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[お知らせ・管理21] 記事監視人の姿勢についてお伺いする 天橋立の愚痴人間
247. 中川隆[-8797] koaQ7Jey 2019年8月17日 14:12:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3945]

天橋立の愚痴人間は誰が見てもクルクルパーだった


日時: 2019/08/16 02:14
名前: 日本貧民党 ID:2vH1zcQY

自分の駄文に批判を加える者は皆「ケチで、下らない、投稿者」と言うのが天橋立の愚痴人間氏の薄っぺらな脳細胞なのです。

何時まで経っても、「尤も」を「最も」と書いて平然として居るし、自分の投稿の論旨に矛盾が有っても気が付かない。

気に入らなければ「削除するぞ❕」と威嚇し、トランプ並みの『暴論と不寛容性』を発揮する。

そんな貴殿でも、この板の持ち主が許しているのだから、好きにし給え。

おッと、この投稿も即削除かな❓ さすれば愈々貴殿はお山の大将、其れも「裸のお山の大将」だね。

言って置くが、他人の下らない投稿であっても、こんな下らない奴が居る!と置いておくのが見せしめに成るのに、

削除する、と言う事は図星を刺されて恥ずかしいから、削除すると言う訳だね。

____

日時: 2019/08/16 07:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:guBqn1mE

日本貧民党、取越九郎(全て同一人)が繰り返し言ってきたこと。


天橋立の愚痴人間は、

他人の文章の読解力がない
お山の大将を気取る田舎紳士である。
多投が過ぎ掲示板を私物化している。
文章が長すぎ、駄文である。
専門知識も無いの広範囲な話題を展開することは無責任である。
https://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=2628

http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/488.html#c247

[お知らせ・管理21] 管理人さんへお伺いしたい。 天橋立の愚痴人間
17. 中川隆[-8796] koaQ7Jey 2019年8月17日 14:12:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3946]

天橋立の愚痴人間は誰が見てもクルクルパーだった


日時: 2019/08/16 02:14
名前: 日本貧民党 ID:2vH1zcQY

自分の駄文に批判を加える者は皆「ケチで、下らない、投稿者」と言うのが天橋立の愚痴人間氏の薄っぺらな脳細胞なのです。

何時まで経っても、「尤も」を「最も」と書いて平然として居るし、自分の投稿の論旨に矛盾が有っても気が付かない。

気に入らなければ「削除するぞ❕」と威嚇し、トランプ並みの『暴論と不寛容性』を発揮する。

そんな貴殿でも、この板の持ち主が許しているのだから、好きにし給え。

おッと、この投稿も即削除かな❓ さすれば愈々貴殿はお山の大将、其れも「裸のお山の大将」だね。

言って置くが、他人の下らない投稿であっても、こんな下らない奴が居る!と置いておくのが見せしめに成るのに、

削除する、と言う事は図星を刺されて恥ずかしいから、削除すると言う訳だね。

____

日時: 2019/08/16 07:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:guBqn1mE

日本貧民党、取越九郎(全て同一人)が繰り返し言ってきたこと。


天橋立の愚痴人間は、

他人の文章の読解力がない
お山の大将を気取る田舎紳士である。
多投が過ぎ掲示板を私物化している。
文章が長すぎ、駄文である。
専門知識も無いの広範囲な話題を展開することは無責任である。
https://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=2628

http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/468.html#c17

[近代史02] 白人はなぜ白人か _ 白人が人間性を失っていった過程 中川隆
196. 中川隆[-8795] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:23:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3947]

2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/390.html#c196

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
238. 中川隆[-8794] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:24:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3948]

2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c238

[近代史3] アイヌ人は先住民ではない、日本人は単一民族だというデマを撒き散らすチャンネル桜 中川隆
10. 中川隆[-8793] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:25:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3949]

2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/323.html#c10

[近代史3] アイヌ民族は12世紀ごろ樺太から北海道に渡来した? 中川隆
2. 中川隆[-8792] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:26:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3950]

2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/538.html#c2

[近代史3] チャンネル桜関係者が大好きな自称日本史研究者 長浜浩明の学説(?)の何処がおかしいのか? 中川隆
28. 中川隆[-8791] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:27:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3951]

2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/498.html#c28

[近代史3] DNA解析の限界/実は単品ではあまり役にたたないという話 中川隆
1. 中川隆[-8790] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:29:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3952]

2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/430.html#c1

[近代史3] ユダヤ男性は白人美女が大好き、ユダヤ女は大嫌い _ アシュケナージ系ユダヤ人の母方の系統の起源はヨーロッパ女性だった 中川隆
6. 中川隆[-8789] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:30:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3953]

2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/211.html#c6

[リバイバル3] ケーブル(電線)の世界 中川隆
94. 中川隆[-8788] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:54:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3954]
夏休みです 久しぶりにOさんが GRFのある部屋 2019年 08月 17日
https://tannoy.exblog.jp/30740262/

ご常連のOさんが、前回来られたのは4月のはじめ、まだ桜の花が咲いている頃でした。その後は忙しく、四ヶ月ほど空いてしまいましたがその間は、当方も大きく変わったところもなく、あえてご連絡するほどでもなかったのですが、ここに来て、少しずつ動きが出てきて、時間を見つけて実験を重ねてきました。

最近の実験は、SAシステムでした。ご報告したとおりアルニコタイプのSPには大変効果がありました。その後の、横浜のMさん宅の取り付け工事にも参加させてもらい、取り付け方法も学んできました。当初は大山さんのT4に応用したのですが、Dynaudioの13センチのウーファーの磁石が特殊な形状なのと、ツイーター側がキャビネットにピッタリと埋め込まれているので、付けるには、また穴を開けなければならないので、とりあえず、ユニコーンに付けて実験してみることになりました。


ユニコーンは、シングルスピーカーですし、表に出ている部分で対応が出来るからです。それでもいろいろ紆余曲折はあったのですが、最終的には、銀のリード線を、木製の洗濯ばさみで、ポールに取り付けるという方法を考えました。


音の差ですが、やはり変わります。すっきりして、音場が拡がります。ただ、その音がOLYMPUSやParagonで聴いた様な方向ではなく、幾分クールになる傾向です。何度も取り外したり付けたりして、比較して見ました。私の感覚ではスタジオ録音の音源には、とても効果があり見通しは良くなります。ユニコーンの場合は、ピストン運動をしている、バックロードが掛かっているエリアが変わるようです。ベンディングウェーブの部分には、余り影響がないのかもしれません。


それでも、スタジオでのマルチモノ録音には良い感じに変化します。クラシックの様に残響を時間差でとらえている音源は、反対に音場がすっきりしすぎるようです。やはりアルニコのホーン型のユニットに使うとより効果的なのかもしれません。


今ひとつ気がついたのは、無指向性のSPを使うときに一番大事なのは、その部屋で一番楽に音が出てくるポイントを探すことです。ぴたりと合ったときは、その部屋のなかで、一番部屋の影響が少ないポイントではないかと思いました。言い換えるといちばん逆起電力の影響を受けないポイントなのです。それらのSAの取り付け時の段階による音の変化を、Oさんにも一つ一つ聴いていただきました。


f0108399_09382863.jpg

今ひとつの実験を、大きな部屋で行っています。そちらの音を聴いていただくために、クーラーを変えてからは、寒いぐらいの部屋で、その変化を聴いていただきました。それは、SAの実験からヒントをいただいた、銀のケーブルの音です。昔、イルンゴ製の銀ケーブルを持っていて、純銀製の太いケーブルで、曲げることも出来ずに大変な思いをした頃を思い出しました。あのケーブルは、いわゆる銀線のイメージの華やかな音はせず、普通の銅線を安定させたような音でした。

German PhysiksのSPケーブルは、2x6mm²の太い銀コーティングの銅線です。末端は、WBTのバナナ端子が付いています。この端子は銅です。そこの部分を、銀コーティング製の端子に交換してみました。比較用に中国製の銀メッキ端子も用意しました。その銀メッキ製の端子は、イメージ通りの高音部が華やかに鳴る音でしたが、半田あげもしないで直に繋いだ銀コーティング製の端子の方は、音が変化しないで自然な音になりました。

f0108399_09383180.jpg


ケーブルの長さにもより音に若干の変化はありますが、Troubadour80とGerman Physiksのネットワーク箱との間に使ってみました。1.6mぐらいのものと2.4mぐらいの長さの違いも比べました。こちらは微妙な変化があり、長い方が音が安定します。ここが面白いところですね。取り付け部のネジの大きさとか工夫がされています。音が柔らかいのは以前の半田揚げをしていた端子と比べると、直に端子にケーブルと接触して伝わるからでしょう。


銀コーティング製だからと単純に音が良くなるわけではありません。バナナだけではなくY端子の方も実験してみます。右の赤白のバンドが付いているのは、WBTの純銀端子です。こちらは、左の国産の銀コーティング製Y端子の六倍もしましたので、中古で購入して実験してみましたが。両端を変えなければなりません。片方の到着を待っています。

f0108399_10065047.jpg


SAの実験が、銀製端子の実験に化けましたが、発想は、SAシステムの普及品と高級品の差と、自動車用の銀のケーブルからヒントをいただきました。そういえば近藤さんが主宰していたAudioNoteの製品は大変高価ですが、使われている配線はトランスまで純銀製でしたね。音の自然さが採用された理由なのでしょうか?


金と違い、空気中の硫黄酸化物と反応して黒くなる銀は、本来は金と同じぐらいの産出量なのに、価格差がどんどん拡大しています。いつか銀価格も暴騰するような気もしますが、SP端子ぐらいならその影響も少なくて済みますね(爆)。面白い夏休みになりました。


Commentedby TANNOY-GRF at 2019-08-17 09:49

我が家の装置では銀製の端子が良い結果を出しましたが、気をつけなければ行けないのは、ヴィンテージのSPは、SP端子の材質も含めて音作りをしています。そこを直接半田付けしたり、このような違う材質の端子に交換しても、本来の持ち味も消えてしまいます。

タンノイには、SA装置の方が効果があるような気もします。専門家の手も借りて、実験していきます。そちらも楽しみです。
https://tannoy.exblog.jp/30740262/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/757.html#c94

[お知らせ・管理21] 記事監視人の姿勢についてお伺いする 天橋立の愚痴人間
248. 中川隆[-8787] koaQ7Jey 2019年8月17日 16:08:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3955]
日時: 2019/08/16 23:54
名前: 日本貧民党 ID:2vH1zcQY


二度と来るまい 丹後の掲示板〜ン 

万能の、似非知識人には これ以上付き合い兼ねるからね。

明日から心置きなく立派なご高説を投稿なさるが宜しい。

この掲示板の投稿者が少なくなった、と嘆いて居るが、原因は貴殿なのじゃよ。

折角、国際人の安楽庵氏が開設された掲示板だが、貴殿の所為で丹後の片田舎の掲示板に成り果てる訳だ。

貴殿の様な似非右翼の為に、益々投稿者は減るだろうよ。
https://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=2628
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/488.html#c248

[お知らせ・管理21] ついでに管理人さんへ 天橋立の愚痴人間
72. 中川隆[-8786] koaQ7Jey 2019年8月17日 16:09:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3956]

日時: 2019/08/16 23:54
名前: 日本貧民党 ID:2vH1zcQY


二度と来るまい 丹後の掲示板〜ン 

万能の、似非知識人には これ以上付き合い兼ねるからね。

明日から心置きなく立派なご高説を投稿なさるが宜しい。

この掲示板の投稿者が少なくなった、と嘆いて居るが、原因は貴殿なのじゃよ。

折角、国際人の安楽庵氏が開設された掲示板だが、貴殿の所為で丹後の片田舎の掲示板に成り果てる訳だ。

貴殿の様な似非右翼の為に、益々投稿者は減るだろうよ。
https://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=2628
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/490.html#c72

[お知らせ・管理21] 管理人さまへ 天橋立の愚痴人間
60. 中川隆[-8785] koaQ7Jey 2019年8月17日 16:10:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3957]
日時: 2019/08/16 23:54
名前: 日本貧民党 ID:2vH1zcQY


二度と来るまい 丹後の掲示板〜ン 

万能の、似非知識人には これ以上付き合い兼ねるからね。

明日から心置きなく立派なご高説を投稿なさるが宜しい。

この掲示板の投稿者が少なくなった、と嘆いて居るが、原因は貴殿なのじゃよ。

折角、国際人の安楽庵氏が開設された掲示板だが、貴殿の所為で丹後の片田舎の掲示板に成り果てる訳だ。

貴殿の様な似非右翼の為に、益々投稿者は減るだろうよ。
https://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=2628
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/489.html#c60

[お知らせ・管理21] 管理人さんへお伺いしたい。 天橋立の愚痴人間
18. 中川隆[-8784] koaQ7Jey 2019年8月17日 16:10:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3958]
日時: 2019/08/16 23:54
名前: 日本貧民党 ID:2vH1zcQY


二度と来るまい 丹後の掲示板〜ン 

万能の、似非知識人には これ以上付き合い兼ねるからね。

明日から心置きなく立派なご高説を投稿なさるが宜しい。

この掲示板の投稿者が少なくなった、と嘆いて居るが、原因は貴殿なのじゃよ。

折角、国際人の安楽庵氏が開設された掲示板だが、貴殿の所為で丹後の片田舎の掲示板に成り果てる訳だ。

貴殿の様な似非右翼の為に、益々投稿者は減るだろうよ。
https://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=2628
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/468.html#c18

[リバイバル3] 高層マンションには住んではいけない 中川隆
42. 中川隆[-8783] koaQ7Jey 2019年8月17日 16:57:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3959]
2022年、タワマンの「大量廃墟化」が始まることをご存じですか 不動産業界では暗黙の常識
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56992
2019.08.17 週刊現代  :現代ビジネス


リタイア世代から外国人家族まで、さまざまな人が住むタワマン。最大のネックは「修繕費」の問題で、見て見ぬふりをしているうちにタワマンが廃墟になってしまった、という可能性もあるのだ。

「修繕ラッシュ」が来た

都心の最高級リゾートをあなたの手に――。

東京湾を望む一棟のタワーマンション。歯の浮くようなコピーに夢を抱き、当時は購入希望者が殺到した人気レジデンスだったが、いまは見る影もない。

築15年、400戸近いマンションに、現在の居住者は3割にも満たない。外壁に割れが目立ち、エントランス前は雑草が伸び放題になっている。

ジムやバーなどの共用部は閉鎖されて数年が経つ。次のマンションの頭金にもならないほど資産価値は下がり、引っ越すこともできず、逃げ場を失った人たちがただ住んでいるだけ……。

いま、タワマン人気はピークにある。不動産経済研究所の調査によると、'08年から'17年の10年間で、首都圏には341棟もの高層マンション(20階建て以上)が建てられた。戸数にして、じつに11万1722戸にのぼる。

だが、そのタワマンが巨大な廃墟と化してしまう冒頭のような光景が、日本中に現れる事態を想像する人は少ない。

不動産業界ではかねてから都心部の住宅の過剰供給がささやかれてきた。デベロッパーにとってタワマンはまさに「打ち出の小槌」であり、いまだ根強いタワマン人気に応えるように、フロンティア開拓は進んでいる。

これまでタワマンといえば、豊洲や芝浦といったベイエリアか、武蔵小杉や川口など都心にアクセスしやすい郊外が人気を集めていた。近ごろ、デベロッパーは「第三の道」として、都心の再開発地域に目をつけ、新たな購入層の獲得に躍起だ。

たとえば東京下町の代表格・月島の「もんじゃストリート」には低層建築のもんじゃ屋が軒を連ねるが、肩を並べるように地上32階建てのタワマンが建とうとしている。

また、日本有数の商店街がある武蔵小山の駅前にも41階建ての巨大レジデンスが建ち、東京五輪直後の2021年に入居を控えている。

そんなタワマンブームに火が付いたのは2000年前後のこと。当時建てられた超高層マンションは早くも15〜20年選手になろうとしているわけだが、ここにきて重大な問題が表面化してきた。

それは、類を見ないほどの大規模で高額な「修繕」をどうするか、ということだ。

売り手はリスクを伝えない

基本的にマンションは、12年から15年の周期で大規模修繕を行う。最初は外壁の修理などを行い、次にエレベーターや排水などの内部的な不具合を改修する。

これはタワマンも同様で、目下第一次修繕ラッシュに突入しているが、なにぶん戸数が多いため、一棟の修繕計画は10年以上、2ケタ億円のカネがかかることもザラにある。

高層マンションブームの先駆けとなったのが、川口にある「エルザタワー55」だ。

'98年に竣工した総戸数650、地上55階建て、高さ185mのこの物件は、'15年にはじめての大規模修繕工事を開始し、2年がかりで完了した。総費用は約12億円。単純計算で1戸あたり約185万円の負担だ。

修繕にいたる長い道のりを取材してきた住宅ジャーナリストの山本久美子氏は次のように語る。

「超高層の工事は通常の足場だけではできないうえ、エルザタワーは低層・中層・高層でそれぞれ外観のフォルムが変化するデザインになっていて、工事は難航することが予想されました。

そこで修繕は、マンションを建設した元施工会社に工法の提案を依頼するところからはじまったのです」

管理組合に修繕委員会を設置したのは'07年のこと。施工の妥当性や料金を見積もるコンサルタントを募集したのは'12年になってからだった。

「コンサルタント会社を1社に絞り、業務委託契約を締結したのが'13年。マンション所有者への説明会もきちんと開き、'14年に施工業者の決定にこぎつけました」(山本氏)

途中3.11の影響もあったが、修繕完了までに10年。ただし、これは幸せなケースだ。エルザタワーのように投資目的の所有者が少ない物件は、管理組合もしっかり機能している。

だが新しく建てられたタワマンのなかには投資用に購入されているものも多い。最初の修繕時期にあたる築15年を迎えるころには、すでに所有者が入れ替わっているケースが大半だ。

しかも300戸をゆうに超えるようなタワマンでは、実際の入居者も子育て世代から外国人までさまざま。その全員が管理組合に協力的、ということはさすがに考えにくい。

こうした状況をさらに難しくするのが、デベロッパーの態度だ。タワマンの売れ行きが好調な折、あえて15年後に訪れる修繕の難しさなど、口にするはずがない。

オラガ総研代表の牧野知弘氏はこう指摘する。

「これまで、デベロッパーは修繕積立金の費用負担を実際の想定以上に安く設定してマンションを販売してきました。

タワマンは高層用のエレベーターやジムなどの共用設備が多く、修繕コストが膨らみやすい構造にあるにもかかわらず、『戸数が多いから一人あたりの負担が少ない』と販売元は説明するわけです。

ところがいざ修繕となると積立金が足りず、住民のあいだで大モメになる。こうした事態がこれから頻発するでしょう」

住民の意見がまとまらない

国土交通省は、ガイドラインで12年周期前後の大規模修繕を行うことを推奨している。

大手デベロッパーが販売するマンションの場合は、長期修繕計画書を売り主か施工業者が作成することが多いが、ここに書かれた数字がデタラメだったというケースもある。

管理組合向けコンサルティング会社・ソーシャルジャジメントシステムの廣田晃崇氏は次のような例を挙げる。

「長期修繕計画書では、何年目の工事にいくらかかるか概算が記されていて、そこから積立金の月額を割り出します。

ところが中央区のあるタワマンでは、基礎的な数値に間違いが散見されました。自動ドアの枚数が実際の半分だったり、消火設備の数も少なかったりして、30年間でかかる修繕費が5億円近くも過少に見積もられていたケースがあったのです」

こうした明らかな見積もりの甘さには、デベロッパーの「売らんかな精神」があることは否定できない。住民側が問題に気づくためには、やはり結束力の強い管理組合が必要になってくるが、ことタワマンではそううまくいかない。

首都圏にある総戸数600超の某タワーマンションでは、30年の修繕累計コストは50億円以上におよぶと見積もられている。ところが、その間に見込まれる修繕積立金は半分にも満たない23億円。

今後どうやってその差額を埋めるのか、そもそも15年目の第一次修繕を終えられるのか。管理組合の議論は今日も続いているという。

このマンションで理事の経験がある60代の住民の一人はこう嘆息する。

「私は早期退職で入ったおカネで家を買い、終の棲家と思って住んでいますが、上層階には若いお金持ちや投資目的の外国人もいる。普段の生活では没交渉ですから、理事会での発議も実現しないことが多いです。

たとえば、あるとき立体駐車場の共用部に重大な不具合が見つかり、1億円近くの費用がかかることがわかった。

そこで理事会で一時金の徴収を提案したのですが、想像以上に反対意見が多く、ロクに話し合いも設けられないまま否決されてしまったことがありました。それぞれ、マンションについての見解があまりにも違うと感じましたね」

実際、「私が住んでいるうちだけ大丈夫なら、あとはどうなってもかまわない」と考えたり、一方で共用部の破損で資産価値が下がることに神経質な人がいたりと、「コミュニケーションなき利害関係」がこじれがちなのがタワマンの現状といえる。

さらにいま大量に建てられている新築のタワマンの管理組合は、これまでのタワマン以上に難しい問題を抱えている。

「東京五輪に向けて上昇しているのは地価だけでなく、人手不足による人件費や資材費も同様。ですが、五輪後に地価の高騰が落ち着いたとしても、人件費や資材費は右肩上がりになる可能性が高い。

五輪後、建物に大きなトラブルが露呈すれば、修繕積立金の値上げを余儀なくされますし、修繕しなければ資産性に大きな問題が生じるかもしれません」(前出・牧野氏)

つまり、資産価値はこれから下がっていく一方なのに、修繕費は高騰を続けるのだ。

壊すこともできない

はたしてタワマンを住居として修繕しつつ、維持し続けることは可能なのだろうか。

「じつは、ほとんどの物件で長期修繕計画は30年分しか組まれておらず、その先はどうなるのか、国などでも問題視されています。

30年以降の修繕となると、給排水管や電気系統、エレベーターなどの設備系の大規模改修も必要になってきて、その費用は1回目の比ではありません。

いざ修繕積立金を値上げするとなると、投資目的でマンションを買い、人に貸している人は利回りが悪くなるので、なかなか首をタテに振らない。そうすると修繕の時期になってもおカネが用意できない事態に陥ります」(経済評論家の平野和之氏)

修繕できないのなら、いっそ壊して新しくするという手もあるだろう。しかし、老朽化したタワマンに住んでいるのは、簡単に引っ越すことができない「取り残された人々」。

そうした住民を立ち退かせたとしても、タワマンを壊すには、これまた膨大な費用がかかる。

「大規模修繕ができていないタワーマンションは次から次へと売りが出る可能性がある。値段をどれだけ下げても、高い修繕積立金を肩代わりしなければいけない物件に買い手はつかないでしょう。

結果、修繕されずに放置され続け、壊すこともできず廃墟と化したタワマンの誕生です。

とくに心配なのは、武蔵小杉など、同じような時期にたくさんのタワマンが建った地域です。売りが売りを呼ぶ負の連鎖が街全体で起こる可能性がある。そう考えると、街が一瞬にしてゴーストタウン化するリスクもあります」(平野氏)

一度建てたら、簡単には修理することも壊すこともできないタワマン。その姿はさながら「住む原発」といえる。

ひとたびの建設ピークを迎えた'08年に建てられたタワマンが、15年目になるのは2022年。まさにこれからタワマンの問題は深刻化する。あなたは、それでもまだタワマンを買いますか?

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/654.html#c42

[近代史3] ファーウェイ排除で世界に激震! 日本はどうなる? 中川隆
20. 中川隆[-8782] koaQ7Jey 2019年8月17日 19:08:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3960]

米中新冷戦 5G覇権をめぐる攻防戦 
ノンフィクション作家・河添恵子【東京発信・Cool Eyes】第30回 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=__bbIBR-3H0


ノンフィクション作家・河添恵子:米中新冷戦 5G覇権をめぐる攻防戦
(2019年5月収録)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/452.html#c20

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
195. 中川隆[-8781] koaQ7Jey 2019年8月17日 21:01:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3961]

NHKニュース9が報じた昭和天皇の本音と日本の夜明け
http://kenpo9.com/archives/6230
2019-08-16 天木直人のブログ

 たったいま、NHKニュースウオッチ9が衝撃的な史実を報じた。

 すなわち、初代宮内庁長官が書きとどめていた昭和天皇の反省の独白が公表されたのだ。

 明日以降、あらゆるメディアが大騒ぎして報じるであろうから、ここではその詳細を繰り返さない。

 私がここで強調したい事は、ここまでの史実が見つかったのである。

 この国の政治家たちは、戦後の日本のあり方を、もう一度根本的に議論して、令和時代にふさわしい民主国家日本をつくり直す作業に取り掛からなければいけなくなった。

 そして、日本国民は、政治家たちにそれを要求し、いまこそ自分たちの手で日本をつくり直す、つまり、はじめての民主革命を起こさなければいけなくなったのだ。

 この昭和天皇の告白を日本の夜明けにつなげなければいけない。

 天皇制を、日米安保体制を、憲法9条を、そして何よりも歴史認識を、根本的に考え直さなければいけなくなったのだ。

 私は懸念する。

 冒頭で私は書いた。

 明日からあらゆるメディアが大騒ぎして報じるだろうと。

 しかし、そうならないおそれがある。

 封じ込められるおそれがある。

 いまさら市民革命が起きては大変なことになるからだ。

 安倍首相の祖父である岸信介の大罪が追及される事になるからだ。

 なによりも安倍首相の歴史認識や外交が糾弾されるからだ。

 実際のところ、NHKは古川隆久という学者を登場させて要領の得ない解説をさせていた。

 古川隆久という学者は、みずから解説するのではなく、こういうべきだったのだ。

 こんな重要な史実を、私ごときが解説などする資格はないと。

 すべての歴史学者、政治家を総動員して、国民に本当の解説をしてあげなければいけないのだと。

 私はこころから願う。

 この昭和天皇の告白について、これからどんなに時間をかけてもいいから、国民的議論を行って、最後は国民が結論を出すようになることを。

 そして国民がそれでも、これまでの戦後の日本でいいと言うなら、それが日本の市民革命の結果だ。

 私はそれに従う。

 しかし、その前に、どうしても、昭和天皇の告白の評価は、国民が審判を下さなけければいけない。

 いよいよ新党憲法9条の出番が来るかも知れない。

 歴史が動く大きな地響きを感じざるを得ない(了)

昭和天皇「拝謁記」入手 語れなかった戦争への悔恨
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190816/k10012038471000.html
2019年8月16日 19時00分 NHK


動画→https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190816/k10012038471000.html

天皇陛下の祖父、昭和天皇の実像に迫る第一級の資料です。NHKは初代宮内庁長官が5年近くにわたる昭和天皇との対話を詳細に書き残した「拝謁記」を入手しました。その記述から、昭和天皇が、戦争への後悔を繰り返し語り、終戦から7年後の日本の独立回復を祝う式典で、国民に深い悔恨と、反省の気持ちを表明したいと強く希望したものの、当時の吉田茂総理大臣の反対で、その一節が削られていたことがわかりました。分析にあたった専門家は「昭和天皇は生涯、公の場で戦争の悔恨や反省を明確に語ったことはなく、これほど深い後悔の思いを語ろうとしていたのは驚きだ」と話しています。

繰り返し語る後悔の言葉

「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治(たじま・みちじ)で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。

田島長官は、このうち長官就任の翌年から5年近く、昭和天皇との具体的なやりとりや、そのときの様子などを手帳やノート合わせて18冊に詳細に書き留めていて、NHKは遺族から提供を受けて近現代史の複数の専門家と分析しました。

その記述から昭和天皇が田島長官を相手に敗戦に至った道のりを何度も振り返り、軍が勝手に動いていた様を「下剋上」と表現して、「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」、「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」などと後悔の言葉を繰り返し語っていたことがわかりました。

強くこだわった「反省」

さらに昭和天皇はサンフランシスコ平和条約発効後の昭和27年5月3日、日本の独立回復を祝う式典で、おことばを述べますが、この中で、戦争への深い悔恨と、二度と繰り返さないための反省の気持ちを国民の前で表明したいと、強く希望していたことがわかりました。

「拝謁記」には1年余りにおよぶ検討の過程が克明に記されていて、昭和天皇は、(昭和27年1月11日)「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と田島長官に語り、(昭和27年2月20日)「反省といふのは私ニも沢山あるといへばある」と認めて、「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内ニうまく書いて欲しい」などと述べ、反省の言葉に強くこだわり続けました。

削除された戦争への悔恨

当時の日本は、復興が進む中で、昭和天皇の退位問題もくすぶっていました。

田島長官から意見を求められた吉田総理大臣が「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」、「今日(こんにち)は最早(もはや)戦争とか敗戦とかいふ事はいつて頂きたくない気がする」などと反対し、昭和天皇が戦争への悔恨を込めた一節がすべて削除されたことがわかりました。

昭和天皇は田島長官に繰り返し不満を述べますが、最後は憲法で定められた「象徴」として総理大臣の意見に従いました。

吉田総理大臣が削除を求めた一節は、「国民の康福(こうふく)を増進し、国交の親善を図ることは、もと我が国の国是であり、又摂政以来終始変わらざる念願であったにも拘(かか)わらず、勢の赴くところ、兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡(せいせき)に顧みて、悔恨悲痛、寝食(しんしょく)為(ため)に、安からぬものがあります」という部分です。このうち、「勢の赴くところ」以下は、昭和天皇が国民に伝えたいと強く望んだ戦争への深い悔恨を表した部分でした。

専門家「現代生きる者にも重い記録」

「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「戦争を回顧し、重要な局面でなぜミスをしてしまったのか、繰り返し考え話す中で、独立回復の際のおことばにも、やはり反省を盛り込みたいという気持ちが強くなっていったのだろう」と述べました。

そのうえで、「新憲法ができてから初めて、ある程度踏み込んだ発言ができるかもしれないチャンスが講和条約発効のおことばだった。反省なりおわびをして、どこかで戦争の問題にけりをつけたいということが出発点であり、一番の動機だというのははっきりしている」と指摘しました。

さらに、「象徴天皇としてどういう振る舞い方をするかということを学習した過程でもあるだろうが、昭和天皇個人にとっては苦渋の過程というか、今後ずっとこうやっていかなきゃいけないのかということを認識させられた苦い思い出の方が大きかったのではないか。その後、記者会見で、肝心なことは『言えない』で通したことが、このときの苦渋の思いを引きずっていたことの表れなのだと思う。そういう意味で昭和天皇にとって、とても重い体験だったのではないか」と述べました。

また、「拝謁記に出てくることは全部、結局は日本が無謀な戦争を起こして負けてしまったことにつながる。天皇のあり方が戦前の主権者から象徴へと変わったのも、政治関与を厳しく制限する規定ができたのも、敗戦がきっかけで、しかも形式的な責任者は昭和天皇本人だった」と話しました。

そして、「拝謁記は、昭和の戦争というものは現代に生きるわれわれにまでいろいろな意味で重くのしかかっているということを改めて認識させる記録、忘れてはいけないということを語りかけてくれている記録ではないか」と話しました。

専門家「発言をほぼそのまま記録 非常に珍しい」

日本の近現代政治史が専門で、一橋大学の吉田裕特任教授は「昭和天皇の肉声の記録は『昭和天皇独白録』のような、形を整えるために後から手を入れたものが多いので、発言をほぼそのまま記録しているというのは非常に珍しい」と指摘しました。

そして、「昭和天皇と側近の内輪のやりとりが非常に克明にかなりまとまった形で残されているという点で非常に重要な資料だ。昭和天皇の肉声が聞こえてくるし、天皇自身の考えの揺らぎみたいなものが伝わってくる」と話しました。


53. 2019年8月17日 14:38:31 : sIEk2edIV2 : cWlVdkZLR2wxWlE=[15]

『拝謁記』を遺した田島道治さんが宮内庁長官だった時期は、1948年(昭和23年)6月5日から、1953年(昭和28年)12月16日までの期間である。
この間、極東国際軍事裁判(1946年5月3日〜1948年11月12日)と、朝鮮戦争(1950年6月25日 - 1953年7月27日)が、おこなわれている。

極東国際軍事裁判での昭和天皇の不起訴は、1946年4月3日に極東委員会(FEC)が決定している。

英国は、第二次世界大戦終結と同時にソ連を敵国視する政策を始め、さらに現実に朝鮮戦争が勃発したことにより、日本の再軍備がGHQの政策
として浮上した頃から、天皇の利用価値が高まり、天皇の戦争責任論を回避し、極東国際軍事裁判での天皇不起訴の正当性を補強するために、旧海軍を通じて、日本政府とGHQとの間で口裏合わせがおこなわれて、「戦争の原因は陸軍の暴走のため」「天皇は陸軍を掌握できていなかった」とする「陸軍主犯説」が固まっていったのだと推察できる。

『拝謁記』は、既に「天皇は陸軍を掌握できていなかった」という「陸軍主犯説」が固まった時期以降の、昭和天皇の見解を述べている。

私は、昭和天皇は、張作霖爆殺事件から太平洋戦争中に至るまで、一般に流布されているよりは、ずっと強く、個別の作戦を含めて戦争指導に関与していたのではないかと疑っている。

この点を解明するために、終戦前までの昭和天皇の作戦指導に関する記録や、終戦後から極東国際軍事裁判での昭和天皇の不起訴決定に至るまでの、1946年4月3日以前の軍の資料や外交文書の発掘や開示が待たれる。


🔴 菊地史彦『昭和天皇の戦争責任と「言葉のアヤ」発言の論理』
 
(論座,2019年04月30日)

「退位」への意向は敗戦後、3度示されたと言われている。1度目は連合軍の進駐直後。木戸幸一内大臣に対し、自身の退位によって戦争責任者の引き渡しを避けえないかと相談したという記録がある。木戸はこれに反対している。2度目は、1948(昭和23)年10月から11月にかけて、東京裁判の判決の前後である。宮中・政府内でも退位問題は頻繁に論議されたが、次第に沈静化した。退位によって高松宮や貞明皇后が浮上する可能性を天皇が警戒したためともいわれる。

 3度目が講和条約の発効した1952(昭和27)年4月28日だった。天皇は吉田茂首相にその意向をもらしたが、吉田はとりあわなかった。また退位に代えて皇祖皇宗と国民に対する「謝罪」の言葉を述べるという案もあったようだが、吉田はこれにも反対した。

 以後、天皇が「退位」について語ることはなかった。
 
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2019043000002.html


🔴 第二復員省

《極東国際軍事裁判対策》

極東国際軍事裁判では、旧海軍軍令部出身者の豊田隈雄元大佐らを中心に昭和天皇への訴追回避、旧海軍幹部への量刑減刑に秘密裏に奔走した。

裁判開廷の半年前には、永野修身元帥以下の海軍トップを集めて、天皇の責任回避のための想定問答集の策定を行い、米内光政をGHQ側と折衝させるなどの工作を行った。

そうした結果、昭和21年3月6日にはGHQのボナー・フェラーズ(英語版)准将から米内に対して、天皇免責のために裁判では日本側が証言をするなどの努力が欲しいこと、陸軍に開戦の責任の大部があるなど、裁判についての内々の回答を得たという。

また、BC級戦犯裁判においては、中央への責任問題の波及を避けるため、現地司令官レベルで責任を完結させる弁護方針を立てて証人を隠すなどの工作も行っている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%BE%A9%E5%93%A1%E7%9C%81

#NCC




56. 2019年8月17日 15:47:53 : aRgWENoWVg : RzZUQW9lTWUycjI=[17] 報告
▲△▽▼

>>53(補足)
>昭和天皇は、張作霖爆殺事件から太平洋戦争中に至るまで、一般に流布されているよりは、ずっと強く、個別の作戦を含めて戦争指導に関与していたのではないか
例えば、1939年5月11日から1939年9月16日に起きたノモンハン事件では、大きな被害を出しながらも、関東軍の現場の指揮官たちは戦闘続行を強く望んでいたが、陸軍の参謀本部が出した作戦の終結を命じる『大陸命第343号』に従っている。

重光葵元外相が巣鴨獄中で書いたという『昭和の動乱』には、「勅命」により、ノモンハン事件の停戦がおこなわれたと記されている。

収監中の重光葵が、昭和天皇へのGHQや国民への心証が良くなるよう、昭和天皇が平和主義者であることを印象づけるために、「ノモンハン事件」の停戦命令が昭和天皇の指示で出されていたことを強調しているように見える。

たしかに、陸軍に、「結果良ければ全て良し」の気風があり、結果が天皇が喜びそうな作戦であれば、独断で無謀な作戦にも独断専行で挑む傾向があったとは考えられるが、「勅命」である『『大陸命』に公然と逆らう気風があったとは考えにくい。

「ノモンハン事件」に限らず、陸軍が、停戦命令の時だけは、天皇の作戦の指示通りに動き、作戦開始時は全て陸軍の独断専行でおこなわれたと考えるのは、不自然ではないだろうか。

今日、陸軍の独断専行でおこなわれたとされている無謀な作戦のいくつかは、昭和天皇が作戦立案時に関与していたと考える方が自然ではないだろうか。
 
 
🔴 ノモンハン事件
 
《停戦成立までの戦闘》

関東軍は、ソ連軍の総攻撃に対し、8月26日に第7師団の主力をチチハルからノモンハンに増援として向かわせた。しかし関東軍は意外なほどに戦局を楽観視しており、日本軍最後の拠点バルシャガル高地がソ連軍の猛攻を受けていた8月26日には「ノモンハン方面の敵盲進のを捉え、一大鉄槌を加うる」、バルシャガル高地が事実上陥落した8月29日には「冬季前速やかに敵に徹底的打撃与うること絶対に必要」との認識で、第6軍に第2師団、第4師団、第1師団主力、第8師団の一部と関東軍の持つ全速射砲をつぎ込んで大攻勢を目論んでいた。

参謀本部は、戦局を関東軍を通して報告を受けていたので、実情を十分に把握できていなかったが、参謀本部第2部第5課(露西亜課)は独自のルートでノモンハンの戦況を掴み、同課の甲谷悦男少佐から「ノモンハンは総崩れ」という報告がなされるなど、8月29日頃には戦局はかなり厳しいということをようやく把握した。そのため、8月30日には方針を転換した『大陸命第343号』を起案し、趣旨説明に参謀次長の中島らが関東軍に出向いた。

参謀本部の意図は中島が持参した『大陸命第343号』の一項に書かれてあった通り「北方の平静を維持するにあり、之が為「ノモンハン」方面に於いては勉めて作戦を拡大することなく速やかに之が終結を策す」とノモンハン事件の早期収束であった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 
  
🔴 重光葵(著)『昭和の動乱』

重光葵元外相が巣鴨獄中で書いた、貴重な昭和の外交記録である。上巻は満州事変から宇垣内閣が流産するまでの経緯を世界的視野に立って描く。
http://www.chuko.co.jp/bunko/2001/10/203918.html




61. 2019年8月17日 16:25:57 : QUN9jnHBkE : YWEwZjhoQlhMa1U=[12] 報告
▲△▽▼

>>53(補足)
>日本の再軍備がGHQの政策として浮上した頃から、天皇の利用価値が高まり、天皇の戦争責任論を回避し、極東国際軍事裁判での天皇不起訴の正当性を補強するために、旧海軍を通じて、日本政府とGHQとの間で口裏合わせがおこなわれて、「戦争の原因は陸軍の暴走のため」「天皇は陸軍を掌握できていなかった」とする「陸軍主犯説」が固まっていったのだと推察できる。
 
 
昭和天皇が3度目に退位の可能性について言及した1951年から1952年にかけての時期は、朝鮮戦争中であり、サンフランシスコ講和条約が締結され、発効する時期に相当する。

1951年頃、皇族の高松宮宣仁親王は、CIAの協力者に対して、平和条約が効力を発する1952年に昭和天皇が退位し、陸軍は旧陸軍大将の下村定、海軍は旧海軍大将の野村吉三郎、政治は元朝日新聞社副社長の緒方竹虎、出版・ラジオのメディア戦略を旧同盟通信社の古野伊之助を中心にして担当させるという内容の日本の再軍備計画について言及していた。

1951年は朝鮮戦争中の時期であり、野村吉三郎、緒方竹虎は、広く知られているCIA工作員であったことから、皇族の高松宮宣仁親王は、CIAからの働きかけによって日本の再軍備構想に関与したものと推察される。

戦後の皇室とGHQ・CIAとの関係は深く、天皇の「お言葉」ですら、米国政府の意向により形づくられていったように思う。
 
現在の安倍政権で自民党が掲げている憲法改正案も、戦後に、CIAから皇族の高松宮宣仁親王に働きかけた『日本の再軍備構想』の延長線上のものである。
 

◆ 野村吉三郎
(Wikipedia, 2019/05/11 閲覧)
CIAとの関係

有馬哲夫は、野村が1947年に設立されたCIAの協力者であり、戦後に対米協力によって日本に陸だけではなく海軍の再建をするためになったとアメリカ側に海上戦力の再建許可を求めていたことから考えている。1954年の参院選では、CIAが資金提供および選挙対策で支援しており、CIA日本支局長ポール・ブルームが当選を祝福する手紙を送っている。なお、選挙資金は、藤村義朗元海軍中佐が管理した。また、野村とアレン・ダレスとの連絡役だったアメリカ対日協議会のハリー・カーン(『ニューズウィーク』外信部記者)は、CIAにも関係していた国務省企画部長フランク・ウィズナーに、野村をポスト吉田の首相候補とみなしてその当選を喜んだ。また、「われわれの機関の政治問題の情報提供者だった」として、野村がCIAや国務省への情報提供者であることを報告した[5]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E5%90%89%E4%B8%89%E9%83%8E


◆ NOMURA, Kichisaburo (III)
(CIA, U.S. Gov.)

Following the lines of SHIMOMURA Sadamu's plans for the Army and NOMURA's for the Navy, HATTORI's draft calls for, in general, an Army of 150,000 men, a Nary of 250,000 tons, and an Air Force of 2060 planes.. .Formal overall leadership of the advocates of rearmament is exercised by SHIMOMURA for the Army and NOMURA for the Navy. (ZJL-769, 3 Jan 52, [ ] "Japanese Rearmament" folder).

SHIMOMURA sadamu is the leading candidate for chief of the NPR, and NOMURA for chief of the MSB, (ZJL-797, 31 Jan 52, [ ] CE File III-32.3)

Acting on a directive from Prince TAKAMATSU, advised former Naval colleagues in October 1951 that the Emperor would abdicate when the Peace Treaty comes into effect in 1952. TAKAMATSU stated to NOMURA that the following would serve as nuclei of the rearmament movement in their respective spheres of influence: (1) Naval: NOMURA; Military: SNIMOMURA Sadamn; (3) Political: OGATA Taketora; (4) Press and Radio: FURUNO Inosuke. (ZJL -799, 2 February 1952, [ ] ??????? GC A -10.30)

On 14 Mar. 52 the Gov't announced the supplementary depurge of 843 persons.

Prominent in this seventh supplementary depurge announcement is former Adrimal NOMURA Kiehsaburo, ex-ambaesador to the U. S, at the time of the outbreak of Woad War. II. (No. FEC Daily, 15 Mar. 1952.)

https://www.cia.gov/library/readingroom/docs/NOMURA,%20KICHISABURO_0007.pdf

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/552.html#c53

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c195

[近代史3] 日本は共産党にとって天国だった 意外と知られていない世界の共産党事情 中川隆
5. 中川隆[-8780] koaQ7Jey 2019年8月17日 23:54:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3962]

朝鮮総連と日本共産党は最初は一体だった


【討論】朝鮮総連と日本[桜R1-8-17] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YHfnlbjij1Y


パネリスト:
 荒木和博(特定失踪者問題調査会代表・拓殖大学海外事情研究所教授)
 加藤健(アジア調査機構代表)
 篠原常一郎(ジャーナリスト・元日本共産党国会議員秘書)
 西岡力(「救う会」全国協議会会長・モラロジー研究所歴史研究室室長)
 松原仁(衆議院議員)
 三浦小太郎(評論家)
 山田文明(北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会名誉代表)
司会:水島総


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/565.html#c5

[近代史3] GHQ とユダヤ金融資本は戦後の日本を共産化しようとして農地改革、人為的インフレ生成、預金封鎖、日本国憲法制定を行った 中川隆
16. 中川隆[-8779] koaQ7Jey 2019年8月17日 23:55:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3963]

朝鮮総連と日本共産党は最初は一体だった


【討論】朝鮮総連と日本[桜R1-8-17] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YHfnlbjij1Y


パネリスト:
 荒木和博(特定失踪者問題調査会代表・拓殖大学海外事情研究所教授)
 加藤健(アジア調査機構代表)
 篠原常一郎(ジャーナリスト・元日本共産党国会議員秘書)
 西岡力(「救う会」全国協議会会長・モラロジー研究所歴史研究室室長)
 松原仁(衆議院議員)
 三浦小太郎(評論家)
 山田文明(北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会名誉代表)
司会:水島総


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/146.html#c16

[リバイバル3] 中川隆 _ 朝鮮関係投稿リンク 中川隆
8. 中川隆[-8778] koaQ7Jey 2019年8月17日 23:58:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3964]
朝鮮総連と日本共産党は最初は一体だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/577.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/973.html#c8
[昼休み54] 日本の中枢は既に在日朝鮮人に乗っ取られている 中川隆
35. 中川隆[-8777] koaQ7Jey 2019年8月17日 23:59:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3965]
朝鮮総連と日本共産党は最初は一体だった


【討論】朝鮮総連と日本[桜R1-8-17] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YHfnlbjij1Y


パネリスト:
 荒木和博(特定失踪者問題調査会代表・拓殖大学海外事情研究所教授)
 加藤健(アジア調査機構代表)
 篠原常一郎(ジャーナリスト・元日本共産党国会議員秘書)
 西岡力(「救う会」全国協議会会長・モラロジー研究所歴史研究室室長)
 松原仁(衆議院議員)
 三浦小太郎(評論家)
 山田文明(北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会名誉代表)
司会:水島総

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/232.html#c35

[政治・選挙・NHK264] 文大統領演説/関係悪化の歯止めに 肝話窮題
1. 中川隆[-8776] koaQ7Jey 2019年8月18日 00:02:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3966]

儒教の国とは価値観が違うから国交断絶するしかないだろ


宮脇淳子 あるのはウソだけのめんどくさい国。韓国の異常さがよくわかる動画 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90+%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%82%A6%E3%82%BD%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%AE%E3%82%81%E3%82%93%E3%81%A9%E3%81%8F%E3%81%95%E3%81%84%E5%9B%BD

【東京発信・Cool Eyes】第16回 歴史学者・宮脇淳子 朝鮮半島と満州の「なぜ」 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%83%BB%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90%E6%B0%8F%E3%80%80%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E3%81%A8%E6%BA%80%E5%B7%9E%E3%81%AE%E3%80%8C%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%8D

じっくり学ぼう!日韓近現代史【CGS 宮脇淳子】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%98%E3%81%A3%E3%81%8F%E3%82%8A%E5%AD%A6%E3%81%BC%E3%81%86%EF%BC%81%E6%97%A5%E9%9F%93%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%80%90CGS+%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90%E3%80%91

宮脇淳子 朝鮮を語る - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90+%E6%9C%9D%E9%AE%AE

韓流ドラマはSF・ファンタジーの世界 ~ 朝鮮史の真実【CGS宮脇淳子】
https://www.youtube.com/watch?v=z3UjCOXvFDQ

なぜ今、日韓近現代史なのか?~昔も今も韓国は韓国【CGS 宮脇淳子】
https://www.youtube.com/watch?v=qwyDpOJh1ig

さくらじ#50 大人気!宮脇淳子講座、韓国に挑む!?
http://www.youtube.com/watch?v=XpRj8TW1bo8
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/579.html#c1

[リバイバル3] ケーブル(電線)の世界 中川隆
95. 中川隆[-8778] koaQ7Jey 2019年8月18日 00:47:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3964]
SA装置の取り付け GRFのある部屋 2019年 08月 16日
https://tannoy.exblog.jp/30730147/


サウンドアクセラレーター(SA)の実験は、なかなか興味深いことを教えてくれました。事の発端は、夜香さんの家を訪れたことです。JBLのオリンパスが生き返りました。何やら、逆起電力をアンプに戻さない装置だそうです。アルニコのヴィンテージSPに大変効果があるそうです。一緒に行かれたJBLのパラゴンを使われている横浜のMさんも、LE15、LE14、375、075の4ウェイを使われていcatbossさんも大変効果があったそうです。


横浜のMさんのお宅でTroubadour80に取り付けている方法を見て、これならば、家でも比較的簡単にできると思いました。Troubadour80+TW3だと、8個いるのですが、ユニコーンの場合は、DDDユニットだけですから二個ですみます。経済的なので、実験は気楽にできるだろうと思って始めました。

f0108399_21554606.jpg

フェライト磁石を使った外磁型のSPの場合は、上の写真の様に、上のプレートのヨークと、フェライトマグネットを挟むように付いているプレートを電気的に導通しなければなりません。フェライト磁石は絶縁体ですから、上下のプレート間には導通がありません。内磁型のアルニコ磁石の場合は、磁石を覆っているカバーがあり、比較的簡単に取り付けることができます。

そして、この磁石と中のヴォイスコイル間に発生する逆起電力を吸収してアンプに返さない装置が、このSA装置です。特にNF(ネガティーブ・フィードバック)型のアンプ、ほとんどですが、の場合は、SPの逆起電力が、NF回路を通じて、アンプの特性も変えますから、逆起電力は音を変える大きな要素となります。


石田さんが、語られたように、部屋の音圧がそのまま、SPをマイクとして検知するのです。そのため、置かれている部屋の形状や、置いてある場所によりそのフィードバックの量が大きく変わります。


負帰還に伴う大きな問題は、アンプが駆動する相手がスピーカーだということにあります。スピーカーはLCRの要素があり、また電気機械系なので部屋の音圧により起電力が発生し、その成分が負帰還回路を通して入力側に戻りアンプに影響を与えてしまうことです。


これらのことから、スピーカーの置かれる部屋の特性や設置の仕方などを含め、大きなループが形成され結果的にそれぞれが干渉しあうことになります。


家のSPはいつも語っているように、SPを置く場所を注意して一番部屋の影響の少ない場所を選んで置いています。また、左右のSPの場所や間隔も、1mm以下の微妙な調整をして置いてあります。結果的に、その場所が一番、SPが楽に鳴る場所、すなわち、一番逆起電力の発生が小さい場所に置かれているのです。


そして、無指向性のSPである、German PhysiksのSPは、その置く場所の設定が一番大事で、ポイントに入ると、音場が現れるのです。そのポイントから1mmでも外れると、音のバランスは狂い、無色だった音が、ある特定の色が付いたようになります。その時は、ステレオの二つのSPが、お互いを補う場所ではなく、お互いを打ち消す場所なので、反発して逆起電力が増大するのです。


家のSPで当初、SAの効果がほとんどなかったのは、最初から逆起電力の影響が一番少ない場所に置いてあったからです。家では、コンサートホールの音場を出すために、左右のSPの位置をぴったりと合わせているからです。


逆にいえば、ホーン型でそのホーンを通じて部屋の音を集約して、部屋の内圧の影響から一番逆起電力を発生し易くなっており、結果としてSAの効果が大きいのです。ところが、家にあるSPは、ホーン型がほとんどありません。DDDユニット以外のツィーターもほとんどがドーム型ですので、その差がわかりにくいのです。


そして、部屋の壁よりに置かれているSPは、定在波や、相互干渉の影響を受けて、逆起電力の発生が多いといえましょう。家のSPで壁際に置いてあり、なおかつ、ホーン型のSPは、そう!GRFしか有りません。SAの効果が一番発揮されるのは、モニターゴールドのGRFのようです。HYさんも何年か前にされていて、驚かれたそうです。


その意味では、無指向性の、それもベンディングウェーブ方式では、一番逆起電力の影響が少ないSPでした。今一方、T4のDynaudioの13センチのウーファーが効果がありそうですが、フェライトの磁石の外側を使っていますので、プレートが磁石の内側にありますので、プレートとヨークを結線するのが難しくなっています。しかし、夜香さんが苦労されて、うまく結線されたという写真も送られてきましたので、タンノイの次に調整してみましょう。

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SAを取り付けるときに、無意識チタンのコーンに知らないうちに触ってしまい、チタンが少しへこんでしまいました。テープを貼って、直しましたら問題ないのですが、気持ちがへこみました(苦笑)。


そこまでしたSAの取り付けでしたが、普段聞いている、クラシックの演奏には、ほとんど差がないのです。差がないというよりも、バックロードホーンを通じて「味」を出していた、低域のよい意味での雑味をすっきりしてしまったのです。音がすこし寂しくなりました。音場の構成が変わり、隙間ができたような感じになりました。


それで、音のバランスが変わったのは事実ですから、影響があることは事実です。しかし、夜香さんがおしゃるような劇的な変化はないのです。しかし、JBLの差は劇的でした。私も聞いて驚きました。そのような大きな差が、どうしてユニコーンでは出ないのでしょう。理由は二つ考えられます。


@ 元々ポテンシャルがあったJBLのしっかりとしたドライバーがいよいよ実力を発揮してきた。

A DDDドライバーに代表される現代のフェライト磁石のドライバーには伸びしろが無い。


という風に短絡的に考えがちですが、そんなに単純な話ではないようです。


皆さんの聴かれている音楽は、おもにはJPOPSと歌謡曲です。クラシックもジャズもお聴きになりますが、メインはスタジオ録音のいい曲、いい演奏、いい録音を聴かれているのです。私もレコードで一番聴いているのは、歌謡曲です。レコードばかりではなく、CDでもよく聴けるようにしたいと願っています。GRFのある部屋では、最終的にレコードをGRFでかければ、安心した音が鳴ってくれます。


しかし、CDで聞く場合は、メインのトラバドールは録音の音の違いを明確に出しすぎてしまうようです。JBL派の皆さんが聞かれている分野の音楽はもともと楽器やヴォーカルを収録するときは、一本のマイクですから、モノラルでした。それを調整卓で、場所を割り振り、全体のバランスを取るためにあとからデジタルの残響でお化粧します。もちろん、その調整卓で上手くバランスを取ると、素晴らしい音楽になるのは、聴いたとおりなのです。それらを楽しく聞いたらどのように変わるのかと思い、スタジオ録音のCDをいろいろ聞き始めました。


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すると、鮮やかな音がし始めました。この手の録音、ほとんどのCDがそうですが、は音がすっきりとして、見通しが良くなり、楽器のフォルムが良く聞こえてきます。面白いですね。このまま繋いだままで、いろいろなスタジオ録音盤を聞いてみましょう。お盆休みにこられるお客様にも聴いていただきますね。
https://tannoy.exblog.jp/30730147/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/757.html#c95

[リバイバル3] ジャズ喫茶「ベイシー」の選択 _ JBLの本当の音とは 富山誠
144. 中川隆[-8777] koaQ7Jey 2019年8月18日 00:49:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3965]

SA装置の取り付け GRFのある部屋 2019年 08月 16日
https://tannoy.exblog.jp/30730147/

サウンドアクセラレーター(SA)の実験は、なかなか興味深いことを教えてくれました。事の発端は、夜香さんの家を訪れたことです。JBLのオリンパスが生き返りました。何やら、逆起電力をアンプに戻さない装置だそうです。アルニコのヴィンテージSPに大変効果があるそうです。一緒に行かれたJBLのパラゴンを使われている横浜のMさんも、LE15、LE14、375、075の4ウェイを使われていcatbossさんも大変効果があったそうです。

横浜のMさんのお宅でTroubadour80に取り付けている方法を見て、これならば、家でも比較的簡単にできると思いました。Troubadour80+TW3だと、8個いるのですが、ユニコーンの場合は、DDDユニットだけですから二個ですみます。経済的なので、実験は気楽にできるだろうと思って始めました。

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フェライト磁石を使った外磁型のSPの場合は、上の写真の様に、上のプレートのヨークと、フェライトマグネットを挟むように付いているプレートを電気的に導通しなければなりません。フェライト磁石は絶縁体ですから、上下のプレート間には導通がありません。内磁型のアルニコ磁石の場合は、磁石を覆っているカバーがあり、比較的簡単に取り付けることができます。

そして、この磁石と中のヴォイスコイル間に発生する逆起電力を吸収してアンプに返さない装置が、このSA装置です。特にNF(ネガティーブ・フィードバック)型のアンプ、ほとんどですが、の場合は、SPの逆起電力が、NF回路を通じて、アンプの特性も変えますから、逆起電力は音を変える大きな要素となります。

石田さんが、語られたように、部屋の音圧がそのまま、SPをマイクとして検知するのです。そのため、置かれている部屋の形状や、置いてある場所によりそのフィードバックの量が大きく変わります。

負帰還に伴う大きな問題は、アンプが駆動する相手がスピーカーだということにあります。スピーカーはLCRの要素があり、また電気機械系なので部屋の音圧により起電力が発生し、その成分が負帰還回路を通して入力側に戻りアンプに影響を与えてしまうことです。

これらのことから、スピーカーの置かれる部屋の特性や設置の仕方などを含め、大きなループが形成され結果的にそれぞれが干渉しあうことになります。

家のSPはいつも語っているように、SPを置く場所を注意して一番部屋の影響の少ない場所を選んで置いています。また、左右のSPの場所や間隔も、1mm以下の微妙な調整をして置いてあります。結果的に、その場所が一番、SPが楽に鳴る場所、すなわち、一番逆起電力の発生が小さい場所に置かれているのです。

そして、無指向性のSPである、German PhysiksのSPは、その置く場所の設定が一番大事で、ポイントに入ると、音場が現れるのです。そのポイントから1mmでも外れると、音のバランスは狂い、無色だった音が、ある特定の色が付いたようになります。その時は、ステレオの二つのSPが、お互いを補う場所ではなく、お互いを打ち消す場所なので、反発して逆起電力が増大するのです。

家のSPで当初、SAの効果がほとんどなかったのは、最初から逆起電力の影響が一番少ない場所に置いてあったからです。家では、コンサートホールの音場を出すために、左右のSPの位置をぴったりと合わせているからです。

逆にいえば、ホーン型でそのホーンを通じて部屋の音を集約して、部屋の内圧の影響から一番逆起電力を発生し易くなっており、結果としてSAの効果が大きいのです。ところが、家にあるSPは、ホーン型がほとんどありません。DDDユニット以外のツィーターもほとんどがドーム型ですので、その差がわかりにくいのです。

そして、部屋の壁よりに置かれているSPは、定在波や、相互干渉の影響を受けて、逆起電力の発生が多いといえましょう。家のSPで壁際に置いてあり、なおかつ、ホーン型のSPは、そう!GRFしか有りません。SAの効果が一番発揮されるのは、モニターゴールドのGRFのようです。HYさんも何年か前にされていて、驚かれたそうです。

その意味では、無指向性の、それもベンディングウェーブ方式では、一番逆起電力の影響が少ないSPでした。今一方、T4のDynaudioの13センチのウーファーが効果がありそうですが、フェライトの磁石の外側を使っていますので、プレートが磁石の内側にありますので、プレートとヨークを結線するのが難しくなっています。しかし、夜香さんが苦労されて、うまく結線されたという写真も送られてきましたので、タンノイの次に調整してみましょう。

f0108399_18254736.jpg

SAを取り付けるときに、無意識チタンのコーンに知らないうちに触ってしまい、チタンが少しへこんでしまいました。テープを貼って、直しましたら問題ないのですが、気持ちがへこみました(苦笑)。

そこまでしたSAの取り付けでしたが、普段聞いている、クラシックの演奏には、ほとんど差がないのです。差がないというよりも、バックロードホーンを通じて「味」を出していた、低域のよい意味での雑味をすっきりしてしまったのです。音がすこし寂しくなりました。音場の構成が変わり、隙間ができたような感じになりました。

それで、音のバランスが変わったのは事実ですから、影響があることは事実です。しかし、夜香さんがおしゃるような劇的な変化はないのです。しかし、JBLの差は劇的でした。私も聞いて驚きました。そのような大きな差が、どうしてユニコーンでは出ないのでしょう。理由は二つ考えられます。

@ 元々ポテンシャルがあったJBLのしっかりとしたドライバーがいよいよ実力を発揮してきた。

A DDDドライバーに代表される現代のフェライト磁石のドライバーには伸びしろが無い。

という風に短絡的に考えがちですが、そんなに単純な話ではないようです。

皆さんの聴かれている音楽は、おもにはJPOPSと歌謡曲です。クラシックもジャズもお聴きになりますが、メインはスタジオ録音のいい曲、いい演奏、いい録音を聴かれているのです。私もレコードで一番聴いているのは、歌謡曲です。レコードばかりではなく、CDでもよく聴けるようにしたいと願っています。GRFのある部屋では、最終的にレコードをGRFでかければ、安心した音が鳴ってくれます。

しかし、CDで聞く場合は、メインのトラバドールは録音の音の違いを明確に出しすぎてしまうようです。JBL派の皆さんが聞かれている分野の音楽はもともと楽器やヴォーカルを収録するときは、一本のマイクですから、モノラルでした。それを調整卓で、場所を割り振り、全体のバランスを取るためにあとからデジタルの残響でお化粧します。もちろん、その調整卓で上手くバランスを取ると、素晴らしい音楽になるのは、聴いたとおりなのです。それらを楽しく聞いたらどのように変わるのかと思い、スタジオ録音のCDをいろいろ聞き始めました。


f0108399_13423245.jpg

すると、鮮やかな音がし始めました。この手の録音、ほとんどのCDがそうですが、は音がすっきりとして、見通しが良くなり、楽器のフォルムが良く聞こえてきます。面白いですね。このまま繋いだままで、いろいろなスタジオ録音盤を聞いてみましょう。お盆休みにこられるお客様にも聴いていただきますね。
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▲△▽▼

夏休みです 久しぶりにOさんが GRFのある部屋 2019年 08月 17日
https://tannoy.exblog.jp/30740262/

ご常連のOさんが、前回来られたのは4月のはじめ、まだ桜の花が咲いている頃でした。その後は忙しく、四ヶ月ほど空いてしまいましたがその間は、当方も大きく変わったところもなく、あえてご連絡するほどでもなかったのですが、ここに来て、少しずつ動きが出てきて、時間を見つけて実験を重ねてきました。


最近の実験は、SAシステムでした。ご報告したとおりアルニコタイプのSPには大変効果がありました。その後の、横浜のMさん宅の取り付け工事にも参加させてもらい、取り付け方法も学んできました。当初は大山さんのT4に応用したのですが、Dynaudioの13センチのウーファーの磁石が特殊な形状なのと、ツイーター側がキャビネットにピッタリと埋め込まれているので、付けるには、また穴を開けなければならないので、とりあえず、ユニコーンに付けて実験してみることになりました。

ユニコーンは、シングルスピーカーですし、表に出ている部分で対応が出来るからです。それでもいろいろ紆余曲折はあったのですが、最終的には、銀のリード線を、木製の洗濯ばさみで、ポールに取り付けるという方法を考えました。

音の差ですが、やはり変わります。すっきりして、音場が拡がります。ただ、その音がOLYMPUSやParagonで聴いた様な方向ではなく、幾分クールになる傾向です。何度も取り外したり付けたりして、比較して見ました。私の感覚ではスタジオ録音の音源には、とても効果があり見通しは良くなります。ユニコーンの場合は、ピストン運動をしている、バックロードが掛かっているエリアが変わるようです。ベンディングウェーブの部分には、余り影響がないのかもしれません。

それでも、スタジオでのマルチモノ録音には良い感じに変化します。クラシックの様に残響を時間差でとらえている音源は、反対に音場がすっきりしすぎるようです。やはりアルニコのホーン型のユニットに使うとより効果的なのかもしれません。

今ひとつ気がついたのは、無指向性のSPを使うときに一番大事なのは、その部屋で一番楽に音が出てくるポイントを探すことです。ぴたりと合ったときは、その部屋のなかで、一番部屋の影響が少ないポイントではないかと思いました。言い換えるといちばん逆起電力の影響を受けないポイントなのです。それらのSAの取り付け時の段階による音の変化を、Oさんにも一つ一つ聴いていただきました。

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今ひとつの実験を、大きな部屋で行っています。そちらの音を聴いていただくために、クーラーを変えてからは、寒いぐらいの部屋で、その変化を聴いていただきました。それは、SAの実験からヒントをいただいた、銀のケーブルの音です。昔、イルンゴ製の銀ケーブルを持っていて、純銀製の太いケーブルで、曲げることも出来ずに大変な思いをした頃を思い出しました。あのケーブルは、いわゆる銀線のイメージの華やかな音はせず、普通の銅線を安定させたような音でした。

German PhysiksのSPケーブルは、2x6mm²の太い銀コーティングの銅線です。末端は、WBTのバナナ端子が付いています。この端子は銅です。そこの部分を、銀コーティング製の端子に交換してみました。比較用に中国製の銀メッキ端子も用意しました。その銀メッキ製の端子は、イメージ通りの高音部が華やかに鳴る音でしたが、半田あげもしないで直に繋いだ銀コーティング製の端子の方は、音が変化しないで自然な音になりました。

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ケーブルの長さにもより音に若干の変化はありますが、Troubadour80とGerman Physiksのネットワーク箱との間に使ってみました。1.6mぐらいのものと2.4mぐらいの長さの違いも比べました。こちらは微妙な変化があり、長い方が音が安定します。ここが面白いところですね。取り付け部のネジの大きさとか工夫がされています。音が柔らかいのは以前の半田揚げをしていた端子と比べると、直に端子にケーブルと接触して伝わるからでしょう。

銀コーティング製だからと単純に音が良くなるわけではありません。バナナだけではなくY端子の方も実験してみます。右の赤白のバンドが付いているのは、WBTの純銀端子です。こちらは、左の国産の銀コーティング製Y端子の六倍もしましたので、中古で購入して実験してみましたが。両端を変えなければなりません。片方の到着を待っています。

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SAの実験が、銀製端子の実験に化けましたが、発想は、SAシステムの普及品と高級品の差と、自動車用の銀のケーブルからヒントをいただきました。そういえば近藤さんが主宰していたAudioNoteの製品は大変高価ですが、使われている配線はトランスまで純銀製でしたね。音の自然さが採用された理由なのでしょうか?

金と違い、空気中の硫黄酸化物と反応して黒くなる銀は、本来は金と同じぐらいの産出量なのに、価格差がどんどん拡大しています。いつか銀価格も暴騰するような気もしますが、SP端子ぐらいならその影響も少なくて済みますね(爆)。面白い夏休みになりました。

Commentedby TANNOY-GRF at 2019-08-17 09:49

我が家の装置では銀製の端子が良い結果を出しましたが、気をつけなければ行けないのは、ヴィンテージのSPは、SP端子の材質も含めて音作りをしています。そこを直接半田付けしたり、このような違う材質の端子に交換しても、本来の持ち味も消えてしまいます。

タンノイには、SA装置の方が効果があるような気もします。専門家の手も借りて、実験していきます。そちらも楽しみです。
https://tannoy.exblog.jp/30740262/



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/402.html#c144

[リバイバル3] 1W(ワット)アンプで 38pウーハーは無理 中川隆
10. 中川隆[-8776] koaQ7Jey 2019年8月18日 00:57:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3966]

WE300B は日本でもっとも評価が高い出力管で、球の個性を出すのに有利なシングル動作が主流。

MJのイベントでも読者アンプ発表会では「300Bシングル」四機種、WE300Bドライブ211シングルが一機種と偏っていた。

メーカー製で出色のモデルは AIR TIGHT ATM-300 だと推薦されました。


一方、今は伝説になっている名器 LUXMAN MB-300
あまりにもナロー過ぎて著しく違和感がある音。

ファーストオーナーは 50時間使って箱にずっと閉まっていたそうだ。セカンドオーナーは 8年間で 100時間。これほんとうよ。
これほどナローレンジなアンプは聴いた事がなく、S9800 の 38cmウーファーを心臓に例えると、半分しか動いていない感じ。しかし四年前に復刻されているのが不思議。

数人に LUXMAN MB-300 の感想を伺いました

「ギョッとするような音ですよ」
「えっ?こんな音なの?と思うような音ですよ」
「80万?いらない、いらない」

スピード感が全く無くROCKやPOPSには不向き。
スピーカーを選ぶアンプで Sonus の小型や AXIOM80 ならあるいは?


某オーディオショップの百戦錬磨の店長さんに MB-300 について尋ねると。

「えっ!?こんな音なの?っていう音ですよ、ナローでカマボコだし。
これだったら AIRTIGHT ATM-300 の方が何十倍も良いですよ」

って言ってらっしゃいまして、う〜んそんなはずは・・・・とその人を疑っていましたが事実でした(-_-;)


AIR TIGHT については


AIR TIGHT 300B シングル ステレオ アンプ _ オーディオ販売店の評価は最高なんだけど…
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/134.html


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/968.html#c10

[リバイバル3] 1W(ワット)アンプで 38pウーハーは無理 中川隆
11. 中川隆[-8775] koaQ7Jey 2019年8月18日 00:59:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3967]
AIR TIGHT ATM-300がやって来た!2017年02月03日
https://community.phileweb.com/mypage/entry/1502/20170203/54637/

自分のものだったらいいのにな(笑)

知人がパワーアンプを更新して使ってないのでよかったら使ってみる?ということで借りてきました。

憧れの300Bシングル。
今あるSV-2A3とどのように違うか楽しみです。

出力管はWEのヴィンテージも復刻版もあるよーって言われましたが、扱うのが怖いのでJJを借りてきました。

早速接続して音出し。

いいですねー(^o^)
2A3はどちらかと言えば繊細な方だと思うのですが、300Bは全域にわたってエネルギッシュ。

線が細くならず、ギュッと描いてくれるような感じです。
もちろん繊細さも併せ持っていますし。出てくる音の品位も高いです。

私がアンプに求めていた理想と言える音。まぁ高いし当然か。
しかし、目覚めは大変悪いですね。相当の低血圧です、この人。
温まってきたら本領発揮で本当にスバラシイ音を奏でてくれます。


でも…

やっぱりパワーが足りない

一番気になっていたのがパワー。

2A3で3.5Wほど。
300Bで 8Wほどとなっていますが、2A3では「そこそこ」の音量でクリップしてしまいます。

普段の聴取音量で無難なジャンルから聴き始めたのですが、POPSやJAZZ、クラシックも中くらいの編成までは大丈夫でしたが私のメインジャンルである大編成のオケ物はダメ。ティンパニやグランカッサの一発やオルガンのペダルトーンなどにあえなくクリップしてしまいました…。

出力倍以上になったしスピーカーの能率も一応 91dBあるから大丈夫かなと思っていたのですが、もっともっと能率のいいスピーカーじゃないといけないんですね。

それとこのアンプ16Ω出しになっていますので(我が家のスピーカーは公称4Ω)インピーダンスマッチングの上でも問題があるのだと思います。

4Ω出しにしたらマシになるんでしょうか。

とにかく残念です。
上手くいったらなんとか資金を工面して手に入れようと思っていたのですが、我が家の環境では300Bシングルは導入は無理なようです。
パラシングルとかだったら大丈夫なのかなぁ。


と、浮気してたらM-5000Rが機嫌損ねて故障
突然右Chから音が出なくなり、今ドック入り中です…

私の私感ですが M-5000RとBEETHOVEN君は相性がかなり悪いみたいで。
ちょうど耳の感度が悪い帯域辺りがBEETHOVEN君の音色と相まってとても線が細くなって聴こえにくいのです。
このままでは楽しめないので、どうするか考え中。

そんな時に壊れないでよ。
フクザツな心境です。


レス一覧

けえぱぱさん、こんばんは。
ちょっと危険な状態のようなので、取り急ぎ連絡させていたいだきます。

真空管アンプの16Ω端子に4Ωの負荷を接続して大音量を出すのは、即刻止めるべきです。

出力管の許容損失をオーバーして使い物にならなくなったり、アンプ内部の抵抗が焼けたりする可能性が高いです。

さらに、出力が派手にクリップすると、SPのTWを飛ばしてしまうこともあります。

OPTの付いている真空管アンプは、SPのインピーダンスが多少変動する程度であれば対応できるように作ってあるはずですが、1/4の負荷でまともに動作するものはないと思います。

byED at2017-02-03 21:20


EDさん、こんばんは。レスありがとうございます。

そうみたいですね。
色々調べると危ないということでしたので、わかった後はすぐにやめました。

幸い今のところアンプにもスピーカーにもダメージはないと思います。

スピーカーは自分の物なのでまだしも、アンプは人の物ですから、何かあったら一大事です。

ご忠告ありがとうございました。

byけえぱぱ at2017-02-03 23:16


けえぱぱさん、こんばんは。
SPやアンプが無事で、良かったですね。

ところで、アンプのパワーについてですが、部屋がかなり広そうなので300Bシングルの8Wでは苦しいですね。

私も、SPの能率は91dB、部屋は広めの10畳で、真空管アンプを使っています。

MAX100dB程度の音圧でオケの50Hz以下をしっかり再生するには、KT88-PPの60Wでやっとというところです。

300Bがお気に入りならPPの30W以上、できればKT120-PPクラスのパワーアンプが合いそうな気がします。

もちろん、アンプの音は最大出力だけではないので、参考程度にしてください。

近くでしたら、色々なパワーアンプをお持ちしてお試しできるのですが、ちょっと遠いですね。

byED at2017-02-04 23:26


EDさん、こんにちは。

部屋は15畳です。屋根裏で天井が斜めになっているので容積的には14畳くらいでしょうか。

真空管の音はとても魅力的ですね。
以前、トライオードのTRX-P6Lという6L6(KT88に換装していました)のPPのアンプを使用していましたが、定位が悪く音も濁り気味だったのです。販売店の社長に言わせると「それはトライオードだからでしょう」ということでした。あんたの店で買ったんだよ、言いかけましたが(笑)

2A3のシングルを聴いて直熱管のシングルはいいなぁと感じました。
理想はやはり300Bの音ですね。
これで大出力が出ればいいのですが、今は予算もないし、しばらくは何かでお茶を濁そうと思っています。

マイルーム見せていただきましたがすごいですね。
私は文系なのでキットくらいならなんとかいけますが、自作は無理です。

少し遠いですが、何かの機会に一度お邪魔したいものです。

byけえぱぱ at2017-02-05 14:38

https://community.phileweb.com/mypage/entry/1502/20170203/54637/

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/968.html#c11

[リバイバル4] ウェスタン・エレクトリック 300B を使ったアンプ 中川隆
28. 中川隆[-8774] koaQ7Jey 2019年8月18日 01:11:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3968]
キット屋倶楽部 キット屋コラム「私のオーディオ人生」第37回門外不出!二管流アンプ武蔵誕生
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-037


大変大げさな表題ですが今まで沢山の真空管アンプを作ってきましたがこのアンプは最後のフィナーレを飾る相応しいアンプになります。

 今回は私が名付けた二刀流または二管流アンプ「武蔵アンプ」は門外不出の秘伝アンプでこのコラムを読んで頂ける方だけの本邦初公開の真空管アンプになる。

 製作に当たり今後のことを考えてもしお金が必要なことに出くわしたらそれなりの価格で売れるのではと思い妥協せずに作ることにしました、

このアンプがヤフオクに出品されることがありましたら是非入札に参加してくださいね、「Y下が金銭的に困っているから入札してあげよう」と云う気持ちがあるだけで感謝です。


二管流アンプ「武蔵」

WE−300BとVT52刻印の二刀流アンプ


 WE−300Bは巷では最高に人気がありますがVT52は300Bの陰に隠れて評価はイマイチですがWEのVT52刻印は上手く設計して良いパーツを使えば300B以上の音と云われています。


  音でVT52とよく似た球は同じウェスタンの300A、205Dがあります。

この3種類の球こそウェスタンサウンドの象徴と云えるかも知れません。

近年VT52はヨーロッパ、中国、ロシアでは生産されていませんからこの球を使った既成アンプはほとんど見かけないのと自作マニアでも300Bは製作してもVT52は作ったこともなくVT52のサウンドはほとんどの方は聴いていないと思います。

  今回は300BとVT52との直接対決できるようにそのように設計を行いました。球の聴き比べであれば同一回路と同一のパーツを使わないとまったくと云って意味も持ちません。アンプや回路、パーツが違えばおのずと音は違ってくる。またスピーカーとの相性もありますからこちらのが良いとは一概にも云えません。

  確かにメーカーの違う同等管の球の聴き比べならその違いはありますが真空管アンプは球よりもトランスの変化の方のが大きいですから球の聴き比べに固守するよりトランスの聴き比べをした方のが遥かにその差はでますから是非挑戦してください。
  今まで沢山のアンプを作ってきましたが良いパーツは価格に比例して良い音がします。上級のマニアならどれが良いパーツか熟知しています。今回は長年の経験から良い音のするパーツを選別して使用しました、

  今回の製作に関して真空管アンプの音はトランスが最大のキーパーソンを握っています。出力管の交換は同等管の場合大きな変化はありませんがトランスを交換しますと劇的な変化が認められますが最近は良いトランスがあっても価格が高く手に入れるのは至難の業かも、

  長い間自作マニアをやってこられた方はこの部分に非常に拘りを持っていますから良い音の出るアンプを作るのを知っています。面白い事にトランスにもお国柄がありこの部分の比較も面白いのではと思います。

  WE−300BとVT52の特性を比較しますと共通点が多く見られますから回路を変更すれば簡単に差し替えは可能で300BもVT52もソケットは同じですがプレート電圧、プレート電流、ヒーター電圧、ヒーター電流などの違いがありますから一つ間違えると大切な出力管を駄目にしますから一般的にはお薦めできない上級者向けになります。

  今回は製作途中でVT52と300Bも切り換えて聴けるように改造を施しましたがこれが大変な作業でした。完成後にVT52の音と300Bの音の違いがどのように現れるのか未体験ですから私も含めて皆さんも興味津々ではないでしょうか、
 

ウェスタンのVT52の謎


  ウェスタンのVT52は1940年代の初めごろ軍用機の通信管として開発されたらしくこの球に関しての特性表がありませんが規格の値を守れば超寿命の球の一つです。またヒーター電圧が6,3Vと7,0Vの2種類の規格がありますがどちらも正しいと思われます。

  一説によると航空機で飛行している時は7,0V、地上で待機している時は6,3Vで使われていたと云われていますがヒーター電圧が6,3Vと7,0Vでは必ず音は違うはずです、この部分での比較も考えて報告したいと思います。

VT52は1940年代の初めの頃軍用機の通信システムに搭載されていた、太平洋戦争中に米軍が日本を爆撃する時B−29が無線送信していたのなら好きになれない球ですが多分ヨーロッパ戦線で使用したのでは・・・・・

  自作マニアで特に音に拘りを持っているオーディオの達人なら300BよりVT52のが音は良いといいます。300A、205Dに良く似た音色はVT52と云われこの球も今後は手の届かない価格になると思いますから安く手に入るようであれば購入すべきですが回路図も読めないまともに組み立ても出来ない方は購入しても使いこなせないがコレクションとして持っていればいずれ高価になりますから買っても損はしない、

  近いうちにこの球も手の届かない高価格になるのは間違いありません、測定器をお持ちの方で自作に自信のある中級以上の方はお薦めします。またVT52のウェスタン球のプリントタイプもよく見かけますがどうも偽物臭い感じがあります。

  特にウェスタン球のトップマイカはおむすび型ですからすぐに見分けることが出来ます。VT52の刻印タイプは音が良いと云われますから刻印タイプを求めれば間違いありません。同じVT52もシルバニアや他メーカーでも出ていますがやはり本家のVT52刻印を聴きますと他メーカーのVT52は残念ながら音もさることながら価値観や魅力に欠けるがヴィンテージ管をヤフオクなどで購入される場合は特に注意しないと後で痛い目に合いますから気を付けてください。
 

真空管アンプのルックスとワイヤリング


 自作の真空管アンプこそ芸術であるこれが私のコンセプトです。今回は最後のアンプですから特にパーツと外観には拘りを持って作りました、シャーシーは1.6tの鋼板にステンレスの鏡面パネルを乗せました、真空管アンプのキーパーソンは出力トランスですからこの部分には特に拘る必要があります。ましてや使用球がWE製VT52ですから本来はウェスタンを使いますが今回はドイツのシングルトランスを使いましたこのトランスもほとんど市場に出てこない大変レアなトランスでメーカー名はENGELでテレフンケン、ノイマン、シーメンスに納入している実績のあるトランスメーカーです。 

  今回私も初めて使いますがドイツのサウンドはゲルマン民族らしい真面目で几帳面な音が特徴ですがその点米国のトランスはアメリカ人らしい豪快さがあり多少雑なところを持ち合わせている。

また日本のトランスはビールで云うならコクとキレが薄い、やはりビールもトランスもドイツに限ります。

これはトランスに使用してあるコアと巻き線技術の差だと思う、

その点ヨーロッパ系のトランスは質の良い鉄鉱石が採掘されていますから鉄鉱石の違いかも、WEのトランスは音が良いと云われていますがこのトランスもひょっとしたらヨーロッパのコア材を使っているのではと思いますが詳細は不明です。 トランスもお国柄がありどれが最高とは云えませんが自分がどんな音が好みなのか色々試して聴くのも面白い、

使用パーツと回路構成


 今回は最後の自作アンプですから自分なりに拘ったパーツを採用しました、


出力トランス ドイツENGEL社シングル10W

チョークコイル ヒューレットパッカード社の5H250mmH

抵抗 リケンオーディオ抵抗

コンデンサー カップリング スプラグ ブラックビューティー

カソードパスコン スプラグ 銀タンタルコンデンサー

ヒーター整流 東芝ショットキーバリアダイオード

スイッチ類 日本開閉器 トグルスイッチ

ボリューム アーレンブラッドレー

真空管 初段はテレフンケンダイヤマーク ECC−802S

ドライバー管 NEC 12BH7A

出力管 WE−VT52刻印

整流管 WE−274B刻印


 回路構成は簡単なCR結合3段増幅でNFBは5dBの低帰還になります。NFBなしでもテストしましたが無しの場合は低域が多少ボン付く傾向がありますからここは多少でもNFBを掛ける必要があります。

アンプ内部はラグ板を一斉使わず自分で設計を施したパターン化した自作基板を製作しました、本来はラグ板にCR類を並べてオール手配線で製作しますが「武蔵アンプは」プリント基板がメインでラグ板は一斉使っていません。

難易度はオール手配線を遥かにしのぎます。写真を見てわかると思いますが内部引き回し配線は3D方式の立体配線です。内部レイアウトと基板が出来れば回路を頭に入れれば後は鼻歌交じりでの組み立てです。製作日数は約1か月を要しました、

 アンプの出力は3.5W×3.5Wです。

もう少しIpを上げればPOWERが取れますが球の寿命を考えて低めに抑えて使用、

ヒーター電圧VT52は7V、1.18A,300Bは5V,1.2Aの直流点火にしました、

交流点火も考えたのですが7Vの交流点火ではハムが取れません。

また300Bは私の作ったSV−91Bタイプに交流点火がありますからあえて交流点火にはしませんでした、直流点火にしたWE−300Bは本来の300Bの音とは違いますが今回のメインはVT52が主役です。遊び心で300Bも使えるようにしただけと金銭的に困った時にWE−300Bを予備球として付属してやればそれなりの価格で売れるのではないか、

 一度ヤフオクに出品すると果たしてどれくらいの価格で落札されるのか興味はあります。だいぶ前になりますが私の製作したLUXのSQ−38のパネルを使ったプリアンプをヤフオクに出品したところ本家のSQ−38より高い価格で落札された記憶があります、最近のヤフオクの真空管アンプは人気のある球を使用した自作アンプの場合予想以上の価格で落札されています。また自作の真空管アンプは外観だけでなく内部配線や使用パーツに拘ったアンプでないと評価が低い傾向になる。

武蔵アンプの外観と内部の写真を沢山載せましたが自作マニアには参考にならないかも知れませんがその点をご了承下さい。

武蔵のリアパネル、リアパネルは真鍮をあしらいすべて彫刻での刻印


VT52とWE−300Bの切り換えモードで操作ミスを防ぐためロック式の
トグルスイッチを採用、これで不用意にスイッチの切り換えが出来なくなっている。

内部配線及び部品レイアウト、左上のボードはショットキーバリアダイオードを
採用した直流点火ボードで下側はB電圧整流ボード、右側は信号回路ボード

https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-037


少しピンボケですがWE−300Bを実装

ウェスタンの刻印VT52を実装

ウェスタンのVT52とWE300Bの比較VT52は一回り小さい

幻の整流管WE−274B刻印

試聴用システムの紹介


 今回はアナログでの試聴にしました、

アナログ

フォノモーター ヤマハGT−1000
アーム GRACE G−565F

カートリッジ オルトフォン SL−15E

昇圧トランス ウェスタンエレクトリック WE−618B
AWA オーストラリア

ブリアンプ マランツ#7

スピーカー ヴァイタボックス 30cmフルレンジ

試聴用アナログ キースジャレット ケルンコンサート、バッハ、無伴奏チェロの1番

比較アンプ PP5/400シングルアンプ

キースジャレット ケルンコンサート


 すべてのセッティングが終了して早速VT52シングルアンプの電源を立ち上げた、調整中にハムバランサーは最少の位置に設定してありますからスピーカーからはほとんどハムは聞えません。

最初にキースジャレットのケルンコンサートの試聴から開始、出てきた音に愕然、ピアノの粒立ち奥行感を伴ったホールトーンの響きとスピーカーの存在感が消える素晴らしい空気感のある音、音色もこれがウェスタンを強調するようなサウンドには参った!これは使ってあるVT52だけでなくトランスがドイツ製だからアメリカ的な明るいサウンドを抑えて伸びやかに音楽を聞かせてくれる。

 このような音になるのは勿論昇圧トランスのWE−618B、テレフンケンECC−802S高信頼管とWE−274B刻印が寄与しているのは間違いない、次に試聴したマイスキーの無伴奏チェロも奥行感を伴った小ホールで聴く雰囲気たっぷりのあるサウンドになった、
 

WE−VT52は凄い!


 ウェスタンマニアがウェスタンは最高と云っていますがまんざら嘘ではない、

このVT52に対抗できるのは205Dか300Aしかないのでは、

それだけ素晴らしい球なのに情報量が少ないのか音を聴いたことがないのかわからないのか一度体感してみるとその良さがわかるのではないだろうか、

この球こそコクとキレに音楽性をプラスしたサウンドには偽りはない、VT52恐るべき!

VT52とWE−300Bの対決


 「知らぬが仏」と云うことわざがあります。これをオーディオに当てはめると「聴かぬが仏」つまり良いアンプを聴いてしまうと悪いアンプは聴けなくなる。自分のアンプに満足しているのならば聴かない方のが自分の為と思う、

 最初に書きましたように同等管なら差し替えて比較できますが球の種類が違う場合同じ回路同じパーツを使ってこそ球の比較が出来るのですが残念ながらアンプも違えば使ってある出力トランス、回路が別の場合は比較としての意味は持ちません。やはりここは同一パーツと同じ回路を使わない限り正確な答えにはなりません。

 WE−300Bは巷では最高峰の真空管として君臨していますがではVT52と比較したらどんな結果になるのか、今回は私個人の比較試聴とこのアンプを大阪の今田氏宅に持ち込んで聴いて頂いた、

  早速VT52を接続しての試聴です。スピーカーはRCAのLS12フルレンジを使用、このスピーカーは30cmタイプなのに高域が良く伸びています。出てきた音は空気感を伴った懐の深いサウンド、長時間聴いても疲れにくくトップクラスの音だ、RCAはアルテック、JBLとは異なる大変渋いサウンドで私が愛用しているヴァイタボックスとは少し表現力が違いますがジャズもボーカルもOKだ、

  VT52を堪能した後300Bに交換して10分後に同じトラックからの試聴開始、

出てきた音は300Bマニアには申し訳ないがVT52と比較しますと300Bは先ほどの深みとコクが薄くなり少し派手やかな明るいサウンドが特徴で音の渋さが後退してしまう、

それに対してVT52は絵画で例えるなら水彩画を見るようなイメージとしっとり感とシルクの肌触りがありオールド的な雰囲気を持ち合わせている。

WE−300Bも決して悪くない球だがVT52を聴いてしまうと興味が薄れてしまう、


  VT52を聴かずに300Bだけで聴いていますとまったく不満がなくさすが300Bは最高の球だと頷けます。これこそ「知らぬが仏」になります。

  ウェスタンフリークは300Bには関心を示さず205Dや300Aしか興味湧か湧かないのが理解できる。

同聴して頂いた今田氏も300Bにはガッカリ、二回と300Bを聴こうとしなかったのが印象に残こった、

今田氏も大変ショックを受けオーディオ仲間に今回のVT52の良さを話したら仲間曰く300Bでは勝ち目がなく対抗できる球は205Dしかないと云っていた、


PP5/400とVT52武蔵との対決


PP5/400シングルアンプは今田氏に譲ったアンプで回路、パーツ類はほぼ同じものを使っていますがトランスだけは台湾のジェームスです。

ジェームスは台湾のメーカーでトランスのコアは日本製のオリエントHi-Bコアを使ったトランスで大変知名度があり自作マニアが良く使うトランスです。

  早速比較の為に接続を変えて試聴開始、出てきた音は甲高なサウンドであまりにもVT52とは違いなさ過ぎて私もショックだった、英国の名出力管がこんなはずではない、

  違うのはトランスと整流管だけですからトランスを変えれば違った意味での良さが出るはずだがこのアンプをVT52に改造するのは簡単ですが肝心の出力トランスがありませんからこのアンプはこれで良しにすべきと思う、

このPP5/400も以前有名なメーカーの845PPと鳴き比べした時、圧倒的な表現力の差が出た良いアンプであったがVT52と比較すると残念ながらその差歴然だ、

  PP5/400は自分が作ったアンプですからどちらが良くても不満はないがメーカー製のアンプや自作アンプとの鳴き比べはご法度であるのとモラルの問題ですから今後は門外不出にして道場破り、他流試合はやらないことにした、

私が製作した名出力管PP5/400とVT52武蔵アンプ


6.3Vと7.0Vのヒーター電圧の比較


 VT52のヒーター電圧の違いを比較しました、6.3Vでは多少音の潤い感とハリがなくなり7.0Vにしますと「これがウェスタンだ」と云えるサウンドになりました、今後は変更せずに7.0Vで使い切りますが今は武蔵を聴くのがもったいなくて外野席でお休み中です。


グッドアイデア


 これからは試聴に来られるマニアにはWE−300Bと5U4GBの組み合わせで聴かそう、帰った後こっそりとVT52,274B刻印に戻して自分だけで良いサウンドを楽しもう、マニアには申し訳ないが極上の組み合わせを聴かせるのがもったいない、こんなこと書くとあいつは性格が悪すぎる!汚ねぇ男だ、」性格の悪さを通り越して悪趣味なマニアだ、あんな性格だから病気も逃げて元気なはずだ!都合が悪くなると認知症になる。本当にあいつはタチが悪い、どおりでいつまでも長生きできるはず!何時までもこのように言われたい、


あとがき


 VT52の実力を堪能した、世の中知らないだけでもっと良い球はあるはずです。お金をかけずに良いアンプを作りたいのだがもう自作アンプは卒業してこれからは製作の楽なキットアンプに挑戦しょう、自作アンプは部品集めから始まり穴加工して製作するのだがこの作業は大変でこれからは失敗のないキットアンプのが遥かに楽しく作れます。もう一度初心に帰ってキットアンプの製作の醍醐味を味わいたい、
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-037

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/107.html#c28

[リバイバル4] ウェスタン・エレクトリック 300B を使ったアンプ 中川隆
29. 中川隆[-8773] koaQ7Jey 2019年8月18日 01:17:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3969]

300B より遥かに音が良い VT-52

真空管アンプ「カトレア」 VT-52 「薔薇 V」 
http://www.cattlea.jp/product/?no=61


パワーは小さいけど音質では個人的に 300B や 50 よりも音が良いと思います 

この名球を一度は聞いて下さい 新しい1ページが始まります 

これまでのノウハウをすべて取り入れた電源回路やこだわり配線でチャンネルセパレーションも良いです、アウトトランスがルンダー製に成ります 交流点火で動作させ存在感有るフラットな音質です。

交流点火が可能でバージョンアップしました。

価 格 348,000円

サイズ W385*D250*H190

回路構成 カソホロドライブCR結合

入力感度 1,3V

出 力 2.5W+2.5W

使用真空管 6SL7 VT−52 GZ−34

シャーシー カリン材

B電源回路 高圧2回路別電源

NFB回路 ナシ
http://www.cattlea.jp/product/?no=61


VT-52 については

一番音が良いパワーアンプは VT-52 シングルアンプ?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/440.html


http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/107.html#c29

[政治・選挙・NHK264] <極秘文書で判明!海軍は事件の7日前に把握していた!>NHKスペシャル「全貌 二・二六事件〜最高機密文書で迫る〜」   赤かぶ
9. 中川隆[-8772] koaQ7Jey 2019年8月18日 08:27:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3970]

金の亡者だった昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由


ねず氏は、天皇は自分の統帥権が犯され、統帥権が奪われようとすることには敏感に反応するのであって、統帥権を断固維持しようと腐心する。これは天皇家の歴史的本能だ、という。

2・26事件は為替相場を不当に操作して儲けるために起こさせたものだった.
2・26事件が起きると、当然のことながら日本の国家信用が落ちて、為替や株価が暴落した.

もし、天皇があらかじめ為替や株価でも儲けを企図し、シナリオを書かせていたとしたら、事件で暗殺される「重臣」たちが青年将校らによって殺されることも計算のうちに入っていた、あるいは気に入らない「重臣」を消すために事件を起こさせたとも考えられる。

青年将校らにとっては、いわば天皇親政によって昭和維新を断行するのだと夢見ていたのだろうが、実際の天皇はそういう人ではなかった。つまり天皇は飾り物にされ、周囲の奸臣・奸官に取り巻かれているから正しい政治が行われないと善意に解釈していたが、そうではなくいわば奸凶は天皇自身だったのである。

 2・26事件がおきると、天皇はその40分後には情報を得て、ただちに彼らを反乱軍と断じ、鎮圧を命令している。決起した将校らにしてみれば、天皇にまさかの裏切りにあったのである。しかし、この天皇の裏切りは、「将校らにしてみれば」なのであって、私は彼ら将校は天皇・財閥側が仕掛けたワナにハマっただけではないかと思う。
天皇は、決起将校らを私利私欲に基づくものと激怒したが、当の将校らは無私の心で決起した心づもりだから、まるで話がかみあわない。むしろ、天皇のほうが、私利私欲で自分の資産の運用だけの思惑で動いていたのだ。

なにしろ、戦前の天皇家は世界一の金持ちとも言われるほどの天文学的資産家であった。天皇は、大財閥や主要銀行、大企業などの大株主であったから、国家から予算として年額150万円を支給されていたとは別に、その配当は巨額なものであった。

だから戦争をやれば、こうした大企業が巨利を得ることになり、それがそのまま皇室の持ち株への巨額配当となって返ってくる仕掛けだった。事変=戦争を起こし、植民地で搾取すればするほど皇室の懐が潤う仕掛けである。

だから天皇家は、日本が満州事変、支那事変、大東亜戦争へと打って出ることに反対しなかった。2・26事件の将校を断罪するなら、なんで満州事変や支那事変を主導した軍部を断罪し止めなかったのだ? 

それは昭和天皇が、立憲君主ではなく、実は専制君主であったからであり、実際、戦争に反対するどころか積極的に戦争を押し進めた。

大東亜戦争中は、なんと宮中に大本営を置き、作戦を指揮し、認可していたのが真相である。

2・26事件のときだけ政治的に介入し鎮圧を命じて、あとのときはすべて「君臨すれども統治せず」を貫きとおし、終戦のときだけ仕方なく決断したなんてことがありようか。
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825
 

2・26事件が起きることを天皇はあらかじめ知っていたのではないか。財閥から情報が入っていたに違いないのである。というよりも、そもそも天皇と財閥(とその代理人)が2・26事件を仕掛けたと見るべきではなかろうか。

事件発生から終息までの2日間もちゃんと前もって計算されていたのであるまいか。仕掛けた闇の勢力は当然、真崎らがどう動くか、どう終息させるかも読んでいたか、指示していたに違いない。

 クーデターが起きれば為替も株も暴落するのは、あらかじめわかりきった話である。それをあえて事前にわかっていながら反乱を阻止しなかったこの不自然さ。反乱を起こす予定の将校らには財閥から資金が流れていたし、将校らには官憲が張っていたのだ。彼ら将校は六本木第一師団司令部(防衛庁跡地)前の中華料理屋でしきりに会合(飲食?)を開き、談論風発をやって、決起、決起と気勢をあげていた。それが官憲に筒抜けにならないわけがなかろう。それなのに、将校が事件直前に弾薬庫から実包(実弾)を運び出しても黙って通過せているのだから、こんな見え見えの策謀はない。
皇室も財閥も「クーデターによって為替の相場を下落させて、売買の操作によって利を求めるドル買い事件にすぎなかった」この2・26事件を、すべて芝居でやらせたのではなかったか。

つまり、すべては財閥と天皇の書いたシナリオに従っていただけで、すべては企画された事件だったのではあるまいか。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/6863442c2632a11902486caa91a0cb55

昭和天皇は、自分の恋(つまり後の良子(ながこ)香淳皇后との恋)を成就させるために、右翼勢力の力を借りた。そのために右翼の台頭を許してしまい、かえってみずからの統帥権をその右翼壮士らに脅かされる事態になったので、その動きを壊滅させるために、右翼の首領で日本政治に隠然たる力を行使していた頭山満を使って2・26事件を起こさせ、一気に理屈をこねる右翼を壊滅させたと鬼塚氏は見る。

そして自らの統帥権をしっかりと把持すると、いよいよユダヤ国際金融資本の陰謀に乗せられて、支那大陸へ、東南アジアへと戦争を仕掛けていくのである。


 昭和11年2月が2・26事件であり、翌年8月には第二次上海事変が起きて、一気に支那事変が拡大していく。

これを見れば、あきらかに天皇や財閥が、支那へ戦争を仕掛ける意図をもって、事前に2・26事件を起こしたらしいことが見てとれる。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


本来であれば、忘れ去られてしかるべき歴史的事件が、今もなお、
「昭和史最大の謎」として話題になるところは、2・26事件のす
ごさでしょう。

1年半前に我々がとりあげた鬼塚英昭さんの「日本のいちばん醜い日
」は8・15クーデター未遂事件は、天皇側が仕組んだ偽造クーデ
ターと考えています。そしておそらく2・26事件も。

また、8・15事件のシナリオを書いて、細かな演出をしたのは塚
本誠憲兵中佐だと紹介しています。

驚くことに、8・15クーデター事件の背後で暗躍していた塚本誠
中佐は、2・26事件のときも背後にいました。

塚本は当時、上海で憲兵をしていましたが、昭和「11年11月に(大阪
の留守宅で)三男が生まれた」とありますから、昭和11年2月ごろ日
本にいたようです。おそらく上海をベースにしながら、偽クーデターが起きるように日本にちょくちょく帰って煽って歩いていたのではないかと思われる。

記述のない前日まで日本で暗躍して、当日はアリバイ作りのために上海にいたのではないかと思われます。鬼塚さんは2・26も8・15も、天皇側が仕組んだ偽クーデターと考える。 またシナリオと演出は塚本誠憲兵中佐だとバーミガニの記述を紹介。

「塚本は、1934年に陸軍大学における北進派即ち征露派の陰謀を暴露するのに
、宮廷の密偵を助けたことで、天皇の注意を惹いた。彼はそれから1935年の間
じゅう、大阪で皇叔東久邇宮の下で様々な秘密計画に携わった。その1つは(略)
永田軍務局長の殺人であった。」
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220305.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220216.htm




02. 中川隆 2013年3月01日 19:29:08 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ 著 松崎元 訳

2・26事件

忍び寄る大詰め


 皇位周辺の我欲旺盛な古参忠臣たちにとって、身の危険を心配するもっともな理由があった。というのは、裕仁が実際に彼らが暗殺の標的であるかのように言い、暗殺を準備中の者たちに行動を起こす動機を与えていたからだった。暗黙のうちに繰り広げられてきた北進派との三年間にわたる内紛は、もはや充分長引いており、いよいよ決着の時を迎えていた。裕仁とその一族は、公然たる叛乱のみが、国民を恥入らせ、その不平、不満を根こそぎ払しょくさせるに足る大義名分となりえると見ていた。同様に、北進派の荒木、真崎の両将は、同期の古つわものたちと共に、兵卒層の叛乱が充分に大規模で長続きしうるものならば、大衆の支持を獲得でき、裕仁に影響を強いうると考えていた。

 来る対決のために選ばれた暗殺実行者たちは、前年に士官学校事件を起こした若手国体原理派の反ファシスト尉官たちであった。彼らが騒動の中で献身的穏健派と見なされたのは、名目的に北進派と連携していたものの、彼ら自身は対外戦略なぞにはとんと関心はなく、国内の改造と公明さをのみ欲していたからであった。

 これらの国体原理派の若手らは、その決起を1935年11月とする可能性を探るため、酒場や場末の待合で、会合を持ち始めていた。その会合の首領は、二人の元陸軍の同僚、村中と磯部で、この二人がこの三月に、1931年の三月事件への永田の関わりを喚起させるための扇動小冊子を書いていた。この小冊子は、7月に真崎大将を追放する闘いの最中、閑院参謀総長に宛てられたものだったが、それは閑院を怒らせてしまった。この二人の小冊子作者を陸軍から除隊させる許可を天皇より得るため、7月30日、閑院親王は林陸相を葉山の御用邸に送った。現役の兵士を予備役に移籍させることは、陸軍内の問題分子への処罰としては特異な扱いではなかったが、陸軍から完全に除隊させてしまうのはいかにも異例だった。彼らの同僚たちは、除隊で新民間人となった憤懣やる方ないこの二名に大いに同情していた。

 裕仁の弟、秩父親王は、士官学校の同期生である四人を通じて、国体原理派の計画を個人的によく承知していた。彼はこの四人を、いつも自邸に呼んでは歓談していた。またこの後、この四人に銃殺刑の処罰が決まった際、自分たちは秩父親王から勇気付けられたのだと、空しい訴えを行うこととなった。その内の一人は、次のように記した悲嘆の一文を家族に残した。「秩父親王は私にいった。 『クーデタの時、私は君が仲間の先頭に立ち、兵営から行進して出てゆくところを見送らせてほしい』 」。他の一人は、刑務所で書いた一連の詩を残した。この詩は、憲兵隊が押収し、秩父親王の馬番に手渡された。秩父親王は、それに目を通し、それをその若者の家族に返した。その際、秩父親王妃がその内の数編を自ら選び、それを美しい台紙に張り、額にまで入れて返還したため、後に残された両親は、それを身に余る名誉と受け止めていた。

 天皇の二人の叔父、東久邇親王と朝霞親王は、その若い策謀者たちとしばしば語り会い、彼らの憤懣に同情を表した。しかし、彼らに最大の激励を与えた人物は、北進派に手先を浸透させようとの宮廷からの命を受けていた、マレーの虎こと、山下少将だった。山下は、よくその若い策謀者たちと酒場で会い、酒を飲み交わした。そこで山下は彼らに、一般参謀諜報部長をしている三番手烏の岡村少将と、陸軍省報道対策班の根元大佐――永田が殺害された時、剣士相沢に祝福を与えた――を紹介した。山下少将やその同僚は、そうして得た彼らの観察結果をすべて、閑院参謀総長に報告した。

 国体原理派のその若者たちは、天皇の側近から受けた注目に歓喜していたが、用心すべきことは知っていた。彼らは、友人たちから、利用されないようにと警告され、「貴様らは、まるで左翼の衣を着た右翼だな」 と冗談まぎれに言われていた。そうして彼らは、北進派の指導者、元陸相の自宅に代表を遣った。荒木は笑顔で彼らを迎えて激励したが、自分の言質をあたえることのないよう、慎重に対応した。彼らは山下少将――南進派のスパイ――のもとに戻り、「周到な準備なくしては行動しないよう」 との助言をもらった。彼らは、決起の日を、欧米の外交武官が祝福休暇に入っている1935年のクリスマスの日に暫定的に設定した。(36)

 12月20日、彼らは、北進派の第二の指導者、真崎のもとに遣いを送った。彼は遣いに、叛乱を考えるのはおろかなことで、それを、すでに打撃を受け、常時警察の監視下にあると解っているはずの自分のところに相談にくるとは、二重におろなかことだと言い渡した。彼らはさらに、三番目の北進派の将官# 1に会い、いっそう明瞭な助言をもらった。 「天も、陛下も、そして大地も、すべてが君らに反対している。統制派(南進派)の連中は、生煮えの準備で決起する君らを、大掃除のいい機会だとして、手ぐすね引いて待ち受けているのだ」(37)。

 # 1 この将官とは、荒木陸相の下で副大臣であった、柳川平助中将である。彼は、天皇には穏健北進派として知られ、顔の広い鈴木大佐の親しい友人であった。この時、彼は、台湾軍司令官として、厳格な寺内に代わり、台湾に赴任するところであった。後の1937年、彼は、日本軍の南京制圧を可能にした杭州湾上陸作戦を立案して、天皇の目から、北進派の汚名を取り除くこととなる。

 南進派部隊からの潜入者、山下少将は、12月22日に、東京北部の高級割烹で若手理想主義者たちと会うことに同意していた。しかし彼は、その約束を守らず、その夕べを通して、彼が現れるのを空しく待たされている間に、その謀議者らは、クリスマスの日の蜂起の計画は無理だということに決めてしまった。そしてその帰路途上、その内の一グループは、ある警察署に立ち寄り、自主的に自分たちの計画について、全面的に報告することとなった。(38)

 まだ泳がされていた謀議者らは、クリスマスの前夜、北進派の理論家で、強靭な急進的著述家、北一輝の自宅に立ち寄り、慰労にと、酒を少々ふるまわれることとなった。北は、1922年に裕仁の教化機関である皇居内の大学寮への参加を断り、天皇の特務集団から最初に離脱していた。憲兵により数年間にわたって鍛えられた経験から、北はそうした若手に、辛抱強く、時期を待つようにと諭した。そして彼は、前首相の斎藤が内大臣に任命されたことに抗議する小規模な集会に参加してはどうかと、彼らに持ちかけた。北は彼らに、斎藤は1934年の帝国人絹疑獄にからんで賄賂を受け取っていることを確信させた。12月30日、その抗議集会は予定通りに開催され、これまた予期した通り、警察によって解散させられた(39)。その際、若手将校の幾人かが拘留されたが、彼らの計画を満たさせるかのように、数日後に釈放された。

 その年の暮れ、大兄で内大臣秘書の牧野侯爵は、自分の日記に、謀議者の最新の叛乱計画についての警察報告を書き込んでいる。それは例えば、歩兵第一連隊第一中隊は内務大臣公邸を掌握、歩兵第三連隊第三中隊は首相を殺害、歩兵第一連隊第二中隊は斎藤内大臣を捕縛、等々(40)。幾つかの詳細を除き、それは1934年の士官学校事件計画と事実上同じで、それはまた、その通りに、その二ヶ月後に実行されたものであった。かくして、その運命的新年を迎えるまでに、宮中の侍従たちは、暗記しているほどに、その計画を知り抜いていた。

 もし、思いこみの強い宮廷人の誰かが、陸軍将兵の意識の程度について疑いを抱いていたとしても、一月のある日、日本の歩兵の全連隊がその任務中、非任務中の将校ともども、満州国境を越えてロシアに入り、赤軍に投降してしまい、その疑念が現実のものとなってしまうとは予期していなかったろう。そうした将校たちは、国家政策を北進へと変えさせようと、事件をおこそうと望んでいた(41)。その将兵たちは、ただ、その職務執行にあたる満州国の拷問と殺人の地獄から脱け出そうと欲していた。かって日本軍の兵士の誰も、外国軍のもとへと脱走することなどなかったが、いまや、政権の誰もが、絶望のみが彼らをそうした行動に駆ったのだと覚らされることとなった。

もの言う大神(42)

 まさに発生しそうな出鱈目な叛乱に備えて、裕仁のしたたかな叔父、東久邇親王は、過去に裕仁を歯に衣を着せずに批判した貴族を土着宗教を使って脅し、口を封じた。1935年11月22日、東久邇親王は、宗教取り込み詐欺師で腹話術師の、小原たつお、別名、小原竜海〔りゅうかい〕を、皇居南端の明治天皇旧御所にある、当時未使用の一室に呼んだ。そこで東久邇は竜海に、皇室の式服一式や、裕仁の手袋や菊の紋章入りの煙草ケースなどを、彼の好意の印として与えた。竜海はこれらの品々に、口をきく観音像――少なくとも、彼はそう見せることができた――を加え、東京郊外椎名の入船に御堂を設けてそこに祀り、神託所としての事業にした。

 東久邇の紹介によって、竜海は、元宮廷女官長の島津治子――1933年に赤化事件と妾問題に絡んだために皇居を追われた――の後援を獲得した。しかし島津夫人はただ、精神を高揚させ身震いのする彼の交霊術を気に入っていただけだった。彼女の親しい友人も同様であり、また、彼女は理想的な人脈をもっていた。皇后良子の母のいとこ、そして、裕仁の母の貞明皇太后の親友として、彼女は、貴族階級の高齢世代で、―国政に高度な倫理的関わりをもつ、ほぼあらゆる親近的集まりと、強固な霊魂的関係を保っていた。伯爵、伯爵夫人に加えて、彼女の知人たちには、退役陸海軍大将、在郷軍人会の指導者、反機関説論者などなどがいた。そのうちの最も懇意な友人が、神道神主の秦真次で、彼は真崎を追放する争い中の南進派に不利な資料を提供した元東京憲兵隊々長であった。

 1月半ばまでに、島津夫人は、竜海の観音像の腹話術的神託を聞き、霊魂の顕現に参加するため、彼女の友人たちをたくさん連れてきていた。竜海のきらびやかな御堂の外には、本物の刑事が立ち、夜を通し、参加者に関しての記録をつけていた。後の警察報告では、老いた海軍大将山本英輔が、その「集まり」 の常連として、目立っていたとしている。彼は、国体原理派の若手叛乱者が政権を握ろうとした際の首相として、第一の候補者にあがった者の一人だった。他の際立った常連参加者たちは、東京の上流階級の夫人たちだった。その誰もが、そうすることで、数ヶ月先の身の安全が得られると説かれていた。

 降霊会では、貴族階級の一同は、竜海がさずける東久邇親王についての堕落と哲学の合成物を聞かされた。そしてゴシップ談が一同を楽しませ、また、おじけさせもした。1936年12月に療養所に収容された後の警察記録に残された元宮廷女官長の島津治子の話では、参加者の前に生者死者双方の霊魂が現われ、あらゆるたぐいの皇室を冒涜するような話を、次のように告げたという。

 難波大助 (1923年に裕仁の暗殺に失敗して処刑) の死霊が秩父親王 (裕仁の一番目の弟)の生霊と共に現れ、秩父の霊が、難波は自分の婚約者の処女を奪ったと言った# 2。

 高松親王 (裕仁の二番目の弟) が霊となって現れ、彼の実母は、大正天皇にはべった女官の一人の、何某様だ・・・・

 皇太子時代の裕仁仕え、切腹した侍従(乃木大将)が現われ、その霊は、 「秩父親王が正式の皇太子に着くべきだと主張したが退けられた・・・」と、親王自身の服装を着けて言った。

 大正天皇の侍従の霊が現われ、自分は貞明皇太后(裕仁の母)の愛人だった、と言った・・・

 九条家の人たち(貞明皇太后の兄弟と義理の妹)が質問をした。

 秩父親王の生霊が現われ、礼子(伊藤礼子で学習院での赤問題に絡んでいた)との情事関係を話した。

 あらゆる鏡には、表と裏の両面がある。我々の鏡の表面には、我々が大神を崇拝すれば我々は守護されると公に刻まれている。だがその裏では我々は、皇族の役目は、最終的に、天皇維新への道を清め照らし出すことと信じている。裏面はそうした意味をはらみ、表面がいつの日か裏面にお目見えできると平民に説いている。信仰心の篤い人でも、裏面に達するのは序々にである。そのさらに鏡の裏の先には、ひまろぎ等といったさらなる光明があって全き天啓をもたらしている。最も意識の高い人のみがそこに到達しえ、それはめったにあることではない・・・

 7月17日に、この世のあらゆる霊魂の集いがある。五光が初めてお集まりになる・・・ 明治天皇の御霊は、貞明皇太后の用件にさかれ、今回は参加されない# 3。この集いで、国体明徴と維新――神の治世と神の世――への道が開示される。

 五光がなす使命は、摂政を決め、年少の皇太子(現天皇、明仁)のために補佐を選ぶことである。霊魂の世では、皇太子は明治天皇の霊魂を引き継がれ、同時に、偉大なご自身でもおられる。これは我々に明示されてきていることだ。従って、秩父親王は高松親王に道をゆずって引退し、高松親王が補佐と摂政になられる。現天皇は、15年後(1951年)に亡くなる・・・ 現天皇は前世からの罪をあがなう因縁があり、国体明徴の道と維新の実現はできない。彼は早い逝去が避けられない。我々は、大神の維新と国体明徴をなしとげるために、開明をなしとげ、我が国土の大神に至高をささげねばならない。これがいわゆる天の岩戸開きであり、我々がそのための鍵を持っている・・・五光は十、二十、四十の光となる・・・我々は信奉を続け、広げなければならない。


 # 2 兄弟を混同しているようだ。皇后良子の兄、朝融は、1924年、婚約を破棄した。それは、その婚約者が難波の近親者と関係をもっていたからであった。(43)

 # 3 貞明皇太后は、息子の裕仁に対する小陰謀事件に巻き込まれた。五光の正体は不明である。ある教育ある日本人の推測では、4人は数世紀昔に天皇のために死んだ忠臣であり、一人は最近犠牲となった、一番手烏の永田であろうということだ。

 島津夫人が警察で思い出したことは、かくもとりとめのないことだった。しかし、たとえ話が猥雑でつかみどころがなくとも、その話を反論もなく聞いた者には、大逆罪を確信させるに充分なものであった。また悪いことに、その神秘主義は、裕仁を排除することを確かに欲し、裕仁の統治の間の多くの殺人の罪を裕仁にきせているように、いっそう見せてもいた。


最後の扇動

 1936年1月27日、東久邇親王は、1933年の神兵隊事件に連座した疑いで投獄されてきたおよそ500名の屈強な剣士が釈放された時、新たな脅迫の手段に出た。東久邇に忠実な使い走り、安田予備役中佐の監視下で、仮釈放中の彼らが拠点を設立し、叛乱部隊――もし、来る叛乱に何らかの不発が生じた場合、その代役に使える「選りすぐりの部隊」 ――として何時でも動ける用意を整えていた(44)。東久邇の手下の安田は、その動向の情報を使いを通じて東久邇の屋敷の門衛# 4に逐次伝えた。実際には、この予備部隊が役立つことはなかったが、彼らは、この予備部隊となることで、刑の執行からは逃れることができた。

