★阿修羅♪ > dGhQLjRSQk5RSlE= > 100020
 
g検索 dGhQLjRSQk5RSlE=  
 前へ
dGhQLjRSQk5RSlE= コメント履歴 No: 100020
http://www.asyura2.com/acat/d/dg/dgh/dGhQLjRSQk5RSlE=/100020.html
[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
174. 中川隆[-10721] koaQ7Jey 2019年4月17日 11:11:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1330]
ゴーンの犯罪性を指摘するコメ集
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/664.html

 4月7日からの過去ログ/各無名氏

@http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/884.htmlc14
 安倍と同様で完全否定、証拠があっても完全否定、知らない知らないボク知らないもん、の連呼だ。
 これがいわゆるグローバル・エリートの常識で、絶対に認めないこと。
 認めたら有罪が確定するが、認めなければ「推定冤罪」で済む。
 ものすごくみっともない言い逃れに終始することになることから日本のように名誉を尊ぶ国ではこんな恥ずかしいマネをする者はこれまでいなかった。
 ところが安倍とその一派は別らしい。

Ahttp://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/884.htmlc15
> 「私は日本を愛し、日産を愛しているということです。もし愛情や愛着、心からのつながりがなければ。20年間をその国で過ごしたり、20年間をその会社のリーダーとして務めることなど誰もしないでしょう」

 もし愛情や愛着、心からのつながりがあれば、2万人のリストラと5つの工場閉鎖を断行することはしないでしょう[1]。
不正報酬分の50億円あれば社員8千人の解雇は不要だったとの指摘もある[2]。

 ゴーンの言う「もし愛情や愛着、心からのつながりがなければ。20年間をその国で過ごしたり、20年間をその会社のリーダーとして務めることなど誰もしないでしょう」に納得する労働者は皆無だろう。

[1] ゴーン報酬99億円の生贄に…日産8000人非正規労働者の叫び
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/242129
公開日:2018/11/22 06:00
 日産のカルロス・ゴーン容疑者がメディアに「カリスマ経営者」と持ち上げられた理由は、言うまでもなく“コストカッター”。要するにクビ切りだ。ゴーン容疑者は日産の社長だった2009年2月から、国内工場などで働く約8000人に上る非正規労働者の大量のクビ切り策を強行。働き盛りの20〜40代の労働者も生活の基盤を失った。
 同年5月、クビを切られた男女5人が全日本金属情報機器労組(JMIU)に加入。原告となって日産と日産車体を相手に地位確認と損害賠償を求める裁判を起こした。原告側の意見陳述書には、ゴーン容疑者に対する怒りと苦悩が読み取れる。日産のデザイン本部で働いていた女性の叫びだ。
 
[2] 日産ゴーン逮捕、不正報酬分の50億円あれば社員8千人の解雇は不要だったとの指摘も
https://biz-journal.jp/2018/11/post_25613.html
「ゴーンの奇跡」のまやかし
 また、逮捕を転機に、かつては称賛された「ゴーン流改革」「ゴーンの奇跡」に対する懐疑的な見方も広がっている。
 ネット上では、「コストカッターとして冷酷な首切りをやりながら、自分は莫大な不正蓄財をやっていたのか」「そもそもゴーンのやったことは“日産版ショック・ドクトリン”にすぎない。経営陣と労組の争いに外から入ってきて、2万人のリストラと5つの工場閉鎖を断行したんだから」「『日産の業績を奇跡的にV字回復させた』と言われるけど、その陰に大勢の解雇者がいることに納得できない」という声があがっており、「もし松下幸之助が生きていたらなんて言うだろう?」と、業績が苦しいときでも従業員を解雇しない方針だった“経営の神様”と比較する声も見られる。

Bhttp://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/847.html#c33
 おふらんすはええかげんな国だよ。
 ゴーンファミリーはマネロンにかかわっていたかもな。

Chttp://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/847.html#c34
 仏政府が、「日本の司法に口出しはしない、尊重する」 と言って河野と握手したのと同様に、河野は韓国の徴用工問題での韓国司法に、「口出しは出来ない」。

 よく、覚えとけよ。

Dhttp://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/847.html#c41
 ゴーン容疑者には個人的には恨みはないが沢山の報酬を受け取る事には 疑問を抱く。一連の流れも不信感は拭えない。
 ここまでは検察頑張れで応援したい。

  ただ、人質司法はあまり好きではない。権力の恩恵がそこに見え隠れするから。一番の問題はマスコミの報道の自由権である。
  国民にとっての知る権利を蔑ろにするのであれば報道の自由を剥奪すべきであると考える。今の国会議員も人っ子一人命を張った政治家はいない。
  この国民は国政に関心を示さなければいけない。大国に併合される。
  ・・・。

Ehttp://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/847.html#c48
 どちらにしても、金持ちの横暴は一人でも、二人でも、片付いたほうがいい。
どちらが勝っても、負けても、日産とルノーが一緒に、落ちてゆく事が望ましい、と「黄色いベスト運動」は申しております。

Fhttp://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/844.html#c2
 普通なら従業員、株主らが突き上げて即刻辞任する事案だな。
 高額報酬の他に息子たちの学費、起業すれば資金横流し、嫁も。。。。 オーナー企業のオーナーでさえここまでやらない。理由は従業員のモチベーションだ。
 返金すれば済むので司法が入る話では無いが、初動で仏政府がゴーンを庇ったのでこうなってしまったという感じだ。

 (拙コメ)
(この問題の原点は、日産の内部告発から始まった)
Ghttp://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/835.html#c9

 元々、日産の内部告発から始まったもの(Nスペ)。地検のイニシアとは言えない。

・『ゴーンショック』がつきつけたもの〜思い出すのはリーマンショックの際に指摘された、強欲資本主義という言葉/~子田・清永
http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/203.html
投稿者 仁王像 日時 2018 年 11 月 25 日 21:03:15: jdZgmZ21Prm8E kG2JpJGc

 (上のコメ1から)
 http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/203.html#c1

(下のNスペ)番組をざっと見ただけだが、識者の日産クーデター説を紹介していた(実際この話は、日産内部の調査グループが東京地検に持ち込んだもの)。
 マクロン、ルノー、ゴーンのやり過ぎである。ある閾値を超えていしまった。日産従業員の不満・怒りがこの数年凝縮してきて、ついに噴火したのだ。
 どう決着をつけていくのか予断はできない。元鞘に収まるのは到底不可能。

(補)仏の有力な政治家「ルノーはフランスそのものであり、ルノーなしのフランスは考えられない」と。120年の歴史を持ち、国営から出発した特異な歴史を持つ。

・"ゴーン・ショック" 〜逮捕の舞台裏で何が(予告動画)/Nスペ
 http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20181125_2
 総合 2018年11月25日(日)

 日産自動車のトップに君臨してきたカリスマ経営者、カルロス・ゴーン会長。金融商品取引法違反の疑いによる突然の逮捕は、世界に衝撃を与えた。
 日産と連合するフランスのルノー社内は騒然。フランス政府も捜査の行方を注視している。国際社会を揺るがす逮捕の裏側で、捜査はどのように進められ、どのような思惑が交錯していたのか。番組では、日産やルノー、捜査の関係者を徹底取材。不正な資金の迂回路となっていた、海外の現場にもカメラを入れる。独自取材から、逮捕の深層に迫る。
 キャスター 有馬嘉男、田中泉

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c174

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
175. 中川隆[-10720] koaQ7Jey 2019年4月17日 11:12:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1331]
続・ゴーンの犯罪性を指摘するコメ集
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/665.html

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/443.html#c1
まず刑務所で刑期を務めたあとの話だ。出られる頃にはもうジジイだ。

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/443.html#c3
泥棒を雇う人いるのか? 雇うわけないでしょう。見向きもしない。ゴーンは終わっているのだ。

ゴーンの力で日産再生したと思いますか?なら、ルノーはなぜ再建できない?
ルノーは、日産なしには潰れる会社ですよ。引き留めに賢明だろう、見ていて判らないかな。

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/397.html#c13
 ゴーンになって日産は金額にうるさくなった 整備費や部品代...部品を売り上げようと整備士が奮闘していた 
昔の日産はこうではなかったけど、それで沈没したのかな 昔の経営者の問題だけどね ゴーン時代は車も華奢になったし、ブレーキなんて心細い 儲けよう儲けようと言う社内があった。
ゴーン時代に一度、営業所にあるCS葉書を出したことがある フロントが頑張っていた所為だけど、その葉書がFEED-BACKされたのか
営業所に行ったとき数人から葉書を出してくれと渡された なんか寂しくなったよ...日産
昔のように自慢できる車が欲しいものだ。

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/395.html#c1
馬鹿な論調だ。今回の取り調べで私的な流用は事実として浮かび上がってきた訳だ。経営者モラルとして有り得ない訳だからルノー、ニッサンへの返り咲きや、他の企業への転出も無い(受け入れ先は無いでしょう。前はカリスマ云々であったと思うが)。

ゴーンのやった事はオーナー企業のオーナーなら誰しもやっている話だ。つまりお手盛りで報酬を決めたり、経理的に問題無いように名画・高級リゾートを買ったり。同じ調子でやりたいならレバノンかブラジルで起業をしなさい、オーナーになりなさいということだ。やり過ぎれば従業員から不満が出るが…。

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/386.html#c4
ゴーンが無罪なら、誰が有罪だ! 日本をなめるでないぞ!レバノン人。

日本は、法治国家だ! と言いたいのだが、安倍によって崩れかけている沈みゆく国です。
ゴーンの腐りきった金の使い方、日産から泥棒したのだな〜許されんわ。

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/249.html#c17
 無能ほど保身には長けている・・・それだけだな とはいえ、ゴーンに味方する意味も無いんだけどね
ゴーンのせいで何人の日本人が人生を無茶苦茶にされたのかを考えれば、こいつの事を案じる理由は政治的な意味しかない
そして、それも上手くいきそうではある
気がかりなのは、これを主導するのがトランプである以上、事が終わった時に北米日産が日産の親会社になる可能性が高過ぎる、ということだな
ついでに、北米トヨタがトヨタの親会社になってる可能性もある・・・マツダとスバルをトヨタが吸収した上で、ね

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/249.html#c18
 ゴーンの取引の損失はゴーンの資産から支払われるべきだ。
そうだろう?
 オマーンの会社が支払ったなら、ゴーンはアウトだ。
新生銀行は、はっきり情報を出せ! ゴーン、所詮は泥棒よ、日産の寄生虫だ。あの顔を見ろ!悪だよな、、、
追放してしまえ!

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c175

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
176. 中川隆[-10719] koaQ7Jey 2019年4月17日 11:16:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1332]
ゴーンの犯罪性を指摘するコメ集〜 郷原信郎 編
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/666.html


 出るわ出るわ〜チョンチョンワ

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/339.html#c12
 西川氏はよく健闘し、粘り強く交渉を継続してきたと思っている。
 ゴーン氏がやってきたことを、そのまま日本人に置き換えてみたなら、郷原氏はその日本人に対し、ゴーン氏に対すると同様の主張を展開するだろうか。はなはた懐疑的である。
 従業員を大量に解雇し、子会社などを大幅に縮小させることにより、難局を打破してきたとはいえ、その原動力は日本人の従業員あっての事ではないのか。どれだけの人員が生活苦にあえいできたか。そう思うと日本社会では不当な高額所得ではないのか。
 かつて土光さんが住専問題解決にあたったときでも、日本人のTOPであれば、これほどまで多額な報酬を得ることはなかった。ゴーン氏の報酬は、不当である。
 西川氏はよく嫌われ役を堪え忍んで、オープンにしながら冷静に対処してきたと思っている。

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/339.html#c14
 郷原信郎って 何でいきがってるんだろうね!

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/440.html#c1
 ニッサンはゴーンを法廷に釘付けにしている間に仏政府の関与を減らすこと、そして新役員人事の策略を巡らすことだ。西川社長はゴーンに抱き付き心中を図って仏政府とゴーンの癒着を完全に断ち切ることだ。仏政府とゴーンの関係は気味が悪い。

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/440.html#c6
 ヤメ検郷原は、いつもどうでもいいことをエラソーに語りたがる ゴーンなんかより、現在の日本の主権在民、三権分立について語ったどうだ?
 ちょっとは日本が良くなるような事を語ってみなさいってことだ まあ、ヤメ検にそれを言っても無理か
 アヘ一味に取り入って、弁護士資格を与えてもらったようなもんだろうからな
 現役時代は、さぞ「でっち上げ」検挙と起訴を繰り返して出世したのだろう 顔見りゃわかるってもんだ
でっち上げで捕まり、あの顔で毎日毎日ネチネチやられたら、誰でもウソの自供して早くラクになりたくなるだろうよw

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/440.html#c8
 ゴーン原信郎

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/440.html#c12
 ゴーンは「おれは無実だ」と罪人につきもののワンパタをいっただけ。^^
 郷原さん、ちょっと頭冷やしたほうがいいよ。^^

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/440.html#c13
 ゴーンは有罪だ!
 郷原を担いでで無罪煽り。
 どちらも同じ勢力。

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/440.html#c15
 日経の記事で、ゴーン元会長意見陳述前文を読み、次に、「ゴーン元会長弁護人が会見『交流する理由ない』」の記事を読んだ。弁護人が『大鶴基成』という名前なのであきれた。地検特捜部時代の業績(wiki参照)を知っていれば、こんな弁護人を使うだけで、ゴーン氏無罪が眉唾に思えてしまう。
 元福島県人の私には、地検特捜部の中でも、恨み骨髄の一人(平凡社「知事抹殺 つくられた福島県汚職事件」参照)。同様のことを陸山会事件でもしている。

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/148.html#c2
 郷原信郎はなぜ「ネオコンの手先」になるのか

http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/148.html#c5
>勾留が90日近くに及んでいる日産自動車の前会長カルロス・ゴーン氏の事件、
 日本の「人質司法」の“悪弊”を海外に露呈する状況が続いている。

 パヨクは海外ではといつも持ち出すが、フランスでも拘留1年〜2年などザラにあるではないか。
皆が知らないと思って・・・ いや郷原が知らないのかな??

 郷原はゴーンが無罪の可能性が高いとか言っていた様だが、フランスでもゴーンの会社の私物化が報道されだした。

ゴーンは完全に黒だ。また郷原の敗北だよ!!


http://www.asyura2.com/12/senkyo133/msg/110.html#c55
 やはり郷原氏は(愛憎入り混じってるんでしょう)検察のことしか関心がないのだとよくわかった。
 視野狭窄。
 国民のために、ではどうすればいいのかという視点が全く欠けている。

http://www.asyura2.com/12/senkyo133/msg/110.html#c60
 郷原氏の一部検察官の反乱で統制がとれていない組織というフレーズに非常に違和感を覚えます
 彼らは実に組織的に事件をでっち上げ違法な捜査を繰り返し証拠改竄・隠蔽、彫塑捏造なんでもありだ最高裁事務局と三味線をひき
方では訴追できないから神ならぬ偽の民の力まで使って罪をなずりつけようとしたもう検察は解体sるしかないでしょう
 財務省や法務省などの官僚組織は財界の利権を確保してそのおこぼれを召し上げ、税金を無駄な仕事で浪費させそこにも引退したあと住みつく輩だ
 しかしその構図の中心にいるのはアメリカという金融資本であり前後ずっとコントロールされてきたこの状況打破はやはり国民がどう感じどう行動するかにすべてかかっている糞みたいな政治家を絶対当選させない事。
 そして行政や司法を議会にちゃんと監視させる事 詠じが民意に離反してきたら激しい抗議活動をあらゆる手段をつかっても意思表示することいだ
 アメリカと対等の関係、それが戦法が嫌なら追い出すまでは 内外道のりだが我々が問題意識を持ち民意を託す議員を応援することだ

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/152.html#c10
 郷原信郎
 日産ゴーンの起訴話の中で高額報酬自体が「悪」として非難されるべきことではない?

 これはこの男がゴマカシ屋である証拠である 高額報酬のデドコロに言及しなければいけない。

 トヨタ日産等の大手輸出依存企業は政権と癒着し悪法を立法させ(社会保障と税の一体改革などの寝言にダマサレタ)国民の税金をかすめ取っている。

 消費税の戻し税からの高額報酬は品格以前であり悪徳による重大犯罪。
 何を斬る?これでは大根でも切れないだろう

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/152.html#c12
 郷原はフェアーでリベラルだと思っていたがいつから変節したのだろう。
「日本人の品格」を問う前にゴーンの品格を問わなければならない。
 たかが雇われ経営者が立て直しが成功したとされて分をわきまえず他の日本の大企業のCEOをはるかに超える報酬を得ていてさらにそれに倍する報酬を得ようと画策したのだから。

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/152.html#c16
 郷原の品格が試されています。変質したのかな? 郷原ちゃん。 
 犯罪者ゴーンにえらい肩を持つ出ないか?
 
 日本検察・特捜はしっかり仕事しています。任せましょう。

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/152.html#c25
 郷原先生は、カルロスゴーンより日本人のほうが品格がないと言いたいのでしょうか?
 日本人の一般庶民よりカルロスゴーンの方が1000倍以上品格ないというのは事実ではないでしょうか?
日産の利益は労働者が稼ぎ出したものですから、労働者への還元を最優先にすべきでしょう。経営者が私利私欲を最優先したら批判されるのは当たり前ですよ。
 フランスのメディアですら、強欲ゴーンを批判していますよ。

 ゴーン氏逮捕、フランスのメディアは「それ見たことか」と冷ややかな論調
 https://news.yahoo.co.jp/byline/puradonatsuki/20181122-00105016/

http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/152.html#c27
 検察の暴走は許せないが、しかしただそれだけでなぜ突然「日本人の品格」まで批判しなければいけないのか?
論理が飛躍しすぎている。これが法曹関係者の発言とは思えない。

この郷原という男も怪しいといわざるえない。

http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/613.html#c8
ルノーの役員二人もゴーン会長解任に賛同した意味合いはそれなりのことがあるとのことだろ。

http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/613.html#c14
 日産には長年に渡って蓄積された生産部門、工場群、協力業者、技術部門、販売網があった。一時的に財務的に厳しい状態にあったに過ぎない。
 彼が日産というインフラを一から作ったわけでは全くない。経営のネックを外部の目で外科手術を行って成功させたことは認めてもいい。
 しかし、言われているように法外な報酬を取り、子会社を私物化していたとなると。これは社会的には寄生虫だし、背任横領ではないか。
 やったことは下請けいじめ、労働者の首切りが中心だ。加えてゴーンはオーナーではなく、雇われ社長に過ぎない。
まあやり過ぎたな、潔く罪を償うのがいいだろう。

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c176

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
249. 中川隆[-10718] koaQ7Jey 2019年4月17日 11:31:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1333]

踏切切断男「弁償します」 「仕事が入って急いでいた」 2019年4月15日

千葉・船橋市で13日、京成電鉄の踏切の遮断機を切断した疑いで逮捕された男が、「正午に仕事が入っていたので急いでいた」などと話し、「弁償します」と話していることがわかった。


板金業・中野勝徳容疑者(53)は13日午前7時すぎ、船橋市の京成電鉄・船橋競馬場駅近くの踏切が、人身事故の影響で、およそ30分間閉まったままだったため、遮断機の棒2本をのこぎりで切断した疑いで、15日朝に送検された。


中野容疑者は、「渋滞で車が動かなくなり、腹が立ってやってしまった」と供述していて、警察のその後の調べで、「正午に引き渡しの仕事が入っていたので急いでいた」と供述し、「弁償します」との趣旨の話をしていることが新たにわかった。


京成電鉄は、今回の踏切切断について、損害賠償を請求する方向で検討している。
https://www.fnn.jp/posts/00416176CX

2019.04.15
中野勝徳容疑者の会社は板金業で妻のfacebook顔画像は?
在日韓国人の疑いや住所は市川市大町で踏切遮断機をのこぎり切断で逮捕!
https://wolf-log.com/archives/24071


船橋競馬場駅すぐ近くの踏切でのこぎりを使って遮断器2本を切断したとして、市川市大町で板金業を営む中野勝徳容疑者(なかのかつのり・53)が逮捕されました。

twitterで撮影された動画によって逮捕されたようです。

今回の記事では、中野容疑者のプロフィールや妻などまとめてみました。

踏切の遮断機をノコギリで切断


千葉・船橋市の踏切で、遮断機の棒をのこぎりで切った疑いで逮捕された男は、およそ30分間にわたって踏切が開かず、腹を立てて犯行に及んでいたことが新たにわかった。

板金業の中野勝徳容疑者(53)は、13日午前7時半ごろ、船橋市の京成線船橋競馬場駅近くの踏切で、遮断機の棒2本をのこぎりで切断した疑いが持たれている。

当時、現場の踏切は、人身事故の影響により、およそ30分間にわたって、開かない状態が続いていたという。中野容疑者は、仕事に向かう途中で、持っていたのこぎりで犯行に及んでいた。

調べに対して中野容疑者は、「仕事があるのに、渋滞して車が動かなくなり、腹が立ってやってしまった」などと容疑を認めている。

引用:Yahoo!ニュースト名

人身事故があり、その影響でずっと踏切が開かなくて仕事に行かなければいけないからという理由遮断機を切断したと証言しています。

仕事に行かなければいけないのはわかりますが、電話すればよいのではないでしょうか?行けないのはどうしようもないことですからね。

というか人身事故で電車が止まっているならなぜ、遮断器が上がらないのでしょうか?これは本当に意味がわかりません。電車が通らないのに踏切が開かないなんて運用方法がおかしいと感じます。

中野勝徳容疑者のプロフィール

名前:中野勝徳(なかのかつのり)
年齢:53歳
職業:板金業
住所:千葉県市川市大町

中野容疑者は市川市に住む53歳で自営業をしている方です。

仕事は板金業ということで、仕事先に向かう途中とのことだったようです。

事件当日車の中には妻も同乗していたために、妻も一緒に仕事をしていたということかもしれません。

板金業とは金属板を加工して、屋根や外壁、雨樋などを工事したりする仕事だそうです。

このことがあった為にノコギリなどの工具を持っていたんですね。

そして、このような奇行から検索キーワードに在日というキーワードも出ていました。しかし本当にそうかどうかは不明です。facebookについてもやっていないのか見つかりませんでした。

中野勝徳容疑者の妻

そして中野容疑者の妻についてです。

当時中野容疑者と一緒に車に乗っていたようですが、テレビのインタビューに答えていたようです。

急いでいたが、踏切がもう開かないんじゃないかなと思っていたそうです。そして人身事故だなという感じがして、その時に中野容疑者が行ってしまったそうです。

遮断機の棒が切れちゃうとも思っていなかったそうで、これはもうまずいと思ったそうです。

妻によると中野容疑者は短気な性格らしくその為にこのようなことをやってしまったということのようです。

いくら短気だからといって、ここまでするのは筋違いですよね。
https://wolf-log.com/archives/24071
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c249

[リバイバル3] 中川隆 _ 欧米文化関係投稿リンク 中川隆
80. 2019年4月17日 12:51:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1334]

ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 _ ヨーロッパの戦い こうして始まった! 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/352.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/464.html#c80
[リバイバル3] 暖炉型電気ヒーターの実用度 中川隆
5. 中川隆[-10717] koaQ7Jey 2019年4月17日 13:18:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1335]

ディンプレックス 電気暖炉(暖房機能無し)
セリーニ フラワーオブライフ ブラック CLN28FBJ
https://www.amazon.co.jp/dp/B07HFV3GPF/ref=sspa_dk_detail_0?psc=1

価格: ¥ 103,549 通常配送無料


•サイズ:約幅420×奥行360×高さ705mm

•本体重量(kg):17

•電源:AC100V 50/60Hz

•消費電力:28W


光と影がゆらめく、美しさ
映像と鏡の反射による炎のゆらめき

カバーに施された花の紋様が光に照らされ、床一面に咲き誇る
オフィスのロビーやホテルのエントランスなどで、訪れる方を今までにない美しさで迎える

華やかな光がただよう新感覚の電気暖炉(暖房機能無し)

独自技術の映像と鏡の反射による炎効果
「燃える薪サウンド機能」を搭載(ボリューム調整可能)

便利なリモコン付き


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/876.html#c5

[近代史3] 内閣官房参与をクビにされた藤井聡先生、遂に本音を語る 中川隆
13. 中川隆[-10716] koaQ7Jey 2019年4月17日 17:38:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1336]

2019年4月17日
MMT(現代貨幣理論)とは、「現代社会の実態に即した、貨幣に関する政策論」です。
From 藤井聡(京都大学大学院教授)
https://38news.jp/economy/13499

昨今俄に注目を集めているMMT(現代貨幣理論)。

今年の年明け頃までは、
一部の学者や評論家、あるいは、
ネットユーザー達にしか知られていなかったこの理論が、
今、俄に注目を集めているのは、
その主張の「衝撃度」が極めて高いからです。

例えば、ウィキペディアを見れば、

「政府は将来の支払いに対して非制限的な支払い能力を有して・・・いる。そのため、政府の債務超過による破綻は起こりえない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/Modern_Monetary_Theory#cite_note-MMTreply-1

という、Tymoigne and Wrayの言葉が紹介されていますし、日経新聞は、MMTを

『通貨発行権を持つ国家は債務返済に充てる貨幣を自在に創出できるため、「財政赤字で国は破綻しない」と説く。』
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO43695190S9A410C1EA3000/

と紹介しています。

国内の多くの論者は今、
この「財政赤字で国は破綻しない」という一点だけをとって、
MMTを徹底的に批判・批難しています。

例えば、日本のメディア上では今、

MMTは「異端」だ

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO43692690S9A410C1EA3000/
https://www.asahi.com/articles/ASM444VCTM44ULFA02C.html

と報道するのが一般的流儀、となっています。

しかし、MMTの論者達は別に、
「実際に」政府は無限に債務を拡大しても「良い」、
とは言っておらず
「理論的には」政府は無限に債務を拡大「できる」
という、控えめな主張をしているに過ぎず、
そこまで批判・批難される筋合い等何もないのです。

・・・・

では、MMTの本質とは一体何かといえば、
(筆者なりの方法で説明するとするなら)

「『貨幣とは“負債”である』という「客観的事実」を前提とし、
「現代社会の様々な現実」を踏まえながら
なすべき経済政策の在り方を考える理論体系』

というもの。

そしてこの
『貨幣とは“負債”である』(あるいは、借用書である)
という一点を前提とすれば、
(主流派経済学からは)「革命的」とも言い得るような
様々な「理論的帰結」
を導き出す事が可能となります。

(MMTの論理にご関心なき方は、
下記の「帰結」だけでもご参照ください)

帰結1:「借り手がいる限り、貨幣は、原理的には、銀行によって無制限に増やすことが可能」
(現実:全ての銀行で行われている現実)
(理由:そもそも、「貨幣は負債」だから、借り主達が銀行からカネを(準備金制度やbis規制の制約、借り手の返済能力の制約の下で)「借り続けられていられる限り」においては、「負債は拡大する」=「貨幣が創造される」こととなる)

帰結2:「政府は、税収に制約されず、任意に財政支出量を調整(拡大・縮小)できる」
(現実:GDPの240%もの国債を発行している)
(理由:そもそも、「貨幣は負債」だから、政府が(自国通貨建ての)国債を発行し「カネを借りる」ことを通して、税収とは無関係に、貨幣の創造量=貨幣の供給量=国債発行額を調整できる)

帰結3:「ただし、政府が、過剰なインフレになってしまう程に大量の国債を発行すると、国民生活は苦しくなる」
(現実:幸か不幸か、デフレ日本の現状は、そうした状況からはほど遠い・・・)
(理由:「貨幣は負債」だから、国債発行は貨幣量を拡大する。そして、貨幣量が拡大すると需要が拡大する。だから、国債を発行しすぎると、国内の供給力を大幅に上回るほどの需要が発生し、過剰なインフレとなり、国民生活が苦しくなる。)

帰結4:「したがって、政府が、望ましいレベルのマイルドなインフレになる程度の国債を発行すると、経済は順調に成長することになる」
(現実:誠に不幸なことに、PB規制をかけているデフレ日本の現状は、そうした状況に達していない)
(理由:「貨幣は負債」だから、国債発行に伴う政府支出の拡大は、貨幣量を拡大する。そして、貨幣量が拡大すると需要が拡大する。だから、国債を「適切」に発行すると、国内の供給力を幾分上回るほどの需要が発生し、マイルドなレベルのインフレとなる。)

帰結5:「逆に言うと、政府が、『望ましいレベルのマイルドなインフレになる程度の国債額』を下回る水準でしか国債を発行しなければ、デフレ化し、経済は低迷する。そして、国民は貧困化する。」
(現実:誠に不幸なことに、PB規制をかけているデフレ日本の現状はまさにこうした状況にある)
(理由:「貨幣は負債」だから、国債発行は貨幣量を拡大する。そして、貨幣量が拡大すると需要が拡大する。だから、逆に言うなら、国債を「適切」に発行しなければ、総需要は、国内の供給力に比して十分でない水準となり、ゼロ成長、あるいは、デフレとなる)

帰結6:「したがって、デフレ下の政府が、『PB黒字化』のために国際発行額を抑制すると、デフレがさらに深刻化する。」
(現実:誠に不幸なことに、今の日本はこの状態)
(理由:「貨幣は負債」だから、税収が低いデフレ下で「PB黒字化」を目指すために国債発行額を縮小すれば、政府支出が縮小し、政府による貨幣供給量が下落する。結果、需要はさらに縮小し、デフレが深刻化する。)

帰結7:「政府が全ての国債を返済(償還)してしまうと、市場内の貨幣は大幅に縮小し、深刻なデフレとなるリスクが拡大する」
(現実:デフレ化の日本でPB赤字を縮小しようとして、デフレが深刻化し、日本経済は今、混乱状態になっている)
(理由:「貨幣は負債」である以上、市場におけるあらゆる貨幣は、民間および政府の負債である。そのうちの政府の負債がゼロになれば、当然、貨幣は縮小し、その結果、需要も大幅に縮小し、激しいデフレとなるリスクが拡大する。ただし、「バブル経済」状況では、そのリスクは最小化される。)

帰結8:「政府の徴税能力が崩壊すれば、貨幣が流通しなくなる」
(現実:日本では徴税能力が十分あるため日本円は十分流通している。一方、政府の徴税能力が無くなった国家では、当該国の通貨は――当該国民の信頼を無くしてしまうので――流通しなくなり、ドルなどの国際通貨が使用されはじめるようになる)
(理由:「貨幣は負債」である以上、「信用」がなければ、負債が出来なくなる。そして通貨創造における国内最大の信用は「政府の徴税能力」によって産み出される。だから(統合)政府は、その徴税能力のお陰で、「負債」を負うことが可能なのであり、その借用証書としての「貨幣」を、人々が受け入れる形で発行することが可能となっている。しかし、徴税能力が無くなれば、その政府はもう「負債」が不可能となり、(統合)政府の借用証書である「貨幣」を人々が受け入れなくなってしまう。結果、例えばアメリカ政府の徴税能力に裏打ちされた米ドルを、外国においてすら人々が使うようになってしまう)

帰結9:「政府の国債がどれだけ増えても、金利は上がらない。むしろ、下がる。」
(現実:国債はGDPの240%も発行しているが、金利は極めて低い状況にある)
(理由:「貨幣は負債」だから、国債を発行すると貨幣が市場に供給され、さらに国債を買う余地が市場において拡大する。そうなると必然的に、各銀行の準備金等も拡大し、それらを通して金利は下がる。)

・・・以上の他にも、
様々な帰結を導くことができるのですが、
これらは全て、
「貨幣は負債」だから・・・
から出発して、導かれるのです。

それはまるで、
物理学における古典力学は、
「ma=f」を出発点とし
(後は現実的な制約条件を導入していけば)
全て解けるようになる・・・
という話とそっくりです。

にも拘わらず、
今日の主流は経済学や経済財政政策は全て、
貨幣を「負債」ではなく
紙幣そのものに価値がある「商品」と捉えています。


この、「貨幣についての認識」の間違いにこそ、
今の経済学や経済政策が間違え続けている、
根本的原因があるのです。

(すなわち、皮肉な事に、
「主流派経済学が間違った貨幣観に基づいて、
間違った経済政策を演繹し続けている」
という事実からも、
MMTの正しさが証明されているわけです)

ついてはこれからは是非、
「オカネとは負債であって、借用書なのだ!」
という「真実」に基づいて
あらゆる経済政策を考えて頂きたいと思います。

そうすれば、後はじっくり時間をかければ、
誰でも必ず、「正解」にたどり着けるのです。

追伸:
私たちは今、こうしたまっとうな議論に基づいて、
「令和時代」を作らねばなりません。
ついては今、表現者クライテリオンでは、
「令和への建白書」を最新号として取りまとめました!
その根幹は、「令和八策」。
令和ピボット運動の「理論的支柱」ともなり得る
この建白書、是非、ご一読ください!
https://the-criterion.jp/backnumber/84_201905/

—発行者より—
総理「政権中にこれを破棄できなければ、日本はオシマイ」

三橋貴明と総理との会談時で明かされた真実。

●総理が、三橋との会食をオープンに
(世に公開)してまで国民に伝えたかった事とは…?

●この会食で明らかになった、
私たちの邪魔をする[3つの敵の正体]とは?

●2020年に訪れるかもしれない
日本の危機的状況とは一体何なのか?

日本が発端となり、
2008年のリーマンショックが再来する?

などなどメディアが決して報道しない
「安倍総理の告白」と「日本経済2020年危機」
について解説した書籍を出版致しました。

こちらから詳しい内容をご覧ください。
https://keieikagakupub.com/38JPEC/1980/


https://38news.jp/economy/13499
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/140.html#c13

[リバイバル3] 恐怖の温泉 _ 女は何をやるかわからない 中川隆
27. 中川隆[-10714] koaQ7Jey 2019年4月17日 18:21:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1338]
お風呂の浴室でオシッコをした経験がある人は60%以上!日常的にしている人は◯◯%も!
2015年12月8日 ハレルヤ編集部 サニー佐藤
https://halleluja.jp/22540

m

関ジャニ∞の村上信五さんとマツコ・デラックスさんがMCを務める『月曜から夜ふかし』、「様々な確率について調査した件」にて本記事の調査結果が使用されました。(2017年5月29日23時59分〜放送)


毎日の疲れを癒やしたり、身体の汚れを洗い流すのに欠かせないお風呂。
特にこの寒い時期は、シャワーだけでも冷たい身体を暖めてくれる至福の時でもあります。

そんなお風呂ですが、友人達と話しているとたまにこんな話題になることがあります。

「お前、お風呂でオシッコする?」

「もちろんオシッコするよ」という人から「汚いからオシッコなんてする訳ないじゃん」という人まで賛否両論です。みなさんはどうでしょうか?

ということで今回は、お風呂でオシッコをした経験があるかどうかを調査してみました!

お風呂の浴室でオシッコをした経験がある割合は60%以上!

全国500名の男女を対象に調査を実施したところ、なんと62.4%の人がお風呂場でオシッコをした経験がある(312人/500人)という結果になりました!
浴室でオシッコをしたことがありますか?

トイレ以外でのオシッコは「汚い」という理由で嫌な顔をされがちかと思いきや…半数を超える62%以上の方は日常的もしくは、過去にお風呂でオシッコをしたことがあるのです。さらには、全体の15.8%にあたる79人が「毎回する・よくする」と回答しています。

仮に渋谷のスクランブル交差点のど真ん中で「俺はお風呂でオシッコしてるぞ〜っ!」と叫んだとしても、40%にも満たない人に気持ち悪いと思われるだけで、その他の人たちは共感してくれるのです。みんなあなたの仲間です。安心してください、(みんな)オシッコしてますよ。

ただ、仮の話なので本当に叫ぶと別の理由で嫌な顔をされるのでご注意ください。

お風呂場でオシッコをする割合は、男性の方がかなり多い

62.4%の人がお風呂場でオシッコをしたことがあるという結果でしたが、男女で比べてみたらどうなるのでしょうか。

男性の浴室オシッコ経験者は70%超。日常的にしている人も20.7%

浴室でオシッコをしたことがありますか?(男性)
男性(232名)に限定してみると、浴室でのオシッコの経験者は全体で見た時より約10%アップの70.7%。「毎回する・よくする」という人は約5%アップの20.7%という結果に。次に女性の場合はどうでしょうか。

女性の浴室オシッコ経験者は約半数

浴室でオシッコをしたことがありますか?(女性)
女性(268名)に限定すると浴室オシッコの経験者は55.2%、「毎回する・よくする」という人は11.6%という結果になりました。男性のグラフと見比べると「したことがない」という割合が大きく違うのがよく分かりますね。

何故男性の方がお風呂場でのオシッコ経験が多いのか

結果を見ると、男性の方が経験者が多い結果になりました。一体それは何故なんでしょうか。簡単にですが自分なりに考察してみました。

トイレ習慣の違い

トイレでオシッコをする時の習慣として、男性は便座に座らず立って用をたすというのが一般的です。公衆便所だと沢山設置された小便器で、まるでコンビニでお会計をするような手軽さとスピードでこなしていくわけです。また、外で立ち小便をしたり、酔っ払って勘違いし、押入れの中や冷蔵庫の中等に間違えてオシッコをしてしまったという話も聞くことがあります。

そのことからわかるように、男性はオシッコをするということに関して抵抗が少なく、女性よりスピーディーで手軽なものになっているといえるのではないでしょうか。
できるところでササッとする。というトイレ習慣の違いが結果にも反映されているように思えます。

世の中の目の違い

偏見になってしまうかもしれませんが、男性がしてよくても、女性がするとダメだ(やらないで欲しい・イメージが崩れる)と言われることってあると思うんです。
例えばこんな感じで。
おならをする
ゲップをする
鼻くそをほじる
大の方をする

女性的でないというか、なんというか。どれも人間ならしょうがない生理現象なわけですが、例えばアイドルはおならをしないとか、女性を良い意味で美化した世間の目の違いなわけです。このグループにお風呂でオシッコをするという項目が入ってくるのではないでしょうか。

それによって女性はお風呂でオシッコをするのは美しくない、することは良くないという抑制が働くのではないかと推測します。

おわりに

今回の結果で60%以上の人がお風呂でオシッコをしたことがあるというこということがわかりました。

お風呂でオシッコをすることは悪いことではありません。ただ、色々な人が利用する温泉や銭湯など公共の場ではしないほうが良さそうですね。同居人がいる場合も後々問題になる可能性もあるのでカミングアウトしてオシッコをしていいか聞いてみてはいかがでしょうか。

また、お風呂でのオシッコに慣れ過ぎると美容院でシャンプーをしてもらう際に条件反射でオシッコをしてしまうという話も聞いたことがあるのでくれぐれもお気を付け下さい!

それでは良い浴室オシッコライフを!
https://halleluja.jp/22540
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/296.html#c27

[近代史3] 世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される 中川隆
13. 中川隆[-10713] koaQ7Jey 2019年4月18日 07:36:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1339]

日本の風俗嬢は清楚で上品な女性でないと客が付かない

◆あなたは「清楚な女性」が好きですか? 日本の男は「清楚」にカネを払う2019.04.18
 

ある風俗嬢と話していた時、あまりのおかしさに笑ってしまったことがある。客の男の好みは「清楚な女性なので、そのイメージに合うように派手派手しい格好はしないように指導されている」というのである。

彼女たちは、セックスワーカーである。性サービスをするのが仕事だ。表社会の常識で言うと、彼女たちは「清楚」とは180度対極の世界にいる。

そんな女性に「清楚」だとか「貞淑」だとかのイメージを求めることは、なかなか滑稽なことのようにも思えるのだが、客となる男たちは真面目にそれを求めているのだ。その現実に笑わずにいられなかった。

日本の風俗のバラエティは世界でも最強の部類に入るので、中にはタトゥーだらけの女性を集めた風俗や、クラブで踊るような派手な格好の女性を集めた風俗も当然あるわけで、こうした女性たちを好む男たちもいる。

しかし、そのコンセプトが大当たりするのであれば、次から次へと類似店が登場して、それが主流になって「清楚」を売りにする風俗店は廃れる。

現実は逆だ。「清楚な雰囲気を持つ女性」は圧倒的に好まれていて、そうした女性を集めた風俗店が大きな売上を上げ、安定的な経営を行っている。男はカネを払って女性を選ぶ。「清楚な女性」を集めた店が圧倒的に強いのであれば、それが男の本音だということだ。
https://blackasia.net/?p=12610
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/351.html#c13

[近代史3] 戦後の日本が世界で最も成功した社会主義国、理想の共産社会に近い一億総中流社会になった理由 中川隆
1. 中川隆[-10712] koaQ7Jey 2019年4月18日 08:16:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1340]
講演 憲法について考えよう──子どもたちの未来に平和を──
2006年1月14日(土)午後1時30分 鋸南町中央公民館多目的ホール
講師・東北学院大学講師・世界キリスト協議会前中央委員 川端純四郎
http://kyonannet.awa.or.jp/mikuni/siryo/2006/kawabata-kouen060114.htm

 ご紹介いたします。
 先生は1934年のお生まれです。東北大学文学部に学ばれ、博士課程を終えられてから、ドイツのマールブルグ大学に入学されました。帰国後、東北学院大学教員として35年間お勤めになりました。その後ひきつづき講師として、現在も勤務されています。一貫して平和、人権、政治改革の活動に積極的に関わっておいでになりました。

 「9条の会」の講師団メンバーとしても、全国を股にかけて講演なさっており、昨年は1年間で80回以上の講演会を開いておられます。

 先生は今朝8時前に仙台を発ち、はるばる鋸南町においで下さいました。今日の講師としてほんとうにふさわしく、よいお話をうかがえると思います。早速、先生からお話をうかがいたいと思います。 先生、どうぞよろしくお願いいいたします。
                                        安藤

 みなさん、こんにちは。 安房郡の水清き鋸南町に伺って、こうしてお話できることをありがたいと思っています。初めておうかがいしました。木更津まで来たことはあるのですが、今日、電車で君津を過ぎたらとたんに山が美しくなり、あそこまでは東京郊外のなんとまあみっともない風景でしたけれど、あそこから南に来ると一気にほんとうに昔のよき日本の風景がよみがえってくるようでした。ほんとうに嬉しく思いました。

 いま、「さとうきび畑」の朗読と、合唱団のコーラスをお聞きしたのですが、どちらも聞いていて涙が出ました。

 私は、戦争に負けた時小学校6年生でした。仙台で敗戦を迎えましたが、仙台も空襲で全滅いたしました。街の真ん中にいましたから、もちろんわが家も丸焼けでした。忘れられない思い出があります。街の真ん中の小学校でしたから、同級生が一晩で8人焼け死にました。隣の家の、6年間毎日いっしょに学校へ適っていた一番仲の良かった友達も、直撃弾で死にました。今でも時々思い出します。

 今このような歌を聞くと、どうしてもその人のことを思い出します。思い出す私の方はもう70になりますが、記憶に出てくるその三浦君という友達は、小学校6年生のまま出てきます。どうして小学校6年で人生を終わらなければいけなかったのか、生きていてくれたらいろんな事があったのに、と思います。戦争なんて二度としてはいけない、というのが一貫した私の願いです。

 私は牧師の家に生まれました。父はキリスト教の牧師で、教会で生まれ教会で育って、讃美歌が子守歌でした。牧師の中には戦争に反対した立派な牧師さんもおられたのですが、私の父のような多くの普通の牧師は、政治や社会に無関心で魂の救いということしか考えていませんでした。で、私もその親父に育てられましたから、大学を出、大学院に入って博士課程までいって、ずっとキルケゴールや実存哲学という、魂だけ見つめているような学問をやっていて、政治とか経済、社会とかは25歳までいっさい関心がありませんでした。

 25歳の時チャンスがあって、ドイツ政府の招待留学生となってドイツヘ勉強に行くことになりました。1960年のことでした。1960年にドイツへ行ったというだけで、どんなにノンポリだったか分かります。安保改訂問題で日本中が大騒ぎの時、それを尻目に悠々とドイツ留学に行ったのです。幸か不幸かまだ世界は貧しくて、飛行機などというものは贅沢な乗り物で、まだジェット旅客機機はありませんでした。プロペラ機でヨーロッパヘ行くには途中で何遍も何遍も着地し、給油して、今のようにノンストップでシベリヤを越えて、などというのは夢のような話でした。しかもベラ棒に高いのです。船の方があの頃はずっと安かったのです。特に貨物船に乗せてもらうと飛行機よりずっと安いのです。そこで一番安いのを探して、5人だけ客を乗せるという貨物船をみつけました。

 その船で神戸を出航し、インド洋からスエズ運河をぬけ、地中海を渡ってイタリアのジェノバに上陸。そこから煙を吐く蒸気機関車でアルプスを越えて、ドイツのマールブルクという町に着きました。

 実は、飛行機をやめて船で行ったということが、私の人生を大きく変えることになりました。あの時もし飛行機で行ったなら、私は一生、世間知らずの大学に閉じこもって勉強だけしている人間で終わった、と思います。

 ところが船で行ったおかげで、しかも貨物船に乗ったおかげで、私は途中のアジア・インド・アラブの国々をくわしく見ることができました。まっすぐ行けば船でも二週間で行くそうですが、何しろ貨物船ですから、途中港、港に寄って荷物を下ろし、また積んで、一つの港に4日から5日泊まっているのです。おかげでその間、昼間は上陸してそのあたりを見て歩き、夜は船に帰って寝ればいいのですから、東南アジアからアラブ諸国をくまなく見て歩きました。

 1ヵ月かかりました。神戸からジェノバまでのこの船旅。その時見たものが、私の人生を変えたのです。何を見たかはお解りですね。アジアの飢えと貧困という厳しい現実にぶつかったのです。

 降りる港、港で、ほんとうに骨と皮とに痩せせこけた、裸足でボロボロの服を着た子供達が、行く港も行く港、集まって来るのです。船の事務長さんに、「可哀想だが、何もやっては駄目だよ。1人にやると収拾がつかなくなるよ」と言われていました。だから心を鬼にして払いのけて通り過ぎるのですが、その払いのけて通り抜ける時に触った子供の肩、肉などなんにもない、ただ骨と皮だけのあの肩、あの感触が、今でも時々蘇ってきます。

 船に帰って、眠れないのです。明日も、あの子供たちに会う。どうするか。私が考えたことは、「神様を信じなさい。そうすれば救われます」と言えるか、ということでした。

どんなに考えたって、言えるわけがありません。飢えて捨てられた孤児たちに、こちらは着るものを看て、食うものを食っておいて、「神様を信じなさい、そうすれば救われます」などとは、口が裂けても言えないと思いました。牧師館で生まれて、キリスト教しか知らずに育って、キリスト教の学問をして来て、それではお前キリスト教って何なのか、25年お前が信じてきたキリスト教とは、飢えた子供たちに言えないようなキリスト教なのか。とれが私の考えたことでした。

 もし言えるとしたら、ただ一つしかない。そこで船を降りて、服を脱いで、子供たちに分けてやって、食っているものを分けてやって、そこで一緒に暮らす、それなら言える。言えるとしたら、それしかありません。言えるじゃないか、と自分に言い聞かせました。

 それなら、船を降りるか──。くやしいけど、降りる勇気がありませんでした。折角これからドイツヘ勉強に行くという時、ここで降りて、一生インドで暮らすのか、一生アジアで暮らすのか、どうしてもその気にならないのです。

 ですから理屈をこねました。

 「降りたって無駄だ。お前が降りて背広一着脱いだって、何百人人もいる乞食の子に、ほんの布切れ一切れしかゆきわたらないではないか。自分の食うものを分けてやったって、何百人もの子供が1秒だって、ひもじさを満たされる訳がないじゃないか。お前が降りたって無駄だ。それは降りたという自己満足だけで、客観的にはあの子らはなんにも救われない。」

 「だから降りない、勇気がないのではなく、無駄だから降りない。」と自分に言い聞かせるのです。でも、降りなければ「神様を信じなさい」とは言えません。言えるためには降りなければならない、しかし降りても無駄なのだ。

 堂々巡りです。寄る港、寄る港でこの間題に直面しました。毎晩毎晩同じ問題を考え続けて、結局、答えが見つからないまま、閑々として港を後にしました。、出港の時、あの子たちを見捨て自分だけドイツへ行くことに、強い痛みを感じました。これは永く私の心の傷になって残りました。

 このようにして初めて、世の中には飢えた仲間がいるという、当然分かっていなくてはいけない事実に、何ということでしょう、25にもなってやっと気づいたのです。飢えた子供たちがいる、それを知らんぷりしてドイツに行くのか、お前が降りてあの子たちと一緒に暮らすことはあまり意味ないかも知れない、しかしやっぱり船を降りないのだとしたら、せめて世の中に飢えた子供なんか生まれないような社会を作るために、自分で何かしなければいけないのではないか。ただ魂の中だけに閉じこもっていていいのか。

 これが、私がヨーロッパヘ行く1ヵ月の旅で考えたことでした。

 ドイツヘ行って、宗教の勉強をしました。ブルトマンというドイツの大変偉い先生の所に1年いて、いろいろ教わりましたが、結局、私の結論としては、実存哲学だけではだめだということでした。自分が自分に誠実に生きる──これが実存的、ということですが、それだけでは駄目だ。自分が生きるだけでなく、みんなが人間らしく生ることができるような世の中になるために、自分にできる何か小さなことでもしなければいけない。

 こう思うようになって、日本に帰ってきたのです。

 それじゃあ、世の中で、そのように飢えて死ぬような子がいなくなるような社会とは、どうすれば出来るのか。これはやっぱり、飢え、貧困、戦争、差別、そういうものが生まれる原因が分からなければ、除きようがありません。原因を勉強しなければいけない。そのためには社会科学を勉強しなければいけない。特に経済学を勉強しなければいけない──。

 ドイツヘの留学は、大学院の途中で行きましたので、帰国して大学院に復学しました。幸い東北大学は総合大学ですから、中庭をへだてて向こう側が経済学部でした。帰ってきた次の日から、私は、経済学部の講義を経済原論から、授業料を払わずにもぐりで、後ろの方にそっと隠れてずっと聞きました。

 それからもう45年になりますが、ずっと宗教哲学と経済学と2股かけて勉強してきています。今日も、多少経済の話を申し上げるわけですが、やっぱり自分がクリスチャンとして、今もクリスチャンであり続けていますが、同時に、自分の救いということだけ考えていたのでは申し訳ないと思うのです。現実に飢えて死ぬ子がいるのです。ユネスコの統計によると、毎日2万人の子が栄養不足で死んでいるそういう世の中、このままにしておくわけにはいかない、自分でできることは本当に小さいけど、その小さなことをやらなかったら、生きていることにならない──。そう思って45年過ごしてきたわけです。

 キリスト教の中でずっと生きていますので、一般の日本の人よりは外国に出る機会が多いと思います。特に世界キリスト教協議会という全世界のキリスト教の集まりがあります。その中央委員をしていましたので、毎年1回中央委員会に出かけて、1週間か2週間会議に参加しました。世界中のキリスト教の代表者と一つのホテルに缶詰になり、朝から晩までいろいろと情報交換したり論議したりします。そのようなことを7年間やりましたので、世界のことを知るチャンスが多かったと思います。それを辞めてからも、自分の仕事や勉強の都合で、今でも毎年二週間ぐらいはドイツで暮らしています。そうしていると、日本ってほんとうに不思議な国だということが分かってきました。

 日本にいるとなかなか分からないのです。島国ですし、おまけに日本語という特別な言葉を使っています。他の国との共通性がない言葉です。ヨーロッパの言葉はみんな親戚のようなものですから、ちょっと勉強するとすぐ分かります。一つの言葉の、ドイツ弁とフランス弁、ベルギー弁、オランダ弁というようなものです。日本で言えば津軽弁と薩摩弁の違い程度のものです。津軽と薩摩では、お互いに全然通じないとは思いますが、それでも同じ日本語なのです。ヨーロッパの言葉とはそういうものです。ですからお互いに何と無く外国語が理解できるというのは、別に不思議なことではないのですね。ですから、自分の国のことしか知らないという人は、非常に少ないのです。

 新聞も、駅に行けばどんな町でも、ヨーロッパ中の新聞が置いてあります。ドイツのどんな田舎町へ行っても、駅にいけばフランスの新聞もイタリアの新聞も売っていますし、それを読める人がたくさんいるのです。そういう社会ですから、日本人とはずいぶん違います。自分の国を客観的に見られる。他の国と比べて見ることができるのです。

 日本にいると比べられません。そのうえ、日本はマスコミが異常です。ワンパターンのニュースしか流しません。ヨーロッパではいろんなテレビがあって、テレビごとに自由な報道をやっています。バラエティー番組のようなものがなくて、ニューハ番組が充実しています。きちんとした議論をテレビでやっています。ですから日本にいるよりは、比較的自分の国の様子を客観的に見られることになります。ドイツに行く度に、日本とは不思議な国だなあと思うのです。

 例えば、もうだいぶ前、バブルの頃です。日本のある有名なモード会社がミラノに支店を出しました。そしてマーケティング調査をしました。どんな柄が流行っているか、アンケートを集めそれを整理するために、イタリア人女性3人雇ったそうです。アンケートの整理をしていたら5時になりました。あと少ししか残っていなかったので、日本ならの常識ですから、「あと少しだからやってしまおう」と日本人支店長は声をかけました。ところがイタリア人女性3人は、すっと立って「5時ですから帰ります」と言って出て行こうとしました。思わず日本人支店長は怒鳴ったのだそうです。「たったこれだけだからやってしまえ」と。途端にこの日本人支店長は訴えられました。そして「労働者の意志に反する労働を強制した」ということで、即決裁判で数万円の罰金をとられました。

 これがヨーロッパの常識です。つまり9時から5時までしか契約していないからです。5時以後は命令する権利はないのです。9時から5時までの時間を労働者は売ったんであって、5時以降は売っていないのですから、自分のものなんです。会社が使う権利はありません。当たり前の話です。

 その当たり前の話が日本では当たり前ではないのです。残業、課長に言われたので黙ってやる。しかもこの頃は「タダ残業」ですからネ。本当にひどい話です。常識がまるで違うのです。あるいは有給休暇。ドイツのサラリーマンは年間3週間とらねば「ならない」のです。3週間休まなければ罰せられます。日本は有給休暇など殆どとれません。ドイツでは取らないと罰せられます。ですからどんな労働者でも3週間、夏はちゃんと休んで、家族ぐるみイタリアへ行ってゆっくり過ごしてきます。有給になっているからです。或いは日本では1週間40時間労働です。ドイツはもう随分前から36時間です。土日出勤などありえない話で、日本のように表向き40時間労働でも、毎日毎日残業で、その上休日出勤、日曜日には接待ゴルフなど馬鹿なことをやっています。接待ゴルフなど、ドイツには絶対ありません。日曜日は各自が自由に使う時間で、会社が使う権利はないのです。

 そういうところもまるで常識が違います。或いは、50人以上だったと思うのですが、50人以上従業員がいる会社、工場は必ず、労働組合代表が経営会議に参加しなければいけないことになっています。そんなことも、日本では考えられないことです。ですから配置転換とかもとても難しいし、労働者の代表が入っているから、簡単に首は切れません。

 そういういろんな面で、日本の外に出てみるとびっくりするようなことが山ほどあります。日本という国は、高度に発達した資本主義国の中で例外的な国なのです。資本主義が発達した点では、アメリカにもフランスにもドイツにも負けないのですが、資本主義が発達したにしては、労働者が守られていない。或いは市民の権利が守られていない。会社の権利ばかりドンドンドンドン大きくなっているのです。それが日本にいると当たり前のように思われています。外国で暮らしていると、日本は不思議な国だと分かります。特にこの数年それがひどくなってきているのではないでしょうか。

 私たちの暮らしは、戦後50何年かけて、少しずつよくなってきました。例えば年金なんかも少しずつ整備されてきた。健康保険制度も整備されてきた。介護保険も生まれてきた。或いは、労働者も土曜日チャンと休めるようになってきた。ところがこの数年、それが逆に悪くなつてきています。年金は削られる一方、介護保険料は値上がりする、労働者は首切り自由でいくらでも解雇できる。労働者を減らすと政府から奨励金が出る。タダ残業はもう当たり前・・・。

 特にこの数年、構造改革という名前で、日本の仕組みが変わってきています。いま申し上げたように、戦後50年かけてみんなで、少しずつ少しずつ作ってきた、いわば生活の安心と安全を守る仕組み、そういうものが今はっきり壊されかかっているのではないでしょうか。

 小泉首相という人は「自民党をぶっ壊す」といって当選したのですが、この4年間を見ていると、あの人は自民党を壊したのではなく「日本を壊した」のではないかと思われます。これまで日本が戦後50年かけて作ってきた社会の仕組みが、バラバラにされているのです。フリーターとかニートがもう30%でしょう。そうなると当然、この人たちは生きる希望がありません。お先真っ暗。いまさえよければ、ということになる。ですから若者が当然刹那的になる。人生の計画なんて立たない。今さえよければということになっていきます。

 昔なら10年に1回あるかないかのような犯罪が、いま毎日のように起きています。私は仙台にいますが、この正月には赤ん坊の誘拐事件で一躍有名になってしまいました。あんなことが日常茶飯事として起こっています。栃木県で女の子が山の中で殺された事件は、まだ解決されていませんが、こんな事件が今は「当たり前」なのです。世の中がすさんできて、何が善で何が悪なのか、みんなに共通な物差しというものがなくなったというふうに思われます。

 そのような世の中の変化、私は多分、「構造改革」というものがその犯人なのだ、と思っています。

《逆戻りの原因はアメリカの変化》

 その構造改革というのは、どこから来たのか。もちろんアメリカから来たのです。アメリカが変化した、日本はそのアメリカに右ならえをした、それが構造改革です。

 それでは何が変わったのか、これが一番の問題です。この変化の行き着くところが、憲法改悪です。

 社会の仕組み全体がいま変わろうとしているのです。憲法も含めて。いったい何がどう変わるのか。いったいどういう構造をどういう構造に変えるということが構造改革なのか。そこのところがアメリカを見ればよく分かってきます。アメリカがお手本なのですから。

 アメリカはソ連崩壊後変わりました。ソ連とか東ドイツは自由のないいやな国でした。昔1960年に西ドイツヘ留学した折、東ドイツへ何回か行く機会がありました。ふつうはなかなか行けないのですが、幸いキリスト教国なので、ドイツのキリスト教はしっかりしていまして、東ドイツと西ドイツに分裂しても、教会は分裂しなかったのです。東西教会一つのまんまです。ですから、教会の年1回の大会には、西で開く時は東の代表がちゃんと来たし、東で開く時は西の代表が行けたのです。ですから一般の人の東西の往来が難しかった時でも、キリスト教の人だけはかなり自由に行き来ができました。

 私も連れていってもらって、何回か東ドイツへ行って見ました。ご存じのように自由のないいやな国でした。ですからソ連や東ドイツが崩壊したのは当然だし、いいことだと思います。しかしソ連や東ドイツが100%悪かったかというとそんなことはありません。良い部分もありました。何から何まで全部ひっくるめて悪だったというのも間違いです。基本的に自由がない。ですから、ああいう国は長くは続かない。これは当然そうだと思います。滅びたのは当然だと私は思います。

 しかし同時に、良い面はなくしては困るのです。良い面は受け継がなければいけません。最も目につくのは女性の地位でした。これは立派なものでした。いまの日本なんかより遥かに進んでいました。男女の平等が徹底的に保障されていました。専業主婦などほとんど見たことがありません。だれでも自由に外に出て、能力に応じて働いていました。それができるような保障が社会にあるのです。文字通りポストの数ほど保育所があって、子供を預け安心して働きに出られるようになっていました。同一労働同一貸金の原則はきちんと守られていて、女性だから賃金が低い、女性だからお茶汲みだけなどというようなことは一切ありませんでした。これは凄いなと思いました。あれは、日本はまだまだ見習わなければいけないことです。

 もう一つ私がびっくりしたのは、社会保障です。私が初めて東の世界を見たのは、何しろ1960年の頃のことです。日本はまだ社会保障がない時代でした。いま若い方は、社会保障はあるのが当たり前と思っておられる方も多いと思いますが、そんなことはないのです。日本は1972年が「福祉元年」といわれた年です。それまでは、福祉はなかったのです。大企業とか公務員だけは恩給がありましたが、商店の経営者とか家庭の主婦なんか何もありませんでした。健康保険も年金も何もありませんでした。72年からようやく国民皆年金、国民皆保険という仕組みが育ってきたのです。

 もともと資本主義という仕組みには、社会保障という考えは無いのです。自由競争が原則ですから、自己責任が原則です。老後が心配なら、自分で貯めておきなさい。能力がなくて貯められなかったら自業自得でしょうがない。こういうのが資本主義の考え方です。労働者が、そんなことはない、我々だって人間だ、人間らしく生きていく権利がある。だから我々の老後をちゃんと保障しろと闘って、社会保障というものが生まれてくるのです。自然に生まれたのではありません。

 労働者が団結して闘って、止むを得ず譲歩して社会保障が生まれてくるのです。資本主義の世界で最初の社会保障を行ったのはビスマルクという人です。ドイツの傑物の大首相といわれた人です。ドイツの土台を作った人ですが、この首相の頃、何しろマルクス、エンゲルスの生まれた故郷ですから、強大な共産党があり、国会で100議席くらいもっていました。そこで、ビスマルクが大弾圧をやるのです。社会主義取り締まり法という法律を作って共産党の大弾圧をし、片方では飴として労働者保険法という法律で、労働者に年金を作ります。世界で初めてです。辞めた後年金がもらえる仕組み、病気になったら安く治してもらえる仕組みを作った。こうやって鞭と飴で労働運動を抑えこんでいったのです。

 社会保障というのは、そうやって労働者の力に押されてやむを得ず、譲歩として生まれてくるのです。放っておいて自然に生まれてくるものではありません。

 そこへ拍車をかけたのが、ソ連や東ドイツです。ソ連や東ドイツヘいってみて、1960年の時点なのですから、日本にまだ社会保障などなかった時、そう豊かではなかったのですけれども、老後みながきちんと年金をだれでも貰える、そして、病気になればだれでも、医者に行って診察を受けて治療を受けられる。これにはほんとうに驚きました。これが社会主義というものかと、その時は思いました。ただ自由がないのです。例えば、牧師さんの家に泊めてもらうと、こちらがキリスト教徒ということが分かっていますから、牧師さんも信用して内緒話をしてくれるわけです。外国から来る手紙はみな開封されていると言っていました。政府が検閲して開封されてくる。だから、「日本へ帰って手紙をくれる時は、気をつけて書いてください。政府の悪口など書かれると私の立場が悪くなるから。手紙書くときは開封されることを頭に入れて書いてくれ。」というふうに言われました。こんな国には住みたくないなと思いましたけれど、同時に社会保障という点では驚きました。こういうことが可能な社会の仕組みというのがあるんだなあ、とこう思ったのです。

 その後、スターリン主義というものによって目茶苦茶にされていくのですが、私の行った頃はまだ、東側の社会保障がある程度きちっと生きていた時代です。こうして、ソ連や東ドイツが社会保障というものを始めると、資本主義の国もやらざるをえなくなってきます。そうでないと労働者が、あっちの方がいいと逃げ出してしまいます。ですから西ドイツが一番困りました。地続きですから、何しろ。ですから、東に負けないだけの社会保障をしなければならなかったのです。そうすると、自由があって社会保障があるのですから、こっちの方がいいということになります。いくら向こうは社会保障があっても自由がないのです。こうして西ドイツは大変な犠牲を払って、社会保障先進国になってきました。そのことによって、東ドイツに勝ったのです。

 実際西ドイツの労働者は、別に強制されたわけではありません。自主的に西ドイツを選んだのです。ですからあのような東西ドイツの統一も生まれてきたのです。

 つまり資本主義の国は、ひとつは自分の国の労働者の闘いに押されて。そこへもってきて、ソ連、東ドイツの社会保障という仕組みの外圧で、それに負けるわけにいかないものですから、そういう力があって、社会保障というものを造り出していくのです。しかし社会保障というものは莫大な財源がかかります。

《社会保障をやめて小さな政府へ──構造改革の中身(1)》

 いま日本政府は社会保障をどんどん削っていますけど、それでも国家予算の中で一番多い費目は社会保障です。大変な財源が必要なのです。そこで資本主義の国は、新しい財源を見つける必要ができてきます。

 そこで見つけたのが2つ。1つは累進課税です。それまでの資本主義にはなかった、累進課税という新しい仕組みです。つまり収入の多い人ほど税率が高くなるという仕組みです。日本でも1番高い時は1980年代、1番大金持ちはの税率75%でした。ですから、年収10億あれば7億絵5千万円税金にとられたのです。今から考えれば良く取ったものです。今は35%です。大金持ちは今ほんとうに楽なのです。35%ですむのですから。年収10億の人は3億5千万払えばいいのです。昔なら7億5千万取られたのです、税金で。「あんまり取りすぎではないか、これは俺の甲斐性で俺が稼いだ金。それを取り上げて怠け者のために配るのか。」と彼らはいいました。
 そうすると政府は、「いやそういわないでくれ。そうしないと、資本主義という仕組みがもたない。だから体制維持費だと思って出してくれ。そうでないと社会主義に負けてしまう」と言って、大金持ちからたくさん取ったのです。大企業も儲かっている会社からたくさん税金取った。法人税もずっと高かったのです、以前は。こうやって大金持ち、大企業からたくさん取る累進課税で一つ財源を作ったのです。

 もうひとつは、企業負担です。サラリーマンの方はすぐお分かりですが、給料から社会保障で差し引かれますね。そうすると、差し引かれた分と同額だけ会社が上乗せするわけです。自分が積み立てたものが戻ってくるだけなら、貯金したのと同じです。労働者の負担する社会保障費と同額だけ会社も負担しているのです。倍になって戻ってくるから、社会保障が成り立つわけです。

 これも資本主義の原則からいえば、おかしいことです。いまいる労働者の面倒を見るのは当たり前です。会社は労働者がいるから成り立っているのですから。だけど、辞めてからは関係ないはずです。契約関係がないのですから。辞めた人が飢え死にしようがのたれ死にしょうが、会社の責任ではないはずです。

 だけども一歩ふみこんで、それでは資本主義の仕組みがもたないから、労働者が辞めた後まで面倒みてくれ、そこまで企業負担してくれ、そうしないと資本主義がもたないから、ということになります。

 こうやって、社会保障というものが資本主義の国で成り立っているのです。これは、ただの資本主義ではありません。資本主義の原則に反するような累進課税とか、企業負担というものを持ち込んで、社会主義のよいところを取り入れた資本主義です。これを「修正資本主義」と呼びました。

 資本主義の欠点を修正して、社会主義に負けないようないい仕組みに造り直した資本主義ということです。学者によっては、資本主義の経済の仕組みと社会主義経済を混ぜ合わせた「混合経済」と呼ぶ人もいます。所得再配分機能を政府が果たすということです。もちろん修正資本主義というものは、このような良い面だけではなくて、公共事業という名前で国民の税金を大企業の利益のために大々的に流用するというようなマイナスの面もあることも忘れてはなりません。

 しかし、ともかくこうやって、西側の世界は、自由があって社会保障がある、そういう社会に変わっていくのです。そのことで東に勝ったのです。ところが、そのソ連と東ドイツが居なくなったのです。

 その前にもうひとつ。先進資本主義国というのは或る一種の傾向として、労働者が闘わなくなってきます。これは先進資本主義国の宿命のようなものです。つまり資本主義国というのはご存じのように、地球上の大部分を占めている低開発諸国、貧しい第3世界といわれた世界から、安い原料を買ってきてそれを製品にして高く売っています。そして差額、莫大な差額を儲けている。超過利潤と呼ばれています。だから遅れた国は働けば働くはど貧しくなるのです。一生懸命働いてコーヒー豆作っても、それを安く買われてチョコレートやインスタントコーヒーなどの製品を高く買わされるのですから、結局差額だけ損をすることになります。

 この20年、先進国と遅れた国の格差は開く一方、全然縮まらない。地球上の富を先進国が全部集めちゃって、とびきりぜいたくな生活をやっています。ですから先進国の労働者にも、当然そのおこぼれの分け前に預かるので、低開発国の労働者にくらべれば、ずっと豊かになります。豊かにれば闘わなくなってしまいます。その上、それを推し進めるようなありとあらゆる謀策が講じられているのです。

 資本主義というのは、物を売り続けなければなりたたちません。売ったものをいつまでも使われていたのでは、資本主義は成り立たないのです。早く買い換えてもらわなければなりません。いま、日本の車はよく出来ているので、30年は楽に乗れるのに、30年乗られたら日本の自動車会社はみな潰れます。3年か5年で買換えてもらわなれりばいけません。買い替えてもらうには、自分の車は古いと思ってもらう必要があります。ですからコマーシャルで、朝から晩まで何回も、「あんたは古い、あんたは古い。こんないい車ができてます。こんな新しい車が出ましたよ。もっといいのが出ましたよ」と宣伝して洗脳しいるのです。だから3年も乗ると、どうしても買換えざるをえない心境に引き込まれてしまいます。全てのものがそうです。まだまだ使えるのに新しいものに換えてしまう。そういう仕組みができているのです。

 そうしないと、資本主義はもちません。ですから労働者はどうなるかというと、「次、この車に買換えよう、次、パソコンこっちに買換えよう、次、今度はデジタルテレビに買換えよう、じゃあセカンドハウス、つぎは海外旅行・・・」。無限に欲望を刺激され、自分の欲望を満たす方に夢中になって、社会正義とか人権とか考えている暇がなくなっていくのです。

 いま日本の大部分がそうですね。「もっといい生活を」ということだけ考えています。ほかの人の人権だの社会正義なんて見向きもしない。見事に資本の誘惑にひっかかってしまいます。

 もちろん、欲しいからって、お金がなければ買えません。家がほしい、車がほしい、パソコンほしい・・・。それが、実はお金がなくても買える、なんとも不思議な世の中です。ローンというものがあるのですね。

 フォードという人が見つけたのです。それまでは、「つけ」で何か買うなどということは、労働者にはありませんでした。労働者が「つけ」で買ったのはお酒だけです。酒飲みはお金がなくても飲みたいのです。だから酒屋だけは「つけ」がありました。大晦日に払うか払わないかで夜逃げするかどうかもあったでしょうが、今は家を「つけ」で買う、車を「つけ」で買う、なんとも奇妙な世界になってきました。これをフォードが始めたのです。それまでは、自動車というのは大金持ちのものでした。フォードが、あのベルトコンベアーというのも発明して、大量生産を始めたのです。そうなれば、大量に売らなれりばなりません。大量に売るためには労働者に買ってもらわなくてはなりません。でも労働者にはお金がないのです。そこで、ローンという、とんでもないものを考え出したのです。ローンなら金がなくても買えるんですから、みんな買う。当然な話です。

 そりゃあ豊かなのに越したことはありません。マイホームが欲しくなる。ですからみんなローンで買う。そして「マイホーム」という感じになるのです。でも本当はマイホームではありません。あれは銀行のものです。払い終わるまでは、所有権は銀行のものです。銀行から借りてローン組んだだけなんです。こうして次々と新しいものを買わされていく。そのローンは多くの場合退職金を担保に組みます。一度退職金を担保にローンを組んでしまったら、ストライキはできなくなります。会社と闘って退職金がすっとんだら終わりなのです。家も途中でおしまいになってしまいます。ですから、ローンでマイホームが変えるようになってから労働運動は一気に駄目になりました。みんな闘わない、会社と喧嘩したくない、というふうになります。これはもちろん、向こうは計算済みのことです。

 ですから、高度に発達した資本主義社会というのは、労働者が、ある程度ですが、豊かになり、そして、このような消費社会に組み込まれてしまって、身動きができなくなるのです。

 こうして、いま日本では労働組合も、労働運動もストライキもほとんど力を失いました。そうなれば、政府は社会保障なんて、何も譲歩する必要がはありません。労働者が必死になって運動するから、止むを得ず健康保険とか年金制度とかやってきたのであって、労働者が闘わなければ、その必要はないのです。いま、どんどん社会保障が悪くなってきています。次から次から悪くなる。20年前だったら、いまのように社会保障が悪くなったらたちまち、大ストライキが起こりました。しかし今は何も起きません。労働組合が弱体化している、労働運動が骨抜きという状態です。

 そこへもってきて、ソ連や東ドイツがいなくなったのです。こうなればもう社会保障をやる必要はありません。社会保障は止めます、修正資本主義は止めます、ということになるわけです。修正資本主義にはいろいろな意味があるのですけど、一つの特徴は、大金持ちや大企業からお金を取って、弱い立場の人たちに配るところにあります。所得再分配と言われる働きです。だから政府は大きな政府になります。こういう仕組みが修正資本主義で、いろんなマイナス面もあるのですが、プラスの面も大いにあります。

 この仕組みをやめる、というのが今のアメリカです。もう政府は面倒みません、自分でやりなさい、と自由競争に戻る。自由競争一筋。これが、ソ連が崩壊した後に新しくなったアメリカの仕組みなのです。そして、それに日本が「右へならえ」ということなのです。

 それに対してヨーロッパは、アメリカのいうことを聞かず、「われわれはこれからも、社会保障のある資本主義でいきます。むき出しの裸の自由競争には戻りません」。これがヨーロッパなのです。なぜヨーロッパがそういえるかというと、労働運動が強いからです。先進資本主義国なのになぜ労働運動が弱くならないのか。これはこれで時間をかけて考えなければならない問題なのですが──。

 現実の問題として強い。ヨーロッパだって大企業は社会保障を止めたいにきまっています。しかし止めると大騒ぎになります。労働者が絶対に言うことを聞きません。だからやむを得ず守っているのです。企業負担もうんと高いです。日本の会社の倍以上払っています。ですからトヨタ自動車もフランスに、フランス・トヨタを作っていますけど、日本トヨタの倍以上払っています。それでも儲かっているのです。

 ですから、ヨーロッパでも、社会保障は少しずつ悪くなってきてはいますが、日本に比べれば遥かに違います。このようにして、ヨーロッパはアメリカと別の道を進み始めました。アメリカは剥き出しの資本主義に戻りますが、ヨーロッパは修正資本主義のままでいこうとしています。

 しかし、それでは競争で負けます。アメリカや日本は企業の社会保障負担がうんと減っていますから、利潤が増えています。ヨーロッパは高い社会保障負担でやっていますから、儲けが少ないのです。そこで競争しなくてすむようにEUいうものを作って、枠を閉ざしちゃいました。アメリカや日本の会社がヨーロッパに来るときは、ヨーロッパ並みの負担をしなければ、EUには入れません。だからEUの中でやっている時には、日本にもアメリカにも負ける心配はないのです。

 そういう仕組みを作って、アメリカとは別の道を進み始めました。そのためにユーロという別のお金も作りました。イラク戦争で表面に出てきたのですが、イラク戦争がなくても、ヨーロッパはアメリカとは別の道を進み出していました。もう2度とアメリカとは一緒にならないでしょう。

《規制緩和とグローバリゼーション − 構造改革の中身(2)》

 もう一つ、ソ連、東ドイツ崩壊の結果、アメリカが大きく変化したことがあります。それは何かというと、大企業・大資本を野放しにしたことです。

 ソ連がいる間は、大企業や大資本に、「あなた達は資本主義なんだから儲けたい放題儲けたいだろうけど、それをがまんしてください。あなたたちがやりたい放題にやったら、他の資本主義国はみんな負けてつぶれてしまう。アメリカの資本と競争できるような資本などどこにもありませんから。そうなれば、ソ連の方がましだということになる。だから、やりたい放題は抑えてほしい」と言ってその活動を制限してきました。

 具体的に何を抑えたかというと、為替取引を規制したのです。これが一番大きな規制です。いまではもう、中央郵便局へ行って「ドル下さい」といえば、すぐドルをくれます。「100ドル下さい」といえば「ハイこれ1万2千円」。ユーロでも、「下さい」といえば「100ユーロ・ハイ1万4千円」とすぐくれます。でもこれはごく最近のことです。それまでは、外貨・外国のお金は、日本では勝手に手に入りませんでした。お金を外国のお金と取り替える、つまり為替取引は厳重に規制されていて、個人が勝手にはできなませんでした。外国旅行に行くとか、何か特別な理由が認められた時しか、外国のお金は手に入りません。いまは何も制限ありません。自由にだれでもいつでもできます。理由など聞きませんから、100ユーロとか千ドルくださいと言えば、そのままくれます。これが為替取引の自由化というものです。これがなかったのです。ソ連が崩壊するまでは、アメリカも厳重に規制していました。それをとっぱらったのです。理屈っぽく言えば、資本の国際移動が自由にできるようになったということです。こうして、アメリカの巨大な金融資本が、世界中を我が物顔にのし歩く時代が来るのです。

 もうソ連も東ドイツもなくなったのですから、「いや永いことお待たせしました。今日からもう儲けたい放題儲けていいですよ。やりたい放題やっていいですよ」ということになったのです。これが規制緩和とことです。規制緩和ということは要するに、大資本が野放しになったということです。そうなったらどうなるか、世界第2の経済大国といわれる日本でさえ、全然太刀打ちできません。アメリカの巨大資本、金融資本・銀行ですね。日本の銀行とは勝負になりません。ボブサップと私が裸で殴り合ぅようなもので、一コロで殺されてしまいます。

 それでもやれというなら、ボブサプは手と足を縛ってもらって、目隠ししてもらって、こちらは金槌でも持たしてもらって、それでやっと勝負になるのです。今まではそうだったのです。それを全部外して自由にする、無条件で自由競争にするというのです。負けないためには、相手に負けない位大きくなるしかないですから、合併、合併、合併。あっという間に30ほどあった都市銀行が3つになってしまったのです。UFJとか「みずほ」とか、元何銀行だったか覚えておられる方おられますか。すぐ言えたら賞金をさし上げてもよろしいのですが、まず、言える方おられないでしょう。合併、合併であっという間に3つになりました。3つにになってやっとなんとか対抗できるというくらいにアメリカの巨大銀行というのは大きいものなのです。それでもダメで、長銀はのっとられてしまいました。北海道拓殖銀行も山一証券ものっとられてしまいました。次々とのっとられています。

 ついこの間は青森県の古牧という温泉がのっとられまし。広くていい温泉なんですけど、驚いたことにゴールドマンサックスでした。世界最大のアメリカの金融投資会社、ハゲタカファンドの代表のようなものです。これがどうして古牧温泉なのかと思ったのですが、テレビで放送していました。古牧だけではありません。他に28ケ所、超有名温泉みんな買い占めちゃったのです、ゴールドマンサックスが。どうするかというと、従業員みんな首切っちゃってパートにして、腕利きのマネージャーを送り込み、部屋をヨーロッパ、アメリカ向きに整備しなおして、欧米からの観光客をワーツと呼ぼうという作戦なんですね。儲かるようにして高く売るのです。ゴールドマンサックスが経営するのではありません。いま赤字の会社を買い取って、儲かるように造り直してすぐに売っちゃうのです。これが投資銀行のやっていることです。確かに、いわれてみればそのとおりで、日本の温泉ほどいいものはありません。知らないだけで、こんないいものは世界中どこにもありません。だから日本の温泉の良さが分かったら、おそらくヨーロッパ、アメリカからごっそり観光客が来ると思います。そこにゴールドマンサックスが目をつけたのですね。そして近代経営やって外国人が来て楽しめるような設備に変えて、世界中にジャパニーズスパーなんていって売り出す気なのですね。ですから、そのうち皆さんも温泉にいらっしやるとみんな英語で案内され、アメリカのお湯の中に入ることになってしまいます。

 アッという間に日本はアメリカ資本に乗っ取られようとしています。去年のホリエモン合併もそうです。今年から商法改正(改悪)して、乗っ取りを認めるということになったのです。株の等価交換、面倒な仕組みですから詳しいことは申し上げませんが、アメリカ株1億ドル分と日本の株1億ドル分を、等価父換していい、こういっているんです。ところが、アメリカの株の値段が高いのです。ですから1億ドルといっても、株の数からすると、例えば千株位しかない。日本は株が安いですから、同じ1億ドルで1万株位あるのですね。そうすると、千株と1万株で取り替えますから、あっという間にアメリカは大株主になってしまう。この等価父換を認めると、日本の大企業全部乗っ取られてしまう。

 そこで、日本の優良企業が狙われています。超優良企業を株式等価交換で、簡単にアメリカが乗っ取ることができる。今年からそれが可能になるはずだったです。それで去年、実験をやったのですね。ホリエモンにやらせてみたのです。ホリエモンはアメリカのリーマン・ブラザースから借りてやったのです。で、出来そうだなと分かったので、アメリカはお金を引き上げてしまいました。ホリエモンに乗っ取られては困る、いずれ自分が乗っ取るのですからネ。最後の段階で資金引き上げましたたから、ホリエモン降りる外なかった、多分そういう仕組みだったのではないかと思います。

 今年から自由に、日本中の会社をアメリカが乗っ取れるはずだったのですが、あのホリエモン騒動のおかげで日本の大企業が震え上がり、政府に泣きついて、「なんとか商法改正を見送ってくれ」と。それで見送りになりました。ですから、ちょっと一息ついているのです。今年すぐ、乗っ取られるというわけではありません。でも、いつまでも見送りというわけにはいかないでしょう。2・3年後には解禁。そうなれば、日本はほぼアメリカ資本に支配される、ということになるでしょう。

 日本ですらそうなのですから、まして、フィリピンとかタイとかいう国はたまったものではありません。あっという間に乗っ取られてしまいます。アメリカに勝手に経済的属国にされてしまう。それに対して、いやそんなの困るから、アメリカ資本が自分の国の株を買うことを法律で禁止する、というようなことをやろうとすると、アメリカはそれを認めないのです。グローバリゼーションだから地球はは「一つ」だというのです。いくら規制緩和しても相手国が法律で規制してしまったら終わりです。ですから、自分の国だけ勝手に現制することは認めません、地球はひとつですよ、グローバリゼーションですよ、ときます。フメリカの大資本が地球上のどこの国でもアメリカ国内と同じ条件で商売できるようにする、これがグローバリゼーションです。いやだと断ると制裁を加えられます。

 クリントン大統領の時は経済的制裁だけですんだのですが、ブッシュになってから、軍事的制裁になりました。いうことを聞かないと軍事制裁だぞという、これがネオコンという人たちの主張です。イラクを見ればみな震え上がるでしょう。ですから、アメリカの言いなりにグローバリゼーションで国内マーケットを開放して、アメリカ資本に全部乗っ取られてしまう、というのがいま着々と進行しているのです。

《アメリカの孤立》

 そこでどうなったかというと、ヨーロッパと同じように、「そんなの困る。自分の国の経済の独立は自分たちで守りたい」という人たちが手を繋いで、「アメリカに支配され引きずり回されないように、防波堤を作ろう」という動きが始まりました。だいたい5・6年前からです。アセアン(ASEAN東南アジア諸国連合)の動きが始まりました。5つの国です。インドネシア、タイ、マレーシア、シンガポール、フィリピン。元来はアメリカが造らせた組織だったのですが、いつのまにか自主独立を目指す組織に成長しました。

 手を繋ぎ、アメリカに引きずり回されないように、アメリカの資本が勝手に入ってこないように、自分たちの経済は自分たちでやりましょう、と。ところが、ASEANが束になったってアメリカにはとてもかないません。そこで、知恵者がいました。アセアンだけではかなわないので、中国と手を繋いだのです。「アセアン、プラス中国で、アジアマーケットを作り、アメリカにかき回されないようにしよう」しようというのです。確かに、中国が入ったらアメリカはうかつに手が出せません。しかし中国だけ入れると、反米色があまりにも露骨ですから、「アセアン、プラス・スリーでいきましょう。アセアン+日本+韓国+中国、でいきましょう」ということになります。日本はアメリカの51番目の州だといわれているのですから、日本が入れば、アメリカも安心します。

 EUのように、アセアン+スリーで、自分たちの経済は自分たちでやれるように、アメリカに引きずり回されないような自立したアジアマーケットを形成することが目標です

 ただひとつ、日本が具合が悪いのです。日本はそのスリーに入っているのですが、(アセアンの会議に)行く度に「アメリカも入れろ、アメリカも入れろ」というのです。アセアン諸国はアメリカから自立するために作っているのですから、「アメリカを入れろ」といわれたんじゃあ困るので、結局日本は棚上げになってしまいます。実際にはアセアン+中国で、経済交流が進んでいます。いずれ2010年には、東アジア共同体・EACというものを立ち上げる、という動きになっています。
 そうなってくると韓国が困りました。日本・アメリカ側につくのか、中国・アセアン側につくのかで、2・3年前から中国側に大きく傾いています。留学生の数を見ると分かります。中国の北京大学には世界中の留学生が集まります。21世紀は中国と商売しなければメシが食えなくなることが分かっていますから、将釆、中国語がしゃべれる人が自国のリーダーになり、中国の指導者に友達がいないと困ります。それには北京大学に留学するのが一番いいのです。あそこはエリート養成学校です。この前行った時聞いてみたのですが、入学試験競争率5千倍だそうです。超難関です。大学の構内を歩いて見たのですが、広い敷地に6階建てのアパートが36棟ぐらい建っていて、みな学生寮です。全寮制。そばに教職員住宅があって、朝から晩まで共に暮らしながら勉強しています。授業は朝7時からです。ものすごく勤勉に勉強しています。35年間私は大学の教員でしたが、愛すべき怠け者の学生諸君を教えてきたわが身としては、「あ、これはかなわないなァ、20年もしたら──」と思いました。向こうは国の総力を上げて次の時代の指導者を養成しているのです。日本はもう全然、ニートとかフリーターとかいって、若者の気迫がまるでレベルが違います。これは置いていかれるな、という気持ちになりました。このように世界中の国が、いま一流の学生を北京大学に送り込んでいるのですが、去年、北京大学留学生の中で一番数が多いのが韓国なのです。

 おととしまで韓国の学生は殆どアメリカヘ行っていました。去年あたりから中国へ変わったようです。つまり韓国は、21世紀の自国は、アメリカ・日本ではなく、中国・アセアンと組むことで繁栄を図りたい、と向きを変えたということです。
 それに拍車をかけたのが小泉首相の靖国参拝。これで韓国は怒っちゃってあちらを向いた。そうなると、アセアン、中国、韓国と繋がって、日本だけはずされてしまった、という状況がいま生まれつつあります。

 さらに中国は、数年前からいま、「ふりん政策」を国の方針としています。フリンといっても男女の不倫ではありません。富、隣。隣の国を富ます、隣の国を豊かにする──富隣政策です。隣の国と仲良くする。中国だけ儲けたのでは相手に恨まれてしまいます。英語では「ウィン、ウィン」(win-win)というようです。どっちも勝つ、中国も儲けるけど相手も儲けるような関係を必ず作っておく、ということが基本政策です。

 つまりアメリカは、やっとソ連を倒したと思ったら、今度は中国が出てきたのですから、中国を目の敵にしているのは当然です。中国にすれば、アメリカにやられないためには、単独では対抗できませんから、周りの国と手をつなぐ、ということです。

 アメリカは修正資本主義を止めて自由競争の資本主義に戻りました。その結果大企業・大資本は野放しになりました。そのためにアジアにそっぽを向かれることになりました。アメリカにはついていけない。アメリカに勝手にされては困る。もちろんアメリカと喧嘩をしては駄目ですが、自分の国は自分の国でやれるようにしなければならない──、というふうに変わったのです。

 そして最後に、3年前から南米が変わりました。ようやく日本でも報道されるようになりましたからご存じと思います。ただ日本のマスコミはちょっとしか書きませんから、気づいておられない方もおありかと思います。南米がものすごい勢いでアメリカ離れを始めたのです。

 今まで200年、南米はアメリカの裏庭といわれていました。アメリカはやりたい放題やっていました。チリは世界一の銅の産出国ですが、このチリの銅はすべて、アナコンダというアメリカの銅会社が一手で採掘していました。だからいくら掘ってもチリは豊かにならない。アメリカのアナコンダだけが儲かるのです。

 ブラジルは世界一の鉄の産地です。これもみな掘っているのは欧米の会社で、いくら掘ってもブラジルは豊かにならない。ベネズエラは世界第五位の産油国です。これもみなアメリカの石油資本が持っていく。

 こういう国はこれまで軍事独裁政権でした。政治家は、自分の国の資源をアメリカに売り渡し、自国の国民の反発は力で抑えつけ、莫大なリベートを貰って自分たちだけベラボウな贅沢をしてきました。これがアメリカと南米のパターンだったのです。

 それが、3年ほど前から、「おかしいではないか。やっぱりベネズエラの石油はベネズエラ人のものだ。石油を掘ったら、ベネズエラが豊かにならないとおかしいではないか。いくら掘ってもアメリカだけ儲けるのはおかしい。石油をアメリカの石油会社から取り上げて、ベネズエラで掘ることにしよう。国有化しよう」というような政策を訴える大統領が、当選するようになりまし。この3年間で、南アメリカは80%が、このような自主独立派の大統領になりました。アメリカ資本に任せず、自国の経済は自分でやろうという政策を掲げた大統領が、次々と当選したのです。
 いまでは、南アメリカでアリカの言いなりというのは、多分コロンビアしかないと思います。あとは殆どみな、自分の国は自分でやりましょというふうに変わってきました。ベネズエラのウゴ・チャベスという人がそのチャンピオンです。ご存じですね、時の人です。アメリカはそのチャベスの当選を必死になって妨害したのですが、結局ダメでした。チャベスが圧倒的多数で選出されました。その彼の言い分がふるっているのです。

 「失礼にならないようにアメリカから遠ざかりましょう」というのです。いきなり遠ざかったのではゴツンとやられますから、アメリカを怒らせないように、喧嘩しないように、少しずつ「小笠原流」で遠ざかって自主独立に向かいましょうというのです。

 これがいま世界の合言葉です。「失礼にならないようにアメリカから遠ざかる。」日本もそうしなければいけない、と私は思っているのですが。絶対にやりません。

 こうやってアメリカは、ソ連や東ドイツがなくなってから、修正資本主義をやめて、いまの言葉でいえば「新自由主義」という仕組みに代わりました。日本はそれに右ならえしたのです。いま申し上げたように、このアメリカの新自由主義経済に無条件で追随しているのは、日本しかありません。あとはみな、「失礼にならないように」距離をおきました。日本だけが無条件でついていきました。だから「ポチ」だといわれるのですネ、確かにポチと言われてもしょうがないほど、無条件でついていきます。それは恥ずかしいことですが、日本が追随していく。これが構造改革なのです。修正資本主義経済から新自由主義経済に変わるということです。簡単にいえば、弱い人の面倒を政府が見るような仕組みから、もう弱い人の面倒は見ませんという仕組みに、変わっていく──。これが構造改革です。

 だから、社会保障はどんどん悪くなる。自由競争で勝ち組と負け組がある。中には1千万ぐらいのマンション買って落ち着いているのもいる。片方には、国民健康保険料さえ払えなくて医者にも行けない。そういう人がもう全国で膨大な人数出てきている。まさに格差社会です。

 どんどんその格差が広がっています。金持ちからお金を取って弱い人の面倒を見る、というのが修正資本主義なのですが、それを止めてしまいました。野放しなのです。強い人はますます強くなり、弱いものは負けたら自己責任なんですよ。こういう仕組みにいま変わったのですね。

 それがいいか悪いか、止むを得ないのかどうかは、いろいろな立場によって考えが違うのですが、事実はそうなったのです。

 しかしヨーロッパは別の道をとっています。このように別の道もありうるというのも事実なのです。ヨーロッパのように社会保障を止めない資本主義もあり得るのです。

 日本の場合、アメリカほど徹底していませんが、流れとしては「政府はもう弱い人の面倒は見ません」、という方向に大きく動いています。

《憲法改悪の要求》

 こうして、アメリカは新自由主義経済で自国の企業を野放しにして、それを世界中に押しつけようとしたのですが、意外に抵抗が大きかった。ヨーロッパはいうことを聞かない。アジアも聞かない、南米も聞かない。これでは困るので力づくで押しつける。こういうことになるのですね。力づくで押しつける時に、最大の目標・ターゲットはもちろん中国です。やっとソ連を倒して、21世紀はアメリカが王様になれると思ったら、中国が巨大な国になってきて、アレリカの前に立ふさがっいます。このままではアメリカは王様ではいられません。中国を抑え込むことが21世紀へ向けてのアメリカの最大の長期的課題になっています。しかし戦争はできません。中国と戦争したのでは共倒れになります。唯一の道はエネルギーを抑えることです。

 ネオコンという人たちの書いた文章を読むと、非常にはっきり書いてあります。21世紀にアメリカが世界の支配権を握るには、中近東の石油を抑えなければならないというのです。中国は石油の自給ができません。どんどん石油を輸入していますが、殆どいま中近東から輸入しています。アメリカが中近東の石油を抑えれば、中国はアメリカのいうことを聞かざるをえなくなる。当然でしょうね。

 世界一の産油国サウジ・アラビアはすでにアメリカ側の国です。そこで第二の産油国であるイラクをアメリカは分捕りたいのですが、その理由がありません。そこでアメリカは「大量破壊兵器、テロ応援」という嘘をつきました。プッシュ大統領も、ついにウソであったことを認めました。

 ではなぜイラク戦争をやったのか。本当の理由はまだ公表されていません。しかしネオコンという人たちの文章を読むと、明らかに「石油を抑える。抑えてしまえば中国は言うことを聞かざるをえない」。ここに本当の理由があったことは明白です。そうだとすれば、恐ろしい話ですが、(次に)絶対にイランが狙われます。

 世界第1の産油国サウジアラビアは、昔からアメリカの同盟国です。第2位のイラクは抑えてしまいました。そしてイランは第3位の産油国です。ここを放っておいたのでは意味がないのです。中国はいくらでもイランから石油の輸入ができます。どうしてもイランまで抑えなければならないというのは、アメリカでは、いわば常識です。どんな新聞雑誌でも次はイランだということが堂々と語られています。

 ライス国務長官も3日前、「今イランに対するは軍事力行使の予定はない」と言っていました。「今は」です。イランは核開発やっているというのが理由です。たしかに妙な国ですが、しかし別に悪い国ではありません。あのあたりでは1番民主的な国です。曲がりなりにも選挙で大統領を選んでいますから。女性はみな顔を出していますし、大学へもいっています。イランは近代化した国なのです。サウジアラビアなどの国に比べたら、ずっと民主的な近代国家です。イスラム教のお妨さんが、選挙で選ばれた大統領より偉い、というのだけが変ですが、全員がイスラムですから、他国がとやかく言うことではないです。

 ですから、イランが悪魔の国というのは嘘なのです。イラクがそういわれたのも同じで、要するに悪魔の国と誤解させて、戦争しかけてもやむを得ないと思わせるための宣伝が行われているのです。

 イランはイランで、自分で自分他ちの国を近代化していけばいいのであって、核兵器持つなといっても、隣のパキスタンもインドも持っているのです。こちらのイスラエルもです。イランだけ持つなといっても、聞くわけありません。イランに持たせたくないのなら、「俺も止めるからあんたも」と言わなければなりません。「俺は持っている。お前だけ止めろ」と言ったってイランが聞くわけありません。そんな理屈が通るはずがないのです。実に馬鹿な理屈です。本当にイラクに核開発をやめさせたいのなら、イギリスもフランスもアメリカも 「先ず自分が止める、だからお前も止めろ」と言うしかありません。お前だけ持つなと言って、聞くと思う方がどうかしています。核開発は現在の大国の論理では抑えられません。イランに言わせれば、「イラクがなぜあんなに簡単に戦争しかけられたかといえば、核兵器を持っていなかったからだ。持っていたら恐ろしくてとても戦争なんか仕掛けられない」ということになります。だからイランはいま核開発を急いでいるのです。核兵器を持たないとアメリカに攻められるから。そう思い込んでいるのです。

 そう思わせるようなことをアメリカはやってきたのですから、イランに核兵器開発を止めさせるためには、イラクから撤収して、中東の平和は中東に任せる、という姿勢を示すしかありません。自分がイラクを分捕って居座ったままで、イスラエルやパキスタンやインドの核兵器には文句をいわずイランにだけ、というのは通じない理屈です。実にゆがんだ国際常識というものが罷り通っている、と思います。

 もしアメリカがイランまで分捕ってしまえば、サウジアラビア、イラン、イラクと合わせて、世界の石油の70%ぐらいになるはずですから、中国はアメリカのいうことを聞かざるをえなくなります。だからつぎはイランだというのが、ネオコンの論理です。

 ただ問題は、イランに戦争を仕掛けるとしても単独ではできなません。兵隊がたりない。徴兵制ではなく志願兵制度ですから。いま、ありったけの兵隊さんがイラクに行っています。あれ以上いないのです。だからハリケーンが来ても出せなかったのですね。そうすると、イランに出す兵隊なんていないのです。そこで、アメリカの右翼新聞の社説など、堂々と書いています。「イラクにいるアメリカ軍でイランを乗っ取れ。カラッポになったイラクの治安維持は、日本にやらせろ」と。

 アメリカの論理から言えばそうなるのでしょう。自衛隊にイラクの治安維持をといいますが、実際は内乱状態ですから、今も毎日アメリカ兵は毎日5人位殺されています。そんなこと引き受けたら、自衛隊員何人死ぬか分かりません。第一そんなことは、憲法9条があるかぎりできないのです、絶対に。憲法があるおかげで、自衛隊はイラクにいますけれども、ピストル1発撃つことができないのです。憲法9条第2項というのがあるのです。自衛隊は戦力ではない・交戦権はないとなっていますから、不可能なのです。だから給水設備備を作るとか、学校修理とか、そういうことしか出来ません。これじゃあアメリカから見れば役に立たないのです。

《平和憲法こそ 日本生存の大前提》

 そこで、「9条2項を変えて、戦争ができる自衛隊になってくれ」というのがアメリカの強い要求なのです。みんな分かっています。言わないだけです。日本の新聞記者も知っています。しかし、「9条変えろ」がアメリカからの圧力、と書くと首になるから書かないだけです。でも誰も知っています。アメリカのに戦争に参加しなさい、という強い圧力がかかっているのです。

 ここのところをよく見極めておくことが必要です、「9条を守る」ということは、「アメリカの言いなりにならぬ」ということと一つ、なのです。

 アメリカと喧嘩しては駄目ですから、「失礼にならないようにアメリカから遠ざかる」のが何よりも大切です。仲良くするけれども言いなりにはならない、ということです。ところが、憲法が危ないという、この危機的な状況にもかかわらず、国内で労働運動が弱体化していますから、ストライキも起きない。大きなデモも起きない。大反対運動も起きない──。という状況です。

 ではもう駄目なのでしょうか。そうではないと思います。それには日本の国内だけではなく、世界に目を向ける、アジアに目を向けるこちとが必要のです。ご存じのように、これからの日本は、中国と商売せずには、生きていけなくなりま。いま、大企業だけですけど、多少景気がよくなってきています。全部中国への輸出で持ち直したのです。中国マーケットがなくなったら日本経済はおしまいだ、ということは誰も分かってきています。

 お手元の資料の中の(貿易額の)丸い円グラフは、2003年のもので少し古いのですが、アメリカ20.5%、アジア全体で44.7%、つまり日本にとって一番大事な商売の相手は、アメリカではなくてアジアなのです。

 アジアと仲良くしなかったら、経済が成り立たないところへ、いま既にさしかかっているのです。左隣の棒グラフは2004年ですが、左上から右に折れ線がずうっと下がってくる。これが日本とアメリカの貿易です。点線で右へずうっと上がっていくのが中国との貿易。遂に去年(2つの折れ線が)交差し、中国との貿易の方がアメリカとの貿易額より多くなりました。しかも鋏状に交差していますから、今後この2つは開く一方になってきています。

 つまり、あと2・3年もすれば、日本は中国との商売なしには生きていけない、ということが国民の常識になるということです。いま既に、中国を含めたアジアが、日本の一番大事なお客さんなんです。仲良くしなければいけません。一番大切なお客さんの横っ面ひっぱたいたんじゃ商売は成り立ちません。

 靖国参拝などというものは、一番大事なお客さんの横面ひっぱたくと同じことなのですから、個人の信念とは別の問題です。小泉首相は総理大臣なのですから、個人の心情とは別に日本の国全体の利益を考えて行動しなければいけません。それは総理大臣の責任だと思います。その意味でアジアと仲良ぐできるような振舞いをしてもらわなければ困るのです。

 もう一つ。アメリカとの商売はこれからどんどん縮小していきます。それは、ドルというものの値打ちがどんどん下がっていくからです。これはもう避けられません。

 昔はドルは純金だったのです。1971年まで、35ドルで純金1オンスと取り換えてくれました。だからドルは紙屑ではありませんでした。本当の金だったのです。

 われわれのお札はみな紙屑です。1万円なんて新しくて随分きれいになりましたけど、綺麗にしただけちょっとお金がかかって、印刷費に1枚27円とかかかると聞きました。27円の紙がなぜ1万円なのか。これは手品みたいなものです。あれが5枚もあるとなかなか気が大きくなるのですが、本当は135円しかないのです。それが5万円になるのは、法律で決めているのです。日銀法という法律で、こういう模様のこういう紙質のこういう紙切れは1万円、と決められている。だから、あれを1万円で受け取らないと刑務所に入れられます。法律で決まっているからです。ですから日本の法律の及ぶ範囲でだけ、あれは1万円なのです。その外へ出ると27円に戻ってしまいます。

 金と取り換わらないお札というのは、簡単にいえばその国の中でしか通用しません。他の国へ行ったら、その国の紙屑と取り換えなければ通用しません。ところが、ドルだけは世界で通用しました。純金だからです。

 ところが、1971年にアメリカはドルを金と取り換える能力を失いました。ベトナム戦争という馬鹿な戦争をやって莫大な軍事費を使ったのです。背に腹は代えられなくてお札を印刷し、航空母艦を造ったりミサイル、ジェット機を作ったりしたのです。そのために、手持ちの金より沢山のお札を印刷しちゃったのです。

 その結果、アメリカは、ドルを金と取り換える能力を失ったのです。そこで、71年8月15日、ニクソン声明が出されました。「金、ドル交換停止声明」です。あの瞬間にドルも紙屑になったのです。ドルが紙屑になったということは、ドルがアメリカの国内通貨になったということです。

 ところが、問題はそれ以後なのです。世界で相変わらずドルが適用したのです。皆さんも海外旅行へ行かれる時は、大体ドルを持って行かれますね。どこの国へ行っても大丈夫なのです。金と取り換えられないお札が何故世界で適用するかは本当に不思議で、経済学者にとって最大の難問なのです。いろんな人がいろんな答を言っていますけど、あらゆる答に共通しているのは、ひとつは「アメリカの力の反映」だから、ということです。

 つまり、日本が自動車を作ってアメリカヘ売ります、ドルを貰いますネ。日本は損をしているのです。自動車という貴重なな物質がアメリカへ行って、紙屑が返ってくるのですから。物が減ってお札だけ増えると必ずバブルになります。
 バブルの犯人はそこにあるのです。日本が輸出し過ぎて貿易黒字を作り過ぎているのです。だから日本は、アメリカに自動車を売ったら、「純金で払ってください」と言わなければなりません。ところがそう言うと、ジロッと睨まれてお預けになってしまいます。日本には米軍が5万人います。「アメリカのドルを受け取らないとは、そんな失礼なこと言うなら、在日米軍クーデター起こしますよ」、これで終わりなのです。黙って受け取ってしまう。だから日本は無限に物を提供し、無限に紙屑をもらう。こうしていくら働いても日本人の生活はよくならないのです。しかもその紙屑でアメリカの国債を買っています。アメリカに物を売って、払ってもらった代金をアメリカに貸している。言ってみればツケで輸出しているようなものです、現実に。アメリカにいくら輸出しても日本は豊かにならない仕組みになつています。

 2週間前に『黒字貿易亡国論』という本が出ました。有名な格付け会社の社長さんですが、「貿易黒字を作るから日本は駄目なのだ」、ということを詳しく論じたたいへん面白い(文芸春秋社の)本です。確かにそうだと思います。だからドルは、本当は受取りたくないのです。みんな紙屑なんです。だけど受け取らないと睨まれる。アメリカの軍事力が背景にあるのです。

 その力をバックにして、紙切れのお札を世界に通用させている。例えていえば──餓鬼大将が画用紙に絵をかき1万円と書いて鋏で切り、これ1万円だからお前のファミコンよこせ、とこれを取り上げる──のと同じです。いやだと言ったらぶん殴るのです。怖いから黙って渡して紙屑もらうことになります。その紙屑で、他の人から取り上げればよいのです。「お前のバイクよこせ、よこさなかったらいいつける」。「あの人、あんたの紙屑受け取らない」、するとガキ大将が釆て、ゴツンとやってくれる──。餓鬼大将の力の及ぶ範囲ではそれが通用するのです。露骨にいえば、ドルがいま世界に適用しているのは、そういう仕組みが一つあります。
 もう一つは、ソ連の存在です。もし紙屑だからアメリカのドルを受け取らないといったら、アメリカ経済は潰れます。アメリカが潰れたらソ連が喜ぶ。だから紙屑と分かっていても受け取ってきた。ソ連に勝たれては困るから──。

 これも確かに一理あります。ということは、ソ連がいなくなって、紙屑は紙屑だということがはっきりしてきたのです。今まではソ連がいるために、紙屑なのに金のように適用したが、今や「王様は裸だ」というのと同じで、「ドルは紙屑だ」といっても構わない時代です。

 ともかくドルが危ないのです。私が言ってもなかなか信用してもらえませんが、経済誌『エコノミスト』、一流企業のサラリーマンなら必ず読んでいる雑誌すが、これの去年9月号が中国“元”の特集でした。その真ん中へんに「プラザ合意20年」という対談がありました。その中で、榊原英資さんは「5年以内にドル暴落」と言っています。

 榊原さんは大蔵省の元高級官僚で日米為替交渉の責任者を10年やりました。円・ドル問題の最高責任者だった人です。「ミスター円」といわれていました。通貨問題に最も詳しい現場の責任者です。停年で大蔵省をやめて今は慶應大学の先生になっています。この人が「5年以内にドルが暴落する」、つまりドルが紙屑だということが明らかになる日が近いと言っているのです。

 ソ連がいる間は隠されていたのですが、いまはもう、ドルは紙屑だから受取りたくないという人たちが増えてきています。これまでは世界通貨はドルしかなかったので、受け取らなければ商売ができなかったのですが、今ではユーロという代わりが出来てしまいました。ドルでなくてユーロで取引する国が増えてきています。そしてユーロの方が下がりにくい仕組みになっています。ドルは下がるのです。
 なにしろアメリカは、永いことドルが世界通貨ということに慣れてきました。だから自動車が欲しければ日本から自動車買って、アメリカは輪転機を回せばよいのです。紙とインクがあればいいのですから。ほかの国はこんなことできません。自動車が欲しければ、一生懸命働いて何か輸出し、その代金で輸入しなければならないのです。アメリカ以外の国は全部そうやっているのです。

 輸入は輸出と一緒です。輸入するためには輸出しなければなりません。ところがアメリカだけは輸出しないで輸入ができるのです。ドルという紙切れが世界通貨ですから。極端に言えば、欲しい自動車や石油を日本やアフリカなどから買って、紙とインクで支払う。実際そうして世界の富がアメリカに集まったわけです。

 71年以降の30年間、この仕組みのために、世界中にドルが溢れ出ました。ドルがどんどん増えますから、当然値打が下がります。こうしてドル下落傾向。(資料の一番下のグラフがそうです。円が上がっていく様子、為替取引だから短期的には上下しますが、長期的には間違いなく円高。ドルがドンドン下がるのは確かです。)これがあるところまでいくと、ガクッと下がります。

 あるところまでいくと、「ドルは信用できない、下がる通貨は持っていたくない」となります。ですからドルを受け取らない、ユーロか何か、別な、下落しない通貨でなければ受け取らないということが出てくる。そうなるとドルは暴落します──。榊原氏がそういっているのです。

 ヨーロッパはユーロでいくでしょう。アジア経済圏はなんといったって元です、中国の。中国は賢いですから、元を押しつけないで、何かアジアの新しい通貨を作るかもしれません。しかし元が中心になることは間違いないでしょう。ドルはアメリカでしか使われなくなる。そうすると、今まで全世界で使われていたドルが、みんなアメリカに集まって来るわけですから、アジア、ヨーロッパで使われいていたドルがみな戻ってきて、簡単にいえばドルの値打が3分の1に下がることになります。

 アメリカの生活は大きく収縮します。一家で3台自動車持っていた家は1台に。1台持っていた家は止めなくればならなくなる、ということです。

 アメリカ経済の収縮。これは大変恐ろしい話なのです。世界経済が大きく収縮し、日本経済は大きな打撃を受けます。しかし避けられない動きなのです。いつのことか分からないが、そう遠くない将来にドルの信用がドンと落ちていく。結果として日本がアメリカにだけ頼っていたら、大変なことになります。

 いまのうちに、アメリカに輸出してドルをもらったらユーロに代えておいた方がいい。ユーロの方は下がらないからです。EUという所は、国家財政が赤字だと加盟できないことになっています。赤字だと穴埋めにお札を出すので乱発ということになって下がるのです。だからユーロは一応下がらない仕組みになっています。乱発できないようになっているのです。ドルは短期的に持つのはかまわないが、3年、4年と長期的に持っていると下がってしまいます。それならユーロにしておいた方がいいとか、これから生まれるかもしれないアジア通貨にしておいた方がよいとかいうことになります。世界の大企業や国家が、決済のために多額のドルを持っていますが、これがユーロに切り替えられるとなると、ドルはもう世界通貨ではなくなります。

 そうなると、アメリカだけに依存している国は、大変苦しくなります。21世紀の日本を考えた時、アメリカと仲良くするのは大切ですが、しかしアメリカ一辺倒では駄目な時代になっているのです。アジアと仲良くしなければいけません。
 しかしアジアと仲良くするのには、無条件ではできません。なぜなら、60年前、アジアに戦争を仕掛けて大変な迷惑をかけた。その後始末がちゃんとできていないのです。仲良くするするためには、60年前のマイナスを埋めるところから始めなければいけません。別に難しいことではないのです。「あの時はごめんなさい。2度とやりませんから、勘弁してください」。これで済むわけです。

 問題は、「2度とやりません」が、信用してもらえるかどうかです。信用してもらうための最大の決め手が「憲法第9条」です。憲法9条第1項、第2項がある限り、日本は2度と戦争はできません。イラクの状態を見ても、自衛隊は鉄砲一発撃てない。(世界中)みんなが見ています。この憲法9条第1、第2項がある限り、日本は戦争はできません。だから安心して日本と付き合うのです。

 もし日本が憲法9条を変えて、もう1回戦争やりますということになったら、アジアの国々は日本を警戒して、日本との付き合いが薄くなってしまいます。いま既にそうなりつつあります。小泉首相は靖国に何度も行く。自民党は憲法9条を変えることを決め、改憲構想まで発表した。アジアの国々は用心します。「そういう国とは、あまり深入りしたくない」。

 小泉首相は「政冷、経熱」でいいじゃないか、といいます。政治は冷たくても経済では熱い関係というのでしょうが、そんなことはできません。中国と日本の経済関係はじわっと縮小しています。統計でもそれははっきり出ている。

 おととしまで中国の貿易のトップはアメリカでした。次が日本、3位はEU。これがひっくり返ってしまいました。去年はトップはEU、2位アメリカ、3位日本です。明らかに中国は日本との商売を少しずつ縮小させている。その分EUに振り替えています。

 去年5月、ショッキングなことがありました。北京・上海新幹線という大計画をEUに取られました。北京〜上海って何キロあるのでしょう。日本の本州より長いのではないでしょうか。このとてつもない計画があって、去年、まだ予備調査の段階すが、日本は負けました。ドイツ、フランスの連合に取られました。予備調査で取られたということは、本工事は駄目ということです。中国にすれば、日本にやらせるのが一番便利なのです。近いですし、新幹線技術も進んでいます。まだ1度も大事故を起こしたことがありません。ドイツもフランスも、1回ずつ大事故を起こしたことがあります。技術からいっても資本からいっても、日本にやらせれば一番いいのに、日本が負けました。明らかに政治的意図が働いたと思われます。日本との関係を深くしたくない。いざという時、いつでも切れるようにしておく。いざというとき、切れないようでは困る。そういうことではないでしょうか。

 いまのままアメリカ一辺倒でいいのでしょうか。私は長島さんをよく思い出します。後楽園での引退試合の時、最後に「読売ジャイアンツは永久に不滅です」といったのです。永久に不滅どころか、去年のジャイアンツのサマといったらもう、見ていられない。アメリカもそうなるのではないでしょうか。小泉首相は「アメリカは永久に不滅です」と、いまもいっているのですが、そうではないのではないでしょうか。

 アメリカにさえ付いていれば、絶対大丈夫という時代は終わったのです。アメリカとも仲良くしなければいけませんが、しかしアジアとも仲良くしなければいけない、そういう時代がいま来ているのです。仲良くするのには、憲法9条を守ることが大前提です。これを止めてしまったら、アジアとは仲良くできません。

 憲法9条は、日本にとって“命綱”です。いままでは、憲法9条というと、「理想に過ぎない。現実は9条で飯食えないよ」という人が多く、中には鼻で笑う人もいました。しかしいまは逆です。9条でこそ食える。9条を変えたら、21世紀日本の経済は危ないのです。

 憲法9条を守ってこそ、この世紀の日本とアジアとの友好関係を守り、日本も安心して生きていけるのです。こういう世の中をつくる大前提が憲法9条です。憲法9条は美しいだけではなく、現実に儲かるものでもあります。そのことがやっと分かってきました。

 奥田経団連会長は、去年までは小泉首相を応援して靖国参拝も賛成だったのですが、そんなこといってたらトヨタは中国で売れなくなります。そこで今年の正月の挨拶でついに、「中国との関係を大事にしてほしい」と、向きが変わりました。
 財界が、中国と仲良くしなければ自分たちは商売ができない、となってくれば、日本の政治の向きも変わるだろうと思います。あと3年たてば多分、これは日本の国民の常識になってきます。中国と仲良くしないと経済が駄目になる。それは中国のいいなりになることではないのです。良くないことはきちんという。だけど敵にするのではなく、仲良くする。でなければ、日本の経済は成り立たない。これがみんなの常識になってくるでしょう。

 これまで60年、アメリカベったりだったから、アメリカから離れたら生きていけないと皆思ってきました。しかし現実の数字はそうでなくなっています。一番大事な経済の相手は、もうアメリカではなくアジアなのです。これに気づくのにあと2・3年かかるでしょう。これが世論になれば、もう、憲法を変えるなどということは、絶対にできません。

 しかし、この3年の間に、国民の世論がそのように変わる前に、憲法が変えられてしまったら、どうにもなりません。

 あと3年、必死の思いでがんばって、子供たちに平和な日本を残してやるのが、私たちの務めだと思います。そう思って、私も必死になってかけ回っています。あと3年ぐらいはまだ生きていけるだろうから、なんとしても3年間は9条を守るために全力をつくしたいと決心しています。

 ありがたいことに、9条を変えるには国民投票が必要です。国会で決めただけでは変えられません。国民投票で過半数をとらないと、憲9条は変えられないのです。逆にいえば、これによってこちらが憲法9条を守る署名を国民の過半数集めてしまえばいいことになります。住民の過半数の「9条を守る」署名を3年間で集めてしまう。そうすればもう、変えることは不可能になります。

 そうすれば、子供たちに憲法9条のある日本を残してやれます。2度とアジアと戦争する国にならないようにして、そしてもし長生きできれば、新自由主義という方向、つまりアメリカ言いなりではなく、もっと自主的な経済ができるように、せめてヨーロッパのような修正資本主義、ルールのある資本主義の仕組みにもう一度戻すこともできるでしょう。

 日本中で、飢えている人、因っている人、貧しい人が、それでも人間らしく生きていけるような、最低限の保障ができる、生きる希望が出る──。そういう社会にすることが大切なのだ、と思います。これは長期的展望です。簡単にはできません。一度、新自由主義になってしまったので、10年位かかるでしょう。国民が賢くなって、正しい要求を政府につきつけていかなければいけません。その中心になる労働運動の再建が必要です。

 結局国民が主権者なんですから、国民の願いがかなうような、そういう日本に作り替えていきたいなと、そういう道を進んでいきたいなと思います。

 鋸南町は合併を拒否なさったというので、日本でも有数な自覚的な町といえます。合併するとまず住民自治がダメになります。大きくなるということは、住民自治が駄目になることでもあります。住民が主人公になる町こそ大切。ぜひこの美しい山と海と禄のある町で、1人1人が主人公であるような地域共同体というものを、みんなが助け合える町になることを私も希望して、講演を終わらせていただきます。

http://kyonannet.awa.or.jp/mikuni/siryo/2006/kawabata-kouen060114.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/353.html#c1

[リバイバル3] 中川隆 _ 日本文化関係投稿リンク 中川隆
95. 2019年4月18日 08:17:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1341]
戦後の日本が世界で最も成功した社会主義国、理想の共産社会に近い一億総中流社会になった理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/353.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/466.html#c95
[近代史3] 新自由主義を放置すると中間階層が転落してマルクスの預言した階級社会になる理由 中川隆
18. 中川隆[-10711] koaQ7Jey 2019年4月18日 08:25:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1342]

平等な社会はもう実現している。
99%が貧困に収斂する平等社会だったが │ ダークネス:鈴木傾城
https://fullinvest.xyz/?p=6176
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html#c18
[近代史3] マスコミは何時からフェイクニュースを流す様になったのか 中川隆
8. 中川隆[-10710] koaQ7Jey 2019年4月18日 09:24:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1343]
米NYタイムズ、嘘報道でイラク戦争起こし多数の犠牲者…嘘のロシア疑惑で政権批判も
https://biz-journal.jp/2019/04/post_27535.html
2019.04.17 文=木村貴/経済ジャーナリスト Business Journal


イラク戦争(2003年4月12日)(写真:ロイター/アフロ)


 2016年の米大統領選でトランプ陣営がロシア政府と共謀して得票を不正に操作したという「ロシア疑惑」は実際にはなかったことが、モラー特別検察官の捜査によって結論付けられた。2年以上にもわたって大手メディアが振りまいてきたロシア疑惑報道は、フェイク(偽)ニュースだったわけである。

 バー米司法長官は3月24日、ロシア疑惑について捜査結果の概要を公表した。モラー特別検察官の捜査で、トランプ大統領の選挙陣営がロシアと共謀した疑惑を裏づける証拠は見つからなかった。
 
 2017年5月にモラー特別検察官による捜査が始まってから、今年3月末で22カ月。実際には2016年10月、米国土安全保障省が大統領選挙においてサイバー攻撃による妨害が行なわれていたことを認める声明を出し、ロシア疑惑に火がついた。この間、実に2年以上にもわたり、メディアは洪水のように大量のロシア疑惑報道を流してきた。大半はトランプ氏側を「クロ」と決めつける内容だ。

 しかし、それらの報道は、前回の本連載でも指摘したように、いずれも根拠に乏しいものだった。ワシントン・ポスト、CNN、NBC、ABC……。米国を代表する大新聞やテレビが誤報や問題のあるニュースを連発した。それにもかかわらず、トランプ陣営がロシアと共謀したという疑惑そのものは、あたかも事実であるかのようにメディア上で語られてきた。

 今回の捜査結果によって、大手メディアが争って伝えてきたロシア疑惑そのものに証拠がなかったことが明らかになった。報道機関の存在意義すら問われかねない、由々しき事態といわざるをえない。一体なぜ、このような事態を招いてしまったのだろうか。

■政府の情報に頼りすぎる危険

 米メディアが振りまいたロシア疑惑報道を読んで気づくのは、その大半が情報源を政府関係者に頼っている点だ。記事によって「米当局者によれば」「行政当局者によれば」「捜査当局者によれば」などと多少の違いはあるものの、いずれも行政・司法などの政府関係者が情報源であることに変わりはない。

 大手メディアの強みは、政府上層部に太いパイプを持つことにある。政府上層部が握る重要情報をいち早く入手することによって、小規模のメディアやフリージャーナリストなどに書けない記事を書くことができる。

 けれども大手メディアのこの強みは、逆に弱みにもなりうる。政府上層部が意図する情報操作に利用されかねないからだ。政府の意図に気づいても、日頃の貸し借りから拒否はしにくい。記者によっては、むしろみずから進んで協力することで、情報源とより親密な関係を築こうとする者もいるだろう。

 政府によるメディアを利用した情報操作といえば、頭に浮かぶのは、2003年に始まったイラク戦争である。

 イラク戦争開戦の根拠とされたのは、イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を保有しているという主張だった。開戦に先立ち、当時ニューヨーク・タイムズのジュディス・ミラー記者は、この主張を肯定する多くの記事を執筆した。

 米同時テロから1年後、2002年9月8日付の1面トップで、ミラー記者は同僚記者と連名で「フセインは原子爆弾の部品調達を急いでいる」との記事を書いた。イラクが原子爆弾製造に向け、ウラン濃縮用の遠心分離機に使われる特殊なアルミニウム製チューブを購入しようとしているとの内容で、「大量破壊兵器の決定的証拠はきのこ雲になるかもしれない」と危機感を煽った。

 同日、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官、ライス大統領補佐官がそれぞれ違うテレビ番組に出演し「フセインが大量破壊兵器を保有しているのは間違いない」と強調。3人はそろって、「証拠」としてミラー記者が書いたニューヨーク・タイムズの記事に言及した。さらに数日後、ブッシュ大統領が国連総会で演説し「イラクは高強度アルミ製チューブを購入しようとしている。核兵器入手に躍起になっている動かぬ証拠」と断じる。

 しかし今では周知の事実だが、大量破壊兵器は結局、発見されなかった。アルミ製チューブも従来型ロケット砲用との見方が有力になった。ニューヨーク・タイムズは2004年5月、編集局長の見解として「2001年以降のイラク報道は問題含み」と認め、具体例として12本の記事を挙げた。このうち10本はミラー記者が単独か連名で書いた記事だった。

 ニューヨーク・タイムズは少なくとも結果として、多数の犠牲者を出したイラク開戦のお先棒を担いだ格好だ。こうした事態を招いたのは、戦争正当化に向けて世論を誘導したい政府高官のほか、フセイン政権の転覆を願う亡命イラク人の情報に頼りすぎたからだ。

 イラク開戦時の報道のあり方を問う新作映画『記者たち』(ロブ・ライナー監督)のなかで、ニューヨーク・タイムズを退社したミラー元記者のテレビインタビューの様子が流れる。その中でミラー氏はこう発言する。「政府の情報は誰も疑わないわ」。

 政府権力に対峙するジャーナリストの心構えとしてあまりにもナイーブと言わざるをえないが、実際にはミラー氏の言うとおり、イラク開戦当時、『記者たち』で描かれるナイト・リッダー社を除き、政府の主張に疑義を申し立てるメディアはほとんどなかった。けれどもその後、大量破壊兵器が存在しないことがわかり、メディアは政府の情報に頼りすぎる危険を学んだはずだった。

■ジャーナリズムの敗北

 ところが今回のロシア疑惑で、ジャーナリズムの世界でイラク戦争の教訓がまったく生かされていないことが明らかになった。大手メディアの記者たちは、情報機関との対立も辞さないトランプ大統領を排除したい政府関係者の情報に頼りきり、ロシアとの共謀という嘘の物語を垂れ流し続けたのだ。

 米コラムニストのマット・タイービ氏は「ジャーナリズムの敗北という点では、大量破壊兵器はロシア疑惑に比べれば小さなもの」と述べる。ロシア疑惑の誤報や誇張の規模は大量破壊兵器に関する報道をはるかに上回るうえ、報道機関が事実と虚構の区別という役目を忘れ、一方の勢力に肩入れする存在に変貌してしまったからだ。「大量破壊兵器で報道機関の評価は傷ついた。もし状況を変えなければ、ロシア疑惑でその評価は崩れ去るだろう」とタイービ氏は警鐘を鳴らす。

 だが実際には反省の機運は乏しい。ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストは昨年、ロシア疑惑報道により、報道の世界で最高の権威とされるピュリッツァー賞を受賞しているが、これを返上するという話は出ていない。

 米大手メディアの報道を鵜呑みにしてきた日本のメディアも責任は免れない。大手の論調に批判的な独立系メディアに目配りする努力がもっと必要だし、伝えた内容が誤っていたなら、読者に対する説明責任があるはずだ。ほおかむりを決め込めば、タイービ氏が指摘するように、報道機関としての評価を失うことになるだろう。
(文=木村貴/経済ジャーナリスト)

<参考文献>
牧野洋「イラク戦争に火をつけた『大量破壊兵器』スクープは『御用記者』の誤報だった」現代ビジネス
Matt Taibbi, It's official: Russiagate is this generation's WMD - Hate Inc. - Substack
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/119.html#c8

[近代史02] 命を賭して悪の帝国と闘ったサダム・フセイン (小沢先生もこれ位カッコ良ければなあ) 中川隆
86. 中川隆[-10709] koaQ7Jey 2019年4月18日 09:25:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1344]
米NYタイムズ、嘘報道でイラク戦争起こし多数の犠牲者…嘘のロシア疑惑で政権批判も
https://biz-journal.jp/2019/04/post_27535.html
2019.04.17 文=木村貴/経済ジャーナリスト Business Journal


イラク戦争(2003年4月12日)(写真:ロイター/アフロ)


 2016年の米大統領選でトランプ陣営がロシア政府と共謀して得票を不正に操作したという「ロシア疑惑」は実際にはなかったことが、モラー特別検察官の捜査によって結論付けられた。2年以上にもわたって大手メディアが振りまいてきたロシア疑惑報道は、フェイク(偽)ニュースだったわけである。

 バー米司法長官は3月24日、ロシア疑惑について捜査結果の概要を公表した。モラー特別検察官の捜査で、トランプ大統領の選挙陣営がロシアと共謀した疑惑を裏づける証拠は見つからなかった。
 
 2017年5月にモラー特別検察官による捜査が始まってから、今年3月末で22カ月。実際には2016年10月、米国土安全保障省が大統領選挙においてサイバー攻撃による妨害が行なわれていたことを認める声明を出し、ロシア疑惑に火がついた。この間、実に2年以上にもわたり、メディアは洪水のように大量のロシア疑惑報道を流してきた。大半はトランプ氏側を「クロ」と決めつける内容だ。

 しかし、それらの報道は、前回の本連載でも指摘したように、いずれも根拠に乏しいものだった。ワシントン・ポスト、CNN、NBC、ABC……。米国を代表する大新聞やテレビが誤報や問題のあるニュースを連発した。それにもかかわらず、トランプ陣営がロシアと共謀したという疑惑そのものは、あたかも事実であるかのようにメディア上で語られてきた。

 今回の捜査結果によって、大手メディアが争って伝えてきたロシア疑惑そのものに証拠がなかったことが明らかになった。報道機関の存在意義すら問われかねない、由々しき事態といわざるをえない。一体なぜ、このような事態を招いてしまったのだろうか。

■政府の情報に頼りすぎる危険

 米メディアが振りまいたロシア疑惑報道を読んで気づくのは、その大半が情報源を政府関係者に頼っている点だ。記事によって「米当局者によれば」「行政当局者によれば」「捜査当局者によれば」などと多少の違いはあるものの、いずれも行政・司法などの政府関係者が情報源であることに変わりはない。

 大手メディアの強みは、政府上層部に太いパイプを持つことにある。政府上層部が握る重要情報をいち早く入手することによって、小規模のメディアやフリージャーナリストなどに書けない記事を書くことができる。

 けれども大手メディアのこの強みは、逆に弱みにもなりうる。政府上層部が意図する情報操作に利用されかねないからだ。政府の意図に気づいても、日頃の貸し借りから拒否はしにくい。記者によっては、むしろみずから進んで協力することで、情報源とより親密な関係を築こうとする者もいるだろう。

 政府によるメディアを利用した情報操作といえば、頭に浮かぶのは、2003年に始まったイラク戦争である。

 イラク戦争開戦の根拠とされたのは、イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を保有しているという主張だった。開戦に先立ち、当時ニューヨーク・タイムズのジュディス・ミラー記者は、この主張を肯定する多くの記事を執筆した。

 米同時テロから1年後、2002年9月8日付の1面トップで、ミラー記者は同僚記者と連名で「フセインは原子爆弾の部品調達を急いでいる」との記事を書いた。イラクが原子爆弾製造に向け、ウラン濃縮用の遠心分離機に使われる特殊なアルミニウム製チューブを購入しようとしているとの内容で、「大量破壊兵器の決定的証拠はきのこ雲になるかもしれない」と危機感を煽った。

 同日、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官、ライス大統領補佐官がそれぞれ違うテレビ番組に出演し「フセインが大量破壊兵器を保有しているのは間違いない」と強調。3人はそろって、「証拠」としてミラー記者が書いたニューヨーク・タイムズの記事に言及した。さらに数日後、ブッシュ大統領が国連総会で演説し「イラクは高強度アルミ製チューブを購入しようとしている。核兵器入手に躍起になっている動かぬ証拠」と断じる。

 しかし今では周知の事実だが、大量破壊兵器は結局、発見されなかった。アルミ製チューブも従来型ロケット砲用との見方が有力になった。ニューヨーク・タイムズは2004年5月、編集局長の見解として「2001年以降のイラク報道は問題含み」と認め、具体例として12本の記事を挙げた。このうち10本はミラー記者が単独か連名で書いた記事だった。

 ニューヨーク・タイムズは少なくとも結果として、多数の犠牲者を出したイラク開戦のお先棒を担いだ格好だ。こうした事態を招いたのは、戦争正当化に向けて世論を誘導したい政府高官のほか、フセイン政権の転覆を願う亡命イラク人の情報に頼りすぎたからだ。

 イラク開戦時の報道のあり方を問う新作映画『記者たち』(ロブ・ライナー監督)のなかで、ニューヨーク・タイムズを退社したミラー元記者のテレビインタビューの様子が流れる。その中でミラー氏はこう発言する。「政府の情報は誰も疑わないわ」。

 政府権力に対峙するジャーナリストの心構えとしてあまりにもナイーブと言わざるをえないが、実際にはミラー氏の言うとおり、イラク開戦当時、『記者たち』で描かれるナイト・リッダー社を除き、政府の主張に疑義を申し立てるメディアはほとんどなかった。けれどもその後、大量破壊兵器が存在しないことがわかり、メディアは政府の情報に頼りすぎる危険を学んだはずだった。

■ジャーナリズムの敗北

 ところが今回のロシア疑惑で、ジャーナリズムの世界でイラク戦争の教訓がまったく生かされていないことが明らかになった。大手メディアの記者たちは、情報機関との対立も辞さないトランプ大統領を排除したい政府関係者の情報に頼りきり、ロシアとの共謀という嘘の物語を垂れ流し続けたのだ。

 米コラムニストのマット・タイービ氏は「ジャーナリズムの敗北という点では、大量破壊兵器はロシア疑惑に比べれば小さなもの」と述べる。ロシア疑惑の誤報や誇張の規模は大量破壊兵器に関する報道をはるかに上回るうえ、報道機関が事実と虚構の区別という役目を忘れ、一方の勢力に肩入れする存在に変貌してしまったからだ。「大量破壊兵器で報道機関の評価は傷ついた。もし状況を変えなければ、ロシア疑惑でその評価は崩れ去るだろう」とタイービ氏は警鐘を鳴らす。

 だが実際には反省の機運は乏しい。ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストは昨年、ロシア疑惑報道により、報道の世界で最高の権威とされるピュリッツァー賞を受賞しているが、これを返上するという話は出ていない。

 米大手メディアの報道を鵜呑みにしてきた日本のメディアも責任は免れない。大手の論調に批判的な独立系メディアに目配りする努力がもっと必要だし、伝えた内容が誤っていたなら、読者に対する説明責任があるはずだ。ほおかむりを決め込めば、タイービ氏が指摘するように、報道機関としての評価を失うことになるだろう。
(文=木村貴/経済ジャーナリスト)

<参考文献>
牧野洋「イラク戦争に火をつけた『大量破壊兵器』スクープは『御用記者』の誤報だった」現代ビジネス
Matt Taibbi, It's official: Russiagate is this generation's WMD - Hate Inc. - Substack
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/298.html#c86

[リバイバル3] 中川隆 _ 中国関係投稿リンク 中川隆
16. 2019年4月18日 10:37:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1345]
自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/925.html#c16
[近代史3] 戦後の日本が世界で最も成功した社会主義国、理想の共産社会に近い一億総中流社会になった理由 中川隆
2. 中川隆[-10708] koaQ7Jey 2019年4月18日 10:39:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1346]

右翼・左翼の対立を使った分割統治政策

左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた

2018年3月31日
 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。

https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/


▲△▽▼

2007年12月10日
ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1.America’s Secret Establishment –

2. Wall Street and the Rise of Hitler –
(ウォール街がナチスヒトラーを勃興させた。)

3. Wall Street & the Bolshevik Revolution –
(ウォール街がレーニン、トロツキーなどに資金供与してロシア革命を成功させた。)

4 The Federal Reserve Conspiracy
(連邦準備銀行の陰謀)


アントニー サットンについて、 阿修羅 より(一部略)

////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。

本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。


徹底した調査によって以下のことが判明した。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
(引用以上) 


サットンの業績は、秘密のベールに包まれていた金融資本家のネットワークを徹底的に調査し、あぶりだしてくれたことだと思う。従来“陰謀論”として、よく検証されずに葬られていた分野を科学的に検証した。

彼の業績によってロシア革命やナチス、そしてベトナム戦争の背後にある真実が見えてきた。おおよそ、現代史(戦争や革命恐慌、バブル)の背後には彼らウォール街金融資本の触手があり、彼らが何らかの狙いをもって特定の集団に資金提供して、育て上げる。それらの集団は、主義思想や愛国心に沿って動き、対立や戦争を起こしていく。その過程で莫大な投資や消費が行われ、金融資本は莫大な利益を手に入れることになる。


背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持してきた。サットンは、金融資本家の支配方法について以下のように言っている。


>世界秩序は、分断して攻略するという単純なテクニックによる支配で成り立っている。

>・・・世界秩序は、世界を実体とみなすヘーゲル弁証法を採用した。これはそのほかのあらゆる力と実体を否定している。テーゼ(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。

>世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・  サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

※ここで世界秩序とは、金融資本による世界秩序のことをさす。

★このように見てくると、主義や主張をかざし、あるいは小さな国益をかざして、対立している人間・勢力というのは、支配者(コントローラー)である金融資本にとっては、非常に都合がよく操作しやすい。


日本でも、

・戦前スターリンとアメリカの圧迫→危機感高まった国内で右翼が台頭、陸軍と結んで戦争への道を突っ走った。

・戦後自民党に結党資金を与えたのはCIAであり、自民党の結党により左右社会党が合同し、二大政党という対立構造が生まれた。


そして現在的にも

アメリカ財閥が中国を急成長させている
アメリカの撤退が始まり中国が台頭する

中国の台頭により日本の(特に右の)危機感が高まっている。しかし、中国を急速に台頭させているのはウォール街金融資本である。僕も危機感には共感する。しかしいたずらに敵対し相手を挑発するより、真の意図を探り可能性を探る必要があると思う。

“日本を守るのに右も左もない”では、見えにくい敵、対立を煽り、歴史を操作している連中=国際金融資本(金貸し)も、徹底的に事実追求の立場から解明していきたい。サットンができなかったより深い分析(人々の意識潮流や可能性)まで含めて。

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/12/000553.html

▲△▽▼


60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。_ 2

アントニー・C・サットン

アントニー・C・サットン(Antony Cyril Sutton、1925年2月14日 - 2002年6月17日)は、イギリス生まれのアメリカの経済学者、歴史学者、作家。


サットンはロンドン大学、ゲッティンゲン大学とカリフォルニア州立大学で学びし、英国サウサンプトン大学にてD.Sc.を取得した。

米国ロサンゼルスにあるカリフォルニア州立大学で経済学部教授として働き、1968年から1973年までスタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員であった。

当機関に所属している間、欧米技術とソ連経済発展の関連について "Western Technology and Soviet Economic Development"(全3巻)を出版し、ソ連発足初期から欧米諸国もその発展に深く関与したことを証明した。

またサットンはソ連が持つ技術的能力や製造能力も多数の米企業の支援と、米国民が納める税から融資を受けたことも指摘した。

鉄鋼業やフォードの子会社であったGAZ自動車工場など, 複数のソ連企業は米からの技術によって作られたことや、さらにはソ連がMIRVミサイル技術を手に入れたのも、高性能ベアリング製造に必要な(米からの)工作機械によって可能となったとしている。

1973年に3冊目の原稿から軍事技術関連部分を別編として "Military Aid to the Soviet Union" のタイトルで出版し、その結果フーヴァー研究員の仕事を辞任することになった[1]。 上記問題の研究成果として、

冷戦が生んだ様々な対立が「共産主義を制覇するため」続けられたのではなく、数十億ドル規模の軍事需要を意図的に維持するためだったと強調した。

少なくとも朝鮮戦争とベトナム戦争の場合、対立の両側も直接的・間接的に米国によって武装されていた[2]。

続編として、軍事技術転写の役割について論じた"The Best Enemy Money Can Buy" を書いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3

▲△▽▼

ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html


アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)博士が昨年6月になくなった。77才だった。英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。

68年の刊行物で、融資と技術の流れを突き止めたものの、彼は、なぜ敵対する国に、あるいは自国のカネと技術で自国の戦士たちがしななければならないのか、一体どうなっているのか、全く理解できなかったという。ところが80年代の初頭、彼に一通の手紙が届いた。もしあなたが興味があるなら、スカル&ボーンズという秘密結社のメンバーリストを24時間だけ供与するがどうか、と記されていた。この組織のメンバーの家族が、身内が入会していてうんざりで、実態を知って欲しいと思ってのことだったという。送付して欲しい、と了承。黒革製の2巻からなる本は一冊は故人リスト、もう一冊は現在のリストだった。この時点までかれはこの秘密結社のことなど聞いたことも思ったこともなかったという。しかし、これらのリストの人物を綿密に調査したところ、この組織はただ者ではない、と驚愕。68年刊行物で疑問に思っていたことが氷解したという。つまり、この組織の連中のネットワークが米国政策決定過程を導き、このような売国的なことが行われていることを突き止めるに及んだという。

 彼は、スカル&ボンズは、ドイツを発祥とする秘密結社イル皆ティーの連動組織である、という。徹底した調査によって以下のことが判明したという。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。

4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


Divide&Conquer (分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。いわゆる現今のポチ保守はこの左右対立の見方を徹底して利用し、自分たちの富裕的支配性の隠れみのにしてきた可能性がある。多くの一般日本人が、あるいは貧乏な日本人同士がやれ、お前は右だろ左だろどうせ土井支持者だろなどと滑稽にののしりあっている図が見える。これが彼らの思うツボなのだ。実際馬鹿げている。)


彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

スカボンは現在約600名がアクティブであるという。エール大学内で毎年25名が組織に入るしきたり。生涯を通じて、支配層中心メンバーとして機能するようだ。エール大学で、この組織の余りの無気味さに、排斥運動が起きた経緯もあるという。

"My senior year, I jointed Skull& Bones, a secret society, so secret I can't say anything more."

