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[リバイバル3] ムツゴロウの黒い噂 と 伝説の御蔵入りインタビューなど 中川隆
39. 保守や右翼には馬鹿し[117] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年4月09日 07:30:18 : hhqHXyrHku : d1hFdkxDSjdwQms=[1]
【追悼】「今は犬1頭と猫1匹だけ…」借金3億を背負って「動物王国」を閉園したムツゴロウさん(86)が辿り着いた“北海道のログハウス生活”「今は自分が生きていくだけでやっとです」
ムツゴロウさんインタビュー♯1
「文春オンライン」特集班2023/04/06
https://bunshun.jp/articles/-/61939


「ムツゴロウさん」こと畑正憲さんが6日、87歳で亡くなった。北海道の自宅で倒れ、搬送先の病院で死去したという。

 1980年に放送が始まった「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」は大人気番組となり、多くの動物番組の“元祖”となった。ムツゴロウさんが最後まで暮らした中標津のログハウスでのロングインタビューを再公開する(初出 2021年11月11日、年齢、肩書き等は当時のまま)。

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 動物が登場する番組はテレビでもYouTubeでも鉄板の一大ジャンルだが、その元祖と言えば“ムツゴロウ”こと畑正憲さん(86)だろう。

ムツゴロウさんは現在、北海道の中標津で妻と馬の世話をするスタッフと3人で暮らしている ©️文藝春秋 撮影・鈴木七絵
ムツゴロウさんは現在、北海道の中標津で妻と馬の世話をするスタッフと3人で暮らしている ©️文藝春秋 撮影・鈴木七絵
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 ライオンの頭を無防備になで、ワニの口に笑顔で頭を入れる。ライオンに右手の中指を食べられてもまったく懲りる気配すらない。“動物愛”という枠を大きくはみ出した畑さんの生き方は日本中を魅了した。1980年に始まった「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」はあっという間に人気番組になり、平均視聴率は20%に迫った。

 しかしTVシリーズは2001年に終了し、2000年代後半には北海道の中標津から東京のあきる野市に移転した「ムツゴロウ動物王国」も閉園。3億円とも言われる巨大な借金を抱えたが、それもあふれるバイタリティで完済し、現在は40年前に移り住んだ北海道の中標津にある大自然に囲まれたログハウスで生活している。

 トレードマークの黒ブチ眼鏡にやさしい声の“ムツゴロウ”さんは、ゆっくり椅子に腰掛けると、煙草を一服しながら破天荒な人生について語り始めた。(全3回の1回目/#2、#3を読む)

現在は大型犬1頭と猫1匹と一緒に生活
ムツゴロウ よくこんなところまで来てくれましたね。東京からですか? 家族以外の方と話すのも久しぶりですよ。もう隠し事もありませんから、何でも聞いてください。年のせいか、すぐに忘れちゃうこともありますけどね(笑)。

――今日はお時間いただきありがとうございます。お元気そうで安心しました。

ムツゴロウ あ、僕はタバコをたくさん吸いますのでそれだけは勘弁してくださいね。フィンランドから運んだヨーロッパアカマツでこの家を作るときもね、タバコの煙が抜けるように作ったんですよ。

フィンランドから運んだヨーロッパアカマツで建てたログキャビンハウス
フィンランドから運んだヨーロッパアカマツで建てたログキャビンハウス
――素敵なログキャビンハウスですね。そして中標津も初めてきました。

ムツゴロウ もう引っ越してきて40年くらいになりますけど、広くて、川が流れていて、馬が喜んで草を食べるところがいいなと思って選びました。広さはわからんのですけど、100万坪くらいだと思います。それと来る時に、道に梨がいっぱい落ちていたでしょう? 森や川は動物の食べ物を作ってくれるんです。時々、この家にもエゾリスやモモンガが来て窓を叩きますよ。気がついたら食べ物をあげたりして、そんな付き合いをしています。

――今はどんな動物たちと生活しているんですか。

ムツゴロウ 一緒に家で暮らしているのは、大型犬のルナと猫のマヤだけです。今は年を取ってね、自分の手で飼えるだけ。1頭と1匹で精一杯です。あとはすぐ近くの(ムツ)牧場に数頭の馬がいますが、自分が生きていくだけでやっとです。


「僕は男5人兄弟の3番めで、一番上と一番下が戦争で死にました」
――ムツゴロウさんと動物の関係は一番最初はどうやって始まったんでしょう。

ムツゴロウ 僕は1935年に福岡で生まれたんですけど、戦争中に医者だった父に連れられて開拓団として満州に移りましてね、満州で住んでいた家は周りを見渡しても何もないところで、昼間はオオカミの遠吠えが聞こえるし、キジやハトがいくらでも獲れました。ナマズやフナを僕が釣って帰ると、おかずになるからって家族に喜ばれましたね。それが動物との最初の出会いでした。