 # 4 東久邇の守衛班長は清浦末雄大尉だった。彼は、1924年の長州閥排除の際、裕仁が閑職から引き立てて政府を率いた、清浦元首相の八男。(45)

 1936年1月28日、永田の殺害者で、東久邇の部下の相沢少尉の軍法会議の裁判手続きが開始された。この手続きは、第一師団の兵営で、感情的に最も高ぶった雰囲気の中で進められた。第一師団は、東京に拠点をおく、二つの師団のひとつで、反ファシストの国体原理派の若手将校がもっとも結集していた師団であった。またそれは、過去の陰謀計画の中で、どの師団より多数の叛乱軍を提供することが期待されていた師団でもあった。軍法会議の相沢被告は、1926年から1931年まで、その師団で大尉と少佐を勤め、その師団の将兵は、その12月に、満州の守備隊任務に直ちに移駐されることが通告されたばかりであった。第一師団はそれまで、戦時下の作戦行動を除き、海外に派遣されたことはなかった。

 暗殺者相沢を担当した弁護人は、満井佐吉中佐だった。彼は、二年前、三井財閥の幹部宅に押し入り、また、数ヶ月の間、北進派の兵卒の中で、南進派のスパイ、山下少将と緊密に共同して働いた。1937年には、満井は、1936年の叛乱に参加した罪で、三年間の執行猶予の判決を受ける。さらに1942年の戦時下、彼は国会議員に選出される。

 相沢の公判では、彼は満員の法廷で活躍した。 「もし、この裁判に誤りがあれば、それは深刻な結果をもたらしましょう。・・・もし、この法廷が、相沢が従った精神の理解を誤れば、第二、あるいは、第三の相沢すらが現れてくるでしょう。・・・圧倒的多数の下士官は、陸軍が影響力を失っているとしてその一掃を決断しており、国民も、陸軍が真に天皇の軍隊であることを証明するよう、心底から望んでいます」、彼は演説した。

 暗殺犯相沢は、被告席に着かされ、同情的な反対尋問を受けた。彼は、東久邇親王と朝霞親王と会ったことについては、ひと言も漏らさなかった。しかし、永田を殺すためではなく、警告するための最初の上京について証言し、「私は車中では眠れず、翌朝、あたかも空から聞こえてくるような声で、早すぎる行動はするな、と言うのを聞きました。・・・後になってから、私は、永田があらゆる悪の根源だと知りました。もし、彼が辞任しようとしないのなら、するべきことは、ただ一つでした。私は、自分を鬼にし、一刀で彼の命を終わらせると決心しました。・・・統帥権により、教育総監が軍事参議院の名誉職に転任させられた時、私には、皇軍を私兵化したかに感じました。」

 大兄で内大臣秘書の木戸は、相沢裁判の進路を閉ざし、その行方に懸念をもたらした。しかし、2月2日、入念な調査の後、彼は、すべてに問題はないと決断した。彼は、弁護人の満井中佐を、満州征服を計画した石原莞爾大佐や、後にアメリカの小型砲艦パナイ号沈没させた火付け役の橋本欣五郎大佐らと比べてみた。三人は皆、国内改造の必要を感じており、国体原理派に同調していた。「しかし、いざという時においては、彼らは外部者と統一戦線を形成するだろう」、と木戸は結んでいる。(47)

 相沢裁判が進行する一方、国会が解散し、国は1932年以来の二度目の総選挙戦に入った。陸軍の北進派は、伝統的な武士道精神の綱領を掲げて〔機関説排除を訴えた〕政友会を押した。反政友会、裕仁の統制派そして清軍運動は、現職の岡田首相を押した。彼らは、ファシストに傾き、「議会政治かファシズムか」とのスローガンのもとで運動した。人々は、そのスローガンに動かされ、205議席のうち、174議席を政友会に与え、地滑り的勝利をもたらした(48)〔訳注〕。それは、裕仁の公式の表明が支持され、彼が密かにもてあそぶファシスト構想が拒絶されたことは明らかであった。

 〔訳注〕 この選挙結果は誤り。1936年2月の総選挙結果は、政友会が敗北し、他方、解散前3議席であった無産政党が、社会大衆党をはじめ21議席に増やした。これは、軍部と戦争政策への有権者の批判と読みとれる。ここに述べられているように政友会が大勝したのは1932年の選挙の結果で、著者は両選挙結果を混同している。

土壇場の勇気

 一月中に、反目する国体原理派の若手将校たちは、秩父親王、川島陸相、北進派の真崎大将のもとを訪問した。三人はいずれも友好的ではあったが、支持も邪魔もしないといった、どっちつかずの態度であった。たとえば、真崎大将は、彼らに金を貸してもよいと言いながら、「何が生じても、誰から提供されたかは言わないように」 とつけ加えた。

 1月28日夕刻、謀略者たちは、同調的な中隊長、山口一太郎大尉――裕仁の侍従武官長本庄大将の娘婿――と会った。2月10日に彼らは再び、山口大尉と彼の勤務する第一師団、第一連隊の参謀室で会った。そこで初めて、彼らは叛乱の計画の具体的な作戦行動について話し合った。その翌日、北進派の理論家、北一輝の自宅に代表を送り、彼の弟子で従事である西田力に会った。彼らと同じく、西田も秩父親王の友人であり同窓生であった。1921年に秩父親王のために書かれた一輝の急進的な論文を最初に謄写版刷りにして知識人に配ったのは西田であった。今、彼は謀反者らを歓迎し、彼らのために大衆的な支持を集めることを約束した。

 2月15日、消極的な叛乱兵士たちは、宮廷から送り込まれている監視役、山下少将と再び会った。その翌朝、若手将校らは、自連隊の兵器庫の武器を得る手順を確認した。また翌々日には、安藤輝三大尉――山下少将に最も親しい陰謀首謀者――は、仲間の会合において、 「私はもうあえて決起する気はない」# 5と率直に吐露して、陰謀計画に冷水をあびせた。

 # 5 1932年、犬養首相暗殺の後、山下の命令で、安藤は、東京大学の学生で血盟団と牧野内大臣の間の連絡係であった四元義隆を自分の住居に数日間かくまった。
 安藤が一同を白けさせた後、他の陰謀者たちはなんとか、 「次週の半ば」 を決行日と決めた。そしてその翌日の2月19日、陰謀者間のさらなる会合で、東海道を下った豊橋の陸軍学校の同魂同志が計画に加わり、老公西園寺親王を暗殺することを引き受けたと知らされて元気付けられた。

 2月21日、一年前に扇動小冊子を書いて軍を追われた磯部と村中は、侍従武官長の娘婿の山口と再び会って、再確認をとった。第一連隊の週番司令として、山口は、自分の連隊には、叛乱に参加しない者でも、それを制圧する命令は誰も受け取らないことを確約した。その夜、週番司令の山口は、北の理論の謄写刷版発行者の西田――北進論の第二の理論家――を自宅に招き、師の北に、決起の日は2月26日に暫定的に決まったことを伝えるように頼んだ。(49)

 決起日4日前の翌朝、若手将校たちは集まり、互いに緊迫していることを認め、そして、東京を占拠しえた時、壁に掲示し、ラジオで放送するつもりの趣意書の最初の文案を書いた後、散会した。(50)

 決起日3日前の2月23日、若手将校たちは、彼らの兵器庫から2,000発分の弾薬を運び出し、また、新たな大尉や中尉を数名、仲間に迎えた。西園寺親王を暗殺する計画は、政治に長けた叛乱の支持者から異論が出た。そこで同日、本庄の娘婿の山口は、失墜した北進派の真崎大将に相談をもちかけた。すると真崎は山口に、情報屋の亀川哲也――政友会の一部# 6から叛乱への資金援助を得る仲介役をしてきていた――に会うように助言した。(51)

 # 6 ことに、日立財閥の創設者、久原房乃助。彼は、株式と広範な資本財の保有に基ずくアメリカ式資本主義の熱心な主唱者であった。

 決起日2日前の2月24日、情報屋の亀川は、相沢の裁判を担当する民間人弁護士を訪ねて蜂起計画の全てを明かし、追放された真崎大将を次期首相に推薦するよう西園寺親王を説得するよう、協力を依頼した。その弁護士は、名を鵜沢聰明という西園寺の友人で、出来るだけのことをし、西園寺には暗殺されようとしていると警告するとすると約束した# 7。(52) この警告は、西園寺の執事で国会議員の津雲国利と、西園寺の以前の秘書である事業家中川小十郎をはじめとする、入り組んだ経路を経て、興津に届けられた。(53)

 # 7 一年後、法務大臣のおひざ元の秘密軍法会議において、憲兵隊は鵜沢弁護人を叛乱の共犯者としてその告訴を試みた。しかし、鵜沢がタイミングよく西園寺に警告を与えていたことが、彼を投獄から救った。というのは、数回の審判の後、西園寺に感付かれることなく鵜沢の裁判を続けることは困難なため、彼に対する裁判は取り下げられたからであった。(54)

 西園寺はその警告の信頼性を疑うことなく、即座に対応した。そして、興津と東京の宮中との間に敷かれている、スパイ秘書の原田という 「確実な連絡回路」を作動させることにした。西園寺は、使用人たちに、あたかも何も知らないよう、また、あたかも老いた主人が何事もなく在宅しているかのように、自然にふるまって電話に出るように指示した。その上で自分は、椅子かごに乗って、密かに、自宅の裏山に移動した。そうしてその人目につかない道で公用車に乗り移り、警護の厳重な静岡県知事公邸へと運び去らせた。(55)

 一方、同じ決起日二日前、野中大尉――秩父親王と親しい叛乱将校の一人――は、趣意書案を北進派理論家の北一輝宅へと届け、それに手を加えてくれるよう依頼した。北は、その軍人たちが書いた無骨な文章を、火炎のような論理と難解な漢文調の文体に改め、古典風名文に作り替えた――これが数日後、天皇裕仁に読み上げられることとなる――。この手直しの後、野中大尉は、北の手下の西田と北の仕事部屋にこもり、その文案を清書し、皇位に提出するための巻物に仕上げた。(56)
 その夕刻、本庄の娘婿の山口大尉は、第一連隊の指令室で謀反者らと会い、叛乱計画の詳細をつめ、陸軍大臣公邸、陸軍省、そして一般参謀本部の警護地図を謄写版印刷したものを200部与えた。

 決起日前日の朝、謀反者らは、かねてからの陰謀の黒幕である前内大臣の牧野が、二時間ほど隔たった湯河原の田舎旅館に隠れているところが発見されたと伝える彼らの一妻からの手紙を受け取り、活気づけられた。この情報に基づき、一人の若手将校が、同志が東京で決起するのと同時に襲撃する準備を整えるため、湯河原へと車で送り出された。(57)

 同じ朝、追放された北進派の真崎大将は、相沢の裁判の弁護側証人として呼び出されていた。彼は、相沢に代わって、宮中の要職にあった者が天皇の許可なく執務中に知り得たことを暴露することは出来ないことを理由に、問われた質問に答えることを拒否した。そして法廷では、真崎は多くをしゃべらずに50分を過ごし、新聞記者の質問にも、その返答を拒否した。その日の午後、相沢の軍人弁護人、満井佐吉中佐は最終弁論を述べたが、能弁ではあったものの、事実はには言及せず、ただ心証を述べただけであった。(58)

 かくして、裁判が開かれていた第一連隊の兵営では、相沢は絞首台に送られるのを黙って受入れ、真崎は沈黙のうちに退役し、そして結局、南進派が勝利するだろうことは、誰の眼にも明白となっていた。第一連隊の若手将校たちは、信念上の望みの余り、自分たちと同世代の天皇が、現実を充分に知っていないのだろうと感じていた。だからこそ、山下少将を通じ、あるいは、侍従武官長本庄の娘婿である山口大尉を通じ、あるいは、秩父親王を通じて、彼らは、裕仁には真実を示し得るだろうと考えていたのだった。(59)

ついに流血(60)

 高貴な人々の勇気付けから三ヶ月以上が過ぎた時、謀反者らは遂に、面目躍如に行動を開始した。その夜を通し、一団をなしていた19人の尉官は、第一および第三連隊の同朋将官たちに号令を発した。秩父親王は1922年から1935年8月まで第三連隊に属しており、彼の名は彼らによって〔同志として〕自由に使われたが、新たな参加者は、いずれも少尉である二名を獲得しえたのみだった。それに、謀反者たちが同僚たちから引き出しえたものも、良くても、邪魔をしない誓い程度だった。

 2月26日、午前2時、皇居からおよそ20区画離れた麻布の第一、第三連隊の兵営に公然と起床ラッパが鳴りわたった。それからの一時間に、まだ眠気に捕らわれていた兵士たちは、陰謀者からの長広舌と、反陰謀者からの警告の双方に見舞われた。それでもなお、兵士たちは高揚した気持ちをもって行動を起こし、午前3時30分頃には、1359名の兵士と91名の下士官たちが、計画に関わってきた2名の大尉、8名の中尉、11名の少尉に従っていた。午前4時には、装備を着けた叛乱兵らは出発を始めた。彼らは、およそ8,500名兵士を兵営に、まだいびきをかいている将校多数を近くの上官宿舎に残していた。彼らはまた、侍従長本庄の娘婿の山口大尉を、邪魔をしないという誓約を守らせるために残していた。

 二月の朝の厳しい寒さの中、兵営の外では、皇居の聖域内の兵営から、精鋭近衛師団第三歩兵連隊第七中隊が彼らに合流した。この合流部隊は、他の部隊と違って、自分たちが叛乱を起こしているとは知らなかった。秩父親王の友人で彼らの指揮官である中橋基明中尉は彼らに、明治神宮での神事のために行進すると説明していた。13台のトラックが先遣隊を運ぶために待機していた。三人の見習い医師が、負傷者が出た場合に備えて同行していた。

 東京は一面、雪に覆われ、まだ雪が降っていた。雪を踏みしめる兵士たちの靴音が、まだ暗く人けのない街路に響いていた。彼らの兵営から皇居までは、1マイル半〔2.4km〕もなかった。午前4時30分までに、堀に囲まれた皇居に近い東京の官庁街の神経中枢のすべてに、偵察兵の列による無言の警戒線が張られた。そこには、国会、陸軍省、幕僚本部、警視庁、国土地理院、内務省、外務省、そして、海軍省と軍令部が位置していた。さらにその警戒線内には、閑院親王、高松親王、内大臣、正副陸軍大臣、正副外務大臣、内務大臣、そして首相の公邸があった。


 午前5時までには、叛乱軍は、主要な目的地を占拠し終わっていた。前線司令部を設置する予定の山王ホテルでは、宿泊客――2,3名の西洋人が含まれていた――が起こされた。それらの客は、ホテルの交換台に配置された人員により、丁重に東京の他のホテルや旅館に新たな部屋がとられた。陸軍大臣公邸では、叛乱兵士は自分たちの存在を川島陸相に通告したが、重い風邪で寝ている必要があるとの要望があり、彼らは、面会のために大臣が起床できる午前7時まで、そのままにしておいた。警視庁では、夜勤にあたっていた巡査たちに彼らが加わって、外部の歩哨が二倍となった。

 参謀本部では、灯りがこうこうとともされ、今や作戦課長の石原莞爾大佐――満州作戦の戦略家――が、遅ればせに届いた決起の報を受け取り、部下と会議を持っている最中だった。午前5時頃、石原大佐は自室から飛び出してきて、外で任務についていた叛乱軍の歩哨一人を撃ち、自分の公用車で自らがすべきことを成しに出て行った。しかし、時はすでに遅しであった。(61)

 暗殺部隊は、 「君側の奸」〔天皇の傍に使える悪人〕 を殺すために、5派に分かれてすでに出発していた。午前5時5分、その第一派が襲撃を開始した。近衛師団の中橋基明中尉に率いられた百名の兵士は、もじゃもじゃの髭を蓄えた日本金融界の “サンタクロース” かつ、秀でた異端派経済専門家である大蔵大臣高橋是清、81歳、の自宅を取り囲んだ。屋外で守衛に当たっていた警官を負傷させた後、中橋中尉は住居内に押し入って老蔵相の寝室に駆け込み、布団をはぎとって 「天誅」と叫んだ。高橋が眼をさました時、中橋は彼に三発発射し、さらに周到に、刀で二度、突き刺した。彼は即死した。

 同じころ、200名の兵士と一人の中尉、三人の少尉からなる第二派の殺人部隊は、新たな内大臣で元首相の斎藤実大将宅を包囲していた。物腰柔らかく、好人物のその老貴族は、前夜遅くまで、アメリカ大使館でグリュー大使夫妻とジャネット・マクドナルド=ネルソン・エディーの映画、 「Naughty Marietta」 を鑑賞し、ぐっすりと寝込んでいた。 (62)

 若い尉官たちが駆け込んでくる音を聞き、斎藤子爵夫人は夫の脇からとび起き、彼らの眼前で寝室のドアを閉じ、 「ちょっとお待ち下さい」 と叫んだ。
 尉官たちがドアを蹴破ると、斎藤大将は起きて、夫人の後ろに寝巻姿で立っていた。三人の尉官はほどんど同時に彼を撃った。夫人は夫の体に被さってしっかりとしがみつき、泣き伏した。尉官たちは、彼女を引き離すことができないため、その体の下に武器を差し込み、ヒステリックにさらに銃弾を撃ち込んだ。後の裁判で、彼らはその老人の喉を切ろうとしたが、婦人が邪魔でそれが果たせなかった、と証言している。 (63)

 全部で47発の銃弾が斎藤大将の体に撃ちこまれ、夫人は両腕と肩に傷を負った。暗殺者らは、引きあげる際に玄関の前で静止し、天皇陛下に 「万歳」を三唱して立ち去った。

 暗殺部隊の第三派は、山下少将の手下、安藤輝三に指揮され、侍従長の鈴木貫太郎大将宅を襲撃した。彼らは、門前での守衛警官との小競り合で手間取り、10分ほど遅れた。鈴木侍従長もその前夜、グリュー夫妻といっしょだった。安藤は、彼が夫人といっしょに寝ているところを発見し、彼と国策について議論してさらに時間をくった。侍従長はなかなかの口上手で、安藤大尉と10分ほどの遣り取りを交わした。

 だが、公式記録によると、午前5時10分、ついに安藤は、拳銃でその議論を断ち切り、その68歳の侍従長に三発を発射した。彼は、脇に居た夫人に、 「まだ脈がおありなので、彼に刀でとどめを与えたい」 と言った。

 武士道を心得ていた夫人は、 「どうしても必要というなら、私がそれを致します」 と答えた。 「恥じ入った」 安藤は、そこでその部屋を後にしたという。

 その後二日間、叛乱軍の同志が雪の中を警戒している間、安藤は近くの料亭 「後楽」 で時間をつぶしていた。そして、叛乱が不成功に終わった時、彼は自殺を試みたが失敗した。明らかに、彼はその狡猾な老被害者と取引をしていた。侍従長鈴木は、四日後、危篤状態を脱して生き延び、後に、戦時中最後の首相となった。

 鈴木は、後に好んで話したように、 「みっともない」 死にそこないを演じた。彼に発射された弾丸の一発は、彼の急所に残っていたらしく、彼を手術した外科医は、「金玉から鉛玉」 を摘出した自分の処置の手際の良さを、偉業めいた歌にして書き残した。

 侍従長の鈴木が苦痛と格闘している時、300名の兵隊と五人の尉官からなる第四派の暗殺部隊は、三人目の南進派海軍大将、岡田啓介首相を襲った。彼の公邸は、フランク・ロイド・ライトの設計になる帝国ホテルを模した奇怪な建築物で、四年前、犬養首相がそこで、霞ヶ浦の飛行士によって撃たれていた。先の悲劇や数々の警告話にも拘わらず、わずか4名の警官が警護についているのみだった。襲撃部隊はその四人を射殺し、五人の尉官は公邸の迷路のような廊下や各部屋を手分けして捜索し始めた。

 73歳の首相は、前夜を名高い芸者の妾と過ごした後で、自分を守ろうという気概はもうなえていた。そして、 「万事休す。何をさわぎ立てる」 と、悲惨げに言った。

 だが、彼の女中や秘書官で義弟の松尾伝蔵大佐は、彼を寝床から引っ張り出し、彼の部屋を出て使用人区画へと急ぎ連れて行った。捜索する兵隊の足音が聞こえると、彼らは首相をそこの便所に礼儀もなく押し込め、そして彼に、内側からかんぬきをかけて閉じるようにと言った。そうしておいて松尾大佐は、英雄的な行動に出て付近の中庭に跳び出して「天皇陛下万歳」 と叫んだ。彼は瞬くうちに機関銃弾の雨を浴び、彼の顔はほとんど識別が出来ないほどの様相と化した。

 彼を撃った兵士たちがその遺体を岡田の寝室に運び、吟味した。彼らは写真とその顔を見比べ、女中たちの機転も手伝って、それが岡田首相だと判断した。

 その朝、憲兵隊員が叛乱軍によって占拠された皇居の堀に沿った地域に入りこみ、兵士たちと平穏に接触した。そうして捜査をしているうちに、憲兵隊は、首相公邸の女中から、岡田首相がまだ生きていることをつかんだ。岡田の秘書官の娘婿やその付添いが、首相の身代りとなった松尾の葬儀をするようにと、叛乱軍の警戒線を越えて呼び出された。他方、ようやく落ち着きを取り戻した岡田は、もっと居心地のよい、押し入れの中に移されていた。松尾の会葬者たちには同情が寄せられ、叛乱軍の監視も緩んでいた。

 翌朝、岡田の生き残った秘書官の福田耕は、お棺運搬係として、フロックコートを着た二十人ほどの年配の憲兵隊員を官邸に連れこんだ。空腹で疲れ切った岡田は、持ちこまれたマスクと丸縁眼鏡で変装し、義弟の葬儀の会葬者に紛れこんだ。棺が官邸から運び出される際、憲兵とともに連れてこられた一人の老いた棺運搬係が心臓マヒを装って倒れ、担架で運び出された。そうした混乱にまぎれて、困憊していた岡田首相を車に押し込み、脱出させた。

 東京での暗殺と時を合わせて、近県でも襲撃が行われた。蜂起の夜、兵士と予備役と士官候補生の一団が、老西園寺を暗殺するために興津に結集したが、警察によって解散させられた。一方、前内大臣の牧野は、20歳の孫娘の和子――戦後の首相、吉田茂の子供――とともに、湯河原の温泉旅館に身を潜め、事前の警戒はしていなかった。午前5時40分、夜中に使命を与えられた叛乱兵の一団が、その旅館に到着し、玄関前に機関銃を据え付け、宿の使用人に弾丸の雨をあびせ、牧野を要求した。すぐに牧野の一人の護衛官が現れ、拳銃を撃ちまくった。彼は、襲撃隊々長の河野寿大尉に傷を負わせたが、機関銃弾で穴だらけにされた。掃射された銃弾は、日本の旅館のやわな構造を貫通し、牧野の看護婦と彼の使用人が負傷した。 (64)

 その短い銃撃戦の間、老いた策謀家牧野と孫娘は、他の泊り客や従業員と一緒に、旅館の裏口から抜け出し、裏山に登った。負傷した河野大尉――逮捕された後に死亡――は、その建物に火を付けるように命じた。建物が燃え上がっている間、兵士たちは、斜面を這い登ってゆくのが見える人影に、機関銃を向けていた。

 後に牧野によって語られ、また、牧野の娘婿の後の首相、吉田茂が幾度も繰り返した話によると、牧野が裏山のある地点に達した時、彼の息はあまりに絶えだえで、それ以上先に進もうにもあまりに急こう配だった。彼はそこにしゃがみ込んでしまい、眼下の処刑執行者らを見やっていた。孫娘の和子は、彼の前に立ちふさがり、着物を広げて彼を隠した。二人とも、炎が彼らを照らし出しており、てっきり、もう最後かと思ったという。彼らからは、兵士たちが明るい炎を背景に、きびきびと動いているのが見えたが、そうした兵士からは、暗い山肌に溶け込んだ彼らはほとんど見えなかった。

 機関銃は発射されず、襲撃が始まってから40分間後、山中にあって牧野は無事やりすごしていた。消防隊が消火を始めたころ、若い叛乱軍兵士は機関銃をしまい、やってきた地域駐屯地に引きあげ始めた。

 東京では、叛乱軍部隊は、その当初の目標を果たし、第二の段階に移っていた。午前6時、斎藤内大臣に47発の弾丸を撃ち込んだ血に飢えた部隊の一部が、渡辺錠太郎大将――前年夏、真崎に代わって教育総監の地位についていた――の自邸前でトラックから跳び降りた。そうした彼らを渡辺夫人が玄関先でさえぎり、その出身部隊の名を要求した。彼らは夫人を脇にどけ、渡辺大将が立って彼らがくるのを待ち構えている居間へと走り込んだ。彼が「止めろ」 と命ずる間もなく、彼に最初の弾丸が撃ち込まれ、そして、いっせい射撃を受けて彼は倒れた。一人の少尉が、自分の刀で大将の喉を切り、その襲撃を終わらせた。

ポーカーの手の内

 暴力沙汰は終わった。その朝も昼近く、叛乱部隊は、五大新聞社の建物を占拠し、そのうち、最も保守的な朝日新聞社の印刷を止めさせたが、人を殺すことはもうなかった。事件を目撃した西洋人を驚かせたことは、そうした叛乱劇が、突然に麻痺状態となって叛乱が終幕すると、1,483名# 8の兵士たちは東京中心部の完璧な占拠地帯に、〔それ以上の作戦展開もなく〕取り残されたことだった。

 叛乱軍が日本帝国の中枢部を掌握したそれからの三日間、裕仁は自分の対処に不満な高官全員を相手に、暗黙の権力闘争を繰り広げていた。そして裕仁は自ら、ほとんど独力でそれを闘い、三つの主要な政治抗争に勝利をあげた。すなわち、彼は、叛乱軍が降伏するまで、次期政府のいかなる政策や人事にも譲歩することを拒否した。次に彼は、陸軍が、叛乱軍の鎮圧のみならずその蜂起そのものにも全面的責任があり、その責任をとる場合も、現人神としての裕仁の力に何らの依頼もあってはならない、と釘を刺した。さらに彼は、宮廷高官や皇族に断固とした態度をとり、公然と異論を表す者らには、それを厳しく圧した。

 # 8 1,359名の兵士、91名の下士官、21名の将官、3名の医師見習い、8名の民間人、そして、1名の予備兵。 (65)

 叛乱が鎮圧された時、裕仁の宮廷人たちは、この三日間に宮中で生じた諸事についての見解を宮廷内に広げたが、彼らの日記が物語るように、それは虚偽であった# 9。つまり 〔そうした見解とは〕、来る戦争という賭けが裏目に出た場合の反作用から天皇を守り、また、裕仁は任務のない叛乱軍兵士に仕事を与え、対中戦争の準備に同意することを強いられていたため、と言うものだった(66)。だが真の状況は、侍従長の本庄の日記に如実に表現されている。すなわち、蜂起の前日の2月25日、天皇は、戦時の足がかりを固めるために北中国の天津駐屯軍の編成拡大を認めた、と本庄は記している。そして天皇は本庄に、その編成拡大は、「外国の不信感を刺激してはならず」、かつ、「(満州征服の前に)我々が関東軍を再編成した場合のように、統制を不便なものにしてはならない」 と、〔その真意を〕告げている。

 裕仁が本庄に説明したところでは、 「要は、我々が何をするかでなく、我々のすることへの世界の反応だ」、だったのである(67)。

 # 9 最近まで、文献証拠がないために、歴史家はそれを受け入れるしかなかった。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_50_20_1.htm
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_50_20_2.htm


03. 中川隆 2013年3月01日 20:51:53 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

鎮圧(1936)
叛乱の夜明け

 叛乱兵やその支持者に対する裕仁の圧倒的勝利は、早朝の最初の暗殺の数分前からすでに始まっていた。午前5時、本庄侍従長は東京北西部の自宅で、第一師団の少尉によって揺り動かされて目を覚ました。その少尉は、同師団の500名の士官と兵士が叛乱をおこしてすでに兵営を出発し、それ以上の将兵がそれに続いている、との娘婿の山口大尉からの知らせを持ってきていた。本庄は立ち上がると、ただちに戻り、山口大尉に、兵士に叛乱をやめさせ、兵営に戻させるよう、その少尉に命じした。

  「しかし、もう手遅れです」 と少尉は答えた。

  「最善をつくせ」 と本庄は命じた。そして電話に向かい、憲兵隊司令官と、天皇の寝室の近くに控えている宮中の夜勤番の侍従に電話をかけた。二人とも落ち着いており、当たり障りのない返答だった。本庄は車を呼び、宮中へ向かった。その途中、皇居のすぐ西にある英国大使館付近で、ほぼ一中隊の兵士たちと遭遇した。彼は、その兵士たちの軍服から、精鋭の近衛部隊の宮廷護衛部隊ではなく、彼の娘婿の属す第一師団の叛乱兵だと判断した。だが彼は、車を止めて彼らにそれを確かめようとはしなかった。

 本庄は、午前6時、内宮に到着し、裕仁がすでに起床し、執務に付いているのを知った。数分して天皇に謁見すると、天皇は彼に、 「直ちに事件を終わらせ、この災いを転じて福となしなさい」、と告げた。そしてとがめるよう加えた。「侍従長、お主のみが、この事件が起こると予期し、案じていたね。」

 自分の娘婿のことを想い浮かべながら、本庄は答えた。 「若手士官たちはただ、自分みずから、すべてをおおう天皇の正しき世界の中に、彼らの正義感を託す場所をみつけようとしているだけなのです。」(68)

 木戸幸一侯爵――二ヶ月前までは牧野内大臣の、15分前までは斎藤内大臣の秘書――は、午前5時20分、その斎藤内大臣が襲撃されたと伝える宮廷からの電話で起こされた。木戸は即座に、「重大事件であることをさとった」。彼は警視庁に電話を入れたが、叛乱軍に包囲されていて、誰もが制約を受けずには話せないでいることを知った。 そこで彼は、公用車の車庫に電話し、直ちに宮廷まで行ってっくれるように頼んだ。その車の到着を待つ間、木戸は、近衛親王と西園寺のスパイ秘書の原田に電話して、そのニュースを伝えた。

車が到着すると、彼は用心深く、叛乱軍が占拠していると思われる地区を迂回して、遠回りするように指示した。(69)

 午前6時、皇居外苑にある宮内庁の自分の机に着いた。そこで彼は、状況を掌握するため多くの電話をかけたが、その一本は、6時40分の興津の西園寺宅にかけたものだった。電話に出た女中は、確かに老主人とその家族は静かに就寝中であると告げた。木戸は、西園寺が数マイル離れた静岡県知事公邸にいることを、知っていたかどうかについて、どこにも明らかにしたことはない。木戸は自分の日記に、「大いに安心した」 とのみ記入しているだけであった。(70)

 あまたの電話で出来る限りの情報を得た後、木戸は、宮内庁内で、スパイ秘書の原田の到着を待った。彼は、叛乱軍兵士に検問された時に備えて、宮内省の証明書を手に、午前7時ちょっと前に、徒歩でやってきて、木戸からの指示を受け取った。その受領後、原田は、皇居北の門に向かうのでも、また、任務として西園寺に仕えるため興津に向うのでもなく、叛乱兵士の占拠する地区の自宅に戻り、次の二日間を、近所家の隠れ家から、通常のように電話をかける作業で費やした(71)。

原田は察知していなかったかもしれないが、彼は、 「お節介な小男男爵」 として、叛乱士官の持つ 「発見次第射殺」 のリストにあがっていた(72)。そういう彼は、自分の近所宅に潜みながら、勇敢なスパイ役を演じていた。彼は木戸と綿密に電話連絡を取りながら、夜には危険をおかして外出し、叛乱軍の野営を監視していた。

 木戸は、原田に指示を出した後、皇居内の庭園を歩いて横切り、内宮の裕仁の居住兼執務区画に入っていった。そして、裕仁の執務室の外にすでに集まっていた、侍従武官、湯浅宮内省大臣、広田副侍従長に合流した。彼らは、木戸が電話でその情報提供者より収集したものより、さらに新しい情報を彼に与えた。それによると、侍従長、首相、蔵相、そして内大臣、の全員が襲撃されていた。信頼されている天皇の他の寵臣と同じく、木戸はその後一週間、宮廷にとどまりつづけた。彼には、皇居図書館の裕仁の執務室から廊下を行った先に、仮の小寝室が与えられた。彼は、その侍従の部屋の畳部屋に、布団をしいて寝た。彼は、24時間、いつでも天皇の呼び出しに備えていた。(73)

蹶起趣意書

 2月26日午前7時、川島陸相は、自分の寝室からようやく階下に降りて来て、邸宅の一階を占めた叛乱軍士官と言葉を交わした。彼らは陸相に、蹶起趣意書の正本を渡してそれを天皇に提示するように要求し、その写しの文書は、占拠地区のいたるところに張りだされていた。そこに明記されていた要求事項は、政府は天皇の執権の全面回復を宣言し、陸軍は派閥主義を撤廃し、それまでの陰謀の「首謀者」 である南、小磯、建川、そして宇垣各将を逮捕し、裕仁の特務集団の将官は軍職から追放され、荒木大将を関東軍の司令官にして 「ロシアを威圧し」、そして、陸相はこうした要求を天皇に提示するに先立って、北進派指導者の真崎と協議するよう求めていた。その文書はまた、陸相が、副陸相で天皇が信頼する航空専門家である古荘幹郎中将、および、宮廷の隠れたスパイ――叛乱軍人たちには知られていなかった――である山下奉文少将と話し合うことを推していた。川島陸相はそうした要求を重々しく聞き取り、自分ができるだけのことをする旨、約束した。(74)

 午前8時、海軍軍令部総長の伏見親王が宮中に到着し、すぐさま裕仁に謁見した。彼は、各艦隊は、横須賀海軍基地から東京湾へと航行中であり、天皇の号令ひとつで、叛乱軍地区への砲撃の準備が整っている、と報告した。そして同時に彼は、新内閣を直ちに組閣し、叛乱軍に少々の譲歩を見せるよう助言しようと考えていた。叛乱軍の多くは、秩父親王の親しい友人であり、彼らを余りに過酷に扱うのは良くなかった。天皇は同意したのだろうか?(75)

 それまで伏見には賛成できないことが多くあり、また、議論にも巻き込まれていたことを知っていた裕仁は、ただこう答えた。 「私は海軍の状況について、貴殿の報告を求めただけだ。この事件に関する私の意見については、すでに宮内省大臣の湯浅に述べてある。」

  「それでは、湯浅に伺ってよろしいでしょうか。」
  「その要望については、返答はまたの機会にしよう」 と裕仁は返答し、伏見親王は退席した。憤懣やる方ない伏見は、大兄で賞勲局長の木戸のところに直行し、すべたの親王たちに、そのいざこざの件をつたえるよう、命じた。
 午前9時、川島陸相は、叛乱軍との遣り取りを終わらせて直ちに宮中に到着し、天皇に謁見した。彼は、叛乱軍の蹶起趣意書# 1の巻物を提出し、それを天皇に慎重に読み上げた。(76)

 # 1 私 〔バーガミニ〕 は、蹶起趣意書の原文を以下に引用する。その深遠で近づき難い印象は、要約を許さないためである。そして、これまでに存在する唯一の翻訳版は、1936年にニューヨークタイムスの東京事務所で日本人翻訳者によってなされた独特の文体をもったものである――それは、日本近代史の数冊の文献に様々な形で引用れている――。それは、原文の内容をおおむねは表わしているが、手が加えられ、その灼熱地獄のような特性は失われている。

 〔訳注〕 以下には、英語訳の邦訳に加えて、原文のままの引用も掲載。(ただし、カタカナ書きをひらがな書きに改め) 。

         国体を護持する直接行動のための趣意書 (77)
 永遠の神、天皇に、その統率の下にある我々は、神国の子のそまつな見解でありながら、この不満の意を提出する。我国の本源は、なによりも、一体をなす単独国家の継続的発展の成就と、天の下の全地球の包含にある。至高の優秀さと国体の尊厳は体系的な成長と、神武天皇による国の設立以来、明治維新よる社会変革にいたる注意深い養育によるものである。いまや再び、時勢の秋に到達し、我々は広く外地領土に挑み、新たな光明へとの眼に見える進展を遂げならない。

 先の危機的時代にもかかわらず、いかがわしい不逞の徒が雨後の竹の子のごとく続出して、我々は、我利我欲にふけり、皮相な形式を許して皇位の尊厳を傷付け、すべての人々の創造的前進を阻害し、我らを怒りと悲嘆のうちに苦しませている。日本は益々と外国とのいざこざに巻き込まれ、時の潮流に押し流され、外国のあざけりの的となっている。元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は皆、指導者としてこの国体を破壊に導いてきた。

 (中略)三月事件や、えせ学者、えせ共産党員、逆賊的教団等が徒党を成して陰謀を企て、気付かれないままに、最も著しい事例を作ってきた。その悪事は血で天地をけがし、流血が義憤を表す時代に至っている。血盟団の犠牲的先進性(中略)、5・15事件の噴出、相沢中佐の刀の閃光は、彼らがなすべき理由と彼らを嘆かせた理由をまさしく物語っている。

 今のこの終末に至ってもなお、僅かな反省と忍耐のために、幾度にわたって、生き血がこの地を濡らすのか。かつての如く、ただ時を費し、あるいは、我欲と保身をむさぼっている。今や、ロシア、中国、英国、そして米国とは、一触即発状態にあり、神国を狙い、我が文化と祖先以来の遺産の破壊の寸前にある。これは火を見るより明らかなことではないか。実際、内外には深刻な危機が存在し、無能議員や無能家臣が国体を弱体化し、皇位の神聖なる輝きを曇らせ、維新を遅らせている。(中略)

 第一師団の海外移動の天皇命令を受け取った今、・・・国内情勢をかえりみらざるを得ない。・・・出来うる限り、我々と同志の精神は、宮廷の内壁を壊し、逆賊を斬首する自らの努めを果たさねばならない。我々は、単なる家臣でありながら、皇位より信頼された部下として正道を進まねばならない。たとえ、我々の行動が自らの命や名誉を害そうとも、我々にいささかの動揺もない。


 同じ悲嘆と意志を共有する我々は、この機会に決起する。逆賊を討伐し、至高の正義を正し、この聖地の子としての使命を全うし、我が全身全霊をその火に投じる。我々は大神と祖先に礼拝し、その恩恵とご援助を賜わらんことを。

 昭和十一年二月二十六日

                 蹶起趣意書(原文)
 謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。

 然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我慾を恣(欲)にし至尊絶対の尊厳を藐視し僭上之れ働き万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随つて外侮外患日を逐うて激化す、所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。

 倫敦軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件、或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にしてその滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、而も幾度か頸血を濺ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕らしむるは火を見るより明かなり。内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮し稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずして皇謨を一空せん。

 恰も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍の我等同志は、将に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡状憂心転々禁ずる能はず、君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし。

 臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪を翻すに由なし、茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神州赤子の微衷を献ぜんとす。

 皇祖皇宗の神霊、冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを。
 昭和十一年二月二十六日


 裕仁は読み上げられる趣意を黙って聞いていた。その高揚した言葉と武士道精神の背後に、彼は、自分の戦争政策への完全な否定を見出していた。その隠された、含みをもった形式に、叛乱兵たちは、今後の外交的混迷の危険の沈静と、彼の精力を国家改造と日本の伝統である素朴な情念への献身を裕仁に請うていた。

  「口実がなんであろうと、私は不興である。彼らはこの国に泥をぬった。陸軍大臣、貴殿に、即座の鎮圧を命ずる」(78) と、裕仁は冷たく言い渡した。

 川島は、自邸を占拠した兵士たちに与えるいくらかの猶予を得ようと努めた。しかし裕仁は川島に、皇位がその趣意を聞きとったこと以外には、皇位によるいかなる同情も理解の意をも表すことを禁じた。

戒厳令初日(79)

 川島陸軍大臣が自分の苦境について考慮するために退席すると、直ちに裕仁は、軍事参議院のすべての将官と、個々に面会を始めた。彼らはその途上、陸軍の叛乱兵によって支障はうけず、また、皇位に自らの忠誠を示し助言を献することに篤い自負を抱く彼らは、全員、まだ閣僚や大将の欠席が目立ったその朝早くから、宮廷に参上してきていた。裕仁は、陸軍は彼ら「暴徒」 を鎮圧して責任を果たせと、彼らにその一点のみを強調した。もしそれができないのなら、海軍に命令を出し、それでもだめなら、自ら現地に出向く積りであった。

 天皇が、責務を負う陸軍長老らに自ら指示を与えている間、陸相公邸で指揮に当たる六名の若手将校は、要求に対する回答を待ちながら、中庭において、助言や希望を言って絶え間なくやって来る上官たちに対応していた。実際、それは信じがたいことであったが、陸相公邸や近くの陸軍省、参謀本部での業務は、叛乱兵たちがその戸口のいたるところに立って警備線を設けているにも拘わらず、順調に続けられていた。

 午前10時、片倉衷〔ただし〕少佐――満州事変当時の南陸相の甥――が川島邸に通常連絡任務でやって来た時、そうした状況の不調和が露呈した。片倉少佐は、1934年の士官学校事件を暴露する手助けを行い、その際、今度の叛乱に参加している多くの若手士官を裏切っていた。驚くまでもなく、そのうちの一人で、小冊子を作成した磯部――不名誉な退役処分となった――が、その彼の頭への一発の弾丸でそれを迎えた。片倉は、後にビルマで不運にも連合軍の捕虜となり、1944年に殺された 〔これは誤りで1991年死亡〕 が、その時は浅い傷で済み、回復した。彼の同僚の士官たちは、その負傷は当然のこととして受け取り、それ以降も、公邸に出入りする訪問者は続いた。

 正午、最後の軍事参議官が謁見をおえた時、川島陸相は、山下少将を宮中の侍従武官室から叛乱軍へと派遣し、返答を与えた。それは簡単なもので、 「天皇は諸君の意図はお聞きになった。陸軍大臣は諸君の動機の真摯なるものを認める。軍事参事会が招集され、国体の保持が決定された。」

 この通知ほどの致命的なものはなかった。血に染まった若い叛乱者は、彼らに対する天皇の、氷のような態度を感じ取った。彼らの敗北であった。もし彼らが空しく死ぬのであるなら、彼らは、最後の一人まで占拠を守り通すことを、山下に宣言するしかなかった。

 山下は宮廷へ電話した。彼は対話を続けよと言われ、部隊の増強が確約された。そしてすぐ後、顔の広い鈴木貞一大佐――天皇に近い人物として知られ――と、第一師団司令官、小藤恵大佐――時分の指揮下にある若手士官への責任を負っていた――が、交渉チームに加わった。

 交渉が、愛国的精神論に足をとられて遅々としている間に、裕仁は、国中で最高の各諮問団を招集し、その午後を彼らとの対応で過ごした。つまり、宮廷のある一室では、天皇の臨席のもとに枢密院会議が開かれ、他の一室では、ようやく宮中へと到着した内閣閣僚が集まっていた。第三の部屋では、軍事参議院が招集されており、北進派指導者の荒木や真崎が参加していた。内閣は、天皇から、岡田首相――その時はまだ押し入れの中に居た――を欠いた政府の継続について問われた。

 それは、長い午後だった。裕仁は、政府における何らかの変化は、改造への一歩であり叛乱の成果とみられかねないため、新首相の指名はしたくなかった# 2。それに、軍事参議官の責務を軽減することも、たとえ口先だけの懐柔だとしても、それを望まなかった。叛乱兵が兵営にもどった時、裕仁は建設的な政府を再開するつもりだった。従ってその時まで、何らの署名もせず、ただ不満足でいる以外、いずれの側にも立たないとの姿勢を維持した。

 # 2 岡田首相が生きているとの知らせは、憲兵がその日の午後早く裕仁に知らせたものと推定される。しかし、首相が占拠地区から脱出に成功した午後遅くになるまで、その存命の知らせは裕仁の周囲の宮廷人には知らされなかった。

 内閣は、内務大臣の後藤文夫を首相代理に選んだ。また、軍事参議院は、ついに、 「説得文」 と 「勅令」 を叛乱軍に発することに同意した。説得文は、「諸君は天皇の注意を喚起することを望み、それは達せられた。諸君の国体の顕現を望む真摯な願いは注目されている」 とのみ述べられていた。勅令は、「1935年度の国防計画にのっとり、諸君らの師団の他部隊とともに、諸君らは、東京防衛のための所定配置につくべし」 というものだった。

 一方、枢密院の御前会議では、天皇からの直接命令を出すことで、叛乱軍を解散させるのがよいのか、それとも、戒厳令を宣言し、鎮圧の責任を陸軍に与えるのがよいのかをめぐって討議された。裕仁は、自由な議論の外見を維持するための必要から、注意深く聞くのみで、何らの発言もしなかった。そこで彼は、採るべき第二の行動を起こし、簡単な便法に出た。すなわち、20ないし30分ごとに侍従武官長の本庄を呼び、あたかもニュースを聞くかのように、「陸軍は、気違いじみた叛乱兵の鎮圧に成功したかね」、と彼に尋ねた。そうしてついに枢密院は、しぶる陸軍に戒厳令を引くよう勧告することに同意したのであった。

 午後3時、第一師団は1935年度の緊急事態計画にもとづき、兵士を防衛配置につかせ、叛乱をおこした同僚兵士と切り離した。午後5時、実りのない半日の交渉の後、山下少将は、報告のために宮中にもどった。その際、三名の叛乱軍士官がその聖域内に入ろうと彼に続いたが、警備兵によって阻止されねばならなかった。

 山下の落胆する報告を聞いた後、湯浅宮内大臣は、信頼に足る家臣はすべてその夜は宮中に宿泊し、軍事参議院が先に決定した戒厳令をその真夜中より発令する、との裕仁の要求を伝えた。川島陸相はそれに従うことを確約したが、戒厳令が効果的かどうかを疑った。彼は湯浅内大臣に、次期内閣に陸軍が望む人物のリストを天皇に提示してもらえないかと要望した。湯浅はその要望を憤慨して拒否し、それを、天皇の大権の干犯であると決め付けた。川島陸相は、「狼狽した様子」 で、戒厳令本部の設置に取りかかった。大角海軍大臣が、午後6時30分、謁見を許され、暫定内閣と暫定首相を指名することで、国民の不安を解消してはどうかと嘆願した。

 天皇はこれを拒否し、 「もし陸軍がこの緊張を避けたいと望むのなら、言葉による確約をもらいたい」 と述べた。その夜、陸相公邸の五名の叛乱軍士官は、林、真崎、荒木、寺内ら、少なくとも七名の将官と対談した。こうした上級制服組の登場でも、膠着状態は打開できなかった。叛乱軍は先の要求を繰り返し、逆賊とすら呼ばないようにとつけ加えた。

 その夜、内閣は、二度にわたって解散した。最初は、午後9時、後藤代理首相が内閣総辞職を宣言した。それは、国家的な災難があった後に行われる、通例的な対応であり、天皇は、これも通例的にそれを却下したものだった。「平和と秩序が回復されるまで、むしろ真剣にその責任を果たすべきだ」、天皇は言った。

 しかし、今回はこれでは終わらなかった。天皇の前から退出した閣僚たちは、その午後をそこで議論して費やした控えの間に戻った。その朝の暗殺で怖れを抱き、また川島陸相になにがしかの同情を抱いて、各自の辞表をとりまとめた。彼らはその提出を午前1時に行った。裕仁は、それを受け入れる以外に選択はなく、それぞれの大臣に、「新内閣が組閣されるまで、政務に留まるよう」 命じた。彼は明らかに、困っていた。彼はその日、もう疲れ切っていた。

 裕仁自身の家族さえ、裕仁が危険なほど非妥協な態度をとっていることを案じていた。伏見親王と朝香親王は、皇族会議の開催を求めており、裕仁の弟、秩父親王は、彼らの肩を持ち、地方からその会議に参加するために呼び出されていた。内大臣秘書の木戸は、朝香親王と東久邇親王の立場を感じ取るため、その夕を二人とともに過ごし、彼らの忠誠を再確認して報告した。

 しかし裕仁は、再確認を受け入れる雰囲気ではなかった。彼は、その朝から着ているしわくしゃとなった軍服をまだ着けており、午前2時少し前、内閣から出された辞表を読むために座った。午前2時、彼は侍従武官長の本庄に電話し、寝床にいる彼を起こした。「川島陸相は辞表を出し、他の閣僚も同じだ。彼は、誰も同じ責任を負うと考えているのかね。そんな感覚で、陸相が務まるとは思えん。」

 本庄は、 「殿下はその後で、格子戸を通り、ご自分の寝室へ入られたのだと思います」 と、裕仁との電話を切ったのち、日記に記入した。

二日目(80)

 2月27日の夜が明けた、決起二日目、雪はやんだものの、寒さは続いていた。戒厳令はその未明、2時50分に公布された。午前5時、侍従武官長本庄は、伏見親王の私的訪問によって、宮中の間に合わせの寝具の中で、寝たりぬ目を覚まさせられた。伏見は本庄に、若手士官たちが夜中、伏見邸を訪れ、叛乱を解決する条件として内大臣の地位を求めてきたと報告した。むろん本庄は、それに言質は与えなかった。午前7時、裕仁の叔父、朝香親王は、裕仁の弟の高松親王を海軍士官学校に訪ね、裕仁が新内閣を早急に指名するよう、彼の後押しを求めた。だが高松はそれを辞退した。

 宮中では、侍従たちの控室が、まるで難民収容所の様相をていしていた。高齢の閣僚、将官、親王、侯爵らが寝巻姿で朝飯や茶をとり、寝心地の悪かった一夜の後、それぞれの会話を交わしていた。皇居の門外では、叛乱軍の歩哨が、雪の中を行き来していた。地下鉄〔「省線」 のことか〕の 「中央線」 は、運行を停止していた。ビジネス街や東京南部の港湾地区に通う通勤人たちは、皇居周辺の占拠地区を避けるため、何度も乗りかえを強いられていた。裕仁は遅くまで眠っていた。いつものオートミールと玉子のたっぷりな朝食の後、彼が机には向かったのは、8時と9時の間であった。

 侍従武官長の本庄は、天皇に朝の挨拶をしに行った際、彼の率直なほとばしる意気に圧倒された。 「もし、叛乱の暴徒たちが、陸軍最高司令官の命令にただちに従わないならば、私は自ら、彼らのところに出かけるつもりだ。」

 それに答えて本庄は言った。 「直接行動部隊の士官は、天皇の部隊に勝手に命令し勝手に出動を命じました。それは、天皇の統帥権を犯すことです。当然、それは許されざることですが、彼らを行動させている精神は考慮に値するものです。彼らは完璧に愛国的確信と国民に成り代わる思想によって行動しております。彼らの心には、陛下を強要しようとが、陛下の力を悪用しようとかと考える積りは毛頭ありません。」

 しばらくした後、裕仁は本庄を呼んで言った。 「彼らは私の右手である家臣たちを殺した。そうした凶暴なる士官には、いかなる心的動機があろうとも、微塵の弁明もありえない。私の最も信頼しうる家臣を倒すことは、真綿をもって私の首を絞めるに等しい勇気だ。」(81)

 本庄は答えた。 「老いた家臣を殺したり傷つけたりすることは、最悪の犯罪であることは言うまでもありません。しかし、彼らは混乱し誤解はしているものの、国のために行っているものと信じております。それが彼らの信念であります。」

  本庄は日記にこう記している。 「私はこう、いろいろ違った方法で陛下に申し上げた。」

 裕仁は、 「侍従長、そなたは、彼らの行動が、単に、私利私欲によるものだということが認められないのかね」、 と首をふりながら言った。

 本庄は、ふさわしい返答ができぬまま、日記にこう書きとめている。 「この日はまた、陛下はたいへん昂ぶっておいでで、行動部隊を鎮圧する陸軍の努力は、どこにも見られぬと言われた。そして私に言われた。『朕# 8は、近衛師団に命令を出し、自ら、叛乱部隊を鎮圧する』」(82)。

 # 8  「朕」 とは、中国のかっての皇帝が用いた 「我々」。この表意文字は、天の耳に話しかける月を表している。(83) 〔この説明はあやしさは脚注のように著者も気付いている。 「朕」 については、翻訳の他の個所ではあえてこの用語は用いず、 「私」 で通している。〕

 その日は丸一日、国民は緊迫にさらされた。そのさ中、裕仁は執拗に、少なくとも13回は本庄を呼びつけ、陸軍が行動を開始したかどうかを尋ねた。川島陸相と老将官のほぼ全員は、皇居から数地区北にある憲兵隊本部に、戒厳令司令部を設置する準備に追われていた。午前10時30分、近衛師団が叛乱軍占拠区画の北西角に、向かい合って陣取った。また、第一師団の忠誠を維持している部隊が、その南西および南東地区に配置された。占拠区画の北東部は、皇居のお堀でさえぎられていた。その日の午後、叛乱軍は皇族会館に押し入り、居合わせた人たちを片っぱしから取調べ、16人の侯爵、伯爵、子爵、男爵たちをひとまとめにして、その夕刻まで、拳銃を突きつけていた。

 西園寺のスパイ秘書の原田は、叛乱軍の警戒線を突破して潜入し、拘束されている皇族の幾人かと接触したが、その帰路、彼の顔を知る叛乱軍士官に阻止された。その士官は後にこう証言している。「もし彼が怖がっている様子を表わさず、あるいは、嘘をついて逃亡を図ったならば、自分は彼を殺しただろう。しかし、彼は、警告するだけで見逃してほしいと、いかにもか細い声で話していた。」(84)

 午後、事が沈静すると、誰もが、裕仁の弟で叛乱軍指導者たちの友人である、秩父親王が東京に到着するのを待ち受けた。秩父親王は、その夜に予定されていた皇族会議で、裕仁に何かを言ってくれるものと期待されていた。内大臣秘書の木戸は、ほぼ丸一日を費やして、朝香、東久邇両親王と 「打開策」 について話し合った。午後5時17分、秩父親王の列車が上野に着いた時、叛乱軍もしくは陸軍が親王を誘拐するとの噂があったため、彼は侍従や警察の厳重な警護で迎えられた。そして彼の車列は、およそ4マイル〔6.4km〕の市街を、サイレンを鳴らしてフルスピードで走り抜け、30分で皇居に到着した。彼は直ちに天皇に謁見し、天皇、皇后との内輪の夕食をとった。

 午後7時頃、彼らに他の親王たちが合流して、皇族会議が開催された# 4。侍従たちの話によれば、発言は申し合わされたもので、その雰囲気は上品なものであった。裕仁は、各々の親王に次々に質問をあたえ、用意された短い見解表示――中国をはじめとする様々な時事、長期軍事計画、そして国政改造など――に耳を貸した。しかし、その主要な懸念は、新内閣が早期に組閣されず、陸軍とともに譲歩が打ち出されなければ、叛乱軍の勢いが地方に広がらないかということだった。裕仁は親族に礼を述べ、そうした諸意見について検討することを約束し、午後8時30分、さしたる盛り上がりもないまま、会議は散会した。その後、秩父親王は大兄の木戸と、およそ30分間、話し合った。(85)

 # 4 皇室典範によると、 「皇族は天皇の配下にあり」、皇族会議は、 「成年に達した男子皇族によって構成される」 とある。加えて、天皇は、外部の立会者、ことに、内大臣、宮内大臣、法務大臣、最高裁長官の出席を求めることが予定されている。1936年段階では、16親王がその資格を有していた。そのうち、6名が「親王」、10名が「王」であった。6名の親王とは、裕仁の3兄弟に、皇族選挙によって親王となる、次直系の家族の3名の王子――陸軍参謀総長の閑院親王、海軍軍令総長の伏見親王、そして、1934年にヒットラーに会った狂信的な賀陽親王――を加えた面々であった。この2月27日の皇族会議に参加した親王たちは、弟の秩父、弟の高松、従兄の伏見、(全員が親王)、そして、叔父の東久邇、叔父の朝香、従兄の梨本、そして、閑院親王の息子の春仁〔はるひと〕(全員が王)であった。(86)

 その皇族会議は、二つの結果をもたらした。そのひとつは、小田原の別荘で意気消沈していた陸軍参謀長の閑院親王が東京に呼ばれ、 「たとえ都合が悪くとも」、天皇の背後に着くことを求められたことだった。翌日、閑院はそれに従ったが、どうしたことか、それから一週間、彼の君主とは会わせてもらえなかった。第二は、会議の夜、秩父親王が、友人で叛乱軍の最高の地位にある、野中大尉あての私信を書き、彼の部隊の撤退を懇請したことだった。野中は、一日考えた末、自分の口に拳銃をくわえて引金を引くという返答を行った(87)。侍従らは、親王たちが自分と叛乱軍下士官たちとの交友や交際関係がゆえに狼狽させられていながら、それでもそうした紛糾の中で、裕仁の側についているのを見て安堵していた。秩父親王は、午後9時10分、警察の護衛とともに宮廷を後にした。

 翌朝、裕仁は、皇族会議についての見解を、宮廷の公式記録とするため、大兄の木戸――賞勲局長――に次のように報告した。 「高松宮が最も良ろしい。秩父宮は、5・15事件の時以来、大きく成長した。梨本宮は、〔この叛乱軍に〕私の恩赦を求めた時、涙を浮かべていた。私は彼を立派だと思う。春仁〔閑院の息子〕は気品がある。朝香親王は、正義の個人にとっての意味と、皇位の大義におけるその位置をのべたが、過激思想の影響を受けており、欠点がある。東久邇親王については、いい感覚を見せていた。」(88)

 裕仁は、一族の模範を示す者として、東久邇親王の最近の恐喝事件と宗教詐欺に関する警察文書を読むことを求められていた。だが天皇は、自分の親族を、通常の日本人の道徳観によってではなく、いかに忠義であるかどうかという基準で判断した。平穏な皇族会議で彼は、自分の親族にただならぬ支配力を証明して見せたのであった。

 会議が解散してしばらくして、真崎、阿部、西の将官たちは、陸相公邸におもむき、その一階で指揮をとる五人の叛乱軍士官に、望みを捨てて天皇の意志に従えと告げた。もし、彼らがそれに従わない場合、北進派の指導者真崎は、彼らを鎮圧するため、自ら特派部隊を指揮せねばならぬと宣告した。疲労し、悲嘆にくれた若き兵士たちは降伏に合意した。午後11時30分、三将官は、近衛師団と第一師団の歩哨に、その夜、叛乱軍占拠地区から脱出しようとする一般兵士には寛大であるようにと命令を出したと、宮廷に報告した。

 しかし、それで事が終わったわけではなかった。叛乱軍は、あらゆる機会を通じて、東京郊外の隠れ家にいる急進的北進派理論家北一輝と、無線連絡を取り続けていた。職業革命家としてのそれまでの長い経歴の中で、北は、クーデタの策謀への表立った参加は避けてきていた。しかし今回は、彼はもう深く関わり、もし叛乱が失敗した場合、処刑される恐れがあった。それまでの二日間、彼は無線機に付きっきりで、その度ごとに叛乱軍を勇気付け、政治的駆け引きの助言を与え、また、霊媒の力をもつとの評判のある妻によるお告げを伝えていた。

 その2月27日の夜、三将官が陸相公邸を引き上げた後のほぼ深夜、北は二人の叛乱士官と話し、まだあきらめてはならず、宮廷への圧力は高まっている。しかし、もしすべてが裏目に出た場合、彼らには審判なしの略式の死刑が科されるだろうと告げた。そして北は、その若手士官たちに、妻が見た夢の話を付けくわえた。それは、貧困のない極楽浄土で若手士官たちが勝利を祝い会っていた。叛乱軍はそれに聞き入り、それに賛同した。


第三日(89)

 決起二日目の2月28日は、再び、曇天だった。侍従武官長の本庄は、午前7時、反乱事件の核心が変化したことを知らされた。すなわち、反乱軍は鎮圧されなければならぬ、というものとなった。ということは、本庄の娘婿、山口一太郎大尉が、いまや明白な反逆者と化した者たちに援助の手を貸したということで、刑務所送りとなることであった。それはまた、本庄自身の長年の忠義の経歴が恥辱にまみれるということでもあった。後に、彼の知人たちが語った話によれば、彼はその日一日で、一挙に、十年以上も年老いたということだった(90)。

 午前11時頃、山口は戒厳令本部へ行き、叛乱軍を武力鎮圧する発令に対し、ほとんど一時間もかけて、それに反対する演説を行った。将官たちは、それに完全な同情をもって聞き入ったが、何も発言はしなかった。正午前、戒厳令参謀の石原莞爾大佐――満州作戦を立てた頭脳明晰な〔日蓮宗〕信者で、以来、対中和平を唱導してきた――は、長い会議机の端から立ちあがって言った。「我々は、出来る限り速やかに、鎮圧せねばならぬ」(91)。 そして彼は部屋を出て、外の使いに、発令書を配達するよう命じた。

 第一および近衛師団は、一団となって鎮圧にあたり、叛乱軍のバリケードを爆破する計画に入った。叛乱軍士官は、 「降伏せよ、さもなくば鎮圧される」とのラジオ放送を聞いた。それに対し、叛乱軍は、 「皇意を過させる機関説論者によって成された命令には従えぬ」 と返答した(92)。

 この段階では、秩父親王の伝言が野中大尉に伝えられ、また、山下少将が妥協に持ちこむ最終案を持っていたため、包囲する鎮圧軍には、 「待機」 と命令されていた。バリケード内での交渉の後、山下は川島陸相を伴って、午後一時、宮中の侍従武官室に戻った。そして山下は本庄侍従武官長に、叛乱軍士官からの誓約――それが作法に則ったものであると天皇に伝える勅使の立会のもとで、全員が自決する――を伝えた。本庄は直ちにその提案を裕仁に報告した。

  「もし彼らが自殺したいのなら、勝手にさせなさい。そうした物たちに宮廷から立会人を送るのは、ともあれ、ありえないこと」、と裕仁は言った。

 本庄は、自分の娘婿が士官を勤める第一師団は、以前の同僚に対して行動をしかけるのを嫌がっています、と哀れっぽく訴えた。

 裕仁は声に鋭利さを込めて言った。 「もし第一師団の司令官が有効に行動できると考えないのなら、彼は自分の責任が何かが解っていないことだ」。

 本庄は 「陛下に、そのような厳しさと怒りを見たのはかってなかった」 と目を見張らされていた。陸軍の指導者たちは、自決提案への裕仁の拒絶に唖然とさせられていた。娘婿の山口は、悲嘆と不可解の中で本庄に電話し、再度、天皇に働きかけてもらうよう懇願した。本庄は山口に、天皇はすでにいかなる曖昧さも含まない決断をし、さらに表すものは何もないだろう、と説明した。それでも、なおも働きかけを求める娘婿に、本庄は、悲しげにその電話を切った。(93)

 午後3時、無頓着な参謀次長の杉山――その表情は 「まるで湯殿の扉のようにぼやけていて」 ――は、裕仁に謁見を求め、さらなる説明を願い出た。誤解があると彼は言い、叛乱者は、自分たちの自決に勅使の立会いを求めているのではない。ただ、ある家臣が、彼らの遺体を見届け、陛下に、決まり正しく腹切りの儀式を果たしているかを報告してほしいのみである。裕仁は、怒りを再燃させて、その新たな面子作り措置を見捨てた。この報が知らされた時、叛乱軍のある士官は、「しかし、飛行機事故ですら、陛下には報告されるだろうに」、と嘆きながら言った。

 杉山参謀次長が天皇のもとに戻り、ほぼ一時間を要して、天皇をもっと慈悲深くさせようと、あらゆる手練手管の努力を行った。そして最後には、廊下に身を横たえ、天皇に、自分を踏みつけてもらいたいとすら訴えた。天皇はただ、彼をまたいで通り過ぎ、隣室で待ちうけている次の用件に取り掛かった。午後4時30分、結局、杉山と戒厳令軍# 5司令官、香椎浩平〔かしい こうへい〕中将は、その日の鎮圧行動はすでに遅すぎ、翌朝、一番に第一行動がとられると天皇に確約した。だが裕仁はそれを素っ気なく却下し、本庄侍従武官長を呼び、陸軍指導層のおしなべての不服従を非難した。

 # 5 少なくとも23,491の兵卒と350の将官が、1,483の叛乱軍に対し集結していた。

 裕仁は、 「陸軍は天皇に属すという話もあるが、陸軍は事件の重要さを意図的に回避しているとの話もある」、と言った。

 それに本庄は、 「軍事政府を樹立しようとの意図のもとで、目下、陸軍は陛下のご意思に従うことを回避していると、この数時間、人々は申しております。こうした声は天皇の陸軍を極めて侮辱し、事件を速やかかつ平和裏に解決しようとしている陸軍の真摯な努力を無視するものです」 と返答した。本庄は後に、日記に次のように記している。

 私は陛下に、陸軍に対する世論の誤解は、聞くに堪えられぬほどに厳しい、と申し上げた。そう言いながら、感情を押さえることができず、悲嘆にくれてしまい、話すこともままならなかった。陛下は一言もおっしゃらず、部屋を出ていかれた。

 ひと時して、陛下は私を呼び、おっしゃられた。 「侍従武官長、陸軍に対するふとどきな非難が高じ、そちはそのように涙して、その理由を示してくれた。だが、もしこの事件がすみやかに解決されねば、よろしくない事態が起こる。すでに三日が過ぎ、政府の地位は揺らいだままだ。外国為替はほぼ停止し、銀行取引がそうなるのも近い。政情不安は首都以外にも広がり、叛乱の危険もある。第一師団の忠誠部隊も、我が部下を殺し、長老たちに野蛮な行いをした同志たちと合流するやも知れぬ。ゆえに私は貴殿、侍従武官長に、自身の異論と感情を軍事参議院で表明するよう許可を与え、状況を直ちに解決するように求める。」

 本庄は、軍事問題に関し、すべての天皇の見解に成り代わる公的責任を負う立場にあった。過去において、この両者の間に見解の違いがあった時、裕仁がその老将をなだめたり、自分が譲歩したりしてその違いを埋めてきた。だが今や、裕仁は特別に、その本庄をそうした責任から解き、〔軍事参議院にのぞみ〕その彼の異論を公式記録に残させようと求めていた。そして同時に裕仁は、本庄に厚く信頼をおいており、腹心としての任務から解こうとしていたのであった。

 (本庄の日記によると) その求めに従い、私は軍事参議院に、代表者を私の部屋によこすようにと求めた。北進派の荒木大将がやってきたので、私は彼に、一方で自分自身の心情と、他方で、天皇のご意志を伝えた。すると荒木大将はこう言った。 「これまで、天皇の命令は、軍事作戦を除き、有無を言わせぬものであると心得ておりました。」

 59歳の荒木、60歳の本庄の二人の大将は、たがいに物悲しく見つめ合った。二人は、1989年に陸軍士官学校を卒業した同期生であり、それ以来、参謀本部において、さまざまの任務を共に果たしてきていた。二人は、過去において裕仁が、異なる意見の助言者の間から選んできたのを知っていた。また二人は、裕仁が、自分が欲する行動を提案している助言者を見つけるために、自分の道を外すことも知っていた。しかし裕仁は、それまでに決して、軍事参議院の助言を無視したことはなかった。だが今や、その35歳の現人神は、菊の御簾の内から出現し、専制的責任の全てを負おうとしていた。その二人の年長の大将は、互いに軽く礼をした後、その皇意に頭を下げた。その後、陸軍のすべての長老は、あたかも自らの責任はないかのように行動し、ただ、他の者に追随するようになった。それは歴史的瞬間であり、その二人の大将は、まゆをわずかに動かす以上の食い違いもなく、それを認めたのであった。

 軍事参議院は、裕仁を危険な地位にさらすことから予防するための一つの努力を行った。午後7時30分、一組の代表団――荒木陸相、前陸相の林大将、そして参謀次長の杉山中将ら――は、小田原からの列車で着いた閑院親王と会い、裕仁の考えを変えるよう彼に説得してもらおうと試みた。閑院親王はそれを断り、自邸へと引き上げていった。陸軍長老からなる代表団は戒厳令本部へおもむき、そこで将校との会議を開き、状況を説明し、「陸軍の軍紀を破壊する武力制圧は、いかなる犠牲を払ってでも避けねばならない」 という意見を共有することに努めた。

 戒厳令軍参謀、石原莞爾大佐――満州作戦立案者――は、正午以降、自分の発した命令が遮られていることを見ていた。その意図は理解されておらず、石原はそこで立ち上って、その代表団を率いる荒木大将を凝視し、そして言い放った。「これは統帥権の干犯である。貴殿の名前と階級を名乗られたい。」

  「貴様は私が荒木大将とよく心得ておろう。貴様は上官に無礼を働こうとするのか。口を慎め。」

 それに石原は、 「できませぬ。皇軍を皇位に対して用いることは、断じて許さざることであり、常識を越え、軍紀どころの問題ではありません。貴殿は自ら大将と称されるが、日本にそうした愚かな大将がおられるとは、信じがたい」、と応じた。(94)

 この信義厚い憤激の表出がゆえ、石原は、数ヶ月後の大粛軍において、陸軍内に留まり得た。その後石原は、 「最後の北進論者」 と認識されるようになった。彼がつかつかと指令室から出て行った後、荒木やその他の大将たちは、翌朝に計画されている鎮圧行動を阻止する何の手だてもなかった。しかし、彼らは香椎戒厳令司令官に、武力によらず、叛乱軍を出来る限り説得するようにと説いた。その夜を通じ、ラジオ放送や叛乱軍の周囲を走るトラックが、「降伏か、さもなくば鎮圧化」 と繰り返した。上空を飛ぶ爆撃機からは、下士官や兵卒は恩赦されると書いたビラが投下された。夜明けには、叛乱軍に、妻や子供たちのために降伏せよ、と示したアドバルーンが上げられた。

 その夜、山口大佐――本庄侍従武官長の娘婿――は、憲兵により大逆罪の嫌疑で逮捕された。

裕仁による解決 (95)

 翌2月29日、蹶起3日目の朝、第一師団の部隊は、叛乱軍の境界線の無防備な部分を通って移動し、予想される戦闘地区から民間人を非難させ始めた。また、叛乱軍側は、しだいに占拠地区の主要拠点へと集結した。午前9時、香椎〔かしい〕戒厳令司令官は、ラジオを通じて国民にこう通告した。 「若手士官たちは遂に、叛乱者と見なされる事態に至った」。午前10時、部隊と鉄条網によって彼らは閉じ込められ、動揺した叛乱軍兵卒が、二人、三人と、彼らの占拠地点の回りの雪の積もった芝生や広場を横切り、脱出を始めた。正午、秩父親王の友人の野中大尉は自殺した(96)。2時過ぎ、すべての部隊が降伏し、憲兵隊によって拘留された。

 裕仁は、最後の最後まで、疑念を頑固にも解こうとはしなかった。朝8時30分、陸軍の行動開始が最初に明らかになった時、内大臣の木戸は、裕仁に、「新内閣を指名して、国民を安心させては」 と助言した。だが裕仁は、 「制圧が完了するまで待ちたい」 と返答した。そして、制圧が終わった時、彼はそれでも満足していなかった。午後2時、彼は、興津に公式の使者を出すのではなく、電話でもって、西園寺親王に従来の要請――上京して首相を奏薦――を行った。腰痛を理由に、西園寺は、上京するまでに少しの時間が欲しいと返答した。午後4時、裕仁は西園寺に再び連絡し、組閣は緊急に必要で、出来るだけ早く上京するようにと告げた。

 西園寺が気持ちを整理している間に、一日が過ぎて3月1日を迎えた。この日は日曜で、東京はこの日曜ばかりは、、西洋伝来の休日を楽しんだのみならず、本当に疲労回復と休養の一日となっていた。だが、裕仁は例外だった。彼は朝早くに起床し、軍服を着け、夕方遅くまで机に向かっていた(97)。それは、その先の数週間に自分に課すつもりの日課だった。彼は毎日一時間の運動を断念し、3月18日には、主要家臣の代表がやってきて、掛け替えのない身体に配慮するように懇願しても、なおも格別な注意は払わなかった。裕仁は、最後の兵が降伏するまで容赦なく攻め立てない限り勝利は危うい、という軍事的金言をそのまま実行していた。

 3月2日、老公西園寺が東京に到着した時、裕仁の大兄たちが整えていた段取りは、ジュリアス・シーザーよろしく、彼らの指導者、近衛親王に、最初は首相の座、次に内大臣の座への就任を、それぞれ拒否するよう準備したものであった。それは、いざ中国との戦争が開始された時、その首相を近衛にする準備としての、手の込んだ芝居だった。近衛はそれまでいかなる公職にも着いたことはなく、ただ貴族院の指導者としてのみ知られていた。つまり国民には、彼が首相にふさわしい器であるとの考えが浸透する必要があった。そして、従順な人々は彼を受け入れたかも知れなかったが、陸軍が厳しい粛軍に面している時、彼はそれを受諾するわけにはいかなかった。だが、このことは、戦争中、彼の陸軍に対する指導性を弱めることにもなった。

 西園寺は、近衛の首相受入れの不誠実を明らかにさせようと努めた。近衛が各方面の有力政治家から推されているのを知って、西園寺は近衛と会い、彼がその気でないことを知った。新聞報道では、近衛の奥ゆかしさと称賛されたが、西園寺は近衛の辞退をよそに、それでも公式に彼を天皇に推薦した。裕仁は自ら、近衛の健康が充分でないとして拒否することで、前例をくつがえした。だが西園寺は、なおも自分の推薦を繰り返して主張したため、裕仁は慣行上やむをえず、3月4日、近衛を呼んで組閣を求めた。

 天皇との謁見を終えた近衛は、内大臣秘書の木戸に、 「まったく困っている」 と打ち明けた。一晩たった翌日、近衛は西園寺に再び会い、容赦を求めた。彼はその時、自分の医者の診断書を持参していた。それは、少なくともあと三ヶ月、その健康は職務を成し遂げ得るものではない、と述べていた。三ヶ月後とは、陸軍の粛正が完了する時だった。

 そこで西園寺は、近衛はこの危機の時にあっても、政府を引き受けるという天皇の命に従うことを拒否したと公表し、自分を後継する血縁者の経歴を台無しにすることも、不可能ではなかった。だが、長い議論の後、そうする代りに、西園寺は態度を和らげた。彼は、国のためとはいえ、自らの健康を犠牲にできない大政治家の苦しい立場を見たと、新聞記者に語った。そうする一方で、彼は謁見室に戻り、実に困惑させられることですが、自分の推薦を変えなければならないと報告した。そうして今度は、裕仁の側近集団のより下位の中年者、広田弘毅外務大臣を推薦した# 6。

 # 6 生え抜き外交官の広田は、地下組織の首領、頭山の手下としてその経歴を始めた。1921年に近衛親王と知己の関係となり、黒龍会の内部より、彼の情報提供者の一人となった。

 広田は、3月5日、裕仁より内閣を組閣するよう命じられたが、3月9日になるまでその職は与えられなかった。というのは、その4日間、軍および政界は、内閣の政治、人事の両面について、それぞれに無理な要求を突き付けていたからだった# 7。「広田の困難」、「政府を組めない日本」と、新聞の見出しを埋めている間に、裕仁は自らの強固な外交諸政策を押し通した。

 # 7 陸軍の強要で、牧野伯爵の娘婿、吉田茂――1946年から1954年の間、5度にわたって首相をつとめる――は、警察を管轄する内務大臣の地位より下ろされた。

 3月4日、裕仁臨席のもとでの枢密院は、叛乱軍の若手士官を非公開の軍法会議にかけることと決めた。ということは、その上告はできず、その刑の執行も直ちになされるということを意味していた。3月2日、陸軍の各大将は、「最近の許し難い事件」 の遺憾の意を皇位に表わすため、その全員が職を辞任した。3月6日、裕仁はその大量辞任を受入れた。それは、単なる形だけのものではなく、4月23日付をもって実行されるものであった。さらに、裕仁は三名の軍規上の例外を残すという規定上のきまぐれを認めた。すなわち、粛軍派指導者、寺内大将とその同僚である西大将および植田大将は辞任しなかった。その寺内は陸相となり、西は教育総監に、そして植田は関東軍司令官となった。

 宮廷の廊下を満たした抗議の声と小走りする足音が静まった時、自身の義務的退職を前に面子を失った苦痛な二週間を待たされていた侍従武官長の本庄は、その例外は「天皇の大権の行使」 とその日記に記している。同様な流れで、3月9日、裕仁は、軍事参議院と陸軍最高司令官のメンバー、閑院元帥、朝香中将、東久邇中将は辞職する必要がないとの措置をとった。

 3月9日、広田内閣がようやくに組織を固め、機能を成し始めた時、裕仁は国威の統一に専念し、朝から真夜中まで、反対派に対し、非機関説に立った教育をほどこした。そして彼は、国事文書の公式署名を、「大日本帝国大権」 から 「大日本帝国神聖天皇」 へと改めた# 8。彼は、その叛乱に加担した4連隊の廃止を考えていたが、天皇への忠誠に対する雅量を見せるため、連隊旗を残し、一部の部隊を維持することは認めた。

 # 8 それは、裕仁が一月末から考えてきた進展だった。

 それと同時に、裕仁は、国防のための新たな徴兵計画を案として承認した。それは、四つの部門からなるもので、その国防体制下にはさまざまな部署が設けられていた。その四部門とは、@ 「憲法条項に従い」 国会に図られる財務部門、A内閣に報告される戦略と総合計画部門、B首相に報告される動員および人事部門、そしてC天皇と少数の参謀将官のみが関与する詳細作戦部門であった。そしてこの1936年3月に組織された専門部署のひとつが、北京近郊での夜間作戦計画で、これは中国との全面戦争への口火となるもので、また16ヶ月後には実際にそうなった計画であった。

 この新国防計画の発足は、対中国戦に備えるというより、国の総合的戦力を構築するために寄与するものだった。日本は、中国戦に勝たねばならないだけでなく、西洋諸国からの介入を阻止せねばならなかった。広田内閣は、すでにその当時「準戦時経済」 として知られた統制計画を打ち立てていた。そして軍事支出はその後の12ヶ月間に三倍以上に膨れ上がった。赤字予算――叛乱で暗殺された賢明蔵相、高橋によって最低限に抑えられてきた――は、いまや時代の要請となっていた。工場の生産割り当てから為替交換まで、経済のあらゆる部門は、安易なお金の増刷と政府の厳しい統制に隷属するものとなった。

 これと同時に、陸軍の規模を17師団から24師団へと拡大するため、詳細な秘密措置がこうじられた。新設された7師団は、予備役から徴用された。対中国戦が開始される先立つ数週間のうちに、余りに手際よく、供給物資、将校、そして再訓練施設が用意されたので、そうした新師団は、一夜にして戦闘準備を整えることができた。こうして、もし公式記録をそのままに信用するならば、第114師団は1937年10月に創設され、ひと月も経たないうちに、中国内にあって、南京にむけて進軍していた。(98)

 陸軍の総体規模の41パーセントにもなるこの劇的な拡大が計画されている間、叛乱に憤慨していた裕仁は、それを指揮した士官の容赦のない粛清を命令し、それにより、その後の二年間、訓練将校に深刻な不足をもたらすほどであった。だが、その粛軍の必要に疑いはなく、また、3月3日の閑院親王と西園寺のスパイ秘書原田との会話に如実に語られているように、「過日の暴動に喚起されなければ進められなかったように――即ち、それが誰であれ、自らの内の臭いものにはふたをせよとの傾向の除去について――、我々には、陸軍の粛清を、容赦無き水準まで、徹底して成し遂げることが求められている。」(99)

 大掃除という誰も嫌がる仕事を担ったのは、粛軍派の寺内新陸軍大臣であった。1936年の3月から8月の間に、陸軍の八千人余りの士官のうち、二千人をお払い箱にした(100)。北進派の拠点部隊とともに、陸軍の戦略的頭脳の優秀な半数が、ほぼ一掃された。この粛清は軍の上層部にもっとも打撃を与えたが、その見返りに、新しく若い人材に昇進の道を開く結果となった。

 この天皇の専制的対処の後に不可避的に噴き出した憤慨や新たな政軍連携に対して、大兄たちの11人クラブはひとつの策を編み出した。それは、裕仁がふさわしいと判断できない内閣には彼が拒否権を持ち、また、その件に一切の形跡も残さないでそれが秘密のうちになされるというものだった。どの内閣も、陸軍および海軍大臣を含めなければならなかった。1913年に改定された法律は、現役および予備役の陸・海両軍大将の中から、その両大臣を選ぶことができた。ところが、現役将校のみが天皇の命令による拘束をうけたので、理論的には、西園寺が推薦する首相候補者には、天皇の許可を受けなくとも、閣僚大臣の一人を指名することができた。天皇は、当然に、そうした内閣の承認を拒否することはできたが、それは儀礼慣行にそうものではなく、彼の偏狭性を見せることにもなりかねなかった。5月初め、枢密院は、天皇臨席のもとで、陸海軍大臣は現役軍人のみに限るという法律改正を広田内閣に推奨した。

内閣はその改正に同意し、裕仁は直ちにそれに署名して改正法が成立した。5月18日、その改正は既成事実となり、ただそれがいつ発効するかのみが報道界と世間に知らされた。裕仁と宮廷内部集団は、その発効日議論を、望ましくない内閣の組閣を阻止したり、独自に〔宮廷の意にそわない〕目的を進める内閣をつまづかせるための常套手段とした。かくして 「軍」 という正体不明の怪物が跋扈をはじめ、恐怖をいだき、敬虔で、タブーを避ける国民は、そうした――叛乱以降、裕仁が名実ともに軍の最高司令官となった――現実にしだいに無知であるようになった。# 9

 # 9 1913年から1936年の23年間に、そうした選任は可能であったにも拘わらず、予備役軍人から両軍大臣が選ばれた事例はなかった。しかし、1944年、厳密には違法でありながら、裕仁は、ただ海軍人事部を呼び、米内という名を現役名簿に復活させるだけで、予備役の海軍大臣を生みだした。

 そうした重大な改変が日本の構造に加えられている一方、2・26事件の主唱者たちは、沈黙のうちに姿を消しつつあった。本庄侍従武官長は、最初、寺内陸相によってその職にとどまるよう勧められていた。3月8日、陸相は本庄に、「私こそ、多くの問題をかかえる地位におります。どうか辞職はなさらんでもらいたい」 と留意を勧めた。

 しかし3月16日、本庄は日記にこう記している。 「寺内が来て、娘婿の山口の罪状についての詳しい情報をくれ、心配していると言ってくれた。・・・その日、山口の家族が私の家に引っ越してきた。彼らの家具は、山口の実家にあずけた。娘とその子供たちを私のところで暮らさせたい、というのがその実家からの要望だった。」

 翌日の3月17日、本庄は皇位に自分の辞任の意志を伝えた。 「陛下は 『どの程度、そちの家族は関与したのか』と聞かれた。私は、 『どの程度は存じませぬが、目下お状況において、優先事項は陸軍の粛正であり、もし事例を示さねばないらならば、辞任する責任を感じます』とお答えした。陛下は、『それはそうであろう。よく考えておく』 と答えられた。」

 3月28日までに、その辞任は受理された。本庄には、お金、美術品、自身の机上の一対の文珍などが贈られた。 「これらを貴殿に贈りたい。私が長く使ったものなので」と天皇は言った。皇太后は、プラチナのカフスボタン、鮮魚、そして、彼女がこしらえたお餅を贈った。4月22日、本庄は、南大将――満州事変時、本庄が仕えた陸相――と伴に、予備軍に着くことを命じられた。

  「愛着の情を禁じえない」 と彼は記した。

 他の被疑者は、はるかに厳しく扱われた。無骨だが誠実な北進派の二番手指導者の真崎大将は、一年半にわたり、憲兵によって拘束された。1936年の最後の週、あくまでも罪状を認めぬ彼は、一ヶ月のハンストを行い、その最後には、水さえ拒否した(101)。病院に担ぎ込まれ、薬品の効果で健康を回復させられた彼は、結局、友人の荒木大将――北進派の一番の指導者――が 「歴史上もっとも長文の法文書」と言う判決をもって、無罪放免となった。その文書は、真崎の大逆罪へのすべての関わりを克明に指摘し、取って付けたような主文により、無罪を判決していた。彼の赦免は、近衛親王の努力――分派主義の傷を癒し、戦争に備える国民的一致を作ろうとする――が大きく寄与していた(102)。

 山下少将――宮廷のために北進派の兵卒をスパイし、若手士官の叛乱にはどっちつかずの態度を示した――は、朝鮮軍の旅団司令官に再任命された。それまでの数ヶ月間、彼は、宮廷からの指示を余りに広く解釈し、叛乱を煽り過ぎたためにその沈静化を難しくさせてしまったのではないかと案じていた。彼の妻によれば、彼は落胆し、民間の仕事を探し始めていたという。そして1936年12月、彼の宮廷での接点であった元侍従武官の川岸文三郎が、彼の上司の司令官として朝鮮に赴任してきた。川岸はその際、天皇からの感謝と激励の文書を持参していた。それを読んだ後、山下は大いに元気付けられた。そして彼はしだいに裕仁からの信頼を得るようになり、1942年には、帝国のためにマレーを征服することとなる。(103)

 叛乱に加わった若手士官は、銃殺刑に処せられた。相沢中佐――一番烏永田を暗殺した――は、叛乱後は閉廷されていた軍法会議に戻され、5月7日、死刑の判決が下り、6月3日、執行された。9日後、生き残っていた叛乱軍の19人の士官のうちの13人が、相沢に続いて銃殺された。彼らは全員、法廷でその意志と意義の申し立てをしたいと希望していた。だが彼らは、開廷の一時間前、軍法会議法務士官より、それが完全非公開で開かれるのを知らされた(104)。

 彼らのほとんどは、その死の直前、天皇に 「万歳」 ――天皇の永久の命を祈る――を献上した。うち何人かは、失望させられた友人、秩父親王に、せせら笑う万歳を加えた。「自分の遺体は貴殿にお任せします」 と言い残した者もいた。ある一人は、 「自分はそうした特権階級者らの深い反省を願う」 と叫んだ。別の者は、もの静かにこう言い残した、「天国行きを前に、皆が天皇陛下のために万歳を唱している。ゆえに自分も、天皇陛下万歳、皇国万歳を繰り返します。」 (105)

 また、他の者は、陸軍に関するいっそう困難なメッセージを発しようと試みた。 「日本人が皇軍への絶対的信頼をおこうとすればするほど、その信頼は裏切られる。ロシアは中央アジアでは無敵であり、それが日本に破壊をもたらすのだ」。北進派は、その東端のウラジオストックへのみ、ロシア攻撃を考えていた。中国の主要都市と農業生産地帯の掌握の後、裕仁がモンゴル砂漠を横切って、ロシアの脇腹、中央アジアに攻撃をしかけるべきだった。だがそれは、試みないで終わろうとしていた。

 2・26事件に関わった民間人が銃殺刑に処された時、北一輝――北進派の老練理論家――は、その居並ぶ銃口を見下して言った。 「座らなければならんのか、それともこのままで構わんのか」。そこで銃殺班が座らそうとすると、彼は叫んだ。「座らせたいのか。キリストや佐倉宗吾(1645年に磔刑にされた義民)のようには、立たせておくわけにはいかんのだな」。 だが、彼のこの皮肉に耳を貸す者はおらず、1937年8月19日、報道陣に注目されることもなく、彼の処刑は実行された。それまで、日本人は彼の苦難の運命論の精神を共有していた。それまで、日本人は自らを、隊列を組んで前進させてきた。そしてかくして、日本人は、中国との戦争開始を、あと一ヶ月後に迫らせていた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_50_21_1.htm
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_50_21_2.htm#kaiketsu


04. 中川隆 2013年3月01日 21:20:39 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

70年以上に亘って日本国民に対して絶対的に隠蔽され続けてきた2・26事件の真相、全面開示

太田龍(週刊日本新聞)

2008年1月25日 日本義塾公開講義

今日は「二・二六事件の真相の全体開示」ということをお話しします。ここにバーガミニの後編の32頁のコピーがあるでしょう。二・二六の青年将校達の決起趣意書がそのまま載せてあります。この決起趣意書というのは、バーガミニの本に説明してありますけど、青年将校の主な人達が自分で文章を作成したんでしょう。それを北一輝のところへ持っていったら、北一輝が文章に手を入れて、メリハリの効く語呂にしたと書いてあります。決起趣意書をお読みになったことありますか?

川島陸軍大臣が昭和天皇に謁見して天皇の前で決起趣意書を、青年将校はこういう趣旨で決起したようですと読み上げるわけですよ。読み上げたら裕仁がどう考えたかという事をバーガミニが書いています。

私が決起趣意書を読み上げてみます。


謹んで惟(おもんみ)るに我が神洲たるゆえんは、万世一系たる天皇陛下御統帥の下に、挙国一体生々化育(せいせいかいく)を遂げ、ついに八紘一宇を完うするの国体に存す。この国体の尊厳秀絶は、天祖肇国神武建国より明治維新を経てますます体制を整へ、今やまさに万方に向って開顕進展を遂ぐべきの秋なり。

しかるに頃來、遂に不逞凶悪の徒、簇出(そうしゅつ)して、私心我慾を恣(ほしいまま)にし、至尊絶対の尊厳を藐視(びょうし)し僭上(せんじょう)これ働き、万民の生々化育を阻害して塗炭の疾苦を呻吟(しんぎん)せしめ、したがって外侮外患(がいぶがいかん)、日を追うて激化す。

いわゆる元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は、この国体破壞の元凶なり、ロンドン軍縮条約ならびに教育総監更迭における統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭竊(せんせつ)を図りたる三月事件あるいは学匪、共匪、大逆教団等の、利害あい結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にて、その滔天(とうてん)の罪悪は流血憤怒、真に譬(たと)えがたきところなり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の噴騰、相沢中佐の閃発となる、まことに故なきにあらず。しかも幾度か頸血を濺ぎ来たって今なお、いささかも懺悔反省なく、しかも依然として私権自欲におって・・・苟且(こうしょ)(これが分かんないんですねぇ、苟も且つっていうんですね)偸安(とうあん)を事とせり。露支英米との間、一触即発して祖宗遺垂のこの神洲を一擲(いってき)破滅に堕せしむるは火を睹(み)るよりも明かなり。

内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮(ちゅうりく)し、稜威をさえぎり、御維新を阻止し来れる奸賊を芟除(さんじょ)するに非ずして皇謨(こうぼ)を一空せん。あたかも第一師団出動の大命煥発せられ、年来御維新翼贊を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衞戍(えいじゅ)の我等同志は、まさに万里征途に上らんとしてしかも顧みて内の亡状に憂心転々禁ずる能はず。

君側の奸臣、軍賊を斬所(ざんじょ)して、彼の中枢を粉碎するは、我等の任として能く爲すべし。臣子たり股肱たるの絶対道を、今にして尽くさずんば、破滅沈淪を飜すに由なし。ここに同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝腦をつくし、もって神洲赤子の微衷を献ぜんとす。皇祖皇宗の神霊、ねがわくば照覧冥助を垂れたまわんことを。

昭和十一年二月二十六日

っていうんですね。ここにバーガミニが説明してます。裕仁は黙ったままその趣意書に耳を傾けた、その激烈な言葉と軍人精神の勇敢な見せかけの背後に裕仁は彼の好戦的な全政策への完全な否認を読み取ることができた。ベールをかけた腹話的な言い方で反乱者たちは裕仁に請うてこれ以上の外征上の紛争の危険から手を引き、彼の勢力を内政改革と日本の伝統的な大和魂の保持に傾けるように求めていた、という風にバーガミニは説明しているんです。

バーガミニは、二・二六の決起趣意書と、それを裕仁が聞いてどう考えたかという事について、このように説明しているんですけど、こういう説明は、今まで日本人は全く聞いたことはないですよ。バーガミニの評価、説明は大変妥当な、非常に当たり前の説明だと私は思うんですね。

しかし、裕仁はそういう風に考えたけど、川島陸軍大臣、本庄侍従武官長、その他陸軍の中枢将官のほとんどは、こういう青年将校の決起に完全に同調、共鳴というか同情というか支持というか、そういう風な気分だったわけですね。そのことをバーガミニは事実に即してちゃんと説明しています。しかし、日本で今まで出版されている、公表されている、あるいはテレビ、その他等で言われている説明とは甚だしくギャップがあるわけですよ。それで、問題がどこにあるかをまず明確に設定しないとダメですよ。

これはバーガミニの英語の巻の上巻です。上巻と下巻があって、全一巻本というのもあります。日本の翻訳は1973年に出た、いいだもも訳の上下二巻、約1100頁少しなりますかね。バーガミニの本は、日本語で出たものとしてはもちろん、その前の英語で出たものとしても、明治以降の日本の歴史、とりわけ大正天皇以降、大正11年に裕仁が摂政になって以降、昭和天皇が日本の国家の中枢を握ったわけです。その昭和天皇の歴史の真相について、バーガミニの本が初めてそれを明らかに光を当てたんですよ。

この本がアメリカで出たら、凄い大ベストセラーになって色々な人が非常に高く評価した書評を書いたりしてるんです。ところが! これはよく熟読してくださいね。短い文章でしょう。83年の新版、新版というのは日本語の新書版が出るのでその序文を寄せたわけです。驚くべきことが書いてあります。


「天皇の陰謀が物書きとしての私の経歴をお終いにしてしまった」と言ってるんですよ。

これはビックリしませんか? 非常に私はビックリしましたよ、それを初めて知って。

この本が出た1971年以来、大ベストセラーになったんです。良く調べると、なんとこのバーガミニという人はアメリカの大学を出た後、ローズ奨学生になってオックスフォードに入学してます。ローズ奨学生のオックスフォード卒業生ですよ。これは欧米ではとてつもないエリートです。インサイダーの候補です。

そういう人が、自分は日本に非常に縁が深いので昭和天皇の歴史を中心とした日本史を書いてみようという訳で、アメリカの有力な権力層から日本の多くのインサイダーへの紹介状を貰って、インタビューしたりして、本もたくさん買って、京都に住んで、京都の学生・卒業生とかを助手にして、非常に詳しい調査をして、日本のインサイダー、元将軍、元なんとかという人たちのインタビューをしたりして書いた本ですよ。これは凄い本だということで前途洋々かと思うと、とんでもない。この本を出したおかげで、自分の物書きとしての経歴がおしまいになったって言ってるんです。

内輪に見積もっても200万〜500万ドル。今のドルではなくて1970年代だからもう少し価値があったんじゃないでしょうか。200万〜500万ドルが、私を押さえつけておく賄賂ないしは監視料として使われたって言うんですよ。奇妙奇天烈な話じゃないですか? いかなる手段によるにせよ、その勘定、つまりお金は日本政府からは出ていないって言うんです。じゃあ誰がそのお金を出したんですか?

「とりわけエドウィン・O・ライシャワーが、私を押しつぶす大きな蝿叩きを作るために手を貸した」って言うんですよ。ライシャワーは、気の赴くままに合衆国の大学に与える贈り物を持っていたし、日本での訓練期間中に彼に借りを作ったCIAの手の者達の中核の献身を受けていたって言うんです。

つまり、ライシャワーを中心とする、アメリカのまさしく権力エリートが、バーガーミニを著述家として葬り去るために全力を尽くしたわけです。賄賂ないし監視料というのは、バーガーミニの著述家としての活動の全てに渡って完全に抹殺するように米国の権力が総力を挙げて襲いかかったんですよ。奇妙奇天烈な話じゃあないですか?

本を5冊書いたけどね、出版社に持って行くと、すかさずその出版社に手がまわって、その賄賂ってわけで、これだけ金をやるからバーガーミニの本は出すな、どうのこうのって訳ですよ。アメリカの日本問題専門家は全部ライシャワーの息がかかってますからね。ライシャワーが命令して「あいつはもう一切相手にするな」って言うわけです。

そんな風にして、彼はあっという間に物書きから転落していくわけですよ。そうしてね、いまの私はマイクロコンピューターを売ったり、コンピューターのプログラムを作ったりすることで身を立てておりますって言うことになっちゃった。そして、彼は「私の愛国心は幻滅に帰した」、つまり、アメリカは自分の祖国と思っていたがとんでもない、自分が1冊の本を書いたが為に、アメリカという国家は自分に襲いかかって、自分を叩き潰そうと、もう叩き潰してしまった。愛国心ってのものは無くなったと、そう言ってますよ。

これは実に驚くべき序文ですよ。バーガーミニの本は、日本の天皇を中心とする体制にとっては、絶対あってはならない本だと考えるのは当然ですよ。ところが、日本ではなく、アメリカの国家権力そのものが、バーガーミニに襲いかかった。それはこの本が、米国つまりイルミナティにとって虎の尾を踏んだ、絶対隠蔽すべきタブー、隠蔽すべき秘密を、バーガーミニが白日の下にさらけ出してしまう。そういう悪い事をした、犯罪を犯したという評価ではないかと。従って、そういう扱いを彼は受けるわけですよ。

いいだももさんが翻訳者ですけど、いいだももさんがね、このバーガーミニの新版の序文を高く評価して、何かコメントしたかどうか、私は調べてないけど、少なくとも私は知りませんよ。

それで、アイリス・チャンという人が、すごく悪名をつけられてしまったTHE RAPE OF NANKING という本、アメリカで出たら日本の天皇教狂信者達が一斉に襲いかかって、あれはとてつもない出鱈目だインチキだ悪書だって言ってすごく悪評が充満して、一般の日本人はそういう悪評だけ耳に入っていて、本物の本は全く知らないっていうことが続いて、最近10年後に日本語訳が出ましたね。その日本語訳を読んだら、そのバーガーミニの本がいろいろ引用されてます。しかし、アイリス・チャンも、アメリカでも高名な偉い学者達はみんな、バーガーミニの本を否定してるっていう風に言ってるんです。だから、普通の人は理解不可能です。

何故そうなるのか? 日本の天皇教信者と日本の国家権力とその他、それに類する御用作者・御用学者・その他が、バーガーミニを否定するのは当然でしょう。しかし、なんでアメリカの権力がバーガーミニを葬り去ろうとするのですか。この本は全くのインチキだって否定するんですか。

それはまさしく、昭和天皇が単に日本的存在であるだけではなくて、イルミナティ、サタニスト世界権力によって育成された、極めて有能な重要な貴重な傀儡である、イルミナティ、サタニスト世界権力の道具として裕仁は機能したし、ずっとこの本が出た当時もそうだし、今に至るまでそうである、ということの明確な証拠であると私は思います。そう評価することで、バーガーミニの本の重要性と、今それを再評価して日本人がちゃんと勉強する、消化することを始めるべき緊急な必要性があることが証明されると思います。

裕仁は別のことを考えていた

それで、私が読み上げた「蹶起趣意書」については、侍従武官長も、陸軍大将も、他の軍事参議官(まだ予備役になっていない現役の陸軍大将の全部か一部が天皇の軍事顧問の役割を果たすよう設定された職務。軍事参議官会議とは昭和天皇の諮問に答える)も、将官クラスも、ごく少数の非常に突拍子もないへんてこりんな軍人以外の、当時の日本の軍人・将校のほとんどが、この蹶起趣意書にすごく共感したわけです。

当時の日本の人口の6〜7割は農民ですけど、その農民は、第一次大戦後の軍が入ってきて、それから昭和4年(1929年)の世界経済大恐慌の前後からずっと続いてる、日本の経済恐慌の結果、農村は生きることも、死ぬこともできない様な塗炭の苦しみを味わってるわけですよ。兵隊はそういうところから出てくるんですから、将校はそれをひしひしと感じてるわけですよ。だから、多かれ少なかれ趣意書に書かれていることは、天皇の重臣などを殺したというのは、私利私欲、私的目的の為ではなく、こういう趣旨を掲げて、何とか変えてもらいたいと決起した志を酌むべきではないか、少なくとも天皇はその志を酌んで名誉を与えてもらいたいというのが、当時の(海軍は別ですけど)陸軍の首脳層のほぼ全員一致の考えです。

それでも、裕仁は全然問題にしないわけです。全然別の考えなんです。

バーガミニは、二・二六が起きた後、裕仁は単身、厳密に言えば一人じゃないですね、裕仁のそばにいた木戸幸一は、そのころ内大臣府秘書官長だった。二・二六で内大臣の斉藤実が殺されたでしょう。そのあと(1940年から)木戸幸一が内大臣になった。しかし木戸幸一1人じゃない。裕仁(昭和天皇)の摂政時代から、「十一会」という私的な結社を主宰してるんですよ、昭和天皇の顧問団。しかし、バーガーミニは、昭和天皇は単独で自分の考えを強行突破して、あらゆる反対、異論を押し潰して、いくつもの政治決戦に最終的に勝利したと評価してます。

それは全く正当な評価です。日本人は、そんな話はいまだかつて聴いたことがないですからね。だからね、それは非常に衝撃的な評価ですけど、バーガミニの本を最初から読んでいくと、当然そうなるとわかる。

薩摩と長州の宮中掌握

二・二六事件の当事者、関係者をあげていくと11項目ぐらいになる。決起趣意書については先程お話しました。二・二六事件の主役として、表面に出てくるのは4つの勢力なんです。昭和天皇、陸軍の北進派、陸軍の南進派、決起青年将校団の4つです。しかし現象面として挙げていくと、そう言えるという事であって、その現象では物事の本質は見えてこない。本質は何か、さかのぼって突き詰めていくと、落合莞爾さんが吉薗(よしぞの)周蔵〔上原勇作陸軍元帥の私的特務をしていた人物〕の手記について、今ニューリーダーに連載していることの画期的な意味、今まで日本人が全く知らされていない、気がついていない、極めて重要な根源的な近代日本の状況を知る為の要素があります。私も落合さんの連載を読んでいて気がついたんですけど、そもそも孝明天皇を弑逆(暗殺)した主役が長州なんです。公家の一部(岩倉、三条など)が共同謀議して実行したんでしょう。ところが、薩摩が長州と共同歩調をとらないと、それはうまくいかないんですよ。薩摩が孝明天皇を弑逆して大室寅之祐を天皇にすり替えて、イルミナティの傀儡として全く偽者の天皇をでっちあげて、それを本物の天皇として日本人に見せかけて、日本人をずっと騙して、その真相を絶対に秘密にする、そういうシステムを作る上に、薩摩と長州がその二つの主役だった事を私は既に色々なところで言ってます。

しかし薩摩は西郷隆盛が主たる人物。西郷隆盛は、イルミナティのコントロール下で彼らの傀儡となって日本を支配するというような生き方には、究極的にNOと言ったんです。NOと言ったのでフリーメーソンがイルミナティに西郷隆盛の排除を命令したんです。長州と薩摩も彼らの傀儡に対して。それが西南戦争です。西郷さんと一緒に薩摩の武士の約半分は殺されました。残った半分はどうなったかというと、そのすぐ後に大久保も殺されて、その為に、薩摩の力が弱くなって長州のひとり天下のように思われるわけです。

ところが、実はそうでもないんですね。その事を落合さんがずっと調べていって、重要な事実を発見しました。薩摩は英国と戦争をやって、長州は4カ国と戦争をやって、敗北したら掌を返すようにイルミナティの家来になるわけですよ。薩摩も長州も。そして薩摩藩は有能な青年武士をフリーメーソンのグラバーの手引きで英国に留学させた。長州ファイブと英国では言うようですが、その中の一人が伊藤博文です。それから井上(馨)。伊藤と井上は明治時代ずっとペアで日本を支配する。その他、その長州ファイブが、フリーメイソンと、フリーメーソンを上回る直系の長州政権内の決定的なワンワールドの支持の元に動く。これについては加治将一という人の本に割と詳しく書いてある。ところが薩摩も長州とほとんど同時に何人かの青年武士をロンドンに留学させている。そのほうもワンワールド・フリーメーソンに会っただろうと加治って人も言ってます。

しかし、落合っていう人が言うのには、西郷軍(西郷さんの陣営)が完全に潰された後、薩摩は長州に対して弱体化したかというと、そうではないんですね。西郷、大久保、吉井友実〔よしい・ともざね、1828〜1891年。西郷、大久保と同等クラスで、薩摩藩のナンバー3。フランスに留学してワンワールド・フリーメイソンに加入し、明治初期から宮中に入っていた。西郷、大久保なき後、ワンワールドの代理人として宮中を掌握〕の3人が主要な指導的人物と言われていて、その吉井というのが明治になって留学してフリーメーソンに加盟したと落合さんは言ってる。陸軍に入るけど留学して、そして宮中に入る。つまり、ワンワールド、フリーメーソンは宮中を完全に掌握する事を重要な政治課題として設定したと私は思います。

それから、松方正義〔まつかた・まさよし、1835〜1924年。薩摩藩。金融を掌握〕は有名な財政家・金融家ですけど、これもワンワールドでロスチャイルド直系の子分だと言ってます。従って薩摩はワンワールドを通じて西郷さん一派が完全に消えた後も金融を押さえ、宮中を押さえる。そういう風にしてワンワールドは長州の陸軍、薩摩の金融・宮中の勢力が二本立て、両建てで日本をコントロールしたと、私が要約するとなります。

これは私は気がつかなかった。その後、高島鞆之助〔たかしま・とものすけ、1844〜1916年〕という長州(薩摩の言い間違え)の有望というか有能な武士が、陸軍中将になるけど、やはり宮中に入るんです。高島鞆之助もヨーロッパに留学してフリーメーソンに加盟したと言うんです。薩摩の吉井と高島が、普通の歴史には全く出てこないけど、長州の陸軍、官僚と並んで同時にワンワールド、フリーメーソンの日本支配の極めて重要な陣営として機能してる、という事なんです。

私がここで何を言いたいかと言うと、大室寅之祐を擦り替えて天皇にはした。当然、京都で継続してきた日本の朝廷、天皇の系統とはまるで別物ですけど、別物であるにも関わらず、継続した天皇家の正統であると日本人に思わせないといけません。これは非常に難しい仕事ですよ。代々ずっと続いた天皇の正統な継承者であるというふうに日本国民に思わせるように、パフォーマンスというか、フリというか、演技というか、そういう風に作ると同時に、裏のほうでは国民に全く知られないところで宮中はワンワールドの司令通り忠実に動くように演出しなければならない。これは途轍もない難しい仕事ですよ。そういう場に際したのが、吉井と高島。薩摩の非常に有力な武士団の実力者です。

という事を、上原勇作〔うえはら・ゆうさく、1856〜1933年。薩摩藩。山県有朋と同時代の陸軍大将。吉井、高島のひいきで出世。やはりワンワールド〕を調べていた落合莞爾が気がついたという訳なんですね。そういう風に見ると今問題になってる事が凄くよく解る。そうして宮中を握るでしょう。そうすると出てきた現象はどうなるかというと、皇族の男子は全員原則として軍人になるべしというような規則にするんです。軍というのは、陸軍か海軍かのどちらか。従ってバーガミニは、明治、大正、昭和と皇族の表をずっと作って、追って行くわけです。驚いた事に日本には皇族がどうなっているかについて詳しい情報は全くない。変な話だが、わざとそうしてる。そこを調べて行くと、皇族の男子の軍人というのが、陸軍軍人、海軍軍人、ものすごくたくさんいる。そんな事は孝明天皇までの日本の天皇の伝統には存在しないです。

明治天皇がそんな事を考え出して、こういう風にしようなんて事はあり得ない。ワンワールドの司令を受けた宮中を完全に支配する力を得た、吉井、高島、そういう薩摩の藩閥勢力によって宮中がそういう風に作り変えられていった訳ですよ。陸軍軍人、海軍軍人らの皇族は、当然の事ながら英国、フランス、プロシア(ドイツ)、その他ヨーロッパの王室、陸軍・海軍の軍人のシステムをそっくり同じ様なものを作るわけですよ。

大正天皇のクーデタ

大正天皇が明治11年に生まれ、昭和天皇が明治35年(1901年)に生まれ、教育を受ける頃には、宮中のワンワールド支配が濃密に丹念に入念に準備されていたわけです。その結果、どういう現象が起きたか。大正天皇が32歳で天皇に即位する。その時にバーガミニは大正天皇の失敗・未発に終わったクーデタについて書いてます。それはこの本の第2巻で、いいだもも訳には省略されてる部分。

いいだももの要訳では、昭和天皇の時代は昭和3、4年ぐらいから始まる。それまで大正天皇の時代、摂政になる時代、昭和天皇が即位して最初の2,3年。この時代の記述はいいだももの訳には省略されてる。ところが重要な事がたくさん書いてあり、それを追って行かないと話が結びつかないのに、カットされてます。

大正天皇の不発のクーデタなんて、私は日本人の書いたものでは読んだことがない。クーデタとは何を意味するか? 山縣有朋は当時の元老です。大正天皇の時代の元老では、西園寺公望、山縣有朋、大隈重信、主要なのはその3人ぐらいです。大正天皇が山縣有朋と衝突するというんです。衝突って何を意味するかというと、西洋式のナポレオンとかアレキサンドル大王とかいった人物が大正天皇の理想像になったと言うんです。つまり、大正天皇はそういうふうに日本を、国家を、改造する気なんですよ。明治憲法によって作られた議会制度は余計だっていうわけですよ、大正天皇は。そんなものは廃止して天皇の絶対独裁の国家体制にしたいって大正天皇は考えた訳です。それがクーデタです。明治憲法(大日本帝国憲法)の議会で予算が審議されるでしょ。議会が予算を否決すると困っちゃうんです。政治的な焦点は、予算について言えば、日露戦争やって日本は莫大な外債(借金)を背負ってヒーヒーするわけですよ。それで国力を養わなくちゃならないというのが国民、政治家の大多数の意見だけど、しかし、それとは全然逆の方向、つまり日本を西洋をモデルとした帝国として建設に向かって急速に前進すべきだ、その為には陸軍と海軍を増強しなければならない、そして、それに反対する議会ってのは邪魔な奴だ。こんなものは蹴散らかして天皇絶対の国家体制にすべしと大正天皇は考え、それが大正天皇のクーデタだというのです。山縣有朋は、そんなとんでもない事を言うなという訳です。大正天皇に。山縣有朋と大正天皇が正面衝突しかかり、その時点では山縣と長州閥の勢力が圧倒的に強いから、大正天皇は押さえつけられて未発に終わったと書いてある。

こんなことは私は日本人が書いたこれまでの歴史で読んだことがないです。そして、裕仁は大正天皇の不発に終わったクーデタを諦めないで実行しようとする訳です。それが要するに基本なんです。立花隆が『天皇と東大』という本を書いたでしょ。文芸春秋に連載して、いろいろ補足して厚い本を出した。東京帝大の憲法学の教授が二人いて、その一人の上杉慎吉は議会を撲滅せよと言うんですよ。上杉憲法学の根本的なアジェンダは「議会なんていうのは天皇を神聖化する日本の国体に全く反するものだから議会を一刻も早く撲滅せよ」というもの。そこから右翼的な組織が出来たりどうのこうのと立花さんは説明してますけど、それは現象を言ってるだけであって、上杉っていう学者の話じゃありませんよ。もっと根の深い話で、大正天皇が傀儡として議会は邪魔だって言い始めたんですから。邪魔だっていうのは、大正デモクラシーの時代にはとんでもないアナクロニズムで、問題外だと多くの人が思ったかもしれないけど、ところがそうはならないですよ。

昭和になってクーデタ、暗殺、その他、諸々わっと出てきて、二・二六を昭和天皇が完全に圧殺・抹殺した後は、文字通り議会は消えて、お前ら消えて無くなれってふうになって、大政翼賛会でね、陸軍にちょっとでも逆らうような政治家は暴力的に黙らせるというふうに、実現してしまう。イルミナティのワンワールドの意思が働かなければ、日本の純粋な国内の状況でそんな現象は起きないですよ。

ザビエル以来の日本全滅計画

しかしそういう事が何故要求されるのか? 私の『ユダヤの日本侵略450年の秘密』という本に書いてますが、ザビエルが日本に来て「日本はこの地上から抹殺されるべきだ」「日本人はこの地上で生きていてはならない民族だ」「これは我々にとって極めて危険な強力な敵になる可能性があるから一刻も早く一人残らず皆殺しだ」と、ザビエルはイルミナティ本部に申告しているんです。450年あまり、イルミナティの対日アジェンダはずっと継続してます。

家康が鎖国をして次にペリーがやってきたでしょ。ペリーがやってきたら、日本の内部から崩れて、孝明天皇が殺されて日本は既に仮死状態ですよ。神経麻痺してます。ゾンビ人間みたいなものですね。その後に出来た日本の天皇を中心とする支配階級はイルミナティの檻の中に入っている実験動物のネズミのようなものです。孝明天皇弑逆事件以降、主体的な意志を持つことは許されていないんです。

しかし、彼らが日本を完全に抹殺するには日本の独自の軍隊を完全に破壊しないとだめです。独自の武力を破壊して日本全土をイルミナティの軍隊が占領しないと、話は先に進まないです。それはなかなか難しいです。米国は太平洋の遥か向こうにいるでしょ、英国に至っては太平洋どころか延々と日本にやって来て英国が日本を占領する大軍隊を日本に派遣するなんてことは夢物語にもならないです。したがって英国は別のエージェントを使って日本を占領させないとだめでしょう。英国を本部とするイルミナティは、あれこれ謀略の限りを尽くしているわけですよ。

ペリーが来て日本はイルミナティの資本主義のルールの中に取り込まれた。それだけでは話は全然進まないですから、日本全土を占領して日本の陸軍も海軍も一兵も残さず一掃する、消してしまう。話は簡単だけど実行するのは難しいですよ。その為には日本を扇動して、西洋式の帝国主義になる、成り上がるという気持ちを起こさせ、その為に強大な軍隊が必要、陸軍も海軍も強くしなければということにしないといけない。そんな事をすると一般の日本人は汲々として生きていかれないような状況になります。当然ながら一般は日本人はそんな事は嫌だと言うでしょう。そんな事はヤダよと言わせないようにしないといけませんよ。そもそも議会というのが邪魔だとなります。

陸軍でも海軍でも良識的な優れた軍人はね、負けるに決まっている戦争はやらないです。そんな戦争はやるな、自分は反対だというでしょう。そういう反対する良識的な軍人は全部抹殺しないといけません。そしてイルミナティの命令どおり、最終的に日本は満州を占領して、中国全土を占領して、東南アジアも占領して、英国と戦争して、アメリカとも全面戦争して、ソ連とも全面戦争してと、そういうふうにするアジェンダというか、そういう軌跡というか、そういう方向に日本を突き進めないとだめですよ。

