http://www.asyura2.com/acat/d/df/dfd/dFdqV25vaHdZckU=/100000.html
10. 2022年3月14日 13:28:59 : 0NCqg4oANc : dFdqV25vaHdZckU=[1]
03-14 権力を固めると必然的に危険性が増大する必然的理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/409.html#c10
27. 2022年3月14日 19:43:34 : 0NCqg4oANc : dFdqV25vaHdZckU=[2]
「モスクワ川に浮くぞ」と警告が…佐藤優が見たロシア大衆の感覚「プーチンの恐さがなければ大統領はつとまらない」
#1
https://bunshun.jp/articles/-/52540
「クソ野郎」と公然と言い放つ大統領。その力の源泉とは。作家の佐藤優氏による「最強の独裁者プーチンの凄腕」(「文藝春秋」2014年4月号)を特別に再録します。
(※日付、肩書きなどは掲載当時のまま)
◆ ◆ ◆
選挙で「うんと悪い候補者」を排除
筆者の政治感覚は、標準的な日本人と比較するとすこしずれているような気がする。選挙とは、われわれの代表者を政治の場に送り出すことと頭ではわかっているのだが、どうも皮膚感覚がついていかない。
われわれの日常生活とは次元の異なるところから候補者が降ってくる。「悪い候補者」と「うんと悪い候補者」と「とんでもない候補者」だ。その中から「悪い候補者」に一票を投じ、「うんと悪い候補者」と「とんでもない候補者」を排除するのが選挙であるというのが、筆者の率直な認識だ。これはロシア人の標準的な選挙観だ。
筆者は1987年8月から1995年3月までモスクワの日本大使館に外交官として勤務した(正確に言うと最初の1988年5月まではモスクワ国立大学で研修)。
佐藤優氏
佐藤優氏
この記事の画像(8枚)
その間に1991年12月のソ連崩壊があった。まず、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長が進めたペレストロイカ(立て直し)に対する期待感と幻滅を目の当たりにした。中途半端な経済自由化によって、指令型計画経済のネットワークが崩れ、石けんや砂糖さえ満足に手に入らなくなった。
また、アゼルバイジャンとアルメニアの民族紛争、沿バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)のソ連からの分離独立運動の現場を見た。ナショナリズムの力が、創造性、破壊性の両面において、桁違いに大きいことを実感した。
「モスクワ川に浮くぞ」と警告
ソ連崩壊後のロシアで、もはや秘密警察を恐れることはなく、自由に政治活動、経済活動ができるというユーフォリア(陶酔感)を一時期、筆者もロシア人と共有した。しかし、その陶酔感は、ソ連崩壊から1年も続かなかった。「ショック療法」と呼ばれる新自由主義的な経済改革が行われ、1992年のインフレ率は2500パーセントに達した。
ソ連時代の国有財産のぶんどり合戦が始まり、経済抗争はある閾値を超えるとカラシニコフ自動小銃で処理されることを知った。筆者が親しくしていた銀行会長とスポーツ観光国家委員会の次官が、カラシニコフで蜂の巣にされて生涯を終えた。
利権抗争ではないが、北方領土関係でクレムリン(大統領府)と議会に対してロビー活動を行っていたら「モスクワ川に浮くぞ」と警告されたことが複数回ある。秘密警察関係者からの政治絡みの警告だったこともあるが、北方四島周辺の密漁で外貨を稼いでいるマフィア関係者と手を握った官僚からの警告だったこともある。後者の方が恐かった。
日本に戻ってきたのは、1995年4月だが、その後もロシア各地に頻繁に出張した。特に1997年11月に西シベリアのクラスノヤルスクで橋本龍太郎首相とエリツィン大統領が会談し、北方領土交渉が動き始めてからは、3、4週間に1回はモスクワに出張した。
そのような状態が2001年4月に小泉純一郎政権が成立し、田中真紀子氏が外相に就任するまで続いた。それだから当時のロシアの雰囲気が脳裏に焼き付いている。
小泉純一郎氏 ©文藝春秋
小泉純一郎氏 ©文藝春秋
プーチン独裁を正当化する“伏線”
現在のロシアでは「混乱の90年代」という表現がなされることがある。エリツィン時代は、過度な民主化、自由化のために社会が混乱し、国民にとって不幸だったという意味である。ロシアの義務教育9年生(日本の中学3年生に相当)でもっとも広く用いられている「プロスヴェシチェーニエ(啓蒙)」出版社の歴史教科書において、エリツィン時代は次のように総括されている。
〈1990年代には、ロシア連邦を再建し、その統一性を保持し、国の連邦体制の新たな原則を定着させることに成功した。中央と地方の関係は、より対等になった。この関係は、多民族国家の現代的な発展傾向を考慮したのであった。これが連邦建設の主な結果であった。
対立をすべて抑え、問題をすべて解決することはできなかった。地方との関係で連邦中央政権の役割は弱体化した。その一方で、民族問題がますます大きな意義をもった。ロシア人の民族運動が活発化し、その指導者は、ロシア人の諸問題に政権の関心が払われないことに不満を示した。
ロシアの領土保全は、依然としてもっとも喫緊の課題のひとつであった。ロシアは、ソ連がたどった崩壊への道を繰り返しているように思われた。中央の経済的・政治的意義の低下は、地域間の結束を弱め、連邦権力の参加なしでもすべての問題が解決できるという印象を与えた。チェチェン共和国での失敗は、国の他地域の分離主義者を奮い立たせ、民族政策を変更する必要性が生じた。〉(アレクサンドル・ダニロフ/リュドミラ・コスリナ/ミハイル・ブラント[寒河江光徳他訳]『世界の教科書シリーズ32 ロシアの歴史【下】 19世紀後半から現代まで―ロシア中学・高校教科書』明石書店、2011年)
エリツィン時代に「ロシアは、ソ連がたどった崩壊への道を繰り返しているように思われた」という評価は辛辣だ。現在のロシア政府は、あのままエリツィン路線が続いていたら、ロシア国家が崩壊していたという認識を義務教育で、生徒に叩き込んでいるのだ。これは、プーチンによる独裁に限りなく近い権威主義的体制を正当化する伏線でもある。
KGB出身で「しかるべき秩序」をもたらした
プーチン政権の誕生について、この教科書の記述を見てみよう。
