NAIVE盤) 

パリ管の音を新しい録音で聴けるのは魅力です。1楽章冒頭を思い入れたっぷりに開始するのはエッシェンバッハ調ですが、この曲にはピッタリです。主部の盛り上がりについても上々です。2楽章は綺麗ですが、やや淡白。3楽章は重く聴き応えが有ります。4〜5楽章の狂気さはミュンシュには及びませんが、パリ管は流石に手の内に入った演奏ぶりで安心して聴いていられます。録音が良いのでティンパニーの迫力には圧倒されます。但し4楽章のリピートは、一度断頭台に向かった死刑囚が再び刑務所に戻るみたいで好みません。

というわけで、どれもが個性的な演奏なので気に入っていますが、現在いちばん聴きたくなるのはエッシェンバッハ指揮パリ管盤です。

http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-5305.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html#c10

[近代史3] ベルリオーズ 『幻想交響曲』 中川隆
11. 中川隆[-13681] koaQ7Jey 2020年2月20日 11:47:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-213]

ルイ・エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz、1803年12月11日 - 1869年3月8日)は、『幻想交響曲』でよく知られているフランスのロマン派音楽の作曲家である。

この他に『死者のための大ミサ曲』(レクイエム、1837年)にみられるように、楽器編成の大規模な拡張や、色彩的な管弦楽法によってロマン派音楽の動向を先取りした。

ベルリオーズの肖像はかつてフランス10フラン紙幣に描かれていた。


生涯

幼年期

フランス南部イゼール県のラ・コート=サンタンドレ(La Côte-Saint-André)に生まれる。ここはリヨンとグルノーブルのほぼ中間に位置する。母親のマリー・アントワネット・ジョセフィーヌ・マルミオン、父親で開業医のルイ=ジョセフ・ベルリオーズとの間で、長男として育てられる(このうち6人中2人は早世)。

1809年、6歳の時から町の教会に付属する小さな神学校に入学するが、間もなくして1811年末に閉鎖されてしまい、18歳になるまで家庭で父親の手によって教育された。家庭ではラテン語、文学、歴史、地理、数学、音楽(初歩程度)を習う。


青年期

1817年ないし1818年頃、14歳のベルリオーズは父親の机の引き出しからフラジオレットを見つけ、吹く練習をする息子の様子を見た父親は楽器の使い方を説明し、程なくしてフルートを買い与える。その後15歳になってからはギターも習い始めている。

作曲は同年頃に独学で学び始め、父親の蔵書からラモーの『和声論』を見つけるものの、理論の基礎ですら身につけていない彼にとっては難解なものであった。しかしシャルル・シモン・カテルの『和声概論』を読んだ時は、最初は難解ではあったが徐々にのみ込んでいった。ある程度の知識を得て作曲・編曲に挑戦し、室内楽曲、歌曲、編曲作品を作曲している。

1821年、18歳の時にグルノーブルで行われたバカロレア(大学入学資格試験)に合格し、家業を継ぐ名目でパリに行き、医科大学に入学する。しかし青年ベルリオーズは解剖学を学んでいる途中で気がひるんでしまい、次第に医学から音楽へ興味が移り、オペラ座に通うようになる。それから1年後の1822年に父親の反対にもかかわらず医学の道を捨て、音楽を学び始めた。この時期に医学大学に行く代わりに、コンセルヴァトワールの図書館に行っている。そこでは楽譜を複写したり、楽曲の分析などを試みたりしている。同時にベルリオーズは再び作曲を始めており、フランスの詩人ミルヴォワの詩によるカンタータ『アラブの馬』(H.12)と3声部のカノン(H.13)を作曲する。前者のカンタータは独唱と大管弦楽のための作品であるが、カノン(H.13)を含む2つの作品はいずれも紛失している。

1823年にパリ音楽院に入学して、音楽院の教授ジャン=フランソワ・ル・シュウールにオペラと作曲を学ぶ[1]。

また早くからフランスのロマン主義運動に一体感を持つようになり、アレクサンドル・デュマやヴィクトル・ユーゴー、オノレ・ド・バルザックらと親交を結ぶ。後にテオフィル・ゴーチエはこのように述べている。

「エクトル・ベルリオーズは、管見によると、ユーゴーやドラクロワとともに、ロマン主義芸術の三位一体をなしているようだ」


音楽院時代とローマ賞

ジャン=フランソワ・ル・シュウールの下で音楽を学び、2年後の1824年に最初の本格的な作品である『荘厳ミサ曲』(H.20)を作曲。1825年にパリのサン・ロッシュ寺院で楽長のマッソンによって初演されたが、未熟であるがために失敗する。この後に作品を大幅に加筆修正を行い、同年にオーギュスタン・ドゥ・ポンスに借金をして再演され、成功を収める。またこの頃からローマ賞に挑戦することに意欲を掻き立てている。

1827年からローマ賞に挑戦し、同年の7月に応募作としてカンタータ『オルフェウスの死』(H.25)を作曲する。しかし選外に終わる。その後も以下のように毎年応募する。また9月に当時熱狂的に話題を呼んでいたイギリスから来たシェイクスピア劇団の女優ハリエット・スミッソンの出演する舞台を見て、衝撃を受ける。このことが2人の運命的な出会いであった。

1828年の3月、音楽院で開かれたフランソワ・アブネックの指揮による第1回のパリ音楽院管弦楽団定期演奏会でベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』を、また同年に第5番『運命』を聴いて、大きな啓示を受ける[2]。6月、2度目となるローマ賞への挑戦として『エルミニー』(H.29)を作曲。惜しくも2票の差で第2位となる。

1829年、ゲーテの『ファウスト』(ジェラル・ド・ネドヴァルの仏語訳による)を読んで感銘を受け、このテキストを用いて『ファウストからの8つの情景』(H.33,Op.1)を作曲する。出版の際に「作品1」と番号を付ける。7月に3度目の挑戦となるローマ賞の応募作として、カンタータ『クレオパトラの死』を作曲するが、劇的で過激な内容から審査員たちの顰蹙を買い、受賞を果たすことが出来ずに終わる。

1830年2月に『幻想交響曲』を作曲を開始し、6月に完成する。また、この頃にピアニストのマリー・モークと出会って恋愛関係となる。4月に4度目の挑戦としてカンタータ『サルダナパールの死』を作曲する。4度目にしてようやく念願となるローマ賞を受賞する。12月5日に『幻想交響曲』がアブネックの指揮で初演されて大成功を収めて世間の脚光を浴び、マリー・モークと婚約に至る。そして受賞者としてローマへ留学すると同時に留学を終えたら結婚するという約束を交える。

1831年、ローマに到着した直後に婚約者マリー・モークの母親から手紙が届き、ピアノ製作者イグナツ・プレイエルの長男カミーユ・プレイエル(英語版)と結婚するという報告であった。この報告を知るや否や、再び訪れた破局にベルリオーズは落胆するどころか、逆にひどく怒りを露わにしたといわれる。『回想録』には、マリーとその母とカミーユ・プレイエルを殺して自分も自殺しようと、ベルリオーズは婦人洋服店に急いで行き、女装するために婦人服一式を買い、ピストルと自殺用の毒薬を持参してパリへ向かう馬車に乗り、そのままローマを出発したのだった。しかしイタリア(サルデーニャ王国)とフランスの国境付近でふと我に返り、直後に思い留まって正気を取り戻したのであった。

この出来事の後、ベルリオーズはニース(当時はサルデーニャ王国領でフランス国境の外)で1ヶ月ほど滞在して療養することとなり、回復後はローマへと戻って行く。そして正式にモークとの婚約は解消された。この療養中に『幻想交響曲』の続編と言える抒情的な独白劇『レリオ、あるいは生への復帰』の構想を始めており、ローマに戻った頃には全体の構想を終え、作曲に取り組んだのち7月初旬に完成している。


帰国後と中期の活動

1832年に上記の事情によってイタリア留学を切り上げる形でパリへ帰国すると、同地で再び音楽活動を始める。またローマ滞在中に作曲した作品(序曲『リア王』や『レリオ』など)を携えて持ち帰っている。

1833年、劇団の女優ハリエット・スミッソンが『幻想交響曲』を聴きに来た際に再会し、結果的に結婚までに至る。ベルリオーズの両親は反対したが、それを押し通してのことであった。パリ郊外のモンマルトルに新居を構え、自作の演奏会の開催、雑誌や新聞の評論を始める。

同年に演奏会に来ていたショパンとパガニーニと出会い、親交を結ぶ。

1834年の初め頃、パガニーニからの依頼でヴィオラと管弦楽のための作品である交響曲『イタリアのハロルド』を作曲する。初演の成功によって金銭的な援助も得られた。またこの年に長男のルイが誕生する。

この年にオペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の作曲に取りかかり、1836年の夏に大半が完成する。同時にフランス政府から『レクイエム』の作曲を委嘱され、速いペースで翌1837年に完成する。初演は同年に行われると成功を収め、ベルリオーズは新聞雑誌から賛辞を浴びたり、陸軍大臣からの祝辞を受けたりした。

1838年の9月に、オペラ座で『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の初演が行われる。しかし序曲を除いて散々な不評に終わる。原因として全体の総練習が4回であったことや、聴衆の趣向に合わなかったことなどが挙げられる。友人たちは失敗の原因を台本の稚拙であると指摘したが、『回想録』の中では「脚本は気に入っていたのに、どうして劣っているのか、今でもわからない」と語っている。また初演が失敗した直後に母親が没する。

1839年に、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』を完成させる。初演の後、作品をパガニーニに献呈する。この時期のベルリオーズは莫大な借金を背負っていたため、生活が苦しく、収入が得られなかったが、音楽院側からの助けで、2月頃にパリ音楽院の図書館員となり、僅かな額ではあったがある程度の収入を得る。1852年には館長に任命されている。

1840年に再びフランス政府から依頼を受けて、『葬送と勝利の大交響曲』を作曲・完成。7月28日に200名の軍楽隊を率いて初演を行う。しかしこの時期、ベルリオーズはパリの各劇場から締め出された状態にあった。『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の失敗に拠るものといわれ、また一部で反感を持たれていたために、パリでの人気は次第に下って行った。


演奏旅行と指揮活動

人気が遠ざかっていたため、1842年に演奏旅行を始めることになり、年末にドイツへ向かい、各地で演奏会を催して大きな話題を呼び、旅行は成功を収める。しかし一部からは急進的過ぎるという批評も受けた。

1843年5月末、パリに戻ったベルリオーズは、『ドイツ・イタリア音楽旅行記』や『近代楽器法と管弦楽法』などの著作を著したり、『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の第2幕の前奏曲として『ローマの謝肉祭』を作曲する。

一方で妻スミッソンとの仲違いが決定的となり、別居へと至る。
スミッソンはモンマルトルの小さな家で(ひきこもる形で)生活する。
ベルリオーズは稼ぐために新聞や雑誌の執筆などに追われ、これまで以上に窮地に瀕していた。

1844年にパリで産業博覧会が開催され、博覧会の終了間際(7月末)に産業館で型破りな演奏会を実施する。8月1日に産業館で行われた演奏会は、新作『フランス讃歌』(H.97)を初演したが、480人のオーケストラ団員と500人の合唱団員を統合したもので、演奏時にはベルリオーズを中心に7人ほどの補助指揮者が指揮棒を持って壇上に登ったという。演奏会は大成功を収めたが、出費が影響して経済的には僅かなものでしかもたらすことができなかった。

1845年の10月から翌年の1846年の4月にかけて、2回目の演奏旅行としてウィーンやプラハ、ブダペストなどへ赴き、各地で演奏会を開催して大歓迎を受ける。ブダペストでの演奏会は、『ラコッツィ行進曲』を管弦楽用に編曲した『ハンガリー行進曲』が演奏された際、聴衆から熱狂的な歓声を送られたといわれる。同じ頃にゲーテの『ファウスト』による劇的物語『ファウストの劫罰』の作曲を着手しており、『ハンガリー行進曲』はこの作品に取り入れている。

『ファウストの劫罰』は旅行中の合間を縫って1845年から作曲を始め、パリに帰国した4月の末頃も続けられ、10月に全曲が完成する。12月6日にオペラ・コミック座で初演されたが、20日に行われた再演とともに結果は芳しくなく、成功しなかったという。初演の失敗によって多額の負債が降りかかり、破産の危機に直面したものの、友人たちの尽力によって難なく免れる。だがこれを機にベルリオーズは再び演奏旅行に行くことを決意し、次なる場所はロシアであった。


ロシアへの演奏旅行

1847年の2月14日、パリを離れ一人でロシアへ向かった。ベルリンまで汽車で乗り、滞在中にロシア大公妃エレナ・パヴロヴナ宛ての紹介状を書いて欲しいと当時のプロイセン王に懇願する。出発後ようやくロシアに到着するのであった。3月15日と25日にサンクトペテルブルクで、4月にモスクワでそれぞれ行った演奏会は成功し、喝采を浴びるなど、大歓迎を受けるのであった。この演奏会で4万フランの大金を手にし、ベルリオーズにとって、この大金を得たことはこれが生まれて初めてのことである。


パリへの帰還から再度ベルリンへ

パリへ向かって帰還する折に、再度ベルリンに立ち寄って、ここでも演奏会を催している。プロイセン王の求めで『ファウストの劫罰』を演奏し、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世から赤い鷲印の十字勲章を授けられる。またこの夜サン=スーシー宮殿での晩餐会にも招待されている。著書『近代楽器法と管弦楽法』をヴィルヘルム4世に献呈している。


ロンドンでの指揮活動

7月初旬にパリに戻ったベルリオーズは、当時イギリスで活躍していた有名なマネージャーのジュリアンと出会い、彼の申し出に応じる形でロンドンのドルーリー・レーン劇場の指揮者として活動するため、その年の末頃にロンドンへ向かう。しかしジュリアンと交わした契約は途中で破棄される。ロンドンに到着して4か月後にジュリアンは破産の危機に直面したためであった。


パリ帰国と相次ぐ不運の連続

イギリスでの生活が安定する矢先に、1848年2月にパリで勃発した2月革命によって、急遽パリへと舞い戻る。理由として名誉職という名の地位であるパリ音楽院の図書館主事補の職を確保するためであった。

この時期、ベルリオーズの周りに相次いで不幸が襲う。パリへ戻った7月下旬に父ルイが世を去り、また別居中の妻ハリエットが脳卒中の発作で倒れ、パリの音楽界は革命の影響によって劇場は閉鎖され、街は謎の静けさを醸し出した状態であった。このため、作曲活動は一旦中断して評論と執筆活動に集中することに限られる。

しかし1848年末頃に極秘に作曲を始めており、1849年に3群の合唱と大管弦楽のための『テ・デウム』(H.118,Op.22)を完成させる。だが演奏の機会が得られず、1855年4月にパリ万国博覧会でサン・トゥスタッシュ教会での初演まで待たなければならなかった。

この時期の作品は合唱とピアノ伴奏のための『トリスティア』(H.119)と、2重合唱と管弦楽のための『民の声』(H.120)ぐらいしか作曲していない。また自身の『回想録』も執筆をし始め、そのうちの第1部を書き上げている。

1850年、ロンドン・フィルハーモニック協会を真似する形で「パリ・フィルハーモニック協会」を結成する。パリではこのような協会は無く、これが初めてのことであった。ベルリオーズはこの組織の会長と指揮者に就任して演奏活動を活発に行う。しかし程なくして資金難に陥り、加えて聴衆からの受けがあまり良くなかったため、協会は結局1年後にそのまま解散してしまうのだった。

解散後、1851年から1855年にかけてロンドンに赴き、同地で定期的に指揮活動を行う。


スミッソンの死とマリー・レシオとの結婚

1854年の3月3日、別居中の妻スミッソンがモンマルトルで世を去った。
4年前から容体は一層悪くなり、加えて身体は不随になっていた。
別居中であったが、彼女を見捨てることができなかったベルリオーズは、深い悲しみを味わい、『回想録』と友人フランツ・リストに宛てた手紙には悲痛な言葉がつづられている。

スミッソンを埋葬後、10月19日にマリー・レシオと正式に結婚する。
息子ルイに宛てた手紙にはこのように書いている。

「私は一人で生きることもできないし、また14年来一緒に暮らしてきた女性を見捨てることもできなかった」(1854年にルイに宛てた手紙)


成熟期

1854年3月末にドイツへ旅行に行き、4月1日にハノーファーを再訪する。ハノーファーでの演奏会をはじめとして、ドイツ各地で行った演奏会は立て続けに成功し、気を良くしたベルリオーズはパリに戻ったのち、以前作曲した『エジプトへの逃避』(H.128)を転用する形として、3部からなるオラトリオ『キリストの幼時』(H.130,Op.25)を5年がかりで完成させた。12月10日に初演されると聴衆から拍手を受け、大成功に終わる。

1855年の4月、長らく初演の機会を得られなかった『テ・デウム』がパリ万博において、ベルリオーズの指揮によって初演された。

1856年、5月3日に没したアドルフ・アダンの後任として、フランス学士院会員に選ばれ、これにより収入が増え、生活も安定する。またこの頃にヴァイマルを訪問しており、同地で滞在していた際、フランツ・リストと同棲していたその伴侶ザイン・ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と面会する。ヴィトゲンシュタインから『アエネーイス』を題材としたグランドオペラ『トロイアの人々』の作曲を勧め、先のフランス学士院会員に選ばれたことを機に創作意欲を復活させ、同年5月5日に台本を自ら執筆し、僅か2か月足らずで完成させる。腸神経痛に悩まされつつも作曲を続け、一気呵成に1858年の4月12日に2年かけて完成させる。しかし全5幕というあまり長大なオペラ『トロイアの人々』は、初演の機会が得られないままであった。

1860年の夏にバーデン=バーデンで開催される音楽祭に赴き、この地で新しく建設される劇場のために支配人のエドゥアール・ベナツェから委嘱を受け、2幕のオペラ『ベアトリスとベネディクト』(H.138)を作曲する。シェイクスピアの戯曲『空騒ぎ』に基づくが、ベルリオーズ自身がフランス語の台本を執筆している。一時中断もあったが、1862年2月に完成させ、同年8月9日にバーデン=バーデンの新劇場で初演が行われている。

『ベアトリスとベネディクト』が初演される2か月前の1862年6月14日、後妻マリー・レシオが心臓麻痺のためこの世を去る。彼の目の前でのことだった。遺体はモンマルトル墓地に埋葬される。ベルリオーズに残された家族は船員となった息子ルイだけとなった。

1863年、苦労の末『トロイアの人々』がオペラ座で第2部のみが初演されたが、生前に第1部と全曲が上演されることはなかった。全曲上演は1890年まで待たなければならなかった。そして長らく続けていた評論活動を止めてしまう。
60歳を迎えた1864年、作曲の筆を折り長い作曲活動を終えるのであった。以降は一人でアパートに住み続けることとなる。また『回想録』を1865年1月1日付で終え、印刷にまわした(ただし、没後出版される)。


晩年とその死

後妻マリーに1862年に先立たれ、さらに一人息子のルイ(船員になった)も1867年に失い孤独感を募らせた生活をパリで過ごした。特に息子を失った時は半ば狂乱となった状態で立ち直れなかったと言われる。だが指揮活動を伴う演奏旅行は、1866年にオーストリア、1867年にドイツ、1867年末から1868年にロシアでそれぞれ継続して行われた。

最晩年にロシアのエレナ大公妃から招待されて演奏旅行に赴き、ロシアのサンクトペテルブルクで演奏会を開いている。ベルリオーズにとってこれが最後の旅行となった。だが元々不健康だったベルリオーズは、ロシアの厳しい寒さで身体に致命的な打撃を受け、帰国後の1868年3月には健康状態はより悪化していた。この間作曲はほとんどできない状態であったが、最後の作品はフランソワ・クープランの作品の編曲であった。

その後、南フランスで保養した後にパリで病床についたが、1869年3月8日の午前0時半に眠るように息を引き取った。65歳没。遺体はモンマルトル墓地において、2人の妻、ハリエット・スミスソン(1854年逝去)とマリー・レシオ(1862年逝去)とともに葬られた。


遺産

ベルリオーズの作品は1960年代から1970年代にかけて復活を遂げたが、これはイギリスの指揮者コリン・デイヴィスの奮闘によるところが大きい。デイヴィスがベルリオーズの全作品を録音したため、従来あまり知られていなかった作品にも光が当てられた。歌劇『トロイアの人々』の録音は、最初の全曲録音であった。本作は、ベルリオーズの生前に完全に舞台上演されたことはなかったが、現在では復活を遂げ、定期的に上演されている。

2003年にベルリオーズ生誕200周年を記念して、ベルリオーズをパンテオンに改葬しようとの提議がなされたが、アンドレ・マルローやジャン・ジョレス、アレクサンドル・デュマに比べて、ベルリオーズがフランスの栄光の象徴に値し得るかどうかをめぐる政治的議論の末に、ジャック・シラク大統領によって審議が中断された。


エピソード

生前のベルリオーズは、作曲家としてより指揮者として有名であった。定期的にドイツやイングランドで演奏旅行を行い、オペラや交響曲を指揮した。自作だけでなく他人の作品も指揮しており、中にはリストのピアノ協奏曲第1番の初演なども含まれている。リストによると、指揮者ベルリオーズはリハーサルを多用する“練習魔”だったという。

ヴァイオリンのヴィルトゥオーソにして作曲家のニコロ・パガニーニとの出会いからは『イタリアのハロルド』が生まれ(パガニーニの依頼で書かれたがヴィオラの活躍が少ないのに失望した、という逸話は今日では信憑性が疑われている)、また金銭的援助も得られた。ベルリオーズの『回想録』によるならば、パガニーニは『イタリアのハロルド』の演奏を聴いて感動を表明し、2日後に「ベートーヴェンの後継者はベルリオーズをおいて他にいない」との手紙とともに2万フランを提供した。