普通の日本人、日本の指導者でも政治家でも官僚でも陸軍の軍人でも海軍の軍人でも、多少でもまともな良識持っていれば、そんな事は自分は反対だって言うでしょうよ。そんな事やったら日本が全滅するのは子供だってわかる道理ですから、反対だって言いますよ。だがそんな事でイルミナティは諦めない。そこを何とかして謀略の限りを尽くし、良識的な官僚、政治家、知識人、陸軍軍人、海軍軍人を、みな追放して、イルミナティの挑発、プロパガンダ、謀略にほいほい乗ってくれるアホを日本のトップにして、全世界を敵にして百戦百敗の戦争に突っ込むようにもっていかないといけない。

そんな事は普通の国家体制では出来ませんよ。ほとんど全国民が嫌がることをやらせるには仕掛けが必要です。その仕掛けが絶対主義的天皇制度だった。天皇とは天照大御神から直系した現人神であり、日本の精神をすべて支配し、権力をすべて支配し、天皇の為に死ぬ事が最高の名誉であって、天皇に一言でも批判したり何か言うだけで特高警察がやって来て撃ち殺されても当然だという具合に日本の空気を持っていかないといけません。そういう仕掛けが二・二六の後、日本に完成したんですよ。

そういうふうに二・二六を見ないといけません。二・二六までは陸軍の将官の圧倒的多数は中国との戦争には反対です。当たり前です。最終的に日本はずるずる中国大陸に引きずり込まれて、昭和20年敗戦の時には、日本の陸軍は約100万人の軍を中国全土に占領軍として派遣した。100万の軍隊というのは口で言うのは簡単だけど途轍もない事ですよ。しかも、100万の陸軍の兵隊を中国戦線で維持しながら、さらに英国(英国がアジアに向ける国力は少しだが)と、モロに国力の半分を日本に向けるアメリカと、そういう戦争に向かって突入していく。気が狂ってなければこんな事はしません。普通の日本人であればこんな事はしません。しかしそれに反対すると天皇が出てくる訳です。天皇の命令に反すると直ちに死を意味する。殺されて何も言えないって具合になる。そういう仕掛けが完成したのが二・二六の後です。

二・二六、そして日支事変があって、その後どんどん戦争が拡大していくでしょ。それで予定通り日本は敗戦してイルミナティが日本全土を占領したんです。今に至るまで占領体制下にあります。占領してしまえば、日本は完全に籠の中の鳥、檻の中のネズミとして彼らがどうするのも自由自在。そうなってるでしょ。

根本的な当事者は裕仁だ

日本人には今に至るまでその歴史が一向に釈然としない。釈然としないから二・二六について非常に多くの人がいろんなことをあれこれ言うけどね、しかし一向に問題の真相、本丸に迫らないんですよ。鳥居民という人が『近衛文麿、黙して死す』という本を一昨年出しています。近衛文麿と木戸幸一が元宮中の中枢に近い二人の人物でしょ。近衛文麿は陸軍の一部(統制派)による中国に対する全面戦争には全く反対したんです。一方、木戸幸一は統制派の陸軍とともに陸軍による中国全土占領政策に舵を切るんです。にもかかわらず、大東亜戦争、東京裁判のあと、日本では近衛が悪玉で木戸が善玉になっている。非常におかしい。全くおかしな世論操作が行われているんじゃないかと、この人(鳥居民氏)は言った。

二・二六についても決起青年将校の趣旨が若干でも日本の国家に取り入れられれば、その後、日支事変、中国に対する戦争も開始しないし、その後の全面的な戦争とは全然別の路線を日本はとったはずだけど、その時点で昭和天皇に対して方針・政策を提案する決定的な立場にあった木戸幸一は、二・二六に対して即時徹底的に鎮圧すべきという方針を提起して、昭和天皇はすぐにそれに賛成して、そういうふうに進んでしまったっていうわけで。

近衞は全く別の方針だったけれど、近衞は全く排除されたという風なことを言ってます。だから木戸は二・二六の後の方針についても、それから日本が米国との戦争を回避するかという議論でも、近衞は全く反対したんですね。近衞は、日本は中国から陸軍を全面的に撤兵して、米国と交渉し直して、米国と戦争しないような方向に持っていくべきだと言ったけれども、木戸は陸軍中枢部の線に沿って、中国からの撤兵反対、アメリカとの戦争辞さず、そして実際にアメリカとの戦争というふうに持っていった主犯であるとこの人は言っている。

しかし日本人は、今更そういうことを言われても全然ピンと来ない。というか、今更そんなことを言ってもしょうがないんじゃないかということで終わりになっちゃうわけです。

木戸幸一じゃなくて根本的な当事者は昭和天皇なんです。鳥居って人はそのことには触れることはできない、そのことに触れるとそれはたちまち現代日本の体制を支配している絶対的なタブーと衝突して、自分の方がぺっちゃんこになるかもしれない、だからそういうことはしないというわけです。従って今まで昭和天皇を弾劾する、昭和天皇の政策を告発する、それを否定する、昭和天皇が反日本的な方針を強行したということについては一言も言えない、そういう呪縛が日本人を縛り続けているんですね。

どの識者にもイルミナティ(英・米・露という国家の枠を超えた存在、
自由主義・共産主義という思想の枠を超えた存在)が見えていない

バーガミニは、昭和初年以降の、満州事変以降の日本の戦争の主犯は、その主たる決定者は昭和天皇だという説を立てて、論証していく。だから昭和天皇の陰謀ってわけだ。日本ではいかなる実力者もいかなる人間も政治家も軍人も官僚も、昭和天皇の意思に異議を唱えることはできない。満州事変以降、日本の戦争期間中に総理大臣がたくさん替わっているでしょう。一年か二年ぐらい、ひょっとすると一年未満で辞めたりして、非常にたくさんの総理大臣が替わってます。そういう人たちが共同謀議をして一貫した日本の戦争拡大を遂行するなんてありえない。その方向の主犯、謀議の中心は昭和天皇なんです。昭和天皇は側近を通じてその政策を実行したと一応バーガミニは書いている。その(表面の)現象は書いてある。昭和天皇の背後に存在する勢力についてはバーガミニには分からないんですよ。だから本当にちゃんと調べて自分は解明した、昭和天皇の時代の日本の歴史の真相を解明したと思ったところが、それにアメリカのためにもすごく大きな仕事をした、みんな褒めてくれるよと思ったところが、たちまち背後から襲われて、なんだか訳のわからないうちに潰されちゃうんですよ。彼には見えないイルミナティのアジェンダの中に日本が設定され、日本が取り込まれていて、その結果いろんな現象が出て来るってことがバーガミニには分からない。

私は『ユダヤの日本占領計画』という本の中で、日支闘争計画について割と詳しく説明してます。渡部悌治先生の『ユダヤは日本に何をしたか』という本の中にも日支闘争計画については説明してあります。日支闘争計画というのは1918年の秋、モスクワで全ユダヤ会議の代表とボルシェビキ政権の代表と、イルミナティの代表が集まって日支闘争計画という長期計画を立てた。それは日本と中国を戦わせる。日本と中国の全面戦争に持っていく。その過程で共産主義が中国の中で主導権を取るように持っていく。そしてその次に日本に対してアメリカとの戦争、英国との戦争、最後に共産ソ連との戦争、に持っていく、そして最終的に中国も日本も同時に我々が支配する、そういう計画を立てたというんですね。それがロシア語の新聞に載っていたものを日本の諜報機関が手に入れて、東京に報告したけど、その意味が全然わからないままになっていると渡部先生は言ってます。渡部悌治先生が仰るには、その問題の情報が載っているロシア語の新聞は、1918年の秋に行われたのですからそのあとなんでしょうね、国会図書館にありますよとおっしゃっていました。あいにく私はそれを調べてないんですけど、国会図書館にまだ保存されているなら、ロシア語のわかる人が見れば出てくるでしょう。

それで日支闘争計画というのは、ボルシェビキ共産政権、コミンテルン、共産主義の勢力だけじゃなくて、全世界のユダヤ人組織の代表が入ってる。それからイルミナティの代表が入ってると説明されています。日支闘争計画というのは、ソ連共産主義政権の単独のプログラムではない。全世界のユダヤ人組織、イルミナティの世界組織の計画でもある。真相に迫ろうとする人は、そのところで止まってしまっているんです。

二・二六事件研究家の山口富永(ひさなが)氏。國民新聞という右翼の月刊新聞をずっと購読してて、この山口という人の文章を読んだら、面白いことを言ってると思ったんですけど、最近バーガーミ二の本を読んだら、改めてこの人を注目しなくちゃと思ったんです。

平成2年に出版された『二・二六事件の偽史を撃つ』を最近山口さんから送って頂いた。山口さんは1924年生まれですから、戦争末期軍隊に徴集されたんですね。少年時代、中学生の頃からでしょうか、真崎甚三郎大将と交流があって手紙のやりとりをして、真崎大将と皇道派の志と方針に全面的に共鳴した人なんです。たいていの人は少年時代の話はしばらく経つと忘れちゃって、捨てちゃってサヨナラするのが普通ですけど、この人は84歳に至るまで真剣にそのことを追求しています。

これは最近、連載されたものです。皇道派の真崎大将は、日本の国力相応の軍備強化(口先だけの外交は不可)、戦争の拡大は絶対に反対という人ですからね。真崎大将はイルミナティからすれば、大変邪魔なんです。無自覚的にイルミナティのエージェントにならされた統制派の人たちは、裕仁の直系の軍人でもあるんですよ。統制派の最たる者が有名な永田鉄山少将で、相沢中佐に陸軍省の中で惨殺された(1935年)。永田鉄山がイルミナティの道具として使われた最も代表的な軍人でしょう。

イルミナティにとって真崎は邪魔だから排除しようとした。二・二六事件を奇貨(きっかけ)にして、二・二六事件の共犯者だと称して(真崎を)逮捕して調べたんですけど、陸軍の司法部、陸軍の軍事裁判は無罪の判決を下したんです。もともと何の関係もないですから。皇道派の真崎大将は、イルミナティが日本の完全抹殺に向かって決定的に歩を進めようとするときに、日本の陸軍の良識的な部分として、しかも陸軍の軍人から絶大な信頼を得ていた。そういう人物の排除が、至上命令だったことがよくわかります。

したがって、私は、昭和天皇が二・二六事件の主犯である、日本を滅亡に追い込んだ国賊である、日本の歴史上もっとも顕著なもっとも極悪の国賊である、という風に昭和天皇・裕仁にレッテルを貼り付ける必要があると思います。そういう風に価値観を変えないとダメです。

明治天皇と昭和天皇は全然異質なんです。明治天皇は15歳までは、大室寅之祐、普通の日本人ですからね。傀儡とされたけども、薩長の藩閥の傀儡なんです。それを通じてイルミナティの傀儡に位置づけられたけど、少年時代は日本人として教育されているから、そう簡単には動かされないんですよ。西南戦争で、大久保・木戸一派が、とにかく「西郷を殺せ」っていうけど、明治天皇は本心では絶対反対なんですよ。大久保と木戸は、明治天皇に、西南戦争の最前線に立って、大本営を広島辺りに持っていって、天皇の威光でとせっついたけれども、明治天皇はそれを拒否して、宮中に篭ったまま外に出てこない。これは歴史に残ってます。明治天皇は反対なんですよ。

西南戦争で西郷さんが死んだ後、木戸が途中で病死、大久保は明治11年に殺され、岩倉は明治16年に病死した。その後、明治天皇は西郷隆盛の名誉を回復しろと命令し、それは実行されたんです。「西郷隆盛の遺族はどうしてる?」と明治天皇が尋ねて、調べたら、妻子は山中に隠れてひっそりしていたことがわかって、どうこうとなるわけです。一刻も早く名誉を回復させよと、明治天皇が言うわけです。次に日清戦争を起こすでしょ。明治天皇は日清戦争は反対なんです。しかし、薩長藩閥政権はイルミナティの傀儡だから、明治天皇がなんと言おうとも問題にしないんですよ。明治天皇の意思に反して、日本は日清戦争に突っ込んだわけですよ。

私が『長州の天皇征伐』という本を書いて出すときに、出版社が「明治天皇国賊論」という案をいってきたんですが、明治天皇を国賊と言い切るわけにもいかないんですよ。しかし、昭和天皇は、明々白々、歴然たる日本史上最悪の売国奴です。日本全土を今に至るまでイルミナティの占領下において、日本はその命令通り日銀の利子をゼロに近づけて十何年やっているんですからね。そのお金をユダヤ・アメリカ・イルミナティがただ持っていって盗っていることに、日本の国家は何も言えない。日本の占領はますます強化されてますよ。そういう状態にしろと言われ、その通りに実行したのが裕仁なんですよ。裕仁は日本史上極悪の売国奴だと私は考えてます。裕仁については「国賊・昭和天皇」と言うべき時だと思います。そういう風に日本人の価値観を変えないとだめです。明治天皇は違いますよ。昭和天皇はイルミナティの傀儡として百点満点というわけです。

二・二六でイルミナティの傀儡としての昭和天皇を独裁者としておくことが必要だった。そうしないと、百戦百敗、完全に惨敗して、日本が滅亡することが決まっているような、中国に対する戦争、中国に対する全面戦争はやがて、松岡洋右が当時言ったように、必ず米国との戦争に日本は引っ張り込まれ、最終的にソ連との戦争となる。日本は全世界を敵にして、滅亡するしかない。松岡洋右はそう言ってます。松岡は外務大臣で、昭和天皇が大嫌いなんです。裕仁は松岡についてあれこれ悪態をついてます。

日本を全世界に対する無謀な、惨敗して滅亡するしかない状況に持っていくために、裕仁は使われ、その通りに裕仁は演技したんですよ。これを売国奴と言わずして何と言うんですか? 二・二六事件は、それを象徴的に表しているんです。陸軍の将官が全員、決起将校の心情、政策、志をちゃんと評価すべきだと言ったんです。しかし、昭和天皇はそんなものは問題外だと排除した。バーガミニはそれを「政治戦に裕仁は勝利した」って言ってるんですけど、その通りです。

日本の蘇生には真崎大将の名誉回復が絶対必要条件

二・二六事件についてそう考えると、真崎甚三郎大将の遺志が、今、非常に重要になっている。日本人が、真崎大将の名誉回復をすることが、滅亡寸前の日本の再生と蘇生のために絶対必要条件だと、私は、山口さんの本を読んで気が付いたんです。

この山口さんが、昭和19年に陸軍に徴集されて入隊する時に、真崎大将を訪問した。山口さんが、真崎大将に「今、日本に天皇陛下はおられるのですか?」って聞いたそうです。そしたら真崎大将は「二・二六の将校もそれを嘆いて死んでいった」と言われたと。昭和19年のことです。山口さんは皇道派の志に同調してたから、「今の天皇というのはなんだ?」「あれは本物の天皇なのか?」「今は日本に天皇はおられるんですか?」という疑問が出てきたわけですよ。本当にその通りですよ。実際、銃殺刑に処せられる青年将校十何名の中には、天皇を公で批判した人もいるし、批判しない人もいるけど、と言ってますね。山口さんは非常に重要なことにちゃんと迫ってます。しかし、「裕仁は国賊だ、売国奴だ」とはっきり言い切るのは、日本人にとっては難しいです。左翼はイルミナティの虎の威を借りて「昭和天皇は戦犯だ」とわめくんです。彼らはイルミナティの手先ですからね。イルミナティの虎の威を借りてあれこれ言っているだけのくだらない人達です。左翼そのものがイルミナティのエージェントとして日本をイルミナティに売る売国奴ですから、こういう人たちは問題外。日本人の立場として日本民族の立場から見て昭和天皇とは一体なんだ? そのことに今までで一番接近しているのは、二・二六事件に全然関係ないのに逮捕された皇道派の首領である真崎大将ですね。

真崎大将が「東條ごときはものの数でもないが、自分に対する圧迫が宮中からずっと来た、そのことが一番難しい、苦しいところだった」という趣旨のことを言ったと書いてあります。宮中ってなんですか? 木戸内大臣は天皇の番頭であって、権力そのものじゃないです。宮中ってのは昭和天皇でしょ。しかし真崎大将も昭和天皇に対してストレートにそれを告発する、それを批評することが心理的にできないんですよ。

それを超えることができなければ日本の民族はもう終わりですよ、と私は思います。つまり、イルミナティは孝明天皇を弑逆させて、その辺りに傀儡を作って、明治天皇はなかなかイルミナティからすれば素直じゃないでしょ。大正天皇は明治11年生まれですから、それを教育する宮中はワンワールドの手先。完全に支配してるんだからね。昭和天皇に至っては明治34年生まれですから、ワンワールドによる宮中の支配は完璧になってます。裕仁はイルミナティの純粋培養の作品です。イルミナティの傀儡として終始し、摂政の時代も、昭和前期も、占領中も、一応講和回復後も、イルミナティの言う通り期待通り百点満点と評価していい存在だった。

そうして日本は敗戦、講和回復しても昭和天皇の言うとおりに、ずっと占領下にあります。その件について多少真相に迫った学者などが2〜3名存在します。その学者の研究によれば、朝鮮戦争が起きて米国政府が日本との講和条約交渉を始める。その時に吉田茂首相は常識として当たり前だけど、講和が締結すれば戦争は終結だから米軍は全部撤退する、それが当然と思って進めていた。ところがなんと昭和天皇が吉田首相の頭越しに、吉田首相の知らないところで裏取引、秘密交渉をやるわけですよ。秘密交渉の相手はダレスです。ダレスは共和党系だけど、民主党政権でも有力な外交顧問になってた。対日講和条約はダレスが主任となった。ダレスと言うのは1920年代からロックフェラー財団の最有力者で、イルミナティのコンコンチキですよ。そういう人物と裏取引、直取引して昭和天皇は吉田茂の方針を否定して、講和条約締結後も無期限に日本は米軍に軍事基地を提供する、というよりも米軍に無期限に日本に駐留してもらいたい、と言うわけです。沖縄に至っては50年くらい、事実上半永久的に米国の領土として日本は認める考えがあるということをダレスに対して昭和天皇は言うわけですよ。

これは何なんですか?

これを売国奴と言わずして何というんですか?

日本人が正式に選んだ吉田茂首相とその内閣、吉田茂は常識として戦争終結したら米軍は日本全土から撤退する、そういう当然の前提のもとに講和交渉を始めたんです。当たり前のことじゃないですか。それを昭和天皇が横やりを出して、ダメだというわけです。率直に言えば、日本は米国に無期限に占領してもらいたいと言うわけです。

これは何なんですか? その結果、今のようになってんですよ。これは何なんですか?

しかしこれは昭和天皇の日本に対する無数の裏切りの一つに過ぎません。しかしながら日本人はそのことを公然と報道し、論評し、批評する自由を全く与えられてないんです。というよりは、日本人がその言論の自由を行使する気力を奪われているんです。これは日本が刻々急速に滅亡していく、そういう絶対的な心理的条件以外の何ものでもないと私は思います。しかしそうなった歴史的背景は何なのか? そういうことを日本人には真剣に考える必要があります。

天皇=イルミナティの傀儡、として歴史の再検証を

別の話になるんですけど、日本でユダヤ・フリーメーソン批判を最初にやってずっと最後まで主要な指導的な役割を果たした、四王天延孝陸軍中将〔1879〜1962年〕は、士官学校、陸軍大学を出た日本の陸軍のエリートコースの一人です。そして第一次世界大戦中フランスに観戦武官として派遣されていたんですね。そうしているうちにフランス人にいろいろ友人ができて、その友人から「この戦争はお前、ユダヤが始めた、主体はユダヤだということを知っているか?」って言われるんです。それを聞き逃す人もいるかもしれないけど、四王天さんは真剣に受け止めて研究をはじめるわけです。一体これは何だ? 今は違うでしょうけど、その頃のフランスには非常にたくさんのユダヤ・フリーメーソンに批判的な文書・言論があったんです。そういうものをたくさん集めて、真剣に研究調査していくわけです。

第一次大戦中の観戦武官として派遣されるのは、紛れもない軍のエリートコースですよ。第一次大戦以降日本はシベリア出兵するんですけど、四王天さんは満州の北部に陸軍の諜報機関の事務所を作って、反ボルシェビキ、反共産主義的ロシア人と接触していろいろ情報を得たり工作したりするんです。そういうことを通じてボルシェビキ共産革命が国際ユダヤによって計画され実行されたという話を聞いて、たくさん情報を集める。そうして四王天さんは最も早い時期から日本でユダヤ・フリーメーソンに対する批判、思想戦、それに対する対策、そういうものをずっとやってたわけです。

国際連盟ができると、日本はその頃の世界の主要5カ国の一つになるんですね。その主要5カ国が国際連盟の軍事委員会を作る。日本の陸軍はその国際連盟の軍事委員会の日本軍の代表として四王天さんを派遣するんですよ、ジュネーブに行きます。その頃、陸軍少将になってるんじゃないでしょうか。そういうコースは、軍のエリート・コースですよ。

ところが、ジュネーブから帰任すると、すごく露骨に左遷されるんです。名古屋師団付といっても特別な仕事は何もない、完全な閑職、クビ寸前の地位に置かれる。それでも、四王天さんは日本全国を奔走して、一般の日本人に対して、ユダヤ・フリーメーソンの危険を警告する講演会をたくさんやっているんです。そしたら、上原勇作元帥がじきじきにやってきて、「お前はユダヤ問題なんていうくだらないことはもうやめろ」と言うんだって。「いや、それはできません」と言ったら、たちまちのうちに四王天さんは、陸軍退役ですよ。陸軍からクビです。だから、上原勇作って言う人は何かって思うでしょう。

四王天さんは、昭和16年、大東亜戦争が始まる年に有名な『猶太(ユダヤ)思想及運動』という本を出したんです。その本の序文のなかで、四王天さんは、以前はユダヤ問題を自分がやっていくと、上のほうからやめさせる圧力が非常に強くかかってきて、最近はその頃に比べればずいぶん違ってきた、そんなことを書いていますよ。一番上ってどこかって言ったら、天皇と宮中以外にないですよ。日本のシステムでは。

落合莞爾(かんじ)さんの話では、上原勇作はフランスに留学中にフリーメーソンに加入している。上原元帥は明確なワン・ワールド、フリーメーソンだと言っています。従って、日本では、陸軍・海軍・財界・その他、明治以降の中枢部に、ワン・ワールド、フリーメーソンの指揮系統がずっと機能している、機能していたと見ることができます。

渡部悌治先生は『ユダヤは日本に何をしたか』のなかで、二・二六も背後では、ユダヤ国際資本が操っていたと言って、あまり詳述してないですけど、そう言っています。従って私たちは、地球を支配している、ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティといった勢力をちゃんと確認して、明確に意識して、デーヴィッド・アイクは『グローバル・コンスピラシー』という本を出してますが、そういう枠組みのなかで、もう一度日本の歴史を見直すことが必要です。グローバル・コンスピラシーという大きな枠組みのなかで、孝明天皇弑逆と、それ以降イルミナティの傀儡として作られた歴代天皇、こういうものを批判的、客観的、詳細に検証していく精神的・心理的な力が必要です。

今の日本では、天皇をあれこれ批判したりすること自体が絶対禁止されている。別に法律で禁止されているわけではないけど、自分の内心で押さえつけている。あるいはイルミナティの有力な御用機関として、右翼と称する反日本的な売国奴集団が暴力で脅迫する、そういうことを通じて、発言・言論を抑えてるんです。しかし私は、その精神的呪縛を断ち切らないと日本は完全に滅亡していくだけだと思います。

「今、日本に天皇はおられるのでしょうか?」

私は山口富永(ひさなが)さんを國民新聞で読んでたんですけど、そういうことに最近気がついて、ちゃんとやることにしようと思って連絡しました。この本は平成2年に国民出版社から出てもう絶版で、国民出版社には在庫はなくて、山口さんの手元に若干在庫はあるそうですから、私がほぼ全部50冊くらい買取ることにしたんです。だから、是非皆さん読んで頂きたい。山口さんは、昭和19年、軍隊に入るという時に、「今日本に天皇はおられるのでしょうか?」っていう大胆な質問を真崎大将にしたというんですから、この人の心はちゃんとしていますよ。だから六十数年経った現在でも、しっかりした文章を書いておられるんでしょう。しかしこの人も、世界のイルミナティ・フリーメーソンの陰謀、グローバル・コンスピラシーの存在にはまだ気がついておられないんです。

でも、それは私達がちゃんとやっていく事であって、この人が成し遂げられた仕事は評価していく必要がある。それから、真崎大将の名誉を復権することが絶対必要条件だと私は思います。真崎大将も、昭和天皇がおかしいんじゃないかと内心確信されたじゃないかというふうに推測するんです。しかし、それを言葉に出して言うことは出来ないんですよ。だから、東條ごときは、せいぜい少将どまりの馬車引きくらいが適当な男で、問題視しない。しかし「宮中」が問題なんです。「宮中」とは裕仁のこと。それを何とかしないと、日本はどうにもならないんじゃないか?ということを真崎大将ははっきり認識していたと私は思います。

山口さんが昭和19年に軍隊に入る時に「今日本に天皇はおられるのでしょうか?」と聞くって事は、天皇はいないんじゃないかという気持ちがないと、そういう質問は出てこない。いや、昭和天皇と称する者はいったい何だ?となるでしょう。内心、心の奥にはそういう失望があるわけですよ。そういう必然的な思考の過程、行動の過程として、私がそろそろ問題を前面に押し出さなければならないと思っています。

二・二六事件については、完全に真相が隠蔽されているのみならず、Disinformation(偽情報)が日本人に徹底的に刷り込まれてます。それを転覆するには我々の価値観を変える必要があります。真崎大将の名誉回復は、とっかかりとして重要であり、意味があると思います。

鳥居民という人の本を、まともに読んだことがないけど、この本はざっと読んだ。そしたら木戸幸一を一所懸命叩いてるわけですよ。今更木戸幸一をぶっ叩いてどうなるんですか? 東京裁判で終身刑、その後釈放されて昭和天皇に即優遇されて頭をなでられた木戸幸一を叩いても何も生まれない。この人はすごく臆病な人ですよ〔為清註:臆病だからこそ慎重・入念に策謀するわけで、木戸という人物は決して侮れないと思う〕。臆病というのが今の日本民族にとって一番危険な心理なんですよ。臆病を克服しないと日本はもう生き延びる事も蘇生することも出来ないです。臆病、恐怖を超えるってことをデーヴィッド・アイクは一所懸命言ってます。李洪志の法輪功でも言ってますね。恐怖を超えるには大変高い心理的、精神的次元が要求されます。恐怖を超えるということの意味は中々一筋縄ではないですね。その話はまた別にしましょう。

私は二・二六事件について、初めて本格的に、日本人が真相に迫る動きを始めないといけないと考えてます。私の話を一応終わりにして、皆さんの質問を紙に書いて頂いても口頭でもいいですけど、ちょっと休憩して質問を受けます。何枚か重要な文章のコピーを配りましたので、よくお読みください。

近衛上奏文を無視した裕仁

それでは私の話を続けますね。

日本の国家の中枢部は天皇ですね。中枢に一番近いのは近衛公爵と木戸幸一内大臣。そして木戸と近衛の対立については少し言われてることがありますけど、この鳥居さんの本で比較的詳しく説明されている。しかし鳥居さんの著述家としての立場は大変臆病で、私はあまり感心しないです。

山口富永さんが国民新聞の一面欄に連載物語でいろいろ書いている。昭和19年(20年の誤り)の初め、有名な「近衛上奏文」というのがあるでしょう。近衛文麿が昭和天皇に対して上奏文を提出したって言うんです。その上奏文の筆者は岩淵辰雄という政治評論家だと山口さんは言っています。岩淵辰雄って名前、聞いたことありませんか? この人は戦前、戦時中、戦争後しばらくの間、非常に活躍した重要な政治評論家です。岩淵さんは、真崎大将、皇道派に近い立場の評論家なんです。

それで、近衛文麿が昭和20年の初めに昭和天皇に提出した上奏文の作者は岩淵辰雄であると言ってます。岩淵辰雄は近衛さんを中心にして終戦工作をやったと言うんです。終戦工作とは、単なる評論活動ではなく、岩淵さんと近衛公爵を中心とするグループは、昭和天皇を説得して真崎大将を陸軍大臣にする考えだった。小畑敏四郎というのは皇道派で、退けられていた人です。陸軍中将で予備役になったのではないでしょうか。その小畑敏四郎中将を参謀総長、そして近衛さんを首相って訳です。

そういう体制で日本の国策を完全に一変させる方針を立てたと山口さんは説明してます。もしもそういう構想が実現した場合には、真崎大将は皇道派の総帥として中国との全面戦争にも米英の戦争にも絶対反対の立場ですから、なすべきじゃない戦争を実行した陸海軍(特に陸軍)の主要な指導者ら戦争責任者を何百人も一斉に逮捕して裁判にかけて、日本の国策・外交方針を完全に一変する、そして中国から撤退して米英と講和交渉する、という方針を立てていたと書いてます。

その一環として岩淵辰雄が書いた近衛さんの上奏文を天皇に提出したけれど、天皇はぜんぜん相手にしない。そして東條内閣、憲兵隊の操作を通じて、そうした謀略をした連中を一斉に逮捕する。その逮捕した中に吉田茂も入ってたんじゃないですか。で、この構想は実現しなかったと言ってます。これは東條がどうこうという話ではないです。首謀者は昭和天皇ですから。昭和天皇に上奏文を出してもお話にならないです。だけど、何もしないでいる訳にはいかないから、そういう計画を立てて動いたということでしょう。しかし、その計画にとって決定的な障害物は昭和天皇自身ですから、それは無意味です。

近衛上奏文はその時点で東條政権の憲兵隊を通じて弾圧して、近衛上奏文そのものが見えないように、無いことにされてしまったんじゃないですか。だから日本人は未だに近衛公爵の工作とか背景とか、その構想とか上奏文そのものとか、普通の日本人は知りません。近衛上奏文という言葉はチラッと目についた人もいるかもしれませんけど、普通の日本人は今何も知りません。

しかしそういう事が万が一実現され、真崎陸軍大臣という政権が実現されたとしたら・・・。小畑敏四郎という人は色々因縁があるんですよ。バーガミニは、1920年(大正9年)、ドイツのバーデンバーデンという温泉地でヨーロッパ在勤の陸軍の少佐クラスの将校が集まって国家改造計画を立てたっていう訳です。有名な話です。その中心人物は永田鉄山(当時は少佐)。小畑敏四郎は、そのバーデンバーデンの三羽烏(永田と小畑ともう一人)の一人です。小畑敏四郎のほうは、昭和になるにつれて、中国に対する戦争、中国全土を占領してさらに南進するという基本的な国策に反対の立場だった。だから永田鉄山、東條とは反対の立場だった。したがって、昭和10年前後、小畑敏四郎は中将で退けられて失脚、というか排除された訳です。

それで小畑敏四郎を参謀総長っていう話が出てくる。そういう体制だったら、真崎大将が、統制派、日本を中国、全世界との戦争に引きずり込んだ主要な責任者を全員逮捕して裁判にかけ、一掃するだろうと書いてあります。そうして日本が国家体制・基本政策・国策・外交政策・戦争政策を完全に一変する、そして中国から全面撤兵して蒋介石と講和することを目標に立てた訳です。

そうなると、戦争を実行してきた東條たち統制派の軍人にとっては自滅ですから、絶対に抵抗して排除する、芽を摘むという行動をとるでしょう。東條の憲兵隊は当時はちゃんと生きて働いているから忽ち摘発されて潰された訳です。

「軍部に操られた平和主義者の天皇」というイメージ作り

しかし、昭和天皇とその側近はそれとは全く別な形で米英との平和交渉に入っていく。そのやり方については鬼塚さんが『日本の一番醜い日』という本の中で詳しく書いてます。つまり昭和20年8月15日、昭和天皇はラジオ放送で「敗戦」といった放送をする。その時にまったく偽装の対天皇、対日本政府のクーデタを演出して、危ないところで昭和天皇の放送が実現したという話を作っているけど、それは裕仁と、三笠宮が主たる助手になって、でっち上げた話。そのクーデタによって、昭和天皇は、昭和初年来の戦争また戦争、全世界を敵にして日本が全滅する戦争を推進した軍国主義者の姿から、平和と民主主義の人、連合国の忠実なエージェントへと、一夜の内に変身する。そうした目的の偽のクーデタを実現し、連合国とは裏取引をして、昭和天皇は戦争犯罪から免責されて、占領軍の協力者として温存・保護される、という具合にひょいと変わる事を目的とした偽のクーデタを実行する訳です。それが裕仁のやり方です。

裕仁は、皇道派を復権させると自分の身に火の粉が降りかかる、自分の身すらやばい可能性が大であるし、名誉も何もおかしくなるから、東條を使って完全に消した。近衛さんを中心とする皇道派を復権させて日本が全面的に戦争を停止し、中国から自発的に撤兵して蒋介石政権と講和して、という方向に転換するのを阻止した訳です。

もしも近衛・真崎のラインで日本が方向転換すれば、敗戦後の日本は今のような状況にはなってない事は確実です。すべてを失い、民族の魂を失い、どんどん堕落して滅亡に転落していく方向になってないですよ。しかし裕仁はそこでも明確に日本民族を裏切ったんですよ。日本民族をイルミナティに売り渡した。売り渡した事によって裕仁と一族の身の安全を担保し、保障してもらった訳です。こうして裕仁と一族は日本を裏切って裏切り続けている。その裏切りが日本民族によって完全に暴露され裁かれない限り、決着がつかない限り、日本民族はイルミナティの、天皇という傀儡を使った精神的呪縛に掛けられたまま、まあ、死んでいくしかないですね。今でも日本は精神的にはゾンビ人間です。日本民族は自分の精神を失ってますからね。近衛さんの動きが実現されればそうはなってないでしょう。近衛さんが最後のところで日本の貴族の根性、やる気、勇気を表明しようとした事は評価できるんじゃないですか。

鳥居民という人の本は、私が申し上げたレベルから見ると低い次元で現象をあれこれ言ってるだけです。その程度の話でも、今の日本人につぎ込まれている戦争と敗戦のプロセスに関するデマ情報と比べれば遥かにマシでしょう。

近衛さんが皇道派寄りだったこと、皇道派に同情・同調的だったことは、歴史資料にも少し出てきますよ。それをさらに突き詰めて研究する、考える、そういう事は全くなされてない。なされてないというか、それを突き詰めるとただちに裕仁が標的になりますから、その遥か手前で止まってしまうんです。それを先へ進めないといけないんですよ、私達は。そのために私達に手がかりとして与えられているのは「真崎大将」なんです。

皇道派の荒木貞夫がワンワールドのエージェント? 話は一層複雑に

田崎末松という人の真崎大将の評伝はかなりマシです。皇道派でも荒木大将っているでしょ。荒木大将は皇道派のNO.1、代表と当時言われていた。ところが荒木大将というのは、大変危なっかしいというか、奇妙というか、いかがわしい存在なんですよ。この人はずっと陸軍大臣をやってて、二・二六後も処罰されることもなく、昭和天皇に追放されることもなく、戦時中大臣をやった事もあるんじゃないでしょうか。

私は荒木大将とは非常に奇妙な人物だけど、何だろうと思ったんです。落合莞爾の「ニューリーダー」の連載を読むと、この人が上原勇作元帥の後継者に指名されたとあるんですよ。これは非常に奇妙です。上原勇作はれっきとしたフリーメイソン、ワンワールドのエージェントですよ、日本の軍の中で。単なる薩摩派閥でもないです。そうして上原元帥は全く目に見えない秘密の特殊工作をやったということですが、その後継者に荒木大将が任命されたというのはとても奇妙に思えるでしょ。彼が皇道派というのは辻褄が合いません。上原勇作の後継者という事は荒木大将もワンワールドの紐がついてる事を意味します。

真崎大将にはそういう事が全くない。山口さんの国民新聞の連載の中で、戦時中に英国のスパイとして逮捕され、ビルから投身自殺したコックスという人がいます。そのコックスを警察が取り調べたときの話が色々あるみたいですけど、そのコックスという英国のスパイが自供して、「われわれは日本の陸軍の主要な指導者、軍人を全て接近・工作して取り込んだ」と言うんです。しかし、「真崎大将だけは、全く取り付く島がない、工作する事が出来なかった」と供述したという。幕末から明治初年、フリーメーソンが薩長の維新政権の主要人物を全部取り込んで何らかの形で紐をつけたけど、西郷隆盛だけは頑としてフリーメーソンの誘いにも工作にも応じなかった。それでフリーメーソンは西郷隆盛の排除を指示したという事が「月刊ユダヤ研究」に載ってます。そのことを想起しましたね。真崎大将という人は、現代日本において本当に重要な人物なんです。

「わからない奴はわからないんだ。ほっとけ」

非常に重要な日本民族の指導者であり、指導者たるべきところを排除された真崎大将について、山口さんが言うには、二・二六事件の前から、敗戦後、現在に至るまで、一貫して真崎大将についての偽情報、誹謗中傷、全くの嘘の情報、デマ情報がまかり通っている。その偽情報を振りまいてる主要人物、ジャーナリストの代表格が、半藤一利とか、ハタ何とか(秦郁彦)とか、年中マスコミに出てくる、昭和史についてくだらない話、偽情報を振りまいてる作家ですよ。体制側で持て囃されてる人達。こういう人達を通じて、真崎大将と皇道派についての偽情報をばら撒いてる主要勢力は、左翼だと言ってます。左翼ということは朝日新聞と岩波書店ですね。こういう連中はなぜ皇道派の悪口を言わなければならないのか? 大変興味のあるところでしょ。なぜ左翼、岩波・朝日は、皇道派の悪口を言うの? 全くの嘘八百を並べ立てて、皇道派・真崎大将を貶めてどうしようと? どういう理由でそういう事をするんですか? それは大きな事なんですよ。左翼は決して信用してはなりません。もっともらしい事を言っても、左翼はイルミナティの紐付きですからね。心を許してはいけませんよ、左翼には。リベラル派もね。

山口さんは、少年時代から真崎大将が亡くなるまで親しく交流して、真崎大将の死後も孤軍奮闘して皇道派の旗印を守ってる訳です。こういう人がいるとは本当に改めて見直しました。それで戦後ずっと皇道派が正しかったと伝えようと、活動し続けてる訳です。そしたら、真崎大将に「おまえ、もうわからない奴はわからないんだ。ほっとけ」「もういいよ」「いい加減にもういいんじゃないか」って言われた。「その内、時代が皇道派(我々)の正しさを発見するだろうから」と何度も言われたと書いてあります。しかし、体制側・権力側が垂れ流してる情報以外全く存在しないとすれば、日本人は皆それに洗脳され、何となくそんなもんかという気になります。私も(今まで知らずにいて)ずいぶん恥かしい話だと反省してます。本物の情報がなければ、日本人は洗脳されっぱなしですよ。今、日本は土壇場に追い詰められ、精神的に腐敗が進行してますから、それが一番危険で致命的ですよ。それで、私達は再生・蘇生する方法を見つけなければいけませんが、まずは皇道派・真崎大将のことを日本人が真剣に見直して、名誉回復の動きを起こすことです。

真崎大将の名誉回復ということは、裕仁を告発することになります。ここに山口さんが書いてる真崎大将の言葉がある。「東條ごときは物の数でないけど、しかし自分を弾圧する根源が宮中から来た。その事が一番自分にとっては苦しい事であった」と。宮中ってなんですか? 裕仁ですよ。昭和天皇によって真崎大将はキュウキュウに追い詰められ弾圧される。二・二六と関係ないのに、寺内陸軍大臣は真崎大将を逮捕する。陸軍大臣が陸軍の軍事裁判の委員長だから、陸軍大臣が決定する訳です。寺内陸軍大臣は、青年将校と北一輝の裁判をする前に、判事団(軍事裁判の裁判官、軍人)に判決書を渡してる。判決は有罪で死刑です。事前に死刑の判決を出せと陸軍大臣(軍事裁判の長)の名で紙を配っていた。出来るだけ判決は重く執行は早くとの基本方針を陸軍大臣が与えて、二ヶ月の暗黒裁判で死刑判決、直ちに死刑執行。その後、真崎大将を逮捕。そういう命令を受けていたにも関わらず、裁判官も検察官も(検察官と裁判官は一人二役です)、真崎大将を有罪とする何の証拠もない。寺内陸軍大臣は、真崎は銃殺刑だ、死刑だと大声で喚き立てたそうだ。それでも裁判官・検察官は、「いくら何でも全く関係のない真崎大将を死刑判決には出来ない」という訳で無罪釈放にした。寺内陸軍大臣の方針は裕仁の意思でもありますからね。裕仁は全く無実の真崎大将を殺せって言った訳です。そこで裁判長・検察官のホサカ〔為清註:軍法会議で首席検察官をつとめた匂坂(サキサカ)春平?〕という人は、言われた通り17名、青年将校、北一輝、西田税に死刑の判決を下して、その事に死ぬまで鬱々と苦悩してる。敗戦後は自宅に篭ったきりで、比較的早く死んだと言われてます。この検察官が最高責任者でしょう。しかしそれをやらせたのは誰ですか? 裕仁以外の何者でもない。裕仁は何の為にそうしたんですか? イルミナティの命令を実行したんですよ、裕仁は。

そうして二・二六の時に日本の運命が決定されたんです。陸軍の将官の絶対多数は、決起将校の趣旨は酌むべきものがあり、統制派と裕仁が強行するような中国との全面戦争は絶対してはならないという気持ちだった。日本の軍事専門家は自分たちの軍事力の限界をよく知ってますよ。そういう日本の軍事的・経済的力で、中国全土を占領なんて、どんな戦争をするんだ? 自分達の責任上、絶対賛成できないと思った訳です。日本の国民もそうです。今の様に選挙で投票したら、そんな事に賛成する国民はただの一人もいないですよ。政治家にも。にもかかわらず裕仁は、日本に絶対独裁制を敷き、イルミナティの指揮通り、日本を必敗、百戦百敗、必ず壊滅する戦争へと、日本が滅びる方向に引きずり込んでいったのです。これが日本に対する売国奴でなくて、日本民族に対する裏切りでなくて、何なんですか?

二・二六の時に決定的に転換させられたんです。その頃、日本人の絶対多数、日本の権力層の軍人も、そんな事はしてはならない、出来ないという良識・常識があったんです。当時の日本の国家権力の最も強い力は陸軍が握っていたでしょう。陸軍の絶対多数もそういう考えです。良識の代表は真崎大将です。そういう者を排除して、裕仁はいったい何をしたんですか、日本民族に対して。日本民族に対する裏切りと言わずして、何と言えるんでしょうか?

裕仁と称する人物は日本人ではない。天皇を詐称するイルミナティの傀儡です。イルミナティは、日本という国は彼らにとって最も危険な、致命的・驚異的な存在となるであろうから、絶対抹殺しなければならないと、ザビエルが来た時に既に決定してる。彼らイルミナティのアジェンダ通り、450余年、日本は攻撃され侵略戦争を仕掛けられているんですよ。その侵略戦争の傀儡、道具として、裕仁は百点満点を与えられた存在なんです。

そしてその事が、二・二六事件の全経過を通じて完全に暴露された。

真崎大将もついでに死刑にしようとしたが、陸軍内部の良識が幾らなんでも出来ないといって無罪釈放にした。その後も真崎大将は完全に干されて監視されることになった。近衛文麿が皇道派を復活させ、真崎を陸軍大臣にして、日本の国策を完全に一変し、統制派・裕仁がずっと追求してきた政策を否定してやり直す、一変する方針を立てようとしたら、裕仁は拒否・否定した訳です。

最近になって私がバーガミニの本を読み始めたのは、鬼塚さんの『日本の一番醜い日』を読んでる内に、あれはあの通りだろうけど、それで全てという事でもないしと思ったからで、この半年ほどいろいろ考えて、次第に物事が見えてきました。今日はいろいろ話しましたけど、参考文献や私の話などを参考にして、日本人として、今、何をすべきか、それを真剣に考えて頂ければありがたいと思います。(講義終わり)
http://tamekiyo.com/documents/ota_ryu/226.php


05. 中川隆 2013年3月01日 21:24:38 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

天皇の戦争責任を暴いたバーガミニをアメリカが抹殺した理由は?

デビッド・バーガミニ(David Bergamini 1928〜1983)は、アメリカでベストセラーになった1971年の著書『天皇の陰謀』の日本語版序文(ただし1983年発行の新書版のみ)で、「私はこの著作のせいで文筆活動を絶たれることになった」と書いている。この序文は、非常に重要だが、誰も指摘していない。バーガミニを抹殺するために、200〜500万ドルの賄賂・監視料が使われた。日本政府から出た資金ではない。エドウィン・ライシャワー駐日大使(妻は松方正義の孫・松方ハル)を中心とする米国エリート勢力だった。また、アメリカの主だった学者は、揃ってバーガミニをインチキ扱いしている(日本研究の権威だったライシャワーの影響力によるものだろう)。

バーガミニ本人は、昭和天皇・裕仁の戦争責任を暴いたつもりだった。したがって、日本から非難を受けることは想定していたが、祖国アメリカから称賛はされても、まさか攻撃を受けるとは思っていなかった。その結果、バーガミニは、愛国心を喪失したと書いている。

どうして天皇のことを暴くと、アメリカ国内の勢力から攻撃を受けるのか? それは、裕仁がイルミナティの養成したロボットであり、ザビエル以来の日本破壊の計画を完成する重要な役割を担っていたからである。裕仁は「平和を愛したが軍部に押し切られた無力な天皇」でなければならなかった。

二・二六の決起趣意書の真意は理解されているのか?

川島義之(陸軍大将)が裕仁の前で読み上げた二・二六の決起趣意書(北一輝が手を入れたという)をバーガミニは「外政上の紛争から手を引き、内政改革と日本の伝統保持に傾けるよう天皇に求めたもの」と評価している。これは妥当な解釈である。農村は困窮していた。本庄侍従武官長、陸軍中枢部も決起将校たちに同調的だった。日本の書籍やマスコミで一般的に理解されているものとは乖離がある。

今でも、官僚、政治家、企業が悪いと言われているが、基本的にはそれと同じ趣旨で、庶民の観点に立っている。決起将校たちは、天皇が庶民の味方だという根本的な勘違いしていた。庶民の味方であるわけがない裕仁は、徹底鎮圧を指示した。木戸幸一(きど・こういち、1889〜1977年。長州藩の木戸孝允=桂小五郎が大叔父)も徹底鎮圧を勧めた。

396年計画 1549.8.15-1945.8.15

こうして一般民衆を敵視し、権力者に操縦されるだけの天皇ロボットの歴史は、ザビエル来日の昔にまで遡る。ザビエルは、1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日)に、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。

日本を訪問したザビエルは、「日本人は危険な存在である、最後の一人まで抹殺しなければならない」とイエズス会の本部に報告した。鎖国を経て、ペリーがやってきて、孝明天皇が暗殺されて以来、日本は麻痺状態。それ以降の天皇・日本政府はイルミナティの檻の中の実験動物のようなもの。

イルミナティは薩摩藩、長州藩に浸透した。西郷隆盛はイルミナティの傀儡になることを拒否したため、西南戦争で抹殺された。孝明天皇の暗殺、明治天皇のすり替えを経て、大正天皇の頃には、イルミナティの宮中浸透は完成していた。大正天皇も昭和天皇も、そうした環境で育ち、日本をイギリスやアメリカのような国家にすることを夢見ていた。

明治天皇は薩長の傀儡だった。間接的にはイルミナティの傀儡とも言えるが、それでも、少年時代は日本人として育っていたため、簡単には染まらなかった。西郷を殺すことにも本心では反対していた。それで死後に西郷の名誉回復もしている。日清戦争にも反対していたが、明治天皇の意志に反して、行われた。だから、明治天皇を単なるイルミナティの傀儡、国賊と言うべきではない。

大正天皇の不発クーデタ。大正天皇は精神を病んでいたといわれるが、西園寺は自分が仕えた4代(孝明〜昭和)の中で最も知性に優れていたと語っている。大正天皇はナポレオン、アレクサンダー大王を理想として日本を改造したかった。議会は廃止して天皇独裁にしたいと思っていた。日露戦争で莫大な外債を抱えていた。議会が予算を承認しないと困る。陸軍・海軍を増強して「帝国」にしたいのに障害になる。その天皇の考えに山県有朋は衝突した。

裕仁は大正天皇が不発に終わったクーデタを実行しようとした。立花隆の『天皇と東大』によると、上杉憲法学は議会の撲滅を主張していた。議会を大政翼賛会とし、日本を破壊するための軍国主義体制を整えるように「宮中」から指示をしていたのが裕仁である。日本を戦争に導くため、戦争反対派(皇道派)を一掃する「きっかけ」として利用されたのが二・二六事件だった。

イルミナティが日本を完全に抹殺するためには、自滅の軍事力を築く必要があった。そうしてイルミナティの軍隊で占領する必要があった。遠くイギリスから軍隊を派遣することはできない。ではどうやって抹殺したのか? エージェントを養成し、西洋のような国を目指すように仕向け、大きな軍隊を作り、戦争を起こさせて、自滅させるのだ。良識ある官僚、政治家、軍人ならば、そんなことは反対する。英米、中国、ソ連と世界のすべてを敵にするような戦争をするわけがない。その反対を押し切るためのエージェントが天皇だった。英米の言いなりになるアホをトップに据える必要があった。その仕掛けが、絶対的天皇主義。それが完成したのが二・二六の後。二・二六事件までは陸軍の圧倒的多数は中国大陸での戦争に反対していた。中国に100万の軍隊を展開しながら、太平洋でアメリカと戦うのは、自滅の戦争であることが子供でもわかる状態だった。だが、それに反対するのは、天皇が許さない。そういった仕組みが二・二六で完成した。

中国への戦争に反対していた真崎大将を二・二六事件の「黒幕」だとして刑務所に閉じ込めている間に、統制派は中国との戦争に火をつけた(1937年の盧溝橋事件)。こうして最後にイルミナティの日本滅亡計画(敗戦革命)を完了させるため、アメリカを相手に戦わせたのが「太平洋戦争(Pacific War=平和の戦争)」である。近年になって公開された米国政府文書により、アメリカがわざと真珠湾攻撃に日本を誘い出したことは明かになっている。開戦時、日本側では、内大臣の木戸幸一が中国からの撤兵反対、米国との対戦を主張して、米国の謀略に合わせていた。たが、木戸というより裕仁だ。近衛はその逆だった。終戦の半年前の昭和19年2月には「近衛上奏文」(「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞)で戦争に導いてきた軍人たち(共産主義に染まっていた)の一掃を勧めているが、裕仁はこれを無視し、特攻隊、本土空襲、原爆投下をまねいている。

太平洋戦争は、1941年12月8日(カトリックでは聖母の無原罪の御宿りの祭日)の真珠湾攻撃に始まり、1945年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日。ザビエルの上陸記念日)の「終戦の詔勅(玉音放送)」で終わった。

裕仁の売国奴ぶりは終戦後も続く。吉田茂は、日米講和条約が成立すれば米軍は撤退するものだと思っていた。ところが、吉田茂の知らないところで昭和天皇が裏取引し、ダレス(ロックフェラー財団の有力者)と秘密交渉、米軍が無期限に日本に駐留することにさせた。沖縄は半永久的に米国の領土として認めるといったことをダレスに言っている。

「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

皇道派の支持者だった山口富永(ひさなが)さんが昭和19年に陸軍に入隊するとき、真崎大将を訪ねて聞いた。「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

それに真崎大将は「226の将校もそれを嘆いて死んでいった」と答えている。その真崎大将も、宮中(裕仁)に抵抗することはできなかった。真崎大将の死後、その長男が裕仁の通訳を30年も務めた。この天皇の呪縛を超えない限り、日本人に未来はない。
http://tamekiyo.com/documents/ota_ryu/226.php



06. 中川隆 2013年3月01日 21:29:36 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

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参考


あなたの知らない「天皇家」の謎 皇室の祖先にワニがいた!?
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/256.html

東京ホロコースト   西岡昌紀
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/479.html

君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html

戦争に行ったら こんな事もしてみたい あんな事もやってみたい__わくわく どきどき
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/313.html

昭和天皇が戦争狂になった訳
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html

原爆投下が日本を救った_ ユダヤ人とトルーマンと昭和天皇に感謝
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/327.html

こんな女に誰がした_1 (天皇陛下を恨んでね)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/332.html

この人を見よ _ 人間の屑 福沢諭吉のした事
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/485.html




07. 中川隆 2013年3月02日 09:00:21 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

上記のアホ陰謀論者 太田龍の言葉を信じるのはアホだけですが、その中に真実も含まれているのは間違いないですね。
日本人も2・26事件だけでなく太平洋戦争も昭和天皇とルーズベルトの書いたシナリオに従っていただけで、すべては企画された事件だったという事に早く気付いた方がいいです。

八百長戦争やって得したのはアメリカと国際金融資本と天皇家、三井・三菱等の財閥だけですからね:


天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ 著 松崎元 訳
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_02_contents.htm#mokuji




08. 中川隆 2013年3月02日 09:21:00 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

9本の動画 日本の真相 鬼塚英昭
http://www.youtube.com/playlist?list=PLMA8BWNvBdz-29sRtVJgysWMcX_586YDt
日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&list=PLMA8BWNvBdz-29sRtVJgysWMcX_586YDt&v=eugXzHoKnes


昭和天皇が自身の秘密や財産を守るための戦争をした。完全に天皇が指揮していた。おま­けに米国、スターリンそして西洋銀行家とも天皇が内通していたのである。


DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。


以下本文。


これからは2・26事件について語ろうと思います。2・26を追究して、いくらかでもその真実に近づけば、日本のこれからの未来のためにも役立ちます。2・26事件というのは若い将校たちが叛乱を起したと。で、その将校たちの叛乱を気に入らないというので天皇が怒り、数多くの将校たちが処刑されました。しかし、これには裏があります。今、私が秩父宮と昭和天皇は父親が違うということを喋りましたが、これは東久邇が喋ったことなんですね。


笠原和夫は広島のジャンク映画『仁義なき闘い』を初め、色々な芝居の脚本を書いて、それでなお昭和秘録というようなものに挑戦して、2・26にも挑戦します。しかし「2・26は映画になりきれなかった。書けなかった」と、彼は本の中で断念していますが、それはそうなんです。あれを追究すると映画にはなり得ないんです。なぜなら、あれは秩父宮が最初に仕掛けたクーデター劇なんです。これはもう他の人もみなさんご存知なんです。ところが真相は、秩父宮がある時点で若き将校たちを裏切るんです。それで彼らは行き場を失うわけです。


秩父宮が安藤輝三(てるぞう)という大尉に話を持ちかけます。これはまちがいない事実です。そして安藤は非常に冷静な男だったので断ります。しかし秩父宮は懐から懐中時計を出して「俺の真意を汲んでくれ」と言います。それで彼がリーダー格となり、若い将校たちを仲間に入れます。そして革命を起したときに、秩父宮は弘前に逃げます。そして安藤に言います「弘前で軍人たちを募ってやって来るから」と。それで安藤と仲間たちの将校は、秩父宮の言葉を信じて革命を起します。しかしその革命はみなさんがご存知のように失敗します。なぜ失敗したか?彼は途中で天皇の味方につくわけです。私はそう思ってます。それで失敗します。その結果どうなったのか?


結局2・26事件を起した連中は−それとその指導者たちは皇統派と呼ばれています。で、もう一つ統制派というのがあります。統制派というのあは陸軍16期生というのがありまして、陸士ですね、その中で1921年だと思いますが、10月にドイツのバーデンバーデンというところにある4人の男たちが集まります。そういう連中がドイツに集まった所に、東久邇が裏で緒を引いて、結局そこから統制派というのが生まれてくるんです。リーダーは暗殺された永田鉄山という男ですが、永田鉄山は途中で暗殺される。これが一番優秀な男だったわけでありますが、その連中が東久邇と秩父宮にそそのかされて、結局、日本をおかしな方向に持っていくわけです。で、日本はアメリカとソ連を敵対国とするんですが、統制派というのはアメリカを打倒しなければダメだという。まあこれは大体のストーリイですけど。で、皇統派というのはアメリカと戦っちゃいけないと、あくまで日本は敵を想定するならソヴィエトだということなんです。


これは大まかなストーリイですけど、そうした中で、みなさんご存知のようにゾルゲという男がいます。ソ連のスパイをやった男です。そのゾルゲを尾崎秀実(ほつみ)というのと、さっいいました西園寺八郎の息子の公一(きんかず)というのが、ゾルゲに秘密情報を流したというわけです。どんな本を読んでもそういうストーリイです。しかしこれは西園寺公一と昭和天皇が兄弟であったと私は申しました。西園寺八郎が妻に産ませたのが公一です。でその公一と昭和天皇は兄弟です。昭和天皇は木戸幸一を通すんですけど、自分の弟の公一に、ソ連のスターリンに向けて発したい情報を伝えるわけです。それを尾崎秀実という朝日新聞の記者が一緒になって、ゾルゲを却って誘惑するわけです。ゾルゲにおべらかしやインテリ女を与えて、ゾルゲを懐柔します。ゾルゲは女遊びをしてオートバイを乗り回してフザケた男ですけど、で、公安はぜんぶゾルゲをチェックしますけど、天皇一族はゾルゲを野放しにします。


ゾルゲは日本の一番重要な情報をぜんぶ手に入れて、スターリンに渡します。スターリンはそれを信じるわけです。だからスターリンは、日本がソヴィエトを攻めてこないということを知るわけです。天皇を初め統制派の連中ですね、永田鉄山が殺されましたから東条英機が首相になって、アメリカを攻めるストーリイは最初から作られたということなんです。戦争というものは必ずどこかで企みがあるものなんです。昭和天皇が、1938年12月ですから大戦が一年前、これは木戸幸一の日記に出てきます。木戸幸一にこういうことを言っています「もう世界大戦は始まる。そして最後に勝つのはソ連とアメリカで、他の国は全部潰される。日本も同じように潰される。だけど日本人は臥薪嘗胆して質実剛健を維持すれば、10年後には復活する」と。


これは見事に予言的中しているわけですよ。その一年後に第二次世界大戦が始まります。真珠湾攻撃をちょうど一年後にやります。10年後というのはちょうど講和条約の時です。だから考えようによっては、昭和天皇だけが日本のストーリイを全部知っていたんじゃないか、ということになりませんか? 僕はそう思います。で、戦争が始まる一年前に近衛が天皇に面会を申し込みます。天皇は拒否します。それで近衛が木戸に会います。これもまた木戸日記にちゃんと書いてます。近衛はどういうことを言ったかと。


「お前は天皇に言え。いいか。海軍は二年しか石油がない、戦争をすれば一年半持てばいいけど、まあ一年で終わる。陸軍は石油を一年分しか持ってない。この状態で戦争が出来るわけはない」と嘆いて木戸の許を去ります。木戸日記に書いてあります「俺もそう思う。戦争すれば負けるワイ」。これは木戸日記にはっきり書いてあります。


ところが実際は戦争は4年も5年も続いたじゃないですか。石油のない時代は、最後の一年間くらいは石油が尽きたけど、石油はあったんですよある程度。みなさんもご存知のように、ガダルカナルや何とかでいっぱい負けますけど、やっぱりあれは石油があったんですよ。なぜ石油があったか考えてみたことありますか。これはですね、戦争の時にアメリカが「日本には石油は売らない」。ところが「パナマ国籍の船ならば油を積んでいって日本に売っても、これは自分たちは攻撃できない」という理屈で、日本に石油を間接的に売るわけです。本当なんです。三菱が作った『昭和通商』という会社がそれを引き受ける。『昭和通商』と三菱は同じです。それではマズイというので『日本水産』(注 白洲次郎は取締役)という会社が代行するわけです。魚を運ぶということではなくて、魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので、戦争は長びくわけです。

◎鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』より該当箇所抜粋。

『多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世に言ういう二重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。』

『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに侵入していくのである。その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第六回国際会議がアメリカのヨセミテで、1936年8月14日から29日の間に開かれている。この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』

『私は太平洋問題調査会の第六回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の六月頃から年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にシ、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』

◎私見では尾崎秀実を破滅に引き込んだのは吉田茂&白洲次郎である。
次郎のコネクションである牛場友彦と松本次郎が仲介役である。

『白洲次郎の幼馴染の牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山愛輔(注 白洲の岳父)の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅で昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。

牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から”ジロー””トモ”と呼び合う仲であったが、昭和12年以降(注 白洲が日本水産の取締役になった年)その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン−後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など−との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)

この牛場と松本重治次郎が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。
尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、
近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。
占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。
前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、
二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。

『私は(通説とは)逆に、西園寺公一と原田熊雄たちが、天皇と木戸、近衛に踊らされていた、とみるのである。ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、一方でソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート(たぶん野坂参三のルート)で知らせ、その情報を讀賣新聞に流したのだろう。南進策こそはアメリカとイギリスとの戦争そのものを意味した。』

『私たち平成の世に住む人々は、あの時代の貧乏を理解できない。農村は働き手を兵隊にとられ、娘たちの多くは売春婦になっていった過去を知ろうとしない。天皇とその一族が優雅な生活を続ける一方で、日本人のほとんどは、どん底の生活に落とされていた。どん底に生きる人々を恐れている神の一族は、たえず何かを仕掛けなければ生きていけない。そこに暴力性が要求される。』

『2・26事件を私は、天皇と秩父宮が密かに練った偽装クーデターとの説をとる。秩父宮は密かに仙台から遠回りの鉄道を使い東京に出て来て、高松宮と会談し、その後で二人で天皇と会っている。この事件をいかに収拾するかについて話している。8月15日のあの事件と2・26事件は共通する。前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。天皇教はたえず暴力装置を作っては、それを策動して生きながらえてきた。どん底の人々は、大きく二つに分かれた。天皇教の側に立って共にその暴力装置に加担する一派と、その逆の立場の人々である。


統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。皇統派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。軍人のほとんどが、軍人たちの一部(天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち)を除き、アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。その謎を徹底的に追究しようとして私は書いてきた。』


『ねずまさしは「天皇昭和紀(上)大日本帝国の崩壊」の中で「2月26日午前4時、第一師団の歩兵および第三連隊の営門から、部隊は堂々と市内へ出発した・・・・かくて彼らは、目ざす重臣五人を殺した、と信じて陸軍省などに引き揚げた・・・牧野は早くも旅館からのがれていたため、護衛の警察官が射殺され、旅館は焼かれた。西園寺ももちろん、ねらわれたが・・・襲撃直前になって突然中止した。」と書かれていることに注目したい。

牧野は数多くのテロの標的となってきた。しかしそのつど、直前にいつも逃亡に成功した。これは何を意味するのか。彼が背後でこれらのテロを操っていた黒幕であることを意味する。岡田啓介首相も難を逃れた。事前に彼の娘婿の迫水久常(終戦時の鈴木内閣書記官長)が岡田首相を連れ出すのである。迫水久恒は、皇統派と見られていた。実際は岡田のスパイだった。』


『このクーデターの首謀が秩父宮であることを書いた。このクーデターを、天皇、高松宮、三笠宮、牧野伸顕、岡田首相らが事前に知っていたのである。天皇は彼ら将校を「暴徒」と決めつける。天皇が最初から「暴徒」と断定しえたのは、密かに秩父宮と共同歩調を取ったからだと私は書いた。しかし、政府要人が数名殺されたり、傷を負ったから、2・26事件は本物のクーデターとして位置づけられ、誰も疑わない。ねずまさしも、である。』


『このクーデターと酷似するのが、あの8・15の「日本のいちばん醜い日」である。将校と兵隊のかわりに、将校と近衛兵を使った。リアリテイを見せるために、一人とはいえ、森近衛師団長を惨殺した。石原莞爾がいみじくも指摘した放送局を占拠するというマネまでもしたのである。この二つの偽装クーデターは、秩父宮と三笠宮の暗躍がなければ決して実行されなかったのである。真の首謀者の二人は未だに闇の中に消えているのである。』


『この事件の結果、どのように変化したのかを書いておきたい。北進策をとる皇統派の将軍・将校たちが主流からはずれ、東条一派−あのバーデンバーデンで密約した一派、東久邇宮と結ばれた一派−の統制派が軍の要職を占めるのである。統制派は南進策を主張する人々である。秩父宮は、自らが天皇になろうとしてクーデターを起させた可能性大である。笠原和夫もその説をとる。しかし、私は天皇と秩父宮が密かに結びつき、2・26事件を若手将校に起させ、南進論一本にすべく行動したのではないかと思っている。』


『この1936年が日本のターニング・ポイントになるのである。1936年、ゾルゲと西園寺公一と原田熊雄、尾崎秀実の暗躍。もう一つは日本共産党の野坂参三の動き。これらと2・26事件が糸のようにもつれあって連動したことは間違いないのである。2・26事件以降、天皇により軍紀がひきしめられる。天皇はその役を東条英機に命じ、陸軍大臣から首相に任命する。東条英機は佐藤賢了中将を軍務局の要職につけ南進策を推進させる。太平洋戦争への道である。』


『天皇は皇統派を一掃し、統制派を参謀本部に配し、ついに自らの住む御文庫の中に彼らを入れて太平洋戦争に突入するべく机上演習を始める。誰ひとり天皇に逆らえる者ない、であった。この机上演習の中から、真珠湾攻撃とシンガポール攻撃が登場してくる。そのために一番役立ったのがヴェルサイユ会議で日本に与えられた、委任統治権であった。天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。近々日本が「非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる」とは、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。それにもまして「十年を覚悟し」さえすれば、「有終の美を挙ぐる」とは、敗戦後五年で、1950年に講和条約ができ、日本は再び独立国となる、ということであろう。そのために、一年後に戦争に入るべく努力をしているのだ、と天皇は語っているように思える。』


『その裏に見え隠れするのは、「木戸よ、このようにして日本を導かなければ、天皇一族の運命が風前の灯となるのだよ。お前も協力してくれ」との天皇の哀訴である。大室寅之祐の代から天皇ニス変えた木戸孝允の孫の木戸幸一は、「天皇と一蓮托生の命である」と答えたのではないのか。天皇はあるルートから、一枚の極秘文書を渡されたと私は考える。その文書に木戸に語っていた内容が書かれていた。「有終の美を挙ぐるは困難ならず」とは、「敗北しても、天皇の命は保証され、国体は護持する」との確証を得たとのことではないのか。日本の国民の民草に天皇が思いを馳せる素振りをするのは、「終戦の詔書」の中だけである。それも見せかけ以外のなにものでもない。』


『天皇が脅されてなんかいなかったと思っている人が多いであろう。私はルーズヴェルト大統領も、チャーチル首相も、スターリンも、闇の支配者たる国際金融資本家たちのグループに脅され続けていた、と書く。天皇においておや、である。まことに日本は国際決済銀行(BIS)により、利益追求システムの中に組み込まれ、ついに必然的に戦争状態の中に入っていく。戦争は巨大なマネー・ゲームである。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。』


『天皇と祖の一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。ひと度、この銀行組織に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手の内に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちんばん金のもうかるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知り尽くした人物は日本にはいなかったし、これからも登場しないであろう。』


『第二次世界大戦はどのように仕掛けられたか。その第一はヴェルサイユ講和条約にあった。日本は統治諸島を手に入れた。ドイツの賠償金を受け取るとの名目で、国際決済銀行ができ、ドイツに秘密裡に多額のドルを貸し与えた。そしてナチス・ドイツを育てた。共産主義の恐怖を煽る一方で彼らは太平洋問題調査会をつくり、中国を共産主義にすべく動いた。日本の天皇の野坂参三を使い、共産党国家中国の援助をした。これらはすべて、マネー・ゲームの面を持っている。これらの動きに国際決済銀行がからんでいるからである。彼ら、この国際決済銀行を実質ッ的に支配する国際金融同盟は、次々と日本に甘い汁を与え続けた。青島の中国銀行の倉庫に大量のヘロインがあった。これから軍人たちはヘロインやアヘンの売買をやって大金を稼ぐ。すべては彼らユダヤの国際金融資本家たちが考えた、日本を戦争に導くための甘い汁だった。満州国建設の金は麻薬によったと認めるべき時がきているのだ。』


『1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2千万円。日銀物価価格で計算すると311倍となり、7912億円。東条の10億とか15億がいかに天文学的数字であるかが分る。今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。三井と三菱はペルシャから年ごとに船を出し、アヘンを仕入れ、朝鮮に送った。それをアヘンかヘロインにして中国人に売りつけた。その金の大半は天皇と三井、三菱の懐に入った。その一部で国際決済銀行を通じてアメリカから必要な軍需物資を仕入れた。戦争を長引かせるよう、国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟が天皇を指導したのだ。天皇とその忠実な部下である東条英機首相は、戦争を長引かせることで天文学的は利益を上げた。麻薬を売りつけ、その上がりで軍人たちはメシを食っていたのに、何が大東亜構想なのだ。』


『木戸は警察関係の連中と三日に一回ほどの頻度で会っている。これらはすべて天皇に上奏され、また天皇から伝送される。平和運動を抑圧し、終戦工作を妨害しつづけたのは、天皇ヒロヒトその人であったことを理解しないと、戦争の本当の意味が分らない。日本人だけが、昭和天皇を「無私の人』だち思っている。真実はまったく違う人間であったことは、ほぼ間違いのない事実である。戦争がマネー・ゲームであることが理解できたであろうか。田布施のこのグループにやがて、吉田茂が一族として加わってくる。上海にいたサッスーン、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健三は、ある長崎の女郎が生んだ子どもを養子にする。吉田茂その人である。その子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘と結婚する。満州利権を守るため、田布施村の一族と血の契りを結ぶ。のちにヨハンセン・グループを作り、天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける。こうして、、マネー・ゲームは続くのである。』


再び鬼塚氏のDVDの続き。


そしてある時になって、「石油はやらない」という時になって、天皇は気がつくわけです「ああ。ついに終わりが来たか」と。ね。これが真相なんですよ。近衛とか木戸はその辺を知らなかったんです。天皇と一部の大本営、『御文庫』といって、天皇の宮殿内の地下深くに『御文庫』をつくり、そこに大本営を置いて、毎日毎日「今度はここ行け」「ここ行け」指図した。それを指図が出来ると、東条に渡すわけです。東条は御文庫の中に入れない。そういうシステムで戦争が進んでいる訳です。最後に天皇も「もう尽きるところまで来たな」って、天皇も終戦工作に入る。終戦工作に入るのはロシアを通して入ろうと、ロシアを通して終戦工作に入りますけど、上手く行きません。


終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。


で、白洲次郎が『カントリー・ジェントルマン』とかいって、戦争のときは鶴川の山の奥で農業をやっていたというのは全部デタラメです。これは『日本水産』の社長であった有馬というやつがいますが、これも貴族ですが、『日本水産』のトップですが、この男の日記にダーッと出ている。「また白洲が来た。とんでもないニュースを持って来た。アメリカがどうのこうの。何で彼はこんなことを知ってるんだろう」ずーっと出てきます。そういう事なんです。で、結局ですね、最初から日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると、すべて矛盾がなく納得できるんです。だからゾルゲを使って、天皇は弟の公一に機密情報を流してソヴィエトに渡せと、で、ソヴィエトを安心させて南進策を取るわけです。で南進政策を取ッとる時に、木戸が日記に書いてますよ。「おい、火事場泥棒をしたな」「へい」と木戸が言うわけですよ。「火事場泥棒も時によってはしょうがねえなあ」と天皇が木戸に言ってんです。火事場泥棒なんです。ね。


あのおとなしいような天皇は非常に頭が良くてですね、昭和天皇はズル賢くてすべて計算してたわけです。だから日本をアメリカとの戦争に持っていくよう仕組まれたら、それに応えるよう敢えて真珠湾攻撃の大事なところで手を抜くわけなんです。だからあれは山本五十六に命じますけど、山本五十六は言ってんじゃないですか。「一年くらいは持つ。勝った勝ったと言うだろう。だけど後はもう知らん」。そしたら天皇はそれでもいいからやれというわけですよ。やらないと自分の身が危ない。スキャンダルをみなバラされて、全部失う。スイスに貯めた金も失うと。


もう一つ、石油を買うお金は何処から来たかということですが、日本は南方に攻め込みます。中国はもちろん、ビルマからタイからダーッツと行きます。あすこにある金銀財宝をカッさらいます。そして日本に持ち帰ります。それを金を溶かして丸福といいます。丸に福が書いた名前の金貨をつくり、それを持ってフィリピンとかに行って、農家の人に渡して食料を得る。アメリカ軍は自分の国から大きな船で食料を運ぶんですけど、日本はそんな余裕はないわけで、現地調達をやります。フィリピンで現地調達をするのに軍票というのが、こんなの受け入れません、フィリピンの百姓たちは。それで金貨をやります。「そんならしょうがない」って言って、米をもらったり野菜をもらったりして、何万人の兵隊たちがフィリピンの農民から肉や魚を買います。これが戦争なんです。


で、もう一つ、その金貨を黄金をインゴットにしてスイスに送ります。スイスでスイスフランかドルに換えます。そのスイスフランかドルを・・・国際決済銀行というのが出来るわけです。第一次世界大戦の後に出来ます。その決済銀行を通して、日本はアメリカにパナマ国籍で金を払い石油を貰うと。で、アメリカとその石油で戦争をします。太平洋でいっぱい戦争をしました。あれはアメリカの石油をもらって、アメリカの石油を使った軍隊と戦争ごっこをやったということですよ。ドイツも同じです。戦争するのにドイツは分るように石油は出ません。石炭は出ます。で、ドイツのヒトラーが言います。「戦争をしろというけど石油が無い」って。ロイヤル・ダッチッシェルというところのデイターデイングというユダヤ人がヒトラーに言います。「石油は渡す。やれ」って。「誰が持ってくる?」「オナシスというやつのタンカーが来る」「戦争してたら沈没したらどうするんだ?」「オナシスの船は絶対沈没しないから心配するな」。で、戦争中ずっともらいます。


じゃあヒトラーはどうしてスターリンの所に攻め込んだんだ?というと、途中で言われます。「もうやらない」って。じゃあヒトラーはどうしたらいい?スターリンのところへ行って石油を取ばいい。それでヒトラーはロシアを攻め込んで、石油基地を奪おうとして行く過程で滅ぼされます。日本も同じです。イタリヤはどうか?ムソリーニはヒトラーに言われます「一緒に戦おうよ」。ムソリーニは言います「オレは石油がない」。ヒトラー「俺はシェルからもらえるけどお前はシェルからもらえないのか?」ムソリーニ「シェルはオレにくれるといわない」。それでもヒトラーとムソリーニは協定を結んでたから、ヒトラーが戦争を始めた以上、ムソリーニもやらざるを得ません。すぐムソリーニのイタリヤは潰されます。これは石油がないからすぐ潰されます。


戦争というものの実態は「物事はすべて必然性がある」んです。大きな出来事は偶然性で発生するものは何もありません。第一次世界大戦も今いった第二次世界大戦も、ぜんぶ八百長なんです。八百長システムが見事に働けば戦争は長引くんです。戦争は長引くんです。だからノルマンデイー上陸作戦というのがあります。あれは第二次世界大戦が始まって、すぐルーズヴェルトが「勝利の計画」というのを立てます。ウエデマイヤーという優秀な男がいまして、これが計画を立てます。ウエデマイヤーは戦争が始まって一年後に、ルーズヴェルトやステイムソンやらマーシャルやらみんなを説得します。「戦争はこれで終わりです。ヒトラーを、ナチスらを、やっつけましょう」。ね、一年後ですよ。


それがなぜ延びたか?上層部の連中が「No」と言います。誰が「No」と言ったか。スターリンもチャーチルに「これで戦争は終わりやなあ」と。モロトフもチャーチルに会って確約をもらい、ルーズヴェルトに会って「戦争は終わり。終わらせないとみんな可哀そうやな」。でも最後にチャーチルがみんなに言います「戦争は継続しないといけない」。でルーズヴェルトは魂消ます「なぜだ?」って。


チャーチル「戦争は継続しないといけない。継続しないと金儲けに繋がらない。それでアフリカ作戦に切り換えよう」って。アメリカ人は分りません。そこでアイザンハワーという男が登場します。これがウダツの上がらん男です。フィリピンでマッカーサーの下でずーっと中佐であった男です。この男が呼び出されるわけです。で、ヨーロッパに派遣されて、一気に中佐、大佐、少将、中将、大将、元帥と一年足らずの間に元帥になって総指揮官になります。完全なユダヤ人です。ルーズヴェルトがヨーロッパに行った時に、アイゼンハワーに会います。アイゼンハワーの顔を初めて見たといいます。大元帥の顔をね。で、アイゼンハワーはイギリスの連中に応じます。イギリスの貴族たちが(戦争終了に)反対するわけです。


僕はこれを『20世紀のファウスト』に書いたんですけど、何と悲しいことよと。人間の命なんかどうでも良い連中が、ゴロゴロいるわけですよ。ルーズヴェルトでさえ嘆いているんですよ「戦争が終わるのになぜ終わらせないのか?」。そうこうしているうちに、まあ後で話しますけど原子爆弾ですね、原子爆弾が完成しなかったんですよ。予定通り。これが完成間際になってヒトラーも手を挙げます。で終わります。で日本は「まあ〜だだよ」とステイムソンが言うわけです。「まだガマンしとけ」。そして原爆が完成して、同時にスケジュールが出来た。と同時に何が起きたかというと、天皇は広島に第二総軍を作って、畑という男を入れます。ね。怖い話じゃないですか。


それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。まあ僕は昭和史を読んでて「悲しいなあ」て思ったのは、昭和天皇が御前会議の席上、戦争をやれというとき「分った」と。で、杉山元(はじめ)という参謀長に言います「勝てるか?」。「勝てるかどうかはやって見ないと分りません」。すると天皇はみんながシーンとしている時に「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」と読んだ。で、それが戦後になって昭和天皇が戦争に反対した証しだとか、昭和天皇は戦争に責任がないという一番の証拠にされるわけです。この歌を以って反戦の歴史学者もみな賛成するわけです。


井上清やら『人間の条件』を書いた五味川純平もその歌を以って、天皇はやっぱり反戦主義者であったことは認めるということになるわけです。五味川純平の書いた『御前会議』という本があります。『人間の条件』を書いた男が『御前会議』というのを書いてね、その時僕は思いました(彼らは何とダマされやすい歴史学者なんだ・・・)と。これはちょっと歴史の勉強すれば分るんですけど、この歌は戦意高揚のためにずうっと歌われてきたんです。日露戦争の時に天皇が詠んだとされて、ずうっと戦争高揚の歌でやってたのが、突然、戦後になって一部の天皇の周辺の者が「あれは天皇が反戦の意を伝えた」と言ったら、みんな(以下)同文なんです。何て情けないんだ。なぜ歴史を勉強しないのか。


この歌は井沢匡(ただし)というドラマの脚本化が書いたり小説書いたりするのがおりまして、この人は『維新・明治天皇伝』というのを書いています。この中でこの歌は、西南戦争の時に天皇が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌だとされてんですよ。飛鳥井雅道(あすかいまさみち)という歴史学者も、井沢説と同じなんですよ。まあ一部は違いますけど。『日露戦争』というのがあるんですけど、これは西南戦争の時に「やっとこの世の中で幸せが来ると思ったのに、自分を助けてくれた西郷は死んでしまった。何と悲しいことだ」という歌なんですよ。「四方の海みな同胞」というのは、「四方の海」は四つの海で四海、「同胞(はらから)」というのは「同胞(どうほう)」なんですよ。「四海同胞(しかいどうほう)」ということなんで、「四海同胞」とは僕たちは簡単に言いますけど、これはずい分前から「同胞(どうほう)」というのは結局、部落民を指す言葉なんです。あんまり良い言葉じゃないんです。天皇のような貴きお方が喋る、歌にするような文句じゃないんです。


足利尊氏が室町幕府を作りますが、その時に負けた楠とか新田の一族が「散所(さんしょ)」「別所(べっしょ)」というんですが、閉じ込められるんですよ。一定の場所に。もう反乱を起さないように。で、それで彼らは部落民になるわけですよ。楠一族とか新田一族は部落民になるわけです。その時に四海同胞衆というのが、彼らの世界から生まれてくるわけですよ。閉じ込められた人間が解放されたと言って、で、そこから坊主になって解放される道があると言って、坊主が沢山生まれてきます。そういう意味なんです。だから明治天皇がこういう風に「俺たちは部落民としてガマンしてきた。四海同胞市民として生まれてきたけど、やっと迎えられたのに西郷は死んでしまった」という歌なんですよ。それを「日露戦争の時に明治天皇が作った」という歌にして、それはそれでいい。戦意高揚の歌だんですよ。八紘一宇の代表的な歌として、ずーっと歌われてきた。で、戦争前まではそれで筋が通ってきた。色んな人がこの歌を、子どもたちの教科書に載っている歌でさえ(戦意高揚の歌として歌ってきた)。


戦争が終わって一部の軍人たちが「反戦の歌を詠んだ」となると(今度は)ずーっとそうなるわけです。何と情けない話じゃないですか。今でも、そのさっき言いました秦とか、そういう連中はみな、この歌を以って「昭和天皇は反戦の意を唱えたけれど、軍人たちは天皇の意に反して戦争をしたんだ、軍人たちがけしからん」ということで、第二次世界大戦の総括をやっているわけですよ。で、その意に逆らう歴史家は未だにいません。私は一人だけ逆らってますけど。どうかみなさんも真実を知って、簡単に人の言うことを、権威者の言うことを信じないでください。これは大事なことなんですよ。
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html


09. 中川隆 2013年3月02日 09:27:23 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

2・26事件と8・15宮城事件に共通して登場する人物


2・26事件と8・15宮城事件に共通して登場する人物 From 得丸

皆さん、ちょっとびっくりしたのでお知らせします。

2・26事件の磯部・村中が軍を追われることになる昭和9年の11月事件と、昭和10年の永田鉄山惨殺事件と、昭和20年の8・15宮城事件に共通する人物がいることがわかりました。

なんと鬼塚さんの本に引用されていました。

鬼塚英昭さんの「日本のいちばん醜い日」の14ページに、バーガミニからの引用が紹介されています。

「塚本は、1934年に、陸軍大学における北進派即ち征露派の陰謀を暴露するのに、宮廷の密偵を助けたことで、天皇の注意を惹いた。

彼はそれから1935年の間じゅう、大阪で皇叔東久邇宮の下で様々な秘密計画に携わった。その一つは、裕仁の防空室を描いた鈴木記念館の絵のなかで時代錯誤の幽霊となって現れているあの永田軍務局長の殺人であった。」

この1934年の陸軍大学における陰謀というのは、磯部浅一と村岡孝次が陸軍をクビになる11月事件であると思われます。

そして、永田鉄山惨殺事件(=相沢事件)にも、塚本が関係したという記述がバーガミニの本にあったということは、いったいこれは、、、、、、、

2・26事件について、浜田政彦さんが考えている以上の根深い陰謀があるのではないかという気になりませんか


とくまる
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2・26事件の首謀者である磯部、村中と、8・15宮城事件の陰謀の筋書きを書いた塚本は、意外に近い関係だったのですね。

得丸

以下、ネットよりコピペ


塚本誠(陸士36)、村中孝次(陸士37)、磯部浅一(陸士38)は、陸軍士官学校の一年ずつ先輩後輩です。

磯部浅一
・ 山口県出身。陸士(38期)卒。陸軍経理学校卒。
・ 早くから北一輝のもとに出入りし「皇道派」青年将校の先駆的
  存在の一人。
・ 士官学校事件で、村中孝次らとともに、辻政信ら「統制派」の
  陰謀に陥り逮捕。のち停職処分。
・ 冤罪を訴え続け、村中とともに「粛軍に関する意見書」を作成
  、配布。これにより免官となる。
・ 真崎教育総監更迭、相沢事件ののち、相沢を支援しつつ、活動
  を活発化される。
・ 二・二六事件に際しては、栗原安秀とともに時期尚早論を抑え
  、計画を指揮。
・ 獄中で「行動記」「獄中遺書」を書き、決起の正当性を主張。
  刑死。

村中 孝次(むらなか たかじ、1903年10月3日-1937年8月19日)は、戦前日本の軍人、国家社会主義者。北海道旭川市出身。

札幌中学を経て、陸軍士官学校37期。歩兵第27連隊付・士官学校区隊長を経て、1932年歩兵第26連隊付。同年陸軍大学に進むが中退。
この頃から皇道派青年将校グループの中心人物として知られるようになり、維新同志会の西田税らと交遊。1934年大尉。同年磯部浅一らとともにクーデター未遂容疑で検挙され、休職となる(陸軍士官学校事件)。

翌1935年磯部と「粛軍に関する意見書」を作成・配布し、免職となった。また、真崎甚三郎教育総監の更迭は永田鉄山軍務局長を中心とした統制派の皇道派弾圧の陰謀であるとする「真崎教育統監更迭事情」を作成し、相沢三郎中佐に送付。同年の永田軍務局長殺害事件(相沢事件)の遠因を作った。1936年の二・二六事件の首謀者の一人となり、1937年に西田や磯部らと共に射殺された。

塚本 誠
明治36・9・24〜昭和50・8・6
大13・7 陸士卒(36期)
13・10 任歩兵少尉・歩兵第59聯隊付
昭2・10 任歩兵中尉
6・5 仙台教導学校付
7・11 任憲兵中尉・仙合憲兵隊付
7・12 岡山憲兵分隊長
8・8 任憲兵大尉
9・3 憲兵司付
10・3 大阪憲兵隊付
10・4 上海駐在
12・8 上海派遣軍司付
12・12 中支那派遣憲兵隊付
13・3 台北憲兵分隊長
13・7 任憲兵少佐
14・3 参本付仰付(上海駐在)
14・9 支那派遣軍総司令部付
16・3 中支那派遣憲兵分隊長
16・8 東京憲兵隊付(特高第2課長)
17・8 任憲兵中佐
18・8 宇都宮憲兵隊長
19・5 ビルマ方面軍憲兵隊長
19・12 第10方面軍司付
20・4 第10方面軍参謀
20・6 任憲兵大佐
20・8 東部憲兵隊司部員兼憲兵参謀
20・9 軍務局付
20・12 予備役
24年 電通入社
48年 電通取締役で退社

憲兵練習所甲種学生 首席
* 11期:昭和7年11月14日/塚本誠 歩兵中尉
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2・26事件も結局、天皇が仕組んだ陰謀だったのでしょうか、、、、

とくまる
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_02_contents.htm


天皇の陰謀

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた

ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳


私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。

だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。


私は、裕仁を「陰謀」の首謀者として登場させるつもりである。

だが陰謀というこの言葉は、過剰使用と盲目的愛国心のおかげで、一般的には不信をもたれる言葉となっている。だが国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年から1936年の間の日本を運命付けた少なくとも八件の主要陰謀を明白とさせた。また、陰謀は、日本文化においては、古くから、由緒ある地位に置かれてきた。戦前の日本の領土軍〔植民地配属軍のことか〕は、公式に「謀略部」と称する参謀チームを設けていた。私は、その連合国判事が判明させたリストに、さらに六件の陰謀を加え、それらのすべてを、裕仁を中心とする皇室がからむ陰謀とした。

裕仁は、秘密裏に少数派に働きかけ、最初は日本を欧米との戦争に導き、そしてそれに敗北すると、その記録を隠蔽した。

ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。

「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。私は裕仁を子供の頃から存じている。彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L2/220216.htm


10. 中川隆 2013年3月02日 09:34:49 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

鬼塚氏が8・15の偽装クーデターを徹底検証した『日本のいちばん醜い日』には、狂言回しとして憲兵中佐・塚本誠が登場します。 後の電通の取締役です。
塚本誠と懇意にしているのが松本重治。国策通信社『国通』の上海支局長です。


この二人を中心に人間関係を描くと次のようになります。

当時の松本重治の人脈は「上海クラブ」の上流階級、すなわち、

長州5を英国に留学させた麻薬王ジャーデイン・マセソン商会の子孫ケジック兄弟、
兄弟を紹介してくれたロイター極東総支配人クリストファー・チャンセラー、
秘密工作で一緒に奔走してくれる麻薬王・里見甫、
西安事件の大スクープネタをくれた義父の親友・須磨弥吉郎。


やがて須磨はスペイン大使になって「天皇のスパイ」べラスコを発掘。
べラスコが一方的にトモダチだと思っているのがキム・フィルビー。
キムはヴィクター・ロスチャイルドのスパイ組織に属するホモダチ。
スターリンが「ご主人様」と呼んでいるのがヴィクターその人。
つまりキムはヴィクターの根城に避難しただけです。
この点、高橋五郎『天皇のスパイ』はかなりパースペクテイブが狂っていて、ベラスコを天皇のダチッコとして大物扱いしていますが、ヴィクターに遠隔操作されていた小物スパイに過ぎません。


そしてヴィクターの忠実なポチがロックフェラー三世。
ロックは日本の敗戦直後に日米文化交流という名の侵略を開始。
松本重治が国際文化会館を創設してバックアップ。
塚本誠は電通に潜り込んで反乱分子を監視。
塚本誠と松本重治が諜報組織で繋がっている構図が見えます。


今回登場する大宅壮一、半藤一利、秦郁彦もこの構図の中にいます。
かつての三島由紀夫もこの構図の範疇にいます。
ここからはみ出すものはメジャーにはなれません。


では815の概略を見ていきましょう。

鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』成甲書房より以下抜粋します。

ポツダム宣言が米中英三国により共同宣言として発表されたのは一九四五年七月二十六日だった。その日、塚本誠憲兵中佐を日本に呼び戻す命令が台湾に打電された。塚本誠は『ある情報将校の記録』(一九七一年私家版・一九七九年芙蓉書房刊)(注 序文を松本重治が書いています)の中で次のように書いている。

「私は東京転勤のため、七月二十六日午後、海軍機に便乗、台湾飛行場を福岡へ飛び立った。・・・この日早朝にポツダム宣言が放送されることを、私は終日知らずじまいであった。・・・翌二十七日夕、福岡に着き、ポツダム宣言を知った。米中英三国首脳が連名で、日本に無条件降伏を要求しているが、この宣言は軍をゆさぶるに違いないと思った。」


塚本誠憲兵中佐はさりげなく書いているが、彼はある目的をもって帰国命令を受けたのであった。彼は特別任務を与えられての帰国であることを知っていた。八月十五日を中心とする終戦秘史を書いた本は多い。しかし、塚本誠に注目し、彼の行動について書いた本は皆無に近い。どうしてか。彼がポツダム宣言の発表直後に帰国命令を受けた意味を知ろうとしないからである。

この件について具体的に追及したのは、私の知るかぎりにおいて、デイヴィッド・バーガミニとレスター・ブルークス。バーガミニは日本の歴史を勉強し、日本の暗殺がなにゆえに行われ、どのような方法で構成にその暗殺が伝えられるかについて考察し、記録にとどめた稀有の学者でもあった。バーガミニの書く文章の意味が、私がこれから描く事件の経緯のなかで判然としてくるであろう。塚本は「日本の最良の警察」の役割をすべく、宮中の偽装クーデターの見届人として登場するのである。


デーヴィッド・バーガミニ

『天皇の陰謀』より写真転載

警察の見届人塚本が加わったがゆえに、陸軍の愛国的な少佐や中佐が急速にクーデターに熱中していくのである。このクーデターが秘密の会合から誕生したものでないことを何よりも証している。塚本はクーデターを計画しているといわれる井田正孝中佐に会見する。塚本は「私の東京転勤の陰の推進者はどうやら彼(井田中佐)だったようである」と書いている。だが、真の推進者が誰であったのかについては書いていない。一介の陸軍省事務局の中の軍事課員にすぎぬ一人の中佐が、塚本憲兵中佐を台湾から強制的に帰還させることはできない。彼の帰還命令の背後には大いなる実力者がいなければならない。この大いなる実力者が真のクーデターの実行者であるはずである。この物語は真の実力者が暗躍する過程を描くことになろう。

塚本の本からの引用を続けよう。「やがて二人の見知らぬ佐官が、井田中佐の横の両脇に座った。彼の紹介によると、一人は椎崎二郎中佐(45期)、もう一人は畑中健二少佐(46期)、共に軍務課員ということであった。」彼らの計画を塚本は書きとめた。

「降伏が最後になる前に、宮城を占拠し、天皇に不名誉を受け入れるよう助言した君側の奸から天皇を救い出すべくクーデターを決行する。もし、彼らの陰謀が失敗した時は自決する。私たちは、阿南と直接に幾度も討論した。阿南は終始加担しなかったが、彼らの大義に同情を示した。私たちは近衛師団長と東部軍司令官にも進言した。二人の将軍は、軍隊の規律についての適当な見解を開陳して応えたにとどまり別に私たちを止めようとしなかった」

塚本はこの三人からクーデター計画の内容を聞きだし、自分の仕事がなんであるかを知った。この物語は、塚本中佐が台湾から帰還し、竹下正彦中佐、椎崎二郎中佐、畑中健二少佐の三人の軍務局少壮課員に会った時をもって始まる。塚本が指摘する竹下中佐が、彼らと陸将のパイプ役であった。

畑中健二少佐

『日本のいちばん醜い日』より


椎崎次郎中佐

『日本のいちばん醜い日』より

バーガミニの説とブルークスの説がわかれる分岐点がこのあたりにある。バーガミニはこの日(十三日)から始まるクーデターを最初から偽装クーデターと認識し、塚本憲兵中佐をこのクーデターの記録係とし、井田正孝中佐を誘導及び報告係りとする点である。ブルークスは井田正孝が塚本憲兵中佐に語った言葉を信じている。バーガミニは疑っている。


後述することになるが、バーガミニは八月十四日の昼過ぎから起きるクーデターを宮廷がらみの偽装クーデターであり、首謀者とされる井田正孝以下の将校たちは、宮廷グループ(この人々については、ゆっくりと説明していく)の面々により誘導されたと見る。その最大のイベントが森近衛師団長の惨殺事件であったと。それゆえ、大城戸(注 塚本に指示を与えている上役)も塚本も井田も、宮中のスパイであり、彼らが若手将校や近衛氏団の歩兵たちを操って事件を起こしたと見る。しかし、あの宮中事件について書いた他の本はすべて、あの八・一四および八・一五の事件は真実のクーデターであった、という点で一致をみている。

ブルークスは憲兵司令官大城戸三治中将の存在をご存知ないらしい。彼は宮廷の飼い犬である。すべての彼の行動は内大臣木戸幸一の指示のとに動いている。従って大城戸は政治への参与をゆるされない。塚本中佐も陸軍省に入り込んだ井田中佐も内大臣木戸の手先である。内大臣木戸はこの憲兵隊のデータを天皇に報告する義務がある。『木戸幸一日記』には、この憲兵隊司令官がたびたび登場する。情報を知り、その情報を天皇に伝奏する様子が書かれている。しかし、終戦直前の記録から、この「憲兵隊」という言葉がかなり消える。木戸は意識して憲兵隊の名を伏せているとしか見えない。

バーガミニは書いている。「塚本の到着によって、阿南の幕僚の狂信者達は、公式の見届人が与えられた。このことは彼らにとっては、彼らの行為が記録されて、死んだ場合には例会で祖先から嘉せられることを意味しているが故に、重要なことだった。」森師団長と同じように惨殺された多数の軍人たち、空襲で命を失った数多くの民間人たちは霊界でどうなっているのか・・・。まわりくどい言い方を止めよう。私はこれから“天皇タブー”に挑戦する。この本はそのためにのみ書かれたものである。

半藤一利の『日本のいちばん長い日』(決定版)・・・の中に、三笠宮は二回ほどしか登場しない。しかも「これらの人々が憂いていたのは、軍の反抗である」と書かれている人物は三笠宮と蓮沼蕃(はすぬましげる)侍従武官長である。私はこの重要人物が故意に書かれざる存在であると思えてならないのである。どうしてか。答えは塚本憲兵中佐の台湾帰還を命じた人物こそ、三笠宮か、三笠宮に近い皇族の東久邇宮ではないかと思えるからである。

塚本が、誰が自分を直接に命令を出して帰還させたかを全く書いていないのも不条理であろう。彼はその人物を知っていた。そして、その人物から直接に命令を受けた、と私は考える。なぜなら、彼は“儀式”の見張り役を命じられたのである。いわば、このクーデターの進行係のような行動をとるからである。塚本は、「陸軍大臣室での模様については、終戦直後に井田中佐から直接聞いたことがある」と書いている。しかし、終戦直後とはいつの日なのか。八月十四日を終戦とする説があるのだ。私は、塚本は陸軍大臣室に入り、ペンを執って模様を写していたと見ている。彼は陸軍大臣とその部下たちのもとにへばりついていたからである。

『日本のいちばん長い日』の中の、ある“気になる文章”のことを書いてみる。私は半藤のミスかと思ったが、そうでもないらしい。故意であろうと確信するにいたったのである。以下、大宅壮一編になる『日本のいちばん長い日』を「大宅本」とし、半藤一利著なる本を「半藤本」または「決定版」としたい。

(@_@;)
○一九六五年発刊『日本のいちばん長い日』大宅壮一編→「大宅本」
○八年後角川文庫本として発刊→「角川文庫本」
○一九九五年発刊『決定版 日本のいちばん長い日』半藤一利著→「半藤本」「決定版」

まずは「大宅本」からの引用文を見てほしい。「とまれ、彼らは作戦をたて、第二段階ともいうべき布石をようやく終わろうとしていた。曽我副官が四連隊副官よりの奇妙な電話を受けた後、宮城内に入り、二重橋ぎわの衛兵司令所についたとき、副官はそこに見知らぬ三人の将校を認めた。通常近衛兵以外は入れないことになっている宮城内に、しかも夜も八時を十分か十五分過ぎたころになって、中佐が二人、少佐が一人やすやすと入れたということは、副官のそれまでの常識にはない経験であった。よくよく注意すればそこに事件の匂いをかぎとることができたかも知れない。」

次に、八年後に出た「角川文庫本」から‐。「とまれ、彼らは作戦をたて、第二段階ともいうべき布石をようやく終わろうとしていた。曽我副官が四連隊副官よりの奇妙な電話を受けた後、宮城内に入り、二重橋ぎわの衛兵司令所についたとき、副官はそこに見知らぬ三人の将校の姿を認めた。通常近衛兵以外は入れないことになっている宮城内に、しかも夜も八時をとっくに過ぎたころになって、中佐がひとり、少佐がふたりやすやすと入れたということは、副官のそれまでの常識にはない経験であった。」

「大宅本」では「中佐が二人、少佐が一人」となっているが、「角川文庫本」では「中佐がひとり、少佐がふたり」となっている。決定版たる半藤本も角川文庫本と同じである。このちょっとした文章の故意としかおもえないところに、大きな問題が含まれているのだ。

(@_@;)
中佐が二人、少佐が一人→中佐がひとり、少佐がふたり
わざと平仮名にしているところに不自然な作為を感じます。

大宅本には※(注)がついている。「曽我音吉氏のはっきちした記憶から類推すると、少佐は畑中、中佐の一人が椎崎であることは間違いない。しかし、もう一人の中佐が誰であるかわからない。他に事件関係者の中佐といえば、竹下正彦氏と井田正孝氏ということになるが、両氏とも後に述べる事情からすればこれは該当しないのである。従ってここでは不明としておく。」

角川文庫には「注」がついていない。曽我音吉氏は少佐の畑中と中佐の椎崎を記憶し、もう一人の中佐を思い出せないとは、不可解以上の何かを思わせる。では、この“某中佐”について半藤一利本人はどのように考えていたのであろうか。『昭和史が面白い』(一九九七年)の中で、半藤一利は高木俊郎(作家)とともに岩田(旧姓・井田)正孝と会談している。この中で“某宮様”が登場する。

高木
「このときの青年将校は判明しているのが、畑中少佐、椎崎中佐のほか、近衛師団参謀の小賀秀正、石原貞吉の両少佐、それに久保田兼三少佐、上原重太郎大尉の六名です。しかし本当にこの人たちだけであったのか。実は明らかにされていない影があるのではないか。」

岩田
「何もありません。立ち上がったのはその六名だけです。それに私が森近衛師団長説得のため、手を貸した」

半藤
「実は『日本の一番長い日』を書いたあと、妙な話を耳にした。あの夜、宮城の近衛師団の『守備隊大隊本部』に、参謀懸章をつった中佐、それも某宮様によく似た人がいた、と言うのです。確証はありません。確証はないが、とすると、国体護持のため弱気の陛下ではなく、別の天皇陛下をいただいて、という計画がひそかにあったのではないか。」

岩田
「驚きましたね、そんな話は。今はじめて聞きました。六人以外に同志はいなかったですよ。椎崎中佐を見間違えたと思いますよ。それに天皇陛下が弱気だからなんて考えたこともない。弱気だったのは外務大臣ですよ。」

半藤
「しかし、時日は、宮城占拠の近衛兵たちは御文庫に機関銃を向けているんですよ。」

岩田
「これは想像ですけどね。暗くて、どっちに御文庫があるかわからなかったのでは。」

半藤
「いや、いつも警備任務についている近衛兵ばかりなんですよ、占拠しているのは。」

岩田
「御文庫にいた侍従や女官たちの恐怖にかられた想像、いや妄想ですよ。近衛兵は泣いていますよ。」

半藤一利は「確証はありません。確証はないが、とすると、国体護持のため弱気の陛下でなく、別の天皇をいただいて、という計画があったのではないか」とも語る。ここから近衛兵たちが(後に詳述するが)わけもわからず、宮中のそれも天皇の住まいである御文庫まで「行け!」と命じられるのである。多くの軍人たちがその某宮様の指示、否、命令で動いたのである。しかし、つねに無名という名を与えられているのだ。岩田正彦はこの某宮様(この本では某中佐)と行動を共にしていたのである。時は流れ過ぎゆくも、この某中佐の存在すら否定しえ、偽証の生き証人として彼は生きてきたのである。私は、この“某中佐”の行方を追ってみようと思う。どうしてか?私は“天皇のタブー”い果敢に挑戦し、このタブーを打ち破る以外に、日本の未来への道は開けないと確信するからである。

三笠宮崇仁(終戦当時二十九歳)が雑誌「文藝春秋」(二〇〇五年九月号)の「特集・運命の八月十五日」に「玉音放送までの苦しかった日々」を寄稿している。

「昭和二十年八月寿五日といえば、中高年の日本人にとって忘れられない日であろう。もちろん私もその一人である。それから六十年経った今、頭に何が浮かぶかと聞かれれば、それはいわゆる玉音放送をラジオで聞いた時の、『やっと辿り着いたなぁ、という安堵感』と答えるしかない。・・・当時、私は航空総軍参謀として勤務していたが、私の部屋に来て、目の色を変えて抗戦の決意を述べる将校もいた。また自宅‐といっても家は消失したので、防空壕の前におかれた椅子と卓‐に来られた将校もおり、話しているうちにやがて大激論となった。・・・また、要職にある某将軍が前期の自宅にみえたことがあった。話の要点は、『大元帥陛下が、降伏の決心を翻して、戦争を継続していただくよう』陛下に申上げてくれとのことであった。私は、その温厚な顔つきや話し方を聞きながら、将軍が依然、侍従武官をしていたことを思いおこして、陛下(昭和天皇)を、かわいいわが子のごとく想っているのではないかという印象を受けた。しかしこの要請を、私はどうしても受け入れることが出来なかった。はっきりとお断りした。将軍は肩をおとして退出された。防空壕は低地にあったので、坂道を上らなければならなかった。妻は将軍の後姿を見て、感傷に堪えなかったという。そのすぐ後、将軍は自決された。大元帥陛下と、蹶起にはやる陸軍将校たちとの間にたって、苦悶されたであろう将軍の心の内を思いはかると、あまりにも悲愴な出来事であったというしかあるまい。あんな戦争は今後あってはならない。」

三笠宮と陸軍大臣阿南惟幾を終戦工作で結びつける資料は非常に衝くない。しかし、最後の最後まで三笠宮が阿南を動かしていたと思われるのである。大森実『戦後秘史(2)天皇と原子爆弾』(一九七五年)の中に「大森実直撃インタビュー」が入っている。そこで大森は阿南綾(陸軍大臣阿南惟幾大正未亡人)をインタヴューしている。このなにげない大森と阿南夫人の対談は、八月十四日に起きた事件が、今までに考えらえていた事件とは全く洋装の異なったものであることを暗示している。

その第一の点は、十四日、三笠宮と阿南が何かの目的のためにかなりの長時間会っていたことを示している。陸軍省にも陸軍大臣官邸にも、阿南のいそうな場所に阿南夫人はたびたび電話している。要件も彼の部下に話しているにちがいない。自分の息子の死を知らせる息子の友人の話を、せめて電話を通してでも聞きたいと思わない親がどこにいようか。しかし阿南夫人が「はあ、十四日は、三笠宮様のところに伺ったり、あちこちおりましたらしいんでございますよ・・・」と語るように、その居場所さえはっきりしないのである。後述するけれども、森近衛師団長も同じようにはっきりしない時間帯がある。ひょっとすると二人は監視下におかれていたのかもしれないのだ。


阿南惟幾大将

『日本のいちばん醜い日』より


森赳近衛師団長

『日本のいちばん醜い日』より

木戸幸一(当時内大臣)は戦後戦犯となり巣鴨プリズンに収監された。彼はこのプリズンの中でも「日記」を書いたが、『木戸幸一談話』が残っている。その中で木戸は奇妙なことを語っている。「極東軍事裁判に関する談話」から引用する。彼とは阿南陸相をさす。

(十)阿南惟幾
よく識(し)っている。立派な人で終戦も彼が陸相でよかった。我々の立場もよく諒解してくれた。彼の自決の八月十五日の朝、私のところに来て「もう一度考え直してもらえないか」と云うので、私は「事情でも大きく変わったら兎に角、既定の線で押し切る外ない」と答えると「君の立場はよく判る」と笑って辞去した。

なんとも不思議な文章ではないか。木戸ははっきりと“自決の八月十五日の朝”と書いている・三笠宮も“十五日”と書いている。以下は私の推理である。八月十五日の早暁(夜中の零時〜一時ごろ)に、三笠宮邸の防空壕の中にいたのは、木戸内大臣、阿南陸相、畑中、椎崎、上原たちではなかったか。阿南は畑中たちの命を救ってやりたい。それで、「もう一度考え直してもらえないか」と三笠宮と木戸内大臣を説得した。

阿南は十四日午後十一時三十分、鈴木首相に最後の言葉を告げるために残っている。首相官邸を辞した後に、三坂宮の防空壕に行くと十二時をすぎ、十五日となるだろう。そこで重大な論議を、三笠宮と木戸をはさんで阿南陸相がしたのであろう。結論は出なかったに違いない。三笠宮が有末(精三)に語った“陛下のおたのみ”が論議されたと私は考える。三者は口論となり、話はまとまらずに別れたのちがいない。

午前一時すぎに、近衛師団長室の二階に向かって暗闇の中を車が走った。そして、某中佐と畑中、椎崎、上原が二階に向かってかけよった。そこに銃剣を持った井田中佐がいた・・・。某中佐は畑中が森師団長をピストルで撃った後、暗闇に消えた。そして、どこへ行ったのか。それを暗示する文章がある。下村海南の『終戦秘史』(一九五〇年)を引用する。

「矢部理事のもとへ兵士がかけて来て、『あなたもこちらへ』という。何事が起ったかと引き返し、将校の前に出ると、大隊長は、『今あの室の入口に上衣をぬいでいた人は高松宮殿下ではないかと思うがどうだ』と聞く。この深夜に高松宮様が宮内省の一室に宿直しているなどとはとんでもない錯覚だが、たずねられるままに茶目気を出した矢部理事は、『そういえばいかにも似ていますね』と答えた。大隊長はまじめな顔で、『○○中尉、あのお方のところへ行って伺って来い、失礼のないように』○○中尉は『ハイ』と答え、帽子を直したり、ボタンをかけたりして、あわただしく走っていった。すぐ引きかえして、『高松宮殿下でないそうであります』」

どうして下村海南(本名宏、当時情報局総裁)は、こんな妙な文章を挿入したのであろうか。下村の本を読むと(これも後述する)、この本は森赳(もりたけし)に捧げられているような気がするのである。彼は事実を残したいという、やむにやまれぬ気持ちを後世に伝えるために、一見意味不明のこうした文章を入れたと私は信じている。

ブルークスの『終戦秘話』の中の一文を引用したい。十五日午前三時ごろの“ひとりの将校”のことが書かれている。たぶん、ブルークスは某中佐のことを書いていると思うのだ。

「午前三時ごろ、ひとりの将校が御文庫の入り口に現れて、側衛隊長に、その五人の部下の武装を解除をするように要求した。側衛隊長は狼狽して、その要求を入江(相政すけまさ)侍従に告げた。」

ブルークスは姓名をすべてつけて記述している。このように“一人の将校”と書くのは例外である。しかも天皇が住む御文庫の入り口である。下村海南がかいているごとく高松宮によく似たある将軍が二時半ごろに登場する。それは間違いで別人となる。しかし私は、この人物と三時過ぎの“一人の将校”は同一人物に思えてならない。この“ひとりの将校”は皇居警察の側衛隊の武装解除を要求する。この皇居警察の部長の上官として、侍従部長の蓮沼蕃大将がいる。それを承知の上で、武装解除を要求できるのは、皇位に非常に近い“某中佐”以外にいないと思う。高松宮によく似たとされる某中佐は森赳殺害現場から去り、宮中で服を着がえ、侍従武官長と木戸内大臣と会い、それから外に出て、いろいろと武装解除について皇居警察部長に指摘したのであろう。『すべての窓や出入り口の鉄扉を締めろ。偽装クーデターの近衛兵がやってくるが、彼らを取り締まらずに見て見ぬふりをしろ・・・』と言い残して、消えるのだ。それも「将校が向かって行ったかなたの闇のざわめきが、いるのは彼ひとりではない」という闇の中へだ。

さて、この項の最後に、「This is 読売」(一九九七年五月号)での三笠宮崇仁と平山郁夫画伯の対談「大戦の芽は明治健軍の時代にあり」からアカンベ宮様の思想の一面を紹介したい。「この狭い島国における共同生活では、伝統的な風習を守らないと村八分にされるおそれがある。そこでふだんから目立たない言動をし、控えめにふるまうことが身に付いてしまったのですね。」

三笠宮殿下には申しわけないが、私は村八分を少しも恐れない。文筆業の人々は、妙な事を書いて飯が喰えなくなるのではと思っている。即ち、“天皇タブー”をよけて飯を喰っている。私は貧乏の底をはいつくばって生きてきた。それでも生きてペンを執っている。村八分にしたけりゃ、それでよし。そんな連中にめぐり合ったら、“アカンベ”をするだけだ。


以上、鬼塚氏前掲書より転載。
http://perimari.gjpw.net/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E6%A4%9C%E8%A8%BC/20130226_122


http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/583.html#c9

[近代史02] NHK特集「二・二六事件 消された真実 陸軍軍法会議秘録」 gataro
11. 中川隆[-8771] koaQ7Jey 2019年8月18日 08:29:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3971]
NHKスペシャル「全貌 二・二六事件〜最高機密文書で迫る〜」
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586132/index.html
初回放送 2019年8月15日(木) 午後7時32分(73分) 再放送 2019年8月18日(日) 午前0時35分(73分)

番組内容

私たちが知る歴史は、一断面に過ぎなかった―。NHKは「2・26事件」の一部始終を記した「最高機密文書」を発掘した。1936年2月、重要閣僚らが襲撃された近代日本最大の軍事クーデター。最高機密文書には、天皇の知られざる発言や、青年将校らと鎮圧軍の未知の会談、内戦直前だった陸海軍の動きの詳細など、驚くべき新事実の数々が記されていた。事件後、軍国主義を強め戦争に突入した日本。事件の「衝撃の全貌」に迫る。

■出演者ほか

【朗読】今井朋彦,【語り】守本奈実

NHKスペシャル 全貌 二・二六事件〜最高機密文書で迫る〜
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20190815
初回放送 2019年8月15日(木)午後7時30分〜8時43分

私たちが知っていたのは、“真相”の一断面に過ぎなかった―。

今回NHKは、あの歴史的事件の一部始終を記録した「極秘文書」を発掘した。1936年2月26日、首都・東京の中枢で首相や大臣が襲撃された、近代日本最大の軍事クーデター「二・二六事件」。これまで、事件に関する主な公的記録は、完全非公開で“暗黒裁判”と言われた陸軍の軍事裁判資料とされ、事件をリアルタイムで記録した1次資料はなく、多くが謎とされてきた。事件から83年がたった今、見つかった「極秘文書」によって、青年将校たちの反乱と、その鎮圧にいたる「4日間」の詳細が明らかとなったのだ。

文書を密かに記録していたのは海軍。事件発生直後から現場に解き放った「調査部隊」や、密かに設置された「見張所」からまさに分単位で緊迫の状況を記録していた。陸軍の幹部が事件の裏で行っていた知られざる会談や、海軍が、反乱を超えた大規模な内戦まで想定して備えていたことなど、文書に残されていた「新事実」の数々に、解析に当たった専門家も息を呑んだ。  

二・二六事件後、軍国主義を強め戦争に突入していった日本。首都東京を大混乱に陥れ、国家の運命を分ける転換点となった歴史的事件の全容に迫る。

「二・二六事件」海軍極秘文書発見 収束までの4日間詳細に記録

NEWS DAILY
2019/08/15 に公開

戦前、陸軍の青年将校らがクーデターを企て、政府要人を殺害した「二・二六事件」について、事件の発生から収束までの4日間を分単位で記録した極秘文書が残されていたことがNHKの取材でわかりました。当時、海軍が記録したもので、青年将校と軍幹部の動きややり取りなどが細かく記されており、専門家は近代日本を揺るがした事件の新たな側面を浮かび上がらせる第一級の資料だと指摘しています。

今回見つかった資料は、昭和11年2月26日に陸軍の青年将校らが天皇中心の国家を確立するとしてクーデターを企て、政府要人ら9人を殺害した「二・二六事件」について、海軍が当時記録した内部文書です。

文書には「極秘」の印が押されていて、事件発生から収束までの4日間について、海軍が現場で把握した情報が分単位で記録されています。

このうち、発生からおよそ2時間後の2月26日午前7時に記された第一報とみられるメモは、「警視庁」「占領」、「総理官邸」「死」など、なぐり書きの文字が並び、その衝撃の度合いがわかります。

事件の鎮圧には青年将校たちが所属した陸軍が当たりましたが、海軍は陸軍の司令部に連絡要員を派遣したり、現場に「見張り所」を多数設置したりして、青年将校だけでなく、陸軍の動向も監視していました。

2日目、2月27日の午後6時半の記録には、陸軍の幹部が青年将校らについて「彼らの言い分にも理あり」と理解を示し、「暴徒としては取り扱い居らず」と発言をしたことが記され、陸軍の対応に一貫性がなく状況が複雑化していることに対し、海軍が警戒していた様子がうかがえます。

さらに事件が収束する前日の2月28日午後11時5分の記録には、追い詰められた事件の首謀者の1人、磯部浅一が天皇を守る近衛師団の幹部と面会して、「何故(なぜ)に貴官の軍隊は出動したのか」と問い、天皇の真意を確かめるかのような行動をしていたことも詳しく書き留められていました。

そして最終日、2月29日の午前8時5分の記録には、海軍の陸上部隊が防毒マスクまで装着し、「直ちに出撃し、一挙に敵を撃滅す」と決心したことが記載され、この直後の青年将校らの投降がなければ、市街戦に突入して東京が戦場になりかねなかった緊迫の記録がつづられています。

「二・二六事件」は、これまで青年将校らを裁いた特設軍法会議の資料など事件後にまとめられた記録が、主な公文書とされてきましたが、今回、見つかったのは事件を同時進行で詳しく記録したもので、専門家は近代日本を揺るがした事件の新たな側面を浮かび上がらせる第一級の資料だと指摘しています。

NHKスペシャル「全貌 二・二六事件〜最高機密文書で迫る〜」
「二・二六事件の全貌 」   克明な記録文書が出てきた。 陸・海軍や天皇はどう動いたか。

※1:07:43〜 東京憲兵隊長が海軍大臣次官に2・26機密情報をもたらした



http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/751.html#c11

[近代史02] NHK特集「二・二六事件 消された真実 陸軍軍法会議秘録」 gataro
12. 中川隆[-8770] koaQ7Jey 2019年8月18日 08:31:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3972]
#NHKスペシャル#全貌二・二六事件

事件1週間前に海軍が掴んだ情報は詳細を極めており極秘文章には襲撃される重臣の名前、首謀者の名前までも明記されてた。

海軍は二・二六事件の詳細を掴んでたが事実は闇に葬られた。不都合な事実は隠される。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/751.html#c12

[近代史02] NHK特集「二・二六事件 消された真実 陸軍軍法会議秘録」 gataro
13. 中川隆[-8772] koaQ7Jey 2019年8月18日 08:34:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3970]
「二・二六事件の全貌 」  
克明な記録文書が出てきた。 陸・海軍や天皇はどう動いたか。 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E5%85%A8%E8%B2%8C
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/751.html#c13
[政治・選挙・NHK264] <極秘文書で判明!海軍は事件の7日前に把握していた!>NHKスペシャル「全貌 二・二六事件〜最高機密文書で迫る〜」   赤かぶ
11. 中川隆[-8771] koaQ7Jey 2019年8月18日 08:54:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3971]

2・26事件は金の亡者の昭和天皇が為替相場を不当に操作して儲けるために意図的に起こさせたものだった.

