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[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
272. 中川隆[-12914] koaQ7Jey 2019年11月09日 10:38:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-16]

2019年11月09日
北條芳隆編『考古学講義』第2刷
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_20.html

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2019年6月に刊行されました。第1刷の刊行は2019年5月です。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。なお、以下の西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。


https://www.amazon.co.jp/%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E8%AC%9B%E7%BE%A9-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%8C%97%E6%A2%9D-%E8%8A%B3%E9%9A%86/dp/4480072276

I 旧石器・縄文時代


第1講●杉原敏之「列島旧石器文化からみた現生人類の交流」P15〜35
 現生人類(Homo sapiens)の日本列島への拡散が解説されています。日本列島への現生人類の拡散経路としては、サハリンから北海道と津軽海峡を経由する北回り、朝鮮半島を経由する西回り、台湾と南西諸島を経由する南回りが想定されています。本論考は、比較的情報量の多い九州を中心とする西回りと南回りを取り上げています。日本列島では4万年前頃よりもさかのぼる人類の確実な痕跡はきわめて限定的で、後期旧石器時代以降に人類が定着したと考えられます。関東では38000年前頃に、九州でも38000〜36000年前頃には後期旧石器時代が始まります。朝鮮半島と日本列島の旧石器の類似性も指摘されていますが、その担い手となる人類集団の関係については不明なところがあります。ユーラシア東部における現生人類出現の考古学的指標とされる石刃技法については、九州において段階的変遷が想定されていますが、まだ充分には解明されていないようです。南回りに関しては、九州南部と琉球列島との直接的関連はまだ確認されていないようですが、本論考は、石器技術に限らない接触も想定しています。最終氷期極大期(LGM)には、九州で朝鮮半島南部との接触を窺わせる剥片尖頭器が発見されており、海面が低下したことにより交流が活発化していったのかもしれません。本論考は、九州の在来集団が朝鮮半島南部との接触により新たな技術を導入した、という可能性を想定しています。


第2講●中山誠二「縄文時代に農耕はあったのか」P37〜58
 縄文農耕論には長い歴史がありますが、近年では、レプリカ法を用いた土器の圧痕分析など、新たな手法による進展が見られます。本論考は、縄文時代においてクリが人為的選択を受け、ダイズやアズキが栽培化へと向かっていた可能性を指摘します。ダイズの栽培起源地候補はアジア各地に複数あり、日本列島もその起源地の一つだった可能性がある、というわけです。本論考は、こうした植物管理・栽培を、農耕の初源的な一形態である園耕・園芸と評価しています。このように、縄文時代において植物栽培と言えそうな事例が確認されつつあるものの、それが直ちに農耕社会を出現させたのではなく、狩猟・採集・漁撈との柔軟な組み合わせによる生業が確立していたところに縄文時代の独自性がある、と本論考は指摘しています。


第3講●瀬口眞司「土偶とは何か」P59〜84
 土偶については、女神説・地母神説・故意破損説などさまざまな仮説が提示されてきましたが、近年では議論は行き詰っているそうです。本論考は、これまであまり注目されていなかった土偶装飾付土器の分析から、土偶の社会的意味を検証しています。本論考は、土偶とは本来何らかの形で「うつろ」を身体に伴うもので、幾重にも取りつき、取りつかれることで一体の完成した像へと近づくものだ、と指摘します。それを踏まえて本論考は、土偶が時代により変容していった、と指摘します。初期には不完全な胴部だけが可視化され、不完全な東部は観念上存在しても基本的には可視化されない霊的存在でしたが、定住生活への移行に伴いそれが可視化されていき、それには人口拡大も背景にあるかもしれない、と本論考は推測しています。


第4講●瀬川拓郎「アイヌ文化と縄文文化に関係はあるか」P85〜102
 北海道は、旧石器時代→縄文時代→続縄文時代→擦文時代→アイヌ文化期と変遷していき、続縄文時代後期〜擦文時代にかけて、オホーツク文化が併存します。アイヌ文化は考古学的にそれ以前の文化とは大きく異なるのですが、研究の進展に伴い、連続的な変化が確認されつつあります。なお本論考は、考古学的文化に民族名を冠することは問題だとして、アイヌ文化ではなくニブタニ文化と呼ぶよう、提唱しています。本論考は、アイヌ文化に見られる縄文文化の要素として、イレズミ・モガリ・動物祭儀などを挙げています。北海道の動物祭儀に関しては、すでに縄文時代において、自然には生息しないイノシシを本州から連れてきて屠殺し、共食していた可能性が指摘されています。これは、縄文時代の本州にも見られる祭儀でした。本論考は、日本列島において縄文文化が色濃く残るのは、本州・四国・九州を中心とする「本土」ではなく、アイヌ側だと指摘しています。

II 弥生時代


第5講●宮地聡一郎「弥生文化はいつ始まったのか」P105〜122
 弥生時代を食糧生産もしくは稲作に基づく生活が始まってから前方後円墳が出現する前までと定義すると、弥生時代の始まりは刻目突文帯土器の時代に始まる、と本論考は指摘します。なお本論考は、縄文時代における稲作の確実な証拠は今では否定されている、と指摘します。ただ、稲作が始まったのは刻目突文帯土器の時代でもある段階以降とのことです。刻目突文帯土器は系譜的には縄文土器の深鉢そのもので、土器では縄文時代と弥生時代の境界が曖昧となります。しかし、土器の器種構成では大きな変化が見られ、稲作開始の頃より、朝鮮半島の無文土器に由来する壺などが出現するそうです。この時期には墓制も変化し、石剣や玉類や壺などの副葬品が見られます。弥生時代は、朝鮮半島の無文土器文化の影響を強く受けて始まったようです。弥生時代の開始年代をめぐっては議論が続いていますが(関連記事)、以前の定説である紀元前5世紀よりは古いものの、21世紀になって提示された紀元前10世紀までさかのぼる可能性は低い、と本論考は指摘します。また本論考は、弥生時代が日本列島で一斉に始まったわけではない、と注意を喚起しています。さらに、弥生時代とはいっても、西日本と東日本では様相が異なり、東日本の弥生時代には縄文文化の要素が強いことも指摘されています。弥生文化を均一なものとして把握することには問題があるようで、おそらく集団の遺伝的構成もかなり多様だった、と推測されます(関連記事)。


第6講●設楽博己「弥生時代の世界観」P123〜145
 弥生時代の世界観が、生物界・現世の空間世界・観念世界に区分されています。縄文時代の土偶には女性が多いのに対して、弥生時代には男女の偶像であることに関しては、性別分業の狩猟採集社会から男女協業を基本とする農耕社会への転換が背景にある、と指摘されています。また、弥生時代には埋葬からい男性優位の傾向も窺えるようになります。これは、弥生時代にはイレズミが男性だけになったことと関連しており、男性が主体となる戦争の活発化が背景にある、と推測されています。一方で、卑弥呼や壱与の事例から、男性だけが権力を掌握したわけではない、とも指摘されています。土製品や絵画などにおける主要な対象動物は、弥生時代には縄文時代のイノシシからシカへと変わり、これは、シカの角の生え替わりとイネの成長が同一視されたからではないか、と推測されています。また弥生時代には、鳥が重要な動物になったようです。銅鐸については、朝鮮半島の銅鈴に起源があるものの、銅鈴には文様がほとんどなく、銅鐸の文様は縄文土器が手本にされている、と指摘されています。銅鐸には辟邪としての機能も推測されています。空間観念に関しては、地的宗儀から高天原信仰の導入に伴う天的宗儀への転換が指摘されています。弥生時代の墓制から祖先祭祀の存在が推測されており、弥生時代の再葬墓については、縄文時代晩期の延長線上にある、と指摘されています。弥生時代に九州北部で始まる大型建物での祖先祭祀については、「中国」の影響が推測されています。


第7講●北島大輔「青銅器の祭りとはなにか」P147〜164
 弥生時代の青銅器の原材料である鉛の入手に関しては、時期による変遷が指摘されています。一方、北部九州と本州とでこの変遷に関して大きな時期差はなかったようです。鉛の同位体分析による原材料地は、弥生時代の6期区分では、3期までが朝鮮半島産、4期が前漢の華北産、5期は華北産でもさらに限定された領域、6期後半が後漢の華南産と共通しています。この推定に関しては疑問も呈されていますが、まだ解決していないようです。こうした弥生時代の青銅器の原材料入手のさいの対価としては、奴隷(生口)や翡翠・碧玉が推測されています。弥生時代の青銅器に見られる世界観として、銅鐸には身近な自然が多く、九州北部を中心に流入の始まった中国鏡では想像上のものが見られる、と指摘されています。


第8講●谷澤亜里「玉から弥生・古墳時代を考える」P165〜192
 弥生時代には新たな管玉が出現し、その起源地は現在の朝鮮北部〜中国東北部と推測されています。これは、農耕文化とともに導入された、と考えられています。こうした管玉は日本列島において受け入れられ、生産されるようになり、地域社会を横断した原石素材の流通ネットワークが形成されます。弥生時代にはガラス製玉類も出現しますが、日本列島でのガラスの生産は紀元後7世紀後半以降で、弥生時代と古墳時代には日本列島外で製造されたガラスが素材として用いられていました。なお、ガラス製品を伴う埋葬には多くの場合漢系遺物も見られることから、漢王朝からの下賜品と考えられてきましたが、中原地域や楽浪郡ではガラス製玉類が少ないことから、長江中流域との直接的な交渉によりもたらされた、との見解も提示されているそうです。ただ本論考は、ガラス製品以外には長江中流域との交渉を示すような遺物がないことから、楽浪郡経由での入手の可能性が高い、と指摘しています。

 こうした副葬品の状況から、「王」を頂点とする序列が想定されています。漢系遺物の流入は弥生時代後期初頭には一旦途絶えるようですが、その要因として新王朝を樹立した王莽の華夷思想に偏った対外政策が推測されています。またこの時期、日本列島規模で、既存集落の廃絶や特定集落への集住など大きな変化が見られるそうです。墓制でも、この時期に多くの地域で集団墓地の解体傾向が見られるそうです。これ以降、出自集団を単位とした墓地が顕著に見られるようになります。古墳時代前期になると、弥生時代後期には多様だった舶載ガラス製玉類が、銅着色のインド・パシフィックビーズにほぼ限定されるとともに、ガラス製玉類の出土数が減少するなか、近畿中部だけは出土数が増加します。ただ、古墳時代中期になると、種類は朝鮮半島南部と同じく多様になっていきます。弥生時代後期の段階では舶載品の流通を近畿中部が掌握していたとは言えませんが、古墳時代にはその流通経路が近畿に集約されていった、と窺えます。こうした動向に関しては、強大な近畿が他地域を支配したというよりは、他地域が近畿を介して安定的に威信材を入手しようとしたことが背景にあったのではないか、と推測されています。


第9講●村上恭通「鉄から弥生・古墳時代を考える」P193〜218
 日本列島における鉄器の使用は、弥生時代前期末〜中期初頭の九州北部において始まります。骨角器研究により、近畿以東では弥生時代中期後葉までには鉄器を用いての骨角器製作が確認されているものの、当時近畿以東では鉄が希少だったためか、石器と併用され、鉄の利用は限定的だった、と推測されています。これは斧に関しても同様で、石器と希少な鉄器が併用されていました。しかし、木器の研究からは、河内湾沿岸地域における斧の鉄器化は弥生時代中期後葉に完了した、とも指摘されています。日本列島における鉄器の生産はまず九州北部で始まり、日本海側では丹後地方まで、瀬戸内海では徳島県域まで直ちに拡大したそうです。さらに、弥生時代後期後葉から終末にかけては、日本海側では能登半島、太平洋側では三河地方まで拡大しています。また、鍛冶技術は九州北部のものがそのまま拡散したのではなく、多様化していき、そうした中で技術格差も見られるようになりました。

III 古墳時代


第10講●辻田淳一郎「鏡から古墳時代社会を考える」P221〜245
 弥生時代〜古墳時代にかけての日本列島の鏡の特徴は、鉄鏡がわずかで青銅鏡がほとんどであることです。この青銅鏡は、中国(舶載)鏡・三角縁神獣鏡・倭製(仿製)鏡に分類されます。中国鏡は漢代〜魏晋南北朝期にかけて「中国」で製作され、古墳時代の遺跡から出土するのは、おもに後漢鏡・三国(おもに魏と呉)鏡・西晋鏡です。後漢鏡の出土は弥生時代後期以降ですが、九州北部に偏っています。鏡の流通・副葬は3世紀〜4世紀前半にピークがあり、5世紀前半には生産・流通が一旦低調となりますが、5世紀後半に再度活発化するそうです。

 本論考は、銅鏡流通の核となった政治権力を「近畿中央政権」と呼んでいます。古墳時代には、近畿中央政権が独占的に中国鏡の輸入・流通を管理していたようです。古くから議論になっている三角縁神獣鏡の製作地については、全て日本産・全て中国産・日本産と中国産の混在という3説が提示されています。こうした鏡は政治的序列を可視化していた、と考えられています。本論考は、古墳時代前期を通じて、大型の中国鏡と倭製鏡が上位、三角縁神獣鏡や小型の倭製鏡が下位とされていた、と推測しています。また、近畿中央政権から各地に鏡が多数配布された理由として、当時は双系社会で上位層の世代間継承が不安定だったので、代替わりに伴い新たな鏡の入手が必要になった、と推測されて近畿中央政権と各地の権力との政治的相互作用の結果、古墳により可視化されるような広域的な政治秩序が形成・維持・再生産されたのではないか、というわけです。こうした社会状況において、鏡は威信材として機能した、と本論考は指摘します。

 こうした銅鏡の役割は、古墳時代中期に鉄製の武器に取って代わられたようです。しかし、5世紀のいわゆる倭の五王の遣使により、南朝から「同型鏡」が導入され、5世紀中頃以降に再び倭製鏡生産が活発化します。本論考は、同型鏡が南朝で製作され倭国に贈与された「特鋳鏡」と推測しています。この同型鏡群は、古墳時代前期の銅鏡とは異なり、大型前方後円墳だけではなく、中小規模の古墳からも出土しており、近畿中央政権が各地の中間層を取り込もうとした、と本論考は推測しています。古墳時代の倭製鏡は、6世紀前半よりも後には生産が終了したか、大幅に縮小したと考えられます。本論考は、古墳時代の鏡は本格的な国家形成の前段階に属する器物で、前方後円墳の出現とともに始まり、その終焉とともに意義が失われた、と指摘しています。


第11講●石村智「海をめぐる世界/船と港」P247〜269
 本論考はまず、日本人は海洋民だと指摘します。日本列島に現生人類が到来した後期更新世において、対馬海峡も津軽海峡も完全に陸続きにはならなかったため、渡海してきたはずだ、というわけです。日本列島の船は、まず1本の木で造られる丸木舟から始まります。これは縄文時代のものが発見されていますが、木の大きさに制約されるため、大型化できないという欠陥があります。弥生時代には、複数の材を継ぎ合わせて大型化した準構造船が出現し、丸木舟の要素が継承されています。日本の伝統的な和船は、この準構造船から発展して中世に成立します。遣唐使船は朝鮮半島の技術を用いて造られた、と推測されていますが、当時の朝鮮半島には船釘が用いられておらず(日本でも船釘の確実な使用は鎌倉時代以降のようです)、構造的に脆かったようです。

 日本列島において古代に港として利用されたのは、ラグーン(内海)を形成する潟湖地形でした。潟湖地形の周囲には前方後円墳が多く、目印として機能した可能性が指摘されています。飛鳥時代以降、遣唐使船のような喫水の深い大型の構造船が導入されると、入江地形の「深い港」が必要とされます。しかし、当時すべての船がそうした遣唐使船のような構造ではなかったため、潟湖地形のような「浅い港」も引き続き用いられただろう、と推測されています。

 前近代の日本において、日本海は冬場こそ荒れるものの、夏場には穏やかなため、日本列島のハイウェイとして機能してきた、と本論考は指摘します。日本海は、アジア東部大陸部との交通の場ともなりました。一方瀬戸内海は、潮流が速く複雑なため、航海の難しい海域だった、と指摘されています。しかし、瀬戸内海沿岸に目印としての前方後円墳が築かれてきたように、日本海と同じく古代からハイウェイとして機能してきました。太平洋は黒潮のため航海は困難ですが、弥生時代から古墳時代には、紀伊半島沿いの海路が存在した可能性は高い、と指摘されています。本論考は、海洋民が古代において海外の文物に触れられる先進的な集団だった、指摘しています。古代の海洋民として、宗像氏や安曇氏や高橋氏が挙げられています。


第12講●池淵俊一「出雲と日本海交流」P271〜290
 日本海を通じての交流は、すでに縄文時代から存在しました。出雲が日本海交流において特殊な地位を占めるようになるのは、紀元前1世紀となる弥生時代中期後半からしでした。この時代、朝鮮半島に漢の楽浪郡が設置され、九州北部では多数の漢鏡を副葬品とする王墓が出現します。この時期以降、出雲でも朝鮮半島系の土器が出土するようになります。これらの土器の大半は交易用の容器で、移住目的ではなかった、と考えられます。鉄器の出土状況からは、紀元後1〜3世紀には、日本列島における物流の主動脈は日本海だった、と推測されます。本論考は、出雲の九州系土器の出土状況から、出雲は直接的にではなく、伊都国や奴国といった九州北部集団を介して朝鮮半島と交易した、と推測しています。また、弥生時代後期には、吉備が出雲との関係を深めていったことも窺えます。一方、同じ日本海沿岸でも鳥取市青谷上寺遺跡は、九州北部系土器の出土がないことから、直接的に朝鮮半島と交易したのだろう、と推測されています。古墳時代前期前半になると、九州北部の交易拠点が伊都国から博多湾へと移動し、出雲を主体とする山陰系土器が多いことから、古墳時代初期の朝鮮半島交易では出雲が重要な役割を担っていた、と考えられます。この交易において主要な輸入品は鉄素材で、その対価として奴隷(生口)などが輸出されていた、と想定されています。古墳時代の出雲では四隅突出墓というひじょうに特徴的な墓が築かれ、瀬戸内海西部や九州北部の海人集団もしくはそれに連なる人々を配下として、朝鮮半島と交易していた、と推測されています。4世紀前半になると、博多湾で交易の中心だった西新町遺跡が突如として廃絶し、山陰の代表的な津も一斉に衰退します。本論考はこれを、倭王権が九州北部の交易機構を介さずに直接的に朝鮮半島南部との交易路を確立し、出雲のそれまでの対朝鮮半島交易の役割が終了したことを反映している、と解釈しています。


第13講●諫早直人「騎馬民族論のゆくえ」P291〜314
 騎馬民族日本列島征服王朝説(騎馬民族説)は、一般層にも広く知られている仮説で、現在でも支持者は一定以上いるようです。しかし本論考は、騎馬民族説は当初から一貫して、研究者の多くの反応は拒否あるいは冷淡だった、と指摘します。これは一般層、とくに騎馬民族説支持者にはあまり知られていないことでしょうから、新書など一般向け書籍で何度も繰り返し指摘する必要があると思います。ただ本論考は、日本列島において古墳時代中期に、それまで見られなかったウマや騎馬の風習が出現して短期間に定着していった、という事実が騎馬民族説の提唱とそれに対する学界の反応で生まれたことは、騎馬民族説の功績と言えるのではないか、と指摘します。この問題に関しては、韓国における経済発展に伴う発掘調査の進展と中国東北部における新資料の公開により研究が大きく進展した、と本論考は指摘します。これにより、馬具を副葬しない中原地域と、盛んに副葬するアジア東北部(中国東北部・朝鮮半島・日本列島)の対比が明らかになりました。

 日本列島におけるウマは、馬具とともに古墳時代中期にもたらされた、との見解が今では有力です。ただ、それ以前にわずかながらウマと馬具が導入された痕跡も確認されていますが、本論考は、日本列島におけるウマの導入は、どんなに早くても準構造船の出現した弥生時代以降で、古墳時代中期よりも前のウマや馬具の導入は散発的で、それ以降とは規模も質も大きく異なっていただろう、と指摘します。日本列島における初期の馬匹生産地としては、大阪府にある生駒山山麓の蔀屋北遺跡周辺が候補とされています。古墳時代中期の馬具生産については、渡来人の指導下に在来倭人が協業していたのではないか、と推測されています。古墳時代中期に始まった馬匹生産は、100年ほどで東北北部・北海道・南西諸島以外の琉球弧を除く広範な地域に拡大し、定着します。これは、単に交通手段としての利便性だけではなく、ウマの安定的供給源を求めた倭王権と、馬匹生産という新産業に活路を見出した地域首長という双方の思惑を考慮すると理解しやすい、と本論考は指摘します。

 古墳時代の騎馬文化の範囲は、おおむね前方後円墳の範囲と重なります。本論考は、日本列島における初期の馬具の直接的系譜は朝鮮半島南部の各地にあり、特定の地域に収斂しないことから、日本列島の騎馬文化が征服活動によりもたらされたという説明は成立せず、あくまでも日本列島の社会における需要の高まりを前提として、倭がさまざまな地域と主体的に交渉した結果だろう、と指摘します。倭がこの時期にウマを必要とした背景として、高句麗との軍事的衝突が想定されています。


第14講●北條芳隆「前方後円墳はなぜ巨大化したのか」P315〜346
 本論考は前方後円墳の巨大性について、国家形成過程の一環として考えると矛盾する、と指摘します。まず、墳丘規模の拡大は先代墓とに競合を招来し、祖先の神格化を阻みます。次に、支配力から見ると過剰な労働力が投下されていることです。治水などの公共事業に傾注すべきところを、一代限りの墳墓に富を浪費しては、社会の不満が高まっただろうし、国家形成過程の一環として、古代「中国」諸王朝は墳墓よりも祭礼空間としての宮都の造営を優先した、と本論考は指摘します。さらに、前方後円墳おいて規模の格差は明確であるものの、基本構造や副葬品の組成には共通点が多く、中央集権化を志向する王権とは異質な政体の集合体もしくは同盟で、部族同盟だっただろう、と本論考は指摘します。本論考が最も重視するのは、浪費は権力者側に蓄積されるはずの富の放出なので、次世代の親族に資産を残せず、成層化や身分序列の固定化とは正反対の平準化や均等化に向かう、ということです。

 本論考が重視するのは高句麗です。高句麗は漢から冊封され、朝鮮半島を南下し、百済と新羅の形成を促しました。その高句麗が最も敵視したのが倭で、倭も高句麗への対応に負われたことが、前方後円墳巨大化の鍵になる、と本論考は指摘します。さらに本論考が重視しているのは、当時の高句麗と倭がともに首長制社会だった、ということです。高句麗も厚葬で、こうした首長制社会では階層化があまり進展しません。倭も、上層の「大人」、一般層の「下戸」、奴隷の「奴婢」や「生口」といった程度の階層分化でした。こうした社会では、王位が特定の一族に世襲されないことがあり、首長は民衆に対して常に再分配を強いられた、と本論考は指摘します。倭ではそれが古墳の造営であり、おそらくは貨幣としての機能も有していた稲束と稲籾が対価として支払われたのだろう、と本論考は推測します。

 本論考は、当時の推定人口と生産力から、最大級の前方後円墳でも十数年程度で造営可能と推算しています。前方後円墳の巨大化の背景として、首長間の競合と人口および生産力の増加が指摘されています。また、寒冷化と高句麗の南下による朝鮮半島の不安定化による朝鮮半島から日本列島への渡来人の増加が、古墳時代における文化要素の朝鮮半島化を促したことも指摘されています。また本論考は、寒冷化のなか、日本列島の穀物生産量が前代までより相対的に高句麗に対して優位になり、鉄などをめぐる交易で競合関係が強くなったことこそ、倭と高句麗の対立激化の背景にあるのではないか、と指摘しています。本論考の見解は壮大たいへん興味深く、今後も調べていきたいものです。
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_20.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c272

[近代史3] 遥かなる縄文の記憶〜科学の目で見た縄文〜 中川隆
34. 中川隆[-12913] koaQ7Jey 2019年11月09日 10:39:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-15]

2019年11月09日
北條芳隆編『考古学講義』第2刷
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_20.html

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2019年6月に刊行されました。第1刷の刊行は2019年5月です。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。なお、以下の西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。


https://www.amazon.co.jp/%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E8%AC%9B%E7%BE%A9-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%8C%97%E6%A2%9D-%E8%8A%B3%E9%9A%86/dp/4480072276

I 旧石器・縄文時代


第1講●杉原敏之「列島旧石器文化からみた現生人類の交流」P15〜35
 現生人類(Homo sapiens)の日本列島への拡散が解説されています。日本列島への現生人類の拡散経路としては、サハリンから北海道と津軽海峡を経由する北回り、朝鮮半島を経由する西回り、台湾と南西諸島を経由する南回りが想定されています。本論考は、比較的情報量の多い九州を中心とする西回りと南回りを取り上げています。日本列島では4万年前頃よりもさかのぼる人類の確実な痕跡はきわめて限定的で、後期旧石器時代以降に人類が定着したと考えられます。関東では38000年前頃に、九州でも38000〜36000年前頃には後期旧石器時代が始まります。朝鮮半島と日本列島の旧石器の類似性も指摘されていますが、その担い手となる人類集団の関係については不明なところがあります。ユーラシア東部における現生人類出現の考古学的指標とされる石刃技法については、九州において段階的変遷が想定されていますが、まだ充分には解明されていないようです。南回りに関しては、九州南部と琉球列島との直接的関連はまだ確認されていないようですが、本論考は、石器技術に限らない接触も想定しています。最終氷期極大期(LGM)には、九州で朝鮮半島南部との接触を窺わせる剥片尖頭器が発見されており、海面が低下したことにより交流が活発化していったのかもしれません。本論考は、九州の在来集団が朝鮮半島南部との接触により新たな技術を導入した、という可能性を想定しています。


第2講●中山誠二「縄文時代に農耕はあったのか」P37〜58
 縄文農耕論には長い歴史がありますが、近年では、レプリカ法を用いた土器の圧痕分析など、新たな手法による進展が見られます。本論考は、縄文時代においてクリが人為的選択を受け、ダイズやアズキが栽培化へと向かっていた可能性を指摘します。ダイズの栽培起源地候補はアジア各地に複数あり、日本列島もその起源地の一つだった可能性がある、というわけです。本論考は、こうした植物管理・栽培を、農耕の初源的な一形態である園耕・園芸と評価しています。このように、縄文時代において植物栽培と言えそうな事例が確認されつつあるものの、それが直ちに農耕社会を出現させたのではなく、狩猟・採集・漁撈との柔軟な組み合わせによる生業が確立していたところに縄文時代の独自性がある、と本論考は指摘しています。


第3講●瀬口眞司「土偶とは何か」P59〜84
 土偶については、女神説・地母神説・故意破損説などさまざまな仮説が提示されてきましたが、近年では議論は行き詰っているそうです。本論考は、これまであまり注目されていなかった土偶装飾付土器の分析から、土偶の社会的意味を検証しています。本論考は、土偶とは本来何らかの形で「うつろ」を身体に伴うもので、幾重にも取りつき、取りつかれることで一体の完成した像へと近づくものだ、と指摘します。それを踏まえて本論考は、土偶が時代により変容していった、と指摘します。初期には不完全な胴部だけが可視化され、不完全な東部は観念上存在しても基本的には可視化されない霊的存在でしたが、定住生活への移行に伴いそれが可視化されていき、それには人口拡大も背景にあるかもしれない、と本論考は推測しています。


第4講●瀬川拓郎「アイヌ文化と縄文文化に関係はあるか」P85〜102
 北海道は、旧石器時代→縄文時代→続縄文時代→擦文時代→アイヌ文化期と変遷していき、続縄文時代後期〜擦文時代にかけて、オホーツク文化が併存します。アイヌ文化は考古学的にそれ以前の文化とは大きく異なるのですが、研究の進展に伴い、連続的な変化が確認されつつあります。なお本論考は、考古学的文化に民族名を冠することは問題だとして、アイヌ文化ではなくニブタニ文化と呼ぶよう、提唱しています。本論考は、アイヌ文化に見られる縄文文化の要素として、イレズミ・モガリ・動物祭儀などを挙げています。北海道の動物祭儀に関しては、すでに縄文時代において、自然には生息しないイノシシを本州から連れてきて屠殺し、共食していた可能性が指摘されています。これは、縄文時代の本州にも見られる祭儀でした。本論考は、日本列島において縄文文化が色濃く残るのは、本州・四国・九州を中心とする「本土」ではなく、アイヌ側だと指摘しています。

II 弥生時代


第5講●宮地聡一郎「弥生文化はいつ始まったのか」P105〜122
 弥生時代を食糧生産もしくは稲作に基づく生活が始まってから前方後円墳が出現する前までと定義すると、弥生時代の始まりは刻目突文帯土器の時代に始まる、と本論考は指摘します。なお本論考は、縄文時代における稲作の確実な証拠は今では否定されている、と指摘します。ただ、稲作が始まったのは刻目突文帯土器の時代でもある段階以降とのことです。刻目突文帯土器は系譜的には縄文土器の深鉢そのもので、土器では縄文時代と弥生時代の境界が曖昧となります。しかし、土器の器種構成では大きな変化が見られ、稲作開始の頃より、朝鮮半島の無文土器に由来する壺などが出現するそうです。この時期には墓制も変化し、石剣や玉類や壺などの副葬品が見られます。弥生時代は、朝鮮半島の無文土器文化の影響を強く受けて始まったようです。弥生時代の開始年代をめぐっては議論が続いていますが(関連記事)、以前の定説である紀元前5世紀よりは古いものの、21世紀になって提示された紀元前10世紀までさかのぼる可能性は低い、と本論考は指摘します。また本論考は、弥生時代が日本列島で一斉に始まったわけではない、と注意を喚起しています。さらに、弥生時代とはいっても、西日本と東日本では様相が異なり、東日本の弥生時代には縄文文化の要素が強いことも指摘されています。弥生文化を均一なものとして把握することには問題があるようで、おそらく集団の遺伝的構成もかなり多様だった、と推測されます(関連記事)。


第6講●設楽博己「弥生時代の世界観」P123〜145
 弥生時代の世界観が、生物界・現世の空間世界・観念世界に区分されています。縄文時代の土偶には女性が多いのに対して、弥生時代には男女の偶像であることに関しては、性別分業の狩猟採集社会から男女協業を基本とする農耕社会への転換が背景にある、と指摘されています。また、弥生時代には埋葬からい男性優位の傾向も窺えるようになります。これは、弥生時代にはイレズミが男性だけになったことと関連しており、男性が主体となる戦争の活発化が背景にある、と推測されています。一方で、卑弥呼や壱与の事例から、男性だけが権力を掌握したわけではない、とも指摘されています。土製品や絵画などにおける主要な対象動物は、弥生時代には縄文時代のイノシシからシカへと変わり、これは、シカの角の生え替わりとイネの成長が同一視されたからではないか、と推測されています。また弥生時代には、鳥が重要な動物になったようです。銅鐸については、朝鮮半島の銅鈴に起源があるものの、銅鈴には文様がほとんどなく、銅鐸の文様は縄文土器が手本にされている、と指摘されています。銅鐸には辟邪としての機能も推測されています。空間観念に関しては、地的宗儀から高天原信仰の導入に伴う天的宗儀への転換が指摘されています。弥生時代の墓制から祖先祭祀の存在が推測されており、弥生時代の再葬墓については、縄文時代晩期の延長線上にある、と指摘されています。弥生時代に九州北部で始まる大型建物での祖先祭祀については、「中国」の影響が推測されています。


第7講●北島大輔「青銅器の祭りとはなにか」P147〜164
 弥生時代の青銅器の原材料である鉛の入手に関しては、時期による変遷が指摘されています。一方、北部九州と本州とでこの変遷に関して大きな時期差はなかったようです。鉛の同位体分析による原材料地は、弥生時代の6期区分では、3期までが朝鮮半島産、4期が前漢の華北産、5期は華北産でもさらに限定された領域、6期後半が後漢の華南産と共通しています。この推定に関しては疑問も呈されていますが、まだ解決していないようです。こうした弥生時代の青銅器の原材料入手のさいの対価としては、奴隷(生口)や翡翠・碧玉が推測されています。弥生時代の青銅器に見られる世界観として、銅鐸には身近な自然が多く、九州北部を中心に流入の始まった中国鏡では想像上のものが見られる、と指摘されています。


第8講●谷澤亜里「玉から弥生・古墳時代を考える」P165〜192
 弥生時代には新たな管玉が出現し、その起源地は現在の朝鮮北部〜中国東北部と推測されています。これは、農耕文化とともに導入された、と考えられています。こうした管玉は日本列島において受け入れられ、生産されるようになり、地域社会を横断した原石素材の流通ネットワークが形成されます。弥生時代にはガラス製玉類も出現しますが、日本列島でのガラスの生産は紀元後7世紀後半以降で、弥生時代と古墳時代には日本列島外で製造されたガラスが素材として用いられていました。なお、ガラス製品を伴う埋葬には多くの場合漢系遺物も見られることから、漢王朝からの下賜品と考えられてきましたが、中原地域や楽浪郡ではガラス製玉類が少ないことから、長江中流域との直接的な交渉によりもたらされた、との見解も提示されているそうです。ただ本論考は、ガラス製品以外には長江中流域との交渉を示すような遺物がないことから、楽浪郡経由での入手の可能性が高い、と指摘しています。

 こうした副葬品の状況から、「王」を頂点とする序列が想定されています。漢系遺物の流入は弥生時代後期初頭には一旦途絶えるようですが、その要因として新王朝を樹立した王莽の華夷思想に偏った対外政策が推測されています。またこの時期、日本列島規模で、既存集落の廃絶や特定集落への集住など大きな変化が見られるそうです。墓制でも、この時期に多くの地域で集団墓地の解体傾向が見られるそうです。これ以降、出自集団を単位とした墓地が顕著に見られるようになります。古墳時代前期になると、弥生時代後期には多様だった舶載ガラス製玉類が、銅着色のインド・パシフィックビーズにほぼ限定されるとともに、ガラス製玉類の出土数が減少するなか、近畿中部だけは出土数が増加します。ただ、古墳時代中期になると、種類は朝鮮半島南部と同じく多様になっていきます。弥生時代後期の段階では舶載品の流通を近畿中部が掌握していたとは言えませんが、古墳時代にはその流通経路が近畿に集約されていった、と窺えます。こうした動向に関しては、強大な近畿が他地域を支配したというよりは、他地域が近畿を介して安定的に威信材を入手しようとしたことが背景にあったのではないか、と推測されています。


第9講●村上恭通「鉄から弥生・古墳時代を考える」P193〜218
 日本列島における鉄器の使用は、弥生時代前期末〜中期初頭の九州北部において始まります。骨角器研究により、近畿以東では弥生時代中期後葉までには鉄器を用いての骨角器製作が確認されているものの、当時近畿以東では鉄が希少だったためか、石器と併用され、鉄の利用は限定的だった、と推測されています。これは斧に関しても同様で、石器と希少な鉄器が併用されていました。しかし、木器の研究からは、河内湾沿岸地域における斧の鉄器化は弥生時代中期後葉に完了した、とも指摘されています。日本列島における鉄器の生産はまず九州北部で始まり、日本海側では丹後地方まで、瀬戸内海では徳島県域まで直ちに拡大したそうです。さらに、弥生時代後期後葉から終末にかけては、日本海側では能登半島、太平洋側では三河地方まで拡大しています。また、鍛冶技術は九州北部のものがそのまま拡散したのではなく、多様化していき、そうした中で技術格差も見られるようになりました。

III 古墳時代


第10講●辻田淳一郎「鏡から古墳時代社会を考える」P221〜245
 弥生時代〜古墳時代にかけての日本列島の鏡の特徴は、鉄鏡がわずかで青銅鏡がほとんどであることです。この青銅鏡は、中国(舶載)鏡・三角縁神獣鏡・倭製(仿製)鏡に分類されます。中国鏡は漢代〜魏晋南北朝期にかけて「中国」で製作され、古墳時代の遺跡から出土するのは、おもに後漢鏡・三国(おもに魏と呉)鏡・西晋鏡です。後漢鏡の出土は弥生時代後期以降ですが、九州北部に偏っています。鏡の流通・副葬は3世紀〜4世紀前半にピークがあり、5世紀前半には生産・流通が一旦低調となりますが、5世紀後半に再度活発化するそうです。

 本論考は、銅鏡流通の核となった政治権力を「近畿中央政権」と呼んでいます。古墳時代には、近畿中央政権が独占的に中国鏡の輸入・流通を管理していたようです。古くから議論になっている三角縁神獣鏡の製作地については、全て日本産・全て中国産・日本産と中国産の混在という3説が提示されています。こうした鏡は政治的序列を可視化していた、と考えられています。本論考は、古墳時代前期を通じて、大型の中国鏡と倭製鏡が上位、三角縁神獣鏡や小型の倭製鏡が下位とされていた、と推測しています。また、近畿中央政権から各地に鏡が多数配布された理由として、当時は双系社会で上位層の世代間継承が不安定だったので、代替わりに伴い新たな鏡の入手が必要になった、と推測されて近畿中央政権と各地の権力との政治的相互作用の結果、古墳により可視化されるような広域的な政治秩序が形成・維持・再生産されたのではないか、というわけです。こうした社会状況において、鏡は威信材として機能した、と本論考は指摘します。

 こうした銅鏡の役割は、古墳時代中期に鉄製の武器に取って代わられたようです。しかし、5世紀のいわゆる倭の五王の遣使により、南朝から「同型鏡」が導入され、5世紀中頃以降に再び倭製鏡生産が活発化します。本論考は、同型鏡が南朝で製作され倭国に贈与された「特鋳鏡」と推測しています。この同型鏡群は、古墳時代前期の銅鏡とは異なり、大型前方後円墳だけではなく、中小規模の古墳からも出土しており、近畿中央政権が各地の中間層を取り込もうとした、と本論考は推測しています。古墳時代の倭製鏡は、6世紀前半よりも後には生産が終了したか、大幅に縮小したと考えられます。本論考は、古墳時代の鏡は本格的な国家形成の前段階に属する器物で、前方後円墳の出現とともに始まり、その終焉とともに意義が失われた、と指摘しています。


第11講●石村智「海をめぐる世界/船と港」P247〜269
 本論考はまず、日本人は海洋民だと指摘します。日本列島に現生人類が到来した後期更新世において、対馬海峡も津軽海峡も完全に陸続きにはならなかったため、渡海してきたはずだ、というわけです。日本列島の船は、まず1本の木で造られる丸木舟から始まります。これは縄文時代のものが発見されていますが、木の大きさに制約されるため、大型化できないという欠陥があります。弥生時代には、複数の材を継ぎ合わせて大型化した準構造船が出現し、丸木舟の要素が継承されています。日本の伝統的な和船は、この準構造船から発展して中世に成立します。遣唐使船は朝鮮半島の技術を用いて造られた、と推測されていますが、当時の朝鮮半島には船釘が用いられておらず(日本でも船釘の確実な使用は鎌倉時代以降のようです)、構造的に脆かったようです。

 日本列島において古代に港として利用されたのは、ラグーン(内海)を形成する潟湖地形でした。潟湖地形の周囲には前方後円墳が多く、目印として機能した可能性が指摘されています。飛鳥時代以降、遣唐使船のような喫水の深い大型の構造船が導入されると、入江地形の「深い港」が必要とされます。しかし、当時すべての船がそうした遣唐使船のような構造ではなかったため、潟湖地形のような「浅い港」も引き続き用いられただろう、と推測されています。

 前近代の日本において、日本海は冬場こそ荒れるものの、夏場には穏やかなため、日本列島のハイウェイとして機能してきた、と本論考は指摘します。日本海は、アジア東部大陸部との交通の場ともなりました。一方瀬戸内海は、潮流が速く複雑なため、航海の難しい海域だった、と指摘されています。しかし、瀬戸内海沿岸に目印としての前方後円墳が築かれてきたように、日本海と同じく古代からハイウェイとして機能してきました。太平洋は黒潮のため航海は困難ですが、弥生時代から古墳時代には、紀伊半島沿いの海路が存在した可能性は高い、と指摘されています。本論考は、海洋民が古代において海外の文物に触れられる先進的な集団だった、指摘しています。古代の海洋民として、宗像氏や安曇氏や高橋氏が挙げられています。


第12講●池淵俊一「出雲と日本海交流」P271〜290
 日本海を通じての交流は、すでに縄文時代から存在しました。出雲が日本海交流において特殊な地位を占めるようになるのは、紀元前1世紀となる弥生時代中期後半からしでした。この時代、朝鮮半島に漢の楽浪郡が設置され、九州北部では多数の漢鏡を副葬品とする王墓が出現します。この時期以降、出雲でも朝鮮半島系の土器が出土するようになります。これらの土器の大半は交易用の容器で、移住目的ではなかった、と考えられます。鉄器の出土状況からは、紀元後1〜3世紀には、日本列島における物流の主動脈は日本海だった、と推測されます。本論考は、出雲の九州系土器の出土状況から、出雲は直接的にではなく、伊都国や奴国といった九州北部集団を介して朝鮮半島と交易した、と推測しています。また、弥生時代後期には、吉備が出雲との関係を深めていったことも窺えます。一方、同じ日本海沿岸でも鳥取市青谷上寺遺跡は、九州北部系土器の出土がないことから、直接的に朝鮮半島と交易したのだろう、と推測されています。古墳時代前期前半になると、九州北部の交易拠点が伊都国から博多湾へと移動し、出雲を主体とする山陰系土器が多いことから、古墳時代初期の朝鮮半島交易では出雲が重要な役割を担っていた、と考えられます。この交易において主要な輸入品は鉄素材で、その対価として奴隷(生口)などが輸出されていた、と想定されています。古墳時代の出雲では四隅突出墓というひじょうに特徴的な墓が築かれ、瀬戸内海西部や九州北部の海人集団もしくはそれに連なる人々を配下として、朝鮮半島と交易していた、と推測されています。4世紀前半になると、博多湾で交易の中心だった西新町遺跡が突如として廃絶し、山陰の代表的な津も一斉に衰退します。本論考はこれを、倭王権が九州北部の交易機構を介さずに直接的に朝鮮半島南部との交易路を確立し、出雲のそれまでの対朝鮮半島交易の役割が終了したことを反映している、と解釈しています。


第13講●諫早直人「騎馬民族論のゆくえ」P291〜314
 騎馬民族日本列島征服王朝説(騎馬民族説)は、一般層にも広く知られている仮説で、現在でも支持者は一定以上いるようです。しかし本論考は、騎馬民族説は当初から一貫して、研究者の多くの反応は拒否あるいは冷淡だった、と指摘します。これは一般層、とくに騎馬民族説支持者にはあまり知られていないことでしょうから、新書など一般向け書籍で何度も繰り返し指摘する必要があると思います。ただ本論考は、日本列島において古墳時代中期に、それまで見られなかったウマや騎馬の風習が出現して短期間に定着していった、という事実が騎馬民族説の提唱とそれに対する学界の反応で生まれたことは、騎馬民族説の功績と言えるのではないか、と指摘します。この問題に関しては、韓国における経済発展に伴う発掘調査の進展と中国東北部における新資料の公開により研究が大きく進展した、と本論考は指摘します。これにより、馬具を副葬しない中原地域と、盛んに副葬するアジア東北部(中国東北部・朝鮮半島・日本列島)の対比が明らかになりました。

 日本列島におけるウマは、馬具とともに古墳時代中期にもたらされた、との見解が今では有力です。ただ、それ以前にわずかながらウマと馬具が導入された痕跡も確認されていますが、本論考は、日本列島におけるウマの導入は、どんなに早くても準構造船の出現した弥生時代以降で、古墳時代中期よりも前のウマや馬具の導入は散発的で、それ以降とは規模も質も大きく異なっていただろう、と指摘します。日本列島における初期の馬匹生産地としては、大阪府にある生駒山山麓の蔀屋北遺跡周辺が候補とされています。古墳時代中期の馬具生産については、渡来人の指導下に在来倭人が協業していたのではないか、と推測されています。古墳時代中期に始まった馬匹生産は、100年ほどで東北北部・北海道・南西諸島以外の琉球弧を除く広範な地域に拡大し、定着します。これは、単に交通手段としての利便性だけではなく、ウマの安定的供給源を求めた倭王権と、馬匹生産という新産業に活路を見出した地域首長という双方の思惑を考慮すると理解しやすい、と本論考は指摘します。

 古墳時代の騎馬文化の範囲は、おおむね前方後円墳の範囲と重なります。本論考は、日本列島における初期の馬具の直接的系譜は朝鮮半島南部の各地にあり、特定の地域に収斂しないことから、日本列島の騎馬文化が征服活動によりもたらされたという説明は成立せず、あくまでも日本列島の社会における需要の高まりを前提として、倭がさまざまな地域と主体的に交渉した結果だろう、と指摘します。倭がこの時期にウマを必要とした背景として、高句麗との軍事的衝突が想定されています。


第14講●北條芳隆「前方後円墳はなぜ巨大化したのか」P315〜346
 本論考は前方後円墳の巨大性について、国家形成過程の一環として考えると矛盾する、と指摘します。まず、墳丘規模の拡大は先代墓とに競合を招来し、祖先の神格化を阻みます。次に、支配力から見ると過剰な労働力が投下されていることです。治水などの公共事業に傾注すべきところを、一代限りの墳墓に富を浪費しては、社会の不満が高まっただろうし、国家形成過程の一環として、古代「中国」諸王朝は墳墓よりも祭礼空間としての宮都の造営を優先した、と本論考は指摘します。さらに、前方後円墳おいて規模の格差は明確であるものの、基本構造や副葬品の組成には共通点が多く、中央集権化を志向する王権とは異質な政体の集合体もしくは同盟で、部族同盟だっただろう、と本論考は指摘します。本論考が最も重視するのは、浪費は権力者側に蓄積されるはずの富の放出なので、次世代の親族に資産を残せず、成層化や身分序列の固定化とは正反対の平準化や均等化に向かう、ということです。

 本論考が重視するのは高句麗です。高句麗は漢から冊封され、朝鮮半島を南下し、百済と新羅の形成を促しました。その高句麗が最も敵視したのが倭で、倭も高句麗への対応に負われたことが、前方後円墳巨大化の鍵になる、と本論考は指摘します。さらに本論考が重視しているのは、当時の高句麗と倭がともに首長制社会だった、ということです。高句麗も厚葬で、こうした首長制社会では階層化があまり進展しません。倭も、上層の「大人」、一般層の「下戸」、奴隷の「奴婢」や「生口」といった程度の階層分化でした。こうした社会では、王位が特定の一族に世襲されないことがあり、首長は民衆に対して常に再分配を強いられた、と本論考は指摘します。倭ではそれが古墳の造営であり、おそらくは貨幣としての機能も有していた稲束と稲籾が対価として支払われたのだろう、と本論考は推測します。

 本論考は、当時の推定人口と生産力から、最大級の前方後円墳でも十数年程度で造営可能と推算しています。前方後円墳の巨大化の背景として、首長間の競合と人口および生産力の増加が指摘されています。また、寒冷化と高句麗の南下による朝鮮半島の不安定化による朝鮮半島から日本列島への渡来人の増加が、古墳時代における文化要素の朝鮮半島化を促したことも指摘されています。また本論考は、寒冷化のなか、日本列島の穀物生産量が前代までより相対的に高句麗に対して優位になり、鉄などをめぐる交易で競合関係が強くなったことこそ、倭と高句麗の対立激化の背景にあるのではないか、と指摘しています。本論考の見解は壮大たいへん興味深く、今後も調べていきたいものです。
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_20.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/223.html#c34

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
55. 中川隆[-13073] koaQ7Jey 2019年11月09日 12:27:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-175]

198名無しの笛の踊り2019/11/09(土) 12:07:23.06ID:glD+LRwS

序曲のランキングは


ベートーヴェン >> ヘンデル >> ワーグナー >> グルック >> ドビュッシー
>> ウェーバー >> シューマン >> メンデルスゾーン >> モーツァルト
>> シューベルト >> リスト


かな。 モーツァルトのオペラは名作でも序曲は大した事ない:

Georg Frideric Handel - Agrippina - Sinfonia (John Elliot Gardiner with English Baroque Soloists) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=OHDC5OVuquM

Handel - Overture to the oratorio Solomon - YouTube
John Eliot Gardiner conducts the English Baroque Soloists
https://www.youtube.com/watch?v=EJCXxS3GRv8

Handel Israel in Egypt - 1. Overture - Gardiner - YouTube
John Eliot Gardiner conducts the English Baroque Soloists
https://www.youtube.com/watch?v=H67RY06mNPY

handel Alcina - Overture - Karl Richter - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-rHbnP2_K0o

handel Belshazzar - Overture - Karl Richter - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=m3Vuf8jr7TM

handel Jephtha - Overture - Karl Richter - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=L_jtWiXDFOQ

G. F. Haendel - Giulio Cesare - Ouverture - Karl Richter - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_mUYAWmjVP4

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c55

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
56. 中川隆[-13072] koaQ7Jey 2019年11月09日 12:28:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-174]

Gluck - Alceste Overture - Berlin - Furtwangler 1942 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dbvs8n1f-Cc

WILHELM FURTWaNGLER 'IPHIGENIE EN AULIDE' Gluck, Overture - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bDbLJ3sWgRI

____

Furtwängler conducting Mozart's Don Giovanni Overture Salzburg 1954 (In Colour) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4s1OFwAlMMw


Bruno Walter - Mozart Le nozze di Figaro フィガロの結婚ーOverture(1932) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-Y0Wm68wYp0

Bruno Walter - Mozart Le nozze di Figaro Overture NBCso 1951.2.24 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=IccckVE7_fg

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Beethoven - Egmont Overture - Wilhelm Furtwangler, 1953 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ONDQHSy7aEs

Beethoven - Egmont - Berlin - Furtwangler 1947 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=TnlADE2CUGs

Leonore Overture No. 2, Op. 72a - YouTube
(1954 Live) Berliner Philharmoniker Wilhelm Furtwangler
https://www.youtube.com/watch?v=VTTqcKI98-8

Wilhelm Furtwangler Coriolan, overture - YouTube
Live recording; Berlin, on 27 July 1943
https://www.youtube.com/watch?v=QoultibNlus


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c56

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
57. 中川隆[-13071] koaQ7Jey 2019年11月09日 12:30:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-173]

序曲

Weber - Oberon - Leningrad - Mravinsky 1978 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0w8KI7sVx2k

Weber, Ouvertüre zu 'Der Freischütz', Furtwangler 1954(pseudo-stereo) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bs0WfMA5sto

Weber, Ouverture zu 'Euryanthe', Furtwangler 1954(pseudo-stereo) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=E1TPPCNFr9Y

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schubert Rosamunde Overture (Furtwangler) - YouTube
Berlin Philharmonic, Wilhelm Furtwangler Live Recording, September 15, 1953
https://www.youtube.com/watch?v=GlbPgRDoSkc&list=RDGlbPgRDoSkc&start_radio=1

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Mendelssohn - A Midsummer Night's Dream Overture - Berlin - Furtwangler studio - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=C38_LZp2n6E

Furtwangler - Mendelssohn Fingal's Cave - Overture Op.26 (1930) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=j1OV5Omci9k

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liszt Les Preludes, Furtwangler & VPO (1954) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ozNlrE-1KBs

____

Schumann - Manfred Overture Op. 115 (1852) - Furtwangler, BPO, 1949 (Remastered 2012) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=B9JW6lL4iMo

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c57

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
58. 中川隆[-13070] koaQ7Jey 2019年11月09日 12:31:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-172]

wagner Tannhauser - Overture - NBC Symphony Orchestra-Toscanini (1948) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=D8Yq1CibSeI

Wagner - Overture to The Mastersingers of Nuremberg - Furtwangler BPO 1942 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=FoU-iCT21fc

wagner Die Meistersinger von Nürnberg, Prelude, Schuricht (1961) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=c4T9IeV0xJM

Wagner - Tristan und Isolde - Prelude and Liebestod (Furtwangler - Berlin Philharmonic,1942) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=LQbORNavtbk

Wagner Parsifal Prelude Wilhelm Furtwangler - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=K5Fp8d2jZ8E

______


Brahms - Tragic Overture - Vienna - Knappertsbusch live - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=3F55iz4WhkM

Academic Festival Overture, Op. 80 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=vyiaLll7_D8

_____


Debussy - Prelude à l'après-midi d'un faune - Leningrad - Mravinsky - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9LpkGXLgPBo


という事で、序曲に関してはモーツァルトもブラームスも期待外れでしたね

ウェーバーやリストやシューマンの方が遥かに名曲でした

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c58

[近代史3] 沖縄 首里城火災 _ 琉球人は何をやっても いい加減、無責任で「ゆすりとごまかしの名人」 中川隆
72. 中川隆[-13159] koaQ7Jey 2019年11月09日 13:14:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-261]
>>1 に追記




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/703.html#c72
[議論31] 途上国より不幸な日本人。なぜ清潔で治安が良くモノが溢れる日本が世界幸福度18位なのか=鈴木傾城 てんさい(い)
9. 中川隆[-13194] koaQ7Jey 2019年11月09日 13:42:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-296]
>>8
嘘はよくないよ

真実は

イザベラ・バードの日本紀行 _ 不潔で苦難に満ちた動物以下の日本人の生活


2019-06-08
津田梅子の朝鮮人差別を「事実を指摘しただけだから差別じゃない」と言う人々
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/06/08/113701


■ 津田梅子の父親が語った「事実」

こちらの記事で、新五千円札の顔になる予定の津田梅子(津田塾大学創設者)が、父親から聞いた話を鵜呑みにして朝鮮人への差別意識にまみれた手紙を書いていたことを指摘した。

1883年に書かれた問題の手紙の内容は以下のようなものだ。[1]


 父が帰ってきました。二、三日前に、思ったより早く着いたのです。朝鮮についてとても興味深くおもしろい話をしてくれました。いくつかの点では、動物の方がこのような汚い朝鮮人よりましだと思いますし、あるところには本当に野蛮な人びとがいるのです。彼らの衣服や食料はとてもよいのですが、粗末に不潔につくられているのです。家は掘っ立て小屋のようだし、妻たちは完全に奴隷か囚人のようです。(略)彼らの習慣は下劣で、何もかもが汚くそして粗野なのです。……父が私に朝鮮について多くのことを話してくれました。あなたの記事のために、聞いたことを書いてまとめたいと思います。きっと、とても関心をもたれると思いますので、書いたら送ります。ある意味で、世界で最悪の国のように思われます。(略)

この記事を公開すると、津田梅子が書いていることは「事実だから問題ない、差別じゃない」という趣旨のコメントが続々とやってきた。


差別ではなく事実を述べているだけ。
当時の欧米列強による白人至上主義や植民地が当たり前の時代に書かれた手紙の一部を現代人が差別だと騒ぎ立てるのは筋違い。李氏朝鮮時代の歴史をみれば、こういった表現になるのは仕方ない。


津田梅子の生年は元治元年1864年です!

明治中頃の朝鮮半島がどれだけ未開で不潔な、、、文化状態であったかご存知ですか?
彼女の言説は、単なる風聞のコピーではありません。

その後1910年統治を開始した頃に書かれた調査書にも、また外国人によって半島について書かれた書物にも、そのことは明記されています。不潔なこと、極端な女性差別など、当然の事実です。

津田女史の差別でもなんでもありません。
国会図書館にある書物、いま書名が出ないですが、ネットアクセスしていただきたいです。


この記事は逆差別的な考え方をしていると思う 津田梅子は差別しようと思って言ってるわけじゃなく、単にそういう国があるって聞いたと書いてるだけに思える 父から聞いたことが本当なら、朝鮮は酷い国って誰でも書くと思うしね

この頃は今みたいに、朝鮮に対する悪い先入観自体がなかったんでは? あれば今みたいに差別だとか言われるんだと思う


父親は自分の見た事実をただ書いてるだけじゃね?実際に当時の朝鮮は酷かったみたいだし
おなじように批判のコメントがたくさん来てるけどそれに対しての意見を書いた内容の記事待ってるネ(笑)

彼らの考えによれば、ある人々の暮らしが現実に不潔であったり悲惨なものであれば、それらの人々の属する国や民族をまるごと「動物の方がまし」「下劣」「野蛮人」「世界で最悪の国」などと罵倒しても問題はないし、それは差別ではないらしい。

「外国人によって半島について書かれた書物」といえば、代表作はイギリス人女性の旅行家イザベラ・バードによる『朝鮮紀行』だと思うが、ではその同じイザベラ・バードがちょうど同じ頃(1878年)に日本を旅したとき、日本の貧しい農村をどのように描写していたか[2]、見てみることにしよう。


■ 粗末な宿と粗野な現地人


 六時に大きな城下町である栃木に着きました。(略)栃木は粕壁よりさらにひどい町でした。わたしは日本国内の旅行をいっさいやめてしまおうかと思いました。(略)

宿屋はとても大きく、先に六〇人の客が到着していて部屋の選びようがなく、わたしは四方が襖ではなく障子で仕切られた部屋で満足しなければなりませんでした。緑色のかび臭い蚊帳は格好の蚤の巣で、その下にはベッドと浴槽と椅子をかろうじて置けるだけの広さしかありません。(略)

障子は穴だらけで、その穴のひとつずつからしょっちゅう人間の目がのぞきます。プライバシーは思い出すことすらご法度の贅沢品でした。障子の穴からたえず目がのぞいているうえ、宿の使用人はとても騒々しくて粗野で、なんの口実もなくしきりに部屋のなかを見にきます。(略)

わたしはキャンベル氏の言ったとおりだ、女ひとりで日本を旅行などすべきではないと思いはじめました。(P.133-134)

もうひとつ、これよりずっと重要でないとはいえよく話に出たのが、現地人の使用人には道中で金銭のやりとりがあるたびに「中間搾取」する習慣があり、使用人の腕と能力次第で旅行費用が二倍、ときには三倍になることが多いという問題です。あちこち旅行した経験のある三人の紳士がわたしの払うべき値段表をくれましたが、地方によってものの値段も異なり、旅行客の多い地域では大幅に高くなっています。(P.83-84)

■ 不潔で苦難に満ちた山村生活


 六月二五日、五十里いかりにて ―― 藤原には四六戸の農家と宿屋が一軒ありますが、どれも暗くてじめじめして汚くて隙間風の入る住居で、母屋と作業小屋と厩うまやがいっしょになっています。(略)わたしは座って手紙を書きはじめましたが、すぐさま縁側に逃げ出さざるをえなくなりました。浜飛び虫が砂浜から現れるように、蚤の大群が畳から飛び出してきたのです。しかも縁側でも手紙の上に飛び上がってきます。二面あるけばだった土壁の隙間にはなにやら虫が這っているし、むきだしの垂木からは蜘蛛の巣がぶらさがっています。畳は汚れと年代で茶色くなっており、米はかび臭くて洗い方が足りず、卵は古くて、お茶もかびの臭いがします。
(略)幼い子供たちはひもに下げたお守り以外なにも身につけていません。人も衣服も家も害虫でいっぱいで、不潔ということばが自立して勤勉な人々に対しても遣われるなら、ここの人々は不潔です。夜になるとわたしの部屋では甲虫、蜘蛛、わらじ虫が、宴会を繰り広げます。それに同じ家屋に馬がいるので、馬が馬蝿を持ち込みます。わたしの携帯用寝台には防虫剤をまきましたが、毛布が少しでも床につくと、もう蚤にやられて眠れなくなります。とても長い夜でした。行灯が消えると、油の鼻をつく臭いがします。(略)(P.199-201)


(略)横川では茶屋に数えきれないほどいる蚤を避け、通りでほぼ住民全員に輪になって囲まれながらお昼を食べました。(略)人々はことばにならないほど汚くて不潔です。貧しいのにどうしてここまで「子だくさん」なの? ぞろぞろといる礼儀正しくておとなびた裸の子供たちを見ると、そう訊きたくなります。この子供たちも生まれながらにつらい労働を受け継ぎ、親と同じように害虫に食われ、税の重みに苦しむのです。(略)
(略)
 宿屋はとにかくひどいものでした。台所には大きな薪の燃えている溝があり、目と鼻のちくちくする煙が充満しています。わたしの部屋は傷んだ障子でこの台所と仕切ってあるだけで、煙から逃れられません。垂木は煤と湿気で黒く光っています。(略)
 食べられるものは黒い豆とゆでたきゅうりしかありませんでした。部屋は案の定、暗くて汚く、みすぼらしくて騒々しく、下水の臭いがします。田植えが終わると二日間の休みがあり、稲作農家の守り神である稲荷に多くの捧げ物がなされます。そして休みとなった人々は夜を徹して浮かれ騒ぎ、大太鼓や小太鼓をたえず打ち鳴らすので、とても眠れるものではありません。
 (略)押し合いへし合いしている人々のうち、父親や母親は皮膚病にかかったり、頭にやけどをしたり、白癬を持っていたりする裸の子供を抱いており、娘たちはほとんど目の見えない母親の手を引いています。ひどい傷を見せている男性もいれば、眼炎でふさがりかけた目に蝿をたからせている子供もいます。具合の悪い者も健康な者も、全員が実に「劣悪な衣服」を身につけており、嘆かわしいほど汚なく、害虫だらけで、病人は薬を求め、健康な者は病人を連れているか、無感動な好奇心を満足させようとしています。(略)
(略)
 ここの人々は下着をつけず、めったに洗わない服はぼろぼろになるまで昼も夜も着通しです。(略)畳はまずまずきれいな表面の下に害虫が群れになって棲んでおり、またほこり、有機物などなどの受け皿となっています。髪は整髪油がついており、週に一度結い直しますが、このあたりではそれより回数が少なく、その結果がどれほど嘆かわしいものであるか、細かく記す必要はないでしょう。(略)人々、とくに子供の体は害虫がたかっており、皮膚病の原因のひとつがこの害虫による炎症です。(略)飲み水を汲む井戸は家々の密集したまんなかにあり、汚染されているのは確実でしょう。屋内の非衛生的な構造がじかに影響しているとも考えられますし、あるいは腐敗進行中の有機物が詰まっている外の溝から土に浸透しているとも考えられます。(略)
(略)既婚婦人は若いころなどなかったように見え、肌はまさになめし革のようです。川島でカラシマ氏が五〇歳くらいに見える宿のあるじの妻においくつですかと(日本では礼儀にかなった質問)尋ねると、二二歳だという答えが返ってきました。このように驚かされたことはほかにいくつもあります。(略)(P.210-216)


 この地方の村々はホザワ[宝坂?]と栄山で不潔さの極みに達したにちがいないとわたしには思えます。鶏、犬、馬、人間が薪をたいた煙で黒くなった粗末な平屋にいっしょくたに暮らしており、山になった家畜の糞尿が井戸に流れ込んでいます。幼い男の子で着物を着ているのはひとりもいません。ふんどし以外になにか身につけている男性はわずかで、女性は上半身裸のうえ、着ているものはとても汚く、ただただ習慣で着ているにすぎません。おとなたちは体じゅう虫にかまれた跡が炎症を起こしており、子供たちは皮膚病にかかっています。家屋は汚く、正座したりうつ伏せに寝ているときの人々は未開人とたいして変わらなく見えます。風体と慎みに欠ける習慣にはぞっとするばかりですが、後者に関しては、これまでわたしが交わった何カ国かの未開の人々と大いに不利な対比を成しています。(略)彼らは丁重で、親切で、勤勉で、大悪事とは無縁です。とはいえわたしが日本人と交わした会話や見たことから判断すると、基本的な道徳観念はとても低く、暮らしぶりは誠実でも純粋でもないのです。 (P.236-237)

■ 奴隷同然の「嫁」


(略)家によっては租父母、父母、長男夫婦とその子供、それにひとりふたりの姉妹とその夫に子供と四家族住んでいることもあります。長男は家屋と土地を受け継ぎ、ほぼ必ず妻を自分の父親の家に連れてきます。妻は多くの場合義理の母親にとって奴隷同然の存在となります。厳格なしきたりにより、嫁は自分の血縁を文字どおり捨て、「子としての義務」は夫の母親に対するものへと移行します。夫の母親は往々にして嫁を嫌い、息子夫婦に子供ができないと、息子に妻を離縁するようそそのかします。わたしの泊まった宿の妻女も嫁と離婚するよう息子を説き伏せました。そしてその理由は嫁が怠け者だからという程度のものなのです。(P.305-306)

■ 「ぞっとするほどひどい」日本食


 「食料問題」はどの旅行者にとってもいちばん肝心な問題だということで、わたしの旅行のみならず、なにかにつけ驚くほどの熱意をこめて意見がかわされます。(略)外国の公使も教授も宣教師も商人も、だれもが死活問題であるかのように真剣に論じます。そして多くの人にとっては本当に生死にかかわる問題であるようです。(略)また米、お茶、卵を常食とし、ときおり新鮮ではあっても味のない野菜をそれに加えることができないかぎり、食料を携行しなければなりません。魚と野菜を使った「日本食」はぞっとするほどひどいもので、食べられる人は少なく、それも長いあいだ練習を積んだすえのことなのです。(P.83)


 野菜の種類は無限にあるが、大きな例外ひとつをのぞき、あとはきわめて無味である。(略)最後まで残しておいたのはすぐれた野菜、かの名高い大根であるが、これには旅行者も居留者も外国人はみんな悩まされる。(略)大根は下層階級によってどこででも栽培されて使われており、味のしない食べ物にこれで風味をあたえる。(略)これを軽く干してから米ぬかとともに塩水に漬ける。大根は多孔質で、寝かせてある三カ月のあいだに大量の漬け汁を吸収し、その結果、それを食べているときは同じ家のなかにいるのも困難なほどの悪臭を放つようになる。わたしの知る悪臭のなかで、これよりひどいのはスカンクくらいのものである!
(略)
 スープのうち中流階級の飲む主なものは味噌汁、卵汁、澄まし汁である。澄まし汁には水に塩を加えたものと醤油を加えたものの二種類ある。下層階級ではいろいろな種類があるが、その多くは汚れた水に塩をひとつまみ加えたような味がして、さいころに切った豆腐、干魚、生いかなどが入っている。あるスープは黒い液体のなかに革のような舌触りの干した巻き貝が入っており、大半のスープは聖書に話される「忌まわしいものの煮出し汁」という文句がぴったりである。卵汁はふつう外国人の口にもどうにか合う。(略)
(略)
 すべてを網羅したとはとうてい言えないこの拙文から、「裕福な」日本人の料理がみすぼらしいどころかその反対であることがおわかりになろうが、それでも日本人のごちそうには外国人には合わないところがあり、どのイギリス人も長い体験を経てはじめて、情けない顔をせずに日本食を飲み込めるようになる。貧しい階層の食事は粗末で栄養に乏しく、味も見かけもひどい。また食事をおいしくするためにとるソースや漬物の量は消化器官にとても有害である。(略)(P.289-298)

■「事実」の記載と差別の違い

以上、世界中を旅した高名な旅行家による客観的な記述を読めば、津田梅子記事に前記のようなコメントを寄せた人々は、当然当時の日本と日本人も「動物の方がまし」「下劣」「野蛮人」「世界で最悪の国」などと罵倒されて当然だし、それは事実を述べただけで差別ではないと認めるはずだ。いや、認めないなどとは言わせない。

一応種明かしをしておくと、朝鮮にせよ日本にせよ、不潔で粗野な生活は何より貧困と教育の欠如によるものだし、大根(沢庵漬け)の話などを見れば、食に対する評価には文化の違いによるバイアスが大きく影響していることが分かるだろう。

そうした表面的な「事実」を、相手の人種や民族といった生来の属性に結びつけて蔑視することを差別と言うのだ。

こんな当たり前のことが、ウヨい人たちには分からないのである。

[1] 高橋裕子 『津田梅子の社会史』 玉川大学出版部 2002年 P.188-189
[2] 『イザベラ・バードの日本紀行(上)』 講談社学術文庫 2008年

http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/06/08/113701  

http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/705.html#c9

[近代史3] 沖縄 首里城火災 _ 琉球人は何をやっても いい加減、無責任で「ゆすりとごまかしの名人」 中川隆
73. 中川隆[-13304] koaQ7Jey 2019年11月09日 15:07:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-406]

2019年11月09日
首里城出火原因はタコ足配線? 延長コードや配線からショート


延長コードのショートがきっかけだった可能性が高まっている


画像引用:首里城正殿の“延長コード”30以上の細切れ・・・溶けた痕(TBS系(JNN)) - Yahoo!ニュースhttps://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20191107-00000061-jnn-soci

分電盤がショートし出火

10月31日に焼失した首里城の出火場所は分電盤と特定されたが、出火原因はタコ足配線である可能性が高まった。

最初に火災報知器が作動し警備員が煙を目撃した正殿1階北側の内側では、焼け焦げた分電盤が回収されている。

3日に分電盤にはショートした痕跡があると説明され、防犯カメラには出火時刻に配電盤付近から火花が飛ぶ様子が映っていた。



最初の説明で管理を県から委託されていた沖縄美ら島財団は、夜間は電源を停止しているので電源からの出火は考えられないと言っていた。

実際には正殿内の防犯カメラは夜中でも稼働していたし、照明LEDへの電源も焼けた分電盤から供給されていた。

分電盤から伸びていた延長コードには、溶けた跡が30か所以上見つかっている。


那覇市消防局は電気設備以外に火災原因になるものが見当たらず、そういう証言もないと記者会見で説明した。

つまり出火元はこの分電盤自身であり、外部からの侵入者がなにかをした可能性もほぼ排除されている。

マスコミは分電盤にショートの痕があったと報道したが、消防局は「焼けた痕」としか説明していない。


ショートのような焼け痕は分電盤に繋がる床下や壁の中の配線と、分電盤のコンセントに差し込まれた延長コードから見つかった。

延長コードは30本に細切れとなっていたと言い、経年による劣化や動物か噛んだなどの可能性もある。

焼けた痕がショートによるものか火災の熱で溶けたのかは、これから鑑定するとしている。

分電盤にトラブルの疑い

いずれにしても出火元はこの分電盤の疑いが強いが、美ら島財団は夜間は通電していないと否定していました。

30日夜9時半に自動的にブレーカーが落ちたので電気は供給されていなかったと言っていたが、その後防犯カメラとLED照明に電気が供給されていたのが分かった。

さらにその後首里城関係者が退出した時に、LED照明を消さなかったかも知れないと言っているのが分かった。


消防局によると、出火時に延長コードは通電状態にあったので、照明はついていた可能性が高い。

首里城を巡っては管理責任がたらい回しにされたあげく、最後は現場の警備員に押し付けていたと批判されている。

首里城は国の予算で国が再建し国が所有しているが、返還運動などがあって管理権限が沖縄県に移された。


実際に管理権限が委譲されたのは2019年2月からで、県は沖縄美ら島財団に管理業務を委託した。

沖縄美ら島財団は公園や水族館の管理をしていた団体で、大型の城や寺社を管理した経験はない。


美ら島財団も首里城を管理できずに首里城職員まかせにし、出火した深夜は警備会社(セコム)の警備員数名しかいなかった。

分電盤の延長コードが最初の火元だった疑いがもたれている

画像引用:首里城火災調査「灰の中で発掘」 金属も溶ける高温「唯一の痕跡」は | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラスhttps://www.okinawatimes.co.jp/articles/gallery/495199?ph=2

沖縄 首里城火災 _ 琉球人は何をやっても いい加減で無責任 _ 3


ズタズタの延長コードの疑惑

沖縄美ら島財団は現場の実態を把握しておらず、最初の発表では「午前1時20分に警備員が巡回しセキュリティ装置作動」となっていた。

実際には正殿から最後に関係者が退出したのは「午後9時35分」で出火の5時間前だった。

正殿前広場では首里城祭の準備で計69人が照明などの設置作業をしていたが、正殿から電源をとっておらず1時5分に城内から出ていた。

この時午前1時5分ごろ、警備員は正殿のブレーカーを手動で切っていたので、出火時には防犯カメラにしか電気は使われていなかった。


消防の説明ではLED照明は業者が持ち込むような移動式らしく、許容量を超えた電流が流れた可能性がある。

調査の焦点は分電盤そのものから配線や延長コードに移り、過大な電流が流れてショートした疑いが強まっている。


一般家庭の電気火災で多いケースは、コンセントの埃や水でショートし出火する例が多い。

また延長コードやタップの許容量を超えた電流が流れる事で、延長コードがショートし出火する例がある。


市販の家庭用コードで許容量を超える照明につないでいたとしたら、それだけでショートの原因になったかも知れません。

室内で使用されている延長コードは椅子の下敷きなったりして、ショートしやすい状態になっている場合が多い。


また延長コード自体も数年で劣化するが、耐用年数を大幅に超えて使用されるのが常となっている。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/703.html#cbtm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/703.html#c73

[近代史3] イタリア半島の人口史 中川隆
1. 中川隆[-13303] koaQ7Jey 2019年11月09日 15:10:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-405]

2019年11月09日
長期にわたるローマ住民の遺伝的構成の変遷
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_21.html

 長期にわたるローマ住民の遺伝的構成の変遷に関する研究(Antonio et al., 2019)が報道されました。日本語の解説記事もあります。紀元前8世紀、ローマはイタリア半島の多くの都市国家の一つでした。1000年も経たないうちに、ローマは地中海全域を中心とする古代世界最大の帝国の首都となる大都市に成長しました。イタリア半島の一部として、ローマは独特な地理的位置を占めています。北はアルプス山脈により部分的に隔てられ、言語・文化・人々の移動にとって自然の障壁となります。またローマは、とくに青銅器時代の航海の大きな発展後は、地中海市周辺地域と密接につながるようになりました。ローマの歴史は広く研究されてきましたが、古代ローマの遺伝学的研究は限られています。

 本論文は、ローマの住民の遺伝的構成とその変遷の解明のため、ローマおよびイタリア中央部の29ヶ所の考古学的遺跡から127人の全ゲノムデータを生成しました。年代の推定は、直接的な放射性炭素年代測定法(33人)と考古学的文脈(94人)により得られました。DNAは内耳錐体骨の蝸牛部から抽出されました。内耳錐体骨には大量のDNAが含まれています。ゲノム規模解析の網羅率は平均1.05倍(0.4〜4.0倍)です。この個体群は時系列的には、中石器時代の狩猟採集民、新石器時代〜銅器時代農耕民、鉄器時代〜現代の個体群という遺伝的に異なる3クラスタに分類されます。

 より詳細な時代区分では、紀元前10000〜紀元前6000年頃となる中石器時代が3人、紀元前6000〜紀元前3500年頃となる新石器時代が10人、紀元前3500〜紀元前2300年頃となる銅器時代が3人、紀元前900〜紀元前27年となる鉄器時代が11人、紀元前27年〜紀元後300年となる帝政期が48人、紀元後300〜紀元後700年頃となる古代末期が24人、紀元後700〜紀元後1800年頃となる中世〜近世が28人、現代が50人です。なお、紀元前2300〜紀元前900年頃となる青銅器時代の標本はありません。

 歴史時代の個体群は、地中海およびヨーロッパの現代人集団(人口)と近似します。129人のうち最古の個体は紀元前10000〜紀元前7000年頃となる、中石器時代のアペニン山脈のコンティネンツァ洞窟(Grotta Continenza)狩猟採集民3人です。この3人は、同時代のヨーロッパの他地域の狩猟採集民(ヨーロッパ西部狩猟採集民、WHG)と遺伝的に近接しています。この3人はヘテロ接合性が近世イタリア中央部集団より30%低く、以前のWHGに関する推定と一致します。人口が少なく、遺伝的多様性が低かったことを反映しているのでしょう。この後、新石器時代にヘテロ接合性は急増し、その後は小さく増加していき、2000年前頃には現代人の水準に達します。

 ローマおよびイタリア中央部住民の最初の主要な遺伝的構成の変化は紀元前7000〜紀元前6000年頃に起き、新石器時代の開始と一致します。ヨーロッパの他地域の初期農耕民と同様に、イタリア中央部の新石器時代集団はアナトリア半島農耕民と遺伝的に近接しています。しかし、イタリア中央部新石器時代集団には、アナトリア半島北西部農耕民系統だけではなく、新石器時代イラン農耕民系統とコーカサス狩猟採集民系統(CHG)も少ないながら見られ、前者はやや高い割合になっています。これは、おもにアナトリア半島北西部系統を有する同時代のヨーロッパ中央部およびイベリア半島集団とは対照的です。さらに、新石器時代イタリア農耕民集団は、5%程度の在来狩猟採集民と、追加のコーカサス狩猟採集民系統(CHG)もしくは新石器時代イラン農耕民系統を有する95%程度のアナトリア半島もしくはギリシア北部新石器時代農耕民系統との混合としてモデル化できます。これらの知見は、ヨーロッパ中央部および西部と比較して、イタリアの新石器時代移行に関する異なるもしくは追加の集団を指摘します。後期新石器時代および銅器時代には、低い割合ながらWHG系統が次第に増加していき、同時期のヨーロッパ他地域と同じ傾向が見られます(関連記事)。これは、新石器時代にもWHG系統を高水準で有し続けた集団との混合を反映しているかもしれません。

 ローマおよびイタリア中央部住民の第二の主要な遺伝的構成の変化は紀元前2900〜紀元前900年頃に起きましたが、青銅器時代の標本が得られておらず、空白期間があるため、その正確な年代は特定できません。この期間に、主要な技術的発展により集団の移動性が増加しました。近東およびポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の戦車(チャリオット)と馬車の発展により、陸上での移動が可能となりました。また青銅器時代には航海技術が発展し、地中海全域の航海がより容易になって航海を促進し、後期青銅器時代と鉄器時代には、地中海を越えてギリシア・フェニキア(カルタゴ)植民地が拡大していきました。

 紀元前900〜紀元前200年となる共和政期を含む鉄器時代では11人のゲノムデータが得られました。鉄器時代の個体群の遺伝的構成は銅器時代と明らかに異なっており、草原地帯系統の追加と、新石器時代イラン農耕民系統の増加として解釈されます。青銅器時代〜鉄器時代にかけて、イタリア中央部集団は、ポントス-カスピ海草原起源の遊牧民集団より30〜40%程度の遺伝的影響を受けたとモデル化でき、これはヨーロッパの多くの青銅器時代集団と類似しています。鉄器時代のイタリアの草原地帯関連系統の存在は、直接的な草原地帯起源集団の遺伝的影響ではなく、中間的集団との遺伝的交換を通じて起きた可能性があります。さらに、複数の起源集団が、鉄器時代以前の遺伝的構成の変化に、同時にまたはその後に影響を及ぼしたかもしれません。遅くとも紀元前900年までに、イタリア中央部集団は現代の地中海集団と遺伝的に近接し始めました。

 国家としてのローマの起源に関する直接的な歴史学的もしくは遺伝学的情報はありませんが、考古学的証拠からは、ローマは前期鉄器時代には近隣のエトルリア人やラテン人の諸勢力の間に位置する小規模な都市国家だった、と示唆されます。ローマとギリシアやフェニキア(カルタゴ)の植民地との接触は、象牙・琥珀・ダチョウの卵殻など地元では入手できない物質や、ライオンなど地元には存在しない動物のデザインからも明らかです。鉄器時代の11人はひじょうに多様な系統を示し、鉄器時代にイタリア中央部へ移住してきた複数の起源集団を示唆します。この11人のうち8人は銅器時代イタリア中央部集団と草原地帯関連集団(24〜38%)の混合としてモデル化できますが、他の3人には当てはまりません。この3人のうちラテン人の遺跡の2人は、在来集団と古代近東集団(最良のモデルは青銅器時代アルメニア集団もしくは鉄器時代アナトリア半島集団)との混合としてモデル化されます。エトルリア遺跡の1人は、顕著なアフリカ系統を有し、それは後期新石器時代モロッコ集団から53%程度の影響を受けている、とモデル化できます。

 これは、エトルリア人(3人)とラテン人(6人)の間のかなりの遺伝的異質性を示唆します。ただ、F統計(単一の多型を対象に、複数集団で検証する解析手法)では、以前もしくは同時代のあらゆる集団と共有するエトルリア人とラテン人のアレル(対立遺伝子)の間の顕著な遺伝的違いは見られませんでした。しかし、小規模な標本では微妙な遺伝的違いの検出には限界があります。先史時代の個体群とは対照的に、鉄器時代個体群は現代のヨーロッパおよび地中海の個体群と遺伝的に類似しており、イタリア中央部が交易・植民地・紛争の新たなネットワークを通じて遠距離共同体とますます接続するようになるにつれて、多様な系統を示します。

 紀元前509〜紀元前27年の共和政の後、ローマは帝政に移行します。本論文は、紀元前27年〜紀元後300年までを帝政期とし、その後は700年までを古代末期(関連記事)としています。ローマの海外拡大は、紀元前264〜紀元前146年のポエニ戦争に始まります。この拡大はその後300年の大半にわたって続き、ブリタニア・モロッコ・エジプト・アッシリアにまで及びました。ローマ市の人口は100万人を超え、ローマ帝国全体の人口は5000万〜9000万人と推定されています。ローマ帝国は、交易ネットワーク・新たな道路・軍事作戦・奴隷を通じて、人々の移動と相互作用を促進しました。ローマ帝国は、領域外のヨーロッパ北部・サハラ砂漠以南のアフリカ・インド・アジア全域との長距離交易も行ないました。これらの史料はよく残っていますが、その遺伝的影響についてはほとんど知られていません。

 帝政期48人の最も顕著な傾向は、地中海東部系統への移行と、ヨーロッパ西部系統の少ない個体群が存在することです。帝政期48人は遺伝的に、ギリシア・マルタ・キプロス・シリアなど現代の地中海および近東集団とほぼ重なります。この移行には新石器時代イラン農耕民系統の割合のさらなる増加が伴います。鉄器時代個体群と比較して、帝政期個体群は青銅器時代ヨルダン人とより多くのアレルを共有しており、青銅器時代レバノン人や鉄器時代イラン人と同様に、帝政期個体群では混合の顕著な遺伝子移入兆候が示されます。帝政期の個体群は、前代の集団と他集団との単純な混合としてモデル化されるよりも、まだ特定もしくは研究されていない起源集団を含む複雑な混合事象だった、と示唆されます。

 帝政期の48人に関しては多様な系統が明らかになり、おもに異なる5クラスタに分類されます。鉄器時代の11人のうち8人が分類されるヨーロッパクラスタには、帝政期の48人のうち2人しか分類されません。一方、約2/3となる31人は、地中海東部および中部クラスタに分類されます。約1/4となる13人は、帝政期よりも前には存在しない近東クラスタに分類されます。主成分分析では、このクラスタ内の一部はレバノンの同時代(紀元後240〜630年)の4人と重なります。さらに48人のうち2人は、アフリカ北部クラスタに分類され、アフリカ北部系統を30〜50%有するとモデル化できます。

 平均的な系統の移行と遺伝的構成における複雑さの増大は、ローマ帝国の地中海全体への領域拡大に続いています。これにより、ローマは地中海全体とつながりましたが、本論文のデータは、帝国内でも他地域より地中海東部からの遺伝的影響がかなり大きい、と示します。これは、考古学的記録とも一致します。ローマの碑文の言語は、ラテン語に次いでギリシア語が多く、アラム語やヘブライ語といったローマ帝国東部の言語も使われました。また、碑文に見える出生地も、移民が一般的に帝国東部出身と示しています。帝国東部となるギリシアやフリギアやシリアやエジプトの宗教施設もローマでは一般的でしたし、ヨーロッパ最古となる既知のシナゴーグはローマの港町であるオスティア(Ostia)にあります。

 一方、ローマと帝国西部との関係についての証拠も豊富に報告されています。たとえば、帝国拡大に続いて、新たな征服地からローマへと奴隷が連れて来られました。ローマはガリアとイベリア半島からワインやオリーブオイル、アフリカ北部西方から穀物や塩など大量の物資を輸入しました。しかし、地中海西部集団と強い遺伝的類似性を有する帝政期の個体は48人のうち2人だけで、帝国西部からの移民は比較的限定的だった、と示唆されます。この理由として、地中海西部よりも東部の方が人口密度は高い、ということが考えられます。アテナイ・アンティオキア・アレクサンドリアなど、帝国東部には大都市が存在しました。また、直接的な移民に加えて、東方系統は、ギリシア・フェニキア(およびカルタゴ)のローマ帝国拡大前の地中海全域への拡散により間接的にもたらされた、とも考えられます。

 ローマに到来する人や物資の大半は海上経由で、ローマの主要港の居住者はイソラサクラ(Isola Sacra)墓地に埋葬されました。本論文で分析対象となったイソラサクラ遺跡の9人は、近東系の遺伝的影響と個人間の多様性の両方を表しています。この9人のうち、4人は近東クラスタ、4人は地中海東部クラスタ、1人はヨーロッパクラスタに分類されます。酸素同位体分析では、この9人全員が地元育ちだと示され、ローマにおける多様な系統を有する人々の長期的居住が示唆されます。ただ本論文は、類似した同位体比の他地域出身の可能性も除外できない、とも指摘しています。

 本論文では紀元後300年頃からとされている古代末期に、ローマ帝国西方は衰退・崩壊していき、帝国の比重はローマからビザンティウム(コンスタンティノープル、イスタンブール)へと移っていきます。古代末期の24人の平均的な系統は近東系から現代のヨーロッパ中央部集団へと移行していきます。具体的には、帝政期の住民とバイエルンもしくは現代バスクの個体群からの後期帝政期個体群(38〜41%)との混合としてモデル化できます。ただ、ほとんどの同時代の古代集団のデータが欠如しているため、起源集団と混合の正確な識別は断定的に述べられません。

 こうした系統の変化は、近東クラスタの大幅な減少、地中海東部および中央部クラスタの維持、ヨーロッパクラスタの顕著な拡大に反映されています。この移行は、紛争や伝染病によるローマの人口の劇的な減少(100万人以上から10万人未満)により促進された、地中海東部との接触の減少と、ヨーロッパからの遺伝子流動により起きたかもしれません。以前にはローマへと集約されていた交易や統治のネットワークはコンスタンティノープルにおいて再編され、人々の移動に影響を及ぼしました。さらに、いわゆる大移動の時代には、ヨーロッパ北部からイタリア半島へと集団が到来し、イタリア半島を征服しました。こうした人口減少や人々の移動経路の変化が、古代末期におけるローマの遺伝的構成の変容をもたらした、と考えられます。

 帝政期におけるローマの高度な個人間の異質性は古代末期でも続きます。古代末期の個体群は、地中海東部および中央部とヨーロッパのクラスタにほぼ三等分されます。一方で、遺伝的にサルデーニャ人に類似している1個体と、現代ヨーロッパ人と重なる2個体も確認されました。古代末期にも続くローマの遺伝的多様性は、継続する地中海西部との交易や大移動とともに、帝国期の交易・移住・奴隷・征服を含むいくつかの起源の結果かもしれません。この時期のイタリア北部のランゴバルド人のゲノムはすでに解析されていますが(関連記事)、本論文は、ランゴバルド人の影響がローマに及んだ可能性を指摘しています。本論文で調査対象とされた、ランゴバルド人関連の装飾品の発見された墓地では、7人のうち5人がヨーロッパクラスタに分類され、先行する帝政期の集団と、イタリア北部のランゴバルド人関連墓地の個体群との混合としてモデル化できます。

 中世と近世のローマおよびイタリア中央部住民においては、主主成分分析ではヨーロッパ中央部および北部系統への移行が観察され、近東および地中海東部クラスタが消滅します。中世の集団はほぼ現代のイタリア中央部集団に重なります。中世と近世のおよびイタリア中央部住民は、ローマの古代末期集団とヨーロッパの追加集団の双方向の組み合わせとしてモデル化でき、ヨーロッパ中央部および北部の多くの集団を含む潜在的な起源が推定されます。その候補として、ハンガリーのランゴバルド人、イングランドのサクソン人、スウェーデンのヴァイキングなどが挙げられます。

 この移行は、中世のローマとヨーロッパ本土との間の関係の進展と一致します。ローマはヨーロッパ中央部および西部の大半にまたがる神聖ローマ帝国に組み込まれました。ノルマン人はフランス北部から多くの地域へと拡大し、その中にはシチリア島やイタリア半島南部も含まれ、1084年にローマは略奪されました。さらに、ローマは神聖ローマ帝国と時には敵対しつつ密接な関係を維持し、カトリック教会の中心的位置としてのローマの役割は、ヨーロッパ全体、さらにはヨーロッパを越えた地域からイタリアへの人々の流入をもたらしました。ローマおよびイタリア中央部住民の遺伝的構成の変化は

画像
https://science.sciencemag.org/content/sci/366/6466/708/F2.large.jpg


 イタリア中央部集団は、農耕を導入した新石器時代と、鉄器時代以前(銅器時代〜鉄器時代の間)の2回、遺伝的構成が大きく変化し、その後に現代の地中海集団と近似し始めました。過去3000年、帝政期における近東からの遺伝子流動や、古代末期以降のヨーロッパからの遺伝子流動は、ローマの政治的立場の変化を反映しています。さらに、各期間内で、個体群は近東・ヨーロッパ・アフリカ北部など多様な系統を示しました。これら高水準の系統多様性はローマ建国前に始まり、帝国の興亡を通じて続き、ヨーロッパと地中海の人々の遺伝的十字路としてのローマの地位を示しています。


参考文献:
Antonio ML. et al.(2019): Ancient Rome: A genetic crossroads of Europe and the Mediterranean. Science, 366, 6466, 708–714.
https://doi.org/10.1126/science.aay6826

https://sicambre.at.webry.info/201911/article_21.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/624.html#c1

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
59. 中川隆[-13338] koaQ7Jey 2019年11月09日 15:39:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-440]

206名無しの笛の踊り2019/11/09(土) 15:27:36.47ID:glD+LRwS

20年ほど前アメリカで、モーツァルトを聴くと「IQが上がる」「頭が良くなる」と話題になりました。

大学生を対象にしたテストで、モーツァルトを聴くと空間認知のスコアが上がるという研究結果が出たのです。

そのため、子どもにはモーツァルトを聴かせるべきだという説が大流行し、「モーツァルト効果(The Mozart Effect )」と呼ばれるようになりました。

しかしその後、他の研究者が再現しようとしたところ同じ結果は出ませんでした。
そして、この「噂」に終止符を打ったのは、モーツァルトの故郷であるオーストリアのウィーン大学が出した研究結果です。

2010年に発表された論文で、モーツァルトの音楽に特別な効果はないことがわかりました。


オーストリアのウィーンの研究者は、単にモーツァルトの音楽を聞くだけで、特定の認知機能強化があるという、
いわゆる「モーツァルト効果」にはエビデンスがない、という明確な結果を示した。〜ScienceDaily

というわけで、モーツァルト効果は単なる「言い伝え」となったのです。
ではなぜ、日本では今でもこのテーマが話題になるのでしょうか? 
簡単に言えば、本やCDの宣伝効果があるからでしょう。

210名無しの笛の踊り2019/11/09(土) 15:31:30.97ID:Qcd/gKbL

> >
> > > > 序曲のランキングは
> > > >
> > > > ベートーヴェン >> ヘンデル >> ワーグナー >> グルック >> ドビュッシー >> ウェーバー >> シューマン >> メンデルスゾーン >> モーツァルト >> シューベルト >> リスト
> > > >
> > > > かな。 モーツァルトのオペラは名作でも序曲は大した事ない:
> > > >
> > > >
> > > ↑
これが、ブラームスとかベートーベンみたいな偽物かつぎ上げるゴミ脳の言葉!

211名無しの笛の踊り2019/11/09(土) 15:32:04.27ID:glD+LRwS

モーツァルトは子供の音楽で、モーツァルト・ファンはIQ低いんだ

それで「モーツァルトは史上最高の天才」だとか、「モーツァルトを聴くと IQ が上がる」だとかすぐに信じてしまうんだな。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c59

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
60. 中川隆[-13355] koaQ7Jey 2019年11月09日 15:57:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-457]
212名無しの笛の踊り2019/11/09(土) 15:55:01.48ID:glD+LRwS

同じイタリアの作曲家でもモンテヴェルディの音楽とヴェルディやプッチーニの音楽が天と地ほで違う理由


ミラノとは北イタリアの厳しく寒い、霧の土地です。
ナポリやローマの地中海に面した温暖明媚な都会でもなければ海辺の町でもない。
そこにある空気はイタリア的というよりゲルマニアに近い。
https://womanlife.co.jp/topics/k-2734

イタリアでは一般的にミラノ、フィレンツェ、ヴェネチアがあるゾーンを北イタリア、
ローマの辺りを中央、ローマから下、ナポリ、シチリアのゾーンを南イタリアと言います。
イタリアは、南北に長い国なので場所によって気候や風習が大きく違います。
建物の雰囲気も南北では大きく違います。
イタリア人の中でも、「彼は南の人だから」とか「北の人だから」と会話に出てくるほど性格に違いがあり、
その違いは日本でいう東京と大阪の違い以上に顕著です。

南イタリア人は、まさに日本人がイメージするイタリア人像です。笑うのが大好き、ふざけるのが大好きです。
 
イタリア人は、家族や友達のつながりが強いのですが、南の人は特に強いつながりを持ちます。
また、近隣住民とのつながりも強く、家族のように振る舞います。
初めて会った人でもまるで旧友のように話し始めます。
それは、観光客であっても話し始めたら抱きしめてくれて旧友のように接してくれます。

北イタリアの人は、イタリア人のイメージと違い神経質で心配性な人が多いです。
友達や家族のつながりを大切にしながらも、自分の時間や空間を大切にします。働き者でもあります。

旅行で人とのふれあいを期待するなら南イタリア、建築物や芸術を楽しむ旅行には北イタリアが良いかもしれませんね。
個人的に仕事・住居・ショッピングは、北イタリア、食・バカンスは南イタリア
ただし、南イタリアの女性だけの旅はいろいろ注意も必要。女性のご旅行の際は2人以上での旅行にしてみては?

文:Maki.C(イタリア在住音楽家/翻訳家)
http://www.ryugakupress.com/2016/02/26/italian-4/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c60

[リバイバル3] イタリア人が「世界で最も健康な国ランキング」1位!! その理由はオリーブ油? 中川隆
2. 中川隆[-13354] koaQ7Jey 2019年11月09日 15:58:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-456]

同じイタリアの作曲家でもモンテヴェルディの音楽とヴェルディやプッチーニの音楽が天と地ほで違う理由


ミラノとは北イタリアの厳しく寒い、霧の土地です。
ナポリやローマの地中海に面した温暖明媚な都会でもなければ海辺の町でもない。
そこにある空気はイタリア的というよりゲルマニアに近い。
https://womanlife.co.jp/topics/k-2734

イタリアでは一般的にミラノ、フィレンツェ、ヴェネチアがあるゾーンを北イタリア、
ローマの辺りを中央、ローマから下、ナポリ、シチリアのゾーンを南イタリアと言います。
イタリアは、南北に長い国なので場所によって気候や風習が大きく違います。
建物の雰囲気も南北では大きく違います。
イタリア人の中でも、「彼は南の人だから」とか「北の人だから」と会話に出てくるほど性格に違いがあり、
その違いは日本でいう東京と大阪の違い以上に顕著です。

南イタリア人は、まさに日本人がイメージするイタリア人像です。笑うのが大好き、ふざけるのが大好きです。
 
イタリア人は、家族や友達のつながりが強いのですが、南の人は特に強いつながりを持ちます。
また、近隣住民とのつながりも強く、家族のように振る舞います。
初めて会った人でもまるで旧友のように話し始めます。
それは、観光客であっても話し始めたら抱きしめてくれて旧友のように接してくれます。

北イタリアの人は、イタリア人のイメージと違い神経質で心配性な人が多いです。
友達や家族のつながりを大切にしながらも、自分の時間や空間を大切にします。働き者でもあります。

旅行で人とのふれあいを期待するなら南イタリア、建築物や芸術を楽しむ旅行には北イタリアが良いかもしれませんね。
個人的に仕事・住居・ショッピングは、北イタリア、食・バカンスは南イタリア
ただし、南イタリアの女性だけの旅はいろいろ注意も必要。女性のご旅行の際は2人以上での旅行にしてみては?

文:Maki.C(イタリア在住音楽家/翻訳家)
http://www.ryugakupress.com/2016/02/26/italian-4/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/972.html#c2

[リバイバル3] 幽玄の世界 _ モナリザは何故書き換えられたのか? 中川隆
13. 中川隆[-13353] koaQ7Jey 2019年11月09日 15:59:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-455]


同じイタリアの作曲家でもモンテヴェルディの音楽とヴェルディやプッチーニの音楽が天と地ほで違う理由


ミラノとは北イタリアの厳しく寒い、霧の土地です。
ナポリやローマの地中海に面した温暖明媚な都会でもなければ海辺の町でもない。
そこにある空気はイタリア的というよりゲルマニアに近い。
https://womanlife.co.jp/topics/k-2734

イタリアでは一般的にミラノ、フィレンツェ、ヴェネチアがあるゾーンを北イタリア、
ローマの辺りを中央、ローマから下、ナポリ、シチリアのゾーンを南イタリアと言います。
イタリアは、南北に長い国なので場所によって気候や風習が大きく違います。
建物の雰囲気も南北では大きく違います。
イタリア人の中でも、「彼は南の人だから」とか「北の人だから」と会話に出てくるほど性格に違いがあり、
その違いは日本でいう東京と大阪の違い以上に顕著です。

南イタリア人は、まさに日本人がイメージするイタリア人像です。笑うのが大好き、ふざけるのが大好きです。
 
イタリア人は、家族や友達のつながりが強いのですが、南の人は特に強いつながりを持ちます。
また、近隣住民とのつながりも強く、家族のように振る舞います。
初めて会った人でもまるで旧友のように話し始めます。
それは、観光客であっても話し始めたら抱きしめてくれて旧友のように接してくれます。

北イタリアの人は、イタリア人のイメージと違い神経質で心配性な人が多いです。
友達や家族のつながりを大切にしながらも、自分の時間や空間を大切にします。働き者でもあります。

旅行で人とのふれあいを期待するなら南イタリア、建築物や芸術を楽しむ旅行には北イタリアが良いかもしれませんね。
個人的に仕事・住居・ショッピングは、北イタリア、食・バカンスは南イタリア
ただし、南イタリアの女性だけの旅はいろいろ注意も必要。女性のご旅行の際は2人以上での旅行にしてみては?

文:Maki.C(イタリア在住音楽家/翻訳家)
http://www.ryugakupress.com/2016/02/26/italian-4/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/199.html#c13

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
61. 中川隆[-13370] koaQ7Jey 2019年11月09日 16:06:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-472]
イタリアの南北で分裂する!? 「イタリアの深刻な南北問題」
2018年2月メールマガジン
https://guideassociation.com/mailmagazine/post-4028/

Buon Giorno!
ボンジョルノ!
おはようございます!

フィレンツェ観光ガイドサービス&ブライダルフローレンス(海外挙式プランナー)
代表 片庭未芽(カタニワミメ)です。

2月後半に入りましたが、
イタリアはまだまだ寒い北風が吹く
寒い日が続いております。

なんと今週末は、
シベリアから寒波が入ってくるそうで、
フィレンツェでは滅多に降らない、雪の予報も。。。。!

さて、今日のメールマガジンのテーマは・・・・・

イタリアの南北で分裂する!? 
「イタリアの深刻な南北問題」

を取り上げてみました!

イタリアは日本と同じく、
南北に長い国土をしています。

日本と似ていて、周囲を地中海に囲まれています。
(日本は島国ですが、イタリアは半島です)

よくイタリア事情で耳にする
「南北問題」って聞いたことありますでしょうか?

簡単にいうと、

イタリアの北と南でかなりの
生活水準の格差があり
それが、分裂問題、または、人種差別

(地方差別というのが相応しいかもしれません)

にまで繋がっているのです。

特に、イタリアの本当の首都は
ローマですが・・・・

イタリアの経済の首都は
ミラノという、
北にあるイタリア経済を
支える大都市です。

ミラノに行くと、
イタリアンスーツをビシッと着て
ネクタイをしたビジネスマンが多く、
街も、とても綺麗。

特にファッション、モードの発祥地
と言われ、
ショッピング通りを歩いているだけで、
オシャレな「ミラノマダム」=セレブ
が闊歩しています。

(なんと釣れている犬まで
ヴィトンのリードをしていたり。。。。!!)

ミラノ、その近郊のトリノ、
自動車産業で有名なエミリアロマーニャ州などには、
イタリア全体を支えて行く
経済の街が集中しているのです。

ところが。。。。。

南イタリアを見てみましょう。

ローマは首都ではありますが、
経済としては

観光都市以外としては
特に際立ったものもなく、

街は、汚いし、盗難は多いし。。。。

さらにローマから南に行くと。。。

ナポリ、カラブリア、プーリア、シチリア。。。

ますます、「危険地区」とも言われる
ヤクザのアジトが多く存在する場所でもあります。

でも、外国人が考える

「陽気なイタリア人」
というイメージはまさに
南イタリアの人たちなのでは
ないでしょうか?

実は南イタリアでは
失業率が高く、
(働いていても、正式な契約ではなく、
全て、nero=黒い労働と言われて、
税金を払わない、日雇い労働)

物価は北イタリアよりも
安いのですが、
給料が安く、
(というか稼ぎがないので、生活もなかなか大変)

そのために、
若者は、南を拠点とする「ヤクザ」に
傾倒して行くので、
犯罪や薬物に染まって行く。。。

というのが南イタリアの状況なのです。。。。

結果、イタリアという国全体に何が起こるのかというと。。。

南イタリアの人は税金を払わないので、

(職が無いか、
Nero =税金無払いの職についているから)

結局、北イタリアの人が払っている高額な
税金は南にほとんどまわされる・・・・

= 北イタリアの労働者が重税に悩まされるが
それは、ほとんど、自分たちの街(北イタリア)には
反映されていない。

という悪循環が生まれるのです。。。。

実際、イタリアには、
LEGA NORD=北結束政党
というのが古くから存在し、
現在、かなり選挙では
有力だとも言われているのですが、
彼らのモットーは
「南北分裂」

「イタリアの北と南を分けよう!!」

そうすれば、

南イタリアに税金を回さずに、
北イタリア経済に恩恵をもたらすことができる
という目的を掲げているのです。。。

実際、北イタリア(特にミラノ)には、
南イタリアから移住した
住民が多いと言われます。

(南では、仕事がないので、
北に行って出稼ぎしているか、
そのまま、移住して、ミラノ生まれの子供達の世代が
今のミラノ人の中心となっている場合が多いのですが)

中でも、ミラノ言葉で
「sei proprio un mandarino」
「お前は、ミカンだね!」
という人を馬鹿にする言葉があります。

ミカン=南イタリアからくる果物:
南イタリア人のように、馬鹿だという意味

という、ひどい「人種差別と言っていい」
言葉があるくらいなのです。。。

やはり、ナポリ弁や、カラブリア弁を話していると
かなり学校でも馬鹿にされると言いますし。。。

ただ、イタリアは最近はもう、学校の中でも、
地方の差別というよりは、
外国人の生徒がかなり増えてきているので
そちらの差別の方がどうしても濃くはなっているようですが。。。

何年か前に、イタリア映画で
「benvenuto ai sud」=南へようこそ!

というお笑い系映画が流行りました。

北イタリアのエリートを目指していたサラリーマンが
突然、南イタリアに飛ばされるというストーリーで。。。

最初は、家族や周囲に、「死に別れ」当然のように見送られ、
防弾チョッキを着て、南に単身した主人公。

最初は、生活に慣れず、
南イタリアの方言も全く理解できず、
恐怖と不信感に悩まされ
1日も早くミラノへ帰りたいと
嘆きます。。。

ところが、徐々に、南イタリアの人々の
心の暖かさ、陽気さ、懐の深さ、
生活リズムのリラックス感

何よりも素晴らしい自然と美しい海、そして美味しい食事。。。など

に主人公は気がついていき、

結局は彼は南の素晴らしさを発見することになるという
ストーリーなのです。。。

イタリアというのは、
地方色がとても強い国だと思いますが、
それ全てを合わせて、
多種多様の民族が
昔から、混じり合い(古代ローマ帝国時代から)
お互いに共有し、影響しあい、発展してきた国です。

人って違うからこそ、「素晴らしい」と思いませんか?

イタリアという国の素晴らしさはそこにあると思います。

北から、南から「本当にイタリアという国は、行く街、
会う人、全然特徴が違う!」

だから何度訪れても興味深い国

:それがイタリアの良いところだと思っています。

来月の3月の選挙では、
このleganord レーガノルド :南北分裂を掲げている政党が
勝たないことを祈るばかりです。。。。
https://guideassociation.com/mailmagazine/post-4028/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c61

[リバイバル3] 幽玄の世界 _ モナリザは何故書き換えられたのか? 中川隆
14. 中川隆[-13369] koaQ7Jey 2019年11月09日 16:06:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-471]
イタリアの南北で分裂する!? 「イタリアの深刻な南北問題」
2018年2月メールマガジン
https://guideassociation.com/mailmagazine/post-4028/

Buon Giorno!
ボンジョルノ!
おはようございます!

フィレンツェ観光ガイドサービス&ブライダルフローレンス(海外挙式プランナー)
代表 片庭未芽(カタニワミメ)です。

2月後半に入りましたが、
イタリアはまだまだ寒い北風が吹く
寒い日が続いております。

なんと今週末は、
シベリアから寒波が入ってくるそうで、
フィレンツェでは滅多に降らない、雪の予報も。。。。!

さて、今日のメールマガジンのテーマは・・・・・

イタリアの南北で分裂する!? 
「イタリアの深刻な南北問題」

を取り上げてみました!

イタリアは日本と同じく、
南北に長い国土をしています。

日本と似ていて、周囲を地中海に囲まれています。
(日本は島国ですが、イタリアは半島です)

よくイタリア事情で耳にする
「南北問題」って聞いたことありますでしょうか?

簡単にいうと、

イタリアの北と南でかなりの
生活水準の格差があり
それが、分裂問題、または、人種差別

(地方差別というのが相応しいかもしれません)

にまで繋がっているのです。

特に、イタリアの本当の首都は
ローマですが・・・・

イタリアの経済の首都は
ミラノという、
北にあるイタリア経済を
支える大都市です。

ミラノに行くと、
イタリアンスーツをビシッと着て
ネクタイをしたビジネスマンが多く、
街も、とても綺麗。

特にファッション、モードの発祥地
と言われ、
ショッピング通りを歩いているだけで、
オシャレな「ミラノマダム」=セレブ
が闊歩しています。

(なんと釣れている犬まで
ヴィトンのリードをしていたり。。。。!!)

ミラノ、その近郊のトリノ、
自動車産業で有名なエミリアロマーニャ州などには、
イタリア全体を支えて行く
経済の街が集中しているのです。

ところが。。。。。

南イタリアを見てみましょう。

ローマは首都ではありますが、
経済としては

観光都市以外としては
特に際立ったものもなく、

街は、汚いし、盗難は多いし。。。。

さらにローマから南に行くと。。。

ナポリ、カラブリア、プーリア、シチリア。。。

ますます、「危険地区」とも言われる
ヤクザのアジトが多く存在する場所でもあります。

でも、外国人が考える

「陽気なイタリア人」
というイメージはまさに
南イタリアの人たちなのでは
ないでしょうか?