ムツゴロウさんの家で一緒に暮らす猫のマヤ
ムツゴロウさんの家で一緒に暮らす猫のマヤ
――戦争の記憶と結びついているのですね。


ムツゴロウ 僕は男5人兄弟の3番めで、一番上と一番下が戦争で死にました。当時は日本の幼年学校に入らないと日本軍の大将になれないので、父親が兄を幼年学校に通わせるために、僕も一緒に小学校2年の終わりくらいに日本に送り返されました。帰ってきてから兄貴は必死で勉強してましたけど僕は野放しで、母の本ばかり読んでいました。バルザックとかプーシキンの小説が好きでしたね。漢字も大体覚えてしまって、新聞を読んでいる祖父に「正憲、これはなんて読むんだ」と呼ばれる役目でした。そうこうしているうちに戦争は終わっていましたね。

――野放しとは言いますが、大分県立日田高校から東京大学の理学部へ入られています。

ムツゴロウ 親は医者になれとうるさかったんだけど、僕は医者になる気はまったくなかったんですよ(笑)。当時は東大の理科2類から医学部に行くこともできたので、それで親を説得しました。でも大学では医者になる勉強はせず、アメーバの研究に没頭してました。自分の血を抜いて白血球を取り出してね。アメーバってあらゆる動物の命のもとなんですよ。

会社員時代は犬1頭さえ飼っていなかった
――大学卒業後は会社員生活を経て、36歳の時に「動物との共存」を求めて北海道へ移住されました。23歳で結婚されて、36歳の時には娘さんも生まれていたと思うんですが、その決断はどうやってしたのでしょう。

60年以上連れ添った妻・畑純子さんとムツゴロウさん
60年以上連れ添った妻・畑純子さんとムツゴロウさん
ムツゴロウ 女房と結婚したのは大学を出てすぐでしたね。女房とは中学2年生の時からの付き合いで、娘ができたので安定した仕事をしなければならないと思って、学研という出版社に就職しました。僕は誰もいない土地が好きで毎年夏になるたびに、家族旅行はスキー場へ1週間とか2週間とか行っていました。夏は誰もいませんからね(笑)。そのスキー場である出来事があって、移住を考えるようになりました。

――どういうことでしょう?

ムツゴロウ 一緒に山を歩いていた時に、3歳の娘が虫に刺されて泣いたことがありました。それを見て、僕は自然にかこまれたところで育ったけれど子供たちが自然からずいぶん離れていることに気づいてショックをウケたんです。東京での生活自体を変えないといけない、自然を身に浴びて生活しないと、心が育たない部分があるんじゃないかと思ったんです。会社員時代は生活にヒーヒー言っている状態、家には犬一頭さえ飼っていませんでした。


500匹以上の動物と40人のスタッフ
――36歳だった1971年に北海道の嶮暮帰島へ移住、次の1972年には浜中町に「ムツゴロウ動物王国」ができています。

ムツゴロウ 無人島で人間がいないところで生活しつつ、浜中町の土地を借りて道産馬などの日本古来の馬の繁殖をしようというのが当初の計画でした。それがいつのまにか犬や猫、牛や馬に鶏などの動物がどんどん増えていって、気づけば500匹以上の動物と、世話をする40人のスタッフという大所帯の奇妙な共同生活が始まりました。

自宅の壁に飾られた絵や賞状たち
自宅の壁に飾られた絵や賞状たち
――生活資金は大丈夫だったのでしょうか。


ムツゴロウ 出版社にいた会社員の時は手取り10万円くらいで何とか食べていける暮らしでしたが、会社を辞める数年前くらいから他の会社から執筆の仕事依頼が増えました。それである程度の生計が立てられるようになったので、北海道へ渡っても執筆の仕事でやりくりできました。

今も原稿は手書き。消しゴムはほとんど使わないという
今も原稿は手書き。消しゴムはほとんど使わないという
「僕のすべてをぶつけます、手加減しませんよ」
――そして1980年に「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」が始まります。きっかけは何だったんですか?