「わたしは大学4年のときスカボンに入ったんです。それは秘密結社でして、秘密であるが故に、わたしはこれ以上この組織について何もお話はできないんです。」

現大統領が最近の記者の質問にこのように答えている(これはサットンのホームページにも掲載されている。オリジナルはUSAToday紙の記事(非常に勇気ある女性ライターで当時大学生か学校出たてだったと思う。)この発言から分かることは、彼は、スカボンが1 秘密結社であり、2それが現時点で存在しており、3しかも自分がメンバーであり、4 内部情報を明かさないことがその組織の掟であること。この4点までを認めているのである。彼の、エール出身の父もこの組織のメンバーであることはよく知られており、すくなくとも父はメンバーとしては非常にアクティブだったという。ちなみにエール大学というような大学は、基本的にはアメリカの中産階層の子弟がはいれるところではまったくない。富裕層のための大学である。米国中央情報局の上層部は露骨にエール大学閥であることが知られている。

サットンのホームページ:

http://www.antonysutton.com/

彼が受けた最後のインタビュー:

http://www.antonysutton.com/suttoninterview.html

彼の代表作の一つ(スカボン本”America's Secret Establishment)

http://www.cia-drugs.com/Merchant2/merchant.mv?Screen=SFNT&Store_Code=CS&Affiliate=ctrl


1.America's Secret Establishment --

2. Wall Street and the Rise of Hitler --

ウォールストリートがナチスヒトラーを勃興させたことを証明した本。
3. Wall Street & the Bolshevik Revolution --

ウォールストリートがトロツキーなどいもふくめ資金を与え、ソ連を成立させた経緯がかかれている。


上記1についてのアマゾン書店で寄せられる読者評は以下のように最高度の星を獲得している。
http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-form/002-3984047-1859263

読者のコメントをいちいち読むと非常に支持されていることがわかる。

彼の本は日本で一冊も翻訳されていないが、少なくとも
上記の3冊、最悪でも上記1について、翻訳出版されることが非常に望ましい。アメリカ理解、近現代史理解にこれらの報告書は絶対不可欠なのだ。

最高度の頭脳と調査能力を持つ彼は20世紀の知的巨人の一人であり、彼のすべての著書は近現代史を真に理解したいすべての人々、あるいは新しい歴史形成を担いたいすべての人々への贈り物であり、21世紀の知的遺産だといえる。

彼の真摯な知的営為、屈せず戦い抜いた態度に真の知識人の模範をみるものであり、最高度の敬意を払いたい。最近朝日新聞論壇で投稿されていたpublic intellectuals 公的知識人=一般人のための知識人という概念は米国由来のものであり、最近某大学でこの名前を冠する博士号Ph.D.を授与するところがでてきた。それほど、米国のいわゆる知識人は権力の走狗であることの批判からおきている現象だ。サットンこそこの敬称にふさわしい人物はいないだろう。

自分が知らない、聞いたこともない説であるゆえトンデモ本だ、などと決めつけるタイプの人々にはこれらは高踏すぎて無縁な著作郡であることは確かである。学問的訓練を経た読者に最も向くものといえる。

近現代史を専門とする人々は必読であることを強調していきたい。

http://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/819.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/353.html#c2

[近代史3] 世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される 中川隆
14. 中川隆[-10707] koaQ7Jey 2019年4月18日 10:48:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1347]

日本の風俗嬢は清楚で上品な女性でないと客が付かない _ 2

この横浜の地は私が青春時代を送った地なのだ。

大学を卒業して会社勤めをしていた。新入社員の俺は部署の新歓飲み会に参加した。 2次会のカラオケを終えて、30台前半の先輩社員に風俗店に連れて行ってもらった。 その時初めての風俗だった。これが社会か!と興奮しきり。

軽く緊張しつつ、風俗嬢のカタログを開く。高校の時好きだった子に似た子をセレクト。待合室にやってきた風俗嬢のAちゃんは好きだったあの子に本当に似ている。

部屋で、シャワーで仕事と飲み会の汗を流す。シャワー中でのフェラで発射。
ベッドの上で絡み合い、手コキに前立腺マッサージ。

来て良かった?と大満足でいると、おもむろにゴムを突き付けてきた。噂に聞いた基盤? と思ったら。


「○○君(俺の名前)だよね…本番するから内緒にしてください」


と土下座された。 いや、俺はそんなつもりじゃ…

無言でゴムを装着するAちゃん。 意志とは裏腹に俺の性器は怒張している。そこに腰を沈めていくAちゃん。 ベッドの軋む音。これってありなの??意外にも冷静な俺。 揺れるおっぱい。俺の腹辺りに視線を落とし浅い呼吸をするAちゃん。


気まずい、がしかし、押し寄せる快感。本日2発目。

ゴムを抜き取り、お掃除フェラをしてくれる。

目が合い、引きつる笑顔のAちゃん。


「絶対言わないでね」

と淡々と処理を済ませていくAちゃん。その後は客と風俗嬢としての定型文のやりとり。 個室を出ると先輩社員は既に事を終えていた。会計も済んでいるようだ。店を後にする。


後日、その石和 風俗嬢店のサイトを見た。Aちゃんの退店イベントが催されているようだ。 右手で顔を隠し、パンツ一丁で女座りのAちゃんはトップ2の人気嬢で、得意技はフェラ。性感帯は全身。 俺が大学に入って初めての彼女ができる少し前まで、一番好きな人だった。


俺はそれから一度もあの店に行っていない。 今では何ともなくセックスを楽しめるのだろうが若かった頃の俺には初恋の相手が風俗嬢になっていてまさか本番までしてしまったという事に耐えられなかったのだ。 若かったのだ。だが間違いなく女性の気持ちよさを最初に教えてくれたのは彼女だった。

http://風俗嬢.autostm.net/ishiwa/Category1/category1_01.html



▲△▽▼


母さん。僕、天使を見たんだよ。本当だよ

私の行きつけのソープは岐阜の金津園、総額35000円の店だった。
当時私はスデに常連の部類になっており、店員もなじみになっていた。
あろうことかあるとき私に店がダブルブッキングをぶちかました!
(俺を誰だと思ってるんだ)
当然に店は平謝り、最高の女性を付けるから勘弁してくれとの事。
吹くじゃねぇか。この手のパターンで良い女が付いたためしは無いが、ここは、なじみの店員の顔を立ててやることにした。
貴様の大風呂敷に付き合ってやる。
。。。。。

私は期待薄だった。
ところがその女性は徹底的に違っていた、部屋に入るなり電気を暗くしていきなりディープキス。
いつもと違うぞ。私は面食らった。
彼女は私の口の中を舐め回しながら器用に私の服を1枚づつ脱がして行き、私の全身にキスの嵐を浴びせつつもいつのまにか自分も全裸になっている。

そしてシズシズとひざまづくと唐突に洗っていない私のチンポをフェラし始めたのだ。
チンポは当然ギンギンで破裂しそうになっている。通常の2割増しだ。(当社比)
それはそれはとてもやさしいフェラだった、慈しむようなフェラだ。

僕の亀頭に彼女の舌が微妙なタッチでまとわりつく筆で撫でられているようだ。
声が出そうだった。
これが一生続けばいいのにと思った。
が、彼女はすぐにフェラを止め、私をベッドに横にした。

そして彼女は天を突いた私のチンコを優しくつかむのだ、まさか?

彼女は遠慮がちに私の上に跨ってきた。
ずぶずぶと入っていく、「ナマだ」 うわ、死ぬほど気持ちが良い。
それもそのはず私は当時プライベートを含め生挿入した事がなかったのだ。

彼女はゆっくり動き出した、(ちゅぷっ、ちゅくっ)静けさの中に、お互いの性器同士が生でこすれる音がする。

こんな気持ちが良いSEXは初めてだ。

「もう出ちゃいそっ、いいの?」
「うん、キテ」
彼女は吐息まじりにそう言うと、ほんの少しだけスピードを早めた。

射精が永遠に続きそうなほどの快感に体が包まれた。

(ちなみに彼女の中に入っていたのは多分30秒くらいだけ)まさに秒殺です。
実際はもっと早かったかも。

イク瞬間ケンシロウの声が聞こえてきた。
「天に帰る時が来たのだ」(嘘)

僕がイってしまった後も彼女は僕のチンコが萎えるまで挿入したままだった。

しばらくして、彼女は体を引き上げる。
彼女からチンポが抜けると彼女のアソコからポタポタと僕の体に精液が落ちてきた。
中に出したのだ、という実感がさらに湧いた。

すごい。これが本当のSEXなんだ、
比べれば今までのゴムツキのSEXなんてお遊びではないか!

彼女はベッドで放心状態で寝ている横に添い寝して僕を優しく見つめた。

そして、当然「早いのね」などとは言わず、

「私のお○こ気持ち良かった? 今日は一杯しようね」

と微笑んだ。
(母さん。僕、天使を見たんだよ。本当だよ)
ここまでで、まだ出会って10分足らずだった(ここは100分の店)
そしてその後、マットで一発。ベットで一発。もちろん全部中出しです。

彼女はイスでも風呂でも暇さえあれば挿入してくるし、咥えてくるしとても礼儀正しいし、何も言う事ありませんでした。(アンタにゃ教える事など何もない)
まさか33000円の大衆ソープでこんな高級ソープなみのサービスを受けるとは…。
非常にギモンです。何か病気を含めて心配になってしまう。

聞けば、彼女はあの阪神大震災で住んでいた家を無くし、岐阜へ流れて来たのだという。

彼女は以前神戸の福原にある超高級ソープに在籍し、念願のマンションを購入したばかりだったが、地震によって10階建てのマンションが5階建てくらいの高さに潰れてしまったらしい。
(まったくもって恐ろしい話だ:彼女は笑ってたけど…)

ちなみに彼女は7階に住んでいたので難を逃れたと言うはなしだった。

なお、その店は総額75000円だったそうです。(そりゃ、サービス良い訳だ)

金津園のも6万円以上の高級ソープはあるんですが、なぜあそこに居たんでしょうか?

謎です。 しかし翌月、彼女は店から姿を消していました。
http://www.ippu-do.com/so-pu.htm


▲△▽▼

2005年01月06日 10万円ソープに行ってまいりました


 ここ数年、年が明けてすぐの一発目のお遊びを、超高級ソープで始めてみるということが自分の中の恒例となっています。ま、ゲン担ぎみたいなもんですね。
一昨年は、吉原の総額8万円の「P」、昨年は堀之内の総額9万2千円の「K」。じゃあ、今年はさらに上いっちゃいましょうかということで、総額10万円行っちゃいました〜っ。

西川口の「D」であります。わずか2時間でちょっとしたマンションの家賃分を浪費! 
これぞ、大人の男の遊び! 

ま、ゲン担ぎみたいなもんですからね、ケチっちゃいけません。昨年、一昨年もいい年だったもんね、ソープのおかげってわけじゃないでしょうが(笑)。


 僕の事務所のある高田馬場から西川口までは、山手線と京浜東北線を乗り継いで30分。西川口といえば、今や全国にその名を知られたNK流の本場! 摘発の嵐が吹き荒れたおかげで、すっかり寂しくなってしまった都内の風俗街とは違って、いまだ店舗型風俗店が健在! 看板が賑やか! しかも、そのほとんどがNK流店なわけでしょ。

今は西川口も女の子のレベルもサービスもグッとよくなってて、んで、最後まで出来て1万円台という夢のような街なわけですよ、西川口。そんなリーズナブルな街で総額10万円払う価値がある店なのでしょうか、「D」は…。


 西川口駅西口から、客引き軍団が女の子の写真を手に襲い掛かかってくるNK流サロン街をくぐり抜けるとソープが20軒近く並ぶエリアがあります。その中央あたりに、目指す「D」はそびえ立っておりました。いやね、実は開店すぐの午後1時に予約を入れたんですが、となるとお昼ご飯をどうしようかという問題がありまして。朝食が遅めだったから、まだお腹は空いていないけど、プレイ終了の3時まではもたないかも。でも、プレイ前にがっつり食べちゃうのもなぁ…というわけで、結局駅前の立ち食いそば屋で軽く食べておくことにしました。10万円ソープ行く前に250円の月見そばを食う僕って、なんか間違ってますな(笑)。


 さて、お店に入りましょう。他のソープの店頭にはもれなく佇んでいる客引きがいません。さすが超高級店ですね。白と黒で統一された大理石作りの店内は、シティホテルのようです。受付もありますが、そのまま待合室に通されます。待合室には壁沿いに一人がけのソファがぐるりと並び、中央のテーブルには花が生けてあります。ソファに腰掛けると、すぐに黒服の店員がやってきます。ここで、予約名を名乗り、料金を払います。ソープでは入店時には入浴料だけを払い、個室で女の子にサービス料金を払うのが普通なのですが、ここで全額10万円を払いました。超高級店では、こういうシステムのとこが多いみたいですね。

 スーツ姿の女の子が抹茶(!)を立てて運んできます。店員が女性って珍しい。彼女はソープ嬢ではないんでしょうか。いや、ま、実はこの子が、あんまり可愛くなくて、「え、もしかしてこんなレベル?」と不安になったんですが(笑)。

 先客はいませんでしたが、すぐにもう一人お客さんが入ってきました。ツナギを着た50代くらいの職人さん風でした。

 さぁ、いよいよご案内です。さっきとは別のスーツの女の子がエレベーターで案内してくれます。いや、この子も器量がイマイチで、「もしかして、お相手はこの子かな」とちょっと心配になりましたが、5階に到着すると、ちゃんと別の女性が待っていてくれました。Mさんです。

ピンクのノースリーブのドレスを着ています。いとうまい子系の癒し系美人というところですか。すごい美人というわけではないですが、はっきりいって僕の好みのタイプです。実年齢は二十代終わりくらいでしょうか*1。

ええ、そのくらいの年齢、大好きですよ、僕。第一印象で、なんとなくエロそうな匂いが感じられました。

*1:お店のサイトを見ると22歳ということになってますが、まぁ、その辺はお約束で(笑)。

 手を引かれて個室に入るや否や、Mさん、いきなり抱きついてきてキスですよ。僕は上着どころかバックも持ったまま。そのままんまで、ずーっとキスです、ディープキス。舌べろべろ。ただでさえキスは大好きですが、入っていきなり立ったままで5分くらいキスされるというのは不意打ちで、うれしいなぁ。興奮するなぁ。

 いきなりのキス攻撃で、見回す暇もありませんでしたが、個室も素晴らしいですね。ベッドルームとバスルームがガラスで完全に分けられていて、ドアはタッチ式の自動ドアですよ。ベッドルームの方は、やはりシティホテル風、それもパークハイアットとか、そういう高級な感じ。きちんとしたダブルベッドにソファ。壁はつくりつけの棚になっています。ガラスの向こうに見えるバスルームには、大理石造りの大きな浴槽があり、壁に埋め込まれたモニターには環境ビデオが映し出されております。僕もこれまでに超高級店は、何軒か行ってますが、中でもトップクラスの豪華さですね。広さ自体はそれほどでもありませんが。

 

 長いキスから解放されて、上着を脱がしてもらったら、今度はソファでキス(笑)。体をぴったりと密着させての濃厚なキス。キスしながら手は僕の体をまさぐってきます。キスしながら少しずつ僕の服を脱がしていきます。うわぁ、たまんねーっす。そして、そのままフェラですよ。高級店ならではの即尺プレイですね。そして、ガーターだけの姿になるとMさん自ら跨ってきますよ。これまた高級店ならではの、即入れという奴ですね。いつのまにかにゴムかぶせられてました(笑)。

 ここでは以降の細かいサービス描写は省略しますね。その辺は「ヴァッカ」(バウハウス刊)で連載中のコラム「風俗自腹主義」で書く予定です。興味のある方はご覧下さいませ(笑)。

 その後のプレイの流れでいいますと、ソファでの即尺・即入れで一発目発射、バスルームに移ってスケベイスで体を洗ってもらって、お風呂に浸かり、マットプレイ。ここで二回戦目もあるんですが、ここでは発射せずに、もう一度お風呂に二人で入ってイチャイチャ。そしてソファでビールなどいただきつつ、また抱き合ってキス。んで、ベッドに移ってフィニッシュ、と、まぁ、こんな具合で、あっという間の二時間だったのですね。夢を見ているような、なんて表現がぴったりでした。

 個室も実に豪華でよかったのですが、やっぱりMさんのエロさが素晴らしかったですねぇ。何度も書いているように、とにかくキス。キスの嵐。まるで二村ヒトシ監督のAVに出てくる痴女のようですが、襲ってくるというよりも甘えるように迫ってくるのが、たまりません。マットでも、テクニック的に派手なことはしないんですね。いわゆる大技とか、ほとんどやりません。愛撫に直結するようなことしかしないんですよ、Mさん。

 ほら、ソープのテクって、気持ちいい云々よりも「わー、こんなことまでするんだぁ」的な技が多いじゃないですか。でもMさんは、そういう余計なことはしない。そんなヒマがあったらキスする、みたいな感じ(笑)。イスプレイも潜望鏡もなかったですね、そういえば。

 ソープに限らず風俗って、そのサービスが「愛撫」ではなくて「作業」になってることが多いんですよね。まぁ、特に工程の多いソープでは、そうなりがちなんですけど、やるべきことを、こなしていくだけ。相手を気持ちよくしてあげようということが、どっかにいっちゃってる。そんなのはね、どんな過激なサービスをされてもね、ちっとも気持ちよくなんかないわけですよ。時々いるんですよ、あからさまに「作業」している風俗嬢。そんな子にあたった時は、ホントに絶望的な気分になります。どんなに若くて可愛くてスタイルがいい子でも、「作業」なんてされたら、そのまま帰りたくなります。

 その点、Mさんは素晴らしかったなぁ。あの過剰なまでのキス攻撃も「作業」の人には出来ないサービスだと思うんですよ。ベッドプレイ時などの感じっぷりが、大袈裟すぎて少々興醒めというのが気になりましたけど。そこまでスゴイこと、僕してませんよ(笑)。まぁ、あれもサービスなのですが。

 後で店員に聞いたら、彼女はこのお店のナンバー2だったんですね。あー、さすがだわ。指名ナシでナンバー2に入れたなんて、ラッキー! 「そこそこお仕事できて、ケバくない子」とは言っておいたんですが。

 実は今まで超高級店で満足したことというのは、なかったんですが今回は大満足。10万円という金額が「安い!」とまでは、さすがに思いませんでしたが、「これなら10万円、惜しくないかも」という気分にはなれました。

 身も心もとろけるような2時間。男と生まれたからには、一度は体験しておくべきなのでは、と思いますね。自分に合う合わないは別として、こういう快楽が世の中にはあるんだと知らずに死んでいくのは、もったいない。

 ところで不思議に思うのが、ソープ特有の建前のお約束が超高級店では見当たらないこと。たとえば、入浴料とサービス料を別に払うのは管理売春ではないという建前のためだったり、決して使うことのないサウナ器を狭い個室の中にも置くだけ置いておかないといけないという建前とか…。なんでなんだろ?
http://d.hatena.ne.jp/rioysd/20050106

▲△▽▼


106 :名無しさん@ピンキー:2010/06/02(水) 00:26:00 ID:XSpzTN5mO

シャワータイムは大切な時間ですね。

何度も指名してるオキニとでも1番照れる時間でもあるけど。 プレイ前は工夫してる嬢さんが多いけど、プレイ後のシャワータイムはどう考えていますか?

例えば、終了10分前を切ってからのシャワータイムだとやっぱり時間が気になり事務的になりますか?

108 :名無しさん@ピンキー[sage]:2010/06/02(水) 00:49:56 ID:Tu8UyR5i0

それこそが「素人ほど事務的になっちゃう瞬間」なんでしょうねorz

内心どれだけ急いでいても、ラスト数分で次の指名が決まるといっても過言じゃないから、そこはもう丁寧にやるしかないです。 それか、もう

「きゃー、こんなに時間経つの早いなんて!?」

とびっくりしたふりしつつ、さりげに急かすとかw


「ごめんね、最後バタバタになっちゃったね、楽しい時間ってあっという間だぁ」

みたいに、あなたとの時間が楽しかったのよアピール忘れずに、 最後別れる瞬間も、仕方なしに急いでる雰囲気しながらも、離れて、 それから一度取って返して手を握って、改めて

「またね(はぁと」

とにっこり笑ってからバタバターっと小走り、 でもまた振り返ってバイバイして名残惜しさMAXな感じで。

まあここまではなかなかやりませんがw 

あなたと離れたくないのよ、ちょっとでも沢山一緒にいたいのよアピールは必須です。 だって悲しいやん。せいせいしたって感じでさっさと嬢に帰られちゃったらさ。

http://www.unkar.org/read/qiufen.bbspink.com/nuki/1275120877

21 :名無しさん@入浴中 :2009/09/05(土) 20:26:12 ID:dRb3X5fG0 (1 回発言)

目を伏せながら姫が言った。

「付き合ってた彼に似てる・・・」

「学校で好きだった先輩に似てる・・・」


92 :名無しさん@入浴中 :2009/09/15(火) 23:15:18 ID:j0S5A3cE0 (1 回発言)

黙り込んだあとに、急にじっとオレの顔を見て、

「ありがとう」

なんか、ズキュンってハート打ち抜かれた気がした。


98 :名無しさん@入浴中 :2009/09/16(水) 15:36:01 ID:VZi/Zga90 (1 回発言)

帰り際に

「やっと目を見て話してくれるようになったね、うれしい」

108 :名無しさん@入浴中 :2009/09/18(金) 20:48:07 ID:VYQ8MoXYO (1 回発言)

●●さんが来てくれてよかった。

こすれる感じがたまらない…。
あたしをおかしくして…。

111 :名無しさん@入浴中 :2009/09/19(土) 06:47:59 ID:kSI26+5b0 (1 回発言)

やっぱり相性ってあるのね
他のお客さんだと濡れないの

120 :名無しさん@入浴中 :2009/09/21(月) 12:13:34 ID:kHdbTfoyO (1 回発言)

『○○の好きにして良いよ。』

って耳元で囁かれた

天涯時に言われて萌えた一言


125 :名無しさん@入浴中 :2009/09/22(火) 11:23:25 ID:jFMHqJGF0 (1 回発言)

「前好きだった先輩に良く似ていて、恥ずかしいからあんまり見つめないで」


479 :名無しさん@入浴中 :2010/01/16(土) 15:28:03 ID:Y8lQLqSH0 (1 回発言)
人生リセットして、どこかでひっそり暮らしたい。

でも、○○さんにだけは連絡先を教えてあげます。迷惑ですか?


514 :名無しさん@入浴中 :2010/02/02(火) 23:07:11 ID:llIn8lT50 (1 回発言)

「キレイな目をしていて吸い込まれそう、

だからキスするときに目を開けてワタシを見ていてほしいの・・・」


572 :名無しさん@入浴中 :2010/02/24(水) 02:01:38 ID:mcdzHjwlO (1 回発言)

「素敵すぎて感じちゃった」

と言われて指を掴まれるやいなや液が溢れる秘部に指を押し当てられ…。


847 :名無しさん@そうだ選挙に行こう :2010/07/10(土) 21:21:48 ID:qll7JNrwO (1 回発言)

終ったあと膝枕して頭を撫でていたら急に胸のなかで泣きながら

今までの客のなかで一番やさしくて安心する、

お仕事で気持ち良かったのはじめて

http://logsoku.com/thread/qiufen.bbspink.com/soap/1251646098/#23


612 :名無しさん@入浴中:2010/09/19(日) 16:19:56 ID:LpBStQZV0

お別れのキスした後、

「わたしの事忘れないでね」
http://qiufen.bbspink.com/test/read.cgi/soap/1233669324/

▲△▽▼


149 :名無しさん@入浴中[sage]:2007/01/19(金) 14:25:40 ID:F0YiZrFB0
いままでいたした中で思い出に残るのは

ラテンのみゆき
迎賓館の舞咲
プレジの一夜

特にみゆきは絶品だったなあ・・・遠い目・・・

ラテンクォーター みゆき(早川いづみ)


もう上がっちまったが姫だが、ラテンのみゆきは慶応卒だったらしい。

真偽の程は別として、100人を悠に越える常連の予約を公平に受け、さばくため、貸切はおろか、Wすら受けずに一休一勤の全コマを一月先まで常に売り切っていた、伝説の嬢だ。

パスワードを知ることの出来た幸運な常連は、直接個人HPで予約状況を確認し、彼女にメールで予約を入れる。

一時期店に管理を任せたが、ダブルブッキングなどのトラブルが発生した為、以降引退まで全ての予約は彼女が完璧に個人管理した。

予約の前日、すなわち公休日には明日の確認メールを各常連宛に、逢瀬を期待させる一言を添えて個別に送る。

逢瀬の後には決して次をねだらぬトーンで、かつ逢いに行った男の自尊心を確実に満たしてくれる丁寧な礼が届く。

11月の解禁日以降はヴィラージュヌーボを自費で仕入れ、訪れる客全てに振る舞い、クリスマスには個別のメッセージを少ない休みの時間を削ってグリーティングカード形式のメールで百数十人の顧客全てに送る。

決して饒舌ではないが、何より多くを語る眼差しに込められた気持ちは うたかたの逢瀬の間は、全ての客にとって真実だった。

最後のメリークリスマスを通った回数の多寡に関わらず連絡先のわかる全ての客に送り終えた後、年が変わり彼女の出勤は突然途絶えた。

一月余りの後、店のHPに引退を告げるメッセージと個人HP を閉鎖しメールアドレスを無効にする事の詫びを残し、彼女はこの世界から完全に姿を消した。

見事な引き際だった。

http://blog.livedoor.jp/zqy1tomr6o/archives/240240.html


215 名前: 名無しさん@入浴中 投稿日: 02/10/24 23:51 ID:vdA5zOU4


みゆきさんは決して美人ではありません。ごく普通レベルの可愛らしい子といった感じ。

彼女は出勤すると自分の持ち部屋に行き、毎日食事も取らずに付きっぱなしであとは店の車で帰るだけです。

彼女の技は基本に忠実なだけで、特筆すべき点は何らないのです。
マットにせよイスにせよベッドにせよ・・・どこにでもあるありきたりです。

彼女が今あるのは、類まれなる演技力・記憶力・心配り・顧客管理 だと思われます。

それプラス、2時間限定でお客さんの恋人になりきる努力。

それぞれのお客さんの趣向にあわせるコツ。それを見抜く眼力。

ああ、来て良かった、また来ようと思わせるような最善の努力です。


彼女は普段から装飾品の一切をしていません。ネックレス・ピアス・ネイル等々

爪はいつも綺麗に切り揃えてあるだけです。服装も華美ではありません。

そんなものが無くても、彼女自身があるだけで男性にとっては十分なのです。

彼女が現在の地位になるまで、吉原や他の地域で足掛け4年掛かっています。

それだけの歳月を要して、コツコツと積み上げて今の彼女があるわけです。
まさにローマは一日にしてならずと言ったところでしょうか。

http://okazu.bbspink.com/soap/kako/1030/10304/1030415082.html


35 名前:名無しさん@入浴中 mailto:sage [2008/02/12(火) 00:33:08 ID:hgiuxE6I0]

みゆきは女神だったなあ・・・二度とあんな子には会えないだろうね。


37 名前:名無しさん@入浴中 [2008/02/12(火) 00:39:47 ID:DdnMEtq30]
>>35さん

みゆきさん、すごい人でしたよね。だいぶ前に伝説になって・・・

163:名無しさん@入浴中

初めての潮吹き?体験は みゆきさんだったよ。

1度の燈篭で いろんな女を演じてくれたなあ。


585 名前:名無しさん@入浴中 [2007/01/14(日) 17:58:00 ID:+yUOArhCO]

その道の達人達は凄いぞ。

普通のHが高校野球とすれば、プロや大リーグの違いだろう。 並の人間じゃかすりもしない、見えないの世界だ。

系列店の娘に講習しているお姉さんに入った。 靴下の脱がし方から教えると言っていた。 立ち位置から、目線、体に触れる時の指の先まで、能やフイギュアスケートの様に計算されていたと思う。

それを、自然な動きで行うだけで女性の所作や体がこれだけ美しいのかと舞い上がった。
http://yomi.mobi/read.cgi/idolbbspink/idolbbspink_soap_1139581149


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/351.html#c14

[リバイバル3] 現生人類の起源 中川隆
29. 中川隆[-10706] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:04:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1348]

デニソワ人に別グループ、アジアでまた驚きの発見
現生人類と交配した「旧人」は多様だった、現代人のDNAで判明、インドネシア 2019.04.15
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/041500228/


復元された初期人類ネアンデルタール人の鋭い目。デニソワ人の外見は不明だが、ネアンデルタール人に近縁の人類だったと考えられている。(PHOTOGRAPH BY JOE MCNALLY, NAT GEO IMAGE COLLECTION)

 10年近く前、謎に包まれた初期人類の小指のかけらがシベリアで発見された。この未知の人類は、骨が発見されたアルタイ山脈のデニソワ洞窟にちなんでデニソワ人と名付けられた。(参考記事:「デニソワ人 知られざる祖先の物語」)

 彼らはネアンデルタール人に近い種で、何万年もの間アジアで暮らしていたと考えられている。そこまでわかったのはDNAが採取できたおかげだが、化石は指の骨、数本の歯、頭蓋骨のかけらが1つしか見つかっていない。しかも、発掘された場所はデニソワ洞窟だけと、試料の数自体はきわめて少ない。

 ところが、4月11日付けで学術誌「Cell」に発表された論文により、驚きの新事実が明らかになった。いや、むしろデニソワ人の謎が深まったと言える。東南アジアの現代人のDNAを大規模に調べたところ、デニソワ人は実は1つのグループではなく、独立した3つのグループが存在したことが示唆されたのだ。そのうちの1つは、ネアンデルタール人とデニソワ人の違いと同じくらい、他のデニソワ人と異なっているという。

 さらに、1つのグループは、およそ4万年前に姿を消したネアンデルタール人よりも新しい時代まで生き残っていたかもしれない。論文によると、デニソワ人は少なくとも3万年前、おそらく1万5000年前まで、ニューギニア島で現生人類と共存し、交配していた。この年代が確かなら、デニソワ人は、知られている限り、私たち現生人類以外で最も最近まで生きた人類ということになる。(参考記事:「ネアンデルタール人の暮らし、なんと週単位で判明」)

パプアニューギニアの少数民族アスマット族。インドネシア、西パプア州でのジパエの復活祭に参加するところ。現代パプア人のゲノムには、2つの異なるデニソワ人グループの祖先の痕跡が残っている。デニソワ人は、ネアンデルタール人の近縁種にあたるが謎に包まれた人類であり、わずかな化石と何千もの世代にわたり受け継がれたDNAしか手がかりがない。(PHOTOGRAPH BY JOSHUA IRWANDI)

 近年、古代アジアの人類が驚くほど多様だったことを示す発見が相次いでいる。4月10日にも、フィリピンで新種の初期人類ルソン原人が見つかったと発表されたばかりだが、今回の刺激的な発見もそうした流れに連なるものだ。(参考記事:「解説:新種の人類、ルソン原人を発見、フィリピン」)

「初期人類の多様性の中心は東南アジアの島々だということが、突然表面化したようなものです」と、論文の共著者でニュージーランド、マッセー大学のマレー・コックス氏は、フィリピンやマレーシア、アジアの先の広大な海域に浮かぶその他の諸島を指して言った。


2018年、米ワシントン大学のシャロン・ブラウニング氏らが、デニソワ人と現生人類の交配の波が2度起きていたことをすでに明らかにしていた。今回の論文はそれを拡張するものだが、ブラウニング氏は今回の結果と意味に興奮しつつも、こう注意をうながす。

「人類史のほんの一部にすぎません。でも、こうした小さな発見の積み重ねで、全体が明らかになるのです」

 デニソワ人は、少なくとも40万年前にはネアンデルタール人との共通祖先から枝分かれした可能性が高い。そして、ネアンデルタール人がヨーロッパと中東に広がる一方、デニソワ人はアジアに広がり、やがてアジア系の現代人の祖先と交配した。そのおかげで、デニソワ人の遺伝子の痕跡が現代のホモ・サピエンスに残され、デニソワ人の謎を解き明かす手がかりとなっているのだ。


https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/041500228/?SS=imgview&FD=-861245705

人々の健康から激動の人類史へ

 コックス氏の研究チームは、もともとデニソワ人の多様性を研究していたわけではない。興味があったのは、インドネシアと近隣の東南アジアの島々における医療だった。この地域の病気に関連する遺伝子変異を解明すれば、もっと住民に特化した治療法につながる可能性がある。(参考記事:「遺伝子変異の早期発見、病気予防のカギとなるか」)

「私たちにとっては、とても重要なことです」と、論文の共著者ヘラワティ・スドヨ氏は話す。同氏は、インドネシア、エイクマン研究所のシニアリサーチフェローで、論文の共著者の一人だ。インドネシアの人々の遺伝子は非常に多様だが、「ここインドネシアでは、遺伝子分析の技術がなかなか普及しなかったので、遺伝子研究は行われてこなかったのです」と同氏は述べる。

 こうした多様な遺伝子を調べたところ、はるか昔に初期人類の分離が起きていたことを示す証拠が見つかった。アフリカからやって来た新参者の現生人類ホモ・サピエンスと、その前からアジアにいたより古い初期人類の流れをくむ人々が交配し、その証拠が現代人にまで世代を超えて受け継がれていたのだ。

結婚式の準備をする教師のマリア・フランシスカ(チカ)さん(23歳)。ニューギニア島に住む少数民族アスマット族の一人だ。研究者は、現代パプア人のDNAに残るデニソワ人の遺伝的痕跡を明らかにし、パプア人がより健康的な生活を送れるよう役立てようとしている。(PHOTOGRAPH BY JOSHUA IRWANDI)

 たとえば今日、アフリカ人以外の人の最大2%に、ネアンデルタール人のDNAが見られる。その一部は有益で、感染症を防ぐ人の免疫システムに貢献している。しかし、ホモ・サピエンスが6万4000年ほど前にアフリカを出た後に交配した人類は、ネアンデルタール人だけではない。アジア系の大半には、デニソワ人のDNAがある程度含まれている。しかもニューギニア島を含むメラネシアの人々では特に多く、ゲノムの最大6%にもなる。現代メラネシア人の祖先は、メラネシアの島々へ向かう途中でデニソワ人と出会い交配したと考えられる。(参考記事:「人類の出アフリカは早かった?アラビア半島で足跡」)

 コックス氏の研究チームは、その痕跡を詳しく調べるため、ニューギニア島を含むインドネシア14島の住民161人のゲノムを解析した。このデータと世界中の317人のゲノムのデータを統合し、ネアンデルタール人とアルタイのデニソワ人のゲノムと比較した。ニューギニア島先住民である現代パプア人のDNAのデータからは、デニソワ人の痕跡のピークが1つだけ浮かび上がると研究チームは予想していた。だが、明らかに異なるピークが2つ現れた。

「世界一くだらないデータ処理のミスか、本当に素晴らしい研究成果かのどちらかでした」とコックス氏は話す。


入り混じった遺伝子を解き明かす

 今回の研究で見つかった2つのピークは実に興味深い。これはおそらく、2つの異なるデニソワ人グループの影響を示している。しかも、アルタイ山脈の洞窟で見つかったデニソワ人とは、遺伝的にまったく異なるという。

 その1つであるグループ1は、ネアンデルタール人と枝分かれした後5万年も経たずに、36万3000年ほど前にアルタイのデニソワ人とさらに分かれた。その後、現生人類と交配し、子孫が現在東南アジアからインドにかけて広がっている。

「今回の研究成果を完全に支持します」とカナダ、トロント大学の古人類学者ベンス・ビオラ氏は話す。同氏は、謎に包まれたデニソワ人の化石形態学の第一人者だ。(参考記事:「人類3種が数万年も共存、デニソワ人研究で判明」)

 同氏の研究チームがデニソワ人について初めて報告した2010年の時点で、現代メラネシア人に含まれる初期人類のDNAが、デニソワ洞窟の骨と歯から採取したDNAとは明らかに異なることに科学者たちはすでに気付いていた、と同氏は振り返る。2014年、同氏の研究チームは、デニソワ人が27万6000年前〜40万3000年前に2つのグループに分かれたと推定した。今回の論文の推定年代は、この範囲に収まる。(参考記事:「20万年前の人類の歯、また正体不明、謎深まる」)


デニソワ洞窟。これまでにデニソワ人の化石が見つかっている唯一の場所。しかし、その遺伝的痕跡は、現代人に広く残されており、今後多くの発見が期待される。(PHOTOGRAPH BY ROBERT CLARK)

[画像のクリックで拡大表示]


デニソワ洞窟で発掘された臼歯。デニソワ人の化石は、わずかに歯3本、小指の骨1本、頭蓋骨の欠片1つしか見つかっていない。他種とは異なる決定的な特徴の1つは、驚くほど頑丈な歯だ。(PHOTOGRAPH BY ROBERT CLARK)

[画像のクリックで拡大表示]

 しかし、今回の論文で本当に悩ましいのは、第3のデニソワ人グループという説だ。この第3のグループ(今回の論文のグループ2)は、約28万3000年前にアルタイのデニソワから分かれ、現在のニューギニア島先住民の祖先とのちに独占的に交配し、混血したと考えられる。

 この結果に困惑する科学者もいる。理由の1つは、デニソワ人が深くて海流のきつい海を渡る方法を見つけていたと考えられる、と論文の著者が述べている点だ。異議を唱える科学者は、そうした海を渡れるのは船を作れた現生人類だけだと長い間考えてきた。しかし、今世紀になされた多くの発見が、この説を否定している。例えば、体の小さなフローレス原人は、おそらく70万年前にはインドネシアのフローレス島にいた。インドネシアのスラウェシ島で見つかった石器は、11万8000年前〜19万4000年前のものだ。ごく最近では、ホモ・ルゾネンシスと新たに命名されたルソン原人は、5万年前にはフィリピンのルソン島にいたとされる。(参考記事:「解説:約70万年前の超小型原人発見、フローレス島」、「南太平洋の島で謎の石器を発見、現生人類の到達前」)

 とはいえ、これがデニソワ人にも当てはまるかどうかは、まだ議論の余地がある。


「問題は単純で、ニューギニア島やオーストラリアでは、近代以前の人類の考古学的な証拠や化石などが、見つかっていないことです」とビオラ氏は話す。これは、存在しないという意味ではない、と同氏は言う。しかし、「この地域については、わかっていないことがあまりに多いのです」

 最新の分析法を開発している進化遺伝学者ベンジャミン・バーノット氏は、データ分析の仕方についてさらなる懸念を抱く。今回の研究では、現代人のゲノム中にあるデニソワ人の大小さまざまなDNAを特定したにもかかわらず、正確さを期すために、デニソワ人のものと同定された最長のDNAのみに限定して分析した。

 バーノット氏は論文の説には同意しているものの、「何かを分析する必要があり、何万ものサンプルを同定したのに、そのうちの500個だけを選んで分析を行うのであれば、強い疑念を抱かざるを得ません」と話す。

 それでも、バーノット氏や他の研究者たちは、この新たな遺伝子データベースを使って何を研究しようかと前向きだ。今回の研究で収集した遺伝子データは、現在、他の人でもダウンロードして利用できるようになっている。「こうして科学は進歩するのです」と同氏は話す。

 コックス氏やスドヨ氏の研究チームは、現在、デニソワ人のDNAの断片が、現代人の健康にどう影響しているのかの解明に取り組んでいる。さらなる研究が必要だが、一部の遺伝子が、免疫システムと脂肪の代謝において中心的な役割を果たしているという有望な手がかりを、すでにいくつかつかんでいる。一方、コックス氏は、インドネシアの研究から将来何がわかるのかと興奮しているという。

「私の勘では、興味深い説がさらにいくつかこの地域から出てきますよ」

ギャラリー:4万年で「イギリス人」の顔はこんなに変わっていた 写真7点


https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/gallery/013000491/


ホワイトホークウーマン、5600年前
小柄でやせた女性で、25歳に達する前に出産が原因で死亡したとみられている(骨盤のあたりに胎児の骨が見つかった)。ブリテン島の新石器時代初期の埋葬地跡であるホワイトホークエンクロージャーで1933年に発掘された。最新のDNA解析により、ここに埋葬されていた人々は、後にブリテン島にやって来たビーカー人と比較して、一般的に肌も瞳の色も濃かったことが示唆された。彼らは、約4400年前にビーカー人に取って代わられた。(COURTESY ROYAL PAVILION & MUSEUMS, BRIGHTON & HOVE)



文=MAYA WEI-HAAS/訳=牧野建志

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/041500228/?P=1

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/735.html#c29

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
82. 中川隆[-10705] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:08:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1349]

死後の脳、一部機能回復 ブタで実験、米チーム
4/18(木) 2:00配信 共同通信

 【ワシントン共同】死後4時間たったブタの脳に血液の代わりをする液体を循環させ、一部の細胞を働かせることに成功したと、米エール大などのチームが17日、英科学誌ネイチャーに発表した。脳は血流が止まり酸素や栄養が途切れると、すぐに組織が壊れて回復しないと考えられてきたが、少なくとも数時間は持ちこたえられる細胞があることを示した。

 意識や知覚を表す脳波は見られず、チームは「臨床的には死んだ脳に変わりない」と強調。だが生命倫理の専門家らは同誌で、将来的には人が脳死や心停止した後でも、一定程度の脳蘇生ができるようになる可能性を指摘。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c82

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
1. 中川隆[-10704] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:19:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1350]

秦の始皇帝や随の煬帝に憧れた毛沢東


 林彪 クーデタ計画書 「五七一工程紀要」


「毛沢東は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である。・・・

彼らの社会主義とは、実質的には社会フアシズムである。彼らは中国の国家機構を一種の、相互殺戮、相互軋轢の肉挽き機に変え、党と国家の政治生活を封建体制の独裁的家父長制生活に変えてしまった」

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


毛沢東の愛読書は歴代王朝の歴史を紀伝体でしるした「二十四史」だった。 毛沢東がもっとも賛嘆を惜しまなかったのは、悪名高い殷王朝の皇帝紂王だったという。

<毛の歴史観は大多数の中国人とはなはだしく異なるものであった。彼の政治観には道徳など入りこむ余地はなかった。その毛沢東が中国の歴代皇帝におのれを擬すばかりか、最高の敬意を史上最悪の無慈悲残忍な暴君のためにとっておいたことを知って、私は非常な衝撃を受けた。目的を達するためならば、どんな冷酷かつ専制的な方法も辞さない気だった>

 毛沢東の最大のお気に入りのもう一人の皇帝は、秦の始皇帝だった。ほかには則天武后や随の煬帝、西欧ではナポレオンが毛沢東のお気に入りだったという。いずれも多くの民衆に無慈悲な死をもたらした絶対権力者たちである。李志綏は著書の中で、次のように書いている。


<中国古代の宮廷における権謀術数は、マルクス・レーニン主義よりもはるかに強い影響を彼の思想におよぼしたのではないかと私は信じて疑わない。たしかに毛沢東は革命家であった。中国を作り替えてふたたび富国強兵の国家にするのが目的だった。ところが、どうやって統治すべきかの教えを、つまり最高指導部にはびこる謀議をどう操作したらよいかというガイダンスを過去に求めたわけである>


 こうした思想を持つ毛沢東だからこそ、

「自分は3億の人民を失うことも辞さない」

と演説することができたのだろう。じっさい、毛沢東が権力を握っていた時代、「反革命分子」として処刑されたのが、87万3000人余になることが中国共産党の公式記録路して残っている。

<後年の大躍進になってはじめて、つまり数百万の同胞が餓死しはじめたときになって、毛沢東が日ごろ賛嘆した無慈悲な皇帝たちにご当人がいかに酷似してきたかを、私はやっと思い知らされることになるのだ。主席は人民が数百万も餓死しつつあるのを知っていた。毛はそんなことを少しも意に介さなかったのである>


<文化大革命の絶頂期、天安門広場が熱狂的な大群衆であふれ、市街が混乱をきわめていたときでさえ、毛沢東は皇帝ばりの生活をむさぼりつづけ、大会堂のなかでも中南海の城壁の内側でも、女たちを相手に楽しんでいたのである>


 このように主治医としていつも身近に仕えていた李志綏は書いている。なお、もう少し統計を補足しておこう。「大躍進」での餓死者は2215万人、「文化大革命」では13万5000人が処刑、172万人が異常な死を遂げたという。

 異常な死を遂げた中には、国家主席であった劉少奇その人までが含まれている。明日の日記で、劉少奇が紅衛兵たちにどのようなひどい待遇を受け、なぶり者にされたか報告しよう。現場を目撃した李志綏の文章を読むと、その非道さが実感される。 (李志綏 毛沢東の私生活)

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


毛沢東の私生活 李 志綏 (著, 原著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E3%81%AE%E7%A7%81%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9D%8E-%E5%BF%97%E7%B6%8F/dp/416730970X

この本は、22年間(1954-1976)付き添った主治医(李志綏・生家は代々清朝の主治医を勤めた)が「半神半人」と言われた独裁者・毛沢東の知られざる人間像を初めて赤裸々に描いた回想録である。

共産革命後の中国で何千万人と餓死する人間が出ようと、ぜいたくな暮らしを続けた党幹部たち。やりたい放題の生活と政治の内奥を詳しく記したものだ。


「究極のひねくれ思考」とでも、言いたくなるほど読み進むたびに、気分が悪くなる。


なんと、毛沢東は物事をすべて悪くわるく解釈して相手を陥れる。

人間らしい情の感じられない毛沢東や、妻・江青のあまりの人間的レベルの低さに読むに堪えない気持ちが大きく、途中で何度も読むのをやめようと思った。

最初にアメリカで出版されたとき、世界に大きな衝撃を与えたという。もちろん中国では発禁本である。その理由のひとつは、中国内で神格化される続ける毛主席の秘められた皇帝ぶりを白日のもとにさらしたこと。

それも死人の山を築こうとも動じない権力闘争、稚拙な経済政策、原爆戦を辞さない対外戦略などを通して覗かせた独裁者の人間性を語りつくした回想録だったことだ。


毛沢東が評価していた中国歴代帝王をみると、彼の残虐さがわかる。


殷の紂王、秦の始皇帝、唐の則天武后、隋の煬帝と言えば中国史上暴君として有名だ。
毛沢東による王者の評価基準は、殺した人数ではなく中国の統一と強大化にどれだけ貢献したかにあるらしい。

あの文化大革命で、あらゆるものが「ブルジョア的」「反革命」と標的に合い、攻撃され破壊されるなか、毛沢東の屋敷の中ではアメリカ映画が上映されたりダンス・パーティも毎週のように行なわれていた。

中国全土から選ばれた美女達が毛沢東の相手をするために集められるのだ。

気に入った女性を、料理の日替わりメニューのように寝室に連れ込む。

それが毛沢東の日常だった。


これを読むと、いったい「人民のための革命」とは何だったのか?と政治に疎いわたしも歯ぎしりし、憤懣やるかたない思いになる。


「もし私が殺されてもこの本は生きつづける」の言葉を残しこの著書が発売された3か月後に、李志綏はシカゴの自宅浴室で遺体となって発見された。亡命して6年後に米市民権を得た直後だった。他殺の疑いが濃く、いまだに急死は疑問視されている。


日本人は、李白や杜甫を代表とする漢詩の世界から中国人を『文人墨客』と永年想ってきた。しかし、それは大変な誤解だったのではないかと思う。

http://d.hatena.ne.jp/mursakisikibu/20110806/1312613829

毛沢東は中国人民共和国という国家の主席というより毛帝国の皇帝という感じですね。
特製の木製の大型のベットで臥し好きな歴史書を読み耽りながら政敵の追放を画策し、気分転換にプールで水泳を楽しむのが日常のパターン。 身の回りにはお気に入りの若い女性を侍らせ、豪勢な地方巡視旅行の際にはダンスパーティ会場から気に入った女性を予め用意していた部屋に連れ込むという漁色家。

興味深いのは、毛沢東は殷の紂王、秦の始皇帝、唐の則天武后、隋の煬帝という中国史上暴君として有名な人物を評価し、李志綏に自分は聖人君子、坊主になるのはまっぴらだと普段から広言していたんですね。

江青は神経経衰弱の持ち主でお付きの看護婦には威張り散らし嫌われ者、猜疑心も強く文化革命の際には毛沢東に忠実な周恩来首相の追放まで画策するですね。面白いことに江青は毛沢東を和ますという名目でアメリカ映画を日夜上映していたんですね。

本の題名は『毛沢東の私生活』ですが、毛沢東が推進した強制的な農業集団化の人民公社推進とか農家の庭先での裏庭鋼炉設置とかの大躍進政策やのちのプロレタリア文化革命等の政治動向についても著者の知る範囲で詳述しています。性急な大躍進政策の失敗による膨大な餓死者やフルシチョフのスターリン批判を受けて政府幹部の中でも彭徳懐元帥や劉少奇、ケ小平らが大躍進政策を批判し毛沢東個人崇拝に代わる集団指導制や農民のやる気を起こさせる農業請負制の導入等が検討されるが、毛沢東がいわゆる紅衛兵を動員し江青らの四人組を指揮し文化革命を推進し清廉な彭徳懐元帥や実務能力のある劉少奇、ケ小平らを反革命主義者として糾弾していく過程を活写しています。

民主主義国家の日本の国民の一人の私としては、到底理解に苦しむイデオロギー闘争、というよりはイデオロギーに名を借りた権力闘争が行われ何千万人とか言われる多数の人々が処分処理されていったかを、知らされると唖然としたものを感じざるを得ませんね。

そして現代の中国で国民的人気のある周恩来については、李志綏は毛沢東に対する卑屈なまでの忠誠ぶりを皮肉をこめてコメントしています。

http://blogs.yahoo.co.jp/saitou602002/59466398.html

毛澤東は始終、「わしや“和尚打傘" の男じやよ」と言つてゐました。   これは闕後語 (ケツゴゴ) と言ひ、言葉遊びの一種で、言ひたい言葉の前半分だけを擧げたものです。


「和尚が傘さす」類の男だ、といふのです。

「和尚が傘をさせば」→「無髪 (=無法) 無天」


つまり、法律にも道コにも縛られぬ男だ、といふ意味です。


正しい譯語=「わしや無法者だよ」


毛澤東は 1965年 1月 9日、スノーにかう語りました。 ところが通譯はこれを直譯し、

「私は傘を持つ僧侶」とやつたものですから、


「毛澤東は、自分は破れ傘を手にした修道士だと言つた」


と傳はり、その謙虚さに、世界中から尊敬の念を集めました。  何のことはない、

「わしや無法者、これから文革で中共をひつくり返すよ」

と 文革の豫告をしただけなのに。  毛澤東は


  「少年時代には二百年生き抜き、洪水の勢ひで三千里を壓倒しようと夢想」して、 先づは真面目な  儒教的理想主義青年として思想形成し、多くの友から尊敬されますが、 禮儀正しく行動するだけでは權力は得られぬと悟り、 權力獲得に手段を選ばなくなります。

平氣で人を踏み台にしてより大きな權力を追求するのです。 
1936年作の「沁園春・雪」では、


  「秦の始皇帝もジンギスカンも何する者ぞ。 

「中國史上の眞の英雄はこの俺樣だぞ!」


と胸を張ります。  そして、權力獲得後も政治家(建設者)に轉身せず、革命家(破壞者)であり續けました。 自分の權力慾のために何千何萬もの同志をいびり殺し、何千萬もの人民を飢死させた奸雄! 

http://www.jas21.com/athenaeum/athenaeum181.htm


毛沢東主席は「皇帝であり教主」で、「思うままに人を殺した」。

文化大革命時代の青少年の熱狂と本人の満足ぶり

「皇帝はみんな、そうだった」。


「ヒトラーは外国人を殺戮」、

「スターリンは自国民を殺戮。ただし、法律的手段を用いた」

「毛沢東は、殺したいと思っただけで、自国民を次々に殺した」。

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0511&f=national_0511_025.shtml


産經新聞1994年7月18日付

 【ワシントン17日=熊坂隆光】中国で毛沢東主席が実権を掌握していた1950年から76年の間に、急進、過激な経済政策の失敗により伝えられるよりはるかに多数の人民が死亡し、文化大革命の犠牲者などを合わせると死者数は8千万人にも及ぶことが明らかになった。17日のワシントン・ポスト紙が報じたもので、毛主席にその責任があると論評している。

同紙は、この数字について中国や西側学者の研究と同紙独自の調査を総合した結果としており、具体例を挙げて数字の正確さに自信を示している。経済政策の失敗や文革の犠牲についてはこれまでも研究や報道があったが、大幅に塗り替えられることになる。

 同紙によると、死者の多くは「人災」と断定できる飢きんによる犠牲者。原因のほとんどは大躍進政策を強引に推し進め、西側に追い付こうと農業生産より工業生産を重視した毛主席の誤りとしている。プリンストン大現代中国研究センターの陳一諮氏によると安徽省の飢きん(59−61年)では、4300万人が死亡したという。

 中国社会科学院が89年にまとめた581ページに及ぶ調査資料によると、この飢きんでわが子を殺して食べてしまった例や人肉が商品として取引された例などが記録されているという。このため中国政府自身がある程度実態を把握しつつあるのではないかとみられる。

 こうした数字が事実とすると、毛主席はスターリンなどを上回る史上まれにみる残酷な指導者ということになるが、同紙は、毛主席が依然として中国で尊敬され評価されていることに疑問を呈している。


              /               \
          / / ∠三ミレ-- 、      ヽ
         / / //─'''´ ̄ ̄`ヽ      ゙i
        / /  //        ゙iヽ  ヽ  |
        ,' /  //          | ヽ  ', |
        | |  / l,、、,,_   -‐''" ̄`゙i. |   | |
        | | / ノ,.t-、    'Tッ'Tゝ ヽ|レ‐、| |
        ゙i |/ ,ィ`' _L.,!    ` ┴'  リ‐、 } |
        .!///゙!     ,         ノ__/ .!
         |/ | ',    ゙        /  |  |
          |! |  \   ゚       /  |  .!
          {  |  | | ゙ヽ、    /  |   |  | 共産革命は
         ゙、 ', | |   | `l'"´    ゙、|  |i   | 唯の時代劇だったのよ
         ヽ ヽ | |   レ'′      \ || /
           /ヽ \!  |  ̄ ``   r'´ ` ̄``ヽ
        /   ヽ ヽ ノ                   ヽ
        |     〉 V              |   |
        |    /  /       \       ヽ、 |
        |    / / /|       ヽ       \
        .!   / { ヽ|    ...     ゙、        ヽ
        |  {  ゙i   ヽ  ::r.;:.     l         ::_)
        .!  \ ト、 |   `゙"     /          /
         |    ト| | ∧       /           /
            |  / / /|| ゙ヽ、 __ ,. -'"    ` ーr┬ '′
          | / / | ヽ、               | /


毛沢東が共産党のリーダーになれたわけ


 こんな毛沢東が、どうして共産党のリーダーになれたのでしょうか。

 ソ連の命ずることに忠実に従う犬であったが故に、ソ連のお眼鏡にかなったためです。 そもそも、中国共産党は、ボルシェビキ(ソ連)がつくったのであり、当時の中国共産党は、ソ連の資金で運営され、あらゆる決定はソ連が行っていました。

 1920年1月にソ連が中央シベリアを確保し、支那への往来ができるようになると、ソ連はエージェント(Grigori Voitinsky)を上海に送り込み、5月に陳独秀(Chen Tuhsiu。1879〜1942年)に中国共産党を設立させます。

 この時の8名の創設メンバーの中に毛は入っていません。 毛は陳独秀の取り巻きの一人ではありましたが、まだ共産主義者ですらなかったのです。 このため、毛は後に歴史を改竄し、自分が最高幹部の一人となった翌年の1921年7月に中国共産党が創設されたことにしたのです。(以上PP19による。)

 この1921年7月は、ソ連が新たに2名のエージェント(ソ連の軍事諜報員のニコルスキー(Nikolsky)とオランダ共産党員のマーリン(Maring))を送り込んできた月です。彼らは公式に中国共産党を発足させるために、第一回共産党大会を開催させます(PP25)。

 1921年10月から1922年6月までの9ヶ月間の中国共産党運営経費の94%はソ連からのカネで賄われています(PP27)。 毛にも潤沢な資金が流れてきて、この頃から毛は豪奢な生活を送るようになり、それは生涯変わりませんでした。

 ソ連が中国共産党を設立した目的は、ソ連が奪取した外モンゴルの「独立」を認めない当時北京政府を打倒することでした。 しかし、設立されたばかりの中国共産党は力不足であったため、ソ連は中国国民党に接近し、リーダーの孫文(Sun Yatsen。1866〜1925年)に外モンゴルの「独立」を認めさせ、引き続き国民党を意のままに動かすため、中国共産党員達に国民党への加入を促します。 当然、共産党の中からは強い反発が起きます。

 しかし、この指示に忠実に従ったほとんど唯一の共産党幹部が毛だったのです。

 1923年、国民党と共産党を指導するためにソ連はボロディン(Mikhail Borodin。1884〜1951年)を送り込んできます。 ボロディンは国民党を共産党のような組織に作り替え、1924年、最初の党大会を開かせ、毛を始めとする多数の共産党員を送り込みます。そして、国民党にもソ連の資金を潤沢に投入し、国民党軍を錬成し、士官学校を設立します。

 毛は例によってボロディンに取り入ることには成功するのですが、共産主義理論に大した関心を示さず、しかも、教宣活動を全くといってよいほど行わず、他の共産党員と同志的な対等な関係を築こうとするどころか、常に独裁者然としていた毛への反発が強まり、毛は、1924年から25年にかけて、党中央を逐われてしまいます。 この時のことも、毛は中共の公式史から抹殺しています。 (以上、PP31〜34による。)

 その毛を救ったのが、国民党幹部であった、そして日華事変の時に親日政府を樹立することになる、あの汪兆銘(Wang Chungwei。1883〜1944年)であったのは、歴史の皮肉以外のなにものでもありません(PP37)。

http://blog.ohtan.net/archives/51115860.html
http://blog.ohtan.net/archives/51116597.html

              /               \
          / / ∠三ミレ-- 、      ヽ
         / / //─'''´ ̄ ̄`ヽ      ゙i
        / /  //        ゙iヽ  ヽ  |
        ,' /  //          | ヽ  ', |
        | |  / l,、、,,_   -‐''" ̄`゙i. |   | |
        | | / ノ,.t-、    'Tッ'Tゝ ヽ|レ‐、| |
        ゙i |/ ,ィ`' _L.,!    ` ┴'  リ‐、 } |
        .!///゙!     ,         ノ__/ .!
         |/ | ',    ゙        /  |  |
          |! |  \   ゚       /  |  .!
          {  |  | | ゙ヽ、    /  |   |  | 犬になれなければ
         ゙、 ', | |   | `l'"´    ゙、|  |i   | 出世できないのよ
         ヽ ヽ | |   レ'′      \ || /
           /ヽ \!  |  ̄ ``   r'´ ` ̄``ヽ
        /   ヽ ヽ ノ                   ヽ
        |     〉 V              |   |
        |    /  /       \       ヽ、 |
        |    / / /|       ヽ       \
        .!   / { ヽ|    ...     ゙、        ヽ
        |  {  ゙i   ヽ  ::r.;:.     l         ::_)
        .!  \ ト、 |   `゙"     /          /
         |    ト| | ∧       /           /
            |  / / /|| ゙ヽ、 __ ,. -'"    ` ーr┬ '′
          | / / | ヽ、               | /


新たな毛沢東の伝記の出版


1991年に上梓されたワイルド・スワン(Wild Swans)という世界中で1000万部以上売れたベストセラーの自伝本の著者であるチャン(Jung Chang。支那出身)と彼女の夫のハリデー(Jon Halliday。英国人で歴史学者)の共著、Mao: The Unknown Story, Jonathan Capeが、7月2日に発売された。 この本の内容のさわりをご紹介しましょう。


 毛沢東はヒットラーやスターリンに匹敵する悪党であり、この二人以上の惨害を人類にもたらした。にもかからわず、世界はこの人物について余りにも無知であり続けた。 毛沢東伝説をつくったのは、毛沢東にインタビューしてそのほら話を額面通り信じたエドガー・スノー(Edgar Snow)だ。彼が1936年に上梓した毛沢東の半生の伝記である「中国の赤い星(Red Star Over China)」の内容は殆どがウソであり、スノーの責任は大きい。

 毛沢東が支那の最高権力者であった27年間に彼のために命を落とした人は少なく見積もっても7,000万人をくだらない。しかも、この数字には朝鮮戦争における人民解放軍がらみの死者を含まない。平時において7,000万人を殺すなど、人類史上空前のことだ。

 毛沢東は、ゲリラ戦略家でも共産主義思想家でも貧農の友でも先見の明のある政治家でもなかった。それどころか、決して雄弁家ではなかったし、オルグとしても凡庸だった。彼が支那における共産主義の父であるなんて悪い冗談だ。

 彼は、ソ連の意向に添うことに汲々とし、ソ連の全面的な支援のおかげで支那の最高権力者になることができたのだ。(そもそも、中国共産党自体、ソ連の工作でできたものだ。)

 毛沢東は、いかなるイデオロギーも全く信じておらず、支那に社会主義のユートピアを建設しようなど露ほども考えたことがない。彼にとっては、平等主義は唾棄すべきものであり、彼が口先だけでは称えていた貧農に対し、破壊的政策を繰り返し行って恥じなかった(注4)。彼が関心を持っていたのは、自らの個人的権力の追求だけだった。支那も支那の住民も彼にとってはその手段以外の何ものでもなかった。

 (注4)一回目は、1920年代末から1930年代初にかけて、毛沢東が農村地帯でゲリラ戦を行っていた時のことだ。当時共産党ゲリラの食糧は貧農達からの徴発でまかなっており、貧農達を塗炭に苦しみに陥らせた。


彼は、人がいくら死のうと無頓着であり、自らの個人的権力を追求する過程で殺人を厭わず、人々の死への恐怖心をもてあそんだ。彼は、人々が拷問されたり虐殺されたりするのを見物するのが趣味であり、文化大革命当時には、文革における暴力的衝突や拷問の場面を撮影したドキュメンタリーを好んで鑑賞した。人の弱みを握ってその人物を意のままに動かすこともまた彼の得意とするところだった。

毛沢東がいかなる人物であるかは、彼が密かにある本の余白に書き記した以下の文章が物語っている。

「他人のためを考えて自らの行動を律せよ、といった道徳観などクソ食らえだ。

私のような人間は、・・自分の欲求をとことん満たそうとする。それこそが最高の道徳律だ。

この世界には様々な人やモノがあるが、それらはことごとく私だけのために存在しているのだ。・・

私のような人間は、義務は自分達に対してだけ負っているのであり、他人に対しては何の義務も負っていない。」


こんな毛沢東の人類へのユニークな「貢献」は、全く新たな恐怖統治手法を編み出したことだ。

延安時代(後述)に彼は、人々に自己批判や他人の批判を強要し、「悪行」の告白や告発を導く、という手法を始め、後にこれを支那全土に広めた。

毛沢東は、全支那の権力を掌握すると今度は世界の制覇をねらい、そのためにいかなる犠牲をも厭わずひたすら核兵器の獲得を追求した。


 毛沢東は支那の最高権力者であった間、酒池肉林の生活を送った。

(風呂嫌いで25年間風呂に入らなかったが、)彼は中共各所に50箇所以上専用別荘を持っていた。もっとも、これは臆病者の毛沢東が、米国やソ連による爆撃を恐れ、居場所を隠したかったからでもある。

 グルメの彼は、1000キロ離れている揚子江沿いの武漢から北京の本宅まで、せっせと新鮮な川魚を運ばせていた。

相次いで4人の妻を娶った彼は、高齢になってもなお無数の情婦や一夜妻と情交に勤しんだが、これらの妻や情婦及び自分の息子や娘に対し、一欠片の愛情も懐いていなかった。毛沢東は、長征(Long March)の途次、生まれたばかりの彼の息子を放置して殺すように命じている(注5)。

 (注5)ヒットラーだって、自分の飼っていた犬や他人の子供には優しかった。金正日だって自分の子供達はかわいがっている。毛沢東が人並みの家族愛を持っていたら、恐らく「皇帝」毛沢東(コラム#204)は毛王朝の創始者となっていたことだろう(太田)。

 毛沢東は中国共産党ができてから一年後の1921年に共産党に入党した。

 スターリンによってゲリラ戦をやれと命ぜられた中国共産党は、襲撃による金集めをしながら、国民党相手のゲリラ戦を始め、その中から毛沢東は頭角を現わす。

 国民党軍に敗れた共産党軍は1934年に長征を始めた時点で80,000人(公式には90,000人)の兵力だったが、延安に到着して長征が終わった1936年には4,000人(公式には20,000人)に減っていた。その減耗分の少なからざる部分が毛沢東が行った物理的粛清によるものだった。

 長征が成功したのは、一にかかって蒋介石(Chiang Kai-shek)のおかげだ。蒋介石は、共産党軍を深追いして、国民党支配が確立していない地域で軍閥と衝突することは得策ではないと考えた。しかも、蒋介石は、息子の将経国(Chiang Ching-kuo)がソ連国内で実質的に人質とされていたことからも、共産党軍を壊滅させてソ連の逆鱗に触れることは避けようとした。それどころか、蒋介石は、長征路の所々に食糧を満載した付近の詳細地図つきの無人トラックを配置し、共産党軍を手助けした(注6)。


 (注6)中共の公式説明:「共産党の紅軍は戦力保持のため、十数倍もの敵の包囲を振りきって、根拠地の江西省瑞金や福建省西部から、戦略的な大移動を行いました。まず西進、そして北上と迂回曲折して、11の省を通過、2万5000華里(1万2500キロ)を踏破して、ちょうど一年後の35年10月、陝西省北部に到達し、新たな根拠地を建設したのです。」


 長征の過程における有名な、大渡河(Dadu River)渡河英雄譚は、事実と違うどころか、全くの捏造だ。瀘定橋での戦いなどはなかったし、そもそもその付近に国民党軍は一兵もいなかった(注7)。


 (注7)中共の公式説明:「長江の支流・大渡河での話です。怒涛さかまく大渡河を迅速に渡るには、一刻も速く瀘定橋を奪い取らなければなりませんでした。瀘定橋は大渡河を渡る唯一の橋でもあったのです。そこで紅軍は瀘定橋の奪取作戦に出ました。しかしその橋とは?それは、16本のチェーンをかけ渡しただけの、長さ百メートルあまりの吊り橋でした。橋げたにはもともと横板が敷かれていたのですが、橋の中心から半分はすでに敵に取り払われた後でした。瀘定橋を渡った敵が、横板を外して逃げたのです。東岸の橋のたもとには機関銃を装備した敵の陣地があり、その後方を増援部隊が守っていました。上空には敵機が飛び交い、命懸けの作戦でした。しかし、25歳にも満たない兵士22人が、突撃隊を志願したのです。そして激戦の末、瀘定橋を奇跡的に奪取したのでした。」(peoplechina上掲)


 そうは言っても長征は共産党軍の一般兵士にとっては過酷極まる行軍であり、だからこそ前述したように粛清とあいまって大部分が命を落としたのだ。  しかし、毛沢東を初めとする共産党幹部達の中に、長征の過程で命を落とした者は一人もいない。それもそのはずだ。彼らは一般兵士に担がせた籠に乗って移動したからだ。

 延安で毛沢東は、資金調達のためにケシを栽培して麻薬の製造と共産党支配地域外への販売を盛んに行い、現在のドル表示で6億4,000万米ドル相当の売り上げを達成している。

 1936年の西安事件(コラム#178、187、234、256、290、292、353)は、張学良(Chang Hsueh-Liang)が蒋介石に代わって国民党の主席になろうとして起こしたクーデターであり、毛沢東は張学良に蒋介石を殺せと言ったが、国民党が弱体化し、日本が後顧の憂いなくソ連に対峙することを恐れたソ連が介入し、蒋介石は命を長らえ、毛沢東の意に反して国共合作がなった。

 毛沢東は日支事変勃発を喜び、日本軍と国民党軍とを戦わせて国民党軍を消耗させる一方で共産党軍は日本軍と基本的に戦わせず、共産党軍の温存を図った。それどころか毛沢東は、日本の諜報機関と密かに長期にわたって協力し、日本軍に国民党軍を叩かせた。だからこそ、中共が支那の権力を掌握した後、毛沢東は日本からの訪問者達に対し、仮に日支事変が起こっていなかったとしたら、まだ共産党は山奥を彷徨していただろう、と彼らに謝意を表明したのだ(注8)。


 (注8)毛沢東は、日本軍が引き起こした1937?38年の南京事件に対し、一貫して何の関心も示していない


さて、そもそも共産党が長征で陝西省をめざしたのは、ソ連の近くを根拠地にして、ソ連の大規模な支援を得るためだったが、これに完全に成功したのが、日本の敗戦後の1947年から1948年にかけて満州においてだった。

 ソ連は日本の残した満州の重工業施設を中国共産党に引き渡し、更に日本軍捕虜数万人を中国共産党に送り込み、共産党軍の訓練にあたらせるとともに、共産党軍の空軍の設立を手伝わせた。日本軍捕虜の中には、共産党軍とともに国民党軍と戦わされた人々もいる。

 1946年の夏に米国が国民党と共産党との間に入って4ヶ月間の休戦を実現したことが、共産党の最終的な勝利につながった。この間共産党軍は、ソ連から大規模な軍事物資等の支援を得て、態勢を全面的に整備することができたからだ。

 こうして1948年までには中共は1億6,000万人の人口を支配するに至った。富農や地主は抹殺されなければならないものとされ、その時点までに、数十万ないし100万人の富農や地主が殺害されるか自殺に追い込まれた。

 1950年1月の中共軍のチベット侵攻・占領とそれに伴う強制的同化政策は、チベット人男子半分に死をもたらした。

 また毛沢東が、同じ年の10月に中共軍を朝鮮戦争に介入させたのは、米軍との戦いで中共軍に天文学的な損害が生じることを承知の上で、スターリンにゴマを刷り、中共の軍需産業建設にソ連の一層の支援を取り付けることを目論んだためだ。

 1958年8月の金門(台湾)攻撃は、中共のために米国との間で核戦争に引きずり込まれることを回避したいソ連から核兵器技術を獲得するためだった(注8)。

 (注8)毛沢東は金門攻撃の折りに主治医李志綏に「台湾の存在は国内の統一の維持に役立っており、金門、馬祖も奪う必要はない。」と語っている。


 また毛沢東は、ベトナムに対米戦争をエスカレートさせることを促したが、これは米国をベトナムにかかりきりにさせることで、中共の核施設に対する米国の攻撃を回避するためだった。

 毛沢東の号令一下で始まった大躍進政策(Great Leap Forward。1958?59年)は未曾有の大飢饉をもたらし、4年間で3800万人の餓死者を出した(注9)(注10)。


 (注9)毛沢東は、「当時世界第2位の経済大国であったイギリスを追い越すという壮大な計画を立て、市場原理を無視して人民に厳しいノルマを課し、ずさんな管理の元で無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。この時、無理なノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増した成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。また・・経済や生態系のシステムを無視した、単純かつ一面的な計画を押し付けたことも、甚大な被害を招いた。・・


有名な失敗例を挙げると、鉄鋼の大増産を目指して原始的な溶鉱炉を用いた製鉄が全国の農村で展開されたが、使い物にならない粗悪品しか産出されず、資源を無駄に浪費する結果となった。しかも農民が大量に借り出されたため、管理が杜撰となった農地は荒れ果ててしまったし、ノルマ達成のために農民の保有する鍋釜、農具まで供出されたために、地域の農業や生活の基盤が破壊されてしまった。

さらに、農作物を食い荒らすスズメは悪者だとして、大量捕獲作戦が展開されたが、害虫が大量発生し、農業生産は大打撃を被った。スズメは、農作物を食べるが、同時に害虫となる昆虫類も食べ、特に繁殖期には雛の餌として大量の昆虫を消費している。生態系のバランスを無視した結果であった。・・

また、ソ連からの借款(ソ連からの武器の購入や核兵器の開発のためのもの(太田))の返済に農作物を充てていたことも、極端な食糧不足につながったという指摘もある。」毛沢東は大躍進政策失敗の責任をとって1959年、国家主席を辞任した。大躍進政策については中共の教科書には一切書かれおらず、また、大躍進政策関係の用語はインターネットで検索できないような措置がとられている。


 (注10)大躍進政策を始める直前の1957年には毛沢東は百花斉放(Hundred Flowers Campaign)を唱え、検閲を緩和し、中共権力への建設的批判を許した。しかし、批判の噴出にたじろいだ毛沢東は、再び弾圧に転じ、300,000人もの知識人が殺害・投獄・解雇・再教育の対象となった。

 
 毛沢東の生涯の最後を飾るのが、文化大革命の破壊と大殺戮であったことはご承知の通りだ。


トウ小平が、ああも簡単に共産主義を投げ捨て、資本主義へと舵を切れたのは、毛沢東同様、トウ小平自身、イデオロギーなど全く信じておらず、あるのは自らの権力追求欲だけだった、と解すれば不思議でも何でもなくなります。

ですから、そのトウ小平が指名した江沢民や、トウ小平の遺志により江沢民の跡を襲った胡錦涛ら中共の独裁者達には、われわれは一切幻想を抱かない方がよさそうです。いずれにせよ、毛沢東という人物がわれわれに物語っているのは、一つには絶対的な悪が勝利することがあるということです。

http://blog.ohtan.net/archives/50955089.html
http://blog.ohtan.net/archives/50955088.html
http://blog.ohtan.net/archives/50955087.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c1

[リバイバル3] 中川隆 _ 中国関係投稿リンク 中川隆
17. 2019年4月18日 11:47:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1351]
ベルトルッチ ラストエンペラー The Last Emperor 1987年
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/356.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/925.html#c17
[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
2. 中川隆[-10703] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:48:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1352]

中国最後の皇帝 毛沢東のした事


中国の現代史を振り返ってみて、そこに浮彫りにされるのは、毛沢東の権力志向のすさまじさである。彼の後継者と目された劉少奇、ケ小平、林彪など、No2はいずれも粛正された。

平成9年(1997)にフランスで刊行された「共産主義黒書」によると、中国共産党の専制支配による犠牲者は6500万人だそうだ。  これはヒトラー・ナチズムによる犠牲者2,500万人をはるかに上回って、断然人類史上最悪の数字だと言える。ちなみに悪名たかいカンボジアのポルポトによる犠牲者は200万人だから、その30倍をこえている。  毛沢東は、

「1949年から54年までの間に80万人を処刑した」


と自ら述べているが、周恩来もこれを受けて、1957年6月の全国人民代表大会報告で、1949年以来「反革命」の罪で逮捕された者のうち、16%にあたる83万人を処刑したと公式に報告している。その後、悪名高い大躍進運動や文化大革命が起こって、2000万人以上が死に追いやられ、その間の失政で、2,000万人から4,300万人がさらに餓死しているらしい。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


中国共産党が殺した中国人の数は実に8千万にのぼる。間違いなく中国共産党は人類史上最悪の殺人集団といえよう。

 1949年10月1日に中華人民共和国が建国されたとき、多くの人民は期待と希望に胸を膨らませたことであろう。だが建国とほぼ時期を同じくして、6億の人民の淡い期待はたちまち恐怖へと変わる事になる。

 中国共産党は政権を握ると早速土地改革を実行に移した。土地改革はすでに抗日戦争や国共内戦時代から根拠地で行われていたが、政権獲得後は全国で虐殺と略奪の嵐が荒れ狂った。土地改革とは表向き地主や富豪から土地と財産を没収し、貧しい農民に分配するというものだ。中国共産党は土地改革により、暴利を貪る地主の搾取から農民たちが解放されたと自画自賛しているが、実態はどうであったかを以下に見て見よう。

 共産党は土地改革を行うにあたり、破落戸たちから積極的に情報提供などの協力を得ることにした。破落戸とは日本語では「ごろつき」という読ませ方をする(ほかにも「ならずもの」とも読む)。要するに素行が悪く、人間性の欠如したチンピラのことだ。そして破落戸は、生活が豊かで、財産と文化的教養を身に付けた地主や裕福な家庭に憎しみを抱いている。そういうこともあり、毛沢東は破落戸こそが農村革命の勇敢な参加者と位置づけたのだ。

 土地革命は次のような手順で行われた。家族が朝食をとる時間を見計らって共産党軍が地主の家に乱入し、家族全員を一箇所に監禁し、金銭、金品、土地の所有証書などを徹底的に略奪。見つからなければ地主を拷問して場所を聞き出す。奪うだけ奪いつくすと、地主及びその家族を広場に引きずり出して、村人たちに裁判を開かせる。この裁判でも破落戸たちが協力している。破落戸たちは地主の罪状を次々とでっちあげて糾弾する。そして死刑判決が下される。地主を地面に跪かせてライフル銃で射殺する。脳みその半分は飛び散ってしまう。

このような殺戮が中国国内のありとあらゆる村で行われた。中国共産党が掲げた「一村一焼一殺」という方針により、1952年までに240万人の地主や富裕層が虐殺された。命は助かったが財産と家屋を略奪されたものも400万人近くにのぼった。建国前に革命根拠地で行われていた土地改革では地主の家屋までもが破壊されたが、建国後の土地改革では地主の家屋は共産党の支部として利用するために温存された。

 こうして土地改革により、中国共産党は全国に共産党の支部を設立し、地主から金品や財産を略奪し、6億の人民に恐怖心を植え付けるという成果を収めたのである。


 土地改革と同じ時期に鎮反運動、いわゆる「鎮圧反革命分子運動」が開始された。1950年10月10日、毛沢東は「反革命活動鎮圧に関する指示」を発令し、それに基づき1951年2月21日、中国共産党は「懲治反革命条例」を制定した。「匪賊、悪党、スパイ、国民党員、反動的団体の幹部、反動的セクト組織のリーダー、麻薬反」などが鎮圧の対象とされた。だが裁判や刑執行に関する法律が全く不明確で、なおかつ
毛沢東は全国に殺害のノルマを制定した。

「人口の千人に一人以上」

というものだ。なぜ千人に一人という数字なのかは不明であるが、毛沢東が気まぐれで、これだけ殺しておけば人民に恐怖を受え付けることができると判断したとしか解釈しようがない。こうして中国全土で殺人の嵐が吹き荒れた。まず各地の共産党組織が人民代表連合大会という動員大会を開き、群衆たちに反革命分子を告発させる。それに基づき公安が告発された反革命分子を一斉に逮捕する。即座に人民法廷が開かれ、その場で死刑を言い渡し、即座に銃殺する。

 処刑された人たちの罪が、死刑に価するかどうかなどは、中共にとってどうでもよい問題である。《中華人民共和国反革命分子を懲罰する条例》によると、「デマを飛ばす」ことさえも、即時死罪にすることができるのだ。実際のところ、千人に一人の犯罪者を探すことなど容易なことではなく、ほとんどの人々は匪賊にもスパイにも反革命活動にも心当たりがないまま告発され、処刑された。

 1951年10月まで続いた鎮反運動により、71万人が虐殺され、そのほかに129万人が逮捕された。中華人民共和国建国からわずか2年で、中国共産党は土地改革と鎮反運動によって300万人の大虐殺を行ったのである。

 鎮反運動と土地改革が一通り終わってからわずか3年後の1955年、中国共産党は粛反運動(粛清反革命分子運動)を繰り広げた。実態は鎮反運動とほぼ同じである。この運動で逮捕されたのは130万人。そのうち処刑されたものは8万人に上った。普通の国であれば短期間で8万人が虐殺されれば、その国の歴史にとって最も暗黒な時代として記憶されることであろう。しかし中国共産党暴虐独裁政権にとって8万人の虐殺ぐらいは日常茶飯事であり、大きく取り上げるほどのことではないのである。

 人民を恐怖に落としいれ、全国で虐殺の限りを尽くした中国共産党の残虐行為はこの程度で留まることはなかった。さらに大規模で残虐な無差別大量虐殺が中国全土を襲うことになる。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui06.htm


 1953年にスターリンが死んだ後、その後継者となったフルシチョフは1956年2月のソ連共産党第20回大会で、スターリン支配下の個人崇拝と不法な抑圧や処刑を批判した。いわゆる有名な「スターリン批判」の始まりである。

 毛沢東はこれに驚いた。なぜなら、彼こそ中国のスターリンであり、スターリン批判は、そのまま毛沢東個人崇拝への痛烈な批判になりかねないからである。事実56年9月の八全大会は、基本的にソ連共産党第20回大会の新政策を是認し、党規約からは「毛沢東思想」という言葉が消えた。これを主導したのは、党内序列のNo2とNo3を占めていた劉少奇とケ小平である。

 焦りを覚えた毛沢東は先手を打って、人々から自由な意見を求めるとした百家争鳴・百花斉放運動を始める。ところがこれが裏目に出た。中国共産党や毛沢東に対する批判がさらに吹きだしてきたからである。これに不安を覚えた毛沢東は、態度を一転して、彼を批判する者はプロレタリア革命に対する敵対者だとして、「反動者」のレッテルを張り、弾圧した。これが有名な「反右派闘争」と言われるものである。

 さらに1958年、毛沢東はソ連やアメリカに対抗するため、中国の国力の「大躍進」を掲げて、急激な工業化・農業の集団化など無理な政策を推し進めた。その結果、食糧生産力が破局的に低下、中国全土に大飢饉が発生。この飢饉による死者は何千万と言われ、日中戦争(約2000万)を数倍する被害を出した。

 これにはさすが身内からも多くの批判が起こった。1959年4月、毛沢東は国家主席および国防委員会主席を退き、党務に専念することとなった。フルシチョフのスターリン批判から3年を経て、中国共産党も毛沢東の個人崇拝からおもむろに劉少奇、ケ小平、周恩来を中心とする「集団指導体制」へと、政治機構の近代化を遂げるかに見えた。

 ところが、毛沢東はこの変化をよく思っていなかった。59年から62年にかけては新国家主席劉少奇を中心に、経済復興がはかられ、ようやく安定化へ向かいかけており、劉少奇の現実路線を支持する人々は、ケ小平をはじめ、党中央、政府機関のなかでも圧倒的多数をしめていた。これが毛沢東の孤立感をさらに深めた。

 そこでこれに対抗するために、毛沢東は65年10月北京を脱出し、上海において「プロレタリア文化大革命」を発動した。劉少奇路線のなかにソ連におけるような党官僚主義、専門家尊重、経済主義的偏向があるというのである。その後、中国がどんな悲惨なことになったか、説明するまでもないだろう。

 こうした中国の現代史を振り返ってみて、そこにうき彫りにされるのは、毛沢東の権力志向のすさまじさである。彼の後継者と目された劉少奇、ケ小平、林彪など、No2はいずれも粛正された。ひとり、周恩来だけが、その荒波をくぐり、何とか晩節を全うすることができたが、その秘訣はといえば、ただ毛沢東を決して批判せず、その忠実な下僕となって、彼をひたすら崇拝し、神格化することによってであった。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


毛沢東の復讐


 フルシチョフのスターリン批判は中国共産党をもゆさぶった。その直後、1956年9月に召集された第8会党大会で、集団主義指導体制、個人崇拝の禁止などが確認され、中国はようやく近代国家としての歩みを始めるかに見えた。 そして、この新しい中国を主導する星は、この大会で国家主席に選ばれた劉少奇と、党総書記に選ばれたケ小平であった。この二人を両輪として、中国は近代化の道を歩もうとしていた。しかし、これをよく思っていなかったのが毛沢東だった。

<フルシチョフ演説にならった集団指導体制の賛美は、とりわけおだやかならざるものがあった。もし党が集団指導体制の原則に固執すれば、全党員は対等の関係になり、重要問題はすべて合議制で決定しなければならなくなる。そうなると、いきおい毛沢東の役割は縮小されていく。が、当の毛はあくまで最高指導者としてのポストにとどまりたかった。そのためには個人崇拝がどうしても不可欠だった>(李志綏「毛沢東の私生活」より。以下同じ)

 この決定に侮辱を感じた毛沢東は、これに反撃すべく行動を開始する。その手始めに考えたのが、「百花斉放・百家争鳴」運動だった。これは知識人を使って党を自由に批判させ、劉少奇とケ小平が指導する党指導部を解体しようという作戦である。

 多くの知識人はおそらく自分の意を汲んで、党の指導部を攻撃するにちがいないと毛沢東は読んでいた。ところが結果は思わぬことになった。知識人の攻撃は党の指導部だけではなく、党そのものの存在に向けられ、ついには毛沢東そのものに向けられ始めた。共産党は僧院のようなもので、毛沢東はその僧院長だというのである。知識人を使って政敵を打倒する作戦は完全に裏目に出た。

<毛沢東はむろん衝撃を受けた。批判が自分に向けられるようにした覚えが全然なかったからであった。また機関として党が攻撃されるようにし向けたつもりは毛頭なかった。会う人ごとからお追従をいわれるのに慣れていたし、真の敵は抹殺されるか投獄してあると確信していただけに、毛は知識人がいだく不満の深さに気付いていなかったのである>

<毛沢東は大変な計算違いをしたのだった。ベッドに伏せたきりふさぎこみ、どうやら行動の自由を失っているうえ風邪もひいていたし、外部の攻撃が激化しつつある最中に私が呼び戻されたのだ。毛沢東は戦略を練り直し、復讐の手だてを思い巡らしつつあった。毛は憤懣やるかたなかった>

 1957年6月8日、人民日報は「これはどうしたことか」という毛沢東の文章を社説に掲げた。知識人に期待することが出来ないと気付いた毛沢東は、自分の作戦を遂行することができるのは、大衆のみだと気付いた。この社説で、ひとにぎりの分子が社会主義政権の転覆を計ろうとしていると非難した。そして、彼等に対する反撃を開始するようにと人民大衆に訴えた。

 知識人を使った作戦が失敗に終わったことを知った毛沢東が次に考えたことは、一般大衆を使うことであった。彼等の間に毛沢東にたいする個人崇拝を根付かせ、熱狂を呼び覚ますこと。この作戦はまんまと成功した。それが「文化大革命」だった。
<全土は毛沢東のバッジをつけて「毛沢東語録」をたずさえ、小冊子にある言葉を暗唱した。商店での単純極まりない買い物をするときでさえ毛沢東語録の暗唱を要した。毛の肖像画はいたるところにあった。全土の何千万という人々が肖像画の前で礼拝し、日々の指示を仰ぐことで一日をはじめた。・・・・

 毛沢東の「大躍進」政策は人類史上でも最悪の飢餓をもたらした。今日ではその期間中に少なくとも2千5百万か3千万人、もしくは4千3百万人が死亡したといわれている。さらに毛沢東の「文化大革命」は中国を大混乱におとしいれ、生命も家族も友情も、そして中国社会の骨組みまでも破壊してしまったのである。

 国家主席の劉少奇は、毛沢東が第8回党大会の誤りとみなす責任をそっくりおしつけられ、1968年10月に追放されたばかりか、党を除名されたうえ虐待の限りをつくされた。翌年4月の時点で、劉少奇の消息は一切わからなくなっていたし、知ろうにも怖くてだれにも聞けなかった。第9回党大会が終わってからずっとあとに彼が同年の10月、開封に送られて重病になり、治療も受けないまま11月に亡くなったと知った。

<ケ小平もまた追放されたのであった。党の中枢機関である政治局は壊滅状態にあった。各省の党の指導者の大半が職を失っていた。各省の行政はいまや人民解放軍が支配する「革命委員会」の手中にあった。第8回党大会で選出された中央委員は大多数が追放されていた。第9回党大会は毛沢東にとって、13年にわたる取り組みの総仕上げであった>


<私の気分は落ち込んだ。毛沢東がねらった第8回党大会の原則の破棄は達成された。13年間にわたる闘争が成就したのだった。私がもっとも敬愛していた党の代表たちはことごとく追放され、80パーセントの旧中央委員が解任され、新顔は私にとって馴染みの薄い、江青派か林彪派のメンバーであった。そんな支持者が中国のリーダーシップを引きつぐとあっては、私は祖国の前途に絶望した>


 こうして毛沢東は勝利した。もはや彼の前にたちふさがる目障りな人間はだれもいなかった。彼は彼を権力から遠ざけようとした大量の有能な人物をこうして完全に粛正したのである。そしてさらには林彪一派が粛正されて、最後に残ったのは、身内の江青であり、彼の従順な召使いでしかない周恩来その人だった。

 こうして江青の野心と周恩来の服従を利用し、大衆の心を操作することで、毛沢東の野望は成し遂げられた。彼の絶対権力者としての地位は揺るぎないものとなり、個人崇拝はついに完成したのである。しかし、李志綏が書くように、それは何千万という人々を死の淵においやり、人々の友情と家族を崩壊させ、中国社会の骨組みまでも破壊する悲劇とひきかえであった。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

1956年4月25日、中国共産党は「百家斉放 百家争鳴」という新たな政治運動を開始した。しかしこの運動は過去の土地改革、鎮反運動、粛反運動とは全く趣旨が異なるものだった。文学、芸術、科学技術に従事するものたちの独立した思想の自由、弁論の自由、創作や批評の自由、意見を発表する自由、自らの意見を堅持することなどである。だがこの運動は予想に反して盛り上がりを欠いていた。そこで毛沢東は1957年2月、党外人士や知識人が積極的な批判を歓迎すると表明した。毛沢東や人民日報からは


「如何なる幹部であろうと、如何なる政府であろうと、その欠点や誤りについて批判を受けるべきである」

「言う者に罪無し」

「党外人士はもっと大胆に党の欠点を暴きだしてほしい。党は党外人士を粛清しようとは決して思ってはいない」

という発言が飛び出し、1957年5月から熾烈で容赦ない意見が一斉に提出されるようになった。 問題は毛沢東はそもそも本気で党外人士や知識人の批判に耳を傾けるつもりがあったのか、それとも始めから「右派分子」を弾圧するために百家斉放、百家争鳴運動を開始したのか。

どう考えても後者である。すでに中国共産党は300万人の無実の人民を虐殺しているのだ。大虐殺の悪夢が過ぎ去ってからまだ1年足らずである。人民に強烈な不満がないはずがない。自由な言論を認めれば政権を揺るがすほどの批判が殺到するのは分かりきっている。この後の運動は血に飢えた毛沢東が更なる大粛清を楽しむためにしかけた運動とみなして間違いない。

 1957年6月8日、毛沢東「組織的な力で右派分子の狂気じみた攻撃に反撃せよ」という指示を出し、『人民日報』は社説で「右派への容赦なき批判」をよびかけた。反右派闘争の発動である。中共はただちに全国各地で右派分子の取り締まりを始めた。もともと組織の基盤が弱い党外人士はたちまち壊滅状態に陥った。1957年末までになんと55万2877人が右派分子という無実の罪を着せられた。今回は集団大量虐殺は発生しなかったものの、彼らはみな市民権を剥奪され、辺地での強制労働に駆り出され、生き地獄を経験することとなった。

 毛沢東自身は1958年5月8日の会議で次のように述べている。

「秦の始皇帝が(焚書坑儒で)何をした?彼は460人を処分したに過ぎない。

私は始皇帝の数百倍の知識人を処分したのだ。

私のことを始皇帝みたいだと言って罵るのでは不十分なのだよ」


と言って自ら大笑いしたという。 反右派闘争によって当に対して反対意見を持つ知識人や党外人士が一掃されたことから、中国共産党の独裁は大幅に強化された。それと同時に党内でも毛沢東の絶対的な権力が強化された。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui07.htm

大躍進運動


1957年の反右派闘争をきっかけに毛沢東の権力は絶対的なものとなり、ほとんど異論を唱えられない雰囲気が醸成されていた。それ故、反右派闘争から1年を待つことなく、人類史上中国以外では例のない悲劇が幕を開けることとなった。

 1957年11月に毛沢東は訪ソし、フルシチョフと会談した。フルシチョフが掲げた目標は15年で米国を追い越すというものだった。前月に人類史上初の人工衛星打ち上げに成功して宇宙開発でアメリカをリードしたソ連は、国力においてアメリカに追い越すという自信が確かにあったのかもしれない。だが毛沢東は挑発に乗るかのように「中国は15年で鉄鋼などの主要工業生産高で英国を追い越す」という目標を掲げてしまった。何の実現性もない毛沢東の気まぐれが、全ての悲劇の始まりとなった。

 翌年、中共政府は鉄鋼生産量年間2億7千万トンという前年比2600%(260%や26%の誤記ではない)増の生産目標を発表した。その前段階として、中共は農民を鉄鋼生産に専念させるため、とりあえず1958年は穀物生産高年間5億トンという目標を掲げて邁進することになった。前年比100%増、つまり2倍である。

 穀物生産高倍増のための効果策があるわけではなかった。効果策はなかったが具体策はあるにはあった。1958年2月に中共政府は蝿、蚊、鼠、雀を駆除することを目的とした四害駆除運動を開始した。特に農作物を食い荒らす雀に対する徹底的な捕獲作戦が実施された。だが雀は農作物を食うだけでなく、害虫も食べるのであり、生態系バランスを完全に無視した中共の政策により蝿、蚊、いなご、ウンカなどの害虫が大量発生し、農業生産に大打撃をもたらすこととなった。

 さらに、同じ種であれば互いの成長を阻害しないという誤解に基づく極度の密植、深く埋めるほど根が発達するという誤解に基づいて2メートル以上の深さに種を埋めるなど、農業理論を完全に無視した農業政策が実行に移された。

 目標が達成できないことは目に見えていた。だが中国共産党の地方幹部にとって、毛沢東が掲げたノルマの未達成は生命の危険に関わる大問題であった。1958年秋、地方幹部や人民公社の幹部は一斉に党中央に対してノルマ達成を報告した。そして党中央は全国の人民公社に穀物の公糧供出量の倍増を命じた。実際には生産倍増などできていないのだが、水増し報告をしている以上命令に従わざるを得ない。必然的に人民の食糧が欠乏することになる。

 そのような状況で1959年を迎えると、毛沢東はこの1年間は農業生産はほどほどにし、全農民を動員して鉄鋼大生産に全力を挙げるよう命じた。だがそもそもが農民を総動員して鉄鋼生産をさせるという手法に根本的な無理があった。金属工学の専門家もそれに適した設備もなく、原材料も満足に確保できない中で、素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなく、生産された鉄の大半は全く使い物にならない粗悪品であり、膨大な資源を浪費する結果となった。また、この時の製鉄事業により大量の木材が伐採された為、特に中国の北部は禿山だらけとなってしまった(そのため今でも中国では毎年洪水が発生している)。

 そして1959年の夏にはついに大飢饉が全国を襲った。秋の収穫も全くの不作で飢饉をさらに深刻化させた。早くも1959年7月の中国共産党政治局拡大会議(いわゆる廬山会議)で彭徳懐国防部長が大躍進運動の失敗を取り上げ、他の出席者も支持を表明するものが少なくなかった。しかし毛沢東は7月23日の演説で、彭徳懐の主張を党に対する攻撃、右傾機会主義として激しく批判した。彭徳懐を支持していた出席者も一転して彭徳懐を批判するようになった。すでに毛沢東に逆らえるものは誰もいなかった。

 8月2日から始まった中国共産党八中全会で毛沢東は彭徳懐ら4人を「彭徳懐反党集団」として激しく非難し、彼らを失脚に追い込んだ。毛沢東は自信を持って大躍進に誤りなど全くないと主張し、彭徳懐反党集団との闘争を20年でも50年でも続けなければならないと発言した。そのため、1960年まで彭徳懐反党集団との闘争が続けられることとなった。毛沢東は自らの正当性を主張するため、さらなる鉄鋼大増産政策の貫徹を全国に命令した。

この廬山会議で毛沢東の間違った政策を修正することができれば、大躍進運動による悲劇は1年ほどで乗り越えることができたであろう。しかし誰もが間違いに気づいていながらもはや誰も毛沢東に逆らうことはできず、悲劇はますます深刻化、長期化することとなった。一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は更なる増産を命令するという悪循環に陥っていった。

 こうして大飢饉は1960年も1961年も継続し、少なく見積もって3千万人という人類史上最大規模の餓死者を発生させた。(大躍進運動による餓死者の数は4000万、5000万、6000万という説もあるが、私は批判をするときはできるだけ控えめな数字を取り上げる方針であるので、3000万という数字を用いている。実際にはもっと多い可能性が十分にあることを留意していただきたい)。餓死者3千万ということは、当然ながら飢餓線上にいたものは数億人に及んだはずである。

 一般的に大躍進運動は、政策の失敗のほか、ちょうどこの時期に旱魃が発生したことが被害を拡大させたと言われている。だがその後の研究により、この時期に自然災害など発生していないことが現在では明らかになっている。数千万人規模の餓死は明らかに毛沢東ならびに中国共産党による人災なのである。

 驚くべきことに、数千万規模の餓死者が発生していたにも拘らず、中共政府は3年連続で穀物を大量に輸出していた。1958年に266万トン、1959年に419万トン、1960年は265万トンである。1960年といえばすでに中国共産党は国内における大飢饉の発生を把握していたにも関わらずである。ここまでくると大躍進運動は中国共産党による人民への大量虐殺といっても過言ではなかろう。

 飢餓に襲われた人民の境遇はこの世のものとは思えない、それどころか映画の世界でもあり得ないような悲劇的なものであった。食糧不足が深刻化した1959年夏ごろ、当初はご飯をお粥にすることで何とか凌いでいたが、お粥にするほどの米も底を尽きると、人々は籾殻も稲の藁もとうもろこしの茎さえも食べるようになった。それさえも尽きるようになると、樹や草の根を掘り出して食べるようになり、中毒死する人が続出した。ついにあちこちの家庭で餓死者が続出するようになり、埋葬しきれないほどであったので、遺体の多くは雑木林に捨てられた。遺体が捨てられるとすぐさま尻や太ももの部分が誰かによって切り取られていった。すでに事態は食人にまで及んでいたが、悲劇はまだ終わらない。

 口にできそうなあらゆるものが底を尽いたときに人間がとる行動とは、平時の人間には想像をすることさえ困難である。人々は自分の子供を他の家庭の同じ年頃の子供と交換するようになった。自分の家庭で養育するためではない。いくらなんでも自分の子供を食すことはできないので、他人の家庭の子供と交換して食すのである。家に持ち帰った交換物は台所で調理される。脳みそと内臓を取り出し、あとは取れるだけの肉と脂肪を切り取るのである。そして脳みそでスープを作り、内臓や肉を炒め物や煮物にする。こうしてなんとか1週間ほど凌ぐことができるのである。

 家庭によっては自らの子供を食す親もいた。ある農家では家族はすでに父親と息子一人と娘一人しか残っていなかった。あるとき、父親は娘にしばらく外出するよう命じた。娘が戻ってくると、弟がおらず父親が台所で料理をしていた。鍋には油が浮いており、何やら白っぽいものが入っていた。鍋の横には骨が放り出されていた。それから1週間ほど後、父親は再び鍋で料理の準備を始めた。そして娘を呼び寄せた。娘は号泣しながら父親に、

「お願いです、お父さん、私を食べないでください。私は芝刈りをし、火を炊いてあげます。私を食べたら、誰もお父様の面倒を見る人がいなくなります!」

と叫んだという。

 1962年に開かれた中国共産党拡大工作会議で、毛沢東は大躍進運動の失敗に対する自己批判を余儀なくされた。これ以降、劉少奇とケ小平が中国の経済再建へ向けて舵をとるようになる。中華人民共和国建国から13年、すでに中国人民は人類史上経験したことのない悲劇を味わってきた。過去に中国が経験した列強による侵略も、抗日戦争をもはるかに上回る悲惨さであった。にも関わらず、悲劇は終わらなかった。大躍進運動という人類史上他の国では例がないような悲劇を経験しておきながら、さらに悲惨でさらに長期間に及ぶ悲劇が待っていた。毛沢東は健在だった。低下した影響力を取り戻すための機会を虎視眈々と窺っていたのである。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui08.htm


毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 フランク・ディケーター (著),
  http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794218400/founder-22/

毛沢東は1957年5月17日の党大会で「世界大戦だといって大騒ぎすることはない。せいぜい、人が死ぬだけだ。人口の半分が殲滅される程度のことは、中国の歴史では何度も起こっている。人口の半分が残れば最善であり、3分の1が残れば次善である」と言っている。これが毛沢東の誇張表現なのか、中国共産党の統治意識なのか、中国人の宇宙観なのか、不明というしかない。

ともあれ、死者4500万人という数だけが問題なのではない。あとに紹介するように、文字通りの愚策・愚行によって耕作地、木、鉄、住居、衣服、生産物まで、あらゆる資源が無駄に浪費されたため、大飢饉後には中国の多くの農村は、比喩ではなく石器時代の生活に戻ってしまったのだ。その後の文化大革命でも中国は大打撃を受け、20世紀中は米欧の資本主義国も近隣諸国も中国の脅威を気にする必要がなくなった。日本が近隣防衛まで米国任せにすることができ、それゆえに資源を経済に投入することで、高度成長できたことは毛沢東によって担保されたといっても良いかもしれない。

ほとんどの中国共産党幹部は周恩来もケ小平も趙紫陽も唯々諾々としたがった。彭徳懐と劉少奇だけが反対の立場であった。毛沢東は「大躍進」で失脚したが、7年後に「文化大革命」で復活し、彭徳懐と劉少奇に復讐することになる。文化大革命中に彭徳懐は紅衛兵に肋骨を折られ、末期癌であるにも関わらず痛み止めの注射はされず、窓を完全に塞がれた部屋で下血と血便にまみれて死んだ。劉少奇もやはり恥辱の中で亡くなっている。

著者はオランダ生まれの香港大学教授だ。著者は北京の外交部をはじめ、各省の党档案館などから1000点を超える資料を収集した。档案館とは国公立の公文書資料館のことである。1999年に档案法が改正され、50年を超える文書が公開されることになったのだ。そのなかから驚くべき事実を知ることになる。

1957年11月、毛沢東はソ連のフルシチョフに張り合うため、中国は15年以内にイギリスを追い抜くと宣言した。しかし、その後それなりに発展したソ連とは異なり、中国は愚か極まりない思いつきと狂気じみた統治組織で、大量の労働力と資本を使い、計画が成就しなかっただけでなく、将来にわたる巨大な負の資産を残したのである。大躍進で行われた複数の巨大プロジェクトのすべてがそうだった。

たとえば、農産物の生産量を増やそうとして、無謀な肥料作りを始める。糞尿だけでなく女性の髪まで切って使われる。泥と藁で作った建物も肥料にされる。麻城県というところでは肥料にするために何千軒もの家が解体されたのだが、『人民日報』が成功例として紹介したため、気を良くして、年末までに5万軒の家屋や牛舎、鶏舎が壊された。しまいには肥料にするといって農地に白砂糖を撒くという倒錯ぶりだ。

中国共産党は愚かにも、土地を深く耕し、作物を密集して植えると収穫が増えると思いこんだ。何千万人もが自分の家を燃やして暖を取りながら夜を徹して掘り続けた。最大3メートルもの深耕は無駄であっただけでなく、結果的に表土が損なわれるという事態にも陥った。飢饉の真っ最中にもかかわらず、食糧でもある苗や種を密集して植えつけ、苗が呼吸できずに枯らしてしまうことも行った。

いっぽうで、鉄を増産しようとして「土法高炉」なる手製溶鉱炉を作りはじめた。全国4000万人の労働者を使い50万基を建設した。所詮鉄器時代に近い製法である。クズ鉄だけでは足りず、鍋釜、農機具まで原材料として投入されたのだが、出来上がったのはやはりクズ鉄だった。クズ鉄を使って作った農機具は1年も持たなかったため、農家は文字通り素手で耕作することになる。それ以上に深刻なのは燃料だった。国内の山々は丸裸になり、しまいにはなぜか果樹まで燃やしてしまう。南京では7万5000本の果樹が倒された。

これらの愚行で餓死者がでているにも関わらず、地方政府や官僚は毛沢東に水増しした生産量を報告していた。そのために毛沢東は大豊作だと思い込み、休耕地を増やすように指令する。余剰物は輸出に回そうということになり、農産物や木綿などの繊維製品まで輸出した。結果的に農民たちは衣服まで手に入らなくなってしまう。驚くことに千万人単位の餓死者が出ているにも関わらず、毛沢東の国際的な対面を保つために輸出は続けられ、他国からの援助は断りつづけた。

三門峡ダムを始めとして多数のダムが作られたが、ほとんどが欠陥工事だった。1961年までに40万個の小さなダムが破損した。115の大型ダムが洪水を引き起こし、1975年には時限爆弾となったこの時期に作られたダムが決壊し、23万人が亡くなっている。

バカバカしいことに害鳥だとしてスズメを全国一斉に退治した。当然のことながら害虫が増えた。空が暗くなるほどのイナゴに襲われ、南京付近では農地の60%が虫害にあった。やっと気づいたときにはすでに遅く、スズメが絶滅しかかっていたため、あわててソ連からスズメを輸入するという始末だ。

自然に対してこれほどのことをやってのけた毛沢東と中国共産党である。当然、国民に対しての仕打ちは過酷を極めていた。農家は肥料や燃料として家を燃やされ、人為的な飢饉が起こっているうえに、鍋釜にいたる鉄器も取り上げられ、布団どころか衣服もないのである。文字通り石器時代に戻ったのである。その結果人々がどうなったのかは本書を読んでみてほしい。4500万人が死亡したということはその数倍以上が死の淵をさまよったはずである。当時の中国の人口は6億5千万人だった。

http://d.hatena.ne.jp/founder/20110823/1314083823

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c2

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
3. 中川隆[-10702] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:51:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1353]
毛沢東の学歴コンプレックスが引き起こした文化大革命


1) 文化大革命は何故起きたか


 まず文化大革命は中国にその後どんな影響を与えたかですが、結論から言って中国はこの文化大革命によって発展が三十年は遅れたとまで言われております。中でも最大の損失ともいえるのが知識人で、ちょうど日本での団塊の世代に当たる年齢に、中国の大学では教授などの人間がすっぽり抜けてほとんど存在しません。これはこの世代がまさに文革で排斥される対象となった世代で、文革期に殺されるか、社会的に抹殺されたかのどちらかで存在していません。

 文革期には中国でも知識人が文字通り根絶される勢いで摘み取られていきました。ここでちょっと想像してほしいのですが、たとえば今、当たり前のようにいる設計士、技術者、熟練工といった人たちがこの社会から突然いなくなってしまうとしたら。もちろんそうなればあらゆる工事から工場の作業、開発製造といった行為がすべてストップしてしまいます。しかも、いざそういった人材をまた育てようと思っても、技術や知識を一から教えてくれる教員すらいない状況であればなおさら悲惨です。

 70年代の中国はまさにこうでした。一度は育てたあらゆる人材がいなくなり、技術や知識の継承をまた一からやり直す羽目となったのです。ただ中国はこれを奇貨として文革後に優秀な学生を選抜して、一気に東大など海外の大学へ留学させて建て直しをはかったりしています。今、中国の経済界ではそのような留学帰りの人たちが大きな力を持っているらしいです。

 中国が文革から受けた損失はなにもこの人材だけではありません。連載中にも書いていますけど何の計画もない土地開発のために自然環境は徹底的に破壊され、また歴史的遺物も「過去の残滓」として数多く破壊されています。

 そして元紅衛兵だったたくさんの若者たちも地方に下放されたまま、故郷へ戻ることすら叶わなくなりました。

 こうしてみると、何故これほどの悲劇が繰り広げられたのか、誰も止めることが出来なかったのかと疑問に思えてきます。この文化大革命は毛沢東の手によって引き起こされたものの、中期以降は一般民衆もむしろ率先してこの混乱を加速させ、いうなれば集団パニック、もしくは集団ヒステリーのような現象だったと思います。日本も戦前は教育上は軍部が国民を扇動させたことになっていますが、実際にはかなりの部分で国民も戦争へ突入するのを応援していました。何でも、朝日新聞が当時に反戦の記事を書いたら部数が一気に5%にまで落ちて、慌てて戦争賛美へと論調を変えたほど民衆も戦争一色だったらしいです。

 よく集団ヒステリーというと、大体二、三十人くらいの小集団で起こるもの、大きさにすると学校のクラス単位くらいなものと思いがちですが、歴史的に見ると日本を始めとした国家単位でも起こっていますが、さすがに中国という巨大人口国でも起こるというのはなかなかに驚きです。まぁ実際、集団ヒステリーに人数は関係ないのかもしれませんけど。

http://imogayu.blogspot.com/2008/10/blog-post_05.html

文化大革命が起こる前の、中国が置かれていた状況について解説します。

 まず第二次大戦後、現中国を支配している中国共産党と現在台湾を支配している国民党との間で戦闘が始まりました。当初は双方共同で国を治めようという話もあったのですが、もともと戦闘しあっていた者同士で、目下の敵の日本軍がいなくなるやすぐさま内戦を始めました。因みに、その際の戦闘に使われた兵器の大半は日本軍が置いていった兵器だったようです。北京にある軍事博物館によると、中国で初の戦車は日本軍からの分捕り品だったくらいですし。

 そうして戦い合う中、恐らく組織戦としては相当早い段階でゲリラ戦を確立した共産党の人民解放軍が徐々に勝利していき、最終的に国民党を台湾へ追い出して1949年に現在の中華人民共和国が成立します。戦争に勝利後、文化大革命の主役である毛沢東は天安門広場にて「中華人民共和国、成立了!」と宣言して、この時を持って正式にこの国は建国されたとされます。 

 もっとも建国直後に朝鮮戦争が勃発し、当初はソ連一辺倒ではなくアメリカとも交流を続けようと考えていた指導部は悩んだ末に北朝鮮に味方してアメリカと袂を分かつ羽目になるなど、いろいろと困難もありましたが、当初は共産党内部の高い士気とともにそこそこうまくやっていきました。この歯車がおかしくなり始めるのは1950年代の後半からです。

 この時期から中国はソ連の「五ヵ年計画」を真似た、あの悪名高き「大躍進政策」を行い始めます。これはその名の通り、数年の期間内に農業や工業の分野で一気に先進国に追いつくという国家政策のことです。ソ連の五ヵ年計画も内実は結構ひどかったらしいですが、一応は工業面で大幅な前進が見られて二次大戦でドイツと戦うだけの土台ができたのに対して、中国のこの大躍進政策は破壊と荒廃しかもたらしませんでした。 ソ連では「コルホーズ」といって、農民を一箇所に集めて強制的に作業をさせる集団農場を作りましたが、それに対して中国では「人民公社」といって、事実上個人の自由を奪う集団体制へと国を整えていきました。

 この大躍進政策の中で工業政策では鉄鋼の生産量でイギリスを追い抜くという目標があったのですが、各地域の責任者には目標生産高の達成が義務付けられたため、実際には鉄を作ろうにも鉄鉱石が不足するもんだから、片っ端からまだ使える鉄製の農具などを溶かして粗鋼を作っていき、確かにイギリスの鉄鋼生産量を追い抜いたものの、その作られた鉄のほとんどは役に立たないくず鉄ばかりだったそうです。更に鉄の精製技術も低いものだから延々と土方高炉という、原始的な精製方法でその燃料として木材を燃やし続けたため、今に至る中国の水不足、環境破壊という問題を作る羽目となりました。

 農業政策でも、なんと言うか今の北朝鮮のように明らかに農業について知識がないにもかかわらず、素人の浅知恵のような政策が強行されてしまった例があります。最も有名なのは燕の駆除で、燕は稲穂をついばむから害鳥だといって毛沢東の指示の元、中国全土で一大燕駆除キャンペーンがこの時期に行われました。これなんか私も中国の博物館で見たことがあるのですが、燕を驚かしたり追い詰めたりするわけのわからない器具が全国に配られ、結果的に燕の大幅な駆除に成功するのですが、その代わりに燕が食べていた害虫が異常繁殖してしまい、収穫期になるとすべての作物が大不作になるという事態を引き起こしてしまいました。

 一説によると、この時の大飢饉で数千万の人間が餓死したと言われています。昔読んだ記事によると、誰だか名前を忘れましたが、確か李鵬だったけな、子供の頃は夢の中で満腹になるまでものを食べては目を覚ますという事がこの時期何度もあったと言ってました。

 「ワイルドスワン」の作者によると、当時の人間でもこの大飢饉が天災によるものではなく、明らかに人災によるものだとわかっていたそうです。それでも共産党政権の転覆、そこまでいかなくとも民衆の反乱が起こらなかったのは先ほどの作者によると、この飢饉の時期には共産党員も一般民衆同様に飢えていたからだと分析しています。

 なんでも、国民党がブイブイ言わせていた時代は飢饉だろうと何だろうと、国民党の人間は毎日大量のご馳走を食べて贅沢な暮らしをしていたそうです。それに対してこの時期の共産党は先ほども言ったとおりに士気は高かったらしく、横領や独占が非常に少なかったそうです。もしかしたらそんなことをするほどの食料すらなかったのかもしれませんが、今の共産党からするととても信じられない話ですがそうらしいです。

 このようにシャレにならないほどの政策の大失敗を犯してしまい、さすがの毛沢東もしょげていたそうです。自身の食事にも国民が飢えているのだからといって豚肉の量を減らしたそうですが、これは確かアメリカの記者の評論ですが、国民が飢える中で毛沢東は個人的なダイエットをしていたと、何の問題の解決になっていないことを指摘されていました。
 そして共産党の幹部も、この惨状に対して毛沢東を追及するに至りました。後に実権派として名を馳せる劉少奇が、この時に毛沢東に対して、


「地方では人肉を食べて飢えをしのぐ者まで現れたことを記録に残せ」


と詰め寄ったらしいです。 こうして毛沢東は実権を追われることになり、その代わりに経済政策などに実績のある劉少奇とケ小平が政権の中枢に立つことになりました。彼ら二人のコンビの活躍もあり、大飢饉の後は穏やかではありますが、比較的政治的にも社会的に安定した時期が過ぎていったのですが、それを毛沢東が快く思うわけありません。

 これは陳凱歌やその他大勢の人間が評していますが、毛沢東というのは生まれながらの反逆児で、常に何かに抵抗しなければ気がすまない性格だったそうです。歴史的に見ても、最初は両親、次に初期共産党内のリーダー、そして日本、国民党と抵抗相手を変えていき、最後には自らが関わった共産党を抵抗相手に選んだと見るべきでしょう。

 この時期、毛沢東は政界を引退して中国の南方で優雅な年金生活のようなものを表面上は送っていました。しかしその間、未だ中央に残る腹心を使って徐々に、それも目立たずに工作を続けていました。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_18.html

失脚後、毛沢東は南方で趣味の釣りにいそしんでいると言われ、毛沢東のかわりに実権を握った劉少奇とケ小平が実質的に中国の指導者となりました。彼らちゃんとやり方のわかっている指導者の行政手腕により、大飢饉によって混乱した中国経済は徐々にではありますが立て直されていきました。

 しかしそうして経済が立て直っていく一方、ある言論がまことしやかに全土で語られるようになってきました。その言論というのも、「今の共産党指導部は修正主義者たちに乗っ取られている」という、今見ても不穏当な言論でした。

 この時期、ソ連はスターリンからフルシチョフの時代を経て、中国との蜜月関係も終わりを告げていました。中国共産党はこのフルシチョフによるソ連の第一次デタント(雪解け)といわれる、西側国家との協調路線を打ち出す外交政策を共産主義の精神を根幹から覆す愚挙だとして「走資派」や「修正主義者」と呼んで激しく非難しました。

 恐らく当時の考え方としては、共産主義国家の建設は非常に困難が伴うものであるため、この困難から抜け出すためとか、自分だけいい思いをしようと安易に資本主義に走る卑怯な輩がいるという具合で憎悪をたぎらせたのだと思います。この「修正主義者」という言葉が、1960年代の中国の流行語であったのは間違いないでしょう。

 当時、中国に流布したのはこうしたソ連の輩のような裏切り者が中国共産党内部、それもかなりの上位階級に潜りこんでいるという言質でした。彼ら修正主義者は謀略をめぐらし、偉大なる指導者である毛沢東を追放したのだ、と毛沢東の政治失脚は彼らに原因があるというような言葉が共産党の機関紙である「人民日報」などのメディアで激しく展開されていきました。

 もちろん劉少奇を初めとする指導部はそんなはずはないと否定しつつ、このようなデマがどこから出ているのかなどと調べたそうですが、一向に確たる根源が見つからずにいました。元ネタを一気に明らかにすると、このような言論を広めたのは毛沢東の指示で動いていた彼の腹心たちで、後に四人組と呼ばれる幹部たちでした。皮肉なことに、内からの敵に当時の指導部は気づかなかったのです。

 こうした言論を一番真に受けたのは当時の大学生たちでした。北京大学では壁新聞が張られて公然と指導部が批判され、精華大学では孤立無援の毛沢東閣下を救えとばかりに、後に中国全土で猛威を奮い、この文化大革命の代名詞となる「紅衛兵」という、青年たちによる私兵団が全国で初めて組織されました。
 
 こうした中、これは出所が明らかでなくちょっと確証に欠けるどこかで聞いた話ですが、何でも劉少奇らが北京にてこうした動きに対し、自分たちは決して修正主義者ではないということを説明する一般人を交えた会合を開いて弁舌をしている最中に、なんとその場に南方にいるはずの毛沢東が予告なしで突然現れたそうです。

このような演出はこれだけでなく、これは陳凱歌の「私の紅衛兵時代」で書かれていますが、北京四中での会合の際も、毛沢東は劉少奇が弁舌を終えていないにもかかわらず突然壇上に出てきたそうです。そうなってしまうと観衆は大喝采してしまいますので、まだ弁舌を終えていない劉少奇はどうすることもなく、かといってそそくさと壇から降りるわけにも行かなくなり、このように毛沢東は相手を追いつめる演出が非常にうまかったと陳凱歌は評しています。

 そのうち毛沢東も公然と、

「共産党の指導部内に裏切り者がいる」

と主張するようになり、先ほどの紅衛兵という少年少女らで組織される私兵団も毛沢東の応援を受けて各学校ごとに作られて増加の一途を辿り、事態は徐々に深刻化していきました。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_20.html

『文化大革命』とは、その原因を言うならば『太平洋戦争(対日戦争)』後の、中国共産党の政策失敗にあるとも言えます。 中国共産党は内戦の果てに『国民政府』を台湾に追い、『社会主義国家』を建国しますが、その後、国家主席であった『毛沢東』が信奉する『マルクス・レーニン主義』の理論の下に、『数年間で米英を追い越す』として、1958年から1960年まで『大躍進政策』と銘打って農工業の大増産政策を行います。 
しかし、この政策は農業現状の無視の上に行われたと言え、自然災害も重なったこともあり、結果的に2000万人から2億人と言われる餓死者を出して終了を見たという事なのです。

 この失敗の原因は『マルクス主義』そのものとは無関係な物であり、具体的な経済の発展方法にあるとして、国民に謝罪すると共に『毛沢東』は『自己批判』を行って国家主席を辞任する事になったと言うのです。 つまり。国家主席の座を、当時NO2であった『劉少奇1898〜1964)』に譲る事に成ったのです。
 
 つまり、『文化大革命』は『毛沢東』のこの様な失敗からの回復を目指して行われた物であった様なのです。 なんと言っても、『毛沢東』の存在意義は、かっての『日中戦争』の折りに、中国人民に向かって呼びかけたところにあったと言える様なのです。 言わば、中国共産党の存在意義を示す物とも言えますが、

 『戦争と言う巨大な力の最深の根元には、人民が存在するのである。日帝が我々を迫害しうる大きな原因は、中国人民の側が無秩序・無統制であったからだ、この弱点を解消したならば、日帝侵略者は、我等数億の目覚めた人民群の目前にて、一匹の野牛が火陣の中に放たれた如く、我等の恫喝により彼等は飛び上がらん如く脅かされるであろう。この野牛は必ず焼き殺さねばならぬ。』