〈ロシアの第2代大統領となったウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンは、1952年10月7日に生まれた。レニングラード国立大学法学部を卒業したのち、1975〜1991年まで国家保安機関に勤務した。1991〜1996年までサンクトペテルブルク副市長を務め、その後、ロシア大統領府へ転属し、短期間のうちに大統領府副長官に上り詰めた。
1998年にプーチンは連邦保安局(FSB)長官に任命され、1999年の夏にはロシア連邦首相に就任した。
2000年3月26日の大統領選挙で、V・V・プーチンは、第1回投票で勝利を獲得し、ロシアの第2代大統領に選出され、同年5月7日に大統領に就任した。(略)
プーチン大統領 ©JMPA
プーチン大統領 ©JMPA
V・V・プーチン大統領は、ロシアにおけるあらゆる進歩的改革を保障する強力な国家権力の推進者であることを鮮明にした。したがって、新大統領の最初の方針は、社会活動における国家の権威と役割を強固にし、しかるべき秩序をもたらすことに向けられた。
こうして、1990年代に行われた民主主義路線はこれまで通り継承された。〉(前掲書)
プーチンが、KGB(ソ連国家保安委員会)出身で、「社会活動における国家の権威と役割を強固にし、しかるべき秩序」をもたらしたことを強調している。
国内に統一した法治社会を復活
具体的には、中央集権の強化である。プーチンは、ロシアを構成していた諸連邦を、7つの管区に集約し、各管区に大統領全権代表を置いた。
〈(それまで各連邦で)採択された3500以上の法令は、ロシア憲法や連邦法に合致していなかったため、そのうちの5分の4が改正された。
こうした措置は、地方における中央権力の役割を強化させ、連邦を強固にし、ロシア国内に統一した法治社会を復活させることになった。〉(前掲書)
さらには連邦会議(上院)も、それまでは各連邦の知事と議会議長から構成されていたのが、立法機関からの選出と、プーチンが指名した行政の長により任命された地方の代表者で構成されるようになった。さらには、
〈ロシアの多党制も改善されつつあった。政党法は、国民の大多数の支持を得ている組織のみを政党と認めた。結果として、国家活動における政党の意義が高まった。〉(前掲書)
地方の自治権を取り上げて、中央集権制を強化することをプーチンは「法の独裁」と名づけた。教科書では、プーチンが好んで用いた「法の独裁」という言葉を記録していない。スターリン時代に「プロレタリアート独裁」の名の下で、大規模な人権弾圧が行われたことを髣髴させるからであろう。
地方が採択した法令の8割が変更されるというのは、統治のゲームのルールの大きな変化だ。知事選挙も廃止し、中央政府による任命制になった。さらに検察、警察、FSBなどの「力の省庁」を用いた統治メカニズムが導入された。
さらに、プーチンは国家統合を強化するためのシンボル操作を行った。
〈ロシアの国家シンボルの問題をめぐる無益な争いは、約10年にわたって続いていた。プーチン大統領は、様々な社会階層の立場を近づける妥協案を提示した。2000年12月に国家会議(下院)は、ロシアの国家シンボルに関する法律を採択した。白・青・赤の3色旗と双頭の鷲の紋章は、ロシア1000年の歴史を想起させるものである。大祖国戦争におけるわが国民の勝利の赤旗は軍旗となった。ソ連国歌のメロディーにのせられたロシア国歌は、世代の統一と、わが国の過去と現在、未来の不可分な結びつきを象徴している。(略)
V・V・プーチン新大統領の活動は、社会の賛同を得た。大統領の最初の任期終了までに、ロシア国民の約80%がプーチン大統領を支持した。〉(前掲書)
©JMPA
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「教育とは暗記なり」が常識
この教科書には、課題がついている。例えばこんな内容だ。
〈社会的・政治的安定の達成は、過去2年間のもっとも重要な成功のひとつと認識されています。なぜ現代ロシア社会がそれほど強く安定を求めているのか、クラスで議論しましょう。安定は何によってもたらされますか。何のために安定が必要なのか、改革の成功のためなのか、あるいは改革から徐々に脱却するためなのか、考えましょう。大統領と政府は、この問題に対してどのような立場をとっていますか。本文中やマスメディアの資料を用いましょう。〉(前掲書)
ロシア人は、6、7歳の子どもでも、本音と建て前の区別がつくようになっている。
「何のために安定が必要なのか、改革の成功のためなのか、あるいは改革から徐々に脱却するためなのか、考えましょう。」という設問に対して、「改革から徐々に脱却するためです」という間抜けた答えをする生徒は1人もいない。
そもそも義務教育段階では、「教育とは暗記なり」というのが、ロシア人の常識だ。教師が提示する模範解答を丸暗記するのが、常識である。
「真の改革のためには、秩序と安定が必要だ。プーチン大統領と政府は、ロシアの国家体制(госудáрственность、ゴスダルストベンノスチ)を強化するために全力を尽くしている。この路線を国民も支持している」というのが模範解答である。
現実問題として、ロシア人は、プーチン政権の現状を消極的にではあるが、支持している。ロシア人にとって、そもそも政治は悪である。政治における最大の悪は、スターリンのような、政治、経済、文化だけでなく、人間の魂も支配しようとする独裁者が現れることだ。
また、政治指導者が弱く、国内が混乱することも、ロシア人の考える巨悪である。そう考えると、ゴルバチョフのペレストロイカやエリツィンの改革も巨悪なのである。
現在のロシアには、そこそこの言論、表現の自由がある。経済活動も、プーチンの設定したゲームのルール、すなわち「経済人は政治に嘴を差し挟まず、金儲けに専心し、税金をきちんと納める」という原則さえ守れば、自由にできる。
安倍晋三氏とプーチン大統領 ©JMPA
安倍晋三氏とプーチン大統領 ©JMPA
そもそも良い人は政治家にならない。プーチンは悪い政治家である。しかし、うんと悪い政治家、とんでもない政治家ではない。まあ、この程度の独裁者ならば許容できるというのが、ロシア大衆の平均的感覚なのだ。
「プーチンのような恐さがなければ…」
普通のロシア人とプーチンについて議論すると、
「昔のような熱い支持はないよ。もう飽きた。しかし、プーチンの代わりに大統領を務めることが出来る人もいない。メドベージェフの小僧が大統領をやったが、力量不足だ。あいつは、ツイッターで軽々に発信する。それに英語でちゃらちゃら話をするあたりが軽い。プーチンのような恐さがなければ、ロシアで大統領はつとまらない」
という返事が返ってくる。