実は南イタリアでは
失業率が高く、
(働いていても、正式な契約ではなく、
全て、nero=黒い労働と言われて、
税金を払わない、日雇い労働)

物価は北イタリアよりも
安いのですが、
給料が安く、
(というか稼ぎがないので、生活もなかなか大変)

そのために、
若者は、南を拠点とする「ヤクザ」に
傾倒して行くので、
犯罪や薬物に染まって行く。。。

というのが南イタリアの状況なのです。。。。

結果、イタリアという国全体に何が起こるのかというと。。。

南イタリアの人は税金を払わないので、

(職が無いか、
Nero =税金無払いの職についているから)

結局、北イタリアの人が払っている高額な
税金は南にほとんどまわされる・・・・

= 北イタリアの労働者が重税に悩まされるが
それは、ほとんど、自分たちの街(北イタリア)には
反映されていない。

という悪循環が生まれるのです。。。。

実際、イタリアには、
LEGA NORD=北結束政党
というのが古くから存在し、
現在、かなり選挙では
有力だとも言われているのですが、
彼らのモットーは
「南北分裂」

「イタリアの北と南を分けよう!!」

そうすれば、

南イタリアに税金を回さずに、
北イタリア経済に恩恵をもたらすことができる
という目的を掲げているのです。。。

実際、北イタリア(特にミラノ)には、
南イタリアから移住した
住民が多いと言われます。

(南では、仕事がないので、
北に行って出稼ぎしているか、
そのまま、移住して、ミラノ生まれの子供達の世代が
今のミラノ人の中心となっている場合が多いのですが)

中でも、ミラノ言葉で
「sei proprio un mandarino」
「お前は、ミカンだね!」
という人を馬鹿にする言葉があります。

ミカン=南イタリアからくる果物:
南イタリア人のように、馬鹿だという意味

という、ひどい「人種差別と言っていい」
言葉があるくらいなのです。。。

やはり、ナポリ弁や、カラブリア弁を話していると
かなり学校でも馬鹿にされると言いますし。。。

ただ、イタリアは最近はもう、学校の中でも、
地方の差別というよりは、
外国人の生徒がかなり増えてきているので
そちらの差別の方がどうしても濃くはなっているようですが。。。

何年か前に、イタリア映画で
「benvenuto ai sud」=南へようこそ!

というお笑い系映画が流行りました。

北イタリアのエリートを目指していたサラリーマンが
突然、南イタリアに飛ばされるというストーリーで。。。

最初は、家族や周囲に、「死に別れ」当然のように見送られ、
防弾チョッキを着て、南に単身した主人公。

最初は、生活に慣れず、
南イタリアの方言も全く理解できず、
恐怖と不信感に悩まされ
1日も早くミラノへ帰りたいと
嘆きます。。。

ところが、徐々に、南イタリアの人々の
心の暖かさ、陽気さ、懐の深さ、
生活リズムのリラックス感

何よりも素晴らしい自然と美しい海、そして美味しい食事。。。など

に主人公は気がついていき、

結局は彼は南の素晴らしさを発見することになるという
ストーリーなのです。。。

イタリアというのは、
地方色がとても強い国だと思いますが、
それ全てを合わせて、
多種多様の民族が
昔から、混じり合い(古代ローマ帝国時代から)
お互いに共有し、影響しあい、発展してきた国です。

人って違うからこそ、「素晴らしい」と思いませんか?

イタリアという国の素晴らしさはそこにあると思います。

北から、南から「本当にイタリアという国は、行く街、
会う人、全然特徴が違う!」

だから何度訪れても興味深い国

:それがイタリアの良いところだと思っています。

来月の3月の選挙では、
このleganord レーガノルド :南北分裂を掲げている政党が
勝たないことを祈るばかりです。。。。
https://guideassociation.com/mailmagazine/post-4028/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/199.html#c14

[リバイバル3] イタリア人が「世界で最も健康な国ランキング」1位!! その理由はオリーブ油? 中川隆
3. 中川隆[-13368] koaQ7Jey 2019年11月09日 16:07:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-470]
イタリアの南北で分裂する!? 「イタリアの深刻な南北問題」
2018年2月メールマガジン
https://guideassociation.com/mailmagazine/post-4028/

Buon Giorno!
ボンジョルノ!
おはようございます!

フィレンツェ観光ガイドサービス&ブライダルフローレンス(海外挙式プランナー)
代表 片庭未芽(カタニワミメ)です。

2月後半に入りましたが、
イタリアはまだまだ寒い北風が吹く
寒い日が続いております。

なんと今週末は、
シベリアから寒波が入ってくるそうで、
フィレンツェでは滅多に降らない、雪の予報も。。。。!

さて、今日のメールマガジンのテーマは・・・・・

イタリアの南北で分裂する!? 
「イタリアの深刻な南北問題」

を取り上げてみました!

イタリアは日本と同じく、
南北に長い国土をしています。

日本と似ていて、周囲を地中海に囲まれています。
(日本は島国ですが、イタリアは半島です)

よくイタリア事情で耳にする
「南北問題」って聞いたことありますでしょうか?

簡単にいうと、

イタリアの北と南でかなりの
生活水準の格差があり
それが、分裂問題、または、人種差別

(地方差別というのが相応しいかもしれません)

にまで繋がっているのです。

特に、イタリアの本当の首都は
ローマですが・・・・

イタリアの経済の首都は
ミラノという、
北にあるイタリア経済を
支える大都市です。

ミラノに行くと、
イタリアンスーツをビシッと着て
ネクタイをしたビジネスマンが多く、
街も、とても綺麗。

特にファッション、モードの発祥地
と言われ、
ショッピング通りを歩いているだけで、
オシャレな「ミラノマダム」=セレブ
が闊歩しています。

(なんと釣れている犬まで
ヴィトンのリードをしていたり。。。。!!)

ミラノ、その近郊のトリノ、
自動車産業で有名なエミリアロマーニャ州などには、
イタリア全体を支えて行く
経済の街が集中しているのです。

ところが。。。。。

南イタリアを見てみましょう。

ローマは首都ではありますが、
経済としては

観光都市以外としては
特に際立ったものもなく、

街は、汚いし、盗難は多いし。。。。

さらにローマから南に行くと。。。

ナポリ、カラブリア、プーリア、シチリア。。。

ますます、「危険地区」とも言われる
ヤクザのアジトが多く存在する場所でもあります。

でも、外国人が考える

「陽気なイタリア人」
というイメージはまさに
南イタリアの人たちなのでは
ないでしょうか?

実は南イタリアでは
失業率が高く、
(働いていても、正式な契約ではなく、
全て、nero=黒い労働と言われて、
税金を払わない、日雇い労働)

物価は北イタリアよりも
安いのですが、
給料が安く、
(というか稼ぎがないので、生活もなかなか大変)

そのために、
若者は、南を拠点とする「ヤクザ」に
傾倒して行くので、
犯罪や薬物に染まって行く。。。

というのが南イタリアの状況なのです。。。。

結果、イタリアという国全体に何が起こるのかというと。。。

南イタリアの人は税金を払わないので、

(職が無いか、
Nero =税金無払いの職についているから)

結局、北イタリアの人が払っている高額な
税金は南にほとんどまわされる・・・・

= 北イタリアの労働者が重税に悩まされるが
それは、ほとんど、自分たちの街(北イタリア)には
反映されていない。

という悪循環が生まれるのです。。。。

実際、イタリアには、
LEGA NORD=北結束政党
というのが古くから存在し、
現在、かなり選挙では
有力だとも言われているのですが、
彼らのモットーは
「南北分裂」

「イタリアの北と南を分けよう!!」

そうすれば、

南イタリアに税金を回さずに、
北イタリア経済に恩恵をもたらすことができる
という目的を掲げているのです。。。

実際、北イタリア(特にミラノ)には、
南イタリアから移住した
住民が多いと言われます。

(南では、仕事がないので、
北に行って出稼ぎしているか、
そのまま、移住して、ミラノ生まれの子供達の世代が
今のミラノ人の中心となっている場合が多いのですが)

中でも、ミラノ言葉で
「sei proprio un mandarino」
「お前は、ミカンだね!」
という人を馬鹿にする言葉があります。

ミカン=南イタリアからくる果物:
南イタリア人のように、馬鹿だという意味

という、ひどい「人種差別と言っていい」
言葉があるくらいなのです。。。

やはり、ナポリ弁や、カラブリア弁を話していると
かなり学校でも馬鹿にされると言いますし。。。

ただ、イタリアは最近はもう、学校の中でも、
地方の差別というよりは、
外国人の生徒がかなり増えてきているので
そちらの差別の方がどうしても濃くはなっているようですが。。。

何年か前に、イタリア映画で
「benvenuto ai sud」=南へようこそ!

というお笑い系映画が流行りました。

北イタリアのエリートを目指していたサラリーマンが
突然、南イタリアに飛ばされるというストーリーで。。。

最初は、家族や周囲に、「死に別れ」当然のように見送られ、
防弾チョッキを着て、南に単身した主人公。

最初は、生活に慣れず、
南イタリアの方言も全く理解できず、
恐怖と不信感に悩まされ
1日も早くミラノへ帰りたいと
嘆きます。。。

ところが、徐々に、南イタリアの人々の
心の暖かさ、陽気さ、懐の深さ、
生活リズムのリラックス感

何よりも素晴らしい自然と美しい海、そして美味しい食事。。。など

に主人公は気がついていき、

結局は彼は南の素晴らしさを発見することになるという
ストーリーなのです。。。

イタリアというのは、
地方色がとても強い国だと思いますが、
それ全てを合わせて、
多種多様の民族が
昔から、混じり合い(古代ローマ帝国時代から)
お互いに共有し、影響しあい、発展してきた国です。

人って違うからこそ、「素晴らしい」と思いませんか?

イタリアという国の素晴らしさはそこにあると思います。

北から、南から「本当にイタリアという国は、行く街、
会う人、全然特徴が違う!」

だから何度訪れても興味深い国

:それがイタリアの良いところだと思っています。

来月の3月の選挙では、
このleganord レーガノルド :南北分裂を掲げている政党が
勝たないことを祈るばかりです。。。。
https://guideassociation.com/mailmagazine/post-4028/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/972.html#c3

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
62. 中川隆[-13457] koaQ7Jey 2019年11月09日 17:20:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-559]

215名無しの笛の踊り2019/11/09(土) 15:59:48.23ID:Qcd/gKbL

>>214

> > > モーツァルトは子供の音楽で、モーツァルト・ファンはIQ低いんだ
> > >
> > > それで「モーツァルトは史上最高の天才」だとか、「モーツァルト効果」のデマをすぐに信じてしまうんだな。
> >
> > ↑
ブラームスやベートーベン聞く奴の知性レベルが解るコメントですな!

217名無しの笛の踊り2019/11/09(土) 16:35:47.00ID:glD+LRwS

お子様には未成年のアイドルの歌う流行歌とモーツァルトが合ってるんだよな

218名無しの笛の踊り2019/11/09(土) 16:48:27.62ID:Qcd/gKbL

> お子様には未成年のアイドルの歌う流行歌とモーツァルトが合ってるんだよな


だよな!だよな!
このモーツァルト判らんスレッド最高!
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1571178797/l50
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c62

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
63. 中川隆[-13636] koaQ7Jey 2019年11月09日 19:58:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-738]

231名無しの笛の踊り2019/11/09(土) 19:42:51.99ID:glD+LRwS

Brahms orch. Schoenberg Piano Quartet No. 1 in G minor Op. 25 (1861 orch. 1937) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZAhrIt6Rd0I

Performed by the London Symphony Orchestra conducted by Neeme Järvi.

____

Brahms orch. Edmund Rubbra Variations & Fugue on a theme by Handel Op. 24 (1861 orch. 1938) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=OXHjZI6tWZw

Originally composed for solo piano.
Performed by the London Symphony Orchestra conducted by Neeme Järvi.

232名無しの笛の踊り2019/11/09(土) 19:45:05.44ID:glD+LRwS

ブラームス/シェーンベルク ピアノ四重奏曲第1番 - YouTube
サイモン・ラトル指揮BPO
https://www.youtube.com/watch?v=xANZT4GdyMg
https://www.youtube.com/watch?v=Yppkz1DQFsw
https://www.youtube.com/watch?v=wLOpvIiu09g
https://www.youtube.com/watch?v=225xKAM9McM

233名無しの笛の踊り2019/11/09(土) 19:49:48.94ID:glD+LRwS

シェーンベルグ編曲より原曲の方が遥かにいいというのが何かなー


Piano Quartet No. 1 in G Minor, Op. 25 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=H47HIgpeNfE
https://www.youtube.com/watch?v=6zort-YrOqM
https://www.youtube.com/watch?v=C-ZhWhF-itc
https://www.youtube.com/watch?v=wqORoyQ3mgA

Artist: Adolf Busch
Artist: Hugo Gottesmann
Artist: Herman Busch
Artist: Rudolf Serkin



▲△▽▼


ブラームスの「交響曲第5番」?

ナチス政権の成立によってドイツを追われることとなったシェーンベルクは、パリを経てアメリカに亡命する。その地でシェーンベルクはオーケストラ作品への編曲を幾つか手がけるが、その一曲にブラームスが若かりし頃に書いたピアノ四重奏曲もあった。

シェーンベルクは出来上がったこの編曲に大変満足し、聴衆からも高い評価も獲得する。中には「ブラームスの交響曲第5番」というものまであった。しかし、実際のこの曲はブラームスが決して自らの交響曲に使わなかった楽器や特殊奏法のオンパレードであり、そして何より、ジプシー音楽的な情熱をそのまま表現した音楽それ自体、ブラームスが決して交響曲の題材に選ばなかったものである。

そのことを考えると、この編曲をブラームスの交響曲第5番と呼ぶことは、やはりあまり適当なこととは言えない。しかし、一つ視点を変えてみると、また違った様相が見えてくる時がある。

シェーンベルクはウィーンで正統派ユダヤ教徒の家庭に生まれた。しかし宗教的には自由な環境で育つ。1898年、24歳の時にプロテスタントに改宗する。同化ユダヤ人となってウィーンでの社会的地位を改善するためであったが、ウィーンで勢力の強いカトリックは選択しなかった。その後、シェーンベルクはウィーンやドイツ・ベルリンで活動を続ける。しかしユダヤ的なものへのこだわりはシェーンベルクの中でくすぶり続け、「ドイツ人」を追われた1933年、亡命の経由地パリでユダヤ教に改宗する。

しかし、ドイツ時代のシェーンベルクは、自分を偉大なドイツ音楽の継承者だと信じて疑わなかった。このことは次の言葉からも推し量る事ができよう。「ドイツ民族の魂から生まれた、外国の影響を全く受けていない私の音楽は、ラテンやスラヴ民族の覇権の期待に最も効果的に対抗し得る芸術の実例である。」(1931年、エッセイ「国民音楽」より。)偉大なドイツ音楽の伝統を受け継いだその自分を放り出したナチスに対して、シェーンベルクは憤懣やるかたないことだったろう。アメリカの地で、シェーンベルクは快適な環境を容易には見つける事ができずにいた。ましてや、ヨーロッパで苦労の末獲得した作曲家としての名声や尊敬など、ここ新世界アメリカでは御伽噺でしかなかい。

そんな中での「ブラームスの交響曲第5番」という言葉は、例えそれが編曲に対しての言葉であっとしても(アメリカの聴衆にはこの作品のメロディがブラームスのものだと気付かない者もいたが)、シェーンベルクは決して悪い気はしなかったであろう。

その昔、ブラームスの交響曲第1番は初演された当時「ベートーヴェンの交響曲第10番」と呼ばれた。偉大なベートーヴェンの伝統を受け継ぐもの、という意味を込めてである。これを踏まえると、シェーンベルクはここにおいて、ベートーヴェン−ブラームスと続くドイツ音楽の系譜の中に位置付けられる存在となったのである。そしてこの編曲以降、シェーンベルクの作品には《コル・ニドレ》や《ワルシャワの生き残り》《現代詩編》など、ユダヤ的な作品がより目立った位置を占めるようになる。このブラームスのピアノ四重奏曲の編曲は、シェーンベルクのドイツ的なものからユダヤ的なものへの転回点の時期に位置する作品であるといえるかもしれない。
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-sinphonie-5

▲△▽▼


ブラームス ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 シェーンベルク編曲版
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-piano-quartet

〈未完成〉との間を繋ぐ鍵としての『ハンガリー・ジプシーの音楽』

1828年に31歳で早世したシューベルトと、5年後の1833年に生れたブラームス。その接点が、1880年代にブライトコプフ社が刊行したシューベルト全集で、ブラームスが交響曲の巻の編纂を担当したことにあるのは拙著『交響曲の名曲・1』で述べたとおりだ。しかし1822年前後に作曲されたまま眠り続け1865年に初演された〈未完成〉と、それより前の1861年に完成・初演されたブラームスの〈ピアノ四重奏曲・第1番〉との関係をひもとくのは一筋縄ではいかない。鍵は『ハンガリー・ジプシーの音楽』にある。

以前ハンガリーの指揮者I.フィッシャーがN響に客演して『ハンガリー音楽特集』を指揮した際に〈未完成〉が入っていたので、その理由について質問を受けたことがある。しかし、これは音楽映画『未完成交響楽』をご存じの世代には説明を要しないことであろう。そこではハンガリーの貴族エスタルハージ家の令嬢との恋の破局が、第3楽章以下を破棄させた原因として描かれていたからだ。史実を自由に取捨選択してロマンティックなフィクションを創作した古典的音楽映画にクレームをつけるなら、例えば、最晩年に作曲されることになる〈菩提樹〉が既に歌われている等、幾らでもできるが、シューベルトが高名な貴族の音楽教師として雇われてハンガリーのツェレスに赴いたのは事実(但し令嬢は、まだ12歳だったのだけれども)。そして〈未完成〉にハンガリー・ジプシーの音楽を思わせる主題が登場するのも明らかなのだ。

第1楽章が始まって直ぐオーボエとクラリネットがユニゾンで吹く主題@がそれ(以下ジプシー関係の譜例は、比較し易いようにイ短調に移調してある)。ついでに言うと、こうした単旋律を木管で呈示する場合、普通は一つの楽器のソロの方が推奨される。違う楽器2本のユニゾンだと音程が合いにくいからだが、シューベルトが敢えてリスクを犯したのはハンガリー・ジプシーの使う木管楽器の土臭い音色を、ダブル・リードのオーボエとシングル・リードのクラという異種の混合色で真似しようという意図があったからだという説もある。

brahms pq fig01

Aがハンガリー・ジプシーの短音階とされるものだが、@の↓のミ♭あたりが、クラシック音楽の一般的な短音階とは違って『こぶしを効かせた』感じとなる。これを半音高いミ・ナチュラルで演奏してみれば、この音が〈未完成〉の哀調を帯びた雰囲気の鍵を握っていることがお分かり頂けることだろう。

brahms pq fig02 03

ジプシー音楽はウィーンでも聴けたはずであり、シューベルトがツェレスで初めて接したということにはならないと思われるので、シューベルトの場合、時系列的な前後関係まで深追いしても意味はないが、ブラームスの場合は直接の伝授者がはっきりしている。17歳の時に知り合ったハンガリーからの亡命ヴァイオリニスト、レメーニだ。その成果が35歳の1868年に〈ハンガリー舞曲集〉として発表されたのはご存じのとおりだが、それより前に初演されて大成功を収めたハンガリー・ジプシー系の作品がある。それが他ならぬ、この〈ピアノ四重奏曲・第1番〉なのだ。

1861年にクララ・シューマンのピアノ他で行なわれた初演は、特に第4楽章が聴衆から最も喝采され、友人の大ヴァイオリニスト、ヨアヒムもこのフィナーレ楽章を絶賛したという。Bがその主題。この場合音程そのものは普通の旋律的短音階なのだが、6小節目(↓)で高く跳ね上がるあたりが民俗的だ(普通ならオクターヴ下になるはず)。

パソコンがフリーズしてしまったおかげで、この原稿は03年のニューイャー・コンサートを観ながら打っているのだが、アーノンクールが〈ハンガリー舞曲第5番〉をブラームスが一番気に入っていたというライヒェルトの編曲で演奏している。その中で最も目立った特徴は、主部の終わりで、旋律線が通常よりオクターヴ高く跳躍すること。この『裏返った』強調こそは、Bの6小節目と同じで、ブラームスがジプシー風と感じていたポイントの一つに他ならないのではあるまいかと、改めて実感した次第。フィナーレ楽章中間部のチェロに出てくる短調の主題Cなどは、ジプシーの嘆きそのものと言っても過言ではなく、理屈っぽい説明は不要だろう。
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-piano-quartet

交響曲をどう終わらせるか。ベートーヴェンの重圧。

ハイドンが100曲以上も交響曲を書き、モーツァルトも40曲を超えたのに、ベートーヴェンが9曲しか残さなかったのは後の交響曲作曲家にとって大きなプレッシャーとなった。数の少なさではなく、作曲家が芸術家としての全能力を注ぎ、思想的な主張まで折り込んだ選りすぐりの傑作として交響曲を位置づけなければならなくなったからだ。そのためブラームス、チャイコフスキー、ドヴォルジャーク等は、古典派の時代だったら交響曲としてもおかしくない内容の曲を、〈セレナード〉や〈組曲〉として発表することになる。シューベルトがロ短調交響曲を未完成のまま残した理由を、そうしたあたりに求める学者も少なくない。

シューベルトは6曲の未完成交響曲を残しているが、そのうちの5曲は〈6番〉を作曲した19歳より後に集中している。楽想は幾らでも湧いてくるのから、素材は直ぐに出来てしまうのだが、それを纏めあげてベートーヴェンに較べて見劣りしないような4楽章仕立ての大交響曲として仕上げるのが至難の業だったからだ。ロ短調の〈未完成〉の場合は、第1楽章からトロンボーンを使うのに加え、最初から大衆音楽としてのジプシーの要素を導入するなど、ベートーヴェンを越えようとする新機軸を採用して意欲満々で前半2楽章を書き終えたものの、その着地の仕方に手こずり、仕切り直し的に再挑戦したハ長調の〈グレイト〉で、一応、一つの解答を見出したところで神に召されたのである。

ブラームスの場合も2曲のピアノ協奏曲を、その内容の重厚さから『ピアノ独奏付きの交響曲』と呼ぶこともあるし、例えば〈交響曲第5番〉になるはずがヴァイオリンとチェロの〈二重協奏曲〉になったように、交響曲として着想した素材を、結局は違う形の曲に仕上げたケースも多い。

ブラームスは43歳の1876年に完成・初演した〈1番〉を含めて4曲しか交響曲を残していないのだが、シェーンベルクの堂々たる編曲でお聴きになれば、それより15年前に初演されたこの〈ピアノ四重奏曲・第1番〉こそは、2曲の〈セレナード〉よりも『幻の交響曲』に相応しいことを実感されるに違いない。シェーンベルクは、冗談めかして「ブラームスの〈5番〉」と呼んでいたそうだが、原曲の成立年代を考慮するなら、ブルックナー風に〈0番〉とする方が似合いではあるまいか。しかしその場合に引っ掛かる可能性があるのが、ジプシー音楽風のフィナーレなのだ。

フィナーレを締め括る『ジプシーの音楽』による熱狂

シェーンベルクは長さや構成は原曲を尊重して、オーケストレーションだけに仕事を限っているので比較し易い。もし仮にブラームス自身が同様の試みを行なったとしたら、色彩は比べ物にならないくらい地味になったに違いないにしろ、シェーンベルクの編曲版と同じく原寸大の交響曲的な大作が出来上がったのは間違いないのだ。もし、それを〈交響曲第1番〉として発表したなら、当時の批評は、前半3楽章の北ドイツ的な重厚さを認めつつも、新進気鋭の若手が力及ばず、第4楽章で「大衆音楽へ擦り寄った」として批判した可能性が強い。

我々が、こうしたフィナーレにそれほど違和感を感じないのは、既に後の〈ハンガリー舞曲集〉の編曲者としてのブラームスを知っていることも大きい。更には、チャイコフスキーの交響曲〈第4番〉やドヴォルジャークの〈8番〉等、民俗音楽的・民衆音楽的な要素を打ち出したフィナーレを結論とする交響曲が歴史的に承認されてしまってから後の耳で聴いているという事実も忘れてはなるまい。

結局ブラームスは、交響曲の終楽章としては4曲とも構成的に凝った『芸術音楽』として誰からも後ろ指を差されないフィナーレを書いたわけだが、このシェーンベルク編曲版を体験すると、血気盛んだった20代に、こうした舞曲的な乗りで最後にエネルギーを開放するタイプの交響曲 -- ベートーヴェンの〈7番〉やメンデルスゾーンの〈イタリア〉を継承してバッカス的な熱狂で終わるタイプのシンフォニーを発表しても良かったのではと思えるのだ。少なくとも筆者は、シェーンベルクの優れた編曲に感謝しつつ、後の4曲に比すべき本格的な交響曲として演奏するつもりである。

話を〈未完成〉に戻そう。一頃〈未完成〉を完成させようという試みが真剣になされ、作曲を公募するコンクールさえ行なわれたこともある。それをブラームス=シェーンベルクによる〈0番〉的な解答から遡って考えてみると、シューベルトの場合も、ハンガリー・ジプシー的なフィナーレ楽章という選択肢もあり得たのではないかという気がしてくる。今回この2曲が並んだのは偶然の賜物だが、〈未完成〉の『幻のフィナーレ楽章』という観点から、想像を巡らすのも一興であろう。
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-piano-quartet/page-2


シェーンベルクの編曲と楽章の解説
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-piano-quartet/page-3


この編曲はナチスを逃れてロサンジェルスに定住することになったシェーンベルクに、同様の境遇で同地にいた指揮者クレンペラーが提案することで実現した。チェロやヴィオラを弾いて原曲を知り尽くしていたシェーンベルクは、ブラームスの構造をいじることなく、オーケストレーションのみに徹して編曲を行なったが、ピッコロ&バス・クラリネット、コールアングレといったブラームスの使わなかった管楽器を含む3管編成で打楽器をマーラーの交響曲ばりに総動員したために、極めて色彩的なスコアとなっている。編曲は1937年、初演は翌38年5月7日にクレンペラーの指揮によってロスで行なわれた。その時のエピソードとして、この編曲を無調・12音技法の雄シェーンベルク自身の新作と勘違いしたロスのマネージャーが「なぜ人が『シェーンベルクにはメロディが無い』と言うのか私には分からんね。あの曲は、とてもメロディックなのに」と評したことが知られている。

第1楽章 アレグロ、ト短調、4/4拍子、ソナタ形式。

第1主題はDとEからなる。ブラームスは〈4番〉の第3楽章で、こうした双頭主題を上下に重ねて同時に出すといった芸当を見せるが、ここではDが終わったらEをという普通の形。しかし再現部ではE→Dと逆にして古典派的・図式的なシンメトリーを避けるように工夫し、全体がストーリー風に発展してゆくロマン派的な展開を選択。第2主題はFとその変容Gで、苦悩を内に秘めた第1主題群に対して、若者らしく積極的に進む意志が感じられる。

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20代のブラームスはシューマンによってヨーロッパ楽壇に華々しく『天才出現』と紹介されたものの、翌年そのシューマンが入水自殺を図り、やがて精神病院で没するという悲劇を目の当たりにした。これが23歳の1856年のこと。子供達を育てながらピアニスト・作曲家として活躍する未亡人クララ・シューマンに対する想いは生涯に亙って続くが、当時は極めて熱いものがあった。この楽章には、そうした『シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)』時代の青年作曲家の心の嵐と諦念が刻印されている。

第2楽章 "インテルメッツォ(間奏曲)" アレグロ・マ・ノン・トロッポ、ハ短調、9/8、三部形式。

インテルメッツォと題されてはいるがシューマン風な短いエピソードではなく、実質的にはかなり規模の大きなスケルツォ楽章。但しベートーヴェン的な哄笑や諧謔とは無縁で、主部はむしろ歌謡的。ブラームスは〈交響曲第2番〉の第3楽章で、牧歌的な主部に軽快なトリオを挟む『逆スケルツォ』を実践しているが、この楽章はその原型か。第1楽章の嘆きを継承したような暗い主部Hに、突然、光が差し込んだかのような軽快なトリオ(アニマート、変イ長調)Iが挟まれている。

brahms pq fig09

brahms pq fig10

このIは5小節の変則的なメートリクを採用しているだけでなく、その中にシューマン→ブラームス楽派のDNAとも言うべきヘミオラのリズム・パターン(タイを使った2小節単位の3拍子)を含んでいるのが重要。メンデルスゾーン風のスケルツォの飛翔感にペンタゴン的な5角形の車輪を与えたようなこのトリオは、一見、ごく普通の走馬灯のように見えるが、実は、全曲中で最も過激な実験精神を秘めた箇所なのだ。後の〈ハイドンの主題による変奏曲〉の最後で5小節周期のパッサカリアを採用しているが、このトリオはテンポが速いぶん、リズム的な要素がマジカルに浮き上がってくる。

主部に戻った後のコーダは、トリオの陽光を回想しハ長調で結ばれる。

第3楽章 アンダンテ・コン・モート、変ホ長調、3/4、三部形式。

前楽章のコーダで予感されたように、ここで楽章としては初めて長調に転ずる。この楽章はオーケストラ化によってシンフォニックなスケールを獲得し、本格的な緩徐楽章としての訴えかけが一段と強まった。この主部J全体は〈交響曲第2番〉を走行試験的に先取りしているのだが、コーダでその原主題が、正に〈2番〉そのままの姿で現示されるあたりは、ブラームス・ファンにとって聞き逃せないポイントの一つであろう。

brahms pq fig11

付点リズムを特徴とする経過的エピソードを経て飛び込む中問部(アニマート、ハ長調)Kは、シェーンベルクがギャロップ風のリズムを打楽器群によって強調したために、騎馬軍団が走り抜けてゆくようなイメージが一段と鮮明になっている。

brahms pq fig12

第4楽章 "ロンド・アラ・ツインガレーゼ(ジプシー風のロンド)" プレスト、ト短調、2/4、ロンド形式。

シェーンベルクがこの楽章のジプシー風の性格を強調しているのは、冒頭のBの伴奏音型の弦に弓の木部で叩く奏法を要求して、ハンガリー・ジプシーの楽器チンバロン(棒状の撥で弦を叩くピアノの原型となる楽器)を模していることでも明らかだ。更に重要なのは、この楽章の舞曲的なエネルギーを謝肉祭的な熱狂へと開放するために、木琴、鉄琴、タンバリンといったブラームスが使わなかった打楽器群を総動員して、原色的なオーケストレーションを施していることだ。

シェーンベルクは第1楽章ではブラームスの渋い響きを尊重しているのだが、楽章を追うごとに色調を自らの時代の方に引き寄せ、このフィナーレで近代兵器としてのオーケストラのパレットを全開するのである。

3小節周期の乗りの良いメートリクを特徴とするBに対して、無窮動的なLは、祭のざわめきを感じさせるが、シェーンベルクがそこに原曲にはない不協和音によるハロウィン的なギャグを仕込んでいるあたりも聞き物だ。

brahms pq fig13

中間部でテンポが緩んで、Cを交えた新たなクープレに入るあたりは〈ハンガリー舞曲・第1番〉や〈5番〉と似たパターン。コーダ直前のカデンツァは、ストコフスキーを思わせるオルガン風な響きと、ソロ群の対比が鮮烈な効果を上げる。コーダのストレッタ(追い込み)もオーケストラ化による筋肉強化、特に金管群の音色旋律的な格闘が興奮を一段と煽り、舞曲的な熱狂が臨界に達したところで締め括られる。
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-piano-quartet/page-3
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c63

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
64. 中川隆[-13653] koaQ7Jey 2019年11月09日 20:07:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-755]

234名無しの笛の踊り2019/11/09(土) 20:06:30.19ID:glD+LRwS

Johannes Brahms - Luciano Berio Sonata for Clarinet and Orchestra (1986) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Fp96PLO9ugg

Johannes Brahms (1833-1897): Sonata for Clarinet and Orchestra in F Minor Op. 120 n.1,
trascrizione per clarinetto e orchestra di Luciano Berio (1925-2003) (1986)
--- Fausto Ghiazza, clarinetto --- Orchestra Sinfonica di Milano "Giuseppe Verdi" diretta da Riccardo Chailly ---

I. Allegro appassionato
II. Andante un poco adagio
III. Allegretto grazioso
IV. Vivace
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c64

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
65. 中川隆[-13670] koaQ7Jey 2019年11月09日 20:09:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-772]

235名無しの笛の踊り2019/11/09(土) 20:09:21.41ID:glD+LRwS

Brahms Clarinet Sonata, Opus 120 No. 2 in Eb (orchestrated) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0YEUjECXhUM


Margaret Donaghue-Flavin performs with the Frost Symphony Orchestra - April 22, 2016.
Thomas Sleeper, conductor and orchestrator.
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c65

[近代史3] 訪日外国人による観光公害 地元住民の被害は限界 中川隆
10. 中川隆[-13687] koaQ7Jey 2019年11月09日 20:17:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-789]

「もう観光客が来なくなればいい」……「私道での撮影禁止」は花街・祇園のSOS
中井 治郎 2019/11/09
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%8c%e3%82%82%e3%81%86%e8%a6%b3%e5%85%89%e5%ae%a2%e3%81%8c%e6%9d%a5%e3%81%aa%e3%81%8f%e3%81%aa%e3%82%8c%e3%81%b0%e3%81%84%e3%81%84%e3%80%8d%e2%80%a6%e2%80%a6%e3%80%8c%e7%a7%81%e9%81%93%e3%81%a7%e3%81%ae%e6%92%ae%e5%bd%b1%e7%a6%81%e6%ad%a2%e3%80%8d%e3%81%af%e8%8a%b1%e8%a1%97%e3%83%bb%e7%a5%87%e5%9c%92%e3%81%aesos/ar-BBWu9gH?ocid=ientp#page=2

 空前のインバウンド・ブームに沸く観光立国・日本。東京オリンピック・パラリンピックが開催される2020年には、日本を訪れるインバウンドは過去最高の4000万人にのぼるとも見込まれている。 それは東京という街が、そしてこの国が、これまで経験したことがないほど多くの人々に「観光される」ということを意味する。

 しかし、あなたは考えてみたことがあるだろうか。

「観光される」とはどういうことか、を。


©iStock.com© 文春オンライン ©iStock.com
「観光される」自分たちを意識しなくてはいけない時代に

 観光産業にかかわっているわけではない多くの人にとって、観光とは非日常である。観光と聞けば、ふだんの自分の役割や生活から離れて羽を伸ばし、住み慣れたいつもの場所とはちがう土地を楽しむ……そんな、特別な時間と空間を思い起こすだろう。しかし、それはあくまでも「観光をする」側の視点である。

 そもそもインバウンド誘致の旗印として掲げられた「観光立国・日本」というキャッチフレーズにおける「観光立国」とは「観光をする国」という意味ではない。その主眼は、この国を「観光される国」へと変えてしまうことである。

 そして2015年、45年ぶりにインバウンド(訪日外国人旅客数)がアウトバウンド(出国日本人旅客数)を上回って、すでに4年。われわれは「観光」という言葉に、「観光をする」自分たちではなく「観光される」自分たちを意識しなくてはいけない時代に生きている。

「もう観光客が来なくなればいい」という祇園の本音

 そんな「観光立国」で、いまもっとも注目される観光都市が京都である。とくにここ数年は世界の人気観光都市ランキングでも第1位を獲得するなど、世界的な京都ブームを巻き起こしてきた。

 その街に関して、先日とあるニュースが話題になった。芸妓・舞妓が行き交う花街として有名な祇園で、地元自治組織が「私道での撮影を禁止」という看板を設置することになったのだ。むろん観光客に向けた警告である(写真1:祇園町南側地区協議会 提供)。

 あまり知られていないことだが、祇園の界隈というのはほとんど私有地でありメインストリート以外の細い路地も多くは私道だ。公道では写真禁止などとはいえないが私有地ならば、ということで今回の「私道での撮影禁止」が掲げられることになったのである。

 このような報道だけを見ると地元の人々が「マナーを守って」と観光客に呼びかけているように見える。しかし、この看板を立てた地元の本音はどうやら少しちがうようだ。

 祇園の本音は、「これをきっかけに観光客が来なくなればいい」である。

「よそは観光客に来てほしいけどマナーは守って欲しいと思っているのでしょうけど、うちはちがいます。そもそも観光客に来て欲しくないんです」

 このように話す地元自治組織の幹部は「祇園は観光地ではないのです」と、何度も強調した。いまや祇園ではカメラを携えて世界中から集まる観光客が絶えることがない。そのため、とくに地元以外の人間からは祇園という街は観光地だと思われていることも多い。しかし、これは大きな間違いで、もっと言えば、完全なる「事故」なのだ。

安全とプライバシーを守る「一見(いちげん)さんお断り」文化

 花街・祇園は、同じジャパネスクな景観といえど、たとえば古風な町並みを再現したおかげ横丁のような観光地とはまったく性格のことなる街である。

 すべての店がそうではないとはいえ、そもそもは格式の高さと紹介制によって安全とプライバシーを守り、こっそり「お忍び」でやってくる「お偉いさん」にも安心して遊んでもらえるという「一見(いちげん)さんお断り」文化を特色とした街である。そんな場所に観光客が押し寄せると何が起こるのか。考えてみればすぐに分かることだが、なじみの客足は遠のくばかりである。

 通りすがりの観光客はある意味で「一見さん」の最たる存在であり、花街としての祇園にとって客に成り得ない。逆にもし観光客でも気軽に利用できるようなカフェや土産物店に祇園が埋め尽くされるようなことになれば、それはもはや花街ではなくなってしまう。もちろん、舞妓・芸妓がそこにいる意味もなくなってしまうのである。

外国人観光客の「狼藉」

 そのような不本意な観光化に晒されている花街・祇園で問題になっているのは「一見さん」問題だけではない。マナー違反というにはあまりに乱暴な、観光客による舞妓・芸妓への「狼藉」である。

 祇園のメインストリートである花見小路にはこのような高札が設置されている(写真2:筆者撮影)。とくに外国人観光客にマナーを遵守するように告げる「お触書」である。

 とくに目を引くのは舞妓にのびる怪しげな手のイラスト。これはもちろん芸妓・舞妓に触れてはいけないという意味である。いくら観光地といえど、「ここで暮らす人々に手を触れてはいけない」と警告する看板がわざわざ設置されるようなことは、普通はない。しかし、ここではそうやって警告しなくてはいけないほど、観光客は彼女たちに手を触れようとするのである。

 昨今、通りを行く芸妓・舞妓の写真を撮るためにしつこくつきまとったりする迷惑行為は「舞妓パパラッチ」として全国のメディアでも話題になることが増えた。しかし、彼女たちが被る迷惑はそれだけでは済まない。つきまといや腕や着物を引っ張られる被害だけでなく、着物の襟元へ煙草を投げ入れる、着物を破る等、刑事事件として被害届が出されたものもある。
 
 しかも、これらは店の中に入れて接待をしていた酔客の乱暴ではないのだ。通りですれちがうだけの、単なる通りすがりの観光客から受ける被害なのである。このような現状からも、なぜこの街には「一見さんお断り」の文化が必要だったのかがよく分かるだろう。

オーバーツーリズムが世界的な課題へ

 これまでは「いかに観光客を呼び込むか」ばかりが人々の関心事となってきたが、本意であろうが不本意であろうが、いちど「目をつけられてしまった」場所から観光客を遠ざけるのは、実はそう簡単なことではないのだ。

 ちょうど、観光客に悲鳴を上げた祇園が「私道での撮影禁止」を実施した10月25日、26日にかけて、北海道で開催されていたG20の観光相会合では、地域のキャパシティを超えた観光客の増加、つまりオーバーツーリズムへの対策について議論が交わされていた。いま世界各国の観光政策における主たる課題は、誘致や促進よりもむしろ、この「観光客が増えすぎる」というオーバーツーリズムをいかに制御するかにシフトしつつある。

「なんでこんなところに観光客が!?」日本の「リアル」を求める人々

 我々の社会がいま直面しつつあるのは観光を制御することの難しさである。たとえば2019年のラグビーW杯。東京新宿のゴールデン街では、押し寄せた外国人観光客で小さな店がいっぱいになり、常連客が「いつもの店」に入れないという「緊急事態」が多発したという。ゴールデン街の飲兵衛たちも「なんでこんなところに観光客が?」と戸惑ったことだろう。

 それまで外国人観光客の姿などほとんど見かけなかったゴールデン街の狭い飲み屋に外国人観光客が求めているもの。それはもちろん「飾らない」日本社会の「リアル」だろう。

 現在、観光客の興味関心はそれまで観光の対象とならなかったような、現地の生活者の暮らしそのものを観光対象として消費することへと向けられつつある。単に名の知れた観光名所を見物して満足するのではなく、現地の人々の「リアル」な暮らしに深く入り込んで、それに触れることを楽しむ観光客が増えているのだ。

観光客と観光整備はある意味イタチごっこ

 外国人観光客に対する受け入れ態勢を整えるべきといっても、そもそも受け入れ態勢が整っている場所、つまり「観光ずれ」した場所を避けて、もっと受け入れ態勢が整っていない「観光ずれ」していない場所に「リアル」さを見出して楽しもうとする観光客の嗜好の変化を考えると、観光客と観光整備はある意味でイタチごっこの関係という側面があることも事実だ。

 オーバーツーリズムと聞くと、つい観光客の「数」の問題を考えてしまうが、これまで紹介してきたような事例では、その嗜好や行動の変化という「質」の問題も重要ということがわかる。実際に京都においては観光客の総数は近年では逆に減少傾向にある。観光客は減っているのに、なぜ問題が起きるのか? それは観光客の嗜好や行動という「質」の変化と地域社会の間にミスマッチが起こっているということでもある。

観光されるあなたの「リアル」

 それまでその地域の人々からは価値や魅力を認識されていなかったものを、外からの視点で観光資源として「発掘」することは観光振興の重要な鍵である。しかし、地域の埋もれた観光資源を発掘するのは何も住民や関係者だけではない。

 ちかごろ、酔っ払って路上で寝込んでしまったサラリーマンなどが写りこむように記念撮影した外国人観光客の自撮りがインターネットにアップされているのを見かけるようになった。我々には当たり前の風景でも、外国人観光客からすると、飲酒に「寛容」な日本社会を象徴する新しい名物になりつつあるようだ。皮肉だが、これは彼らが発掘した観光資源といえる。きっと「リアル」なのだろう。

 オーバーツーリズム対策を含め、観光をいかにコントロールするかは数の問題だけではない。外から訪れた人々は、我々の社会や暮らしを見て、何を読み取り、喜び、面白がっているのか。もはや「観光される国」に暮らす我々にとって、これら外からのまなざしとの葛藤はある意味で死活問題ともいえる切実さをはらんでいくと思われる。

 たとえば「インスタ映え」で、突然あなたの家が世界中の観光客にとっての憧れの聖地になることだってあるかもしれないのだ。よそものに厳しく「一見さんお断り」だった花街が、いつの間にか世界中から観光客が押し寄せる観光地にされてしまったように。
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%8c%e3%82%82%e3%81%86%e8%a6%b3%e5%85%89%e5%ae%a2%e3%81%8c%e6%9d%a5%e3%81%aa%e3%81%8f%e3%81%aa%e3%82%8c%e3%81%b0%e3%81%84%e3%81%84%e3%80%8d%e2%80%a6%e2%80%a6%e3%80%8c%e7%a7%81%e9%81%93%e3%81%a7%e3%81%ae%e6%92%ae%e5%bd%b1%e7%a6%81%e6%ad%a2%e3%80%8d%e3%81%af%e8%8a%b1%e8%a1%97%e3%83%bb%e7%a5%87%e5%9c%92%e3%81%aesos/ar-BBWu9gH?ocid=ientp#page=2
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/527.html#c10

[近代史3] 外国人が増えると嬉しいか? _ 外人観光客誘致は日本を貧しくしている 中川隆
15. 中川隆[-13686] koaQ7Jey 2019年11月09日 20:18:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-788]

「もう観光客が来なくなればいい」……「私道での撮影禁止」は花街・祇園のSOS
中井 治郎 2019/11/09
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%8c%e3%82%82%e3%81%86%e8%a6%b3%e5%85%89%e5%ae%a2%e3%81%8c%e6%9d%a5%e3%81%aa%e3%81%8f%e3%81%aa%e3%82%8c%e3%81%b0%e3%81%84%e3%81%84%e3%80%8d%e2%80%a6%e2%80%a6%e3%80%8c%e7%a7%81%e9%81%93%e3%81%a7%e3%81%ae%e6%92%ae%e5%bd%b1%e7%a6%81%e6%ad%a2%e3%80%8d%e3%81%af%e8%8a%b1%e8%a1%97%e3%83%bb%e7%a5%87%e5%9c%92%e3%81%aesos/ar-BBWu9gH?ocid=ientp#page=2

 空前のインバウンド・ブームに沸く観光立国・日本。東京オリンピック・パラリンピックが開催される2020年には、日本を訪れるインバウンドは過去最高の4000万人にのぼるとも見込まれている。 それは東京という街が、そしてこの国が、これまで経験したことがないほど多くの人々に「観光される」ということを意味する。

 しかし、あなたは考えてみたことがあるだろうか。

「観光される」とはどういうことか、を。


©iStock.com© 文春オンライン ©iStock.com
「観光される」自分たちを意識しなくてはいけない時代に

 観光産業にかかわっているわけではない多くの人にとって、観光とは非日常である。観光と聞けば、ふだんの自分の役割や生活から離れて羽を伸ばし、住み慣れたいつもの場所とはちがう土地を楽しむ……そんな、特別な時間と空間を思い起こすだろう。しかし、それはあくまでも「観光をする」側の視点である。

 そもそもインバウンド誘致の旗印として掲げられた「観光立国・日本」というキャッチフレーズにおける「観光立国」とは「観光をする国」という意味ではない。その主眼は、この国を「観光される国」へと変えてしまうことである。

 そして2015年、45年ぶりにインバウンド(訪日外国人旅客数)がアウトバウンド(出国日本人旅客数)を上回って、すでに4年。われわれは「観光」という言葉に、「観光をする」自分たちではなく「観光される」自分たちを意識しなくてはいけない時代に生きている。

「もう観光客が来なくなればいい」という祇園の本音

 そんな「観光立国」で、いまもっとも注目される観光都市が京都である。とくにここ数年は世界の人気観光都市ランキングでも第1位を獲得するなど、世界的な京都ブームを巻き起こしてきた。

 その街に関して、先日とあるニュースが話題になった。芸妓・舞妓が行き交う花街として有名な祇園で、地元自治組織が「私道での撮影を禁止」という看板を設置することになったのだ。むろん観光客に向けた警告である(写真1:祇園町南側地区協議会 提供)。

 あまり知られていないことだが、祇園の界隈というのはほとんど私有地でありメインストリート以外の細い路地も多くは私道だ。公道では写真禁止などとはいえないが私有地ならば、ということで今回の「私道での撮影禁止」が掲げられることになったのである。

 このような報道だけを見ると地元の人々が「マナーを守って」と観光客に呼びかけているように見える。しかし、この看板を立てた地元の本音はどうやら少しちがうようだ。

 祇園の本音は、「これをきっかけに観光客が来なくなればいい」である。

「よそは観光客に来てほしいけどマナーは守って欲しいと思っているのでしょうけど、うちはちがいます。そもそも観光客に来て欲しくないんです」

 このように話す地元自治組織の幹部は「祇園は観光地ではないのです」と、何度も強調した。いまや祇園ではカメラを携えて世界中から集まる観光客が絶えることがない。そのため、とくに地元以外の人間からは祇園という街は観光地だと思われていることも多い。しかし、これは大きな間違いで、もっと言えば、完全なる「事故」なのだ。

安全とプライバシーを守る「一見(いちげん)さんお断り」文化

 花街・祇園は、同じジャパネスクな景観といえど、たとえば古風な町並みを再現したおかげ横丁のような観光地とはまったく性格のことなる街である。

 すべての店がそうではないとはいえ、そもそもは格式の高さと紹介制によって安全とプライバシーを守り、こっそり「お忍び」でやってくる「お偉いさん」にも安心して遊んでもらえるという「一見(いちげん)さんお断り」文化を特色とした街である。そんな場所に観光客が押し寄せると何が起こるのか。考えてみればすぐに分かることだが、なじみの客足は遠のくばかりである。

 通りすがりの観光客はある意味で「一見さん」の最たる存在であり、花街としての祇園にとって客に成り得ない。逆にもし観光客でも気軽に利用できるようなカフェや土産物店に祇園が埋め尽くされるようなことになれば、それはもはや花街ではなくなってしまう。もちろん、舞妓・芸妓がそこにいる意味もなくなってしまうのである。

外国人観光客の「狼藉」

 そのような不本意な観光化に晒されている花街・祇園で問題になっているのは「一見さん」問題だけではない。マナー違反というにはあまりに乱暴な、観光客による舞妓・芸妓への「狼藉」である。

 祇園のメインストリートである花見小路にはこのような高札が設置されている(写真2:筆者撮影)。とくに外国人観光客にマナーを遵守するように告げる「お触書」である。

 とくに目を引くのは舞妓にのびる怪しげな手のイラスト。これはもちろん芸妓・舞妓に触れてはいけないという意味である。いくら観光地といえど、「ここで暮らす人々に手を触れてはいけない」と警告する看板がわざわざ設置されるようなことは、普通はない。しかし、ここではそうやって警告しなくてはいけないほど、観光客は彼女たちに手を触れようとするのである。

 昨今、通りを行く芸妓・舞妓の写真を撮るためにしつこくつきまとったりする迷惑行為は「舞妓パパラッチ」として全国のメディアでも話題になることが増えた。しかし、彼女たちが被る迷惑はそれだけでは済まない。つきまといや腕や着物を引っ張られる被害だけでなく、着物の襟元へ煙草を投げ入れる、着物を破る等、刑事事件として被害届が出されたものもある。
 
 しかも、これらは店の中に入れて接待をしていた酔客の乱暴ではないのだ。通りですれちがうだけの、単なる通りすがりの観光客から受ける被害なのである。このような現状からも、なぜこの街には「一見さんお断り」の文化が必要だったのかがよく分かるだろう。

オーバーツーリズムが世界的な課題へ

 これまでは「いかに観光客を呼び込むか」ばかりが人々の関心事となってきたが、本意であろうが不本意であろうが、いちど「目をつけられてしまった」場所から観光客を遠ざけるのは、実はそう簡単なことではないのだ。

 ちょうど、観光客に悲鳴を上げた祇園が「私道での撮影禁止」を実施した10月25日、26日にかけて、北海道で開催されていたG20の観光相会合では、地域のキャパシティを超えた観光客の増加、つまりオーバーツーリズムへの対策について議論が交わされていた。いま世界各国の観光政策における主たる課題は、誘致や促進よりもむしろ、この「観光客が増えすぎる」というオーバーツーリズムをいかに制御するかにシフトしつつある。

「なんでこんなところに観光客が!?」日本の「リアル」を求める人々

 我々の社会がいま直面しつつあるのは観光を制御することの難しさである。たとえば2019年のラグビーW杯。東京新宿のゴールデン街では、押し寄せた外国人観光客で小さな店がいっぱいになり、常連客が「いつもの店」に入れないという「緊急事態」が多発したという。ゴールデン街の飲兵衛たちも「なんでこんなところに観光客が?」と戸惑ったことだろう。

 それまで外国人観光客の姿などほとんど見かけなかったゴールデン街の狭い飲み屋に外国人観光客が求めているもの。それはもちろん「飾らない」日本社会の「リアル」だろう。

 現在、観光客の興味関心はそれまで観光の対象とならなかったような、現地の生活者の暮らしそのものを観光対象として消費することへと向けられつつある。単に名の知れた観光名所を見物して満足するのではなく、現地の人々の「リアル」な暮らしに深く入り込んで、それに触れることを楽しむ観光客が増えているのだ。

観光客と観光整備はある意味イタチごっこ

 外国人観光客に対する受け入れ態勢を整えるべきといっても、そもそも受け入れ態勢が整っている場所、つまり「観光ずれ」した場所を避けて、もっと受け入れ態勢が整っていない「観光ずれ」していない場所に「リアル」さを見出して楽しもうとする観光客の嗜好の変化を考えると、観光客と観光整備はある意味でイタチごっこの関係という側面があることも事実だ。

 オーバーツーリズムと聞くと、つい観光客の「数」の問題を考えてしまうが、これまで紹介してきたような事例では、その嗜好や行動の変化という「質」の問題も重要ということがわかる。実際に京都においては観光客の総数は近年では逆に減少傾向にある。観光客は減っているのに、なぜ問題が起きるのか? それは観光客の嗜好や行動という「質」の変化と地域社会の間にミスマッチが起こっているということでもある。

観光されるあなたの「リアル」

 それまでその地域の人々からは価値や魅力を認識されていなかったものを、外からの視点で観光資源として「発掘」することは観光振興の重要な鍵である。しかし、地域の埋もれた観光資源を発掘するのは何も住民や関係者だけではない。

 ちかごろ、酔っ払って路上で寝込んでしまったサラリーマンなどが写りこむように記念撮影した外国人観光客の自撮りがインターネットにアップされているのを見かけるようになった。我々には当たり前の風景でも、外国人観光客からすると、飲酒に「寛容」な日本社会を象徴する新しい名物になりつつあるようだ。皮肉だが、これは彼らが発掘した観光資源といえる。きっと「リアル」なのだろう。

 オーバーツーリズム対策を含め、観光をいかにコントロールするかは数の問題だけではない。外から訪れた人々は、我々の社会や暮らしを見て、何を読み取り、喜び、面白がっているのか。もはや「観光される国」に暮らす我々にとって、これら外からのまなざしとの葛藤はある意味で死活問題ともいえる切実さをはらんでいくと思われる。

 たとえば「インスタ映え」で、突然あなたの家が世界中の観光客にとっての憧れの聖地になることだってあるかもしれないのだ。よそものに厳しく「一見さんお断り」だった花街が、いつの間にか世界中から観光客が押し寄せる観光地にされてしまったように。
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%8c%e3%82%82%e3%81%86%e8%a6%b3%e5%85%89%e5%ae%a2%e3%81%8c%e6%9d%a5%e3%81%aa%e3%81%8f%e3%81%aa%e3%82%8c%e3%81%b0%e3%81%84%e3%81%84%e3%80%8d%e2%80%a6%e2%80%a6%e3%80%8c%e7%a7%81%e9%81%93%e3%81%a7%e3%81%ae%e6%92%ae%e5%bd%b1%e7%a6%81%e6%ad%a2%e3%80%8d%e3%81%af%e8%8a%b1%e8%a1%97%e3%83%bb%e7%a5%87%e5%9c%92%e3%81%aesos/ar-BBWu9gH?ocid=ientp#page=2
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/185.html#c15

[リバイバル3] 廃墟と化した水上温泉 中川隆
143. 中川隆[-13685] koaQ7Jey 2019年11月09日 20:18:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-787]

「もう観光客が来なくなればいい」……「私道での撮影禁止」は花街・祇園のSOS
中井 治郎 2019/11/09
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%8c%e3%82%82%e3%81%86%e8%a6%b3%e5%85%89%e5%ae%a2%e3%81%8c%e6%9d%a5%e3%81%aa%e3%81%8f%e3%81%aa%e3%82%8c%e3%81%b0%e3%81%84%e3%81%84%e3%80%8d%e2%80%a6%e2%80%a6%e3%80%8c%e7%a7%81%e9%81%93%e3%81%a7%e3%81%ae%e6%92%ae%e5%bd%b1%e7%a6%81%e6%ad%a2%e3%80%8d%e3%81%af%e8%8a%b1%e8%a1%97%e3%83%bb%e7%a5%87%e5%9c%92%e3%81%aesos/ar-BBWu9gH?ocid=ientp#page=2

 空前のインバウンド・ブームに沸く観光立国・日本。東京オリンピック・パラリンピックが開催される2020年には、日本を訪れるインバウンドは過去最高の4000万人にのぼるとも見込まれている。 それは東京という街が、そしてこの国が、これまで経験したことがないほど多くの人々に「観光される」ということを意味する。

 しかし、あなたは考えてみたことがあるだろうか。

「観光される」とはどういうことか、を。


©iStock.com© 文春オンライン ©iStock.com
「観光される」自分たちを意識しなくてはいけない時代に

 観光産業にかかわっているわけではない多くの人にとって、観光とは非日常である。観光と聞けば、ふだんの自分の役割や生活から離れて羽を伸ばし、住み慣れたいつもの場所とはちがう土地を楽しむ……そんな、特別な時間と空間を思い起こすだろう。しかし、それはあくまでも「観光をする」側の視点である。

 そもそもインバウンド誘致の旗印として掲げられた「観光立国・日本」というキャッチフレーズにおける「観光立国」とは「観光をする国」という意味ではない。その主眼は、この国を「観光される国」へと変えてしまうことである。

 そして2015年、45年ぶりにインバウンド(訪日外国人旅客数)がアウトバウンド(出国日本人旅客数)を上回って、すでに4年。われわれは「観光」という言葉に、「観光をする」自分たちではなく「観光される」自分たちを意識しなくてはいけない時代に生きている。

「もう観光客が来なくなればいい」という祇園の本音

 そんな「観光立国」で、いまもっとも注目される観光都市が京都である。とくにここ数年は世界の人気観光都市ランキングでも第1位を獲得するなど、世界的な京都ブームを巻き起こしてきた。

 その街に関して、先日とあるニュースが話題になった。芸妓・舞妓が行き交う花街として有名な祇園で、地元自治組織が「私道での撮影を禁止」という看板を設置することになったのだ。むろん観光客に向けた警告である(写真1:祇園町南側地区協議会 提供)。

 あまり知られていないことだが、祇園の界隈というのはほとんど私有地でありメインストリート以外の細い路地も多くは私道だ。公道では写真禁止などとはいえないが私有地ならば、ということで今回の「私道での撮影禁止」が掲げられることになったのである。

 このような報道だけを見ると地元の人々が「マナーを守って」と観光客に呼びかけているように見える。しかし、この看板を立てた地元の本音はどうやら少しちがうようだ。

 祇園の本音は、「これをきっかけに観光客が来なくなればいい」である。

「よそは観光客に来てほしいけどマナーは守って欲しいと思っているのでしょうけど、うちはちがいます。そもそも観光客に来て欲しくないんです」

 このように話す地元自治組織の幹部は「祇園は観光地ではないのです」と、何度も強調した。いまや祇園ではカメラを携えて世界中から集まる観光客が絶えることがない。そのため、とくに地元以外の人間からは祇園という街は観光地だと思われていることも多い。しかし、これは大きな間違いで、もっと言えば、完全なる「事故」なのだ。

安全とプライバシーを守る「一見(いちげん)さんお断り」文化

 花街・祇園は、同じジャパネスクな景観といえど、たとえば古風な町並みを再現したおかげ横丁のような観光地とはまったく性格のことなる街である。

 すべての店がそうではないとはいえ、そもそもは格式の高さと紹介制によって安全とプライバシーを守り、こっそり「お忍び」でやってくる「お偉いさん」にも安心して遊んでもらえるという「一見(いちげん)さんお断り」文化を特色とした街である。そんな場所に観光客が押し寄せると何が起こるのか。考えてみればすぐに分かることだが、なじみの客足は遠のくばかりである。

 通りすがりの観光客はある意味で「一見さん」の最たる存在であり、花街としての祇園にとって客に成り得ない。逆にもし観光客でも気軽に利用できるようなカフェや土産物店に祇園が埋め尽くされるようなことになれば、それはもはや花街ではなくなってしまう。もちろん、舞妓・芸妓がそこにいる意味もなくなってしまうのである。

外国人観光客の「狼藉」

 そのような不本意な観光化に晒されている花街・祇園で問題になっているのは「一見さん」問題だけではない。マナー違反というにはあまりに乱暴な、観光客による舞妓・芸妓への「狼藉」である。

 祇園のメインストリートである花見小路にはこのような高札が設置されている(写真2:筆者撮影)。とくに外国人観光客にマナーを遵守するように告げる「お触書」である。

 とくに目を引くのは舞妓にのびる怪しげな手のイラスト。これはもちろん芸妓・舞妓に触れてはいけないという意味である。いくら観光地といえど、「ここで暮らす人々に手を触れてはいけない」と警告する看板がわざわざ設置されるようなことは、普通はない。しかし、ここではそうやって警告しなくてはいけないほど、観光客は彼女たちに手を触れようとするのである。

 昨今、通りを行く芸妓・舞妓の写真を撮るためにしつこくつきまとったりする迷惑行為は「舞妓パパラッチ」として全国のメディアでも話題になることが増えた。しかし、彼女たちが被る迷惑はそれだけでは済まない。つきまといや腕や着物を引っ張られる被害だけでなく、着物の襟元へ煙草を投げ入れる、着物を破る等、刑事事件として被害届が出されたものもある。
 
 しかも、これらは店の中に入れて接待をしていた酔客の乱暴ではないのだ。通りですれちがうだけの、単なる通りすがりの観光客から受ける被害なのである。このような現状からも、なぜこの街には「一見さんお断り」の文化が必要だったのかがよく分かるだろう。

オーバーツーリズムが世界的な課題へ

 これまでは「いかに観光客を呼び込むか」ばかりが人々の関心事となってきたが、本意であろうが不本意であろうが、いちど「目をつけられてしまった」場所から観光客を遠ざけるのは、実はそう簡単なことではないのだ。

 ちょうど、観光客に悲鳴を上げた祇園が「私道での撮影禁止」を実施した10月25日、26日にかけて、北海道で開催されていたG20の観光相会合では、地域のキャパシティを超えた観光客の増加、つまりオーバーツーリズムへの対策について議論が交わされていた。いま世界各国の観光政策における主たる課題は、誘致や促進よりもむしろ、この「観光客が増えすぎる」というオーバーツーリズムをいかに制御するかにシフトしつつある。

「なんでこんなところに観光客が!?」日本の「リアル」を求める人々

 我々の社会がいま直面しつつあるのは観光を制御することの難しさである。たとえば2019年のラグビーW杯。東京新宿のゴールデン街では、押し寄せた外国人観光客で小さな店がいっぱいになり、常連客が「いつもの店」に入れないという「緊急事態」が多発したという。ゴールデン街の飲兵衛たちも「なんでこんなところに観光客が?」と戸惑ったことだろう。

 それまで外国人観光客の姿などほとんど見かけなかったゴールデン街の狭い飲み屋に外国人観光客が求めているもの。それはもちろん「飾らない」日本社会の「リアル」だろう。

 現在、観光客の興味関心はそれまで観光の対象とならなかったような、現地の生活者の暮らしそのものを観光対象として消費することへと向けられつつある。単に名の知れた観光名所を見物して満足するのではなく、現地の人々の「リアル」な暮らしに深く入り込んで、それに触れることを楽しむ観光客が増えているのだ。

観光客と観光整備はある意味イタチごっこ

 外国人観光客に対する受け入れ態勢を整えるべきといっても、そもそも受け入れ態勢が整っている場所、つまり「観光ずれ」した場所を避けて、もっと受け入れ態勢が整っていない「観光ずれ」していない場所に「リアル」さを見出して楽しもうとする観光客の嗜好の変化を考えると、観光客と観光整備はある意味でイタチごっこの関係という側面があることも事実だ。

 オーバーツーリズムと聞くと、つい観光客の「数」の問題を考えてしまうが、これまで紹介してきたような事例では、その嗜好や行動の変化という「質」の問題も重要ということがわかる。実際に京都においては観光客の総数は近年では逆に減少傾向にある。観光客は減っているのに、なぜ問題が起きるのか? それは観光客の嗜好や行動という「質」の変化と地域社会の間にミスマッチが起こっているということでもある。

観光されるあなたの「リアル」

 それまでその地域の人々からは価値や魅力を認識されていなかったものを、外からの視点で観光資源として「発掘」することは観光振興の重要な鍵である。しかし、地域の埋もれた観光資源を発掘するのは何も住民や関係者だけではない。

 ちかごろ、酔っ払って路上で寝込んでしまったサラリーマンなどが写りこむように記念撮影した外国人観光客の自撮りがインターネットにアップされているのを見かけるようになった。我々には当たり前の風景でも、外国人観光客からすると、飲酒に「寛容」な日本社会を象徴する新しい名物になりつつあるようだ。皮肉だが、これは彼らが発掘した観光資源といえる。きっと「リアル」なのだろう。

 オーバーツーリズム対策を含め、観光をいかにコントロールするかは数の問題だけではない。外から訪れた人々は、我々の社会や暮らしを見て、何を読み取り、喜び、面白がっているのか。もはや「観光される国」に暮らす我々にとって、これら外からのまなざしとの葛藤はある意味で死活問題ともいえる切実さをはらんでいくと思われる。

 たとえば「インスタ映え」で、突然あなたの家が世界中の観光客にとっての憧れの聖地になることだってあるかもしれないのだ。よそものに厳しく「一見さんお断り」だった花街が、いつの間にか世界中から観光客が押し寄せる観光地にされてしまったように。
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%8c%e3%82%82%e3%81%86%e8%a6%b3%e5%85%89%e5%ae%a2%e3%81%8c%e6%9d%a5%e3%81%aa%e3%81%8f%e3%81%aa%e3%82%8c%e3%81%b0%e3%81%84%e3%81%84%e3%80%8d%e2%80%a6%e2%80%a6%e3%80%8c%e7%a7%81%e9%81%93%e3%81%a7%e3%81%ae%e6%92%ae%e5%bd%b1%e7%a6%81%e6%ad%a2%e3%80%8d%e3%81%af%e8%8a%b1%e8%a1%97%e3%83%bb%e7%a5%87%e5%9c%92%e3%81%aesos/ar-BBWu9gH?ocid=ientp#page=2
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/624.html#c143

[リバイバル3] ブラームス最晩年のクラリネット曲に秘められたメッセージとは 富山誠
110. 中川隆[-13702] koaQ7Jey 2019年11月09日 20:27:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-804]

Brahms orch. Schoenberg Piano Quartet No. 1 in G minor Op. 25 (1861 orch. 1937) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZAhrIt6Rd0I

Performed by the London Symphony Orchestra conducted by Neeme Järvi.

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Brahms orch. Edmund Rubbra Variations & Fugue on a theme by Handel Op. 24 (1861 orch. 1938) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=OXHjZI6tWZw

Originally composed for solo piano.
Performed by the London Symphony Orchestra conducted by Neeme Järvi.


ブラームス/シェーンベルク ピアノ四重奏曲第1番 - YouTube
サイモン・ラトル指揮BPO
https://www.youtube.com/watch?v=xANZT4GdyMg
https://www.youtube.com/watch?v=Yppkz1DQFsw
https://www.youtube.com/watch?v=wLOpvIiu09g
https://www.youtube.com/watch?v=225xKAM9McM

シェーンベルグ編曲より原曲の方が遥かにいいというのが何かなー


Piano Quartet No. 1 in G Minor, Op. 25 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=H47HIgpeNfE
https://www.youtube.com/watch?v=6zort-YrOqM
https://www.youtube.com/watch?v=C-ZhWhF-itc
https://www.youtube.com/watch?v=wqORoyQ3mgA

Artist: Adolf Busch
Artist: Hugo Gottesmann
Artist: Herman Busch
Artist: Rudolf Serkin

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ブラームスの「交響曲第5番」?

ナチス政権の成立によってドイツを追われることとなったシェーンベルクは、パリを経てアメリカに亡命する。その地でシェーンベルクはオーケストラ作品への編曲を幾つか手がけるが、その一曲にブラームスが若かりし頃に書いたピアノ四重奏曲もあった。

シェーンベルクは出来上がったこの編曲に大変満足し、聴衆からも高い評価も獲得する。中には「ブラームスの交響曲第5番」というものまであった。しかし、実際のこの曲はブラームスが決して自らの交響曲に使わなかった楽器や特殊奏法のオンパレードであり、そして何より、ジプシー音楽的な情熱をそのまま表現した音楽それ自体、ブラームスが決して交響曲の題材に選ばなかったものである。

そのことを考えると、この編曲をブラームスの交響曲第5番と呼ぶことは、やはりあまり適当なこととは言えない。しかし、一つ視点を変えてみると、また違った様相が見えてくる時がある。

シェーンベルクはウィーンで正統派ユダヤ教徒の家庭に生まれた。しかし宗教的には自由な環境で育つ。1898年、24歳の時にプロテスタントに改宗する。同化ユダヤ人となってウィーンでの社会的地位を改善するためであったが、ウィーンで勢力の強いカトリックは選択しなかった。その後、シェーンベルクはウィーンやドイツ・ベルリンで活動を続ける。しかしユダヤ的なものへのこだわりはシェーンベルクの中でくすぶり続け、「ドイツ人」を追われた1933年、亡命の経由地パリでユダヤ教に改宗する。

しかし、ドイツ時代のシェーンベルクは、自分を偉大なドイツ音楽の継承者だと信じて疑わなかった。このことは次の言葉からも推し量る事ができよう。「ドイツ民族の魂から生まれた、外国の影響を全く受けていない私の音楽は、ラテンやスラヴ民族の覇権の期待に最も効果的に対抗し得る芸術の実例である。」(1931年、エッセイ「国民音楽」より。)偉大なドイツ音楽の伝統を受け継いだその自分を放り出したナチスに対して、シェーンベルクは憤懣やるかたないことだったろう。アメリカの地で、シェーンベルクは快適な環境を容易には見つける事ができずにいた。ましてや、ヨーロッパで苦労の末獲得した作曲家としての名声や尊敬など、ここ新世界アメリカでは御伽噺でしかなかい。

そんな中での「ブラームスの交響曲第5番」という言葉は、例えそれが編曲に対しての言葉であっとしても(アメリカの聴衆にはこの作品のメロディがブラームスのものだと気付かない者もいたが)、シェーンベルクは決して悪い気はしなかったであろう。

その昔、ブラームスの交響曲第1番は初演された当時「ベートーヴェンの交響曲第10番」と呼ばれた。偉大なベートーヴェンの伝統を受け継ぐもの、という意味を込めてである。これを踏まえると、シェーンベルクはここにおいて、ベートーヴェン−ブラームスと続くドイツ音楽の系譜の中に位置付けられる存在となったのである。そしてこの編曲以降、シェーンベルクの作品には《コル・ニドレ》や《ワルシャワの生き残り》《現代詩編》など、ユダヤ的な作品がより目立った位置を占めるようになる。このブラームスのピアノ四重奏曲の編曲は、シェーンベルクのドイツ的なものからユダヤ的なものへの転回点の時期に位置する作品であるといえるかもしれない。
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-sinphonie-5


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ブラームス ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 シェーンベルク編曲版
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-piano-quartet

〈未完成〉との間を繋ぐ鍵としての『ハンガリー・ジプシーの音楽』

1828年に31歳で早世したシューベルトと、5年後の1833年に生れたブラームス。その接点が、1880年代にブライトコプフ社が刊行したシューベルト全集で、ブラームスが交響曲の巻の編纂を担当したことにあるのは拙著『交響曲の名曲・1』で述べたとおりだ。しかし1822年前後に作曲されたまま眠り続け1865年に初演された〈未完成〉と、それより前の1861年に完成・初演されたブラームスの〈ピアノ四重奏曲・第1番〉との関係をひもとくのは一筋縄ではいかない。鍵は『ハンガリー・ジプシーの音楽』にある。


以前ハンガリーの指揮者I.フィッシャーがN響に客演して『ハンガリー音楽特集』を指揮した際に〈未完成〉が入っていたので、その理由について質問を受けたことがある。しかし、これは音楽映画『未完成交響楽』をご存じの世代には説明を要しないことであろう。そこではハンガリーの貴族エスタルハージ家の令嬢との恋の破局が、第3楽章以下を破棄させた原因として描かれていたからだ。史実を自由に取捨選択してロマンティックなフィクションを創作した古典的音楽映画にクレームをつけるなら、例えば、最晩年に作曲されることになる〈菩提樹〉が既に歌われている等、幾らでもできるが、シューベルトが高名な貴族の音楽教師として雇われてハンガリーのツェレスに赴いたのは事実(但し令嬢は、まだ12歳だったのだけれども)。そして〈未完成〉にハンガリー・ジプシーの音楽を思わせる主題が登場するのも明らかなのだ。

第1楽章が始まって直ぐオーボエとクラリネットがユニゾンで吹く主題@がそれ(以下ジプシー関係の譜例は、比較し易いようにイ短調に移調してある)。ついでに言うと、こうした単旋律を木管で呈示する場合、普通は一つの楽器のソロの方が推奨される。違う楽器2本のユニゾンだと音程が合いにくいからだが、シューベルトが敢えてリスクを犯したのはハンガリー・ジプシーの使う木管楽器の土臭い音色を、ダブル・リードのオーボエとシングル・リードのクラという異種の混合色で真似しようという意図があったからだという説もある。

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Aがハンガリー・ジプシーの短音階とされるものだが、@の↓のミ♭あたりが、クラシック音楽の一般的な短音階とは違って『こぶしを効かせた』感じとなる。これを半音高いミ・ナチュラルで演奏してみれば、この音が〈未完成〉の哀調を帯びた雰囲気の鍵を握っていることがお分かり頂けることだろう。

brahms pq fig02 03

ジプシー音楽はウィーンでも聴けたはずであり、シューベルトがツェレスで初めて接したということにはならないと思われるので、シューベルトの場合、時系列的な前後関係まで深追いしても意味はないが、ブラームスの場合は直接の伝授者がはっきりしている。17歳の時に知り合ったハンガリーからの亡命ヴァイオリニスト、レメーニだ。その成果が35歳の1868年に〈ハンガリー舞曲集〉として発表されたのはご存じのとおりだが、それより前に初演されて大成功を収めたハンガリー・ジプシー系の作品がある。それが他ならぬ、この〈ピアノ四重奏曲・第1番〉なのだ。

1861年にクララ・シューマンのピアノ他で行なわれた初演は、特に第4楽章が聴衆から最も喝采され、友人の大ヴァイオリニスト、ヨアヒムもこのフィナーレ楽章を絶賛したという。Bがその主題。この場合音程そのものは普通の旋律的短音階なのだが、6小節目(↓)で高く跳ね上がるあたりが民俗的だ(普通ならオクターヴ下になるはず)。

パソコンがフリーズしてしまったおかげで、この原稿は03年のニューイャー・コンサートを観ながら打っているのだが、アーノンクールが〈ハンガリー舞曲第5番〉をブラームスが一番気に入っていたというライヒェルトの編曲で演奏している。その中で最も目立った特徴は、主部の終わりで、旋律線が通常よりオクターヴ高く跳躍すること。この『裏返った』強調こそは、Bの6小節目と同じで、ブラームスがジプシー風と感じていたポイントの一つに他ならないのではあるまいかと、改めて実感した次第。フィナーレ楽章中間部のチェロに出てくる短調の主題Cなどは、ジプシーの嘆きそのものと言っても過言ではなく、理屈っぽい説明は不要だろう。
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-piano-quartet


交響曲をどう終わらせるか。ベートーヴェンの重圧。

ハイドンが100曲以上も交響曲を書き、モーツァルトも40曲を超えたのに、ベートーヴェンが9曲しか残さなかったのは後の交響曲作曲家にとって大きなプレッシャーとなった。数の少なさではなく、作曲家が芸術家としての全能力を注ぎ、思想的な主張まで折り込んだ選りすぐりの傑作として交響曲を位置づけなければならなくなったからだ。そのためブラームス、チャイコフスキー、ドヴォルジャーク等は、古典派の時代だったら交響曲としてもおかしくない内容の曲を、〈セレナード〉や〈組曲〉として発表することになる。シューベルトがロ短調交響曲を未完成のまま残した理由を、そうしたあたりに求める学者も少なくない。

シューベルトは6曲の未完成交響曲を残しているが、そのうちの5曲は〈6番〉を作曲した19歳より後に集中している。楽想は幾らでも湧いてくるのから、素材は直ぐに出来てしまうのだが、それを纏めあげてベートーヴェンに較べて見劣りしないような4楽章仕立ての大交響曲として仕上げるのが至難の業だったからだ。ロ短調の〈未完成〉の場合は、第1楽章からトロンボーンを使うのに加え、最初から大衆音楽としてのジプシーの要素を導入するなど、ベートーヴェンを越えようとする新機軸を採用して意欲満々で前半2楽章を書き終えたものの、その着地の仕方に手こずり、仕切り直し的に再挑戦したハ長調の〈グレイト〉で、一応、一つの解答を見出したところで神に召されたのである。

ブラームスの場合も2曲のピアノ協奏曲を、その内容の重厚さから『ピアノ独奏付きの交響曲』と呼ぶこともあるし、例えば〈交響曲第5番〉になるはずがヴァイオリンとチェロの〈二重協奏曲〉になったように、交響曲として着想した素材を、結局は違う形の曲に仕上げたケースも多い。

ブラームスは43歳の1876年に完成・初演した〈1番〉を含めて4曲しか交響曲を残していないのだが、シェーンベルクの堂々たる編曲でお聴きになれば、それより15年前に初演されたこの〈ピアノ四重奏曲・第1番〉こそは、2曲の〈セレナード〉よりも『幻の交響曲』に相応しいことを実感されるに違いない。シェーンベルクは、冗談めかして「ブラームスの〈5番〉」と呼んでいたそうだが、原曲の成立年代を考慮するなら、ブルックナー風に〈0番〉とする方が似合いではあるまいか。しかしその場合に引っ掛かる可能性があるのが、ジプシー音楽風のフィナーレなのだ。

フィナーレを締め括る『ジプシーの音楽』による熱狂

シェーンベルクは長さや構成は原曲を尊重して、オーケストレーションだけに仕事を限っているので比較し易い。もし仮にブラームス自身が同様の試みを行なったとしたら、色彩は比べ物にならないくらい地味になったに違いないにしろ、シェーンベルクの編曲版と同じく原寸大の交響曲的な大作が出来上がったのは間違いないのだ。もし、それを〈交響曲第1番〉として発表したなら、当時の批評は、前半3楽章の北ドイツ的な重厚さを認めつつも、新進気鋭の若手が力及ばず、第4楽章で「大衆音楽へ擦り寄った」として批判した可能性が強い。

我々が、こうしたフィナーレにそれほど違和感を感じないのは、既に後の〈ハンガリー舞曲集〉の編曲者としてのブラームスを知っていることも大きい。更には、チャイコフスキーの交響曲〈第4番〉やドヴォルジャークの〈8番〉等、民俗音楽的・民衆音楽的な要素を打ち出したフィナーレを結論とする交響曲が歴史的に承認されてしまってから後の耳で聴いているという事実も忘れてはなるまい。

結局ブラームスは、交響曲の終楽章としては4曲とも構成的に凝った『芸術音楽』として誰からも後ろ指を差されないフィナーレを書いたわけだが、このシェーンベルク編曲版を体験すると、血気盛んだった20代に、こうした舞曲的な乗りで最後にエネルギーを開放するタイプの交響曲 -- ベートーヴェンの〈7番〉やメンデルスゾーンの〈イタリア〉を継承してバッカス的な熱狂で終わるタイプのシンフォニーを発表しても良かったのではと思えるのだ。少なくとも筆者は、シェーンベルクの優れた編曲に感謝しつつ、後の4曲に比すべき本格的な交響曲として演奏するつもりである。

話を〈未完成〉に戻そう。一頃〈未完成〉を完成させようという試みが真剣になされ、作曲を公募するコンクールさえ行なわれたこともある。それをブラームス=シェーンベルクによる〈0番〉的な解答から遡って考えてみると、シューベルトの場合も、ハンガリー・ジプシー的なフィナーレ楽章という選択肢もあり得たのではないかという気がしてくる。今回この2曲が並んだのは偶然の賜物だが、〈未完成〉の『幻のフィナーレ楽章』という観点から、想像を巡らすのも一興であろう。
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-piano-quartet/page-2


シェーンベルクの編曲と楽章の解説
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-piano-quartet/page-3


この編曲はナチスを逃れてロサンジェルスに定住することになったシェーンベルクに、同様の境遇で同地にいた指揮者クレンペラーが提案することで実現した。チェロやヴィオラを弾いて原曲を知り尽くしていたシェーンベルクは、ブラームスの構造をいじることなく、オーケストレーションのみに徹して編曲を行なったが、ピッコロ&バス・クラリネット、コールアングレといったブラームスの使わなかった管楽器を含む3管編成で打楽器をマーラーの交響曲ばりに総動員したために、極めて色彩的なスコアとなっている。編曲は1937年、初演は翌38年5月7日にクレンペラーの指揮によってロスで行なわれた。その時のエピソードとして、この編曲を無調・12音技法の雄シェーンベルク自身の新作と勘違いしたロスのマネージャーが「なぜ人が『シェーンベルクにはメロディが無い』と言うのか私には分からんね。あの曲は、とてもメロディックなのに」と評したことが知られている。

第1楽章 アレグロ、ト短調、4/4拍子、ソナタ形式。

第1主題はDとEからなる。ブラームスは〈4番〉の第3楽章で、こうした双頭主題を上下に重ねて同時に出すといった芸当を見せるが、ここではDが終わったらEをという普通の形。しかし再現部ではE→Dと逆にして古典派的・図式的なシンメトリーを避けるように工夫し、全体がストーリー風に発展してゆくロマン派的な展開を選択。第2主題はFとその変容Gで、苦悩を内に秘めた第1主題群に対して、若者らしく積極的に進む意志が感じられる。

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20代のブラームスはシューマンによってヨーロッパ楽壇に華々しく『天才出現』と紹介されたものの、翌年そのシューマンが入水自殺を図り、やがて精神病院で没するという悲劇を目の当たりにした。これが23歳の1856年のこと。子供達を育てながらピアニスト・作曲家として活躍する未亡人クララ・シューマンに対する想いは生涯に亙って続くが、当時は極めて熱いものがあった。この楽章には、そうした『シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)』時代の青年作曲家の心の嵐と諦念が刻印されている。

第2楽章 "インテルメッツォ(間奏曲)" アレグロ・マ・ノン・トロッポ、ハ短調、9/8、三部形式。

インテルメッツォと題されてはいるがシューマン風な短いエピソードではなく、実質的にはかなり規模の大きなスケルツォ楽章。但しベートーヴェン的な哄笑や諧謔とは無縁で、主部はむしろ歌謡的。ブラームスは〈交響曲第2番〉の第3楽章で、牧歌的な主部に軽快なトリオを挟む『逆スケルツォ』を実践しているが、この楽章はその原型か。第1楽章の嘆きを継承したような暗い主部Hに、突然、光が差し込んだかのような軽快なトリオ(アニマート、変イ長調)Iが挟まれている。

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このIは5小節の変則的なメートリクを採用しているだけでなく、その中にシューマン→ブラームス楽派のDNAとも言うべきヘミオラのリズム・パターン(タイを使った2小節単位の3拍子)を含んでいるのが重要。メンデルスゾーン風のスケルツォの飛翔感にペンタゴン的な5角形の車輪を与えたようなこのトリオは、一見、ごく普通の走馬灯のように見えるが、実は、全曲中で最も過激な実験精神を秘めた箇所なのだ。後の〈ハイドンの主題による変奏曲〉の最後で5小節周期のパッサカリアを採用しているが、このトリオはテンポが速いぶん、リズム的な要素がマジカルに浮き上がってくる。

主部に戻った後のコーダは、トリオの陽光を回想しハ長調で結ばれる。

第3楽章 アンダンテ・コン・モート、変ホ長調、3/4、三部形式。

前楽章のコーダで予感されたように、ここで楽章としては初めて長調に転ずる。この楽章はオーケストラ化によってシンフォニックなスケールを獲得し、本格的な緩徐楽章としての訴えかけが一段と強まった。この主部J全体は〈交響曲第2番〉を走行試験的に先取りしているのだが、コーダでその原主題が、正に〈2番〉そのままの姿で現示されるあたりは、ブラームス・ファンにとって聞き逃せないポイントの一つであろう。

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付点リズムを特徴とする経過的エピソードを経て飛び込む中問部(アニマート、ハ長調)Kは、シェーンベルクがギャロップ風のリズムを打楽器群によって強調したために、騎馬軍団が走り抜けてゆくようなイメージが一段と鮮明になっている。

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第4楽章 "ロンド・アラ・ツインガレーゼ(ジプシー風のロンド)" プレスト、ト短調、2/4、ロンド形式。

シェーンベルクがこの楽章のジプシー風の性格を強調しているのは、冒頭のBの伴奏音型の弦に弓の木部で叩く奏法を要求して、ハンガリー・ジプシーの楽器チンバロン(棒状の撥で弦を叩くピアノの原型となる楽器)を模していることでも明らかだ。更に重要なのは、この楽章の舞曲的なエネルギーを謝肉祭的な熱狂へと開放するために、木琴、鉄琴、タンバリンといったブラームスが使わなかった打楽器群を総動員して、原色的なオーケストレーションを施していることだ。

シェーンベルクは第1楽章ではブラームスの渋い響きを尊重しているのだが、楽章を追うごとに色調を自らの時代の方に引き寄せ、このフィナーレで近代兵器としてのオーケストラのパレットを全開するのである。

3小節周期の乗りの良いメートリクを特徴とするBに対して、無窮動的なLは、祭のざわめきを感じさせるが、シェーンベルクがそこに原曲にはない不協和音によるハロウィン的なギャグを仕込んでいるあたりも聞き物だ。

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中間部でテンポが緩んで、Cを交えた新たなクープレに入るあたりは〈ハンガリー舞曲・第1番〉や〈5番〉と似たパターン。コーダ直前のカデンツァは、ストコフスキーを思わせるオルガン風な響きと、ソロ群の対比が鮮烈な効果を上げる。コーダのストレッタ(追い込み)もオーケストラ化による筋肉強化、特に金管群の音色旋律的な格闘が興奮を一段と煽り、舞曲的な熱狂が臨界に達したところで締め括られる。
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-piano-quartet/page-3



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Johannes Brahms - Luciano Berio Sonata for Clarinet and Orchestra (1986) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Fp96PLO9ugg

Johannes Brahms (1833-1897): Sonata for Clarinet and Orchestra in F Minor Op. 120 n.1,
trascrizione per clarinetto e orchestra di Luciano Berio (1925-2003) (1986)
--- Fausto Ghiazza, clarinetto --- Orchestra Sinfonica di Milano "Giuseppe Verdi" diretta da Riccardo Chailly ---

I. Allegro appassionato
II. Andante un poco adagio
III. Allegretto grazioso
IV. Vivace

▲△▽▼


Brahms Clarinet Sonata, Opus 120 No. 2 in Eb (orchestrated) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0YEUjECXhUM


Margaret Donaghue-Flavin performs with the Frost Symphony Orchestra - April 22, 2016.
Thomas Sleeper, conductor and orchestrator.


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/434.html#c110

[近代史3] 林千勝の陰謀論を考える _ 日米戦争を策謀したのは昭和天皇か、近衛文麿か? 中川隆
27. 中川隆[-13863] koaQ7Jey 2019年11月09日 21:33:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-965]

MI6を支配するロスチャイルド、
ヴィクター・ロスチャイルド(1910年10月31日 - 1990年3月20日)が 007 ジェームス・ボンドのモデルだった


【討論】スパイ天国日本[桜R1-11-9] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UtMdRp-FsWw

パネリスト:
 加藤健(アジア調査機構代表)
 篠原常一郎(ジャーナリスト・元日本共産党国会議員秘書)
 西岡力(「救う会」全国協議会会長・モラロジー研究所歴史研究室室長)
 林千勝(戦史研究家)
 坂東忠信(元警視庁通訳捜査官・外国人犯罪防犯講師)
 山岡鉄秀(情報戦略アナリスト)
司会:水島総
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/457.html#c27

[リバイバル3] CD プレーヤーは進歩しているのか?  中川隆
110. 中川隆[-14096] koaQ7Jey 2019年11月09日 23:51:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1198]
STUDER A730 & EMT#981 CDプレーヤーのサウンド - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年11月09日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/5ae53f7e2fa7d2cb9c090f365bd85b4c


STUDER A730を入手した当時は、ノーマルな使い方をしていました。このCDPを購入する前にルボックス/B226やSTUDER A727も使っていました。総じて「音の本質」を良く再現するCDPだと思います。サウンドは中域に厚みが有って、「生演奏」の雰囲気を持っています。現在ではDAC部が古くてCELLOのDACを使ってカバーしています。読み取り性能は非常に良いです。この後の機種のD730も使ったことが有りますが、こちらはDACの性能もいいですね。勧めるならD730ですね。

スチューダーと共にスタジオユースのCDPのEMT#981。こちらも中域の厚みが有り、高域には艶やかさも兼ね備えています。A730も#981も発売当時¥90万円以上していた代物です。使い勝手はA730の方が良いです。クラシックを楽しむのであれば#981も良いと思います。#981の後継機#982は聴いた事が有りませんが、使った事のある方は#981を勧められます。・・・と云う訳で#981を購入した訳です。


ただどちらの機器も1980年代の代物ですので、「予備のピックアップ」を持っていないとこの先は難しくなると思います。今年1月にA730はピックアップ交換をしましたので当分は持つと思っています。(15年ほど)・・・そしたら自分の年を考えると十分ですね。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/5ae53f7e2fa7d2cb9c090f365bd85b4c
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/842.html#c110

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
66. 中川隆[-14320] koaQ7Jey 2019年11月10日 11:32:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1422]

251名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 07:32:40.43ID:lK3Y379i

お子様は未成年のアイドル歌手の歌う流行歌とモーツァルトを聴いてればいいんだよ

そもそも、谷村新司の曲とモーツァルトの名曲とレベル全然変わらないだろ:


いい日旅立ち (山口百恵) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=QMhX_pF0NkA

鬼束ちひろ - いい日旅立ち・西へ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=xPZXIQdHaZ0

252名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 07:39:27.31ID:lK3Y379i

誰も本当の事言わないけど、モーツァルトの歌曲より中島みゆきの方が上じゃね

春なのに/柏原芳恵 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MCEy3SLfPoI

中島みゆき「世情」(1978年4月10日)
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751

ホームにて / 中島みゆき
http://www.youtaker.com/video/sven-5d2afe3e36af48e69101f457543280c7110.html.%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AB%E3%81%A6-%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D.html

中島みゆき − エレーン
https://www.nicovideo.jp/watch/sm32317926

中島みゆき まつりばやし
https://vocu.net/song/56448532/Nakajima_Miyuki_-/


中島みゆき (Miyuki Nakajima) Music Best 200 (MP3-PC-SP) HTML5
http://lemonlemon.dip.jp/mp3/index-08.html


歌曲だとモーツァルトもブラームスも谷村新司も中島みゆきも全然差が出ないんだな

257名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 07:57:48.81ID:lK3Y379i

お子様には未成年アイドルの歌う流行歌とモーツァルトが一番合ってるんだよな
お子様にはブラームスはもったいない

Kathleen Ferrier; Vier ernste Gesänge; op. 121; Johannes Brahms - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9IFYlbn65dI

Kathleen Ferrier ~ Sapphische Ode (Brahms) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=l_c2misp2PE

brahms Fünf Lieder op.94 - 4. Sapphische Ode - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=CJmLhqyzetM

Kathleen Ferrier - Brahms for contralto, viola and piano - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=DP0M1omMFQg


雨の歌

brahms Nachklang, op.59, No.4 - YouTube
Mischa Maisky · Pavel Gililov
https://www.youtube.com/watch?v=4JvoVQ-6pbQ

Edith Wiens Regenlied Brahms Op. 59 .wav - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JO5elthLWxA
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c66

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
67. 中川隆[-14319] koaQ7Jey 2019年11月10日 11:35:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1421]

266名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 09:59:34.19ID:lK3Y379i

Brahms Symphony No. 1 聴き比べ

J.Brahms Symphony#1 [ C.Munch O-de-Paris ] (1968) - YouTube
Charles Orchestre de Paris
https://www.youtube.com/watch?v=NU13001P7cA

brahms Symphony no. 1 (Furtwangler) - YouTube
Berlin Philharmonic, Wilhelm Furtwangler
Live Recording, Feb. 10, 1952
https://www.youtube.com/watch?v=uGexRHe2iBk

Brahms - Symphony No.1 (recording of the Century Wilhelm Furtwängler 1951) - YouTube
Sinfonieorchester des Norddeutschen Rundfunks
Wilhelm Furtwangler Live performance in 1951 (Hamburg)
https://www.youtube.com/watch?v=Bw266Ox-N8k

Brahms - Symphony n°1 - Vienna - Furtwangler 1947 - YouTube
Wiener Philharmoniker
https://www.youtube.com/watch?v=JB-pscrSHig

267名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 10:05:28.66ID:lK3Y379i

toscanini 1941 Brahms Symphony No 1 in Restored Sound - YouTube
Recorded in Carnegie Hall, New York City, on March 10, May 14, and December 11, 1941.
https://www.youtube.com/watch?v=iWYzyOLTfDQ

brahms Symphony No. 1, Toscanini & NBCso (1951) - YouTube
Rec. 6 November 1951, at Carnegie Hall, in New York
https://www.youtube.com/watch?v=gYQcsjiMa_8


brahms Symphony No. 1, Toscanini & The Phil (1952) - YouTube
指揮:アルトゥーロ・トスカニーニ フィルハーモニア管弦楽団
録音:1952年9月29日 ロイヤル・フェスティヴァル・ホール (ロンドン)(実況録音)
https://www.youtube.com/watch?v=DqYC4MQMWPY

268名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 10:13:07.29ID:lK3Y379i

Brahms Symphony No. 1, Walter & ColumbiaSO (1959) - YouTube
Bruno Walter (1876-1962), Conductor Columbia Symphony Orchestra
https://www.youtube.com/watch?v=_M9I-3cRVaI


Brahms “Symphony No 1” Willem Mengelberg, 1940 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=qpmKkVyxrsE


brahms Symphony No.1 In C Minor, Op.68 - YouTube
Herbert von Karajan Berliner Philharmoniker; Released on: 1987-01-01
https://www.youtube.com/watch?v=MIvEyGm7AKc

269名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 10:16:16.93ID:lK3Y379i

結局、Brahms Symphony No. 1 の最高の名演は

FURTWANGLER & Brahms-Finale from Symphony #1.wmv - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NUWMrC96sVY


The recording was made at the Berlin "Admiralspalast" by the RRG on Jan. 23, 1945.
This was Furtwänglers last Berlin wartime concert.