と言う物であると言います。 これが、後の『毛首席語録(毛沢東語録・毛語録)』の根幹ともなって行った様なのです。

 ところが、1960年当時の世界は、『社会主義国』と見られる国々でも、その基本たる『マルクス・レーニン主義』は、その理論にも『変革』を求められる時代にも入っていたと思われます。 勿論、その『変革』を行う事は、本道を自負する人達から『修正主義』とも非難され、その論争は国間でも深刻な問題ともなっていたのですが、『中国』も否応無くその洗礼を受ける事に成ったと言えます。 その発端は、1960年代に行われた『中ソ論争』にあったと言うのです。

 『中ソ論争』と言うのは、1956年に起きたソ連首相『フルシチョフ(1894〜1971)』の『スターリン(1878〜1953)批判』が発端で起きた『平和共存路線』を『修正主義』と批判する中華人民共和国の『毛沢東(1893〜1976)』等によって起こされた物とも言える様なのです。 この事は、1960年に至り『人民日報』や『紅旗』等が『レーニン主義万歳』を記載するに及び、決定的なものとなります。 ソ連指導部は中国に派遣していた『技術専門家』を引き揚げる事になり、両国の関係は悪化の一方を辿るようになります。 ともあれ、1962年には『中印紛争』『キューバ危機』等が起こり、中国・ソ連の対立は理論的にも決定的なものとなり、1964年には『フルシチョフ』の失脚を見るものの、両国の関係に回復を見る事は無く、対立は深刻化して行ったと言う事なのです。

 『劉少奇』が国家主席となった1959年の中国にとっても、『毛沢東思想』の信奉だけでは、既に遅れを見る時代に成っていたと言わざるを得ないとも言えます。 『劉少奇』はこの後、市場主義を取り入れた経済調整政策を実施、大躍進政策で疲弊した経済の回復に努めたと言う事なのです。 此れに対して『毛沢東』は

『矯正し過ぎて、右翼日和見の誤りを犯している』

と批判したそうなのです。飽くまでも『毛沢東思想』の貫徹を要求した様でもあるのです。 つまり、見方によっては『文化大革命』とは、『毛沢東』が現状を『修正主義』に占拠されると感じた結果起こした運動でもあった様なのです。 しかし、単に『劉少奇』を放逐する為に起こした運動ではなかったかと評する人も多いのです。 

 確かにその頃『劉少奇』には、中国の状況を憂い、彼に組する人も多かった様で、『毛沢東』は『毛語録』などに見られる人気、思想的背景は持っていたものの、『毛沢東』の意に従う者は、共産党幹部には決して多くはなかった様なのです。 まして、『劉少奇』には『フランス語』『英語』『ロシア語』を話す夫人『王光美(1921〜2006)』がいたと言うのです。 彼女は、物理学を専攻し理学博士でもあった人であったというのですが、その語学の才能をかわれ、1946年頃から中国共産党の中でも重要な仕事をして来た人でもあった様なのです。

 『劉少奇』とは1947年に結婚し、『劉少奇』が首席となった1959年からはその『ファーストレデイ」として国際的にも注目を浴びた人でも有った様です。 この様な状態を見るにつけ、おそらく『毛沢東』には、焦りが募る毎日でもあったのかも知れません。 すなわち『毛沢東』は大衆の前でこそ絶大なる指示を受けていたと言えますが、彼の取った政策の失敗は、目を覆うばかりで共産党の内部等には信用は失墜、『劉少奇』等の『実権派』が取って代わろうとしていたのです。 その対抗策として『毛沢東』が取る事に成ったのが、『文化大革命』でもあったのです。

 具体的には、当時軍の実験を握っていた『林彪(1907〜1971)』を擁し、行動に出る事であったというのです。 つまり、『林彪』は1959年に『解放軍向け』として『毛首席語録』の編集・刊行にかかります。 そして、1966年の『文化大革命』の発動と共に、一般向けにも大量に発行されたという事なのです。記録によれば1966年3月から1976年8月までの約十年間『毛沢東語録』の印刷部数は、『文化大革命の象徴』として、実に65億冊を越えたと言うのです。
 
『毛沢東』は腹心とも言える『上海組(四人組)』を使い、1966年以降『紅衛兵』と呼ばれる団体を結成し、其れを行って行ったと言うのです。 すなわち彼は、彼の理論の推進者として、抵抗感の少ない学生・少年少女を選んで、その推進力と仕様とした事になるのです。

 この『紅衛兵』とは、よくドイツの『ヒトラーユーゲント』の引き合いに出される物である様なのですが、確かに、狂信的でその目的は似ているとも思いますが、実体はかなり違うようなのです。 つまり、レベルがかなり違うと言わざるを得ないのです。 

『紅衛兵』に、特に資格と言ったものは無かったのです。 其れが『無知』とも言える暴走を生んで行ったと思われます。僅か10代の少年少女達が『毛語録』を手にしただけで、続々と加入し拡大を続けたと言うのです。

 『毛沢東思想』を権威として暴走する事になった彼等は、多くの派閥に別れ、互いに『反革命』とのレッテルを張り合い、武闘を繰り広げて行ったと言うのです。 つまり、指導者の不足が如実に『統制不可能』な現象を起こして行ったのです。


 結果的とは言え、無知なる青少年が『国家政策』を専横して来る様になったと言うのです。共産党幹部ですら其れを防ぐ事は出来ず、その時既に党幹部でもあり、後の中国共産党の重要な指導者となった『トウ小平(1904〜1997)』は『紅衛兵』の暴行を直接身に受けているのです。 言わば、『思いつき』に似た行動が多かった様で、

『農村から学ぶ必要がある』と成れば、どんな人達も、『上山下運動』に狩り出されたと言いますし、

『孔孟の匂いのある物』と成れば、すぐ破壊されたと言うのです。 

事情は一切顧みられる事は無かったと言うのです。

 つまり、この様な事が頻発した為に,中国の高等教育は機能を停止したと言われ、中国の進展は、この『文化大革命』で20年は遅れたと言われているのです。 この世代は教育、及び倫理的に大きな影響を受けた世代と言われ、その影響は今も尚、大きなものを残していると言うのです。 すなわち、『文化大革命』は当初、政治・社会。思想・文化の全般にわたる『改革運動』として企画された物であったと言うのですが、結果的には『粛清』『破壊』その物であった様なのです。 

実体は、単に彼等の『勧善懲悪』的な指導の下に行われた様なのです。


 つまり、『善人』とされたのは、

『少正卯』
『呉起』
『商鞅』
『韓非』
『荀況』
『李斯』
『秦の始皇帝』
『漢の高祖』
『漢の文帝』
『漢の景帝』
『曹操』
『諸葛亮』
『武則天』
『王安石』
『李卓呉』
『毛沢東』

などであり、それにつながるものは『善』であったのです。


 『悪人』とされたのは、

『孔子』
『孟子』
『司馬光』

等であったと言うのです。


 つまり、中国の思想家の内

『法家を善とし、儒家を悪として、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的とされた』

と言うのです。 すなわち、この後は、これらの人々になぞらえても、『紅衛兵』の行動は激しさをまして行ったと言うのです。

 何でも彼等の携帯する『毛語録』には


『革命は客を招いてご馳走することでもなければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりする事でもない。

そんなにお上品でおっとりしたり、雅やかな、そんなに穏やかで、おとなしく、うやうやしく、つつましく、控え目な物ではない。

革命は暴動であり、一つの階級が他の階級を打ち倒す激烈な行動である。』


とあり、

『革命には犯罪は無い』

としたと言うのです。 

これが、『無知なる少年少女』達の『粛清運動』ともなり、結果的に約1000万人〜3000万人の『大量虐殺』を産み、結果的に犠牲者数億と言う、数字も定かならぬと言う『内戦』とも言える惨状を多分に示した運動ともなって行ったのです。 

この『文化大革命』のエピソードを拾ってみれば、其れは更に容易に想像がつくかとも思えますので列挙してみます。 


 *『紅衛兵』は『赤は革命に色であるから赤信号で止まるのはおかしい、赤信号で進んで青信号で止まるべきだ』

 *『寝室に毛沢東の写真を飾っていた新婚夫婦』に『首席の前でセックスをした』と非難した『紅衛兵』に、『その時は電気を消していた』と反論した。

 *ある『紅衛兵』は『富農家』や『官僚』批判が絶頂だった頃、彼らに対する迫害を多くしたと言うが『毛沢東』の実家も『富農』であった事で候補に上げた。

 *中華人民共和国の新聞には、その頃多くの毛沢東の写真等に占領されていたが、その新聞を尻に敷いたり、たきつけに使った事で吊るし上げられた者が多数いた。

 *旧思想・旧文化の否定がスローガンとされた為、陶磁器や金魚・月餅等古い歴史を持つ商品の製作や販売まで旧文化とされ、それに携わるだけで、職人や関係者は『帝国主義者』と認定され、つるし上げの対象者でもあった様なのです。


 
 この様に見ていけば、実際はその行動に『思想』や『展望』の一切なかった事が、偲ばれるものとも言えます。 『無軌道』とも言える『紅衛兵』の産物でもあったと言えますが、この結果どれだけの犠牲が払われているかは想像できない事である様なのです。

 ところで、『文化大革命』は1970年代に入ると、内戦状態とも言える経済的疲弊等から、それに伴って終息に対する雰囲気も高まって来たと言われ,1972年のアメリカのニクソン大統領訪中等が契機となり、沈静化して来たと言うのです。 1976年には『毛沢東』が死去した事もあり、1977年8月には『共産党声明』として『文化大革命の終結』を宣言する事に成ったのです。 その後始末として、1981年には『紅衛兵』の指導に大きな影響を与えたと言う『林彪グループ』や『上海組』の要人には死刑から懲役刑の判決が下される事に成ったと言う事なのです。

 すなわち、『林彪』は『劉少奇』追放後の1966年の党大会に於いて『毛沢東』に次ぐ序列第2位の席に昇格し『毛沢東』の後継者と公式に認定されていたとも言うのですが、『毛沢東』が『劉少奇』の失脚によって空席に成っていた『国家主席』の廃止案を提案すると、それには同意しなかったと言うのです。 1970年になり『林彪』は毛沢東の首席就任や毛沢東天才論を連発し、毛沢東の持ち上げにかかったと言うのですが、其れが逆に『毛沢東』の疑心を呼ぶ物ともなり、『毛沢東』の批判論を呼び起こす元ともなったと言うのです。

 この様に見れば『毛沢東』と言う人が、『権力の座』にこの上なく執着した人である事は疑いの余地の無い人とも思えます。

 かくて、1971年9月『毛沢東』との決別を覚悟した『林彪』は『毛沢東の暗殺』に動いたと言うのですが、失敗しソ連への逃亡を図り、モンゴル上空で事故死したと言う事なのです。 この『暗殺事件』をして、『毛沢東』は

『雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ、好きにさせれば良い』

と言ったとされている様だが、それ程余裕があったかは定かで無いとも言えそうである。  

 この『林彪』と同じ時期に、頭角を表わしたのが後に『四人組』と呼ばれた『上海組』の人達でもあります。 彼等は逮捕された後『四人組』と呼ばれる様になりますが、実体は『毛沢東』の四番目の夫人『江青(1914〜1991)』と、その取り巻き連中であった様なのです。
 
当初は『劉少奇』の追放を目論む『毛沢東』に従って『林彪』と共に『紅衛兵』の指導に当たり、『林彪』失脚以後は『プロレタリア独裁』『文化革命』を隠れ蓑に、極端な政策を実行し、反対派を徹底的に弾圧して行ったと言うのです。
 
『王洪文』『桃文元』『張春橋』と言う政治局員の名前が見えますが、言うなれば彼等は『毛沢東夫人』の付き人みたいな者であったようです。

http://shuho-terakoya.blog.so-net.ne.jp/2010-11-24


毛沢東は反骨の士でした。これはどの評論家からも、この文革の時代を生きた人間の目にも共通した認識です。とにかく何かあったら何でもいいから反抗したい、まるで反抗期の中学生がそのまま大人になったような人間でした。

 特に彼が生涯強く反抗し続けた代表的な対象というのが、知識人でした。これは彼の学歴コンプレックスが影響しているといわれており、なんか今詳しく確認できないのですが、毛沢東は若い頃に北京にて滞在した際にどうもどっかの大学(確か北京大学)の入学試験の面接に受からなかったそうなのです。かといって全く勉強ができなかったというわけではなく、読書量や詩の創作技術では歴代中国君主の中でもトップクラスと、「中国の大盗賊」という本の著者で中国研究家の高島俊夫氏は評しております。

 できたばかりの中国共産党に入党した後も、当初の指導部はソ連からの留学帰国組によって幹部席が占められたのを恨めしく思ってたらしく、抗日戦争の最中に自分が主導権を握ってくると、最終的に周恩来を除いて留学組をほぼすべて指導部から追い出しております。ちなみに周恩来は言い方は悪いですが、毎回絶妙のところで味方を裏切り毛沢東に従っております。だから長生きしたんだけどね。

 このように、毛沢東は徹底的に知識人を否定し、それが毛沢東思想の大綱となっている「実事求是」につながっています。この実事求是というのは、「現実から理論を作れ」という意味で、机上で理論を組み立てても現実には適用できない理論が出来上がるので、それよりも実際に自ら農場や工場で働いて物事の実感を積んで正しい理論を作るべきだという主張で、大学等にいる知識人は手を動かさないで労働者をこき使っているから悪だと、文革時に効力を発揮した大綱です。

 毛沢東は個人的な感情で知識人の締め出しを行ったのでしょうが、この主張を正当化した言い訳というのはいくつかあり、まず一つは先ほども言ったとおりに手を動かさずに頭だけ働かすというのは現実から乖離した理論を作ってしまい誤りを犯すというもので、もう一つがこの次に説明する永久革命の必要性からだと考えています。

 この「永久革命」という考え方が、ある意味毛沢東思想の最も危険な箇所です。毛沢東は生前にも前漢の劉邦や明の朱元璋といった、一農民という出身から才気一つで中国を支配した君主を誉めそやしており、世の中というのは常に古い既成概念に対して新しい改革的思想が打ち破ることによって徐々によくなるというようなことを主張していました。この概念を応用し毛沢東は、知識人というのは基本的に既成概念を守る保守主義者であって、新たな時代を作るのはかえって古い既成概念に染まっていない無学の意欲ある徒、つまり農民であると説明したのです。なので、劉邦や朱元璋が天下を取ったのは自明であるとまで説いたのです。

 この考え方を毛沢東はさらにさらに援用し、共産主義思想では労働者VS資本家という二項対立の構図で物をすべて考えますが、これを農民VS知識人にすげ替え、労働者が資本家を打ち倒すことで理想の共産社会(ユートピア)が達成されるという理論を先ほどの劉邦、朱元璋の例を持ち出してやはり正しいのだと証明された……的なことを言っているのだと私は思います。

 なので、世の中というのはザリガニの脱皮みたく農民(労働者)による革命を繰り返すごとにどんどんよくなるという、「永久革命」を維持することが社会の発展につながると主張したのです。通常の共産主義思想でも確かに「労働者による社会主義革命」の必要性が強く叫ばれていますが、基本的に革命が成功した後はもうそれで万々歳、後は他の国へも革命を支援せよ言っているくらいで、「革命で作ったものをまた新たな革命でぶっ潰せ!」みたいなこの毛沢東思想ほど過激ではありません。

とまぁこんな具合に毛沢東は教育をあまり受けていない農民や中高生のやろうとしていること、考えていることの方が下手な知識人、果てには既に教育を受けてしまった大人より正しいのだと後押ししたのです。その結果が、次に詳しく説明する紅衛兵などの悲劇歴史を生んでしまうのです。ちなみにこういった考えは、今のフランスの教育制度における積極的自由論にもなんだか近い気がします。シュルレアリスムとでも言うべきか。

私に言わせると毛沢東の思想の最大の欠陥は劉邦と朱元璋を過大に見たという点にあると思います。朱元璋はあまり詳しくありませんが、劉邦の場合は確かに彼自身は特に教育を受けたわけじゃなく無学でありましたが、彼の傍には軍師の張良や策士家と呼ばれた陳平、そして国士無双と謳われた韓信が控えておりました。また三国時代の劉備もまた農民出身ではありましたが、諸葛亮や法正といった知識人を保護し、活用しております。このように、知識人というのは確かにそれだけだと古今東西の官僚制度のように腐敗する恐れもありますが、全くいないというのもまた問題なのです。この知識人の軽視がこの思想の欠陥、ひいては文化大革命やカンボジアのポルポト派による虐殺という悲劇を引き起こしてしまったのだと、私は解釈しております。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_22.html


              /               \
          / / ∠三ミレ-- 、      ヽ
         / / //─'''´ ̄ ̄`ヽ      ゙i
        / /  //        ゙iヽ  ヽ  |
        ,' /  //          | ヽ  ', |
        | |  / l,、、,,_   -‐''" ̄`゙i. |   | |
        | | / ノ,.t-、    'Tッ'Tゝ ヽ|レ‐、| |
        ゙i |/ ,ィ`' _L.,!    ` ┴'  リ‐、 } |
        .!///゙!     ,         ノ__/ .!
         |/ | ',    ゙        /  |  |
          |! |  \   ゚       /  |  .!
          {  |  | | ゙ヽ、    /  |   |  | 低学歴者をバカにすると
         ゙、 ', | |   | `l'"´    ゙、|  |i   | 後が怖いのよ
         ヽ ヽ | |   レ'′      \ || /
           /ヽ \!  |  ̄ ``   r'´ ` ̄``ヽ
        /   ヽ ヽ ノ                   ヽ
        |     〉 V              |   |
        |    /  /       \       ヽ、 |
        |    / / /|       ヽ       \
        .!   / { ヽ|    ...     ゙、        ヽ
        |  {  ゙i   ヽ  ::r.;:.     l         ::_)
        .!  \ ト、 |   `゙"     /          /
         |    ト| | ∧       /           /
            |  / / /|| ゙ヽ、 __ ,. -'"    ` ーr┬ '′
          | / / | ヽ、               | /

2) 煽てればガキンチョは何でもしてくれる


悪事を成功させようと思ったら、ガキンチョを集めて、うまく煽てて女と飴を適当にあてがっておけばいいんですね:


毛沢東は中華人民共和国が成立して以降、一貫して権力者であったかのように誤解されがちなのですが、実際には彼は一度失脚しています。何故失脚したかというと、農業政策や社会政策などで明らかな失政を犯してしまい、一度ケ小平といった経済政策などに明るい政治家らに引退を迫られ、一旦は政権の中枢から降りています。しかし彼自身は未だ引退する気はさらさらなく、表面上は穏やかに政権の座を譲ったかのように見えましたが、その後自らは隠遁したふりを見せ、未だ政権に残っている自らの腹心を使い徐々に世論を誘導して、

「ケ小平らは毛沢東を騙して政権から追い出した」、

というような世論を作っていきました。

 以前に大学の授業にて中国政治の先生がこの文化大革命のことを、毛沢東が権力を奪回させるために敢えて社会を混乱させたところ、終いには自分にも手がつけられなくなったと評しましたが、まさに的確な表現でしょう。

毛沢東は民衆、特に精神的に純粋な十代の少年少女らを使い、自らを神格化させることによって見事ケ小平を追放し、政権の奪回に成功します。 しかし少年少女らを扇動する際に毛沢東は、

「お前たちが正しい。しかし大人は間違っているから、お前たちが修正してやらなければならない」

 といったような言葉で動員し、この言葉を真に受けた若者たちは一切権威を信じず、自らが組織した団体の決定を強引に推し進め、更には本来それを取り締まる警察や軍隊は毛沢東らの中央政府の命令によって鎮圧ができずに静観するだけという、悪循環な環境を生んでいくことになります。

 この時代について私に中国語を教えてくれた中国人教師の方などは、当時は軍隊が全く機能しておらず、子供だった先生は勝手に基地の中に忍び込んでは手榴弾を取ってきて投げて遊んでいたというくらいですから、その混乱振りがうかがえます。 このように、ごくごく一般の社会機能がほぼすべて失われ、当時の中国はさながら無政府状態のように、殺人があっても誰も気に留めず、また好き勝手に泥棒や強奪が頻発したらしいです。

文化大革命中、少しでも学識のある人間は「知識分子」と呼ばれ、激しい批判や暴力を受けて社会的にほぼすべてが抹殺されたと言われ、ちょうどこの年代に当たる知識人層が何十年も立った今でもすっぽりと抜けているということを知った時、寒気にも似た気持ちを覚えました。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_6756.html

1962年1月の中共中央拡大工作会議でついに毛沢東は大躍進運動の失敗を認めて自己批判を行った。毛沢東は依然として中国共産党主席の地位にいたが、影響力は後退し、劉少奇、ケ小平などが実権を握るようになった。

劉少奇は政治運動や思想闘争を後回しにし、生産と生活向上を重視する政策を採り、1963年から65年にかけて中国経済は目覚しい回復を見せていた。

 だが毛沢東は再び権力奪還の機会を窺っていた。 1966年 8月1日から中共十一中全会が開催され、8日に「プロレタリア文化大革命についての決定」が採択された。この決定では「資本主義の道を歩む実権派を叩き潰すこと」と「思想・文化・風俗・習慣面での四旧の打破と四新の創造」という二つの目標が掲げられた。この会議では劉少奇の党内序列が2位から8位に格下げされ、ケ小平は平の党員なみに格下げされた。その一方で林彪が序列2位に急上昇した。

 これ以降劉少奇、ケ小平打倒のキャンペーンが本格化し、二人を名指し批判する壁新聞が大量に貼り出され、劉少奇、ケ小平は自己批判文書の提出を強要され、事実上の軟禁状態に置かれた。

11月以降は他の古参幹部に対する公開批判闘争が紅衛兵によって大々的に進められるようになった。1967年に入ると批判闘争はますます激化し、各地で実権派打倒の集会が行われた。すでに劉少奇は執務不能状態に陥っていた。1968年10月、劉少奇の党からの永久除名、ケ小平の留党観察処分が決定された。

劉少奇は病におかされるようになるが、散髪や入浴も着替えも許されず、警備員や医師から執拗な暴行を受け続けた。体中の皮膚が膿に冒され悪臭を放つようになっていた。1969年10月開封市に移住。寝台にしばりつけられて身動きができぬまま暖房もない小部屋に幽閉された、高熱をだしても治療も受けられぬまま放置された。死亡の際には白髪が2メートルの長さに達していたという。

 毛沢東がけしかけた権力闘争は劉少奇、ケ小平ら実権派の打倒に留まらず、大学教授や学校の教師、作家、芸術家、旧家の出身者や旧地主・資本家の子孫、医師、技術者など、要するに社会でありとあらゆる一定の知識や技能、地位と名声をもつ人たちが批判の対象となった。

中学生によって組織された紅衛兵は教師たちを軟禁し、毎日十時間以上の重労働を課した。わずかな時間も休むことを許されず、少しでも動作が鈍いとすぐさま木刀や革靴で殴りつけた。夜になると教師たちを監禁して夜通し尋問とリンチが行われた。ある女子中学校の女校長は3夜連続で拷問を受けた後、1966年8月22日に死亡した。場所は校内のトイレで、遺体は全身傷だらけで、髪の毛はほとんど抜かれ、口には汚物が詰め込まれていた。

 文化大革命中、共産党の創立記念日、国慶節、元旦などの祝日には全国各地で群集を集めての公開処刑大会が行われた。とはいっても建国以来十数年、中国共産党はひたすら虐殺に次ぐ虐殺を繰り返していたので、反革命分子などそう簡単に見つかるはずもなかった。そのため、毛沢東の政策に少しでも疑問を述べたり、毛沢東語録を不注意で汚してしまったり、毛沢東の顔写真が移った新聞紙を使って野菜を包んだり、太陽を貶める発言をしたり(毛沢東は人民の太陽と称賛されていたため)するだけで悪攻罪として死刑になった。

 紅衛兵による無差別大量虐殺も頻発した。1966年8月に紅衛兵は五類分子(地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派分子)を打倒すべく、北京市大興県を襲撃し、325人を虐殺した。死亡者のうち最年少は生後1ヶ月であった。1967年8月には湖南省道県を紅衛兵が襲撃し、4139人を虐殺した。虐殺方法には銃殺、斬殺、爆殺、生き埋め、撲殺、焼殺など多様な手段が採られた。幼い子供を殺すときは投げ殺しが好んで行われた。

 1967年から1968年にかけて内モンゴル自治区ではモンゴル族に対する大量虐殺が行われた。34万人が逮捕、監禁され、少なくとも5万人が虐殺された。殺害方法も残虐さを極めた。歯を一本一本抜き取られたり、鼻と耳をねじ切られたり、体中をナイフで切り裂かれて傷口に塩を揉みこんで焼き鏝をあてたり、女性であれば輪姦された挙句生殖器に火掻き棒を差し込まれて腸を引きずり出されたりした。

 虐殺は紅衛兵が無実の人たちを虐殺するというパターンに留まらない。紅衛兵はいくつかの派に分裂し、互いに相手を反動派、反革命分子と罵って自らの正当性をかけて激しい武装闘争を行った。1967年3月から6月にかけて江西、青海、浙江、湖北、山西、河南、安徽、内モンゴル、陝西、復建、広東、寧夏などで、紅衛兵に限らず労働者、農民、軍隊をも巻き込んだ主導権争いのための激しい武装闘争が展開された。まさに中国全土が内戦状態であった。

 こうした中で全ての中国人民は恐怖におののいていた。いつ反革命のレッテルを貼られて粛清されるか、いつ誰かに裏切られるのか恐怖と猜疑心がつのり、ひたすら狂信的に毛沢東を崇め奉ることが救いの道であるかのような雰囲気が生まれた。毛沢東に対する極端な個人崇拝、神格化がますます強化されていったのである。

 中国共産党が文化大革命の時期に行った犯罪行為のひとつに文化遺産の破壊がある。宗教は阿片と看做していた中共は、寺廟などの宗教施設を徹底的に破壊した。例えば後漢時代に建立され、文革当時現存する中国最古の仏教寺院であった洛陽郊外の白馬寺、及び後漢時代から残る貴重な文物の数々はことごとく破壊された。山西省代県にある天台寺の1600年前に作られた彫刻や壁画も破壊された。四川省成都市にある蜀時代の城壁は現存する世界最古の城壁であったがこれさえも破壊された。明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれ、万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却された。中国屈指の書道家王羲之が書き残した書も破壊された。あらゆる仏像が破壊され、経典が燃やされた。

チベットでは6千箇所の仏教寺院がことごとく破壊され、文革が終わったときには8箇所しか残っていなかった。こうして中国人や周辺諸民族が数千年かけて築き上げてきた文化遺産はことごとく破壊されてしまった。

 宗教に対する弾圧はことのほか激しかった。イスラム教徒に強引に豚肉を食べさせ、チベットのパンチェンラマには人糞を食べさせた。ハルビンの極楽寺の三名の僧侶は

「何が佛教経典だ。全部でっちあげだ!」

と書いた看板を持たされた。多くの僧侶が強制的に還俗させられた。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui09.htm


毛沢東は、共産党内部に修正主義に走った裏切り者がいると発言し、中国全土でまだ何の悪い教育に染まっていない末端の人間らに下克上を促しました。 その中で最も狂信的に毛沢東を支持したのが、「紅衛兵」でした。これは都市部の中学校かから大学に至るまでの各学校ごとに、少年少女らが自発的に組織した団体のことを指します。

 彼らは

「孤立無援の毛首席を救え」

とばかりに、片っ端からこれという大人を攻撃し始めました。具体的にどんな風に攻撃するかというと、文字通り殴る蹴るのリンチです。いちおう名目は自分の間違いを改めさせることですから「反省大会」と称し、攻撃対象を大衆の前まで無理やり引っ張ってきて、額から血が出るまで地面に頭をこすり付けたりさせることもざらだったようです。

 何故こんなことが十代の少年少女らにできたかというと、まずは最初にも言っているように毛沢東のお墨付きがあったことと、本来このような混乱から治安を守るべき軍隊が逆にこの動きを後押ししたからです。

 何故軍がこれら紅衛兵の活動を後押ししたかというと、この時に一挙に軍隊内で地位を向上させた林彪の存在が原因でした。彼は文革当初は軍隊内でも中途半端な位置にいたのですが、いち早く毛沢東への支持を表明することによって軍隊内のライバルを裏切り者だと密告することによって根こそぎ追放し、最終的には最高位の元帥にまで昇進しています。林彪自身が毛沢東の強烈な支持者で毛沢東の権勢を利用して下克上を実行したのもあり、軍隊は紅衛兵の活動を逆に応援するようになったのです。

 こうして、無茶なことやら法律を守っても軍や警察がなにもしないとわかるや紅衛兵はますますその行動をエスカレートしていきました。彼ら紅衛兵は具体的にどんな大人を対象に攻撃していたかですが、単純に言って明確な基準は一切ありませんでした。言ってしまえば、

「あいつは反革命的なことを言っていた」

とか、毛沢東選集の中に入っている毛沢東の言葉と何かしら矛盾した発言(行動)をあげつらうか、それでも見つからないなら適当なレッテルを貼り付ければいいだけです。後は反撃できないように集団で取り囲むだけで舞台は整います。ようは気に入らない人間がいれば、好きなだけ集団で攻撃できたということです。

 陳凱歌氏の「私の紅衛兵時代」によると、彼のいた中学校でも紅衛兵が組織され、真っ先にターゲットにされたのは嫌われていた担任の教師だったそうです。その学校の中学生たちは教師を無理やり教室の一番前に立たせると、


「貴様は毛首席の指導と別の指導を生徒に行っていただろ!」

「この場で俺たちに謝れ!」

「思想を洗い直し、真っ当な人間へなるのを俺たちが手伝ってやる!」


 といったように、激しい言葉で糾弾されたと書かれています。毛沢東は若者らを煽動する際に、

「知識のある人間は間違った教育に毒されている。何も教育を受けていない君たち若者らが思うことこそが正しいのだ」

と吹き込んでいるので、一見無茶苦茶とも思えるこれらの発言が出てくるのです。

 それにしても、もし私がこの場にいたらどれだけ気持ちがいいのだろうかと考えずにはおれません。私も、一人や二人はこれくらいの年齢の頃には嫌いな教師が学校にいました。そうした人間に反論を許さず一方的になじり、ののしり、吊るし上げられるのであれば、見境がない反抗期だった頃の自分だったら嬉々としてやったと思います。恐らく紅衛兵たちも、同じような感情だったのではないかと思います。先ほどの毛沢東の言葉である、

「大人は間違っている、君たちこそ正しいのだ」

というようなことを反抗期の中学生なんかに聞かせたら、尾崎豊じゃないけどそりゃあ崇拝するようにもなると思います。

 この吊るし上げは徐々にエスカレートしていき、先ほども言ったように取り締まる人間がいないために法律は事実上機能しなくなり、証拠もなくともレッテルを貼る、つまり密告さえすれば誰でも集団で攻撃することができるので、当初からそうでしたが次第に本来の目的とはかけ離れた感情の捌け口だけのものへと固定されていきました。

 もう一つの資料の「ワイルドスワン」の作者のユン・チアン氏の作者の父も、共産党の地方幹部であったために紅衛兵らから激しく攻撃されたと書かれています。この時代は何度も書いているように下克上が学校から職場、果てには共産党や軍隊内部でも奨励され、基本的に階級の高い人間ほど密告の対象になりやすく、一方的に攻撃を受けました。それは建国の元勲からほんの少し前までの最高権力者でも変わりがなく、抗日戦争から国民党との戦争にて共産党を勝利に導いた彭徳壊、と毛沢東の後に国家主席となっていた劉少奇の二人は、紅衛兵から激しい身体麻痺に至るまで暴行を受け、医者にもかからせてもらえず粗悪な部屋で死に絶えています。二人とも毛沢東にひどく嫌われていたのが原因です。

 この一連の吊るし上げは、恐らく言語に絶するまでに激しかったというべきでしょう。延々と自分の子供くらいの十代の若者に殴られ、

「謝れ!」 とか

「自分がろくでなしであることを認めろ!」

などと言われ続け、自分が間違っていたと言葉に出しても暴行され続けるのですから、考えるだに絶望する気持ちがします。リンチで死んだとしても、殺人として扱われないのですからやりたい放題だったのでしょう。 またこの時代の知識人はその属性ゆえに粛清対象に選ばれやすく、一流の学者でありながら自殺した人間も数多くいました。有名な作家の老舎もその一人です。

 これら紅衛兵の一連の行動は日本で言うとあの「浅間山荘事件」に酷似しています。何故酷似したのかというと、それは言うまでもなく密告合戦の上にリンチになるのが共産党のお家芸だからです。ですからこの後に起こる紅衛兵となった若者らの運命も、「浅間山荘事件」と同じ末路となったことに私は疑問を感じません。その末路というのも、いわゆる内ゲバです。

 またまた「私の紅衛兵時代」の記述を引用しますが、紅衛兵をやっていた陳凱歌氏も、同じ学校の生徒に密告されたためにある日突然多勢の紅衛兵に自宅に押しかけられ、昨日まで仲のよかった同級生らに反革命的だという理由の下に片っ端から家の中の本を焼かれ、家具なども滅茶苦茶に壊されたと書いています。陳氏はそうやって密告しあったり、仲の良かった同士で暴行しあった行動に何故自分も加担したのかというと、加担しなければ自分が仲間はずれに遭うという脅迫感があったからだと述べています。いうなればいじめと一緒で、一緒にやらなければ自分が攻撃の対象に遭うというのが、こんな密告社会を生んだ理由だと私は考えています。

 こうして片っ端から年齢を問わずに中国では攻撃し合い、知人を含めて全員無事でいるものなど誰もいないほどに中国人は互いに傷つけ合いました。大人に至っては思想改造をするために家族を置いて僻地の労働作業場へと無理やり送られ、死ぬ間際になるまで酷使されるかそのまま衰弱死に追い込まれる者が多く、ユン・チアン氏の父親も陳氏の父親も、ボロボロの状態になって帰ってきて、前者はそのまま息絶えることとなりました。

 しかし、こうした混乱をよしとしない者が現れました。何を隠そう、この混乱によって自らの権力を奪回した毛沢東でした。

 若者から絶対的な崇拝を受けていた毛沢東でしたが、これら暴力的な若者たちがいつ自分へと牙を剥くか、またその際に攻撃を防ぎきることができるかと次第に不安に感じたようで、途中からは逆に紅衛兵の解散を自ら説得するように活動し始めました。実際に派閥抗争といった内ゲバが激しくなり、この時の北京は事実上無政府状態と言っていい状態だったので、毛沢東が不安に感じた気持ちも良くわかります。

 そうして、最終的に毛沢東はある名案を思いつくに至ったのです。こうした若者を思想改造の名の下に農村へ追い出すという、文化大革命の中で最大の悲劇となる「上山下郷運動」、通称「下放」を推し進めるに至るのです。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_24.html

自分の権力奪還のために散々若者を煽り、あまりに運動に熱を帯びて毛沢東も危機感を感じ始めたところまで解説しました。 田中角栄が日中共同声明のために北京に来た際、会見場には厳戒警備をしいていたそうらしいです。あれほど崇拝された毛沢東ですら、この時期にあまりにも熱を持ってしまった若者を自分の権勢だけで押さえつけられる自信はなく、散々若者に敵視させた日本の首相と会う際には慎重にならざるを得なかったそうです。

 そんな具合で紅衛兵に代表される若者が邪魔になってきた毛沢東は、ある政策でこの問題に片をつけようとしました。その政策というのも「上山下郷運動」、通称「下放」です。

 ある日、毛沢東はこんな声明を発表しました。

「若者は直に地方の農村で働き、農民の生活を直接学び革命に役立てるべきである」

 もともと毛沢東は自分の権力の基盤を常に農民においており、日本の安藤昌益のように「万人直耕」みたいなことを昔から言っていました。何もこの文革の前から農村で学び、考えることの重要性を訴えていたので政策自体は突然ぱっと出したものではないと私は思っています。

 しかし、この下放には明らかに別の意図がありました。この時代ごろから今の中国にとっても最大の懸案である人口問題が起こり出し、都市部の人口密度が桁外れなものにまで膨れ上がってきていました。こうした人口を外に分散させるとともに、手を焼かせる若者を一挙に片付ける一石二鳥の策としてこの下放が実行されたのです。若者も、毛沢東の言葉と新たな大地を自分が拓くのだという強い意欲とともに、この下放政策を受け入れ率先して地方へと下って行ったようです。

 さて農村で働くといって、日本の田園風景の中でのどかな生活を送る、みたいなのは想像してはいけません。日本でも最近になって問題化してきましたが、基本的に日本の農家は世界的にも裕福な方です。中国や韓国の農村は日本とは比べ物にならないほど貧困が激しく、以前の時代ならばなおさらのことです。なのでこの下放もイメージ的にはシベリア抑留みたいなものの方が近いと思います。都市部の近くの農村に行けた者は幸運だったらしく、大半は西南の密林地域や、東北の極寒地域に放り込まれていったそうです。

 「私の紅衛兵時代」の作者である陳凱歌は雲南省の密林地帯へと十六歳の頃に行き、そこで七年も過ごしたそうです。行った先にはもちろん電気などなく、鍬と鉈と毛沢東選集だけを現地の事務所で受け取り、掘っ立て小屋にて他の下放者と一緒に暮らし、毎日延々と密林の木を切り倒していたそうです。 この本によると、下放者の中には過酷な労働で病気になる者も多く、作業中に木に潰されて亡くなった者も数多くおり、そして発狂する者までもいたそうです。 下放されたのは何も男子だけでなく、たくさんの女子も同じように下放されています。資料ではある女子の発狂するに至る過程が描かれていますが、あまりの生々しさにここでは紹介することを遠慮させてもらいます。

 陳氏はこの下放を振り返り、何が一番印象的だったかというと木を切り倒したことだと述べています。結局、自分たちは大いなる自然に対して一方的に攻撃を加えていただけなのではと、成人後に現地へ赴いた際に強く思ったそうです。なにも木を切り倒すだけでなく焼き畑も数多く行い、あれだけあった密林もほとんどなくなってしまったことに強い後悔の念を抱いております。

 もう一つの資料の「ワイルドスワン」に至っては、この下放についてより生々しく描かれています。作者のユン・チアンも南方の密林地域に下放されたのですが、現地の農民とは言葉が全く違っていて何も会話することができず、これまで農作業など全くやってきていないのに突然農村へ放り込まれ、慣れない作業に体を何度も壊したり、病気になる過程が事細かに書かれています。

 その上でユン氏は、資本主義の国ではブルジョアとプロレタリアートの間で格差が広がり地獄のような世界が広がっていると教えられてきたが、果たしてそれは本当なのか。それよりも、この国の現状以上の地獄があるのだろうかなどと、これまで教えられてきたことや自分が紅衛兵として行ってきた事に対して疑問を持ち始めたと述べています。しかしそれでも、ユン氏も強調していますがそれまでの教育の成果というべきか、とうとうこの時代には毛沢東を疑うことはなかったそうです。

 前回の記事で、この下放こそが文化大革命の最大の悲劇と私は評しましたが、実はこの下放問題は現在進行で未だに続いている問題なのです。どういうことかというと、この後に文革は終了するのですが、下放された若者たちは下放された時点で都市戸籍から農村戸籍へと変更されてしまい、故郷へ帰ろうと思っても帰ることができなかくなった者が続出したのです。

 ちょっと簡単に説明すると、中国では「都市戸籍」と「農村戸籍」と分けられ、都市の人口をむやみに増やさないためにも農村戸籍の人間は都市に引っ越すことができないようになっています。つまり先ほどの下放された若者らは、事実上この時期に都市から追い出されて二度と故郷に住むことができなくなったのです(短期滞在は可能)。

 先ほどの両氏によると、無事故郷に戻ることができた人間は非常に幸運だったそうです。下放された者の中には現地で死亡した者も多く、また下放者同士で子供を作ってしまった者はそれがネックになって帰郷が許されなかったり、それがために子供を現地に置いて帰郷するものもいたりなどと。

 現在でも、この時期に下放された人の多くが地方に取り残されたままでいるそうです。 陳氏などは軍隊に入ることで帰郷が叶ったそうですが、彼の友人などは東北部で凍死したなどと書かれています。それがため、この時代に若者だった中国人の大半は世にも凄惨な歴史に翻弄されて今に至ります。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_26.html


              /               \
          / / ∠三ミレ-- 、      ヽ
         / / //─'''´ ̄ ̄`ヽ      ゙i
        / /  //        ゙iヽ  ヽ  |
        ,' /  //          | ヽ  ', |
        | |  / l,、、,,_   -‐''" ̄`゙i. |   | |
        | | / ノ,.t-、    'Tッ'Tゝ ヽ|レ‐、| |
        ゙i |/ ,ィ`' _L.,!    ` ┴'  リ‐、 } |
        .!///゙!     ,         ノ__/ .!
         |/ | ',    ゙        /  |  |
          |! |  \   ゚       /  |  .!
          {  |  | | ゙ヽ、    /  |   |  | ガキンチョを騙す程
         ゙、 ', | |   | `l'"´    ゙、|  |i   | 簡単な事は無いわ
         ヽ ヽ | |   レ'′      \ || /
           /ヽ \!  |  ̄ ``   r'´ ` ̄``ヽ
        /   ヽ ヽ ノ                   ヽ
        |     〉 V              |   |
        |    /  /       \       ヽ、 |
        |    / / /|       ヽ       \
        .!   / { ヽ|    ...     ゙、        ヽ
        |  {  ゙i   ヽ  ::r.;:.     l         ::_)
        .!  \ ト、 |   `゙"     /          /
         |    ト| | ∧       /           /
            |  / / /|| ゙ヽ、 __ ,. -'"    ` ーr┬ '′
          | / / | ヽ、               | /


毛沢東の死と文革の終わり


 毛沢東は死の間際、数年前から中央指導部に引っ張り側近に取り立てた華国鋒を次の後継者として指名していました。何故この華国鋒が毛沢東によって突然の抜擢を受けたかというと、それも今のところよくわかっていません。ただ中央指導部に抜擢されたのは派閥人事のなかでバランスを取るためだといわれており、事実この人はどうにもキャラが薄く、これというはっきりした政策案とか色を持っていなかったようです。

 それがために死後に混乱を恐れた毛沢東が、どこにも派閥に属していないという理由だけで華国鋒を取り上げたのかもしれませんが、毛沢東の死後、残った華国鋒はたまったもんじゃなかったと思います。というのも権謀術数渦巻く中央政界において何の後ろ盾も持たない自分だけが形だけの最高権力者として放り込まれ、案の定毛沢東の側近として文革を推し進めた「四人組」がより大きな権力を求め(四人組の中の一人である毛沢東の妻の江青は国家主席の地位をねらってたと言われている)、華国鋒の追放を画策し始めてきました。

 そんな状況下で、華国鋒には恐らく二つ選択肢があったと思います。一つは四人組に従い、国家主席の地位を投げ出すか、四人組に唯一対抗できる「猛虎」を自分の下へ引っ張り込むかという選択肢です。結果から言うと、彼は後者の選択肢を選び、第一次天安門事件にて再び追放されたケ小平を招聘するに至るのです。

時系列的には華国鋒は先に四人組を軍隊の幹部である葉剣英と組んで毛沢東の死から一ヵ月後に電撃的に逮捕、死刑宣告を行って一掃し、その後にケ小平を中央指導部へ招聘しています。恐らく彼はケ小平の力を借りながら自らの地位を守っていこうと考えたのだと思いますが、虎はやはり虎で、案の定自ら招聘したケ小平によって失脚させられます。

 事の次第はこうです。四人組の逮捕後、恐らくケ小平への牽制として華国鋒は自分の新たなスローガン、その名も「二つのすべて」を発表します。これは単純に言って、「毛沢東の言ったこと、やったことは何一つ間違いがない」という内容で、要するに毛沢東の目指した路線を守っていこうという政治信条で、これを発表することによって毛沢東の支持層を取り込もうと考えたのだと思います。しかしこれに対して毛沢東がいなくなって怖いものがなくなったケ小平は猛然と真っ向から否定し、こう言いました。

「毛沢東の言ったことにも、中には間違いもある」

 華国鋒はあくまで毛沢東路線を引き継ごうとしたのに対し、ケ小平ははっきりと毛沢東の後年に行った文化大革命などの一連の政策は間違いだったと主張したのです。しかしここがケ小平のうまいところで、彼はそれに加えて、「毛首席は確かに間違ったことをした。しかしそれでも功績七割、失政三割で、やはり彼は偉大な指導者であった」と毛沢東を全否定せずに文革のみを否定し、毛沢東の支持層を含めて民衆を大きく取り込んだのです。

 この論争は民衆の感覚をどう捉えていたかの両者の違いがはっきり出ています。華国鋒もケ小平も文革の混乱をどうにかせねばと考えていたのは間違いありませんが、民衆がどれだけ毛沢東に傾倒しているか、文化大革命にどれだけ憎悪を燃やしているかを華国鋒よりもケ小平の方がしっかりと計算できていたようです。「ワイルドスワン」のユン・チアンもこのケ小平の打ち出した路線を知った時に、地獄に仏のように思ったとつづり、だからこそ後年の第二次天安門事件で虐殺を行ったとは信じられなかったと述べています。

 その後、華国鋒はケ小平の批判を受けて次第に権力がなくなり、最終的に指導部からかなり早くに追い出されることになりました。しかし文革期のように集団リンチを受けたり強制労働をされるわけでもなく、一定の地位と収入をもらって余生を過ごしていたようです。その一つの証拠として、この華国鋒は87歳で、つい先月の八月二十日に天寿を全うして亡くなっています。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_8107.html


|||||||||||||||''|||||||||||||゙|||||゙|||''|||||'゙||||゙||||||||||゙||||||||||||||||||||
|||||||||||||゙ || |||||||゙||' ||゙ ゙|| '||| ||| ゙|||||||゙ |||||||||||||||||||
|||||゙||||||゙ || ||||| ||  | || | |'||  ||  ゙||||゙  ||||||||||||||||||
|||| |||||__,,,|- ||| | '''|/| | | |\,,|''' ||| ,,,,,,||゙||| ||゙゙゙||||||
||||/|||゙ ,,,|,,|||--・''''゙゙  ゙  |  |・- |- ,,,,,,|| || ||  ||||||
|||| ,,|||-'''  | |   ::::::    ,.::::   |   |'''|-| 丿||||
|||| ''' ゙  ,,,,,,,,,,,   :::::    .:::''         ゙''- |||
| リ三,, - 'i': : : : :゙:'ヽ. ::   :::'' ,, -'':゙:゙:゙゙:':'ヽ-,, 彡 |||
   'ヽ, |': :(●): :| 'ヽ:::  .::'.'/ |: :(●): :| ゙''-,,,,,:::||
 -=-,,,丶|,,: :'''': :,,リ,-,,,|::::  ://.,,,,,,,|: : :''''' : リ/゙-ヾ 丿
゙・ ''゙゙, -・-゙'''''''''゙-=≡_丶 '''',ヾミミ゙゙''''__-'''_彡ヾ'''' /ソ  
''|,  ゙       ゙゙,-'''゙   ヽ-     ̄   ゙゙  | ,ノ゙
゙ヽ,   ,,,,      //   ,ヽ       .,,,  ,||||||
||||i,,  1゙゙,,-ヽ,,,,   ,/゙゙..  :ヽ,     ..,,,,,゙゙゙リ /|||||||
|||||ヽ ゙'' |ヽ''・,,,','-  ''''ヽ,,-''''゙ ,,,,:/.,,,./:リノ 丿||||||
:|| |||iゝ   fリt^-'',',,・-..,┬,,,,...--・・,゙゙_ リ//  /||| リノ
  ||||ゝ,,丶\::v || |:‖ -__w ヽリ゙リ゙|j:‖//  /|リ
   ヽヾゝ''ヽヽ::,, --v,‖ :リ,,リ,゙,,,,,::://ノ /リ
     ヾ|ヽ,゙ヽヽ,,   ''|'''_  :::ソ/  /リ
      | ゙ヽ.\゙Vri ri | ‖iヾソノ  / |
      |   \,゙' ,,゙''''''゙゙''''''゙゙/ /   |
      |    \ ゙゙'''''゙゙'''''''゙ /    |


_________________

3) 林彪 _ 中国皇帝の恐ろしさがわからなかった策士の末路


 文化大革命初期に、これら元勲メンバーの中でいち早く毛沢東支持を表明したのが林彪でした。彼は抗日戦争の頃から活躍した将軍でしたが、年が他の元勲より若いということもあってこの時期には軍隊内で元帥とは言っても最高権力者にはなれずにいました。そんな時、毛沢東が文化大革命を引き起こし、それに乗ずる形で毛沢東に接近し、彼の威光を使うことによってライバルたちを次々と引きずりおろして軍隊内での地位を固めていきました。

 毛沢東が何故文化大革命を引き起こせたのか、その最大の要因となったのは軍隊、この林彪が毛沢東の行動を支持、協力したのが大きいといわれています。そのせいか毛沢東の林彪への信任は厚く、生前にははっきりと自分の後継者だと明言しております。

 そんな林彪が、文革末期の1971年に突然亡くなります。しかも、暗殺でです。事の起こりはこうです。この年のある日、中国とソ連の国境付近で飛行機が墜落しました。墜落現場をソ連の調査団が調べたところ、現場にある焼死体のうちの一つが林彪のものだと確認されたのです。

 この事件が発覚した際は各所で大きく事件が取り上げられました。何故毛沢東の後継者とまで呼ばれている林彪が墜落死したのか。しかも墜落したのが中ソの国境付近ということから林彪ががソ連への亡命を行おうとしていたことがわかります。

 この事件の最大の謎は、毛沢東の後継者として思われていた林彪が何故ソ連へと亡命を謀ったのかです。それについては諸説あり、まず一つが毛沢東の暗殺を謀ったためという説が今現在で最も強いです。

毛沢東との関係は非常に深かったものの、猜疑心の強い毛沢東に次第に疑われこのままでは遅かれ早かれ他の幹部のように殺されると考えた林彪が、逆に相手を討ち取れとばかりに暗殺計画を練ったのが毛沢東にばれ、亡命を図ったもののその途中で毛沢東の追っ手によって飛行機が打ち落とされたというのがこの説です。また林彪自身は暗殺を計画しなかったまでも、息子の林立果が計画し、それが漏れたという説もあります。


 この説に対する対論として、暗殺を謀ったのが林彪ではなく毛沢東だったという説があります。なぜなら林彪は既に毛沢東の後継者として指名されてあるので、遅かれ早かれ何もしなければ最高権力者につけるはずなので、毛沢東の暗殺を謀るのは矛盾しているという説に立ち、一方的に猜疑心の強い毛沢東が林彪に対して暗殺を謀り、それから逃亡しようとしたところを結局打ち落とされてしまった、という説です。

 この事件については現状でもまだまだ明らかになっていない事実が多く、真相が明らかになるにはまだまだ時間がかかると思います。ただ一つ明らかなのは、この事件がきっかけで毛沢東はその後急速に方針を転換するに至っています。

 残っている記録によるとこの事件は毛沢東にとっても相当ショックだったようです。真偽はどうだかわかりませんが林彪機墜落の報を受けて毛沢東は、「逃げなければ殺さなかったものの」とつぶやいたという話があります。

 恐らく、毛沢東としては文化大革命の初期からの自分の支持者だった林彪の、少なくとも亡命にまで至る裏切りは相当堪えたようです。またこれまでの自分の採ってきた政策にも疑問を持ったのか、一度は自らの手で追放した実務派のケ小平をわざわざ復権させて政務を取らせるようになっています。

 私の考えを述べさせてもらえば、その後の毛沢東の慌てぶりを見ると彼が率先して林彪を殺害しようとしたとは思いづらいです。とはいえ林彪を廃した後、毛沢東は急速にアメリカ、ひいては日本と急接近するなど外交路線でも大きな転換をしており、この事件が彼の政策を転換するに至る象徴的な事件であることは間違いありません。
 文化大革命全体を通しても、この事件が果たした役割は非常に大きいといわれております。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_27.html

 
 文化大革命のなかで、一人の人物がのしあがってきた。林彪(1907年〜1971年)である。

彼は1969年4月の第九回党大会で毛沢東の後継者としての地位を手に入れ。毛沢東の親密な戦友と讃えられた。ところがその2年後、71年9月に毛沢東暗殺に失敗し、飛行機で逃亡中にモンゴル領内で墜死した。この事件の背後に何があったのか。

 毛沢東のすすめた「大躍進」をもっとも痛烈に批判したのは、当時国防部長の要職にあった彭徳懐だった。1959年の夏廬山会議で毛沢東は周恩来と謀って彭徳懐を失脚させ、のちに惨殺させた。そして、その後釜に林彪を据えた。林彪は革命活動の初期から毛沢東のもとで働いており、毛沢東にとっては安心できる腹心だった。

 こうして軍事委員会を牛耳るようになった彼は、毛沢東個人崇拝をおしすすめ、毛沢東の庇護のもとに異分子を排除し、軍部を自分の息のかかった部下で固め、実力をつけていった。大躍進路線の失敗が追求された1962年の七千人大会では、

「この数年の誤りと困難は毛主席の誤りではなく、逆に多くの事柄を毛主席の指示通りに行わなかったことによってもたらされたものである」

と最大限毛沢東を擁護し、周恩来とともに毛沢東を窮地から救った。  1966年5月、政治局拡大会議の席上、林彪は反革命のクーデター計画があると発言し、その首謀者として、彭真(北京市長)、羅瑞卿(総参謀長、副総理、中央書記処書記、国防部副部長)、陸定一(中央宣伝部部長)、楊尚昆(機密、情報、連絡担当、中央弁公庁主任)らの名前を挙げた。

 この頃林彪は紅青(毛沢東夫人)など四人組と組んで文革路線を押し進めようとしていた。そのため、その障害になる反文革派のこの4人をまず粛正する必要があった。とくに彼の部下でありながら文革に批判的な羅瑞卿の粛正は、彼が副総理として軍部の実権を握っていただけに絶対に必要なことだった。 羅瑞卿は逮捕された後飛び下り自殺を図り、重傷を負った。 羅瑞卿の粛清は林彪を勢いづかせた。軍内の掌握を完全にしただけではなく、他の指導者たちにも恐怖心を与えることができた。羅瑞卿が勢力を持っていた公安部の副部長、司局長、省市レベルの公安局長も連座し、その職はことごとく林彪の一派で占められていく。

 林彪はクーデター計画をねつ造して、その他の有力者も一掃した。そうすると、あと残るのはただひとつである。いうまでもなく、劉少奇国家主席を失脚させることだ。 1966年7月29日人民大会堂で文化大革命積極分子による一万人大会が開かれ、劉少奇はこの大会でこう述べた。

「文化大革命をどうやるのか、君たちが知らないならば、われわれに聞きに来給え。私は正直に言うが、実は私も知らないのだ」

 劉少奇国家主席として毛沢東につぐNo2の位置にあったが、決して野心家ではなかった。毛沢東を尊敬することでは他にひけをとらなかった。だから、文化大革命についても、その理想を額面通り受け止めていた。

彼が文化大革命が実は毛沢東個人崇拝を復活させ、自分たちを失脚させるための権力闘争だと気付いたとき、彼はすでに完全に武装解除されて包囲されていた。
 
1966年8月、八期一一中全会が開かれた。毛沢東は

「司令部を砲撃しよう──私の大字報」

を書いて会議場に掲示させた。砲撃されるべき司令部が劉少奇であることはいうまでもなかった。劉少奇はナンバー2の地位からナンバー8に落ちた。実権派と認定され、実質的にポストを外された。

 劉少奇に代わって、No2に昇格したのは、No6の林彪だった。彼には党副主席の肩書きが与えられた。一気に、朱徳、周恩来、陳雲を飛び越えて、59歳の林彪がこの栄誉を手にすることになった。その背景に、彼の熱烈な毛沢東崇拝と、軍事力があった。しかし、かれの毛沢東崇拝がまっかな偽りであったことがやがてあきらかになる。

 No2に昇格したとはいえ、彼の権力基盤はまだ盤石とはいえなかった。軍隊の内部にも実務派を支持する勢力はあった。地方の軍司令官もまだ多くはゆれていた。その象徴は1967年5月13日の武闘と7月20日の武漢事件であろう。いずれも実権派と造反派の武力衝突だが、なかでも武漢事件では毛沢東が実権派の軍隊に軟禁されるという不祥事が発生し、周恩来の説得で毛沢東はようやく解放されてことなきを得た。この数年間の中国は、たしかに内乱状態一歩手前といってよかった。

 しかし、こうした小刻みな闘争を経て、林彪は確実に勢力を拡大していった。そして、1969年4月の第九回党大会で、彼は生涯の絶頂期を迎える。林彪は軍内を基本的に掌握し、党のレベルでは唯一の副主席として、腹心を政治局と中央委員会に多数配置できた。軍隊だけでなく、党、政府、地方レベルでも、林彪グループに鞍替えするものが続出した。党大会で採択された党規約のなかに毛沢東の後継者として林彪の名前がはっきりと書き込まれた。

 八期の中央委員195人のうち、九期中央委員として留任したのは53人にすぎず、わずか27%である。陳雲、陳毅、李富春、徐向前、聶栄臻らは政治局を追われ、劉少奇、Deng Xiaoping 、彭真、彭徳懐、賀竜、ウランフ、張聞天、陸定一、薄一波、譚震林、李井泉、陶鋳、宋仁窮らは大会にさえ出席できなかった。

 第九回党大会でかっての国家主席劉少奇は正式に党を除名された。党内で幹部の審査工作を行ってきた江青グループの康生が、劉少奇が活動中に当局に逮捕されたあと釈放された経歴があることに注目し、これをもとに彼を当局のスパイにデッチ上げた。中央委員会がこれを認め、1969年年11月12日劉少奇は裏切り者の汚辱を着せられたまま惨死した。

 これによって、実権派はすっかりなりをひそめた。しかし、実権派が後退した後、林彪の前に、江青グループというあらたな敵が立ちはだかった。そして、このあと彼と彼のグループはアッという間に、権力闘争の罠に落ちて、奈落の底へ転落していくのである。

 1969年末の段階で、林彪グループは軍隊を直接掌握するほかに、中央と国務院の一部部門、一部の省レベル権力を掌握した。これに対して、江青グループは政治局に張春橋、姚文元、汪東興(毛沢東のボデイ・ガード、のち党副主席)を送り込んだものの、国務院や軍内にはいかなるポストも持っていなかった。  しかし、江青はすぐに巻き返しに入った。きっかけは林彪が憲法のなかに、

「毛沢東が天才的に、創造的に、全面的に、マルクス主義を発展させた」

とする記述を書き込もうとしたことだった。これを「毛沢東を天才としてもち上げることによって、その後継者としての林彪自身の地位をもち上げる作戦」と考えた江青は、この改正に断固反対した。 1970年8月23日の二中全会の冒頭で、林彪は予定どうり毛沢東天才論をぶち、翌日の分科会では、陳伯達、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作がそれぞれれ天才論を支持するとともに、これに反対する江青グループを攻撃した。さらに林彪を国家主席にすることが決議された。

 これに対抗して25日、江青は張春橋、姚文元を率いて毛沢東に会い、これが林彪が権力を独占するための野心と陰謀だと訴えた。林彪一派の勢力拡大に脅威を感じていた毛沢東は、すぐに政治局常務委員会拡大会議を召集し、二中全会の休会を提起した。その一方で周恩来と協力して、林彪グループの追い落としに着手した。

 31日、毛沢東は「私のわずかな意見」を書いて、陳伯達を名指し批判した。これをうけて、再会された会議で、陳伯達が批判され、さらに呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作の誤りも批判された。こうして9月6日二中全会が閉幕したとき、わずか10日間で情勢は劇的に変わっていた。

 合法的、平和的に毛沢東から権力を奪取することに失敗した林彪は、このあと軍部によるクーデタを画策するようになる。一方毛沢東も林彪一派に対する警戒を深め、彼らを名指しで批判するようになる。 翌1971年9月5日、林彪、葉群は毛沢東が彼らの陰謀を察知したことに気づき、毛沢東謀殺を決定した。9月8日、毛沢東は南方巡視中に林彪一派の異様な行動を報告され、旅行中に謀殺される危険があることに気付いた。そこで専用列車を急遽紹興まで運行させ、そこに停止させた。こうして謀殺計画をはぐらかして、12日には北京に無事戻った。 12日に謀殺計画の失敗に気付いた林彪は、翌日広州に飛ぶべく12日夜256専用機を秘密裡に山海関空港に移させた。北戴河で静養していた林彪、葉群、林立果と合流して、翌13日、広州へ飛ぶ予定だった。そこで体勢を立て直して、反撃しようと考えたようだ。

 ところが、その夜10時過ぎに、他でもない林彪の娘林立衡が、この逃亡計画を周恩来に密告してきた。周恩来は空港を管理する部隊に256号機の離陸をさしとめるように指示するとともに、毛沢東にこのことを知らせた。 異変に気付いた林彪は予定を早めて、その夜零時ごろ、空港へ向かった。そして、前に立ちはだかる武装部隊の制止をふりきって、256号機を飛び立たせた。飛び立った飛行機は一旦北京に向かったが、すぐに進路を変えて西北をめざした。そして1時55分、256専用機はモンゴル共和国内に進入し、やがてそこに墜落した。

 確認されたのは9つの遺体で、林彪、葉群、林立果、劉沛豊、パイロット潘景寅、そして林彪の自動車運転手、専用機の整備要員3名。副パイロット、ナビゲーター、通信士は搭乗していなかった。燃料切れの情況のもとで、平地に着陸しようとして失敗し、爆発したものと推定されるという。

 林彪とその一派は、権力掌握を寸前にして、あえなく費え去った。林彪の権力争奪の企みは紅青グループ、周恩来らの抵抗によって失敗したが、彼らはこれをどのように位置づけていたのか。彼らが残したクーデタ計画書「五七一工程紀要」から一部を引用しておこう。

「毛沢東は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である。・・・

彼らの社会主義とは、実質的には社会フアシズムである。彼らは中国の国家機構を一種の、相互殺戮、相互軋轢の肉挽き機に変え、党と国家の政治生活を封建体制の独裁的家父長制生活に変えてしまった」

 この文章を読むと、林彪が毛沢東の暴政をかなり正しく認識していたことがわかる。しかし、わずか1年前に林彪は毛沢東を天才的なマルクス主義者だと讃えていた。毛沢東をもっとも極端に神格化し、個人崇拝をあおっていた元凶が林彪である。それもこれも、ただ自分が権力を握るための企みであったことがよくわかる。クーデターを警戒せよと主張した彼自身が、最後はクーデターを敢行し、毛沢東を抹殺しようとした。
 林彪は毛沢東を賛美し、文化大革命を押し進め、修正主義者のレッテルのもと多くの党員幹部を粛正した。そして中国を恐怖と不安のうずまく恐るべき密告社会にした。しかし、最後、彼の野心を砕いたのは、皮肉にも彼の娘による密告だった。林彪は自らが仕掛けた罠に、自ら落ちて自滅した。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


林彪の功績


文化大革命のなかでも、最もドラマチックなのは、林彪の躍進と墜死事件であろう。六九年四月の第九回党大会では毛沢東の後継者としての地位を約束され、毛沢東の親密な戦友と讃えられたが、七一年九月には毛沢東暗殺に失敗し、ソ連に逃亡を図り、モンゴル領内で墜死するという奇怪な事件を引き起こしているのであるから、興味をそそられないわけにはいかない。

林彪(一九〇七年〜一九七一年九月一三日)は、北伐戦争(一九二六〜二七年)と南昌蜂起(二七年八月一日)を経て、最初のゲリラ根拠地である井岡山(江西省西部の山岳地帯)に立て籠もった。

三五年夏以来の江西省を中心とするゲリラ地区から陝西省北部への二万五〇〇〇華里の大長征に参加し、延安時代には紅軍大学、抗日軍政大学の指導者として幹部養成に貢献した。

日中戦争期には平型関戦役(三七年九月二五日)の勝利にも功績があった。
遼瀋戦役(四八年九月〜一一月)、平津戦役(四八年一二月〜四九年一月)の主要指揮員の一人でもあった。

その後第四野戦軍を指揮して南下し、武漢を解放し、広東、広西に到り、一九五〇年に海南島を解放した──

これが中国革命のなかでの林彪の功績である。革命活動の初期から毛沢東のもとで働いたために、重要な役割を与えられたわけである。

出世術、クーデタ術を研究


林彪は戦闘中に重傷を負った。モスクワに送られ治療したが完治しなかった。そこで建国以後、林彪はずっと病気療養していた。 しかし一九五九年夏廬山会議で彭徳懐が国防部長を解任され、林彪が後を襲うようになるや、政治的野心が頭を擡げてきたといわれる。

林彪は戦傷を癒すために、「吸毒」(モルヒネ注射)の習慣があった。毛沢東はかねてこの事実を知っており、五〇年代に曹操の詩「亀雖寿」を書き贈り、戒めとするよう忠告していた。

しかし、林彪秘書の記録によると、悪習はやまず、たとえば七〇年五月二〇日、天安門広場の百万人集会で毛沢東声明を林彪が代読したが、これはパレスチナをパキスタンと読み誤るなどシドロモドロであった。これは当時は睡眠薬を過度に服用したためと説明されたが、実はモルヒネが切れたためではないかと示唆されている。

毛沢東の親密な戦友にして後継者がアヘン中毒であったという事実は、やはりわれわれに衝撃を与えないわけにはいかないであろう。

一九六〇年から六四年にかけて、林彪は内外の歴史書、各王朝の演義、軍閥混戦の資料などを少なからず読み、曽国藩、袁世凱、張作霖などを研究した。要するに、出世術、クーデタ術を研究したのであろうか。

一九六六年五月一八日、林彪は政治局拡大会議でクーデタ問題を大いに論じている。たとえば一九六〇年以来六年間に世界で毎年平均一一回のクーデタが発生した、と述べ、また中国歴代王朝から蒋介石までの政変を一気にまくしたてている。

一九六〇年以後、林彪は四つの第一、三八作風、政治の突出、政治はその他の一切を撃つことができる、活きた思想をつかむ、四つの立派な中隊などの毛沢東思想活用運動をつぎつぎに提起して、毛沢東から賞賛された。

毛沢東が大躍進の責任を自己批判せざるをえなかった一九六二年一月の七千人大会では、毛沢東を支持してこう発言している。

「この数年の誤りと困難は毛主席の誤りではなく、逆に多くの事柄を毛主席の指示通りに行わなかったことによってもたらされたものである」。

大躍進・人民公社政策の失敗によって四面楚歌に陥っていた毛沢東にとって有力な援軍となったはずである。こうして林彪は毛沢東が個人崇拝を最も必要としたときに、巧みにそれを行って毛沢東の信頼を固めたわけである。

              /               \
          / / ∠三ミレ-- 、      ヽ
         / / //─'''´ ̄ ̄`ヽ      ゙i
        / /  //        ゙iヽ  ヽ  |
        ,' /  //          | ヽ  ', |
        | |  / l,、、,,_   -‐''" ̄`゙i. |   | |
        | | / ノ,.t-、    'Tッ'Tゝ ヽ|レ‐、| |
        ゙i |/ ,ィ`' _L.,!    ` ┴'  リ‐、 } |
        .!///゙!     ,         ノ__/ .!
         |/ | ',    ゙        /  |  |
          |! |  \   ゚       /  |  .!
          {  |  | | ゙ヽ、    /  |   |  | 犬になれなければ
         ゙、 ', | |   | `l'"´    ゙、|  |i   | 出世できないのよ
         ヽ ヽ | |   レ'′      \ || /
           /ヽ \!  |  ̄ ``   r'´ ` ̄``ヽ
        /   ヽ ヽ ノ                   ヽ
        |     〉 V              |   |
        |    /  /       \       ヽ、 |
        |    / / /|       ヽ       \
        .!   / { ヽ|    ...     ゙、        ヽ
        |  {  ゙i   ヽ  ::r.;:.     l         ::_)
        .!  \ ト、 |   `゙"     /          /
         |    ト| | ∧       /           /
            |  / / /|| ゙ヽ、 __ ,. -'"    ` ーr┬ '′
          | / / | ヽ、               | /


腹心で固めたセクト


林彪の権力への道の第二戦略は、セクト作りであった。林彪は元来第四野戦軍の指導者として、一つの派閥をもっていたわけだが、軍事委員会を牛耳るようになってから、林彪派の形成を意識的に行った。「双一」(すなわち紅一方面軍、紅一軍団)にかつて属したことがメンバーの条件であった。「双一」こそが後の第四野戦軍の源流である。黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作、いずれもその資格を備えていた。

林彪の第三戦略は、異分子の排除である。

一九五九年に軍事委員会を牛耳るようになってまもなく、総政治部主任譚政を解任した。

元総政治部主任羅栄恒(一九〇二年〜六三年一二月)は林彪のやり方を毛沢東思想の俗流化と批判していたために、文革期に羅栄恒未亡人林月琴を迫害している。
国防部長になった一九五九年以来、五〜六年で腹心の配置に成功している。まず邱会作を総後勤部部長、党委員会第一書記とし、六二年には海軍の指導強化の名目で李作鵬を海軍常務副司令員にした。六五年には空軍司令員劉亜楼の死去に乗じて呉法憲を任命している。

このように腹心で固め始めた林彪にとって、軍の指導権を奪取する上で、直接的障害は羅瑞卿であった。彼は軍事委員会秘書長、総参謀長、副総理、中央書記処書記、国防部副部長、国防工業弁公室主任の六つの要職を兼ねていた。

羅瑞卿を解任


羅瑞卿は元来は林彪の部下であった。 林彪・羅瑞卿の関係は当初の一、二年はまずまずであったが、羅瑞卿はまもなく林彪とソリが合わなくなった。両者の破局がやってきた。しかもそれは大きな悲劇の序幕でもあった。

一九六五年一一月末、林彪は毛沢東宛に手紙を書き、報告するとともに葉群を派遣して羅瑞卿関係の資料について口頭で報告させた。葉群は杭州で毛沢東に対して六、七時間報告した。六五年一二月八〜一五日、上海で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。葉群はここで三回発言し、羅瑞卿の罪状を暴露した。会議が始まって三日後、羅瑞卿のもとに飛行機の出迎えがあり、上海に着くやいなや隔離された。会議が終わるや羅瑞卿の軍における職務が解任された。

一九六六年三月四日〜八日、北京で羅瑞卿批判の会議が開かれた。同時に「羅瑞卿の誤りについての報告」が起草され、一九六六年五月、政治局拡大会議で承認された。
この間三月一八日に羅瑞卿は飛び下り自殺を図り、重傷を負っている。

羅瑞卿の最大の罪状は、葉群の説明によると個人主義が野心家の地歩にまで達して、国防部長の地位を林彪から奪おうとしたことである。その証拠として挙げたのは劉亜楼(元空軍司令)の証言であり、死人に口なし、反駁のしようのない証拠であった。

党内の敵を摘発


羅瑞卿の粛清は林彪派にとっていかなる意味をもったであろうか。

第一に林彪の権力獲得にとって直接的障害が排除された。軍内の掌握に有利となったばかりでなく、羅瑞卿の黒幕追及の名において、他の指導者たちにも脅しをかけることができるようになった。上海会議の際に葉群は羅瑞卿が賀竜と密接であったとして、軍事委員会副主席である賀竜を自己批判させようとした。羅瑞卿は公安部で他年工作していたので、同部の副部長、司局長、省市レベルの公安局長も連座する者が少なくなかった。

要するに、羅瑞卿粛清を一つの突破口として、奇襲攻撃により、党内の敵を粛清するモデルを作ったことになる。


第二に、呉法憲、李作鵬、邱会作らは羅瑞卿粛清を通じて、それぞれの任務を分担し、林彪派の核心としてより結合を深めていった。

第三に林彪は党内に潜む野心家を摘発することによって、毛沢東に忠実な戦友、学生としてのイメージを固めることになった。

一九六六年五月、政治局拡大会議が開かれた。林彪は五月一八日クーデタについて大いに語り、彭真、羅瑞卿、陸定一、楊尚昆らがクーデタをやろうとしているとし、彼らを摘発することが修正主義者による奪権を防ぐことになると力説した。

羅瑞卿が軍権を握り、彭真(北京市市長)はいくつかの権力を握り、文化思想戦線の指揮官は陸定一(中央宣伝部部長)であり、機密、情報、連絡担当が楊尚昆(中央弁公庁主任)である。

文武相結合して、反革命クーデタをやろうとしていると林彪は述べた。

この四人は文革初期に四家店として集中的に攻撃されたが、彼らは文革を発動するうえで直接的障害となっていた四つの部門の代表であった。 林彪が毛沢東の権威を利用して、自らの権威を高めようとしているのを知りながら、毛沢東もまた林彪を利用して、自らの鬼を打とうとしていたのであろう。

林彪昇進の背景


一九六六年八月一日〜一二日、八期一一中全会が開かれ、林彪は唯一の党副主席、毛沢東の後継者の地位を確保した。ナンバー6からナンバー2への昇格である。このような急激な昇進が可能であった背景としては、つぎの事情がある。

第一に文化大革命を進めようとした毛沢東が林彪の軍事力を必要としたことである。

第二に、林彪は十大元帥の一人として軍功があるばかりでなく、毛沢東に対する個人崇拝の演出者として、政治的資本も手に入れていた。

第三に選挙前の政治局常務委員七名のうち、劉少奇、Deng Xiaoping は路線の誤りのゆえに批判されており、朱徳は老齢であった。毛沢東は周恩来、陳雲に対しては、その穏健路線が不満であった。林彪は当時五九歳の若さであり、後継者として有利な条件を備えていた。


林彪は文革の推進者として毛沢東によって抜擢された以上、毛沢東の期待に応えなければならない。それはまた自らの野心を満たすことでもあった。六六年八月八日、林彪は中央文革小組を接見して、天地を覆さなければならない。ブルジョア階級もプロレタリア階級も眠れないほどの騒ぎとしなければならないと述べた。
一九六六年八月中旬、林彪は葉群を通じて、劉少奇誣告の資料を雷英夫(解放軍総参謀部作戦部副部長)に書かせた。林彪はこれを江青を通じて毛沢東に届けた。
八期一一中全会およびその後の会議で林彪は幾度も劉少奇、Deng Xiaoping を名指し批判した。一九六八年九月二九日、林彪は劉少奇専案組の「罪状審査報告」にコメントを書いて、劉少奇には五毒が備わっており、罪状は鉄のごとく硬い。出色の専案工作を指導した江青同志に敬意を表すると述べた。

林彪と江青が結託して集中的に老幹部を粛清しようとしたのは一九六七年春から八期一二中全会にかけてである。

林彪グループと江青グループとは、文革を収拾し、第九回党大会を開く上では、結託したが、大会前後から仲間割れが生じ、九期二中全会(七〇年八月)までには鋭く対立するに至った。

表向きの論争テーマは憲法改正問題である。憲法のなかに毛沢東が天才的に、創造的に、全面的に、マルクス主義を発展させたとする三つの形容句をつけるか否か、国家主席を設けるかどうかなどがポイントであった。前者は毛沢東を天才としてもち上げることによって、その後継者としての林彪自身の地位をもち上げる作戦であり、後者は林彪が国家主席という名の元首となることによって、後継者としての地位を固めようとするものであった。

林彪の陰謀と野心に気づいた後、毛沢東は周恩来と協力して、林彪グループ批判に着手した。こうして二中全会を契機として、林彪グループの勢力が削減され始めたことは、江青グループの勢力を増大させることになった。

警戒を深める毛沢東


では九期二中全会の争いのポイントは何であったのか。毛沢東はのちに、五人の(政治局)常務委員のうち、三人が騙されたと語ったが、これは林彪、陳伯達が毛沢東、周恩来、康生を騙したという意味である。林彪は国家主席を設けるという合法的な手段で後継者としての地位を固めようとしたが、これが阻まれるや、毛沢東から林彪への権力の平和的移行を断念し、クーデタを追求するようになった。

毛沢東が林彪への危惧を感じたのは、江青への手紙によれば、六七年夏のことだが、いまや林彪への不信は動かしがたいものとなり、その勢力を削減する措置を講じ始めた。
七一年八、九月、毛沢東は南方を巡視した。彼は五大軍区、一〇省市の責任者と話をし、林彪とそのグループを名指し批判した。

毛沢東は八月末に南昌に着くや、それまでは林彪にすり寄っていた程世清から葉群や林立果の異様な行動を報告され、警戒を深めた。

九月八日深夜杭州では専用列車を急遽紹興まで運行させ、そこに停止させた。九月一〇日、杭州から上海に向かった。しかし、下車はせず、一一日、突然北京へ向かった。一二日午後、豊台に停車し、北京軍区と北京市責任者と話をして、夕刻北京駅から中南海に戻った。

毛沢東は林彪の謀殺計画を察知し、ウラをかいて行動したものであろう。


林彪グループは上、中、下、三つの対策を検討した。

上策は毛沢東を旅行途中で謀殺したあと、林彪が党規約にしたがって合法的に権力を奪取するものである。

中策は謀殺計画が失敗した場合、黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作らと広州に逃れ、割拠するものである。

下策は以上の両策が失敗した場合、外国に逃れるものである。

毛沢東暗殺計画


一九七一年九月五日、林彪、葉群は毛沢東が彼らの陰謀を察知したことに気づき、毛沢東謀殺を決定した。

九月八日、林彪は武装クーデタの「手令」を下している。しかし、毛沢東は九月一二日夕刻無事に北京に戻り、謀殺計画の失敗は明らかになった。

一二日林彪は翌日広州に飛ぶべく飛行機八機を準備させようとした。一二日夜トライデント機256号は秘密裡に山海関空港に移され、北戴河で静養していた林彪、葉群、林立果が翌一三日、広州へ飛ぶ予定であった。

これらの秘密は林彪の娘林立衡によって、周恩来に通報されたことになっている。すなわち九月一二日夜一〇時過ぎ、林彪の娘林立衡からの通報は北戴河8341部隊を通じて周恩来のもとに届いた。

周恩来は256号機を北京に戻すよう指示するとともに、追及を始めた。これを知った林彪は一三日午前零時三二分、山海関空港で強行離陸し、ソ連に飛ぶ途中モンゴル共和国のウンデルハンで墜落した。

九月一二日の経過はこう描かれている。

林立果、劉沛豊は北京から256機を山海関空港に飛ばし、九時過ぎに北戴河の林彪の住まいに着いた。

一〇時過ぎに翌朝出発することを決定した。

林立衡は林立果から広州へ飛ぶことを知らされ、これを密告した。

8341部隊からの通報を受けて、周恩来は呉法憲、李作鵬に256の情況を調べさせ、周恩来、黄永勝、呉法憲、李作鵬四人の連名の批示がなければ、同機の離陸を許さぬと指示した。
夜一一時半頃、林彪はボデイガードの秘書に対して、大連へ飛ぶと電話させた。

一一時五〇分頃、葉群、林立果、劉沛豊は打ち合わせをしたのち、一二時近く北戴河九六号の住まいを出発した。

8341部隊はこれを知って、道路を塞いだ。ボデイガードの秘書は大連ではなくソ連に飛ぶことを知って、林彪の車から飛び下りた。

このとき左の肘を打たれたが、彼も二発発砲した。8341部隊も林彪の車めがけて発砲したが、防弾ガラスに弾き返された。

車は零時二〇分、空港に着いて、三二分に強行離陸した。

モンゴルで墜落死


林彪の車が8341部隊の制止を振り切って空港へ向かったとき、周恩来は人民大会堂から中南海へ行って毛沢東に報告した。

まもなく二五六専用機は離陸し、まず二九〇度をめざし北京に向かったが、すぐ三一〇度に向きを変えて西北を目指した。これは北京──イルクーツク航路である。
周恩来は華北地区のレーダー基地に監視を命ずるとともに、全国に対して飛行禁止令を出した。午前一時半ころ、呉法憲が電話で飛行機は国境を出るが、妨害すべきかどうか指示を求めてきた。周恩来が毛沢東の指示を仰ぐと毛沢東曰く

「雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ。どうしようもない。行くにまかせよ」。


一時五五分、二五六専用機はモンゴル共和国内に進入し、レーダーから消えた。

一三日午前二時半ごろ、ヘンティ省イデルメグ県ベィルフ鉱区南一〇キロの地点に墜落した。

九つの遺体は林彪、葉群、林立果、劉沛豊、パイロット潘景寅、そして林彪の自動車運転手、専用機の整備要員三名であった。副パイロット、ナビゲーター、通信士は搭乗していなかった。このため、燃料切れの情況のもとで、平地に着陸しようとして失敗し、爆発したものと推定した。機内で格闘した形跡は見られなかった。

http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc5/wenge140.htm


林彪は毛沢東の14歳下で、1956年に初めて中央政治局委員に選ばれた。それからわずか10年で、並み居る先輩を追い抜き、No2の座を獲得するのだが、その出世の手段は要するに「よいしょ」である。トップである毛沢東を徹底的に持ち上げることで、その座をつかんだのである。

 1962年1月に拡大工作会議、いわゆる「七千人大会」が開催された。これは、毛が提唱した「大躍進」等の失政について総括することが目的であった。「当時毛沢東本人は〜話したいことは全て話して『鬱憤晴らし会』を開くように求めた」とある。林彪が巧みなのは、そこでも

「現在の困難は『われわれが毛主席の指示に従って行わなかったがためにもたらされたものだ』」

と発言した点だ。 権勢を振るっている最中は、誰しもがお追従を言う。それであれば、多数の中の一人に過ぎず、「よいしょ」が与えるインパクトも小さかろう。ところが、失意の中、周りがきつい言葉を吐く中で、一人変わらず支持を続けたとしよう。毛も失地回復の最中は周りを見る余裕もなかったが、何とか態勢を回復すると、ふと思い出す。そういえば、林彪はあの七千人大会でも鬱憤晴らしをしなかったな、と。林彪が本格的に毛に取り入ったのは、そこがターニングポイントだったのではないだろうか。


 林彪のもう一つの手段は、ライバルを容赦なく蹴落とすことであった。本書で紹介される粛清の記録を読んでいると、卒塔婆が立ち並ぶ墓地を見ているような気になる。

 羅瑞卿(らずいけい)は、毛沢東の忠実なガードマンとして有名な人物である。毛が黄河などを泳ぐ時、近くで泳ぎながら見守っていた姿が印象深い。

 彼は毛に厚い信頼を受け、総参謀長の要職にあった。

 羅は、「毛思想は『最高』というが、最高ではそこで停滞してしまうのではないか」と林の考え方を批判した。

 また、羅は、軍服を要求した江青に対し、軍服は支給するが襟章などは貸与しないとした。

 そのうえ、葉群(林の妻)が要求した准将の地位を拒否した。一人でも危ないのに、三人とも敵に回してしまい、羅はとことんまで追い詰められた。

 悲惨なことに、羅は飛び降り自殺を図る。ところが、さらに悲惨なことに大腿骨を折ったものの「生き残って」しまうのだ。 瀕死の重傷を負ったというのに、批判集会には「かご」に乗せられ、無理やり担ぎ出される。暴力を受け傷はいつまでも癒合せず、病院で転倒し、さらに骨折する。 

「治療してくれ。さもなくば、この脚を切断してくれ」

という悲痛な訴えも、尋問が済むまで治療は延期され、結局羅は命を落とすのである。

 賀龍といえば、長征の時の第二方面軍のリーダーだ。

 ところが、1966年7月に、ごくつまらないことで「二月クーデター」なる陰謀を企てたとでっち上げられる。

 周恩来は、ほとぼりをさます意味で、賀龍を郊外の病院に入院させる。しかし、67年1月、林によって、別の場所に移送され、適切な医療はおろか、必要な水や薬さえ与えられない状態が続いた。

 67年6月9日、国民党が10万元の賞金首としてまで命を狙った英雄は、同じ共産党の林の陰謀によって重度の糖尿病による昏睡状態に陥り、還らぬ人となった。


 彭徳懐は、59年の廬山会議で、毛沢東の大躍進政策について諫言したため毛の不興をかい、失脚する。しかし、政治局委員の地位は留任していた。林は彭徳懐にも目をつけ、追い詰めていった。

 62年6月16日、彭は毛に真情を訴える手紙、いわゆる「八万言の書」を出す。

 毛は彭に面会に来るよう自ら電話をかけ、「君というやつは、普段は全然顔を見せないで、手紙は書くとなったら何万字も書くんだからな」とユーモア交じりの暖かい言葉をかける。「ああ、やっぱり主席はわかってくれている」。そう安心した彭を待っていたのは、さらにエスカレートする吊し上げだった。

 本書P65には、批判集会でいわゆる「ジェット式」に腕をねじり上げられている彭徳懐の写真が載っている。

 周恩来は、彭徳懐に対しても必死に病院を手配したが、やはりそこにも江青らの魔手が及び、74年11月29日に彭徳懐は死亡した。


 陳毅の例も印象深い。

 批判集会でも陳毅は毅然としていた。発言冒頭には毛語録から一節を読み上げるのが当時の習慣だったという。陳毅は言った。「語録271P!」自分の語録のページをめくる聴衆。そして会場がざわめいた。語録は270Pまでしかないのだ。

 さらに、陳毅は声を張り上げた。「陳毅は良き同志なり!」

 会場の周恩来が、毛主席が以前、実際にそうおっしゃったのだと解説したため聴衆は感心し、批判集会でありながら陳毅の言葉に真剣に耳を傾けたという。

 67年8月26日、林彪らに煽動された群集は周恩来を取り囲み、批判集会に陳毅を連れ出すと怒号した。その時の周のセリフが泣かせる。

「君たちが陳毅を吊るし上げると言うなら、私が立ちふさがる。それでもやると言うなら、私の体を踏みつけて行け!」

 さまざまなでっち上げ、言葉尻をとらえた告発は枚挙に暇がないので、一番くだらないな、と思ったのを一つだけ紹介する。

 風下にいて煙突の煙にむせた人が「西風が吹けばいいのに」ともらしたのを、毛主席の「東風は西風を圧倒する」(中国の革命は西欧資本主義を駆逐する)を批判したものだとされて、7年間もぶち込まれたそうである。

 文革関係の記述を読んでいると、本当に、もっと古い時代の史書を読んでいるような気分になる。林立果は、林彪の息子である。立果は空軍に入ったのだが、林彪の取り巻きたちは、ことあるごとに「彼は副主席の代理だ。空軍は彼に指導されるべきだ」と持ち上げた。

 林彪は、息子に何か実績をあげさせようと考え、ブレーンに命じて毛思想の解説書をこしらえ、息子にその解説を空軍で講演させ、しかもその講演録を大量に印刷させ配布したという。「親バカ70万冊」である。

 しかも、林彪や葉群は、息子の嫁選びのため全国から美女を選抜する大会を開いたという。将来の「皇后」候補という訳だ。

 周知のように、九全大会において、林彪は正式に「後継者」と決定した。前代未聞だが、党規約に明記されたのである。続く九期一中全会で、林彪は自分の取り巻きで人事を固めた。

 69年末に、劉少奇が死亡する。林彪は、ここで一気に自分が後継者に!と思ったのだろうか。

 その機先を制するように、毛は、70年3月に国家主席のポストは設置しないように提案した。しかし、あえて同年4月、林彪は毛沢東に、国家主席を設け、就任してくださいと提案する。言うまでもなく、国家主席のポストがなければ、自分がその座につけないからである。肩書きの有無など問題にしない毛沢東のようなカリスマ性は自分には皆無だと知っていたのだろう。

 その時の毛の言葉が痛烈だ。

「私は曹操になりたくない。諸君も孫権になるな」

 孫権は、後漢を擁立していた曹操に、自ら帝位に即くようすすめた。曹操は、自分に即位を勧める孫権自身が帝位に即きたいのだろうと皮肉った訳だ。 笑顔で話しながら背後で剣を振り被っていた林彪は、気が付くと逆に自分の喉元に剣が突きつけられているような気分になったのではあるまいか。

 70年8月23日の9期二中全会で事態はさらに風雲急を告げる。林は、陳に命じ「主席設置」議事を強行しようとするが、8月25日、毛ははっきりと討論停止を命じた。

 林彪の平和的奪権は失敗した。次の奪権の機会まで、毛がこのまま安穏と林を見逃し続けてくれる筈はない。

 71年3月27日、林らは「五七一工程」を起草する。毛沢東暗殺計画書である。自ら招いた事態とは言え、最早「殺られる前に殺る」しかないのである。

 71年8月14日、毛は南方へ、「謎の」視察に出かける。クーデターに失敗し、いわば「窮鼠」になった林らが不穏な動きをすることは予想できたであろうに、なぜ、北京を離れたのか。

 視察先で毛は引きこもっていた訳ではなく、多方面の人物と接触した。林彪サイドの人物にも、毛が林を厳しく批判していることが伝わった。危機は近い。林は凶行の実施を決意した。

 ここで私は思った。毛は、かつて戦術論としてこう語っている。「蛇」は顔を出した所をすぐに叩いたのでは、また穴に潜ってしまう。しばらくはほって置いて、完全に姿を現した所でこっぴどくやっつけるのだ、と。

 また、豊臣家を完膚なきまでに叩き潰すため、恭順の意を表しようとしていた豊臣側をさかんに挑発し、関が原、冬の陣、夏の陣に追い込んでいった徳川家康の手口(もちろん、これは豊臣びいきに偏った見解だが)も想起した。

 林らが毛暗殺の総指揮者に指名した江騰蛟(こうとうこう)は、71年9月9日に「毛の列車が上海で停まったら決行」すると内部で宣言した。

 71年9月11日、停車中の毛は、許世友と会うが、王維国の乗車は許さなかった。実は、林らが計画していた暗殺方法には、

(1)火炎放射器とロケット弾で列車を襲撃する、

(2)高射砲で列車を水平砲撃する、という方法のほかに、

(3)王維国が毛と接見する際、車内で銃撃する


という方法も含まれていたから、もし、王が乗車していたら運命はどうなっていたかわからない。 思うに、毛沢東のことであるから、スパイを忍ばせていて、林らの計画はほとんど筒抜けだったのではあるまいか。単に強運、天性のカンだけなのだろうか。

 同日、昼食後、毛は密かに列車を北京に出発させる。同日夜、王維国は「列車は上海を出た」と電話した。林らは目の前が真っ暗になったことであろう。 途中の鉄橋での爆破計画もあったのだが(関東軍の張作霖爆殺事件にならったものである)、毛は途中駅にも一切停車させず、12日夕方に無事北京に帰り着いた。毛の完全勝利だ。


 71年9月12日に林一派の中では「林副主席は広州へ行き、南北朝のように割拠」するのだという話が取り沙汰されたと言う。やはり大時代な話だ。

 ここからは分刻みのサスペンス。9月12日午後8時15分に林立果は、山海関空港から北載河へ向かった。

 12日午後10時30分、周恩来は、北載河の異常を知った。周は、捜索を開始する。

 12日午後11時、周宇馳(しゅううち)は仲間に「ばれた、中止だ」と電話をする。

 午後11時22分、事態を糊塗するため葉群は、周恩来に平静を装って「林が空路で移動します」と連絡した。

 午後11時40分、林は葉群に「すぐに出発だ」と告げる。

 林らは、車を100km以上で疾走させ山海関空港へ急ぐ。

 9月13日午前0時22分、林一行は、トライデント256機のもとに到着する。

 13日午前0時32分、副操縦士らも揃っていなかったが、林たちは離陸を強行する。

 午前1時50分、周恩来は怒りを込めて毛に報告した。毛はこう答えたという。「雨は降るもの、娘は嫁にゆくもの。好きにさせるがいい!」

 これは毛の達観か。それとも、予想された結末だったのか。

 9月13日午前2時30分、林らを載せたトライデント機はモンゴルで墜落し、全員が死亡した。あまりの準備不足のため、燃料切れを起こし、副操縦士もいないため不時着に失敗したのではないかと考えられているそうだ。


 後継者として信頼していた林彪に命を狙われ、毛はその後、一気に老け込んだという。


http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-05-03.htm

              /               \
          / / ∠三ミレ-- 、      ヽ
         / / //─'''´ ̄ ̄`ヽ      ゙i
        / /  //        ゙iヽ  ヽ  |
        ,' /  //          | ヽ  ', |
        | |  / l,、、,,_   -‐''" ̄`゙i. |   | |
        | | / ノ,.t-、    'Tッ'Tゝ ヽ|レ‐、| |
        ゙i |/ ,ィ`' _L.,!    ` ┴'  リ‐、 } |
        .!///゙!     ,         ノ__/ .!
         |/ | ',    ゙        /  |  |
          |! |  \   ゚       /  |  .!
          {  |  | | ゙ヽ、    /  |   |  | 自分の娘と会話もできないアヘン中毒者が
         ゙、 ', | |   | `l'"´    ゙、|  |i   | 中国皇帝になるのは無理だったのよ
         ヽ ヽ | |   レ'′      \ || /
           /ヽ \!  |  ̄ ``   r'´ ` ̄``ヽ
        /   ヽ ヽ ノ                   ヽ
        |     〉 V              |   |
        |    /  /       \       ヽ、 |
        |    / / /|       ヽ       \
        .!   / { ヽ|    ...     ゙、        ヽ
        |  {  ゙i   ヽ  ::r.;:.     l         ::_)
        .!  \ ト、 |   `゙"     /          /
         |    ト| | ∧       /           /
            |  / / /|| ゙ヽ、 __ ,. -'"    ` ーr┬ '′
          | / / | ヽ、               | /


__________

4) 終生、呂后、則天武后や西太后を演じ続けた名女優 江青女史


江青 1914.3.−−1991.5.14

 悪女、妻、女優、野心家、愛人、グレタ・ガルボ信奉者、イプセン愛読者、共産主義唱導者−−江青の異名だ。

 江青の一生は「復讐と野望」に彩られている。

まず、幼いころの貧困と搾取への復讐。 江青は、女優を目指すが、「スターダムに乗れるところだったのに、国民党の宣伝映画に出ることを強要されたので断念した」のだった。

「これを画策したのが、四人組の悪党ども。そのために、あらぬ中傷を書き立てられた」と江青は復讐心に燃えた。

 江青の生涯には何人もの男が登場するが、毛沢東の存在は大きい。彼との間には、李納という娘をもうけた。

 一九三七年、日中戦争が激しくなり、戦火は上海にまでおよんできた。その上海を江青は脱出し、西安にたどり着いて、さらに洛河に沿って北上して延安を目指した。そこには、共産党の首都があった。

「ずっと歩き通しでした。一文なしで、何度か危ない目に遭ったけれどなんとか生き長らえたわ」
 
江青は細い足がむくんでいるのが気になった。若い共産党員たちが全員出て彼女を歓迎した。ほっそりとした若くて美しい女優だ。上海からきた売り出し中の新進女優に男たちの眼が輝いた。

 江青は男好きのする顔に、もって生まれた性的魅力がある。上眼使いに話して男に媚を売る方法も身につけていた。
 
そんな女性が中国共産党の最高指導者、美男で権力もある人気絶大な毛沢東と出会った。

「もの静かで、知的な美人」が好みという毛沢東にぴったりとあっていたのが当時の江青だ。女好きな彼が見逃すはずはなかった。

「彼は美男で、大学教授みたいだった」

 講演する毛沢東に積極的にアプローチして、疑問点があれば押しかけて行って質問をする彼女の行動力が二人を急速に近づけた。 ときに江青二十三歳。毛沢東は四十五歳。二十二歳の年齢差は、まったく問題とならず、二人は熱愛した。 当時毛沢東には賀子貞という妻がいたが、夫妻の間は冷えきっていた。江青と毛が愛人関係になるのに時間はかからなかった。

 毛沢東の愛人になった江青は、やがて正妻になることを望んだ。 問題は党の承諾である。江青は男性遍歴が多いうえ、結婚する相手が自殺未遂までしてスキャンダルを起こしている。その女性を正式な毛沢東夫人として認めるわけにはいかない。それに当時、女優の地位は著しく低かった。評判のよくない映画女優、江青が認められないのは当然だろう)。

 この二人の間を取りもったのは、周恩来と江青の同郷である康生だ。 毛沢東夫人とは呼ばず、江青同志と呼ぶこと。江青は党の職務には関わらず、毛沢東の身辺の面倒だけを見る。しぶしぶながら、江青はこの条件をのんで結婚した。

「私はファーストレディよ、こんな屈辱的な条件を絶対に許すものですか」

 当時は毛沢東を愛していたが、このお返しはいつかすると決めた。 賀夫人と別れる前に、毛沢東には数人の女性がいた。 江青は後年、毛沢東との関係を述懐している。

「セックスは、最初は重要な要素になるけれど、その後は男に権力があるかどうかが大切なの」

 江青の本名は李青雲(李雲鶴という別名あり)一九一五年三月、中国山東省の諸城生まれ(一九一二年、一四年説もある)。その町の中流家庭に生まれたが、両親が離婚したため、貧乏な少女時代を送っている。(父が死亡したとも)貧しい大工の家庭だったともいわれる。  最初、親類のもとに引きとられたが、母は住みこみの職を見つけて最低の生活をなんとか維持してきたのだった(母が身を売っていたという噂もある)。

「いつも腹をすかしていたし、汚い身なりなので、苛められてばかりいたけれど、泣きはしなかった」

 そんな江青は、やがて済南の小学校を出ると、山東省立の演劇学校に入った。授業料も食費も無料で、多少だが、手当てもくれるというのが何より嬉しかった。当時の世相は不安定で、辛亥革命で清王朝が倒れ、中華民国として生まれ変わったばかりだった。
 一九二九年に、江青は巡回劇団に加わる。三三年には、青島で入党。一九一五年生れ説をとると、当時まだ十八歳だ。

 女優グレタ・ガルボに心酔していて、映画好きな江青は女優になる決心で上海に出る。諸城という小さな田舎町から大都会に出るのは勇気がいった。女優になって有名になるという女心と、共産党員として忠実であろうとする彼女の葛藤が始まったのもこのころだ。 青島で最初の結婚をし、上海では唐納(監督であり、著名な批評家でもあった)と再婚した。

 一九三〇年代の上海は東洋のパリと呼ばれた国際都市。この魔都上海は、あらゆる人間の欲望がうずまく場所で、彼女は生きた。  彼女は、貧しいが野心をもった女性で、いい役を得るために上海の映画会社に足しげくかよった。

監督で共産党幹部の張健の情婦だったとか、手段を選ばない「淫乱な女」とも噂された。(当時江青は、藍ぴん=青い林檎と名乗っていた)。

 江青が二人の子どもを残して唐納を捨てると、彼は自殺すると脅した。新聞はその話を煽情的に取りあげ、藍ぴんに罪をかぶせ、悪意のある醜聞を書きたてた。

 そして毛沢東と出会うのは、先に述べた一九三七年のことだ。  一九三九年、毛沢東と結婚した後、江青は平凡で従順な主婦となった。それが党の指導者たちが取り決めた結婚の条件だった。  一九四九年、共産党は国民党を打ち破り、ついに中華人民共和国を成立させた。毛沢東の時代になるが、それに比べて江青との愛は急速に冷めていく。

 毛沢東は新しい女を見つけた。

それを黙認する代わりに、江青は四人組を組織して、政治の表舞台に出始めた。

まるで、嫉妬に狂った女が片端から「恨みつらみ」を何かにぶつけるように、ヒステリックで残酷な行動に出た。

 文化大革命(一九六七年)の主役として、ふたたび政界に浮上したのである。 京劇に現代的なレパ−トリ−を演じさせようとした。そのレパ−トリ−は、いつも共産革命の讃美をテ−マにしていた。


 紅青は粛清の陣頭に立ち、旧幹部の吊るしあげをした。

 過去を知る邪魔者は無差別に殺した。その数は、「十人や二十人ではないだろう」といわれる。

すさまじいばかりの殺戮を断行した。これには年老いた毛沢東には手がつけられなかった。

 しかし、一九七六年に毛沢東が死ぬと江青は四人組とともに捕らえられ、投獄された。四人組の裁判はテレビで公開されたが、三人の男たちが、憔悴しきっているのに対して、江青だけは怒鳴り散らしながら自己を正当化し、最期まで闘い続けたのだった。

http://www.ainoue.com/ai/71-80/75.html


“四人組”のメンバーは、江青、張春橋、姚文元、王洪文である。このうち最重要人物は江青であり、他の三人は江青夫人の指図で動く形で政治局委員にまで昇格した印象が強い。つまり“四人組”といっても実は、江青プラスその他なのである。


迫害狂−−江青


毛沢東個人崇拝の高まるなかで、毛沢東夫人の地位は単に虎の威を借りる狸にとどまるものではなく、神格化された毛沢東から出される最高指示、最新指示の伝達者として否応なしに重要なものとならざるをえなかった。江青はまた元女優として、この政治的舞台で自らの役者としての武器を最大限に利用して、文革を推進して行ったのである。
江青を中心とするグループは当初は「海瑞罷官」批判、“三家村”批判、周揚批判などから知られるように、文革理論のスポークスマン的役割を果たしたが、陶鋳批判前後から文革が高度に政治的な奪権闘争に発展するに及んで、打倒すべきブラックリストを紅衛兵組織に指示して、紅衛兵運動の一部を操り人形のごとく操作するようになった。

こうして一見大衆運動的偽装のもとに、実は中央文革小組──首都紅衛兵第三司令部(略称三司)という秘密のホットラインが運動を操作するというカラクリができたのであった。 “四人組”裁判の起訴状公表に合わせて書かれた『解放軍報』(八〇年一二月九日)のルポは「迫害狂──江青」と題して主な迫害ケースを紹介している。たとえば六八年七月二一日、康生(中央文革小組顧問)が絶対秘密の手紙(原文=絶密信)を江青に届けた。

その手紙は、第八回党大会で選ばれた中央委員のブラックリストであった。

それによると、中央委員一九四名のうち、すでに死去した者、病弱な者三一名を除いて、九六名すなわち六割弱が×をつけられていた。罪状は「叛徒、特務、外国と結託した分子」などであった。

このリストに基づいて、一方では実権派たたきを拡大し、他方では第九回党大会の中央委員リストを作成したのであった。


毛沢東夫人としての強力な権限


かつて魯迅は「暴君のもとでの臣民」と題したエッセイを書いて、

暴君は「残酷さをもって娯楽となす。他人の苦悩を賞翫し、〔自らの〕慰安とする」

と書いたことがある。江青はまさに魯迅の書いたような暴君であり、六七年七月一八日、中南海で劉少奇、王光美を闘争にかけ、六九年一〇月一七日に劉少奇を開封に護送したのは、江青の直接操縦するグループであったという。

江青はまた劉少奇冤罪事件をデッチ上げるために、解放前に王光美の学んでいた輔仁大学教授であった楊承祚、同大学の代理秘書長であった張重一などを迫害して死に至らしめ、さらに劉少奇が華北局書記であった当時の連絡部長王世英を死なせている。これらの事件について、

「人面獣心の江青」は「冷酷残忍」であった。

随意に他人をして死に至らしめることを無上の権力の象徴であると彼女はみなしていたと告発されている。


このルポに代表されるように、“四人組”裁判当時の江青非難は、彼女を「迫害狂」だとし、彼女の性格が「冷酷残忍」だから、こうした悲劇がもたらされたのであるかのごとく説明している。何が彼女をそうさせたのか。

彼女が生来、迫害狂なのかどうか、冷酷残忍なのかどうかは調べる手立てがない。しかし、おそらく問題はそこにはない。毛沢東夫人であるというそれだけの理由で、彼女は中央文革小組の副組長になることができたこと、この中央文革小組がまもなく政治局の機能に代替するほどの強力な権限をもつに至ったこと、がポイントであろう。そしてこれはまさに文化大革命を発動したためなのであり、おそらくほとんどの責任は毛沢東にあるといえよう。

文革のテロリズムと先祖返り現象


もう一つは中国の権力者がほとんど無限に近い権力をもつことである。

私的なリンチは別として、正式に投獄し、裁判にかけるとすれば、その処理は司法当局に委ねられなければならない。しかし、中国共産党の支配のもとでは、「共産党の指導」「プロレタリア独裁」の名において、共産党が直接的に裁判に介入する。共産党の指導にしても、プロレタリア独裁にしても、革命の過程での一時的措置として、やむをえず採られたものであるはずだが、こうした革命時の非常手段がほとんど抵抗なしに受容されたことに中国社会のしたたかな古さを痛感させられる。

革命的暴力が許されるという雰囲気が文革を包む中国の「小気候」であったわけである。

明朝の宦官独裁の時代には、東廠や錦衣衛といったテロ組織が体制を批判する者を手当たりしだいに殺害した。文革はこうした政治の先祖返り現象でもあるとする見方もある(『沈思』二巻、三三四頁)。

ただし、スターリンの粛清が秘密警察を用いた国家テロであったのに対して、文革は大衆独裁はいう大衆によるテロであった事実に注目する必要があろう。ここでは中国共産党の誇る大衆運動は大衆操作に堕落したのであった。

林彪派と江青派


“四人組”は林彪グループの目から、見ると単なるモノカキにすぎなかった。林彪派の「五七一工程紀要」は、自らのグループに対して銃をもつ者(原文=槍杆子)を自称し、江青らをペンを持つ者(原文=筆杆子)と表現していた。江青グループがモノカキの理論家中心であったことは確かである。そして、これはまさに文化大革命の初期、中期においては重要な役割を果たした。しかし毛沢東の支えを失ったときに一挙に瓦解せざるをえなかった。彼らは毛沢東の文革理念を論文にまとめる側近グループ、あえていえば皇帝毛沢東の宦官としての役割を果たしたのであった。

では銃をもつ宦官たる林彪グループとペンをもつ宦官江青グループの関係はどうであったのか。

張雲生の『毛家湾紀実──林彪秘書回憶録』(邦訳『林彪秘書回想録』)は、興味津々の事実に溢れている。林彪の妻葉群はしばしば釣魚台一一号楼の江青宅を訪れ、密談しているが、林彪自身は江青に対して、かなりの警戒心を抱いていた。六七年二月には毛家湾で林彪と江青が激論していことを林彪秘書が証言している。

葉群は江青との連絡を密にするだけではなく、中央文革小組顧問陳伯達宅もしばしば訪れている。七〇年秋の九期二中全会で、陳伯達は林彪グループの尖兵の形で処分されるが、イデオローグの陳伯達と林彪グループを結合させたのは、葉群なのであった。
葉群は延安時代に教わったとの理由で、釣魚台一五号楼の陳伯達宅を訪れたが、寝室に押し掛け、ベッドで密談したことまで秘書に広言している。これが理由で陳伯達夫妻が別居する騒ぎになった。

武漢事件(六七年七月)で王力、関鋒、戚本禹らが隔離処分された後、中央文革小組内で孤立し始めた陳伯達は林彪の助けを借り、林彪もまた理論家陳伯達の力を必要としていた。そこで葉群は空軍機を飛ばして上海蟹を運ばせ、陳伯達に届けてごきげんをとり結んだりしている。


権力者たちのプライバシー


林彪は康生(中央文革小組顧問)を当初は警戒していたが、六八年初夏あたりから、林彪と康生の関係が改善された。これを陳伯達が嫉妬するようになったと林彪秘書が書いている。葉群自身は陳伯達に親しみをもち、「先生」と尊敬していたが、康生に対しては親しみよりは畏敬していた。陳伯達は康生の関係は必ずしもよくなかったが、葉群は極力バランスをとってつきあおうとしていた。

第九回党大会以後、毛家湾と釣魚台との関係はますます複雑微妙になった。互いに騙し合いこそすれ、譲り合うことはなくなった。政治的傾向としてはどちらかというと釣魚台に不利だったが、彼らは他の人々の近寄ることのできない特殊な条件(毛沢東夫人としての立場)をもっていると自負していた。毛家湾と釣魚台との緊張関係は九期二中全会(七〇年八月二三日〜九月六日)のころには白熱したものとなった。このバカ騒ぎの内幕はすでに世に知られたものよりもはるかに複雑である、と秘書が書いている。

なお、、葉群が秘書の張雲生に肉体関係を迫ったいきさつも、生々しく描かれている。葉群と総参謀長黄永勝とのアイマイな関係については、七〇年秋に二人が交わした愛の電話を葉群の長男林立果が盗聴録音したというエピソードも伝えられている(『在歴史的档案里──文革十年風雲録』)。

中国権力者たちの私生活にも、奇々怪々なプライバシーがあったことがよく分かるが、私がもっと興味を抱くのは、失脚後にこれらのプライバシーが容赦なく暴露されることである。逆に権力を握った者たちは、その権力を用いて、歴史を改竄することはもちろん、真実を知る者の口を封じるために、殺害することさえ行っている(江青は上海時代の友人を迫害致死に至らしめた)。

これが文化大革命のもう一つの側面であった。

周恩来、ケ小平 批判へ


概していえば、文の宦官と武の宦官との関係は、実権派の勢力が強かった初期段階では相互扶助であった。林彪は江青に「部隊文芸工作座談会紀要」のとりまとめを委託し、江青は中央軍事委員会文革小組の顧問となり、のちには解放軍文化工作の顧問も務めた。六七年一一月に第九回党大会についての意見を集めた際に、林彪が毛沢東の「親密な戦友」であり、「後継者」であると大会決議に書き込むよう強調したのは、江青であった。彼らはこうして林彪グループを支持し、その見返りを期待していた。しかし、第九回党大会以後は「権力の再配分」の矛盾が熾烈となった。九期二中全会で陳伯達が失脚し、葉群らが批判されたのは両者の権力闘争が爆発したことを示している。

ところで、林彪事件によって林彪グループが壊滅した後、江青らライバルは周恩来を中心とする実務派になる。

江青らは「批林批孔」運動を通じて、現代の孔子すなわち周恩来批判に努めた。

一九七四年一月二四日および二五日、軍隊系統の「批林批孔」動員大会と党中央、国務院直属機関の「批林批孔」動員大会が開かれた。これは“四人組”裁判の前後に江青が毛沢東の意思に背いて開いたものとする解釈も行われたが、この会議の前後の毛沢東発言を点検した金春明は、毛沢東が周恩来の政治局工作、葉剣英の軍事委員会工作に不満を抱いていたことは明らかであり、矛先は彼らに向けられていたと書いている(金春明『論析』二〇〇〜二〇二頁)。

事柄は「ケ小平 批判、右傾巻き返しへの反撃」闘争も同じであり、毛沢東はケ小平 を得難い人材と評したわずか一〇カ月後に、悔い改めない実権派として再び批判している。しかも、これは明確な批判であり、江青への暖かい忠告とは異なると解している。つまり文化大革命の正しさを確信する毛沢東からすると、ケ小平の反文革的な整頓は許しがたいものであり、これを批判する江青らの活動を文革路線の堅持の観点から支持したわけである。

この意味では、まさに“四人組”グループは最初から最後まで毛沢東の手足であったと見てよいのである。つまり“四人組”ではなく、実態は毛沢東を含めた“五人組”なのであった。

その事実を率直に広言できなかったのは、むろん中国共産党にとっての毛沢東の占める位置の大きさのためにほかならない。

もっとも、一〇年にわたる江青グループのすべての行動を毛沢東が支持していたということではない。たとえば江青は一九三〇年代の自らの醜聞をもみ消すために、趙丹ら関係者を少なからず死地に追いやったが、これは醜聞が実権派の手を通じて毛沢東の耳に入ることを恐れたものであろう。

http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc5/wenge126.htm


 『江青』と言う人は、今では『中国四大悪女』の一人と言われている人でもありますので、如何しても、その悪行を書き連ねる事になります。 結果的に言えば『江青』は1976年の逮捕後1981年の『最高人民法院特別法廷』で『クーデター計画』や『幹部及び大衆の迫害』等の四つの罪で『死刑判決』を受け、その後減刑されるも1991年首吊り自殺をしたのです。

 それにしても、その行状を視てみると、『女って此れほど陰湿』なのかと思わされる物が多いのです。

 その伝聞によりますと、彼女は当初は図書館で副司書をしながら演劇を勉強していた『女優志願者』であったと言うのです。つまり、器量もそれなりのものであったようで1931年に最初の結婚をしたと言うのですが約2ヶ月で離婚、その後学生運動家と知り合い同棲,これが契機で1933年『共産党入党』、しかし同年、その運動家逮捕されるに及び『上海』移住、その後『女優』を始め1994年に映画監督と結婚するも2ヵ月後には他の男性の元へ走り、『上海芸能界』から去り、当時『中国共産党』の本拠地であった『延安』に逃げる形になったと言うのです。

何でも、この時から『江青』と名乗るようになったと言います。 この事が、彼女にとって大きな転機にもなって来た様なのです。

この時『江青』25歳、ここで20歳も年上の『毛沢東』と知り合う事となるのです。 しかし、『毛沢東』は当時三番目にはなりますが妻がいる身であったのです。 『毛沢東』は前妻と離婚し、『江青』との結婚を決意するに至ったと言うのですが、共産党の指導的立場にあった『毛沢東』には、『不倫』を噂される結婚は似合わないとして党の反対を受けた様なのです。

 党幹部であった『朱徳(1886〜1976)』や『周恩来(1898〜1976)』にとっては『毛沢東』のイメージダウンを招きかねないと言う危機感から、『江青』との結婚に反対の意見が続出し、最終的には『江青』を政治の表舞台には立たせない約束をさせられたと言うのです。 果たして、見直してみれば、これらの事が後に『江青』の報復となって現われて来たのかも知れません。 何れにせよこの様な事が起きたと言う事は『毛沢東』の存在が絶対的なものではなかった事を意味してると思いますが、『毛沢東の絶対的な支配』へと志向したものが『文化大革命』でもあったようです。 

ともあれ『江青』と『毛沢東』は『日中戦争』の真っ只中の1939年に正式に結婚したと言うのです。 『国共内戦』を経て、『文化大革命』の実行へと、その挙に出て来たと思われるのです。 

つまり、大筋では『毛沢東』がその目的を示し、具体的には『江青』が手を下したと言えそうなのです。『江青』をして『文革の女帝』と呼ぶ謂れがそこにあった様なのです。 1991年5月14日『江青』は自殺に及んで


『毛主席 あなたの生徒 あなたの妻が 今・・・・会いに行きます』
と書き残したそうです。

http://shuho-terakoya.blog.so-net.ne.jp/2010-11-24


 江青は王世英という人物を糾弾している時、重病になった王に

「もっと審査しなさい。死んだって構やしない」

とか

「もっと厳しく闘争にかけ〜場合によっては死ぬかもしれないが〜閻魔さまの別れの酒でも飲ませてあげるさ!」

と言い放ったという。 本書には四人組一派による自供捏造の「テクニック」?が描かれている。いや、テクニックと呼べるようなものかどうか。

「アメリカ特務機関の住所は東四六条の何号だ?」

と聞く。知らないのだから当然答えられない。

「では、一から順番に数を数えよ」

仕方なく、「一、二、三・・・」と読み上げていく。そして「・・二十八」

「やはり知ってたのか!」

と突然周りの人間が取り押さえ、「東四六条の二十八号である」と自供したことになるというのだ。実にグロテスクな茶番劇。


 康生は、こうした尋問に長けていたそうである。「かもしれない」、「類推する」といった用語をつなぎ合わせ、仮定に仮定を掛け合わせれば、どのような状況もでっち上げることができる。 たしか宋代の岳飛も、秦檜に「莫須有」(謀反の可能性があったかもしれない)だけで謀反の罪が確定されてしまったのだが、思わずそれを想起した。

 江青には、1934年に国民党政府に逮捕され、「これまで共産党に参加したことはなく、これからも決して参加しない」という声明を出して、はじめて保釈された。 江青は自分の触れられたくない過去を知っている30年代の同棲相手であった鄭君里を捕らえ死に追いやった。まさに死人に口なしである。

 孫維世(周恩来の養女)も殺した。これは『毛沢東最後の女』の書評(04年2月の「書評」)の中で少し紹介してある。

ロシア語通訳として毛沢東専用列車に同席していた孫を毛沢東が乱暴した。
養父周も泣き寝入りせざるを得なかった。しかし江青は毛でなく孫の方を逆恨みし、文革で権力を握った後あらゆる酷刑を与えて虐殺したとあり、いくら何でもそこまで・・・と思ったが、事実だったようである。

 もっとも本書ではそうした男女関係ではなく、孫が江青と同じ反日劇に出演したのだが、孫の方が人気を博してしまい恨みをかったとか、孫に演技上のアドバイスをしてやるから会いに来いと言ったのに孫が行かなかったとか、養父である周恩来や兄の孫央(彼は打倒の対象である朱徳の秘書だった)に対する敵意などが迫害の理由として挙げられている。

 その他にも、『賽金花』という芝居の主役をさらわれた王瑩という俳優を意趣返しで逮捕し、王瑩は恨みをのんでこの世を去った。

 他にもセーターを受け取らなかったためスター女優の趙燕侠は大部屋入りとなり、白叔湘という女優は、ドーランの使い方で江青と意見が違ったため、「反革命の現行犯」という汚名をきせられるなど、実にくだらない理由で多くの人が手ひどい復讐を受けている。

 根っからの「武闘派」である毛は、1927年に「革命は暴動である」と宣言したが、自らの奪権闘争でもある文革において原点回帰をした。文革が血腥い臭いに包まれたのは毛のこの言葉と決して無縁ではない。 王洪文は「文攻武衛」というスローガンを打ち出した。文革で攻め取ったものを武力で防衛するということだ。「暴力」がますます加速する。

 これも文革におけるグロテスクなユーモアの一つと思うが、頭上開花、面部掛彩といった言葉がある。中国人はなぜこのような巧みなネーミングをするのだろうか。煎じ詰めれば、脳天が砕ける、顔面が血に染まるという、反対派へのリンチの名称なのだが。

 中巻でも触れたが、奪権が失敗し逃亡を決めた林彪と葉群は時間稼ぎのため江青を利用した。9・13事件の前日、林彪はわざわざ西瓜を江青に届けさせている。 江青は、周囲に、林彪副主席から手土産をもらえるほど親密であることを自慢したが、事件が明らかになるや、これまで私は林彪から迫害を受けていたと鉄面皮にも言い募ったとのことである。

 江青は自らを呂后にも則天武后にもなぞらえた。

 江青ワンピース、太后靴というものがあるそうだ。「黄袍」は皇帝しか着用を許されない。江青はそれを意識していたのだろう。また、68年9月に呂后の所持品と目される玉璽が出土した。江青は目の色を変え、急いで北京に取り寄せたとのことである。それがあれば、女帝に即位できると考えたのであろうか。

 毛は「江青は野心を抱いている」とか「私が死んだら江青は騒ぎを起こすだろう」と語っていたそうだ。 その予言のとおり、76年9月8日には、周りの制止を無視して、江青は重態の毛の身体を動かして、病状の悪化を招いた。遺言状の所在を探ったようだ。自分の名前が出ていれば大々的に騒ぎ立てただろうし、もし都合の悪い内容であれば握りつぶそうとしたのであろう。

 翌9日の午前0時10分に毛沢東は死去した。時間の問題であったのだろうが、タイミング的には江青が殺したようなものであり、しかも、死の直後に張玉鳳(「毛沢東最後の女」とも呼ばれる、毛の秘書)に毛に関連する文書を提出するよう強要した。意図は同じであろう。

江青は、「党主席に就任したくてうずうずしており」、周囲の者に「このリンゴは、私が女帝に即位した時のお祝い用に取っておきましょう」というような発言をしたそうだ。

 しかしながら、毛から後事を託された華国峰は、葉剣英ら古参幹部と図って76年10月5日に四人組逮捕を決定し、翌6日には一網打尽にした。 ところで、華国峰は四人組逮捕に関しては果断であったが、それ以外の点では結局ケ小平の敵ではなかったようだ。

 華は自分の権力を守るために「二つのすべて」という手法を取った。これは過去の毛主席の決定、指示をすべて厳守するというもので、その解釈権を握ることで自らの権力を維持しようとするものだが、これでは林彪の毛個人崇拝と変わらないのである。 76年6月に華は、毛に報告したいことがあったが、身の周りの世話をしている張玉鳳が起きてくれず、2時間あまり待ったが、結局そのまま退出したというエピソードがあるそうだが、実に象徴的だ。いわゆる「押しが弱い」タイプだったのだろうか。

 本書には、権力が世襲されなかった点以外は毛は「皇帝」そのものだったと書かれている。嫡男というか「皇太子」がいれば、世襲されていたかもしれないと私は思うのだが。

http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-05-03.htm


 『周恩来』の養女『孫維世(1922〜1968)』


文化大革命時代には、女優としての名声の高さと毛沢東との男女関係から江青の嫉妬を買い、迫害を受けた。

孫維世は養父である周恩来が署名した逮捕状を以って、北京公安局の留置場に送られ、1968年10月4日に獄中で死亡した。

遺体は一対の手枷と足枷のみ身に付けた全裸の状態であった。

江青は刑事犯たちに孫維世の衣服を剥ぎ取らせて輪姦させ、輪姦に参加した受刑者は減刑を受けたと言う。

また、遺体の頭頂部には一本の長い釘が打ち込まれていたのが見つかった。

これらの状況から検死を要求した周恩来に対し、「遺体はすぐに火葬する」という回答のみがなされた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E7%B6%AD%E4%B8%96


 『孫維世』は1946年当時『延安四大美女』の一人とも言われる『女優』であり、人気も格別なものであったと言う事なのです。 女優としての略歴もしっかりした物であった事から1935年以来『周恩来』の信頼も受け、16歳で中国共産党に入党していた事から彼の養女ともなった様なのである。 美人な上に幹部の信頼も厚かったことから、『毛沢東』の1949年の『訪ソ』の際には『毛沢東』の通訳を務めたと言うことである。

 彼女を知る人の話では、『彼女の美しさは尋常の物ではなかった』らしく、彼女にプロポーズした幹部は『林彪』を始め多くいたそうである。 『毛沢東』もこの『訪ソ』の際、彼女と関係を持ったのではないかといわれているそうである。

                             | 
       {    !      _,, -ェェュ、   | 
ィ彡三ミヽ  `ヽ     ,ィハミミミミミミミミミヽ、|
彡'⌒ヾミヽ   `ー  /ililハilミilミliliミliliミiミiミ|  
     ヾ、        /iiiiイ!ヾヾミ、ミニ=ー-ミミ| 
  _    `ー―' i!ハ:.:.\\_::::::::::::::/:.|  周恩来の養女 孫維世です。
彡三ミミヽ        i! ヽ:.:.:.:冫': : :::/,,∠| 
彡'   ヾ、    _ノ i!::: ̄二ー:: : ::::ソ ・ ,| 本日はご指名頂きまして
      `ー '    {ヘラ' ・_>シ;テツ"''''"| 
 ,ィ彡三ニミヽ  __ノ ヽヘ`" 彡' 〈     | ありがとうございます
彡'      ` ̄       `\   ー-=ェっ |
      _  __ ノ  {ミ;ヽ、   ⌒   |
   ,ィ彡'   ̄        ヾミミミミト-- '  |
ミ三彡'        /⌒ / ̄ ̄ | : ::::::::::|
       ィニニ=- '     / i   `ー-(二つ
     ,ィ彡'         { ミi      (二⊃
   //        /  l ミii       ト、二)
 彡'       __,ノ   | ミソ     :..`ト-'
        /          | ミ{     :.:.:..:|
            ノ / ヾ\i、   :.:.:.:.:|
      ィニ=-- '"  /  ヾヾiiヽ、 :.:.:.:.::::|
    /     /  `/ ̄ ̄7ハヾヾ : .:.:.|
   ノ     _/   /   /  |:. :.:.:.:.:.:.:|

 『江青』にすれば、総ての恨みが迸り出たのかも知れない、1968年『江青』は『周恩来』の署名の入った逮捕状をもって、彼女の元へ乗り込み彼女を逮捕したと言うのです。

 『孫維世』は10月4日死亡したとされていると言うのですが、その時の彼女の死体は全裸の状態であったというのです。 『江青』はその時、刑務所の刑事犯に彼女の衣服を剥ぎ取らせ『輪姦』をさせたと言うのです。 『輪姦』に参加した刑事犯を減刑する措置もとったという事なのです。
 
http://shuho-terakoya.blog.so-net.ne.jp/2010-11-24

 江青は孫維世(周恩来の養女)も殺した。

ロシア語通訳として毛沢東専用列車に同席していた孫を毛沢東が乱暴した。養父周も泣き寝入りせざるを得なかった。しかし江青は毛でなく孫の方を逆恨みし、文革で権力を握った後あらゆる酷刑を与えて虐殺したとあり、いくら何でもそこまで・・・と思ったが、事実だったようである。

http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-05-03.htm

1949年、ソ連に向かう中共代表団付きのロシア語通訳が、周恩来の養女である彼女であった。

 毛沢東は「自分専用の書斎兼寝室の車両で美しい孫維世からロシア語を教わ」る毎日であったが、

「ある晩のこと〜『主席』はしっかりと握った手を放そうとしなかった。

〜次の日の朝、目覚めた孫維世はここがどこで、何がおこったのかをようやく理解した。

『偉大な人物』は大きな鼾をかいて寝ていた」。


「娘のことで周恩来はひどく心が痛んだが、慰め、我慢し、泣き寝入りするしかなかった」。


 よくドラマで夫の浮気現場に踏み込んだ妻が、夫ではなく愛人に対して「この泥棒猫!」なんて言ってつかみかかるシーンがあるが、江青も、毛ではなく、彼女を深く憎悪した。

 文革で権力を握った江青は存分に恨みをはらした。

「北京のある監獄に一人で監禁された彼女は、あらゆる酷刑をうけた。
〜素っ裸にされた彼女の身体は傷だらけで、一糸まとわぬ姿のままこの世を去った」。

 何か、呂后や西太后の凶行を連想させる。

http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-04-02.htm

孫維世さんの遺体の状況はこれに近かった様ですね:


台湾のアイドル白暁燕


1997年4月14日、私立醒吾高級中学 2年に在学中の暁燕は日系を嫌悪する外省人系のマフィアにとって、格好の標的となり通学途中に誘拐された。

犯人グループは、直後から輪姦・暴行を加えるとともに、左手小指を切断した。
さらに、母冰冰の元に暁燕の半裸の写真と、彼女の切断された小指を送りつけ、500万アメリカ合衆国ドルの身代金を要求した。

冰冰はなんとか身代金全額は揃えたが、行政院長連戦の差し金で警察からマスコミに情報が漏れ、中華日報と大成報が報道したため、引き渡し現場に記者が殺到する事態となり、犯人グループは身代金受け取りを断念する。

現金が渡れば家に帰れると信じていた暁燕は、戻ってきたグループの一味から身代金受け渡しの失敗を聞いて泣き叫んだが、激昂した犯人グループは、腹いせにさらに凄惨な輪姦・集団暴行を加えて暁燕を惨殺し、遺体の手足を角材で縛ったうえ、重しをつけて台北近郊のドブ川に遺棄した。

4月25日に犯人グループのアジトを急襲し4人が逮捕されたが、3人の主犯格(林春生・高天民・陳進興)を捕り逃がしてしまった。

4月28日、暁燕の原形を止めぬほどにボロボロになった無残な全裸の遺体が発見された。
発見者は、最初はブタの死骸と思ったという。

直接の死因は窒息だったが、

暴行による打撲で肝臓が破裂しており、

その内出血で腹腔は大きく膨張し、

肋骨もほとんど折れており、

両手両足の爪も全て剥がされていた。


顔も髪の毛はまばらにされ、

両目はえぐり取られ、

舌は引き伸ばされ、

両耳の鼓膜は爆竹で破られ、

前歯は上下三本しか残っていなかった。


報告書に「処女膜断裂」とあるように激しい強姦の痕跡も歴然としており、あまつさえ


膣と肛門に鉄パイプが2本突き刺され、

子宮内には釘が48本も打たれていた。


長年にわたり多くの死体を検分した検視係官が「これほど凄惨な遺体を目にしたことはない」と衝撃をうけるほどだった。

さらに、遺体発見時の写真を一部のメディアが掲載したため、マスコミへの批判が高まり、白母娘の住んでいた家の付近に、周辺の住民が「記者有罪」と書いた抗議の垂れ幕を下げた。暁燕の葬儀では、顔にかつらと生前の顔を模した面を着けて納棺された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9A%81%E7%87%95
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/3730785.html


5) チベットでも行われた文化大革命


* 1959年の3月チベットの首都のラサで「改革解放」の名のもと「民族浄化」が開始、殺戮・破壊・強奪・強姦が行われた。


* 15万人の僧侶と尼僧は公開虐殺によって1400人に減らされた。

僧侶に対しては、滑車を使い仏像の重みによる絞首刑や、

尼僧に対し警棒の形をした5万ボルトのスタンガンを性器に入れて感電死させ彼女の死体は裸のまま路上に捨てられた。


* 一般民衆の犠牲者は120万人におよぶ。中国は

「強制断種(チベット男性の生殖機能を手術によって奪う事)」や

「強制交種(チベット女性を中国男性と交わらせ民族の血統を絶つ事)」

等の民族浄化に力を入れた。


* 生き残った証言者によると、親の死体の上で子供に泣きながらダンスをさせ、人民解放軍はそれを笑いながら銃殺した。


「妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。」


特に尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。

ある僧院は馬小屋にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。

拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、

「仏陀に腕を返してもらえ」

と嘲笑された。 大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。

アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴に放り込まれ、村人はそのうえに小便をかけるように命じられた。 さらに高僧たちは

「霊力で穴から飛び上がって見せろ」

と中共兵に嘲られ、挙句に全員射殺された。


おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれ、大勢の少年少女が家から追われて中共の学校や孤児院に強制収容されていった。

貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られていったりした。経典類はトイレットペーパーにされた。

僧院は馬や豚小屋にされるか、リタン僧院のように跡形もなく破壊されてしまった。

リタン省長は村人の見守る中で拷問され、射殺された。 何千人もの村民は強制労働に駆り出されそのまま行方不明になっていった。

僧院長たちは自分の糞便をむりやり食わされ、

「仏陀はどうしたんだ?」

と中共兵に嘲られた。


* 「ジュネーブ法律家国際委員会」が受理した供述書によると

「何万というわが国民が殺された。軍事行動においてばかりでなく、個人的に、また故意に殺されたのである。彼らは銃殺されたばかりでなく、

死ぬまでむち打たれたり、磔にされたり、生きながら焼かれた。

ある者は生き埋めにされたり、はらわたを取り除かれたりして殺された。


こうした殺人行為はいずれも公衆の面前でなされた。

犠牲者の同じ村人、友人たち、隣人たちは、それを見物するよう強いられた。自分の家族のものが強制されて見ているその目の前で、ゆっくりと殺されていったのである。さらに小さな子供たちは、その両親を射殺するように強制された」


とある。 -- (東亜から転載) 2008-03-19 10:46:18

『中国はいかにチベットを侵略したか』 マイケル ダナム著

妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。

尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。

拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、

「仏陀に腕を返してもらえ」

と嘲笑された。

大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。 さらに高僧たちは

「霊力で穴から飛び上がって見せろ」

と嘲られ、挙句に全員射殺された。 おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれた。

http://www.tchrd.org/press/2008/pr20080318c.html


   ( . .:.::;;;._,,'/ __:::::ヽノ::::/´>  )
     ).:.:;;.;;;.:.)(___):::::::::::/ (_/  ズシーン
    ノ. ..:;;.;.ノ  | ::::::::::::::::::: /
   ( ,.‐''~ ワー  | ::::/\::::\      皇帝が来たぞ〜
(..::;ノ )ノ__.  _  | ::/  _ ):::: )_  キャー .__       _ 
 )ノ__ '|ロロ|/  \∪.___.|ロロ|/  \ __ |ロロ| __. /  \
_|田|_|ロロ|_| ロロ|_|田|.|ロロ|_| ロロ|_|田|.|ロロ|_|田|._| ロロ|_
      λ.....              λ......          
  λ......           λ...........          λ.... 