世論調査の結果でも、2013年11月の大統領支持率は61パーセントに過ぎない(2013年12月3日ロイター)。プーチンを熱烈に支持する発言をするのは、クレムリン、政府、議会与党、社会院(社会の代表者から構成されているという建前の機関だが、実態は謎で、クレムリンの裏工作に従事している)の関係者だ。プーチンをぼろくそに非難するのは、一部の知識人とジャーナリストだけである。こういう人たちは、基本的に西欧派的な世界観を持った人だ。
28. 2022年3月14日 19:46:53 : 0NCqg4oANc : dFdqV25vaHdZckU=[3]
「クソ野郎」と公然と言い放つプーチン大統領にジャーナリストが“やらせ疑惑”の強烈な質問をぶつけると…
#2
佐藤 優 文藝春秋 2014年4月号
https://bunshun.jp/articles/-/52541
「クソ野郎」と公然と言い放つ大統領。その力の源泉とは。作家の佐藤優氏による「最強の独裁者プーチンの凄腕」(「文藝春秋」2014年4月号)を特別に再録します。(全2回の2回目/前編から続く)
(※日付、肩書きなどは掲載当時のまま)
◆ ◆ ◆
独裁者との対話
世論調査の結果でも、2013年11月の大統領支持率は61パーセントに過ぎない(2013年12月3日ロイター)。プーチンを熱烈に支持する発言をするのは、クレムリン、政府、議会与党、社会院(社会の代表者から構成されているという建前の機関だが、実態は謎で、クレムリンの裏工作に従事している)の関係者だ。プーチンをぼろくそに非難するのは、一部の知識人とジャーナリストだけである。こういう人たちは、基本的に西欧派的な世界観を持った人だ。
ソチ五輪でのプーチン大統領 ©JMPA
ソチ五輪でのプーチン大統領 ©JMPA
この記事の画像(8枚)
その1人に著名なジャーナリストのマーシャ・ゲッセンがいる。彼女はユダヤ系で、1967年にモスクワで生まれ、81年に米国に移住した。ソ連崩壊直後の91年末にロシアに戻り、米国とロシアの二重国籍を持つジャーナリストとして活躍した。プーチン政権に対する批判を強め、2013年5月に拠点を米国に移してジャーナリスト活動をしている。
2012年9月にゲッセンは、クレムリンでプーチンと面会している。その記述を読むと、プーチンの独裁者としての実態が浮き彫りになる。当時、ゲッセンは『世界を巡る』という科学雑誌の編集部に勤務していた。ペスコフ大統領報道官から、西シベリアのツルを野生に戻すときに、プーチンがハンググライダーで一緒に飛行するので、それを取材して欲しいという要請があった。プーチンのイメージアップを狙った「やらせ記事」なので、ゲッセンは断った。するとプーチンから直接、アプローチがあった。
プーチンから打ち合わせの電話が
〈翌日(9月2日)の早朝、私は面談取材の仕事でプラハに飛んだ。私はタクシーの中で疲れて、車酔いした。私の電話が鳴ったとき、どこにいるのかわからなくなった。男性の声が電話を切らないように求めた。2分間、私は沈黙を聞かされ、いらついた。「電話を切らないで。私がつなぐから」と先ほどの声とは違う男性の声が耳に入った。私は爆発した。「私は誰かに電話をつなぐように頼んだ覚えはないわ! どうして私が待たねばいけないの? 私に電話したいと言っている人は誰なの? あなたは自己紹介したいの?」。
「プーチンだ。ウラジミール・ウラジミーロヴィッチだ」と電話の向こう側から大統領の声がした。「君がクビになったというのを聞いたよ」と彼は続けた。私はこれが悪ふざけであるかもしれないという実感を、彼が何やら言っている間に、大急ぎで彼に何らかのメッセージを組み立てて話そうとした。「はからずも君がクビになったことについて私はあずかり知らなかった。ところで、私の自然保護活動の取り組みは、政治と分離しがたいものであることを知っておくべきだ。私の立場になれば、自然保護と政治を分離することは困難なのだ」。
この独特の言い回しは、大統領職で威圧しながら、同情を求めるプーチンのお家芸として長らく結びつけられてきたものであった。
©JMPA
©JMPA
「もし異論がなければ、私は我々が会ってこの問題について話し合うことを提案する」と言った。
「異論はありません。しかし、これが悪ふざけでないと私はどうしたらわかるのでしょうか?」
プーチンは打ち合わせを手配する電話を私が受けることを約束させ、そうすれば自分が打ち合わせに現れると約束した。〉(マーシャ・ゲッセン[松宮克昌訳]『そいつを黙らせろ―プーチンの極秘指令』柏書房、2013年)
ゲッセンがプーチンと面談したときの描写が興味深い。プーチンが、非公式の打ち合わせのときにどのような立ち居振る舞いをするかということについての証言は意外と少ない。その意味で、この記述は貴重な資料的価値がある。
「迫害されたジャーナリストの立場が君のキャリアに役立つことになるのかね?」
〈我々が中に入ったときプーチンは、デスクに座っていた。入り口で面会するものと思ったかもしれない訪問客に、そうではなく自分のデスクに近づくよう強いる典型的なロシアの権力者の官僚的な仕草を示すものだった。この執務室は1990年代のクレムリンの時代からあまり変わらない、1960年代の光沢のある木製の家具、大きなデスクに会議テーブルといったソビエト時代のクレムリンにこぎれいに手を加えた感じだった。デスクとテーブルの両方に、ソビエト時代のボタンのないプラスチック電話が置かれていた。完全にクレムリンの定型どおりに、プーチンが我々に挨拶をするために立ち上がる前、我々は部屋の中央に行って待機した。彼は握手をし、会議テーブルに我々を案内した。彼がテーブル先端の中央席に着いてから、ヴァシリエフと私は彼の両脇に座った。ヴァシリエフは顔を赤くして汗ばんでいた。プーチンはちょっと眺めただけではわかりにくいが、かなりの整形手術を施したせいか不相応に大きく見えた。
「会議を始める前に、この会話が意味あるものかどうかを確かめたい。君は自分の仕事が好きかね? もしくは君はたぶん他の計画を持っていて、迫害されたジャーナリストの立場が君のキャリアに役立つことになるのかね?」と彼は言った。
彼は明らかに簡潔な情報さえ事前に与えられていなかった。彼は私が何者であるのかわかっていなかった。彼は本について知らなかったか、デモ運動における私の役割、ロシアの出版界で私が書いてきた彼や彼の行政に関する多くの記事について知らなかった。また彼はこの会議について事前に何らかの情報を求めなかったように思える。さらなる証しは、独裁者ならではの孤立感や自分中心に世界が回っているような自己中心性が目につくようになっていた。〉(前掲書)
「大統領はよいニュースだけを知りたがる」