ハリエット・スミスソンとの関係

ベルリオーズは生まれながらにロマンティックで、幼少の頃からすこぶる感受性が強かったと言われている[誰によって?]。これは、ウェルギリウスの数節で涙したという少年時代や、長じてからは一連の恋愛関係に明らかである。23歳の時の、イギリスから来たシェイクスピア劇の劇団の女優でアイルランド人のハリエット・スミスソンへの片想いは、やがて『幻想交響曲』の着想へと膨らんだ。この作品の初演と同じ1830年にローマ大賞を受賞する。

スミスソンに最初こばまれると、ベルリオーズはマリー・モークと婚約するが、モークの母は娘をピアニストでピアノ製造家のカミーユ・プレイエル(英語版)に嫁がせた。ベルリオーズはその頃、ローマ大賞の賞金(奨学金)を得てローマに留学中であった。『回想録』によれば、この時パリに引き返し、女中に変装してモーク母子を殺害し、自殺を図ろうと企んだが、ニースにたどり着くまでに女装用の服を紛失したため気が変わった。

ベルリオーズの手紙は、スミスソンにはあまりに情熱的に過ぎると映ったために、彼女は求愛を断ったのであるが、こうした感情によって引き起こされたといわれる『幻想交響曲』は、驚異的で斬新であると受け取られた。この標題音楽的な作品の自叙伝的な性格もまた、当時としてはセンセーショナルなものと見做されたであろう。

ローマの2年間の修行時代を終えてパリに戻ると、スミスソンは『幻想交響曲』の演奏を聴きに来た上、ついには結婚に至った。スミスソンは馬車から落ちて重傷を負ったこともあって、女優として下り坂にあったことも理由であろう。

しかしながら2年もすると、2人の関係はたちまち冷え込んでいった[3]。

さまざまな理由が挙げられているが、中でも言葉の壁が大きかったと推測されている。

また他には、ベルリオーズはスミスソンを一人の女性として彼女の人間性に惚れたのではなく、彼女が演じる役(「ロミオとジュリエット」の「ジュリエット」等)に惚れたために、彼女と結婚して彼女が普通の女性である事に気がつき、失望したのだとする説もある。

2人は1841年頃から別居し、1854年に彼女が亡くなると、すでに同棲していた歌手のマリー・レシオと結婚する。

音楽的影響

ベルリオーズは文学に激しい愛着を寄せており、ベルリオーズの最も優れた楽曲の多くは文学作品に触発されている。『幻想交響曲』は、トマス・ド・クインシーの『或る英国人阿片常習者の告白』に着想を得ており、『ファウストの劫罰』はゲーテの『ファウスト』に依拠している。『イタリアのハロルド』はバイロン卿の『チャイルド・ハロルドの巡礼』が下敷きである。オペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』は、チェッリーニの自叙伝に由来する。『ロメオとジュリエット』は、シェイクスピアの同名の悲劇に基づいている。記念碑的な大作オペラ『トロイアの人々』は、ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』に立脚している。ベルリオーズは、最後の歌劇となったコミック・オペラ『ベアトリスとベネディクト』のために、シェイクスピアの『から騒ぎ』に大まかに基づいて台本を作成した。

文学の影響を別にすると、ベルリオーズは当時フランスではさほど有名でなかったベートーヴェンの擁護者でもあった。1828年にフランソワ・アントワーヌ・アブネック(『幻想交響曲』の初演指揮者)指揮パリ音楽院管弦楽団によって行われた『英雄交響曲』のパリ初演はベルリオーズの作曲活動における転回点となり、2年後の1830年に『幻想交響曲』が生み出されるきっかけとなった[4]。ベートーヴェンに次いでベルリオーズが崇拝したのが、グルック、メユール、ウェーバー、そしてスポンティーニであった。

『イタリアのハロルド』においてベルリオーズは、半音階や旋法、変拍子(5拍子)を採用するとともに、従来のドイツの交響曲にみられる形式的な均整感や全体的な統一感から距離を置いた。

サン=サーンスの『動物の謝肉祭』の「象」の最初の主題は、『ファウストの劫罰』の「妖精のワルツ」から取られている。しかしながら、音域は原曲よりかなり下げられ、コントラバス独奏によって演奏される。


音楽作品と著作

『幻想交響曲』に加えて、ベルリオーズのいくつかの作品は現在、標準的なレパートリーにとどまっている。劇的物語『ファウストの劫罰』、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』(いずれも混声合唱と管弦楽のための大作)、歌曲集『夏の夜』、ヴィオラ独奏付きの交響曲『イタリアのハロルド』などである。

ベルリオーズの型破りな音楽作品は、既存の演奏界やオペラ界を刺激した。演奏会の段取りを自力でつけるだけでなく、演奏者への俸給も自前で調達しなければならなかった。これはベルリオーズに、経済的にも心情的にも重い負担となってのしかかった。ベルリオーズの演奏会には1,200人の常連客がついていて、入場者数を確保できたが、大掛かりな――数百人もの演奏者を要する――ベルリオーズ作品の性質上、経済的な成功は望めなかった。ジャーナリスティックな才能から、音楽評論がベルリオーズにとって手っ取り早い収入源となり、音楽会においてドラマや表現力の重要性を力説する、機知に富んだ批評文によって飢えをしのぐことができた[5]。


著作

ベルリオーズは作曲家として最も有名である半面、多作な著作家でもあり、長年にわたって音楽評論を執筆して生計を立てていた。大胆で力強い文体により、時に独断的かつ諷刺的な論調で、執筆を続けた。『オーケストラのある夜会』(1852年)は、19世紀フランスの地方の音楽界をあてこすりつつ酷評したものである。ベルリオーズの『回想録』(1870年)は、ロマン派音楽の時代の姿を、時代の権化の目を通して、尊大に描き出したものである。『音楽のグロテスク』(1859年)はオーケストラ夜話の続編として出版された。

教育的な著作である『管弦楽法』(Grand Traité d'Instrumentation et d'Orchestration Modernes, 1844年、1855年補訂)によって、ベルリオーズは管弦楽法の巨匠として後世に多大な影響を与えた。この理論書はマーラーやリヒャルト・シュトラウスによって詳細に研究され、リムスキー=コルサコフによって自身の『管弦楽法原理』の補強に利用された。リムスキー=コルサコフは修業時代に、ベルリオーズがロシア楽旅で指揮したモスクワやサンクトペテルブルクの音楽会に通い詰めていた。ノーマン・レブレヒトは次のように述べている。

「ベルリオーズが訪問するまで、ロシア音楽というものは存在しなかった。ロシア音楽という分野を鼓吹したパラダイムは、ベルリオーズにあった。チャイコフスキーは、洋菓子店に踏み込むように『幻想交響曲』に入り浸って、自作の交響曲第3番を創り出した。ムソルグスキーは死の床にベルリオーズの論文を置いていた」[6]
また、18世紀末から19世紀初頭にかけ、聖歌のみならず世俗曲でも活躍したことで最も有名なロシアの作曲家であるドミトリー・ボルトニャンスキーを高く評価した[7]。


主要作品


「ベルリオーズの楽曲一覧」も参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/ベルリオーズの楽曲一覧


幻想交響曲―ある芸術家の生活のエピソード Op.14(Symphonie fantastique; Episode de la vie d'un artiste, 1830年)
全5楽章から構成される最も有名な交響曲。1830年に作曲。

抒情的モノドラマ『レリオ、あるいは生への復帰』 Op.14bis(Lélio, ou Le retour á la vie, 1831年)
『幻想交響曲』の続編として1831年に作曲・完成された独白劇。

交響曲『イタリアのハロルド』 Op.16(Harold en Italie, 1834年)
独奏ヴィオラとオーケストラのための交響曲。1834年に作曲。

劇的交響曲『ロメオとジュリエット』 Op.17(Roméo et Juliette, 1839年)
1839年に作曲された独唱、合唱と管弦楽のための交響曲。

葬送と勝利の大交響曲 Op.15(Grande symphonie funèbre et triomphale, 1840年)
1840年に作曲された大編成の軍楽隊と合唱による作品。

序曲「ローマの謝肉祭」 Op.9(Ouverture 'Le carnaval romain' , 1843年)
オペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の第2幕の前奏曲として作曲された有名な序曲。後に独立して演奏会用序曲となる。

夢とカプリッチョ Op.8 (Rêverie et caprice, 1841年)
ヴァイオリンと管弦楽による。唯一の協奏曲である。オペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』のアリアからの編曲である。

劇的物語『ファウストの劫罰』 Op.24(La damnation de Faust, légende dramatique, 1845年-1846年)
青年期に作曲された『ファウストからの8つの情景』を基にして1845年から1846年にかけて作曲された大規模な作品。『ハンガリー行進曲』や『妖精の踊り』、『鬼火の踊り』が有名。

死者のための大ミサ曲(レクイエム)Op.5(Grande messe des morts (Requiem), 1837年)
1837年に作曲された巨大な編成を伴う声楽曲である。4組のバンダを必要とする。フランス政府からの委嘱による。

テ・デウム Op.22(Te Deum, 1848年-1849年)
1848年から1849年かけて作曲された宗教音楽。全7曲だが通常省略される「行進曲」も存在する。

宗教的三部作『キリストの幼時』 Op.25(L'enfance du Christ, 1850年-1854年)
1850年から1854年にかけて作曲された全3部から構成される声楽曲。

歌曲集『夏の夜』 Op.7(Les nuits d'été, 1840年-1841年)
1840年から1841年にかけて作曲された全6曲の歌曲集である。友人のテオフィル・ゴーティエの詩集『死の喜劇』による。ピアノ伴奏または管弦楽による伴奏のいずれかで演奏される。

歌劇『ベンヴェヌート・チェッリーニ』 Op.23(Benvenuto Cellini, 1834年-1838年)
イタリアの彫刻家ベンヴェヌート・チェッリーニの自叙伝を基にして、1834年から1838年にかけて作曲されたオペラ。序曲は現在も演奏される有名な楽曲。

歌劇『トロイアの人々』(トロイ人)(Les Troyens, 1856年-1858年)
1856年から1858年にかけて作曲された大作オペラ。古代ローマの詩人ウェルギリウスの『アエネーイス』による。『アエネーイス』を参照。

歌劇『ベアトリスとベネディクト』(Béatrice et Bénédict, 1860年-1862年)
シェイクスピアの原作『から騒ぎ』を基にして作曲された全2幕のオペラ。

荘厳ミサ(英語版)(ミサ・ソレムニス)(Messe solennelle, 1824年)
1825年の初演後破棄されてきたと伝えられていたが、1991年にアントウェルペンの教会で、ベルリオーズが友人に贈った総譜が発見され、1993年にジョン・エリオット・ガーディナーによって蘇演・初録音がなされた。様々なフレーズが、幻想交響曲など後年の主要作品にたびたび登場する。

序曲『宗教裁判官』 Op.3(Ouverture 'Les fancsjuges' , 1827年)
1827年頃に作曲。『宗教裁判官』は初期に手がけ未完となったオペラの1つ。序曲が残され、単独で演奏されるようになった他、このオペラからはいくつかの曲が他の作品(葬送と勝利の大交響曲の第2楽章など)に転用されている。

「海賊」 Op.21
『イタリアのハロルド』と同様にバイロンの詩に基づく。

序曲『リア王』 Op.4(Ouverture 'Le Roi Lear' , 1831年)
幻想交響曲を作り上げた翌年に書かれた作品。

序曲『ウェイヴァリー』Op.1(Ouverture 'Waverley' , 1826年-1828年)
1826年に作曲された序曲。本来はオペラに含まれていた序曲であるが、オペラ自体は破棄されたため、序曲のみが現存する。

序曲『ロブ・ロイ』(Ouverture 'Rob Roy' , 1831年)
タイトルは『ロブ・ロイ・マクレガー』とも表記される。

歌曲『わな』(Le trébuchet, 1833年)
『ランドの花』の第3曲に含まれる。

叙情的情景『クレオパトラの死』(La mort de Cléopâtre, 1829年)
1829年に作曲されたカンタータ。この作品でローマ賞の応募作として書かれたもの。翌年に受賞する。


日本語訳著作

『ベルリオ自伝と書翰』Katharine F.Boult [訳編] 尾崎喜八訳 叢文閣 1920
『ベートーヴェン交響楽の批判的研究』エクトル・ベルリオ 尾崎喜八訳 仏蘭西書院 1923
『合唱管絃楽指揮法』津川主一訳 新響社 1929 『管絃楽・合唱指揮法』音楽之友社 1948
『作曲家の手記 ベルリオーズ回想録』清水脩訳 河出書房 1939
『ベルリオーズ回想録』音楽之友社 1950
『ベートーヴェンの交響曲』橘西路訳編 角川文庫 1959
『ベルリオーズ回想録』丹治恆次郎訳 白水社 1981
『管弦楽法』リヒャルト・シュトラウス共著 小鍛冶邦隆監修 広瀬大介訳 音楽之友社 2006
『音楽のグロテスク』森佳子訳 青弓社 2007

https://ja.wikipedia.org/wiki/エクトル・ベルリオーズ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html#c11

[近代史3] ベルリオーズ 『幻想交響曲』 中川隆
12. 中川隆[-13680] koaQ7Jey 2020年2月20日 13:05:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-212]
アンクルのクラシック夜話     2003/09/01

ベルリオーズの恋1

 1827年、ケンブルなる興行主が率いるイギリスの劇団がパリにやってき
た。この一座のよびものはシェイクスピア劇。そのころまでのフランスではま
だシェイクスピアの作品はほとんど知られなかったという。そのためか知識階
層に熱狂的に迎えられ、劇場は連日活況を呈した。

 ベルリオーズも含め、皆、英語の台詞はわからないものの、舞台の動きから
シェイクスピア劇の偉大さを感じ取り圧倒された。もっともそれ以上に、彼が
とりこになったのは、一座の花形女優ハリエット・スミスソンの美しい舞台姿
だった。


 ハリエット・スミスソンは、ベルリオーズより三歳年上、アイルランド系の
イギリス人、背がスラリと高く、均整のとれた美人で、その声には感情がこも
り、また大きな青い瞳は表情豊かで観客を惹きつけた。彼女の演ずるオフェリ
アやジュリエットなど、当時の人々から絶賛を浴びたという。

 ベルリオーズは、彼女の演ずる「ハムレット」や「ロミオとジュリエット」
を見てもうすっかり夢中、魂を奪われた。スミスソンの面影は寝ても覚めても
離れることがないという有様。むろん音楽の勉強が手につくわけもなく、高熱
に浮かされたかのようにパリの町や郊外の森や野原をあてどもなくさまよい歩
いた。これは「幻想交響曲」作曲の契機となったエピソードとしてよく知られ
た話である。

 ベルリオーズの行動はもう常軌を逸していた。スミスソンを一目見たその日
から毎日のようにオデオン座に通い詰め、舞台の上の彼女の動きを一部始終熱
っぽく目で追い回した。その内にもう舞台と現実との境がわからなくなり、ジ
ュリエットがたくましいロミオの腕に抱かれる場面になると、猛獣のようなわ
けのわからない叫び声を発し、すっかり有名というか劇場側の要マーク人物に
なったという話も残っている。

 劇場に通うばかりではない、毎日のように熱烈なラブレターを書いて彼女に
送った。むろん直接会って思いをぶつけたかったが、英語も話せなかったので
恋文に思いのたけを託したのである。

 もちろん、ナシのつぶてだった。今をときめく人気スターにファンレターな
らともかく、色気違いまがいの手紙が一瞥だにされないのは当然至極のことだ
った。

 しかし、今、ハリエット・スミスソンの名が歴史の残っているのは、つとに
ベルリオーズのおかげかもしれないのである。運命の不思議、貧乏な一音楽書
生だったベルリオーズと花形女優のスミスソンはなんと6年後、結婚すること
になるのである。(つづく)
http://uncletell.web.fc2.com/infoseek/yawa030901.htm


ベルリオーズの恋2
 
 イギリスからやってきた美人女優ハリエット・スミスソンに文字とおり無我
夢中になったベルリオーズは、勉学はそっちのけ、毎日のように劇場に通いつ
め山のようなラブレターを送ったが、彼女の方からは、なんの反応もなかった。
 そこで作戦変更、彼女が自分に冷たいのは一介の貧乏音楽書生だからだ、そ
れならば、自分がフランスでも一流の大作曲家であること見せつけてやれば、
きっと彼女も心を動かすに違いない...こう考えたベルリオーズは、その頃
のフランスではまだ誰も試みたこともない自作の演奏会をパリ音楽院の講堂を
借りきって開催してしまうのである。それにしてもたった一人の女の関心を引
くために演奏会を計画、実施してしまうとは、その妄執ぶりは奇矯を通り越し
て痛快ともいうべきか。

 ともあれ動機がどうであれ、この演奏会によってベルリオーズは、ある程度
の社会的認知を受けるに至ったのである。当のベルリオーズの書いたものによ
れば、この演奏会は観客の入りも良かったし、評判も良かったという。

 だが、本来の目的だったスミスソンに対する効果は全くなかった。ちゃんと
招待状を出した筈なのに、演奏会が大好評だったことも、なにより演奏会が開
かれたことすら彼女は知らなかったのである。

 かくして、なにも知らないまま、演奏会の翌日、ハリエット・スミスソンは
一座の人々と一緒に次の巡業地のアムステルダムへ旅立ってしまったのである。
ベルリオーズの切々たる恋も、哀れアワビの片思いに終わったのである。

 不朽の傑作、「幻想交響曲」は、ハリエット・スミスソンに対する熱烈で激
烈な想いと失恋の痛み・苦しみ・憎しみから書かれたもので、3年後の183
0年の27歳の時完成した。
http://uncletell.web.fc2.com/infoseek/yawa030915.htm


ベルリオーズの恋3
 
 イギリスからやってきた美人女優ハリエット・スミスソンとの別れ、と言っ
ても一方的なものだったが、の3年後、前回書いた通り、その痛みと苦しみを
幻想交響曲に結実させた。ベリオーズ27歳、1830年だった。この183
0年という年はまた、この幻想交響曲の完成・初演をみたほか、彼にとって記
念すべき年になった。フランスの若き音楽家にとって最大の栄誉にして、いわ
ば登竜門だったローマ大賞を4度目のチャレンジで手にしたのである。

 ローマ大賞はナポレオンが制定したフランスの歴史的な芸術コンクール、こ
のコンクールの優勝者には2年間のローマ留学と5年間の生活費が与えられた
とか。ベルリオーズは23歳の時から挑戦していたが、その壁は高く、27歳
4度目にしてようやく念願がかなったのである。

 そして更にこの年、ベルリオーズはめでたく女流ピアニストマリー・モーク
との婚約にもこぎつけたのである。つれなかったハリエット・スミスソンを見
返すことが出来たという思いだったろう、大賞受賞と婚約、彼の前途はまさに
薔薇色というところだった。

 マリー・モークは8歳年下の小柄な女性、その身のこなしが軽かったので、
ベルリオーズは彼女のことをシェイクスピアの『テンペスト』に出てくる妖精
にちなんでエーリエルというあだ名で呼んでいたという。

 ローマ大賞受賞は、もう天にも昇るうれしさだったが、2年間のローマ留学
は気が重たかった。かわいいマリーとの別れがとてもつらかったのである。そ
れでローマ行きを一日延ばししていたが、周囲のこともあり翌年の3月、意を
決してでもしぶしぶパリを立ってローマへ赴いたのである。

 ローマでの留学生活はまさに砂を噛むように味気なく、ベルリオーズはいつ
もマリー・モークのことばかりを思い日を過ごしていた。(つづく)
http://uncletell.web.fc2.com/infoseek/yawa031001.htm


ベルリオーズの恋4
 
 ローマでの留学生活はまさに砂を噛むように味気なく、ベルリオーズはいつ
もマリー・モークのことばかりを思い日を過ごしていたが、マリーの方からの
便りは待てど暮らせど届かなかった。

 しびれを切らしたベルリオーズはローマを飛び出しフィレンツェへ行ったり
したが、ある日、女文字の手紙が届いた。わくわくする気持ちで開封して見た
ら、それはマリーの母親からのものだった。そこにはなんと、マリーがピアノ
業者の息子のカーミュ・ブレイエルと結婚したこと、更にベルリオーズのこと
を、家庭の平和を乱した色気違いとまで付け加えてあった。

 まさにショック、涙があふれ出たが、次の瞬間、完全に頭に血がのぼった。
 「よーし、こうなったらあのカバ(母親のあだ名)も浮気女も男も三人とも
皆殺しだ。そして自殺すればいい..。そうすれば世間もオレの正当性を認め
るだろう。」

 彼はすぐさまピストル2丁、アヘンとストリキニーネ、女装のための衣装を
そろへパリ行の馬車に飛び乗った。揺れる馬車の中で、その殺しの手順を盛ん
に練るのだった。

 「みながお茶を飲んでいる夜の9時頃、女装して踏み込もう。まず二人を手
早く片付ける。それから3人目のマリーだ。彼女の髪をひっつかんで、自分が
だれか思い知らせてやる。きっと悲鳴を上げるだろうから、ゆっくりそれを楽
しんでから3発目をぶっぱなす。そして4発目はオレの額に..。」