1966年5月にはチベットにも文化大革命の嵐が吹き荒れた。8月には紅衛兵の数は1万人に達し、最盛時には十数万に達した。

紅衛兵は「四旧」を打破し、「四新」を建設しようというスローガンの名のもとに、数少なくなったチベットの寺院、文化施設を徹底的に破壊し、通りの名称を変更し、個人の家に入り込んで祭壇や民俗家具などをかたっぱしから壊しまわった。
民族衣装を着ることもペットを飼うことも屋上で香をたくことも、伝統の模様を描くことも全て禁止された。

宗教文献、写本、彫像などはあとかたもなく破壊された。

チベット語も弾圧の対象となり、会話以外ではありとあらゆるチベット語の書物、教科書、が廃棄された。チベット語で印刷されたものといえば毛沢東語録と共産党の宣伝文書ぐらいになってしまった。

全ての僧侶は「反動分子」として扱われ、罪名を書いた板を首かけられ、市内を引き回された。6000箇所以上あった寺院はことごとく破壊され、完全な破壊を免れたのは8箇所であった。

チベットのありとあらゆるものが破壊された大混乱の10年間であった。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui03.htm

              /               \
          / / ∠三ミレ-- 、      ヽ
         / / //─'''´ ̄ ̄`ヽ      ゙i
        / /  //        ゙iヽ  ヽ  |
        ,' /  //          | ヽ  ', |
        | |  / l,、、,,_   -‐''" ̄`゙i. |   | |
        | | / ノ,.t-、    'Tッ'Tゝ ヽ|レ‐、| |
        ゙i |/ ,ィ`' _L.,!    ` ┴'  リ‐、 } |
        .!///゙!     ,         ノ__/ .!
         |/ | ',    ゙        /  |  |
          |! |  \   ゚       /  |  .!
          {  |  | | ゙ヽ、    /  |   |  | 文化大革命は
         ゙、 ', | |   | `l'"´    ゙、|  |i   | 下手な時代劇だったのよ
         ヽ ヽ | |   レ'′      \ || /
           /ヽ \!  |  ̄ ``   r'´ ` ̄``ヽ
        /   ヽ ヽ ノ                   ヽ
        |     〉 V              |   |
        |    /  /       \       ヽ、 |
        |    / / /|       ヽ       \
        .!   / { ヽ|    ...     ゙、        ヽ
        |  {  ゙i   ヽ  ::r.;:.     l         ::_)
        .!  \ ト、 |   `゙"     /          /
         |    ト| | ∧       /           /
            |  / / /|| ゙ヽ、 __ ,. -'"    ` ーr┬ '′
          | / / | ヽ、               | /

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c3

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
4. 中川隆[-10701] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:51:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1354]

劉少奇 _ 皇帝に逆らった義人の運命


劉少奇〔Liú Shàoqí リウ・シャオチー/1898.11.24-1969.11.12〕は、中国共産党が結成された年に、中国共産党へ入党した創初期からのメンバーである。1937年、盧溝橋(マルコポーロ橋)事件(日中戦争発端の事件)の首謀者(劉自身が自分の手柄話として語っている。)1945年に中国共産党の2となり、1959年には毛沢東に代わり、「国家主席(国家元首)」となる。ま、「国家主席」とは言え、中共は毛沢東の独裁政権であったので、2のままではあったが・・・

毛沢東の「大躍進」・・・と、云う実質「大後退」に等しい大失策によって、中国全土で数千万の餓死者が続出し、国家の荒廃を憂いたが、「大躍進」に異を唱える事は、毛沢東独裁の中では、確実に粛清の対象になるのも知りながら、国家の退廃と民衆の窮乏を救う為に、敢えて自己犠牲の精神を以って、毛沢東に敢然と立ち向かった。

しかし文化大革命の中で、権力強化を図る毛沢東の標的とされ、“実権派(資本主義に走ったという批判を込めて走資派とも呼ばれる)の最高指導者”として徹底的な批判に晒され、1968年に除名、失脚へと追い込まれ、1969年に開封市の監獄で獄死した。 劉少奇と王光美の子供の何人かは獄死した。

1958年、毛沢東は「大躍進」と云う政策を打ち出したが、実際には「大後退」・・・と、呼ぶに相応しい、惨憺たる大失策で、経済・生態系システム無視し合理性を全く欠いた、大躍進政策は結局として産業・農業基盤は崩壊、生態系を破壊し、発生した大飢饉は日に日に深刻さを増していった。

国家主席の劉少奇は大飢饉に深く憂慮しており、1961年初頭迄に全土で3000万人が餓死したことも承知していた。 1961年4〜5月に、劉少奇は故郷の湖南省を視察した折に、自分が関わった政策が齎した惨劇の結末を直接目にした。

※最終的には「大躍進」では最大推計5000万人余りが餓死した。


劉少奇は、視察中に姉の家に立ち寄った。姉は「地主」の家に嫁いでいたので、共産党政権下で「階級敵人」に分類されていた。其の為に、国家主席の姉弟であっても特別扱いされずに、迫害を受けたし、1959年に発生した飢饉のことを訴える手紙を姉の夫(義兄)が劉宛に書いたが、途中で検閲に引っ掛り、義兄は懲罰として、凍死寸前になるまで木に縛り付けられ、その後間もなく亡くなった。 体が弱っていたのに、ふすまで作ったパンを食べた(その様なものしかなかった)のだが、弱った胃腸は消化の悪い物を受け付けず、医者を呼ぼうにも医者もおらず、苦しみ続ける病人を運ぶ病院すらなかった。

行く先々で、劉は胸を引き裂かれるような光景ばかりしか目にする事が出来なかった。そして、多くの悲惨な話を耳にした。共産党・・・ひいては自分自身に対する人民の憎悪を感じざるは得なかった。故郷の村では12歳の少年が劉の実家に 「打倒劉少奇」 と、書いた。この少年は、1年の間に家族6人が病気で死ぬのを目の当たりにして来た。最後に死んだのは一番下の弟だった。少年は幼い弟に母乳を飲ませてくれる人を探している最中に、弟は少年の腕の中で亡くなった。何故なら、少年の母は其の少し前に亡くなったばかりだった。劉は地元の党幹部に命じてこの少年を罰しないように命令した。劉は、地元当局が食物を盗んだ罪で農民を罰するのをやめさせ、村人に対して、

「寧ろ、政府が農民から食物を強奪しているのだ」

・・・と、衝撃的な発言をした。更に

「そっちがわしらから取るなら、なんでわしらがそっちから取ってはいかんのか?
そっちが沢山取っていくのに、なんでわしらが少しばかり取ってはいけないのか??」

と、農民を代弁する発言をし更に前例の無い事をした。劉少奇は共産党政権の失政について農民に謝罪したのだ。

「同郷の皆さんが此れほど過酷な暮らしをしているのを見て、私はショックを受けました・・・・・

皆さんにこれほどの苦しみを与えてしまったことに対して責任を感じます。謝らなければなりません」

――ーと。


北京へ帰った後、劉は共産党最高幹部たちに

「このまま(大躍進政策を)続けるわけにはいかない」

―――と、語った。 8月には、周恩来が河北省視察の結果、毛沢東に対して

「人民の食べ物は、木の葉、野菜の漬物、野草だけで他には一切無い。穀物は一粒たりとも残っていない」

・・・と、報告したが、毛沢東は

「何をそう大騒ぎすることがあるのか??」
―――と、吐き棄てた。

そして劉少奇は毛沢東に対して叛旗を翻し、大躍進政策を事実上中止させ、ケ小平と共に経済原理を取り入れた政策を実行して、経済再建を図った。しかし、権謀術数の鬼である毛沢東が、指をくわえて見ている訳は無かった。 1965年、実権奪還を果たすべく、毛沢東は悪名高い「文化大革命」を実行。強情に自らにひれ伏そうともしない劉少奇の粛清を決意。

「劉少奇は資本主義に走った最高指導者」

―――と、徹底的な糾弾に遭い失脚。 勿論、毛沢東の劉に対する復讐の意味も込められいる。 劉少奇は自宅軟禁され度々晒し者にされた。 1967.08.05に中南海で行われた、公開見せしめ裁判の時に劉少奇夫婦揃って引きずり出された時だった。 劉少奇が見せた覚悟と英雄的行為と夫妻の真実の愛は素晴らしいものだった。劉少奇は、幾ら批判され弾劾されようとも、自分の主張を一個も曲げる事はしなかった。

劉少奇が更に言葉を続けようとすると「毛沢東語録」を手にした群衆から殴られ、劉の声は罵声に掻き消された。夫妻は殴られ、蹴られ、両腕をねじ上げられ、後ろから髪を乱暴に引っ張られ、カメラマンや映画撮影班に顔がハッキリと見えるように上を向かされた。

(残忍な毛沢東は自らに楯突いた人物の末路を見て楽しむために、度々この様な撮影をさせている。)

しかし、

「痛めつけ足りない」

「もっと、良い(残忍な)映像を」

―――と、毛沢東の側近が指示をしたので、この後の映像は、劉少奇が地面に倒れ踏みつけにされている映像が含まれ、劉夫妻に最大の精神的苦痛を与える為に、夫妻の6歳になる娘をはじめとする子供達が

「かつて国家の最高権力者であった両親が、群衆に痛めつけられている姿」

・・・を、見学されられた。 しかし、夫妻は最期まで、毛沢東に屈服する事を拒み続け、劉少奇は、死の目前まで、毛沢東を糾弾する書簡を書いた。しかし老齢を迎え、獄中で3年もの間、数々の肉体的・精神的な拷問を受けながらも、尊厳を棄てず、毛沢東への屈服を拒んだが、遂には力尽きた。

http://blog.livedoor.jp/yamato26840/archives/51570818.html


『文化大革命十年史(上)』(著:厳家祺(げんかき)・高皋(こうこう)。監訳:辻康吾。岩波現代文庫)
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD%E5%8D%81%E5%B9%B4%E5%8F%B2-%E4%B8%8A-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%BA%AB%E2%80%95%E5%AD%A6%E8%A1%93-%E5%8E%B3-%E5%AE%B6%E7%A5%BA/dp/4006000723/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1314366635&sr=1-1

 文革は、いったいいかばかりの損害を中国に与えたのだろうか。

 本書では「経済的損失は五千億元に達した」という記述があるが、金銭に換算できるものばかりではないだろう。

 各書でもそうだし、本書でも、文革の根本原因として、スターリンを貶めたフルシチョフ体制を目の当たりにして毛沢東が不安になった、ということが挙げられている。きっかけとなったのが、三面紅旗の失敗を彭徳懐が指摘したことだ。

「この批判を認めてしまうと、毛沢東の党内での最高権力が動揺するのは必至」

とある。気にしていることをズバリと指摘されたので、彭徳懐は毛沢東の不興をかって失脚した。彭は、「文革」の最も初期の犠牲者と言ってもよいかもしれない。

 1965年11月10日、上海の『文匯報』に有名な、姚文元(ようぶんげん)の「新編歴史劇『海瑞免官』を評す」という論評が発表された。 どこが逆鱗に触れたのかよくわからないのだが、とにかく江青が、この作品(『海瑞免官』)には腹を据えかねたようだ。しかし、北京では「海瑞」批判の動きを起こすことに失敗した。

 彭真は、毛に「呉ヨ(ごがん)と彭徳懐は無関係」と訴えている。本書の注によると、時期的に見て、呉ヨが、この作品に彭徳懐擁護の意図を秘めることは不可能だったようだ。(作品ができたのが1959年6月。彭が毛を批判したのは同年7月)

 66年5月25日、聶元梓(じょうげんし)らは党委員会に反旗を翻した。それを知った大衆はもちろん深く驚きもしたろうが、反面カタルシスというか、心中快哉を叫んだ者も多かったのではないだろうか。

 66年5月30日、文革小組の一派は、「人民日報」を手中にしたそうだ。これで今後の世論操作が可能になったのだから、この重要性は大きいのではないか。

 その後、反工作組の動き、つまり、従来の「権威」に対する動きが出てきた。

 例えば66年6月18日、陸平ら「黒い分子」を吊し上げたいわゆる北京大学「六・一八事件」である。固定的な(ある意味、安定した)時代であれば、党中央が派遣した工作組の指示には素直に従うことになっていただろう。

 本書には、風向きがおかしくなってきた劉少奇が毛に事情を説明しようとして66年7月18日に家を訪ねたが、(電気はついており、誰かと会っている様子なのに)門番から「主席はもう寝ているから帰れ」とすげなく追い返されたとある。いかにも象徴的なエピソードである。

しかし、劉は、まだ自分の陥っているピンチを正確には理解していなかっただろう。むしろ、理解したくなかった、直視しようとしていなかったという方が近いかもしれない。


 文革は暴力的で残酷なのだが、その中でふとグロテスクなユーモアを感じさせることがある。

 本書でいうと、例えば、江青が、反工作組(=反劉少奇)を叫び、自分が最も「革命」的であるとアピールするための66年7月26日の大会の中で、興奮のあまり私怨を絶叫したというあたり。

「興奮のあまり訳が分からなくなり、われを忘れた江青が毛沢東の前妻の〜息子〜の妻との間に起こった衝突のことまで持ち出し、毛家はこの嫁を認めない、と声の限りに叫んだとき、人々の心にこの革命に対する一抹の不安がよぎった」

とある。会場の聴衆は「なに、関係ないことゆうとんねん、このおばはん・・・・」と思ったやろうねえ。

 また66年8月19日から始まる「四旧打破」の大キャンペーンの中で、紅衛兵が信号表示に異議を唱え、革命の象徴たる「赤」は「進め」を表わすべきだと言い出したそうだ。紅衛兵たちがむりやり

「青で停まれ、赤で進め」

と命令し、数え切れぬほどの無意味な交通事故を引き起こしたあげく、周恩来総理が自ら

「信号は全世界の統一規定で、赤は人の警戒心を呼び起こしやすいという光学的な効果がある」

と説得したというくだりも非常に馬鹿馬鹿しい。


 有名な写真で、劉少奇の妻王光美がネックレスをつけた状態で吊るし上げをくらっているものがあり、本書にも載っている。これも、何と63年の「ネックレス事件」が根本原因らしい。しかし中味といえば、外遊する王に江青が「ネックレスはつけるべきでない」とアドバイスしたのに、ネックレスをつけた姿をニュース映像で見て以来、宿怨を抱いていたという実にせこいもの。

 しかしながら、67年4月10日王光美批判集会では、

「紅衛兵が勝手に持ち出したシルクのストッキングとハイヒールを履かされ、体に合わなくなった細身の旗袍(チーパオ)を着せられて、さらに、このためにわざわざ作ったピンポン玉のネックレスまでつけさせられ」たのである。

 劉少奇への迫害は目を覆いたくなるものがある。67年1月6日に、王光美は

「娘平平が下校途中に脚を折り切断しなければならず、保護者のサインがいる」

という電話を受けた。王は「絶対に中南海を離れるな」という周恩来の再三の忠告を思い出し、すぐに出かけようとする劉少奇を止めたが、

「あんな小さな子が私たちのせいでひどい目にあったのだ」

と迷うことなくきっぱり言ったそうだ。(しかし、やはりこれは罠だった)


 67年7月18日、劉少奇糾弾集会が開かれ、陶鋳、ケ小平にも暴力がふるわれた。

 8月5日、毛が壁新聞「司令部を砲撃しよう」を貼り出してから1周年にあたるこの日、劉少奇批判集会はさらにエスカレートした。

「劉少奇の顔は腫れ上がり鼻には青アザができていた」そうである。


 劉少奇は家族から引き離され一人で監禁された。適切な医療も食事も水も与えられなかった。

 69年10月17日、劉少奇は河南省開封に移送された。
11月12日午前6時45分、彼の心臓は鼓動を停止した。救急チームが来たのは、その2時間も後だったそうだ。

 「人民共和国の主席はこうして誰にも知られずひっそりとこの世を去った。彼が黄泉の国へ持って行ったのは彼に押し付けられた『劉衛黄』という仮名と『無職』の肩書きであった」という。

http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-05-03.htm


劉 少 奇 の 晩 年 99/11/12 半島震報 王小岩 


 今年は劉少奇が亡くなって30年目。1969年11月12日6時45分、劉少奇同士は河南省開封に於いてこの世への深い恨みの辞世の句を残し死んだ。

当時は特殊な社会状況で、そのころ劉少奇の警備を担当していた警備隊長が中国領袖の深刻な晩年を語ってくれた。 これを語ってくれたのは現在審陽市沈河区の中国特有のマンションに住む張兵武老人で、”中南海”の煙草を吸いながら30数年前の、今では消えそうな想い出を静かに語ってくれた。


 警備役から監視役へ

 1996年、歴史上最大の台風「文革」が吹き出した。中南海と言えどその圏外に逃れ出るわけにはいかなかった。李富春、潭震林、と小平、陳毅などが次々と身分を取り上げられた。

 1967年7月、毛沢東のお墨付きを貰ったと自称する「造反派」達が天下を取ったような勢いで「劉少奇」の家に襲いかかった。 その中の数十人が自宅に押し入った。警備担当の者達が必死になって「主席」を守ろうとした。警備士達は人垣を創り進入を阻止しようとした。「造反派」達は

「黒は黒を守る」とか
「お前らが悪魔を守れるのか」

とか言いたい放題であった。 警備士達は懸命に進入を阻止しようとしたが、当時「造反派達の反動分子一掃闘争に対しては手を出しては成らない」と言う指示が降りていたので抵抗にも限界があった。揉み合うこと10分ほどして内側から電話があり「造反派」を入れなさい、と言う連絡が来た。


劉少奇は何事にも驚かないかのように毅然としていた。

造反派達は手に手に「毛主席語録」を持ち批判闘争を開始した。 彼らは言う。

「これから毛語録を暗記しているか調査する。もし暗記していなければ即ちそれ”不忠”の証だ」

と叫んだ。劉少奇は平然として、どの章も私は暗記している、何処でも聞いてみなさい、即答して見せよう、と大声で応えた。

 こうして造反派達の批判闘争は何度も主席の家を襲った。96年7月、劉少奇と妻”王光美”の隔離を強請された。両人は同じ中南海には居たが、その後二人は面会することなく人生を終える。 こうして警備士達はその役割を「監視」に変更された。


訳注:中南海は建国後北京城内に高級幹部が住まいとしたところ。大衆の接近を禁じた。当然毛沢東もそこに居た。つまりこの闘争の時、肩書き無しの毛沢東が劉少奇「国家主席」の傍にいてこの事態を全て聞いていた。


 王光美には4名の監視役が中央政府の命令として派遣された。彼女には毎日”忠”の検査が行われ、便所掃除や雑益の仕事をさせ、それは「労働改造」と名付けられた。 

 警備担当だった「陳兵武」さんは毎日何をすべきか解らず悶々とした日々が続いた。ある日彼が王光美に対して思わず同情の声を掛けたため、それが発端となって主席夫婦にさらに大きな重圧がかかった。

 ある日、それは酷暑の日で太陽がかんかんと照っていた。王光美が庭掃除をしていると4人の監視役の女性達が王光美の目の前にさらに余所からゴミを持ってきてばらまいた。王さんは当時健康状態が思わしくなかった。彼女はそのゴミを掃くのに懸命になり、汗みどろだった。これを見た張さんは、思わず声を掛けた。

「少しづつしなさい、一度に無理をしては行けません」

と言った。 その夜副中隊長がやって来て、「お前は昼間王光美に何を話したのか」と聞きに来た。 そして隊長は

「お前は自分の立場が解っているのか、敵に同情するとどうなると思っているのか」

と恫喝した。張さんは情けなくなって怒りと悲しみで一杯になった。しかしその隊長は何度も張さんの所へ脅迫に来た。 その後中央政府の副主任、王東興が調査に来た。事情を聞き副主任は「誰もが過敏になっているのだ」と真実を理解してくれた。 その直後、王光美は中南海から他へ移された。


 劉少奇を厨房に立たす


 67年5月、劉少奇同士は厳重な誤りがあった、と言う決定が下り、18年間厨房で働くと言う労働改造命令が出た。

中央隊長の命令によると、張さんを厨房班長とし、劉少奇を厨房で働かせる。この命令は中央からのもので”その後の改造の様子を見る”政治的判断だという。 劉少奇は半熟の卵が好きで、張さんはこれを作るのが得意であったので、出来る限りそれを上手く作り劉少奇が喜ぶ顔を見たかった。

 この任務に就いて以降、劉少奇の健康は日に日に弱まっていった。毎食にこの半熟卵と果物一品があったが、それだけを食べて、他のものは口に入らなくなっていった。張さんはその様子を見て慌てた。自分の責任でもあった。そこで張さんは上級に頼んで卵と果物を追加して貰った。その要求は許可された。こうして張さんは68日の間劉少奇と一緒の生活をした。そこで中隊長が張さんと交代の人間を寄越し班長とした。その人は”馬”と名乗った。


 晩年の劉少奇は床を立てず

 長期の軟禁生活で劉少奇の精神的苦悩が蓄積していったのだろう、健康が急速に悪化した。 中国建国に巨大な貢献をしたこの劉少奇国家主席が倒れるときが来た。劉少奇は妻にも息子・娘にも会うことが許されなかった。頭だけは冴えていたようだが、やがて床から立てなくなった。目も開かず口も閉じたままの日が続いた。やがて劉少奇は食事も拒絶するようになった。

 中央は「様子見」の彼に倒られるのも困るということになり、医者をよこした。中央政府所属の医者と、上海医学専門家など数人が検診に来た。その結果は糖尿病と言うことだった。北京人民医院から二人の看護婦が来た。

 劉少奇は素裸で床に入ったままの日が続いた。流動食を鼻から入れる日が続いた。

 劉少奇は自ら健康法として瓶を両手に持って上げたり下げたりしていた。 ある時看護婦がその瓶をそっと隠してみた。すると劉少奇は両手でそれを探し、ニコッとした。その笑顔は、この数年の深い陰鬱な表情の中に始めて見せた笑みだった。

 悲惨な別れ

 69年10月のある日、上からの指示で張さん以外誰も居なくなり、そこへ警備大隊長と名乗る男が来て「中央の指示で劉少奇を移動する」と言う。そして「このことは絶対他人に漏らすな」と言った。張さんは劉少奇の運命を考えて涙が出てきた。彼らは寝台ごとワゴン車に乗せて連れて行った。

 その時の劉少奇の姿は、頭髪がぼうぼうで、身体は痩せ、顔は真っ青、目だけは上に向け口は堅く閉じていた。ワゴン車は埃を立てて突っ走っていった。その24日後、張さんは河南省開封で劉少奇が亡くなったことを知った。69年12月、劉少奇警備隊は解散した。

 今でも張さんは劉少奇のことを想い出せば涙が出てくるという。誰もが普通にはあり得ない方法でこの世を去った。かっては人生を奮闘し、中国のトップに登りつめた良き日々を残し、このような形で去っていった。


 訳者注:これが中国国家主席が如何に世を去ったかの顛末です。即ち、如何に国家が転覆されたかの顛末です。
 
文革の始まる前の1959年、毛沢東は「大躍進政策」で道路から鉄釘を拾い鉄鋼生産大増産を呼びかけます。農民がもっともこれに忠実に従い農業の手を休め鉄拾いをします。又同時に「共産主義」に早く近づく方法として共同生活を強制します。これにもっとも忠実に従ったのも農民です。

 こうして年末から餓死者が続出します。農民の餓死者が最大ですが都市部でも子供達の顔が膨れていたことが記事に出てきます。道路から拾った鉄釘は役立たないことを毛沢東もやがて知ります。そうして餓死した人は4千万人と現中国政府も認めています。

 この巨大な政策上の失敗の責任を取って毛沢東が国家主席から降り、劉少奇がトップに立ちます。がこのように毛沢東は「文革」の名を借りてクーデターに成功します。

 国家主席が当に死を迎えようとしているとき、すぐ横の家に住みながら、同じく中国の独立のために闘ってきた同士をこのように平気で死に追いやります。最後に河南省に瀕死の病人を車で搬送させる機密命令ももちろん毛沢東以外に誰も出しようがないでしょう。

 これが劉少奇の生命を抹殺する最後の手段だったのでしょう。

 何と言うことか、中国政府は「文革は毛沢東の妻、紅青ら4人組の責任」と言う形で終了します。これほどふざけた歴史の塗り替えも人類史では他に例がないでしょう。

http://www.ne.jp/asahi/cn/news/text/05/shouki.html


劉少奇は病におかされるようになるが、散髪や入浴も着替えも許されず、警備員や医師から執拗な暴行を受け続けた。体中の皮膚が膿に冒され悪臭を放つようになっていた。1969年10月開封市に移住。寝台にしばりつけられて身動きができぬまま暖房もない小部屋に幽閉された、高熱をだしても治療も受けられぬまま放置された。死亡の際には白髪が2メートルの長さに達していたという。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui09.htm

劉少奇・王光美夫妻 真実の愛とは? 人間の強さと美しさとは??


王光美
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%85%89%E7%BE%8E


劉少奇は毛沢東に対して叛旗を翻し、大躍進政策を事実上中止させ、ケ小平と共に経済原理を取り入れた政策を実行して、経済再建を図った。しかし、権謀術数の鬼である毛沢東が、指をくわえて見ている訳は無かった。 1965年、実権奪還を果たすべく、毛沢東は悪名高い「文化大革命」を実行。強情に自らにひれ伏そうともしない劉少奇の粛清を決意。

「劉少奇は資本主義に走った最高指導者」

―――と、徹底的な糾弾に遭い失脚。 勿論、毛沢東の劉に対する復讐の意味も込められいる。 劉少奇は自宅軟禁され度々晒し者にされた。 王光美の回想による

―――私は

「今度こそお別れになるような気がします〔最近、末日的||感觉好象被分别。〕」

と、云いながら、涙を止める事が出来なかった・・・。

・・・一緒に暮らした日々の中で初めて、少奇は私の荷造りをしてくれるといって、私の衣類をキチンと畳んでくれた。

最後の数分間 私達は互いに見つめ合ったまま座っていた。 其の時、滅多に冗談を口にしない彼が云った。

「なんだか、君を迎えに来る花かごを待っているみたいだね!

〔是什么吗、来接你好象正等待花“車喬”!〕」

―――私達は笑い出してしまった。


その後、二人は別々の場所で独房監禁状態に置かれ、その後二人が顔をあわせたことは一度だけあった。

・・・それは、1967.08.05に中南海で行われた、公開見せしめ裁判の時に夫婦揃って引きずり出された時だった。しかし、劉少奇が見せた覚悟と英雄的行為と夫妻の真実の愛は素晴らしいものだった。劉少奇は、幾ら批判され弾劾されようとも、自分の主張を一個も曲げる事はしなかった。

劉少奇が更に言葉を続けようとすると「毛沢東語録」を手にした群衆から殴られ、劉の声は罵声に掻き消された。夫妻は殴られ、蹴られ、両腕をねじ上げられ、後ろから髪を乱暴に引っ張られ、カメラマンや映画撮影班に顔がハッキリと見えるように上を向かされた。

(残忍な毛沢東は自らに楯突いた人物の末路を見て楽しむために、度々この様な撮影をさせている。)

しかし

「痛めつけ足りない」

「もっと、良い(残忍な)映像を」

―――と、毛沢東の側近が指示をしたので、この後の映像は、劉少奇が地面に倒れ踏みつけにされている映像が含まれ、劉夫妻に最大の精神的苦痛を与える為に、夫妻の6歳になる娘をはじめとする子供達が

「かつて国家の最高権力者であった両親が、群衆に痛めつけられている姿」

・・・を、見学されられた。

裁判の途中で、王光美は、群集の手を振り解き、数分の間、夫の服の端にしがみついた。その間、群衆は殴る蹴るの暴行を夫妻に喰らわせる中、夫妻は手を堅く握り合い、真直ぐ立ち続けようと抵抗した。この勇敢な行動には、恐ろしい報復が待っていた。王光美は米国・日本・蒋介石のスパイと云うレッテルを貼られ、12年の間、最も厳しい刑務所に収監され、立って歩くことすら許されず、刑務所から釈放後、数年間は歩く事すら出来なかった。

また親兄弟が悉く投獄され、70歳を超えた王の母は獄中死し、夫妻の子供達は孤児となり、劉の息子(母は前妻)は自殺した。刑務所に収監されたとしても、日々、聞くに堪えない罵声や暴行を浴びせられ、病気になっても薬は与えられず・・・刑務所とは名ばかりで、強制収容所と何も変わらなかった。

しかし、夫妻は最期まで、毛沢東に屈服する事を拒み続け、劉少奇は、死の目前まで、毛沢東を糾弾する書簡を書いた。しかし老齢を迎え、獄中で3年もの間、数々の肉体的・精神的な拷問を受けながらも、尊厳を棄てず、毛沢東への屈服を拒んだが、遂には力尽きた。

夫妻を見て思うのは、毛沢東に叛旗を翻さず、毛沢東に服従していれば、享楽的な生活を営めたのにも関らず、指導者として成すべき事を確固たる信念を以って、対峙し、そして幾ら非道な仕打ちを受けても、絶対に毛沢東に屈しなかった。王光美は夫と共にあることを望み、王も毛沢東に屈服しなかった。

http://blog.livedoor.jp/yamato26840/archives/51570818.html


              |ノ ヽ         .|::::| |
       {     !|::::| |  _,, -ェェュ、 |::::|__|
ィ彡三ミヽ  `ヽ   |::::| |ハミミミミミミミミミ| ..|_
彡'⌒ヾミヽ   `ー |::::|__|ハilミilミliliミliliミ| ..|
     ヾ、       |二二二二二二二| ..|
  _    `ー―' | ..|.:.\\_::::::::::::::|_||
彡三ミミヽ       | ..|ヽ:.:.:.:冫': : :::/,,∠|    王光美・・・・・
彡' /| ヾ、    _ノ|_|: ̄二ー:: : ::::ソ ・ ,|
  / ./|.  `ー '    {ヘラ' ・_>シ;テツ"''''"|    ぜったい許さない
 ,ィ| |::|ニミヽ   __.ノ ヽヘ`" 彡' 〈     |
彡'| .:|:::|   ` ̄       `\   ー-=ェっ |    
  | .|:::|   _  __ ノ  {ミ;ヽ、   ⌒   |
.  | |:::|,ィ彡'   ̄        ヾミミミミト-- '  |  
三ミ| |:::|        /⌒ / ̄ ̄ | : ::::::::::|  
.   | |:::|  ィニニ=- '     / i   `ー-(二つ 
   | |::|彡'          { ミi      (二⊃
   /| |::|        /  l ミii       ト、二)
 彡 | |::|    __,ノ   | ミソ     :..`ト-'
.    | |::| /          | ミ{     :.:.:..:|
    | |::|       ノ / ヾ\i、   :.:.:.:.:|
.    | |::| .ィニ=-- '"  /  ヾヾiiヽ、 :.:.:.:.::::|  
     | |:::|     ./  `/ ̄ ̄7ハヾヾ : .:.:.|   
   ノ .| |:::|  _/   /   /  |:. :.:.:.:.:.:.:|


江青に妬まれた故の悲運


 元々『女優』としての経歴のあった江青は、とても『嫉妬深い女性』でもあった様で、一定の評価はされていたと言うものの、その評価には至極不満であったらしく、『演劇界』には恨みを抱いていたとも言われます。 特に、伝統芸能と言われていた『京劇』や自分より評価の高かった『女優』等には特に異常とも言える敵愾心を燃やしていたと言うのです。


 先ず、『劉少奇』失脚事件です。
1966年『劉少奇』は『毛沢東』によっ
て『トウ小平(1904〜1997)』等と共に『修正主義』と批判され、『自己批判』の上、政治局員の地位は保全された物の、自宅に幽閉されたと言うのです。 その後、スパイ容疑等の名目で紅衛兵などの襲撃を受け何度も『つるし上げ』の標的ともなり、1968年夫人の『王光美』も逮捕されると共に一人軟禁状態となり病の床に着くことになったと言うのである。

 『江青』は、彼の完全失脚を狙い、様々な事を仕掛けたと言うのであるが、その時既に彼の病状は見る影も無いほど悪化していたと言うのである。 にも拘らず、彼女は彼から薬をも取上げ、ベッドに縛り付けた状態で、コンクリートむき出しの部屋に閉じ込めたと言う事なのです。 かくて彼は1969年11月、放置された常態で死を迎える事になりますが、その惨状は余りにも物凄く、直ちに『火葬』されたと言う事なのです。

 一方、夫人の『王光美』も、その容貌が華やかで知性に溢れていた事から『江青』の嫉妬心を刺激したらしく、執拗な攻撃を受けたと言うのです。 『劉少奇』の夫人であった事もあり、『劉少奇』や子供達の何人かはその迫害の下に死んでいったのですが、彼女はそれに耐え抜き約12年間の獄中生活の末、中国共産党の職務に復活していると言うのです。

 聞く所に拠れば、『江青』は彼女を死刑にする為に案件を捏造し、結果『死刑』と判決させたと言う事なのですが、『毛沢東』は此れを聞くに及び『暫くは死刑にしない』と言ったそうなのである。 彼にすれば、運動の初期から一緒に働いてきた同志でもあり、『劉少奇』死した今、『美人』でもあった事から『殺す』には忍びない女性であったのかも知れません。

王光美は、中国国家主席劉少奇の5番目の妻です。 王光美は、カトリック系の大学を主席で卒業し、中国共産党の軍事調処執行部で英語通訳を務めていました。延安の共産党本部で劉少奇と出会いました。 王光美の父親は、4度も離婚歴のある男との結婚を反対し、彼女を勘当しています。劉少奇の最初の妻は、共産主義者として国民党に銃殺されるという悲運に遭いました。その後、2番目から4番目の妻までは、すぐにくっついては別れる、を繰り返していました。

しかし、5番目の妻である王光美人は、26歳で結婚後、劉少奇が出世街道を進んでいく過程から非業の死を遂げるまでの20年間を、妻として、秘書として彼に連れ添うのでした。 王光美は、聡明で模範的な妻でした。結婚した瞬間から、前妻たちが産んだ5人の子の母親になりました。

一番始めの妻の子供たちは、すでに成長してソ連に留学していましたが、 三番目の妻が産んだ子は、まだ2歳と4歳でした。王光美は、生さぬ仲の2人の子供たちを愛情を持って接しました。その後、王光美は、一男三女を生みますが、一切わけ隔てなく育てます。 前妻の子を虐待していた江青(毛沢東の4人目の妻)とは、雲泥の差だったのでした。
江青は、後に、王光美をひどく憎むようになりますが、自分と比べて評価の高い王光美人に嫉妬していたためだと言われています。

1962年に毛沢東が文化大革命を行なった時、劉少奇も自己批判を強いられ、殴る蹴るの暴行を受け傷だらけになった様子がテレビで実況放送されました。 党籍も剥奪され、1969年獄死しました。 何の罪も無い王光美も、逮捕されてしまいました。 美貌も知性も人望も何もかも自分より優れていた王光美を許せなかった江青が、 「彼女はアメリカ中央情報局のスパイよ!」とでっちあげたのでした。

http://www.deaik1.com/01829.html

「文化大革命」で粛正された劉少奇は毛沢東をどう思っていたのだろう。

おそらく、その死の間際まで、毛沢東を信頼していたのではないだろうか。そして自分をこの苦境から救ってくれる唯一の救世主として、毛沢東に一縷の望みを託していたのではないか。毛沢東がこの陰謀の張本人だとは思いもしなかっただろう。李志綏は「毛沢東の私生活」のなかで、1956年7月下旬、主席とともに河北省にある北戴河に保養に行ったときのエピソードを印象深く書いている。

<劉少奇は背が高くて華奢、白髪、こころもち猫背だったけれど、毛沢東が浜辺にいるとよくたずねてくる唯一の党最高幹部だった。たいてい午後三時か四時頃姿をあらわす。控えめで威厳があるうえすこぶる慎重な劉少奇は当時、毛主席の後継者に指名されていた。党内の序列は毛沢東についで第2位、内政問題の日常業務に責任があった。・・・

 劉少奇のいちばん新しい妻、王光美はたいてい夫に同行して北戴河にやってきた。党最高幹部の通例にもれず、妻たちは多くが夫よりもはるかに年若かった。王光美は当時、およそ30歳くらい(夫は58歳)、ふさふさとした黒髪に卵形の顔だち、いささかそっ歯の感があった。美人ではなかったが、魅力にあふれて人ずきあいもよく、次期主席夫人としての脚光を楽しんでいた。

 王光美は毛沢東の姿を見かけるとかならず主席にあたたかい言葉をかけ、ときには主席と一緒に筏まで泳いでいった。江青は劉夫人への不快感をあえて隠そうともしなかったが、これはあきらかに江青の嫉妬心だと思われた。

 王光美は江青よりかなり年下で、はるかに態度がくつろいでおり、社交性もゆたかだった。江青は浜辺でいつも落ち着きがないように見えた。決して泳ぎを習おうとしなかったし、右足指が6本あるのを気にやんでいた。浅瀬を歩きまわる際には両足にかならずゴム靴をはいていた。

 劉少奇はなんどかの結婚で子だくさん、その夏は何人かの子供を北戴河につれてきた。前妻・王前とのあいだにもうけた16歳か17歳の娘・劉濤もなかなかに活発で社交的、毛主席にも親しげに近づいた。娘もときたま主席とならんで筏まで泳いでいったり、週二回のダンス・パーティでは主席にしきりに相手をせがんだ。主席のほうも多くの若い娘なみにつけいるような真似は決してしなかった。にもかかわらず、江青は若い娘のあけっぴろげで馴れ馴れしいたちに腹を立てた。

 もっとも、江青はしょっちゅう怒りっぽかったし、そのつど私は彼女の立腹ぶりに自分を馴らそうとつとめたのであった。この牧歌的な魅力ある北戴河の地で、私は夢にも考えたことがなかった。十年後に江青のいじましい嫉妬心や不安感が彼女をかりたてて劉少奇一家をことごとく抹殺しようとする邪悪さと復讐心に導いていくことになるとは>


毛沢東と劉少奇はその家庭的幸福という点で好対照をなしていた。

陰惨な陰謀家で、不平不満の固まりのような江青、そして

若い女にうつつを抜かし、家族を顧みない毛、

これに対して劉少奇は快活でユーモアのある妻や娘に恵まれ、彼自身温厚で高潔な人柄だった。

この高潔な人柄と家庭的幸福が、毛沢東と江青にどう映っていたか。おそるべきは人間の嫉妬心である。不幸な人間が権力者であるとき、人々がその災いから逃れることは難しい。

 動機なき殺人などという言葉もあるが、犯罪を犯すにあたって、何らかの動機はあるのではないだろうか。生活苦、金銭欲、怨恨、英雄願望、退屈しのぎ、憂さ晴らし、自殺願望、嗜虐趣味、社会的不満、性欲に駆られてなどなど、さまざまなものが考えられる。

 犯罪そのものが目的である犯罪もある。何かの手段として人を殺すのではなく、人殺しが楽しいので、それ自身の目的のために人を殺すという訳だ。本能が壊れている人間には、こういうたわけた動機の犯罪も考えられる。

 いずれにせよ、犯罪を犯す人には、<自我の構造にゆがみ>がある。たとえば、幼い頃に虐待などにより自我に傷を受けている場合、劣等感やコンプレックスがその人格を支配し、その劣等感の反動として、権力に異常な執着を示すことがある。

 脆弱な自我を偽装するために、自分は強者であるという妄想にしがみつき、そしてこれを証明するために実際に殺人行為に走る。いわば<自己の存在証明のための犯罪>である。こうした劣等意識の強い人間は実際、自己の力を誇示することに熱心なので、犯罪者にならない場合でも、人を支配する地位を求めて、権力者になる可能性はある。

 犯罪がゆがんだ自我のありかたに関係があるのだと分かれば、犯罪を防止するための対策も浮かんでくる。たとえば幼児教育の充実などだ。強くたくましい自我を育てる条件は何か。それは植物を育てるのと同じく、充分な栄養と日光だろう。つまり、「愛情」が大切だということだ。犯罪の温床は「愛情の欠如」である。自我の健全な社会化は「愛情」という滋養なくしてはむつかしい。

 毛沢東の主治医が書いた「毛沢東の私生活」という本のなかに、権力者たちの意外に幼く女々しい幼児的な振る舞いが描かれている。たとえば、毛沢東は特性の木のベッドで一日のほとんどを過ごし、不安でそこから離れることができず、不眠症のあまり極度の薬物依存に陥っていた。妻の目を盗んで若い女をベッドに呼び込み、ときには若い男性の護衛兵にまで自分の性欲の処理をまかせている。

 そして文化大革命を遂行し、毛沢東に続くNo2として粛正恐怖政治を実行し、後には毛沢東暗殺未遂まで企てた林彪は、歯が痛いといってベッドですすり泣いて、妻に子供のようにあやされている。 李博士はこれらの様子を見て、国家の将来に暗澹たる不安を覚えたという。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


■王光美さんといえば、真っ先に思い出すのが、チャイナドレスを着せられピンポン球をつなげたネックレスをぶら下げられ紅衛兵とりかこまれ吊し上げにあっている報道写真。1967年4月10日の清華大学キャンパスの大批判大会である。ファーストレディとして夫・劉少奇とともにインドネシアなど歴訪時、彼女はがまとった白い絹のチャイナドレスやネックレスが「ブルジョア分子の動かぬ証拠」とされ、辱めに着せられたのだ。王さんは、紅衛兵のいたぶりに、

「私は反動的ブルジョア分子ではありません。毛沢東の共産党です」

と反論。「恐いだろう」と脅す紅衛兵に、「恐いことなんかないわ」と言い切ったという。


 ■王さんが譚さんに語ったところによると、江青が王光美に言ったのは『ブローチなんかつけたらやぼったい』というセリフで、首飾りではなくブローチだった。それが文革のときに走資派として糾弾される材料として、江青の忠告をきかずに、ネックレスをつけた、という物語がでっち上げられたそうだ。いずれにしろ、江青は王光美が憎くって、うらやましくって仕方なかったことは間違いない。


 ■なぜか、それは王光美が「愛を知る人」で、江青が「愛を知らない人」だったからだと思う。


 ■王さんは革命第一世代の中で最年少の部類に入る。1921年9月26日生まれの生粋の北京っ子。ちょうど父親の王治昌(当時北京の高級官僚)がワシントンに仕事で滞在中で、アメリカの中国表記、美国の美の字をとって名付けられたという。母は天津の裕福な商家の出身。兄弟姉妹が王さんを含め11人(のちに長男は夭折)。じつはこの兄弟のうち上から3人は、王さんの異母兄にあたる。王さんの母親は、病死の先妻の子供を引き取って、自分の子供と分け隔てなく育て、王さん自身も異母兄弟であったことをあとになって知ったくらい仲が良かった。大家族で裕福でみんな仲良し。そんな恵まれた環境ですくすく育った娘、それが王さんだったのだ。


 ■そんなお嬢様の彼女がなぜ、革命に身を投じたのか。1946年の当時、彼女はミッションスクールの輔仁大学物理学部(後に北京師範大学に吸収)に入学し、成績優秀で英語はぺらぺら。大学院をへて奨学金をへて米国に留学することになっていた。しかし、その英語のうまさを見込まれて、知り合いの共産党員から会議通訳を頼まれたことが、彼女の運命を大きく変える。


 ■彼女は、米国留学をけって、延安にいくことを決意したのだ。その理由は不明なのだが、彼女を直接インタビューした譚さんは「お嬢様にとって、泥臭い共産党エリートが異質ながらも魅力的にうつり好奇心が刺激されたのでは」とみている。このとき、米国留学していれば、王さんの人生はまったく変わった。あるいは中国の歴史もちょっとは変わったかもしれない。文化大革命があそこまでエスカレートしたのは江青の暴走が指摘されるが、江青の暴走は、王光美の存在が刺激した、とも言われるから。


 ■美しく、有能なわかき共産党員、王光美は育ちの良さからくる性格の良さもあって誰からも愛され、やがて最高幹部のひとり劉少奇(当時は共産党中央の臨時主席)に見初められる。1948年8月21日、二人は党の仲介で結婚した。ロマンス、というより、歳で結婚に四度も失敗し、子供抱えてこまっている五十路男の劉少奇にちょっと同情したところもあったようだ。ちなみに結婚当時、劉少奇はすでに五人の子持ち。26歳の新妻はいきなり子だくさんの母親になったのだが、そのことをまったく屈託なく受け入れてしまう。その懐の深さは、彼女の母親の子育て姿勢の影響を受けたためだそうだ。


 ■美人で育ちがよく、頭脳も優秀(スポーツも万能、大学時代は卓球の選手だった)、なおかつ良妻賢母の慈愛にみちた完璧な女性、王光美。その完璧さがどうしても許せない女がいた。もうひとりのファーストレディ、毛沢東の妻、江青である。

江青は1914年(?)、山東省の諸白県で妾の子として生まれ、12歳に父親と死別。母とともに天津で行ったものの貧困をきらい、女優になる夢を抱いて上海にいく。日中戦争で戦火が上海までに及んだため、共産党の首都、延安をめざし、そこで毛沢東と出会うのだった。


 ■江青は男好きのする美人。しかし彼女は愛を知らず、美しさを出世に利用するタイプだろう。夫がいながらも、いい役をとるために共産党幹部と寝る。捨てられた夫は、自殺すると騒いでスキャンダルにもなった。毛沢東との関係に本当に愛があったのか?文革時代の江青の暴走は、毛沢東の江青への愛情が失われ、新たな女性を作ったことへの恨みが爆発した、といわれているから、一時的には多少の愛はあったのかもしれない。が、思うに二人とも本当の愛を知らない。その点で、いいコンビだったのではないか。二人とも愛したのは権力だったのだ。


 ■譚さんの著作の中に、江青の足についての推察がある。江青はプールサイドでもいつも靴下をはいていた。泳ぐときも靴下をはいていた。彼女の足は「解放脚」との噂があった。「解放脚」とは纏足を途中でやめた足で、親指以外の足の指が全部内側に折り曲がっているという。纏足とは清朝に流行した悪習で、足を布で強くしばり、小さいまま成長させないようにする。こうすると、歩くとき内股の筋肉をよく使うので、閨房で男性をより喜ばせることができる、という。


 ■かたや前時代の悪習のなごりを身に残しながら性的魅力をフルに使い権力の階段をはいのぼってきたファーストレディ。かたや欧米の先進教育を受け柔軟な頭脳と快活な人柄と優しさを見込まれて、迎えられたファーストレディ。この二人が相容れなかったのは当然とえいば当然。毛沢東が真に人望のある有能な政治家・劉少奇を許せなかったように、江青も真にエレガントなファーストレディの王さんの存在を看過できなかった。


 ■王さんは清華大学の大批判大会のあと、67年9月逮捕され12月までの間に34回、殴る蹴るの暴行をともなう激しい訊問(拷問)を受け、拷問の結果の供述による調書をもとに「死刑」の決定が下された。下したのは江青の主導で作られた「王光美専門案件小組」である。江青は王光美を死刑に追い込むためにわざわざ専門の審査機関まで作ったのだ。この報告が毛沢東にあげられたとき、毛沢東は「暫時死刑はせず」とこの決定を覆し、紙一重のところで命を助けられた。だからなのか、王さんは決して毛沢東の批判を口にすることはなかった、と譚さんは言っている。


 ■王さんは北京の秦城刑務所で12年間を過ごした。その間に、夫・劉少奇は非業の死をとげる(1969年)。それを知らされたのは72年だったという。窓ひとつの独房で日付のわからぬ毎日が繰り返され、食事といえばウジのわいた漬け物や薄い野菜のかけらが浮いたスープ、マントウ。こういう仕打ちの中、精神を病んだ人も多かったのに、彼女は耐えきった。その強さを支えたのは、やはり家族を思う心、愛ではなかったかと思う。王さんの子供たちは八方手を尽くし両親の消息を捜し、毛沢東に手紙を書き宋慶齢経由で渡してもらったりして救出の努力をしていた。親子の愛はどこかで通じていたに違いない。

 ■文革終結後の1979年に劉少奇の名誉も回復され、王さんもは釈放された。80年には劉少奇の海に散骨し、夫の遺言をかなえた。王さんが江青に再び対面したのは1981年、「林彪、江青反革命集団10名」を裁く特別裁判の傍聴席からだった。王さんが江青の後ろ姿を凝視していると、ふと江青が振り向き、一瞬視線があったという。江青はそのまま、表情を変えずに正面を向き直ったという。


 ■王さんの老後は充実していた。大きな功績として知られるのは農村の貧しい母親を支援する「幸福工程」への参加である。彼女は家伝の骨董品をオークションにかけその収益を率先して寄付したことで大きな慈善事業運動に発展した。この活動(1995−2005年)の様子をまとめた冊子は、弔問客に配られていた。ちなみに、弔問は入院先の解放軍第305病院の一角で行われていたが、花輪の山で弔問客はひっきりなしだった。王さんがいかに敬愛されていたかうかがえた。


 ■死刑判決を受けた江青はその後無期懲役に減刑され、王さんが入っていた秦城監獄で十数年服役。70歳をすぎて病気がちになったことから監獄外で療養生活を送るようになったあとの、1991年5月日、北京の自宅でナイロンストッキングをベッドに結びつけ首をつって自殺。今、彼女のことをよく言うひとはいない。誰も愛さなかった人は誰からも愛されなかったのか。そして愛を知らぬ人は、最後には自分すらも愛せず、自らを殺すしかなかったのか。


 ■今年、文革終結後30周年。いまだに正面からの検証を許されないあの凄惨な時代を耐え抜き、「過去のことは何も後悔していません」と言い切った王さん。その生涯を、より多くの人に知って欲しいと思い、少々ながめのエントリーになった。彼女のことを考えると、本当の人間の強さも幸福も、権力を掌握することではなく、愛を知っているか否かで決まるのだと思う。

http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/58218


毛沢東も美女にだけは優しかったんですね。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c4

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
5. 中川隆[-10700] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:54:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1355]

周恩来が夢見た共産社会とは…


周 恩来(ヂョウ・オンライ、1898年3月5日 - 1976年1月8日)

周恩来は江蘇省淮安の官僚地主の家に生まれた。

1917年に、日本に留学
1920年パリに留学

1924年、周恩来は帰国し、孫文が創立した黄埔軍官学校の政治部副主任となった。ちなみに校長は蒋介石であった。翌1925年、五・四学生運動時代の恋人ケ穎超と結婚した。周恩来・ケ穎超夫妻の人気は中国国内でも高く「おしどり夫婦」として有名であった。夫妻の出会いの場所である天津南開大学の近くには周恩来・ケ穎超記念館が建設された。

子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに首相)。


中華人民共和国建国以来、毛沢東との人間関係においては、古来の中華帝国の形式に則るような「皇帝に従属する宰相」というスタンスを生涯貫き通した。 彼の誠実な人柄と、自ら権力を欲しない謙虚な態度と中国革命への献身は、中華人民共和国の民衆から深い敬愛を集めていた。

周恩来の名が世界に知られるようになったのは、1936年の西安事件での活躍であった。これは当時「安内攘外」(国内を安定させてから外国勢力を追い払う)政策を採って共産党と抗日運動を弾圧していた蒋介石を、東北軍の張学良と西北軍の楊虎城が西安で拘束、一致抗日を要求した事件である。蒋介石がこの要求に応じないことに困惑した張学良が、共産党に周恩来の派遣を求めた。周恩来は両者の間を調停し、誠心誠意、蒋介石に一致抗日を説いた。妥協しない決意を固めていた蒋介石に開口一番「お久しぶりです。校長」と呼び掛けた周恩来の物腰と、その熱意の前に暗黙の了解をしたと言われる。

文化大革命(プロレタリア文化大革命)が勃発しても周恩来は毛沢東に従い続け、走資派(実権派)のレッテルを張られた劉少奇らの粛清に協力した。その一方で周恩来は文革の「火消し屋」として紅衛兵の横暴を抑えようとした。紅衛兵が北京の道路を「右派に反対する」と言う理由で左側通行に変えさせた為、交通が大混乱に陥った時も、周恩来が介入して止めさせた。また故宮を紅衛兵が破壊しようとした際にも、軍隊を派遣し文化遺産を保護した。更に出来うる限り走資派のレッテルを張られた多くの党幹部を保護しようと努めた。例えば1968年8月26日、外相の陳毅が紅衛兵に襲われそうになったとき、周は

「君たちが陳毅を吊るし上げるのなら私は前に立ちはだかる。それでもまだ続けたいのなら私の身体を踏みつけてからにせよ!」

と叫び、身を挺して守った。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5

中国の現代史を振り返ってみて、そこにうき彫りにされるのは、毛沢東の権力志向のすさまじさである。

彼の後継者と目された劉少奇、ケ小平、林彪など、No2はいずれも粛正された。

ひとり、周恩来だけが、その荒波をくぐり、何とか晩節を全うすることができたが、その秘訣はといえば、ただ毛沢東を決して批判せず、その忠実な下僕となって、彼をひたすら崇拝し、神格化することによってであった。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

林彪事件ではっきりわかることが一つある。それは、毛沢東が最後に頼るのはやはり周恩来だということだ。このことを知っていて、周恩来はつねに気前よく、自分の上位に人を置く。

 彼は毛沢東という皇帝に宰相として使えた。毛沢東あっての周恩来であり、周恩来あっての毛沢東である。しかし中国共産党の歴史を見てわかるのは、周恩来は党内序列がNo2であったことはほとんどなく、彼と毛沢東の間には、必ず人がいるのである。そして、その人物は結局毛沢東によって粛正されるということだ。

 このことを周恩来は知っていたのではないかと思う。彼はNo1はおろか、No2でさえ目差さなかった。人はこれを周恩来の謙虚さや野心のなさのせいにするが、私の見方はすこし違っている。毛沢東王朝にあって、一番危険なのはNo2であり、毛沢東の後継者と目されることだとわかっていたためだろう。

 林彪が粛正された後、いやがうえにも、彼はNo2の位置に立たされた。もはや他に、適当な人材がいなかったからだ。周恩来の前には、秦の始皇帝や随の煬帝を中国の偉大な皇帝だったと讃えて憚らない無慈悲な皇帝毛沢東が聳え、後ろには、さらに恐ろしい陰謀家の江青がいた。

 周恩来は苦境に陥り、健康を急速に悪化させる。 周恩来は1976年1月8日になくなった。周恩来は結腸、膀胱、肺を癌に冒されていたという。  しかし、癌に冒されていたのは、中国という国家そのものがそうだった。江青グループも元凶のひとつだが、最大の癌は、いうまでもなく毛沢東その人だった。そして癌をのさばらせた元凶は周恩来その人だった。彼の死後、意外な新人が首相の地位につく。華国峰である。1976年9月9日、毛沢東が死ぬと、彼は早速先手を打って江青グループを逮捕する。こうしてようやく、中国は再生へとその第一歩を踏み出すのである。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

1976年、中華人民共和国建国以来国務院総理(首相)を務めてきた周恩来(1898〜1976)が毛沢東より一足早い1月に世を去っている。品格と知性と忍耐強さを兼ね備えた彼の人物に関しては欧米からの評価も極めて高い。廃帝と成った溥儀を気遣ったのも周恩来だった。

勿論、中国が文革の嵐に巻き込まれた時、彼が心を痛めながらも毛沢東に従った事は否定出来ない。しかし、彼が毛沢東とは常に一定の距離を置いていた事も確かで、民衆の人気は高く、その人徳故か、あまり彼の事を悪く言う人はいない。そして、死ぬ迄首相の座を保持した彼は「不倒翁」とも称されている。

http://homepage3.nifty.com/mahdes/asihe3c.htm


溥儀は1959年12月4日に、当時の劉少奇国家主席の出した「戦争犯罪人」に対する特赦令を受け、12月9日に模範囚として特赦された。釈放後の1960年1月26日に、溥儀が政治犯収容所に収監されている際も溥儀に対して何かと便宜を図っていた周恩来首相と中南海で会談し、釈放後の将来について話し合った結果、一般市民の生活に慣れることを目的に、周恩来の薦めで中国科学院が運営する北京植物園での庭師としての勤務を行うこととなった。その後は政協第4期全国政治協商会議文史研究委員会専門委員になり文史資料研究を行う。 1964年には、多民族国家となった中華人民共和国内において、満洲族と漢族の民族間の調和を目指す周恩来の計らいで、満洲族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出された。

毛沢東や多くの共産党幹部らと違って教育程度が高く、しかも文化程度の高い家柄の出身であった周恩来は、清朝皇帝であったものの、その後不幸な運命を辿った溥儀に対して常に同情的だったと言われている。

溥儀は中国を文化大革命の嵐が覆う中で癌に罹った。清朝皇帝という「反革命的」な出自であった溥儀の治療を行って紅衛兵たちに攻撃されることを恐れた多くの病院から入院を拒否されたが、周恩来の指示で北京市内の病院に入院することになった。
果たして病院に紅衛兵たちが現れて非難したため医師たちが溥儀の治療行為を行わず放置されたが、事態を聞いて怒った周恩来は院長に直接電話して溥儀の治療を行わせた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E6%96%B0%E8%A6%9A%E7%BE%85%E6%BA%A5%E5%84%80

溥傑氏と浩夫人への周総理の配慮 中日友好協会副会長  王效賢


日本語の名通訳として知られる王效賢さんは、毛沢東主席や周恩来総理のそばで、長く仕事をしてきた。その中で忘れられない思い出の1つは、日本がつくった「満州国」の傀儡皇帝だった溥儀氏とその弟、溥傑氏の2つの家族に対し、周総理が心のこもった配慮をし、溥傑氏の日本人の妻子を遇したことであるという。


一市民となったラストエンペラー

1959年9月17日、中国の劉少奇国家主席は、毛主席の提案に基づいて、罪を悔い改めた戦争犯罪者に対する特赦を発布した。撫順の戦犯管理所で服役していた溥儀氏が特赦通知書を受け取ったのはこの年の12月4日である。

溥儀氏は、自分が戦犯の中で、自分がもっとも早く釈放されるとは、夢にも思っていなかった。12月9日、彼は34年ぶりに北京に帰り、家族と団欒した。清朝の末代皇帝(ラストエンペラー)は、北京市の普通の市民になったのである。


1961年6月10日、周恩来総理(前列右から3人目)は西花庁で、溥儀氏(左から2人目)、溥傑氏(右端)、嵯峨浩さん(右から2人目)らと会見し、宴会を開いた。左端は筆者、左から3人目は老舎

それからわずか1カ月半後の1960年1月26日、周総理は、中南海の西花庁で、溥儀氏とその親戚と会見し、宴会を開いた。そこで周総理は彼らと直接、今後の溥儀氏の生活や仕事、学習、思想改造問題について相談したのだった。

周総理は溥儀氏にこう言った。「身体検査をしてから3年計画を立て、自然科学を少し学び、技術を少し身につける。思想を改造するには、第1に客観的な環境が必要であり、第2に主観的努力が必要だ。現在、各民族は平等になった。各民族はともに発展している。満州族と漢族はもっとよく団結しなければならない。あなたはつとめて学習し、よい成績を出さなければならない。それはあなた個人にとっても、人民にとっても、満州族にとっても良いことだ」

これに対し溥儀氏はすぐに「私は毛主席と周総理の期待に決して背きません」と答えた。間もなく周総理は、郭沫若・全人代副委員長と相談して、溥儀氏が中国科学院に属する植物園で労働に参加するよう手配した。

中国行きを望んだ浩夫人


2005年7月、中日友好協会の招きで訪中したコ生さん(中央)と夫君の福永健次氏(右端)

溥儀氏の弟の溥傑氏も1960年に特赦され、北京で兄や妹と再会した。しかし溥儀氏とは違い、溥傑氏には、日本にいる妻子が中国に帰ってこられるかどうかという問題があった。

この問題をめぐって溥一族には意見の違いがあった。特に溥儀氏は、溥傑氏の婚姻は日本帝国主義が画策したものであり、溥傑氏は日本の妻子と一線を画し、古い関係を断ち切らなければならないと考えた。

周総理は、また西花庁で、溥儀、溥傑の両氏とその家族と会見し、宴会を催した。周総理は溥傑氏の心配をよく理解し、こう言ったのである。

「あなたの日本国籍の夫人、嵯峨浩さんが中国に帰って来るのを歓迎します。あなたは手紙を書いて、新中国の状況を彼女に知らせなさい。中国政府は、彼女が帰ってくるのを歓迎するし、中国での生活に慣れなければまた日本に帰ってもよい。

中国には皇族はなくなったし、社会主義の国となって、人々はみな同じ生活を送るようになり、人より身分が高いということはなくなった。彼女も1人の平民の立場に立って、人と人が平等な生活を送らせなさい」


1961年3月、許広平さん(魯迅の夫人)が率いる中国婦女代表団が日本を訪問した。私は団長の通訳として加わった。出発前、周総理は溥傑氏の書いた手紙を代表団の丁雪松秘書長(後に新中国で初の女性大使となる)に渡し、なるべく早く浩夫人に手渡すよう、廖承志・中日友好協会会長に言いつけた。

代表団が日本に滞在中、浩夫人は中国式の「旗袍」を着て、私たちの泊まっているホテルにやって来て、団長と秘書長に面会した。浩夫人は非常にかしこまって、完璧な中国語でこう言った。

「周総理と中国政府の寛大さとご配慮に感謝いたします。私は中国人です。必ず中国に帰らなければなりません。鶏に嫁せば鶏に随い、狗に嫁せば狗に随うといいます」

私は呆然とし、浩夫人の眼に浮かんだ涙を見ていた。その時の情景を、40年経った今も、私ははっきり覚えている。

この年の6月10日、周総理が嵯峨浩さんと彼女の母の嵯峨尚子さん、妹の町田幹子さん、娘のコ生さんらと会見するので、通訳として参加するように、という通知が来た。こんなに早く、浩夫人が中国に戻ってくるとは、と私は驚いた。

このときの宴会には、溥儀、溥傑の兄弟の一族ばかりでなく、満州族の傑出した人物である作家の老舎氏と夫人の胡巨ツさん、京劇俳優の程硯秋の夫人、日本の貴族出身で、周総理が「民間大使」と称えている西園寺公一氏らが招かれていた。

周総理はこう述べた。

「我々共産党の目的は、素晴らしい世界をつくりあげて、みなが生きてゆくことができ、良い暮らしができるようにすることにあります。今日この席には、かつての皇帝や皇族もいるが、今はみないっしょに生活しています」


そして周総理は、とくに溥儀、溥傑兄弟の3番目の妹が東城区の政協委員を、5番目の妹が会計を、6番目の妹が芸術家を、7番目の妹が小学校の教務主任で模範工作者であると紹介した。そして「かつての皇族、官僚、貴族はみな変わり、みんな平等である」とし、

「皆さん、考えてみてください。封建制度を覆し、共和国を打ち建てた後も、以前の皇帝がなお生き残り、平等な地位を与えられる国、そんな国が世界のどこにあるでしょうか。これは我々の国策なのです。もちろん本人が努力しなければならず、皆が協力しあわなければなりません」と述べた。

さらに周総理は浩夫人に対し「どうぞご安心なさって下さい。我々はあなたを差別扱いするようなことはいたしません。あなたの亡くなられた娘の慧生さんから手紙をいただいたことがあります。私は彼女が父親と手紙のやりとりをすることに同意しました。彼女は大変勇気のある若者です。彼女の写真があれば、記念に1枚いただけませんか」と言った。

来るのも自由、帰るのも自由


2005年7月、中日友好協会の招きで訪中したコ生さん(中央)と夫君の福永健次氏(立っている人物)。左端は筆者

会見の時間は、非常に長く、家庭の問題から民族問題、更に中日関係に話が及び、内容もきわめて豊富だった。

日本の問題に話が及ぶと、周総理はこう述べた。


「日本軍国主義は1894年から1945年までの50年間、中国人民に損害を与えました。解放後10年このかた、万を数える日本の友人が毛主席、劉主席と私にも会って、謝罪の意を表明しました。我々に言わせれば、中日両国は2000年近い往来の歴史があり、経済、文化の交流を発展させてきました。この2000年に比べれば、50年間という時間は、ほんの短いもので、しかもすでに過ぎ去ったことです。

我々は前向きに、中日両国の友好関係を促進し、国交を回復し、経済と文化の交流を発展させるために努力するべきです。毛主席は、日本軍国主義の侵略が中国人民を団結させたと言ったことさえあります。我々は日本人民に対し、いささかも恨んでおりません。

日本人民もまた日本軍国主義の被害者なのです。皇族、華族、ブルジョアジーでも勤労人民でも、ただ中国と友好を願うのであれば、我々は彼らとみな友好的に付き合います。日本の侵略政府に参加したメンバーでも、中日友好に賛成するなら、我々はやはり歓迎します」

こう語った周総理は、浩夫人に対し

「あなたは日本人ですが、中国人と結婚したので今は中国人になりました。我々はあなたを中国人として、中国の社会活動に参加するのを歓迎します。あなたは中日友好の事業に力を注ぎたいと思い、実際に中国に帰ってきたのですから、これこそ中日友好を象徴しています。中国での暮らしに合わないと感じたときはいつでも、日本に帰って結構です。日本に帰って比較してみて、やはり中国が良いと感じたら、また帰ってくることもできます。来るのも自由なら帰るのも自由。私が保証します。私がサインします。当然のことながら、私のサインが必要になることはないと信じますが」と話した。


周総理の話の中で、もっとも忘れられないのは、娘のコ生さんについて周総理が語ったことである。周総理はこう言った。

「彼女が日本に帰りたいなら帰らせるのがよいでしょう。無理強いして残すのは良くありません。若い人はよく変わります。後になって中国に来たいと思ったら、いつでも申請すればよいのです。日本人と結婚しても、どこが悪いのでしょうか」

コ生さんが帰るか留まるかという問題は、溥傑氏と浩夫人の悩みの種だった。コ生さんが中国に来てから、夫妻は朝な夕なに、唯一の娘が身近に留まってくれるよう説得した。しかしコ生さんには自分の考えがあり、両親のもとに留まることを承知しなかった。

このため父と娘は喧嘩になり、母と娘はともに泣いた。当時、浩夫人一家のお供をして中国国内を旅行した周斉さん(中国国際貿易促進委員会連絡部長)が会見前に周総理にこの模様を報告していたので、周総理は、溥傑一家のためにこの難題を解決したのだった。

コ生さんは日本に帰った後、日本人と結婚した。周総理の言った通り、しょっちゅう日本と中国を往来し、父母のそばで暫く住み、一家団欒するのが常だった。現在、コ生さんには幸せな家庭があり、4人の子どもの母であるばかりか、孫まである。

最近、コ生さんは、中日友好協会の招きで中国にやって来た。私たちは11年ぶりに再会し、ともにあの心のこもった周総理の話しを思い出し、懐かしんだのだった。(参考資料:『周恩来年譜』『周恩来選集』)(2005年10月号より)

http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200510/tebie62.htm

母の死刑を無罪に変えたのは周恩来


崔鳳義さん(松田ちゑさんの息子)が自伝で告白


■ 2人の妻と異母兄弟

 1945年の冬から翌年春先にかけて、松田ちゑさんは方正で病が重く、生死の境をさ迷っていた。このままでは死を待つばかり、という状態で彼女は崔さんの父親に引き取られた。実は崔さんの父親には奥さんと男の子がいたのだが、男の子の母親はこの時、夫婦喧嘩の末、男の子を置いて実家に帰ったまま1年余りも戻っていない。彼女は夫がお金を持って謝罪に来るのを待っていたが、頑固でメンツにこだわる崔さんの父親は、意地でも頭を下げて彼女を迎えに行こうとは間違っても思わなかったし、彼女が戻って来るとは夢にも思わなかったのだ。そして松田さんと再婚したのである。ところがその後、この前妻がひょっこり戻ってきたのである。普通ならここでひと波乱起きるところだが、ここでは何事も起きなかった。同じ屋根の下で、一人の夫と二人の妻とそれぞれの男の子が同居するという、奇妙だが破綻のない家庭が維持されたのである。この信じられない家中のバランスが成り立った理由を筆者はこう書いている。

「私は自分の母親をママと呼び、彼女を叔母さんと呼んだ。叔母さんの性格は私の母親とはまったく逆で、口八丁手八丁、社交的で世話好き。そして私の母親は内向的な性格、中国語もうまく言えないし、言葉で自分の気持ちや考えを表現するのが苦手で、おとなしく、他人に逆らわない性格である」

■ 医師を目指した秀才

こうして貧しく、複雑な家庭環境に育ちながら、崔さんは聡明で学校では抜群の成績だった。中学、高校と方正県で最も優秀な学校に通い、成績は常にトップの3人の中にいた。大学進学が身近に迫ってきた時、彼の第1志望は北京医科大学へ進んで医師になることだった。文化大革命に遭遇しなければ彼は間違いなく優秀な医師になっていただろう。

 1966年、文化大革命が始まったとき、彼もまた紅衛兵として方正の仲間とハルピンへ出、黒竜江省の各地から来た若者と北京へ向かった。天安門広場で毛沢東に忠誠を誓った。

 だが方正に帰ったあと、彼をめぐる環境は思っても見ない展開をみせる。
母親・松田ちゑさんが日本のスパイ容疑で3年半も留置されたのだ。
スパイの息子は昨日まで彼を敬愛していた友人からも白い目で見られるようになる。一方、1968年、「知識青年は農村へ行け!中下層農民から再教育をうけよ」という毛沢東の指示で彼も方正県のはずれにある沙河子国営農場で豚の飼育やトラクター運転の明け暮れが続いた。

 それから半年後、崔さんにとっては永遠に忘れることができない日が訪れる。

「1971年11月25日、この特別な日を私は永久に忘れない。ここの日、母が無罪釈放されたのだ。この日、私の母は苦界から完全に脱し、3年6ヶ月にわたった獄中の苦しみから脱け出し、あの暗くじめじめした、地獄のような牢獄から出てきたのだ」
崔さんは、この時は知らなかった母親釈放の真相を、これから35年たって、すでに彼も日本に移り住んだ後、方正を再訪した時に、かつて方正県の公安局で仕事をしていたある退職者から驚くべき事実を知らされる。

「私の母が出獄でき、無実の罪を晴らすことができたことについて、私が誰よりも感謝しているのは、中国国務院総理周恩来である。周総理の指示によって母の命が救われたのだ。

母が無実で釈放されてから35年たって私が方正を再訪した時、私はかつて方正県公安局に勤め、現在すでに退職した知人からこのことを知らされた。当時、母は捕らえられ入獄したあと、1971年10月、解放軍中国人民方正県保衛部審判係(文化大革命の期間、公安局、検察庁、裁判所はすべてすでに軍の管轄下にあった)によって決定され、省の公安庁に上げられた書類には、私の母は死刑の判決だった。

この判決が省の公安庁から国家公安部に上げられ、この判決が国際刑事判決に関わるものであり、同時に日本との関係も考慮されたと考えられる。そのためこの材料はさらに周恩来総理のもとへ回された。

周恩来総理は1963年、方正県で「方正地区日本人公墓」建設を認可した材料の中で、私の母が日本人公墓建設の主唱者であり推進者であることを知っていた。

 「方正地区日本人公墓」は建設後、日本国内及び全世界で大きな反響を呼んだ。これは侵略された国が侵略者の死んだ遺族のために建てた公墓である。これは中国政府と中国人民の人道主義の精神を示すものである。中国政府のこの措置は日本人民及び全世界の人民の賞讃を受けた。しかし今回、中国人民解放軍方正県保衛部審判係りが私の母を死刑にするという材料の中で最も主要な罪が「方正地区日本人公墓」の建設の上で主導的な役割を果たしたということである。そしてさらに私の母に被せられた罪名は何の根拠もないものだった。このため周総理は材料を見たあとすぐ「無罪、即時釈放」の指示を出したのである。

 中国人民解放軍方正県保衛部審判組は、1971年11月15日、この密封された書類を受け取ったとき、誰もが省公安庁に上げた母に対する死刑の書類が承認されてきたものとばかり思った。ところが彼らが開封し、見たのは「無罪、即時釈放」の文字だったのである。

その場に居合わせた審判部のものは全員、驚き、わが目を信じられずに、みんな省公安庁が間違ったに相違ないと思った。書類はすぐ公安局長に渡され、公安局長は直ちに省の公安庁に電話をかけて尋ねた。

答えは、これは周恩来総理の指示である。書類のように実施するように、ということだった。公安局の役人たちは狼狽し、上部からの文書にしたがって進めるほかなかった。こうして1971年11月25日、私の母は無罪釈放となったのだった。

http://www.houmasa.com/newsletter4-4.html


もと陸軍中将、第59師団(衣部隊)の師団長だった藤田茂氏は、八路軍と戦った自分自身の体験から次のように述べています(季刊『中帰連』第16号)

俺は衣部隊の師団長をやっていたが、山東省の解放地区では八路軍にほとほと手を焼いた。当時の判断を言うと、俺はあと一年と山東地区では日本軍はもつまいと思っていた。衣部隊全滅を覚悟していた。

討伐に行くと八路軍は逃げてしまって、こちらの損害ばかり積み童なってゆく、とうとう旅団長一人は狙撃されて戦死だ。

(中略)実際問題として、ソ連相手の北進を命じられた時、私はほっとした。ゲリラ戦で次第に戦力を消耗させられるよりも、満蒙で大いに戦った方がすっきりするという感じだった


藤田氏は、八路軍と日本軍の違いについて、こう述べています:


日本軍に昔から苦しめられてきた住民にとっては八路軍はまるで後光がさしている軍隊に見えるわけだ。

家を出てゆく時には、瓶に水を一杯くんで、全部掃除をし、塵ひとつ残さんようにしてゆく、昨晩の泊まり賃も置いてゆく、食物代もいくらいくらと精算してゆく、子供はいたわる、老人は大切にする。

こんな軍隊を私は見たことがないわけだ。日本軍が行けば、銃剣で脅かして、米を出せ、麦を出せ、薪を出せ、出さぬと家に火をつける、女は強姦する、手がつけられない。当然、八路軍さまさまになってしまう。

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/hatsugen/nicchuu-hachiro.htm

山極さんは、日本軍と八路軍の捕虜政策の違いについて触れ、日本軍は捕虜を否定し、捕虜になってはならない、捕虜になることは恥だとされ、日本軍捕虜は存在しないという前提になっていたのに対し、八路軍は優待政策をとり、日本兵捕虜を「尊重・優遇し、彼らを教育し、彼らを通じて他のものに影響を与え、反侵略統一戦線の樹立に努力させる」方針をとったこと、その結果、

1937年から43年までに、捕虜総数2407名のうち2085名が釈放され、八路軍は捕虜を殺さないで優遇することを日本軍に知らせ、日本軍内にもそれが次第に浸透し、自発的投降が増加したこと、しかし、日本軍は、釈放した捕虜を処罰したり、自決の強要も広がったことを話されました。

http://yamatea.at.webry.info/201101/article_17.html


日中友好協会 製作ビデオ第3巻上映

 2月9日(日)御南公民館で、協会製作の証言ビデオ「3」が、岡山県ではじめて上映されました。

中国人の生体実験にかかわった元軍医の証言、赤ちゃんを泥靴でふみ殺し、ずっと夢に出てきて悩んでいた元特務機関員の証言、

八路軍の捕虜となった元兵士の見たものは、負傷した日本兵を背おって山をのぼる八路軍軍医の姿だった……

40分のビデオは若者が問いかける侵略戦争、そんなことがなぜ?なぜ?に答えきれているだろうか。

 おそろしい日本軍の組織とは反対に、井上愛子さんの1時間のお話は、中国人民解放軍のやさしさ、心の広さにうたれました。看護婦として捕虜になった気がせず、東北三省をかけめぐり、にわか作りの病院で炭をおこし湯をわかすことからはじめ、中国人と朝鮮人と日本人がほんとにとけあって生命を大切にした青春でした。その時の赤ちゃん(長男雅俊さん)も会場に見えられ、紹介されました。 
 
http://rizhong.web.infoseek.co.jp/gangshanban030209.htm


戦後、シベリアに捕虜として収容された60万人の中の969人が、5年後の1950年に戦犯として中国に引き渡された。収容された「撫順戦犯管理所」には中将から二等兵まで、また溥儀も収容されていたが、此処は日本軍が作った監獄であった。当初、彼らは「なぜ戦犯!?、上官の命令」などと反抗していたが、管理所では一切の強制労働も学習もなく、ただ反省するのを待った。
 
 彼らは3〜4年経ったころから過去を振り返り自ら「認罪」して行った。56年の戦犯法廷では起訴された政府・軍高官の45人以外は起訴免除、起訴された45人もシベリアの5年と撫順戦犯管理所の6年が刑期に参入され、一人の無期も死刑もなく全員刑期満了前に帰国を許された。 

 この映像はその「撫順戦犯管理所」のドキュメンタリーで、当時の管理所生活などの記録映像を交え、収容されたご健在の元戦犯10人と、管理所側の医師、看護婦、教育、経理、人事、炊事係など8人の「証言」で構成したもので非常に貴重な記録である。

 この放送後、番組(映像)で証言した元戦犯のうち既に4人が鬼籍に入っている。彼らは「撫順戦犯管理所の6年に感謝している」とまで話しており正に「奇蹟」の体験である。この事実に一部から「洗脳だ、強制だ」との批判があるか、強制が無かったことはこの映像記録と証言が裏付けている。
 

 管理所は周恩来の直轄指示で

「戦犯といえでも人間であり、人格と日本人の習慣を守れ」

と徹底された。そして、戦犯への優遇措置に反発する管理所職員には

「復讐や制裁では憎しみの連鎖は切れない。20年後には解る」

と諭した。周恩来はワイツゼッカーの「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」

との全く同じ意の、

『前事不忘 後事之師』(前の事を忘れず、後の教えとせよ)

と言っていた。
http://www.janjannews.jp/archives/2600539.html


 訪中した際、周恩来総理は私に対して次のように述べられました。


「今度、日中両国の間に国交が回復したことはまことに喜ばしいことです。これは経済的基盤の異なる両国の総理が紙の上で約束したものであります。

しかし、本当の友好はこれからでありましょう。中国人民と日本人民がお互いにもっともっと理解を深め、その相互理解の上に信頼の念が深まってこそ、初めて子々孫々に至るまで変わることのない友好関係が結ばれることでしょう。これにはまだ永い年月がかかることでしょう。日中友好のためお互いにいっそう努力しましょう」

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/02/hujita_kandaiseisakunituite.htm

戦争が終われば勝者が敗者を裁く。アジア太平洋戦争の終了後東京軍事法廷やアジア各地の軍事法廷で多くの日本人戦犯が処刑された。BC級戦犯でも銃殺刑、絞首刑をうけたものが多くいる。中国の国民党政府(蒋介石政権)も北京・南京・上海など10カ所で裁判を行い、605件883人を裁き149人を死刑に処している。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/02/kunitomo_taiken.htm

私は日本から送られてきた週刊誌を読んだことがありますが、その記事の中に各国の軍事裁判の様子が載っておりました。ポツダム宣言第9条には、捕虜を虐待した者は厳罰に処すとあります。これによって1200余名の日本軍将兵が死刑に処せられているのです。私が師団長のとき行いました秀嶺1号作戦というのがあります。この作戦だけで私は捕虜86名を虐殺したという一項が起訴状に載っております。この一項だけでも私は当然死刑だと覚悟を決めたのであります。

 いよいよ6月9日より軍事裁判が開かれました。 被告第一号に対する証人の証言が始まったのです。この証人たちの証言の一言一句は本当に怒りと憎しみに満ち満ちておりました。その一人一人の眼光と一句一句の憎しみが、私の胸に突き刺さる思いでした。次から次へと立つ証人たちは異口同音に私を極刑に処すよう証言の最後を結んでおりました。


 その中でもっとも印象に残る証言について述べます。

 それは私が連隊長の時代、山西省安邑県に上段村という村がありますが、その部落に共産軍がいるという情報が入りましたので、「直ちに補足せん滅すべし」という師団命令をうけて、私は部下を指揮してその部落に向いました。夜明け前、折りしも移動しつつある敵50名と遭遇、ただちに戦闘に入りました。白々と夜が明けるころ戦闘は終わりましたが、私はまだ部落の中に敵が潜んでいるかもしれないと思い、部落の掃討を命じました。

 私は部落の城門付近に腰をすえて部落内の様子をうかがっておりました。あちらこちらで火の手があがる、単発的な銃声が聞こえる。私は「また何かやってるワイ」といった程度にしか思っていませんでした。

 しかし、このときの罪状によりますと、住民の老若男女140名を殺害したうえ、井戸に投げ込み、捕虜12名を殺害し、100余軒の民家を焼失させたのです。

 この時の証言に立った張葡萄という62歳になる老婆は、このため一家が皆殺しにされ、ただ一人生き残ったのです。老婆は当時の情況を話しているうちに段々興奮してきて、怒りのために体が震えだし、顔は汗と涙と鼻水とよだれでクチャクチャで、それは物凄い形相でした。老婆の白髪まじりの頭髪は憎しみで逆立っていました。

 私は元来、人の喜び、怒り、悲しみ、苦しみの表情を何度も見たことがありますが、この老婆のような凄い形相を見るのは初めてであります。なんと言いますか、怒り、憎しみ、悲しみ、苦しみ、恨み、これらの感情が一時に爆発したという表情であります。

 この老婆は髪を逆立てて、テーブルを乗り越え私に飛びかからんばかりの有り様なのです。証言という生やさしいものではありません。裁判長が幾度もなだめ、看守が、元の席へ引き戻してもすぐに私に飛びついてくるのです。また連れ戻す。また夢中で飛びかかってくる。

 私は本当にそこに立っていることができなくなりました。つらい、苦しい、まさに断腸の思いであります。心から呵責の念がわいてまいりました。もうどうでもいい、ひと思いにこの老婆に蹴るなり、噛みつくなり、打ち倒すなりして欲しいという気持ちで一杯でした。そこにからくも立ちすくんでいることで精一杯でした。

 私はこの老婆の怒りと憎しみでくしゃくしゃになった顔がまぶたに焼きついていて、生涯消えることはないでありましょう。

 このような証言を26人から聞きました。丸一日半、私はただ立ちすくんでおりました。その時間の長かったこと、これはとうてい言葉では表現できるものではありませんでした。

 私はいちおう死刑の覚悟をしておりましたが、証言を聞き終えたとき、心の底から死刑は当然だと思うようになりました。

 裁判長は「今の証言に対して被告はどう思うか」という質問をしましたが、私はもう弁解無用と感じておりましたので、「まったくその通りです。本当に申し訳ないことをいたしました」と素直に答弁いたしました。

 このようにして10日間で8名の軍事裁判は終わりました。そして6月19日、判決が言い渡されました。私に対する判決はまったく予想外でした。なんとただの18年の禁固刑だというのです。しかもこの18年は抑留の全期間を通算するというのです。日本敗戦後、ソ連での5年間、中国での今までの6年間を通算し、すでに11年が経過し、あと7年間の禁固刑というのです。7年たてば、この私を日本に帰すというのです。なんと夢のような話なのです。

 裁判長の「今の判決に対して被告は申し述べることがあるか」という質問に対して、私は「まったく予想外の寛大な判決でありただ感謝のほかございません。しかしながら、ここにおられる26人の証人は皆、極刑を望んでいます。こんな軽い刑では納得されないのではありませんか」と偽らざる心境を述べました。

 その後、弁護士が私の部屋にまいりました。「藤田さん、今日は本当に良かったですね。貴方が人民の立場に立たれたことを感謝します」というのです、それは証人の心情を充分汲みとり心から自分の罪行を反省し、判決に感謝していることを、喜んでくれているのです。

 この軍事裁判により、もっとも長い者で20年、短い者で13年の判決を受けたのです。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/02/hujita_kandaiseisakunituite.htm

このような罪をはたらいた坂倉さんたち戦犯に対して、解放まもなく、管理所職員すらもコーリャンの食事に甘んじざるを得ない中国の食料事情の中でも、管理所は「日本人は米を食べるから」と、米飯を用意し、魚や肉を調達し食べさせたのです。

 また病人が出れば、当時は入手困難なペニシリンまで医師たちは手に入れて看病に専念しました。

職員の中には日本兵に家族を殺された者もいたにもかかわらず、です。「日本軍がおこなった『奪い尽くし(搶光)、殺し尽くし(殺光)、焼き尽くす(焼光)』という三光作戦のような行為とは真逆の、人間的な扱いだった」と坂倉さんは振り返ります。それは

「罪を憎んで人を憎まず」

「兵士も軍国主義の犠牲者」

との人道主義政策の実践でした。 釈放されて五〇年余過ぎた今も、二人は元職員を「先生、先生」と呼んで慕い、再会に感謝と喜びの涙を流します。それは撫順戦犯管理所で起きた人間回復の物語を象徴しているかのようです。

http://www.min-iren.gr.jp/syuppan/genki/2010/230/genki230-06.html


この管理所で戦犯の指導員をしていた崔(サイ)さんも出迎えてくれた。当時の指導員では現在ただ一人の生存者という。 サイさんの話によれば、中国共産党指導部は、戦犯を死刑に裁くより、平和な日常を尊ぶ“普通の人間”にして日本に帰す方が、将来の中国に有益という判断で、この管理所の運営にあたったという。

 が、日本軍への恨みは深く、そんな管理所の職員を喜んで引き受ける人はいなかった。当時、弱冠21歳の崔さんが戦犯指導員の任務に命じられた。崔さん自身もまた日本人への憎しみを抱く一人だった。気持ちの矛盾に悩みながら、戦犯には自分達よりおいしい食事を与えていたという。

http://www.geocities.jp/t111313/china-n-e/senpan.index.html


日本人戦犯に対する裁判は、1956(昭和31)年6月から8月の間に、瀋陽・太原・撫順市に設けられた最高人民法院の法廷において行われた。実刑を受けたものは、次の表にあるように生体のわずか4%に当たる45名であり、武器を持って直接に、目を覆うような殺人略奪破壊を行った陸軍関係で刑を受けたのはそのわずか1%であった。

判決に死刑ないし無期刑はなく、刑期は20年から13年の間であった。それも、この刑期から「ソ連と中国における抑留期間は差し引く」とされたので、実質的な刑期は9年から2年の間、という軽いものであった(その後に減刑があり刑期前に釈放されたものも多く出た)。同時にその他の者1017名に対しては起訴免除、即日釈放が言い渡された。

 第二次大戦後の連合軍による裁判は「仇を取る」「目には目を」という趣旨のものが多く、その裁判による刑は、全部で死刑971名、無期懲役479名が出ているのに比べると、この中国の日本人戦犯に対する裁判の刑は、非常に軽いものであり、その原因は基本的な考え方に大きな差があったことによっている。裁判の直前の6月に、中国の全国人民代表大会常務委員会において、日本人戦犯を寛大に処理することに関する決定事項が決められている。その要点は、


「…彼らの行った犯罪行為からすれば元々厳罰に処して然るべきところであるが、しかし、日本の降伏後10年来の情勢の変化と現在置かれている状態を考慮し、ここ数年来の中日両国人民の友好関係の発展を考慮し、また、これら戦争犯罪者の大多数が、勾留期間中に程度の差こそあれ改俊の情を示している事実を考慮し、これら戦争犯罪者に対して、それぞれ寛大政策に基づいて処理することを決定する」

という箇所であった。これを聞いた我々は、中には当然死刑を覚悟していた者もあり、そうでない者も認罪運動の過程で、戦争犯罪の重大性を身に泌みて感じていたので、皆等しく涙を流して、これを受け止めたのであった。

戦犯をソ連から受け取った時、管理所の職員が中央から受け取った指示は、その過去の罪行を追及してこれを罰することではなく、「その思想を憎んで人を憎まず」という精神で思想改造をさせることであった。中国政府が、管理所職員を通じて我々に教えたこの「認罪」「思想改造」とい、方法は、あの、ソ連から、日本人戦犯1000人を引き渡された時の、中国政府の、その場限りの、思いつきの方法ではなかった。

 少し歴史をさかのぼって日中戦争の頃、日本軍から当時の共産軍(紅軍とか新四軍、八路軍といっていた)に逃亡した(又は何かのはずみで紛れ込んだ)日本の兵隊に対し、その政治部員はどういう指導をしていたか、ということを振り返ってみればわかることである。

 彼らは日本兵にこう教えたのであった。


 「戦争をしている君たちが悪いのではない。君たちに侵略戦争を教えこんだ『日本軍国主義』が悪い。そのことに気がついて反省するなら、我が軍の中で働いてくれてもよい。またもう一度日本軍に帰りたいなら帰ってもよい」

(帰るわけにはいかなかったであろう。日本兵を待っているのは「軍法会議」か「処刑」であったろうから。)

サイマル出版会発行の『八路軍の日本兵たち』の著者は1938(昭和13)年7月に八路軍の捕虜になった人である。 この時この八路軍部隊の政治部員が、上級幹部から受けていた指示は、


「日本人捕虜に、危害を加えたり侮辱してはならぬ。帰りたいものは帰し、働きたいものには仕事を与え、勉学したいものにはその機会を与え……」

というものであり、これが戦争中からの基本姿勢であったことがわかる。 我々が管理所に入る時から十数年も前に、共産軍の中では、すでにこういう工作方法(思想対策)が確立されていたのである。何と我々が管理所で受けた指導とよく似ていることであろうか。「思想改造」の方法は紅軍以来の伝統であったのである。

しかし歴史の流れは容赦しない苛酷な面を見せる。我々が帰国した後の「文革」の時代には、我々を管理指導してくれた所長や指導員も、「右偏向した」として批判され、職場から追放されたと聞いた。 

 あの紅軍以来の伝統である、人道的な「思想改造」という方法によって、我々は教えられ、救われたと思っている。その、我々を救ってくれた尊敬する管理所職員が、「文革」では追放された。そして、あろうことか、我々の指導の時に使われたと、同じ言葉を使って批判され、「思想改造をせよ」と言われているのである。これを聞いて我々は戸惑った。

 これはどう考えたらいいのか。これはかつて、あの偉大な指導者が自ら築いた崇高なものを、自らの手で破壊しているという事ではないのか。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/01/sawada_kikokumade.htm


中国は侵略した日本に賠償請求をしていない。それは周恩来首相が日本に第1次大戦後のドイツの二の舞をさせてはいけない。賠償は結局侵略と関係のない次世代の若者たちが払いことになり、それをさせないために賠償請求を放棄した。


『記録と考証 日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』石井明、朱建栄、添谷芳秀、林暁光(編) 、岩波書店


 驚いたのは、中共が日本に対する賠償放棄の意向を示すところ。これは密使となった竹入義勝公明党委員長に対して、いきなり周恩来から伝えたんですね。
周 毛主席は賠償請求権を放棄するといっています。賠償を求めれば、日本人民に負担がかります。そのことは、中国人民が身をもって知っています。

清の時代には二億五千万両、日本に賠償しました。清朝はこれを利用して税を重くしました。これを全部払ったかどうか知りません。八国連軍の賠償は四億〜五億両でした。
四億ドルど、今では大した額ではありませんが、負担を人民にかけることは良くない。賠償の請求権を放棄するという事を共同声明に書いても良いと思います。

竹入 お礼の言葉ももありません。

周 当然のことです。二十数年来の両国人民の友好によって、国交が回復するのですから、私たちは、これから次の世代を考えなくてはなりません。

http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/21667/23829/67385764

戦争賠償の問題


日本側は、高島益郎・外務省条約局長が外相会議で意外にも

「蒋介石がすでに日台条約の中で賠償の請求権を放棄すると宣言しており、日中共同声明でこの問題を重ねて提起する必要はない」

と発言した。これに対し周総理は、首脳会議でとくにこうした主張に厳しく反駁した。

周総理: 日華条約につき明確にしたい。これは蒋介石の問題である。蒋が賠償を放棄したから、中国はこれを放棄する必要がないという日本外務省の考え方を聞いて驚いた。

蒋は台湾に逃げて行った後で、しかも桑港条約の後で、日本に賠償放棄を行った。他人の物で、自分の面子を立てることはできない。戦争の損害は大陸が受けたものである。

我々は賠償の苦しみを知っている。この苦しみを日本人民になめさせたくない。

我々は田中首相が訪中し、国交正常化問題を解決すると言ったので、日中両国人民の友好のために、賠償放棄を考えた。しかし、蒋介石が放棄したから、もういいのだという考え方は我々には受け入れられない。これは我々に対する侮辱である。

最終的には田中首相が中国側の好意に感謝の意を表し、共同声明の本文に「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と明確に書かれたのだった。

http://www.peoplechina.com.cn/zhongrijiaoliu/2008-03/31/content_107971_3.htm
http://hyakka.seesaa.net/article/171605985.html

日中戦争証言 劉寨子 王さん


 1972年の日中友好国交回復に対して、この地域の人はみんな反対しました。私たちは、つらい経験したのに、どうして今更友好などという言葉を言い出して関係を回復するのか。政府は何回も説得して、

「当時は軍国主義のやったことで、日本人民、日本国民たちとは友好関係を持っていかなくてはだめだ。戦争は、普通の人民の責任ではない。」

と教えられた。しかし、今も気持ちとしては、今になってもやはり「日本」という二文字を聞いたら「憎む」という気持ちが湧いてきます。私の考え方では、このような歴史はいつまでも次世代、どんな世代になっても忘れてはいけないことです。

http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/ryujya.html


以前の日記の中で、「中国のマスコミが頻繁に南京大虐殺を始めとした日本の侵略の事実について報じるのは、国民の民族感情を煽る意図があるのではないか。中国政府と、純粋に日本の侵略に対して怒りを感じている一般の国民との間には差があるのではないか」といった内容のことを書いたことがあります。

 この点について、前回ふれたA先生にどのように思うか先日聞いてみました。A先生なら比較的客観的かつ冷静な見解が聞けると考えたからです。しかし、それに対する先生の見解は正直に言って意外なものでした。

「そのような意図はほぼないといっていいだろう。政府・マスコミは中国の国民の怒りをそのまま代弁しているに過ぎない。いや、それどころかむしろ抑制して表現しているとすら言える」

先生によると、日中両国の経済を始めとした関係がこれだけ密接になった今、中国政府は日本との関係をこじらすことなど望んでいないというのです。しかし、中国政府が何よりも恐れているのは、過去の日本の侵略、あるいはそれを否定・隠蔽するような発言・行為に対して弱腰の態度を取ることで国民から「売国」という目で見られることだといいます。つまり、五四運動の時のように、最初は外国に向いていた矛先が最後には自らに向けられることを最も恐れているというのです。

 僕はこれを聞いて、目からうろこが落ちたような気持ちになりました。なぜなら、これまで中国が事実上の一党独裁であることから、政府が国民の思想・意識・感情・行動などをコントロールしているという面、つまり上から下へという面ばかりに目が行き、逆に国民の意識が政府に与えている影響という面、つまり下から上へという面にあまり目が行っていなかったからです。考えてみれば、いくら一党独裁と言っても、国民を統制するばかりで、民意を反映することがなければ、しだいに支持を失い、その存在基盤を自ら掘り崩すことになります。

 NATOがユーゴの中国大使館を空爆(誤爆?)した時も、政府が学生らの運動を煽っているという見方が日本でもかなりありました。しかし、これについても先生は「反米の運動は学生の中から自然に起こったものだ。政府は運動を煽るどころか、むしろ学生の運動が急進化するのを恐れ、それをある程度秩序だった、抑制したものにするために介入したのいうのが現実だ」

 同じことは、最近起こった米中機の衝突事件についても言えるといいます。ニュースなどで「アメリカがついに謝罪した。これはわが民族の偉大な勝利だ」などとアナウンサーが言っているのを見ると、中国政府が国民の民族感情を煽っているように見えますが、国民の感情を代表して言っているだけで、実際には政府としてはあまりアメリカとの関係をこじらせたくないし、穏当に問題を解決したいというのが本音だと先生は言います。

 つまり、これらの流れを大きく規定しているのは決して中国政府ではなく、中国の国民だということです。

 話を日中関係に戻すと、先生は


「最近の歴史教科書問題を始めとした一連の問題の中で、中国人の日本に対する怒りはどんどん高まっている。そして、これは決して中国政府に煽られたものなのではなく、ごく自然の怒りだ。多くの人が、かつて周恩来が日本にからの賠償を放棄したことに疑問を持ち始めている。日本は「以怨報徳」(恩を仇で返す)だと多くの人が感じている」


 前回にも述べたように、A先生は自国・自民族に偏った見方を決していない人です。その先生が怒りを隠し切れない様子でこう言った時、僕はその言葉を重く受け取らざる得ませんでした。  最近、

「日本はODAで中国をこんなに援助しているのに、中国は少しも感謝しないどころか、さらに謝罪を求めてくる。けしからん」

といった類の議論がよく聞かれます。やはり中国は「恩を仇で返」していると言いたいのでしょう。ODAは日本政府も明言している通り、国益追求の手段で、日本もそこから多くの恩恵を受けているのであり、決してボランティアでやっていたわけではないことはここではおくとしても、このように主張する人たちは中国があれだけ多大な被害を日本によって受けながらも、全ての賠償を放棄したという「恩」などすっかり忘れてしまっているかのようです。

 日中両国がいう「恩を仇で返す」、この中身の違いは両国の間にある深い深い溝を象徴しているかのようです。

 A先生は、中国政府が中国国民の感情を代弁している以上、日本側が過去の歴史に対してしっかりとした認識を示していけば、この点では中国政府は引いていくはずだと言います。

 僕はA先生の分析がすべて正しいかどうかは分かりませんが、少なくとも、過去の歴史事実に対する中国政府の言い分を、単なる日本から金を引き出すための外交カードに過ぎないなどと見て、それに対して軽率な「反撃」を加えたりすることは、中国の国民の更なる怒りを招き、日本人と中国人の関係(政府間の関係に限らず)をどんどん悪化させていくだけで、何の良い結果ももたらさないことだけは確かだと思います。

http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/kangomei/


中国社会の本質について、その歴史を研究し見抜いてきた者なら、中国人の論理価値基準が誠意のやりとりであることを知っているはずだ。 すなわち、

「中国では善意、誠意に対しては善意で応える。悪意に対しては悪意で返す」

という原理こそ膨大な人口と長い歴史に貫かれてきた社会の価値観なのだ。 この意味で、中国人の心を掴み、理不尽な要求をさせず正義と良心をもって望むようにさせたいなら、それ以上の良心と誠意、善意を与えなければならない。

かつて日中戦争に敗北した日本に対して、周恩来は

「日本帝国主義が中国を侵略したのであって日本人民に罪はない」

とし、日本人のもの凄い負荷になる戦後賠償を求めなかった。 このときの恩義があるから日本は田中国交以降、対中5兆円の賠償ODAを続けているのだ。 我々は周恩来の恩義に誠実に応えなければならない。

http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/yoti01.htm


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
           O 。
                 , ─ヽ
________    /,/\ヾ\   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|__|__|__|_   __((´∀`\ )< 周恩来が日本を救ってくれたのサ
|_|__|__|__ /ノへゝ/'''  )ヽ  \_________
||__|        | | \´-`) / 丿/
|_|_| 从.从从  | \__ ̄ ̄⊂|丿/
|__|| 从人人从. | /\__/::::::|||
|_|_|///ヽヾ\  /   ::::::::::::ゝ/||
────────(~〜ヽ::::::::::::|/        

林彪事件によって林彪グループが壊滅した後、江青のライバルは周恩来を中心とする実務派になる。

江青は「批林批孔」運動を通じて、現代の孔子すなわち周恩来批判に努めた。
毛沢東が周恩来の政治局工作、葉剣英の軍事委員会工作に不満を抱いていたことは明らかであり、矛先は彼らに向けられていた。

http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc5/wenge126.htm

 周恩来が膀胱ガンにかかっているということを知った毛沢東は、医師団に対し、周恩来へのガンの告知を禁じただけでなく、再度検診を行ったり手術をしたりすることまで禁じた。毛沢東は、10ヶ月後に周恩来に血尿が出た時点でようやく検診実施を認めたが、その時にはもうガンは全身に転移していて手遅れだった。

 毛沢東は、自分が殺害したに等しい周恩来の葬儀にあたって、あえて(祝意を表する)爆竹を鳴らすことを命じた。 要するに、毛沢東は中国の伝統に即した専制的な皇帝であり、周恩来は君主への絶対服従を旨とする儒教道徳に忠実な家臣だったということだ。

http://blog.ohtan.net/archives/50955629.html


周恩来の死


周恩来は田中角栄との日中共同声明に調印した人物として有名ですが、何気に戦前には台湾の李登輝元大統領と同じように京都大学に留学に来ており、帰国の際に嵐山に立ちよって詩を詠んだ事から現地に記念碑ができており、京都にくる中国人の観光スポットとしてそこが有名になっています。

 実は中国人からすると、この周恩来は今でも非常に人気のある人物です。毛沢東に対しては畏敬の対象として恐れ多いもの、なんと言うか天皇に対する右翼の態度みたいなものですが、周恩来へは日本人の萩元欽一氏への態度みたいに誰からにでも好かれています。私の友人の中国人(♀)なんて日本人だと玉木宏、中国人だと周恩来が一番好きだといって豪語してやみません。

 その周恩来、数々の建国時の元勲までもが追放された文革期において一度として毛沢東から迫害を受けませんでした。周恩来は建国以後ずっと政務院総理(現在の国務院総理)という行政の長、日本で言う内閣総理大臣の職に位置しました。何故彼だけが毛沢東に目をつけられなかったかというと、この職位が関係しているといわれています。

 どういう意味かというと、毛沢東自身も恐らくは大躍進政策の失敗から行政政策を執り行う能力が自分にないということを自認していた節があります。なので、どうしても外すことのできないこの職に限っては専門家、つまり行政手腕に長けた人材を囲っておかねばならないという必要性から、周恩来を追放しなかったのだと言われています。

 では、同じように行政手腕に長けた劉少奇とケ小平ではなく、何故周恩来だったのかというと、それは恐らく先の二人に比べて毛沢東の意のままに従う人物であったからだと私は思います。もともと毛沢東が抗日戦争の最中に党内部で権力を掌握するに至った遵義会議にてこれまでの幹部を裏切り毛沢東についたという経緯があり、また文革初期に至っても先の国家主席の劉少奇に対してスパイ容疑を出して、迫害に至る決定的な一打をぶつけています。その後も文革期は一貫として毛沢東の指示に従い続けました。

 しかし、こうした彼の行動については追放されたケ小平自身も理解を示しています。ケ小平に言わせると、あの時代は毛沢東に逆らえばどうしようもなかった時代で、敢えて毛沢東に従いながら文化大革命の被害を最低限に抑えようと実務面で周恩来は努力したのだと評価しています。実際に、あの文革期に国内の政務を一手に取り仕切っていたというのは実務家として大した手腕だと私も評価しており、取り仕切れるのが自分しかいないと自覚していたが故の行動だったのではないかと、好意的にみております。

 その周恩来ですが、とうとう1976年に死去することになります。ちょっと前に発売した「毛沢東秘録」という本によると、毛沢東は病気となった周恩来に対してわざと医者に診させないように手配して、暗に周恩来を死なせようと仕向けたと書かれています。それが本当かどうかはわかりませんが、この周恩来の死は当時の中国人も大いに悲しみ、その悲しみが第一次天安門事件につながることとなりました。

 日本人は「天安門事件」というと1989年に起きた民主化デモを中国政府が軍隊を使って押しつぶした「六四天安門事件」、私は「第二次天安門事件」と呼んでいますが、こっちの方しか思い浮かばないと思いますが、実は天安門事件は二つあって、一般に知られているほうが後で、最初のはこの周恩来の死の直後に起きています。

 その第一次天安門事件ですが、これは天安門広場前に民衆が死去した周恩来へ向けて花輪を捧げたところ、北京市当局によって即撤去されたことから起きた事件です。それ以前から文革を主導してきた毛沢東の腹心四人、通称「四人組」への批判が高まっており、周恩来の死によってますます彼らの専横が広がると考えた民衆らが花輪事件を契機に政府に対して四人組を批判するデモを大々的に行ったところ、これを危険視した政府によってその後の天安門事件同様に軍隊を使って強圧的に運動を押さえつけられました。

 その後、この事件の責任が問われ、林彪事件失脚後に復帰していたケ小平がまたも失脚することになります。なお「ワイルドスワン」の作者のユン・チアンによると、毛沢東が劉少奇を殺してケ小平は追放はしても殺しまではしなかったのは、最低限周恩来の代わりになる政治実務の担当者を用意しておく必要があったからだと分析しており、私もこの説に同意します。まぁ皮肉なことにいざ必要になったところでまた追放されちゃったんだけど。

 しかし、このケ小平の追放は今度のは比較的短期に終わりました。何故かというとそれから八ヵ月後、彼を追放した張本人がいなくなったからです。もはや隠すまでもありません、文化大革命の主人公、毛沢東がこの世を去ったからです。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_9187.html


              /               \
          / / ∠三ミレ-- 、      ヽ
         / / //─'''´ ̄ ̄`ヽ      ゙i
        / /  //        ゙iヽ  ヽ  |
        ,' /  //          | ヽ  ', |
        | |  / l,、、,,_   -‐''" ̄`゙i. |   | |
        | | / ノ,.t-、    'Tッ'Tゝ ヽ|レ‐、| |
        ゙i |/ ,ィ`' _L.,!    ` ┴'  リ‐、 } |
        .!///゙!     ,         ノ__/ .!
         |/ | ',    ゙        /  |  |
          |! |  \   ゚       /  |  .!
          {  |  | | ゙ヽ、    /  |   |  | 共産革命は
         ゙、 ', | |   | `l'"´    ゙、|  |i   | 唯の時代劇だったのよ
         ヽ ヽ | |   レ'′      \ || /
           /ヽ \!  |  ̄ ``   r'´ ` ̄``ヽ
        /   ヽ ヽ ノ                   ヽ
        |     〉 V              |   |
        |    /  /       \       ヽ、 |
        |    / / /|       ヽ       \
        .!   / { ヽ|    ...     ゙、        ヽ
        |  {  ゙i   ヽ  ::r.;:.     l         ::_)
        .!  \ ト、 |   `゙"     /          /
         |    ト| | ∧       /           /
            |  / / /|| ゙ヽ、 __ ,. -'"    ` ーr┬ '′
          | / / | ヽ、               | /

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c5

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
6. 中川隆[-10699] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:55:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1356]

毛沢東 日本軍と共謀した男 (新潮新書) 新書 – 2015/11/13
遠藤 誉 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D%E3%81%A8%E5%85%B1%E8%AC%80%E3%81%97%E3%81%9F%E7%94%B7-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%81%A0%E8%97%A4-%E8%AA%89/dp/4106106426


毛沢東とはもちろん中国共産党の創設者であり中華人民共和国の太祖(始祖)ですが、日本でその正体は正確に伝えられていません。

 毛沢東は中国でも正体が正確に伝えられていないうえに、日本ではさらに毛沢東に限らず中国批判に抵抗する勢力が多いため、ますます謎に包まれ神格化されたままの存在となっています。

 しかし現在のますます傍若無人となっていく中国と対峙するためには中国共産党を理解する必要があり、そのためにも毛沢東を正しく理解する必要がでてきます。

 本書はその毛沢東について余すところなく正確かつ公正に解説していますが、単なる中国歴史書でも陰謀論書でもなく、もちろん親中書ではなくまた一方的に日本の中国における軍事行動を肯定しているわけでもありません。

 本書をお勧めする最大の理由は、中国最大の攻撃対象である日本の軍国主義および中国における軍事行動のお蔭で(共謀して)、毛沢東は中国共産党を支配し蒋介石の国民軍を放逐し中華人民共和国を建国した「客観的事実」が証拠とともに書かれているからです。

 著者の遠藤誉氏(女性)は1941年に満州の新京(現・長春)に生まれ、終戦後も1952年まで中国に残留させられ毛沢東思想教育も経験しています。何よりも毛沢東率いる中国共産軍が国民軍の占拠していた長春を食糧封鎖して数十万人を餓死させた「完全に歴史から抹殺された事実」の生き証人でもあり、帰国後も多方面で活躍する中国分析の第一人者です。

 本書では著者が中国・台湾・日本に残された多数の資料を丹念に突き合わせて解明した「客観的事実」が書き連ねられています。

 つまり毛沢東こそコミンテルン(モスクワにあった共産主義インターナショナル)の指示を受けながら潘漢年らスパイを使って日本軍や日本の諜報機関である岩井公館に蒋介石の情報を売り、さらに日本軍とその蒋介石率いる国民党政府(重慶)、軍閥の張学良(張作霖の息子)、汪兆銘の国民政府(南京)らを謀略で戦わせ、自らは勢力を温存したまま戦後は「戦勝国」の地位を国民党から奪い取った稀代の策謀家と結論づけています。

 何よりも「腑に落ちる事実」がいくつもでてきます。

 つまり現在の習近平らの勢力基盤である中国共産党とは、日本および日本軍のおかげで今日があることになり、現在も日本を批判する「最大の理由」が全く見当はずれであることになります。

 もっとも毛沢東は中国を統一後、手先として働いた潘漢年ら「事情を知る者」を1000人以上も投獄して死ぬまで放免せず、その後継者である習近平も知っている事実であるにもかかわらず「おくび」にも出しません。さらに著者も危惧しているように、習近平はその「戦勝国」の地位を奪い取られた台湾・国民党の馬英九総統まで抱き込み、毛沢東の陰謀を完全に歴史から抹殺してしまおうとまでしています。

 日本は国内にすでに張り巡らされた親中国ネットワークの「工作」のなかで、まずこれらの事実を正確に認識し中国および中国共産党と対峙していかなければなりません。そのためにも「必読の書」です。繰り返しですが安直な陰謀論でも嫌中論でもなく、証拠を丹念に突き合わせた「客観的事実」そのものが書かれています。
http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-1588.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c6

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
7. 中川隆[-10698] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:57:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1357]

毛沢東は親日家で、西郷隆盛に憧れて革命運動に参加した
引用:https://jp.sputniknews.com/images/115/56/1155613.jpg

記憶では中国と台湾が対立していたころ、台湾が自らを「親日国だ」と主張してマスコミや出版物で宣伝活動を始めた。

それまで台湾は韓国と同じように「従軍慰安婦を謝罪しろ、植民地支配を賠償しろ」とだけ言って来る迷惑な存在だった。

だが台湾の中華民国は国連を追放され、歯抜けのように支持する国が減って、次々に共産中国の方を支持した。


すると台湾は今まで「反日」だったのをコロリと転換して「昔から台湾は親日国でした」と言い始めたのだった。

金がなくなると急に「親友」になって近づいてくる人のようで、不気味なのだった。

自ら親日国を名乗るのは、たいていこんなカラクリがあり、何かの目的を持ってやっている。


今では考えられないが日米貿易摩擦が激しかったとき、共産主義のほうの中国が「中国は親日国」だと言っていた。

アメリカは敵だが中国は4000年来の友人だという本が書店に溢れ、NHK「シルクロード」という歴史に残る番組を放送した。

日本テレビも中国をロケして「西遊記」を放送し、本当に日本と中国は親友になったように思えたが、今はこのザマである。


昔は親日国だった中国

要するに中国は日米対立を利用して日米同盟を引き離し、味方の振りをして経済援助を得るのが目的だった。

目的を達したら親日をやめて反日になり、また別な事情ができたら親日を始めるでしょう。

中国を作ったのは毛沢東だが、その毛沢東が「親日家」だったという資料が最近続々と発見されている。


少年の頃の毛沢東は明治維新の本を読むのが好きで、特に西郷隆盛に憧れ、自分も中国で維新を起こしたいと考えていた。

毛沢東が少年の頃はまだ「清国」の時代で、清や欧米列強を倒していく日本帝国を恐れ、尊敬していた。

このため日本軍が大陸から撤退するまで、毛沢東の共産軍は一度も日本軍と戦わず、戦後も(国民党の中国よりは)日本人を優遇した。


つまり毛沢東の中国は親日であり、時代によってそれが反日になったり、また親日になったりしている。
http://thutmose.blog.jp/archives/66287375.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c7

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
8. 中川隆[-10697] koaQ7Jey 2019年4月18日 11:58:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1358]

共産主義の独裁者はインテリを憎んで無学な子供たちを好む


カンボジアで狂気のポル・ポト政権が成立したのは1975年4月17日のことだった。狂気の指導者であるポル・ポトが当初から敵視していたのは「インテリ層」だった。

ポル・ポト自身は教師出身のインテリなのだが、極端な共産主義に染まっていたポル・ポトは、新しい国「民主カンプチア」を設立するにあたって知識人は不要だと考えた。

ポル・ポトは自分が支配するカンボジアを「原始共産主義」の国にしようと考えていて、「国には指導者と農民がいれば、あとは必要ない」と割り切っていた。

そのため、まだ西洋思想や民主主義や資本主義のような「堕落した思想」を知らない子供たちを親から引き離し、原始共産主義の思想を洗脳し、邪悪な思想に染まった人間を殺すように命令した。

子供たちは忠実にそれを実行した。インテリを敵視し、医師や教師や経営などの職に就いていた人間はことごとく殺害していった。

国からインテリが一掃できればできるほど「民主カンプチア」は理想に近づくとポル・ポトは本気で考えていた。それほど、ポル・ポトは「物を知った人間」を嫌ったのだ。


混じりっけのない純度100%の共産主義国家の樹立

ポル・ポトのこのインテリ嫌いにはお手本があった。

それは、中国の毛沢東である。毛沢東もまた独裁者となってからはインテリを激しく嫌っていた。

文化大革命では「知識人は反動(反革命勢力)だ。知識が多ければ多いほど反動だ」と言い放って、インテリを徹底的に自己批判させて迫害した。

自己批判というのは、インテリを公衆の面前に立たせて三角帽子をかぶらせ、自分がいかにブルジョア文化に染まっているのかを述べさせ、皆で吊し上げ、罵り、引き回すものだった。

そうやって、毛沢東はインテリを次々と吊し上げて殺害したり追放したりしていたのだった。

そして、人民には「教育は不要だ」「勉強するな」と呼びかけた。それは「叩き潰すべき古い文化」であると言われたのである。ただ、唯一読むことが勧められたのは「毛沢東語録」だけである。もちろん、それは洗脳の書でしかない。

(1)インテリはブルジョア(資本家階級)になる。
(2)資本家階級は人民を搾取する。
(3)資本家階級は共産主義の敵だ。
(4)インテリを吊し上げろ、追放しろ、殺せ。

これが文化大革命の嵐として吹き荒れていったのが毛沢東時代の中国だった。

クメール・ルージュ率いるポル・ポトは、この毛沢東に心酔しており、それを自分の国で徹底的に行うことを決意していた。そしてカンボジアに混じりっけのない純度100%の共産主義国家を樹立しようと目論んだ。

そのためには、共産主義思想とは相容れない「民主主義や資本主義に染まったインテリ、ブルジョアども」を根絶やしにしなければならない。

また、ブルジョア的な生活に染まった都市住民を全員「再教育」しなければならない。

それが都市住民の農村への強制移住となり、インテリやブルジョアの皆殺し政策となって結実したのである。

文化大革命。インテリを公衆の面前に立たせて三角帽子をかぶらせ、自分がいかにブルジョア文化に染まっているのかを述べさせ、皆で吊し上げ、罵り、引き回す。


自分の政策を批判する人間を排除する政治システム

毛沢東とポル・ポトはインテリを嫌悪したが、自分たちはインテリであるというところも似ている。ふたりとも共産主義の活動家になる前は教師だった。

毛沢東は自ら進んで勉学に励み、北京大学の図書館で司書補として働き、アダム・スミスの国富論を読み耽り、さらに思想を中心とした出版社すらも立ち上げている。

毛沢東はそれほどまで書物を愛する生粋のインテリだったのである。

しかし、やがて日中戦争や蒋介石との戦争を経て、中華人民共和国建国の指導者となった毛沢東は自分の政策に批判的なインテリたちを疎ましく思うようになり、やがては資本主義者やインテリを迫害し、弾圧し、粛清していくような独裁化への道を歩むようになっていった。

ポル・ポトはこの毛沢東を手本にしていたので、政権を樹立してから一気呵成に過激な粛清に入って超独裁政権に入った。

独裁というのは、自分の政策を批判する人間を排除する政治システムである。

自分の政策を批判する人間というのは、その政策を多角的に見ることができて、分析ができて、欠点を見つけて、それを言葉にすることができる人間だ。

それこそがインテリである。

だから、独裁者がインテリを嫌って排除するようになるのは、独裁主義を取る以上は必然的な流れとなる。

インテリは自分の政策や思想に反対してくる強敵であり邪魔者だ。だから、物理的に彼らを抹消するのが良いと独裁者は考える。それを共産主義の世界では粛清と呼んでいる。

逆に、独裁者は無垢な子供たちを好む。そして無学な者を好む。なぜなら自分の言いなりに洗脳できるし、狂気の命令であってもその善悪を考えずに粛々と従うからだ。

独裁者は無垢な子供たちを好む。そして無学な者を好む。なぜなら自分の言いなりに洗脳できるし、狂気の命令であってもその善悪を考えずに粛々と従うからだ。


そこでは凄まじいキリング・フィールドが出現していた

独裁を志向する政治家は、教育をないがしろにする。なぜなら、無駄に教育を与えて人民に知識が付いたら、自分を崇拝させることができなくなってしまうからである。

教育を与えたら、自分の政策の矛盾や思想の欠陥を指摘して独裁の世界を破壊する可能性が高い。

だから、共産主義系の指導者は絶対に人民に教育を与えず、単なる労働だけをする人間を賛美し、インテリや資本主義者に対して敵意を植え付ける。

人民が無知であればあるほど指導者は安泰でいられる。だから、独裁者は異様なまでに無学の労働者、農民、学生、子供が好きなのである。

共産主義の指導者は毛沢東のやり方を研究しているので、今でも「無学な人間、無学な子供たち」が好きだ。

たとえば、偏差値28くらいの頭の悪い子供たちなんかは、共産主義の指導者が最も好む子供だ。よく言うことを聞くし、簡単に洗脳できるし、操りやすい。

子供たちに何らかの思想を植え付け、自分たちの望む方に運動させ、活動させる。そして、それを賛美する。今どき共産主義の活動をする時点で頭がおかしいのだが、洗脳された子供たちはそれに気付かない。

子供たちは基本的に無学である上に強固な洗脳状態にあるので、自分たちが操られているということに気付かない。それを指摘されても聞く耳はない。

かくして、指導者に洗脳された子供たちは、指導者の手先となって共産主義を支えていくようになっていく。

共産主義者が無学な若者たちを使って、勉強させずに活動をさせるようになったら注意した方がいい。それは、結果的に極端な暴力活動に結びついていくからである。

そしてどうなるのかは、毛沢東の文化大革命が何を生み出したのか、そしてポル・ポト政権の原始共産主義が何を生み出したのかを見れば分かる。

そこでは凄まじいキリング・フィールドが出現していた。

誰がキリング(殺戮)を行っていたのか。それは、無学な子供たちである。共産主義者の指導者が子供を使って何をしていたのか、私たちは改めて知っておかなければならない。

ポル・ポト派兵士。子供たちは基本的に無学である上に強固な洗脳状態にあるので、自分たちが操られているということに気付かない。それを指摘されても聞く耳はない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160914T0616450900.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c8

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
9. 中川隆[-10696] koaQ7Jey 2019年4月18日 12:06:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1359]

2018年9月4日
「嘘」と「洗脳」で突き進んだ文化大革命の真実
児童書で読み解く習近平の頭の中(7)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13854


習近平国家主席を頂点とする現在の共産党政権中枢が幼少期を送った1950年代から60年代前半にかけて出版された児童向け書籍から、当時の共産党政権が育て上げようとしていた“理想の小国民像”を考えてみたい。それというのも“三つ子の魂百までも”の譬えに示されるように、政治の中枢に立った現在の彼らの振る舞いの芽は、彼らの幼い頃に植えられたのではないかと考えるからだ。

写真:アフロ

 1966年に入ると文革派の動きは激しさを増し、これに呼応するかのように若者たちが動き出す。生まれた時から毛沢東思想で教育された彼らの頭の中は、「毛主席万歳、万歳、万々歳」でしかなかったはずだ。洗脳教育の成果というものだろう。

 6月初めには北京の地質学院、鉱業学院、石油学院、北京大学などの付属中学に加え、北京第25中学などのエリート学生が「紅衛兵」組織を相次いで結成し、「偉大な領袖・毛主席を守るために最後の血の一滴まで断固として捧げよう」と叫び、「四旧打破」を掲げ、毛沢東の敵と思われる人物を求めて街頭に飛び出して行った。旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣を中国全土から一掃しようというのだ。

 8月18日、林彪、周恩来らを従え天安門楼上に立った毛沢東が全国から集まった100万余の紅衛兵を初めて接見したことで、天安門広場は興奮の坩堝と化した。毛沢東から「造反有理」「革命無罪」のお墨付きを与えられた紅衛兵運動は、この日を境にして中国全土というより全世界を震撼させることになる。文革の主導権を握った文革派陣営から、毛沢東を「百戦百勝」「絶対無謬」と神聖視した青少年向け印刷物――紙の爆弾――が次々に出版される。その典型が『一心為公的共産主義戦士蔡永祥』(解放軍文芸社 1967年)だろう。

「英雄的行動」と讃えられた下級兵士の死

 1966年10月9日午前、江西省吉安市第二中学の紅衛兵と革命的教師の一団は、天安門広場で毛沢東の接見を受けるために南昌発北京行きの汽車に乗った。「僕らの心は、もう北京に、毛主席の身辺に飛んでしまっていた」。「汽車もまた飛ぶように奔る。2日目の深夜2時過ぎ、銭塘江辺りにさしかかると、汽車は鉄橋の上で急停車した。なにが起こったのだ。数十分が過ぎると、汽車は何事もなかったかのように動き出す」。車掌は「銭塘江大橋手前数十メートルのところで線路を塞ぐ大木を発見したが、解放軍の戦士の英雄的犠牲によって我ら紅衛兵を北京で待つ毛主席の許へ送り届ける列車を救ってくれた」と説明する。

「この知らせを聞くや、列車に乗り合わせた誰もが深い悲しみを覚え、毛主席にとって真の戦士、プロレタリア文化大革命に身も心も捧げた守り手に惜しみない賞賛を送り、一斉に声を張り上げた。『解放軍は紅衛兵をイチバン慈しむぞォーッ、我らは解放軍にシッカリと学ぶぞォーッ』とシュプレヒコールの嵐だ」。やがて北京到着。「10月18日のこの日は僕らの生涯で忘れ難い一日となった。午後2時19分53秒、僕らは偉大なる導師、偉大なる領袖、偉大なる統帥、偉大なる舵取りの毛主席との接見を果たしたのだ」。

 文革開始直後の66年10月である。インパクトのある話題が欲しかった文革派メディアにとって、蔡永祥の死は願ってもない宣伝材料となったはずだ。解放軍下級兵士の死は「紅衛兵を北京で待つ毛主席の許へ送り届ける汽車を救った」とされた。「一心を公の為に捧げた共産主義戦士英雄」の物語は瞬く間に全土に広められ、「毛主席の真正の立派な戦士、プロレタリア文化大革命に身も心も捧げた守り手」と崇める学習運動が展開される。

 その一方で、街に飛び出した紅衛兵は「劉少奇叛徒集団を打倒せよ」「満腔の怒りをこめて、労働大盗賊の劉少奇を糾弾するぞ」「劉少奇の反革命のツラの皮を剥がせ」「地主階級の孝行息子・劉少奇の姿を暴露せよ」「劉少奇は『左』を装った『右』だ」「造反の粉砕を目論む劉少を告発するぞ」などあらん限りの罵声を浴びせ、劉少奇を血祭りにあげた。劉少奇が占めていた国家主席という肩書は、怒れる紅衛兵にとっては無意味だった。

 1953年6月生まれだから、文革勃発時に習近平は13歳である。当時の高級幹部の子弟がそうであったように、彼もまた紅衛兵運動の高まりの中で毛沢東を崇め、蔡永祥の英雄的行動を学習し、「造反有理」「革命無罪」のままに暴れ回ったに違いない。だが、父親である習仲勲が毛沢東に敵対したと批判され失脚したことで、習近平もまた1969年には陝西省延安市延川県に下放され、北京を追われている。

 1969年、毛沢東が「勝利の大会」と呼んだ第9回共産党全国大会が開かれた。麾下の人民解放軍を挙って毛沢東を支援した林彪は「毛沢東の親密なる戦友」と呼ばれ、公式に毛沢東の後継者に指名される。毛沢東は自らにとってふたつの敵のひとつである劉少奇派を林彪の力を借りて共産党中核から一掃する一方、もうひとつの敵であった「ソ連社会帝国主義」と国境紛争を戦うことになる。

『毛主席語録』を振り回して敵を撃退!?