プーチンは、ゲッセンが彼を独裁者だと激しく非難し、不正蓄財やジャーナリスト暗殺疑惑について書いていることを知らないのである。
ちなみにエリツィンは、新聞を読まず、テレビを見なかった。自分を非難する不愉快な情報を知りたくなかったからだ。ニュースについては、報道担当大統領補佐官がA4判3〜4枚にまとめたサマリーを毎朝、渡していた。筆者がこの補佐官から直接聞いた話だが、「大統領はよいニュースだけを知りたがる。悪い話については、それへの対策を記しておかないと機嫌が悪くなるので、この作業には神経を使う」ということだった。プーチンもエリツィンと同じような状態になっているのであろう。
プーチンは、環境保護に強い関心を持っている。ゲッセンの著書から引用を続ける。
ゲッセンからプーチンに強烈な質問
〈「結構だ。それでは我々は話し合える。私は子猫や子犬、小さな動物が好きだ」と彼は微笑んだ。彼は絶滅危惧種のための彼の公共的努力が重大な問題に対する注意を惹くことに役立ったと感じ、「だから、私はシベリア鶴のプロジェクトを考え出したのだ」と言った。
これは私にとってニュースだった。シベリア鶴の個体数を回復するプロジェクトは、1970年代後期に遡る。私は彼にこの考えの提唱者が自分であると主張することによって、彼が何を狙っていたのかを明らかにするよう彼に求めた。プーチンは数年前にこの計画について聞き、この計画に運転資金がないことを知り、この計画に再び支援資金をつけるのが彼の考えだった。〉(前掲書)
このあと、ゲッセンはプーチンに強烈な質問を浴びせる。それまでプーチンが自然保護プロジェクトにおいてやらせを行ってきたことを、直接、ぶつけたのだ。
©JMPA
©JMPA
「言うまでもなく、やり過ぎの事実があったな」
〈「(略)大統領がシベリア虎に衛星送信機の首輪をつけたとき、その虎がハバロフスク動物園から実際に借りてきたものだったことを、おそらく大統領はお気づきのことと思います。大統領が北極グマに送信機をつけたときも、そのクマは事前に捕獲され、大統領が到着されるまで鎮静剤を打たれた状態にされていたのです」と私は言った。
プーチンは「言うまでもなく、やり過ぎの事実があったな」とむしろ陽気な調子で、私の指摘をさえぎり、「私はその仕事をさせるために人を連れて行ったのだ。とはいえ、私にはこの問題に注意を惹かせることがはるかに重要だったのだ! 確かに、雪ヒョウが鎮静剤を打たれていたな」と彼は言った(私は雪ヒョウについては言及しなかったのだが)。「しかし大事なことは、雪ヒョウ・プロジェクト全体を考え出したのは私だったということだ。虎もだ。私がそれを考え出したあとに、虎が生息する20カ国がこの問題に取り組み始めた。言うまでもなく、行き過ぎもあったことは確かだな」と彼は繰り返した。〉(前掲書)
このように、プーチンの方から、自分に不利な事実を語る。これは独裁者の心性を考える上で非常に興味深い。そしてさらに言葉を重ねる。
「私が脳なしのクソ野郎のように…」
〈「あのときのように、私が古代ローマの両手付きブドウ酒の壺を潜水して持ってきたようにね」。
私はプーチンが、古代ローマの両手付きのブドウ酒の壺を2つ抱えて黒海の海底から現れ、カメラに向かってポーズを取った1年前のあのことのあとに、すぐに判明してしまったような、彼が海底で見つけるように用意されていた両手付きのブドウ酒の壺を発見するやらせの類似例を引き合いに出すことなど信じられなかった。
「誰もが両手付きのブドウ酒の壺が用意されていたことを書き始めた。もちろん、それらはこっそりと持ち込まれていたものだよ! 私が海に潜ったのは自分の力を大きく見せつけるためでなかった。そのようなことは、海の中の一部の生物がライバルを威嚇するために自分を大きく見せることと同じさ。あの場所の歴史に注意を惹かせようとして潜ったのだ。あれから誰も彼も、私が脳なしのクソ野郎のように両手付きブドウ酒の壺を持って海中から現れたと書き始めた。ところが一部の人は、実際に歴史の本を読み始めたのだ」
©JMPA
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彼が使用した「ムーダク」(引用者注・正しくは「ムダーク」)という言葉は、ロシア人が完全に不適任と見なした人間をけなすときに表現する言葉の一つである。相手を威圧するために自分を大きく見せるようなプーチン流の口の悪い野卑な話し方は、かつて自分がKGB要員のリクルーターのつもりでいた人間としてはひどい失言だった。彼の話し方は、私そして会見にとって穏当なものではなかった。〉(前掲書)
限りなくマフィアの親分に近い雰囲気
ここで、ゲッセンが衝撃を受けた「мудак(ムダーク)」という言葉は、「キンタマ野郎」「クソ野郎」とかいう罵倒語で、高等教育を受けた人間が公の場で使うことはない。ゲッセンが伝えるプーチンの雰囲気は、限りなくマフィアの親分に近い。
◆ ◆ ◆
筆者は、根っからの功利主義者だ。独裁者プーチンが、情報から遮断された環境にいることは、北方領土交渉にとってプラスになる可能性があると考える。
2月8日、ロシアのソチで行われた日露首脳会談は成功だった。プーチン大統領の安倍晋三首相に対する信頼感が一層高まった。その理由の一つがソチに向けて飛び立つ直前、7日、東京の北方領土返還要求全国大会の挨拶で、安倍首相が「明日、プーチン大統領と、5回目の首脳会談に臨みます。私は、日露関係全体の発展を図りつつ、日露間に残された最大の懸案である北方領土問題を最終的に解決し、ロシアとの間で平和条約を締結すべく、交渉に粘り強く取り組んでまいる決意であります」と述べたことだ。安倍首相が「四島」に言及しなかったことをクレムリンは、日本の新たなシグナルと受け止めている。
安倍晋三氏とプーチン大統領 ©JMPA
安倍晋三氏とプーチン大統領 ©JMPA
今回の首脳会談で筆者が最も注目するのは、谷内正太郎内閣官房国家安全保障局長を安倍首相がプーチン大統領に紹介したことだ。安倍首相が、「谷内さんはお酒を飲めない」と冗談半分に紹介すると、プーチンは「酒を飲めないでいったいどういう交渉をするのか。私の方で何とかしよう」と答えた。
この発言は、谷内氏が、安倍首相の「個人代表」として、今後、プーチンとの連絡係になることを強く示唆する内容だ。プーチンが「私の方で何とかしよう」と述べたことは、今後、首相の個人代表として谷内氏を受け入れるという意味だ。