 深夜の冷え冷えとした空気を突きさいて、馬車は疾走する。ところがその途
中で、ベルリオーズは我に返った。

 「どうしてオレが死ななきゃならないんだ。オレがここで死んでしまったら
一体このフランス音楽界はどうなる。この頭の中のすばらしい傑作が、みなフ
イになってしまうではないか。世界人類のための財宝が..、フランスの国宝
が..。」そう思ったとたん、ベルリオーズは言葉にならない大きな叫び声を
発していた。御者は驚いて馬車を止めた。

 感情の起伏の激しい直情径行の見本のようなベルリオーズ、不実な女の面影
も復讐の幻想も、すべてその一声で吹き飛ばされ、霧散してしまったのである。

 彼は再びローマに戻り、退屈な留学生活を続けるのだった。(続く)
http://uncletell.web.fc2.com/infoseek/yawa031015.htm


ベルリオーズの恋5
 
 結婚を約束した女に裏切られ気も動転、女とその家族、相手の男も一緒に殺
してしまおうと、ピストルを鞄に忍ばせ、パリに向かったベルリオーズだった
が、ひた走る馬車の中、夜の冷気で我に返り、留学先のローマに駆け戻った。
 2年間の留学生活を終え、パリに戻ってみると、またあのハリエット・スミ
スソンのいる一座がやって来ていたのである。運命の巡り合わせ。

 彼はさっそくに自作の演奏会を開き、スミスソンに招待状を送った。今度は
その招待状もホゴにされることなく、スミスソンもやってきた。プログラムは
因縁の「幻想交響曲」。でもベルリオーズはこのとき、ほんとうはどういう気
持ちだったろう。懐かしさと少々の苦々しさとが入り混じった...。

 スミスソンは、この曲の内容や作曲の動機については何も知識がなかったが
、プログラムの解説に目を通し、誇り高きローマ大賞受賞作曲家が、かって山
のようなラブレターを送ってきたあの色家違いの青年で、彼女を熱烈に愛して
くれていたことを知り感激するのだった。

 ”焼けぼっくいに火がつき”のごとく、二人の中は急速に燃え上がって行っ
た。ベルリオーズとスミスソンは翌1833年に結婚式を挙げた。

 ただ、この頃、年齢的なこともあるがハリエット・スミスソンの人気はすで
に峠を越え、容姿も衰えてきていた。それに、その頃、馬車から降りる際に転
倒、足をくじき舞台には立てなくなっていた上、1万4千フランもの借金を負
っていた。ベルリオーズは、それもなにも意に介さなかった。なにより彼女を
ひしと抱きしめたかったのである。

 念願かなって彼女と結ばれたものの、実生活でのハリエットは、彼の思うオ
フェリアやジュリエットとはほど遠かったのである。芸術家の妻としての素養
や理解がなく、浪費癖がある上、大変嫉妬深かった。

 一児が出来たが、二人の間は年を追って険悪なものになり、8年後別居、更
に13年後、ハリエットは夫と息子のルイに看取られながら息を引き取った。
53歳。かっての舞台での華やかなスターには淋しい最後だった。

 ベルリオーズは、ハリエットと別居する前から、マリー・レシオというスペ
イン人の血も引く女性歌手と恋中になり、別居後に同棲をはじめていたが、ハ
リエットが亡くなった後、正式に結婚。ベルリオーズ50歳、マリーは40歳
だった。

 マリーは美人だったが、歌手としての才能にはあまり恵まれていなかったと
いわれる。そして恐らくベルリオーズにとって幸福な結婚とはいえず、良き妻
ではなかったらしい。というのは、彼の回想録の中、このマリーについては、
「わたしは再婚した。それは避けられない結婚であった」としか記述がないと
いう。−−−避けられないというのは、ハリエットの嫉妬がかえって二人をの
っぴきならないものにしてしまったようである。

 このマリーも結婚後わずか8年で死去、寂しい彼は、幼な友達のエステル・
フォルニエ夫人に最後の求愛したりしたが、その愛は受け入れられなかった。

 思うにベルリオーズは、大変女房運の悪い男であった。そして息子にまで先
立たれ、晩年は孤独で不幸であった。1869年65歳で没。(おわり)
http://uncletell.web.fc2.com/infoseek/yawa031101.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html#c12

[近代史3] セザール・フランク 『前奏曲・コラールとフーガ 』 中川隆
3. 中川隆[-13685] koaQ7Jey 2020年2月20日 13:54:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-214]

セザール=オーギュスト=ジャン=ギヨーム=ユベール・フランク(César-Auguste-Jean-Guillaume-Hubert Franck、1822年12月10日 - 1890年11月8日)は、ベルギー出身、フランスで活躍した作曲家、オルガニスト。


ネーデルラント連合王国のリエージュに生まれ、この町で1834年には最初のコンサートを開いている。弟のジョゼフ(1825年 - 1891年)とともに幼くしてピアノの才能を示し、父は彼らをリストのような大ピアニストにすべく英才教育を行った。1834年にリエージュ王立音楽院を卒業し、1835年に一家でパリに移住するとアントニーン・レイハなどに教えを受けた。1837年にパリ音楽院に入学し作曲、ピアノ、オルガンなどを学んだ。

1842年に退学し帰郷したが、1844年には再びパリに戻って活動した。その後作曲家志望を固め、また父の意に沿わぬ結婚をしたことなどから父とは決別した。リストやショパンにも才能を注目されたが、ピアノ教師として、またその後は教会オルガニストとしてつましい生活を送った。この間作曲家としてはオラトリオなど宗教音楽を中心に手がけている。また、フランス国内を広く旅してオルガン製造者のアリスティド・カヴァイエ=コルが設置したオルガンを紹介して回った。

1858年に就任したサント・クロチルド聖堂のオルガニストの職には、その後生涯にわたってとどまった。1871年にはサン=サーンス、フォーレらとともにフランス国民音楽協会の設立に加わり、1872年にパリ音楽院の教授に迎えられた。最晩年の1885年ごろからヴァイオリン・ソナタ イ長調、交響曲ニ短調など、現在よく知られる代表作を次々に作曲し、にわかに注目された。

彼の弟子のヴァンサン・ダンディ、エルネスト・ショーソン、ガブリエル・ピエルネ、アンリ・デュパルク、ギー・ロパルツや、その影響を受けたアルベリク・マニャールらは“フランキスト”と呼ばれ、のちにドビュッシーらの印象主義音楽と対抗することになる。


生涯

幼少期と学生期 (1822年–1842年)

フランクはネーデルラント連合王国(現ベルギー、1830年からワロン語圏ベルギーとなっていた)のリエージュで生まれた。

元来ドイツ系の家系で、父のニコラ=ジョゼフ・フランク(Nicolas-Joseph)は銀行家でベルギー国境付近の出身、母のマリー=カテリーヌ=バルブ・フランク(Marie-Catherine-Barbe 旧姓フリンクス Frings)はアーヘンの出身であった。

セザールは幼い頃から絵画と音楽の才能を示しており、父のニコラ=ジョゼフは息子がフランツ・リストやジギスモント・タールベルクのような若き神童ピアニスト兼作曲家となって、一家に富と名声をもたらすことを夢見ていた[1]。

父によってリエージュ王立音楽院に送られたフランクはソルフェージュ、ピアノ、オルガン、和声学をジョゼフ・ドーソワーニュ=メユールら他の下で学んだ。

フランクの演奏会デビューは1834年のことで、建国間もないベルギー王国の国王レオポルド1世も臨席していた[2]。

1835年、息子をより広い聴衆の前に出す時が来たと決意した父ニコラ=ジョゼフは、彼と弟のジョゼフを引き連れてパリへと赴き、彼らにアントニーン・レイハによる対位法の、またピエール・ジメルマンによるピアノの個人的なレッスンを受けさせた。レイハとジメルマンはパリ音楽院の教授も務めていた。

10か月後にレイハがこの世を去ると、ニコラ=ジョゼフは2人の息子の音楽院入学の方策を模索するようになった。しかしながら音楽院は国外の学生を受け入れていなかったため、ニコラ=ジョゼフはフランス国籍の取得に向けて動くことになり、1837年には帰化が認められた[3]。

この間ニコラ=ジョゼフはパリで息子らが単独で、もしくは2人が同時に出演するような演奏会やリサイタルを企画した。こうした場で彼らは主に当時の流行音楽を演奏し、おおむね好評を得ていた。

セザールとジョゼフは1837年10月にパリ音楽院に入学を果たした。セザールはジメルマンの下で引き続きピアノの修行を積むと同時に、エメ・ルボルン(Aimé Leborn)に作曲を師事するようになった[4]。彼は1838年、初年度の終わりにピアノの1等賞を獲得し、以降も高い水準の演奏を維持していった。一方で対位法の成績はそこまで目覚ましいものではなく、1838年から1840年まで1年ごとに3等賞、2等賞、1等賞と順位を伸ばしていった。

フランクはフランソワ・ブノワのオルガンの指導も受けるようになり、演奏と即興演奏を学んで1841年には2等賞を獲得した。その翌年には作曲でローマ大賞への出品を目指していたものの、理由は不確かながら1842年4月22日に音楽院を「自主」退学してしまう[5]。

父ニコラ=ジョゼフがフランクに音楽院を去るよう命じたのではないかと考えられる。フランクは学問の習得に励む傍ら、父の要請により個人的な音楽指導を行い演奏会もこなしていた。

「それは彼にとっては辛い日々で(中略)気性が荒く執念深くさえあった彼の父の振る舞いにより、毎日が楽になるようなことはなかった(略)[6]」

若いフランクが時にヴァイオリンを演奏する弟を伴って、自作曲を交えながら披露する演奏会は最初こそ好意的に受け入れられたものの、次第にニコラ=ジョゼフの商業的な息子の売り出し方がパリの音楽雑誌や批評家の反感を買うようになった。フランクのピアニストとしての技量は認められていたが、この時点では公正に判断するならば彼の作曲家としての腕前は未熟なものだった。

状況は、ニコラ=ジョゼフとRevue et Gazette musicale誌で首席評論家を務めるアンリ・ブランシャール(Henri Blanchard)の間で確執が生じたことでさらに悪化した。ブランシャールはニコラ=ジョゼフがひどく気取っていることを酷評し、上の息子の「荘厳な」名前を嘲った。こうした敵意は「疑いなく個人的なもの[7]」であったが、ニコラ=ジョゼフにベルギー帰国が必要だと思わせるには十分だったようで、1842年に「有無を言わせぬ命令[5]」が下されたフランクは音楽院を後にして父に付き従がわざるを得なかったのである。

教師、オルガニスト時代 (1842年–1858年)

ベルギーへ帰国したフランクだったが、祖国には2年と留まらなかった。収入源となるような演奏会を開くことは出来ず、批評家達は無関心か軽蔑的かのいずれかであり、ベルギーの宮廷からの援助は得られそうになかった(もっとも、国王は後になってフランクにゴールドメダルを授与することになる)[8]。資金を得る術はなかったのである。ニコラ=ジョゼフに関する限りは、帰郷が失敗に終わったため息子をパリでの音楽指導と家庭向け演奏会の生活に引き戻そうとしていた。この演奏会についてローレンス・デイヴィス(Laurence Davies)は、過酷で実入りの少ないものだったとしている[9]。しかし、長い目で見ると若きフランクにとってこの経験は有益な側面も持ち合わせていた。なぜならこの時期にパリへ戻れたことで、彼は音楽院に復学して最後の数年及びその後の時間を過ごすことが出来たからである。また、彼の最初の成熟した楽曲となるピアノ三重奏曲集が完成したことにもこの期間の役割が大きい。これらの作品はフランク自身が初めて自作と認め得たものであり、作品を見たリストは激励と建設的批判を与えた上で自らも数年後にヴァイマルで演奏している[10]。

1843年、フランクは室内楽作品以外では初の挑戦となるオラトリオ『ルツ』の作曲に取り掛かった。この作品はリスト、マイアベーアをはじめ他の有名音楽家を招いて1845年に私的に初演され、ほどほどの賛辞と前向きな提案を得た[11]。しかしながら、1846年初頭に行われた公開初演においては聴衆が関心を示さず、オラトリオの芸術性の欠落と単純さには冷たい批判が浴びせられた[12]。この作品が次に上演されたのは1872年、大改訂を加えた後のことであった。

これにともない、フランクは公の活動からは実質的に身を引き、教師と伴奏者として陽の当たらない生活をするようになった。彼の父もしぶしぶこれを認めた。フランクはパリとオルレアンの両方で、こうした仕事や歌曲や小規模な作品の作曲の依頼を受けていた。彼の元には1848年の第二共和政の成立を祝し、これを強固にするような作品の依頼が舞い込んでおり、そうした作品には聴衆が関心を示すようなものもあったが、ルイ・ナポレオンの下で第二帝政が立ち上げられたことで演奏の機会を失ってしまった。1851年にはオペラ『頑固な召使い』に取り組んだものの、リブレットは「最低の文学的出来[13]」であり、曲は慌てて書きつけられたようなものだった。フランク自身も終生「印刷する価値のないものだった[14]。」と言い続けることになる。しかし、概していえばこうした隠遁生活はそれまで脚光を浴び続けてきたフランクには休息となったと考えられる。「フランクは神の思召しに従い、いまだ全くの闇の中にいた[15]。」そして、この期間に生じた2つの大きな変化が、彼のその後の人生を形作ることになっていく。

まず1点目は、フランクが両親とほぼ完全に縁を切ってしまったことである。直接の原因となったのは、彼がピアノの教え子であったウジェニー=フェリシテ=カロリーヌ・セイヨ(Eugénie-Félicité-Caroline Saillot; 1824年-1918年)と親密となり後に恋人関係となったことであった。

彼女の両親はデムソー(Desmousseaux)という芸名で活動するコメディ・フランセーズ会社の一員であった。フランクは彼女と音楽院時代からの知り合いであり、若いフランクにとってフェリシテ・デムソーの家庭は威圧的な実の父からの避難所のような存在となっていた。1846年にニコラ=ジョゼフは息子の書類の中から「喜ばしい記憶の中のF.デムソー嬢」への献辞が付された楽曲を発見し、本人の目の前でそれを破り捨てたこともあった。フランクはそのままデムソー家へと向かい、記憶を頼りに曲を書き起こして献辞と共にフェリシテへと贈った。

ニコラ=ジョゼフとの関係は、彼が息子の婚約や結婚の意志を一切認めようとしなかったことでさらに悪化した[注 1]。ニコラ=ジョゼフはさらに母を苦痛に陥れたとしてフランクを非難し[注 2]、フランクのいかなる縁談も夫婦間の毒殺事件という醜聞に繋がるに違いないと怒鳴りつけたのである[16]。7月のある日曜日、フランクは持てるものだけを持って両親の家を後にすると、そのまま歩いてデムソー家に向かって移り住んだ。デムソー家で歓迎を受けた彼は二度と実家には戻らなかった。この時以来、若いフランクは名乗る際や書類や作品への署名を「César Franck」もしくは単に「C. Franck」とするようになった。「これは彼が父ときっぱり決別し、かつ周囲にそれを知らせようとする意志の現れであった。(中略)彼は元の自分とは出来るだけ違った、新しい人間になろうと決意したのである[17]。」

フェリシテの両親の注意深くも友好的な眼差しの中、フランクは彼女へ求婚し続けた。1847年に彼が25歳となるや否や、彼は父にフェリシテとの結婚の意志を伝え、実際に二月革命が勃発したのと同月の1848年2月22日に念願を成就させた。教会にたどり着くまでに一向は革命群が築いたバリケードを乗り越えなければならなかったが、ダンディが伝えるところでは「この仮設の要塞の後方に集まっていた大勢の蜂起民が進んで手助けをした[18]。」結婚にあたってはフランクの両親も和解の上、式典に出席するとともに登記簿への署名を行った。この時のノートル=ダム=ド=ロレット教会(Notre-Dame-de-Lorette)がフランクの教区教会となった。

2点目は上記のように、ノートル=ダム=ド=ロレット教会がフランクの教区教会となったことであった。1847年にこの教会のオルガニスト補佐となったフランクであったが、これを契機として次々とより重要で影響力の高いオルガニストの職を歴任していくことになる。

フランクは音楽院時代にピアニストとして異彩を放ったのと同じようにオルガニストとして輝きを見せたわけではなかったが、彼はオルガニストの職を嘱望しており、そこには安定した収入が望めるという理由が少なからずあった。

こうして彼は人々の礼拝に必要な技術を学ぶという形でローマ・カトリックへと帰依する機会を得て、時おり上司にあたるアルフォンス・ギルバ(Alphonse Gilbat)の代役をこなすこともあった。この教会におけるフランクの働きが、1851年に新しく建立されたサン=ジャン=サン=フランソワゾー=マレ教会(Saint-Jean-Saint-François-au-Marais)に牧師(curé)として移ってきたダンセル牧師(Abbé Dancel)の目に留まった。

2年後、牧師はフランクを「titulaire」の地位、すなわち第1オルガニストへと誘う。フランクの新しい教会にはアリスティド・カヴァイエ=コルが設置した優れた新式のオルガン(1846年製)が備えられていた。カヴァイエ=コルは芸術性に恵まれ、機能的には革新的な大オルガンの制作で名を馳せていた。フランクは「私の新しいオルガンはまるでオーケストラのようだ![19]」と述べていた。

フランクの即興演奏の能力は非常に必要とされるようになっていた。というのも、当時の礼拝の慣習においてはミサや礼拝で歌われる単旋律聖歌の伴奏を行った上で、そこから楽想を派生させて聖歌隊による歌唱や神父の説教との間を繋がねばならなかったからである。さらにフランクの演奏能力とカヴァイエ=コルの楽器への愛情が合わさったことで、彼はカヴァイエ=コルと協力関係を結ぶことになる。フランクはフランス中を訪ねて回って古い楽器を引き立てるとともに、新しい楽器の除幕式で演奏する役割を担った。


期を同じくして、フランスにおけるオルガン演奏には革命が起こっていた。バッハの伝記作家として知られるヨハン・ニコラウス・フォルケル[20]門下でドイツのオルガニストであるアドルフ・フリードリヒ・ヘッセは、1844年のパリにおいて、バッハ作品の演奏が可能となるような足鍵盤の技巧とドイツ式の足鍵盤を披露した。これはフランクがブノワから音楽院で学んだ奏法の範疇からは全く外れたものだった。大抵のフランスのオルガンにはそうした作品に用いられている足鍵盤の音がなく、クープランの時代から続くフランスの由緒ある古典的なオルガンの伝統も、その当時は即興演奏を重視するあまりないがしろにされていたのである。

ヘッセの演奏もまばゆい超絶技巧によって一過性の騒ぎになったに過ぎないと思われる。続いて1852年から1854年にかけては、当時ブリュッセル王立音楽院のオルガン科で教授を務めていたジャック=ニコラ・レメンスがパリを訪れた。レメンスは技巧的なバッハ演奏家であるにとどまらず、全てのオルガニストが正確に、音を濁らせず、レガートのフレージングをもって演奏できるようになるオルガン指導法を開発した人物だった。フランクは1854年にレメンスが出演したのと同じ就任記念演奏会に出席しており[21]、レメンスの古典的なバッハの解釈を高く評価するのみならず、その素早くかつ均質な足鍵盤さばきにも称賛を惜しまなかった。ヴァラ(Vallas)によればオルガニストになる前にピアニストであったフランクは「生涯自分自身でレガートの様式を確立するには至らなかった[22]」ものの、そのような技術を取り入れることでオルガン演奏の幅を広げることが出来るということは認識しており、技術の習得に向けた取り組みを開始していたという[23]。


サン=クロチルド教会の正オルガニスト期 (1858年–1872年)

フランクは彼の3つ目かつ最後となるオルガニスト職に刺激され、活気づいていた。1858年1月22日、彼は奉献間もないサント・クロチルド聖堂のメートル・ド・シャペル(maître de chapelle)のオルガニストに就任した。この職は彼がその後生涯にわたって留まるものである。

7か月後、この教会に新設されたカヴァイエ=コルのオルガンは3段の手鍵盤を備えるもので[24]、フランクがこの楽器の正奏者になるとともにテオドール・デュボワが合唱指揮者と副オルガニストを務めることになった。

このオルガンがフランクの演奏と作曲に与えた影響は最初期のピアニストとしての経験同様に、彼のその後の作曲活動を考えるにあたって無視することはできない。ノルベール・デュフォルク(Norbert Dufourcq)はこの楽器について「疑いなく制作者のこの時期までの傑作として位置付けられる」と記している[25]。フランク自身はサント・クロチルド教会の司祭にこう述べている。

「私がどれほどこの楽器を愛しているのか、あなたがご存知だったなら(中略)指の下でのしなやかさ、そして私の思いに従順なことといったら![26]」

フランク自身も30鍵の足鍵盤を持つこのオルガンの性能に負けじとプレイエル社から購入した練習用の足鍵盤を自宅に置き、教会のオルガンの前で何時間も過ごすのに加えて足鍵盤の技術向上に勤しんだ。このオルガンが持つ響きの美しさと注がれた優れた技術により、彼は即興演奏家として、またオルガンはもちろん他のジャンルの作曲家としても名声を得るようになっていった。

オルガン曲、声楽曲、そしてハーモニウム曲が順繰りに作曲されるようになり、そうした中で生まれた楽曲では『3声のミサ曲』(1859年)が最もよく知られる。

この作品は何年もかけて作曲されたために楽章間で出来が不揃いであるが、ここからフランクの作品中でも最も長く愛される曲の1つである『天使の糧』が生まれている。

これ以上に注目されるのが、1860年から1862年にかけて書かれた[注 3]オルガンのための『6曲集』である。この曲集は今日でも演奏機会の多いオルガンであり、ローリン・スミス(Rollin Smith)によれば100年以上にわたるフランスのオルガン芸術史における初めての傑作、そして「メンデルスゾーン以降に書かれた最も重要なオルガン音楽」である[27]。