2・26事件の背景は


第2次世界大戦の前、JPモルガンの強い影響下にあった日本では新自由主義的な経済政策が採用され、庶民の生活水準は悪化し、東北地方では娘の身売りが増えた。欠食児童、争議なども社会問題になっている。こうした貧富の差を拡大させる政策を推進したのが浜口雄幸内閣だ。


 そうした政策に反発する人も少なくなかった。その結果、浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には大蔵大臣だった井上準之助が本郷追分の駒本小学校で射殺され、その翌月には三井財閥の大番頭だった団琢磨も殺された。井上は当時、日本でも最もJPモルガンに近いとされていた人物。団もウォール街と緊密な関係にあった。


 その年の5月には五・一五事件が引き起こされ、1936年2月には二・二六事件だ。血盟団にしろ、二・二六事件の将校にしろ、娘を身売りしなければならないような状況を作った支配層への怒りが行動の背景にはある。


 井上が殺された1932年に駐日アメリカ大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。このことは本ブログで繰り返し書いてきた。グルーのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかもグルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーである。


 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあったわけだが、1933年から45年4月にかけての期間はウォール街と敵対関係にあったニューディール派がホワイトハウスで主導権を握った。ニューディール派の中心的な存在がフランクリン・ルーズベルト大統領だ。


 ルーズベルトが急死するとウォール街がホワイトハウスを奪還、ドイツのナチは救出され、日本の天皇制官僚システムは存続することになる。戦争責任も曖昧なまま幕引きになった。


 しかし、連合国の内部には天皇制官僚システムを破壊するべきだと考える人も少なくなかった。日本軍と直接戦ったイギリスやオーストラリア、そしてソ連。日本が降伏した直後はアメリカが日本をコントロールできる状態だったが、時間を経ればそうした国々の軍人や官僚が日本へやってきて民主化を要求、天皇制の廃止も主張する可能性が高い。それに留まらず、天皇の戦争責任は必ず問われる


 大戦後、日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の中にも天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張した将校が多かったのだが、焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。ビッターは闇ドルにも手を出していた人物で、CIAのエージェントだったと見られている。靖国神社とCIAには何らかの関係があるのだろう。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)


 ウォール街は日本を支配するシステムとして大戦前から天皇制官僚システムを使っていた。それを戦後も存続させるため、戦争責任の追及と民主化の推進という儀式を早く終わらせる必要があった。


 そこで1946年1月に戦争犯罪を裁くとして極東国際軍事裁判(東京裁判)を設立、48年11月に判決が言い渡されている。その年の12月23日に東条英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章が処刑されているが、これは「民主化」を演出するセレモニーにすぎない。本来なら処罰されて当然であるにもかかわらず被告席にいない人がいた。


 そして新たな憲法が制定される。その憲法は第1条から第8条で天皇制の存続を定めている。「象徴」という修飾語をつけてはいるが、天皇制の存続を謳っている。「戦争の放棄」を定めたその後、第9条だ。


 戦後日本の進む方向を決めたジャパンロビーの中心にはジョセフ・グルーがいた。内務官僚、思想検察、特別高等警察といった戦前日本の治安体制の中枢は戦後も要職に就いている。「国体」は護持されたのだ。


 バンカ島での出来事をオーストラリア政府が封印したのは日本の「国体護持」を望むウォール街の意向に沿った行動だと言えるだろう。その国体に関わる儀式が近く行われる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904230000/

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/583.html#c11

[リバイバル3] 中川隆 _ 皇室関係投稿リンク 中川隆
39. 中川隆[-8773] koaQ7Jey 2019年8月18日 09:35:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3969]

昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/578.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/458.html#c39
[近代史3] 昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由 中川隆
1. 中川隆[-8772] koaQ7Jey 2019年8月18日 09:36:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3970]

日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&list=PLMA8BWNvBdz-29sRtVJgysWMcX_586YDt&v=eugXzHoKnes


昭和天皇が自身の秘密や財産を守るための戦争をした。完全に天皇が指揮していた。おま­けに米国、スターリンそして西洋銀行家とも天皇が内通していたのである。


DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。


以下本文。


これからは2・26事件について語ろうと思います。2・26を追究して、いくらかでもその真実に近づけば、日本のこれからの未来のためにも役立ちます。2・26事件というのは若い将校たちが叛乱を起したと。で、その将校たちの叛乱を気に入らないというので天皇が怒り、数多くの将校たちが処刑されました。しかし、これには裏があります。今、私が秩父宮と昭和天皇は父親が違うということを喋りましたが、これは東久邇が喋ったことなんですね。


笠原和夫は広島のジャンク映画『仁義なき闘い』を初め、色々な芝居の脚本を書いて、それでなお昭和秘録というようなものに挑戦して、2・26にも挑戦します。しかし「2・26は映画になりきれなかった。書けなかった」と、彼は本の中で断念していますが、それはそうなんです。あれを追究すると映画にはなり得ないんです。なぜなら、あれは秩父宮が最初に仕掛けたクーデター劇なんです。これはもう他の人もみなさんご存知なんです。ところが真相は、秩父宮がある時点で若き将校たちを裏切るんです。それで彼らは行き場を失うわけです。


秩父宮が安藤輝三(てるぞう)という大尉に話を持ちかけます。これはまちがいない事実です。そして安藤は非常に冷静な男だったので断ります。しかし秩父宮は懐から懐中時計を出して「俺の真意を汲んでくれ」と言います。それで彼がリーダー格となり、若い将校たちを仲間に入れます。そして革命を起したときに、秩父宮は弘前に逃げます。そして安藤に言います「弘前で軍人たちを募ってやって来るから」と。それで安藤と仲間たちの将校は、秩父宮の言葉を信じて革命を起します。しかしその革命はみなさんがご存知のように失敗します。なぜ失敗したか?彼は途中で天皇の味方につくわけです。私はそう思ってます。それで失敗します。その結果どうなったのか?


結局2・26事件を起した連中は−それとその指導者たちは皇統派と呼ばれています。で、もう一つ統制派というのがあります。統制派というのあは陸軍16期生というのがありまして、陸士ですね、その中で1921年だと思いますが、10月にドイツのバーデンバーデンというところにある4人の男たちが集まります。そういう連中がドイツに集まった所に、東久邇が裏で緒を引いて、結局そこから統制派というのが生まれてくるんです。リーダーは暗殺された永田鉄山という男ですが、永田鉄山は途中で暗殺される。これが一番優秀な男だったわけでありますが、その連中が東久邇と秩父宮にそそのかされて、結局、日本をおかしな方向に持っていくわけです。で、日本はアメリカとソ連を敵対国とするんですが、統制派というのはアメリカを打倒しなければダメだという。まあこれは大体のストーリイですけど。で、皇統派というのはアメリカと戦っちゃいけないと、あくまで日本は敵を想定するならソヴィエトだということなんです。


これは大まかなストーリイですけど、そうした中で、みなさんご存知のようにゾルゲという男がいます。ソ連のスパイをやった男です。そのゾルゲを尾崎秀実(ほつみ)というのと、さっいいました西園寺八郎の息子の公一(きんかず)というのが、ゾルゲに秘密情報を流したというわけです。どんな本を読んでもそういうストーリイです。しかしこれは西園寺公一と昭和天皇が兄弟であったと私は申しました。西園寺八郎が妻に産ませたのが公一です。でその公一と昭和天皇は兄弟です。昭和天皇は木戸幸一を通すんですけど、自分の弟の公一に、ソ連のスターリンに向けて発したい情報を伝えるわけです。それを尾崎秀実という朝日新聞の記者が一緒になって、ゾルゲを却って誘惑するわけです。ゾルゲにおべらかしやインテリ女を与えて、ゾルゲを懐柔します。ゾルゲは女遊びをしてオートバイを乗り回してフザケた男ですけど、で、公安はぜんぶゾルゲをチェックしますけど、天皇一族はゾルゲを野放しにします。


ゾルゲは日本の一番重要な情報をぜんぶ手に入れて、スターリンに渡します。スターリンはそれを信じるわけです。だからスターリンは、日本がソヴィエトを攻めてこないということを知るわけです。天皇を初め統制派の連中ですね、永田鉄山が殺されましたから東条英機が首相になって、アメリカを攻めるストーリイは最初から作られたということなんです。戦争というものは必ずどこかで企みがあるものなんです。昭和天皇が、1938年12月ですから大戦が一年前、これは木戸幸一の日記に出てきます。木戸幸一にこういうことを言っています「もう世界大戦は始まる。そして最後に勝つのはソ連とアメリカで、他の国は全部潰される。日本も同じように潰される。だけど日本人は臥薪嘗胆して質実剛健を維持すれば、10年後には復活する」と。


これは見事に予言的中しているわけですよ。その一年後に第二次世界大戦が始まります。真珠湾攻撃をちょうど一年後にやります。10年後というのはちょうど講和条約の時です。だから考えようによっては、昭和天皇だけが日本のストーリイを全部知っていたんじゃないか、ということになりませんか? 僕はそう思います。で、戦争が始まる一年前に近衛が天皇に面会を申し込みます。天皇は拒否します。それで近衛が木戸に会います。これもまた木戸日記にちゃんと書いてます。近衛はどういうことを言ったかと。


「お前は天皇に言え。いいか。海軍は二年しか石油がない、戦争をすれば一年半持てばいいけど、まあ一年で終わる。陸軍は石油を一年分しか持ってない。この状態で戦争が出来るわけはない」と嘆いて木戸の許を去ります。木戸日記に書いてあります「俺もそう思う。戦争すれば負けるワイ」。これは木戸日記にはっきり書いてあります。


ところが実際は戦争は4年も5年も続いたじゃないですか。石油のない時代は、最後の一年間くらいは石油が尽きたけど、石油はあったんですよある程度。みなさんもご存知のように、ガダルカナルや何とかでいっぱい負けますけど、やっぱりあれは石油があったんですよ。なぜ石油があったか考えてみたことありますか。これはですね、戦争の時にアメリカが「日本には石油は売らない」。ところが「パナマ国籍の船ならば油を積んでいって日本に売っても、これは自分たちは攻撃できない」という理屈で、日本に石油を間接的に売るわけです。本当なんです。三菱が作った『昭和通商』という会社がそれを引き受ける。『昭和通商』と三菱は同じです。それではマズイというので『日本水産』(注 白洲次郎は取締役)という会社が代行するわけです。魚を運ぶということではなくて、魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので、戦争は長びくわけです。

◎鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』より該当箇所抜粋。

『多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世に言ういう二重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。』

『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに侵入していくのである。その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第六回国際会議がアメリカのヨセミテで、1936年8月14日から29日の間に開かれている。この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』

『私は太平洋問題調査会の第六回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の六月頃から年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にシ、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』

◎私見では尾崎秀実を破滅に引き込んだのは吉田茂&白洲次郎である。
次郎のコネクションである牛場友彦と松本次郎が仲介役である。

『白洲次郎の幼馴染の牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山愛輔(注 白洲の岳父)の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅で昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。

牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から”ジロー””トモ”と呼び合う仲であったが、昭和12年以降(注 白洲が日本水産の取締役になった年)その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン−後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など−との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)

この牛場と松本重治次郎が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。
尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、
近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。
占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。
前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、
二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。

『私は(通説とは)逆に、西園寺公一と原田熊雄たちが、天皇と木戸、近衛に踊らされていた、とみるのである。ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、一方でソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート(たぶん野坂参三のルート)で知らせ、その情報を讀賣新聞に流したのだろう。南進策こそはアメリカとイギリスとの戦争そのものを意味した。』

『私たち平成の世に住む人々は、あの時代の貧乏を理解できない。農村は働き手を兵隊にとられ、娘たちの多くは売春婦になっていった過去を知ろうとしない。天皇とその一族が優雅な生活を続ける一方で、日本人のほとんどは、どん底の生活に落とされていた。どん底に生きる人々を恐れている神の一族は、たえず何かを仕掛けなければ生きていけない。そこに暴力性が要求される。』

『2・26事件を私は、天皇と秩父宮が密かに練った偽装クーデターとの説をとる。秩父宮は密かに仙台から遠回りの鉄道を使い東京に出て来て、高松宮と会談し、その後で二人で天皇と会っている。この事件をいかに収拾するかについて話している。8月15日のあの事件と2・26事件は共通する。前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。天皇教はたえず暴力装置を作っては、それを策動して生きながらえてきた。どん底の人々は、大きく二つに分かれた。天皇教の側に立って共にその暴力装置に加担する一派と、その逆の立場の人々である。


統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。皇統派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。軍人のほとんどが、軍人たちの一部(天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち)を除き、アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。その謎を徹底的に追究しようとして私は書いてきた。』


『ねずまさしは「天皇昭和紀(上)大日本帝国の崩壊」の中で「2月26日午前4時、第一師団の歩兵および第三連隊の営門から、部隊は堂々と市内へ出発した・・・・かくて彼らは、目ざす重臣五人を殺した、と信じて陸軍省などに引き揚げた・・・牧野は早くも旅館からのがれていたため、護衛の警察官が射殺され、旅館は焼かれた。西園寺ももちろん、ねらわれたが・・・襲撃直前になって突然中止した。」と書かれていることに注目したい。

牧野は数多くのテロの標的となってきた。しかしそのつど、直前にいつも逃亡に成功した。これは何を意味するのか。彼が背後でこれらのテロを操っていた黒幕であることを意味する。岡田啓介首相も難を逃れた。事前に彼の娘婿の迫水久常(終戦時の鈴木内閣書記官長)が岡田首相を連れ出すのである。迫水久恒は、皇統派と見られていた。実際は岡田のスパイだった。』


『このクーデターの首謀が秩父宮であることを書いた。このクーデターを、天皇、高松宮、三笠宮、牧野伸顕、岡田首相らが事前に知っていたのである。天皇は彼ら将校を「暴徒」と決めつける。天皇が最初から「暴徒」と断定しえたのは、密かに秩父宮と共同歩調を取ったからだと私は書いた。しかし、政府要人が数名殺されたり、傷を負ったから、2・26事件は本物のクーデターとして位置づけられ、誰も疑わない。ねずまさしも、である。』


『このクーデターと酷似するのが、あの8・15の「日本のいちばん醜い日」である。将校と兵隊のかわりに、将校と近衛兵を使った。リアリテイを見せるために、一人とはいえ、森近衛師団長を惨殺した。石原莞爾がいみじくも指摘した放送局を占拠するというマネまでもしたのである。この二つの偽装クーデターは、秩父宮と三笠宮の暗躍がなければ決して実行されなかったのである。真の首謀者の二人は未だに闇の中に消えているのである。』


『この事件の結果、どのように変化したのかを書いておきたい。北進策をとる皇統派の将軍・将校たちが主流からはずれ、東条一派−あのバーデンバーデンで密約した一派、東久邇宮と結ばれた一派−の統制派が軍の要職を占めるのである。統制派は南進策を主張する人々である。秩父宮は、自らが天皇になろうとしてクーデターを起させた可能性大である。笠原和夫もその説をとる。しかし、私は天皇と秩父宮が密かに結びつき、2・26事件を若手将校に起させ、南進論一本にすべく行動したのではないかと思っている。』


『この1936年が日本のターニング・ポイントになるのである。1936年、ゾルゲと西園寺公一と原田熊雄、尾崎秀実の暗躍。もう一つは日本共産党の野坂参三の動き。これらと2・26事件が糸のようにもつれあって連動したことは間違いないのである。2・26事件以降、天皇により軍紀がひきしめられる。天皇はその役を東条英機に命じ、陸軍大臣から首相に任命する。東条英機は佐藤賢了中将を軍務局の要職につけ南進策を推進させる。太平洋戦争への道である。』


『天皇は皇統派を一掃し、統制派を参謀本部に配し、ついに自らの住む御文庫の中に彼らを入れて太平洋戦争に突入するべく机上演習を始める。誰ひとり天皇に逆らえる者ない、であった。この机上演習の中から、真珠湾攻撃とシンガポール攻撃が登場してくる。そのために一番役立ったのがヴェルサイユ会議で日本に与えられた、委任統治権であった。天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。近々日本が「非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる」とは、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。それにもまして「十年を覚悟し」さえすれば、「有終の美を挙ぐる」とは、敗戦後五年で、1950年に講和条約ができ、日本は再び独立国となる、ということであろう。そのために、一年後に戦争に入るべく努力をしているのだ、と天皇は語っているように思える。』


『その裏に見え隠れするのは、「木戸よ、このようにして日本を導かなければ、天皇一族の運命が風前の灯となるのだよ。お前も協力してくれ」との天皇の哀訴である。大室寅之祐の代から天皇ニス変えた木戸孝允の孫の木戸幸一は、「天皇と一蓮托生の命である」と答えたのではないのか。天皇はあるルートから、一枚の極秘文書を渡されたと私は考える。その文書に木戸に語っていた内容が書かれていた。「有終の美を挙ぐるは困難ならず」とは、「敗北しても、天皇の命は保証され、国体は護持する」との確証を得たとのことではないのか。日本の国民の民草に天皇が思いを馳せる素振りをするのは、「終戦の詔書」の中だけである。それも見せかけ以外のなにものでもない。』


『天皇が脅されてなんかいなかったと思っている人が多いであろう。私はルーズヴェルト大統領も、チャーチル首相も、スターリンも、闇の支配者たる国際金融資本家たちのグループに脅され続けていた、と書く。天皇においておや、である。まことに日本は国際決済銀行(BIS)により、利益追求システムの中に組み込まれ、ついに必然的に戦争状態の中に入っていく。戦争は巨大なマネー・ゲームである。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。』


『天皇と祖の一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。ひと度、この銀行組織に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手の内に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちんばん金のもうかるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知り尽くした人物は日本にはいなかったし、これからも登場しないであろう。』


『第二次世界大戦はどのように仕掛けられたか。その第一はヴェルサイユ講和条約にあった。日本は統治諸島を手に入れた。ドイツの賠償金を受け取るとの名目で、国際決済銀行ができ、ドイツに秘密裡に多額のドルを貸し与えた。そしてナチス・ドイツを育てた。共産主義の恐怖を煽る一方で彼らは太平洋問題調査会をつくり、中国を共産主義にすべく動いた。日本の天皇の野坂参三を使い、共産党国家中国の援助をした。これらはすべて、マネー・ゲームの面を持っている。これらの動きに国際決済銀行がからんでいるからである。彼ら、この国際決済銀行を実質ッ的に支配する国際金融同盟は、次々と日本に甘い汁を与え続けた。青島の中国銀行の倉庫に大量のヘロインがあった。これから軍人たちはヘロインやアヘンの売買をやって大金を稼ぐ。すべては彼らユダヤの国際金融資本家たちが考えた、日本を戦争に導くための甘い汁だった。満州国建設の金は麻薬によったと認めるべき時がきているのだ。』


『1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2千万円。日銀物価価格で計算すると311倍となり、7912億円。東条の10億とか15億がいかに天文学的数字であるかが分る。今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。三井と三菱はペルシャから年ごとに船を出し、アヘンを仕入れ、朝鮮に送った。それをアヘンかヘロインにして中国人に売りつけた。その金の大半は天皇と三井、三菱の懐に入った。その一部で国際決済銀行を通じてアメリカから必要な軍需物資を仕入れた。戦争を長引かせるよう、国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟が天皇を指導したのだ。天皇とその忠実な部下である東条英機首相は、戦争を長引かせることで天文学的は利益を上げた。麻薬を売りつけ、その上がりで軍人たちはメシを食っていたのに、何が大東亜構想なのだ。』


『木戸は警察関係の連中と三日に一回ほどの頻度で会っている。これらはすべて天皇に上奏され、また天皇から伝送される。平和運動を抑圧し、終戦工作を妨害しつづけたのは、天皇ヒロヒトその人であったことを理解しないと、戦争の本当の意味が分らない。日本人だけが、昭和天皇を「無私の人』だち思っている。真実はまったく違う人間であったことは、ほぼ間違いのない事実である。戦争がマネー・ゲームであることが理解できたであろうか。田布施のこのグループにやがて、吉田茂が一族として加わってくる。上海にいたサッスーン、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健三は、ある長崎の女郎が生んだ子どもを養子にする。吉田茂その人である。その子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘と結婚する。満州利権を守るため、田布施村の一族と血の契りを結ぶ。のちにヨハンセン・グループを作り、天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける。こうして、、マネー・ゲームは続くのである。』


再び鬼塚氏のDVDの続き。


そしてある時になって、「石油はやらない」という時になって、天皇は気がつくわけです「ああ。ついに終わりが来たか」と。ね。これが真相なんですよ。近衛とか木戸はその辺を知らなかったんです。天皇と一部の大本営、『御文庫』といって、天皇の宮殿内の地下深くに『御文庫』をつくり、そこに大本営を置いて、毎日毎日「今度はここ行け」「ここ行け」指図した。それを指図が出来ると、東条に渡すわけです。東条は御文庫の中に入れない。そういうシステムで戦争が進んでいる訳です。最後に天皇も「もう尽きるところまで来たな」って、天皇も終戦工作に入る。終戦工作に入るのはロシアを通して入ろうと、ロシアを通して終戦工作に入りますけど、上手く行きません。


終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。


で、白洲次郎が『カントリー・ジェントルマン』とかいって、戦争のときは鶴川の山の奥で農業をやっていたというのは全部デタラメです。これは『日本水産』の社長であった有馬というやつがいますが、これも貴族ですが、『日本水産』のトップですが、この男の日記にダーッと出ている。「また白洲が来た。とんでもないニュースを持って来た。アメリカがどうのこうの。何で彼はこんなことを知ってるんだろう」ずーっと出てきます。そういう事なんです。で、結局ですね、最初から日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると、すべて矛盾がなく納得できるんです。だからゾルゲを使って、天皇は弟の公一に機密情報を流してソヴィエトに渡せと、で、ソヴィエトを安心させて南進策を取るわけです。で南進政策を取ッとる時に、木戸が日記に書いてますよ。「おい、火事場泥棒をしたな」「へい」と木戸が言うわけですよ。「火事場泥棒も時によってはしょうがねえなあ」と天皇が木戸に言ってんです。火事場泥棒なんです。ね。


あのおとなしいような天皇は非常に頭が良くてですね、昭和天皇はズル賢くてすべて計算してたわけです。だから日本をアメリカとの戦争に持っていくよう仕組まれたら、それに応えるよう敢えて真珠湾攻撃の大事なところで手を抜くわけなんです。だからあれは山本五十六に命じますけど、山本五十六は言ってんじゃないですか。「一年くらいは持つ。勝った勝ったと言うだろう。だけど後はもう知らん」。そしたら天皇はそれでもいいからやれというわけですよ。やらないと自分の身が危ない。スキャンダルをみなバラされて、全部失う。スイスに貯めた金も失うと。


もう一つ、石油を買うお金は何処から来たかということですが、日本は南方に攻め込みます。中国はもちろん、ビルマからタイからダーッツと行きます。あすこにある金銀財宝をカッさらいます。そして日本に持ち帰ります。それを金を溶かして丸福といいます。丸に福が書いた名前の金貨をつくり、それを持ってフィリピンとかに行って、農家の人に渡して食料を得る。アメリカ軍は自分の国から大きな船で食料を運ぶんですけど、日本はそんな余裕はないわけで、現地調達をやります。フィリピンで現地調達をするのに軍票というのが、こんなの受け入れません、フィリピンの百姓たちは。それで金貨をやります。「そんならしょうがない」って言って、米をもらったり野菜をもらったりして、何万人の兵隊たちがフィリピンの農民から肉や魚を買います。これが戦争なんです。


で、もう一つ、その金貨を黄金をインゴットにしてスイスに送ります。スイスでスイスフランかドルに換えます。そのスイスフランかドルを・・・国際決済銀行というのが出来るわけです。第一次世界大戦の後に出来ます。その決済銀行を通して、日本はアメリカにパナマ国籍で金を払い石油を貰うと。で、アメリカとその石油で戦争をします。太平洋でいっぱい戦争をしました。あれはアメリカの石油をもらって、アメリカの石油を使った軍隊と戦争ごっこをやったということですよ。ドイツも同じです。戦争するのにドイツは分るように石油は出ません。石炭は出ます。で、ドイツのヒトラーが言います。「戦争をしろというけど石油が無い」って。ロイヤル・ダッチッシェルというところのデイターデイングというユダヤ人がヒトラーに言います。「石油は渡す。やれ」って。「誰が持ってくる?」「オナシスというやつのタンカーが来る」「戦争してたら沈没したらどうするんだ?」「オナシスの船は絶対沈没しないから心配するな」。で、戦争中ずっともらいます。


じゃあヒトラーはどうしてスターリンの所に攻め込んだんだ?というと、途中で言われます。「もうやらない」って。じゃあヒトラーはどうしたらいい?スターリンのところへ行って石油を取ばいい。それでヒトラーはロシアを攻め込んで、石油基地を奪おうとして行く過程で滅ぼされます。日本も同じです。イタリヤはどうか?ムソリーニはヒトラーに言われます「一緒に戦おうよ」。ムソリーニは言います「オレは石油がない」。ヒトラー「俺はシェルからもらえるけどお前はシェルからもらえないのか?」ムソリーニ「シェルはオレにくれるといわない」。それでもヒトラーとムソリーニは協定を結んでたから、ヒトラーが戦争を始めた以上、ムソリーニもやらざるを得ません。すぐムソリーニのイタリヤは潰されます。これは石油がないからすぐ潰されます。


戦争というものの実態は「物事はすべて必然性がある」んです。大きな出来事は偶然性で発生するものは何もありません。第一次世界大戦も今いった第二次世界大戦も、ぜんぶ八百長なんです。八百長システムが見事に働けば戦争は長引くんです。戦争は長引くんです。だからノルマンデイー上陸作戦というのがあります。あれは第二次世界大戦が始まって、すぐルーズヴェルトが「勝利の計画」というのを立てます。ウエデマイヤーという優秀な男がいまして、これが計画を立てます。ウエデマイヤーは戦争が始まって一年後に、ルーズヴェルトやステイムソンやらマーシャルやらみんなを説得します。「戦争はこれで終わりです。ヒトラーを、ナチスらを、やっつけましょう」。ね、一年後ですよ。


それがなぜ延びたか?上層部の連中が「No」と言います。誰が「No」と言ったか。スターリンもチャーチルに「これで戦争は終わりやなあ」と。モロトフもチャーチルに会って確約をもらい、ルーズヴェルトに会って「戦争は終わり。終わらせないとみんな可哀そうやな」。でも最後にチャーチルがみんなに言います「戦争は継続しないといけない」。でルーズヴェルトは魂消ます「なぜだ?」って。


チャーチル「戦争は継続しないといけない。継続しないと金儲けに繋がらない。それでアフリカ作戦に切り換えよう」って。アメリカ人は分りません。そこでアイザンハワーという男が登場します。これがウダツの上がらん男です。フィリピンでマッカーサーの下でずーっと中佐であった男です。この男が呼び出されるわけです。で、ヨーロッパに派遣されて、一気に中佐、大佐、少将、中将、大将、元帥と一年足らずの間に元帥になって総指揮官になります。完全なユダヤ人です。ルーズヴェルトがヨーロッパに行った時に、アイゼンハワーに会います。アイゼンハワーの顔を初めて見たといいます。大元帥の顔をね。で、アイゼンハワーはイギリスの連中に応じます。イギリスの貴族たちが(戦争終了に)反対するわけです。


僕はこれを『20世紀のファウスト』に書いたんですけど、何と悲しいことよと。人間の命なんかどうでも良い連中が、ゴロゴロいるわけですよ。ルーズヴェルトでさえ嘆いているんですよ「戦争が終わるのになぜ終わらせないのか?」。そうこうしているうちに、まあ後で話しますけど原子爆弾ですね、原子爆弾が完成しなかったんですよ。予定通り。これが完成間際になってヒトラーも手を挙げます。で終わります。で日本は「まあ〜だだよ」とステイムソンが言うわけです。「まだガマンしとけ」。そして原爆が完成して、同時にスケジュールが出来た。と同時に何が起きたかというと、天皇は広島に第二総軍を作って、畑という男を入れます。ね。怖い話じゃないですか。


それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。まあ僕は昭和史を読んでて「悲しいなあ」て思ったのは、昭和天皇が御前会議の席上、戦争をやれというとき「分った」と。で、杉山元(はじめ)という参謀長に言います「勝てるか?」。「勝てるかどうかはやって見ないと分りません」。すると天皇はみんながシーンとしている時に「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」と読んだ。で、それが戦後になって昭和天皇が戦争に反対した証しだとか、昭和天皇は戦争に責任がないという一番の証拠にされるわけです。この歌を以って反戦の歴史学者もみな賛成するわけです。


井上清やら『人間の条件』を書いた五味川純平もその歌を以って、天皇はやっぱり反戦主義者であったことは認めるということになるわけです。五味川純平の書いた『御前会議』という本があります。『人間の条件』を書いた男が『御前会議』というのを書いてね、その時僕は思いました(彼らは何とダマされやすい歴史学者なんだ・・・)と。これはちょっと歴史の勉強すれば分るんですけど、この歌は戦意高揚のためにずうっと歌われてきたんです。日露戦争の時に天皇が詠んだとされて、ずうっと戦争高揚の歌でやってたのが、突然、戦後になって一部の天皇の周辺の者が「あれは天皇が反戦の意を伝えた」と言ったら、みんな(以下)同文なんです。何て情けないんだ。なぜ歴史を勉強しないのか。


この歌は井沢匡(ただし)というドラマの脚本化が書いたり小説書いたりするのがおりまして、この人は『維新・明治天皇伝』というのを書いています。この中でこの歌は、西南戦争の時に天皇が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌だとされてんですよ。飛鳥井雅道(あすかいまさみち)という歴史学者も、井沢説と同じなんですよ。まあ一部は違いますけど。『日露戦争』というのがあるんですけど、これは西南戦争の時に「やっとこの世の中で幸せが来ると思ったのに、自分を助けてくれた西郷は死んでしまった。何と悲しいことだ」という歌なんですよ。「四方の海みな同胞」というのは、「四方の海」は四つの海で四海、「同胞(はらから)」というのは「同胞(どうほう)」なんですよ。「四海同胞(しかいどうほう)」ということなんで、「四海同胞」とは僕たちは簡単に言いますけど、これはずい分前から「同胞(どうほう)」というのは結局、部落民を指す言葉なんです。あんまり良い言葉じゃないんです。天皇のような貴きお方が喋る、歌にするような文句じゃないんです。


足利尊氏が室町幕府を作りますが、その時に負けた楠とか新田の一族が「散所(さんしょ)」「別所(べっしょ)」というんですが、閉じ込められるんですよ。一定の場所に。もう反乱を起さないように。で、それで彼らは部落民になるわけですよ。楠一族とか新田一族は部落民になるわけです。その時に四海同胞衆というのが、彼らの世界から生まれてくるわけですよ。閉じ込められた人間が解放されたと言って、で、そこから坊主になって解放される道があると言って、坊主が沢山生まれてきます。そういう意味なんです。だから明治天皇がこういう風に「俺たちは部落民としてガマンしてきた。四海同胞市民として生まれてきたけど、やっと迎えられたのに西郷は死んでしまった」という歌なんですよ。それを「日露戦争の時に明治天皇が作った」という歌にして、それはそれでいい。戦意高揚の歌だんですよ。八紘一宇の代表的な歌として、ずーっと歌われてきた。で、戦争前まではそれで筋が通ってきた。色んな人がこの歌を、子どもたちの教科書に載っている歌でさえ(戦意高揚の歌として歌ってきた)。


戦争が終わって一部の軍人たちが「反戦の歌を詠んだ」となると(今度は)ずーっとそうなるわけです。何と情けない話じゃないですか。今でも、そのさっき言いました秦とか、そういう連中はみな、この歌を以って「昭和天皇は反戦の意を唱えたけれど、軍人たちは天皇の意に反して戦争をしたんだ、軍人たちがけしからん」ということで、第二次世界大戦の総括をやっているわけですよ。で、その意に逆らう歴史家は未だにいません。私は一人だけ逆らってますけど。どうかみなさんも真実を知って、簡単に人の言うことを、権威者の言うことを信じないでください。これは大事なことなんですよ。
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html


09. 中川隆 2013年3月02日 09:27:23 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

2・26事件と8・15宮城事件に共通して登場する人物


2・26事件と8・15宮城事件に共通して登場する人物 From 得丸

皆さん、ちょっとびっくりしたのでお知らせします。

2・26事件の磯部・村中が軍を追われることになる昭和9年の11月事件と、昭和10年の永田鉄山惨殺事件と、昭和20年の8・15宮城事件に共通する人物がいることがわかりました。

なんと鬼塚さんの本に引用されていました。

鬼塚英昭さんの「日本のいちばん醜い日」の14ページに、バーガミニからの引用が紹介されています。

「塚本は、1934年に、陸軍大学における北進派即ち征露派の陰謀を暴露するのに、宮廷の密偵を助けたことで、天皇の注意を惹いた。

彼はそれから1935年の間じゅう、大阪で皇叔東久邇宮の下で様々な秘密計画に携わった。その一つは、裕仁の防空室を描いた鈴木記念館の絵のなかで時代錯誤の幽霊となって現れているあの永田軍務局長の殺人であった。」

この1934年の陸軍大学における陰謀というのは、磯部浅一と村岡孝次が陸軍をクビになる11月事件であると思われます。

そして、永田鉄山惨殺事件(=相沢事件)にも、塚本が関係したという記述がバーガミニの本にあったということは、いったいこれは、、、、、、、

2・26事件について、浜田政彦さんが考えている以上の根深い陰謀があるのではないかという気になりませんか


とくまる
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2・26事件の首謀者である磯部、村中と、8・15宮城事件の陰謀の筋書きを書いた塚本は、意外に近い関係だったのですね。

得丸

以下、ネットよりコピペ


塚本誠(陸士36)、村中孝次(陸士37)、磯部浅一(陸士38)は、陸軍士官学校の一年ずつ先輩後輩です。

磯部浅一
・ 山口県出身。陸士(38期)卒。陸軍経理学校卒。
・ 早くから北一輝のもとに出入りし「皇道派」青年将校の先駆的
  存在の一人。
・ 士官学校事件で、村中孝次らとともに、辻政信ら「統制派」の
  陰謀に陥り逮捕。のち停職処分。
・ 冤罪を訴え続け、村中とともに「粛軍に関する意見書」を作成
  、配布。これにより免官となる。
・ 真崎教育総監更迭、相沢事件ののち、相沢を支援しつつ、活動
  を活発化される。
・ 二・二六事件に際しては、栗原安秀とともに時期尚早論を抑え
  、計画を指揮。
・ 獄中で「行動記」「獄中遺書」を書き、決起の正当性を主張。
  刑死。


村中 孝次(むらなか たかじ、1903年10月3日-1937年8月19日)は、戦前日本の軍人、国家社会主義者。北海道旭川市出身。

札幌中学を経て、陸軍士官学校37期。歩兵第27連隊付・士官学校区隊長を経て、1932年歩兵第26連隊付。同年陸軍大学に進むが中退。
この頃から皇道派青年将校グループの中心人物として知られるようになり、維新同志会の西田税らと交遊。1934年大尉。同年磯部浅一らとともにクーデター未遂容疑で検挙され、休職となる(陸軍士官学校事件)。

翌1935年磯部と「粛軍に関する意見書」を作成・配布し、免職となった。また、真崎甚三郎教育総監の更迭は永田鉄山軍務局長を中心とした統制派の皇道派弾圧の陰謀であるとする「真崎教育統監更迭事情」を作成し、相沢三郎中佐に送付。同年の永田軍務局長殺害事件(相沢事件)の遠因を作った。1936年の二・二六事件の首謀者の一人となり、1937年に西田や磯部らと共に射殺された。


塚本 誠
明治36・9・24〜昭和50・8・6
大13・7 陸士卒(36期)
13・10 任歩兵少尉・歩兵第59聯隊付
昭2・10 任歩兵中尉
6・5 仙台教導学校付
7・11 任憲兵中尉・仙合憲兵隊付
7・12 岡山憲兵分隊長
8・8 任憲兵大尉
9・3 憲兵司付
10・3 大阪憲兵隊付
10・4 上海駐在
12・8 上海派遣軍司付
12・12 中支那派遣憲兵隊付
13・3 台北憲兵分隊長
13・7 任憲兵少佐
14・3 参本付仰付(上海駐在)
14・9 支那派遣軍総司令部付
16・3 中支那派遣憲兵分隊長
16・8 東京憲兵隊付(特高第2課長)
17・8 任憲兵中佐
18・8 宇都宮憲兵隊長
19・5 ビルマ方面軍憲兵隊長
19・12 第10方面軍司付
20・4 第10方面軍参謀
20・6 任憲兵大佐
20・8 東部憲兵隊司部員兼憲兵参謀
20・9 軍務局付
20・12 予備役
24年 電通入社
48年 電通取締役で退社

憲兵練習所甲種学生 首席
* 11期:昭和7年11月14日/塚本誠 歩兵中尉
==============================


2・26事件も結局、天皇が仕組んだ陰謀だったのでしょうか、、、、

とくまる
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_02_contents.htm


天皇の陰謀

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた

ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳


私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。

だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。


私は、裕仁を「陰謀」の首謀者として登場させるつもりである。

だが陰謀というこの言葉は、過剰使用と盲目的愛国心のおかげで、一般的には不信をもたれる言葉となっている。だが国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年から1936年の間の日本を運命付けた少なくとも八件の主要陰謀を明白とさせた。また、陰謀は、日本文化においては、古くから、由緒ある地位に置かれてきた。戦前の日本の領土軍〔植民地配属軍のことか〕は、公式に「謀略部」と称する参謀チームを設けていた。私は、その連合国判事が判明させたリストに、さらに六件の陰謀を加え、それらのすべてを、裕仁を中心とする皇室がからむ陰謀とした。

裕仁は、秘密裏に少数派に働きかけ、最初は日本を欧米との戦争に導き、そしてそれに敗北すると、その記録を隠蔽した。

ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。

「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。私は裕仁を子供の頃から存じている。彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L2/220216.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/578.html#c1

[近代史3] 昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由 中川隆
2. 中川隆[-8771] koaQ7Jey 2019年8月18日 09:39:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3971]

鬼塚英昭 昭和天皇による日米戦争策謀論


日本の真相1 明治天皇すりかえ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=igJ12gwRtvQ&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-

日本の真相2 仕組まれる戦争・皇室スキャンダル - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_YfXIhybq5U&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=2

日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=3

日本の真相4 こじつけの天皇無罪論 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=34HEcM9qvqc&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=4

日本の真相5 すべての戦争は八百長である - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kIXzkY8VtLU&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=5

日本の真相6 操り人形がリーダーをする日本 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=wlfyvOL-OVg&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=6

日本の真相7 超天才の悪魔 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1ToSe8A7_wE&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=7

日本の真相8 中曽根、正力工作員の原発 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=TuVjmXdufS4&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=8

日本の真相9 原発・使い捨て人形からの反乱 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=3glGABd52fk&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=9

偽天皇と田布施システム【The False Emperor】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BNLdWvMNSuU&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=10

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/578.html#c2

[近代史3] 昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由 中川隆
3. 中川隆[-8770] koaQ7Jey 2019年8月18日 09:40:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3972]

70年以上に亘って日本国民に対して絶対的に隠蔽され続けてきた2・26事件の真相、全面開示
太田龍(週刊日本新聞)
2008年1月25日 日本義塾公開講義


今日は「二・二六事件の真相の全体開示」ということをお話しします。ここにバーガミニの後編の32頁のコピーがあるでしょう。二・二六の青年将校達の決起趣意書がそのまま載せてあります。この決起趣意書というのは、バーガミニの本に説明してありますけど、青年将校の主な人達が自分で文章を作成したんでしょう。それを北一輝のところへ持っていったら、北一輝が文章に手を入れて、メリハリの効く語呂にしたと書いてあります。決起趣意書をお読みになったことありますか?

川島陸軍大臣が昭和天皇に謁見して天皇の前で決起趣意書を、青年将校はこういう趣旨で決起したようですと読み上げるわけですよ。読み上げたら裕仁がどう考えたかという事をバーガミニが書いています。

私が決起趣意書を読み上げてみます。


謹んで惟(おもんみ)るに我が神洲たるゆえんは、万世一系たる天皇陛下御統帥の下に、挙国一体生々化育(せいせいかいく)を遂げ、ついに八紘一宇を完うするの国体に存す。この国体の尊厳秀絶は、天祖肇国神武建国より明治維新を経てますます体制を整へ、今やまさに万方に向って開顕進展を遂ぐべきの秋なり。

しかるに頃來、遂に不逞凶悪の徒、簇出(そうしゅつ)して、私心我慾を恣(ほしいまま)にし、至尊絶対の尊厳を藐視(びょうし)し僭上(せんじょう)これ働き、万民の生々化育を阻害して塗炭の疾苦を呻吟(しんぎん)せしめ、したがって外侮外患(がいぶがいかん)、日を追うて激化す。

いわゆる元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は、この国体破壞の元凶なり、ロンドン軍縮条約ならびに教育総監更迭における統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭竊(せんせつ)を図りたる三月事件あるいは学匪、共匪、大逆教団等の、利害あい結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にて、その滔天(とうてん)の罪悪は流血憤怒、真に譬(たと)えがたきところなり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の噴騰、相沢中佐の閃発となる、まことに故なきにあらず。しかも幾度か頸血を濺ぎ来たって今なお、いささかも懺悔反省なく、しかも依然として私権自欲におって・・・苟且(こうしょ)(これが分かんないんですねぇ、苟も且つっていうんですね)偸安(とうあん)を事とせり。露支英米との間、一触即発して祖宗遺垂のこの神洲を一擲(いってき)破滅に堕せしむるは火を睹(み)るよりも明かなり。

内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮(ちゅうりく)し、稜威をさえぎり、御維新を阻止し来れる奸賊を芟除(さんじょ)するに非ずして皇謨(こうぼ)を一空せん。あたかも第一師団出動の大命煥発せられ、年来御維新翼贊を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衞戍(えいじゅ)の我等同志は、まさに万里征途に上らんとしてしかも顧みて内の亡状に憂心転々禁ずる能はず。

君側の奸臣、軍賊を斬所(ざんじょ)して、彼の中枢を粉碎するは、我等の任として能く爲すべし。臣子たり股肱たるの絶対道を、今にして尽くさずんば、破滅沈淪を飜すに由なし。ここに同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝腦をつくし、もって神洲赤子の微衷を献ぜんとす。皇祖皇宗の神霊、ねがわくば照覧冥助を垂れたまわんことを。

昭和十一年二月二十六日


っていうんですね。ここにバーガミニが説明してます。裕仁は黙ったままその趣意書に耳を傾けた、その激烈な言葉と軍人精神の勇敢な見せかけの背後に裕仁は彼の好戦的な全政策への完全な否認を読み取ることができた。ベールをかけた腹話的な言い方で反乱者たちは裕仁に請うてこれ以上の外征上の紛争の危険から手を引き、彼の勢力を内政改革と日本の伝統的な大和魂の保持に傾けるように求めていた、という風にバーガミニは説明しているんです。

バーガミニは、二・二六の決起趣意書と、それを裕仁が聞いてどう考えたかという事について、このように説明しているんですけど、こういう説明は、今まで日本人は全く聞いたことはないですよ。バーガミニの評価、説明は大変妥当な、非常に当たり前の説明だと私は思うんですね。

しかし、裕仁はそういう風に考えたけど、川島陸軍大臣、本庄侍従武官長、その他陸軍の中枢将官のほとんどは、こういう青年将校の決起に完全に同調、共鳴というか同情というか支持というか、そういう風な気分だったわけですね。そのことをバーガミニは事実に即してちゃんと説明しています。しかし、日本で今まで出版されている、公表されている、あるいはテレビ、その他等で言われている説明とは甚だしくギャップがあるわけですよ。それで、問題がどこにあるかをまず明確に設定しないとダメですよ。

これはバーガミニの英語の巻の上巻です。上巻と下巻があって、全一巻本というのもあります。日本の翻訳は1973年に出た、いいだもも訳の上下二巻、約1100頁少しなりますかね。バーガミニの本は、日本語で出たものとしてはもちろん、その前の英語で出たものとしても、明治以降の日本の歴史、とりわけ大正天皇以降、大正11年に裕仁が摂政になって以降、昭和天皇が日本の国家の中枢を握ったわけです。その昭和天皇の歴史の真相について、バーガミニの本が初めてそれを明らかに光を当てたんですよ。

この本がアメリカで出たら、凄い大ベストセラーになって色々な人が非常に高く評価した書評を書いたりしてるんです。ところが! これはよく熟読してくださいね。短い文章でしょう。83年の新版、新版というのは日本語の新書版が出るのでその序文を寄せたわけです。驚くべきことが書いてあります。


「天皇の陰謀が物書きとしての私の経歴をお終いにしてしまった」と言ってるんですよ。

これはビックリしませんか? 非常に私はビックリしましたよ、それを初めて知って。

この本が出た1971年以来、大ベストセラーになったんです。良く調べると、なんとこのバーガミニという人はアメリカの大学を出た後、ローズ奨学生になってオックスフォードに入学してます。ローズ奨学生のオックスフォード卒業生ですよ。これは欧米ではとてつもないエリートです。インサイダーの候補です。

そういう人が、自分は日本に非常に縁が深いので昭和天皇の歴史を中心とした日本史を書いてみようという訳で、アメリカの有力な権力層から日本の多くのインサイダーへの紹介状を貰って、インタビューしたりして、本もたくさん買って、京都に住んで、京都の学生・卒業生とかを助手にして、非常に詳しい調査をして、日本のインサイダー、元将軍、元なんとかという人たちのインタビューをしたりして書いた本ですよ。これは凄い本だということで前途洋々かと思うと、とんでもない。この本を出したおかげで、自分の物書きとしての経歴がおしまいになったって言ってるんです。

内輪に見積もっても200万〜500万ドル。今のドルではなくて1970年代だからもう少し価値があったんじゃないでしょうか。200万〜500万ドルが、私を押さえつけておく賄賂ないしは監視料として使われたって言うんですよ。奇妙奇天烈な話じゃないですか? いかなる手段によるにせよ、その勘定、つまりお金は日本政府からは出ていないって言うんです。じゃあ誰がそのお金を出したんですか?

「とりわけエドウィン・O・ライシャワーが、私を押しつぶす大きな蝿叩きを作るために手を貸した」って言うんですよ。ライシャワーは、気の赴くままに合衆国の大学に与える贈り物を持っていたし、日本での訓練期間中に彼に借りを作ったCIAの手の者達の中核の献身を受けていたって言うんです。

つまり、ライシャワーを中心とする、アメリカのまさしく権力エリートが、バーガーミニを著述家として葬り去るために全力を尽くしたわけです。賄賂ないし監視料というのは、バーガーミニの著述家としての活動の全てに渡って完全に抹殺するように米国の権力が総力を挙げて襲いかかったんですよ。奇妙奇天烈な話じゃあないですか?

本を5冊書いたけどね、出版社に持って行くと、すかさずその出版社に手がまわって、その賄賂ってわけで、これだけ金をやるからバーガーミニの本は出すな、どうのこうのって訳ですよ。アメリカの日本問題専門家は全部ライシャワーの息がかかってますからね。ライシャワーが命令して「あいつはもう一切相手にするな」って言うわけです。

そんな風にして、彼はあっという間に物書きから転落していくわけですよ。そうしてね、いまの私はマイクロコンピューターを売ったり、コンピューターのプログラムを作ったりすることで身を立てておりますって言うことになっちゃった。そして、彼は「私の愛国心は幻滅に帰した」、つまり、アメリカは自分の祖国と思っていたがとんでもない、自分が1冊の本を書いたが為に、アメリカという国家は自分に襲いかかって、自分を叩き潰そうと、もう叩き潰してしまった。愛国心ってのものは無くなったと、そう言ってますよ。


これは実に驚くべき序文ですよ。バーガーミニの本は、日本の天皇を中心とする体制にとっては、絶対あってはならない本だと考えるのは当然ですよ。ところが、日本ではなく、アメリカの国家権力そのものが、バーガーミニに襲いかかった。それはこの本が、米国つまりイルミナティにとって虎の尾を踏んだ、絶対隠蔽すべきタブー、隠蔽すべき秘密を、バーガーミニが白日の下にさらけ出してしまう。そういう悪い事をした、犯罪を犯したという評価ではないかと。従って、そういう扱いを彼は受けるわけですよ。

いいだももさんが翻訳者ですけど、いいだももさんがね、このバーガーミニの新版の序文を高く評価して、何かコメントしたかどうか、私は調べてないけど、少なくとも私は知りませんよ。

それで、アイリス・チャンという人が、すごく悪名をつけられてしまったTHE RAPE OF NANKING という本、アメリカで出たら日本の天皇教狂信者達が一斉に襲いかかって、あれはとてつもない出鱈目だインチキだ悪書だって言ってすごく悪評が充満して、一般の日本人はそういう悪評だけ耳に入っていて、本物の本は全く知らないっていうことが続いて、最近10年後に日本語訳が出ましたね。その日本語訳を読んだら、そのバーガーミニの本がいろいろ引用されてます。しかし、アイリス・チャンも、アメリカでも高名な偉い学者達はみんな、バーガーミニの本を否定してるっていう風に言ってるんです。だから、普通の人は理解不可能です。


何故そうなるのか? 日本の天皇教信者と日本の国家権力とその他、それに類する御用作者・御用学者・その他が、バーガーミニを否定するのは当然でしょう。しかし、なんでアメリカの権力がバーガーミニを葬り去ろうとするのですか。この本は全くのインチキだって否定するんですか。

それはまさしく、昭和天皇が単に日本的存在であるだけではなくて、イルミナティ、サタニスト世界権力によって育成された、極めて有能な重要な貴重な傀儡である、イルミナティ、サタニスト世界権力の道具として裕仁は機能したし、ずっとこの本が出た当時もそうだし、今に至るまでそうである、ということの明確な証拠であると私は思います。そう評価することで、バーガーミニの本の重要性と、今それを再評価して日本人がちゃんと勉強する、消化することを始めるべき緊急な必要性があることが証明されると思います。

裕仁は別のことを考えていた

それで、私が読み上げた「蹶起趣意書」については、侍従武官長も、陸軍大将も、他の軍事参議官(まだ予備役になっていない現役の陸軍大将の全部か一部が天皇の軍事顧問の役割を果たすよう設定された職務。軍事参議官会議とは昭和天皇の諮問に答える)も、将官クラスも、ごく少数の非常に突拍子もないへんてこりんな軍人以外の、当時の日本の軍人・将校のほとんどが、この蹶起趣意書にすごく共感したわけです。

当時の日本の人口の6〜7割は農民ですけど、その農民は、第一次大戦後の軍が入ってきて、それから昭和4年(1929年)の世界経済大恐慌の前後からずっと続いてる、日本の経済恐慌の結果、農村は生きることも、死ぬこともできない様な塗炭の苦しみを味わってるわけですよ。兵隊はそういうところから出てくるんですから、将校はそれをひしひしと感じてるわけですよ。だから、多かれ少なかれ趣意書に書かれていることは、天皇の重臣などを殺したというのは、私利私欲、私的目的の為ではなく、こういう趣旨を掲げて、何とか変えてもらいたいと決起した志を酌むべきではないか、少なくとも天皇はその志を酌んで名誉を与えてもらいたいというのが、当時の(海軍は別ですけど)陸軍の首脳層のほぼ全員一致の考えです。

それでも、裕仁は全然問題にしないわけです。全然別の考えなんです。

バーガミニは、二・二六が起きた後、裕仁は単身、厳密に言えば一人じゃないですね、裕仁のそばにいた木戸幸一は、そのころ内大臣府秘書官長だった。二・二六で内大臣の斉藤実が殺されたでしょう。そのあと(1940年から)木戸幸一が内大臣になった。しかし木戸幸一1人じゃない。裕仁(昭和天皇)の摂政時代から、「十一会」という私的な結社を主宰してるんですよ、昭和天皇の顧問団。しかし、バーガーミニは、昭和天皇は単独で自分の考えを強行突破して、あらゆる反対、異論を押し潰して、いくつもの政治決戦に最終的に勝利したと評価してます。

それは全く正当な評価です。日本人は、そんな話はいまだかつて聴いたことがないですからね。だからね、それは非常に衝撃的な評価ですけど、バーガミニの本を最初から読んでいくと、当然そうなるとわかる。

薩摩と長州の宮中掌握

二・二六事件の当事者、関係者をあげていくと11項目ぐらいになる。決起趣意書については先程お話しました。二・二六事件の主役として、表面に出てくるのは4つの勢力なんです。昭和天皇、陸軍の北進派、陸軍の南進派、決起青年将校団の4つです。しかし現象面として挙げていくと、そう言えるという事であって、その現象では物事の本質は見えてこない。本質は何か、さかのぼって突き詰めていくと、落合莞爾さんが吉薗(よしぞの)周蔵〔上原勇作陸軍元帥の私的特務をしていた人物〕の手記について、今ニューリーダーに連載していることの画期的な意味、今まで日本人が全く知らされていない、気がついていない、極めて重要な根源的な近代日本の状況を知る為の要素があります。私も落合さんの連載を読んでいて気がついたんですけど、そもそも孝明天皇を弑逆(暗殺)した主役が長州なんです。公家の一部(岩倉、三条など)が共同謀議して実行したんでしょう。ところが、薩摩が長州と共同歩調をとらないと、それはうまくいかないんですよ。薩摩が孝明天皇を弑逆して大室寅之祐を天皇にすり替えて、イルミナティの傀儡として全く偽者の天皇をでっちあげて、それを本物の天皇として日本人に見せかけて、日本人をずっと騙して、その真相を絶対に秘密にする、そういうシステムを作る上に、薩摩と長州がその二つの主役だった事を私は既に色々なところで言ってます。

しかし薩摩は西郷隆盛が主たる人物。西郷隆盛は、イルミナティのコントロール下で彼らの傀儡となって日本を支配するというような生き方には、究極的にNOと言ったんです。NOと言ったのでフリーメーソンがイルミナティに西郷隆盛の排除を命令したんです。長州と薩摩も彼らの傀儡に対して。それが西南戦争です。西郷さんと一緒に薩摩の武士の約半分は殺されました。残った半分はどうなったかというと、そのすぐ後に大久保も殺されて、その為に、薩摩の力が弱くなって長州のひとり天下のように思われるわけです。

ところが、実はそうでもないんですね。その事を落合さんがずっと調べていって、重要な事実を発見しました。薩摩は英国と戦争をやって、長州は4カ国と戦争をやって、敗北したら掌を返すようにイルミナティの家来になるわけですよ。薩摩も長州も。そして薩摩藩は有能な青年武士をフリーメーソンのグラバーの手引きで英国に留学させた。長州ファイブと英国では言うようですが、その中の一人が伊藤博文です。それから井上(馨)。伊藤と井上は明治時代ずっとペアで日本を支配する。その他、その長州ファイブが、フリーメイソンと、フリーメーソンを上回る直系の長州政権内の決定的なワンワールドの支持の元に動く。これについては加治将一という人の本に割と詳しく書いてある。ところが薩摩も長州とほとんど同時に何人かの青年武士をロンドンに留学させている。そのほうもワンワールド・フリーメーソンに会っただろうと加治って人も言ってます。

しかし、落合っていう人が言うのには、西郷軍(西郷さんの陣営)が完全に潰された後、薩摩は長州に対して弱体化したかというと、そうではないんですね。西郷、大久保、吉井友実〔よしい・ともざね、1828〜1891年。西郷、大久保と同等クラスで、薩摩藩のナンバー3。フランスに留学してワンワールド・フリーメイソンに加入し、明治初期から宮中に入っていた。西郷、大久保なき後、ワンワールドの代理人として宮中を掌握〕の3人が主要な指導的人物と言われていて、その吉井というのが明治になって留学してフリーメーソンに加盟したと落合さんは言ってる。陸軍に入るけど留学して、そして宮中に入る。つまり、ワンワールド、フリーメーソンは宮中を完全に掌握する事を重要な政治課題として設定したと私は思います。

それから、松方正義〔まつかた・まさよし、1835〜1924年。薩摩藩。金融を掌握〕は有名な財政家・金融家ですけど、これもワンワールドでロスチャイルド直系の子分だと言ってます。従って薩摩はワンワールドを通じて西郷さん一派が完全に消えた後も金融を押さえ、宮中を押さえる。そういう風にしてワンワールドは長州の陸軍、薩摩の金融・宮中の勢力が二本立て、両建てで日本をコントロールしたと、私が要約するとなります。

これは私は気がつかなかった。その後、高島鞆之助〔たかしま・とものすけ、1844〜1916年〕という長州(薩摩の言い間違え)の有望というか有能な武士が、陸軍中将になるけど、やはり宮中に入るんです。高島鞆之助もヨーロッパに留学してフリーメーソンに加盟したと言うんです。薩摩の吉井と高島が、普通の歴史には全く出てこないけど、長州の陸軍、官僚と並んで同時にワンワールド、フリーメーソンの日本支配の極めて重要な陣営として機能してる、という事なんです。

私がここで何を言いたいかと言うと、大室寅之祐を擦り替えて天皇にはした。当然、京都で継続してきた日本の朝廷、天皇の系統とはまるで別物ですけど、別物であるにも関わらず、継続した天皇家の正統であると日本人に思わせないといけません。これは非常に難しい仕事ですよ。代々ずっと続いた天皇の正統な継承者であるというふうに日本国民に思わせるように、パフォーマンスというか、フリというか、演技というか、そういう風に作ると同時に、裏のほうでは国民に全く知られないところで宮中はワンワールドの司令通り忠実に動くように演出しなければならない。これは途轍もない難しい仕事ですよ。そういう場に際したのが、吉井と高島。薩摩の非常に有力な武士団の実力者です。


という事を、上原勇作〔うえはら・ゆうさく、1856〜1933年。薩摩藩。山県有朋と同時代の陸軍大将。吉井、高島のひいきで出世。やはりワンワールド〕を調べていた落合莞爾が気がついたという訳なんですね。そういう風に見ると今問題になってる事が凄くよく解る。そうして宮中を握るでしょう。そうすると出てきた現象はどうなるかというと、皇族の男子は全員原則として軍人になるべしというような規則にするんです。軍というのは、陸軍か海軍かのどちらか。従ってバーガミニは、明治、大正、昭和と皇族の表をずっと作って、追って行くわけです。驚いた事に日本には皇族がどうなっているかについて詳しい情報は全くない。変な話だが、わざとそうしてる。そこを調べて行くと、皇族の男子の軍人というのが、陸軍軍人、海軍軍人、ものすごくたくさんいる。そんな事は孝明天皇までの日本の天皇の伝統には存在しないです。

明治天皇がそんな事を考え出して、こういう風にしようなんて事はあり得ない。ワンワールドの司令を受けた宮中を完全に支配する力を得た、吉井、高島、そういう薩摩の藩閥勢力によって宮中がそういう風に作り変えられていった訳ですよ。陸軍軍人、海軍軍人らの皇族は、当然の事ながら英国、フランス、プロシア(ドイツ)、その他ヨーロッパの王室、陸軍・海軍の軍人のシステムをそっくり同じ様なものを作るわけですよ。

大正天皇のクーデタ

大正天皇が明治11年に生まれ、昭和天皇が明治35年(1901年)に生まれ、教育を受ける頃には、宮中のワンワールド支配が濃密に丹念に入念に準備されていたわけです。その結果、どういう現象が起きたか。大正天皇が32歳で天皇に即位する。その時にバーガミニは大正天皇の失敗・未発に終わったクーデタについて書いてます。それはこの本の第2巻で、いいだもも訳には省略されてる部分。

いいだももの要訳では、昭和天皇の時代は昭和3、4年ぐらいから始まる。それまで大正天皇の時代、摂政になる時代、昭和天皇が即位して最初の2,3年。この時代の記述はいいだももの訳には省略されてる。ところが重要な事がたくさん書いてあり、それを追って行かないと話が結びつかないのに、カットされてます。

大正天皇の不発のクーデタなんて、私は日本人の書いたものでは読んだことがない。クーデタとは何を意味するか? 山縣有朋は当時の元老です。大正天皇の時代の元老では、西園寺公望、山縣有朋、大隈重信、主要なのはその3人ぐらいです。大正天皇が山縣有朋と衝突するというんです。衝突って何を意味するかというと、西洋式のナポレオンとかアレキサンドル大王とかいった人物が大正天皇の理想像になったと言うんです。つまり、大正天皇はそういうふうに日本を、国家を、改造する気なんですよ。明治憲法によって作られた議会制度は余計だっていうわけですよ、大正天皇は。そんなものは廃止して天皇の絶対独裁の国家体制にしたいって大正天皇は考えた訳です。それがクーデタです。明治憲法(大日本帝国憲法)の議会で予算が審議されるでしょ。議会が予算を否決すると困っちゃうんです。政治的な焦点は、予算について言えば、日露戦争やって日本は莫大な外債(借金)を背負ってヒーヒーするわけですよ。それで国力を養わなくちゃならないというのが国民、政治家の大多数の意見だけど、しかし、それとは全然逆の方向、つまり日本を西洋をモデルとした帝国として建設に向かって急速に前進すべきだ、その為には陸軍と海軍を増強しなければならない、そして、それに反対する議会ってのは邪魔な奴だ。こんなものは蹴散らかして天皇絶対の国家体制にすべしと大正天皇は考え、それが大正天皇のクーデタだというのです。山縣有朋は、そんなとんでもない事を言うなという訳です。大正天皇に。山縣有朋と大正天皇が正面衝突しかかり、その時点では山縣と長州閥の勢力が圧倒的に強いから、大正天皇は押さえつけられて未発に終わったと書いてある。

こんなことは私は日本人が書いたこれまでの歴史で読んだことがないです。そして、裕仁は大正天皇の不発に終わったクーデタを諦めないで実行しようとする訳です。それが要するに基本なんです。立花隆が『天皇と東大』という本を書いたでしょ。文芸春秋に連載して、いろいろ補足して厚い本を出した。東京帝大の憲法学の教授が二人いて、その一人の上杉慎吉は議会を撲滅せよと言うんですよ。上杉憲法学の根本的なアジェンダは「議会なんていうのは天皇を神聖化する日本の国体に全く反するものだから議会を一刻も早く撲滅せよ」というもの。そこから右翼的な組織が出来たりどうのこうのと立花さんは説明してますけど、それは現象を言ってるだけであって、上杉っていう学者の話じゃありませんよ。もっと根の深い話で、大正天皇が傀儡として議会は邪魔だって言い始めたんですから。邪魔だっていうのは、大正デモクラシーの時代にはとんでもないアナクロニズムで、問題外だと多くの人が思ったかもしれないけど、ところがそうはならないですよ。


昭和になってクーデタ、暗殺、その他、諸々わっと出てきて、二・二六を昭和天皇が完全に圧殺・抹殺した後は、文字通り議会は消えて、お前ら消えて無くなれってふうになって、大政翼賛会でね、陸軍にちょっとでも逆らうような政治家は暴力的に黙らせるというふうに、実現してしまう。イルミナティのワンワールドの意思が働かなければ、日本の純粋な国内の状況でそんな現象は起きないですよ。

ザビエル以来の日本全滅計画

しかしそういう事が何故要求されるのか? 私の『ユダヤの日本侵略450年の秘密』という本に書いてますが、ザビエルが日本に来て「日本はこの地上から抹殺されるべきだ」「日本人はこの地上で生きていてはならない民族だ」「これは我々にとって極めて危険な強力な敵になる可能性があるから一刻も早く一人残らず皆殺しだ」と、ザビエルはイルミナティ本部に申告しているんです。450年あまり、イルミナティの対日アジェンダはずっと継続してます。


家康が鎖国をして次にペリーがやってきたでしょ。ペリーがやってきたら、日本の内部から崩れて、孝明天皇が殺されて日本は既に仮死状態ですよ。神経麻痺してます。ゾンビ人間みたいなものですね。その後に出来た日本の天皇を中心とする支配階級はイルミナティの檻の中に入っている実験動物のネズミのようなものです。孝明天皇弑逆事件以降、主体的な意志を持つことは許されていないんです。

しかし、彼らが日本を完全に抹殺するには日本の独自の軍隊を完全に破壊しないとだめです。独自の武力を破壊して日本全土をイルミナティの軍隊が占領しないと、話は先に進まないです。それはなかなか難しいです。米国は太平洋の遥か向こうにいるでしょ、英国に至っては太平洋どころか延々と日本にやって来て英国が日本を占領する大軍隊を日本に派遣するなんてことは夢物語にもならないです。したがって英国は別のエージェントを使って日本を占領させないとだめでしょう。英国を本部とするイルミナティは、あれこれ謀略の限りを尽くしているわけですよ。

ペリーが来て日本はイルミナティの資本主義のルールの中に取り込まれた。それだけでは話は全然進まないですから、日本全土を占領して日本の陸軍も海軍も一兵も残さず一掃する、消してしまう。話は簡単だけど実行するのは難しいですよ。その為には日本を扇動して、西洋式の帝国主義になる、成り上がるという気持ちを起こさせ、その為に強大な軍隊が必要、陸軍も海軍も強くしなければということにしないといけない。そんな事をすると一般の日本人は汲々として生きていかれないような状況になります。当然ながら一般は日本人はそんな事は嫌だと言うでしょう。そんな事はヤダよと言わせないようにしないといけませんよ。そもそも議会というのが邪魔だとなります。

陸軍でも海軍でも良識的な優れた軍人はね、負けるに決まっている戦争はやらないです。そんな戦争はやるな、自分は反対だというでしょう。そういう反対する良識的な軍人は全部抹殺しないといけません。そしてイルミナティの命令どおり、最終的に日本は満州を占領して、中国全土を占領して、東南アジアも占領して、英国と戦争して、アメリカとも全面戦争して、ソ連とも全面戦争してと、そういうふうにするアジェンダというか、そういう軌跡というか、そういう方向に日本を突き進めないとだめですよ。

普通の日本人、日本の指導者でも政治家でも官僚でも陸軍の軍人でも海軍の軍人でも、多少でもまともな良識持っていれば、そんな事は自分は反対だって言うでしょうよ。そんな事やったら日本が全滅するのは子供だってわかる道理ですから、反対だって言いますよ。だがそんな事でイルミナティは諦めない。そこを何とかして謀略の限りを尽くし、良識的な官僚、政治家、知識人、陸軍軍人、海軍軍人を、みな追放して、イルミナティの挑発、プロパガンダ、謀略にほいほい乗ってくれるアホを日本のトップにして、全世界を敵にして百戦百敗の戦争に突っ込むようにもっていかないといけない。

そんな事は普通の国家体制では出来ませんよ。ほとんど全国民が嫌がることをやらせるには仕掛けが必要です。その仕掛けが絶対主義的天皇制度だった。天皇とは天照大御神から直系した現人神であり、日本の精神をすべて支配し、権力をすべて支配し、天皇の為に死ぬ事が最高の名誉であって、天皇に一言でも批判したり何か言うだけで特高警察がやって来て撃ち殺されても当然だという具合に日本の空気を持っていかないといけません。そういう仕掛けが二・二六の後、日本に完成したんですよ。

そういうふうに二・二六を見ないといけません。二・二六までは陸軍の将官の圧倒的多数は中国との戦争には反対です。当たり前です。最終的に日本はずるずる中国大陸に引きずり込まれて、昭和20年敗戦の時には、日本の陸軍は約100万人の軍を中国全土に占領軍として派遣した。100万の軍隊というのは口で言うのは簡単だけど途轍もない事ですよ。しかも、100万の陸軍の兵隊を中国戦線で維持しながら、さらに英国(英国がアジアに向ける国力は少しだが)と、モロに国力の半分を日本に向けるアメリカと、そういう戦争に向かって突入していく。気が狂ってなければこんな事はしません。普通の日本人であればこんな事はしません。しかしそれに反対すると天皇が出てくる訳です。天皇の命令に反すると直ちに死を意味する。殺されて何も言えないって具合になる。そういう仕掛けが完成したのが二・二六の後です。

二・二六、そして日支事変があって、その後どんどん戦争が拡大していくでしょ。それで予定通り日本は敗戦してイルミナティが日本全土を占領したんです。今に至るまで占領体制下にあります。占領してしまえば、日本は完全に籠の中の鳥、檻の中のネズミとして彼らがどうするのも自由自在。そうなってるでしょ。

根本的な当事者は裕仁だ

日本人には今に至るまでその歴史が一向に釈然としない。釈然としないから二・二六について非常に多くの人がいろんなことをあれこれ言うけどね、しかし一向に問題の真相、本丸に迫らないんですよ。鳥居民という人が『近衛文麿、黙して死す』という本を一昨年出しています。近衛文麿と木戸幸一が元宮中の中枢に近い二人の人物でしょ。近衛文麿は陸軍の一部(統制派)による中国に対する全面戦争には全く反対したんです。一方、木戸幸一は統制派の陸軍とともに陸軍による中国全土占領政策に舵を切るんです。にもかかわらず、大東亜戦争、東京裁判のあと、日本では近衛が悪玉で木戸が善玉になっている。非常におかしい。全くおかしな世論操作が行われているんじゃないかと、この人(鳥居民氏)は言った。


二・二六についても決起青年将校の趣旨が若干でも日本の国家に取り入れられれば、その後、日支事変、中国に対する戦争も開始しないし、その後の全面的な戦争とは全然別の路線を日本はとったはずだけど、その時点で昭和天皇に対して方針・政策を提案する決定的な立場にあった木戸幸一は、二・二六に対して即時徹底的に鎮圧すべきという方針を提起して、昭和天皇はすぐにそれに賛成して、そういうふうに進んでしまったっていうわけで。

近衞は全く別の方針だったけれど、近衞は全く排除されたという風なことを言ってます。だから木戸は二・二六の後の方針についても、それから日本が米国との戦争を回避するかという議論でも、近衞は全く反対したんですね。近衞は、日本は中国から陸軍を全面的に撤兵して、米国と交渉し直して、米国と戦争しないような方向に持っていくべきだと言ったけれども、木戸は陸軍中枢部の線に沿って、中国からの撤兵反対、アメリカとの戦争辞さず、そして実際にアメリカとの戦争というふうに持っていった主犯であるとこの人は言っている。

しかし日本人は、今更そういうことを言われても全然ピンと来ない。というか、今更そんなことを言ってもしょうがないんじゃないかということで終わりになっちゃうわけです。

木戸幸一じゃなくて根本的な当事者は昭和天皇なんです。鳥居って人はそのことには触れることはできない、そのことに触れるとそれはたちまち現代日本の体制を支配している絶対的なタブーと衝突して、自分の方がぺっちゃんこになるかもしれない、だからそういうことはしないというわけです。従って今まで昭和天皇を弾劾する、昭和天皇の政策を告発する、それを否定する、昭和天皇が反日本的な方針を強行したということについては一言も言えない、そういう呪縛が日本人を縛り続けているんですね。

どの識者にもイルミナティ(英・米・露という国家の枠を超えた存在、
自由主義・共産主義という思想の枠を超えた存在)が見えていない

バーガミニは、昭和初年以降の、満州事変以降の日本の戦争の主犯は、その主たる決定者は昭和天皇だという説を立てて、論証していく。だから昭和天皇の陰謀ってわけだ。日本ではいかなる実力者もいかなる人間も政治家も軍人も官僚も、昭和天皇の意思に異議を唱えることはできない。満州事変以降、日本の戦争期間中に総理大臣がたくさん替わっているでしょう。一年か二年ぐらい、ひょっとすると一年未満で辞めたりして、非常にたくさんの総理大臣が替わってます。そういう人たちが共同謀議をして一貫した日本の戦争拡大を遂行するなんてありえない。その方向の主犯、謀議の中心は昭和天皇なんです。昭和天皇は側近を通じてその政策を実行したと一応バーガミニは書いている。その(表面の)現象は書いてある。昭和天皇の背後に存在する勢力についてはバーガミニには分からないんですよ。だから本当にちゃんと調べて自分は解明した、昭和天皇の時代の日本の歴史の真相を解明したと思ったところが、それにアメリカのためにもすごく大きな仕事をした、みんな褒めてくれるよと思ったところが、たちまち背後から襲われて、なんだか訳のわからないうちに潰されちゃうんですよ。彼には見えないイルミナティのアジェンダの中に日本が設定され、日本が取り込まれていて、その結果いろんな現象が出て来るってことがバーガミニには分からない。

私は『ユダヤの日本占領計画』という本の中で、日支闘争計画について割と詳しく説明してます。渡部悌治先生の『ユダヤは日本に何をしたか』という本の中にも日支闘争計画については説明してあります。日支闘争計画というのは1918年の秋、モスクワで全ユダヤ会議の代表とボルシェビキ政権の代表と、イルミナティの代表が集まって日支闘争計画という長期計画を立てた。それは日本と中国を戦わせる。日本と中国の全面戦争に持っていく。その過程で共産主義が中国の中で主導権を取るように持っていく。そしてその次に日本に対してアメリカとの戦争、英国との戦争、最後に共産ソ連との戦争、に持っていく、そして最終的に中国も日本も同時に我々が支配する、そういう計画を立てたというんですね。それがロシア語の新聞に載っていたものを日本の諜報機関が手に入れて、東京に報告したけど、その意味が全然わからないままになっていると渡部先生は言ってます。渡部悌治先生が仰るには、その問題の情報が載っているロシア語の新聞は、1918年の秋に行われたのですからそのあとなんでしょうね、国会図書館にありますよとおっしゃっていました。あいにく私はそれを調べてないんですけど、国会図書館にまだ保存されているなら、ロシア語のわかる人が見れば出てくるでしょう。


それで日支闘争計画というのは、ボルシェビキ共産政権、コミンテルン、共産主義の勢力だけじゃなくて、全世界のユダヤ人組織の代表が入ってる。それからイルミナティの代表が入ってると説明されています。日支闘争計画というのは、ソ連共産主義政権の単独のプログラムではない。全世界のユダヤ人組織、イルミナティの世界組織の計画でもある。真相に迫ろうとする人は、そのところで止まってしまっているんです。

二・二六事件研究家の山口富永(ひさなが)氏。國民新聞という右翼の月刊新聞をずっと購読してて、この山口という人の文章を読んだら、面白いことを言ってると思ったんですけど、最近バーガーミ二の本を読んだら、改めてこの人を注目しなくちゃと思ったんです。

平成2年に出版された『二・二六事件の偽史を撃つ』を最近山口さんから送って頂いた。山口さんは1924年生まれですから、戦争末期軍隊に徴集されたんですね。少年時代、中学生の頃からでしょうか、真崎甚三郎大将と交流があって手紙のやりとりをして、真崎大将と皇道派の志と方針に全面的に共鳴した人なんです。たいていの人は少年時代の話はしばらく経つと忘れちゃって、捨てちゃってサヨナラするのが普通ですけど、この人は84歳に至るまで真剣にそのことを追求しています。


これは最近、連載されたものです。皇道派の真崎大将は、日本の国力相応の軍備強化(口先だけの外交は不可)、戦争の拡大は絶対に反対という人ですからね。真崎大将はイルミナティからすれば、大変邪魔なんです。無自覚的にイルミナティのエージェントにならされた統制派の人たちは、裕仁の直系の軍人でもあるんですよ。統制派の最たる者が有名な永田鉄山少将で、相沢中佐に陸軍省の中で惨殺された(1935年)。永田鉄山がイルミナティの道具として使われた最も代表的な軍人でしょう。

イルミナティにとって真崎は邪魔だから排除しようとした。二・二六事件を奇貨(きっかけ)にして、二・二六事件の共犯者だと称して(真崎を)逮捕して調べたんですけど、陸軍の司法部、陸軍の軍事裁判は無罪の判決を下したんです。もともと何の関係もないですから。皇道派の真崎大将は、イルミナティが日本の完全抹殺に向かって決定的に歩を進めようとするときに、日本の陸軍の良識的な部分として、しかも陸軍の軍人から絶大な信頼を得ていた。そういう人物の排除が、至上命令だったことがよくわかります。

したがって、私は、昭和天皇が二・二六事件の主犯である、日本を滅亡に追い込んだ国賊である、日本の歴史上もっとも顕著なもっとも極悪の国賊である、という風に昭和天皇・裕仁にレッテルを貼り付ける必要があると思います。そういう風に価値観を変えないとダメです。

明治天皇と昭和天皇は全然異質なんです。明治天皇は15歳までは、大室寅之祐、普通の日本人ですからね。傀儡とされたけども、薩長の藩閥の傀儡なんです。それを通じてイルミナティの傀儡に位置づけられたけど、少年時代は日本人として教育されているから、そう簡単には動かされないんですよ。西南戦争で、大久保・木戸一派が、とにかく「西郷を殺せ」っていうけど、明治天皇は本心では絶対反対なんですよ。大久保と木戸は、明治天皇に、西南戦争の最前線に立って、大本営を広島辺りに持っていって、天皇の威光でとせっついたけれども、明治天皇はそれを拒否して、宮中に篭ったまま外に出てこない。これは歴史に残ってます。明治天皇は反対なんですよ。

西南戦争で西郷さんが死んだ後、木戸が途中で病死、大久保は明治11年に殺され、岩倉は明治16年に病死した。その後、明治天皇は西郷隆盛の名誉を回復しろと命令し、それは実行されたんです。「西郷隆盛の遺族はどうしてる?」と明治天皇が尋ねて、調べたら、妻子は山中に隠れてひっそりしていたことがわかって、どうこうとなるわけです。一刻も早く名誉を回復させよと、明治天皇が言うわけです。次に日清戦争を起こすでしょ。明治天皇は日清戦争は反対なんです。しかし、薩長藩閥政権はイルミナティの傀儡だから、明治天皇がなんと言おうとも問題にしないんですよ。明治天皇の意思に反して、日本は日清戦争に突っ込んだわけですよ。

私が『長州の天皇征伐』という本を書いて出すときに、出版社が「明治天皇国賊論」という案をいってきたんですが、明治天皇を国賊と言い切るわけにもいかないんですよ。しかし、昭和天皇は、明々白々、歴然たる日本史上最悪の売国奴です。日本全土を今に至るまでイルミナティの占領下において、日本はその命令通り日銀の利子をゼロに近づけて十何年やっているんですからね。そのお金をユダヤ・アメリカ・イルミナティがただ持っていって盗っていることに、日本の国家は何も言えない。日本の占領はますます強化されてますよ。そういう状態にしろと言われ、その通りに実行したのが裕仁なんですよ。裕仁は日本史上極悪の売国奴だと私は考えてます。裕仁については「国賊・昭和天皇」と言うべき時だと思います。そういう風に日本人の価値観を変えないとだめです。明治天皇は違いますよ。昭和天皇はイルミナティの傀儡として百点満点というわけです。


二・二六でイルミナティの傀儡としての昭和天皇を独裁者としておくことが必要だった。そうしないと、百戦百敗、完全に惨敗して、日本が滅亡することが決まっているような、中国に対する戦争、中国に対する全面戦争はやがて、松岡洋右が当時言ったように、必ず米国との戦争に日本は引っ張り込まれ、最終的にソ連との戦争となる。日本は全世界を敵にして、滅亡するしかない。松岡洋右はそう言ってます。松岡は外務大臣で、昭和天皇が大嫌いなんです。裕仁は松岡についてあれこれ悪態をついてます。

日本を全世界に対する無謀な、惨敗して滅亡するしかない状況に持っていくために、裕仁は使われ、その通りに裕仁は演技したんですよ。これを売国奴と言わずして何と言うんですか? 二・二六事件は、それを象徴的に表しているんです。陸軍の将官が全員、決起将校の心情、政策、志をちゃんと評価すべきだと言ったんです。しかし、昭和天皇はそんなものは問題外だと排除した。バーガミニはそれを「政治戦に裕仁は勝利した」って言ってるんですけど、その通りです。

日本の蘇生には真崎大将の名誉回復が絶対必要条件

二・二六事件についてそう考えると、真崎甚三郎大将の遺志が、今、非常に重要になっている。日本人が、真崎大将の名誉回復をすることが、滅亡寸前の日本の再生と蘇生のために絶対必要条件だと、私は、山口さんの本を読んで気が付いたんです。

この山口さんが、昭和19年に陸軍に徴集されて入隊する時に、真崎大将を訪問した。山口さんが、真崎大将に「今、日本に天皇陛下はおられるのですか?」って聞いたそうです。そしたら真崎大将は「二・二六の将校もそれを嘆いて死んでいった」と言われたと。昭和19年のことです。山口さんは皇道派の志に同調してたから、「今の天皇というのはなんだ?」「あれは本物の天皇なのか?」「今は日本に天皇はおられるんですか?」という疑問が出てきたわけですよ。本当にその通りですよ。実際、銃殺刑に処せられる青年将校十何名の中には、天皇を公で批判した人もいるし、批判しない人もいるけど、と言ってますね。山口さんは非常に重要なことにちゃんと迫ってます。しかし、「裕仁は国賊だ、売国奴だ」とはっきり言い切るのは、日本人にとっては難しいです。左翼はイルミナティの虎の威を借りて「昭和天皇は戦犯だ」とわめくんです。彼らはイルミナティの手先ですからね。イルミナティの虎の威を借りてあれこれ言っているだけのくだらない人達です。左翼そのものがイルミナティのエージェントとして日本をイルミナティに売る売国奴ですから、こういう人たちは問題外。日本人の立場として日本民族の立場から見て昭和天皇とは一体なんだ? そのことに今までで一番接近しているのは、二・二六事件に全然関係ないのに逮捕された皇道派の首領である真崎大将ですね。

真崎大将が「東條ごときはものの数でもないが、自分に対する圧迫が宮中からずっと来た、そのことが一番難しい、苦しいところだった」という趣旨のことを言ったと書いてあります。宮中ってなんですか? 木戸内大臣は天皇の番頭であって、権力そのものじゃないです。宮中ってのは昭和天皇でしょ。しかし真崎大将も昭和天皇に対してストレートにそれを告発する、それを批評することが心理的にできないんですよ。

それを超えることができなければ日本の民族はもう終わりですよ、と私は思います。つまり、イルミナティは孝明天皇を弑逆させて、その辺りに傀儡を作って、明治天皇はなかなかイルミナティからすれば素直じゃないでしょ。大正天皇は明治11年生まれですから、それを教育する宮中はワンワールドの手先。完全に支配してるんだからね。昭和天皇に至っては明治34年生まれですから、ワンワールドによる宮中の支配は完璧になってます。裕仁はイルミナティの純粋培養の作品です。イルミナティの傀儡として終始し、摂政の時代も、昭和前期も、占領中も、一応講和回復後も、イルミナティの言う通り期待通り百点満点と評価していい存在だった。

そうして日本は敗戦、講和回復しても昭和天皇の言うとおりに、ずっと占領下にあります。その件について多少真相に迫った学者などが2〜3名存在します。その学者の研究によれば、朝鮮戦争が起きて米国政府が日本との講和条約交渉を始める。その時に吉田茂首相は常識として当たり前だけど、講和が締結すれば戦争は終結だから米軍は全部撤退する、それが当然と思って進めていた。ところがなんと昭和天皇が吉田首相の頭越しに、吉田首相の知らないところで裏取引、秘密交渉をやるわけですよ。秘密交渉の相手はダレスです。ダレスは共和党系だけど、民主党政権でも有力な外交顧問になってた。対日講和条約はダレスが主任となった。ダレスと言うのは1920年代からロックフェラー財団の最有力者で、イルミナティのコンコンチキですよ。そういう人物と裏取引、直取引して昭和天皇は吉田茂の方針を否定して、講和条約締結後も無期限に日本は米軍に軍事基地を提供する、というよりも米軍に無期限に日本に駐留してもらいたい、と言うわけです。沖縄に至っては50年くらい、事実上半永久的に米国の領土として日本は認める考えがあるということをダレスに対して昭和天皇は言うわけですよ。

これは何なんですか?

これを売国奴と言わずして何というんですか?

日本人が正式に選んだ吉田茂首相とその内閣、吉田茂は常識として戦争終結したら米軍は日本全土から撤退する、そういう当然の前提のもとに講和交渉を始めたんです。当たり前のことじゃないですか。それを昭和天皇が横やりを出して、ダメだというわけです。率直に言えば、日本は米国に無期限に占領してもらいたいと言うわけです。

これは何なんですか? その結果、今のようになってんですよ。これは何なんですか?

しかしこれは昭和天皇の日本に対する無数の裏切りの一つに過ぎません。しかしながら日本人はそのことを公然と報道し、論評し、批評する自由を全く与えられてないんです。というよりは、日本人がその言論の自由を行使する気力を奪われているんです。これは日本が刻々急速に滅亡していく、そういう絶対的な心理的条件以外の何ものでもないと私は思います。しかしそうなった歴史的背景は何なのか? そういうことを日本人には真剣に考える必要があります。

天皇=イルミナティの傀儡、として歴史の再検証を

別の話になるんですけど、日本でユダヤ・フリーメーソン批判を最初にやってずっと最後まで主要な指導的な役割を果たした、四王天延孝陸軍中将〔1879〜1962年〕は、士官学校、陸軍大学を出た日本の陸軍のエリートコースの一人です。そして第一次世界大戦中フランスに観戦武官として派遣されていたんですね。そうしているうちにフランス人にいろいろ友人ができて、その友人から「この戦争はお前、ユダヤが始めた、主体はユダヤだということを知っているか?」って言われるんです。それを聞き逃す人もいるかもしれないけど、四王天さんは真剣に受け止めて研究をはじめるわけです。一体これは何だ? 今は違うでしょうけど、その頃のフランスには非常にたくさんのユダヤ・フリーメーソンに批判的な文書・言論があったんです。そういうものをたくさん集めて、真剣に研究調査していくわけです。

第一次大戦中の観戦武官として派遣されるのは、紛れもない軍のエリートコースですよ。第一次大戦以降日本はシベリア出兵するんですけど、四王天さんは満州の北部に陸軍の諜報機関の事務所を作って、反ボルシェビキ、反共産主義的ロシア人と接触していろいろ情報を得たり工作したりするんです。そういうことを通じてボルシェビキ共産革命が国際ユダヤによって計画され実行されたという話を聞いて、たくさん情報を集める。そうして四王天さんは最も早い時期から日本でユダヤ・フリーメーソンに対する批判、思想戦、それに対する対策、そういうものをずっとやってたわけです。

国際連盟ができると、日本はその頃の世界の主要5カ国の一つになるんですね。その主要5カ国が国際連盟の軍事委員会を作る。日本の陸軍はその国際連盟の軍事委員会の日本軍の代表として四王天さんを派遣するんですよ、ジュネーブに行きます。その頃、陸軍少将になってるんじゃないでしょうか。そういうコースは、軍のエリート・コースですよ。


ところが、ジュネーブから帰任すると、すごく露骨に左遷されるんです。名古屋師団付といっても特別な仕事は何もない、完全な閑職、クビ寸前の地位に置かれる。それでも、四王天さんは日本全国を奔走して、一般の日本人に対して、ユダヤ・フリーメーソンの危険を警告する講演会をたくさんやっているんです。そしたら、上原勇作元帥がじきじきにやってきて、「お前はユダヤ問題なんていうくだらないことはもうやめろ」と言うんだって。「いや、それはできません」と言ったら、たちまちのうちに四王天さんは、陸軍退役ですよ。陸軍からクビです。だから、上原勇作って言う人は何かって思うでしょう。

四王天さんは、昭和16年、大東亜戦争が始まる年に有名な『猶太(ユダヤ)思想及運動』という本を出したんです。その本の序文のなかで、四王天さんは、以前はユダヤ問題を自分がやっていくと、上のほうからやめさせる圧力が非常に強くかかってきて、最近はその頃に比べればずいぶん違ってきた、そんなことを書いていますよ。一番上ってどこかって言ったら、天皇と宮中以外にないですよ。日本のシステムでは。

落合莞爾(かんじ)さんの話では、上原勇作はフランスに留学中にフリーメーソンに加入している。上原元帥は明確なワン・ワールド、フリーメーソンだと言っています。従って、日本では、陸軍・海軍・財界・その他、明治以降の中枢部に、ワン・ワールド、フリーメーソンの指揮系統がずっと機能している、機能していたと見ることができます。

渡部悌治先生は『ユダヤは日本に何をしたか』のなかで、二・二六も背後では、ユダヤ国際資本が操っていたと言って、あまり詳述してないですけど、そう言っています。従って私たちは、地球を支配している、ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティといった勢力をちゃんと確認して、明確に意識して、デーヴィッド・アイクは『グローバル・コンスピラシー』という本を出してますが、そういう枠組みのなかで、もう一度日本の歴史を見直すことが必要です。グローバル・コンスピラシーという大きな枠組みのなかで、孝明天皇弑逆と、それ以降イルミナティの傀儡として作られた歴代天皇、こういうものを批判的、客観的、詳細に検証していく精神的・心理的な力が必要です。


今の日本では、天皇をあれこれ批判したりすること自体が絶対禁止されている。別に法律で禁止されているわけではないけど、自分の内心で押さえつけている。あるいはイルミナティの有力な御用機関として、右翼と称する反日本的な売国奴集団が暴力で脅迫する、そういうことを通じて、発言・言論を抑えてるんです。しかし私は、その精神的呪縛を断ち切らないと日本は完全に滅亡していくだけだと思います。

「今、日本に天皇はおられるのでしょうか?」

私は山口富永(ひさなが)さんを國民新聞で読んでたんですけど、そういうことに最近気がついて、ちゃんとやることにしようと思って連絡しました。この本は平成2年に国民出版社から出てもう絶版で、国民出版社には在庫はなくて、山口さんの手元に若干在庫はあるそうですから、私がほぼ全部50冊くらい買取ることにしたんです。だから、是非皆さん読んで頂きたい。山口さんは、昭和19年、軍隊に入るという時に、「今日本に天皇はおられるのでしょうか?」っていう大胆な質問を真崎大将にしたというんですから、この人の心はちゃんとしていますよ。だから六十数年経った現在でも、しっかりした文章を書いておられるんでしょう。しかしこの人も、世界のイルミナティ・フリーメーソンの陰謀、グローバル・コンスピラシーの存在にはまだ気がついておられないんです。

でも、それは私達がちゃんとやっていく事であって、この人が成し遂げられた仕事は評価していく必要がある。それから、真崎大将の名誉を復権することが絶対必要条件だと私は思います。真崎大将も、昭和天皇がおかしいんじゃないかと内心確信されたじゃないかというふうに推測するんです。しかし、それを言葉に出して言うことは出来ないんですよ。だから、東條ごときは、せいぜい少将どまりの馬車引きくらいが適当な男で、問題視しない。しかし「宮中」が問題なんです。「宮中」とは裕仁のこと。それを何とかしないと、日本はどうにもならないんじゃないか?ということを真崎大将ははっきり認識していたと私は思います。

山口さんが昭和19年に軍隊に入る時に「今日本に天皇はおられるのでしょうか?」と聞くって事は、天皇はいないんじゃないかという気持ちがないと、そういう質問は出てこない。いや、昭和天皇と称する者はいったい何だ?となるでしょう。内心、心の奥にはそういう失望があるわけですよ。そういう必然的な思考の過程、行動の過程として、私がそろそろ問題を前面に押し出さなければならないと思っています。

二・二六事件については、完全に真相が隠蔽されているのみならず、Disinformation(偽情報)が日本人に徹底的に刷り込まれてます。それを転覆するには我々の価値観を変える必要があります。真崎大将の名誉回復は、とっかかりとして重要であり、意味があると思います。

鳥居民という人の本を、まともに読んだことがないけど、この本はざっと読んだ。そしたら木戸幸一を一所懸命叩いてるわけですよ。今更木戸幸一をぶっ叩いてどうなるんですか? 東京裁判で終身刑、その後釈放されて昭和天皇に即優遇されて頭をなでられた木戸幸一を叩いても何も生まれない。この人はすごく臆病な人ですよ〔為清註:臆病だからこそ慎重・入念に策謀するわけで、木戸という人物は決して侮れないと思う〕。臆病というのが今の日本民族にとって一番危険な心理なんですよ。臆病を克服しないと日本はもう生き延びる事も蘇生することも出来ないです。臆病、恐怖を超えるってことをデーヴィッド・アイクは一所懸命言ってます。李洪志の法輪功でも言ってますね。恐怖を超えるには大変高い心理的、精神的次元が要求されます。恐怖を超えるということの意味は中々一筋縄ではないですね。その話はまた別にしましょう。

私は二・二六事件について、初めて本格的に、日本人が真相に迫る動きを始めないといけないと考えてます。私の話を一応終わりにして、皆さんの質問を紙に書いて頂いても口頭でもいいですけど、ちょっと休憩して質問を受けます。何枚か重要な文章のコピーを配りましたので、よくお読みください。

近衛上奏文を無視した裕仁

それでは私の話を続けますね。

日本の国家の中枢部は天皇ですね。中枢に一番近いのは近衛公爵と木戸幸一内大臣。そして木戸と近衛の対立については少し言われてることがありますけど、この鳥居さんの本で比較的詳しく説明されている。しかし鳥居さんの著述家としての立場は大変臆病で、私はあまり感心しないです。

山口富永さんが国民新聞の一面欄に連載物語でいろいろ書いている。昭和19年(20年の誤り)の初め、有名な「近衛上奏文」というのがあるでしょう。近衛文麿が昭和天皇に対して上奏文を提出したって言うんです。その上奏文の筆者は岩淵辰雄という政治評論家だと山口さんは言っています。岩淵辰雄って名前、聞いたことありませんか? この人は戦前、戦時中、戦争後しばらくの間、非常に活躍した重要な政治評論家です。岩淵さんは、真崎大将、皇道派に近い立場の評論家なんです。

それで、近衛文麿が昭和20年の初めに昭和天皇に提出した上奏文の作者は岩淵辰雄であると言ってます。岩淵辰雄は近衛さんを中心にして終戦工作をやったと言うんです。終戦工作とは、単なる評論活動ではなく、岩淵さんと近衛公爵を中心とするグループは、昭和天皇を説得して真崎大将を陸軍大臣にする考えだった。小畑敏四郎というのは皇道派で、退けられていた人です。陸軍中将で予備役になったのではないでしょうか。その小畑敏四郎中将を参謀総長、そして近衛さんを首相って訳です。

そういう体制で日本の国策を完全に一変させる方針を立てたと山口さんは説明してます。もしもそういう構想が実現した場合には、真崎大将は皇道派の総帥として中国との全面戦争にも米英の戦争にも絶対反対の立場ですから、なすべきじゃない戦争を実行した陸海軍(特に陸軍)の主要な指導者ら戦争責任者を何百人も一斉に逮捕して裁判にかけて、日本の国策・外交方針を完全に一変する、そして中国から撤退して米英と講和交渉する、という方針を立てていたと書いてます。

その一環として岩淵辰雄が書いた近衛さんの上奏文を天皇に提出したけれど、天皇はぜんぜん相手にしない。そして東條内閣、憲兵隊の操作を通じて、そうした謀略をした連中を一斉に逮捕する。その逮捕した中に吉田茂も入ってたんじゃないですか。で、この構想は実現しなかったと言ってます。これは東條がどうこうという話ではないです。首謀者は昭和天皇ですから。昭和天皇に上奏文を出してもお話にならないです。だけど、何もしないでいる訳にはいかないから、そういう計画を立てて動いたということでしょう。しかし、その計画にとって決定的な障害物は昭和天皇自身ですから、それは無意味です。

近衛上奏文はその時点で東條政権の憲兵隊を通じて弾圧して、近衛上奏文そのものが見えないように、無いことにされてしまったんじゃないですか。だから日本人は未だに近衛公爵の工作とか背景とか、その構想とか上奏文そのものとか、普通の日本人は知りません。近衛上奏文という言葉はチラッと目についた人もいるかもしれませんけど、普通の日本人は今何も知りません。

しかしそういう事が万が一実現され、真崎陸軍大臣という政権が実現されたとしたら・・・。小畑敏四郎という人は色々因縁があるんですよ。バーガミニは、1920年(大正9年)、ドイツのバーデンバーデンという温泉地でヨーロッパ在勤の陸軍の少佐クラスの将校が集まって国家改造計画を立てたっていう訳です。有名な話です。その中心人物は永田鉄山(当時は少佐)。小畑敏四郎は、そのバーデンバーデンの三羽烏(永田と小畑ともう一人)の一人です。小畑敏四郎のほうは、昭和になるにつれて、中国に対する戦争、中国全土を占領してさらに南進するという基本的な国策に反対の立場だった。だから永田鉄山、東條とは反対の立場だった。したがって、昭和10年前後、小畑敏四郎は中将で退けられて失脚、というか排除された訳です。

それで小畑敏四郎を参謀総長っていう話が出てくる。そういう体制だったら、真崎大将が、統制派、日本を中国、全世界との戦争に引きずり込んだ主要な責任者を全員逮捕して裁判にかけ、一掃するだろうと書いてあります。そうして日本が国家体制・基本政策・国策・外交政策・戦争政策を完全に一変する、そして中国から全面撤兵して蒋介石と講和することを目標に立てた訳です。

そうなると、戦争を実行してきた東條たち統制派の軍人にとっては自滅ですから、絶対に抵抗して排除する、芽を摘むという行動をとるでしょう。東條の憲兵隊は当時はちゃんと生きて働いているから忽ち摘発されて潰された訳です。

「軍部に操られた平和主義者の天皇」というイメージ作り

しかし、昭和天皇とその側近はそれとは全く別な形で米英との平和交渉に入っていく。そのやり方については鬼塚さんが『日本の一番醜い日』という本の中で詳しく書いてます。つまり昭和20年8月15日、昭和天皇はラジオ放送で「敗戦」といった放送をする。その時にまったく偽装の対天皇、対日本政府のクーデタを演出して、危ないところで昭和天皇の放送が実現したという話を作っているけど、それは裕仁と、三笠宮が主たる助手になって、でっち上げた話。そのクーデタによって、昭和天皇は、昭和初年来の戦争また戦争、全世界を敵にして日本が全滅する戦争を推進した軍国主義者の姿から、平和と民主主義の人、連合国の忠実なエージェントへと、一夜の内に変身する。そうした目的の偽のクーデタを実現し、連合国とは裏取引をして、昭和天皇は戦争犯罪から免責されて、占領軍の協力者として温存・保護される、という具合にひょいと変わる事を目的とした偽のクーデタを実行する訳です。それが裕仁のやり方です。


裕仁は、皇道派を復権させると自分の身に火の粉が降りかかる、自分の身すらやばい可能性が大であるし、名誉も何もおかしくなるから、東條を使って完全に消した。近衛さんを中心とする皇道派を復権させて日本が全面的に戦争を停止し、中国から自発的に撤兵して蒋介石政権と講和して、という方向に転換するのを阻止した訳です。

もしも近衛・真崎のラインで日本が方向転換すれば、敗戦後の日本は今のような状況にはなってない事は確実です。すべてを失い、民族の魂を失い、どんどん堕落して滅亡に転落していく方向になってないですよ。しかし裕仁はそこでも明確に日本民族を裏切ったんですよ。日本民族をイルミナティに売り渡した。売り渡した事によって裕仁と一族の身の安全を担保し、保障してもらった訳です。こうして裕仁と一族は日本を裏切って裏切り続けている。その裏切りが日本民族によって完全に暴露され裁かれない限り、決着がつかない限り、日本民族はイルミナティの、天皇という傀儡を使った精神的呪縛に掛けられたまま、まあ、死んでいくしかないですね。今でも日本は精神的にはゾンビ人間です。日本民族は自分の精神を失ってますからね。近衛さんの動きが実現されればそうはなってないでしょう。近衛さんが最後のところで日本の貴族の根性、やる気、勇気を表明しようとした事は評価できるんじゃないですか。

鳥居民という人の本は、私が申し上げたレベルから見ると低い次元で現象をあれこれ言ってるだけです。その程度の話でも、今の日本人につぎ込まれている戦争と敗戦のプロセスに関するデマ情報と比べれば遥かにマシでしょう。

近衛さんが皇道派寄りだったこと、皇道派に同情・同調的だったことは、歴史資料にも少し出てきますよ。それをさらに突き詰めて研究する、考える、そういう事は全くなされてない。なされてないというか、それを突き詰めるとただちに裕仁が標的になりますから、その遥か手前で止まってしまうんです。それを先へ進めないといけないんですよ、私達は。そのために私達に手がかりとして与えられているのは「真崎大将」なんです。

皇道派の荒木貞夫がワンワールドのエージェント? 話は一層複雑に

田崎末松という人の真崎大将の評伝はかなりマシです。皇道派でも荒木大将っているでしょ。荒木大将は皇道派のNO.1、代表と当時言われていた。ところが荒木大将というのは、大変危なっかしいというか、奇妙というか、いかがわしい存在なんですよ。この人はずっと陸軍大臣をやってて、二・二六後も処罰されることもなく、昭和天皇に追放されることもなく、戦時中大臣をやった事もあるんじゃないでしょうか。


私は荒木大将とは非常に奇妙な人物だけど、何だろうと思ったんです。落合莞爾の「ニューリーダー」の連載を読むと、この人が上原勇作元帥の後継者に指名されたとあるんですよ。これは非常に奇妙です。上原勇作はれっきとしたフリーメイソン、ワンワールドのエージェントですよ、日本の軍の中で。単なる薩摩派閥でもないです。そうして上原元帥は全く目に見えない秘密の特殊工作をやったということですが、その後継者に荒木大将が任命されたというのはとても奇妙に思えるでしょ。彼が皇道派というのは辻褄が合いません。上原勇作の後継者という事は荒木大将もワンワールドの紐がついてる事を意味します。

真崎大将にはそういう事が全くない。山口さんの国民新聞の連載の中で、戦時中に英国のスパイとして逮捕され、ビルから投身自殺したコックスという人がいます。そのコックスを警察が取り調べたときの話が色々あるみたいですけど、そのコックスという英国のスパイが自供して、「われわれは日本の陸軍の主要な指導者、軍人を全て接近・工作して取り込んだ」と言うんです。しかし、「真崎大将だけは、全く取り付く島がない、工作する事が出来なかった」と供述したという。幕末から明治初年、フリーメーソンが薩長の維新政権の主要人物を全部取り込んで何らかの形で紐をつけたけど、西郷隆盛だけは頑としてフリーメーソンの誘いにも工作にも応じなかった。それでフリーメーソンは西郷隆盛の排除を指示したという事が「月刊ユダヤ研究」に載ってます。そのことを想起しましたね。真崎大将という人は、現代日本において本当に重要な人物なんです。

「わからない奴はわからないんだ。ほっとけ」

非常に重要な日本民族の指導者であり、指導者たるべきところを排除された真崎大将について、山口さんが言うには、二・二六事件の前から、敗戦後、現在に至るまで、一貫して真崎大将についての偽情報、誹謗中傷、全くの嘘の情報、デマ情報がまかり通っている。その偽情報を振りまいてる主要人物、ジャーナリストの代表格が、半藤一利とか、ハタ何とか(秦郁彦)とか、年中マスコミに出てくる、昭和史についてくだらない話、偽情報を振りまいてる作家ですよ。体制側で持て囃されてる人達。こういう人達を通じて、真崎大将と皇道派についての偽情報をばら撒いてる主要勢力は、左翼だと言ってます。左翼ということは朝日新聞と岩波書店ですね。こういう連中はなぜ皇道派の悪口を言わなければならないのか? 大変興味のあるところでしょ。なぜ左翼、岩波・朝日は、皇道派の悪口を言うの? 全くの嘘八百を並べ立てて、皇道派・真崎大将を貶めてどうしようと? どういう理由でそういう事をするんですか? それは大きな事なんですよ。左翼は決して信用してはなりません。もっともらしい事を言っても、左翼はイルミナティの紐付きですからね。心を許してはいけませんよ、左翼には。リベラル派もね。

山口さんは、少年時代から真崎大将が亡くなるまで親しく交流して、真崎大将の死後も孤軍奮闘して皇道派の旗印を守ってる訳です。こういう人がいるとは本当に改めて見直しました。それで戦後ずっと皇道派が正しかったと伝えようと、活動し続けてる訳です。そしたら、真崎大将に「おまえ、もうわからない奴はわからないんだ。ほっとけ」「もういいよ」「いい加減にもういいんじゃないか」って言われた。「その内、時代が皇道派(我々)の正しさを発見するだろうから」と何度も言われたと書いてあります。しかし、体制側・権力側が垂れ流してる情報以外全く存在しないとすれば、日本人は皆それに洗脳され、何となくそんなもんかという気になります。私も(今まで知らずにいて)ずいぶん恥かしい話だと反省してます。本物の情報がなければ、日本人は洗脳されっぱなしですよ。今、日本は土壇場に追い詰められ、精神的に腐敗が進行してますから、それが一番危険で致命的ですよ。それで、私達は再生・蘇生する方法を見つけなければいけませんが、まずは皇道派・真崎大将のことを日本人が真剣に見直して、名誉回復の動きを起こすことです。

真崎大将の名誉回復ということは、裕仁を告発することになります。ここに山口さんが書いてる真崎大将の言葉がある。「東條ごときは物の数でないけど、しかし自分を弾圧する根源が宮中から来た。その事が一番自分にとっては苦しい事であった」と。宮中ってなんですか? 裕仁ですよ。昭和天皇によって真崎大将はキュウキュウに追い詰められ弾圧される。二・二六と関係ないのに、寺内陸軍大臣は真崎大将を逮捕する。陸軍大臣が陸軍の軍事裁判の委員長だから、陸軍大臣が決定する訳です。寺内陸軍大臣は、青年将校と北一輝の裁判をする前に、判事団(軍事裁判の裁判官、軍人)に判決書を渡してる。判決は有罪で死刑です。事前に死刑の判決を出せと陸軍大臣(軍事裁判の長)の名で紙を配っていた。出来るだけ判決は重く執行は早くとの基本方針を陸軍大臣が与えて、二ヶ月の暗黒裁判で死刑判決、直ちに死刑執行。その後、真崎大将を逮捕。そういう命令を受けていたにも関わらず、裁判官も検察官も(検察官と裁判官は一人二役です)、真崎大将を有罪とする何の証拠もない。寺内陸軍大臣は、真崎は銃殺刑だ、死刑だと大声で喚き立てたそうだ。それでも裁判官・検察官は、「いくら何でも全く関係のない真崎大将を死刑判決には出来ない」という訳で無罪釈放にした。寺内陸軍大臣の方針は裕仁の意思でもありますからね。裕仁は全く無実の真崎大将を殺せって言った訳です。そこで裁判長・検察官のホサカ〔為清註:軍法会議で首席検察官をつとめた匂坂(サキサカ)春平?〕という人は、言われた通り17名、青年将校、北一輝、西田税に死刑の判決を下して、その事に死ぬまで鬱々と苦悩してる。敗戦後は自宅に篭ったきりで、比較的早く死んだと言われてます。この検察官が最高責任者でしょう。しかしそれをやらせたのは誰ですか? 裕仁以外の何者でもない。裕仁は何の為にそうしたんですか? イルミナティの命令を実行したんですよ、裕仁は。

そうして二・二六の時に日本の運命が決定されたんです。陸軍の将官の絶対多数は、決起将校の趣旨は酌むべきものがあり、統制派と裕仁が強行するような中国との全面戦争は絶対してはならないという気持ちだった。日本の軍事専門家は自分たちの軍事力の限界をよく知ってますよ。そういう日本の軍事的・経済的力で、中国全土を占領なんて、どんな戦争をするんだ? 自分達の責任上、絶対賛成できないと思った訳です。日本の国民もそうです。今の様に選挙で投票したら、そんな事に賛成する国民はただの一人もいないですよ。政治家にも。にもかかわらず裕仁は、日本に絶対独裁制を敷き、イルミナティの指揮通り、日本を必敗、百戦百敗、必ず壊滅する戦争へと、日本が滅びる方向に引きずり込んでいったのです。これが日本に対する売国奴でなくて、日本民族に対する裏切りでなくて、何なんですか?

二・二六の時に決定的に転換させられたんです。その頃、日本人の絶対多数、日本の権力層の軍人も、そんな事はしてはならない、出来ないという良識・常識があったんです。当時の日本の国家権力の最も強い力は陸軍が握っていたでしょう。陸軍の絶対多数もそういう考えです。良識の代表は真崎大将です。そういう者を排除して、裕仁はいったい何をしたんですか、日本民族に対して。日本民族に対する裏切りと言わずして、何と言えるんでしょうか?

裕仁と称する人物は日本人ではない。天皇を詐称するイルミナティの傀儡です。イルミナティは、日本という国は彼らにとって最も危険な、致命的・驚異的な存在となるであろうから、絶対抹殺しなければならないと、ザビエルが来た時に既に決定してる。彼らイルミナティのアジェンダ通り、450余年、日本は攻撃され侵略戦争を仕掛けられているんですよ。その侵略戦争の傀儡、道具として、裕仁は百点満点を与えられた存在なんです。

そしてその事が、二・二六事件の全経過を通じて完全に暴露された。

真崎大将もついでに死刑にしようとしたが、陸軍内部の良識が幾らなんでも出来ないといって無罪釈放にした。その後も真崎大将は完全に干されて監視されることになった。近衛文麿が皇道派を復活させ、真崎を陸軍大臣にして、日本の国策を完全に一変し、統制派・裕仁がずっと追求してきた政策を否定してやり直す、一変する方針を立てようとしたら、裕仁は拒否・否定した訳です。

最近になって私がバーガミニの本を読み始めたのは、鬼塚さんの『日本の一番醜い日』を読んでる内に、あれはあの通りだろうけど、それで全てという事でもないしと思ったからで、この半年ほどいろいろ考えて、次第に物事が見えてきました。今日はいろいろ話しましたけど、参考文献や私の話などを参考にして、日本人として、今、何をすべきか、それを真剣に考えて頂ければありがたいと思います。(講義終わり)
http://tamekiyo.com/documents/ota_ryu/226.php


05. 中川隆 2013年3月01日 21:24:38 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

天皇の戦争責任を暴いたバーガミニをアメリカが抹殺した理由は?

デビッド・バーガミニ(David Bergamini 1928〜1983)は、アメリカでベストセラーになった1971年の著書『天皇の陰謀』の日本語版序文(ただし1983年発行の新書版のみ)で、「私はこの著作のせいで文筆活動を絶たれることになった」と書いている。この序文は、非常に重要だが、誰も指摘していない。バーガミニを抹殺するために、200〜500万ドルの賄賂・監視料が使われた。日本政府から出た資金ではない。エドウィン・ライシャワー駐日大使(妻は松方正義の孫・松方ハル)を中心とする米国エリート勢力だった。また、アメリカの主だった学者は、揃ってバーガミニをインチキ扱いしている(日本研究の権威だったライシャワーの影響力によるものだろう)。

バーガミニ本人は、昭和天皇・裕仁の戦争責任を暴いたつもりだった。したがって、日本から非難を受けることは想定していたが、祖国アメリカから称賛はされても、まさか攻撃を受けるとは思っていなかった。その結果、バーガミニは、愛国心を喪失したと書いている。

どうして天皇のことを暴くと、アメリカ国内の勢力から攻撃を受けるのか? それは、裕仁がイルミナティの養成したロボットであり、ザビエル以来の日本破壊の計画を完成する重要な役割を担っていたからである。裕仁は「平和を愛したが軍部に押し切られた無力な天皇」でなければならなかった。

二・二六の決起趣意書の真意は理解されているのか?