谷内氏を通じて、北方領土問題解決に関する試案をプーチンに提示してみると面白い。プーチンの腹にストンと落ちると、それが大統領案になる。北方領土交渉に慎重な態度を崩していないロシアの外務官僚も、独裁者の意向に反することはできない。独裁者プーチンの心理に谷内氏が巧みに付け込むことに成功すれば、北方領土交渉の突破口が開けるかもしれない。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/809.html#c28
193. 中川隆[-13515] koaQ7Jey 2022年3月14日 19:48:53 : 0NCqg4oANc : dFdqV25vaHdZckU=[4]
「モスクワ川に浮くぞ」と警告が…佐藤優が見たロシア大衆の感覚「プーチンの恐さがなければ大統領はつとまらない」
#1
https://bunshun.jp/articles/-/52540
「クソ野郎」と公然と言い放つ大統領。その力の源泉とは。作家の佐藤優氏による「最強の独裁者プーチンの凄腕」(「文藝春秋」2014年4月号)を特別に再録します。
(※日付、肩書きなどは掲載当時のまま)
◆ ◆ ◆
選挙で「うんと悪い候補者」を排除
筆者の政治感覚は、標準的な日本人と比較するとすこしずれているような気がする。選挙とは、われわれの代表者を政治の場に送り出すことと頭ではわかっているのだが、どうも皮膚感覚がついていかない。
われわれの日常生活とは次元の異なるところから候補者が降ってくる。「悪い候補者」と「うんと悪い候補者」と「とんでもない候補者」だ。その中から「悪い候補者」に一票を投じ、「うんと悪い候補者」と「とんでもない候補者」を排除するのが選挙であるというのが、筆者の率直な認識だ。これはロシア人の標準的な選挙観だ。
筆者は1987年8月から1995年3月までモスクワの日本大使館に外交官として勤務した(正確に言うと最初の1988年5月まではモスクワ国立大学で研修)。
その間に1991年12月のソ連崩壊があった。まず、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長が進めたペレストロイカ(立て直し)に対する期待感と幻滅を目の当たりにした。中途半端な経済自由化によって、指令型計画経済のネットワークが崩れ、石けんや砂糖さえ満足に手に入らなくなった。
また、アゼルバイジャンとアルメニアの民族紛争、沿バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)のソ連からの分離独立運動の現場を見た。ナショナリズムの力が、創造性、破壊性の両面において、桁違いに大きいことを実感した。
「モスクワ川に浮くぞ」と警告
ソ連崩壊後のロシアで、もはや秘密警察を恐れることはなく、自由に政治活動、経済活動ができるというユーフォリア(陶酔感)を一時期、筆者もロシア人と共有した。しかし、その陶酔感は、ソ連崩壊から1年も続かなかった。「ショック療法」と呼ばれる新自由主義的な経済改革が行われ、1992年のインフレ率は2500パーセントに達した。
ソ連時代の国有財産のぶんどり合戦が始まり、経済抗争はある閾値を超えるとカラシニコフ自動小銃で処理されることを知った。筆者が親しくしていた銀行会長とスポーツ観光国家委員会の次官が、カラシニコフで蜂の巣にされて生涯を終えた。
利権抗争ではないが、北方領土関係でクレムリン(大統領府)と議会に対してロビー活動を行っていたら「モスクワ川に浮くぞ」と警告されたことが複数回ある。秘密警察関係者からの政治絡みの警告だったこともあるが、北方四島周辺の密漁で外貨を稼いでいるマフィア関係者と手を握った官僚からの警告だったこともある。後者の方が恐かった。
日本に戻ってきたのは、1995年4月だが、その後もロシア各地に頻繁に出張した。特に1997年11月に西シベリアのクラスノヤルスクで橋本龍太郎首相とエリツィン大統領が会談し、北方領土交渉が動き始めてからは、3、4週間に1回はモスクワに出張した。
そのような状態が2001年4月に小泉純一郎政権が成立し、田中真紀子氏が外相に就任するまで続いた。それだから当時のロシアの雰囲気が脳裏に焼き付いている。
プーチン独裁を正当化する“伏線”
現在のロシアでは「混乱の90年代」という表現がなされることがある。エリツィン時代は、過度な民主化、自由化のために社会が混乱し、国民にとって不幸だったという意味である。ロシアの義務教育9年生(日本の中学3年生に相当)でもっとも広く用いられている「プロスヴェシチェーニエ(啓蒙)」出版社の歴史教科書において、エリツィン時代は次のように総括されている。
〈1990年代には、ロシア連邦を再建し、その統一性を保持し、国の連邦体制の新たな原則を定着させることに成功した。中央と地方の関係は、より対等になった。この関係は、多民族国家の現代的な発展傾向を考慮したのであった。これが連邦建設の主な結果であった。
対立をすべて抑え、問題をすべて解決することはできなかった。地方との関係で連邦中央政権の役割は弱体化した。その一方で、民族問題がますます大きな意義をもった。ロシア人の民族運動が活発化し、その指導者は、ロシア人の諸問題に政権の関心が払われないことに不満を示した。
ロシアの領土保全は、依然としてもっとも喫緊の課題のひとつであった。ロシアは、ソ連がたどった崩壊への道を繰り返しているように思われた。中央の経済的・政治的意義の低下は、地域間の結束を弱め、連邦権力の参加なしでもすべての問題が解決できるという印象を与えた。チェチェン共和国での失敗は、国の他地域の分離主義者を奮い立たせ、民族政策を変更する必要性が生じた。〉(アレクサンドル・ダニロフ/リュドミラ・コスリナ/ミハイル・ブラント[寒河江光徳他訳]『世界の教科書シリーズ32 ロシアの歴史【下】 19世紀後半から現代まで―ロシア中学・高校教科書』明石書店、2011年)
エリツィン時代に「ロシアは、ソ連がたどった崩壊への道を繰り返しているように思われた」という評価は辛辣だ。現在のロシア政府は、あのままエリツィン路線が続いていたら、ロシア国家が崩壊していたという認識を義務教育で、生徒に叩き込んでいるのだ。これは、プーチンによる独裁に限りなく近い権威主義的体制を正当化する伏線でもある。
KGB出身で「しかるべき秩序」をもたらした
プーチン政権の誕生について、この教科書の記述を見てみよう。
〈ロシアの第2代大統領となったウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンは、1952年10月7日に生まれた。レニングラード国立大学法学部を卒業したのち、1975〜1991年まで国家保安機関に勤務した。1991〜1996年までサンクトペテルブルク副市長を務め、その後、ロシア大統領府へ転属し、短期間のうちに大統領府副長官に上り詰めた。