フランクは各曲をサン=サーンスなどの同僚のピアニストやオルガニスト、師であるブノワ、そしてカヴァイエ=コルに献呈している。

曲集中の『前奏曲、フーガと変奏曲』Op.18と『交響的大曲』Op.17はフランクのオルガン作品の中でも最もよく知られるものである。

オルガニスト、即興演奏家としての名声が高まるにつれ、フランクはますますカヴァイエ=コルが新設または改修したオルガンの除幕式や奉献式での演奏を任されるようになっていった。彼はルイ・ルフェビュール=ヴェリーがオルガニストとなったサン=シュルピス教会の新しいオルガン(1862年)をはじめ、以降ノートル=ダム教会、サンテチエンヌ・デュ・モン聖堂(英語版)、サントトリニテ教会などで演奏した。

これらの楽器の中には彼が単独、もしくはサン=サーンスと共に助言を行ったものもある。フランクが担当するサント・クロチルド聖堂では、彼の即興演奏を聴くために人々がミサや礼拝に訪れ始めていた。さらに、フランクは自作や他の作曲家の作品を取り上げて聖堂でのオルガン演奏会を開催するようになっていた。そうした中でおそらく最も知られる演奏会は1866年4月にリストが出席した日曜ミサだろう。聖歌隊席に腰かけてフランクの即興演奏を聴いたリストはこう述べた。

「あの時のピアノ三重奏曲集を書いた人物のことを、これまでに私が忘れてしまうことなどあり得るだろうか。」これに対してフランクはこう不平をもらしたのではないかと思われる。「あれ以降、もっといい仕事をしてきたと思うのだが[28]。」そのひと月後にリストはサント・クロチルド聖堂においてフランクのオルガン作品を紹介する演奏会を企画し、聴衆から好評を得るとともに音楽雑誌にも好意的に報じられた。

フランクはリストだけでなく、活動の主軸をドイツに置くハンス・フォン・ビューローの演奏が聴けることを喜んだ。また、フランクは1869年にノートル=ダム聖堂でアントン・ブルックナーの演奏を耳にし、ドイツのオルガン音楽とそれらをいかに演奏すべきかという点について理解を深めている。彼は定期的に門下生の集まりを催すようになり、オルガンには建前から関わっていたに過ぎなかった弟子たちもフランクの作曲技法に関心を示すようになっていった。

フランクはこの時期にも合唱を用いた作品を作曲し続けたが、大半は出版されないままとなった。当時は音楽院を修了した音楽家でも皆がそうであったように、フランクは過去の多声音楽に詳しくなかった。フランクは礼拝音楽をその当時の様式に沿って作曲し、デイヴィスはこれを「宗教的な偏りを持つ世俗音楽」と表現した[29]。

そうした状況ではあったがフランクは1869年から主要な合唱作品となるオラトリオ『至福』の作曲にとりかかり、普仏戦争の勃発による中断等を経て10年余りをかけて完成させた。1848年の革命の際と同様に、この戦争によって彼の弟子の多くがパリを離れ、もしくは戦闘で落命するか障害を負うなどして彼の元から去っていった。彼は再び愛国的な楽曲をいくつか作曲したが、当時は時代の厳しい状況の下では演奏されることはなかった。収入が減少するとともに食料品や燃料の価格が高騰し、フランクとその一家は経済的な苦境に陥った。音楽院も1870年から1871年の年度は開校しなかった[30]。こうした中、フランスの音楽家の間には自らの音楽に対する認識の変化が生じていた。とりわけ戦後からは確固たるフランスの音楽として「ガリアの芸術 Ars Gallica[31]」を追い求めるようになったのである。この言葉は新たに結成された国民音楽協会の標語として掲げられた。フランクは協会の最古参の会員となり、1871年11月に開かれた最初の演奏会のプログラムにはフランク作品が取り上げられた。


「ペール・フランク」 音楽院の教授、作曲家期 (1872年–1888年)

フランクの名声は今や演奏家として、国民音楽協会の会員として、そして少ないながらも忠実な弟子たちの存在によって広く知れ渡っていた。1872年に授業を再開したパリ音楽院でブノワがオルガン科の教授から退官すると、フランクが後任として推されることになる。

誰が推薦人であったのかについては不確かな点がある。サン=サーンスとテオドール・デュボワはそれぞれ異なる時期に自らの関与を認めており、それはカヴァイエ=コルも同様である[32]。確実なのはフランクの名前が候補者一覧の一番上に記載されていたということ、そしてこの推薦によってフランクが任用に必要なフランス国籍を有していないことが公になってしまったという、きまりの悪い事実であった。

フランクの父のニコラ=ジョゼフは息子を音楽院へ入学させるべくフランスへと帰化させていたが、これはフランス政府に成人として忠誠を宣言しなければならない21歳までの期限付きだったということをフランクは知らなかったのである。フランク自身は父による国籍変更の手続き以後、ずっと自分がフランス国民であると考えていたにもかかわらず、実際は知らぬ間に元の国籍であるベルギーへと戻されて人生の大半を過ごしていた。すぐさまフランクは再度帰化申請の手続きに入り、1872年2月1日に予定されていた任用は1873年へと変更になった。

フランクの下に集った弟子の多くは音楽院で学んでいた者か、在籍中の学生であった。中でもヴァンサン・ダンディ、エルネスト・ショーソン、ルイ・ヴィエルヌ、アンリ・デュパルクらはとりわけ有名である。この集団は徐々に師弟間で相通ずる尊敬と愛情によって固く結ばれるようになっていった。ダンディはこれを新たな門弟が個々に、しかし誰もが師のことを「ペール・フランク Père Franck」すなわち「父フランク」と呼ぶようになったことと関連付けている[33]。

一方、フランクは教員生活において緊張を強いられる場面も経験していた。彼はオルガンによる演奏や即興の技術と同等に作曲の指導を行う傾向があった。また、音楽院が認可した公式の教科書や参考書を軽視する姿勢により、彼の指導方法は合理的でないとみなされていた[注 4]。さらに彼の一部学生からの人気に嫉妬を感じる教員も現れ、ローマ大賞など各種の賞の選考においてフランクの教え子はそうした教授陣から偏見交じりの審査を受けることもあった[35]。ヴァラはフランクが

「彼の信じる単純な本質は理解されなかった(中略)彼自身が常に親切な雰囲気を向けられていると感じていた音楽院の中でさえ、彼はいかほどの不快な類の指摘を受けたことだろうか。」

と記している[36]。


フランクの立場は長年温めていた楽曲の構想を楽譜に起こせるようなものとなっていた。

彼は『至福』の作曲を中断してオラトリオ『贖罪』(1871年作曲、1874年改訂)、交響詩『アイオリスの人々』(1876年)、オルガンのための『3つの小品』(1878年)、『ピアノ五重奏曲』(1879年)などや他の多くの小規模作品に取り組んだ。

『至福』は最終的に1879年に初演を迎えることとなったが、これはフランクの他の多くの合唱曲や管弦楽曲の場合と同じく成功しなかった。作品は全体としてではなく細分化された上での抜粋だった上、適当なオーケストラがなかったためにピアノ伴奏で演奏された。さらにダンディでさえ指摘しているのは、フランクがゴスペルの至福の中に表現される美徳と対比される罪悪を、音楽的に表現出来ていなかったらしいということである。

「この《理想の罪悪》(もしこのような表現が可能であればの話であるが)の擬人化はフランクの本性とあまりにかけ離れており、彼はそうしたものを適切に表現することができなかった[37]。」

その結果生じたヴァラが述べるところの「単調な印象」は[38]、フランクの忠実な門下生にすら『至福』の一つの作品としての存続可能性について推測させるに及んだ。

1880年代になり、フランクは気づくと様式的に主張の異なる2群の板挟みとなっていた。一方は最初に慣れ親しんだスタイルからの変化を好まなかった妻のフェリシテであり、他方はおそらく彼が影響を与えるのと同じように彼自身にも驚くべき影響を与えていた弟子たちである。ダンディの次のような言葉が引用されている。

「(フランクは)どの調性的関係を選択するのか、展開部をどう進行させるべきか考えあぐねた際、いつも弟子たちに相談して彼らと疑問点を共有し、彼らの意見を聞くことを好んだ[39]。」その一方、フランクの弟子のひとりはフランク夫人が次のように(一部的を射た)発言をしたと物語っている。「彼に向けられる敵意を生んでいるのは全部あなたたち弟子なのよ[40]。」加えて、サン=サーンスとフランク及びその一派との反りが合わなくなってきており、国民音楽協会においてもいくらか軋轢が生じていた。

これらのいざこざがフランクの心をどれだけ疲弊させたのか、確かなことはわからない。しかし、彼のより「卓越した」楽曲がこうした時期に生み出されたことは確かである。

交響詩の『呪われた狩人』(1882年)と『鬼神(ジン)』(1883年-1884年)、ピアノのための『前奏曲、コラールとフーガ』(1884年)と『交響的変奏曲』(1885年)、そしてオペラ『ユルダ』(1886年)である。

これらの作品の多くは少なくともフランクの生前に行われた初演時には、並みの成功となるか否かといった程度であった。しかし、1879年の『ピアノ五重奏曲』は注目を集めるとともに思考を喚起する作品であるとされた。批評家はこの作品には「不穏な生気」が宿り、「劇場的といってよい程の不気味さ」を湛えていると評した[41]。ただし、サン=サーンスはこの作品を特に嫌悪していた。


1886年の『ヴァイオリンソナタ』は、ベルギーのヴァイオリニストであるウジェーヌ・イザイの結婚祝いとして作曲されたものだった。この作品の成功は轟きわたることになる。イザイはこれをブリュッセル、パリで演奏し、さらに演奏旅行に組み込んでしばしば弟のテオ・イザイのピアノ伴奏で演奏した。彼がこの作品を最後に演奏したのは1926年のパリで、イヴ・ナットが伴奏を受け持った[42]。20世紀半ばにヴァラはこのソナタについて次のように記している。

「少なくともフランスではフランクの最も人気の作品となり、室内楽曲のレパートリー全体から見ても最も一般的に受容される楽曲である[43]。」

フランクへの評価がはっきり定まらなかったことは、フランク一派が遅すぎると考えたフランクの受章にも表れているかもしれない。1885年8月4日、フランクはフランスのレジオン・ドヌール勲章のシェヴァリエに叙された。彼の支持者らは憤った。ダンディはこう記している。

「この勲章が音楽家、フランスの芸術に名誉をもたらす優れた作品の作曲者に与えられたと考えることは間違っているのか。少しもそんなことはない![44]」

表彰が、単に10年以上勤めた「オルガンの教授」へとなされたものだったからである。ヴァラは

「世論はこの点について同じような過ちを犯すまい」

と続けて、普段はフランクに批判的だった雑誌の記述を引用した。

それはこの表彰が「少し遅きに失したのだとしても、『贖罪』や『至福』を書いた傑出した作曲家に対して正当にもたらされた敬意のしるし」だというものだった[45]。

フランクが1886年から1888年にギリシャ神話を基に手がけた交響詩『プシュケ』を発表すると、フランクの家庭と取り巻きの弟子たちの間の衝突は新たな局面に突入した。本人のあずかり知らぬ場所でも繰り広げられたいさかいの内容は音楽だけに留まらず、題材の哲学的、宗教的側面にまで及んだ[注 5]。

この作品があまりに官能的であると考えたフランクの妻と息子は彼により広範な、もっと大衆への訴求力を持つ、そして「全体としてより商業的な」音楽に専念するよう希望した[46]。

一方のダンディはこの楽曲の神話的重要性に触れ、こう述べている。

「多神教徒の精神は何も持ち合わせていないが(中略)それどころか、キリスト教徒の恩寵と感受性を吹き込まれている(略)[47]」

このダンディの解釈は後になって

「日曜教室の新任教師が悪童に雅歌を教えるように突然指示された場合に感じるような、ある種の当惑であった。」

と解説されている[48]。


フランク唯一の交響曲となる『交響曲 ニ短調』が出版されると、議論はますます勢いを増した。曲の評判は芳しくなかった。音楽院のオーケストラは非協力的で[49]、聴衆は冷淡、批評家は態度を決められず[注 6]、仲間の作曲家の多くは

「全体の形式をはじめ細部においても[注 7]形式主義者の規則や厳格な玄人及び素人の慣習を破壊した。」

として取り乱した[50]。

フランク自身は弟子のルイ・ド・スーレ(-Serres)にこの曲には基となる私的な着想があったのかと問われ

「いや、ただの音楽だ。純粋な音楽以外には何もない。」

と答えている[51]。ヴァラによれば交響曲で用いられた様式と技法は良いものもそうでないものも皆、フランクの思考と芸術家人生の中心を占めたオルガンに帰することが出来るという。また、彼はフランクがこの経験から学んだとも指摘している。

「彼は弟子たちに向かって、その時以降同じような作品は2度と書くまいと述べた[52]。」


晩年 (1888年-1890年)

1888年、フランクは次なるオペラ『ジゼル』に取り掛かった。しかし、この作品は作曲というに至らぬ草稿の段階までで終わり、完成されることはなかった。

対照的に大規模な『弦楽四重奏曲』は完成され、1890年4月の初演は聴衆と評論家から好評をもって迎えられた。

これ以外にも同じ時期には、フランクはパリ及び近隣都市でコンサートピアニストとして活動し、2年前には『プシュケ』の再演が熱狂的に終わっており、さらに弟子たちによる数多くの演奏によってフランクは成功を手にしていた。加えて、彼はサント・クロチルド聖堂で定例の大きな日曜集会には即興演奏を披露し続けていた。彼はオルガンのための大きな作品、またチェロソナタの構想も温めていた可能性がある。

1890年7月[注 8][53]、フランクが乗車していた辻馬車が馬引きの列車と衝突事故を起こす。頭に損傷を受けた彼は一時意識を喪失した。ただちに後遺症が見られなかったため彼はそのまま移動を再開し、本人も事故を重要視しなかった。しかしながら次第に歩行が苦痛になり始め、気が付くと彼は演奏会やリハーサルを休む事を余儀なくされ、続いて音楽院での講義も断念せざるを得なくなった。できるだけ急いで休暇を取ってヌムールに赴いた彼は、同地で約束していたオルガン作品やハーモニウムのための委嘱作品を書けることを願った。休暇中に彼は両プロジェクトに着手することができた。

ハーモニウムの作品集よりも早く、オルガン作品が1890年の8月と9月に書き上げられた。この作品はオルガン音楽史における珠玉の逸品である『3つのコラール』であり、今日でも頻繁に演奏されている。

ヴァラはこの作品について次のように述べている。

「その美しさと重要さは、この曲集を音楽による遺書もしくは遺言と考えてまったく差し支えないほどである[54]。」

ヴァラよりも後の時代の伝記作家も同様の表現を用いている。

「全体を通してフランクの意識が大きな別れの言葉となっているのは明らかである(中略)『コラール』を作曲したフランクが、自らの身体が完全に回復する希望を持ち続けていたと考えるのは難しい、いや、ほとんど不可能に近い[55]。」


10月から音楽院の新学期に入ったフランクであったが、月の半ばに風邪を引いてしまう。この風邪をこじらせたことによって胸膜炎[注 9]にかかった彼は、みるみるうちに病状を悪化させて11月8日に帰らぬ人となった。

1970年にある病理学者が示した所見では、従来フランクの死は交通事故が原因とされるか何かしらの関連があるものとされていたが、呼吸器感染自体が死の病となることもあり得たという。抗生物質がまだ知られぬ当時においては、この病状は「70代男性の肺炎の状態として珍しいものとは言えない[56]。」しかしこの判断にはその後疑問を呈する者が現れた。

「最もよく知っているだろうと思われる2人の人物、すなわちフランク本人と彼の妻が述べた《直接の原因》には疑いがない。同様に直近の1890年の7月から11月まで家政婦として彼の身の回りの世話をしていた外部の人間の言葉も確からしい(中略)フランクの数十年にわたる《蝋燭を両側から燃やすような》過酷な労働そのものによって、彼が軽度の怪我から回復するのに必要な体力さえもが損なわれていた可能性も十分にある[57]。」


フランクの葬送ミサはサント・クロチルド聖堂で執り行われ、音楽院の公式代表だったレオ・ドリーブをはじめ、サン=サーンス、ウジェーヌ・ジグー、ガブリエル・フォーレ、アレクサンドル・ギルマン、シャルル=マリー・ヴィドール(フランクの後任として音楽院のオルガン科教授となった)、エドゥアール・ラロなどの多数の参列者があった[58]。エマニュエル・シャブリエがモントルージュ(Montrouge)にあった元の墓地の側でスピーチを行った[59]。フランクの亡骸はその後パリのモンパルナス墓地に移され、友人で建築家のガストン・ルドン(英語版)が設計した墓に納められた。

オーギュスタ・オルメス率いるフランクの弟子たちはオーギュスト・ロダンに銅板への浮き彫りを委嘱し、完成した3/4サイズのフランクの胸像は1893年に墓の脇に掲げられた[60]。1904年、彫刻家のアルフレド=シャルル・ルノワール(フランス語版)が製作した記念碑「オルガンに向かうセザール・フランク」が、サント・クロチルド聖堂から通りを挟んで向かい側のサミュエル=ルソー広場に設置された[61]。フランクは現在もモンパルナス墓地に眠っている。



作風

フランクはベートーヴェン以降のドイツロマン派音楽、特に同時代のリストやワーグナーから強い影響を受けた。その結果彼の音楽の特徴として、半音階的和声進行が目立つこと、形式的には循環形式を多用することが挙げられる。前半の楽章で登場した主題の一部や全体が後半の楽章で再現されることで曲全体の統一が図られる。また、フランクは更に進んで独自の様式を創り上げており、各楽章で主要な役割を演じる主題が単一のモチーフから生成される場合もある。1888年の『交響曲 ニ短調』ではこの手法が顕著に示されている。また、彼の作品では巧みな転調が頻繁に行われる。

フランクはJ.S.バッハを研究し対位法を巧みに用いている。作曲に際して比較的簡明な音価を用いる為、単一の旋律で提示される場合はいささか空疎であるが、循環形式内で複数の旋律で提示された場合は非常に高潔な印象を与えるのが特徴である。多くのフランクの門下生もこの手法にほぼ倣っているが、フランクの高みに触れたものはいない。

フランクは12度を掴むことが出来る大きな手を持っていた[62]。これによってフランクのフーガ作品における声部連結は通常にない自由度を有しており、彼の鍵盤楽器作品では和音の幅の広さが特徴の一つとなっている。『ヴァイオリンソナタ』の書法について、次のような指摘がある。

「音楽家の手が皆自分のように大きくないということを幸せにも忘れがちなフランクは、ピアノパート(特に第4楽章)に長10度の和音を散りばめている。(中略)以来、ピアニストはこれを演奏するために手を大きく開くことを強いられてきたのである[63]。」


フランク作品を読み解く鍵は彼の性格に求められるのかもしれない。彼の友人たちは彼について

「これ以上ないほど謙遜し、気取りなく、尊敬の情に溢れ、勤勉であった。」

と評した。弟子の1人で後にノートル=ダム聖堂の正オルガニストに就いたルイ・ヴィエルヌは、フランクに関する記憶を書き留めている。

「(彼は)芸術の気品に対する、役割の高貴さに対する、そして音に対して語る際の熱い真摯さに対する絶え間ない配慮(を見せた)。(中略)歓喜と陰鬱、荘厳と神秘、力強さと天衣無縫さ。サント・クロチルド聖堂でのフランクはこれら全てを兼ね備えていた[64]。」

このフランク自身への賛美は彼の作品すべてに敷衍できるだろう。


代表的作品

詳細は「セザール・フランクの楽曲一覧」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/セザール・フランクの楽曲一覧


管弦楽作品

交響的間奏曲「贖罪(改訂版)」(1874年)
交響詩「アイオリスの人々」(1876年)
交響詩「呪われた狩人」(1883年)
交響曲 ニ短調(1888年)
交響詩「プシュケ(フランス語版)」(1888年)
ピアノと管弦楽のための作品
ピアノ協奏曲第2番ロ短調作品11
交響詩「鬼神(ジン)」(1884年)
交響的変奏曲(1885年)

ピアノ曲

前奏曲、フーガと変奏曲(1873年)
前奏曲、コラールとフーガ(1884年)
前奏曲、アリアと終曲(1887年)


室内楽曲

ピアノ五重奏曲 ヘ短調(1879年)
ヴァイオリンソナタ イ長調(1886年)
弦楽四重奏曲 ニ長調(1890年)


オルガン曲

「アンダンティーノ ト短調」(1858年)
44の小品(1858年 - 1863年)
6つの作品(幻想曲ハ長調、交響的大曲、前奏曲、フーガと変奏曲、パストラール、祈り、終曲)(1862年)
3つの作品(幻想曲イ長調、カンタービレ、英雄的作品)(1878年)
3つのコラール(1890年)

オラトリオ

『ルツ』(1845年)
『贖罪』(1872年)
『至福』(1869年 - 1879年)
『レベッカ』(1880年 - 1881年)


歌曲

ばらの結婚(1871年)
天使の糧(天使のパン)(1872年) - 「3声のミサ曲 イ長調」(1860年)に後から追加された楽章
夜想曲(1884年)
聖行列(1888年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/セザール・フランク
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/915.html#c3

[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
23. 中川隆[-13684] koaQ7Jey 2020年2月20日 14:15:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-213]
クルーズ船客「どれだけ感染が拡大するかを試す実験場か!」 2020/02/20