Brahms 1st Symphony Finale Furtwangler - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=SpITA8yxt3M
https://www.youtube.com/watch?v=zwbJ4F2Ug1g


Allegro non troppo ma con brio - Piu allegro

Wartime recording from January 1945. First three movements were either not recorded, or are missing,
I am not sure which. One can imagine how they must have been played as this movement is surely the culmination of what came before it.
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c67

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
68. 中川隆[-14318] koaQ7Jey 2019年11月10日 11:37:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1420]

273名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 10:53:01.73ID:lK3Y379i

Brahms Symphony No. 4 聴き比べ


♪ブラームス:交響曲第4番へ長調 Op.98 - クルト・ザンデルリング指揮ベルリン交響楽団 1990年 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Ck8o-fR4jNE

brahms Symphony No.4 - C.Kleiber Bayerische Staatsorchester【Full HD】(1996 Movie Live) - YouTube
1996.10.21 Live
https://www.youtube.com/watch?v=t_L8BajLmtE

Brahms Symphony No.4 - Carlos Kleiber - Berliner Philharmoniker (live) - YouTube
28 June 1994, Berliner Philharmonie
https://www.youtube.com/watch?v=pGiXx-TcY3Y

Brahms - Symphony No. 4 (Carlos Kleiber - Wiener Philharmoniker) - YouTube
The award-winning 1980 recording Carlos Kleiber / Wiener Philharmoniker
https://www.youtube.com/watch?v=keXPClVJGrc

Brahms - Symphony No.4 - Kleiber, VPO (Live 1979) (remastered by Fafner) - YouTube
Vienna Philharmonic Orchestra conducted by Carlos Kleiber, Vienna, live 16 December 1979.
https://www.youtube.com/watch?v=2YassHUkDYc

274名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 10:59:28.22ID:lK3Y379i

Brahms - Symphony n°4 - Berlin - Furtwängler 1943 - YouTube
Berliner Philharmoniker Wilhelm Furtwangler Recorded in Berlin, 27 & 30.VI.1943
https://www.youtube.com/watch?v=9I-Ovumi9mA

Wilhelm Furtwangler-Berlin Phil Brahms' Symphony No. 4 Live, 1948 [Remastered - 2016] MUST LISTEN - YouTube
Berlin Philharmonic Orchestra Live 1948 in Berlin
https://www.youtube.com/watch?v=ho-VIo7pLzc

Brahms - Symphony n°4 - Berlin - Furtwangler Wiesbaden 1949 - YouTube
Berliner Philharmoniker Live recording, Wiesbaden, 10.VI.1949
https://www.youtube.com/watch?v=zlaTYaQP8IM

Brahms - Symphony n°4 - Vienna - Furtwangler Salzburg 1950 - YouTube
Wiener Philharmoniker Live recording, Salzburg, 15.VIII.1950
https://www.youtube.com/watch?v=fZj9Ge60u54

275名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 11:04:11.13ID:lK3Y379i

ブラームス 交響曲 第4番 ホ短調 作品98 ワルター-コロンビア響 - YouTube
Columbia Symphony Orchestra 1959年2月 REC
https://www.youtube.com/watch?v=yDSJ5nYkUnM
https://www.youtube.com/watch?v=MW-YqiKcnfo


Brahms - Symphony n°4 - New York - Walter - YouTube
New York Philharmonic Studio recording, New York, 21.II.1951
https://www.youtube.com/watch?v=vw4EqGejunA


Willem Mengelberg (1871-1951) Brahms Symphony No. 4 (R.1938) - YouTube
Mengelberg and his Concertgebouw Orchestra
recorded on November 29, 1938, at Concertgebouw, Amsterdam
https://www.youtube.com/watch?v=MY63tc8xPDE
https://www.youtube.com/watch?v=My1tqHaEBH0

276名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 11:13:03.43ID:lK3Y379i

Brahms Symphony No.4 in Em op.98 - Knappertsbusch - Bremen (1952) - YouTube
Orchestra: Bremen Philharmonic 12 December 1952
https://www.youtube.com/watch?v=dKHYE86SW_Y

Symphony No. 4 in E Minor, Op. 98 I. Allegro non troppo - YouTube
Hans Knappertsbusch Orchestra: SWR Symphonieorchester
https://www.youtube.com/watch?v=-6x2eEqBfcg
https://www.youtube.com/watch?v=sEKTcrls_Xg
https://www.youtube.com/watch?v=oXaC2HM--Bs
https://www.youtube.com/watch?v=y_vzcwVOndk

Symphony No. 4 in E Minor, Op. 98(Live) - YouTube
Hans Knappertsbusch Orchestra: WDR Sinfonieorchester Köln
https://www.youtube.com/watch?v=jbXflC2Uk58
https://www.youtube.com/watch?v=O95grlbkRGs
https://www.youtube.com/watch?v=vSrQGQHEsuE
https://www.youtube.com/watch?v=tacKLNy8fi0

277名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 11:17:06.42ID:lK3Y379i

brahms Symphony No. 4, Schuricht & BavarianRSO (1961) - YouTube
Bavarian Radio Symphony Orchestra (Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks)
Rec. September 1961, in Munich(München)
https://www.youtube.com/watch?v=L2bZ-ITFgbI


brahms Symphony No. 4 - Schuricht · Wiener Philharmoniker - YouTube
Carl Schuricht, conductor · Wiener Philharmoniker / Recorded Live: 24.4,1965, Wien, Musikverein, Grosser Saal
https://www.youtube.com/watch?v=0KBAy7M2w74

280名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 11:25:32.01ID:lK3Y379i

Brahms Symphony No 4 Yevgeny Mravinsky - YouTube
Leningrad Philharmonic Orchestra Yevgeny Mravinsky, Conductor 28.IV. 1973
https://www.youtube.com/watch?v=pqLEhNuAh7M
https://www.youtube.com/watch?v=PJwQb1lY2R8


(Mravinsky)Brahms Symphony No. 4 Mvt IV - YouTube
Evgeny Mravinsky and his Leningrad Philharmonic Orchestra. The year is 1973.
https://www.youtube.com/watch?v=DwNZXJlTMww


Brahms - Symphony n°4 - Mravinsky Budapest 1962 - YouTube
Leningrad Philharmonic Orchestra Live recording, Budapest, 10.II.1962
https://www.youtube.com/watch?v=wDkAAl5xL1s



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c68

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
69. 中川隆[-14326] koaQ7Jey 2019年11月10日 11:59:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1428]

285名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 11:52:45.62ID:lK3Y379i

ブラームスは『ルサンチマン人間』を嫌う人が愛する音楽

Johannes Brahms - Liebestreu (Mischa Maisky & Pavel Gililov) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=DPdX2Za1Z4I

Johannes Brahms - Immer leiser wird mein Schlummer (Mischa Maisky & Pavel Gililov) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=CI32m4RqxJQ

Johannes Brahms - Lerchengesang (Mischa Maisky & Pavel Gililov) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BGv71ulK0lw

Mischa Maisky & Pavel Gililov Brahms - Sommerabend from songs... without words, Op. 85-1 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=oauGCZHd1No


Brahms: Wiegenlied, Op.49, No.4 · Mischa Maisky · Pavel Gililov - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=EqVOx5P9w3E

Johannes Brahms - Immer leiser wird mein Schlummer (Mischa Maisky & Pavel Gililov) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=CI32m4RqxJQ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c69

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
63. 中川隆[-14352] koaQ7Jey 2019年11月10日 12:19:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1454]

上に貼った中島みゆきの歌曲リンクは歌詞だけに変わってしまいました。

ネットで見つけた中島みゆきの歌曲リンクは

中島みゆき (Miyuki Nakajima) Music Best 200 (MP3-PC-SP) HTML5
http://lemonlemon.dip.jp/mp3/index-08.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c63

[リバイバル3] 中島みゆき歌曲集 中川隆
3. 中川隆[-14351] koaQ7Jey 2019年11月10日 12:20:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1453]

上に貼った中島みゆきの歌曲リンクは歌詞だけに変わってしまいました。

ネットで見つけた中島みゆきの歌曲リンクは

中島みゆき (Miyuki Nakajima) Music Best 200 (MP3-PC-SP) HTML5
http://lemonlemon.dip.jp/mp3/index-08.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/740.html#c3

[番外地7] 中島みゆき 名曲集 中川隆
8. 中川隆[-14350] koaQ7Jey 2019年11月10日 12:20:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1452]

上に貼った中島みゆきの歌曲リンクは歌詞だけに変わってしまいました。

ネットで見つけた中島みゆきの歌曲リンクは

中島みゆき (Miyuki Nakajima) Music Best 200 (MP3-PC-SP) HTML5
http://lemonlemon.dip.jp/mp3/index-08.html
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/253.html#c8

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
70. 中川隆[-14367] koaQ7Jey 2019年11月10日 12:33:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1469]

289名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 12:03:48.53ID:lK3Y379i

Mozart、Mozart と騒いでるお子様にはブラームスはもったいない

お子様は10代のアイドル歌手の歌う流行歌とモーツァルトを聴いてればいいんだよ

290名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 12:31:51.27ID:lK3Y379i

モーツァルトの歌曲より10代のアイドル歌手の歌う流行歌の方が名曲じゃん


八神純子 みずいろの雨 1978 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=x5wCEIR1UEQ

高田みづえ 私はピアノ 19801231 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=61OyycYfnY4

石川ひとみ まちぶせ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ycbUJFRcTEc
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c70

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
71. 中川隆[-14366] koaQ7Jey 2019年11月10日 12:39:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1468]

83名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 12:38:10.43ID:lK3Y379i

お子様は未成年のアイドル歌手の歌う流行歌とモーツァルトを聴いてればいいんだよ

そもそも、谷村新司の曲とモーツァルトの名曲とレベル全然変わらないだろ:


いい日旅立ち (山口百恵) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=QMhX_pF0NkA

鬼束ちひろ - いい日旅立ち・西へ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=xPZXIQdHaZ0
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c71

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
72. 中川隆[-14374] koaQ7Jey 2019年11月10日 12:47:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1476]
モーツァルト(1756−1791)
http://kumoi1.web.fc2.com/CCP017.html

 モーツァルトは、かつては「神童」と呼ばれ、どちらかと言えば神に祝福された、幸福な幼児のイメージで語られていた。「モーツァルトはそんな幼稚な音楽じゃない」と反論しても、かえって「何をこいつは。そういうお前自身が幼稚なんだ」という目で見られてしまう傾向があった。ベートーヴェン風の苦悩と闘争、それを経て達する歓喜の歌、あるいはブラームス流の諦観、そうしたものが「高度な音楽」であり、すばらしいものだ。ベートーヴェン以前には、真に偉大な作曲家はいない。そう思っている人が少なくなかった。

 だが苦悩と闘争というのは、いわば文学的イメージである。ホッブスは原始状態を「万人の万人に対する闘争」と考えた。その闘争を緩和するのが法による秩序であり、国家という存在なのだ。

 しかし、原始人も群れて暮らしていた。群れから離れると、生存していく上での脅威は高いものになった。誰かが大きな獲物を仕留めると、それを巡って殺し合い奪い合うのではなく、群れで分かち合うのがむしろ普通だったらしい。群れの安定性を保つために、分かち合いが義務とされ、人に分けない者は群れの成員としての資格がないとされる。また殺し合いは、群れを不安定にし、成員の生存を脅かすものとして、排除された。またその頃にはリーダーという存在も現れた。多分リーダーがまず現れ、そのリーダーが群れを統率する上で「殺すな」「分かち合え」といったことを説いたのだと思う。もちろん、そうした群れでは、獲物を最初に食べるのはリーダーだっただろう。しかし比較的に公平な分配が行われていたようだ。

 闘争がわれわれの日常の現実になるのは、「競争社会」といったものが成立したからである。闘い勝つことが美徳であり、だめなヤツは敗れ去る。そのだめなヤツの悲哀を歌うのもいい。だが単にだめで終わらず、あくまで積極的に挑戦する。それが正しい道だと誰もが思っている。「夢を追う」という言い方もある。「夢」とは、要するに他人に勝つことである。

 もちろん、勝つことだけが目的で、他人の失敗を願うといったことは卑怯だとされるが、戦争や格闘競技で相手のミスを誘うことは、正当な戦術である。相手を実力が出し切れない状況に追い込む、あるいは相手のミスに乗じて勝ちを取る、といったことが賞賛されるのだ。

 皆さんも「宋襄の仁」という言葉を聞いたことがおありだろう。宋の国の襄公は、敵軍が川を渡るのを見て、自軍の参謀が「今こそ攻撃のチャンスです」と言うのを聞かず、「今攻撃するのは卑怯である」と、そのまま見ていた。また川を渡り終えた敵軍がへとへとに疲れて、陣形を立て直すこともできないのを見て、また参謀が「今が最後のチャンスです」と言ったのに、やはり「今攻撃するのは卑怯である」と見逃し、敵軍が十分に戦闘準備するまで待っていた。

 それからやっと攻撃しかけたのだが、宋はあっけなく敗れてしまった。そこでこのように「敵に無用の情けをかける」ことを「宋襄の仁」と呼んで、中国では笑いものにする(ただし宋の国では「襄公は正々堂々としていた」というので、賞賛されたそうだ)。

 他にも井戸に落ちて「助けてくれ」と叫んでいる敵兵を憐れんで助けた兵士が、その敵兵にいきなり殺されてしまった、という話もある。このように、戦争は情け無用であって、卑怯と言われようと何と言われようと、勝つことが最大の目的だとされている。多くのスポーツは、そういう考え方で行われているだろう。

 しかし、たとえばフィギュアスケートの場合を考えてもらいたい。ある時、トップ争いをしていた女子選手がジャンプの失敗で転倒した。次に荒川静香が完璧な演技を披露して優勝した。彼女が前の選手の演技の時に「転んでくれますように」と思っていたり、転倒の瞬間に「やった、これで私のもの」と喜んでいたとすると、その後完璧な演技ができただろうか。そういうマイナスの演技イメージを思い浮かべたのでは、自分の演技にも乱れが出たことだろう。やはり「相手は完璧だった」と仮定して、全力を尽くしたのだと思う。

 芸術で「競争する」というのは、フィギュアスケート・タイプの競争である。モーツァルトは自分が完璧な作品を書けると確信していた。他人のまずい作品を嘲笑したが、それによって勝とうとしたわけではない。他の選手の転倒という事実を許せなかったのだ。相手も完璧な演技をしてもらいたい、それでこそ競技全体のレベルが高くなる。

 モーツァルトは、今日で言うADHDだったと思われる。ヒルデスハイマーの皮肉に満ちた評伝で、モーツァルトの落ち着きのない性格について、ある人が「いつもピアノに向かったときのように落ち着いていてくれればいいのに」とぼやいたという話が出てくる。音楽についてだけ、驚くべき集中力を発揮したということである。

 しかしまた、彼はバッハと並ぶ完璧な耳を持っていた。よくモーツァルトの天才を証明する逸話として、システィナ礼拝堂で歌われていた門外不出の秘曲、アレグリの『ミゼレーレ』を一度聴いただけで、その夜、宿で完全な楽譜に書いたという話が取り上げられる。だが絶対音感を持つ人は、聴いた音に対する記憶力が優れているのが普通らしい。『ミゼレーレ』は、主要声部がいささか単調な繰り返しであり、高音部に即興的なメロディを付け加えて演奏された。モーツァルトには容易に聞き取れただろうし、繰り返しも多いので、記憶することも簡単だったのだろう。


<モーツァルトの耳>

 モーツァルトの耳には軽微な奇形があった。耳殻に襞が全くなく、皿のように平板だったのだ。このページにはWikipediaからもらった肖像を掲げたが、それは生前の画像であると伝えられること、耳を髪で覆ってその現在では「モーツァルト耳」と呼ばれる奇形を隠していることに、信憑性を感じたからである。

 この『ミゼレーレ』は、タリス・スコラーズの非常に美しい演奏のCDが出ている。2005年の再録音盤は、まだ日本語解説付きで手に入るだろう。ト短調で始まり、ハ短調の装飾旋律がからむ。ここで聴くノン・ビブラートのハイCは、実に美しい。装飾音型を変えた二種類の演奏が入っていて興味深いし、解説も大いに参考になる。

 モーツァルトの天才性は、そうした『曲技団的』能力にあるのではない。そういう能力では、グラズノフの方が優っている。彼は、一度聴いた曲なら、どんな駄作でも憶えていたそうだ。だがその中で、人類史上最高の作品を書いたかというと、そうでもない。私には、むしろ絶対音感がなかったといわれるチャイコフスキーの方が、はるかに面白いと感じる。

 ロビンズ・ランドンの「モーツァルト」に次のような話が紹介されている。まだモーツァルトがさほど有名でなかった頃、ある人がアマチュアの弦楽四重奏団を作っていたが、知人からモーツァルトの楽譜を見せられ、「一度これを演奏して見給え」と言われた。しかし、彼らの技量では難しくて弾けなかった。そこで、知り合いの老作曲家にその楽譜を見せに行った。どの程度の作品か、判断してもらおうというわけである。老作曲家は、ぱらぱらとページをめくって、「かなり熟達した作曲家だな、40歳代だろう」と言った(実は20歳代の作品)。それから譜面を読み始めた。ところがそのまま黙ってしまったので、「先生、どうなんですか?」と尋ねたところ、老先生は顔を上げたが、その目はうっとりと夢見るような眼差しだった。「なんてすばらしい音楽なんだ!」と老大家は叫んだ。

 天才とは、ナニカの技術において人より優れているだけのものではない。楽譜を読むだけで頭の中に音として響くとか、逆に音を聴いただけで楽譜になるという人は多いのである。ベートーヴェンも、聴覚を失ってからでも作曲していたし、シューベルトの歌曲の楽譜を読んで感心したという。

 要するに、モーツァルトの天才性とは「なんてすばらしい音楽なんだ!」という一言に尽きる。彼はこの世で最美の音楽を書いた。ある時、イタリアの大作曲家が死んだ。人から「後継者は誰がいいでしょう?」と尋ねられたパイジェルロは、言下に「それはモーツァルトだ」と答えたそうである。「彼の音楽には少し難しいところがあるが、非常に優れている」(ランドン「モーツァルト」より)。

 モーツァルトが難しいと思う人は、今日では一人もいないだろう。だが実際、当時の人には難しく聞こえた。テンポが速く、次から次へと新しい楽想が湧いて出るので(多動性)、当時はすべてを味わい尽くすことができなかったらしい。


<モーツァルトのテンポ>

 ヒルデスハイマーの著書に、次のようなエピソードが出ている。ある裕福な市民(ブルジョア)が、娘を連れて評判の歌劇「フィガロの結婚」を見に行った。ところが、第一幕が終わっても、一つもアリアが出て来ない。「どういうことだろうね」と娘に言うと、彼女は「何を言ってるの、お父さん、もういくつもきれいなアリアが出て来たじゃないの!」と返事した。父親は、どれもレシタティーヴォだと思い込んでいたのである。なぜか。テンポが速過ぎたのだ。当時の音楽愛好家の心に染みついていたのは、グルックのオペラであった。そのテンポは、現代では当時よりやや速く演奏されているが、実はかなり遅く、変化も少ない。要するにメロディは聴き取りやすい。

 話し相手より少し遅いテンポで話せば、相手をリラックスさせ、説得力が増すという実験結果があるそうだ。最近は、私には聞き取れないほど早口にしゃべる人がいて、就職面接で「頭の回転が速い、雄弁だ」と思わせることがあるらしい。ところが、そういう人に営業を担当させたらさっぱりだったということが多い。顧客から見ると、相手の思惑に関係なく、言いたいことをぺらぺらとしゃべりまくっただけで、営業になっていない。組織のリーダーや営業マンは、しゃべる能力より聴く能力の方が重要なものらしい。

 アメリカン・ジョークの一つに、こういう話がある。鉄鋼王カーネギーのところに、一人の客が尋ねてきた。秘書が部屋の外で聴いていると、その客はのべつ幕なしに何かをしゃべり続けている。カーネギーは時折「ふむふむ」、「ほう」と相槌を打つだけである。やがて用件が終わって部屋から出て来た客は、感嘆して叫んだ。「なんて話し上手な人なんだ!」

 よく「話し上手は聞き上手」と言うが、上記のエピソードは、本当にあった話かも知れない。「王者」たるものは、聞き上手でなければならないのである。たとえば戦国を制した徳川家康は、家臣の意見をよく聞いたそうだ。時には疑問があっても家臣の言う通りに動く。結局彼が覇者になった一番の理由が、そこにあると言う人もある。

 モーツァルトの音楽は、当時の人々にとっては早口で一方的にしゃべりまくる営業マンのようだっただろう。だが、すでに次の世代(娘の世代)は、モーツァルトのテンポを聞き取ることができるようになっていた。モーツァルトが死んでから、ウィーンは空前のモーツァルト・ブームに沸いたが、それは偶然ではないのだ。

 音楽のテンポは、ある程度社会性を帯びている。江戸時代の日本は、すべてのテンポが緩やかだった。オランダ人が江戸の町を歩いていたら、向こうから誰かが歩いて来る。「いずれは道を譲り合うことになる」と思いながら歩いて行くと、薄ら笑いを浮かべながら、どこまでもまっすぐ進んでくる。ぶつかる寸前になって「あぶない」と、とっさに身をかわしたが、見ていると日本人は何事もなかったかのように、なおもそのまままっすぐ歩いて行く。

 実際、町人同士がぶつかり合うまでまっすぐ歩き、ぶつかった後に初めて「これはどうも失礼しました」と互いにペコペコお辞儀する場面がよく見られたという。かといって歩くのが速いわけではない。むしろオランダ人が世界のどこで見たよりも遅い。そのため、彼らは「日本人はおそろしく動作の鈍い人種である」と報告した。だが逆に日本人は、オランダ人の素早い動きが信じられなかったそうだ。普通ならぶつかり合うところなのに、突然目の前から消えてしまったのである。「オランダ人はおそろしく素早いぞ」「バテレンの妖術か?」というのが当時の印象だったらしい。

 昭和30年代の日本は、新しい建築が相次ぎ、都市の景観はめまぐるしく変化した。日本人は忙しく動くようになった。後年、日本人(特に大阪人)は、世界一速く歩いているという測定結果が出た。だからぶつかることが多くなったわけではない。通行量が多く、しかも非常に速く歩いているなら、ぶつかり合いは江戸時代より多くても不思議はないのだが、事実は逆だった。みんながすばしこく、ちょこまか動いているのであって、おそらく江戸時代人から見ると、全員忍者のように見えるだろう。

 江戸時代は変化の少ない社会だった。あまり歴史を知ることのない庶民は、宇宙が始まって以来、江戸は徳川が治めていたと思いこんでいることも少なくなかった。「変化が激しい」「人口密度が高い」というのは、動作を敏捷にさせる要因なのである。絶えず周囲の状況に注意を払い、危険には機敏に反応する必要があるからだ。

 その意味で、モーツァルトのテンポを見直すのも悪くない。現在はせかせかした演奏が多いが、本当に昔はそうだったろうか。ある時テレビを見ていると、戦後復興期に登場した美空ひばりの「りんご追分(52年)」が出て来たのだが、桂三枝がそのオリジナル録音に付いて歌おうとすると、あまりにも遅いテンポなので、全く間が持たない。私もこの歌は記憶にあり、美空ひばりの声で流れてくると。「ああ、この歌はこうこうで、次の音符はこう」と、すぐ分かるのだが、それは桂三枝の憶えているテンポと同じだった。2割ないし3割も速いタイミングだ。

 52年(昭和27年)と言えば、朝鮮戦争の特需でやっと一息ついた日本が独立を果たした年だ。敗戦後の日本は、アメリカ領土になっていた。その間、日本という国家は、名目上、世界地図から消滅していたことになる。もちろん49年には国旗(日の丸)の掲揚が許されるなど、徐々に国家としての体面が回復しつつあったらしいが、戦争の傷跡は随所に見られた。たとえば私の生まれた家の近くには、空襲で破壊された大阪砲兵工廠の焼け跡が57年頃まで存在していた。

 記憶の中のテンポと、実際のテンポの違い。それは社会状況の違いである。昭和27年はまだほとんどの日本人がやせ細っていて、物産も貧しく、夏にはラジオの高校野球中継でも聴きながら昼寝をし、夕涼みに屋外の縁台に腰をかけることができれば最高だった時代だ。すだれが風にそよぎ、風鈴がチリンと鳴って、時には「さおーだけー」という声が聞こえてくる。当時はみんなが貧しかったというのは大げさだが、敢えて言えばみんながホームレスだった。欲を持つと言っても、せいぜい毎日白米のご飯を食べたい、という程度のことだった。ちなみに、私は白米1:麦2のご飯を食べて育った。冷えると臭いニオイがあるが、それに醤油をかけ、お湯で薄めて食べた。おかずなど何もない時代である。味噌汁をかけて食べることができれば、贅沢な方であった。卵かけご飯など、夢のようなごちそうだったが、それさえも冷えた麦ご飯の臭いニオイを覆い隠すものではなかった。


<モーツァルト晩年の困窮>

 モーツァルトは、死んだときほとんど破産状態だった。未亡人(コンスタンツェ)が皇帝に謁見すると、皇帝は破産報道を知っていて、彼女に厳しい目を向けた。当時は、破産というのは犯罪のようなものだったからだ。その時、コンスタンツェは夫の遺作演奏会、楽譜出版など、2,3の試みを提示して、破産を免れることが可能だと弁術した。事実、彼女はすべての負債を完済したばかりか、亡夫の遺した作品で大もうけしたという。

 だが晩年の収入が少なかったわけではないらしい。それどころか、当時としては相当な高収入だったようだ。彼はハイドンやサリエリのような高い地位にはなれなかったが、一応宮廷作曲家の称号を得て、給与ももらっていたし、ピアノ教師と楽譜出版、オペラでの収入もあった。夫婦共に浪費癖があったことが、困窮の理由かも知れないが、それだけでは説明できない。人気にかげりが見えた死の年だけでも、現在の日本円にして5000万円以上の収入があったのである。

 浪費癖は、「神童」時代に王侯貴族の生活を垣間見たこと、ザルツブルグに戻ってからは召使い同然に扱われて、憤懣のあまり大司教の下を飛び出したことを考え合わせれば、つまりは貴族のように暮らしたかったということだ。ある意味では父親にも責任があったと言える。

 またある人によると、フリーメーソンの支部を作ろうとしていたのではないかという。そのための費用が必要だったというのである。

 そういう可能性もあるだろうが、秘密結社だというので、フリーメーソンの影響を過度に考えるのも正しくないそうだ。当時の知識階級には、フリーメーソンの会員だった人物が多い。ハイドン、サリエリもフリーメーソンの会員だったと言われ、皇帝ヨーゼフ2世も寛容であり、実際はかなりオープンなものだったらしいのである。

 結局、モーツァルト晩年の経済的困窮の理由は分からない。ただ死の年には、収入が全盛期の半分ぐらいに減ってしまっており、実際以上に困窮した感じがあっただろう。現代でも莫大な収入のあった人気アーティストが、人気にかげりが見えて収入が減ると詐欺を働いたり、かつては高額の年棒をもらっていたプロ野球選手が、退団後に落ちぶれて強盗になった例がある。「あの金はどこに消えたの?」と聞いても、本人にも分からない。


<モーツァルトが愛した女性>

 モーツァルトが生涯愛したのはコンスタンツェの姉、アロイージアであった。美人だというだけでなく、音楽的才能がすばらしかったらしい。彼が結局コンスタンツェと結婚したのも、そうすればアロイージアの側にいられると思ったからだろう。だが、コンスタンツェを愛していなかったとは思えない。

 しかし彼がADHDだったとすると、コンスタンツェにとってもかなり扱いにくい夫だった可能性がある。

 彼が死んだとき、コンスタンツェにしてみれば、「バカな男と結婚して、まだ芽が出ないうちに死なれてしまった」と、嘆かわしいことおびただしい。ところが、ある弔問客が「あなたの夫は天才だった」と言ったので、「あのバカが天才?」と、彼女は心底驚いたという。それまで、夫の作品などただのクズだと思っていたのだ。しかしその後、散逸していた夫の作品をかき集めて演奏や出版を行い、事業家としての能力を発揮している。

 コンスタンツェは、しかし、やはりモーツァルトを愛していたのだろう。彼らの結婚生活はひどいものだったが、それなりに楽しい一面もあった。われわれは現在、モーツァルトのほぼすべての作品を耳にすることができる。それはコンスタンツェが、散逸していた楽譜を精力的に集めたことが大きく寄与している。それは、作品によほどの愛情を注いでいなければできないことだ。

 彼女自身はヘンデルなどの古い音楽を好み、夫が在世中は、全く彼の音楽を理解しなかった。しかしニッセンと再婚して共同で伝記を執筆したりするうち、やはり音楽への理解や、前夫への愛が甦る瞬間はあったに違いないと思う。「私より姉を愛していた」と思い知ることもあっただろうが、姉に劣らず彼女自身を愛していたことも分かったと思う。


<モーツァルトの死>

 あまりにも急な死だったので、モーツァルトの死は、音楽史上のミステリーとされることが多い。死後に訪れたモーツァルト・ブームの中で、サリエリが突然「私がモーツァルトを殺した」と叫んで自殺を図ったという史実もある(映画『アマデウス』の冒頭場面である)。オーストリア官憲が彼を精神病院に閉じ込めたので、真相は分からなくなってしまったが、モーツァルト自身も「誰かに毒を盛られた」と思い込んでいたらしい。

 「サリエリがモーツァルトに一服盛った」という噂は、モーツァルトが死んだ直後からあった。サリエリ自身は、モーツァルトが死んだと聞くと「死んだって?それは助かった。あんな天才にいつまでも生きていられたんじゃ、われわれ凡才は仕事を失ってしまうからね」と語ったそうだ。後にサリエリが「私が殺した」と言って自殺しかけたとき、ベートーヴェンは「やっぱりあいつか。初めからそうだと思っていたよ」と言った。実はベートーヴェンもシューベルトもサリエリに学び、そのタチの悪い妨害や陰謀に悩まされた経験があるそうである。

 ただし、サリエリが築いていた宮廷作曲家という地位は、有力な競争相手が出現したら突然失ってしまうような不安定なものではなかったらしい。たとえ解任されても、年金を受け取ることができたのではないだろうか。モーツァルトも晩年には宮廷作曲家に任命されたが、特に妨害は受けていないようだ。サリエリが地位を守るためにモーツァルトを殺すという可能性は小さい。

 単純な病死だったという説がある。モーツァルトは幼い頃から病弱で、その病歴からリューマチ熱だったのではないかというのである。モーツァルトの遺骨が出れば検証できるかも知れないが、現在のところ、モーツァルトの墓は見つかっていない。当時の医師の診断は「粟粒熱(ぞくりゅうねつ)」という訳の分からない病名で、現代の医学では「そのような病気は存在しない」とされる。

 食中毒説もある。ディスカバリー・チャンネルで紹介された、豚肉の寄生虫による中毒で、1860年頃、彼とよく似た症状で死んだ農家の娘は、遺体の検証で、食中毒だったことが確認されたそうだ。

 一番有力なのが毒殺説で、当時は毒と言えばヒ素と決まっていた。モーツァルト最後の病状は、ヒ素中毒によく似ているという。トファナ水というのはヒ素の溶液で、濃度を注意深く調整すれば、飲ませてから何日後に死ぬかを正確に決定できるという話まであった。ただこれは、人によって致死量が違うことも分かっているので、かなり誇張されたおとぎ話である。

『元素の百科事典』に出ているエムズレー博士の説は、アンチモン中毒である。モーツァルトの頃はアンチモンが発見されて間もない時代で、あまり正体がよく分からないまま、胃腸薬などとして処方されていたそうだ。だがアンチモンは毒性があり、飲み過ぎるとヒ素中毒に似通った症状が出る(周期表でもヒ素と同族である)。モーツァルトにもアンチモン製剤が処方されていたので、誤って飲み過ぎたのではないかという。なお現在では、医薬として用いられることはない。


<モーツァルトの姉>

 もう一つ、モーツァルトの生涯で特徴的なのは、姉ナンネルとの関係である。それはメンデルスゾーンの姉ファニーとの関係にも似ている。この姉たちは、弟たちの先生でもあった。たとえばモーツァルトは当時ヨーロッパ一のピアノの名手と言われたが、クレメンティとの競争演奏では、客観的に見ると引き分けだった。そのクレメンティを、モーツァルトは「達者な腕前だが機械的で情感に欠ける」として否定している。また、何人かいた弟子について、「それにしても女の子の方が音楽的に弾くのはどうしたことでしょう」と言っている。彼の感想では、女性のピアノの方が情感があり、音楽的なのだった。男が弾くと、無機的になりがちだ。それは音楽ではない。

 この話は、彼の幼児期のピアノの先生が、実はナンネルだったということを明かしているのだろう。ナンネルの作品は残っていないが、作曲を行っていたことは分かっている。だがヴォルフガングが「お姉ちゃん」の真似をして作曲し始めると、父レオポルトは、もうそれ以上姉には教えず、弟を神童として売り出すことに熱中した。

 ナンネルも神童だったらしいことは、当時の人たちの記録に残っている。あるとき、宿に足止めを食らった客の中に、まだ幼かったモーツァルト姉弟がいた。彼らは退屈しのぎに連弾だったか二重奏だったかを披露したそうだ。「この二人の神童のピアノは、われわれを大いに愉しませた」という。

 父親レオポルトが、弟の方を特に熱心に育てたのは、当時の男女差別的な社会情勢が原因であっただろう。女性はピアノの名手であっても、それは身持ちのいいお嬢様の趣味の芸事を時たま披露するだけであって、職業的音楽家の道などはどこにもなかった。貴族の奥様になる、といった目標の方が、はるかに重視された。ましてや作曲家などとんでもない。

 実際のナンネルの才能は、現在知られているよりはるかに優れていたと思われる。彼女はしばしば弟の協奏曲のソロを努めた。彼女のピアノこそモーツァルトの音楽の原点にあったのではないだろうか。

 それはさておき、私の好きな作品について述べたい。


『グラン・パルティータ』〜第3楽章「アダージョ」

 モーツァルトには傑作が多いが、「グラン・パルティータ(大組曲)」は、その中でも最高の一つである。正式な名称は「13管楽器のためのセレナード」といい、木管のアンサンブル曲だ。セレナードとしては第10番(変ロ長調)とされる。

 モーツァルトの時代、まだ現在のように「交響曲が最高のジャンル」といった考え方はなかった。交響曲、セレナード、ディヴェルティメントの区別は「演奏機会」の区別なのだろう。内容で分けられているわけではない。もちろん演奏機会は内容に結びついている。たとえばベートーヴェンの七重奏曲などは同じ性格を持ち、やはりリラックスした気分の曲である。ここに「苦悩と闘争」のベートーヴェン像を見出すのは、深読みに過ぎる。こういった作品は、リラックスした気分を作り出すためのものであり、食事時のBGMとして演奏されたりしていたのだ。

 本題の「グラン・パルティータ」について言うと、私は80年頃、エド・デ・ワールト指揮のオランダ管楽合奏団(?)のLPをオーディオ的な興味で買って聴いた。最初は「まあ、いい音はするがモーツァルトらしい能天気な曲だなあ」と思っただけだった。

 グラン・パルティータの本当の良さが分かったのは、父の死の直後だった。長い間、寝たきりの父の存在は重荷だったし、愛情の薄い人だったので、「早く死んでくれればいい」とさえ思っていた。だが、死んだとき、重荷だろうと厄介だろうと、父と母と私しかいなかったその年月、良くも悪くも、父が家族の中心にいた。いささか子供っぽいが、「ボクたちは明日からどう生きていけばいいの」というのが、当時の心境だった。

 それは暑い8月のことで、当時は父の家の屋根裏部屋に住んでいたのだが、夏には50度以上にもなり、30分もいれば半狂乱になるような部屋だった。そこに私のオーディオ・システムを置いていた。葬儀まではレコードを聴くこともなく、屋根裏部屋には立ち入らずにいたのである。だが葬儀の後、世間が「盆休み」に入り、親戚一同も去って、静かになった。母と仲が良かった伯母だけがしばらく家に留まっていたが、その日は二人でどこかに出かけ、私は一人で家にいた。

 久しぶりに音楽を聴こうと屋根裏部屋にこもったが、哀しかった。なぜもっと父に優しくできなかったのだろう。父がまた歩けるようになり、一緒に笑うことができるようになる。それが父と私の共通の夢だったではないか。なのに何もできないまま死なせてしまう。後追い自殺したいほど、非常な罪悪感があった。自殺の動機の中には、肉親が死んで、遺族が後追い自殺したケースが多いそうだ。当時の私もそういう状態だったのだ。

 だが私は、音楽を聴けば多少は慰めになるかも知れないと思った。

 最初にかけたレコードは、ハイティンク指揮のブラームス『ドイツ・レクィエム』である。名曲・名演で、録音もいいのだが、その時の私には、むしろブラームスの傲慢さが耳障りだった。「どうせお前らの悲しみというのは、この程度だろう」と下品に口を歪めて笑っているようだった。要するに嫌みな訳知り顔をした、人生などてんで分かってないオッサンがでっち上げた曲なのだ。

 レコードを代えて、ベーム指揮のベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」にした。ブラームスほど嫌な感じはないが、「お前らの個人的な悲しみは関係ないよ」というような音楽だった。

 次はリヒターの「マタイ受難曲」。史上最高の名曲と思う「憐れみたまえ、わが神」のくだりを聴いたが、やはりどこか客観的な音楽だった。ベートーヴェンほど突き放した感じではなく、戸口に立っている友人のようである。「分かる。分かるよ。大丈夫か。しっかりしたまえ」と言っているようだが、それ以上気持ちの側にやってくることはない。

 他にもいくつか聴いたと思うが、あまり記憶にない。とにかく最後に聴いたのは、『グラン・パルティータ』である。なぜそんなものを取り出して聴いたのかも分からないが、私にとっては最高の救いの音楽だった。年若い友人が耳元で一生懸命慰めてくれているような、「世界は美しいし、人生はもっともっと生きる価値があるんだよ」と話してくれているような音楽なのだ。

 よく晴れた日で、陽がやや夕暮れの色彩を帯び、青空の下に黄金の光が満ちた。隣家の壁や屋根が、すべて美しい光に照らされた。第3楽章のアダージョに差し掛かったときのことだ。いつもは貧しく汚らしく感じていた風景なのだが、柔らかい木管の響きの中で、突然この上なく美しい風景に変容した。それはまるで魔法の眼鏡を通して見ているようだった。

 モーツァルトは魔法の眼鏡である。その眼鏡をかければ、この世のことはすべてが美しく見える。

 その日から、モーツァルトの大ファンになった。実を言うと、その時までモーツァルトと言えば、交響曲第40番やピアノ協奏曲第20番といった短調作品以外は、退屈な曲が多いと思っていた。一部の曲はいろいろな機会に耳にタコができるほど聴いていたし、知らない曲でも、どれも同じようなワンパターンの節回しで、聞き慣れた響きがする。だから「ああ、またあのパターンか」と最初から飽きてしまい、しっかり聴くことがほとんどなかった。

 しかしそれ以後、彼の作品を注意して聴くようになった。楽器の音色を活かした音響の美しさ、ありきたりなようだが情感あふれるメロディ。「フルートとハープのための協奏曲」などは、依頼があったので、やむを得ずこの取り合わせで作曲した(彼はフルートが好きではなかった)のだが、後の作曲家にはもうこの他の組み合わせを考えられなくなったほどの調和がある。もっとも、ドビュッシー晩年の美しい「フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」やラヴェルの「序奏とアレグロ」では、それぞれヴィオラ、クラリネットを加えることで、新たな音響美を模索している。

 なお「十三管楽器」という編成をユニークだと思う人は多いだろうが、当時は木管アンサンブルが流行していたので、そんなに珍しいわけではないようだ。セレナード第11番変ホ長調、同第12番ハ短調も管楽アンサンブルである。ちなみに、木管をウィンド(Wind=風?)と呼び、金管はブラス(Brass=真鍮)と呼ぶ。他にリード楽器(Reed=舌、簧)という分類もある。

 CDでは、ベーム指揮ベルリン・フィル管楽アンサンブルの演奏が一番納得できる。やや古い録音なので、音響面では最上とは言い難い。少し艶が不足しているようである。だが、第3楽章はやはり美しい。私の耳には、北に大きな窓がある部屋で、その窓から見える緑が室内に照り映えている中で演奏しているように聞こえる。

 小学館版のモーツァルト全集に採られたマリナー=アカデミーの演奏はディジタル録音でもあり、音質は万全である。第1楽章の開始部分は、ばら色の光が差すような美しい音である。第3楽章はトリラーがやや耳障りに聞こえるのが残念だ。他の楽章は優れたアンサンブルが展開されている。

 コレギウム・アウレウムの2回目の録音(ディジタル)は、音も表情も美しく、楽しめる。全体に青白い音が立ち並ぶ。アンサンブルに清潔感があり、他の演奏に比べるとこぢんまりして、いかにも室内楽風である。この曲の交響楽的壮麗さを愛する人には、物足りないかも知れない。


『ピアノ協奏曲第9番変ホ長調「ジュノーム」』

 モーツァルトが21才で書いた大傑作で、当時ウィーンに滞在したジュノームという未婚の女性ピアニストのために書いたと伝えられる。第1楽章の開始はあまりスケール感がなく、むしろ「可愛い」と言いたいようなシンプルな始まりだが、音楽が進行するにつれて実は壮大な曲であることが分かってくる。第2楽章はハ短調の透明な悲しみに満ちた音楽。ロマンティックな味わいと、バラード風の展開が魅力である。第3楽章もユニークだ。ロンドなのだが、中間部で大きくテンポを落とし、突然別の楽章が始まったかのような変化を見せる。

 なおジュノームというピアニストは記録に残っていないので、どんな女性だったかはよく分かっていない。最近の研究では、モーツァルトの知人の娘でジュナミという女性が(既婚婦人?)がその正体だと言われる。だが「ジュノーム」というニックネームがいかにも若きモーツァルトの憧れを表したロマンティックな響きを持っているので、今後もそう呼ばれ続けるだろう。

 この曲を初めて知ったのは、ルドルフ・ゼルキンのピアノ、アバド=ロンドン響のCDである。第2楽章で、ゼルキンは心の打ち震えるようなみずみずしい表情を聴かせていて、すばらしい演奏だ。オーケストラも透明感と色彩感があり、万全と言える。

 シフのピアノ、ヴェーグ指揮ザルツブルグ・モーツァルテウム。ゼルキン盤よりさっそうとした切れ味の良さがあり、なかなかの名演である。ただ私の耳には、音が全体に青みがかって単色に近いように聞こえる。

 内田のピアノ、テイト=イギリス室内管のオケ。2006年に発売されたポリドール版『モーツァルト全集』の中の1枚で、内田光子のピアノには濃やかな表情があり、オケの響きも悪くない。日本では、実力の割に内田の人気が低いような気がするのは、私だけだろうか。

 ピリス/グシュルバウアー盤は、録音のせいか、オケが少し透明感を欠く。ハスキル盤もモノラルなので、ここでは番外とする。

 なお、ゼルキン盤など、多くのCDでなぜか『ピアノ協奏曲第17番』ト長調と組み合わされていることが多い。これもしっとりした味わいのある傑作で、モーツァルト自身、大いに気に入っていたそうだ。未聴の人にはお奨めする。


『交響曲第36番ハ長調「リンツ」』

 私の偏愛する曲だが、実は第1楽章の短い序奏が気に入っていて、その遅いテンポに引きずられたかのように、主部も遅く演奏されるのが面白いのである。雨は止んだが、まだすっかり晴れ上がったわけでなく、道端の木々には薄暗い蔭が残っている。しかし、息を潜めていた虫たちがやっと鳴き始めた、という雨上がりの気分である。もし序奏がなく、いきなり主部が始まっていたとすれば、現代の演奏家なら、もっと速く演奏するだろう。

 このことが、モーツァルト演奏の正しいテンポを疑わせるのである。この主部は、現代の常識的なテンポから見れば、半分近くも遅く演奏されているのが普通なのだ。だからといってモーツァルトの味がしないわけではなく、むしろかえって面白い。彼の在世当時は、こういうテンポだったのかなと思わせるのである。

 CDでは、ベーム指揮ベルリン・フィルが一番いい。いかにも壮大な曲のように響き、序奏部分も単なる序奏に終わっていない。

 レヴァイン=ウィーン・フィル盤やバーンスタイン=ウィーン・フィル盤も、序奏は単に主部を導入する経過句のように演奏していて、やや不満である。

 昔コンサートホール・ソサエティで出ていたシューリヒトのLPは、すばらしかったように記憶する(現在手元にはない)が、CDへの復刻は、発売が予告されながら実現しなかった。


『フィガロの結婚』

 モーツァルトの典型ともいうべき美しいメロディが続々と現れる、すばらしいオペラである。私はバッハの『マタイ』とこの『フィガロ』を西洋音楽が到達した二大高峰と思う。もちろん彼はこの後にも『ドン・ジョヴァンニ』、『コシ・ファン・トゥッテ』、『魔笛』といった名作を書き、人によっては『フィガロ』より上だと言う。たとえばキエルケゴールは、『ドン・ジョヴァンニ』こそ最高傑作だと思っていた。なるほど音楽は美しいが、私には、『フィガロ』ほどの緊密なドラマにならず、少し弛緩が見られるような気がする。モーツァルトは、やや落ち目に差し掛かっていたのではなかろうか。上り調子だった時期の『イドメネオ』、『後宮からの誘拐』などの張り詰めた清冽感に比べて、少し物足りないものを感じるのである。

『フィガロ』を頂点と考えるなら、彼が落ち目になったのは、やはりこの作品が思うほどの成功を収めなかったことにあるだろう。初演は大成功で、「アンコール、アンコール」が続き、上演は深夜に及んだ。あまり極端なので、政府は過度のアンコールを禁止する政令まで出したという。ところが、それほどの大成功なのに、劇場では早々と演目からおろしてしまった。当時は、まだモーツァルトは前座扱いで、興業主はソレールというスペインの作曲家のオペラで大もうけを企んでいた。そのため、「駆け出し作曲家」、モーツァルトのスペインを舞台とした『フィガロ』がアペリティフとして用いられたというのである。事実ソレールのオペラ『椿事(珍事)』は、『フィガロ』以上の大当たりだったそうだ。

 当時はフランス革命騒ぎの最中であり、ヨーロッパではいわゆる「革命の輸出」に神経を尖らせていた。ところが台本の原作となったボーマルシェの戯曲は革命思想に親近感のあるものだったので、ウィーンでは上演が禁止されていた。こうした事情があるので、政治的な理由から葬り去られたという説もある。

 今となっては真相は分からないが、その頃からモーツァルトの予約演奏会のチケットが売れなくなり、かつて彼をもてはやした知人たちが、何となく距離を置くようになったのは事実らしい。彼の収入は少ないものではなかった(事実は相当な高収入だった)が、しきりに困窮を訴えるようになったのもこの頃からだ。

 それはそうと、私が一番いいと思うのは、やはりベーム指揮、プライ他のDVD(ポネル演出のオペラ映画)である。F=ディースカウ演ずる伯爵が、夫人の部屋にやって来る。ちょうどケルビーノを匿おうとしていたところなので、夫人とスザンナは大慌て。この場面が手に汗握る緊迫感で描かれる。このDVDでは、伯爵夫人をキリ・テ・カナワが演じているが、同じベームのCDでは、伯爵夫人をヤノヴィッツが歌っており、彼女の透き通るような美声を好む人には、CDの方がいいかも知れない。あの美しい『手紙の二重唱』では、ヤノヴィッツの声がうっとりするようなハーモニーを形作る。

 世界文化社から出ている「オペラ名作鑑賞」の第四巻にはバレンボイム=ベルリン国立歌劇場の上演と、コンピエーニュ帝国劇場の上演が収められ、かなり興味深い。コンピエーニュ版は歌劇のエロス的な側面を強調したというが、ケルビーノはテノールが演じており、普通の演出の性倒錯的な魅力はかなり減じている。第四幕の女たちの演技は、なるほどやや官能性を表に出しているが、驚くほどでもない。ここでスザンナは不倫の予感に身を震わせ、イケナイ感覚に酔っているように見える。台本にはそういう要素が内在しており、変わった演出というには当たらない。

 バレンボイムは、日本ではジャクリーヌ・デュ・プレとの不幸ないきさつがあってあまり人気が出ないが、実力はやはり大したものである。欲を言うと、このDVDではケルビーノの『恋とはどんなものかしら』が、大人の女性が歌っているように聞こえてしまう。

 メータ指揮=フィレンツェ歌劇場の公演。伯爵夫人のグヴァザーヴァがとても美人で愛らしく、魅力的だ。『恋とはどんなものかしら』は少年っぽくストレートに歌われている。スザンナは実力の高い歌手らしく、悪くはないが、いささか魔女風の顔立ちであり、色気では伯爵夫人に負けている。

 このように見ると、歌手という存在は生まれついての容貌や体つき、声質に多くを負っているのであって、努力だけではどうにもならない部分があると思う。バレエやフィギュアスケートもそうだろう。浅田真央のビールマン・スピンは世界一美しいと思うが、もっと短足に生まれついた人が同じことをやっても、感銘を与えることは難しい。かなり難易度の高い(つまり難しい)技らしいが、彼女はあまりにも楽々とやってのけるので、素人目には普通の技のように見える。結局、ああきれいだなと思うのは、彼女の肉体を賞賛しているのだ。

 そう言えば、私は映画が好きだが、特定の俳優のファンではなく、どちらかと言えば映画を監督で選ぶ方である。一番好きな映画監督はフェデリコ・フェリーニであり、中でも『魂のジュリエッタ』は最高に美しい映画だと思っている。私小説的な『8・1/2』や『アマルコルド』はイマイチである。もちろん他にもいる。詩的イメージに満ちたウッディ・アレンは、映画というジャンルに限定されない天才だと思う。少々古いが、巧妙な映画造りのヒチコック、ゲーム的映画というべき一つの典型を作り上げた黒澤明、フェリーニの衣鉢を継いだような寺山修司(ただし「田園に死す」以外はそれほどでもない)、一時期熱心に見ていたタルコフスキーなど数多い。

 しかし、絶対的に好きな俳優もいる。それはオードリー・ヘプバーンで、「マイ・フェア・レディ」や「シャレード」など、物語そっちのけで彼女の映像に見入ってしまう。ちょっと見ただけでは大して美人にも見えないし、特別私好みのタイプとも思わないのだが、なぜあれほど魅力を感じるのか、自分でも分からない。彼女が出演した映画なら、すべて見たいと思うのは、「着せ替え人形」のイメージだろう。いろいろな衣装を着せて、そのあらゆる美質を味わいたい。それは好きな曲をいろいろな演奏で聴いてみたいのに少し似ている。いわば彼女自身が芸術品で、彼女を見ることが喜びだというわけだ。彼女自身は容姿に劣等感を持っていたそうだが、「ローマの休日」を見たマリア・カラスは彼女のようになろうと、猛烈な減量をした。その結果、歌手生命を縮めることになったようだが、少なくとも当時のカラスは美人だった。

 話は逸れるが、カラスはもちろん天才的なプリマ・ドンナで、オペラの歴史を変えたと言われるほどのすばらしい歌手である。そのカラスのエピソードには、興味深い話がいくつもある。

 カラスがまだある教室でレッスンを受けていた頃、普通の生徒は、自分のレッスンが済むとさっさと帰ってしまうのに、カラスはいつまでも残っていて、全然関係ないはずのバス歌手のレッスンなどを興味津々で聴いていたというのである。後年、彼女が配役に加わるとなぜかアンサンブルが引き締まり、「みんなが上手になった」という。彼女が何か指示したわけではない。他の配役の分まで知っていて、みんなが上手に歌えるような演技、そういう刺激を与える演技をしたということである。

 また彼女が端役しかもらえなっかた駆け出しの頃、フィデリオ役を歌うことになっていたある歌手が、急な病気で出られなくなった。「誰か代役のできる者はいるか?」と聞くと、カラスが手を挙げた。「フィデリオなら以前からスコアを研究していたし、デビューするなら最高の役で、と決めていたの」というのだ。この志の高さと研究心は、やはり最高の芸術家にのみ見出されるものであろう。

 もちろん歌手には恵まれた天分が必要なわけだが、それだけでは間に合わないものがある。「志が高い」と言うと「野心的だ」と思う人もいるだろうが、それは違うと思うのである。目の前に願ってもない大役のチャンスがあるのに、首をすくめてやり過ごすのでは、プリマ・ドンナになれるはずがないし、「彼女がメンバーに加わると、全体のレベルが上がった」というのは、音楽全体を見通す力があったからだ。

 われわれの日常の仕事でもそういう面がある。向上心を出世欲と見なして嫌う人はいるが、少しでも会社を伸ばそうと思うなら、同僚に遠慮して力を発揮しないのは、間違っている。私はいつももう一歩上をと考えてきた。同僚には上昇志向に見えただろうが、私には反対に、同僚が適当なところで手を打って、力を出し尽くさないのがもどかしく思えた。出世などは関係ない。全体のレベルが上がれば、自然に自分の収入も増えるはずだと思っていたからである。現に会社は成長した。私の功績だけとは言わないが、少しずつ周囲の人たちの考え方もそういう方向に変わってきたと思う。

 とにかく、モーツァルトにはそうした意味での「天才」もあった。時には突飛な言動に見えても、音楽に関する限り、彼は正しかっただろうと思うのである。

http://kumoi1.web.fc2.com/CCP017.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c72

[リバイバル3] モーツァルト 魔笛 ・ドン・ジョヴァンニ を聴く 中川隆
9. 中川隆[-14382] koaQ7Jey 2019年11月10日 12:48:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1484]
モーツァルト(1756−1791)
http://kumoi1.web.fc2.com/CCP017.html

 モーツァルトは、かつては「神童」と呼ばれ、どちらかと言えば神に祝福された、幸福な幼児のイメージで語られていた。「モーツァルトはそんな幼稚な音楽じゃない」と反論しても、かえって「何をこいつは。そういうお前自身が幼稚なんだ」という目で見られてしまう傾向があった。ベートーヴェン風の苦悩と闘争、それを経て達する歓喜の歌、あるいはブラームス流の諦観、そうしたものが「高度な音楽」であり、すばらしいものだ。ベートーヴェン以前には、真に偉大な作曲家はいない。そう思っている人が少なくなかった。

 だが苦悩と闘争というのは、いわば文学的イメージである。ホッブスは原始状態を「万人の万人に対する闘争」と考えた。その闘争を緩和するのが法による秩序であり、国家という存在なのだ。

 しかし、原始人も群れて暮らしていた。群れから離れると、生存していく上での脅威は高いものになった。誰かが大きな獲物を仕留めると、それを巡って殺し合い奪い合うのではなく、群れで分かち合うのがむしろ普通だったらしい。群れの安定性を保つために、分かち合いが義務とされ、人に分けない者は群れの成員としての資格がないとされる。また殺し合いは、群れを不安定にし、成員の生存を脅かすものとして、排除された。またその頃にはリーダーという存在も現れた。多分リーダーがまず現れ、そのリーダーが群れを統率する上で「殺すな」「分かち合え」といったことを説いたのだと思う。もちろん、そうした群れでは、獲物を最初に食べるのはリーダーだっただろう。しかし比較的に公平な分配が行われていたようだ。

 闘争がわれわれの日常の現実になるのは、「競争社会」といったものが成立したからである。闘い勝つことが美徳であり、だめなヤツは敗れ去る。そのだめなヤツの悲哀を歌うのもいい。だが単にだめで終わらず、あくまで積極的に挑戦する。それが正しい道だと誰もが思っている。「夢を追う」という言い方もある。「夢」とは、要するに他人に勝つことである。

 もちろん、勝つことだけが目的で、他人の失敗を願うといったことは卑怯だとされるが、戦争や格闘競技で相手のミスを誘うことは、正当な戦術である。相手を実力が出し切れない状況に追い込む、あるいは相手のミスに乗じて勝ちを取る、といったことが賞賛されるのだ。

 皆さんも「宋襄の仁」という言葉を聞いたことがおありだろう。宋の国の襄公は、敵軍が川を渡るのを見て、自軍の参謀が「今こそ攻撃のチャンスです」と言うのを聞かず、「今攻撃するのは卑怯である」と、そのまま見ていた。また川を渡り終えた敵軍がへとへとに疲れて、陣形を立て直すこともできないのを見て、また参謀が「今が最後のチャンスです」と言ったのに、やはり「今攻撃するのは卑怯である」と見逃し、敵軍が十分に戦闘準備するまで待っていた。

 それからやっと攻撃しかけたのだが、宋はあっけなく敗れてしまった。そこでこのように「敵に無用の情けをかける」ことを「宋襄の仁」と呼んで、中国では笑いものにする(ただし宋の国では「襄公は正々堂々としていた」というので、賞賛されたそうだ)。

 他にも井戸に落ちて「助けてくれ」と叫んでいる敵兵を憐れんで助けた兵士が、その敵兵にいきなり殺されてしまった、という話もある。このように、戦争は情け無用であって、卑怯と言われようと何と言われようと、勝つことが最大の目的だとされている。多くのスポーツは、そういう考え方で行われているだろう。

 しかし、たとえばフィギュアスケートの場合を考えてもらいたい。ある時、トップ争いをしていた女子選手がジャンプの失敗で転倒した。次に荒川静香が完璧な演技を披露して優勝した。彼女が前の選手の演技の時に「転んでくれますように」と思っていたり、転倒の瞬間に「やった、これで私のもの」と喜んでいたとすると、その後完璧な演技ができただろうか。そういうマイナスの演技イメージを思い浮かべたのでは、自分の演技にも乱れが出たことだろう。やはり「相手は完璧だった」と仮定して、全力を尽くしたのだと思う。

 芸術で「競争する」というのは、フィギュアスケート・タイプの競争である。モーツァルトは自分が完璧な作品を書けると確信していた。他人のまずい作品を嘲笑したが、それによって勝とうとしたわけではない。他の選手の転倒という事実を許せなかったのだ。相手も完璧な演技をしてもらいたい、それでこそ競技全体のレベルが高くなる。

 モーツァルトは、今日で言うADHDだったと思われる。ヒルデスハイマーの皮肉に満ちた評伝で、モーツァルトの落ち着きのない性格について、ある人が「いつもピアノに向かったときのように落ち着いていてくれればいいのに」とぼやいたという話が出てくる。音楽についてだけ、驚くべき集中力を発揮したということである。

 しかしまた、彼はバッハと並ぶ完璧な耳を持っていた。よくモーツァルトの天才を証明する逸話として、システィナ礼拝堂で歌われていた門外不出の秘曲、アレグリの『ミゼレーレ』を一度聴いただけで、その夜、宿で完全な楽譜に書いたという話が取り上げられる。だが絶対音感を持つ人は、聴いた音に対する記憶力が優れているのが普通らしい。『ミゼレーレ』は、主要声部がいささか単調な繰り返しであり、高音部に即興的なメロディを付け加えて演奏された。モーツァルトには容易に聞き取れただろうし、繰り返しも多いので、記憶することも簡単だったのだろう。


<モーツァルトの耳>

 モーツァルトの耳には軽微な奇形があった。耳殻に襞が全くなく、皿のように平板だったのだ。このページにはWikipediaからもらった肖像を掲げたが、それは生前の画像であると伝えられること、耳を髪で覆ってその現在では「モーツァルト耳」と呼ばれる奇形を隠していることに、信憑性を感じたからである。

 この『ミゼレーレ』は、タリス・スコラーズの非常に美しい演奏のCDが出ている。2005年の再録音盤は、まだ日本語解説付きで手に入るだろう。ト短調で始まり、ハ短調の装飾旋律がからむ。ここで聴くノン・ビブラートのハイCは、実に美しい。装飾音型を変えた二種類の演奏が入っていて興味深いし、解説も大いに参考になる。

 モーツァルトの天才性は、そうした『曲技団的』能力にあるのではない。そういう能力では、グラズノフの方が優っている。彼は、一度聴いた曲なら、どんな駄作でも憶えていたそうだ。だがその中で、人類史上最高の作品を書いたかというと、そうでもない。私には、むしろ絶対音感がなかったといわれるチャイコフスキーの方が、はるかに面白いと感じる。

 ロビンズ・ランドンの「モーツァルト」に次のような話が紹介されている。まだモーツァルトがさほど有名でなかった頃、ある人がアマチュアの弦楽四重奏団を作っていたが、知人からモーツァルトの楽譜を見せられ、「一度これを演奏して見給え」と言われた。しかし、彼らの技量では難しくて弾けなかった。そこで、知り合いの老作曲家にその楽譜を見せに行った。どの程度の作品か、判断してもらおうというわけである。老作曲家は、ぱらぱらとページをめくって、「かなり熟達した作曲家だな、40歳代だろう」と言った(実は20歳代の作品)。それから譜面を読み始めた。ところがそのまま黙ってしまったので、「先生、どうなんですか?」と尋ねたところ、老先生は顔を上げたが、その目はうっとりと夢見るような眼差しだった。「なんてすばらしい音楽なんだ!」と老大家は叫んだ。

 天才とは、ナニカの技術において人より優れているだけのものではない。楽譜を読むだけで頭の中に音として響くとか、逆に音を聴いただけで楽譜になるという人は多いのである。ベートーヴェンも、聴覚を失ってからでも作曲していたし、シューベルトの歌曲の楽譜を読んで感心したという。

 要するに、モーツァルトの天才性とは「なんてすばらしい音楽なんだ!」という一言に尽きる。彼はこの世で最美の音楽を書いた。ある時、イタリアの大作曲家が死んだ。人から「後継者は誰がいいでしょう?」と尋ねられたパイジェルロは、言下に「それはモーツァルトだ」と答えたそうである。「彼の音楽には少し難しいところがあるが、非常に優れている」(ランドン「モーツァルト」より)。

 モーツァルトが難しいと思う人は、今日では一人もいないだろう。だが実際、当時の人には難しく聞こえた。テンポが速く、次から次へと新しい楽想が湧いて出るので(多動性)、当時はすべてを味わい尽くすことができなかったらしい。


<モーツァルトのテンポ>

 ヒルデスハイマーの著書に、次のようなエピソードが出ている。ある裕福な市民(ブルジョア)が、娘を連れて評判の歌劇「フィガロの結婚」を見に行った。ところが、第一幕が終わっても、一つもアリアが出て来ない。「どういうことだろうね」と娘に言うと、彼女は「何を言ってるの、お父さん、もういくつもきれいなアリアが出て来たじゃないの!」と返事した。父親は、どれもレシタティーヴォだと思い込んでいたのである。なぜか。テンポが速過ぎたのだ。当時の音楽愛好家の心に染みついていたのは、グルックのオペラであった。そのテンポは、現代では当時よりやや速く演奏されているが、実はかなり遅く、変化も少ない。要するにメロディは聴き取りやすい。

 話し相手より少し遅いテンポで話せば、相手をリラックスさせ、説得力が増すという実験結果があるそうだ。最近は、私には聞き取れないほど早口にしゃべる人がいて、就職面接で「頭の回転が速い、雄弁だ」と思わせることがあるらしい。ところが、そういう人に営業を担当させたらさっぱりだったということが多い。顧客から見ると、相手の思惑に関係なく、言いたいことをぺらぺらとしゃべりまくっただけで、営業になっていない。組織のリーダーや営業マンは、しゃべる能力より聴く能力の方が重要なものらしい。

 アメリカン・ジョークの一つに、こういう話がある。鉄鋼王カーネギーのところに、一人の客が尋ねてきた。秘書が部屋の外で聴いていると、その客はのべつ幕なしに何かをしゃべり続けている。カーネギーは時折「ふむふむ」、「ほう」と相槌を打つだけである。やがて用件が終わって部屋から出て来た客は、感嘆して叫んだ。「なんて話し上手な人なんだ!」

 よく「話し上手は聞き上手」と言うが、上記のエピソードは、本当にあった話かも知れない。「王者」たるものは、聞き上手でなければならないのである。たとえば戦国を制した徳川家康は、家臣の意見をよく聞いたそうだ。時には疑問があっても家臣の言う通りに動く。結局彼が覇者になった一番の理由が、そこにあると言う人もある。

 モーツァルトの音楽は、当時の人々にとっては早口で一方的にしゃべりまくる営業マンのようだっただろう。だが、すでに次の世代(娘の世代)は、モーツァルトのテンポを聞き取ることができるようになっていた。モーツァルトが死んでから、ウィーンは空前のモーツァルト・ブームに沸いたが、それは偶然ではないのだ。

 音楽のテンポは、ある程度社会性を帯びている。江戸時代の日本は、すべてのテンポが緩やかだった。オランダ人が江戸の町を歩いていたら、向こうから誰かが歩いて来る。「いずれは道を譲り合うことになる」と思いながら歩いて行くと、薄ら笑いを浮かべながら、どこまでもまっすぐ進んでくる。ぶつかる寸前になって「あぶない」と、とっさに身をかわしたが、見ていると日本人は何事もなかったかのように、なおもそのまままっすぐ歩いて行く。

 実際、町人同士がぶつかり合うまでまっすぐ歩き、ぶつかった後に初めて「これはどうも失礼しました」と互いにペコペコお辞儀する場面がよく見られたという。かといって歩くのが速いわけではない。むしろオランダ人が世界のどこで見たよりも遅い。そのため、彼らは「日本人はおそろしく動作の鈍い人種である」と報告した。だが逆に日本人は、オランダ人の素早い動きが信じられなかったそうだ。普通ならぶつかり合うところなのに、突然目の前から消えてしまったのである。「オランダ人はおそろしく素早いぞ」「バテレンの妖術か?」というのが当時の印象だったらしい。

 昭和30年代の日本は、新しい建築が相次ぎ、都市の景観はめまぐるしく変化した。日本人は忙しく動くようになった。後年、日本人(特に大阪人)は、世界一速く歩いているという測定結果が出た。だからぶつかることが多くなったわけではない。通行量が多く、しかも非常に速く歩いているなら、ぶつかり合いは江戸時代より多くても不思議はないのだが、事実は逆だった。みんながすばしこく、ちょこまか動いているのであって、おそらく江戸時代人から見ると、全員忍者のように見えるだろう。

 江戸時代は変化の少ない社会だった。あまり歴史を知ることのない庶民は、宇宙が始まって以来、江戸は徳川が治めていたと思いこんでいることも少なくなかった。「変化が激しい」「人口密度が高い」というのは、動作を敏捷にさせる要因なのである。絶えず周囲の状況に注意を払い、危険には機敏に反応する必要があるからだ。

 その意味で、モーツァルトのテンポを見直すのも悪くない。現在はせかせかした演奏が多いが、本当に昔はそうだったろうか。ある時テレビを見ていると、戦後復興期に登場した美空ひばりの「りんご追分(52年)」が出て来たのだが、桂三枝がそのオリジナル録音に付いて歌おうとすると、あまりにも遅いテンポなので、全く間が持たない。私もこの歌は記憶にあり、美空ひばりの声で流れてくると。「ああ、この歌はこうこうで、次の音符はこう」と、すぐ分かるのだが、それは桂三枝の憶えているテンポと同じだった。2割ないし3割も速いタイミングだ。

 52年(昭和27年)と言えば、朝鮮戦争の特需でやっと一息ついた日本が独立を果たした年だ。敗戦後の日本は、アメリカ領土になっていた。その間、日本という国家は、名目上、世界地図から消滅していたことになる。もちろん49年には国旗(日の丸)の掲揚が許されるなど、徐々に国家としての体面が回復しつつあったらしいが、戦争の傷跡は随所に見られた。たとえば私の生まれた家の近くには、空襲で破壊された大阪砲兵工廠の焼け跡が57年頃まで存在していた。

 記憶の中のテンポと、実際のテンポの違い。それは社会状況の違いである。昭和27年はまだほとんどの日本人がやせ細っていて、物産も貧しく、夏にはラジオの高校野球中継でも聴きながら昼寝をし、夕涼みに屋外の縁台に腰をかけることができれば最高だった時代だ。すだれが風にそよぎ、風鈴がチリンと鳴って、時には「さおーだけー」という声が聞こえてくる。当時はみんなが貧しかったというのは大げさだが、敢えて言えばみんながホームレスだった。欲を持つと言っても、せいぜい毎日白米のご飯を食べたい、という程度のことだった。ちなみに、私は白米1:麦2のご飯を食べて育った。冷えると臭いニオイがあるが、それに醤油をかけ、お湯で薄めて食べた。おかずなど何もない時代である。味噌汁をかけて食べることができれば、贅沢な方であった。卵かけご飯など、夢のようなごちそうだったが、それさえも冷えた麦ご飯の臭いニオイを覆い隠すものではなかった。


<モーツァルト晩年の困窮>

 モーツァルトは、死んだときほとんど破産状態だった。未亡人(コンスタンツェ)が皇帝に謁見すると、皇帝は破産報道を知っていて、彼女に厳しい目を向けた。当時は、破産というのは犯罪のようなものだったからだ。その時、コンスタンツェは夫の遺作演奏会、楽譜出版など、2,3の試みを提示して、破産を免れることが可能だと弁術した。事実、彼女はすべての負債を完済したばかりか、亡夫の遺した作品で大もうけしたという。

 だが晩年の収入が少なかったわけではないらしい。それどころか、当時としては相当な高収入だったようだ。彼はハイドンやサリエリのような高い地位にはなれなかったが、一応宮廷作曲家の称号を得て、給与ももらっていたし、ピアノ教師と楽譜出版、オペラでの収入もあった。夫婦共に浪費癖があったことが、困窮の理由かも知れないが、それだけでは説明できない。人気にかげりが見えた死の年だけでも、現在の日本円にして5000万円以上の収入があったのである。

 浪費癖は、「神童」時代に王侯貴族の生活を垣間見たこと、ザルツブルグに戻ってからは召使い同然に扱われて、憤懣のあまり大司教の下を飛び出したことを考え合わせれば、つまりは貴族のように暮らしたかったということだ。ある意味では父親にも責任があったと言える。

 またある人によると、フリーメーソンの支部を作ろうとしていたのではないかという。そのための費用が必要だったというのである。

 そういう可能性もあるだろうが、秘密結社だというので、フリーメーソンの影響を過度に考えるのも正しくないそうだ。当時の知識階級には、フリーメーソンの会員だった人物が多い。ハイドン、サリエリもフリーメーソンの会員だったと言われ、皇帝ヨーゼフ2世も寛容であり、実際はかなりオープンなものだったらしいのである。

 結局、モーツァルト晩年の経済的困窮の理由は分からない。ただ死の年には、収入が全盛期の半分ぐらいに減ってしまっており、実際以上に困窮した感じがあっただろう。現代でも莫大な収入のあった人気アーティストが、人気にかげりが見えて収入が減ると詐欺を働いたり、かつては高額の年棒をもらっていたプロ野球選手が、退団後に落ちぶれて強盗になった例がある。「あの金はどこに消えたの?」と聞いても、本人にも分からない。


<モーツァルトが愛した女性>

 モーツァルトが生涯愛したのはコンスタンツェの姉、アロイージアであった。美人だというだけでなく、音楽的才能がすばらしかったらしい。彼が結局コンスタンツェと結婚したのも、そうすればアロイージアの側にいられると思ったからだろう。だが、コンスタンツェを愛していなかったとは思えない。

 しかし彼がADHDだったとすると、コンスタンツェにとってもかなり扱いにくい夫だった可能性がある。

 彼が死んだとき、コンスタンツェにしてみれば、「バカな男と結婚して、まだ芽が出ないうちに死なれてしまった」と、嘆かわしいことおびただしい。ところが、ある弔問客が「あなたの夫は天才だった」と言ったので、「あのバカが天才?」と、彼女は心底驚いたという。それまで、夫の作品などただのクズだと思っていたのだ。しかしその後、散逸していた夫の作品をかき集めて演奏や出版を行い、事業家としての能力を発揮している。

 コンスタンツェは、しかし、やはりモーツァルトを愛していたのだろう。彼らの結婚生活はひどいものだったが、それなりに楽しい一面もあった。われわれは現在、モーツァルトのほぼすべての作品を耳にすることができる。それはコンスタンツェが、散逸していた楽譜を精力的に集めたことが大きく寄与している。それは、作品によほどの愛情を注いでいなければできないことだ。

 彼女自身はヘンデルなどの古い音楽を好み、夫が在世中は、全く彼の音楽を理解しなかった。しかしニッセンと再婚して共同で伝記を執筆したりするうち、やはり音楽への理解や、前夫への愛が甦る瞬間はあったに違いないと思う。「私より姉を愛していた」と思い知ることもあっただろうが、姉に劣らず彼女自身を愛していたことも分かったと思う。


<モーツァルトの死>

 あまりにも急な死だったので、モーツァルトの死は、音楽史上のミステリーとされることが多い。死後に訪れたモーツァルト・ブームの中で、サリエリが突然「私がモーツァルトを殺した」と叫んで自殺を図ったという史実もある(映画『アマデウス』の冒頭場面である)。オーストリア官憲が彼を精神病院に閉じ込めたので、真相は分からなくなってしまったが、モーツァルト自身も「誰かに毒を盛られた」と思い込んでいたらしい。

 「サリエリがモーツァルトに一服盛った」という噂は、モーツァルトが死んだ直後からあった。サリエリ自身は、モーツァルトが死んだと聞くと「死んだって?それは助かった。あんな天才にいつまでも生きていられたんじゃ、われわれ凡才は仕事を失ってしまうからね」と語ったそうだ。後にサリエリが「私が殺した」と言って自殺しかけたとき、ベートーヴェンは「やっぱりあいつか。初めからそうだと思っていたよ」と言った。実はベートーヴェンもシューベルトもサリエリに学び、そのタチの悪い妨害や陰謀に悩まされた経験があるそうである。

 ただし、サリエリが築いていた宮廷作曲家という地位は、有力な競争相手が出現したら突然失ってしまうような不安定なものではなかったらしい。たとえ解任されても、年金を受け取ることができたのではないだろうか。モーツァルトも晩年には宮廷作曲家に任命されたが、特に妨害は受けていないようだ。サリエリが地位を守るためにモーツァルトを殺すという可能性は小さい。

 単純な病死だったという説がある。モーツァルトは幼い頃から病弱で、その病歴からリューマチ熱だったのではないかというのである。モーツァルトの遺骨が出れば検証できるかも知れないが、現在のところ、モーツァルトの墓は見つかっていない。当時の医師の診断は「粟粒熱(ぞくりゅうねつ)」という訳の分からない病名で、現代の医学では「そのような病気は存在しない」とされる。

 食中毒説もある。ディスカバリー・チャンネルで紹介された、豚肉の寄生虫による中毒で、1860年頃、彼とよく似た症状で死んだ農家の娘は、遺体の検証で、食中毒だったことが確認されたそうだ。

 一番有力なのが毒殺説で、当時は毒と言えばヒ素と決まっていた。モーツァルト最後の病状は、ヒ素中毒によく似ているという。トファナ水というのはヒ素の溶液で、濃度を注意深く調整すれば、飲ませてから何日後に死ぬかを正確に決定できるという話まであった。ただこれは、人によって致死量が違うことも分かっているので、かなり誇張されたおとぎ話である。

『元素の百科事典』に出ているエムズレー博士の説は、アンチモン中毒である。モーツァルトの頃はアンチモンが発見されて間もない時代で、あまり正体がよく分からないまま、胃腸薬などとして処方されていたそうだ。だがアンチモンは毒性があり、飲み過ぎるとヒ素中毒に似通った症状が出る(周期表でもヒ素と同族である)。モーツァルトにもアンチモン製剤が処方されていたので、誤って飲み過ぎたのではないかという。なお現在では、医薬として用いられることはない。


<モーツァルトの姉>

 もう一つ、モーツァルトの生涯で特徴的なのは、姉ナンネルとの関係である。それはメンデルスゾーンの姉ファニーとの関係にも似ている。この姉たちは、弟たちの先生でもあった。たとえばモーツァルトは当時ヨーロッパ一のピアノの名手と言われたが、クレメンティとの競争演奏では、客観的に見ると引き分けだった。そのクレメンティを、モーツァルトは「達者な腕前だが機械的で情感に欠ける」として否定している。また、何人かいた弟子について、「それにしても女の子の方が音楽的に弾くのはどうしたことでしょう」と言っている。彼の感想では、女性のピアノの方が情感があり、音楽的なのだった。男が弾くと、無機的になりがちだ。それは音楽ではない。

 この話は、彼の幼児期のピアノの先生が、実はナンネルだったということを明かしているのだろう。ナンネルの作品は残っていないが、作曲を行っていたことは分かっている。だがヴォルフガングが「お姉ちゃん」の真似をして作曲し始めると、父レオポルトは、もうそれ以上姉には教えず、弟を神童として売り出すことに熱中した。

 ナンネルも神童だったらしいことは、当時の人たちの記録に残っている。あるとき、宿に足止めを食らった客の中に、まだ幼かったモーツァルト姉弟がいた。彼らは退屈しのぎに連弾だったか二重奏だったかを披露したそうだ。「この二人の神童のピアノは、われわれを大いに愉しませた」という。

 父親レオポルトが、弟の方を特に熱心に育てたのは、当時の男女差別的な社会情勢が原因であっただろう。女性はピアノの名手であっても、それは身持ちのいいお嬢様の趣味の芸事を時たま披露するだけであって、職業的音楽家の道などはどこにもなかった。貴族の奥様になる、といった目標の方が、はるかに重視された。ましてや作曲家などとんでもない。

 実際のナンネルの才能は、現在知られているよりはるかに優れていたと思われる。彼女はしばしば弟の協奏曲のソロを努めた。彼女のピアノこそモーツァルトの音楽の原点にあったのではないだろうか。

 それはさておき、私の好きな作品について述べたい。


『グラン・パルティータ』〜第3楽章「アダージョ」

 モーツァルトには傑作が多いが、「グラン・パルティータ(大組曲)」は、その中でも最高の一つである。正式な名称は「13管楽器のためのセレナード」といい、木管のアンサンブル曲だ。セレナードとしては第10番(変ロ長調)とされる。

 モーツァルトの時代、まだ現在のように「交響曲が最高のジャンル」といった考え方はなかった。交響曲、セレナード、ディヴェルティメントの区別は「演奏機会」の区別なのだろう。内容で分けられているわけではない。もちろん演奏機会は内容に結びついている。たとえばベートーヴェンの七重奏曲などは同じ性格を持ち、やはりリラックスした気分の曲である。ここに「苦悩と闘争」のベートーヴェン像を見出すのは、深読みに過ぎる。こういった作品は、リラックスした気分を作り出すためのものであり、食事時のBGMとして演奏されたりしていたのだ。

 本題の「グラン・パルティータ」について言うと、私は80年頃、エド・デ・ワールト指揮のオランダ管楽合奏団(?)のLPをオーディオ的な興味で買って聴いた。最初は「まあ、いい音はするがモーツァルトらしい能天気な曲だなあ」と思っただけだった。

 グラン・パルティータの本当の良さが分かったのは、父の死の直後だった。長い間、寝たきりの父の存在は重荷だったし、愛情の薄い人だったので、「早く死んでくれればいい」とさえ思っていた。だが、死んだとき、重荷だろうと厄介だろうと、父と母と私しかいなかったその年月、良くも悪くも、父が家族の中心にいた。いささか子供っぽいが、「ボクたちは明日からどう生きていけばいいの」というのが、当時の心境だった。

 それは暑い8月のことで、当時は父の家の屋根裏部屋に住んでいたのだが、夏には50度以上にもなり、30分もいれば半狂乱になるような部屋だった。そこに私のオーディオ・システムを置いていた。葬儀まではレコードを聴くこともなく、屋根裏部屋には立ち入らずにいたのである。だが葬儀の後、世間が「盆休み」に入り、親戚一同も去って、静かになった。母と仲が良かった伯母だけがしばらく家に留まっていたが、その日は二人でどこかに出かけ、私は一人で家にいた。

 久しぶりに音楽を聴こうと屋根裏部屋にこもったが、哀しかった。なぜもっと父に優しくできなかったのだろう。父がまた歩けるようになり、一緒に笑うことができるようになる。それが父と私の共通の夢だったではないか。なのに何もできないまま死なせてしまう。後追い自殺したいほど、非常な罪悪感があった。自殺の動機の中には、肉親が死んで、遺族が後追い自殺したケースが多いそうだ。当時の私もそういう状態だったのだ。

 だが私は、音楽を聴けば多少は慰めになるかも知れないと思った。

 最初にかけたレコードは、ハイティンク指揮のブラームス『ドイツ・レクィエム』である。名曲・名演で、録音もいいのだが、その時の私には、むしろブラームスの傲慢さが耳障りだった。「どうせお前らの悲しみというのは、この程度だろう」と下品に口を歪めて笑っているようだった。要するに嫌みな訳知り顔をした、人生などてんで分かってないオッサンがでっち上げた曲なのだ。

 レコードを代えて、ベーム指揮のベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」にした。ブラームスほど嫌な感じはないが、「お前らの個人的な悲しみは関係ないよ」というような音楽だった。

 次はリヒターの「マタイ受難曲」。史上最高の名曲と思う「憐れみたまえ、わが神」のくだりを聴いたが、やはりどこか客観的な音楽だった。ベートーヴェンほど突き放した感じではなく、戸口に立っている友人のようである。「分かる。分かるよ。大丈夫か。しっかりしたまえ」と言っているようだが、それ以上気持ちの側にやってくることはない。

 他にもいくつか聴いたと思うが、あまり記憶にない。とにかく最後に聴いたのは、『グラン・パルティータ』である。なぜそんなものを取り出して聴いたのかも分からないが、私にとっては最高の救いの音楽だった。年若い友人が耳元で一生懸命慰めてくれているような、「世界は美しいし、人生はもっともっと生きる価値があるんだよ」と話してくれているような音楽なのだ。

 よく晴れた日で、陽がやや夕暮れの色彩を帯び、青空の下に黄金の光が満ちた。隣家の壁や屋根が、すべて美しい光に照らされた。第3楽章のアダージョに差し掛かったときのことだ。いつもは貧しく汚らしく感じていた風景なのだが、柔らかい木管の響きの中で、突然この上なく美しい風景に変容した。それはまるで魔法の眼鏡を通して見ているようだった。

 モーツァルトは魔法の眼鏡である。その眼鏡をかければ、この世のことはすべてが美しく見える。

 その日から、モーツァルトの大ファンになった。実を言うと、その時までモーツァルトと言えば、交響曲第40番やピアノ協奏曲第20番といった短調作品以外は、退屈な曲が多いと思っていた。一部の曲はいろいろな機会に耳にタコができるほど聴いていたし、知らない曲でも、どれも同じようなワンパターンの節回しで、聞き慣れた響きがする。だから「ああ、またあのパターンか」と最初から飽きてしまい、しっかり聴くことがほとんどなかった。

 しかしそれ以後、彼の作品を注意して聴くようになった。楽器の音色を活かした音響の美しさ、ありきたりなようだが情感あふれるメロディ。「フルートとハープのための協奏曲」などは、依頼があったので、やむを得ずこの取り合わせで作曲した(彼はフルートが好きではなかった)のだが、後の作曲家にはもうこの他の組み合わせを考えられなくなったほどの調和がある。もっとも、ドビュッシー晩年の美しい「フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」やラヴェルの「序奏とアレグロ」では、それぞれヴィオラ、クラリネットを加えることで、新たな音響美を模索している。

 なお「十三管楽器」という編成をユニークだと思う人は多いだろうが、当時は木管アンサンブルが流行していたので、そんなに珍しいわけではないようだ。セレナード第11番変ホ長調、同第12番ハ短調も管楽アンサンブルである。ちなみに、木管をウィンド(Wind=風?)と呼び、金管はブラス(Brass=真鍮)と呼ぶ。他にリード楽器(Reed=舌、簧)という分類もある。

 CDでは、ベーム指揮ベルリン・フィル管楽アンサンブルの演奏が一番納得できる。やや古い録音なので、音響面では最上とは言い難い。少し艶が不足しているようである。だが、第3楽章はやはり美しい。私の耳には、北に大きな窓がある部屋で、その窓から見える緑が室内に照り映えている中で演奏しているように聞こえる。

 小学館版のモーツァルト全集に採られたマリナー=アカデミーの演奏はディジタル録音でもあり、音質は万全である。第1楽章の開始部分は、ばら色の光が差すような美しい音である。第3楽章はトリラーがやや耳障りに聞こえるのが残念だ。他の楽章は優れたアンサンブルが展開されている。

 コレギウム・アウレウムの2回目の録音(ディジタル)は、音も表情も美しく、楽しめる。全体に青白い音が立ち並ぶ。アンサンブルに清潔感があり、他の演奏に比べるとこぢんまりして、いかにも室内楽風である。この曲の交響楽的壮麗さを愛する人には、物足りないかも知れない。


『ピアノ協奏曲第9番変ホ長調「ジュノーム」』

 モーツァルトが21才で書いた大傑作で、当時ウィーンに滞在したジュノームという未婚の女性ピアニストのために書いたと伝えられる。第1楽章の開始はあまりスケール感がなく、むしろ「可愛い」と言いたいようなシンプルな始まりだが、音楽が進行するにつれて実は壮大な曲であることが分かってくる。第2楽章はハ短調の透明な悲しみに満ちた音楽。ロマンティックな味わいと、バラード風の展開が魅力である。第3楽章もユニークだ。ロンドなのだが、中間部で大きくテンポを落とし、突然別の楽章が始まったかのような変化を見せる。

 なおジュノームというピアニストは記録に残っていないので、どんな女性だったかはよく分かっていない。最近の研究では、モーツァルトの知人の娘でジュナミという女性が(既婚婦人?)がその正体だと言われる。だが「ジュノーム」というニックネームがいかにも若きモーツァルトの憧れを表したロマンティックな響きを持っているので、今後もそう呼ばれ続けるだろう。

 この曲を初めて知ったのは、ルドルフ・ゼルキンのピアノ、アバド=ロンドン響のCDである。第2楽章で、ゼルキンは心の打ち震えるようなみずみずしい表情を聴かせていて、すばらしい演奏だ。オーケストラも透明感と色彩感があり、万全と言える。

 シフのピアノ、ヴェーグ指揮ザルツブルグ・モーツァルテウム。ゼルキン盤よりさっそうとした切れ味の良さがあり、なかなかの名演である。ただ私の耳には、音が全体に青みがかって単色に近いように聞こえる。

 内田のピアノ、テイト=イギリス室内管のオケ。2006年に発売されたポリドール版『モーツァルト全集』の中の1枚で、内田光子のピアノには濃やかな表情があり、オケの響きも悪くない。日本では、実力の割に内田の人気が低いような気がするのは、私だけだろうか。

 ピリス/グシュルバウアー盤は、録音のせいか、オケが少し透明感を欠く。ハスキル盤もモノラルなので、ここでは番外とする。

 なお、ゼルキン盤など、多くのCDでなぜか『ピアノ協奏曲第17番』ト長調と組み合わされていることが多い。これもしっとりした味わいのある傑作で、モーツァルト自身、大いに気に入っていたそうだ。未聴の人にはお奨めする。


『交響曲第36番ハ長調「リンツ」』

 私の偏愛する曲だが、実は第1楽章の短い序奏が気に入っていて、その遅いテンポに引きずられたかのように、主部も遅く演奏されるのが面白いのである。雨は止んだが、まだすっかり晴れ上がったわけでなく、道端の木々には薄暗い蔭が残っている。しかし、息を潜めていた虫たちがやっと鳴き始めた、という雨上がりの気分である。もし序奏がなく、いきなり主部が始まっていたとすれば、現代の演奏家なら、もっと速く演奏するだろう。

 このことが、モーツァルト演奏の正しいテンポを疑わせるのである。この主部は、現代の常識的なテンポから見れば、半分近くも遅く演奏されているのが普通なのだ。だからといってモーツァルトの味がしないわけではなく、むしろかえって面白い。彼の在世当時は、こういうテンポだったのかなと思わせるのである。

 CDでは、ベーム指揮ベルリン・フィルが一番いい。いかにも壮大な曲のように響き、序奏部分も単なる序奏に終わっていない。

 レヴァイン=ウィーン・フィル盤やバーンスタイン=ウィーン・フィル盤も、序奏は単に主部を導入する経過句のように演奏していて、やや不満である。

 昔コンサートホール・ソサエティで出ていたシューリヒトのLPは、すばらしかったように記憶する(現在手元にはない)が、CDへの復刻は、発売が予告されながら実現しなかった。


『フィガロの結婚』

 モーツァルトの典型ともいうべき美しいメロディが続々と現れる、すばらしいオペラである。私はバッハの『マタイ』とこの『フィガロ』を西洋音楽が到達した二大高峰と思う。もちろん彼はこの後にも『ドン・ジョヴァンニ』、『コシ・ファン・トゥッテ』、『魔笛』といった名作を書き、人によっては『フィガロ』より上だと言う。たとえばキエルケゴールは、『ドン・ジョヴァンニ』こそ最高傑作だと思っていた。なるほど音楽は美しいが、私には、『フィガロ』ほどの緊密なドラマにならず、少し弛緩が見られるような気がする。モーツァルトは、やや落ち目に差し掛かっていたのではなかろうか。上り調子だった時期の『イドメネオ』、『後宮からの誘拐』などの張り詰めた清冽感に比べて、少し物足りないものを感じるのである。

『フィガロ』を頂点と考えるなら、彼が落ち目になったのは、やはりこの作品が思うほどの成功を収めなかったことにあるだろう。初演は大成功で、「アンコール、アンコール」が続き、上演は深夜に及んだ。あまり極端なので、政府は過度のアンコールを禁止する政令まで出したという。ところが、それほどの大成功なのに、劇場では早々と演目からおろしてしまった。当時は、まだモーツァルトは前座扱いで、興業主はソレールというスペインの作曲家のオペラで大もうけを企んでいた。そのため、「駆け出し作曲家」、モーツァルトのスペインを舞台とした『フィガロ』がアペリティフとして用いられたというのである。事実ソレールのオペラ『椿事(珍事)』は、『フィガロ』以上の大当たりだったそうだ。

 当時はフランス革命騒ぎの最中であり、ヨーロッパではいわゆる「革命の輸出」に神経を尖らせていた。ところが台本の原作となったボーマルシェの戯曲は革命思想に親近感のあるものだったので、ウィーンでは上演が禁止されていた。こうした事情があるので、政治的な理由から葬り去られたという説もある。

 今となっては真相は分からないが、その頃からモーツァルトの予約演奏会のチケットが売れなくなり、かつて彼をもてはやした知人たちが、何となく距離を置くようになったのは事実らしい。彼の収入は少ないものではなかった(事実は相当な高収入だった)が、しきりに困窮を訴えるようになったのもこの頃からだ。

 それはそうと、私が一番いいと思うのは、やはりベーム指揮、プライ他のDVD(ポネル演出のオペラ映画)である。F=ディースカウ演ずる伯爵が、夫人の部屋にやって来る。ちょうどケルビーノを匿おうとしていたところなので、夫人とスザンナは大慌て。この場面が手に汗握る緊迫感で描かれる。このDVDでは、伯爵夫人をキリ・テ・カナワが演じているが、同じベームのCDでは、伯爵夫人をヤノヴィッツが歌っており、彼女の透き通るような美声を好む人には、CDの方がいいかも知れない。あの美しい『手紙の二重唱』では、ヤノヴィッツの声がうっとりするようなハーモニーを形作る。

 世界文化社から出ている「オペラ名作鑑賞」の第四巻にはバレンボイム=ベルリン国立歌劇場の上演と、コンピエーニュ帝国劇場の上演が収められ、かなり興味深い。コンピエーニュ版は歌劇のエロス的な側面を強調したというが、ケルビーノはテノールが演じており、普通の演出の性倒錯的な魅力はかなり減じている。第四幕の女たちの演技は、なるほどやや官能性を表に出しているが、驚くほどでもない。ここでスザンナは不倫の予感に身を震わせ、イケナイ感覚に酔っているように見える。台本にはそういう要素が内在しており、変わった演出というには当たらない。

 バレンボイムは、日本ではジャクリーヌ・デュ・プレとの不幸ないきさつがあってあまり人気が出ないが、実力はやはり大したものである。欲を言うと、このDVDではケルビーノの『恋とはどんなものかしら』が、大人の女性が歌っているように聞こえてしまう。

 メータ指揮=フィレンツェ歌劇場の公演。伯爵夫人のグヴァザーヴァがとても美人で愛らしく、魅力的だ。『恋とはどんなものかしら』は少年っぽくストレートに歌われている。スザンナは実力の高い歌手らしく、悪くはないが、いささか魔女風の顔立ちであり、色気では伯爵夫人に負けている。

 このように見ると、歌手という存在は生まれついての容貌や体つき、声質に多くを負っているのであって、努力だけではどうにもならない部分があると思う。バレエやフィギュアスケートもそうだろう。浅田真央のビールマン・スピンは世界一美しいと思うが、もっと短足に生まれついた人が同じことをやっても、感銘を与えることは難しい。かなり難易度の高い(つまり難しい)技らしいが、彼女はあまりにも楽々とやってのけるので、素人目には普通の技のように見える。結局、ああきれいだなと思うのは、彼女の肉体を賞賛しているのだ。

 そう言えば、私は映画が好きだが、特定の俳優のファンではなく、どちらかと言えば映画を監督で選ぶ方である。一番好きな映画監督はフェデリコ・フェリーニであり、中でも『魂のジュリエッタ』は最高に美しい映画だと思っている。私小説的な『8・1/2』や『アマルコルド』はイマイチである。もちろん他にもいる。詩的イメージに満ちたウッディ・アレンは、映画というジャンルに限定されない天才だと思う。少々古いが、巧妙な映画造りのヒチコック、ゲーム的映画というべき一つの典型を作り上げた黒澤明、フェリーニの衣鉢を継いだような寺山修司(ただし「田園に死す」以外はそれほどでもない)、一時期熱心に見ていたタルコフスキーなど数多い。

 しかし、絶対的に好きな俳優もいる。それはオードリー・ヘプバーンで、「マイ・フェア・レディ」や「シャレード」など、物語そっちのけで彼女の映像に見入ってしまう。ちょっと見ただけでは大して美人にも見えないし、特別私好みのタイプとも思わないのだが、なぜあれほど魅力を感じるのか、自分でも分からない。彼女が出演した映画なら、すべて見たいと思うのは、「着せ替え人形」のイメージだろう。いろいろな衣装を着せて、そのあらゆる美質を味わいたい。それは好きな曲をいろいろな演奏で聴いてみたいのに少し似ている。いわば彼女自身が芸術品で、彼女を見ることが喜びだというわけだ。彼女自身は容姿に劣等感を持っていたそうだが、「ローマの休日」を見たマリア・カラスは彼女のようになろうと、猛烈な減量をした。その結果、歌手生命を縮めることになったようだが、少なくとも当時のカラスは美人だった。

 話は逸れるが、カラスはもちろん天才的なプリマ・ドンナで、オペラの歴史を変えたと言われるほどのすばらしい歌手である。そのカラスのエピソードには、興味深い話がいくつもある。

 カラスがまだある教室でレッスンを受けていた頃、普通の生徒は、自分のレッスンが済むとさっさと帰ってしまうのに、カラスはいつまでも残っていて、全然関係ないはずのバス歌手のレッスンなどを興味津々で聴いていたというのである。後年、彼女が配役に加わるとなぜかアンサンブルが引き締まり、「みんなが上手になった」という。彼女が何か指示したわけではない。他の配役の分まで知っていて、みんなが上手に歌えるような演技、そういう刺激を与える演技をしたということである。

 また彼女が端役しかもらえなっかた駆け出しの頃、フィデリオ役を歌うことになっていたある歌手が、急な病気で出られなくなった。「誰か代役のできる者はいるか?」と聞くと、カラスが手を挙げた。「フィデリオなら以前からスコアを研究していたし、デビューするなら最高の役で、と決めていたの」というのだ。この志の高さと研究心は、やはり最高の芸術家にのみ見出されるものであろう。

 もちろん歌手には恵まれた天分が必要なわけだが、それだけでは間に合わないものがある。「志が高い」と言うと「野心的だ」と思う人もいるだろうが、それは違うと思うのである。目の前に願ってもない大役のチャンスがあるのに、首をすくめてやり過ごすのでは、プリマ・ドンナになれるはずがないし、「彼女がメンバーに加わると、全体のレベルが上がった」というのは、音楽全体を見通す力があったからだ。

 われわれの日常の仕事でもそういう面がある。向上心を出世欲と見なして嫌う人はいるが、少しでも会社を伸ばそうと思うなら、同僚に遠慮して力を発揮しないのは、間違っている。私はいつももう一歩上をと考えてきた。同僚には上昇志向に見えただろうが、私には反対に、同僚が適当なところで手を打って、力を出し尽くさないのがもどかしく思えた。出世などは関係ない。全体のレベルが上がれば、自然に自分の収入も増えるはずだと思っていたからである。現に会社は成長した。私の功績だけとは言わないが、少しずつ周囲の人たちの考え方もそういう方向に変わってきたと思う。

 とにかく、モーツァルトにはそうした意味での「天才」もあった。時には突飛な言動に見えても、音楽に関する限り、彼は正しかっただろうと思うのである。

http://kumoi1.web.fc2.com/CCP017.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/559.html#c9

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
236. 中川隆[-14399] koaQ7Jey 2019年11月10日 13:11:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1501]

損切りが必要な投資法は絶対にやってはいけない


天才投資家バフェットが警鐘。なぜ日本人は収入が途絶えた老後から投資をするのか?=俣野成敏 2019年11月10日
https://www.mag2.com/p/money/815558


日本証券業協会の調査によると、日本の投資家の過半数を60歳以上が占め、年収は300万円未満が45.4%で最多となっています。多くの人が収入が途絶えたり、先細りする状態になってから、労働収入の代替え手段として、投資を検討しているということです。

日本人投資家は危険すぎる?バフェットの名言から学ぶ投資の鉄則

1. 投資とは、収入を増やす手段ではない?!

今回は、「名言に学ぶシリーズ」の続編として、天才投資家バフェット氏の名言を取り上げます。本特集は、名言の中に秘められた先人の知恵を借りつつも、彼らと私たちの間に横たわるギャップに目を向けることで、名言を鵜呑みにすることなく、そのエッセンスを取り入れられるようになることを目的としています。これ以前の名言につきましては、バックナンバーをご覧いただければと思います。

誰しも、自らお金を失おうとする人はいないでしょう。なのにお金を失ってしまうのは、失う危険性に目を向けないことが一因です。

ところが、失う危険性に目を向けると、今度は逆に投資をすることが怖くなってしまいます。

このような状況の中でも投資を行い、勝てる方法というのはあるのでしょうか?

【正しいリスクの取り方を知らなければ、投資で成功することはできない】

それでは、今回も引き続き、世界3大投資家の1人であるウォーレン・バフェット氏の名言を紐いていくことにしましょう。解説する名言はこちらです。


《名言ピックアップ その1》

ルール1:お金を失わない
ルール2:ルール1を忘れない
ルール3:借金をしない

出典:『カリスマ投資家の教え』(著:川上穣/刊:日経ビジネス人文庫)

上記は、インターネットなどでしばしば目にする名言ですが、「ルール3があったことを知らなかった」という人は意外に多いのではないでしょうか。

これは憶測に過ぎませんが、今は証券会社やFX会社などでも、普通に信用取引(借金)を使って金融商品を購入できるため、ルール3の存在を知られてしまうと、都合の悪い人がいるのかもしれません。

前回Vol.144でも、バフェット氏がレバレッジ(信用取引)の危険性について述べた箇所を、名言として取り上げました。

氏がこれだけ借金について言及しているということは、それだけ誤解している人が多く、釘を刺しておきたい想いがあるのだと思います。

<個人投資家の半数が60歳以上、労働収入が途絶えてから始めている>

2018年7月、日本証券業協会調査部が全国の20歳以上の投資家に対して行い、5,000人から有効回答を得たインターネット調査「平成30年度個人投資家の証券投資に関する意識調査報告書」というのがあります。

それによると、回答者の約6割が男性であり、かつ60歳以上が過半数を占め、中でも70歳以上が3割を占めています。

回答者の年収は300万円未満が45.4%と多く、500万円未満(23.8%)を含めると7割近くになります。職業も「無職・年金のみ(24.9%)」「役職なしの会社員(19.5%)」「専業主婦・主夫(18.9%)」と続いています。

彼らが証券投資に興味を持ったキッカケとは、「今の収入を増やしたいと思った(38.4%)」「株主優待があるから(35.6%)」「将来の生活に不安があり、必要性を感じた(23.6%)」といったものでした。

ここから見えてくるのは、多くの人が収入が途絶えたり、先細りする状態になってから、労働収入の代替え手段として、投資を検討しているということです。

労働収入がなくなり、年金も思ったように出ないとなると、もう後がなくなります。だから余計に、少ない元手を何とかして増やそうとして、信用取引などに走ってしまうのでしょう。

<投資は余剰資金でやるのが鉄則>

ご存じの通り、投資にはリスクがあります。つまりお金を失う可能性があるため、基本はお金を失っても大丈夫な状態にしてから、投資をすることが鉄則となります。

要は、投資を行う際には「労働 or 事業収入か、お金を失っても問題ないだけの資産があること」という前提条件が付くわけです。

ですから、リスクを取るような投資は、基本的には何らかの収入がある時にしかできません。収入がなくなった後は、通常は保守的な運用に切り替えるのが普通で、そもそもリスクの高い投資をすべきではありません。

バフェット氏が、わざわざ「ルール2:ルール1(お金を失わない)を忘れない」と念押ししているのも、人々が簡単にお金の増えそうな話に乗ってしまい、結果、お金を失うことが多いからなのでしょう。「ルール3:借金をしない」の借金に至っては、お金を失う行為に等しい、ということです。

<兼業投資家が大きな利回りを狙っていくべきは、投資ではなく本業>

おそらくバフェット氏自身は、お金を増やすことと失うことを、イコールで見ているでしょう。リスクを取らなければ、投資でお金は増えません。

投資を行えば、お金は増える可能性も減る可能性もあります。さらに「投資をしない」という選択肢もある中で、「投資をする」という決断を下し、かつ成功を収めたければ、正しいリスクの取り方を知っていることが不可欠です。


仮に、これから投資をしようとしている人が、商品のリターンしか目に入っておらず、リスクを理解していないとしたら、「リターンとリスクのどちらがより可能性が高いのか?」を比べることもできないでしょう。

比較ができない以上、本当の意味でのリスクを取ることなどできません。

私たちビジネスパーソンは、普段は仕事(本業)をしている、という意味で、いわば兼業投資家です。

お伝えしたいのは、「私たちのような兼業投資家が、一番大きな利回りを狙っていくべきは、投資ではなく本業」だということです。

プロとしての勘や経験を培ってきた本業においてであれば、ある程度未来の予測ができ、勝負時がいつなのかも熟知しているでしょう。


しかし、それをそのまま投資に持ち込んでしまうと、思わぬ火傷を負いがちなのです。

【バフェット氏は「自分の身近にあるもの」に投資する】

次は、バフェット氏が「投資をする際、どこに着目すべきか?」ということを語った一文です。


《名言ピックアップ その2》

「鉄道は素晴らしい事業です。米国で永久に存在するからです。テレビの製造などは日本に移りましたが、鉄道はどこにも行ったりはしません」

出典:『カリスマ投資家の教え』(著:川上穣/刊:日経ビジネス人文庫)

通常、多くの投資家は「将来性のある分野に投資をして、資産を一気に増やしたい」と考え、自分がよく知らない分野に投資をしようとします。

一方、バフェット氏は、そうしたベンチャー投資とは一線を画しています。

氏が率いる投資会社、バークシャー・ハサウェイは2010年、米鉄道大手のバーリントン・ノーザン・サンタフェを約265億ドルで買収しました。

名言を引用した書籍『カリスマ投資家の教え』によると、当時、買収金額が莫大であったことや、鉄道が規制の対象であったことなどから、この買収に難色を示す声が大きかった、と言います。

それはちょうど、2008年に発生したリーマン・ショックによって、金融危機が世界に波及していた時期と重なります。アメリカはこの危機から脱するために、大規模な金融緩和を行っている最中でした。


しかしバフェット氏には、経済が回復すれば、物資の輸送に鉄道が必要になる、という確信がありました。社会全体が将来への不安に囚われていた時に、氏はすでにその先を見ていたのです。

<投資に必ずしもワクワク感は必要ない>

鉄道というのは、社会のインフラです。インフラは、社会に不可欠なものである反面、利益を出しにくい、という一面があります。

たとえば日本でも2010年、航空大手のJALが経営破綻したように、インフラ事業は高コスト体質になりやすい反面、ユーザーは常に安さを求めてきます。

一般に、成長を続けている国でなければ、採算割れしやすいのがインフラ事業ですが、アメリカには潜在能力がありました。

そもそも、投資とは未来に対して行われる以上、「自分がよく理解している分野」や、「毎日の日常と密接に関係している商品」などを投資対象としたほうが、予測をしやすいのは確かでしょう。

今回の名言は、「必ずしも投資にワクワク感は必要ない」という、氏からのメッセージなのではないかと考えます。

【関連】なぜバフェットは成長したアップルを買った? 投資家が参考にすべき「身の丈予測」の極意=俣野成敏
https://www.mag2.com/p/money/769279


バフェット氏が投資先として選んだのは、将来も存在しているかどうかわからないベンチャー企業ではなく、まさに自分の身近にあるものでした。

一にも二にも、 “実需”が投資のキーワード

ベンチャー企業への投資は、当たれば大金が転がり込んでくるイメージがあり、ワクワクするかもしれません。

しかし、それは「期待半分、不安半分」ということですから、投資においては、よい兆候だとは言えません。「確信が持てない投資は、すべきではない」というのは、私も氏と同意見です。

投資を検討する際は、自分の好き嫌いとは切り離して、「世の中の人が必要とするかどうか?」という目線を持つことが大切です。

一にも二にも、 “実需”が投資のキーワードなのです。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c236

[近代史02] 幻の柴田罫線 中川隆
125. 中川隆[-14398] koaQ7Jey 2019年11月10日 13:12:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1500]

柴田罫線の様な損切りが必要な投資法は絶対にやってはいけない


天才投資家バフェットが警鐘。なぜ日本人は収入が途絶えた老後から投資をするのか?=俣野成敏 2019年11月10日
https://www.mag2.com/p/money/815558


日本証券業協会の調査によると、日本の投資家の過半数を60歳以上が占め、年収は300万円未満が45.4%で最多となっています。多くの人が収入が途絶えたり、先細りする状態になってから、労働収入の代替え手段として、投資を検討しているということです。

日本人投資家は危険すぎる?バフェットの名言から学ぶ投資の鉄則

1. 投資とは、収入を増やす手段ではない?!

今回は、「名言に学ぶシリーズ」の続編として、天才投資家バフェット氏の名言を取り上げます。本特集は、名言の中に秘められた先人の知恵を借りつつも、彼らと私たちの間に横たわるギャップに目を向けることで、名言を鵜呑みにすることなく、そのエッセンスを取り入れられるようになることを目的としています。これ以前の名言につきましては、バックナンバーをご覧いただければと思います。

誰しも、自らお金を失おうとする人はいないでしょう。なのにお金を失ってしまうのは、失う危険性に目を向けないことが一因です。

ところが、失う危険性に目を向けると、今度は逆に投資をすることが怖くなってしまいます。

このような状況の中でも投資を行い、勝てる方法というのはあるのでしょうか?

【正しいリスクの取り方を知らなければ、投資で成功することはできない】

それでは、今回も引き続き、世界3大投資家の1人であるウォーレン・バフェット氏の名言を紐いていくことにしましょう。解説する名言はこちらです。


《名言ピックアップ その1》

ルール1:お金を失わない
ルール2:ルール1を忘れない
ルール3:借金をしない

出典:『カリスマ投資家の教え』(著:川上穣/刊:日経ビジネス人文庫)

上記は、インターネットなどでしばしば目にする名言ですが、「ルール3があったことを知らなかった」という人は意外に多いのではないでしょうか。

これは憶測に過ぎませんが、今は証券会社やFX会社などでも、普通に信用取引(借金)を使って金融商品を購入できるため、ルール3の存在を知られてしまうと、都合の悪い人がいるのかもしれません。

前回Vol.144でも、バフェット氏がレバレッジ(信用取引)の危険性について述べた箇所を、名言として取り上げました。

氏がこれだけ借金について言及しているということは、それだけ誤解している人が多く、釘を刺しておきたい想いがあるのだと思います。

<個人投資家の半数が60歳以上、労働収入が途絶えてから始めている>

2018年7月、日本証券業協会調査部が全国の20歳以上の投資家に対して行い、5,000人から有効回答を得たインターネット調査「平成30年度個人投資家の証券投資に関する意識調査報告書」というのがあります。

それによると、回答者の約6割が男性であり、かつ60歳以上が過半数を占め、中でも70歳以上が3割を占めています。

回答者の年収は300万円未満が45.4%と多く、500万円未満(23.8%)を含めると7割近くになります。職業も「無職・年金のみ(24.9%)」「役職なしの会社員(19.5%)」「専業主婦・主夫(18.9%)」と続いています。

彼らが証券投資に興味を持ったキッカケとは、「今の収入を増やしたいと思った(38.4%)」「株主優待があるから(35.6%)」「将来の生活に不安があり、必要性を感じた(23.6%)」といったものでした。

ここから見えてくるのは、多くの人が収入が途絶えたり、先細りする状態になってから、労働収入の代替え手段として、投資を検討しているということです。

労働収入がなくなり、年金も思ったように出ないとなると、もう後がなくなります。だから余計に、少ない元手を何とかして増やそうとして、信用取引などに走ってしまうのでしょう。

<投資は余剰資金でやるのが鉄則>

ご存じの通り、投資にはリスクがあります。つまりお金を失う可能性があるため、基本はお金を失っても大丈夫な状態にしてから、投資をすることが鉄則となります。

要は、投資を行う際には「労働 or 事業収入か、お金を失っても問題ないだけの資産があること」という前提条件が付くわけです。

ですから、リスクを取るような投資は、基本的には何らかの収入がある時にしかできません。収入がなくなった後は、通常は保守的な運用に切り替えるのが普通で、そもそもリスクの高い投資をすべきではありません。

バフェット氏が、わざわざ「ルール2:ルール1(お金を失わない)を忘れない」と念押ししているのも、人々が簡単にお金の増えそうな話に乗ってしまい、結果、お金を失うことが多いからなのでしょう。「ルール3:借金をしない」の借金に至っては、お金を失う行為に等しい、ということです。

<兼業投資家が大きな利回りを狙っていくべきは、投資ではなく本業>

おそらくバフェット氏自身は、お金を増やすことと失うことを、イコールで見ているでしょう。リスクを取らなければ、投資でお金は増えません。

投資を行えば、お金は増える可能性も減る可能性もあります。さらに「投資をしない」という選択肢もある中で、「投資をする」という決断を下し、かつ成功を収めたければ、正しいリスクの取り方を知っていることが不可欠です。


仮に、これから投資をしようとしている人が、商品のリターンしか目に入っておらず、リスクを理解していないとしたら、「リターンとリスクのどちらがより可能性が高いのか?」を比べることもできないでしょう。

比較ができない以上、本当の意味でのリスクを取ることなどできません。

私たちビジネスパーソンは、普段は仕事(本業)をしている、という意味で、いわば兼業投資家です。

お伝えしたいのは、「私たちのような兼業投資家が、一番大きな利回りを狙っていくべきは、投資ではなく本業」だということです。

プロとしての勘や経験を培ってきた本業においてであれば、ある程度未来の予測ができ、勝負時がいつなのかも熟知しているでしょう。


しかし、それをそのまま投資に持ち込んでしまうと、思わぬ火傷を負いがちなのです。

【バフェット氏は「自分の身近にあるもの」に投資する】

次は、バフェット氏が「投資をする際、どこに着目すべきか?」ということを語った一文です。


《名言ピックアップ その2》

「鉄道は素晴らしい事業です。米国で永久に存在するからです。テレビの製造などは日本に移りましたが、鉄道はどこにも行ったりはしません」

出典:『カリスマ投資家の教え』(著:川上穣/刊:日経ビジネス人文庫)

通常、多くの投資家は「将来性のある分野に投資をして、資産を一気に増やしたい」と考え、自分がよく知らない分野に投資をしようとします。

一方、バフェット氏は、そうしたベンチャー投資とは一線を画しています。

氏が率いる投資会社、バークシャー・ハサウェイは2010年、米鉄道大手のバーリントン・ノーザン・サンタフェを約265億ドルで買収しました。

名言を引用した書籍『カリスマ投資家の教え』によると、当時、買収金額が莫大であったことや、鉄道が規制の対象であったことなどから、この買収に難色を示す声が大きかった、と言います。

それはちょうど、2008年に発生したリーマン・ショックによって、金融危機が世界に波及していた時期と重なります。アメリカはこの危機から脱するために、大規模な金融緩和を行っている最中でした。


しかしバフェット氏には、経済が回復すれば、物資の輸送に鉄道が必要になる、という確信がありました。社会全体が将来への不安に囚われていた時に、氏はすでにその先を見ていたのです。

<投資に必ずしもワクワク感は必要ない>

鉄道というのは、社会のインフラです。インフラは、社会に不可欠なものである反面、利益を出しにくい、という一面があります。

たとえば日本でも2010年、航空大手のJALが経営破綻したように、インフラ事業は高コスト体質になりやすい反面、ユーザーは常に安さを求めてきます。

一般に、成長を続けている国でなければ、採算割れしやすいのがインフラ事業ですが、アメリカには潜在能力がありました。

そもそも、投資とは未来に対して行われる以上、「自分がよく理解している分野」や、「毎日の日常と密接に関係している商品」などを投資対象としたほうが、予測をしやすいのは確かでしょう。

今回の名言は、「必ずしも投資にワクワク感は必要ない」という、氏からのメッセージなのではないかと考えます。

【関連】なぜバフェットは成長したアップルを買った? 投資家が参考にすべき「身の丈予測」の極意=俣野成敏
https://www.mag2.com/p/money/769279


バフェット氏が投資先として選んだのは、将来も存在しているかどうかわからないベンチャー企業ではなく、まさに自分の身近にあるものでした。

一にも二にも、 “実需”が投資のキーワード

ベンチャー企業への投資は、当たれば大金が転がり込んでくるイメージがあり、ワクワクするかもしれません。

しかし、それは「期待半分、不安半分」ということですから、投資においては、よい兆候だとは言えません。「確信が持てない投資は、すべきではない」というのは、私も氏と同意見です。

投資を検討する際は、自分の好き嫌いとは切り離して、「世の中の人が必要とするかどうか?」という目線を持つことが大切です。

一にも二にも、 “実需”が投資のキーワードなのです。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/429.html#c125

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
73. 中川隆[-14415] koaQ7Jey 2019年11月10日 13:36:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1517]
クールな音楽家モーツァルト
---モーツァルト:ピアノ協奏曲 Nos. 11&14 坂崎 紀
https://www.seitoku.ac.jp/daigaku/music/mozart06/writings/sakazaki.html

 ヒットする曲の条件は何だろう。必ずしも音楽の質だけで決まるとはいえないが、誰でもわかりやすく、多くの人が共感できる曲はヒットするといえるだろう。逆に一部の専門家しかわからないような凝った音楽、聴き手に一定水準の音楽的能力や音楽経験を要求するような曲はヒットしにくいといえる。

 この問題について、モーツァルトが1782年12月28日付の手紙の中で興味深いことを書いている。


 「予約演奏会用の協奏曲が2曲必要です。これらの協奏曲は、非常に易しいものと非常に難しいものとの中間を正確に狙ったもので、とても華やかで聴いて楽しく、シンプルで自然ですが無内容に響くことはありません。専門家のみが真に楽しめる個所もここかしこにありますが、素人でも満足を感じるはずです、たとえその理由がわからなくても。」

 ここには作曲家の職業上の秘密、あるいはモーツァルトのプロ作曲家としてのドライな面が感じられる。予約演奏会というのは前売り券を売り、演奏会を行う方式。およそ18世紀頃から公開演奏会が一般化するにつれて採用されるようになった。不特定多数の人が安価にチケットを入手できるようにするかわりに聴衆の数が多くなるように演奏会を企画して利益を上げようというものだ。いわば薄利多売。これは現在の各種演奏会の方式と本質的には同じだ。

 チケットが売れなければ話にならないから、幅広い層にアピールしなければならない。しかしモーツァルトは決して「わかりやすければいい」とか「素人にはわかりやすいものを」といってはいないし、もちろん「理解できる人だけが聴けばいい」ともいっていない。その中間を正確に狙う、というところがミソ。

 「華やかで楽しく、シンプルで自然」というはこの時代の古典主義の理念で、技巧を凝らしたり複雑さを追求した難解な音楽は好まれなかった。これはひとつには啓蒙思想による人間の自然な感覚を尊重する風潮に由来し、社会的には音楽を享受する階層がそれまでの王侯貴族から中産市民階級に拡大したためだ。

 晩年のバッハは、当時の音楽評論家から「技巧が過度、もっと自然であるべきだ」と批判されているが、これは古典主義的な音楽観からなされたものと解釈できる。「一部の音楽通の貴族にしかわからないような音楽はこれからは時代遅れ」ということなのだ。だからハイドンやモーツァルトの音楽は、ある意味ではバッハよりも単純素朴といえるが、これは音楽がより広い層に受け入れられることにつながる。

 さてウィーンといえども、音楽通の数は限られるだろう。チケット金額が同じなら、演奏会に音楽通がひとり来てくれるよりも、平均的一般人(素人)が3人来てくれた方が営業面では有利なのだ。しかしモーツァルトはもっと計算して「音楽通も満足するし、一般人も楽しめる」と書いている。つまり4人来ることを狙っているのだ。これは作るテクニックとしてはむずかしい。凝った和声や繊細な表現といったものは音楽通には受けるが、一般人にはわからない。逆に派手で明快な音楽は一般人にはわかりやすいが、そればかりだと、音楽通には内容空疎な印象を与える。

 ただ音楽というのは時間経過の中で変化していくものなので、わかりやすい部分と、やや凝った部分をうまく混ぜ合わせれば、音楽通も一般人もある程度まで満足させることは可能だろう。モーツァルトはそういう曲を書こうとしていたのだ。

 ではモーツァルトはこの手紙を書いた後、どんな協奏曲を書いたのだろうか。この手紙の直後に書かれたのはピアノ協奏曲第11番ヘ長調 K.413(387a)と第14番ハ長調 K. 415(387b)だったと考えられている。インマゼールがフォルテピアノで演奏したCDを聴いてみよう*。

 これらの曲は大局的にはウィーン古典派の音楽で、現在の基準からすると明快でわかりやすい音楽。しかし作曲された18世紀末の時点では斬新で新しい面もあったと思われる。特に第1楽章ではさまざまな音楽的要素が出てきて、感傷的なフレーズもあれば、大げさな身振りでハデなところもあるが、これらの要素のうちのいくつかは当時としては新しくユニークで音楽通向けであり、いくつかはより一般的で大衆的だったのだろう。

 モーツァルトはしばしば「神童」、「天才」といわれるから、人によってはインスピレーションに駆られて神がかり状態で一気に曲を書き上げる「ゲイジュツカ」というイメージを抱くかもしれない。しかしそれはいささかロマン主義的な幻想というべきだ。

 前掲の手紙からすると、彼は自分の音楽に対してかなりメタ認識ができており、ある意味では冷静かつ客観的に「どうすればウケるか」を考えながら作曲し、演奏していた。そう、モーツァルトは「冷静」、「カッコいい」、という2つの意味でクール cool なミュージシャンだったのだ。

-----
*W. A. Mozart: Clavier-Concerte 11, 13 & 14.
Orchestra Anima Erterna/ J. v. Immerseel
(Channel Classics CCS 0990)
https://www.seitoku.ac.jp/daigaku/music/mozart06/writings/sakazaki.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c73

[リバイバル3] モーツァルト 魔笛 ・ドン・ジョヴァンニ を聴く 中川隆
10. 中川隆[-14414] koaQ7Jey 2019年11月10日 13:36:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1516]
クールな音楽家モーツァルト
---モーツァルト:ピアノ協奏曲 Nos. 11&14 坂崎 紀
https://www.seitoku.ac.jp/daigaku/music/mozart06/writings/sakazaki.html

 ヒットする曲の条件は何だろう。必ずしも音楽の質だけで決まるとはいえないが、誰でもわかりやすく、多くの人が共感できる曲はヒットするといえるだろう。逆に一部の専門家しかわからないような凝った音楽、聴き手に一定水準の音楽的能力や音楽経験を要求するような曲はヒットしにくいといえる。

 この問題について、モーツァルトが1782年12月28日付の手紙の中で興味深いことを書いている。


 「予約演奏会用の協奏曲が2曲必要です。これらの協奏曲は、非常に易しいものと非常に難しいものとの中間を正確に狙ったもので、とても華やかで聴いて楽しく、シンプルで自然ですが無内容に響くことはありません。専門家のみが真に楽しめる個所もここかしこにありますが、素人でも満足を感じるはずです、たとえその理由がわからなくても。」

 ここには作曲家の職業上の秘密、あるいはモーツァルトのプロ作曲家としてのドライな面が感じられる。予約演奏会というのは前売り券を売り、演奏会を行う方式。およそ18世紀頃から公開演奏会が一般化するにつれて採用されるようになった。不特定多数の人が安価にチケットを入手できるようにするかわりに聴衆の数が多くなるように演奏会を企画して利益を上げようというものだ。いわば薄利多売。これは現在の各種演奏会の方式と本質的には同じだ。

 チケットが売れなければ話にならないから、幅広い層にアピールしなければならない。しかしモーツァルトは決して「わかりやすければいい」とか「素人にはわかりやすいものを」といってはいないし、もちろん「理解できる人だけが聴けばいい」ともいっていない。その中間を正確に狙う、というところがミソ。

 「華やかで楽しく、シンプルで自然」というはこの時代の古典主義の理念で、技巧を凝らしたり複雑さを追求した難解な音楽は好まれなかった。これはひとつには啓蒙思想による人間の自然な感覚を尊重する風潮に由来し、社会的には音楽を享受する階層がそれまでの王侯貴族から中産市民階級に拡大したためだ。

 晩年のバッハは、当時の音楽評論家から「技巧が過度、もっと自然であるべきだ」と批判されているが、これは古典主義的な音楽観からなされたものと解釈できる。「一部の音楽通の貴族にしかわからないような音楽はこれからは時代遅れ」ということなのだ。だからハイドンやモーツァルトの音楽は、ある意味ではバッハよりも単純素朴といえるが、これは音楽がより広い層に受け入れられることにつながる。

 さてウィーンといえども、音楽通の数は限られるだろう。チケット金額が同じなら、演奏会に音楽通がひとり来てくれるよりも、平均的一般人(素人)が3人来てくれた方が営業面では有利なのだ。しかしモーツァルトはもっと計算して「音楽通も満足するし、一般人も楽しめる」と書いている。つまり4人来ることを狙っているのだ。これは作るテクニックとしてはむずかしい。凝った和声や繊細な表現といったものは音楽通には受けるが、一般人にはわからない。逆に派手で明快な音楽は一般人にはわかりやすいが、そればかりだと、音楽通には内容空疎な印象を与える。

 ただ音楽というのは時間経過の中で変化していくものなので、わかりやすい部分と、やや凝った部分をうまく混ぜ合わせれば、音楽通も一般人もある程度まで満足させることは可能だろう。モーツァルトはそういう曲を書こうとしていたのだ。

 ではモーツァルトはこの手紙を書いた後、どんな協奏曲を書いたのだろうか。この手紙の直後に書かれたのはピアノ協奏曲第11番ヘ長調 K.413(387a)と第14番ハ長調 K. 415(387b)だったと考えられている。インマゼールがフォルテピアノで演奏したCDを聴いてみよう*。

 これらの曲は大局的にはウィーン古典派の音楽で、現在の基準からすると明快でわかりやすい音楽。しかし作曲された18世紀末の時点では斬新で新しい面もあったと思われる。特に第1楽章ではさまざまな音楽的要素が出てきて、感傷的なフレーズもあれば、大げさな身振りでハデなところもあるが、これらの要素のうちのいくつかは当時としては新しくユニークで音楽通向けであり、いくつかはより一般的で大衆的だったのだろう。

 モーツァルトはしばしば「神童」、「天才」といわれるから、人によってはインスピレーションに駆られて神がかり状態で一気に曲を書き上げる「ゲイジュツカ」というイメージを抱くかもしれない。しかしそれはいささかロマン主義的な幻想というべきだ。

 前掲の手紙からすると、彼は自分の音楽に対してかなりメタ認識ができており、ある意味では冷静かつ客観的に「どうすればウケるか」を考えながら作曲し、演奏していた。そう、モーツァルトは「冷静」、「カッコいい」、という2つの意味でクール cool なミュージシャンだったのだ。

-----
*W. A. Mozart: Clavier-Concerte 11, 13 & 14.
Orchestra Anima Erterna/ J. v. Immerseel
(Channel Classics CCS 0990)
https://www.seitoku.ac.jp/daigaku/music/mozart06/writings/sakazaki.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/559.html#c10

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
74. 中川隆[-14530] koaQ7Jey 2019年11月10日 16:58:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1632]

294名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 15:29:39.45ID:lK3Y379i

Brahms ヴァイオリン協奏曲 聴き比べ


brahms Violin Concerto, Kreisler & Blech (1927) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=hCbmN6bn3Yw

Fritz Kreisler (1875-1962), Violin
Leo Blech (1871-1958), Conductor
Berlin State Opera Orchestra (Staatskapelle Berlin)

Rec. 21, 23, 25 November 1927, Berliner Singakademie
_____

Fritz Kreisler - Brahms-Violinkonzert - Sir John Barbirolli - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2wcLM7verXg

Recorded in London, on the 18th and 22nd June, 1936
by Fritz Kreisler and the London Philharmonic Orchestra
Orchestra conducted by Sir John Barbirolli.
______

brahms Violin Concerto - Thibaud (1953) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=G8jkd_LWP0k

Jacques Thibaud (Vn)
Concerts Pasdeloup
Jean Fournet (Cond)
18 I 1953 (LIVE)


296名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 15:37:25.61ID:lK3Y379i

Szigeti - Harty Brahms Violin concerto - Hallé Orchestra (R.1928) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1B4-2NgqfIo

______

BRAHMS VIOLIN CONCERTO IN D MAJOR Op. 77; SZIGETI, ORMANDY, PO (1945) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=mdmPvBB8faM

Philadelphia Orch. cond. by Eugine Ormandy
transfer from Jpn Columbia 78s / SW-8/10(XCO-34296/300)
recorded in 1945

______

Brahms Violin Concerto Joseph Szigeti Dimitri Mitropoulos 1948 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=i01KRWW54wE

Joseph Szigeti, New York Philharmonic Orchestra, Dmitri Mitropoulos

_____

ブラームス ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77 シゲティ-メンゲス - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7TOD6kiU4VA


Vn:ヨーゼフ・シゲティ Josef Suk
Cond:ヘルベルト・メンゲス Herbert Menges 
ロンドン交響楽団 London Symphony Orchestra
1959 REC



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c74

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
75. 中川隆[-14529] koaQ7Jey 2019年11月10日 17:00:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1631]

298名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 15:44:37.51ID:lK3Y379i

brahms Violin Concerto, Neveu & Dobrowen (1946) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ATg9Qz-F3GU

Ginette Neveu (1919-1949), Violin
Issay Dobrowen (1891-1953), Conductor
Philharmonia Orchestra

Rec. 16-18 August 1946
______

brahms Violin Concerto, Neveu & Schmidt-Isserstedt (1948) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9FM2_krep7U
https://www.youtube.com/watch?v=729L0ke5Lxs

Ginette Neveu (1919-1949), Violin
Hans Schmidt-Isserstedt (1900-1973), Conductor
North German Radio Symphony Orchestra (NDR Symphony Orchestra)

Rec. 3 May 1948, in Hamburg (Live Recording)
______

Ginette Neveu - Brahms Violin Concerto, 1rst mvt (1949) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5YIP897fMus
https://www.youtube.com/watch?v=EkODm9aHyns
https://www.youtube.com/watch?v=S3tiacSii6c

conductor: Antal Dorati
orchestra: The Hague Residentie Orchestra
Rec. 10 June 1949 (5 months before she died)

299名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 16:08:05.71ID:lK3Y379i

Gioconda de Vito - Brahms Violin Concerto Op.77I - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=lN3kicvRsLs
https://www.youtube.com/watch?v=YgjRHXulUjc
https://www.youtube.com/watch?v=87dSNG2YX2Y

1949 Artist: Gioconda De Vito Paul van Kempen Orchestra: Berlin Deutsche Opera Orchestra
_____

Violin Concerto in D Major, Op. 77 (Live)
https://www.youtube.com/watch?v=F2bXD9RefN4
https://www.youtube.com/watch?v=7rccRhz6s1Y
https://www.youtube.com/watch?v=Er9BPFV6Qds

Gioconda de Vito, Wilhelm Furtwangler, Orchestra sinfonica nazionale della RAI di Torino
_____

brahms Violin Concerto, de Vito & Schwarz (1953) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eoTFpWGBjtc

Gioconda de Vito (1907-1994), Violin Rudolf Schwarz, (1905-1994), Philharmonia Orchestra
Rec. 25, 27 February & 2, 5 March 1953, at Kingsway Hall, in London
_____

Brahms Violin Concerto Gioconda De Vito - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=rDdeKQk59kw

Gioconda De Vito, violin Orchester des Bayerischen Rundfunks
Eugen Jochum, conductor Munchen, 1956



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c75

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
76. 中川隆[-14537] koaQ7Jey 2019年11月10日 17:02:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1639]

300名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 16:23:32.45ID:lK3Y379i

Brahms Violin Concerto op.77 - Heifetz - Toscanini - NYP - 1935 - YouTube
Heifetz - Toscanini - New York Phil. 1935
https://www.youtube.com/watch?v=nH4orwL6XZs
____

Jascha Heifetz plays Brahms Violin Concerto Op.77 (Koussevitzky 1939) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=soQY-PUOpxw

Serge Koussevitzky Boston Symphony Orchestra Recorded in 1939. 4. 11
____

brahms Violin Concerto, Heifetz & Szell (1951) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Mocfd5QXzfY

Jascha Heifetz (1901-1987), George Szell New York Philharmonic Orchestra
Rec. 9 December 1951 (Live Recording)

_____

[HQ] Jascha Heifetz - Brahms' Violin Concerto in D major, Op. 77 - YouTube
Jascha Heifetz ; Fritz Reiner ; Chicago Symphony Orchestra 1955/01/21, 22 Stereo, Orchestra Hall, Chicago
https://www.youtube.com/watch?v=7iG9tUJ7Am4

301名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 16:31:34.96ID:lK3Y379i

Brahms Violin Concerto Bronislaw Huberman - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Nbww8l79mKA

Bronislaw Huberman, violin
Philharmonic Symphony orchestra of New York
Artur Rodzinski, Conductor
Carnegie Hall, New York, 23.I.1944
_____

Violin Concerto in D Major, Op. 77 (1943) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MEXPYAO0H-c
https://www.youtube.com/watch?v=fCfhzvnoXGI&list=OLAK5uy_nG4SFR_y8X66wqQ_P0kiEWGidNIq301x0&index=2
https://www.youtube.com/watch?v=KLeUBOx3wwQ

_______

Adolf Busch William Steinberg New York Philharmonic Symphony Orchestra
Brahms Violin Concerto Adolf Busch - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2-xD-u2JAjY

Adolf Busch, violin Orchester Der Stadt Basel
Hans Munch, Conductor 1951

302名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 16:34:45.38ID:lK3Y379i

Brahms - Violin concerto - Oistrakh - Klemperer - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KkfgFuCUe8w

David Oistrakh
Orchestre National de la Radiodiffusion Française
Otto Klemperer
Studio recording, Paris, 17-19.VI.1960

_____

Brahms Violin Concerto - David Oistrakh, The Cleveland Orchestra, Szell (1970, JapanSACD 2010) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9rzJPkwwCL0

Recorded at Severance Hall, Creveland, Ohio, on May 13 & 16, 1969



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c76

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
77. 中川隆[-14536] koaQ7Jey 2019年11月10日 17:04:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1638]

304名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 16:45:04.84ID:lK3Y379i

brahms Violin Concerto (Anne-Sophie Mutter – Karajan 1981) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NTaNqM1HCeU

Anne-Sophie Mutter – Solo Violin
Herbert Von Karajan: Berlin Philharmonic Orchestra

______

Brahms - Concerto fo Violin and Orchestra in D - Anne-Sophie Mutter - Kurt Masur - NYPO - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=v3zq756odHA

Conductor: Kurt Masur
Violin: Anne-Sophie Mutter
Orchestra: New York Philharmonic Orchestra
Year: 1997


306名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 16:55:28.70ID:lK3Y379i

Kyung Wha Chung plays Brahms violin concerto (1985) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=pKVuQQkvqWA

Myung-Whun Chung and KBS Symphony Orchestra.
This concert took place in Seoul, Korea on August 12th, 1985.
______

Kyung Wha Chung plays Brahms violin concerto (1996) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UtnaJ2ZkN60

Andre Previn and Kölner Rundfunksinfonie Orchester. December 1996.
_____

(ReUp) Kyung Wha Chung plays Brahms Violin Concerto (2001) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=sjEzqaoKth8

Myung-Whun and Orchestra dell'Accademia Nazionale di Santa Cecilia.
The concert took place in Yokohama, Japan on May 18th, 2001.