1998年にプーチンは連邦保安局(FSB)長官に任命され、1999年の夏にはロシア連邦首相に就任した。
2000年3月26日の大統領選挙で、V・V・プーチンは、第1回投票で勝利を獲得し、ロシアの第2代大統領に選出され、同年5月7日に大統領に就任した。(略)
V・V・プーチン大統領は、ロシアにおけるあらゆる進歩的改革を保障する強力な国家権力の推進者であることを鮮明にした。したがって、新大統領の最初の方針は、社会活動における国家の権威と役割を強固にし、しかるべき秩序をもたらすことに向けられた。
こうして、1990年代に行われた民主主義路線はこれまで通り継承された。〉(前掲書)
プーチンが、KGB(ソ連国家保安委員会)出身で、「社会活動における国家の権威と役割を強固にし、しかるべき秩序」をもたらしたことを強調している。
国内に統一した法治社会を復活
具体的には、中央集権の強化である。プーチンは、ロシアを構成していた諸連邦を、7つの管区に集約し、各管区に大統領全権代表を置いた。
〈(それまで各連邦で)採択された3500以上の法令は、ロシア憲法や連邦法に合致していなかったため、そのうちの5分の4が改正された。
こうした措置は、地方における中央権力の役割を強化させ、連邦を強固にし、ロシア国内に統一した法治社会を復活させることになった。〉(前掲書)
さらには連邦会議(上院)も、それまでは各連邦の知事と議会議長から構成されていたのが、立法機関からの選出と、プーチンが指名した行政の長により任命された地方の代表者で構成されるようになった。さらには、
〈ロシアの多党制も改善されつつあった。政党法は、国民の大多数の支持を得ている組織のみを政党と認めた。結果として、国家活動における政党の意義が高まった。〉(前掲書)
地方の自治権を取り上げて、中央集権制を強化することをプーチンは「法の独裁」と名づけた。教科書では、プーチンが好んで用いた「法の独裁」という言葉を記録していない。スターリン時代に「プロレタリアート独裁」の名の下で、大規模な人権弾圧が行われたことを髣髴させるからであろう。
地方が採択した法令の8割が変更されるというのは、統治のゲームのルールの大きな変化だ。知事選挙も廃止し、中央政府による任命制になった。さらに検察、警察、FSBなどの「力の省庁」を用いた統治メカニズムが導入された。
さらに、プーチンは国家統合を強化するためのシンボル操作を行った。
〈ロシアの国家シンボルの問題をめぐる無益な争いは、約10年にわたって続いていた。プーチン大統領は、様々な社会階層の立場を近づける妥協案を提示した。2000年12月に国家会議(下院)は、ロシアの国家シンボルに関する法律を採択した。白・青・赤の3色旗と双頭の鷲の紋章は、ロシア1000年の歴史を想起させるものである。大祖国戦争におけるわが国民の勝利の赤旗は軍旗となった。ソ連国歌のメロディーにのせられたロシア国歌は、世代の統一と、わが国の過去と現在、未来の不可分な結びつきを象徴している。(略)
V・V・プーチン新大統領の活動は、社会の賛同を得た。大統領の最初の任期終了までに、ロシア国民の約80%がプーチン大統領を支持した。〉(前掲書)
「教育とは暗記なり」が常識
この教科書には、課題がついている。例えばこんな内容だ。
〈社会的・政治的安定の達成は、過去2年間のもっとも重要な成功のひとつと認識されています。なぜ現代ロシア社会がそれほど強く安定を求めているのか、クラスで議論しましょう。安定は何によってもたらされますか。何のために安定が必要なのか、改革の成功のためなのか、あるいは改革から徐々に脱却するためなのか、考えましょう。大統領と政府は、この問題に対してどのような立場をとっていますか。本文中やマスメディアの資料を用いましょう。〉(前掲書)
ロシア人は、6、7歳の子どもでも、本音と建て前の区別がつくようになっている。
「何のために安定が必要なのか、改革の成功のためなのか、あるいは改革から徐々に脱却するためなのか、考えましょう。」という設問に対して、「改革から徐々に脱却するためです」という間抜けた答えをする生徒は1人もいない。
そもそも義務教育段階では、「教育とは暗記なり」というのが、ロシア人の常識だ。教師が提示する模範解答を丸暗記するのが、常識である。
「真の改革のためには、秩序と安定が必要だ。プーチン大統領と政府は、ロシアの国家体制(госудáрственность、ゴスダルストベンノスチ)を強化するために全力を尽くしている。この路線を国民も支持している」というのが模範解答である。
現実問題として、ロシア人は、プーチン政権の現状を消極的にではあるが、支持している。ロシア人にとって、そもそも政治は悪である。政治における最大の悪は、スターリンのような、政治、経済、文化だけでなく、人間の魂も支配しようとする独裁者が現れることだ。
また、政治指導者が弱く、国内が混乱することも、ロシア人の考える巨悪である。そう考えると、ゴルバチョフのペレストロイカやエリツィンの改革も巨悪なのである。
現在のロシアには、そこそこの言論、表現の自由がある。経済活動も、プーチンの設定したゲームのルール、すなわち「経済人は政治に嘴を差し挟まず、金儲けに専心し、税金をきちんと納める」という原則さえ守れば、自由にできる。
そもそも良い人は政治家にならない。プーチンは悪い政治家である。しかし、うんと悪い政治家、とんでもない政治家ではない。まあ、この程度の独裁者ならば許容できるというのが、ロシア大衆の平均的感覚なのだ。
「プーチンのような恐さがなければ…」
普通のロシア人とプーチンについて議論すると、
「昔のような熱い支持はないよ。もう飽きた。しかし、プーチンの代わりに大統領を務めることが出来る人もいない。メドベージェフの小僧が大統領をやったが、力量不足だ。あいつは、ツイッターで軽々に発信する。それに英語でちゃらちゃら話をするあたりが軽い。プーチンのような恐さがなければ、ロシアで大統領はつとまらない」
という返事が返ってくる。
世論調査の結果でも、2013年11月の大統領支持率は61パーセントに過ぎない(2013年12月3日ロイター)。プーチンを熱烈に支持する発言をするのは、クレムリン、政府、議会与党、社会院(社会の代表者から構成されているという建前の機関だが、実態は謎で、クレムリンの裏工作に従事している)の関係者だ。プーチンをぼろくそに非難するのは、一部の知識人とジャーナリストだけである。こういう人たちは、基本的に西欧派的な世界観を持った人だ。
▲△▽▼
「クソ野郎」と公然と言い放つプーチン大統領にジャーナリストが“やらせ疑惑”の強烈な質問をぶつけると…