川島義之(陸軍大将)が裕仁の前で読み上げた二・二六の決起趣意書(北一輝が手を入れたという)をバーガミニは「外政上の紛争から手を引き、内政改革と日本の伝統保持に傾けるよう天皇に求めたもの」と評価している。これは妥当な解釈である。農村は困窮していた。本庄侍従武官長、陸軍中枢部も決起将校たちに同調的だった。日本の書籍やマスコミで一般的に理解されているものとは乖離がある。

今でも、官僚、政治家、企業が悪いと言われているが、基本的にはそれと同じ趣旨で、庶民の観点に立っている。決起将校たちは、天皇が庶民の味方だという根本的な勘違いしていた。庶民の味方であるわけがない裕仁は、徹底鎮圧を指示した。木戸幸一(きど・こういち、1889〜1977年。長州藩の木戸孝允=桂小五郎が大叔父)も徹底鎮圧を勧めた。

396年計画 1549.8.15-1945.8.15

こうして一般民衆を敵視し、権力者に操縦されるだけの天皇ロボットの歴史は、ザビエル来日の昔にまで遡る。ザビエルは、1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日)に、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。

日本を訪問したザビエルは、「日本人は危険な存在である、最後の一人まで抹殺しなければならない」とイエズス会の本部に報告した。鎖国を経て、ペリーがやってきて、孝明天皇が暗殺されて以来、日本は麻痺状態。それ以降の天皇・日本政府はイルミナティの檻の中の実験動物のようなもの。

イルミナティは薩摩藩、長州藩に浸透した。西郷隆盛はイルミナティの傀儡になることを拒否したため、西南戦争で抹殺された。孝明天皇の暗殺、明治天皇のすり替えを経て、大正天皇の頃には、イルミナティの宮中浸透は完成していた。大正天皇も昭和天皇も、そうした環境で育ち、日本をイギリスやアメリカのような国家にすることを夢見ていた。

明治天皇は薩長の傀儡だった。間接的にはイルミナティの傀儡とも言えるが、それでも、少年時代は日本人として育っていたため、簡単には染まらなかった。西郷を殺すことにも本心では反対していた。それで死後に西郷の名誉回復もしている。日清戦争にも反対していたが、明治天皇の意志に反して、行われた。だから、明治天皇を単なるイルミナティの傀儡、国賊と言うべきではない。

大正天皇の不発クーデタ。大正天皇は精神を病んでいたといわれるが、西園寺は自分が仕えた4代(孝明〜昭和)の中で最も知性に優れていたと語っている。大正天皇はナポレオン、アレクサンダー大王を理想として日本を改造したかった。議会は廃止して天皇独裁にしたいと思っていた。日露戦争で莫大な外債を抱えていた。議会が予算を承認しないと困る。陸軍・海軍を増強して「帝国」にしたいのに障害になる。その天皇の考えに山県有朋は衝突した。

裕仁は大正天皇が不発に終わったクーデタを実行しようとした。立花隆の『天皇と東大』によると、上杉憲法学は議会の撲滅を主張していた。議会を大政翼賛会とし、日本を破壊するための軍国主義体制を整えるように「宮中」から指示をしていたのが裕仁である。日本を戦争に導くため、戦争反対派(皇道派)を一掃する「きっかけ」として利用されたのが二・二六事件だった。

イルミナティが日本を完全に抹殺するためには、自滅の軍事力を築く必要があった。そうしてイルミナティの軍隊で占領する必要があった。遠くイギリスから軍隊を派遣することはできない。ではどうやって抹殺したのか? エージェントを養成し、西洋のような国を目指すように仕向け、大きな軍隊を作り、戦争を起こさせて、自滅させるのだ。良識ある官僚、政治家、軍人ならば、そんなことは反対する。英米、中国、ソ連と世界のすべてを敵にするような戦争をするわけがない。その反対を押し切るためのエージェントが天皇だった。英米の言いなりになるアホをトップに据える必要があった。その仕掛けが、絶対的天皇主義。それが完成したのが二・二六の後。二・二六事件までは陸軍の圧倒的多数は中国大陸での戦争に反対していた。中国に100万の軍隊を展開しながら、太平洋でアメリカと戦うのは、自滅の戦争であることが子供でもわかる状態だった。だが、それに反対するのは、天皇が許さない。そういった仕組みが二・二六で完成した。

中国への戦争に反対していた真崎大将を二・二六事件の「黒幕」だとして刑務所に閉じ込めている間に、統制派は中国との戦争に火をつけた(1937年の盧溝橋事件)。こうして最後にイルミナティの日本滅亡計画(敗戦革命)を完了させるため、アメリカを相手に戦わせたのが「太平洋戦争(Pacific War=平和の戦争)」である。近年になって公開された米国政府文書により、アメリカがわざと真珠湾攻撃に日本を誘い出したことは明かになっている。開戦時、日本側では、内大臣の木戸幸一が中国からの撤兵反対、米国との対戦を主張して、米国の謀略に合わせていた。たが、木戸というより裕仁だ。近衛はその逆だった。終戦の半年前の昭和19年2月には「近衛上奏文」(「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞)で戦争に導いてきた軍人たち(共産主義に染まっていた)の一掃を勧めているが、裕仁はこれを無視し、特攻隊、本土空襲、原爆投下をまねいている。

太平洋戦争は、1941年12月8日(カトリックでは聖母の無原罪の御宿りの祭日)の真珠湾攻撃に始まり、1945年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日。ザビエルの上陸記念日)の「終戦の詔勅(玉音放送)」で終わった。

裕仁の売国奴ぶりは終戦後も続く。吉田茂は、日米講和条約が成立すれば米軍は撤退するものだと思っていた。ところが、吉田茂の知らないところで昭和天皇が裏取引し、ダレス(ロックフェラー財団の有力者)と秘密交渉、米軍が無期限に日本に駐留することにさせた。沖縄は半永久的に米国の領土として認めるといったことをダレスに言っている。

「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

皇道派の支持者だった山口富永(ひさなが)さんが昭和19年に陸軍に入隊するとき、真崎大将を訪ねて聞いた。「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

それに真崎大将は「226の将校もそれを嘆いて死んでいった」と答えている。その真崎大将も、宮中(裕仁)に抵抗することはできなかった。真崎大将の死後、その長男が裕仁の通訳を30年も務めた。この天皇の呪縛を超えない限り、日本人に未来はない。
http://tamekiyo.com/documents/ota_ryu/226.php

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/578.html#c3

[近代史3] 昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由 中川隆
4. 中川隆[-8769] koaQ7Jey 2019年8月18日 09:44:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3973]

天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元 訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm#mokuji
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E9%99%B0%E8%AC%80+%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%9F%E3%83%8B&i=stripbooks&adgrpid=52019632743&gclid=EAIaIQobChMIssrhk7DJ4gIVCwYqCh2RjwzYEAAYASAAEgIyRvD_BwE&hvadid=338580746102&hvdev=c&hvlocphy=20638&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=b&hvrand=831006335091229886&hvtargid=kwd-334760778916&hydadcr=4073_10899429&jp-ad-ap=0&tag=googhydr-22&ref=pd_sl_3otvhjudwd_b


2・26事件

忍び寄る大詰め


 皇位周辺の我欲旺盛な古参忠臣たちにとって、身の危険を心配するもっともな理由があった。というのは、裕仁が実際に彼らが暗殺の標的であるかのように言い、暗殺を準備中の者たちに行動を起こす動機を与えていたからだった。暗黙のうちに繰り広げられてきた北進派との三年間にわたる内紛は、もはや充分長引いており、いよいよ決着の時を迎えていた。裕仁とその一族は、公然たる叛乱のみが、国民を恥入らせ、その不平、不満を根こそぎ払しょくさせるに足る大義名分となりえると見ていた。同様に、北進派の荒木、真崎の両将は、同期の古つわものたちと共に、兵卒層の叛乱が充分に大規模で長続きしうるものならば、大衆の支持を獲得でき、裕仁に影響を強いうると考えていた。

 来る対決のために選ばれた暗殺実行者たちは、前年に士官学校事件を起こした若手国体原理派の反ファシスト尉官たちであった。彼らが騒動の中で献身的穏健派と見なされたのは、名目的に北進派と連携していたものの、彼ら自身は対外戦略なぞにはとんと関心はなく、国内の改造と公明さをのみ欲していたからであった。

 これらの国体原理派の若手らは、その決起を1935年11月とする可能性を探るため、酒場や場末の待合で、会合を持ち始めていた。その会合の首領は、二人の元陸軍の同僚、村中と磯部で、この二人がこの三月に、1931年の三月事件への永田の関わりを喚起させるための扇動小冊子を書いていた。この小冊子は、7月に真崎大将を追放する闘いの最中、閑院参謀総長に宛てられたものだったが、それは閑院を怒らせてしまった。この二人の小冊子作者を陸軍から除隊させる許可を天皇より得るため、7月30日、閑院親王は林陸相を葉山の御用邸に送った。現役の兵士を予備役に移籍させることは、陸軍内の問題分子への処罰としては特異な扱いではなかったが、陸軍から完全に除隊させてしまうのはいかにも異例だった。彼らの同僚たちは、除隊で新民間人となった憤懣やる方ないこの二名に大いに同情していた。

 裕仁の弟、秩父親王は、士官学校の同期生である四人を通じて、国体原理派の計画を個人的によく承知していた。彼はこの四人を、いつも自邸に呼んでは歓談していた。またこの後、この四人に銃殺刑の処罰が決まった際、自分たちは秩父親王から勇気付けられたのだと、空しい訴えを行うこととなった。その内の一人は、次のように記した悲嘆の一文を家族に残した。「秩父親王は私にいった。 『クーデタの時、私は君が仲間の先頭に立ち、兵営から行進して出てゆくところを見送らせてほしい』 」。他の一人は、刑務所で書いた一連の詩を残した。この詩は、憲兵隊が押収し、秩父親王の馬番に手渡された。秩父親王は、それに目を通し、それをその若者の家族に返した。その際、秩父親王妃がその内の数編を自ら選び、それを美しい台紙に張り、額にまで入れて返還したため、後に残された両親は、それを身に余る名誉と受け止めていた。

 天皇の二人の叔父、東久邇親王と朝霞親王は、その若い策謀者たちとしばしば語り会い、彼らの憤懣に同情を表した。しかし、彼らに最大の激励を与えた人物は、北進派に手先を浸透させようとの宮廷からの命を受けていた、マレーの虎こと、山下少将だった。山下は、よくその若い策謀者たちと酒場で会い、酒を飲み交わした。そこで山下は彼らに、一般参謀諜報部長をしている三番手烏の岡村少将と、陸軍省報道対策班の根元大佐――永田が殺害された時、剣士相沢に祝福を与えた――を紹介した。山下少将やその同僚は、そうして得た彼らの観察結果をすべて、閑院参謀総長に報告した。

 国体原理派のその若者たちは、天皇の側近から受けた注目に歓喜していたが、用心すべきことは知っていた。彼らは、友人たちから、利用されないようにと警告され、「貴様らは、まるで左翼の衣を着た右翼だな」 と冗談まぎれに言われていた。そうして彼らは、北進派の指導者、元陸相の自宅に代表を遣った。荒木は笑顔で彼らを迎えて激励したが、自分の言質をあたえることのないよう、慎重に対応した。彼らは山下少将――南進派のスパイ――のもとに戻り、「周到な準備なくしては行動しないよう」 との助言をもらった。彼らは、決起の日を、欧米の外交武官が祝福休暇に入っている1935年のクリスマスの日に暫定的に設定した。(36)

 12月20日、彼らは、北進派の第二の指導者、真崎のもとに遣いを送った。彼は遣いに、叛乱を考えるのはおろかなことで、それを、すでに打撃を受け、常時警察の監視下にあると解っているはずの自分のところに相談にくるとは、二重におろなかことだと言い渡した。彼らはさらに、三番目の北進派の将官# 1に会い、いっそう明瞭な助言をもらった。 「天も、陛下も、そして大地も、すべてが君らに反対している。統制派(南進派)の連中は、生煮えの準備で決起する君らを、大掃除のいい機会だとして、手ぐすね引いて待ち受けているのだ」(37)。

 # 1 この将官とは、荒木陸相の下で副大臣であった、柳川平助中将である。彼は、天皇には穏健北進派として知られ、顔の広い鈴木大佐の親しい友人であった。この時、彼は、台湾軍司令官として、厳格な寺内に代わり、台湾に赴任するところであった。後の1937年、彼は、日本軍の南京制圧を可能にした杭州湾上陸作戦を立案して、天皇の目から、北進派の汚名を取り除くこととなる。

 南進派部隊からの潜入者、山下少将は、12月22日に、東京北部の高級割烹で若手理想主義者たちと会うことに同意していた。しかし彼は、その約束を守らず、その夕べを通して、彼が現れるのを空しく待たされている間に、その謀議者らは、クリスマスの日の蜂起の計画は無理だということに決めてしまった。そしてその帰路途上、その内の一グループは、ある警察署に立ち寄り、自主的に自分たちの計画について、全面的に報告することとなった。(38)

 まだ泳がされていた謀議者らは、クリスマスの前夜、北進派の理論家で、強靭な急進的著述家、北一輝の自宅に立ち寄り、慰労にと、酒を少々ふるまわれることとなった。北は、1922年に裕仁の教化機関である皇居内の大学寮への参加を断り、天皇の特務集団から最初に離脱していた。憲兵により数年間にわたって鍛えられた経験から、北はそうした若手に、辛抱強く、時期を待つようにと諭した。そして彼は、前首相の斎藤が内大臣に任命されたことに抗議する小規模な集会に参加してはどうかと、彼らに持ちかけた。北は彼らに、斎藤は1934年の帝国人絹疑獄にからんで賄賂を受け取っていることを確信させた。12月30日、その抗議集会は予定通りに開催され、これまた予期した通り、警察によって解散させられた(39)。その際、若手将校の幾人かが拘留されたが、彼らの計画を満たさせるかのように、数日後に釈放された。

 その年の暮れ、大兄で内大臣秘書の牧野侯爵は、自分の日記に、謀議者の最新の叛乱計画についての警察報告を書き込んでいる。それは例えば、歩兵第一連隊第一中隊は内務大臣公邸を掌握、歩兵第三連隊第三中隊は首相を殺害、歩兵第一連隊第二中隊は斎藤内大臣を捕縛、等々(40)。幾つかの詳細を除き、それは1934年の士官学校事件計画と事実上同じで、それはまた、その通りに、その二ヶ月後に実行されたものであった。かくして、その運命的新年を迎えるまでに、宮中の侍従たちは、暗記しているほどに、その計画を知り抜いていた。

 もし、思いこみの強い宮廷人の誰かが、陸軍将兵の意識の程度について疑いを抱いていたとしても、一月のある日、日本の歩兵の全連隊がその任務中、非任務中の将校ともども、満州国境を越えてロシアに入り、赤軍に投降してしまい、その疑念が現実のものとなってしまうとは予期していなかったろう。そうした将校たちは、国家政策を北進へと変えさせようと、事件をおこそうと望んでいた(41)。その将兵たちは、ただ、その職務執行にあたる満州国の拷問と殺人の地獄から脱け出そうと欲していた。かって日本軍の兵士の誰も、外国軍のもとへと脱走することなどなかったが、いまや、政権の誰もが、絶望のみが彼らをそうした行動に駆ったのだと覚らされることとなった。


もの言う大神(42)

 まさに発生しそうな出鱈目な叛乱に備えて、裕仁のしたたかな叔父、東久邇親王は、過去に裕仁を歯に衣を着せずに批判した貴族を土着宗教を使って脅し、口を封じた。1935年11月22日、東久邇親王は、宗教取り込み詐欺師で腹話術師の、小原たつお、別名、小原竜海〔りゅうかい〕を、皇居南端の明治天皇旧御所にある、当時未使用の一室に呼んだ。そこで東久邇は竜海に、皇室の式服一式や、裕仁の手袋や菊の紋章入りの煙草ケースなどを、彼の好意の印として与えた。竜海はこれらの品々に、口をきく観音像――少なくとも、彼はそう見せることができた――を加え、東京郊外椎名の入船に御堂を設けてそこに祀り、神託所としての事業にした。

 東久邇の紹介によって、竜海は、元宮廷女官長の島津治子――1933年に赤化事件と妾問題に絡んだために皇居を追われた――の後援を獲得した。しかし島津夫人はただ、精神を高揚させ身震いのする彼の交霊術を気に入っていただけだった。彼女の親しい友人も同様であり、また、彼女は理想的な人脈をもっていた。皇后良子の母のいとこ、そして、裕仁の母の貞明皇太后の親友として、彼女は、貴族階級の高齢世代で、―国政に高度な倫理的関わりをもつ、ほぼあらゆる親近的集まりと、強固な霊魂的関係を保っていた。伯爵、伯爵夫人に加えて、彼女の知人たちには、退役陸海軍大将、在郷軍人会の指導者、反機関説論者などなどがいた。そのうちの最も懇意な友人が、神道神主の秦真次で、彼は真崎を追放する争い中の南進派に不利な資料を提供した元東京憲兵隊々長であった。

 1月半ばまでに、島津夫人は、竜海の観音像の腹話術的神託を聞き、霊魂の顕現に参加するため、彼女の友人たちをたくさん連れてきていた。竜海のきらびやかな御堂の外には、本物の刑事が立ち、夜を通し、参加者に関しての記録をつけていた。後の警察報告では、老いた海軍大将山本英輔が、その「集まり」 の常連として、目立っていたとしている。彼は、国体原理派の若手叛乱者が政権を握ろうとした際の首相として、第一の候補者にあがった者の一人だった。他の際立った常連参加者たちは、東京の上流階級の夫人たちだった。その誰もが、そうすることで、数ヶ月先の身の安全が得られると説かれていた。

 降霊会では、貴族階級の一同は、竜海がさずける東久邇親王についての堕落と哲学の合成物を聞かされた。そしてゴシップ談が一同を楽しませ、また、おじけさせもした。1936年12月に療養所に収容された後の警察記録に残された元宮廷女官長の島津治子の話では、参加者の前に生者死者双方の霊魂が現われ、あらゆるたぐいの皇室を冒涜するような話を、次のように告げたという。

 難波大助 (1923年に裕仁の暗殺に失敗して処刑) の死霊が秩父親王 (裕仁の一番目の弟)の生霊と共に現れ、秩父の霊が、難波は自分の婚約者の処女を奪ったと言った# 2。

 高松親王 (裕仁の二番目の弟) が霊となって現れ、彼の実母は、大正天皇にはべった女官の一人の、何某様だ・・・・

 皇太子時代の裕仁仕え、切腹した侍従(乃木大将)が現われ、その霊は、 「秩父親王が正式の皇太子に着くべきだと主張したが退けられた・・・」と、親王自身の服装を着けて言った。

 大正天皇の侍従の霊が現われ、自分は貞明皇太后(裕仁の母)の愛人だった、と言った・・・

 九条家の人たち(貞明皇太后の兄弟と義理の妹)が質問をした。

 秩父親王の生霊が現われ、礼子(伊藤礼子で学習院での赤問題に絡んでいた)との情事関係を話した。

 あらゆる鏡には、表と裏の両面がある。我々の鏡の表面には、我々が大神を崇拝すれば我々は守護されると公に刻まれている。だがその裏では我々は、皇族の役目は、最終的に、天皇維新への道を清め照らし出すことと信じている。裏面はそうした意味をはらみ、表面がいつの日か裏面にお目見えできると平民に説いている。信仰心の篤い人でも、裏面に達するのは序々にである。そのさらに鏡の裏の先には、ひまろぎ等といったさらなる光明があって全き天啓をもたらしている。最も意識の高い人のみがそこに到達しえ、それはめったにあることではない・・・

 7月17日に、この世のあらゆる霊魂の集いがある。五光が初めてお集まりになる・・・ 明治天皇の御霊は、貞明皇太后の用件にさかれ、今回は参加されない# 3。この集いで、国体明徴と維新――神の治世と神の世――への道が開示される。

 五光がなす使命は、摂政を決め、年少の皇太子(現天皇、明仁)のために補佐を選ぶことである。霊魂の世では、皇太子は明治天皇の霊魂を引き継がれ、同時に、偉大なご自身でもおられる。これは我々に明示されてきていることだ。従って、秩父親王は高松親王に道をゆずって引退し、高松親王が補佐と摂政になられる。現天皇は、15年後(1951年)に亡くなる・・・ 現天皇は前世からの罪をあがなう因縁があり、国体明徴の道と維新の実現はできない。彼は早い逝去が避けられない。我々は、大神の維新と国体明徴をなしとげるために、開明をなしとげ、我が国土の大神に至高をささげねばならない。これがいわゆる天の岩戸開きであり、我々がそのための鍵を持っている・・・五光は十、二十、四十の光となる・・・我々は信奉を続け、広げなければならない。


 # 2 兄弟を混同しているようだ。皇后良子の兄、朝融は、1924年、婚約を破棄した。それは、その婚約者が難波の近親者と関係をもっていたからであった。(43)

 # 3 貞明皇太后は、息子の裕仁に対する小陰謀事件に巻き込まれた。五光の正体は不明である。ある教育ある日本人の推測では、4人は数世紀昔に天皇のために死んだ忠臣であり、一人は最近犠牲となった、一番手烏の永田であろうということだ。

 島津夫人が警察で思い出したことは、かくもとりとめのないことだった。しかし、たとえ話が猥雑でつかみどころがなくとも、その話を反論もなく聞いた者には、大逆罪を確信させるに充分なものであった。また悪いことに、その神秘主義は、裕仁を排除することを確かに欲し、裕仁の統治の間の多くの殺人の罪を裕仁にきせているように、いっそう見せてもいた。


最後の扇動

 1936年1月27日、東久邇親王は、1933年の神兵隊事件に連座した疑いで投獄されてきたおよそ500名の屈強な剣士が釈放された時、新たな脅迫の手段に出た。東久邇に忠実な使い走り、安田予備役中佐の監視下で、仮釈放中の彼らが拠点を設立し、叛乱部隊――もし、来る叛乱に何らかの不発が生じた場合、その代役に使える「選りすぐりの部隊」 ――として何時でも動ける用意を整えていた(44)。東久邇の手下の安田は、その動向の情報を使いを通じて東久邇の屋敷の門衛# 4に逐次伝えた。実際には、この予備部隊が役立つことはなかったが、彼らは、この予備部隊となることで、刑の執行からは逃れることができた。

 # 4 東久邇の守衛班長は清浦末雄大尉だった。彼は、1924年の長州閥排除の際、裕仁が閑職から引き立てて政府を率いた、清浦元首相の八男。(45)

 1936年1月28日、永田の殺害者で、東久邇の部下の相沢少尉の軍法会議の裁判手続きが開始された。この手続きは、第一師団の兵営で、感情的に最も高ぶった雰囲気の中で進められた。第一師団は、東京に拠点をおく、二つの師団のひとつで、反ファシストの国体原理派の若手将校がもっとも結集していた師団であった。またそれは、過去の陰謀計画の中で、どの師団より多数の叛乱軍を提供することが期待されていた師団でもあった。軍法会議の相沢被告は、1926年から1931年まで、その師団で大尉と少佐を勤め、その師団の将兵は、その12月に、満州の守備隊任務に直ちに移駐されることが通告されたばかりであった。第一師団はそれまで、戦時下の作戦行動を除き、海外に派遣されたことはなかった。

 暗殺者相沢を担当した弁護人は、満井佐吉中佐だった。彼は、二年前、三井財閥の幹部宅に押し入り、また、数ヶ月の間、北進派の兵卒の中で、南進派のスパイ、山下少将と緊密に共同して働いた。1937年には、満井は、1936年の叛乱に参加した罪で、三年間の執行猶予の判決を受ける。さらに1942年の戦時下、彼は国会議員に選出される。

 相沢の公判では、彼は満員の法廷で活躍した。 「もし、この裁判に誤りがあれば、それは深刻な結果をもたらしましょう。・・・もし、この法廷が、相沢が従った精神の理解を誤れば、第二、あるいは、第三の相沢すらが現れてくるでしょう。・・・圧倒的多数の下士官は、陸軍が影響力を失っているとしてその一掃を決断しており、国民も、陸軍が真に天皇の軍隊であることを証明するよう、心底から望んでいます」、彼は演説した。

 暗殺犯相沢は、被告席に着かされ、同情的な反対尋問を受けた。彼は、東久邇親王と朝霞親王と会ったことについては、ひと言も漏らさなかった。しかし、永田を殺すためではなく、警告するための最初の上京について証言し、「私は車中では眠れず、翌朝、あたかも空から聞こえてくるような声で、早すぎる行動はするな、と言うのを聞きました。・・・後になってから、私は、永田があらゆる悪の根源だと知りました。もし、彼が辞任しようとしないのなら、するべきことは、ただ一つでした。私は、自分を鬼にし、一刀で彼の命を終わらせると決心しました。・・・統帥権により、教育総監が軍事参議院の名誉職に転任させられた時、私には、皇軍を私兵化したかに感じました。」

 大兄で内大臣秘書の木戸は、相沢裁判の進路を閉ざし、その行方に懸念をもたらした。しかし、2月2日、入念な調査の後、彼は、すべてに問題はないと決断した。彼は、弁護人の満井中佐を、満州征服を計画した石原莞爾大佐や、後にアメリカの小型砲艦パナイ号沈没させた火付け役の橋本欣五郎大佐らと比べてみた。三人は皆、国内改造の必要を感じており、国体原理派に同調していた。「しかし、いざという時においては、彼らは外部者と統一戦線を形成するだろう」、と木戸は結んでいる。(47)

 相沢裁判が進行する一方、国会が解散し、国は1932年以来の二度目の総選挙戦に入った。陸軍の北進派は、伝統的な武士道精神の綱領を掲げて〔機関説排除を訴えた〕政友会を押した。反政友会、裕仁の統制派そして清軍運動は、現職の岡田首相を押した。彼らは、ファシストに傾き、「議会政治かファシズムか」とのスローガンのもとで運動した。人々は、そのスローガンに動かされ、205議席のうち、174議席を政友会に与え、地滑り的勝利をもたらした(48)〔訳注〕。それは、裕仁の公式の表明が支持され、彼が密かにもてあそぶファシスト構想が拒絶されたことは明らかであった。

 〔訳注〕 この選挙結果は誤り。1936年2月の総選挙結果は、政友会が敗北し、他方、解散前3議席であった無産政党が、社会大衆党をはじめ21議席に増やした。これは、軍部と戦争政策への有権者の批判と読みとれる。ここに述べられているように政友会が大勝したのは1932年の選挙の結果で、著者は両選挙結果を混同している。


土壇場の勇気

 一月中に、反目する国体原理派の若手将校たちは、秩父親王、川島陸相、北進派の真崎大将のもとを訪問した。三人はいずれも友好的ではあったが、支持も邪魔もしないといった、どっちつかずの態度であった。たとえば、真崎大将は、彼らに金を貸してもよいと言いながら、「何が生じても、誰から提供されたかは言わないように」 とつけ加えた。

 1月28日夕刻、謀略者たちは、同調的な中隊長、山口一太郎大尉――裕仁の侍従武官長本庄大将の娘婿――と会った。2月10日に彼らは再び、山口大尉と彼の勤務する第一師団、第一連隊の参謀室で会った。そこで初めて、彼らは叛乱の計画の具体的な作戦行動について話し合った。その翌日、北進派の理論家、北一輝の自宅に代表を送り、彼の弟子で従事である西田力に会った。彼らと同じく、西田も秩父親王の友人であり同窓生であった。1921年に秩父親王のために書かれた一輝の急進的な論文を最初に謄写版刷りにして知識人に配ったのは西田であった。今、彼は謀反者らを歓迎し、彼らのために大衆的な支持を集めることを約束した。

 2月15日、消極的な叛乱兵士たちは、宮廷から送り込まれている監視役、山下少将と再び会った。その翌朝、若手将校らは、自連隊の兵器庫の武器を得る手順を確認した。また翌々日には、安藤輝三大尉――山下少将に最も親しい陰謀首謀者――は、仲間の会合において、 「私はもうあえて決起する気はない」# 5と率直に吐露して、陰謀計画に冷水をあびせた。

 # 5 1932年、犬養首相暗殺の後、山下の命令で、安藤は、東京大学の学生で血盟団と牧野内大臣の間の連絡係であった四元義隆を自分の住居に数日間かくまった。
 安藤が一同を白けさせた後、他の陰謀者たちはなんとか、 「次週の半ば」 を決行日と決めた。そしてその翌日の2月19日、陰謀者間のさらなる会合で、東海道を下った豊橋の陸軍学校の同魂同志が計画に加わり、老公西園寺親王を暗殺することを引き受けたと知らされて元気付けられた。

 2月21日、一年前に扇動小冊子を書いて軍を追われた磯部と村中は、侍従武官長の娘婿の山口と再び会って、再確認をとった。第一連隊の週番司令として、山口は、自分の連隊には、叛乱に参加しない者でも、それを制圧する命令は誰も受け取らないことを確約した。その夜、週番司令の山口は、北の理論の謄写刷版発行者の西田――北進論の第二の理論家――を自宅に招き、師の北に、決起の日は2月26日に暫定的に決まったことを伝えるように頼んだ。(49)

 決起日4日前の翌朝、若手将校たちは集まり、互いに緊迫していることを認め、そして、東京を占拠しえた時、壁に掲示し、ラジオで放送するつもりの趣意書の最初の文案を書いた後、散会した。(50)

 決起日3日前の2月23日、若手将校たちは、彼らの兵器庫から2,000発分の弾薬を運び出し、また、新たな大尉や中尉を数名、仲間に迎えた。西園寺親王を暗殺する計画は、政治に長けた叛乱の支持者から異論が出た。そこで同日、本庄の娘婿の山口は、失墜した北進派の真崎大将に相談をもちかけた。すると真崎は山口に、情報屋の亀川哲也――政友会の一部# 6から叛乱への資金援助を得る仲介役をしてきていた――に会うように助言した。(51)

 # 6 ことに、日立財閥の創設者、久原房乃助。彼は、株式と広範な資本財の保有に基ずくアメリカ式資本主義の熱心な主唱者であった。

 決起日2日前の2月24日、情報屋の亀川は、相沢の裁判を担当する民間人弁護士を訪ねて蜂起計画の全てを明かし、追放された真崎大将を次期首相に推薦するよう西園寺親王を説得するよう、協力を依頼した。その弁護士は、名を鵜沢聰明という西園寺の友人で、出来るだけのことをし、西園寺には暗殺されようとしていると警告するとすると約束した# 7。(52) この警告は、西園寺の執事で国会議員の津雲国利と、西園寺の以前の秘書である事業家中川小十郎をはじめとする、入り組んだ経路を経て、興津に届けられた。(53)

 # 7 一年後、法務大臣のおひざ元の秘密軍法会議において、憲兵隊は鵜沢弁護人を叛乱の共犯者としてその告訴を試みた。しかし、鵜沢がタイミングよく西園寺に警告を与えていたことが、彼を投獄から救った。というのは、数回の審判の後、西園寺に感付かれることなく鵜沢の裁判を続けることは困難なため、彼に対する裁判は取り下げられたからであった。(54)

 西園寺はその警告の信頼性を疑うことなく、即座に対応した。そして、興津と東京の宮中との間に敷かれている、スパイ秘書の原田という 「確実な連絡回路」を作動させることにした。西園寺は、使用人たちに、あたかも何も知らないよう、また、あたかも老いた主人が何事もなく在宅しているかのように、自然にふるまって電話に出るように指示した。その上で自分は、椅子かごに乗って、密かに、自宅の裏山に移動した。そうしてその人目につかない道で公用車に乗り移り、警護の厳重な静岡県知事公邸へと運び去らせた。(55)

 一方、同じ決起日二日前、野中大尉――秩父親王と親しい叛乱将校の一人――は、趣意書案を北進派理論家の北一輝宅へと届け、それに手を加えてくれるよう依頼した。北は、その軍人たちが書いた無骨な文章を、火炎のような論理と難解な漢文調の文体に改め、古典風名文に作り替えた――これが数日後、天皇裕仁に読み上げられることとなる――。この手直しの後、野中大尉は、北の手下の西田と北の仕事部屋にこもり、その文案を清書し、皇位に提出するための巻物に仕上げた。(56)
 その夕刻、本庄の娘婿の山口大尉は、第一連隊の指令室で謀反者らと会い、叛乱計画の詳細をつめ、陸軍大臣公邸、陸軍省、そして一般参謀本部の警護地図を謄写版印刷したものを200部与えた。

 決起日前日の朝、謀反者らは、かねてからの陰謀の黒幕である前内大臣の牧野が、二時間ほど隔たった湯河原の田舎旅館に隠れているところが発見されたと伝える彼らの一妻からの手紙を受け取り、活気づけられた。この情報に基づき、一人の若手将校が、同志が東京で決起するのと同時に襲撃する準備を整えるため、湯河原へと車で送り出された。(57)

 同じ朝、追放された北進派の真崎大将は、相沢の裁判の弁護側証人として呼び出されていた。彼は、相沢に代わって、宮中の要職にあった者が天皇の許可なく執務中に知り得たことを暴露することは出来ないことを理由に、問われた質問に答えることを拒否した。そして法廷では、真崎は多くをしゃべらずに50分を過ごし、新聞記者の質問にも、その返答を拒否した。その日の午後、相沢の軍人弁護人、満井佐吉中佐は最終弁論を述べたが、能弁ではあったものの、事実はには言及せず、ただ心証を述べただけであった。(58)

 かくして、裁判が開かれていた第一連隊の兵営では、相沢は絞首台に送られるのを黙って受入れ、真崎は沈黙のうちに退役し、そして結局、南進派が勝利するだろうことは、誰の眼にも明白となっていた。第一連隊の若手将校たちは、信念上の望みの余り、自分たちと同世代の天皇が、現実を充分に知っていないのだろうと感じていた。だからこそ、山下少将を通じ、あるいは、侍従武官長本庄の娘婿である山口大尉を通じ、あるいは、秩父親王を通じて、彼らは、裕仁には真実を示し得るだろうと考えていたのだった。(59)


ついに流血(60)

 高貴な人々の勇気付けから三ヶ月以上が過ぎた時、謀反者らは遂に、面目躍如に行動を開始した。その夜を通し、一団をなしていた19人の尉官は、第一および第三連隊の同朋将官たちに号令を発した。秩父親王は1922年から1935年8月まで第三連隊に属しており、彼の名は彼らによって〔同志として〕自由に使われたが、新たな参加者は、いずれも少尉である二名を獲得しえたのみだった。それに、謀反者たちが同僚たちから引き出しえたものも、良くても、邪魔をしない誓い程度だった。

 2月26日、午前2時、皇居からおよそ20区画離れた麻布の第一、第三連隊の兵営に公然と起床ラッパが鳴りわたった。それからの一時間に、まだ眠気に捕らわれていた兵士たちは、陰謀者からの長広舌と、反陰謀者からの警告の双方に見舞われた。それでもなお、兵士たちは高揚した気持ちをもって行動を起こし、午前3時30分頃には、1359名の兵士と91名の下士官たちが、計画に関わってきた2名の大尉、8名の中尉、11名の少尉に従っていた。午前4時には、装備を着けた叛乱兵らは出発を始めた。彼らは、およそ8,500名兵士を兵営に、まだいびきをかいている将校多数を近くの上官宿舎に残していた。彼らはまた、侍従長本庄の娘婿の山口大尉を、邪魔をしないという誓約を守らせるために残していた。

 二月の朝の厳しい寒さの中、兵営の外では、皇居の聖域内の兵営から、精鋭近衛師団第三歩兵連隊第七中隊が彼らに合流した。この合流部隊は、他の部隊と違って、自分たちが叛乱を起こしているとは知らなかった。秩父親王の友人で彼らの指揮官である中橋基明中尉は彼らに、明治神宮での神事のために行進すると説明していた。13台のトラックが先遣隊を運ぶために待機していた。三人の見習い医師が、負傷者が出た場合に備えて同行していた。

 東京は一面、雪に覆われ、まだ雪が降っていた。雪を踏みしめる兵士たちの靴音が、まだ暗く人けのない街路に響いていた。彼らの兵営から皇居までは、1マイル半〔2.4km〕もなかった。午前4時30分までに、堀に囲まれた皇居に近い東京の官庁街の神経中枢のすべてに、偵察兵の列による無言の警戒線が張られた。そこには、国会、陸軍省、幕僚本部、警視庁、国土地理院、内務省、外務省、そして、海軍省と軍令部が位置していた。さらにその警戒線内には、閑院親王、高松親王、内大臣、正副陸軍大臣、正副外務大臣、内務大臣、そして首相の公邸があった。


 午前5時までには、叛乱軍は、主要な目的地を占拠し終わっていた。前線司令部を設置する予定の山王ホテルでは、宿泊客――2,3名の西洋人が含まれていた――が起こされた。それらの客は、ホテルの交換台に配置された人員により、丁重に東京の他のホテルや旅館に新たな部屋がとられた。陸軍大臣公邸では、叛乱兵士は自分たちの存在を川島陸相に通告したが、重い風邪で寝ている必要があるとの要望があり、彼らは、面会のために大臣が起床できる午前7時まで、そのままにしておいた。警視庁では、夜勤にあたっていた巡査たちに彼らが加わって、外部の歩哨が二倍となった。

 参謀本部では、灯りがこうこうとともされ、今や作戦課長の石原莞爾大佐――満州作戦の戦略家――が、遅ればせに届いた決起の報を受け取り、部下と会議を持っている最中だった。午前5時頃、石原大佐は自室から飛び出してきて、外で任務についていた叛乱軍の歩哨一人を撃ち、自分の公用車で自らがすべきことを成しに出て行った。しかし、時はすでに遅しであった。(61)

 暗殺部隊は、 「君側の奸」〔天皇の傍に使える悪人〕 を殺すために、5派に分かれてすでに出発していた。午前5時5分、その第一派が襲撃を開始した。近衛師団の中橋基明中尉に率いられた百名の兵士は、もじゃもじゃの髭を蓄えた日本金融界の “サンタクロース” かつ、秀でた異端派経済専門家である大蔵大臣高橋是清、81歳、の自宅を取り囲んだ。屋外で守衛に当たっていた警官を負傷させた後、中橋中尉は住居内に押し入って老蔵相の寝室に駆け込み、布団をはぎとって 「天誅」と叫んだ。高橋が眼をさました時、中橋は彼に三発発射し、さらに周到に、刀で二度、突き刺した。彼は即死した。

 同じころ、200名の兵士と一人の中尉、三人の少尉からなる第二派の殺人部隊は、新たな内大臣で元首相の斎藤実大将宅を包囲していた。物腰柔らかく、好人物のその老貴族は、前夜遅くまで、アメリカ大使館でグリュー大使夫妻とジャネット・マクドナルド=ネルソン・エディーの映画、 「Naughty Marietta」 を鑑賞し、ぐっすりと寝込んでいた。 (62)

 若い尉官たちが駆け込んでくる音を聞き、斎藤子爵夫人は夫の脇からとび起き、彼らの眼前で寝室のドアを閉じ、 「ちょっとお待ち下さい」 と叫んだ。
 尉官たちがドアを蹴破ると、斎藤大将は起きて、夫人の後ろに寝巻姿で立っていた。三人の尉官はほどんど同時に彼を撃った。夫人は夫の体に被さってしっかりとしがみつき、泣き伏した。尉官たちは、彼女を引き離すことができないため、その体の下に武器を差し込み、ヒステリックにさらに銃弾を撃ち込んだ。後の裁判で、彼らはその老人の喉を切ろうとしたが、婦人が邪魔でそれが果たせなかった、と証言している。 (63)

 全部で47発の銃弾が斎藤大将の体に撃ちこまれ、夫人は両腕と肩に傷を負った。暗殺者らは、引きあげる際に玄関の前で静止し、天皇陛下に 「万歳」を三唱して立ち去った。

 暗殺部隊の第三派は、山下少将の手下、安藤輝三に指揮され、侍従長の鈴木貫太郎大将宅を襲撃した。彼らは、門前での守衛警官との小競り合で手間取り、10分ほど遅れた。鈴木侍従長もその前夜、グリュー夫妻といっしょだった。安藤は、彼が夫人といっしょに寝ているところを発見し、彼と国策について議論してさらに時間をくった。侍従長はなかなかの口上手で、安藤大尉と10分ほどの遣り取りを交わした。

 だが、公式記録によると、午前5時10分、ついに安藤は、拳銃でその議論を断ち切り、その68歳の侍従長に三発を発射した。彼は、脇に居た夫人に、 「まだ脈がおありなので、彼に刀でとどめを与えたい」 と言った。

 武士道を心得ていた夫人は、 「どうしても必要というなら、私がそれを致します」 と答えた。 「恥じ入った」 安藤は、そこでその部屋を後にしたという。

 その後二日間、叛乱軍の同志が雪の中を警戒している間、安藤は近くの料亭 「後楽」 で時間をつぶしていた。そして、叛乱が不成功に終わった時、彼は自殺を試みたが失敗した。明らかに、彼はその狡猾な老被害者と取引をしていた。侍従長鈴木は、四日後、危篤状態を脱して生き延び、後に、戦時中最後の首相となった。

 鈴木は、後に好んで話したように、 「みっともない」 死にそこないを演じた。彼に発射された弾丸の一発は、彼の急所に残っていたらしく、彼を手術した外科医は、「金玉から鉛玉」 を摘出した自分の処置の手際の良さを、偉業めいた歌にして書き残した。

 侍従長の鈴木が苦痛と格闘している時、300名の兵隊と五人の尉官からなる第四派の暗殺部隊は、三人目の南進派海軍大将、岡田啓介首相を襲った。彼の公邸は、フランク・ロイド・ライトの設計になる帝国ホテルを模した奇怪な建築物で、四年前、犬養首相がそこで、霞ヶ浦の飛行士によって撃たれていた。先の悲劇や数々の警告話にも拘わらず、わずか4名の警官が警護についているのみだった。襲撃部隊はその四人を射殺し、五人の尉官は公邸の迷路のような廊下や各部屋を手分けして捜索し始めた。

 73歳の首相は、前夜を名高い芸者の妾と過ごした後で、自分を守ろうという気概はもうなえていた。そして、 「万事休す。何をさわぎ立てる」 と、悲惨げに言った。

 だが、彼の女中や秘書官で義弟の松尾伝蔵大佐は、彼を寝床から引っ張り出し、彼の部屋を出て使用人区画へと急ぎ連れて行った。捜索する兵隊の足音が聞こえると、彼らは首相をそこの便所に礼儀もなく押し込め、そして彼に、内側からかんぬきをかけて閉じるようにと言った。そうしておいて松尾大佐は、英雄的な行動に出て付近の中庭に跳び出して「天皇陛下万歳」 と叫んだ。彼は瞬くうちに機関銃弾の雨を浴び、彼の顔はほとんど識別が出来ないほどの様相と化した。

 彼を撃った兵士たちがその遺体を岡田の寝室に運び、吟味した。彼らは写真とその顔を見比べ、女中たちの機転も手伝って、それが岡田首相だと判断した。

 その朝、憲兵隊員が叛乱軍によって占拠された皇居の堀に沿った地域に入りこみ、兵士たちと平穏に接触した。そうして捜査をしているうちに、憲兵隊は、首相公邸の女中から、岡田首相がまだ生きていることをつかんだ。岡田の秘書官の娘婿やその付添いが、首相の身代りとなった松尾の葬儀をするようにと、叛乱軍の警戒線を越えて呼び出された。他方、ようやく落ち着きを取り戻した岡田は、もっと居心地のよい、押し入れの中に移されていた。松尾の会葬者たちには同情が寄せられ、叛乱軍の監視も緩んでいた。

 翌朝、岡田の生き残った秘書官の福田耕は、お棺運搬係として、フロックコートを着た二十人ほどの年配の憲兵隊員を官邸に連れこんだ。空腹で疲れ切った岡田は、持ちこまれたマスクと丸縁眼鏡で変装し、義弟の葬儀の会葬者に紛れこんだ。棺が官邸から運び出される際、憲兵とともに連れてこられた一人の老いた棺運搬係が心臓マヒを装って倒れ、担架で運び出された。そうした混乱にまぎれて、困憊していた岡田首相を車に押し込み、脱出させた。

 東京での暗殺と時を合わせて、近県でも襲撃が行われた。蜂起の夜、兵士と予備役と士官候補生の一団が、老西園寺を暗殺するために興津に結集したが、警察によって解散させられた。一方、前内大臣の牧野は、20歳の孫娘の和子――戦後の首相、吉田茂の子供――とともに、湯河原の温泉旅館に身を潜め、事前の警戒はしていなかった。午前5時40分、夜中に使命を与えられた叛乱兵の一団が、その旅館に到着し、玄関前に機関銃を据え付け、宿の使用人に弾丸の雨をあびせ、牧野を要求した。すぐに牧野の一人の護衛官が現れ、拳銃を撃ちまくった。彼は、襲撃隊々長の河野寿大尉に傷を負わせたが、機関銃弾で穴だらけにされた。掃射された銃弾は、日本の旅館のやわな構造を貫通し、牧野の看護婦と彼の使用人が負傷した。 (64)

 その短い銃撃戦の間、老いた策謀家牧野と孫娘は、他の泊り客や従業員と一緒に、旅館の裏口から抜け出し、裏山に登った。負傷した河野大尉――逮捕された後に死亡――は、その建物に火を付けるように命じた。建物が燃え上がっている間、兵士たちは、斜面を這い登ってゆくのが見える人影に、機関銃を向けていた。

 後に牧野によって語られ、また、牧野の娘婿の後の首相、吉田茂が幾度も繰り返した話によると、牧野が裏山のある地点に達した時、彼の息はあまりに絶えだえで、それ以上先に進もうにもあまりに急こう配だった。彼はそこにしゃがみ込んでしまい、眼下の処刑執行者らを見やっていた。孫娘の和子は、彼の前に立ちふさがり、着物を広げて彼を隠した。二人とも、炎が彼らを照らし出しており、てっきり、もう最後かと思ったという。彼らからは、兵士たちが明るい炎を背景に、きびきびと動いているのが見えたが、そうした兵士からは、暗い山肌に溶け込んだ彼らはほとんど見えなかった。

 機関銃は発射されず、襲撃が始まってから40分間後、山中にあって牧野は無事やりすごしていた。消防隊が消火を始めたころ、若い叛乱軍兵士は機関銃をしまい、やってきた地域駐屯地に引きあげ始めた。

 東京では、叛乱軍部隊は、その当初の目標を果たし、第二の段階に移っていた。午前6時、斎藤内大臣に47発の弾丸を撃ち込んだ血に飢えた部隊の一部が、渡辺錠太郎大将――前年夏、真崎に代わって教育総監の地位についていた――の自邸前でトラックから跳び降りた。そうした彼らを渡辺夫人が玄関先でさえぎり、その出身部隊の名を要求した。彼らは夫人を脇にどけ、渡辺大将が立って彼らがくるのを待ち構えている居間へと走り込んだ。彼が「止めろ」 と命ずる間もなく、彼に最初の弾丸が撃ち込まれ、そして、いっせい射撃を受けて彼は倒れた。一人の少尉が、自分の刀で大将の喉を切り、その襲撃を終わらせた。


ポーカーの手の内

 暴力沙汰は終わった。その朝も昼近く、叛乱部隊は、五大新聞社の建物を占拠し、そのうち、最も保守的な朝日新聞社の印刷を止めさせたが、人を殺すことはもうなかった。事件を目撃した西洋人を驚かせたことは、そうした叛乱劇が、突然に麻痺状態となって叛乱が終幕すると、1,483名# 8の兵士たちは東京中心部の完璧な占拠地帯に、〔それ以上の作戦展開もなく〕取り残されたことだった。

 叛乱軍が日本帝国の中枢部を掌握したそれからの三日間、裕仁は自分の対処に不満な高官全員を相手に、暗黙の権力闘争を繰り広げていた。そして裕仁は自ら、ほとんど独力でそれを闘い、三つの主要な政治抗争に勝利をあげた。すなわち、彼は、叛乱軍が降伏するまで、次期政府のいかなる政策や人事にも譲歩することを拒否した。次に彼は、陸軍が、叛乱軍の鎮圧のみならずその蜂起そのものにも全面的責任があり、その責任をとる場合も、現人神としての裕仁の力に何らの依頼もあってはならない、と釘を刺した。さらに彼は、宮廷高官や皇族に断固とした態度をとり、公然と異論を表す者らには、それを厳しく圧した。

 # 8 1,359名の兵士、91名の下士官、21名の将官、3名の医師見習い、8名の民間人、そして、1名の予備兵。 (65)

 叛乱が鎮圧された時、裕仁の宮廷人たちは、この三日間に宮中で生じた諸事についての見解を宮廷内に広げたが、彼らの日記が物語るように、それは虚偽であった# 9。つまり 〔そうした見解とは〕、来る戦争という賭けが裏目に出た場合の反作用から天皇を守り、また、裕仁は任務のない叛乱軍兵士に仕事を与え、対中戦争の準備に同意することを強いられていたため、と言うものだった(66)。だが真の状況は、侍従長の本庄の日記に如実に表現されている。すなわち、蜂起の前日の2月25日、天皇は、戦時の足がかりを固めるために北中国の天津駐屯軍の編成拡大を認めた、と本庄は記している。そして天皇は本庄に、その編成拡大は、「外国の不信感を刺激してはならず」、かつ、「(満州征服の前に)我々が関東軍を再編成した場合のように、統制を不便なものにしてはならない」 と、〔その真意を〕告げている。

 裕仁が本庄に説明したところでは、 「要は、我々が何をするかでなく、我々のすることへの世界の反応だ」、だったのである(67)。

 # 9 最近まで、文献証拠がないために、歴史家はそれを受け入れるしかなかった。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_50_20_1.htm
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_50_20_2.htm


鎮圧(1936)
叛乱の夜明け

 叛乱兵やその支持者に対する裕仁の圧倒的勝利は、早朝の最初の暗殺の数分前からすでに始まっていた。午前5時、本庄侍従長は東京北西部の自宅で、第一師団の少尉によって揺り動かされて目を覚ました。その少尉は、同師団の500名の士官と兵士が叛乱をおこしてすでに兵営を出発し、それ以上の将兵がそれに続いている、との娘婿の山口大尉からの知らせを持ってきていた。本庄は立ち上がると、ただちに戻り、山口大尉に、兵士に叛乱をやめさせ、兵営に戻させるよう、その少尉に命じした。

  「しかし、もう手遅れです」 と少尉は答えた。

  「最善をつくせ」 と本庄は命じた。そして電話に向かい、憲兵隊司令官と、天皇の寝室の近くに控えている宮中の夜勤番の侍従に電話をかけた。二人とも落ち着いており、当たり障りのない返答だった。本庄は車を呼び、宮中へ向かった。その途中、皇居のすぐ西にある英国大使館付近で、ほぼ一中隊の兵士たちと遭遇した。彼は、その兵士たちの軍服から、精鋭の近衛部隊の宮廷護衛部隊ではなく、彼の娘婿の属す第一師団の叛乱兵だと判断した。だが彼は、車を止めて彼らにそれを確かめようとはしなかった。

 本庄は、午前6時、内宮に到着し、裕仁がすでに起床し、執務に付いているのを知った。数分して天皇に謁見すると、天皇は彼に、 「直ちに事件を終わらせ、この災いを転じて福となしなさい」、と告げた。そしてとがめるよう加えた。「侍従長、お主のみが、この事件が起こると予期し、案じていたね。」

 自分の娘婿のことを想い浮かべながら、本庄は答えた。 「若手士官たちはただ、自分みずから、すべてをおおう天皇の正しき世界の中に、彼らの正義感を託す場所をみつけようとしているだけなのです。」(68)

 木戸幸一侯爵――二ヶ月前までは牧野内大臣の、15分前までは斎藤内大臣の秘書――は、午前5時20分、その斎藤内大臣が襲撃されたと伝える宮廷からの電話で起こされた。木戸は即座に、「重大事件であることをさとった」。彼は警視庁に電話を入れたが、叛乱軍に包囲されていて、誰もが制約を受けずには話せないでいることを知った。 そこで彼は、公用車の車庫に電話し、直ちに宮廷まで行ってっくれるように頼んだ。その車の到着を待つ間、木戸は、近衛親王と西園寺のスパイ秘書の原田に電話して、そのニュースを伝えた。

車が到着すると、彼は用心深く、叛乱軍が占拠していると思われる地区を迂回して、遠回りするように指示した。(69)

 午前6時、皇居外苑にある宮内庁の自分の机に着いた。そこで彼は、状況を掌握するため多くの電話をかけたが、その一本は、6時40分の興津の西園寺宅にかけたものだった。電話に出た女中は、確かに老主人とその家族は静かに就寝中であると告げた。木戸は、西園寺が数マイル離れた静岡県知事公邸にいることを、知っていたかどうかについて、どこにも明らかにしたことはない。木戸は自分の日記に、「大いに安心した」 とのみ記入しているだけであった。(70)

 あまたの電話で出来る限りの情報を得た後、木戸は、宮内庁内で、スパイ秘書の原田の到着を待った。彼は、叛乱軍兵士に検問された時に備えて、宮内省の証明書を手に、午前7時ちょっと前に、徒歩でやってきて、木戸からの指示を受け取った。その受領後、原田は、皇居北の門に向かうのでも、また、任務として西園寺に仕えるため興津に向うのでもなく、叛乱兵士の占拠する地区の自宅に戻り、次の二日間を、近所家の隠れ家から、通常のように電話をかける作業で費やした(71)。

原田は察知していなかったかもしれないが、彼は、 「お節介な小男男爵」 として、叛乱士官の持つ 「発見次第射殺」 のリストにあがっていた(72)。そういう彼は、自分の近所宅に潜みながら、勇敢なスパイ役を演じていた。彼は木戸と綿密に電話連絡を取りながら、夜には危険をおかして外出し、叛乱軍の野営を監視していた。

 木戸は、原田に指示を出した後、皇居内の庭園を歩いて横切り、内宮の裕仁の居住兼執務区画に入っていった。そして、裕仁の執務室の外にすでに集まっていた、侍従武官、湯浅宮内省大臣、広田副侍従長に合流した。彼らは、木戸が電話でその情報提供者より収集したものより、さらに新しい情報を彼に与えた。それによると、侍従長、首相、蔵相、そして内大臣、の全員が襲撃されていた。信頼されている天皇の他の寵臣と同じく、木戸はその後一週間、宮廷にとどまりつづけた。彼には、皇居図書館の裕仁の執務室から廊下を行った先に、仮の小寝室が与えられた。彼は、その侍従の部屋の畳部屋に、布団をしいて寝た。彼は、24時間、いつでも天皇の呼び出しに備えていた。(73)


蹶起趣意書

 2月26日午前7時、川島陸相は、自分の寝室からようやく階下に降りて来て、邸宅の一階を占めた叛乱軍士官と言葉を交わした。彼らは陸相に、蹶起趣意書の正本を渡してそれを天皇に提示するように要求し、その写しの文書は、占拠地区のいたるところに張りだされていた。そこに明記されていた要求事項は、政府は天皇の執権の全面回復を宣言し、陸軍は派閥主義を撤廃し、それまでの陰謀の「首謀者」 である南、小磯、建川、そして宇垣各将を逮捕し、裕仁の特務集団の将官は軍職から追放され、荒木大将を関東軍の司令官にして 「ロシアを威圧し」、そして、陸相はこうした要求を天皇に提示するに先立って、北進派指導者の真崎と協議するよう求めていた。その文書はまた、陸相が、副陸相で天皇が信頼する航空専門家である古荘幹郎中将、および、宮廷の隠れたスパイ――叛乱軍人たちには知られていなかった――である山下奉文少将と話し合うことを推していた。川島陸相はそうした要求を重々しく聞き取り、自分ができるだけのことをする旨、約束した。(74)

 午前8時、海軍軍令部総長の伏見親王が宮中に到着し、すぐさま裕仁に謁見した。彼は、各艦隊は、横須賀海軍基地から東京湾へと航行中であり、天皇の号令ひとつで、叛乱軍地区への砲撃の準備が整っている、と報告した。そして同時に彼は、新内閣を直ちに組閣し、叛乱軍に少々の譲歩を見せるよう助言しようと考えていた。叛乱軍の多くは、秩父親王の親しい友人であり、彼らを余りに過酷に扱うのは良くなかった。天皇は同意したのだろうか?(75)

 それまで伏見には賛成できないことが多くあり、また、議論にも巻き込まれていたことを知っていた裕仁は、ただこう答えた。 「私は海軍の状況について、貴殿の報告を求めただけだ。この事件に関する私の意見については、すでに宮内省大臣の湯浅に述べてある。」

  「それでは、湯浅に伺ってよろしいでしょうか。」
  「その要望については、返答はまたの機会にしよう」 と裕仁は返答し、伏見親王は退席した。憤懣やる方ない伏見は、大兄で賞勲局長の木戸のところに直行し、すべたの親王たちに、そのいざこざの件をつたえるよう、命じた。
 午前9時、川島陸相は、叛乱軍との遣り取りを終わらせて直ちに宮中に到着し、天皇に謁見した。彼は、叛乱軍の蹶起趣意書# 1の巻物を提出し、それを天皇に慎重に読み上げた。(76)

 # 1 私 〔バーガミニ〕 は、蹶起趣意書の原文を以下に引用する。その深遠で近づき難い印象は、要約を許さないためである。そして、これまでに存在する唯一の翻訳版は、1936年にニューヨークタイムスの東京事務所で日本人翻訳者によってなされた独特の文体をもったものである――それは、日本近代史の数冊の文献に様々な形で引用れている――。それは、原文の内容をおおむねは表わしているが、手が加えられ、その灼熱地獄のような特性は失われている。

 〔訳注〕 以下には、英語訳の邦訳に加えて、原文のままの引用も掲載。(ただし、カタカナ書きをひらがな書きに改め) 。

         国体を護持する直接行動のための趣意書 (77)
 永遠の神、天皇に、その統率の下にある我々は、神国の子のそまつな見解でありながら、この不満の意を提出する。我国の本源は、なによりも、一体をなす単独国家の継続的発展の成就と、天の下の全地球の包含にある。至高の優秀さと国体の尊厳は体系的な成長と、神武天皇による国の設立以来、明治維新よる社会変革にいたる注意深い養育によるものである。いまや再び、時勢の秋に到達し、我々は広く外地領土に挑み、新たな光明へとの眼に見える進展を遂げならない。

 先の危機的時代にもかかわらず、いかがわしい不逞の徒が雨後の竹の子のごとく続出して、我々は、我利我欲にふけり、皮相な形式を許して皇位の尊厳を傷付け、すべての人々の創造的前進を阻害し、我らを怒りと悲嘆のうちに苦しませている。日本は益々と外国とのいざこざに巻き込まれ、時の潮流に押し流され、外国のあざけりの的となっている。元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は皆、指導者としてこの国体を破壊に導いてきた。

 (中略)三月事件や、えせ学者、えせ共産党員、逆賊的教団等が徒党を成して陰謀を企て、気付かれないままに、最も著しい事例を作ってきた。その悪事は血で天地をけがし、流血が義憤を表す時代に至っている。血盟団の犠牲的先進性(中略)、5・15事件の噴出、相沢中佐の刀の閃光は、彼らがなすべき理由と彼らを嘆かせた理由をまさしく物語っている。

 今のこの終末に至ってもなお、僅かな反省と忍耐のために、幾度にわたって、生き血がこの地を濡らすのか。かつての如く、ただ時を費し、あるいは、我欲と保身をむさぼっている。今や、ロシア、中国、英国、そして米国とは、一触即発状態にあり、神国を狙い、我が文化と祖先以来の遺産の破壊の寸前にある。これは火を見るより明らかなことではないか。実際、内外には深刻な危機が存在し、無能議員や無能家臣が国体を弱体化し、皇位の神聖なる輝きを曇らせ、維新を遅らせている。(中略)

 第一師団の海外移動の天皇命令を受け取った今、・・・国内情勢をかえりみらざるを得ない。・・・出来うる限り、我々と同志の精神は、宮廷の内壁を壊し、逆賊を斬首する自らの努めを果たさねばならない。我々は、単なる家臣でありながら、皇位より信頼された部下として正道を進まねばならない。たとえ、我々の行動が自らの命や名誉を害そうとも、我々にいささかの動揺もない。


 同じ悲嘆と意志を共有する我々は、この機会に決起する。逆賊を討伐し、至高の正義を正し、この聖地の子としての使命を全うし、我が全身全霊をその火に投じる。我々は大神と祖先に礼拝し、その恩恵とご援助を賜わらんことを。

 昭和十一年二月二十六日

                 蹶起趣意書(原文)
 謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。

 然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我慾を恣(欲)にし至尊絶対の尊厳を藐視し僭上之れ働き万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随つて外侮外患日を逐うて激化す、所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。

 倫敦軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件、或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にしてその滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、而も幾度か頸血を濺ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕らしむるは火を見るより明かなり。内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮し稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずして皇謨を一空せん。

 恰も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍の我等同志は、将に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡状憂心転々禁ずる能はず、君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし。

 臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪を翻すに由なし、茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神州赤子の微衷を献ぜんとす。

 皇祖皇宗の神霊、冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを。
 昭和十一年二月二十六日


 裕仁は読み上げられる趣意を黙って聞いていた。その高揚した言葉と武士道精神の背後に、彼は、自分の戦争政策への完全な否定を見出していた。その隠された、含みをもった形式に、叛乱兵たちは、今後の外交的混迷の危険の沈静と、彼の精力を国家改造と日本の伝統である素朴な情念への献身を裕仁に請うていた。

  「口実がなんであろうと、私は不興である。彼らはこの国に泥をぬった。陸軍大臣、貴殿に、即座の鎮圧を命ずる」(78) と、裕仁は冷たく言い渡した。

 川島は、自邸を占拠した兵士たちに与えるいくらかの猶予を得ようと努めた。しかし裕仁は川島に、皇位がその趣意を聞きとったこと以外には、皇位によるいかなる同情も理解の意をも表すことを禁じた。


戒厳令初日(79)

 川島陸軍大臣が自分の苦境について考慮するために退席すると、直ちに裕仁は、軍事参議院のすべての将官と、個々に面会を始めた。彼らはその途上、陸軍の叛乱兵によって支障はうけず、また、皇位に自らの忠誠を示し助言を献することに篤い自負を抱く彼らは、全員、まだ閣僚や大将の欠席が目立ったその朝早くから、宮廷に参上してきていた。裕仁は、陸軍は彼ら「暴徒」 を鎮圧して責任を果たせと、彼らにその一点のみを強調した。もしそれができないのなら、海軍に命令を出し、それでもだめなら、自ら現地に出向く積りであった。

 天皇が、責務を負う陸軍長老らに自ら指示を与えている間、陸相公邸で指揮に当たる六名の若手将校は、要求に対する回答を待ちながら、中庭において、助言や希望を言って絶え間なくやって来る上官たちに対応していた。実際、それは信じがたいことであったが、陸相公邸や近くの陸軍省、参謀本部での業務は、叛乱兵たちがその戸口のいたるところに立って警備線を設けているにも拘わらず、順調に続けられていた。

 午前10時、片倉衷〔ただし〕少佐――満州事変当時の南陸相の甥――が川島邸に通常連絡任務でやって来た時、そうした状況の不調和が露呈した。片倉少佐は、1934年の士官学校事件を暴露する手助けを行い、その際、今度の叛乱に参加している多くの若手士官を裏切っていた。驚くまでもなく、そのうちの一人で、小冊子を作成した磯部――不名誉な退役処分となった――が、その彼の頭への一発の弾丸でそれを迎えた。片倉は、後にビルマで不運にも連合軍の捕虜となり、1944年に殺された 〔これは誤りで1991年死亡〕 が、その時は浅い傷で済み、回復した。彼の同僚の士官たちは、その負傷は当然のこととして受け取り、それ以降も、公邸に出入りする訪問者は続いた。

 正午、最後の軍事参議官が謁見をおえた時、川島陸相は、山下少将を宮中の侍従武官室から叛乱軍へと派遣し、返答を与えた。それは簡単なもので、 「天皇は諸君の意図はお聞きになった。陸軍大臣は諸君の動機の真摯なるものを認める。軍事参事会が招集され、国体の保持が決定された。」

 この通知ほどの致命的なものはなかった。血に染まった若い叛乱者は、彼らに対する天皇の、氷のような態度を感じ取った。彼らの敗北であった。もし彼らが空しく死ぬのであるなら、彼らは、最後の一人まで占拠を守り通すことを、山下に宣言するしかなかった。

 山下は宮廷へ電話した。彼は対話を続けよと言われ、部隊の増強が確約された。そしてすぐ後、顔の広い鈴木貞一大佐――天皇に近い人物として知られ――と、第一師団司令官、小藤恵大佐――時分の指揮下にある若手士官への責任を負っていた――が、交渉チームに加わった。

 交渉が、愛国的精神論に足をとられて遅々としている間に、裕仁は、国中で最高の各諮問団を招集し、その午後を彼らとの対応で過ごした。つまり、宮廷のある一室では、天皇の臨席のもとに枢密院会議が開かれ、他の一室では、ようやく宮中へと到着した内閣閣僚が集まっていた。第三の部屋では、軍事参議院が招集されており、北進派指導者の荒木や真崎が参加していた。内閣は、天皇から、岡田首相――その時はまだ押し入れの中に居た――を欠いた政府の継続について問われた。

 それは、長い午後だった。裕仁は、政府における何らかの変化は、改造への一歩であり叛乱の成果とみられかねないため、新首相の指名はしたくなかった# 2。それに、軍事参議官の責務を軽減することも、たとえ口先だけの懐柔だとしても、それを望まなかった。叛乱兵が兵営にもどった時、裕仁は建設的な政府を再開するつもりだった。従ってその時まで、何らの署名もせず、ただ不満足でいる以外、いずれの側にも立たないとの姿勢を維持した。

 # 2 岡田首相が生きているとの知らせは、憲兵がその日の午後早く裕仁に知らせたものと推定される。しかし、首相が占拠地区から脱出に成功した午後遅くになるまで、その存命の知らせは裕仁の周囲の宮廷人には知らされなかった。

 内閣は、内務大臣の後藤文夫を首相代理に選んだ。また、軍事参議院は、ついに、 「説得文」 と 「勅令」 を叛乱軍に発することに同意した。説得文は、「諸君は天皇の注意を喚起することを望み、それは達せられた。諸君の国体の顕現を望む真摯な願いは注目されている」 とのみ述べられていた。勅令は、「1935年度の国防計画にのっとり、諸君らの師団の他部隊とともに、諸君らは、東京防衛のための所定配置につくべし」 というものだった。

 一方、枢密院の御前会議では、天皇からの直接命令を出すことで、叛乱軍を解散させるのがよいのか、それとも、戒厳令を宣言し、鎮圧の責任を陸軍に与えるのがよいのかをめぐって討議された。裕仁は、自由な議論の外見を維持するための必要から、注意深く聞くのみで、何らの発言もしなかった。そこで彼は、採るべき第二の行動を起こし、簡単な便法に出た。すなわち、20ないし30分ごとに侍従武官長の本庄を呼び、あたかもニュースを聞くかのように、「陸軍は、気違いじみた叛乱兵の鎮圧に成功したかね」、と彼に尋ねた。そうしてついに枢密院は、しぶる陸軍に戒厳令を引くよう勧告することに同意したのであった。

 午後3時、第一師団は1935年度の緊急事態計画にもとづき、兵士を防衛配置につかせ、叛乱をおこした同僚兵士と切り離した。午後5時、実りのない半日の交渉の後、山下少将は、報告のために宮中にもどった。その際、三名の叛乱軍士官がその聖域内に入ろうと彼に続いたが、警備兵によって阻止されねばならなかった。

 山下の落胆する報告を聞いた後、湯浅宮内大臣は、信頼に足る家臣はすべてその夜は宮中に宿泊し、軍事参議院が先に決定した戒厳令をその真夜中より発令する、との裕仁の要求を伝えた。川島陸相はそれに従うことを確約したが、戒厳令が効果的かどうかを疑った。彼は湯浅内大臣に、次期内閣に陸軍が望む人物のリストを天皇に提示してもらえないかと要望した。湯浅はその要望を憤慨して拒否し、それを、天皇の大権の干犯であると決め付けた。川島陸相は、「狼狽した様子」 で、戒厳令本部の設置に取りかかった。大角海軍大臣が、午後6時30分、謁見を許され、暫定内閣と暫定首相を指名することで、国民の不安を解消してはどうかと嘆願した。

 天皇はこれを拒否し、 「もし陸軍がこの緊張を避けたいと望むのなら、言葉による確約をもらいたい」 と述べた。その夜、陸相公邸の五名の叛乱軍士官は、林、真崎、荒木、寺内ら、少なくとも七名の将官と対談した。こうした上級制服組の登場でも、膠着状態は打開できなかった。叛乱軍は先の要求を繰り返し、逆賊とすら呼ばないようにとつけ加えた。

 その夜、内閣は、二度にわたって解散した。最初は、午後9時、後藤代理首相が内閣総辞職を宣言した。それは、国家的な災難があった後に行われる、通例的な対応であり、天皇は、これも通例的にそれを却下したものだった。「平和と秩序が回復されるまで、むしろ真剣にその責任を果たすべきだ」、天皇は言った。

 しかし、今回はこれでは終わらなかった。天皇の前から退出した閣僚たちは、その午後をそこで議論して費やした控えの間に戻った。その朝の暗殺で怖れを抱き、また川島陸相になにがしかの同情を抱いて、各自の辞表をとりまとめた。彼らはその提出を午前1時に行った。裕仁は、それを受け入れる以外に選択はなく、それぞれの大臣に、「新内閣が組閣されるまで、政務に留まるよう」 命じた。彼は明らかに、困っていた。彼はその日、もう疲れ切っていた。

 裕仁自身の家族さえ、裕仁が危険なほど非妥協な態度をとっていることを案じていた。伏見親王と朝香親王は、皇族会議の開催を求めており、裕仁の弟、秩父親王は、彼らの肩を持ち、地方からその会議に参加するために呼び出されていた。内大臣秘書の木戸は、朝香親王と東久邇親王の立場を感じ取るため、その夕を二人とともに過ごし、彼らの忠誠を再確認して報告した。

 しかし裕仁は、再確認を受け入れる雰囲気ではなかった。彼は、その朝から着ているしわくしゃとなった軍服をまだ着けており、午前2時少し前、内閣から出された辞表を読むために座った。午前2時、彼は侍従武官長の本庄に電話し、寝床にいる彼を起こした。「川島陸相は辞表を出し、他の閣僚も同じだ。彼は、誰も同じ責任を負うと考えているのかね。そんな感覚で、陸相が務まるとは思えん。」

 本庄は、 「殿下はその後で、格子戸を通り、ご自分の寝室へ入られたのだと思います」 と、裕仁との電話を切ったのち、日記に記入した。


二日目(80)

 2月27日の夜が明けた、決起二日目、雪はやんだものの、寒さは続いていた。戒厳令はその未明、2時50分に公布された。午前5時、侍従武官長本庄は、伏見親王の私的訪問によって、宮中の間に合わせの寝具の中で、寝たりぬ目を覚まさせられた。伏見は本庄に、若手士官たちが夜中、伏見邸を訪れ、叛乱を解決する条件として内大臣の地位を求めてきたと報告した。むろん本庄は、それに言質は与えなかった。午前7時、裕仁の叔父、朝香親王は、裕仁の弟の高松親王を海軍士官学校に訪ね、裕仁が新内閣を早急に指名するよう、彼の後押しを求めた。だが高松はそれを辞退した。

 宮中では、侍従たちの控室が、まるで難民収容所の様相をていしていた。高齢の閣僚、将官、親王、侯爵らが寝巻姿で朝飯や茶をとり、寝心地の悪かった一夜の後、それぞれの会話を交わしていた。皇居の門外では、叛乱軍の歩哨が、雪の中を行き来していた。地下鉄〔「省線」 のことか〕の 「中央線」 は、運行を停止していた。ビジネス街や東京南部の港湾地区に通う通勤人たちは、皇居周辺の占拠地区を避けるため、何度も乗りかえを強いられていた。裕仁は遅くまで眠っていた。いつものオートミールと玉子のたっぷりな朝食の後、彼が机には向かったのは、8時と9時の間であった。

 侍従武官長の本庄は、天皇に朝の挨拶をしに行った際、彼の率直なほとばしる意気に圧倒された。 「もし、叛乱の暴徒たちが、陸軍最高司令官の命令にただちに従わないならば、私は自ら、彼らのところに出かけるつもりだ。」

 それに答えて本庄は言った。 「直接行動部隊の士官は、天皇の部隊に勝手に命令し勝手に出動を命じました。それは、天皇の統帥権を犯すことです。当然、それは許されざることですが、彼らを行動させている精神は考慮に値するものです。彼らは完璧に愛国的確信と国民に成り代わる思想によって行動しております。彼らの心には、陛下を強要しようとが、陛下の力を悪用しようとかと考える積りは毛頭ありません。」

 しばらくした後、裕仁は本庄を呼んで言った。 「彼らは私の右手である家臣たちを殺した。そうした凶暴なる士官には、いかなる心的動機があろうとも、微塵の弁明もありえない。私の最も信頼しうる家臣を倒すことは、真綿をもって私の首を絞めるに等しい勇気だ。」(81)

 本庄は答えた。 「老いた家臣を殺したり傷つけたりすることは、最悪の犯罪であることは言うまでもありません。しかし、彼らは混乱し誤解はしているものの、国のために行っているものと信じております。それが彼らの信念であります。」

  本庄は日記にこう記している。 「私はこう、いろいろ違った方法で陛下に申し上げた。」

 裕仁は、 「侍従長、そなたは、彼らの行動が、単に、私利私欲によるものだということが認められないのかね」、 と首をふりながら言った。

 本庄は、ふさわしい返答ができぬまま、日記にこう書きとめている。 「この日はまた、陛下はたいへん昂ぶっておいでで、行動部隊を鎮圧する陸軍の努力は、どこにも見られぬと言われた。そして私に言われた。『朕# 8は、近衛師団に命令を出し、自ら、叛乱部隊を鎮圧する』」(82)。

 # 8  「朕」 とは、中国のかっての皇帝が用いた 「我々」。この表意文字は、天の耳に話しかける月を表している。(83) 〔この説明はあやしさは脚注のように著者も気付いている。 「朕」 については、翻訳の他の個所ではあえてこの用語は用いず、 「私」 で通している。〕

 その日は丸一日、国民は緊迫にさらされた。そのさ中、裕仁は執拗に、少なくとも13回は本庄を呼びつけ、陸軍が行動を開始したかどうかを尋ねた。川島陸相と老将官のほぼ全員は、皇居から数地区北にある憲兵隊本部に、戒厳令司令部を設置する準備に追われていた。午前10時30分、近衛師団が叛乱軍占拠区画の北西角に、向かい合って陣取った。また、第一師団の忠誠を維持している部隊が、その南西および南東地区に配置された。占拠区画の北東部は、皇居のお堀でさえぎられていた。その日の午後、叛乱軍は皇族会館に押し入り、居合わせた人たちを片っぱしから取調べ、16人の侯爵、伯爵、子爵、男爵たちをひとまとめにして、その夕刻まで、拳銃を突きつけていた。

 西園寺のスパイ秘書の原田は、叛乱軍の警戒線を突破して潜入し、拘束されている皇族の幾人かと接触したが、その帰路、彼の顔を知る叛乱軍士官に阻止された。その士官は後にこう証言している。「もし彼が怖がっている様子を表わさず、あるいは、嘘をついて逃亡を図ったならば、自分は彼を殺しただろう。しかし、彼は、警告するだけで見逃してほしいと、いかにもか細い声で話していた。」(84)

 午後、事が沈静すると、誰もが、裕仁の弟で叛乱軍指導者たちの友人である、秩父親王が東京に到着するのを待ち受けた。秩父親王は、その夜に予定されていた皇族会議で、裕仁に何かを言ってくれるものと期待されていた。内大臣秘書の木戸は、ほぼ丸一日を費やして、朝香、東久邇両親王と 「打開策」 について話し合った。午後5時17分、秩父親王の列車が上野に着いた時、叛乱軍もしくは陸軍が親王を誘拐するとの噂があったため、彼は侍従や警察の厳重な警護で迎えられた。そして彼の車列は、およそ4マイル〔6.4km〕の市街を、サイレンを鳴らしてフルスピードで走り抜け、30分で皇居に到着した。彼は直ちに天皇に謁見し、天皇、皇后との内輪の夕食をとった。

 午後7時頃、彼らに他の親王たちが合流して、皇族会議が開催された# 4。侍従たちの話によれば、発言は申し合わされたもので、その雰囲気は上品なものであった。裕仁は、各々の親王に次々に質問をあたえ、用意された短い見解表示――中国をはじめとする様々な時事、長期軍事計画、そして国政改造など――に耳を貸した。しかし、その主要な懸念は、新内閣が早期に組閣されず、陸軍とともに譲歩が打ち出されなければ、叛乱軍の勢いが地方に広がらないかということだった。裕仁は親族に礼を述べ、そうした諸意見について検討することを約束し、午後8時30分、さしたる盛り上がりもないまま、会議は散会した。その後、秩父親王は大兄の木戸と、およそ30分間、話し合った。(85)

 # 4 皇室典範によると、 「皇族は天皇の配下にあり」、皇族会議は、 「成年に達した男子皇族によって構成される」 とある。加えて、天皇は、外部の立会者、ことに、内大臣、宮内大臣、法務大臣、最高裁長官の出席を求めることが予定されている。1936年段階では、16親王がその資格を有していた。そのうち、6名が「親王」、10名が「王」であった。6名の親王とは、裕仁の3兄弟に、皇族選挙によって親王となる、次直系の家族の3名の王子――陸軍参謀総長の閑院親王、海軍軍令総長の伏見親王、そして、1934年にヒットラーに会った狂信的な賀陽親王――を加えた面々であった。この2月27日の皇族会議に参加した親王たちは、弟の秩父、弟の高松、従兄の伏見、(全員が親王)、そして、叔父の東久邇、叔父の朝香、従兄の梨本、そして、閑院親王の息子の春仁〔はるひと〕(全員が王)であった。(86)

 その皇族会議は、二つの結果をもたらした。そのひとつは、小田原の別荘で意気消沈していた陸軍参謀長の閑院親王が東京に呼ばれ、 「たとえ都合が悪くとも」、天皇の背後に着くことを求められたことだった。翌日、閑院はそれに従ったが、どうしたことか、それから一週間、彼の君主とは会わせてもらえなかった。第二は、会議の夜、秩父親王が、友人で叛乱軍の最高の地位にある、野中大尉あての私信を書き、彼の部隊の撤退を懇請したことだった。野中は、一日考えた末、自分の口に拳銃をくわえて引金を引くという返答を行った(87)。侍従らは、親王たちが自分と叛乱軍下士官たちとの交友や交際関係がゆえに狼狽させられていながら、それでもそうした紛糾の中で、裕仁の側についているのを見て安堵していた。秩父親王は、午後9時10分、警察の護衛とともに宮廷を後にした。

 翌朝、裕仁は、皇族会議についての見解を、宮廷の公式記録とするため、大兄の木戸――賞勲局長――に次のように報告した。 「高松宮が最も良ろしい。秩父宮は、5・15事件の時以来、大きく成長した。梨本宮は、〔この叛乱軍に〕私の恩赦を求めた時、涙を浮かべていた。私は彼を立派だと思う。春仁〔閑院の息子〕は気品がある。朝香親王は、正義の個人にとっての意味と、皇位の大義におけるその位置をのべたが、過激思想の影響を受けており、欠点がある。東久邇親王については、いい感覚を見せていた。」(88)

 裕仁は、一族の模範を示す者として、東久邇親王の最近の恐喝事件と宗教詐欺に関する警察文書を読むことを求められていた。だが天皇は、自分の親族を、通常の日本人の道徳観によってではなく、いかに忠義であるかどうかという基準で判断した。平穏な皇族会議で彼は、自分の親族にただならぬ支配力を証明して見せたのであった。

 会議が解散してしばらくして、真崎、阿部、西の将官たちは、陸相公邸におもむき、その一階で指揮をとる五人の叛乱軍士官に、望みを捨てて天皇の意志に従えと告げた。もし、彼らがそれに従わない場合、北進派の指導者真崎は、彼らを鎮圧するため、自ら特派部隊を指揮せねばならぬと宣告した。疲労し、悲嘆にくれた若き兵士たちは降伏に合意した。午後11時30分、三将官は、近衛師団と第一師団の歩哨に、その夜、叛乱軍占拠地区から脱出しようとする一般兵士には寛大であるようにと命令を出したと、宮廷に報告した。

 しかし、それで事が終わったわけではなかった。叛乱軍は、あらゆる機会を通じて、東京郊外の隠れ家にいる急進的北進派理論家北一輝と、無線連絡を取り続けていた。職業革命家としてのそれまでの長い経歴の中で、北は、クーデタの策謀への表立った参加は避けてきていた。しかし今回は、彼はもう深く関わり、もし叛乱が失敗した場合、処刑される恐れがあった。それまでの二日間、彼は無線機に付きっきりで、その度ごとに叛乱軍を勇気付け、政治的駆け引きの助言を与え、また、霊媒の力をもつとの評判のある妻によるお告げを伝えていた。

 その2月27日の夜、三将官が陸相公邸を引き上げた後のほぼ深夜、北は二人の叛乱士官と話し、まだあきらめてはならず、宮廷への圧力は高まっている。しかし、もしすべてが裏目に出た場合、彼らには審判なしの略式の死刑が科されるだろうと告げた。そして北は、その若手士官たちに、妻が見た夢の話を付けくわえた。それは、貧困のない極楽浄土で若手士官たちが勝利を祝い会っていた。叛乱軍はそれに聞き入り、それに賛同した。

第三日(89)

 決起二日目の2月28日は、再び、曇天だった。侍従武官長の本庄は、午前7時、反乱事件の核心が変化したことを知らされた。すなわち、反乱軍は鎮圧されなければならぬ、というものとなった。ということは、本庄の娘婿、山口一太郎大尉が、いまや明白な反逆者と化した者たちに援助の手を貸したということで、刑務所送りとなることであった。それはまた、本庄自身の長年の忠義の経歴が恥辱にまみれるということでもあった。後に、彼の知人たちが語った話によれば、彼はその日一日で、一挙に、十年以上も年老いたということだった(90)。

 午前11時頃、山口は戒厳令本部へ行き、叛乱軍を武力鎮圧する発令に対し、ほとんど一時間もかけて、それに反対する演説を行った。将官たちは、それに完全な同情をもって聞き入ったが、何も発言はしなかった。正午前、戒厳令参謀の石原莞爾大佐――満州作戦を立てた頭脳明晰な〔日蓮宗〕信者で、以来、対中和平を唱導してきた――は、長い会議机の端から立ちあがって言った。「我々は、出来る限り速やかに、鎮圧せねばならぬ」(91)。 そして彼は部屋を出て、外の使いに、発令書を配達するよう命じた。

 第一および近衛師団は、一団となって鎮圧にあたり、叛乱軍のバリケードを爆破する計画に入った。叛乱軍士官は、 「降伏せよ、さもなくば鎮圧される」とのラジオ放送を聞いた。それに対し、叛乱軍は、 「皇意を過させる機関説論者によって成された命令には従えぬ」 と返答した(92)。

 この段階では、秩父親王の伝言が野中大尉に伝えられ、また、山下少将が妥協に持ちこむ最終案を持っていたため、包囲する鎮圧軍には、 「待機」 と命令されていた。バリケード内での交渉の後、山下は川島陸相を伴って、午後一時、宮中の侍従武官室に戻った。そして山下は本庄侍従武官長に、叛乱軍士官からの誓約――それが作法に則ったものであると天皇に伝える勅使の立会のもとで、全員が自決する――を伝えた。本庄は直ちにその提案を裕仁に報告した。

  「もし彼らが自殺したいのなら、勝手にさせなさい。そうした物たちに宮廷から立会人を送るのは、ともあれ、ありえないこと」、と裕仁は言った。

 本庄は、自分の娘婿が士官を勤める第一師団は、以前の同僚に対して行動をしかけるのを嫌がっています、と哀れっぽく訴えた。

 裕仁は声に鋭利さを込めて言った。 「もし第一師団の司令官が有効に行動できると考えないのなら、彼は自分の責任が何かが解っていないことだ」。

 本庄は 「陛下に、そのような厳しさと怒りを見たのはかってなかった」 と目を見張らされていた。陸軍の指導者たちは、自決提案への裕仁の拒絶に唖然とさせられていた。娘婿の山口は、悲嘆と不可解の中で本庄に電話し、再度、天皇に働きかけてもらうよう懇願した。本庄は山口に、天皇はすでにいかなる曖昧さも含まない決断をし、さらに表すものは何もないだろう、と説明した。それでも、なおも働きかけを求める娘婿に、本庄は、悲しげにその電話を切った。(93)

 午後3時、無頓着な参謀次長の杉山――その表情は 「まるで湯殿の扉のようにぼやけていて」 ――は、裕仁に謁見を求め、さらなる説明を願い出た。誤解があると彼は言い、叛乱者は、自分たちの自決に勅使の立会いを求めているのではない。ただ、ある家臣が、彼らの遺体を見届け、陛下に、決まり正しく腹切りの儀式を果たしているかを報告してほしいのみである。裕仁は、怒りを再燃させて、その新たな面子作り措置を見捨てた。この報が知らされた時、叛乱軍のある士官は、「しかし、飛行機事故ですら、陛下には報告されるだろうに」、と嘆きながら言った。

 杉山参謀次長が天皇のもとに戻り、ほぼ一時間を要して、天皇をもっと慈悲深くさせようと、あらゆる手練手管の努力を行った。そして最後には、廊下に身を横たえ、天皇に、自分を踏みつけてもらいたいとすら訴えた。天皇はただ、彼をまたいで通り過ぎ、隣室で待ちうけている次の用件に取り掛かった。午後4時30分、結局、杉山と戒厳令軍# 5司令官、香椎浩平〔かしい こうへい〕中将は、その日の鎮圧行動はすでに遅すぎ、翌朝、一番に第一行動がとられると天皇に確約した。だが裕仁はそれを素っ気なく却下し、本庄侍従武官長を呼び、陸軍指導層のおしなべての不服従を非難した。

 # 5 少なくとも23,491の兵卒と350の将官が、1,483の叛乱軍に対し集結していた。

 裕仁は、 「陸軍は天皇に属すという話もあるが、陸軍は事件の重要さを意図的に回避しているとの話もある」、と言った。

 それに本庄は、 「軍事政府を樹立しようとの意図のもとで、目下、陸軍は陛下のご意思に従うことを回避していると、この数時間、人々は申しております。こうした声は天皇の陸軍を極めて侮辱し、事件を速やかかつ平和裏に解決しようとしている陸軍の真摯な努力を無視するものです」 と返答した。本庄は後に、日記に次のように記している。

 私は陛下に、陸軍に対する世論の誤解は、聞くに堪えられぬほどに厳しい、と申し上げた。そう言いながら、感情を押さえることができず、悲嘆にくれてしまい、話すこともままならなかった。陛下は一言もおっしゃらず、部屋を出ていかれた。

 ひと時して、陛下は私を呼び、おっしゃられた。 「侍従武官長、陸軍に対するふとどきな非難が高じ、そちはそのように涙して、その理由を示してくれた。だが、もしこの事件がすみやかに解決されねば、よろしくない事態が起こる。すでに三日が過ぎ、政府の地位は揺らいだままだ。外国為替はほぼ停止し、銀行取引がそうなるのも近い。政情不安は首都以外にも広がり、叛乱の危険もある。第一師団の忠誠部隊も、我が部下を殺し、長老たちに野蛮な行いをした同志たちと合流するやも知れぬ。ゆえに私は貴殿、侍従武官長に、自身の異論と感情を軍事参議院で表明するよう許可を与え、状況を直ちに解決するように求める。」

 本庄は、軍事問題に関し、すべての天皇の見解に成り代わる公的責任を負う立場にあった。過去において、この両者の間に見解の違いがあった時、裕仁がその老将をなだめたり、自分が譲歩したりしてその違いを埋めてきた。だが今や、裕仁は特別に、その本庄をそうした責任から解き、〔軍事参議院にのぞみ〕その彼の異論を公式記録に残させようと求めていた。そして同時に裕仁は、本庄に厚く信頼をおいており、腹心としての任務から解こうとしていたのであった。

 (本庄の日記によると) その求めに従い、私は軍事参議院に、代表者を私の部屋によこすようにと求めた。北進派の荒木大将がやってきたので、私は彼に、一方で自分自身の心情と、他方で、天皇のご意志を伝えた。すると荒木大将はこう言った。 「これまで、天皇の命令は、軍事作戦を除き、有無を言わせぬものであると心得ておりました。」

 59歳の荒木、60歳の本庄の二人の大将は、たがいに物悲しく見つめ合った。二人は、1989年に陸軍士官学校を卒業した同期生であり、それ以来、参謀本部において、さまざまの任務を共に果たしてきていた。二人は、過去において裕仁が、異なる意見の助言者の間から選んできたのを知っていた。また二人は、裕仁が、自分が欲する行動を提案している助言者を見つけるために、自分の道を外すことも知っていた。しかし裕仁は、それまでに決して、軍事参議院の助言を無視したことはなかった。だが今や、その35歳の現人神は、菊の御簾の内から出現し、専制的責任の全てを負おうとしていた。その二人の年長の大将は、互いに軽く礼をした後、その皇意に頭を下げた。その後、陸軍のすべての長老は、あたかも自らの責任はないかのように行動し、ただ、他の者に追随するようになった。それは歴史的瞬間であり、その二人の大将は、まゆをわずかに動かす以上の食い違いもなく、それを認めたのであった。

 軍事参議院は、裕仁を危険な地位にさらすことから予防するための一つの努力を行った。午後7時30分、一組の代表団――荒木陸相、前陸相の林大将、そして参謀次長の杉山中将ら――は、小田原からの列車で着いた閑院親王と会い、裕仁の考えを変えるよう彼に説得してもらおうと試みた。閑院親王はそれを断り、自邸へと引き上げていった。陸軍長老からなる代表団は戒厳令本部へおもむき、そこで将校との会議を開き、状況を説明し、「陸軍の軍紀を破壊する武力制圧は、いかなる犠牲を払ってでも避けねばならない」 という意見を共有することに努めた。

 戒厳令軍参謀、石原莞爾大佐――満州作戦立案者――は、正午以降、自分の発した命令が遮られていることを見ていた。その意図は理解されておらず、石原はそこで立ち上って、その代表団を率いる荒木大将を凝視し、そして言い放った。「これは統帥権の干犯である。貴殿の名前と階級を名乗られたい。」

  「貴様は私が荒木大将とよく心得ておろう。貴様は上官に無礼を働こうとするのか。口を慎め。」

 それに石原は、 「できませぬ。皇軍を皇位に対して用いることは、断じて許さざることであり、常識を越え、軍紀どころの問題ではありません。貴殿は自ら大将と称されるが、日本にそうした愚かな大将がおられるとは、信じがたい」、と応じた。(94)

 この信義厚い憤激の表出がゆえ、石原は、数ヶ月後の大粛軍において、陸軍内に留まり得た。その後石原は、 「最後の北進論者」 と認識されるようになった。彼がつかつかと指令室から出て行った後、荒木やその他の大将たちは、翌朝に計画されている鎮圧行動を阻止する何の手だてもなかった。しかし、彼らは香椎戒厳令司令官に、武力によらず、叛乱軍を出来る限り説得するようにと説いた。その夜を通じ、ラジオ放送や叛乱軍の周囲を走るトラックが、「降伏か、さもなくば鎮圧化」 と繰り返した。上空を飛ぶ爆撃機からは、下士官や兵卒は恩赦されると書いたビラが投下された。夜明けには、叛乱軍に、妻や子供たちのために降伏せよ、と示したアドバルーンが上げられた。

 その夜、山口大佐――本庄侍従武官長の娘婿――は、憲兵により大逆罪の嫌疑で逮捕された。


裕仁による解決 (95)

 翌2月29日、蹶起3日目の朝、第一師団の部隊は、叛乱軍の境界線の無防備な部分を通って移動し、予想される戦闘地区から民間人を非難させ始めた。また、叛乱軍側は、しだいに占拠地区の主要拠点へと集結した。午前9時、香椎〔かしい〕戒厳令司令官は、ラジオを通じて国民にこう通告した。 「若手士官たちは遂に、叛乱者と見なされる事態に至った」。午前10時、部隊と鉄条網によって彼らは閉じ込められ、動揺した叛乱軍兵卒が、二人、三人と、彼らの占拠地点の回りの雪の積もった芝生や広場を横切り、脱出を始めた。正午、秩父親王の友人の野中大尉は自殺した(96)。2時過ぎ、すべての部隊が降伏し、憲兵隊によって拘留された。

 裕仁は、最後の最後まで、疑念を頑固にも解こうとはしなかった。朝8時30分、陸軍の行動開始が最初に明らかになった時、内大臣の木戸は、裕仁に、「新内閣を指名して、国民を安心させては」 と助言した。だが裕仁は、 「制圧が完了するまで待ちたい」 と返答した。そして、制圧が終わった時、彼はそれでも満足していなかった。午後2時、彼は、興津に公式の使者を出すのではなく、電話でもって、西園寺親王に従来の要請――上京して首相を奏薦――を行った。腰痛を理由に、西園寺は、上京するまでに少しの時間が欲しいと返答した。午後4時、裕仁は西園寺に再び連絡し、組閣は緊急に必要で、出来るだけ早く上京するようにと告げた。

 西園寺が気持ちを整理している間に、一日が過ぎて3月1日を迎えた。この日は日曜で、東京はこの日曜ばかりは、、西洋伝来の休日を楽しんだのみならず、本当に疲労回復と休養の一日となっていた。だが、裕仁は例外だった。彼は朝早くに起床し、軍服を着け、夕方遅くまで机に向かっていた(97)。それは、その先の数週間に自分に課すつもりの日課だった。彼は毎日一時間の運動を断念し、3月18日には、主要家臣の代表がやってきて、掛け替えのない身体に配慮するように懇願しても、なおも格別な注意は払わなかった。裕仁は、最後の兵が降伏するまで容赦なく攻め立てない限り勝利は危うい、という軍事的金言をそのまま実行していた。

 3月2日、老公西園寺が東京に到着した時、裕仁の大兄たちが整えていた段取りは、ジュリアス・シーザーよろしく、彼らの指導者、近衛親王に、最初は首相の座、次に内大臣の座への就任を、それぞれ拒否するよう準備したものであった。それは、いざ中国との戦争が開始された時、その首相を近衛にする準備としての、手の込んだ芝居だった。近衛はそれまでいかなる公職にも着いたことはなく、ただ貴族院の指導者としてのみ知られていた。つまり国民には、彼が首相にふさわしい器であるとの考えが浸透する必要があった。そして、従順な人々は彼を受け入れたかも知れなかったが、陸軍が厳しい粛軍に面している時、彼はそれを受諾するわけにはいかなかった。だが、このことは、戦争中、彼の陸軍に対する指導性を弱めることにもなった。

 西園寺は、近衛の首相受入れの不誠実を明らかにさせようと努めた。近衛が各方面の有力政治家から推されているのを知って、西園寺は近衛と会い、彼がその気でないことを知った。新聞報道では、近衛の奥ゆかしさと称賛されたが、西園寺は近衛の辞退をよそに、それでも公式に彼を天皇に推薦した。裕仁は自ら、近衛の健康が充分でないとして拒否することで、前例をくつがえした。だが西園寺は、なおも自分の推薦を繰り返して主張したため、裕仁は慣行上やむをえず、3月4日、近衛を呼んで組閣を求めた。

 天皇との謁見を終えた近衛は、内大臣秘書の木戸に、 「まったく困っている」 と打ち明けた。一晩たった翌日、近衛は西園寺に再び会い、容赦を求めた。彼はその時、自分の医者の診断書を持参していた。それは、少なくともあと三ヶ月、その健康は職務を成し遂げ得るものではない、と述べていた。三ヶ月後とは、陸軍の粛正が完了する時だった。

 そこで西園寺は、近衛はこの危機の時にあっても、政府を引き受けるという天皇の命に従うことを拒否したと公表し、自分を後継する血縁者の経歴を台無しにすることも、不可能ではなかった。だが、長い議論の後、そうする代りに、西園寺は態度を和らげた。彼は、国のためとはいえ、自らの健康を犠牲にできない大政治家の苦しい立場を見たと、新聞記者に語った。そうする一方で、彼は謁見室に戻り、実に困惑させられることですが、自分の推薦を変えなければならないと報告した。そうして今度は、裕仁の側近集団のより下位の中年者、広田弘毅外務大臣を推薦した# 6。

 # 6 生え抜き外交官の広田は、地下組織の首領、頭山の手下としてその経歴を始めた。1921年に近衛親王と知己の関係となり、黒龍会の内部より、彼の情報提供者の一人となった。

 広田は、3月5日、裕仁より内閣を組閣するよう命じられたが、3月9日になるまでその職は与えられなかった。というのは、その4日間、軍および政界は、内閣の政治、人事の両面について、それぞれに無理な要求を突き付けていたからだった# 7。「広田の困難」、「政府を組めない日本」と、新聞の見出しを埋めている間に、裕仁は自らの強固な外交諸政策を押し通した。

 # 7 陸軍の強要で、牧野伯爵の娘婿、吉田茂――1946年から1954年の間、5度にわたって首相をつとめる――は、警察を管轄する内務大臣の地位より下ろされた。

 3月4日、裕仁臨席のもとでの枢密院は、叛乱軍の若手士官を非公開の軍法会議にかけることと決めた。ということは、その上告はできず、その刑の執行も直ちになされるということを意味していた。3月2日、陸軍の各大将は、「最近の許し難い事件」 の遺憾の意を皇位に表わすため、その全員が職を辞任した。3月6日、裕仁はその大量辞任を受入れた。それは、単なる形だけのものではなく、4月23日付をもって実行されるものであった。さらに、裕仁は三名の軍規上の例外を残すという規定上のきまぐれを認めた。すなわち、粛軍派指導者、寺内大将とその同僚である西大将および植田大将は辞任しなかった。その寺内は陸相となり、西は教育総監に、そして植田は関東軍司令官となった。

 宮廷の廊下を満たした抗議の声と小走りする足音が静まった時、自身の義務的退職を前に面子を失った苦痛な二週間を待たされていた侍従武官長の本庄は、その例外は「天皇の大権の行使」 とその日記に記している。同様な流れで、3月9日、裕仁は、軍事参議院と陸軍最高司令官のメンバー、閑院元帥、朝香中将、東久邇中将は辞職する必要がないとの措置をとった。

 3月9日、広田内閣がようやくに組織を固め、機能を成し始めた時、裕仁は国威の統一に専念し、朝から真夜中まで、反対派に対し、非機関説に立った教育をほどこした。そして彼は、国事文書の公式署名を、「大日本帝国大権」 から 「大日本帝国神聖天皇」 へと改めた# 8。彼は、その叛乱に加担した4連隊の廃止を考えていたが、天皇への忠誠に対する雅量を見せるため、連隊旗を残し、一部の部隊を維持することは認めた。

 # 8 それは、裕仁が一月末から考えてきた進展だった。

 それと同時に、裕仁は、国防のための新たな徴兵計画を案として承認した。それは、四つの部門からなるもので、その国防体制下にはさまざまな部署が設けられていた。その四部門とは、@ 「憲法条項に従い」 国会に図られる財務部門、A内閣に報告される戦略と総合計画部門、B首相に報告される動員および人事部門、そしてC天皇と少数の参謀将官のみが関与する詳細作戦部門であった。そしてこの1936年3月に組織された専門部署のひとつが、北京近郊での夜間作戦計画で、これは中国との全面戦争への口火となるもので、また16ヶ月後には実際にそうなった計画であった。

 この新国防計画の発足は、対中国戦に備えるというより、国の総合的戦力を構築するために寄与するものだった。日本は、中国戦に勝たねばならないだけでなく、西洋諸国からの介入を阻止せねばならなかった。広田内閣は、すでにその当時「準戦時経済」 として知られた統制計画を打ち立てていた。そして軍事支出はその後の12ヶ月間に三倍以上に膨れ上がった。赤字予算――叛乱で暗殺された賢明蔵相、高橋によって最低限に抑えられてきた――は、いまや時代の要請となっていた。工場の生産割り当てから為替交換まで、経済のあらゆる部門は、安易なお金の増刷と政府の厳しい統制に隷属するものとなった。

 これと同時に、陸軍の規模を17師団から24師団へと拡大するため、詳細な秘密措置がこうじられた。新設された7師団は、予備役から徴用された。対中国戦が開始される先立つ数週間のうちに、余りに手際よく、供給物資、将校、そして再訓練施設が用意されたので、そうした新師団は、一夜にして戦闘準備を整えることができた。こうして、もし公式記録をそのままに信用するならば、第114師団は1937年10月に創設され、ひと月も経たないうちに、中国内にあって、南京にむけて進軍していた。(98)

 陸軍の総体規模の41パーセントにもなるこの劇的な拡大が計画されている間、叛乱に憤慨していた裕仁は、それを指揮した士官の容赦のない粛清を命令し、それにより、その後の二年間、訓練将校に深刻な不足をもたらすほどであった。だが、その粛軍の必要に疑いはなく、また、3月3日の閑院親王と西園寺のスパイ秘書原田との会話に如実に語られているように、「過日の暴動に喚起されなければ進められなかったように――即ち、それが誰であれ、自らの内の臭いものにはふたをせよとの傾向の除去について――、我々には、陸軍の粛清を、容赦無き水準まで、徹底して成し遂げることが求められている。」(99)

 大掃除という誰も嫌がる仕事を担ったのは、粛軍派の寺内新陸軍大臣であった。1936年の3月から8月の間に、陸軍の八千人余りの士官のうち、二千人をお払い箱にした(100)。北進派の拠点部隊とともに、陸軍の戦略的頭脳の優秀な半数が、ほぼ一掃された。この粛清は軍の上層部にもっとも打撃を与えたが、その見返りに、新しく若い人材に昇進の道を開く結果となった。

 この天皇の専制的対処の後に不可避的に噴き出した憤慨や新たな政軍連携に対して、大兄たちの11人クラブはひとつの策を編み出した。それは、裕仁がふさわしいと判断できない内閣には彼が拒否権を持ち、また、その件に一切の形跡も残さないでそれが秘密のうちになされるというものだった。どの内閣も、陸軍および海軍大臣を含めなければならなかった。1913年に改定された法律は、現役および予備役の陸・海両軍大将の中から、その両大臣を選ぶことができた。ところが、現役将校のみが天皇の命令による拘束をうけたので、理論的には、西園寺が推薦する首相候補者には、天皇の許可を受けなくとも、閣僚大臣の一人を指名することができた。天皇は、当然に、そうした内閣の承認を拒否することはできたが、それは儀礼慣行にそうものではなく、彼の偏狭性を見せることにもなりかねなかった。5月初め、枢密院は、天皇臨席のもとで、陸海軍大臣は現役軍人のみに限るという法律改正を広田内閣に推奨した。

内閣はその改正に同意し、裕仁は直ちにそれに署名して改正法が成立した。5月18日、その改正は既成事実となり、ただそれがいつ発効するかのみが報道界と世間に知らされた。裕仁と宮廷内部集団は、その発効日議論を、望ましくない内閣の組閣を阻止したり、独自に〔宮廷の意にそわない〕目的を進める内閣をつまづかせるための常套手段とした。かくして 「軍」 という正体不明の怪物が跋扈をはじめ、恐怖をいだき、敬虔で、タブーを避ける国民は、そうした――叛乱以降、裕仁が名実ともに軍の最高司令官となった――現実にしだいに無知であるようになった。# 9

 # 9 1913年から1936年の23年間に、そうした選任は可能であったにも拘わらず、予備役軍人から両軍大臣が選ばれた事例はなかった。しかし、1944年、厳密には違法でありながら、裕仁は、ただ海軍人事部を呼び、米内という名を現役名簿に復活させるだけで、予備役の海軍大臣を生みだした。

 そうした重大な改変が日本の構造に加えられている一方、2・26事件の主唱者たちは、沈黙のうちに姿を消しつつあった。本庄侍従武官長は、最初、寺内陸相によってその職にとどまるよう勧められていた。3月8日、陸相は本庄に、「私こそ、多くの問題をかかえる地位におります。どうか辞職はなさらんでもらいたい」 と留意を勧めた。

 しかし3月16日、本庄は日記にこう記している。 「寺内が来て、娘婿の山口の罪状についての詳しい情報をくれ、心配していると言ってくれた。・・・その日、山口の家族が私の家に引っ越してきた。彼らの家具は、山口の実家にあずけた。娘とその子供たちを私のところで暮らさせたい、というのがその実家からの要望だった。」

 翌日の3月17日、本庄は皇位に自分の辞任の意志を伝えた。 「陛下は 『どの程度、そちの家族は関与したのか』と聞かれた。私は、 『どの程度は存じませぬが、目下お状況において、優先事項は陸軍の粛正であり、もし事例を示さねばないらならば、辞任する責任を感じます』とお答えした。陛下は、『それはそうであろう。よく考えておく』 と答えられた。」

 3月28日までに、その辞任は受理された。本庄には、お金、美術品、自身の机上の一対の文珍などが贈られた。 「これらを貴殿に贈りたい。私が長く使ったものなので」と天皇は言った。皇太后は、プラチナのカフスボタン、鮮魚、そして、彼女がこしらえたお餅を贈った。4月22日、本庄は、南大将――満州事変時、本庄が仕えた陸相――と伴に、予備軍に着くことを命じられた。

  「愛着の情を禁じえない」 と彼は記した。

 他の被疑者は、はるかに厳しく扱われた。無骨だが誠実な北進派の二番手指導者の真崎大将は、一年半にわたり、憲兵によって拘束された。1936年の最後の週、あくまでも罪状を認めぬ彼は、一ヶ月のハンストを行い、その最後には、水さえ拒否した(101)。病院に担ぎ込まれ、薬品の効果で健康を回復させられた彼は、結局、友人の荒木大将――北進派の一番の指導者――が 「歴史上もっとも長文の法文書」と言う判決をもって、無罪放免となった。その文書は、真崎の大逆罪へのすべての関わりを克明に指摘し、取って付けたような主文により、無罪を判決していた。彼の赦免は、近衛親王の努力――分派主義の傷を癒し、戦争に備える国民的一致を作ろうとする――が大きく寄与していた(102)。

 山下少将――宮廷のために北進派の兵卒をスパイし、若手士官の叛乱にはどっちつかずの態度を示した――は、朝鮮軍の旅団司令官に再任命された。それまでの数ヶ月間、彼は、宮廷からの指示を余りに広く解釈し、叛乱を煽り過ぎたためにその沈静化を難しくさせてしまったのではないかと案じていた。彼の妻によれば、彼は落胆し、民間の仕事を探し始めていたという。そして1936年12月、彼の宮廷での接点であった元侍従武官の川岸文三郎が、彼の上司の司令官として朝鮮に赴任してきた。川岸はその際、天皇からの感謝と激励の文書を持参していた。それを読んだ後、山下は大いに元気付けられた。そして彼はしだいに裕仁からの信頼を得るようになり、1942年には、帝国のためにマレーを征服することとなる。(103)

 叛乱に加わった若手士官は、銃殺刑に処せられた。相沢中佐――一番烏永田を暗殺した――は、叛乱後は閉廷されていた軍法会議に戻され、5月7日、死刑の判決が下り、6月3日、執行された。9日後、生き残っていた叛乱軍の19人の士官のうちの13人が、相沢に続いて銃殺された。彼らは全員、法廷でその意志と意義の申し立てをしたいと希望していた。だが彼らは、開廷の一時間前、軍法会議法務士官より、それが完全非公開で開かれるのを知らされた(104)。

 彼らのほとんどは、その死の直前、天皇に 「万歳」 ――天皇の永久の命を祈る――を献上した。うち何人かは、失望させられた友人、秩父親王に、せせら笑う万歳を加えた。「自分の遺体は貴殿にお任せします」 と言い残した者もいた。ある一人は、 「自分はそうした特権階級者らの深い反省を願う」 と叫んだ。別の者は、もの静かにこう言い残した、「天国行きを前に、皆が天皇陛下のために万歳を唱している。ゆえに自分も、天皇陛下万歳、皇国万歳を繰り返します。」 (105)

 また、他の者は、陸軍に関するいっそう困難なメッセージを発しようと試みた。 「日本人が皇軍への絶対的信頼をおこうとすればするほど、その信頼は裏切られる。ロシアは中央アジアでは無敵であり、それが日本に破壊をもたらすのだ」。北進派は、その東端のウラジオストックへのみ、ロシア攻撃を考えていた。中国の主要都市と農業生産地帯の掌握の後、裕仁がモンゴル砂漠を横切って、ロシアの脇腹、中央アジアに攻撃をしかけるべきだった。だがそれは、試みないで終わろうとしていた。

 2・26事件に関わった民間人が銃殺刑に処された時、北一輝――北進派の老練理論家――は、その居並ぶ銃口を見下して言った。 「座らなければならんのか、それともこのままで構わんのか」。そこで銃殺班が座らそうとすると、彼は叫んだ。「座らせたいのか。キリストや佐倉宗吾(1645年に磔刑にされた義民)のようには、立たせておくわけにはいかんのだな」。 だが、彼のこの皮肉に耳を貸す者はおらず、1937年8月19日、報道陣に注目されることもなく、彼の処刑は実行された。それまで、日本人は彼の苦難の運命論の精神を共有していた。それまで、日本人は自らを、隊列を組んで前進させてきた。そしてかくして、日本人は、中国との戦争開始を、あと一ヶ月後に迫らせていた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_50_21_1.htm
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_50_21_2.htm#kaiketsu

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/578.html#c4

[近代史3] 昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由 中川隆
5. 中川隆[-8768] koaQ7Jey 2019年8月18日 09:47:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3974]

櫻井ジャーナル 昭和天皇による日米戦争策謀論

櫻井ジャーナル2019.05.02

日本で天皇の代替わり儀式が行われる中、米政府はベネズエラでクーデターに失敗

 日本のマスコミは天皇が退位する、即位すると騒いでいる。彼らにとって天皇とは「至高の存在」なのだろう。日本は第2次世界大戦で降伏する前と同じように天皇制官僚国家であり、その元首は天皇だということである。


 しかし、徳川時代の天皇は忘れ去られた存在だった。当時の天皇は生活に困窮し、短歌を売っていたという話を聞いたこともある。徳川の拠点である江戸に住む人びとが「公方様」として意識していたのは徳川家だ。


 その忘れられた天皇を発掘し、徳川に代わる体制の象徴にしようとした人びとがいた。その人びとによって現在の天皇制、明治王朝が誕生した。その後ろ盾がイギリスの支配層だ。


 徳川から明治へ移行する時期、つまり明治維新の頃、イギリスはビクトリア女王が君臨していた。心霊術にのめり込んでいた人物として知られている。


 女王は夫のアルバート(ドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ公の次男で、夫妻はいとこの関係)からアドバイスを受けていたとされているが、それ以上に影響力を持っていたと思われるのがネイサン・ロスチャイルド、セシル・ローズ、ウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット(エシャー卿)、アルフレッド・ミルナー(ミルナー卿)など。


 言うまでもなくロスチャイルドは強大な金融資本の支配者でローズのスポンサー。ステッドはジャーナリストで、ブレッドはビクトリア女王の相談相手だ。後にブレッドはエドワード7世やジョージ5世の顧問を務めることになる。


 当時のイギリスはいわゆる産業革命で生産力が上がったものの、商品が思うように売れない。国内では貧富の差が拡大、民の貧困化が深刻になる。そこで始めたのが麻薬取引と侵略戦争。中国(清)の富を奪うためにアヘン戦争を始めたのが1840年。その年にビクトリア女王とアルバートが結婚している。イギリスが「世界経済の覇者」と呼ばれるようになるのはそれ以降だ。大英帝国とは侵略と略奪で成り立っていた。


 中国より前にイギリスが植民地化していたインドでは1857年に傭兵(セポイ)が武装蜂起、一般のインド人を巻き込んで大反乱になった。鎮圧されたのは1859年。その年にアヘンと武器の取り引きで大儲けしていたジャーディン・マセソンは日本へふたりのエージェントを送り込む。ひとりは歴史小説で有名なトーマス・グラバーで、赴任地は長崎。もうひとりはジャーディン・マセソンの創設者一族に属すウィリアム・ケズウィックで、赴任地は横浜。


 明治政府は1872年の琉球併合から台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争というように東アジア侵略を開始、その背後にはイギリスが存在していた。日本人はイギリスの支配者に操られていたと言える。


 そのイギリスは1899年からボーア戦争(南アフリカ戦争)を開始、金やダイヤモンドを産出する南アフリカを制圧する。その直前に南アフリカではダイヤモンドが発見され、その利権に目をつけたイギリスの支配者たちが引き起こした戦争だった。後に首相となるウィンストン・チャーチルもこの戦争で頭角を現している。この戦争で世界の金をイギリスが支配するようになり、金本位制を採用する国々の通貨も支配できるようになった。


 ちなみにチャーチルは貴族階級の家に生まれたが、父親のランドルフ・チャーチルは甘やかされて育ったプレーボーイで、46歳のときに梅毒が原因で死亡している。


 生前、ランドルフはネイサン・ロスチャイルドから多額の借金をしていたことでも知られ、その額は現在の価値に換算すると数百万ポンド、つまり数億円。いくらでも借りられたという。ランドルフがロスチャイルドを裏切らない限り、借金は返済する必要がなかったようだ。


 ネイサン・ロスチャイルドと親しい関係にあったジョージ・ピーボディーは銀行を経営していたが、そのパートナーがジュニアス・モルガン。その息子がジョン・ピアポント・モルガンだ。ネイサンはこの若者をアメリカにおけるビジネスの責任者にしている。そして巨大銀行のJPモルガンが生まれる。関東大震災以降の日本に大きな影響力を及ぼすことになるのはこのJPモルガン。


 この銀行が中心になり、アメリカでは1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒し、ファシズム体制を樹立させようというクーデターが計画されている。


 そのJPモルガンが駐日大使として日本へ送り込んできたのがジョセフ・グルー。本ブログでは繰り返し書いてきたが、グルーと親しかった日本人には秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介、松岡洋右などが含まれる。中でも親しかったのは松岡。戦争が始まり、離日する直前にグルーがゴルフした相手は岸だ


 要するにイギリスとアメリカの金融資本はつながっているのだが、その金融資本を中心とする支配層がベネズエラの石油を狙っている。


 4月30日にもクーデターが試みられたが失敗、フアン・グアイドと反政府派の象徴になっているレオポルド・ロペス(2014年のクーデター未遂で自宅軟禁中だったが、クーデター派によって解放されていた)はスペイン大使館へ逃げ込み、クーデターに参加した兵士25名はブラジル大使館へ逃げ込んだ。


 クーデタの失敗を受け、アメリカのマイク・ポンペオ国務長官はメディアに対し、ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領は航空機でキューバへ逃げようとしていたが、ロシアの説得で留まったと主張している。実際はごく狭い地域で混乱があっただけで、基本的に国内は安定、逃亡するような状況ではなかった。ポンペオは失笑を買っただけ。


 アメリカ支配層が発する嘘の質が急速に劣悪化している。アメリカを中心とする支配システムの崩壊は早いかもしれない。アメリカの支配システムが崩れれば、日本の天皇制官僚制も維持できなくなる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905010001/


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櫻井ジャーナル 2019.04.24

米支配層が維持しようとした天皇制官僚体制の恥部がひとつ明らかに

 インドネシアのバンカ島で日本軍の兵士は1942年2月、22名のオーストラリア人看護師を銃殺したという。海の中を行進させ、機関銃で射撃、ひとりを除いて殺害したのだが、その前に看護師は兵士から性的暴行を受けていたことを示す証拠の存在が明らかにされた。(​英語​、​日本語​)証拠を隠滅し、なかったことにするという手法は今でも使われている。NGT48のケースもその一例だが、隠しきれないこともある。