 日本人観光客が多く、「親日」のはずのハワイで、こんな“事件”が起きた。ある日本人男性がタクシーに乗り込むと、乗客が日本人だと知った運転手はすかさず医療用マスクをつけ、こう言い放った。

「あなたは乗せられない」

 南太平洋のミクロネシア連邦、サモア、ツバル、キリバスとインド洋のコモローの5か国はもっと厳しい。ここ数日前から、日本からの入国を制限しているのである。

 これが世界から見た日本。日本は新型コロナウイルスの“第2の感染震源地”として世界中に忌避される存在になりつつある。新型コロナウイルスは、確実に日本に蔓延し始めている。

 乗員・乗客約3700人のうち540人以上の感染者を出してしまった豪華クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」。2月19日からは、高齢者を中心とした乗客らの下船も始まった。それ以外の国内感染者も50人を超えた。

 政府は「日本でアウトブレイク(集団感染)が起きている」と認識されることを懸念し、クルーズ船の乗客を国内感染者から意図的に除外するが、これはただの数字のごまかしに過ぎず、実質的に日本は中国に次ぐ感染大国なのだ。

 ナビタスクリニック理事長の久住英二さんは、政府の初動のまずさを指摘する。

「当初、加藤勝信厚労相は『定常的な人から人への感染は起きていない』と発言していましたが、中国ではすでに起きている。なぜ日本だけ起きないのか。誰にでもわかる“嘘”を重ねたことで、政府に対する不信感が高まりました。クルーズ船の対策も同じ。船内に隔離したのは、重症化しやすい70才以上の乗客1000人以上もいるのにウイルスをまぶしたも同然の判断ミスです。政府はやってはいけないことを連発してしまった」

 妻とともに、ダイヤモンド・プリンセス号に乗船した平沢保人さん(65才)は、政府の対応に強い不満を持つ。

「乗客の感染が判明したのは2月1日でしたが、私が事実を知らされたのは3日です。この間に政府が早期隔離の処置を取らなかったので、乗客が1000人収容の劇場でショーを見たり、レストランで食事をしたりサウナに入るなど感染が広がりました」
 船内では、乗船者が吹き抜けのラウンジに集まって、思い思いにくつろいでいたという。こんな状態で感染を防げるわけがない。船内の感染爆発は、明らかに政府の無為無策の責任である。しかも乗員は船底に近い部屋の二段ベッドに寝泊まりし、徹夜で見張りをする上に配給作業なども行っていた。

「過酷な労働環境に加えて乗客から感染するリスクも高く、まさに人権侵害です。このクルーズ船は、“閉じられた環境でどれほど感染が拡大するかを試す巨大な実験場ではないか”とすら思います」(前出・平沢さん)

※女性セブン2020年3月5日号

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/クルーズ船客「どれだけ感染が拡大するかを試す実験場か%ef%bc%81」/ar-BB10aAPq?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c23

[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
24. 中川隆[-13683] koaQ7Jey 2020年2月20日 14:59:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-212]
もう手遅れ?風俗嬢発の新型コロナウイルス大感染〜歌舞伎町は恐怖に包まれている=鈴木傾城 2020年2月20日


クルーズ船をはじめ新型コロナウイルスへの稚拙な対応が問題になっているが、日本ではアンダーグラウンドから爆発的に感染が広がる可能性がある。風俗嬢発の大感染だ。

「経路が分からない感染者」多発は当然

日本全国でじわじわと新型コロナウイルスが広がっている。政府は1月の段階で大量の中国人を阻止しないで国内に入れてしまったので、今になって日本国内のあちこちで感染者が出てきている。

タクシーの運転手が「100人と濃厚接触」だとか、「医師と看護婦が濃厚接触」と書いてあるのを見て、ぼんやりしていると「タクシーの運転手は100人と性行為を行ったのか」「医師と看護婦が性行為していたのか」と勘違いしてしまう。

濃厚接触とは『感染症などの疑いがある有症者と行動をともにしたり、接触したり、航空機などで近隣の座席に座ったりした人』を指すので、それこそ誰かと一緒に食事したり談笑したりしているだけで「濃厚接触」となる。


当然だが、満員電車の中で感染者と隣り合ったりしたら濃厚接触だ。

春節の時期に1月下旬から2月2日までに大量に日本に入ってきた中国人が、日本国内で多くの日本人と濃厚接触をしたのは事実である。

タクシーの運転手、バスの運転手、病院の医師が感染者となってクローズアップされているが、濃厚接触の現場はそれだけではない。

中国人観光客は日本国内を自由に歩きまわり、自由に店に入り、自由に様々な人と接触したのだから、今後は「経路が分からない感染者」が多発しても何ら不思議なことではない。

中国人・韓国人の客と遭遇する風俗嬢が恐怖している

幸いなことに日本人は衛生観念がしっかりした民族だ。多くの人はマスクをつけて他人にうつさないようにしている。また、しっかりと手洗いをして清潔を心がけているので、感染は比較的緩やかであるかもしれない。

こうした衛生観念が抑止になって、日本国内でのエピデミック(伝染)が最小限に抑えられることを私は期待している。

しかし、そうだとしても家族のひとりが感染したら、その一家は濃厚接触で全滅になるだろうし、会社や学校でも濃厚接触は避けられないので、感染がネズミ算式に拡大していくと、もはや日本人の衛生観念でも太刀打ちできなくなるかもしれない。

私が懸念しているのは、アンダーグラウンドもまた新型コロナウイルスの影響を避けることができなくなるだろう、というものだ。

金曜日、私は歌舞伎町で中国語でも宣伝している風俗に勤める20代前半の風俗嬢に会ってきたのだが、彼女の恐怖と危機感は尋常なものではなかったことを報告したい。

こんな状況下にあるのだから、さすがの風俗店も外国人客を100%シャットアウトしているはずだと私たちは思うはずだ。
ところが風俗嬢に話を聞いてみると、そうではなかった。

さすがに日本語のできない中国の客は店側がすべて拒否しているということだが、問題は日本語がうまい客はケースバイケースになってしまうということだ。たとえば、日本在留の長い中国人や韓国人の客は店もことさら拒めない。

つまり、受け入れる外国人客もいるということを意味している。

彼女は中国人の客はまだ当たっていないのだが、日本語のできるアジア系の外国人の客は仕方なく受け入れたと言う。しかし、恐怖は消えないし「怖い」と心情を吐露していた。


今ごろどこかの風俗嬢が感染しているはずだ

日本人なら絶対に安全で、中国人なら絶対に危険であるというわけではない。日本人でも感染者はいるかもしれないし、中国人でも感染していない人はいくらでもいる。

そもそも、中国人とひとことで言っても、香港人もいればシンガポール人もいれば台湾人もいるわけで一概に「すべて大陸から来た中国人」ではない。
そういう意味で、中国人でなければ安全が担保されるわけではない。

しかし、新型コロナウイルスの震源地は中国大陸であるのは「まごうことなき事実」であり、風俗嬢が警戒したり恐怖を感じたりするのは分からないことでもない。今は言ってみれば非常事態なのである。

非常事態である以上は、リスクのある客と関わりたくないと思うのは自然な感情である。何しろ風俗嬢の仕事は、表社会の人たちが言うところの「近隣の座席に座ったりした人」どころではないのだ。濃厚な性的接触なのである。

もし相手が新型コロナウイルスの感染者であれば、もはや「100%の確率で感染してしまう」と言っても過言ではない。密室で、近距離で、全裸で、長時間に渡って皮膚接触と粘膜接触を行うのである。

新型コロナウイルスの場合は、有症者と2メートルの距離で2分間一緒にいたら間違いなく感染するとか、1メートルの距離で15秒一緒にいた人も感染したとか、いろんなことが言われている。

風俗嬢は0ミリの距離で60分以上に渡って一緒にいる。まさに「超濃厚」である。これでは避けられるわけがない。

1月の下旬から2月2日の春節の休みの間に日本にやってきて、日本人の風俗嬢と関わった中国人の男はゼロではないはずだから、その中で「たったひとり」でも感染者がいたのであれば、どこかの風俗嬢が感染しているはずだ。

風俗嬢発の新型コロナウイルス大感染が起きるか?

新型コロナウイルスに感染したら1日で発症する人もいれば、25日目に発症する人もいる。平均して14日であるというのが今の定説だ。

新型コロナウイルスに感染した風俗嬢が、仮に14日間フルで風俗の仕事をして1日4人の客と関わったとしたら、彼女は14日で56人の客に感染させることになる。もし、感染した風俗嬢が10人いたらその10人が560人の人間を感染させることになる。
10人の風俗嬢だけで560人の男が感染してもおかしくないのである。

風俗嬢と関わる男は30代から50代までの働き盛りが大半なので、彼らは満員電車に乗って通勤する。

満員電車でこの560人が新型コロナウイルスをばら撒くと、東京は1ヶ月も経たないうちに武漢を彷彿とさせるほどの凄惨な汚染エリアと化す。

場合によっては日本が壊滅するようなレベルになっても不思議ではない。

私は新型コロナウイルスが1,000万人レベルの日本人を感染させるような事態になったとしてもまったく驚かない。すでに日本政府がインバウンド政策を採ってから、アンダーグラウンドでは梅毒やエイズが大量発生している。

日本の梅毒感染者は20代の女性と30代から50代の男性の間で大量発生しているのだが、梅毒は2年連続で6,000人超えなのである。

日本はインバウンド政策で風俗嬢が非常に危険な状況に陥ってしまったのに、このことについては冷淡かつ無関心で放置してきた。そうであれば、風俗嬢発の新型コロナウイルス大感染が始まったとしても、ツケが回ったとしか言うしかない。
パンデミックの下地は整っている


もう一度まとめよう。

春節で日本にやってきた新型コロナウイルスの中国人感染者が日本の風俗嬢を抱いたら、風俗嬢は100%の確率で感染する。その風俗嬢は2週間で50人超の男に100%感染させることができる。感染した男たちは働き盛りでアクティブに行動して感染を広げる。

そうであるならば、風俗嬢発の新型コロナウイルス大感染で、日本が壊滅状態になったとしても不思議ではない。

そうならないことを望むが、最悪そうなってもおかしくないことは覚悟しておく必要がある。日本政府は中国人の観光客を無尽蔵に入れた。だから、日本のアンダーグラウンドで感染が広がっていても何ら驚きではないのだ。

春節の時期に日本に入った中国人の感染者が、風俗嬢と関わっていないことを私たちは祈ろう。
https://www.mag2.com/p/money/893557
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c24

[番外地7] 今起きてる流れ 分かってない人が多すぎる 中川隆
1. 中川隆[-13682] koaQ7Jey 2020年2月20日 15:15:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-211]
今起きてる流れ 分かってない人が多すぎる
ダイヤモンド・プリンセス号の乗客なんだけど、下船後そのまま寿司屋へ向かったって、さすがに危機意識なさ過ぎでしょ。
こういうことになるから誰も降りてほしくなかったんだよ。頭がくらくらしてきた。


2020年2月19日
2週間前に出た陰性の結果を受けて、本日下船…その後横浜駅と東京駅で解散!
なかには、そのまま友人と待ち合わせをして、お寿司屋さんに行ったとのこと。
頭おかしいだろ!政府も下船して寿司屋に行った人も!
遠足だって家に帰るまでが大事ですって言うのに。
きっと、神奈川県で感染者出るよ。素晴らしぃ。

厚労省の新型コロちゃん拡散計画。

かなり上手くいってるようです。
おめでとうございます。
それにしてもこれ。

え?

ロンドン開催?今夏の五輪「ロンドン開催を」=新型肺炎で市長選候補名乗り

ロンドン五輪の閉会式=2012年8月、ロンドン(AFP時事)

【ロンドン時事】5月に行われるロンドン市長選の主要2候補が19日、日本での新型肺炎の感染拡大を理由に今夏の東京五輪が中止となった場合を念頭に、2012年の五輪が開かれたロンドンでの代替開催の誘致に名乗りを上げた。
国政与党・保守党公認候補として出馬するショーン・ベイリー氏はツイッターで「2020年、ロンドンは再び五輪を開催できる」と宣言。

「われわれにはインフラと経験がある。そして(新型)コロナウイルスの発生により、世界はわれわれの介入を必要とするかもしれない」と東京五輪中止の可能性に言及。

「市長として、私はロンドンが呼び掛けに応え、五輪を開催する準備があると明確にする」と表明した。

一方、サディク・カーン現ロンドン市長(国政最大野党・労働党)の広報担当者も地域紙シティーAMに「誰もが東京大会の素晴らしい成功に向けて取り組んでいる」と指摘しつつ、「万が一求められた場合には、ロンドンは過去そうしてきたように、積極的な行動を取るために最善を尽くすだろう」と代替開催を示唆した。


東京オリンピック開催中止はもはや時間の問題でしょう。
_______

中国人・韓国人の客と遭遇する風俗嬢が恐怖している
今ごろどこかの風俗嬢が感染しているはずだ1月の下旬から2月2日の春節の休みの間に日本にやってきて、日本人の風俗嬢と関わった中国人の男はゼロではないはずだから、その中で「たったひとり」でも感染者がいたのであれば、どこかの風俗嬢が感染しているはずだ。
新型コロナウイルスに感染したら1日で発症する人もいれば、25日目に発症する人もいる。平均して14日であるというのが今の定説だ。新型コロナウイルスに感染した風俗嬢が、仮に14日間フルで風俗の仕事をして1日4人の客と関わったとしたら、彼女は14日で56人の客に感染させることになる。もし、感染した風俗嬢が10人いたらその10人が560人の人間を感染させることになる。
10人の風俗嬢だけで560人の男が感染してもおかしくないのである。風俗嬢と関わる男は30代から50代までの働き盛りが大半なので、彼らは満員電車に乗って通勤する。満員電車でこの560人が新型コロナウイルスをばら撒くと、東京は1ヶ月も経たないうちに武漢を彷彿とさせるほどの凄惨な汚染エリアと化す。私は新型コロナウイルスが1,000万人レベルの日本人を感染させるような事態になったとしてもまったく驚かない。すでに日本政府がインバウンド政策を採ってから、アンダーグラウンドでは梅毒やエイズが大量発生している。
日本の梅毒感染者は20代の女性と30代から50代の男性の間で大量発生しているのだが、梅毒は2年連続で6,000人超えなのである。日本はインバウンド政策で風俗嬢が非常に危険な状況に陥ってしまったのに、このことについては冷淡かつ無関心で放置してきた。
春節で日本にやってきた新型コロナウイルスの中国人感染者が日本の風俗嬢を抱いたら、風俗嬢は100%の確率で感染する。その風俗嬢は2週間で50人超の男に100%感染させることができる。感染した男たちは働き盛りでアクティブに行動して感染を広げる。
そうであるならば、風俗嬢発の新型コロナウイルス大感染で、日本が壊滅状態になったとしても不思議ではない。
日本政府は中国人の観光客を無尽蔵に入れた。だから、日本のアンダーグラウンドで感染が広がっていても何ら驚きではないのだ。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/493.html#c1

[リバイバル3] 中川隆 _ 共産主義関係投稿リンク 中川隆
4. 中川隆[-13687] koaQ7Jey 2020年2月20日 16:21:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-213]
ソ連の細菌兵器と炭疽菌の流出事件
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/917.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1037.html#c4
[近代史3] ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op. 3, No. 6, RV 356 中川隆
1. 中川隆[-13689] koaQ7Jey 2020年2月20日 18:00:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-212]

イタリア - クラシック音楽 一口感想メモ
アントニオ・ヴィヴァルディ(Antonio Lucio Vivaldi, 1678 - 1741)


大バッハも大いに研究したイタリア・バロックの大作曲家。
他の同時代のイタリア作曲家と比較すると、輝かしくも複雑で陰影を秘めており、曲の放つ魅力は断然優れている。メロディーセンスもある。


ヴァイオリン協奏曲
作品3 12曲の合奏協奏曲集『調和の霊感』

第1曲
3.0点
素朴でオーソドックスな中に瑞々しい感受性が感じられて素敵。特に2楽章はロマン派の音楽のように感情的である。

第2曲
2.5点
短調で劇的な雰囲気を一応楽しめるが、あまり面白い曲と思わなかった。

第3曲
2.8点
長調と短調を混ぜた構成で工夫は感じるが、曲の良さにはいまいち繋がっていないと思う。

第4曲
3.5点
短調の曲。バロック的な感情的でなくシンプルな短調の響きの美しさをおおいに発揮している。活気があり、バランスが良いため楽しめる。

第5曲
3.5点
1楽章の単純明解な楽しさと、2楽章の大変美しい叙情性の対比が聞き物。3楽章も悪くない。

第6曲
3.3点
短調の魅力を発揮しているが、単純さの中に神がかり的なものを見せるヴィヴァルディの天才が今ひとつきれいに発揮されていない気がする。中間楽章の叙情性は美しい。

第7曲
3.5点
5つの楽章からなり、それぞれ大きく異なる雰囲気のため、バラエティと起伏に富む感じが楽しい。それぞれは素朴ながらも全体として豊かな音楽という印象が強い。

第8曲
3.5点
2楽章が魅力的。同じフレーズの繰り返しが産む美と憂愁の世界が素晴らしい。1楽章や3楽章も短調の美と躍動感を両立して素晴らしい。

第9曲
2.8点
全部の楽章において、雰囲気は悪くないのだが単純すぎて情報量が少なく、物足りなさが残る。

第10曲
3.3点
2楽章は単調だがなぜか楽しめる。3楽章は分厚い音の積み重ねが聴いていて楽しいし、変化もあって楽しめる。

第11曲
3.0点
3楽章のフーガはもの珍しい気分で聴ける。フーガでもヴィヴァルディは華やかなである。4楽章は訴えかけるようなソロが楽しい。

第12曲
3.3点
伸びやかな雰囲気が印象的。後年の協奏曲に通じるものをそれとなく感じる。密度は平均より高いが、もう一つ突き抜けないものがある。


https://classic.wiki.fc2.com/wiki/イタリア
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/918.html#c1

[近代史3] ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op. 3, No. 6, RV 356 中川隆
2. 中川隆[-13688] koaQ7Jey 2020年2月20日 18:10:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-211]

『調和の霊感』(L'estro Armonico)作品3 は、アントニオ・ヴィヴァルディが作曲した全12曲からなる協奏曲集。

1711年にアムステルダムのエティエンヌ・ロジェ(英語版)より出版された。
トスカーナ大公子フェルディナンド・デ・メディチに献呈されている。
ヴィヴァルディの協奏曲のうちで最初に出版された。

この協奏曲集はヴィヴァルディの様々な意図がある。例えば、

曲の配列においても、長調→短調→長調……となるような工夫がなされている。

但し、長調でこの曲集を完結させるという意図があり、第10・11・12番は短調→短調→長調となっている。

独奏楽器はヴァイオリン4台のもの、ヴァイオリン2台のもの、ヴァイオリン独奏のものがそれぞれ4曲ずつある。

チェロは独奏に加わることもあるが、多くは通奏低音と同じ旋律を演奏する。

ヴァイオリン4部、ヴィオラ(楽譜の上では2部に分かれているが実際には異なる音を演奏することは少ない)、チェロ、通奏低音からなる伝統的な協奏曲の編成を使用しているが、もはやコレッリのもののように独奏楽器はトリオ・ソナタの形式をしていない[1]。

ヴィヴァルディはソロ楽器の技巧的な楽想とリトルネロの対比による急・緩・急の3楽章からなる協奏曲で有名であるが、作品3は初期の作品であり、新旧様式が混在している[2]。

同様の様式を持つ協奏曲にはすでにジュゼッペ・トレッリの合奏協奏曲集作品8(1709年)や、ジュゼッペ・ヴァレンティーニの合奏協奏曲集作品7(1710年)があるが、ヴィヴァルディの作品3およびそれに続く協奏曲集はオランダのロジェから出版されたために国際的な名声を得、テレマン、ハイニヒェン、バッハらがヴィヴァルディの様式を採用した[1]。


コレッリの影響

ヴィヴァルディはこの協奏曲集において、コレッリのコンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)に似た作品を残している。第1番、第2番、第4番、第7番、第10番、第11番がそれである。

特に第7番は、コレッリの作品6の協奏曲と非常によく似ている。
この作品3以外でもヴィヴァルディは、コレッリに似た作品を残している。


各曲について

第1番 RV 549
4つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ニ長調。3楽章形式。

第1楽章 - 導入部の終わりの部分でチェロのソロが加わる。ソロ―トゥッティが頻繁に繰り返される楽章である。

第2楽章 - 平行調であるロ短調に転調する。スピッカート用法を用いる。

第3楽章 - ヴァイオリン・パートは8分の9拍子、伴奏パートは4分の3拍子という奇妙な楽章。楽章のほとんどが8分音符で形成されている。中間60小節〜63小節に小規模な転調があり、最終部90小節〜98小節にかけても転調がある(どちらも短調への転調)。最後はユニゾンで華やかに終わる。


第2番 RV 578
2つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ト短調。

緩・急・緩・急の形をとっている4楽章形式の協奏曲(コンチェルト・ダ・キエーザ)。
この作品と第11番の2曲は、17世紀末に現れた2つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲である。


第3番 RV 310
ヴァイオリン協奏曲 ト長調。3楽章形式。

第2楽章は平行調であるホ短調に転調する。


第4番 RV 550
4つのヴァイオリンのための協奏曲 ホ短調。

これも第2番と同じ緩・急・緩・急の形をとっている4楽章形式の協奏曲である。
この協奏曲はコンチェルト・グロッソからソロ・コンチェルトへの移り変わりを顕著に示している協奏曲の1つである。