ムツゴロウ 北海道に引っ越してからもエッセイなどを書いていたので東京のマスコミの人とはつながりはありました。「ゆかいな仲間たち」の始まりは、後にフジテレビの社長になる日枝久さんと新橋でご飯を食べていた時に「誰も行ったことがないような場所へ行って思う存分動物と触れ合いたい」という話を僕がしたんです。そうしたら日枝さんがいきなり立ち上がって、僕の手を握りながら「畑さんそれやりましょう」と盛り上がったんですね。「僕のすべてをぶつけます、手加減しませんよ」と宣言はしていたんですけど、番組スタッフの方には「大丈夫? 野生動物だから一歩間違えたら死んじゃうよ」ってずいぶん心配されましたね(笑)。

ライオンに食べられて中指がなくなった右手でタバコを吸う様も堂に入っている
ライオンに食べられて中指がなくなった右手でタバコを吸う様も堂に入っている
――「ゆかいな仲間たち」は、ムツゴロウさんとゾウが触れ合っていたりとまさに手加減なしでした。台本などは当然なかったということですよね。

ムツゴロウ 相手は野生動物ですからね(笑)。番組のスタッフにも「事前に動物についての説明をしないでほしい」とお願いしていました。前もって動物を馴らしておいたり、なんなら前日に餌をあげておけば簡単に仲のいいシーンが撮りやすいかもしれないけど、僕はそれはやりたくない。とにかく僕と動物が会った初見の場面を見てもらいたかったんです。

野生動物相手でも、撮影の打合せは一切なし
――危険なことや予想外のこともあったのではないですか?

ムツゴロウ もちろん危ないこともあるんですけど、それ以上に僕が残念に思っていたのは、僕と動物の物語が始まる“最初”の肝心な部分を、カメラマンが撮れないこと。ただそれも仕方なくて、僕が動物のどこに触って何を話すかを打ち合わせしていなかったので、カメラマンもどう撮っていいかわからなかったんでしょう。

――自分がカメラマンだったと想像しても、野生動物の動きも予想できませんしムツゴロウさんの動きも読める気がしません。


ムツゴロウ 例えば、35年前に動物園から野生に戻ったゾウと会うとするじゃないですか。そういう時僕は、ゾウの前に立って一度全身の力を抜くんです。そして呼吸を読まれないように、何も言わないし何も動かないようにする。すると最初は警戒してたゾウが、「何だろ」って近づいて来るんです。それに僕も「どうした?」って応じて、そこからスキンシップが始まる。そのお互いの呼吸を撮りたかったんですけど、ほとんど実現しませんでしたね。

――それでも事前にスタッフに説明することはしなかったんですね。

ムツゴロウ それを伝えると嘘になるからです。事前に動きや性質を説明して狙って撮ってしまったら、小学校の理科の本のようになっちゃう。それじゃダメだと思ってたんですよ。

 そのぶっつけ本番のスタイルは、撮影中にライオンに襲われて中指を食べられる、という衝撃の事件を引き起こしてしまう。しかしムツゴロウさんは、それをまるで何事もなかったように、楽しそうな表情で話しだした。(♯2につづく)

【追悼】「よし、指1本やるから勘弁しろ」ムツゴロウさんがライオンに中指を食べられても、ギャングに囲まれても相手を恨まない理由
ムツゴロウさんインタビュー ♯2
「文春オンライン」特集班2023/04/06
https://bunshun.jp/articles/-/61940

「ムツゴロウさん」こと畑正憲さんが6日、87歳で亡くなった。北海道の自宅で倒れ、搬送先の病院で死去したという。

 1980年に放送が始まった「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」は大人気番組となり、多くの動物番組の“元祖”となった。ムツゴロウさんが最後まで暮らした中標津のログハウスでのロングインタビューを再公開する(初出 2021年11月11日、年齢、肩書き等は当時のまま)。

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 ライオン、オオカミ、ワニなど世界中の猛獣から大型犬に子猫まで、ムツゴロウさんと触れ合った動物たちは不思議と心を開いていく。1980年に始まった「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」(フジテレビ系)は最高視聴率30.2%を記録し、生きた野生動物の姿を多くの日本人が知るきっかけになった。

ライオンに食べられた中指を楽しそうに見せるムツゴロウさん Ⓒ文藝春秋 撮影・鈴木七絵
ライオンに食べられた中指を楽しそうに見せるムツゴロウさん Ⓒ文藝春秋 撮影・鈴木七絵
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 しかし相手は本物の野生動物たち。ゾウなどと触れ合ってムツゴロウさんが怪我することも一度や二度ではなく、2000年にはブラジルでライオンに右手中指を食いちぎられている。

 一見するとほのぼのした動物番組である「ゆかいな仲間たち」を支えていた、ムツゴロウさんのストイックすぎる撮影哲学。その現場で起きていた出来事を、ムツゴロウさんは楽しそうに語りだした。(全3回の2回目/#1、#3を読む)

一番怖かったのは「やっぱり人間」
――21年間続いた「ゆかいな仲間たち」の中で、特に印象に残っているものはありますか?