_____

brahms Violin Concerto - Kyung-Wha Chung Haitink Super World Orchestra (2003 Live) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=FGsKFJbq6KE

Bernard Haitink Super World Orchestra 2003.7.14 Suntory Hall Live. Japan
https://www.youtube.com/watch?v=FGsKFJbq6KE
____

Kyung Wha Chung plays Brahms violin concerto (2016) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=roE4l6v3vGg

concert of Verbier Festival 2016, with the Festival orchestra under Charles Dutoit.
Performed on 22nd July, 2016.

_____

Kyung wha chung plays Brahms violin concerto (Tong-yeong International Music Festival 2018) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=oelcmJ13HDU

Kyung-Wha Chung, violin
Bochum Symphony Orchestra Steven Solane, Conductor
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c77

[リバイバル3] youtube で聴く世界の名曲 中川隆
7. 中川隆[-14553] koaQ7Jey 2019年11月10日 17:42:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1655]

305名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 16:46:19.66ID:IG8874dG

youtubeをダウウンロードして、
wav(44.1k/16bit, foobar2000)で聴くと、音質が良くなるよ。

モーツァルトの場合、歌と伴奏が明確なので、歌謡曲と比較できるかもしれないが、
そのことと楽曲クオリティとは関係ない。


308名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 16:55:49.33ID:zHRQVo1t>>309

一度、圧縮した音源って元に戻せるのか?

309名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 17:04:06.98ID:0E/7c/DY
>>308
音源は元に戻せない
でもブラウザで再生するよりwasapi対応のfooberの方が音質は良くなる

310名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 17:22:41.32ID:IG8874dG

foobar2000で、wav(44.1k, 16bit=CD)にconvert
mp4muxerで、demux->映像を削除

非可逆圧縮(mp3, m4a, mp4)でも、wavにすることで明確に異なる音質となる。
HDDにもやさしい。

311名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 17:27:45.93ID:IG8874dG

どがらじ URLで映像ダウンロード
https://dogaradi.123net.jp/

https://www.youtube.com/watch?v=oelcmJ13HDU

312名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 17:38:40.09ID:0E/7c/DY
>>310
音質がかわるのはfooberで再生するからだろ


https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1571178797/l50
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/742.html#c7

[リバイバル3] YouTube で聴くシャコンヌの名盤 中川隆
7. 中川隆[-14552] koaQ7Jey 2019年11月10日 17:42:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1654]

305名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 16:46:19.66ID:IG8874dG

youtubeをダウウンロードして、
wav(44.1k/16bit, foobar2000)で聴くと、音質が良くなるよ。

モーツァルトの場合、歌と伴奏が明確なので、歌謡曲と比較できるかもしれないが、
そのことと楽曲クオリティとは関係ない。


308名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 16:55:49.33ID:zHRQVo1t>>309

一度、圧縮した音源って元に戻せるのか?

309名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 17:04:06.98ID:0E/7c/DY
>>308
音源は元に戻せない
でもブラウザで再生するよりwasapi対応のfooberの方が音質は良くなる

310名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 17:22:41.32ID:IG8874dG

foobar2000で、wav(44.1k, 16bit=CD)にconvert
mp4muxerで、demux->映像を削除

非可逆圧縮(mp3, m4a, mp4)でも、wavにすることで明確に異なる音質となる。
HDDにもやさしい。

311名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 17:27:45.93ID:IG8874dG

どがらじ URLで映像ダウンロード
https://dogaradi.123net.jp/

https://www.youtube.com/watch?v=oelcmJ13HDU

312名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 17:38:40.09ID:0E/7c/DY
>>310
音質がかわるのはfooberで再生するからだろ


https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1571178797/l50
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/439.html#c7

[リバイバル3] CD/SACDプレーヤーからPC・ネットワークオーディオへ 中川隆
49. 中川隆[-14551] koaQ7Jey 2019年11月10日 17:43:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1653]

305名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 16:46:19.66ID:IG8874dG

youtubeをダウウンロードして、
wav(44.1k/16bit, foobar2000)で聴くと、音質が良くなるよ。

モーツァルトの場合、歌と伴奏が明確なので、歌謡曲と比較できるかもしれないが、
そのことと楽曲クオリティとは関係ない。


308名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 16:55:49.33ID:zHRQVo1t>>309

一度、圧縮した音源って元に戻せるのか?

309名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 17:04:06.98ID:0E/7c/DY
>>308
音源は元に戻せない
でもブラウザで再生するよりwasapi対応のfooberの方が音質は良くなる

310名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 17:22:41.32ID:IG8874dG

foobar2000で、wav(44.1k, 16bit=CD)にconvert
mp4muxerで、demux->映像を削除

非可逆圧縮(mp3, m4a, mp4)でも、wavにすることで明確に異なる音質となる。
HDDにもやさしい。

311名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 17:27:45.93ID:IG8874dG

どがらじ URLで映像ダウンロード
https://dogaradi.123net.jp/

https://www.youtube.com/watch?v=oelcmJ13HDU

312名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 17:38:40.09ID:0E/7c/DY
>>310
音質がかわるのはfooberで再生するからだろ


https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1571178797/l50
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/854.html#c49

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
78. 中川隆[-14550] koaQ7Jey 2019年11月10日 17:44:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1652]

305名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 16:46:19.66ID:IG8874dG

youtubeをダウウンロードして、
wav(44.1k/16bit, foobar2000)で聴くと、音質が良くなるよ。

モーツァルトの場合、歌と伴奏が明確なので、歌謡曲と比較できるかもしれないが、
そのことと楽曲クオリティとは関係ない。


308名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 16:55:49.33ID:zHRQVo1t>>309

一度、圧縮した音源って元に戻せるのか?

309名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 17:04:06.98ID:0E/7c/DY
>>308
音源は元に戻せない
でもブラウザで再生するよりwasapi対応のfooberの方が音質は良くなる

310名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 17:22:41.32ID:IG8874dG

foobar2000で、wav(44.1k, 16bit=CD)にconvert
mp4muxerで、demux->映像を削除

非可逆圧縮(mp3, m4a, mp4)でも、wavにすることで明確に異なる音質となる。
HDDにもやさしい。

311名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 17:27:45.93ID:IG8874dG

どがらじ URLで映像ダウンロード
https://dogaradi.123net.jp/

https://www.youtube.com/watch?v=oelcmJ13HDU

312名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 17:38:40.09ID:0E/7c/DY
>>310
音質がかわるのはfooberで再生するからだろ


https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1571178797/l50
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c78

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
79. 中川隆[-14612] koaQ7Jey 2019年11月10日 19:27:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1714]

316名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 19:17:53.34ID:lK3Y379i

brahms 21 Hungarian Dances, WoO 1 No. 1 In G Minor - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Y-V4A-BNAZU


brahms Hungarian Dance No.2 In B Minor - YouTube
Anne-Sophie Mutter · Lambert Orkis
https://www.youtube.com/watch?v=Yr8rTy8-CBg


brahms Hungarian Dance No.5 In G Minor - YouTube
Anne-Sophie Mutter · Lambert Orkis
https://www.youtube.com/watch?v=SVTuFLIUNH4


Anne-Sophie Mutter Brahms Hungarian Dance No.6 in D flat - transc. - YouTube
November 30, 2005.
https://www.youtube.com/watch?v=kjGP4MHxdTA


brahms 21 Hungarian Dances, WoO 1 - Transcription Joseph Joachim - No. 7 In A Major - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=hC-yX-ZGAkA

317名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 19:23:45.69ID:lK3Y379i

Kyung Wha Chung - Brahms Hungarian Dance No.1 - YouTube
Kyung Wha Chung, violin Philip Moll, piano
https://www.youtube.com/watch?v=OBaIydQM_No

Kyung Wha Chung plays Brahms Hungarian Dance No.1 - YouTube
at the recital held at Lord Harewood's estate in 1980. Accompanied by young Pascal Roge.
https://www.youtube.com/watch?v=YSAMVa_wHpE
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c79

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
80. 中川隆[-14620] koaQ7Jey 2019年11月10日 19:34:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1722]

319名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 19:30:02.57ID:lK3Y379i

Brahms - Ballades, Sonatas, Scherzo & Variations (Century’s recording Claudio Arrau) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YGBdftavZuQ


Ballades, Op.10

Piano Sonata in F Sharp minor, Op.2

Piano Sonata in F minor, Op.5

Scherzo in E Flat minor, Op.4 (1:33:05)
Variations & Fugue On A Theme By Handel, Op.24 (1:42:29)

Piano : Claudio Arrau
Stereo recordings in 1971-73-74-77-78, at Germany, Great Britain & Netherlands
Label : Philips

320名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 19:31:59.80ID:lK3Y379i

Brahms - Piano Sonata No.3 in F minor, Op.5 - Claudio Arrau - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=3KDAe2GtYmw

Claudio Arrau, piano
Recorded live at the Teatro Municipal, Santiago, Chile, 15 May 1984
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c80

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
81. 中川隆[-14637] koaQ7Jey 2019年11月10日 20:01:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1739]

Lucia Popp Brahms Lieder Geoffrey Parsons - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=hUW2BirkICQ


Lucia Popp Brahms Lieder for Marina Zoege von Manteuffel.

1. Die Trauernde op.7 no. 5
2. Sehnsucht op.14 no.8
3. Madchenfluch op.14 no.9
4. Wie komm' ich denn zur Tür herein
5. In stiller Nacht
6. Es steht ein Lind'
7. Madchenlied op.85 no.3
8. Vorshneller Schwur op.95 no.5
9. Madchenlied op.95 no.6
10. Das Madchenlied op.107 no.6
11. Regenlied

322名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 19:42:48.73ID:lK3Y379i

Anne Sofie von Otter. Brahms - Lieder (1991) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=xrXQ2tLHfUs

:00:02 Anne Sofie von Otter - Brahms. Zigeunerlieder. He, Zigeuner
0:00:57 Anne Sofie von Otter - Brahms. Zigeunerlieder. Hochgeturmte Rimaflut
0:02:19 Anne Sofie von Otter - Brahms. Zigeunerlieder. Wi?t ihr, wann mein Kindchen am allerschonsten ist
0:03:49 Anne Sofie von Otter - Brahms. Zigeunerlieder. Zigeunerlieder. Lieber Gott, du weit
0:05:12 Anne Sofie von Otter - Brahms. Zigeunerlieder. Brauner Bursche fuhrt zum Tanze
0:06:45 Anne Sofie von Otter - Brahms. Zigeunerlieder. Roslein dreie in der Reihe
0:08:09 Anne Sofie von Otter - Brahms. Zigeunerlieder. Kommt dir manchmal in den Sinn
0:10:27 Anne Sofie von Otter - Brahms. Zigeunerlieder. Rote Abendwolken
0:11:55 Anne Sofie von Otter - Brahms. Dort in den Weiden steht ein Haus
0:13:27 Anne Sofie von Otter - Brahms. Vergebliches Standchen
0:15:06 Anne Sofie von Otter - Brahms. Die Mainacht
0:18:57 Anne Sofie von Otter - Brahms. Ach, wende diesen Blick
0:20:55 Anne Sofie von Otter - Brahms. O kuhler Wald
0:23:22 Anne Sofie von Otter - Brahms. Von ewiger Liebe
0:27:56 Anne Sofie von Otter - Brahms. Junge Liebe
0:29:29 Anne Sofie von Otter - Brahms. Wie rafft' ich mich auf in der Nacht
0:34:10 Anne Sofie von Otter - Brahms. Unbewegte laue Luft
0:38:19 Anne Sofie von Otter - Brahms. Heimweh
0:41:39 Anne Sofie von Otter - Brahms. Madchenlied
0:43:13 Anne Sofie von Otter - Brahms. Standchen
0:44:53 Anne Sofie von Otter - Brahms. Sonntag
0:46:38 Anne Sofie von Otter - Brahms. Wiegenlied
0:48:27 Anne Sofie von Otter - Brahms. Zwei Gesange. Gestillte Sehnsucht
0:54:24 Anne Sofie von Otter - Brahms. Zwei Gesange. Geistliches Wiegenlied

Nils-Erik Sparf - viola, Bengt Forsberg - piano

323名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 19:45:17.68ID:lK3Y379i

Elisabeth Schwarzkopf Lieder by Brahms (Von ewiger Liebe, Liebestreu...) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MVmlgR0fd-4


Johannes Brahms (1833 - 1897)

00:00 I. Von ewiger Liebe, Op. 43/1 (Wenzig)
04:50 II. Liebestreu, Op.3/1 (Reinick)
07:04 III. Feldeinsamkeit, Op. 86/2 (Allmers)
10:43 IV. Therese, Op. 86/1 (Keller)
12:33 V. Der Tod, das ist die kühle Nacht, Op.96/1 (Heine)
15:33 VI. Wiegenlied, Op. 49/4 (populaire)
17:18 VII. Wie Melodien zieht es mir, Op. 105/1 (Groth)
19:49 VIII. In stille Nacht, WoO 33 n° 42 (Spee vonLangenfeld-Brahms)
22:52 IX. Da unten inm Tale, WoO 33 n° 6 (popualire)
24:57 X. Meine Liebe ist Grün, Op. 63/2 (Schumann)
26:31 XI. Verglebliches Stänchen, Op. 84/4 (Zuccalmaglio)

Elisabeth Schwarzkopf (1915-†2006), soprano
Edwin Fischer, piano
RAI Torino, 11 Feb. 1954

324名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 19:51:38.71ID:lK3Y379i

Brahms - Vier ernste Gesange - Hotter - Moore - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=VUioxhzXEZ0

Hans Hotter
Gerald Moore
Studio recording, London, 11-12.XI.1951
_____

Brahms - Todessehnen - Hotter - Raucheisen - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=VrF0OPv6j6M
Sechs Lieder op.86 - n°6 Todessehnen (Max Gottfried von Schenkendorf)

Hans Hotter
Michael Raucheisen
Radio recording, Berlin, 1944
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c81

[リバイバル3] youtube で聴く世界の名曲 中川隆
8. 中川隆[-14699] koaQ7Jey 2019年11月10日 20:56:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1801]
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする方法
https://www.imobie.jp/support/fix-how-to-download-youtube-to-itunes.htm

iPhoneとAndroidスマホの世界で皆様にお役に立れるソフトを作るような気持ちを引き締めて精一杯頑張ります。

YouTubeから動画、音楽をMP3、MP4に変換して、iTunesにダウンロード、iPhoneに同期して何時でも楽しめます。では、次の記事はYouTube からiTunesに音楽をダウンロード・保存する方法をご紹介します。

最終更新日:2019年10月16日

ネットワーク接続するだけでYouTubeから大好きな音楽を聴き、または動画を楽しむことができます。ネットワーク接続する必要があるので、iPhone/iPad/iPodなどでWi-Fi接続せずにYouTube音楽を聴くことができないでしょう。事前でYouTubeの音楽をiTunesにダウンロード・保存して、iPhone/iPad/iPodに入れたい人は多いと思います。

しかし、YouTube からiTunesに音楽をダウンロードすることができますか?また、お気に入りのミュージックをYouTube からiTunesに保存するには、どうしますか?そこで、今回はYouTubeからiTunesに音楽を保存する方法をご紹介します。

YouTubeからiTunesに音楽をダウンロードする方法

Step 1、Googleブラウザを開き、検索欄で「 onlinevideoconverter」を入力して、OnlineVideoConverter.comにアクセスします。

YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 1
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 1

Step 2、YouTubeで好きな歌のビデオを探して、URLをコピー&貼り付けます。ここで「小さな恋のうた」を例にします。

YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 2
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 2

Step 3、音声ファイル形式を設定することもできます。

YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 3
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 3

Step 4、音声の質を設定して、「スタート」をクリックします。

YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 4
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 4

Step 5、しばらく待って、動画の処理が終わったら、「ダウンロード」をクリックします。

YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 5
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 5

Step 6、ダウンロードが完了すると、「小さな恋のうた」をiTunesへ直接移行することができます。

YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 6
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 6

これで、YouTubeからの音楽をiTunesに移行されました。また、iTunesからお使いのiOSデバイスへ転送するには、こちらの記事をご参考ください:iTunesからiPhoneに曲を入れる2つの方法


この方法は違法ダウンロードを助長しているものではありません。自己責任で著作権法に違反しない音楽や動画の保存にご利用してください。違法ダウンロードに対する罰則は2年以下の懲役または200万円以下の罰金、またはこれの併科です。

YouTubeの曲をiPhone/iPad/iPod touchにダウンロードできるツール

もし、YouTubeからダウンロードした曲をお使いのiPhone/iPad/iPod touchへコピーしたいなら、iOSデバイス向けのデータ転送ソフト – AnyTrans for iOSをおススメします。iPhone/iPad/iPodとパソコン/iTunesの間でデータを自由自在に転送することができます。iTunesの代借ソフトと言えます。また、このソフトは以下の特性があります:
•iPhone/iPad/iPodに既存の音楽や他のデータが上書きされない
•iPhoneとiTunes・PCの間で曲を双方向転送可能
•転送前、プレビュー&選択できるので、必要な音楽だけを移行可能
•音質とサイズも変わらない
•操作簡単で、初心者も手軽に利用できる

さて、今すぐAnyTrans for iOSをダウンロードして無料体験しましょうか?

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ウイルス検査済み


動画・音楽を選択してダウンロード
動画・音楽を選択してダウンロード

最後に

以上はYouTubeの音楽をiTunesに保存する方法です。動画変換ツールは OnlineVideoConverterだけでなく、ほかの実用なツールもあります。もしタウンロートした曲をデバイスに転送したいなら、AnyTrans for iOSをお勧めします。今すぐAnyTrans for iOSをダウンロードして体験しませんか?また、YouTube動画を無料でiPhone/PCにダウンロードすることもできますよ。
https://www.imobie.jp/support/fix-how-to-download-youtube-to-itunes.htm
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/742.html#c8

[リバイバル3] youtube で聴く世界の名曲 中川隆
9. 中川隆[-14707] koaQ7Jey 2019年11月10日 21:00:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1809]

HD動画変換、オンライン動画変換 - OnlineVideoConverter.com
https://www.onlinevideoconverter.com/ja
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/742.html#c9
[リバイバル3] フランス人はバゲット(フランスパン)が一番好き 中川隆
40. 中川隆[-14742] koaQ7Jey 2019年11月10日 21:38:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1844]

ありえない! 日本人がフランスのスーパーで驚いたこと5選 〜袋詰め用の台はどこ?〜 2019/11/10
http://www.msn.com/ja-jp/travel/news/%e3%81%82%e3%82%8a%e3%81%88%e3%81%aa%e3%81%84%ef%bc%81-%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%ba%ba%e3%81%8c%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%b9%e3%81%ae%e3%82%b9%e3%83%bc%e3%83%91%e3%83%bc%e3%81%a7%e9%a9%9a%e3%81%84%e3%81%9f%e3%81%93%e3%81%a85%e9%81%b8-%e3%80%9c%e8%a2%8b%e8%a9%b0%e3%82%81%e7%94%a8%e3%81%ae%e5%8f%b0%e3%81%af%e3%81%a9%e3%81%93%ef%bc%9f%e3%80%9c/ar-BBWxg1B?ocid=ientp#page=2

ローカルなお土産探しが楽しい、海外のスーパーマーケット。しかしながら、生活のための買い物となると、それはもう・・・一苦労! できれば行く回数を減らしたいと思ってしまうほど。フランス在住者が現地のスーパーで感じることや、驚いたことをお伝えします。

レジ袋に商品を詰める作業台がない


スーパーのレジの様子。商品をカゴから出し、会計前に自分で並べる© On Air Co., Ltd. 提供 スーパーのレジの様子。商品をカゴから出し、会計前に自分で並べる

コンビニサイズの小規模な店舗は別として、普通のスーパーや郊外の大型スーパーでは、なんとレジ袋に商品を詰める作業台がありません。

ベルトコンベアからザザザッと流れてくる商品(※会計前に自分で並べた商品)を、レジの脇で細々と、そしてマッハの勢いで袋に詰めるしかないのです。たくさん買い物をしたときなど、会計時のスピードが追いつかず、次のお客さんの商品が流れてくることも(トホホ・・・)。

待ち時間が長い


© On Air Co., Ltd. 提供

(C)Premier Photo /Shutterstock.com

大型スーパーの肉や魚、チーズ売り場などで、買い物をする際に気をつけなければならないのが、チケットを入手すること。チケットの番号順に呼び出され、その場で欲しいものをお願いするシステムになっています。肉屋や魚屋が、スーパー内にあるというイメージでしょうか。

チケット制の魚売り場 © On Air Co., Ltd. 提供 チケット制の魚売り場  (C)sweetsholic 

金曜の夕方や土曜には長蛇の列ができていることも多いので、待ち時間に20分以上かかることも! それでも、健気に待っているお客さんが多いのは、フランス人の食に対するこだわりの強さ・・・と言える気がします。

ちなみに肉でも魚でも、パックに入っているものであれば、日本のスーパーと同じく並ぶ必要はありません。

野菜や果物は量り売り


野菜や果物の重さをはかるデジタルスケール© On Air Co., Ltd. 提供野菜や果物の重さをはかるデジタルスケール

(C)sweetsholic 

多くのスーパーでは、野菜や果物が量り売りになっています。欲しい分をデジタルスケールに乗せて、タッチパネル式のスクリーンで、例えばトマトやマッシュルームなどを選んでタッチ。「トマト500g」などと書かれたバーコードが印刷されるので、アイテムを袋に入れて、バーコードを貼り付けます。

当地で暮らし始めた当初はこの仕組みが分からず、あたふたしていました。

間違いだらけ!


© On Air Co., Ltd. 提供

(C) Pack-Shot / Shutterstock.com

会計ミス、チラシで特売と謳っているにも関わらず特売価格になっていない、レジの打ち間違い、などは日常茶飯事。

レジの打ち間違いというのは、"クロワッサンを3つ買ったのに4つ買ったことになっている"、あるいは"2つ"になっているなど。1つしか買っていないはずの商品が、2回スキャンされていたことも! フランスで暮らし始め4年経った今では、驚きやイライラを通り越え、単純ミスの多さにいつも呆れています・・・。会計後のレシートは要確認。

レジ袋の無料配布なし


当地では3年ほど前から、使い捨てタイプの無料レジ袋は廃止になっているため、レジ袋の無料配布はありません。つまり、レジ袋は有料。買い物に行く際のエコバッグは、必須アイテムです。


日本とは勝手の違うフランスのスーパー。野菜はひとつひとつ重さを量り、肉や魚を買うために並び、レジでの袋詰めに悪戦苦闘、おまけにレシートの確認までしなければならないなんて・・・! 当地での買い物は、体力勝負です。
http://www.msn.com/ja-jp/travel/news/%e3%81%82%e3%82%8a%e3%81%88%e3%81%aa%e3%81%84%ef%bc%81-%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%ba%ba%e3%81%8c%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%b9%e3%81%ae%e3%82%b9%e3%83%bc%e3%83%91%e3%83%bc%e3%81%a7%e9%a9%9a%e3%81%84%e3%81%9f%e3%81%93%e3%81%a85%e9%81%b8-%e3%80%9c%e8%a2%8b%e8%a9%b0%e3%82%81%e7%94%a8%e3%81%ae%e5%8f%b0%e3%81%af%e3%81%a9%e3%81%93%ef%bc%9f%e3%80%9c/ar-BBWxg1B?ocid=ientp#page=2
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/766.html#c40

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
82. 中川隆[-14795] koaQ7Jey 2019年11月10日 22:19:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1897]

328名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 22:09:58.84ID:lK3Y379i

Evgeny Kissin & Yuri Bashmet - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=PlMQsGVpTqM

Evgeny Kissin & Yuri Bashmet at concert, 2011

Brahms
Sonata for viola and piano in E flat major, Op. 120 No. 2

329名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 22:17:33.05ID:lK3Y379i

ブラームス: 弦楽五重奏曲 第2番 ト長調 作品111 アルバン・ベルク四重奏団 1998 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Qc7f1_2_oU4

アルバン・ベルク四重奏団 Alban Berg Quartett 1998年4月5日
ハリオルフ・シュリヒティヒ(ヴィオラ)Hariolf Schlichtig, viola
Brahms : String Quintet, Op.111

______

Johannes Brahms String Quintet in G major Op.111, Amadeus Q. - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1VhA_hrVQBI

Amadeus Quartet
Cecil Aronowitz, Viola II
Rec.: 1967

_____

Budapest String Quartet - Brahms Quintet in G Op.111 (再復刻) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Ua5Sjir0cuc

J. Roismann - A. Schneider - I. Ipolyi - M. Schneider
2nd Viola ; Hans Mahike
transferred from JPN Victor 78s / JH-1-3(2D-1271/3, 1280/2)

_____

Brahms Quintet No. 2 In G Major Budapest String Quartet (1958) LP - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KfwEjPcmutA

Cello – Mischa Schneider
Viola – Walter Trampler
Viola – Boris Kroyt
Violin – Alexander Schneider, Joseph Roisman

330名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 22:17:37.60ID:lK3Y379i

ブラームス: 弦楽五重奏曲 第2番 ト長調 作品111 アルバン・ベルク四重奏団 1998 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Qc7f1_2_oU4

アルバン・ベルク四重奏団 Alban Berg Quartett 1998年4月5日
ハリオルフ・シュリヒティヒ(ヴィオラ)Hariolf Schlichtig, viola
Brahms : String Quintet, Op.111

______

Budapest String Quartet - Brahms Quintet in G Op.111 (再復刻) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Ua5Sjir0cuc

J. Roismann - A. Schneider - I. Ipolyi - M. Schneider
2nd Viola ; Hans Mahike
transferred from JPN Victor 78s / JH-1-3(2D-1271/3, 1280/2)

_____

Brahms Quintet No. 2 In G Major Budapest String Quartet (1958) LP - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KfwEjPcmutA

Cello – Mischa Schneider
Viola – Walter Trampler
Viola – Boris Kroyt
Violin – Alexander Schneider, Joseph Roisman
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c82

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
83. 中川隆[-14821] koaQ7Jey 2019年11月10日 22:46:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1923]

332名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 22:31:41.92ID:lK3Y379i

Brahms - Piano Quintet op.34 - Busch - Serkin - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uEe7punlI6s

Busch String Quartet (Adolf Busch - Gösta Andreasson - Karl Doktor - Hermann Busch)
Rudolf Serkin
Studio recording, 13.X.1938
________

Sonata for 2 Pianos in F Minor, Op. 34b (Live) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=CIguO5HNZNQ
https://www.youtube.com/watch?v=SBsc0vyfyZE
https://www.youtube.com/watch?v=Fqk5ruccAWA
https://www.youtube.com/watch?v=u9mX3gEddD8

Piano: Lilya Zilberstein
Piano: Martha Argerich
___

Sonata for 2 Pianos in F Minor, Op. 34b - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=AopxJOjr6CE
https://www.youtube.com/watch?v=WNEUrAD6voc
https://www.youtube.com/watch?v=hOMQYVRVf30
https://www.youtube.com/watch?v=MZha3TwEN1c

Piano: Martha Argerich
Piano: Alexandre Rabinovich

333名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 22:40:43.05ID:lK3Y379i

Glenn Gould - [Brahms] Rhapsody, Op. 79, No. 1 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UpZgY7zPROY
https://www.youtube.com/watch?v=SNQ0ywuRRD0
_____

Johannes Brahms - Rhapsody in G minor Op.79 No.2 - GLENN GOULD - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=AZZwmhjY6VE
https://www.youtube.com/watch?v=MIid1PJlYbg
_____

Brahms - Rhapsodie No.1, Op.79 (Martha Argerich) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NcgOp-2T05A

Recording : 1960 in Hannover, Beethoven-Saal

___

Brahms - Rhapsodie no.2, Op.79 (Martha Argerich) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=LId7GyalXD4

Recording : 1960 in Hannover, Beethoven-Saal

334名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 22:44:38.57ID:lK3Y379i

Complete tapes of Glenn Gould in the studio recording Brahms Rhapsodies Op.79 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=FypVVO5uVkQ

"Recorded in 1982 in New York City, the following tapes constitute the entire Brahms Rhapsodies sessions. These were to be Gould's last piano recordings."

______

Glenn Gould - Brahms Ballades - New York, 1982 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=X9Ui65P2-DA

______

Glenn Gould plays Brahms (best pieces from 10 Intermezzi for Piano) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=j-rF98HSKNc
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c83

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
84. 中川隆[-14883] koaQ7Jey 2019年11月10日 23:32:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1985]

337名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 23:31:45.51ID:lK3Y379i

Piano Trio No. 2 in C Major, Op. 87 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=foFR0R5Tku4&list=OLAK5uy_k9PFNcVh0MpqJ73jya8j1mCYJ0v2VG6mg
https://www.youtube.com/watch?v=-erjcIdTGCo&list=OLAK5uy_k9PFNcVh0MpqJ73jya8j1mCYJ0v2VG6mg&index=2
https://www.youtube.com/watch?v=VMv1XEER_Qw&list=OLAK5uy_k9PFNcVh0MpqJ73jya8j1mCYJ0v2VG6mg&index=3
https://www.youtube.com/watch?v=MtuKCvoSTn0&list=OLAK5uy_k9PFNcVh0MpqJ73jya8j1mCYJ0v2VG6mg&index=4

Artist: Dame Myra Hess
Artist: Joseph Szigeti
Artist: Pablo Casals
Composer: Johannes Brahms
______

Piano Quartet No. 3 in C Minor, Op. 60 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZC3jEDsd9Nc&list=OLAK5uy_k9PFNcVh0MpqJ73jya8j1mCYJ0v2VG6mg&index=5
https://www.youtube.com/watch?v=3dWhW07TspI&list=OLAK5uy_k9PFNcVh0MpqJ73jya8j1mCYJ0v2VG6mg&index=6
https://www.youtube.com/watch?v=IpLRI7HSsYc&list=OLAK5uy_k9PFNcVh0MpqJ73jya8j1mCYJ0v2VG6mg&index=7
https://www.youtube.com/watch?v=NCTW35TXB38&list=OLAK5uy_k9PFNcVh0MpqJ73jya8j1mCYJ0v2VG6mg&index=8

Artist: Dame Myra Hess
Artist: Joseph Szigeti
Artist: Milton Katims
Artist: Paul Tortelier
______

Brahms Horn Trio, Sonata No. 2 - Joseph Szigeti, M.Horszowski, John Barrows (UK 1961 LP) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=r_-T2_cQYto

Composed By – Brahms
Horn – John Barrows
Piano – Mieczyslaw Horszowski
Violin – Joseph Szigeti
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c84

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
85. 中川隆[-14900] koaQ7Jey 2019年11月10日 23:48:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2002]
338名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 23:47:34.81ID:lK3Y379i

Szigeti Brahms Violin Sonata No.1(r.1951) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KdNbh0qNBDU
_____

Joseph Szigeti plays Brahms Violin Sonata No.3, Op.108 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_a7xAdgctlE

Egon Petri, piano
Recorded in 1937
______

Szigeti plays Brahms Sonata no. 3 in D Minor, op. 108 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZCEnXsvZPxQ

Joseph Szigeti, violinist
Mieczyslaw Horszowski, pianist
______

Joseph Szigeti - Brahms Violin Sonata Nr.3 Op.108 - Adagio (1946) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=OjOb9je6M3Y

Piano acc. by Leonid Hambro
transfer from Jpn Columbia 78s / SW-12(XCO-35392)
recorded in 1946
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c85

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
86. 中川隆[-14908] koaQ7Jey 2019年11月10日 23:58:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2010]

YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする方法
https://www.imobie.jp/support/fix-how-to-download-youtube-to-itunes.htm

HD動画変換、オンライン動画変換 - OnlineVideoConverter.com
https://www.onlinevideoconverter.com/ja


2007/11/58 Yoshii9 へのiPodの接続…iPodは高音質か?
https://web.archive.org/web/20130312141851/http://shyouteikin.seesaa.net/article/63516831.html

12/58 Yoshii9 へはiPodは繋がない…iPodの音質の限界を知った切っ掛け
https://web.archive.org/web/20121004002400/http://shyouteikin.seesaa.net/article/129279700.html

iTunes を入手 - Microsoft Store ja-JP
https://www.microsoft.com/ja-jp/p/itunes/9pb2mz1zmb1s?cid=appledotcom&rtc=1&activetab=pivot:overviewtab

iTunes - アップグレードして今すぐiTunesを手に入れよう - Apple(日本)
https://www.apple.com/jp/itunes/download/

iPodへの曲・音楽の入れ方 iPod Wave
https://www.ipodwave.com/ipod/ipodmusic.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c86

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
335. 中川隆[-14907] koaQ7Jey 2019年11月11日 00:20:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2009]
15号台風で浮上した森田健作・千葉県知事<本澤二郎の「日本の風景」(3490)<仕事しない、出来ない、無教養の悪徳俳優崩れ>
https://ameblo.jp/honji-789/entry-12543689917.html

2019-11-09 14:14:47 honji-789のブログ

<仕事しない、出来ない、無教養の悪徳俳優崩れ>

 ともかく腰を抜かしてしまった。仕事をしないのだ。したくてもできないのか。経歴を調べると、教養のない俳優崩れである。たとえ民主主義社会とはいえ、彼が手を出してはならない世界だ。千葉県民のためにはなれない人間であることがわかる。差別ではない。人それぞれ役割がある。知事としての識見がなければ、やってはならない。県民がかわいそうだ。かくいう筆者も、現在はそんな一人である。即刻辞任して、公給を返上しなければ、罷免のための行動を起こすほかない、と多くの県民が思い始めている。

<141日もさぼって何をしているのか?利権アサリ?>

 しばらく東京で暮らしていたこともあって、千葉県政について無関心を決め込んでいた。「どうしてタレント崩れなどを知事にしたのか」と10年前には頭をひねったことはあろうが、それ以上の関心を持たなかった。

 週刊文春には頭が下がる。知事として年間141日も休んで県庁に出てこなかったという。つまり学生だと「さぼった」ことになる。落第だ。進級できない。ところが、森田知事は違った。それでも3回も当選している。

 自業自得の千葉県民ではあるが、それにしてもひどい。森田は悪党である。「都知事時代の石原慎太郎レベルかそれ以上」と誰もが悔しがる。

 9・9の15号台風の時も。そこで、ようやく週刊誌が取材を開始した。というよりも、たった一人の善良な県庁職員の内部告発と思われる。

 「県庁に出てきても、せいぜい昼前に引き上げる。数時間しか知事室にいない」というのだ。こんなずぼらな知事を、県庁職員や千葉日報・千葉テレビと朝日・読売・毎日の新聞が「お目こぼし」をしていたのか。ジャーナリストには、このことが不思議でならない。

 年中政府専用機を乗り回して、海外にばら撒き行脚をしている安倍のほうが、まだ勤務成績は良い。森田の利権アサリかもしれない。その事情の一つを確かめることができた。

<芝山の超高級大豪邸写真にため息が出た!>

 一度一部改装したたものの、50年ほど前に借金200万円、自己資金100万円で建てた家に住んでいる者の、嫉妬で目が狂っているわけではない。

 昨日、初めてネットに登場した悪党知事の自宅と称する超大豪邸にため息が出てしまった。芝山町に建てられたものだ。写真週刊誌の記者も気付かなかったものか、これも不思議だ。

 頑丈な門の背後には、まるでロスかフロリダあたりで見られるような、うっそうたる大木が豪邸を隠している。ヘリに乗って上空からでないと、全貌を撮影することは困難であろう。

 「マフィアかやくざの親分が住むような頑丈な豪邸」と表現する友人は、テレビ報道で見たという。「ソフトバンクの孫正義宅と比べても、遜色のない森田邸」とも。ともかく圧倒されてしまった。

 いうところの芝山御殿の建設収支も公開させると、もっとすごい話題が飛び出すかもしれない。利権アサリは本当か?

<あっぱれ安倍顔負けの秘密主義は「巡査の息子」?>

 安倍内閣を操っている極右組織の「日本会議」の全貌を、大半の国民も議会人・言論人も知らない。国粋主義の本丸ゆえに、徹底して秘密主義を貫いている。

 いつだれが秘密の扉を開けるか、に関心が移っているが、森田の秘密主義も相当なものである。彼の豪邸を知っている県民は少ない。県庁内も。県幹部はどうだろうか。時には豪邸会議もしているはずだから、当然、漏れてくるはずだが、漏れなかった。

 15号台風が来なければ、森田の秘密はずっと継続したかもしれない。ほとんど仕事をしない知事のことも、豪邸のことも、彼が「巡査の息子」で、ろくろく勉強をしなかったことなど。そして都知事に次ぐ高給取りであることも。

 行政は県庁幹部任せ、それを10年もしてきたこと、ということは「利権アサリ専門」ということか。疑惑だらけである。

<県議会が不健全でまともではない理由は県民の民度ゆえ>

 新聞を読んでいない家には「ちば県議会だより」という議会広報紙は届かない。知り合いの知恵を借りて、直接自宅に郵送する方法をとった。二日前に「ちば県民だより」と共に、議会広報紙も届いた。

 そこに千葉県議会の会派別議員数が出ていた。また驚いてしまった。定員94人のうち、自民党は53人だ。立憲民主党10人、初めて知る千葉民主の会9人、公明党8人、共産党がたったの2人である。

 巨大与党が森田を支援しているのである。自公合わせると、房総ならぬ暴走行政=悪政が表面化することになる。

 9・9大災害を受けての9月定例県議会は、紙面を見る限り「おざなり」もいいところだ。15号台風に対する深刻・真剣な議論を感じない。2面に質問と答弁の記事を載せてはいるが、答弁者が不明。森田ではないのだろう。

 こんな千葉県議会の様子を見ていると、永田町のいい加減な野党追及も仕方ないのかもしれない。余談だが、県民だよりに広告が載っていた。これも驚きである。財政難なのか?まるで子供議会を見ているような錯覚にとらわれてしまった。

 1万トン以上の放射能汚染物資を水源地に投棄したことを、誰も質問・追及していないようなのだ。情けない、本当に悲しい千葉県であろうか。

2019年11月9日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)


http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c335

[リバイバル3] ドイツ OCTAVE社の真空管アンプ 中川隆
1. 中川隆[-15014] koaQ7Jey 2019年11月11日 08:39:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2116]
大阪ハイエンドオーディオショウ 2019 フューレンコーディネート OCTAVE Jubilee 300B B - YouTube





大阪ハイエンドオーディオショウ 2019 フューレンコーディネート OCTAVE Jubilee 300B C - YouTube





OCTAVE Jubilee 300B 850万という価格にも驚いたが、細身の音が少し気になった。
価格に見合わない音だと思うし、実物はやや小さく、今回の印象では正直なところパッとしない。
300Bらしく透明感があって、OCTAVEの色付けは真空管アンプの中ではもっとも少ない。
JJの300Bを使っていたが動作中も300B真空管の点灯がほとんど見えない。
KT88/6550を使ってきたアンドレアス・ホフマンというエンジニアが、
日本の300B人気の需要に応えるべく作りましたという感じがする。こうした高価格な

真空管アンプはKT88/6550を使って低域の迫力とダイナミズムがある製品がやはり映えると思う。





OCTAVEは間違いなく一流のブランドだが、料理人の腕前に依存するところがあるのだろう。


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/946.html#c1
[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
87. 中川隆[-15022] koaQ7Jey 2019年11月11日 08:49:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2124]

348名無しの笛の踊り2019/11/11(月) 08:10:39.16ID:6YxBe1vB

ここでモーツァルト、モーツァルトと騒いでるクルクルパーに教えてやるけど

音楽家がモーツァルトを高く評価するのは、モーツァルト以外の作曲家の曲を聴いた事が無いからなのです。

毎日朝から晩まで楽器の練習してたら、ブルックナーとかベルクを聴く時間も体力も無くなるからね

ピアノやフルートの初心者でも弾けるのはモーツァルト位だから
それでモーツァルトはファンが多いんだな

そもそも音大の学生は音楽なんか全然知らないよ
朝から晩まで楽譜と睨めっこしないといけないから、高級な音楽を聴く時間なんかないんだ

だから音大の学生はモーツァルトみたいな初心者向け音楽しか知らないんだ
ウェーベルンとかショスタコーヴィッチなんか学校で教材にしないから誰も聴いていない

349名無しの笛の踊り2019/11/11(月) 08:11:37.60ID:6YxBe1vB

音大生が音楽を知らない理由

「彼らには決定的に時間が足りない」のじゃないかと思います。

「人様が演奏しているのなんか聴いている暇があったら練習しなくてはいけない」のだと。

「1日でも練習をサボったらそれが聴衆にわかってしまう」と言ったのは、ピアニストの誰だったか・・・。晩年のホロヴィッツだったかもしれません。

卑近かつ低次元な話で申し訳ありませんが私も30代末から十数年間ピアノ教室に通いつつ練習していましたが趣味とはいえ発表会の前、数か月は余暇はすべて練習に費やしました。(それにしては「ヘボ」でしたが)

そんな私でも「一日でも練習をサボったら、二日分後退してしまう。」と脅迫観念に囚われたものです。

ましてや、プロともなれば1曲を仕上げるのに、数か月いや年単位でしかも1日じゅう寝食を忘れて練習が必要でしょう。そのプレッシャーたるや如何ほどのものか・・・。想像するだに恐ろしい。

350名無しの笛の踊り2019/11/11(月) 08:13:26.68ID:6YxBe1vB

たしか内田光子さんだったと思いますが「1日8時間は」とインタビュー記事にあったような記憶が・・・。

でも、この辺のプロ事情は文献などで貴兄の方がよほどお詳しいことと推察いたします。

また「音楽家」がiPODの音に”いい音ね”って簡単に感激するのは実は彼らなりのリップサービスで真意は「プロでないあなたたちこそ音楽をほんとうの意味で楽しんでいるのね!」ってことでしょうか。

私も先生から「生徒さんこそいろんな音楽を知ってて楽しんでるのよね〜」ってマジで言われたことがあります。

そうなんです!彼らは自らが演奏するジャンル以外の音楽に関しては無知であることを強いられているのです。

しかも、最も多感な時期にず〜っと。これも「決定的に時間が足りない」からでしょう。

また「彼らは客席でどう聞こえるかはあまり気にしていない」も、たぶん違うような気がします。

彼らの関心事はただただ「自分の演奏が聴衆にどう聞こえ、かつ訴えかけるのか」では、無いでしょうか。

何しろそれが「プロがプロたる所以」なのですから・・・。

ここでも「一日でも練習をサボったら聴衆にバレてしまう」という苦悩に満ちた告白が思い起こされます。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c87

[近代史3] アイヌ人は先住民ではない、日本人は単一民族だというデマを撒き散らすチャンネル桜 中川隆
24. 中川隆[-15021] koaQ7Jey 2019年11月11日 09:23:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2123]

2019年11月11日
大西秀之「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_24.html

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B01「人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築」の2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)に所収されています。

公式サイト
http://paleoasia.jp/

にて本論文をPDFファイルで読めます(P11-16)。
http://paleoasia.jp/wp-content/uploads/2019/04/B01_Annual-Report218.pdf


この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。

 アイヌ民族・文化の形成過程は、日本列島だけでなくアジア北東部を対象とする歴史学や人類学にとって主要な研究課題の一つとなっています。この問題に関しては、これまで考古学・歴史学・民族学・自然人類学などさまざまな分野において取り組まれてきました。アイヌ民族の起源に関しては、縄文時代の集団に直接的にさかのぼり、アイヌ民族は北海道「縄文人」の「直系」で「純粋な子孫」である、というような説が、一般層に浸透しているだけではなく、学界でも一定以上の支持を得てきました。しかし、こうしたアイヌ民族・文化の起源に関する言説は、遺伝学や自然人類学などにより今では否定されています。中世併行期の北海道には、遺伝的にも文化的にも異なる系統の集団によって担われていた、擦文文化とオホーツク文化が並存していました。これらの文化の考古資料の性格はひじょうに異なり、それぞれの担い手の集団も遺伝的に異なっていた、とすでに1930 年代には指摘されていました。そのため、これらの異系統集団・文化が、中世併行期以降のアイヌ民族・文化の形成にどのように関連しているのか、注目されてきました。

 本論文はこうした点を踏まえ、おもに考古学と民族誌のデータを用いて、アイヌ民族・文化の形成過程を検証しています。具体的には、擦文文化とオホーツク文化が次の中世併行期のアイヌ民族・文化の形成にどのような関係・貢献を果たしたのか、ということです。本論文はとくに、中国大陸や本州以南など外部社会からの影響によって引き起こされた擦文文化とオホーツク文化の接触・融合により、中世併行期のアイヌ文化が形成されてゆく過程に焦点を当てています。それにより、これまで往々にして縄文文化・時代から直接的かつ単線的に説明されてきたアイヌ民族・文化の形成史を再検討し、新たな展望を提示する、というわけです。本論文は、こうした視点が同時に、狩猟採集社会における二つの異系統集団の接触・融合を理解するための事例研究にもなるだろう、と指摘しています。

 北海道の時代区分は、縄文時代までは本州・四国・九州を中心とする「本土」と大きな違いはありません。大きく変わるのは「本土」の弥生時代以降で、北海道は続縄文時代と区分されます。その後の北海道は、擦文文化とオホーツク文化の並存期を経て、中世アイヌ期→近世アイヌ期→近現代と移行います。ただ本論文は、中世以降の「アイヌ期」という用語について、アイヌ民族・文化が中世になって形成された、と誤解させかねず、これは考古学上の用語の問題にすぎず、中世アイヌ期の前後で人間集団に明確な断絶はなく、むしろ遺伝学や自然人類学ではその間の連続性が確認されている、と指摘しています。

 北海道と「本土」の歴史的展開の違いについて本論文は、さまざまな要因の関与のなかで生起しているため、単一要因で容易に説明できないものの、基本的には自然生態環境の違いや近隣社会との関係に起因する、と概括的にまとめています。ただ本論文は、北海道史の最大の特徴として、近代になって開拓移民が押し寄せるまで、社会や文化は「本土」の多数派集団とはエスニシティを異にするアイヌの人々によって担われていた、と指摘します。しかし、アイヌは無文字社会だったので、自らの歴史を記録することはありませんでした。そのため北海道の時代区分は、基本的に考古学などの調査研究に基づいて構築されたものです。

 上述のように、中世アイヌ期の前後で、人間集団の連続性が指摘されています。しかし本論文は、少なくとも物質文化の側面では、数多くの大きな相違が確認できる、と指摘します。上述のように、中世アイヌ期の前には、擦文文化とオホーツク文化という考古資料の大きく異なる2文化が並存し、それぞれの担い手は遺伝的系統が異なっている、と指摘されています。そのため、遺伝的にも文化的にも系統を異にする擦文文化とオホーツク文化が、次の中世アイヌ期の形成にどのように関係しているか、ということが重要な研究課題となります。

 擦文文化は、紀元後700〜1200年頃に北海道と本州北端に分布していました。その生計戦略は、続縄文文化から引き継がれた狩猟・漁撈・採集と一部粗放的な穀物栽培に基づいていた、と推測されています。擦文文化の出土遺物組成に関しては、石器の出土量と器種がひじょうに乏しい、と指摘されています。こうした特徴の背景については、主要な道具が石器から鉄器に代わっていた、と推測されています。じっさい、擦文文化の遺跡からは、刀子(ナイフ)や縦斧・横斧などの鉄器が出土しています。ただ、これらの鉄器は擦文文化集団そのものが生産したのではなく、本州以南の地で生産された移入品と推測されています。擦文文化集団は、続縄文文化に系譜がたどれる在地系の人々によって主に構成されており、現在のアイヌ民族の直接の祖先である、と広く認識されています。ただ、その文化複合は、本州北部の強い影響や類似性が認められることから、本州北部からの集団移住が同文化の形成に関与していた可能性も指摘されています。

 オホーツク文化は、北海道だけでなく日本列島でも最も独特な文化の一つです。オホー ツク文化は、紀元後600〜1000年頃にサハリン南部・北海道北東部沿岸・千島列島に分布していました。その生計戦略に関しては、顕著な特徴として海浜での漁撈や海生哺乳類の狩猟、また沿岸域に形成される集落や居住パターンなどがから、徹底した海洋適応に基づいていた、と想定されています。オホーツク文化の出土遺物組成は、擦文文化と比較すると、石 器・骨角器・金属器などの多様な原材料から製作された、さまざまな道具一式から構成されています。またオホーツク文化でも、自から製作したわけではないものの、数種類の鉄器が使用されていました。これらの鉄器は、アムール川流域の大陸側で生産され、北方経路からサハリン経由で導入されていた、と推測されています。さらに、この経路に関しては、鉄器にとどまらず、数々の文物や情報などをオホーツク文化にもたらしていた可能性が指摘されています。オホーツク文化集団は、擦文文化を含む北海道在来の人々とは遺伝的系統が異なる、と推測されています。オホーツク文化集団の系統に関しては、形質的・遺伝的特徴から、アムール川流域やサハリンのアジア北東部集団との近縁性が指摘されています。そのため、オホーツク文化に関しては近年まで、アイヌ民族・文化の形成には直接関係がない、との認識が定着していました。

 擦文文化とオホーツク文化は、700〜900年頃に北海道で並存していましたが、それぞれ異なる生活圏に分布し、基本的には相互交流などの接触関係はひじょうに限定的でした。しかし、10世紀頃に両文化は急激に接触融合していきます。また、こうした接触融合は、北海道の東部と北部で別々に進展した、と考古資料から確認されています。本論文は、資料的にも豊富で研究の蓄積が進んでいる、トビニタイ文化と考古学的に設定された北海道東部の事例に焦点を当てています。トビニタイ文化は、オホーツク文化が擦文文化から人工物や生産・生業技術や居住パターンや生計戦略などの数々の要素を段階的に受け入れ、最終的に擦文文化に吸収・同化されていく移行段階と推定されています。たとえば、トビニタイ文化集団は、最初期のトビニタイ土器を、オホーツク文化の製作技術を用いて、擦文式土器の模様・装飾・器形を模倣して製作していましたが、最終段階ではその技術を完全に習得し、擦文式土器そのものとしか判断できないものを製作するようになります。同様の現象は、住居構造や道具組成などでも確認されています。これらの事例から、トビニタイ文化は、最終的には少なくとも物質文化側面では、擦文文化そのものと区別がつかないものになります。

 一方、擦文文化の側には、オホーツク文化と接触融合し、トビニタイ文化を形成する証拠や動機は確認されていません。そのため、トビニタイ文化は、オホーツク文化側が積極的に擦文文化に同化吸収された過程と想定されています。遺伝学でも、考古資料から導かれたオホーツク文化集団の擦文文化集団への同化吸収が確認されており、現在のアイヌ民族はオホーツク文化集団の遺伝子を相当な割合で継承している、と明らかになっています(関連記事)。北海道東部におけるオホーツク文化と擦文文化の接触融合が起きた理由として、環境変動や政治社会的影響などが提示されています。しかし、そうした仮説の大部分は、具体的かつ充分な考古学的証拠に基づくものではない、と指摘する本論文は、考古資料から両文化の接触融合の要因を検証できる対象として、トビニタイ文化の鉄器を挙げています。

 まずトビニタイ文化の鉄器に関しては、その形態的特徴に基づいて、オホーツク文化から擦文文化に類似するものに置換した、と指摘されています。つまり、トビニタイ文化における鉄器の供給源は、アムール河流域を中心とする北方経路から、本州以南からの南経路に移行した、と推測されます。またオホーツク文化の分布圏は、本州以南の鉄器供給経路と直接的には接していないため、擦文文化を介して鉄器を入手していたと推測されます。もしそうだったなら、北海道東部のオホーツク文化集団は、日常生活を営む上で不可欠な鉄器の安定供給を確保するため、擦文文化との関係性の構築が不可避となり、両文化集団の接触融合が進んだ、と考えられます。こうした接触融合は、オホーツク文化の期間よりも遥かに多くの量の鉄器をトビニタイ文化集団に安定的に供給し、その結果として、日々の社会生活を維持するために不可欠な道具のほとんどを石器から鉄器に置き換えることができた、と推測されます。

 こうした歴史展開を踏まえると、北海道におけるオホーツク文化集団もまた、アイヌ文化形成の潮流に関与している、と理解できます。なぜならば、「原アイヌ期」とされる擦文文化期から中世アイヌ期への移行は、「本土」における交易ネットワークと地域分業への統合過程に起因すると想定されるからです。つまり、遺伝的・文化的に擦文文化集団と異なる系統とされるオホーツク文化集団の消長もまた、アイヌ文化形成の展開のなかの一潮流に統合される、という理解が可能となるわけです。

 本論考は最後に、アイヌ文化形成におけるオホーツク文化の役割について考察しています。オホーツク文化のなかには、中世以降のアイヌ文化形成において重要な関与を果たし、現在までのアイヌの文化遺産として引き継がれている要素が少なからず指摘されています。その最も顕著な事例の一つとして、イオマンテと呼称されるクマの送り儀礼が挙げられます。この儀礼は、アイヌ社会において最も重要な文化的実践とみなされています。しかし、現在まで擦文文化には、クマ送り儀礼の痕跡と言えるような考古資料はきわめて限定的にしか確認されていません。これに対してオホーツク文化の遺跡からは、クマなど動物の送り儀礼に関連すると推察される遺物や遺構が数多く検出されています。この他、アイヌ民族・文化の言語や象徴実践などにも、オホーツク文化に由来すると推察される痕跡が少なからず指摘されています。

 こうした事例から、オホーツク文化集団は、遺伝的にも文化的にもアイヌ民族・文化のもう一つの源流である、と理解できます。この見解は、従来、縄文文化・時代から直接的かつ単線的に語られてきたアイヌ集団の歴史に対する再考と新たな展望を開くものとなるだろう、と本論文は指摘します。さらに本論文は、資料的に限定された先史考古学にとっても、時間的に限定された民族誌調査にとっても、アプローチが困難な異系統集団の接触・融合の仮定と要因を追究する上で、擦文文化とオホーツク文化は有用な参照事例となるだろう、との見通しを提示しています。


参考文献:
大西秀之(2019)「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」『パレオアジア文化史学:人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)』P11-16


https://sicambre.at.webry.info/201911/article_24.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/323.html#c24

[リバイバル3] 中川隆 _ 経済、ビジネス関係投稿リンク 中川隆
134. 2019年11月11日 11:13:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2122]
ドイツはハイテクや IT に弱く、労働者は世界一働かない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/709.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/813.html#c134
[リバイバル3] 中川隆 _ 相場関係投稿リンク 中川隆
40. 2019年11月11日 11:38:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2121]
投資損失でも自己破産はできる 常識は嘘だらけ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1017.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/456.html#c40
[リバイバル3] 無痛で安らかに1分で確実に死ねる『サルコー(Sarco)』と名付けられたマシンが完成した 中川隆
44. 中川隆[-15020] koaQ7Jey 2019年11月11日 11:41:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2120]
>>17
>相場や事業に失敗して返せなくなっても自殺する必要は無いよ

に追記

2019年11月11日
投資損失でも自己破産はできる 常識は嘘だらけ
http://www.thutmosev.com/archives/41159135.html

自己破産できる、できないの中間として「一部免責」などがある

引用:http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/2/2/222a3ba4.jpg


投資で負けても自己破産できず免責は認められない、これは常識として定着しているが間違いです。

原則として全額は認められないが、裁判官の裁量によってほとんど認められることも、一部免責もある。


投資で負けたら自己破産できない?

投資で儲けた人も損をした人もいると思いますが、統計的に投資は9割の人が損をして、利益を得るのは1割以下だそうです。

その分「勝ち組」の人は投資資金を何倍も、あるいは何十倍にも増やせるのですが、負けた人はどうなるのでしょうか。


証券会社などに預けたお金が減るだけなら良いのですが、追証で借金になったり、そもそも借金で投資した人も居ます。

実社会で作る借金は徐々に増えていくか、段階を踏んで増えますが投資の借金は、ある日払いきれない借金を背負います。

例えば年収300万なのに追証数千万円を請求された人が実際に居て、しかも珍しくもありません。

FXとか先物などレバレッジを掛ける投資は、僅かな変動で損失が大きく膨らみます。


例えば10倍のレバレッジ(倍率)を掛けていたら10%の値動きで、資産の100%を失います。

FXをレバ10で運用していて1ドルが10円も逆に動いたら、証拠金はゼロになっている筈です。

そして多くの人は、ポジションを支える為に追加入金をし、その為にサラ金から借金をします。


全財産を失ったという現実を認めたくないので、相場が元に戻ったら、損失が帳消しになる可能性を残したいのです。

ですが相場は非情なので、借金をしてポジションを支えている人を必ず強制決済に導きます。

まるで相場自身が邪悪な意思を持っているかのように、困っている人に対しては、必ず逆方向に行きます。


そして結局、払いきれないほど多額の借金だけを残して投資を終える事になります。

さてそれからどうするべきなのでしょう?


投資で多額の借金を背負うのは珍しくないので、そうした人がネットの相談室で相談をする事が多い。

ネット相談室ではネットを見ている人が回答するようになっていて、法律に詳しい人も、まったくの素人回答者も居る。

投資の借金を減額したい、あるいは自己破産したいという相談には、必ず「投資で自己破産はできない」と回答されている。

投資の負けは自己破産できる

根拠としては「破産法252条1項の免責不許可事由」の中に上げられている、自己破産が認められない事例に含まれている。

「浪費又はとばくその他の射幸行為をしたことによって著しく財産を減少させ,又は過大な債務を負担したこと」

投資や投機は射幸行為に該当するので、裁判所は免責を認めないというのが「認められない派」の主張です。


調べてみると確かに投資での自己破産は認められないし、免責は降りない『事になっている』

『事になっている』というのは現実には免責が認められているし、自己破産は出来ているからです。

理屈と現実の違いというか、法律では「裁量免責」の余地が裁判所に与えられていて、「裁判官が判断して良い」という事です。


投資で本来は免責されないのだが、その借金の為に生活が破綻していて、到底払える金額ではないとき認められるのです。

裁判官の「裁量」なので認められたり認められなかったりするが、多くの場合は債務の大幅な減額が認められる。

例えば年収300万なのに1000万の借金になった時、「800万を減額して200万だけ払いなさい」などの決定が出される。


これを「一部免責」と言って法律で定められて居ないので、一般に知られておらず、出来ないものと思われている。

証券会社や金融業者はこんな免責があるのは不都合なので、なるべく知られないように隠しています。

弁護士も悪く言えば業者とグルなので、こうした免責がある事を宣伝したりはしない。


そして都市伝説のように「投資の借金は免責されない」という定説が一人歩きしました。

自己破産制度はサラ金騒動で有名になり利用する人が増えましたが、まだまだ「破産は悪い事」という常識が日本にはある。


リスクを負って失敗して破産するのは、ある意味資本主義では必ず起こる事で、必ずしもその人の責任という訳ではない。
http://www.thutmosev.com/archives/41159135.html  

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/794.html#c44

[近代史3] 沖縄 首里城火災 _ 琉球人は何をやっても いい加減、無責任で「ゆすりとごまかしの名人」 中川隆
74. 中川隆[-15019] koaQ7Jey 2019年11月11日 11:53:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2119]

廃藩置県や台風で荒れた首里城 戦前の写真公開「また復元できる」 県立博物館・美術館が講座
沖縄タイムス社 2019/11/11
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e5%bb%83%e8%97%a9%e7%bd%ae%e7%9c%8c%e3%82%84%e5%8f%b0%e9%a2%a8%e3%81%a7%e8%8d%92%e3%82%8c%e3%81%9f%e9%a6%96%e9%87%8c%e5%9f%8e-%e6%88%a6%e5%89%8d%e3%81%ae%e5%86%99%e7%9c%9f%e5%85%ac%e9%96%8b%e3%80%8c%e3%81%be%e3%81%9f%e5%be%a9%e5%85%83%e3%81%a7%e3%81%8d%e3%82%8b%e3%80%8d-%e7%9c%8c%e7%ab%8b%e5%8d%9a%e7%89%a9%e9%a4%a8%e3%83%bb%e7%be%8e%e8%a1%93%e9%a4%a8%e3%81%8c%e8%ac%9b%e5%ba%a7/ar-BBWymJ8?ocid=ientp#page=2


1933年ごろに撮影された首里城。「沖縄神社拝殿正面」という題名が付いている© Okinawa Times 1933年ごろに撮影された首里城。「沖縄神社拝殿正面」という題名が付いている

 県立博物館・美術館学芸員講座「映像・写真記録の沖縄」が9日、那覇市の同館であり、戦前の首里城の写真12点を含む資料が紹介された。首里城火災を受け、急きょ首里城関連の写真が増やされ、参加者約90人は時折驚きの声を上げながら見入っていた。

 同館では戦前や終戦直後、日本復帰前後の映像フィルム390点、写真数千点を所蔵している。

 その中から首里城関連では、廃藩置県後、荒廃した明治後半の首里城が写った「坂元商店発行の絵はがき」、昭和初期に台風で瓦が損壊した首里城正殿が写った「沖縄神社拝殿正面」、「沖縄神社拝殿背面」(いずれも阪谷良之進資料)など、貴重な写真12点が紹介された。

 講座を担当した外間一先学芸員は「当時の記録があったおかげで首里城は復元できた」と写真の価値を再評価し、「復元できたのだからもう一度できるという希望がある」と語った。

 講座ではそのほか、明治、大正、昭和初期、終戦直後、日本復帰前の沖縄の風景や人々の暮らしの様子も紹介。ウルトラマンシリーズの脚本家、金城哲夫さんが1975年に製作した17分の映像のほか、首里城跡にあった琉球大学や龍潭の写真もあり、参加者からは昔の風景を懐かしむ声も上がった。

 参加した宮城吉通さん(77)=那覇市首里久場川=は「終戦直後、壊れた石垣の間を通って首里城跡に行ったことを思い出した。すごい写真が残っているので、これからも見られるようになってほしい」と話した。

 首里城関連の資料は、19日から同館で始まる琉球王国のグスクおよび関連遺産群世界遺産登録20周年記念特別展「グスク・ぐすく・城」でも展示する予定。


同じく33年ごろに撮影された「沖縄神社拝殿背面」。台風の影響などで屋根の一部が崩れている(いずれも阪谷良之進資料)© Okinawa Times 同じく33年ごろに撮影された「沖縄神社拝殿背面」。台風の影響などで屋根の一部が崩れている(いずれも阪谷良之進資料)

戦前の首里城の写真に見入る参加者ら=9日、県立博物館・美術館© Okinawa Times

http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e5%bb%83%e8%97%a9%e7%bd%ae%e7%9c%8c%e3%82%84%e5%8f%b0%e9%a2%a8%e3%81%a7%e8%8d%92%e3%82%8c%e3%81%9f%e9%a6%96%e9%87%8c%e5%9f%8e-%e6%88%a6%e5%89%8d%e3%81%ae%e5%86%99%e7%9c%9f%e5%85%ac%e9%96%8b%e3%80%8c%e3%81%be%e3%81%9f%e5%be%a9%e5%85%83%e3%81%a7%e3%81%8d%e3%82%8b%e3%80%8d-%e7%9c%8c%e7%ab%8b%e5%8d%9a%e7%89%a9%e9%a4%a8%e3%83%bb%e7%be%8e%e8%a1%93%e9%a4%a8%e3%81%8c%e8%ac%9b%e5%ba%a7/ar-BBWymJ8?ocid=ientp#page=2

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/703.html#c74

[近代史3] ブルックナーの作品は日本の男のためにある _ 日本でのブルックナー人気は宇野功芳のカリスマ評論が唯一の原因 中川隆
10. 中川隆[-15018] koaQ7Jey 2019年11月11日 15:59:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2118]

ブルックナー

Anton Bruckner, Rondo c-minor for string quartet, Ruysdael Quartet






Anton Bruckner (1824 - 1896)

Rondo c-minor for string quartet (1862)

Ruysdael Quartet

Joris van Rijn, Violin
Jacobien Rozemond, Violin (not on the photo)
Gijs Kramers, Viola
Jeroen den Herder, Cello

From the CD First Steps, Cobra 0032
Recorded at MCO Studio1, Hilversum, The Netherlands, April 2006


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/684.html#c10
[近代史3] ブルックナーの作品は日本の男のためにある _ 日本でのブルックナー人気は宇野功芳のカリスマ評論が唯一の原因 中川隆
11. 中川隆[-15017] koaQ7Jey 2019年11月11日 16:00:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2117]

ブルックナー

A. Bruckner: Fantasie G major, 1868, with G. Hemetsberger





Gottfried Hemetsberger plays A. Bruckner: Fantasie G major (1868)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/684.html#c11
[近代史3] ブルックナーの作品は日本の男のためにある _ 日本でのブルックナー人気は宇野功芳のカリスマ評論が唯一の原因 中川隆
12. 中川隆[-15016] koaQ7Jey 2019年11月11日 16:04:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2116]

ブルックナー

Anton Bruckner (1824-1896): Erinnerung. Andreas Fischer, Piano




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/684.html#c12
[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
54. 2019年11月11日 19:10:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2115]

ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c54
[文化2] アルバン・ベルク「或る天使の思い出に」−−この世で一番美しい音楽   西岡昌紀 西岡昌紀
1. 中川隆[-15015] koaQ7Jey 2019年11月11日 19:10:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2114]

ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/513.html#c1
[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
1. 中川隆[-15014] koaQ7Jey 2019年11月11日 19:12:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2113]

ベルク ヴァイオリン協奏曲



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c1
[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
2. 中川隆[-15013] koaQ7Jey 2019年11月11日 19:28:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2112]


ベルク ピアノソナタ




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c2
[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
3. 中川隆[-15012] koaQ7Jey 2019年11月11日 19:29:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2111]

ベルク ピアノソナタ



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c3
[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
4. 中川隆[-15011] koaQ7Jey 2019年11月11日 19:43:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2110]

ベルク ルル組曲

berg Lulu Suite - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ih5CxewXU5c
https://www.youtube.com/watch?v=NLXbloXbsX4
https://www.youtube.com/watch?v=xRFiTzS6e44
https://www.youtube.com/watch?v=ApD6wmUeNpE
https://www.youtube.com/watch?v=kfiYF1s-XN8


Berg: Lulu-Suite; Altenberg-Lieder; 3 Pieces for Orchestra Op.6

Lulu's Song · Margaret Price
Claudio Abbado
London Symphony Orchestra
Released on: 1971-01-01
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c4

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
5. 中川隆[-15010] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:09:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2109]

ベルク:《抒情組曲》からの3章 [弦楽合奏版1928] カラヤン 1973 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=W_gSHnk2Pyw


Herbert von Karajan 1973年9, 11月
Berliner Philharmoniker

Berg : Three Pieces from the "Lyric Suite" Version for string orchestra ; 1928
2. Andante amoroso 6:38
3. Allegro misterioso 3:27
4. Adagio appassionato 7:08

_____


Alban Berg- Lyric Suite - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=crLFn2muMm4&list=PLpyZ2hyfYerNvIVAcboAbf7eG-pTlMPdC
https://www.youtube.com/watch?v=5a1mwUAZLaE&list=PLpyZ2hyfYerNvIVAcboAbf7eG-pTlMPdC&index=2
https://www.youtube.com/watch?v=qD9RgfXP9n8&list=PLpyZ2hyfYerNvIVAcboAbf7eG-pTlMPdC&index=3
https://www.youtube.com/watch?v=UEKdQX1xxoI&list=PLpyZ2hyfYerNvIVAcboAbf7eG-pTlMPdC&index=4
https://www.youtube.com/watch?v=ehZhPRwLzqs&list=PLpyZ2hyfYerNvIVAcboAbf7eG-pTlMPdC&index=5
https://www.youtube.com/watch?v=kVFaB_XyJW8&list=PLpyZ2hyfYerNvIVAcboAbf7eG-pTlMPdC&index=6


Performed by the Alban Berg Quartett
____


Alban Berg Lyric Suite For String Quartet (1925-1926) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uYIMRXkyJ10

Alban Berg
Lyric Suite for string quartet (1925-1926)

Allegretto gioviale 00:00
Andante amoroso 03:09
Allegro misterioso – Trio estatico 09:26
Adagio appassionato 12:43
Presto delirando – Tenebroso 19:05
Largo desolato 24:00

Juilliard String Quartet
Robert Mann, violin
Earl Carlyss, violin
Samuel Rhodes, viola
Claus Adam, cello

Live recording: Ascona, August 24, 1970

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c5

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
6. 中川隆[-15009] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:13:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2108]

ベルク: 弦楽四重奏曲 作品3 アルバン・ベルク四重奏団 1974 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uJy5mWJlmU8


Berg : Streichquartett Op.3
1. ラングザーム Langsam 9:21
2. メーシゲ・フィアテル Mäßige Viertel 9:48

Alban Berg Quartett, Wien April.1974

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c6

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
7. 中川隆[-15008] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:20:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2107]

ヴォツェック

Berg - Wozzeck - Carlos Kleiber 1970 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JA8r5c567X0
https://www.youtube.com/watch?v=WoUUTe-mzoI
https://www.youtube.com/watch?v=7ujBRCGdSRI
https://www.youtube.com/watch?v=9nXWiimZJcc
https://www.youtube.com/watch?v=-5vPSQyCWp4
https://www.youtube.com/watch?v=qti3_NgXicU
https://www.youtube.com/watch?v=x_whQUs9wpQ


Munich, Nationaltheater
27 November, 1970 - Live Recording

Bavarian State Orchestra & Chorus

Marie: Wendy Fine
Wozzeck: Theo Adam
The Drum Major: Fritz Uhl
The Captain: Georg Paskuda
The Doctor: Jieth Engender
Margret: Gudrun Wewezow
Andres: Friedrich Lenz
The Fool: Walter Carnuth
First Artisan: Max Proebstl
Second Artison: Carl Hoppe
Marie's Child: Narika Krauth
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c7

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
8. 中川隆[-15007] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:22:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2106]

ヴォツェック


Rare Carlos Kleiber Berg Wozzeck Fragment - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_oCBTslT1Pc
https://www.youtube.com/watch?v=soRTezlvv_Y


WDR Symphony Orchestra
Wendy Fine: Soprano
(1972)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c8

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
9. 中川隆[-15006] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:32:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2105]

ベルク

Diana Damrau; Sieben frühe Lieder; Alban Berg - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=rXzzcmEy3cw

Diana Damrau--Soprano
Stephan Matthias Lademann--Piano
Salzburger Festspiele
LIVE; 2005

____


Berg - Sieben frühe Lieder - Jessye Norman-Pierre Boulez - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bE85ldyYfZM

Recorded live at Suntory Hall, Tokyo, 19 May 1995
London Symphony Orchestra
Jessye Norman, soprano
Pierre Boulez, conductor

____


Anne Sofie von Otter The complete 7 frühe Lieder with piano (Berg) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=g8cxKPRGFIs


Berg, Alban (1885-1935) 7 frühe Lieder (1905-08):

I. Nacht 00:00
II. Schilflied 04:34
III. Die Nachtigall 06:42
IV. Traumgekrönt 09:11
V. Im Zimmer 11:45
VI. Liebesode 12:48
VII. Sommertage 14:41


Anne Sofie von Otter -mezzosoprano
Bengt Forsberg -piano


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c9

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
10. 中川隆[-15005] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:41:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2104]

ベルク


ALBAN BERG. CHAMBER CONCERTO. BAREMBOIM, BOLEZ, ZUKERMAN - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bfCat_Kp2cU

_____


Alban Berg - Chamber Concerto - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9f0fGxarvGM

Alban Berg (1885 - 1935) - Chamber Concerto, for piano, violin, and 13 wind instruments (1923 - 1925)

I. Thema scherzoso con variazioni [0:00]
II. Adagio [9:45]
III. Rondo ritmico con introduzione [24:45]

Oleg Kagan, violin
Sviatoslav Richter, piano
Chamber Ensemble of Moscow Conservatory, Yuri Nikolaevsky (1977)


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c10

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
11. 中川隆[-15004] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:45:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2103]

ベルク ルル


Alban Berg, LULU, Act 1 sc 2. Stratas, Tear, Mazura. Boulez, Chereau. ENGLISH SUBTITLES







CAST:
Teresa Stratas (Lulu)
Robert Tear (Painter)
Toni Blankenheim (Schigolch)
Franz Mazura (Dr Schoen)
Kenneth Riegel (Alwa)

Orchestra of the Paris Opera
conductor: Pierre Boulez
Director: Patrice Chereau.

The black subtitle-band at foot of screen was in the original issue (no English subtitles).

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c11
[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
12. 中川隆[-15003] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:48:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2102]
ベルク ルル


Alban Berg LULU, Prologue. Stratas, Mazura, Riegel, Nienstedt. Boulez, Chereau. ENGLISH SUBTITLES - YouTube




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c12
[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
13. 中川隆[-15002] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:53:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2101]
ベルク ルル


berg Lulu - Act 2 - Wenn sich die Menschen ... Du kannst mich nicht dem Gericht - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=fm3Y91lrzyA


Berg: Lulu / Act 2

"Wenn sich die Menschen" ...

"Du kannst mich nicht dem Gericht" ·

Teresa Stratas · Hanna Schwarz · Yvonne Minton · Kenneth Riegel · Franz Mazura

Orchestre de l'Opéra de Paris
Pierre Boulez

Berg: Lulu

℗ 1979 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin
Released on: 2000-01-01



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c13

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
14. 中川隆[-15001] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:56:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2100]

ベルク ルル

Alban Berg - Lulu, act 1 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=HalTMlAUho8


Alban Berg - Lulu, opera in three acts, act 1

Lulu - Teresa Stratas
Gräfin Geschwitz - Yvonne Minton
Eine Theater-Garderobiere, ein Gymasiast, ein Groom - Hanna Schwarz
Der Medizinalrat, Schigolch, der Polizeikommissär - Toni Blankenheim
Der Maler, ein Neger - Robert Tear
Dr. Schön, Jack - Franz Mazura
Alwa - Kenneth Riegel
Ein Tierbändiger, Rodrigo - Gerd Nienstedt
Der Prinz, der Kammerdiener, der Marquis - Helmut Pampuch

Orchestre de l'Opéra de Paris
Pierre Boulez
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c14

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
15. 中川隆[-15000] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:01:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2099]
ベルク ルル

berg Lulu - Act 2 - Sie glauben nicht - Könntest du dich für heute nachmittag - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=fC1amKC0O2I


Berg: Lulu / Act 2
"Sie glauben nicht" - "Könntest du dich für heute nachmittag"

Teresa Stratas · Yvonne Minton · Franz Mazura

Orchestre de l'Opéra de Paris
Pierre Boulez

Berg: Lulu

℗ 1979 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin

Released on: 2000-01-01



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c15

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
16. 中川隆[-14999] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:05:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2098]

ベルク ルル

berg Lulu - Act 2 - Hü, kleine Lulu - O Freiheit! Herr Gott im Himmel! - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=yRVOVO80w40


Berg: Lulu / Act 2

"Hü, kleine Lulu" - "O Freiheit! Herr Gott im Himmel!"

Teresa Stratas · Kenneth Riegel · Toni Blankenheim · Gerd Nienstedt
Orchestre de l'Opéra de Paris
Pierre Boulez
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c16

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
17. 中川隆[-14998] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:07:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2097]

ベルク ルル

berg Lulu - Act 2 - Sein Vater! ... Du Kreatur, die mich durch den Strassenkot - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KmffNznymRY


Berg: Lulu / Act 2

"Sein Vater!" ... "Du Kreatur, die mich durch den Strassenkot"

Teresa Stratas · Yvonne Minton · Kenneth Riegel · Franz Mazura · Gerd Nienstedt
Orchestre de l'Opéra de Paris
Pierre Boulez
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c17

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
18. 中川隆[-14997] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:09:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2096]
ベルク ルル

Alban Berg - Lulu, act 3 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0dpSN9Bc15s

Alban Berg - Lulu, opera in three acts, act 3
Orchestration of the third act completed by Friedrich Cerha

Lulu - Teresa Stratas
Gräfin Geschwitz - Yvonne Minton
Eine Theater-Garderobiere, ein Gymasiast, ein Groom - Hanna Schwarz
Der Medizinalrat, Schigolch, der Polizeikommissär - Toni Blankenheim
Der Maler, ein Neger - Robert Tear
Dr. Schön, Jack - Franz Mazura
Alwa - Kenneth Riegel
Ein Tierbändiger, Rodrigo - Gerd Nienstedt
Der Prinz, der Kammerdiener, der Marquis - Helmut Pampuch

Orchestre de l'Opéra de Paris
Pierre Boulez

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c18

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
19. 中川隆[-14996] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:11:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2095]
ベルク ルル

Alban Berg - Lulu, act 2 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=aMvHhJNFOVk


Alban Berg - Lulu, opera in three acts, act 2

Lulu - Teresa Stratas
Gräfin Geschwitz - Yvonne Minton
Eine Theater-Garderobiere, ein Gymasiast, ein Groom - Hanna Schwarz
Der Medizinalrat, Schigolch, der Polizeikommissär - Toni Blankenheim
Der Maler, ein Neger - Robert Tear
Dr. Schön, Jack - Franz Mazura
Alwa - Kenneth Riegel
Ein Tierbändiger, Rodrigo - Gerd Nienstedt
Der Prinz, der Kammerdiener, der Marquis - Helmut Pampuch

Orchestre de l'Opéra de Paris
Pierre Boulez
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c19

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
20. 中川隆[-15013] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:18:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2112]

アルバン・ベルク ルル
ピエール・ブーレーズ指揮 パリ・オペラ座管弦楽団


Alban Berg - Lulu, act 1 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=HalTMlAUho8

Alban Berg - Lulu, act 2 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=aMvHhJNFOVk

Alban Berg - Lulu, act 3 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0dpSN9Bc15s


Lulu - Teresa Stratas
Gräfin Geschwitz - Yvonne Minton
Eine Theater-Garderobiere, ein Gymasiast, ein Groom - Hanna Schwarz
Der Medizinalrat, Schigolch, der Polizeikommissär - Toni Blankenheim
Der Maler, ein Neger - Robert Tear
Dr. Schön, Jack - Franz Mazura
Alwa - Kenneth Riegel
Ein Tierbändiger, Rodrigo - Gerd Nienstedt
Der Prinz, der Kammerdiener, der Marquis - Helmut Pampuch

Orchestre de l'Opéra de Paris
Pierre Boulez


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c20

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
21. 中川隆[-15012] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:41:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2111]

アルバン・ベルク ルル組曲

Pierre Boulez & Chicago Symphony Orchestra Alban Berg, Debussy & Stravinsky








From the Cologne Philharmonic Hall, Germany (2000)

Chicago Symphony Orchestra
Pierre Boulez - conductor
Christine Schäfer - soprano

0:57 Alban Berg - Lulu-Suite (1934) for soprano and great orchestra
(excerpt)

21:02 Claude Debussy - Le Jet d’eau (1907) for soprano and orchestra

28:33 Claude Debussy - Trois Ballades de Villon (1910) for soprano and orchestra
28:33 No. 1
33:30 No. 2
37:40 No. 3

42:05 Igor Stravinsky - The Firebird (1912) for great orchestra (complete ballet music)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c21
[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
22. 中川隆[-15011] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:43:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2110]

ベルク: 抒情組曲 ブーレーズ 1974 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Hvht0RyB9jM


Pierre Boulez 4 March. & 21 Dec.1974
New York Philharmonic

Berg : Lyric Suite
第1楽章:アンダンテ・アモローソ 5:37
第2楽章:アレグロ・ミステリオーソ;トリオ・エスタティコ 3:30
第3楽章:アダージョ・アパッショナータ 5:56

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c22

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
23. 中川隆[-15010] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:46:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2109]

ベルク

Berg - Drei Orchesterstücke - BBC SO - Boulez 1967 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=sszSkAYCpqU


Alban Berg
Drei Orchesterstücke op.6

I. Präludium. Langsam
II. Reigen. Anfangs etwas zögernd - Leicht beschwingt
III. Marsch. Mässiges Marschtempo

BBC Symphony Orchestra
Pierre Boulez
Studio recording, London, 22.III.1967
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c23

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
24. 中川隆[-15009] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:49:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2108]

ベルク ピアノソナタ

Mitsuko Uchida Works of Schoenberg, Berg, Webern - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=a1SA1-DvvI0


Arnold Schoenberg (1874-1951)
Klavierkonzert, op.42
1. I. Andante (“Life was so easy”)
2. II. Molto allegro (“Suddenly hatred broke out”)
3. III. Adagio (“A grave situation was created”)
4. IV. Rondo: Giocoso (“But life goes on”)

Anton Webern (1883-1945)
Variations, op.27
5. Sehr massig
6. Sehr schnell
7. Ruhig fliessend

Arnold Schoenberg
Drei Klavierstücke, op.11
8. I. Massig
9. II. Massig
10. III. Bewegt

Sechs kleine Klavierstücke, op.19
11. I. Leicht, zart
12. II. Langsam
13. III. Sehr langsam
14. IV. Rasch, aber leicht
15. V. Etwas rasch
16. VI. Sehr langsam

Alban Berg (1885-1935)
Klaviersonate, op.1
17. Piano Sonata

Mitsuko Uchida, piano
The Cleveland Orchestra
Pierre Boulez, conductor
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c24

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
25. 中川隆[-15008] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:53:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2107]



Berg - Der Wein (Dorothea Roeschmann)





From the Salzburg opening concert, 2011. Vienna Philharmonic, Pierre Boulez.


