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大久保 徳二郎(おおくぼ とくじろう、1908年3月14日 - 1974年8月19日)は、日本の作曲家、編曲家、映画音楽家である。ジャズバンドのサックス奏者から転向、作詞家の島田磬也、歌手のディック・ミネとのチームで第二次世界大戦前のテイチクレコードのヒットメーカーだった。
来歴・人物
1908年(明治41年)3月14日、東京市本所区(現在の墨田区本所)に生まれる。ジャズのサックス奏者として上海に渡る。帰国後、テイチクレコードに入社、専属バンドで演奏する。このころ結婚し、1936年(昭和11年)、のちに衆議院議員となる大久保直彦が生まれた。
1938年(昭和13年)、日活多摩川撮影所が製作したトーキー映画『指輪のワルツ』(監督吉村廉)の劇伴を作曲をし、映画音楽家としてデビューする。
1939年(昭和14年)1月に古賀政男がテイチクを退社すると、ディック・ミネは作曲者に大久保を指名、島田磬也の作詞、杉原泰蔵の編曲により生まれた『或る雨の午後』で大久保は作曲家としてデビュー、大ヒットを飾った。
同年暮れ、日活京都撮影所が製作した異色のオペレッタ時代劇『鴛鴦歌合戦』(監督マキノ正博、主演片岡千恵蔵)にミネが出演することになり、島田の作詞およびオペレッタ構成とともに、大久保も作曲とオーケストラの指揮を執った。同作のミネの歌唱部分には一部『或る雨の午後』のメロディをフィーチャーする。同作は同年12月14日に公開された。ひきつづきマキノ監督の千恵蔵主演映画『弥次喜多 名君初上り』の劇伴を作曲、同作は翌1940年(昭和15年)1月13日に公開された。
1948年(昭和23年)、歌手の菊池章子と再婚するも、1956年(昭和31年)には離婚した。孫にcaminoのKIKUと、かつてBREATHのメンバーで作曲家の菊池一仁の兄弟がいる。
1974年(昭和49年)8月19日に死去。66歳没。戦前戦後を通じて80作近くの映画音楽に携わった。
ディスコグラフィ
ディック・ミネ『或る雨の午後』、作詞島田磬也、編曲杉原泰蔵、1939年 ※デビュー曲
ディック・ミネ『上海ブルース』、作詞北村雄三、1939年
ディック・ミネ、服部富子『鴛鴦歌合戦』、作詞島田磬也、1939年
ディック・ミネ、藤原千多歌『長崎エレジー』、作詞島田磬也、1947年
ディック・ミネ『夜霧のブルース』、作詞島田磬也、1947年
田端義夫『嘆きのピエロ』、作詞島田磬也、1947年
菊池章子『春の舞妓』、作詞萩原四朗、1954年
田端義夫、白鳥みづえ『親子舟唄』、作詞藤田まさと、1955年
フィルモグラフィ
指輪のワルツ 1938年 監督吉村廉 ※日活多摩川撮影所
鴛鴦歌合戦 1939年 監督マキノ正博、作詞島田磬也、主演片岡千恵蔵 ※日活京都撮影所
彌次喜多 名君初上り 1940年 監督マキノ正博
続清水港 1940年 監督マキノ正博
千日前附近 1945年 監督マキノ正博
粋な風来坊 1946年 監督マキノ正博
満月城の歌合戦 1946年 監督マキノ正博
地獄の顔 1947年 監督大曽根辰夫
三本指の男 1947年 監督松田定次
肉体の門 1948年 監督マキノ正博・小崎政房
盤嶽江戸へ行く 1949年 監督マキノ正博
殺陣師段平 1950年 監督マキノ正博
千石纏 1950年 監督マキノ正博
女賊と判官 1951年 監督マキノ雅弘・萩原遼
電光空手打ち 1956年 監督津田不二夫
流星空手打ち 1956年 監督津田不二夫
透明人間と蝿男 1957年 監督村山三男
北上川悲歌 1961年 監督曲谷守平 ※第一プロ製作、新東宝配給
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BE%B3%E4%BA%8C%E9%83%8E
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/737.html#c1