 中ソ国境を流れる黒龍江の中州の珍宝(ダマンスキー)島を戦場に展開された国境紛争には、双方で100万人近い兵力が投入され、全面戦争一歩手前というほどに深刻な事態を招いた。全面戦争とは聞こえはいいが実際は人海戦術で戦うしかない解放軍に対するは、近代兵器で武装されたソ連軍である。戦いの帰趨は明らかだろう。だが、中国としては毛沢東の軍事思想に支えられた解放軍の大勝利をウソでも宣伝するしかない。そこで連環画『珍宝島英雄賛』(本社美術通訊員編絵 上海人民出版社 1970年)が出版される。

 連環画とは中国伝統の解説付きの絵本式読み物であり、『三国志』『水滸伝』『西游記』なども、こういった形で子供たちの間に広まった。いうならば伝統的メディアによって子供たちに祖国防衛の意義を学ばせようというわけだ。

 表紙を開けると「警戒を厳に、祖国を防衛せよ。人民のための戦に備え、飢えに備えよ」との『毛主席語録』の一節が記され、次いで「偉大なる領袖の毛主席と彼の親密なる戦友の林副主席の批准により、中共中央軍事委員会は珍宝島におけるソ連修正主義の武装挑発を反撃する自衛戦争において鮮血と生命を盾に偉大なる祖国の神聖な領土を防衛した孫玉国ら10人の同志に『戦闘英雄』の光栄ある称号を授与した。人民に、党に、偉大なる領袖の毛主席に無限に忠誠を尽くした英雄たちの気高き心を、よりよく学習せよ」とある。

 67年11月24日、酷寒で珍宝島の最前線警備に当たる孫玉国ら兵士は、国境を侵犯する完全武装のソ連兵を発見する。直ちに「中国人民に対する重大な挑発だ。即刻立ち去れ」と厳重に抗議するが、厚顔無恥にもソ連兵は雪の上にひとつの島を描いて「1868」と記し、この島は1868年からソ連(ロシア)領だと主張する。そこで孫玉国らは強く抗議し、雪の上に記された島と1868の上に大きく「×」を記した。

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13854?page=2


「1868年当時、ここは島ではなく中国側の河岸の一部だったが、土砂の堆積により20世紀初頭に島となった。1860年にロシアの老いぼれクソ皇帝が中露北京条約を中国人民に強要した。この島は一点の疑義もなく中国の領土だ」「これは断固として改竄することのできない歴史的事実だ」との意味を込めていたというが、「×」だけで、それほどの意味を表すことができるのか。この時、孫玉国らの右胸に『毛主席語録』がシッカリと抱かれていたことはもちろんだ。

 3カ月余が過ぎた69年3月初め、ソ連機甲部隊が狂ったように国境を侵犯する。烈火のごとく怒る孫玉国らは敵機甲部隊の前に立ちはだかり、「止まれ。ここは中国の領土だ。お前らの強盗行為は中国に対する重大な挑発だ。直ちに撤退せよ」と叫ぶ。ソ連軍の前進は止まず戦端が開かれる。中国兵士は銃の代わりにした『毛主席語録』を打ち振りながら、「我らは毛沢東思想で武装し筋金入りだ。天が崩れてきても支えることが出来るぞ」と立ち向かう。

 かくて「ソ連修正主義の戦車、装甲車、武装部隊による狂気の進攻を粉砕し、祖国の神聖なる領土を勝利のうちに防衛した」という。『毛主席語録』が近代的兵器で武装したソ連軍をも打ち破ってしまうほどの無敵の兵器であることを、子供たちの脳裏に」刻みつけようとしたわけだ。


不可能も可能に変える「偉大なる領袖の教え」


 1970年代に入ると、文革派の牙城であった上海における宣伝中枢たる上海人民出版社は、毛沢東思想万歳の児童書を連続的に出版している。典型例として、『夜航石頭沙』(上海港工人業余写作組)を挙げておく。


中国で1960年代後半から1970年代前半に出版された青少年向け書籍(画像:筆者提供)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13854?page=3


 秋も深まった一夜、長江の河口を白波を蹴立て進む航標五号は北部海岸に碇を下ろす。静まり返った船内では、その日の作業を終えた党支部副書記の程志敏が、いつものように灯火の下で一心不乱に毛沢東の著作を学習している。そこに「近くの呉淞口に停泊中の外国船が折からの強風に座礁し船体破断の危機。大至急救援に向かうべし」との緊急電報が届く。早速、乗組員全員が非常呼集され、幹部からの命令を待った。

 呉淞口は上海港の喉元に位置するだけに、事態を早急に収拾できなかったなら多くの船舶の航行にとって障害となるばかりか、「中国革命と世界革命とに大きな損失をもたらす」と程志敏は考えた。早急に救難作業に着手すべきだが、安全航路では現場到着は大幅に遅れる。そこで最短航路の石頭沙水路を抜けようと提案したが、そこは穏やかな天候でも航行が容易ではない難所中の難所だった。

 程志敏の提案を傍で聞いていた「反動技術“権威”」の船長は飛び上がって驚き、「石頭沙は解放前から難所中の難所であり、夜間航行など絶対に不可能だ」と主張する。

 そこで程志敏はスックと立ち上がり、「石頭沙の夜間航行が難しいことは先刻承知だが、我われ共産党人には、毛主席の支持がある。コレが難しい、アレは出来ないなどと弱音は吐かない。刀の山であれ猛火の海であれ、飛び込んでみせるのだ」と敢然と言い放つ。すると、その場の誰もが程志敏の手を固く握るのであった。

 じつは、程志敏は超人的な努力で最下級の船員から現在の地位を築き上げたのである。「旧社会で母と2人の兄弟は敵の醜い刀によって惨死させられた。共産党、毛主席がプロレタリア革命を教え導いてくれたことで暗雲を払い明るい太陽をみることが出来た。『毛主席がいなかったら、程志敏の今日はありえない』」と心の中で叫びつつ、全員に状況を説明し任務遂行を求める。乗組員の心はひとつになり、航標五号は暴風雨の中を現場に急行した。

 水路は狭く浅瀬や岩礁が続き、風雨は増すばかり。この時、甲板に立った「程志敏と同志たちが偉大なる領袖毛主席の『我われが全人民とが団結し共同して努力すれば、あらゆる困難を押しのけ勝利という目的に到達できる』との教えを心にシッカリと刻んだ」。天候はいよいよ荒れ、航標五号の行く手を遮る。その時、程志敏の脳裏に「勇敢なる戦闘精神を発揮せよ。犠牲を恐れるな。疲れを恐れず連続作戦の作風を発揮せよ。短期間に休むことなく波状攻撃で戦い抜け」との「偉大なる領袖の教え」が浮ぶ。

 やがて現場に到着し沈没寸前の船から乗組員を救助し、任務は完了した。そこで程志敏が「この軍隊は比類なき精神を秘めている。敵の一切を圧倒し断固として敵に屈服しない」との『毛主席語録』の一節を声高らかに読み上げた。かくして「キラキラと光り輝く金波銀波を蹴立てて、程志敏と同志たちが操舵する航標五号は革命の航路を勇敢に前進する」のであった。


英語教育にも「毛沢東賛歌」


『夜航石頭沙』と前後して上海出版社からは、文革工作に挺身する小学生が、蔣介石一派の秘密工作員で元教師の破壊工作を摘発し毛沢東派を守った『英雄機智的紅小兵』、毛沢東思想で武装し、自然災害を克服し豊かな収穫をもたらした人民公社の英雄を描く『胸懐朝陽戦冰雹』、毛沢東の訓えのままに「一に苦労を恐れず、二に死を恐れず」に革命精神を発揮して多くの人々を救った人民解放軍兵士を讃える『優秀共産党員――陳波』、さらに旧社会では教育の機会すら与えられなかった港湾労働者の宋懐宇が、毛沢東思想学習をキッカケに英語を学び、やがて海外からやってくる外国船員に英語で毛沢東思想の意義や文革の理想を語るに至るまでの『宋師傅学外語』などが出版されている。

 どれもこれも定型化された毛沢東賛歌であり、いわば紋切り型の結論ではあるが、『宋師傅学外語』を読んでいて興味を持ったのは、当時、実際にはどのような英語教育が行われていたのかといった点だ。そこで『簡明英語語法』(湖北省中小学教学教材研究室編 湖北人民出版社 1973年)のページを繰ってみた。

 同書は書名で判るように英語文法解説書だが、出版時期からいって単なる文法解説書で終わってはいない。徹底して毛沢東賛歌である。目に着いた例文を紹介しておくと、

・Chairman Mao is our great teacher.(毛主席は我われの偉大な導き手である)

・Down with the landlord class!(地主階級を打倒せよ)

・Imperialism,revisionism and all reactionaries are paper tigers.(帝国主義、修正主義と一切の反動派は張子の虎である)

・Only socialism can save China.(社会主義のみが中国を救う)

・China will never be a superpower.(中国は断固として大国にはならない)

 このように激烈な例文が次々に記されているが、最終的には「The sea is deep,but our love for Chairman Mao is deeper than the sea.(海は深い。我われの毛主席に対する熱愛は海よりも深い)」に収斂していく。かくして外国語学習であれ、一瞬たりとも毛沢東思想から離れることはなかったわけだ。

なぜ、「99%の火傷」を負っても完治可能なのか?

 最後に文革期を代表する子供向けの百貨全書とでもいうべき『十万個為什麼』(上海人民出版社 1970年)を紹介しておくのも、当時の子供たちを取り巻く時代状況を知るうえで意味あることだろう。

 これは全部で13冊という大部のシリーズで、出版し終わるまでに4年ほどの歳月が過ぎている。第1巻の出版が1970年9月で最終13巻が74年7月である。この間の重要な動きを拾ってみると、毛沢東と林彪の対立顕在化(70年)、林彪のナゾの逃亡とモンゴルでの墜落死(71年)、林彪事件総括の第10回党大会(73年)、四人組台頭と批林批孔運動(74年)。まさに文革後半の激動期を通じて出版されたことになる。それだけに編集者も執筆者も作業途中で方針や内容を変更せざるをえない立場に立たされ、大いに戸惑ったに違いない。

 書名は『十万個のナゼ』となっているが、「十万個」は沢山という意味である。第1巻冒頭の「ナゼ、我われは10進法を使うのか」からはじまり第13巻最後の「ナゼ、勝手にツバを吐くのはダメなのか」まで、各巻に主に自然科学関連の100から130前後の「ナゼ」が挙げられ、その回答がイラスト入りで判り易く解説されている。

 このシリーズ初版の出版は、大躍進失敗から毛沢東の権威が後退し、どん底経済立て直しに辣腕を揮ったことで国民間に劉少奇への期待が高まった時期の1962年である。ここで取り上げる上海人民出版社版の『十万個為什麼』は62年版の改訂版に当たるが、劉少奇が毛沢東の敵として国民的糾弾の標的となり抹殺された後であり、政治状況が大逆転してしまった以上、さすがに初版をそのまま印刷するわけにはいかなかったはずだ。

 その辺りの事情を各巻冒頭に掲げられた「重版説明」は、「これまで叛徒・内奸・工賊の劉少奇の反革命修正主義文芸の黒い方針とその影響下にあったことで、多くの誤りが存在し、マルクス主義・レーニン主義・毛沢東思想を積極的に広めないだけではなく、(中略)知識万能を宣揚し、趣味性を追及し、封建・資本・修正主義の毒素を撒き散らす内容の書籍が少なからず横行していた。偉大なるプロレタリア文化大革命の過程で広範な労働者・農民・兵士と紅衛兵の小将軍は、それら書籍の持つ誤りを厳格に批判し、修正主義文芸の黒い方針と黒い方針による出版がもたらす害毒を徹底して粛清した」とする。

 なにが「害毒」で、内容をどのように「徹底して粛清した」のか判然とはしない。たとえば「ナゼ、90%以上の火傷でも完治可能であるのか?」の項目をみると、「資本主義国家の医学の“権威”は、火傷の面積が体の表面積の85%を超えた場合、死亡率は100%だと結論づける」が、「1958年に毛主席が定めた『意欲を奮い立たせ、先頭に立つよう努め、より多く、より早く、より立派に、より倹約して社会主義を建設せよ』との耀ける総路線の下、工農業生産の大躍進の高まりに鼓舞され、我国の医学関係者はこの迷信を打破し、大胆に実践し、80%以上の火傷患者を救うことに成功した。偉大なる文化大革命の過程で(中略)99%の火傷を負った患者、さらには3度の火傷で94%という広い面積の火傷を負った患者を治癒することに成功し、資本主義国家の“権威”の定説と文献上の記載を完全に乗り越え、世界医学界における奇跡を創造」と記すのみである。これでは、「ナゼ、90%以上の火傷でも完治可能であるのか?」の疑問に対する科学的な回答ではないだろうに。

 因みに13巻の最後――ということは『十万個のナゼ』の最後の「ナゼ」は「ナゼ、どこにでも唾を吐いてはダメなのか」。病原菌を撒き散らすから「僅かな唾でも被害は甚大だ。だから、辺りかまわずに唾を吐くといったような悪い習慣は絶対に改めねばならない」で終わっている。「悪い習慣は絶対に改めねばならない」とは、なんとも“意味シン”な回答だと思う。

「政権は鉄砲から生まれる」と、毛沢東は革命における「搶扞子(武力)」の重要性を強調する。だが「筆扞子(メディア)」の働きを忘れていたわけではない。いや、むしろ時には筆扞子に重きを置いていた。文革はその典型だろう。人民解放軍(=搶扞子)を掌握して劉少奇追い落としに成功して後、「未来の大人」であり「小さな大人」である子供に向けて、いよいよメディア(=筆扞子)戦略は巧妙に激烈に展開されることになる。




▲△▽▼


2018年3月29日
習近平の幼き頭に刷り込まれた「毛沢東思想」の正体
児童書で読み解く習近平の頭の中(1)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12353

 建国以来の中国歴代指導者を

毛沢東(1893年〜1976年)、
華国鋒(1921年〜2008年)、
ケ小平(1904年~1997年)、
胡耀邦(1915年〜1989年)、
趙紫陽(1919年〜2005年)、
江沢民(1926年〜)、
胡錦濤(1942年〜)

と列記してみると、1953年生まれの習近平主席は初の建国後生まれの指導者である。おそらく驚天動地の政治的地殻変動でも起こらないかぎり、常識的には今後の中国は建国後生まれによって運営されることになるはずだ。


『怎樣學習歴史(どのように歴史を学ぶのか)』(崔巍著 1955年)と『割掉鼻子的大象(鼻を切り取られた象)』(遅叔昌・于止著 1956年)。当時の児童向け書籍から、「社会主義思想」や「毛沢東思想」がどのように刷り込まれていったかを読み解く
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12353


 習近平主席以下、昨秋の第19回党大会と今春の「両会」――全国人民代表大会と政治協商会議によって選出された現在の共産党政権指導部は、最高齢の王岐山(1948年〜)を除く他は1950〜60年代の生まれである。物心がついた頃にはすでに毛沢東は強固な権力基盤を背景にして、極論するなら“箸の上げ下げまで”が毛沢東思想によって規定されるようになっていた。毛沢東が「白いモノでも黒だ」と宣えば、国民すべてがそれに従わざるを得なかったのである。この世代を「完全毛沢東世代」とでも名付けるなら、その第一世代のトップランナーが習近平主席といえる。

「完全毛沢東世代」の幼き頭に刷り込まれた記憶とは

 この世代は幼年期には社会主義の素晴らしさを柔らかい頭脳に存分に刷り込まれ、少年から青年に成長する過程で毛沢東思想が「百戦百勝」であることを身をもって追体験し学習させられている。であれば、この世代の心の奥底に社会主義の理想、毛沢東への憧憬や愛憎半ばするような畏怖の念が隠されているとも考えられる。

 たとえば習近平政権が推し進める「一帯一路」である。これを「総合国力でアメリカに追い着き追い越し、アメリカに代わって世界に君臨しようとする試み」と読み替えるなら、フルシチョフ率いるソ連に対抗心を燃やした毛沢東が1958年に社会主義大国への道を一気に推し進めようと発動した大躍進政策が重なってみえる。現実無視で妄想にも近く杜撰極まりない計画ゆえに4000万人を超える餓死者を出して大失敗に終わった大躍進政策ではあったが、当初は全土が社会主義大国建設の夢に湧きたったことは確かだ。

 であればこそ、当時掲げられた「超英趕美(世界第2位のイギリスを追い越し、アメリカに追い着け)」の勇ましいスローガンを幼い日の習近平主席が深く記憶していたとしても決して不思議ではない。ならば一強体制を築いた現在、かつての熱狂がフラッシュバックすることはないだろうか。

 中国は2010年にはGDP世界第2位の日本を追い越し(「超日」)、いまやアメリカに肉薄している(「趕美」)。だからトランプ政権が中国産品に高額な関税を掛けるという貿易戦争を仕掛けているに違いない。だが、それは見方を変えれば毛沢東の悲願であった「超英趕美」――現在では「超日趕美」だが――が実現しつつあることを意味しているようにも思える。

 かりに習近平政権が現在内外で喧伝されているような長期政権を担うことなく2期10年で終わったとしても、2022年から始まる“ポスト習近平”の時代を担うことになるのは完全毛沢東世代の第2世代とでも呼ぶべき1960年代前半生まれとなる公算は大だ。この世代は幼少期に文化大革命が始まり、少年期は紅衛兵の少年版である紅小兵として文化大革命を体験し、10代半ばに毛沢東の死に直面している。

 じつは当分の間、日本のみならず世界は、毛沢東思想によって育てられた世代の中国指導者と向き合わねばならないのだ。であればこそ彼らが成長の過程で受けた教育――それは、とりもなおさず共産党政権が自らの将来を托そうとした人材の理想形だろう――を考察することは、今後の中国の進路を見定めるうえで必須の作業になるだろう。


「歴史爺さん」が熱く語りかける戦いの歴史


 共産党政権は発足直後には兒童讀物出版社(上海)と中國少年兒童出版社(北京)を創設した。両社が出版する絵本などによって、社会主義は正しく、世界は社会主義社会に向って進化している。その最前線に立つ共産党は絶対無謬だなどと教え込もうとしたに違いない。教育は娯楽であり、娯楽は宣伝であり、宣伝は教育というのが共産党の根本理念である。「白い紙にはどんな画も描ける」と説いていた毛沢東は、幼い子供たちの真っ白な頭脳に共産主義社会の夢のような将来を描こうとしたはずだ。

 1955年に兒童讀物出版社が出版した『怎樣學習歴史(どのように歴史を学ぶのか)』(崔巍著)からは、当時の共産党が子供たちに教え込もうとした歴史観や歴史認識が浮かび上がってくる。

 著者の崔巍は個人ではなく、おそらくは共産党の教育・宣伝部門に連なる歴史学者たちの集団ペンネームと考えられる。当時、簡体字はまだ正式に使われてはいなかったから、横書きながら繁体字のままで全42ページ。当時の物資不足を反映して、表紙にもザラザラでペラペラの質の悪い紙が使われている。

 表紙の上半分に描かれているのは人々が力を合わせてマンモスを断崖に追い詰めている光景で、下半分は溶鉱炉を中心とした工場だ。前者で支配・被支配の関係がなく貧しくも平等で心豊かに暮らしていた原始共産制社会を、後者で重工業化された豊かな社会主義社会を訴えようというのだろう。

 表紙を開くと先ず「歴史爺さん」なる人物が登場し、「子供たちよ! ワシがキミらの友だちになって1、2年になるかのう」と切り出す。「ワシは歴史という名前じゃが、みんなも知っているだろう」と呼び掛け、「歴」とは「経歴」で「史」とは「記載」であると説明しながら、「ワシはえらく歳をとっていて、ワシが歴史を記録するようになってから換算すると、かれこれ4000年ばかりにもなるだろうか」と、それとなく民族の歴史の長さを誇ってみせる。

「遥かに遠い昔だ。ワシが生まれて間もない頃じゃが人々は農業を知らず、河南省一帯の黄河の辺りで魚を捕ったり、猟をしたり、放牧などして苦しい生活を送っておったんじゃ」。かくて勤労人民の力によって現在の中国がある。「考えてもみておくれ。中国の国土はこんなにも大きいが、隅から隅まで我らが祖先の熱い汗と涙が流されなかった場所はないんだよ」と続ける。

 当初は支配も被支配もなく働き誰もが平等な生活を送っていたが、やがて「奴隷の持ち主、大地主、資本家など働かない奴らが生まれ」た。彼らは「日々に悪知恵を働かせて土地、工場、人々の労働の果実を掠め取り」、「“国家”や王朝をでっち上げて労働人民を圧迫し始めた」。そこで「陳渉、張角、王薄、黄巣、李自成・・・」など多くの民族の英雄たちが「搾取鬼たち」に戦いを挑み勝利した。だから「中国の広大な土地の到る処に、革命烈士の鮮血が流されているんじゃ」。

 そこで歴史は一足飛びに20世紀に移り、「八路軍、新四軍、中国人民解放軍、中国人民志願軍など、彼らは祖国人民にとっての最も優秀な児女なんだ。考えてもみるがいい。中国の広大な領土は祖国防衛のための英雄たちの鮮血に染まっていることを」と同意を求める。

「将来の人民は共産主義の生活を過ごすことになる。これは全く正しいことだ。キミは共産主義の生活が好きかい。だったら共産主義を実現させ、誰と戦い、どうすれば勝利できるのか。キミが指導しなければならないのだ。さあ、キミたちよ! ワシはキミの好い友達だ。キミが一日たりとも離れることのできない素晴らしい友人じゃよ!」と、熱を込めて語り掛けた。

 予定調和気味に共産党創建以来の“偉大で栄光に包まれた戦いの歴史”が綴られているが、ご丁寧にも子供たちの学習の成果の一例が次のように記されている。

●「本来、社会に階級はなかった。人々は階級のない原始公社において長期に亘って暮らしていた」

●「資本主義社会において資本家は労働者を搾取し、工業生産の発展を妨害した。労働者は断固として資本家を打倒し階級のない社会主義社会――共産主義社会に作り変えなければならない。だから歴史発展の法則に基づくなら、共産主義は必ずや実現する」

●「歴史を学んで、祖国人民の全ての労働成果を熱愛すべきことを理解した。全力を尽くし、一木一草に至るまで祖国を防衛する」

●「ボクらの麗しき前途の凡ては、解放軍兵士のおじさんたちの犠牲によって得られた。ボクらは、さらに偉大なる中国の共産党と人民解放軍とを熱愛する」

「共産主義を実現させ、誰と戦い、どうすれば勝利できるのか」の囁きに続く「キミが指導しなければならない」という“殺し文句”に幼い子供たちは、さぞや血を沸かせ肉を踊らせたことだろう。そのうちの1人に、幼い頃の習近平チャンはいなかっただろうか。


「社会主義色」が濃厚すぎる算数の問題


 同じ1955年に『算術 小学教師進修用書』(兪子夷編著 浙江人民出版社)が出版されている。建国から6年、朝鮮戦争終結から2年が過ぎ、いよいよ国家建設に本腰を入れようにも、やはり科学技術の立ち遅れは如何ともし難いと気づいたようだ。

「編著者自序」は「基礎的教育である小学校教育の質を高めることは、中学・高校教育の質を根本的に高めることにつながる。小学校における算数教育は重要な位置を占めているにもかかわらず従来は誰もが重視してこなかったことから、極めて低いレベルのままであり、今後は可及的速やかに質を高めなければならないことは疑う余地はない」と記すが、やはり編集方針は「真っ白な紙にはどんな絵も描ける」との毛沢東の考えに基づく。

 全体の構成はイデオロギー抜きに整数と筆記法からはじまり、加減乗除、倍数、比例、平均、度量衡、数の分解、最大公約数、最小公倍数、分数、通分、分数の加減乗除、少数、比例などに関する解説へと系統的に並べられているが、応用問題は一転して社会主義イデオロギーの色に溢れている。

 モノは試し。そんな応用問題のいくつかを挙げてみると、

 1)ある工場には6つの作業場があります。第1,2,3の作業場には210台の旋盤が備えてあり、第4作業場は第1作業場より15台少なく、第5作業場は第2作業場より21台多く、第6作業場は第3作業場より10台少ない。6つの作業場を合計すると工場全体では何台の旋盤があるでしょうか。

 2)3つの農業生産合作社は余った1250袋の食糧を国家に売ることになりました。乙合作社が売った量は甲合作社の2倍で、丙合作社が売った量は甲と乙の合作社の合計より350袋多い。3つの合作社が売ったそれぞれの量を求めなさい。

 3)2組の道路補修隊が道路の両端から同時に工事をはじめました。その速度は甲隊が毎日2里で、乙隊は3里です。4日後には2つの補修隊の間の距離は35里でした。彼らが補修する道路の距離を求めなさい。

 4)ある労働者の1年の給与は、最初の3ヶ月は毎月43元、次の5ヶ月は毎月46元、最後の4ヶ月は毎月47元5角でした。1年平均すると1ヶ月当たりいくらになりますか。

 ――社会主義社会建設期の溌剌とした雰囲気が伝わってくる応用問題ではあるが、工場、旋盤、農業合作社、道路補修隊、労働者など社会主義イデオロギーが前面に押し出されている。


空想小説「鼻を切り取られた象」の正体とは?


 1956年、共産党政権は学術・芸術の分野での自由化を進める「百花斉放・百家争鳴」運動を発動した。この政策によって知識人や民主派からの猛烈な共産党批判を誘発させ、やがて反右派闘争に転換され、結果として大躍進から文化大革命へと毛沢東の過度の神格化に雪崩れ込むことになる。

 同じ年の2月、ソ連ではフルシチョフがスターリンを全面批判する秘密演説を行った。中国共産党機関紙『人民日報』は4月5日になってスターリンによる個人崇拝を「重大な誤り」と認めはしたが、ソ連で見られたスターリン全面否定に同調することはなかった。スターリン批判をめぐる中ソ両国の見解の差が、後に国境軍事衝突にまで発展した中ソ対立の遠因の1つとなるわけだ。

 中国共産党政権のみならず毛沢東にとっても大きな節目の年に当たる1956年、中國少年兒童出版社は2種類の子供向け空想科学物語を収めた『割掉鼻子的大象(鼻を切り取られた象)』(遅叔昌・于止著)を出版している。“夢のように豊かな社会主義中国”を描き出そうというのだろう。この絵本を手に小躍りした子供たちは社会主義の未来に目を輝かせたに違いない。そんな理想社会を建設するために、やはり「キミが指導しなければならない」のである。

 巻頭を飾る「割掉鼻子的大象」は、この本の幼い読者たちが20代の半ばから後半に達する頃の1975年の夏を舞台に、科学専門記者の「私」が取材のため国営農場を訪れるところから始まっている。

 その地は草1本も生えない不毛の地であったが、人民の奮闘努力によって5年という短期間で「緑の希望」と呼ばれるまでの大農場に改造されていた。取材のために農場の中心街に立った「私」は「象を見に行こうよ。象だ、象だ」の子供たちの歓声に誘われるように走りだす。「国営農場のだ!」「どうして国営農場で象が飼われているんだ?」「鋤を引かせるためだよ!」「トラクターがあるじゃないか。象なんて使う必要はないよ!」――子供たちの感想である。一見すると象ではあるが、不思議なことに鼻が切り取られていた。

 この農場で働いている科学好きの中学時代の同級生から届いた招待状を持って、農場事務所を訪ねる。すると「私」の目の前に薄いピンクがかった白い肉の壁が現れた。街で見かけた鼻の欠けた象は、友人が改良を重ねて生み出した「奇跡72号」と呼ぶ超大型のブタだった。友人は「図体はデカいが子ブタだ。柔らかく脂が乗っていて栄養満点。そのうえ簡単に消化する。味はバツグンだろう」と語りかける。だが「私」は口いっぱいに肉を放り込んだため、口がきけずに目を白黒させて頷くしかなかった。象のように大きいブタを生み出す社会主義の科学技術によるなら、食糧問題も一気に解決してしまうのだ。幼い読者が瞳を輝かせたであろうことは想像に難くない。

 第2話の「没頭脳和電脳的故事(脳無しクンとコンピューターの物語)」の主人公は小学生の孫少年である。「鞄は」「帽子は」「ソロバンは」「教科書は」と孫少年の登校準備に巻き込まれ、毎朝家族中が大わらわ。彼が「没頭脳(脳無しクン)」のあだ名で呼ばれるのも、前日に学用品を置いた場所を忘れてしまうほどに整理整頓が不得手だからだ。

 そこで我が息子の将来を案じた電気技師の父親は「養いて教えざるは父の過ち」という古くからの教訓に従って、孫少年に20万個の半導体を組み込んだ「電脳(コンピューター)帽子」を創ってやった。翌日、電脳帽子を被った彼は意気揚々と登校する。電脳は難問を素早く解いてくれるが、地理の問題や友達のトンチ話にはサッパリ反応しない。そこで父親は半導体を脳細胞の数と同じ140億個までに増やそうとするが、電脳帽子が巨大化してしまい被ることができない。かくて「電脳の奴隷にはなるな」と、苦心の末に作り上げた電脳帽子を廃棄処分してしまった。

 孫少年は父親が作ってくれた電脳帽子を賢明に学習し、「自分で考え、大脳を鍛錬し」、「演算、資料保存、翻訳、機械管理のできる電脳」の発明を目指す。やはり子供たちに、社会主義社会のバラ色の将来を教えようとしたのだろう。

 1950年代前半、中共中央宣伝部長兼政務院文教委員会副主任を務め党と政府の思想宣伝工作を切り盛りし毛沢東の寵臣として振る舞っていたのは、習近平チャンの父親である習仲勲だった。ならば教師用の『算術 小学教師進修用書』はともあれ、幼い息子に『怎樣學習歴史』や『割掉鼻子的大象』を与え、橋橋と安安の2人の姉が弟の習近平チャンに読み聞かせていたと想像してみる。

 どうやら現在の共産党政権の中枢に居並ぶ首脳陣は、歴史爺さんの話を真に受け、社会主義イデオロギー満載の算数応用問題を解き、社会主義社会の将来に幼い心を躍らせた世代となりそうだ。このことを、改めて肝に銘じておきたい。




▲△▽▼


子どもたちの思想改造を狙った毛沢東の手口
児童書で読み解く習近平の頭の中(5)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13587

習近平国家主席を頂点とする現在の共産党政権中枢が幼少期を送った1950年代から60年代前半にかけて出版された児童向け書籍から、当時の共産党政権が育て上げようとしていた“理想の小国民像”を考えてみたい。それというのも“三つ子の魂百までも”の譬えに示されるように、政治の中枢に立った現在の彼らの振る舞いの芽は、彼らの幼い頃に植えられたのではないかと考えるからだ。


iStock Editorial / Getty Images Plus / tonisvisuals
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13587


 中国では、1963年から66年春にかけて「社会主義教育運動」が展開された。1958年に毛沢東が強引に進めながら大失敗に終わった大躍進政策への対応をキッカケとした教育運動であり、後の文化大革命につながる政治闘争の前哨戦でもあった。

 大躍進の失敗を自己批判した毛沢東に代わって国家主席に就任し共産党政権の舵取り役に就いた劉少奇は、毛沢東が進めた急進的な社会主義化・集団化を取り止め、限定的ながら個人所有を認めて生産意欲を刺激することで落ち込んだ経済の回復を図った。自らの労働によって自らの生活向上が期待できることから、人々は労働に励み生活も向上する。

 すると当然のように劉少奇への期待が高まり、民心は毛沢東から離れる。この動きによって自らの権威が崩れ権力が失われることに危機感――有態にいうなら、劉少奇に対する政治的嫉妬心――を抱いた毛沢東は、早くも1963年9月の中共8期10中全会において資本主義復活の危険性を指摘し、階級闘争の拡大化・絶対化を訴えた。このような環境において社会主義教育運動は始まる。

 社会主義教育運動の3年余に出版された児童書を読んでみると、イデオロギー色が微塵も感じられないものと毛沢東思想万々歳のものとに大別できる。前者は生活向上を目指す経済優先の劉少奇路線を背景にしていると見做すことができる一方で、後者からは政治を第一とする毛沢東路線の徹底を子供に刷り込もうとする狙いが強く感じられる。

 現状を肯定するのか。はたまた「為人民服務(毛沢東式滅私奉公)」の路線を徹底して社会主義社会建設を目指すべきか――やはり注目すべきは、洗脳によって子供を毛沢東思想のサイボーグに改造しようと狙う毛沢東の強い意志だ。こうして育った世代が文革初期において毛沢東を絶対無謬の神と崇め、毛沢東の手足となって毛沢東の敵を殲滅する戦いに邁進していったことを思い起すなら、劉少奇の悲劇は、毛沢東の狙いを読み違った。あるいは毛沢東の政治的妄執を甘く見た点に求められそうだ。


「太陽とヒマワリ」に込められた寓意


 先ずはイデオロギー色を全く感じられない代表例として、劉少奇に対する毛沢東の反撃が表面化する数カ月前の1963年5月に出版された『動脳筋爺爺@』(少年児童出版社)を挙げておきたい。同書は全4冊で構成され『動脳筋爺爺A』と『動脳筋爺爺B』は1964年、『動脳筋爺爺C』は1966年、つまり社会主義教育運動の全期間を通じて逐次出版されたシリーズものである。


中国で1960年代前半に出版されたおもに児童向け書籍(画像:筆者提供)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13587?page=2


 「脳筋」は脳みそを指し、「動脳筋」は“頭を働かせろ”を意味する。そこで動脳筋爺爺とは智慧爺さんといったところか。「小問号(ハテナちゃん)」と「小無智(オトボケ君)」が投げかける「なぜ魔法瓶の湯は冷めないの」「なぜ雲は空から落ちてこないの」など日頃の生活で感じている素朴な疑問を、智慧爺さんが判り易く説明している。4冊全体に共通する特徴は、社会主義、共産党、ましてや毛沢東にすら言及した記述が全く見当たらない点だろう。

 その典型が「なぜヒマワリは太陽に向って動くのか」の項である。文革時代、太陽は毛沢東を、ヒマワリは人民を無条件に寓意していた。太陽もヒマワリも当時の中国では問答無用の政治的記号だったのだ。偉大なる太陽があればこそ人民は育つ。それゆえにヒマワリの人民が育つためには、太陽である毛沢東を常に崇め奉り学ばなければならなかったのである。だが『動脳筋爺爺』では太陽の動きに従って動くヒマワリの植物学的なメカニズムが懇切に説明されてはいるものの、太陽にもヒマワリにも政治的メッセージは込められていない。

 やはり『動脳筋爺爺』シリーズの作者にとって、太陽は飽くまでも太陽であり毛沢東を指し示す政治的記号ではなく、ヒマワリは植物のヒマワリ以上でも以下でもなかったということだろう。

「明るい世相」が映し出された児童書

 1965年に出版された『飛機会干些什麼(飛行機は何ができるのか)』(劉子吉 少年児童出版社)に描かれている子供にも、政治役割は全く与えられていない。近代化され安定した豊かな社会で伸び伸びと遊ぶ子供たちの健気な姿が感じられるだけである。

 表紙の色は淡い青。おそらく紺碧の空に見立てたのだろう。上半分には大型旅客機、ジェット戦闘機、農薬散布中の複葉機、さらには真紅のヘリコプター。下半分には模型の飛行機やグライダーを手にはしゃぐ子供たち。誰の首にも、少年先鋒隊を示す真紅のスカーフが巻かれている。男の子は白いシャツに濃紺の半ズボンで、女の子は揃って長いお下げに中国風ブラウス。明るさが横溢している絵柄だが……1年後には文革が始まる。

 最初の頁の下半分には背中姿の女の子とこちらを向いた2人の男の子――花壇に座る3人を前に、男の子が立っている。その向こうには模型飛行機で遊ぶ子供たち。誰もが真紅のネッカチーフを首に。遠景は、大きな入道雲が浮かぶ青い碧い大空。

 「飛行機は天空を飛んでゆく。まるで一羽の雄々しい鷹のようだ。見るほどに、より高く、より遠く。なんと素晴らしいことだろう。飛行機って何をするものなの、僕が話して聞かせるよ」と、立った男の子が説明をはじめる。

――毎日、数え切れないほどの数の飛行機が高い山を飛び越え、白い雲をつき抜けて、上海から昆明、広州から北京へと、旅客、貨物、郵便をいっぱい載せて、限りなく広い大空を飛んでいるんだ。日照りの時なんか、空から薬剤を散布して雨を降らすよ。広い田や畑だって一気に肥料を噴霧すれば、どんな害虫だってイチコロさ。豊作間違いなしだ。農村で収穫用の農機が欲しかったら、いつだって飛行機が運んでくれるさ。正確な地図作り、国家防衛、森林保護、海難事故救助、遠隔辺境への物資輸送だって、飛行機なら簡単だよ――

 と、飛行機の果たす様々な役割が微笑ましいイラストと共に判り易く説明され、この本は「大空を飛ぶ飛行機は、雄々しい鷹のようだ。祖国を建設し、国の守りを固め、なんとステキだ。飛行機は、いったいどんなことが出来るのか。みんな一生懸命考え聞かせてください」で閉じられている。

 大躍進の後遺症も癒え、国民が将来に光明を見い出すことができるようになった劉少奇路線が光芒を放っていた時期に出版されたことを考えれば、『飛機会干些什麼』から漂ってくる何とも微笑ましい雰囲気に納得させられる。

「劉少奇への攻撃」を予感させる物語


 同じ1965年、『雪山上的号手』(趙鷔・秦大虎 上海人民出版社)が出版されている。

 この物語の主人公は、于魯紅という14歳のラッパ卒である。彼は毎日ラッパをピカピカに磨き上げ柄のところに赤い布を結びつけ、それを背中に威風堂々と行軍し勇猛果敢に戦闘に参加し、全身全霊を革命のために捧げてきた。

 辛い長征のある日、部隊は小休止し体力と装備を整え明日からの難関の大雪山越えの準備に掛かる。彼の任務は、近隣の農家から厳寒の行軍にとって必需品の唐辛子と焼酎を調達することだった。冷えた体を芯から暖めるためだ。「大雪山は豪雪に加え強い風だ。さらに空気は希薄。だが革命的英雄主義を発揮し、団結して闘い困難を克服し、勝利のうちに大雪山を越えようではないか」と、部隊長が檄を飛ばす。

 戦友で病弱の江戦雲の手を引きながら、一方で木を掴み峻険な山道を登る。部隊は一振りの宝剣のように一直線になって、大雪山の頂を目指して進む。すると突然に狂ったように強風が吹きだし、ついで横殴りの猛烈な雪である。あっという間に辺り一面が真っ白になり、なにも見えない。「団結だ、戦闘だ、隊列から落伍するな」との部隊長の叱咤激励を聞きながら、彼は戦友の手を引いて雪中行軍を続ける。

 山が高くなれば雪も深くなる。部隊は「堅固な革命的毅力」を発揮し、一歩一歩と山頂を目指した。山頂にたどり着いた部隊からの「頑張れ、同志諸君」の声に励まされ、彼は江戦雲に「大雪山に勝つんだ」と声を掛ける。

 やっと山頂に到着したが、風はさらに強く、鶏の卵大の雹に見舞われる。2人の少年兵は進退谷まり部隊から取り残され、吹雪の中に立ち尽くすしかなかった。2人が雪道で悪戦苦闘していた時、近くを通りかかった別の部隊の隊長の「ラッパ卒がみつからず、我が部隊の所在地点連絡不能」との声を聞き、彼は衰弱する体に鞭打って声を限りに「隊長同志、自分は……」と申告する。

 彼の声を耳にした部隊長が近寄って来て、体全体を雪に包まれながらもラッパを高々と掲げる少年ラッパ卒を見つけた。彼の唇は寒さで切れてしまったが、部隊長の命令を受け力の限りラッパを吹く。ラッパの音が伝える「部隊長は山頂に到達せり。諸士の現在地を伝達あれ」の信号は轟々たる吹雪をものともせず、全山にこだまする。このラッパの音に勇気づけられ、多くの兵士が部隊長に合流すべく山頂を目指した。

 突然、ラッパの音が途切れる。彼は任務を果たし、精も魂も尽き果て昏倒する。「小同志、しっかりしろ」。部隊長の腕の中で気がついた彼は「隊長、戦友の江戦雲が……」

 この時、彼の部隊の部隊長が2人を探しに山頂に戻って来て、江戦雲を雪の中から救出する。「貴下部隊の少年ラッパ卒の格段の軍功により、我が部隊は勝利のうちに大雪山越えを達成せり。感謝の意を表す」。すると我が部隊長は力強く、「我らが毛主席の英明なる指導の下、抗日の前線に赴き、共に侵略者を打ち破ろう」――

 『動脳筋爺爺』や『飛機会干些什麼』に登場する子供は子供でしかない。だが『雪山上的号手』の子供には飽くまでも大人と同じ働きが求められる。“小さな大人”であらねばならなかった。子供に対する扱いの違いが気になるが、『雪山上的号手』の出版元が文革の10年間を通して毛沢東派が拠った最重要宣伝機関であった上海人民出版社であることを考えれば、主人公に毛沢東思想を体現する革命的少年を配したことも納得できるだろう。上海では劉少奇攻撃の準備が秘かに進められていたということか。

仲間を救うために爆死した若き兵士の日記


 同じ1965年には、児童書を読む世代よりもう少し高い年齢層を読者対象とした『王杰日記』が、文革の前半期、毛沢東の忠実な部下として文革を推し進めた林彪が率いていた人民解放軍の機関紙『解放軍報』の編輯部から出版されている。

 この日記を記した王杰(1942年〜65年)は山東省出身の解放軍兵士である。入隊は61年で済南部隊装甲兵工兵連(中隊)班長。62年、共産主義青年団に加入。65年7月、民兵訓練中に爆弾が暴発しようとした際、現場にいた12人全員を救うべく爆弾に覆いかぶさり爆死。自己犠牲の模範として全国的に讃えられ、死後に党員として追認された。遺品の中から63年に書きはじめた10万字を超える日記が見つかり、主だった部分を抜粋し、この本が編まれている。そこで興味深い個所を拾ってみた。

■63年(日付なし)=「俺はレッキとした革命者であり、革命のための優秀な種となろう。党と国家から遣わされるなら、何処にでもいって根を張り、花を咲かせ、実を結んでみせるぞ。必ずや砂漠を緑の長城に、荒れ果てた山をたわわに稔る果樹園に、田を一面の黄金色の大地にしてみせるぞ」

■63年4月22日=「王杰よ、王杰、お前に警告しておこう。任務を遂行する際には、誠心誠意で言行一致、裏表なく苦労を厭わず、生真面目に取り組め。王杰よ、深く心に刻んでおけ。自らの欠点をしっかりと自覚し、断固として改め、虚心に学び、生真面目な人間にならんことを」

■63年8月21日=「旨いものを食べ、キレイな衣装を身に着けるなんてことは幸福でもなんでもない。貧苦に喘いでいる世界中の虐げられた人々が平穏な生活を送れるようになってこそ幸福といえるのだ」

■64年7月25日=「毛主席の著作学習は長期的視点から着目しなければならないし一生の大事だ。林彪同志が指し示す『問題意識を持って学び、活学活用し、実際の問題に結びつけ、先ず学び本質を掴め』の原則を生真面目に徹底して貫かねばならない」

■64年9月3日=「毛主席の著作学習を通じ、革命こそが我が理想であり、闘争こそが本当の幸福であることを身に沁みて学んだ」

 『王杰日記』は「新しい中国の次世代を見よ! 彼らは重い任務を担うことができる。彼らには祖国の建設と防衛ができるはずだ」で結ばれている。

社会主義教育運動を経て、時代は「文革」へ

 ここで改めて1965年前後の毛沢東の動きを振り返ってみる。

 1964年8月、エスカレートするヴェトナム戦争に米軍の中国侵攻の可能性を読み取り、同時に北方から軍事圧力を強めるソ連を警戒し、毛沢東は南北からの敵を想定した戦争準備を提起する。10月に初の核実験に成功し、翌65年1月になると毛沢東は初めて「党内の資本主義への道を歩む実権派」に言及した。「実権派」、つまりは毛沢東を蔑ろにする政権中枢、就中その頭目たる劉少奇に戦いの的を絞ったということだ。だが劉少奇が毛沢東の狙いに気づいたフシはみられない。

 9月になって本格化するアメリカの北ヴェトナム爆撃(北爆)に対抗するかのように、林彪が「人民戦争勝利万歳」と題する論文を発表し、劉少奇派が提起した解放軍の近代化とソ連を含む反米統一戦線結成の動きを牽制した。毛沢東の軍事思想に従い、解放軍は断固として人民戦争路線を歩むべし、というのだ。11月、後に四人組の一員として名を馳せる姚文元が「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し文革の導火線に火を点けた。

 翌66年8月、毛沢東と林彪は全国から百万人の紅衛兵を天安門広場に集め気勢を上げ、文革の戦端が開かれたのである。

 1953年生まれの習近平にとっては社会主義教育運動の3年間は、9歳から12歳に当たる。習近平9歳の年、父親の習仲勲は毛沢東の逆鱗に触れ失脚。12歳の年には毛沢東の指示で洛陽鉱山の機械工場へ“島流し”となる。実質的な労働改造処分であった。


▲△▽▼


2018年7月12日
歴史的悲劇の裏で進められた「子供たちの洗脳」
児童書で読み解く習近平の頭の中(4)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13358


習近平国家主席を頂点とする現在の共産党政権中枢が幼少期を送った1950年代から60年代前半にかけて出版された児童向け書籍から、当時の共産党政権が育て上げようとしていた“理想の小国民像”を考えてみたい。それというのも“三つ子の魂百までも”の譬えに示されるように、政治の中枢に立った現在の彼らの振る舞いの芽は、彼らの幼い頃に植えられたのではないかと考えるからだ。


中国で1950年代後半から60年代前半にかけて出版された児童向け書籍(画像:筆者提供)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13358


 1955年の夏以来、共産党政権内部では経済建設の速度と農業の集団化を巡って、毛沢東が率いる冒進(急進)派と、それに異を唱える周恩来、陳雲らの間の対立が続いた。だが、1957年の反右派闘争勝利をバネに毛沢東が周恩来らの異見を圧倒し、1958年5月に開かれた第8回共産党第2回会議で大躍進が正式に採択されることになる。かくて「超英趕美」――鉄鋼生産第2位の英(イギリス)を追い越し、経済超大国の美(アメリカ)に追い着け――のスローガンを掲げ、(1)鉄鋼と農業の大増産、(2)農村における人民公社と公共食堂の建設が全国規模で展開された。

 大躍進政策を推進することで、そう遠くない将来、中国に共産主義社会を出現させるという強い意気込みで始めたものの、毛沢東が描いたバーチャルな世界は中国社会の現実の前に脆くも崩れ去り、惨憺たる結末を迎えざるをえなかった。工業部門の大後退に3年続きの自然災害が追い討ちを掛け、3000万から4000万人が餓死している。この当時、共産党政権は子供たちに何を求めていたのか。

「大躍進の悲劇」はなかったことに……

 大躍進政策決定直前の1958年3月に出版された『民間少年游戯』(顧也文編 上海文化出版社)は、浙江、江蘇、安徽、湖北、雲南、四川などの民間に古くから伝わる60種類の遊びを集め、イラスト入りで遊び方を解説している。一見すると他愛のない児童向けの書籍のようだが、「本書が集めた遊びは全て子供を対象とし、大部分は祖父から父に、父から子に伝わり現在に残されたものであり、日々の生活感が色濃く感じられる。民間に流布する他の遊びと同じように、我が国労働人民の智慧、勇気、誠実、朴訥さを明らかに示し、我が国労働人民の積極性、楽観性、勤倹性、労働に向う心意気という思想感情を伝えている」と書かれた「前言」からは、大躍進直前という時代の雰囲気が十分に伝わって来る。

 はたして当時の子供たちは、鬼ごっこや綱引きをしながら「我が国労働人民」の「思想感情」を学べたのだろうか。

 大躍進政策の悲劇が明らかになりつつあった時期の1961年5月に出版されたのが『游戯官』(林・張・王・楊編 潘晋華画 上海少年児童出版社)である。たとえば「誰と誰が話をしているの?」と題された絵には、糸がこんがらがった糸電話で遊ぶ6人の子供が描かれていて、それぞれの話し相手を探そうというのである。この本からは、政治的意図も思想性も、ましてや大躍進の悲劇など匂わせる記述は一切ない。


子供たちさえ洗脳してしまえば“こっちのモノ”


 毛沢東は「我われには社会主義の経験が不足していた」と反省の素振りも見せないばかりか半ば居直ったまま、権力の頂点から一時身を退いた。大躍進の惨憺たる失敗という危機的状況を打破し「V字回復」を果たした最大の功労者は、毛沢東の後任として国家主席に就いた劉少奇だった。

 であればこそ、『石荘児童団』(上海人民出版社 1963年)が出版された当時は劉少奇が大いに讃えられてしかるべき時代だったはずなのだが、この本には劉少奇への賛辞は一言半句も見られない。得意の“搦め手”による劉少奇追い落とし策――《毛沢東の正しさ》を子供に植え付け、毛沢東を《絶対無謬の神》と思い込ませ、しかるべき政治決戦に備え、虎視眈々と一剣を磨こうとする毛沢東の底意が感じられる。まさに洗脳である。後に文革派がメディア戦略の拠点としていた上海人民出版社からの出版というのも気になるところだ。

 小栄クンはちびっ子だが肝っ玉が据わっている。日本鬼子(ぐん)が駐屯する東港を流れる平洋に飛び込んで、今日も魚獲りだ。水に潜ったかと思えば川面に浮かんでは遊んでいた。ふと岸辺を眺めると、兄の小順たちが手に手に槍を持って玉蜀黍畑の中に消えてゆく。日本兵を偵察しようというのだ。小栄クンは慌てて岸に上がって、小順兄チャンたちを追いかける。

 やっと追いついてしばらく行くと、川の方からジャブン、ポトンと音がする。川辺の葦の間からソッと覗き見ると、日本兵が川に入り測量をしている。どうやら、この川に橋を架けるための準備をしているらしい。この光景を目にした小栄クンは子供心にも、「チクショウ、日本鬼子に橋を架けられたら、おいらたちの村は全滅だ」と直感する。「子供たちの目は日本鬼子に釘付けとなり、目からは復仇の怒りの炎がメラメラと燃え上がった」。

 小栄クンは小順兄チャンの命令を受け、村の民兵隊に報告に行った。相変わらず偵察を怠らない子供たちの目に飛び込んできたのは、メガネの「ちびデブの日本軍隊長」。歩きながら部下を叱り付ける姿は、「まるで生きた凶暴な猪」。すると川上からスイカを満載した小船が下って来た。船にはおじいさんと子供が乗っている。見ると小栄クンだった。「ヤバイよ、ヤバイよ。小栄のヤツ報告に行かずに船の上でさぼって遊んでいやがる」と、仲間の少年たちは気を揉むばかり。

 炎天下である。川の中で測量していた日本兵は喉が渇いたのだろう。小船に近づいてはスイカを勝手に取り上げ、喉をゴクリと鳴らしながら、冷えたスイカをムシャムシャ。その時、ピューン、ピューンという銃声がした。スイカを手に慌てて逃げ惑う日本兵。デブの隊長は船尾でブルブル。そこで小栄クンがデブの腹を目掛けて頭突き一閃。やつは、もんどりうって川の中へ転落だ。

 船上のおじいさんが付け髭を取り外すと、なんと民兵隊長。大声で「生け捕りだ」。一斉に川に飛び込んだ子供たちは、必死に逃げようとする日本兵の足や手を掴んで川の中に引きずりこんで溺れさせる。戦闘はしばらく続いたが、全員が民兵に捕まってしまった。

 静かになった川面をスイカ満載の小船が行く。船上の子供たちはハシャギながらスイカを頬張る。そこに「日本の侵略者を我われ立ち上がった数億の人民の前に引きずり出し、一匹の野牛を火陣の中に追い込むように仕向ける。一斉に声を上げてビックリさせれば、この野牛は焼け死ぬしなかい」と毛沢東の教えが重なり、「毛主席の教えは何とすばらしいことか」と呼び掛けている。

 無邪気であるがゆえに喜々として冷血・残酷にもなりうる子供たちを洗脳し煽り操って反劉少奇の大混乱を起してしまえば、こっちのモノ――この本から、こんな“仕掛け”が感じられるのだが。


子供たちの世界では2年も早く始まっていた「文革」


 『石荘児童団』出版の翌年には、同じく上海人民出版社から同じような書名の『草原児童団』が出版されている。

 舞台が長江下流域の水郷で子供たちが退治した敵は日本軍であった『石荘児童団』とは違い、『草原児童団』の舞台は内蒙古の草原で、子供たちが立ち向かった敵は「地主、富農」であり、彼らと結託して社会を大混乱に陥れ社会主義社会を転覆させ封建社会の復活を目論む土匪である。

 「東の空が紅く輝き、太陽が昇る。毛主席の英明な指導によって草原は解放された。至るところに紅旗が翻り、農民は地主を倒し、農地を分け合い、喜びの気が充ち溢れる。児童団は喜び勇んで地主と富農の監視活動に努める」と書き出される。最初の数行からして、すでに「毛主席の英明な指導」である。こうなったら文革当時の「毛主席、万歳、万歳、万々歳!」までは、もう一歩だろう。いや、子供の世界では大人の世界に2年程先んじて文化大革命が始まっていたとも考えられる。


(Imaginechina/アフロ)

 『草原児童団』の主役は13歳の黒牛クン。彼は村の児童団の団長である。

 ある日、民兵隊の王隊長から「これから土匪討伐に出掛ける。地主や富農が土匪と連絡を取らぬよう注意して監視してくれ。異常があったら鉄柱アニキに報告だ」との命令を受け、黒牛クンは仲間と共に地主の「大花蛇」の屋敷を見張る。それにしても地主が大花蛇で、その妻が「狐狸精(バケモノ)」というのだから、名前を見ただけで子供にも地主は極悪人と判る。“見事な印象操作”というべきか。

 地主の家から外に向かう足跡を発見した黒牛クン率いる児童団は、それを追って草原を突き抜け山に向い、洞窟に隠れる大花蛇を見つけ出し、槍で脅して立ち木に縛り付け尋問を繰り返す。“正義”を手に入れた子供たちが毛沢東によって進められた土地改革に敵対する地主を攻撃・尋問するという構図は、文革において紅衛兵や紅少兵がみせた毛沢東の敵に対する残酷・残忍で血腥い仕打ちを彷彿とさせる。やはり子供の世界は、大人の世界に数年先んじて「革命無罪」「造反有理」が讃えられていたのだ。

 最後は鉄柱アニキと黒牛クンたち児童団が、地主や土匪を縛り上げて村に凱旋するシーンで幕となる。毛沢東思想式予定調和といっておきたい。


毛沢東思想式ハッピー・エンドの物語


 同じく文革開始2年前に出版されたのが『林紅和她的伙伴』(費・林・陳・童子編絵 人民美術出版社 1964年)である。

 この物語の主人公である林紅は、農村の中学校を卒業したばかり。可愛らしく気立てがよく、そのうえ肉体堅固で我慢強い娘さんである。共産党の下部組織の共産主義青年団員で、両親が都市で仕事をしているので本来なら都市で進学できるのに、「農村こそが広大な天地だ。そこでは、なんだってできないことはない」という毛沢東の“有難い教え”を堅く信奉し、農村に留まり、自分から率先して困難な仕事に立ち向かおうと決意したというのだから、これまた文革時に毛沢東が「上山下郷(若者よ、農村で農民に学べ!)」をスローガンに都市の若者を農山村に送り込んだ「下放運動」の先駆けのような若者だ。

 そこで、「農業は国民経済の基礎である。党は我われに大いに農業に励み、力を農業の第一線に注ぐよう呼び掛けている。農業の持続的な躍進を望むだけではなく、工業を大いに振るわせ国民経済全体の持続的躍進を果たし、我が国の社会主義建設をより速く発展させ、より速く社会主義強国を完成させよう」(「内容説明」)と、彼女は獅子奮迅の働きをみせる。目指すは「社会主義強国」である。

 林紅が大活躍する物語は、国を挙げて大躍進政策が展開された1959年秋の早朝。河北省東部の中新人民公社の某生産隊から始まる。

 厚い暗雲に覆われた空からは大粒の雨が稔りの大地に叩きつける。「解放後、人々は政府の指導の下で毎年、堤防の修理を進めてきたが、この雨で水かさが急激に増し、堤防決壊の危険性が高まった」。そこで生産隊の書記を先頭に村人が総出で護岸補強工事に向かう。かくいう林紅も友達に呼び掛けて現場へ急行する。

 彼女は逆巻く怒濤に飛び込んで杭を打ち土嚢を積む。男勝りで八面六臂の大活躍だ。雨も止み、穏やかな日差しに照り映える川面を2隻の大きな船が船着場に接岸した。積まれているのは、政府から林家荘生産隊に送られる食糧や物資だ。村人の顔はほころび、誰もが川岸に飛んでゆく。その中に77歳の老人がいた。彼は政府から贈られた籾を手に、「毛主席、あなた様はワシにまで心を砕いて下さる。あなた様のご指導があらばこそ、ワシらは最期の日まで戦うことができますんじゃ」と、「解放前までのあの苦闘の日々を思い浮かべ、止め処なく感動の涙を流す」のであった。

 傍らに控えるのは、もちろん林紅だ。彼女は、「私は党の呼び掛けに応え、この村で皆さんと一緒に自然災害や食糧危機と戦い、ここに新しい農村を建設することを誓います」と、キッパリと言い切る。もちろん周囲の村人は誰もが感動の拍手であり、称賛の声だ。

 この村は相当に貧しい。過酷な自然環境の改造は焦眉の急だ。消極的な友人を励まし、村人に呼びかけ、彼女は自然改造の戦いの先頭に立つ。書記が「林紅同志よ、任務は極めて困難だが堅く覚悟を決めさえすれば、この荒野を無限の稔りの里に改造することができるんだ」と呼び掛けると、彼女は「そうです。党の指導があり、人民公社があれば、どんな困難があろうとも、我われは戦いに勝利する信念を持つことができるんです」と応える。

 押し寄せる数々の困難を克服し、「林紅と彼女の仲間たちは農業戦線において輝ける勝利を次々に勝ち取り」、「幾千万の林紅は祖国に降り注ぐ春の陽光を浴び、社会主義の新しい農村を建設するため勇猛邁進するのであった」と、林紅の物語は“毛沢東思想式ハッピー・エンド”で結ばれる。

 毛沢東がムリにムリを重ねて強行したことで全国民が塗炭の苦しみを舐めざるを得なかった大躍進が、『林紅和她的伙伴』では大いに讃えられ、人民にとっての理想として描かれている。

毛沢東の悲願を達成しつつある習近平

 『石荘児童団』の小栄クン、『草原児童団』の黒牛クン、それに『林紅和她的伙伴』の林紅さん。どうやら子供や若者の世界では、大人に先駆けて文革――毛沢東の敵に対する戦いの準備に入っていたようだ。

 習近平主席は1953年生まれだから、『石荘児童団』や『草原児童団』が出版された頃は、小栄クンや黒牛クンと同世代になっている。小栄クンや黒牛クンの手に汗握る戦いに心躍らせ、習近平クンは毛沢東の偉大さに強く憧れたに違いない。

 因みに毛沢東の壮大な夢である「超英趕美」の悲願は、GDP第2位の日本を追い越したわけだから、「英」を「日」に換えて考えれば、習近平政権の手で達成されつつあるともいえる。後は一帯一路を掲げてアメリカを猛追するだけだ。全面対決か、双贏(ウイン・ウイン)か、はたまた全面降伏か。であればこそ、米中貿易戦争には断固として負けるわけにはいかないと思うのだが。




▲△▽▼


2018年6月21日
習近平が少年時代に見た「中国の夢」とは?
児童書で読み解く習近平の頭の中(3)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13178

習近平国家主席を頂点とする現在の共産党政権中枢が幼少期を送った1950年代に出版された児童向け書籍から、当時の共産党政権が育て上げようとしていた“理想の小国民像”を考えてみたい。それというのも“三つ子の魂百までも”の譬えに示されるように、政治の中枢に立った現在の彼らの振る舞いの芽は、彼らの幼い頃に植えられたのではないかと考えるからだ。

 毛沢東が党や国家を超越した絶対的権力を掌握するキッカケとなった反右派闘争が発動された2カ月後の1957年8月に出版された『美麗的樹葉(美しい木の葉)』(児童文芸叢書編集委員会主編 中国少年出版社)に収められた一編の詩は、子供たちに「毛主席」にどのように報いるべきかを教える。そこに、文革時代に言い古された「海よりも深く、山よりも高い毛主席の御恩」の萌芽を読み取ることができる。

 この時代から文化大革命の終わる70年代後半まで――建国直後に生まれた習近平世代からすれば乳幼児から児童・少年期を経て青年前期までの人間形成期全般にわたって――毛沢東は「偉大的領袖毛主席」であり、毛沢東思想は「百戦百勝」と形容され絶対無謬であることを徹底して刷り込まれたのだ。

 ここで毛沢東の権威が確立させる前後の冷戦時代における中国を巡る内外状況――といっても主には中ソ関係だが――を簡単に振り返っておきたい。というのも、この時代にソ連の進んだ科学技術、物資豊かな日常生活を紹介する子供向けの書物が翻訳出版されているからだ。


中国で1950年代に出版された児童書(写真:筆者提供)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13178


頂点に立つ「ソ連に学べ」

 1953年3月にスターリンが死去し、1956年2月にはフルシチョフによるスターリン批判報告が秘密裏に行われ、東ヨーロッパでは反共産党暴動が6月のポーランド、10月のハンガリーと連続して発生する。一方、1950年6月に勃発した朝鮮戦争は1953年7月に休戦協定調印となり、1954年9月に開始された人民義勇軍の撤退は1958年10月で完了した。

 毛沢東が東側社会主義陣営の優位を高らかに宣言した「東風が西風を圧する」と題する演説がモスクワで行われたのが1957年11月である。毛沢東のフルシチョフに対する不信感・優越感は芽生えていただろうが、ともあれ“中ソ一枚岩の団結”が内外に強く印象づけられていた時代である。

 一方、中国国内に目を転ずると、1956年5月に毛沢東は「百花斉放 百家争鳴」を掲げ言論の自由化を提唱し、年末までに農村では高級農業合作社化、都市では私営企業の国有・国営化が完了し、社会主義への道を一歩踏み出し、9月には中国共産党第8次全国代表大会が開かれている。

 大会冒頭で毛沢東は「同志諸君、いま中国共産党第8次全国代表大会が開幕した」と宣言した後、活字に起こして2万7千字ほどになる基調演説を行った。彼の口調を真似てゆっくりと読んでみると所要時間は12,3分といったところだが、この間、「(拍手)」が13ヶ所、「(熱烈拍手)」が14ヶ所、「(長時間熱烈拍手)」が2ヶ所、「(全員起立し長時間熱烈拍手)」が3ヶ所ほど。

 一例を挙げれば、「いま我が党は過去の如何なる時期より団結している(拍手)」「国際社会における我われの勝利はソ連を頂点とする平和民主社会主義陣営の支持に依拠している(熱烈拍手)」「帝国主義が造りだす緊迫した情勢と戦争準備の陰謀を徹底して破産させなければならない(長時間熱烈拍手)」「今日、この場に出席している50数カ国の共産党、労働者党、労働党、人民革命党の代表に〔中略〕熱烈なる歓迎の意を表す(全員起立し長時間熱烈拍手)」といった具合だ。

 これを要するにソ連は、「国際社会における我われの勝利」を支持する「平和民主社会主義陣営」の「頂点」に在ったわけだ。まさにソ連に学べ、である。


「邪悪な勢力」から身を守るには?


 そんな時代に『一晝夜二十四小時』(楊瑞槐訳 上海衛生出版社)が出版されている。この本は「1937年、7月のある爽やかな一日、モスクワは異常なまでの心躍る気分に包まれていた」と書き出される。


スターリン像(iStock.com/alf75)

 その日、モスクワ発北極圏経由でアメリカまでの航路120,000キロを63時間25分で無着陸飛行に成功した3人の飛行士を、モスクワの街は挙げて大歓迎した。黄昏が迫る午後6時、3人を乗せたソ連製最高級車は天をも揺るがすような歓呼に包まれた赤の広場を疾駆する。クレムリンで待ち構えていたのは、もちろん党と政府の最高幹部を従えたヨシフ・スターリン。独裁者は、3人の手を固く握り熱い抱擁を交わした。

 まさにスターリン賛歌と見紛うような情景が綴られているが、この本の狙いはそこだけにあるわけではないようだ。ソ連の高い科学技術は当然のことながら、スターリン理論に支えられた「パブロフの高級神経活動学説」(?)に基づく規則正しい生活によって鍛えられた飛行士の心・技・体こそが、祖国に無上の栄光をもたらした。だから、我われ中国の子どもたちも規則正しい生活を送るべきだと、力強く呼び掛ける。

 「我われ社会主義国家は一貫して平和を渇望し平和を築く事業をしっかりと守ってきた。だが資本主義の世界には、なんとしてでも戦争を引き起こそうと虎視眈々と狙っている邪悪な勢力があることを断固として忘れてはならない。それゆえ、戦争の危機が消え去ることなどない。ソ連の青年は祖国を自らが防衛するという光栄ある責任を全うするための準備を完璧にしておくべきだ。先の偉大なる大祖国防衛戦争における経験が、優秀なるスポーツマンが優れた戦士であることを明らかにしてくれた」。「戦場では、より遠くまで跳躍し、より高く飛び、どのような障害も飛越し、長い距離を速く走るなどの能力が求められる」。

 言い換えるなら、ソ連の社会主義は優れているし平和を守ってきた。だが、劣った資本主義の世界が戦争を仕掛け、平和が侵される可能性は常に存在する。だからこそ社会主義の祖国を守るためには24時間を規則正しく送り、自らを鍛錬し健康を守らなければならない。「生活制度――凡ての疾病から身を守る最も基本的であると同時に主要な手段――は任務遂行の上での基盤であり、組織性を涵養するだけでなく、社会秩序の基礎である」。

 たとえば中学生の日課は、起床=7:00〜7:15、体操・身体摩擦・洗面・身の回りの整頓=7:15〜7:45、朝食=7:45〜8:00、登校=8:00〜8:20、学習(教室及び社会)=8:20〜14:30、下校=14:30〜15:00、昼食=15:00〜15:30、戸外での遊び=15:30〜17:00、予習=17:00〜20:00、夕食と自由時間=20:00〜21:00、就寝準備=21:30〜22:00、睡眠=22:00〜7:00

 このような規律正しいソ連式24時間生活を送ることで「党と政府が常に示す無限の恩愛に愧じることなき人生」を送るよう、当時の「党と政府」は子供たちに求めたというわけだ。

「月旅行」に「原発」、ソ連の科学技術を絶賛する児童書


 同じ1956年には『少年兒童讀物 到月亮上去(月に行く)』(魯克編著 山東人民出版社)が出版されている。

 ある日、主人公の小飛馬クンが共産党が少年教育のために設けた少年宮での天体クラブの活動を終え帰宅すると、妹が「兄ちゃん、電報」と。モスクワのソ連科学院で研究を続ける父親からの電報だった。

 「小飛馬クン、元気かい。/父さんは元気でソ連科学院で順調に研究活動に励んでいると母さんに伝えてくれ。/とってもいい知らせがあるんだ。ソ連のオジサンたちは月旅行の準備を完了し、もうすぐ出発だ。そこでソ連科学院と相談したら、お前を一緒に連れて行ってくれるというのだ。天文学が好きで、将来は天文学者になるつもりだったね。いいかい、人類が最初に地球を離れ別の星に行くのだ!/我々は地球の主人であるだけではなく、宇宙の主人になるんだ!一生懸命に頑張るんだよ!小飛馬クン/電報を受け取ったら、すぐにやってきなさい。モスクワで待っている/父より」

 小飛馬から事情を知らされた母親は、「よかったね。早くお休み。明日、航空券を買って来るから」。

 モスクワに着いた小飛馬は、月に向け今にも飛び立たんとする「月球一号」と名づけられたロケットに乗り込む。原子燃料エンジンが轟音をあげるや、月球一号は地上を離れ宇宙空間を飛んで月へ。月面探査の状況を綴りながら、月の持つ様々な謎を解き明かしながら物語は進む。

 やがて月面を離れ地球へ。小飛馬はロシア人の歓呼に迎えられ抱きかかえられるようにして父親の許へ。「なぜ、人々は喜び昂るのか。小飛馬たちが人類最初の月旅行という重大な任務を完了したからである」。

 この物語が、ここで終わる訳はない。月旅行は幻想ではなく科学的根拠に基づいていると解説した後、ソ連科学者の「月旅行は完全に可能である。ただ時間の問題だけだ」との言葉を紹介する。さらにソ連の科学技術の高さを紹介して、「ソ連では最近、世界初の原子力発電所を建設した。発電能力は石炭の350万倍であり、将来的には船舶に利用すれば燃料補給なく数ヶ月の航海が、航空機では地球一周飛行も可能だ。ソ連の科学者は1957年から58年の間に人工衛星を打ち上げる。将来的には月はおろか、火星、金星などの惑星へ行こう」と、ソ連の科学技術賛歌で終わっている。

習近平が少年時代に見た「中国の夢」とは?

 1957年にはソ連の最新細菌学の成果を紹介する『奇異的眼鏡(奇妙なメガネ)』少年兒童出版社 彭中仁訳)、最先端の科学技術にサスペンスを加味した『第二顆心臓(第2の心臓)』科学普及出版社 李敏訳)などが出版された。

 「科学幻想小説訳叢」と題された後者は、電離層を経由して中国に送電する任務を負ったソ連の科学者が最初に試みた実験は某国のスパイに妨害されただけでなく、心臓を銃弾で射抜かれてしまう。そこで登場するのがソ連の革新的医療技術であり、新しい心臓の移植に成功するというストーリーだ。

 おそらく当時の子供たちは、ソ連の科学技術の素晴らしさに憧れたに違いない。想像を逞しくするなら、習近平少年もまた小飛馬に自らを重ねながら「中国の夢」を思い描いていたかも知れない。

 この時、すでに中ソ両国の共産党は、スターリン評価と議会主義国家建設への方法を巡って抜き差しならぬ対立へと向かっていた。もちろん、その影響は徐々ながら子供たちの身の上にも及ぶことになる。





▲△▽▼


2018年6月6日
中国の権力者たちの「悪癖」は直りそうもない
児童書で読み解く習近平の頭の中(2)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)

習近平国家主席を頂点とする現在の共産党政権中枢が幼少期を送った1950年代に出版された児童向け書籍から、当時の共産党政権が育て上げようとしていた“理想の小国民像”を考えてみたい。それというのも“三つ子の魂百までも”の譬えに示されるように、政治の中枢に立った現在の彼らの振る舞いの芽は、彼らの幼い頃に植えられたのではないかと考えるからだ。


中国で1950年代に出版された児童向け書籍(画像:筆者提供)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13034


汚い場所には「妖精」がいる?

 先ず習近平国家主席が誕生し(1953年6月)、朝鮮戦争の休戦協定が結ばれ(7月)た1953年の11月に出版された『顕微鏡的日記(顕微鏡の日記)』(呂肖君 少年児童出版社 1953年)を取り上げたい。

 「私がこの科学機器展示館にやってきて、もう数日が過ぎた」で書き出される『顕微鏡的日記』は、顕微鏡である「私」が書いた日記を通じ子供たちに公衆衛生の大切さを判り易く教える。


『顕微鏡的日記(顕微鏡の日記)』(呂肖君 少年児童出版社 1953年)(画像:筆者提供)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13034


 「ポチャポチャっと太って可愛らしい珍珍チャン」は展示館の学芸員のお嬢チャン。イラストでは髪の毛は西洋人風にタップリとウエーブが掛かっていて、目元パッチリで可愛らしいワンピース。ついでにいうなら、珍珍チャンの同級生の男子児童もボッチャン刈り。ストライプの入ったスポーツシャツに短い半ズボン。足元をみれば、ハイソックスにスニーカー。豊かな西欧世界への淡い憧れが見て取れ、なんとも微笑ましい。とてもじゃないが、当時の中国ではお目にかかれそうにないほどにモダンだが、おそらく高級幹部の公子(おぼっちゃまクン)である習近平チャンは、こんな服装をしていたに違いない。

 珍珍チャンは毎週土曜日午後、展示館にやって来て「これ、なあに」「あれ、なあに」と展示されている最新科学機器について館員に質問する。今日は「私」を指して、「これ、なあに」。すると若い館員が「これは照妖鏡だよ」と応える。目を真ん丸くした彼女は、「照妖鏡って、前にお話ししてくれた照妖鏡なの」。「そうだよ。照妖鏡さえあったら、どんな妖精だって姿を現すんだ」。

 「妖精なんかいない」と言い張る珍珍チャンに対し館員は、「いいかい、空気の中にだって妖精はいるよ。キミが食べる果物の皮にも、沸騰させてない生水の中にも妖精は必ずいるんだ。それにゴミ箱、排水溝、ハエの足〔中略〕汚い場所には汚い場所だけ妖精はたくさんいるんだ」と付け加える。

 以下、妖精とは人体に害を及ぼす病原菌のことであり、照妖鏡と呼ぶ顕微鏡を使って病原菌を見つけ公衆衛生を確立することが国造りに繋がっていることを教え諭す。ジフテリア、天然痘、コレラ、下痢などについて判り易く解説しているから、これらの病気が当時の国民病だったことが想像できる。

 本書には病気対策のための歌が納められている。建国当初の社会状況を知るうえで興味深く思えるので、そのうちの下痢と伝染病対策の歌を紹介しておく。

下痢=「下痢の予防だ、下痢予防。最初はハエを退治して。布巾で食べ物よく拭いて。箸や茶碗はキレイに洗う。食事の前には石鹸手洗い。下痢の細菌、人殺し。まだまだいるよ下痢の菌。果物、野菜、生水に。下痢の細菌、数知れず。野菜はしっかり火を通す。生水、ちゃんと煮立たせて。果物、消毒しましょうね」

伝染病=「伝染病をみつけたら、患者を早く病院へ。伝染させてはイケマセン。服や道具の病菌を、直ぐにも消毒しましょうね。馬桶、川に流さない。病菌を、川に撒いてはダメですよ。病原菌を消毒し、丈夫な体で生産競争頑張ろう」

 この歌に依る限り、当時の生活ぶりは不衛生極まりなく、下痢は一種の国民病だったと考えられる。馬桶とは家の中に置く排便・排尿用の桶である。毎朝の日課は馬桶に溜まった家族の糞尿を川に捨てることだった。当時、一般には個人住宅には便所がなかった。


卑屈なまでのゴマすり、中ソ蜜月時代の珍風景


 「砂と土は、地上で最も多く、最も簡単に手に入れることのできるものです。だが、キミたちは、その用途が大きくないなどと思わないで下さい。いいですか。それがなければ、ボクたちは1日だって生きていられません。わが祖国の建設事業において、とっても重要な役割を果たしています。将来、もっともっと科学が発達したら、砂と土の用途はますます拡大します。チッポケですが、この本は、キミたちに砂と土についての色々な知識を伝えようとするものです」と書き出される『少年兒童知識叢書 沙和泥(砂とドロ)』(李家治 少年児童出版社)が出版された1955年には、チベット動乱が勃発している。因みに我が国では左右両派の社会党の再統一に刺激された保守が大合同し自民党が生まれ、「55年体制」が発足した。

 数万年、あるいは数十万年もかかって岩石は砂や泥に、砂や泥は岩石に変化する。砂と泥は兄弟の関係であり、粒子の大きい砂が兄で、細かいのが弟の土、そして兄弟の母親は大きな岩石であると、砂と土と岩石の関係を家族に擬え判り易く説明した後、「土を使って陶器を作ったのは中国人の偉大な発明です。我われ中国人は、すでに4、5千年の昔に美しい彩陶器を作り出したのです」と、中華文明の偉大さを説く。

 改めて表紙のイラストを見ると、稼働中の建設用クレーンが数基と、いままさに建設中の近代都市が描かれている。その街のビルは、どれもが旧ソ連式の無骨なスタイルで、当時の中国が建設技術の多くをソ連に頼っていた、あるいはソ連をモデルとした都市建設がブームだったことを明らかに示している。

 全ページを通じて中国への言及は極めて抑制的であり、反対に随所にソ連に対する“忖度”が感じられる。石綿を発明したのはソ連であり、「セメントが発明される以前では、上海の中ソ友好ビルや国際飯店のような背の高いビルの建設は、はっきりいって不可能だった」。板で型を組み、工場でいろいろな形のセメント版を造り、出来上がった製品を現場に運んで組み立てれば、たちどころに1棟、2棟と建物が完成する。この「ソ連の先進的経験」を学び、我が国でも続々と新しい工場を建設している。「すでにソ連の科学者は様々な色彩のセメントを発明しました。このカラー・セメントで作られた住宅は、まるで空中に輝く虹のようであり、本当に綺麗なものです」。

 ソ連への卑屈なまでのゴマすりを、子供にまで覚えさせよう――スターリンの死(1953年)とソ連でのスターリン批判(56年)の間の、中ソ蜜月時代の珍風景だろう。


諫めても戒めても「悪癖」は直りそうもない


 同じく1955年に出版された『五個杏子(5個のアンズ)』(寇徳璋 少年児童出版社)は、人民に服務することと正直の大切さを教えようとしている。

 ある夏の夕暮時、半袖の開襟シャツに半ズボンの王徳生クンが、淡い水色のワンピースに真っ白な前掛けをした妹の手を引いて学校に向かって息を切らせて走っている。王クンの頭は坊ちゃん刈りで妹の頭には長く延びた2本のおさげ。2人共、こざっぱりしたソックスにスニーカー。つつましやかな家庭で、規則正しく伸び伸びと育てられている風情だ。

 学校から帰り近所の友達と遊んでいて、王クンは宿題を思い出した。そこで慌てて家に引き返し宿題をはじめようとしたが、筆箱がないことに気づいた。「しまった。学校に忘れたんだ」。兄が家を飛び出すと、そこに妹が。学校に行くといっても、おやつでも買いに行くんだろうと信用しない妹は、兄についてきた。校門が閉まる前に学校に着かねばと焦る兄は妹の手を引っ張る。懸命に走ったことで、妹は喉が渇いた。そこに「酸っぱくて甘い杏だよ」と物売りの声。

 「兄ちゃん、杏の菓子を買ってよ」

 妹思いの王クンはポケットに手を突っ込むが、「しまった、おカネは鞄の中だ」。しゃがみ込んで駄々をこねる妹を、「家に帰ったら買ってやるから」となだめて一目散に学校へ。

 教室に飛び込みまっすぐ自分の机に。あった、筆箱があった。筆箱を手に校庭に飛び出すと妹がいない。妹は校庭の隅の杏の木の下にいた。

 「兄ちゃん、あれ取って。わたし喉が渇いちゃったの。食べたい、食べたい」

 それは生徒全員で育てている杏の木だった。みんなのもの、つまり公共財産だ。「妹のためとはいえ、それを取ることは公財私用の罪だ。ボクは地主や資本家のように利己主義者にはなれない」と王クンは煩悶するが、幸いなことに誰も見ていない。そこで5個の杏を取って妹に。喜ぶ妹。些か大袈裟だが、悩みは深い王クンだった。

 翌日の休み時間。みんなで校庭でサッカーだ。王クンはゴールキーパー。杏の木の下に置かれたゴールを守りながら、杏の実が気になって仕方がない。友達が「おい、王クン。何かあったの。杏の木ばっかり眺めているけど」「別に……」

 教室に戻ると先生が、「みんなが水をやったり、害虫を駆除したりして一生懸命に育てたから、今年は豊作で240個も杏を収穫することができました。このクラスの生徒は40人ですから、1人何個になりますか」。すかさず「240÷40=6だから、1人6個」の声。

 先生が6個ずつ渡そうとすると、王クンが前に進み出て先生の横に立ち、級友に向かって昨日のことを包み隠さず正直に話した。すると、

 「自分の利己心じゃなくて妹のことを思えばこそだ。王クンは悪くないよ」

 「違うよ。妹にも話して判らせるべきだった。『公共財産』を私的に取っちゃあダメだよ」

 最後に先生が、「妹のためといいますが、やはり王クンには公共財産を守るという自覚が欠けていました。妹に教える努力を怠りました。こういった点はよくありません。ですが王クンには素晴しい点があります。それは自分の間違いを正直に話し、それを認め、自分から改めようとすることです。これこそ立派な心掛けです。王クンが犯した過ちを認めたこと。正しくありませんか」。すると教室は「そうだ、そうだ」の大合唱に包まれる。

 このように子供の頃から公共財産の私的流用は不正であることを厳しく教えたはずだが、「虎もハエも一網打尽」の大号令で習近平政権が始めた不正摘発によって暴かれた幹部たちの不正蓄財の額――最多は胡錦濤政権(2002年~12年)で最高権力集団のチャイナ・ナイン(共産党中央政治局常務委員)の一角を占めた周永康の1兆数千億円という天文学的規模――を考えると、どうやら『五個杏子』の教育効果は当初の期待ほどではなかったわけだ。諫めても戒めても公財私用(=公の財産を私する)という悪癖は直りそうにない。ならば、それは子々孫々と受け継がれる民族のDNAとしか考えられないのだが。


幼少期から「政治的役割」を与えられた世代


 1957年6月には反右派闘争が始まり、7月には『従石頭到紙(石から紙へ)』(李懋学 少年児童出版社)が、翌8月には『美麗的樹葉(美しい木の葉)』(学前児童文芸叢書編集委員会主編 中国少年出版社)が出版されている。

 それから3カ月が過ぎ1957年11月、社会主義12カ国会議参加のためにモスクワに乗り込んだ毛沢東は中国人留学生を前に、「東風圧倒西風(東風が西風を圧倒する)」と傲然と語りかけた。いまや東側社会主義陣営が西側資本主義・帝国主義陣営を圧倒しているというのが一般的な解釈だが、翌58年の動きを振り返ると、この考えは変わるはず。58年5月には大躍進運動がはじまり、7月に北京を訪問したフルシチョフによる中ソ共同艦隊建設提案を毛沢東が拒否し、8月には人民公社建設と鉄鋼大増産を軸とする大躍進の大号令が下され、人民解放軍が台湾の“解放”を狙って金門・馬祖島へ砲撃をはじめた。

 つまり、「東風」は毛沢東であり中国、「西風」はフルシチョフでありソ連・東欧社会主義陣営と看做すほうが、当時の毛沢東の意気軒昂たる心境を言い当てているだろう。

 『従石頭到紙』は、「小さな友人諸君、キミたちは知っておくといいよ。古代人はどのようにして字を書いたのか。どんなもので書いたのか。何処に書いたのか、を。するとキミたちは、きっとこういうだろう。『誰にそんな知恵があったの。気が遠くなるような昔のことなど、ボクたちに伝えることができるの?』って」と書き出される。

 中国人の地質学者や考古学者が歴史以前の世界を“旅行”し、様々な地層の内部まで出かけて行ったり、人類の祖先の住まいを訪問し彼らの当時の生活ぶりを研究した結果、遥かに昔の原始人は岩山の洞窟に住んで狩猟や木の実などを採って生活していたことが判った。石を細工して武器など作って狩猟したが、絵も描いていた――こんな説明文の後に、「そんなことがあったの。原始人は絵を描けたの」と子供口調で素朴な疑問を示し、それに「そうなんだよ。文字のお母さんこそが絵なんだ。最初、原始人は字を書くことを知らなかったというわけさ。その頃は、字なんてなかったんだよ。だけど絵は描けたんだ」と優しく噛み砕いて教えている。

 「毛筆も鉛筆も、紙もなかったんでしょう。どうしたら絵が描けたの」

 「だからさあ、磨いた石や骨が彼らにとっての筆記用具だったんだ」

 「じゃあ、紙は」

 「彼らが住んだ洞窟の大きな石の壁さ。それから平らな石の表面や獣の骨・・・こういったものが彼らにとっての“図画用紙”だったんだな」

 かくして竹簡、木簡にはじまり、優秀な中華民族が世界で最初に紙を発明し、紙は用途を拡げたと説明し、「人々の知恵と労働が色んな種類の紙を生みだしたんだ。だから、ボクらは紙を無駄にすることなく、丁寧に扱おうね」と結んだ。

 中華民族の優秀さが語られると同時に、「小さな友人諸君」の脳髄にも政治の影、つまりは毛主席の存在が刷り込まれるようになる。そこで『美麗的樹葉』の表紙を開いてみたい。花の咲く草むらに坐る袖なしシャツに半ズボンの男の子と白いブラウスに赤いジャンパースカートの女の子。どちらも丸々と太っている。2人は胸に大きなリンゴを抱きながら、上空を飛ぶ小鳥に呼び掛ける。


(画像:筆者提供)

 「小鳥サンが飛ぶ、小鳥サンが飛ぶ/小鳥サンは何処まで飛ぶの/どうかこっちに飛んできて/お願いがあるんです/母さんがくれた大きなリンゴ/お願い、毛主席に届けてね」
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13034?page=4


 いよいよ子供たちの目の前に、《偉大な毛主席》が立ち現われるのであった。

 『従石頭到紙』と『美麗的樹葉』の出版翌年の1958年、大悲劇の大躍進が始まり、中国は国を挙げた長く重苦しく激しい政治闘争の時代に突入し、子供が子供であることができた幸せで長閑な時代は終わりを告げ、“小さな大人”として立派な政治的役割を与えられ、政治闘争の前面に躍り出るのであった。そんな子供たちこそ、現在の中国を動かす中核世代――最高権力を掌握するチャイナ・セブンから全国各地の党と軍の幹部、国有企業と私企業の経営幹部、大学学長など――であることを忘れてはならないだろう。





▲△▽▼

中国はいかにして「地獄の門」を開けるに至ったか
児童書で読み解く習近平の頭の中(6)
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13723

習近平国家主席を頂点とする現在の共産党政権中枢が幼少期を送った1950年代から60年代前半にかけて出版された児童向け書籍から、当時の共産党政権が育て上げようとしていた“理想の小国民像”を考えてみたい。それというのも“三つ子の魂百までも”の譬えに示されるように、政治の中枢に立った現在の彼らの振る舞いの芽は、彼らの幼い頃に植えられたのではないかと考えるからだ。


 1963年当初から毛沢東最側近の2人――夫人の江青と「中国のベリア」と呼ばれた康生――は上海を拠点に京劇を軸とする文芸部門において、政権を掌握している劉少奇に対する攻撃を画策していた。

 この動きは1964、65年と年を追うごとに激しさを増す。『石荘児童団』(上海人民出版社 1963年)、『草原児童団』(上海出版社 1964年)、『草原児童団』(上海人民出版社 1964年)、『雪山上的号手』(上海人民出版社 1965年)と、これまで見てきた児童書からも、その動きは傍証できるだろう。加えて1965年11月には、毛沢東思想に殉じた若き人民解放軍兵士の王杰を讃える『王杰日記』(人民出版社)が出版されている。

『王杰日記』には、「毛主席の著作を読むことは革命戦士としての第一の任務である」「革命の同志は団結しなければならない」「毛主席が話されたことは、なんでも実行するぞ」「断固として階級闘争を忘れるな」「革命の徹底が理想であり、革命の事業こそが前途であり、人民に尽くすことが幸福である」など、文革時に全国を覆ったスローガンそのもののような記述が溢れている。まさに、文革へ向けての準備は着々と進められていたはずだが、劉少奇側に危機感は感じられない。その象徴が1965年11月に出版された『新的“石器時代”』(陳仁 中国青年出版社)だろう。


毛沢東に対する揶揄が感じられる一冊


「新型硅酸塩材料的世界」という副題が示しているように、この本は、無限の可能性を秘めた新素材と大いに期待されていた硅酸塩(silicate)と人類の関わりを石器時代から説き起こし、やがて人類の輝く未来を約束する万能の科学素材であることを語る科学ドキュメンタリーであり、空想科学物語でもある。


中国で1960年代前半に出版されたおもに児童向け書籍(画像:筆者提供)

「古代の労働人民は絶え間ない実践の末に」、「湿った粘土を捏ねて器のようなものを作り火に放り込んで焼くと、冷めた後に石と同じ程度に固くなることに気づいた」。そこで「我われ人類は銅や鉄といった金属材料を発明して後、(腐りも錆びもしない)石器に似た素材の陶器とガラスを産み出す」と書き出される。

 ここで不思議に思えるのが、「古代の労働人民」という表現だ。おそらく文革期なら「古代の労働人民」ではなく「古代の奴隷労働者」としていたに違いない。なにがなんでも古代は奴隷制であり、ましてや技術の進歩を担ったのは奴隷でなければならないという硬直した文革史観からすれば、「古代の労働人民」が「陶器とガラスを創造した」などという曖昧な表現は人類の進歩に尽くした奴隷の働きを否定するものであり、断固として認められないものだったはずだろう。

 その後、人類は誰もが知っている硅酸塩の家系の始祖である玻璃(ガラス)」に様々な工夫を加え、鉄より固く超高温にも耐えられるガラス、光線を遮断するガラス、レーダー波を透すガラス、さらには繊維のように細いガラス、鋼より固いガラス、ダイオード、電子計算機の「脳細胞」などを次々に発明する。セラミックの発明によってジェット機やロケットの燃焼機関の性能は飛躍的に向上し、「特殊玻璃鋼」で作られた先端部分を取り付けることで大陸間弾道弾の弱点が克服され兵器としての性能・威力が格段に増した。原子炉内部に新型の硅酸塩素材を使うことで超高温環境での核反応コントロールが可能となり、有限の化石燃料に頼らなくてもいい夢の発電システムが約束された。やがては「ラジオは繭玉ほどに、電子計算機はたばこの箱程度の大きさになるだろう――夢物語は続く。

「旧い視点で新しい時代を推し量ることは不可能」である。「失敗を恐れずに敢えて挑戦する革命精神を発揮して、多種多様な用途を秘めた新型硅酸塩素材を創造し、古くから知られた硅酸塩を進歩する新しい時代に生かしていこう」と締め括られているが、「旧い視点で新しい時代を推し量ることは不可能」などの表現からは、大躍進の失敗を回復させた劉少奇路線に不快感を隠さない毛沢東に対する揶揄が感じられないわけでもない。

劉少奇派の無防備ぶりが感じられる一冊


 1966年に入ると、林彪と江青を軸に文革派は一気に動き出す。1月後半には、林彪が率いる解放軍は全軍政治工作会議を開き、毛沢東思想教育を重点的に進めることを全軍に訓令する。2月2日から20日までの間、林彪の要請を受けた形で江青は上海で「部隊文芸工作会議」を開催し、文芸部門による解放軍の政治教育の徹底化を進める。20日には「文革のイデオローグ」でもあった張春橋によって文芸部門での劉少奇路線に対する徹底批判を暗示する文書が公表された。

 解放軍における劉少奇派の象徴と目された羅瑞卿への批判が激しさを増し始めた1966年3月、「少年自然科学叢書」と銘打たれた『煤的故事』(朱志尭編著 少年児童出版社)が出版された。この本には文革時代の出版物に溢れた過剰なまでの毛沢東への賛仰が見られない代わりに、共産主義に対する素朴で明るく、根拠なき希望が溢れている。

 この本は「工業のコメ」であり、「ありとあらゆる工業製品の原料」であり、「鋼鉄を精錬し、汽車を動かし、電力を起こし、日常生活において暖房・炊飯をなす」だけでなく、「加工処理を経て、ガソリン、プラスチック、合成繊維、化学肥料、農薬などの数多の種類の工業原料や化学産品」となるだけに「黒い宝石」と呼ばれている石炭について、その生成から発見、使用の歴史、さらには採鉱の歩みを判り易く解説しているが、小学校高学年から中学生程度に理解させ、科学少年を育成しようとの狙いが感じられもする。

 数十億年の昔から現在までの石炭という鉱物の歩みと人類と石炭のかかわりの歴史を語りつつ話を進めるが、1949年10月1日に「偉大なる中華人民共和国」が誕生したことで、「人間の地獄、悪魔の天国」「死人の倉庫」と呼ばれていた旧中国の炭鉱は一変したと熱く語る。「炭鉱は人民のものとなり、かつて圧迫され搾取されていた炭鉱夫は鉱山の主人公となった」のである。

ここで興味深いのが共産主義的SFの世界を語る「未来への展望」の章だろう。

――ロケットは空中を突き進むだけでなく地中をも疾駆し、探索し、地下に眠る「黒い宝石」を余すところなく僕らの目の前に示してくれる。そこで僕らは、手助けしてくれる多くの友達に手助けを依頼しなければならない。機械という友達はもちろんだが、じつは凄い能力を持つ物理化学という友達もいるのだ。こいつは、どんな機械よりもスイスイと地中を軽快に動き回り、効率も高い。僕らが目にすることのできない電磁波や超音波という友達が地中深く探って、埋蔵されている石炭の様子を知らせてくれる。

そこで僕らは直ちに「万能溶解剤」を地中深く流し込み、溶剤の力で石炭を液化させ、地上に吸い上げる。液化した石炭を地上に設けた「総合利用工場」に送り、複雑な化学処理と加工をすれば、工場から出荷される時には色々な人造繊維、衣料や食品に代わっている――

 なんとも荒唐無稽でステキな夢物語だが、ここからがさらに凄まじい。

「これこそ一枚の、美しくも麗しい風景ではないか。こういう世界を一日も早く実現させ、人類が生み出した労働の成果を真に人民のモノとするためには、断固として搾取者を消滅させなければならないのだ。地主・資本家を打倒し、人類にとっての最高の理想である共産主義に向かって進もうではないか」

 この本には政治主義一辺倒の記述も、毛沢東思想式の杜撰で身勝手な歴史観も、ましてや文革に見られたド派手な血腥さも感じられない。進歩する科学技術への素朴な期待と信仰が行間に溢れるばかりだ。文革に向け戦いの準備を進める毛沢東ら文革派とはあまりにも対照的に過ぎる内容だけに、やはり劉少奇派の無防備ぶりが感じられて仕方がない。


紅衛兵の若者の心を捉えた“金言”


『《少年英雄故事》叢書 林森火』(中国少年児童出版社)は、『新的“石器時代”』や『煤的故事』が万能の科学技術を誰もが享受できる共産主義社会の明るい未来を熱っぽく語っているのとは対照的な、暗く辛かった蔣介石政権時代の物語である。

『煤的故事』の出版が1966年3月で『《少年英雄故事》叢書 林森火』は5月。この僅か2ヶ月の間に政治状況は激変する。毛沢東が政治の前面に躍り出て、劉少奇追い落としを匂わせる動きを見せ始めた。

 3月中旬、毛沢東は共産党政治局拡大会議において文化大革命の発動を提言し、これを承けた形で林彪は解放軍を挙って文芸部門における文革を宣言した。いわば文革派が態勢を整えつつあるにもかかわらず、劉少奇は王光美夫人を伴ってパキスタン、アフガニスタン、ビルマを断続的に訪問する(3月26日から4月19日)。劉少奇の北京不在を見透かしたかのように、毛沢東、林彪、陳伯達、康生、江青、王力、張春橋ら文革中核メンバーが連携を強め、党と解放軍における劉少奇派炙り出しに動きだす。いわば劉少奇打倒への狼煙をあげたわけだ。

 北京中枢で進んでいたこのような政治状況を考えるなら、やはり『《少年英雄故事》叢書 林森火』は毛沢東ら文革派が子供を“大人の政治”の世界に引きずり込もうとする道具と見做して間違いないだろう。

『《少年英雄故事》叢書 林森火』の舞台は1946年に始まった国共内戦である。

 浙江省玉環県に生まれた12歳の林森火は、「旧社会」で苦難の日々を送った。父親の僅かな収入では一家を満足には養えない。2人の兄のうちの1人は2歳で餓死し、1人は医者に払うカネも無いままに生後10ヶ月ほどで病死している。たった1人の姉は11歳で奴隷に買われ、数年後には苦労のなかで死んでいる。

 蔣介石ら封建反動勢力の実態を教える小学校の先生に導かれ、彼は共産党支援のために組織された「地下児童団」に参加し、「毛主席万歳」「中国共産党万歳」などのスローガンを街に貼ったり、共産党ゲリラのための伝令・情報員を務める。1950年11月20日、16歳になった林森火は司令官の退去命令に逆らい「怖くはない、この戦場で敵を殲滅するんです」と決意し戦場に赴くが、敵の砲弾の犠牲となってしまう。

 先生が林森火少年に語りかけた言葉――革命とは生きるか死ぬかの階級闘争だ。そこには数多くの危険がある。様々な危険を克服し、死を恐れず、敢えて革命の犠牲者たれ――こそ、文革において紅衛兵を名乗る多くの若者の心を捉えて離さなかった“金言”だった。かくて青少年は毛沢東の手の平で踊りだし、毛沢東の敵を求めて“躍動”することになる。

若者を“純粋過激なサイボーグ”に育て上げた教材


 1966年8月に出版されている『一心為公的硬骨頭戦士』(中国青年出版社)の表紙には、銃を背負い、右肩に鶴嘴を担ぎ、『毛沢東選集 第四巻』を左手で胸に大事そうに抱え込む目鼻立ちのはっきりした若者が描かれている。若き鉄道兵士の張春玉だ。背景には鬱蒼と茂る森林が描かれ、その向こうに昇る大きく真っ赤な旭日――もちろん真っ赤な太陽は毛沢東を指し示している。表紙イラストこそ、この本のすべてを物語っているといえるだろう。『一心為公的硬骨頭戦士』『一心為公的硬骨頭戦士』は、張春玉の日記の一部と『人民日報』『解放軍報』など文革派の宣伝メディアに掲載された彼を華々しく讃える数編の論文で構成されている。

 まるで“お約束”ででもあったかのように、彼もまた「貧困家庭出身」だ。「張春玉同志は毛沢東思想に育まれながら、労働に、任務に、階級闘争において艱難辛苦のかなで成長し、強靭なる共産主義戦士に成長した」。「彼は生死の間を彷徨う苦しい経験、さらには重傷を負う闘争を繰り返すなかで、階級闘争における鋼鉄の戦士に鍛え上げられていった」。かくて、「毛主席の階級闘争学説は、張春玉同志に階級闘争を永遠に忘れてはならないことを教えた」のである。

 それゆえに張は日記に、「毛主席は『社会主義制度の建設は、我われのために理想郷に到る道を切り開いてくれるのだ。だが理想郷の実現はひとえに我らの真摯な労働にかかっているのだ』と教えている。そうだ。毛沢東の時代に生きていることは幸福であり、なんにもまして誇り高いことなのだ。だが、幸福への道の上でなにもせずに立っていられることなど出来はしない。断固として出来るわけがない。幸福への道において全身全霊で働き、さらに幸福な生活を創造し、我が国をより富強で、より麗しくしなければならない」と綴り、「心の底から革命を想い、人民のために如何なる苦労も厭わず、一分一秒を党に捧げ、心から同志を想い、己より戦友に心を配り、一瞬一瞬を他人のために尽くそう」、或いは「我が一生を土塊、石、枕木と化し、共産主義に進む大道の建設に邁進しよう。革命の列車を我が五体を乗り越え、全速で前進させよう」と、その“崇高極まりない決意”を表明する。

 当時、自らを蔑ろにする劉少奇に狙いを定め、その失脚を策謀していた毛沢東にとって最大の関心事はやはり強力な助っ人であり手駒だったはず。毛沢東は最大最強の「暴力装置」である人民解放軍の指揮権を持つ林彪を仲間に引き入れる一方、純粋無垢であるがゆえに凶暴・無謀で過激な若者を唆し、彼らに政治的前衛であると同時に社会の道徳的前衛を担わせた。毛沢東に盲従し、毛沢東の指し示す規律を厳守し、勤勉で大義のために殉ずる。なによりも全身全霊をなげうって毛沢東に奉仕し、誰もが純粋で、毛沢東を守るためには、自らの命を捧げ尽くすことを厭わない政治的サイボーグに仕立て上げた。この本は若者を純粋過激な毛沢東主義者に育て上げるための教材だった、ということになる。

『一心為公的硬骨頭戦士』が出版されて2ヶ月が過ぎた1966年8月、「毛主席の親密なる戦友」だった林彪を従え、毛沢東が天安門楼上に立ち、眼下に広がる広大な広場を埋め尽くした100万人余の紅衛兵を接見している。この時、中国全土を舞台にして、興奮と熱狂とに包まれた文革は悲喜劇の幕を開けた。否も応もなく、中国人は地獄の扉の前に立たされたのである。

 以後、1976年9月の毛沢東の死まで、中国全土は激動に次ぐ激動の10年を体験することとなるが、宣伝部門を牛耳ったことによって、文革派による青少年に対する洗脳工作は激しさを増し、50年代生まれの習近平世代、60年代生まれのポスト習近平世代は「百戦百勝・絶対無謬の毛沢東思想」を頭の中に叩き込まれることになるわけだ。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c9

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
10. 中川隆[-10695] koaQ7Jey 2019年4月18日 12:07:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1360]

川島博之 都市戸籍を持つ4億人を農村戸籍を持つ9億人が支えるいびつな国家 中国
 


中国生活「モノ」がたり〜速写中国制造

「ケ小平は今の習体制をボロクソに言うかも」
山田 泰司 東京大学大学院農学生命科学研究科准教授・川島博之氏を迎えて(1)2017年11月15日
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/258513/111400054/


 10月に開催された第19回中国共産党全国代表大会を経て、2期目をスタートさせた習近平(シー・ジンピン)国家主席。トランプ大統領の訪中においてはその外交術によって大きな不利なく交渉を終わらせ、またその後のアジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会議では、多国間の自由貿易を支持すると述べ大きな賛同を得た。習主席の手腕により、盤石な体制が築かれつつあると感じている向きも多いのではないだろうか。

 その一方で、経済成長も緩やかになる中、中国は問題も抱えている。その中でも最も大きいと考えられるのが、この連載でも幾度となく取り上げてきた国民の中で大きくなる“格差”であろう。先日の「独身の日」にはアリババ集団だけの取引額が1600億元(2兆7000億円)を突破するなど、消費が盛り上がっているのも事実。ただ一方で、そのような繁栄には取り残され貧困にあえぐ人たちが大勢いる。主に消費を盛り上げているのは、都市に戸籍を持つ都会人。農村に戸籍を持つ農民は中国の発展を支えた功労者でありながら、豊かにはなれない。

 都市戸籍を持つ4億人を農村戸籍を持つ9億人が支えるいびつな国家である中国。その実態を紹介した書籍

『戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊』(川島博之著、2017年、講談社)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4062915065/ref=as_li_qf_sp_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=n094asyuracom-22&camp=247&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4062915065&linkId=d8cf9d4bb2d1cb7a8a5a8a325ee361de


は近著

『3億人の中国農民工 食いつめものブルース』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4822258556/ref=as_li_qf_sp_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=n094asyuracom-22&camp=247&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4822258556&linkId=8a01f7910faf7d6b27fba64ed992ed86


と通ずるところが多くある。今回から3回にわたって、川島博之・東京大学大学院農学生命科学研究科准教授をお招きして中国の近未来について語ってもらった様子を紹介する。


川島博之
東京大学大学院農学生命科学研究科准教授
1953年、東京都に生まれる。東京大学工学博士。専門は、環境経済学、開発経済学。2011年には、行政刷新会議ワーキンググループ(提言型政策仕分け)の評価者を務める。1977年、東京水産大学卒業。1983年、東京大学大学院工学系研究科博士課程単位取得のうえ退学。東京大学生産技術研究所助手、農林水産省農業環境技術研究所主任研究官、ロンドン大学客員研究員などを歴任。(写真=深澤明、以下同)


山田:本日はよろしくお願いいたします。

 先生ちょっとご覧になっていただきたいものがあるんです。これは先生が執筆された書籍

『農民国家・中国の限界』(2010年、東洋経済新報社)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4492443673/ref=as_li_qf_sp_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=n094asyuracom-22&camp=247&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4492443673&linkId=b613f8e8c27c77bd9fe06fd5fa85b3fc


です。その当時買って、このように付せんをいっぱい付けて読んでいたんです。まさか先生と対談するようなことになると思っていませんでした。非常に光栄です。

川島:そうですか。ありがとうございます。

山田:私、仕事柄、中国関連の書籍をいろいろ読むのですが、この10年間で読んだ書籍の中で、こちらの本には大変感銘を受けました。

 中国にいると、中国にいなくてもそうかもしれないですが、疑問に感じることがあります。多くの中国人はそんなに収入がない。例えば給料の明細上は3000元(約5万1000円)しか収入がない。そういう人たちがどうして銀座とかで買い物がばんばんできるんだと。説明のつかないことがたくさんあります。

川島:そうですね。

山田:ただし、それについて中国専門家の人が書いたものでちゃんと答を書いてくれているものが本当にないですね。

川島:ないですね。


山田:一番不思議なのはお金の出所なんですよ。なおかつ私は個人的に地方から出稼ぎに来ている農民工の人たちに興味を持っていろいろ話をしている中で、そういう疑問みたいなものがだんだん膨らんできた。そうした中で先生の本を読んだら、土地の開発公社、それとその周辺の人間が土地を転がして大変な富を生み出していると書いてありました。そういったことを統計を読み解いていろいろ教えていただき、本当に目からうろこでした。先生は農業のご専門ですよね。

川島:そうです。

山田:誤解を恐れずに言うと、中国がご専門ではないですよね。

川島:違いますね。アジアの農業と開発が専門です。

山田:だから、かえってそういう大きい視点でご覧になっているから、中国をお分かりになるんじゃないのかなと思ったのです。とにかく日本人は、特にバブルが崩壊してからこの20年、中国のことを冷静に見られなくなっているように思います。1つはやっかみから見られなくなっているという気もします。

川島:私もそう思います。


山田泰司

山田:そうですよね。そのころから例えば反中、嫌中の本がものすごく売れるようになった。だから本当に中国を冷静に見て書かれた、しかも平易に書いている本というのがなかなかなくて。そういう中でこの本に出合って非常に印象に残っていました。

川島:私も中国の農村を度々訪ねていて、実際に見ているんですよ。山田さんも見ているんですよ。ただ、中国関連の書籍を書いている人って、ホテルに泊まって向こうの学者と話しているだけの人が多いんだよね。

 日本の学者の中でそれなりの地位を築くと、日本の科学研究費などで中国と共同研究をやろうと。今は中国もお金を持っているので。中国と10年、20年一緒に仲良くやっていくと、ちょっと悪い言い方だけど向こうのペースに乗せられちゃう。向こうのことをおもんぱかると、実態とか書けないんですよね。

山田:そうですね。

川島:それは私は、不幸だと思うし。私は中国や文科省からはお金はもらっていないし、一番ある意味で冷静なことを書ける。中国に遠慮することないし。そんなことで、最近では『戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊』を出版しました。

習主席と安倍首相は1歳違い

山田:世代的にいうと、先生は安倍晋三首相と同じ世代ですよね。

川島:同じです。安倍首相は私の1つ下。

山田:そうですよね。安倍首相と習近平国家主席も1歳違いですよね。

川島:だから、私は習主席と同じ歳です。習主席が文化大革命(1966〜1976年)の時期に反動学生として下放されていた時代、私も高校から大学の時期に当たるんです。だから、習主席にはものすごく親近感があるというわけではないけど、長い目で習主席がどうなるかを見てみたいと思います。悲観的に見ているんですけど。

山田:私は、安倍首相と習主席が1歳違いでほぼ同世代ということに非常に関心があります。ほぼ同時期に、同じ時代にあの2人が中国と日本で台頭してきたということに、共通する背景がないのかなと。ただ、それを政治家に直接取材するわけにいかないので、同じ年代の市井の人たちをインタビューすることで何か浮かび上がってくるのではないかと考えていて、次の仕事にしようとも思っているんです。

川島:今の64歳ね。

山田:先生は同じ世代としてどのようにお考えですか。

 


▲△▽▼


東京大学大学院農学生命科学研究科准教授・川島博之氏を迎えて(3)
山田 泰司 2017年11月17日(金)
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/258513/111600056/


 絶望的な状況に置かれた中国の農民の姿を描いた書籍『戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊』を執筆した川島博之・東京大学大学院農学生命科学研究科准教授との対談も今回で最終回。都市戸籍を持つ4億人が農民戸籍を持つ9億人から搾取するといういびつな構造を持つ中国。今後、農民たちは希望を持って生活することができるのか。


山田:中国がそろそろ限界なのは間違いないと思います。では、どうしていくかなんですけど。

川島:日本では、バブルの象徴ともいえる、ジュリアナ東京がなくなったのが1994年だったけど、中国はまだその前ぐらいの感じじゃないかなと思います。日本でもそのころは、バブルがはじけるとは感じていなかった。日本はお尻に火がついたのは1997年です。山一証券がつぶれた。ただ、中国だったら山一証券をつぶしませんから。公的資金で救済するような形でいくから。

 だから今は1992年、1993年くらいだと思うね。ちょっとやばいかな、でも政府が何とか、やってくれるよねと。大学生も、だからまだ朝まで踊れていた。そんな感じで。中国の場合、そういう意味では国にはかなりの余剰があるので、そこを使って陰で支えていけば、日本のバブルの崩壊みたいなのは防げると。だらだらだらだらバブルの崩壊しない状態が続くと私は思っていますね。

山田:金融政策と財政出動ですね。

川島:今の習近平(シー・ジンピン)国家主席の最初のときからそうなんですよね。何もしなかったら山一証券や日本長期信用銀行がつぶれたような日本みたいに、大変なことになる。ところがそこでうまくやっちゃうから。いつの間にかホワイトナイトが現れたと言って収まっていくというのは、そこはつぶさない技術です。

 だけど、これは私だけじゃなくて多くの人が言っているんだけど、もう成長しない状態で変な金融政策によりずるずる延ばしていっても、病が重くなるだけだ。やめると痛いからやめないんだけど、じゃあ、永遠にできるのといったら永遠でもない。でも明日には壊れないし、明後日も大丈夫そう。そういうことだよね、今、やっているのは。

山田:だから私の友達なんかでも、事業を始める人は結構いるんです。だけど全然もうかってないんですよね。もうかってないんだけど、出資する人はいっぱい出てくるんですよ。

川島:貸自転車がそうだよね。もうかってないんだもん。

山田:本当にそうなんです。それで全くうまくいってないのに、そろそろエンジェル投資家が出てくるころですと、みんなそんなことばっかり言っているんですよ。実態がないのにお金だけはどこからか出てきて動いているという不思議な状態が。

温和な顔になった中国の指導者

川島:1993年くらいの日本はみんなそう。何とかなるよ、最後は日銀、大蔵が何とかしてくれるよみたいな。

 さっきから言っているように、共産党はこの事態によく気が付いていて、締めなきゃだめと考えた。だから民間企業の中にも共産党支部をつくって、共産党の指令によって全部を動かす。例えばここを売りたいとか、ここを閉めたいとかも勝手にはできないんだよね。じゃあ、営業を続けられませんと言っても、そうしたらこっちの銀行に声を掛けるからといって、担保もないのに銀行から金を借りられちゃう。だから奇妙なゾンビ経済が続いているんだと思う。


山田 泰司

山田:本当にそうですね。

川島:ゾンビ経済において、私は学生の顔つきとかを見ていると、もう今の若者たちは中国の経済を支えていくことはできないと思う。柔和な顔になっているし、頑張るのは嫌いだし。

山田:柔和な顔ということで思い出しましたが、最近の中国の指導者の顔は柔和になりました。昔は人間というよりは妖怪みたいな感じの方もいました。とにかく中国を回していくためには、あのぐらいのカリスマじゃないとだめ。本当に人間離れしてないとだめだなと。

 それがやっぱり胡錦濤前国家主席になってくると、優秀なテクノクラート、優秀な公務員の顔になってきましたよね。平和な時代の指導者。習主席も、仏頂面だし表情は出さないけど、明らかに妖怪ではない。

川島:李克強首相もそうだよね。

山田:そうですね。

川島:普通の秀才の顔だよね。ちょっとこのごろだと、おどおどしている秀才の顔だよね。よくいるよね。次、先生に指されると困る。「習主席からは指されないように、目を合わせないように」みたいな感じになっているよね。


農民工はどこに行くのか?

山田:先生がおっしゃるように、習主席は今の経済のことが全部分かっている。とにかく都会に農民工を抱える余裕がなくなってきているんです。

川島:そういうことですね。

山田:だから一生懸命彼らを国に帰そうとしているんだけど、やっぱり戻ってきちゃうんです。それでさまよい始めているんですけど、彼らは一体、どこに行くんでしょうね。非常に私は怖いんです。

川島:だから中国当局は、押さえ付けでしかないんだよね。

山田:押さえ付けるか。

川島:胡錦濤は、彼らにあめ玉をなめさせていけば何とかなると考えていた。和諧社会と言っていたんだけど。今はどうもあめ玉がなくなったんだよね。あめ玉をやっていたらチャイナ・プラス・ワンになっちゃうので、習主席が決めたのはあめ玉はやらないこと。でも彼らは、不満を持っている。どうしたらいいか。警察国家ですよね。今明らかにそちらに進んでいる。

山田:地方の都市をハイテクの町にして、雇用をつくりましょうみたいな報道もちらほらあるんですけど、あれじゃ追い付かないんでしょうか。

川島:一番の例は深センをそうしたいと言っていますよね。深センには確かに優秀な人たちが集まってきていて、中国のシリコンバレーにしようとしている。でも、所詮1000万人ですから。中国は13億人、明らかに数が小さい。

 それからそこがいくら発展しても、本質的には9億人の農民の底上げをどうするかという問題なんです。それに対しての答えにはならないですよ。ほとんどが中卒か高卒なんですよね。

山田:そうですね。「農村はみんなこんなもんだ」と言って、子供を高校に進ませずに働かせる親がいまだにとても多いです。

川島:勉強してないから農民なんです。農民の中でも、すごく優秀なら都市戸籍になれるんです。農民でもチャンスがあるんですよ。小学校で1番、中学校で1番。勝ち抜いてトップになれば、農民でも北京大学とかに入れて、そして都市戸籍を取れるんです。

 だから中国人の中には、貧困は自己責任という感情があるように思います。日本からだとそう見えるんです。私は大学にいて、そういうのを見ているから。だから彼らの心の中では、小さいときに勉強しなかったやつらを、対等に扱うことはできないとなるんです。私はあのときに一生懸命勉強したけど、そのときにいつも遊んでいたんだから、農民だと。徹底した学歴社会です。

山田:中卒で働きに出て、1万元ぐらい稼いでいる内装屋さんが知り合いにいます。まだ20代前半。背中に一面の入れ墨を入れてるんです。彼は中卒で重慶から出てきて、北京にまず行ったらしいんです。そこにしばらくいたんだけど仕事を辞めて、その後、海南島に流れていった。僕は海南島で知り合ったのですが、その彼は北京を離れるときに背中に入れ墨を入れました。要は、ものすごい差別をされたらしい。

川島:ああ、そういうことね。

山田:自分の中で、とにかく生き抜いてやるというしるしですね。背中に入れ墨を入れようが何しようが、根性を出してやるしかない。彼も農民です。


川島:そういう社会ですよね。だから仕事でもとにかく頑張るしかない。

山田:ただ、上海に出てきて住んでいる人たちなんか、とにかく取り壊しが決まって廃墟みたいな格安のところに住んでいる。トイレもなければ、何もない。そういうところでみんなやっているわけです。

 彼ら僕と同世代ぐらいで、自分は小学校を出たかどうか分からない。ただ、自分の子供は大学にやろうと思って一生懸命やっているんです。でも最終的には、田舎の農民はみんなこんなものだからと言ってあきらめちゃう。そういうのを見ているから、もっと頑張らなきゃだめじゃないかとは、とてもじゃないけど言えない。もう十分頑張っている。くじけるのは当たり前だと思います。

反日デモも農民のせい?


川島:都会人と接していると軍人もすごくばかにしているんです。軍人って農民ですから。彼らは軍人にはまずならないですよね。幹部学校には行く人もいると言っていたけど。

 だから武装警官をすごく怖がりますね。あいつら農民だから、頭の中がどうなっているか分からないという感じで怖がる。やっぱりすごい強い差別意識を感じますよ。学生は皆さん都市戸籍で、親は向こうのエリートさんだから。

 それから大規模な反日デモが起きたときがあったじゃないですか。例えば2012年だったか、日系のスーパーなどが被害を受けた。壊したのは、みんな農民工だと言うんだよね。都市戸籍の人は日本なんか襲わないよと。彼らの言い訳かなと思って聞いてたんだけど。

山田:そうですよね。何かそういうことがあると農民工のせいにする。

 あれは2005年に反日デモが盛んに行われたときでした。私は上海の日本総領事公邸やアメリカ大使館のそばに住んでいたんです。軍用のトラックが20台ぐらい私の家の前の道路に集結して、荷台に武装警官をギュー詰めにして市内に散っていったというのを毎日見ていました。話に聞くとあのときは、大学の寮で人が集められる。今日はデモへ行きますからこの寮から何人、この寮から何人といった形で集合をかけられたそうです。

 だから、全くの官製デモですよね。その中に農民工はいませんよ、本当に。

川島:非常に強い偏見を感じるよね。

山田:EXILEって、男性ユニット。彼らのようなEXILE系の男、真っ黒でマッチョでちょびひげな男は中国では人気ないんですよ。色白、ぽっちゃりの方が中国ではいいんです。EXILEって、中国名は「放浪兄弟」という名前があるんですけど、ネットなんかで言われているのは「民工団」。容姿が農民工に似ているから。

 また、バドミントンで林丹(りんたん)という選手がいて、北京五輪、ロンドン五輪と2大会連続で金メダルを獲得した。国民的英雄だったんですが、不倫が見つかってすごく叩かれた。彼もやっぱりEXILE系なんですが、叩かれた途端に、何かこいつ農民工みたいだとバカにされる。そういうところで形を変えて農民工が出てくるんです。


中国経済は20年はこのまま、でもその先は……

川島:非常に強い差別意識だよね。

 でも私は結論に近いけど、農民戸籍の9億人を豊かにすることはできないと思っています。繰り返すけど都市戸籍の4億人は9億人を踏み台にして豊かになった。それが中国の特殊な社会主義。この踏み台を外してみんなで一緒になったら自分たちも貧しくなっちゃう。そのことはすごくよく分かっているんだと思う。

 差別意識もあって、9億人はもう仕方のない人という見方をしている。4億人経済が動いているし、4億人の部分はかなりの部分リッチになった。山田さんがおっしゃるようにすごくグレーなマネーが動いていて、日本に爆買いに来られるようになっちゃっている人たちがいるんだけど、そのマネーは絶対下の方には行かないんですよ。

 でも、農民の人を救おうと思えば、簡単なんですよ。都市戸籍の人の多くの財産というのは都市の不動産に変わっています。中国では固定資産税と相続税がかからない。税率にもよるけど、固定資産税と相続税がかかるようにすれば、今の体系は一遍で変わるよね。そこから出てきた税金で、例えば農民の小学校を建てるなどに回せばいいんだから。全部そこに富をため込んでいるんだから。

 私は、過去30年くらい研究してきて、アジアの発展の中で農地の転用がすごく大きい発展の原動力になっていることを感じています。日本の場合でいえば、農民自身が大きな金を得たケースが多くあります。農民の人が駅前ビルのオーナーになっているとか、駐車場のオーナーになっているとかあるよね。

 そういうところで非常に分散していったんだけど、中国は農民ではなくて、国営公社が取っていっちゃった。アジアでいえば、ベトナムが中国とほぼ同じ構造で動いているんです。中国は農民たちが農地の所有権を持ってなかったというのが決定的にうまくいかないですよね。

 山田さんには悪いけど、アイデアってないでしょう。どうやって彼らを豊かにしていいか。彼らに「どうしたら先生、いいですか」と聞かれるんだけど、今は答はないと言っている。と言っても、このシステムは止められない。

山田:25〜26年前からの知り合いが、今は中国の国家税務総局にいるんです。彼が税金の問題についてはずっと言っていますね。90年代から言っていますが、何の進展もしていない。

川島:中国はほとんどの税金が日本で言うところの付加価値税なんですよね。それで税金の多くの部分を所得税じゃなくて企業から取っているんですよ。多くの部分を払っているのは国営企業なのね。

 中国で大きな税金を払っているのって、水道局とか、ガスとか電気とか、そして今一番大きいのは通信機器業者。普通の庶民が電気代を払う、ガス代を払う、それから携帯を使う。そうすると自動的に税金を取られちゃっているんです、国営企業を通じて。だから中国の貧しい人たちは、税金を取られたと思ってなくても、税金は取られている。スマホを使えば税金を取られる。中国は頭いいよ。

山田:そういうことですね。

川島:そういったところは共産党が胸先三寸でやっている。だから絶対国営企業は文句を言わない。中国の財政ってすごく健全なんです。中国の政府って人民をどう飼いならしていくかみたいなのをよく知っている人たちだよね。

 私は日本人だから農民に同情を寄せるけど、彼らに明日はない。だけど限界が来ているのも事実だから、中国には明日がない、中国崩壊となっていく。都市戸籍の4億人だけでやっているこんな状態はいつまでも続かない。ではどういうシステムにするのかといったら答がない。ただ、前にも述べましたが、少なくとも20年ぐらいはこの状態が続くと思います。

山田:党大会の後に、習近平独裁体制がいよいよ強まりました、みたいな報道があふれる中、中国の抱えている問題が、改めて分かりました。本日はどうもありがとうございました。

今の中国って「ジュリアナ消滅直前」の感じかな
東京大学大学院農学生命科学研究科准教授・川島博之氏を迎えて(3)
山田 泰司 2017年11月17日
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/258513/111600056/?P=1


 絶望的な状況に置かれた中国の農民の姿を描いた書籍『戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊』を執筆した川島博之・東京大学大学院農学生命科学研究科准教授との対談も今回で最終回。都市戸籍を持つ4億人が農民戸籍を持つ9億人から搾取するといういびつな構造を持つ中国。今後、農民たちは希望を持って生活することができるのか。


山田:中国がそろそろ限界なのは間違いないと思います。では、どうしていくかなんですけど。

川島:日本では、バブルの象徴ともいえる、ジュリアナ東京がなくなったのが1994年だったけど、中国はまだその前ぐらいの感じじゃないかなと思います。日本でもそのころは、バブルがはじけるとは感じていなかった。日本はお尻に火がついたのは1997年です。山一証券がつぶれた。ただ、中国だったら山一証券をつぶしませんから。公的資金で救済するような形でいくから。

 だから今は1992年、1993年くらいだと思うね。ちょっとやばいかな、でも政府が何とか、やってくれるよねと。大学生も、だからまだ朝まで踊れていた。そんな感じで。中国の場合、そういう意味では国にはかなりの余剰があるので、そこを使って陰で支えていけば、日本のバブルの崩壊みたいなのは防げると。だらだらだらだらバブルの崩壊しない状態が続くと私は思っていますね。

山田:金融政策と財政出動ですね。

川島:今の習近平(シー・ジンピン)国家主席の最初のときからそうなんですよね。何もしなかったら山一証券や日本長期信用銀行がつぶれたような日本みたいに、大変なことになる。ところがそこでうまくやっちゃうから。いつの間にかホワイトナイトが現れたと言って収まっていくというのは、そこはつぶさない技術です。

 だけど、これは私だけじゃなくて多くの人が言っているんだけど、もう成長しない状態で変な金融政策によりずるずる延ばしていっても、病が重くなるだけだ。やめると痛いからやめないんだけど、じゃあ、永遠にできるのといったら永遠でもない。でも明日には壊れないし、明後日も大丈夫そう。そういうことだよね、今、やっているのは。

山田:だから私の友達なんかでも、事業を始める人は結構いるんです。だけど全然もうかってないんですよね。もうかってないんだけど、出資する人はいっぱい出てくるんですよ。

川島:貸自転車がそうだよね。もうかってないんだもん。

山田:本当にそうなんです。それで全くうまくいってないのに、そろそろエンジェル投資家が出てくるころですと、みんなそんなことばっかり言っているんですよ。実態がないのにお金だけはどこからか出てきて動いているという不思議な状態が。

温和な顔になった中国の指導者

川島:1993年くらいの日本はみんなそう。何とかなるよ、最後は日銀、大蔵が何とかしてくれるよみたいな。

 さっきから言っているように、共産党はこの事態によく気が付いていて、締めなきゃだめと考えた。だから民間企業の中にも共産党支部をつくって、共産党の指令によって全部を動かす。例えばここを売りたいとか、ここを閉めたいとかも勝手にはできないんだよね。じゃあ、営業を続けられませんと言っても、そうしたらこっちの銀行に声を掛けるからといって、担保もないのに銀行から金を借りられちゃう。だから奇妙なゾンビ経済が続いているんだと思う。


山田 泰司

山田:本当にそうですね。

川島:ゾンビ経済において、私は学生の顔つきとかを見ていると、もう今の若者たちは中国の経済を支えていくことはできないと思う。柔和な顔になっているし、頑張るのは嫌いだし。

山田:柔和な顔ということで思い出しましたが、最近の中国の指導者の顔は柔和になりました。昔は人間というよりは妖怪みたいな感じの方もいました。とにかく中国を回していくためには、あのぐらいのカリスマじゃないとだめ。本当に人間離れしてないとだめだなと。

 それがやっぱり胡錦濤前国家主席になってくると、優秀なテクノクラート、優秀な公務員の顔になってきましたよね。平和な時代の指導者。習主席も、仏頂面だし表情は出さないけど、明らかに妖怪ではない。

川島:李克強首相もそうだよね。

山田:そうですね。

川島:普通の秀才の顔だよね。ちょっとこのごろだと、おどおどしている秀才の顔だよね。よくいるよね。次、先生に指されると困る。「習主席からは指されないように、目を合わせないように」みたいな感じになっているよね。

農民工はどこに行くのか?

山田:先生がおっしゃるように、習主席は今の経済のことが全部分かっている。とにかく都会に農民工を抱える余裕がなくなってきているんです。

川島:そういうことですね。

山田:だから一生懸命彼らを国に帰そうとしているんだけど、やっぱり戻ってきちゃうんです。それでさまよい始めているんですけど、彼らは一体、どこに行くんでしょうね。非常に私は怖いんです。

川島:だから中国当局は、押さえ付けでしかないんだよね。

山田:押さえ付けるか。

川島:胡錦濤は、彼らにあめ玉をなめさせていけば何とかなると考えていた。和諧社会と言っていたんだけど。今はどうもあめ玉がなくなったんだよね。あめ玉をやっていたらチャイナ・プラス・ワンになっちゃうので、習主席が決めたのはあめ玉はやらないこと。でも彼らは、不満を持っている。どうしたらいいか。警察国家ですよね。今明らかにそちらに進んでいる。

山田:地方の都市をハイテクの町にして、雇用をつくりましょうみたいな報道もちらほらあるんですけど、あれじゃ追い付かないんでしょうか。

川島:一番の例は深センをそうしたいと言っていますよね。深センには確かに優秀な人たちが集まってきていて、中国のシリコンバレーにしようとしている。でも、所詮1000万人ですから。中国は13億人、明らかに数が小さい。

 それからそこがいくら発展しても、本質的には9億人の農民の底上げをどうするかという問題なんです。それに対しての答えにはならないですよ。ほとんどが中卒か高卒なんですよね。

山田:そうですね。「農村はみんなこんなもんだ」と言って、子供を高校に進ませずに働かせる親がいまだにとても多いです。

川島:勉強してないから農民なんです。農民の中でも、すごく優秀なら都市戸籍になれるんです。農民でもチャンスがあるんですよ。小学校で1番、中学校で1番。勝ち抜いてトップになれば、農民でも北京大学とかに入れて、そして都市戸籍を取れるんです。

 だから中国人の中には、貧困は自己責任という感情があるように思います。日本からだとそう見えるんです。私は大学にいて、そういうのを見ているから。だから彼らの心の中では、小さいときに勉強しなかったやつらを、対等に扱うことはできないとなるんです。私はあのときに一生懸命勉強したけど、そのときにいつも遊んでいたんだから、農民だと。徹底した学歴社会です。

山田:中卒で働きに出て、1万元ぐらい稼いでいる内装屋さんが知り合いにいます。まだ20代前半。背中に一面の入れ墨を入れてるんです。彼は中卒で重慶から出てきて、北京にまず行ったらしいんです。そこにしばらくいたんだけど仕事を辞めて、その後、海南島に流れていった。僕は海南島で知り合ったのですが、その彼は北京を離れるときに背中に入れ墨を入れました。要は、ものすごい差別をされたらしい。

川島:ああ、そういうことね。

山田:自分の中で、とにかく生き抜いてやるというしるしですね。背中に入れ墨を入れようが何しようが、根性を出してやるしかない。彼も農民です。


川島:そういう社会ですよね。だから仕事でもとにかく頑張るしかない。

山田:ただ、上海に出てきて住んでいる人たちなんか、とにかく取り壊しが決まって廃墟みたいな格安のところに住んでいる。トイレもなければ、何もない。そういうところでみんなやっているわけです。

 彼ら僕と同世代ぐらいで、自分は小学校を出たかどうか分からない。ただ、自分の子供は大学にやろうと思って一生懸命やっているんです。でも最終的には、田舎の農民はみんなこんなものだからと言ってあきらめちゃう。そういうのを見ているから、もっと頑張らなきゃだめじゃないかとは、とてもじゃないけど言えない。もう十分頑張っている。くじけるのは当たり前だと思います。

反日デモも農民のせい?