____



Alban Berg Der Wein  アルバン・ベルク 管弦楽伴奏歌曲「ワイン」

 昨日ワイン(シャンパン)の記事を書きながら、ワインを歌った歌曲を探したところ、結構大作がありました。ボードレールの詩にベルクが作曲したオーケストラ伴奏による演奏会用アリア「ワイン」。「ワインの魂」、「愛する二人のワイン」そして「孤独者のワイン」という3編の詩に曲をつけていますが、一連の一つの作品として中断することなく演奏されます。

 ペトルッチ(IMSLP)のサイトにはピアノ伴奏譜が公開されています。ドイツ語の歌詞とともにボードレールのオリジナルの歌詞でしょうか、フランス語の歌詞も記されています。動画サイトには複数の音源が公開されています。私が見た限りではいずれもソプラノと管弦楽のオリジナル編成の様で、ピアノ伴奏版や男声によるものは見つけていません。梅丘歌曲会館のサイトでは3編の詩それぞれについて、ドイツ語の歌詞とその日本語訳と、ボードレールのフランス語歌詞とその日本語訳とが紹介されています。

 なんと言ってもベルクの作品ですから現代音楽の範疇にどっぷり入っている作風です。正直美味しいワインを飲みながら聞こうと思う曲ではありません。現代音楽の一つの作品を繰り返し聞いていると、だんだん飽きてしまう曲もありますが、この曲はその魅力が徐々に判って来る曲だと思います。酒を謳った管弦楽伴奏作品と言えばマーラーの「大地の歌」がありますが、ベルクのワインはマーラーの「大地の歌」の一つの楽章に匹敵する歌と言う事はできると思います。マーラーの「大地の歌」を意識した作品???としてはツェムリンスキーの「抒情交響曲」がありますがやや中途半端な作品に留まっている印象があります。ただ普通の人が普通に聞く分にはツェムリンスキーの「抒情交響曲」の方が普通に聞き易いでしょうね。

 ベルクの「ワイン」を自宅のオーディオで聞きながら酒を飲むと言う状況は正直思い浮かびません。この曲はあまり大きくない音楽専用ホールでの生演奏を、作品と対決するかのごとき姿勢で聴くのが一番良さそうです。ホールのホワイエにワインや他の酒を提供するバーがあったとしても、少なくとも「ワイン」を聞き終わるまでは素面でいるだろうと思います。
https://blog.goo.ne.jp/kawaikanta/e/2631d5615dad6ed953d3ae4307887402


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c25
[リバイバル3] マイナー真空管を使った真空管アンプは、その真空管が手に入らなくなったら不燃ゴミになる 中川隆
3. 中川隆[-15007] koaQ7Jey 2019年11月11日 23:59:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2106]
管球アンプも色々使ってきた - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年11月11日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1248b952198c0b2304b564b5c2ec4c16

真空管アンプも色々使って来た。上写真の物は英国のオールド球を使ったアンプ。現在オリンパスシステムの中域(#375用)に使っている。手持ちの管球アンプの中でも最高の音質だと思う。

このアンプは6L6ppアンプ。現在は出力管をGE6550にしてRCA箱システムの低域用に使っていたが、昨年Tr型アンプと入れ替えた。現在は予備機でストック。

ちょっと珍しいアンプで6RA7ppパワーアンプ。6RA7は小さい球ながらしっかりした低音が出るアンプであった。LUXMAN製だが、予備球が手に入らず処分した。

6L6ppパワーアンプ。6L6の球は英国製、米国製と色々試して見たが、メーカーでかなり質感が変わる。上の写真では6L6のメタル管を使っていた。

こちらも6L6ppパワーアンプ。6L6はGECのKT66と互換性が有る。GEC:KT66の予備球を探したが、お値段と綺麗な球が少なく、予備球の確保で諦めて手放した。

こちらは6L6(KT66)のシングルアンプ。なかなか良い音のするアンプであった。特にALTEC#614箱(604-8G)との組み合わせでは、前段管のNH4の艶やかさが出ていい塩梅だった。球の種類が多くなると「予備球」を増やさないといけないので、6L6やKT66クラスの球を使うアンプはすべて処分した。予備球のストックは「半ば死んだお金」である。増えすぎると管理も大変である。まだ他にも管球アンプは買ったが、使わないアンプは置き場所を取るので処分した。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1248b952198c0b2304b564b5c2ec4c16
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/961.html#c3

[近代史3] 天皇は兄弟相続するのが古くからの伝統 中川隆
29. 中川隆[-15006] koaQ7Jey 2019年11月12日 00:10:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2105]

2019年11月11日
女性天皇は天皇の権威を損なうか? 過去の女性天皇



記録に残る最初の女性天皇は神功皇后だが、女性天皇という制度がなく即位していない


画像引用:https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcQiEow1ocWMBGs5QyN3h61MBCACdQI0Y7WHM9bNRe0LKRSfRc1s

最悪の女性天皇、孝謙天皇とは

新天皇が即位して次の天皇は誰かということから、再び女性天皇の是非の議論が活発になっている。

現在の天皇に息子はなく娘の愛子内親王のみなので、皇位継承1位は弟の秋篠宮親王が「皇嗣」に就いている。

2位は秋篠宮家の長男である悠仁親王、3位は譲位した上皇の弟である常陸宮親王となった。



年齢から言って次世代の天皇は悠仁親王だが、天皇の娘である愛子内親王や、秋篠宮家の2人の姉も居る。

現在の法律では天皇は男子に限るとされているが、それは現在の法律で過去にはそうではなかった。

「天皇は男子に限る」としたのは実は日本政府や明治政府ではなく、ある事件がきっかけで天皇家自身が禁じました。


事件を起こしたのは46代孝謙天皇(48代称徳天皇と同一人物)で最初に即位したのは718年でした。

この頃まだ武士はなく平城京で天皇や貴族による律令政治が行われ、天皇から貴族へ実際の権力が移動していました。

孝謙天皇の父は45代聖武天皇で側室との間に男子があったが、地位が低かったのと早世したため男子の後継ぎがいなかった。


孝謙天皇は史上初めて未婚女性として皇位継承1位になり、皇太子に即位して父がなくなると天皇に即位しました。

孝謙天皇は718年産まれなので皇太子になった738年に20歳、天皇に即位した749年には31歳でした。

当時の状況から考えて天皇に即位したときはもう子供を産んで世継ぎを残す可能性はなくなっていたでしょう。

女性天皇禁止時代

そのせいなのか孝謙天皇はヒステリー気味で好悪の情が激しく、お気に入りの男子だけを宮廷に集めて嫌いな人を近づけなかった。

またいじめが大好きで下女に酷いあだ名をつけて、大勢でからかったなどの逸話も残されている。

孝謙天皇の宮廷はホストクラブのようになり、批判が高まって遠縁の淳仁天皇に譲位した。


だが孝謙天皇は実質的に淳仁天皇を支配し、6年後に退位させて48代称徳天皇として復帰してしまう。

再び宮廷はホストクラブ政治に逆戻りし、世継ぎや皇太子の指名を拒否したため孝謙天皇没後に空位になってしまった。

770年8月4日没後に藤原氏や公家が中心となって協議し、10月23日に光仁天皇が即位した。


孝謙天皇は人を人と思わないような所があり、お気に入り以外の人物を貶めるのが大好きだったので、死を惜しむ人はいなかったようです。

もう女性天皇はこりごりだ、絶対ダメだという事になり、以降1200年以上の間天皇は男子に限るとされてきました。

江戸時代の1740年に117代後桜町天皇が即位したが、これには特殊な事情がありました。


異母弟の桃園天皇が21歳でなくなり息子の後桃園天皇はまだ4歳だった事から、桃園天皇の生前指名によって即位した。

当時徳川幕府と朝廷の対立が深刻だったため、幼い皇太子の難を避けるため、公家衆が姉に中継ぎを依頼したと言われている。

後桜町天皇自身も天皇職に熱心ではなく、孝謙天皇同様生涯結婚せず子を残さなかった。


女性が皇太子や天皇になる事で婚期を逃し、後継ぎがないまま崩御するのを懸念し、この後女性天皇はより厳しく禁止された。

女性天皇全盛時代もあった

女性天皇は子孫を残さないこととヒステリー気味で好悪の情が強いなどが禁止された理由だが、女性天皇全盛時代もあった。

最初の女性天皇はあの聖徳太子時代の33代推古天皇で、皇太子だった甥の聖徳太子の活躍もあり大成功した。

十七条憲法を創設したり、当時の超大国隋に遣隋使小野妹子が「日出処天子」の国書を送ったことなどで知られている。


推古天皇・聖徳太子の2代後が35代皇極天皇で、天智天皇や天武天皇の母で舒明天皇の妻でした。

皇極天皇時代に実際の政治を行ったのは息子の中大兄皇子(天智天皇)で、推古天皇・聖徳太子の関係に近い。

中大兄皇子(天智天皇)は大化の改新や百済滅亡後の白村江の戦いで知られ、この時代に今日の「日本国」という概念が作られたとされている。


最初の2人の女性天皇が大成功だったので、第33代推古天皇から48代称徳天皇まで(推定西暦600年頃から764年)までが女性天皇全盛期となりました。

この間即位した16回のうち8回が女性、重祚(何度も即位する事)が2回あったので人数としては6人が女性だった。

その前にも22代の後に飯豊天皇、14代の後に神功皇后が天皇として政治を行ったが、天皇は男性に限るとされていたので正式な即位はしなかった。


33代推古天皇が正式に即位したのは偶然で、弟の32代崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺されてしまい、蘇我馬子に請われて史上初めて女性天皇として即位した。

男子の天皇だと崇峻天皇の二の舞になるというので、実質的には権限のない女性のほうが安全という理由でした。

こうして神功皇后から117代後桜町天皇までを見ると、女性天皇は男子の世継ぎが居ない場合の選択肢だった。


一人娘とか弟や息子が幼いなどの理由で女性が天皇に指名され、男子の有力後継者が居る場合に即位した例はない。

すべての女性天皇に共通しているのは生父または生母が天皇の家系で、天皇の血縁者でないと天皇になれない。

また先代の天皇が「娘を天皇にする」と宣言した場合、周囲が反対しても次の天皇は娘になっている。


今後どうなるかですが、天皇が愛子親王を次の天皇に指名すると、実際にそうなる可能性は高い。

また愛子親王が結婚して男子を産み、孫を指名したり愛子親王が中継ぎ天皇になって相続する可能性もある。

秋篠宮悠仁親王に相続する場合も秋篠宮親王が中継ぎ天皇になる訳で、どうなるかは結局天皇自身が決めるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/81449793.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/316.html#c29

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
26. 中川隆[-15005] koaQ7Jey 2019年11月12日 00:33:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2104]
アルバン・ベルク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF


アルバン・マリーア・ヨハネス・ベルク(Alban Maria Johannes Berg, 1885年2月9日 - 1935年12月24日)は、オーストリアの作曲家。

アルノルト・シェーンベルクに師事し、アントン・ヴェーベルンと共に、無調音楽を経て十二音技法による作品を残した。十二音技法の中に調性を織り込んだ作風で知られる。

ベルクはウィーンで富裕な商家の子供として生まれた。幼い時から音楽や文学に興味を抱き早熟な少年時代を送る。15歳の時、父が没した頃から独学で作曲を試みるようになる。この時の現存する多数の歌曲は1980年まで封印されていた[1]。

1902年にはベルク家の別荘で働いていた女中、マリー・ショイヒルとの間の私生児の父となり、翌年にはギムナジウムの卒業試験に失敗して自殺を図るなど10代後半の私生活は波瀾に彩られたものだった。

1904年、ベルクの兄が弟の作品をシェーンベルクのもとに持ち込み、シェーンベルクや同門のヴェーベルンとの交友が始まる。ベルクはギムナジウム卒業後、公務員となるが作曲活動に打ち込むためわずか2年で辞職し、ウィーン国立音楽院へ。

1907年、「4つの歌曲」Op.2などの曲で本格的な作曲家デビューを飾る。

1908年7月23日、宿痾の病となる喘息を発病、この時23歳だったベルクは「23」という数字を自己の運命の数と決め、この数は以後の作品の構成を彩る事になる。

1911年、声楽を学んでいたヘレーネ・ナホフスキーと結婚。ヘレーネの母アンナはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の愛人として知られ、ヘレーネは皇帝の庶子とも言われており、ベルクの周辺では気位の高い女性として知られていた。

1912年、「アルテンベルク歌曲集」Op.4を完成するも師シェーンベルクの反応は色よいものではなく、この歌曲集の完全初演はベルクの死の17年後まで持ち越される。

1914年、ゲオルク・ビューヒナーの戯曲「ヴォイツェック」の上演に接したベルクはこの戯曲を基にした無調音楽のオペラの作曲を始めたが、この年に第一次世界大戦が勃発、翌年から兵役に服する事になり作曲が不可能になったが、1917年になって休暇を与えられ、歌劇「ヴォツェック」 OP.7の作曲再開に踏み切った。「ヴォツェック」の完成はその5年後の事である。

「ヴォツェック」完成後、シェーンベルク50歳の誕生日に献呈するべく、ピアノ・ヴァイオリン・13管楽器のための室内協奏曲に取り組むも50歳の誕生日には間に合わず、1925年に完成する。

その同じ年に歌劇「ヴォツェック」がベルリン国立歌劇場でエーリヒ・クライバーの指揮によって初演された。初演にあたって34回ものオーケストラ練習と14回のアンサンブル練習が行われ、分奏を含めると総計150回の練習が行われたという。ベルクと指揮者は激しい批判に晒されるが、この作品によってベルクの作曲家としての名声は揺るがぬものとなった。この年、プラハ訪問中に知り合ったハンナ・フックス=ローベッティーンとの不倫関係が始まり、この関係から「抒情組曲」という音楽的果実が実る事になった。

1928年、フランク・ヴェーデキントの戯曲「地霊」および「パンドラの箱」に基づく歌劇「ルル」の作曲に取り掛かるも、翌年には「ルル」の作曲を一時中断、演奏会用アリア「ワイン」を作曲した。

「ヴォツェック」の成功によって順調であるかに見えたベルクの作曲家人生は、1933年のナチス・ドイツ政権発足によって暗転する。師シェーンベルクと共に(ベルクはユダヤ人ではないが)ベルクの音楽も「退廃音楽」のレッテルが貼られ、ドイツでの演奏が不可能になる。

1935年、アルマ・マーラーと彼女の2番目の夫ヴァルター・グロピウスとの娘でベルクも可愛がっていた、マノン・グロピウスの訃報に接し、「ルル」作曲の筆を再び置いて、ベルクとしては異例の速筆でヴァイオリン協奏曲を書き上げる。しかし、協奏曲完成の直前に虫刺されが原因で腫瘍ができ、これが悪化、手術を受けるも敗血症を併発しこの年の12月24日に50年の生涯を閉じた。

未完のまま遺された「ルル」は完成していた2幕までと「ルル組曲」の抜粋という形で初演されたが、未亡人ヘレーネは補筆を禁じ、3幕の形での「ルル」(フリードリヒ・ツェルハ補筆版)初演はヘレーネ没後の1979年にパリのオペラ座にて行われた(パトリス・シェロー演出、ピエール・ブーレーズ指揮)。ヘレーネがここまで頑なになったのは、第二次世界大戦後にショイヒルの子と会ったこと、ベルクとハンナとの不倫を知ったことによる夫への反感から情報をコントロールしようとしたことが原因とされる[2]。

主要作品


「ベルクの楽曲一覧」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E4%B8%80%E8%A6%A7

7つの初期の歌曲
ピアノ・ソナタ Op.1
弦楽四重奏曲 Op.3
アルテンベルク歌曲集 Op.4
管弦楽の為の3つの小品 Op.6 (1914年 - 1915年/1929年改訂)
歌劇「ヴォツェック」 OP.7 (1925年初演)
室内協奏曲 (1923年 - 1925年)
抒情組曲 (1925年 - 1926年)
ヴァイオリン協奏曲 (1935年)
歌曲集「私の両眼を閉じてください」
管弦楽伴奏歌曲「ワイン」
歌劇「ルル」(1928年 - /未完成)

編曲

フランツ・シュレーカーの歌劇《はるかなる響き》のヴォーカルスコア(1911年)
アルノルト・シェーンベルクの《グレの歌》のヴォーカルスコア(1912年)
シェーンベルクの《弦楽四重奏曲第2番》の後半2楽章(同上)
ヨハン・シュトラウス2世のワルツ《酒、女、歌》(1921年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c26

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
27. 中川隆[-15004] koaQ7Jey 2019年11月12日 00:38:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2103]

ウィーン 音だより (3) ベルクとウィーン
http://www.takashi-sato.jp/reading/h16_berg.html



こちらもウィーン生まれの代表的な作曲家ながら、ベルクにはシューベルトほどの人気があるわけではなく、ゆかりの旧跡として残っている場所も多くありません。 アルバン・ベルク・ヴェーク(アルバン・ベルク通り)の名は、ベルクが生涯の大半を過ごした13区・ヒーツィングの小道に付けられていました。


「新ウィーン楽派」と「十二音技法」

ベルクが音楽史の中で属している「新ウィーン楽派」と、彼らが採用した作曲システム「十二音技法」について、まずは簡単に解説しておきましょう。


シェーンベルク

「新ウィーン楽派」は、オーストリアの作曲家アルノルト・シェーンベルクと、その弟子たちが形成した集団のことで、 ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンの「ウィーン古典派」に因んだ名称と考えられています。 代表的な作曲家はシェーンベルク自身と、アントン・ヴェーベルン、アルバン・ベルクの3人だけです。

バロック以降、300年にわたって西洋音楽を支えてきた「調性」という概念はロマン派の成熟とともに揺らぎ、次第に飽和・行き詰まりの様相を見せるようになります。 ヴァーグナーの「トリスタン」に代表されるように、拡大され、不明瞭なものとなっていった調性が、表現の進歩とともにやがて崩壊に向かうのは歴史の必然でした。 シェーンベルクや同世代の作曲家たちは、こうして「無調」に到達します。しかし、無調の音楽というのはそう簡単に作れるものではありません。

調性は、いわば音楽を束ねてきた「輪ゴム」のようなものでした。輪ゴムが劣化して緩くなり、ついに切れてしまうと、 それまで輪ゴムによって秩序立てられてきた音楽はバラバラになってしまい、「無意味な音の羅列」になりかねない。 シェーンベルクは、調性に代わる新たな「輪ゴム」(秩序)を、無調の音楽に持ち込まなければならないと考えました。

調性音楽においては、1オクターヴの中にある12の音のうち、7つの音が「音階」を形成し、そのうちの1つは「主音」、主音の完全5度上の音は「属音」などと、 それぞれに特別な機能(役割)を与えられます。重要な役割を付与された音は、その音楽の「主役」として何度も登場し、 それ以外の音は主役に従属する「脇役」になる。シェーンベルクはこうした音と音との主従関係に注目して、調性に代わるシステムを考案しました。


・ 1オクターヴの中の12の音の中に「主役」や「脇役」を設けず、すべての音の登場回数を均一化する。

・ 12の音を1回ずつ使った「基本音列」を設定し、「基本音列」のヴァリアントによって音楽を構成していく。


ヴェーベルンの「協奏曲」作品24の基本音列

これが「十二音技法」の基本的なアイディアです。

西洋音楽をラディカルに変革し、「調性の崩壊」を招いた張本人と目されることもあるシェーンベルクですが、 本人はバッハやベートーヴェンから脈々と続くドイツ音楽の後継者を自認しており、あくまでドイツ音楽が今後も優位を保っていくための正統的な進歩を目指していました。 ドビュッシーやストラヴィンスキーなどが伝統に反抗することで無調に達したのとは、正反対の道のりだったのです。


青年期まで

ウィーン中心部、ベルクの生家があった場所

アルバン・ベルクは1885年2月9日、ウィーンの中心部で生まれました。父は書籍や美術品の店を経営しており、芸術的な素養のある母のもと、 ベルクとその兄弟たち(兄2人と妹1人の4人兄弟)は、文化的で裕福な生活を送っていました。 一家に職業音楽家はいませんでしたが、ベルクは妹とピアノを連弾したりして音楽に親しみ、14歳頃から作曲を試みるようになります。 作品の多くは歌曲で、書き上がると家庭内で披露されました。

そんな幸せな日常が暗転したのは1900年のことでした。父が心臓発作で急死してしまったのです。残された一家は経済的に逼迫しました。 精神的ショックからか、15歳のベルクは7月23日に持病となる喘息の発作を起こします(一説には1908年の7月23日)。 以降、ベルクは「23」を運命の数字と定め、自らを表す数として作品の中で暗示的に使用しました。

不幸は続きます。1902年には一家の別荘で雇っていたメイドの女性を妊娠させてしまい、ベルクは私生児アルビーネの責任を負う証書を書かされました。 学業の成績も低迷し、精神的に追い詰められたベルクは自殺未遂に至ります。

しかし音楽の創作はこの間も絶えず行われ、140曲もの歌曲が独学で書かれました。兄がそのうちの数曲を密かにシェーンベルクに見せたことから、ベルクの運命は変わります。 若者の才能を認めたシェーンベルクは、一家の財政状況を鑑みて、ベルクを無償で弟子に取ることを決めたのでした。 1904年、ベルクが学校を卒業し、役所の会計士見習いとして働き始めた年のことです。


作曲家としてのあゆみ

シェーンベルクは、ベルクの声楽曲への偏愛や、ナイーヴで人間的な感受性をすぐに見抜きましたが、それだけではいずれ行き詰まると考え、器楽も対等に扱えるように、厳格で秩序だった技術的訓練を施しました。 15歳で実父を亡くしたベルクにとって、シェーンベルクは人生に導きを与えてくれる新しい父でした。 1911年にシェーンベルクがウィーンを離れたことで修行期間は終わりますが、シェーンベルクはそれからもことあるごとに、ベルクの音楽や生活に口を出し続けました。 ベルクは恩師を心から尊敬しつつも、その保護者気分に幾分うんざりしてもいたようです。

ヴェーベルン

1905年に母方の遺産を引き継いだことで、一家の経済状況は安定し、ベルクも役人見習いの仕事を辞めて音楽の勉強に専念することができるようになりました。

ウィーン音楽院に入学した彼は、同じくシェーンベルクの弟子だったアントン・ヴェーベルンと出会います。 理知的でヴァイタリティに溢れ、師の信頼を勝ち得ていたヴェーベルンは、繊細で病弱なベルクとは正反対の性格の持ち主でしたが、それにもかかわらず二人は生涯の親友となりました。

マーラー

ベルクの学生時代の最大のスターはマーラーでした。ウィーン国立歌劇場の総監督として辣腕をふるう姿に心酔したベルクは、 終演後の楽屋に押し入ってマーラーの指揮棒を強奪するという蛮行に出ています。マーラーの死後、ベルクはその未亡人アルマや、 アルマの次の夫である彫刻家のヴァルター・グロピウスとも親交を結びました。

ベルクは持ち前の感受性と教養の高さから、あらゆる芸術分野に精通していましたが、ウィーンっ子らしくサッカー観戦に熱狂するような一面も持ち合わせており、 また彫りの深い顔立ちで、仲間内では美男子としても有名でした。


妻ヘレーネ

1907年にベルクはオペラ歌手のヘレーネ・ナホヴスキと出会い、猛烈な恋に落ちます。ヘレーネの母は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の愛人で、 ヘレーネは皇帝の庶子と噂されていました。自身と同じように高い教養と理想を持ったヘレーネとの結婚は、 彼女の父の反対によりなかなか実現しませんでした。この頃作曲されたピアノ・ソナタ作品1、弦楽四重奏曲作品3をはじめとする初期の重要な作品には、 この苦しく激しい愛の情熱が表れています。

2人は1911年5月3日にようやく結婚し、郊外のヒーツィングに居を構えました。ベルクは自宅を離れる日には毎日妻へ手紙を書き、忠誠と愛情を示し続けました。


CD「ウィーン 音だより」に収録されているピアノ・ソナタ作品1は、シェーンベルクのもとでの学習の総仕上げとして書かれた「卒業作品」です。 作曲時期は明確にはわかっていませんが、1909年頃に完成したと考えられ、1910年、ベルクの記念すべき作品1としてベルリンのリーナウ社から自費出版されました。 表紙に印刷されている独特の丸文字は、作曲者自身がデザインしたもので、彼の美的なセンスが発揮されています。

ベルクは当初、多楽章形式の伝統的なソナタを構想していましたが、第1楽章を完成させたところで行き詰まりました。 シェーンベルクに相談したところ、「それならば、君はもう言うべきことを全部言ってしまったのだ。これで終わりにしてはどうか」とアドヴァイスされ、結局単一楽章のソナタとして完結しました。

半音階や全音音階、4度音程の多用によって調性感は極めて曖昧にされていますが、一応はロ短調をベースにしています。 拡大され尽くした調性とは対照的に、ソナタ形式の構造は明瞭に造形されており、提示部には古典派風の繰り返し記号まで付けられています。 詳しい分析はここでは割愛しますが、モティーフを徹底的に、とりわけ対位法的に操作していく方法はベートーヴェン以来のソナタの伝統を受け継ぐものです。 しかし全体を覆う爛熟した響きは悲劇的、かつ頽廃的な雰囲気を纏っており、伝統と革新が交錯する世紀末ウィーンの空気を色濃く反映した作品といえるでしょう。

出版の翌年1911年に弦楽四重奏曲作品3や、ヴェーベルンの新作などとともに初演され、騒動を巻き起こしたと伝えられています。 ベルクが生前に出版したピアノ独奏曲はこの1曲のみです。


13区・トラウトマンスドルフガッセ27番地のベルク夫妻の住居


シェーンベルクの門を離れ独り立ちしたベルクでしたが、作曲家としてのスタートはなかなか軌道に乗りませんでした。 シェーンベルク門下生の発表会以外に作品披露の場はなく、その発表会でさえも、聴衆の罵倒と暴動で警官が呼ばれるような始末でした。 保守的なウィーンの聴衆の、現代音楽に対する風当たりは厳しいものでした。

“ ドイツ、フランス、イタリアで、私の音楽への関心が生じてきたらしいことを感じますが、オーストリアでは全く反対です。 シェーンベルクの主宰する「私的音楽演奏協会」を除いては、ウィーンでたとえ1曲でも私の作品が演奏される場所はありません。 「ピアノ・ソナタ」ですら演奏されないのです。
(1920年、エドゥアルト・エルトマンから自作の交響曲を献呈されたことに対する感謝状より)

第一次世界大戦が始まると、召集されハンガリー国境に配属されますが、病弱な身体は軍隊の生活に耐えられず、すぐにウィーンの大本営に戻されました。 開戦当初は愛国心に燃えていたベルクでしたが、自身の体験を通して戦争の悲惨さと無意味さを痛感するようになります。

戦争が終わると、シェーンベルクの設立した「私的音楽演奏協会」の代表に任命されました。 ウィーンで現代音楽を演奏し、人々を啓蒙するために、この協会は理想的な組織でした。 聴衆の拍手は禁じられ、演奏が充分なレヴェルに達していないと見なされれば発表は取りやめられました。 ベルクはこの演奏会の企画や運営に深く関わり、彼のいくつかの作品の初演もここで行われましたが、依然として成功へのきっかけをつかむことはできませんでした。

作曲家としての成功を半ば諦めたベルクは音楽ライターへの転身を図り、実際に音楽雑誌に記事を投稿したりしていますが、 そこでは彼の優れた文筆力と分析家としての手腕が発揮されています。


「ヴォツェック」の成功

完全な無調のスタイルを手中に収めたベルクの創作態度は実に丁寧なもので、1作を書き上げるのに何年もかかるのが常でしたが、 ビューヒナーの戯曲「ヴォイツェク」のオペラ化には、実に構想から8年もの歳月が費やされました。 従軍や「私的音楽演奏協会」の役職による中断を挟みながら、少しずつ書き進められたオペラ「ヴォツェック」は、1922年に完成しました。

貧しい下級兵士ヴォツェックは金のために人体実験の被験者となって精神を病み、内縁の妻の不倫を知って錯乱、彼女を刺殺し、自らも溺死する…という救いのない筋書きに、 ベルクは無調様式を駆使した濃密な音楽を付与していきました。そこには、自らの過酷な従軍体験も反映していたに違いありません。

アルマ・マーラー

依頼を受けて書かれたのではない「ヴォツェック」は、上演の見込みはなかったものの、若い作曲家を支援していたアルマ・マーラーの援助を受けて自費出版されることとなりました。 これが功を奏し、ベルクの運命は好転し始めます。

1923年4月にはウィーンのウニフェルサル出版社と独占契約を結び、過去も含めてすべての作品が同社から出版されることになります。 8月にはザルツブルクの国際現代音楽祭で弦楽四重奏曲作品3が演奏され、新聞で賞賛されました。

「ヴォツェック」も、意気盛んな指揮者たちの注目を集めていました。ヘルマン・シェルヒェンはオペラの一部を抜粋した組曲を委嘱、 この「組曲版」は1924年にフランクフルトで初演され話題となります。全曲の上演は1925年12月14日、ベルリン国立歌劇場で行われました。 指揮を執った若き芸術監督エーリヒ・クライバーはかねてからこの作品の真価を見抜いており、「職を賭す」覚悟で初演に臨みました。 保守層からの反発はあったものの、結果的に作品は大成功を収め、ベルクは40歳にしてビッグネームを勝ち得ます。 ヨーロッパ各地での上演に招かれては聴衆の喝采を浴び、出版社からの収入は月給制となり、自動車や別荘を買うなど、 「成功者」としての生活がベルクを待ち受けていました。


ハンナ・フックス

転機のベルクはまた、新たな熱愛の対象をも手にすることになります。 プラハに住む友人のヘルベルト・フックスを訪ねていったベルクは、あろうことかその妻ハンナと熱烈な恋に落ちたのです。

妻ヘレーネへの忠実な手紙は以降も書き続けられましたが、その言葉は実は空虚なもので、ベルクはその後の生涯を通してハンナだけを愛し続け、その愛情こそがインスピレーションの源でした。 ハンナは、アルマ・マーラーの後の夫となるフランツ・ヴェルフェルの妹でもありました。ヘレーネはこの不倫関係にうすうす感づいていたようで、仲を取り持ったアルマは後々までヘレーネの恨みを買うこととなります。

ハンナへの愛から生まれた作品は弦楽四重奏のための「抒情組曲」で、運命の数字「23」、自身とハンナの頭文字をはじめ、 譜面には2人にしかわからない秘密の暗号が大量に書き込まれました。その妄想的なまでの情熱を、ハンナ本人がどう受け止めていたのかはよくわかりません。

この頃からベルクは、師シェーンベルクの開発した十二音技法を、自らの創作に採用し始めますが、その手法は独特で、ある意味ではシェーンベルクの理念に反するものでした。

シェーンベルクは十二音技法を実践するにあたって、聴き手に調性を感じさせないよう、三和音や音階など従来の調性音楽に使われていた音型を避けるようにして音列を組む、という規則を設けました。 ベルクはこれを意図的に無視して、伝統的な調性音楽と十二音技法との折衷を目指したのです。

もうひとりの弟子ヴェーベルンが、十二音のシステムを更に推進する急進的な作風を見せたのに対し、ベルクはあくまでも耳に心地よい音楽を求め続けました。 ウィーン人らしい保守性を、ベルクは捨て去ることができなかったともいえるでしょう。


「ルル」と晩年

「ヴォツェック」が成功すると、ベルクはすぐに次のオペラの構想を練り始めます。原作に選ばれたのは魔性の女「ルル」を主人公にしたフランク・ヴェーデキントの戯曲でした(「地霊」と「パンドラの箱」)。 出会った男を次々に虜にし、破滅に追いやるルル。ベルクにもまた、ルルの魔力が降りかかったのかもしれません。

「ルル」の作曲が進むにつれて彼の周囲ではトラブルが多発し始めます。ナチスの台頭によって、ユダヤ人のシェーンベルクを頂点とする新ウィーン楽派への弾圧が激しくなり、 シェーンベルクは1933年にアメリカに亡命。ベルクに批判的だった保守派の評論家たちの声はますます大きくなり、「ヴォツェック」の上演は途絶え、収入も激減します。 ベルクの健康状態も、今までになく悪くなっていきました。



マノン・グロピウス

1935年4月、ヴァルター・グロピウスとアルマ・マーラーの娘、マノンが18歳の若さで他界します。女優を目指していたこの美少女をとりわけ可愛がっていたベルクは、 アメリカのヴァイオリニスト、ルイス・クラスナーから委嘱されていたヴァイオリン協奏曲を、マノンの追悼に捧げることにしました。 ベルクの作品としては異例の速さで書かれたこの協奏曲は、モーツァルトの「レクイエム」やマーラーの晩年の作品と同じように、作曲者自身の死が近いことをを予感させるものでもありました。

ヴァイオリン協奏曲を完成させ「ルル」の仕上げにかかっていたベルクは、夏の間に背中にできた虫さされが悪化し、年末に重体となります。 運命の日、12月「23日」の夜を何とか持ちこたえたベルクは、翌24日の未明、敗血症で息を引き取り、自宅の近くのヒーツィング墓地に葬られました。50歳でした。

ヒーツィング墓地のベルク夫妻の墓

遺作となった「ルル」は、最終幕が未完のまま残されました。アメリカにいたシェーンベルクや、 ヴァイオリン協奏曲の初演の指揮を執ることになっていたヴェーベルン(盟友の死にショックを隠しきれず、リハーサルの後急遽降板)に補筆の依頼が舞い込みますが、誰も首を縦に振ろうとしませんでした。

そうこうするうちにヘレーネ夫人の態度が硬化し、ベルクの全作品の管理を徹底するとともに「ルル」の補筆を全面的に禁止しました。 死後に訪ねてきた私生児アルビーネの存在を知ったことや、ハンナ・フックスとの不倫関係など、ヘレーネの中では亡き夫に対する複雑な感情が渦巻いていたのでしょう。 ヘレーネはそうしたネガティヴな事実を隠蔽すべく、情報をコントロールしようとしたのです。彼女は夫からの大量の書簡を発表しましたが、原文は公開されず、 ヘレーネの「口述」に基づくもので、その信憑性には疑問がもたれています。

ヘレーネの死後、その遺言に逆らってウニフェルサル社がウィーンの作曲家フリードリヒ・ツェルハに「ルル」の補筆を依頼していたことが明らかになりました。 晩年のヘレーネが設立した「アルバン・ベルク財団」は即座に法的措置を執りましたが、最終的に第2幕までと第3幕の補筆版を分けて発表する、ということで合意しました。 補筆版はピエール・ブーレーズの指揮により1979年に上演されました。

慎重に、そして緻密に作品を創造していったベルクは、極めて寡作な作曲家でしたが、その作品のどれもが人類のかけがえのない遺産として高く評価されています。 死後40年以上を経て日の目を見た完成版「ルル」も、「ヴォツェック」と並んで世界の歌劇場の人気レパートリーとして定着しています。


[参考文献]
・アルバン・ベルク ―生涯と作品―(フォルカー・シェルリース著、岩下眞好・宮川尚理訳、泰流社)
・Alban Berg, A Research and Information Guide (Bryan R. Simms, Routledge)
・Alban Berg Bildnis im Wort (Willi Reich, Die Arche)

http://www.takashi-sato.jp/reading/h16_berg.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c27

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
28. 中川隆[-15003] koaQ7Jey 2019年11月12日 00:51:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2102]

私の両眼を閉じてください


『私の両眼を閉じてください』(ドイツ語: Schliesse mir die Augen beide)は、アルバン・ベルクがテオドール・シュトルムの同一の詩に曲付けした2つのリートである。『私の両の瞼を閉ざして下さい』等の日本語訳題もある。


Schliesse mir die Augen beide
mit den lieben Händen zu!
Geht doch alles, was ich leide,
unter deiner Hand zur Ruh.

Und wie leise sich der Schmerz
Well' um Welle schlafen leget,
wie der letzte Schlag sich reget,
füllest du mein ganzes Herz.

私の両目を閉じてください、
その愛しい両手で!
そうすれば全てが、私の苦しみは
あなたの手の中で眠るのです。

そして、悲しみが静かに
波を打って眠りに付く時には、
その最後のひと寄せが打ち寄せるとき、
あなたは私の心の全てを満たしてくれます。

1907年に作曲したハ長調の歌曲(4分の5拍子)と、十二音技法によって作曲された1925年の歌曲の2つがあり、前者は(作曲当時)未来の妻となるべきヘレーネ・ナホフスキーに、後者はウニヴェルザール出版社の創立25周年記念に、それぞれ献呈されている。

1925年版は、ベルクの十二音技法が初めて本格化した楽曲であり、ここに使われた音列は、1926年の『弦楽四重奏のための抒情組曲』に再利用された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E3%81%AE%E4%B8%A1%E7%9C%BC%E3%82%92%E9%96%89%E3%81%98%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%95%E3%81%84

▲△▽▼


1907年版

Hermann Prey - Schliesse mir die Augen beide - Alban Berg - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=hA00s2kqq04

Alban Berg, Schliess mir die Augen beide

Baritone: Hermann Prey
Piano: Michael Krist

Recording: Phonogram GmbH, Munich, October 1975


▲△▽▼


berg Schliesse mir die Augen beide (1925) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5z98t_-DnYc

Margaret Marshall · Geoffrey Parsons
1925年版
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c28

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
29. 中川隆[-15002] koaQ7Jey 2019年11月12日 00:57:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2101]

ベルク アルテンベルク歌曲集


Renée Flemming Alban Berg - Lieder Op. 4 Altenberg Lieder (Lucerne Festival, Claudio Abbado) - YouTube






Live recording from the Lucerne Festival, 2005

Lucerne Festival Orchestra
Claudio Abbado - conductor
Renée Fleming - soprano

Alban Berg - Songs Opus 4 "Altenberg-Lieder"
Five Orchestral Songs after Texts from Postcards by Peter Altenberg

1:05 I. Seele, wie bist du schöner
3:34 II. Sahst du nach dem Gewitterregen den Wald
4:34 III. Über die Grenzen des All
6:11 IV. Nichts ist gekommen
7:34 V. Hier ist Friede

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c29
[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
30. 中川隆[-15001] koaQ7Jey 2019年11月12日 01:03:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2100]

ベルク アルテンベルク歌曲集

Alban Berg - Five Orchestral Songs Altemberg-Lieder - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=q6g9zzPhkOU
https://www.youtube.com/watch?v=MxwLrL5zEMA
https://www.youtube.com/watch?v=ZeC6eQuyjzM
https://www.youtube.com/watch?v=8PfrCp_4LRY
https://www.youtube.com/watch?v=XJO_Letoai8


Alban Berg, Five Orchestral Songs "Altemberg-Lieder", Op. 4.

Margaret Price, Soprano.
Claudio Abbado, Conductor.
London Symphony Orchestra.
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c30

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
31. 中川隆[-15000] koaQ7Jey 2019年11月12日 01:08:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2099]

ベルク編曲 ヨハン・シュトラウス2世のワルツ《酒、女、歌》(1921年)

新ウィーン楽派編曲によるヨハン・シュトラウス2世:ワルツ作品集
皇帝円舞曲,南国のバラ,酒・女・歌,他
ボストン・シンフォニー・チェンバー・プレーヤーズ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=W1FO_SZJrsQ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c31

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
32. 中川隆[-14999] koaQ7Jey 2019年11月12日 01:27:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2098]
ベルク編曲 ヨハン・シュトラウス2世のワルツ《酒、女、歌》(1921年)


J. Strauß- Wein, Weib und Gesang, arr. Alban Berg - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=lLoVdUiyO20


Mario Hossen, Violin
Kristina Hinova, Violin
Zsofia Holyevac, Viola
Lilyana Kehayova, Violoncello
Andres Anazco, Piano Alfredo
Ovalles, Harmonium
CD Souvenir de Vienne 2014
_____


Johann Strauss II Wein, Weib und Gesang, op. 333 (transcr. Berg) - Riccardo Caramella Ensemble - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=HjKHFgKznfc


Wein, Weib und Gesang, op. 333
Transcription by Alban Berg (1885 - 1935) for string quartet, harmonium & piano (1921)
Introduktion (Andantino) -- Allegro moderato -- Maestoso - Walzer 1 - Walzer 2 - Walzer 3 - Walzer 4 -- Schluss


Riccardo Caramella Ensemble

Quartetto Voces:
Bujor Prelipcean, violin
Anton Diaconu, violin
Ion Stanciu, viola
Dan Prelipcean, cello

Fabio Luz, harmonium
Riccardo Caramella, piano

live concert, Auditorium Rai, Torino, 1987
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c32

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
33. 中川隆[-14998] koaQ7Jey 2019年11月12日 01:49:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2097]
ヨハン・シュトラウス2世のワルツ《酒、女、歌》原曲


Zubin Mehta, Wiener Philharmoniker - Wein, Weib und Gesang, Walzer, Op. 333




___


J. Strauss II Wein, Weib und Gesang, Op.333 - YouTube
Berliner Philharmoniker · Herbert von Karajan
https://www.youtube.com/watch?v=d5aqmqxLWo4

_____


Wein, Weib und Gesang, Op. 333 - YouTube
Wiener Philharmoniker/Herbert von Karajan
https://www.youtube.com/watch?v=czkGB_bnAuc

_____

J. Strauss II Wein, Weib und Gesang, Op. 333 (Live) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=HjpxeyyShnI


Wiener Philharmoniker · Willi Boskovsky
New Year's Day Concert In Vienna
Released on: 1979-01-01

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c33
[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
55. 2019年11月12日 10:35:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2096]
ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c55
[リバイバル3] 日本郵政グループ株(日本郵政、ゆうちょ銀行、かんぽ生命)を買ったらこういう目に遭った 中川隆
3. 中川隆[-14997] koaQ7Jey 2019年11月12日 11:00:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2095]
ゆうちょ銀、認知症高齢者に高額外貨保険販売…歪んだ郵政グループの構造的問題
https://biz-journal.jp/2019/11/post_127570.html
2019.11.12 文=編集部 Business Journal


 日本郵政・長門正貢代表執行役社長(ロイター/アフロ)


 日本郵政グループの転落が著しい。かんぽ生命での大規模な不適切営業を端緒に、同グループのゆうちょ銀行の投資信託商品の不適切販売も発覚するなど、常軌を逸した事態になっている。一連の報道では過剰なノルマが一因とされ、日本郵政はかんぽ生命の保険商品販売におけるノルマ廃止を表明するなど、対応に追われている。

■指導不足による営業社員の認識不足が原因?

 同行と日本郵便は9月13日、「投資信託の不適切な取扱いに関する社内調査結果および今後の対応について」と題するプレスリリースを発表した。70歳以上の高齢者に対する不適切な販売行為の社内調査結果の概要と、今後の再発防止策を以下のように公表した。

「ゆうちょ銀行および日本郵便は、窓販開始(2005年10月)以降、全ての高齢のお客さまに対して、投資信託の個別商品の理解状況等を確認するため、購入に係る申込受付前に管理者による承認を実施してきたところです。

 その後、日本証券業協会から高齢顧客への勧誘による販売に係るガイドライン(2013 年10 月)の考え方が示されて以降は、勧誘前に状況を確認し、勧誘すべきでないお客さまは勧誘しないとの趣旨を踏まえ、高齢のお客さまに対して、申込受付前に加えて、新たに勧誘前にこの観点からの管理者承認を行うことを社内規則に追加していたにもかかわらず、この取扱いを多数怠っていたというものです。

【調査結果】

       違反件数(割合※1) 違反店・局数(割合※2)

ゆうちょ銀行  17,700 件(43%)  213 店(91%)

日本郵便    1,891 件 (7%)   187 局(12%)

※1 調査対象の高齢者対面取引件数に対する割合

※2 投資信託取扱店舗数に対する割合

 発生原因・背景としては、ゆうちょ銀行、および日本郵便本社の指導不足による営業社員(管理者含む)の認識不足等があり、社員のコンプライアンス意識を向上させるために、研修、マニュアルの改正等にゆうちょ銀行、および日本郵便が全社を挙げて取り組んでまいります」

■認知症の高齢者に外貨建て保険販売

 一方、ゆうちょ銀行の内部資料を入手した西日本新聞は今月5日、『認知低下70代に1億円保険 ゆうちょ銀 家族抜き、取り消しも拒否』と題する記事を掲載した。

 同記事では、「79歳の母が500万円の外貨建て保険を契約していた。認知症の母にそのようなリスク商品を販売するのは違法ではないか」「貯金の手続きに行ったら強引に投資信託の話をされ、訳も分からないまま契約に至ってしまった」などという被害者の声を紹介。投資信託や外貨建て保険契約で高齢者から苦情が多数寄せられていることを明らかにした。

 また、「未曽有の低金利が続く中、同行は元本割れのリスクがある金融商品の販売強化を打ち出すが、現場の行員は『営業目標を達成するため、一部で顧客の意に沿わない販売が行われている』と証言する」として、ゆうちょ銀行の内幕を明かしている。

■持株比率が業務範囲に影響

 経済ジャーナリストの森岡英樹氏は一連の不祥事の背景に関して、次のように解説する。

「この問題の背景には、日本郵政グループの構造的な問題があります。日本郵政グループは持ち株会社の日本郵政の傘下にかんぽ生命、ゆうちょ銀行、日本郵便の3つの子会社を置く体制になりました。ちなみに米国でも民営化はされましたが、郵便業務だけは国営のままです。日本の場合、日本郵便を含めあまりに大きな組織になってしまったため、組織としての矛盾が生じています。

 現在、国は日本郵政の株を持ち、日本郵政がゆうちょ銀行の株をもっているという構造です。国は少しずつ持ち株比率を下げるため、株の売却を進めています。ここで問題になってくるのが、日本郵政が保有するゆうちょ銀、かんぽ生命の持株比率が50%を下回らないと、両社の業務範囲は自由(新規業務は登録制に移行)とならないことです。新規業務を行う際、郵政民営化委員会の許認可を得なければなりません。

 そうした状況下にもかかわらず日本郵政は上場しました。国としては少しでも売却時の株価を上げたい。このことが日本郵政グループ経営陣のプレッシャーになっています。この株の売却益は東日本大震災などの復興財源になる予定で、ある意味『おしりが決まっている財源』のため必要額を確保することが至上命題になっています。

 かんぽ生命、ゆうちょ銀行、日本郵便には民営化後もユニバーサルサービスとして全国一律で同質のサービスを提供することが求められています。新規事業を自由に行えず、しかも地理的、経済的な要因を加味したスタイルをとることもできない中で、確実に利益を上げなければいけないため、無理な営業につながっている懸念があります。

 また、子会社3社には民間から経営者を招聘しましたが、その手足となるのは民営化前から勤めている元公務員の社員です。売上増進のため、高いノルマを課し、歩合給の割合を引き上げました。このインセンティブにより、稼げる人と稼げない人との間には大きく差がつくことになりました。つまり業績不振だと年収の大幅な減額を招く可能性があるのです。

 トップがいくら指導しても、現場は収益を上げる事業のノウハウを積み重ねてきたわけではないのです。また元公務員だった職員らは、ある意味でまじめにノルマを達成しようと無理な営業をかけてしまっているのだろうと思います。

 しかも、銀行や保険業界など異なる業界からグループ3社のトップに就任した経営陣間のコミュニケーション不全も深刻です。現在発生しているさまざまな不祥事に関して、各社の経営陣はお互いに責任を回避しようとしています。国などが経営陣を刷新しようとしても、前述のように明らかに困難な業務であることがわかりきっているので、後任に手を挙げる人はいないでしょう」

 ゆうちょ銀行と日本郵便が示した改善策は「不足したしていた指導を営業社員に行う」ということだが、効果はあるのだろうか。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/981.html#c3

[リバイバル3] 保険会社に騙されるな 中川隆
34. 中川隆[-14996] koaQ7Jey 2019年11月12日 11:00:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2094]
ゆうちょ銀、認知症高齢者に高額外貨保険販売…歪んだ郵政グループの構造的問題
https://biz-journal.jp/2019/11/post_127570.html
2019.11.12 文=編集部 Business Journal


 日本郵政・長門正貢代表執行役社長(ロイター/アフロ)


 日本郵政グループの転落が著しい。かんぽ生命での大規模な不適切営業を端緒に、同グループのゆうちょ銀行の投資信託商品の不適切販売も発覚するなど、常軌を逸した事態になっている。一連の報道では過剰なノルマが一因とされ、日本郵政はかんぽ生命の保険商品販売におけるノルマ廃止を表明するなど、対応に追われている。

■指導不足による営業社員の認識不足が原因?

 同行と日本郵便は9月13日、「投資信託の不適切な取扱いに関する社内調査結果および今後の対応について」と題するプレスリリースを発表した。70歳以上の高齢者に対する不適切な販売行為の社内調査結果の概要と、今後の再発防止策を以下のように公表した。

「ゆうちょ銀行および日本郵便は、窓販開始(2005年10月)以降、全ての高齢のお客さまに対して、投資信託の個別商品の理解状況等を確認するため、購入に係る申込受付前に管理者による承認を実施してきたところです。

 その後、日本証券業協会から高齢顧客への勧誘による販売に係るガイドライン(2013 年10 月)の考え方が示されて以降は、勧誘前に状況を確認し、勧誘すべきでないお客さまは勧誘しないとの趣旨を踏まえ、高齢のお客さまに対して、申込受付前に加えて、新たに勧誘前にこの観点からの管理者承認を行うことを社内規則に追加していたにもかかわらず、この取扱いを多数怠っていたというものです。

【調査結果】

       違反件数(割合※1) 違反店・局数(割合※2)

ゆうちょ銀行  17,700 件(43%)  213 店(91%)

日本郵便    1,891 件 (7%)   187 局(12%)

※1 調査対象の高齢者対面取引件数に対する割合

※2 投資信託取扱店舗数に対する割合

 発生原因・背景としては、ゆうちょ銀行、および日本郵便本社の指導不足による営業社員(管理者含む)の認識不足等があり、社員のコンプライアンス意識を向上させるために、研修、マニュアルの改正等にゆうちょ銀行、および日本郵便が全社を挙げて取り組んでまいります」

■認知症の高齢者に外貨建て保険販売

 一方、ゆうちょ銀行の内部資料を入手した西日本新聞は今月5日、『認知低下70代に1億円保険 ゆうちょ銀 家族抜き、取り消しも拒否』と題する記事を掲載した。

 同記事では、「79歳の母が500万円の外貨建て保険を契約していた。認知症の母にそのようなリスク商品を販売するのは違法ではないか」「貯金の手続きに行ったら強引に投資信託の話をされ、訳も分からないまま契約に至ってしまった」などという被害者の声を紹介。投資信託や外貨建て保険契約で高齢者から苦情が多数寄せられていることを明らかにした。

 また、「未曽有の低金利が続く中、同行は元本割れのリスクがある金融商品の販売強化を打ち出すが、現場の行員は『営業目標を達成するため、一部で顧客の意に沿わない販売が行われている』と証言する」として、ゆうちょ銀行の内幕を明かしている。

■持株比率が業務範囲に影響

 経済ジャーナリストの森岡英樹氏は一連の不祥事の背景に関して、次のように解説する。

「この問題の背景には、日本郵政グループの構造的な問題があります。日本郵政グループは持ち株会社の日本郵政の傘下にかんぽ生命、ゆうちょ銀行、日本郵便の3つの子会社を置く体制になりました。ちなみに米国でも民営化はされましたが、郵便業務だけは国営のままです。日本の場合、日本郵便を含めあまりに大きな組織になってしまったため、組織としての矛盾が生じています。

 現在、国は日本郵政の株を持ち、日本郵政がゆうちょ銀行の株をもっているという構造です。国は少しずつ持ち株比率を下げるため、株の売却を進めています。ここで問題になってくるのが、日本郵政が保有するゆうちょ銀、かんぽ生命の持株比率が50%を下回らないと、両社の業務範囲は自由(新規業務は登録制に移行)とならないことです。新規業務を行う際、郵政民営化委員会の許認可を得なければなりません。

 そうした状況下にもかかわらず日本郵政は上場しました。国としては少しでも売却時の株価を上げたい。このことが日本郵政グループ経営陣のプレッシャーになっています。この株の売却益は東日本大震災などの復興財源になる予定で、ある意味『おしりが決まっている財源』のため必要額を確保することが至上命題になっています。

 かんぽ生命、ゆうちょ銀行、日本郵便には民営化後もユニバーサルサービスとして全国一律で同質のサービスを提供することが求められています。新規事業を自由に行えず、しかも地理的、経済的な要因を加味したスタイルをとることもできない中で、確実に利益を上げなければいけないため、無理な営業につながっている懸念があります。

 また、子会社3社には民間から経営者を招聘しましたが、その手足となるのは民営化前から勤めている元公務員の社員です。売上増進のため、高いノルマを課し、歩合給の割合を引き上げました。このインセンティブにより、稼げる人と稼げない人との間には大きく差がつくことになりました。つまり業績不振だと年収の大幅な減額を招く可能性があるのです。

 トップがいくら指導しても、現場は収益を上げる事業のノウハウを積み重ねてきたわけではないのです。また元公務員だった職員らは、ある意味でまじめにノルマを達成しようと無理な営業をかけてしまっているのだろうと思います。

 しかも、銀行や保険業界など異なる業界からグループ3社のトップに就任した経営陣間のコミュニケーション不全も深刻です。現在発生しているさまざまな不祥事に関して、各社の経営陣はお互いに責任を回避しようとしています。国などが経営陣を刷新しようとしても、前述のように明らかに困難な業務であることがわかりきっているので、後任に手を挙げる人はいないでしょう」

 ゆうちょ銀行と日本郵便が示した改善策は「不足したしていた指導を営業社員に行う」ということだが、効果はあるのだろうか。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/841.html#c34

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
34. 中川隆[-14995] koaQ7Jey 2019年11月12日 11:31:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2093]
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする方法
https://www.imobie.jp/support/fix-how-to-download-youtube-to-itunes.htm

HD動画変換、オンライン動画変換 - OnlineVideoConverter.com
https://www.onlinevideoconverter.com/ja


2007/11/58 Yoshii9 へのiPodの接続…iPodは高音質か?
https://web.archive.org/web/20130312141851/http://shyouteikin.seesaa.net/article/63516831.html

12/58 Yoshii9 へはiPodは繋がない…iPodの音質の限界を知った切っ掛け
https://web.archive.org/web/20121004002400/http://shyouteikin.seesaa.net/article/129279700.html

iTunes を入手 - Microsoft Store ja-JP
https://www.microsoft.com/ja-jp/p/itunes/9pb2mz1zmb1s?cid=appledotcom&rtc=1&activetab=pivot:overviewtab

iTunes - アップグレードして今すぐiTunesを手に入れよう - Apple(日本)
https://www.apple.com/jp/itunes/download/

iPodへの曲・音楽の入れ方 iPod Wave
https://www.ipodwave.com/ipod/ipodmusic.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c34

[近代史3] ブルックナーの作品は日本の男のためにある _ 日本でのブルックナー人気は宇野功芳のカリスマ評論が唯一の原因 中川隆
13. 中川隆[-14994] koaQ7Jey 2019年11月12日 11:32:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2092]
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする方法
https://www.imobie.jp/support/fix-how-to-download-youtube-to-itunes.htm

HD動画変換、オンライン動画変換 - OnlineVideoConverter.com
https://www.onlinevideoconverter.com/ja


2007/11/58 Yoshii9 へのiPodの接続…iPodは高音質か?
https://web.archive.org/web/20130312141851/http://shyouteikin.seesaa.net/article/63516831.html

12/58 Yoshii9 へはiPodは繋がない…iPodの音質の限界を知った切っ掛け
https://web.archive.org/web/20121004002400/http://shyouteikin.seesaa.net/article/129279700.html

iTunes を入手 - Microsoft Store ja-JP
https://www.microsoft.com/ja-jp/p/itunes/9pb2mz1zmb1s?cid=appledotcom&rtc=1&activetab=pivot:overviewtab

iTunes - アップグレードして今すぐiTunesを手に入れよう - Apple(日本)
https://www.apple.com/jp/itunes/download/

iPodへの曲・音楽の入れ方 iPod Wave
https://www.ipodwave.com/ipod/ipodmusic.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/684.html#c13

[近代史3] ベートーベン ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31−3 _ 何故この曲だけこんなに人気が有るのか? 中川隆
18. 中川隆[-14993] koaQ7Jey 2019年11月12日 11:32:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2091]
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする方法
https://www.imobie.jp/support/fix-how-to-download-youtube-to-itunes.htm

HD動画変換、オンライン動画変換 - OnlineVideoConverter.com
https://www.onlinevideoconverter.com/ja


2007/11/58 Yoshii9 へのiPodの接続…iPodは高音質か?
https://web.archive.org/web/20130312141851/http://shyouteikin.seesaa.net/article/63516831.html

12/58 Yoshii9 へはiPodは繋がない…iPodの音質の限界を知った切っ掛け
https://web.archive.org/web/20121004002400/http://shyouteikin.seesaa.net/article/129279700.html

iTunes を入手 - Microsoft Store ja-JP
https://www.microsoft.com/ja-jp/p/itunes/9pb2mz1zmb1s?cid=appledotcom&rtc=1&activetab=pivot:overviewtab

iTunes - アップグレードして今すぐiTunesを手に入れよう - Apple(日本)
https://www.apple.com/jp/itunes/download/

iPodへの曲・音楽の入れ方 iPod Wave
https://www.ipodwave.com/ipod/ipodmusic.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/680.html#c18

[近代史3] 「即位の礼」の各国参列者の顔触れに見る“皇室外交” 中川隆
10. 中川隆[-14992] koaQ7Jey 2019年11月12日 12:02:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2090]

[2019.11.11放送]週刊クライテリオン 藤井聡のあるがままラジオ(KBS京都ラジオ) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NdF7Tx_33gM


今週のテーマは『「即位の礼」に見る、日本の国力の激しい凋落。』です。


平成の30年間にわたってアメリカから徹底的に搾取され続け、それに対してろくに戦おうとしなかった腰抜けの日本人。いくら歴史と伝統を誇る日本の皇室とはいえこの程度の扱いになってしまう、ということでしょうか。。核武装による自主独立が急がれます。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/659.html#c10

[リバイバル3] 苗場スキー場 中川隆
71. 中川隆[-14991] koaQ7Jey 2019年11月12日 12:31:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2089]

▲△▽▼


越後湯沢のリゾートマンション|リゾートマンション・リゾートホテル・別荘掲示板
https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/res/3875-3924/


3900 匿名さん 6日前

某紙の投稿欄に、80歳で「自然豊かな地方の」マンションに移住した父が結局施設に入り子供がマンションを売却しようとしたが4年かかったというのがあった。
年間かなりの管理費固定資産税がかかり施設の費用と併せて大変だったそうな。

タダ同然で買えて管理費等も年金で賄えるなら湯沢あたりのリゾマンで老後を過ごすのもいいかと思っていたが、最後はこのように子供に迷惑をかけるのであれば躊躇してしまうね。


3903 匿名さん 5日前

現状でも、ある程度の値段がついて動きがあるマンションと、タダ同然でも全然動かないマンションがある。動いてる物件ならそれこそ安価にすればすぐ売れるだろう。
この辺を区別せずに「湯沢のリゾマンは」で一緒くたに論評してもあまり意味はないからな。買う人間はそこを見ろよ、という話じゃないかね。安さだけに釣られたらそりゃ処分は大変だろうさ。

3907 匿名さん 4日前
>>3903
だよね

10万円でもなかなか売れない物件は手放すのも大変だと思う。
将来売却の予定があるなら、売れにくい物件を買うべきじゃないよね

3909 匿名さん 4日前

管理費と固定資産税があるから10万と言ってもその年だけでも安くても50万の出費。何か大きな変化、例えばスキースノボブームがまた来て裕福な外国人が大挙してやって来るとか、デフレから脱却してまたバブル景気が起きるとか、非正規労働が廃止され若者の所得が倍増するとか、そういう変化がなければ現状は続くだろうね。税収に頼ってるはずの町は全く無関心で町のステイタスを上げる方策もない。外国人ユーチューバーが越後湯沢に来る動画があって期待して見てたら、一歩も駅から出ずぽんしゅ館だの土産屋だけで終わってた。

雑然とした温泉街も廃墟並みの商店街も観光以前の問題だね。普通の町より劣ってる。



3911 匿名さん 3日前

相続放棄しても、該当不動産が処分される迄は、管理責任がついてまわるので、利用できなくなった上、経費はかかる。
市は該当不動産を処分する気なんてないだろから、**の様に、被相続人を苦しめる。
売れない物件を買うと、子供や孫に未来永劫まれるよ。

3914 匿名さん 2日前
>>3909
うちの実家地域(田舎)もあんなもん。

湯沢は寂れた田舎町のお手本のような町並みに、リゾマンが立ってる感じ。

冬はスキーがあるからいいけど、雪のない季節は本当に雰囲気が無いよね。
湯沢高原に上れば観光感あるけど、町全体としては寂れっぷりがヤバイ

駅の近くにコンビニがあるのが救い。このレベルの観光地だとコンビにすらないケースもあるからね・・・

ヤマシンさんとか素敵なお店もあるけど、全体としては観光地レベルがかなり低い。


そんな残念な湯沢町だけど、リゾマンを買ったことに後悔は無いし満足もしてる。
観光できる町では無いけれど、これからも楽しくリゾマンを利用できると思う。
一般家庭でも購入できる価格帯だし、荷物置けるの便利!
車一台買い足す値段で購入維持できるんだよ?町のしょぼさは眼を瞑れるよ。
観光できる町になってくれるならそりゃ嬉しいけどねー

3915 匿名さん 2日前

>>3914 匿名さん
こ▲△▽▼こを開発した西武は、今、秩父や飯能とかに力を入れているみたい。


3916 匿名さん 1日前

私の場合、むしろ観光地であったならばマンションは購入していなかったと思います。何もないがあるから湯沢に魅力を感じています。冬より夏の湯沢が好きです。手付かずの自然に溢れていて、気取らない田舎町の風情が大好きです。おしゃれなカフェなんかより、地元の野菜や特産品を購入できる大型の直売所が出来たらいいなぁと思います。


3917 匿名さん 1日前

世田谷区と提携?してる田舎の 川場村が田舎を売りにした田舎だけど、
ちゃんと都会民に媚びてて好きだ。
湯沢に来る途中にインター下りてちょっと遊ぶのに丁度いい川場村ね!

観光に対する努力をしてても、都会から来る人のニーズがわかってないとズレた事して寒いだけじゃん。
川場村はニーズがわかってる。役場の人間がヤリ手なのか、コンサル入れたのかはわからんけど。

私は手付かずの自然より、整備された自然が好きだから、川場村くらいの自然が心地いいかなー。

湯沢は交通の面では川場村に勝ってる。
子供が喜ぶ川もあるし、
やり方によっては化ける町だよね。

(お手入れされた自然は不自然で苦手な人も居ると思うから あくまでも私の意見)


3920 匿名さん 1日前

道路なら
苗場と四万温泉もつなげて欲しい。
もちろん、冬は閉鎖でいいから。

あと7キロだか8キロ程度作ればつながるらしいじゃん
ここまで出来てるならつなげないとモッタイナイ


3921 ご近所さん 22時間前

353号ですね。三国スキー場が閉鎖しちゃって、もう計画もされないのでしょうね。


3922 匿名さん 15時間前

国道となると国かな。
プライマリーバランスの黒字化とやらのためにムダだと決めたのかなw
通れば行き来も増えて観光も活性化するはずだよね。
財政健全化とか言い出した無知な人のせいで全てが停滞だね。

3923 匿名さん 5時間前

357かぁ。峠越えの難工事になるし、トンネルにしても莫大な予算がかかる。四万温泉じゃそうまでして苗場側からのアクセスがそれほどあるとも思えないがなぁ。

3924 匿名さん 2時間前
>>3923
あと10キロくらいならつなげようよー。と、簡単に思ってしまったけど、
言われてみると峠の工事は大変そうですね。

湯沢から17号三国峠と中之条経由で草津に行くと2時間弱。
仮に苗場ー四万温泉が開通したとして、四万温泉経由で草津にいけても15分程度の短縮にしかならないかもしれない・・・

たった15分ならば17号を使って草津に行くべきかも・・・


353の峠がどれほど険しいものなのかを調べていたら、面白いHPを見つけました。

https://www.kashiwaya.org/blog/?p=11505

大正4年以前には、四万温泉ー苗場に道があったそうです。
牛車も通れて宿場もあったらしいのに、宿場の跡が見つからないそうで、ロマンを感じます。

このHPの関係者が踏破した古道を横取りして整備して353にすれば安く出来るんじゃ・・・牛車や昔の一般人が利用した道なら険しくなさそう!
と、一瞬思ったけど、わずかな利用者のたった15分の短縮のためにHPの人達のロマンを横取りして
何十億だか何百億の金もかけて
環境破壊するのはリターンに見合わないから、353号は無くてもいいかもしれない

ちゃちゃっと簡単に開通して、1時間くらい短縮できるならやって欲しいけど15分じゃなぁ…

https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/image/3924/0/


四万温泉から新潟への古道探検 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=PD1_74JVqPY&feature=emb_title


四万温泉から新潟への街道跡 地図
https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/image/3924/0/
https://www.kashiwaya.org/blog/wp-content/uploads/2017/11/maoutain.jpg
https://www.kashiwaya.org/blog/wp-content/uploads/2017/11/img20171112_16125942.jpg
https://www.kashiwaya.org/blog/wp-content/uploads/2017/11/kinone.jpg

古道再発見の探検隊 – 四万温泉から新潟への街道跡2017年11月12日
四万温泉や周辺の山登り, 四万温泉や群馬県のこと
https://www.kashiwaya.org/blog/?p=11505


いまは、奥四万湖で行き止まりの四万温泉ですが、その昔は新潟方面に抜ける街道筋の温泉地でもあったそうです。

四万温泉の古老の方々からもそんな言い伝えを聞いていたので、その道を再発見しようと、4年前(2013年)の11月に引き続き、2度目の探検隊を組みました。

今回は、稲包山の登山道から入り、途中で尾根から下り、古道跡まで行き、そこから古道を新潟方面へ登りました。

微かに残った道跡。
道なき道を藪漕ぎで進み、滑落の危険と背中合わせの道を進みました。


最初は余裕タップリしでしたが・・・

ほとんどの道中は深い笹薮の中


何箇所もあった、沢越えではかなり危険な思いも・・・


かなり怖くてハードな道のりでしたが、4年前の第一回目の探検のあと、営林署のSさんがひとりで何度も山に入り、入念に下調べしておいてくれたので、なんとか古道を踏査できました。


新潟県境の尾根にたどり着き一安心


11月上旬なのに霧氷が


今回の踏査マップ

4年前と今回の調査を合わせて、この街道の全貌がかなり見えてきました。


営林署Sさんのまとめた資料

この道(木の根宿古道と(仮)で呼びます)は、四万温泉の日向見から四万川・木の根宿沢沿いを登り新潟県境の三坂峠を経て湯沢町の浅貝に至るルートだったようです。

色々な古文書や古地図にその存在が記載されているのですが、大正4年発行の地図を最後に地図からは消えてしまっています。


大正4年発行の地図

四万温泉在住の折田さんがまとめてくださった資料によると、すでに10世紀には木の根宿古道が使われていたようです。


折田さんによる年表

新田義貞が挙兵の折(14世紀)、新潟側の同志がこの道を通って参戦した。
木の根宿(きのねしゅく)という宿場があり遊女もいた(須川記)
新潟の上杉氏がここを往来した記録も残る

など、興味深い記載がたくさん残っています。

さらに、中之条町歴史民俗資料館(MUSEE)の「世のちり洗う四万温泉」図録にも、この古道の往来について簡単にまとめた記事があります。


中之条町歴史民俗資料館提供

坂上田村麻呂が通過したと言われる、国府 – 渋川 – 中之条 – 四万 – 木の根宿 – 浅貝への木の根宿通りの奥州故道・・
「元慶の乱」(878年)、出羽で起こった乱の鎮静のため上野国の兵の出動経路

などが書かれています。

実際に歩いてみたり地図を辿ってみたりすると、木の根宿古道は、登山が目的のいまの稲包山のルートとは異なり、なるべくアップダウンの少ない、牛馬も通りやすい位置にルートが設定されていたことがわかります。

今回木の根古道を歩いてみて、道のありがたさを身を以て体感しました。

普通の登山道 >> 木の根宿古道 >> ただの笹薮

本当に微かではありますが、残っている道跡を歩くのが、全く何もない笹薮の中を歩くのよりどれだけ楽だったことか、そして整備されている登山道の楽チンさといったら最高でした。

営林署のSさん以外は、木の根宿古道を制覇した人はいないので、次のチャンスには、日向見から新潟まで全て古道を歩いてたどり着いてみたいと思いました。

また、文献(吾妻郡誌)に、

木の根宿趾
澤田村大字四萬の山中にあり。此地往古越後との交通路ありし頃、人家點々略宿状をなせりといふ。

と記載のある、木の根宿の跡地遺跡もいつの日か発見してみたいと思います。

協力してくださる、大学の登山部や探検部の方いらっしゃいませんか?
お気軽にお声がけくださいね。

今回の調査の様子を上毛新聞が記事にしてくれました。

上毛新聞記事

(以下引用)
奥四万湖から三坂峠を越えて新潟県に続く「木の根宿古道」(約10キロ)を、中之条町の観光団体の関係者が5年がかりで踏査した。複数の文献に古道沿いにあると記されながら、場所が確認されずにいる謎の宿場町「木の根宿」の跡地は発見できなかった。今後も宿場跡の調査を続ける一方、山岳ルートとしての活用法を探る。

 調査したのは、奥四万湖近くの秋沢橋から稲包山の中腹を抜け、新潟県境の三坂峠を越えるルート。尾根や沢、滝を進む難コースで、クマザサなどが生い茂り登山者が立ち入れない状態になっている。四万温泉協会と同町観光協会が、登山ルートやトレイルランコースへの活用を視野に2013年に調査を始め、今年11月にようやく終了した。

 木の根宿古道はかつての主要道で、沼田藩主だった真田家の家臣、加沢平次左衛門が主家の興亡をまとめた戦記物「加沢記」に登場するなど複数の文献に記載がある。江戸時代の猿ケ京関所開設に伴い通行禁止となったが、新潟への抜け道として利用されたと伝えられる。

 古道沿いに木の根宿があったとされ、1934(昭和9)年に吾妻山岳会が跡地を発見したと「群馬県吾妻郡誌追録」に記されている。「木の根宿に花魁おいらん屋敷があった」との伝承も残る。ただ、写真はなく、その後の調査で跡地の場所は確認できていない。

 同町歴史と民俗の博物館「ミュゼ」の山口通喜館長は「木の根宿古道は軍事などを目的に古くは平安時代から使われ、利用する一般人も多かった。今回の調査で宿場町跡は確認できず残念だが、踏破する価値がある」と話す。

 調査に参加した同町観光協会の原沢香司さんは「近くにぐんま県境稜線トレイルが整備されるので、連携した活用法を検討したい」、四万温泉で旅館を経営する柏原益夫さんは「山岳トレイルが人気なので、四万温泉の魅力に一つにできたら」と話している。
https://www.kashiwaya.org/blog/?p=11505



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/775.html#c71

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
556. 中川隆[-14990] koaQ7Jey 2019年11月12日 12:33:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2088]
越後湯沢のリゾートマンション|リゾートマンション・リゾートホテル・別荘掲示板
https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/res/3875-3924/


3900 匿名さん 6日前

某紙の投稿欄に、80歳で「自然豊かな地方の」マンションに移住した父が結局施設に入り子供がマンションを売却しようとしたが4年かかったというのがあった。
年間かなりの管理費固定資産税がかかり施設の費用と併せて大変だったそうな。

タダ同然で買えて管理費等も年金で賄えるなら湯沢あたりのリゾマンで老後を過ごすのもいいかと思っていたが、最後はこのように子供に迷惑をかけるのであれば躊躇してしまうね。

3903 匿名さん 5日前

現状でも、ある程度の値段がついて動きがあるマンションと、タダ同然でも全然動かないマンションがある。動いてる物件ならそれこそ安価にすればすぐ売れるだろう。
この辺を区別せずに「湯沢のリゾマンは」で一緒くたに論評してもあまり意味はないからな。買う人間はそこを見ろよ、という話じゃないかね。安さだけに釣られたらそりゃ処分は大変だろうさ。

3907 匿名さん 4日前
>>3903
だよね

10万円でもなかなか売れない物件は手放すのも大変だと思う。
将来売却の予定があるなら、売れにくい物件を買うべきじゃないよね

3909 匿名さん 4日前

管理費と固定資産税があるから10万と言ってもその年だけでも安くても50万の出費。何か大きな変化、例えばスキースノボブームがまた来て裕福な外国人が大挙してやって来るとか、デフレから脱却してまたバブル景気が起きるとか、非正規労働が廃止され若者の所得が倍増するとか、そういう変化がなければ現状は続くだろうね。税収に頼ってるはずの町は全く無関心で町のステイタスを上げる方策もない。外国人ユーチューバーが越後湯沢に来る動画があって期待して見てたら、一歩も駅から出ずぽんしゅ館だの土産屋だけで終わってた。

雑然とした温泉街も廃墟並みの商店街も観光以前の問題だね。普通の町より劣ってる。

3911 匿名さん 3日前

相続放棄しても、該当不動産が処分される迄は、管理責任がついてまわるので、利用できなくなった上、経費はかかる。
市は該当不動産を処分する気なんてないだろから、**の様に、被相続人を苦しめる。
売れない物件を買うと、子供や孫に未来永劫まれるよ。


3914 匿名さん 2日前
>>3909
うちの実家地域(田舎)もあんなもん。

湯沢は寂れた田舎町のお手本のような町並みに、リゾマンが立ってる感じ。

冬はスキーがあるからいいけど、雪のない季節は本当に雰囲気が無いよね。
湯沢高原に上れば観光感あるけど、町全体としては寂れっぷりがヤバイ

駅の近くにコンビニがあるのが救い。このレベルの観光地だとコンビにすらないケースもあるからね・・・

ヤマシンさんとか素敵なお店もあるけど、全体としては観光地レベルがかなり低い。


そんな残念な湯沢町だけど、リゾマンを買ったことに後悔は無いし満足もしてる。
観光できる町では無いけれど、これからも楽しくリゾマンを利用できると思う。
一般家庭でも購入できる価格帯だし、荷物置けるの便利!
車一台買い足す値段で購入維持できるんだよ?町のしょぼさは眼を瞑れるよ。
観光できる町になってくれるならそりゃ嬉しいけどねー


3915 匿名さん 2日前

>>3914 匿名さん
ここを開発した西武は、今、秩父や飯能とかに力を入れているみたい。


3916 匿名さん 1日前

私の場合、むしろ観光地であったならばマンションは購入していなかったと思います。何もないがあるから湯沢に魅力を感じています。冬より夏の湯沢が好きです。手付かずの自然に溢れていて、気取らない田舎町の風情が大好きです。おしゃれなカフェなんかより、地元の野菜や特産品を購入できる大型の直売所が出来たらいいなぁと思います。


3917 匿名さん 1日前

世田谷区と提携?してる田舎の 川場村が田舎を売りにした田舎だけど、
ちゃんと都会民に媚びてて好きだ。
湯沢に来る途中にインター下りてちょっと遊ぶのに丁度いい川場村ね!

観光に対する努力をしてても、都会から来る人のニーズがわかってないとズレた事して寒いだけじゃん。
川場村はニーズがわかってる。役場の人間がヤリ手なのか、コンサル入れたのかはわからんけど。

私は手付かずの自然より、整備された自然が好きだから、川場村くらいの自然が心地いいかなー。

湯沢は交通の面では川場村に勝ってる。
子供が喜ぶ川もあるし、
やり方によっては化ける町だよね。

(お手入れされた自然は不自然で苦手な人も居ると思うから あくまでも私の意見)


3920 匿名さん 1日前

道路なら
苗場と四万温泉もつなげて欲しい。
もちろん、冬は閉鎖でいいから。

あと7キロだか8キロ程度作ればつながるらしいじゃん
ここまで出来てるならつなげないとモッタイナイ


3921 ご近所さん 22時間前

353号ですね。三国スキー場が閉鎖しちゃって、もう計画もされないのでしょうね。


3922 匿名さん 15時間前

国道となると国かな。
プライマリーバランスの黒字化とやらのためにムダだと決めたのかなw
通れば行き来も増えて観光も活性化するはずだよね。
財政健全化とか言い出した無知な人のせいで全てが停滞だね。

3923 匿名さん 5時間前

357かぁ。峠越えの難工事になるし、トンネルにしても莫大な予算がかかる。四万温泉じゃそうまでして苗場側からのアクセスがそれほどあるとも思えないがなぁ。

3924 匿名さん 2時間前
>>3923
あと10キロくらいならつなげようよー。と、簡単に思ってしまったけど、
言われてみると峠の工事は大変そうですね。

湯沢から17号三国峠と中之条経由で草津に行くと2時間弱。
仮に苗場ー四万温泉が開通したとして、四万温泉経由で草津にいけても15分程度の短縮にしかならないかもしれない・・・

たった15分ならば17号を使って草津に行くべきかも・・・


353の峠がどれほど険しいものなのかを調べていたら、面白いHPを見つけました。

https://www.kashiwaya.org/blog/?p=11505

大正4年以前には、四万温泉ー苗場に道があったそうです。
牛車も通れて宿場もあったらしいのに、宿場の跡が見つからないそうで、ロマンを感じます。

このHPの関係者が踏破した古道を横取りして整備して353にすれば安く出来るんじゃ・・・牛車や昔の一般人が利用した道なら険しくなさそう!
と、一瞬思ったけど、わずかな利用者のたった15分の短縮のためにHPの人達のロマンを横取りして
何十億だか何百億の金もかけて
環境破壊するのはリターンに見合わないから、353号は無くてもいいかもしれない

ちゃちゃっと簡単に開通して、1時間くらい短縮できるならやって欲しいけど15分じゃなぁ…

https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/image/3924/0/


▲△▽▼


四万温泉から新潟への古道探検 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=PD1_74JVqPY&feature=emb_title


四万温泉から新潟への街道跡 地図
https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/image/3924/0/
https://www.kashiwaya.org/blog/wp-content/uploads/2017/11/maoutain.jpg
https://www.kashiwaya.org/blog/wp-content/uploads/2017/11/img20171112_16125942.jpg
https://www.kashiwaya.org/blog/wp-content/uploads/2017/11/kinone.jpg


古道再発見の探検隊 – 四万温泉から新潟への街道跡2017年11月12日
四万温泉や周辺の山登り, 四万温泉や群馬県のこと
https://www.kashiwaya.org/blog/?p=11505


いまは、奥四万湖で行き止まりの四万温泉ですが、その昔は新潟方面に抜ける街道筋の温泉地でもあったそうです。

四万温泉の古老の方々からもそんな言い伝えを聞いていたので、その道を再発見しようと、4年前(2013年)の11月に引き続き、2度目の探検隊を組みました。

今回は、稲包山の登山道から入り、途中で尾根から下り、古道跡まで行き、そこから古道を新潟方面へ登りました。

微かに残った道跡。
道なき道を藪漕ぎで進み、滑落の危険と背中合わせの道を進みました。


最初は余裕タップリしでしたが・・・

ほとんどの道中は深い笹薮の中


何箇所もあった、沢越えではかなり危険な思いも・・・


かなり怖くてハードな道のりでしたが、4年前の第一回目の探検のあと、営林署のSさんがひとりで何度も山に入り、入念に下調べしておいてくれたので、なんとか古道を踏査できました。


新潟県境の尾根にたどり着き一安心


11月上旬なのに霧氷が


今回の踏査マップ

4年前と今回の調査を合わせて、この街道の全貌がかなり見えてきました。


営林署Sさんのまとめた資料

この道(木の根宿古道と(仮)で呼びます)は、四万温泉の日向見から四万川・木の根宿沢沿いを登り新潟県境の三坂峠を経て湯沢町の浅貝に至るルートだったようです。

色々な古文書や古地図にその存在が記載されているのですが、大正4年発行の地図を最後に地図からは消えてしまっています。


大正4年発行の地図

四万温泉在住の折田さんがまとめてくださった資料によると、すでに10世紀には木の根宿古道が使われていたようです。


折田さんによる年表

新田義貞が挙兵の折(14世紀)、新潟側の同志がこの道を通って参戦した。
木の根宿(きのねしゅく)という宿場があり遊女もいた(須川記)
新潟の上杉氏がここを往来した記録も残る

など、興味深い記載がたくさん残っています。

さらに、中之条町歴史民俗資料館(MUSEE)の「世のちり洗う四万温泉」図録にも、この古道の往来について簡単にまとめた記事があります。


中之条町歴史民俗資料館提供

坂上田村麻呂が通過したと言われる、国府 – 渋川 – 中之条 – 四万 – 木の根宿 – 浅貝への木の根宿通りの奥州故道・・
「元慶の乱」(878年)、出羽で起こった乱の鎮静のため上野国の兵の出動経路

などが書かれています。

実際に歩いてみたり地図を辿ってみたりすると、木の根宿古道は、登山が目的のいまの稲包山のルートとは異なり、なるべくアップダウンの少ない、牛馬も通りやすい位置にルートが設定されていたことがわかります。

今回木の根古道を歩いてみて、道のありがたさを身を以て体感しました。

普通の登山道 >> 木の根宿古道 >> ただの笹薮

本当に微かではありますが、残っている道跡を歩くのが、全く何もない笹薮の中を歩くのよりどれだけ楽だったことか、そして整備されている登山道の楽チンさといったら最高でした。

営林署のSさん以外は、木の根宿古道を制覇した人はいないので、次のチャンスには、日向見から新潟まで全て古道を歩いてたどり着いてみたいと思いました。

また、文献(吾妻郡誌)に、

木の根宿趾
澤田村大字四萬の山中にあり。此地往古越後との交通路ありし頃、人家點々略宿状をなせりといふ。

と記載のある、木の根宿の跡地遺跡もいつの日か発見してみたいと思います。

協力してくださる、大学の登山部や探検部の方いらっしゃいませんか?
お気軽にお声がけくださいね。

今回の調査の様子を上毛新聞が記事にしてくれました。

上毛新聞記事

(以下引用)
奥四万湖から三坂峠を越えて新潟県に続く「木の根宿古道」(約10キロ)を、中之条町の観光団体の関係者が5年がかりで踏査した。複数の文献に古道沿いにあると記されながら、場所が確認されずにいる謎の宿場町「木の根宿」の跡地は発見できなかった。今後も宿場跡の調査を続ける一方、山岳ルートとしての活用法を探る。

 調査したのは、奥四万湖近くの秋沢橋から稲包山の中腹を抜け、新潟県境の三坂峠を越えるルート。尾根や沢、滝を進む難コースで、クマザサなどが生い茂り登山者が立ち入れない状態になっている。四万温泉協会と同町観光協会が、登山ルートやトレイルランコースへの活用を視野に2013年に調査を始め、今年11月にようやく終了した。

 木の根宿古道はかつての主要道で、沼田藩主だった真田家の家臣、加沢平次左衛門が主家の興亡をまとめた戦記物「加沢記」に登場するなど複数の文献に記載がある。江戸時代の猿ケ京関所開設に伴い通行禁止となったが、新潟への抜け道として利用されたと伝えられる。

 古道沿いに木の根宿があったとされ、1934(昭和9)年に吾妻山岳会が跡地を発見したと「群馬県吾妻郡誌追録」に記されている。「木の根宿に花魁おいらん屋敷があった」との伝承も残る。ただ、写真はなく、その後の調査で跡地の場所は確認できていない。

 同町歴史と民俗の博物館「ミュゼ」の山口通喜館長は「木の根宿古道は軍事などを目的に古くは平安時代から使われ、利用する一般人も多かった。今回の調査で宿場町跡は確認できず残念だが、踏破する価値がある」と話す。

 調査に参加した同町観光協会の原沢香司さんは「近くにぐんま県境稜線トレイルが整備されるので、連携した活用法を検討したい」、四万温泉で旅館を経営する柏原益夫さんは「山岳トレイルが人気なので、四万温泉の魅力に一つにできたら」と話している。
https://www.kashiwaya.org/blog/?p=11505

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c556

[お知らせ・管理21] 2019年11月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
33. 2019年11月12日 13:01:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2087]
『正義マン』の告げ口


196. 管理人さん[2578] iseXnZBsgrOC8Q 2019年10月14日 11:30:44: ZFZHYmRTRUo3YS4=[197] 報告

taked4700さんは今後 新規投稿=スレ建ては月に1つまで、とします。
ただし、カルト板、番外地板、近代史板への新規投稿数制限はありません。
理由:投稿内容が管理人が考える自然災害板の内容とは異なっているため

関東付近での11月 地震多発 について
http://www.asyura2.com/17/jisin22/msg/779.html
投稿者 taked4700 日時 2019 年 11 月 05 日 09:05:36: 9XFNe/BiX575U dGFrZWQ0NzAw
 

首里城火災の原因、延長コードショートについての疑問
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/792.html
投稿者 taked4700 日時 2019 年 11 月 08 日 14:32:29: 9XFNe/BiX575U dGFrZWQ0NzAw

http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/573.html#c33

[リバイバル3] 中川隆 _ 経済、ビジネス関係投稿リンク 中川隆
135. 2019年11月12日 13:13:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2086]
世界の男女平等幻想 富裕層95%男性、女性は金持ちになれない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/712.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/813.html#c135
[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
1. 中川隆[-14989] koaQ7Jey 2019年11月12日 14:36:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2085]

20世紀の大作曲家はウェーベルンもブーレーズもマーラーもリヒャルト・シュトラウスも名指揮者だった

Berg Violin Concerto (1936) Krasner-Webern - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=yjVTClpoDk4


アルバン・ベルクの《ヴァイオリン協奏曲》"To The Memory of an Angel"

Louis Krasner, violin
Anton Webern, conductor
BBC Symphony Orchestra

Recorded live May 1, 1936
at a private concert.

アルバン・ベルクの《ヴァイオリン協奏曲》は1935年8月11日に完成された。
おそらくベルクの最も有名な作品であり、なおかつ最も演奏回数に恵まれた作品である。
「ある天使の思い出に」(Dem Andenken eines Engels)の献辞が付されているが、ときにこれが副題のように看做されることもある。


ヴァイオリニストのルイス・クラスナーによって依嘱された。ベルクは初めてこの依嘱を受けた時、オペラ《ルル》に取り組んでおり、しばらく協奏曲は手付かずのままであった。しかし、アルマ・マーラーがヴァルター・グロピウスともうけた娘マノン・グロピウスが、18歳という若さで急死する。ベルクはマノンを可愛がっていたため、この訃報を知ると、オペラをいったん脇にのけ、クラスナーから委嘱されていた協奏曲を「ある天使の想い出に」ささげるものとして作曲にとりかかった。

《ヴァイオリン協奏曲》の作曲は非常にはかどり、2〜3ヵ月で脱稿したが、虫刺されから敗血症を起こしたベルクは、この作品が自分自身へのレクイエムになるであろうこと、そしておそらく《ルル》を完成できないであろうことを察知した。

ベルクは1935年12月24日に急逝し、《ヴァイオリン協奏曲》はベルクが最後に完成させた作品となった。したがってベルクは、本作の演奏に接することができなかった。


初演

世界初演:1936年4月19日、国際現代音楽協会バルセロナ大会。ルイス・クラスナーの独奏。

アントン・ウェーベルンが指揮の予定であったが、亡き友のことを思い出してしまったウェーベルンは、練習すらまともにできず、逐電してヘルマン・シェルヘンに事後を託した。


英国初演:1936年5月1日、ロンドン。招待者のみの非公開演奏。

独奏者はやはりクラスナー。アントン・ヴェーベルン指揮、BBC交響楽団。

アセテート盤に録音され、クラスナーにより保管されていた。後にCDに復刻された音源の出典でもある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2_(%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c1

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
35. 中川隆[-14988] koaQ7Jey 2019年11月12日 15:50:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2084]

ベルクは 1902年には一家の別荘で雇っていたメイドの女性を妊娠させてしまい、ベルクは私生児アルビーネの責任を負う証書を書かされました。 学業の成績も低迷し、精神的に追い詰められたベルクは自殺未遂に至ります。


63名無しの笛の踊り2016/09/14(水) 09:55:54.29ID:LT1FiVnr

某有名なアバズレの娘(こいつもアバズレ)にちょっかい出して
アバズレにこてんぱんに怒られている可哀相なベルク

43名無しの笛の踊り2016/09/10(土) 08:53:20.69ID:u7btCDEE

ベルクってお手伝いさんに娘を産ませているけれど、
妻との間には子供いなかったよね?

287名無しの笛の踊り2017/12/28(木) 18:38:14.67ID:ZvS0TyM6

メイドさんとの間に生まれた娘のアルビーネは里子に出して結局会えずじまいだったんだっけ
かわいそう
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1473159439/

▲△▽▼


「火夫―ある断章」 DER HEIZER (1913年 5月)
フランツ・カフカ Franz Kafka
原田義人訳
https://www.aozora.gr.jp/cards/001235/files/49859_41919.html


 十六歳のカルル・ロスマンは、ある女中に誘惑され、その女とのあいだに子供ができたというので、貧しい両親によってアメリカへやられたのだが、彼がすでに速度を下げた船でニューヨーク港へ入っていったとき、ずっと前から見えていた自由の女神の像が、まるで突然強まった陽の光のなかにあるように見えた。剣をもった女神の腕がまるでつい今振り上げたばかりのようにそびえ、その姿のまわりにはただようような風が吹いていた。

「あんなに高いぞ!」と、彼は自分に言い、まるで船を去ることを考えないような様子で、彼のそばを通り過ぎていく荷物運搬人たちがいよいよ数を増していくのに押されて、だんだんと舷側の手すりまでいってしまった。

 航海中に一時的に知合いになった一人の若い男が、通りすがりにいった。

「ほう、まだ降りる気がないのかい?」

「もう準備はすんでいますよ」と、その男に笑いかけながらカルルはいって、自分がたくましい青年なものだから、自慢げにトランクを肩に担いでみせた。しかし、ステッキを少し振りながらもうほかの人びとと去っていくその男のほうを見ていたとき、自分の雨傘を下の船室に忘れてきたことに気づいて驚いた。彼はあまりありがたそうには見えない一人の知人に、ちょっとトランクの番をして下さい、と頼んで、帰りに道をまちがえないようにあたりの様子を見廻してから、急いで立ち去った。下へ降りていって、近道になるはずだった一つの通路がはじめて遮断しゃだんされているのを発見して、困ったことになったぞ、と思った。この遮断はおそらく船客全員を下船させることと関係があるらしかった。そこで、あとからあとから曲りくねった廊下を通り、書きもの机が一つだけぽつりと置いてある人のいない部屋を一つ通って、つぎつぎにつづく階段を骨折って探していたが、この道はただ一、二度だけ、それもいつも大ぜいの仲間と歩いただけだったので、ほんとうにすっかり道に迷ってしまった。途方にくれてしまい、だれにも会わないし、ただたえず頭の上に千人にも及ぶたくさんの人びとの足音が聞こえ、遠くのほうからすでに停止した機関の最後の音がまるで息のように聞こえてくるだけなので、よく考えてもみないで、うろつき廻ったあげくにいきどまりになった任意の小さなドアをノックし始めた。

「開いているよ」と、なかから叫ぶ声がした。そこでカルルはほんとうにほっと息をつきながらドアを開けた。

「なぜそんなに気がちがったみたいにドアを打つんだね」と、一人の大男が、カルルのほうをほとんど見ないでたずねた。どこかの天窓からは、船の上のほうでとっくに使い古されたような陰気な光がこのみすぼらしい船室へ射しこんでいた。この船室にはベッドと棚と椅子とその大男とが、まるで貯蔵品のようにぴったり並んで立っていた。

「道に迷ってしまったんです」と、カルルはいった。「航海中は全然気がつかなかったけれど、恐ろしく大きい船ですね」

「そうさ。あんたのいうとおりだ」と、男はいくらか誇らしげにいいながらも、小さなトランクの錠前を扱うことをやめなかった。両手でくり返しその錠前を押えては、錠のぱちりと下りる音をじっと聞いているのだ。

「まあ、入んなさい!」と、男はさらにいった。「まさか外に立っているわけにもいくまいからね」

「おじゃまじゃないですか」と、カルルはたずねた。

「ああ、どうしてじゃまになんかなるものかね」

「あんたはドイツ人ですか」と、カルルはたしかめようとした。ことにアイルランド人によってアメリカへ着きたての者たちがこうむるおそれのある危険について、いろいろ聞かされていたからだった。

「そうだよ、そうだよ」と、男はいった。

 カルルはまだためらっていた。すると男は不意にドアの取手をつかみ、ドアを素早く閉めるとともにカルルを引きこんでしまった。

「通路からのぞかれるのが、我慢できなくてね」と、男はまたトランクの仕事にかかりながら、いった。「だれでもあそこを通っては、のぞきこんでいきやがる。それに我慢できる者なんてほとんどいないだろうさ」

「でも通路には全然人がいませんよ」と、カルルはいった。ベッドの柱に押しつけられて窮屈そうに立っている。

「うん、今のところはね」と、男がいった。

「だが、その今が問題じゃないか。この男とは話がむずかしいぞ」と、カルルはひそかに思った。

「まあ、ベッドの上に横になんなさい。そこは場所があるからね」と、男はいった。

 カルルはできるだけうまくはって入り、はじめに飛びこんでやろうとして失敗した試みを大きな声で笑った。だが、ベッドに入るやいなや、叫んだ。

「しまった、ぼくはトランクのことをすっかり忘れていた!」

「どこに置いたのかね」

「上のデッキですよ。知っている人が番をしてくれています。ところでなんという名前の人だったかな?」そして、母親が旅行のために上着の裏につけてくれた隠しポケットから一枚の名刺を取り出した。「ブッターバウムだ。フランツ・ブッターバウムだ!」

「そのトランクはとても大切なもんですかい?」

「むろんですよ」

「それならなぜ知らない人にあずけたりなんかするのかね」

「下へ雨傘を忘れたんで取りにきたんですが、トランクをひきずって下りたくはなかったものだから。おまけに道に迷ってしまったんです」

「ひとりかね? つれはいなさらないのかね?」

「ええ、ひとりなんです」

「おそらくこの男を信用したほうがいいのだろう」と、こんな考えがカルルの頭をかすめた。「すぐにこれよりもいい友だちが見つかるものでもないし」

「で、トランクも失くしてしまったわけだね。雨傘のほうはわかんないがね」そして、男はまるでカルルのことが今ではただ一つの自分の関心事となったといわんばかりに、椅子に腰を下ろした。

「でも、トランクはまだ失くなったわけじゃないと思いますよ」

「そう思ううちがしあわせでさあ」と、男はいって、短くて濃い黒い髪の毛をごりごりかいた。「船では、港々でしきたりがちがうんでさあ。ハンブルクではあんたのブッターバウムはきっとトランクの番をしていただろうが、ここではきっとトランクも傘も両方ともあとかたもないだろうよ」

「それじゃあ、すぐ上へいかなくちゃならない」と、カルルはいって、どうやって出ていけるのか、とあたりを見廻した。

「まあ、ここにいなさるんだな」と、男はいって、片手で手荒なくらいに胸を突いてベッドへ押しもどした。

「どうしてです?」と、カルルは腹立たしげにたずねた。

「意味がないからさ」と、男はいった。「ちょっとしたら、わしも行くよ。そのときいっしょにいこう。トランクが盗まれていたら、どうしようもないし、その人が置きっ放しにしておいたなら、船がすっかり空っぽになれば、それだけ見つけやすいわけだ。傘だってそうさ」

「船の上のことはよく知っているんですか?」と、カルルは不信をこめてたずねた。船が空になったら自分の品物がいちばん見つけやすいだろう、というふだんならば納得のいく考えが、隠れた難点をもっているように思われた。

「だって、わしは火夫でさあ」と、男はいった。

「あんた、火夫さんですか!」と、まるでそのことがあらゆる期待を超こえていたようにうれしそうに叫んで、肘ひじをついてその男をもっと近くながめた。

「ぼくがスロワキア人といっしょにいた船室のすぐ前にのぞき窓がついていて、そこから機関室が見えましたよ」

「そうだ。わしはそこで働いていたんだ」と、火夫はいった。

「ぼくは前から機械のことに興味があったんです」と、カルルは一定の考えの筋道をたどりながらいった。「で、もしアメリカにこなければならなかったなら、きっと将来は技師になったことでしょう」

「いったい、なぜこなければならなくなったんだい?」

「いや、どうも!」と、カルルはいって、その話は手を振って拒んだ。そうしながら、告白しないことも大目に見てもらいたいというように、微笑して火夫の顔をじっと見た。

「何かわけがあるんだね」と、火夫はいったが、その言葉でその理由を話すようにと要求しているのか、それともそれを拒もうとしているのか、はっきりはわからなかった。

「今では火夫にだってなってもいいんです」と、カルルはいった。「両親にとっては、ぼくが何になったってどうでもいいんですから」

「わしの職があくよ」と、火夫はいって、それを十分に意識しながら両手をズボンのポケットに突っこみ、しわくちゃな、革のような、鉄色のズボンに包まれている脚をベッドの上に投げ出して、ながながとのばした。そこでカルルはもっと壁のほうによらなければならなかった。

「船をやめるんですか」

「そうだよ。わしらはきょう出発するんだ」

「いったい、なぜなんです? 気に入らないんですか?」

「そうだな、いろいろ事情があってね。気に入るとか入らんとかいうことでは、いつでもきまるもんじゃないさ。ともかく、あんたのいうことはもっともで、わしには気に入らなくもあるさ。あんたはきっと、火夫になることをまじめには考えてはいないんだ。そんなことならいくらでも手軽になれるだろうよ。だから、わしはきっぱりとやめろというね。ヨーロッパで学問するつもりだったのなら、なぜここでも学問しようと思わないんだね? アメリカの大学はヨーロッパのより比べものにならぬくらいいいんだぜ」

「そうかもしれません」と、カルルはいった。「でも、学問するための金がほとんどないんですよ。昼間はどこかの店で働き、夜は勉強して、ついにドクトルになり、たしか市長かなんかになった、っていうような話をだれかの本で読んだことがあるけれど、それには大変な忍耐が必要でしょうね? ぼくにはその忍耐が欠けているんじゃないか、と思うんですよ。その上、ぼくはそれほどいい生徒じゃありませんでした。学校をやめることも、ぼくには実際それほどつらくはなかったんです。それからここの学校はきっともっときびしいでしょうからね。英語はほとんどできないんです。およそここの人たちは外国人にひどく偏見をもっていると思いますね」

「あんたもそれをもう経験したんですかい? そうか、そりゃあいい。それならあんたはわしの相棒だ。いいかね、わしらはドイツ船に乗っているわけだ。ハンブルク=アメリカ航海の船だ。それなのになぜわしらはこの船でドイツ人ばかりじゃないのかね? なぜ機関長はルーマニア人なのかね。機関長はシューバルっていうんだ。こいつが信じられんことだ。このならず者がドイツ船でわしらドイツ人をしぼり上げているんだ。いったいあんたは――」ここで息切れがして、手をゆらゆらと振った。「わしが、文句のための文句をいっていると思うかね。あんたにはなんの力もないし、自分自身がすかんぴんの若者だということはわかっているさ。だが、これじゃあ、あんまりというもんだ!」そして、テーブルの上を拳こぶしで何度かたたき、たたきながらも眼を拳から離さないでいる。「わしはとてもたくさんの船で働いた」――そして彼は二十ばかりの名前を立てつづけにまるで一語のように並べた。カルルは頭がすっかり混乱してしまった。「それでずばぬけた働きぶりを見せて、ほめられた。船長たちの趣味に合った働き手だったんだ。一つの貿易帆船に二、三年もいたこともある」――それが彼の生涯の絶頂であるかのように、立ち上がった。「それがこのボロ船じゃあ、万事が規則ずくめでできているし、洒落気しゃれけひとつあるじゃない。この船じゃあ、わしはなんの役にも立たない。いつもあのシューバルのじゃまばかりして、なまけ者で通っている。海へおっぽり投げられたってしかたがない。給料はお情けでもらっている。こういうんだよ。わかるかね。わしにはわからんね」

「そんなことをいわれて黙っている手はありませんよ」と、カルルは興奮していった。彼は自分が船の不確かな床の上にいて、未知の大陸の岸にいるのだ、という感情をほとんど失くしてしまっていた。こうやって火夫のベッドの上にいて、そんなにも気がおけない思いがするのだった。「で、船長のところへいきましたか? 船長のところであんたの権利を主張したんですか」

「まあ、出ていってくれ。ここから出ていってもらいたいな。ここにいてもらいたくないね。わしのいうことも聞いていないで、わしに忠告しようっていうんだから。どうしてわしが船長のところへいかなきゃならないっていうんだい?」そういうと、疲れたようにまた腰を下ろし、両手のなかに顔を隠した。

「この男にはこれよりいい忠告はしてやれないのだ」と、カルルは自分に言い聞かせた。そして、ばかばかしいと思われるような忠告をこんなところでやっていないで、むしろトランクを取りにいくべきだった、と思った。父親があのトランクを永久に譲ってくれたとき、「どのくらい長くこれを失なくさないでいるかな?」と、冗談にたずねたのだった。そして、この貴重なトランクはおそらくもうほんとうに失くなってしまったのだ。それでもただ一つよかったと思うことは、父親がいくら調べようと思ったところで、彼の現在の状態を知るわけにはいかないということだった。ただ、彼がこの船でニューヨークまできたということだけしか、船会社は父親に教えることができない。だが、トランクのなかの品物をほとんど使わなかったことが、カルルには残念だった。たとえばシャツを着換えることがずっと前に必要だっただろうに。つまり、当をえないところで余計な節約をしていたわけだ。今、これからの人生の門出にあたっては清潔な身なりで登場すべきところを、汚れたシャツを着た姿を見せなければならないのだ。そのほかの点では、トランクを失くしたことはそれほどまずいことではなかったろう。というのは、彼が身につけている服は、トランクのなかにあるのよりもいいのだ。トランクのなかのは、ほんとうはただ間に合せの服で、母親が出発のすぐ前につくろわなければならなかったものだ。今、思い出したのだが、トランクのなかにはヴェロナのサラミ・ソーセージが一本入っていた。これは、母親が特別の贈物としてトランクに入れてくれたものだが、ほんの少ししか食べられなかった。航海のあいだ、まったく食欲がなくて、三等船室で配給されるスープで彼には十分すぎるくらいだった。だが、あのソーセージはもっていたかった。そうすれば、あれをこの火夫にやることができたろう。というのは、こういう連中は何かちょっとしたものをつかませると、すぐ味方につけることができるのだ。そのことは父親から教えられていた。父親は葉巻をわけてやることによって、商売の上で自分とかかり合いのある下っぱの社員たちを手に入れていた。今、カルルが贈物にできるものとしてもっているのは、金だけだった。だが、たといトランクはおそらく失くしてしまうということになっても、金にだけはさしあたり手をつけたくなかった。ふたたび彼のもの思いはトランクにもどっていった。そして、もし今このトランクをあんなに容易にもち逃げされるくらいなら、なぜその同じトランクを航海のあいだあんなに注意深く気をつけていて、それを見張るためにほとんど夜も眠れないくらいだったのか、さっぱりわからなかった。彼は航海中の五晩の夜を思い出した。そのあいだじゅう、彼の左側の二人目に寝床をもっていた小柄なスロワキア人が自分のトランクを狙ねらっていると、たえず疑いをかけていたのだった。このスロワキア人はただ、カルルがついに弱ってしまってちょっとのあいだこっくりこっくり眠るのを待ち受けているのだった。昼間いつももてあそんだり練習したりしていた長いなわを使って、トランクを自分のところへたぐりよせようというわけだ。昼間はこのスロワキア人はひどく罪がないように見えるのだが、夜になるやいなや、ときどき寝床から起き上がって、悲しげな顔つきでトランクのほうを見るのだった。カルルはこうしたこといっさいをはっきりと見わけることができた。というのは、船内規則では禁止されているにもかかわらず、いつでもあちこちで渡航者としての不安から小さな蝋燭ろうそくをつけていて、移民案内社のわかりにくい案内をなんとか呑みこもうとしているのだった。こういう蝋燭が近くにあればカルルは少しはうとうとすることができたが、その火が遠くにあるとか、まっ暗だとかいうときには、眼を開けていなければならなかった。この努力が彼をほんとうに疲れさせてしまった。そして、今となってみると、こんな努力もおそらくまったく無用だったのだ。このトランクをもち逃げしたブッターバウムのやつ、いつかどこかで出会うようなことがあったら、ただではおかないぞ!

 ちょうどそのとき、その部屋の外の遠くのほうで、これまでの完全な静かさを破るように子供の足音のような小さくて短な音が鳴り響いた。その音は響きを強めながら近づいてきた。それは男の人たちの静かな行進だった。通路が狭いのだから当然な話だが、その人たちは一列になって歩いているらしかった。武器の鳴るようなかたかたいう音がした。ベッドのなかで、トランクとスロワキア人とについての心配から解放されて、すんでのことに眠りこもうとしていたカルルはびっくりして起き上がり、火夫をつついて彼の注意を向けようとした。というのは、行列の先頭がちょうどドアのところにまで達したらしかった。

「あれは船のバンドだよ」と、火夫はいった。「上のデッキで演奏を終えて、荷づくりにいくんだ。これで全部すんだと。これでもう出かけられる。さあ、こないか!」

 火夫はカルルの手をつかみ、最後の瞬間にベッドの上の壁から額ぶちに入ったままの聖母像を取り、それを胸のポケットに突っこんで、自分のトランクを手に取ると、カルルとともに急いで船室を出た。

「これからわしは事務室へいき、係の人たちにわしの考えをいおう。もうお客さんはいないから、遠慮していることはないんだ」

 このことを火夫はいろいろな言いかたでくり返し、歩きながら足で横に払って通路を横切っていくねずみを踏みつけようとした。ねずみはもう十分間まに合うところまで達していたのだが、ただもっと素早くその孔あなに飛びこんでいった。火夫はおよそ動作ののろい男だった。というのは、長い脚をもってはいるものの、その脚があんまり重すぎるのだ。

 二人は料理場の一画を通っていった。そこでは二、三人の汚ないエプロン姿の――彼女たちはわざと汁をかけたのだ――女の子たちが、大きなバケツのなかで食器を洗っていた。火夫はリーネとかいう女の子を呼んで、腕を女の腰へ廻し、色っぽくたえず男の腕に身体を押しつけてくるその女をつれて少しばかり歩いた。

「今、給料が出るぜ。いっしょに、こないかい?」と、火夫はいった。

「なぜあたしがいく必要があるのさ? それよりお金をこっちへもっておいでよ」と、女は答え、男の腕をするりと抜けて、逃げ去った。

「そのハンサムな子、どこから見つけてきたのさ?」と、女はきいたが、もう返事なんかしてもらおうと思っているのではなかった。仕事を中断していた女の子たちみんなの笑い声が聞こえてきた。

 二人は先へ進んで、一つのドアのところへきた。そのドアの上には小さな前びさしがついていて、そのひさしは小さい金ぬりの女神像の柱に支えられている。船の設備にしてはほんとうにぜいたくに見えた。カルルは、気づいたのだが、このあたりへ一度もきたことがなかった。おそらく航海中は一、二等の船客たちの専用の場所だったのだろう。ところが船の大掃除を前にした今では隔ての壁がみんな取り外されたのだ。事実、ここへくるまでに二、三人の男たちに出会ったが、みんな箒ほうきを肩に担いでいて、火夫に挨拶したのだった。カルルは船の設備がりっぱなのに驚いた。三等船室ではむろんそんなことはほとんどわからなかったのだ。通路に沿って電線が張られてあり、小さなベルの音がたえず聞こえた。

 火夫はうやうやしくドアをノックして、「入りたまえ」という声がしたとき、かまわずに入れと手でうながした。カルルも入ったが、ドアのそばに立ちどまっていた。部屋の三つの窓の前には海の波が見えた。その楽しそうな動きを見ていると、カルルの胸は高鳴った。まるで五日のあいだ海をたえず見ていたのではなかったようだった。大きな船がたがいに進路を交叉し、その重みが許すだけ打ちつける波に身をまかせていた。目を細くすると、これらの船がただその重みだけでゆれているように見える。マストには細いけれど長い旗が掲げられてあり、それらの旗は航海によってちぢんでしまっていたが、それでもときどきゆれ動いていた。おそらく軍艦からだろうが祝砲が聞こえてきた。あまり遠くないところを通り過ぎていくこうした軍艦の一隻の砲身が、その鋼鉄の被いの反射光で輝き、安全でなめらかだが水平とはいかない航行に愛撫されるように軽くゆらいでいた。小さな船やボートは、少なくともドアのところからは、遠くにしか見られなかったが、大きな船のあいだのぽっかりあいた水面に乗り入れていた。だが、そうしたすべての背後にニューヨークの町が立っており、その摩天楼の何十万という窓でカルルを見ていた。実際、この部屋にいると、自分がどこにいるのか、わかるというものだ。

 円テーブルに三人の人が坐っていた。一人は青い船員の制服を着た高級船員であり、ほかの二人は港務局の役人で、黒いアメリカの制服を着ていた。テーブルの上には、高く積み重ねられたさまざまな書類がのっていて、それらを高級船員がまず手にしたペンでざっとたどり、それから二人の役人に手渡すのだ。役人のほうは、あるいは読んだり、あるいは抜き書きしたり、あるいは書類鞄に入れる。そうでないときには、ほとんどたえず歯で小さい音を立てているほうの役人が、同僚に口授して何か調書に書き取らせている。

 窓ぎわの書きもの机には、背中をドアのほうに向けて、小柄な男が一人坐っている。この男は自分の前のどっしりした本棚のなかに頭の高さに並べられてある大きな二つ折り版の書類を扱っていた。その男のそばには、蓋を開けた、少なくともはじめ見ただけでは空からのように見える小型金庫が置かれていた。

 二番目の窓の前には何も置いてなく、いちばんながめがよかった。ところが、第三の窓の近くには二人の紳士が立って低い声で話していた。一人のほうは窓のそばによりかかっている。この人もやはり船員の制服を着ていて、短剣のつかをいじっていた。この人が話している相手の人は、窓のほうを向いて、ときどき身体を動かすと、相手の胸を飾っている勲章の列の一部分が見えるのだった。この人は私服を着て、細身の竹のステッキをもっていて、そのステッキは両手で腰のところにしっかり当てているため、やはり短剣のように突き出ていた。

 カルルは、こうしたすべてを見るだけのひまがなかった。というのは、すぐ給仕が彼ら二人のほうに近づいてきて、お前なんかここにくる人間じゃないんだというような目つきをして、いったいなんの用か、と火夫にたずねた。火夫は、たずねられたのと同じように低い声で、会計主任さんとお話ししたいのだ、と答えた。給仕は、自分としてはそんな願いはききかねるというふうに手を振って拒んだが、それでも爪先で歩いて、円テーブルを大廻りして避けて二つ折り版をもっている人のところへいった。この人は――はっきりと見えたのだが――給仕の言葉を聞いて身体を硬直させたが、ついに自分と話したいといっている男のほうを振り向いて、きびしく拒絶の意味をこめて、火夫に向かい、そしてまた念を押すため給仕に向っても、手を振って見せた。すると給仕は火夫のところへもどってきて、何かを打ち明けるような調子でいった。

「すぐ部屋から出ていきなさい!」

 この返事を聞いたあとで、火夫はカルルを見下ろした。まるで、この男こそ無言で自分の悩みを訴えるべき相手だといわんばかりの様子だった。カルルは前後の見さかいもなく出しゃばっていき、部屋を横切って足早に歩いていった。そのため高級船員の椅子をかすかにかすめるほどであった。給仕は彼をつかまえようとして両腕を拡げ、毒虫を追うように身体をかがめて走ったが、カルルのほうが先に会計主任の机に達した。そこでは主任は、給仕がこの男をつれ去るだろうと考えて、しっかりした態度を保っていた。

 むろんすぐに部屋全体が活気を帯びた。テーブルに坐っている高級船員は飛び上がった。港務局の二人の役人は、静かに、しかし注意深くながめている。給仕は、すでに偉い人たちが関心を示すようになったところでは自分の出る幕ではない、と思って、引き下がってしまった。ドアのそばの火夫は、自分の助けが必要となる瞬間を緊張して待ち構えている。会計主任はとうとう安楽椅子に坐ったまま大きく右旋回した。

 カルルは、これらの人びとの視線にさらされることをちっともためらわずに、例の隠しポケットをごそごそ探して、旅券を取り出した。そして、これ以上自己紹介するかわりに、その旅券を開いたまま机の上に置いた。会計主任はこんな旅券はどうでもいいと考えているらしかった。というのは、二本の指でそれをわきへどけたのだ。するとカルルは、まるでこの手続きが満足すべき結果で終ったとでもいうように、旅券をまたポケットにしまいこんだ。

「失礼ですが申し上げます」と、カルルは語り始めた。「ぼくの考えによるとあの火夫さんに不当な扱いが加えられたんです。この船であの人の上にいるのはシューバルとかいう人です。あの人自身は、すでにたくさんの船で(あの人はあなたにそれらの船の名前をみんな申し上げることができますが)完全に満足すべき勤めをしました。勤勉で、仕事のことを大切に考えています。たとえば貿易帆船ほどに勤めが法外にむずかしいわけでないこの船で、なぜあの人がどうもしっくりいかないのか、ほんとうにわかりません。だから、あの人の昇進を妨げ、あの人の真価がみとめられることをだめにしているのは、ただいわれのない悪口にすぎないのかもしれません。そうでなかったら、この人はかならずや真価をみとめられないでいるはずがないのです。ぼくはこの件についてただ一般的なことだけを申しました。あの人の特別な苦情についてはあの人からあなたに自分で申し上げることでしょう」

 カルルはこの演説でここにいるすべての人に呼びかけたのだった。事実、みんなも聞いていたし、会計主任が正しい人間だというのよりも、みんなのなかにだれか正しい人間が一人いるということのほうがいっそうありそうに思えるのだった。さらに、彼がこの火夫に出会ったのはほんのついさっきのことだ、ということは抜け目なくいわないでおいた。ともかく、もし彼が今いる場所からはじめて見た例の竹のステッキをもった紳士の赤ら顔に当惑させられなかったならば、もっとうまく話すことができただろう。

「その話は一語一語みんなほんとうです」と、まだだれもたずねないし、まだだれもおよそ彼のほうを見もしないのに、火夫はいった。火夫のこの早まりすぎた行動は、もし例の勲章をつけた紳士が(そのときカルルにわかったのだが、ともかくこの人が船長だった)火夫のいうことを聞こうという気にすでになったらしいのでなかったならば、大きな失策だったことだろう。つまり、その人は手をのばして、火夫に向って叫んだのだった。

「こっちにきたまえ!」

 その声は、一撃で話をつけようとして断固とした響きをもっていた。今はいっさいが火夫の態度にかかっていた。というのは、彼の件の正しさに関しては、カルルは少しも疑ってはいなかった。

 ありがたいことに、火夫がすでに世間をいろいろ渡ってきたことが、この機会に示された。非の打ちどころなく落ちついて、小さなトランクから最後の一つかみで一束の書類と一冊のメモ帳とを取り出し、それをもって当然のことのように会計主任をまったく無視して船長のところへ歩みより、窓わくの上に証明書類を拡げた。会計主任には、自分からそこへ出かけていくよりほかに方法がなかった。

「この男は有名な不平屋でして」と、会計主任は説明のためにいった。「機関室によりも会計にいることのほうが多いんです。この男はあのおとなしい人間のシューバルさえもすっかり絶望させてしまったのです。どうかお聞き下さい!」それから火夫のほうに向きなおっていった。

「君の厚かましさもほんとうに度を越しているよ。君はこれまでに何度、支払い部屋からほうり出されたんだ。君のようにまったく、完全に、例外なく不当な要求をやるなら、そんな扱いを受けるのがあたりまえさ。君は何度、そこから会計課へかけこんだのかね。シューバルが君の直接の上役なのだから、君は下役としてあの人とだけで話をつけるように、って何度おだやかに言い聞かされたのかね。それなのに今度は、船長さんがいられるとこんなところにまでやってきて、船長さんをわずらわすことを恥じないで、君のくだらない訴えの代弁者としてこんな子供みたいな人までつれてくることをちっともはばからないんだからね。こんな子供さんなんか、私はおよそこの船ではじめて見るんだがね!」

 カルルは、無理に自分を抑えて、飛び出すことはひかえていた。だが、すでに船長もそこへきていて、こういった。

「まあ、この男のいうことも一度聞いてやろうじゃないか。あのシューバルはどのみち、ゆくゆくは私に対してはあまりに自分勝手なことをやるようになるだろう。といっても、君の有利になるようにこんなことをいったつもりじゃないのだが」

 終りの言葉は火夫に向っていったのだ。彼がすぐ火夫のために尽力するわけにいかないのは当然すぎることだったが、いっさいは順調に進んでいるように見えた。火夫は説明を始め、最初からシューバルを「さん」づけで呼んで自分を抑えていた。会計主任のいなくなった机のところで、カルルはどんなによろこんでいたことだろう。彼はただなぐさみのために手紙秤ばかりを何度も手で押えつけていた。――シューバルさんは不公平です! シューバルさんは外国人にえこひいきします! シューバルさんは火夫たちを機関室から出して便所掃除をさせました。これはけっして火夫のやるべき仕事じゃありません!――一度などは、シューバル氏の腕前さえもあやしいものだというようなことがいわれた。それはほんとうにもっているよりも、むしろ見かけだけのものだ、というのだ。ここのところで、カルルは力をこめて船長を見つめた。まるで自分が船長の同僚であるかのように親しげな調子であった。これもただ、火夫のいくらかまずい表現法によって船長が火夫にとって不利なような影響をこうむることを避けようとしたのだった。ともかく、いろいろの話からもほんとうのところは聞き取ることができなかった。そして、船長はまだ、今度は火夫の言い分を最後まで聞いてやろうという決意を眼に浮かべて、前を見ていたけれども、ほかの人びとはじりじりしてきた。そして、火夫の声はまもなく無制限に部屋を支配しなくなった。そのことはいろいろなことを心配させた。まず最初に、私服の紳士は竹のステッキを動かし始め、低くではあるが、はめこみの床をたたいている。ほかの人びとはむろんときどきそちらを見やった。港務局の役人たちは、急いでいるらしく、また書類を手に取って、まだいくらか気が散っているようではあるが書類を調べ始めた。高級船員は自分の机をまた身近かによせた。勝ち目があると信じている会計主任は、皮肉まじりに深い溜息をもらしてみせた。ただ給仕だけはみんなが襲われているむら気に取りつかれずにいるように見えた。そして、偉い人たちのあいだに置かれた哀れな男の苦しみに一部分同感して、カルルに向って真顔でうなずいて見せる。まるでそんな表情によって何かを説明しようとしているかのようだ。

 そうしているうちに、窓の前では港の風景がつぎつぎとくりひろげられた。一隻の平たい貨物船が、ころがり出さないように妙なふうに積み重ねられた樽たるの山をのせて、この船のそばを通り過ぎていった。そのためにこの部屋はほとんどまっ暗になってしまった。小さなモーターボートが、もしカルルにひまがあったらよく見ることができただろうが、舵のところにまっすぐに立った男の両手の動きに従いながら一直線に疾走していく。奇妙な形をした浮遊物がときどきじっとしてはいない水面からひとりでに浮かび上がっては、すぐまた波をかぶって、驚いている視線の前で沈んでしまう。遠洋航海の汽船のボートは、懸命に漕こいでいる水夫たちによって進められていくが、船客でいっぱいだ。船客たちはボートのなかで、押しこめられたままになって、静かに、期待にみちて坐っているが、何人かは移り変っていく光景を見ようとして頭を廻さないではいられない。終わることのない動き、落ちつくことのない水によって途方にくれている人びとと彼らの仕事との上に移された落ちつきのない動揺だ!