 日本のアジア侵略は1872年の琉球併合から始まるが、アメリカとの戦争は1941年12月7日の真珠湾攻撃から。1942年6月のミッドウェー海戦で日本の艦隊が敗北するまで日本側は勝ち戦だと考えていたようだ。そうした中、バンカ島での虐殺は引き起こされたことになる。


 外国へ攻め込んだ軍隊の兵士が女性に性的に暴行するという話はしばしば聞く。日本軍に限った話ではない。日本軍の特徴はブレーキがきかなくなることにあると言えるだろう。性的暴行への対策として日本軍が作り上げたのが慰安婦の仕組みだ。戦争経験者は次のような文章を残している。


 「日本軍は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いと言って、朝鮮の淫売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。日本の女もだまして南方へ連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地へ行くと『慰安所』の女になれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫売婦になったのである。戦争の名の下にかかる残虐が行われていた。」(高見順著『敗戦日記』)


 「あえて言いますが、ほとんどの男は、とても自分の家族、自分の女房や子供たちに話せないようなことを、戦場でやっているんですよ。中国戦線では兵士に女性を強姦することも許し、南京では虐殺もした。そのにがい経験に懲りて、日本軍は太平洋戦争が始まると、そうしたことはやるな、と逆に戒めた。」(むのたけじ著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、2008年)


 「そこで、出てきたのが『慰安婦』というものです。その主体は朝鮮から来た女性たちでした。日本の女性も来ましたが、これは将校専用です。』(前掲書)


 「女性たちにここへ来た事情を聞くと、だまされた、おどされた、拉致された、というように、それは人によってさまざまだった。」(前掲書)


 「何人もの女性たちを船に乗せてインドネシアまで連れてくるためには、軍の了解が絶対に必要です。・・・やはり、慰安婦は軍部が一つの作戦としてやったことで、まったく軍の責任だった。」(前掲書)


 敗戦後、日本の将兵が戦場で行ったことを批判的に語るおとなもいたが、多くの「元兵士」にとって身に覚えのある話であり、口にすることはできなかっただろう。勿論、事実を否定することもできない。1945年に20歳代だった人は1975年でも50歳代だ。日本社会には戦場の記憶が鮮明に残っていた。荒唐無稽な話はできない。


 戦争経験者が少なくなるに連れ、妄想を平然と口にする人が増えてくる。メディアもそうした妄想の拡散に協力した。


 それでも慰安婦の存在を否定できないため、商売として行っているのだから問題がないと言う人もいるが、その考え方は日本人の堕落、退廃を示している。


 第2次世界大戦の前、JPモルガンの強い影響下にあった日本では新自由主義的な経済政策が採用され、庶民の生活水準は悪化し、東北地方では娘の身売りが増えた。欠食児童、争議なども社会問題になっている。こうした貧富の差を拡大させる政策を推進したのが浜口雄幸内閣だ。


 そうした政策に反発する人も少なくなかった。その結果、浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には大蔵大臣だった井上準之助が本郷追分の駒本小学校で射殺され、その翌月には三井財閥の大番頭だった団琢磨も殺された。井上は当時、日本でも最もJPモルガンに近いとされていた人物。団もウォール街と緊密な関係にあった。


 その年の5月には五・一五事件が引き起こされ、1936年2月には二・二六事件だ。血盟団にしろ、二・二六事件の将校にしろ、娘を身売りしなければならないような状況を作った支配層への怒りが行動の背景にはある。


 井上が殺された1932年に駐日アメリカ大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。このことは本ブログで繰り返し書いてきた。グルーのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかもグルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーである。


 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあったわけだが、1933年から45年4月にかけての期間はウォール街と敵対関係にあったニューディール派がホワイトハウスで主導権を握った。ニューディール派の中心的な存在がフランクリン・ルーズベルト大統領だ。


 ルーズベルトが急死するとウォール街がホワイトハウスを奪還、ドイツのナチは救出され、日本の天皇制官僚システムは存続することになる。戦争責任も曖昧なまま幕引きになった。


 しかし、連合国の内部には天皇制官僚システムを破壊するべきだと考える人も少なくなかった。日本軍と直接戦ったイギリスやオーストラリア、そしてソ連。日本が降伏した直後はアメリカが日本をコントロールできる状態だったが、時間を経ればそうした国々の軍人や官僚が日本へやってきて民主化を要求、天皇制の廃止も主張する可能性が高い。それに留まらず、天皇の戦争責任は必ず問われる


 大戦後、日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の中にも天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張した将校が多かったのだが、焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。ビッターは闇ドルにも手を出していた人物で、CIAのエージェントだったと見られている。靖国神社とCIAには何らかの関係があるのだろう。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)


 ウォール街は日本を支配するシステムとして大戦前から天皇制官僚システムを使っていた。それを戦後も存続させるため、戦争責任の追及と民主化の推進という儀式を早く終わらせる必要があった。


 そこで1946年1月に戦争犯罪を裁くとして極東国際軍事裁判(東京裁判)を設立、48年11月に判決が言い渡されている。その年の12月23日に東条英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章が処刑されているが、これは「民主化」を演出するセレモニーにすぎない。本来なら処罰されて当然であるにもかかわらず被告席にいない人がいた。


 そして新たな憲法が制定される。その憲法は第1条から第8条で天皇制の存続を定めている。「象徴」という修飾語をつけてはいるが、天皇制の存続を謳っている。「戦争の放棄」を定めたその後、第9条だ。


 戦後日本の進む方向を決めたジャパンロビーの中心にはジョセフ・グルーがいた。内務官僚、思想検察、特別高等警察といった戦前日本の治安体制の中枢は戦後も要職に就いている。「国体」は護持されたのだ。


 バンカ島での出来事をオーストラリア政府が封印したのは日本の「国体護持」を望むウォール街の意向に沿った行動だと言えるだろう。その国体に関わる儀式が近く行われる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904230000/


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関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その1)

 1923年9月1日に相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲った。死者/行方不明者は10万5000人以上、その損害総額は55億円から100億円だという。当然のことながら金融機関もダメージを受けた。


 そこで政府は被災地関係の手形で震災以前に銀行割引したものを1億円限度の政府補償を条件として日本銀行が再割引したのだが、銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したため、手形の総額は4億3000万円を上回る額になり、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。


 そうした中、復興資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断し、森賢吾財務官が責任者に選ばれた。交渉相手に選ばれた金融機関がアメリカのJPモルガン。このJPモルガンと最も緊密な関係にあったと言われている人物が地震直後の9月2日に大蔵大臣となった井上準之助。1920年の対中国借款交渉を通じ、JPモルガンと深く結びついていた。


 当時、JPモルガンを指揮していたトーマス・ラモントは3億円の外債発行を引き受け、1924年に調印する。その後、JPモルガンは電力を中心に日本へ多額の融資を行い、震災から1931年までの間に融資額は累計10億円を超えている。


 日本に対して大きな影響力を持ったラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求め、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。1899年から1902年にかけての南アフリカ戦争で世界の金を支配することにイギリスは成功、金本位制を最小した国々の通貨を支配できる立場になった。JPモルガンはイギリスの巨大金融資本の影響下にあった金融機関だ。


 金解禁(金本位制への復帰)の結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だとする考え方をする人物だった。当然、失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。こうした社会的弱者を切り捨てる政府の政策に不満を持つ人間は増えていった。


 その1932年にアメリカでは大統領選挙があり、巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とする現職のハーバート・フーバーを選挙で破って当選する。


 そのルーズベルトは大統領に就任する17日前、つまり1933年2月15日にフロリダ州マイアミで開かれた集会で銃撃事件に巻き込まれた。ジュゼッペ・ザンガラの撃った弾丸はルーズベルトの隣にいたシカゴ市長に命中、市長は死亡した。群衆の中、しかも不安定な足場から撃ったので手元が狂い、次期大統領を外したと考える人も少なくない。


 次期大統領を狙っていた可能性があるわけで、背後関係などをきちんと捜査する必要があったのだが、何も事情を聞き出せない、あるいは聞き出さないまま、ザンガラは3月20日に処刑されてしまった。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809010000/


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関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その2)

 本ブログでは何度も書いてきたが、ルーズベルトが大統領に就任するとJPモルガンをはじめとするウォール街の勢力がクーデターを計画する。スメドリー・バトラー海兵隊少将によると、1934年の夏に「コミュニズムの脅威」を訴える人物が訪ねてきた。


 その訪問者はJPモルガンと関係が深く、いわばウォール街からの使者。ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしてルーズベルト政権を倒そうとしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃し、50万名規模の組織を編成して恫喝、大統領をすげ替えることにしていたという。


 バトラーの知り合いだったジャーナリスト、ポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。


 バトラーとフレンチは1934年にアメリカ下院の「非米活動特別委員会」で証言し、モルガン財閥につながる人物がファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画していることを明らかにした。ウォール街の手先は民主党の内部にもいて、「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だったという。


 バトラー少将は計画の内容を聞き出した上でクーデターへの参加を拒否、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると告げる。ルーズベルト政権を倒そうとすれば内戦を覚悟しろ、というわけである。


 クーデター派の内部にはバトラーへ声をかけることに反対する人もいたようだが、この軍人は名誉勲章を2度授与された伝説的な人物で、軍隊内で信望が厚く、クーデターを成功させるためには引き込む必要があった。


 1935年にはニューディール派以上のウォール街を批判していたヒューイ・ロング上院議員が暗殺されている。彼は当初、ルーズベルト政権を支持していたが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になることをウォール街が恐れたことは想像に難くない。ロングが大統領になれなくても、ニューディール派の政策を庶民の側へ引っ張ることは明らかだった。


 一方、日本ではウォール街とつながっていた人物が殺されている。ひとりは1930年に銃撃されて翌年に死亡した浜口雄幸、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も実行された。団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。


 1932年にアメリカ大使として来日したジョセフ・グルーのいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。日本の皇室はウォール街と深く結びついていたとも言える。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 ルーズベルト政権と対立関係にあったJPモルガンは関東大震災から戦後に至るまで日本に大きな影響力を維持していた。大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809020000/


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2018.09.13
米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その1)

 ロシアのウラジオストックで2015年から毎年開催されているEEF(東方経済フォーラム)はウラジミル・プーチンの外交戦略において重要な意味を持っている。アメリカは東アジアの軍事的な緊張を高めようとしているが、それに対抗してロシアは緊張を緩和、地域の経済発展につなげようとしているのだ。プーチンの戦略に中国や韓国は賛成、連携している。この3カ国に朝鮮も加わった。

 今年のEEFは9月11日から13日に開かれているが、そこで朝鮮は自国の鉄道と韓国に鉄道を結びつけることに前向きな姿勢を見せた。ロシアには以前からシベリア横断鉄道を延長して朝鮮半島を南下させようという計画がある。その計画とリンクしていることは間違いないだろう。


 この鉄道計画はロシアから天然ガスや石油を輸送するパイプラインの建設計画、そして中国の一帯一路とも関係している。大英帝国の時代からアングロ・サクソンの基本戦略はユーラシア大陸の周辺部分から内陸部を締め上げていくというもの。物資の輸送が海運中心だった時代は効果的な戦略だったが、そうした戦略を高速鉄道やパイプラインは揺るがせている。


 現在、東アジアでアメリカの戦略に従っている数少ない国のひとつが日本。その日本に対し、プーチンは前提条件なしで平和条約を結ぼうと日本側へ提案したという。ソ連/ロシアと中国の制圧を長期戦略の中心に据えているアメリカは日本がソ連/ロシアや中国と友好関係を結ぶことを許さない。プーチンも当然、そうしたことを熟知している。アメリカの政策で疲弊している日本へのちょっとしたメッセージだ。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809120000/


米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その2)


 アメリカは東アジアでも軍事的な緊張を高めようとしてきた。2009年に総理大臣となった鳩山由紀夫は東シナ海を「友愛の海」にしようと提案したが、これはアメリカ支配層を激怒させたことだろう。その後、日本ではマスコミが鳩山を攻撃、鳩山は2010年に首相の座から引きずり下ろされた。


 そして登場した菅直人内閣は中国との関係を破壊する。2010年に「日中漁業協定」を無視して石垣海上保安部は中国の漁船を尖閣諸島の付近で取り締まったのだ。それ以降、日本は中国に敵対する国になった。


 こうした政策は日本の企業に打撃を与える。中国は日本企業にとって重要なマーケットだったからだ。アメリカの中東政策は石油価格を暴騰させる可能性があるのだが、これも日本にとっては大問題。ロシアという中東より低コストで安定的なエネルギー資源の供給源が日本の近くに存在するが、ロシアとの関係を深めることをアメリカ支配層は許さないだろう。


 こうしたアメリカの政策は一貫したもの。1955年6月に鳩山一郎内閣はソ連と国交正常化の交渉を始めた。その一方、重光葵外務大臣(副総理)は同年8月に訪米してジョン・フォスター・ダレス国務長官と会談、「相互防衛条約」の試案を提示した。


 その試案の中で「日本国内に配備されたアメリカ合衆国の軍隊は、この条約の効力発生とともに、撤退を開始」、「アメリカ合衆国の陸軍及び海軍の一切の地上部隊は、日本国の防衛6箇年計画の完遂年度の終了後おそくとも90日以内に、日本国よりの撤退を完了するものとする」としている。


 日本とソ連は「歯舞、色丹返還」で領土問題を解決させる方向で動き始めたのだが、ダレス米国務長官は激怒、2島返還でソ連と合意したらアメリカは沖縄を自国領にすると恫喝したという。沖縄は歴史的に独立国であり、その意味でもアメリカの姿勢は傲慢だ。


 こうした恫喝はあったが、鳩山首相は1956年10月、河野一郎農相をともなってモスクワを訪問、鳩山首相とニコライ・ブルガーニン首相(ソ連閣僚会議議長)は日ソ共同宣言に署名して12月に発効した。それにタイミングを合わせるように鳩山は引退する。


 鳩山一郎の辞任を受けて行われた自民党総裁選でアメリカは岸信介を後押しするが、中国やソ連との交流を促進しようとしていた石橋湛山が勝つ。その石橋は2カ月後に病気で倒れ、首相臨時代理を務めることになったのが岸。翌年の2月に岸は首相に選ばれた。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809130000/


米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その3)

 明治維新から後の日本を支配している人びとはアングロ・サクソン、つまりイギリスやアメリカの支配層と密接な関係にある。19世紀後半からアングロ・サクソンは日本を中国侵略の拠点と見なしてきたのだ。


 その頃、イギリスは中国(清)との貿易赤字に苦しんでいた。そこでイギリスは麻薬のアヘンを清に売りつけ、それを清が取り締まると戦争を仕掛けた。1840年から42年までのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)である。この戦争でイギリスは勝利、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国に認めさせた。


 しかし、これらの戦争は基本的に海で行われ、イギリス軍は内陸部を占領できなかった。それだけの戦力がなかったのだ。海上封鎖はできても中国を占領することは不可能。そこで日本に目をつけ、日本はイギリスの思惑通りに大陸を侵略していく。勿論、イギリスやその後継者であるアメリカの支配層(巨大資本)の利益に反することを日本が行えば「制裁」されることになる。


 イギリスは他国を侵略するため、傭兵を使ったり第3国に攻撃させたりする。例えば、インドを支配するためにセポイ(シパーヒー)と呼ばれる傭兵を使い、アラビア半島ではカルトのひとつであるワッハーブ派を支配が支配するサウジアラビアなる国を樹立させ、パレスチナにイスラエルを建国させている。


 このイギリスを日本へ行き入れたのが長州と薩摩。イギリスを後ろ盾とする両国は徳川体制の打倒に成功、明治体制(カルト的天皇制官僚国家)へ移行していく。


 このイギリスの主体は金融界、いわゆるシティ。1923年の関東大震災で日本政府は復興資金の調達をアメリカのJPモルガンに頼るが、この銀行の歴史をたどるとシティ、より具体的に言うとロスチャイルドへ行き着く。アメリカの金融界はウォール街とも呼ばれるが、そのウォール街でJPモルガンは中心的な立場にあった。


 このウォール街を震撼させる出来事が1932年に起こる。この年に行われた大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。ニューディール派は巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を認め、ファシズムに反対するという看板を掲げていた。巨大企業の金儲けを優先させ、労働者から権利を奪い、ファシズムを支援するウォール街とは考え方が正反対だった。圧倒的な資金力を持つウォール街の候補、現職のハーバート・フーバーが敗北したのは、言うまでもなく、それだけ庶民のウォール街への反発が強かったからだ。


 1933年から34年にかけてウォール街はニューディール政権を倒すためにクーデターを計画、この計画はスメドリー・バトラー海兵隊少将によって阻止された。こうしたことは本ブログで繰り返し書いてきたとおり。庶民の反発はニューディール派より巨大資本に批判的だったヒューイ・ロング上院議員への人気につながるのだが、このロングは1935年に暗殺された。


 ロングは当初、ルーズベルト政権を支持していたのだが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になったなら、ウォール街を含む支配層は大きなダメージを受けることになり、内戦を覚悟でクーデターを実行することになっただろう。


 そうしたウォール街の強い影響を受けていたのが関東大震災以降の日本。JPモルガンと最も親しかった日本人は井上準之助だった。アメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者、団琢磨もアメリカ支配層と強く結びついていた。このふたりは1932年、血盟団によって暗殺された。


 この年、駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと関係が深い。つまり、彼のいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻で、グルー自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 第2次世界大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。グルーと親しかった岸信介。その孫にあたる安倍晋三が戦前レジームへの回帰を目指すのは、日本をウォール街の属国にしたいからだろう。


 それに対し、ロシアと中国は関係を強めている。ドナルド・トランプ政権は軍事的にロシアを脅しているが、それに対し、プーチン政権は9月11日から15日にかけてウラル山脈の東で30万人が参加する大規模な演習ボストーク18を実施。​その演習に中国軍は3200名を参加させている​。経済面で手を差し伸べる一方、軍事的な準備も怠らない。


 明治維新から日本の支配層はシティやウォール街、つまりアングロ・サクソンの支配層に従属することで自らの権力と富を得てきた。そうした従属関係が日本経済を窮地に追い込んでいる。この矛盾に日本の支配システムがいつまで耐えられるだろうか?(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809130001/

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2018.09.21 自民党総裁選という茶番

 自民党の次期総裁を決める同党国会議員による投票が9月20日に行われ、安倍晋三首相が石破茂を破って3選が決まったという。茶番としか言い様がない。安倍に限らないが、日本の総理大臣は基本的にアメリカ支配層の傀儡にすぎず、彼らの意向に反する人物が選ばれれば強制的に排除される。安倍も石破もそうした類いの人間ではない。


 アメリカ支配層の戦略は国内におけるファシズム化と国外における侵略。本ブログでは何度も書いてきたが、アメリカの巨大金融資本は遅くとも1933年の段階でアメリカにファシズム政権を樹立させようとしていた。そこで、1932年の大統領選挙で勝利したフランクリン・ルーズベルトを排除するためにクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将の告発で明るみに出ている。


 ウォール街からナチス政権下のドイツへ資金が流れていたことも知られているが、そうしたパイプ役のひとりがジョージ・ヒューバート・ウォーカー。ロナルド・レーガン政権での副大統領を経て1989年に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュの母方の祖父にあたる。


 アメリカの好戦派がソ連に対する先制核攻撃を作成した1950年代、彼らは地下政府を編成する準備をしている。「アイゼンハワー10」と呼ばれる人びとによって権限を地下政府へ与えることになっていたのだ。


 その延長線上にFEMA、そしてCOGがある。COGは緊急事態の際に政府を存続させることを目的とした計画で、ロナルド・レーガン大統領が1982年に出したNSDD55で承認され、88年に出された大統領令12656によってその対象は「国家安全保障上の緊急事態」へ変更された。(Andrew Cockburn, “Rumsfeld”, Scribner, 2007)


 1991年12月にソ連が消滅するとネオコンはアメリカが唯一の超大国にあったと認識、92年2月には国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成する。旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、膨大な資源を抱える西南アジアを支配しようとしている。中でも中国が警戒され、東アジア重視が打ち出された。


 このDPG草案が作成された当時の国防長官はリチャード・チェイニーだが、作成の中心になったのは国防次官だったポール・ウォルフォウィッツ。そこで、ウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。この長官と次官はネオコンのコンビで、2001年に始まるジョージ・W・ブッシュ政権ではそれぞれ副大統領と国防副長官を務めた。


 唯一の超大国になったアメリカは国連を尊重する必要はないとネオコンは考え、単独行動主義を打ち出す。アメリカの属国である日本に対しても国連無視を強制、1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が作成されてから日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていった。日本人を侵略戦争の手先として利用しようというわけだ。勿論、その延長線上に安倍内閣は存在する。


 安倍は「戦後レジーム」を嫌悪、「戦前レジーム」へ回帰しようとしているらしいが、この両レジームは基本的に同じ。戦後レジームとは民主主義を装った戦前レジーム。関東大震災以降、日本はJPモルガンを中心とするウォール街の影響下にあり、その構図は戦後も続いている。JPモルガンが敵対関係にあったニューディール派のルーズベルト政権は1933年から45年4月まで続くが、この期間は日本の支配者にとって厳しい時代だった。


 1932年に駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて関係が深い。いとこであるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガン総帥の妻なのだ。


 グルーは皇室とも深いパイプを持っていた。結婚相手のアリス・ペリー・グルーの曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリー。ジェーン自身は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通い、そこで後の貞明皇后と親しくなったという。


 グルーの人脈には松平恒雄、徳川家達、秩父宮雍仁、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、牧野伸顕、幣原喜重郎らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。


 松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 安倍晋三が目指す戦前レジームとはアメリカの巨大金融資本が日本を支配する体制にほかならない。彼がアメリカ支配層に従属しているのは当然なのだ。戦前レジームへの回帰とアメリカ支配層への従属は何も矛盾していない。これを矛盾だと考える人がいるとするならば、その人は歴史を見誤っているのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809210000/

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元徴用工への損害賠償を認めた韓国での判決が日本軍による略奪へ波及するか?
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811040000/
2018.11.05 櫻井ジャーナル

 元徴用工が新日鉄住金に損害賠償を求めた訴訟で、韓国の大法院は10月30日に同社への支払を命じた。大法院は日本の最高裁に相当、これで合計4億ウォンの支払いを命じたソウル高裁の判決が確定した。日本政府は徴用工の問題は1965年の日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決している」という立場だが、個人の請求権は消滅していないと大法院は判断したのだ。かつて、日本政府もこの事実を認めていた。1965年当時の韓国大統領は1961年5月の軍事クーデターを指揮した朴正熙である。

 第2次世界大戦後、韓国も日本と同じようにアメリカ支配層の影響下にあったが、イギリスの戦略を引き継いだアメリカの目は中国、そしてソ連/ロシアに向けられている。イギリスの基本戦略とも言うべきハルフォード・マッキンダーの論文が発表されたのは1904年だが、侵略して略奪するという基本方針はその遙か前から行われてきた。

 イギリスが侵略の手を東アジアまで伸ばしてきたのは19世紀。1840年から42年にかけてのアヘン戦争、56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)は象徴的な出来事だった。

 こうした戦争でイギリスは中国(清)に勝利したが、内陸部を制圧する力はなかった。当時の主な輸送集団は船であり、主要な港を押さえられたことは清にとって大きな痛手だったが、占領されたわけではない。

 占領のための地上軍として機能したのは日本軍だ。現在の中東でアル・カイダ系武装集団、ダーイッシュ(イスラム国、IS、ISIS、ISILとも表記)が果たしている役割と似ている。だからこそ、米英の支配層は戦費を融資、技術的な支援をした。外交的にも助けている。あの強欲な米英支配層がこうしたことを行ったのは、その先に自分たちの利権があったからにほかならない。

 日本は東アジアを侵略した際、組織的に財宝を略奪している。その財宝の多くはフィリピンに集められ、そこから日本へ運ばれるが、戦況が悪化してフィリピンから日本へ運べなくなると、フィリピンに隠す工作を始めた。その隠された財宝は後に山下兵団の財宝と呼ばれるようになる。

 もっとも、山下奉文が日本軍第14方面軍の司令官に就任したのは1944年9月のことで、財宝の集積作業は終盤にさしかかっていた。作業を指揮していたのは本間雅晴、田中静壱、は黒田重徳のころだ。ちなみに、田中静壱は関東軍憲兵隊の司令官だったことがあるが、そのときに細菌戦用兵器を開発するための生体実験にかかわっている。

 1945年8月当時、田中の副官だった塚本清(素山)は略奪したダイヤモンドを日本へ運んだひとりと言われ、敗戦後はアメリカ軍と緊密な関係を持っていた。1961年には創価学会の顧問に就任している。

 日本が降伏した後、その隠された財宝のありかを調べる責任者がエドワード・ランズデール。表面的には軍人だが、実際はOSS、戦後はCIAの幹部だ。朝鮮戦争が休戦になった直後にジョン・フォスター・ダレス国務長官はNSC(国家安全保障会議)でベトナムにおけるゲリラ戦の準備を提案、それを受けてCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成、その団長をランズデールが務めている。その後、キューバに対する破壊活動などを指揮した。

 ランズデールの下で日本人に対する取り調べを行っていたのが情報将校だったサンタ・ロマーナ。このロマーナが親しくしていた女性がイメルダ。ロマーナはイメルダをフェルディナンド・マルコスに紹介、ふたりは結婚する。マルコスは財宝の一部を掘り出して大金持ちになり、大統領になったといわれている。

 そのマルコスのライバルだったベニグノ・アキノ元上院議員が1983年8月にマニラ国際空港で射殺され、社会が不安定化する。アキノへはNEDを通じてCIAのカネが流れ込んでいた。

 アメリカ軍は1986年2月にマルコスを拉致して国外へ連れ出した。その背後ではCIAが蠢いていたのだが、その工作で中心的な役割を果たしたと言われているのがアドナン・カショーギ、リチャード・アーミテージ、ポール・ウォルフォウィッツなど。アドナン・カショーギはジャマル・カショーギの伯父にあたる。

 フィリピン国外へマルコスが連れ出されると、財宝の分け前をよこせという裁判が起こされる。弁護士がでっち上げ事件で攻撃されたりしたが、それでも裁判の過程で財宝に関する情報が明るみに出てきた。

 日本軍が盗んだ財宝は金の百合と呼ばれているが、これとドイツがヨーロッパで盗んだ金塊、いわゆるナチ・ゴールドをアメリカ支配層は一体化させた。いわゆるブラック・イーグルだ。その一部は1960年頃から日本の支配層が運用しているとも言われている。

 この秘密資金は日本やドイツが盗み、アメリカが横取りしたものである。個人の請求権は存在するということになると、この秘密資金を返せという個人の要求が出てきても不思議ではない。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/578.html#c5

[近代史3] 昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由 中川隆
6. 中川隆[-8767] koaQ7Jey 2019年8月18日 09:50:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3975]
2019.07.03
独立記念日を祝うアメリカ国民だが、独立宣言を忘れているようだ 《櫻井ジャーナル》

 7月4日はアメリカの独立記念日である。1776年7月4日に独立宣言が採択されたことを記念して定められたのだ。


 ヨーロッパからの植民者がイギリスからの独立を宣言したのだが、その執筆者はトマス・ジェファソン。「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と謳っている。


 宣言に署名した人びとが何を考えていたかはともかく、宣言にある「人間」に制限はついていない。すべての人間は人種、民族、性別、思想、信仰、身分、家柄などに関係なく平等であり、人間としての権利を持っているということだ。


 当然、生まれながらに持っている能力を発揮するために必要な環境がすべての人間に保証されなければならない。人種、民族、性別、思想、信仰、身分、家柄などによって、そうした環境に差があってはならない。安心して生活でき、教育を受けることができ、働くことができなければならない。


 こうした権利を保障しない政府を人びとは「改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有する」と独立宣言は主張している。


 さらに、「権力の乱用と権利の侵害が常に同じ目標に向けて長期にわたって続き、人民を絶対的な専制の下に置こうとする意図が明らかであるときには、そのような政府を捨て去り、自らの将来の安全のために新たな保障の組織を作ることが人民の権利であり義務である」ともしている。


 アメリカでは19世紀に「泥棒男爵」と呼ばれる人びとが出現した。不公正な手段で財産を手に入れ、巨万の富を築いた人たちだ。石油業界を支配することになるジョン・D・ロックフェラー、金融帝国を築いたJ・P・モルガン、鉄鋼業界のアンドリュー・カーネギー、ヘンリー・クレイ・フリック、鉄道のエドワード・ヘンリー・ハリマン、金融や石油で財をなしたアンドリュー・W・メロンなどが含まれている。


 こうした人びとの権力が強大化する切っ掛けになった出来事が1913年12月にあった。連邦準備制度が創設され、連邦準備理事会が金融政策の樹立と遂行を監督、12の連邦準備銀行が政策を実行することになったのだ。このシステムを支配するのは富豪たちだ。


 連邦準備制度を作るための秘密会議が1910年11月にジョージア州のジキル島で開かれている。会議に参加したメンバーはクーン・ローブやJPモルガンの使用人やジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの義父、つまりロスチャイルド、モルガン、ロックフェラーの代理人たちだった。こうした人びとがアメリカの通貨を発行する特権を持つことになる。


 こうした富豪が拠点にしている場所がウォール街やシティ。そこの住人に立ち向かった大統領もかつてはいた。フランクリン・ルーズベルトやジョン・F・ケネディたちだ。


 ルーズベルトは1932年の大統領選挙で勝利したのだが、その時にライバルだったハーバート・フーバーは現職の大統領。スタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物。政治家になってからはウォール街から支援を受けていた。


 そのフーバーとは違い、ルーズベルトは労働者の権利を認めてファシズムに反対するニューディール派を率いていた。そのルーズベルトをウォール街は嫌った。


 本ブログでは繰り返し書いてきたが、1933年から34年にかけてウォール街の大物たちはニューディール派を排除するためにクーデターを計画する。そのため、軍の内部で大きな影響力を持っていた海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込もうとするのだが、失敗してしまう。計画の内容はバトラー、そしてバトラーと親しかったジャーナリストが議会で証言、記録として残っている。


 クーデターで中心的な役割を果たしたのはJPモルガンだったとされているが、その総帥であるジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーは1932年に駐日大使として来日している。


 ちなみに、JPモルガンの共同経営者だったエドワード・ストーテスベリーと結婚したエバ・ロバーツ・クロムウェルの娘の夫はダグラス・マッカーサーである。


 グルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持つ人物で、特に松岡洋右と親しかった。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 日本軍が真珠湾を奇襲攻撃して日本とアメリカが戦争を始めてしばらくの間、グルーは日本に滞在。離日したのは1942年8月だが、その直前に彼がゴルフをした相手は岸信介だ。大戦後、日本の進む方向を決めたジャパン・ロビーの中心にもグルーはいた。グルーが親ファシスト勢力に属していたことを忘れてはならない。


 すでにアメリカでは強大な私的権力が国を上回る力を持っている。その結果、「権力の乱用と権利の侵害が常に同じ目標に向けて長期にわたって続き、人民を絶対的な専制の下に置こうとする意図が明らか」になっていると言える。


 2011年9月11日以降、アメリカでは国外での侵略戦争、国内での刑務所化が急速に進んでいる。アメリカの属国である日本もその後を追っている。そうした現状を見ながら、「それでもアメリカは民主主義国だ」とか「それでもアメリカの方がましだ」という「左翼」、「リベラル派」、「革新勢力」が日本にはいる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201907030000/

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【討論】大東亜戦争の真実[桜R1-8-10] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=EpuYlwj_xwY

パネリスト:
 鈴木荘一(歴史家)
 山正之(コラムニスト)
 長浜浩明(作家・古代史研究家)
 林千勝(戦史研究家)
 馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
司会:水島総


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/578.html#c6

[近代史3] 昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由 中川隆
7. 中川隆[-8766] koaQ7Jey 2019年8月18日 09:51:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3976]

2019.08.15
大戦でファシズム勢力は勝利、日本では天皇制官僚システムが護持された


 第2次世界大戦は日本の降伏で終わったことになっている。日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎がアメリカの軍艦ミズーリ号上で降伏文書に調印したのは1945年9月2日のことだった。


 しかし、日本では8月15日が「終戦の日」ということになっている。昭和天皇(裕仁)が日本人向けの声明、いわゆる「終戦勅語」が放送された日だ。


 これについて堀田善衛は「負けたとも降服したとも言わぬというのもそもそも不審であったが、これらの協力者(帝國ト共ニ 終始東亜ノ開放ニ協力セル諸盟邦=引用者注)に対して、遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス、という、この嫌みな二重否定、それきり」で、「その薄情さ加減、エゴイズム、それが若い私の軀にこたえた」と書いている。(堀田善衛著『上海にて』筑摩書房、1959年)日本軍への停戦命令が出たのはその翌日だ。


 日本政府は「国体護持」にこだわったというが、1945年4月12日にフランクリン・ルーズベルト大統領が急死した段階で日本の国体、つまり天皇制官僚システムが維持されることは決定的になっていた。その死によってニューディール派は急速に弱体化、親ファシズムのウォール街が主導権を握ったからだ。


 ルーズベルトは1933年3月から大統領を務めている。副大統領は1933年から41年までがジョン・ガーナー、41年から45年までがヘンリー・ウォーレス、そして45年がハリー・トルーマン。政治信条がルーズベルトに最も近かったのは大統領と同じニューディール派のウォーレスだろう。


 このウォーレスは1944年4月9日付けのニューヨーク・タイムズ紙で、アメリカに対する最も大きなファシムズの脅威は戦争の後にやってくると主張している。ルーズベルトが初めて大統領に選ばれた直後、アメリカの巨大資本がニューディール派を排除してファシズム体制を樹立する計画を立てていたことを考えると、その懸念は理解できる。


 そのクーデター計画はスメドリー・バトラー海兵隊退役少将が阻止、議会で計画の内容について明らかにしている。その当時は経済が不安定で、1939年に第2次世界大戦が始まると経済を支配している勢力を摘発することは困難になった。ルーズベルト政権の内部でファシズム派を摘発する動きが出てくるのは戦争の終結が近くなってからだ。


 その頃、有権者に最も人気があったのはウォーレス。1944年に行われたギャロップの世論調査によると65%がウォーレスを支持、トルーマンは2%にすぎない。ウォーレスが次の大統領になれば、アメリカのファシズム勢力は粛清され、ドイツや日本のファシストも厳しく処罰される可能性が高かった。


 そうした中、ウォーレスのスキャンダルが発覚、1945年3月に副大統領から商務長官へ格下げになる。その翌月に大統領が急死、ルーズベルトと意見が違ったトルーマンが大統領へ昇格し、5月にはドイツが降伏する。その直後にイギリスのウィンストン・チャーチル首相はアメリカ、イギリス、ドイツ、ポーランドでソ連を奇襲攻撃するアンシンカブル計画を立てたわけだ。


 アメリカの巨大資本やその代理人はナチスの元高官らを逃がすためにラットラインを作る。そうした人びとをアメリカの国務省やCIAは雇うが、それはブラッドストーン作戦と名づけられた。ドイツの科学者やエンジニアを雇うペーパークリップ作戦もある。


 その一方、日本では天皇制官僚システムが維持され、特別高等警察、思想検察、裁判官は戦後も要職に就く。戦争中に犯罪的なことを行った軍人でもアメリカにとって利用できる人たちは保護されている。


 日本が降伏した24日後、哲学者の三木清が獄死した。疥癬という皮膚病の患者が使っていた毛布を三木にあてがい、意識的に病気を感染させ、不眠と栄養失調で死に至らしめた可能性が高い。その前日、ソ連のバチェスラフ・モロトフ外相は憲兵や警官など戦前の治安体制が存続していることを批判しているのだが、その通りだった。


 この事件を調べていたロイターのR・リュベン記者は10月3日に山崎巌内相をインタビュー、その際に内相は特高警察の健在ぶりを強調し、天皇制に反対する人間は逮捕すると言い切っている。同じ日、岩田宙造法相は中央通訊社の宋徳和記者に対し、政治犯を釈放する意志のないことを明言した。


 政治犯が釈放されるのは、ロイターのインタビューが記事になってから。その記事を受けてSCAP(連合軍最高司令官)のダグラス・マッカーサーが「政治、信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃、政治犯の釈放」を指令し、6日後の10月10日に政治犯は釈放されたのだ。


 しかし、すでにアメリカの巨大資本はジャパン・ロビーと呼ばれるグループを編成、日本の天皇制官僚システムを再建することになる。冷戦が民主主義を潰したのではない。戦争で勝利したファシズムが冷戦を生み出したのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201908140000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/578.html#c7

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
89. 中川隆[-8765] koaQ7Jey 2019年8月18日 11:08:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3977]
セックスと悟り

 このブログを始めてもう10年になるが、いつか書いてみたいと思いながら、ずっと書けなかったテーマがある。「タントラ」である。人生が変わるほどの気づきをセックスがもたらす――そんな場面を幾度も目の当たりにしてきたから、生き方の真理を探求する宗教が、なぜ人間の根幹である「性」を避けて通るのかと僕は納得できないままきた。


 禁欲を是とする宗教にあって「タントラ」は、セックスで悟ろうというものだ。現在「タントラ」「セックス」「動画」などの複数ワードで検索すると、いくつもの動画がヒットする(ウイルス感染のリスクや、巧みに購入手続きへ誘導するものも交じっているようなので、もしも見るならば慎重にされたほうがいい)。これら動画のすべてを見たわけではないけれど、見た限りで言えば「タントラ」とは名ばかりのものばかりだった。


 話を戻すと、これまで書けなかった理由は、ひとえに難しいからである。僕なんかじゃ、とても歯が立たない。だが、出家を決断し上座部仏教の僧侶として修行を積んでいる友人の影響もあって、ここ数年、禅や仏教の本を読み進めてきたり、その流れでチベット密教の本も読んだりした。そして、これまでの現場での体験を照らし合わせると、「タントラ」とはこういうことなのかと僕なりに思い至ったところもある。なので今回は書いてみようと思う。僕の理解に誤りがあれば、読者のみなさんにご指摘・訂正いただくとして……。


 「タントラ」という言葉自体は耳にした人も多いはずだが、「タントラ」を定義しようとするとけっこう厄介である。ヒンドゥー教のある種の聖典を指すこともあれば、仏教においては後期密教の聖典を指すこともある。じゃあ、ともかく聖典のことなのかと言われると、そうとも限らない。ある教義(信仰上の教え)を指す場合もある。この教義としての「タントラ」は「タントリズム」とも呼ばれる。また、インドの後期密教を指して「タントラ仏教」と呼ぶこともある。


 だんだん読むのが面倒になってきた人もいると思うので、僕なりの解釈を示そう。「タントラ」とは「人間の本性は宇宙の本体と同じであるから、人間の欲望や肉体を否定するのではなく、性の実践をも積極的に取り入れ、セックスによって神(宇宙)と一体となること」である。ただし「タントラ」におけるセックスは悟りを得るためであって、生殖や性欲の発散が目的ではない。


 次に歴史的な背景を見ていこう。インドの先住民の間には土着的な宗教が芽生えていた。ここにアーリア人が侵入してくる。紀元前1500年頃の話である。アーリア人のほうが文化も進んでおり、先住民を支配してしまう。とはいえ、両者の間には婚姻もあったようで、混血も起きていった。


 ところが、先住民は風土病を保菌しており、すでに免疫も獲得しているものの、新しく来たアーリア人に免疫はない。なので、多くのアーリア人が死んでいった。感染を防ぐために隔離政策がとられる。純血アーリア人、混血アーリア人(混血の度合いによって2階層)、先住民と分類され、分類が異なる者の同居や婚姻が禁止される。これがカースト制度の起こりである。その後、この政策は宗教に組み込まれてゆく。


 現在もインドで多数派を占めるヒンドゥー教だが、ヒンドゥー教の定義も広義・狭義でいろいろあってわかりづらい。たとえば、前述した先住民の土着的な宗教を指す場合もあるようだが、アーリア人が信仰していたバラモン教が変容を迫られ、もともとあった土着的な宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教になったという見方もある。


 では、なぜアーリア人のバラモン教は変容を迫られたのか? そこには仏教の誕生がある。ブッダが目にした当時の世の中は、きっと苦しみに満ちていたのだと思う。もちろん今の日本にも差別は存在しているけれど、紀元前5世紀頃のカースト制度は人間扱いされない多くの人々を公然と生み出していたのだ。


 ブッダはカースト制度の下層に位置する人は言うに及ばず、カーストに属さない不可触民でさえも、苦しみから逃れる方法はあると説いた。それがいわゆる解脱(げだつ)である。その方法論が教えとして広まってゆく。そして仏教という宗教を形づくっていった。


 こうしてインドでは、仏教が大きな勢力を持つに至る。1世紀頃に成立したクシャーナ王朝は、仏教を手厚く保護した。ただ、この王朝の支配は北インドに限られ、全土には及んでいない。代わって4世紀頃に登場したグプタ王朝はインドのほぼ全土を支配したが、ヒンドゥー教を国教に定めてしまう。いつの時代も権力者と宗教は持ちつ持たれつの関係で、お互いに利用し合いながら歴史を作ってきたわけだが、無視された仏教には苦難の道が待っていた。


 ヒンドゥー教はもともと多神教であるけれど、生き延びようとした仏教は、ヒンドゥー教の中の神々やいろいろな教えを取り入れて、多神教になっていく。このようにして変貌を遂げた仏教はのちに「密教」と呼ばれることになるのだが、密教が取り入れた教えのひとつに今回の「タントラ」がある。
http://blog.livedoor.jp/yoyochu/archives/54905150.html


続・セックスと悟り

 前回は、インドで仏教が密教となって生き延びようとしたところまで書いた。で、生き延びられたのかというと、13世紀初頭、ヒンドゥー教とイスラム教によって滅ぼされてしまう、政治力と武力でもって。


 では、密教はこの世から消滅してしまったのだろうか? 空海が唐に渡り、密教を持ち帰ったのが9世紀初頭。真言宗はもちろん今でも健在だし、日本に密教はある。ところが、空海が持ち帰ったのは実は中期密教で、「タントラ」が取り入れられるのは後期密教なのだ。


 いや、空海が亡くなった後でも「タントラ」が伝わる経路はあっただろうと思う人もいるだろうが、これは中国で止まっている。長い間、中国では儒教が大きな影響力を持っていた。儒教が「タントラ」を受け入れない。なので、中国には広まらなかったし、日本にも来なかった。結局、概念としてその片鱗がうかがえるのが、以前に紹介した『理趣経(りしゅきょう)』くらいである。


 となると、後期密教の「タントラ」はどこに残っているのか? インドで仏教が消滅する前、その末路を予見した僧侶たちは新天地を求めて、チベット高原へと旅立っていった。こうして後期密教の命脈はチベットへと継承されてゆく。


 歴代のダライ・ラマも所属する、チベット密教最大の宗派がゲルク派である。ゲルク派の開祖ツォンカパ(1357年〜1419年)は、ブッダ以来、2500年の仏教史において“最後の巨人”とも称される。そのツォンカパが、仏教のあらゆる教えや修行法のなかで頂点に位置すると評価したのが、『秘密集会(ひみつしゅうえ)タントラ』という経典である。その特徴は、解脱に至る方法として性的ヨーガ(性行為のあるヨーガ)が採用されている点だ。


 ゲルク派の修行には、「生起次第(しょうきしだい)」と「究竟次第(くきょうしだい)」という2つの段階がある。ツォンカパは「生起次第」として49の修行プロセスを記している。そのなかの1つを紹介すると、「宝生如来(ほうしょうにょらい)として明妃(みょうひ)と性的ヨーガを実践する」というのがある。如来とは仏の最高位だが、宝生如来は財宝を生み出して人々に福徳を授ける仏。明妃は女性の尊格。如来と同格とも、菩薩と同格とも、いろいろな説がある。いずれにしても、自分が宝生如来になって、女性の尊格とセックスせよとなる。


 「究竟次第」では、性行為にて極限的な快楽を追い求めながらも、同時に極端な呼吸コントロールも行ない、死に瀕することも少なくなかったようである。ただし、前述の「宝生如来として明妃と」もそうだが、ツォンカパは、性的ヨーガの有効性を認めながらも、実際の行為は禁止していた。


 えっ、実際にはやってなかったの!? という話だが、これは仏教の戒律が僧侶の性行為を禁じているからだ。悟りを得るためのセックスなのに、それを行なえば戒律を破ってしまうというジレンマ。では、どうすればいいのか? ツォンカパは観想(かんそう)としてのみ、この修行を行なうことを求めたという。観想とは要はイメージなのだが、単なる想像や妄想とは異なる。修行者の霊的な力によって女性パートナーを出現させ、彼女とセックスせよ、というわけである。


 「なんだ、イメージの相手とするだけか」とか、「霊的な力で出現させるってどういうことだ」とか思う人もいるだろう。ツォンカパは禁じたが、これまで行なわれてきた性的ヨーガがむろん全部イメージだったわけではない。生身の相手と実際のセックスをした記録はたくさん残っている。たとえば、当時ゲルク派を離れ、他宗派に移って実践した僧侶もいたし、近年では(といっても1970年代だが)、ラジニーシがインド・プーナのアシュラムで試みた「タントラ・グループ」がそれである。


 しかし、実際のセックスでもイメージのセックスでも、悟りに至る可能性は同じではないかと僕は思うのだ。このブログの読者のなかには、催淫テープを聴いている女の子が何もされていないのに感じ出し、イッてしまう光景をご覧になった方もいるだろう。ただ、だれが聴いてもすぐにそうなるわけではなく、とりわけ不感症に近い子には事前に呼吸法が不可欠である。


 最初はゆったりした腹式呼吸(長息)から入り、徐々に短息や性器呼吸など、さまざまな呼吸法を行なってもらう。短息などの激しい呼吸では、その子の精神を危機的な状況にさらすこともある。大袈裟な、と思う人もいるかもしれない。短息をしていると思考が飛ぶ。思考が飛べば、自分を自分たらしめている枠が外れる。外れると、自分がどうなってしまうかわからない不安が湧いたり、過去のトラウマがよみがえったりする。そうなったとき、僕はその子の手を握ったり、「大丈夫だよ」と声をかけたり、長息に戻させたりする。


 タントラにおいて呼吸は要諦と思われるが、思考が機能し、客観的かつ冷静に分析をしていたのでは、催淫テープにも入っていけない。自分を自分たらしめている(と本人が思っている)枠からも自由になってテープを聴いたとき、女の子の目の前には男が現われ、その男とするセックスは実際のセックスと差異がない。いや、往々にしてそれ以上の場合もある。イッたことがないと言う女性が、催淫テープで初めてオーガズムを体験することもたびたびあったのだから。


 なぜそのようなことが起きるのか? 彼女たちは日常的な意識から変性意識状態になっていたからである。このことからも、修行者が変性意識状態に至ったとき、宝生如来として明妃と交わる性的ヨーガも、きっとリアリティをもって実践できていただろうと思うのである。


 もともとセックスは悟るためにあるわけではない。快を得たい、その結果として子孫が残るというのがセックスだ。ところが、セックスによっても悟れるということに、遠い昔、だれかが気づいた。というか、たまたまそういう現象が起きた。宗教的な表現を使えば、それは「神と一体となった」も同然だった。


 ああなるためにはどうしたらいいのかを探求したすえにタントラが生まれたのではないだろうか。考えてみれば、瞑想にしても滝行にしても、悟りを得る方法はいろいろあるけれど、その修行によって変性意識状態に至るという点ではセックスも同じだと僕はあらためて思うのである。


*参考文献
ツルティム・ケサン、正木晃著『増補 チベット密教』(ちくま学芸文庫)
松長有慶著『密教』(岩波新書)
宮元啓一著『ブッダが考えたこと』(角川ソフィア文庫)


http://blog.livedoor.jp/yoyochu/archives/54906175.html


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c89

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
189. 中川隆[-8764] koaQ7Jey 2019年8月18日 15:18:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3978]

2019年08月18日
日本政府が円高防止でドルを買う裏介入を実施 

外貨準備が増え続けるのは、政府がドルを買って円安に誘導しているから


画像引用:https://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/img.imidas.jp/topics/wp-content/uploads/2017/09/05225508/A-40-032-08-06-1_sp.png

裏介入は存在するか

為替市場で円高が進んでいて8月現在は105円台だが、1ドル100円を割るかどうかが焦点になっています。

2016年秋にも同じことがあり、英EU離脱から為替市場が乱高下し何度も1ドル100円割れを試した。

結局2016年の円高は1ドル100円で反転したのだが、この時重要な役割を果たしたのが為替介入でした。


公式に発表されている日本政府による介入は野田政権の2010年以降行われていないが、実は毎日実施されています。

大掛かりに円を売ってドルを買い、為替相場を操作するのが為替介入だが、毎日こつこつドルを買うのは「ドル調達」といっています。

これがばかにならないほどの金額で、平均すると日本政府や日銀は年間10兆円前後もドル買いをしています。


日本が貿易をするには国際通貨であるドルが必要なので、貿易上必要だからという名目でドルを買っているのです。

その一方で買ったドルで米国債などを購入するので外貨準備や米国債保有高は、どんどん上がって世界一になっています。

2019年8月現在の外貨準備高は1.3兆ドルで世界2位、1位は中国の3.1兆ドルでした。


米国債保有高は日本が1.12兆ドルで世界1位、中国は2位で1.11兆ドルでした。

見て分かるように日本の外貨準備の8割以上が米国債なのに対し、中国の外貨準備の64%は米国債以外が占めています。

中国の外貨準備の6割は実際にはどこにあるのか不明なので、実際には「この世に存在しない架空のお金」だと考えられています。

9か月で10兆円のドル購入

日本政府が120兆円も米国債を持っているのは過去にそれだけの円を売ってドルを買ったからで、現在も増え続けています。

日本は2018年10月以降、米国債保有額を計1000億ドル相当以上増やしたが、言い換えると日本政府は9か月間で10兆円以上ドルを買った事になります。

これが「裏介入」で、為替介入という言葉を使っていないだけで、日本政府は円高防止のためにドルを買っています。


その原資は国家予算なのだが実際には日銀が円を発行するだけなので元手はタダ、無料で米国債を買えるので悪い取引ではない。

余りにもドルが余って仕方がないので麻生総理の時に韓国と通貨スワップを結び、韓国に恩を売ろうとした。

だが韓国は「お金を借りて欲しいなら日本が謝罪して金を払え」と妙な事を言って解消されてしまいました。


最近ドル円相場が100円台で乱高下しているのは、円買いをする外国の投機筋に対して、日本政府がドル買いで対抗しているからと考えられます。

日本政府が裏介入で使えるのは年間10兆円レベルまでで、20兆や30兆になれば米政府は「為替操作だ!」と騒ぎ始めます。

政府が密かに(アメリカはもちろん知っているが)買えるドルには限界があり、その額を超える円買いがあれば防衛ラインの100円を突破されます。

このように為替市場は政府と外国の投機筋が、10兆円単位のお金を投げ合って戦っています。
http://www.thutmosev.com/archives/80713768.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c189

[近代史3] 香港デモが終わらない理由 & 香港デモの正体を見極めよ 中川隆
3. 中川隆[-8763] koaQ7Jey 2019年8月18日 17:18:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3979]

2019年08月18日
香港は共産化しチベット・ウイグルのようになる

きのうのチベットは今日の香港、明日の沖縄、日本政府のように甘やかしたりはしない


画像引用:https://ameblo.jp/dragonfly-island/entry-11097084253.html

香港は共産化でチベットのようになる

香港は犯罪者の中国引き渡し条例をきっかけに大規模デモが発生し、暴動に発展している。

中国共産党は武力鎮圧を連想させる発言をし、香港と中国の境界線には治安部隊装甲車数百台が集結している。

実際には中国本土から公安や警察や軍の特殊部隊が潜入しているのは、周知の事実になっている。



2011年の中国反日暴動では、デモ隊が日本企業を襲っていたが、その先頭で群衆を指揮したのは治安部隊でした。

また2014年頃の中国漁船団の日本領海侵入事件では、100隻以上の船団の中心で、海軍と思われる軍人が指揮していた。

香港ではデモ隊に対抗する「愛国者」グループが登場し、デモ隊を襲っているが、中身は香港警察と本土の治安部隊です。


香港の問題はひとつは香港が「中国の領土」ではないことで、歴史上イギリスの植民地として「発展」しました。

日本の植民地になることで朝鮮が民主化し発展したように、香港はイギリスの植民地だから発展しました。

その民主主義を一度知った香港人を、明日から19世紀の部族国家にするというのが香港返還でした。


沖縄では「中国に返還してもらおう」という人が知事をしているが、実際に返還されたらいかなる政治運動もできなくなります。

政府を批判したり、政府の軍事計画を妨害したら拘束されて山奥の収容所に入れられ、行方不明者として処理されます。

言論や研究や集会の自由もなくなって、共産党が決めた教育が行われるようになり、学校では「漢民族の歴史」だけを教え、先祖の墓は全て壊されます。

沖縄・香港と、チベット・ウイグル

中国ではジャーナリストは国家資格なので、中国共産党が認めた人だけがメディアで発表でき、無資格で記事を書くと逮捕される。

ネットでブログを書くにも審査が必要で、共産党が指定した検査官数人が、全員合格を出さないとネットサイトを開設できない。

SNSや匿名掲示板も実名登録が必要で、公開はされないが政府は誰が書いたか把握している。


中国本土のチベットやウイグルなどでは、PCやスマホにスパイソフトインストールが義務化されている。

スパイソフトはスマホやPCでなにをしたか、何を保存したか逐一公安に報告し、ソフトなしのスマホを携帯していると逮捕される。

スパイソフト義務化は中国全土に広がりつつあり、顔認証システムも構築されている。


全世界の半分の防犯カメラが中国に存在し、顔認証で公安や警察と連動したタイプが増えている。

駅やバス停や交差点などで人々の顔を撮影し、公安のデータと照合し不審者を把握している。

この不審者は「政府に盾突く人」という意味で、例えば「辺野古基地反対」と叫ぶような人です。


このようにもし沖縄が実際に中国のものになったら、半分の70万人は本土のゴビ砂漠辺りに移住させるでしょう。

残った沖縄人は「一人っ子政策」で出産制限して人口が減るようにし、代わりに本土から漢民族を移住させ乗っ取ります。

チベットやモンゴルやウイグルで中国が散々やってきたことなので、そうなると断言できるのです。


これを今まさにやられているのが香港で、この先自分がどんな目に遭うか分かっているので騒いでいます。

本土と統一された香港は、民主主義を唱えるようなのは全員山奥か砂漠の極貧農民にするか、収容所に送ります。

残った香港人は共産党への忠誠を誓わされ、個人の意思を捨てるよう強要されます。


香港にも共産党にゴマをすって利益を得ようというジャッキーチェンのような人間がいて、香港人同士が戦っています。

中国人には政府を裏切って、利権を捨てて民衆のために戦う人は居ないので、おそらく鎮圧されるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/80731736.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/576.html#c3

[リバイバル3] 中川隆 _ 朝鮮関係投稿リンク 中川隆
9. 中川隆[-8762] koaQ7Jey 2019年8月18日 17:26:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3980]
韓国の外貨準備は存在しない「見せ金」 ウォン下落なら支えられず
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/579.html



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/973.html#c9
[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
196. 中川隆[-8761] koaQ7Jey 2019年8月18日 20:40:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3981]

78. 2019年8月18日 11:05:08 : 8OmLBqbYio : dFN4QS91VjU0amM=[3]

70、80年も経って、極秘文書が発見された云々と大騒ぎをやらかすのは、怪訝で、奇異なことだ。
バーガミニは、当時一級の資料を用いて、裕仁の陰謀を余すことなく、描き出した。

戦後、マッカーサーは、関係者を脅迫して、戦争の責任が、裕仁ではなく、偏に当時の政府・軍にあるように、半ば強制した。

来たる東京裁判では、すべての責任を、東條に押し付けることで一致していた。

> Fellers and MacArthur employed
simple intimidation. All Japanese officials and military
officers were expected to take the line that responsibility
for the war lay exclusively with the government and the
military; the emperor was not in any way to blame.・・・・
It would be best to blame all responsibility on Tojo.'


同時に、米国内向けに、平和主義者で、民衆と交わる裕仁のイメージアップ作戦が行われた。

> Starting in February 1946, the emperor was
put on the public relations
circuit, promoting his new image as a great
pacifist, touring Japan and shaking hands with the people.
(以上、Yamato Dynastyからの引用。)


記事の内容から、拝謁記も、この線にそって書かれていることは明白だ。




80. 2019年8月18日 17:11:55 : hHRyrQsPsY : Nk5rVnVxSUM2Vk0=[190]

>>78さん、同感だ。

天皇が「後悔している」と言うのは「後悔していない」と言うよりもその方が自分の安全に繋がるからであって、何も驚くことではない。本当に心から悔いているのであれば、もっともっと沢山の闇の中の真実を告白する筈だ。
バーガミニも「ヒロヒトが操り人形で真珠湾攻撃を12/2まで知らされていなかったというのは嘘だ」と暴露している。

「大海令第一号」(真珠湾作戦計画書)は天皇、2~3の皇族、永野、杉山、山本と数人の腹心だけが知っていた。


天皇「海軍は何日を(攻撃)メドにしているのか」

永野「12月8日」

天皇「それは月曜日ではないのかね」(ハワイ時間では7日、日曜日)

永野「休みのあとは誰でも疲れているでしょうからその日を選びました」

以上杉山メモより。

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/552.html#cbtm
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c196

[アジア23] 韓国で日本製品の大規模不買運動 (RFI) 無段活用
1. 中川隆[-8760] koaQ7Jey 2019年8月19日 04:51:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3982]
儒教の国とは価値観が違うから国交断絶するしかないだろ

宮脇淳子 あるのはウソだけのめんどくさい国。韓国の異常さがよくわかる動画 - YouTube
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じっくり学ぼう!日韓近現代史【CGS 宮脇淳子】 - YouTube 動画
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韓流ドラマはSF・ファンタジーの世界 ~ 朝鮮史の真実【CGS宮脇淳子】
https://www.youtube.com/watch?v=z3UjCOXvFDQ

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さくらじ#50 大人気!宮脇淳子講座、韓国に挑む!?
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http://www.asyura2.com/17/asia23/msg/841.html#c1

[アジア23] 今年韓成長率2.2%→1.9%... `亞4匹の`すべて下方修正 パイプライン
1. 中川隆[-8759] koaQ7Jey 2019年8月19日 04:51:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3983]
儒教の国とは価値観が違うから国交断絶するしかないだろ

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【東京発信・Cool Eyes】第16回 歴史学者・宮脇淳子 朝鮮半島と満州の「なぜ」 - YouTube
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韓流ドラマはSF・ファンタジーの世界 ~ 朝鮮史の真実【CGS宮脇淳子】
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なぜ今、日韓近現代史なのか?~昔も今も韓国は韓国【CGS 宮脇淳子】
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さくらじ#50 大人気!宮脇淳子講座、韓国に挑む!?
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[経世済民132] アベ“断韓”外交で早くも始まった経済損失に日本企業が悲鳴(日刊ゲンダイ) :政治板リンク  赤かぶ
8. 中川隆[-8758] koaQ7Jey 2019年8月19日 04:54:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3984]
儒教の国とは価値観が違うから国交断絶するしかないだろ

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[政治・選挙・NHK264] 日韓対立で『ワシントン・ポスト』が日本の歴史修正主義が原因と指摘!「日本が罪への償いを怠ったことが経済を脅かす」(リテ… 赤かぶ
28. 中川隆[-8757] koaQ7Jey 2019年8月19日 04:55:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3985]
儒教の国とは価値観が違うから国交断絶するしかないだろ

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[政治・選挙・NHK264] <よし、来たな!>れいわが倍増、政党支持率 共産に並ぶ4.3% 共同通信世論調査  赤かぶ
36. 中川隆[-8756] koaQ7Jey 2019年8月19日 05:03:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3986]


山本太郎は在日で北朝鮮のエージェント、世界革命を目指す日本赤軍派後継者


れいわ が障害2議員を入れたのは山本太郎を介護者として代弁させて国会に出ずっぱりで演説させる為だよ


山本太郎=演説だけでドイツを変えた名優ヒトラーの再来、斎藤まさし =ゲッペルス


▲△▽▼


れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。

森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。
母親は森順子、ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


国会に難病議員2人入れて介護者という名目で山本太郎が二人の代わりに代弁してれいわの名を売るんだろ

すべて斎藤まさしのアイデアさ

素人の山本太郎が4億円も寄付を集めたり、わざわざ難病議員を立候補させる訳がないというのがわからないアホが多過ぎるんだな

山本太郎は世界同時革命を目指すキチガイ斎藤まさし(酒井剛)の書いた台本通りに演技してるだけだよ


____


斉藤まさし(2018、8最高裁にて公職選挙法違反で有罪)が山本太郎の街宣に現れた!

やはり山本太郎は操り人形だったのね。


山本太郎の選挙を指揮していると言われてる斉藤まさしが新宿西口で行われた「山本太郎の街頭演説」の場に現れた。

元俳優の山本太郎を使って革命を目指す斉藤まさしの姿が良くお分かりになったでしょう。

監督の指示に従って演技をする、山本太郎は未だに役を演じているように見えますね。

しかし、その俳優は色々問題のある人物だった。

週刊新潮に強姦魔だと書かれても、名誉棄損で訴えることが出来ない。法廷で争う事が出来ない山本太郎という男を担いでしまった。

ME TOO のプラカード持ってパフォーマンスしていた議員達は山本太郎に強姦されたと勇気をもって告発した女性にはダンマリか!

未成年の女の子を強姦しても、革命家斉藤まさしの書いたシナリオ通りを演じておけば、参議院議員にもなれるか。

もし、事実じゃなないのなら、何故週刊新潮を訴えないのか?

____


無知な一般大衆が知らない山本太郎・斉藤まさしやヒトラー、レーニンを操っていた黒幕


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
重信房子、田宮高麿、山本太郎・斉藤まさし、北朝鮮、オウム真理教の深い関係

2011年4月に行われた第17回統一地方選挙の三鷹市議会議員選挙に、代表を務める市民の党からよど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が立候補しているが斉藤まさしは市議選に擁立した背景について取材で

「10年ほど前に北朝鮮に行き、よど号の人間や娘たちと会った」
「その中には(三鷹市議選に出馬した)長男の姉もいた」
「そうした縁もあって、長男が帰国してきてからつながりがあった」

と述べている。 北朝鮮や田宮との関係について「救う会」会長の西岡力は「酒井(斎藤まさし)代表がよど号犯やその子供らと会えたことは、北朝鮮が酒井代表を同志と考えたか、対日工作に利用できると判断して許可を出したことになる。酒井や市民の党が北と密接な関係にあったのは明白だ」と批判している


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。


http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/616.html#c36

[近代史3] 統一協会は何故危険なのか? 中川隆
6. 中川隆[-8755] koaQ7Jey 2019年8月19日 06:06:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3987]
2019.08.19
中露の政策に則って動いている朝鮮が米韓軍事演習で中国と軍事的つながり強化

 ​アメリカ軍と韓国軍の合同軍事演習は8月21日から開始​されるという。この演習に朝鮮政府は反発して韓国政府との和平交渉の継続を拒否、ミサイル発射実験を実施した。その直後に​朝鮮人民軍総政治局の金秀吉(キム・スギル)局長を団長とする代表団が北京を訪問​、中国と朝鮮の軍事的なつながりは一層、強化されると伝えらている。

 朝鮮は1980年代の後半にソ連から見捨てられた。1985年にソ連の書記長となった欧米に厚い信仰を寄せるミハイル・ゴルバチョフの政策に基づいている。

 そうした朝鮮に対して手を差し伸べたのが統一教会。アメリカ軍の情報機関DIA(国防情報局)によると、1991年11月末から翌月上旬にかけて統一協会の文鮮明教祖が朝鮮を訪問、その際に「4500億円」を寄付、1993年にはアメリカのペンシルベニア州に保有していた不動産を売却して得た資金300万ドルを香港の韓国系企業を介して朝鮮へ送っている。

 この統一教会はジョージ・H・W・ブッシュと緊密な関係にあり、WACL(世界反共連盟。1991年にWLFD/世界自由民主主義連盟へ名称変更)の創設にも参加している。

 WACLはヨーロッパと東アジアの反コミュニスト勢力、つまりヨーロッパのABN(反ボルシェビキ国家連合)と東アジアのアジア人民反共連盟(後のアジア太平洋反共連盟/APACL)が合体して作られた組織。その創設にはCIAが関係している。

 APACLは1954年に創設された。その中心は台湾の蒋介石政権と韓国の情報機関だが、日本からも児玉誉士夫や笹川良一が参加、日本支部の設置には岸信介も協力している。文鮮明が統一協会を創立したのはこの年だ。

 統一教会の資金が流れ込んだ朝鮮だが、1990年代の終わりになるとアメリカの好戦派は東アジアでの戦争を想定した作戦を作成しはじめる。1991年12月にソ連が消滅したことを受けて翌年2月にウォルフォウィッツ・ドクトリンが作成され、世界制覇に向かって単独行動を始めたことと無縁ではない。

 そのドクトリンを日本へ受け入れさせるために作成されたのが1995年2月に発表された「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」。国防次官補だったジョセイフ・ナイが書いたもので、国連中心主義の立場を放棄してアメリカの単独行動を容認するように求めたのだ。

 その前年、1994年の6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれるという事件(松本サリン事件)が引き起こされ、95年3月20日には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、同月30日には警察庁長官だった國松孝次が狙撃されて重傷を負う。

 1995年8月27日付けのスターズ・アンド・ストライプ紙には、1985年8月12日に墜落した日本航空123便に関する記事が掲載された。その当時、大島上空を飛行していたアメリカ軍の輸送機C-130の乗組員だったマイケル・アントヌッチの証言に基づいているのだが、その記事は自衛隊の責任を示唆している。

 その後、日本は急ピッチでアメリカの戦争マシーンへ組み込まれていく。例えば1996年の「日米安保共同宣言」、97年の「日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)」、99年の「周辺事態法」、2000年の「アーミテージ報告」といった具合だ。2005年には「日米同盟:未来のための変革と再編」が発表されている。

 それと並行して朝鮮半島での戦争を想定した軍事作戦がアメリカで作成されている。例えば、国家としての朝鮮を消滅させて韓国が主導して新たな国を建設するという1998年のOPLAN(作戦計画)5027-98。2003年には空爆を電子戦やサイバー攻撃と並行して行うというCONPLAN 8022-02が作成された。これには先制核攻撃が含まれ、そのターゲットとして朝鮮やイランが想定されている。

 そして2010年3月、米韓両軍が合同軍事演習「フォール・イーグル」を実施している最中に韓国の哨戒艦「天安」が爆発して沈没する。韓国と朝鮮で境界線の確定していない海域での出来事だった。

 この沈没に関して5月頃から李明博政権は朝鮮軍の攻撃で沈没したと主張し始める。この主張には疑問が多く、CIAの元高官でジョージ・H・W・ブッシュと親しく、駐韓大使も務めたドナルド・グレッグもこの朝鮮犯行説に疑問を投げかけた。アメリカ支配層の内部でもこの人脈はこの時点で朝鮮半島の軍事的な緊張が高まることを望んでいなかったということだろう。

 そして11月には問題の海域で軍事演習「ホグク(護国)」が実施され、アメリカの第31MEU(海兵隊遠征隊)や第7空軍が参加したと言われている。そして朝鮮軍の大延坪島砲撃につながった。

 日本では東アジアの平和を訴えていた鳩山由紀夫首相が2010年6月に検察やマスコミの圧力で辞任している。そして誕生したのが菅直人政権。尖閣諸島(釣魚台群島)の付近で操業していた中国の漁船を海上保安庁が「日中漁業協定」を無視する形で取り締まり、尖閣列島の領有権問題に火をつけて日中関係を悪化させ、東アジアの軍事的な緊張を高めた。

 それに対し、ロシア政府は朝鮮半島を含む東アジアをビジネスで安定化させるという政策を実践に移している。2011年夏にロシアのドミトリ・メドベージェフ首相はシベリアで朝鮮の最高指導者だった金正日と会い、110億ドル近くあったソ連時代の負債の90%を棒引きにし、鉱物資源の開発などに10億ドルを投資すると提案している。

 ロシア政府はシベリア横断鉄道を延長させ、朝鮮半島を南下させて釜山までつなげるという計画を持っていた。鉄道と並行してパイプラインの建設も想定されていたはず。現在、この計画は中国の一帯一路(BRI/帯路構想)とつながっている。

 2011年の提案を金正日は受け入れるが、その年の12月に急死してしまう。12月17日に列車で移動中に車内で急性心筋梗塞を起こして死亡したと朝鮮の国営メディアは19日に伝えているが、韓国の情報機関であるNIS(国家情報院)の院長だった元世勲は暗殺説を唱えていた。

 その後、朝鮮はミサイル発射実験や核兵器の開発をアピールして東アジアの軍事的な緊張を高め、朝鮮半島に鉄道やパイプラインを建設するというロシアのプランはアメリカ主導の「制裁」で難しくなる。朝鮮の好戦的な姿勢はアメリカを利することになった。

 その朝鮮の姿勢が変化したことを示す出来事が2018年3月26日にあった。金正恩労働党委員長が特別列車で北京へ入り、釣魚台国賓館で中国の習近平国家主席と会談したのだ。同委員長が韓国の文在寅大統領と板門店で会談したのはその1カ月後、4月27日のことだ。

 また、5月31日にはロシアのセルゲイ・ラブロフ外相が朝鮮を訪問、金正恩委員長にロシアを訪れるよう求めたと伝えられている。9月にウラジオストクで開催されるEEF(東方経済フォーラム)に招待、そこでウラジミル・プーチン大統領と会談してはどうかという提案だ。

 この段階で朝鮮の後ろ盾としてロシアと中国がついたわけだが、韓国もロシアと中国との関係を強化していく。東アジアはロシアと中国を中心に回転しはじめたのだ。

 こうした流れは日本も巻き込んでいる。日本の有力企業でスキャンダルが明るみにでたことも無縁ではないだろう。アメリカの属国である日本だが、ビジネスはロシアや中国を抜きに成り立たない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201908190000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/299.html#c6

[近代史3] 重信房子、北朝鮮、オウム真理教の深い関係 中川隆
9. 中川隆[-8754] koaQ7Jey 2019年8月19日 06:06:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3988]
2019.08.19
中露の政策に則って動いている朝鮮が米韓軍事演習で中国と軍事的つながり強化

 ​アメリカ軍と韓国軍の合同軍事演習は8月21日から開始​されるという。この演習に朝鮮政府は反発して韓国政府との和平交渉の継続を拒否、ミサイル発射実験を実施した。その直後に​朝鮮人民軍総政治局の金秀吉(キム・スギル)局長を団長とする代表団が北京を訪問​、中国と朝鮮の軍事的なつながりは一層、強化されると伝えらている。

 朝鮮は1980年代の後半にソ連から見捨てられた。1985年にソ連の書記長となった欧米に厚い信仰を寄せるミハイル・ゴルバチョフの政策に基づいている。

 そうした朝鮮に対して手を差し伸べたのが統一教会。アメリカ軍の情報機関DIA(国防情報局)によると、1991年11月末から翌月上旬にかけて統一協会の文鮮明教祖が朝鮮を訪問、その際に「4500億円」を寄付、1993年にはアメリカのペンシルベニア州に保有していた不動産を売却して得た資金300万ドルを香港の韓国系企業を介して朝鮮へ送っている。

 この統一教会はジョージ・H・W・ブッシュと緊密な関係にあり、WACL(世界反共連盟。1991年にWLFD/世界自由民主主義連盟へ名称変更)の創設にも参加している。

 WACLはヨーロッパと東アジアの反コミュニスト勢力、つまりヨーロッパのABN(反ボルシェビキ国家連合)と東アジアのアジア人民反共連盟(後のアジア太平洋反共連盟/APACL)が合体して作られた組織。その創設にはCIAが関係している。

 APACLは1954年に創設された。その中心は台湾の蒋介石政権と韓国の情報機関だが、日本からも児玉誉士夫や笹川良一が参加、日本支部の設置には岸信介も協力している。文鮮明が統一協会を創立したのはこの年だ。

 統一教会の資金が流れ込んだ朝鮮だが、1990年代の終わりになるとアメリカの好戦派は東アジアでの戦争を想定した作戦を作成しはじめる。1991年12月にソ連が消滅したことを受けて翌年2月にウォルフォウィッツ・ドクトリンが作成され、世界制覇に向かって単独行動を始めたことと無縁ではない。

 そのドクトリンを日本へ受け入れさせるために作成されたのが1995年2月に発表された「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」。国防次官補だったジョセイフ・ナイが書いたもので、国連中心主義の立場を放棄してアメリカの単独行動を容認するように求めたのだ。

 その前年、1994年の6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれるという事件(松本サリン事件)が引き起こされ、95年3月20日には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、同月30日には警察庁長官だった國松孝次が狙撃されて重傷を負う。

 1995年8月27日付けのスターズ・アンド・ストライプ紙には、1985年8月12日に墜落した日本航空123便に関する記事が掲載された。その当時、大島上空を飛行していたアメリカ軍の輸送機C-130の乗組員だったマイケル・アントヌッチの証言に基づいているのだが、その記事は自衛隊の責任を示唆している。

 その後、日本は急ピッチでアメリカの戦争マシーンへ組み込まれていく。例えば1996年の「日米安保共同宣言」、97年の「日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)」、99年の「周辺事態法」、2000年の「アーミテージ報告」といった具合だ。2005年には「日米同盟:未来のための変革と再編」が発表されている。

 それと並行して朝鮮半島での戦争を想定した軍事作戦がアメリカで作成されている。例えば、国家としての朝鮮を消滅させて韓国が主導して新たな国を建設するという1998年のOPLAN(作戦計画)5027-98。2003年には空爆を電子戦やサイバー攻撃と並行して行うというCONPLAN 8022-02が作成された。これには先制核攻撃が含まれ、そのターゲットとして朝鮮やイランが想定されている。

 そして2010年3月、米韓両軍が合同軍事演習「フォール・イーグル」を実施している最中に韓国の哨戒艦「天安」が爆発して沈没する。韓国と朝鮮で境界線の確定していない海域での出来事だった。

 この沈没に関して5月頃から李明博政権は朝鮮軍の攻撃で沈没したと主張し始める。この主張には疑問が多く、CIAの元高官でジョージ・H・W・ブッシュと親しく、駐韓大使も務めたドナルド・グレッグもこの朝鮮犯行説に疑問を投げかけた。アメリカ支配層の内部でもこの人脈はこの時点で朝鮮半島の軍事的な緊張が高まることを望んでいなかったということだろう。

 そして11月には問題の海域で軍事演習「ホグク(護国)」が実施され、アメリカの第31MEU(海兵隊遠征隊)や第7空軍が参加したと言われている。そして朝鮮軍の大延坪島砲撃につながった。

 日本では東アジアの平和を訴えていた鳩山由紀夫首相が2010年6月に検察やマスコミの圧力で辞任している。そして誕生したのが菅直人政権。尖閣諸島(釣魚台群島)の付近で操業していた中国の漁船を海上保安庁が「日中漁業協定」を無視する形で取り締まり、尖閣列島の領有権問題に火をつけて日中関係を悪化させ、東アジアの軍事的な緊張を高めた。

 それに対し、ロシア政府は朝鮮半島を含む東アジアをビジネスで安定化させるという政策を実践に移している。2011年夏にロシアのドミトリ・メドベージェフ首相はシベリアで朝鮮の最高指導者だった金正日と会い、110億ドル近くあったソ連時代の負債の90%を棒引きにし、鉱物資源の開発などに10億ドルを投資すると提案している。

 ロシア政府はシベリア横断鉄道を延長させ、朝鮮半島を南下させて釜山までつなげるという計画を持っていた。鉄道と並行してパイプラインの建設も想定されていたはず。現在、この計画は中国の一帯一路(BRI/帯路構想)とつながっている。

 2011年の提案を金正日は受け入れるが、その年の12月に急死してしまう。12月17日に列車で移動中に車内で急性心筋梗塞を起こして死亡したと朝鮮の国営メディアは19日に伝えているが、韓国の情報機関であるNIS(国家情報院)の院長だった元世勲は暗殺説を唱えていた。

 その後、朝鮮はミサイル発射実験や核兵器の開発をアピールして東アジアの軍事的な緊張を高め、朝鮮半島に鉄道やパイプラインを建設するというロシアのプランはアメリカ主導の「制裁」で難しくなる。朝鮮の好戦的な姿勢はアメリカを利することになった。

 その朝鮮の姿勢が変化したことを示す出来事が2018年3月26日にあった。金正恩労働党委員長が特別列車で北京へ入り、釣魚台国賓館で中国の習近平国家主席と会談したのだ。同委員長が韓国の文在寅大統領と板門店で会談したのはその1カ月後、4月27日のことだ。

 また、5月31日にはロシアのセルゲイ・ラブロフ外相が朝鮮を訪問、金正恩委員長にロシアを訪れるよう求めたと伝えられている。9月にウラジオストクで開催されるEEF(東方経済フォーラム)に招待、そこでウラジミル・プーチン大統領と会談してはどうかという提案だ。

 この段階で朝鮮の後ろ盾としてロシアと中国がついたわけだが、韓国もロシアと中国との関係を強化していく。東アジアはロシアと中国を中心に回転しはじめたのだ。

 こうした流れは日本も巻き込んでいる。日本の有力企業でスキャンダルが明るみにでたことも無縁ではないだろう。アメリカの属国である日本だが、ビジネスはロシアや中国を抜きに成り立たない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201908190000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/300.html#c9

[近代史3] 右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた 中川隆
45. 中川隆[-8753] koaQ7Jey 2019年8月19日 06:07:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3989]
2019.08.19
中露の政策に則って動いている朝鮮が米韓軍事演習で中国と軍事的つながり強化

 ​アメリカ軍と韓国軍の合同軍事演習は8月21日から開始​されるという。この演習に朝鮮政府は反発して韓国政府との和平交渉の継続を拒否、ミサイル発射実験を実施した。その直後に​朝鮮人民軍総政治局の金秀吉(キム・スギル)局長を団長とする代表団が北京を訪問​、中国と朝鮮の軍事的なつながりは一層、強化されると伝えらている。

 朝鮮は1980年代の後半にソ連から見捨てられた。1985年にソ連の書記長となった欧米に厚い信仰を寄せるミハイル・ゴルバチョフの政策に基づいている。

 そうした朝鮮に対して手を差し伸べたのが統一教会。アメリカ軍の情報機関DIA(国防情報局)によると、1991年11月末から翌月上旬にかけて統一協会の文鮮明教祖が朝鮮を訪問、その際に「4500億円」を寄付、1993年にはアメリカのペンシルベニア州に保有していた不動産を売却して得た資金300万ドルを香港の韓国系企業を介して朝鮮へ送っている。

 この統一教会はジョージ・H・W・ブッシュと緊密な関係にあり、WACL(世界反共連盟。1991年にWLFD/世界自由民主主義連盟へ名称変更)の創設にも参加している。

 WACLはヨーロッパと東アジアの反コミュニスト勢力、つまりヨーロッパのABN(反ボルシェビキ国家連合)と東アジアのアジア人民反共連盟(後のアジア太平洋反共連盟/APACL)が合体して作られた組織。その創設にはCIAが関係している。

 APACLは1954年に創設された。その中心は台湾の蒋介石政権と韓国の情報機関だが、日本からも児玉誉士夫や笹川良一が参加、日本支部の設置には岸信介も協力している。文鮮明が統一協会を創立したのはこの年だ。

 統一教会の資金が流れ込んだ朝鮮だが、1990年代の終わりになるとアメリカの好戦派は東アジアでの戦争を想定した作戦を作成しはじめる。1991年12月にソ連が消滅したことを受けて翌年2月にウォルフォウィッツ・ドクトリンが作成され、世界制覇に向かって単独行動を始めたことと無縁ではない。

 そのドクトリンを日本へ受け入れさせるために作成されたのが1995年2月に発表された「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」。国防次官補だったジョセイフ・ナイが書いたもので、国連中心主義の立場を放棄してアメリカの単独行動を容認するように求めたのだ。

 その前年、1994年の6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれるという事件(松本サリン事件)が引き起こされ、95年3月20日には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、同月30日には警察庁長官だった國松孝次が狙撃されて重傷を負う。

 1995年8月27日付けのスターズ・アンド・ストライプ紙には、1985年8月12日に墜落した日本航空123便に関する記事が掲載された。その当時、大島上空を飛行していたアメリカ軍の輸送機C-130の乗組員だったマイケル・アントヌッチの証言に基づいているのだが、その記事は自衛隊の責任を示唆している。

 その後、日本は急ピッチでアメリカの戦争マシーンへ組み込まれていく。例えば1996年の「日米安保共同宣言」、97年の「日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)」、99年の「周辺事態法」、2000年の「アーミテージ報告」といった具合だ。2005年には「日米同盟:未来のための変革と再編」が発表されている。

 それと並行して朝鮮半島での戦争を想定した軍事作戦がアメリカで作成されている。例えば、国家としての朝鮮を消滅させて韓国が主導して新たな国を建設するという1998年のOPLAN(作戦計画)5027-98。2003年には空爆を電子戦やサイバー攻撃と並行して行うというCONPLAN 8022-02が作成された。これには先制核攻撃が含まれ、そのターゲットとして朝鮮やイランが想定されている。

 そして2010年3月、米韓両軍が合同軍事演習「フォール・イーグル」を実施している最中に韓国の哨戒艦「天安」が爆発して沈没する。韓国と朝鮮で境界線の確定していない海域での出来事だった。

 この沈没に関して5月頃から李明博政権は朝鮮軍の攻撃で沈没したと主張し始める。この主張には疑問が多く、CIAの元高官でジョージ・H・W・ブッシュと親しく、駐韓大使も務めたドナルド・グレッグもこの朝鮮犯行説に疑問を投げかけた。アメリカ支配層の内部でもこの人脈はこの時点で朝鮮半島の軍事的な緊張が高まることを望んでいなかったということだろう。

 そして11月には問題の海域で軍事演習「ホグク(護国)」が実施され、アメリカの第31MEU(海兵隊遠征隊)や第7空軍が参加したと言われている。そして朝鮮軍の大延坪島砲撃につながった。

 日本では東アジアの平和を訴えていた鳩山由紀夫首相が2010年6月に検察やマスコミの圧力で辞任している。そして誕生したのが菅直人政権。尖閣諸島(釣魚台群島)の付近で操業していた中国の漁船を海上保安庁が「日中漁業協定」を無視する形で取り締まり、尖閣列島の領有権問題に火をつけて日中関係を悪化させ、東アジアの軍事的な緊張を高めた。

 それに対し、ロシア政府は朝鮮半島を含む東アジアをビジネスで安定化させるという政策を実践に移している。2011年夏にロシアのドミトリ・メドベージェフ首相はシベリアで朝鮮の最高指導者だった金正日と会い、110億ドル近くあったソ連時代の負債の90%を棒引きにし、鉱物資源の開発などに10億ドルを投資すると提案している。

 ロシア政府はシベリア横断鉄道を延長させ、朝鮮半島を南下させて釜山までつなげるという計画を持っていた。鉄道と並行してパイプラインの建設も想定されていたはず。現在、この計画は中国の一帯一路(BRI/帯路構想)とつながっている。

 2011年の提案を金正日は受け入れるが、その年の12月に急死してしまう。12月17日に列車で移動中に車内で急性心筋梗塞を起こして死亡したと朝鮮の国営メディアは19日に伝えているが、韓国の情報機関であるNIS(国家情報院)の院長だった元世勲は暗殺説を唱えていた。

 その後、朝鮮はミサイル発射実験や核兵器の開発をアピールして東アジアの軍事的な緊張を高め、朝鮮半島に鉄道やパイプラインを建設するというロシアのプランはアメリカ主導の「制裁」で難しくなる。朝鮮の好戦的な姿勢はアメリカを利することになった。

 その朝鮮の姿勢が変化したことを示す出来事が2018年3月26日にあった。金正恩労働党委員長が特別列車で北京へ入り、釣魚台国賓館で中国の習近平国家主席と会談したのだ。同委員長が韓国の文在寅大統領と板門店で会談したのはその1カ月後、4月27日のことだ。

 また、5月31日にはロシアのセルゲイ・ラブロフ外相が朝鮮を訪問、金正恩委員長にロシアを訪れるよう求めたと伝えられている。9月にウラジオストクで開催されるEEF(東方経済フォーラム)に招待、そこでウラジミル・プーチン大統領と会談してはどうかという提案だ。

 この段階で朝鮮の後ろ盾としてロシアと中国がついたわけだが、韓国もロシアと中国との関係を強化していく。東アジアはロシアと中国を中心に回転しはじめたのだ。

 こうした流れは日本も巻き込んでいる。日本の有力企業でスキャンダルが明るみにでたことも無縁ではないだろう。アメリカの属国である日本だが、ビジネスはロシアや中国を抜きに成り立たない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201908190000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/296.html#c45

[近代史3] 文在寅大統領の大衆扇動とその背景にあるアメリカの分断統治政策 中川隆
2. 中川隆[-8752] koaQ7Jey 2019年8月19日 06:08:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3990]
2019.08.19
中露の政策に則って動いている朝鮮が米韓軍事演習で中国と軍事的つながり強化

 ​アメリカ軍と韓国軍の合同軍事演習は8月21日から開始​されるという。この演習に朝鮮政府は反発して韓国政府との和平交渉の継続を拒否、ミサイル発射実験を実施した。その直後に​朝鮮人民軍総政治局の金秀吉(キム・スギル)局長を団長とする代表団が北京を訪問​、中国と朝鮮の軍事的なつながりは一層、強化されると伝えらている。

 朝鮮は1980年代の後半にソ連から見捨てられた。1985年にソ連の書記長となった欧米に厚い信仰を寄せるミハイル・ゴルバチョフの政策に基づいている。

 そうした朝鮮に対して手を差し伸べたのが統一教会。アメリカ軍の情報機関DIA(国防情報局)によると、1991年11月末から翌月上旬にかけて統一協会の文鮮明教祖が朝鮮を訪問、その際に「4500億円」を寄付、1993年にはアメリカのペンシルベニア州に保有していた不動産を売却して得た資金300万ドルを香港の韓国系企業を介して朝鮮へ送っている。

 この統一教会はジョージ・H・W・ブッシュと緊密な関係にあり、WACL(世界反共連盟。1991年にWLFD/世界自由民主主義連盟へ名称変更)の創設にも参加している。

 WACLはヨーロッパと東アジアの反コミュニスト勢力、つまりヨーロッパのABN(反ボルシェビキ国家連合)と東アジアのアジア人民反共連盟(後のアジア太平洋反共連盟/APACL)が合体して作られた組織。その創設にはCIAが関係している。

 APACLは1954年に創設された。その中心は台湾の蒋介石政権と韓国の情報機関だが、日本からも児玉誉士夫や笹川良一が参加、日本支部の設置には岸信介も協力している。文鮮明が統一協会を創立したのはこの年だ。

 統一教会の資金が流れ込んだ朝鮮だが、1990年代の終わりになるとアメリカの好戦派は東アジアでの戦争を想定した作戦を作成しはじめる。1991年12月にソ連が消滅したことを受けて翌年2月にウォルフォウィッツ・ドクトリンが作成され、世界制覇に向かって単独行動を始めたことと無縁ではない。

 そのドクトリンを日本へ受け入れさせるために作成されたのが1995年2月に発表された「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」。国防次官補だったジョセイフ・ナイが書いたもので、国連中心主義の立場を放棄してアメリカの単独行動を容認するように求めたのだ。

 その前年、1994年の6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれるという事件(松本サリン事件)が引き起こされ、95年3月20日には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、同月30日には警察庁長官だった國松孝次が狙撃されて重傷を負う。

 1995年8月27日付けのスターズ・アンド・ストライプ紙には、1985年8月12日に墜落した日本航空123便に関する記事が掲載された。その当時、大島上空を飛行していたアメリカ軍の輸送機C-130の乗組員だったマイケル・アントヌッチの証言に基づいているのだが、その記事は自衛隊の責任を示唆している。

 その後、日本は急ピッチでアメリカの戦争マシーンへ組み込まれていく。例えば1996年の「日米安保共同宣言」、97年の「日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)」、99年の「周辺事態法」、2000年の「アーミテージ報告」といった具合だ。2005年には「日米同盟:未来のための変革と再編」が発表されている。

 それと並行して朝鮮半島での戦争を想定した軍事作戦がアメリカで作成されている。例えば、国家としての朝鮮を消滅させて韓国が主導して新たな国を建設するという1998年のOPLAN(作戦計画)5027-98。2003年には空爆を電子戦やサイバー攻撃と並行して行うというCONPLAN 8022-02が作成された。これには先制核攻撃が含まれ、そのターゲットとして朝鮮やイランが想定されている。

 そして2010年3月、米韓両軍が合同軍事演習「フォール・イーグル」を実施している最中に韓国の哨戒艦「天安」が爆発して沈没する。韓国と朝鮮で境界線の確定していない海域での出来事だった。

 この沈没に関して5月頃から李明博政権は朝鮮軍の攻撃で沈没したと主張し始める。この主張には疑問が多く、CIAの元高官でジョージ・H・W・ブッシュと親しく、駐韓大使も務めたドナルド・グレッグもこの朝鮮犯行説に疑問を投げかけた。アメリカ支配層の内部でもこの人脈はこの時点で朝鮮半島の軍事的な緊張が高まることを望んでいなかったということだろう。

 そして11月には問題の海域で軍事演習「ホグク(護国)」が実施され、アメリカの第31MEU(海兵隊遠征隊)や第7空軍が参加したと言われている。そして朝鮮軍の大延坪島砲撃につながった。

 日本では東アジアの平和を訴えていた鳩山由紀夫首相が2010年6月に検察やマスコミの圧力で辞任している。そして誕生したのが菅直人政権。尖閣諸島(釣魚台群島)の付近で操業していた中国の漁船を海上保安庁が「日中漁業協定」を無視する形で取り締まり、尖閣列島の領有権問題に火をつけて日中関係を悪化させ、東アジアの軍事的な緊張を高めた。

 それに対し、ロシア政府は朝鮮半島を含む東アジアをビジネスで安定化させるという政策を実践に移している。2011年夏にロシアのドミトリ・メドベージェフ首相はシベリアで朝鮮の最高指導者だった金正日と会い、110億ドル近くあったソ連時代の負債の90%を棒引きにし、鉱物資源の開発などに10億ドルを投資すると提案している。

 ロシア政府はシベリア横断鉄道を延長させ、朝鮮半島を南下させて釜山までつなげるという計画を持っていた。鉄道と並行してパイプラインの建設も想定されていたはず。現在、この計画は中国の一帯一路(BRI/帯路構想)とつながっている。

 2011年の提案を金正日は受け入れるが、その年の12月に急死してしまう。12月17日に列車で移動中に車内で急性心筋梗塞を起こして死亡したと朝鮮の国営メディアは19日に伝えているが、韓国の情報機関であるNIS(国家情報院)の院長だった元世勲は暗殺説を唱えていた。

 その後、朝鮮はミサイル発射実験や核兵器の開発をアピールして東アジアの軍事的な緊張を高め、朝鮮半島に鉄道やパイプラインを建設するというロシアのプランはアメリカ主導の「制裁」で難しくなる。朝鮮の好戦的な姿勢はアメリカを利することになった。

 その朝鮮の姿勢が変化したことを示す出来事が2018年3月26日にあった。金正恩労働党委員長が特別列車で北京へ入り、釣魚台国賓館で中国の習近平国家主席と会談したのだ。同委員長が韓国の文在寅大統領と板門店で会談したのはその1カ月後、4月27日のことだ。

 また、5月31日にはロシアのセルゲイ・ラブロフ外相が朝鮮を訪問、金正恩委員長にロシアを訪れるよう求めたと伝えられている。9月にウラジオストクで開催されるEEF(東方経済フォーラム)に招待、そこでウラジミル・プーチン大統領と会談してはどうかという提案だ。

 この段階で朝鮮の後ろ盾としてロシアと中国がついたわけだが、韓国もロシアと中国との関係を強化していく。東アジアはロシアと中国を中心に回転しはじめたのだ。

 こうした流れは日本も巻き込んでいる。日本の有力企業でスキャンダルが明るみにでたことも無縁ではないだろう。アメリカの属国である日本だが、ビジネスはロシアや中国を抜きに成り立たない。
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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/571.html#c2

[近代史3] 馬渕睦夫 : 山本太郎は反グローバリストを装って一般大衆を欺く極左の隠れグローバリスト 中川隆
33. 中川隆[-8763] koaQ7Jey 2019年8月19日 06:30:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3979]
北朝鮮や日本の新左翼、創価学会・オウム、山本太郎・れいわ新選組は CIA と統一教会に支配されている

2019.08.19
中露の政策に則って動いている朝鮮が米韓軍事演習で中国と軍事的つながり強化

 ​アメリカ軍と韓国軍の合同軍事演習は8月21日から開始​されるという。この演習に朝鮮政府は反発して韓国政府との和平交渉の継続を拒否、ミサイル発射実験を実施した。その直後に​朝鮮人民軍総政治局の金秀吉(キム・スギル)局長を団長とする代表団が北京を訪問​、中国と朝鮮の軍事的なつながりは一層、強化されると伝えらている。

 北朝鮮は1980年代の後半にソ連から見捨てられた。1985年にソ連の書記長となった欧米に厚い信仰を寄せるミハイル・ゴルバチョフの政策に基づいている。

 そうした北朝鮮に対して手を差し伸べたのが統一教会。アメリカ軍の情報機関DIA(国防情報局)によると、1991年11月末から翌月上旬にかけて統一協会の文鮮明教祖が朝鮮を訪問、その際に「4500億円」を寄付、1993年にはアメリカのペンシルベニア州に保有していた不動産を売却して得た資金300万ドルを香港の韓国系企業を介して朝鮮へ送っている。

 この統一教会はジョージ・H・W・ブッシュと緊密な関係にあり、WACL(世界反共連盟。1991年にWLFD/世界自由民主主義連盟へ名称変更)の創設にも参加している。

 WACLはヨーロッパと東アジアの反コミュニスト勢力、つまりヨーロッパのABN(反ボルシェビキ国家連合)と東アジアのアジア人民反共連盟(後のアジア太平洋反共連盟/APACL)が合体して作られた組織。その創設にはCIAが関係している。

 APACLは1954年に創設された。その中心は台湾の蒋介石政権と韓国の情報機関だが、日本からも児玉誉士夫や笹川良一が参加、日本支部の設置には岸信介も協力している。文鮮明が統一協会を創立したのはこの年だ。

 統一教会の資金が流れ込んだ朝鮮だが、1990年代の終わりになるとアメリカの好戦派は東アジアでの戦争を想定した作戦を作成しはじめる。1991年12月にソ連が消滅したことを受けて翌年2月にウォルフォウィッツ・ドクトリンが作成され、世界制覇に向かって単独行動を始めたことと無縁ではない。

 そのドクトリンを日本へ受け入れさせるために作成されたのが1995年2月に発表された「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」。国防次官補だったジョセイフ・ナイが書いたもので、国連中心主義の立場を放棄してアメリカの単独行動を容認するように求めたのだ。

 その前年、1994年の6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれるという事件(松本サリン事件)が引き起こされ、95年3月20日には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、同月30日には警察庁長官だった國松孝次が狙撃されて重傷を負う。

 1995年8月27日付けのスターズ・アンド・ストライプ紙には、1985年8月12日に墜落した日本航空123便に関する記事が掲載された。その当時、大島上空を飛行していたアメリカ軍の輸送機C-130の乗組員だったマイケル・アントヌッチの証言に基づいているのだが、その記事は自衛隊の責任を示唆している。

 その後、日本は急ピッチでアメリカの戦争マシーンへ組み込まれていく。例えば1996年の「日米安保共同宣言」、97年の「日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)」、99年の「周辺事態法」、2000年の「アーミテージ報告」といった具合だ。2005年には「日米同盟:未来のための変革と再編」が発表されている。

 それと並行して朝鮮半島での戦争を想定した軍事作戦がアメリカで作成されている。例えば、国家としての朝鮮を消滅させて韓国が主導して新たな国を建設するという1998年のOPLAN(作戦計画)5027-98。2003年には空爆を電子戦やサイバー攻撃と並行して行うというCONPLAN 8022-02が作成された。これには先制核攻撃が含まれ、そのターゲットとして朝鮮やイランが想定されている。

 そして2010年3月、米韓両軍が合同軍事演習「フォール・イーグル」を実施している最中に韓国の哨戒艦「天安」が爆発して沈没する。韓国と朝鮮で境界線の確定していない海域での出来事だった。

 この沈没に関して5月頃から李明博政権は朝鮮軍の攻撃で沈没したと主張し始める。この主張には疑問が多く、CIAの元高官でジョージ・H・W・ブッシュと親しく、駐韓大使も務めたドナルド・グレッグもこの朝鮮犯行説に疑問を投げかけた。アメリカ支配層の内部でもこの人脈はこの時点で朝鮮半島の軍事的な緊張が高まることを望んでいなかったということだろう。

 そして11月には問題の海域で軍事演習「ホグク(護国)」が実施され、アメリカの第31MEU(海兵隊遠征隊)や第7空軍が参加したと言われている。そして朝鮮軍の大延坪島砲撃につながった。

 日本では東アジアの平和を訴えていた鳩山由紀夫首相が2010年6月に検察やマスコミの圧力で辞任している。そして誕生したのが菅直人政権。尖閣諸島(釣魚台群島)の付近で操業していた中国の漁船を海上保安庁が「日中漁業協定」を無視する形で取り締まり、尖閣列島の領有権問題に火をつけて日中関係を悪化させ、東アジアの軍事的な緊張を高めた。

 それに対し、ロシア政府は朝鮮半島を含む東アジアをビジネスで安定化させるという政策を実践に移している。2011年夏にロシアのドミトリ・メドベージェフ首相はシベリアで朝鮮の最高指導者だった金正日と会い、110億ドル近くあったソ連時代の負債の90%を棒引きにし、鉱物資源の開発などに10億ドルを投資すると提案している。

 ロシア政府はシベリア横断鉄道を延長させ、朝鮮半島を南下させて釜山までつなげるという計画を持っていた。鉄道と並行してパイプラインの建設も想定されていたはず。現在、この計画は中国の一帯一路(BRI/帯路構想)とつながっている。

 2011年の提案を金正日は受け入れるが、その年の12月に急死してしまう。12月17日に列車で移動中に車内で急性心筋梗塞を起こして死亡したと朝鮮の国営メディアは19日に伝えているが、韓国の情報機関であるNIS(国家情報院)の院長だった元世勲は暗殺説を唱えていた。

 その後、朝鮮はミサイル発射実験や核兵器の開発をアピールして東アジアの軍事的な緊張を高め、朝鮮半島に鉄道やパイプラインを建設するというロシアのプランはアメリカ主導の「制裁」で難しくなる。朝鮮の好戦的な姿勢はアメリカを利することになった。

 その北朝鮮の姿勢が変化したことを示す出来事が2018年3月26日にあった。金正恩労働党委員長が特別列車で北京へ入り、釣魚台国賓館で中国の習近平国家主席と会談したのだ。同委員長が韓国の文在寅大統領と板門店で会談したのはその1カ月後、4月27日のことだ。

 また、5月31日にはロシアのセルゲイ・ラブロフ外相が北朝鮮を訪問、金正恩委員長にロシアを訪れるよう求めたと伝えられている。9月にウラジオストクで開催されるEEF(東方経済フォーラム)に招待、そこでウラジミル・プーチン大統領と会談してはどうかという提案だ。

 この段階で北朝鮮の後ろ盾としてロシアと中国がついたわけだが、韓国もロシアと中国との関係を強化していく。東アジアはロシアと中国を中心に回転しはじめたのだ。

 こうした流れは日本も巻き込んでいる。日本の有力企業でスキャンダルが明るみにでたことも無縁ではないだろう。アメリカの属国である日本だが、ビジネスはロシアや中国を抜きに成り立たない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201908190000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/559.html#c33

[お知らせ・管理21] (再掲)いまだ執拗にイスラムヘイトを繰り返すナチスの信奉者 HIMAZIN
49. 中川隆[-8762] koaQ7Jey 2019年8月19日 06:55:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3980]

ムスリムに音楽の授業拒否を認めることはイスラム過激派を育成していることと同じ。特別扱いは禁止を! 2019年08月18日
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12508468780.html


結婚式を狙ったイスラム過激派のテロはよくあります。そしてまた昨日もありました。


結婚式の最中に自爆テロか アフガンで200人超死傷 8/18(日) 12:34配信Yahoo

17日夜、アフガニスタンの首都、カブールの結婚式が行われていた式場で爆発がありました。現地のジャーナリストは当局からの情報として、これまでに50人以上が死亡して、150人以上がけがをしていると伝えています。当時、式場には約1200人が招待されていて、AP通信などによりますと、爆発はミュージシャンらが集まっていたステージの近くで起きたということです。自爆テロとみられています。

(一部抜粋)

補足すると、この地区は少数派のシーア派が多く、過去にイスラム国と繋がりのある過激派組織が何度かテロ攻撃を仕掛けてきました。今回タリバンは関与を否定しています。(WSJ)

アフガニスタンはかつて仏教国でした。「アラー・アクバル」と叫びながらタリバンが破壊したバーミヤンの大仏は、630年に唐の仏僧玄奘がこの地を訪れたときには美しく装飾されて金色に光り輝き、僧院には数千人の僧が居住していた(Wikipedia)」、そういう国だったのです。

現在のアフガニスタンは99%がムスリムの国です。(棄教が死刑なら増え続けるわけです)

その中で多くのムスリムたちがミュージシャンを呼んで結婚式をしているのです。

マンチェスターのイスラムテロも、パリ同時多発テロの中で最も死者が多く出たバタクラン劇場もテロの場所は歌手のコンサート会場でした。

イスラム過激派には音楽に親しむような人間はテロの標的でも構わないという意識があるのでしょう。


イスラム教では音楽自体が明確に禁止されてはいないものの、楽器を使った音楽は避けられることが多い。これは、預言者ムハンマドの言行録「ハディース」において、楽器が「悪魔の呼びかけ」であるという記述があるためだ。世俗的な価値観を認めないイスラム過激派にいたっては、楽器の使用を禁じており、楽器を燃やす動画を公開してその意志を示している。(EXCITEニュース)

日本という世俗国家にムスリムが増殖中ですが、お人好し日本人は彼らのごり押しに屈してばかりいます。

群馬県伊勢崎市の公立小学校全校児童350人中ムスリムが6%(21人)もいて、学校近くにモスクまで建てられてしまい、引き寄せられるようにムスリムが集まってきているそうです。

その税金で運営されている公立小学校はムスリムに、全く合理的でない7世紀の教えを守ることを認め特別扱いしています。

「イスラム教では人を興奮させる歌や楽器の演奏が禁じられているので授業を受けられず音楽の時間は別室で自習をさせている」というのです。(NHK)

過激派でなければムスリムでも音楽家を呼んで結婚式をしている人がいるのです。

音楽家付近で自爆テロをしていることを思い出してください。

音楽コンサート会場が過去何度も狙われていることも思い出してください。

テロ被害に遭うムスリムがいる中、テロ実行犯側のムスリム思想に日本は屈しました。

すると、必然的に次のようなことが言えるのです。

日本の公立学校が

イスラム過激思想のムスリムに屈し

その子供を特別扱いすることで

過激思想は正しいというメッセージを発信!

将来のホームグロウンテロの担い手になり得る

イスラム過激派の卵を公費で絶賛育成中!

イスラムの過激思想は逐語的解釈から始まります。

その逐語的解釈の実行を公立学校に要求することはジハードでありスタートなのです。

私たちは間抜けなことに日本でテロ事件が起こる手助けをしているのです。ポーンびっくりゲッソリ

図工や音楽の授業に出ず、お祈りをして…こういう子供たちが日本人に多い仏教徒や神道の氏子に対して教えられているのは次の通りです。恐怖を覚えるほどのヘイト思想なのです。


コーラン3-110

あなたがたは、人類に遣された最良の共同体である。あなたがたは正しいことを命じ、邪悪なことを禁じ、アッラーを信奉する。啓典の民も信仰するならば、かれらのためにどんなによかったか。だがかれらのある者は信仰するが、大部分の者はアッラーの掟に背くものたちである。

コーラン98-6

啓典の民の中(真理を)拒否した者も、多神教徒も、地獄の火に(投げ込まれ)て、その中に永遠に住む。これらは、衆生の中最悪の者である。

イスラムフォビアでムスリムが被害者だ〜ではないんですよ。

彼らこそが非ムスリムへのヘイトを最初に始め、何世紀経っても止めないのです。

異教徒へのヘイト思想を保ちながら非ムスリムの国に進出して勢力を拡大中なのです。

イスラムは単なる宗教ではありません。民主主義とは共存できない社会体制です。

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関連過去記事(たくさんあるのでほんの一部です)

・英国:イスラム化された町はほとんどの住民がムスリムとなり”多様性”は完全に消滅しました!

・オランダ:元ムスリムのアヤーン・ヒルシ・アリ氏「イスラム教徒と妥協はない。妥協は民主主義内だけ」

・スウェーデン:元ムスリムのソマリア人「スウェーデン人は50年でスウェーデンを失うだろう」

・仏:ジハーディストが公共サービス部門に浸透/15人がアラー・アクバルと叫びながら警察署を襲撃

・多文化共生主義は移民受け入れに有害。日本で公的機関がハラル食を提供すべきでないと思う理由。

・インドネシア:多数派イスラム教徒による不寛容の拡大 日本はムスリムとの共生が難しいことを知るべき


https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12508468780.html
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/556.html#c49

[リバイバル3] 日本人は金髪美女に弱い _ 小布施からセーラ・カミングスの姿が消えた 中川隆
174. 中川隆[-8761] koaQ7Jey 2019年8月19日 07:11:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3981]

2019年08月19日
自国に誇りを持たない日本人 黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68777235.html


ノルウェー人の日本人蔑視

  8月14日に放送されチャンネル桜の番組で、キャスターの高山正之が白人の日本人蔑視について持論を述べていた。彼が持ち出したのは、1999年のカンヌ国際広告祭で金賞を獲得したCMで、ブローテン航空(現在は「SAS Braathens」)が作ったTV広告だ。この映像は、外国語を知らない日本人乗客が、スチュワーデスから差し出された袋入りのサンドウィッチを「おしぼり」と勘違いして顔を拭いてしまう、という設定になっている。具体的に言えば、機内食を渡された日本人が、かけていた眼鏡を外し、ビニール袋の中にある白いパンを「おしぼり」と早合点するという設定になっていた。そして、何も疑わず顔を拭いたら、ピーナツバター(あるいは生クリーム)がベッタリと附いてしまったというオチになっている。さらに、第二幕があって、しばらくすると、スチュワーデスが再び例の袋をもってきた。ところが、ノルウェー語(または英語)を全く話せない日本人は、「お腹いっぱいです」というジェスチャーで答える。ここで観客は大爆笑、という筋書きになっていた。

  高山氏はこうしたTV広告を作ったブローテン航空に怒っていたが、それにもまして、金賞を与えた審査員に日本人がいたことで腹を立てていた。テレビ業界に詳しい人なら驚かないが、審査員の中に電通から派遣された日本人が含まれていたのだ。事件に興味を持った高山氏は博報堂のある社員に接触し、内情を探ってみたという。すると、件(くだん)の審査員は「田中」という人物で、英語が流暢に話せる帰国子女ということが分かった。金賞を与えるには全員の同意が必要であったというから、田中氏も賛成票を投じた訳だ。高山氏は番組の中で日本人意識に缼(か)けた電通社員に憤慨し、「なぜ、こんな侮辱的作品に賞を与えたのか。日本人なら反対しろ」と不快感を表していた。

  こうしたエピソードを聞くと、「やはり、帰国子女だと日本人の立場ではなく、西歐人の立場で考えてしまうんだろうなぁ〜」と思ってしまう。まぁ、日本で生まれ育ち、日本の学校に通った日本人でも、「日本国民」という意識の無い者が多いから、田中氏だけを責めるのは酷だろう。でも、西歐人の前に出ると、途端に卑屈な態度を示す日本人には吐き気がする。特に、歐米人が主催する国際会議や文化評議会などに出席する文化人とか大学教授がそうだ。現地で使用される言葉は英語かフランス語になってしまうので、ゲルマン語が苦手な日本人は、中々発言することができない。まるで「入れ歯を忘れた老人」か「貧血の吸血鬼」みたいだ。

  たとえ共通語を話せたとしても、日本語のように上手く駆使できない場合、思ったことを充分に伝えることはできないから、不満を残す結果となる。もっとマズいのは、拙い英語で相手に誤解を与えてしまうことだ。また、外人に対して反論したくても、反論するだけの知識や論理、度胸すらも無いから、多数派に賛同してお茶を濁す場合だってある。誠に情けないけど、日本国内で威張っている官僚だって似たり寄ったりだ。普段は傲慢不遜な高級官僚でも、アメリカやヨーロッパで開かれる国際会議に出席したりすると、借りてきた猫みたいにおとなしくなる。イギリス人やフランス人相手に猛反論して、日本の国益を守ろうとする役人なんかほぼゼロ。ちょうと、WBAのヘビー級ボクサーに挑戦するバンタム級のアマチュア・ボクサーみたいなものだから、最初から試合を投げている。

大切だが無視される科目

  戦後の日教組教育で洗脳された日本人には、「日本人」としての自覚が無い。もちろん、外国旅行をすれば、いくら暢気な国民でも「自分は日本人」という意識くらいは持つ。だが、それ以上の知識が無いから、「日本人の矜持」をどう保持したらいいのか分からない。日本にいる時は、日本人という意識を持たなくても暮らせるから、敢えて「日本人」ということは考えなくても済む。けど、こんなのは温室の中で大股広げて寝ているデブ猫と同じである。もし、こうした日本人が仕事の都合でアメリカやブリテン、フランス、ドイツなどに転勤したら大変だ。それに、もし家族ぐるみの移住となれば、現地の学校に子供を通わせる選択になるから一大事。ところが、脳天気な親は何とかなるだろうと楽観する。しかし、後になって国語(日本語)や社会(歴史)といった重要科目に気づく。自分の子供がどんな風に育ってしまうのか予想できない親は結構多い。

  例えば、息子がイングランドやアメリカの学校に通ったとする。たぶん、こうした子供は両親よりも上手に英語を話すようになるだろう。英語に劣等コンプレックスを持つ母親だと、「いゃ〜ん、ウチの子、英語ペラペラやん〜 !」と嬉しくなるが、肝心の母国語がお粗末になっていることに気づかない。確かに、日本にずっと居たら大金を払って英会話塾に通わせても、一向に上手くならないから、“お得”な感じがする。アホらしいけど、単純な親は「日本に帰ったらみんなに自慢しよう !」と大喜び。しかし、こうした“バイリンガル”の息子は、どのような日本語を話し、どれくらいの読解力、および作文能力を持つのか? なるほど、イギリス人のクラスメイトを持つ子供は、平均的日本人以上に上手い英語を話し、英語である程度の文章(随筆)くらいは書けるようになる。

  ただし、日本語となれば、どうなのか? 一般的に帰国子女の場合、知っている漢字の数が少ないし、常用漢字以外の正字や歴史的假名遣いを知らないから、ちょっとした古い本を読むこともできない。例えば、「體」を「体」の正漢字と分からないし、「燈油」が「灯油」、「證據」が「証拠」とも判らない。「辨」と「辯」の違いも分からないから、「辨當」を「べんとう」とは読めないし、「花瓣」という漢字を見て「かべん」と発音できないこともある。「欠」が本来は「あくび」で、「闕席(けっせき)」とか「缼陥(けっかん)」使用する漢字ではないと知らない場合もあるから困ったものだ。また、高貴な人物に関する言葉遣いだってあやふやになるから、「天皇陛下から御諚(ごじょう)を賜る」と聞いても、何が何だか見当もつかないし、「袞龍(こんりょう)の袖に隠れる伊藤博文」という陰口を耳にしても、「天子様の御衣のことかぁ」とは思わない。日本の随筆に馴染みが無い帰国子女だと、「判官贔屓(ほうがんひいき)」と聞いて、源義経じゃなく「ハルク・ホーガン(有名なプロレスラー)を好きな人かなぁ〜」と思ってしまう。バイリンガル女子で英語の発音を自慢する人は多いけど、谷崎潤一郎とか森鷗外の小説を原文で読むことができない人は結構いるぞ。まづ、歴史的假名遣いと舊漢字が分からないから、ついつい本を閉じてしまう。こんな状況なら、幸田露伴の小説なんてもっと無理。

  歐米諸国の学校に通う日本人の子供が直面する問題の一つが、歴史の授業だ。もし、イングランドの学校に通うことになったら、英国の歴史を学ぶことになるけど、日本の歴史を学ぶ機会は無い。子供の将来を心配する親なら、日本史の教科書を与えて勉強させるかも知れないが、文科省の教科書なんてつまらないから、子供は直ぐ投げ捨てたくなる。運良く歴史好きの親であれば興味を引くような説明もできるが、一般の親だと副読本を買い与えて終わりだ。普段の宿題で忙しい子供は、日本史を知らないまま地元の高校を卒業し、そのまま歐米の大学に入るか、日本に戻って「帰国子女枠」で推薦入学というパターンになる。試験入学を選ぶ者であれば、英語を中心とした筆記・面接試験を受け、「国際関係学部」とか「比較文化学科」などに進むタイプが多いんじゃないか。でもこれでは、「日本に“留学”する日本人学生」になってしまうだろう。ただし、「国際化時代」とやらを歓迎する大学ならOKだ。何しろ、“国境に囚われない地球市民”が理想ときている。日本語能力なんて端っから価値は無い。英語が上手ならトコロテン式に御卒業だ。

  一般の日本人はさほど重要に思っていないが、「歴史」の授業はある意味、数学や理科の授業よりも重要になってくる。なぜなら、「良き公民」を育成するための必須科目であるからだ。幾何学の試験で30点ないし20点しか取れなくても、成人すれば投票権を与えられるし、元素記号を全て暗記していなくても社会問題は理解できる。しかし、日本の過去を知らないと現在“懸案”となっている政治問題の経緯が分からない。ちゃんとした歴史認識知識を備えていれば、支那人や朝鮮人からのイチャモンにひれ伏すことはないが、カラっぽの頭じゃ平身低頭、有り金を献上して赦しを乞う破目になる。こうした人物は祖先の名誉を傷つけても心が痛まない。そもそも、家庭教育に「名誉」を重んずる徳目が無いんだから。

  日本国民全てが数学者や物理学者になる必要はないが、社会に責任を持つ有権者が記憶喪失状態では困る。祖先との繋がりを忘れ、国家の威信を損なう政策に賛成する国民が増えれば、国家の衰退は避けられない。現在だけを生きている日本人には理解できないだろうが、まっとうな「日本国民」とは、その職業に関係なく、祖先の遺産を引き継ぐ伝承者であり、将来の子孫へ遺産を手渡す保管者でもある。「死んだ後に核戦争が起きても、多民族国家になっても俺の知ったことじゃない !」と言い切る日本人は、自分の息子や娘、幼い孫の顔を見てから断言すべきだ。

帰国子女は祖国に「根」を持っているのか?