第5番 RV 519
2つのヴァイオリンのための協奏曲 イ長調。3楽章形式。

第1楽章 - 冒頭の音型はリトルネッロ主題として楽章の中で生かされるが、すべてイ長調で登場するという珍しい形をとっている。

第2楽章 - 美しい12小節のカンタービレで、通奏低音はや休止。

第3楽章 - リトルネッロ主題8小節からなる。2つのヴァイオリンがソロを交代で受け持ち、その後にトゥッティを繰り返す。なお1楽章と同様、第4トゥッティ以外はすべてイ長調である。


第6番 RV 356
ヴァイオリン協奏曲 イ短調。3楽章形式。

この曲はコンチェルト・グロッソへと発展した古典的な独奏楽器と合奏のための協奏曲の中で最も古い。この曲は少し難しく編曲されて、主要ヴァイオリン学習教本に載っており、特に第1楽章はヴァイオリンを学ぶ上で重要な曲目となっている。

第1楽章 - リトルネッロ主題は3つの動機よりなる。全体的にイ短調が支配的であり、転調はあまり行われていないと言ってよい。

第2楽章 - 14小節のカンタービレ。前半、後半の2部に別分かれ、後半は前半の自由な変奏の形式をとる。

第3楽章 - トゥッティ楽節はホ短調-イ短調-ハ長調-イ長調の調性で再現される。終結部付近ではソロとトゥッティの交代が頻繁に行われる。


第7番 RV 567
4つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ヘ長調。
5楽章形式とも解される協奏曲。


第8番 RV 522
2つのヴァイオリンのための協奏曲 イ短調。3楽章形式。

第1楽章はアレグロ。第2楽章は下属調であるニ短調でシチリアーナの旋律。第3楽章は活発な曲である。
J.S.バッハはこれを「オルガン協奏曲第2番イ短調 BWV 593」に編曲した。

第9番 RV 230
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調。3楽章形式。

第1楽章 - 美しい旋律を歌うアレグロ。第1トゥッティと第2トゥッティの旋律が重要な役割を演じている。第3トゥッティでは第1トゥッティの動機がロ短調で再現される。第1楽章としては短めで、2分弱で終了となる。

第2楽章 - オスティナート・リズムが楽章を支配している。ソロ部では通奏低音は休止。

第3楽章 - 第2トゥッティのトレモロ音型がその後のトゥッティに転調して出る。従ってトゥッティにあまり工夫がされていない分、ソロは毎度違う演奏が聴かれる。


第10番 RV 580
4つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ロ短調。

J.S.バッハはこれを「4台のチェンバロのための協奏曲 イ短調 BWV 1065」に編曲した。

第1楽章は4本のヴァイオリンがソロ・パートを次々と交代していく形式である。
第2楽章はラルゴ。終止形はロ短調ではない。
第3楽章も第1楽章と同様の特徴を持つ。


第11番 RV 565
2つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ニ短調。
3楽章形式、または5楽章形式と解されるコンチェルト・グロッソ。

J.S.バッハはこれを「オルガン協奏曲第5番ニ短調 BWV596」に編曲した。
第4楽章はシチリアーナ。J.S.バッハはこれにはほとんど手を加えていない。
第3楽章のフーガ(フガート)はバッハに似た雰囲気を持つ。

第1楽章 - Allegro。2つのヴァイオリンによるソロが続いた後、チェロのソロが始まる。

第2楽章 - Adagio spiccato (e tutti)。わずか3小節の楽章であり、全員が同じリズムで演奏する。

第3楽章 - Allegro。最初にチェロがフーガ(フガート)の主部を演奏し、次にヴィオラ、第2ヴァイオリン、第1ヴァイオリンというように入っていく。最後の部分ではヴィオラが大活躍する。

第4楽章 - Largo e spiccato。スピッカート奏法で演奏するシチリアーナ。ソロの部分は第1ヴァイオリンだけが担当し、ほかは8分音符で刻むのみである。トゥッティは伴奏に多少の変化が現れる。

第5楽章 - Allegro。これも第1楽章と同じく、2つのヴァイオリンによるソロが続いた後、チェロのソロが始まる。16分音符が多い活発な曲で、華やかに終わる。

第12番 RV 265
ヴァイオリン協奏曲 ホ長調。第3楽章形式。

J.S.バッハはこの作品をチェンバロ用とオルガン用に編曲した。(協奏曲第5番ハ長調 BWV976)

https://ja.wikipedia.org/wiki/調和の霊感
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/918.html#c2

[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
33. 中川隆[-13687] koaQ7Jey 2020年2月20日 18:11:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-210]
ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op. 3, No. 6, RV 356
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/918.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c33
[近代史3] ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op. 3, No. 6, RV 356 中川隆
3. 中川隆[-13686] koaQ7Jey 2020年2月20日 18:27:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-209]

アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ(Antonio Lucio Vivaldi, 1678年3月4日 - 1741年7月28日)は、ヴェネツィア出身のバロック後期の作曲家で、ヴァイオリニスト。カトリック教会の司祭。とくに多数の協奏曲の作曲家として知られる。

イタリアのヴェネツィアに生まれ、オーストリアのウィーンで没した。サン・マルコ大聖堂付きオーケストラのヴァイオリニストで、理髪師の父親からヴァイオリンを学ぶ。10歳より教会附属の学校に入り、25歳で司祭に叙階される。赤毛であったことから、「赤毛の司祭」Il Prete Rosso(イル・プレーテ・ロッソ)と呼ばれるようになった。

司祭になった年に、ヴェネツィアのピエタ慈善院付属音楽院 (Pio Ospedale della Pietà) でヴァイオリンを教えはじめ、1年後にはヴィオラ・アッリングレーゼ(Viola all'inglese:仏語版、Lyra viol:英語版)も教えはじめる。

後に宮廷の「楽長」にあたるフルタイムの「合奏長」ではなく、パートタイムの「協奏曲長」として、多くの器楽曲や、時には宗教曲までピエタに提供し、リハーサルする義務を負った。

一方、オペラ作曲家としての名声も次第と揺るぎないものになり、ヴァイオリンのヴィルトゥオーソとしての演奏旅行の他、オペラ上演のためにヨーロッパ各地を回った。

彼の残した作品は死後長らく忘れられた存在であったが、20世紀に入り多くの作品が再発見され、再評価されることになった。

作品は、四季をはじめとして500を超える協奏曲、52の現存するオペラ(ヴィヴァルディ自身は94のオペラを作ったと書簡に記している)、73のソナタ、室内楽曲、シンフォニア、オラトリオ(現在自筆譜が残っているのは勝利のユディータのみ)、宗教音楽(モテットなど)、カンタータ、など多岐に渡る。

「写譜屋が写譜を行っている間に、協奏曲の全パートを作曲できる」と豪語していた彼は速筆の多作家であり、その荒れた筆跡は残された自筆譜で確認できる。

ヴィヴァルディは特に急・緩・急の3楽章を持ち、主に第1楽章において全奏による繰り返しと独奏楽器による技巧的なエピソードが交替するリトルネッロ形式をもつ独奏協奏曲の形式を確立した人物として知られる。

ただし実際にはヴィヴァルディが独奏協奏曲の考案者というわけではなく、ジュゼッペ・トレッリらはヴィヴァルディ以前に独奏協奏曲を書いているが[2]、ヴィヴァルディの作品は国際的に有名になり、多くのドイツの作曲家がヴィヴァルディの形式で協奏曲を書くようになった[3]。古典派の協奏曲はヴィヴァルディなしには考えることができない[4]。


ヴィヴァルディは書こうと思えば高度に対位法的なフーガなどの音楽も書くことができたが、より直感的で透明な音楽を主に書いた[5]。この親しみやすさによって第二次世界大戦後のバロック・ブームはヴィヴァルディの再発見という形で進められた[4]。


その一方でヴィヴァルディの作品はどれも同じという批判的な意見もあり、たとえばルイージ・ダッラピッコラは「600曲の協奏曲を作曲したのでなく、1曲を600回作曲したにすぎない」と言ったとされる[6][7]。

イーゴリ・ストラヴィンスキーも、おそらくダッラピッコラの言葉によって「同じ形式をあんなにくりかえしくりかえし作曲できた、退屈な男にすぎない」と言っている[8][9]。

皆川達夫は、個人的な好みとしながらも「ヴィヴァルディの音楽の品のなさが耐えられない」と言っている[10]。

通常リオム番号(RV番号)で楽曲が整理されるが、この他にパンシェルル番号(P番号)、ファンナ番号(F番号)が存在する。ジャンルには偏りが多く、ヴァイオリンのための協奏曲はおびただしく残っているものの、チェンバロのための協奏曲は編曲譜が一曲しか残っていない。



生涯

誕生から幼年期と青年期

1678年3月4日[11]、イタリア・ヴェネツィアのカステッロ区に生まれる。
誕生日は長らく不明であったが、20世紀になって、当時の洗礼記録が教区教会で発見された。

瀕死の状態で生まれたため、助産婦が仮の洗礼を授け、2ヶ月後の5月6日に生家の目と鼻の先にあるサン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ教会で正式な洗礼を受けた。このことは、ヴィヴァルディが生まれながら病弱であったことを物語っている[12]。

父親のジョヴァンニ・バッティスタは、理髪師(当時の理髪師は簡単な外科医(床屋医者)でもあった)として家計を支えていたが、同時にヴァイオリンの才能に恵まれ、ヴェネツィア旅行案内のパンフレットに名ヴァイオリニストとして紹介されるほどであった[13]。同じブレーシャ出身のジョヴァンニ・レグレンツィらとも親交があり、1685年にはサン・マルコ大聖堂のヴァイオリニストに選ばれた。22歳のときに仕立屋の娘カミッラ・カリッキヨと結婚し、長男としてアントニオを授かる。夫妻はアントニオの他に夭逝した子も含めて男の子4人、女の子5人を授かるが、彼らの中から音楽家は誕生しなかった[14]。

幼少時から父親のもとでヴァイオリンに習熟すると共に、父親の幅広い音楽仲間から作曲法などを学ぶ。レグレンツィを含むこれら音楽仲間のうち、誰がヴィヴァルディの教師となったかについては未だ判然とせず、さまざまに推測されている。

庶民階級のヴィヴァルディが、やがて世に出て、さまざまな階級の人と引け目なく交わるには、聖職者になるのがもっとも確実な方法だった。1688年、10歳で当時サン・マルコ大聖堂とサン・マルコ広場を挟んで向かい合って建っていたサン・ジェミニアーノ教会付属学校に入学した。

1693年、15歳で剃髪し、1699年、21歳で下級叙階を得て、1700年、22歳で助祭となり、翌1703年の3月25日に、25歳で司祭に叙階される[15]。彼は「赤色」に因むRossi(ロッスィ)の綽名で呼ばれた父親と同じく赤い髪であったために、「赤毛の司祭」Il Prete Rosso(イル・プレーテ・ロッソ)と呼ばれた[16]。

ところがヴィヴァルディには、生まれつき喘息と思われる持病があり、特に司祭としてミサの説教に立っている時に発作が起こると、ミサの続行が困難と成ることがたびたびあった[17]。こうしたことから、同年9月にはミサを挙げることを免除され、平服の在俗司祭となった。


音楽院の教師としての活動(1703年から1713年)

在俗司祭となった9月、1346年設立という由緒あるピエタ慈善院付属音楽院 でヴァイオリンの教師として教鞭を執り始めた[18]。キリスト教会が行う慈善事業の一環として、捨て子の養育を目的に建てられた慈善院は、才能のある女子に対して音楽教育も盛んで、ヴェネツィア共和国にはピエタをはじめ、インクラービリ、メンディカンティ、オスペダレットの4つがあり、附属の音楽院が併設されていた。また1704年にはヴィオラ・アッリングレーゼも教えている。1703年以降から1740年にかけて、教師として、また作曲家として器楽曲から声楽にいたる幅広い分野の作品を提供し、そのリハーサルを行なう雇用関係を断続的に持った[19]。

ピエタ音楽院で作曲と合奏の指導を任されたヴィヴァルディは、全12曲からなる『トリオ・ソナタ集』を作曲し、1705年にこれらを「作品1」として出版する。トリオ・ソナタの先駆者として有名なアルカンジェロ・コレッリの影響が色濃く見られるこの作品群は、ヴェネツィアの貴族アンニーバレ=ガンバーラ伯に献呈されている。

1709年の2月にピエタ音楽院との契約が更新されなかったが、その理由のひとつに、当時のピエタの経営状況が思わしくなかったことがあげられる[20]。この年に12曲の『ヴァイオリンソナタ集』を「作品2」として出版する。1711年の9月にピエタ音楽院との契約を更新する。「作品3」として『調和の霊感』が出版される。1713年にピエタ音楽院の合奏長であるフランチェスコ・ガスパリーニ(Francesco Gasparini,1668-1727)が職を辞す[21]。後任が決まるまで、音楽院はヴィヴァルディに宗教曲の作曲も依頼する。同年にオペラの処女作『オルランド・フリオーソ(怒りのオルランド)』がヴェネツィアのサンタンジェロ劇場で初演される。

この時期、基本的に音楽院の音楽教師という立場にいながら、作曲家としてのヴィヴァルディの名はヨーロッパ中に広がり始めていた。

これは、生命力のほとばしりを感じさせる瑞々しい曲想のみならず、合奏協奏曲から更に進んだ独奏協奏曲のスタイルを確立していったためと考えられる。

同時代のドイツ人音楽家ヨハン・ゼバスティアン・バッハも少なくとも筆写譜の形でヴィヴァルディの楽譜を入手していた[22]。
各地で公演されたオペラも次第に彼の名を高めて行った。


オペラ作曲家としての活動(1713年から1723年)

1713年以降、ヴィヴァルディはヴェネツィアのサンタンジェロ劇場をベースにオペラの作曲に精力的に取り組み始め、1718年までの間に10曲を上演して[23]人気を博した。ピエタ音楽院では1716年から[24]1718年までは、「協奏曲長」となっていた。1718年から1720年までの2年間はヴェネツィアを去り、ハプスブルク家領となったマントヴァの支配者、ヘッセン=ダルムシュタット方伯に宮廷楽長として奉職する。同地で3作ものオペラを上演する[25]。1723年7月にピエタの理事会はヴィヴァルディに対してピエタ音楽院のために協奏曲を月に2曲提供すること、旅行中は楽譜を郵送すること、リハーサルを2回ないし3回ほど指導する契約を交わした[26]。音楽院にとってヴィヴァルディは大切な人材であり、必要不可欠な人物でもあった。

この間における作品群は、1712年-1713年ごろに『ストラヴァガンツァ』と題する12曲のヴァイオリン協奏曲集が「作品4」として出版され[27]、1714年に作曲したオラトリオ『ファラオの神モイゼ』(RV.643,紛失)が同年に初演される。また1716年に現存する唯一のオラトリオ『勝利のユディータ』が初演される。

また1716年から1717年に、ザクセン公のヴァイオリニストとして活躍していたピゼンデルが師事しており、彼のためのヴァイオリン協奏曲やソナタをいくつか作曲している[28]。


人気と円熟期(1723年から1740年)

ヴィヴァルディは書簡の中で、ヨーロッパの各都市を旅行したことを述べており、この書簡で窺えるように、この時期はほとんど旅行に費やしている。1723年から1724年にかけてローマを訪れ、同地で3曲のオペラを上演した[29]。なおローマ教皇の御前で演奏したとも述べている。1726年に再びサンタンジェロ劇場の作曲家兼興行主となり[30]、1739年まで断続的に務める。

1728年にトリエステで神聖ローマ皇帝のカール6世に謁見する機会ができ、手書きの協奏曲集『チェートラ』を献呈する。1730年と1731年に、ヴィヴァルディはオペラを上演するためプラハに向かった。1732年から1737年まで、イタリアの各都市でオペラの上演と興行活動を行った[31]。

この時期の作品群では、1725年に『四季』を含むヴァイオリン協奏曲集『和声と創意への試み』が「作品8」として出版された[32]。

1727年に『チェートラ』と題する12曲からなるヴァイオリン協奏曲集が出版される。

1729年には、音楽史上初めてのソロのフラウト・トラヴェルソ(フルートの前身)のための協奏曲集が「作品10」として出版される。

また生前出版された楽譜としては最後となる「作品11」と「作品12」のヴァイオリン協奏曲集が出版される。

なお、作品13はシェドヴィルがヴィヴァルディの名前を騙って出版した曲集にパリの出版社が勝手に振った作品番号である。

1740年のチェロ・ソナタ集「作品14」はヴィヴァルディの真作であるが、パリでおそらくヴィヴァルディの関知しない間に出版されたと思われ、作品番号も作品13にそのまま続けて作品14としている。


キャリアの晩年

オペラ作曲家としてイタリア本土や外国の諸都市では人気が高まりつつあったが、本国ヴェネツィアではナポリ派のオペラがヴェネツィア派のオペラを駆逐し、ヴィヴァルディのオペラ作品に対する評価に翳りが見え始める[33]。

また、1737年から翌1738年にかけて、教皇領のフェッラーラでの興行に次々とトラブルが起きる。1738年には「協奏曲長」の職を辞すも、ピエタ音楽院の求めにより作品の供給は1740年のウィーン行の直前まで続いた。

「ヴィオラ・ダモーレとリュートのための二重協奏曲」の完成後、1740年に予てから抱いていたウィーンでのオペラ興業を決心する。同年秋にグラーツで自作の公演を行った[34]あとの足取りは現在までわかっていないが、ウィーンを目指す中でさらに不運がのしかかった。

一番のよき理解者でありもっとも力のあるパトロンだったカール6世が逝去し、オーストリア国内は1年間喪に服すことになったのである。服喪期間中はすべての興業が禁止されたため、予定していたオペラ『メッセニアの神託』が上演できなくなった。当時は出演者から大道具に至るまで興行主が後で清算する形でオペラの準備が行われていたので、おそらく大変な借財を抱え込むことになったと思われる。

さらに、カール6世の娘マリア・テレジアが帝位を継いだためにオーストリア継承戦争が勃発し、国内の雰囲気も戦争一色となり、老大家に一瞥を与えるゆとりも関心も貴族たちにはなかった。

ヴィヴァルディが埋葬された墓地はのちにウィーン工科大学の構内となり、彼を記念して銘板が設置されている

失意のうちに体調を崩したと思われるヴィヴァルディは、ヴェネツィアに帰国することもかなわず、1741年7月28日にケルントナートーア劇場が用意していた作曲家用の宿舎にて、63歳で死去した。

死因は内臓疾患であるといわれているが詳細は不明である。夏季であったこともあり、旅行者のための簡素な葬礼の後、遺体は翌日、病院付属の貧民墓地に埋葬された[35]。この墓地は後年取り壊され、現在はウィーン工科大学の構内になっている。オペラのほうは、ウィーンの新聞の広告欄に「故ヴィヴァルディ氏作曲」と張り出されて、翌1742年に当初の予定通りにケルントナートーア劇場で上演された。


後世の影響と評価

ヴィヴァルディは大変な蓄財が出来た程、同時代において高い評価を受けた。
ルイ=クロード・ダカンも著作の中で「アルカンジェロ・コレッリに匹敵するのはヴィヴァルディの『四季』のみ」と書いている[36]。

ところが18世紀末から19世紀末にかけて、ヴィヴァルディは全く顧みられず忘れさられた。これはバッハも同様であったが、19世紀末になってバッハが再評価されるとその生涯が調査され、その作品にヴィヴァルディの編曲を参考にした箇所が複数発見された[37]。

20世紀に入り、アルフレード・カゼッラやジャン・フランチェスコ・マリピエロらの尽力で楽譜の整理、校訂が行われヴィヴァルディの作品は復興を果たした。

イ・ムジチ合奏団は『四季』を1955年に世界ではじめて録音し、レコードはこれまでに2500万枚以上という驚異的な売り上げを記録している[38]。これによりヴィヴァルディは一躍有名になり、クラシック・ファンを越えた人気を持つに至った。


年表

1678年 - (0歳) ヴェネツィアに生まれる。
1688年 - (10歳) サン・マルコ大聖堂近くのサン・ジェミニアーノ教会付属学校に入学する。
1693年 - (15歳) 剃髪して最下級の聖職者となる。
1703年 - (25歳) 司祭となる ピエタでヴァイオリン教師として奉職し始める。
1704年 - (26歳) ピエタで、ヴァイオリンの他にヴィオラ・アッリングレーゼを教え始める。
1705年 - (27歳) 作品1(12曲のトリオソナタ集)がヴェネツィアで出版される。
1711年 - (33歳) 作品3(調和の霊感)がアムステルダムで出版される。
1713年 - (35歳) 最初のオペラ『離宮のオットー大帝』をヴィチェンツァで初演する。
1716年 - (38歳) オラトリオ『勝利のユディータ』を初演。
1718年 〜1720年 - (40歳-42歳)マントヴァでヘッセン=ダルムシュタット方伯の宮廷楽長として奉職する。
1723年 〜1724年 - (45歳-46歳)ローマで3本のオペラを初演、ローマ教皇御前演奏。作品8(四季を含む)出版。
1728年 - (50歳) トリエステで神聖ローマ皇帝カール6世に謁見する。手書きの協奏曲集『チェートラ』を献呈。
1730年 - (52歳) オペラがプラハで上演される。
1735年 - (57歳) 再び「協奏曲長」に任ぜられる。
1740年 - (62歳) 3月21日にヴェネツィアを訪問中だったザクセン選帝侯の為に協奏曲3曲とシンフォニア1曲の作曲をピエタから依頼される。この年の秋にヴェネツィアを発つ。
1741年 - (63歳) 7月28日、ウィーンのケルントナートーア劇場専用の作曲家宿舎で内臓疾患により客死。