 だが、いっさいは急ぐように、はっきりするように、くわしく述べるように、と警告しているのだ。ところが、火夫は何をやったのだろうか。なるほど汗を流して話してはいる。窓の上の書類はふるえる両手ではもうずっと前から支えていることができなくなっていた。四方八方からシューバルに関する不平が彼に流れてきている。そのどれもが彼の考えによれば、このシューバルを完全に葬り去るのに十分だ、というのだ。ところが、彼が船長に示すことができたのは、すべてのことをごちゃまぜにした悲しむべき混乱だけだった。竹のステッキをもった紳士は、さっきから天井に向ってそっとパイプをふかしている。港務局の二人の役人はすでに高級船員を自分たちの机につかまえ、相手をまた離しそうには見えない。会計主任は明らかにただ船長が落ちつき払っているために口をはさむことをひかえているのだ。給仕は気をつけの姿勢でいつでも火夫に関する船長の命令に従おうと待ち構えている。

 そこでカルルはもう何もしないままでいることができなかった。そこでゆっくりと船長たちのほうに歩いていき、歩きながらそれだけ素早く、どうやったらいちばんうまくこの一件に口を出していくことができるだろうか、と考えてみた。もうほんとうに潮時しおどきだった。もうほんの少したったら、彼らは二人でうまく事務室から飛び出すことができるのだ。船長はいい人らしいし、それにちょうど今、カルルにはそう思われたのだが、自分が公正な上役であることを示そうとする何か特別の理由があるのだ。だが結局のところ、船長は徹底的に弾ひくことができる楽器ではないのだ。――そして火夫は、なるほど限りなく憤っている内心からではあるが、まさにそういうものとして船長を扱っているのだ。

 そこでカルルは火夫に向っていった。

「もっと簡単に話さなくちゃ。もっとはっきりわかるように。船長さんは、あんたがお話ししているようでは、もっともと思っては下さらないですよ。船長さんが機関士たちや伝令係たちの名前とか洗礼名とかまでご存じで、あなたがそんな名前を言いさえすれば、すぐにだれのことかおわかりになるものですかね。あんたの苦情を整理して、まずいちばん大切なのを申し上げ、ほかのは一段下のものとして申し上げるんですね。そうすればおそらく、たいていのことはただいうことももう必要じゃなくなるでしょう。あんたはぼくにはいつだってあんなにはっきりと話して聞かせたのに!」もしアメリカでトランクを盗むやつがいるなら、ときどきはうそをついてもいいわけだ、と彼は自分のうその弁解のために考えた。

 これが役に立ったならばいいのに! もう遅すぎたんじゃなかったか。火夫は知っているカルルの声を聞くと、なるほどすぐに話を中断はしたが、男としての名誉を傷つけられたこと、恐ろしいさまざまな思い出、現在の極端に苦しい立場、こういったことのために涙を流し、その涙にすっかり曇ってしまった彼の眼ではすでにカルルをうまく見わけることができなくなっていた。今になってからどうして――カルルは今黙っているこの男を前にして、無言のうちにこのことを見抜いていた――、今になってからどうして突然、彼の話しかたを変えることができよう。火夫にとっては、いうべきことはみんないってしまったのに、少しもそれをみとめてはもらえないように思えるし、また一面では、まだ何もいっていないのだが、さらにすべてのことを聞いてくれと今は求めることができないように思えてもいるのだ。そして、こうしたときに、さらに自分のただ一人の味方であるカルルが口を出してきて、自分は教訓を与えようとする。ところが、教訓のかわりに、いっさいが、いっさいがもうだめなのだ、と教えているのだ。

「窓からなんかながめていないで、もっと早くここへくればよかった」と、カルルは自分にいって、あらゆる希望の綱は切れたということを示す合図に、火夫の前で顔を伏せ、両手でズボンのぬい目のところをたたいた。

 ところが火夫はそれを誤解して、きっとカルルの態度に何か自分に対するひそかな非難を嗅かぎ出したのだろう。そして、その非難をカルルに思いとどまらせようという善意の意図から、自分の行為の仕上げといわんばかりに今度はカルルと口論をし始めた。円テーブルの人たちは、自分たちの重要な仕事のじゃまをしているこんな無益なさわぎにさっきから腹を立てていたし、会計主任はだんだんと船長の忍耐が理解できなくなって、今にも爆発しそうになっていた。給仕はふたたび紳士がたの仲間に入って、火夫をけわしい目つきでじろじろ見ていた。最後に竹のステッキをもった例の紳士は、船長もときどきは親しげな視線を送っていたのだが、もう火夫に対してすっかり冷淡になってしまっていた。それどころか嫌気がさしてしまい、小さなメモ帳を取り出して、どうもまったく別な用件をあれこれ考えているらしく、メモ帳とカルルとのあいだに眼をあちこちと移していた。

「わかっていますよ、わかっていますとも」と、カルルはいった。彼は今では自分に向けられた火夫の長広舌を避けようと骨を折っていた。それでもあらゆる争いの合い間にまだ火夫に対する友情の微笑を忘れてはいなかった。

「あんたのいうことはもっともだ。正しい。ぼくはそれを疑ったことは一度もありませんとも」彼はなぐられることを恐れるあまり、火夫の振り廻している両手をとめたかった。とはいえ、もっとしたいことといえば、火夫を片隅へ追いこんで、ほかのだれにも聞かれないように、一こと二こと、低い声でなだめる言葉をささやいてやる、ということであった。ところが、火夫はまったく羽目をはずしていた。カルルは今ではもう、火夫はせっぱつまれば絶望的な力を振りしぼってここにいる七人の男たちを征服するかもしれない、などということを考えて、その考えから一種のなぐさめをくみ出し始めてさえいるのだった。とはいっても、書きもの机の上には、そこをちょっと見ただけでわかるのだが、電気装置のたくさんの押しボタンのついた台があった。それに手をかけ、ただ簡単にそれらのボタンを押しさえすれば、敵意をもつ人間たちであふれている通路が縦横に通じているこの船全体に暴動をひきおこすことができるのだ。

 そのとき、あんなに無関心であった竹のステッキをもった紳士が、カルルに近づいてきて、ひどく高い声ではなかったが、火夫のどなり散らしている叫び声を圧してはっきりわかるように、「いったい、君はなんていう名前ですか」と、たずねた。この瞬間、まるでだれかがドアのうしろでこの紳士の発言を待っていたかのように、ノックする音がした。給仕は船長のほうを見た。船長はうなずいた。そこで給仕はドアのところへいき、ドアを開けた。ドアの外には古いカイゼル服を着て、中肉中背の男が立っていた。その外見からいうとほんとうは機関の仕事に適してはいなかった。だが、これがシューバルだった。ある種の満足を表わしているみんなの眼で、カルルはこの男がシューバルだということに気づかなかったとしても(船長さえ満足の気持からのがれてはいなかった)、火夫の様子でそれとわかって驚かないわけにはいかなかっただろう。なにしろ火夫は、力のこもった腕に拳をしっかと固めて、まるでこの固めた拳こそいちばん大切なものであり、そのためには自分の生命のすべてを犠牲にする覚悟でいるように思われるのだった。そこに彼の力のすべてがこもっていて、また彼の身体をおよそきちんと起こさせている力もその拳にこもっていた。

 こうして敵が現われたわけだが、礼装を着てこだわりなく元気で、わきの下に帳簿を抱えている。おそらく火夫の賃金表と労働報告書とであろう。そして、一人一人の気分をまず何より先にたしかめようとしていることをひどく露骨に顔に出して、順を追ってみんなの眼をながめていた。七人ともすでに彼の味方であった。というのは、船長はさっきは彼に対してある文句をもっているか、あるいはただそれを口実としているかしたのであるが、火夫が自分に対して害を与えたあとの今となっては、おそらくシューバルを非難することはほんの少しでもないように見えた。この火夫のような男に対しては、いくらきびしい扱いをしても十分ということはないのだ。そして、もしシューバルに対して非難すべきものがあるならば、それは彼が火夫の反抗心をこれまでのうちに打ち破ることができず、そのために火夫がきょうはあえて船長の前にまで現われるにいたったという事情そのものであった。
 ところでおそらくこう考えることもできた。火夫とシューバルとの対立は、上級の法廷を前にして表われるような効果を、この人びとを前にしてもきっと表わさないではいないだろう。というのは、シューバルがいくらうまくよそおうことができたところで、しかしそれを最後までもちこたえることはできないにちがいなかった。彼の悪がほんの少しひらめいただけでも、それをこの人たちにはっきりと見させるのに十分だろう。その手はずを進めてやろうとカルルは思った。彼はこれまでについでながらここにいる一人一人の洞察力どうさつりょく、弱点、気まぐれなどを知っていた。そして、この観点からいうと、これまでここで過ごした時間はけっしてむだではなかったわけだ。火夫がもっと事態に応じるだけの才覚をもっていたらよかったが、しかしこれは完全に闘争能力をもたないように見えた。もし彼にシューバルを向かい合わせたら、きっとこいつの憎い頭蓋骨ずがいこつを拳でたたくことはできただろう。しかし、ほんの一、二歩だけでもシューバルの[#「シューバルの」は底本では「シュバールの」]ほうに向って自分から進んでいくことは、きっとほとんどできなかったろう。シューバルが自分から進んでやってくるのではなくとも、船長に呼ばれて最後にはやってこないわけにはいかないという、ひどくやさしく予想できることを、カルルはなぜ予想しなかったのだろう。カルルと火夫との二人が実際にやってしまったように、救いがたいほど手ぶらで、いとも簡単にドアがあるところへ入るなどというのではなく、なぜカルルはやってくる途中、火夫とくわしく戦闘計画を相談しておかなかったのだろうか。いったい火夫はものをいうことができるだろうか。これはいちばんうまくいった場合だけに行われるのではあるが、もしくわしい訊問が行われるとしても、その場合に必要なイエスやノーを火夫はいえるだろうか。火夫はそこに突っ立っている。両脚を開いて、膝は不安定であり、頭は少しばかり上げている。開いた口を通って空気が出入りしていて、まるで胸のなかにはその空気を使う肺がないかのようだ。

 とはいえ、カルルはおそらく故郷にいるときは一度もなかったほど、力強く、頭もさえているように感じられた。彼が外国でりっぱな人たちを前にして善のために闘い、まだ勝利をもたらすまでにはいたっていないにしても、もう最後の征服の準備が完全にできているのを、彼の両親がもし見ることができたならば、なんといったことだろう。両親は彼についての意見を修正するだろうか。自分たちのあいだに彼を坐らせて、ほめてくれるだろうか。彼らにとても従順な彼の眼のうちを一度は、一度は見入るだろうか! これはどうもたしかとはいえない問いだし、またそんな問いを提起するのにはまったく不適当な今の瞬間なのだ!

「私がやってきたのは、火夫が私の不正直さということを何か非難しているからです。料理場のある女の子が、この男がここへやってくるところを見かけた、と私に言いました。船長さん、並びにみなさん、私はどんな非難でも、私の書類を使って、あるいは必要の場合にはドアの前に立っている偏見のない公平な証人たちの陳述によって、否定し去る用意があります」シューバルはこう語った。

 これはなるほど一個の男のはっきりした話ではあった。聞き手たちの顔つきに表われた変化によると、彼らは長い時間かかってはじめて人間の声をまた聞いているのだ、と思うことができるだろう。むろん彼らは、このりっぱな話にさえもいろいろ欠陥があるということに気づいてはいなかった。なぜ彼が思いついた最初の具体的な言葉が〈不正直さ〉というものなのだろうか。おそらく、彼の国民的偏見などということではなくて、非難はこの点に向けられなくてはならなかったのではないだろうか。料理場の女の子が火夫が事務室へいく途中だったのを見て、シューバルはそれを聞くとただちになんのためにいくのかわかったというのか。彼の頭をそんなに鋭敏にしたのは、彼自身の罪の自覚ではないのだろうか。そして、彼はすぐ証人たちをつれてきて、しかもその証人たちが偏見がなくて公平だというのか。ぺてんだ、ぺてん以外の何ものでもないのだ! それなのに、この人たちはそれを黙って聞いており、その上にそれを正しい態度とみとめているのか。なぜ料理場の女の子の報告から彼がここにつくまでのあいだに、疑いもなくひどく時間がかかったのか。その目的はただひとえに、それによって火夫が要領をえない話でこの人たちを疲れさせ、そのためにこの人たちが明晰めいせきな判断力を失ってしまう、ということを狙ねらったのだ。この人たちの明晰な判断力こそ、何よりもシューバルが恐れなくてはならないものなのだ。彼はきっとすでに長いあいだドアのむこうに立っていたのであり、あの人のどうでもいいような質問から考えるのに、火夫がもうやられてしまった、と期待できる瞬間になってやっとドアをノックしたのではなかったろうか。

 いっさいは明らかであった。そして、シューバルによっても意に反してそういう事情が述べられたのだった。だが、ほかの人たちに対してはもっと別なふうに、もっとわかりやすく教えてあげなければならない。彼らは目をさましてやることが必要なのだ。だからカルル、急ぐんだ、証人たちが現われ、いっさいをうその洪水でわからなくしてしまう前に、少なくとも今の時間を十分に利用するんだ。

 だが、そのとき船長は手で合図してシューバルを黙らせた。シューバルはその合図を受けるとすぐに――というのは、彼の一件がほんのしばらくのあいだ中断されたように見えたからだった――わきへどいて、早くも彼の味方についた給仕と低い声で話し始めた。そして、火夫とカルルとのほうに横眼を使ったり、まことに確信ありげな手の動作をしたりしないではいなかった。シューバルはこうやってこのつぎの大演説の練習をやっているらしかった。

「この青年に何かおたずねになろうとされたのではありませんか、ヤーコプさん?」船長はみんなが黙りこくっているなかで、こう竹のステッキの紳士に向っていった。

「そうですとも」と、紳士は小さくうなずきながら、船長が気をきかせてくれたことに感謝していった。それからもう一度、カルルに向ってたずねた。

「君はいったいなんていう名前だね?」

 こんなしつっこい質問者というこの突発事を早く片づけることがこの重大な本筋と関係ありと考えたカルルは、彼の習慣となっているように旅券を見せて自己紹介するとなると、まずはじめにその旅券をポケットのなかから探さなければならないので、そんなことはやめてしまい、ただ手短かに答えた。

「カルル・ロスマンです」

「それじゃあ」と、ヤーコプと呼ばれたこの人はそういって、ほとんど信じられないといったふうに微笑しながら、あとしざりした。船長も、会計主任も、高級船員も、そればかりか給仕さえも、カルルの名前のために度はずれな驚きをはっきりと示した。ただ港務局の二人の役人とシューバルとだけが、無関心といった態度をとっていた。

「それじゃあ」と、ヤーコプ氏はくり返して、いくらかこわばった足取りでカルルのほうへ近づいてきた。「それなら、私はお前の伯父のヤーコプで、お前は私の甥おいだ。さっきから、そんなことは少しも知らなかった!」そう船長に向っていうと、つぎにカルルを抱いて接吻した。カルルは無口のまま、すべてされるままになっていた。

「あなたのお名前は?」と、カルルは身体をゆるめられたと感じたあとで、なるほどうれしそうにではあるが、まったく無感動にたずねた。そして、この新しいできごとが火夫に対して及ぼすだろうと思われる結果を予測しようと努めた。

「これはあなたにとっての大変な幸運ですよ」と船長はいった。船長は、カルルの紳士に対する質問によってヤーコプ氏という人物の品位が傷つけられたと思ったのだった。ヤーコプ氏は窓に向って立っていた。自分の興奮した顔をほかの人びとに見せなくてもすむように、ということらしい。そして、その上、顔をハンカチで軽くたたいている。「あなたに伯父様として名のられたのは、上院議員エドワルト・ヤーコプ氏です。これからは、おそらくあなたのこれまでの期待とはちがうことでしょうが、輝かしい将来があなたを待っています。今この最初の瞬間のうちにそのことを呑みこもうとなさい。そして、しっかりしなさい!」

「ぼくはなるほどアメリカにヤーコプという伯父さんをもってはいます」と、カルルは船長に向っていった。「でも、ぼくが聞きあやまったのでなければ、ヤーコプというのはこの上院議員さんの姓でしたね」

「そうですよ」と、船長は期待にみちていった。

「ところで、ぼくの伯父さんのヤーコプは、ぼくの母の兄ですが、洗礼名がヤーコプっていうんです。で、姓はむろん母のと同じはずですが、母は旧姓ベンデルマイヤーっていうんです」

「みなさん!」と、窓ぎわで気をとりしずめていた場所から元気よくもどってきた上院議員は、カルルの説明に関連して叫んだ。港務局の役人を除いて、みんなが笑い出した。ある者は感動しているようであり、ある者はどういうつもりなのかわからなかった。

「ぼくのいったことは、けっしてそんなに滑稽なことではないのに」と、カルルは思った。

「みなさん」と、上院議員はくり返した。「みなさんは、私の意志とみなさんご自身の意志とに反して、つまらぬ家庭の一幕に立ち会われているわけです。そこで私としては、みなさんにご説明申し上げないわけにはいきません。というのは、私の考えますところでは、ただ船長さんだけが」――こういうと、二人はたがいに目礼を交わすのだった――「事情をすっかりご存じなのです」

「今のところぼくはほんとうにどの一ことにも注意して聞かねばならないぞ」と、カルルは自分に言い聞かせ、ふと横をながめると火夫の姿に生気がもどり始めているのをみとめて、よろこんだ。

「私は長年にわたるアメリカ滞在のあいだに――この滞在という言葉はむろんここでは一人のアメリカ市民にとってはぴったりするものではないのですが。なにしろ私は真底からアメリカ市民でありますから――、で、長年にわたり、私はヨーロッパの親戚とはまったくつながりをもたずに暮らしていました。その理由は、第一のはここで申し上げるにふさわしいものでなく、第二の理由をお話しすることは、私にとってあまりにも迷惑なのです。おそらく私の甥にそれを語ってやらなければならないときがくると思いますが、そのときのことが心配なくらいです。話すときには、残念ながらこの子の両親とその一族とについて率直な言葉を語ることが避けられないでしょう」

「これはぼくの伯父さんだぞ、疑う余地はない」と、カルルは自分に言い聞かせ、耳を傾けていた。「おそらく名前を変えたのだろう」

「私の甥は今では両親から――事の真相を示す言葉を使うことにしましょう――あっさり捨てられたのです。ちょうど、猫がしゃくにさわると、ドアの前に投げ出されるようにです。私の甥が何をやってこんなふうに罰を受けたのか、私はとりつくろって申すつもりはありません。しかし、甥のあやまちは、それを申しただけですでに十分弁解になる理由を含んでいるようなたぐいのものなのです」

「これは聞く価値があるぞ」と、カルルは考えた。「でも、伯父さんがあれをみんなに話すのは困るぞ。ところで、伯父さんはあれを知っているはずはないんだが。いったい、どこから聞いたんだろう?」

「つまり」と、伯父は語りつづけ、ちょっと身体を傾けて前に踏んばっている竹のステッキにもたれた。それによって実際、この件から不必要ないかめしさを取り除くことに成功した。そうでなければこの件はきっとそんな不必要にまじめな調子を帯びたことだろう。「つまり、甥はヨハンナ・ブルマーという女中に誘惑されたのです。これはおよそ三十五歳ほどの女です。この〈誘惑された〉という言葉で甥の気を悪くさせたくはないのですが、ほかの同じようにぴったりした言葉を見つけ出すことは困難なのです」

 すでに伯父のかなり近くへ歩みよっていたカルルは、この話の与えた印象をこの場にいる人びとの顔から読み取ろうとして、このとき振り向いてみた。だれも笑う者はなく、みんな忍耐強く、まじめそうに聞いていた。結局のところ、最初の機会が生じたというときに、上院議員の甥のことを笑うわけにはいかないのだ。むしろ、火夫がほんのちょっとではあるがカルルにほほえみかけたといえたかもしれない。だが、これは第一に彼が新しい生気を取りもどしたしるしとしてよろこばしいことであり、第二にはもっともなことでもあった。なぜなら、実際カルルはあの船室で、今ではこんなにもひろまってしまったこの件を極秘にしておこうとしたからだった。

「ところでこのブルマーが」と、伯父は語りつづけた、「甥の子供を生みました。じょうぶな男の児で、洗礼のときヤーコプという名をつけられました。疑いもなく不肖ふしょうこの私を頭においてのことであります。この私のことは、甥がきっとただまったくさりげなく話しただけだと思われますが、それでさえその女の子に少なからぬ感銘を与えたにちがいありません。幸いなことに、と私はいわないわけにまいりません。というのは、両親は養育費の支払いとか自分たちの身にまで及ぶそのほかのスキャンダルとかを避けるために――私は強調しておかねばなりませんが、あちらの法律も、また両親のそのほかの事情も知りません――、で、養育費の支払いとスキャンダルとを避けるために、彼らの息子、つまり私の甥をアメリカへ運ばせたのです。ごらんのとおり、こんな無責任きわまる不十分な支度しかしてやらずにです。それゆえ、この子は、もしこのアメリカにかろうじて生き残っている神意のしるしと奇蹟とがなかったならば、自分の身ひとつをたよりにしなければならず、きっとたちまちのうちにニューヨーク港の裏町のどこかで零落したことでしょう。もしその女中が私宛ての手紙、しかもそれは長いことあちらこちらとさまよっておとといやっと私の手に入ったのですが、その手紙のなかで一部始終を知らせ、それに甥の人相のことや賢明にも船の名前も添えて書いてよこさなかったならば、そんなことになったかもしれません。もしみなさんを面白がらせるつもりならば、その手紙の二、三の箇所を」――といって、伯父はこまかな字で書かれた大きな二枚のレターペーパーをポケットから取り出し、それを振って見せた――「ここで朗読することもできるでしょう。この手紙はきっと効果があるでしょう。つねに善意からではあるが、いくらか単純なずるさと、子供の父親である甥に対する大きな愛情とをもって書かれているからです。だが、事情を説明するために必要である以上にみなさんを面白がらせるつもりはありませんし、また甥を迎えるにあたって、おそらくまだ残っている甥のいろいろな感情を傷つけるようなことをやりたくもありません。甥は、もしそうしたいなら、すでに彼を待っている部屋の静けさのなかでこの手紙を読んで、それを知ればいいのですから」

 だが、カルルはその女中に対してなんらの感情も抱いてはいなかった。いよいよ遠くへ退いていく過去の、ひしめき合う思い出のなかで、その女は台所で戸棚のそばに坐っている。その棚の板の上に両肘をついている。彼が父親のために水を飲むコップを取りにとか、母親に頼まれたことをやるためにとかでときどき台所へいくと、女は彼をじっと見るのだった。ときどきは台所の戸棚のわきで変な姿勢で手紙を書いており、カルルの顔を見て霊感を引き出すのだった。ときどきは片手で両眼を被っていた。そういうときは、いくら彼女に呼びかけても、彼女の耳にはとどかなかった。ときどきは台所のわきの自分の小さな部屋でひざまずいて、木の十字架に祈っていた。そういうときには、カルルはただおずおずしながら、通りすがりに少し開いているドアのすきまを通して女の姿を見るのだった。ときどきは、台所で走り廻って、カルルが彼女の道をふさぐと、魔女のように高笑いしながら、跳び下がった。ときどきは、カルルが入っていくと、台所のドアを閉めて、カルルがどいてくれと要求するまで手でドアの取手を押えていた。ときどきは、カルルが全然欲しくもない品物をもってきて、無言でそれを彼の両手のなかに押しつけるのだった。ところが、あるとき、「カルル」といって、思いがけないその呼びかけにまだ驚いている彼を、しかめ面をして溜息をもらしながら自分の小さな部屋へつれこみ、部屋に鍵かぎをかけた。

 女は絞め殺さんばかりにカルルの首に抱きつき、服を脱がせてくれと頼みながら、自分のほうでも実際に彼の服を脱がせ、ベッドの上に寝かせた。まるで今からは彼をだれの手にもやらず、この世の終りまで、なでいつくしみたいといわんばかりだった。「カルル、おお、あたしのカルル!」と、女は叫び、彼をながめて、彼を所有していることをたしかめようとするかのようだ。

一方、彼のほうは何一つ眼に入らず、女が特別彼のために積み重ねたらしいたくさんの暖かいかけぶとんのなかで不快に感じていた。それから女は彼により添って寝て、彼の秘密を何か聞きたいといったが、彼が何もいうことができないので、冗談でなのか本気なのかわからないが怒って、彼の身体をゆすり、耳をあてて心臓の鼓動を聞き、同じように聞いてみろといって自分の胸をさし出した。ところが、女はカルルにそうさせることができないと、自分の裸の腹を彼の身体に押しつけ、手で彼の両脚のあいだを探った。あんまりいやらしいので、カルルは頭と首とを枕から振りはずしてしまった。それから女は、腹を二、三度彼に向って押しつけた。――カルルには、まるで女が自分自身の一部であるような気がした。おそらくこの理由から恐ろしくみじめな気持に襲われたのだろう。女のほうから何度も何度もまたのあいびきをせがまれたあとで、カルルは泣きながら自分のベッドへもどった。これだけのことだったが、伯父はそれから大きな物語をつくり出すことを心得ていた。で、その女中が伯父のことを考えて、伯父に彼の到着を知らせたというわけだった。じつにいいことをやってくれた。自分としてもきっとその女にいつかむくいてやるだろう、と伯父はいった。

「で今、私がお前の伯父かそうでないか、お前の口からはっきり聞こう」と、上院議員は叫んだ。

「あなたはぼくの伯父さんです」と、カルルはいって、彼の手に接吻し、そのかわりに額に接吻してもらった。「あなたに会って、ぼくはとてもうれしいです。でも、ぼくの両親が伯父さんについて悪いことだけ話していると思うなら、まちがいです。でも、それは別問題としても、あなたの話にはいくらかのまちがいが入っていました。つまり、実際には万事がそんなふうに起ったのではありません。けれども、伯父さんはほんとうにこのアメリカからでは事柄に十分な判断を下すことは無理です。それに、このみなさんにあまり関係はない件のこまかな点で少しばかりまちがったことを教えられても、そうたいして害にはならないと思います」

「よくいった」と、上院議員はいって、明らかに同感を示している船長の前にカルルをつれていき、たずねた。「私はすばらしい甥をもっているでしょう?」

「甥御おいごさんとお知合いになれまして、私は大いによろこんでいます」と、船長はただ軍隊の訓練を受けた人たちだけがやるようなお辞儀をしながらいった。

「こうした[#「「こうした」は底本では「こうした」]めぐり合いの場所を提供できましたことは、本船の光栄とするところです。しかし、三等船客としての航海はきっとひどかったことでしょう。しかし、どなたが乗船しておられるかわかりませんのでね。ところで、われわれは三等の人たちの航海をできるだけ楽にしてあげるように、ありとあらゆることをやっています。たとえば、アメリカ船よりもずっと多くのことをやっております。けれども三等の航海をたのしみにするということまでには、なんといってもまだいたっていません」

「ぼくにはちっとも悪いことなんかありませんでした」

「甥にはちっとも悪いことなんかなかったそうですぞ」と、上院議員は大きな声で笑いながらいった。

「ただトランクだけはどうも失くして――」と、いいかけて、起ったこと、まだやることで残っていることをみんな思い出しながら、あたりを見廻し、この場にいる人たちがみな黙って尊敬と驚きとのために彼に視線を注いでいるのをながめた。ただ港務局の役人たちの様子には、彼らの自己満足しているきびしい顔から見抜くことができる限りでは、こんなに工合の悪いときに自分たちがやってきたと残念がっているのが見られた。そして、今自分たちの前に置いてある懐中時計のほうが、彼らにはどうもこの部屋のなかで起っていること、そしておそらくこれからなお起こるかもしれないことよりも重要であるらしかった。

 船長のあとで自分の関心を表わした最初の人物は、奇妙なことに火夫だった。

「心からお祝いを言いますぜ」と、彼はいって、カルルの手をにぎった。それによって相手をみとめているというようなことを言い表わそうとしたのだった。つぎに同じ言葉で上院議員に向かおうとしたとき、上院議員は火夫がそれによって自分の分を超えたことをやろうとしているといわんばかりに、あとしざりした。火夫もすぐにやめてしまった。

 ところが、ほかの人びとも今はやるべきことがわかったとみえて、たちまちカルルと上院議員とのまわりにさわぎを起こした。そこで、カルルはシューバルからさえ祝いの言葉をかけられ、それを受け、その礼を述べた。ふたたび静けさが立ちもどったなかで、最後の番で港務局の役人たちがやってきて、英語で二語だけいったが、これが滑稽な印象を与えた。

 上院議員はすっかり上機嫌で、よろこびを完全に味わいつくすため、どうでもいいようなことを思い出し、ほかの人びとにも思い出させようという気になっていたが、それはむろんすべての人びとによって我慢して聞かれただけではなく、関心をもって受け入れられた。そこで彼は、女中の手紙のなかに書いてあったもっともいちじるしいカルルの人相の特徴を、きっとあとでちょっと使うことになるだろうと思ってメモ帳に書き入れていたのだ、といってみんなの注意を喚起した。ところで、彼はさっきの火夫の我慢できないおしゃべりのあいだに、ただ気をそらすためだけの目的でメモ帳を取り出し、むろん探偵式にいえば正しくはない女中の観察点をカルルの外見と遊び半分に結び合わせようとしたというのだった。

「私の甥はこんなふうに見られているんですよ!」と、彼はもう一度祝いの言葉を受けたいと思っているかのような調子で話を結んだ。

「火夫はこれでどうなるでしょう?」と、カルルは伯父の最後の話がすむと、たずねた。彼は、自分の新しい立場では、なんでも思ったことをいってもいいのだと考えた。

「火夫はあれにふさわしいようになるだろう」と、上院議員はいった。「それに、船長さんがよいと思われるようになるだろうよ。もう火夫のことは十分だし、十分すぎると私は思うね。ここにおられるみなさんもきっと私のこの意見に賛成されるだろう」

「正義に関する件においては、そんなことは問題じゃありません」と、カルルはいった。彼は伯父と船長とのあいだに立っていたが、おそらくこのような位置に立っていることに影響されて、決定を自分の手中ににぎっているように思った。

 それにもかかわらず、火夫はもう自分のために何も望んでいないらしかった。両手を半分ズボンのバンドに突っこんでいた。彼が興奮して動いたためにそのバンドは模様のついたシャツの片はじといっしょに外へ見えていた。そんなことは少しも彼の気にはならない。彼は自分の悩みをすっかり訴えてしまったのだから、自分が身につけている一つ二つのぼろを見られたってかまわないし、追い出されたってかまわないのだ。ここでは階級のいちばん下の給仕とシューバルとの二人が、自分を追い出すというこの最後の好意を果たしてくれるものと、彼はすっかり思いこんでいた。そうすればシューバルは気が落ちつくだろうし、もう会計主任がいったように絶望なんかすることはないだろう。船長はルーマニア人ばかりを雇うことができるだろう。船じゅうどこででもルーマニア語が話されることになるだろう。そうすればおそらくいっさいがもっとよくなるだろう。火夫が会計課でおしゃべりすることはもうないだろう。ただ自分の最後のおしゃべりだけをかなりなつかしい思い出のうちにとどめることだろう。なぜなら、上院議員がはっきりと断言したように、自分のおしゃべりが甥を認知する間接のきっかけとなったからだ。ところでこの甥はさっき何度も自分のために役に立ってくれようとした。だから、伯父との再会に際して自分が役立ったことに対する礼はもうずっと前にあらかじめすませてあったようなものだ。そこで火夫には、今何かをカルルから要求するなどということは全然思いつかなかった。それに、カルルが上院議員の甥であろうと、とうてい船長ではないのだ。ところで、船長の口からは最後にひどい言葉が吐き出されるだろう――こんな自分の考えを追って、火夫は実際にもカルルのほうを見ないように努めていたが、残念ながら自分の敵だけがいるこの部屋では、カルル以外に彼の眼を休める場所がなかった。

「事態を誤解してはいけないね」と、上院議員はカルルに向っていった。「おそらく正義に関する問題であろうが、同時に規律の問題でもあるのだ。両方とも、そしてことに後者はここでは船長さんの判断にまかされているのだ」

「そうだ」と、火夫がつぶやいた。それに気づき、それがわかった者は、奇妙な微笑をもらした。

「だが、船長さんはその上、ちょうどニューヨークに到着したばかりで、信じられないくらいたまっているにちがいない公務をもっていられるのだよ。だから、もう私たちが船を去る潮時だ。余計なことをしてまだ何かまったく不必要な首の突っこみかたをやって、二人の機関士のつまらぬけんかを大事件にしないためにだな。ともかくお前のやりかたはすっかりわかる。だがそれだからこそ、急いでお前をここからつれ去る権利が私にあるというものだ」

「すぐあなたがたのためにボートを下ろさせましょう」と、船長はいった。カルルが驚いたことに、疑いもなく伯父の自己謙遜けんそんと見られる言葉にほんの少しでも異を立てることをやらないのだ。会計主任はあわてて書きもの机のところへいき、船長の命令をボート係に電話で伝えた。

「時間が迫っているんだ」と、カルルは自分に言い聞かせた。「でも、みんなを侮辱することなしでは、ぼくは何もすることができないぞ。だが今は、伯父がやっとぼくを見つけたんだから、伯父を見捨てるわけにはいかない。船長はなるほど礼儀正しいけれど、でもそれだけのことだ。規律のこととなると、船長の礼儀正しさも忘れられてしまう。伯父はたしかに心からああ船長に話したんだ。シューバルとは話したくない。あの男に握手の手を渡したことも残念なくらいだ。そして、ここにいるそのほかの連中はみんなくずだ」

 そして、こんなことを考えながらゆっくりと火夫のほうへ歩いていき、その右手をバンドから取って、自分の手のなかにもてあそびながらおさめていた。

「どうしてあんたは何もいわないんです?」と、彼はたずねた。「どうしてみんな黙って受け入れているんです?」

 火夫は、いうべきことをどう言い表わしたらいいのか探しているように、額にしわをよせた。それからカルルの手と自分の手の上に眼を落していた。

「あんたは不当な扱いを受けているんですよ。この船のだれよりもね。それはぼくもちゃんと知っているんだ」

 そして、カルルは火夫の指のあいだに自分の指をさし入れたり抜いたりした。火夫のほうは、いくらよろこんだってだれも自分のことを悪く取ることがないだろうと思われる歓喜に襲われたように、輝く眼でまわりを見廻している。

「でも、あんたは自分の身を守らなくちゃいけない。イエスとノーとをはっきりいわなくちゃいけないんですよ。そうでないと、人びとは真相が全然わからないんだから。ぼくのいうことを聞くって、約束して下さいよ。だって、ぼく自身はいろいろな理由から、もう全然助けてあげることができないだろうと思うんです」

 それから、カルルは火夫の手に接吻しながら、泣いた。そして、ひびだらけの、ほとんど血のかよっていないようなその手を取って、自分の両頬に押えつけた。まるで思いきらなければならない宝のようだった。――ところが伯父の上院議員が彼のそばへきて、強制の様子はほんの少ししか見せなかったが、彼を引っ張っていった。

「火夫がお前の心に魅入ったらしいね」と、伯父はいって、意味ありげな面持おももちでカルルの頭越しに船長のほうを見やった。「お前はひとりぽっちだと感じていたんだ。そのときお前は火夫を見つけたんで、今はあの男に感謝しているんだ。それはまったく感心なことだよ。でも、もう私のために、あまりやりすぎないようにするんだ。お前の地位を理解することを学ばなければいけないぞ」

 ドアの前でさわぎが起った。叫び声が聞こえ、まるでだれかが乱暴にドアへぶつけられたようであった。いくらか荒れ狂った様子で一人の水夫が部屋に入ってきた。そして女中のエプロンを身体に巻きつけていた。

「外にたくさんいますよ」と、その男は叫んで、まだ人ごみのなかにいるかのように肘ひじであたりを突くような恰好をした。とうとう正気に返って、船長の前で敬礼しようとしたが、女中のエプロンに気がつき、それを引きはがして床に投げ、叫んだ。

「まったく不愉快だ。女中のエプロンなんか巻きつけやがって」

 だが、靴のかかとを音を立てながら合わせ、敬礼した。だれかが笑おうとしたが、船長はきびしい口調でいった。

「だいぶいい機嫌のようだね。だれが外にいるのかね?」

「私の証人たちです」と、シューバルは歩み出ながらいった。「彼らの不穏当なふるまいはどうかお許しのほどを。水夫たちは航海を終えると、ときどき気ちがいのようになるんです」

「すぐなかへ入れてくれ」と、船長は命令し、すぐ上院議員のほうへ振り向くと、親しげにだが口早にいった。「上院議員さん、どうか甥御さんとごいっしょにこの水夫のあとをついていって下さい。この男があなたがたをボートへご案内します。親しくあなたさまとお知合いになれまして、大変うれしく、また大変光栄であることを、まず最初に申し上げなければなりません。いずれ近く機会を得まして、アメリカの商船事情についての私たちの中断されました話をまた取り上げることができますように望みます。そのときもまた、きょうのように愉快なやりかたで中断されることを望みます」

「今のところは、この甥で私には十分ですな」と、伯父は笑いながらいった。「ご親切に心からお礼申し上げたいと思います。どうかご機嫌よう。それに、まったくありえないことではありませんが、私たちは」――ここで彼はカルルを心から抱きしめた――「つぎのヨーロッパ旅行のときには、おそらくかなり長いあいだ、あなたとごいっしょになれるでしょう」

「そうなったら、どんなに心からうれしく思うことでしょう」と、船長はいった。二人の紳士はたがいに握手し、カルルはまだ黙ったまま、ちょっと船長に手をさし出しただけだった。というのは、船長はもう十五人ぐらいの水夫たちにかかりきりになっているのだった。彼らはシューバルの指揮下にいくらか当惑はしていたが、音高く部屋に入ってきたのだった。水夫は上院議員にお先に失礼しますといって、彼とカルルとのために人ごみを押しわけた。二人はお辞儀する水夫たちのあいだを通ってたやすく出ていくことができた。とにかく善良なこの連中はシューバルと火夫との争いを冗談で、その滑稽さが船長の前でもやまないのだ、と考えているらしかった。カルルは彼らのあいだに料理場の女の子のリーネをみとめたが、この女はカルルに向って陽気にまばたきの合図をしてよこしながら、水夫が投げ捨てたエプロンを身体に巻きつけていた。それは彼女のものだったのだ。

 その水夫につづいて二人は事務室を出て、小さな通路へ曲っていった。その通路をいくと、一、二歩で小さなドアの前に出た。そこから短い階段が彼らのために用意されたボートへ通じていた。案内役の水夫はたちまちひと跳とびでボートのなかへ飛び下りたが、ボートのなかの水夫たちは立ち上がって、敬礼した。上院議員がカルルに、用心して降りるようにといましめると、カルルはいちばん上の階段の上ではげしく泣き出した。上院議員は右手をカルルの顎あごの下にあて、左手でしっかと自分の身体に押しつけて、彼の身体をなでた。こうして二人はゆっくり一段一段と降りていき、しっかと抱き合ったままボートに入った。上院議員はカルルのために自分の真向いにいい席を探し出した。上院議員の合図で水夫たちは本船からボートを突き離し、すぐ力いっぱいに漕ぎ始めた。船から一、二メートル離れるやいなや、カルルは自分たちが今、会計課の窓が向いている側にいることに気づいた。三つの窓はどれもシューバルの証人たちに占められており、彼らはひどく親しげに挨拶し、合図していた。伯父さえも答礼した。一人の水夫は、規則正しい漕ぐ手を休めないままで投げキスを送るという芸当をやって見せた。ほんとうに、火夫なんかもういないかのようだった。カルルは、伯父の膝に自分の膝をほとんどつけんばかりにして、伯父の眼のうちをじっとながめた。この人がいつかあの火夫のかわりになることができるだろうか、という疑いが彼の心に起った。伯父のほうもカルルの視線を避けて、彼らのボートをゆさぶっている波のほうに視線を投げていた。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001235/files/49859_41919.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c35

[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
2. 中川隆[-14987] koaQ7Jey 2019年11月12日 16:15:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2083]

ウェーベルン 編曲作品
バッハ:『音楽の捧げもの』BWV1079から「6声のリチェルカーレ」(オーケストラ編曲)


J.S. Bach Musical Offering, BWV 1079 (Orch. Anton Webern) - Fuga (Ricercata) a 6 voci - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UUECC4IGVAw

Berliner Philharmoniker · Pierre Boulez

___


Anton Webern - Fuga (Ricercata) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2cLALT09Y0M

Fuga (Ricercata) a 6 voci for orchestra (arr. from Bach's Musical Offering), (1935)

London Symphony Orchestra
Pierre Boulez


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c2

[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
3. 中川隆[-14986] koaQ7Jey 2019年11月12日 16:32:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2082]

バッハ:『音楽の捧げもの』BWV1079から「6声のリチェルカーレ」原曲

J.S. Bach Musical Offering, BWV 1079 - Ricercar a 6 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kHOKUrrjfX4
https://www.youtube.com/watch?v=4eC55SLk_zE

Stuttgarter Kammerorchester · Karl Münchinger
1977 Decca Music Group Limited

____


Karl Richter Musical Offering, BWV 1079 Ricercar a 6 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9ED9oJ2VYLc


▲△▽▼

Bach The Musical Offering, Richter (1963) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=z4oOJ8PX4nM
https://www.youtube.com/watch?v=IErSt6kOwRE

(00:05) 1. Ricercar (A 3)
(05:28) 2. Canon Perpetuus Super Thema Regium
(06:02) 3. Cannons Diversi Super Thema Regium
(12:47) 4. Fuga Canonica In Epidiapente
(14:45) 5. Ricercar A 6
(21:29) 6. Canon A 2 (Quaerendo Invenietis)
(23:41) 7. Canon A 4
(26:08) 8. Trio Sonata
(45:58) 9. Canone Perpetuo

Aurèle Nicolet (1926-2016), Flute
Otto Büchner (1924-), Violin
Kurt Guntner (1939-), Violin
Siegfried Meinecke, Viola
Fritz Kiskalt, Cello
Hedwig Bilgram (1933-), harpsichord
Karl Richter (1926-1981), harpsichord & Conductor

Rec. January 1963


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c3

[リバイバル3] 富士山登山を「ニコ生」中継中に滑落か 救助隊が捜索 中川隆
66. 中川隆[-14985] koaQ7Jey 2019年11月12日 16:43:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2081]

富士山で死亡は47歳男性 動画配信中に滑落か
[2019年11月12日12時40分]


富士山で登山しながらインターネット動画を配信中に滑落したとみられ、須走口の7合目付近(標高約3000メートル)で発見された遺体について、静岡県警御殿場署は12日、身元は東京都新宿区、無職塩原徹さん(47)と判明したと明らかにした。死因は滑落による損傷死。

同署などによると、塩原さんは「ニコニコ生放送」という動画配信サービスを利用。10月28日に動画をライブ配信しながら1人で登山していて滑落したとみられる。動画には塩原さんが滑落する様子が写っており、視聴した人から110番があった。

県警はヘリコプターを出動させるなどして捜索し、同30日に山小屋から南に約800メートルの地点で遺体を発見し、収容した。富士山は閉山期間中だった。(共同)
https://www.nikkansports.com/general/news/201911120000321.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1012.html#c66

[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
4. 中川隆[-14984] koaQ7Jey 2019年11月12日 18:16:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2080]
ベルクの編曲作品
F.シューベルト『ドイツ舞曲』(1932):1824年作曲の同名のシューベルトの作品のオーケストラ編曲


6 German Dances, D. 820 (arr. A. Webern) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=K6avxpj2LSg

Conductor: Anton Webern
Orchestra: Berlin Radio Orchestra
Historical Recordings (1932, 1940)

____

Anton Webern- German Dances (After Schubert D820) Pierre Boulez-Berlin Philharmonic - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BPs62L-s3bg

https://www.youtube.com/watch?v=tDtRP-1ZMXI
https://www.youtube.com/watch?v=Zh9BANKDk68

Berliner Philharmoniker · Pierre Boulez
Released on: 1995-01-01


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c4

[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
6. 中川隆[-14982] koaQ7Jey 2019年11月12日 18:36:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2078]

カラヤン ベルリン・フィル

Berlin Philarmonic Orchestra - Herbert von Karajan, conductor.
1974 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin


Webern Passacaglia Opus 1 - Karajan - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9VMIhkU_XpQ

Webern - Six Pieces for Orchestra (Karajan, BPO) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=3TS1RULaoNU

Webern - Symphony Op. 21 (Karajan, BPO) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=iUXyOueTVmk



▲△▽▼


Second Viennese School Orchestral Works [ H.V.Karajan Berlin-PO ] (1972~74) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=di1CNU91rjk


1. Schoenberg "Pelleas und Melisande" (00:00)
2. Schoenberg "Variation for Orchestra" (43:25)
3. Schoenberg "Verklarte Nacht" (1:05:51)
4. Webern "Passacaglia for Orchestra" (1:35:39)
5. Webern "Six Pieces for Orchestra" (1:47:51)
6. Webern "Symphony" (2:00:51)
7. Berg "Three Pieces for Orchestra" (2:11:08)
8. Berg "Three Pieces from the 'Lyric Suite" (2:42:14)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c6

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
36. 中川隆[-14981] koaQ7Jey 2019年11月12日 19:03:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2077]

カラヤン ベルリン・フィル
Berlin Philarmonic Orchestra - Herbert von Karajan, conductor.
1974 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin

Berg 3 Pieces for Orchestra, Op.6 - 3. Marsch (March); von Karajan-Berlin - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=WVMx0n836u8


___


Alban Berg Lyric Suite - Karajan - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RF9urI6Z6Bk

2. Andante amoroso
4. Adagio appassionato


▲△▽▼


Second Viennese School Orchestral Works [ H.V.Karajan Berlin-PO ] (1972~74) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=di1CNU91rjk


1. Schoenberg "Pelleas und Melisande" (00:00)
2. Schoenberg "Variation for Orchestra" (43:25)
3. Schoenberg "Verklarte Nacht" (1:05:51)
4. Webern "Passacaglia for Orchestra" (1:35:39)
5. Webern "Six Pieces for Orchestra" (1:47:51)
6. Webern "Symphony" (2:00:51)
7. Berg "Three Pieces for Orchestra" (2:11:08)
8. Berg "Three Pieces from the 'Lyric Suite" (2:42:14)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c36

[リバイバル3] 中川隆 _ 経済、ビジネス関係投稿リンク 中川隆
136. 2019年11月12日 19:08:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2076]
日本人のルサンチマンは公務員に向かう
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/713.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/813.html#c136
[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
7. 中川隆[-14980] koaQ7Jey 2019年11月12日 19:20:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2075]

グレン・グールド


Glenn Gould plays Webern Variations Opus 27 - YouTube




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c7
[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
8. 中川隆[-14979] koaQ7Jey 2019年11月12日 19:22:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2074]

グレン・グールド

Glenn Gould - Webern, Concerto for 9 Instruments op. 24 (OFFICIAL) - YouTube





As host and performer, Gould outlines the music of the 20th century and combines it with the ideas and art of the period.
In this part of the programme "Music In Our Time - Part 4: The Artist as Artisan" Glenn Gould explores the „Concerto for 9 Instruments op. 24" by the austrian composer and conductor Anton Webern (1883-1945). Gould is supported by the canadian conductor Boris Brott. Remember to subscribe to stay up to date with all new releases on the channel.

00:00 Introduction by Glenn Gould
05:48 I Etwas Lebhaft
08:32 II Sehr Langsam
11:21 III Sehr Rasch

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c8
[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
9. 中川隆[-14978] koaQ7Jey 2019年11月12日 19:24:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2073]
ウェーベルン


4 Interpretations of Webern's Variations for Piano Op 27 Variation 1
(Gould, Pollini, Rosen, and Uchida) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=V2R0Rq55-tc


Four pianists play the first variation from Webern's Variations for Piano Op 27. In order:

Glenn Gould (195?)
Maurizio Pollini (1976)
Charles Rosen (197?)
Mitsuko Uchida (2000)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c9

[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
10. 中川隆[-14977] koaQ7Jey 2019年11月12日 19:27:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2072]
グレン・グールド


Glenn Gould - Schoenberg, Suite for Piano op. 25 (OFFICIAL) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=N7O_3q-ZttQ





As host and performer, Gould outlines the music of the 20th century and combines it with the ideas and art of the period.

In this part of the programme "Music In Our Time - Part 3: New Faces, Old Forms" Glenn Gould explores the „Suite for Piano op. 25" by the austrian-american composer Arnold Schoenberg (1874-1951). Remember to subscribe to stay up to date with all new releases on the channel.

00:00 Introduction by Glenn Gould
05:07 IV Intermezzo

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c10
[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
11. 中川隆[-14976] koaQ7Jey 2019年11月12日 19:30:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2071]

グレン・グールド


Glenn Gould Plays Gibbons Byrd Schoenberg Webern Berg - YouTube









Gibbons, Orlando, 1583-1625. Lord of Salisbury pavane.

4:00 Byrd, William, 1542 or 1543-1623. Galliards, keyboard instrument, MB 32b.

5:52 Schoenberg, Arnold, 1874-1951. Suites, piano, op. 25.Intermezzo

9:40 Webern, Anton, 1883-1945. Variations, piano, op. 27.

14:52 Berg, Alban, 1885-1935. Sonata, piano, op. 1.

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c11
[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
56. 2019年11月12日 20:44:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2070]
アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c56
[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
1. 中川隆[-14975] koaQ7Jey 2019年11月12日 20:48:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2069]

シェーンベルク編曲
ブラームス:ピアノ四重奏曲第1番の管弦楽編曲(1937)


Brahms orch. Schoenberg Piano Quartet No. 1 in G minor Op. 25 (1861 orch. 1937) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZAhrIt6Rd0I

Performed by the London Symphony Orchestra conducted by Neeme Järvi.


_____


ブラームス/シェーンベルク ピアノ四重奏曲第1番 - YouTube
サイモン・ラトル指揮BPO
https://www.youtube.com/watch?v=xANZT4GdyMg
https://www.youtube.com/watch?v=Yppkz1DQFsw
https://www.youtube.com/watch?v=wLOpvIiu09g
https://www.youtube.com/watch?v=225xKAM9McM

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ブラームス/シェーンベルク ピアノ四重奏曲第1番 の原曲


Piano Quartet No. 1 in G Minor, Op. 25 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=H47HIgpeNfE
https://www.youtube.com/watch?v=6zort-YrOqM
https://www.youtube.com/watch?v=C-ZhWhF-itc
https://www.youtube.com/watch?v=wqORoyQ3mgA

Artist: Adolf Busch
Artist: Hugo Gottesmann
Artist: Herman Busch
Artist: Rudolf Serkin



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[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
2. 中川隆[-14974] koaQ7Jey 2019年11月12日 20:50:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2068]

ブラームスの「交響曲第5番」?


ナチス政権の成立によってドイツを追われることとなったシェーンベルクは、パリを経てアメリカに亡命する。その地でシェーンベルクはオーケストラ作品への編曲を幾つか手がけるが、その一曲にブラームスが若かりし頃に書いたピアノ四重奏曲もあった。

シェーンベルクは出来上がったこの編曲に大変満足し、聴衆からも高い評価も獲得する。中には「ブラームスの交響曲第5番」というものまであった。しかし、実際のこの曲はブラームスが決して自らの交響曲に使わなかった楽器や特殊奏法のオンパレードであり、そして何より、ジプシー音楽的な情熱をそのまま表現した音楽それ自体、ブラームスが決して交響曲の題材に選ばなかったものである。

そのことを考えると、この編曲をブラームスの交響曲第5番と呼ぶことは、やはりあまり適当なこととは言えない。しかし、一つ視点を変えてみると、また違った様相が見えてくる時がある。

シェーンベルクはウィーンで正統派ユダヤ教徒の家庭に生まれた。しかし宗教的には自由な環境で育つ。1898年、24歳の時にプロテスタントに改宗する。同化ユダヤ人となってウィーンでの社会的地位を改善するためであったが、ウィーンで勢力の強いカトリックは選択しなかった。その後、シェーンベルクはウィーンやドイツ・ベルリンで活動を続ける。しかしユダヤ的なものへのこだわりはシェーンベルクの中でくすぶり続け、「ドイツ人」を追われた1933年、亡命の経由地パリでユダヤ教に改宗する。

しかし、ドイツ時代のシェーンベルクは、自分を偉大なドイツ音楽の継承者だと信じて疑わなかった。このことは次の言葉からも推し量る事ができよう。「ドイツ民族の魂から生まれた、外国の影響を全く受けていない私の音楽は、ラテンやスラヴ民族の覇権の期待に最も効果的に対抗し得る芸術の実例である。」(1931年、エッセイ「国民音楽」より。)偉大なドイツ音楽の伝統を受け継いだその自分を放り出したナチスに対して、シェーンベルクは憤懣やるかたないことだったろう。アメリカの地で、シェーンベルクは快適な環境を容易には見つける事ができずにいた。ましてや、ヨーロッパで苦労の末獲得した作曲家としての名声や尊敬など、ここ新世界アメリカでは御伽噺でしかなかい。

そんな中での「ブラームスの交響曲第5番」という言葉は、例えそれが編曲に対しての言葉であっとしても(アメリカの聴衆にはこの作品のメロディがブラームスのものだと気付かない者もいたが)、シェーンベルクは決して悪い気はしなかったであろう。

その昔、ブラームスの交響曲第1番は初演された当時「ベートーヴェンの交響曲第10番」と呼ばれた。偉大なベートーヴェンの伝統を受け継ぐもの、という意味を込めてである。これを踏まえると、シェーンベルクはここにおいて、ベートーヴェン−ブラームスと続くドイツ音楽の系譜の中に位置付けられる存在となったのである。そしてこの編曲以降、シェーンベルクの作品には《コル・ニドレ》や《ワルシャワの生き残り》《現代詩編》など、ユダヤ的な作品がより目立った位置を占めるようになる。このブラームスのピアノ四重奏曲の編曲は、シェーンベルクのドイツ的なものからユダヤ的なものへの転回点の時期に位置する作品であるといえるかもしれない。
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-sinphonie-5


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ブラームス ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 シェーンベルク編曲版
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-piano-quartet

〈未完成〉との間を繋ぐ鍵としての『ハンガリー・ジプシーの音楽』

1828年に31歳で早世したシューベルトと、5年後の1833年に生れたブラームス。その接点が、1880年代にブライトコプフ社が刊行したシューベルト全集で、ブラームスが交響曲の巻の編纂を担当したことにあるのは拙著『交響曲の名曲・1』で述べたとおりだ。しかし1822年前後に作曲されたまま眠り続け1865年に初演された〈未完成〉と、それより前の1861年に完成・初演されたブラームスの〈ピアノ四重奏曲・第1番〉との関係をひもとくのは一筋縄ではいかない。鍵は『ハンガリー・ジプシーの音楽』にある。


以前ハンガリーの指揮者I.フィッシャーがN響に客演して『ハンガリー音楽特集』を指揮した際に〈未完成〉が入っていたので、その理由について質問を受けたことがある。しかし、これは音楽映画『未完成交響楽』をご存じの世代には説明を要しないことであろう。そこではハンガリーの貴族エスタルハージ家の令嬢との恋の破局が、第3楽章以下を破棄させた原因として描かれていたからだ。史実を自由に取捨選択してロマンティックなフィクションを創作した古典的音楽映画にクレームをつけるなら、例えば、最晩年に作曲されることになる〈菩提樹〉が既に歌われている等、幾らでもできるが、シューベルトが高名な貴族の音楽教師として雇われてハンガリーのツェレスに赴いたのは事実(但し令嬢は、まだ12歳だったのだけれども)。そして〈未完成〉にハンガリー・ジプシーの音楽を思わせる主題が登場するのも明らかなのだ。

第1楽章が始まって直ぐオーボエとクラリネットがユニゾンで吹く主題@がそれ(以下ジプシー関係の譜例は、比較し易いようにイ短調に移調してある)。ついでに言うと、こうした単旋律を木管で呈示する場合、普通は一つの楽器のソロの方が推奨される。違う楽器2本のユニゾンだと音程が合いにくいからだが、シューベルトが敢えてリスクを犯したのはハンガリー・ジプシーの使う木管楽器の土臭い音色を、ダブル・リードのオーボエとシングル・リードのクラという異種の混合色で真似しようという意図があったからだという説もある。

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Aがハンガリー・ジプシーの短音階とされるものだが、@の↓のミ♭あたりが、クラシック音楽の一般的な短音階とは違って『こぶしを効かせた』感じとなる。これを半音高いミ・ナチュラルで演奏してみれば、この音が〈未完成〉の哀調を帯びた雰囲気の鍵を握っていることがお分かり頂けることだろう。

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ジプシー音楽はウィーンでも聴けたはずであり、シューベルトがツェレスで初めて接したということにはならないと思われるので、シューベルトの場合、時系列的な前後関係まで深追いしても意味はないが、ブラームスの場合は直接の伝授者がはっきりしている。17歳の時に知り合ったハンガリーからの亡命ヴァイオリニスト、レメーニだ。その成果が35歳の1868年に〈ハンガリー舞曲集〉として発表されたのはご存じのとおりだが、それより前に初演されて大成功を収めたハンガリー・ジプシー系の作品がある。それが他ならぬ、この〈ピアノ四重奏曲・第1番〉なのだ。

1861年にクララ・シューマンのピアノ他で行なわれた初演は、特に第4楽章が聴衆から最も喝采され、友人の大ヴァイオリニスト、ヨアヒムもこのフィナーレ楽章を絶賛したという。Bがその主題。この場合音程そのものは普通の旋律的短音階なのだが、6小節目(↓)で高く跳ね上がるあたりが民俗的だ(普通ならオクターヴ下になるはず)。

パソコンがフリーズしてしまったおかげで、この原稿は03年のニューイャー・コンサートを観ながら打っているのだが、アーノンクールが〈ハンガリー舞曲第5番〉をブラームスが一番気に入っていたというライヒェルトの編曲で演奏している。その中で最も目立った特徴は、主部の終わりで、旋律線が通常よりオクターヴ高く跳躍すること。この『裏返った』強調こそは、Bの6小節目と同じで、ブラームスがジプシー風と感じていたポイントの一つに他ならないのではあるまいかと、改めて実感した次第。フィナーレ楽章中間部のチェロに出てくる短調の主題Cなどは、ジプシーの嘆きそのものと言っても過言ではなく、理屈っぽい説明は不要だろう。
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-piano-quartet


交響曲をどう終わらせるか。ベートーヴェンの重圧。

ハイドンが100曲以上も交響曲を書き、モーツァルトも40曲を超えたのに、ベートーヴェンが9曲しか残さなかったのは後の交響曲作曲家にとって大きなプレッシャーとなった。数の少なさではなく、作曲家が芸術家としての全能力を注ぎ、思想的な主張まで折り込んだ選りすぐりの傑作として交響曲を位置づけなければならなくなったからだ。そのためブラームス、チャイコフスキー、ドヴォルジャーク等は、古典派の時代だったら交響曲としてもおかしくない内容の曲を、〈セレナード〉や〈組曲〉として発表することになる。シューベルトがロ短調交響曲を未完成のまま残した理由を、そうしたあたりに求める学者も少なくない。

シューベルトは6曲の未完成交響曲を残しているが、そのうちの5曲は〈6番〉を作曲した19歳より後に集中している。楽想は幾らでも湧いてくるのから、素材は直ぐに出来てしまうのだが、それを纏めあげてベートーヴェンに較べて見劣りしないような4楽章仕立ての大交響曲として仕上げるのが至難の業だったからだ。ロ短調の〈未完成〉の場合は、第1楽章からトロンボーンを使うのに加え、最初から大衆音楽としてのジプシーの要素を導入するなど、ベートーヴェンを越えようとする新機軸を採用して意欲満々で前半2楽章を書き終えたものの、その着地の仕方に手こずり、仕切り直し的に再挑戦したハ長調の〈グレイト〉で、一応、一つの解答を見出したところで神に召されたのである。

ブラームスの場合も2曲のピアノ協奏曲を、その内容の重厚さから『ピアノ独奏付きの交響曲』と呼ぶこともあるし、例えば〈交響曲第5番〉になるはずがヴァイオリンとチェロの〈二重協奏曲〉になったように、交響曲として着想した素材を、結局は違う形の曲に仕上げたケースも多い。

ブラームスは43歳の1876年に完成・初演した〈1番〉を含めて4曲しか交響曲を残していないのだが、シェーンベルクの堂々たる編曲でお聴きになれば、それより15年前に初演されたこの〈ピアノ四重奏曲・第1番〉こそは、2曲の〈セレナード〉よりも『幻の交響曲』に相応しいことを実感されるに違いない。シェーンベルクは、冗談めかして「ブラームスの〈5番〉」と呼んでいたそうだが、原曲の成立年代を考慮するなら、ブルックナー風に〈0番〉とする方が似合いではあるまいか。しかしその場合に引っ掛かる可能性があるのが、ジプシー音楽風のフィナーレなのだ。

フィナーレを締め括る『ジプシーの音楽』による熱狂

シェーンベルクは長さや構成は原曲を尊重して、オーケストレーションだけに仕事を限っているので比較し易い。もし仮にブラームス自身が同様の試みを行なったとしたら、色彩は比べ物にならないくらい地味になったに違いないにしろ、シェーンベルクの編曲版と同じく原寸大の交響曲的な大作が出来上がったのは間違いないのだ。もし、それを〈交響曲第1番〉として発表したなら、当時の批評は、前半3楽章の北ドイツ的な重厚さを認めつつも、新進気鋭の若手が力及ばず、第4楽章で「大衆音楽へ擦り寄った」として批判した可能性が強い。

我々が、こうしたフィナーレにそれほど違和感を感じないのは、既に後の〈ハンガリー舞曲集〉の編曲者としてのブラームスを知っていることも大きい。更には、チャイコフスキーの交響曲〈第4番〉やドヴォルジャークの〈8番〉等、民俗音楽的・民衆音楽的な要素を打ち出したフィナーレを結論とする交響曲が歴史的に承認されてしまってから後の耳で聴いているという事実も忘れてはなるまい。

結局ブラームスは、交響曲の終楽章としては4曲とも構成的に凝った『芸術音楽』として誰からも後ろ指を差されないフィナーレを書いたわけだが、このシェーンベルク編曲版を体験すると、血気盛んだった20代に、こうした舞曲的な乗りで最後にエネルギーを開放するタイプの交響曲 -- ベートーヴェンの〈7番〉やメンデルスゾーンの〈イタリア〉を継承してバッカス的な熱狂で終わるタイプのシンフォニーを発表しても良かったのではと思えるのだ。少なくとも筆者は、シェーンベルクの優れた編曲に感謝しつつ、後の4曲に比すべき本格的な交響曲として演奏するつもりである。

話を〈未完成〉に戻そう。一頃〈未完成〉を完成させようという試みが真剣になされ、作曲を公募するコンクールさえ行なわれたこともある。それをブラームス=シェーンベルクによる〈0番〉的な解答から遡って考えてみると、シューベルトの場合も、ハンガリー・ジプシー的なフィナーレ楽章という選択肢もあり得たのではないかという気がしてくる。今回この2曲が並んだのは偶然の賜物だが、〈未完成〉の『幻のフィナーレ楽章』という観点から、想像を巡らすのも一興であろう。
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シェーンベルクの編曲と楽章の解説
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この編曲はナチスを逃れてロサンジェルスに定住することになったシェーンベルクに、同様の境遇で同地にいた指揮者クレンペラーが提案することで実現した。チェロやヴィオラを弾いて原曲を知り尽くしていたシェーンベルクは、ブラームスの構造をいじることなく、オーケストレーションのみに徹して編曲を行なったが、ピッコロ&バス・クラリネット、コールアングレといったブラームスの使わなかった管楽器を含む3管編成で打楽器をマーラーの交響曲ばりに総動員したために、極めて色彩的なスコアとなっている。編曲は1937年、初演は翌38年5月7日にクレンペラーの指揮によってロスで行なわれた。その時のエピソードとして、この編曲を無調・12音技法の雄シェーンベルク自身の新作と勘違いしたロスのマネージャーが「なぜ人が『シェーンベルクにはメロディが無い』と言うのか私には分からんね。あの曲は、とてもメロディックなのに」と評したことが知られている。

第1楽章 アレグロ、ト短調、4/4拍子、ソナタ形式。

第1主題はDとEからなる。ブラームスは〈4番〉の第3楽章で、こうした双頭主題を上下に重ねて同時に出すといった芸当を見せるが、ここではDが終わったらEをという普通の形。しかし再現部ではE→Dと逆にして古典派的・図式的なシンメトリーを避けるように工夫し、全体がストーリー風に発展してゆくロマン派的な展開を選択。第2主題はFとその変容Gで、苦悩を内に秘めた第1主題群に対して、若者らしく積極的に進む意志が感じられる。

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20代のブラームスはシューマンによってヨーロッパ楽壇に華々しく『天才出現』と紹介されたものの、翌年そのシューマンが入水自殺を図り、やがて精神病院で没するという悲劇を目の当たりにした。これが23歳の1856年のこと。子供達を育てながらピアニスト・作曲家として活躍する未亡人クララ・シューマンに対する想いは生涯に亙って続くが、当時は極めて熱いものがあった。この楽章には、そうした『シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)』時代の青年作曲家の心の嵐と諦念が刻印されている。

第2楽章 "インテルメッツォ(間奏曲)" アレグロ・マ・ノン・トロッポ、ハ短調、9/8、三部形式。

インテルメッツォと題されてはいるがシューマン風な短いエピソードではなく、実質的にはかなり規模の大きなスケルツォ楽章。但しベートーヴェン的な哄笑や諧謔とは無縁で、主部はむしろ歌謡的。ブラームスは〈交響曲第2番〉の第3楽章で、牧歌的な主部に軽快なトリオを挟む『逆スケルツォ』を実践しているが、この楽章はその原型か。第1楽章の嘆きを継承したような暗い主部Hに、突然、光が差し込んだかのような軽快なトリオ(アニマート、変イ長調)Iが挟まれている。

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このIは5小節の変則的なメートリクを採用しているだけでなく、その中にシューマン→ブラームス楽派のDNAとも言うべきヘミオラのリズム・パターン(タイを使った2小節単位の3拍子)を含んでいるのが重要。メンデルスゾーン風のスケルツォの飛翔感にペンタゴン的な5角形の車輪を与えたようなこのトリオは、一見、ごく普通の走馬灯のように見えるが、実は、全曲中で最も過激な実験精神を秘めた箇所なのだ。後の〈ハイドンの主題による変奏曲〉の最後で5小節周期のパッサカリアを採用しているが、このトリオはテンポが速いぶん、リズム的な要素がマジカルに浮き上がってくる。

主部に戻った後のコーダは、トリオの陽光を回想しハ長調で結ばれる。

第3楽章 アンダンテ・コン・モート、変ホ長調、3/4、三部形式。

前楽章のコーダで予感されたように、ここで楽章としては初めて長調に転ずる。この楽章はオーケストラ化によってシンフォニックなスケールを獲得し、本格的な緩徐楽章としての訴えかけが一段と強まった。この主部J全体は〈交響曲第2番〉を走行試験的に先取りしているのだが、コーダでその原主題が、正に〈2番〉そのままの姿で現示されるあたりは、ブラームス・ファンにとって聞き逃せないポイントの一つであろう。

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付点リズムを特徴とする経過的エピソードを経て飛び込む中問部(アニマート、ハ長調)Kは、シェーンベルクがギャロップ風のリズムを打楽器群によって強調したために、騎馬軍団が走り抜けてゆくようなイメージが一段と鮮明になっている。

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第4楽章 "ロンド・アラ・ツインガレーゼ(ジプシー風のロンド)" プレスト、ト短調、2/4、ロンド形式。

シェーンベルクがこの楽章のジプシー風の性格を強調しているのは、冒頭のBの伴奏音型の弦に弓の木部で叩く奏法を要求して、ハンガリー・ジプシーの楽器チンバロン(棒状の撥で弦を叩くピアノの原型となる楽器)を模していることでも明らかだ。更に重要なのは、この楽章の舞曲的なエネルギーを謝肉祭的な熱狂へと開放するために、木琴、鉄琴、タンバリンといったブラームスが使わなかった打楽器群を総動員して、原色的なオーケストレーションを施していることだ。

シェーンベルクは第1楽章ではブラームスの渋い響きを尊重しているのだが、楽章を追うごとに色調を自らの時代の方に引き寄せ、このフィナーレで近代兵器としてのオーケストラのパレットを全開するのである。

3小節周期の乗りの良いメートリクを特徴とするBに対して、無窮動的なLは、祭のざわめきを感じさせるが、シェーンベルクがそこに原曲にはない不協和音によるハロウィン的なギャグを仕込んでいるあたりも聞き物だ。

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中間部でテンポが緩んで、Cを交えた新たなクープレに入るあたりは〈ハンガリー舞曲・第1番〉や〈5番〉と似たパターン。コーダ直前のカデンツァは、ストコフスキーを思わせるオルガン風な響きと、ソロ群の対比が鮮烈な効果を上げる。コーダのストレッタ(追い込み)もオーケストラ化による筋肉強化、特に金管群の音色旋律的な格闘が興奮を一段と煽り、舞曲的な熱狂が臨界に達したところで締め括られる。
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-piano-quartet/page-3

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[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
3. 中川隆[-14973] koaQ7Jey 2019年11月12日 21:26:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2067]
シェーンベルク編曲
ヨハン・シュトラウス2世:皇帝円舞曲の室内楽編曲(1925)


新ウィーン楽派編曲によるヨハン・シュトラウス2世:ワルツ作品集
皇帝円舞曲,南国のバラ,酒・女・歌,他
ボストン・シンフォニー・チェンバー・プレーヤーズ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=W1FO_SZJrsQ

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Johann Strauss II :Emperor Waltz(arr. Schoenberg)/Gidon Kremer and Friends - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UgfuWFA0hFs

Flute :Irena Grafenauer
Clarinet:Eduard Brunner(1939ー2017)
Violin:Gidon Kremer・Isabelle van Keulen
Viola :Tabea Zimmermann
Cello :Boris Pergamenshchikov(1948-2004)
Piano :Oleg Maisenberg
1989.5.12 Tokyo
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strauss Emperor Waltz, arranged by Schoenberg for chamber ensemble. - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=fKs0BJRAmy4

Strauss: Emperor Waltz, chamber arrangement by Schoenberg, performed by Mistral April 8, 2017
www.MistralMusic.org
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Johann Strauss II - Emperor Waltz arr. Schoenberg - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=vVc_6tP-jVU


Johann Strauss II - The Emperor Waltz, op. 437 (arr. Arnold Schoenberg)

Tulsa Camerata - February 24, 2011
Cascia Hall Performing Arts Center
Tulsa, OK

John Rush, flute
David Carter, clarinet
Liza Villarreal, violin
Phil Wachowski, viola
Krassimira Figg, violoncello
Allyson Eskitch, piano

audio recording by James Plumlee

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[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
4. 中川隆[-14972] koaQ7Jey 2019年11月12日 21:33:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2066]

ヨハン・シュトラウス2世:皇帝円舞曲の原曲


1. Januar - Kaiser Walzer - Emperor Waltz
- Vienna Philharmonic Orchestra cond. Bruno Walter - 1938 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=wANtIjI8hT8
https://www.youtube.com/watch?v=2Z1DOwzKZ8k

___

Emperor Waltz, Op. 437 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Y1abciW5WE0
https://www.youtube.com/watch?v=RTRLRGqnJ50

指揮:ブルーノ・ワルター
コロンビア交響楽団
録音:1956年3月22〜23日



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[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
5. 中川隆[-14971] koaQ7Jey 2019年11月12日 22:35:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2065]

シェーンベルク編曲
ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲の室内楽編曲(10人編成)


Debussy-Schoenberg Verein Prélude à l'après-midi d'un faune - Salastina Music Society - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MvrzwZvCXo0


Kevin Kumar and Maia Jasper, Artistic Directors & Violins
Meredith Crawford, Viola
Yves Dharamraj, Cello
Geoff Osika, Double Bass
Benjamin Smolen, Flute
Ariana Ghez, Oboe
Chris Stoutenborough, Clarinet
Scott Dunn, Piano
Grace Chung, Keyboard
with soprano Elissa Johnston filling in on percussion
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DEBUSSY - SCHÖNBERG (Transcrição) - Prélude à l'aprés-midi d'un faune - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=58Wcouog-8s


Orquestra Bachiana Brasileira
Solistas: Marcelo Bomfim, Flauta
Jorge Postel, Oboé, Marcos Passos, Clarineta
Tamara Ujakova, Piano, Elisa Wiermann, Harmonio
Direção e Regência: Ricardo Rocha

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ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲の原曲

Debussy - Prelude à l'après-midi d'un faune - Leningrad - Mravinsky - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9LpkGXLgPBo
https://www.youtube.com/watch?v=kbff0ll4RTQ

Leningrad Philharmonic Orchestra
Evgeny Mravinsky
Live recording, Moscow, 28.II.1965

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Claude Debussy, Prélude à l'Après-midi d'un faune - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bYyK922PsUw
https://www.youtube.com/watch?v=zInZfeEj-4Q

Charles Dutoit 1989年5月
Orchestre symphonique de Montréal
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html#c5

[リバイバル3] 中川隆 _ 経済、ビジネス関係投稿リンク 中川隆
137. 2019年11月13日 08:56:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2064]
イギリスはどうやってインドの綿工業を壊滅させたのか
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/715.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/813.html#c137
[リバイバル3] 高配当銘柄を買うとこういう目に遭う _ JT 日本たばこ産業 (2914) 中川隆
11. 中川隆[-14970] koaQ7Jey 2019年11月13日 09:23:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2063]

加熱式タバコ大国日本。電子タバコ規制強まる中で「加熱式」は大丈夫なの?
古川 雅子 2019/11/13
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急激に普及している加熱式タバコは、リスクが小さいというイメージが広がっているが……。© 撮影:今村拓馬急激に普及している加熱式タバコは、リスクが小さいというイメージが広がっているが……。
従来の紙巻タバコとは異なる、新しいタイプのタバコのリスクに注目が集まっている。

10月には科学雑誌『米国科学アカデミー紀要(PNAS)』オンライン版に、電子タバコから出る煙のような蒸気からの肺がん発症リスクを示唆する論文が掲載された。

さらに同月、電子タバコと関連がある呼吸器系の疾患と診断された患者の肺が、有毒な化学物質を吸い込んだときに似た状態になっているという調査結果が「ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」に掲載された。こうした動きから、アメリカではトランプ大統領が電子タバコの禁止に言及するに至った。

一方で、日本で普及しているのは電子タバコではなく「加熱式タバコ」だ。クリーンなイメージで販売されている「加熱式タバコ」なら安全なのか?

世界で規制される「電子タバコ」


海外で規制が強まる電子タバコ。アメリカではトランプ大統領が禁止を表明した。© REUTERS/Amr Abdallah Dalsh 海外で規制が強まる電子タバコ。アメリカではトランプ大統領が禁止を表明した。
世界各国で電子タバコの販売を禁止する動きが広がっている。

9月にトランプ大統領は、フレーバー付きの電子タバコを禁止すると表明。米大手スーパーのウォルマートも、アメリカ全土で電子タバコの販売を中止すると発表した。

さらに、ニューヨーク州やミシガン州が一部の電子タバコの販売を禁止。ついにはCDC(アメリカ疾病予防管理センター)が、電子タバコの使用と関連した肺損傷とみられる症状の患者が1080人に達し、一連のアウトブレーク(集団発生)における死者は18人に上っていると発表した(10月1日時点の数字)。

また、インドでも、電子タバコの販売や輸入が禁止されている。

日本で販売されているのは、「加熱式タバコ」と呼ばれる。ここでは「電子タバコ」と合わせて「新型タバコ」として、従来の紙巻タバコと区別して表記する。

電子タバコと加熱式タバコは呼称こそ違うが、筒状で発熱する電子デバイスを使用したり、煙のような「エアロゾル」 (気体中に浮かぶ微小な液体・個体粒子の総称。ベイパーとも呼ばれる)を発生させたり、見た目や使い方も両者は似ており、一般には区別がつきにくい。新型タバコから発生するエアロゾルは、無害な水蒸気ではなく、有害成分を含むミストだ。

日本で加熱式タバコの「IQOS(アイコス)」を販売しているフィリップ・モリス・ジャパンと、「Ploom(プルーム)」を販売している日本タバコ産業(JT)それぞれに、まずは海外で話題の「電子タバコ」にまつわる規制強化の動きやリスクについてどのような認識を持っているか問い合わせた。

フィリップ・モリス・インターナショナルのメディカル部門からは以下の回答がきた。


「アメリカ疾病管理予防センター(CDC)、アメリカ食品医薬品局(FDA)による調査に関する一連の報道で触れられているのは電子タバコであり、加熱式タバコIQOSとは異なる製品。IQOSは加熱式タバコシステムで、溶液を加熱するのではなく、(実際の)たばこ葉が入ったスティックを加熱するデバイスです」

JTの回答は以下だ。


「弊社の Ploom 製品(プルーム・テック/プルーム・テック・プラス/プルーム・エス)は電子タバコではなく、 加熱式タバコ。電子タバコはタバコ葉を使用せず、香料を含む液体(リキッド)を電気加熱し、 発生する蒸気(ベイパー)を愉しむ製品。

一方、加熱式タバコはタバコ葉を使用したタバコ製品です。そのため、アメリカで問題となっている電子タバコとはそもそも異なる製品」

これらの回答に対し、長年にわたりタバコ対策の研究に従事する、医学博士で大阪国際がんセンターがん対策センター疫学統計部副部長の田淵貴大氏はこう指摘する。


「『電子タバコと加熱式タバコは違います。今、アメリカで問題になって健康被害で訴えられているのは電子タバコの方です』といった説明は、タバコ会社の思惑通りに世論を誘導するための決め台詞でしょう。

中身は違うものですとアピールしたいのでしょうが、電子タバコと加熱式タバコには多くの共通点があり、特にプルーム・テックは電子タバコと非常によく似た製品です。さらに言うと、世界的には、むしろ電子タバコよりも加熱式タバコの方が有害だと考えられています」

田淵氏は根拠の一つとして、欧米のタバコ対策専門誌の論文にそれぞれの製品による発がんリスクが推定されており、発がんリスクが大きい順に、“加熱式タバコ>電子タバコ”と書かれていることを挙げた。

「加熱式タバコ」が日本でブレークした理由


「日本は世界で唯一の『加熱式タバコ大国』になった」(田淵氏)という。© 撮影:今村拓馬「日本は世界で唯一の『加熱式タバコ大国』になった」(田淵氏)という。
そもそも、日本では「ニコチン入り」の電子タバコは厚生労働省管轄の「医療品医療機器等法(薬機法、旧薬事法)」により規制されており、公には販売されていない。国内に流通するのは、法的な規制が十分でない、ニコチンを含まない電子タバコ製品だ。

一方で、加熱式タバコのIQOSはパイプタバコに該当する「タバコ製品」として、たばこ税を管轄する財務省が、世界のどこよりも早く認可した。

まず2014年に日本の一部の都市限定で販売を開始。2016年には世界で初めて日本が「全国的に」IQOSを販売している国になった。同年10月時点で、世界シェアの96%を占めていたという(ユーロモニター調査)。

ではなぜ、日本では「加熱式」が簡単に販売されたのか?

田淵氏は、こう指摘する。


「今までにも販売されたことのある電子式のタバコ製品と同様、『たいして売れず、社会への影響力はさほど大きくないだろう』という読みだったのではないか」

ところが実際には日本でブレークし、品薄状態になった時期もあった。 田淵氏の研究グループによる調査では、 2015年から2017年にかけて、加熱式タバコ(IQOS)を 30日以内に使用、つまり「現在使用している」人の割合は、0・3%から3・6%に増えていた。2年間に10倍以上の伸びだ。

一方、日本以外の国では、「2018年初頭から規制を強化したシンガポールのように、この未知のタバコ製品は危険だとして、あわてて加熱式タバコを禁止した国もあるくらい」(田淵氏)なのだという。だからこそ、


「従来の紙巻タバコとはかなり違うタイプの製品であり、安全か否かの確認が不十分な段階で、国として販売を許可してよかったのか?判断するには時期尚早ではなかったか?」

と田淵氏は疑問を投げかける。

新型タバコでもニコチン依存に


IQOSの広告には「有害性成分の量が約90%低減」と注意書きに記されているが、誤解を生みかねない。© 撮影:今村拓馬 IQOSの広告には「有害性成分の量が約90%低減」と注意書きに記されているが、誤解を生みかねない。
さらに問題なのは、加熱式タバコには害がないと誤解させるようなプロモーション活動を展開している点だと、田淵氏は指摘する。健康に及ぼす影響の可能性について、先述の2社はこう回答した。


「1. 紙巻タバコから完全にIQOSに切替えると、紙巻タバコを吸い続けたときに比べ、健康リスクの低減が見込まれます。

2. IQOSは紙巻タバコと比較し、有害性成分の量が平均で95%低減されています」(フィリップ・モリス)

「当社の加熱式タバコから発生するタバコベイパー(編集部注:エアロゾル) について、WHO が健康へのリスクの観点から含有量の低減を優先して推奨している9つの健康懸念物質がどの程度含まれるのかを調査したところ、従来の紙巻タバコのタバコ煙に比べて、大幅に低減されておりました。

プルーム・テック:99%以上、プルーム・テック・プラス: 99%以上、プルーム・エス:90%以上」(JT)

これに対し、田淵氏の指摘はこうだ。


「広告物に『9割以上低減』と大きな文字で書かれていたら、健康にほぼ害がないと誤解してしまう。実際には、発がん性物質など多くの種類の紙巻きタバコと共通の有害物質が加熱式タバコからも検出されている。

複数の研究機関による分析結果をまとめた論文では、紙巻タバコと比較して、有害物質のうち減った物質もあれば、減っていない物質もあり、さらには加熱式タバコの方が多くなっている物質もあった。一律に低減されているわけではありません。さらに、加熱式タバコにはニコチンは多く含まれますから、ニコチン依存はどちらにせよ維持されます」

「未知の物質による有害性も懸念材料の一つ。最近海外から出た論文では、ニコチン入りの電子タバコを実験動物に吸わせ続けたら、電子タバコの成分で肺がんになると報告されました。電子タバコでも発がんリスクが指摘されていますが、 2018年に出されたタバコ規制の専門誌 『Tobacco Control』の論文によれば、 加熱式タバコからは電子タバコよりも多量の発がん性物質が検出されています 」

なお、消費者へのリスク提示について、両社の方針はこうだ。


「私たちは、加熱式タバコには紙巻タバコの喫煙に伴う健康へのリスクを低減させる可能性があると考えていますが、 加熱式タバコがリスクの低減された製品であることを結論づけるにはさらなる研究が必要であり、評価を進めています。

またIQOSにリスクがないわけではなく、IQOS専用たばこスティックには、喫煙関連疾患の主要因ではないものの依存性のあるニコチンが含まれます、とお伝えしています」(フィリップ・モリス)

「加熱式タバコ(T-vapor: プルーム・テック/プルーム・テック・プラス/プルーム・エス)には、タバコ葉を使用しています。

このため、加熱式タバコの使用には健康へのリスクが伴います。私たちは、当社の加熱式タバコをリスク低減が証明された製品としての有力な候補として捉え、期待を寄せていますが、現時点では『リスクが低減された製品である』と断言したり、訴求したりするに足る科学的証拠は揃っていません。そのため、『害が低減されている』という内容ではなく、あくまで『健康懸念物質が低減されている』という調査結果をお客さまにお伝えしております」(JT)

実際フィリップ・モリス・インターナショナルは、IQOSをリスク低減製品(Modified Risk Tobacco Product)として販売できるよう、アメリカのFDAに申請し続けているが、現在においても認められていない。

これまでの審議でFDAの専門委員は9人中8人(1人は棄権)が「IQOSに切り替えても、病気になるリスクは減らない」と判定している。しかし、IQOSはリスク低減製品としてではなく、「一般のタバコ製品」として2019年4月にアメリカ国内での販売が認可され、10月からアトランタでの販売が開始されている。

受動喫煙のリスクをどう考えるか


「加熱式タバコ大国となった日本は時代に逆行している」と田淵氏は警鐘を鳴らす。© 撮影:今村拓馬「加熱式タバコ大国となった日本は時代に逆行している」と田淵氏は警鐘を鳴らす。
ここにきて、日本で新型タバコを吸う人が急増している。田淵氏が厚生労働科学特別研究事業の一環で2018年に実施した調査からは、日本の成人の約10%もの人が新型タバコを吸っているとわかった。

興味深いのは、日本で加熱式タバコがブレークした理由について、JTのマーケティング部門の責任者が、2017年に掲載されたBloomberg記事で下記のように分析している点だ。
法律上の規制で国内で電子タバコが出回っていない。
他国と比べて日本人が周りに配慮する風潮がある。
ガジェット(電子機器)好き。

2018年には改正健康増進法が可決され、日本社会も「受動喫煙を防止する社会」への転換期にある。2020年には五輪開催国として、国際化の波にもさらされる。「まだまだ受動喫煙の対策は不十分」との声も聞こえてくる。

田淵氏は、受動喫煙防止の観点からも、「加熱式タバコ大国」の現状に警鐘を鳴らす。


「他人に配慮するからこそ、空気を読む国民性だからこそ、マナーに配慮したガジェットなんだと擦り込まれてしまう可能性があります。紙巻タバコの煙がモクモクしている環境に比べれば、確かに受動喫煙に関しては加熱式タバコの方がましかもしれません。

しかし、これまでは子どもや家族への害に配慮して家や車の中でタバコを吸わなかったお父さんが『加熱式ならいいか』と吸い始めたり、『加熱式OK』のレストランが増えたりしています。日本社会はある意味、時代に逆行しています。これだけ加熱式が増えてしまったのは日本だけであり、大きな問題だと思っています」
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e5%8a%a0%e7%86%b1%e5%bc%8f%e3%82%bf%e3%83%90%e3%82%b3%e5%a4%a7%e5%9b%bd%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%80%82%e9%9b%bb%e5%ad%90%e3%82%bf%e3%83%90%e3%82%b3%e8%a6%8f%e5%88%b6%e5%bc%b7%e3%81%be%e3%82%8b%e4%b8%ad%e3%81%a7%e3%80%8c%e5%8a%a0%e7%86%b1%e5%bc%8f%e3%80%8d%e3%81%af%e5%a4%a7%e4%b8%88%e5%a4%ab%e3%81%aa%e3%81%ae%ef%bc%9f/ar-BBWEMsk?ocid=ientp#page=2
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/976.html#c11

[リバイバル3] 水道料金「月額2万円」時代へ? 値上げと地域格差拡大の背景 中川隆
24. 中川隆[-14969] koaQ7Jey 2019年11月13日 10:01:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2062]
財務省が下水道料金への公費削減や値上げを提言 水道民営化への地ならし

政治経済2019年11月13日

 財務省が自治体の下水道事業について、公費投入を削って使用料値上げを促す方針を明らかにした。同時にコスト削減のため、事業運営の広域化をおし進める方向も示した。安倍政府は民営化を進めるための改定水道法(昨年12月成立)を10月1日にこっそり施行したが、下水道事業を手始めに公費負担を絞りこみ、水道事業全体に民間企業参入を広げていく地ならしに着手している。


 財務省は6日、財政制度等審議会(財務相の諮問機関)・財政制度分科会で「公営企業改革」について提言した。そこで「下水道事業の費用負担に関する基本原則は“雨水公費・汚水私費”(雨水の処理は公費で賄うが人工的に生み出された汚水は使用者が負担する)」であるにもかかわらず、「汚水処理に要する費用を使用料で賄っている割合(経費回収割合)は平均でも7割程度」と指摘し「基本原則が貫徹されているとは言い難い」と批判している。


 そして「経費回収割合を引き上げるための一つの方法は、汚水処理に要する費用の抑制」と主張し「広域化・共同化への取組を着実に進めるべきだ」と提言している。


 さらに各地方自治体が汚水処理費に見合う使用料値上げへ踏み切ることを促すため「一般会計等からの繰入れ(公費投入)を抑え、受益と負担の対応関係を明確化させる」ことも明記した。下水道事業に関する公費負担については「真に必要な範囲に限定されているか、使用料引き上げへの意欲を削ぐものとなっていないかといった観点から検証が必要」とし、公費負担額算出基準の見直しにも言及した。それは下水道事業の公費負担額を引き下げ、使用料値上げと下水道事業の広域化によって収益が上がる構造をつくり、民間企業や外資参入を促進する施策の一環にほかならない。


 安倍政府が昨年12月に成立を強行した改定水道法は、水道施設を自治体が保有したまま民間事業者に運営権を売りとばす「コンセッション方式」の導入が柱である。従来の「業務委託」は、水道施設を自治体が所有し、自治体が委託料を払って部分的な業務を民間企業に任せる方式で、民間企業が得る利益は限られていた。また施設ごとの民間企業が所有する「JR型の民営化」は、自然災害で施設が破損すれば巨額な復旧費が欠かせないというリスクがある。

 こうした営利企業が参入を渋る要因をみなとり除いたのが「コンセッション方式」である。それは水道施設を使って自由にもうけることを参入企業に認め(水道料金はみな企業の収入になる)、大規模災害で水道施設が破損すると、その復旧費は地方自治体(税金)にかぶせる仕組みである。

水道料金に「役員報酬」も加算

 実際に厚労省が9月末に発表した「水道施設運営権の設定に係る許可に関するガイドライン」は、コンセッション方式について「地方公共団体が水道事業者」という位置づけを維持したまま「水道施設運営権」のみ民間事業者に「設定できる」と明記した。


 そして自治体側が担当する業務と民間業者が担う業務について次のようにすみわけしている。


【自治体が担う業務】(水道事業の全体方針の決定・全体管理)
▽経営方針の決定
▽議会への対応、条例の制定
▽認可の申請・届け出
▽供給規定の策定
▽危機管理に関する重要な意思決定
▽給水契約の締結、国庫補助の申請
▽水利使用許可の申請
▽指定給水装置工事事業者指定


【民間企業(外資含む)が実施可能な事業】
●水道施設の整備・管理
▽水道施設の更新・大規模修繕・増築
▽水道施設の運転管理・維持・点検
▽給水装置の管理
▽水質検査
●営業・サービス
▽料金の設定・徴収
▽水道の開栓・閉栓
▽利用者の窓口対応
●危機管理
▽災害・事故等への対策
▽応急給水・応急復旧
▽被災水道事業者への応援


 またコンセッション導入後の水道料金設定については「役員報酬」も原価として算出する方向が明るみに出ている。これまで水道料金原価といえば「人件費、薬品費、動力費、修繕費、受水費、減価償却費、資産消耗費、公租公課、その他営業費用の合算額」などだったが、新たに水道事業参入を目指す外資や営利企業の役員報酬を保障するために、水道料金の値上げを可能にする規定は施行段階にきている。10月に施行した改定水道法も「適正な原価に照らし公正妥当な料金」としていた改定前の料金規定が「健全な経営を確保することができる公正妥当な料金」に変わっている。


 さらに「費用分担」の項では「被害が大規模で事業運営へ多大な影響がある等、水道施設運営権者が合理的な経営努力を行ってもなお負担しきれないと考えられるものは原則として水道事業者等」と規定した。これは大規模な災害が起きれば水道事業者である自治体に復旧費をみな押しつけるという内容だ。日頃は営利企業が水道施設を使って利益を上げるため無制限の水道料金値上げを認め、大規模災害が起きればその復旧費はみな自治体負担(税金)にかぶせるという制度である。


 こうした水道民営化に向けた地ならしが国主導で進行している。それが下水道事業の公費負担削減や使用料値上げの動きとなって表面化している。
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/14192
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/908.html#c24

[リバイバル3] 宇野功芳 ブルーノ・ワルターと我が音楽人生 中川隆
30. 中川隆[-14968] koaQ7Jey 2019年11月13日 11:53:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2061]

宇野功芳氏について
2016 JUN 23 東 賢太郎

僕がクラシックを聴き始めてまず基礎的な知識を仕入れたのはレコード芸術という月刊誌だった。多彩な評論家のレコード評を読みながらなるほどそういうものかと覚えていったから実用的な教科書みたいなものだった。

文章を読むのは入門には有益だ。クラシック音楽は楽譜と同じぐらいに言葉によって存立している。百年も二百年も前に作られて以来、数多の人が投げかけた無尽蔵の感嘆詞や文章の集積、集大成がそれをクラシックたらしめているといって過言ではないだろう。

だから我々は名曲を耳だけでなく評論という形で目からも覚えることができる。そのほうが記憶は強化できるのだ。ワインといっしょで、世間ではどういうものが三ツ星なのかを知って自分の耳で覚える。今度は別な演奏をその記憶と照らし合わせてみる。それが圧倒的に速い方法であることは僕だけでなく多くの友人が実証している。

レコ芸の論者はいろいろ個性的な方がおられた。評論家は商売なのにコマーシャリズムを見下す大木正興さんの評論の立ち位置は微妙だったが、あの硬派な権威主義とアカデミズム、一刀両断のスタンスには有無を言わせぬものがあった。原稿料で食ってもそれが自分の美学を揺るがすことはないという頑とした矜持は当時の僕にはどこか知的で格好良くもあった。あれはさすが美学科だ。

仏文科の吉田秀和さんは月評は書かない、彼はむしろ音楽に博識の文人、文学者だが、東京帝国大学という官僚養成学校の欧州文明文化の翻訳・解釈に根差した教養がご両人ともベースにあるのは同じだろう。僕は大木さんのスタンスの方が肌に合い、彼のドイツ礼賛と米国蔑視は徹底していたものだからその影響ももろにかぶった。第2外国語がなんとなくドイツ語になったのはそのせいだし、後に米国留学してもそれがなかなかぬけずに困ったものだ。

東大色濃厚のご両人に対し先日他界された宇野功芳さんはリベラルで主情的で正直のところやや軽く見ていた。ただ、他の先生たちよりも文章がわかりやすくお堅いクラシックを大衆芸能みたいにイメージさせる強みは絶大で、聞く前から聞いた気にさせてくれる。大木さん、吉田さんだと知らない自分が恥ずかしい風になるが、宇野さんは文章と一緒に聞いている気分になってくるので読んで抵抗がない。これは才能だと思った。

とくに宇野さんを見直したのは、自分で指揮をされるのを知ってからだ。音楽=教養というのは変だと思い始めていた頃で、そういうスタンスで教わったから自分は音楽の授業が嫌いだったのだと気がついたのがきっかけだ。プレーヤーの言葉、評論こそ読みたいものだと思い至るようになっていたから、指揮者でもある宇野さんのそれに謙虚になった。

彼の演奏を聞いてみると、趣味はまったくあわないが評論内容とは言行一致しており、自分丸出しでやりたい放題のすがすがしさが気に入った。なるほど音楽は「するもの」だと思い、ピアノを練習しスコアをじっくり読み始めたのはそこからだ。だから僕は六法全書より楽理書のほうが詳しくなった。これは彼のおかげといえる。

caplanその路線でいうなら、米国の経済誌インスティテューショナル・インベスター社の創業者ギルバート・キャプラン氏はあこがれの人だった。音楽教育は受けていないが偏愛するマーラー交響曲第2番「復活」のみを専門に振る指揮者として著名であり、私財で購入したマーラー自筆譜を元にした新校訂版「キャプラン版」での録音をウィーン・フィル(!)とドイッチェ・グラモフォンに行っているスーパー素人である(右)。

指揮は習う必要があるので時間がない。そこで向かったのがシンセサイザーによるMIDI録音・演奏だ。91年ごろで当時そんな機具を買うのは専門家だけだった。やってみるとこちらも時間を要したが十分の満足感があった。全パートを耳で合わせながら弾くのだからオーケストラのスコアがわかるようになったが、それよりもそれをやることでピアノがもう少し弾けるようになったのが助かった。それで未完成やエロイカや悲愴交響曲の一部を弾いたりしながら、楽譜上の数々のことが腑に落ちた。

すると、だんだん他人の演奏や評論は興味がなくなり、スコアだけ見ていてイマジネーションをふくらませて、「答え合わせ」に他人のを聴くということになった。実際にシンセで録音してから誰かのCDを聞くとどういうわけかそっちもシンセ録音に聞こえてきて(耳がそういう処理をしてしまうようだ)、もちろんその刹那は自分の演奏のほうが良いと思っていた。いまそれを聴くと不遜なことだったと恥じ入るばかりだが。

そうこうしてふりかえると、もう大木氏や吉田氏や宇野氏のような聴き方をしていない自分になっていた。それがドイツ駐在の40才あたりだ。だからフランクフルトにいた3年間は、ドイツの森を歩きワーグナーの楽劇を知り、ベートーベンやメンデルスゾーンやシューマンやブラームスと同じものを食べて同じ空気を呼吸して、家にいる間は四六時中シンセ音楽作りに没頭して音楽の聴き方に決定的な転換点がもたらされた、僕の人生にとってもメルクマールとなる3年間だった。

そんなことをしながら初めて現法の社長という仕事をやったというのも嘘のようだが、自画自賛になるが必死にやって成果も出した。充実した手ごたえが残っているし、38才の小僧が会社のおかげで成長もさせていただいた。実は東京で辞令が出た時に、ドイツへ行くのが不服で会社を辞めようかと考えた。そうしなかったのはそこまでの自信も勇気もなかったからだが、今となると大正解だった。シンセで多大な時間を食ったからもっと子供と遊んでやればよかったと申し訳ないが、音楽とは僕にとってそこまで犠牲を払った特別なものだ。

宇野さんが演奏家だなと思うのはシューリヒト、クナッパーツブッシュの評価の文章だ。彼は即興性、自発性を重視しており、カチッとした枠組みをつくるハンガリー系や人工的、紋切型は嫌いだという顕著な傾向がそこに読み取れるが、自分がスコアをどう読むかに照らして評価しているというベースがあるというのは大切だと思う。教養主義の美学でなく実践的、現場的で自己流の美学だが、僕は今はそのほうが共感を持てるようになっている。

音楽は好き嫌いでいい。というかそれしかない。「名曲だから聴きましょう」はない。僕がブログにするのも楽譜までもちだすのも、知識をひけらかすためでなく、その曲がその箇所がメシより好きだからであって、その箇所を自分の手で音にしたいために何時間もピアノやシンセで格闘したからだ。こういう風になったのは多分に僕流のことなのだろうが、「クラシックを聴く」流儀にはこんなにケッタイなのもありだ。自分の好きなようにやればいいし、かくあるべしなんて決まりは一切ないということだ。

ここに至るまでの里程標として多くの演奏家や評論家の方々のお世話になったが、宇野さんにはその中でも「自分でする」という大事なスタンスを教えていただいた。ご冥福をお祈りしたい。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2016/06/23/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3%E6%B0%8F%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/529.html#c30

[近代史02] LPの音をSPの音に変える魔法のスピーカ タンノイ オートグラフ _ 2流オケの音もウイーン・フィルの響きに変える奇跡 中川隆
139. 中川隆[-14967] koaQ7Jey 2019年11月13日 12:32:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2060]
どうも気になる「タンノイ」さんのオークション - 「音楽&オーディオ」の小部屋 2019年11月13日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/df629ef2aeef7672918cc942f559d86a


「タンノイ」といえば英国を代表するクラシック向きのスピーカーとしてよく知られていますよね。

もし知らない方がいるとすれば、それはこの世界では「潜(もぐ)り」です(笑)。

日本でも根強い人気があって、クラシック・ファンであれば購入時に候補として一度は俎上に乗せると言っても過言ではあるまい。

自分もその例に漏れない。しかし、実際に購入してはみたものの、そのタンノイさんに不満を感じだしたのにそれほど時間はかからなかった。

なにしろ低音域はボンヤリしているし、グッドマン系に比べると中高音域はやたらに硬いしヴァイオリンの音色もイマイチ。

まあ、人それぞれだけどね(笑)。

オーディオに限っては思い切った「行動派」なので、ボックスだけは少しの改良に留めてそのまま活用することにし、中身のユニットについてはそっくり入れ替えた。

ただし、黙っておけばいいものをときどきブログでタンノイさんの否定的な面を強調したりするもんだから、途端に該当記事の「共感バナー」のアクセスが減少気味になるのに気付いている(笑)。

このブログの読者の中には「タンノイ使用者」が多い現実に改めて気付かされるが、何といっても(このブログの)取り柄は「自分の思ったままに書く」ことだけなので怯むつもりはまったくない。

とはいえ、「雉も鳴かずば撃たれまいに」の感はたしかにある(笑)。

そういう状況のもとで、ずっと昔のタンノイさんのモデルについてはある種の憧憬をいまだに持っている。

たとえばユニットにとって一番大切な「マグネット」でいえば「シルヴァー」「レッド」「ゴールド」あたりのもので、とても透明感に優れ、しなやかな中低音域に恵まれているのが素敵。

お値段次第によって”あわよくば手に入れたい”という色気はまだ捨て切れていない。

そういう中、このほど興味深い出品物が二つあった。

まずは、箱の方から。

解説には、「タンノイ 12インチ用 オートグラフエンクロージャ Utopia製 ペア の出品です。同時出品しておりますモニターシルバーを取り付けていたエンクロージャです。ユートピア社により、オリジナルを忠実に12インチ用にスケールダウンされたものです。」

素人の工作ではまず無理ともいえる豪華な箱に大いに食指をそそられる。

そして、中に容れる肝心のユニットはもはや幻の存在とも言っていい「モニター・シルヴァー」である。

   

解説では、「タンノイ モニターシルバー 12インチ LSU/HF/12L ペア の出品です。センターキャップが装着されていないので、おそらく希少な初期型のユニットかと思います。

コーン紙の状態は、撚れやピンホールも無く良い状態かと思います。出品に当たり、音出し確認を行いましたが、ビビリも無く問題の無いことを確認しました。ネットワークはおそらくオリジナルと思われます(購入時に販売店より聞いています)が、カバーの欠品と当方の浅学のため断言出来ません。」

ちなみに、口径38センチの「モニターシルヴァー」と「コーナーヨーク」(オリジナル)の箱のセットを持っている知人の話によるとペアで「180万円」で手に入れたとのことだった。

   

今回は口径「12インチ」(30センチ)だから、やや小ぶりになるが自分の好みでは「38センチ」よりも「口径30センチ」の方がスケール感では劣るものの音声信号に対する応答性に関しては上。

したがって願ったりかなったりの出品物だが、スペースの関係で箱の方はちょっと厳しい。

問題はユニットである。最後まで注目していたところ、最終落札価格は「601、000円」(10日夜)なり。

ちなみに箱の方は「102,000円」だった。合計すると「703,00円」になる。安ッ!

「ウェストミンスター」を持ってなければ参戦したんだけどなあ(笑)。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/df629ef2aeef7672918cc942f559d86a
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/494.html#c139

[リバイバル3] 富士山登山を「ニコ生」中継中に滑落か 救助隊が捜索 中川隆
67. 中川隆[-14966] koaQ7Jey 2019年11月13日 14:15:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2059]

富士山頂から700m、高速で岩などに衝突し続けたか…配信中滑落
読売新聞 2019/11/13 09:51

積雪がみられる富士山(12日夕)© 読売新聞積雪がみられる富士山(12日夕)

 静岡県警は12日、10月30日に富士山の7合目付近(標高約3000メートル)で見つかった身元不明の遺体について、東京都新宿区西早稲田の塩原徹さん(47)と判明したと公表した。状況から十分な装備をせずに冬の富士登山を強行していたとみられる。今回のように7〜9月の開山期以外に登って遭難するケースは後を絶たず、県や県警は安易な入山を控えるよう呼びかけている。

 御殿場署などによると、塩原さんは、10月28日午後、自らが富士登山する様子を動画撮影し、インターネットに生配信していた際に、滑落したものとみられる。その時とみられる動画では、男性が実況中継をしながら雪山をゆっくりと歩き、「滑る」と叫んだ瞬間に滑落する様子が映っていた。

 ネット上はすぐに騒然となり、静岡、山梨両県警に通報があった。県警の山岳遭難救助隊は2日後に雪に埋もれた状態の遺体を発見した。身元を特定できる所持品がないほか、遺体の損傷が激しかったこともあり、身元の割り出しに時間がかかったという。

 塩原さんの遺体は、衣服もぼろぼろの状態だった。山頂付近から700メートルにわたって高速で滑落し、岩などに体を衝突させ続けたとみられる。署の幹部は「冬の富士登山ができるような装備ではなく、軽装だったようだ」としている。

 県警地域課によると、富士山静岡県側での閉山期の山岳遭難の件数は、2013年以降、9〜19件で推移し、1〜6人が死亡している。今年も10月31日現在で、今回の遭難を含めて7件発生している。13年1月には登山経験のない若い女性2人が、普段着にスニーカーで富士山に入った。体調不良で自力下山ができなくなり、山岳遭難救助隊が救助した。

 県警などは、閉山期の登山を控えるよう呼びかけているものの、「自己責任」の登山が黙認されているのが現状だ。世界文化遺産として13年に登録されたことを機に、観光スポットとしての人気も高まっており、外国人の入山も多い。このため県などは、冬場の登山の危険性を周知するパンフレットなどを配布している。

 閉山期に登る理由は、海外の山々に挑む登山家の訓練や、周囲に人がいない富士山を楽しむことなど様々だ。富士宮市小泉の登山用品店「ATC Store」の芦川雅哉店長(48)は、「SNSなどで(冬季の)富士登山の様子を目にする機会が多くなった」と指摘する。そのうえで、「十分な装備をしていたとしても、滑落してしまえば遮る木もなく、止まることがない。夏と違って周囲に助けてくれる人もいない」と危険性を訴えた。

 県警山岳遭難救助隊の坂上雅信副隊長は、「冬の富士山は特に風が強く、経験者でも非常に危険だ。夏と冬の富士山は完全に別物で、閉山期の登山は自粛してほしい」と呼びかけている。
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e5%af%8c%e5%a3%ab%e5%b1%b1%e9%a0%82%e3%81%8b%e3%82%89%ef%bc%97%ef%bc%90%ef%bc%90%ef%bd%8d%e3%80%81%e9%ab%98%e9%80%9f%e3%81%a7%e5%b2%a9%e3%81%aa%e3%81%a9%e3%81%ab%e8%a1%9d%e7%aa%81%e3%81%97%e7%b6%9a%e3%81%91%e3%81%9f%e3%81%8b%e2%80%a6%e9%85%8d%e4%bf%a1%e4%b8%ad%e6%bb%91%e8%90%bd/ar-BBWFcp0?ocid=ientp#page=2
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1012.html#c67

[リバイバル3] 音楽はこういう部屋で聴きたい 中川隆
77. 中川隆[-14965] koaQ7Jey 2019年11月13日 14:25:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2058]
>>73 に追記

音場の再生について 2 GRFのある部屋 2019年 11月 13日
https://tannoy.exblog.jp/30894180/


始めてSD05で鳴らした時のGRFの音には驚きました。自分の部屋にオーケストラが現れたからです。二階席の一番前からオーケストラを見下ろすように聴いているように、目の前にオーケストラが出現したたのです。なにより驚いたのは、オーディオ装置では、難しいとされたヴィオラやチェロの音が浮かび上がってきたことです。内声部の音や、センター部分の弦楽器、木管楽器がはっきりと聞こえます。音が立体的になり、弦楽器群が確かに複数の楽器の「群」として厚みを持って聞こえます。


その厚みと、中声部の充実がオーケストラ再生に、実在感を与えていたのです。そのような音は今まで聴いたことがありませんでした。そして、弦楽器の弓を動かす、擦過音が細かく再生され、音にリアリティが表れます。弦楽器のユニゾンがこんなに綺麗だったとは、本当に驚きました。そして、オーケストラの奥から響いてくるティンパニーや大太鼓の深い響きが、実在感を増したのです。


どうして、急にこのような音になったのか、私なりに考えてみました。先のNFBがないので、音に特有の音が乗らず、CDやレコード本来の音が、そのまま再生されてきたのです。すると、GRFから発生した逆起電力が、アンプに戻らず、信号が一方通行で流れて、本来持っている音がそのまま素直に出たのですね。石田さんが提唱されていた、FOB =Feeling of Beingの通り素直な音が出たおかげでしょう。


しかし、周波数特性が素直になっただけで、このような音場が出現するとは思えません。石田さんにもいろいろ尋ねて、出てきた答えが、ステレオでは一番大事なクロストークの特性が、全く違うと言うことでした。昔から、本格的にステレオを再生するには、電源的に左右が繋がってしまう、ステレオアンプでは、筐体内部でのクロストークが増えて、お互いの音を打ち消されるので、正確なステレオ再生が難しいと言われてきました。その為、私自身も、パワーアンプはモノラルアンプを二台使っていました。マッキントッシュの2500もサウンドパーツの6550ppもモノラル仕様でした。ステレオアンプですと、雄大な音の広がりが欠けるからです。

f0108399_10165453.jpg


最初にSD05を繋いだとき、左右のセパレーションが悪く、やはりステレオアンプでは、雄大なスケールが出ないと思っていました。その旨を石田さんに伝えると、そうでは無い、左右のクロストークがほとんど無いから、今まで打ち消されていたセンター部分の音が聞こえて、一見セパレーションが悪く聞こえているだと言われました。


ん?


セパレーションがよく聴けるステレオの音の方が、クロストークが発生している?