ムツゴロウ 一番怖かったのはやっぱり人間ですね。1982年頃、ライオンやゾウに会いに南アフリカのケープタウンへ行った時でした。ホテルの向かいにある銀行へ両替に行こうと思ってホテルのスタッフに治安を聞いたら「ダイジョウブ、ダイジョウブ」という答え。それで出かけたら、あっという間に屈強な6人組に囲まれました。

――南アフリカの治安について「ダイジョウブ」というイメージはありませんね……。

ムツゴロウ 僕らを囲んだ6人組はみんなナイフを持っていました。でもよく見ると、自分にナイフを突きつけている毛深い手が、ブルブル震えてるんですよ。それで僕は、男たちにわからないように日本語で同行者と「やってやろう。ケガしたらその時だ」と相談して、1、2、3とタイミングを合わせて大声で「コノヤローーー!」って叫んだんです。そしたら向こうが逃げました(笑)。

執筆のおともはコーヒーとタバコ
執筆のおともはコーヒーとタバコ
――良い子には真似してほしくない対応です(笑)。

ムツゴロウ でもね、一緒に囲まれたプロデュ―サーが車で犯人を捜してやるって怒ってたんですけど、それは止めたんです。生まれた国は貧富の差が激しくて、そこへ僕らみたいなのが来たら襲う気持ちだってわかるから。それに僕らが警察に通報したら、彼らはその国でさらに生きづらくなってしまうでしょう。

ライオンに「あとで遊ぼうな」
――人間以外の動物だといかがでしょう? 怪我だけでも、1990年にはアメリカでワニに引き込まれて左耳の内耳損傷の大手術、1999年にはアフリカのナミビアでライオンに首を噛まれ、2000年にはブラジルでライオンに右手中指を食いちぎられる大ケガを負っています。

ムツゴロウ 僕の中指を食ったライオンは大きなオスでね。「人に慣れていないから危ない」ってみんな言ってたんだけど、僕はひと目見て大丈夫そうだと思っていました。それで鉄製の檻の側までいったら、思った通り僕の顔を触ったり舐めたりする。ライオンがここまでやるのは慣れたも同然ですから心が通じたと思って「オマエ、いい子じゃないか。あとで遊ぼうな」って声をかけていました。でもその瞬間に僕の背後で人が急に動いて、それでライオンが驚いちゃったんですね。

――それでどうなったのでしょう。


ムツゴロウ ライオンが急に檻に向かってドーンとぶつかってきて、檻に掛けていた僕の右手の人差し指、中指、薬指がライオンの口の中に入ってしまったんです。3本も取られたら文字が書けなくて困るなと思って、指を抜こうとしてもライオンは口の力が強いから当然抜けない。「オマエ、引っ張るなよ」って言っても離さないんで「よし、指1本やるから勘弁しろ」って右手をすっと引き抜きました。そしたら中指だけなかったんです。すぐに病院へ行きましたけど、繋がりませんでした。

画材で埋め尽くされたアトリエ。ここに籠って絵を描く日も多い
画材で埋め尽くされたアトリエ。ここに籠って絵を描く日も多い
ライオンはそういう生き物だから
――怪我をしても動物が怖くなったりはしないんですか?

ムツゴロウ 後でライオンには「オマエ、やってくれたなー」って言いましたけど、怖くなったり恨んだりはしていませんね。指を檻にかけていた人間が悪いんですから。

――ムツゴロウさんが指を噛まれて血を流しているシーンがテレビで放送されたのも衝撃でした。

ムツゴロウ お蔵入りになりかけましたけど、お願いして放送してもらいましたよ。だってライオンはそういう生き物じゃないですか。

――そのライオンの事故から半年後の2001年3月に、「ゆかいな仲間たち」シリーズは21年の歴史に幕を下ろしました。番組終了はどのような経緯だったのでしょうか。

ムツゴロウ 一番は僕の体力的な問題でした。ガラパゴス諸島で海に潜った時に、昔は素潜りで40mはいけたのに20mくらいで息が切れたんです。翌日に挑戦しても30mが限界で、自分の衰えを感じました。日本に帰ってから考えこんじゃって、「僕はもう向かないんじゃないかと思います」と自分から番組の終了を提案しました。

「トイレまで撮りにくるの?」
――「ゆかいな仲間たち」ではムツゴロウ動物王国や自宅でのシーンも多く登場していましたが、常に撮影スタッフに囲まれていたのですか?