作品

著名な作品

和声と創意の試み(Il cimento dell'armonia e dell'invenzione)作品8。1725年に出版された12曲のヴァイオリン協奏曲集

四季(Le quattro stagioni(The Four Seasons)):この作品8のうちの第1番から第4番までを指す。

調和の霊感(L'estro armonico)作品3

1本から4本のヴァイオリン(部分的にチェロも加わる)のための12曲からなる協奏曲集。1711年にアムステルダムのロジェより出版された[39]。いわゆるリトルネロ形式による急速楽章を持つ、急―緩―急の3楽章形式による独奏協奏曲の様式を確立した画期的作品といえる。しかし、部分的にはコレッリ以来の合奏協奏曲のスタイルも含んでいる(例えば7番、11番など)。

後にJ.S.バッハが、この曲集のうち第3番、第9番、第12番をチェンバロ独奏用(BWV978、972、976)に、第8番、第11番をオルガン独奏用(BWV593、596)に、第10番を4台のチェンバロと弦楽合奏のため(BWV1065)に編曲した。


ヴィヴァルディが出版した作品

ヴィヴァルディの協奏曲及びソナタのうちのいくつかは存命中に出版されている。

作品1 12曲のトリオ・ソナタ集(1705年出版)
作品2 12曲のヴァイオリン・ソナタ集(1709年)
作品3 12曲の合奏協奏曲集『調和の霊感』(1711年)
作品4 12曲のヴァイオリン協奏曲集『ストラヴァガンツァ』(1712年-1713年ごろ)
作品5 6曲のソナタ集(1716年)
作品6 6曲のヴァイオリン協奏曲集(1716年-1717年ごろ) 
作品7 12曲の協奏曲集(1716年-1717年ごろ)
作品8 12曲の協奏曲集『和声と創意への試み』(『四季』を含む)(1725年)
作品9 12曲のヴァイオリン協奏曲集『チェートラ 』(1727年)
作品10 6曲のフルート協奏曲集(1729年-1730年ごろ)
作品11 6曲のヴァイオリン協奏曲集(1729年)
作品12 5曲のヴァイオリン協奏曲と1曲の弦楽のための協奏曲(1729年)


以上の作品の初版は、1,2を除いてアムステルダムのル・セーヌ社から出版されており、ヴィヴァルディがヴェネツィアのみに留まらず、ヨーロッパでも名声を得ていたことがわかる。

作品3、4、8、9はすべて献辞つきで王侯貴族に献呈されているが、献辞のない作品5、6、7、10、11、12のうちのいくつかは、出版社がヴィヴァルディの了解を得ることなく出版した可能性が高い。

1730年頃を境に、いろいろ制約の多い出版譜ではなく、筆写譜での流布を好むようになった。そのため、円熟期の作品には作品番号が付されていないものが圧倒的に多い。

以前は作品13が存在するとされていたが、後年の研究でシェドヴィルがヴィヴァルディの名をかたって出版したものであることが判明した[40]。

また、作品14(6曲のチェロ・ソナタ集)は、パリの出版社が勝手に付けた作品番号である。


作品一覧

ヴィヴァルディの作品はかなり膨大で、紛失したものや偽作などが多数含まれる。ここでは比較的知られている作品のみ掲載する。

詳細は「ヴィヴァルディの楽曲一覧」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴィヴァルディの楽曲一覧


舞台作品

オラトリオ

ファラオの神モイゼ RV.643(散失)
蛮族の王ホロフェルネスを討伐した勝利のユディータ RV.644


オペラ

エジプトの戦場のアルミーダ RV.699
バヤゼットRV.703
貞節な妖精(忠実なニンフ)RV.714
ダリオの戴冠 RV.719
モテズーマ RV.723
狂気を装うオルランド RV.727
テウッツォーネ RV.736


協奏曲

ヴァイオリン協奏曲

ヴァイオリン協奏曲 ハ長調 『喜び』 RV.180
ヴァイオリン協奏曲 ハ短調 『疑い』 RV.199
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 『グロッソ・モグール』 RV.208
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 『1712年のパドヴァの聖アントニオの聖なる舌の祝日のために』 RV.212a
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 RV.230(J.S.バッハがBWV.972に編曲)
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 『不安』 RV.234
ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 『ピゼンデル氏のために』 RV.242
ヴァイオリン協奏曲 変ホ長調 『海の嵐』 RV.253
ヴァイオリン協奏曲 変ホ長調 『隠れ里』 RV.256
ヴァイオリン協奏曲 ホ長調 『春』 RV.269
ヴァイオリン協奏曲 ホ長調 『安らぎ:いとも聖なるクリスマスのために』 RV.270
ヴァイオリン協奏曲 ホ長調 『恋人』 RV.271
ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 『お気に入り』 RV.277
ヴァイオリン協奏曲 ヘ長調 『聖ロレンツォの祝日のために』 RV.286
ヴァイオリン協奏曲 ヘ長調 『秋』 RV.293
ヴァイオリン協奏曲 ヘ長調 『隠れ里』 RV.294
ヴァイオリン協奏曲 ヘ短調 『冬』 RV.297
ヴァイオリン協奏曲 ト長調 『トゥロンバ・マリーナ風ヴァイオリンで』 RV.313
ヴァイオリン協奏曲 ト短調 『夏』 RV.315
ヴァイオリン協奏曲 ト短調 RV.317
ヴァイオリン協奏曲 イ長調 『ナイチンゲール』 RV.335a
ヴァイオリン協奏曲 変ロ長調 『ポストホルン(郵便屋の角笛)』 RV.363
ヴァイオリン協奏曲 変ロ長調 『カルボネッリ』 RV.366
ヴァイオリン協奏曲 ハ短調 『アマート・ベネ』 RV.761
ヴァイオリン協奏曲 ホ長調 『アンナ・マリーアのために』 RV.762
ヴァイオリン協奏曲 イ長調 『オッタヴィーナ』 RV.763


フルート協奏曲

作品10として出版された『フルート協奏曲集』に含まれる楽曲である。

フルート協奏曲 ニ長調『ごしきひわ』 RV.428 作品10-3
フルート協奏曲 ヘ長調 『海の嵐』 RV.433 作品10-1
フルート協奏曲 ヘ長調 RV.434 作品10-5
フルート協奏曲 ト長調 RV.435 作品10-4
フルート協奏曲 ト長調 RV.437 作品10-6
フルート協奏曲 ト短調 『夜』 RV.439 作品10-2
フルート協奏曲 ト長調 RV.442
2本のフルート(フラウト・トラヴェルソ)のための協奏曲 ハ長調 RV.533


複数の楽器のための協奏曲

協奏曲 ニ長調 『ごしきひわ』 RV.90
協奏曲 ニ長調 RV.93(リュート協奏曲とも)
協奏曲 ニ長調 『女羊飼い』 RV.95
協奏曲 ト短調 『夜』 RV.104
2つのマンドリンのための協奏曲 ト長調 RV.532
2つのトランペットのための協奏曲 ハ長調 RV.537

2つのクラリネットと2つのオーボエの為の協奏曲ハ長調RV.559 バロック音楽史上最初のクラリネット協奏曲

2つのクラリネットと2つのオーボエの為の協奏曲ハ長調RV.560
ヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ヘ長調 『プロテウス、すなわち逆様の世界』 RV.544
『ソロ・ヴァイオリンと遠くのこだま用のヴァイオリンのための協奏曲 』イ長調 RV.552
ヴァイオリン、2本のオーボエと2本のホルンのための協奏曲 ニ長調『聖ロレンツォの祝日のために』 RV.562
ヴァイオリン、2本のリコーダー、3本のオーボエとファゴットとのための協奏曲 ト短調 『ザクセン選帝侯のために』 RV.576
ヴァイオリン、2本のオーボエ、2本のリコーダーとファゴットのための協奏曲ト短調 『ドレスデンのオーケストラのために』 RV.577
ヴァイオリン、オーボエ、シャリュモーと3つのヴィオラ・アッリングレーゼのための協奏曲 変ロ長調 『葬送協奏曲』 RV.579


オルガンのための協奏曲

オーボエ、ヴァイオリン、オルガン、弦とチェンバロのための協奏曲 ハ長調 P.36
ヴァイオリン、オルガン、弦とチェンバロのための協奏曲 ヘ長調 P.276
ヴァイオリン、オルガン、弦とチェンバロのための協奏曲 ニ短調 P.311
4つのオブリガードフルート、4つのヴァイオリン、弦と2つのオルガンのための協奏曲「イン・ドゥエ・コーリ」イ長調 P.226


弦楽のための協奏曲(またはシンフォニア)

弦楽のための協奏曲 ト長調『アラ・ルスティカ(田園風)』RV.151
弦楽のための協奏曲 変ロ長調『コンカ(法螺貝)』RV.163
シンフォニア ロ短調『聖なる墓に(聖墓のそばに)』RV.169


宗教曲・声楽曲

宗教音楽

グローリア ニ長調 RV.588
グローリア ニ長調 RV.589
サルヴェ・レジナ(「めでたし元后」) ハ短調 RV.616
スターバト・マーテル(「母は悲しみにありき」) ヘ短調 RV.621


声楽曲

モテット『まことの安らぎはこの世にはなく』RV 630
カンタータ『黄金色の雨のごとく』RV 686

https://ja.wikipedia.org/wiki/アントニオ・ヴィヴァルディ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/918.html#c3

[近代史3] ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op. 3, No. 6, RV 356 中川隆
4. 中川隆[-13685] koaQ7Jey 2020年2月20日 18:31:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-208]

イタリア - クラシック音楽 一口感想メモ
アントニオ・ヴィヴァルディ(Antonio Lucio Vivaldi, 1678 - 1741)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/イタリア


大バッハも大いに研究したイタリア・バロックの大作曲家。
他の同時代のイタリア作曲家と比較すると、輝かしくも複雑で陰影を秘めており、曲の放つ魅力は断然優れている。メロディーセンスもある。

ヴァイオリン協奏曲

作品3 12曲の合奏協奏曲集『調和の霊感』

第1曲
3.0点
素朴でオーソドックスな中に瑞々しい感受性が感じられて素敵。特に2楽章はロマン派の音楽のように感情的である。

第2曲
2.5点
短調で劇的な雰囲気を一応楽しめるが、あまり面白い曲と思わなかった。

第3曲
2.8点
長調と短調を混ぜた構成で工夫は感じるが、曲の良さにはいまいち繋がっていないと思う。

第4曲
3.5点
短調の曲。バロック的な感情的でなくシンプルな短調の響きの美しさをおおいに発揮している。活気があり、バランスが良いため楽しめる。

第5曲
3.5点
1楽章の単純明解な楽しさと、2楽章の大変美しい叙情性の対比が聞き物。3楽章も悪くない。

第6曲
3.3点
短調の魅力を発揮しているが、単純さの中に神がかり的なものを見せるヴィヴァルディの天才が今ひとつきれいに発揮されていない気がする。中間楽章の叙情性は美しい。

第7曲
3.5点
5つの楽章からなり、それぞれ大きく異なる雰囲気のため、バラエティと起伏に富む感じが楽しい。それぞれは素朴ながらも全体として豊かな音楽という印象が強い。

第8曲
3.5点
2楽章が魅力的。同じフレーズの繰り返しが産む美と憂愁の世界が素晴らしい。1楽章や3楽章も短調の美と躍動感を両立して素晴らしい。

第9曲
2.8点
全部の楽章において、雰囲気は悪くないのだが単純すぎて情報量が少なく、物足りなさが残る。

第10曲
3.3点
2楽章は単調だがなぜか楽しめる。3楽章は分厚い音の積み重ねが聴いていて楽しいし、変化もあって楽しめる。

第11曲
3.0点
3楽章のフーガはもの珍しい気分で聴ける。フーガでもヴィヴァルディは華やかなである。4楽章は訴えかけるようなソロが楽しい。

第12曲
3.3点
伸びやかな雰囲気が印象的。後年の協奏曲に通じるものをそれとなく感じる。密度は平均より高いが、もう一つ突き抜けないものがある。


作品8 12曲の協奏曲集『和声と創意への試み』(『四季』を含む)

1曲目「春」
5.0点
一楽章は大変有名な曲だが、やはり主題が大変に魅力的で素晴らしい。中間の嵐を描写した部分もよい対比になっている。3楽章の伸びやかな主題も魅力的。

2曲目「夏」
3.5点
3楽章の嵐の描写が楽しい。1、2楽章は描写的で楽しいものの、ノリが良くない。

3曲目「秋」
3.5点
3楽章のウキウキする感じが楽しい。1楽章も夏の後に続けて聴くとノリと普通のメロディーの曲に戻って楽しい気分になる。

4曲目「冬」
4.0点
2楽章の有名な雪景色のような甘く美しい旋律が素敵。1楽章はノリノリで楽しい。3楽章のレティタティーボのようなフレーズから始まる美しい短調のソロも楽しい。

その他
ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 『ピゼンデル氏のために』 RV.242

フルート協奏曲

作品10の6曲のフルート協奏曲集は史上初のフルートのための協奏曲とのことである。6作中5作は旧作の転用である。

第1番 ヘ長調『海の嵐』 RV.433
2.5点
音階を多用し活発な印象。これが海の嵐を表しているのだろうか。かなりのスピードで演奏が大変そう。

第2番 ト短調『夜』 RV.439
3.3点
6つの楽章がある特殊な楽章構成。3つのラルゴ楽章の夜の雰囲気が素敵。それに挟まっている快速の楽章も効果的。短調が美しい。

第3番 ニ長調『ごしきひわ』 RV.428
3.5点
1楽章や3楽章の活発で伸びやかな中に懐の深さを感じさせる曲や、2楽章の清新で美しく柔らかい曲など、ヴィヴァルディの協奏曲の魅力に溢れている曲。1楽章の鳥の鳴き声の模倣も楽しい。

第4番 ト長調 RV.435
2.8点
活発なヴィヴァルディらしいコンパクトな曲。しかし、ありきたりすぎる。

第5番 ヘ長調 RV.434
3.0点
優美で柔らかく穏やかな曲調。特に2楽章は珍しくドイツ系のよう堅いが哀愁漂う美しさ。どの楽章もフルートのもつ美しさを堪能出来る。

第6番 ト長調 RV.437
3.0点
1楽章のオクターブをトビハネルユニゾンのダイナミックな主題の魅力はなかなか。3楽章の大活躍するフルートがまたダイナミックで楽しい。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/イタリア
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/918.html#c4

[近代史3] レモ・ジャゾット 『アルビノーニのアダージョ』 中川隆
1. 中川隆[-13684] koaQ7Jey 2020年2月20日 19:27:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-207]
オーソン・ウェルズ『審判』(カフカ原作)
Orson Welles's The Trial (1962) Spanish Subtitles - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6mofjm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/919.html#c1
[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
34. 中川隆[-13683] koaQ7Jey 2020年2月20日 22:54:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-206]

『パッヘルベルのカノン』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/920.html


レモ・ジャゾット 『アルビノーニのアダージョ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/919.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c34

[近代史3] タルティーニ 『悪魔のトリル』 中川隆
1. 中川隆[-13682] koaQ7Jey 2020年2月20日 23:20:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-205]

シェリング


HENRYK SZERYNG Tartini "The Devil's Trill" Sonata









Giuseppe Tartini (1692 ~ 1770)
(Transcribed by F. Kreisler)
"Teufelstriller" sonata

Henryk Szeryng, violin
Charles Reiner, piano

Henryk Szeryng in Recital
Released on: 1959-11-13

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/921.html#c1
[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
35. 中川隆[-13681] koaQ7Jey 2020年2月20日 23:21:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-204]
タルティーニ 『悪魔のトリル』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/921.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c35
[番外地7] これから風俗嬢発の新型コロナウイルス大感染が起き、1000万人レベルの日本人を感染させる 中川隆
1. 中川隆[-13680] koaQ7Jey 2020年2月21日 00:02:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-203]
これから風俗嬢発の新型コロナウイルス大感染が起き、1000万人レベルの日本人を感染させるような事態になる
日本政府がインバウンド政策を採ってから、アンダーグラウンドでは梅毒やエイズが大量発生している。
日本の梅毒感染者は20代の女性と30代から50代の男性の間で大量発生しているのだが、梅毒は2年連続で6,000人超えなのである。
春節で日本にやってきた新型コロナウイルスの中国人感染者が日本の風俗嬢を抱いたら、風俗嬢は100%の確率で感染する。その風俗嬢は2週間で50人超の男に100%感染させることができる。感染した男たちは働き盛りでアクティブに行動して感染を広げる。
新型コロナウイルスに感染したら1日で発症する人もいれば、25日目に発症する人もいる。平均して14日であるというのが今の定説だ。
新型コロナウイルスに感染した風俗嬢が、仮に14日間フルで風俗の仕事をして1日4人の客と関わったとしたら、彼女は14日で56人の客に感染させることになる。もし、感染した風俗嬢が10人いたらその10人が560人の人間を感染させることになる。
10人の風俗嬢だけで560人の男が感染してもおかしくないのである。
風俗嬢と関わる男は30代から50代までの働き盛りが大半なので、彼らは満員電車に乗って通勤する。
満員電車でこの560人が新型コロナウイルスをばら撒くと、東京は1ヶ月も経たないうちに武漢を彷彿とさせるほどの凄惨な汚染エリアと化す。
日本が壊滅するようなレベルになっても不思議ではない。

_______

新型コロナウイルスに一番近いのはスペイン風邪
 スペインかぜ(1918 flu pandemic, Spanish Flu)とは、1918年から1919年にかけ、全世界的に大流行したインフルエンザの通称。
当時20億人の世界人口の3割が感染して、5000万人が死亡したといわれるが、疫学研究者の説によれば、地球上のほぼ全員が感染した可能性がある
 発生源は、1918年3月のアメリカ・カンザス州の米軍基地。
 その後同年6月頃、ブレスト、ボストン、シエラレオネなどでより毒性の強い感染爆発が始まった。


 新型インフルエンザ対策に関する検討小委員会ではカナダの鴨のウイルスがイリノイ州の豚に感染したとの推定が委員から説明されている。
 感染者は約5億人以上、死者は5,000万人から1億人に及び、当時の世界人口は18〜20億人であると推定されているため、全人類の3割近くがスペインかぜに感染したことになる。感染者が最も多かった高齢者では、基本的にほとんどが生き残った一方で、青年層では、大量の死者が出ている。


 日本では、当時の人口5,500万人に対し39万人が死亡、米国でも50万人が死亡した。 これらの数値は感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、最も多くのヒトを短期間で死亡に至らしめた記録的なものである。
 流行の経緯としては、第1波は1918年3月にアメリカ合衆国デトロイト市やサウスカロライナ州付近などで最初の流行があり、アメリカ軍のヨーロッパ進軍(第一次世界大戦における)と共に大西洋を渡り、5〜6月にヨーロッパで流行した。
 第2波は、1918年秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり、重篤な合併症を起こし死者が急増した。
 第3波は、1919年春から秋にかけて、第2波と同じく世界で流行した。また、最初に医師・看護師の感染者が多く、医療体制が崩壊してしまったため、感染被害が拡大した。
このパンデミックは、今回の新型コロナウイルス流行と似ている。初期に、医療関係者の大規模な感染が起きて、医療体制が崩壊したことがパンデミックを招いている。
 また、病原体が次々に突然変異を起こして、どんどん致死性の強いものに変化し、免疫を持たない若者たちを直撃して大量死に追いやった。したがって、新型コロナウイルスの致死性・毒性は、これから急激に変化する可能性があることを意味している
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/494.html#c1

[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
36. 中川隆[-13679] koaQ7Jey 2020年2月21日 01:10:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-202]
ヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲 第22番 イ短調
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/922.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c36
[近代史3] ヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲 第22番 イ短調 中川隆
1. 中川隆[-13678] koaQ7Jey 2020年2月21日 01:25:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-201]
ヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲第22番 2018.11.28
http://www.hananoe.jp/classical/gakunomori/gakunomori149.html

偉大なる系譜

 ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティは1755年に生まれたイタリア出身のヴァイオリニストであり作曲家である。フランスのパリで演奏会を行い、注目を浴びたのは17歳の時のこと。その後、マリー・アントワネットに認められて宮廷音楽家になり、名声を博した。

 フランス革命後、ヴィオッティは不遇の身となり、ロンドンへ行き、演奏家・作曲家として活動を続けていた。有名なヴァイオリン協奏曲第22番が書かれたのはこの時期とみられている。1819年にはフランスに戻り、オペラ座の指揮者を務めていたが、晩年はまたロンドンへ渡り、1824年に同地で亡くなった。

 ヴィオッティの師はトリノの宮廷楽団の花形だったガエターノ・プニャーニであり、プニャーニの師はジョヴァンニ・バッティスタ・ソミスである。そして、ソミスの師はアルカンジェッロ・コレッリという風にさかのぼることが出来る。そんな偉大なる系譜の中で、ヴィオッティは演奏家のみならず教育者としても大きな役割を果たし、若きヴァイオリニストたちにとって教祖的な存在となった。

 18世紀末から19世紀前半にかけて活躍したピエール・ロードも、ピエール・バイヨも、ヴィオッティの門弟である。さらに、ベートーヴェンからヴァイオリン・ソナタ第9番を献呈されたロドルフ・クロイツェルや、ニコロ・パガニーニの伝記に必ずと言っていいほど名前が出てくるアウグスト・ドゥラノフスキにも、大きな影響を与えた。後年はシャルル・オーギュスト・ベリオにも教えていた。ヴィオッティに学び、バイヨにも学んだベリオは、周知の通り、「フランコ=ベルギー楽派」の創始者として名を残すことになる。