SD05の中では、左右の信号は、出力用パワートランジスターの直前まで、デジタル信号なので、アンプ内で通常起こっている左右の音が混同が無い、との説明でした。だから、中央部分の音が消されないので、真ん中からも、センター寄りの右も左も音が聞こえてくるのだと。オープンリールテープの様に、しっかりと左右のセパレーションが確保されているから、中央部分からも音が薄くならず、しっかりと定位して聞こえてくるのだと言われました。

f0108399_11301921.jpg


しばらく、聞き込んで行くと、その意味がだんだん解ってもくると。スタジオでのモノラル録音を左右に振り分けたタイプの、ステレオでは、その効果が解らないとも、昔の自然な2チャンネルで録音されたコンサートホール音が入っている、初期の録音(1967年頃まで)であれば、充実したオーケストラ音が聞こえるはずだと言われました。


何よりも大事なのは、Jazzやポピュラーとは違って、コンサートホールの音は、そのホール特有の音が、音楽を構成しているという当たり前の事実だったのです。よく、昔からのオーディオマニアの人達が、言われるツイーター自身から音がきこえるのではなく、SP位置が消えて、その背後から音楽だけが鳴るという状況が本当だと気がついたのです。


幸いだったのは、GRFの特異なキャビネット構造にもありました。部屋のコーナーに置いて、45度内向きに置かれ、両方のSPで前方に音軸を揃えて聞くという方式が発見を容易にしたのです。左右の内向き角度や、壁から距離を左右対称の部屋で追求していくと、ヴォーカルのこえが中央から聞こえてきます。CDで、左右バランスをしっかり合わせて、レコードに調整すると、たとえば森進一や越路吹雪の声が、中央に浮かび上がります。その時、アームのインサイドフォースキャンセラーを0.1gも動かすと、その声の位置が10センチほど動くのです。


その実験は、訪れていただける方々に何度もお聴かせして、針の形状やアームセッティングの微妙さを聞いていただいています。その微妙な音の変化も、モノラルアンプにして、左右を分けないとその差が解りませんでした。


私は、昔からPHILIPSレーベルのアムステルダム・コンセルヘボウのレコードが好きでした。ハイティンクが余り人気の無い80年代の頃から、今思うと信じられないぐらいの安価で、買い求めていました。そのレコードが、コンセルトヘボウの会場で鳴っているように、私の部屋でなり始めたのです。
https://tannoy.exblog.jp/30894180/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/655.html#c77

[リバイバル3] 富士山登山を「ニコ生」中継中に滑落か 救助隊が捜索 中川隆
68. 中川隆[-14964] koaQ7Jey 2019年11月13日 14:32:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2057]

雪山から滑落すると人間はこんなに無力にすごいスピードで落ちていくらしい



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1012.html#c68
[リバイバル3] 富士山登山を「ニコ生」中継中に滑落か 救助隊が捜索 中川隆
69. 中川隆[-14963] koaQ7Jey 2019年11月13日 14:34:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2056]

2019 3 19 かぐら 衝撃の光景



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1012.html#c69
[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
6. 中川隆[-14962] koaQ7Jey 2019年11月13日 16:57:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2055]
シェーンベルク編曲
ヘンデルの合奏協奏曲 op.6-7 による弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲(1933)


Schoenberg Concerto for string quartet & orchestra (part 1, 2) "Filarmonica" - quartet



"Filarmonica"-quartet, Novosibirsk Philharmonic orchestra, Mikhail Granovsky.

_____

Arnold Schoenberg, Concerto for String Quartet & Orchestra in B Flat Major After Handel's HWV 325 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YREryvw9XPg

Arnold Schoenberg, Concerto for String Quartet & Orchestra in B-Flat Major (After Handel's HWV 325)

1. Largo – Allegro
2. Largo
3. Allegretto grazioso
4. Hornpipe. Moderato

Quatour Diotima
SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburg
Michael Gielen, conductor

______

Arnold Schoenberg (after Handel) Concerto for string quartet and orchestra (1933) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2qJ1KN1pVIU

A 'free transcription' of Handel's Concerto grosso in B-flat major Op. 6, No. 7

I. Largo. Allegro
II. Largo
III. Allegretto grazioso
IV. Hornpipe. Moderato.

Performed by the Lenox Quartet and the London Symphony Orchestra conducted by Harold Faberman.


▲△▽▼

ヘンデルの合奏協奏曲 op.6-7 の原曲

Händel Concerto Grosso op 6 No 7 Busch Chamber Players - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=P5Yxgogqxfc
https://www.youtube.com/watch?v=TXZeZ-gI2Cg

Concerto Grosso op 6 No 7 in B flat Major by Georg Friedrich Händel
1. Largo
2. Allegro
3. Largo e piano
4. Andante
5. Hornpipe
The Busch Chamber Players
II.1946

_____

Karl Richter Concerto grosso op 6 No 7 Händel - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZLFLgMG6rYM

Concerto grosso op 6 No 7 in B Major by Georg Friedrich Händel
Larghetto
Allegro
Largo e piano
Andante
Hornpipe
Münchener Bach Orchester
Karl Richter, conductor






http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html#c6
[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
7. 中川隆[-14961] koaQ7Jey 2019年11月13日 17:23:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2054]
シェーンベルク編曲
バッハ:前奏曲とフーガ変ホ長調 BWV552「聖アン」の管弦楽編曲(1928)

Jacek Kaspszyk conducts Bach-Schoenberg's Prelude and Fugue in E-flat major BWV 552



0:31 Preludium/Prelude
9:28 Fuga/Fugue
Jacek Kaspszyk - dyrygent/conductor
Orkiestra Filharmonii Narodowej/Warsaw Philharmonic Orchestra
recorded at Warsaw Philharmonic Concert Hall, November 20, 2015

_____

Schoenberg Prelude and fugue in E flat major, Bach - Ozawa BSO - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=32JjEib8drM
https://www.youtube.com/watch?v=MPscpDG1vF0

Ozawa: Boston Symphony Orchestra
Released on: 1992-01-01

_____


Bach-Schoenberg - Prelude and Fugue BWV 552 (Arr. for large orchestra) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=O_R7M0vDLn8

Prelude and Fugue BWV 552 for Organ
arr. for large orchestra by Arnold Schoenberg (1874-1951)

Sinfonieorchester des Norddeutschen Rundfunks conducted by
Michael Gielen
Live recording Funkhaus Hannover des NDR, 29.01.1979

_____

Bach ( Arr. Schoenberg) Praeludium & Fugue St Anne BWV 552-
BBC Philharmonic- Slatkin - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RDADGE44i_o

▲△▽▼

バッハ:前奏曲とフーガ変ホ長調 BWV552 の原曲

Helmut Walcha Bach Praeludio et Fuga pro organo pleno BWV 552 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=a-Gwt1ODRgs
https://www.youtube.com/watch?v=lZUULI_DcsI

_____

Karl Richter - Organ Works - Prelude & Fugue In E-Flat - BWV 552 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6ggecv8ImBs
https://www.youtube.com/watch?v=Qkj0GO_a3r8




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html#c7
[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
8. 中川隆[-14960] koaQ7Jey 2019年11月13日 18:09:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2053]
シェーンベルク編曲
バッハ:コラール前奏曲 BWV631 の管弦楽編曲(1922)
バッハ:コラール前奏曲 BWV654 の管弦楽編曲(1922)



Bach arr. Schoenberg Choral Preludes (Horenstein) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=jSt7bomfySw

Bach arr. Schoenberg

1) Schmücke dich, o liebe Seele
2) Komm, Gott, Schöpfer, Heiliger Geist

Berlin Philharmonic Orchestra
Nicolai Graudan, cello
cond. Jascha Horenstein, 1929

____

J.S. Bach - Komm, Gott Schöpfer, Heiliger Geist BWV 631 (Schoenberg) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=DhhLH6E3dX8

Johann Sebastian Bach (1685-1750) - Prelude aus dem Choral "Komm, Gott Schöpfer, Heiliger Geist" BWV 631, in einer Orchestrierung von Arnold Schoenberg

Houston Symphony Orchestra
Christoph Eschenbach - Dirrigent
____

J.S. Bach - Schmücke Dich, O liebe Seele, BWV 654 (Schoenberg) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=CKo4tcD6W50
Johann Sebastian Bach (1685-1750) - Prelude aus der Choralkantane "Schmücke dich, O liebe Seele" BWV 654, in einer Orchestrierung von Arnold Schoenberg

Houston Symphony Orchestra
Christoph Eschenbach - Dirrigent
Desmond Hoebig - Cello solo

___________

Bach-Schoenberg - 2 Choral Preludes (Arranged for Orchestra) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=XfjpXFs91VY

Two Choral Preludes arranged for orchestra by Arnold Schoenberg(1922)

1. Schmücke dich, o liebe Seele BWV 654
2. Komm, Gott Schöpfer, heiliger Geist BWV 667

Sinfonieorchester des Norddeutschen Rundfunks conducted by Michael Gielen
Live recording Funkhaus Hannover des NDR, 29.01.1979
https://www.youtube.com/watch?v=XfjpXFs91VY

____

J.S. Bach orch. Schoenberg Two Chorale Preludes, arranged for orchestra (orch. 1922) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=rFOtvGTSd_k


I. Chorale prelude on Komm, Gott Schöpfer, Heiliger Geist BWV 631 00:00-02:20
II. Chorale prelude on Schmücke dich, o liebe Seele BWV 654 02:20-08:01

Performed by the Philharmonia Orchestra conducted by Robert Craft.

▲△▽▼

バッハ:コラール前奏曲 BWV631、BWV654 の原曲

J. S. Bach - Chorale-Prelude Komm, Gott Schöpfer, Heiliger Geist BWV 631 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BKWcI7OR4_o

from Orgel-Büchlein
Ton Koopman, Organ

___

Bach - Choral Prelude ''Schmücke dich, o liebe Seele'' BWV 654 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NqSEPo6twLI

Ton Koopman, organ

____

J. S. Bach “Organ Works” (Helmut Walcha) 27 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=i-w15xmbrBY

“18 Chorales, BWV 651-668, ‘Leipziger Chorale’”

1) Fantasia super Komm, Heiliger Geist, Herre Gott, BWV 651
2) Komm, Heiliger Geist, Herre Gott, BWV 652
3) An Wasserflussen Babylon, BWV 653
4) Schmucke dich, o liebe Seele, BWV 654
5) Trio super Herr Jesu Christ, dich zu uns wend, BWV 655
6) O Lamm Gottes, unschuldig, BWV 656
7) Nun danket alle Gott, BWV 657
8) Von Gott will ich nicht lassen, BWV 658
9) Nun komm, der Heiden Heiland, BWV 659
10) Trio super Nun komm, der Heiden Heiland, BWV 660
11) Nun komm, der Heiden Heiland, BWV 661
12) Allein Gott in der Hoh sei Ehr, BWV 662
13) Allein Gott in der Hoh sei Ehr, BWV 663
14) Trio super Allein Gott in der Hoh sei Ehr, BWV 664
15) Jesu Christus, unser Heiland, BWV 665
16) Jesus Christus, unser Heiland alio modo, BWV 666
17) Komm, Gott Schopfer, Heiliger Geist, BWV 667
18) Vor deinen Thron tret ich hiermit, BWV 668



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html#c8
[文化2] ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン 中川隆
211. 中川隆[-14959] koaQ7Jey 2019年11月13日 19:13:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2052]
英語民間試験問題にみる高等教育の貧困 公的支出削り受験ビジネスに 2019年11月13日
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/14200

 全国の高校・大学の教員や受験生たちが中止を求めていた英語民間試験について、文科省は1日、2020年度からの導入を見送り、24年度実施をめざして今後一年かけて再検討すると発表した。延期されたとはいえ、根本問題はまだなにも解決されていない。逆に今回の問題をつうじて、日本政府の高等教育に対する政策が世界のなかでいかに貧困であるか、本来国の将来の担い手を育てる事業として貧富にかかわりなく平等に保障されるべき高等教育がビジネスの対象にされ、それによっていかに若者が食いものにされているかという現実が浮き彫りになっている。記者座談会で論議してみた。


 A 萩生田文科相が英語民間試験の実施延期を発表したのは1日の朝で、この日は当事者の高校2年生がシステムのID登録を開始する日だった。


 高校の教員たちはみな、以前から延期と制度の見直しを求めていたし、現場をひきずってでも強行しようとする文科省に憤りを語っていた。それでも受験生のために、前日まで一人一人のIDのチェックに細心の注意を払っていた。「延期はよかったが、まだ何も解決していない」と、気持ちは複雑だ。

現場の受けとめは複雑 「一から再検討を」

 A 大学入学センター試験にかわって2020年度から始まる大学入学共通テストは予定通りおこなわれるし、そのなかではじめて実施される国語の記述式問題はベネッセの子会社が61億円で落札し、1万人のバイトを雇って採点する。そのことにも不安がある。入試改革は「ゼロベースで一から再検討せよ」という声は強い。


 B 文科省は来年1月、30年近く実施されてきた現在の大学入試センター試験を廃止し、再来年から、つまり今の高校2年生から大学入学共通テストにかえる。同時にその前段で、今問題になっている英語の民間検定試験の受検を義務づけた。これと連動して指導要領も変える。


 英語民間試験は、これまでのセンター試験の英語の「読む」「聞く」に加えて「書く」「話す」の4技能を評価するために導入するのだという。全国に50万人以上いる受験生は来年4月から12月までの間に、英語民間試験を本番2回まで受けることができ、そのうち成績のいい方を大学受験に使う。再来年の1月16、17日が大学入学共通テストとなり、その後2〜3月にかけて希望する大学の試験となるが、そのさい英語民間試験の成績が出願資格となったり、受験の成績に加点されたりする。出願資格になると、英語が苦手な子はその時点で門前払いとなる。


 問題は、この4技能を評価する英語試験の実施と採点、結果公表を、文科省が民間事業者に丸投げしたことだ。

 C 昨年6月には大学の研究者たちが試験の中止を求める請願を国会に提出し、全国高等学校長協会も7月と9月、試験の延期と制度見直しを求める要望書を文科相に提出した。萩生田文科相が格差拡大を容認する「身の丈」発言をおこなった直後には、当事者である高校2年生が共通テストの中止を求める署名を開始し、数日間で4万筆が集まった。国立大学協会が全受験生への実施を決定したものの、この試験を受験には使わないと表明する大学が次次にあらわれ、9月末で国公立大のうち約3割が態度を決めかねていた。


 高校生や教員たちが問題にしているのは、第一に、家庭の収入や住んでいる場所によって格差が生まれることだ。それ自体が教育の機会均等に反している。下関市内のある高校教員は「高校に通わせるだけでも必死な家庭が増えているのに、出口まで高額なお金が必要になる。それで子どもたちの将来を左右してはいけない」といっている。


https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/14200


 英語民間試験を受けるには、1回につき5800〜2万5850円と高額の検定料がかかるし【図1参照】、受検回数に制限はないのだから、何度もウォーミングアップができる家庭とそうでない家庭とで大きな差が生まれる。そのうえ都会と地方では、受検機会に差がありすぎる。山口県では英検とGTECしか受けられないと思われるが、その他の試験を福岡県や広島県に受けに行くと、離島の子など1泊か2泊が必要となるし、交通費と宿泊費が大きな負担だ。都会が圧倒的に有利なのだ。


 第二に、民間事業者に丸投げして試験の公平、公正が担保されるのかという問題がある。文科省は民間英語試験に6団体7種類の検定試験を指定しているが、ビジネスでの活用を目的としたもの、資格・検定試験として国内で長く使われてきたものなど、それぞれ目的が違うし、難易度にも大きな幅がある。たとえばTOEFLは英語圏(とくに北米)の大学への留学希望者が、必要な英語能力を習得しているかどうかの評価を受けるもので、扱われる内容は北米の大学や生活に関するものが多いという。このようにそれぞれ測ろうとする能力が違う複数のテストを同時に実施して、受験生の選抜に使うことに根本的な間違いがある。


 異なる英語民間試験の成績を比べるために、CEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)を基準にして文科省の作業部会が強引に「対照表」をつくったが、それには科学的な裏付けがないというのが専門家の意見だ。ある大学の英語教員は、五〇b走のタイムと立ち幅跳びの成績を比べて体力の優劣を決めることができないように、GTECと英検の成績を比べて英語力の優劣を決めることはできないといっている。

 A それを一緒くたにして大学受験に使うというのだからひどい話だ。しかも短期間に50万人の答案を採点しなければならないので、大量に学生のアルバイトを雇うといっている。文科省が「採点ミスがあれば業者の責任」といって責任を回避していることにも現場の教員は怒っている。


 D そしてこの英語民間試験のために、高校の現場が振り回されることになる。今回、数カ月前になっても試験会場も日程も発表されないことが大混乱を引き起こしたが、実施されると民間事業者の出す参考書中心の授業に変質しかねないし、運動会や文化祭といった学校行事や、各運動部の大会日程なども見直しが必要になる。

楽天社長ら介入し一転 民間に丸投げ決定

 B 今回の大学入試改革にかかわった大学教員は、英語民間試験の決定過程に重大な問題があると指摘している。入試改革が本格化するのは安倍内閣になってからだが、当初、文科省が招集した高大接続システム会議(大学の学長らで構成)では、民間に丸投げせず、現在のセンター試験と同じ方式でやるという最終答申を206年3月に出していた。ところがそのわずか5カ月後、文科省は一転して民間検定試験の活用をいい出した。


 実はそれには伏線がある。安倍内閣発足直後から経済同友会で楽天社長・三木谷浩史が「TOEFLなどの民間試験の活用」を主張し、2014年には文科省の有識者会議が「センター試験の英語試験を廃止し、英語の資格・検定試験に替える」との報告をおこなった。このときの文科大臣が受験産業との関係が取り沙汰される下村博文だ。この民間試験ありきが押し切ったわけだが、三木谷はこの有識者会議のメンバーにも入り、2017年7月に民間試験の導入が決まってまもなく、楽天は英語教育事業を立ち上げている。また、有識者会議の傘下の協議会にはベネッセと英検の担当者が入っていた。


 C 異なる英語民間試験の成績を比べる「対照表」を作成した、文科省の作業部会の審議自体が非常に不透明だ。これも大学の教員が暴露しているが、この作業部会は、実施団体として審査される側の民間試験事業者の代表者5人と、民間試験の開発に携わった研究者3人で構成されていた。つまり成績の評価にとって決定的な「対照表」が、実証データにもとづく根拠も、英語教育関係者の経験にもとづく根拠もなにもないまま、当事者を含めた官民一体でつくられ、異なる試験の評価をつなぎあわせてつじつまをあわせただけのものだった。


 E 現場の教師は生徒のために英語の力、また総合的な学力をつけさせようと奮闘している。一方民間の英語産業は、ビジネスチャンスを拡大して利益を上げるために参入しようとし、文科省がそれに奉仕している。双方は相いれないものだ。


 そもそも入試の運営と受験対策とを同一の民間企業がやること自体、弊害が大きい。民間企業が利益を増やすためにテストの仕様を変更し、そのための問題集やセミナーを新たに売り出したり、蓄積した受験生のデータを使って新たなビジネスを展開することも可能になるからだ。水道など公共インフラの民営化が問題になっているが、今回の英語試験の市場化が、共通テスト全体、ひいては英語教育本体の市場化につながることを専門家は心配している。


 A ビジネスのために受験生が食いものにされ、貧乏な家庭の子弟は大学で勉強する機会そのものを奪われかねない。これは日本の未来にとって大きな損失だ。ただでさえ少子化の世の中で、金持ちの子弟しか大学に行けなくなったらどうなるか。過去を振り返ってみても、苦学生が爪の先に火を灯すようにして勉強し大成した例は多い。


 B 今回の英語民間試験にとどまらず、貧富にかかわりなく平等に教育を受けることができるという教育の機会均等が、日本社会では大きく損なわれている。義務教育である小・中学校でも父母負担が大きいことが問題になっているが、高等教育ではとくにひどい。


 大学進学率が50%をこえた日本で、子どもを大学に通わせることは親にとって大きな経済的負担だ。学費が諸外国に比べてもあまりにも高いからだ。国公立大学の授業料は、1969年には年間1万2000円で、入学金などを含めた初年度納入金はあわせて1万6000円だった。それが50年後の現在、授業料は53万5800円となり、初年度納入金は学部によっては90万円近くになる。この間の物価上昇率は3倍なのに、学費は45倍という異常さだ。


 それは、政府が高等教育に予算を回さないからだ。ヨーロッパでは次代の担い手を育てるために大学教育無償の国は多い。高等教育の公的負担割合を見ると、OECD平均で公的負担70%、家計負担21%だが、日本の場合は公的負担35%、家計負担51%と、世界的に見てもダントツで高等教育の家計負担が大きい。


 C これは日本学生支援機構が調べた学生生活調査(2016年)で、国立か私立か、自宅か下宿かを区別しない平均額だが、大学生の年間支出(学費+生活費)は188万4200円。大学院に進んで、修士課程だと176万300円、博士課程になると225万700円となっている。つまり大学4年間で800万円近くが必要となるし、大学院を修了して研究者になろうと思えば9年間で2000万円近い金が必要になる。それが一家庭にのしかかるのだから大変だ。あまりに金がかかりすぎるので、この十数年間で大学の理工系院生の数が半減したという調査もある。科学技術立国を支える博士の卵がいなくなっているわけだ。


 A 一方、勤労世帯の平均年収は、1990年代以降減り続けている。親の仕送りを期待できないし、バイトに明け暮れていては勉強がままならない。だから学生たちは奨学金に頼らざるを得ない。


 日本の奨学金事業は日本学生支援機構(JASSO)が金額の9割を占めるが、その利用者が急増している。2002年度が67万人だったのに対し、206年度は131万人と、全学生の4割が奨学金を借りている。しかも、JASSOの奨学金には返す必要のない給付型はなく、すべて返済が必要な貸与型で、その貸与型にも無利子(第一種)と有利子(第二種)があるが、第二種の有利子が2000年以降、急速に伸びている【図2参照】。有利子の方がより高い金額を借りられるからのようだ。

https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/14200


 一人当りの合計借入金の平均は、無利子の場合237万円で、有利子の場合は343万円。つまり社会人になる門出で、一人が数百万円の借金を抱えているわけだ。それを十数年から20年かけて、毎月約2万円ずつ支払わなければならない。JASSOの総貸出残高は9兆円だという。


 B 日本の奨学金制度が諸外国と比べていかに貧困かを見ないといけない。世界的には低学費、あるいは学費無償と、返さなくてよい給付型奨学金の二つが高等教育政策の柱となってきた。その国の科学技術や文化水準を維持し、高めるために、大学で必要な資金は公的に供給するという考えからだ。


 ところが日本の場合、給付型奨学金の比率はOECD諸国のなかで最低で、ほとんどが貸与型だ【図3参照】。つまり奨学金とは名ばかりで、サラ金と変わらない教育ローンなのだ。夫婦あわせて返済総額1200万円、毎月の返済額6万円を抱え、出産・子育てをあきらめたという話がある本に出ていた。


 E しかも今、日本の労働環境は劣悪だ。就職したものの、非正規の不安定な低賃金労働であったり、苛酷なノルマと長時間労働のブラック企業で転職せざるを得なくなったり、またはそのなかで本人が病気になって仕事ができなくなったりすると、たちまち奨学金の返済は行き詰まる。


 返済が滞ると、電話での督促に始まって、3カ月後には個人情報がブラックリストに載ってローンが組めなくなり、4カ月後には債権回収専門会社に回収業務が委託され、9カ月後には裁判所に申し立てをし、給料差し押さえなどの強制執行に進む。JASSOがとった法的措置は年間1万件に迫り、強引なとり立てで自己破産になった人が年間600人にのぼるという報告もある。


 D そこにはJASSOの奨学金が、投資家に安定した利益をもたらす有利な投資先になっているという事情がある。有利子の第二種奨学金の財源は、返還金に加えて、民間の銀行や投資家からの投資で成り立っている。だからJASSOは、96%という高い回収率を売りにして投資を促すが、それが無理なとり立てによる悲劇を生んでいる。若者たちが金融資本の餌食にされている。


 A 将来、社会に出て有用な仕事をするために、大学に進学して学びたいという意欲を持った若者がいるのに、そこに国が必要な金を回さず、次世代の育成を放棄し、それどころかビジネスの食いものにしてはばからないという本末転倒した事態が進行している。それがいかに彼らの無限の可能性をつぶし、国の未来をつぶす馬鹿げたことであるかだ。


 JASSOの総貸与残高が9兆円、国立大学86校と私立大学約600校の授業料はあわせて年間約3兆円だという。アメリカのためにF35など高額な兵器を買うのをやめ、オリンピックやリニア新幹線などの無駄な事業に国家予算を湯水のように注ぎ込むのをやめるなら、奨学金の返済をチャラにし学費を無償にすることは可能だ。意欲のある若者を育てる環境を整備する方が日本の未来にとってはるかにいいことははっきりしている。
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/14200
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html#c211

[近代史3] エイゼンシュテイン 戦艦ポチョムキン (1925年) 中川隆
1. 中川隆[-14961] koaQ7Jey 2019年11月13日 21:48:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2054]

戦艦ポチョムキン

監督:セルゲイ・エイゼンシュテイン
音楽:ドミトリー・ショスタコーヴィチ

今年2005年からちょうど100年前の1905年といえば、第1次ロシア革命が勃発した年です。

その1905年6月に、ロシアの黒海艦隊の戦艦「ポチョムキン・タヴリチェスキー公爵号」で水兵達がストライキを起こしました。

この事件を題材として、モンタージュ技法の創始者で有名な映画監督、セルゲイ・エイゼンシュテインが1925年に発表したのがこの作品です。


発表された当時はサイレントムービーでした。つまり、音声によるセリフがなく、音楽もついていなかったのです。

のちに何人かの作曲家がこの映画に音楽をつけていますが、当時のソ連当局による共産主義のプロパガンダ(政治宣伝)に最も合致したものが、ドミトリー・ショスタコーヴィチが作曲した交響曲の断片をつぎはぎして作られた当版(1976年サウンド完全復元版)です。かつてドイツによる検閲でカットされた部分も復元されているそうです。

映画音楽について書いた某評論家の本の中に、『主として(ショスタコの)交響曲第5番が使用されているほか、第4、7、10、11番からも用いられています』とありました。

静かな図書館の中でこの記述を読んだ私は、「エッ、エ〜!?」と口に出してしまうところでした。

というのも、作品中でショス7なんぞ、どこにも使われていないんです!これは違います!誤植としか考えられません!

7番ではなくて、8番ですよ!‥‥‥いいですか?あとの曲は確かに合っていますよ。私もDVDを再度見直して確認しましたから。

ただし、映像の方につい夢中になって音楽を忘れていなければの話ですが。

まあ、それはともかく、この『戦艦ポチョムキン』、映像と音楽が見事にはまっているんですよ!

中でも特筆すべきは「オデッサの階段」で、逃げ惑う民衆に向かって軍隊が一斉射撃するシーンです。

もちろん、モンタージュの技法が駆使された映像もそれだけで十分すばらしいものなのですが、そこで使われている第11番の第2楽章の危機迫る迫力、まさに映像とピッタリなんです。

犠牲になった子供を抱きかかえた母親が「お願いです、撃つのをやめてください‥‥」と嘆き叫んだときに、それまでの音楽がやむ、この静寂に包まれるこのタイミングが恐ろしいほど一致しているんです。

だって、何を隠そう、この交響曲第11番は、副題に“1905年”とつけられているんですよ!

そしてさらに、演奏の質も最高なんですよ。私が見たDVDには、演奏者についてクレジットされていないようなので断定しかねますけど、ムラヴィンスキー指揮/レニングラードフィルの演奏でほぼ間違いないと思います(第5番4楽章の284小節目の特徴的な音型を聞けば、ムラヴィンスキーの演奏だと判断することができます)。

ただ、ムラヴィンスキーはショスタコの交響曲に関しては第5番より前の交響曲を録音していないので、第4番はコンドラシン指揮(1962年、モスクワフィル)の演奏を使っています。

おまけとして、ショスタコの交響曲第何番の第何楽章が『戦艦ポチョムキン』の、どのあたりで用いられているのかを、以下、順に並べておきます。


第1章『人々とうじ虫』
 交響曲第5番第1楽章の冒頭から提示部の終わりまで
 交響曲第11番第2楽章冒頭
 交響曲第10番第3楽章中間部

第2章『甲板上のドラマ』
 交響曲第10番第1楽章展開部のクライマックス
 交響曲第4番第1楽章 練習番号90あたりから
 交響曲第11番第1楽章

第3章『死者の呼びかけ』
 交響曲第11番第3楽章

第4章『オデッサの階段』
 交響曲第5番第2楽章
 交響曲第11番第2楽章
 交響曲第5番第3楽章中間部から
 交響曲第4番第1楽章練習番号29から

第5章『艦隊との遭遇』
 交響曲第4番第3楽章後半
 交響曲第8番第3楽章冒頭以降 
 交響曲第5番第4楽章練習番号121から終わりまで

と、だいたいこんな感じでした。

http://blog.livedoor.jp/masatomusik/archives/50033333.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/264.html#c1

[近代史3] エイゼンシュテイン 戦艦ポチョムキン (1925年) 中川隆
2. 中川隆[-14960] koaQ7Jey 2019年11月13日 21:55:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2053]


戦艦ポチョムキン - オデッサの階段(字幕) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Ord-n_yPfR0





音楽

Shostakovich: Symphony No. 5 in D Minor, Op. 47
Leningrad Philharmonic & Yevgeny Mravinsky

Symphony No. 4 in C Minor, Op. 43: Symphony No. 4 in C Minor
Gunther Herbig, Saarbrucken Radio Symphony Orchestra

Symphony No. 11 in G Minor, Op. 103, "The Year 1905"
Leningrad Philharmonic, Evgeny Mravinsky





戦艦ポチョムキン - ニコニコ動画
https://www.nicovideo.jp/watch/sm9573925
https://www.nicovideo.jp/watch/sm9574091
https://www.nicovideo.jp/watch/sm9574208


ショスタコーヴィチがどんな時代に生きて、その音楽がどのように利用されたか。そんな背景を知っておくと、彼の音楽をもっと興味深く聴けるようになる…かもしれません。 /ソビエト連邦 セルゲイ・エイゼンシュテイン監督(神父役で出演)。1925年公開。オリジナルのネガは失われたが、1976年に各地のポジフィルムより映像を再構成し、ショスタコーヴィチの音楽を付けて復元された。(

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/264.html#c2
[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
57. 2019年11月13日 22:07:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2052]
誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c57
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
1. 中川隆[-14959] koaQ7Jey 2019年11月13日 22:09:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2051]

戦艦ポチョムキン - ニコニコ動画
https://www.nicovideo.jp/watch/sm9573925
https://www.nicovideo.jp/watch/sm9574091
https://www.nicovideo.jp/watch/sm9574208


ショスタコーヴィチがどんな時代に生きて、その音楽がどのように利用されたか。そんな背景を知っておくと、彼の音楽をもっと興味深く聴けるようになる…かもしれません。 

ソビエト連邦 セルゲイ・エイゼンシュテイン監督(神父役で出演)。1925年公開。オリジナルのネガは失われたが、1976年に各地のポジフィルムより映像を再構成し、ショスタコーヴィチの音楽を付けて復元された。
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戦艦ポチョムキン
監督:セルゲイ・エイゼンシュテイン
音楽:ドミトリー・ショスタコーヴィチ

今年2005年からちょうど100年前の1905年といえば、第1次ロシア革命が勃発した年です。

その1905年6月に、ロシアの黒海艦隊の戦艦「ポチョムキン・タヴリチェスキー公爵号」で水兵達がストライキを起こしました。

この事件を題材として、モンタージュ技法の創始者で有名な映画監督、セルゲイ・エイゼンシュテインが1925年に発表したのがこの作品です。


発表された当時はサイレントムービーでした。つまり、音声によるセリフがなく、音楽もついていなかったのです。

のちに何人かの作曲家がこの映画に音楽をつけていますが、当時のソ連当局による共産主義のプロパガンダ(政治宣伝)に最も合致したものが、ドミトリー・ショスタコーヴィチが作曲した交響曲の断片をつぎはぎして作られた当版(1976年サウンド完全復元版)です。かつてドイツによる検閲でカットされた部分も復元されているそうです。

映画音楽について書いた某評論家の本の中に、『主として(ショスタコの)交響曲第5番が使用されているほか、第4、7、10、11番からも用いられています』とありました。

静かな図書館の中でこの記述を読んだ私は、「エッ、エ〜!?」と口に出してしまうところでした。

というのも、作品中でショス7なんぞ、どこにも使われていないんです!これは違います!誤植としか考えられません!

7番ではなくて、8番ですよ!‥‥‥いいですか?あとの曲は確かに合っていますよ。私もDVDを再度見直して確認しましたから。

ただし、映像の方につい夢中になって音楽を忘れていなければの話ですが。

まあ、それはともかく、この『戦艦ポチョムキン』、映像と音楽が見事にはまっているんですよ!

中でも特筆すべきは「オデッサの階段」で、逃げ惑う民衆に向かって軍隊が一斉射撃するシーンです。

もちろん、モンタージュの技法が駆使された映像もそれだけで十分すばらしいものなのですが、そこで使われている第11番の第2楽章の危機迫る迫力、まさに映像とピッタリなんです。

犠牲になった子供を抱きかかえた母親が「お願いです、撃つのをやめてください‥‥」と嘆き叫んだときに、それまでの音楽がやむ、この静寂に包まれるこのタイミングが恐ろしいほど一致しているんです。

だって、何を隠そう、この交響曲第11番は、副題に“1905年”とつけられているんですよ!

そしてさらに、演奏の質も最高なんですよ。私が見たDVDには、演奏者についてクレジットされていないようなので断定しかねますけど、ムラヴィンスキー指揮/レニングラードフィルの演奏でほぼ間違いないと思います(第5番4楽章の284小節目の特徴的な音型を聞けば、ムラヴィンスキーの演奏だと判断することができます)。

ただ、ムラヴィンスキーはショスタコの交響曲に関しては第5番より前の交響曲を録音していないので、第4番はコンドラシン指揮(1962年、モスクワフィル)の演奏を使っています。


おまけとして、ショスタコの交響曲第何番の第何楽章が『戦艦ポチョムキン』の、どのあたりで用いられているのかを、以下、順に並べておきます。


第1章『人々とうじ虫』
 交響曲第5番第1楽章の冒頭から提示部の終わりまで
 交響曲第11番第2楽章冒頭
 交響曲第10番第3楽章中間部

第2章『甲板上のドラマ』
 交響曲第10番第1楽章展開部のクライマックス
 交響曲第4番第1楽章 練習番号90あたりから
 交響曲第11番第1楽章

第3章『死者の呼びかけ』
 交響曲第11番第3楽章

第4章『オデッサの階段』
 交響曲第5番第2楽章
 交響曲第11番第2楽章
 交響曲第5番第3楽章中間部から
 交響曲第4番第1楽章練習番号29から

第5章『艦隊との遭遇』
 交響曲第4番第3楽章後半
 交響曲第8番第3楽章冒頭以降 
 交響曲第5番第4楽章練習番号121から終わりまで

と、だいたいこんな感じでした。
http://blog.livedoor.jp/masatomusik/archives/50033333.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c1

[リバイバル3] スキー場の選択は雪質だけで決めよう 中川隆
172. 中川隆[-14958] koaQ7Jey 2019年11月14日 03:24:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2050]
気象庁 現在の雪(解析積雪深・解析降雪量)
https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/snow/jp/#zoom:4/lat:39.164821/lon:142.866780/colordepth:normal/elements:snowd


気象庁は13日午後4時から「雪」に関する新しい形の情報提供を始めました。
積雪量が地図上に1時間ごとに表示され、おおまかな分布が把握できるようになりました。

気象庁によりますと、これまで積雪の深さについてアメダスの積雪計による観測値を数字で提供していましたが、今後は地図上の約5キロ四方の格子内の平均値が1時間ごとに表示されるようになるため、積雪のおおまかな分布を把握できるようになります。

降雪量についても現在までの3時間降雪量、12時間降雪量など選んだ時間ごとに確認できるようになりました。

降雪量予測もこれまでは最大で2日先までしか予測できませんでしたが、3日先まで予測できるようになりました。

さらに山形、福島、新潟、富山、石川、福井の6県で顕著な降雪が確認されて今後も継続すると見込まれる場合に「短時間の大雪に対して一層の警戒を呼び掛ける情報」を発表するということです。これらの情報は気象庁のホームページで公開されています。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/782.html#c172

[リバイバル3] 急増する山岳遭難 中川隆
10. 中川隆[-14957] koaQ7Jey 2019年11月14日 03:25:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2049]
気象庁 現在の雪(解析積雪深・解析降雪量)
https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/snow/jp/#zoom:4/lat:39.164821/lon:142.866780/colordepth:normal/elements:snowd


気象庁は13日午後4時から「雪」に関する新しい形の情報提供を始めました。
積雪量が地図上に1時間ごとに表示され、おおまかな分布が把握できるようになりました。

気象庁によりますと、これまで積雪の深さについてアメダスの積雪計による観測値を数字で提供していましたが、今後は地図上の約5キロ四方の格子内の平均値が1時間ごとに表示されるようになるため、積雪のおおまかな分布を把握できるようになります。

降雪量についても現在までの3時間降雪量、12時間降雪量など選んだ時間ごとに確認できるようになりました。

降雪量予測もこれまでは最大で2日先までしか予測できませんでしたが、3日先まで予測できるようになりました。

さらに山形、福島、新潟、富山、石川、福井の6県で顕著な降雪が確認されて今後も継続すると見込まれる場合に「短時間の大雪に対して一層の警戒を呼び掛ける情報」を発表するということです。これらの情報は気象庁のホームページで公開されています。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/792.html#c10

[リバイバル3] スキーに行こう _ 年取っても できるスポーツはスキーだけ 中川隆
77. 中川隆[-14956] koaQ7Jey 2019年11月14日 03:26:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2048]
気象庁 現在の雪(解析積雪深・解析降雪量)
https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/snow/jp/#zoom:4/lat:39.164821/lon:142.866780/colordepth:normal/elements:snowd


気象庁は13日午後4時から「雪」に関する新しい形の情報提供を始めました。
積雪量が地図上に1時間ごとに表示され、おおまかな分布が把握できるようになりました。

気象庁によりますと、これまで積雪の深さについてアメダスの積雪計による観測値を数字で提供していましたが、今後は地図上の約5キロ四方の格子内の平均値が1時間ごとに表示されるようになるため、積雪のおおまかな分布を把握できるようになります。

降雪量についても現在までの3時間降雪量、12時間降雪量など選んだ時間ごとに確認できるようになりました。

降雪量予測もこれまでは最大で2日先までしか予測できませんでしたが、3日先まで予測できるようになりました。

さらに山形、福島、新潟、富山、石川、福井の6県で顕著な降雪が確認されて今後も継続すると見込まれる場合に「短時間の大雪に対して一層の警戒を呼び掛ける情報」を発表するということです。これらの情報は気象庁のホームページで公開されています。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/773.html#c77

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
2. 中川隆[-14955] koaQ7Jey 2019年11月14日 03:42:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2047]

レーニン(1870年4月22日 – 1924年1月21日) の時代のロシア


ソ連末期のグラスノスチ以後に公開された文書により、革命直後から内戦の時期にかけてレーニンが政敵に対して使っていたテロルの実態が明らかになると、レーニンは単なるスターリンの先駆けにすぎないのではなくスターリンと同等の独裁者として評価されることが多くなった。

レーニンの実像  


ロシアではグラスノスチによって、神聖不可侵だったレーニンの実像を知る手がかりが次第に明らかにされつつある。共産党中央委員会が管理していたマルクス・レーニン主義研究所所属の古文書館に「秘密」のスタンプが押された3724点におよぶレーニン関連の未公開資料が保存されていたことも判明し、民主派の歴史学者の手によってその公開が進みつつある。

 これらの資料のうちの一部は、ソ連崩壊以前からグラスノスチ政策によって公開されていた。そのうちのひとつが、私が月刊『現代』91年10月号誌上で全文を公表した、1922年3月19日付のレーニンの秘密指令書である。改めてここでその内容を紹介しておこう(翻訳全文は拙著『あらかじめ裏切られた革命』に所収)。


 22年当時、ロシアは革命とそれに続く内戦のために、国中が荒廃し、未曾有の大飢饉に見舞われていた。そんな時期に、イワノヴォ州のシューヤという町で、ボリシェヴィキが協会財産を没収しようとしたところ、聖職者が信徒の農民たちが抵抗するという「事件」が起きた。報告を受けたレーニンは、共産党の独裁を確立する最大の障害の一つだった協会を弾圧する「口実ができた」と喜び、協会財産を力ずくで奪い、見せしめのための処刑を行い、徹底的な弾圧を加えよと厳命を下したのである。以下、その命令書の一部を抜粋する。


<我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人をくい、道路には数千でなければ数百もの死体がころがっているこの時こそ、協会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならないのです>


<これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない>


おぞましい表現に満ちたこの秘密書簡は、『ソ連共産党中央委員会会報』誌90年4月号に掲載され、一般に公開された。党中央委ですら、90年の時点で、レーニンが直接命じた残忍なテロルの事実の一端を、公式に認める判断を下したわけである。

 アナトリー・ラトゥイシェフという歴史家がいる。未公開のレーニン資料の発掘に携わっている数少ない人物で、同じくレーニン研究に携わっていた軍事史家のヴォルコゴーノフが、95年12月に他界してからは、この分野の第一人者と目されており、研究成果をまとめた『秘密解除されたレーニン』(未邦訳)という著書を96年に上梓したばかりだ。モスクワ在住の友人を通じて、彼にあてて二度にわたって質問を送ったところ、氏から詳細な回答を得るとともに、氏の好意で著書と過去に発表した論文や新聞インタビュー等の資料をいただいた。以下、それらのデータにもとづいて、レーニンの実像の一端に迫ってみる(「 」内は氏の手紙および著書・論文からの引用であり、< >内はレーニン自身の書いた文章から直接の引用である。翻訳は内山紀子、鈴木明、中神美砂、吉野武昭各氏による)。

まずは、ラトゥイシェフからの手紙の一節を紹介しよう。


「残酷さは、レーニンの最も本質をなすものでした。レーニンはことあるごとに感傷とか哀れみといった感情を憎み、攻撃し続けてきましたが、私自身は、彼には哀れみや同情といった感情を感受する器官がそもそも欠けていたのではないか、とすら思っています。残酷さという点ではレーニンは、ヒトラーやスターリンよりもひどい」


「レーニンはヒトラーよりも残酷だった」という主張の根拠として、ラトゥイシェフはまず、彼自身が古文書館で「発掘」し、はじめて公表した、1919年10月22日付のトロツキーあての命令書をあげる。

<もし総攻撃が始まったら、さらに2万人のペテルブルグの労働者に加えて、1万人のブルジョワたちを動員することはできないだろうか。そして彼らの後ろに機関銃を置いて、数百人を射殺して、ユデニッチに本格的な大打撃を与えることは実現できないだろうか>

 ユデニッチとは、白軍の将軍の一人である。白軍との内戦において、「ブルジョワ」市民を「人間の盾」として用いよと、レーニンは赤軍の指導者だったトロツキーに命じているのである。

「ヒトラーは、対ソ戦の際にソ連軍の捕虜を自軍の前に立たせて『生きた人間の盾』として用いました」と、ラトゥイシェフ氏は私宛ての手紙に書いている。

「しかし、ヒトラーですら『背後から機関銃で撃ちながら突進せよ』などとは命令しなかったし、もちろん、自国民を『盾』に使うことはなかった。レーニンは自国民を『人間の盾』に使い、背後から撃つように命じている。ヒトラーもやらなかったことをレーニンがやったというのはこういうことです。しかも、『人間の盾』に用いられ、背後から撃たれる運命となった人たちは犯罪者ではない。あて彼らの『罪』を探すとすれば、それはただひとつ、プロレタリア階級の出身ではなかったということだけです。しかし、そういう人々の生命を虫ケラほどにも思わず、殺すことを命じたレーニン自身は、世襲貴族の息子だったのです」


レーニンが「敵」とみなしていたのは、「ブルジョワ階級」だけではない。聖職者も信徒も、彼にとっては憎むべき「敵」だった。従来の党公認のレーニン伝には、革命から2年後の冬、燃料となる薪を貨車へ積み込む作業が滞っていることにレーニンが腹を立て、部下を叱咤するために書いた手紙が掲載されてきた。


<「ニコライ」に妥協するのは馬鹿げたことだ。――ただちに緊急措置を要する。

 一、出荷量を増やすこと。

 二、復活祭と新年の祝いのために仕事を休むことを防ぐこと。>


「ニコライ」とは、12月19日の「聖ニコライの祭日」のことである。この日、敬虔(けいけん)なロシア正教徒は――ということは当時のロシア国民の大半は――長年の習慣に従って、仕事を休み、祈りを捧げるために教会へ足を運んだに違いない。レーニンはこの日、労働者が仕事を休んだのはけしからんと述べているわけだが、そのために要請した緊急措置は、この文書を読むかぎりとりたてて過激なものではないように思える。しかし実は、この手紙は公開に際して改竄(かいざん)が施されていた。古文書館に保存されていた、19年12月25日付書簡の原文には、先のテクストの「――」部分に以下の一文が入っていたのである。


<チェーカー(反革命・サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会=KGBの前身の機関)をすべて動員し、「ニコライ」で仕事に出なかったものは銃殺すべきだ>

 レーニンの要請した「緊急措置」とは、秘密警察を動員しての、問答無用の銃殺だったのだ――。


 この短い書簡の封印を解き、最初に公表したのは、今は亡きヴォルコゴーノフで、彼の最後の著書『七人の指導者』(未邦訳)に収められている。ラトゥイシェフは、私宛ての手紙で『七人の指導者』のどのページにこの書簡が出ているか示すとともに、こういうコメントを寄せてきている。


「この薪の積み込み作業に動員されたのは、帝政時代の元将校や芸術家、インテリ、実業家などの『ブルジョワ』層でした。財産を奪われた彼らは、着のみ着のままで、この苦役に強制的に従事させられていたのです。彼らにとって『聖ニコライの日』は、つかの間の安息日だったことでしょう。レーニンは無慈悲にも、わずかな安息を求め、伝統の習慣に従っただけの不幸な人々を『聖ニコライの日』から一週間もたってから、その日に休んだのは犯罪であるなどと事後的に言い出し、銃殺に処すように命じたのです」

内部に胚胎していた冷血


 ひょっとすると、このような事実を前にしてもなお、以下のような反論を試みようとする人々が現れるかもしれない。


――レーニンはたしかに「敵」に対しては、容赦なく、残酷な手段を用いて戦ったかもしれない。しかしそれは革命直後の、白軍との内戦時の話だ。戦争という非常時においては、誰でも多かれ少なかれ、残酷になりうる。歴史の進歩のための戦いに勝ち抜くにはこうした手段もやむをえなかったのだ――。

 いかにも最もらしく思える言い分だが、これも事実と異なる。レーニンの残酷さや冷血ぶりは、内戦時のみ発揮されたわけではない。そうした思想(あるいは生理)は、ウラジーミル・イリイッチ・ウリヤーノフが「レーニン」と名乗るはるか以前から、彼の内部に胚胎していたのだ。

 話は血なまぐさい内戦の時代から約30年ほど昔に遡る。1891年、レーニンが21歳を迎えたその年、沿ヴォルガ地方は大規模な飢饉に見舞われた。このとき、地元のインテリ層の間で、飢餓に苦しむ人々に対して社会的援助を行おうとする動きがわきあがったが、その中でただ一人、反対する若者がいた。ウラジーミル・ウリヤーノフである。以下、『秘密解除されたレーニン』から引用する。


「『レーニンの青年時代』と題する、A・ペリャコフの著書を見てみよう(中略)それによれば、彼(レーニン)はこう発言していたのだ。


『あえて公言しよう。飢餓によって産業プロレタリアートが、このブルジョワ体制の墓掘人が、生まれるのであって、これは進歩的な現象である。なぜならそれは工業の発展を促進し、資本主義を通じて我々を最終目的、社会主義に導くからである――飢えは農民経済を破壊し、同時にツァーのみならず神への信仰をも打ち砕くであろう。そして時を経るにしたがってもちろん、農民達を革命への道へと押しやるのだ――』」


 ここの農民の苦しみなど一顧だにせず、革命という目的のためにそれを利用しようとするレーニンの姿勢は、すでに21歳のときには確固たるものとなっていたのだ。

 また、レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中で自ら「ジャコバン派」と開き直り、党内の反対派を「日和見主義的なジロンド派」とののしっているが、実際に血のギロチンのジャコバン主義的暴力を、17年の革命に先んじて、1905年の蜂起の時点で実行に移している。再び『秘密解除されたレーニン』から一節を引こう。


「このボリシェヴィキの指導者が、(亡命先の)ジュネーブから、1905年のモスクワでの『12月蜂起』前夜に、何という凶暴な言葉で、ならず者とまったく変わらぬ行動を呼びかけていたことか!(中略)


『全員が手に入れられる何かを持つこと(鉄砲、ピストル、爆弾、ナイフ、メリケンサック、鉄棒、放火用のガソリンを染み込ませたボロ布、縄もしくは縄梯子、バリケードを築くためのシャベル、爆弾、有刺鉄線、対騎兵隊用の釘、等々)』(中略)


『仕事は山とある。しかもその仕事は誰にでもできる。路上の戦闘にまったく不向きな者、女、子供、老人などのごく弱い人間にも可能な、大いに役立つ仕事である』(中略)


『ある者達はスパイの殺害、警察署の爆破にとりかかり、またある者は銀行を襲撃し、蜂起のための資金を没収する』(中略)建物の上部から『軍隊に石を投げつけ、熱湯をかけ』、『警官に酸を浴びせる』のもよかろう」


「目を閉じて、そのありさまを想像してみよう。有刺鉄線や釘を使って何頭かの馬をやっつけたあと、子供達はもっと熟練のいる仕事にとりかかる。用意した容器を使って、硫酸やら塩酸を警官に浴びせかけ、火傷を負わせたり盲人にしたりしはじめるのだ。

(中略)そのときレーニンはこの子供達を真のデモクラットと呼び、見せかけだけのデモクラット、『口先だけのリベラル派』と区別するのだ」


彼の価値観はきわめて「ユニーク」で、「警官に硫酸をかけなさい」という教えだったのだ。

よく知られている話だが、1898年から3年間、シベリアへ流刑に処されたとき、レーニンは狩猟に熱中していた。この狩猟の趣味に関して、レーニンの妻、クループスカヤは『レーニンの思い出』の中で、エニセイ川の中洲に取り残されて、逃げ場を失った哀れなウサギの群れを見つけると、レーニンは片っ端から撃ち殺し、ボートがいっぱいになるまで積み上げたというエピソードを記している。


 何のために、逃げられないウサギを皆殺しにしなくてはならないのか?これはもはや、ゲームとしての狩猟とはいえない。もちろん、生活のために仕方なく行なっている必要最小限度の殺生でもない。ごく小規模ではあるが、まぎれもなくジェノサイドである。レーニンの「動物好き」とは、気まぐれに犬を撫でることもあれば、気まぐれにウサギを皆殺しにすることもある、その程度のものにすぎない。


「レーニンは疑いなく脳を病んでいた人でした。特に十月革命の直後からは、その傾向が顕著にあらわれるようになります。1918年1月19日に、憲法を制定するという公約を反古にして、憲法制定会議を解散させたあと、レーニンはヒステリー状態に陥り、数時間も笑い続けました。また、18年の7月、エス・エルの蜂起を鎮圧したあとでも、ヒステリーを起こして何時間も笑い続けたそうです。こうした話は、ボリシェヴィキの元幹部で、作家であり、医師でもあったボグダーノフが、レーニンの症状を診察し、記録に残しています」


 レーニンの灰色の脳は病んでいた。彼は「狂気」にとりつかれていたのだ。ここでいう「狂気」とはもちろん、陳腐な「文字的」レトリックとしての「狂気」でも、中沢氏のいう「聖なる狂気」のことでもない。いかなる神秘ともロマンティシズムとも無縁の、文字通りの病いである。

 頭痛や神経衰弱を訴え続けていたレーニンは、1922年になると、脳溢血の発作を起こし、静養を余儀なくされるようになった。ソ連国内だけでなく、ドイツをはじめとする外国から、神経科医、精神分析医、脳外科医などが招かれ、高額な報酬を受け取ってレーニンの診察を行った。そうした診察費用の支払い明細や領収書、カルテなどが、古文書館で発見されている。


 懸命な治療にもかかわらず、レーニンの病状は悪化の一途をたどり、知的能力は甚だしく衰えた。晩年はリハビリのため、小学校低学年レベルの二ケタの掛け算の問題に取り組んだが、一問解くのに数時間を要した。にもかかわらず、その間も決して休むことなく、彼は誕生したばかりの人類史上最初の社会主義国家の建設と発展のために、毎日、誰を国外追放にせよ、誰を銃殺しろといった「重要課題」を決定し続けた。二ケタの掛け算のできない病人のサイン一つで、途方もない数の人間の運命が決定されていったのである。

そしてこの時期、もう一つの重大事が決定されようとしていた。レーニンの後継者問題である。1922年12月13日に、脳血栓症の二度目の発作で倒れたあと、レーニンは数回に分けて「遺書」を口述した。とりわけ、22年1月4日に「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者の間や彼らの相互の交際では充分我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢できないものとなる」として、スターリンを党書記長のポストから解任するよう求めた追記の一節が、のちに政治的にきわめて重要な意味をもつこととなった。

 ラトゥイシェフはレーニンとスターリンの関係についてこう述べる。


「よく知られている通り、レーニンは『遺書』の中でスターリンを批判しました。そのため、レーニンは、スターリンの粗暴で残酷な資質を見抜いており、もともと後継者として認めていなかったのだという解釈が生まれ、それがスターリン主義体制は、レーニン主義からの逸脱であるとみなす論拠に用いられるようになりました。しかしこれは『神話』なのです。レーニンの『神話』の中で最も根強いものの一つです。

 レーニンがスターリンを死の間際に手紙で批判したのは、スターリンがクループスカヤに対して粗暴な態度をとったという個人的な怒りからです。スターリンがそのような態度をとったのは、衰弱の一途をたどるレーニンを見て、回復の見込みはないと判断して見切りをつけたからでした。しかしそれまではグルジア問題などで対立することはあっても、スターリンこそレーニンの最も信頼する”友人”であり、忠実で従順な”弟子”でした。レーニンが静養していたゴーリキーに最も足繁く通っていたのはスターリンであり、彼はレーニンのメッセージを他の幹部に伝えることで、彼自身の権力基盤を固めていったのです」

たしかに「遺書」では、レーニンはスターリンを「粗暴」と評しているが、別の場面では、まったく正反対に「スターリンは軟弱だ」と腹を立てていたという証言もある。元政治局員のモロトフは、詩人のフェリックス・チュエフの「レーニンとスターリンのどちらが厳格だったか?」という質問に対して、「もちろん、レーニンです」と答えている。このモロトフの言葉を『秘密解除されたレーニン』から引用しよう。


「『彼(レーニン)は、必要とあらば、極端な手段に走ることがまれではなかった。タンボフ県の暴動の際には、すべてを焼き払って鎮圧することを命じました。(中略)

彼がスターリンを弱腰だ、寛大すぎる、と言って責めていたのを覚えています。『あなたの独裁とはなんです? あなたのは軟弱な政権であって、独裁ではない!』と」


 あのスターリンを「軟弱だ」と叱責したレーニンの考えていた「独裁」とは、ではどういうものであったか? この定義は、何も秘密ではない。レーニン全集にはっきりとこう書かれている。


「独裁の科学的概念とは、いかなる法にも、いかなる絶対的支配にも拘束されることのない、そして直接に武力によって自らを保持している、無制限的政府のことにほかならない。これこそまさしく、『独裁』という概念の意味である」

 こんな明快な定義が他にあるだろうか。
 法の制約を受けない暴力によって維持される無制限の権力。これがレーニンが定式化し、実践した「独裁」である。スターリンは、レーニン主義のすべてを学び、我がものとしたにすぎないのだ。


 ラトゥイシェフはこう述べている。

「独裁もテロルも、レーニンが始めたことです。強制収容所も秘密警察もレーニンの命令によって作られました。スターリンはその遺産を引き継いだにすぎません。もっとも、テロルの用い方には、二人の間に相違もみられます。スターリンは、粗野で、知的には平凡な人物でしたが、精神的には安定しており、ある意味では『人間的』でした。彼は政敵を粛清する際には、遺族に復讐されないように、一族すべて殺したり、収容所送りにするという手段を多用しました。もちろん残酷きわまりないのですが、少なくとも彼には人間を殺しているという自覚がありました。しかし、レーニンは違う。彼は知的には優れた人物ですが、精神的にはきわめて不安定であり、テロルの対象となる相手を人間とはみなしていなかったと思われます。

彼の命令書には


『誰でもいいから、100人殺せ』とか

『千人殺せ』とか

『一万人を「人間の盾」にしろ』


といった表現が頻出します。彼は誰が殺されるか、殺される人物に罪があるかどうかということにまるで関心を払わず、しかも『100人』『千人』という区切りのいい『数』で指示しました。彼にとって殺すべき相手は匿名の数量でしかなかったのです。

人間としての感情が、ここには決定的に欠落しています。私が知る限り、こうした非人間的な残酷さという点では、レーニンと肩を並べるのはポル・ポトぐらいしか存在しません」

 ラトゥイシェフの言葉を細くすれば、レーニンとポル・ポトだけでなく、ここにもうひとり麻原彰晃をつけ加えることができる。麻原が指示したテロルには、個人を狙った「人点的」なものもあったが、最終的には彼は日本人の大半を殺害する「予定」でいたわけであり、これは「人間的」なテロルの次元をはるかに超えている。

暴力革命を志向するセクトやカルト教団の党員や信徒達は厳しい禁欲を強いられるものの、そうした組織に君臨する独裁者や幹部達が、狂信的なエクステリミストであると同時に、世俗の欲望まみれの俗物であることは少しも意外なことではない。サリンによる狂気のジェノサイドを命じた麻原は、周知の通り、教団内ではメロンをたらふく食う俗物そのものの日々を送っていたのであるが、この点もレーニンはまったく変わりはなかった。

 レーニンが麻原同様の俗物? そんな馬鹿な、と驚く人は少なくあるまい。レーニンにはストイックなイメージがあり、彼に対しては、まったく正反対の思想の持ち主でさえも、畏敬の念を抱いてしまうところがある。彼は己の信じる大義のために生命をかけて戦い抜いたのであり、私利私欲を満たそうとしたのではない、生涯を通じて彼は潔癖で清貧を貫いた、誰もがそう信じて今の今まで疑わなかった。そしてその点こそが、レーニンとそれ以外の私腹を肥やすことに血道をあげた腐った党指導者・幹部を分かつ分断線だった

 ところが、発掘された資料は、それが虚構にすぎなかったことを証明しているのである。1922年5月にスターリンにあてたレーニンのメッセージを公開しよう。


<同志スターリン。ところでそろそろモスクワから600ヴェルスト(約640キロメートル)以内に、一、二ヶ所、模範的な保養所を作ってもよいのではないか? 

そのためには金を使うこと。また、やむをえないドイツ行きにも、今後ずっとそれを使うこと。

しかし模範的と認めるのは、おきまりのソビエトの粗忽者やぐうたらではなく、几帳面で厳格な医者と管理者を擁することが可能と証明されたところだけにすべきです。

 5月19日     レーニン>


この書簡には、さらに続きがある。


<追伸 マル秘。貴殿やカーメネフ、ジェルジンスキーの別荘を設けたズバローヴォに、私の別荘が秋頃にできあがるが、汽車が完璧に定期運行できるようにしなければならない。それによって、お互いの間の安上がりのつきあいが年中可能となる。私の話を書きとめ、検討して下さい。また、隣接してソフホーズ(集団農場)を育成すること>

 


自分達、一握りの幹部のために別荘を建て、交通の便をはかるために鉄道を敷き、専用の食糧を供給する特別なソフホーズまでつくる。

こうした特権の習慣は、後進たちに受け継がれた。その結果、汚職と腐敗のために、国家の背骨が歪み、ついには亡国に至ったのである。その原因は、誰よりもレーニンにあった。禁欲的で清貧な指導者という、レーニン神話の中で最後まで残った最大の神話はついえた。レーニンは、メロンをむさぼり食らう麻原と何も変わりはなかったのである。
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/756.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c2

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
3. 中川隆[-14954] koaQ7Jey 2019年11月14日 03:57:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2046]

レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/leninsatujin.htm

4年7カ月間で最高権力者がしたこと
1918年5月13日食糧独裁令〜1922年12月16日第2回発作


1、武力行使によるレーニンの二段階クーデター説

 1、レーニンの二段階クーデター

 内戦の基本原因は、ソ連共産党公式の従来説=外国軍事干渉と白衛軍ではなく、1918年1月18日憲法制定議会武力解散と、5月13日食糧独裁令の2つである。ロイ・メドヴェージェフとニコラ・ヴェルトは、ソ連崩壊後の秘密資料やアルヒーフ(公文書)を発掘・研究して、それを論証した。ソ連崩壊後のデータによって、公認ロシア革命史観も大逆転し、崩壊した。それとともに、レーニンの大量殺人データも次々と発掘され、レーニン評価も、180度転換しつつある。その一つがクーデター説である。

 第1段階クーデター説。1917年11月7日は、プロレタリア社会主義大革命などではなく、レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターだった。11月7日の直前までに、労兵ソヴィエト・社会主義諸勢力が、ペトログラード・クロンシュタット・モスクワなど大都市における実質的な力関係として、国家権力を掌握しつつあった。

 クーデターについて、広辞苑は「急激な非合法手段に訴えて政権を奪うこと。通常は支配層内部の政権移動をいい、革命と区別する」としている。十月にケレンスキー臨時政府を倒したのは、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、エスエル、左翼エスエル等のソヴィエト内社会主義4政党とアナキストが中心勢力で、その性格は革命である。しかし、単独武装蜂起を敢行したボリシェヴィキによる一党政権が成立した。このレーニンの行為は、革命ではなく、事実上の権力を掌握しつつあった革命諸勢力の中でのクーデターそのものである。ただ、クーデター1カ月後の1917年12月から3カ月間だけ、左翼エスエルとの連立政権が続いた。

 第2段階クーデター説。1918年6月14日全ロシア中央執行委員会からのエスエル、メンシェヴィキ追放と、各級の全ソヴィエトからも追放する決定は、レーニンによるソヴィエト権力簒奪と党独裁権力樹立クーデターだった。6月14日だけでなく、このクーデターは、4月29日全ロシア中央執行委員会における、穀物徴発による農民への内戦宣言、5月13日食糧独裁令と労働者食糧徴発隊組織と一体のものになっている。レーニンによる内戦仕掛け宣言とソヴィエト権力簒奪という第2段階クーデターこそ、その暴挙にたいして、1920夏から21年の全階層総反乱を引き起こした決定的な原因となった。レーニンによるソヴィエト民主主義破壊・ソヴィエト権力簒奪のクーデター過程については、下記ファイルで、7期に分けて検討した。

    『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』ソヴィエト権力簒奪の第2段階クーデター

 ここでいう二段階クーデターとは、11月7日実質的に、あるいは、6月14日完全に国家権力を掌握し、支配階級となったソヴィエト・社会主義諸勢力・政党内部において、レーニンが武力で、多くの社会主義党派ならなるソヴィエト権力を、ボリシェヴィキ党独裁政権に強行移動させたことを指す。現在のロシア歴史学会では、クーデター説が基本になっている。資本主義ヨーロッパでも、その見解が主流になってきつつある。日本においてだけは、この説がまだ市民権を得ていない。

 日本では、加藤哲郎一橋大学教授が「クー」としている。coup(クー)は coup D'etat(クーデター)と同じ意味である。中野徹三札幌学院大学教授は、『社会主義像の転回』で、レーニンのこの行為の詳細な研究をしているが、そこではクーデターという用語は使っていない。その問題に関して、中野教授から次の内容の手紙を頂いた。「宮地さんは、制憲議会解散をクーデターと規定するということであるが、私は、十月革命自身を一つの(独自の)クーデターとしてまずとらえております。私は、クーデターの語は用いていないが、十月武装蜂起と呼んで、十月革命の伝統的概念の変更を試みている。そして、十月武装蜂起そのもののうちに、制憲議会の受容そのものを不可能にする論理が内包されていたこと、そしてそれは内戦を不可避的によびおこし、他党派への弾圧、および、一党独裁とスターリン主義への道を大きく開いたことを論証したつもりである。」

 2、「平和=戦争終結」要求への犯罪的な裏切り

 レーニンは、権力奪取前、平和=戦争離脱・終結を力説した。それにより、ドイツとの戦争をまだ続けている臨時政府を批判するボリシェヴィキ支持率が急上昇した。1918年3月3日ブレスト講和条約によって、第一次世界大戦の東部戦線において、ロシアだけが単独離脱した。それは、ロシア国民に「平和」と息継ぎをもたらした。

 ところが、レーニンは、その2カ月後の5月13日に、布告「食糧人民委員部の非常大権について」、いわゆる「食糧独裁令」を発令した。レーニン・政治局の目的は、2つあった。第1は、食糧人民委員部を中央集権化し、食糧の武装徴発隊を十数万人も農村に派遣し、チェーカーと赤軍の暴力手段で、穀物・家畜を収奪して、それによって飢餓状態を克服することだった。第2は、農村において、「貧農委員会」を組織し、「富農」にたいする階級闘争を起すことだった。それは、ボリシェヴィキ側が、農村に内戦の火をつけることによって、80%・9000万農民を社会主義化するという、レーニンの、自国民にたいする犯罪的な戦争再開クーデター政策だった。

 レーニン・政治局にとって、プロレタリア独裁国家の権力基盤である軍隊と都市に食糧の供給を確保することが死活問題となっていた。彼らには2つの選択肢があった。1)、崩壊した経済の中で疑似・資本主義市場を再建するか、あるいは、2)、強制を用いるのかである。彼らはツアーリ体制打倒の闘争の中で、さらに前進する必要があるとの論拠から第2の方策を選んだ。この驚くべき無知、かつ犯罪的な思惑が、レーニン・政治局全員の社会主義構想であったことについては、ソ連崩壊後のロシア革命史研究のほとんどの文献が一致している。その証拠をいくつか挙げる。

 (1)、スヴェルドロフの発言。「一九一八年五月にはすでに、スヴェルドロフが、中央執行委員会において、次のように述べている。われわれは、村の問題にとり組まなければならない。農村に、敵対する二つの陣営を作り出し、貧農をクラークに向けて蜂起させる必要がある。もし村を二つの陣営に割り、都市におけると同様に、村に内戦の火をつけることができるならば、その時にはわれわれは、都市と同じ革命に、村において成功することになるであろう」(ダンコース『ソ連邦の歴史1』、新評論、1985年、P.154)。彼の発言趣旨は、個人的なものでなく、レーニンを含め政治局全員が一致していた共同意思だった。

 (2)、レーニンの発言。「一九一八年四月二十九日、全ロシア中央執行委員会の演説でレーニンは単刀直入に言った。我々プロレタリアが地主と資本家を打倒することが問題になった時、小地主と小有産階級はたしかに我々の側にいた。しかしいまや我々の道は違う。小地主は組織を恐れ、規律を恐れている。これら小地主、小有産階級に対する容赦のない、断固たる戦いの時がきたのだ。」(『共産主義黒書』P.74)。レーニンのいう「小地主」とは、土地革命をした80%・9000万土地持ち中農のことである。それは、権力奪取6カ月後に、レーニンが土地持ち中農9000万人に仕掛けた宣戦布告だった。

 (3)、食糧人民委員が同じ集会で言明。「わたしは断言する。ここで問題になっているのは戦争なのだ。我々が穀物を入手できるのは銃によるのみだ」(全ロシア中央執行委員会第4回議事録)(『黒書』P.74)

 (4)、トロツキーの発言。「我々の党は内戦のためにある。内戦とはパンのための戦いなのだ……内戦万歳!」(全ロシア中央執行委員会第4回議事録)(『黒書』P.74)。

 (5)、カール・ラデックが1921年に書いた文。「彼は一九一八年春のボリシェヴィキの政策、すなわちその後二年間にわたって行なわれた赤軍と白軍の戦いへとつながる軍事的対決の発展の数カ月前の政策について、次のように解明している。一九一八年初めの我々の義務は単純だった。我々に必要なことは農民に次の二つの基本的なことを理解させることだった。国家は自らの必要のために穀物の一部に対して権利があるということ、そしてその権利を行使するための武力を持っているということである!」(ラデック『ロシア革命の道』)(『黒書』P.74)

 (6)、食糧人民委員ツュルーパの5月9日の会議言明。「即座に武器を手にしてだけ穀物を受け取ることができる…。われわれは農村ブルジョアジーにたいする戦争を考えている」(梶川伸一『飢餓の革命』P.279)。ツュルーパの5月12日の官報談話。「われわれは農村に武装部隊を派遣するだろうし、それらは武器で富農に穀物を販売させるだろうし、これは、犠牲者と死にもの狂いの抵抗が出る戦争である」(梶川伸一『飢餓の革命』P.277)。

    梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年食糧独裁令

    梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』農民反乱の分析

 レーニン、スヴェルドロフ、トロツキー、食糧人民委員ツュルーパら政治局全員が、「村に内戦の火をつける」ための食糧独裁令を仕掛けたのは、どういう性質を持つのか。それは、5月時点のボリシェヴィキ党員35万人という「市場経済廃絶・貨幣経済廃絶」軍と、9000万農民・全他党派の「市場経済回復・実現」軍との内戦だった。市場経済廃絶軍は、党員だけでなく、チェーカー28万人、赤軍550万(1920年)という国家暴力装置、300万プロレタリアートを擁し、赤色テロルを行いつつ、余剰穀物収奪の戦争を先に展開した。市場経済回復・実現軍は、土地革命を自力で成し遂げた80%・9000万農民とともに、エスエル・左翼エスエル・メンシェヴィキ・アナキストという全他党派が参加した。それは、労働者と農民との内戦、都市と農村との内戦の性格も帯びた。それは、他党派にとって、レーニンの第4回目クーデターとなった。

 これは、5連続クーデター説に基づく歴史解釈である。第2回クーデターは、カデット機関紙、ブルジョア新聞の閉鎖命令、第3回は、ボリシェヴィキが敗北した憲法制定議会の武力解散をしたクーデターである。第5回クーデターは、下記にのべる6月14日全ロシア中央執行委員会と全ソヴィエトからのエスエル、メンシェヴィキ追放決定である。レーニンによるソヴィエト権力簒奪・党独裁の5連続クーデターにたいして、労働者・農民・兵士と全他党派が猛反対し、総決起した。

 3、内戦発生時期と原因説の大逆転

 しかも、ここには、内戦発生時期と原因に関する重大な問題がある。メドヴェージェフは、ソ連崩壊後の資料に基づいて、内戦の基本原因の一つを、ボリシェヴィキの食糧独裁令にあったとの新説を発表した。いわゆる内戦の勃発期日は、5月25日のチェコ軍団の反乱開始日である。それを導火線として、コルチャークなど白衛軍との内戦、外国干渉軍との戦争が広がった。

 ところが、上記6人の農民との内戦開始演説・発言時期は、4月29日から数日間の第4回全ロシア中央執行委員会、および、5月13日「食糧独裁令」発令前である。それは、チェコ軍団・白衛軍との内戦勃発の26日も前だった。ニコラ・ヴェルトは、『共産主義黒書』において、4月29日議事録を発掘し、メドヴェージェフの新説を追認・証明した。梶川伸一は、膨大なアルヒーフ(公文書)によって論証した。内戦を誰が先に仕掛けたのかは、明白な歴史的事実となった。それこそ、レーニンの、自国民にたいする犯罪的な戦争再開政策となった。レーニン、スヴェルドロフ、トロツキー、食糧人民委員ツュルーパこそが、5月13日、食糧独裁令発令によって、80%・9000万農民にたいする穀物・家畜収奪の内戦を開始したのである。食糧独裁令内容とその後の詳細は、農民ファイルで書いた。

    ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

 こうして、レーニンは、「すべての権力をソヴィエトへ」「土地・平和・パン」という4つの公約を実行せず、それどころか、公約とは逆の路線・政策を選択したことによって、労兵農ソヴィエトや全国民の期待を裏切った。ボリシェヴィキ支持率が急落したのは、国民の期待が、政権発足後半年間で、幻滅と怒りに転化したからである。

 食糧独裁令とソヴィエト権力簒奪・党独裁権力樹立クーデターは、ボリシェヴィキ支持率を一気に下落させた。しかし、白衛軍がいた。白衛軍とは、外国軍事援助に全面依存した旧帝政復活目標の反革命勢力である。彼らは、農民の土地革命も全面否定していた。土地を手に入れた農民や、社会主義を望んだ労働者・兵士たちは、文字通りの反革命軍に敵対し、たたかった。1918年5月25日チェコ軍団反乱から1920年夏までの白衛軍との戦闘中は、複雑な二重の内戦となった。(1)レーニンが4月29日全ロシア中央執行委員会で宣言し、白衛軍との内戦よりも26日間も前に仕掛けた80%・9000万農民にたいする食糧独裁令強行の内戦と、(2)チェコ軍団、白衛軍との内戦である。

 4、クーデター政権の根本的に誤った路線への全階層総決起・反乱

 白衛軍が鎮圧され、それとの内戦が基本的に終結した1920年夏以後、労働者・農民・兵士と全他党派は、共産党独裁・ソヴィエト権力簒奪クーデター政権にたいして、経済的要求とともに、自由で平等な新選挙を求める要請行動に総決起した。

 食糧独裁令とは、マルクスの根本的に誤った机上の空論である市場経済廃絶・貨幣経済廃絶理論をロシアに具体化した路線だった。1917年5月以降の土地革命の嵐によって、農村共同体内部で土地分配を平等にした農村は、地主・富農(クラーク)・貧農はなくなり、ソ連全農村の構成がほとんど中農に変化していた。1918年6月11日貧農委員会の組織法令は、80%・9000万農民の心理と、土地革命後の農村実態にまったく無知なレーニンらの認識からの空論で、その方針は、半年ももたず、瓦解した。今度は、さらなる無知から、農民が生産した穀物・家畜を「軍事・割当徴発」した。それは、チェーカー、赤軍、共産党員労働者を使った、暴力による穀物・家畜収奪路線だった。それは、全土で土地革命農民の死に物狂いの抵抗・反乱を引き起こしただけでなく、ロシアの農業生産をも破壊した。

 その誤った農民の生産物収奪作戦にたいして、80%・9000万農民全員が抵抗し、そのため、都市部における飢餓がますます深刻化した。全土で、労働者が飢餓解決の経済要求で立ち上がった。その要求は、直ちに、自由で平等なソヴィエト新選挙要求やレーニンによって破壊されたソヴィエト民主主義復活などの政治的要求にエスカレートし、経済要求と結合した。

 この歴史的経過は、梶川伸一『飢餓の革命』『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』の2著書・1210頁が、ソ連崩壊後の膨大なアルヒーフ(公文書)を発掘して、証明した。その結論として、彼は、「労農同盟が成立している」というのは、レーニンのウソであるとし、公認ロシア革命史の根本的見直しを提起している。ただ、レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターから食糧独裁令発令までの6カ月間、80%・9000万農民は、土地革命を事後承認したレーニンの政策を支持していた。その間は、労働者と農民との政治的軍事的同盟としての労農同盟レベルではないが、農民によるボリシェヴィキ政権支持の平和的関係があった。それを意図的に公然と破壊し、農民にたいする食糧独裁令の内戦を仕掛けたのは、レーニンの側だった。

 レーニンは、それらの経済・政治要求と平和的要請行動にたいして、平和的交渉や妥協を全面拒絶した。党独裁政権とその路線に抵抗、批判、反乱する階層にたいし、彼らを白衛軍と同列において、一律に、反革命・人民の敵・富農(クラーク)レッテルを貼りつけた。白衛軍は、まさに反革命勢力である。しかし、労働者・農民・兵士たちや社会主義他党派は、ソヴィエト内の革命勢力であり、ソヴィエトにおける飢餓解決と民主主義復活を要求している国民で、反革命などではない。レーニンは、反革命レッテルを恣意的に拡大し、大量殺人をするという犯罪的誤りを強行した。

 5、レーニンの最高権力者期間の算定問題

 ただ、このファイル・テーマとの関係で、レーニンの最高権力者期間の算定問題がある。彼の脳卒中発作は3回ある。

 第1回発作は、1922年5月26日である。回復すると、彼は、下記の「反ソヴィエト」知識人数万人の追放・強制収容所送りを「作戦」と名付け、直接指揮した。

 第2回発作は、1922年12月16日である。その発作によって、最高権力者としての活動という面では、再起不能となった。そして、党大会への手紙といくつかの短文を口述筆記で残した。その内容レベルの評価はいろいろある。しかし、それらは、はっきりいって、党大会や共産党運営にたいして、何の効果も挙げ得なかった。よって、私(宮地)は、彼の最高権力者期間を、第2回発作までの5年2カ月間と算定する。

 1917年11月7日は、レーニンの第1段階クーデターだった。労働者・農民・兵士ソヴィエトは、レーニンが4つの公約を全面的に実行するものと信じ、6カ月間、クーデター政権を支持し、平和的関係を続けた。しかし、(1)1918年4月29日全ロシア中央執行委員会による農民への内戦開始宣言、(2)5月13日「食糧独裁令」発令と労働者穀物徴発隊・貧農委員会による内戦の具体的戦術開始、(3)6月14日全ロシア中央執行委員会、および、すべての各級ソヴィエトからの社会主義他党派エスエル、メンシェヴィキ追放決定という一連の暴挙は、レーニンによるソヴィエト権力簒奪クーデターだった。それ以降、労働者・農民・兵士とクーデター政権は、決定的な対立関係に突入した。レーニンが自国民大量殺人をした最高権力者期間は、1918年5月13日から、1922年12月16日第2回発作までの4年7カ月間となる。

 その間、彼は、下記9つの(表)にあるように、ソヴィエト民主主義を破壊し、ソヴィエト権力簒奪をし、党独裁クーデター権力に執着し、一貫して、ロシア革命勢力内部におけるボリシェヴィキ批判・抵抗・反乱者にたいして、「反革命」という詭弁レッテルを貼りつけ、大量殺人を続けた。クーデターによる権力奪取の6カ月後、ボリシェヴィキは、県庁所在地ソヴィエト19/30で惨敗した。政権崩壊危機に直面したレーニンは、一挙に変質し、絶対的権力者としての絶対的腐敗が始まった。彼は、権力のための権力者に転落した。最高権力者として生き残るには、あらゆる詭弁とウソを使い、共産党秘密政治警察チェーカー28万人によって、大量逮捕・大量殺人を続けるしかなかった。

 1918年4、5月から22年にかけて、レーニンという人物がしたことと、その人間性をどう考えたらいいのか。ボリシェヴィキ党員作家ザミャーチンは、ゴーリキーとともに、ソ連文壇の中心で活動していた。その中で、彼は、モスクワ・ペトログラード労働者の山猫ストライキ、クロンシュタット総決起とレーニンによる皆殺し対応、共産党秘密政治警察チェーカーの手口を全体験した。同時期・同現場で、その直接体験をSF小説化した作家は、ザミャーチンしかいない。ソ連崩壊後、彼のレーニン認識を再確認するとどうなるのか。

 レーニンは、自ら、「鉄の手で社会主義を建設しよう」というスローガンを創って、キャンペーンを展開した。上記全体の誤りと、全分野における民主主義抑圧者に変質した、最高権力者レーニンの一側面は、歴史上でひた隠しにされ、偉大なマルクス主義者レーニンの虚像が作られていった。レーニンは、巨大な鉄の手をセットした絶対的権力者として、反民主主義・赤色テロル型一党独裁システム維持・強化に固執する中で、絶対的に腐敗した。ザミャーチンは、「自分自身を押しつぶし、膝を折って」という言葉で、レーニンの腐敗状態を文学的に表現した。彼は、「その方の巨大な鉄の手」と書いて、レーニンのスローガンを否定しただけでなく、レーニンを殺人者と規定した。

説明: 説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/orwell.files/image004.jpg

『われら』 「恩人は、ソクラテスのように禿げた頭をもった男で、その

禿げた所に小さな汗のしずくがあった」「その方の巨大な鉄の手は、

自分自身を押しつぶし、膝を折ってしまっていた」「明日、彼ら(反逆

者)は、みな恩人の処刑機械に至る階段を昇るであろう」(299頁)

    『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱

 彼は、一度も、自分の労働で収入を得たことがなかった。スイス長期亡命者だった。行政経験は皆無だった。ドイツ政府・軍部の政治的軍事的思惑と合致したお陰で、ドイツ軍封印列車に乗って、1917年4月フィンランド駅に到着した。亡命からの帰国後、わずか7カ月間で、ボリシェヴィキの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターを強硬に主張し、ロシアの絶対的一党独裁権力を手に入れた。ボリシェヴィキ批判・抵抗・反乱者にたいする詭弁、ウソ、殺人指令文書執筆、殺人督促電報などの行政業務は、その経歴のレーニンの精神を蝕んだ。ヴォルコゴーノフは、『レーニンの秘密』で、彼の精神的そううつ病症状を詳述している。山内昌之は、その解説において、革命家と政治家との矛盾に病んだレーニンの人間性をさらに分析している。

    山内昌之『革命家と政治家との間』−レーニンの死によせて−

 第3回発作は、1923年3月10日だった。以後、口述筆記も不可能になった。死去は1924年1月21日、54歳だった。


2、レーニンの大量殺人総合データ (表1〜9)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/leninsatujin.htm


 3、大量殺人数推計の根拠と殺人指令文書27通

 これは、(表9)の推計に関する根拠である。殺人数については、白衛軍との内戦犠牲者700万人と、レーニンによる大量殺人最低数の数十万人とを区別することが難しい。これらの数字は、諸データや文献を検討し、白衛軍との内戦犠牲者を除いた数字である。殺人根拠の決定的データとして、各階層にたいするレーニンらの大量殺人・追放指令文書27通を載せる。それによって、ファイル全体が長くなる。しかし、その文書を読まなければ、なかなかレーニンの数十万人殺人犯罪事実を理解し、納得することができない。ただ、ソ連崩壊後に発掘され公表された文書だけである。証拠隠滅・焼却文書や現在も隠蔽中の文書は、かなりあると推定される。殺人・追放指令文書は、通し番号を付ける。もちろん、レーニンは、最高権力者・人民委員会議議長として、これらの文書すべてに直接関与している。

 当初の文書は19通だった。その後、8通を加えた。追加した〔殺人指令文書〕No.は、農民7、コサック10、労働者11・12、チェコ軍団14、知識人18・19、他党派24である。


(表10) 殺人指令文書27通

 〔殺人指令文書〕27通は、それぞれ〔小目次〕の文中に載せた。一方で、その通し番号を(表)にしておく。これらの指令を発したレーニンという大量殺人革命家の人間性をどう考えたらいいのか。未発掘の殺人指令文書や殺人指令電報などが、まだ数百通あると言われている。それらを含めれば、『レーニン全集』の裏側として、『レーニン殺人指令選集』が編纂できるほどである。


知識人の数万人は、追放と強制収容所送りである。他党派の百数十万人は、労働者・農民と重複する人数を含む。ここには、1921・22年の餓死500万人、内ウクライナの餓死100万人を入れていない。それが、レーニンによる政策的餓死殺人をどれだけ含むのかについては、関係資料がまだ未発掘である。ランメルは政策的餓死殺人を250万人としている。レーニン、トロツキー、スヴェルドロフ、トハチェフスキーらが、コサックやタンボフ反乱農民にたいして、すべての穀物・家畜を没収して、大規模な餓死殺人政策を行ったことは、ソ連崩壊後のデータによって、証明されている。

 単純総計をすれば、レーニンの大量殺人数は、百数十万人になる。ただ、発掘されたデータから見て、最低数十万人を殺害したことは間違いない。しかも、殺人指令レッテルのすべては、レーニンが意図的にでっち上げた詭弁とウソだったことが、ソ連崩壊後に判明した。レーニンという人間が、マルクス主義革命家であったことは事実である。しかし、27通の〔殺人指令文書〕を克明に検証すれば、レーニンという人物は、「反民主主義者、反人道主義者」という大量殺人型革命家だったことが、浮き彫りになる。この規定は、「反ソヴィエト」知識人として追放された哲学者ベルジャーエフがしたものである。

 1、反乱農民の数十万人殺害

 タンボフ、西シベリア、マフノの3大反乱だけでも、反乱農民の部隊は14万人いる。とくに内戦が基本的に終了した1920年夏から1921年春にかけて、「軍事=割当徴発」制の穀物・家畜の収奪による餓死の恐怖とも合わさって、反乱が激化し、36県が戦争状態になった。118件または数百件を合計すれば、反乱参加者は、百数十万人から数百万人になる。レーニンは、その内、数十万人を裁判なし射殺、革命裁判所による48時間以内の死刑、毒ガス使用による殺戮、人質、強制収容所送りなどの手法によって、農民を殺した。

 反乱農民数十万人殺害の別の根拠を挙げる。メドヴェージェフが公表したデータによるボリシェヴィキ側の死者からの逆算である。農民反乱の武力鎮圧過程において、食糧人民委員部10万人以上が死亡し、赤軍兵士171185人が死亡した。合わせて27万人以上が死んだ。正規の武装をした共産党独裁権力側がそれだけ死んだのである。反乱農民側の殺害・人質・強制収容所送りの人数がそれより少ないことはありえない。この逆算式から見ても、レーニンが、9000万農民のうちで、政権側の死者27万人をはるかに超える数十万人を殺害したことは明白である。これらの細目データは『農民』ファイルで書いた。

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

 〔殺人指令文書1〕、1918年8月11日、「暴動」農民の絞首刑指令

 これは、岩上安見『あらかじめ裏切られた革命』(講談社、1996年)のデータである。彼の直接取材にたいして、ヴォルコゴーノフが見せた「レーニン秘密資料」である。それは、レーニンの手書きの手紙だった。同一指令内容が、梶川『飢餓の革命』(P.547)にもある。ただ、岩上著の日付は「8月18日」になっているが、梶川著の日付にした。梶川氏から「この日付は、モスクワで1999年に発行された『レーニン・知られざる文書』でも確認できます」というメールをいただいた。

 「ロシア連邦ソヴィエト共和国 人民委員評議会議長 モスクワ・クレムリン

 一九一八年八月十一日

 ペンザ市ヘ クラエフ同志、ボシ同志、ミンキン同志他のペンザ市の共産党員達へ

 同志諸君!

 五つの郷での富農(クラーク)の暴動に対し仮借なき鎮圧を加えなければならない。富農達との最後の決定的戦闘に臨むことは、全革命の利益にかなっている。あなた方は模範を示さなければならない。

 一、正真正銘の富農、金持ち、吸血鬼を最低百人は絞首刑にすること(市民がみんな見られるように、是非とも絞首刑にしなくてはならない)。

 二、彼らの名前をすべて発表すること。

 三、彼らの所有している小麦をすべて奪うこと。

 昨日の電報通りに人質を決める。そして吸血鬼の富農達を絞め殺し、その姿を百マイル四方の市民すべてに見せつけて、彼らが恐怖におののき、叫び声をあげるようにしなければならない。(私の)電報の受取とその内容の実行について、電報を打ちなさい。

          あなたのレーニンより

 追伸 できるだけ、不撓不屈の精神の人を探しなさい。」(P.307)

 〔殺人指令文書2〕、1918年8月20日、「富農の人質」指令

 2つのデータを載せる。まず、梶川『飢餓の革命』の資料である。

 「戦時共産主義期に穀物や革命税の不履行に対して頻繁に人質(заложник)が利用された。八月にレーニンはツュルーパに、サラトフには穀物があるのに、搬送することができないのは最低の不面目であるとし、各郷ですべての穀物余剰の集荷に命を張る、富農から二五〜三〇人の人質を提案した(ГАР.Ф.1235, оп.93.170, л.48об.−49)。それに続く覚え書きで、「「人質」を取ることではなく、郷毎に指名するよう提案している。指名の目的は、彼らがコントリビューツィアに責任を持つように、富農は穀物余剰の速やかな収集と集荷に命を張ることである。そのような指令(「人質」を指名すること)は、a、貧農委、б、すべての食糧部隊に出されている」(Ленинский сборник.xviii.c.145−146.)と述べている。」(P.548)

 この経過について、ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密・上』が、さらに詳しく書いている。

 「テロルは反体制的行為で有罪となった者にたいしてのみ適用されたという反論があるかもしれない。だが、そうではなかった。赤色テロルについての命令が立法化される一カ月前、レーニンは食糧生産人民委員のA・D・ツュルーパに、『すべての穀物生産地城で、余剰物資の徴集と積み出しに生命賭けで抵抗する富農から二五〜三〇人の人質をとるべきである』という命令を出すように勧告している。ツュルーパはこの措置のきびしさに仰天し、人質問題については返事をしなかった。

 すると、次の人民委員会議でレーニンは、彼がなぜ人質問題について返事をしなかったのか答えよと詰め寄った。ツュルーパは、人質をとるという発想そのものがあまりにも奇想天外だったため、どういう段取りでそれを行ったらいいかわからなかったのだと弁明した。これはなかなか抜け目のない答えだった。レーニンはさらにもう一通の覚え書を送って、自分の意図を明確にした。『私は人質を実際にとれといっているのではない。各地区で人質に相当する人間を指名してはどうかと提案しているのである。そうした人たちを指名する目的は、彼らが豊かであるなら、政府に貢献する義務があるのだから、余剰物資の即時徴集と積み出しに協力しなければ生命はないものと思わせるためである』。

 そのような措置は差しせまった状況があったからで、特殊なケースにのみ適用されたのだと考えるのはまちがっている。これは内戦中のレーニンの典型的な作戦で、大々的な規模で実施された。一九一八年八月二十日、彼は保健人民委員で、リヴヌイの内戦のリーダーでもあったニコライ・セマシュコにこう書いている。『この地域での富農(クラーク)と自衛軍の積極的弾圧はよくやった。鉄は熱いうちに打たねばならない。一分もむだにするな。この地区の貧乏人を組織し、反抗的な富農たちのすべての穀物、私有財産を没収せよ。富農の首謀者を絞首刑にせよ。わが部隊の信頼できるリーダーのもとに貧乏人を動員して武装させ、金持ちの中から人質をとり、これを軟禁せよ』。」(P.376)

 〔殺人指令文書3〕、1918年8月29日、「クラーク鎮圧・没収措置の報告」督促電報

 梶川『飢餓の革命』に、この「電報」が載っている。

 「手本を示さないペンザ県執行委にレーニンは八月二九日に繰り返し打電した。五郷のクラークの容赦のない鎮圧と穀物の没収の、どのような、深刻な措置がようやく貴殿によって採られたかについて貴殿から何もはっきりしないことにわたしはきわめて怒っている。貴殿の職務怠慢は犯罪的である。一つの郷に全力を注ぎ、そこですべての穀物余剰を一掃する必要がある(Ленинский сборник.xviii.c.209.)」(P.547)

 〔殺人指令文書4〕、1920年10月19日、「タンボフ県の農民反乱への鎮圧」指令

 1920年8月、内戦が基本的に終結すると同時に、タンボフ県の農民反乱始まった。反乱農民は、最大時5万人になり、300組織に広がった。梶川伸一は、『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』において、ソ連崩壊後に公開された膨大なアルヒーフ(公文書)を使って、反乱原因・経過を詳細に分析している。そこでのレーニンの指令を引用する。

 「九月二四日にレーニン宛てに、県執行委議長代理から次の文書が送られた。わが状態は悪化している(わが二個中隊が武装解除され、そのようにして四〇〇丁のライフル銃と四丁の機関銃が奪われ、全体として敵対者は強固)。[……]貴殿に[穀物を]何も出せなかった。集荷は一日必要な二〇〜二二万プードでなく二万〜二万二〇〇〇〜二万五〇〇〇しかない。この恐ろしい現実を知悉したレーニンは、直ちにチェーカー議長ジェルジーンスキィに「超精力的措置」を至急採るよう命じたが、事態はいっこうに改善されなかった。レーニンの関心事は、まず労働者への穀物の確保であった。タムボフの事件もこのことに集約された。

 二七日にブリュハーノフ宛てに次のように書き送った。『タムボフ県について。注意を払うように。一一〇〇万プードの割当徴発は確実だろうか』。これとの関連でさらに一〇月一九日に、国内保安部隊司令とジェルジーンスキィに、反乱は強まり、わが軍は弱いとの県執行委議長シリーフチェルの報告を伝え、反乱撲滅のための必要な措置を採るよう指示した。これとほぼ同時にレーニンはジェルジーンスキィには、叛徒の猖獗を醜悪の極みとして、タムボフ県のぼんくらなチェーカー員と執行委員を裁判にかけ、国内保安部隊司令を厳しく叱責し、厳格な反乱の鎮圧を命じたのは、依然として根絶されない反革命的行為への彼の焦燥感の表現であった。二月になると抑圧的措置が強化され、匪賊的村が焼き討ちされた。」(P.604)

 〔殺人指令文書5〕、1921年6月11日、タンボフ農民への「裁判なし射殺」指令

 以下は、『レーニンの秘密・下』にある「アントーノフの反乱」鎮圧経過である。

 「一九二一年五月、赤軍司令官トゥハチェフスキー元帥には、すぐに出動可能な常備軍五万人、装甲列車三両、装甲部隊三個、機関銃をもった機動隊数隊、野戦砲約七〇門、機関銃数百丁、航空部隊一個があった。抵抗があった場合には、軍隊は村を丸ごと焼き払い、農民の小屋に容赦なく発砲し、捕虜はとらないことになっていた。反乱の指導者アントーノフは、一度は敗北したにもかかわらず、もう一度抵抗を試みようとしており、ボリシェヴィキを数カ月にわたって忙しくさせた。だが、一九二二年五月、彼はチェーカーに密告され、一カ月後、彼の兄弟とともに一軒の小屋に閉じ込められた。彼らは一時間あまりそこにこもっていたが、軍隊が小屋に火を放ったため、森へ脱出し、走っている最中に射殺された。引きつづいて軍隊が、アントーノフを助けたと見られる大勢の人たちを、報復措置として処刑した。」(P.160)

 その鎮圧前に、レーニンは、この農民反乱にたいして、大量の人質政策をとり、モスクワに送らせた。そのデータも、『レーニンの秘密・下』にある。

 「一九二一年九月、モスクワ赤十字委員会会長のヴェーラ・フィグネルは、共和国革命法廷宛てにこう書いている。「現在、モスクワの拘置所には、タンボフ県からの大勢の農民が入れられています。アントーノフの一団が一掃される前に、身内のために人質になっていた人たちです。ノヴォ・ペスコフ収容所には五六人、セミョーノフには一三人、コジュホフには二九五人、この中には六十歳以上の男性が二九人、十七歳以下の若い人が一五八人、十歳以下が四七人、一歳未満が五人います。彼らは全員、ぼろをまとい、身体の半分は裸という惨めな状態でモスクワに到着しました。よほど空腹なのか、幼い子供たちはごみの山をあさって食物を探しています……政治犯救済赤十字は、こうした人質の救済と、彼らの故郷の村への送還を請願いたします。」

 政権側はそのような嘆願にたいしてほとんど耳を貸さなかった。」(P.158)

 6月11日、レーニンは次のような命令を、政治局の承認をえて、発令した。これは、『レーニンの秘密・下』の「レーニン秘密・未公開資料」によるものである。その文をそのまま引用する。

 「反乱の指導者アントーノフの率いる[タンボフ県の]一団は、わが軍の果断な戦闘行為によって撃破され、ちりぢりばらばらにされた上、あちこちで少しずつ逮捕されたりしている。エスエル・ゲリラのみなもとを徹底的に根絶するために……全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会は次のように命令する。(1)自分の名前をいうのを拒否した市民は裁判にかけずにその場で射殺すること。(2)人質をとった場合は処罰すると公示し、武器を手渡さなかった場合は射殺すること。(3)武器を隠しもっていることが発見された時、一家の最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。(4)ゲリラをかくまった家族は逮捕して他県へ追放し、所有物は没収の上、一家の最年長の働き手を裁判なしに射殺すること。(5)ゲリラの家族や財産をかくまった家では、最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。(6)ゲリラの家族が逃亡している場合には、その所有物はソヴィエト政権に忠実な農民たちに分配し、放棄された家屋は焼き払うか取り壊すこと。(7)この命令は厳重に、容赦なく実行すること。この命令は村の集会で読み上げること。

 政治局は、あちこちの県で大虐殺が行なわれるのを認めていた。」(P.158)

 〔殺人指令文書6〕、1921年6月12日、毒ガス使用によるタンボフ農民の絶滅命令

 ロイ・メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』で、次のように認めている。

 「ボリシェヴィキが再びロシアを奪還した一九二一年春は、どことなく一九一八年春と似ている。だが今度は国が土台まで破壊されていた。工場は操業を停止していた。工業労働者の大部分が村へ去っていった。農業生産は半減した。だが農民は、ただぶつぶつ不平を言っていただけではなかった。再び武器を取って立ち上がり始めた。ロシア中央部ではエスエル党員アレクサンドル・アントーノフに率いられたタンボフの反乱、すなわちアントーノフの反乱が荒れ狂った。この時、内戦期において初めて軍は兵器庫から化学兵器を取り出し、使用した。」(P.125)

 ヴォルコゴーノフは、この詳細を『レーニンの秘密・下』で公表した。

 「一九二一年四月二十七日、レーニンの率いる政治局は、トゥハチェフスキーをタンボフ地方の司令官に任命した。彼は一カ月以内に農民の反乱を鎮圧すること、およびその進捗状況を毎週文書で報告するように命じられた。トゥハチェフスキーはその期限を守ることはできなかったが、要求の達成には全力を尽くした。

 六月十二日に、トゥハチェフスキーは次のような命令を出した。

 敗北集団や単独行動の盗賊の生き残り……などが森に集まり、平和に暮らしている住民を襲っている。(1)盗賊が隠れている森に毒ガスを撒き、彼らを一掃すること。窒息ガスを森中全体にたちこめさせ、そこに隠れているすべてのものを確実に絶滅させるように綿密な計画を立てること。

(2)小火器監察官は必要数の毒ガス入り気球と、その取り扱いに必要な専門技術者をただちに現場に派遣すること。

 体制から見て、どういう種類の農民が“本物の階級の敵”とみなされたのかは想像しにくい。だが、似たような措置は他のところでもとられ、政治局はそれを承知し、認めていた。」(P.135)

 〔殺人指令遂行報告7〕、1921年7月10日、タンボフ県匪賊抑圧政策の人質・公開処刑報告

 これは、ニコラ・ヴェルトが『共産主義黒書』に載せた。

 「タンボフ県匪賊抑圧政策に関する全権五人委員会議長報告 1921年7月10日

 クドリュコフスク郡の掃討作戦は、以前匪賊の一味をかくまったオシノフカ村から、6月27日に開始された。わが抑圧部隊にたいする農民の態度は、ある種の不信感をもって特徴づけられる。農民は森の匪賊どもを通報することなく、質問にたいしては何も知らないと答えた。われわれは40人の人質をとらえ、村に戒厳令をしき、村の住民に匪賊と隠匿武器を引き渡すために2時間の猶予を与えた。村人は集まって相談し、いかになすべきか躊躇していたが、しかし積極的に追い出し作戦に協力するとは決しなかった。

 きっと彼らは、人質を処刑するというわれわれのおどしをまじめにとらなかったのだろう。猶予時間が過ぎたので、われわれは21人の人質を村人の集まる前で処刑した。全権委員、共産主義者の目の前で、慣例にしたがって形式にのっとり、一人ひとりを銃殺によって公開処刑にしたことは、農民に衝撃的な印象を与えた……

 カレーフカ村に関しては、その地理的情況から、匪賊の一味にとって恵まれた場所になっていた……委員会はこれを地図から抹消することに決定した。全住民は赤軍勤務者の家族を除き、移動させられ、その財産は没収された。赤軍勤務者の家族はクルドウーク村に移され、匪賊一味の家族の、没収された家に住まわせた。いくつかの価値ある品−窓枠、ガラス製品、木製品等々−を回収したあと、村の家々に火が付けられた……

 7月3日、われわれはボゴスロフカ村の作戦を開始した。ここの農民ほど頑固で、組織化された者は、前に出会ったことがまずない。これらの農民と言い争っていると、若い者も年取った者も、異口同音に驚いたふうでこう言うのだった。

 「わしらのところに匪賊だって? まさか、そんなことを考えなさるなんて、とんでもない! 一度くらい近くを通るのを見たことはあったかもしれねえが、匪賊だなんて思ってもみませんでした。わたしどもはだれにも悪いことはせず、静かに暮らしとりますだ。なんにも知りません。」

 われわれはオシノフカでも同じ処置をした。人質を58人とった。7月4日にわれわれは第1グループの21人を公開処刑し、翌日には15人処刑した。しかし匪賊ども60家族、約200人を退治することはできない。最終的にわれわれは目的を達し、農民は強制されて匪賊狩りと隠匿武器の探索に出発した……

 上記諸村の掃討は7月6日に終了した。作戦は見事成功し、その影響は近くの2郡を越えて響いている。匪賊どもの降伏が相次いでいる。

                     全権五人委員会議長 ウスコーニン。(注)」(P.128)

 (注)、ダニ一ロフ、シヤーニン『タンボフ県における農民反乱1919〜1921年』218頁

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

    梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』食糧独裁令の誤りと農民反乱

 2、脱走兵・兵役忌避逃亡者十数万人から数十万人を銃殺・殺害・人質

 1919年の公式統計だけで、脱走兵1761000人と徴兵逃れ917000人がいた。その合計は2668000人である。他年度の統計は出ていない。1918年5月の食糧独裁令以後に、徴兵制と内戦が始まった。1920年11月に内戦は完全に終結した。その3年間を単純計算すれば、266.8×3年=800.4万人になる。赤軍の正規軍化による最大規模は500万人だった。80%農民国家において、徴兵者の80%も農民兵だった。

 レーニン、トロツキーは、赤軍を、(1)内戦地方では白衛軍との戦争に当て、(2)内戦になっていない他地方では、軍事=割当徴発制の穀物・家畜収奪政策と反乱農民鎮圧作戦に使った。1920年夏以降のタンボフ県、西シベリア、ウクライナにおける3大農民反乱や36県での農民との戦争状態にたいする武力鎮圧に、全面的に赤軍を使い、裁判なし射殺や毒ガス使用による反乱農民の殲滅、殺戮作戦に使った。

 徴兵後、働き手を奪われた家族も穀物・家畜を、等しく軍事・割当徴発によって収奪され、餓死の危険が迫った。レーニン・トロツキーは、農民出身の兵士にたいして、反乱農民を殺す任務を負わせた。白衛軍とたたかうのならともかく、同じ農民を殺す軍隊は、彼ら80%を占める農民出身兵士にとって、犯罪的存在でしかない。脱走兵と徴兵逃れが大量に出るのは当然だった。トロツキーは、彼らにたいして、犯罪・腰抜けというレッテルを貼りつけた。1921年の公式統計での赤軍兵士銃殺は4337人である。4337×3年=銃殺した兵士13011人になる。

 レーニンは、徴兵逃れの農民狩りを指令し、チェーカーと赤軍に大々的に行わせた。彼は、それを「捕獲」と名付けて、捕獲数を報告させていた。その捕獲作戦に抵抗する農民を大量に殺し、また、脱走兵と徴兵逃れの家族を人質に捕えた。彼らが出頭しなければ、見せしめに人質を殺害した。その殺人と人質、人質殺害だけでも、800.4万人の脱走兵・徴兵逃れのうちで、最低でも十数万人になる。

 別の算出根拠もある。『飢餓の革命』(P.16)にある1920年8月のチェリャビンスク県だけの報告である。兵役忌避者7340人のうち106人が監獄、194人が矯正収容所、134人が強制労働、1165人が執行猶予、5067人が罰金、18人が銃殺、656人がそのほかの判決。もちろん、捕獲部隊との戦闘で多数が犠牲という公式統計である。

 4項目452人÷7340人=6.15%となる。脱走兵・徴兵逃れ800.4万人×6.15%=約49万人になる。機械的な計算式だが、約49万人を監獄、矯正収容所、強制労働、銃殺にしたことになる。

 〔殺人指令文書8〕、1918年8月30日、トロツキーの脱走兵銃殺命令

 これは、ヴォルコゴーノフ『トロツキー・上』(朝日新聞社、1994年)の文書である。

 「プロレタリアート独裁にたいする確信は、トロツキーをして国内戦時代における軍事テロの主要な推進者のひとりとした。手元に、一九一八年八月三十日にトロツキーが署名した命令がある。

 命令第三一号  赤軍および海軍へ  反逆者および裏切り者が労農赤軍にもぐり込み、人民の敵に勝利をもたらそうとしている。その次が、略奪兵と脱走兵である……。昨日、東部戦線第五軍野戦軍法会議の判決により二〇人の脱走兵が銃殺された。真っ先に銃殺に処せられたのは、その任せられた部署を放棄した指揮官やコミッサールであった。ついで負傷兵のふりをした臆病な嘘つきが銃殺された。最後にこれからの戦闘で自分の犯罪的行為を償うことを拒否した脱走兵が何人か銃殺された。労農赤軍の勇敢なる兵士諸君万歳! 略奪兵に破滅を。裏切り者の脱走兵に死を。  軍事人民委員  トロツキー。(注162)」(P.402)

 (注162)、マルクス・レーニン主義研究所党中央文書保管所、フォンド325、目録1、資料40、ファイル27

 3、コサック身分農民30〜50万人殺戮、強制移住による餓死殺人

 コサック身分農民は、440万人いた。彼らは、帝政時代から軍事的義務とひきかえに、土地利用で一般農民より優遇されていた。内戦中は、「白いコサック(白衛軍側)」と「赤いコサック(赤軍側)」とに分かれ、それぞれが流動的に入れ替わった。コサックたちが内戦にほんろうされる有り様は、ショーロホフが『静かなドン』において、農民兵士グリゴリー・メレホフの流転する生涯を通して、リアルに描いている。

 9000万農民の土地革命後、レーニンは、コサック優遇措置を廃止し、一般農民と同じにした。コサック騎兵集団は、たしかに「白」と「赤」の両面性を持っていた。それにたいして、レーニンと政治局は、コサックにたいしてだけ土地革命農民なみの権利・権限をも剥奪し、『農民』ファイルの極秘指令「赤色テロル」を先制的に仕掛けた。これは、メドヴェージェフの言うように、極めてひどい誤りであるだけでなく、ロシア革命にたいする犯罪行為だった。レーニンとスヴェルドロフは、未来の反革命因子を排除するための一つの階層まるごとを抹殺する大量予防殺人をしたのである。

 レーニンの一方的なコサック抹殺の先制テロルにたいして、コサック騎兵集団が総反発して、対赤軍の反乱を起したのは当然だった。レーニンとコサック反乱鎮圧司令官オルジョニキッゼは、30〜50万人のコサックを戦闘、虐殺、餓死で殺し、あるいは強制収容所送りにした。トロツキーは、反乱したコサック村の家族をシベリアに徒歩で強制移住させ、その穀物没収した上での死の行進手法により、数千人を餓死させた。

 1920年10月、生き残ったコサック騎兵3万人は亡命した。政治局は、自分の馬と別れ難いので亡命を断ったコサックを、すべて銃殺するか、強制収容所送りにした。これにより、ソ連各地のコサック領地に住むコサック身分440万農民は離散した。亡命者たちの一部は、有名なコサック合唱団を作り、コサックの歌と踊りを世界に広めた。