  国史を学ばない日本人には、真の愛国心は育たない。かつて、フランスには保守的知識人が少なからずいて、心から自分の郷里を、祖父母の亡骸(なきがら)が眠る大地を、偉大な伝統を誇る祖国を愛していた。例えば、「アクション・フランセーズ(Action Française)」を率いるシャルル・モラスや、反ユダヤ主義を掲げてフランスらしいフランスを守ろうとしたモリス・バレス(Maurice Barrés)が挙げられる。ちなみに、トランプ大統領の補佐官を務めていたスティーヴ・バノンは、マラスを称讃していたそうだ。(Michael Crowley, The Man Who Wants toUnmake the West, Politico Magazine, March/April 2017)

Charles Maurras 1Maurice Barres 1Steve Bannon 1


(左 : シャルル・モラス / 中央 : モリス・バレス / 右 : スティーヴ・バノン )

  とりわけ、バレスの思想は注目に値する。彼と比べたらジャン=ジャク・ルソーやジャン=ポール・サルトルなんて屑に等しい。普遍主義とか世界市民を理想にする左翼知識人と違い、バレスはフランスの大地に“根”を張った国士であった。彼にとってフランスとは「平等」とか「博愛」といった安っぽい言葉で成り立つ共和国ではない。フランスとは王家や教会との赤い絆で結ばれた歴史的結晶体であった。フランス文化の髄液を吸収して育ったバレスにすれば、各国を渡り歩き、ゼニ儲けに専念するユダヤ人など、根無し草のコスモポリタン、すなわち地球上をうろつく寄生民族に過ぎない。「真のフランス人」とは、祖先の遺灰が染み込んだ郷里に根を張る地元民、すなわち王国を築いてきたガリア人である。バレスはフランスの衰退を憂い、祖先との一体感を強調することで祖国を救おうとした。
  
 ・・・私たちが祖先からの連続だということをきっちり理解する、それも単に口先でというだけでなく、感受性鋭くありありと思い描くかどうかにかかっている。このことは、解剖学的にも正しい。祖先が私たちのなかで考え、語っている。一つながりの子孫たちは、同じ存在でしかない。周囲に存在する生命の働きかけのせいで、きわめて巨大な複雑さがそこに出現するかも知れない。しかし、だからといって、何も変質しはしない。それは、完全に仕上げられた建築の秩序に似ている。つねに同一の秩序である。それは、部屋の配置を変更した家に似ている。同じ土台の上に建てられているだけでなく、同じ切り石でできている。つねに同じ家である。(モーリス・バレス 『国家主義とドレフュス事件』 稲葉三千男 訳、創風社、pp.23-24.)

  バレスによれば、フランスの個人は家族の中、民族の中、国家の中で自己発見するそうだ。また、彼は巨大な中央集権によって支配されるフランスに危機感を覚えた。この保守派知識人は、地方色豊かなフランス、独特な歴史の中で育ってきた国、地方から成るフランスを愛し、中央から国家を統制しようと謀るコスモポリタンに対抗しようとした。バレスは言う。「フランス全体の国民性は、地方の国民性で形づくられている」。(上掲書、p.110.)

  愛国者のバレスは、国際主義者によって破壊されようとするフランスを目の当たりにした。そこで彼は地方主義を掲げる。つまり、フランスの大地に根を持つ国民を鼓舞して、自らの援軍にしようとしたのだ。彼は次のように宣言する。

  に心からの忠誠を捧げる。なぜなら、私はプロヴァンス人で、プロヴァンスを熱愛しているからだ。フランス国家の伝統を救おうと立ち上がった全ての人と、私は忠実に連帯する。(上掲書、p.201)

  バレスから見れば、フランスとはガリア人とフランク人の血が流れる巨木のような国家である。もし、大地からの養分を吸収する根が切断されれば、その枝や幹は衰弱し、やがて枯れてしまう。革命に酔いしれた左翼分子は、太古から脈々と続く王国の幹と根を巨大な斧で切り離すことに喜びを感じていた。ちょうど、王侯貴族や聖職者の首を刎(は)ねたように、彼らは何の躊躇もなく国家の連続性を切断しようとする。ただし、中央官庁で国家を牛耳るグローバリストは、ギロチンではなく法律という鋏(ハサミ)でフランスをズタズタに切り裂こうとした。バレスは行政官が作り出す法律によって、家庭や生誕地への愛を維持する地方の風俗や慣習が破壊されたと嘆く。

  先祖伝来のものは全て馬鹿げているから、新案の混合物に取り代えねばならない、と世間ではいう。そうすることで精彩のない愚劣な人びと、あらゆる種類の浮浪者たち、古くから土地々々の伝統を捨てて祖国および祖国を象徴する国旗を軽蔑する人びとを生み出した。(上掲書、p.103)

  本来、国家を形成する公民には、本能とも言える素朴で強固な祖国愛があるはずだ。しかし、祖先の歴史から切り離された子供達、すなわち、意図的に頭を改造され、下らない知識を詰め込まれた記憶喪失者には、祖国への愛や誇り、過去と未来に対する使命感や義務感が無い。こうした孤児(みなしご)が求めるものは、目先の銭であったり、見栄を張るための学歴、儚くも消えてしまう世間からの評判、セックス、スクリーン(映画や娯楽)、スポーツにグルメ(食欲)などである。したがって、日本の歴史を学ばなかった帰国子女に、祖国を誇りとする精神や先祖に対する感謝と敬意が無いのも当然だ。もっと酷い奴になると、傲慢な歐米人と一緒に祖国を小馬鹿にし、それが“進歩的人間”の証しだと思ってしまう。西歐諸国で育った日本人は、日本にどんな価値があるのか知らないから、西歐的な思考や行動様式の方が“上等”なんだ、と勝手に思ってしまうのだ。

  しかし、根無し草の日本人には困った事がある。たとえ、どんなに英語が上手でも、彼らは白人にはなれない。西歐諸国に住んでいれば有色人種と見なされ、日本に帰国すれば日本人のツラをした異邦人。「バイリンガル」になったと喜んでいる親は、現実に直面すると、我が子が「コスモポリタンのエイリアン(異質な浮浪者)」になってしまったことに愕然とする。「日本語や日本史なんて勉強しても価値が無い」と思う親は、フランスに住んでフランス人の友人をつくり、彼らに向かって次のように言ってみればいい。

  「フランスに住めば誰でもフランス語を喋れるし、フランス史を学んでも大金を摑める訳じゃないから、そんな事をしても時間の無駄よ」、と。

  まともなフランス人なら、顎を外すくらい驚くだろう。たぶん、「哀れな奴だ !」と見下すに違いない。常識的なフランス人は、我が子が正しい発音でフランス語を話し、優雅で論理的な文章を書けるよう教育する。子供にとって、美しいフランス語は貴重な財産だ。また、ヨーロッパ文明の中心であるフランスの歴史を学ぶことは喜びであると共に、国民になるための基礎である。パリの街をうろつくジプシーならいいけど、偉大なるフランスに属し、ガリア人の血を引く正統な国民であれば、祖先の栄光と悲劇を心に刻まなければならない。一方、フランスに潜り込んだアルジェリア人やギニア人なんか、フランス史を学んでも「外国史」と変わらないから、「何で俺達が死んだ白人を褒めなきゃならないんだ?!」と唾を吐く。彼らはゲットーの壁に落書きを刻むのが精一杯。しかも、卑猥な言葉か汚い罵倒語だけ。苦笑してしまうが、たまに綴りが間違っていたりする。

  電通の社員なんかに日本国民としての名誉や義務を求めるのは、端っから無理と分かっている。が、こんな連中を「上等国民」と勘違いする庶民も情けない。いくらテレビ局を牛耳る大企業といっても、所詮は銭を最優先するビジネス組織じゃないか。ブローテン航空のCMに反対しなかった田中氏はエリート社員だったのかも知れないが、日本人としての誇りは持っていなかった。もしかしたら、西歐人と真っ向から対峙して、「日本人を馬鹿にするな !」と怒ることを恥じていたのかも知れない。なぜなら、左翼リベラリズムを格好いいと思う西歐人は、国民国家を優先するナショナリズムを「カビ臭い因習」と見なすからだ。でも、田中氏は一体どの国に属していたのか? もし、彼が日本人であったなら、「自分も日本人である」といった事実を忘れていたことになる。英語をネイティヴ並に喋ったからといって、イギリス人に変身できる訳じゃない。歐米で育った帰国子女の中には、自分を白人と錯覚している者がいて、ブローテン航空のCMで描かれる日本人を目にすると、「私はあんな日本人じゃない !」という態度を示す。こういう人物には、「そうだよねぇ〜。君は西歐人みたいだ。だが、君の両親や祖父母は、あの間抜けな日本人と同し種類なんだよ」と言ってやれ。どんな顔つきになるのか楽しみだ。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68777235.html



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/444.html#c174

[文化2] ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン 中川隆
199. 中川隆[-8760] koaQ7Jey 2019年8月19日 07:12:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3982]

2019年08月19日
自国に誇りを持たない日本人 黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68777235.html


ノルウェー人の日本人蔑視

  8月14日に放送されチャンネル桜の番組で、キャスターの高山正之が白人の日本人蔑視について持論を述べていた。彼が持ち出したのは、1999年のカンヌ国際広告祭で金賞を獲得したCMで、ブローテン航空(現在は「SAS Braathens」)が作ったTV広告だ。この映像は、外国語を知らない日本人乗客が、スチュワーデスから差し出された袋入りのサンドウィッチを「おしぼり」と勘違いして顔を拭いてしまう、という設定になっている。具体的に言えば、機内食を渡された日本人が、かけていた眼鏡を外し、ビニール袋の中にある白いパンを「おしぼり」と早合点するという設定になっていた。そして、何も疑わず顔を拭いたら、ピーナツバター(あるいは生クリーム)がベッタリと附いてしまったというオチになっている。さらに、第二幕があって、しばらくすると、スチュワーデスが再び例の袋をもってきた。ところが、ノルウェー語(または英語)を全く話せない日本人は、「お腹いっぱいです」というジェスチャーで答える。ここで観客は大爆笑、という筋書きになっていた。

  高山氏はこうしたTV広告を作ったブローテン航空に怒っていたが、それにもまして、金賞を与えた審査員に日本人がいたことで腹を立てていた。テレビ業界に詳しい人なら驚かないが、審査員の中に電通から派遣された日本人が含まれていたのだ。事件に興味を持った高山氏は博報堂のある社員に接触し、内情を探ってみたという。すると、件(くだん)の審査員は「田中」という人物で、英語が流暢に話せる帰国子女ということが分かった。金賞を与えるには全員の同意が必要であったというから、田中氏も賛成票を投じた訳だ。高山氏は番組の中で日本人意識に缼(か)けた電通社員に憤慨し、「なぜ、こんな侮辱的作品に賞を与えたのか。日本人なら反対しろ」と不快感を表していた。

  こうしたエピソードを聞くと、「やはり、帰国子女だと日本人の立場ではなく、西歐人の立場で考えてしまうんだろうなぁ〜」と思ってしまう。まぁ、日本で生まれ育ち、日本の学校に通った日本人でも、「日本国民」という意識の無い者が多いから、田中氏だけを責めるのは酷だろう。でも、西歐人の前に出ると、途端に卑屈な態度を示す日本人には吐き気がする。特に、歐米人が主催する国際会議や文化評議会などに出席する文化人とか大学教授がそうだ。現地で使用される言葉は英語かフランス語になってしまうので、ゲルマン語が苦手な日本人は、中々発言することができない。まるで「入れ歯を忘れた老人」か「貧血の吸血鬼」みたいだ。

  たとえ共通語を話せたとしても、日本語のように上手く駆使できない場合、思ったことを充分に伝えることはできないから、不満を残す結果となる。もっとマズいのは、拙い英語で相手に誤解を与えてしまうことだ。また、外人に対して反論したくても、反論するだけの知識や論理、度胸すらも無いから、多数派に賛同してお茶を濁す場合だってある。誠に情けないけど、日本国内で威張っている官僚だって似たり寄ったりだ。普段は傲慢不遜な高級官僚でも、アメリカやヨーロッパで開かれる国際会議に出席したりすると、借りてきた猫みたいにおとなしくなる。イギリス人やフランス人相手に猛反論して、日本の国益を守ろうとする役人なんかほぼゼロ。ちょうと、WBAのヘビー級ボクサーに挑戦するバンタム級のアマチュア・ボクサーみたいなものだから、最初から試合を投げている。

大切だが無視される科目

  戦後の日教組教育で洗脳された日本人には、「日本人」としての自覚が無い。もちろん、外国旅行をすれば、いくら暢気な国民でも「自分は日本人」という意識くらいは持つ。だが、それ以上の知識が無いから、「日本人の矜持」をどう保持したらいいのか分からない。日本にいる時は、日本人という意識を持たなくても暮らせるから、敢えて「日本人」ということは考えなくても済む。けど、こんなのは温室の中で大股広げて寝ているデブ猫と同じである。もし、こうした日本人が仕事の都合でアメリカやブリテン、フランス、ドイツなどに転勤したら大変だ。それに、もし家族ぐるみの移住となれば、現地の学校に子供を通わせる選択になるから一大事。ところが、脳天気な親は何とかなるだろうと楽観する。しかし、後になって国語(日本語)や社会(歴史)といった重要科目に気づく。自分の子供がどんな風に育ってしまうのか予想できない親は結構多い。

  例えば、息子がイングランドやアメリカの学校に通ったとする。たぶん、こうした子供は両親よりも上手に英語を話すようになるだろう。英語に劣等コンプレックスを持つ母親だと、「いゃ〜ん、ウチの子、英語ペラペラやん〜 !」と嬉しくなるが、肝心の母国語がお粗末になっていることに気づかない。確かに、日本にずっと居たら大金を払って英会話塾に通わせても、一向に上手くならないから、“お得”な感じがする。アホらしいけど、単純な親は「日本に帰ったらみんなに自慢しよう !」と大喜び。しかし、こうした“バイリンガル”の息子は、どのような日本語を話し、どれくらいの読解力、および作文能力を持つのか? なるほど、イギリス人のクラスメイトを持つ子供は、平均的日本人以上に上手い英語を話し、英語である程度の文章(随筆)くらいは書けるようになる。

  ただし、日本語となれば、どうなのか? 一般的に帰国子女の場合、知っている漢字の数が少ないし、常用漢字以外の正字や歴史的假名遣いを知らないから、ちょっとした古い本を読むこともできない。例えば、「體」を「体」の正漢字と分からないし、「燈油」が「灯油」、「證據」が「証拠」とも判らない。「辨」と「辯」の違いも分からないから、「辨當」を「べんとう」とは読めないし、「花瓣」という漢字を見て「かべん」と発音できないこともある。「欠」が本来は「あくび」で、「闕席(けっせき)」とか「缼陥(けっかん)」使用する漢字ではないと知らない場合もあるから困ったものだ。また、高貴な人物に関する言葉遣いだってあやふやになるから、「天皇陛下から御諚(ごじょう)を賜る」と聞いても、何が何だか見当もつかないし、「袞龍(こんりょう)の袖に隠れる伊藤博文」という陰口を耳にしても、「天子様の御衣のことかぁ」とは思わない。日本の随筆に馴染みが無い帰国子女だと、「判官贔屓(ほうがんひいき)」と聞いて、源義経じゃなく「ハルク・ホーガン(有名なプロレスラー)を好きな人かなぁ〜」と思ってしまう。バイリンガル女子で英語の発音を自慢する人は多いけど、谷崎潤一郎とか森鷗外の小説を原文で読むことができない人は結構いるぞ。まづ、歴史的假名遣いと舊漢字が分からないから、ついつい本を閉じてしまう。こんな状況なら、幸田露伴の小説なんてもっと無理。

  歐米諸国の学校に通う日本人の子供が直面する問題の一つが、歴史の授業だ。もし、イングランドの学校に通うことになったら、英国の歴史を学ぶことになるけど、日本の歴史を学ぶ機会は無い。子供の将来を心配する親なら、日本史の教科書を与えて勉強させるかも知れないが、文科省の教科書なんてつまらないから、子供は直ぐ投げ捨てたくなる。運良く歴史好きの親であれば興味を引くような説明もできるが、一般の親だと副読本を買い与えて終わりだ。普段の宿題で忙しい子供は、日本史を知らないまま地元の高校を卒業し、そのまま歐米の大学に入るか、日本に戻って「帰国子女枠」で推薦入学というパターンになる。試験入学を選ぶ者であれば、英語を中心とした筆記・面接試験を受け、「国際関係学部」とか「比較文化学科」などに進むタイプが多いんじゃないか。でもこれでは、「日本に“留学”する日本人学生」になってしまうだろう。ただし、「国際化時代」とやらを歓迎する大学ならOKだ。何しろ、“国境に囚われない地球市民”が理想ときている。日本語能力なんて端っから価値は無い。英語が上手ならトコロテン式に御卒業だ。

  一般の日本人はさほど重要に思っていないが、「歴史」の授業はある意味、数学や理科の授業よりも重要になってくる。なぜなら、「良き公民」を育成するための必須科目であるからだ。幾何学の試験で30点ないし20点しか取れなくても、成人すれば投票権を与えられるし、元素記号を全て暗記していなくても社会問題は理解できる。しかし、日本の過去を知らないと現在“懸案”となっている政治問題の経緯が分からない。ちゃんとした歴史認識知識を備えていれば、支那人や朝鮮人からのイチャモンにひれ伏すことはないが、カラっぽの頭じゃ平身低頭、有り金を献上して赦しを乞う破目になる。こうした人物は祖先の名誉を傷つけても心が痛まない。そもそも、家庭教育に「名誉」を重んずる徳目が無いんだから。

  日本国民全てが数学者や物理学者になる必要はないが、社会に責任を持つ有権者が記憶喪失状態では困る。祖先との繋がりを忘れ、国家の威信を損なう政策に賛成する国民が増えれば、国家の衰退は避けられない。現在だけを生きている日本人には理解できないだろうが、まっとうな「日本国民」とは、その職業に関係なく、祖先の遺産を引き継ぐ伝承者であり、将来の子孫へ遺産を手渡す保管者でもある。「死んだ後に核戦争が起きても、多民族国家になっても俺の知ったことじゃない !」と言い切る日本人は、自分の息子や娘、幼い孫の顔を見てから断言すべきだ。

帰国子女は祖国に「根」を持っているのか?

  国史を学ばない日本人には、真の愛国心は育たない。かつて、フランスには保守的知識人が少なからずいて、心から自分の郷里を、祖父母の亡骸(なきがら)が眠る大地を、偉大な伝統を誇る祖国を愛していた。例えば、「アクション・フランセーズ(Action Française)」を率いるシャルル・モラスや、反ユダヤ主義を掲げてフランスらしいフランスを守ろうとしたモリス・バレス(Maurice Barrés)が挙げられる。ちなみに、トランプ大統領の補佐官を務めていたスティーヴ・バノンは、マラスを称讃していたそうだ。(Michael Crowley, The Man Who Wants toUnmake the West, Politico Magazine, March/April 2017)

Charles Maurras 1Maurice Barres 1Steve Bannon 1


(左 : シャルル・モラス / 中央 : モリス・バレス / 右 : スティーヴ・バノン )

  とりわけ、バレスの思想は注目に値する。彼と比べたらジャン=ジャク・ルソーやジャン=ポール・サルトルなんて屑に等しい。普遍主義とか世界市民を理想にする左翼知識人と違い、バレスはフランスの大地に“根”を張った国士であった。彼にとってフランスとは「平等」とか「博愛」といった安っぽい言葉で成り立つ共和国ではない。フランスとは王家や教会との赤い絆で結ばれた歴史的結晶体であった。フランス文化の髄液を吸収して育ったバレスにすれば、各国を渡り歩き、ゼニ儲けに専念するユダヤ人など、根無し草のコスモポリタン、すなわち地球上をうろつく寄生民族に過ぎない。「真のフランス人」とは、祖先の遺灰が染み込んだ郷里に根を張る地元民、すなわち王国を築いてきたガリア人である。バレスはフランスの衰退を憂い、祖先との一体感を強調することで祖国を救おうとした。
  
 ・・・私たちが祖先からの連続だということをきっちり理解する、それも単に口先でというだけでなく、感受性鋭くありありと思い描くかどうかにかかっている。このことは、解剖学的にも正しい。祖先が私たちのなかで考え、語っている。一つながりの子孫たちは、同じ存在でしかない。周囲に存在する生命の働きかけのせいで、きわめて巨大な複雑さがそこに出現するかも知れない。しかし、だからといって、何も変質しはしない。それは、完全に仕上げられた建築の秩序に似ている。つねに同一の秩序である。それは、部屋の配置を変更した家に似ている。同じ土台の上に建てられているだけでなく、同じ切り石でできている。つねに同じ家である。(モーリス・バレス 『国家主義とドレフュス事件』 稲葉三千男 訳、創風社、pp.23-24.)

  バレスによれば、フランスの個人は家族の中、民族の中、国家の中で自己発見するそうだ。また、彼は巨大な中央集権によって支配されるフランスに危機感を覚えた。この保守派知識人は、地方色豊かなフランス、独特な歴史の中で育ってきた国、地方から成るフランスを愛し、中央から国家を統制しようと謀るコスモポリタンに対抗しようとした。バレスは言う。「フランス全体の国民性は、地方の国民性で形づくられている」。(上掲書、p.110.)

  愛国者のバレスは、国際主義者によって破壊されようとするフランスを目の当たりにした。そこで彼は地方主義を掲げる。つまり、フランスの大地に根を持つ国民を鼓舞して、自らの援軍にしようとしたのだ。彼は次のように宣言する。

  に心からの忠誠を捧げる。なぜなら、私はプロヴァンス人で、プロヴァンスを熱愛しているからだ。フランス国家の伝統を救おうと立ち上がった全ての人と、私は忠実に連帯する。(上掲書、p.201)

  バレスから見れば、フランスとはガリア人とフランク人の血が流れる巨木のような国家である。もし、大地からの養分を吸収する根が切断されれば、その枝や幹は衰弱し、やがて枯れてしまう。革命に酔いしれた左翼分子は、太古から脈々と続く王国の幹と根を巨大な斧で切り離すことに喜びを感じていた。ちょうど、王侯貴族や聖職者の首を刎(は)ねたように、彼らは何の躊躇もなく国家の連続性を切断しようとする。ただし、中央官庁で国家を牛耳るグローバリストは、ギロチンではなく法律という鋏(ハサミ)でフランスをズタズタに切り裂こうとした。バレスは行政官が作り出す法律によって、家庭や生誕地への愛を維持する地方の風俗や慣習が破壊されたと嘆く。

  先祖伝来のものは全て馬鹿げているから、新案の混合物に取り代えねばならない、と世間ではいう。そうすることで精彩のない愚劣な人びと、あらゆる種類の浮浪者たち、古くから土地々々の伝統を捨てて祖国および祖国を象徴する国旗を軽蔑する人びとを生み出した。(上掲書、p.103)

  本来、国家を形成する公民には、本能とも言える素朴で強固な祖国愛があるはずだ。しかし、祖先の歴史から切り離された子供達、すなわち、意図的に頭を改造され、下らない知識を詰め込まれた記憶喪失者には、祖国への愛や誇り、過去と未来に対する使命感や義務感が無い。こうした孤児(みなしご)が求めるものは、目先の銭であったり、見栄を張るための学歴、儚くも消えてしまう世間からの評判、セックス、スクリーン(映画や娯楽)、スポーツにグルメ(食欲)などである。したがって、日本の歴史を学ばなかった帰国子女に、祖国を誇りとする精神や先祖に対する感謝と敬意が無いのも当然だ。もっと酷い奴になると、傲慢な歐米人と一緒に祖国を小馬鹿にし、それが“進歩的人間”の証しだと思ってしまう。西歐諸国で育った日本人は、日本にどんな価値があるのか知らないから、西歐的な思考や行動様式の方が“上等”なんだ、と勝手に思ってしまうのだ。

  しかし、根無し草の日本人には困った事がある。たとえ、どんなに英語が上手でも、彼らは白人にはなれない。西歐諸国に住んでいれば有色人種と見なされ、日本に帰国すれば日本人のツラをした異邦人。「バイリンガル」になったと喜んでいる親は、現実に直面すると、我が子が「コスモポリタンのエイリアン(異質な浮浪者)」になってしまったことに愕然とする。「日本語や日本史なんて勉強しても価値が無い」と思う親は、フランスに住んでフランス人の友人をつくり、彼らに向かって次のように言ってみればいい。

  「フランスに住めば誰でもフランス語を喋れるし、フランス史を学んでも大金を摑める訳じゃないから、そんな事をしても時間の無駄よ」、と。

  まともなフランス人なら、顎を外すくらい驚くだろう。たぶん、「哀れな奴だ !」と見下すに違いない。常識的なフランス人は、我が子が正しい発音でフランス語を話し、優雅で論理的な文章を書けるよう教育する。子供にとって、美しいフランス語は貴重な財産だ。また、ヨーロッパ文明の中心であるフランスの歴史を学ぶことは喜びであると共に、国民になるための基礎である。パリの街をうろつくジプシーならいいけど、偉大なるフランスに属し、ガリア人の血を引く正統な国民であれば、祖先の栄光と悲劇を心に刻まなければならない。一方、フランスに潜り込んだアルジェリア人やギニア人なんか、フランス史を学んでも「外国史」と変わらないから、「何で俺達が死んだ白人を褒めなきゃならないんだ?!」と唾を吐く。彼らはゲットーの壁に落書きを刻むのが精一杯。しかも、卑猥な言葉か汚い罵倒語だけ。苦笑してしまうが、たまに綴りが間違っていたりする。

  電通の社員なんかに日本国民としての名誉や義務を求めるのは、端っから無理と分かっている。が、こんな連中を「上等国民」と勘違いする庶民も情けない。いくらテレビ局を牛耳る大企業といっても、所詮は銭を最優先するビジネス組織じゃないか。ブローテン航空のCMに反対しなかった田中氏はエリート社員だったのかも知れないが、日本人としての誇りは持っていなかった。もしかしたら、西歐人と真っ向から対峙して、「日本人を馬鹿にするな !」と怒ることを恥じていたのかも知れない。なぜなら、左翼リベラリズムを格好いいと思う西歐人は、国民国家を優先するナショナリズムを「カビ臭い因習」と見なすからだ。でも、田中氏は一体どの国に属していたのか? もし、彼が日本人であったなら、「自分も日本人である」といった事実を忘れていたことになる。英語をネイティヴ並に喋ったからといって、イギリス人に変身できる訳じゃない。歐米で育った帰国子女の中には、自分を白人と錯覚している者がいて、ブローテン航空のCMで描かれる日本人を目にすると、「私はあんな日本人じゃない !」という態度を示す。こういう人物には、「そうだよねぇ〜。君は西歐人みたいだ。だが、君の両親や祖父母は、あの間抜けな日本人と同し種類なんだよ」と言ってやれ。どんな顔つきになるのか楽しみだ。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68777235.html



http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html#c199

[近代史3] 雅子という女は凄い女 _ 気に入った相手とは手当たり次第という感じ _ 男性経験は20人は超えている 中川隆
101. 中川隆[-8759] koaQ7Jey 2019年8月19日 07:12:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3983]

2019年08月19日
自国に誇りを持たない日本人 黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68777235.html


ノルウェー人の日本人蔑視

  8月14日に放送されチャンネル桜の番組で、キャスターの高山正之が白人の日本人蔑視について持論を述べていた。彼が持ち出したのは、1999年のカンヌ国際広告祭で金賞を獲得したCMで、ブローテン航空(現在は「SAS Braathens」)が作ったTV広告だ。この映像は、外国語を知らない日本人乗客が、スチュワーデスから差し出された袋入りのサンドウィッチを「おしぼり」と勘違いして顔を拭いてしまう、という設定になっている。具体的に言えば、機内食を渡された日本人が、かけていた眼鏡を外し、ビニール袋の中にある白いパンを「おしぼり」と早合点するという設定になっていた。そして、何も疑わず顔を拭いたら、ピーナツバター(あるいは生クリーム)がベッタリと附いてしまったというオチになっている。さらに、第二幕があって、しばらくすると、スチュワーデスが再び例の袋をもってきた。ところが、ノルウェー語(または英語)を全く話せない日本人は、「お腹いっぱいです」というジェスチャーで答える。ここで観客は大爆笑、という筋書きになっていた。

  高山氏はこうしたTV広告を作ったブローテン航空に怒っていたが、それにもまして、金賞を与えた審査員に日本人がいたことで腹を立てていた。テレビ業界に詳しい人なら驚かないが、審査員の中に電通から派遣された日本人が含まれていたのだ。事件に興味を持った高山氏は博報堂のある社員に接触し、内情を探ってみたという。すると、件(くだん)の審査員は「田中」という人物で、英語が流暢に話せる帰国子女ということが分かった。金賞を与えるには全員の同意が必要であったというから、田中氏も賛成票を投じた訳だ。高山氏は番組の中で日本人意識に缼(か)けた電通社員に憤慨し、「なぜ、こんな侮辱的作品に賞を与えたのか。日本人なら反対しろ」と不快感を表していた。

  こうしたエピソードを聞くと、「やはり、帰国子女だと日本人の立場ではなく、西歐人の立場で考えてしまうんだろうなぁ〜」と思ってしまう。まぁ、日本で生まれ育ち、日本の学校に通った日本人でも、「日本国民」という意識の無い者が多いから、田中氏だけを責めるのは酷だろう。でも、西歐人の前に出ると、途端に卑屈な態度を示す日本人には吐き気がする。特に、歐米人が主催する国際会議や文化評議会などに出席する文化人とか大学教授がそうだ。現地で使用される言葉は英語かフランス語になってしまうので、ゲルマン語が苦手な日本人は、中々発言することができない。まるで「入れ歯を忘れた老人」か「貧血の吸血鬼」みたいだ。

  たとえ共通語を話せたとしても、日本語のように上手く駆使できない場合、思ったことを充分に伝えることはできないから、不満を残す結果となる。もっとマズいのは、拙い英語で相手に誤解を与えてしまうことだ。また、外人に対して反論したくても、反論するだけの知識や論理、度胸すらも無いから、多数派に賛同してお茶を濁す場合だってある。誠に情けないけど、日本国内で威張っている官僚だって似たり寄ったりだ。普段は傲慢不遜な高級官僚でも、アメリカやヨーロッパで開かれる国際会議に出席したりすると、借りてきた猫みたいにおとなしくなる。イギリス人やフランス人相手に猛反論して、日本の国益を守ろうとする役人なんかほぼゼロ。ちょうと、WBAのヘビー級ボクサーに挑戦するバンタム級のアマチュア・ボクサーみたいなものだから、最初から試合を投げている。

大切だが無視される科目

  戦後の日教組教育で洗脳された日本人には、「日本人」としての自覚が無い。もちろん、外国旅行をすれば、いくら暢気な国民でも「自分は日本人」という意識くらいは持つ。だが、それ以上の知識が無いから、「日本人の矜持」をどう保持したらいいのか分からない。日本にいる時は、日本人という意識を持たなくても暮らせるから、敢えて「日本人」ということは考えなくても済む。けど、こんなのは温室の中で大股広げて寝ているデブ猫と同じである。もし、こうした日本人が仕事の都合でアメリカやブリテン、フランス、ドイツなどに転勤したら大変だ。それに、もし家族ぐるみの移住となれば、現地の学校に子供を通わせる選択になるから一大事。ところが、脳天気な親は何とかなるだろうと楽観する。しかし、後になって国語(日本語)や社会(歴史)といった重要科目に気づく。自分の子供がどんな風に育ってしまうのか予想できない親は結構多い。

  例えば、息子がイングランドやアメリカの学校に通ったとする。たぶん、こうした子供は両親よりも上手に英語を話すようになるだろう。英語に劣等コンプレックスを持つ母親だと、「いゃ〜ん、ウチの子、英語ペラペラやん〜 !」と嬉しくなるが、肝心の母国語がお粗末になっていることに気づかない。確かに、日本にずっと居たら大金を払って英会話塾に通わせても、一向に上手くならないから、“お得”な感じがする。アホらしいけど、単純な親は「日本に帰ったらみんなに自慢しよう !」と大喜び。しかし、こうした“バイリンガル”の息子は、どのような日本語を話し、どれくらいの読解力、および作文能力を持つのか? なるほど、イギリス人のクラスメイトを持つ子供は、平均的日本人以上に上手い英語を話し、英語である程度の文章(随筆)くらいは書けるようになる。

  ただし、日本語となれば、どうなのか? 一般的に帰国子女の場合、知っている漢字の数が少ないし、常用漢字以外の正字や歴史的假名遣いを知らないから、ちょっとした古い本を読むこともできない。例えば、「體」を「体」の正漢字と分からないし、「燈油」が「灯油」、「證據」が「証拠」とも判らない。「辨」と「辯」の違いも分からないから、「辨當」を「べんとう」とは読めないし、「花瓣」という漢字を見て「かべん」と発音できないこともある。「欠」が本来は「あくび」で、「闕席(けっせき)」とか「缼陥(けっかん)」使用する漢字ではないと知らない場合もあるから困ったものだ。また、高貴な人物に関する言葉遣いだってあやふやになるから、「天皇陛下から御諚(ごじょう)を賜る」と聞いても、何が何だか見当もつかないし、「袞龍(こんりょう)の袖に隠れる伊藤博文」という陰口を耳にしても、「天子様の御衣のことかぁ」とは思わない。日本の随筆に馴染みが無い帰国子女だと、「判官贔屓(ほうがんひいき)」と聞いて、源義経じゃなく「ハルク・ホーガン(有名なプロレスラー)を好きな人かなぁ〜」と思ってしまう。バイリンガル女子で英語の発音を自慢する人は多いけど、谷崎潤一郎とか森鷗外の小説を原文で読むことができない人は結構いるぞ。まづ、歴史的假名遣いと舊漢字が分からないから、ついつい本を閉じてしまう。こんな状況なら、幸田露伴の小説なんてもっと無理。

  歐米諸国の学校に通う日本人の子供が直面する問題の一つが、歴史の授業だ。もし、イングランドの学校に通うことになったら、英国の歴史を学ぶことになるけど、日本の歴史を学ぶ機会は無い。子供の将来を心配する親なら、日本史の教科書を与えて勉強させるかも知れないが、文科省の教科書なんてつまらないから、子供は直ぐ投げ捨てたくなる。運良く歴史好きの親であれば興味を引くような説明もできるが、一般の親だと副読本を買い与えて終わりだ。普段の宿題で忙しい子供は、日本史を知らないまま地元の高校を卒業し、そのまま歐米の大学に入るか、日本に戻って「帰国子女枠」で推薦入学というパターンになる。試験入学を選ぶ者であれば、英語を中心とした筆記・面接試験を受け、「国際関係学部」とか「比較文化学科」などに進むタイプが多いんじゃないか。でもこれでは、「日本に“留学”する日本人学生」になってしまうだろう。ただし、「国際化時代」とやらを歓迎する大学ならOKだ。何しろ、“国境に囚われない地球市民”が理想ときている。日本語能力なんて端っから価値は無い。英語が上手ならトコロテン式に御卒業だ。

  一般の日本人はさほど重要に思っていないが、「歴史」の授業はある意味、数学や理科の授業よりも重要になってくる。なぜなら、「良き公民」を育成するための必須科目であるからだ。幾何学の試験で30点ないし20点しか取れなくても、成人すれば投票権を与えられるし、元素記号を全て暗記していなくても社会問題は理解できる。しかし、日本の過去を知らないと現在“懸案”となっている政治問題の経緯が分からない。ちゃんとした歴史認識知識を備えていれば、支那人や朝鮮人からのイチャモンにひれ伏すことはないが、カラっぽの頭じゃ平身低頭、有り金を献上して赦しを乞う破目になる。こうした人物は祖先の名誉を傷つけても心が痛まない。そもそも、家庭教育に「名誉」を重んずる徳目が無いんだから。

  日本国民全てが数学者や物理学者になる必要はないが、社会に責任を持つ有権者が記憶喪失状態では困る。祖先との繋がりを忘れ、国家の威信を損なう政策に賛成する国民が増えれば、国家の衰退は避けられない。現在だけを生きている日本人には理解できないだろうが、まっとうな「日本国民」とは、その職業に関係なく、祖先の遺産を引き継ぐ伝承者であり、将来の子孫へ遺産を手渡す保管者でもある。「死んだ後に核戦争が起きても、多民族国家になっても俺の知ったことじゃない !」と言い切る日本人は、自分の息子や娘、幼い孫の顔を見てから断言すべきだ。

帰国子女は祖国に「根」を持っているのか?

  国史を学ばない日本人には、真の愛国心は育たない。かつて、フランスには保守的知識人が少なからずいて、心から自分の郷里を、祖父母の亡骸(なきがら)が眠る大地を、偉大な伝統を誇る祖国を愛していた。例えば、「アクション・フランセーズ(Action Française)」を率いるシャルル・モラスや、反ユダヤ主義を掲げてフランスらしいフランスを守ろうとしたモリス・バレス(Maurice Barrés)が挙げられる。ちなみに、トランプ大統領の補佐官を務めていたスティーヴ・バノンは、マラスを称讃していたそうだ。(Michael Crowley, The Man Who Wants toUnmake the West, Politico Magazine, March/April 2017)

Charles Maurras 1Maurice Barres 1Steve Bannon 1


(左 : シャルル・モラス / 中央 : モリス・バレス / 右 : スティーヴ・バノン )

  とりわけ、バレスの思想は注目に値する。彼と比べたらジャン=ジャク・ルソーやジャン=ポール・サルトルなんて屑に等しい。普遍主義とか世界市民を理想にする左翼知識人と違い、バレスはフランスの大地に“根”を張った国士であった。彼にとってフランスとは「平等」とか「博愛」といった安っぽい言葉で成り立つ共和国ではない。フランスとは王家や教会との赤い絆で結ばれた歴史的結晶体であった。フランス文化の髄液を吸収して育ったバレスにすれば、各国を渡り歩き、ゼニ儲けに専念するユダヤ人など、根無し草のコスモポリタン、すなわち地球上をうろつく寄生民族に過ぎない。「真のフランス人」とは、祖先の遺灰が染み込んだ郷里に根を張る地元民、すなわち王国を築いてきたガリア人である。バレスはフランスの衰退を憂い、祖先との一体感を強調することで祖国を救おうとした。
  
 ・・・私たちが祖先からの連続だということをきっちり理解する、それも単に口先でというだけでなく、感受性鋭くありありと思い描くかどうかにかかっている。このことは、解剖学的にも正しい。祖先が私たちのなかで考え、語っている。一つながりの子孫たちは、同じ存在でしかない。周囲に存在する生命の働きかけのせいで、きわめて巨大な複雑さがそこに出現するかも知れない。しかし、だからといって、何も変質しはしない。それは、完全に仕上げられた建築の秩序に似ている。つねに同一の秩序である。それは、部屋の配置を変更した家に似ている。同じ土台の上に建てられているだけでなく、同じ切り石でできている。つねに同じ家である。(モーリス・バレス 『国家主義とドレフュス事件』 稲葉三千男 訳、創風社、pp.23-24.)

  バレスによれば、フランスの個人は家族の中、民族の中、国家の中で自己発見するそうだ。また、彼は巨大な中央集権によって支配されるフランスに危機感を覚えた。この保守派知識人は、地方色豊かなフランス、独特な歴史の中で育ってきた国、地方から成るフランスを愛し、中央から国家を統制しようと謀るコスモポリタンに対抗しようとした。バレスは言う。「フランス全体の国民性は、地方の国民性で形づくられている」。(上掲書、p.110.)

  愛国者のバレスは、国際主義者によって破壊されようとするフランスを目の当たりにした。そこで彼は地方主義を掲げる。つまり、フランスの大地に根を持つ国民を鼓舞して、自らの援軍にしようとしたのだ。彼は次のように宣言する。

  に心からの忠誠を捧げる。なぜなら、私はプロヴァンス人で、プロヴァンスを熱愛しているからだ。フランス国家の伝統を救おうと立ち上がった全ての人と、私は忠実に連帯する。(上掲書、p.201)

  バレスから見れば、フランスとはガリア人とフランク人の血が流れる巨木のような国家である。もし、大地からの養分を吸収する根が切断されれば、その枝や幹は衰弱し、やがて枯れてしまう。革命に酔いしれた左翼分子は、太古から脈々と続く王国の幹と根を巨大な斧で切り離すことに喜びを感じていた。ちょうど、王侯貴族や聖職者の首を刎(は)ねたように、彼らは何の躊躇もなく国家の連続性を切断しようとする。ただし、中央官庁で国家を牛耳るグローバリストは、ギロチンではなく法律という鋏(ハサミ)でフランスをズタズタに切り裂こうとした。バレスは行政官が作り出す法律によって、家庭や生誕地への愛を維持する地方の風俗や慣習が破壊されたと嘆く。

  先祖伝来のものは全て馬鹿げているから、新案の混合物に取り代えねばならない、と世間ではいう。そうすることで精彩のない愚劣な人びと、あらゆる種類の浮浪者たち、古くから土地々々の伝統を捨てて祖国および祖国を象徴する国旗を軽蔑する人びとを生み出した。(上掲書、p.103)

  本来、国家を形成する公民には、本能とも言える素朴で強固な祖国愛があるはずだ。しかし、祖先の歴史から切り離された子供達、すなわち、意図的に頭を改造され、下らない知識を詰め込まれた記憶喪失者には、祖国への愛や誇り、過去と未来に対する使命感や義務感が無い。こうした孤児(みなしご)が求めるものは、目先の銭であったり、見栄を張るための学歴、儚くも消えてしまう世間からの評判、セックス、スクリーン(映画や娯楽)、スポーツにグルメ(食欲)などである。したがって、日本の歴史を学ばなかった帰国子女に、祖国を誇りとする精神や先祖に対する感謝と敬意が無いのも当然だ。もっと酷い奴になると、傲慢な歐米人と一緒に祖国を小馬鹿にし、それが“進歩的人間”の証しだと思ってしまう。西歐諸国で育った日本人は、日本にどんな価値があるのか知らないから、西歐的な思考や行動様式の方が“上等”なんだ、と勝手に思ってしまうのだ。

  しかし、根無し草の日本人には困った事がある。たとえ、どんなに英語が上手でも、彼らは白人にはなれない。西歐諸国に住んでいれば有色人種と見なされ、日本に帰国すれば日本人のツラをした異邦人。「バイリンガル」になったと喜んでいる親は、現実に直面すると、我が子が「コスモポリタンのエイリアン(異質な浮浪者)」になってしまったことに愕然とする。「日本語や日本史なんて勉強しても価値が無い」と思う親は、フランスに住んでフランス人の友人をつくり、彼らに向かって次のように言ってみればいい。

  「フランスに住めば誰でもフランス語を喋れるし、フランス史を学んでも大金を摑める訳じゃないから、そんな事をしても時間の無駄よ」、と。

  まともなフランス人なら、顎を外すくらい驚くだろう。たぶん、「哀れな奴だ !」と見下すに違いない。常識的なフランス人は、我が子が正しい発音でフランス語を話し、優雅で論理的な文章を書けるよう教育する。子供にとって、美しいフランス語は貴重な財産だ。また、ヨーロッパ文明の中心であるフランスの歴史を学ぶことは喜びであると共に、国民になるための基礎である。パリの街をうろつくジプシーならいいけど、偉大なるフランスに属し、ガリア人の血を引く正統な国民であれば、祖先の栄光と悲劇を心に刻まなければならない。一方、フランスに潜り込んだアルジェリア人やギニア人なんか、フランス史を学んでも「外国史」と変わらないから、「何で俺達が死んだ白人を褒めなきゃならないんだ?!」と唾を吐く。彼らはゲットーの壁に落書きを刻むのが精一杯。しかも、卑猥な言葉か汚い罵倒語だけ。苦笑してしまうが、たまに綴りが間違っていたりする。

  電通の社員なんかに日本国民としての名誉や義務を求めるのは、端っから無理と分かっている。が、こんな連中を「上等国民」と勘違いする庶民も情けない。いくらテレビ局を牛耳る大企業といっても、所詮は銭を最優先するビジネス組織じゃないか。ブローテン航空のCMに反対しなかった田中氏はエリート社員だったのかも知れないが、日本人としての誇りは持っていなかった。もしかしたら、西歐人と真っ向から対峙して、「日本人を馬鹿にするな !」と怒ることを恥じていたのかも知れない。なぜなら、左翼リベラリズムを格好いいと思う西歐人は、国民国家を優先するナショナリズムを「カビ臭い因習」と見なすからだ。でも、田中氏は一体どの国に属していたのか? もし、彼が日本人であったなら、「自分も日本人である」といった事実を忘れていたことになる。英語をネイティヴ並に喋ったからといって、イギリス人に変身できる訳じゃない。歐米で育った帰国子女の中には、自分を白人と錯覚している者がいて、ブローテン航空のCMで描かれる日本人を目にすると、「私はあんな日本人じゃない !」という態度を示す。こういう人物には、「そうだよねぇ〜。君は西歐人みたいだ。だが、君の両親や祖父母は、あの間抜けな日本人と同し種類なんだよ」と言ってやれ。どんな顔つきになるのか楽しみだ。

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[近代史3] 皇太子妃の雅子さんは典型的なダメダメ家庭出身者  中川隆
53. 中川隆[-8758] koaQ7Jey 2019年8月19日 07:12:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3984]

2019年08月19日
自国に誇りを持たない日本人 黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68777235.html


ノルウェー人の日本人蔑視

  8月14日に放送されチャンネル桜の番組で、キャスターの高山正之が白人の日本人蔑視について持論を述べていた。彼が持ち出したのは、1999年のカンヌ国際広告祭で金賞を獲得したCMで、ブローテン航空(現在は「SAS Braathens」)が作ったTV広告だ。この映像は、外国語を知らない日本人乗客が、スチュワーデスから差し出された袋入りのサンドウィッチを「おしぼり」と勘違いして顔を拭いてしまう、という設定になっている。具体的に言えば、機内食を渡された日本人が、かけていた眼鏡を外し、ビニール袋の中にある白いパンを「おしぼり」と早合点するという設定になっていた。そして、何も疑わず顔を拭いたら、ピーナツバター(あるいは生クリーム)がベッタリと附いてしまったというオチになっている。さらに、第二幕があって、しばらくすると、スチュワーデスが再び例の袋をもってきた。ところが、ノルウェー語(または英語)を全く話せない日本人は、「お腹いっぱいです」というジェスチャーで答える。ここで観客は大爆笑、という筋書きになっていた。

  高山氏はこうしたTV広告を作ったブローテン航空に怒っていたが、それにもまして、金賞を与えた審査員に日本人がいたことで腹を立てていた。テレビ業界に詳しい人なら驚かないが、審査員の中に電通から派遣された日本人が含まれていたのだ。事件に興味を持った高山氏は博報堂のある社員に接触し、内情を探ってみたという。すると、件(くだん)の審査員は「田中」という人物で、英語が流暢に話せる帰国子女ということが分かった。金賞を与えるには全員の同意が必要であったというから、田中氏も賛成票を投じた訳だ。高山氏は番組の中で日本人意識に缼(か)けた電通社員に憤慨し、「なぜ、こんな侮辱的作品に賞を与えたのか。日本人なら反対しろ」と不快感を表していた。

  こうしたエピソードを聞くと、「やはり、帰国子女だと日本人の立場ではなく、西歐人の立場で考えてしまうんだろうなぁ〜」と思ってしまう。まぁ、日本で生まれ育ち、日本の学校に通った日本人でも、「日本国民」という意識の無い者が多いから、田中氏だけを責めるのは酷だろう。でも、西歐人の前に出ると、途端に卑屈な態度を示す日本人には吐き気がする。特に、歐米人が主催する国際会議や文化評議会などに出席する文化人とか大学教授がそうだ。現地で使用される言葉は英語かフランス語になってしまうので、ゲルマン語が苦手な日本人は、中々発言することができない。まるで「入れ歯を忘れた老人」か「貧血の吸血鬼」みたいだ。

  たとえ共通語を話せたとしても、日本語のように上手く駆使できない場合、思ったことを充分に伝えることはできないから、不満を残す結果となる。もっとマズいのは、拙い英語で相手に誤解を与えてしまうことだ。また、外人に対して反論したくても、反論するだけの知識や論理、度胸すらも無いから、多数派に賛同してお茶を濁す場合だってある。誠に情けないけど、日本国内で威張っている官僚だって似たり寄ったりだ。普段は傲慢不遜な高級官僚でも、アメリカやヨーロッパで開かれる国際会議に出席したりすると、借りてきた猫みたいにおとなしくなる。イギリス人やフランス人相手に猛反論して、日本の国益を守ろうとする役人なんかほぼゼロ。ちょうと、WBAのヘビー級ボクサーに挑戦するバンタム級のアマチュア・ボクサーみたいなものだから、最初から試合を投げている。

大切だが無視される科目

  戦後の日教組教育で洗脳された日本人には、「日本人」としての自覚が無い。もちろん、外国旅行をすれば、いくら暢気な国民でも「自分は日本人」という意識くらいは持つ。だが、それ以上の知識が無いから、「日本人の矜持」をどう保持したらいいのか分からない。日本にいる時は、日本人という意識を持たなくても暮らせるから、敢えて「日本人」ということは考えなくても済む。けど、こんなのは温室の中で大股広げて寝ているデブ猫と同じである。もし、こうした日本人が仕事の都合でアメリカやブリテン、フランス、ドイツなどに転勤したら大変だ。それに、もし家族ぐるみの移住となれば、現地の学校に子供を通わせる選択になるから一大事。ところが、脳天気な親は何とかなるだろうと楽観する。しかし、後になって国語(日本語)や社会(歴史)といった重要科目に気づく。自分の子供がどんな風に育ってしまうのか予想できない親は結構多い。

  例えば、息子がイングランドやアメリカの学校に通ったとする。たぶん、こうした子供は両親よりも上手に英語を話すようになるだろう。英語に劣等コンプレックスを持つ母親だと、「いゃ〜ん、ウチの子、英語ペラペラやん〜 !」と嬉しくなるが、肝心の母国語がお粗末になっていることに気づかない。確かに、日本にずっと居たら大金を払って英会話塾に通わせても、一向に上手くならないから、“お得”な感じがする。アホらしいけど、単純な親は「日本に帰ったらみんなに自慢しよう !」と大喜び。しかし、こうした“バイリンガル”の息子は、どのような日本語を話し、どれくらいの読解力、および作文能力を持つのか? なるほど、イギリス人のクラスメイトを持つ子供は、平均的日本人以上に上手い英語を話し、英語である程度の文章(随筆)くらいは書けるようになる。

  ただし、日本語となれば、どうなのか? 一般的に帰国子女の場合、知っている漢字の数が少ないし、常用漢字以外の正字や歴史的假名遣いを知らないから、ちょっとした古い本を読むこともできない。例えば、「體」を「体」の正漢字と分からないし、「燈油」が「灯油」、「證據」が「証拠」とも判らない。「辨」と「辯」の違いも分からないから、「辨當」を「べんとう」とは読めないし、「花瓣」という漢字を見て「かべん」と発音できないこともある。「欠」が本来は「あくび」で、「闕席(けっせき)」とか「缼陥(けっかん)」使用する漢字ではないと知らない場合もあるから困ったものだ。また、高貴な人物に関する言葉遣いだってあやふやになるから、「天皇陛下から御諚(ごじょう)を賜る」と聞いても、何が何だか見当もつかないし、「袞龍(こんりょう)の袖に隠れる伊藤博文」という陰口を耳にしても、「天子様の御衣のことかぁ」とは思わない。日本の随筆に馴染みが無い帰国子女だと、「判官贔屓(ほうがんひいき)」と聞いて、源義経じゃなく「ハルク・ホーガン(有名なプロレスラー)を好きな人かなぁ〜」と思ってしまう。バイリンガル女子で英語の発音を自慢する人は多いけど、谷崎潤一郎とか森鷗外の小説を原文で読むことができない人は結構いるぞ。まづ、歴史的假名遣いと舊漢字が分からないから、ついつい本を閉じてしまう。こんな状況なら、幸田露伴の小説なんてもっと無理。

  歐米諸国の学校に通う日本人の子供が直面する問題の一つが、歴史の授業だ。もし、イングランドの学校に通うことになったら、英国の歴史を学ぶことになるけど、日本の歴史を学ぶ機会は無い。子供の将来を心配する親なら、日本史の教科書を与えて勉強させるかも知れないが、文科省の教科書なんてつまらないから、子供は直ぐ投げ捨てたくなる。運良く歴史好きの親であれば興味を引くような説明もできるが、一般の親だと副読本を買い与えて終わりだ。普段の宿題で忙しい子供は、日本史を知らないまま地元の高校を卒業し、そのまま歐米の大学に入るか、日本に戻って「帰国子女枠」で推薦入学というパターンになる。試験入学を選ぶ者であれば、英語を中心とした筆記・面接試験を受け、「国際関係学部」とか「比較文化学科」などに進むタイプが多いんじゃないか。でもこれでは、「日本に“留学”する日本人学生」になってしまうだろう。ただし、「国際化時代」とやらを歓迎する大学ならOKだ。何しろ、“国境に囚われない地球市民”が理想ときている。日本語能力なんて端っから価値は無い。英語が上手ならトコロテン式に御卒業だ。

  一般の日本人はさほど重要に思っていないが、「歴史」の授業はある意味、数学や理科の授業よりも重要になってくる。なぜなら、「良き公民」を育成するための必須科目であるからだ。幾何学の試験で30点ないし20点しか取れなくても、成人すれば投票権を与えられるし、元素記号を全て暗記していなくても社会問題は理解できる。しかし、日本の過去を知らないと現在“懸案”となっている政治問題の経緯が分からない。ちゃんとした歴史認識知識を備えていれば、支那人や朝鮮人からのイチャモンにひれ伏すことはないが、カラっぽの頭じゃ平身低頭、有り金を献上して赦しを乞う破目になる。こうした人物は祖先の名誉を傷つけても心が痛まない。そもそも、家庭教育に「名誉」を重んずる徳目が無いんだから。

  日本国民全てが数学者や物理学者になる必要はないが、社会に責任を持つ有権者が記憶喪失状態では困る。祖先との繋がりを忘れ、国家の威信を損なう政策に賛成する国民が増えれば、国家の衰退は避けられない。現在だけを生きている日本人には理解できないだろうが、まっとうな「日本国民」とは、その職業に関係なく、祖先の遺産を引き継ぐ伝承者であり、将来の子孫へ遺産を手渡す保管者でもある。「死んだ後に核戦争が起きても、多民族国家になっても俺の知ったことじゃない !」と言い切る日本人は、自分の息子や娘、幼い孫の顔を見てから断言すべきだ。

帰国子女は祖国に「根」を持っているのか?

  国史を学ばない日本人には、真の愛国心は育たない。かつて、フランスには保守的知識人が少なからずいて、心から自分の郷里を、祖父母の亡骸(なきがら)が眠る大地を、偉大な伝統を誇る祖国を愛していた。例えば、「アクション・フランセーズ(Action Française)」を率いるシャルル・モラスや、反ユダヤ主義を掲げてフランスらしいフランスを守ろうとしたモリス・バレス(Maurice Barrés)が挙げられる。ちなみに、トランプ大統領の補佐官を務めていたスティーヴ・バノンは、マラスを称讃していたそうだ。(Michael Crowley, The Man Who Wants toUnmake the West, Politico Magazine, March/April 2017)

Charles Maurras 1Maurice Barres 1Steve Bannon 1


(左 : シャルル・モラス / 中央 : モリス・バレス / 右 : スティーヴ・バノン )

  とりわけ、バレスの思想は注目に値する。彼と比べたらジャン=ジャク・ルソーやジャン=ポール・サルトルなんて屑に等しい。普遍主義とか世界市民を理想にする左翼知識人と違い、バレスはフランスの大地に“根”を張った国士であった。彼にとってフランスとは「平等」とか「博愛」といった安っぽい言葉で成り立つ共和国ではない。フランスとは王家や教会との赤い絆で結ばれた歴史的結晶体であった。フランス文化の髄液を吸収して育ったバレスにすれば、各国を渡り歩き、ゼニ儲けに専念するユダヤ人など、根無し草のコスモポリタン、すなわち地球上をうろつく寄生民族に過ぎない。「真のフランス人」とは、祖先の遺灰が染み込んだ郷里に根を張る地元民、すなわち王国を築いてきたガリア人である。バレスはフランスの衰退を憂い、祖先との一体感を強調することで祖国を救おうとした。
  
 ・・・私たちが祖先からの連続だということをきっちり理解する、それも単に口先でというだけでなく、感受性鋭くありありと思い描くかどうかにかかっている。このことは、解剖学的にも正しい。祖先が私たちのなかで考え、語っている。一つながりの子孫たちは、同じ存在でしかない。周囲に存在する生命の働きかけのせいで、きわめて巨大な複雑さがそこに出現するかも知れない。しかし、だからといって、何も変質しはしない。それは、完全に仕上げられた建築の秩序に似ている。つねに同一の秩序である。それは、部屋の配置を変更した家に似ている。同じ土台の上に建てられているだけでなく、同じ切り石でできている。つねに同じ家である。(モーリス・バレス 『国家主義とドレフュス事件』 稲葉三千男 訳、創風社、pp.23-24.)

  バレスによれば、フランスの個人は家族の中、民族の中、国家の中で自己発見するそうだ。また、彼は巨大な中央集権によって支配されるフランスに危機感を覚えた。この保守派知識人は、地方色豊かなフランス、独特な歴史の中で育ってきた国、地方から成るフランスを愛し、中央から国家を統制しようと謀るコスモポリタンに対抗しようとした。バレスは言う。「フランス全体の国民性は、地方の国民性で形づくられている」。(上掲書、p.110.)

  愛国者のバレスは、国際主義者によって破壊されようとするフランスを目の当たりにした。そこで彼は地方主義を掲げる。つまり、フランスの大地に根を持つ国民を鼓舞して、自らの援軍にしようとしたのだ。彼は次のように宣言する。

  に心からの忠誠を捧げる。なぜなら、私はプロヴァンス人で、プロヴァンスを熱愛しているからだ。フランス国家の伝統を救おうと立ち上がった全ての人と、私は忠実に連帯する。(上掲書、p.201)

  バレスから見れば、フランスとはガリア人とフランク人の血が流れる巨木のような国家である。もし、大地からの養分を吸収する根が切断されれば、その枝や幹は衰弱し、やがて枯れてしまう。革命に酔いしれた左翼分子は、太古から脈々と続く王国の幹と根を巨大な斧で切り離すことに喜びを感じていた。ちょうど、王侯貴族や聖職者の首を刎(は)ねたように、彼らは何の躊躇もなく国家の連続性を切断しようとする。ただし、中央官庁で国家を牛耳るグローバリストは、ギロチンではなく法律という鋏(ハサミ)でフランスをズタズタに切り裂こうとした。バレスは行政官が作り出す法律によって、家庭や生誕地への愛を維持する地方の風俗や慣習が破壊されたと嘆く。

  先祖伝来のものは全て馬鹿げているから、新案の混合物に取り代えねばならない、と世間ではいう。そうすることで精彩のない愚劣な人びと、あらゆる種類の浮浪者たち、古くから土地々々の伝統を捨てて祖国および祖国を象徴する国旗を軽蔑する人びとを生み出した。(上掲書、p.103)

  本来、国家を形成する公民には、本能とも言える素朴で強固な祖国愛があるはずだ。しかし、祖先の歴史から切り離された子供達、すなわち、意図的に頭を改造され、下らない知識を詰め込まれた記憶喪失者には、祖国への愛や誇り、過去と未来に対する使命感や義務感が無い。こうした孤児(みなしご)が求めるものは、目先の銭であったり、見栄を張るための学歴、儚くも消えてしまう世間からの評判、セックス、スクリーン(映画や娯楽)、スポーツにグルメ(食欲)などである。したがって、日本の歴史を学ばなかった帰国子女に、祖国を誇りとする精神や先祖に対する感謝と敬意が無いのも当然だ。もっと酷い奴になると、傲慢な歐米人と一緒に祖国を小馬鹿にし、それが“進歩的人間”の証しだと思ってしまう。西歐諸国で育った日本人は、日本にどんな価値があるのか知らないから、西歐的な思考や行動様式の方が“上等”なんだ、と勝手に思ってしまうのだ。

  しかし、根無し草の日本人には困った事がある。たとえ、どんなに英語が上手でも、彼らは白人にはなれない。西歐諸国に住んでいれば有色人種と見なされ、日本に帰国すれば日本人のツラをした異邦人。「バイリンガル」になったと喜んでいる親は、現実に直面すると、我が子が「コスモポリタンのエイリアン(異質な浮浪者)」になってしまったことに愕然とする。「日本語や日本史なんて勉強しても価値が無い」と思う親は、フランスに住んでフランス人の友人をつくり、彼らに向かって次のように言ってみればいい。

  「フランスに住めば誰でもフランス語を喋れるし、フランス史を学んでも大金を摑める訳じゃないから、そんな事をしても時間の無駄よ」、と。

  まともなフランス人なら、顎を外すくらい驚くだろう。たぶん、「哀れな奴だ !」と見下すに違いない。常識的なフランス人は、我が子が正しい発音でフランス語を話し、優雅で論理的な文章を書けるよう教育する。子供にとって、美しいフランス語は貴重な財産だ。また、ヨーロッパ文明の中心であるフランスの歴史を学ぶことは喜びであると共に、国民になるための基礎である。パリの街をうろつくジプシーならいいけど、偉大なるフランスに属し、ガリア人の血を引く正統な国民であれば、祖先の栄光と悲劇を心に刻まなければならない。一方、フランスに潜り込んだアルジェリア人やギニア人なんか、フランス史を学んでも「外国史」と変わらないから、「何で俺達が死んだ白人を褒めなきゃならないんだ?!」と唾を吐く。彼らはゲットーの壁に落書きを刻むのが精一杯。しかも、卑猥な言葉か汚い罵倒語だけ。苦笑してしまうが、たまに綴りが間違っていたりする。

  電通の社員なんかに日本国民としての名誉や義務を求めるのは、端っから無理と分かっている。が、こんな連中を「上等国民」と勘違いする庶民も情けない。いくらテレビ局を牛耳る大企業といっても、所詮は銭を最優先するビジネス組織じゃないか。ブローテン航空のCMに反対しなかった田中氏はエリート社員だったのかも知れないが、日本人としての誇りは持っていなかった。もしかしたら、西歐人と真っ向から対峙して、「日本人を馬鹿にするな !」と怒ることを恥じていたのかも知れない。なぜなら、左翼リベラリズムを格好いいと思う西歐人は、国民国家を優先するナショナリズムを「カビ臭い因習」と見なすからだ。でも、田中氏は一体どの国に属していたのか? もし、彼が日本人であったなら、「自分も日本人である」といった事実を忘れていたことになる。英語をネイティヴ並に喋ったからといって、イギリス人に変身できる訳じゃない。歐米で育った帰国子女の中には、自分を白人と錯覚している者がいて、ブローテン航空のCMで描かれる日本人を目にすると、「私はあんな日本人じゃない !」という態度を示す。こういう人物には、「そうだよねぇ〜。君は西歐人みたいだ。だが、君の両親や祖父母は、あの間抜けな日本人と同し種類なんだよ」と言ってやれ。どんな顔つきになるのか楽しみだ。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68777235.html



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/179.html#c53

[政治・選挙・NHK264] また河野太郎が韓国相手にやらかした!(くろねこの短語) 赤かぶ
5. 中川隆[-8760] koaQ7Jey 2019年8月19日 09:34:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3982]
儒教の国とは価値観が違うから国交断絶するしかないだろ

宮脇淳子 あるのはウソだけのめんどくさい国。韓国の異常さがよくわかる動画 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90+%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%82%A6%E3%82%BD%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%AE%E3%82%81%E3%82%93%E3%81%A9%E3%81%8F%E3%81%95%E3%81%84%E5%9B%BD

【東京発信・Cool Eyes】第16回 歴史学者・宮脇淳子 朝鮮半島と満州の「なぜ」 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%83%BB%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90%E6%B0%8F%E3%80%80%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E3%81%A8%E6%BA%80%E5%B7%9E%E3%81%AE%E3%80%8C%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%8D

じっくり学ぼう!日韓近現代史【CGS 宮脇淳子】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%98%E3%81%A3%E3%81%8F%E3%82%8A%E5%AD%A6%E3%81%BC%E3%81%86%EF%BC%81%E6%97%A5%E9%9F%93%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%80%90CGS+%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90%E3%80%91

宮脇淳子 朝鮮を語る - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90+%E6%9C%9D%E9%AE%AE

韓流ドラマはSF・ファンタジーの世界 ~ 朝鮮史の真実【CGS宮脇淳子】
https://www.youtube.com/watch?v=z3UjCOXvFDQ

なぜ今、日韓近現代史なのか?~昔も今も韓国は韓国【CGS 宮脇淳子】
https://www.youtube.com/watch?v=qwyDpOJh1ig

さくらじ#50 大人気!宮脇淳子講座、韓国に挑む!?
http://www.youtube.com/watch?v=XpRj8TW1bo8
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/620.html#c5

[政治・選挙・NHK264] 政治汚染水化した「民主党」 れいわ4.3%  赤かぶ
10. 中川隆[-8759] koaQ7Jey 2019年8月19日 09:45:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3983]
山本太郎は在日で北朝鮮のエージェント、世界革命を目指す日本赤軍派後継者

れいわ が障害2議員を入れたのは山本太郎を介護者として代弁させて国会に出ずっぱりで演説させる為だよ


山本太郎=演説だけでドイツを変えた名優ヒトラーの再来、斎藤まさし =ゲッペルス


▲△▽▼


れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。

森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。
母親は森順子、ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


国会に難病議員2人入れて介護者という名目で山本太郎が二人の代わりに代弁してれいわの名を売るんだろ

すべて斎藤まさしのアイデアさ

素人の山本太郎が4億円も寄付を集めたり、わざわざ難病議員を立候補させる訳がないというのがわからないアホが多過ぎるんだな

山本太郎は世界同時革命を目指すキチガイ斎藤まさし(酒井剛)の書いた台本通りに演技してるだけだよ


____


斉藤まさし(2018、8最高裁にて公職選挙法違反で有罪)が山本太郎の街宣に現れた!

やはり山本太郎は操り人形だったのね。


山本太郎の選挙を指揮していると言われてる斉藤まさしが新宿西口で行われた「山本太郎の街頭演説」の場に現れた。

元俳優の山本太郎を使って革命を目指す斉藤まさしの姿が良くお分かりになったでしょう。

監督の指示に従って演技をする、山本太郎は未だに役を演じているように見えますね。

しかし、その俳優は色々問題のある人物だった。

週刊新潮に強姦魔だと書かれても、名誉棄損で訴えることが出来ない。法廷で争う事が出来ない山本太郎という男を担いでしまった。

ME TOO のプラカード持ってパフォーマンスしていた議員達は山本太郎に強姦されたと勇気をもって告発した女性にはダンマリか!

未成年の女の子を強姦しても、革命家斉藤まさしの書いたシナリオ通りを演じておけば、参議院議員にもなれるか。

もし、事実じゃなないのなら、何故週刊新潮を訴えないのか?

____


無知な一般大衆が知らない山本太郎・斉藤まさしやヒトラー、レーニンを操っていた黒幕


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
重信房子、田宮高麿、山本太郎・斉藤まさし、北朝鮮、オウム真理教の深い関係

2011年4月に行われた第17回統一地方選挙の三鷹市議会議員選挙に、代表を務める市民の党からよど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が立候補しているが斉藤まさしは市議選に擁立した背景について取材で

「10年ほど前に北朝鮮に行き、よど号の人間や娘たちと会った」
「その中には(三鷹市議選に出馬した)長男の姉もいた」
「そうした縁もあって、長男が帰国してきてからつながりがあった」

と述べている。 北朝鮮や田宮との関係について「救う会」会長の西岡力は「酒井(斎藤まさし)代表がよど号犯やその子供らと会えたことは、北朝鮮が酒井代表を同志と考えたか、対日工作に利用できると判断して許可を出したことになる。酒井や市民の党が北と密接な関係にあったのは明白だ」と批判している


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/619.html#c10

[文化2] ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン 中川隆
200. 中川隆[-8764] koaQ7Jey 2019年8月19日 13:21:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3978]

【Front Japan 桜】ピジンイングリッシュで良いじゃないか [桜R1-8-14] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=k_3m3SLm2co

http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html#c200

[リバイバル3] 日本人は金髪美女に弱い _ 小布施からセーラ・カミングスの姿が消えた 中川隆
175. 中川隆[-8763] koaQ7Jey 2019年8月19日 13:22:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3979]

【Front Japan 桜】ピジンイングリッシュで良いじゃないか [桜R1-8-14] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=k_3m3SLm2co

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/444.html#c175

[近代史3] 馬渕睦夫 : 山本太郎は反グローバリストを装って一般大衆を欺く極左の隠れグローバリスト 中川隆
34. 中川隆[-8765] koaQ7Jey 2019年8月19日 17:16:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3977]

2011年07月18日
菅直人とポルポトを結ぶ「新生」
https://coffee-eclair.at.webry.info/201107/article_16.html


ついに菅直人はポル・ポトとも繋がってしまいましたねぇ。『公安当局や米情報機関も関心を持っている』日本国首相は、首相在任中の不逮捕特権というシステムに、今後更にしがみ付かざるを得ない気がします。

積極報道は産経新聞のみなのか。なお産経の報道では・・・。

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・市民の党の代表は酒井剛(選挙用の偽名?斎藤まさし)
  ・マルクスレーニン主義者であることを隠さず。思想的には極左  ・田英夫(元社民連代表)の娘婿の経歴あり
  ・菅直人は国会議員以前からの付き合い
  ・強い革命思想を持つ「僕は、革命のために選挙をやっている」
  ・今年4月の東京都三鷹市議選で田宮元リーダーの長男を擁立(落選)
  ・鷲尾、黒岩議員らによる献金、事務員の重複
・「政権交代を目指す市民の会」は市民の党と密接な関係
  ・草志会が献金(平成19〜21年に計6250万円)   「政治的にいろいろな意味で、連携をすることによってプラスになると考えて寄付した」
  ・奈良氏は今月10日投開票の神奈川県厚木市議選に立候補し、7選
    ・市民の党出身で、同党に毎年約150万円を個人献金

・機関紙「新生」は”市民の党”の機関紙(昭和54年〜平成14年)
  ・菅直人が「新生」に寄稿
  ・よど号犯、田宮元リーダーが北朝鮮から送った文章を掲載
  ・カンボジアのポル・ポト派幹部のイエン・チリト元社会問題相からもメッセージを受け取る(イエン氏は、今年6月に始まったポル・ポト派の大量虐殺を裁くカンボジア特別法廷に被告として出廷中)

市民の党“機関紙” 菅首相、30年前から寄稿 よど号犯やポル・ポト派幹部も 2011.7.17 22:09
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110717/crm11071722180012-n1.htm

菅首相側献金団体「選挙は革命のために」 セクトに所属しない元活動家集団「ケンカしながら…」 2011.7.13 11:11 (1/2ページ)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110713/plc11071311120010-n1.htm
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しかし日本では共産革命の下地が整っている訳ではないから、今回の菅直人による政権奪取は国民に受け入れられる筈がありません。小泉改革により進んだとはいえ、世界中で進む貧富の差や階級間の軋轢は日本においては小さく、また失業率も低く抑えられており、民族的対立は天皇陛下による国体が維持されているために、以前より弱体化したとはいえ強い連帯を維持している。このため有権者がこの菅直人ら極左政権の実態を目にすれば、詐欺にあったような感覚に陥るでしょう。それを報道しない自由によって隠蔽するのは相変わらずのマスメディアです。


共産革命の危険にさらされるのは急速に進んだ貧富の差や、新たに生まれた階級と闘争、そして民族的対立に資本主義の失敗が重なるといった条件が求められますが、その中でも最も危険なのは中国であり韓国である気がします。勿論先進諸国も皆危険ではあるけれど、何しろ歴史的経験を持ち合わせているから、幾分か修正されるのでは。それにナショナリズム的連帯を、中国は持ち合わせているとは思えないので。


プロレタリアート不在で進んだため、一般的な共産革命と言えるのか甚だ疑問である、実質毛沢東の独裁国家としての中国共産党ですが、共産党的資本主義の導入により現在では労働者階級が存在している状況にある。それが余りに急激な成長によって貧富の差が急拡大し、国をまとめるための反日政策は上手くいっているとは思えない。そして暴力装置による抑えつけが、革命を抑え込むことが出来るのか。中国の民主化運動とは実態は反政府運動であって、結局のところ起きたとしても易姓革命に過ぎないと思えますが。。。但し毛派を見ると、『腐った共産政府を共産革命する』という皮肉な構図も見えてきます。


ま、大中華でおきることは、小中華も似たりよったりなものかと。


そんな東亜大陸とその盲腸とは一線を画する日本において、色々悪だくみをする連中がトップを始めとして跋扈しておりますが、この言葉を国民は突きつけてやるべきでしょう。第二次大戦後の日本国体の維持=天皇制の維持が、戦後日本の発展に不可欠であったことは、この言葉を実践・証明したものに他ならないと思います。


「国事を悪用したり、思いつきの議論や思想を信用して実験を企てようとしたりすることは、時代の重要事項を重視する賢明な行政官が決してやってはならないことである。そして、仮に、公共の善のために何らかの改善処置を施そうとする場合すらも、新たに行う事項は、可能な限り古代からの社会構造に合うように調整すべきであり、国体の主要な柱と梁は、そっくりそのまま保守しなければならない(ヒューム)」

https://coffee-eclair.at.webry.info/201107/article_16.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/559.html#c34

[近代史3] 馬渕睦夫 : 山本太郎は反グローバリストを装って一般大衆を欺く極左の隠れグローバリスト 中川隆
35. 中川隆[-8764] koaQ7Jey 2019年8月19日 17:20:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3978]
山本太郎氏の選挙参謀と菅直人元首相の“深い仲”2013.07.23
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-743.html?sp

 参院選に東京選挙区から無所属で立候補し、4位当選を果たした山本太郎氏(38)の選挙を取り仕切っていた人物が、市民の党の斎藤まさし(本名・酒井剛)代表だったことがわかった。

 斎藤氏は「市民派選挙の神様」とも呼ばれる選挙プロ。斎藤氏は菅直人元首相と以前から親交があり、1980年の衆院選では菅氏を斎藤氏が応援している。この時、菅氏は4度目の国政挑戦で初当選を果たした。

 斎藤氏が代表を務める市民の党は、よど号ハイジャック犯の息子と関係が深く、その派生団体は2年前に菅元首相の資金管理団体から2009年までの3年間で合計6250万円の献金を受け取っていたことが、国会で問題となったことがある。

 今回の参院選では、斎藤氏は山本陣営のボランティアを統括し、裏選対の最高責任者として選挙を取り仕切ったという。

 山本陣営の関係者によれば、都内に1万4000カ所以上ある掲示板に選挙ポスターを貼る作業を斎藤代表が指揮。公示の日に朝から1000人以上のボランティアをバスやレンタカーに分乗させて他のどの陣営よりも早く山本氏のポスターを貼り終えた。

 斎藤氏は「菅さんとは消費税の増税をめぐって喧嘩別れして以来、口もきいていませんから、僕が菅さんの意を汲んで動くことはあり得ない」としている。

文「週刊文春」編集部

http://shukan.bunshun.jp/articles/-/2948

<引用終り>

こんな記事につられて(笑)、週刊文春を買ってきました。

しかし山本太郎、アホな奴だとは思っていましたが酷い!!

コイツが山本太郎

しかも上掲の記事にはなぜか書いてないが山本陣営には新左翼「中核派」が深く食い込んでいる。

その新左翼とは中核派の事

コイツが中核派

左が織田陽介、右が山本太郎。良く似てますね。

週刊文春記事の全文を書き写す時間は無いが、概略をまとめてくれた方がいるのでそれを引用します。

これが週刊文春の記事

見出しは

選挙カーに中核派幹部 反原発議員 山本太郎を操る“極左グループ”

以下は冒頭部

 「当初はとても当選圏内に入っていませんでした。ところが、選挙戦が進むにつれて尻上がりに勢いが伸び、街頭演説に集まる人の数も増えていきました」(政治部記者)。東京選挙区から無所属で立候補し、六十万票を超える得票で四位当選を飾った山本太郎氏(38)。ただ、素人とも思えぬ見事な選挙を演出した“支援者”を懸念する声が…。以上、冒頭より/週刊文春 平成25年8月1日付記事より

<以下は博士の独り言Uより引用、記事要約です>

山本太郎氏の選挙戦を支えた中核派、市民の党

 無所属の素人候補であったはずの山本太郎氏(東京選挙区で当選)の選挙戦は、見事なまでの「プロ仕様」であった。何故か。その背景を観れば、「中核派の機関紙『前進』が毎号のように山本氏への支持を訴えている」と。「投票日直近の七月十五日発行の号では、「全国の力で山本太郎さんを国会へ」と大見出しを掲げ、「火を噴くような山本さんの演説は、(中略)人びとの階級的怒りが凝縮されている」と独自の仰々しい様子で山本氏への投票を呼び掛ける」と。

 さらに、「山本陣営の関係者によると」として、「中核派系の全学連の前委員長や現書記長といった幹部たちが運動員として選挙カーやウグイス嬢、街頭演説でのビラ配りとフル回転していたのだという」と。続けて、中核派以上に山本陣営で大きな影響力を持つのが、市民の党の斉藤まさし(本名・酒井剛)代表だ」と。

 その市民の党については、読者の多くがすでにご存知のことかと思うが、誌面は、「よど号ハイジャック犯の息子と関係が深く、その派生団体は二年前に菅直人元首相の資金管理団体から二〇〇九年までの三年間で合計六千二百五十万円の献金を受けていたことで国会で問題となったことがある」と紹介している。

 事実とすれば、なるほど、それで菅直人元首相は山本氏の応援に熱心だった事由も判る。それにしても、よくぞそれだけの面々が集まったものだ。

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市民の党の斉藤代表

 その市民の党の代表について、誌面は「斉藤氏は「市民派選挙の神様」と呼ばれる名うての選挙プロ」と。「かつてカンボジアで住民の大虐殺を行ったポルポト派を支持し、雑誌の対談記事では「革命のために選挙をやっている」と発言していたこともある」と。「今回の参院選挙では、山本陣営の裏選対の最高責任者として選挙を取り仕切ったという」と紹介している。事実とすれば、それで無所属の素人候補とは思えない選挙が演出できた事由が判る。

 言い換えれば、「革命のための選挙」の、つまりは彼らが表に顔を出さない、その表「人形」として山本氏が祭り上げられていた。それも選挙戦に限らず、それ以前からの「脱被曝」活動を操縦していた疑いも浮上しよう。こすい集団の常套の一つに、人受けの良さそうな莫迦を表(人形)に立てて“革命を遂行する”との手法が有るが、山本氏の選挙戦はまさにその典型とも謂えよう。それに騙されて山本氏を支持した有権者は、中核派や北朝鮮関連団体に一票を投じたに等しい。

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公職選挙法違反の疑いも

 山本氏の選挙戦では、「受信相手の意志を確認せずに山本氏への支持を訴える内容のメールを送信するという初歩的なミスを犯してしまった」(誌面)としているが、その数は尋常ではなかったとの指摘の声も手元に届いている。華々しい選挙運動での子細を調査してみれば、まだ何かがゾロゾロと出て来るのではないか。動向に注目したい。

 そうでなくても、山本太郎氏の詐欺まがいの出鱈目な言動が良識によって砕破される日は遠くない。

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http://torakagenotes.blog91.fc2.com/blog-entry-2060.html

<引用終り>

此処で名前の出てきた斎藤まさし、こんな奴だ。

空き缶がいやに若いので相当前の写真らしい、ご了承を。

そしてこの斎藤まさし、この名前には憶えがある。北朝鮮とつながり、カンボジアのポルポト派ともつながっていた奴だ。

そして今回の選挙でも活躍した市民の党を仕切っているのがこの斎藤まさし。

ポルポトなど遠い国の遠い過去の話・・・・・

いや違う、現在私たちの目の前にいる奴がその流れを受け継いでいる奴なのだ。


この件は以下のエントリー参照ください。

http://tansoku159.iza.ne.jp/blog/entry/3025119/

http://tansoku159.iza.ne.jp/blog/entry/2948320/

そういえば山本太郎は当選したときこんな事を言ったらしい。

今まで支援してくれた人の期待に沿えなかったら殺される、それが怖い。

北朝鮮やポルポトをおもえばもっともな話である。
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-743.html?sp
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/559.html#c35

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
190. 中川隆[-8763] koaQ7Jey 2019年8月19日 19:37:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3979]

2019年08月19日
世界景気後退が来た 日米欧に中国、新興国も成長率低下


リーマンショックから12年が経ち、そろそろ次の危機が来てもおかしくない


画像引用:第2章 第1節 世界経済の動向 : 世界経済の潮流 2018年 I - 内閣府https://www5.cao.go.jp/j-j/sekai_chouryuu/sh18-01/s1_18_2_1.html


欧州各国はマイナス成長へ

2019年後半に入って世界各国の経済指標が目に見えて低下し、世界同時景気後退の様相を示している。

最も代表的な四半期(4月から6月)GDPでは、10年間無敗を誇ってきたドイツが0.1%減に沈んだ。

マイナス幅はわずかだったが、今まで欧州のけん引役だったドイツが逆に「お荷物」になった。




ドイツは欧州で突出して輸出依存度が高く、特にEU内と中国との貿易が多かった。

同じEU圏(から離脱するが)イギリスは0.2%減で、8年ぶりのマイナスになった。

EU離脱国民投票でもマイナスにならなかったので、離脱とは関係なく世界景気後退の影響を受けた。


イギリス政界はEU離脱をめぐって混乱していて、有効な経済対策を打ち出せない可能性が高い。

フランスはプラス0.2%を確保したが2008年以来の低成長で、失業率は5%以上とかなり高い。

ユーロ圏全体の4月から6月GDPは0.2%で、1月から3月と比べて半減し、経済の落ち込みが表れている。


このように欧州全体で落ち込みが目立っているが、世界の他の地域でも良くない。

まず日本と経済戦争中の韓国だが、2019年第一四半期は0.4%減、第二四半期は政府の経済対策で1.1%増に回復した。

これは7月に日本政府が3品目輸出厳格化やホワイト国除外を発表する前なので、19年後半はかなり厳しくなるでしょう。

中国とインドも成長鈍化

中国は前年比6.2%増つまり四半期では1.6%増だが、前年の6.6%増より低下している。

中国の成長率は公共投資や公共事業、つまり鉄道や道路や都市建設などインフラ事業によるものなので、成長率の5倍ペースで公的債務を増やしている。

GDP比率で年間30%か低く見ても20%以上債務を増やしていて、各国もようやく中国の債務依存経済が持続不可能なのを指摘し始めた。


GDPそのものの算出根拠も不透明なので、相変わらずGDP水増し疑惑が絶えない。

中国に変わって大国になると予想されていたインドだが、最近躓いて経済が減速している。

19年7月のインド自動車販売は、なんとマイナス30%減で、中国のマイナス10%も超える下落でした。


主な原因は排ガス規制や燃費規制、新規増税などの政策失敗だが、インドの将来性にも懸念が生じた。

インドの成長率は年6%から7%だが、実際は成長率4%台だったのを水増ししていたと告発されている。

これが事実ならインドの実際のGDPは発表より3割程度低い事になり、中国もそうなのかも知れません。

日米にも景気後退の波が来ている

次にアメリカだが4月から6月のGDPは年率2.1%、四半期では0.4%成長と先進国ではもっとも高い成長率を記録した。

だがこれは比較の問題であり、米国内ではリセッション(景気後退)寸前の状態と受け止められている。

数か月前まで中央銀行FRBは株価の加熱やインフレを警戒して利上げしていたが、現在は利下げを検討している。


2019年7月にFRBは2.5%から2.25%に利下げしたが、今年もう2回利下げすると考えられている。

アメリカが利下げするとドル安になるので、各国は競って利下げして通貨を安くし、輸出競争力を維持しようとします。

だが日本は既にゼロ金利なので利下げできず、一方的な円高に進む可能性があります。


19年4月から6月の日本のGDPは前期比0.4%増、年率1.8%増と良かったが、1ドル100円を割ると輸出企業に悪影響がでる。

今までの円高ではまず輸出企業が打撃を受け、ついで株価全体が下落して内需企業も打撃を受けていました。

以前より日本の輸出依存度は低下しているが、1ドル80円台になればある程度の打撃は避けられないでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/80723091.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c190

[リバイバル3] 中川隆 _ 皇室関係投稿リンク 中川隆
40. 2019年8月19日 20:07:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3980]

日本を二等国にした反日売国奴の平成天皇
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/580.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/458.html#c40
[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
20. 中川隆[-8762] koaQ7Jey 2019年8月19日 20:52:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3981]

2019年08月19日
中国が発展するほど農民が貧しくなるシステム


効率化すると労働力が不要になり、彼らは村を追われるでしょう

引用:http://japanese.agri.gov.cn/xw/201504/W020150421481525577828.jpg

農民という身分

中国農村部の平均年収は過去10年で2倍になり、目覚ましい成長をとげている。

といっても10年前に年収10万円だったのが現在は20万円程度で、中国都市部の年収の4分の1に過ぎない。

その10年前つまり2000年頃の農村年収は5万円以下だったのだが、現在の中国でも年収3万円以下の人が多く存在している。


これは単に格差や発展の遅れや貧困問題ではなく、身分制度が関係しているので永遠に解消しない。

共産国家は階級社会であり都市戸籍を持つ上級国民と、農村戸籍の下級国民に分かれている。

都市戸籍は約4億人、農民戸籍で都市に住む農民工が約3億人、農村に住む農民戸籍が約6億人となっています。


これが江戸時代の士農工商のように代々世襲され、親が農村戸籍だったら末代までずっと農村戸籍です。

農村戸籍で生まれると都市に移住しても違法な労働者にしかなれず、企業の正社員には絶対になれない。

仕事は清掃業者や建築現場、低賃金の超ブラック労働しかないが、それでも農村農民の2倍ほどの収入になる。


平たく言えば都市戸籍80万円、農民工40万円、農村20万円、極貧農村10万円未満となっています。

さらに上には上海や北京の一流企業サラリーマンは100万円から200万円、中には500万円や1000万円を得ているIT技術者などが居ます。

北京や上海の公務員は給料が高い上に賄賂の実入りが多く、保険や年金が農村の何倍も優遇されています。


下の方もキリがなく、チベットやウイグルの反乱分子と目される地域では、一切の就労や移住が禁止され、やせた土地で自給自足を強いられます。

豊かになると反乱を起こすので、意図的な貧困状態に置かれていて、彼らの年収はゼロから3万円未満です。

これが中国農民が置かれている現状で、日本のテレビ局が取材する「成功した農民」は農民の頂点の成功者に過ぎません。

効率化すると農民はさらに貧しくなる

このような中国農民ですが、中国でも効率化や機械化、省力化などによって農業の効率を上げる試みがされている。

その手本がなぜか日本なのだが、日本の農業は戦後衰退し続けて今や総人口の3%程度しか農業従事者がいません。

工業化が進んだと言えば聞こえが良いですが、要は日本では農業をやっても食えなくなったので、やむを得ず村を捨てたのです。


日本では効率化や機械化によって同じ労働量でも収穫高が何倍にも増えて、大成功したかに見えました。

だが農業は工業とは違い「効率化するほど貧しくなる」のを日本の政治家や官僚は知りませんでした。

今まで100人でやっていた仕事を10人で済むようになったら、90人が失業して農村は貧しくなります。


日本で地方の過疎化が進んでいるのはまさにこれが原因で、2050年にはほとんどの農村が消滅するという予測もあります。

同じ収穫高を得るのに機械化で10分の1の人数で済むようになり、さらに農業自由化で安い外国産にシェアを奪われてしまいました。

もう農業では生活できなくなったので、日本では専業農家はほとんど居なくなり、サラリーマンの兼業農家が増えました。


中国が今進めている効率化や機械化は、農民を豊かにするどころか一層貧しくしてしまうでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/80717396.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c20

[近代史3] 東海アマ 名古屋の記憶 中川隆
9. 中川隆[-8761] koaQ7Jey 2019年8月19日 21:16:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3982]

 50年前 2019年08月19日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-843.html

 藤圭子が2013年、新宿のマンションから飛び降り自殺したのは衝撃だった。
 彼女が「新宿の女」でデビューしたのは1969年、ちょうど今から50年前だ。
 私は、毎日のように都心でのデモに参加して催涙弾に逃げ惑い、小便横町でホッピーに泥酔しながら聞いた藤圭子の歌が岡林信康と同じくらい好きだった。

 西口公園のベンチの上で一晩を過ごしていると、どこからともなく、すばらしく上手な藤圭子の歌が聞こえてくる。
 歌のうまさ、情緒的に聞かせる迫力ときたら、当時の歌謡御三家、美空ひばり、島倉千代子、都はるみよりも上を行くのではと思ったほどだ。
 確か、私より、二つほど年上なのだが、ほぼ同世代なので、こんな凄い子が突然、芸能界に旋風を巻き起こしている姿に拍手喝采だった。

 藤圭子には学歴もなく、親子で日暮里のトンネル通路に野宿していたこともあると聞き、その極貧の環境から這い上がって、圧倒的な実力で一世を風靡する姿は感動的だった。
 https://www.youtube.com/watch?v=MoVKTIO5S64&t=4777s

 地下トンネルといえば、「火垂るの墓」の冒頭に、清太が三宮駅の構内で餓死した姿が目に浮かぶ。同じ頃、敗戦直後だが、上野駅の地下歩道に暮らす数百名の戦災孤児たちが、毎日のように餓死していったことが知られる。
 日本が戦争に負けて、戦火から解放されたのは、1945年だが、それから20年以上経た、1960年代末でも、まだ「戦後」から抜け出せていなかった。

 権力側としては、1964年の東京オリンピックを戦後の終わりとしたかったようで、戦争のさまざまな残渣を、東京に来る観光客の目から逸らすための工作を行って、上野地下道からも野宿者を追放していたが、藤圭子一家は、まだトンネルのなかにいた。
 上のドギュメンタリーにも描かれているが、戦争中と同じように、圭子は食うや食わずで、太れない体質になり、その衣装は小さすぎて誰も着ることができなかったという。
 オードリーヘップバーンも、戦火のなかで、同じように食べ物がなくて太れない体になったと言っている。

 何度か書いたが、名古屋市の赤線大門から栄に至る広小路通りに、夕方になるとカーバイドの屋台が延々と並んで、ドテと酒を売ったのだが、本当は、これは戦争未亡人たちが、体を売って生活費を稼ぐための舞台だった。
 これが、東京オリンピックの前に、一斉に摘発されて姿を消した。ちょうど、この頃から、政府とメディアは、「敗戦」を「終戦」と言い換えるようになった。
 政府は、戦争未亡人たちの生活を、ろくに支援しようとしなかった。彼女らは、助け合って、赤提灯の小さな飲み屋を開業し、現在の居酒屋文化につながっている。

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-5.html

 いわゆる「妾」という一夫多妻制度も、戦争未亡人たちを救うためのものでもあった。
 https://higonosuke.hatenablog.com/entry/20070119

 イスラム文化における多妻制も、同じ意味を持っていたのだ。

 だが、どんなに政府が、「戦後」を見せかけだけで消そうとしても、それは、決して終わっていなかった。
 東京では戦後が消えても、地方にはしっかりと残っていて、そんな地方から藤圭子一家は上京してきたのだ。
 私には、藤圭子という存在が、「戦後」の民衆の苦難を背負って登場した菩薩のように見えた。
 バブル時代に突入してゆくなかで、ウソではない、世間から遠く隠された真実の日本を、歌の中で垣間見せてくれた。

 藤圭子が日暮里のトンネルに野宿していたころ、私は早朝5時に、高田馬場駅前で日雇いの仕事を探した。
 オリンピックの景気高揚を引き継いだ70年代初めの好況時に、高田の馬場で、建築現場の仕事をすると、5000円くらいもらえて、それだけあれば、当時は三日くらい楽に過ごすことができた。

 当時は、年金をかけられるような、ゆとりのある給与をもらっている人も少なく、社会保証制度そのものも未熟な時代だったから、こうした「たちんぼ」と呼ばれる人足寄場の存在は、何の保証もない底辺の生活者にとって最後の命綱であり、救いだった。

 当時、立川に住んでいたのだが、新宿から立川に向かって、よく歩いたものだ。金がなかったわけではない。ただ、歩きに歩いて、東京の雰囲気を肌で感じたかったのだ。 仕事のないときは、奥多摩に向かった。当時は、まだ山渓地図もなくて、地理院の五万図が頼りだった。自分の歩いたルートに赤線を書き込んでゆき、地図が真っ赤になってゆくのが嬉しくてたまらなかった。

 歩くというのは、私にとって青春と同義語だった。
 同時に、藤圭子や岡林信康の歌も青春だった。なんで、藤圭子に惹かれたかといえば、当時、バブルに向かう資本主義社会の最盛期で、社会全体に金儲けを目的にしたウソが満ちていて、無垢のお嬢様や、セレブ、上流階級への憧れという価値観がテレビでもてはやされていた時代のなかで、彼女の持つ虚飾のなさ、恵まれない、社会から排除される立場の、マイナーな価値観に引き寄せられたのだ。

 時代は、本当に「戦後」を粉砕する破壊力に満ちたバブル時代に突入していった。
 原動力になったのは、たぶん田中角栄だろう。
 角栄が登場したのは1972年であり、日本を本当にアメリカから独立させようとしたことが原因で、CIAによってロッキード事件に嵌められて追放されたのが1974年であった。
 その間に「日本列島改造論」を打ち上げ、赤字国債を発行して大規模な景気浮揚を行ったことで、バブル時代が始まったのだ。

 我々、反原発派にとって角栄は、日本に原発を導入した正力松太郎、原発利権をゼネコンに癒着させた中曽根康弘とならんで、原発利権三羽ガラスであり、いってみれば福島第一原発事故の遠因であり、これから日本民族を滅ぼすことになる放射能汚染=悪魔の元凶であるともいえる。
 しかし、紛れもなく、戦後を本当に終わらせた張本人であった。

 50年前、1969年、「巨人・大鵬・卵焼き」の時代。
ニクソンが第37代アメリカ合衆国大統領に就任し、ラオスやカンボジア、そして北ベトナムに大規模な爆撃を始めたことで、ベトナム戦争の泥沼が劇的に拡大した。
 当時、本多勝一の現地報告にも触発されて、私は勉強や学歴どころではなくなった。結構な進学校にいたのだが、右翼的な教師と衝突して、嫌気がさし東京に出奔した。
 そして、毎日のように催涙ガスの漂う都心のデモに参加していた。

 美濃部亮吉東京都知事が、東京都主催の公営ギャンブルを廃止した。博打は人を幸福にするものではないと美濃部は初めて公的立場で叫んだ。
 今の、安倍晋三や麻生太郎ら、公営博打推進者たちに、耳元で音量を千倍にして聞かせてやりたい。

 7月20日 - アポロ11号が人類初の月面有人着陸を果たす。
 これは、当初から、「映像がインチキだ、まるで月面に空気があるような物理法則に反した映像は、地上で撮影されたものだ」という批判が巻き起こっていた。
 真空下では、月面走行車が巻き上げた砂塵が、必ず放物線を描いて地面に落下するが、公表された映像は、おかしなものばかりだった。
 真空下における着陸船の噴射制御は、今でも超高度な難易度があり、当時の技術では不可能。
 https://www.voynich.com/moon/index.html

https://www.youtube.com/watch?v=2WIs_PwSqCA

 時代は、まだウソに満ちていた。
 CIAは、戦後日本に最大級の警戒心を持ち、米国の意向から外れる政権を絶対に許さなかった。角栄が追放されたのも、そうだし、橋本龍太郎が殺されたのも、CIAによる自民党政治家への警告だった。
 https://ameblo.jp/ghostripon/entry-12237022306.html

 50年を経た、現代に至って、政治のウソは力を失うどころか、ますますウソの上にウソが建設されるような、巨大な虚構となった。
 私は美濃部亮吉が、「博打は人々を不幸にする汚い仕組み」と言えた半世紀前にこそ、今よりも大きな知性と真実が存在したと思う。

 トランプが登場し、知性というものが、この世のどこかに消えてしまったかのようだ。
 中国やブラジルの独裁政権によって、ロシアのタイガや、アマゾン、カリマンタンなどの巨大森林地帯が、商業目的で無残な皆伐を受け続けている結果、地球上は、一目散に滅亡に向かって駆け出しているようにさえ思える。

 毎年のように凄まじい酷暑がやってくる。
 これは、森林伐採の直接の影響である。巨大森林は地球気象の緩衝としての役割を果たしてきたのだから。
 地球気象はクッションを失って、極端から極端に変化するようになった。シリコンバレーでは60度という気温まで観測され、そして、今度は春秋を失って、いきなり厳冬がやってくる。
 決して「地球温暖化」ではない。むしろ、地球は小氷期に確実に向かっている。酷暑は、森林という緩衝材を失ったせいなのだ。
 我々は、これから、秋のない厳冬を経験させられるだろう。それも、経験したことのないような極低温で、水道管も上水道システムも、一度で壊れてしまうような代物だ。

 50年前には、世界に知性があった。当時の指導者なら、地球環境を激変させる、こうした愚かな産業優先主義に歯止めを打ち込んだことだろうが、今は違う。

 トランプもプーチンも、習も文も、安倍も、もちろんブラジルのボルソナールも、自分の利権以外に何一つ興味のないクズばかりだ。

見る間に地球が壊れてゆく。安倍晋三が登場して、見る間に日本政府が壊れていったのと同じだ。人間も壊れてゆく。

 東京電力が放出した放射能により、子供たちの知性が失われてゆく。大人たちは認知症になってゆく。何もかも壊れてゆく。

 50年前に、誰が、こんな現実を予想しただろう?
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-843.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/484.html#c9

[政治・選挙・NHK264] 昭和天皇、戦争への「反省」表明望む 初代宮内庁長官「拝謁記」/毎日新聞・msnニュース 仁王像
1. 中川隆[-8760] koaQ7Jey 2019年8月19日 21:39:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3983]
昭和天皇と吉田茂はアメリカのスパイだった


日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。


アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。
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ゴマすり東条さんは毎日三回は 昭和天皇の所へ顔を出して、御用聞きしてたんだ
それである日、昭和天皇が真珠湾を攻撃しろと言ったんで、へいへいとその通りにしたというのが真実


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御文庫といって天皇の宮殿の地下深くに御文庫を作り

そこに大本営を置いて天皇が参謀たちを集め図面を置いて

毎日毎日、今度はここ行けここ行けと指図をするわけ

それを指図ができると東条英機が受けてですねやるわけです

だから参謀たちが天皇を大参謀に、参謀たちが戦争計画を作り、それを東条に渡すわけです

東条英機は大文庫に、御文庫の中には入れないわけです

他の連中も

そういうシステムで戦争が進んでいく訳です


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日本人はみんな,天皇家は精神薄弱の家系で昭和天皇も自分では何一つ決められない意志薄弱の知恵遅れだと思い込まされてきた.

しかし,それは世を欺く仮の姿だったのだ:


ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。

「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。

私は裕仁を子供の頃から存じている。

彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。

しかし、もう数十年もご無沙汰している。私は、自分の古い時代に乱されたくはない。もし、貴君が私の名前をあげるなら、私が貴君には会ったこともないことにする。」


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昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。

「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。

ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。

ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」

「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。

 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。

終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。

 この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。

戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。

 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。

大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。

ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。

だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。

海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。

佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。

東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。

これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。

それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。

キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。


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昭和天皇の身代わりになって処刑された東条英機

1947年の12月、戦時中の首相、東条は自らを弁護して証言台に立った。
彼は生贄の羊となることを望んではいたものの、降伏以降、彼への雑言悪態は
限度を越えていた。

中には、天皇自身が、東条の命令不服従の不実を非難しているとさえ報じられていた。あるいは、日本の新聞は、東条が自決しようとして、刀ではなく拳銃を使ったことを、臆病者と呼んでいた。東条の家族は、近所からライ病患者のごとく扱われ、お金にも不自由した。彼の弟は、二ヶ月前、列車中で一袋の米を盗んだとして逮捕されていた

1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、〔木戸の〕弁護人
ログマンはこう質問した。

「天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、
あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか?」

 東条 そういう事例はもちろんありません。私が知る限りにおいてはありません。
のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反して、かれこれすることはあり得ぬことであります。 いわんや、日本の高官においておや。


ログマン 以上をもって、木戸卿に代わる私の尋問を終わります。

裁判長(ウェッブ) 今の質問がどのようなことを示唆しているかは、
よく理解できるはずである。

 まさしく、それは誰もが知っていたことだった。

そこでキーナンは、彼の証人の切り札たる田中隆吉を、富士山麓の山中湖畔の自宅で休暇中のところより呼び戻し、ただちに巣鴨刑務所の東条に会いに行かせた。

だが東条はそれに応じようとはしなかったので、田中は皇居に行き、木戸の前秘書で
天皇の顧問の後継者、松平康昌に情況を説明した。次いで松平は、同僚の
側近たちと相談し、収監中の元内大臣木戸に手紙を送る許可を裕仁よりえた。

東条とは隣同士の房にいる木戸は、さっそく東条との話し合いに入った。
彼は東条と護衛の監視下で仕切り越しに長々と話をした。

木戸はまた、
刑務所中庭で運動の際、直接に東条に話しかけ、東条の家族の状況を改善させることを約束した。 小男で近眼の木戸ながら、彼は刑務所の雑務中でも裕仁の代理人であったため、東条は彼の話を無視することはできなかった。

二日にわたって話が交わされた後、ついに東条は折れた。

彼は法廷にもどると、キーナンによる反対尋問の中で、

自分が天皇を戦争を始めるよう説得し、それによって、裕仁を自身の気持ちに反して動くように強いさせたかも知れないことを認めるに至った。


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内閣特別顧問の石原莞爾――退役した満州戦略家――は、敗戦の説明をおこなうため、全国の津々浦々を行脚した。

彼の話す内容は、戦争を始めたのは元首相東条であり、彼以外に責任はない、という単純なものであった。

1930年代初め、石原と東条は、天皇の支持を取り付けるため互いに争っていた。だが東条が勝利していた。今、東条を犠牲者に祭り上げるにあたり、石原ほど詳細を知るものはいなかった。

出身地東京で一年以上の退役生活を送っていた東条は、その中傷を冷徹に受け入れ、戦争の責任を全面的に負うのが自分の意思であると、友人たちには内々に語っていた。

友人たちは彼の意思を尊重したが、以前の部下や下僕たちはそれに反発した。たとえば、官邸に20年間使えてきた給仕は、東条を、もっとも人間的で思慮深い人物であると述べていることが幾度も取り上げられていた。

マスコミ報道等では、第二次世界大戦は日本の軍部が独走し、
天皇は仕方なくそれに引きづられた・・という事になっている。

そのため戦争中首相であった東条英機は戦争犯罪者として処刑され、
天皇は「罪を問われなかった」という事に「なっている」。


1944年7月20日、天皇の東条英機あての勅語。

「あなたは(東条は)、朕(天皇)の行う戦争において、朕の指導の下に
十分職務を果たした。」・・()内部、筆者の注。

ここで天皇自身「が」主体となって戦争を行っている事、つまり軍部に引きづられて
戦争が行われているのでは無い事、

東条が「天皇の指導の下」にその命令通りに戦争を行って来た事を、天皇自身が証言している。

天皇は、自分の行った戦争の責任を全て東条に押し付け、東条を処刑させ、
自分だけ生き延びたのである。

戦争中、東条は1日に3回天皇を「御機嫌うかがい」のため訪問し、
政界では「ゴマすり東条」と批判されていた。

東条を始めとした政界軍部が「強引に戦争を行い」、天皇がそれに引きづられる等という事は、
この東条と天皇の「力関係」から見て有り得ない。

天皇は東条に全責任を押し付け、自分だけ生き延びたのである。

私が会った皇室家族の二人は、私との会話に、1926年からの日本の支配者、裕仁天皇についての、いくつもの物語を滑り込ませていた。こうした物語は、印刷物として報じられたことはなく、私は最初、皇室内のゴシップとして聞き流した。
しかし、後にその全体の文脈で見ると、そこには取り上げるべき重要さが潜んでいた。

たとえば、真珠湾攻撃の夜、裕仁がマラヤからの短波放送を聞いていたとか、
彼はかって、息子をもつため、人工授精による出産をおこなっていたとか、
彼の誕生は、一般に言われているより一年早かったとのうわさがある、などなどである。


 こうした話から私が確信することは、裕仁が、少なくとも、そのように見せようとしているような、素直な歴史の被造物なぞでは決してないということである。

彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。

彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。

1945年までは、彼は、政府のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢についての全体的視野を保持していたという。

彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的なものと受け止められておりながら、
彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を追認するのみで執行していたとも言われている。

また、どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、
そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。

また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、
ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。

裕仁天皇は、米国との戦争の布告に署名をしていた。それは、彼の意思にはそわずにされたものと言われていたが、戦争開始数ヶ月後の、近衛首相の退陣までに作成された記録には、そうした記述は残されていない。また、もし彼が戦争を差し止めようとしたならば、暗殺されたかもしれないとも言われている。しかし、こうした主張は、こじつけのようである。というのは、兵士も将校もすべて、天皇のために死ぬ備えをしており、彼を暗殺するほどにかけ離れた日本人は、戦争に反対の西洋化した銀行家や外交官だけであったからである。

 裕仁天皇は、1937年、軍隊を華北へ送る命令に判を押した。これも後に、意思にそわずに行われたものと言われ、また、その二ヵ月後には、華中、華南へ出兵する命令にも判を押した。

彼は参謀本部の躊躇した「軍国主義者」の忠告に従い、華南の命令の執行を不本意に延期した。彼は、戦局を自ら掌握できるよう、皇居のなかに、大本営を設置した。

当時の首相が天皇のあまりな傾倒に苦言を呈しているように、彼は戦争計画に没頭するようになった。

そして遂に、彼の伯父は、中国の首都、南京攻撃の命令を引き受け、南京のあるホテルに居を移し、彼の軍隊が、10万人を超える無防備の軍民双方の捕虜を殺しているのを傍観していた。それは、第二次大戦でおこなわれた最初の集団虐殺で、この伯父が東京に戻った時、裕仁は、自らでかけて、伯父への名誉の勲章を与えた。

 それをさかのぼる1931年から32年、裕仁は、満州領有に許可を与えた。これも後になって、不承々々のものとされたが、彼は、自らが代表する天皇の統帥機関により生じた企ての全的責任を負うことに躊躇していた、と当時の記録は明確に記録している。そしてふたたび、この領有が完了した時、彼はその実行者たちに勲章をあたえ、その大将を自分の侍従武官兼軍事輔弼〔ほひつ:天皇への助言者〕の主席にさせている。

 こうした明白な諸事実より、天皇裕仁の行為と、後年、彼について語られた言葉との間には、大きな食い違いがあると結論付けうる。

私は、資料文献を読みながら書き留めたノートのすべてを見直しかつ再考察し、日本の近世の歴史は、第二次大戦以来提起されているように、一部、参謀本部の逆諜報専門家や、一部、皇室取巻きの上層部によって、戦争末期に捏造された幻想に巧に由来している、と確信するようになった。

 こうした日本の表向きの物語は、何度も、すでに生じていたことがその結果にように引き合いに出され、論理的に逆転している。偶然な出来事や自然発生した大衆行動が、高官レベルで、それに先立つ数ヶ月あるいは数年前に、実際に議論されていたことを、その時々の資料は、一度となく示している。天皇の主席政治輔弼、内大臣(訳注)は、慣例のように次期首相を任命し、現職首相の職が危ういような政府の危機の際には、それに先立つ数週間ないし数ヶ月間は、「彼の特務期間」と呼ばれた。そのやり取りは記録として残されてもおり、その中で内大臣は、続く二代の政府の組閣構成やその成果を、正確に見通している。

終戦時、オーストラリア、ニュージーランドそして中国の高官はすべて、裕仁天皇は日本の君主であり、日本の戦争責任者のリストの先頭におかれるべきであることに同意していたことを、キャンベラの書庫で発見して、私には心をやわらげられるものがあった。彼らは、その後、マッカーサー将軍の決定――天皇を国際法の下の戦争犯罪人とするより日本の復興のために用いる――(私自身、これは賢明な決定と思う)に従った。

私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。

私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。

彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。

公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。

その年の一月、私の調査が終わろうとしていた時、原書房という東京の小さな出版社が、戦時中の陸軍参謀総長、杉山元〔はじめ〕大将が1940年から44年に書きとめた備忘録〔『杉山メモ』〕を出版した。これは、日本国家の最高位の軍事将校による歴然たる手書き資料である。杉山は日本が降伏した1945年に自殺しており、彼の記録を装飾する機会はなかった。記録のほとんどは、無味乾燥な軍事的詳細か、さらに単調な軍事用語で満たされていた。しかし、そのうちのいくつかは、裕仁との会話の言葉どおりの記述である。

それらは、裕仁が、真珠湾攻撃の数ヶ月前、軍事的、経済的計画について、詳細な質問をしていることを記していた。

それは、マッカーサー将軍が語ったという、裕仁が戦後将軍に告白した――1941年にはすべての軍事的、経済的事柄については無知であった――という発言と真っ向から食い違っていた。

 最も驚くべきことは、1941年1月、対米戦勃発の11ヶ月前、裕仁が独自に、真珠湾への奇襲攻撃のフィジビリティー調査を命じていることを、『杉山メモ』が記録していることである。

それ以前では、欧米の歴史家は、少なくとも1941年11月までは、裕仁は真珠湾奇襲攻撃計画については何も知らなかった、と信じていた。1941年当時の侍従長、鈴木貫太郎は、戦後、裕仁は真珠湾攻撃計画については、それが実行されるまでは知らなかった、とはばかることすらなく記している。

 『杉山メモ』はまた、裕仁は、真珠湾計画に、彼の公式軍事輔弼がそれを告知される丸六ヶ月前の段階で、参加していたことを明らかにしている。極東国際軍事法廷の連合軍判事たちに提示され、また、宣誓のもとでの目撃証言や緻密な調査によって検証された証拠は、裕仁を戦争にまで引きずり込んだとされる「軍国主義者」の誰もが、1941年8月まで、真珠湾計画を知らなかったと結論ずけている。


国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年から1936年の間の日本を運命付けた少なくとも八件の主要陰謀を明白とさせた。また、陰謀は、日本文化においては、古くから、由緒ある地位に置かれてきた。戦前の日本の領土軍〔植民地配属軍のことか〕は、公式に「謀略部」と称する参謀チームを設けていた。

私は、その連合国判事が判明させたリストに、さらに六件の陰謀を加え、それらのすべてを、裕仁を中心とする皇室がからむ陰謀とした。裕仁は、秘密裏に少数派に働きかけ、最初は日本を欧米との戦争に導き、そしてそれに敗北すると、その記録を隠蔽した。

欧米の歴史家は、日本人をえがくにあたって、集団ヒステリーの産物という考えでもってあまりに懲り固まっているようだった。

日本経済の記録は、そうした思い込みが誤りであることを示している。わずか一世紀昔の1868年、日本の経済発展は、1485年にヘンリー七世が王座にあった英国に相当すると見られていた。

過去一世紀の変貌は、常軌を逸した不可解な人々によって成し遂げられたのではなく、もっとも勤勉で知的な人々によってなされたのである。

私は、これまでの生涯、日本人に畏敬とそれを知ることの喜びを感じてきた。日本の指導者たちが、欧米の指導者たちと同様に、極めて賢い人たちであるということは、この著作の基本的前提である。

1945年、連合軍がドイツを制圧した際、何百万ページもの国家文書が発見された。これに対し、連合軍が取り決められた日本の占領を始めた時、戦争終結からまだ2週間しかたっていないにもかかわらず、アメリカ人の手に入ったもので、何らかの重要性をもつ文書は、日本人によって自発的に提供されたものであった。

1937年より1945年まで皇居において天皇が議長を勤めて行なわれた天皇本部の会議議事録は、すべて焼却されたと言われている。陸軍参謀本部、海軍参謀本部、特高警察のファイル類の大半も、同様であった。

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東京から80キロメートルほど海岸線沿いに下った山間に、節くれだった松林に囲まれ、等身大以上の観音像――慈悲の仏教の女神――が立っている。 観音の衣の背後の草むらの中に、1.2メートルほどの空地を見つけることができる。下部の通路からは見えないそこに、七枚の灰色に変色した無塗装の細板が地面に突き立ててある。

それぞれには、墨で書かれた以下の名前が見られる。

東条英機、板垣征四郎、土肥原賢二、広田広毅、木村兵太郎、武藤章そして松井岩根。

彼らは、日本のヒットラー、ヒムラー、ゲーリングとして、二年間の審問の後の1948年、連合軍によって絞首刑に処せられた者らである。

その近く、数百メートル下った海を見晴らす高台に、小さな神社がある。その軒先には、色とりどりの紙で飾られたしめ縄がかけられている。その周り廊下の端に置かれた台の上に記名帳があり、そうした絞首刑にあった者の家族らが、1950年初め以来、毎月一回ないし二回、そこに記名している。

おおくの日本人にとって、彼ら七人は、そう罰した国際法廷が言う意味での有罪犯ではなかった。彼らは、日本を戦争へと導いた悪い陰謀者でも、ヒットラーやその一味のような狂った者らでもなく、むしろ、天皇への忠誠な奉仕者であり、政府の責任ある官吏であり、西洋式法廷の要求を満たすため、支配階級によって白羽の矢が立てられた象徴的身代わりであった。

 日本人のほとんど誰もが、1948年の戦争犯罪法廷での判決を非難するが、だからといって、日本人は、多数の選択として戦争を行ったとも、その兵隊たちが公式の指令なくして強姦や殺人を行ったとも思っていない。


天皇の7人の最も「忠実な下僕」が絞首刑に、18人が占領の間中の投獄、そして、天皇自身は皇位から退位もせず、「立派な自由主義的な紳士」となった。

1948年12月22日、絞首台に向かおうとする東条、松井ほか5名の男たちは、全員で天皇に「万歳」――裕仁朝廷の永世を誓う――を唱和した。

その処刑に立合う責を負った連合軍の外交代表は一列となって、死刑判決を受けた者らの冷徹なユーモアとも映る行動を、深い印象と共に目撃していた。

裕仁のみが生き長らえ、そして記憶にとどめられていた。

戦争後の四年間、彼は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。

そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、彼は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。

その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。

天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、彼の好感をさそうだろうことを予期していた。

 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。


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神風特攻は太平洋戦争が八百長だと見破られない為に昭和天皇が命令してやらせた


[2019.7.29放送]週刊クライテリオン 藤井聡のあるがままラジオ(KBS京都ラジオ) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ffcFIkJDkSg


2019/07/05 藤井聡 京都大学大学院工学部研究科教授
不条理な大和特攻という大本営決定
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/money/257604


 この週末、ある雑誌の企画で吉田満氏の「戦艦大和の最期」という文学作品についての座談会を行った。


戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫) – 1994/8/3
吉田 満 (著)

この作品は、先の大戦末期、沖縄戦に特攻出撃した戦艦大和の、出撃命令が出てから撃沈されるまでの数週間を描いた物語だ。吉田氏はこの大和の乗船員で、上官の脱出命令を受ける形で九死に一生を得て奇跡的に生き残り、無事生還した後に、たった一日でその初稿全文を書き上げたという。

 この作品には、この大和の出撃に対して「現場」が猛反発していた様子が克明に描かれている。大和には一機の戦闘機の護衛もなく、ほぼ丸裸の状態で何百何千というアメリカの雷撃機・攻撃機の猛攻を受けることが必定であり、一切何の戦果を上げること無く轟沈することは、誰の目にも明らかだったからだ。

 しかし、そんな現場の大反対を完全に無視する形で、大本営からの大和出撃令は覆らなかった。そして案の定、誰もが予期した通り大和は徳之島沖で米軍機の猛攻を受け、攻撃開始からたった数時間であえなく撃沈した。


 一気に3000人を超える特攻死をもたらした、この史上最大の「特効作戦」の全容を記した『戦艦大和の最期』からは、現場が如何に必死に闘ったかが克明に浮かび上がってくる。そしてわれわれ読者はその戦いに対して、その初稿の最後に書かれていたという『天下に恥じざる最期なり』との結語を繰り返す他にない。


 ただし、そうした現場の兵士達の勇猛果敢な戦いぶりは、その大本営の判断を正当化する論拠にはなり得ない。そもそもわれわれは、「軍事作戦の成果」の視点から現場の幹部全員が猛反対していたという事実、そして、現実は彼らが主張した通りの顛末に終わったという事実をけっして忘れてはならない。

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昭和天皇の特攻命令:戦艦大和の場合

1945年4月6日,第二艦隊司令長官・伊藤整一中将座乗の巨大戦艦「大和」は,9隻の艦艇をしたがえて徳山沖を出航,沖縄本島西部海域をめざす征途についた。連合艦隊の生き残りをあつめた最後の艦隊出撃である。作戦計画では航空機による護衛は皆無。燃料は全艦片道分しか搭載せず,生還を期さない海上特攻であった。

作戦構想の内容とは,はじめ敵迎撃機の攻撃を吸収する海上の“囮”となって特攻機の突撃を助け,次に敵上陸地点へ殴り込んで徹底的な艦砲射撃を加え,最後に銃をとって陸上戦をたたかう,というものであった。しかしこんな計画が実行できるはずはない。実際,南西海域の制空権と制海権はすでにアメリカ側に握られている。その海域を,わずか10隻の残存艦隊が航空機による護衛もなく進攻すればどうなるかは問うまでもない。出撃命令の下命以前から,伊藤・第二艦隊司令長官は断固反対との意見具申をおこなった。

伊藤中将の頑強な反対を異例の事態と認めた中央は,説得のための特使として,連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将を派遣, “説得”は成功した。しかしそれは,「一億総特攻の模範となるよう,立派に死んでもらいたい」という言葉によってであった。

本作戦発動の一週間前,及川軍令部総長が沖縄方面の戦況ついて,「航空機による特攻攻撃を激しくやります」と天皇に報告した。

すると天皇から重ねて,

「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか」

と“御下問”があった。及川総長はこれを

「水上部隊は何をしているのか」

という叱正の言葉と解した。

及川総長から連絡を受けた豊田連合艦隊司令長官は,さっそく

「畏レ多キオ言葉ヲ拝シ恐懼二堪エズ」

にはじまる緊急電を発し,あくまで作戦の完遂を期すべし,と呼びかけた。

「海上部隊はあるか?」

という疑問の言葉は

「あるなら使ってはどうか」

という間接的・暗示的命令として解されうる。

「海上部隊はないのか?」

という否定疑問文では,こうした間接的・暗示的命令性がいっそう強まるだけではなく,

「あるのになぜ使わないのか!」

という“叱正”のニュアンスまでが加わってくる。


こうして及川総長と海軍首脳部は

「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか?」

という“御下問”を深読みし,そこにまず

「あるなら使ってはどうか?」

という間接的・暗示的な命令を発見する。連日出動してゆく特攻機群にくらべて,空しく係留・温存されている海上部隊は顔向けができない。天皇に対しても,特攻機に対しても面子まるつぶれではないか。間接的・暗示的な命令は

「あるのになぜ使わないのか!」

という“叱正”と解され,“恐懼”の感情を誘発し,海上部隊活用への「焦り」を生む。

海軍上層部の空気は変化し,ついには海上特攻艦隊という構想へ到達したと推定されるのだ。それだけではない。天皇の発言を契機として生じた海軍上層部の空気のこうした変化こそが,草鹿特使の“説得”の真の内容であったと推定することによって,伊藤中将の態度急変の謎も初めて解けるのだ。

こうして,戦艦大和がひきいる10隻の特攻艦隊は,死の南西海域へ向って出撃して行った。

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鬼塚英昭 昭和天皇はアメリカのスパイだった


日本の真相2 仕組まれる戦争・皇室スキャンダル - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_YfXIhybq5U&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=2

日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=3

日本の真相4 こじつけの天皇無罪論 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=34HEcM9qvqc&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=4

日本の真相5 すべての戦争は八百長である - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kIXzkY8VtLU&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=5


http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/626.html#c1

[近代史3] 天皇一族だけでなく日本人の大人の幼児化も進行している 中川隆
16. 中川隆[-8762] koaQ7Jey 2019年8月20日 06:08:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3981]

宮崎文夫 あおり運転 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E6%96%87%E5%A4%AB+%E3%81%82%E3%81%8A%E3%82%8A%E9%81%8B%E8%BB%A2&sp=mAEB


独自取材で判明!「あおり運転暴行事件」容疑者らの“異様な関係性”と“二面性”
8/19(月) 20:29配信 FNN.jpプライムオンライン
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190819-00010016-fnnprimev-soci



「逃げないから“出頭”させて」と必死の抵抗

8月10日、茨城県・常磐自動車道で起きた悪質なあおり運転と暴力行為。
全国に指名手配されていた宮崎文夫容疑者(43)が18日、傷害の疑いで逮捕された。

【画像】バレンタインには喜本容疑者から「ブランドバッグ」を…

「直撃LIVEグッディ!」のカメラは、宮崎容疑者拘束までの一部始終をとらえていた。


宮崎容疑者:
ちょっと待ってくださいよ。自ら出頭しますって今電話してますので。逃げも隠れも…ちょっと待って、今、生野警察署に電話してますので。逃げないんで、行きますから!