川島:都会人と接していると軍人もすごくばかにしているんです。軍人って農民ですから。彼らは軍人にはまずならないですよね。幹部学校には行く人もいると言っていたけど。

 だから武装警官をすごく怖がりますね。あいつら農民だから、頭の中がどうなっているか分からないという感じで怖がる。やっぱりすごい強い差別意識を感じますよ。学生は皆さん都市戸籍で、親は向こうのエリートさんだから。

 それから大規模な反日デモが起きたときがあったじゃないですか。例えば2012年だったか、日系のスーパーなどが被害を受けた。壊したのは、みんな農民工だと言うんだよね。都市戸籍の人は日本なんか襲わないよと。彼らの言い訳かなと思って聞いてたんだけど。

山田:そうですよね。何かそういうことがあると農民工のせいにする。

 あれは2005年に反日デモが盛んに行われたときでした。私は上海の日本総領事公邸やアメリカ大使館のそばに住んでいたんです。軍用のトラックが20台ぐらい私の家の前の道路に集結して、荷台に武装警官をギュー詰めにして市内に散っていったというのを毎日見ていました。話に聞くとあのときは、大学の寮で人が集められる。今日はデモへ行きますからこの寮から何人、この寮から何人といった形で集合をかけられたそうです。

 だから、全くの官製デモですよね。その中に農民工はいませんよ、本当に。

川島:非常に強い偏見を感じるよね。

山田:EXILEって、男性ユニット。彼らのようなEXILE系の男、真っ黒でマッチョでちょびひげな男は中国では人気ないんですよ。色白、ぽっちゃりの方が中国ではいいんです。EXILEって、中国名は「放浪兄弟」という名前があるんですけど、ネットなんかで言われているのは「民工団」。容姿が農民工に似ているから。

 また、バドミントンで林丹(りんたん)という選手がいて、北京五輪、ロンドン五輪と2大会連続で金メダルを獲得した。国民的英雄だったんですが、不倫が見つかってすごく叩かれた。彼もやっぱりEXILE系なんですが、叩かれた途端に、何かこいつ農民工みたいだとバカにされる。そういうところで形を変えて農民工が出てくるんです。

中国経済は20年はこのまま、でもその先は……

川島:非常に強い差別意識だよね。

 でも私は結論に近いけど、農民戸籍の9億人を豊かにすることはできないと思っています。繰り返すけど都市戸籍の4億人は9億人を踏み台にして豊かになった。それが中国の特殊な社会主義。この踏み台を外してみんなで一緒になったら自分たちも貧しくなっちゃう。そのことはすごくよく分かっているんだと思う。

 差別意識もあって、9億人はもう仕方のない人という見方をしている。4億人経済が動いているし、4億人の部分はかなりの部分リッチになった。山田さんがおっしゃるようにすごくグレーなマネーが動いていて、日本に爆買いに来られるようになっちゃっている人たちがいるんだけど、そのマネーは絶対下の方には行かないんですよ。

 でも、農民の人を救おうと思えば、簡単なんですよ。都市戸籍の人の多くの財産というのは都市の不動産に変わっています。中国では固定資産税と相続税がかからない。税率にもよるけど、固定資産税と相続税がかかるようにすれば、今の体系は一遍で変わるよね。そこから出てきた税金で、例えば農民の小学校を建てるなどに回せばいいんだから。全部そこに富をため込んでいるんだから。

 私は、過去30年くらい研究してきて、アジアの発展の中で農地の転用がすごく大きい発展の原動力になっていることを感じています。日本の場合でいえば、農民自身が大きな金を得たケースが多くあります。農民の人が駅前ビルのオーナーになっているとか、駐車場のオーナーになっているとかあるよね。

 そういうところで非常に分散していったんだけど、中国は農民ではなくて、国営公社が取っていっちゃった。アジアでいえば、ベトナムが中国とほぼ同じ構造で動いているんです。中国は農民たちが農地の所有権を持ってなかったというのが決定的にうまくいかないですよね。

 山田さんには悪いけど、アイデアってないでしょう。どうやって彼らを豊かにしていいか。彼らに「どうしたら先生、いいですか」と聞かれるんだけど、今は答はないと言っている。と言っても、このシステムは止められない。

山田:25〜26年前からの知り合いが、今は中国の国家税務総局にいるんです。彼が税金の問題についてはずっと言っていますね。90年代から言っていますが、何の進展もしていない。

川島:中国はほとんどの税金が日本で言うところの付加価値税なんですよね。それで税金の多くの部分を所得税じゃなくて企業から取っているんですよ。多くの部分を払っているのは国営企業なのね。

 中国で大きな税金を払っているのって、水道局とか、ガスとか電気とか、そして今一番大きいのは通信機器業者。普通の庶民が電気代を払う、ガス代を払う、それから携帯を使う。そうすると自動的に税金を取られちゃっているんです、国営企業を通じて。だから中国の貧しい人たちは、税金を取られたと思ってなくても、税金は取られている。スマホを使えば税金を取られる。中国は頭いいよ。

山田:そういうことですね。

川島:そういったところは共産党が胸先三寸でやっている。だから絶対国営企業は文句を言わない。中国の財政ってすごく健全なんです。中国の政府って人民をどう飼いならしていくかみたいなのをよく知っている人たちだよね。

 私は日本人だから農民に同情を寄せるけど、彼らに明日はない。だけど限界が来ているのも事実だから、中国には明日がない、中国崩壊となっていく。都市戸籍の4億人だけでやっているこんな状態はいつまでも続かない。ではどういうシステムにするのかといったら答がない。ただ、前にも述べましたが、少なくとも20年ぐらいはこの状態が続くと思います。

山田:党大会の後に、習近平独裁体制がいよいよ強まりました、みたいな報道があふれる中、中国の抱えている問題が、改めて分かりました。本日はどうもありがとうございました。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c10

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
11. 中川隆[-10694] koaQ7Jey 2019年4月18日 12:09:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1361]

大躍進政策と文化大革命は宗族を潰して中国を国民国家にする為に行った

中国人に愛国心や公共心が完全にゼロな理由 _ 中国人は自分が属する宗族から宗族の利益になる様な悪事をやる事を毎日強要されている


特別番組「中国人の善と悪はなぜ逆さまか〜宗族と一族イズム」
石平 倉山満【チャンネルくらら・12月30日配信】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=OIKKE71Xp-s

特別番組「宗族を目の敵にした共産革命〜中国人の善と悪はなぜ逆さまか 宗族と一族イズム」
石平 倉山満【チャンネルくらら・1月6日配信】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=Oyg1XmBqWRw


▲△▽▼

宗族
古代中国での父系同族集団。

中国の殷から周の時代の社会の基本的な集団となった、父系(男系)の同族集団。本家と多くの分家(小家族)から成り、本家の家父長(族長)が統率し、祖先崇拝という信仰で結びついている。このような宗族の守るべき規範が宗法である。
実際には擬制的(みせかけ)であったらしいが、宗族の結びつきの原理は血縁関係であった。
このような氏族社会の上に周の封建制が形成される。そして、春秋から戦国にかけて、鉄製農具の普及などによって生産力が向上したことが、個々の小家族の自立を可能にし、宗族という氏族社会が解体し、地縁的な村落機構を通して統一国家が農民を支配する形態に移行していく。しかし、中国では現代に至るまで、一族意識は強固に残っている。
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-027_0.html


▲△▽▼

中国人の善と悪はなぜ逆さまか 宗族と一族イズム – 2018/12/5 石平 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/481911350X/ref

内容紹介

戦争も腐敗も善となる恐ろしい論理を明らかにする。中国史を支配する組織の正体。

戦争も腐敗も善となる
恐ろしい論理を明らかにする

石平氏渾身の書き下ろし。
これを知らずして中国人は理解できない!

やっと私も中国人が分かったと言える

中国史を支配する組織の正体

易姓革命も、対外拡張も、腐敗も
共産党政権の命運も!

■正義派知識人のA教授はなぜ、親族の腐敗を喜んだのか――まえがきに代えて
■第1章 一族のためであれば腐敗は善になる
■第2章 宗族という巨大組織の実態
■第3章 「械闘」に見る一族イズムの恐ろしい本性
■第4章 「共産党VS.宗族」の勝者
■第5章 中国史を動かす一族イズム

______

カスタマーレビュー

hij
「収賄汚職は人民にとっては罪悪であるが、家族にとっては美徳である」2018年12月11日

習近平の腐敗摘出によって共産党幹部の収賄の恐るべき実態が明らかになった。元
政治局常務委員周永康の場合、差し押さえられた資産総額は何と900億元(1兆4900
億円相当)というからすさまじい。本人だけでなく、妻、息子など親族、腹心の部下
もグルになって収賄三昧の日々を送るのが中国の流儀である。これを「全家福」を
もじって「全家腐」という。(習近平自身も同じ穴の狢である。)

周永康ら腐敗幹部にとって掌中の政治権力を家族の収賄に使わせるのは家長として
の当然の義務であり、この義務を果たすのは美徳である。家族の利益より公の利益
を優先する者は、中国社会では変人、馬鹿者呼ばわりされる。家族や一族のために
公益を損なってもよいという異質な家族観を著者は「一族イズム」と呼ぶ。

中国には家族のほかに腐敗の共同戦線ともいうべき「圏子」(チェンツ)という利益
共同体がある。もし圏子の誰か一人が摘発されると同罪の幹部が芋蔓式に摘発され
ることになる。

一族イズム、圏子文化の源流は中国独特の「宗族」である。宗族とは先祖を共有す
る父系同族集団である。何世代も続くうちに世帯数は数百、数千になり人口は数千
になり、万を超えることもある。宗族は族会を組織し、族長を選び、祠堂をつくり、
祭祀をおこない、族譜を編纂し、族産をつくって子弟の教育、弱者の援助、救済を
おこなう村における小国家なのである。

共産党が政権を取ったとき、毛沢東は宗族を「諸悪の根源」とみなし、方々の村で
村のゴロツキを使って地主を殺し、土地を貧農に分配し、財産を奪った(「一村一
焼一殺」)。地主、郷紳が消えて宗族組織は分解した。宗族に代わる組織として共
産党が編みだしたのが人民公社であったが、人民公社の時代に伝統の宗族がひそか
に復活してきた。宗族勢力は、祠堂をつくり、族譜を編纂した。一族イズムはケ小
平以後の中国において中国人の共通した行動原理となったのである。共産党が潰し
たはずの宗族の行動原理がいまや共産党幹部までを支配するようになった。宗族は
永遠不滅なのである。

本書は中国出身の著者ならではの観察がたいへん参考になる。共産党幹部の収賄の
手口などもいろいろ書いてあって興味深い。

______

じゃぐぁ
あの大陸で近代国家が生まれない理由 2018年12月31日

近代国家とは、法が支配し、嘘をつかない国民が、必要に応じて公のために力を尽くすものであろう。
正式な定義は知らなくて良い。この本で書いてあるような内容を否定すれば、すなわち近代国家である。
敵を知り己を知るための一冊として、是非若い方に読んでいただきたい。
「宗族」と呼ばれる一族の論理が最優先で、「械闘」と呼ばれる一族間の争いには全員参加、一族以外は皆殺しにしても罪悪感を感じることのなメンタリティを知ることができる。
一度は共産党が潰した宗族が、人民公社を通して生き残り、現在も変わらず影響を及ぼすに至る過程を詳細に書き表した本書を、是非読むべき。


_____


アキレスの踵
5つ星のうち5.0
福沢諭吉の遺言 中韓には関わるな2018年12月25日

イギリスはヨーロッパ大陸に領地を持っていた時代がありました。しかし当時のヨーロッパ大陸は動乱の嵐が吹き荒れていて、その影響がイギリス国内にも及んだため、イギリスの国内政治も安定することはありませんでした。しかし無能な国王が何代か続いた時期に、イギリスはヨーロッパ大陸から撃退されて領地を失い、島国に閉じこもる羽目になってしまいました。そうしたら初めて国内の政治が安定するようになり、国内にエネルギーが蓄積され始め、後世の大発展の基盤を作ったのです。

日本の歴史を見ても、大陸諸国との関係にのめり込んでいって、うまくいった試しは一度もありません。ただの一度もです。これは大陸と島国とでは、地政学的な立場がまるで異なるからでしょう。大陸の文化は重厚ですから、惹かれる気持ちはよくわかります。しかし惹かれるのは当人の勝手です。明治以来、中国に心酔してそこで生涯を全うした人は何人も出ました。当人はそれで満足でしょうが、母国で生きる同胞を巻き込んではいけません。母国が島国であるという地政学的立場を忘れて、大陸諸国との関係にのめり込んでいくと、戦前、ドイツとの関係に深入りし過ぎた失敗をまた繰り返すことになるでしょう。

そもそも島国に政権をつくるのは、大陸から独立するためです。サハリンを考えてみればわかるように、大陸から独立しないのなら独自の政権などつくる必要はありません。つまり島国の政権は、出発時からすでに反大陸という基本的性格を備えています。この体質に反するようなことをやれば、当然そのツケは廻ってきます。

日本と相性がいいのは同じ島国の海洋型国家で、イギリス・台湾・東南アジア諸国です。相性が悪いのは重厚長大型の大陸諸国で、中国・ロシア・ドイツです。「同じアジア」というスローガンにだまされてはいけません。戦前の日本軍が中国大陸に軍事的にのめり込んだのも、現代の日本企業が中国に深入りし過ぎているのも、後世の歴史家たちから見れば、本質的に同じことだと判定するかもしれません。もちろん大陸諸国と全くつきあうなという意味ではありませんが、どれだけ深入りするかは、自国の国益から判断しないといけません。歴史から学ぶべき教訓とは「日中友好」ではありません。「大陸諸国との関係に深入りするな」ということです。

____


アマゾネス
日本人とは永遠に分かり合えない理由はここにある。2018年12月30日

石平さんの様々な解説のおかげで、大陸の連中の脳内がどうなっているのかよく分かるようになりました。今回は彼らの国家観です。中華人民共和国という国としての組織の事はぶっちゃけどうでもよくて、身内親戚さえ良ければ何してもいいという、未だに部族社会だという衝撃です。アメリカも州毎に別の国だという認識で、ニューヨーカーがカリフォルニアに海外旅行してきたぜと語る、なんて小話もあります。それよりもっと細かく一族単位でチャイナ人は考えます。なるほどだから北京料理と四川料理は全く別の国の料理だと騒ぐわけです。更に身内の利益になる事だけ考えるから、中央政府や日本などの外国企業から賄賂を抜き取る工作に腐心するわけです。外部から奪い取った賄賂を身内にばら撒くことで身内が潤うんですから。そこに公の利益とか人様に迷惑をかけない道徳とか全く考慮にありません。この視点でチャイナを眺めると項羽と劉邦も、三国志も、全く同じ考え方で貫かれてます。驚くべきは21世紀の現代も未だにやっているということ。国家レベルでも皇帝習近平と他の宗族との勢力争いです。

こんな人達ですから全く話が通じるわけがありません。また言い切りますが民主主義体制というのも彼らには適用できません。民主主義を運用するには、国民の高い民度、国家としての合意が必要だからです。一族単位で固まってるような考えでは、民主的な国家運営なんかできるわけがありません。だから、皇帝を頂点とした独裁国家でないとチャイナは統治できないんです。アメリカはよく独善的に民主化を進める〜なんてやってますが、民主主義はすごく運用が難しいので、世界の大半の国では無理です。チャイナはそんな感じなので、経済的に取引してる方などはその辺を理解した上で対応した方がいいでしょう。独特な部族社会の考えを利用して利益を得るなどの狡猾さが必要だと思います。

_____


fms
習近平の「民族の偉大なる復興」の真の意味が理解できる一冊。これを実現させてはならない!2018年12月13日

中国における”宗族”の発生・解体から、”人民公社”までの成り立ちの仕組み・歴史を丁寧に説明してある。
そして、実質的な”宗族”の復活については、ケーススタディとして、2例を取り上げて、詳しく解説している。
最後は、”人民公社”の廃止まで解説してあります。

私は、いままで全く理解できなかった中国人の思考回路が、やっと理解でき、納得できるようになりました。
この中国シナ人独特の思考を理解せず、彼らと商売をすると、たぶん、大変なことになります(実は私もひどい目にあった一人です)。

本書に書かれているのは、中国ですが、私には朝鮮も同様のメンタリティを持っているような気がします。

すばらしい力作と思います。

中国人を相手に、交渉をする方には、読んでおいたほうがいい一冊です。

https://www.amazon.co.jp/dp/481911350X/ref


▲△▽▼

中国とは何者か?〜宗族と幇〜
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/05/001252.html

中国人の特徴として、『自己中心、ご都合主義、独善、責任転嫁、人間不信、土匪国家、危険な「友好」』などが挙げられている

そしてそれらの特徴を解明する切り口のひとつとして『中国人は同族集団(身内)には寛容で、外部に対しては何でもあり』という甚だしい二重性があることが指摘されている。
それらの中国人の気質を形成してきた大きな要因は、中国特有の社会構造にある。今回のエントリーでは、中国固有の社会的結合と言われる、宗族(そうぞく)と幇(パン)という集団に焦点を当て、その中から中国特有の社会構造や意識構造を見ていきたい。


<宗族とは何か?>
中国では姓を同じくする父系の相続集団を『宗族』と呼ぶ。宗族は長子相続と同姓不婚を原理とし、本家を大宗、次男以下の分家を小宗という。宗族は大宗の強力な統制の元で共通の祖先への祭祀を通じて、常に一族集団の団結に努めていた。このような宗族内の上下関係や秩序を定めたものが「宗法」であり、これに基づく道徳的規範が「礼」である(ちなみに儒教はこの宗族の規範を土台としてそれを体系化したものである)。
この宗族という集団は、概ね周の時代に確立する(BC1000〜BC750年頃)。宗族の起源は元々は母系の氏族共同体であったと思われるが、それが歴史のある段階で、父系の宗族(大宗)へと転換していったと思われる。そして小宗の登場は支配階級における「姓氏制度」の確立と密接に連関している。姓氏制度のうち「姓」は母系の血縁集団を基礎としている。これが大宗にあたる。それに対して「氏」とは同じ姓の成人男子に、所領や地位が与えられることによって発生する。つまり氏とは成人男子の社会的身分を表しており、これが小宗を形成している。

20070912142701125378.jpg 20070912142701218480.jpg
祖先を祀る宗族の会合 写真はこちらからお借りしました。td>

ただし後述するように宗族は周の時代には「宗法」や「礼」という観念規範を強固に定めているということ、あるいは氏の出現によって氏族の共有制が崩れ父系制家族による私有制が制度化されていったということ、これらのことは制度としての宗族や姓氏制度の確立と戸同時に、氏族の規範が解体され、宗族の解体へのベクトルがすでに開始されていたことも意味する。
事実、周の後の春秋戦国時代に生じた群雄割拠を通じて旧支配階級は所領や地位を失い、支配階級において氏は無意味化していく。
そして、そればかりではなく宗族の結集軸である祖霊信仰も春秋戦国時代以降弱体化していく。このことは宗族そのものの持つ集団私権力が弱体化すれば、血縁集団さえも容易に解体されていくことを示している。
中国の歴史上、庶民(農村)においては確かに宗族が社会構造の基底部を形成していることは一面の事実である。例えばよく用いられる例として、同じ宗族から科挙合格者などのエリートを輩出すれば一族郎党にその恩恵が及ぶため、宗族の期待を一身に集めるという話はごく一般的な話である(村落ではなく宗族であることに注意)。
しかし支配階級においては、この宗族は祖霊信仰とともに権力闘争の基盤上、二義的なものに転落して言ったという事実も同時に押さえておかなければならない。
このことが、中国人は集団的であると同時に個人主義的であるといわれる、社会構造的な基盤を形成している。
<幇(的な結合)とは何か?>
他方『幇(パンもしくは、ほう)』とは何か?それは、一言で言って利益集団である。
幇には秘密結社的あるいは紅幇(ホウパン)・青幇(チンパン)などのマフィア的な組織である「幇会」(パンフェ)から、公然組織的な「幇派」(華僑社会における地縁・血縁を土台とした組織や業界団体・職能団体に至るまで)などさまざまな「幇」が存在する。
そして現在の「幇」組織の起源は清の時代である18世紀が起源といわれている。
しかし、この幇(的な組織)は中国の歴史上何度も登場したり消滅したりしてきたので、必ずしもそれが幇(的な組織)の起源とはいえない。
例えば遡れば、華僑そのもの(一種の利益集団)も南北朝時代の3世紀ごろの移民(おそらく戦乱に追われた亡命者や難民)を起源とするといわれているし、秘密結社的なものという意味では、歴史上判明している範囲でも182年の黄巾の乱において宗教的秘密結社が既に猛威を振るっている。黄巾の乱は秦朝の時代に兵役で農村から駆り出され、除隊してからも帰るべき家や耕すべき田畑を持たない兵士上がりの貧民たちの相互扶助組織が基盤となったといわれる。
この黄巾の乱を始め、中国の歴史は地域豪族、有力商人、知識人が農民を巻き込んで起こす全国的反乱が際立って多いことが、その特徴である。そしてそれらの多くは宗教的な秘密結社の形をとっており、それがそれらはしばしば時の王朝を揺るがし、転覆に至らしめている。

images.jpg mafia.jpg
太平天国の乱を主導した洪秀全 紅幇と青幇

写真はこちらとこちらからお借りしました
その意味では客家(ハッカ)もそのような利益集団(あるいは半秘密結社)の代表的なものの一つと言える。
黄巾の乱から始まる400年間の争乱によって中国の人口は1/10以下に激減する。そしてそれ以前に中原地帯を制覇していたもともとの漢民族は、ほぼ滅亡する。そしてその際各地に逃げのびた旧支配階級の末裔たちは中原発祥の「正当中華文明」の再興を目的として再結集を計る。これが客家の起源といわれている。
この客家に属するといわれる、主だった具体的人名を挙げてみよう。
清代における太平天国の乱を主導した洪秀全、孫文、朱徳、ケ小平、李登輝(台湾総裁)、タクシン(もとタイ首相)、リーファンユー(シンガポール初代首相)等々、中国及び華人社会において国の変革(ないし政権転覆)を主導した人物の名前が綺羅星の如く並ぶ(リンク)。

b0018539_7574472.jpg 09_img01.jpg
ケ小平氏 元台湾総裁 李登輝氏

それぞれ写真はこちらとこちらからお借りしました。
この客家の起こした反乱も含め、中国史の特色は、農民が武装解除されず古代より農民を戦闘員として組織していること、(秘密)結社=人工的利益集団の力が以上に強く、それがしばしば中国の歴史を動かしてきたことにある。その意味では中国史は正規軍の戦いだけではなく総力ゲリラ戦の歴史であり、それらの争乱によって歴史の1/3は非統合状態にあったというところにある(毛沢東率いる共産革命もその一つの典型に過ぎないという見方は十分に可能である)。
しかし、問題は、中国ではなぜこのように秘密結社や人工集団が、異常に繁殖し力を持つてきたのかということにあり、農民側の宋族がなぜここまでに戦闘的(他集団と敵対的)であるのかという点にある。
その理由のひとつが、異民族支配(モンゴル系やツングース系等)の歴史が長く、農民が治水灌漑等の理由で強制移住を繰り返させられてきたこと。それによって地縁的結合はバラバラに解体され、解体されないまでも異郷の地で周辺農民からよそ者として孤立状態を強いられてきたことがあげられよう。争いが絶えずいわば根無し草になった人々は、血縁である宗族や利益集団である幇へと結集するしかない。このことが中国人が身内(宗族や幇)に対して寛容で他集団に対して敵対的(ないしは利用対象でしかない)中国人の二重性の基礎を形成している。
しかしそれらも含めてもっと根深い理由があるように思われる。利益集団の強さは盗賊や海賊が形成したといわれる古代ギリシャやローマと共通したものがある。また中国の中原は東西南北の交通(後の草原の道、シルクロード、海の道)の交わる要所にあり、その制覇をめぐって諸勢力が激突を繰り返してきたという歴史的構図も見て取れる。
最後の問題は、各集団が相互に敵対的でありかつ著しく攻撃的な民族体質の源泉は何によって形成されたかにある。その要因を更に中国の歴史を紐解く事で解明していきたい。
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/05/001252.html

▲△▽▼

【中国】中国人の特徴@ 〜自己中心、ご都合主義、独善〜 11/04/05

白人(欧米人)の意識構造の解明に引き続き、今後、中国人(漢人?)の意識構造の解明に入る前提として、中国人の特徴を固定してみます。

以下、『中国が嫌われる七つの理由リンク』より抜粋
http://www.mars.dti.ne.jp/~saitota/hitori050501.htm

**********************************************************

1.自己中心

「自己中心的である」を略して「自(ジ)己(コ)中(チュー)」などと呼ぶが、こういう人間が好かれることはまずない。中国人はまさにジコチューが国民性といってよい。そしてそれが国家規模に拡大され、自国中心主義になる。「中国」という自称がその最たる証拠である。

中国人は古来、近隣国を蔑視してきた。この蔑視観は、文化の違う人々を人間と見なさないほどまでに強い。その優越意識はアパルトヘイト以上である。その証拠に華人以外はみな禽獣として、民族名称には獣へんや虫へんのついた漢字を用いて書いた。盛唐時代の代表的な知識人である韓愈は、著書「原人」で、夷狄のことを「半人半獣」とし、獣より進化したと評した。作家の魯迅は「中国人は人間を人間とも思わない」と、中国人の国民性を批判している。

西欧諸国が清国に対して通商要求をするときに、どうしても耐えられなかったのはあの屈辱的な「三脆九叩」の礼をさせられることである。アヘン戦争終結後の一八四二年、外国人を夷狄あつかいする清国に対し、イギリスは南京条約第一七条でわざわざ英国を「英夷」と呼ばないように規定した。それでも中国が守らないので、一八五八年、アロー号事件後の天津条約の締結のさいに「夷狄」呼ばわりしないことを再度明文化させている。清末に中国人と接した外国人のほとんどがその傲慢さに苛立ち、イギリス通商特使として北京に派遣されたマカートニーは逆に中国人を「半野蛮人」と呼んだ。イギリス公使兼香港総督J・F・デビスは中国文明を「半文明Lとみなし、初代総税務司のN・レイに至っては「アジアの野蛮人」と呼んで軽蔑した。こうなると、中国人とイギリス人のジコチューくらべである。


2.ご都合主義

ジコチューは自分の都合に従って行動する。したがってご都合主義が普遍化されるのである。他人の都合や思惑は二の次、三の次というより、最初から考慮されていない。政治の流れを見ても、一九五〇年代、「向蘇一辺倒」などといわれ、ソ連と蜜月の関係を結んでいたにもかかわらず、六〇年に入って突然「ソ連修正主義反対」、「ソ連社会帝国主義打倒」のスローガンを掲げて豹変した。そして六〇年代、日米安保、アメリカ帝国主義反対を唱え、旧日本社会党と共同声明まで出した中国は、七〇年代に入るやある日突然、日米安保賛成、反ソ親米に急変した。

このとき日本の旧社会党員は肩すかしを食らい、いわゆる進歩的文化人はどれほど困惑したことだろうか。日本にかぎらない。文化大革命を礼賛した世界の文化人たちは、文革収拾とともに、文化大革命そのものが「動乱の十年」となって評価が逆転して、中国人の敵として振り落とされていく。中国人のご都合主義についていくのはたいへんなことである。

戦後、日本の世論は「中国人とは、原則を重視する民族」という神話を信じていた。それは中国政府がいつも「平和五原則」「周恩来四原則」「日中三原則」と原則ばかりを唱えていたので、つい幻惑されたためであろう。実は、これは原則ではなかった。偏執、強情、拘泥を「原則重視」に読み間違えたのである。ジコチューの中国は、原則(建前)と本音を実にうまく使い分ける。
人治国家の中国では、法はあっても自分の都合で利用したり、無視したりするのが通常である。したがって、朝令暮改、契約反故などが頻繁に起こり、たいていの日本人は中国人の独断にふりまわされ、最後にはノイローゼになってしまう人までいる。


3.独善

仏教と儒教は中国から朝鮮を経由して日本に伝えられた。宗教が共通なのだから、精神文化も共有しているように思えるが、根本となる死生観がまったく異なっている。日本人は「死ねば神」「死者悉皆成仏」といって、死後にまで生前の利害や怨恨を問わない心を持っている。だが、中国人には強烈な勧善懲悪の倫理意識があり、自分の敵は死後もその墓を暴き、屍にむち打ち、魂まで食らおうとする。人は死しても安らかに眠ることができないのである。しかも信仰の自由はなく、国内で邪教とされた宗教は徹底弾圧し、日本の総理の靖国神社参拝にまで政治的に干渉してくる。

中国の内政干渉は靖国問題にとどまらない。歴史教科書、政府高官の発言、南京事件の評価、日本の生存権問題に属する日米安保、憲法改正論議、ダライ・ラマや李登輝前台湾総統の訪日、航空会社の空港使用、ホテルでの国旗掲揚など、ありとあらゆることに干渉し、外交問題にしようとする。

かつてテレピ朝日の二ュースステーションで、キャスターの久米宏がチベットに関して発言した内容に中国が圧力を加え、翌日の放送で中国に対して謝罪した事件があった。同じように、テレピ各社の中国特番で、中国政府と協力して制作されたものであるにもかかわらず、放送後、中国の一方的な抗議を受け、公開謝罪させられたケースが何度もある。中国の独善的な思惑の押しつけは、日本に対してだけではない。世界のいたるところにおよんでいるのである。

たとえば、旧西ドイツやデンマークなどでチベットの人権侵害問題をとりあげる議会に圧力をかけ、決議をしたら報復すると恫喝した。また江沢民主席はかつてスイスでデモ隊に遭遇したときに、迎えに出たスイスの首相に対し、自国の管理もできないのかなどと、いちじるしく礼を失する発言をしたことがある。アメリカに対しでも同様の干渉を加える。李登輝が総統の座にあったとき、卒業したコーネル大学の訪問のために訪米を申し入れたことがあった。アメリカの上下両院が李氏の訪米を受け入れる決定をしたにもかかわらず、中国はこの決議に関しても「誤った決議」だとして反省を求めたのである。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=248775

4.責任転嫁

「悪いのは全部他人で、成果は全部自分のおかげ」という責任転嫁と絶対無謬の独善意識が中華思想の真骨頂である。

私は台湾で生まれ育ったが、小中学校時代に、近代中国が貧困・落後したのは列強の侵略と清朝の腐敗、軍閥内戦に原因がある、と教えられた。中華人民共和国では、それがすっかり国民党政府の責任にされている。

また、文革が終焉すると、「動乱の十年」の責任は全部四人組のせいにされた。毛沢東の過ちに触れられることは決してなく、あれほどの社会的混乱の責任をすべて四人の政治指導者に押しつけたのは、裏返せば、中国人の破廉恥な無責任意識のなせるわざである。改革開放になると、急激な経済開放のために強盗殺人、賭博、麻薬密売、買売春、人身売買、詐欺、迷信など、「六害」「七害」と呼ばれる凶悪犯罪が横行するようになった。これはある意味で当然の結果である。こうした無秩序は中国本来の姿であり、百年変わらぬ国民性の復活にすぎない。ところが中国はそれを認めず、資本主義の精神汚染だと決めつけ、今度は「社会主義新文明を創造せよ」と呼びかけ、党大会のたびに決議などしている。資本主義のモデルについていくだけで手一杯だというのに、何主義だろうと新文明の創造などできようはずがない。

西欧文明が東アジアに大きな影響をおよぼしたのちの中国人の不幸、落後はすっかり西欧のせいにされてしまったのである。近代中国の没落はアヘン戦争以後、すべて列強の侵略の結果に帰され、中国自身にどんな問題があっても、それに目を向けることはない。こうした責任転嫁は、中国文明の優越性に対する固執の表れともいえる。自己の無謬性の過信によって独善的となり、ことに日本人のような自虐的な国民に対しては、反省や謝罪を要求することをやめようとしない。明末、異端の儒学者といわれた李卓吾は、その著書『蔵書』の中で、中国人についてこう指摘している。「いかに自己礼賛するかについては苦心惨憺するが、自己批判についてはまったく関心を持たない」と。最近、中国駐在の日本人商社関係者が中国人気質について調査をし、以下のような中国人像がまとめられたという。

「絶対自分の非を認めない。それは中国人が責任感の意味を知らないというよりも、失敗を他人のせいにする習性があるからだ。もともと、中国は熾烈な競争社会であり、責任をとる段になったら、なるべく自分の身にふりかからないようにしなければ生き残れないからだ」


5.人間不信

中国人は国家を信用していないばかりか、社会も人間も信用していない。妻さえ住用しないのは、もともと他人だからとしても、血のつながった親子や兄弟でさえ信用できないのである。毛沢東の極左政策の時代に、「父母よりも毛主席が親しい」と言う言葉が流行り、当時は中国社会の砦とも言うべき家族まで階級の敵と目され、子が父を告発することさえ頻発した。劉少奇や林彪は、政敵ではなく我が子に密告され、一人は獄死し、一人は逃亡する途中で死亡したのである。

中国のことわざに「一人で廟に入るな、二人で井戸をのぞくな」というものがある。一人で廟に入ると、悪い坊主のカモにされ、殺されて金品を奪われてしまうかもしれない。二人で井戸をのぞくと、相棒に突き落とされる危険があるという意味である。この人間不信社会で生き残り、競争に勝つために兵法が発達した。孫子は「兵は脆道なり」と言った。つまり戦争は詐欺の道だというわけである。中国人気質の最大の特色も「詐」にある。中国人は「詐の民」だという人もいる。親は子に対して「人にだまされるな」と教育し、常日頃口うるさく教えている。

戦後、日本人は中国人の詐欺ぶりを目の当たりにして驚愕した。偽残留孤児、偽難民、偽装結婚、偽造パスポート、闇銀行、偽造卒業証書、偽造プリペイドカード……。自分の利益のためにはどんな物でも平気で偽造するし、どれをとってとも日本人の想像を絶するものばかりだ。

世界中で今大きな問題になっているのは、中国の偽ブランド品である。知的所有権の盗用は別としても、薬、タバコ、酒、食品など、人が健康を害したり、悪くすれば命を落としたりしてもおかまいなしに、どんどんコピーをつくってしまうク中国政府は「打仮運動」と称して偽ブランドの追放キャンペーンを行っているが、効果はまったくない。現在の中国は、公金横領、賄賂横行、汚職天下の国であり、偽物天国である。今日も中国のどこかで偽プランド品が製造され、世界にばらまかれている。

嘘でぬりかためられた人間不信の社会の中で、中国人は上から下までだましあっている。政府はマスコミを通じて民衆をだまし、民衆は面従腹背で良民を装いながら国家を食い物にする。中国人社会で詐欺師が暗躍し、偽物が氾濫するのは当然なのだ。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=248776

6.土匪国家

この数年来の日本における中国人犯罪の急増はいまや常識といえる。実際、外国人犯罪者の半数以上が中国人犯罪者で、新手のピッキング強盗となるとほとんどが中国人の手によるものである。石原慎太郎都知事も、この類例を見ない凶悪犯罪を新聞で指摘しているし、ある自衛隊関係者は、警察署に収容された中国人に提供する食事の一食分の経費が、自衛官のそれよりも高いことをぼやく有様だ。

日本ばかりではない。世界の多くの大都市が中国人密入国者の問題に悩まされている。シベリアヘの中国人密入国者は年間五十万人にのぼるという信じがたい数字も出ている。蛇頭の年間総収入は世界の麻薬密売の収入の数字をとうに超えている。

中国人が海外流出すると、流出した先で社会が大きく変化する。台湾の生活環境の変化は、その代表的な一例である。台湾は戦時中、疎開して家を離れても物が盗まれることがなかった。しかし、戦後、四十万の日本人が台湾から追放され、代わりに二百万の中国人が大陸から流入すると、台湾はたちまち泥棒の国と化した。泥棒の多さは高層ピルの上階でも窓に鉄格子がはまっていることが如実に物語っている。あの特異な建築群の景観は、泥棒のせいなのである。台湾では「中国人を見たら泥棒と思え」という教育を親がするようになった。

九四年、中国の浙江省杭州の千島湖で、台湾入観光客二十四人を乗せた遊覧船が湖上で強盗にあい、全員が船室で焼き殺された事件があった。台湾では有名な事件である。当時の中国政府はこの痛ましい事件が強盗殺人事件であったことをひた隠しにしていた。李登輝総統は激怒し、中国を「土匪国家」だと非難した。

中国が「土匪国家」であることは、歴史的にも知られている。清代の乾隆帝時代、英国の通商使マカートニーは、『奉使記』の中で沿道には乞食と盗賊ばかり目立つと記している。中華民国初期は、「賊のいない山はなく、匪のいない湖はない」と言われるほどで、賊の数は推定二千万人、軍隊より多かった。その当時、上海や満州の各都市では公共パスに武装兵士が最低二人同乗していた。そうでなければ安全が確保できないのである。現在でもいたるところで「車匪路覇」に注意を呼びかける看板がかけられ、改革開放後の中国を特色づけている。九〇年代、匪賊との銃撃戦で殉職した警官は毎年二千人あまりにものぼる。


7.危険な「友好」

親善、好意を示す「友好」という言葉は、本来嫌われるはずがない。だが、中国人との「友好」だけは別である。新聞やテレビなどのマスコミは、米、英、仏、独と日本との大人のつきあいには普通「親善」という言葉を用い、「友好」というキャッチフレーズを使うことはあまり見られない。だが、中国に関するかぎり、なぜか「友好」という言葉が使われ、日中交流の専門用語のようになっている。

戦前、戦後を通して、日本と中国は「友好」と「非友好」に二分されていた。一時、中国との関係はもっぱら「友好人士」や「友好商社」という、中国からお墨付きをもらった一部の日本人に独占されていた。一九七二年に日中国交正常化がなると、日中間の交流は「友好人士」の独壇場でなくなり、やがて「子々孫々にいたるまで」という形容がつけられて「友好」が強調されるようになった。普段、人間不信の社会で生きているので、中国人は人間関係についてことさら「友好」を強調しないと不安に襲われる。

しかし、中国を相手にする側にとって、中国が強調する「友好」ほど不安なものはない。なぜなのか。その理由は「友好」の解釈権がもっぱら中国の側にあり、中国の規定する「友好」におとなしくついていかなければならないからだ。ことにしたたかさをあまり持ち合わせていない日本人は、腹芸が下手でタヌキとキツネの化かし合いができない。しかも日本人は外圧に弱く、中国流の「友好」パフォーマンスに対抗するのがきわめて下手である。

「友好」という言葉を額面どおり受け取っていると、思わぬ落とし穴にはまることになる。実は中国が「友好」を語るとき、ことに相思相愛を語るときが最も危険なのである。それは歴史を振り返ればわかる。たとえば、中ソ、中印、中越戦争が起こったときは、いずれも両国の「友好」関係が蜜月のピークに達した時期にあたり、まさに老子のいう「物極まるときは必ず反(かえ)る」という結果になった。

だいたい人間の歴史で、民族間、国家間に「子々孫々の友好」などあったためしがない。中国との「友好」は、すなわち彼らの独善的な価値観を全面的に受け入れることでしかない。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=248779

▲△▽▼


広東省農民「オラの村が隣の村との戦争で焼き打ちされたんだが…」 
2010-05-16 11:52:14 |

広東省・福建省ネタ2003年ごろ、大学で上海人の学生と知り合った。
当時、卒論で中国の農村を調べようかと思っていた俺が
彼に何か面白い話はないかと聞くと、こんな答えが返ってきた。


上「中国の農村はヤバい。俺たち都会の人間は、
  農村で人を轢いても現場で車を止めるなってことになってる。
  すぐに現場を離れて隣の村まで行ってから、警察に電話するんだ」

俺「なんですぐに助けないの?」

上「助けたいのはやまやまだけど、後が怖いんだよ。
  村人がワラワラ寄ってきて、轢いた人間をリンチして車をボコボコにするんだ。
  その場を離れないと自分の命が危ない」

俺「……そう」


話を聞いた当初、上海人はここまで農民への偏見を持っているのか、と
ちょっと不愉快になった。

だが、後にいろいろと調べてみると、どうやら彼の話はネタではなくマジなのだ。
中国南方の農村(特に広東と福建)は、非常にバイオレンスな顔を持つのである


事件の舞台は中国のディープサウス、広東省最西部。

東山鎮の脚踏村(あしぶみ村)という、名前からして田舎テイスト溢れる村だ。
場所は下記であり、瀬戸内海に浮かぶ旧水軍根拠地の村のような地域をイメージすればいいと思う。  


ちなみに、事件に関わる地名は「広東省湛江市東山鎮脚踏村」及び同「調文村」だが、
これは日本の地名に置き換えると、それぞれ

広東省 湛江市 東山鎮 脚踏村
     ↓
●●県 ××郡 △△町 大字○○

こういう感じになる。


今回の事件は脚踏村と調文村の戦いだが、
つまり大字の町内会レベルで焼き打ちとリンチを繰り返している訳なのだ。

さらにすごいことに、両村の村人がネット上にも事件を持ちこんで
互いに荒らしと叩きに明け暮れている模様である。


械闘が盛行する18世紀と、ネットを駆使する21世紀が同居。
あまりにもカオスすぎる現代中国の農村。
それではご覧ください。


―――――――――――――――――――――――――――――――

【湛江市東海島東山鎮脚踏村、1.28事件の真相告発!】
原題:「湛江市東海島東山鎮脚踏村1.28事件真相!」湛江板
http://tieba.baidu.com/f?kz=709201131

  ※スレ内では、脚踏村の行為やその側の人間の発言をピンク、調文村の好意や発言を緑で表示することにした。


湛江市東海島東山鎮脚踏村で発生した1.28事件は、
更なる暴力事件である2.3事件を引き起こし、
脚踏村の村人の家庭59戸の家屋と家産が悲惨な破壊を被った。

なかでも村人の家5戸は屋内の現金がすべて持ち去られ、
一部の家屋は白昼堂々と焼き打ちにあった。
売店1軒は略奪し尽くされ、無辜の村人3人が殴られて重傷だ。


事件の詳細:

1月28日早朝、
脚踏村の村人が車列を組んで新婚の花嫁を迎えに行って村に戻る際、
東山鎮の調文村出身の新郎・唐某という人物と一悶着があり、
婚姻の車列に参加していた数人の脚踏村の村人が
唐某を殴りつけて重傷を負わせた。


1月29日、
脚踏村の無関係の村人が用事で村の外に出た際に、
事故があった調文村の村人が三叉路まで彼を追跡し、
調文村へと拉致して殴りつけて重傷を負わせた。


2月1日、
(先日、脚踏村の村人に殴られた)調文村の村人・唐某が病院で死亡。
村の不良分子が他の村人を扇動し、白昼堂々と
東山鎮の中心部にある脚踏村民が経営する薬局を襲撃して破壊した。店はほぼ全壊。


2月3日午前、
調文村の数百人の暴徒が組織的に2隊に分かれ、
暴徒の1隊は東山鎮中心部の脚踏村民が経営する店舗をすべて破壊(計3店)。

もう1隊(約200人)は脚踏村へと攻め込み、
罪もない村人を殴りつけ、用意したガソリンに火をつけ民家数軒を焼き打ち、
無数の家屋を打ち壊した。

現地の派出所には飾り物のような警官が十数名しかおらず、
暴徒が村に攻め込んで悪行を働いているのを知るまで1時間もかかった。


現在、調文村の暴徒は尚も現地の主要交通路をバスで封鎖し、
外に出ようとする脚踏村の村人と思われる人間を殴りつけている。
政府と天に対して敵対行為をおこなっているのだ!

1.28事件から2.3事件にかけての負のスパイラルの結果、
現地の警官が村人の安全と財産が残酷にも破壊されるのを
現場で目の当たりにし(つつも何もできず)、
政府の関係部門は社会の秩序を守るという威信を失うこととなった。
現地の治安は大地震の後のごとき無政府状態だ!


1月28日にはリンチ事件から被害者が死亡し、
さらに続いて脚踏村の無辜の村人が暴力を受けて重傷を受け、
村人が経営する店舗が破壊と強奪を受け、
2月3日には暴徒が村に攻め込んで悪行の限りを尽くす。
現地の警察は解決能力が無く、片目をつむって見逃して暴徒のなすがままだ。


正義はどこにある!
政府はどこにあるんだ!!


5 名前:名無し人民@ヒャッハー!
野蛮すぎるだろ。


9 名前:名無し人民@ヒャッハー!
無辜の村人たちの為に、政府が(この混乱を)正しい道に戻してくれるよう願う。

  ※前時代的な暴力のカオスに対して何らかの対応を示せるのは、やはり前時代的王朝たる「お上」なのかもしれない。
   中国の農民の認識として、この発想はあり得るところかと思う。


10 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>>6
政府が正しい道に戻したとして、死者はどうなるよ?


13 名前:名無し人民@ヒャッハー!
これは貴様ら脚踏村の村人が報いを受けたのだ。
天知る地知る、って知っているか?

  ※対立する調文村の村人による書き込みと思われる。


14 名前:名無し人民@ヒャッハー!
死者は無辜の被害者だぞ…。
なんで法律で解決しないんだよ…。

まさか脚踏村の無関係の村人まで責任があるって言うのか…?
今度は脚踏村の村人が調文村の村人を襲撃することだってあるかも…。


15 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>>14
カマトトぶるんじゃねえよ


17 名前:名無し人民@ヒャッハー!
みんなダメだろ。
村人は無辜の被害者だが、全ては起こってしまった。
人も死んだ。
村も荒らされた。

どうしようもない。


19 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>用意したガソリンに火をつけ民家数軒を焼き打ち、
>無数の家屋を打ち壊した。
>現地の派出所には飾り物のような警官が十数名しかおらず、
>暴徒が村に攻め込んで悪行を働いているのを知るまで1時間もかかった。
これは道理が許さない。
政府が罰してくれることを望む!

  ※脚踏村の村人による書き込みかもしれない。


20 名前:名無し人民@ヒャッハー!
当時の状況を知らない人間が、何の権限があってこの事件を批判するんだ。

死んだ唐某は幼い頃に父を亡くして
兄妹数人とともに女手ひとつで育てられた。
彼の母さんは大変な思いで育てたんだぞ。


唐某だって結婚をしたかったんだ。
家は貧乏だったかが、家族がみんな一緒なら幸せだと言って暮らしていた。
なのに、まさか恋人を家に送った帰りに、恋人の村(脚踏村)の
騒ぎ好きの不良どもから殴り殺されるとは。

唐某はなにも悪いことをしていない。無実だ。
彼が半死半生の目に遭うまでリンチされた件、こちらにこそ道理があるのか?


唐某の死は無念だったと思わないか?
もちろん、唐某の村の人間がとった行動は間違っている。
これでは更に多くの無辜の人間を傷つけることになる。

とにかく、感情的にならずに正しい方法で解決してほしいと思う。

  ※最初に殴り殺された唐某について、>>1とやや異なる情報が載せられている。
   おそらくは調文村の村人の書き込みだろう。

   おそらく、調文村の唐某は脚踏村の女の子と付き合っており結婚。
   だが、もともと村同士の仲が悪かったかして、唐君は結婚当日に脚踏村の村人により撲殺されたのだ。

   (中国では結婚式の際に、知り合いが新郎新婦にいたずらをする「鬧房」という習慣があり、
    その悪ふざけの過程で誤って新郎を殺した可能性もある)

   そして、新郎側の村はリベンジのために脚踏村を襲撃した…、というわけである。


22 名前:名無し人民@ヒャッハー!
>>19
>これは道理が許さない。
お前たち脚踏村の娘は、これから外の村に嫁に行けると思うなよ!
お前らの村の娘を嫁にしようとしたら、新郎が村人に殴り殺されたんだ!

野蛮な村人どもめ!
こんな村には、今後は誰も行きやしないさ!!

  ※調文村の村人による書き込みだろう。


25 名前:名無し人民@ヒャッハー!
(脚踏村と調文村がある)東海島の島人はヤクザみたいに言われているけれど、
どうやら噂は間違いないようだな。

こんなに常識の通じない地域は、
放置して勝手に殺し合いさせておけばいいと思う。


27 名前:名無し人民@ヒャッハー!
法治社会ではこういう事件は法律によって解決される。
だが、調文村の村人は集団で脚踏村に攻め込んで
(日本軍のような)「三光作戦」を実行した。

これは旧社会的で野蛮な行為だ!!


29 名前:名無し人民@ヒャッハー!
犯罪を犯したんだ。
お前らの子どもに至るまで略奪し尽くしてやるぞ。

唐姓の人間を許さない!!

  ※脚踏村の村人による書き込みだろう。
   中国南方の農村では、村が丸ごと同じ一族…という場合がある。
   (そのため、1人の体面を傷つけると「一族の恥」ということになり、こういう復讐が行われる)。

   最初の死者・唐某の出身地である調文村は、おそらく唐氏一族の村。
   ゆえに、脚踏村の村人は唐氏の一族郎党を憎むに至るのである。


47 名前:名無し人民@ヒャッハー!
君子はたとえ10年がかかっても仇討ちをおこなうものだ。
調文村をこのままにはしておけん!

  ※脚踏村の村人による書き込みだろう。


56 名前:名無し人民@ヒャッハー!
お前ら、戦いを続けて楽しいか?
それで家族や愛する人が巻き添えになって死んだらどうするんだ?

それでもまだ戦うのか?


69 名前:名無し人民@ヒャッハー!
唐一族は恐ろしすぎる!
脚踏村の1万人の村人が、数千人の唐氏一族に踏み荒らされたのだ。
(略)


82 名前:名無し人民@ヒャッハー!
脚踏村はもともと良くないことばかりしてきた。
二十数年前にも(似たような械闘で)大事件を起こしているしな。

しかし調文村も野蛮だ。
村の勢力を頼みにする大人が多すぎる。


―――――――――――――――――――――――――――――――――


この後もスレは荒れ続け、両村の村人による

「お前の村を滅ぼしてやる!」
「貴様らこそ滅亡しろ!!」

という物騒な書き込みがたびたび見られた。


…ところで、ちょっと話を変える。

中国において、農民が役所を襲撃するといった暴動(官民衝突)はしばしば発生しており、大紀元(法輪功のニュースサイト)なんかで報じられることが多いのもご存知の通り。

そして、中国崩壊論者の人がこれらに対してホルホルして
「共産党独裁政治への庶民の不満が高まっているのだ!」という
根拠として引用したりする。


だが、暴動を起こす農民というのは、このスレで見ればわかるがごとく、
リミットブレイクを非常に容易に起こす人たちなのである。
大した理由じゃなくても暴れるのだ。


一見すると識者ホルホル系の官民衝突のようでも、役所への反乱に見えて
実は単なる村同士の(どうでもいい理由での)戦争が
飛び火しただけというケースも多いのではないか。

また、実際に地方の役所が無道な場合(これも多いのだ)でも、
抗議に立ちあがった農民が知らん間に目的と手段を逆にしてしまい、
「とりあえず暴れたからそんでいいやw」となって
問題の解決を求めないケースもあるのではないか。

良くも悪くも彼らの単純さと不条理さを舐めてはいけないと思う。


暴動といっても、即・反政府や反共産党につながる性質のものとは限らない。
党と軍がひとまず綻びを見せずに存在する限りは、
農民による村レベルでの暴動は、中央から見れば中学生のニキビ程度の日常茶飯事の小事件だ。

「中国にはよくあること」で流せる話なのである。

普通は現場レベルで放っておくし、
ちょっと目立ったら(大規模化したら)、クレアラシル(武装警察)を塗ればいい。
この程度では、脳味噌や人体(共産党や国家)に影響を与えるには及ばない。


…なので、「どこどこで農民が反乱!」というニュースを聞いた際、
すぐに「中国崩壊への第一歩だフハハ」と大喜びしても
只のヌカ喜びだと思うのだ。

「反乱」の背景とか経緯をよく調べた方がいいし、
それが大規模化しかけたところで鎮圧されているようなら、
むしろ「中国の体制は(現時点では)盤石だ」という根拠にすらなり得る。

ニキビは、もちろん疾病要因もあるものの生理体質的な理由でできることも多い。
当たり前のように生まれる赤ニキビに、すぐにクレアラシルを塗れるのは、
共産党が最低限はお肌のケアをしているということである。


もっとも、ニキビの現場にいる人はたまったものじゃなかろうが…。
これが中国の農村だからしょうがない。


http://blog.goo.ne.jp/dongyingwenren/e/a370aaaca87869d375aa1d5ce930e919
_________________
_________________


広東省農民「オラの村が隣の村と戦争をはじめるらしいんだが…」

2009-11-08

広東省・福建省ネタ今回取り上げるのは、広東省の「械闘」である。


…と言っても何のことやらわからない読者が大部分だと思うので、
ここはひとつYahoo辞書先生に語句解説をしてもらうことにしよう。


 かい‐とう【械闘】
 革命前の中国で、水利や地境などの争いなどを原因として起きた
 部落や労働者集団間の武力闘争。清代には華中・華南に多かった。


中国南部の械闘には、「宗族」と呼ばれる父系血族の集団同士で争われる例が多い。
(→要するに、陳さん一族VS張さん一族みたいな感じでのガチバトル)


一族と言っても、勢力は数百人以上。一村以上の単位での総動員である。

外部から傭兵を連れてきた場合は数千人以上が激突する大合戦となり、
海外に渡った華僑の親戚たちが銃や火砲まで援助してくるのでタチが悪い。
村は、平時から堀や砦が築かれて完全武装だったりする。

械闘は清代の康煕雍正年間(18世紀初頭)から盛んに発生するようになり、
なんと20世紀前半の中華民国時代まで普通に続いていた。
広東省や福建省で特に多く、台湾でも日本統治時代の直前まで盛んにやり合っていたらしい。


…宗族の械闘の原因は、当初は

「うちの一族の村の水を取るな」とか「うちの一族の風水を切る場所に墓を作るな」
という相応の理屈に基づいたものだったようだが、
何百年も対立しているうちに当事者たちも理由を忘れてしまい、
なぜ戦っているのか不明のままドンパチやっていることも多かったようだ。

民国初期に福建省の統治を担当させられた役人が、上司の袁世凱に
「こいつらマジで洒落ならん。勘弁」
と報告していたりするから余程の事なのである。


そして「新中国」の成立後。

農村の宗族組織や封建的な支配関係は共産党様によって解体され、治安も向上。
械闘の風潮はおさまった、とされている。

だが、どうやら実際のところは全然おさまっていなかったようなのだ。


百度の「広東」板より、ディープすぎるスレをご覧ください。


原題「械闘」 広東板
http://tieba.baidu.com/f?kz=269824098


俺たちの村は広東省汕頭市潮南区、司馬浦仙港郷の辺りにあるんだが、
隣の村との関係がずっと良くないのだ。
歴史上、たびたび武力衝突をしていたのだが、
20年前からは特に大規模な闘争は起こっていなかった。

しかし、先月30日に俺の村の共産党支部書記が
(奴は十年以上この職にあり、偽造タバコを作って儲けている地方皇帝だ)
隣の村に行って先方の代表と話をして、帰ってくるや隣村と戦うと言うんだ。

少なくとも鉄パイプ300本以上、ライフル十数本を準備した。
村の老人たちの大部分は開戦を支持している。

派出所の警官がやってきたが、
あれやこれやとタライ回しをされるだけで、解決できないままに去っていった。

地方皇帝いわく、
各戸ごとに少なくとも1人を動員せよ。
出さない家は敵を攻撃するついでに打ち壊す。
各戸ごとに100元を拠出せよ。
戦死した場合は10万元の見舞金を保証する。

昨夜、俺はさまざまな奇怪な声を耳にしながら寝た。
今日、戦いを始めるらしい。
すべての準備は完了して掛け声を待つばかりのようだ。

これは何時代だよ?
なんで俺の村はこんなことやってるんだ?

みんなすまない。
この事を拡散して多くの人に知らせてくれ。


広東の海陸豊地域では、俺が小学生のころまで烏旗軍と紅旗軍が戦っていたぞ。
なにか事があって紛糾すると、烏旗勢力に属する村と紅旗勢力に属する村とが棍棒を持って村境に集まるんだ。

中学に上がってからは似たような事件はもう無くなった。

烏旗軍と紅旗軍は政治とは関係ない。
宗族と関係があるんだ。


  ※海陸豊地域…現在の広東省東部・汕尾市に位置する海豊市と陸豊市のこと。
         民国時代には、軍閥革命家の彭湃という人物が「海陸豊ソヴィエト」という
         カオスな名前の政権を樹立したりもしている地域である。
           


  ※烏旗と紅旗…もともと、福建省や広東省は「宗族」という父系血族の団結がめちゃくちゃ強い地域。
           村ひとつがまるごと「李」さんや「陳」さんの宗族だったりする。
           (→中国でよく見る「李家鎮」とか「陳家囲」なんかの村名を想像するとわかりやすい)

           で、宗族同士が械闘(=武力衝突)をやってるうちに、
           戦国時代のように宗族や村が合従連衡して連合軍を作る場合がある。烏旗と紅旗もそのひとつ。
           この手のケースは清代中期から盛んになり、福建省仙游県の「烏旗軍と白旗軍」の対立とか
           福建省晋江市の「東佛軍と西佛軍」の対立とか、類似例は数多くある。

           現在はさすがに正面切っての大戦争はやらないようだが、
           暗黙の了解で隣の村が敵対派閥に属していたりする。現地に工場なんかを作る場合は注意が必要。


…清代の中国(特に南部)の農村部では、
科挙に合格したが官僚にならずに地元に残った
「郷紳」という半官半民の実力者が村や宗族を牛耳る事例が多かったという。

悪徳郷紳(=土豪劣紳)のなかには、
密輸や汚職で私腹を肥やしたり、械闘を扇動するような手合いもいたらしい。


いっぽう現代の中国の農村では、地域に土着して土皇帝と呼ばれるようになった
下級共産党幹部が過去の劣紳にかわって村を牛耳っているようである。


儒教イデオロギーが「中国の特色ある社会主義」に変わっただけで、
結局は現代の中華人民共和国も、下層部では歴代中華王朝とそっくり。
そんなことを今回の事例から感じる次第。


…おらこんな村いやだ。
http://blog.goo.ne.jp/dongyingwenren/e/dbd9f05454ebcc6ef12699aaaeaba4e8

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c11

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
12. 中川隆[-10693] koaQ7Jey 2019年4月18日 12:12:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1362]

特別番組「日本人は毛沢東が書き換えたウソの歴史に騙されてきた
〜真実の中国史」宮脇淳子 海上知明 倉山満 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=D8fDflyvM5c


2018/04/10 に公開

真実の中国史[1840-1949] (PHP文庫)
宮脇 淳子 : http://amzn.asia/0qx4IO0

教科書で習った中国史は、
現代中国に都合のいいように書き換えられたものだった!

日清・日露戦争の意義、満洲建国の実相、孫文や毛沢東の実像について、
日本人は驚くほど誤解している。

それというのも、毛沢東が、中国共産党の歴史的正統性を証明するために、
日本から影響をうけたということを、歴史からいっさい抹殺したからである。

本書は、気鋭の歴史学者がアヘン戦争から中華人民共和国設立まで、
日本人が知っておくべき中国史の真実に迫ったもの。
次々と明かされる歴史の裏側″に触れることで、あなたも、
日本人の歴史観が、いかに歪んだものかに気づかされるに違ない。
ロングセラー、待望の文庫化。


▲△▽▼


歴史学者・宮脇淳子 満州国の真実


「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち「清朝の最盛期第六代乾隆帝」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=av0eVeXxSsA

「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち「第七代嘉慶帝」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6Gkih3r_LFg


「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち「アヘン戦争から日本の近代が始まった〜第八代道光帝」
宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Pn6mzjLpiLA


「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち〜第十代同治帝・十一代光緒帝」
宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=cBqwC5moJS0


皇帝たちの中国「清朝最後の皇帝溥儀」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Qn5Z3Bs_xD8


特別番組「満洲国から見た近現代史の真実」
宮脇淳子 倉山満【チャンネルくらら・4月13日配信】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=90Py-KyxCXg


歴史学者・宮脇淳子 満州国の真実 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90++%E6%BA%80%E5%B7%9E  



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c12

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
13. 中川隆[-10692] koaQ7Jey 2019年4月18日 12:16:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1363]

毛沢東は毎晩幼女とセックスやり放題だったらしいな


64 :名無的発言者:04/12/24 00:54:06

毛沢東は一生歯を磨かず、いつも性病だったと、侍医が書いている

7 :名無的発言者:04/12/21 16:56:56

主治医の李先生によると、毛主席は「トリコモナス」だったそうだ。
トリコモナスはピンポン感染をする性病だから、 少女たちもみんなトリコモナスだ。

31 :名無的発言者:04/12/22 05:53:01

愛液でち○ぽを洗っていた毛沢東

35 :幼女大好き♪ ◆YOUJOeb8h6 :04/12/22 15:41:34
>>31
幼女のでか?!


36 :名無的発言者:04/12/22 15:55:40

風呂に入らないことを主治医に注意されたら、

俺は女のマソコの中でチンコを洗ってる

って嘯いたんでしょ?

67 :名無的発言者:04/12/24 13:01:36

一生歯を磨かないっていうのが信じられん

68 :名無的発言者:04/12/24 16:10:53

風呂に入らんわ、歯は磨かんわ。

年端も行かない少女が、こんな奴の夜伽をさせられるとは、喜び組より悲惨だな。


69 :名無的発言者:04/12/25 02:02:54

即尺はチンコ洗わないですると感動するよねー

70 :名無的発言者:04/12/25 03:03:24

12,3歳くらいの女の子にナマ尺してもらったらイッパツでいきそう

95 :名無的発言者:05/01/03 21:51:20

毛沢東は、中国のことよりも幼女のことで頭がいっぱいでした。
ロリコンは、究極の生きがいだと豪語した鬼蓄。

110 :名無的発言者:05/01/04 21:32:41

毛沢東は、中国の政治よりも幼女の方が大好き。

「今日は、8才の乳をシャブリました。」

やっぱり毛沢東は、鬼蓄だ!

96 :名無的発言者:05/01/03 22:08:01

12,3歳くらいの胸のふくらみはじめた少女たちの陰部や乳首をしゃぶり上げたんだろうなあ
毛沢東

101 :名無的発言者:05/01/04 02:21:15

12,3歳くらいの生理が始まったばかりの少女たちにナマ中出しして妊娠なんかさせたのかな

そういう少女が1000人くらいいるんじゃないかな
少女が痛がっているのに太いマラを入れたり出したりしたのかな


115 :名無的発言者:05/01/05 13:30:53

いや、中出しはしていなかったそうだ。接して漏らさずだ。
若い女性から精気を吸い上げる目的で毎晩やっていた。
彼は中国の古典から仙人の養生法を学びそれを実践した。

いわゆる「毛沢東の実践論」だ。

16 :名無的発言者:04/12/22 00:13:00

中国人って処女とやると若さを保てると思ってるんでしょ!
東南アジアでも高い金払って処女買う人は中国人ばっかみたいあるね

28 名前: 転載氏 投稿日: 02/02/16 01:51 ID:DhwpEfGi

晩年、毛沢東は、夜な夜な10代の処女の少女と交わったという。中国では、処女の少女と交わることで、若さをすいとるという信仰がある。別に毛沢東がロリコンというわけでない、長生きしたいだけである。

なお、 東南アジアでは、ロリコン日本男性と華僑の男性が、少女売春のお得意様である。日本男性の場合は、ロリコンであり。華僑の場合は、回春であり、処女に大金をかけている。民族性がでていて、実におもしろい。


97 :あ:05/01/03 22:56:47

ロリコン教教祖毛沢東
信者13億

105 :名無的発言者:05/01/04 17:53:19

まとめると

一生歯を磨かず、風呂にも入らず、性病持ちで、その体で幼女と姦りまくりで、
自国民を数千万人虐殺したのが建国の父ですか。

支那人にはふさわしいですねw

98 :名無的発言者:05/01/03 23:09:24

ロリコン云々より、自分の好みの女で周りを固めるって、支配者のやることじゃないな

114 :名無的発言者:05/01/05 12:42:09

中国の国家主席は独裁者だから何をしても誰も咎めない。
毛は側近に付く女性に毎晩性処理をさせていたし。

73 :名無的発言者:04/12/25 13:49:25

毛沢東の私生活を本に書いた侍医はどうなったのかな。消されちゃったの?

毛沢東が地方に行くと必ずダンスパーティーがあり、会場に隣接したベッドルームに気に入ったパートナーとしけこむのが例だったそうです。

84 :名無的発言者:04/12/27 14:29:33
>>73
>毛沢東の私生活を本に書いた侍医はどうなったのかな。消されちゃったの?

発売日の前日に、厳重な警備の中、北アメリカの自宅で変死したんだろ。

全身に指先か棒で点穴したような痣があり、検死でも原因不明だったらしいね。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c13

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
14. 中川隆[-10691] koaQ7Jey 2019年4月18日 12:18:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1364]

毛沢東の私生活 李 志綏 著


「もし私が殺されてもこの本は生きつづける」の言語を残し、著者は本書が発売された3カ月後、シカゴの自宅浴室で遺体となって発見された。また北京政府は「事実無根の書」として、事実上発禁扱いにした。

http://www.amazon.co.jp/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E3%81%AE%E7%A7%81%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9D%8E-%E5%BF%97%E7%B6%8F/dp/416730970X

『毛沢東の私生活』は、毛沢東付きの専任医師であった李志綏が、1980年代にアメリカ移住後に書いた回想録。1994年に世界各国で同時出版された。この本は中国大陸本土では出版が認められていない。

李医師はこの著作で、毛沢東の権力絶頂期から死に至るまでの二十数年に渡る私生活を日常的に目撃観察している。毛の堕落した私生活(とりわけ性生活)、文化大革命期を中心とした中国共産党内部の権力闘争、プロパガンダのすさまじい運用(大躍進政策など)、1972年のニクソン大統領訪中前後の毛の興奮などが詳細に述べられている。
また李は、文化大革命が自身の家族に及ぼした影響、医師として診た毛自身の独特な生活態度(風呂には一切入らないなど)も具体的に述べている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E3%81%AE%E7%A7%81%E7%94%9F%E6%B4%BB

イギリスのBBC放送が毛沢東生誕百年を期して作成した「中国叢談」は、一九五四年から毛沢東が死去するまで二二年間にわたって侍医を務めた李志綏の証言をもとに「裸の毛沢東、最晩年の孤高と絶倫」を完膚なきまでにえぐっている(浜本訳、『THIS IS 読売』九四年四月号)。

「無法無天」の形容句に恥じないセックスライフについて巷間のウワサは絶えなかったが、今回は侍医の証言だから信憑性がきわめて高い。固有名詞として登場するのは、謝静宜(文革期に北京市委員会副書記)、張玉鳳(生活秘書)、孟錦雲(生活秘書)の三人だが、性関係をもった「教養の低い」女性は「非常に大勢」であった。


「普通の人間ならあれほどの年齢になれば性欲もなくなるのだが、毛の場合は性欲を自分の生命力を測る尺度にしていた。性欲がなくなれば生命力がなくなったも同じ」

と考えてセックスに励んだというから、好色爺そのものだ。


李志綏は「毛が本当に悲しみ、涙を流す姿」を見たことがないという。

陳毅元帥の葬儀で涙を流したという有名な話を李志綏は否定する。

「あの時私は毛のそばにいたからわかるが、泣いてなどいなかった」。
http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc/sk940403.htm


上巻p156

歳月を経るにしたがい、こうしたダンスパーティー、そしてパーティーに参加した女性の役割は私にしてからが思わず目をおおいたくなるほど露骨なものになっていった。

1961年に毛沢東の専用の特製ベッドのひとつがダンス開場に隣接する一室に移され、主席がダンスの途中で「ひと休み」できるように配慮されたのであった。私はいくども、主席が若い女の手をとり、その部屋につれこんで後ろ手にドアをしめる光景を目撃している。


上巻p167

張は、主席の歯なみに固着した歯苔の分厚い膜や、歯の隙間にたまった食べかすを取り除くことで口中の掃除をした。


「主席、毎日ブラシで歯をおみがきになる必要があります。苔がたまりすぎです。」

「いやだ」毛は、反発した。

「私はお茶で口の中をすすぐ。みがいたことなんかないぞ。虎はけして牙をみがかない。それなのに虎の牙は、なぜするどいのか」

毛沢東の理屈は、しばしばこんな調子で飛躍する。こちらは返すべき言葉もなかった。

    
奥さんの江青は、ヒステリーで、お付きの人を虐め抜くし・・

 
上巻 p429

私は、まだ毛沢東の過剰な性欲に気がついていなかったし、毛沢東が自分を捨てるのではないか、と心配する江青に対し、そんなことはないと 安心させたという主席の話を思い出しただけであった。また、その時点で、かかる問題についていえば、江青の方が私よりもずっとはっきり「現実を見抜いている」ことを 私はまだ気づいていなかった。

毛沢東の性欲は けたはずれであり、セックスと愛情は、彼にとって別ものだった。

      

 
上巻 p481

上海会議のあいだ、毛沢東は、専用列車のなかですごした。豪華なハードーン旧邸は居心地が悪かったのと、列車付きの若い看護婦とまだ関係が続いていたからだった。

相変わらず大胆に夜ごと看護婦を「錦江倶楽部」に同行した。


公安当局者は、地元のもっと有名な女優や女歌手との接見を手配したが、毛沢東は、当局の選択に少しも関心を示さなかった。女たちは、年をとりすぎているうえ口が達者で世間ずれしすぎていた。

もっと年若く、世間知らずの娘が毛沢東好みであった。そのほうが 御しやすかったのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/naomi_shararan1998/25584225.html


毛沢東のエッチ [スペインのハエ (R-18)]


緊張に包まれた毛沢東主席の宮廷!で無学!無教養なのにいつもちょろちょろしていた人がいたそうです。

その葉子龍と名乗る男は主席の執事が表の顔!

裏の仕事は女性調達係でもあったそうな。


農村地方のあちこちから若い少女が無邪気に寝室にやってきたそうです。

主席は並外れた性欲の持ち主。ま!王様になったら食欲や性欲や殺人欲が解き放たれますわな。

しかし!絶倫の割りにはそんなに立派なモノを持っている訳ではなかったようです!?

長年!主治医だったリ(李)医師は「毛沢東の私生活」(新庄哲夫訳)に書いています!

性器の包皮が異常にかたくてめくれず入浴はしないから感染症の心配があり左側の睾丸は通常より小さく右側の睾丸にいたっては腹腔内のまま!いんのうまで下降していなかった云々。

おそまつ!の部類だったようです!

この世で主席の恐れるものはただひとつ!

インポテンツだったそうです。

それだけにはなりたくない!

なぜなら!そうなると仙人になれない!?


結局!

中国古代の帝王「黄帝」の「多接」「少泄」「易女」「御少女」で100歳まで生きて仙人になった伝説!に行き着くのでしょうか!?

権力者の夢は誰も!復活と!永遠の命!


「御少女」とは14歳から19歳までの娘らしい!?
だから!主席には多くの少女が必要だった?!

葉子龍は彼女たちに謝礼として数百人民元からせいぜい2千人民元を渡していたといいます。今でもわずかな額ですが多分!昔は日本円でいえば100円にも相当しなかったのでは?!

永遠の命を買おうとする大金持ちにしちゃあケチですね!

彼女たちは主席への忠誠心からお金には関係なく喜んでいたのかも!?

歴史は寂しい、、、ですねぇ。

http://audrey-hotaru.blog.so-net.ne.jp/2007-10-09


 『毛沢東の私生活』というこの本は、毛沢東の傍に長年付き添った主治医の回想録である。革命後の中国で何万人と餓死する人間がでようと、豪奢な暮らしを続けた党幹部たち。その実体がいかほどであったかが暴露されている本だ。

 これを読むと、一体「人民のための革命」とは何だったのか? と思う。

 あの文化大革命で、あらゆるものが“ブルジョア的”“反革命”と標的に合い、攻撃され破壊されたというのに、なんと! 毛沢東の屋敷の中ではアメリカ映画の上映会が開かれ、「ダンス・パーィー」が毎週のように開かれていたとある。

 『将軍様の踊り子』という北朝鮮には金正日に仕える美女軍団がいるということだが、まさにそれと同じ、中国全土各地から選ばれた美女達がその「ダンス・パーティー」で毛沢東の相手をするために集められるのだ。ダンスのみではない、気に入った女性を毛沢東は別室に連れ込んだとある。

それが毛沢東の日常だったのだ。なんということだろう! 由々しきことだ。信じられないことだが、しかしこれは四六時中毛沢東に付き添い仕えた主治医の手記なのだ。

党幹部達はみな見て見ぬふりをしていたとある。


 「オウム真理教」でも教祖が気に入った女性信者をイニシエーションと称してセックスを行っていた。自分の欲望を教義に組み込み、教祖とセックスを行えば一段と高いところへと昇華できると信じ込ませていた。熱狂的信者であれば、それも厭わない。 こと性に関しては毛沢東とて同じだった。

「ダンス・パーティー」に集められた若い女性たちは、国家主席のために身を捧げることを厭わなかったのだ。彼女たちだってそれを承知で集められていたのであり、その「ダンス・パーティー」の目的を知っていたのだ。


 
『英雄色を好む』とは、昔から言われてきた言葉です。しかし、古代の皇帝や江戸時代の大奥の話しでもなく、まがりなりにも「共産主義」の“人民の国”中国で、餓死で国民が死んでいる最中です。「右派反対闘争」と言って、資本主義の悪を駆逐する共産化運動が進められ、容赦なく粛清が行われていた時です。山水画までブルジョア的と標的に合い、大量に焼かれた時代です。最も高潔、人民の模範、清廉潔白、聖人君子であらねばならぬはずの指導者毛沢東の私生活がこれなのですね。


 勿論この高潔・清廉潔白というのは「公人」としてであって、相方合意の上の男女がどれだけ性的な関係を持とうと、とやかく言うことではないと思うのです。政治家であろうとプライベートでの生活、趣味の領域に立ち入るべきではなく、愛人がいようと、何人の女性と性行為を持とうと、強姦のような犯罪行為でないかぎり、それはかまわないことです。毛沢東とてとやかく言われることではないでしょう。

 しかし、公邸内で公金で行われているとしたら、それは問題です。しかも何万という人が餓死している中で、宴会が開かれ、楽隊が呼ばれ、雑伎団の余興があり、隣りに特製のベッドルームがしつらえてあるということは問題だと思うのです。

 「人民のため」「国民のため」と、腐敗や堕落を許さない「共産革命」を起こしたところで結局コレなんですね。国民は給料もなく「現物支給」という制度で、公平に大食堂で食事が取れるということになっていても、その支給される現物も限られ、食べるものがない。しかし高級幹部は豪邸に住み、別荘を持ち、豪華な暮らしをして色情に溺れる。
 
  毛沢東は視察を好み、中国各地に出向くことが多かったようですが、「大躍進」という毛沢東が打ち出した生産増大スローガンはまったく機能していなかったのが実体で、農作物の不作を訴える地方の幹部に、『何故一毛作で、二毛作をしないのか』と叱咤したという。温暖な日本でも米の二毛作などできる所は限られている。しかし生産が上がっていない地域は“やり方”が悪いということになって、それは幹部の責任となる。生産性が低いということは、「反革命」とされたのだ。

 そのため正しい情報は上げられなくなり、獲れてもいないのに“大躍進”しているという偽の報告書が出され、そのために農民は益々苦しい生活に追い込まれていくのだ。日本が戦争に負けているのに、決して劣勢であるとは言わず「大進撃」と嘘の発表をしていた大本営と同じだった。

 「大躍進」政策の最中には、「裏庭煉高炉」といい、名ばかりの“鉄高炉”が各地区に作られたが、それは農民達の鍋釜を溶かして再び再生するという、「鉄高炉」とはとても言えない代物だった。「鉄」の生産どころか、単に作り直しをしていただけで、そのため人民は鍋釜が家庭からなくなり、白湯も飲めなかったとある。貴重な石炭や燃料がこのために浪費されただけであった。

 毛沢東が地方巡業すれば、1万5千人もの護衛が召集され、行く先々の鉄道の沿線、駅、すべてに配置され、何万という人が餓死している最中でも、その歓迎のセレモニーが毛沢東のために催されるのだ。 貧しい村に訪れたとき、空調もない部屋に毛沢東夫人である江青が怒って、最新の空調設備がすぐ取り寄せられ備えられたとか、シャワー設備を整えたという話しがあります。

 毛沢東が泳ぎたいと急に言い出したから5キロに渡って川周辺が警備されたとか、その大旅団のために鶏2000羽が食料として集められたとか、何度もくどいように書きますが、あくまでも人民が餓死している中で、こうした視察が繰り返されていったということです。
 
  これをどう考えたらいいのでしょう。モラルというものは、上に立つモノだからこそ律しなければシメシがつきません。範を示すというのが上に立つモノの勤めです。しかし毛沢東はじめ党幹部はその特権にあぐらをかき、人民だけに過酷な労働と規律を求めていました。 毛沢東は生産向上のため「大躍進」という政策を打ち出しますが、【『毛沢東秘録』】にも書かれていたように、その政策を批判した劉少奇は毛沢東に恨まれ粛清されていきます。毛沢東の政策に異を唱えるものは、共産革命の同士でさえ「反革命」だったのです。

 さすが餓死するものが何万人と増え続けると、毛沢東は「肉」を口にしなくなったと言いますし、身内が特権的な扱いを受けることを嫌ったとありますが、こと自分となるとそれも違ったのでしょうか。それを一番の回春剤と考えてか、若い「人肉」、女性の肉体だけは求め続けたようなのです。

 今問題になっている、税務調査会長の官舎に愛人を住まわせるなどいう公私混同はカワイイ事なのかもしれません。毛沢東は公邸の中に売春宿を作っていたようなものです。
 
  結局、こうした「権力者」のあまりにも国民から乖離した意識構造、「金」と「女」と「地位(権力)」への欲望は、共産主義社会であれ資本主義社会であれ、同じなのですね。

 
 この本では、毛沢東の乱れた女性関係、ワンマンで言うことを聞かない独裁者としての身勝手な行状ばかりが描かれている。後世まさかこれほど悪し様に自分の私生活が暴露されるとは思いもよらなかったであろう。どの『英雄伝』であろうと“私生活”が暴かれたら形無しだ。 

 もともとフルッショフがスターリン批判をしたことに端を発し、右派(修正主義者)撲滅運動が中国で始まる。それが文化大革命にまでつながっていくのだが、党の機能がしなくなるほど、党内でも粛清の嵐が吹きまくる。その後毛沢東が取った路線はアメリカや日本との国交回復、資本主義社会との提携だった。フルッショフを毛嫌いしソ連と国交断絶した毛沢東は、支援の相手国に日本やアメリカを選んだのだ。

 中国はまだ「共産党」と名称は変わっていないが、実体は資本主義経済と同じ、今や世界の物資不足を引き起こすほどの大躍進を遂げている。そうなると、一体「共産主義革命」は何だったのだろうと思う。ブルジョア的・修正主義と批判され、何万といった人々が吊し上げにあい、拷問され、「反革命」と落胤を押され死んでいった。

http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/12/post_2143.html

毛沢東はセッ○ス狂


毛沢東は自室で思いのままにメモを取っていたようだ。その時々の気分であったり、政治的な事柄であったりもした。それらはゴミ箱の中から側近が拾い集め、密かに保管していたらしい(李鋭談)。また自分自身の個人的な記録も取っており、その内容は性的なものまでも含んでいた(中南海医師、李之随談)。李は「毛沢東をセックス狂だ」とみなしていたという。(『ニューエンペラー上』第六章 注釈17)

幹部の一人康生は、毛沢東の春画集めに多大な貢献をした。康生は江青を毛沢東に引き合わせた人物であり、その後も毛沢東の踊り子達を調達し続けた人物でもある。江青が10代の頃、康生の邸宅で下女として働いていたという噂がある。


「彼のベッドは若い女でいっぱいだった」

(ルイ・アレイ、ソールズベリインタビュー:1987年10月21日北京)


康生は毛沢東の性癖を満たすのに大いに活躍したが、彼自身も旺盛で次のようなエピソードがある。

紅衛兵によって通りに放り投げられた古い手稿や絵画の山を漁り、焼き捨てられてしまう前に、なかから貴重な春画を見つけだしては自分の懐に入れた。
http://a340.oops.jp/mao/mao03.html

 ユン・チャン、ジョン・ハリデイ著、土屋京子訳『マオ(上・下巻)』(講談社、2005年)は、合計1119頁もにわたり、新たな資料と綿密なインタビューによる証言に基づいて毛沢東の生涯を検証した意欲溢れる大著である。「人間」としての毛沢東を描写すること自体、現代中国において重大な禁忌であるので、極めて勇気のある行為である。日本で言えば、「天皇制」を論ずる程に困難、重大、それに果敢な行為である。『マオ』の大胆な仮説の面白さと骨太な筆致に思わず引き込まれて一気に読了した。また、実際読んでみて新しく学んだ事実や「人間」としての毛沢東の生々しい描写から大いに触発を受けた。


 小生は毛沢東研究の専門家ではなく、このような膨大な大著から専門家のように広大かつ深淵な読み込みはできない。しかし、素人なりにこれまでに読んできた数冊の著作を頼りに学んで得る事のできた『マオ』の読後感を述べたい。
 なお、『マオ』からの引用については、以下(上巻、323頁)のように記す。

 
 まず、「人間」毛沢東を冷静に見る上で役立った著作に高島俊男著『中国の大盗賊・完全版』(講談社、2004年)がある。第1章の陳勝(ちん しょう)・劉邦(りゅう ほう)にはじまり、朱元璋(しゅ げんしょう)、李自成(り じせい)、洪秀全(こう しゅうぜん)、そして、第5章の毛沢東からなる。盗賊の側からの歴史として中国史上、有名な人物を面白く紹介している。1989年に『中国の大盗賊』が出版されたが、紙面数の制限と当時、「社会主義中国」を信じる人が多かったという背景から「毛沢東」の部分を廃棄して出版した。その後、読者から「毛沢東」の部分も読みたいとの要望が多くあり、完全版の出版となった経緯をたどった著作である。

 「盗賊皇帝」としての視点に反発を感じる人もいるかもしれない。しかし、悠久なる中国史を視点を変えてみた時、中国の歴代皇帝としてのスケールの大きさを毛沢東にみてとることが可能である。20世紀の中国は、100年以内に2度も統一政権が革命によって交替したという中国史上初の経験を経た。そこで、前世紀における蒋介石と毛沢東を比較してみる。

 前者は杜月笙(と げっしょう)、後者は康生(こう せい)(毛沢東の第四番目の夫人、江青(こう せい)とは別人)というマフィアのリーダー出でスパイをはじめ、裏の汚い仕事を請け負う人物を暗躍させていた点では、共通項がある。小生は蒋介石と毛沢東の大きな違いの一つにカリスマ性の大小があると考える。前者は「蒋・宋・孔・陳」のいわゆる「四大家族」による開発独裁の国の独裁者水準であったが、後者は個人崇拝を強固に推進し、周恩来が宰相役を演じ、輔弼(ほひつ)するような状況であり、さながら、歴代王朝の皇帝を彷彿させる。『マオ』には「蒋介石は最初から最後まで私情に従って政治や軍隊を動かした。そして、そのような弱点とはまったく無縁の毛沢東という男に負けて中国を失った。」(上巻、524頁)との指摘があるが、小生は共感する。

 高島氏の平易で要領を得た著作からは『マオ』を理解する上で大いに役立った。例えば、井岡山に関しては、「井岡山の道」(2)の章にある古来の盗賊のしきたりからの解説で納得できた。後で、毛沢東と女性たちとの関わりのところでも触れるが、毛沢東は家族に対してさえも非情であった。例えば、高島氏は敗走した劉邦が、背後から敵の騎兵が迫ってきた際、車を軽くするために同乗していた子供たちを次々と車から突き落としたことが紹介されている。(3)毛沢東も我が子に対し、愛情が酷薄だったという『マオ』での指摘がある。非情さにおいても皇帝級の人物だったという印象を小生は得た。そして、中国史上で稀有な存在ではなく、これまでも類似した傑物が存在したとして落ち着いて『マオ』について、考えられるようになった。
 
 毛沢東と女性たちとの関わりについて感想を述べる。鋭く厳しく批判的に描写されており、『マオ』を読んでいて最も印象的なテーマであった。特に、楊開慧(よう かいけい)に関する新発見には驚いた。小生は、毛沢東は生涯最も愛していたのは楊開慧であったとばかり思ってきた。そう思ってきた理由は次のとおりだ。エドガー・スノーらアメリカ人ジャーナリストが、革命に殉じた素晴らしい女性として印象的に語っていた。また、楊開慧との間に生まれた長男、毛岸英(もう がんえい)が朝鮮戦争で戦死した時の司令であった彭徳懐(ほう とくかい)をその時は許したものの、後に大躍進政策に反対したことを理由に罷免し、不遇な境地に追い込んだ。その理由の一つには、やはり長男に関する復讐であると小生は思っていた。

 しかし、『マオ』には、「毛沢東は悲しい表情ひとつ見せず、不幸があったことを疑わせるような一瞬の陰りさえ見せなかった。それどころか、毛沢東は、まるで岸英が生きているかのように、彼について冗談を飛ばしたりしていた。」(下巻、90頁)とある。岸英のことを自分の後継者とばかりに期待していたと、小生は想像していたことがあったので、非常に驚いた。あえて周囲に対する芝居をしたのではなかったのかと、『マオ』の記述を疑いたくなる程驚いた。

 さらに、「第七章 さらなる野望、妻の刑死」を読んだ時に得た衝撃は大きかった。楊開慧は毛沢東を愛していたものの、毛沢東の共産主義思想には懐疑的であった。そして、上巻の156〜159頁の楊開慧の文章からの引用にあるように、毛沢東に無視された挙句、見殺しにされていた。「救おうと思えば、容易に救えたはずだ」(上巻、159頁)の言葉に著者の怒りを感じた。女性を弄んだ挙句、捨て去るといったものだ。

 そうした女性軽視の毛沢東の姿勢は、毛沢東の第三番目の夫人、賀子珍(が しちん)(ホー・ツーチェン)についての記述でも著者の怒りの姿勢は如実に出ている。賀子珍にとって毛沢東は人生最大の後悔ともいえる存在だった。下巻の213〜215頁にあるように毛沢東の気まぐれのために回復不可能な精神異常をきたすに至る悲惨な人生だった。


 毛沢東の漁色と形容できる女性に対する執着については、彭徳懐の回想録に相当する  彭徳懐 著、田島淳 訳『彭徳懐自述』(サイマル出版会、1984 年)や『マオ』の中でも、彭徳懐が毛沢東を厳しく批判していることが詳しく紹介されている。京夫子(チン・フーズ)著、船山秀夫編訳『毛沢東 最後の女』(中央公論新社、1999年)で紹介されている張毓鳳(ちょう いくほう)という毛沢東の側近であり、看護師だった女性からみた毛沢東像も貴重である。そして、李志綏(り しすい)(リ・チスイ)著、アン・サーストン協力、新庄哲夫訳『毛沢東の私生活(上、下巻)』(文藝春秋、1994年)には、著者が毛沢東の侍医だったので、書名どおりに詳細に記されている。

例えば、毛沢東の第四番目の夫人、江青について、『マオ』では、「何よりも、江青は夫を恐れていた。」(上巻、452頁)、と指摘しつつも、どんなに汚いことも実行できる悪女として描写している。江青悪女観は今日の中国人の考えとしては一般的である。李志綏は江青の権力基盤は毛沢東の権威であり、毛沢東に捨てられることをひどくおびえていた、と鋭く指摘し、江青もまた、毛沢東の犠牲者として分析している。看護師と医者が出てきたところで、次に毛沢東の健康状況について触れる。

 
 李志綏の前掲書は毛沢東の健康状態を詳細に紹介している。それについて、要約している著作がある。小長谷正明(こながや まさあき)著『ヒトラーの震え 毛沢東の摺(す)り足』(中央公論新社、1999年)である。「神経内科からみた20世紀」というサブタイトルにあるように、著者は神経内科の専門で、読みやすく毛沢東の病気について紹介している。

 毛沢東は筋萎縮性側索硬化症(ALS)だった。この病気は「脳からの命令が伝わる通りみちである側索と、その命令を中継して伝達する前角神経が、ゆっくりと機能しなくなり、運動神経からの支配を喪失した筋肉がやせて萎縮してしまう。手足は麻痺することをはじめ、食事や言語障害を生じ、ついには呼吸障害まで引き起こし、死に至る病である。今日でも治療法は存在せず、毛沢東の医者たちは30年間の臨床経験でわずか2例しか診たことがなく、ちなみに日本では10万人に5人ぐらいの頻度の難病中の難病である。」(4)


 『マオ』の中では、毛沢東の性欲をはじめ、異常なまでの猜疑心、被害妄想や心気症などの精神異常を指摘している。また、仕事を始めると、昼夜を問わないほど不規則で周囲の秘書や医師団らは大変であったことも指摘している。

 また、林克(リン・クオ)・凌星光(リン・シンクワン)共著、凌星光訳『毛沢東の人間像』(サイマル出版会、1994年)でも夜行性で気ままな日常だった、と記されている。この著作は元毛沢東の秘書だった林氏と、中国社会科学院で日本経済などを研究し、福井県立大学など日本の教壇に立たれた凌氏との対話形式で、毛沢東の人間像を語っている。『マオ』と読み比べれば、抑制がきており、遠慮している部分もある。それでも、非常にバランスのとれた意見であり、偏りが目立つと批判のある『マオ』と読み比べると、『マオ』が根拠薄弱のものではないことがわかるともに、毛沢東の人格の多面性と非凡な魅力について別な角度から知りうる好著である。

 
 『マオ』を読んでみて正直のところ、一番抵抗のあったのは、日中戦争期の記述である。例えば、「日本語版によせて」で「日本軍による侵略が毛沢東の政権奪取を助けたのは確かです。」(上巻、4頁)とある。ちなみに中国共産党軍が日本軍とあまり熱心に戦闘しなかったという記述は、ピョートル・ウラジミロフ著、高橋正訳『延安(えんあん)日記』(サイマル出版会、1975年)にある。著者はコミンテルンから派遣されたロシア人記者で、延安における凄惨な権力闘争に関する記述では、『マオ』との共通項が多い。

 しかし、それでは日本軍は一体誰と戦っていたのか? 中国の国民政府の抗戦力については、石島紀之著『中国抗日戦争史』(青木書店、1975年)で実証研究がなされている。実際、蒋介石は共産党との戦争に備えて兵力を温存していた。付言すると、アメリカは当初、国民政府と共同で中国大陸から日本軍を撃退することを考えていた。しかし、国民政府が消極的態度であったため、アメリカが単独で太平洋の群島づたいに日本軍を撃退する方針に転換した。

一方の日本軍は「八路軍(はちろぐん)(バロー:日本軍の蔑称)狩り」と称して残虐な掃討作戦を展開するほど八路軍を恐れていた。そして、八路軍や中共が恐ろしかったと語る旧日本軍人は少なくない。著者の記すように、国共軍が抗日戦争(中国語では、一般に日中戦争をこのように表現する)にあまり関与していないのならば、100万人もの日本軍はなぜ、南方の戦線に行けずに足止めのように中国大陸で戦闘を継続せざるをえなかったのか。例えば、アヘン戦争後の平英団のような民兵組織が日本軍に対し、強い抵抗をしていたのならば、少しは首肯できる。また、皖南(かんなん)事変(ワンナン事変)に関する記述(上巻、394頁)で共産党が国民党に比べて宣伝がたくみであったと指摘している。しかし、正直の所、今でも信じられないという感想を有する。

 また、第26章の「革命的阿片(アヘン)戦争」(上巻、458頁)で共産党が農民に阿片を栽培させていたという記述にも驚かされた。日本軍が中国で阿片の製造・販売していた事実は江口圭一著『日中アヘン戦争』(岩波書店、1988年)で知っていたが、それに共産党が本当にかかわっていたとしたら、中国でのアヘン事情に関する研究に大きな波紋を投げかけることになる。

 日中戦争期に関し、最近出版された著書に、劉震雲(りゅう しんうん)(リュウ・チェンユン)著、竹内実監修、劉燕子(りゅう えんし)訳『温故一九四二』(中国書店、2006年)がある。この著書は日本軍が中国の農民から略奪した食料を河南省で日照りとイナゴの大群で被災した農民に対し、食料を分け与えたという史実を小説にしたものだ。当時の国民政府は被災者を救援するどころか、農民から厳しく食料を取り立てていた。そんな折の救援に恩義を感じた農民は国民政府に歯向かった。著者は飢餓と戦争で苦しんだ当時の農民と成長に取り残された現代中国の農民と姿が重なるという。

『マオ』もそうだが、異なった視点で歴史をとらえることは重要である。しかし、一方で日本が行った侵略戦争の免罪符のように扱われることがあってはならない。現在の日本では、「自由主義史観」と称し、歴史の歪曲を謀る集団がいる。例えば、Iris Chang “Rape of Nanking” PENGUING BOOKS, 1997.のように日本人に対する差別や偏見があるなど不適切さが目立つとはいえ、この著書をもとに南京大虐殺を中国人のでっち上げとして悪用されたことがある。ちなみに、アイリス・チャン氏への批判については、J・A・フォーゲル氏の論文(5)が詳細で理解しやすい。同様な事が今後も発生する虞(おそれ)があり、警戒して注視しなければならない。


 
 朝鮮戦争に関する『マオ』の記述には、「スターリンと毛沢東という共産主義独裁者の世界的野望に金日成(キムイルソン)の地域的野望が加わって、一九五〇年一〇月十九日、中国は朝鮮戦争の地獄に放り込まれたのであった。」(下巻、65頁)とある。

正直のところ、それは言い過ぎではないかと考えた。例えば、朱建栄(しゅ けんえい)著『毛沢東の朝鮮戦争』(岩波書店、1991年)がある。この著書はサブタイトルの「中国が鴨緑江(おうりょっこう)をわたるまで」にあるように、中国国内外の多様な資料をもとに、多角的視点から毛沢東の朝鮮戦争参戦する経緯を実証研究している。端的に述べると、当時の中国は国共内戦で疲弊しており、建国間もない時期においては、戦後復興をはかりつつ、権力基盤を安定させ、内政を充実させる必要があった。また、対外参戦に伴う重大な負担をかけることは、中国の経済発展を遅らせ、深刻な経済問題を引き起こす虞があった。故に、毛沢東は参戦したくなかった。しかし、国家建設にあたり、ソ連の協力は重要だった。また、国民政府時代にソ連に事実上与えてしまった中国・東北部の権益を取り戻すためにも参戦は必要だった。さらには、米軍主体の国連軍が中国国境にまで迫ってきており、中国領内にまで戦線が拡大する虞があった。そうした諸事情があったこそ、「援朝抗美戦争」(中国語で朝鮮戦争のこと)になったのであり、毛沢東個人の野望に参戦理由の重点を置いた『マオ』での扱いに対し、小生は賛成できない。なぜならば、参戦した主な理由を中国は東西冷戦に巻き込まれたために、朝鮮戦争に参戦せざるを得なかったと見るからである。
 
 中国経済史に関心のある小生にとり、「第31章 共産中国ただひとりの百万長者」の中にある土地改革をめぐる記述(上巻、547頁)にも驚いた。これまでは、結果として、土地改革に関しては、国民党は不徹底なために失敗し、共産党は徹底したので成功したという真剣な議論を聞いてきた。例えば、長岡新吉・西川博史編著『日本経済と東アジア −戦時と戦後の経済史ー』(ミネルヴァ書房、1995年)はそれぞれの土地改革に関し、要領を得た説明がなされている。それが共産党の土地改革が宣伝から来る美名であり、実際は農民から土地を収奪するのみの行いであり、しかも、凄惨なリンチ殺人込みの地獄絵図であったのには心底驚かされた。ところで、丁抒(てい じょ)(ディン・シュー)著、森幹夫訳『人禍』(学陽書房、1991年)には、山西省において興味深い次のような事実が紹介されている。

 「初級合作社が成立したとき、農民たちはあれこれためらったが、結局、協同化にもある程度の利点があるはずだと信じた。ましてや土地や農具はまだ自分の名義のままで、そこからも配当を受けられるし、そのうえ共産党はいつでも自由に退社する権利を保証していたので、最終的には加入を申し出たのである。ところが、わずか一、二年後に、地区によっては数ヶ月も経たないうちに、上級から高級合作社を組織せよ、と指示された。そこで農民たちは、遅ればせながら、為政者の約束はあてにならないことに気づいたのである。

 彼らには高級合作社に参加しない権利が認められなかったばかりか、初級合作社を脱退する自由さえも失ったのである。衆人環視の中で脅したり、大会で名指ししたり、三日三晩眠らせなかったりしたのでは、どんなに意志の強固な男でもがんばり通せなくなった。こうして農民たちは屈服し、自分の土地や農具・役畜に対する所有権を放棄して、毛沢東の社会主義を受け入れたのである。」(6)

 『人禍』は1958〜1962年の大躍進政策にともなう2000万人もの餓死者を出した悲劇を記した著書である。『マオ』の下巻、「第40章 大躍進ー国民の半数が死のうとも」とも合致している凄惨な記録である。一方、『人禍』の中にある加々美光行氏の解説「人禍の悲劇と現代史の画期としての中国革命の評価」と『マオ』を比較すると興味深い意見の違いがある。

 例えば、前者は1970年代に対米接近を晩年の毛沢東が図ったことについて、「毛という人物が、他のいかなる指導者にもまして、国際世界への視野をもちつづけていたことを知ることも、現代中国の理解のためには不可欠である。」(7)と毛沢東を擁護する内容が顕著である。しかし、『マオ』では、「毛沢東主義の宣伝は、インドシナでも世界でも行き詰まった。が、機略縦横の毛沢東は、脚光を浴びるための新しい計画を思いついた。アメリカ合衆国大統領の訪中である。」(下巻、421頁)と冷ややかな評価である。事実を認めつつも、毛沢東を否定しきれないのは、加々美氏のみではなく、中国をはじめとする世界中の多くの人々に言える。小生も同様である。

 『マオ』と並んで注目すべき著書に北海閑人(ほっかい かんじん)著、寥建龍(りょう けんりゅう)訳『中国がひた隠す毛沢東の真実』(草思社、2005年)がある。北京在住の中国共産党の古参幹部がその統治手法と毛沢東の実像を紹介している。淡々とした調子(リズム)で記されているが、率直な表現であり、説得力がある。今日の中国共産党の統治手法を批判するのみならず、毛沢東時代を生きてきた人々の声を後世に残そうとする姿勢は、『マオ』と同様である。『マオ』とともに一読の価値がある。

 毛沢東の人間像を正視することは、重要である。なぜならば、毛沢東の権威を悪用し、中国人民をはじめ世界の人々を欺き、時として害をなす虞があるからである。例えば、『マオ』のエピローグには、「今日なお、毛沢東の肖像と遺体は首都北京の中心部にあって、天安門を威圧している。現共産党政権は自らを毛沢東の後継政権と位置づけ、全力で毛沢東神話の不朽化をめざしている。」(下巻、512頁)と、記されている。また、1970年代のカンボジアのポルポト政権や、今日では、ネパールやインドの農村部などで暗躍する「マオイスト」が存在する。彼らは目的遂行のためには、虐殺に至る暴力をも辞さず、それを正当化する論拠として毛沢東像を歪曲し、悪用している。それは毛沢東を冒?することにもつながる。さらに、日本のように負の歴史を直視することを避けることで同じ過去の過ちを繰り返す虞がある。中国においても過去の歴史を直視することは中国のみならず、世界平和のためにも必要である。特に将来、若い世代に正しい歴史を伝える義務がある。
 
 蛇足ながら、小生の毛沢東像に関する浅薄な考察を述べる。実は、井波律子著『破壊の女神』(新書館、1996年)から着想を得た考察である。この著書はサブタイトルの「中国史の女たち」にあるように、中国史上、有名な女性の物語をわかりやすく、興味深く記している。特に、西太后に関して興味を抱いた。

 毛沢東は部分的に西太后と重なる要素がある。


 1) 経済に関する概念の欠如。前者の大躍進政策時の土法高炉(どほうこうろ)に象徴されるような大規模な浪費と後者の宮中での奢侈(しゃし)による浪費。具体的には、前者は人民から鍋、釜、鍬、鎌といった鉄製の日用品を供出させ、大量のグズ鉄を生産させた。後者は宮廷での衣食住はもちろんのこと、頤和園(いわえん)をはじめとする豪華な庭園の造成、豪華列車での旅などの贅沢である。こうしたことから推察しても、おおよそ当時の人民の生活のことは念頭になかった。 


2) 非情な性格。毛沢東については『マオ』で詳細に記されているので割愛する。後者はライバルだった東太后を陥れるために自ら産み落とした嬰児を殺めたり、些細なミスでも死刑にしてしまう態度。しかも、死ぬ間際まで権力に固執した。


 3) 本来なら限定される範囲での権力闘争に人民全体を巻き込んだこと。前者は延安、後者は宮中にとどめるべき範疇の争いを、戦争及びその賠償金支払いを引き起こし、その挙句、重税を課したことで、人民を巻き込んだ。もっとも、毛沢東は、ケ小平の言うところの晩年における三割の過ちにあたる大躍進政策や文化大革命があるので、西太后よりもはるかに人民を苦しめた。逆に権力闘争を人民にまで拡大させなかった例として、前漢の時代について述べる。高祖・劉邦の后だった呂氏の専横が宮中にとどまり、当時の人民にはほとんど影響せず、武帝の頃までに経済力を蓄えることができた。宮中での闘争はさながら、「コップの中の争い」のようなものであり、その間、安定した経済成長を遂げることができたので、漢王朝が長い繁栄を誇った要因となった。「安居楽業(あんきょらくぎょう)」の語のように、社会が平和で、暮らしは安定し、人々は生業にいそしめる状況は重要である。


 4) 両者とも極力遠方への旅を避けたこと。権力に対する拘泥から来る用心深さに起因するからである。前者はソ連に行ったのみ、後者は義和団事件で列強に北京を追われ、西安に行ったのが一番の遠出だった。瑣末(さまつ)ながら、両者とも側近に英語を学ぼうとして結局、挫折している。前者は林克・凌星光の前掲書で、後者は徳齢(とく れい)著、実藤恵秀(さねとう けいしゅう)訳『西太后秘話 ― その恋と権勢の生涯』(東方書店、1983年)で紹介されている。


前者は世界に対する一定の関心を有していた。そのために、英語のできる国際秘書として林氏が任用された。英語を学習する熱意はあったものの、多忙な合間を縫っての学習だったので落ち着いた学習は不可能であった。実際、発音がうまくいかなかったり、毛沢東自身の希望で文法を重視したことから日本の英語学習者に多く見られる結果に終わった。後者はイギリスのビクトリア女王への関心と当時、幽閉されていた光緒帝が英語の読み書きををマスターしたというので、その賢明な皇帝への対抗心から英語を学習しようとした。しかし、2時間で頭が痛くなり挫折した。以上の証言を残した著者について、触れる。徳齢は外交官の父を持ち、フランスで教育を受けた後、妹の容齢とともに2年近く西太后に仕えた。宮廷の厳しい掟に従いつつも、西太后について様々な角度から分析し、批評している。それでも、暴露本ではなく、客観的かつ冷静な観察眼からなる筆致なので、当時の清朝宮中を知る上で、貴重な資料である。

ちなみに、徳齢著、井関唯史訳『西太后汽車に乗る』(東方書店、1997年)という興味深い著書もある。この著書は、奉天(現在の瀋陽(しんよう)市)への豪華な汽車の旅について紹介されている。それは宮廷を汽車に移したような豪勢な旅であった。今日で言えば、北朝鮮の金正日国防委員長の豪華列車での旅も、いかに豪勢であるのだろうかと想像してしまう。つまり、両者とも海外に関する関心はあったものの、海外に関する知識は実は豊かではなかった。例えば、前者は核兵器を「はりこの虎」と称し、後者は「異を以って、異を征する」とばかりに、義和団を支持し、列強に宣戦布告した点からも実証できる。逆を言えば、中国の事情や中国人の心情については、鋭い洞察力があった。前者は、文学や歴史書から知識を涵養していた。後者は、歴史書や「筆帖式(ひっちょうしき)」の参考書から知識を涵養(かんよう)した。筆帖式とは、「満州旗人(まんしゅうきじん)に限定された一般事務職で、公文書を作成したり満(まん)漢訳(かんやく)をする書記官である。科挙を合格した官僚から見れば、ノンキャリアに相当する。だが、北京の中央官庁で働くため、要路の人物に顔を覚えてもらいやすく、出世が早い。」(8)つまり、両者とも中国人の人情の機微をわきまえていた。


 それでも歴史上の評価は、前者は建国の英雄、後者は亡国の女帝と両極端である。

 
 『マオ』の著者の毛沢東像を一言で言えば、「婬逆暴戻(いんぎゃくぼうれい)」の皇帝と言ったところだろう。中国人民から今でも敬愛されている彭徳懐や劉少奇(りゅう しょうき)といった直言極諫(ちょくげんきょっかん)之(の)臣(しん)を「直躬証父(ちょっきゅうしょうふ)」、とばかりに排斥した独裁者としての一面はある。しかし、夏(か)の桀(けつ)や殷(いん)の紂(ちゅう)のような亡国の王ではなく、建国の英雄であったという事実を、幻想だったとは一概には言えない。例えば、悪逆非道さも顕著な秦(しん)の始皇帝が中国史において貢献したことに関し、始皇帝に変わって同様な事業をなしうる可能性のある人物が当時ありえなかったように、毛沢東以外に中華人民共和国を建国し、統治しうる可能性のあった人物を想像するのは難しい。なによりも国民党政府のままで当時の中国人民は幸福であったとは考えられない。

毛沢東の歴史上果たしてた役割の全てを否定するつもりは小生にはない。ドイツの劇作家、ブレヒトの「ガリレイの生涯」の中には「英雄を必要としている国が不幸なのだ」というガリレイのせりふがある。激動の20世紀においては中国も例外なく、英雄は不可欠であった。問題が多々あっても毛沢東に対する一定の敬意は持ちたい。

 21世紀になり、中国においても英雄待望論に頼らなくても問題ないくらい、民主主義国として立派に独り立ちできるほどの大国となった。『マオ』の謝辞の中で筆者は「中国本土の方々については、ここでお名前を紹介できないことをほんとうに悲しく思います。こんな状況がいつか変わる日が来ることを望んでいます。」(下巻、514頁)と記している。小生の知る限り、中国人は本来、陽気で議論好きの性格であるという印象が強くある。

中国人が毛沢東時代を中国人同士にとどまらず、世界の人々と自由に議論できるようになるならば、世界史研究における大いなる発展に貢献することになると考える。それが中国におけるよりよい民主主義への歩みとなるからだ。日本人の一人として小生も、中国人が歴史認識に対して、真摯に直視しようとしている態度を見ならいたい。


 『マオ』については、学会を揺るがしかねない程の刺激的内容が豊富であった。だが、全体的に大雑把な記述であり、実証の面で容易に首肯できない。今回の大著はインタビューにより、貴重な毛沢東時代の証言を残すためという性格上、やむを得ないし、また、よくまとめられた労作である。しかし、ユン・チャン氏には気になる発言がある。「批判するなら、その論拠を示さなければ、不公平。知らないものは口に合わないのでしょう。」(9)と。そのインタビューを見た時、正直の所、残念に思った。世界には、毛沢東について語りたくても語れない人や別の視点から毛沢東を知っている人はまだ大勢いるはずである。そうした方々との議論を閉ざすことになりはしないかと憂うからである。むしろ、世界に向けて様々な批評に対し、新著なりでより実証的に答えて欲しいと衷心(ちゅうしん)願っている。勿論、『マオ』を批判する以上、その論者は感情論ではなく、実証的に批判することをせねばならない。そうすることで、より毛沢東研究が促進されるからである。毛沢東は語りつくされたのではなく、これから議論されるべきテーマである。今後の研究を注目したい。
http://www3.ocn.ne.jp/~ishotaru/mao.htm

毛沢東の真実


1) 国家権力の恐怖


平成9年(1997)にフランスで刊行された「共産主義黒書」によると、中国共産党の専制支配による犠牲者は6500万人だそうだ。

 これはヒトラー・ナチズムによる犠牲者2,500万人をはるかに上回って、断然人類史上最悪の数字だと言える。ちなみに悪名たかいカンボジアのポルポトによる犠牲者は200万人だから、その30倍をこえている。

 毛沢東は、「1949年から54年までの間に80万人を処刑した」と自ら述べているが、周恩来もこれを受けて、1957年6月の全国人民代表大会報告で、1949年以来「反革命」の罪で逮捕された者のうち、16%にあたる83万人を処刑したと公式に報告している。その後、悪名高い大躍進運動や文化大革命が起こって、2000万人以上が死に追いやられ、その間の失政で、2,000万人から4,300万人がさらに餓死しているらしい。

 こうした巨悪の体制を、周恩来は毛沢東とともに実質上指揮してきた。毛沢東が死んだ後は、英雄のように祭られているが、常識的に考えてもこれはおかしい。私はつねづね周恩来こそ人類史上まれにみる極悪人だと考えているのだが、いまだ、彼を賛美する人が絶えない。

 1947年3月の動員大会で周恩来は、「われわれには毛主席の直接指導があり、必ず勝ち戦さができる。延安を防衛せよ、毛主席を防衛せよ」という有名な演説をした。毛沢東を神格化した元凶は周恩来である。彼が文化大革命に乗り気でなかったという話があるが、彼がこのすさまじい犠牲を看過し、毛沢東の忠実な下僕であり続けたことはまぎれもない事実である。

 なおついでに書いておくと、1997年11月6日、モスクワ放送は「10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の87年の間に6,200万人が殺害され、内4,000万が強制収容所で死んだ。レーニンは、社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1,260万の命を奪った」と放送したという。北京放送が真実を伝える日はいつのことだろう。

 (参考サイト)「虐殺事件の犠牲者数」http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak2/1209301.htm


2) 毛沢東の真実


 最近、毛沢東に関する興味深い一冊の本を読んだ。「毛沢東の私生活」(文春文庫上、下)である。著者は二十数年間に渡って毛沢東の主治医を勤め、彼の臨終を看取った李志綏という人である。

 毛沢東の一番近くにいた人物によって、毛沢東と彼を中心とする中国共産の赤裸々な真実がここに描かれている。彼はこの本をアメリカで出版した。おそらく命がけのことだったと思う。北京政府はただちにこの書物を発禁処分にした。しかし、それでことはすまなかった。

「もし私が殺されてもこの本は生きつづける」という著者の予言がすぐにほんとうのことになった。著者は本書が発売された3カ月後、シカゴの自宅浴室で遺体となって発見されたからだ。

 毛沢東の前でひざまずく忠犬のような周恩来の姿、そして愛人に溺れ、口げんかをして心筋梗塞におそわれる毛沢東の姿。取り次ぎ役を自認じていたその愛人が昼寝をしているため、2時間も待った後ですごすごと帰っていく華国峰首相の姿。そして文化大革命の嵐の中で、自裁に追い込まれていく人たち。

 著者はまた、数千万人が餓死している中で、毛沢東の家で催される豪華なパーティを様子を冷静な筆で描く。この本に描かれてあることを真実と認めるのは、毛沢東や周恩来を崇拝する人には、かなりの勇気がいることかもしれない。
 


資料1・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


産經新聞1994年7月18日付

 【ワシントン17日=熊坂隆光】中国で毛沢東主席が実権を掌握していた1950年から76年の間に、急進、過激な経済政策の失敗により伝えられるよりはるかに多数の人民が死亡し、文化大革命の犠牲者などを合わせると死者数は8千万人にも及ぶことが明らかになった。17日のワシントン・ポスト紙が報じたもので、毛主席にその責任があると論評している。

同紙は、この数字について中国や西側学者の研究と同紙独自の調査を総合した結果としており、具体例を挙げて数字の正確さに自信を示している。経済政策の失敗や文革の犠牲についてはこれまでも研究や報道があったが、大幅に塗り替えられることになる。

 同紙によると、死者の多くは「人災」と断定できる飢きんによる犠牲者。原因のほとんどは大躍進政策を強引に推し進め、西側に追い付こうと農業生産より工業生産を重視した毛主席の誤りとしている。プリンストン大現代中国研究センターの陳一諮氏によると安徽省の飢きん(59−61年)では、4300万人が死亡したという。

 中国社会科学院が89年にまとめた581ページに及ぶ調査資料によると、この飢きんでわが子を殺して食べてしまった例や人肉が商品として取引された例などが記録されているという。このため中国政府自身がある程度実態を把握しつつあるのではないかとみられる。

 こうした数字が事実とすると、毛主席はスターリンなどを上回る史上まれにみる残酷な指導者ということになるが、同紙は、毛主席が依然として中国で尊敬され評価されていることに疑問を呈している。

資料2・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「愚忠をつらぬいた宰相」 http://www2.big.or.jp/~yabuki/doc5/mz196.htm


このような周恩来讃歌に真向から挑戦して、周恩来のもう一つの顔を描こうとしたのが、香港の政論家金鐘である。

金鐘によれば、周恩来は遵義会議以後、四〇年間一貫して毛沢東に対する「愚忠」を貫いたという。文革においてもし周恩来の存在がなかりせば、毛沢東、林彪、江青の失敗はもっと早く、かつもっと徹底したものとなったであろう。文革における周恩来の役割は結局のところ、毛沢東の独裁的統治に有利であった。

文革期に湖南省省無聯が「中国はどこへ行くのか?」を書いて、周恩来を「中国の赤色資本家階級の総代表」と攻撃したが、まさにその通りであり、周恩来こそ共産主義官僚体制の集大成者であり、この体制の凝固化を助長した人物であった。

周恩来は自己の私欲を抑えることヒューマニズムに反するほど甚だしく、党派性と徳性のほかには自我のなかったような人物であって、まさに現代の大儒にふさわしい。

金鐘はこのように辛辣な周恩来評価を行っている。実は大陸の知識人の間にも、類似の厳しい周恩来評価が存在している。たとえば呉祖光(劇作家、八七年の胡耀邦事件以後、共産党を離党した)は、かつて来日した際にズバリこう述べている。

「周恩来は宰相であり、皇帝の地位にはいなかったが、宰相としての職責を果していなかった。皇帝(毛沢東を指す)が過ちを犯した場合、宰相(周恩来)が諌めるべきだが、そうしなかった。しかし、諫言していれば、彭徳懐(元国防部長)と同じ運命をたどったであろう」。

奇妙なことに、毛沢東批判に関するかぎり、中国大陸でもかなり深い分析が行われるようになってきたが、周恩来についてはまだ厳しい批判が少なくとも活字には登場していないようである。その理由として考えられるのは、次の事情であろう。

まず第一に、社会主義建設期の二つの大きな誤り(大躍進政策と文化大革命)は毛沢東の提唱したものであるから、この点で毛沢東はいわば「主犯」である。周恩来は「従犯」にすぎない(むろん、ここで周恩来が協力したからこそ、矛盾の爆発、顕在化が遅れたとして、周恩来の役割を強調する、省無聯や金鐘のような見方もある)。

第二に、ソ連では長らく、レーニンの権威に依拠して、スターリンの誤りを批判する時期がつづいた。レーニンを含めてソ連社会主義を、全体として批判的に総括する動きが出てきたのは、ゴルバチョフのペレストロイカ以後のことである。

中国では革命と建設双方の当事者だという意味で、毛沢東はレーニンとスターリンの役割をかねていた。そこで中国ではレーニンの役割をはたした毛沢東を評価しつつ、スターリンの役割をはたした毛沢東を批判するという使いわけがおこなわれてきたのである。肝心の毛沢東評価でさえ、このように曖昧さを残したものである以上、矛先が周恩来まで届かないのも当然であった。

それだけではない。長きにわたって神格化された毛沢東を批判することに伴う心理的動揺を、周恩来の存在によって補償しようとする心理状況が、広範に存在していたことも否めない。この場合、過ちを犯した厳父と対照して、周恩来は慈母のごとくである。周恩来に関してはとくに「棺を蓋うて論定まる」段階にはまだ到っていないことがわかる。


3) 愚忠をつらぬいた周恩来


 1953年にスターリンが死んだ後、その後継者となったフルシチョフは1956年2月のソ連共産党第20回大会で、スターリン支配下の個人崇拝と不法な抑圧や処刑を批判した。いわゆる有名な「スターリン批判」の始まりである。

 毛沢東はこれに驚いた。なぜなら、彼こそ中国のスターリンであり、スターリン批判は、そのまま毛沢東個人崇拝への痛烈な批判になりかねないからである。事実56年9月の八全大会は、基本的にソ連共産党第20回大会の新政策を是認し、党規約からは「毛沢東思想」という言葉が消えた。これを主導したのは、党内序列のNo2とNo3を占めていた劉少奇とケ小平である。

 焦りを覚えた毛沢東は先手を打って、人々から自由な意見を求めるとした百家争鳴・百花斉放運動を始める。ところがこれが裏目に出た。中国共産党や毛沢東に対する批判がさらに吹きだしてきたからである。これに不安を覚えた毛沢東は、態度を一転して、彼を批判する者はプロレタリア革命に対する敵対者だとして、「反動者」のレッテルを張り、弾圧した。これが有名な「反右派闘争」と言われるものである。

 さらに1958年、毛沢東はソ連やアメリカに対抗するため、中国の国力の「大躍進」を掲げて、急激な工業化・農業の集団化など無理な政策を推し進めた。その結果、食糧生産力が破局的に低下、中国全土に大飢饉が発生。この飢饉による死者は何千万と言われ、日中戦争(約2000万)を数倍する被害を出した。

 これにはさすが身内からも多くの批判が起こった。1959年4月、毛沢東は国家主席および国防委員会主席を退き、党務に専念することとなった。フルシチョフのスターリン批判から3年を経て、中国共産党も毛沢東の個人崇拝からおもむろに劉少奇、ケ小平、周恩来を中心とする「集団指導体制」へと、政治機構の近代化を遂げるかに見えた。

 ところが、毛沢東はこの変化をよく思っていなかった。59年から62年にかけては新国家主席劉少奇を中心に、経済復興がはかられ、ようやく安定化へ向かいかけており、劉少奇の現実路線を支持する人々は、ケ小平をはじめ、党中央、政府機関のなかでも圧倒的多数をしめていた。これが毛沢東の孤立感をさらに深めた。

 そこでこれに対抗するために、毛沢東は65年10月北京を脱出し、上海において「プロレタリア文化大革命」を発動した。劉少奇路線のなかにソ連におけるような党官僚主義、専門家尊重、経済主義的偏向があるというのである。その後、中国がどんな悲惨なことになったか、映画や小説にも描かれているので説明するまでもないだろう。

 こうした中国の現代史を振り返ってみて、そこにうき彫りにされるのは、毛沢東の権力志向のすさまじさである。彼の後継者と目された劉少奇、ケ小平、林彪など、No2はいずれも粛正された。ひとり、周恩来だけが、その荒波をくぐり、何とか晩節を全うすることができたが、その秘訣はといえば、ただ毛沢東を決して批判せず、その忠実な下僕となって、彼をひたすら崇拝し、神格化することによってであった。

 周恩来なかりせば、毛沢東の偉業はなかった。と同時に、度を外れた毛沢東の悪行の数々もなかっただろう。私は周恩来をあえて、「人類史上まれにみる極悪人」と呼んだ。なぜ、私が周恩来を毛沢東以上に巨悪だと考えるか、以上に述べたことから、その一端を理解してもらえたらありがたい。

 周恩来はなぜこれほどまでに毛沢東に忠愚を貫き通したのであろうか。ここに一つの大きな謎がある。周恩来を擁護する人々は、毛沢東に対する個人崇拝が破られれば、中国は内戦状態に陥っただろうという。しかし、私はそうは考えない。

 フルシチョフによる「スターリン批判」があったあと、中国は「毛沢東個人崇拝」を脱却する方向に一時動きだした。これは時代の要請であり、これによって中国はスムーズに国の近代化や民主化をはかることができた筈である。そうすれば、中国の現代史ははるかに明るく、美しいものになっていたし、毛沢東自身も歴史上の偉人として、私たちの胸にいつまでも輝き続けに違いないのである。

 その、歴史上のターニング・ポイントを握る人物こそ周恩来その人であった。毛沢東の手足となり、毛沢東の命令を忠実に実行することで、彼は毛沢東と常に一心同体だった。そして国政上の実権を握っていた彼のこうした暗愚が、中国を恐るべき恐怖と貧窮の王国と化したのである。その後遺症は、今も中国大陸に住む十数億の人々の上を覆っている。

4) クーデタ計画の謎(1)


 何事もそうだが、歴史も少し視点を変えてみると、また思いがけない真実が浮かび上がってくるものだ。これまで現代中国の政治を論じたほとんどの書物は、毛沢東は問題があったが、周恩来は立派だったという「周恩来善玉説」である。しかし、この通説に私は疑問を呈してきた。今日はこうした立場から、林彪によるクーデター未遂事件を取りあげてみたいと思う。
 
 文化大革命のなかで、一人の人物がのしあがってきた。林彪(1907年〜1971年)である。彼は1969年4月の第九回党大会で毛沢東の後継者としての地位を手に入れ。毛沢東の親密な戦友と讃えられた。ところがその2年後、71年9月に毛沢東暗殺に失敗し、飛行機で逃亡中にモンゴル領内で墜死した。この事件の背後に何があったのか。

 毛沢東のすすめた「大躍進」をもっとも痛烈に批判したのは、当時国防部長の要職にあった彭徳懐だった。1959年の夏廬山会議で毛沢東は周恩来と謀って彭徳懐を失脚させ、のちに惨殺させた。そして、その後釜に林彪を据えた。林彪は革命活動の初期から毛沢東のもとで働いており、毛沢東にとっては安心できる腹心だった。

 こうして軍事委員会を牛耳るようになった彼は、毛沢東個人崇拝をおしすすめ、毛沢東の庇護のもとに異分子を排除し、軍部を自分の息のかかった部下で固め、実力をつけていった。大躍進路線の失敗が追求された1962年の七千人大会では、「この数年の誤りと困難は毛主席の誤りではなく、逆に多くの事柄を毛主席の指示通りに行わなかったことによってもたらされたものである」と最大限毛沢東を擁護し、周恩来とともに毛沢東を窮地から救った。

 1966年5月、政治局拡大会議の席上、林彪は反革命のクーデター計画があると発言し、その首謀者として、彭真(北京市長)、羅瑞卿(総参謀長、副総理、中央書記処書記、国防部副部長)、陸定一(中央宣伝部部長)、楊尚昆(機密、情報、連絡担当、中央弁公庁主任)らの名前を挙げた。

 この頃林彪は紅青(毛沢東夫人)など四人組と組んで文革路線を押し進めようとしていた。そのため、その障害になる反文革派のこの4人をまず粛正する必要があった。とくに彼の部下でありながら文革に批判的な羅瑞卿の粛正は、彼が副総理として軍部の実権を握っていただけに絶対に必要なことだった。

 さすがに毛沢東もこの主要な実務4部門の責任者を粛正することには反対だったが、彼らを摘発することが修正主義者による奪権を防ぐことになると力説する林彪にしぶしぶ同意を与えた。羅瑞卿は逮捕された後飛び下り自殺を図り、重傷を負った。毛沢東は生まれて初めて意に反して、他人の意見に同意したと、江青に宛てた手紙(1966年7月8日)に書いている。(林彪失脚後、羅瑞卿の名誉は回復された)

5) クーデタ計画の謎(2)


 羅瑞卿の粛清は林彪を勢いづかせた。軍内の掌握を完全にしただけではなく、他の指導者たちにも恐怖心を与えることができた。羅瑞卿が勢力を持っていた公安部の副部長、司局長、省市レベルの公安局長も連座し、その職はことごとく林彪の一派で占められていく。

 林彪はクーデター計画をねつ造して、その他の有力者も一掃した。そうすると、あと残るのはただひとつである。いうまでもなく、劉少奇国家主席を失脚させることだ。しかし、これはもう時間の問題だった。林彪によって実権派の有力者4名が粛正された時点で、勝負はついていた。手足をもがれた劉少奇に、いかほどの権力も残っていなかった。

 1966年7月29日人民大会堂で文化大革命積極分子による一万人大会が開かれ、劉少奇はこの大会でこう述べた。「文化大革命をどうやるのか、君たちが知らないならば、われわれに聞きに来給え。私は正直に言うが、実は私も知らないのだ」

 劉少奇国家主席として毛沢東につぐNo2の位置にあったが、決して野心家ではなかった。毛沢東を尊敬することでは他にひけをとらなかった。だから、文化大革命についても、その理想を額面通り受け止めていた。彼が文化大革命が実は毛沢東個人崇拝を復活させ、自分たちを失脚させるための権力闘争だと気付いたとき、彼はすでに完全に武装解除されて包囲されていた。

 1966年8月、八期一一中全会が開かれた。毛沢東は「司令部を砲撃しよう──私の大字報」を書いて会議場に掲示させた。砲撃されるべき司令部が劉少奇であることはいうまでもなかった。劉少奇はナンバー2の地位からナンバー8に落ちた。実権派と認定され、実質的にポストを外された。

 劉少奇に代わって、No2に昇格したのは、No6の林彪だった。彼には党副主席の肩書きが与えられた。一気に、朱徳、周恩来、陳雲を飛び越えて、59歳の林彪がこの栄誉を手にすることになった。その背景に、彼の熱烈な毛沢東崇拝と、軍事力があった。しかし、かれの毛沢東崇拝がまっかな偽りであったことがやがてあきらかになる。

 No2に昇格したとはいえ、彼の権力基盤はまだ盤石とはいえなかった。軍隊の内部にも実務派を支持する勢力はあった。地方の軍司令官もまだ多くはゆれていた。その象徴は1967年5月13日の武闘と7月20日の武漢事件であろう。いずれも実権派と造反派の武力衝突だが、なかでも武漢事件では毛沢東が実権派の軍隊に軟禁されるという不祥事が発生し、周恩来の説得で毛沢東はようやく解放されてことなきを得た。この数年間の中国は、たしかに内乱状態一歩手前といってよかった。

 しかし、こうした小刻みな闘争を経て、林彪は確実に勢力を拡大していった。そして、1969年4月の第九回党大会で、彼は生涯の絶頂期を迎える。林彪は軍内を基本的に掌握し、党のレベルでは唯一の副主席として、腹心を政治局と中央委員会に多数配置できた。軍隊だけでなく、党、政府、地方レベルでも、林彪グループに鞍替えするものが続出した。党大会で採択された党規約のなかに毛沢東の後継者として林彪の名前がはっきりと書き込まれた。

 八期の中央委員195人のうち、九期中央委員として留任したのは53人にすぎず、わずか27%である。陳雲、陳毅、李富春、徐向前、聶栄臻らは政治局を追われ、劉少奇、Deng Xiaoping 、彭真、彭徳懐、賀竜、ウランフ、張聞天、陸定一、薄一波、譚震林、李井泉、陶鋳、宋仁窮らは大会にさえ出席できなかった。(このとき選ばれた21名の政治局委員のうち、半数以上の12名がのちに林彪、江青グループとして処分された)

 第九回党大会でかっての国家主席劉少奇は正式に党を除名された。党内で幹部の審査工作を行ってきた江青グループの康生が、劉少奇が活動中に当局に逮捕されたあと釈放された経歴があることに注目し、これをもとに彼を当局のスパイにデッチ上げた。中央委員会がこれを認め、1969年年11月12日劉少奇は裏切り者の汚辱を着せられたまま惨死した。

 これによって、実権派はすっかりなりをひそめた。しかし、実権派が後退した後、林彪の前に、江青グループというあらたな敵が立ちはだかった。そして、このあと彼と彼のグループはアッという間に、権力闘争の罠に落ちて、奈落の底へ転落していくのである。

6) クーデタ計画の謎(3)


 1969年末の段階で、林彪グループは軍隊を直接掌握するほかに、中央と国務院の一部部門、一部の省レベル権力を掌握した。これに対して、江青グループは政治局に張春橋、姚文元、汪東興(毛沢東のボデイ・ガード、のち党副主席)を送り込んだものの、国務院や軍内にはいかなるポストも持っていなかった。

 しかし、江青はすぐに巻き返しに入った。きっかけは林彪が憲法のなかに、「毛沢東が天才的に、創造的に、全面的に、マルクス主義を発展させた」とする記述を書き込もうとしたことだった。これを「毛沢東を天才としてもち上げることによって、その後継者としての林彪自身の地位をもち上げる作戦」と考えた江青は、この改正に断固反対した。

 1970年8月23日の二中全会の冒頭で、林彪は予定どうり毛沢東天才論をぶち、翌日の分科会では、陳伯達、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作がそれぞれれ天才論を支持するとともに、これに反対する江青グループを攻撃した。さらに林彪を国家主席にすることが決議された。

 これに対抗して25日、江青は張春橋、姚文元を率いて毛沢東に会い、これが林彪が権力を独占するための野心と陰謀だと訴えた。林彪一派の勢力拡大に脅威を感じていた毛沢東は、すぐに政治局常務委員会拡大会議を召集し、二中全会の休会を提起した。その一方で周恩来と協力して、林彪グループの追い落としに着手した。

 31日、毛沢東は「私のわずかな意見」を書いて、陳伯達を名指し批判した。これをうけて、再会された会議で、陳伯達が批判され、さらに呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作の誤りも批判された。こうして9月6日二中全会が閉幕したとき、わずか10日間で情勢は劇的に変わっていた。

 合法的、平和的に毛沢東から権力を奪取することに失敗した林彪は、このあと軍部によるクーデタを画策するようになる。一方毛沢東も林彪一派に対する警戒を深め、彼らを名指しで批判するようになる。

 翌1971年9月5日、林彪、葉群は毛沢東が彼らの陰謀を察知したことに気づき、毛沢東謀殺を決定した。9月8日、毛沢東は南方巡視中に林彪一派の異様な行動を報告され、旅行中に謀殺される危険があることに気付いた。そこで専用列車を急遽紹興まで運行させ、そこに停止させた。こうして謀殺計画をはぐらかして、12日には北京に無事戻った。

 12日に謀殺計画の失敗に気付いた林彪は、翌日広州に飛ぶべく12日夜256専用機を秘密裡に山海関空港に移させた。北戴河で静養していた林彪、葉群、林立果と合流して、翌13日、広州へ飛ぶ予定だった。そこで体勢を立て直して、反撃しようと考えたようだ。

 ところが、その夜10時過ぎに、他でもない林彪の娘林立衡が、この逃亡計画を周恩来に密告してきた。周恩来は空港を管理する部隊に256号機の離陸をさしとめるように指示するとともに、毛沢東にこのことを知らせた。

 異変に気付いた林彪は予定を早めて、その夜零時ごろ、空港へ向かった。そして、前に立ちはだかる武装部隊の制止をふりきって、256号機を飛び立たせた。飛び立った飛行機は一旦北京に向かったが、すぐに進路を変えて西北をめざした。そして1時55分、256専用機はモンゴル共和国内に進入し、やがてそこに墜落した。

 確認されたのは9つの遺体で、林彪、葉群、林立果、劉沛豊、パイロット潘景寅、そして林彪の自動車運転手、専用機の整備要員3名。副パイロット、ナビゲーター、通信士は搭乗していなかった。燃料切れの情況のもとで、平地に着陸しようとして失敗し、爆発したものと推定されるという。


7) クーデタ計画の謎(4)


 林彪とその一派は、権力掌握を寸前にして、あえなく費え去った。林彪の権力争奪の企みは紅青グループ、周恩来らの抵抗によって失敗したが、彼らはこれをどのように位置づけていたのか。彼らが残したクーデタ計画書「五七一工程紀要」から一部を引用しておこう。