 スターリンも、レーニンのコサック根絶政策を忠実に継承した。それにより、440万人の70%、308万人が、戦死、処刑、流刑死で抹殺された。これらの詳細を、植村樹・元NHKモスクワ特派員が『ロシアのコサック』(中央公論社、2000年)で書いている。

 〔殺人指令文書9〕、1919年1月21日、コサックへの赤色テロル指令

 この日付は、『共産主義黒書』のものである。メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』は、2月となっている。メドヴェージェフの文をそのまま引用する。

 「一九一九年春までに赤軍も著しく力をつけ、その兵員数は二百万に近づきつつあった。中農の気分が急変し、三百万人にまで増員することが決定されていた赤軍の補充が容易になった。一九一九年秋までに内戦を成功裡に終結させることができるだろうとの確信が生まれた。しかしちょうどこの頃から、赤軍にとっては失敗と敗北続きの時期が始まるのである。一九一九年三月十二日ヴェンシェンスカヤ村を先頭とするドン北部のコサック村で新しい反乱の火の手が上がった。それはすでに反赤軍の反乱であった。

 反乱の原因はドン上流地域のコサック村でおこなわれた最も無慈悲な赤色テロルであった。このテロルの直接の実行者は軍後方部隊あるいは前線司令官たちであったが、イニシアチブを取ったのは彼らではなかった。赤軍の側につき、戦闘をつい最近開始したばかりのコサック自身もテロルへの口実を全く与えてはいない。テロルの指令はモスクワから入ってきたのである。それは、ロシア共産党中央委員会組織局指導者にして全ロシア中央執行委員会議長であったヤコフ・スヴェルドローフ署名の同党組織局決定であった。指令は次のようなものであった。

 各地の戦線やコサック地区での最近の諸事件、コサック入植地奥地へのわれわれの前進とコサック部隊に囲まれての崩壊によりわれわれは党活動家に対し、上記地区での仕事の性格について指示を与えねばならない。コサックとの内戦の経験にかんがみ、コサック上層部全員に対する最も仮借なき闘争、彼ら全員を根絶やしにする闘争を唯一正しいものであると認めねばならない。

 一、裕福なコサックに対して大量テロルをおこない、彼らを一人残らず根絶やしにすること。ソヴィエト政権との闘いに直接あるいは間接に、何らかの参加をしたコサック全員に対し仮借なき大量テロルをおこなうこと。中間コサックに対してはソヴィエト政権に反対する新たな行動をとろうとするいかなる試みをも予防するためあらゆる措置を講ずること。

 二、穀物を没収し、余剰すべてを指定の場所へ運び、引き渡させること。これは穀物だけでなく、あらゆる農産物に適用される。

 三、よそから来た貧民移住者を援助するあらゆる措置を講じ、移住可能なところへ移住させること。

 四、土地関係やその他すべての関係において、他都市から来た人々とコサックとを平等に遇すること。

 五、完全武装解除をおこない、武器引渡期限以降に武装の所持が発覚した者は、すべて銃殺すること。

 六、他都市から来た人々のうち信頼のおける人々にのみ武器を渡すこと。

 七、今後完全な秩序が確立されるまでコサック村には武装した部隊を駐留させること。

 八、いずれかのコサック入植地へ任命されたコミッサールは最大限に毅然たる態度を示し、一貫して本命令を遂行すること。農業人民委員部は貧民がコサックの土地へ大量に移住できるように実際的措置を早急に準備すること。

 ロシア共産党中央委員会。(党中央アルヒーフ、ЦПА,Ф.17, оп.4,д.21, л.216)

 二月にドン上流地域のコサック村で実施され始めた恐ろしい、身震いさせるこの指令について私はコメントするつもりはない。これは極めてひどい誤りであるばかりでなく、ロシアと革命に対する犯罪行為であった。政治的あるいは倫理的判断やその結果については言うまでもない。二月のスヴエルドローフ指令が実施されたのはコサックの州なのである。この地域では男性住民はみな武装し、武器の扱いにたけており、大、小の村落で動員を短時間におこない、何十もの歩兵および騎馬連隊を編成することができるのである。この状況で「非コサック化」と大量テロルをおこなえば必然的にコサックの蜂起を招き、南部戦線の安定だけでなく、革命の運命をも脅威にさらすことになるのである。現にドン上流地域で始まった反乱を鎮圧することは出来なかった。ドン上流地域のコサックは連隊と師団を巧みに活用し、対コサックのために投入され、たいていは大急ぎで編成された兵団をことごとく打ち破った。このおかげでデニーキン軍は十分に態勢を整え、一九一九年五月、強力な攻撃を開始することができたのである。六月末までにデニーキン軍はウクライナのほぼ全域と、中央黒土地帯と、ヴオルガ地域のかなりの部分を占領した。六月二十四日、赤軍はハリコフを、六月三十日にはツァーリンを放棄した。」(P.121)

 〔殺人指令文書10〕、1920年10月23日、オルジョニキッゼのコサック解体命令

 これは、ニコラ・ヴェルトの『共産主義黒書』にある。

 もっとも手っ取りばやいコサック解体の方法は、コサックの村を破壊して、すべての生存者を収容所送りにすることだった。ボリシェヴィキ指導者の一人で、当時北カフカス革命委員会の議長だったセルゴ・オルジョニキッゼの文書の中には、一九二〇年十月末から十一月初めにかけて展開された作戦の一つの資料が含まれている。

 十月二十三日、セルゴ・オルジョニキッゼは以下のような命令を下した。

 「一、カリノフスカヤ村を完全焼却すること。

 二、エルモロフスカヤ村、ロマノフスカヤ村、サマシンスカヤ村、およびミハイロフスカヤ村の全住民を立ち退かせ、住民の家と土地は、ソヴィエト権力に常に愛着を示してきた貧農とチェチェン人に分配すること。

 三、上記諸村の十八歳から五〇歳までの全男子を列車に乗せ、見張りを付けて、重度の強制労働を行なわすべく、北方へ強制移住させること。

 四、女・子ども、老人を退去させること。ただし、もっと北の他の村に居住する許可を与えること。

 五、上記諸村の住民の全家畜と全財産を徴発すること。(注1)」

 三週間後、オルジョニキッゼあての報告は、以下のように作戦の展開を述べている。

 「カリノフスカヤ村−全村焼却。全住民(四二二〇人)は強制移住または退去。

 エルモロフスカヤ村−全住民排除(三一二八人)

 ロマノフスカヤ村−一六〇〇人強制移住。一六六一人移住待ち。

 サマシンスカヤ村−一〇一八人強制移住。一九〇〇人移住待ち。

 ミハイロフスカヤ村−六〇〇人強制移住。二二〇〇人移住待ち。

 このほか、一五四両の食糧輸送車がグローズヌイに向けて出発しました。強制移住がまだ完了していない村では、まず初めに白軍と緑軍の家族と、最後に反乱参加者の家族が移住させられました。移住させられなかった者の中には、ソヴィエト体制のシンパ、赤軍兵士・役人・コミュニストの家族がいます。強制移住作戦の遅れは、もっぱら車両の不足からきています。作戦のために送られてくる列車は、一日平均たった1編成でした。強制移住作戦を完了するために、さらに三〇六車両の追加が緊急に要請されます。(注2)」

 (注1)、ロシア現代史文書保存研究センター、85/11/131/11

 (注2)、ロシア現代史文書保存研究センター、85/11/123/15

 これらの「作戦」は、どのように行なわれたのだろうか? 残念ながらこの点については、我々にはいかなる正確な資料もない。わかっているのは、「作戦」は長引き、最終的に移住者はしばしば極北地方ではなく、その後も相次いだように、近くのドネッ炭田の方へ送られたということである。一九二〇年末の列車の状況からして、数量的に把握するのは難しい……それでも、諸方面から見て、一九二〇年のコサック解体の「作戦」は、十年後のクラーク撲滅の大「作戦」の前ぶれであった。連帯責任といい、列車による強制移住のやり方といい、経理の問題といい、移住者を受け入れる場所が準備されていなかったことといい、移住者を強制労働に使うという考えにおいて、このように言えよう。

 ドンとクバンのコサック地域は、ボリシェヴィキに反抗したために、多大の犠牲を払わされた。最も信頼できる評価によると、三〇〇万足らずの全人口中、一九一九〜一九二〇年に殺されたり、強制移住させられたりしたものは、三〇万から五〇万の間であった。(P.109〜111)

 4、山猫ストライキ労働者の逮捕10000人、即時殺害500人

 ペトログラード・ソヴェト議長ジノヴィエフとペトログラード・チェーカーが、1921年2月、全市を赤軍・共産党員軍・クルサントゥイ軍で包囲し、ストライキ工場をロックアウトした上で、10000人のストライキ労働者とボリシェヴィキ党員を逮捕した。そのうち、ストライキ指導者500人を拷問死、銃殺で即座に殺した。これは、V・セルジュとボリシェヴィキ指導者ダンの証言である。残りの9500人にたいする措置のデータはない。チェーカーは、残りの全員も銃殺する方針だったが、ゴーリキーとセルジュが、銃殺だけは止めた。

 この直前に、モスクワで全市的山猫ストライキがあり、それも鎮圧された。しかし、モスクワ・チェーカーによる12人銃殺、1000人逮捕という『黒書』データ以外は、現時点で分からない。

 モスクワとペトログラードの山猫ストライキ労働者にたいする〔殺人指令文書〕は、あるはずだが、まだ発掘されていない。

 ニコラ・ヴェルトは、『黒書』(P.94)で、その理由を次のようにのべている。『ボリシェヴィキは、労働者の名において政権を獲得したのだが、弾圧のエピソードの中で新体制が最も注意深く隠蔽したのは、まさにその労働者に対して加えた暴力だった』。

〔殺人指令文書11〕、1918年5月31日、ジェルジンスキーのストライキ労働者銃殺指令

 これは、ニコラ・ヴェルトが『共産主義黒書』に載せた。

 政治面では一九一八年春の独裁の強化はすべての非ボリシェヴィキ系新聞の最終的発禁、非ボリシェヴィキ系ソヴィエトの解散、反対派の逮捕、多くのストライキの粗暴な抑圧となって表れた。一九一八年の五〜六月には、二〇五の社会主義的反対派の新聞が完全に発行禁止になった。メンシェヴィキや社会革命党が多数派だったカルーガ、トヴェーリ、ヤロスラーヴリ、リャザン、コストロマ、カザン、サラトフ、ペンザ、タンボフ、ヴォロネジ、オリョール、ヴォログダのソヴィエトは、武力で解散させられた。弾圧はどこでもほとんど同じやり方で行なわれた。反対派が選挙で勝って、新しいソヴィエトがつくられると、その数日後に土地のボリシェヴィキは軍隊の応援を頼むが、それはたいていチェーカーの分遣隊だった。ついで戒厳令を出して、反対派を逮捕したのである。(注1)」

 反対派が勝利した町に自分の信頼する協力者を送ったジェルジンスキーは、一九一八年五月三十一目、トヴェーリへ派遣した全権のエイドゥークに、自分の命令を実行するにあたってなにより有効な武力行使について、次のように単純率直に書いている。

 「メンシェヴィキやエスエルやその他反革命の畜生どもに影響された労働者たちは、ストライキを行い、『社会主義』めいた政府の創設に賛成を表明した。君はすべての市にポスターを張って、ソヴィエト権力に対して陰謀を企てるあらゆる匪賊、盗賊、投機家、反革命家はチェーカーによってただちに銃殺されると声明すべきだ。市のブルジョワに対しては特別の支援を頼むがいい。彼らを調べ上げよ。もし彼らが動きだしたら、このリストが役立つだろう。我々の地方チェーカーがどんな構成員からなっているか、わたしに聞いてくれ。人を黙らせるには一発ぶっぱなすのがいちばん有効だとよく知っている連中を使うことだ。わたしは経験から、少数の断固とした人間で情況を変えることができるということを学んだ。(注2)」

 反対派の掌握したソヴィエトを解散し、一九一八年六月十四日にソヴィエトの全露執行委員会からメンシェヴィキと社会革命党員を排除したことで、多くの工業都市において抗議、デモ、ストライキが起こった。一方、そこでの食料事情はますます悪化していった。ペトログラード近くのコルピノにおいて、あるチェーカーの分遣隊長は労働者の食料要求デモに発砲を命じたが、彼らの配給食糧は一カ月小麦粉二フント〔〇・八キロ〕まで落ち込んでいた! その結果、十人の死者がでた。同日、エカチェリンブルク近郊のべレゾフスキー工場では赤衛軍によって十五人が殺されたが、彼らは「ボリシェヴィキの委員たち」が、町でいちばんよい家々を占拠した上に、土地のブルジョワジーから取り立てた一五〇ルーブルを横領したことに抗議の集会を開いたからだった。翌日には地区当局はこの工業都市に戒厳令を宣言し、モスクワの判断も仰ぐことなしに土地のチェーカーによって十四人が即座に銃殺された!(注3)

 一九一八年の五月後半と六月にはソルモヴォ、ヤロスラーヴリ、トゥーラや、ウラルの工業都市のニジニ‐タギール、ベロレツク、ズラトウスト、エカチェリンブルクなどで多くの労働者のデモが流血の中で鎮圧された。運動の抑圧において土地のチェーカーの役割がますます強くなったことは「コミッサロクラシー〔委員官僚制〕」に奉仕する「新オフラナ(帝政時代の政治警察)」という言葉やスローガンが労働者間で使われる頻度が多くなったことでも証明される。(P.76)

 (注1)、V.Brovkin,op.cit,p220-225(ブロフキン『十月後のメンシェヴィキ』)

 (注2)、RTsKhIDNI(ロシア現代史文書保存研究センター)、17/6/384/97-98

 (注3)、Novaia Jizn,1er juin 1918,p4(『新生活1918年6月1日』)

 〔殺人指令文書12〕、1920年1月29日、レーニンの第5軍軍事革命委員会議長スミルノフへの電報

 レーニンや共産党最高指導部は、ストライキにたいする見せしめの弾圧を呼び掛けた。ウラルの労働運動が高まっていた。それが不安になったレーニンは、スミルノフへの電報を送った。

 「Pの報告によれば、鉄道労働者が大規模なサボタージュをしているという…伝え聞くところでは、イジェフスクの労働者も関係しているとのことだ。わたしは君がそれを放置し、サボタージュを大衆処刑で処置しないことに驚いている」。『黒書』(P.99)

    『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』レーニンによる皆殺し対応

    『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』

 5、クロンシュタット水兵・労働者・住民を殺戮、銃殺、収容所送りで殲滅

 クロンシュタット・ソヴェトは、1905年革命、1917年二月革命、10月レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターにおいて、もっとも先進的役割を果した。トロツキーが称賛したように「革命の栄光拠点」だった。そこが、なぜボリシェヴィキ一党独裁政権にたいして、自由で平等な新選挙要求を突きつけ、平和的要請に決起したのか。15項目綱領の要求内容と鎮圧経過については、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』と、イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』、および私(宮地)の『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』が分析している。

 コトリン島住民45000人中、水兵10000人と労働者4000人のほとんどが殺された。判明しているのは、『共産主義黒書』にある「四〜六月の間に二一〇三名が死刑の判決を受け、六四五九名が投獄された」ことである。8000人が氷結したフィンランド湾を渡って、フィンランドに逃げた。レーニンは、恩赦すると騙して、彼らを帰国させた。そして、全員を逮捕し、強制収容所送りにした。しかし、彼らは、すでに出来ていた北極海につながるソロヴェツキー島とアルハンゲリスクの収容所に送られ、その大多数は手を縛られ、首に石を付けてドビナ河に投ぜられた。

 生き残ってソロフキ収容所に送られた者も、収容所内の処刑システムで殺された。内田義雄・元NHK特派員は『聖地ソロフキの悲劇』(NHK出版、2001年、P.55)で次の事実を記している。一九二一年春の「クロンシュタットの反乱」の鎮圧後、処刑を免れた水兵およそ二〇〇〇人が送られてきた。その他コルチャーク将軍指揮下の白軍の残党、農民、知識人、聖職者、ドンコサックなどいろいろの人たちがいた。連日のように処刑が行われ、ある時は人々の目の前で囚人たちを川に浮かぶはしけに乗せて流し、そのまま沈めて溺死させた。そのなかには女性や子どもたちも大勢混じっていた。何とか泳いで岸に向かってくる者は、機関銃で容赦なく、撃たれた。それが何回も繰り返された。

 レーニンは、クロンシュタットの平和的要請にたいして、「白衛軍の将軍の役割」と、真っ赤なウソをついた。農民・労働者・兵士の総反乱による一党独裁政権崩壊の恐怖におののいたレーニン・政治局は、それだけでなく、反革命の豚というレッテルを貼りつけ、鎮圧司令官トゥハチェフスキーに皆殺しを指令した。反革命の豚の殺し方が上記(表)のようになるのは必然だった。

 〔殺人指令文書13〕、1921年3月5日、トロツキーの最後通牒、雉子のように撃ち殺す

 この最後通牒は、クロンシュタット反乱関係の全文献に載っている。ヴォーリン『クロンシュタット1921年』から載せる。

 「次の日の三月五日に、トロツキーはクロンシュタットへの最後通牒を発した。それはクロンシュタットヘラジオを通じて伝えられたし、また代表を送ることに関するふたつの電報と同じ号の「イズヴェスチヤ」にも発表された。当然、代表を送る件についての交渉もすぐぶちこわしになった。ここにトロツキーの最後通牒の全文がある。

 労農政府は、クロンシュタットおよび反逆している戦艦に対して、ただちにソヴィエト共和国の権力に服従すべき命令を出した。それに従って私は、社会主義の祖国に対して反旗をひるがえすものすべてに、即刻、武器を放棄するよう命ずる。強情に抵抗しつづける者は武装を解除されて、ソヴィエト当局へひきわたされるであろう。逮捕された執行委員とその政府代表をただちに釈放せよ。無条件に降服するものだけが、ソヴィエト共和国の慈悲にあずかり得るであろう。

 同時に私は武力をもって暴動を鎮圧し、反徒を平定すべき命令を発する。平和な民衆がうけるかもしれない損害の全責任は、反革命反徒にあるであろう。これが最後の警告である。

                   共和国革命軍事委員会議長 トロツキー

                   最高司令官 カーメネフ」

 この最後通牒につづいて『お前たちを雉子のように撃ち殺すつもりだ』というトロツキーの指令が出された。」(P.91)

    『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』レーニンによる皆殺し対応

 6、チェコ軍団帰国途中の武装解除と銃殺命令、軍団の抵抗と反乱

 レーニンは、1917年11月7日、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターに成功した。政府は、1918年3月3日、ドイツとブレスト講和条約を結び、ロシアだけが、第一次世界大戦から単独離脱した。ロシア国内にチェコ人の捕虜・投降兵士からなるチェコ軍団が4.5万人残っていた。政府は、彼らを武装させたままで、シベリア鉄道でウラジオストックから帰国させることにした。その帰国途中で、1918年5月25日、レーニン・トロツキーは、突如方針転換をした。彼らは、白衛軍ではない。武装したチェコ軍団4.5万人の反乱は、白衛軍との内戦勃発・拡大の引金になった。ただ、その26日前の4月29日、レーニンらは、全ロシア中央執行委員会において、自らが80%・9000万農民にたいする内戦を仕掛ける戦争開始宣言をしていた。これ以後、内戦は、(1)レーニンが仕掛けた農民との内戦、(2)チェコ軍団、白衛軍との内戦という2種類の内戦期間に突入した。

 ロイ・メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』で、この命令文書を載せた。この詳細な経過は、彼が分析している。

  〔殺人指令文書14〕、1918年5月25日、トロツキーによる武装解除・銃殺命令

 残念なことに、こうした状況の中でソヴィエト政権は、正当化できないほど残酷な行動をとり始めた。モスクワから軍団の移動路線へ、次のような恐るべき電報が送られた。

 「軍事人民委員命令

 モスクワより五月二十五日二十三時。サマーラ、ペンザからオムスクまでの鉄道沿線のすべてのソヴィエトヘ。

 全ソヴィエトは責任をもって速やかにチェコスロヴァキア人の武装解除をおこなうこと。鉄道路線内で武装が発覚したチェコスロヴアキア人はその場で銃殺すること。一人でも武装している者がいた場合、その輸送列車編隊は下車させ、軍事捕虜ラーゲリへ収容すること。地方軍事コミッサールは本命令を速やかに遂行する義務を負う。いかなる遅滞も恥ずべき裏切り行為と同義であり、違反した者は厳罰に処する。武器を引渡しソヴィエト政権に従う誠実なチェコスロヴァキア人に対しては、兄弟として過し、あらゆる援助を与えること。本命令を全チェコスロヴアキア輸送列車編隊に読み聞かせ、チェコスロヴアキア人と接する全鉄道員に通知すること。……

 軍事人民委員L・トロツキー。(注108)」

 (注108)、B・マクサコフ、A・トルクノフ『シベリアにおける内戦の記録』、国立出版所、1926年、57頁

 この命令の内容は、単に残酷であっただけではない。遂行不可能なものでもあった。ソヴィエト政権には、チェコスロヴアキア人を武装解除する力はまったくなかったからである。軍団の兵士たちが自発的に武器を手渡すと考えることなど、ばかげたことであった。異国にいて、そこで起こっている事件についてあまりよく判らず、様々な「徒党部隊」からの攻撃を懸念していた兵士たちは、武器を、安全を確保しつつ帰国を実現するための保証と見なしていたからである。軍団の一般兵士の気分は一変し、五月二十六日から軍団部隊とソヴィエト部隊との個々の衝突は、反乱へと拡大していった。チェコスロヴアキア軍はほとんど抵抗にあわず、シベリアとウラルの主要都市とヴォルガ地方のかなりの部分を占拠した。この地域全部のソヴィエト権力は打倒され、軍事コミッサールとボリシェヴィキ党の指導者は銃殺された。(P.106)

 7、聖職者数万人銃殺、信徒数万人殺害と教会財産没収

 これは、岩上安身『あらかじめ裏切られた革命』(講談社、1996年)に載った。この経過、内容とデータは、『聖職者』ファイルで分析した。聖職者・信徒らは、精神的にはともかく、具体的な反革命運動に加担していなかった。この大量殺人指令と殺戮は、コサック農民への赤色テロルに次いで、レーニンが、第2回目の未来の反革命因子を排除するための一つの階層まるごとを抹殺する大量予防殺人をしたものだった。

 〔殺人指令文書15〕、レーニンの教会財産没収、聖職者銃殺指令極秘手紙

   1922年3月19日付手紙全文 1990年4月「ソ連共産党中央委員会会報」で公表

 「ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員政治局員のためのX・M・モロトフヘの手紙

 一九二二年三月十九日

 極秘 写しは絶対にとらないこと。政治局員各自(カリーニンも同様)意見は直接、文書に書きこむこと。 レーニン

 シューヤ(訳者注=イワノヴォ州にある市)で起こった事件は、すでに政治局の審議に附されてはいますが、事件が全国的な闘争計画に沿ったものである以上、断固たる処置をとる必要があると思われます。三月二十日の政治局会議に自ら出席できるかどうかわかりませんので、手紙で自分の考えを述べます。シューヤの事件は、最近ロスト通信が各新聞社宛に掲載を目的とせずに流した、例のペトログラードにおいて、極右が教会財宝没収令に対し抵抗の構えをみせているとするニュースと関連づけてとらえるべきです。

 今度の件と、新聞が書いている宗教界の教会財産没収令に対する態度や我々が知っているチーホン総主教の非合法なアピールを比べると、極右聖職者達がこの時期を狙って我々に戦いを挑むことが、きわめてよく練られた計画であることが判明します。極右聖職者の主要メンバーで構成する秘密会議で、この計画が練られ、決定されたに違いありません。シューヤの事件は、この全体計画の単なる一片にすぎません。

 思うに、我々に対し、勝ち目のない徹底抗戦で向かってくるとは、敵の大きな戦略的誤りです。むしろ我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人を喰い、道路には数千でなければ数百もの屍体がころがっているこの時こそ、教会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならない)のです。今こそ、農民のほとんどは我々に味方するか、そうでないとしても、ソヴィエトの法令に力ずくの抵抗を試みるひと握りの極右聖職者と反動小市民を支持できる状況にはないでしょう。

 我々はいかなることがあっても、教会財産を断固、早急に没収しなければなりません。それによって数億ルーブル金貨の資金が確保できるのです(修道院や大寺院の莫大な財産を思い出して下さい)。この資金がなくては経済建設をはじめとする、いかなる国家的事業も、またジェノアで自己の見解を貫き通すこともありえません。ルーブル金貨数億(もしくは数十億)の資金を手に入れることは是が非でも必要なのです。それが首尾よくできるのは今だけです。状況を見てみると、後からでは成功しません。絶望的な飢餓のときを除いては、農民大衆が、たとえ教会財産没収闘争で当方の完全勝利が自明だとしても、我々に好意的態度を示したり、せめて中立でいてくれるという保証はないのです。

 ある賢明な作家が国家的問題に関して、『一定の政治目的を達成するために残酷な手段を必要とする場合は、思いきった方法で、きわめて短時間に行なわなければならない。残酷な手段を長期にわたって用いれば大衆が耐えられないだろう』と述べていますが、まったくそのとおりです。さらにこの考えは、反動宗教界に残酷な手段でのぞむとなると、ロシアの国際的立場が、とりわけジェノア以後、政治的に不合理かつ危険の多いものとなるだろうということで裏づけされます。今、反動宗教界に対する我々の勝利は完全に約束されています。また国外のエスエルやミリュコフ派など主要な敵も、我々が今この時期、飢餓に際して迅速かつ容赦なく反動宗教界を弾圧するなら、もはや我々に抗することはできないでしょう。

 それゆえ、私は、今こそ極右聖職者達に徹底的かつ容赦ない戦闘を挑み、彼らが今後、数十年にわたって忘れることのできないような残忍な手段で抵抗を鎮圧すべきだという、疑う余地のない結論に達しました。この計画を実施に移すための作戦を私は次のように考えています。

 いかなる措置を採るときも公的には同志カリーニンのみが登場し、同志トロツキーは印刷物にしろ公衆の前にしろいかなる形であれ姿を現わしてはならない。政治局の名ですでに出された没収の一時停止に関する電報は変更しない。この電報は、敵にあたかもわれわれが逡巡しており、威嚇に成功したと思わせるので好都合である。

 シューヤには全ロシア中央執行委員会、もしくは他の中央政府機関から最も精力的で、分別のある敏腕な者を一人(数人より一人がよい)、政治局員の一人が口頭で指示を与えて派遣する。そして、この指示は、それによって彼がシューヤで、現地の聖職者、小市民、ブルジョアを全ロシア中央執行委員会の教会財産没収令に反対する実力抵抗に直接または間接にかかわったかどで、できるだけ多く、少なくとも数十人以上逮捕するものとする。

 任務終了後、彼はただちにモスクワに来て、自ら、政治局全体会議か、それを代表する二名の政治局員に報告を行なう。この報告にもとづいて政治局は司法当局に細かい、これも口頭の指令を出す。それは飢餓救援に抵抗するシューヤの暴徒に対する裁判が迅速に行なわれ、シューヤと、できればそれ以外にもモスクワや他の教会都市の最も影響力ある危険な極右を非常に多数、必ず銃殺刑にして終わるようにするためである。

 チーホン総主教自身には、明らかに、この奴隷所有者どもの暴動の頭目ではあるが、手を出さないほうが、賢明だと思う。彼に関してはGPU(ゲーペーウー)に秘密指令を出して、この時の対外関係をすべて、できるだけ正確かつ詳細に洗い出させること。そして、それをジェルジンスキーとウンシュリフト自らが毎週、政治局に報告するようにすること。

 党大会において、この問題にかかわるすべてないしは、ほとんどすべての代議員とGPU、司法人民委員部の主要職員からなる秘密会議を設けること。富豪の大寺院、修道院、教会の財宝没収がどんなことがあっても容赦なく、徹底的かつ最短期間で行なわれるべしとする大会秘密決議はこの会議で行なう。これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョアは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない。

 この措置が迅速かつ滞りなく実行されることを監視するため、当の大会すなわち秘密会議で特別委員会を指名し、そこに同志トロツキーとカリーニンを必ず加えること、そしてこの委員会の存在は絶対公表せず、委員会指導下の作戦はすべて委員会の名によらず、全ソヴィエトと全党の名において行なわれること。富豪の大寺院、修道院、教会でこの措置を実行するときは特に責任感の強い優秀な職員を配すること。

 一九二二年三月十九日  レーニン

 同志モロトフヘの依頼、この手紙を各政治局員から今日中に回覧し(写しはとらず)、読了後、手紙の主旨に同意か反対かを書き込んで、ただちに秘書に戻すよう、とりはからって下さい。

 一九二二年三月十九日  レーニン」(P.289)

    『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』

 8、「反ソヴェト」知識人の国外追放・強制収容所送り数万人

 これも『知識人』ファイルで書いた。これは、レーニン第1回発作による「12×7」の計算ができなかった直後からの、レーニン直接指令によるボリシェヴィキとその同盟者以外の知識人解体措置だった。それまでのロシア文化の破壊行為だった。これは、レーニンの第3回目の「大量予防殺人=肉体的排除」である。この大量予防殺人を細かく、個々の知識人名までリストアップし、肉体的排除遂行をしている最中の1922年12月に第2回発作が起き、彼の政治活動が終った。

 〔追放指令文書16〕、1922年5月19日、知識人追放指令の秘密手紙

 ソルジェニーツィンは、『収容所群島』第1部・第10章「法は成熟する」(新潮社)の冒頭で、次のレーニン全集に掲載されている「知識人追放に関する準備指令の手紙」を載せた。よって、これは「レーニン秘密資料」ではない。その個所をそのまま引用する。

 「銃殺に代えて国外追放が大量かつ緊急に試みられた。刑法典が編集されていた、あの熱狂の時代、ウラジーミル・イリイッチ(レーニン)は閃(ひらめ)いた思いつきを、ただちに五月十九日付の手紙の中に結実させた。

 『同志ジェルジンスキー! 反革命を援助している作家や教授たちを国外へ追放する問題について。このことはもっと綿密に準備する必要がある。準備がなければ、われわれは馬鹿をみることになるだろう……これらの《軍事スパイたち》をつかまえ、絶えず一貫してつかまえ、国外へ追放するように処置しなければならない。これのコピーをとらずに、政治局員にこっそり見せてくださるようにお願いする』(「レーニン全集」第45巻、P.721)

 この場合、その秘密性は手段の重要さと教訓的なことから当然である。ソヴィエト・ロシアにおける切り裂いたようにはっきりした階級勢力の布陣は、旧ロシアのブルジョア・インテリゲンチャの輪郭の判然としない、ぼんやりした汚点によってはじめて破られてしまった。これらインテリゲンチャはイデオロギーの面で本当の軍事スパイの役割を演じていたのであり――彼らに対する最善の処置はその腐った思想の滓(かす)を削りとり、彼らを国外へ放り出すこと以外にはなかった。

 同志レーニンその人はもう病床にあったが、政治局員たちが明らかに賛同し、同志ジェルジンスキーが八方手を尽して逮捕を行い、一九二二年末に約三百人の人道主義者が伝馬船に?……いいや、汽船に詰め込まれてヨーロッパのごみ捨て場へ送りだされた。」(P.360)

 〔追放指令文書17〕、1922年6月、レーニンの「反ソヴィエト」知識人追放指令

 ロイ・メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』で、次の「レーニン秘密資料」を公開した。これは、L・コーガン「精神的エリートの追放についての新情報」『哲学の諸問題』(8号、1993年)で最初に掲載された。

 「一九二二年レーニンは多数の人文系学者をソヴィエト・ロシアから追放することを承認した。大勢の傑出した哲学者の一団がペトログラードやモスクワから、汽船(「哲学船」)で送り出された。ペトログラードからは経済学者や歴史家が西側諸国へ向かった。法律家、文学者、協同組合活動家、農学者、医者、財政学者も追放された。これはきわめて大規模な措置であり、モスクワやペトログラードだけでなく、キエフ、カザン、カルーガ、ノヴゴロド、オデッサ、トヴェーリ、ハリコフ、ヤルタ、サラトフ、ゴメリにまで及んだ。ゲー・ペー・ウーの文書ではこの措置は「作戦」というコード名で呼ばれ、その実施指導のために、L・カーメネフを議長とするロシア共産党中央委員会政治局特別委員会が設置された。委員会にはその他ジェルジンスキーの代理ヨシフ・ウンシリフトとゲー・ペー・ウー秘密工作部部長I・レシェトフが加わった。同委員会メンバーとゲー・ペー・ウーの地方機関に対するF・ジェルジンスキーの指令メモの一つにはこう書かれていた。

   ウラジーミル・イリイチ〔レーニン〕の指令。極秘。

 積極的な反ソヴィエト・インテリゲンツィア(まずはメンシェヴィキ)の国外追放を、たゆまず継続する。入念にリストを作成し、それらをチェックしわれわれの文芸学者たちに批評させる。文献は全部彼らに割り当てる。われわれに敵対的な協同組合活動家のリストを作成する。「思想」と「家族共同体」の論集参加者のチェックをする。草々。

   F・ジェルジンスキー」(P.134)

 この指令の月日をメドヴェージェフは、著書で書いていない。しかし、期日を推測させる文言がある。それは。「(まずはメンシェヴィキ)の国外追放を、たゆまず継続する」である。この文言は、5月26日第1回目発作以後の追放の督促・継続指令である。

 〔追放指令文書18〕、1922年9月5日、ジェルジンスキーの知識人追放督促指令

 これは、ニコラ・ヴェルトが『共産主義黒書』に載せている。

 一九二二年九月五日、ジェルジンスキーは自分の補佐のウンシュリヒトに次のように書いた。

 「同志ウンシュリヒト! インテリゲンツィア追い出しの件に関しては、事態はまだ手工業的だ! アグラーノフが出立してから、もはやこの分野で有能な人間はいない。ザライスキーは少し若すぎる。早く仕事するためには、同志メンジンスキーがこの件を担当しなければならないだろうと思われる……ちゃんと計画をたて、それを定期的に訂正・補足することが不可欠だ。すべてのインテリゲンツィアをグループとサブ・グループに分類すべきだ。

 一、作家。

 二、ジャーナリストと政治家。

 三、経済学者(これはサブ・グループ分けが必要だ)。(a)財政専門家、(b)エネルギーの専門家、(C)運輸の専門家、(d)小売業、(2)協同組合の専門家、等

 四、技術専門家(これもサブ・グループ分けが必要だ)。(a)技師、(b)農学者、(C)医者、その他

 五、大学教授、およびその助手等々。

 これらの紳士方に関する情報はすべて我々の部局の中『インテリゲンツィア』部によって総合されなければならない。知識人一人ひとりの書類が我々のところにあるべきだ……我々の部の目的は単に個人を追放したり逮捕することでなく、専門家に対する全般的政策を念入りに作ることだということをいつも心に止めておかねばならない。すなわち、彼らを身近に監視し、対立させ、彼らを単に言葉のうえだけでなく、行動においてソヴィエト権力を支持するよう仕向けるのである。(注1)」(P.139)

 (注1)、ロシア現代史文書保存研究センター、76/3/303

 〔追放指令文書19〕、1922年9月5日の数日後、レーニンの知識人掃討・浄化指令メモ

 これも、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』にある。

 数日後レーニンはスターリンにあてて長いメモを書き、その中でマニアックな詳しさで、すべての社会主義者、知識人、自由主義者その他の「紳士方」をロシアから「決定的に掃討」することを再び論じた。

 「メンシェヴィキ、人民主義的社会主義者、カデット等の追放の問題について。わたしが出立する前に始まっていたこのやり方がまだ必ずしも完了していないので、いくつかの問題を提起したいと思う。すべての人民主義的社会主義者を根こそぎにするよう決定したか? ぺシェホーノフ、ミャコーチン、ゴルンフェリトその他はどうだ? わたしは彼らが皆追放されるべきだと思う。彼らはエスエルより危険だ。なぜならもっとずる賢いからだ。

 それからボトレーソフ、イズゴーエフ、そして『エコノミスト』の連中(オーゼロフその他多くの輩)も。メンシェヴィキのローザノフ(狡猾な医者)、ヴィグドルチク(〔別名〕ミクロまたはその類いの名)、リユボーフィ・ニコラエヴナ・ラドチェンコと、その娘(二人はボリシェヴィズムの最も危険な敵だと言われている)、N・A・ロシコープ(彼は追放されるべきだ。度し難い。)……マンツェフ=メッシング委員会がリストを作成し、これら何百人かの紳士どもは容赦なく追放されるべきだろう。

 我々はロシアを徹底的に浄化しよう……『作家の家』の全作家と、(ペトログラードの)『思想の家』の思想家も。ハリコフはくまなく捜査しなければならない。あそこは外国だから、そこでなにが起こっているのか、我々はなにも知らない。市はエスエルの裁判が終わる前に、素早く徹底的に浄化されなければならない。ベトログラードの著述家と作家を処理してくれたまえ(彼らのアドレスは『新ロシア思想』一九二二年第四号三七ページと個人編集者リストの二九ページに載っている)。これは超重要だ!(注1)」(P.139)

 (注1)、ロシア現代史文書保存研究センター、2/2/1338

    『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』

 9、カデット、エスエル、メンシェヴィキ、左翼エスエルの絶滅

 1917年7月時点で、エスエル党員100万人、メンシェヴィキ党員20万人がいた。(表)において、この粛清人数を(カッコ)つきにしたのは、他の階級、階層の殺人数と重複しており、独自の数値を推計できないからである。ただ、スターリンの粛清により、これら百数十万人の全党員が、亡命した者以外、一人残らず殺された。

 〔殺人指令文書20〕、1917年11月8日、カデット機関紙「レーチ」閉鎖措置

              1917年11月28日、カデット党員逮捕の布告

 革命政府(人民委員会議)が樹立された翌日、軍事革命委員会は、レーニンの強い主張を受け入れて、カデット機関紙「レーチ」、その他のブルジョア新聞を反革命活動の理由で閉鎖した。さらにその翌日、「出版にかんする布告」を発し、敵対的な新聞の封鎖を命じた。

 布告発令前の全ロシア中央執行委員会では、左派エスエルだけでなく、ボリシェヴィキの一部も、それに猛反対した。武装蜂起による死者は、双方合わせて10数人だけだった。レーニンも「テロルなど問題にならなかった」と認めていた。たしかに、臨時政府内のカデット閣僚5人が、コルニーロフの反乱を契機に辞任したのは事実である。しかし、ソ連崩壊後の資料によっても、レーニンのレッテル「コルニーロフの反乱にカデット党が加担したから」という事実はない。それは、レーニンのウソである。それは、レーニンによる権力奪取と同時の先制攻撃としてのブルジョア階級からの言論出版の権利剥奪政策だった。すべての他党派、知識人が、それを言論・出版の自由への弾圧として、強烈に反対、批判した。この問題については、大藪龍介が、詳しい分析をしている。

    大藪龍介『国家と民主主義』カデット機関紙「レーチ」、他新聞閉鎖措置の誤り

 レーニンは、カデットを「ブルジョア自由主義」として、法律の保護外とした。反革命行為がなくても、ブルジョア階級とブルジョア政党のあらゆる人権剥奪を当然とした。その全文をスタインベルグが『左翼社会主義革命党』に載せている。

 「我々左翼社会革命党は、その布告の中に、一般情勢によっては正当化されえない政治的ヒステリー症状の現れを見てとった。略式の大量逮捕令は、革命の日常的な煽動と混乱の中では、特に罪を犯さずともカデットであるという単にそれだけの理由で、国中の誰もがカデット党員を迫害し逮捕し危害を加えることができる、ということを意味していた。次に、この命令の全文を掲げよう。

 革命に対する内乱の指導者たちの逮捕に関する布告

 カデット党の執行機関のメンバーたちは、人民の敵として逮捕され、革命法廷で裁判に付されることになる。カデット党が革命に敵対する内乱と繋りを有していることに鑑み、彼らを特別監視の下に置くべき義務を、地方の各ソヴェトは負う。この布告は、即刻実施に移されるものとする。ペトログラード、一九一七年一一月二八日、午後一〇時三〇分。この布告は、レーニン、トロツキー、アヴィロフ、メンジンスキー、ジュガシヴィリ・スターリン、ドゥイベンコその他により署名された。」(P.54)

 〔殺人指令文書21〕、1918年6月、チェキスト党集会での法令可決とレーニン指示

 これは、ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密・上』にある。これは、9000万農民と全他党派の強烈な反対を押切って、レーニンが1918年5月食糧独裁令による穀物・家畜収奪路線に転換した時期だった。「農村に内戦の火をつける」というレーニン、スヴェルドロフ、トロツキーらの貧農委員会方式にたいして、ロシア全土で農民反乱が勃発し始めた。それがいかに誤った政策だったかの詳細は、『農民反乱』ファイルで書いた。

 「チェーカーのテロルは党の決議と密接に連動していた。一九一八年六月、赤色テロル命令が採択される三カ月前、チェキストたちの党集会でいくつかの法令が可決された。『君主主義者−カデット、右派エスエル、メンシェヴィキの著名で積極的な指導者たちの活躍を阻止すること。将軍、将校たちの名簿をつくり、絶えず監視すること。赤軍、その指揮官……から目を離さないこと。目立った、明らかに有罪の反革命派、山師、略奪者、収賄者を銃殺すること』などである。たとえば、バスマチ運動指導者は決して見逃すことなく、ただちに革命裁判にかけ、死刑の適用を考えることと中央アジア局に命令している。

 チェーカーの問題についてレーニンの肩入れは、『監禁、監視などは徹底的に行なうこと(特設仕切り壁、木の仕切り壁、戸棚、着替えのための仕切り壁にまで)、不意の捜査、犯罪捜査のあらゆる技術を駆使した、二重、三重のチェック・システムなど』、ごく基本的な技術面にまで及んでいる。こうした言葉は、政府の最高責任者というより保安機関の専門家のものである。彼はジェルジンスキーに、『逮捕するなら夜が好都合』とまで書いている。」(P.381)

 〔殺人・追放指令文書22〕、1918年8月9日、レーニンによる銃殺と追放指令

 ヴォルコゴーノフ『トロツキー・上』のデータである。

 「「ニージニ=ノヴゴロド・ソヴィエトヘ  ニージニでは明らかに白衛派が反乱を準備中である。全力をあげて、独裁権を持つ三人委員会をつくり、ただちに大衆的テロを加え、兵士を泥酔させる数百人もの売春婦や、旧帝政将官などを銃殺するか、町から追い出すべきである……。一刻も猶予してはならない……。全力をあげて行動し、大がかりな家宅捜索をせよ。武器保有の罪は銃殺にすべし。メンシェヴィキや動揺分子はどしどし追放せよ……。  一八年八月九日  あなたのレーニン」

 恐ろしい言葉である。民主主義、ヒューマニズム、正義を守るとした革命前の約束はどこへいってしまったのか? こうした電報は沢山ある。」(P.516)

 〔殺人指令文書23〕、1918年9月3日、内務人民委員ペトロフスキーの電報命令

 これは、スタインベルグ『左翼社会主義革命党』にある。

 「九月三日の朝、内務人民委員ペトロフスキーは、次のような電報による命令をすべての地方ソヴェトに発した――。『感傷と逡巡には直ちに終止符が打たれねばならぬ。地方ソヴェトに判明している限りの反革命的社会革命党員は即刻逮捕すること。資本家と将校団から多数の人質を確保せよ。白衛集団に於いて僅かな抵抗もしくは動きが見受けられた際には略式大量銃殺刑で直ちに鎮圧せよ。地方執行委員会は率先して事に当るべし……大衆的テロルの発動に際しては躊躇、懐疑は無用である』。政府の最高機関がこのような言葉で語っているとすれば、その執行機関、その地方機関の行動は推して知るべしであろう。そして事実、中央執行委員会の布告が未だ警告にとどまっているのに、地方では既に復讐が開始されつつあったのである。」(P.133)

 〔殺人指令文書24〕、1921年2月28日、ジェルジンスキーのメンシェヴィキ、エスエル逮捕命令。21年4月、レーニンのメンシェヴィキ、エスエル逮捕・銃殺命令

 これは、ニコラ・ヴェルトが、『共産主義黒書』に載せた。

 すでに一九二一年二月二十八日に、ジェルジンスキーはすべての地方チェーカーに以下のように命じていた。

 「(一)、すべての無政府主義的、メンシェヴィキ的、エスエル的インテリゲンツィア、とりわけ農業と食糧調達部門の人民委員部で働いている役人をただちに逮捕すること。(二)、この活動開始後、工場で働いていて、ストライキやデモを呼び掛ける可能性のあるすべてのメンシェヴィキ、エスエルおよびアナキストを逮捕すること。(注4)」(P.124)

 (注4)、V.Brovkin,op.cit,p400(ブロフキン『十月後のメンシェヴィキ』)

 一九二一年三月からのネップの導入は、抑圧政策の緩和どころか、穏健な社会主義の活動家の一層の抑圧を招いた。この弾圧は彼らが経済的「新政策」に反対する危険からではなく、むしろ長いこと彼らがこの政策を唱えてきて、その分析の正しさと洞察力を示したからであった。「自称であれ、僧称であれ、メンシェヴィキとエスエルの唯一の居場所は――とレーニンは一九二一年四月に書いている――それは牢獄である。」

 数カ月後になっても社会主義者がまだあまりにも「活動的」なのを見たレーニンは、「もしメンシェヴィキとエスエルが、まだちらっとでも顔を見せるようだったら、容赦なく彼らを銃殺してしまえ!」と書いた。一九二一年の三月から六月の問に二〇〇〇人以上の穏健な社会主義の活動家やシンパが逮捕された。メンシェヴィキ党の中央委員会の全委員が投獄された。シベリア流刑で脅迫された彼らは、一九二二年一月にハンストを始めた。ダンとエコラエフスキーを含む十二人の指導者が国外追放になり、一九二二年二月ベルリンに到着した。(P.124)

 〔殺人指令文書25〕、1921年6月、社会革命党とメンシェヴィキ組織を壊滅させる国家的作戦

 ヴォルコゴーノフが『七人の首領』(朝日新聞社、1997年)で、ロシア中央文書保管所から発掘した文書を載せた。

 「同盟者として十分可能性のあったメンシェヴィキと社会革命党(エスエル)は、たちまちのうちに、容赦なく一掃された。それも政治的にだけでなく、肉体的にも抹殺された。

 昨日の友、同盟者、ほぼ同じ信念の持ち主だった人たちが、僻地へ追いやられたり、強制収容所(ラーゲリ)に放り込まれたり、刑務所に閉じ込められたり、国外に追放されたしりした。レーニンは、こうした迫害や弾圧で中心的な役割を果たした。彼の文書やメモ、決裁、報告書は、ひとの目的だけを追い求めている。すなわち、ボリシェヴィキと異なった世界観をもつロシアの社会主義者たちを、いかに絶滅するか、ということであった。

 一九二一年六月、レーニンの指示にもとづき、ウンシュリフトは政治局にこう報告している。

 『全ロシア非常委員会(ヴェー・チェーカー)は、まず第一に、社会革命党・メンシェヴィキの組織を、個々の非合法活動家たちと同様に、組織の指導者もすべて見つけだし、壊滅させるために徹底的な作業を続行するよう提案する。党の指示にもとづき、国家的規模の大々的な作戦を展開しなければならない……』(225)

 レーニンは同意した。まもなく政治局は、このウンシュリフトの報告にもとづいて、メンシェヴィキを「僻地」に追放する措置を強化することを決めるとともに、国外追放とすることにも反対しなかった(226)。」(P.155)

 (注225)、最新史料研究ロシア中央文書保管所、フォンド二、目録一、資料二四四七二、ファイル一

 (注226)、同文書保管所、フォンド二、目録二、資料六四一、ファイル一

 〔殺人指令文書26〕、1922年5月15日、17日、レーニンによる銃殺刑の範囲拡大とテロル指令

 これは、ソルジェニーツィン『収容所群島1』にあり、15日の指令は『レーニン全集』(第42巻、P.586)に載っている。5月17日手紙は、『レーニン全集』(第33巻、P.371)にある。

 「五月十二日、所定のとおり全露中央執行委員会会議が開かれた。だが、法典草案はまだできあがっていなかった。草案は目を通してもらうためゴルキにいるウラジーミル・イリイッチのもとへ提出されたばかりだった。法典の六カ条がその上限に銃殺刑を規定していた。これは満足すべきものではなかった。五月十五日、イリイッチはその草案の余白に、同じく銃殺を必要とする六力条をさらにつけ加えた(その中には、第六九条による宣伝および煽動…特に、政府に対する消極的反抗、兵役および納税の義務の不履行の呼びかけが含まれる)。イリイッチは主要な結論を司法人民委員にこう説明した。

 『同志クルスキー! 私の考えでは銃殺刑(国外追放でそれに代える場合もあるが)の適用範囲をメンシェヴィキ、社会革命党員等々のあらゆる種類の活動に対してひろげねばならないと思う。これらの活動と国際ブルジョアジーとを結びつける定式を見つけねばならないと思う』(傍点はレーニン)

 銃殺刑適用範囲を拡大する!簡明直截(ちょくせつ)これにすぎるものはない!(国外に追放された者は多かったろうか?) テロとは説得の手段である。このことも明白だろう!

 だが、クルスキーはそれでもなお十分には理解することができなかった。彼にはおそらく、この定式をどう作りあげたらいいか、この結びつきをどのようにとらえたらいいかわからなかったにちがいない。そこで翌日、彼は説明を求めるために人民委員会議議長を訪れた。この会談の内容は私たちには知る由もない。しかし五月十七日、レーニンは追いかけるようにしてゴルキから二通目の手紙を送った。

 『同志クルスキー! われわれの会談を補うものとして、刑法典の補足条項の草案をお手もとへおくる……原案には多々欠陥があるにもかかわらず、基本的な考え方ははっきりわかっていただけるとおもう。すなわち、テロの本質と正当性、その必要性、その限界を理由づける、原則的な、政治的に正しい(狭い法律上の見地からみて正しいだけでなく)命題を公然とかかげるということがそれである。

 法廷はテロを排除してはならない。そういうことを約束するのは自己欺瞞(ぎまん)ないしは欺瞞であろう。これを原則的に、はっきりと、偽りなしに、粉飾なしに基礎づけ、法律化しなければならない。できるだけ広く定式化しなければならない。なぜならば革命的な正義の観念と革命的良心だけがそれを実際により広くあるいはより狭く適用する諸条件を与えるだろうからである。

        共産主義者のあいさつをおくる    レーニン』

 私たちはこの重要文書をあえて注釈しないことにする。この文書に対しては静寂と思索とが似つかわしい。

 この文書はまだ病にとりつかれてないレーニンのこの世での最後の指令の一つであり、彼の政治的遺言の重要部分であるという点で特に貴重である。この手紙を書いてから九日目にレーニンは最初の脳卒中に見舞われ、一九二二年の秋に彼はようやくこの病から一時的に回復するのである。クルスキー宛の手紙は二通とも、二階の隅の明るい白大理石の小さな書斎で書かれたらしいが、そこは間もなく彼の臨終の床となった場所であった。」(P.342)

 10、飢饉死亡者500万人

 これを(カッコ)つきにしたのは、レーニン・政治局の(1)意図的政策による餓死者数と、(2)天災要因が基本の飢饉死亡者数との区別が、現時点での研究では不明確だからである。飢饉死亡者500万人とウクライナの死者100万人は、ほぼ定説になっている。ランメルは、そのうち、(1)意図的政策による餓死者数を250万人としている。

 これらには、天災の要因が当然ある。しかし、レーニンは、1918年5月から1921年3月までの2年10カ月間にわたる過酷な食糧独裁令を強行した。とくに1918年11月からの「軍事=割当徴発」制による一方的な穀物・家畜収奪路線は、全農民と国民を餓死寸前に追い込んだ。一方、それは、ソ連全土で、9000万農民の農業経営意欲を喪失させ、農業経営を縮小・崩壊させた。これは、まさに、レーニンのマルクス社会主義青写真に基づく、根本的に誤った市場経済廃絶路線だった。その誤りを主要な原因とし、餓死寸前の状況に、天災が重なって、500万人が飢え死にした。

 レーニンが、コサックや「存在しない富農=余剰穀物のある農民」にたいして、穀物をのこらず没収せよ! と指令したように、3大農民反乱地方、36県の農民との戦争状態地方、数百件の反乱地域にたいして、その武力鎮圧・殺戮、毒ガス使用だけでなく、それらの鎮圧後、報復として穀物の完全没収をさせて、意図的に餓死させるという飢餓の殺人政策を採ったことが考えられる。しかし、それは、「レーニン秘密資料」6000点の完全公開と飢饉史の研究が進まないと分からない。

 11、総計 最低数十万人を肉体的・政治的殺人

 レーニンが殺した自国民数は、これらのデータを単純合計すれば、百数十万人になる。これは、白衛軍との戦争における死者700万人を除く数である。意図的な飢餓殺人を合わせれば、数百万人を殺した。しかし、最低値として、数十万人を肉体的・政治的な国家テロルの手口で殺したことは間違いない。「レーニン秘密資料」6000点が全面公開されれば、この推計もさらに正確になる。以上のデータは、現時点における公表資料範囲内での近似値である。

 その大量殺人を遂行した社会主義国家暴力装置の中心部隊は、レーニン直属下のチェーカー委員長ジェルジンスキーとチェキスト28万人だった。チェーカー創設目的と実質的な共産党秘密政治警察28万人への異様な拡張目的の一つが、ソ連崩壊後に判明してきた。それは、〔殺人指令文書13〜18〕と〔殺人指令文書19〕にあるように、レーニンが、自由主義政党カデット絶滅だけでなく、ソヴィエト内の社会主義政党エスエル、メンシェヴィキをも殲滅し、ソヴィエト権力簒奪をし、共産党独裁政権を樹立することを、最初から企んでいたということである。何人かの研究者が、それを指摘している。

 〔殺人指令文書27〕、チェーカー創設とその組織、チェキスト

 チェーカーとは、十月革命後の1917年12月20日に設立された(反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会)のことである。それは、最初のソヴィエト政治警察で、1923年にGPUになり、1954年からKGBになった。のち投機取締が加えられるなど、名称には異同がある。革命直後の反革命派の動きや革命に反対する公務員のサボタージュを取締、革命法廷へ引き渡すことなどを任務とし、人民委員会議(内閣)に直属する機関として発足した。議長はジェルジンスキーで、委員会メンバーは8人だった。中央機関の設立に引き続き、18年には地方、運輸部門、軍隊内などにもチェーカーが創設された。当初この委員会は直接懲罰行動をとらず調査活動を主とするものとされたが、内戦と干渉戦争が本格化する中で、裁判所の決定なしに逮捕・投獄・処刑などを行いうるようになった。

 この設立決定の内容は、一度も公表されなかった。ただ、メンバーの一人ラツィスが、1922年2月10日「イズヴェスチヤ紙」で引用し、判明した。その内容は、ジャック・ロッシ『ラーゲリ・強制収容所注解事典』(恵雅堂出版、1996年)にある。

 「同委員会を反革命運動・怠業取締人民委員会議付属全露非常委員会と命名し、ここにそれを承認する。委員会の任務は:

 (1)、誰が引き起こそうとも、全ロシアのすべての反革命運動と怠業の企てと行動を監視し、これを撲滅すること。

 (2)、全ての怠業者と反革命分子を革命裁判にかけ、またその撲滅対策を作成すること。

 (3)、委員会は犯罪阻止に必要な限りの予備審理のみを行う。委員会は以下の三部に分かれる:1)情報部、2)組織部(全ロシアの反革命分子撲滅闘争の組織のため)と支局部、3)取締部。委員会は明日正式に発足する。それまでは軍事革命委員会清算委員会が活動する。委員会は印刷物、怠業(サボタージュ)その他、右翼エスエル、怠業者(サボタージュ参加者)、ストライキ参加者に注意する。必要措置として、押収、強制立ち退き、食糧配給券の支給停止、人民の敵のリスト公表などが講じられる。

 全露非常委員会参与会の議長とメンバーは、人民委員会議により任命される。」(P.41)

 人民委員会議は、議長にジェルジンスキーを任命した。「人民の敵」というレッテルは、スターリンからではなく、レーニンが権力奪取の1カ月半後から、正式に使い始めたのである。

 左翼エスエルの司法人民委員スタインベルグによるジェルジンスキー報告メモ抜粋

 「本委員会は新聞・雑誌、サボタージュ、立憲民主党員、右派社会革命党員、破壊工作者およびストライキ参加者に対しとくに注意を払う。

 本委員会に属する抑圧的措置は以下のごとくである。財産没収、住居からの強制退去、配給券の取り上げ、人民の敵のリストの公表等。

 決議 本案を承認する。本委員会を、反革命、投機およびサボタージュと闘う全ロシア非常委員会と称する。公布」

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが“殺した”自国民の推計』

 4、ソ連崩壊後の発掘データによるレーニン像の大逆転

 〔小目次〕

   1、大量殺人指令における詭弁とウソの天才

   2、社会主義他党派絶滅を最初から意図していた「革命」家

   3、大量殺人犯罪型社会主義者?

 1、大量殺人指令における詭弁とウソの天才

 私(宮地)の判断では、ソ連崩壊後に公開された「レーニン秘密資料」、アルヒーフ(公文書)を見るかぎり、『農民』『労働者』『クロンシュタット水兵』『聖職者』『知識人』『赤色テロル』ファイルで分析したように、大量の赤色テロルにおいて、レーニンの側に正当性がまったくない。

 大量殺人指令において、レーニンが貼りつけたレッテルは、すべてレーニンの詭弁・ウソであったことが、ソ連崩壊後に判明した。とりわけ、「反革命」「富農(クラーク)」「反ソヴィエト」というレッテルの意図的な拡大解釈と、それをソヴィエト革命勢力である労働者・農民・兵士や社会主義他党派に貼りつけた手口は、まさにレーニンの思想犯罪といえる。革命勢力内部における大量殺人犯罪を、共産党秘密政治警察チェーカーとチェキスト28万人に遂行させる前提として、レーニンはその詭弁によって、チェーカーを殺人集団に変質させる思想教育犯罪を行った。レーニンは、権力奪取・権力簒奪クーデターの天才であるが、同時に、詭弁とウソの天才でもあったことが、ソ連崩壊後のデータによって証明されてきた。

 白衛軍と旧帝政勢力は、たしかに「反革命」である。しかし、労働者・農民・兵士によるレーニン路線への抵抗・反乱・異論は、レーニンの食糧独裁令による収奪と、その根底にあるマルクスの根本的に誤った社会主義青写真の市場経済廃絶・貨幣経済廃絶理論にたいする正当なものだった。レーニンによるソヴィエト権力簒奪クーデターと食糧独裁令に反対・反乱した勢力は、二月革命以来のソヴィエト革命勢力であり、「反革命」などではない。レーニンは、意図的にその2つの勢力にたいする規定を混同させた。そして、恣意的に、「反革命」という概念を拡大解釈し、革命勢力内部の批判・反対者や他党派を「反革命」勢力とでっち上げるという詭弁を使って、大量殺人犯罪を続けた。

 個々の具体的な指令・命令・布告を見ても、それらがいかに誤りであったのかは、上記や他ファイルで論証した。ましてや、上記3件の予防的大量殺人にいたっては、完全な犯罪である。よって、(表)の数字の性格は、「レーニンの大量殺人」「レーニンが殺した」という日本語以外に適切な言葉がない。

 2、社会主義他党派絶滅を最初から意図していた「革命」家

 レーニンの思想・理論とレーニン像にたいして、さらに鋭い痛烈な、突っ込んだ見方も成り立つ。以下のレーニン評価は、ヴォルコゴーノフ、ニコラ・ヴェルト、マーティン・メイリアや、ソ連崩壊後の多くの研究者たちが、共有しつつある。ロシア国内では、モスクワ国立歴史古文書大学学長アファナーシェフを初め、これが基本的になってきた。もっとも、ザミャーチンは『われら』において、先駆的で、もっとも痛烈な「レーニン=恩人=殺人者」規定を、1921年当時に行った。日本では、ここまで辛口のレーニン評価をする研究者はまだ出ていない。

    アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』レーニンがしたことへの根源的批判

 レーニンは、ボリシェヴィキ一党独裁政権樹立とその路線・政策を、マルクス主義社会主義青写真に基づく絶対的真理と信じていた。むしろ、それを絶対的真理として狂信するレベルの人間になって、1917年4月にドイツ軍封印列車に乗って帰国した。彼が創作した前衛党=共産党こそ、マルクス主義型社会主義の真理を体現し、実現できる唯一の政党である。それだけでなく、共産党とは、暴力革命・武装蜂起による権力奪取をなしうる軍事的政治的な鉄の規律によって鍛えられた軍事組織でもある。党中央決定の無条件実践を遂行する軍事的中央集権制の前衛党でなければ、真の「革命」を成し遂げ、科学的社会主義国家を確立することは不可能である。さらに、スイス亡命中、パリ・コミューンの敗北経験を徹底的に研究し、胸に刻み込んだ。それは、暴力革命で権力奪取をしたら、反革命勢力にたいするプロレタリア独裁=その生存権も奪う赤色テロルなしには、プロレタリア革命は挫折するという一面的な歪曲した狂信だった。

 ロシアにおいて社会主義を名乗る政党は多い。しかし、それらの政党との連立政権によっては、マルクス主義型社会主義を実現することは絶対にできない。なぜなら、メンシェヴィキは、ヨーロッパ型の改良主義政党であり、エスエル・左翼エスエルは、ロシア農民を土台とした社会主義構想の政党だからである。アナキストも、社会主義を名乗るが、中央集権国家を否定するので問題外である。いずれも、マルクス主義政党ではない。一国には一前衛党しか存在できない。いくら、社会主義を名乗っていても、それらの政党は、マルクス主義の真理を認識し、体現することができない。もちろん、ボリシェヴィキ支持率が低い時期には、臨時連立政府を倒すために、一時的に連立政権構想も語った。しかし、その秘めた本心は、最初から、共産党一党独裁権力だった。

 11月7日、ついに、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターのチャンスが到来した。そして、一党独裁権力奪取に成功した。真の社会主義国家・経済体制を確立するために、共産党以外の社会主義他党派を、全ロシア中央執行委員会や各級の全ソヴィエトから追放するだけでなく、その政党組織と全党員を逮捕・銃殺・強制収容所送り・国外追放という手段によって、ロシアの政治社会から絶滅しなければならない。すべての社会主義他党派・党員の絶滅と、党独裁型社会主義実現とは、完全に一体の「革命」事業である。

    ダンコース『奪われた権力』レーニンによる社会主義他党派絶滅思想

 絶対的真理を体現している世界観政党・共産党だけが、唯一の「革命」勢力である。よって、共産党とその路線にたいして、批判・抵抗・反乱をする労働者・農民・兵士は、「反革命」勢力に転落した人民の敵となる。なぜなら、彼ら反対者は、異論・批判というレベルではなく、科学的真理にたいして、非科学的思想を社会に撒き散らすという駆除すべき害虫だからである。害虫や反革命者を肉体的政治的に抹殺するのは、全共産党員の正当な任務である。他党派と同じく、11月7日レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターに参加・協力した者といえども、共産党に背を向けて、批判・抵抗・反乱を始めた者たちにたいして、皆殺し対応をするのは、当然の「革命」防衛という崇高・神聖な義務である。レーニンは、このような狂気の信念に基づいて、上記27通の〔殺人指令文書〕を発令した。未発掘指令文書や電報を合わせれば、百数十通になるはずである。

 これらが、ソ連崩壊後に発掘されたデータに基づくレーニン評価となってきている。

 3、大量殺人犯罪型社会主義者?

 このレーニン像が事実となると、別の疑問が生まれる。

 数十万人を殺したレーニンとは、一体何者であったのか。彼の人間性をどう考えたらいいのか。このような大量殺人を指令した人間は、はたして社会主義者を自称できるのかという根源的な疑問である。それとも、20世紀ロシアという特殊環境が、レーニンという大量殺人犯罪型社会主義者を産み出しえたのか。もちろん、レーニンだけでなく、共産党政治局全員が同一の思想・理論で武装していた。日本共産党を含めコミンテルン型共産党は、そのマルクス・レーニン主義思想で、世界中に生まれ、社会主義世界体制を作った。

 19世紀資本主義の実態は、マルクス・エンゲルスら多数の社会主義者を育んだ。しかし、それらは、思想・理論の段階で、実験段階に至らなかった。レーニンらボリシェヴィキだけが、マルクス主義社会主義青写真を世界で最初に実験する革命家になった。74年間に及ぶ実験の惨憺たる結果は、ユートピア思想の逆変種として、マルクス主義が、大量殺人犯罪型社会主義者という逆ユートピア革命家を生産したことを証明した。

 実験の結果、マルクス・エンゲルスも、『空想から科学へ』ではなく、空想的社会主義者だったことが判明した。レーニンは、その空想的社会主義理論を、2段階クーデターとチェーカー28万人という国家暴力装置を駆使して、数十万人の自国民を殺害しつつ、実験をするチャンスを手にした。彼にとって社会主義一党独裁権力こそすべてとなった。

 マルクスは、史的唯物論によって、資本主義から社会主義への発展が歴史的法則と断言した。その社会主義経済体制は、市場経済廃絶・貨幣経済廃絶になるとした。その政治体制は、プロレタリア独裁となるべきとした。それは、旧支配階級の権利を生存権を含めて剥奪するとし、大量逮捕・大量殺人システムを示唆・是認した。世界中の「マルクス主義革命」家たちが、それが、真理であり、法則であると信じて、熱狂した。

 レーニンは、ソヴィエト民主主義を破壊し、ソヴィエト権力簒奪クーデターを成功させた。彼とボリシェヴィキにとって、2段階クーデター政権が、絶対的真理の実験であるからには、支持率がいかに低下し、総反乱が勃発しようとも、政権交代という選択肢はありえなかった。根本的に誤った経済・政治路線にたいする総反乱の中で、党独裁権力を維持するには、社会主義他党派や批判・反対の労働者・農民・兵士の大量殺人を続けるしかなかった。そして、最初からの秘めた計画通り、ロシアにおける社会主義他党派殲滅の「革命」事業を、共産党秘密政治警察チェーカー体制によって遂行した。4年7カ月間の過程で、彼は、権力のための権力者に変質していった。絶対的権力者としてのレーニンは、歴史の法則どおり、絶対的に腐敗した。

 5、おわりに―レーニン批判の理由と視点

 一体、なぜ、私(宮地)は、このような人間を、無批判的に信奉したのか。その上、25歳から40歳まで、15年間も、彼の神話の伝導に専従しえたのか。その間、私は、彼の論文や公式の業績、多数のロシア革命史、ほとんどのソ連文学作品をむさぼり読むだけでなかった。民青地区委員長をやり、愛知県党の半分の党勢力を占める名古屋中北地区常任委員・5つの全ブロック責任者=現在の5つの地区委員長を歴任し、組織内の民青同盟員や共産党員に、彼の神話の伝導を行った。その面で、著作・論文によって、レーニン讃美を行ってきた学者・研究者のしたこととは、やや性質が異なる。

 それは、社会主義革命の理想に燃えた世界的時流に乗っただけなのか。1960年安保の入党世代なので、スターリンの犯罪は知っていた。しかし、レーニンの大量殺人犯罪をまるで知らなかった、あるいは、彼とスターリンの犯罪封印の策謀によって知らされなかった、ということですませられるのか。レーニン批判のHP他8ファイルと同じく、このファイルも、私自身の自己総括、自己批判の書でもある。今回で、レーニン批判ファイルは、(関連ファイル)にあるように、9つになった。

 なぜ、そんなにレーニン批判にこだわるのかと、友人知人からもよく聞かれる。もはや、『Good Bye Lenin』の時代になったから、そんな作業は無意味ではないかとも言われる。また、メールなどでも、何通も、すごい執念ですねと感心される。執念と見なされると、やや抵抗も感じるが、その通りかもしれない。そこで、長々と、いくつものレーニン批判を書く「執念」の根拠をのべる。

    ドイツ映画紹介HP『Good Bye Lenin』

 9つのレーニン批判ファイルを書いた理由は、2つある。

 第一、私の日本共産党体験とそこからくるレーニン批判である。

 私は、専従時代に、「21日間の監禁査問」を受けた。これは、1961年綱領が決まって以来、公表された中で、最長の不法監禁・共産党による精神的拷問事件だった。さらに、党中央批判にたいする不当な専従解任をされた。「日本共産党との裁判」という国際共産主義運動史上で前代未聞の民事本人訴訟によって、共産党一専従が共産党中央委員会を訴えた。共産党は、私が憲法の裁判請求権を正規に行使したことを理由として除名した。さらに、反党分子であるとして、さまざまな政治的社会的排除活動を仕掛けた。

 これらについて、私は、それが、日本共産党の党内犯罪であり、かつ、驚くべき反憲法犯罪であると規定している。それは、私にたいする共産党の政治的社会的殺人だった。その殺人犯罪者は、宮本顕治・不破哲三・上田耕一郎・戎谷春松の4人である。そこから、私は、共産党という組織は、なにか根本的におかしいという疑惑を深めた。党中央批判をしたことを本質的理由として、将棋の駒のように使い棄てられた共産党専従は、様々な証言による推定で数百人いる。彼らは、ほぼ全員が泣き寝入りした。1989年から91年の東欧・ソ連10カ国崩壊が、その疑惑の真相を、レーニンにまで遡って、とことん追究する必要があるという執念を成長させた。私は60年安保入党なので、スターリン崇拝時期を経ていない。日本共産党批判は、そのままストレートに、その根源であるレーニンへの批判と直結した。私への宮本・不破・上田らによる政治的殺人体験は、レーニンらによるロシア革命勢力数十万人への肉体的政治的殺人データと直接つながった。

    『日本共産党との裁判第1部〜8部』共産党の党内犯罪と反憲法犯罪

 第二、レーニンの大量殺人犯罪事例にたいする強烈な怒りである。

 9つのファイルに書いたレーニンの大量殺人犯罪データは、真実だと確信している。それにたいする怒りは、同時に、大量殺人事実とその〔殺人指令文書〕を、ソ連が崩壊するまで、完璧なまでに隠蔽してきたレーニンへの怒りと二重になっている。その犯罪を隠蔽・封印してきた者は誰なのか。スターリンは、『レーニン全集』を編纂したとき、都合の悪い文書を「レーニン秘密資料」6000点として、分離・封印した。しかし、〔殺人指令文書〕にあるように、レーニン自身が、「極秘」「複写をとるな」「(聖職者全員銃殺はトロツキーの任務だが)トロツキーの名前を出すな」などと、隠蔽を指令している。

 ただし、ソ連崩壊後、日本において、レーニンにたいする対応は、3種類ある。

 (1)、私のレーニンにたいする怒りの度合いは、彼の思想・理論を絶対的真理と信仰し、専従として15年間も、その宗教的伝導をしたという彼とロシア革命史に私がのめり込んだレベルに反比例しているともいえる。ただ、ここまで、レーニンの大量殺人犯罪を告発しているのは、現在のロシアとヨーロッパに比べて、日本においてまだ少数派である。なぜなのか。

 (2)、『Good Bye Lenin』と悟りきって、彼と絶縁した方が、あんたの精神衛生上いいのではないか、という人もいる。しかし、それを言う人は、ロシア革命史やレーニンと、ほどほどに付き合ったレベルではないかとも思う。

 (3)、一方、私のレーニン批判を聞くと、レーニン崇拝の立場から、逆の強烈な拒否反応を露骨に示す人もいる。日本には、日本共産党批判・スターリン批判では一致しても、レーニン批判となると、感覚的にまるで受け付けないレベルのレーニン信奉者はかなりいる。その人たちは、ソ連崩壊後に発掘されたレーニンの大量殺人犯罪データを知らないのか、それとも、それらを反共宣伝として一蹴する姿勢を堅持する「革命」家なのか。

 レーニン批判の視点は、逆説のロシア革命史である。

 ただ、その時期を、レーニンの最高権力者期間5年2カ月間に限定している。その内容は、公式のソ連共産党史、公認のレーニン讃美伝の否定だけではない。ソ連崩壊後に出版されたロシア革命史・レーニン評価において、発掘されたレーニンの大量殺人犯罪データをほとんど無視する著作・論文への否定でもある。

 また、逆説のロシア革命史といっても、その視点は特殊である。今回を含め、9つのファイルは、多くの歴史書にあるような客観性・総合性を目的としていない。それは、二月革命以来のロシア革命勢力でありながら、レーニンに「反革命」とでっち上げられ、無実の罪で殺害・銃殺・強制収容所送りをされた数十万人の労働者・農民・兵士と社会主義他党派党員の側に立って、ロシア革命史を逆説的に分析するという視点である。殺された数十万人のロシア革命勢力の立場から、ソヴィエト民主主義破壊・ソヴィエト権力簒奪クーデターによって、ソヴィエト権力を共産党独裁権力に変質させたレーニンの犯罪を検証するものである。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c3

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
4. 中川隆[-14953] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:00:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2045]


ロシア革命|100年後の真実




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c4
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
5. 中川隆[-14952] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:08:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2044]
2018.12.08
戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(1/3)

 ウクライナ軍のガンボート(砲艦)2隻とタグボート1隻が手続きを無視、無断でロシアが領海と定めているケルチ海峡へ入ったのは11月25日のことだった。その前日にウクライナ軍はウクライナ東部、ドネツクにある中立地帯の一部を占領している。事実関係をチェックすると、ウクライナ政府のロシアに対する挑発だったことは間違いない。


 ウクライナでは来年(2019年)3月に大統領選挙が予定されているが、現職のペトロ・ポロシェンコは人気がなく、このままでは再選が難しい。そこでケルチ海峡の事件を利用して大統領選挙を延期させるつもりだと推測する人もいた。


 こうした挑発行為はアメリカ政府の許可がなければ不可能だという考えから、ドナルド・トランプ政権がロシアに対して軍事的な揺さぶりをかけていると見る人もいる。2016年の大統領選挙の際、トランプはロシアとの関係修復を訴えていたのだが、大統領に就任した直後にマイケル・フリン国家安全保障補佐官が解任に追い込まれて以来、政権は好戦派に引きずられている。


 そのトランプはINF(中距離核戦力全廃条約)からの離脱を口にしているが、この流れは2002年から始まっている。ジョージ・W・ブッシュ政権が一方的にABM(弾道弾迎撃ミサイル)から離脱したのだ。この頃、ロシアが再独立への道を歩み始めたことと無縁ではないだろう。


 アメリカ/NATO軍がソ連との国境に向かって進軍を開始したのは1990年の東西ドイツの統一が切っ掛け。その際、ジェームズ・ベイカー米国務長官はソ連の外務大臣だったエドゥアルド・シェワルナゼに対し、統一後もドイツはNATOにとどまるものの、東へNATOを拡大することはないと約束したとされている。


 ベイカー自身はこの約束を否定していたが、ドイツのシュピーゲル誌によると、アメリカはロシアに対し、そのように約束したとロシア駐在アメリカ大使だったジャック・マトロックは語っている。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009)


 また、ドイツの外務大臣だったハンス-ディートリヒ・ゲンシャーによると、1990年2月にシェワルナゼと会った際、彼は「NATOを東へ拡大させない」と約束、シェワルナゼはゲンシャーの話を全て信じると応じたという。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009)(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812080000/


戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(2/3)


 アメリカ支配層は軍事力でソ連/ロシアを恫喝、服従させて世界の覇者になろうとしている。その戦略が遅くとも1904年までさかのぼれることは本ブログでも繰り返し書いてきた。


 その当時、ポーランドをロシアから独立させようという運動が存在した。プロメテウス計画と呼ばれているが、その指導者はユゼフ・ピウスツキ。


 その後継者ともいうべき人物がブワディスラフ・シコルスキーである。第2次世界大戦中はロンドンへ逃れ、イギリス政府の庇護下、亡命政府を名乗っていた。1945年4月にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が執務室で休止、その翌月にドイツが降伏すると、ウィンストン・チャーチルの命令でJPS(合同作戦本部)は米英数十師団とドイツの10師団がソ連を奇襲攻撃するという内容のアンシンカブ作戦を作成した。


 シコルスキーの側近だったユセフ・レッティンゲルはヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一しようと考えていた人物で、ビルダーバーグ・グループの生みの親としても知られている。


 ドイツ軍の主力がソ連へ攻め込んだ時、イギリス政府は手薄になったドイツの西部戦線を攻撃せず、傍観している。チャーチルは父親の代からロスチャイルド資本に従属していたが、そうしたイギリスの支配層はソ連を制圧、あるいは破壊するためにナチスを使ったとも言える。この戦争でソ連は疲弊、アメリカの支配力は増した。


 ピウスツキが活動を始めたころに第1次世界大戦があり、ドイツが破壊される。ドイツはフランスとロシアに挟まれ、不利な状況にあった。イギリスもドイツに宣戦布告していたが、そのイギリスはロシア制圧を長期戦略にし、反ロシアのポーランド人を助ける。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812080000/


戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(3/3)


 当時、ロシアは農業を収入源にする大土地所有者と戦争をビジネス・チャンスと考える新興の産業資本家が2本柱だった。皇帝は軍人の意見もあり、戦争に傾いていくが、農民の意見を聞くということで皇帝がそばに置いていたグリゴリー・ラスプーチンは戦争に反対。皇后もやはり戦争を嫌っていた。


 軍事的な緊張が高まる中、1914年6月28日にオーストリア皇太子夫妻がセルビア人に暗殺され、開戦の危機が高まる。そこで7月13日に皇后はラスプーチンに電報を打っているが、その日に彼は腹を刺されて重傷を負う。8月中旬にラスプーチンは退院するが、7月28日に大戦は始まっていた。


 その後も皇后やラスプーチンは国が滅びるとして戦争に反対するが、1916年12月30日に拉致のうえ、射殺された。ロシア皇太子らが暗殺したと言われているが、黒幕はイギリスの情報機関SIS(通称MI6)だとする説がある。


 1916年にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を始めとする情報機関のチームをペトログラードへ派遣したが、その中に含まれていたオズワルド・レイナーはオックスフォード大学で皇太子の「友人」。このチームが暗殺の実行部隊だと推測する人がいるのだ。


 当時の状況を考えると、ラスプーチンが重傷を負わず、暗殺もされなかったなら、皇后と手を組んで参戦に反対していたはず。大土地所有者や農民も戦争に反対だ。参戦しても早い段階でロシアが戦争から離脱したならドイツは兵力を西部戦線に集中、アメリカが参戦する前に勝利していた可能性がある。


 ラスプーチンが暗殺された直後、産業資本家を中心とする勢力が3月に革命で王政を倒す。いわゆる「二月革命」だ。そこにはメンシェビキやエス・エルが参加していた。この当時、レフ・トロツキーはメンシェビキのメンバーで、ニューヨークにいた。


 二月革命の際、ウラジミール・レーニンをはじめとするするボルシェビキの指導者は国外に亡命しているか、刑務所に入れられていて、革命に参加していない。そうした亡命中のボルシェビキの幹部をドイツは「封印列車」でロシアへ運んだ。ボルシェビキが即時停戦を主張していたからである。


 結果としてボルシェビキ政権が誕生、ロシアは戦争から離脱するのだが、アメリカの参戦で帳消しになる。イギリス、フランス、アメリカ、そして日本などはそのボルシェビキ体制を倒すため、1918年に軍隊を派遣して干渉戦争を始める。


 ロシア革命とはふたつの全く違う革命の総称であり、ボルシェビキは最初の革命には事実上、参加していない。第2次世界大戦でドイツ軍を倒したのはソ連軍で、アメリカ軍やイギリス軍は勝負がついた後、ウォール街とナチス幹部が話し合いを進めるのと並行してヨーロッパで戦っただけだ。しかも、ドイツが降伏するとイギリスはロシアを奇襲攻撃しようとした。


 結局、ふたつの大戦でソ連/ロシアやヨーロッパは破壊され、その一方で戦場にならず、軍需で大儲け、ドイツや日本が略奪した財宝を手に入れたアメリカは世界で大きな力を持つことになった。


 しかし、アメリカはその地位から陥落しそうだ。アメリカは中東やアフリカなど資源の豊かな地域だけでなく、東アジアやヨーロッパで軍事的な緊張を高めている。これは1992年に作成されたウォルフォウィッツ・ドクトリンに沿うもの。東アジアやヨーロッパを戦争で破壊するつもりかもしれない。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812080002/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c5

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
6. 中川隆[-14951] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:09:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2043]

パリ・コミューンについて - 内田樹の研究室 2019-03-05


石川康宏さんとの『若者よマルクスを読もう』の三巻目は「フランスにおける内乱」をめぐっての往復書簡だった。

『反抗的人間』を読んでいたら、ぜひ引用したいカミュの言葉が出て来たので、それを数行加筆することにした。

それを含む、パリ・コミューン論を採録する。


『フランスの内乱』、読み返してみました。この本を読むのは、学生時代以来50年ぶりくらいです。同じテクストでも、さすがに半世紀をおいて読み返すと、印象がずいぶん違うものですね。

パリ・コミューンの歴史的な意義や、このテクストの重要性については、もう石川先生がきちんと書いてくださっていますので、僕は例によって、個人的にこだわりのあるところについて感想を語ってゆきたいと思います。
 
「コミューン」というのは、そもそもどういう意味なんでしょう。「コミューン」という言葉を学生だった僕はこの本で最初に知りました。そして、たぶん半世紀前も次の箇所に赤線を引いたはずです。

「コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働者階級の経済的解放を実現するために、ついに発見された政治形態である。」(『フランスの内乱』、辰巳伸知訳、マルクスコレクションVI, 筑摩書房、2005年、36頁、強調は内田)

「ついに発見された政治形態」であると断定された以上、それは前代未聞のものであるはずです。僕は素直にそう読みました。なるほど、パリ・コミューンは歴史上はじめて登場した政治形態だったのか。すごいな。それなのに反動的なブルジョワたちから暴力的な弾圧を受けて、徹底的に殲滅されて、多くのコミューン戦士は英雄的な死を遂げた。気の毒なことをしたなあ・・・。そう思いました。それくらいしか思いませんでした。でも、さすがにそれから半世紀経つと感想もずいぶん違うものになります。

 僕が気になったのは、パリ・コミューンがマルクスの時代において「ついに発見された」前代未聞のものであったことはわかるのですが、それに続くものがなかったということです。

 パリ・コミューンからすでに150年を閲しましたけれど、パリ・コミューンのような政治形態はそれを最後に二度と再び地上に現れることはありませんでした。それはなぜなのでしょう。

 もし、パリ・コミューンがマルクスの言うように、1870年時点での革命的実践の頂点であったのだとしたら、その後も、パリ・コミューンを範とした革命的実践が(かりに失敗したとしても)世界各地で、次々と試みられてよかったはずです。でも、管見の及ぶ限りで「この政治形態はパリ・コミューンの甦りである」とか「この政治形態はパリ・コミューンが別の歴史的条件の下でいささか相貌を変えて実現したものである」というふうに名乗る事例を僕は一つも知りません。「われわれの戦いはパリ・コミューンを理想としてしている」と綱領的文書に掲げた政治運動や政治組織も僕は見たことがありません。

 変な話だと思いませんか?

 かのマルクスが、「ついに発見された政治形態である」と絶賛した究極の事例について、それを継承しようとした人たちも、未完・未済のものであったがゆえにその完成をこそ自らの歴史的召命として引き受けようとした人たちも、1871年から後いなかった。どうして、パリ・コミューンという政治的理想をそれからのちも全力で追求しようとした人たちは出てこなかったのか? 

 少なくともそれ以後フランスには「パリ・コミューン的なもの」は二度と登場しません。フランスでは、1789年、1830年、1848年、1871年と、比較的短いインターバルで革命的争乱が継起しました。いずれも、その前に行われた革命的な企てを引き継ぐものとして、あるいは先行した革命の不徹底性を乗り越えるものとしてなされました。でも、1871年のパリ・コミューンから後、パリ・コミューンを引き継ぎ、その不徹底性を批判的に乗り越える革命的な企てを構想した人は一人もいなかった。

 1944年8月25日のパリ解放の時、進軍してきた自由フランス軍に中にも、レジスタンスの闘士たちの中にも、誰も「抑圧者が去った今こそ市民たちの自治政府を」と叫ぶ人はいませんでした。1968年には「パリ五月革命」と呼ばれたラディカルな政治闘争がありましたが、その時に街頭を埋め尽くしたデモの隊列からも「今こそ第五共和政を倒して、パリ・コミューンを」と訴える声は聴こえませんでした。少しはいたかも知れませんが(どんなことでも口走る人はいますから)、誰も取り合わなかった。

 今も「パリ・コミューン派」を名乗っていて、少なからぬ力量を誇っている政治組織が世界のどこかにはあるかも知れませんけれど、寡聞にして僕は知りません(知っている人がいたらぜひご教示ください)。

 これはどういうことなのでしょう。なぜ「ついに発見された政治形態」は後継者を持ちえなかったのか?

 以下はそれについての僕の暴走的思弁です。

「マルクスとアメリカ」でも同じ考え方をご披露しましたけれど、僕が歴史について考える時にしばしば採用するアプローチは「どうして、ある出来事は起きたのに、それとは別の『起きてもよかった出来事』は起きなかったのか?」という問いを立てることです。

 このやり方を僕はシャーロック・ホームズから学びました。「起きたこと」からではなくて、「起きてもよかったはずのことが起きなかった」という事実に基づいて事件の真相に迫るのです。「白銀号事件」でホームズは「なぜあの夜、犬は吠えなかったのか?」というところからその推理を開始します。なぜ起きてもよいことが起きなかったのか?

 (...)

 なぜパリ・コミューンはマルクスによって理想的な政治形態と高く評価されたにもかかわらず、それから後、当のマルクス主義者たちによってさえ企てられなかったのか?

 それに対する僕の仮説的回答はこうです。

 パリ・コミューンはまさに「ついに発見された政治形態」であったにもかかわらずではなく、そうであったがゆえに血なまぐさい弾圧を呼び寄せ、破壊し尽くされ、二度と「あんなこと」は試みない方がよいという歴史的教訓を残したというものです。

 パリ・コミューン以後の革命家たち(レーニンもその一人です)がこの歴史的事実から引き出したのは次のような教訓でした。

 パリ・コミューンのような政治形態は不可能だ。やるならもっと違うやり方でやるしかない。

 パリ・コミューンは理想的に過ぎたのでした。

 それは『フランスの内乱』の中でマルクスが引いているいくつもの事例から知ることができます。マルクスが引いている事実はすべてがヴェルサイユ側の忌まわしいほどの不道徳性と暴力的非寛容と薄汚れた現実主義とコミューン側の道徳的清廉さ、寛大さ、感動的なまでの政治的無垢をありありと対比させています。どちらが「グッドガイ」で、どちらが「バッドガイ」か、これほど善悪の対比がはっきりした歴史的出来事は例外的です。少なくともマルクスは 読者たちにそういう印象を与えようとしていました。

 ティエールは国民軍の寄付で調達されたパリの大砲を「国家の財産である」と嘘をついてパリに対して戦争をしかけ、寄せ集めのヴェルサイユ兵を「世界の称賛の的、フランスがこれまで持った最もすばらしい軍隊」と持ち上げ、パリを砲撃した後も「自分たちは砲撃していない、それは叛徒たちの仕業である」と言い抜け、ヴェルサイユ軍の犯した処刑や報復を「すべて戯言である」と言い切りました。一方、「コミューンは、自らの言動を公表し、自らの欠陥をすべて公衆に知らせた」(同書、44頁)のです。

 マルクスの言葉を信じるならまさに「パリではすべてが真実であり、ヴェルサイユではすべてが嘘だった」(同書、46頁)のでした。パリ・コミューンは政治的にも道徳的にも正しい革命だった。マルクスはそれを讃えた。

 でも、マルクス以後の革命家たちはそうしなかった。彼らはパリ・コミューンはまさにそのせいで敗北したと考えた。確かに、レーニンがパリ・コミューンから教訓として引き出したのは、パリ・コミューンはもっと暴力的で、強権的であってもよかった、政治的にも道徳的にも、あれほど「正しい」ものである必要はなかった、ということだったからです。レーニンはこう書いています。

 「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧することは、依然として必要である。そして、コンミューンにとっては、このことはとくに必要であった。そして、コンミューンの敗因の一つは、コンミューンがこのことを十分に断固として行わなかった点にある。」(レーニン、『国家と革命』、大崎平八郎訳、角川文庫、1966年、67頁)

 レーニンが「十分に、断固として行うべき」としたのは「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧すること」です。ヴェルサイユ軍がコミューン派の市民に加えたのと同質の暴力をコミューン派市民はブルジョワ共和主義者や王党派や帝政派に加えるべきだった、レーニンはそう考えました。コミューン派の暴力が正義であるのは、コミューン派が「住民の多数派」だからです。

「ひとたび人民の多数者自身が自分の抑圧者を抑圧する段になると、抑圧のための『特殊な権力』は、もはや必要ではなくなる!国家は死滅し始める。特権的な少数者の特殊な制度(特権官僚、常備軍主脳部)に代わって、多数者自身がこれを直接に遂行することができる。」(同書、67−8頁、強調はレーニン)

 少数派がコントロールしている「特殊な権力」がふるう暴力は悪だけれど、国家権力を媒介とせずに人民が抑圧者に向けて直接ふるう暴力は善である。マルクスは『フランスの内乱』のどこにもそんなことは書いていません。でも、レーニンはそのことをパリ・コミューンの「敗因」から学んだ。

 レーニンがパリ・コミューンの敗北から引き出したもう一つの教訓は、石川先生もご指摘されていた「国家機構」の問題です。これについて、石川先生は、レーニンは「国家機構の粉砕」を主張し、マルクスはそれとは違って、革命の平和的・非強力的な展開の可能性にもチャンスを認めていたという指摘をされています。でも、僕はちょっとそれとは違う解釈も可能なのではないかと思います。レーニンの方がむしろ「できあいの国家機構」を効率的に用いることを認めていたのではないでしょうか。レーニンはこう書いています。

「コンミューンは、ブルジョワ社会の賄賂のきく、腐敗しきった議会制度を、意見と討論の自由が欺瞞に堕することのないような制度とおき替える。なぜなら、コンミューンの代議員たちは、みずから活動し、自分がつくった法律をみずから執行し、執行にあたって生じた結果をみずから点検し、自分の選挙人にたいしてみずから直接責任を負わなければならないからである。代議制度はのこるが、しかし、特殊な制度としての、立法活動と執行活動の分業としての、代議員のための特権的地位を保障するものとしての、議会制度は、ここにはない。(...)議会制度なしの民主主義を考えることができるし、また考えなければならない。」(同書、74−75頁、強調はレーニン)
 
 法の制定者と法の執行者を分業させた政体のことを共和制と呼び、法の制定者と執行者が同一機関である政体のことを独裁制と呼びます。パリ・コミューンは「議会制度なしの民主主義」、独裁的な民主主義の達成だったとして、その点をレーニンは評価します。

 この文章を読むときに、代議制度は「のこる」という方を重く見るか、立法と行政の分業としての共和的な制度は「ない」という方を重く見るかで、解釈にずれが生じます。僕はレーニンは制度そのものの継続性をむしろ強調したかったのではないかという気がします。レーニンは何か新しい、人道的で、理想的な統治形態を夢見ていたのではなく、今ある統治システムを換骨奪胎することを目指していた。そして、マルクスもまた既存の制度との継続を目指したしたるのだと主張します。

「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない。そうではなくて、彼は、古い社会からの新しい社会の誕生、前者から後者への過渡的諸形態を、自然史的過程として研究しているのだ。」(同書、75頁、強調はレーニン)
 
 ここで目立つのは「からの」を強調していることです。旧体制と新体制の間には連続性がある。だから、「過渡的諸形態」においては「ありもの」の統治システムを使い回す必要がある。レーニンはそう言いたかったようです。そのためにマルクスも「そう言っている」という無理な読解を行った。

「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない。プロレタリアートの独裁の任務についての無理解にもとづくこうした無政府主義的夢想は、マルクス主義とは根本的に無縁なものであり、実際には、人間が今とは違ったものになるときまで社会主義革命を引き延ばすことに役だつだけである。ところがそうではなくて、われわれは、社会主義革命をば現在のままの人間で、つまり服従なしには、統制なしには、『監督、簿記係』なしにはやってゆけない、そのような人間によって遂行しようと望んでいるのだ。」(同書、76―77頁、強調はレーニン)

 レーニンが「監督、簿記係」と嘲弄的に呼んでいるのは官僚機構のことです。プロレタリアート独裁は「服従」と「統制」と「官僚機構」を通じて行われることになるだろうとレーニンはここで言っているのです。「すべての被搾取勤労者の武装した前衛であるプロレタリアートには、服従しなければならない。」(77頁)という命題には「誰が」という主語が言い落とされていますが、これは「プロレタリアート以外の全員」のことです。

 これはどう贔屓目に読んでも、マルクスの『フランスの内乱』の解釈としては受け入れがたいものです。

 マルクスがパリ・コミューンにおいて最も高く評価したのは、そこでは「服従」や「統制」や「官僚機構」が効率的に働いていたことではなく、逆に、労働者たちが「できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」と考えたからです。新しいものを手作りしなければならないというコミューンの未決性、開放性をマルクスは評価した。誰も服従しない、誰も統制しない、誰もが進んで公的使命を果たすという点がパリ・コミューンの最大の美点だとマルクスは考えていたからです。

「コミューンが多種多様に解釈されてきたこと、自分たちの都合のいいように多種多様な党派がコミューンを解釈したこと、このことは、過去のあらゆる統治形態がまさに抑圧的であり続けてきたのに対して、コミューンが徹頭徹尾開放的な政府形態であったということを示している。」(マルクス、前掲書、36頁)

 マルクスの見るところ、パリ・コミューンの最大の美点はその道徳的なインテグリティーにありました。自らの無謬性を誇らず、「自らの言動を公表し、自らの欠陥のすべてを公衆に知らせた」ことです。それがもたらした劇的な変化についてマルクスは感動的な筆致でこう書いています。

「実際すばらしかったのは、コミューンがパリにもたらした変化である! 第二帝政のみだらなパリは、もはやあとかたもなかった。パリはもはや、イギリスの地主やアイルランドの不在地主、アメリカのもと奴隷所有者や成金、ロシアのもと農奴所有者やワラキアの大貴族のたまり場ではなくなった。死体公示所にはもはや身元不明の死体はなく、夜盗もなくなり、強盗もほとんどなくなった。1848年二月期以来、はじめてパリの街路は安全になった。しかも、いかなる類の警察もなしに。(・・・)労働し、考え、闘い、血を流しているパリは、―新たな社会を生み出そうとするなかで、(・・・)自らが歴史を創始することの熱情に輝いていたのである。」(同書、45―46頁、強調は内田)

「新しい社会を生み出そうとするなかで」とマルクスは書いています。この文言と「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない」というレーニンの断定の間には、埋めることのできないほどの断絶があると僕は思います。

 でも、パリ・コミューンの総括において「パリ・コミューンは理想主義的過ぎた」という印象を抱いたのはレーニン一人ではありません。ほとんどすべての革命家たちがそう思った。だからこそ、パリ・コミューンはひとり孤絶した歴史的経験にとどまり、以後150年、その「アヴァター」は再び地上に顕現することがなかった。そういうことではないかと思います。

 勘違いして欲しくないのですが、僕はレーニンの革命論が「間違っている」と言っているのではありません。現にロシア革命を「成功」させたくらいですから、実践によってみごとに裏書きされたすぐれた革命論だと思います。でも、マルクスの『フランスの内乱』の祖述としては不正確です。

 ただし、レーニンのこの「不正確な祖述」は彼の知性が不調なせいでも悪意のせいでもありません。レーニンは彼なりにパリ・コミューンの悲劇的な結末から学ぶべきことを学んだのです。そして、パリ・コミューンはすばらしい歴史的実験だったし、めざしたものは崇高だったかも知れないけれど、あのような「新しい社会」を志向する、開放的な革命運動は政治的には無効だと考えたのです。革命闘争に勝利するためには、それとはまったく正反対の、服従と統制と官僚機構を最大限に活用した運動と組織が必要だと考えた。

 レーニンのこのパリ・コミューン解釈がそれ以後のパリ・コミューンについて支配的な解釈として定着しました。ですから、仮にそれから後、「パリ・コミューンのような政治形態」をめざす政治運動が試みられたことがあったとしても、それは「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない」と断定する鉄のレーニン主義者たちから「空想家」「夢想家」と決めつけられて、舞台から荒っぽく引きずりおろされただろうと思います。

 アルベール・カミュは『国家と革命』におけるレーニンのパリ・コミューン評価をこんなふうに要言しています。僕はカミュのこの評言に対して同意の一票を投じたいと思います。

「レーニンは、生産手段の社会化が達成されるとともに、搾取階級は廃滅され、国家は死滅するという明確で断固たる原則から出発する。しかし、同じ文書の中で、彼は生産手段の社会化の後も、革命的フラクションによる自余の人民に対する独裁が、期限をあらかじめ区切られることなしに継続されることは正当化されるという結論に達している。コミューンの経験を繰り返し参照していながら、このパンフレットは、コミューンを生み出した連邦主義的、反権威主義的な思潮と絶対的に対立するのである。マルクスとエンゲルスのコミュ―ンについての楽観的な記述にさえ反対する。理由は明らかである。レーニンはコミューンが失敗したことを忘れなかったのである。」(Albert Camus, L'homme révolté, in Essais, Gallimard, 1965, p.633)

 僕はできたら読者の皆さんには『フランスの内乱』と『国家と革命』を併せて読んでくれることをお願いしたいと思います。そして、そこに石川先生がこの間言われたような「マルクス」と「マルクス主義」の違いを感じてくれたらいいなと思います。マルクスを読むこととマルクス主義を勉強することは別の営みです。まったく別の営みだと申し上げてもよいと思います。そして、僕は「マルクス主義を勉強すること」にはもうあまり興味がありませんけれど、「マルクスを読む楽しみ」はこれからもずっと手離さないだろうと思います
http://blog.tatsuru.com/2019/03/05_1542.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c6

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
7. 中川隆[-14950] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:12:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2042]
右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた


2007年12月10日
ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1.America’s Secret Establishment –

2. Wall Street and the Rise of Hitler –
(ウォール街がナチスヒトラーを勃興させた。)

3. Wall Street & the Bolshevik Revolution –
(ウォール街がレーニン、トロツキーなどに資金供与してロシア革命を成功させた。)

4 The Federal Reserve Conspiracy
(連邦準備銀行の陰謀)


アントニー サットンについて、 阿修羅 より(一部略)

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英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。

本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。


徹底した調査によって以下のことが判明した。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

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(引用以上) 


サットンの業績は、秘密のベールに包まれていた金融資本家のネットワークを徹底的に調査し、あぶりだしてくれたことだと思う。従来“陰謀論”として、よく検証されずに葬られていた分野を科学的に検証した。

彼の業績によってロシア革命やナチス、そしてベトナム戦争の背後にある真実が見えてきた。おおよそ、現代史(戦争や革命恐慌、バブル)の背後には彼らウォール街金融資本の触手があり、彼らが何らかの狙いをもって特定の集団に資金提供して、育て上げる。それらの集団は、主義思想や愛国心に沿って動き、対立や戦争を起こしていく。その過程で莫大な投資や消費が行われ、金融資本は莫大な利益を手に入れることになる。


背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持してきた。サットンは、金融資本家の支配方法について以下のように言っている。


>世界秩序は、分断して攻略するという単純なテクニックによる支配で成り立っている。

>・・・世界秩序は、世界を実体とみなすヘーゲル弁証法を採用した。これはそのほかのあらゆる力と実体を否定している。テーゼ(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。

>世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・  サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

※ここで世界秩序とは、金融資本による世界秩序のことをさす。

★このように見てくると、主義や主張をかざし、あるいは小さな国益をかざして、対立している人間・勢力というのは、支配者(コントローラー)である金融資本にとっては、非常に都合がよく操作しやすい。


日本でも、

・戦前スターリンとアメリカの圧迫→危機感高まった国内で右翼が台頭、陸軍と結んで戦争への道を突っ走った。

・戦後自民党に結党資金を与えたのはCIAであり、自民党の結党により左右社会党が合同し、二大政党という対立構造が生まれた。


そして現在的にも

アメリカ財閥が中国を急成長させている
アメリカの撤退が始まり中国が台頭する

中国の台頭により日本の(特に右の)危機感が高まっている。しかし、中国を急速に台頭させているのはウォール街金融資本である。僕も危機感には共感する。しかしいたずらに敵対し相手を挑発するより、真の意図を探り可能性を探る必要があると思う。

“日本を守るのに右も左もない”では、見えにくい敵、対立を煽り、歴史を操作している連中=国際金融資本(金貸し)も、徹底的に事実追求の立場から解明していきたい。サットンができなかったより深い分析(人々の意識潮流や可能性)まで含めて。

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/12/000553.html

▲△▽▼


60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。_ 2

アントニー・C・サットン

アントニー・C・サットン(Antony Cyril Sutton、1925年2月14日 - 2002年6月17日)は、イギリス生まれのアメリカの経済学者、歴史学者、作家。


サットンはロンドン大学、ゲッティンゲン大学とカリフォルニア州立大学で学びし、英国サウサンプトン大学にてD.Sc.を取得した。

米国ロサンゼルスにあるカリフォルニア州立大学で経済学部教授として働き、1968年から1973年までスタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員であった。

当機関に所属している間、欧米技術とソ連経済発展の関連について "Western Technology and Soviet Economic Development"(全3巻)を出版し、ソ連発足初期から欧米諸国もその発展に深く関与したことを証明した。

またサットンはソ連が持つ技術的能力や製造能力も多数の米企業の支援と、米国民が納める税から融資を受けたことも指摘した。

鉄鋼業やフォードの子会社であったGAZ自動車工場など, 複数のソ連企業は米からの技術によって作られたことや、さらにはソ連がMIRVミサイル技術を手に入れたのも、高性能ベアリング製造に必要な(米からの)工作機械によって可能となったとしている。

1973年に3冊目の原稿から軍事技術関連部分を別編として "Military Aid to the Soviet Union" のタイトルで出版し、その結果フーヴァー研究員の仕事を辞任することになった[1]。 上記問題の研究成果として、

冷戦が生んだ様々な対立が「共産主義を制覇するため」続けられたのではなく、数十億ドル規模の軍事需要を意図的に維持するためだったと強調した。

少なくとも朝鮮戦争とベトナム戦争の場合、対立の両側も直接的・間接的に米国によって武装されていた[2]。

続編として、軍事技術転写の役割について論じた"The Best Enemy Money Can Buy" を書いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3

▲△▽▼

ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html


アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)博士が昨年6月になくなった。77才だった。英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。

68年の刊行物で、融資と技術の流れを突き止めたものの、彼は、なぜ敵対する国に、あるいは自国のカネと技術で自国の戦士たちがしななければならないのか、一体どうなっているのか、全く理解できなかったという。ところが80年代の初頭、彼に一通の手紙が届いた。もしあなたが興味があるなら、スカル&ボーンズという秘密結社のメンバーリストを24時間だけ供与するがどうか、と記されていた。この組織のメンバーの家族が、身内が入会していてうんざりで、実態を知って欲しいと思ってのことだったという。送付して欲しい、と了承。黒革製の2巻からなる本は一冊は故人リスト、もう一冊は現在のリストだった。この時点までかれはこの秘密結社のことなど聞いたことも思ったこともなかったという。しかし、これらのリストの人物を綿密に調査したところ、この組織はただ者ではない、と驚愕。68年刊行物で疑問に思っていたことが氷解したという。つまり、この組織の連中のネットワークが米国政策決定過程を導き、このような売国的なことが行われていることを突き止めるに及んだという。

 彼は、スカル&ボンズは、ドイツを発祥とする秘密結社イル皆ティーの連動組織である、という。徹底した調査によって以下のことが判明したという。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。

4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


Divide&Conquer (分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。いわゆる現今のポチ保守はこの左右対立の見方を徹底して利用し、自分たちの富裕的支配性の隠れみのにしてきた可能性がある。多くの一般日本人が、あるいは貧乏な日本人同士がやれ、お前は右だろ左だろどうせ土井支持者だろなどと滑稽にののしりあっている図が見える。これが彼らの思うツボなのだ。実際馬鹿げている。)


彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

スカボンは現在約600名がアクティブであるという。エール大学内で毎年25名が組織に入るしきたり。生涯を通じて、支配層中心メンバーとして機能するようだ。エール大学で、この組織の余りの無気味さに、排斥運動が起きた経緯もあるという。

"My senior year, I jointed Skull& Bones, a secret society, so secret I can't say anything more."

「わたしは大学4年のときスカボンに入ったんです。それは秘密結社でして、秘密であるが故に、わたしはこれ以上この組織について何もお話はできないんです。」

現大統領が最近の記者の質問にこのように答えている(これはサットンのホームページにも掲載されている。オリジナルはUSAToday紙の記事(非常に勇気ある女性ライターで当時大学生か学校出たてだったと思う。)この発言から分かることは、彼は、スカボンが1 秘密結社であり、2それが現時点で存在しており、3しかも自分がメンバーであり、4 内部情報を明かさないことがその組織の掟であること。この4点までを認めているのである。彼の、エール出身の父もこの組織のメンバーであることはよく知られており、すくなくとも父はメンバーとしては非常にアクティブだったという。ちなみにエール大学というような大学は、基本的にはアメリカの中産階層の子弟がはいれるところではまったくない。富裕層のための大学である。米国中央情報局の上層部は露骨にエール大学閥であることが知られている。

サットンのホームページ:

http://www.antonysutton.com/

彼が受けた最後のインタビュー:

http://www.antonysutton.com/suttoninterview.html

彼の代表作の一つ(スカボン本”America's Secret Establishment)

http://www.cia-drugs.com/Merchant2/merchant.mv?Screen=SFNT&Store_Code=CS&Affiliate=ctrl


1.America's Secret Establishment --

2. Wall Street and the Rise of Hitler --

ウォールストリートがナチスヒトラーを勃興させたことを証明した本。
3. Wall Street & the Bolshevik Revolution --

ウォールストリートがトロツキーなどいもふくめ資金を与え、ソ連を成立させた経緯がかかれている。


上記1についてのアマゾン書店で寄せられる読者評は以下のように最高度の星を獲得している。
http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-form/002-3984047-1859263

読者のコメントをいちいち読むと非常に支持されていることがわかる。

彼の本は日本で一冊も翻訳されていないが、少なくとも
上記の3冊、最悪でも上記1について、翻訳出版されることが非常に望ましい。アメリカ理解、近現代史理解にこれらの報告書は絶対不可欠なのだ。

最高度の頭脳と調査能力を持つ彼は20世紀の知的巨人の一人であり、彼のすべての著書は近現代史を真に理解したいすべての人々、あるいは新しい歴史形成を担いたいすべての人々への贈り物であり、21世紀の知的遺産だといえる。

彼の真摯な知的営為、屈せず戦い抜いた態度に真の知識人の模範をみるものであり、最高度の敬意を払いたい。最近朝日新聞論壇で投稿されていたpublic intellectuals 公的知識人=一般人のための知識人という概念は米国由来のものであり、最近某大学でこの名前を冠する博士号Ph.D.を授与するところがでてきた。それほど、米国のいわゆる知識人は権力の走狗であることの批判からおきている現象だ。サットンこそこの敬称にふさわしい人物はいないだろう。

自分が知らない、聞いたこともない説であるゆえトンデモ本だ、などと決めつけるタイプの人々にはこれらは高踏すぎて無縁な著作郡であることは確かである。学問的訓練を経た読者に最も向くものといえる。

近現代史を専門とする人々は必読であることを強調していきたい。

http://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/819.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c7

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