 現在、ヴィオッティの名前はヴァイオリン協奏曲第22番の作曲者として知られている。その生涯に完成させたヴァイオリン協奏曲は29作品もあるのだが、人気も評価も第22番に集中しているようだ。作曲時期については1792年、1793年、1795年、1797年、1798年など諸説あり、19世紀に入って間もなく各地で演奏されるようになったとみられる。

 この傑作は、ベートーヴェンやブラームスがヴァイオリン協奏曲を作曲する上で大いに参考にされた。特にブラームスの偏愛ぶりは相当なものだったようで、ヨーゼフ・ヨアヒムと共に第22番を何度も愛奏し、そのたびに感激していた。これはブラームスのヴァイオリン協奏曲が好きな人なら、誰もが知るエピソードだ。

 第1楽章はモデラート。イ短調の和音の後、哀感と陰翳に富む美しい第一主題が奏でられ、その後、優雅な第二主題が現れ、独奏ヴァイオリンが登場する。独奏ヴァイオリンが弾く第一主題は変奏されおり、甘くのびやかなカンタービレで強く印象付けられる。そこから巧みな変奏、装飾音、移調が駆使され、一分の隙もなく展開部、再現部へと続いてゆく。

 第2楽章はアダージョ。ホ長調の主題は穏やかな美しさを持っているが、独奏ヴァイオリンがこの主題を変奏して弾く時、それが第一楽章の第一主題の分身であることに気付かされる。中間部で管弦楽がホ短調で楽句を響かせると、すぐに再現部に入り、冒頭の主題が独奏ヴァイオリンによって静かに奏でられる。

 第3楽章はアジタート・アッサイ。ロンド形式で、軽やかだが鋭さを持つイ短調の主題が独奏ヴァイオリンによって奏でられる。管弦楽がそれを受け継いだ後、やはりイ短調の新しい歌謡的な旋律が独奏ヴァイオリンによって歌われ、間もなくハ長調へと移行する。ここから再びイ短調へと戻るまでの経過部がユニークで、徐々に陰翳が深くなり冒頭のロンド主題が再現される。カデンツァは珍しく伴奏つきで演奏され、最後にロンド主題を奏でた後、力強い総奏によって曲は閉じられる。

 優雅さ、哀切さ、甘さ、翳りをすべて備えた作品である。魅力的なフレーズをちりばめ、ソリストを自由に活躍させ、たっぷりとヴァイオリンを歌わせて、その音色を堪能させる工夫も施されている。管弦楽の方も中身のない派手さや単調さに陥ることなく、各パートを美しく、時に劇的に響かせ、豊かな音色で聴き手の耳を奪う。ソリストだけが目立てば成立するタイプの協奏曲ではないのだ。しかも、全楽章を通して不自然なもの、わざとらしいものがなく、労苦の跡も感じさせない。一切の無駄なく、完璧にまとまっている。演奏時間は大体30分弱だが、私はこの作品を聴いて長いと感じたことがない。


 モノラル録音ではペーター・リバール独奏、クレメンス・ダヒンデン指揮、ヴィンタートゥール響の演奏(1952年録音)が昔から高く評価されている。このヴァイオリンの音色自体は明澄だが(音質は古い)、旋律の陰翳が濃く浮き出ている。優雅なフレーズを弾いても、切々と胸に迫るものがある。

 ほかにもダヴィッド・オイストラフ、ユーディ・メニューイン、オスカー・シュムスキー(ピアノ伴奏版)、アイザック・スターン、ズザーネ・ラウテンバッヒャー、イツァーク・パールマンといった錚々たる演奏家が録音している。どれも名演であり、誰が抜きん出ているとは言い難い。ただ、やはり「フランコ=ベルギー楽派」の流れを汲む演奏は聴いておくべきだろう。

アルテュール・グリュミオー独奏、エド・デ・ワールト指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管(1969年録音)の演奏と、ローラ・ボベスコ独奏、クルト・レーデル指揮、ライン・パラティナ国立管(1980年録音)である。

特にグリュミオーの艶やかな美音となめらかなフレージングは、いかにもヴィオッティの音楽にふさわしいものに思える。
http://www.hananoe.jp/classical/gakunomori/gakunomori149.html

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[近代史3] ヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲 第22番 イ短調 中川隆
2. 中川隆[-13677] koaQ7Jey 2020年2月21日 01:34:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-200]
ペーター・リバール

Viotti Violin Concerto No.22 in A minor(Peter Rybar 1950)



____






Peter Rybar(Violin)
Clemens Dahinden
Winterthur Symphony Orchestra
1950 Winterthur

▲△▽▼

Viotti / Peter Rybar, 1952: Violin Concerto No. 22 in A Minor - Winterthur Symphony Orchestra



From the LP you see above, issued in 1952 on the Westminster label, catalogue number WL 5049. Peter Rybar, violin.



2006年02月26日
ヴィオッティ/ヴァイオリン協奏曲第22番、ナルディーニ/ヴァイオリン協奏曲(ペーター・リバールviolin、クレメンス・ダヒンデン指揮ウィンタートゥール交響楽団)(米ウエストミンスター WL50−49)

「モーツァルトやバッハは演奏家が余計なことをしない方がうまくいく」と幾度となく申し上げてきました。私が魅了される演奏をよくよく考えてみると、もちろん例外はありますが多くの場合「グレイトな演奏」よりも「グッドな演奏」であるようです。演奏家もヴィルトゥオーゾ・タイプを気に入ることはほとんどなく、個性派もしくは良識派タイプに強く惹かれます。

これまで多くの個性派を取り上げてきましたが、今日ご紹介するのは典型的な良識派ヴァイオリニストにして私が秘かに愛するペーター・リバールです。彼をご存知ない方が大多数だと思いますが、シェリングがPHILIPSに録れた1回目のバッハの協奏曲集(名盤!通算では2回目ですが)で2台のヴァイオリンのための協奏曲を一緒に弾いているヴァイオリニストです(現在CD化されています)。

リバールはチェコ人を両親として1913年ウィーンに生まれました。ウィーンで名教師カール・フレッシュに学んだのちジュネーヴ音楽院に学びましたが、1937年スイスのウィンタートゥール交響楽団のコンサートマスターに迎えられ、また同時にウィンタートゥールSQの第1ヴァイオリンも務めました。

ウィンタートゥールはわずか6万人程の小さな街ですが、音楽は盛んで高い水準を誇っており、音楽院は1629年創立という古い歴史を有しています。オーケストラも音楽院が管理していて1873年の設立、バロックおよび古典初期の音楽に際立った名演を多く残しています。リバールはこの環境がいたく気に入ったらしく、スイス国籍を取得して音楽活動に邁進します。

リバールの演奏は派手さとは無縁の、端正な表現が持ち味。独奏者としては1932年からヨーロッパ各地を楽旅する一方、母校ウィンタートゥール音楽院のヴァイオリン科の教授も務めました。

今日ご紹介するヴィオッティとナルディーニのヴァイオリン協奏曲のカップリングは、我が国でもLP初期の名盤として燦然と輝いていました。過去形で書いたのにはそれ相応の理由があります。

これは以前何かの資料で読んだように記憶していることなので、もしかしたら間違っているかもしれませんが、このリバールのヴィオッティのヴァイオリン協奏曲第22番が50年代のラジオでのクラシック音楽番組のテーマ曲に使われていたらしいのです。当時の物価水準から考えて一般的なサラリーマンがLPを購入することなど極めて珍しかった時代(当blogでいう“ミッシングリング”な時代)では、このような渋いレパートリーが実際に売れた枚数が極小であったことは想像に難くなく、有名なディスクであるにもかかわらず幻の名盤になってしまった、という極めて例外的なレコードであったといえましょう。実際、国内盤としては1956年に一度出ただけでLP末期まで廃盤状態、アメリカ本国でも1951年にリリースされて以来たった一度再発されただけでカタログから姿を消していました。また、ウエストミンスターの音源はヨーロッパでは英NIXAやWHITEHALL、仏デュクレテ・トムソンやVEGA、独ヘリオドールあたりで出るものなのですが、この盤に関してはヨーロッパのどの国からも発売された形跡がありません。まさに幻といわれる所以です。

とくにこのヴィオッティの憂いを含んだ甘美な曲想にリバールのやや硬質で清澄な音色はまさにドンピシャリで、その表現の繊細さと瑞々しさはヴァイオリン好きを虜にする魔力を秘めています。

この盤も先ごろグリーンドア音楽出版より復刻されましたが、未聴ゆえ復刻に関するコメントは差し控えさせていただき、ご紹介するに留めたいと思います。また、彼のブラームスも同レーベルより復刻されています。スイスのDORONレーベルからも未発表のライヴ音源(ストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲)を含め、彼の代表的なマイナーレーベルへの録音が復刻されています。
http://blog.livedoor.jp/e86013/archives/50420086.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/922.html#c2
[近代史3] ヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲 第22番 イ短調 中川隆
3. 中川隆[-13676] koaQ7Jey 2020年2月21日 01:39:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-199]

グリュミオー


Grumiaux plays Viotti Concerto 22










アルテュール・グリュミオー独奏、
エド・デ・ワールト指揮、
ロイヤル・コンセルトヘボウ管
(1969年録音)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/922.html#c3
[番外地7] 自衛官はバカがやる仕事 中川隆
1. 中川隆[-13675] koaQ7Jey 2020年2月21日 09:18:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-198]
自衛官は自分の頭では何も考えられない人向きの仕事ですね。
自分では判断できないので、上役に何をしたらいいか指示して貰う方が楽なんです。
結果に対して責任取る必要も無いしね。
官僚も同じなのですが、官僚の場合は暗記力が良くないとできないですからね。
まあ、法学をやるのはバカに決まってるけどね:

イエスよ、おまえがまだこの地上におったころ、あれほど主張した人民の自由は、まだあのころから、千五百年も前から、おまえにとっては何より大切なものだったではないか、あの当時、

《われなんじらを自由にせん》と、よく言っていたのはおまえではなかったか、

『われわれはこの自由のために苦しんできたが、やっと今は完成した。
人民は今、いつにもまして、現に今、自分たちが完全に自分になったと信じておるのだ。しかも、その自由を、彼らはみずから進んでわれわれに捧げてくれた。
そして、ねんごろにわれわれの足もとへそれを置いてくれたのだ。

われわれには弱い人間も大切なのだ、彼らは不徳感で反逆者ではあっても、最後にはかえってこういう人間が従順になるのだ。彼らはわれわれに感嘆して、神とまで崇めるに至るだろう。なぜならば、われわれは彼らの先頭に立って、彼らの恐れている自由に甘んじて耐えて、彼らの上に君臨することを諾うからだ。かくして、結局、彼らは、自由になることを恐ろしいと感じだすに違いない! 

自由になった人間にとって、最も苦しい、しかも絶え間なき問題は、一刻も早く自分の崇むべき者を捜し出すことである。しかし、人間という者は議論の余地なく崇拝に値する者を求めている、万人ことごとく打ちそろって、一時にその前にひざまずき拝し得るような、絶対的に崇むるに足る対象を求めているのだ。これらの哀れな被造物の心労は、めいめい勝手な崇拝の対象を求めるだけではなく、万人が信服してその前にひざまずくことのできるような者を捜し出すことにあるのだ。どうしても、《すべての人といっしょ》でなければ承知しないのだ。

われわれは、おまえの事業を訂正して、それを奇跡と神秘と教権の上にすえつけたのだ。すると民衆は、再び自分たちを羊の群れのように導いてくれる者ができ、それほど彼らに苦痛をもたらしたあの恐ろしい贈り物を。ついに取りのけてもらえる時が来たのを喜んだのだ。自由だとか、自由な知恵だとか、科学だとかは、彼らをものすごい渓谷に連れこんで、恐ろしい奇跡や、解きがたい神秘の前に立たせるため、彼らのうち頑強で獰猛な者は自殺してしまうし、頑固であっても弱い者は互いに滅ぼし合うだろう、その他のいくじのない不仕合わせな者たちは、われわれの足もとへはい寄って、こう叫ぶのだ、

《あなたがたは正しゅうございました。あなたがたのみがキリストの神秘を持っていらっしゃいます。でありまするから、わたくしどもはあなたがたのところへ帰ります。どうか、わたくしどもを自分自身から救ってくださいまし》
そこで、われわれは彼ら自身の得たパンをその手から取り上げると、石をパンに変えるというような奇跡などは何も行なわないで、再び彼らにそれを、分配してやる、彼らはパンを受け取る時に、このことをはっきり承知しているけれど、彼らが喜ぶのはパンそのものよりも、むしろ、それをわれわれの手から受け取るということなのだ! 

羊の群れもまた再び呼び集められて、今度こそ永久に服従することだろう。その時になって、われわれは彼らに穏やかなつつましい幸福を授けてやる。彼らの本来の性質たるいくじのない動物としての幸福を授けてやるのだ。おお、われわれは最後に彼らを説き伏せて、けっして誇りをいだかないようにしてやる。
つまり、おまえが彼らの位置を高めるために、彼らに誇りを教えこんだからだ。そこでわれわれは彼らに向かって、おまえたちはいくじなしでほんの哀れな子供のようなものだ、そして子供の幸福ほど甘いものはないと言い聞かせてやる。
すると、彼らは臆病になって、まるで巣についた牝鶏が雛に寄り添うように、恐ろしさに震えながら、われわれのほうへ身をすり寄せて、われわれを振り仰ぐに違いない。


彼らはわれわれのほうへ詰め寄りながらも、同時にわれわれを崇め恐れて、荒れさわぐ数億の羊の群れを鎮撫することのできる偉大な力と知恵とをもったわれわれを、誇りとするに至るだろう。彼らはわれわれの怒りを見て、哀れにも震えおののいて、その心は臆し、その眼は女や子供のように涙もろくなるだろう。
しかし、われわれがちょっと合い図さえすれば、たちまち身も軽々と、歓楽や、笑いや、幸福の子供らしい歌へ移るのだ。


むろん、われわれは彼らに労働を強いるけれど、暇なときには彼らのために子供らしい歌と合唱と、罪のない踊りの生活を授けてやる。ちょうど子供のために遊戯を催してやるようなものだ。


もちろん、われわれは彼らに罪悪をも許してやる。彼らは弱々しい力ない者だから、罪を犯すことを許してやると、子供のようにわれわれを愛するようになる。どんな罪でもわれわれの許しさえ得て行なえばあがなえる、とこう彼らに言い聞かせてやる。


罪悪を許してやるのは、われわれが彼らを愛するからだ。その罪悪に対する応報は、当然われわれ自身で引き受けてやるのだ。そうしてやると、彼らは神様に対して自分たちの罪を引き受けてくれた恩人として、われわれをますます崇めるようになる。したがってわれわれに何一つ隠しだてをしないようになる。

彼らが妻の他に情婦と同棲することも、子供を持つことも、持たぬことも、すべては彼らの従順であるか従順でないか、したがって、許しもすれば、とがめもする。こうして彼らは楽しく喜ばしくわれわれに服従してくるのである。最も悩ましい良心の秘密も、それから――いや、何もかも、本当に何もかも、彼らはわれわれのところへ持って来る。するとわれわれはいっさいのことを解決してやる。この解決を彼らは喜んで信用するに違いない。というのは、それによって大きな心配を免れることもできるし、今のように自分で勝手に解決するという恐ろしい苦痛を免れることができるからだ。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/496.html#c1

[番外地7] 自衛官はバカがやる仕事 中川隆
2. 中川隆[-13674] koaQ7Jey 2020年2月21日 09:21:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-197]
自衛官は自分の頭では何も考えられない人向きの仕事ですね。
自分では判断できないので、上役に何をしたらいいか指示して貰う方が楽なんです。
結果に対して責任取る必要も無いしね。
官僚も同じなのですが、官僚の場合は暗記力が良くないとできないですからね。
まあ、法学をやるのはバカに決まってるけどね:

カラマゾフの兄弟 大審問官

イエスよ、おまえがまだこの地上におったころ、あれほど主張した人民の自由は、まだあのころから、千五百年も前から、おまえにとっては何より大切なものだったではないか、あの当時、

《われなんじらを自由にせん》と、よく言っていたのはおまえではなかったか、

『われわれはこの自由のために苦しんできたが、やっと今は完成した。
人民は今、いつにもまして、現に今、自分たちが完全に自分になったと信じておるのだ。しかも、その自由を、彼らはみずから進んでわれわれに捧げてくれた。
そして、ねんごろにわれわれの足もとへそれを置いてくれたのだ。

われわれには弱い人間も大切なのだ、彼らは不徳感で反逆者ではあっても、最後にはかえってこういう人間が従順になるのだ。彼らはわれわれに感嘆して、神とまで崇めるに至るだろう。なぜならば、われわれは彼らの先頭に立って、彼らの恐れている自由に甘んじて耐えて、彼らの上に君臨することを諾うからだ。かくして、結局、彼らは、自由になることを恐ろしいと感じだすに違いない! 

自由になった人間にとって、最も苦しい、しかも絶え間なき問題は、一刻も早く自分の崇むべき者を捜し出すことである。しかし、人間という者は議論の余地なく崇拝に値する者を求めている、万人ことごとく打ちそろって、一時にその前にひざまずき拝し得るような、絶対的に崇むるに足る対象を求めているのだ。これらの哀れな被造物の心労は、めいめい勝手な崇拝の対象を求めるだけではなく、万人が信服してその前にひざまずくことのできるような者を捜し出すことにあるのだ。どうしても、《すべての人といっしょ》でなければ承知しないのだ。

われわれは、おまえの事業を訂正して、それを奇跡と神秘と教権の上にすえつけたのだ。すると民衆は、再び自分たちを羊の群れのように導いてくれる者ができ、それほど彼らに苦痛をもたらしたあの恐ろしい贈り物を。ついに取りのけてもらえる時が来たのを喜んだのだ。自由だとか、自由な知恵だとか、科学だとかは、彼らをものすごい渓谷に連れこんで、恐ろしい奇跡や、解きがたい神秘の前に立たせるため、彼らのうち頑強で獰猛な者は自殺してしまうし、頑固であっても弱い者は互いに滅ぼし合うだろう、その他のいくじのない不仕合わせな者たちは、われわれの足もとへはい寄って、こう叫ぶのだ、

《あなたがたは正しゅうございました。あなたがたのみがキリストの神秘を持っていらっしゃいます。でありまするから、わたくしどもはあなたがたのところへ帰ります。どうか、わたくしどもを自分自身から救ってくださいまし》
そこで、われわれは彼ら自身の得たパンをその手から取り上げると、石をパンに変えるというような奇跡などは何も行なわないで、再び彼らにそれを、分配してやる、彼らはパンを受け取る時に、このことをはっきり承知しているけれど、彼らが喜ぶのはパンそのものよりも、むしろ、それをわれわれの手から受け取るということなのだ! 

羊の群れもまた再び呼び集められて、今度こそ永久に服従することだろう。その時になって、われわれは彼らに穏やかなつつましい幸福を授けてやる。彼らの本来の性質たるいくじのない動物としての幸福を授けてやるのだ。おお、われわれは最後に彼らを説き伏せて、けっして誇りをいだかないようにしてやる。
つまり、おまえが彼らの位置を高めるために、彼らに誇りを教えこんだからだ。そこでわれわれは彼らに向かって、おまえたちはいくじなしでほんの哀れな子供のようなものだ、そして子供の幸福ほど甘いものはないと言い聞かせてやる。
すると、彼らは臆病になって、まるで巣についた牝鶏が雛に寄り添うように、恐ろしさに震えながら、われわれのほうへ身をすり寄せて、われわれを振り仰ぐに違いない。


彼らはわれわれのほうへ詰め寄りながらも、同時にわれわれを崇め恐れて、荒れさわぐ数億の羊の群れを鎮撫することのできる偉大な力と知恵とをもったわれわれを、誇りとするに至るだろう。彼らはわれわれの怒りを見て、哀れにも震えおののいて、その心は臆し、その眼は女や子供のように涙もろくなるだろう。
しかし、われわれがちょっと合い図さえすれば、たちまち身も軽々と、歓楽や、笑いや、幸福の子供らしい歌へ移るのだ。


むろん、われわれは彼らに労働を強いるけれど、暇なときには彼らのために子供らしい歌と合唱と、罪のない踊りの生活を授けてやる。ちょうど子供のために遊戯を催してやるようなものだ。


もちろん、われわれは彼らに罪悪をも許してやる。彼らは弱々しい力ない者だから、罪を犯すことを許してやると、子供のようにわれわれを愛するようになる。どんな罪でもわれわれの許しさえ得て行なえばあがなえる、とこう彼らに言い聞かせてやる。


罪悪を許してやるのは、われわれが彼らを愛するからだ。その罪悪に対する応報は、当然われわれ自身で引き受けてやるのだ。そうしてやると、彼らは神様に対して自分たちの罪を引き受けてくれた恩人として、われわれをますます崇めるようになる。したがってわれわれに何一つ隠しだてをしないようになる。

彼らが妻の他に情婦と同棲することも、子供を持つことも、持たぬことも、すべては彼らの従順であるか従順でないか、したがって、許しもすれば、とがめもする。こうして彼らは楽しく喜ばしくわれわれに服従してくるのである。最も悩ましい良心の秘密も、それから――いや、何もかも、本当に何もかも、彼らはわれわれのところへ持って来る。するとわれわれはいっさいのことを解決してやる。この解決を彼らは喜んで信用するに違いない。というのは、それによって大きな心配を免れることもできるし、今のように自分で勝手に解決するという恐ろしい苦痛を免れることができるからだ。
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