#2
佐藤 優 文藝春秋 2014年4月号
https://bunshun.jp/articles/-/52541
「クソ野郎」と公然と言い放つ大統領。その力の源泉とは。作家の佐藤優氏による「最強の独裁者プーチンの凄腕」(「文藝春秋」2014年4月号)を特別に再録します。(全2回の2回目/前編から続く)
(※日付、肩書きなどは掲載当時のまま)
◆ ◆ ◆
独裁者との対話
世論調査の結果でも、2013年11月の大統領支持率は61パーセントに過ぎない(2013年12月3日ロイター)。プーチンを熱烈に支持する発言をするのは、クレムリン、政府、議会与党、社会院(社会の代表者から構成されているという建前の機関だが、実態は謎で、クレムリンの裏工作に従事している)の関係者だ。プーチンをぼろくそに非難するのは、一部の知識人とジャーナリストだけである。こういう人たちは、基本的に西欧派的な世界観を持った人だ。
その1人に著名なジャーナリストのマーシャ・ゲッセンがいる。彼女はユダヤ系で、1967年にモスクワで生まれ、81年に米国に移住した。ソ連崩壊直後の91年末にロシアに戻り、米国とロシアの二重国籍を持つジャーナリストとして活躍した。プーチン政権に対する批判を強め、2013年5月に拠点を米国に移してジャーナリスト活動をしている。
2012年9月にゲッセンは、クレムリンでプーチンと面会している。その記述を読むと、プーチンの独裁者としての実態が浮き彫りになる。当時、ゲッセンは『世界を巡る』という科学雑誌の編集部に勤務していた。ペスコフ大統領報道官から、西シベリアのツルを野生に戻すときに、プーチンがハンググライダーで一緒に飛行するので、それを取材して欲しいという要請があった。プーチンのイメージアップを狙った「やらせ記事」なので、ゲッセンは断った。するとプーチンから直接、アプローチがあった。
プーチンから打ち合わせの電話が
〈翌日(9月2日)の早朝、私は面談取材の仕事でプラハに飛んだ。私はタクシーの中で疲れて、車酔いした。私の電話が鳴ったとき、どこにいるのかわからなくなった。男性の声が電話を切らないように求めた。2分間、私は沈黙を聞かされ、いらついた。「電話を切らないで。私がつなぐから」と先ほどの声とは違う男性の声が耳に入った。私は爆発した。「私は誰かに電話をつなぐように頼んだ覚えはないわ! どうして私が待たねばいけないの? 私に電話したいと言っている人は誰なの? あなたは自己紹介したいの?」。
「プーチンだ。ウラジミール・ウラジミーロヴィッチだ」と電話の向こう側から大統領の声がした。「君がクビになったというのを聞いたよ」と彼は続けた。私はこれが悪ふざけであるかもしれないという実感を、彼が何やら言っている間に、大急ぎで彼に何らかのメッセージを組み立てて話そうとした。「はからずも君がクビになったことについて私はあずかり知らなかった。ところで、私の自然保護活動の取り組みは、政治と分離しがたいものであることを知っておくべきだ。私の立場になれば、自然保護と政治を分離することは困難なのだ」。
この独特の言い回しは、大統領職で威圧しながら、同情を求めるプーチンのお家芸として長らく結びつけられてきたものであった。
「もし異論がなければ、私は我々が会ってこの問題について話し合うことを提案する」と言った。
「異論はありません。しかし、これが悪ふざけでないと私はどうしたらわかるのでしょうか?」
プーチンは打ち合わせを手配する電話を私が受けることを約束させ、そうすれば自分が打ち合わせに現れると約束した。〉(マーシャ・ゲッセン[松宮克昌訳]『そいつを黙らせろ―プーチンの極秘指令』柏書房、2013年)
ゲッセンがプーチンと面談したときの描写が興味深い。プーチンが、非公式の打ち合わせのときにどのような立ち居振る舞いをするかということについての証言は意外と少ない。その意味で、この記述は貴重な資料的価値がある。
「迫害されたジャーナリストの立場が君のキャリアに役立つことになるのかね?」
〈我々が中に入ったときプーチンは、デスクに座っていた。入り口で面会するものと思ったかもしれない訪問客に、そうではなく自分のデスクに近づくよう強いる典型的なロシアの権力者の官僚的な仕草を示すものだった。この執務室は1990年代のクレムリンの時代からあまり変わらない、1960年代の光沢のある木製の家具、大きなデスクに会議テーブルといったソビエト時代のクレムリンにこぎれいに手を加えた感じだった。デスクとテーブルの両方に、ソビエト時代のボタンのないプラスチック電話が置かれていた。完全にクレムリンの定型どおりに、プーチンが我々に挨拶をするために立ち上がる前、我々は部屋の中央に行って待機した。彼は握手をし、会議テーブルに我々を案内した。彼がテーブル先端の中央席に着いてから、ヴァシリエフと私は彼の両脇に座った。ヴァシリエフは顔を赤くして汗ばんでいた。プーチンはちょっと眺めただけではわかりにくいが、かなりの整形手術を施したせいか不相応に大きく見えた。
「会議を始める前に、この会話が意味あるものかどうかを確かめたい。君は自分の仕事が好きかね? もしくは君はたぶん他の計画を持っていて、迫害されたジャーナリストの立場が君のキャリアに役立つことになるのかね?」と彼は言った。
彼は明らかに簡潔な情報さえ事前に与えられていなかった。彼は私が何者であるのかわかっていなかった。彼は本について知らなかったか、デモ運動における私の役割、ロシアの出版界で私が書いてきた彼や彼の行政に関する多くの記事について知らなかった。また彼はこの会議について事前に何らかの情報を求めなかったように思える。さらなる証しは、独裁者ならではの孤立感や自分中心に世界が回っているような自己中心性が目につくようになっていた。〉(前掲書)
「大統領はよいニュースだけを知りたがる」
プーチンは、ゲッセンが彼を独裁者だと激しく非難し、不正蓄財やジャーナリスト暗殺疑惑について書いていることを知らないのである。
ちなみにエリツィンは、新聞を読まず、テレビを見なかった。自分を非難する不愉快な情報を知りたくなかったからだ。ニュースについては、報道担当大統領補佐官がA4判3〜4枚にまとめたサマリーを毎朝、渡していた。筆者がこの補佐官から直接聞いた話だが、「大統領はよいニュースだけを知りたがる。悪い話については、それへの対策を記しておかないと機嫌が悪くなるので、この作業には神経を使う」ということだった。プーチンもエリツィンと同じような状態になっているのであろう。
プーチンは、環境保護に強い関心を持っている。ゲッセンの著書から引用を続ける。
ゲッセンからプーチンに強烈な質問