「毛沢東は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である。・・・彼らの社会主義とは、実質的には社会フアシズムである。彼らは中国の国家機構を一種の、相互殺戮、相互軋轢の肉挽き機に変え、党と国家の政治生活を封建体制の独裁的家父長制生活に変えてしまった」

 この文章を読むと、林彪が毛沢東の暴政をかなり正しく認識していたことがわかる。しかし、わずか1年前に林彪は毛沢東を天才的なマルクス主義者だと讃えていた。毛沢東をもっとも極端に神格化し、個人崇拝をあおっていた元凶が林彪である。それもこれも、ただ自分が権力を握るための企みであったことがよくわかる。クーデターを警戒せよと主張した彼自身が、最後はクーデターを敢行し、毛沢東を抹殺しようとした。

 林彪は毛沢東を賛美し、文化大革命を押し進め、修正主義者のレッテルのもと多くの党員幹部を粛正した。そして中国を恐怖と不安のうずまく恐るべき密告社会にした。しかし、最後、彼の野心を砕いたのは、皮肉にも彼の娘による密告だった。林彪は自らが仕掛けた罠に、自ら落ちて自滅した。

 さて、最後に周恩来について書かねばならない。林彪事件ではっきりわかることが一つある。それは、毛沢東が最後に頼るのはやはり周恩来だということだ。このことを知っていて、周恩来はつねに気前よく、自分の上位に人を置く。

 彼は毛沢東という皇帝に宰相として使えた。毛沢東あっての周恩来であり、周恩来あっての毛沢東である。しかし中国共産党の歴史を見てわかるのは、周恩来は党内序列がNo2であったことはほとんどなく、彼と毛沢東の間には、必ず人がいるのである。そして、その人物は結局毛沢東によって粛正されるということだ。

 このことを周恩来は知っていたのではないかと思う。彼はNo1はおろか、No2でさえ目差さなかった。人はこれを周恩来の謙虚さや野心のなさのせいにするが、私の見方はすこし違っている。毛沢東王朝にあって、一番危険なのはNo2であり、毛沢東の後継者と目されることだとわかっていたためだろう。

 林彪が粛正された後、いやがうえにも、彼はNo2の位置に立たされた。もはや他に、適当な人材がいなかったからだ。周恩来の前には、秦の始皇帝や随の煬帝を中国の偉大な皇帝だったと讃えて憚らない無慈悲な皇帝毛沢東が聳え、後ろには、さらに恐ろしい陰謀家の江青がいた。

 周恩来は苦境に陥り、健康を急速に悪化させる。彼があとすこし生き延びていたら、劉少奇と同じ運命をたどっていなかったと、だれが断言できようか。しかし、それもこれも彼自身の身から出た錆ではないだろうか。周恩来は1976年1月8日になくなった。周恩来は結腸、膀胱、肺を癌に冒されていたという。

 しかし、癌に冒されていたのは、中国という国家そのものがそうだった。江青グループも元凶のひとつだが、最大の癌は、いうまでもなく毛沢東その人だった。そして癌をのさばらせた元凶は周恩来その人だった。彼の死後、意外な新人が首相の地位につく。華国峰である。1976年9月9日、毛沢東が死ぬと、彼は早速先手を打って江青グループを逮捕する。こうしてようやく、中国は再生へとその第一歩を踏み出すのである。

(少し長い文章を4回に分けて連載した。推敲をしなかったので、生硬な文章になってしまったが、読んで下さった方々には感謝します。この文章を書くに当たって、横浜市立大学教授の矢吹晋さんのHP、「矢吹チャイナ・ウオッチ研究室」http://www2.big.or.jp/~yabuki/が大いに参考になった)


8) 毛沢東の素顔


 毛沢東について書かれた本はあまたあるが、私が読んで一番面白く、また真実らしく感じたのは、毛沢東の主治医で後にアメリカに亡命した李志綏(リ・チスイ)の書いた「毛沢東の私生活 上下」(文春文庫)である。

 文化大革命や江青など四人組の活動、周恩来をはじめ共産党幹部たちのすさまじい権力闘争が生々しく描かれ、そしてなによりも毛沢東その人についての科学者らしい犀利な観察が行き届いている。毛沢東に主治医として22年間仕え、常にその身近にいて彼の言動や性癖を知り、臨終を看取った人の文章だけに迫力がある。

<毛沢東に友がなく、通常の人間的接触から孤絶していたというのは事実である。江青とともにすごす時間はきわめて少なく、子供たちにいたってはほとんど顔をあわせなかった。私にいえるかぎりでは、最初の面談で親しみが忘れがたいにもかかわらず、毛沢東には人間的な感情が欠落しており、したがって愛することも、友情をいだき、思いやりをいだくこともできないのであった。

 いちど上海で私は主席のとなりにすわり、雑技を見物していたところ、まだ年端もいかない曲芸師が突然足をすべらせて重症を負った。観衆は息をのんで悲劇に立ちすくみ、子供の母親はいくら慰めてもたりなかった。ところが、毛沢東はまるで何事もなかったかのように気遣いさえ見せずに談笑つづけた。いや、私の知るかぎり、幼い曲芸師の運命について問い合わせることさえしなかった。
 
 私はしまいまで毛沢東の冷血漢ぶりが理解できなかった。多分あまりもの多くの死を見てきたために、人間の苦悩に無感覚になってしまったのではないだろうか。最初の妻・楊開慧は国民党政府に逮捕・銃殺されたが、ふたりの弟・毛沢民、毛沢蕈もそうであった。楊開慧とのあいだにもうけた長男の毛岸英は朝鮮戦争で戦死している。ほかの何人かの子供たちは1934,5年頃の長征中に行方不明になり、ついにその所在は発見されなかった。

 しかし、毛が子供たちを失しなったことで情のある言葉を口にしたのを私はいちども耳にしていない。多くの人たちが死んでいったなかを自分だけが生きながらえてきたという事実は、自分だけは間違いなく長生きするという毛の確信をまるで確認したにすぎないかのように思われるほどだ。死者については「革命のために人命は犠牲にされなければならない」ただそう言ってのけるだけだった>

 1954年10月、インドのネール首相と会談したとき、毛沢東は「帝国主義者との戦いで勝利をおさめるためならば、原子爆弾で数百万の人民を失ってもかまわない」と述べたという。「1千万か2千万の人間が死んだところで恐れるに足りない」という毛の言葉に、ネールは衝撃を受けたという。

 1957年11月、毛沢東が政府代表団を率いて訪ソしたおりにはさらにエスカレートして、「自分は3億の人民を失なうことも辞さない」と演説した。当時中国の人口は6億人だったので、これは国民の半分にあたる。これが単なる政治的プロパガンダでなかったことを、李志綏はやがてつぶさに知ることになる。明日、この続きを書いてみよう。


9) 毛沢東の愛読書


 大学生の頃、私は一時日本共産党の党員だったが、組織の指導的立場にいるAさんの家を訪れたとき、彼の書架にマルクス・レーニン全集と並んで山岡荘八の「徳川家康」があったのに驚いた。聞いてみると、それが彼の愛読書だということだった。

 私が学生時代に感じたのと同様の違和感を、李志綏(リ・チスイ)もまた毛沢東の愛読書が歴代王朝の歴史を紀伝体でしるした「二十四史」だと知って感じている。驚くべきことに、毛沢東がもっとも賛嘆を惜しまなかったのは、悪名高い殷王朝の皇帝紂王(ちゅうおう)だったという。

<毛の歴史観は大多数の中国人とはなはだしく異なるものであった。彼の政治観には道徳など入りこむ余地はなかった。その毛沢東が中国の歴代皇帝におのれを擬すばかりか、最高の敬意を史上最悪の無慈悲残忍な暴君のためにとっておいたことを知って、私は非常な衝撃を受けた。目的を達するためならば、どんな冷酷かつ専制的な方法も辞さない気だった>「毛沢東の私生活」

 毛沢東の最大のお気に入りのもう一人の皇帝は、秦の始皇帝だった。ほかには則天武后や随の煬帝、西欧ではナポレオンが毛沢東のお気に入りだったという。いずれも多くの民衆に無慈悲な死をもたらした絶対権力者たちである。李志綏は著書の中で、次のように書いている。

<中国古代の宮廷における権謀術数は、マルクス・レーニン主義よりもはるかに強い影響を彼の思想におよぼしたのではないかと私は信じて疑わない。たしかに毛沢東は革命家であった。中国を作り替えてふたたび富国強兵の国家にするのが目的だった。ところが、どうやって統治すべきかの教えを、つまり最高指導部にはびこる謀議をどう操作したらよいかというガイダンスを過去に求めたわけである>

 こうした思想を持つ毛沢東だからこそ、「自分は3億の人民を失うことも辞さない」と演説することができたのだろう。じっさい、毛沢東が権力を握っていた時代、「反革命分子」として処刑されたのが、87万3000人余になることが中国共産党の公式記録路して残っている。

<後年の大躍進になってはじめて、つまり数百万の同胞が餓死しはじめたときになって、毛沢東が日ごろ賛嘆した無慈悲な皇帝たちにご当人がいかに酷似してきたかを、私はやっと思い知らされることになるのだ。主席は人民が数百万も餓死しつつあるのを知っていた。毛はそんなことを少しも意に介さなかったのである>

<文化大革命の絶頂期、天安門広場が熱狂的な大群衆であふれ、市街が混乱をきわめていたときでさえ、毛沢東は皇帝ばりの生活をむさぼりつづけ、大会堂のなかでも中南海の城壁の内側でも、女たちを相手に楽しんでいたのである>

 このように主治医としていつも身近に仕えていた李志綏は書いている。なお、もう少し統計を補足しておこう。「大躍進」での餓死者は2215万人、「文化大革命」では13万5000人が処刑、172万人が異常な死を遂げたという。

 異常な死を遂げた中には、国家主席であった劉少奇その人までが含まれている。明日の日記で、劉少奇が紅衛兵たちにどのようなひどい待遇を受け、なぶり者にされたか報告しよう。現場を目撃した李志綏の文章を読むと、その非道さが実感される。


10) 哀れな劉少奇


 毛沢東が江青と住んでいたのは、中南海といわれる地域である。そこは中海、南海というふたつの湖がある風光明媚な地で、紫禁城を取り巻く同じ朱色の城壁に囲まれた、非公開・機密の別天地である。毛沢東の主治医で中南海診療所の所長だった李志綏(リ・チスイ)もこの地に住居をあてがわれていた。

 中南海には朱徳、劉少奇、周恩来、彭徳懐、ケ小平などの要人達も住んでいた。周恩来が首相を務める内閣(国務院)もここにあった。外部からこの地域に入るには厳重に警備されたゲートを通らなければならない。また、域内の通行も制限され、許可証がなければならなかった。党中央警衛団の警備兵が各ゲートの検問当たり、治安に目を光らせていた。こうした中で、李志綏は毛沢東だけでなく、他の要人達や、その家族の健康についても責任のある立場にいた。

 林彪と江青が造反派を率いていた文化大革命の最中、中国は大混乱に陥った。党も政府機関も麻痺状態に陥った。中南海の秩序も万全ではなくなった。こうしたごたごたのなかで、毛沢東は中南海を留守にし、地方へ行く機会も多くなった。中南海の警備の責任者である警衛団長の汪東興も毛に随行して、中南海を離れることが多かった。そうすると中南海で江青一派の横暴を止めることが出来る者はだれもいなくなった。

 1967年7月13日、毛沢東は武漢へ旅だった。主治医の李志綏はこの旅の随行から何故か外された。こんなことははじめてだった。たぶんそれは江青が毛沢東にすすめたからに違いなかった。

 以前から李志綏は江青とそりが合わず、彼女に疎まれていた。警備隊長の汪東興は主席が首都をあければ、江青が指揮権を握り、李志綏はその一派によって拉致されるかもしれないと心配して、「ごたごたに巻き込まれたら、すぐ武漢のわれわれのところに飛んでこい」と忠告した。以下、どのようなことが起こったか、李志綏の文章を引用しよう。

<私は中南海にとどまったが、おかげで汪東興の案ずる最悪事態を目撃する羽目になってしまった。・・・数百人の学生デモ隊が主席が出発したあと西門の外に集まりだし、府右街を中南海の西方まで埋め尽くして、劉少奇打倒のスローガンを口々に叫ぶ。朱色の城壁には大文字の壁新聞がはられ、主席がかって後継者として宣言した人物を攻撃する。・・・

 人民共和国の歴史上、中南海が包囲されたことはなかった。汪東興の中央警護団が党幹部の居住区を警備する任にあたっており、デモ隊がふえつづけるのをしり目に警備兵は無表情で立哨する。汪東興がどんな思惑をいだいていようと、この時点ではさしたる重みはなかった。第一、汪は主席と武漢におもむいていたからである。

 7月18日、状況は険悪になった。執務室で新聞を読んでいたら警護官がとびこんできて、劉少奇が国務院小講堂の外で「批判闘争」にかけられているという。私はすぐさま現場にかけていった。

 人垣ができていた。ほとんどが党中央書記局の下級幹部である。党中央警護団の将校や兵士も見守っていた。劉少奇に少しでも救いの手をさしのべようとする者はいなかった。劉少奇と夫人の王光美は群衆の真ん中に立たされ、書記処のスタッフにこづかれたり、蹴られたりなぐられたりしていた。国家主席のシャツはひきさかれて肌がはだけ、ボタンがいくつかもぎとられている。人々は彼の頭髪をつかんで引きずり回した。

 よく見ようとちかづいたとき、劉少奇はつかまれた両の腕を背中にねじあげられ、腰から前かがみの「ジェット式」として知られる姿勢をとらされた。しまいに上半身をたおし、顔が地面にふれそうなところまでぐいぐいおしつけて蹴る、平手でなぐりつける。それでもなお、警護団の警備兵達は介入しようともしない。私はみるにしのびなくなった。劉少奇はすでに70に近く、しかもわれわれの国家主席ではないか。

 私は批判闘争の場を立ち去り、まっさきにケ小平・卓琳夫妻の住まいに向かい、ついで陶鋳・曽志夫妻を訪ねた。両夫妻とも批判闘争にかけられていたが、劉少奇の場合ほどすさまじくはなかった。両夫妻は群衆におされ、こづかれ、やじをあびせられていたが、蹴られたりなぐられたりはなかった>

 李志綏は党中央警衛団の副団長にこの事態はどういうことかたずねたが、彼はこの事態を予測して昨日のうちに武漢に電話を入れたのだという。しかし団長の汪東興からはその後連絡はなかったという。じつは汪東興じしん、我が身の保身で手一杯だったのである。江青一派の狼藉に毛沢東は暗黙の了解を与えていた。というより、この事件の影の主役が毛沢東自身であることを、汪東興はよく知っていたからだ。

11) 毛沢東の復讐


 フルシチョフのスターリン批判は中国共産党をもゆさぶった。その直後、1956年9月に召集された第8会党大会で、集団主義指導体制、個人崇拝の禁止などが確認され、中国はようやく近代国家としての歩みを始めるかに見えた。

 そして、この新しい中国を主導する星は、この大会で国家主席に選ばれた劉少奇と、党総書記に選ばれたケ小平であった。この二人を両輪として、中国は近代化の道を歩もうとしていた。しかし、これをよく思っていなかったのが毛沢東だった。

<フルシチョフ演説にならった集団指導体制の賛美は、とりわけおだやかならざるものがあった。もし党が集団指導体制の原則に固執すれば、全党員は対等の関係になり、重要問題はすべて合議制で決定しなければならなくなる。そうなると、いきおい毛沢東の役割は縮小されていく。が、当の毛はあくまで最高指導者としてのポストにとどまりたかった。そのためには個人崇拝がどうしても不可欠だった>(李志綏「毛沢東の私生活」より。以下同じ)

 この決定に侮辱を感じた毛沢東は、これに反撃すべく行動を開始する。その手始めに考えたのが、「百花斉放・百家争鳴」運動だった。これは知識人を使って党を自由に批判させ、劉少奇とケ小平が指導する党指導部を解体しようという作戦である。

 多くの知識人はおそらく自分の意を汲んで、党の指導部を攻撃するにちがいないと毛沢東は読んでいた。ところが結果は思わぬことになった。知識人の攻撃は党の指導部だけではなく、党そのものの存在に向けられ、ついには毛沢東そのものに向けられ始めた。共産党は僧院のようなもので、毛沢東はその僧院長だというのである。知識人を使って政敵を打倒する作戦は完全に裏目に出た。

<毛沢東はむろん衝撃を受けた。批判が自分に向けられるようにした覚えが全然なかったからであった。また機関として党が攻撃されるようにし向けたつもりは毛頭なかった。会う人ごとからお追従をいわれるのになれていたし、真の敵は抹殺されるか投獄してあると確信していただけに、毛は知識人がいだく不満の深さに気付いていなかったのである>

<毛沢東は大変な計算違いをしたのだった。ベッドに伏せたきりふさぎこみ、どうやら行動の自由を失っているうえ風邪もひいていたし、外部の攻撃が激化しつつある最中に私が呼び戻されたのだ。毛沢東は戦略を練り直し、復讐の手だてを思いめぐらしつつあった。毛は憤懣やるかたなかった>

 1957年6月8日、人民日報は「これはどうしたことか」という毛沢東の文章を社説に掲げた。知識人に期待することが出来ないと気付いた毛沢東は、自分の作戦を遂行することができるのは、大衆のみだと気付いた。この社説で、ひとにぎりの分子が社会主義政権の転覆を計ろうとしていると非難した。そして、彼等に対する反撃を開始するようにと人民大衆に訴えた。

 知識人を使った作戦が失敗に終わったことを知った毛沢東が次に考えたことは、一般大衆を使うことであった。彼等の間に毛沢東にたいする個人崇拝を根付かせ、熱狂を呼び覚ますこと。この作戦はまんまと成功した。それが「文化大革命」だった。

<全土は毛沢東のバッジをつけて「毛沢東語録」をたずさえ、小冊子にある言葉を暗唱した。商店での単純極まりない買い物をするときでさえ毛沢東語録の暗唱を要した。毛の肖像画はいたるところにあった。全土の何千万という人々が肖像画の前で礼拝し、日々の指示を仰ぐことで一日をはじめた。・・・・

 毛沢東の「大躍進」政策は人類史上でも最悪の飢餓をもたらした。今日ではその期間中にすくなくとも2千5百万か3千万人、もしくは4千3百万人が死亡したといわれている。さらに毛沢東の「文化大革命」は中国を大混乱におとしいれ、生命も家族も友情も、そして中国社会の骨組みまでも破壊してしまったのである。

 国家主席の劉少奇は、毛沢東が第8回党大会の誤りとみなす責任をそっくりおしつけられ、1968年10月に追放されたばかりか、党を除名されたうえ虐待の限りをつくされた。翌年4月の時点で、劉少奇の消息は一切わからなくなっていたし、知ろうにもこわくてだれにも聞けなかった。第9回党大会が終わってからずっとあとに彼が同年の10月、開封に送られて重病になり、治療も受けないまま11月に亡くなったと知った。

<ケ小平もまた追放されたのであった。党の中枢機関である政治局は壊滅状態にあった。各省の党の指導者の大半が職を失っていた。各省の行政はいまや人民解放軍が支配する「革命委員会」の手中にあった。第8回党大会で選出された中央委員は大多数が追放されていた。第9回党大会は毛沢東にとって、13年にわたる取り組みの総仕上げであった>

<私の気分は落ち込んだ。毛沢東がねらった第8回党大会の原則の破棄は達成された。13年間にわたる闘争が成就したのだった。私がもっとも敬愛していた党の代表たちはことごとく追放され、80パーセントの旧中央委員が解任され、新顔は私にとって馴染みのうすい、江青派か林彪派のメンバーであった。そんな支持者が中国のリーダーシップを引きつぐとあっては、私は祖国の前途に絶望した>

 こうして毛沢東は勝利した。もはや彼の前にたちふさがる目障りな人間はだれもいなかった。彼は彼を権力から遠ざけようとした大量の有能な人物をこうして完全に粛正したのである。そしてさらには林彪一派が粛正されて、最後に残ったのは、身内の江青であり、彼の従順な召使いでしかない周恩来その人だった。

<人民大会堂の118号室で毛沢東に自分の考えを説明しようとしながら、周恩来は地図を取り出して床にひろげ、絨毯の上に膝をついて毛沢東に自動車行列の進むべき方向をしめした。毛沢東は突っ立って煙草をくゆらせながら、首相が床をはいまわるのを眺めやった。

 かりそめにも周恩来ほどの人物、中国の宰相がそんなふうにふるまうのを前にして私は目のやりばに困った。毛沢東は周恩来が面前で這い回る姿を見て、こばかにしたような優越感を覚えているようだった。・・・

 毛沢東は周恩来に絶対的な忠誠を求め、もしそれが得られなかったとすれば、周は間違いなく失脚させられていただろう。ところが、周恩来があまりに盲従的かつ忠実そのものであったため、毛沢東は首相を軽くみるところがあったようだ。

 周恩来は江青の前でも卑屈なくらいだった。・・・林彪と江青の権力闘争が表面化したとき、周恩来は江青とその一党と運命をともにしたのだった。江青が彼に向けたあらゆる攻撃にもかかわらずである。

 周恩来はぬけめのない政治家であり、毛沢東が江青を批判して不仲がすすんでいながらも、彼女はやはり毛沢東にとってもっとも気心の知れた配下だ、ということをほかのだれもまして見抜いていたのである。毛沢東に真の忠誠をつくそうとすれば、江青の側につくことも必要なのであった>

 こうして江青の野心と周恩来の服従を利用し、大衆の心を操作することで、毛沢東の野望は成し遂げられた。彼の絶対権力者としての地位は揺るぎないものとなり、個人崇拝はついに完成したのである。しかし、李志綏が書くように、それは何千万という人々を死の淵においやり、人々の友情と家族を崩壊させ、中国社会の骨組みまでも破壊する悲劇とひきかえであった。


12) 不幸な人間の嫉妬心


「文化大革命」で粛正された劉少奇は毛沢東をどう思っていたのだろう。おそらく、その死の間際まで、毛沢東を信頼していたのではないだろうか。そして自分をこの苦境から救ってくれる唯一の救世主として、毛沢東に一縷の望みを託していたのではないか。毛沢東がこの陰謀の張本人だとは思いもしなかっただろう。

 李志綏は「毛沢東の私生活」のなかで、1956年7月下旬、主席とともに河北省にある北戴河に保養に行ったときのエピソードを印象深く書いている。

<劉少奇は背が高くて華奢、白髪、こころもち猫背だったけれど、毛沢東が浜辺にいるとよくたずねてくる唯一の党最高幹部だった。たいてい午後三時か四時頃姿をあらわす。控えめで威厳があるうえすこぶる慎重な劉少奇は当時、毛主席の後継者に指名されていた。党内の序列は毛沢東についで第2位、内政問題の日常業務に責任があった。・・・

 劉少奇のいちばん新しい妻、王光美はたいてい夫に同行して北戴河にやってきた。党最高幹部の通例にもれず、妻たちは多くが夫よりもはるかに年若かった。王光美は当時、およそ30歳くらい(夫は58歳)、ふさふさとした黒髪に卵形の顔だち、いささかそっ歯の感があった。美人ではなかったが、魅力にあふれて人ずきあいもよく、次期主席夫人としての脚光を楽しんでいた。

 王光美は毛沢東の姿を見かけるとかならず主席にあたたかい言葉をかけ、ときには主席と一緒に筏まで泳いでいった。江青は劉夫人への不快感をあえて隠そうともしなかったが、これはあきらかに江青の嫉妬心だと思われた。

 王光美は江青よりかなり年下で、はるかに態度がくつろいでおり、社交性もゆたかだった。江青は浜辺でいつも落ち着きがないように見えた。決して泳ぎを習おうとしなかったし、右足指が6本あるのを気にやんでいた。浅瀬を歩きまわる際には両足にかならずゴム靴をはいていた。

 劉少奇はなんどかの結婚で子だくさん、その夏は何人かの子供を北戴河につれてきた。前妻・王前とのあいだにもうけた16歳か17歳の娘・劉濤もなかなかに活発で社交的、毛主席にも親しげに近づいた。娘もときたま主席とならんで筏まで泳いでいったり、週二回のダンス・パーティでは主席にしきりに相手をせがんだ。主席のほうも多くの若い娘なみにつけいるような真似は決してしなかった。にもかかわらず、江青は若い娘のあけっぴろげで馴れ馴れしいたちに腹を立てた。

 もっとも、江青はしょっちゅう怒りっぽかったし、そのつど私は彼女の立腹ぶりに自分を馴らそうとつとめたのであった。この牧歌的な魅力ある北戴河の地で、私は夢にも考えたことがなかった。十年後に江青のいじましい嫉妬心や不安感が彼女をかりたてて劉少奇一家をことごとく抹殺しようとする邪悪さと復讐心に導いていくことになるとは>

 毛沢東と劉少奇はその家庭的幸福という点で好対照をなしていた。陰惨な陰謀家で、不平不満の固まりのような江青、そして若い女にうつつを抜かし、家族を顧みない毛、これに対して劉少奇は快活でユーモアのある妻や娘に恵まれ、彼自身温厚で高潔な人柄だった。この高潔な人柄と家庭的幸福が、毛沢東と江青にどう映っていたか。おそるべきは人間の嫉妬心である。不幸な人間が権力者であるとき、人々がその災いから逃れることは難しい。


13) 犯罪者の心理


 動機なき殺人などという言葉もあるが、犯罪を犯すにあたって、何らかの動機はあるのではないだろうか。生活苦、金銭欲、怨恨、英雄願望、退屈しのぎ、憂さ晴らし、自殺願望、嗜虐趣味、社会的不満、性欲に駆られてなどなど、さまざまなものが考えられる。

 犯罪そのものが目的である犯罪もある。何かの手段として人を殺すのではなく、人殺しが楽しいので、それ自身の目的のために人を殺すという訳だ。本能が壊れている人間には、こういうたわけた動機の犯罪も考えられる。

 いずれにせよ、犯罪を犯す人には、<自我の構造にゆがみ>がある。たとえば、幼い頃に虐待などにより自我に傷を受けている場合、劣等感やコンプレックスがその人格を支配し、その劣等感の反動として、権力に異常な執着を示すことがある。

 脆弱な自我を偽装するために、自分は強者であるという妄想にしがみつき、そしてこれを証明するために実際に殺人行為に走る。いわば<自己の存在証明のための犯罪>である。こうした劣等意識の強い人間は実際、自己の力を誇示することに熱心なので、犯罪者にならない場合でも、人を支配する地位を求めて、権力者になる可能性はある。

 犯罪がゆがんだ自我のありかたに関係があるのだと分かれば、犯罪を防止するための対策も浮かんでくる。たとえば幼児教育の充実などだ。強くたくましい自我を育てる条件は何か。それは植物を育てるのと同じく、充分な栄養と日光だろう。つまり、「愛情」が大切だということだ。犯罪の温床は「愛情の欠如」である。自我の健全な社会化は「愛情」という滋養なくしてはむつかしい。

 毛沢東の主治医が書いた「毛沢東の私生活」という本のなかに、権力者たちの意外に幼く女々しい幼児的な振る舞いが描かれている。たとえば、毛沢東は特性の木のベッドで一日のほとんどを過ごし、不安でそこから離れることができず、不眠症のあまり極度の薬物依存に陥っていた。妻の目を盗んで若い女をベッドに呼び込み、ときには若い男性の護衛兵にまで自分の性欲の処理をまかせている。

 そして文化大革命を遂行し、毛沢東に続くNo2として粛正恐怖政治を実行し、後には毛沢東暗殺未遂まで企てた林彪は、歯が痛いといってベッドですすり泣いて、妻に子供のようにあやされている。周恩来でさえ毛沢東の前ではいつくばり、毛が危篤だと聞いて失禁したりしている。李博士はこれらの様子を見て、国家の将来に暗澹たる不安を覚えたという。
http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c14

[近代史3] 戦後の日本が世界で最も成功した社会主義国、理想の共産社会に近い一億総中流社会になった理由 中川隆
3. 中川隆[-10690] koaQ7Jey 2019年4月18日 12:41:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1365]
共産主義者とはどういう人間なのか?

1) 共産主義者は正義の味方 


ダメダメ家庭においては、「正しい」という言葉がよく出てきます。

それこそ、以前に取り上げた魯迅の「狂人日記」という作品においても、「あくまで問い詰めた。『正しいか?』」なる記述があります。自分で考えることから逃避する抑圧的な人間は、そんな「正しい」と言うことにこだわりを持つわけ。かと言って、

じゃあ、その「正しい」って何?
どういう意味なの?
その「正しさ」を、どうやって証明するの?

そんな話になりますよね?

数学の問題だったら、その正しさの証明だって可能でしょう。あるいは、物理学などの自然科学だったら、豊富なデーターを元にすれば、「この考え方が正しい。」ということが言えるでしょう。

逆に言うと、データーを取らないで、「正しい」なんて言えるの?

「正しい」という言葉は、排他的な意味を持つ言葉と言えます。
「正しく」ないものは、存在が許されないものでしょ?

「1たす1は2である。」という考えは正しい。だから、その考えと相反する「1たす1は3である。」という考えは存在が許されない。

そう言うものでしょ?

別の例だと、「地球が太陽の周りを回っている。」という考えが正しいのだから、「太陽が地球の周りを回っている。」という考えは存在が許されない。そんなものですよね?

間を取って、

「1月から6月までは、地球が太陽の周りを回っていて、7月から12月の間は、太陽が地球の周りを回っていることにしよう。」

と妥協しようとしても無理がありますよ。「正しさ」は排他性をその特徴としているわけです。


地動説なり天動説の「正しさ」の証明の際には、データーを取る事によって証明することが可能です。
しかし、一般社会における「正しさ」となると、その証明は簡単ではないでしょ?

「消費税率は、5%が正しいのか?10%が正しいのか?」

そう言われても、どうしようもない。むしろ、このようなことを考えるにあたって、「正しい」という言葉を使うことが不適切でしょ?

それらの考え方を取り入れた場合はどのようなことになるのか?それぞれをシミュレーションして、そのメリット,デメリットを考慮し取捨選択すればいいだけ。言うとしたら、

「消費税率は、5%と0%のどちらが適切なのか?」

という、「適切」とか「有効」とかの文言を使う方が、それこそ適切でしょ?
人間社会において、「正しい」ということは簡単ではない。だって人間なんて色々なタイプが居るわけでしょ?

「自分の考えはこれこれで、自分はこれで行く!」

ということならそれでいいじゃないの?
その考えが気に入らなければ、その人を避ければいいだけですよ。

「オマエの考えは正しくないからケシカラン!」

なんて言ってもしょうがない。だったら、その考えが「正しくない」という証明ができるの?

まったく面白いことに、「正しくないからケシカラン!!」なんてことをよく言ったりするような人間は、その「正しくない」証明って、決してしないものでしょ?

そんな人が往々にしてやるのは、

「権威者の○○先生がこう言っているのだから、これが正しいんだ!!」

そんなものですよね?

「正しい」という言葉は、権威主義と結びつく例が多いわけ。主張や要求が問答無用なんですね。双方の合意に基づいたものにはならない。そんな問答無用の権威主義者が、周囲から好意的に評価されたりする際に、よく使われるのが、「彼は正義感が強い!」というもの。

この言葉は、以前にこのメールマガジンで取り上げた民主党の(故)永田議員が、「偽メール事件」の際に、言われていました。彼の上司とも言える鳩山さんによると「永田議員は正義感の強い人」なんだそうです。

へぇ・・・そうなの?

しかし、

「自分は正しいことをやっている。」・・・だから、「自分と違っている人間は間違っている。」・・・

「彼らは存在すること自体が罪だ!」・・・だから、「彼らを抹殺すべきだ!」。


そのような発想の流れは、まさに「正しさ」なり正義感の「裏面」としては典型的なものと言えます。おまけに

「存在すること自体が罪」の相手を抹殺するために、多少「いかがわしい」方法も使うことが許される・・・

そう考えてしまうわけ。そんなものでしょ?

正義感が強いと、そのようないかがわしい方法も許容する精神的な土台ができてしまうんですね。それこそテロリストなんて典型でしょ?

「存在すること自体が罪」と判断したら、どんな方法も取っていいんだ!!

だって、「自分たちは正しい」のだから。

正義感というものは、ある種の「非人間的」な面を持っているんですね。だって、「正しい」ということは、どんな人間にも適用される考えでしょ?

個々の人間を超えた概念ですよ。人によって適用されたり、適用されなかったりしたら、「正しい」とは言えない。逆に言うと、

「正しく」ないことをしているものは、人間ではない・・・
「正義感」が強い人はそう考えたりするもの・・・

現実にそうでしょ?

民主党の永田議員は「正義感が強い」とのことでしたが、まさしく「それにふさわしい」行動のスタイルだったでしょ?

あのガセメール事件に限らず、様々な問題を起こしていたそうですが、

「自分以外のものは認めない!」

という意味では極めて正義感を持った人だったわけです。正義感の持つ排他的な部分を強く持っていたわけ。


話が変わりますが、よく援助交際のようなマターになって、

「無理強いはよくないけど、お互いの合意があればいいんじゃないかなぁ・・・」

と言っている人がいたり、逆に

『ルールはルールだ!そんなことはケシカラン!!』

と言っている人もいますよね?

まあ、確かにルールはルールでしょう。未成年を相手にするのは問題ありでしょう。だって、相手は判断能力が未発達なんですからね。しかし、面白いことに、現実社会で話をすると、「お互いの合意があればいいんじゃないの・・・」と、小声で、言ったりする人の方が、それ以外の話をしていて面白い。これって、ある意味当然のこと。

だって、「合意があればいいじゃないの・・・」と言えるということは、当人が「合意を取れる」何らかの能力があるということでしょ?話がやたら上手かったり、まあ、お金を持っていたり・・・と、色々なケースはあるでしょう。しかし、それなりに何かを「持っている」から、言えるわけ。世の中って、そんなもの。もちろん、実際にそんな行為をするかどうかは別問題ですよ。

逆に言うと、「ルールはルールだ!」と言ったりする人の方が話をしていて、つまらない。

そんな人は、往々にして問答無用だったりする。確かに正義感はあるのかもしれませんが、逆に言うと、「相手から合意を取れる人」ではないんですね。

「合意があればいいじゃないか。」と言う人は、現実的には、合意しなければ、何もしない。

「ダメなものはダメ。」と言う人は、他者との合意など平気で無視をする。


抑圧的な人は、そもそも合意というものに価値を見いださない。自分のやりたいことについて考えることから逃避し、何かを始めても最後に総括する習慣もない。そもそも判断というものから逃避しているんだから、判断の結果としての合意などは、むしろ「相手から判断を要求された」という形で、自分が被った被害として認識してしまう。

と言うよりも、合意の土台となる個々の判断や思考こそが、悪や罪に近いものと認識している。

それこそ、その代表例として、宗教改革のマルティン・ルターの言葉を引用してみましょう。


「神は我々の正義と知恵によってではなく、・・・・我々から出てくるのでもなく・・・・我々のうちに潜むものでもなく、どこか外から我々にやってくる正義によって、神は我々を救おうとし給う。・・・

言い換えれば、正義はもっぱら外部からやってくるものであり、我々とはまったく縁がないということが、教えられなければならない。」

このルターの言葉で示されているように、抑圧的な人間にしてみれば、人間の判断と正義と言うものは、対立し、いわば排他的な関係となっているわけです。

人間が判断したがゆえに、正義から逸脱し、人間にとっての罪であり、天国から遠くなってしまう・・・
そんな発想の人にしてみれば、合意などは、どんな分野においても、罪になるわけ。

判断や思考を抑圧しているんだから、人の気持が分からなくなり、一般論的な正義しか語るものがない。個々の人間の思考に依存するものではやり取りができない。非人間的なものを持ち出さないと、対応ができない。

達成したいものがなく、最後を締めるという発想がないので、語り続けることそれ自体が目的化されてしまう。それはまさに典型的なクレーマーの様相となる。クレーマーというのは、相手を嫌がらせしようとしてやっているのではなく、ただ自分の正義を狂信的に主張している、まさに正義感の強い人と言えるでしょ?

正義だからこそ妥協する必要もない。というよりも、自身が判断した時点で、それは罪であり悪となってしまう。逆に言うと、「どの点で妥協すればいいのか?」判断することから逃避するためにも、自分なりの正義を主張し続けることになる。

「あの人は、正義感があってすばらしい人だ!」

そのような評価は、ある意味において、もっともなことなんですが、その人の持っている考えと、別の人が持っている考えの間に不一致が起こった場合、その手の正義感の強い人は、逆上し、相手を攻撃するだけなんですね。
パステルナークの小説「ドクトルジバゴ」に登場していた正義感の強い人は、そんな感じだったでしょ?

正義というものは、問答無用の状態の反映であり、新たなる問答無用を作り出すもの。


たとえば、独裁体制において、自分の親の罪を告発する子供の例が、いわば美談として登場したりするものです。

それって、それだけ家族の間に会話がないということでしょ?

子供が主張したいことがあれば、それを親が聞いて、議論して、親なりの判断を示し、子供を説得すればいいだけ。逆に言うと、親を告発するのは、そんな対話もないことがわかるでしょ?

まあ、だからこそ告発されてしまうわけです。

ダメダメ家庭の子供としては、非人間的な概念である正義しか頼るものがない。
現実逃避の方法論としての精神論なんですね。権威主義的で問答無用の親に対する不満を、より大きな権威でやり返しているわけ。そして、そのまま成長してしまったら、どんな人間になるの?

正義というのは、基本的に「北の発想」と言えます。ヨーロッパの芸術作品だと南北問題をテーマにした作品が多くあります。それこそドイツでも、イタリアでも、スペインでも、精神的な北と、享楽的な南の間の対立が起こっているもの。北は戦争をすると南には必ず勝つけど、だからと言って人々が幸福かというと別問題。北の住人は、日々ノンキに暮らしている南の住人を見ると、憧れと侮蔑が入り交じった不快感を持ってしまう。

北の住人は、精神的だけど、それが「殻」になってしまって、人生を楽しめない。自分で作り上げた「殻」からどうやって脱却するのか?そんなことに悩んでしまう。だから放埒に生きる南に対して密かに憧れを持っている。その憧れを認めたくないものだから、なおのこと、南を侮蔑し、それを自分たちの成果や倫理で正当化する。
そんな北の住人を描いた作品は、結構あるんですよ。

精神的な豊かさも、ある種の閉塞感につながってしまうこともある。
自分の信念なり倫理観は、それ相応に誇ればいいでしょう。
重要なことは、それを相手にわかるように説明することでしょ?

正義というのは、倫理的に汚れがない状態といえます。
それはいいことなんでしょうが、そんな状態で人は生きられるの?
そもそも汚れなきキレイな状態の極限が死となることは誰でも分かること。
正義を突き詰めれば死になってしまう。曇りなき世界を追い求める宗教原理主義者が、死に近いことは、歴史上で常に起こっていること。

そして、その死も往々にして悲劇的な死であって、充足感に満ちた死ではない。充足感に満ちた死は、キレイなものでも純粋なものではない。ヘルマン・ヘッセの小説「ナルチスとゴルトムント(邦題 知と愛)」で、

「君には母がない。だから死ぬことができない。」

という言葉があります。文芸的に言うと、母親というものは、死を受け入れ、生を生み出す存在。だからその存在は、キレイなものとは言えない。母親というものは、心理的には「汚れ」を体現する存在と言えます。だから心理的に母親が不在の人は、汚れとの付き合い方がわからずに、実に純粋な人になってしまう。これは例えばパスカルなんてその典型でしょう。

罪を受け入れることによって、その罪を浄化する。そして再生へとつなげる存在となる。母親は、そういう意味で正義ではない。罪を受け入れる存在は、正義とは言えないでしょ?

正義感が強い人は、罪を受け入れてくれる大地から離れているがゆえに、必死で「いい子」としての存在証明をする。しかし、その必死さゆえに、実際にトラブルになってしまう。そして、そんなトラブルを受け入れてくれる存在を探し求め、周囲に更に要求し続ける。しかし、自分の親の問題はアンタッチャブル。だから自分の罪はまったく浄化されないまま。

正義感が強い人は、純粋に正義の中だけで生きているの?

そんな人は自分の中の不正義とどのように付き合うの?

当人は、その正義感ゆえに、自分の「不正義」な面を見つけて苦悩する。そしてそれを、全部破壊しようとする。正義感は破壊衝動と隣り合わせ。

歴史的に見ると、正義の名のもとに、数多くの殺戮が行われましたよね?
正義とは、個々の人間を超えた普遍的な観点であるがゆえに、問答無用で非人間的。だからこそ抑圧的な人間が頼りにする。

人の気持ちがわからないがゆえに、正義しか頼れない。

正義というものは、人の世に属していながら、人の世を超えたもの。本質的に矛盾を抱えた存在と言えます。
芸術だったら、もともと人の世を超えていて、人の世をさらに超えようとしているもの。ただ、その「おき場所」が、人の世だというだけ。

「正しい」という言葉は、芸術の、特に創作の領域では使われない。
音楽における演奏の分野では使われることもあります。しかし、作曲では使われないでしょ?

まあ、「正しさ」という言葉が飛び交う領域はそれだけ、創造から遠いわけ。


正義感が強いことが、悪いわけではありませんが、正義感が強いがゆえに、その排他性から

「アイツは存在すること自体許されない!」

なんて発想になってしまう。

正義とは「存在すること自体が許されない。」という危険思想と隣り合わせ。

それが他者に向くだけでなく、自分自身にも向いたりもするもの。

それは現実に生きる当人自身にとっても、周囲の人にとっても、見極めが必要な事態を暗示しているものなんですよ。正義感が強いといわれる人で、幸福そうに見える人って、あまりいないでしょ?
https://medium.com/dysfunciton/%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E6%84%9F%E3%81%8C%E5%BC%B7%E3%81%84-e107fdfd5eff

2) 共産主義者は悪を憎む


社民党の福島党首がおっしゃった発言である、

「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」

という発言を取り上げたます。私は別に、社会主義という理念云々を問題にしているわけではありませんよ。

というか、「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会」って、具体的にどんな社会なの?

現実的なイメージが私にはわからない。それとも福島党首は自分で説明できるとでも言うの?

そんな自分でもわかっていないようなことを「べき論」を使って相手に要求する・・・
こんなスタイルがダメダメの典型だと申し上げているだけです。

さて、その発言に接して以来、私は福島党首に注目していました。

「次はどんなボケをかましてくれるのかなぁ・・・」

「まったく、あの人はネタの宝庫だねぇ・・・」

福島党首は立場のある有名人なんだから、彼女が発する折々のコメントは、ニュースなどに登場したりしますよね?
そして気がついたのは、「悪(あく)」という言葉が実によく使われること。

憲法改悪阻止!悪法!悪政!

1分間の発言のうちに、3回くらいは、この「悪」なる言葉を使っている。皆さんも、今後は注目してみてくださいな。

ある人の考えや行動が気に入らないということはあるでしょう。自分だったらそうはしない、そう思うことだってありますよね?
しかし、自分と違うからと言って、それをいきなり「悪」なんて断定する・・・そんなことをする人って、いったいどんな人なの?って思うでしょ?

自分と違うから気に入らない・・・のはいいとして、じゃあ、自分の考えなり行動の方が、他の人にとっても適切なものなんだ!と、周囲の人にもわかるように説明するのが先でしょ?

たとえば憲法の問題だって、今までの憲法のいい点はこれこれだ、憲法の改訂をして、この点を取り入れると、このあたりが問題になってくる・・・だからワタシの考えの方がいいんだヨ!
そうやって、他者にわかりやすく説明することが重要でしょ?

「この私が『悪』だって言っているんだから、黙って従えコラっ!」

そんな感じでいきなり価値判断を押し付ける必要なんてないじゃないの?

さて、以前にこのメールマガジンで韓国の歴史教科書を取り上げました。あの教科書も、事件の具体的記述はそっちのけで、価値判断だけが書いてあった世にも珍妙な教科書でした。大きな事件があったのなら、「いつ」「どこで」「だれが」「なんの目的で」「どうやって」と、そんなことを記述するのが先でしょ?事件の価値判断は人それぞれですよ。

しかし、ダメダメ人間は、自分自身で考えたりはしない。権威者認定のありがたいご高説を、盲目的に受け入れているだけ。自分で考えたりはしないから、事実の詳細より、価値判断が先に来るわけ。

そして、自分と違っているからということで、「悪」と勝手に認定してしまう。

しかし、自分と違っているから、あるいは、自分の言うことを聞かないから、すなわち「悪」なんて、実に恐ろしい発想でしょ?

それこそヒトラーやスターリンや毛沢東となんら変わりませんよ。ホロコーストに至る典型的な発想じゃないの?あるいは、「子供が言うことを聞かないから殴った!」と語る児童虐待する親とまったく同じ。

福島党首の発想は、価値判断が先に来て、権威主義的で、問答無用。
実際にそうでしょ?

しかし、このような発想って、別の言い方をすると、軍国主義的ですよね?

「米英は悪だ!オレの言うことを黙って聞け!反論は許さんっ!!」

まあ、福島党首の実家・・・なかんずく、両親がどんな人なのか?
簡単に見当がつくでしょ?

問答無用で権威主義的な父親。グチばかり言っている母親。そして両方とも被害者意識が強い。

「悪いのは全部政治のせいだ!」そして「
いったい誰のためにこんな苦労をしていると思っているんだ?!」

そんな環境で育ってしまうと、「ああ」なりますよね?

このような被害者意識が強い人間は、被害者意識が強い同じような人間を呼び込んでしまう。しかし、お互い「親に迷惑を掛けられない!」なんて強迫的に思っているから、根源的な思考ができない。自分たち自身の問題として捉えられないわけ。そんな連中が、一緒になって、

「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」

とグチ大会をするわけ。しかし、物事は簡単に行かない。被害者意識が強い人間は、被害者競争をしたりするもの。双方が不幸自慢をして、「どっちの側がより不幸なのか?」で競争するんですね。そして「より不幸」な方が序列が高いわけ。

「アナタより・・・ワタシの方がかわいそうな人間なんだから、ワタシの言うことを聞いてよ!」

社民党から離脱した人がいたりしますが、それって、政策論争や路線論争でもなく、このような不幸「抗争」に敗れた・・・という面もあるんじゃないの?

福島党首が何を目指しているのかはよくわかりませんが、彼女が目指しているものを彼女自身が自覚しているのかな?
その点が、そもそも、それが疑問ですし、もし、明確な目標があるのなら、今のような権威主義的で軍国主義的な手法だと、その実現は遠いだろうなぁ・・・と思っているだけです。

そもそも、じゃあ、頻繁に登場する「悪」って、どういう意味なの?

「アンタの言う、悪って、どういう意味?ちょっと教えて?」

と、こちらが尋ねたら、どう答えるでしょうか?
まあ、予想できるのは、これ。

『悪って・・・よくないこと・・・』

まさに、「ふつうって、どういう意味なの?」という問い掛けに対する回答とよく似ていますよね?

ちなみに、福島党首が掲げる「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会」に似た社会というか組織があることが最近わかりました。最近言及し続けていますウィリアム・スタイロンの小説「ソフィーの選択」の中での記述からです。その中に、第2次大戦中にナチスが作り上げた、アウシュビッツ収容所の記述があります。

アウシュビッツのスタッフには、いわゆる職業軍人はほとんどいません。一般の、それこそ「ふつう」の人たちが、あのような「作業」を行っていたわけ。あのような行為ができるためには、「考えないこと」が、絶対に必要でしょ?「考えていたら」やっていられませんよ、いくらなんでもね。だから「考えない」能力に長けている人たちが、スタッフとして集められ、「粛々と」作業したわけ。

まさに「ふつうの人が、ふつうに働いて・・・」そして、「考えない」から、自分は不幸だと思わない・・・そんな組織だったわけ。

そもそも、物言いの冒頭に「悪」なんて言葉を出すということは、それ以上は「考えなくてもいい」わけでしょ?

それこそ、アウシュビッツでも

「ユダヤ人は悪だから・・・」
「これがワタシの仕事だから・・・」

そんな言葉を持ち出し、自分で考えることに封印を施し、「粛々と」作業したわけでしょ?


悪という言葉は、倫理に直結している。

倫理というのは、言葉の上では結構なことですが、別の観点からすると、プラグマティックな視点が欠如していることと言えます。そもそも、プラグマティックに物事を見る人が「悪」なんて言葉を持ち出しますか?

プラグマティックな発想がないということは、自分で達成したい目標そのものがないということでしょ?

自分に確たる目標があれば、その実現のために、プラグマティックに行動することになりますからね。倫理的に考えているだけでは、自分の目標は達成できませんよ。目標が達成できない・・・というか、目標自体が存在しないので、むしろ、

「○○のせいで、上手くいかない。」

と犯人認定の論理を持ち出すことになる。その「○○のせいで上手くいかない。」という発想を、エーリッヒ・フロムは「○○からの自由」と記述しております。その「○○からの自由」にこだわる心理がナチスを呼び込んでしまうことになる。

「○○をする自由」を意識して、プラグマティックに発想すれば、それに協力してくれる味方がほしい。しかし、「○○からの自由」を意識して、倫理的に物事を見れば、敵がいた方がいい。「悪」を意識することによって、「善」vs「悪」の構図を作り上げるわけ。だからこそ、抑圧的な人間は、味方よりも敵が必要になってしまう。そして、自分の考えと違っている者を、「悪」と認定して、それを敵とすることになる。

敵なんだから、説得も必要はなく、一方的に糾弾するだけ。
逆に言うと、会話の能力は必要とされない。

ただ、敵を攻撃する言葉を繰り返し、権威筋認定のご高説を連呼するだけ。

あるいは、反論されにくい漠然とした言葉を持ち出すことで、説明や説得のシチュエーションから逃避する。まさに、「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」という言葉に結実することになる。その言葉はいいとして、

『で、結局は、アンタはどうしたいの?』

と聞かれてしまったら、どう答えるんだろう?
彼女としては、どうしてもやり遂げたい具体的なことがあるの?


倫理というのは外部的な体系であって、その裏面として自己逃避とつながりやすい。抑圧的な人間は、自分で考え、判断することが心理的に怖いので、その物言いに「学ぶ」という言葉が頻発することになる。その「学ぶ」という言葉は、その心理的な意味としては「従う」とか「縛る」という言葉に近い。まさに自分で判断することを否定している発想なんですね。自分で考えることを否定し、自分自身を否定しているんだから、相手のことを肯定するわけがないじゃないの?

いきなり「悪」なんて価値判断を押し付ける人間って、現実にいたりするでしょ?
そもそも「悪」なんて言葉が冒頭に登場したら会話にならないじゃないの?

つまり、最初に「悪」なる言葉を使うことによって、会話や思考から逃避できるわけ。そんな人間は、今までちゃんとした会話をして来なかったことがわかるわけですし、そんな人は被害者意識も持っているものなので、スグに逆上することになる。

「ああ!アイツの悪によって、私はかわいそうな目に!」

そう思ってしまうので、暴力的な手段を取ることに躊躇しない。自分と違っている発想や行動を持っている人を、いきなり「悪」と断罪するような人が、後になってどのように評価されるのかって・・・決まっているものでしょ?


まあ、この私が、福島党首と1対1のやり取りができる機会があれば、1時間あれば必ず泣かせられる自信があります。まあ、「泣かせてみせようホトトギス」ってところ。

そもそも、彼女に対しては、

「アナタのさっきの物言い・・・アナタのお父さんの物言いにそっくりでしょ?」

なんて言葉がチェックメイトになるわけですから、その前段階で、少しづつ相手を追い詰めていけば、実に簡単に泣かせられるでしょう。ちょっと興奮したりすると、「つい」、もっとも自分らしい言葉を言ってしまうもの。
それこそ

「ふつうって・・・ふつうのこと・・・」なんて言葉。

そのような言葉を多く引き出して、ニッコリ笑って、

「ああ!お父さんもそんな感じで言っていたんでしょ?」
「アナタはやっぱりお父さんの子だねぇ・・・」とやるわけ。

まあ、この時点で確実に泣くでしょうね。2時間あれば、首を吊らせることもできるでしょう。彼女はそれくらい「心が弱い」ことが歴然としています。まあ、この私が「いかにモノが見えるのか?」知っている人は知っていますので、これ以上は言いませんが・・・

だから重要なことは、自分自身で自分自身を見つめるということ。

人から突っ込まれるから逆上してしまう。自分自身で考えれば、そんな厳しいことにはならないでしょ?
普段から考える習慣を付けておけば、いざという時にも、大怪我はしないもの。

だからこそ、「悪」などの価値判断を最初に持ち出して、会話や思考から逃げるようではダメなんですね。
https://medium.com/dysfunciton/%E6%82%AA-%E3%81%82%E3%81%8F-ac385668ea9e


3) 共産主義者は権威主義


ダメダメ家庭出身者の活躍分野 共産党員

第2次大戦中のイギリスの首相をされたチャーチルが、こんなことを言っていますよね?

「若い頃に共産主義にシンパシーを持たなかったら人間の心がない。
しかし、いい歳をして共産主義者だったらバカ。」


あるいは、私の個人的な知り合いが、よくこぼしていたものです。

「共産党の人は、勉強もしているし、正義感もあるんだけど、

『共産党員になって一緒にやらないとあなたたちには協力できない。』

と言われてしまうので、付き合いきれない・・・」


ダメダメ家庭の人間は、目の前の現実を直視して、その問題を一つずつ解決していく・・・と言った現実的な改善をしない。何かの問題に取り組む際にも、理念先行であり、
「悪いのは全部○○のせいだ!」

と、勝手に判断して、その○○への対抗心を膨らませてしまうことが多いわけ。


確かに、共産主義が掲げる「人類が皆平等で幸福」という状態は、誰も反論できませんよね?

しかし、現実にはダメダメ家庭というものが存在し、自分の子供をダメダメにしてしまう親だっているわけですから、そのようなダメダメ家庭で育てられた人間をどう扱って行くの?あるいは、どのようにサポートしていくの?

出身家庭は皆平等というか、同レヴェルというわけには行きませんよ。経済的には平等に近くなっても、まさに「心の貧しい」状態の家庭もあるわけ。そしてそのような「心の貧しい」家庭ほど、被害者意識を持っているもの。だから対抗心が強い。

そしてダメダメ家庭は、政治をあてにするもの。自分たちが当事者意識を持ってことにあたるという発想がなく、政治の力でいきなり解決してもらおうとするわけ。何かと言うと、政治の問題にしてしまい、そして、対抗心が強い家庭で育った人間が共産党に入党するのも、当然といえば当然といえます。

政治的な主義主張としてのマルクス主義がいいとか悪いとかは別として、

「目の前にいる困りごとを抱えている人間を、どのように助けるのか?」

と考えることも重要でしょ?

「困っている人が、自分と同じ共産党員だったら助ける。」

「困っている人が共産党員でなかったら助けない。」

そんな発想だったらねぇ・・・

しかし、ダメダメ家庭の人間にはグチの共有への渇望があるわけ。

「一緒になってグチを言い合いたい!」

常にそう思っている。だから一緒になってグチを言ってくれるような人間でないと、仲間とは言えないわけ。

「アンタ・・・さっきからグダグダ言っているけど、そんなことは、自分で何とかできるでしょ!?」

なんて言い出すような人間が身近にいては困るわけですね。

面白いことに、共産党のポスターが多く貼ってある地域は、空気がよどんでいる。なぜかなぁ・・・と思ったのですが、声が聞こえないんですね。何となく静か。それに風景の色自体がくすんだ感じ。ちょっと殺伐とした雰囲気なんですね。そんな環境で育ったら、やっぱり

「悪いのは全部○○のせいだ!」

と考えるような人間になるのも当然でしょう。

マルクス主義を共有する集団なら、まだ救いようがありますが、往々にして共産党政権が行うのは被害者意識の共有という手法なんですね。

マルクス主義を肯定しているのか?
あるいは、現行の政治を否定しているのか?

言葉の上では共通していても、その心理の方向性は、肯定と否定で逆方向になっている。結びつきだって、肯定と否定は違うもの。
理想を共有しているのか?
敵を共有しているのか?
それによって、心理的にはまるっきり違うものでしょ?

それこそ、以前に京都府で共産党の長期政権がありました。そこでも「憎い!憎い!」と、東京への憎しみを掻き立てる政権運営がなされたそう。ちょうど今の北朝鮮と同じ手法といえるわけ。京都府民が東京への憎しみで一致団結している。当時の京都はそんな状態だったそう。だから共産党の長期政権になったわけでしょう。そんな精神風土が残っていると、確かにヘンな事件も起きちゃいますよね?

マルクス主義的な考えで取り入れられるものは、取り入れればいいでしょうし、選挙において共産党に一票入れるもの、ひとつの判断といえるでしょう。しかし被害者意識を共有する集団に入ると、抜け出すのも大変なわけです。形の上では抜け出せても、精神的には抜け出せない。ちょうどダメダメ家庭出身者が、自分の出身家庭の被害者意識から抜け出すことが難しいようなことが起こるわけ。常に自分の被害を考える習慣がついてしまうわけ。

現実で問題が起こってしまったら、自分の目で問題を認識し、人の話を真摯に聞いて、自分の頭で考える・・・現実を改善するのは、これが基本でしょ?

マルクス主義の考えを参考にするのは結構ですが、あくまで考える主体は自分自身なんですね。

しかし、共産党員になると自分で考える必要がなくなるわけ。それこそ上意下達の世界でしょ?

だからダメダメ家庭の人間には都合がいいわけ。自分で考えなくてもいいし、自分の被害者意識を満足させてくれるし、人と会話しなくてもいいし、明確な序列があり、権威主義的。

と、ダメダメ家庭の人間の「ツボ」を満足させてくれる集団といえるわけ。

面白いことに、「人類がみな平等」という主義主張のはずの共産党では、明確な序列があり、実に権威主義的でしょ?

会話ができないので、新たな縁を広げていくことができず、従来からの縁であう地縁血縁にこだわったりする。

それこそ、権威や血縁の集大成とも言える皇室に、妙にこだわったりするわけ。共産党員ほど、

「実はワタシの先祖は、遠く皇室につながっているんだ!」

などと自慢気に話したりするもの。そんな血縁自慢の共産党員って、いたりするものでしょ?

あるいは、共産党員の主義が統一されているのはともかく、その「話しぶり」も、全員同じようなものでしょ?

それってTPOに合わせた会話をしていないわけですよね?
あんな口調を聞かされたら子供はどう思うのかな?
あの話しぶりは、相手から合意を取るという発想ではなく、相手から反論を食らわないことが目的化した話しぶりでしょ?

共産主義そのものは、現在でも十分に参考になる考えでしょう。マルクスの指摘には有意義な点も多い。しかし、現実の共産党員で尊敬できるような人って、ほとんどいませんよね?

不平不満を、権威主義的な物言いで主張するだけ。結局は、会話ができない人間が、自分の被害者意識を主張しているだけでしょ?

だからダメダメ家庭の人間は、共産党員になってしまったりするわけ。
共産主義の理想というより、不平不満の体系化の方が主眼と見た方が理解しやすいもの。

それこそ読売新聞の渡辺さんが、昨年のプロ野球での騒動の際に、「たかが選手が・・・」と言ったそうです。渡辺さんは今は違っていますが若い頃は共産党員でした。まあ、「たかが選手が・・・」という物言いは「共産主義」の発想とは似ても似つかぬように思われるでしょ?

しかし、「まず最初に、自分の側の被害を考える。」あるいは、「権威主義」という「共産党」のメンタリティからは、結局は変わっていないわけ。彼もダメダメ家庭の出身なんでしょうね。

あるいは、以前に、年季が入った実際の共産党員の方と雑談をしたことがありますが、その方が「ウチの使用人が・・・」と言う言い回しをしたので、私も呆れてしまいました。「使用人」という言い方ではなく、たとえば「働いてもらっている人」とか、せめて「従業員さん」とかの言い回しの方が適切といえるのでは?
共産党の集会では、「使用人」という物言いをする人に対して、注意とか指摘はされないの?

共産党員さんも、主義主張は当人の勝手ですが、実際に働く労働者の方々に、もうちょっと敬意を持てないものなのか?

序列意識が強いダメダメ人間は、何でも序列で判断するので、逆に言うと、「格に対するセンシビリティ」がなくなってしまうことになる。格の違いというか、そもそも背負っているものが違うというか、そもそもの土俵が違うというか・・・もはや別の世界という存在もあるでしょ?

それを、格の問題ではなく、序列関係の枠組みで認識するわけ。


それこそ、皇室なんて、一般の人間にしてみれば、格が上とかの問題以上に、そもそも別の世界ですし、はっきり言ってしまうと、関係ありませんよ。だから、どうでもいい話といえるくらいでしょ?

しかし、共産党員は、格が違うというか、世界が違うという発想自体を持っていないので、それを序列関係で意識して、だから、皇室に対して妙に対抗したりする。しかし、無理に意識などはせずに、

「あの人はあの人、ワタシはワタシ。」

でいいんじゃないの?

しかし、序列意識が強く、対抗心が強いので、どうしても、意識してしまうわけです。

ちなみに、これらの記述は、基本的に「日本」の問題です。ただ、日本以外でもほとんど同じでしょ?

尊敬できる共産党員って、世界的に聞かないでしょ?


被害者意識の体系化と、組織化という点では、それこそ中国の共産党もその典型といえます。

昔の中国では、「大人(たいじん)」と称される「器の大きい」大人物がいたものでした。しかし、今の中国で、そんな大人物って聞きませんよね?

伝記を書きたくなるような大人物って、まあ、「トウ小平」さんが最後じゃないの?
あれだけ人口がいるのに、人物としてはどんどん「小さく」なっちゃっていますよね?

共産党治下の今の中国は、地縁と血縁を重視し権威主義的と、まさにダメダメ家庭の人間の「ツボ」を押さえたつくりになっているわけ。あと・・・中国人や中国政府の行動にやたら対抗心があるのも、共産主義というよりも、ダメダメ家庭のツボそのものでしょ?

私は別に共産主義に反対しているわけではありません。それこそ共産党員の問題を、以前触れた皇室の問題と同じ観点で考えているだけです。右とか左とかの分類で、わかった気分になること自体が、いかにもダメダメでしょ?

ちなみに、「被害者意識を体系化して、それを組織化する」というのは、宗教団体にも見られたりしますよね?
やたら自分たちの被害を主張する団体ってあったりするでしょ?

そんな人たちは、往々にして、自分たちが周囲に撒き散らしている「被害」については無頓着なもの。

「自分たちが一番の被害者だ!」

と、思っていると、自分以外の被害なんて無視するわけです。これもダメダメ家庭のお約束ですが。
http://space.geocities.jp/estrelladelsur010/05-12/05-12-23.htm

4) 共産主義者は人間の価値を社会的序列でしか判断できない


支配・被支配の構図 (統治と支配の違い)


ダメダメ家庭の人間は、序列意識が強い。コミュニケーションが命令と服従だけなので、

「どっちが命令を下すのか?どっちが命令を聞くのか?」

その立場を確定する序列が重要になってしまうわけ。序列が違うと言っても、格として見た場合には、それほど違いがありません。

「どっちが2番で、どっちが3番なのか? だからどっちが上の序列なのか?」

と言っても、順番が違うというだけ。逆に言えば、そんな「格の違いと序列の違いが区別できない」発想が問題になってしまうこともあるもの。

序列意識が強いダメダメ人間は、格の違いを序列の違いとして認識してしまうので、たとえば親子の関係も序列の違いとして認識し、格の違いとしては認識していないわけ。本来なら親子の間にある違いは序列の違いではなく、格の違いでしょ?

格の違いがあれば、「上の立場」の人間は、下の立場の存在に対し、保護したりする責務があるでしょ?

しかし、ダメダメ家庭の人間は、上の立場であっても、下の立場の存在を保護しようなんて考えてはいない。ただ、序列に基づいた命令の流れがあるだけ。

ダメダメ家庭においては、上の立場のものの責務として、下の立場のものを「保護し」「思いやる」なんて発想は持っていないわけ。

序列の違いと、格の違いは、質的に大きく違うもの。

このような「格の違い」以外にも、単なる順番の差で示される序列の差ということをもっと超えて、「立場が大きく違う」状況が存在する場合があります。そうなると、いわば「支配・被支配の構図」が誕生するわけ。

ここで、「支配・被支配」と言っても、支配であって、統治ではありません。

イギリスの王室を、「君臨すれども、統治せず。」なんて言われたりしますが、

ダメダメ家庭というものは、「支配すれども、統治せず。」

となっているわけ。


「支配すれども、統治せず。」となると、それこそ北朝鮮の金王朝が、まさにその典型でしょ?
金王朝は君臨して、北朝鮮の人々を支配しているけど、統治はしていないでしょ?

逆に言えば、ダメダメな人は、統治の責務を認識しないからこそ、何も覚悟もなく「支配」を目指すことになるわけ。

そして、支配を目的とすることで、自己逃避してしまう。本来なら、何かを統治というものは、その統治した人々を幸福にしたり、あるいは、統治の領域を拡張したりと、その立場を獲得すること自体は、最終目標とは言えないもの。どのように統治するのかが最重要の問題ですよ。

あるいは、統治の問題だったら「どうやって、みんなの富を増やしていくのか?」なんて問題も発生するもの。
しかし、ダメダメな地域ではそんな発想がないので、富の再生産がないことになる。それこそ、支配者が被支配者に対してワイロを要求するようになるわけ。それは支配者の役得かもしれませんが、統治者の義務からは外れているでしょ?

ダメダメな地域では、支配者は、得た地位によってお金を得て、そのお金によって、土地とか、宝石とか、お妾さんに出費しても、本来の統治者の役割である富の再生産に回すようなことはしないでしょ?
だから被支配者は貧しくなるばかり。それを指摘されると、

「悪いのは全部○○のせいだ!」

と他者を犯人認定。 中国とかロシアとか、韓国・北朝鮮とか、イスラムって、そんな感じでしょ?


ダメダメな領域ほど、支配者はラクだし、儲かる。だからこそ、支配者になりたがる。そのようなプラグマティックな意味ばかりではなく、ダメダメ人間の抑圧的な傾向からも、支配欲が発生するもの。自己逃避のダメダメ人間は、支配そのものを目的化することで、あるいは支配する立場を得ることを目的とすることで、自分自身の問題から逃避してしまうわけ。

そんな人は、支配を目的化した用語を使ったりするもの。たとえば「制圧」とか「征服」とかの、一般の社会では使わないような言葉を持ち出してくる。それこそ、大阪の芸能人が、よく「東京制圧!」とか言って喜んでいますよね?

あるいは、韓国の芸能人が、「日本制圧!」とか・・・
征服とか制圧はいいとして、じゃあ、その芸人さんは、東京や日本でどんな活動をするの?
本来は、それが重要でしょ?

しかし、それを考えることから逃避してしまい、征服とか制圧そのものが目的化されてしまうわけ。

そもそもダメダメ人間は、「勝ち負け」だけで判断するもの。

「ヤツラに勝って、制圧したぞ!」

そう言いたいわけ。支配が目的化されているので、それを確認するような物言いが多くなる。それこそ、

「誰がオマエを養っていると思っているんだ?!」

なんて物言いが頻発することに。あるいは

「教えてやる」とか「恵んでやる」とか「出演してやる」

なんて恩着せがましい物言いが多くなる。あるいは、

自分の支配下にある女性に対して「ご主人さま!」と言わせるとか・・・

そんな事件が実際にありました。そんな行為は、その人の出身となったダメダメ家庭の反映なんですね。


そんな環境に育ってしまうと、まさに親譲りで、相手を「支配」することをもくろむパターンになったり、逆に、「支配」に対して過敏に反応するようになるわけ。ちょっとでも力のあるものに接すると、

「この○○は、ワタシを支配しようとしているのでは?!」

と、警戒することになってしまう。


それこそ、「日の丸」とか「君が代」などにも過剰反応することになる。そんな過剰反応も、支配されることに対する過敏な恐怖感を理解していると、簡単に理解できるでしょ?

ダメダメな環境においては、「支配すれども、統治せず。」の状況。だから支配されることは、すなわち、死につながってしまう。ダメダメな地域では、そんな「支配・被支配の構図」で物事を見る人が多いでしょ?

韓国人の訳知りコメントって、「日本が我々を支配しようとしている!」なんて警戒感を主張した文章って多いでしょ?

日本だって、本来なら、そんな「しょーもない」連中など支配しても、ジャマくさいだけ。本来は、支配する際には統治も発生するわけですから、そんな連中の統治は面倒だし、価値もありませんよ。しかし、ダメダメと言うものは、「支配・被支配の構図」で相手との関係を設定し、その支配においては、統治する義務が含まれていないことを理解すれば、そんな警戒感を踏まえた主張も理解できるようになるわけです。


本来なら、そんな「支配・被支配の構図」で見なくても、対等の関係で

「お互いが迷惑にならない範囲で自由に行動し」

「自分のやりたりことを相手に的確に伝えればいいだけ」、

別の言い方をすると、双方の合意を積み重ねながら進めていけばいいと思ってしまうのはマトモな発想ですが、会話不全で自己逃避のダメダメ人間にはできないこと。他者の支配を目的化することで自己逃避できるわけだから、そんな支配欲に浸ることはダメダメ人間には、心休まるものと言えるわけ。つまり、支配対象の他者を凝視することで、自己逃避するわけです。

ダメダメ人間にとっては、支配欲というのが、自己逃避の具現化であって、目的達成のための統治とは結びついていない。そんな人間に実際に支配されてしまったら、とんでもないことになってしまうもの。

支配しても、しょーもない連中であるがゆえに、支配されてしまうとトンデモナイ事態になるわけです。


そんな支配欲を持つ人は、そもそも個人としての尊厳がないので、自分で自分を律する発想がない。
支配だからコミュニケーションが問答無用の命令だけ。そして、その支配関係を利用して

「オレに従え!」

「ワタシを好きになれ!」

と要求するようになる。そんな要求を受けても、実際に好きになるわけもなく、そして、なりようもない。だからこそ、支配下にある存在は、自分の感情を抑圧せざるを得ない。あるいは面従腹背状態になり、臥薪嘗胆を決め込むようになる。

「支配・被支配の構図」で物事を見る人間は、対等の関係では対処できないわけだから、強引に相手を支配しようとするもの。だから、そんな発想が通用する世界に行きたがる。序列に関わる領域において、自分の序列を上げることだけに熱心の人がいるでしょ?

そして、序列を上げて、最終的に頂点にたったら、もうやることがなくなってしまう。

逆に言うと、「その後」をイメージしていないので、どんなズルイことをしても、頂点に立ちたいと思うようになるわけ。トップに立った後でやることについて、何も考えていない状態。それこそ北朝鮮の金王朝ではありませんが、政治の世界なども、やたら「支配・被支配の構図」を作ろうとする人がいるでしょ?

政治の世界だったら、ある種の支配欲が必要でしょう。しかし、抑圧的な人間は、それが最終目的になってしまって、その後の統治のイメージが出てこないわけ。先ごろ辞任された小沢さんなんて、その典型でしょ?

小沢さんは支配のための方法論とか、支配を維持するための方法論には熱心ですが、統治のイメージは何も持っていないでしょ?

支配欲が強い人は、相手を支配しようとするわけですが、逆のパターンで「支配されたい」と思っている人もいるもの。ある種のマゾヒズムを持っている人もいるわけです。
なにせ、「支配されてしまえば」、自分ではもう考えなくてもいいでしょ?

自己逃避の人間にしてみれば、自己責任から解放されて、実にラクチン。そうして、トラブルが起こったら

「アイツのせいで、こんな事態に・・・」

と支配者を恨んでいればいいだけ。まさに韓国なんてその典型でしょ?

韓国人がその典型と言えるわけですが、シェークスピアの最後の作品である「テンペスト」に出てくるキャリバンが典型的にそのパターン。いわば隷属への意思を持ち、強き者に積極的に隷属しようとし、そして不都合な事態になると、

「悪いのは全部あの○○のせいだ!」

と言い出し、そして

「どうやって、あの憎い○○に報復しようか?」

と考えることになる。そんな発想の流れは、まさにキャリバンがそうであるように、「育ちの悪い」人間には、頻繁に発現したりするものなんですよ。そんなマゾヒズム人間は、自分を縛ってくれる存在を待ち望んでいるわけ。だからこそ権威主義的な性格を持つもの。

「我々は権威ある○○に黙って従っていればいいんだ!」

と自分に納得させ、周囲の人間に命令する。あるいは、

「あ〜あ、誰か、スゴイ力のある人がワタシを支配してくれないかなぁ・・・」

と念願することになる。支配を志向する人は、結局は序列志向であって、会話の能力がない。あるいは、自分の考えを説明する意欲も能力もない。だから、人から質問されないような、「立派な大義」を掲げたりするものです。

「我々は、こんな立派な正義を掲げているんだから、オマエたちは文句を言わずに我々に従っていなさい!」

そんなスタイルに持ち込みたがる。立派な大義による、問答無用で説明不要の支配関係を形成するとなると、ボランティアの連中なんて、その典型でしょ?

「オマエに恵んでやる!」という立場を作って、弱い立場の人間を支配する。そして、「アナタは悪くないわ!」などと言いながら、その支配体制を維持しようとする。逆に言うと、反論してくるような人間、つまり当人自身で考えることができる人間は、そんな会話不全のボランティア人間の相手などはしない。というか、ボランティア人間自体が、そんな会話が必要な相手から逃げてしまう。


支配に当たっては、言葉は不要。しかし、統治に当たっては、言葉は重要になるでしょ?

だから、会話不全のダメダメ人間は、支配止まりであって、支配自体を目的化するわけ。

支配欲はまさにサディズムであって、被支配欲はマゾヒズム。


お互い同士でくっつけば、まさにベストカップルと言えるわけですが、世界はそんな2人のためだけにあるわけではない。周囲の人間にしてみれば、思考停止のサド・マゾのカップルが巻き起こすトラブルに対して迷惑するだけ。結局は、マトモな人はそんな人から離れて行ってしまうし、残された人間は同類のダメダメばかり。そんな人間が一緒になって家庭を持ったら、その家庭はどんな状態になるの?

支配関係はあっても、家族を保護し、維持し、育成していくという統治の発想がない家庭となってしまうでしょ?

前にも書いていますが、ダメダメ家庭においては、親は子供の「保護者」ではなく、「支配者」なんですね。つまり、ダメダメ家庭においては、子供は保護者不在の日々を送っているわけ。そんな日々だったら、常に切羽詰った心理状態になってしまいますよ。

支配関係というものは、いったん、その関係が崩れたら、修復ができるわけがない。むしろ、次に会うときは敵となっている。それが支配関係というもの。民主党の小沢さんが、いつも、そんな感じですし、皆様が実際にご存知のダメダメ家庭というものも、そうなっているでしょ?

逆に言うと、いったん、その関係が崩れたら修復が効かない関係だったら、その関係が、相互理解に基づいた信頼関係ではなく、「支配・被支配の関係」だったことがわかるわけ。

支配と統治は、似て非なるもの。外から見る行動とか状態においては、「重なる」ことが多いわけですが、ダメダメの領域では、しっかり区別する必要があるわけですし、その区別によって、見えてくるものも多いものなんですよ。
https://medium.com/dysfunciton/%E6%94%AF%E9%85%8D-%E8%A2%AB%E6%94%AF%E9%85%8D%E3%81%AE%E6%A7%8B%E5%9B%B3-3c3ce4b7f638


5) 共産主義者には格と序列の違いが理解できない


格に対するセンシビリティ (格と序列の違い)


ダメダメ家庭の人間は、序列意識が強い。コミュニケーションが「命令と服従」しかないので、

「どっちが命令を下す側なのか?」

そのようなことを常に意識するようになるわけ。


さて、ダメダメ家庭を考えるのに際し、「似て非なるもの」に注目する・・・
序列に対しては過敏にこだわるダメダメ人間ですが、「格」のようなものに対するセンシビリティは、意外にも、弱いものなんですね。

人間なり物事には「格の違い」というものがあるでしょ?
それが「命令と服従」につながるわけではないにせよ、そもそも別次元のようなものもあったりしますよね?

この「格の違い」というものを、別の言葉で言い換えると、「背負っているもの」「背負ってきたもの」の違いと言ってもいいでしょう。あるいは「土俵が違う」とでも言えるでしょう。

同じ格闘技と言っても、「お相撲」と「柔道」では、そもそも別物ですよ。お相撲さんと柔道家とで「どっちが上か?強いのか?」なんて、議論をすること自体がナンセンス。

しかし、無理に序列に巻き込むダメダメ人間は、何でもかんでも序列の中に位置づけてしまう。そもそも別物だったり、格の違うものも、強引に自分の脳内序列に当てはめようとするわけです。そうして、やたら、

「どっちが上なのか?」

なんて言い出したりする。逆に言うと、そもそも格の違うものも、序列としてしか理解できないので、「格の違い」や「土俵の違い」に対するセンシビリティがないわけ。

さて、このメールマガジンでは、以前に「背景を読む力」というお題で文章を配信しております。自分で物事を考えないダメダメ人間は、他者から見解が示されても、その見解がどんな背景から出てきたのか?そんなバックボーンまで見切る力がないし、そもそもそこまで考える発想がない・・・そんな文章でした。

バックボーンは、別の言い方をすると、文字通りに「背負っているもの」「背負ってきたもの」とも言えるでしょ?
過去において、体験してきたものも違うし、背負っている義務も違う。もちろん、背負っている能力も違う。
あるいは、将来において、解決したいもの、やり遂げたいものも、違っている。

そんなに違うんだから、強引に序列に当てはめるのは無理がある。そして、やり取りをする際には、そのお互いの「背景」なり「背負っているもの」なり「やり遂げたいもの」に対する配慮がないと、議論になりませんよ。

ただ、当事者意識がないと、そもそも「自分がやり遂げたいもの」自体が存在しない。

あるいは、常に被害者意識なので、自分が「背負っている」ものも存在しないわけ。ダメダメ人間に存在するのは「背負わされているもの」くらい。自分自身が背負っているものについて、無頓着なんだから、他者が背負っているものについても無頓着となってしまう。

だから、他者からの見解に接しても、どんな背景を元に、そしてどんな目的意識を元に、そんな考えになったのかについて何も考えない。背景に対するセンシビリティがないので、「格の違い」に対するセンシビリティもなくなってしまう。

「背負っているもの」の違いの代表例は、親と子の違いでしょ?

親は、子供より、多くの義務を背負っている。だから格が違う。そんなことは当たり前のこと。

しかし、ダメダメ家庭においては、そうはなっていないわけ。

ダメダメ家庭においては、親と子の「序列」は存在しても、「格の違い」は存在しないわけです。

だって、ダメダメ家庭においては、親も子供も、背負っているものは同じなんですからね。

「いくらダメダメ家庭でも、親は子供の養育義務を背負っているだろう?」そのように思われる方も多いでしょうが、ダメダメ家庭においては、親は子供の養育義務を「背負わされている」だけ。つまり被害と捉えている。当事者意識を持って「背負っている」のではないわけです。だから、その家庭にトラブルが発生すると、ダメダメ家庭の親と子は、同じものを背負っている同格のもの同士として、犯人探しが行われ、結局は子供が犯人と認定されてしまう。そして、ダメダメ家庭の子供は序列が低いので、親の見解には逆らえない。

本来なら、親と子では格が違うんだから、同じ土俵で議論すること自体が間違いでしょ?

しかし、格の違いに対する配慮がないんだから、何事も同格になってしまうわけ。
序列はあっても、格の違いはない。

それこそ、経済的なトラブルなどにおいても、親と子が同格で議論することになってしまう。

本来なら、親と子は経済的に格が違うものでしょ?
しかし、ダメダメ家庭においては、その家庭の経済的な苦境の解決に当たって、子供が率先してことに当たることになってしまう。だから子供が経済的な面まで「気を使う」ことになるわけ。

ダメダメな人間は、自分が被害者だと思っているので、自分自身を弱い、哀れんでもらう立場だと思っている。保護する側ではなくて、保護される側だと思っている。だからある意味において、子供と同格と思っている。だから、子供と同じ次元でケンカする。しかし、本来なら、同じ次元で親子でケンカしたら、どっちが勝つかわかりきったこと。

しかし、親子の間で、同じ次元でのケンカなんて、まさに虐待家庭では、よく起こっているでしょ?

あるいは、夫婦間においても、夫と妻では、肉体的に差がありますよ。格が違うといってもいいでしょ?
だから身体でケンカしたらどっちが強いのか?そんなことは判りきったこと。

しかし、格へのセンシビリティがないので、親子間なり夫婦間で、同格同士としてケンカして、序列を決定することになる。

このような「序列はあっても、格の違いが存在しない」状態は、ちょっとしたやり取りでも発生したりするものです。

「この人・・・ワタシに色々と言ってくるけど・・・
そもそも格が違うというか・・・土俵が違うんだから・・・
この人・・・いったい何を考えて、このワタシにこんなことを言っているの?」

そんな怪訝な思いになってしまうわけ。

「どっちが命令する側なのか?」

という序列には対応できても、

「そもそも背負っているものが違う。」
「そもそも土俵が違う。」
「目指しているものが違う。」

という格の違いに対するセンシビリティがないので、やりとりがトンチンカンになってしまう。それこそお相撲の土俵で、お相撲さんと柔道家が向き合っているようなもの。お互い、「どうすればいいのさ?」となるだけ。

格の違いは、命令とか服従には関係がない。
だからこそ、ダメダメ人間には認識されにくく、無視されやすい。

それこそ文章においても、書いている人の「背負っているもの」、「背負ってきたもの」が反映されるのは当然のこと。この私のもとにお便りのメールの文章もあったりしますが、読めば、その人の背景となっているものなんて、スグにわかりますよ。一つ一つの言葉の重みが違うものなんですね。
使われた言葉が100の言葉から選択したのか?5の言葉から選択したのか?
ちょっと話をしたり、文章を読んだりすれば、その背景がわかるものなんですよ。

よく「じっくり寝かせた文章」なんて言われたりしますが、十分に推敲をした文章と、書き流した文章は、読めばすぐわかるものですよ。文章の上手下手はあっても、背景となっている精神は、表象としての文章から見えてくるもの。ヘンな話ですが、「一気に読める文章」と、「一気に書いた文章」は、別物ですよ。

このような表現の問題ばかりではなく、ちょっとしたやり取りにおいても、その人の背景が見えてくることが多い。

当事者意識がない人間は、自分の現状や問題を見ようとしないので、自分に関係のないマターばかりに首を突っ込んだりする。他者に興味を持つのはいいとして、当人自身に解決したいことはないの?そのような当事者意識のない人からの質問を受けたりすると、

「それって、アンタが本気で解決したり、知りたいと思っていることなの?」

なんて怪訝に思ってしまうもの。そんな人は、質問の仕方なり言葉も、「ちょっとハズレて」いることが多い。だって、当人がどうしても知りたいと思っていることではないので、質問にもパワーがないものなんですね。いわば、質問のための質問に堕している。

格へのセンシビリティがない人は、そんなトンチンカンな物言いをすることが多いわけ。結局は自分自身の現状なり背景が見えていないわけ。自分が背負っているものを自覚していれば、それに伴う一貫した問題意識も発生するものですよ。逆に言うと、そんな一貫した問題意識がないということは、自らが背負っているものを意識して生きていないということなんですね。

あるいは、ちょっとした行動にも、それが反映されることになります。いわゆる貴族とか平民とかの身分においても、単に出生云々の問題よりも、背負ってきたものが反映されることになる。

「秀でたるもの義務多し」の積み重ねが、その身分の高貴さを生む訳でしょ?
単にDNAの問題ではないわけ。
背負っているものを自覚している日々だから、そんな人の行動は重みがあるわけでしょ?


しかし、バックボーンを自覚し見出す能力が、ダメダメ人間にはない。

稚拙な文章を書くのはともかく、そんな稚拙な文章の人間に限って、説教くさいもの。序列意識を元に、上からの物言いをしたがるわけ。

他者がどんな背景を背負って、その文章にしているのかわからないし、わかろうとしない。

たとえ、その分野で格が違っていても、「自分はこのようなものを背負っていて、このような目標があって、現状はこうなっていて、今はこの問題を解決したい。ワタシとしてはこのように考えている。だから、この点について、ちょっとアナタの見解を聞きたい。」とでも言えばいいだけ。

そのような問い掛けだったら、その分野での格の違いはあっても、自立した一個人同士のやり取りなんだから、スムーズに進むことになるでしょ?

まずは当事者意識が重要なんですね。当事者意識がある人なら、その分野はともかく、別の分野では「格」が高いことが推測されるわけ。

特定分野における格の違いの問題ではなく、格の違いが、そもそもわからないダメダメ人間は、持ち前の序列意識から、上からの説教くさい物言いだったり、下から媚を売るような物言いをしてしまう・・・
だからこそ、ますます人間の格が低くなる。

「序列意識」と「格の違いに対するセンシビリティ」の違いは、当人が「背負っている背景」に対する感応度の違いであって、それは自分自身が「背負っているもの」に対する自覚がないと、生まれて来ないもの。

その大元として、親と子の間で「格の違い」が存在しないダメダメ家庭の発想があるわけです。

そんな「格の違い」に対するセンシビリティがないと、それこそ学校における教員と生徒の間も、序列で捉えてしまうことになる。教員と生徒は、格が違うものであって、序列の問題ではないでしょ?

しかし、教員と生徒の間の違いも、ダメな教員は、序列で判断するし、ダメな生徒やその親も、序列で判断する。そんな学校は、どうなってしまうのか?まあ、お約束でしょ?

あるいは、以前に起こった自衛隊の船と漁船の衝突事故ですが、最新鋭の軍艦と、オンボロの漁船で、同格で議論してはダメでしょ?

それって、親子間で、同格でケンカするようなもの。

格が違いに対するセンスというものは、自分が背負っているものを自覚しているから、持っているわけ。当事者意識がないと、持てないセンスなんですよ。逆に言うと、そのセンスがないことから、自らが背負っているものを全く意識していない日々が見えてくるわけです。

「秀でたるもの、義務多し。」

という言葉でいうと、

「義務を自覚してない人」は、「秀でたる存在」ではないわけでしょ?

そんな人は、たとえ、その立場がそれなりではあっても、ダメダメな人なんですね。


格が上の人は、一般人とは、求められるものが違っていて当然。逆に言うと、その覚悟がない人は、そんな立場に立ってはダメなんですね。

本来なら、家庭内で、格上の存在であるはずの親というものも、ダメダメ家庭においては、子供と同格。逆に言うと、格上の責務について何も考えないから、簡単に親になってしまう。格上の存在として、子供を保護ずる発想もない。自分ひとりで何事も解決しようと、子供が無理をして、結果的に子供が問題行動を起こして、

「どうしてこんなことに?!」

と嘆く。ちょっと説明されれば誰でもわかることですが、何も考えないからこそダメダメ家庭ができてしまう。家庭内においては、親というものは、格上の責務があるものなんですよ。その責務を自覚してない親って、残念ながら多いでしょ?

そんな人は、別の面でも、今回の文章にある「格に対するセンシビリティ」がないものなんですね。
https://medium.com/dysfunciton/%E5%BA%8F%E5%88%97%E9%81%8E%E6%95%8F-62558f9a2332

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/353.html#c3

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
15. 中川隆[-10689] koaQ7Jey 2019年4月18日 12:56:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1366]
毛沢東の性欲は「支配欲」


心理学者 エ−リッヒ・フロムの愛と性欲の説についてご紹介いたしましょう。

性欲は愛によってかきたてられることもあるが、孤独や不安や、征服したいとか征服されたいといった願望や、虚栄心や、傷つけたいという願望や、時には相手を破滅させたいという願望によっても、かきたてられる。

性欲はどんな激しい感情とも容易に結びつき、どんな激しい感情によってもかきたてられるようだ。愛はそうした激しい感情の一つにすぎない。

たいていの人は性欲と愛を結びつけて考えているので、二人の人が肉体的に求めあうときは愛し合っているのだと誤解している。もちろん、愛が性欲をかきたてることもある。ただしその場合の肉体関係には、貪欲さも、征服したいという願望も征服されたいという願望も欠けており、そのかわり優しさがある。


_________

性衝動とは怒りや破壊の衝動とも結びついているのです。

カップルは大喧嘩のあとベッドの中で仲直りします。

また、戦場においては銃撃戦のあと血まみれの兵士が、SEXの行為にいたることはよく知られているようです。

怒りは性的反応とも結びついているのです。


これについて脳の観点からサラッと書きます。


怒りと性的反応はともに、古皮質(動物脳)で起こります。

怒りの感情は、大脳辺縁系と視床下部に影響を及ぼし、刺激により視床下部支配下の自律神経系の交換神経が活発になります。

そして性欲は大脳辺縁系、視床下部の影響を受けています。
すなわち、怒りと性欲はともに同じ脳機能の影響下にあるのです。

また、男性性器の勃起は自律神経系の支配下にあり、怒りで自律神経系に影響が及ぶと勃起にも影響が及びます。
かつ、怒りは男性ホルモン、アンドロゲンの活発化を促すものとも思われます。

男性の性欲の凄まじさ、お分かり頂けましたでしょうか。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1034993530


■ T.暴力的映像や行為と性欲の関係


暴力的な映像や行為が直接性欲を刺激するという説は、一般的に広く普及している説だが、この説は極端に怪しい説だと言える。なぜならば、


暴力的行為を見る = スポーツを見て権力欲(勝った負けたなど)を発散させる

と同様の効果を与えるものである。だとすれば、スポーツ(サッカーや野球)を見て性欲が刺激されるだろうか。

それは、しないといっていい。

ただ、スポーツを見て、アドレナリンが出て興奮状態になれば、より積極的な行動を取らせる事もある。

しかし、それも個人的に出る反応が、多種多様(フーリガンの暴動が代表的な例)であることから、性欲に直接つながりを持つものとは思えない。ただ、パブロフ犬のように、暴力行為と性欲を刺激するものをセットにして見続ければ、その映像(暴力的行為)が刺激要因となって、性欲(パブロフ犬で言うよだれ)を刺激する。

つまり、性欲的なものと暴力行為を一緒に見せないことが、そのような反応を抑える事に繋がると思われる。


■ U.権力と性欲


性行為が女性を支配する男性の権力的欲求を満たしてくれると感じる(記憶が)ならば、それは性欲ではなく権力欲を刺激し権力欲から暴力に発展する事は考えられる。

逆に性行為が女性が男性を支配するもの(または、権力的事例と切り離せる)と考えているなら、その行為も男性にとっては権力獲得行動に余り意味を持たない。
これもパブロフ的関連付けの事例と言えるであろう。

(ただ、これは、性行為が権力欲を刺激するものであって、暴力的映像事例とは直接的関連性を持たない。)

■ V.関連付けの事例


眼鏡を盗んで掛ける事で、ものすごく興奮して幸せな気持ちになって眼鏡の窃盗を繰り返す犯罪者がいた。

その思いは、過去の記憶が刺激するからで、その理由は、昔友達に借りた眼鏡を借りてよく見えたことが非常に快感?であったらしい。

これもパブロフの関連付けと同様な反応で、過去の記憶がそれを刺激すると言うことである。

■ W.性欲と攻撃(Zillman,1971)


きわめて官能的な映画で何か暴力に関わるシーンが無いのに、それが怒りの状態にある被験者では、攻撃色を強めていたのである。

攻撃性は、性的な映画が興奮を喚起するものだとした。

この話が元で性的な映画が攻撃性を喚起すると言われるきっかけになったと思われる。

■ X.性欲は攻撃性を喚起しない(Baron,1974a,1974b,1977)


性的に興奮した被験者で攻撃性が低下することを見出している。
私もこの説側に立つもので、性欲は攻撃性を喚起しないと考えている。

http://www.geocities.jp/sinrigaku2204/E3-01.htm

フロムの「自由からの逃走」においては、マゾヒズムと同じように、サディズムについて、その心理的な意味が解説されております。

マゾヒズムが、自分自身の無力感の自覚・・・何も行動できない自分、何も判断できない自分・・・そんな無力感を味わうものでした。

逆に言うと、そんな無力であるがゆえに、何もしなくてもいい安寧を感じることができるわけ。自我を否定し、捨て去ることによる、自我の桎梏からの解放のようなもの・・・それがマゾヒズムの真髄のようです。

それに対し、フロムによると、サディズムの本質は、「支配欲」であるそう。


サディズムというと、「その手のプレイ」においては、縄で縛って、ムチでバシバシ「する側」の方の心理になるわけですが、相手に痛みを与える悦び・・・が、あるんでしょうね。


しかし、フロムは、相手に与える痛みは副次的なものである・・・むしろ、サディズムの本質は「相手を支配しようとする欲求である。」と書いております。

相手を支配するために、一番効率的なものは、痛みを持って支配すること。

「痛み」と「支配」が直結しているなんて、誰でもわかること。かと言って、本質なのは「支配欲」の方であって、「与える痛み」は、その手段に過ぎないわけ。支配する手段は痛みばかりとは限らない。

それこそ、世の中には「アメとムチ」なる言葉もありますよね?


相手を意のままに操縦するためには、ムチを使って操縦する方法もあるけど、アメを使う方法もある。アメを使った操縦となると、このメールマガジンで頻繁に言及しておりますボランティアの連中が、その典型と言えるでしょう。

フロムによるサディズムの考えを取り入れると、ボランティアはサディストの集団ということになります。このように書くと極端な考えと思われる方も多いでしょうが、ボランティアの人たちの行動なりサポートは、決して「相手の自立」・・・別の言い方をすると「相手の尊厳」に向けたものではないでしょ?

自分たちが支配しやすい「弱い立場」や「弱い判断力」の人間に寄って行って、アメによって手なずける・・・

そうして、援助している先の人間が、自分で考え、精神的に自立しようとすると、


「アナタたちは悪くないわ!」

「みんな○○が悪いのよ!」


と弁護してやる。だから自立できない状態が温存されることになる。あるいは、自分たちが支配できる人間の数を増やそうとする。それこそ後進国に出かけて行って、「子供を沢山つくれよ!」なんてやるわけ。そうなると、後進国の人々も、経済的な依存関係がより強くなり、まさに支配から脱却できなくなる。軍事によるムチの支配ばかりではなく、「暖かい言葉や援助」のようなアメを使った支配も現実としてあるわけ。


アメとムチは、外見的には大きな違いはあっても、心理的にはほとんど同じ。だから、アメを使った「優しい」支配においても、ちょっとした場面においては、ムチを使った攻撃性が発現することになってしまう。

ボランティアや市民団体は、何かと言うと「つるし上げ」をやりたがるでしょ?

個人レヴェルにおいても、色々と「くれたがる」人は、ちょっとのことで逆上したりするものでしょ?

まさに

「こんなに色々としてやったんだから、文句を言わずに、オレの言うことを聞け!」

となったりするもの。それこそドメスティック・ヴァイオレンスのボランティア団体なんて、「加害者」の男性をつるし上げることによって、事態を解決させようとしたりしますが、これって、まさにアメとムチを使うサディズムそのものですよ。「人を見る眼」のない女性を、自分たちの支配下に置くとともに、加害者の男性をつるし上げることによって、その男性も支配しようとするわけ。

極端な見方と思われる方もいらっしゃるでしょうが、そのように思われる方は、現実のボランティアの行動をよく観察したり、その手の団体の人と実際に話をしてみて御覧なさいな。ボランティアの連中は、フロムの言う「○○からの自由」とまり。だから、そのための運動には熱心。しかし、「○○をする自由」は持とうとしない。だから他者の問題に首を突っ込んで、自分自身の「○○をする自由」から逃避するわけ。

本来なら、他者を支配しても、だからと言って、自分のやりたいことが達成できるというものではないでしょ?

しかし、「○○からの自由」を持っていても、「○○をする自由」から逃避してしまっている人間にしてみれば、まさに「○○からの自由」の一環として、他者を犯人認定して、つるし上げをするくらいしか能がないわけ。

そして、その自分の支配欲を合理化することになる。フロムが言うように、本質となる支配欲を、「他人に対する過度の善意や過度の配慮の結果として覆い隠されることになる。」わけ。

フロムが書いている合理化の具体例としては、

「私がオマエを支配するのは、お前にとって何が重要なのか、私が知っているからだ。お前の利益のために、オマエは私に従うべきだ!」

あるいは、

「私は人から傷つけられた。人を傷つけようとする私の願いは復讐にほかならぬ。」

「最初に殴りつけたのは、私や私の友人が傷つけられる危険を防ぐためだったのだ。」

まあ、そんなセリフは実際によく見聞きするでしょ?
そのような合理化によって、自分が目指している支配を合理化するわけ。

まさに、ダメダメ家庭においても、親の側は

「オマエのために、言ってやっているんだぞ!」

などと「善意」を強調したりするでしょ?善意が前面に出てくる状況においては、その深層に支配欲があるわけ。善意を強調することで、

「だから、オマエはワタシの言うことに従うべきなんだ!」

という理屈にしてしまう。それこそボランティアの連中がそうですし、まさにナチの連中も、典型的にそのパターンでしょ?

ユダヤ人をつるし上げても、だからと言って、何が達成できるの?

他者を支配することに留まってしまうと、まさに「他者を支配する」という関係性に自分が支配されることになってしまうわけ。結局は、個人としての自分自身の精神的自立・・・つまり「○○をする自由」からの逃避なんですね。

サディズムもマゾヒズムも、「○○をする自由」を考える、主体的な自分自身からの逃避の形態であるわけ。あるいは、フロムは

「マゾヒズム的、サディズム的な努力のいずれもが、耐え難い孤独感と無力感とから個人を逃れさせようとするものである。」

と書いています。

他者を支配することしか能がない人は、結局は自分自身を支配できないわけ。というよりも、

「自分自身を支配することから逃避する方法として他者の支配があるわけですし、その心理的傾向が、まさにサディズムである。」

フロムはそのように言っているわけですし、サディズムの解釈はともかく、このメールマガジンでも、同じことは頻繁に書いております。

自分自身の「○○をする自由」からの逃避の手段として、マゾヒズムもサディズムもある。結局は、自分の存在価値を「相手との関係性に依存」しているわけ。だからこそ、相手の自立を阻み、支配関係を維持構築しようとすることになる。暴力的なサディズムも、平和的なサディズムも、心理的には同じなんですね。


***************************************************


このメールマガジンでは、今回配信した文章だけでなく、ボランティアの連中のことを好意的に書いてはおりません。もちろん、人を助ける気持ちは、いいことですよ。

ただ、助ける側の気持ちはともかく、助けられる側が、

「自分はこのような人間で、このようなことを達成したくて、今のところではこの点をサポートしてほしい。」

と明確に頼んできたら、その時に、ちゃんと助けるのが人間の姿でしょう。しかし、ボランティアの連中は、そのように明確に言えない、言おうとしない人の元だけに寄っていって、自分の都合で援助しているでしょ?

助けられる側が、自分の希望を明確に言えないのなら、まずは、明確に言えるようにするのが、サポートする側が最初にしなくてはならないことですよ。

先日、またボランティア絡みで事件がありましたが、あのような事件が起こるたびに思うのが、あの手の方々って、マトモな社会にいたら、まさに「陸に打ち上げられた魚」のようなものなんだなぁ・・・ということ。

魚はもともと水の中の生き物なんだから、しょうがないけど、人間だったら、ちゃんと陸上で精神的に自立することが先でしょ?しかし、その自立が怖いがゆえに、スグに水の中に逃げ込んでしまう。そうして、養殖に励むだけ。そうして、エサをもらわないと生きてはいけない人間を増殖させるだけ。

厳しいことを書いていますが、疑問に思われる方は、実際のボランティアをご自身の目で見てみてくださいな。


(10年11月7日 追加)

本文において、サディズムの本質は支配欲であり、そして、支配しようとする相手を凝視することにより、自分自身を見つめることからの逃避となっていることについて言及しております。

支配欲という点で考えれば、援助などのアメを使った優しい支配欲も、ムチを使った強圧的な支配欲も、その心理においては基本的には同類となっているわけ。それと同じように、自己逃避状態において、「どこに逃避するのか?」には、大きな違いはないわけ。あくまで「どこから逃避するのか?」という点が重要になるわけです。そして、その「どこから」が、自分自身となっているわけです。ただ、自分自身から逃避しているがゆえに、自分は自分自身から逃避しているという自覚が起きない・・・これは論理的に当然のこと。だから、自分を騙すような行為をして、自分に確認させるようなことをすることになる。

そして、自分を騙すためには、その行為は儀式的で大掛かりな方がいい・・・これは当然のこと。だからこそ、できるだけ、自分以外の存在を凝視できる大義名分がもっともらしいことが重要になる。

いわゆるイジメ行為を考える際には、まさに道具立てとしての攻撃性・・・まさにムチを使った攻撃性が印象付けられるわけですが、その本質としての支配欲なり、もっと本質としての自己逃避の方が重要になるわけです。

だって、イジメている側に、当人自身にとって本当にやりたいことがあって、周囲の大人も、子供の希望の実現にサポートしている状態だったら、何もイジメ行為などはやりませんよ。

そんなことをやるよりも、自分の好きなことをバンバンやっていった方が楽しいでしょ?

それこそ、スポーツでも、漫画を描くでも、あるいは勉強でも、その子供の好きなことは何なの?

イジメがそんなに大好きなの?

「ボクは、将来は立派なイジメ人間になりますっ!」

と覚悟を決めているの? そんなわけないでしょ?

イジメをしている子供は、逆に言うと、自分がやりたいことなり、好きなことがないわけ。そんな家庭では、子供が何かをしようとすると、親から「余計なことをして親に面倒をかけるな!」と言われるだけ。だからこそ、子供としては家庭内で自分自身を抑圧するようになってしまう。

自分自身を抑圧しているんだから、そんな自分自身について考えることもイヤ。そしてどうしても不満がたまってしまう。

そうなると、まさにその不満の捌け口として、そして、自分自身から目をそらすために、イジメ行為に「逃避」してしまうわけ。

イジメ行為をしている子供に対し、「イジメをやめなさい!」と指導しても効果はない。それよりも、

「アナタたち自身の好きなこととか、やりたいことは何なの?」

と聞いてごらんなさいな。きっと回答は返ってきませんから。あるいは、

「アナタとしては、将来は、どんな大人になりたいの?」

と聞いて御覧なさいな。まあ、回答があるとすれば、コレ。

『ふつう』

イジメ行為そのものが問題というよりも、好きなこととか、やりたいことが何もない子供であることこそが大問題でしょ?

そして、そんな子供にしてしまっている家庭ということが大問題と言えるわけ。

サディズムも、マゾヒズムも、所詮は表層であって、その本質は自己逃避。そして、子供を自己逃避にしてしまう、家庭の問題に目を向けない限り、トラブルの先送りは出来ても、事態の解決はありえないわけです。
http://space.geocities.jp/estrelladelsur010/08-08/08-08-28.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c15

[近代史3] 自称共産国家の中華人民共和国が世界史上最悪の階級社会になった理由 中川隆
16. 中川隆[-10688] koaQ7Jey 2019年4月18日 12:58:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1367]

セックスと暴力。このふたつが密接に結びついている理由 2014年3月27日


(ヒューマン・ライツ・ウォッチが、ソマリアでもレイプが蔓延していることを報じています。ソマリアと言えば、国全体が無法地帯と化して暴力に満ち溢れている国です。暴力とセックスが結びつきを書いた記事を再度トップに上げたいと思います。)

この地球上で、最も女性にとって危険な場所は「コンゴ」であると言われている。コンゴでは殺戮とレイプが吹き荒れていて、未だ止まらない。(戦略的に女性をレイプ。史上最悪の暴力国家コンゴ)

アフリカでは、コンゴの他にもスーダンや中央アフリカでも女性が戦略的にレイプされている。

そして、最近では無法地帯ソマリアでも、レイプが恒常的に行われていることがヒューマン・ライツ・ウォッチによって報告されている。レイプの被害者の3分の1は、18歳未満の未成年である。

戦場では殺戮とレイプがしばしば密接に結びつく。つまり、殺戮という究極の暴力と、レイプという究極のセックスが、そこに結びついている。

もっと端的に言うと、セックスと暴力は、切り離せないものになっている。


セックスと暴力の相性

セックスと暴力は、いったいどうして結びつくのだろうか。様々な要因があって、たとえばセックスというのは元々肉体的なものであり、その肉体性が暴力を喚起するという説がある。

セックスは本能であり、本能は動物的であり、動物的なものは暴力性が垣間見える。だから、セックスと暴力は相性がいいと一般的には言われている。

科学者は別の見方をしていて、たとえば、セックスと暴力の相性は、脳の仕組みに関連していると考えているようだ。

・性ホルモンの中枢
・性行動の中枢
・攻撃性の中枢

この3つの中枢が、人間の脳の非常に狭い部分に隣接している。

性ホルモンの中枢と性行動の中枢は同じ間脳の視床下部付近にあるのだが、攻撃性の中枢は間脳に近くの扁桃核にある。

性的な刺激を受けると、その刺激は攻撃性をも誘発する。逆に、攻撃性の刺激を受けると性行動をも誘発する。恐らく刺激が強ければ強いほど、その刺激が放射状に別の中枢に拡散していくのだろう。

だから、セックスと暴力は一体化することもあるのだというのが科学者の説明だ。


動物の交尾でも同じ

セックスが暴力と結びついているというのは、人間社会ではレイプやボンデージやサディズムやネクロフィリアなどがすぐに挙げられる。

売春女性を殺しまくる連続殺人鬼は、たいていはレイプしてその後に殺すのではなく、殴って蹴って刺して食いちぎって血まみれになった女を見て興奮しているのが損壊した死体を見ても分かる。(娼婦49人殺しロバート・ピックトン。典型的な死体加虐者)

レイプという犯罪がバレないように殺して証拠隠滅するのではなく、殴り殺しながらレイプするのが目的なのである。死体の処置に困ったら、今度は切り刻んで食べてしまったりする。

脳の中では、食欲の中枢も実は暴力の中枢に近い。これは、狩りで動物を殺したら、そのあとは食べるという一連の行動が、本能によっても強化されているということでもある。脊椎動物はほとんどがそのような脳の作りになっている。

ネクロフィリアがネクロサディストになって、さらにはカニバリズムにまで行き着くのは、すべて本能の為せる業だったのかもしれない。

動物の交尾も、オスがメスを攻撃する形で始まることが多いのだという。アカゲザルの場合でも、猫の場合でもそうだ。

また、オスは他のオスにメスを取られないように、攻撃性を剥き出しにしながら交尾に入る。

あるいは、一匹のメスを巡って最初にオス同士で闘いあって、勝ったほうがメスと交尾するというスタイルを取る。そこでも暴力が関わっている。


根源的な「本能」の結びつき

平和な時代が続いていると、なぜ暴力が存在するのか忘れてしまうし、誰でも暴力を振るわれるのは嫌なので先進国になればなるほど暴力を封じ込める。

そうすると、余計に暴力が縁遠いものになって、暴力とセックスが結びつくというのが犯罪的だとすら思うようになる。

しかし、アメリカ兵がどこででも敵地で女性をレイプしていたり、アフリカの暴力闘争には必ずスレイブ(奴隷)にされる女たちの姿があったりするように、暴力の現場には必ずセックスがそこに見え隠れする。

どんな時代の、どこの国の戦争でも、必ず暴力の現場には、レイプがある。

売春地帯でも同じだ。最初から暴力を振るうために来ている男の存在もある。レイプも罵倒も、売春地帯ではごくありふれた犯罪だ。


今でも暴力とセックスは切り離せない現状がそこにある。

暴力とセックスは根源的な「本能」の結びつきだった。


ボスニアでは戦略的レイプが行われた


相手を殴りつけて勝敗を決める

人間の三大欲望というのは「食欲」「性欲」「睡眠欲」とよく言われている。

「三大欲望」とはよく言われるが、「三大本能」とは言われない。三大本能という言い方をすると、恐らくこうなる。

食欲、性欲、暴力欲。

かつては獲物を採るにも暴力が必要だった。かつては女を取り合うにも暴力が必要だった。

食欲と性欲は密接に暴力と結びついていたので、脳も暴力を本能として格上げしているのである。

暴力を否定するのはまっとうな社会人としては当然だ。それは人間社会ではあってはならないものである。

スポーツも暴力の代償みたいなものだから、本当であればあんなものは禁止すべきなのかもしれない。

ボクシングや格闘技を見れば分かるが、相手を殴りつけて勝敗を決める残酷なものである。ボクシングはスポーツであるが、同時に暴力行為でもある。

しかし、ルールを決めて行っているのだからそれはいいと人々は言う。そこに暴力があるというのは奇妙なことに、人々の頭からすっぽりと抜けている。

ボクシングや格闘技を見て喜ぶ人は大勢知っているが、「格闘系のスポーツ反対」と国会で訴える人は見たことがない。


レイプ。傷害。私生活も暴力まみれだったマイク・タイソン


人々は暴力に飢えている

人間が本当に暴力が嫌いだと思っているのであれば、スポーツは絶対に流行しない。暴力を見たいから、暴力がベースになっているスポーツを見る。

どう見ても、スポーツは暴力の代用か、暴力そのものであり、それを見て人間は喜んでいる。

映画でも暴力とセックスに溢れている。ホラー映画でもゾンビ映画でも暴力が主題になっているではないか。それをカネを払って見たいと人々は思っているのである。

客観的に言うと、人々は暴力に飢えているのだ。

あなたがスポーツをするのが好きだったり、スポーツを見て楽しんでいたり、人が死ぬ映画を見たりしていることがあったりするのであれば、あなたも本能で暴力を求めているということだ。

それでいて暴力はいけないと、したり顔で否定しているのかもしれない。それは、あなたの本能とは違う建前を口にしているだけかもしれない。

あなたは、食欲という本能を持ち、性欲という本能を持っている。あなたもそれを否定しないだろう。

では、なぜもうひとつの本能である「暴力」が自分からすっぽり脳から抜けていると思うのだろう。暴力は、間違いなくあなたの体内にも眠っている。

ここが、人間の恐ろしい部分である。
http://www.bllackz.com/2011/09/blog-post.html  

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c16

[昼休み53] 阿修羅掲示板はパラノイアや統合失調症患者の投稿が多いので、真に受けない様に気を付けて下さい 中川隆
27. 中川隆[-10687] koaQ7Jey 2019年4月18日 13:01:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1368]

ドラマ『鈴木先生』、精神分析的レビュー(第1〜3話)
http://tenmei.cocolog-nifty.com/matcha/cat22172508/index.html

ソクラテスの弁明〜『鈴木先生』最終回レビュー(by哲学的対話法) )

     

     

           ☆          ☆          ☆

お勧めに従って、たまたま5日の連休特番の中盤以降(第1話の後半中心)

を見た『鈴木先生』。実績も話題性もないテレビ東京のドラマだし、主役や

生徒役の俳優は全く知らない。おまけに原作マンガも、大ヒットと言うほど

のメジャー作品でもないようで、正直あまり期待せずに見たわけだが、予

想以上に面白くて、つい簡単な感想記事を書いてしまった。

   

 cf.テレビ東京の学園ドラマ『鈴木先生』、マイナーだけどお勧め☆

   

ただ、放送日の月曜はもともと一番スケジュール的に詰まってる時だし、

22時からという放送時間帯は、基本的にテレビを見ない時だ。当サイトは

2年前から、ドラマ長期お休みモードに入ったままだし、もう『鈴木先生』を

見ることはほとんど無さそうだな・・・と思ってた。

       

ところが、その感想記事のアクセス状況が、最初からかなりイイ。視聴率

は相当低いはずだし、ウチの読者層ともほとんど重ならないはずなのに、

次々と視聴率や感想を求めるアクセスが入って来る。特に、信頼できる

発表が見当たらない視聴率を求める動きは強くて、「なぜ低い」とか、「ホ

ントに低いのか」なんて検索まで入って来た。

    

 (P.S. 8日に書きこまれたウィキペディア情報によると、第1話2.6%、

       第2話1.9%とのこと。出典はスポニチ。

       空飛ぶイカ=紙飛行機がファンタジックだった、大沢たかお&

       綾瀬はるか『仁』第4話の20.7%と比べると、約10分の1だ。)

       

これは、少なくとも、見てる人の評価は高いなと思って、試しに土曜(7日)

の特番(第2話中心)もチェックすると、やっぱりディープで面白い☆ 弱小

テレビ局や時間帯、マニアックな内容を考えても、視聴率8%には到達しな

いだろうけど、5%くらいなら不思議はない出来だと思う。

         

という訳で、昨日の月曜日、裏のNHK教育の自転車番組が終了した後、

22時25分から、『鈴木先生』第3話を見た。ますます過激でアグレッシブ

な内容に感心したから、微力ながら再びプッシュしとこう。ただし、録画も

メモもほとんど無いし、昔みたいに本気でレビューする状況でもないので、

念のため。あくまで、軽い感想&考察のまとめ記事程度のレビューだ。

         

       

         ☆          ☆          ☆

ここまで、第1話の後半、第2話全体、第3話後半を見て、思い出したの

は、3年前の冬ドラマ『あしたの、喜多善男』だ。おそらく、『鈴木先生』の

視聴者とはほとんどカブってないだろうが、私は色んな意味で、かなり似

たドラマだと思う。

    

まず、表面的な話として、どちらも主役があまり数字を持ってない。『喜多』

は小日向文世、『鈴木』は長谷川博己。それなりに活躍してる役者ではあっ

ても、激戦区のプライムタイム(19時〜23時)の数字をしっかり確保でき

るほどの人気ではない。木村拓哉、福山雅治、山下智久らとは違うのだ。

また、どちらも原作の人気がビミョーだ。『喜多』の原作は、人気・実力・実

績のある島田雅彦の『自由死刑』で、私も読んで面白かったが、ヒット作品

というほどではないし、万人受けする内容でもない。

            

だから、『喜多』も『鈴木』も、世間一般でのドラマ視聴率は低いわけだが、

見てる人の評判はどらちも結構高いのだ。もちろんそれは、内容によるも

のであって、その共通点は、暗い精神世界を深く描いてる点だろう。精神

医学的と広めに言ってもいいし、もう少し限定して、精神分析的ドラマと言っ

てもいい(特に『鈴木』)。

    

『喜多』の場合は極端、陰の極致であって、中心テーマが中年男性の自殺

だった。一方、『鈴木』は、比較的若い大人と少年・少女における、欲望・

抑圧・深層意識・攻撃などを扱ってる。少し違う言葉を使って、両者をまと

めるなら、どちらも「下に向かう傾向」を扱ってるのだ。その意味で、「上に

向かう傾向」の強いフジテレビ・月9とは好対照だろう。。

              

          ☆          ☆          ☆

『喜多善男』の場合、「下に向かう傾向」を「マゾヒズム」という別名で語って

おいた。マゾヒズムは、俗世間的には変態プレイでイメージされがちだが、

究極のマゾヒズムが自殺願望だということは、100年前から既に指摘され

ている。自殺、つまり自分で死ぬことを求めるということは、自分によって

虐待されることを欲するということ、つまり被虐性の欲望だ。性的欲望かど

うかはともかく。

             

『鈴木先生』の場合、「下に向かう傾向」は、もっと広がりのある形で示され

ている。まず、遥か年下の少女に向かう、秘められた性的欲望。対象が年

「下」だし、心の「下」=奥の方へと、常に呼び戻されるのだ。それは、世間

的、社会的に「下」の世界に近づいてしまうことでもあるし、「上」の立場で

「下」を攻撃することでもある。さらに、物語は常に、心の「下」=奥とのつな

がりを示している。「深層意識」のようなものを指す言葉として、フロイトらに

よる「無意識」が有名だが、同時代のジャネは「下意識」と呼んでたわけだ。

        

具体的に見てみよう。ドラマ全体は、教師を中心とする学園ものであって、

鈴木(長谷川)にせよ、山崎(山口智充)にせよ、ここまでずっと、男性教

師(上の立場)による女生徒(下の立場)への性的欲望に覆われている。

特に、スペシャルファクターと呼ばれる、大人びた知的美少女、小川蘇美

(土屋太鳳)への性欲。

             

一方、第1話の中心的エピソードは2つ。男子生徒による女子小学生への

性的行為と、男子生徒による低学年のクッションの切り裂き。もちろん、クッ

ションとは、柔らかく女性的で、自分の思いのままになるもの。つまり、9歳

の女の子の比喩=メタファーになってる。 

      

続いて、第2話の中心的エピソードは、給食のマナーと献立。食べる時に

左手を添えずにはいられないし、添えない他人を見るだけでも我慢できず、

幼児的な攻撃を行ってしまう男子生徒。あるいは、死んだおばあちゃんの

味を思い出すからと言って、やや不人気な酢豚にこだわる女生徒。どちら

も下の意識に支配されており、同時に、過去=下の年代の記憶に縛られ

てもいるわけだ。

     

         ☆          ☆          ☆

さらに、第3話。女生徒が行った先生の人気&不人気投票と、男性教師

の風俗店通い&嫉妬がメイン・エピソード。投票はもともと、嫌いな(=位

置付けが下の)教師を攻撃するためのものだが、結局は跳ね返って、感

心しない企画を実行した女生徒自身を攻撃することになる。

        

つまり、意図しないサディズム=マゾヒズム的な交錯・反転が生じてるの

だ。実際、首謀者は、もともと好意を抱いてた他の女生徒とも、気まずい

仲になってしまったようだ(前半を見てないので公式HPからの推測)。

       

一方、山崎先生による攻撃的言動も、風俗店でのマゾヒスティックな行

動と表裏一体になっている。ただし、女生徒と違うのは、大人であるゆえ

に、それが意図的に行われてる点だ。欲望と嫉妬による攻撃的衝動は、

本来は他人(女生徒や同僚教師ら)に向けられるべきものだが、大人と

して、あまりそういった事は前面には押し出せない。いわゆる「超自我」

が発達してるので、現実世界で「エス」(根源的衝動)に溺れることなく、

自らを自動的に抑えてしまうのだ。

        

抑えられた攻撃的衝動は、現実の他人へと向かうことが出来ず、非現実

の世界(風俗店)で、自らに向かうことになる。つまり、好きな女生徒(おそ

らく小川)と同じソックス(身体の一番下の衣服)を店員に履かせ、その足

の更に下へと潜り込み、頭(身体の一番上)をすり寄せて、恍惚感に浸る

ことになる。サディズムからマゾヒズムへの意図的な転化だから、二次的

マゾヒズムという言葉を使ってもいい。    


       

マゾヒズムは、フェティシズム(足フェチ)としばしば結びつく。それは、下劣

な自らを崇高な対象の下に置きたいからだ。その対象が足=脚(身体の

下部)である時には、特にマゾヒズムと結びつきやすい。男性性器との身

体的・発達論的類似を考えて、男根=ファルスという言葉を使うことも可能

だ。視野を文学まで広げるなら、ウチでは以前、谷崎潤一郎の足フェチに

ついても、マゾヒズムと結びつけて論じている。代表作『春琴抄』は、足型

の墓石の下に眠りたいという、過激な内容なのだ。

      


ここで、あのソックスの特徴についても付言しとこう。赤いワンポイントの

刺繍のある、白いハイソックス。明らかに、女子高生以下の女の子用の

ファッションで、特に赤の刺繍は珍しいだろう。あれは、処女性とか初体

験の象徴になっている。

            

最近では、去年の秋ドラマ『流れ星』第5話で、「初夜」の婉曲表現として、

白いシーツと赤い花ビラが使われてたのを思い出すし、精神分析の創始

者・フロイトの『精神分析入門』に書かれた症例にもある、象徴表現だ。こ

う考えると、なぜ第1話であれほど処女にこだわっていたのかも、納得し

やすいだろう。

        

そう言えば、昨夜の月9『幸せになろうよ』でも、白と赤が効果的に使われ

ていた。捨てられた若い女・黒木メイサの終盤の服装は、上が白で、下が

赤のミニボトム(ショートパンツか)。それに対して、藤木直人によって選ば

れた女は、ラストシーンで妊娠していた。この場合、赤は処女性の表現で

もあるし(直前のお見合いデートも含む)、心の深い傷(血のような涙)の象

徴でもあるだろう

         

最後に、鈴木先生自身も、明らかに「下に向かう傾向」を示していた。妄想

シーンでは、小川によって下の世界に連れ込まれそうになっていたし、きち

んと座る小川に対して、ひざまずくようにして下方からすがりついていたの

だ(幻想)。ただし、現実世界で「向こう側」に完全に行ってしまうことは必死

に拒否する。その意識的・良識的努力が成功するかどうかは分からないが。

なお、些細な事に一生懸命になるという鈴木の性格は、神経症的でもあるし、

分析技法的でもある設定だと、指摘しておこう。。

     

           

         ☆          ☆          ☆

ここまで、残念ながら触れることが出来なかったのが、麻美(臼田あさ美)

だ。私が見てない箇所で色々と重要なシーンがあったようで、細かい話は

出来ないが、明らかにカウンセラー=分析家の位置にいる。その場合、患

者が鈴木先生だ。

     

しかし、相談的意味合いの強いカウンセリングならともかく、本来の精神

分析では、分析家自身も患者であるという考えが初期からハッキリとあっ

た。もちろん、フロイト自身が神経症患者だし、分析家自身の欲望や無意

識も問題にされて来たわけだ(逆転移分析、教育分析など)。

       

その意味で、カウンセラーの位置にいる麻美が第3話で大きく崩れた(らし

い)のは、非常に興味深い。相談を受ける側、支える側が崩れてしまう設

定としては、9年前のドラマ『First Love』も思い出される所だ(渡部篤郎、

和久井映見、深田恭子)。

       

個人的には、山崎先生=ぐっさんが学校から去ったのは残念だが、あのま

まにするとも思えないから、何らかの形での復活に期待しよう。ちなみに、

来週の第4話の予告を公式HPで見ても、また女生徒の白いシャツに赤い

点が滲んでいる。映画や小説ならともかく、テレビドラマでそこにあまり執着

するのは不利だと思うし、個人的にも苦手だが、数字より型破りやインパク

トを狙うのなら、アリなのかも知れない。私がガマンできるかどうかはともか

くとして。。

   

とにかく、この『鈴木先生』というドラマは、『喜多善男』と並ぶ問題作で、テレ

東には頑張って欲しいと思う。レビューや感想記事はともかく、見るだけな

ら、今後も続けるかも知れない。
http://tenmei.cocolog-nifty.com/matcha/cat22172508/index.html
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/899.html#c27

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
83. 中川隆[-10686] koaQ7Jey 2019年4月18日 13:16:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1369]

皮膚は第3の脳
http://lifedesign.ne.jp/?p=3731


今月のキーワードは、『第3の脳』です。

『第3の脳』とは皮膚を指しており、脳と皮膚の繫がりを読み解く中から生まれたキーワードです。実は、受精卵が細胞分裂する際に脳と皮膚は同じルーツから生まれ、よく似た仕組みを持っていることから『第3の脳』と言われています。以前このレポートで『第2の脳』としての腸を取りあげましたが、今回のテーマは、脳と皮膚。様々な事象から、皮膚と脳の繫がりに着目した研究は進み、その成果は生まれたばかりの赤ちゃんから、体にトラブルを抱えるシニアに至るまでのQOLの維持・向上にすでに活かされていたのです。毎日の生活を顧みると、お風呂に浸かった瞬間に「あ〜気持ちよいなあ」と感じたり、腹痛時に手でおなかをさすってもらうと「痛みが和らいだなあ」と感じたりするのは、実は体の表面の皮膚がキャッチしたものだったことがわかります。また、人間の皮膚にはアドレナリンなどの脳内物質を感じとる受容体があるため、様々な感情を作り出す役割も担っているのです。そもそも皮膚の役割とは1つが生命を維持するための「防御機能」、もう1つが環境の変化を感知する「感覚機能」です。「防御機能」は体液の流出を防ぎ、体外からの異物侵入を防いでくれます。「感覚機能」は、周囲に起こった現象を知らせる機能で、何かを理解するためには不可欠な役割を果たしています。「鳥肌が立つ」などの表現はこの「感覚機能」がすくいとった現象であり、私たちの目には見えない情報を、皮膚は鋭く受け取ってくれていることに、改めて気付かされたのでした。

皮膚が『第3の脳』と言われる理由

「皮脳同根」(ひのうどうこん)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。皮膚と脳は同じルーツを持つために密接に繋がっていることを示した言葉です。確かに、ストレスがたまるといつもより肌荒れひどくなったりします。これはただの肌荒れではなく、心から出される危険信号ともいえるのです。細胞分裂を繰り返しながら成長する受精卵は、3週目に入ると胚葉(はいよう)と呼ばれ
るものができ、これは外胚葉、中胚葉、内胚葉と呼ばれる3層の細胞層からなっています。人間の皮膚は一番外側の「外胚葉」から派生したものであり、脳もまた「外胚葉」から派生したものであることから、皮膚と脳はルーツが同じなのです。

3731-a

3731-b

「第三の脳ー皮膚から考える命、こころ、世界」(朝日出版社 2007年)には、皮膚が第3の脳であることがわかりやすく記されています。著者は資生堂リサーチセンター主幹研究員の傳田光洋氏。「皮膚と心はつながっている」「感じるだけが皮膚の仕事ではない」「脳と表皮は生まれが同じ」などの表現に、納得する人も多いはずです。脳と皮膚はルーツが同じだという点から様々な事例を調べていくと、日常の中で肌に施していることが、実は脳にも作用している点が多くありました。第二の脳が腸であることは以前にお伝えしましたが、皮膚が第三の脳として私たちのQOLアップに深く繋がっていることを強く意識することで、皮膚との付き合い方にも変化が生じるかもしれません。

“女の直感”は、皮膚感覚から?

皮膚には、温かいとか痛いといった感覚をキャッチする神経が備わっていることは広く知られています。これらの「五感」に加えて「心地よさ」「気持ちの悪さ」「怖さ」などの感覚も実は肌で感じているのです。例えば「温泉に入ると、気持ちがよい」とか「触ってみたら気持ち悪かった」という感覚は、「皮膚が感じた感情」と言えます。こうして考えると、「鳥肌が立つ」「身の毛がよだつ」「温かい人、冷たい人」「肌が合う、肌が合わない」 など、皮膚感覚で感じた取った現象を表わした言葉が意外に多いことに気が付きます。皮膚は、目には見えない情報を受け取る感覚に優れていて、感情のアンテナのような役割を果たしているのかもしれません。
人間の皮膚には、「セロトニン」「ドーパミン」「アドレナリン」などの脳内物質を受け取る皮膚受容体があることから、いろいろなことを感じ取るのです。「セロトニン」は幸せや癒し、「ドーパミン」は快感や意欲、「アドレナリン」は活動的にしてくれる脳内物質であることから、正に「肌で感じて感情を作り出す」ということになります。

3731-c

3731-d

この皮膚感覚について、男性と女性を比較してみると男性は視覚的な人間が多く、皮膚感覚という目に見えないものを捉える感覚は弱いようです。見えないものから感じ取る、いわゆる「女の直感」は、女性特有の皮膚感覚の鋭さからくるのではないでしょうか。女性の脳は皮膚にあるといっても、どうやら間違いはなさそうです。

体と心に効く、マッサージ

パパやママが赤ちゃんをマッサージすると、赤ちゃんの表情はとても穏やかになり、安心感に満たされていきます。これは、皮膚に備わった“快”を感じる神経によるもので、赤ちゃんの心が満たされるのはもちろん、脳や全身の発達を促す働きもあるのです。赤ちゃんがマッサージされている様子は、見ている側にもどことなく幸福感を運んできます。
私たちも頭が痛くなったり、肩がこったりすると、無意識に手で患部を押したり、もんだり、さすったりします。アンケート調査によると「定期的ではないが、必要な時にマッサージに行っている」人が約3割です。マッサージをする部位のトップは「肩」。以下「首」「ふくらはぎ」「目のまわり」「足裏」の順に続いています。

3731-e

3731-f

手でもみほぐしたり、マッサージをすると血行が促されますが、その理由はNO(一酸化炭素)という血管を広げる物質が出て、血管の中だけでなく皮膚表層の表皮細胞もNOを放出します。その結果毛細血管が拡張され、疲れを癒した上にリラックスした状態をもたらしてくれます。最近は、会社の福利厚生として「社内マッサージ」の設置も増加中です。
3月から4月にかけては、様々な環境の変化もあっていつもよりストレスが増す季節です。体調を崩しがちな時は、自分自身を励ます気持ちでマッサージを心がけ、まずは脳の元気を取り戻したいですね。パソコンに向かう時間が長すぎるなと思った時は、目の回りに集まったツボを軽く刺激しながらマッサージすると、頭もすっきりするはずです。

「化粧」によって、脳が活性するシニア

2015年3月、株式会社資生堂は独自に開発した「化粧サービス」がシニアのQOLの維持向上に役立つことが確認されたと発表しました。シニアに「化粧サービス」を提供して「心」「脳」「身体」「口腔」の4つの面から検証をところ、参加者の健康度自己評価や抑うつ傾向に改善が見られたことを示すデータも同時に公表しています。

3731-g

3731-h

3731-i

3731-j

「心」の面では、化粧をすることにより外出や人と会う機会が増え、楽しいと感じる瞬間を今後も維持したいとするサイクルが生まれ、結果として「生きがい」につながっていきます。「脳」は、「認知機能低下」の度合いを化粧を継続したグループとしなかったグループで比較すると、継続グループの方が低下度合が少なかったことが明らかです。

「身体」面では、3ヶ月間毎日化粧を続けたグループは、化粧を施すことによる握力の向上がみられました。さらに「口腔」面では、半年間化粧を続けた人は口唇や舌の動きがスムーズになったことが確認されています。気持ちが外へ向き、人と気軽に話す機会も増えて、発語機能の向上に繋がったものと予想されます。

資生堂は「化粧サービス」をライフクオリティ事業と位置付け、各地で展開中です。直面する「少子高齢化」の中で、健康に年齢を重ねていくことが日本の最大の課題です。体を覆う皮膚への様々な刺激が、脳にプラス効果を及ぼすことを最大限に生かせば、高齢社会の課題解決に大きな力となっていくことでしょう。

「第3の脳」プログラム

皮膚が持つ独自の機能を活かしながら、心と体のバランスをメンテナンスするプログラムが求められています。常に皮膚の存在を意識して刺激をすることで、心を穏やかにし、小さなストレスもため込むことなく、QOLの維持向上に努めていきましょう。
http://lifedesign.ne.jp/?p=3731
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c83

[近代史3] 世界で最も清潔な国 日本 _ 管理に都合悪い存在はすぐに排除される 中川隆
15. 中川隆[-10685] koaQ7Jey 2019年4月18日 13:33:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1370]
参考


米ロードアイランド州で韓国人慰安婦13人を検挙!! 2019/04/05
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/402.html

クイーンズ・フラッシングとベイサイドなどから、ロードアイランド州に遠征売春に行っていた韓人(コリアン)の女13人が大挙逮捕された。ロードアイランド州ポータケット警察署は先月28日、『ハーモニースパ(Harmony Spa)』と『ファーイースト指圧(Far East Acupressure)』を急襲して、店の運営者であるオク某(64歳)など韓人女性13人を違法売春、およびマッサージ資格証非所持などの容疑で検挙した。

また現金3万5,000ドルと韓国のパスポート、ツインリバーカジノが発行した賭博税金明細書(W2G)、コンドームがたくさん入ったダッフルバッグなどを押収した。警察によれば、今回逮捕された韓人の女のうちフラッシング出身はパン某(33歳)とソン某(60歳)、ミン某(47歳)、キム某(45歳)などの4人で、ベイサイド出身はキム某(38歳)とイム某(45歳)、キム某(46歳)、チョン某(40歳)などの4人である。

・Stelly Sang Ok, 64, of Killeen, Texas
・Jeongsuk Lee, 62, of Avon, Connecticut
・Jean Son Derrico, 60, of Flushing, New York

・Hyo Yeon Im, 45, of San Jose, California
・Inok Bang, 33, of Flushing, New York
・Heeyong Kim, 38, of Bayside, New York
・Mi Young Lim, 45, of Bayside, New York

・Kisook Kim, 45, of Whitestone, New York
・Ju Yeon Hill, 46, of Los Angeles, California
・Hyun Jung Kim, 46, of Bayside, New York
・Jung Youn Min, 47, of Flushing, New York
・Shunwa Kim, 45, of Flushing, New York
・Yeoung Jeoung, 40, of Bayside, New York

494: (´・ω・`)(`ハ´  )さん 2019/04/05(金) 13:54:57.36 ID:NLMuMONj
>>2
怪物ランドに迷い込んだようだ

99: (´・ω・`)(`ハ´  )さん 2019/04/05(金) 10:21:26.24 ID:zbbcEwaU
>>2
アメリカ人ってBBAが好きなのか?(´・ω・`)

337: (´・ω・`)(`ハ´  )さん 2019/04/05(金) 11:19:28.78 ID:gQHx4/sb
>>2
妖怪コレクションがまた増えましたね

421: (´・ω・`)(`ハ´  )さん 2019/04/05(金) 12:08:18.63 ID:H7hcP5d8
>>2
これで化け物格ゲー作ろうぜ!