「逃げも隠れもしない」と大声で叫び続ける宮崎容疑者。「生野警察署」という言葉を繰り返し、管轄内の東住吉警察署に連行されることを頑なに拒んでいる。


宮崎容疑者:
ちょっと待ってください、本当に…逃げません!自分から出頭させてくださいよ、本当に。

警察官:
今まで話に来なかったんだから、そのままは信用できないから。

宮崎容疑者:
だからついてきてください、そのまま。

警察官:
じゃあ、車で行くよ。

宮崎容疑者:
車には乗りたくないんです。以前に自分にも不納得な理由で監禁が不起訴になりましたけど、恐喝尋問で…ちょっと待ってください!手で押さえつけるのだけはやめてください!逃げませんし、隠れません!


指名手配後も逃亡を続けていた宮崎容疑者に対し、「信用できない」と警察官は一蹴するが「逃げも隠れもしない」と抵抗を続ける宮崎容疑者。
報道陣のカメラに対して…


宮崎容疑者:
本当に逃げも隠れもしませんし、行為に関して悪い部分があれば、普通に会社としても個人としても責任を取る方向で考えてますので、生野警察署に出頭させてください!生野警察署に!
東住吉警察署は非常に苦い思い出があるので、嫌なんです!車の中にこんな時に入りたくありません。中で何されるか分からないんで!嫌です。そういう噂も聞きますし、自分から行くんで、後ろを張り付くようについてきてください。本当に。逃げも隠れもしません!


この時、宮崎容疑者がもみ合っている場所から道路を挟んだ先には、警察官と共にいる喜本奈津子容疑者(51)の姿があった。

宮崎容疑者が暴力行為に及んだ際、車を降り、携帯電話で撮影をしていた、喜本容疑者だ。
18日、犯人蔵匿・隠避の疑いで逮捕された喜本容疑者は、事件後宮崎容疑者を自宅マンションにかくまい、食事を提供していたとみられている。

すると、宮崎容疑者の口からは「そこに行かせてください、彼女の元に」との言葉が…さらに「喜本さん」と必死に呼びかけると、喜本容疑者は信号を渡り、宮崎容疑者の元へ向かった。


喜本容疑者:
生野署に連れてってくれるっていうから行きましょ。ちょっと押さえつけないでください、逃げませんから。手をつなぎたいんですけど、逃げませんから。


「手をつなぎたい」と訴える喜本容疑者。その後、グッディ!のカメラに向かって驚きの主張を繰り広げた。


宮崎容疑者:
カメラに向かってしゃべれ!

喜本容疑者:
私たち逃げも隠れもしないんで。元々そもそも相手方があおってきたんですよ。あそこの映像、途中から私たちの車入ってきたみたいになってますけど、違いますから、あれ全然。真実を話しますから。


その後、応援のパトカーが到着すると…


宮崎容疑者:
ちょっと待ってください。

喜本容疑者:
そんな興奮させないで。逃げるわけじゃないんだもん。

宮崎容疑者:
喜本!

リポーター:
車に乗らないと暴れています。

喜本容疑者:
暴れてない、暴れてない!なんでそんなに乱暴するの!生野署に連れて行ってください、必ず。絶対ですよ。


その後、茨城県警の取手署に車で移送。捜査員にフードを外されると…
「逃げも隠れもしない」と話していたが、手で顔を隠し、うつむいていた。
宮崎容疑者は「殴ったことは間違いない」と容疑を認めており、喜本容疑者も事件の際、一緒にいたことを認めているという。

喜本容疑者からは“のろけ”も…2人の奇妙な関係

宮崎容疑者と喜本容疑者、2人はどのような関係なのか?
喜本容疑者の高校時代からの友人は、そのなれそめを聞かされたという。


高校の同級生:
彼女は独身で、結婚したくて、それで出会い系のアプリあるじゃないですか。2月の下旬に会った時に「新しい人がこういう人で」「今この人と付き合ってる」とか、写真を見せてもらって。

――宮崎容疑者の話をしている時は幸せそう?

高校の同級生:
はい、うれしそうでした。初めて彼の話を聞いた時も、何度も電話がかかって来たり、まめな人だったので、それでやられちゃったのかなって。


出会い系のアプリで知り合ったとされる2人は、今年2月から交際を開始。知り合ってからまだ半年ほどしかたっていないようだ。
友人の前で、のろけていたという喜本容疑者。しかし、よく話を聞いていくと、衝撃的な話が飛び出したという。


高校の同級生:
2月のバレンタインの時に、彼女はチョコレートを用意してたみたいなんですよ。だけどどこかデパートの閉店ギリギリに連れていかれて、自分(宮崎容疑者)の欲しいものがあるって。これが欲しいんだって言って、30万円のヴィトンをクレジットで買ったって。「店員の前で『俺はホワイトデーに彼女に倍返しするから』って言ってたんだよ」みたいなこと言ってました。

でもせっかく買ってあげたのに、車の上だか横だかに置いて忘れて、その鞄がなくなっちゃったっていうのを聞いて。私は「えー!」って。30万円するものを付き合って間もない人に買ってくれって言うのもおかしいし、お金持ってるなら自分で買えばいいのにって思うのに。普通のOLなのにクレジットカードでローン組んで買ったんだって、そこまでするくらいのめりこんでたんだなって。

(喜本容疑者は)本当にこんなことするような子ではない。この半年で、何かが絶対あったはず。


その後、友人は喜本容疑者と連絡を取ろうとしたが、今年3月以降、音信不通の状態が続いているという。
一体何があったのだろうか。グッディ!は、この半年間に宮崎容疑者と喜本容疑者が訪れた飲食店を取材した。


長時間の“説教クレーム”もSNSには…

今年4月に来店した2人。その時、宮崎容疑者は「彼女に熱いお茶がかかり、やけどした」とクレームを入れてきたという。しかし、店主がやけどを確認しようとすると、それを拒み続けたという。


2人が来店した飲食店店主:
1回目が4月の中旬、10日過ぎかな。2回目が5月だったと思います。
どんな感じか見せてくれますか?って言ったら「ううん」って言ってね。見せてくれないんですよ。普通こぼしたら大変ですよ、拭いたりするんやけど、そこまでのことは確認できてないし、拒否された感じで。3時に入って、7時ちょっとまわったな。

――クレームで4時間ほどいたということですか?

店主の妻:
クレームというか、説教。うちが出したお茶が熱すぎて、それを置く場所が悪いんでこぼしてしもたやないかと。それが連れの女の人にかかった、どうしてくれるという内容でした。


宮崎容疑者のクレームまがいの説教は、なんと4時間も続いたという。
この飲食店は、クレームを機に防犯カメラを設置。その1カ月後、再び宮崎容疑者ら2人が来店したという。


その時の防犯カメラの映像に映っているのは、帽子にマフラー、サングラスにマスクを身に着け、顔を隠した状態の宮崎容疑者。喜本容疑者もキャップにサングラスをしている。

特に何事もなく、食事を注文した2人。しかし、食事を終えると…


店主:
「おい、やけど見したれ」と言うて、大きい声で女性に言うわけですよ。隣とかに座ってる人もびっくりしますよね。


突然、1ヵ月前のクレームを蒸し返して、店主を問い詰めたという。この時2人は「一筆書いてください」と、店主からの謝罪を求めたという。

度々店を訪れては、執拗に因縁をつけた宮崎容疑者。ところが、自身のSNSでは…


<4月16日、宮崎容疑者のSNS>
「ご馳走様でした。大変気さくな方で閉店間際だったにも関わらず温かく出迎えてくださり嬉しかったです!またお伺いしたいと思います」


店主:
なんか友達みたいに書いてあったんです。

――とても仲の良いご主人みたいに書かれていますが…

店主:
逆ですよ。うちはそれで何回も胃の痛い思いして、警察とか弁護士さんも初めて行ったし、飲食店組合とか防犯協会にも電話した。次は入店拒否をしようと思うんです。


独自取材では、宮崎容疑者の二面性が浮かび上がってきた。
.
(「直撃LIVE グッディ!」)


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/120.html#c16

[近代史3] 美智子妃も雅子妃もアメリカが皇室と天皇制を破壊する為に送り込んだスパイなのか? 中川隆
73. 中川隆[-8761] koaQ7Jey 2019年8月20日 06:12:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3982]

2019年08月19日
謝罪に取り憑かれた平成天皇 平成30年の悪夢


国家元首が自国の悪口を言いふらすとどうなるか、天皇は理解していなかった


画像引用:http://blog-imgs-93.fc2.com/j/y/o/jyouhouwosagasu/s_ice_screenshot_20160815-151551.jpeg

天皇は謝罪が良い事だと思っていた

2019年5月に平成から令和に元号が変わり、そのとたんに日本は韓国に対して冷たくなりました。

それまでは韓国が何を言ってきても、ただひたすら謝罪してお金を払っていたのに、人が変わったようになった。

6月には韓国への制裁を予告し、7月に入ると半導体素材3品目優遇措置撤廃、ホワイト国除外を打ち出した。

日本政府は第3弾や第4弾も検討中で、韓国が日本側が求める国際法の遵守に応じなければ発動する構えです。

確かに韓国は国連安保理の北朝鮮制裁決議に違反して北に密輸しているし、日本から輸入した軍需物資を勝手に転売している。

だがその手の事は過去70年間ずっとやってきた事で、今年始めたわけではありません。


また韓国は日米の反対を無視してロシアから弾道ミサイル技術を購入し、九州や西日本まで届くミサイル数百発を保有している。

さらに韓国は過去に何度か核開発を試みたことがあり、核兵器開発を目指していたのは公然たる事実です。

また韓国軍は日本を標的として自衛隊に対抗する軍艦や戦闘機を配備し、北朝鮮ではなく日本を仮想敵国としている。


これも70年前からそうだったのであり、竹島を侵略した時から変わっていないだけです。

韓国がやっている事は70年間変わっていないのに、日本側の姿勢だけが今年に入って激変した理由が何かある筈です。

日本が変わった原因は天皇の代替わりで、今まで天皇の存在によってできなかった事を、令和になったから日本政府はできるようになった。

平成悪夢の30年が始まった。

今から30年前の平成元年、昭和天皇が崩御して平成になったが、この瞬間から日本は「謝罪外交」を始めました。

中国にも韓国にも北朝鮮にもロシアにも欧米にも、とにかく誰にでも謝罪して過去の戦争を詫び、お金を払ってきました。

象徴的な事件が1992年(平成4年)の天皇訪中で、当時中国は天安門事件で世界から経済制裁されていたので、全世界が驚きました。


天皇は頼まれてもいないのに自分の意志で中国を訪問し、過去の戦争に謝罪して帰ってきました。

これで中国への経済制裁は有名無実になり、90年代の高度成長が始まり、日本から中国へお金と技術が流出していきました。

韓国へも同様にお金と技術と人が流れていき、天皇は「これで過去の謝罪ができた」と喜んでいました。


だが天皇の謝罪によって日本からお金、技術、人材、様々な権利が流出し、日本経済崩壊の原因を作った。

日中や日韓が経済問題で対立しているのに、天皇がしゃしゃり出てきて談話などで「すべて日本が悪いです」「日本は最悪です」と言ってしまう。

乖離が表面化したのは安倍内閣で、終戦の日に首相は「日本の戦争被害」を訴えているのに、天皇は「日本が侵略した国々の被害」しか言わない。


とうとう天皇はヘソを曲げて退位してしまったのだが、もう30年早く退位してくれたら日本の没落はなかったでしょう。

天皇は1933年(昭和8年)生まれで終戦時に12歳、この時東京大空襲で皇居以外は焼け野原になり、占領した連合軍に粛清される可能性もあった。(この時ソ連軍も東京を占領しようとしていた)

敗戦で子供のころ死を覚悟しなくてはならなかった事や、日本軍や日本に裏切られた、騙されたという思いがあったのでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/80723382.html

▲△▽▼

日本人の反乱に恐れおののいていた平成天皇

梨本宮伊都子妃の日記

梨本宮伊都子妃の日記が死後発表された。梨本宮伊都子妃は昭和51年まで生き、死後、この日記は発表された。よく発表したもんだと思う。プライベートに書き綴ったものを遺族が発表したのだ。ここまで書いていたら普通なら発表しない。あるいは、この部分は省略するか、あるいは発表する前に破り捨ててしまうか。それをしなかったのは大変な勇気だと思う。


伊都子妃が、「日本ももうだめだ」と考えたのが昭和33年11月27日だ。その4ヶ月前、その皇太子さまも、絶望的な気持ちになっていた。「おことば」はこうだ。

 『昭和33年7月14日。
 きみ、きっと、これが僕の運命だね。
 明仁皇太子』

 どんな運命かというと、「暗殺される運命」だ。島田の「解説」には、こうある。

 『この日、イラク国王ファイサル二世は、軍部のクーデターと民衆の蜂起により暗殺された。ご学友の橋本明氏がたまたま御所に招かれていて、一緒にお茶を飲んでいると、侍従から報告があったという。

 「皇太子はその瞬間、蒼白になり、手にしていた紅茶が入った茶碗を膝の上に落として、数秒だったが、口をおききになれなかった」が、自分を取り戻してこう発言されたそうだ。まだ美智子妃の実家、正田家が婚約を固辞していた頃だ。二十二才で暗殺された国王の不幸を他人事とは思えなかったのだろう』


(3)「浩宮の代で最後になるのだろうか」と悲しいおことばを

 昭和33年というのは、1958年だ。60年安保闘争の直前だ。左翼の力が強かった時だ。「天皇制打倒!」を叫ぶ人々も多くいた。そうした日本の風潮も知っていたのだ。そこにイラク国王の暗殺の報だ。

 しかし、ご学友が遊びに来てる時にわざわざ、こんな事を報告するなんて、侍従もおかしい。島田はさらにこう続けている。

 『のちに、戦後初の国賓として来日し、鴨猟で接待したエチオピア皇帝ハイレ・セラシェも亡くなり、イランのホメイニ革命によりパーレビ王朝も打倒され、アジアからは続々、王制が消えてゆく。

 長男浩宮が生まれると、明仁皇太子は学友たちに「浩宮の代で最後になるのだろうか」といったという』
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2005/shuchou0822.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/262.html#c73

[近代史3] 戦後の日本人は本当に GHQ とマッカーサーに洗脳されて東京裁判史観・自虐史観を持つ様になったのか? 中川隆
28. 中川隆[-8760] koaQ7Jey 2019年8月20日 06:13:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3983]

2019年08月19日
謝罪に取り憑かれた平成天皇 平成30年の悪夢


国家元首が自国の悪口を言いふらすとどうなるか、天皇は理解していなかった


画像引用:http://blog-imgs-93.fc2.com/j/y/o/jyouhouwosagasu/s_ice_screenshot_20160815-151551.jpeg

天皇は謝罪が良い事だと思っていた

2019年5月に平成から令和に元号が変わり、そのとたんに日本は韓国に対して冷たくなりました。

それまでは韓国が何を言ってきても、ただひたすら謝罪してお金を払っていたのに、人が変わったようになった。

6月には韓国への制裁を予告し、7月に入ると半導体素材3品目優遇措置撤廃、ホワイト国除外を打ち出した。

日本政府は第3弾や第4弾も検討中で、韓国が日本側が求める国際法の遵守に応じなければ発動する構えです。

確かに韓国は国連安保理の北朝鮮制裁決議に違反して北に密輸しているし、日本から輸入した軍需物資を勝手に転売している。

だがその手の事は過去70年間ずっとやってきた事で、今年始めたわけではありません。


また韓国は日米の反対を無視してロシアから弾道ミサイル技術を購入し、九州や西日本まで届くミサイル数百発を保有している。

さらに韓国は過去に何度か核開発を試みたことがあり、核兵器開発を目指していたのは公然たる事実です。

また韓国軍は日本を標的として自衛隊に対抗する軍艦や戦闘機を配備し、北朝鮮ではなく日本を仮想敵国としている。


これも70年前からそうだったのであり、竹島を侵略した時から変わっていないだけです。

韓国がやっている事は70年間変わっていないのに、日本側の姿勢だけが今年に入って激変した理由が何かある筈です。

日本が変わった原因は天皇の代替わりで、今まで天皇の存在によってできなかった事を、令和になったから日本政府はできるようになった。

平成悪夢の30年が始まった。

今から30年前の平成元年、昭和天皇が崩御して平成になったが、この瞬間から日本は「謝罪外交」を始めました。

中国にも韓国にも北朝鮮にもロシアにも欧米にも、とにかく誰にでも謝罪して過去の戦争を詫び、お金を払ってきました。

象徴的な事件が1992年(平成4年)の天皇訪中で、当時中国は天安門事件で世界から経済制裁されていたので、全世界が驚きました。


天皇は頼まれてもいないのに自分の意志で中国を訪問し、過去の戦争に謝罪して帰ってきました。

これで中国への経済制裁は有名無実になり、90年代の高度成長が始まり、日本から中国へお金と技術が流出していきました。

韓国へも同様にお金と技術と人が流れていき、天皇は「これで過去の謝罪ができた」と喜んでいました。


だが天皇の謝罪によって日本からお金、技術、人材、様々な権利が流出し、日本経済崩壊の原因を作った。

日中や日韓が経済問題で対立しているのに、天皇がしゃしゃり出てきて談話などで「すべて日本が悪いです」「日本は最悪です」と言ってしまう。

乖離が表面化したのは安倍内閣で、終戦の日に首相は「日本の戦争被害」を訴えているのに、天皇は「日本が侵略した国々の被害」しか言わない。


とうとう天皇はヘソを曲げて退位してしまったのだが、もう30年早く退位してくれたら日本の没落はなかったでしょう。

天皇は1933年(昭和8年)生まれで終戦時に12歳、この時東京大空襲で皇居以外は焼け野原になり、占領した連合軍に粛清される可能性もあった。(この時ソ連軍も東京を占領しようとしていた)

敗戦で子供のころ死を覚悟しなくてはならなかった事や、日本軍や日本に裏切られた、騙されたという思いがあったのでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/80723382.html

▲△▽▼

日本人の反乱に恐れおののいていた平成天皇

梨本宮伊都子妃の日記

梨本宮伊都子妃の日記が死後発表された。梨本宮伊都子妃は昭和51年まで生き、死後、この日記は発表された。よく発表したもんだと思う。プライベートに書き綴ったものを遺族が発表したのだ。ここまで書いていたら普通なら発表しない。あるいは、この部分は省略するか、あるいは発表する前に破り捨ててしまうか。それをしなかったのは大変な勇気だと思う。


伊都子妃が、「日本ももうだめだ」と考えたのが昭和33年11月27日だ。その4ヶ月前、その皇太子さまも、絶望的な気持ちになっていた。「おことば」はこうだ。

 『昭和33年7月14日。
 きみ、きっと、これが僕の運命だね。
 明仁皇太子』

 どんな運命かというと、「暗殺される運命」だ。島田の「解説」には、こうある。

 『この日、イラク国王ファイサル二世は、軍部のクーデターと民衆の蜂起により暗殺された。ご学友の橋本明氏がたまたま御所に招かれていて、一緒にお茶を飲んでいると、侍従から報告があったという。

 「皇太子はその瞬間、蒼白になり、手にしていた紅茶が入った茶碗を膝の上に落として、数秒だったが、口をおききになれなかった」が、自分を取り戻してこう発言されたそうだ。まだ美智子妃の実家、正田家が婚約を固辞していた頃だ。二十二才で暗殺された国王の不幸を他人事とは思えなかったのだろう』


(3)「浩宮の代で最後になるのだろうか」と悲しいおことばを

 昭和33年というのは、1958年だ。60年安保闘争の直前だ。左翼の力が強かった時だ。「天皇制打倒!」を叫ぶ人々も多くいた。そうした日本の風潮も知っていたのだ。そこにイラク国王の暗殺の報だ。

 しかし、ご学友が遊びに来てる時にわざわざ、こんな事を報告するなんて、侍従もおかしい。島田はさらにこう続けている。

 『のちに、戦後初の国賓として来日し、鴨猟で接待したエチオピア皇帝ハイレ・セラシェも亡くなり、イランのホメイニ革命によりパーレビ王朝も打倒され、アジアからは続々、王制が消えてゆく。

 長男浩宮が生まれると、明仁皇太子は学友たちに「浩宮の代で最後になるのだろうか」といったという』
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2005/shuchou0822.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/232.html#c28

[近代史3] 昭和天皇の戦争犯罪問題が再燃すると困るから天皇一族は靖国神社に参拝できなくなった 中川隆
4. 中川隆[-8759] koaQ7Jey 2019年8月20日 06:14:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3984]

2019年08月19日
謝罪に取り憑かれた平成天皇 平成30年の悪夢


国家元首が自国の悪口を言いふらすとどうなるか、天皇は理解していなかった


画像引用:http://blog-imgs-93.fc2.com/j/y/o/jyouhouwosagasu/s_ice_screenshot_20160815-151551.jpeg

天皇は謝罪が良い事だと思っていた

2019年5月に平成から令和に元号が変わり、そのとたんに日本は韓国に対して冷たくなりました。

それまでは韓国が何を言ってきても、ただひたすら謝罪してお金を払っていたのに、人が変わったようになった。

6月には韓国への制裁を予告し、7月に入ると半導体素材3品目優遇措置撤廃、ホワイト国除外を打ち出した。

日本政府は第3弾や第4弾も検討中で、韓国が日本側が求める国際法の遵守に応じなければ発動する構えです。

確かに韓国は国連安保理の北朝鮮制裁決議に違反して北に密輸しているし、日本から輸入した軍需物資を勝手に転売している。

だがその手の事は過去70年間ずっとやってきた事で、今年始めたわけではありません。


また韓国は日米の反対を無視してロシアから弾道ミサイル技術を購入し、九州や西日本まで届くミサイル数百発を保有している。

さらに韓国は過去に何度か核開発を試みたことがあり、核兵器開発を目指していたのは公然たる事実です。

また韓国軍は日本を標的として自衛隊に対抗する軍艦や戦闘機を配備し、北朝鮮ではなく日本を仮想敵国としている。


これも70年前からそうだったのであり、竹島を侵略した時から変わっていないだけです。

韓国がやっている事は70年間変わっていないのに、日本側の姿勢だけが今年に入って激変した理由が何かある筈です。

日本が変わった原因は天皇の代替わりで、今まで天皇の存在によってできなかった事を、令和になったから日本政府はできるようになった。

平成悪夢の30年が始まった。

今から30年前の平成元年、昭和天皇が崩御して平成になったが、この瞬間から日本は「謝罪外交」を始めました。

中国にも韓国にも北朝鮮にもロシアにも欧米にも、とにかく誰にでも謝罪して過去の戦争を詫び、お金を払ってきました。

象徴的な事件が1992年(平成4年)の天皇訪中で、当時中国は天安門事件で世界から経済制裁されていたので、全世界が驚きました。


天皇は頼まれてもいないのに自分の意志で中国を訪問し、過去の戦争に謝罪して帰ってきました。

これで中国への経済制裁は有名無実になり、90年代の高度成長が始まり、日本から中国へお金と技術が流出していきました。

韓国へも同様にお金と技術と人が流れていき、天皇は「これで過去の謝罪ができた」と喜んでいました。


だが天皇の謝罪によって日本からお金、技術、人材、様々な権利が流出し、日本経済崩壊の原因を作った。

日中や日韓が経済問題で対立しているのに、天皇がしゃしゃり出てきて談話などで「すべて日本が悪いです」「日本は最悪です」と言ってしまう。

乖離が表面化したのは安倍内閣で、終戦の日に首相は「日本の戦争被害」を訴えているのに、天皇は「日本が侵略した国々の被害」しか言わない。


とうとう天皇はヘソを曲げて退位してしまったのだが、もう30年早く退位してくれたら日本の没落はなかったでしょう。

天皇は1933年(昭和8年)生まれで終戦時に12歳、この時東京大空襲で皇居以外は焼け野原になり、占領した連合軍に粛清される可能性もあった。(この時ソ連軍も東京を占領しようとしていた)

敗戦で子供のころ死を覚悟しなくてはならなかった事や、日本軍や日本に裏切られた、騙されたという思いがあったのでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/80723382.html

▲△▽▼

日本人の反乱に恐れおののいていた平成天皇

梨本宮伊都子妃の日記

梨本宮伊都子妃の日記が死後発表された。梨本宮伊都子妃は昭和51年まで生き、死後、この日記は発表された。よく発表したもんだと思う。プライベートに書き綴ったものを遺族が発表したのだ。ここまで書いていたら普通なら発表しない。あるいは、この部分は省略するか、あるいは発表する前に破り捨ててしまうか。それをしなかったのは大変な勇気だと思う。


伊都子妃が、「日本ももうだめだ」と考えたのが昭和33年11月27日だ。その4ヶ月前、その皇太子さまも、絶望的な気持ちになっていた。「おことば」はこうだ。

 『昭和33年7月14日。
 きみ、きっと、これが僕の運命だね。
 明仁皇太子』

 どんな運命かというと、「暗殺される運命」だ。島田の「解説」には、こうある。

 『この日、イラク国王ファイサル二世は、軍部のクーデターと民衆の蜂起により暗殺された。ご学友の橋本明氏がたまたま御所に招かれていて、一緒にお茶を飲んでいると、侍従から報告があったという。

 「皇太子はその瞬間、蒼白になり、手にしていた紅茶が入った茶碗を膝の上に落として、数秒だったが、口をおききになれなかった」が、自分を取り戻してこう発言されたそうだ。まだ美智子妃の実家、正田家が婚約を固辞していた頃だ。二十二才で暗殺された国王の不幸を他人事とは思えなかったのだろう』


(3)「浩宮の代で最後になるのだろうか」と悲しいおことばを

 昭和33年というのは、1958年だ。60年安保闘争の直前だ。左翼の力が強かった時だ。「天皇制打倒!」を叫ぶ人々も多くいた。そうした日本の風潮も知っていたのだ。そこにイラク国王の暗殺の報だ。

 しかし、ご学友が遊びに来てる時にわざわざ、こんな事を報告するなんて、侍従もおかしい。島田はさらにこう続けている。

 『のちに、戦後初の国賓として来日し、鴨猟で接待したエチオピア皇帝ハイレ・セラシェも亡くなり、イランのホメイニ革命によりパーレビ王朝も打倒され、アジアからは続々、王制が消えてゆく。

 長男浩宮が生まれると、明仁皇太子は学友たちに「浩宮の代で最後になるのだろうか」といったという』
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2005/shuchou0822.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/128.html#c4

[近代史3] 日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか? 中川隆
51. 中川隆[-8758] koaQ7Jey 2019年8月20日 06:15:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3985]
2019年08月19日
謝罪に取り憑かれた平成天皇 平成30年の悪夢


国家元首が自国の悪口を言いふらすとどうなるか、天皇は理解していなかった


画像引用:http://blog-imgs-93.fc2.com/j/y/o/jyouhouwosagasu/s_ice_screenshot_20160815-151551.jpeg

天皇は謝罪が良い事だと思っていた

2019年5月に平成から令和に元号が変わり、そのとたんに日本は韓国に対して冷たくなりました。

それまでは韓国が何を言ってきても、ただひたすら謝罪してお金を払っていたのに、人が変わったようになった。

6月には韓国への制裁を予告し、7月に入ると半導体素材3品目優遇措置撤廃、ホワイト国除外を打ち出した。

日本政府は第3弾や第4弾も検討中で、韓国が日本側が求める国際法の遵守に応じなければ発動する構えです。

確かに韓国は国連安保理の北朝鮮制裁決議に違反して北に密輸しているし、日本から輸入した軍需物資を勝手に転売している。

だがその手の事は過去70年間ずっとやってきた事で、今年始めたわけではありません。


また韓国は日米の反対を無視してロシアから弾道ミサイル技術を購入し、九州や西日本まで届くミサイル数百発を保有している。

さらに韓国は過去に何度か核開発を試みたことがあり、核兵器開発を目指していたのは公然たる事実です。

また韓国軍は日本を標的として自衛隊に対抗する軍艦や戦闘機を配備し、北朝鮮ではなく日本を仮想敵国としている。


これも70年前からそうだったのであり、竹島を侵略した時から変わっていないだけです。

韓国がやっている事は70年間変わっていないのに、日本側の姿勢だけが今年に入って激変した理由が何かある筈です。

日本が変わった原因は天皇の代替わりで、今まで天皇の存在によってできなかった事を、令和になったから日本政府はできるようになった。

平成悪夢の30年が始まった。

今から30年前の平成元年、昭和天皇が崩御して平成になったが、この瞬間から日本は「謝罪外交」を始めました。

中国にも韓国にも北朝鮮にもロシアにも欧米にも、とにかく誰にでも謝罪して過去の戦争を詫び、お金を払ってきました。

象徴的な事件が1992年(平成4年)の天皇訪中で、当時中国は天安門事件で世界から経済制裁されていたので、全世界が驚きました。


天皇は頼まれてもいないのに自分の意志で中国を訪問し、過去の戦争に謝罪して帰ってきました。

これで中国への経済制裁は有名無実になり、90年代の高度成長が始まり、日本から中国へお金と技術が流出していきました。

韓国へも同様にお金と技術と人が流れていき、天皇は「これで過去の謝罪ができた」と喜んでいました。


だが天皇の謝罪によって日本からお金、技術、人材、様々な権利が流出し、日本経済崩壊の原因を作った。

日中や日韓が経済問題で対立しているのに、天皇がしゃしゃり出てきて談話などで「すべて日本が悪いです」「日本は最悪です」と言ってしまう。

乖離が表面化したのは安倍内閣で、終戦の日に首相は「日本の戦争被害」を訴えているのに、天皇は「日本が侵略した国々の被害」しか言わない。


とうとう天皇はヘソを曲げて退位してしまったのだが、もう30年早く退位してくれたら日本の没落はなかったでしょう。

天皇は1933年(昭和8年)生まれで終戦時に12歳、この時東京大空襲で皇居以外は焼け野原になり、占領した連合軍に粛清される可能性もあった。(この時ソ連軍も東京を占領しようとしていた)

敗戦で子供のころ死を覚悟しなくてはならなかった事や、日本軍や日本に裏切られた、騙されたという思いがあったのでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/80723382.html

▲△▽▼

日本人の反乱に恐れおののいていた平成天皇

梨本宮伊都子妃の日記

梨本宮伊都子妃の日記が死後発表された。梨本宮伊都子妃は昭和51年まで生き、死後、この日記は発表された。よく発表したもんだと思う。プライベートに書き綴ったものを遺族が発表したのだ。ここまで書いていたら普通なら発表しない。あるいは、この部分は省略するか、あるいは発表する前に破り捨ててしまうか。それをしなかったのは大変な勇気だと思う。


伊都子妃が、「日本ももうだめだ」と考えたのが昭和33年11月27日だ。その4ヶ月前、その皇太子さまも、絶望的な気持ちになっていた。「おことば」はこうだ。

 『昭和33年7月14日。
 きみ、きっと、これが僕の運命だね。
 明仁皇太子』

 どんな運命かというと、「暗殺される運命」だ。島田の「解説」には、こうある。

 『この日、イラク国王ファイサル二世は、軍部のクーデターと民衆の蜂起により暗殺された。ご学友の橋本明氏がたまたま御所に招かれていて、一緒にお茶を飲んでいると、侍従から報告があったという。

 「皇太子はその瞬間、蒼白になり、手にしていた紅茶が入った茶碗を膝の上に落として、数秒だったが、口をおききになれなかった」が、自分を取り戻してこう発言されたそうだ。まだ美智子妃の実家、正田家が婚約を固辞していた頃だ。二十二才で暗殺された国王の不幸を他人事とは思えなかったのだろう』


(3)「浩宮の代で最後になるのだろうか」と悲しいおことばを

 昭和33年というのは、1958年だ。60年安保闘争の直前だ。左翼の力が強かった時だ。「天皇制打倒!」を叫ぶ人々も多くいた。そうした日本の風潮も知っていたのだ。そこにイラク国王の暗殺の報だ。

 しかし、ご学友が遊びに来てる時にわざわざ、こんな事を報告するなんて、侍従もおかしい。島田はさらにこう続けている。

 『のちに、戦後初の国賓として来日し、鴨猟で接待したエチオピア皇帝ハイレ・セラシェも亡くなり、イランのホメイニ革命によりパーレビ王朝も打倒され、アジアからは続々、王制が消えてゆく。

 長男浩宮が生まれると、明仁皇太子は学友たちに「浩宮の代で最後になるのだろうか」といったという』
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2005/shuchou0822.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html#c51

[社会問題9] 語られ始めた皇太子「退位論」は説得力があるか・・が、語られるだけでも適応失調の天皇家! 墨染
247. 中川隆[-8757] koaQ7Jey 2019年8月20日 06:16:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3986]
2019年08月19日
謝罪に取り憑かれた平成天皇 平成30年の悪夢


国家元首が自国の悪口を言いふらすとどうなるか、天皇は理解していなかった


画像引用:http://blog-imgs-93.fc2.com/j/y/o/jyouhouwosagasu/s_ice_screenshot_20160815-151551.jpeg

天皇は謝罪が良い事だと思っていた

2019年5月に平成から令和に元号が変わり、そのとたんに日本は韓国に対して冷たくなりました。

それまでは韓国が何を言ってきても、ただひたすら謝罪してお金を払っていたのに、人が変わったようになった。

6月には韓国への制裁を予告し、7月に入ると半導体素材3品目優遇措置撤廃、ホワイト国除外を打ち出した。

日本政府は第3弾や第4弾も検討中で、韓国が日本側が求める国際法の遵守に応じなければ発動する構えです。

確かに韓国は国連安保理の北朝鮮制裁決議に違反して北に密輸しているし、日本から輸入した軍需物資を勝手に転売している。

だがその手の事は過去70年間ずっとやってきた事で、今年始めたわけではありません。


また韓国は日米の反対を無視してロシアから弾道ミサイル技術を購入し、九州や西日本まで届くミサイル数百発を保有している。

さらに韓国は過去に何度か核開発を試みたことがあり、核兵器開発を目指していたのは公然たる事実です。

また韓国軍は日本を標的として自衛隊に対抗する軍艦や戦闘機を配備し、北朝鮮ではなく日本を仮想敵国としている。


これも70年前からそうだったのであり、竹島を侵略した時から変わっていないだけです。

韓国がやっている事は70年間変わっていないのに、日本側の姿勢だけが今年に入って激変した理由が何かある筈です。

日本が変わった原因は天皇の代替わりで、今まで天皇の存在によってできなかった事を、令和になったから日本政府はできるようになった。

平成悪夢の30年が始まった。

今から30年前の平成元年、昭和天皇が崩御して平成になったが、この瞬間から日本は「謝罪外交」を始めました。

中国にも韓国にも北朝鮮にもロシアにも欧米にも、とにかく誰にでも謝罪して過去の戦争を詫び、お金を払ってきました。

象徴的な事件が1992年(平成4年)の天皇訪中で、当時中国は天安門事件で世界から経済制裁されていたので、全世界が驚きました。


天皇は頼まれてもいないのに自分の意志で中国を訪問し、過去の戦争に謝罪して帰ってきました。

これで中国への経済制裁は有名無実になり、90年代の高度成長が始まり、日本から中国へお金と技術が流出していきました。

韓国へも同様にお金と技術と人が流れていき、天皇は「これで過去の謝罪ができた」と喜んでいました。


だが天皇の謝罪によって日本からお金、技術、人材、様々な権利が流出し、日本経済崩壊の原因を作った。

日中や日韓が経済問題で対立しているのに、天皇がしゃしゃり出てきて談話などで「すべて日本が悪いです」「日本は最悪です」と言ってしまう。

乖離が表面化したのは安倍内閣で、終戦の日に首相は「日本の戦争被害」を訴えているのに、天皇は「日本が侵略した国々の被害」しか言わない。


とうとう天皇はヘソを曲げて退位してしまったのだが、もう30年早く退位してくれたら日本の没落はなかったでしょう。

天皇は1933年(昭和8年)生まれで終戦時に12歳、この時東京大空襲で皇居以外は焼け野原になり、占領した連合軍に粛清される可能性もあった。(この時ソ連軍も東京を占領しようとしていた)

敗戦で子供のころ死を覚悟しなくてはならなかった事や、日本軍や日本に裏切られた、騙されたという思いがあったのでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/80723382.html

▲△▽▼

日本人の反乱に恐れおののいていた平成天皇

梨本宮伊都子妃の日記

梨本宮伊都子妃の日記が死後発表された。梨本宮伊都子妃は昭和51年まで生き、死後、この日記は発表された。よく発表したもんだと思う。プライベートに書き綴ったものを遺族が発表したのだ。ここまで書いていたら普通なら発表しない。あるいは、この部分は省略するか、あるいは発表する前に破り捨ててしまうか。それをしなかったのは大変な勇気だと思う。


伊都子妃が、「日本ももうだめだ」と考えたのが昭和33年11月27日だ。その4ヶ月前、その皇太子さまも、絶望的な気持ちになっていた。「おことば」はこうだ。

 『昭和33年7月14日。
 きみ、きっと、これが僕の運命だね。
 明仁皇太子』

 どんな運命かというと、「暗殺される運命」だ。島田の「解説」には、こうある。

 『この日、イラク国王ファイサル二世は、軍部のクーデターと民衆の蜂起により暗殺された。ご学友の橋本明氏がたまたま御所に招かれていて、一緒にお茶を飲んでいると、侍従から報告があったという。

 「皇太子はその瞬間、蒼白になり、手にしていた紅茶が入った茶碗を膝の上に落として、数秒だったが、口をおききになれなかった」が、自分を取り戻してこう発言されたそうだ。まだ美智子妃の実家、正田家が婚約を固辞していた頃だ。二十二才で暗殺された国王の不幸を他人事とは思えなかったのだろう』


(3)「浩宮の代で最後になるのだろうか」と悲しいおことばを

 昭和33年というのは、1958年だ。60年安保闘争の直前だ。左翼の力が強かった時だ。「天皇制打倒!」を叫ぶ人々も多くいた。そうした日本の風潮も知っていたのだ。そこにイラク国王の暗殺の報だ。

 しかし、ご学友が遊びに来てる時にわざわざ、こんな事を報告するなんて、侍従もおかしい。島田はさらにこう続けている。

 『のちに、戦後初の国賓として来日し、鴨猟で接待したエチオピア皇帝ハイレ・セラシェも亡くなり、イランのホメイニ革命によりパーレビ王朝も打倒され、アジアからは続々、王制が消えてゆく。

 長男浩宮が生まれると、明仁皇太子は学友たちに「浩宮の代で最後になるのだろうか」といったという』
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2005/shuchou0822.html

http://www.asyura2.com/12/social9/msg/352.html#c247

[近代史3] 米軍は何故日本に駐留しているのか? 日本は何故軍隊が持てないのか? 中川隆
10. 中川隆[-8756] koaQ7Jey 2019年8月20日 06:17:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3987]
2019年08月19日
謝罪に取り憑かれた平成天皇 平成30年の悪夢

国家元首が自国の悪口を言いふらすとどうなるか、天皇は理解していなかった


画像引用:http://blog-imgs-93.fc2.com/j/y/o/jyouhouwosagasu/s_ice_screenshot_20160815-151551.jpeg

天皇は謝罪が良い事だと思っていた

2019年5月に平成から令和に元号が変わり、そのとたんに日本は韓国に対して冷たくなりました。

それまでは韓国が何を言ってきても、ただひたすら謝罪してお金を払っていたのに、人が変わったようになった。

6月には韓国への制裁を予告し、7月に入ると半導体素材3品目優遇措置撤廃、ホワイト国除外を打ち出した。

日本政府は第3弾や第4弾も検討中で、韓国が日本側が求める国際法の遵守に応じなければ発動する構えです。

確かに韓国は国連安保理の北朝鮮制裁決議に違反して北に密輸しているし、日本から輸入した軍需物資を勝手に転売している。

だがその手の事は過去70年間ずっとやってきた事で、今年始めたわけではありません。


また韓国は日米の反対を無視してロシアから弾道ミサイル技術を購入し、九州や西日本まで届くミサイル数百発を保有している。

さらに韓国は過去に何度か核開発を試みたことがあり、核兵器開発を目指していたのは公然たる事実です。

また韓国軍は日本を標的として自衛隊に対抗する軍艦や戦闘機を配備し、北朝鮮ではなく日本を仮想敵国としている。


これも70年前からそうだったのであり、竹島を侵略した時から変わっていないだけです。

韓国がやっている事は70年間変わっていないのに、日本側の姿勢だけが今年に入って激変した理由が何かある筈です。

日本が変わった原因は天皇の代替わりで、今まで天皇の存在によってできなかった事を、令和になったから日本政府はできるようになった。

平成悪夢の30年が始まった。

今から30年前の平成元年、昭和天皇が崩御して平成になったが、この瞬間から日本は「謝罪外交」を始めました。

中国にも韓国にも北朝鮮にもロシアにも欧米にも、とにかく誰にでも謝罪して過去の戦争を詫び、お金を払ってきました。

象徴的な事件が1992年(平成4年)の天皇訪中で、当時中国は天安門事件で世界から経済制裁されていたので、全世界が驚きました。


天皇は頼まれてもいないのに自分の意志で中国を訪問し、過去の戦争に謝罪して帰ってきました。

これで中国への経済制裁は有名無実になり、90年代の高度成長が始まり、日本から中国へお金と技術が流出していきました。

韓国へも同様にお金と技術と人が流れていき、天皇は「これで過去の謝罪ができた」と喜んでいました。


だが天皇の謝罪によって日本からお金、技術、人材、様々な権利が流出し、日本経済崩壊の原因を作った。

日中や日韓が経済問題で対立しているのに、天皇がしゃしゃり出てきて談話などで「すべて日本が悪いです」「日本は最悪です」と言ってしまう。

乖離が表面化したのは安倍内閣で、終戦の日に首相は「日本の戦争被害」を訴えているのに、天皇は「日本が侵略した国々の被害」しか言わない。


とうとう天皇はヘソを曲げて退位してしまったのだが、もう30年早く退位してくれたら日本の没落はなかったでしょう。

天皇は1933年(昭和8年)生まれで終戦時に12歳、この時東京大空襲で皇居以外は焼け野原になり、占領した連合軍に粛清される可能性もあった。(この時ソ連軍も東京を占領しようとしていた)

敗戦で子供のころ死を覚悟しなくてはならなかった事や、日本軍や日本に裏切られた、騙されたという思いがあったのでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/80723382.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/575.html#c10

[政治・選挙・NHK264] 米国ワシントン・ポストは、安倍政権下の日本より韓国の肩を持っている:対米自爆テロリスト・カミカゼ特攻隊を賛美する安倍氏… 赤かぶ
9. 中川隆[-8755] koaQ7Jey 2019年8月20日 06:20:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3988]
神風特攻は太平洋戦争が八百長だと見破られない為に昭和天皇が命令してやらせた


[2019.7.29放送]週刊クライテリオン 藤井聡のあるがままラジオ(KBS京都ラジオ) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ffcFIkJDkSg


2019/07/05 藤井聡 京都大学大学院工学部研究科教授
不条理な大和特攻という大本営決定
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/money/257604


 この週末、ある雑誌の企画で吉田満氏の「戦艦大和の最期」という文学作品についての座談会を行った。


戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫) – 1994/8/3
吉田 満 (著)


この作品は、先の大戦末期、沖縄戦に特攻出撃した戦艦大和の、出撃命令が出てから撃沈されるまでの数週間を描いた物語だ。吉田氏はこの大和の乗船員で、上官の脱出命令を受ける形で九死に一生を得て奇跡的に生き残り、無事生還した後に、たった一日でその初稿全文を書き上げたという。

 この作品には、この大和の出撃に対して「現場」が猛反発していた様子が克明に描かれている。大和には一機の戦闘機の護衛もなく、ほぼ丸裸の状態で何百何千というアメリカの雷撃機・攻撃機の猛攻を受けることが必定であり、一切何の戦果を上げること無く轟沈することは、誰の目にも明らかだったからだ。

 しかし、そんな現場の大反対を完全に無視する形で、大本営からの大和出撃令は覆らなかった。そして案の定、誰もが予期した通り大和は徳之島沖で米軍機の猛攻を受け、攻撃開始からたった数時間であえなく撃沈した。


 一気に3000人を超える特攻死をもたらした、この史上最大の「特効作戦」の全容を記した『戦艦大和の最期』からは、現場が如何に必死に闘ったかが克明に浮かび上がってくる。そしてわれわれ読者はその戦いに対して、その初稿の最後に書かれていたという『天下に恥じざる最期なり』との結語を繰り返す他にない。


 ただし、そうした現場の兵士達の勇猛果敢な戦いぶりは、その大本営の判断を正当化する論拠にはなり得ない。そもそもわれわれは、「軍事作戦の成果」の視点から現場の幹部全員が猛反対していたという事実、そして、現実は彼らが主張した通りの顛末に終わったという事実をけっして忘れてはならない。


▲△▽▼


昭和天皇の特攻命令:戦艦大和の場合


1945年4月6日,第二艦隊司令長官・伊藤整一中将座乗の巨大戦艦「大和」は,9隻の艦艇をしたがえて徳山沖を出航,沖縄本島西部海域をめざす征途についた。連合艦隊の生き残りをあつめた最後の艦隊出撃である。作戦計画では航空機による護衛は皆無。燃料は全艦片道分しか搭載せず,生還を期さない海上特攻であった。

作戦構想の内容とは,はじめ敵迎撃機の攻撃を吸収する海上の“囮”となって特攻機の突撃を助け,次に敵上陸地点へ殴り込んで徹底的な艦砲射撃を加え,最後に銃をとって陸上戦をたたかう,というものであった。しかしこんな計画が実行できるはずはない。実際,南西海域の制空権と制海権はすでにアメリカ側に握られている。その海域を,わずか10隻の残存艦隊が航空機による護衛もなく進攻すればどうなるかは問うまでもない。出撃命令の下命以前から,伊藤・第二艦隊司令長官は断固反対との意見具申をおこなった。

伊藤中将の頑強な反対を異例の事態と認めた中央は,説得のための特使として,連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将を派遣, “説得”は成功した。しかしそれは,「一億総特攻の模範となるよう,立派に死んでもらいたい」という言葉によってであった。

本作戦発動の一週間前,及川軍令部総長が沖縄方面の戦況ついて,「航空機による特攻攻撃を激しくやります」と天皇に報告した。

すると天皇から重ねて,

「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか」

と“御下問”があった。及川総長はこれを

「水上部隊は何をしているのか」

という叱正の言葉と解した。

及川総長から連絡を受けた豊田連合艦隊司令長官は,さっそく

「畏レ多キオ言葉ヲ拝シ恐懼二堪エズ」

にはじまる緊急電を発し,あくまで作戦の完遂を期すべし,と呼びかけた。

「海上部隊はあるか?」

という疑問の言葉は

「あるなら使ってはどうか」

という間接的・暗示的命令として解されうる。

「海上部隊はないのか?」

という否定疑問文では,こうした間接的・暗示的命令性がいっそう強まるだけではなく,

「あるのになぜ使わないのか!」

という“叱正”のニュアンスまでが加わってくる。


こうして及川総長と海軍首脳部は

「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか?」

という“御下問”を深読みし,そこにまず

「あるなら使ってはどうか?」

という間接的・暗示的な命令を発見する。連日出動してゆく特攻機群にくらべて,空しく係留・温存されている海上部隊は顔向けができない。天皇に対しても,特攻機に対しても面子まるつぶれではないか。間接的・暗示的な命令は

「あるのになぜ使わないのか!」

という“叱正”と解され,“恐懼”の感情を誘発し,海上部隊活用への「焦り」を生む。

海軍上層部の空気は変化し,ついには海上特攻艦隊という構想へ到達したと推定されるのだ。それだけではない。天皇の発言を契機として生じた海軍上層部の空気のこうした変化こそが,草鹿特使の“説得”の真の内容であったと推定することによって,伊藤中将の態度急変の謎も初めて解けるのだ。

こうして,戦艦大和がひきいる10隻の特攻艦隊は,死の南西海域へ向って出撃して行った。


▲△▽▼


鬼塚英昭 昭和天皇はアメリカのスパイだった


日本の真相2 仕組まれる戦争・皇室スキャンダル - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_YfXIhybq5U&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=2

日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=3

日本の真相4 こじつけの天皇無罪論 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=34HEcM9qvqc&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=4

日本の真相5 すべての戦争は八百長である - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kIXzkY8VtLU&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=5


http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/635.html#c9

[近代史3] 天皇一族だけでなく日本人の大人の幼児化も進行している 中川隆
17. 中川隆[-8760] koaQ7Jey 2019年8月20日 06:42:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3983]

あおり殴打撮影「ガラケー女」と宮崎容疑者《そろってサングラスのまま飲食動画》 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8GsXfK6oXkE


あおり殴打撮影「ガラケー女」と宮崎容疑者《そろってサングラスのまま飲食動画》
「週刊文春」編集部
https://bunshun.jp/articles/-/13476

 茨城県守谷市の常磐自動車道で起きた「あおり運転暴行」事件で、宮崎文夫容疑者(43)とともに、犯人隠匿の容疑で逮捕された喜本奈津子容疑者(51)。犯行の一部始終を収めた被害者のドライブレコーダーの映像には、喜本容疑者がガラケーを片手に被害者の車へ近付いてくる様子が映っていた。喜本容疑者は8月19日(月)早朝、宮崎容疑者と同じ茨城県警取手署に移送された。


取手署に移送される宮崎容疑者 ©文藝春秋


 宮崎容疑者がオーナーでもある大阪市内の自宅マンションでは、今年5月頃から2人の姿が目撃されている。2人は交際関係にあったという。取手署に移送される際も宮崎容疑者は手で顔を覆っていたが、顔を隠すのは2人とって日常的な行動だったようだ。


取手署に移送される喜本容疑者 ©文藝春秋


「夜に宮崎と女性を何度か見かけたが、2人ともいつもサングラスをして、帽子をかぶっていた。近所づきあいはもちろん、挨拶すらない。むしろ威嚇してくる感じで近寄りがたかった」(地元住民)

 取材班が入手した映像でも、2人はサングラスをかけたまま食事をとっている。


サングラスをかけたまま食事する2人

 今年4月、2人が訪れた飲食店での映像だ。

 2人が起こしたトラブルや奇行は、東京〜大阪間の複数の地域で目撃されている。三重県伊賀市の精肉店でも高級伊賀牛を買い求める宮崎容疑者の姿が目撃されている。2人の活動拠点は大阪だけではなかった。

「宮崎の健康保険証の住所は小田原で、運転免許証の住所は名古屋になっていた。小田原には今年7月まで一軒家に住んでいて、名古屋は約1年前まで古いマンションを借り、会社の所在地にしている。どちらの場所でも、喜本容疑者も目撃されている。

 喜本は宮崎の恋人であると同時に、仕事のパートナーでもある。出会い系サイトで知り合ったようだ。ちなみに喜本の住所は東京・品川区のアパート。2人は車で全国を転々としていた。宮崎の潜伏先はいくつもあったため、県警の捜査も難航し、逮捕まで時間がかかったようだ」(社会部記者)

 品川区内の喜本容疑者のアパートでも奇行が確認されている。

「今年6月くらいから越してきて、留守の日が多かったが、朝方に男女で帰ってきて言い争っていたこともあった。男がいつも女を罵って、女が外に出て行く。その声が聞こえていた。男がいるときは決まって向かいの家の前に高級車を停めていた。先週、先々週くらいはうるさい日が多かったが、ここ何日間かは声が聞こえなかった」(アパート住民)


確保される宮崎容疑者。手前は喜本容疑者 ©文藝春秋

確保される宮崎容疑者。手前は喜本容疑者 ©文藝春秋

 喜本容疑者の親戚は、取材にこう答えた。

「ああいう人ですから10年以上前に縁が切れています。写真もない。他の親戚もみんな離れています。性格に難がある方でして……もう、関わりたくないんです」

 2人の容疑者は8月20日に送検される予定だ。
https://bunshun.jp/articles/-/13476
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/120.html#c17

[近代史3] 天皇一族だけでなく日本人の大人の幼児化も進行している 中川隆
18. 中川隆[-8759] koaQ7Jey 2019年8月20日 06:44:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3984]

【大阪で逮捕】“あおり運転殴打”宮崎文夫容疑者 「話すのは車と女のことだけ」元同期男性が見た執着
清水 俊一 2019/08/18
https://bunshun.jp/articles/-/13443


 茨城県内の高速道路上で煽り運転を繰り返した末に、男性ドライバーを殴りつけた宮崎文夫容疑者(43)。

 警察は宮崎容疑者を全国に指名手配し、8月18日午前に大阪市内で逮捕した。

「名前を見て彼だと分かった時、ああ、やりそうだな、と思いました」

  こう話すのは、宮崎容疑者と同期入社した男性だ。

 関西の有名私大を卒業した後に宮崎容疑者が入社したのは、精密機器を製造販売する東証1部上場のキーエンスだった。

 同社は世界約50カ国に進出し、海外売り上げ比率が5割を超える超優良企業。社員の待遇が良いことでも知られ、上場企業の平均年収ランキングでは常に上位。2019年3月期の平均年収は、平均年齢35.8歳で実に2110万円に上る。

「今思えば彼が入社できたのは不思議ですが、キーエンスにはコネ入社は無いと言われます。筆記試験はありませんでしたが、適性試験があり、面接も3回か4回行いました」(同期入社の男性)

昔から「車」と「女」に執着

 この事件で特異だったのは、被害者の車に向かってくる宮崎容疑者と共に、車を降り、携帯電話で撮影しながら近づいてくる同乗の女の姿だった。「車」と「女」に宮崎容疑者は昔から執着していたという。

「同期は約40人でしたが、車を持っていたのは2人だけでした。その1人が彼。学生時代から、アルピナの濃紺のBMW5シリーズに乗っていました。話すのは車と女のことだけ。金のネックレスをしていて“女に貰った”と自慢していました。

 研修が終わった後、彼は名古屋に配属されました。キーエンスは待遇が良く、引っ越し代が支給され、車の所有者は専門の業者が運んでくれます。しかし彼は自分の車のハンドルを他人が握ることを嫌がり、“(本社のある)大阪から名古屋までなら自分で運転していく”と、人事部に最後までゴネていました。

 とにかくテンションが高い。しかし、話が面白くない。同期の中では浮いた存在でした」(同前)


仕事はできなかったという。

「入社後の新人研修では断トツでビリでした。ビジネスマナー講習の時には、白いワイシャツの下にハードロックバンドの黒のTシャツを着て、怒られていました。

 キーエンスには複数の事業部がある。彼は研修後、名古屋のMECT事業部に配属されてマイクロスコープ(デジタル顕微鏡)の販売担当になりましたが、辞めるまでに1台も売れなかったのでは?」(同前)

“オレはビッグになる”と言い残し、入社1年たたずに退社

 宮崎容疑者は、入社1年たたずに退社した。

「辞める時、“オレはビッグになる”と言っていました。田原俊彦のビッグ発言は5年も6年も前のことでしたけど(笑)。それに、“中古車屋でもやるわ”とも言っていました。


宮崎容疑者のSNSより

  同期に手を挙げるなどの暴力傾向は見えませんでしたが、上司に怒られても、まったくこたえていなかったのが印象的です。怒られた意味を理解していない、と思うほどでした。

 彼が辞めた2、3年後に未登録番号の着信があり、出てみると彼でした。“オレのこと分かる?”と聞いてきて“いや”と答えると、“冷たいなあ”と言って30分ぐらいネチネチと絡まれました」(同前)

 宮崎容疑者は事件後、大阪市内で食べた牛タン定食の画像を自身のインスタグラムに投稿するなど不可解な行動も見せていた。今回も、まったくこたえていないのだろうか。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/120.html#c18

[リバイバル4] Western electric 124 amplifier _ すべてのアンプの中で最も艶やかな音の WE350B プッシュプルアンプ 中川隆
3. 中川隆[-8758] koaQ7Jey 2019年8月20日 07:18:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3985]

自分が聴いた中で弦楽と声楽を最高の音で聴かせてくれた真空管アンプ Western electric 124 amplifier

戦後のWEアンプでもっともWE色が強く、百花繚乱の凄美艶音を聴かせる。

適合するスピーカーは

ALTEC A5, A7, 604, 604B oldtype
TANNOY autogrph, VLZ
VITVAOX CN191


http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/133.html#c3

[リバイバル3] 起業するより多国籍企業に投資する(現物株を買う)方がギャンブル度は遥かに低い 中川隆
19. 中川隆[-8757] koaQ7Jey 2019年8月20日 07:25:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3986]

2019年08月20日
個人起業は「頑張らない」ほうが長続きする

自分一人なので、骨身を削る努力は続かない

頑張る起業家は倒れやすい

アンケートによると多くの人が副業を希望していて、中には自分で開業したりネット起業する人もいます。

起業といっても副業としてなら、今はメルカリやヤフオク、アマゾンで個人出品したり、クラウドソーシングもある。

技能や資格を生かして仕事を請け負ったり、古典的な飲食店開業とか人手不足の運送業界などもある。


現在は人手不足なので逆にいえば個人起業でもチャンスがあるが、1人の体力や精神力には限界がある。

よくあるパターンとしては仕事を始めるときは気力体力ともに充実していて、何でもできるように感じる。

寝る間を惜しんで働いて受けれる仕事は全部受けて、限界まで頑張ってしまう。


最初の気力が続くのは3か月までで、戦争のような極限状態でもそれ以上人間の気力は続かないそうです。

半年、1年が経つとペースが落ちていき、3年ほど経つと疲労が蓄積されて、5年くらい経つと心身とも限界になってしまう。

こうして経営的にはなんとかなっているとしても、数年で廃業する人が非常に多い。


中小企業白書によると個人で開業した約3割が1年以内に廃業、2年で約半数、10年後には88%が廃業しています。

個人ではなく会社を設立した場合、1年以内で6割が廃業(倒産)し、5年後には85%が廃業、10年後に残っているのは6%でした。

個人と会社を比較すると意外にもどの年数で見ても、個人起業のほうが2倍以上多く生き残っています。

頑張らない方が長続きする

会社設立は勝者総取りで地域に1社しか生き残れないのに対し、個人は小さな隙間があれば続けることが可能です。

個人起業のメリットはコストを安く抑えられることで、人を雇わず自宅オフィスなら新たな固定支出は不要です。

「なんでも屋」とかネット上の作業なら新規コストゼロで開業でき、売り上げはすべて自分のものになります。


個人起業の欠点は労働力が自分一人しかいない事で、自分がどれだけ頑張ったかが売り上げに直結します。

そこで多くの人は寝る間も惜しんで働くのだが、気力と体力は長続きしないものです。

自分が寝る間を惜しんで働かないと利益が出ないという事は、その事業そのものに問題があるかも知れません。


「頑張らない」「サービスしない」「努力しない」それでも続けられるような事なら10年20年とやっていけるでしょう。

だが毎日限界まで働いて精いっぱいお客さんにサービスしなくては経営が成り立たないのでは、その事業は先が見えています。

商店などの閉店の張り紙では「店主が身体を壊したため休業します」というのが非常に多いです。


一方でそれほど頑張らなくても、身体を壊してもやれるような事業だったら閉店しなくても済んだかも知れません。
http://www.thutmosev.com/archives/80713380.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/826.html#c19

[リバイバル4] 日本人はネアンデルタール人の生き残り? 中川隆
8. 中川隆[-8756] koaQ7Jey 2019年8月20日 07:34:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3987]

2019年08月19日
ネアンデルタール人と現生人類との交雑をめぐる認識の変遷
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_35.html


 現在では、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)との交雑はほぼ定説として確立した、と言ってよいでしょう。しかし、10年ほど前までは、ネアンデルタール人と現生人類との交雑に否定的な見解が主流でした。たとえば、原書が2009年に刊行された『そして最後にヒトが残った ネアンデルタール人と私たちの50万年史』(関連記事)がそうです。同じく原書が2009年に刊行された『人類20万年遥かなる旅路』(関連記事)は、ネアンデルタール人と現生人類との交雑の可能性を完全に排除しているわけではないとしても否定的で、交雑が起きたとしても取るに足らない程度だった、と主張しています(P344)。

 この状況が大きく変わったのは2010年5月に公表された『サイエンス』論文(関連記事)で、これ以降、ネアンデルタール人と現生人類との交雑を認める見解が優勢になり、現在ではほぼ定説として認められています。日本語環境でも、これ以前には交雑否定説が圧倒的に優勢だったように記憶しています。おそらく、ネアンデルタール人と現生人類との交雑に否定的な見解が最も優勢だったのは、ネアンデルタール人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果が初めて報告された1997年から2010年5月までだったのでしょう。

 しかし、この間も、ネアンデルタール人と現生人類との交雑の可能性を指摘した遺伝学的研究はあり、たとえば、まだネアンデルタール人のゲノム解析結果がまったく公表されていない2006年7月の時点で、ヨーロッパ系現代人にネアンデルタール人の遺伝的影響があることを報告した論文が公表されています(関連記事)。私は2003〜2004年頃に、現生人類によるネアンデルタール人などユーラシアの先住人類との完全置換説から交雑説へと転向したので(関連記事)、交雑説に否定的な見解が圧倒的に優勢な状況で、交雑説に肯定的な研究を心強く思ったものです。

 ただ、だからといって、ネアンデルタール人と現生人類との交雑に否定的だった人々を責めることは妥当ではない、と私は考えています。ネアンデルタール人の核DNA解析の詳細な結果が公表されるまで、ネアンデルタール人と現生人類の直接的なDNA比較はミトコンドリアだけで可能でした。mtDNAの比較では、当時も今もネアンデルタール人と現生人類の交雑の痕跡は見つかっておらず、今後も見つかる可能性は皆無に近いでしょう。その意味で、ネアンデルタール人と現生人類との交雑に否定的な見解が主流だったことは、強く批判されるべきではない、と思います。
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_35.html
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/105.html#c8

[リバイバル3] 中川隆 _ 古代史、人類学、ハプロタイプ、民族学関係投稿リンク 中川隆
35. 2019年8月20日 07:47:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3988]
人類進化史
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/581.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/811.html#c35
[リバイバル4] 日本人はネアンデルタール人の生き残り? 中川隆
9. 中川隆[-8755] koaQ7Jey 2019年8月20日 08:10:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3989]
2019年08月20日
近年における過去100万年の人類進化史研究の進展
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_37.html


 近年における過去100万年の人類進化史研究の進展を概観した研究(Galway‐Witham et al., 2019)が公表されました。


Aspects of human physical and behavioural evolution during the last 1 million years
First published: 14 August 2019
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/jqs.3137

この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は最近15年ほどの研究の進展を対象としており、広範な分野の研究の進展を簡潔に紹介するとともに、現時点での問題点を整理し、今後の展望も示しており、たいへん有益な人類進化史概説にもなっていると思います。近年の人類進化研究を把握するうえで、当分は必読の文献となるでしょう。以下、本論文の簡単な紹介です。


●21世紀初頭の時点での人類進化史理解

 21世紀初頭の現生人類(Homo sapiens)アフリカ単一起源説では、過去50万年間の人類進化は比較的単純でした。古代型のハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)が広範に拡散し、化石記録から消える前の40万年前頃に2系統に分岐した、と想定されていました。「古代型」とは、現生人類ではないホモ属のほぼすべての構成員を指し、長くて低い頭蓋や強くて連続的な眉弓が形態的特徴です。これは、現生人類の球状の頭蓋や弱い眼窩上隆起や頤や狭い骨盤とは対照的です。

 ハイデルベルク人の子孫は、ユーラシア西部ではネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)、アフリカでは現生人類へとじょじょに進化しました。その2系統のうち最古の人類遺骸は、ネアンデルタール人系統では40万年前頃となるイギリスのスウォンズクーム(Swanscombe)頭蓋、現生人類系統では13万年以上前となるオモ・キビシュ1(Omo Kibish 1)遺骸(オモ1号)です。ネアンデルタール人系統は寒冷気候に、現生人類系統は熱帯気候に適応した、と考えられます。現代人の遺伝データからは、現生人類がアフリカからユーラシアへと55000年前頃に拡散して、45000年前頃にオーストラリアへ到達し、3万年前頃までにユーラシアのネアンデルタール人は現生人類と最低限交雑したか、もしくはまったく交雑せずに、現生人類に置換されました。

 中国では、陝西省渭南市の大茘(Dali)遺跡や広東省韶関市の馬壩(Maba)遺跡で古代型ホモ属化石が報告されており、ジャワ島では現生人類が拡散してきた45000年前頃まで、エレクトス(Homo erectus)が存在していました。アジアとオセアニアの分布境界線であるウォレス線を越えて東進できたのは、外洋航海が可能だった現生人類だけでした。ヨーロッパでは、「現代的」行動が現生人類の到達した4万年前頃に突然出現した、と考えられていました。「現代的」行動は認知能力の進化に伴い一括して出現した、と想定されていました。

 こうした認識は、この15年ほどの研究の進展により大きく変わらざるを得ませんでした。予想外の人類遺骸が相次いで発見されるとともに、「現代的」行動はアフリカで想定よりもずっと古くからじょじょに出現してきた、という証拠が蓄積されてきました。以下、本論文はこの15年ほどの研究の進展を整理します。


●気候変動

 100万〜70万年前頃には気候変動が激しく、94万〜87万年前頃には、アフリカ北部とヨーロッパ東部で乾燥化が進展しました。これにより、人類も含むアフリカ起源の大型哺乳類がヨーロッパ南部へと拡散した、との見解も提示されています。人類にとって比較的好条件の環境期間も60万〜10万年前頃の間で特定されており、それが人類の出アフリカを可能としたかもしれません。更新世の前期から中期への移行は、一般的には78万年前頃とされますが、大まかには922000〜640000年前頃の移行期により分離されます。

 概して、穏やかな間氷期には人類の居住範囲は拡大したようです。こうした人類の居住可能範囲が変動するなかで、更新世においてアジア南西部の気候は一貫して、人類の居住に適している可能性が指摘されています。26500〜20000年前頃となる最終氷期極大期(LGM)に近づくにつれて、平均乾燥度は増加し、タール砂漠のような地域は断続的に居住に適さなくなりました。一方、気候変動にともない、サハラ砂漠やアラビア砂漠のような居住に適さない地域も、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5となる130000〜118000年前頃、106000〜94000年前頃、89000〜73000年前頃や、MIS3となる59000〜47000年前頃には、モンスーン活動の増加により植物が繁茂したこともありました。また、軌道も千年単位での急激な気候変動の要因となり、人類の移動に大きな影響を及ぼしたかもしれません。


●混乱が続く中期更新世における人類進化の理解

 78万〜13万年前頃の中期更新世における人類進化についての理解は、多くの人類遺骸の発見と古代DNA研究の進展にも関わらず、混乱したままです。その焦点の一つは、ハイデルベルク人の評価です。上述のように、ハイデルベルク人はアフリカとユーラシアの広範な地域に拡散し、ヨーロッパのネアンデルタール人とアフリカの現生人類の祖先だった、との見解が以前は主流でした。一方、ハイデルベルク人の正基準標本とされているドイツのマウエル(Mauer)で発見された下顎骨はネアンデルタール人と現生人類の共通祖先と想定するにはあまりにも特殊化しているとか、ハイデルベルゲンシスは形態学的に多様性が大きく一つの種に収まらないほどの変異幅があるとかいった見解も提示されるようになりました(関連記事)。

 そのため、ザンビアのブロークンヒル(Broken Hill)で発見された頭蓋をローデシア人(Homo rhodesiensis)と分類し、アフリカの現生人類の祖先と想定する見解も提示されました。ローデシア人を現生人類の祖先系統とする見解では、ネアンデルタール人系統と現生人類系統のより古い分岐が想定され、たとえば、スペイン北部で発見された85万年前頃のホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)は、ネアンデルタール人と現生人類の最終共通祖先の形態に近いのではないか、と推測されています。ネアンデルタール人系統と現生人類系統の分岐年代に関してはまだ確定しておらず、60万〜50万年前頃とする見解や、80万年以上前とする見解も提示されています(関連記事)。

 本論文は、中期更新世には少なくとも2つの異なる顔の系統があったかもしれない、と指摘します。一方は、祖先的ではあるものの、現生人類とも類似している華奢な系統で、上述のアンテセッサーと、中国の南京やモロッコのジェベルイルード(Jebel Irhoud)で発見された人類遺骸です。もう一方は、比較的高身長のより派生的な系統で、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」(以下、SHと省略)やギリシアのペトラローナ(Petralona)やザンビアのブロークンヒル(Broken Hill)で発見された人類遺骸です。

 43万年前頃のSH集団は、頭蓋(関連記事)でも頭蓋以外の形態(関連記事)でも核DNAでも(関連記事)ネアンデルタール人系統に位置づけられます。形態的に現生人類系統に位置づけられる人類遺骸として最古のものは、SH集団よりは新しい315000年前頃となり、モロッコのジェベルイルード(Jebel Irhoud)遺跡で発見されました(関連記事)。これより明確に現生人類系統に位置づけられる人類遺骸としては、エチオピアのオモ1号があり(関連記事)、年代は195000年前頃と推定されています(関連記事)。

 現生人類の起源に関しては、アフリカ単一起源説を前提としつつも、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類が形成された、との「アフリカ多地域進化説」が提示されています(関連記事)。アフリカ外では、イスラエルのカルメル山にあるミスリヤ洞窟(Misliya Cave)で発見された194000〜177000年前頃と推定されているホモ属の上顎(関連記事)と、ギリシア南部のマニ半島のアピディマ(Apidima)洞窟で発見された21万年以上前のホモ属頭蓋(関連記事)が現生人類と区分されていますが、遺骸が断片的なので、分類に慎重な研究者もいます。


●ホモ・フロレシエンシス

 上述のように、ウォレス線以東に拡散できた人類は現生人類だけだと長年考えられていました。しかし、インドネシア領フローレス島で2003年に発見された更新世の人類遺骸は、ホモ属の新種フロレシエンシス(Homo floresiensis)と分類されました。フロレシエンシスの正基準標本はLB1です。フロレシエンシスの身長は105cmほど、脳容量は420mlと現生人類平均値の1/3以下で、樹上生活に適しているように見える上半身や祖先的な手首や比較的短い脚など、祖先的で特異的な特徴を示しています。一方、LB1の顔はより派生的で、歯は現生人類のサイズと類似しているものの、祖先的もしくは特異的な特徴も見られます。

 LB1について、当初は病変の現生人類との見解が強く主張されました。しかし、そうした病変現生人類説はいずれも、LB1の全体的な形態を整合的に説明できず、現在では新種説でほぼ確定したと言えるでしょう。ただ、LB1が現生人類ではないとしても、何らかの病変を示している可能性も指摘されています。フロレシエンシスについては、2016年に大きく研究が進展しました(関連記事)。当初フロレシエンシスの下限年代は12000年前頃と推定されていましたが、5万年前頃までさかのぼり、フローレス島中央のソア盆地のマタメンゲ(Mata Menge)遺跡では、フロレシエンシスと類似した70万年前頃の人類遺骸が発見されています。フローレス島では100万年以上前の石器群も発見されており、フロレシエンシス系統が100万年以上にわたってフローレス島で進化してきた可能性も考えられます。

 フロレシエンシスの起源については、ジャワ島のホモ・エレクトス(Homo erectus)から進化したとする説と、より祖先的(アウストラロピテクス属的)な人類、たとえばホモ・ハビリス(Homo habilis)から進化したとする説とが提示されており、まだ議論が続いています。更新世のフローレス島への進出には渡海が必要ですが、フロレシエンシス系統がどのようにフローレス島に到達したのかは不明で、海流を考慮するとスラウェシ島から到達した可能性が高い、と推測されています(関連記事)。


●ホモ・ナレディ

 2015年、南アフリカ共和国のライジングスター洞窟(Rising Star Cave)にあるディナレディ空洞(Dinaledi Chamber)で発見された多数の人類化石が公表されました(関連記事)。この人類集団はホモ属の新種ナレディ(Homo naledi)と分類されました。発見場所が洞窟の奥深くであることから、埋葬の可能性も指摘されています。ナレディの脳容量は400〜610mlで、現生人類やネアンデルタール人のような派生的特徴と、ハビリスのような祖先的特徴とが混在しています。総合的にみると、ナレディの形態の個々の特徴は他の人類集団にも見られるものの、その組み合わせが独特と言えます。ナレディの脳はホモ属と分類するのを躊躇うくらい小さいのですが、その前頭葉、とくに下前頭回および外側眼窩回において、他のホモ属種との共通点が指摘されています(関連記事)。

 ナレディの年代は335000〜236000年前頃と推定されています(関連記事)。フロレシエンシスと、今年(2019年)公表された(関連記事)ルソン島のホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)は、孤立した島で独自に進化した祖先的特徴を有する人類集団と考えられますが、現生人類系統も含むホモ属も存在したアフリカ南部で、ナレディのような祖先的特徴を有する人類が30万年前頃以降も存在していたのは、どのように他のホモ属と共存していたのか、という問題を提起します。ナレディの進化史は現時点ではほぼ完全に不明で、アフリカの他の人類化石がナレディの系統に分類できるかもしれませんし、既知の石器群の中にナレディが製作したものもあるかもしれません。

 このようにアフリカでも、中期更新世に現生人類へと進化していくという観点で単純に進化史を把握できなくなりました。本論文は、30万年前頃のアフリカには、モロッコのジェベルイルード(Jebel Irhoud)に代表される現生人類系統、ザンビアのブロークンヒル(Broken Hill)で発見されたローデシア人(Homo rhodesiensis)系統、ナレディ系統という、少なくとも3系統の人類が存在していただろう、と指摘しています。アフリカにおいて中期更新世後期以降も複数系統の人類が存在した可能性は、遺伝学からも提示されています(関連記事)。


●現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人との交雑

 古代DNA研究の飛躍的な進展により、過去100万年の複雑な人類進化史が明らかになりつつあります。この分野での大きな成果は、ネアンデルタール人のゲノム解析と、形態学では区分できないような断片的な人類遺骸から、デニソワ人(Denisovan)という分類群を定義できたことです(関連記事)。デニソワ人の種区分は未定です。今では、現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人との間に交雑があった、と広く認められています(関連記事)。ネアンデルタール人と現生人類の交雑は、6万〜5万年前頃にアジア南西部で起きた可能性が高そうです。

 現代人へのネアンデルタール人の遺伝的影響として、皮膚や髪や免疫系などが挙げられています。ネアンデルタール人の現代人への遺伝的影響は、サハラ砂漠以南のアフリカ系ではほとんど見られず、非アフリカ系では多少見られ、大きな違いはありませんが、ユーラシア西部系現代人よりもユーラシア東部系現代人の方が、ネアンデルタール人の遺伝的影響は高くなっています。デニソワ人の現代人への遺伝的影響に関しては大きな地理的違いがあり、オセアニアにおいてとくに高くなっており、アジア東部および南部でもわずかに確認されます。どのようにこうした地域的な違いが生じたのか、現時点では確定していません。


●現生人類のDNA解析

 現生人類の古代DNA解析は、アフリカでは15000年前(関連記事)、ユーラシアでは45000年前(関連記事)までしかさかのぼりません。しかし、現代人のゲノムデータは多数得られており、現生人類の進化史の推定に役立っています。現生人類系統では遅くとも20万年前頃には遺伝的多様化が始まっており(関連記事)、出アフリカは6万年前頃と推定されています。しかし、それ以前のアフリカ外における現生人類の存在も複数報告されています(関連記事)。これは、6万年前よりも前の出アフリカ早期現生人類集団が、絶滅したか、後続の現生人類集団により同化されてしまったことを示唆します。

●頭蓋以外の形態の進化傾向

 過去100万年の形態的な人類進化史は、おもに歯を含む頭蓋の分析に依拠しています。頭蓋以外の化石は、比較対象の少なさから特定の分類群に区分することが困難な場合もあります。また、現時点での証拠からは、現生人類と他の古代型ホモ属との違いのほとんどは頭蓋にあることも、頭蓋以外の形態での分類を困難にしています。頭蓋以外の形態でのおもな違いとして、後肢の頑丈さがありますが、後期ホモ属は形態的には、他の分類群よりも多様性が低く、前期ホモ属までよりも大柄という特徴を共有しています。この傾向に合致しないのが、身長146cmほどのホモ・ナレディと、身長106cmほどのホモ・フロレシエンシスです。


●エネルギー消費の変化

 過去100万年の人類進化史における大型化は、エネルギー消費の増加をもたらした、と考えられます。しかし、化石記録からの直接測定は困難です。そこで、移動様式の効率性からエネルギー消費が推定されています。現代人のような移動様式は、100万年前頃以降に出現した、と推測されています。ネアンデルタール人はヨーロッパのアフリカより寒冷な気候に適応し、現生人類よりも頑丈な体格だったので、現生人類よりも1日あたり100〜350kcal余分に摂取する必要があった、と推定されています。一方、フロレシエンシスのように島嶼科により小型化したと思われる人類もいますが、これは、利用可能な資源というかエネルギー消費量の制約に起因するかもしれません。


●技術と身体的進化

 脳の進化と技術開発には相互作用的なところがあり、脳の進化が技術革新をもたらし、その技術革新が大きな脳の維持に必要なエネルギー消費をより容易にした、という側面があります。これは、正のフィードバックシステムと呼ばれています。脳に限らず、身体的特徴と技術も含めた広い意味での文化進化には、しばしば相互作用が見られます。人類の適応に重要な役割を果たした可能性がある技術として火の制御がありますが、衣服も重視されています。衣服は長期間の保存に適さないため、更新世の衣服の使用に関しては骨針が考古学的指標となります。現時点では、骨針は4万年前頃までさかのぼります。履物の使用は、現生人類では4万年前頃までさかのぼりそうです(関連記事)。ネアンデルタール人に関しては、衣服も履物も使用していたのか、そうだとしてどの程度だったのか、まだ明確ではありません。


●人類の行動に関する考古学的視点

 「現代的」行動の起源について、アフリカで後期(5万年前頃)に出現し、急速に世界中へと拡散した、とする見解が以前は主流でしたが、それ以前にアフリカで漸進的に発展した、との見解が現在では有力です。しかし、現生人類との比較におけるネアンデルタール人やデニソワ人といった古代型ホモ属の行動水準、さらには現生人類と古代型ホモ属との相互作用に関しては、議論が続いています。この問題の解決で注目されているのは、研究の進んでいるヨーロッパにおけるネアンデルタール人と現生人類との共存期間で、以前は最大で数万年ほど想定されていましたが、近年では5000年程度との見解が有力です(関連記事)。


●古代型ホモ属における行動の複雑さ

 過去100万年の更新世の考古学的記録は、最近10年で飛躍的に増加しました。その結果、非現生人類(古代型ホモ属)の行動の複雑さも明らかになってきました。たとえばヨーロッパ西部では、30万〜20万年前頃に、下部旧石器となるアシューリアン(Acheulean)石器群と中部旧石器とが共存していました(関連記事)。ヨーロッパにおいてアシューリアンは70万年前頃以後に出現し、50万年前頃までは断続的ですが、その後は持続的な人口増加が見られ、これは脳容量の増大と関連している、と考えられます。ヨーロッパのアシューリアン集団は、50万年前頃にはヨーロッパの厳しい環境にも適応していきました。こうした持続性は、石器技術そのものというより、火の制御も含む一連の行動に基づいている、と本論文は指摘します。こうして人類がヨーロッパに持続的に生息していくことになったのは、ハイデルベルク人のような新種が出現したためかもしれませんが、本論文はその妥当性について判断を保留しています。

 ユーラシア東部に関しては長年、アジア東部および南東部ではアシューリアンが存在しない、とされてきました。いわゆるモヴィウス線による石器技術の区分ですが、近年では、モヴィウス線の東方でもアシューリアンの存在が確認されています。ただ、モヴィウス線の東方では確認されているアシューリアンが少ないことも確かで、これに関しては、アシューリアン石器に適した石材が少ないからではないか、と推測されています。そのため以前から、たとえば竹が道具の材料として使用されていたのではないか、との見解も提示されています。

 アフリカの考古学的な時代区分は、前期石器時代(20万年前頃まで)→中期石器時代(30万年前頃〜2万年前頃)→後期石器時代(4万年前頃以降)となります。アフリカは広大なので、一気に文化が変わるわけではなく、複数の文化の長期の共存というか移行期間が存在します。前期石器時代のうちアシューリアンは、エレクトスとハイデルベルク人に関連していると考えるのが妥当ではあるものの、例外もある、と本論文は指摘します。中期石器時代の担い手に関しては、現生人類系統と後期ハイデルベルク人系統など複数系統の人類だった可能性が提示されています。上述のように、中期石器時代のアフリカには、現生人類系統だけではなくナレディも存在しており、複数系統が存在したことは確実です。後期石器時代は通常、現生人類が担い手と考えられています。


●ネアンデルタール人の行動の見直し

 ネアンデルタール人の行動に関する知見も、過去10年で飛躍的に発展しました。考古学的な時代区分としては、今でも伝統的な石器技術の5段階区分(様式1〜5)がある程度は有効です(関連記事)。ヨーロッパに関しては、様式4となるオーリナシアン(Aurignacian)の出現が、上部旧石器時代への移行および現生人類の到来と関連づけられています。上述のように、現在有力な年代観では、ヨーロッパにおいて現生人類が到来してから5000年以内に、ネアンデルタール人は絶滅したと考えられます(より正確には、ネアンデルタール人の 形態的・遺伝的特徴を一括して有する集団は現在では存在しない、と言うべきかもしれません)。

 ヨーロッパの末期ネアンデルタール人の行動に関して議論となっているのは、中部旧石器と上部旧石器の混合的特徴を示す「移行期インダストリー」です。具体的には、フランス南西部およびスペイン北部のシャテルペロニアン(Châtelperronian)や、イタリアおよびギリシアのウルツィアン(Uluzzian)などです。両者ともに、担い手が現生人類とネアンデルタール人のどちらなのか、あるいはどちらもなのか、という点をめぐって議論が続いています。上部旧石器的なインダストリーの担い手がネアンデルタール人なのか否かという問題は、その認知能力の評価にも関わってきます。

 現時点では、シャテルペロニアンの少なくとも一部はネアンデルタール人の所産である可能性が高い、と言えそうです(関連記事)。しかし、シャテルペロニアンは、ネアンデルタール人が中部旧石器時代となるムステリアン(Mousterian)から独自に発展させたのか、それとも現生人類の影響を受けたのか、現時点では不明です。ウルツィアンをめぐる議論も複雑です。ウルツィアンはずっと、ネアンデルタール人の所産と考えられてきました。しかし近年、現生人類が担い手である可能性も提示されており(関連記事)、さらにはそれに対する反論も提示されています(関連記事)。

 この他に、ヨーロッパ北西部・中央部・南東部やロシアでは、LRJ(Lincombian-Ranisian-Jerzmanowician)やボフニシアン(Bohunician)やバチョキリアン(Bachokirian)やセレッティアン(Szeletian)やストレーレスカヤン(Streleskayan)といった「移行期インダストリー」が知られていますが、その担い手にはついては確定していません。「移行期インダストリー」は現生人類とネアンデルタール人の行動および認知能力の比較の重要な指標となり得ますが、現時点では評価が難しいことも否定できません。

 中部旧石器時代後期には、ネアンデルタール人の文化は地域的に多様化していきます。フランス南西部とブリテン島北西部では、握斧の優占するアシューリアン伝統ムステリアン(MTA)、ヨーロッパ中央部および東部ではカイルメッサー(Keilmesser)グループ(KMG)、フランス北部やベルギーといった両者の中間地域では両面加工石器ムステリアン(MBT)です。これらは、石材もしくは機能の反映では説明できず、文化的伝統と考えられています。MBTは、MTAとKMGの移動性の高いネアンデルタール人集団の境界地帯として解釈されています。

 そのため、ヨーロッパの後期ネアンデルタール人には、明確な地域化された文化的行動があった、と考えられています。ネアンデルタール人の文化が多様だったことは、死者の扱いが時空間的に異なることからも指摘されています。たとえば、ヨーロッパから近東にかけて、埋葬しなかったり、身体の一部を埋葬したり、自然の地形を利用して土葬したり、一部では副葬品を伴って埋葬したり、肉を削ぎ落としたりといったように、多様性が見られます。ネアンデルタール人の食人行為についても、単に栄養摂取目的のものだけではなく、文化的目的も指摘されています。

 オーカーの体系的な利用は「現代的行動」の指標の一つとされますが、ネアンデルタール人によるオーカーの使用例は複数報告されており、20万年以上前までさかのぼりそうな事例もあります(関連記事)。これは、アフリカにおけるオーカーの使用の始まりと時間的に近接しています。オーカーの使用目的としては、治療・防腐・接着・社会的意思伝達などが想定されています。民族誌の記録では、オーカーの使用は「実用的」というよりはおもに「社会的」なのですが、ネアンデルタール人に関しても、47000年前頃のルーマニアの事例は「社会的」と解釈されています。

 「現代的行動」の重要な指標の一つは芸術です。線刻の最古の事例は50万年前頃までさかのぼるかもしれず、その作者はエレクトスと考えられています(関連記事)。これは、芸術に通ずる行動の起源が現生人類の出現前だったことを示唆します。洞窟壁画は芸術の重要な指標とされており、現生人類のみの所産と考えられていました。以前は、最初期の洞窟壁画はヨーロッパで出現したと考えられていましたが、近年では、ヨーロッパの最初期の洞窟壁画とほぼ同年代のものが、スラウェシ島(関連記事)やボルネオ島(関連記事)で確認されています。これらは現生人類の所産と考えられ、アフリカで一連の「現代的行動」が潜在的に可能になった現生人類集団が、世界各地に拡散していった、と考えられます。

 一方、ネアンデルタール人の所産と考えられる洞窟壁画も報告されており(関連記事)、しかも年代は現生人類のものよりずっと古く6万年以上前とされています。ただ本論文は、ネアンデルタール人は個人的装飾品など他の象徴的文化の方を好み、洞窟壁画は比較的珍しかったようだ、と指摘しています。ネアンデルタール人の個人的装飾品の報告事例は、13万年前頃となる加工されたオジロワシの鉤爪(関連記事)など蓄積されつつあり、この点に関してはアフリカや近東の早期現生人類と大きくは変わらない程度と考えられます。ただ本論文は、現生人類とは異なり、ネアンデルタール人による形象的な芸術作品はまだ確認されておらず、そこが象徴的表現におけるネアンデルタール人と現生人類の違いかもしれない、と指摘します。

 本論文は、ネアンデルタール人の行動は総合的に、同時代となるアフリカの中期石器時代の現生人類と大きく異なるものではない、との見解(関連記事)を支持しています。また本論文は、ネアンデルタール人にも言語を含む複雑な意思伝達体系が存在した可能性は高いものの、それが厳密には現生人類と異なっていただろう、ということも指摘しています。また、ネアンデルタール人がタールなどの接着剤による着柄技術を用いていたこと(関連記事)や、薬用植物の効用をよく理解して治療のために使用していたと推測されること(関連記事)なども、ネアンデルタール人の認知能力が一定水準以上だった証拠とされています。本論文は、現時点での遺伝的証拠からは、ネアンデルタール人が現生人類よりも少ない人口と低い遺伝的多様性で、柔軟に環境に適応した、と指摘します。


●結論

 本論文は、21世紀になっての人類進化研究の進展を概観してきました。それらは、新たな発見か新たな手法による既知のデータの再分析に基づいています。しかし、そうしたデータに地域的偏りがあることも否定できません(関連記事)。アフリカはほぼ全域から更新世の人工物が発見されていますが、人類遺骸が発見された地域はアフリカ全土の10%未満です。アジア南東部ではこの回収率はさらに低く、フロレシエンシスやルゾネンシスなど新たな人類遺骸の発見もありましたが、更新世の人類遺骸が乏しいため、その進化系統はまだ不明です。

 ネアンデルタール人の行動は、その絶滅が始まった時点でも、現生人類との生物学的違いにも関わらず、現生人類とはほとんど差がないように見えるまで、研究が進展した、と本論文は評価しています。ただ本論文は、上述のヨーロッパ南部における20万年以上前の現生人類の存在との報告から、ネアンデルタール人が独自に象徴的行動を発展させた、との見解にやや慎重な姿勢を示します。古代DNA研究の飛躍的な進展は、現生人類と古代型ホモ属との交雑を明らかにし、生物種概念という古くからの問題を改めて再考させます。本論文は、人類の形態および行動の進化の要因は複雑で、複数の仮説のうちいくつかの組み合わせが真実に近いかもしれない、と指摘します。もちろん、まだ提示されていない仮説が真実に近い可能性もあるわけで、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Galway‐Witham Y, Cole J, and Stringer C.(2019): Aspects of human physical and behavioural evolution during the last 1 million years. Journal of Quaternary Science.
https://doi.org/10.1002/jqs.3137


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_37.html  

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/105.html#c9

[近代史3] 天皇一族だけでなく日本人の大人の幼児化も進行している 中川隆
19. 中川隆[-8754] koaQ7Jey 2019年8月20日 08:45:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3990]

“あおり殴打”宮崎容疑者を臨床心理士が分析 喜本容疑者との関係は?身柄確保時も“マウンティング”か
2019年8月20日 7時30分 AbemaTIMES
https://news.livedoor.com/article/detail/16952138/

 茨城県の常磐道であおり運転をしたうえ男性を殴ったとして、大阪市の会社役員・宮崎文夫容疑者(43)が傷害の疑いで逮捕された。また、宮崎容疑者の車に同乗しガラケーで様子を撮影していた交際相手の喜本奈津子容疑者(51)も、犯人蔵匿隠避の疑いで逮捕された。

 宮崎容疑者の身柄が確保される際の映像には、「無理やり乗せられてるやん。暴れてないって、自分から出頭するって言うてんねん。自分から生野警察署に出頭させてください」などと抵抗する様子や、喜本容疑者が「自分から出頭するって言っているのになんで押さえつけるの?ひどすぎる」と叫ぶ声も記録されていた。


 臨床心理士で心理カウンセラーも務める明星大学准教授の藤井靖氏は、宮崎容疑者の抵抗時の様子について「動物のマウンティングに近いなと。近くにいる相手に大きな声を出して、感情を揺さぶろうとしたり威嚇しようとしたりしている。内容はともかくとして、自分が優位に立ちたい、自分がこの場をコントロールしたいという気持ちが表れているように思う。自分で出頭するか否かはこの状況ではどうでもいいわけで、その主張を繰り返すのは、内容に意味があるというよりは少しでも自分の思い通りに事を運ばせたい気持ちの表れ。」との見方を示す。


 また、宮崎容疑者と喜本容疑者の関係性については、「一連の流れを見ていると親密な関係にあることは明らかだが、我々が一般的に考える親密さとは違うように思える。2人とも独特というか、我々が理解できる社会通念上の価値観とは別個のところで発言したりしているように感じる。独特な価値観を持っているということは、社会集団の中では孤立したり疎外されたりするので、その2人が組み合わさることによって、より結束感を強めて支え合う“共依存”のような関係にあったのではないか」と推察した。


 宮崎容疑者は2000年に関西学院大学を卒業後、半導体メーカーに入社。しかし、わずか半年で退社し、その後は仕事を転々としていたという。数年前にマンションと遺産を相続すると、不動産管理や賃貸業等を手掛けるように。宮崎容疑者が所有するマンションの管理会社で働いていた人の証言によると「自分より弱いものに対しては上からでものすごく威圧的。短期で爆発した時の暴れ方が異常」だったという。

 そうした情報から読み取れる宮崎容疑者の人間性について、藤井氏は「一般的には、いい大学を出て一流企業に入った人がなぜこんなことしたのかという見方があると思う」とした上で、「人の能力は、学力や面接を突破するための自己アピール力,コミュニケーション力だけではない。偏差値が高かったり社会的地位が上がると,比例して感情をコントロールしたり物事を客観的に見たりする『非認知能力』も高いレベルを求められるが、宮崎容疑者はそこにギャップがあったのでは。周りの人と比較される中で、仕事もうまくいかず不適応状態になり、結果として社会的に受け入れられない粗暴な部分や自己愛が肥大するに至った可能性があると思う」と話す。


 関係者への取材によると、宮崎容疑者はあおり運転に使った車で、先月21日から今月11日にかけて約2000kmを移動。その間、訪れたとされる飲食店などの様子をSNSに上げている。また、高級車や高級ブランド品などの写真も投稿していた。

 そうした心理について藤井氏は「高級車に乗ったり高級品を買ったり、会社を経営する立場を大っぴらにするのは、宮崎容疑者にとって一番率直に社会的承認の実感を得られる手段だったのでは。逆に言えば、自分自身の本質的な部分では認められる体験や居場所が得られないからこそこういったものに頼るわけで、自分がうまくやれていると手っ取り早く認識する手段としての投稿ではないか。もうひとつは、揉め事を起こしていることは自分でも当然認識していて覚えてもいるが、楽しく普通に生活して、人生うまくやれているんだと思い込みたい現実逃避という面もあると思う」と説明。一方で、「今回のあおり運転は宮崎容疑者の人柄の一端が象徴的に出ているだけであって、いろいろな社会的場面や人との関係の中でのトラブルも多かったのでは」と述べた。
(AbemaTV/『けやきヒルズ』より)
https://news.livedoor.com/article/detail/16952138/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/120.html#c19

[近代史3] 天皇一族だけでなく日本人の大人の幼児化も進行している 中川隆
20. 中川隆[-8753] koaQ7Jey 2019年8月20日 08:52:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3991]


宮崎文夫の大学や会社〜常磐道あおり運転の犯人と同乗者まとめ!インスタやFacebookで驚きの私生活を披露 2019/08/19
https://newsmatomedia.com/miyazaki-fumio


2019年8月10日、常磐自動車道でBMWに乗ってあおり運転をした犯人・宮崎文夫容疑者が逮捕されました。

宮崎文夫容疑者の生い立ちや家族、出身高校と大学などの学歴や経歴、経営する2つの会社、同乗者の喜本奈津子、またFacebookとインスタや最近の私生活を総まとめしました。

この記事の目次 [目次を非表示]

宮崎文夫が起こした常磐道あおり運転&暴行事件について


宮崎文夫の生い立ちと家族


宮崎文夫の出身高校と大学・キーエンス勤務について


宮崎文夫の過去の前科や警察沙汰


宮崎文夫の経営する不動産会社「宮崎プロパティマネジメント株式会社」「株式会社オマス」


宮崎文夫の結婚歴や嫁・息子・彼女〜同乗者の「ガラケー女」喜本奈津子も逮捕される

宮崎文夫の結婚歴や嫁・子供について


宮崎文夫の同乗者・喜本奈津子の逮捕


宮崎文夫と同乗者・喜本奈津子は出会い系サイトを通じて知り合っていた

宮崎文夫のFacebookやインスタ・最近の生活ぶりについて


宮崎文夫について総まとめすると…


宮崎文夫が起こした常磐道あおり運転&暴行事件について

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出典:https://twitter.com/

常磐道“あおり”運転&暴行事件は、2019年8月10日、茨城県の常磐自動車道で、車を運転していた男性(24)が高級外車BMWにしつこくあおられ停車させられた上、BMWを運転していた宮崎文夫容疑者(43)に複数回、顔を殴られた事件です。


事件の映像は、連日テレビやネットで流れているが、改めて再現してみる。事件は今月10日の午前6時過ぎ、茨城県守谷市の常磐自動車道で起きた。被害者の男性(24)が走行中、左側から割り込んできた白いBMWのSUVに進路を妨害され、サービスエリアの入り口付近で車を停めた。BMWからガラケーの携帯電話を手にした女と運転していたサングラスの男が降りてきた。男は、「お前は俺の邪魔をした。ぶっ殺してやるから出てこい」などと怒鳴り、男性の携帯電話を奪おうとした。そのため、男性はブレーキから足を離してしまい、車が前進してBMWに衝突。すると、男は男性に5発のパンチを食らわせた。ガラケーを手にした女は、暴行の瞬間も撮影を続けた……。

引用:【あおり運転】宮崎容疑者の経営する不動産会社は従業員は1人で、今年1月の決算では売上1300万円、利益250万円

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出典:https://twitter.com/

その後の捜査関係者への取材で、警察は、車を運転していた人物を宮崎文夫容疑者(43)と特定し、傷害の疑いで逮捕しました。

ドライブレコーダーの映像から捜査を進めたほか、BMWは神奈川県内のディーラーが貸し出していたものとわかり、ディーラーに返却された車を警察が詳しく調べたところ、宮崎文夫容疑者(43)の指紋が検出されたため、事件に関わったことが判明しています。

宮崎文夫の生い立ちと家族

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出典:https://twitter.com/

宮崎文夫容疑者のプロフィールをまとめると以下になります。

名前:宮崎文夫 (みやざき ふみお)

生年月日:不明

年齢:43歳

住所:大阪府大阪市

出身高校:大阪府立天王寺高等学校

出身大学:関西学院大学

職業:会社経営者(宮崎プロパティマネジメント株式会社、株式会社オマス)

宮崎文夫容疑者の生い立ちについてですが、祖父が資産家で、幼少期はなに不自由なく過ごしていたようです。


「宮崎容疑者のお祖父さんは資産家で、幼少期はなに不自由なく過ごしていました。現在の会社兼自宅となっている大阪市内のマンションに引っ越したのは30年ほど前です。高校は難関進学校に進み、母親もこの頃は『自慢の息子だ』と嬉しそうに話していました」(近隣住民)

大学も関西の有名私立へと進んだが、社会人になってから徐々に陰りを見せる。

引用:【あおり運転殴打】宮崎容疑者(43)過去にも逮捕歴 女性を監禁か ★6

宮崎文夫の出身高校と大学・キーエンス勤務について

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出典:https://twitter.com/


宮崎文夫容疑者の出身高校は「大阪府立天王寺高等学校」、出身大学は「関西学院大学」とFacebookから判明しています。

宮崎文夫容疑者のFacebook

https://www.facebook.com/omasucafe

宮崎文夫容疑者の出身高校である天王寺高校は大阪の難関校として有名で、偏差値は75です。大阪府内の高校の偏差値では3位にあたる高校で、数々の有名人も輩出しています。

大阪府立天王寺高等学校 – Wikipedia

天王寺高校(大阪府)の情報(偏差値・口コミなど)

宮崎文夫容疑者の出身大学である関西学院大学の偏差値は学科によりバラつきがありますが、50-65の間です。高校よりも大学はレベルが一段と落ちています。

関西学院大学 – Wikipedia

関西学院大学/偏差値・セ試得点率|大学受験パスナビ

関西大学卒業後はウィルウェイ馬渕教育グループ 馬渕教室 高校受験本部の英語科講師をしていたようで、その後は株式会社キーエンスの総合職に勤務していたようです。株式会社キーエンスは平均年収2100万と高収入ですが、非常に激務なことで有名です。

年収ランキング1位の「キーエンス」驚きの年収と辞める社員のホンネ

しかしながら、会社員時代、職場での人間関係がうまくいかず、仕事も辞めてしまったそうです。


仕事はできなかったという。「入社後の新人研修では断トツでビリでした。ビジネスマナー講習の時には、白いワイシャツの下にハードロックバンドの黒のTシャツを着て、怒られていました。

キーエンスには3つの事業部がある。彼は研修後、名古屋のMECT事業部に配属されてマイクロスコープ(高性能顕微鏡)の販売担当になりましたが、辞めるまでに1台も売れなかったのでは?」(同前)

“オレはビッグになる”と言い残し、入社1年たたずに退社

引用:【大阪で逮捕】”あおり運転殴打”宮崎文夫容疑者 「話すのは車と女のことだけ」元同期男性が見た執着


「職場での人間関係がうまくいかず、仕事も辞めてしまい、その後は自動車販売などをやっていたが長く続かなかった。ご近所付き合いもなく、荷降ろしのためにマンション前に駐車する車に対して、大声で罵声を浴びせたりして怖かったのを覚えています。警察沙汰もたびたびあったので、正直、関わらないようにしていました」(同前)

引用:【あおり運転殴打】宮崎容疑者(43)過去にも逮捕歴 女性を監禁か ★6

仕事を辞めてからは私生活が荒んでいたようで、警察沙汰を度々起こすようになりました。

宮崎文夫の過去の前科や警察沙汰


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出典:https://twitter.com/

宮崎文夫容疑者は10年前に女性への監禁暴行事件を起こした前科があります。また、2018年には京都でタクシー運転手を監禁した前科もあるようです。


宮崎容疑者は約10年前にも事件を起こしていた。

「朝方に警察官が何人も家の前に着て、私たちの目の前で『○時○分逮捕』と宣告され、連行されていきました。『女性を監禁した』と後で警察官から聞きました。

連行されるとき、宮崎はワーワーとずっと騒いでいて、なかなか警察車両に乗ろうとせず、さらに応援で警察官が何人かやってきて、なんとか後部座席に乗せるような有り様だった。警察から戻ってきてからは、かえって夜に出歩くことが多くなったようでした。昨年は京都でタクシー運転手を監禁したという話も聞きました」(同前)

その後も懲りずに警察沙汰を繰り返していたという宮崎容疑者。

引用:【あおり運転殴打】宮崎容疑者(43)過去にも逮捕歴 女性を監禁か ★6

さらに逮捕はされなかったようですが、2019年1月にも危険運転をしていた疑いがあります。

他にも前科があるようで、前科4犯とも言われています。

宮崎文夫の経営する不動産会社「宮崎プロパティマネジメント株式会社」「株式会社オマス」


宮崎文夫容疑者の経営する会社ですが、仕事を楽しむWEBマガジン「B-plus」のインタビューで判明しています。

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出典:https://twitter.com/anztolchock/status/1162395616783163394

宮崎文夫容疑者は2018年2月26日から宮崎プロパティマネジメント株式会社を設立しており、会社は大阪に本店があり名古屋に事業部があるようです。

大阪本店

大阪府大阪市東住吉区桑津1-18-12

名古屋支店PS事業部

愛知県名古屋市西区上名古屋3-11-12

上名古屋マンション 402号室

会社のHPはありませんでした。会社の従業員は1人で、2019年1月の決算では売上1300万円、利益250万円となっていたようです。


東京商工リサーチ企業情報によると、宮崎容疑者は、昨年2月に大阪市で不動産会社の「宮崎プロパティマネジメント」を設立している。従業員は1人で、今年1月の決算では売上1300万円、利益250万円となっていた。

引用:【あおり運転】宮崎容疑者の経営する不動産会社は従業員は1人で、今年1月の決算では売上1300万円、利益250万円

さらには2018年8月にはグループ会社として株式会社オマスを設立し、経営などのあらゆる相談や、困りごとに応えるコンサルティング業務を手がけていたようです。

宮崎文夫の結婚歴や嫁・息子・彼女〜同乗者の「ガラケー女」喜本奈津子も逮捕される

宮崎文夫の結婚歴や嫁・子供について

宮崎文夫容疑者の結婚歴や嫁、そして子供(息子)の有無については明らかになっていません。

後述のように、宮崎文夫容疑者の現在の交際相手は同乗者の「ガラケー女」喜本奈津子(51)なので今までは結婚歴はなかったとみられています。

宮崎文夫の同乗者・喜本奈津子の逮捕

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出典:https://twitter.com/

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出典:https://twitter.com/

宮崎文夫容疑者と車に同乗していた女性(ガラケー女)は交際相手のようです。スマホ時代では珍しく、ガラケー(黒色)をいじっていたことからネット上ではガラケー女と言われています。


宮崎文夫容疑者の車に同乗していたガラケー女って… もしかして?? pic.twitter.com/VUnx1biGoh
— paul-eiji (@eiji_paul) August 16, 2019


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出典:https://www.sankei.com/images/news/190819/afr1908190002-p1.jpg

このガラケー女が後に逮捕され、喜本奈津子容疑者(51=大阪市東住吉区)と名前が判明しました。喜本奈津子容疑者が大阪市内の自宅に宮崎文夫容疑者をかくまっていたようで、犯人隠避容疑で逮捕されています。


茨城県警は一緒にいたスーツケースを持った容疑者の交際相手の喜本奈津子容疑者(51=大阪市東住吉区)も犯人隠避容疑で逮捕した。宮崎容疑者は日付が変わった19日午前0時5分過ぎ、移送先の茨城県警取手署に到着した。

喜本容疑者は、傷害事件時に宮崎容疑者の車に同乗し、被害者を撮影していた「ガラケー」の女だった。

引用:あおり男容疑認める「間違いない」ガラケー女も移送


喜本容疑者は同じマンションの自室で宮崎容疑者をかくまっていたといい、茨城県警は両容疑者の足取りなどを詳しく調べる。

引用:事件4日後、大阪の飲食店に=あおり運転の男、女と一緒

宮崎文夫と同乗者・喜本奈津子は出会い系サイトを通じて知り合っていた

宮崎文夫容疑者と喜本奈津子容疑者は出会い系サイトを通じて知り合っていたといいます。喜本奈津子容疑者は独身で結婚相手を探していたと報じられています。


番組では2人の関係にフォーカスを当てた。そして女の高校時代からの友人の話として「彼女は独身で結婚したくて。出会い系のアプリってあるじゃないですか。2月の下旬にあった時に『新しい人がこういう人で』って。『今、この人と付き合ってる』とか写真を見せてもらって」という話をプライバシー保護の音声で流していた。

引用:あおり運転逮捕の男女は「出会い系」で知り合っていた…フジ系「グッディ!」報じる

宮崎文夫のFacebookやインスタ・最近の生活ぶりについて


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出典:https://twitter.com/

宮崎文夫容疑者はFacebookやInstagramもやっており、高級外国車を乗り回し、高級ブランドのアイテムを披露するなど、派手な私生活が公開されていました。

宮崎文夫容疑者のFacebook

https://www.facebook.com/omasucafe

宮崎文夫容疑者のInstagram

https://www.instagram.com/omasu2019/?hl=ja

https://www.instagram.com/omasu2018/?hl=ja

宮崎文夫容疑者は親族が亡くなり、その多額の遺産で豪遊をしていたようです。


ここ数年は自身の会社を経営し、神奈川、愛知など、拠点を移していた。宮崎容疑者の贅沢な暮らしぶりを証言する関係者も少なくない。

「親族が亡くなり、多額の遺産が入ったようです。実業家だと名乗り、同窓会にも顔を出すようになりました。初対面の人にも積極的に話しかけるようになって、SNSで『友達申請』を繰り返し、人脈を広げていると聞きました」(宮崎容疑者の同級生)

既報の通り、最近の宮崎容疑者は、高級外国車を乗り回し、SNS上で派手な生活を披瀝していた。サングラスに帽子という出で立ちが多く、同じような恰好をした若い女性と一緒にいるところも目撃されている。

引用:【あおり運転殴打】宮崎容疑者(43)過去にも逮捕歴 女性を監禁か ★6

宮崎文夫容疑者のインスタを見たネット上では「ダサいおっさん」「センス悪すぎ」などの声が上がっています。

宮崎文夫について総まとめすると…

・宮崎文夫は祖父が資産家で、幼少期はなに不自由なく過ごした生い立ちで育った。

・宮崎文夫の出身高校は大阪の天王寺高校、出身大学は関西学院大学。その後、株式会社キーエンスの総合職に勤務するも、職場の人間関係で悩んで退職。その後は道を踏み外して警察沙汰を起こすようになる。

・宮崎文夫は前科4犯。2009年には女性への監禁暴行、2018年にはタクシー運転手の監禁容疑で逮捕されていた。

・宮崎文夫は親族の遺産で近年は豪遊をしていた。2018年2月に宮崎プロパティマネジメント株式会社、8月に株式会社オマスを設立、近年は実業家を名乗っていた。
https://newsmatomedia.com/miyazaki-fumio
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/120.html#c20

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