〈「結構だ。それでは我々は話し合える。私は子猫や子犬、小さな動物が好きだ」と彼は微笑んだ。彼は絶滅危惧種のための彼の公共的努力が重大な問題に対する注意を惹くことに役立ったと感じ、「だから、私はシベリア鶴のプロジェクトを考え出したのだ」と言った。
これは私にとってニュースだった。シベリア鶴の個体数を回復するプロジェクトは、1970年代後期に遡る。私は彼にこの考えの提唱者が自分であると主張することによって、彼が何を狙っていたのかを明らかにするよう彼に求めた。プーチンは数年前にこの計画について聞き、この計画に運転資金がないことを知り、この計画に再び支援資金をつけるのが彼の考えだった。〉(前掲書)
このあと、ゲッセンはプーチンに強烈な質問を浴びせる。それまでプーチンが自然保護プロジェクトにおいてやらせを行ってきたことを、直接、ぶつけたのだ。
「言うまでもなく、やり過ぎの事実があったな」
〈「(略)大統領がシベリア虎に衛星送信機の首輪をつけたとき、その虎がハバロフスク動物園から実際に借りてきたものだったことを、おそらく大統領はお気づきのことと思います。大統領が北極グマに送信機をつけたときも、そのクマは事前に捕獲され、大統領が到着されるまで鎮静剤を打たれた状態にされていたのです」と私は言った。
プーチンは「言うまでもなく、やり過ぎの事実があったな」とむしろ陽気な調子で、私の指摘をさえぎり、「私はその仕事をさせるために人を連れて行ったのだ。とはいえ、私にはこの問題に注意を惹かせることがはるかに重要だったのだ! 確かに、雪ヒョウが鎮静剤を打たれていたな」と彼は言った(私は雪ヒョウについては言及しなかったのだが)。「しかし大事なことは、雪ヒョウ・プロジェクト全体を考え出したのは私だったということだ。虎もだ。私がそれを考え出したあとに、虎が生息する20カ国がこの問題に取り組み始めた。言うまでもなく、行き過ぎもあったことは確かだな」と彼は繰り返した。〉(前掲書)
このように、プーチンの方から、自分に不利な事実を語る。これは独裁者の心性を考える上で非常に興味深い。そしてさらに言葉を重ねる。
「私が脳なしのクソ野郎のように…」
〈「あのときのように、私が古代ローマの両手付きブドウ酒の壺を潜水して持ってきたようにね」。
私はプーチンが、古代ローマの両手付きのブドウ酒の壺を2つ抱えて黒海の海底から現れ、カメラに向かってポーズを取った1年前のあのことのあとに、すぐに判明してしまったような、彼が海底で見つけるように用意されていた両手付きのブドウ酒の壺を発見するやらせの類似例を引き合いに出すことなど信じられなかった。
「誰もが両手付きのブドウ酒の壺が用意されていたことを書き始めた。もちろん、それらはこっそりと持ち込まれていたものだよ! 私が海に潜ったのは自分の力を大きく見せつけるためでなかった。そのようなことは、海の中の一部の生物がライバルを威嚇するために自分を大きく見せることと同じさ。あの場所の歴史に注意を惹かせようとして潜ったのだ。あれから誰も彼も、私が脳なしのクソ野郎のように両手付きブドウ酒の壺を持って海中から現れたと書き始めた。ところが一部の人は、実際に歴史の本を読み始めたのだ」
彼が使用した「ムーダク」(引用者注・正しくは「ムダーク」)という言葉は、ロシア人が完全に不適任と見なした人間をけなすときに表現する言葉の一つである。相手を威圧するために自分を大きく見せるようなプーチン流の口の悪い野卑な話し方は、かつて自分がKGB要員のリクルーターのつもりでいた人間としてはひどい失言だった。彼の話し方は、私そして会見にとって穏当なものではなかった。〉(前掲書)
限りなくマフィアの親分に近い雰囲気
ここで、ゲッセンが衝撃を受けた「мудак(ムダーク)」という言葉は、「キンタマ野郎」「クソ野郎」とかいう罵倒語で、高等教育を受けた人間が公の場で使うことはない。ゲッセンが伝えるプーチンの雰囲気は、限りなくマフィアの親分に近い。
◆ ◆ ◆
筆者は、根っからの功利主義者だ。独裁者プーチンが、情報から遮断された環境にいることは、北方領土交渉にとってプラスになる可能性があると考える。
2月8日、ロシアのソチで行われた日露首脳会談は成功だった。プーチン大統領の安倍晋三首相に対する信頼感が一層高まった。その理由の一つがソチに向けて飛び立つ直前、7日、東京の北方領土返還要求全国大会の挨拶で、安倍首相が「明日、プーチン大統領と、5回目の首脳会談に臨みます。私は、日露関係全体の発展を図りつつ、日露間に残された最大の懸案である北方領土問題を最終的に解決し、ロシアとの間で平和条約を締結すべく、交渉に粘り強く取り組んでまいる決意であります」と述べたことだ。安倍首相が「四島」に言及しなかったことをクレムリンは、日本の新たなシグナルと受け止めている。
今回の首脳会談で筆者が最も注目するのは、谷内正太郎内閣官房国家安全保障局長を安倍首相がプーチン大統領に紹介したことだ。安倍首相が、「谷内さんはお酒を飲めない」と冗談半分に紹介すると、プーチンは「酒を飲めないでいったいどういう交渉をするのか。私の方で何とかしよう」と答えた。
この発言は、谷内氏が、安倍首相の「個人代表」として、今後、プーチンとの連絡係になることを強く示唆する内容だ。プーチンが「私の方で何とかしよう」と述べたことは、今後、首相の個人代表として谷内氏を受け入れるという意味だ。
谷内氏を通じて、北方領土問題解決に関する試案をプーチンに提示してみると面白い。プーチンの腹にストンと落ちると、それが大統領案になる。北方領土交渉に慎重な態度を崩していないロシアの外務官僚も、独裁者の意向に反することはできない。独裁者プーチンの心理に谷内氏が巧みに付け込むことに成功すれば、北方領土交渉の突破口が開けるかもしれない。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/297.html#c193
405. 中川隆[-13514] koaQ7Jey 2022年3月14日 20:50:10 : 0NCqg4oANc : dFdqV25vaHdZckU=[5]
【旭川事件】㊼ 時効!刑事の時効・民事の時効 3年? 5年? 解説します。【小川泰平の事件考察室】# 277
2022/03/14
本日は「時効」についての解説になります。
刑事の時効・民事の時効
3年なのか? 5年なのか?解説します。
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/591.html#c405
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