12: (´・ω・`)(`ハ´  )さん 2019/04/05(金) 10:01:24.70 ID:+sLnzKCY
年齢から見てババアばっかかよと思ったら、
やっぱりババアばっかだった>>2

15: (´・ω・`)(`ハ´  )さん 2019/04/05(金) 10:03:39.94 ID:j5cEDD2r
>>2
うっそ〜〜ん
見世物小屋でしょ?


440: (´・ω・`)(`ハ´  )さん 2019/04/05(金) 12:31:04.15 ID:yHk1lZO1
>>2
百鬼夜行じゃんか!
怖いよ怖いよ…

6: (´・ω・`)(`ハ´  )さん 2019/04/05(金) 09:59:21.05 ID:W7OAt0d2
やつらにはキーセン専門学校でもあるのか

10: (´・ω・`)(`ハ´  )さん 2019/04/05(金) 10:00:14.94 ID:FQ/KVVKO
米国では
売春婦=コリアンって定番なんだろうね

29: (´・ω・`)(`ハ´  )さん 2019/04/05(金) 10:07:29.43 ID:Wt9avGun
>>16
64とか62とか
どうなってんのデッドボール


22: (´・ω・`)(`ハ´  )さん 2019/04/05(金) 10:05:15.60 ID:n+LkRjgO
バケモノ屋敷キタコレ

75: (´・ω・`)(`ハ´  )さん 2019/04/05(金) 10:15:30.99 ID:n+LkRjgO
60のクソババアと誰がやるんだよ?…orz

85: (´・ω・`)(`ハ´  )さん 2019/04/05(金) 10:17:51.14 ID:8ud3knAo
BBA無理すんな

93: (´・ω・`)(`ハ´  )さん 2019/04/05(金) 10:20:08.27 ID:8ud3knAo
こんな BBA でもアメリカなら商売出来るんやな


143: (´・ω・`)(`ハ´  )さん 2019/04/05(金) 10:30:34.89 ID:yYXja6pe
人間じゃなくてクリーチャー
誰が買うんだ???
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1554425815/  



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/351.html#c15

[近代史3] 財務省は何故日本を滅ぼそうとしているのか? 中川隆
12. 中川隆[-10684] koaQ7Jey 2019年4月18日 14:04:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1371]
2019年04月18日 懲罰増税を目論むエリート官僚
黒木頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68762111.html


 来月から「令和」という新時代が幕開けとなり、全国各地が祝賀ムードに包まれ。る。だが、肝心の懐が冷えたままで、心からのお祭り気分とはなれない。というのも、新元号を迎えたら消費増税が待っているからだ。せっかく皇太子殿下が即位なさるというのに、「懲罰増税」が賦課されるとは ! 政府と財務省を恨みたくなる。想像したくないが、消費の低迷で日本経済は更に「深刻な不況へと真っ逆さま」になるのは必定。中小企業の経営者や従業員、商店街のオっちゃんオバちゃんまでもが、「今年は売り上げの激減を覚悟しなければ・・・」と憂鬱になる。そして消費者たる一般国民も不安になるから、誰も彼もが「節約」と「貯金」で自己防衛だ。こんな暗い未来になるのに、財務省は税収が増えて景気が回復すると思っている。税率が5%から8%へとアップした2014年以降、我が国の経済がどうなったのか、思い出せば判るのに、キャリア官僚は知らぬ顔で無責任。

  毎度の事だけど、政治家と官僚は本音を隠すために嘘をつく。国会議員と呼ばれていても、永田町に集まってくる政治家は本質的に地方議員で、気にするのは特殊利益と票田ばかり。役人は端っから省益のみだ。お役人様は国民の生活より、自分の利益を優先するからタチが悪い。それでも、景気の動向を具体的に討論すると増税できなくなるから、「少子高齢化時代を迎え社会保障財源の確保や財政再建が喫緊の課題だ」と国民を脅かす。しかし、これを見透かし、屈服しない国民もいるので、「政府債務残高(国の借金)が1000兆円を超え、日本の財政赤字は危機的状態にある」と宣伝する。慌てた民衆は「ごもっとも」と頷いて、お上に同意するから、いつまで経っても官僚支配のままなのだ。よく詐欺師が偽の請求書を送りつけ、ありもしない法律を記載し、「超過料金の支払いを拒否すれば訴訟になります」と脅かすけど、官僚の手口もこれに近い。

  今年の夏には参議院選挙があるので、いくらアホな安倍総理でも「増税で選挙を戦える !」とは思っていないだろう。もし、野党が大勝すれば、念願の「改憲」どころじゃなく、自民党内から不満が爆発し即退陣だ。したがって、安倍総理が消費税アップの凍結を宣言する可能性はある。(本当は、消費税を下げてほしいところだが、財務省は絶対に許さないだろう。) だが、実権を握る高級官僚が許してくれるのか、が心配だ。財務官僚は安倍氏に厄介事を押しつけて退陣に追い込み、極左仲間の菅義偉(すが・よしひで)が総理になれば祝杯を挙げるに違いない。霞ヶ関の官僚が「この官房長官を首相へ」と望むのは、彼の頭が赤いからという理由もあるが、金融や財政、外政に疎いという弱点があるからだ。

  そもそも、消費税アップの元兇は三党合意にあり、悪夢のような民主党政権時代に出来上がったものである。"ルーピー"の鳩山が去って、無能な菅直人が総理になっから、財務官僚は欣喜雀躍だった。「市民運動家」上がりの菅は、実際の政務なんて全く解らず、日本への怨念だけが原動力。師匠である市川房枝の"雑巾持ち"くらいが似合っているのに、悪魔のいたずらで日本国の総理大臣になってしまった。地位だけが高くなった菅は、内政・外政の実務に直面して顔面蒼白。英語がサッパリなのに国際首脳会議に出たもんだから、ウィーンの社交界に迷い込んだドン百姓みたいで、惨めとしか言い様がない。歐米に駐在する日本人にとったら、恥ずかしくて押し入れに隠れたくなる光景だった。そこで、焦った菅が頼りにしたのは高級官僚。例えば、主計局長から財務事務次官になった丹呉泰健(たんご・やすたけ)。 元社民連の極左総理は盲導犬よりも従順だった。次に宰相となった野田佳彦も、最初から財務省頼りで、腹話術の人形と変わりが無い。こんな塩梅だから、権勢を保持したい役人にとって、誰が総理になろうが皆同じで、民主党の菅(直人)だろうが自民党の菅(義偉)であろうが、レクチャーで操ることが出来るんだから、どちらでもいい。

  日本は建前上、「議会制民衆政治」と呼ばれているが、実際は「官僚制衆愚政治」だ。ドブ板選挙だけが得意な政治家に、悪知恵が働く官僚を使いこなすなんて土台無理。膨大な資料や統計を前にすれば、大半の議員は「えぇぇ〜、こんなの分からないよぉ〜」と匙を投げるに決まっているから、側近になった官僚は講義を申し出る。でも、悲しいかな、議員「先生」は専門用語すら分からない。ただし、議員としてのメンツがあるから、いくら能無し「先生」でも分かった振りだけはする。最終的にレクチャーを受けた議員は、書類を“斜め読み”にして「よきに計らえ !」で終わりだ。「ご説明」を終了した官僚達は、クスクスっと笑いをこ堪えるのに必死となる。彼らは議員を心の底から見下し、腹の中で「バカは最初からオレ達に従ってりゃいいんだよ !」と呟く。高等文官試験に合格した選良役人から見れば、愚民の代表など「使い走り」か「召使い」といった程度だ。大臣となった「先生」でも格下扱いで、その寿命はアイドル歌手より短いと思っている。

  それにしても、日本経済を奈落の底に突き落とそうと考える財務官僚って、一体どんな種類の人間なのか? 彼らの「常識」を見ていると、「庶民の常識とは違うなぁ〜」と感じざるを得ない。税金を采配する官僚の種類は様々だが、概ね以下の通りだろう。

@ 単なる馬鹿。法学部出身の文系だから、理数的能力が低く、統計や分析の資料を読んでも解らない。けど、プライドだけは矢鱈と高いから、「政策通」の態度を取る。
A 追従型の官僚。財務省の間違いに気づいているが、仲間はずれと左遷が怖いから長いモノに巻かれようとするタイプ。現役の時は省庁内の「空気」を察するのが上手くて、退官してから「あの時、私は反対したんだけどねぇ・・・」と自己弁護に励む人。
B 国益よりも省益を優先する官族。たとえ日本経済が衰退しても、増税による税収を望み、各省庁に対する予算配分で、優越感を味わいたい奴隷主タイプ。「税金は国民のお金」という意識が無く、財務省の“資産”と見なす。日本の名誉や国民の生活には疎いが、天下り先の温存となれば、一致団結して守ろうとする輩。
C 「俺が日本を支えている !」と勘違いしている偽エリート。凡人には到底無理な国家試験に受かったという自尊心に満ち溢れているから、自分の愚かさに全く気づかない。事務能力に長けているだけなのに、的確な判断力を有していると錯覚し、そのうえ自らを真正の国士と思っている。もっと情けないのは、赤い同僚や先輩から操られているとは一切思っていないことだ。
D 私益のために日本を売り渡す国賊。大学で反日思想に染まったや左翼や、金と女に目がない俗物、自ら進んで外国勢力の手下になるゲス野郎。例えば、米国のジャパン・ハンドラーに隷従して出世しようと考える者や、支那人エージェントから間接的に利益を得ている者。

  @とAのタイプはリストラの無い役人だからしょうがない。「東大卒」という学歴だけが唯一の自慢なんだから。外野の庶民がいくら非難したところで、彼らは「百姓町人の分際で、お上に楯突くとは何事だ !」と思っている。真面目な国民は頭にくるけど、民間企業でも「傲慢不遜を絵に描いたような上司」、「機転の利かないダメな奴」、「権限最大、責任最小限という重役」がいるじゃないか。Bのタイプは、増税で日本が没落すると判っていても、統計を捏造あるいは歪曲して何とか失敗を隠そうとする。こうした隠蔽工作のために、官僚は日頃から御用学者を飼っているのだろう。財務省財政制度審議会に起用された吉川洋教授とか、税制調査会や経済財政諮問会議で重宝された伊藤元重教授などを思い出してみれば分かるじゃないか。在野の経済評論家は熱心に提灯学者を批判しているが、役人は最初から馬鹿と承知の上で利用しているんだから、東大藝者に腹を立ててもしょうがない。

  問題なのはCとDのタイプだ。Cの官僚なんてアホらしいけど、一般国民が官僚信仰や学歴崇拝に凝り固まっているのが悪い。現実の社会には、出題範囲を超えた難問がある。もし、霞ヶ関の役人が優秀なら、個人の力で会社を成功させたり、大富豪になれるはずだが、実際は国家権力を背にした内弁慶でしかない。何割かは優秀なんだろうけど、役所の飯を食っているうちに凡人(あるいは害人)となってしまう人が多い。財務官僚と聞けば凄い秀才と思ってしまうが、嘉悦大学の高橋洋一教授の昔話を聞くと唖然とすることもある。入省したての頃、高橋氏は葉山で開かれた新人研修に参加したそうだ。そこで、ある教官が研修の一環として、参加者に城山三郎の『男子の本懐』を読み、その感想文を書けと命じたらしい。この本は昭和恐慌の時、金解禁を行った濱口雄幸と井上準之助を称讃する内容なのだが、高橋氏は金本位制の復帰に疑問を感じ、命懸けで金解禁を断行するなんて愚かじゃないのか、と反論したそうだ。すると、この感想文を読んだ教官は、「どうして、こんなバカな奴いるんだ」と名指しで批判し、みんなの前で高橋氏を罵倒したそうである。(高橋洋一 『官愚の国』 祥伝社、平成23年、 pp.75-76.)

  筆者も城山氏の『男子の本懐』や『官僚たちの夏』を知っているけど、学生時代、友人と雑談した時、「あんなのは役人へのゴマ擦りだよなぁ〜」と笑ったものである。(ちなみに、NHKが城山三郎や司馬遼太郎をゲストに招いたのは、彼らを便利な知識人と見抜いていたからだ。左翼でもない司馬氏を、なぜNHKが起用していたかについては、別の機会に述べたい。) とにかく、赤点学生の筆者でも分かることなのに、大蔵省の研修会で教材に使われていたとは驚きだ。「まさか!」という言葉は使いたくないが、「もっと他にマシな本はなかったのか?」と訊きたくなる。城山氏は有名な通産官僚だった佐橋慈(さはし・しげる)を褒め称え、経済界を指導し、日本の産業を育成した国士官僚というイメージをまき散らしていたが、こんなの嘘っぱちだ。作家や評論家はキャリア官僚をヨイショすれば、「あとで何らかの褒美がもらえるかも」と期待するんじゃないか。「困難や批判にめげず、国家のために尽くすエリート集団」など滑稽だ。

  そういえば、昔、雑誌『諸君 !』で山本七平を囲んだ座談会が企画され、元通産相事務次官の兩角良彦と元大蔵相財務官の細見卓が招かれていた。話題が日本企業によるダンピングに及んだとき、兩角氏は日本企業の体質に苦言を呈していた。

  日本企業が儲けるのはいいんですけど、経営や資本が“純血”でしょう。もし、そうでなければ、風当たりがだいぶ弱くなるはずですがね。株主が日本人である必要はないわけですよ。もっと資本や経営を国際化してもいいと思うんですが。(「大国日本の恍惚と不安」、『諸君!』、1988年11月号、p.37)

  1980年代の日本では、あちこちで「国際化」という掛け声が響いていたから仕方ないけど、高級官僚は外国人が日本の株主になったら“どうなるのか”について考えていなかった。日本企業に投資をする外国人が、みんな「善意の人物」であるはずがない。もし、貪欲な支那人とかグローバリストのユダヤ人、冷酷なアメリカ人が大株主になったら、大変なことになるじゃないか。外人投資家にとったら、日本企業なんて金儲けの道具にすぎない。会社の運動会や慰安旅行を楽しむなんて日本人くらいだ。外人投資家は配当金の増額しか考えない。禿鷹のような連中は短期的利益を求めて経営陣に圧力を加えるから、社員を大切にする社長なんて無用の長物だ。従順な経営者は旦那衆から「人件費をもっと削れよ !」と命じられれば、容赦なく従業員をリストラするし、安い外人労働者を引き入れてコスト・カットに邁進する。長年勤めた社員でも、給料が大幅に削られ、ボーナスはゼロか雀の涙程度だ。もし会社の業績が悪化すれば、M&Aの対象となり、職場はバラバラに切り売りされ、解雇された日本人社員は、ハローワークに通って格下の職種に就くしかない。もちろん、中高年社員は分割借金が返済できなくなるから、せっかくの自宅を半額以下で売却し、親子共々狭いアパート暮らしとなる。兩角氏は株主だけではなく、大学教授や医者、弁護士までも、外国人に開放せよと述べていた。このお役人様によると、「純血国家」というのはダメらしい。 

  細見氏も似たような役人で、官界を棚に上げて一般国民を貶していた。彼は国際社会での日本人に関し、辛口評論を述べていた。

  日本人というのは、すぐ上下を区別したがるでしょう。そして上にはへつらい、下には威張る。交渉すれば、まず吹っかけてくるけど、ガンとやられれるとすぐ引き下がる。理詰めの時はなかなか降りないとかね。ですから外国人は日本人の癖をすっかり覚えてしまって、日本人にはまずブラフをかけろということになっている。どうも目上と目下を区別したがる、というのは敬語があるせいかなとも思うんですけど、いまどきはやりませんね。(p.39)

  こんな説教を一般国民が聞いたら苦笑するだろう。「上下を区別したがる」のは役人の世界も一緒じゃないか。大蔵省のキャリア官僚は「通達」という名の書状で銀行員を脅かし、抵抗する企業があれば国税査察をチラつかせて屈服させていた。 権力を恣意的に振りかざし、民間企業をイジメていたのは誰なんだ? 銀行局長だった土田正顕(つちだ・まさあき)などは極悪役人の代表格で、何の法的拘束力も無い通達で総量規制を実行し、バブル景気を潰したことで有名になった。しかも、このA級戦犯は退官後、国民金融公庫の副総裁に天下り、あろうことか東京証券取引所の理事長に納まった。さらに、「渡り」を続けて、株式会社化された東証の初代社長になったんだから、日本国民は開いた口が塞がらない。正常な精神を持った国民なら、土田をしばきたくなるだろう。ただし、これは民間人が「雲上人」に媚びへつらった結果だ。細見氏は敬語があるから卑屈な態度が生まれると思っていたが、それなら民間人が財務省のお役人様とタメ口を利いてもいいのか? 金融業者なら膝が震えてしまい、言葉が出なくなってしまうぞ。

  日本国民が一番警戒しなければならないのは、実直な人柄とか国士を気取るDのタイプである。日本人からお金を巻き上げ、自分の懐を温かくしようと謀る支那人なら、真っ先に財務官僚を標的にするんじゃないか。冷戦が終わって、デフレ経済に突入したなら、景気刺戟策を取るのは必定で、需要を喚起し、経済成長を図らねばならない。本来なら、さっさと占領憲法を破棄して、国防軍を創設し、軍需産業やハイテク産業を育成すべきなんだが、教養課程に軍事学や地政学が無いから絶望的だ。家電とかゲーム機なら民間に任せておけばいい。だが、軍隊で使う兵器となれば、国家の出番となる。大型プロジェクトは裾野が広いから、日本経済にとって大きな影響力をもつ。

  日本は敗戦により、戦闘機や戦略爆撃機の開発が致命的に遅れており、アメリカから兵器を買う一方で、国内企業は凋落の一途を辿っている。昔、糸川英夫博士は敗戦で失業し、服毒自殺を考えていたが、ロケット開発なら歐米に追いつけると考え、ペンシル・ロケットに取り組んでいた。ところが、朝日新聞は反日の鞭を唸らせていたのだ。愛国者の糸川博士が実験に失敗すると、朝日はほくそ笑み、紙面でボロクソに叩いていた。(科学者は実験が失敗しても、そこから得るものが大きいから次の改善へと繋げてゆくのに、低能記者は科学を知らないから大騒ぎをする。) 日本の軍事技術が風前の灯火なのに、それを冷酷に吹き消そうとしたのが朝日だ。赤い教授の講義を受けた法学部や経済学部の学生も同様に愚かだった。護憲がインテリの証しと思い込んでいる学生は、軍事技術の発展に興味が無く、そのスピンオフや経済効果、ならびに国際政治における日本の威信など全く脳裏になかった。片山さつきが財務官僚の時、防衛省の予算を扱っていたけど、あの女に軍事の重要性とか技術の蓄積なんて解るのか? こんな訳だから、日本を弱体化させようとする敵対国が、日本の経済成長を封じ込め、デフレを長引かせようとしてもおかしくはない。

  謀略工作や諜報活動を勉強している人なら知っていようが、外国のエージェントになった人物は、多くの馬鹿を利用する。たとえ、その数が少なくても大きな成果を上げることは可能だ。洗脳されたり誘導されている官僚は、自分が操られているとは気づいていないし、正しいことをしていると思い込んでいるから脳天気にもほどがある。アホな官僚は意外と純粋で、確信犯から「子孫に借金を残してはならない。愚民からの批判にめげず、我々エリートが負債の削減に励まねば !」と囁かれると、「そうだ ! 我々官僚が国家を救わねば!」と奮い立つ。これは戦前、計画経済に興奮した革新官僚とか、資源を求めて南進を支持した軍官僚と同じだ。一般国民でも「また、学校秀才どもの愚行か !」と解る。

  冷戦が始まった頃、保守派知識人のエドナ・ロニガン(Edna Lonigan)が、『Human Events』誌で共産主義者の浸透について述べていた。NKVD(KGB)の指導者層は浸透すべき地位を研究し、入念に作られた計画に従って、スパイやエージェントを植え付けていた。ある地位に就いたメンバーは、仲間を他の高い地位へと昇進させ、その者がまた他のメンバーを要職に就け、徐々にスパイ網を構築していたのだ。例えば、合衆国政府内に潜り込んだ共産主義者は、特定の“友人”や他の“細胞”を有望なポストに推薦するよう指令を受けていた。共産主義者が用いた手口はこうだ。まず弁護士とか経済専門家が送り込まれ、この赤い細胞は他の同志を広報職員に就け、更に人事管理職へと食指を伸ばす。これは政府の管理方式を把握するためだった。次に重要なのは、局長秘書で、この者たちはほぼ総ての志願者に目を通すから、反共主義者の志願票を意図的に排除する。こうなればシメたもので、赤い同志が易々と採用され、順調にモグラは要所に配置されてしまうのだ。

  ただし、上手く潜り込んだ侵入者達は、最初からスパイ行為を働くことはなかった。彼らにとって重要なのは、職場の同僚とか上司からの信頼を得ることである。例えば、より高い地位にいる政治家に近づくこと、常に有能で、苦労を厭わず、愛想良く周囲に役立つ人間になること、こうしたことが赤いモグラの使命だった。そこで疑問なのは、「日本の中央官庁に外国の手先、あるいは反日分子が一人もいないのか?」という点である。防諜組織が無い現在の日本は、スパイの歩行者天国として有名だ。もし、財務省に北京政府の手先とか、自発的な協力者、ハニー・トラップに掛かった官僚がいたらどうするのか? 恐ろしいのは、エージェントに見えな1人の確信犯が、100人のボンクラ官僚を操ることだ。プライマリー・バランスの黒字化とか、社会保障関連の財源を確保する、 といった口実を設けて、日本を衰退させることもあり得る。さらに、低金利政策を温存させれば、支那人どもは日本の資金を借りまくって自由な投資ができるから、「日本人バカあるヨォ〜」と笑っているんじゃないか。だって、日本国内に投資先が無いんだから、日本の金融業者や大富豪はお金を海外に流すしかない。

  日本人は財務官僚を「選良」と思っているが、彼らが優位なのは日本人に対してだけ。いくら東大卒のエリート官僚といっても、外国の工作員にとったら小学生並で、たぶらかすことなど朝飯前。金や女の勧誘に弱いし、豪華な接待を受ければコロっと騙される。大学入試や公務員試験に「効果的な拷問方法を考案せよ」とか、「独創的な詐欺の手口を記述せよ」、「一番安上がりな恐喝方法を選べ」なんていう問題は出ないから、狡猾な工作員にかかったらイチコロだ。例えば、スケベ官僚が用意された女に引っかかって、情事を録画されたら、スパイの言いなりになってしまうだろう。(「ガールズ・バー」で籠絡された官僚なら、簡単に「手先」となるんじゃないか。) そうじゃなくても、学校で左翼思想を吹き込まれているから、勧誘員の言葉に易々と靡いてしまうのだ。日本には防諜組織のスパイキャッチャーがいないから、誰がスリーパーなのか、あるいは協力者なのか判らないし、たとえ「怪しい」と気づいても、密かに粛清する法律や術(すべ)が無い。あるとすれば、アメリカにすがって教えてもらうことくらいだろう。でも、アメリカが仕掛けている場合もあるから絶望的である。

  裏切者の摘発は国家の諜報機関しかできないから、平民の筆者にはどんなスパイ網が政官財にあるのか判らない。ただ、このままデフレ経済が続き、そこに消費増税が加われば、暗い未来しかないということは確かだ。官僚組織は巨大で複雑だから、個人の思惑というより、組織の「空気」とか「因習」で物事が決まってしまう場合がある。個々人が「マズいなぁ」と思いつつも、いつの間にか悪政が決行され、気づいたときには手遅れというケースも多い。安倍総理が五月中に増税の凍結を発表する可能性は残されているが、財務省に押し切られて「約束通り増税します」という最悪の事態だってあり得る。仮に今回の増税が延期されても、財務省の増税情熱は消えないから、数年の内にまた増税議論が持ち上がってくるだろう。日本人は「福祉」とか「医療」「子育て」という言葉に弱いから、役人は民衆の不安を突いてくる。これは筆者の勝手な推測だけど、いずれ消費税は28%くらいになるかも知れないぞ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68762111.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/151.html#c12

[リバイバル3] 酷い音のインチキ・レプリカを量産して伝説の評価を落とした Goodmans Axiom80 中川隆
48. 中川隆[-10683] koaQ7Jey 2019年4月18日 15:31:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1372]

修理から戻ってきた「トライアクショム」〜その1〜 - 「音楽&オーディオ」の小部屋 2019年04月10日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/e6552061365e75a6eff8a90369bc8430


つい最近のブログ「名誉の負傷」(2019.3.28)にも記したように、ジャズ・ベースの激しい唸り音を聴きたいばかりに遂に故障に追いやってしまったグッドマンの「トライアクショム」(同軸3ウェイ)。

もちろん、とても古いユニットなので経年劣化による故障としてもやむを得ない面もある。

この程度のノイズならクラシック音楽ではまず分からないので修繕に出そうか出すまいか大いに迷ったが、

「これほどの名器となると貴重な歴史的文化遺産だからきちんとした状態で後世に引き継ぐ使命がある。わが命尽きるともユニットの命は永遠なんだから。」

ちょっと「カッコつけすぎ」かな〜(笑)。

修理先(長野県)に事前の了解をいただいて送付したところ、1週間ほどして次のようなコメントが返ってきた。

「お送りいただきましたグッドマンのトライアキショムの状況と修理見積のご連絡をさせていただきます。

ビビリの原因は同軸のツィーターユニットに巻き付いていた樹脂が劣化して剥がれて磁気回路スリットに入り込んでいた為です。この樹脂は泣き止めかと思いますのでフェルトを巻いて代用とします。

柔らかいコーンをバスケットから再使用できるように剥がすのがたいへんでしたが何とか分解できまして上記の状態が分かりました。

コーン分解ビビリ修理一式・・・・円。」

以上のとおりだが、オークションで落札した金額(1ぺア)のときの6割近い修理額になってしまった。メチャ高くついてしまった、トホホ・・・(笑)。

しかし、実に腕がいい修理屋さんである。

修理完了品が我が家に到着したのは8日(月)の午前中だった。当初は7日の日曜日の予定だったが「着払い」なので月曜日にしてもらった。

理由はもうお分かりですよね。我が家には寅年生まれの猛虎が一頭いるのであまり刺激しない方がいい(笑)。

さあ、戻ってきたのはいいもののどのエンクロージャーに取り付けようかなあ。

こういうときの自由奔放な思考が実に楽しくてワクワクする(笑)。

方法は3つある。

1 「AXIOM150マークU」を外して取り付ける

2 「AXIOM80」(最初期版)を外して取り付ける

3 ウェストミンスターに容れて「同軸3ウェイ」にして楽しむ

このうち3はアッと驚く発想で我ながら感心するほどだが(笑)、まだ時期尚早のようで現状の音があまりにも気に入り過ぎているので飽きてきた時分に折をみて試してみることにしよう。

すると、残るは1と2の二択になる。

   

左側が「AXIOM150マークU+ジェンセンのツィーター」、右側が自作の箱に入った「AXIOM80」(最初期版)で、底板に「ARU」(背圧調整器)を付けている。

両方とも予備のバッフルには事欠かない。

そして、結論からいくと今回は右側の「AXIOM80」用のエンクロージャーに取り付けることにした。理由は二つある。

1 「AXIOM150マークU+ジェンセンのツィーター」のコンビの音があまりにも良すぎて「余人をもって代えがたし」だから(笑)。

2 「AXIOM80」はウェストミンスターの中高音域で楽しめればもう十分だろう。

結局、「AXIOM80」をいろいろ試行錯誤した挙句の成れの果ては裸のままで1200ヘルツ以上を鳴らすことにあったのか、はたしてそれでいいのか・・・。

後ろ髪を引かれる思いだが、さっそく作業に取りかかった。

以下、続く。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/e6552061365e75a6eff8a90369bc8430

修理から戻ってきた「トライアクショム」〜その2〜 2019年04月12日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/10afdec421660f34acfb8f5bb0e357a4

前回からの続きです。

つい先日「ブリティッシュ・サウンド」好きのオーディオ仲間と電話で話していたら「今どきの人はグッドマンと言ってもピンときませんよ」とのことで、自分がグッドマンに持っているイメージとは大きな乖離があることに気づかされた。

したがってSPユニット「トライアクショム」を「貴重な歴史的文化遺産」(前回のブログ)と決めつけるのは時代錯誤も甚だしいのかもしれない(笑)。

そのことを念頭に置きながら、以下、自説を展開してみよう。

さて、修理先から戻ってきた「トライアクショム」(英国:グッドマン)を、どう料理しようか〜。

何しろSPユニットはエンクロージャー次第で音がコロっと変わるが、その変わり方がアンプなどの入れ替えによる変化とは質が違うように感じている。何か根源的な変化とでもいうのかな。

昨日、メル友さん(東海地方)からコメントが届いて、「スピーカー絡みの記事は面白いです。」とのことで、誰もが簡単に実験できないところに興味が湧くのかもしれない。

それはさておき、結局涙ながらにAXIOM80を外しその箱に容れることにしたのが前回のブログの結末だった。

「な〜に、命まで取られるわけではなし、拙かったらすぐに元に戻そう」との気持ちで、1時間ほどの作業を終えて無事完成。

   

初めに左チャンネルだけ「トライアクショム」にして、右チャンネルは「AXIOM150マークU」のままにして音の傾向を探ってみた。

ちなみに、箱の左上にちょこんと載っているのは高域用のアッテネーターです。箱から引っ張り出すのに「ほんの少しの工夫」が要りますよ〜。

さて、こうやって左右別々に鳴らすととても分かりやすい。

以下、何しろ「持ち主」の感想ですから当然「身びいき」もあることでしょう。どうか話半分に聞いてくださいね(笑)。

まず音のレスポンスの速さや分解能、透明感はトライアクショムが一枚上、しかし響きの重厚さは「150マークU」が上で、こうなると好き好きだが新しもの好きなので総合的には「トライアクショム」に軍配を上げた。

強力な援軍を得た思いで欣喜雀躍して右チャンネル側も「トライアクショム」に入れ替えたところ、同軸3ウェイという「点音源」の音像定位の素晴らしさに思わず鳥肌が立った!

複数音源だと周波数レンジは広がるが音像定位はどうしても甘くなる。まあ、分かりきったことだがオーディオはプラスとマイナスの世界だから「あちら立てればこちら立たず」ですか。

音像定位がいいとどうなるかといえば、左右両方のスピーカーの間に綺麗にステージ(舞台)が出来上がり、その果てしない暗闇の奥行き感のもとで歌手や演奏される楽器の立ち位置が見事に再生されるのだ。

思わず息を呑むような立体感で理想のオーディオはこうあるべきかもしれないと考えさせられた。

しかも音の色艶が素晴らしい。木村好夫のムードギターがとてもうまく響いてくれるし、音の勢いが必要なジャズだってこれほど鳴ってくれればケチのつけようがない。

何だか際限なく音の魅力に引きずりこまれるような魔力的な音で正直言って我が家でこれほど質感のいい音をこれまで聴いたことがない。

あえて表現すれば「AXIOM80」と「AXIOM150マークU」を足して2で割ったような音といえばいいのかな。

つまり「鬼に金棒」というわけですか(笑)。

この「薄い板厚1.5cm」のエンクロージャーとよほど相性が良かったとみえる。

以前のブログ「スピーカーの板厚による音の違い」(2017.5.27)にも記したように、イギリス系のユニットの場合は箱鳴りをうまく利用する傾向にあるので板厚は凄く重要になる。

いずれにしても、こういう新しい魅力の発見は何よりもトライアクショムが故障したおかげである。この故障無くして「AXIOM80」の箱に容れようという思いつきは有り得なかった。

「ピンチはチャンス」という我が家のジンクスは見事に生きていたことになるが、こうなると結果オーライで修理代なんてまったく些末(さまつ)な出来事だったなあ(笑)。

騒動が一段落すると、今度はベストアンプの選定作業に移った。

候補は「PX25シングル」「371シングル」そして常用中の「371Aプッシュプル」の3台。

    

いずれも一騎当千の強者といきたいところだが、それぞれ弱点はある(笑)。

今回は久しぶりに画像の「PX25シングル」(インターステージトランス内蔵)の出番といきますか。 同じイギリス勢同士の強味がありそうだ。

近々、北海道からお客さんが試聴にお見えになる予定なので、エース級を温存させておくわけにもいくまいて(笑)。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/10afdec421660f34acfb8f5bb0e357a4

「忖度(そんたく)する」真空管アンプ 2019年04月15日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/e94fb040de99dfb679c3fafa054b7af3


近年、「忖度する」という言葉が大流行である。

意味は周知のとおり「他人の心中を推し量ること」だからけっして悪い言葉ではない。いや、むしろ他人に対する思いやりという意味で使われるべき良い言葉である。

発信元は「安倍一強」のもとでの政界だが、九州の片田舎にある我が家でもこの言葉が飛び交った。

まったくピンからキリまで使用されている感があるが(笑)、その経緯を述べてみよう。つい先日の13日(土)のことだった。

「修繕に出していたトライアクショムがようやく戻ってきました。これまでと違う箱に容れたところ見違えるほどいい音になりましたよ。ちょっと聴いてもらえませんか?」

と、近隣のオーディオ仲間にお願いしたところ、すぐに駆けつけてくれた。

顔を見合わせるなり、開口一番「今回の実験は二つのテーマを予定していますのでよろしくお願いします」

その二つとは、

1 「トライアクショム」に最も相性のいいアンプの選定

2 ウェストミンスター(改)の上に載せている「AXIOM80 」(1200ヘルツ〜)を復刻版から最初期版に代えたのでその試聴

まずは1から実験開始。

主な試聴盤は仲間が持参してくれたダイアナ・クラールのCD盤。

   

第11トラックの「My Love Is」で指と指で「パチっ」と弾く音が冒頭からずっと続いていくが、それがどれだけリアルに響くかというテスト。

試聴したシステムの概要は、CDシステムが「dCS」のコンビで、プリアンプは真空管式(12AU7×6本)、スピーカーは言わずもがなの「トライアキショム」。

   

パワーアンプは初めに「PX25シングル」を、次いで「371Aプッシュプル」の順に聴いていただいた。

    

   

試聴後のコメントは「いやあ、これはまったく正反対の音ですね。どちらがいいとか悪いとか簡単に言えませんがPX25の方はキチっとネクタイを締めた紳士が相手のことを忖度して物を言っている感じがします。

一方、371APPの方はあっけらかんとありのままの音をくったくなくストレートに出している印象です。まあ、強いて言えば私はこちらの方が好きです。

それにしても素晴らしいスピーカーですね。原音再生の観点からすると、リアルな表現力はAXIOM80並ですよ。低音域が豊かな分だけこちらの方が上のような気もします。箱を変えただけでこんなに音が変わるものですか。」と、仲間。

「忖度する音というのは言い得て妙ですね」と、ひとしきり笑ってしまった。

古典管ともなると、お国柄を実によく反映する。PX25は明らかに渋い英国紳士を象徴する音であり、371Aはアメリカ人の明るくて開放的な雰囲気をうまく表現する。

クラシックだけなら「PX25」に尽きるのだろうが、クラシックもジャズもと欲張ると「371APP」ということになるのだろう。

実に楽しくなる選択ですねえ(笑)。

これで1の実験を終了し、2の実験に移ったがここでは理想的な展開が待っていた。

以下、続く。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/e94fb040de99dfb679c3fafa054b7af3

不作為は(オーディオの)神の思し召し 2019年04月18日 |
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/ac9322444d9b6567401c643a3e2a2631


前々回の「忖度する真空管アンプ」からの続きです。

来し方50年のオーディオ人生を振り返ってみると、自分から進んで能動的に行った取り組みは意外なことに空振りに終わるケースが多い。

その一方、故障などで余儀なくされた消極的な取り組みが望外の良い結果をもたらしてくれることが往々にしてあるのはいったいどうしたことだろうか。

これは我がオーディオセンスが冴えない証しなのだろうか(笑)。

実は今回もそうだった。

「不作為は(オーディオの)神の思し召し」ともいえる今回の因果関係を振り返ってみよう。

SPユニット「トライアクショムの故障」 → 「修理完了後にその性能を試すための箱の入れ替え」 → 「箱から追い出された初期版のAXIOM80と復刻版のAXIOM80との入れ替え」

この「玉突き衝突」の結果が我がオーディオ人生の集大成に肉迫してこようとは当初は夢にも思わなかった。ちょっと大げさかな(笑)。

   

復刻版とは明らかにコーン紙の色が違いますねえ。もちろん、ユニットの生命であるコーン紙の重さやマグネットも違いますよ〜。

そして、実は「音」の方にも天と地ほどに開きがあったのである!

第一に音がメチャ柔らかくなった。実にしなやかで音の彫琢といい色艶といい思わず息を呑むほどの美しさ。

そして中低音域との繋がりが非常に良くなってまったく違和感を感じさせず、この音ならクラシックもジャズも何を再生してOKだと思えるほどだった。

一緒に聴いていた仲間も「とても低音域から高音域までバランスがいいですねえ。これまで聴かせてもらった中でこれが最高の音ですよ。AXIOM80の初期版の魅力全開です。

それに低音域がまったく中高音域に被ってこないのが不思議です。やっぱり箱が利いてますね。普通の箱がどんなに逆立ちしてもこの豊かな低音は出てこないです。よほどユニットと箱の相性がいんでしょう」

応じて「まさかこんなに変わるとは思いませんでしたよ。スコーカー兼ツィーターとしてAXIOM80の初期版が世界最高だと胸を張って言える気になりました。クロスオーバー1200ヘルツが一番相性が良さそうです。自分が求めている理想の音を100点とすると95点はいきましたかね」

残りの5点は現用中のワーフェデールの「スーパー12」(赤帯マグネット)を変えた時の伸びしろを見込んでのことで、同じグッドマンでコーン紙が薄くて軽い「AXIOM150マークU」(口径30センチ)あたりが狙い目である。

まかり間違っても反応の鈍い口径38センチには絶対に戻りませんからね〜(笑)。

そして、駆動するアンプもたいへん相性が良かった。

と、続きを書こうとしてちょっと待った・・。

何から何まで自画自賛に終始するような気がしてきて、読者の皆様はいったいどう思われているんだろう・・。中には「またか」とお気を悪くされる方もいたりして〜。

その一方では「どんなことを書いてもブログ作成者の特権ですからね」と開き直る手もある(笑)。

ずっと以前のことをふと思い出した。当時、タンノイさんへの不満を書くたびに特定の一読者から抗議のメールをいただくことが再々あった。

アルニコ・マグネット時代のグッドマンを聴くと、もうタンノイさんには戻れないがいまだに熱烈な信者が多いことが今もってどうもよく分からない。

「そんなに不快に思うくらいならブログを読まなきゃいいでしょう。別に有料サイトでもないし、読んでくれと頼んだわけでもありませんよ」というのが当方の言い分だった。

これって、おかしな考えですかね?

話は戻って次の画像に注目。

   

「以前から再々聴かせていただいてますが、このアンプがご当家のベスト1だと思います。出力管は何ですか?」と仲間からのお尋ね。

そこで「ロシアのスヴェトラーナ製のSV-300Bです。出自が軍事用ですからフィラメントなど精密なツクリのようですよ。本家本元のWE300Bより気に入ってます」

テレビで「開運!なんでも鑑定団」という長寿番組があり、毎週楽しく拝見させてもらっている。

骨董品の鑑定結果によりホンモノとニセモノのお値段の落差が極端なので悲喜こもごもだが、いつも思うのだが別にニセモノだって本人が気に入ってさえいればそれでいいんじゃないの。

それと同じで「SVー300Bが本物よりもいいと思っていればそれでいいんじゃないの」(笑)。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/ac9322444d9b6567401c643a3e2a2631
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/686.html#c48

[政治・選挙・NHK259] 歴史ファンタジーに「酔って」いる国家といかなる実りある「会談」ができるのか。(日々雑感) 笑坊
2. 中川隆[-10681] koaQ7Jey 2019年4月18日 18:12:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1374]
21歳以下は売春禁止だったから慰安婦は売春婦ではないよ
http://www.asyura2.com/19/senkyo259/msg/748.html#c2
[経世済民132] 米国支配層の戦略に従うために原発を再稼働させたい日本のエリート(櫻井ジャーナル) 赤かぶ
1. 中川隆[-10680] koaQ7Jey 2019年4月18日 18:33:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1375]
全然わかってないな

太陽発電だと日本経済が破綻するからだろ
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/215.html#c1

[近代史3] ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 _ ヨーロッパの戦い こうして始まった!  中川隆
2. 中川隆[-10682] koaQ7Jey 2019年4月18日 18:49:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1373]

HITLER (DC)(全06回)

HITLER (DC) 01|THE OPPORTUNIST イメージ戦略の秘密 - YouTube
HITLER (DC) 02|THE ACTOR 救世主の誕生 - YouTube
HITLER (DC) 03|THE FUHRER 人種差別への道 - YouTube
HITLER (DC) 04|THE VICTOR 勝利の陰で - YouTube
HITLER (DC) 05|THE MONSTER 挫折と堕落 - YouTube
HITLER (DC) 06|THE DOWNFALL 破滅へのカウントダウン - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bTZJE9Ijl4I&list=PLBjWXHGDgc8YGJdoDHkBXhMGtKWlEn7Yu&index=1
https://www.youtube.com/results?search_query=HITLER+%28DC%29+&sp=mAEB



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/352.html#c2

[政治・選挙・NHK259] 歴史ファンタジーに「酔って」いる国家といかなる実りある「会談」ができるのか。(日々雑感) 笑坊
6. 中川隆[-10681] koaQ7Jey 2019年4月18日 20:13:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1374]
金貰ってた慰安婦は一人もいないよ
http://www.asyura2.com/19/senkyo259/msg/748.html#c6
[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
41. 中川隆[-10683] koaQ7Jey 2019年4月18日 21:16:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1372]

すべて演技と演出だけだった天才ヒトラーの人生

HITLER (DC)(全06回)

HITLER (DC) 01|THE OPPORTUNIST イメージ戦略の秘密 - YouTube
HITLER (DC) 02|THE ACTOR 救世主の誕生 - YouTube
HITLER (DC) 03|THE FUHRER 人種差別への道 - YouTube
HITLER (DC) 04|THE VICTOR 勝利の陰で - YouTube
HITLER (DC) 05|THE MONSTER 挫折と堕落 - YouTube
HITLER (DC) 06|THE DOWNFALL 破滅へのカウントダウン - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bTZJE9Ijl4I&list=PLBjWXHGDgc8YGJdoDHkBXhMGtKWlEn7Yu&index=1
https://www.youtube.com/results?search_query=HITLER+%28DC%29+&sp=mAEB


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c41

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
42. 中川隆[-10682] koaQ7Jey 2019年4月18日 21:18:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1373]

すべて天才ヒトラーの演技と演出に騙されたドイツ人の自己責任だった:


【第二次世界大戦】 WWU in Color (BBC)
(全13回:内、第09、11、13回は欠番)
https://www.youtube.com/watch?v=Au6y9Ukvvy0&list=PLBjWXHGDgc8ah3CwUVvVBpE8kKYVYlrCQ
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%80%90%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%80%91+WW%E2%85%A1+in+Color+%28BBC%29&sp=mAEB


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c42

[近代史3] ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 _ ヨーロッパの戦い こうして始まった!  中川隆
3. 中川隆[-10681] koaQ7Jey 2019年4月18日 21:20:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1374]

すべて天才ヒトラーの演技と演出に騙されたドイツ人の自己責任だった:


アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4


ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg


ヒトラーと6人の側近たち 第1回 「ヨーゼフ・ゲッベルス」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1zZ2RctGP2s
https://www.youtube.com/watch?v=PNZ_jaQxZ4w
https://www.youtube.com/watch?v=_R4QvU3y2zE


ヒトラーと6人の側近たちU 第3回 「マルティン・ボルマン」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dQxQaCQTL2M
https://www.youtube.com/watch?v=ZLAOmmrq3do
https://www.youtube.com/watch?v=EV_0tmN1F5E


ヒトラーと6人の側近たち 第3回 「ルドルフ・ヘス」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=04MW0fwLMVE
https://www.youtube.com/watch?v=xk05qbC9brg
https://www.youtube.com/watch?v=zRuECyuTohM


ヒトラーと6人の側近たち 第2回 「ヘルマン・ゲーリング」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=s69UVGkUohM
https://www.youtube.com/watch?v=wraaO0iuzVo
https://www.youtube.com/watch?v=eWXLXasUA_g


ヒトラーと6人の側近たち 第5回 「カール・デーニッツ」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=nPMYejrhLFQ
https://www.youtube.com/watch?v=Y8dt1Rbfw00
https://www.youtube.com/watch?v=zs_nRkjOoCQ


ヒトラーと6人の側近たち 第6回 「アルベルト・シュペーア」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MyNm8amqY5E
https://www.youtube.com/watch?v=af4QmPD_SlU
https://www.youtube.com/watch?v=udA_4PhqLaY


ヒトラーと6人の側近たちU 第1回 「アドルフ・アイヒマン」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NywuaqlyTwM
https://www.youtube.com/watch?v=LDg3iTLeVJU
https://www.youtube.com/watch?v=_5OxGVOlWFk


ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc


ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/352.html#c3

[近代史02] ドイツの女性達が体験した悲劇(2007年05月08日ミクシイ日記再録)    西岡昌紀 西岡昌紀
9. 中川隆[-10680] koaQ7Jey 2019年4月18日 21:59:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1375]

ヒトラーを支持したのはドイツ女性だったんだから自己責任だろ:


すべて演技と演出だけだった天才ヒトラーの人生

HITLER (DC)(全06回)

HITLER (DC) 01|THE OPPORTUNIST イメージ戦略の秘密 - YouTube
HITLER (DC) 02|THE ACTOR 救世主の誕生 - YouTube
HITLER (DC) 03|THE FUHRER 人種差別への道 - YouTube
HITLER (DC) 04|THE VICTOR 勝利の陰で - YouTube
HITLER (DC) 05|THE MONSTER 挫折と堕落 - YouTube
HITLER (DC) 06|THE DOWNFALL 破滅へのカウントダウン - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bTZJE9Ijl4I&list=PLBjWXHGDgc8YGJdoDHkBXhMGtKWlEn7Yu&index=1
https://www.youtube.com/results?search_query=HITLER+%28DC%29+&sp=mAEB



▲△▽▼

ヒトラーを独裁者にしたのは、一つには彼の性的魅力であったらしい。

彼の姿を一目見ただけで卒倒する女性が続出したそうだ。

ある女性などは、ヒトラーが通り過ぎたあと、彼が踏んだ小石を持っていたガラスびんに入れ、それを大切に抱きしめた。

彼女はそのまま恍惚としてしまい、力が入りすぎてガラスびんが割れた。血がだらだら流れるが、それでもなお彼女は陶然と立ち尽くしていたという。

当時、世界でもっとも進歩的と言われたワイマール憲法下で、ヒトラーがあくまでも合法的に政権の座についたことを考え合わせると、民主主義って本当に大丈夫なの、とつい思ってしまう。
http://www.c20.jp/p/hitler_a.html


ヒトラーというとほとんどの日本人はドイツの独裁者でユダヤ人を虐殺した恐ろしい人とだけしか知らないのではないだろか。

ヒトラーに関して我々がしっかりと知っておかなければならないことは、

ヒトラーは当時、世界で最も民主主義的と言われたワイマール憲法の下で、合法的に独裁者になったということである。

ヒトラーの行くところはどこでもドイツ国民が、「ハイル、ハイル!」の大合唱。ドイツ国民のすべてがヒトラーに心酔していた。

そんな時、「私に全権を与えていただければ、もっと豊かなドイツを実現してみせます!」とヒトラーは言った。

ドイツ国民は将来悲惨なことが起こるなんてことは誰も疑わずに、あっさりとヒトラーに全権を与えてしまった。

1935年にドイツ国内で国民投票が行われた。

そしてなんと国民の90パーセント以上という圧倒的支持で、首相と大統領の兼任(行政権の完全な掌握)、立法権、軍隊の指揮権といった、司法権を除くすべての権力をヒトラーに渡してしまったのである。

こうして三権分立という鎖がはずされ、リバイアサンという怪物が解き放たれたのである。

その後は、皆さんもご承知のように、誰もヒトラーの暴走をくい止めることができなくなり、世界は人類がいまだ経験したことのない第二次世界大戦という大惨事に突入していったのである。
http://kaichan.cocolog-nifty.com/diclongman/2007/09/post_e4df.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/808.html#c9

[リバイバル3] 中川隆 _ 温泉関係投稿リンク 中川隆
63. 2019年4月19日 08:07:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1376]

長い旅に出て、過去を消して人生をリセットしよう
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/357.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/453.html#c63
[近代史02] ドイツの女性達が体験した悲劇(2007年05月08日ミクシイ日記再録)    西岡昌紀 西岡昌紀
10. 中川隆[-10679] koaQ7Jey 2019年4月19日 08:21:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1377]

ヒトラーを支持したのはドイツ女性だったんだから自己責任 _ 2

すべて名優ヒトラーの演技と演出に ころっと騙されたドイツ女性の自己責任だった:

【第二次世界大戦】 WWU in Color (BBC)
(全13回:内、第09、11、13回は欠番)
https://www.youtube.com/watch?v=Au6y9Ukvvy0&list=PLBjWXHGDgc8ah3CwUVvVBpE8kKYVYlrCQ
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%80%90%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%80%91+WW%E2%85%A1+in+Color+%28BBC%29&sp=mAEB
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/808.html#c10

[近代史02] ドイツの女性達が体験した悲劇(2007年05月08日ミクシイ日記再録)    西岡昌紀 西岡昌紀
11. 中川隆[-10678] koaQ7Jey 2019年4月19日 08:23:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1378]

ヒトラーを支持したのはドイツ女性だったんだから自己責任 _ 3

ユダヤ人虐殺もすべて名優ヒトラーの演技と演出に ころっと騙されたドイツ女性の責任だった:


狂気の戦時医学 ナチスの人体実験


ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc


ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q


▲△▽▼

【狂気の戦時医学】ナチスの人体実験まとめ【ヒトラー・ドイツ】 2017/5/11
http://3rdkz.net/?p=250


ナチスドイツの非人道的な人体実験の数々をわかる限りまとめました。

なるべく信頼できそうな資料だけを使用し、誇張することがないよう心がけました。

非常に残酷で吐き気を催す事実が記載されているため、観賞要注意とします。

目次
実験T 低圧・低温実験
実験U 海水を飲料にする実験
実験V 発疹チフス接種実験と伝染性肝炎ウィルス研究
実験W スルフォンアミド実験と骨移植実験
実験X 毒物接種実験
実験Y ユダヤ人の頭蓋骨収集
実験Z マラリア実験
実験[ 双子実験
実験\ 強制不妊化実験
実験] 飢餓実験


なぜこんなことが起こったか

実験T 低圧・低温実験

低圧・酸欠下での救出実験

hypothermiaドイツ空軍が高度12000メートルに達するジェット機を開発したまでは良かったが、人体がそのような超高度環境にどのような反応を見せるのか、ということに関して信頼できるデータはまだなかった。そこで、ドイツ空軍軍医大尉であり、親衛隊将校でもあったジクムント・ラッシャー博士は、《ライヒスフューラー(親衛隊全国指導者=ヒムラー)》へ手紙を書き、ダッハウ収容所の死刑囚を用いた人体実験の許可を求めた。

1942年3月、ヒムラーは実験を許可し、ラッシャー大尉の責任において、超高度における人体の反応の観察や、パラシュートや特殊機材を用いた救出を実用化するための危険な人体実験が行われた。超高度の低圧環境下で被験者を酸欠の状態に留め置き、どれぐらいの時間をかけて被験者が死亡するのか、またどのようなタイミングでしかるべき処置を行えば彼を救出できるのか、ありとあらゆる場面を想定して実験が行われた。当然のごとく実験は死者が続出したが、ラッシャーは死にゆく被験者の行動を観察し、心電図を記録した。そして、屍を解剖し、肺や心臓、脳の血管の空気塞栓の状況などを記録。逐一ライヒスフューラーへ報告していた。

実験に駆り出された200人の囚人のうち、実に80名の被験者が死亡した。

低体温・冷却からの蘇生実験

freeze
冷却実験の様子

ラッシャーとその協力者たちは、ダッハウにて更に人体実験を行うことにした。今度は海難事故などにより寒冷下に晒された人体を、いかに蘇生・回復できるか、といった実験である。やはりパイロットを救出することを前提とした実験であったが、実際にはダッハウの囚人300名を4〜12℃に冷却した水の中につけ、体を極限まで冷やしたのち、いかにすれば効率よく回復できるかを試すもので、この実験で90名が死亡。今日においてもこの実験結果が国際的専門誌に引用されているという。

この実験は当初よりライヒスフューラーの関心を買った。ヒムラーは冷え切った肉体を温めるためには、同じ人間の皮膚の接触。つまり、裸の女性による抱擁が効果があるのではないか、と考えた(ヒムラーはしばしばこのようなロマンチズムに基づく推測を実践させた)。ラッシャーはヒムラーの意向に沿ってダッハウ収容所より若い女性4名を召喚。そのうちの一人があまりにも見事なアーリア人種の肉体的特徴を備えていたため、ラッシャーは彼女を実験に使用することを拒否したという。つまり、被験者は下等人種とみなされたスラブ人やソ連兵捕虜であり、これを裸で温める乙女がアーリア系であってはならないというのである。この逸話からもわかる通り、人体実験は激しい人種差別の賜物であった。ちなみに女性の体で温める方法は非効率で到底実用に耐えないものであったという。

この実験は、場所を変えてアウシュビッツ収容所でも行われた。アウシュビッツのほうがより寒く、広大で実験が目立たなかったからだという。つまり、被験者は多くの場合、「苦しみにより悲鳴をあげた」からである。ラッシャーは被験者に麻酔をかけることを禁止し、なんら苦しみを緩和するための努力をしなかった。

ある実験では、ソ連軍将校2名がアウシュビッツで、水桶の中に裸で入らされた。通常なら60分程度で意識を失い、死亡するのだが、このソ連将校2名は3時間経過した頃に「同志…銃殺してくれないか」と頼んだという。その後、二人は握手を交わし、「さよなら、同志よ」と言った。ポーランド人の助手が見兼ねてクロロフォルムで二人に麻酔をかけようとしたが、ラッシャーはピストルを突きつけ、これを制止した。二人は5時間後にようやく死亡し、死体は解剖するためミュンヘンに送られた。

ラッシャー夫妻は子供に恵まれず、子供を誘拐、金銭で買い取って自らの子であるとして育てていた。これが明るみに出るとライヒスフューラーは激怒。ラッシャーは多くの囚人を殺害したダッハウにおいて、自らも処刑された。戦争が終わる直前だった。よって戦後もラッシャーは裁きにはかけられず、協力者たちは全ての責任を、同じく死亡したヒムラーとラッシャーにかぶせることに成功。この非道な人体実験で裁かれた者は結局誰一人としていない。

実験U 海水を飲料にする実験

この実験は、やはり海難事故に遭遇し、海の上を漂流することになったパイロットを救うために企画された。

二人の科学者が海水を飲料にするための試みを始めた。シェーファー教授が海水から塩分を分離するための設備を開発しようとして成功したが、これには多額の費用が掛かるため実用性なしと判断された。一方空軍技師ベルカが開発した「ベルカティカ」という薬品は海水の味を飲める程度に変えてしまうもので、この薬品はコストパフォーマンスにも優れ、大量に生産された。

しかし、すぐにこのベルカ方式の海水を飲むと、「より渇きがひどくなる」という声が上がり始めた。味を調整しただけで海水は依然として多量の塩分を含んでいたし、飲みすぎることで渇きが悪化し、下痢すら引き起こすことが分かった。

どちらの方法で渇きを解決するのか、ダッハウ収容所内で再度人体実験が行われた。被験者はいくつかのグループに分けられた。数日間にわたって海水を飲むもの、ベルカ方式の海水を1日500cc飲むもの、1000cc飲むもの、シェーファー方式で精製された水を飲むもの、などである。

被験者はブーヘンヴァルト収容所から連れてこられたジプシーたち40名であった。彼らは表向きは志願であった。実験の詳細についてきちんと説明を受けた上、実験前10日間は完璧な航空兵糧食3000キロカロリーを摂取し、健康管理を入念に行ったうえでの実験であり、死亡した者、後遺症が出た者はいないとされている。しかし、実験は著しく苦しく不快なものとなり、被験者の中には清掃班のバケツの中の汚水を飲んだり、モップから垂れたしずくを舐めた者がいたという。このような実験が本当にすべて志願だったと言えるだろうか?ましてや被験者のほとんどは賤民と見なされていたジプシーである。これは戦後の裁判で検察の激しい疑惑をかい、追及を受け、実験を主導した者たちは禁固15年〜終身刑を受けた。

ただし、実験で重篤な障害を受けた者、死亡した者がいなかったのは確かなようである。フランス人の医療助手や被験者のジプシーのうち数名が、宣誓供述書を提出し、実験を主導した科学者たちの恩赦請求を行っている。

実験V 発疹チフス接種実験と伝染性肝炎ウィルス研究

発疹チフスのワクチン接種実験

東部戦線や各収容所で猛威を振るった発疹チフスから、前線兵士を救うための人体実験がブーヘンヴァルトとナッツヴァイラー各収容所にて行われた。

実験は1942年の春ごろから1944年の末まで続けられた。

それまで存在していた発疹チフスのワクチンは、病気の症状を軽減させることはできても、本来の目標たる免疫力の獲得、つまり病気に罹らずに済む、というものではなかった。これを深刻にとらえたSS上層部の医師団や衛生担当者たちは、人体実験の施行を強く主張。ブーヘンヴァルト内にウィルス研究部が設立され、SS軍医や権威ある熱帯医学者などが参加した。

実験は数十種類にも及ぶ各種ワクチンを接種した上で、数週間の間隔を置いたのち、人為的に発疹チフスに感染させるというものだった。対照群として設置された群は、ワクチン接種群と比較するために、単にチフスに感染させられた。

ワクチンを接種した者たちも、多くの場合、高熱や頭痛など、「発疹チフスの症状」に悩まされた。

被験者に選ばれた者たちは、ドイツ人の刑事犯、ポーランド人、ソ連兵捕虜、ジプシーなどである。健康状態が優良なものたちが数百人選び出され、少なくとも150名以上が死亡した。ブーヘンヴァルトの医師、シューラーSS大尉は終戦間近で自殺したが、彼の業務日誌が囚人によって廃棄を免れた。その中には、他にも黄熱病、チフス、コレラ、ジフテリアに対するワクチンや薬物の効果で800人の被験者が人体実験にかけられたことが示唆されている。

伝染性肝炎ウィルスの研究のための人体実験

独ソ戦が始まると、黄疸症状に悩まされる兵士が非常に増えた。致死的な病ではなかったが、発病者が多く、軍の作戦能力を衰えさせるものとして研究が開始された。肝炎はそれまでバクテリアによる感染と考えられていたが、細菌学者のドーメン軍医大尉がウィルスを発見し、培養するためSSがウィルス株の管理権を要求したがドーメンは拒否して独りで研究を続けていた。

各所からの圧力に耐えかねたドーメンは、ついにザクセンハウゼン収容所内で、囚人に対して人為的に肝炎ウィルスを感染させる人体実験を行った。これは《帝国医師総監(=エルンスト・グラヴィッツ)》の強い要請だった。ドーメンは良心の呵責に苦しめられ、実験が開始されたのは1944年も9月になる頃だった。
http://3rdkz.net/?p=250


アウシュビッツから、子供や青年からなる11人の囚人がザクセンハウゼンにやってきてドーメンに委ねられた。ザクセンハウゼンの第二病棟において彼らの世話をしていた古参囚人ブルーノ・マイヤーは、実験の内容について記録を残している。以下に引用する。


ドーメン博士は医療器具カバンから一本の斜めに歯のついたゾンデを取り出してサウル・ホルンフェルトの背後へ近づき、指で彼の背中を探りました。そしてゾンデを当て、子供の背中の筋肉を通して深く体の中まで突き刺しました。サウル・ホルンフェルトは痛みのあまり、自分の小さな拳を噛みました。急いで私は彼の前へ歩み寄り、声を押し殺して、しっかりしろと言いました。涙で見えない目で彼は私を見ました。そして、医者が再びゾンデを突き刺しました。(中略)その後、私は、ドーメン博士がゾンデから長い針を抜き、ゾンデの開口部に急いで試験管をあてがうのを見ました。黒っぽい血が試験管の中へ滴り落ちました。小さな組織も、―—多分肝臓の一部だったでしょう——少しその中に混じっていました。



結局、肝炎ウィルスを人為的に感染させる実験は成功しなかった。ドーメン博士や囚人たちがその後どうなったかは明らかではないが、博士は戦後実験結果を発表している。

医療用ゾンデ
医療用ゾンデ


第V収容所 1 share 1 user
【人類の負の遺産】アウシュビッツ絶滅収容所の解説と観光案内


少し前に、独りでドイツとポーランドを旅行しました。その際にアウシュビッツ絶滅収容所跡地を訪れました。想像よりも遥かに広大な施設で、展示を全部観ることは不可能でした。そこで得た知見や体験をまとめたいと思います。アウシュビッツ絶滅収容所とはなんなのか...


実験W スルフォンアミド実験と骨移植実験

人為的にガス壊疽を作り出す実験

1942年5月、《国家保安本部(RSHA)》長官及び、ボヘミア・モラヴィア保護領副総督ラインハルト・ハイドリヒがイギリス諜報部の襲撃を受けて重傷を負った。治療の責任者は武装SSの顧問外科医カール・ゲプハルトであったが、ゲプハルトの飛行機は延着したので直接手術に携わったのはプラハの医師二名である。ゲプハルトは《総統》とヒムラーの個人的な電話を何度も受けた。ヒトラーは自分の主治医であるモレル博士を派遣するとまで言った。

しかしハイドリヒは処置の甲斐なく6月2日に死亡。ゲプハルトはその後ヒムラーと謁見し、「ハイドリヒの死はドイツがこれまで経験したことのない巨大な敗北であった」と《総統》が考えていることを知らされた。ゲプハルトには汚名返上の機会が与えられた。ハイドリヒ長官が負傷による敗血症によって死亡したことを受け、至急、スルフォンアミドの効果を調べる人体実験の実行が決まった。

実験の舞台に選ばれたのは女性専用の強制収容所ラーフェンスブリュックであった。実験の目的は、当時未解明な部分が多かったガス壊疽という症状を分析し、有効な治療方法を見つけ出すことであった。そして、同時に戦場で多く見られる通常の傷口を調べ、有効な治療法を探す目的もあった。

被験者はザクセンハウゼン強制収容所から連れてこられた男性囚人や、ポーランドの抵抗運動に携わった女性囚人たちである。彼らはわざとけがを負わされ、木片やガラス片を傷口に練りこまれた。

《帝国医師総監》グラヴィッツは、実験場を視察し、被験者に死者が出ていないことに対して実験が手ぬるいと感じ、本物の銃創を彼女たちに負わせるように、と命令した。ゲプハルトはこの命令を拒否したが、より傷口の状態を悪化させることに努力したことに変わりはなかった。彼女たちは下腿の血管を結紮され、壊疽性の腐敗病原体を接種させられたりした。そのうえで彼女たちは処置も受けられず何日も放置され、本物のガス壊疽の症状により3名が死亡した。

人為的にひどい敗血症に陥らせた上でスルフォンアミドの効力を実験したが、傷を負わされただけで何の処置も受けられない囚人もいた。実験内容は1943年の5月にベルリンの軍医大学校で発表されたが、出席者の中で被験者の人権について申し述べた者は一人もいなかった。

他人の骨を移植して治療効果を見る実験

ラーフェンスブリュック強制収容所内で、女性を使って行われた他の実験群は骨の再生と骨の移植の実験である。

肩胛骨を他方から他方へ移す実験が行われた。肩胛骨を除去されたのは、ラーフェンスブリュックの精神病患者の女性であった。この女性は肩胛骨を抜き取られた後速やかに薬殺された。肩胛骨を移されたのは、ホーエンリーヘンの血管の癌により肩胛骨を失った若者で、彼は癌を再発することなく生きながらえたという。

この実験のほかにラーフェンスブリュック収容所内で、神経再生、筋肉再生の各実験、切断やその他の実験が行われたといわれるが、その規模や詳細は不明である。収容所医師の一人、ローゼンタール博士は、負傷に苦しみ、助かる見込みのない重症の囚人を20〜30人、楽に死なせるためにモルヒネを過剰投与したと断言している。

実験X 毒物接種実験

イペリッドガス

大戦期間中、ザクセンハウゼン、ナッツヴァイラー、シュトルートホーフの各強制収容所内でびらん性(皮膚をただれさせる作用)のイペリッドガス(=マスタードガス)の人体実験が行われた。これは例によってヒムラーの命令だった。

イペリッドガスによる負傷の度合いと、効果的な治療法を見つけることがその目的である。この実験はストラスブール国立大学教授のアウグスト・ヒルト博士などが主にかかわった。

この毒ガス実験については、ナッツヴァイラーのカポ(囚人頭)であったフェルディナント・ホルの生々しい証言が残っている。


囚人たちは真っ裸にされ、次から次へと実験室の中に入ってきました。彼らは前膊から10センチほどの箇所にその液体を塗られましたが、その時私が彼らの腕を抑えていなければなりませんでした。その後、処置を施された被験者たちは隣の部屋へ行き、そこで腕を広げたまま約1時間立っていなければなりませんでした。約10時間もすると、あるいはもっと長かったかもしれません、火傷が、それも全身に出てくるのです。盲目になった人々もいました。ひどい苦しみで、被験者たちのそばにはとてもいられないほどでした。その後、被験者たちは毎日写真を撮られました。しかもすべての傷の箇所を、つまり全ての火傷の箇所を写真に撮られました。だいたい5日か6日後に最初の死者が出ました。(中略)内臓、肺などは全て完全に腐食していました。その後の数日間に、この実験でさらに7名が死にました。実験は約2か月続けられました。



実験は何度も行われ、平均して毎回7~8名の死者が出た。生き残った者たちも後遺症の残った体でアウシュビッツやベルゲンベルゼンに送られた。

硝酸アコニチン弾丸の創痍研究


極秘事項

帝国医師ー親衛隊警察、主席衛生官

日誌番号 秘364/44 ムルゴウスキー

1944.9.12

硝酸アコニチン弾丸について

SS少佐ディング博士、ウィマン博士、および筆者立ち合いで1944年9月11日、5人の死刑囚に、毒物である硝酸アコニチン結晶入りの弾丸(直径7.65o)を用いて実験を行った。被験者を寝かせ、左大腿に1発撃ちこんだが、2人では弾丸は貫通、後になっても毒作用は出なかったので、実験から除いた。(中略)

3人の症状は驚くほど一致していた。最初は異常がなかったが、20分から25分後に動きが不穏となり、遅れて、よだれが少し出始めた。しきりに飲み込もうとしたが、量が増えて飲み込めないほどになり、ついには、泡を含んだよだれが口から漏れてきた。それから、吐き気、嘔吐が始まった…。

約90分後、1人の呼吸が深くなり、同時に運動不穏も増強した。呼吸は浅く速くなった。同時に強い吐き気が現れたが、吐こうとしても何も出なかった。指を4本付け根まで口に深く入れて吐こうとしたが吐けず、顔は真っ赤になるだけだった。

他の2人の顔は早い時期から蒼白になっていた。他の症状は同じだった。運動不穏の出現は遅れたが、極めて強くなり、棒立ちになったかと思うと、また、床に身を投げ出した。白目をむき、手や腕は意味のない動きをした。最後に、不穏の程度は弱くなり、瞳孔は極度に散大、被験者は静かに横たわるだけだった。1人には咬筋の痙攣が現れ、尿失禁が認められた。3人の死亡は、受傷後それぞれ、121,123、および129分であった。
http://3rdkz.net/?p=250&page=2

総括 およそ38mgの硝酸アコニチンを詰めた弾丸による創自体はひどいものではなかったが、2時間後に致死的な中毒が現れた。中毒症状の出現は、受傷後20分から25分で、主要症状は、流涎、瞳孔径の変化、腱反射消失、運動不穏、強い吐き気であった。

講師医学博士ムルゴウスキー、SS上級大佐、主席衛生官


上の手記と一致するかは不明だが、ザクセンハウゼン収容所で死刑囚を用いた毒の弾丸の実験が行われた、との展示がある。その射撃手はムッソリーニ救出の特殊部隊を率いた、オットー・スコルツェニーSS中佐である。

実験Y ユダヤ人の頭蓋骨収集

hiltストラスブール国立大学教授のアウグスト・ヒルト博士は、1942年の2月にヒムラーにあてて手紙を書き、ユダヤ人、共産党員、赤軍政治将校の頭蓋骨収集の許可を求めた。ヒムラーはおおいに関心を持ち、ヒルトに自分の政治的権力の全てを委ねてこれを支援した。

当時、ナチスドイツはありとあらゆる人種の頭蓋骨を収集して、その形態を測定したり、歪んだ人種優生学に基づく様々な研究を行っていた。しかし、ユダヤ人に関しては当時サンプルを獲得する術があまりなかったらしい。独ソの開戦はその状況を打開する最良の機会となった。既にホロコーストは開始され、ユダヤ人と共産党や政治将校は同一視されていた。彼らの頭蓋骨を一定量獲得し、データを取得することで、占領地において効率よくユダヤ人や政治将校と、その他の民族の鑑別を容易にし、効率的に撃滅できる、というのが彼らのデタラメな論理であった。

ヒルトとその協力者たちが、いかにしてそれらのサンプルを選定したかは定かでない。既に収容所にいたユダヤ人なのか、占領地から生きたまま拉致してきた政治将校や捕虜たちだったのか、とにかく、彼らがアドルフ・アイヒマンを通してアウシュビッツの囚人約120名を、ナッツヴァイラー、シュトルートホーフ各収容所の実験施設へ送ったのは確かである。

それら120名の囚人は「首から上を傷つけぬように」ガスによって殺害され、合成アルコール入りの水槽の中で保存された。ヒルト博士はそれらの死体を細かく解剖。


ヒルトは戦後逃亡先で自殺した。

実験Z マラリア実験

ベルリンのロバート・コッホ研究所所長で、熱帯医学部門長であったクラウス・シリング博士は、1936年の現役引退後も、イタリアでマラリアのワクチンの開発研究を続けていた。1941年末、内務省保健衛生事業担当官のレオナルド・コンティ博士によってダッハウ強制収容所で研究ができることを勧められ、翌2月のはじめから実験を開始。1945年の3月半ばに74歳のシリングが手術を受けるためにミュンヘンにでかけたあと、ヒムラーが実験中止を命令した。(敗戦が近かったからであろうか?)

シリングの3年にわたる実験でおよそ1000人がマラリアに感染させられ、330人が死亡した。

実験[ 双子実験

ベルリン、ダーレムのカイザー・ヴィルヘルム協会人類学・優生学研究所所長のオトマール・フォン・フェアシュアーは、双子に関する研究を手広く行っていたが、戦争が始まると弟子のSS大尉、ヨーゼフ・メンゲレ博士をアウシュビッツに送り込んだ。彼はアウシュビッツの降車上に自ら赴いて、何千もの双子を集めてコレクションし、過酷な人体実験を行った。

mengere
ヨーゼフ・メンゲレ

メンゲレは、静脈をつなぎ合わせてシャム双生児を人工的に作ろうとしたり、眼球に薬品を注射して瞳の色を変えようとした。また、チフス菌を注射して病気の経過を血清学的に記録した。また頭蓋骨の収集もぬかりなく行われ、それらの実験報告を師のフェシュアーに送っていた。メンゲレは3000対の双子を人体実験にかけ生き残ったのは100名だけだった。


ある生存者の報告

ある日、私の双子の兄のチビが特別実験のために連れていかれた。メンゲレは、最初から、チビに非常に興味を持っていた。なぜか知らないが、比較的歳のいった双生児であったからかもしれない。

メンゲレはチビを何回となく手術した。脊椎手術で麻痺となり、走れなくなった。

性器も除去してしまった。4回名の手術後、チビには2度と会えなかった。

私の気持ちがどんなだったか、あなたに言えないし、言葉にも表せない。

私は父、母、兄2人を失っていたのに、また双子の兄もなくしてしまった。


メンゲレは1979年に逃亡先のブラジルで海水浴中に死亡した。

実験\ 強制不妊化実験

ナチの歪んだ人種思想は戦争前から活発ではあったが、独ソ戦の開始と共に東方民族絶滅の意志はますます固くなるばかりだった。その手段としてずっと論議されてきたのが、断種措置による強制的な不妊化処置の遂行であった。

ナチの断種の施策は大きく分けると3つの経過をたどった。

薬品による断種

カラジューム・セグイヌム(サトイモ科の観葉植物の一種)を接種することによって、特に男性は生殖不能となるとされ、この植物を大量に栽培しようとするのだがコスト面で実用に耐えないことが分かった。ヒムラーは農業に大変関心が高い男であったため、カラジューム・セグイヌムの構成要素の分析を進め、人体実験を行うべし、との命令を発した。

しかし、これを命じられたコッホ博士はありきたりな動物実験を行うのみにとどめ、命令を事実上サボタージュした。それはあまりに実用性がなく、他の方法がどんどん進んでいたからであった。

放射線による断種

帝国公衆衛生局に所属し、障碍者の断種・殺害計画に関与したヴィクトル・ブラック博士は、放射線による断種の研究と人体実験の許可をヒムラーに求めた。それまで行われていた外科手術に頼る方法では、あまりに労力とコスト面で現実味がなかったからである。

これをヒムラーは許可し、第Uアウシュビッツ(=ビルケナウ)や女性収容所のラーフェンスブリュックで、それぞれ放射線による断種の試みが行われた。若い適齢期の男女は、何の説明もないままに不意に呼び出され、性器や子宮、睾丸付近にレントゲンを照射された。

彼らの多くは火傷を負い、傷口は膿み、そのような体で重労働につかされた。歩けなくなったものは銃殺・ガス殺された。

レントゲン照射後数週間してから、男性囚人は外科的に睾丸を摘出された。レントゲンの効果がどの程度であったかを検証するためであったとされる。しかし、レントゲン照射を受けた囚人たちは局部に重傷を負い、結局は絶滅収容所の中で死んでいった。

ブラック博士は、この不妊化処置を「殺すよりはマイルドな方法」と認識していたらしく、裁判で「絶滅政策を緩和するためにあえて提案した方法だった」と証言した。法廷はこの詭弁を却下し、ブラックを死刑に処した。

子宮内の刺激作用による断種

drclaubergこの方法は、ケーニッヒスヒュッテの医学博士クラウベルク教授によって開発された。教授はもともと卵管閉鎖による不妊を治療する方法を開発して有名になった人物だった。

1933年にナチ党に入党し、その医学の知識を、今度は「下等人種」の断種のために傾けようとしていた。
http://3rdkz.net/?p=250&page=3


クラウベルクはヒムラーと協議し、外科手術を用いることなく不妊化させる方法を話し合った。教授が考えていたのは卵管にホルマリン溶液を注入するという方法だった。ヒムラーはアウシュビッツにクラウベルクの実験施設を作るよう、部下のルドルフ・ヘースに命令した。

約500人の女性がクラウベルクの前に引き出され、狂気の実験の犠牲となった。収容所に響き渡る女性の悲鳴の原因は何のか、あの医師は囚人にいったい何をしているのか調べようと、女性看守が飛んできたこともあったほどであった。

実験により少なくとも7人の女性が死亡。残った囚人のうち、何人がガス室に送られたかは不明である。

教授は1945年にはラーフェンスブリュック収容所へ移り、35人の女性に人体実験を行った。戦後は赤軍に捕まり25年の判決を受けるがのちに恩赦。ドイツに戻るとドイツ当局に再逮捕され、57年、拘留中に死亡した。

実験] 飢餓実験

ナチスドイツのユダヤ人絶滅政策は、経済学と一体不可分であった。一体どれほどのユダヤ人を労働力として活用し、1日に与える食事量はどの程度で、平均してどのぐらいの期間働かせたのち餓死させ、最終的にいついつまでに何人殺すのか……

このような狂気の経済学を日夜考え、そろばんをはじき、実践するために各省庁に協力を仰ぎ……ドイツ人の官僚的気質がこれ以上上等に発揮された機会はなかった。

飢餓実験はいわば、このようないわば「虐殺の経済学」とも呼べるものの産物だった。

慢性的な食糧不良に苦しむドイツで、何百万、ともすれば一千万以上にも及んだソビエト兵捕虜やユダヤ人、障害者、ジプシー、同性愛者に与える食糧はなかった。与えるとしたら、元を取るために働かせるためだった。

ナチ親衛隊上層部とドイツ医師会は結託し、下等人種や民族の宿敵たちを、無駄なく効率よく餓死させる方法を考えあい、実験を繰り返した。

いかにすれば、働かせながら餓死させることができるだろうか。どのくらいのカロリーを与えれば良いのだろう。どのような食事のメニューにすれば良いのだろう。どのような栄養素を継続的に断ち、代わりに何を摂取させれば良いのだろうか。

ナチの飢餓実験が、実を結んだ結論は、囚人に決してタンパク質を与えないことだった。代わりにジャガイモやパンなど、少量の炭水化物を摂取させる。このようにしてゆっくりと確実に餓死させることができるのだ。これは一見食糧を与えているようにも見えるため、諸外国からの批判を交わすためにも有効な方法だった。

知的障害者に対する飢餓実験

ミュンヘン、ハール州立精神病院内のエグルフイング施設にかつて「T4作戦」の実行地があった。「T4作戦」はナチの歪んだ優生学に基づく、身体障害者・精神障害者・発達障害児童の抹殺作戦である。これは39年のポーランド侵攻以前からドイツ国内で水面下で実行されていた。エグルフイングの施設長、ヘルマン・プファンミュラー博士は、ナチ・イデオロギーが掲げる「価値のない命」の概念を強く信じており、T4作戦にも当初から参加していた。

彼は「無駄飯ぐらい」(特に小児)を殺す方法として特殊な飢餓セラピーとでもいうような方法を研究していた。

1939年に心理学の学生がエグルフイングの施設内に見学実習に来た。プファンミューラーはその際学生を小児病棟へ案内した。その時に学生が目にしたものとは・・


15〜25人の1歳〜5歳までの子供が寝かされていた。プファンミューラーはこの病棟で特に詳しく自分の考えを明らかにした。次のように要約される彼の説明は驚くほど率直でかなり強く記憶に残っている。彼曰く、『こいつら(子供たち)はナチ党員の私にとって民族のお荷物だ。殺す(殺るという言い方もした)にしても毒や注射は使わない。外国の新聞や赤十字のお偉方にまた非難されるだけだ。方法は皆さんがわかるようにはるかに簡単で自然なのだ』こう言いながら彼は施設の常勤と思われる看護婦に一人の子供をベッドから引き出させ、死んだウサギでも見せるように皆に見せて、専門家ぶった冷笑を浮かべながら『これはあと2、3日はもつだろう』というようなことを言った。太ったニヤニヤ顔、肉付きのよい手に捕まえられてひいひい泣く骨と皮の子供、周りにうじゃうじゃいる飢えた子どもたち、その光景は目に焼きついている。プファンミュラーは食物の供給を急に止めるのではなく、徐々に減らすと説明していた。



エグルフイングにはいわゆる「飢餓病棟」が2つあった。1943年1月から終戦までの約2年3ヶ月の間、患者に肉や脂肪を与えることは禁止された。

被収容者は野菜、ジャガイモ、1日辺り一切れのパンしか与えられなかった。これはプファンミュラーがかつて在職していたカウフボイレン施設で’効き目’が確認された食べ物で、胃を満たすが、次第次第に目的に導く。脂肪分を与えないと彼らはほっておいても死亡する。これはプファンミュラーによる工夫で、多くの施設で効果が証明されているとされている。

彼の飢餓病棟では子供、大人約444人が飢餓に追い込まれ、餓死させられた。戦後、米軍に逮捕された後、裁判で彼は「安楽死作戦は合法だった。昔からあった考え方(障害者を殺すこと)だった」というようなことを述べたという。彼は6年間収監されたがその後はなんなく出所し、75歳まで生きた。

ソビエト兵捕虜に対する飢餓実験

1941年の秋、ハンブルク大学の講師ハインリヒ・ベルニング博士は、軍衛生局総監督部より「水腫病の医学研究」を委託された。実験の材料に使われるのはソ連兵捕虜で、そのための専門施設がハンブルク=ヴァンツベックに設置された。

ベルニングによれば、飢餓水腫が発生するためには、かなり長期にわたって1日のたんぱく質摂取量が、30gを下回るようにせねばならない、とされた。ベルニングは本物の飢餓水腫を実験によって作り出し、それを観察し、飢えた人間が長い段階を経て体重が減少して行き、すぐに疲れやすくなり、性欲がなくなり、頭痛を覚え、めまいがするようになるさまを記録していた。

また、彼は捕虜の下腹部が膨張する様子を観察している。寒さや労働が水腫を強めた。

ベルニングは餓死した捕虜の胃や腸の形態変化を観察して記録。彼は戦後も偉大な博士として活躍、ナチ時代の実験を裁かれることはなかった。

なぜこんなことが起こったか

ナチ占領地が拡大すると同時に、彼らは大量の劣等人種を獲得した。未曽有の総力戦により、ドイツ人は兵士も銃後も含めて、皆命がけの戦争を戦い、窮乏を耐え忍んでいた。占領地ではお互いの全存在を抹消し尽すほどの殺戮と憎悪の応酬が続いていた。

そんな時世の中、「民族の宿敵」や「足手まとい」が、安全圏で食糧を与えられ、何もせずに安穏と暮らす、なんことを決して許さない人々がいた。それがナチの医学界や、上層部、とりわけハインリヒ・ヒムラーであった。

大量の実験サンプルが入手でき、彼らを一箇所にまとめて閉じ込めることができる今、戦争の勝利のために人体実験を行うのは、ナチ上層部にとっては「当然のこと」であった。

そして、人体実験は激しい人種偏見の賜物であった。ユダヤ人やスラブ人、ジプシーは人間とはみなされなかった。ジプシーを実験材料にすることを拒否する科学者はいたが、それは「人間」と比較することが難しい、という理由だった。

曖昧な人種理論の証拠探しという側面もあった。人種が優れている、劣っているなどというのは、今日においては疑似科学であることは誰も疑わない。何をもって「優れて」おり、何をもって「劣って」いるのかなど、そんな定義が歴史上存在したことは一度としてない。

にもかかわらず、ナチはアーリア人が優秀で、ユダヤ人が劣等だと決めつけた。それは政治が勝手に言い始めたことで、これを裏付けるために科学が総動員された。ナチの医学者たちは血眼になってアーリア人が優秀で、それ以外がそれよりも劣るという「証拠」を見つけようとした。それは髪や瞳の色であったり、顎の形であったり、背の高さであったりした。
http://3rdkz.net/?p=250&page=4

ヒトラーやヒムラーは、理想的な北欧人種とは程遠い外見である。ゲッベルスは足が不自由で身体障碍者である。にもかかわらず、ドイツ国民は「ハーメルンの笛吹き男」が奏でるメロディに踊らされるがままに、ヨーロッパ全土を破壊し、滅亡に追い込んだ。この歴史の奇妙を解明することは、今後においても決してできないに違いない。我々にできることは茫然と立ちすくみ、とりあえず人種差別に反対することだけであろう。
http://3rdkz.net/?p=250&page=5


39. 中川隆[-10751] koaQ7Jey 2019年4月12日 22:46:29: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1291] 報告
▲△▽▼


【人類の負の遺産】アウシュビッツ絶滅収容所の解説と観光案内 2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=182

少し前に、独りでドイツとポーランドを旅行しました。その際にアウシュビッツ絶滅収容所跡地を訪れました。想像よりも遥かに広大な施設で、展示を全部観ることは不可能でした。そこで得た知見や体験をまとめたいと思います。


アウシュビッツ絶滅収容所とはなんなのか?

一言でいえば、ドイツ政府が作った、ドイツ民族の敵を絶滅させるための場所です。

ドイツ民族の敵

ユダヤ人だけに限らず、同性愛者、共産主義者、ソビエト兵捕虜、エホバの証人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)……などなどです。(余談ですが「ニート=労働忌避者」も絶滅対象でした)

その他の絶滅収容所

ほかにヘウムノ、ベウジェツ、トレブリンカ、マイダネク、ソビボルなどがありました。アウシュビッツはその中でも最も大きく、最も新しく、最も長く使われた絶滅収容所です。

第Tアウシュビッツ、第Uアウシュビッツ=ビルケナウ、第Vアウシュビッツ=モノヴィッツが存在していました。モノヴィッツは現存していません。

アウシュビッツという名

ポーランドのオフィシエンチムのドイツ語の呼び名です。ドイツの支配領域のほぼ中心に位置していました。

Auschwitzmap

絶滅収容所はポーランドにだけ建設された

戦後間もなくの頃は、ダッハウやマウトハウゼンも絶滅収容所と考えられていましたが、現在はドイツ国内に絶滅収容所はなかったというのが通説です。

収容所長ルドルフ・ヘース

rudolf

髑髏部隊出身

1900年生まれ。最終階級はSS中佐。1934年に強制収容所総監テオドール・アイケの下で親衛隊(SS)《髑髏部隊(SS-TV)》へ入隊し、ダッハウ収容所で勤務。収容所官吏としてのキャリアを積む。親衛隊全国指導者ヒムラーによって抜擢され、アウシュビッツ所長に就任してからは、収容所近くに家を構えて、家族と共にそこで暮らし、殺戮を監督した。

250万人殺したと証言

ナチスの黒い虐殺機構の歯車の一部となってからは、一度として上に盾突くこともなく、人々をガスと強制労働と人工的飢餓により殺し続けた。戦後の裁判では250万人を殺したと証言。(アウシュビッツの死者は100〜150万人と推定されている)

絞首刑

1947年にポーランドの人民政府によって絞首刑にされる。処刑の地は皮肉にもアウシュビッツ構内であった。ヘースは死の間際、「人々は私もまた、心を持った一人の人間だったとは信じられないだろう」「命令だから実行せねばならなかった」という言葉を残した。

a8
ヘースを処刑したという絞首台

アウシュビッツにはどうやって行くのか?

a4

アウシュビッツミュージアムは一年中誰でも訪れることができます。

バスが便利

国鉄「クラクフ本駅」からバスで1時間40分ぐらい。鉄道でオフィシエンチム駅まで行って歩くことも可能だが、より長い時間がかかる上に、駅からミュージアムまでは20〜30分程度歩くことになる。料金も少し高い。バスがオススメです。

冬季以外はガイドが必要

ガイドを雇うことで、送り迎えを世話してくれます。冬場以外は、アウシュビッツの中に入るには専門ガイドの随伴が必要です。中の案内と送り迎えがセットになっていることもしばしば。詳しくは旅行会社に問い合わせてください。専門ガイドには、有名な日本人ガイドの中谷剛氏がオススメです。ポーランド人のガイドにも日本語を話せる人はいます。

古都クラクフ

クラクフはワルシャワから特急で約3時間程度の場所にある古都です。よく京都に例えられます。旧市街は中世の景観が残る、とても美しい街です。

アウシュビッツミュージアム

開館時間

午前8時だが、閉館は季節によって異なる。冬季は午後3時まで。夏季は午後7時まで入場できます。

写真

撮影は基本的に自由だが、フラッシュは禁止。一部の展示物は撮影禁止。

ガイド

4~10月は第Tアウシュビッツは専門ガイドを雇わなければ入れない。冬季は自由。日本語ガイドは中谷剛氏(3000円ぐらい)。英語がわかるなら英語ガイドのほうが安い(500円ぐらい)。集団ガイドなので英語がわからなくてもついていくだけで参加は可能。でもどうせならじっくり観るためにも日本語ガイドがオススメです。

連絡バス

第Tアウシュビッツと第Uアウシュビッツ間は徒歩で20分。連絡バスが走っているので利用するのが普通です。

写真の紹介

アウシュビッツ博物館は広大で、おそらく丸一日かけたとしても全部見て回ることはできないでしょう。

a3
第Tアウシュビッツ

a23
囚人から奪ったトランク

a24
大量の靴

a22
同じく食器

a21
義手義足

a20
同じく眼鏡

a15
ビルケナウの鉄条網

a16
囚人を輸送した貨車

a17
ビルケナウの囚人バラック

a18
ビルケナウの全景

a5
毒ガス、チクロンBの缶

a10
再建されたガス室

a11
チクロンBを投下した穴

a12
焼却炉

a9
焼却炉の煙突

a25
ビルケナウのトイレ

a14
ビルケナウの入り口「死の門」

a6
囚人頭カポの部屋

a7
銃刑場

アウシュビッツで何が行われたか?

略奪

ユダヤ人などの絶滅対象の人々は、アウシュビッツに到着するとまず身に着けているものを脱がされ、荷物や物品を略奪されました。金目の物を隠し持っていた場合は大抵その場で銃殺されました。

また、移送前から嘘情報で荷物をたくさん持って来させた上でそれらを略奪したり、トランクだけ別の貨車で運ぶからと、トランクに名前や住所を書かせたうえでそれらを奪ったりしました。トランクの持ち主は大抵家族やコミュニティごと絶滅させられましたので、トランクには引き取り手もなく、博物館に大量に展示されています。

その他、眼鏡、被服、食器、義手義足、靴、ユダヤ教のお祈りの際に使う布など、あらゆるものが略奪されました。ドイツ政府はそれらの略奪品を再利用したり、それができない場合は破棄しました。それら膨大な量の略奪品も博物館に展示されています。

a26
ドイツ人は略奪した品物の種類や数を几帳面に記録しました

1945年1月、アウシュビッツを解放したソ連軍は、倉庫内に大量の仕分けられた略奪品が残されているのを発見しました。また、記録によれば、解放前の一か月間で大量の物資がアウシュビッツから持ち出されたことがわかっています。それでも運びきれなかった品はSSが倉庫に放火して証拠を消そうとしましたが、それらはあまりに膨大な量で、全ての証拠を消しきることはできませんでした。

労働を通じた絶滅

ドイツ人は囚人の食事を極限まで減らした上で、最大の労働効果をあげようとカロリー計算までしていたそうです。囚人が厳しい労働を通じて死んで行くことが望ましかったのです。

石切り作業や土木工事などの厳しい労働に駆り出された者たちは短期間で死亡しました。反面、厨房作業員はつまみ食いできたので人気の仕事でした。また技術者や医療従事者は優遇されました。死体の片付けや荷物の仕分けなどを行うゾンダーコマンドはかなり食事を優遇されましたが、証拠隠滅のため数か月おきに全員処刑されました。

カポという囚人頭はほかの囚人を暴力で統率しました。食事を優遇され、個室も与えられたといいます。カポになれたのは主にドイツ人刑事犯など、比較的ナチ思想のヒエラルキーの中では高い地位にいた者たちです。カポは囚人ではありましたが、残虐行為を働いたとして戦後訴追された者もいます。

囚人に階級をつけ、食糧に差をつけることで、彼らがお互いに憎みあうように仕向け、団結することを防ごうという目論見があります。

ガス殺

第Tアウシュビッツに1つ。第Uアウシュビッツに4つのガス室と焼却場から成る「クレマトリウム」という巨大な施設がありました。囚人たちはアウシュビッツに到着するとまず「労働可能」「人体実験」「無価値」と三つに分けられました。「無価値」と認定された者は即座にガス室へ送り込まれて殺害されました。

「無価値」と認定されたのは主に身長120cm以下の児童、妊婦、老人、病人、障碍者です。

また収容所のひどい環境で働けなくなった病人や衰弱した者はすぐに殺されました。

医学実験

アウシュビッツでは、「死の天使」と呼ばれたメンゲレ医師をはじめ、たくさんの医師がいました。彼らは囚人を使って本国では試せないような人体実験を行っていました。外科手術の練習をしたり、双子を用いた奇妙な実験がその代表です。

第V収容所 26 shares 4 users
【狂気の戦時医学】ナチスの人体実験まとめ【ヒトラー・ドイツ】


ナチスドイツの非人道的な人体実験の数々をわかる限りまとめました。なるべく信頼できそうな資料だけを使用し、誇張することがないよう心がけました。非常に残酷で吐き気を催す事実が記載されているため、観賞要注意とします。目次実験T 低圧・低温実験実験U 海水...


拷問・公開処刑

14万の収容者に対して、警備兵は数千名でした。しかもそのほとんどはウクライナ人の傭兵で、ドイツ人のSS隊員は多くありませんでした。

秩序を維持するため、警備兵は囚人をことあるごとに虐待し、拷問を加え、公開処刑にしました。木の杭に縛り付けたり、鞭打ち刑など拷問メニューは多岐にわたりました。

囚人たちは、SSやウクライナ兵に目をつけられないよう、目立たぬように振る舞い、決して彼らと目を合わせませんでした。

戦後、アウシュビッツはどのように語られたか

死者数

1945年1月27日にアウシュビッツはソ連軍によって解放されました。戦後、ニュルンベルク裁判で、アウシュビッツの死者は400万人と認定され、所長ルドルフ・ヘースは絞首刑にされました。

しかし、ソ連崩壊後に新たな資料が開け放たれ、アウシュビッツでの死者はもっとずっと少ないことが分かりました。今では100〜150万人説が有力です。

総勢はあまり変わっていない

ただし、ホロコースト全体で、ユダヤ人の犠牲者は500〜600万人説が有力で、これは昔からあまり変わっていません。絶滅収容所はアウシュビッツの他に5か所もありましたし、特殊部隊アインザッツグルッペンや警察、地元傭兵などによる移動抹殺作戦による死者は90〜250万人に上ると推定されています。また、ソビエト兵捕虜は劣悪な環境下で人工飢餓による虐殺で、200〜300万人が殺されたと見られています。

その他、《夜と霧》政策や《T4》作戦による犠牲者、通常の戦闘による死者をあわせるとナチズムによって命を失った人は、ヒトラーが政権をとってから、たったの12年間で2000万人以上という推計もあります。


終わりに

最初は野次馬根性で行ったことは否めませんが、実際行ってみるとけっこうひるみます。しかし、いまだにここで行われたことに現実味を感じられないでいます。想像をはるかに上回って広い場所で、第Vアウシュビッツ=モノヴィッツは40の下部収容所を傘下に収めていたそうで、なおその広さを想像することができません。

あまりに途方もない規模で行われた犯罪であるため、アウシュビッツやホロコーストの全貌はいまだに解明されていない部分も多くあります。特に、上記したようにモノヴィッツには謎が多いです。色々と興味深い場所なのは確かなので、クラクフを訪れた際には一度見て行かれてはいかがでしょうか?
http://3rdkz.net/?p=182


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/808.html#c11

[近代史3] ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 _ ヨーロッパの戦い こうして始まった!  中川隆
4. 中川隆[-10677] koaQ7Jey 2019年4月19日 08:25:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1379]

ヒトラーを独裁者にしたのは、一つには彼の性的魅力であったらしい。


彼の姿を一目見ただけで卒倒する女性が続出したそうだ。

ある女性などは、ヒトラーが通り過ぎたあと、彼が踏んだ小石を持っていたガラスびんに入れ、それを大切に抱きしめた。

彼女はそのまま恍惚としてしまい、力が入りすぎてガラスびんが割れた。血がだらだら流れるが、それでもなお彼女は陶然と立ち尽くしていたという。

当時、世界でもっとも進歩的と言われたワイマール憲法下で、ヒトラーがあくまでも合法的に政権の座についたことを考え合わせると、民主主義って本当に大丈夫なの、とつい思ってしまう。
http://www.c20.jp/p/hitler_a.html


ヒトラーというとほとんどの日本人はドイツの独裁者でユダヤ人を虐殺した恐ろしい人とだけしか知らないのではないだろか。

ヒトラーに関して我々がしっかりと知っておかなければならないことは、

ヒトラーは当時、世界で最も民主主義的と言われたワイマール憲法の下で、合法的に独裁者になったということである。

ヒトラーの行くところはどこでもドイツ国民が、「ハイル、ハイル!」の大合唱。ドイツ国民のすべてがヒトラーに心酔していた。

そんな時、「私に全権を与えていただければ、もっと豊かなドイツを実現してみせます!」とヒトラーは言った。

ドイツ国民は将来悲惨なことが起こるなんてことは誰も疑わずに、あっさりとヒトラーに全権を与えてしまった。

1935年にドイツ国内で国民投票が行われた。

そしてなんと国民の90パーセント以上という圧倒的支持で、首相と大統領の兼任(行政権の完全な掌握)、立法権、軍隊の指揮権といった、司法権を除くすべての権力をヒトラーに渡してしまったのである。

こうして三権分立という鎖がはずされ、リバイアサンという怪物が解き放たれたのである。

その後は、皆さんもご承知のように、誰もヒトラーの暴走をくい止めることができなくなり、世界は人類がいまだ経験したことのない第二次世界大戦という大惨事に突入していったのである。
http://kaichan.cocolog-nifty.com/diclongman/2007/09/post_e4df.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/352.html#c4

[リバイバル3] 車中泊向けの軽バン、ホンダ「N-VAN」の実用度 中川隆
102. 中川隆[-10676] koaQ7Jey 2019年4月19日 08:43:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1380]

2019年04月19日
テントを自宅にするミニマリスト 庭テントや室内テントする人も
http://www.thutmosev.com/archives/79596211.html


夏休みくらいならテント生活もいいかも知れない

ミニマリストのテント活用法

欧米では贅沢の反動なのかミニマリストという最小限の環境で暮らすのが、一種のブームになっています。

ヒッピーやジプシーにも似ているが、例えばものすごく小さい家で生活したり、家を持たずワンボックス車で暮らす。

アメリカの大都市では日本でいう1DKが家賃30万円から40万円もするので、かなりの収入があっても給料の半額が家賃に消える。



そこでもうまともにアパートを借りるのは辞めて、車で生活したり公園にテントを張って暮らす人が多い。

IT企業の駐車場に車を止めて暮らす人や、アマゾンの倉庫の近くでテントを張って通っている人が話題になった。

日本でも高い家賃を払うのはもう真っ平という人が増えたら、公園や駐車場で暮らす人が増えるかも知れない。


家賃10万円の地域でも駐車場1台分なら2万円だし、公有地なら無料でテントを張って暮らせる。

お金が理由ばかりではなく、物をなるべく所有しないミニマリストの生き方に共感する人がどんどん増えている。

またちゃんとした一戸建ての自宅がありながら、庭にテントを張って「自宅キャンプ」する人も居る。


さらに理解が難しいのは自宅の部屋の中にテントを張って、室内テント生活を楽しんでいる人が居る。

まず自宅キャンプですが、相次ぐ災害でテント生活が関心を集め、自宅でテントの予行演習する家庭が増えた。


やってみたら楽しかったので、庭にテントを張ってバーベキューしたり、野外生活の真似事を楽しむ文化ができた。

自宅にテントを張って外で食べると遊びになる


332d49acd40dad433b2e4e18892ef35156b61edd
画像引用:休みがなくても大丈夫!! おうちでキャンプ気分を味わう方法 | RoomClip mag | 暮らしとインテリアのwebマガジンhttps://roomclip.jp/mag/archives/27458


テントを自宅にしたり、自宅でテント生活

自宅なので安上がりで危険もなく、家族や仲間だけでワイワイやって盛り上がるのが楽しいようです。

家の中ではあまり盛り上がらないが、テントや外で自炊するとなぜかレジャーになってしまう。

室内でテント生活している人は意外に多いようで、冬はテント内で寝袋に入ると寒い地域でも暖房が要らない。


東北や北海道ではワンルームでも暖房代1万から2万円はかかるが、室内で貼るテントと寝袋はすぐ回収できてしまう。

必要なら電気毛布やコタツも使えるので、その気になれば一冬1万円の暖房代で過ごせるかもしれない。

冬の暖房代節約だけではなく、庭キャンプと同じように室内でキャンプ気分を楽しんでいる人もいます。


室内なのだが野外と同じようにテントで眠り、アウトドアクッキングすればそれなりに楽しいようです。

これらは遊びとしてのテント生活でしたが、テントを自宅にして生活する人もいます。

田舎では数十万円や100万円以下で土地を買えるが、そこに家を建てると数千万円かかる。


だがテントで良ければ数万円であり、水道とトイレだけあれば良い。

ブームというほどではないが実際こうやって何年もテントを自宅している人も居ます。

テントを田舎の別荘にする方法もあり、やはり土地は安いが建物は都会と同じように高い。


建っているだけで維持費がかかるし、手入れや掃除する手間も必要、人が住まないと急速に劣化します。

土地だけ用意して草刈りをし、テントを張って夏休みだけ別荘にすれば、それ自体がレジャーになる。

夏休みだけなので、ある意味不便であるほど非日常になり、冒険心が満たされる。
http://www.thutmosev.com/archives/79596211.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/865.html#c102

[リバイバル3] 車中泊向けの軽バン、ホンダ「N-VAN」の実用度 中川隆
103. 中川隆[-10675] koaQ7Jey 2019年4月19日 08:49:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1381]

休みがなくても大丈夫!! おうちでキャンプ気分を味わう方法
https://roomclip.jp/mag/archives/27458

最近、キャンプ場や自然の中で、ホテルやリビングのようなおしゃれな空間で過ごす「グランピング」という、新しいカタチのキャンプが流行しています。今回はその逆!! おうちにいながらにして、まるでキャンプをしているかのような、非日常体験を楽しむ方法をご紹介していきます。

テントを張ってみる

キャンプといえばテント! お庭はもちろん、お部屋にだって小さめのテントを置いてみれば、それだけで十分キャンプ気分を味わうことができます。テントという空間が、いつもと違う非日常体験をさせてくれること間違いなしです。

お庭キャンプ


お庭にテントを張れば、もう気分はすっかりキャンプです! 子どもたちだって、ワクワクするキャンプは大好きなはず。 なんといってもおうちなので、大人もリラックスしつつ楽しむことができそうですね。お庭なら、忘れ物してもすぐとりに行けるし、安心ですね。

おぉ〜( *´艸`) これは楽しいお庭キャンプだね(o’∀`)♪ 大人も雰囲気が変わって楽しめるから良いね〜♥
by : sy.maco

お庭キャンプ楽しそうですね〜! 遠出しなくても、充分レジャー♡ 私も混ざりたい(*´ω`*)
by : m-tumiki

いいな〜(*´∀`)♪楽しそう! お庭キャンプだと、大量の荷物を運んだり大変な片付けも無いし、渋滞も無いし、変な疲れも無いし…(笑) 良いことづくしだね♪ うちも広〜い庭があったらキャンプしたかったなぁ(^o^;)
by : miwa14

ウッドデッキでキャンプ


ウッドデッキなら、一歩外へ出るだけでいいので、いろいろなモノの持ち運びも簡単だし、部屋への移動も簡単でいいですね♪ 急な雨とかにもすぐ対応できそうです。

うちはお盆休み旦那が仕事でどこにも行けなくて、じゃあ家でキャンプやろう!って事でやりました(^_^;) 子供達は大喜びでした♪
by : jenny

いいですね〜! オシャレすぎます(≧∇≦)
by : bon1116


お部屋キャンプ

Overview,夜,テント mamama3の部屋
撮影mamama3mamama3さん


お部屋の中なら、天気や気温の心配もしなくていいので、いつでも、どの季節でも楽しめます。 トイレやお風呂だって気にすることもなく、気分に合わせてテレビやゲームだってすることができます♪ 便利だけど、テントがあるだけで雰囲気も楽しめるので、気軽にキャンプ気分が味わえます。

おうちでキャンプでお泊まり会♪夏休みって感じーーー✨
by : mamama3

楽しそ〜( •ॢ◡-ॢ)-♡お家やと涼しいし、虫もいないし言うことないねε⁃(˃᷄ॢε ॢ˂᷅ ๑))
by : kokoko

これは。。興奮するね!!(●´∀`●)素敵アイデアすぎる。。そしてこのテントがおける広さのお部屋!!!!!!(≧v≦*)スゴイ
by : matruko...

小物を取り入れる

テントはちょっと大きすぎて、組み立てるのが…… という方でも大丈夫! キャンプ小物を取り入れるだけでも、キャンプ気分を味わうことができます。キャンプ小物を上手に使って、お部屋の雰囲気をいつもと変えてみましょう。

ティピーテント

今流行りのティピーテントなら、コンパクトでインテリア性も高く、おしゃれなキャンプ気分を味わえます。こちらのユーザーさんは、クリスマスパーティーでティピーテントをディスプレイされていますが、イベントの特別感が感じられるのは同じですね♪

とってもステキな雰囲気ですね。
by : yy

キャンプチェア

キャンプチェアならお部屋にも気軽に置けます。キャンプチェアに座ってコーヒーを飲んだり、食事したりするだけでもキャンプ気分を味わえそうですね。こちらのユーザーさんのように、クッションなどを置けば、そのままお部屋のインテリアとしても楽しめそうです。

アウトドア用のチェアを2つ置きました(๑ ˙˘˙)/なんかキャンプみたい♡ ジャマな時は、折りたたんでしまえるのもいいです(*´罒`*)
by : nuts


ライト

夜は電気を消して、屋外用のライトやランプなどを使えばキャンプムード満点です。落ち着いた雰囲気の漂う、こんなステキな灯りの中なら、いつもより深い話ができそうですね。

台風なので、お家でキャンプパーティー!ハンギングチェアを中心に、キャンプチェアを置いて♪キャベツBOXはテーブルの変わりに☆ランタンはIKEAのもの。IKEAの天蓋はテント変わりに使ってみました!今日はここで晩酌( ´ ▽ ` )ノって言ってもコーラだけど笑!!ガーデンライトは、手作りです☆☆観葉植物も、キャンプ感出してくれてます(≧∇≦)
by : painmomo

キャンプならではの事をやってみる

お庭やお部屋の環境が整ったら、キャンプならではのことをおうちでもやってみましょう。工夫しだいで、さらにキャンプ気分が盛り上がること間違いなしです。

外で食事

最近のキャンプは食事だっておしゃれ。だからおうちキャンプだって、お庭やバルコニーで食べれば立派なキャンプごはんになるんです! こちらのユーザーさんのように、アウトドア用品をコーディネートすれば、さらに気分が上がりますね♪

お外で朝ごはん♡ 気持ち良さそう☆ スタンレーとかランタンとか素敵アイテムもいっぱいですね〜♪
by : rai


テントで寝る


Bedroom,テント生活 Megumiの部屋
撮影MegumiMegumiさん


テントを張ってみたなら、ぜひ夜もテントで寝てみましょう! テントで寝るのってなんだかワクワクしますよね。いつもと違った雰囲気に、子どもも喜ぶこと間違いなしです。

いつでもキャンプ気分だね(≧∀≦)
by : rierierie

星を眺める

夜空を眺めるのが一番いいのかもしれませんが、お部屋の中でのキャンプは天候に左右されないのがメリット。こちらのユーザーさんのような、手作りプラネタリウムをおうちテントに持ち込んで、眺めて楽しむのもステキです。ちなみに100均のプッシュライトと画用紙でできるそうです。


狭い部屋(トイレ)なら360度に星空が映るんだよ^ ^
by : taka


いかがでしたか? 忙しくてなかなかキャンプに行けない、キャンプの予行練習がしてみたいという方は、ぜひおうちキャンプに挑戦してみてください。お手軽にリフレッシュできること間違いなしですよ。
https://roomclip.jp/mag/archives/27458
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/865.html#c103

[政治・選挙・NHK259] 元国税が論破する「公共事業を増やせば賃金が上がる」の大ウソ  大村大次郎(まぐまぐニュース) 赤かぶ
6. 中川隆[-10674] koaQ7Jey 2019年4月19日 09:32:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1382]
平成バブルはユダヤ資本が小沢に内需拡大を指示して作らせて、日銀総裁に指示して潰させたんだよ

公共事業とは何の関係もない

平成バブル崩壊と ソロモン・ブラザース証券 相場師列伝3
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/258.html
1
http://www.asyura2.com/19/senkyo259/msg/760.html#c6

[日本の事件17] プチエンジェル事件の真相
46. 中川隆[-10673] koaQ7Jey 2019年4月19日 09:44:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1383]

【「プ◯エンジェル事件」の深すぎる闇を片岡亮が語る】
『4人の子の内、1人の子は...』 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=z7NpsAmX48g


▲△▽▼


プチエンジェル事件  この事件の真相が暴露されたとき、戦後保守体制は大爆発する(東海アマ)
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-700.html
http://www.asyura2.com/17/nihon32/msg/175.html  


 プチエンジェル事件は、今から16年前に東京で起きた児童監禁売春強要事件だが、「自殺?」したとされる容疑者の単独犯行とされ、2000名もの政財界の大物が羅列された名簿を警察が押収したにもかかわらず、犯行経過と名簿の具体的内を示す、ほぼすべてが警察によって隠蔽され、マスコミもこれを報じずに、見事にうやむやにされた、戦後最悪の権力による極悪犯罪隠蔽事件である。


 このとき、日本社会が腐敗した「法治国家」である現実が、世界に明らかになったといってよい。権力と金さえあれば、小学生少女を監禁、強姦しても、事件は隠蔽され、罪にも問われないと警視庁=警察権力が示したのである。
 現在、安倍政権によって、法治主義を無視、破壊する権力濫用が続いているが、こうした自民党政権による国家ぐるみのマフィア的犯罪は、すでに、このとき完成していたと考えるべきである。


 名簿を一部の記者が見ていて、そのなかに、自民党の現役政治家や元大臣、元警察官僚などが含まれていたと証言している。

 中には、森喜朗元総理の息子が含まれていたとの週刊誌の報道もあった。
 名簿の捜査は、警察上層部からの命令で停止させられ、その理由は「偽名が多い」というものだったが、捜査現場からのリーク情報では、携帯電話番号まで記載され、番号と公表された氏名が一致していることも多かったといわれる。


 この事件には、関わった少女や、事件を調査していたフリーランス記者などに数名の不審死者が出ているが、これらも、すべてうやむやに処理され、徹底した隠蔽が行われた。
 私は、この事件の真相について、いつか、まとめて報告したいと思っていたが、情報が少なすぎるため果たせず、今回、YouTubeに現場を取材した記者の証言がアップされて、はじめて詳細を知ることができた。


【「プ◯エンジェル事件」の深すぎる闇を片岡亮が語る】
『4人の子の内、1人の子は...』 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=z7NpsAmX48g


プチエンジェル事件の真相!顧客名簿・犯人の正体や少女のその後
 https://kirari-media.net/posts/454


 事件の経過


@ 2003年7月上旬、稲城市に住む小学生少女が、渋谷周辺で女子高生スカウトから「アルバイトしないか」と誘われ、主犯とされる無店舗型少女売春クラブ経営者の吉里弘太郎(29)と接触、マンションの部屋を1時間くらい掃除して1万円を渡され「友達も連れておいで」と誘った。
 このとき、友達を連れてくれば、一人について3万円を渡すと約束していたようだ。


A 誘いに応じて、少女は友人3名を加えて、7月13日、再び吉里の元を訪れた。
 彼女らには二台のタクシーが用意され、7月11日に吉里が契約したばかりの赤坂のウイークリーマンションに連れて行かれた。(インターナショナルプラザ赤坂No.1最上階の11階1101号室)
 すると、吉里は態度を豹変させ、「ここに来たのは、どういう意味か分かってるな?」と、スタンガンを手に四人の少女を恫喝した。
 怯える少女たちに、手錠と目隠しをして、重しのポリタンクにつないで監禁が始まった。少女たちのなかには、逃げだそうとしてスタンガンで負傷させられた者もいた。


 吉里がマンションを短期契約した7月11日、彼は保有していた二代のフェラーリを売り払っていて、7月17日には、警察が以前の少女売春事件で、吉里に逮捕状を執行しようとしていた。つまり、死亡した7月17日以前に、吉里は自分が逮捕されることを知っていた。


B 7月13日、夜になっても帰宅しない少女たちの家族は、不安にかられて、警察に通報、通常、この種の事件では、少女たちの命が危険に晒されるため、ただちに公益報道されるはずなのだが、この事件では、警察は、なぜか7月16日まで、マスコミにも公表せず、秘密裏に、学校教師と家族だけによる捜索が行われた。
C
 なぜ、警察が誘拐行方不明事件でありながら、公開捜査を拒否したのかは、まったく理由が分からない。
 また、警察上層部から、「少女売春事件であり、本人のプライバシー保護のため、周辺での聞き込み捜査は行うなとの指令が出た」ことで、稲城警察による聞き込み捜査が中断された。
 警察は、事件発覚前から、これが少女監禁売春強要事件であることを知っていたようだ。
 しかし、事態が進展せず、警察は、これ以上の隠蔽は無理と判断して、16日未明にマスコミに情報公開、やっと報道が始まった。


C 7月17日、監禁された少女たちは、室内の物音がしなくなったことから、自分で手錠を外して部屋を逃走、裸足で逃げて、インターナショナルプラザ赤坂No.1の隣にあった花屋に駆け込んだ。
 通報を受けて1101号室に警察が立ち入ると、そこには、吉里が、椅子に座ってビニールを被って死んでいた。死後、十数時間を経過していたとされる。
 
D 警察は、吉里の単独犯行で、発覚を恐れて自殺したと「断定」し、捜査を早期に打ち切った。
 死因は、ビニールテント内に置かれた七輪の練炭による一酸化炭素中毒という説明だったが、いくつかのメディアが検証したところでは、七輪は高熱を発し、ビニールテントなど、たちまち溶けてしまい、外気が侵入して死には至らないこと。
 また、吉里の死体には、ビニールが溶けたり、七輪の熱による火傷があるはずなのに、それらが一切なく、普通のきれいな死体であったこと。


 ビニールテントは、外部からテープで目張りされていて、中に入った吉里が外から貼ることは不可能であること、したがって、警察による自殺という結論は、極めて不可解であること、を明らかにした。(『真相報道 バンキシャ!』)


 つまり、吉里弘太郎は、事件を起こしてから、外部の人間によって、自殺を装って殺害された可能性が極めて大きい。吉里が逮捕されて、警察にペラペラと自白されては困る人物の指示によって殺害が行われたと考えられる。
 つまり、17日に吉里が逮捕されることを知っていた、警察関係の情報を得られる立場の人間によってである。


 不可解なことに、警察は、法医学解剖調査など遺体の詳細な調査を行わないまま、慌てて遺体を始末させた。


D 吉里弘太郎は、無店舗型、非合法未成年者デートクラブ「プチエンジェル」を経営。女子高生数人をスカウトとして雇い、渋谷や新宿で「カラオケ5,000円、下着提供10,000円、裸体撮影10,000円」などと書かれたチラシを配ってローティーンの少女を勧誘し、男性客に斡旋、その他わいせつビデオの販売も合わせて多額の利益を得ていた。また本人も過去に買春で逮捕歴があり執行猶予中だった。


 吉里は、この種のデートクラブ経営者としては、破格の成功を収めていて、年収は、数億円以上に達していたとみられている。死後発覚した預金は35億円と報道されている。
 この金額は、一介のデートクラブ経営で得られるような額ではなく、背後に想像を超える大規模な組織があったことを示すものである。
 本人、自ら、小学生少女にしか興奮しないという児童性愛趣味者であり、小学生少女を多数、提供することで莫大な利益を得ていたが、おそらく組織的な活動だっただろう。


 その相場は、小学生なら、一回の性行為で、10〜20万円というものだったようだ。当時、流行していた「援助交際」で、女子中学高校生との性行為が、一回1万円程度とされていた相場に比べれば、小学生の相場が、どれほど高額なものか分かるが、これに対し、全国の政治家・財界人・医師など社会的地位の高い者たちが、このクラブに殺到していたことが明らかにされている。
 この事件が、警察によって完全に隠蔽された理由は、顧客たちの社会的地位を守るためであることは明らかである。


 E 吉里弘太郎のプライバシーを調べると、とんでもない事実がたくさん出てきた。
 
 吉里弘太郎容疑者の父親は元警視庁幹部であり、朝日新聞に転職して幹部社員から西部本社社会部長に転属した。
吉里は東京芸術大学出身でデザイナーをしていたが、大学時代から複数の女性と交際しヒモ生活を送っていた。住所は「横浜市港北区篠原東1-2」や「埼玉県久喜市」だと言われている。


 吉里は、大学在学中の頃あたりから立て続けに肉親が自殺している。父親は1993年に難病指定されている頭頸部ジストニアを発症し、病苦によるものなのか、朝日新聞社西部本社に異動になったためか1996年に自殺している。
 その後、兄が1999年に自殺。母親は悲観して2001年に自殺未遂を起こした。
 吉里は、多摩地区を中心に主婦売春組織を運営していたことから警視庁にマークされていたという。


F「プチエンジェル事件」は、なぜか突然、メディアから消えて収束を迎えた。
 吉里弘太郎の単独犯行とされ、捜査も終了させられた。
「プチエンジェル事件」の顧客リストに、日本を代表する、2000名もの政財界、医療界、司法界、政府官僚などの大物が掲載されていたことが暴露されたが、なぜか警察当局は「偽名が多いため、捜査不能」と警察が発表し、警察も報道陣も示し合わせたようにこの事件から手を引いた。


「プチエンジェル事件」の翌日には警察による一斉補導が渋谷で行われ、約1500人もの少年少女が補導された。 
 吉里が借りていた埼玉にあるアパートからは1,000本以上の小学生少女が主役となった猥褻ビデオテープと2000人以上が記された顧客リストが押収されたが、警察は、一切摘発に動こうとしなかった。
 同時にマスコミも警察と示し合わせたように「プチエンジェル事件」について報道をしなくなり、突然のように事件は終幕を迎えた。


 被害に遭った少女たちの証言から、客引きの女子高生やマンションへの誘導役の男、部屋を借りた名義人である”ヤマザキ”という男など、確実に3人以上は共犯、関係者がいることが明らかにされていたが、なぜか、すべて吉里の単独犯行とされて、それ以上の捜査は行われなかった。
 1101号室に出入りしていたふたりの男女が目撃されており、ある捜査官は後に「男の方は警視庁幹部の息子だった」と暴露しており、「プチエンジェル事件」はその警視庁幹部の働きかけもあって捜査打ち切りになったとも言われている。


G マンション「インターナショナルプラザ赤坂No.1」は小沢一郎の資金管理団体「陸山会」が所有する物件だと言われている。
 この事件について小沢一郎は一切触れていない。


H 顧客リストに糸山英太郎も。
「プチエンジェル事件」顧客リストの人物として名前が上がったのが、糸山英太郎だった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E5%B1%B1%E8%8B%B1%E5%A4%AA%E9%83%8E


 糸山英太郎は実業家であり個人投資家で、テレビ東京の大株主である他、過去には日本航空の筆頭株主だったこともある日本屈指の富豪で、2007年のフォーブス発表の「日本の富豪ランキング」では7位にランクインし、総資産額は4500億円だった。


「プチエンジェル事件」の筆頭顧客とも言える糸山英太郎は、事件が発覚する4日前の2003年7月12日に所有する自社ビル「ザ・イトヤマタワー」の18階にある自宅で、16歳の少女に15万円を支払って買春をした。
 この少女を斡旋したのは元暴力団組長で、警察の捜査にひっかかり組長ら3人が児童福祉法違反で逮捕されている。


 しかし、買春をした本人である糸山英太郎は「相手が18歳未満だとは知らなかった」と容疑を否認し、罪には問われなかった。
 当時、援助交際による女子中高生の性交渉の相場が一回1万円程度であることを考えれば、糸山が出した一回16万円が何を意味するか分からない者はいないはずだが、これも警察により無罪放免とされた。現在では、小学生相手の売春は重罪で強姦罪が適用され、最低でも5年程度の実刑判決となる。
 この事件は当時の五代目山口組若頭補佐だった後藤組組長の後藤忠政により揉み消されており、糸山は後に慰労金を支払ったといわれる。


I フリージャーナリスト・染谷悟が殺される
 権力により封殺されてしまった「プチエンジェル事件」を暴こうとしたフリージャーナリストの染谷悟は、中国マフィアに殺された。
 「プチエンジェル事件」から約2ヶ月後となる9月12日に、東京都江東区東雲2丁目の東京湾に男性の死体が浮いているのを通りがかりのトラック運転手が発見し通報した。


被害者は「柏原蔵書」の名前で活動していたアングラ情報専門のフリージャーナリスト染谷悟で、背中8箇所を刃物で刺された痕があった他、頭部に2箇所殴られた痕があった。
 発見当時、染谷悟は岸壁から2メートルほどのところに浮いており、服の上から鎖で巻きつけられて縛られ、両手は紐で縛られている状態で、両足も紐の痕が残っていた他、腰には潜水用の重しの入ったベルトが巻かれていた。


「プチエンジェル事件」は中国人身売買に通じていた?
 染谷悟は殺される直前に周囲に「中国人マフィアに命を狙われている。殺されるかもしれない」とこぼしていた。
 警視庁東京水上署の捜査本部が染谷悟さんの刺殺体が発見された2日後の14日に発表した内容では、染谷悟さんは「プチエンジェル事件」が明るみになる前から身の回りに起こる不可解な出来事に悩まされており、2002年頃から自宅の窓を割られたり、空き巣に入られたりしていた。


 染谷悟は組織的な児童買春の実態を暴くために動いていたが、2002年9月には当時住んでいた豊島区のアパートで空き巣被害に遭い、取材で使っていたカメラやパソコンなど計77点が盗まれていた。


 染谷悟が殺害されてから2日後に、2ちゃんねるに大手出版社の編集員を名乗る人物が事件の詳細について語った。
 染谷悟は「中国マフィアのしっぽを踏んでしまった」と語っていたという。
 このことを編集員は「(「プチエンジェル事件」を追う内に)中国マフィアと日本やくざの児童売買ネタに当たってしまった」と解釈した。


 「プチエンジェル事件」には中国マフィアと日本のやくざが密接に絡んでおり、児童人身売買も疑われた。
 吉里が小学6年生の女児4人を拉致監禁した理由は中国マフィアに売り飛ばすつもりだったのかもしれない。
 少女らを監禁した翌日にはすでに警察が吉里弘太郎容疑者が犯人だと目星をつけて捜査を開始したため進展が早く、このままだと捕まるのは時間の問題だと踏んだ中国マフィアが吉里弘太郎容疑者を葬った疑いもある。


J 2ちゃん書き込みログ
 赤坂署に配属になったから事件資料を調べようとしたら全て処分されていた」


染谷悟は、プチエンジェル事件発生の2003年7月に「歌舞伎町アンダーグラウンド」という著作を出版したばかりでした。次の題材として、プチエンジェル事件を独自に取材を進めていた。
 プチエンジェル事件の取材をしていく中で、周囲に「中国人マフィアに命を狙われている」と漏らし始め、プチエンジェル事件から2ヶ月後の2003年9月、染谷は東京湾に浮かんだ。


 プチエンジェル事件は赤坂で発生しているにも関わらず、当初「渋谷で発生した」と報じられた。これは永田町の近くでそういった醜聞が報道されるのをいやがった政治家からの圧力があったからだ、と言われている。


 参議院議員であった鴻池祥肇(当時:防災担当大臣)は、2003年7月18日の衆議院予算委員会にて、「少女4人も、加害者か被害者か分からない」という答弁を行った。鴻池は藤井孝男委員長から発言の真意を問いただされ、発言を撤回した。


F 冒頭に紹介したリンク動画では、記者が、数百名といわれるプチエンジェルクラブに関係した少女たちに不審な死者が出ていると述べている。
 https://www.youtube.com/watch?v=z7NpsAmX48g
 また、関係者の家族全員が、稲城市などから遠方に引っ越してしまったとも言われる。この事件の闇は、とてつもなく深い。


 *****************************************************************************


 以上が、16年前、2003年に起きた、大規模な児童売春事件の概要であるが、問題の核心は、犯人とされた吉里弘太郎が借りていたアパートから発見された、2000名もの顧客名簿に、日本の上流階級、権力者たちが、ずらりと顔を出していたことである。


 警察は「偽名」として捜査を中断したが、これを見た、一部の記者や捜査員は、誰でも知っている日本の顔が、そこにあったと証言している。
 つまり、大臣や行政官僚、医師、弁護士、警察関係者、著名人たちである。名簿は、ひどく早い捜査終了後、ただちに廃棄され、現在では行方不明になっている。おそらく証拠保全義務を無視して焼却処分されたのであろう。


 「日本を代表する権力者・著名人」の性癖が、このように卑しいものであったことに驚愕させられただけでなく、安倍晋三のお友達、山口敬之による詩織さん強姦事件を権力で揉み潰した、安倍官邸の警察官僚、山口格の行為にも通じるものがある。


 というより、戦後、日本の自民党権力は、長い間、自分たちに都合の悪い事実が発覚すると、権力を使って隠蔽し、潰してきたのである。
 つまり、日本の戦後権力は、中国共産党の悪辣な司法への介入と、それほど変わらないことを行ってきた。
 日本は、決して法治国家や民主主義国家とはいえない、深い闇に閉ざされた社会だったことを示している。


 この事件は、たとえ長い年月を経ようと、絶対に闇に葬らせてはならない。
 児童売春の顧客名簿に掲載された権力者たちは、たった今も、国家権力の第一線で政治経済に携わっていて、こんな犯罪者たちに日本を委ねることは許されない。
 あるいは、安倍政権の人脈、安倍首相自身も、もしかしたら名簿に記載されているかもしれない。
 もしも、この名簿が、どこかに保全されていて、それが明るみに出たならば、時効は経過しているが、懲役五年相当の犯罪に関与した者として、すべての信用を失う結果になるだろう。


 今の、自民党や経団連の体制は根底から崩壊することが避けられないのである。
 私は、それを強く期待したい。また名簿を覗き見た一部の捜査員や記者たちも、すでに引退した者なら、積極的に真実を公開してもらいたい。
 

http://www.asyura2.com/0505/nihon17/msg/722.html#c46

   前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > dGhQLjRSQk5RSlE= > 100020  g検索 dGhQLjRSQk5RSlE=

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。