ムツゴロウ 牛の出産や緊急の時にカメラマンが来て、撮影をしていました。番組が始まった頃は僕もカメラを向けられることに慣れていなくて、どうしても固くなっちゃうとカメラマンに相談したら、「じゃあずっと回しっぱなしにしましょう」と言われて、スタッフが長時間、家にいて撮影するようになりました。どんなロケよりも、1人になれないことが一番つらかったですね。

1983年頃、40代のムツゴロウさん
1983年頃、40代のムツゴロウさん
――人間だらけの東京を避けて北海道へ来たのに、また囲まれてしまったのですね。


ムツゴロウ 本当にずっと撮るもんだから「トイレまで撮りにくるの?」って皮肉を言ったこともあります。でも何年かしたら僕も慣れてきてね、動物を世話していてもカメラの向きを気にするようになっちゃった(笑)。一緒に出ているタレントさんが動物に夢中になっている時も「カメラこっちだよ」って引っ張ったりしてね。

――テレビに出て有名になったことで生活も変わったのではないですか?

ムツゴロウ もう1回目からすごい反響でビックリしましたよ。東京を歩いてるとどこでも声をかけられるようになっちゃって、しかも僕は人と話すこと自体は好きだから、つい話しこんでしまう。それでちょっとした距離を移動するのに3、4時間かかったりして、スタッフに注意されました。

1990年頃、シベリアンハスキーたちを優しく眺めるムツゴロウさん
1990年頃、シベリアンハスキーたちを優しく眺めるムツゴロウさん
「動物を数で数えるな」
――全盛期で、動物王国にはどれくらいの動物がいたんでしょう。

ムツゴロウ それはよくわからんのです。取材に来た人はみんな「動物は何匹ですか?」って聞くんですけど、「そんなこと僕が知るか!」って答えてました(笑)。飼えなくなった犬を連れてきて置いていこうとする人も多くて、僕はそういうのは断っていたんだけどスタッフが勝手に引き取っちゃうこともあってね。「動物を数で数えるな」というのが僕の教えでしたから、しょうがない部分もありますけど。

――住み込みのスタッフの方も多くいたんですよね。

ムツゴロウ 動物もですけど、人間も正確に何人いたかはよくわからないんですよね。生活を捨てて北海道にたどり着いた人がいついちゃったり、弟子にしてくれと言って来たり、いろんな人がいましたから。食事はみんなで一緒にしていましたけど、見慣れない顔だなと思って「最近来た人?」と声をかけたら「3年前からいます」なんてこともありました。

――どんな人が多かったんですか?

ムツゴロウ 僕が来てほしかったのは、馬なら馬に潜り込んじゃうような人。好きになった動物と一緒に寝て、一緒に食事をして、家の中にも連れてきて、出掛ける時も連れて回るような人が現れないかなと思ってたんですよ。でもそんな根性のある人は1人もいなくてね。だから僕に“弟子”は1人もいないんです。

――ムツゴロウさんにとって、動物と人間の間に線はあるのですか?

ムツゴロウ 人間について「同じ仲間」という意識はあります。だから僕はどんな動物でも食べるけれど、人間だけは食べないことにしてるんです。もちろん「食べたらどうなるんだろう」と考えることはありますよ。でも、それは神に反するおそれ多いことでしょう。


残ったのは3億円の借金だけ
――「ゆかいな仲間たち」が終わってから3年後の2004年7月に、ムツゴロウ王国は北海道の中標津から東京のあきるの市の「東京サマーランド」の中に移転しました。動物やスタッフもほとんどが東京へ移転しましたが、ムツゴロウさんは北海道の自宅に残りました。どういう経緯だったのでしょう。

ムツゴロウ ムツゴロウ王国を東京で運営したいと、運営会社の人が話を持ってきました。それで僕は「スタッフのみんながOKならそれでいいよ」と言ったんです。「ムツゴロウさんも東京に来て住んでほしい」と言われたけど、行ったら自分が展示物になっちゃうなと思って断りました。1週間に1度くらいは顔を出していましたけどね。

――しかし東京に移った「ムツゴロウ動物王国」は、開園からわずか2年で運営会社が破綻し、賃料や従業員の給料が滞納される事態も起きました。


ムツゴロウ 結局、「ムツゴロウ」という名前と動物やスタッフを欲しかっただけなんでしょうね。僕はグッズのお金も一銭ももらってないし、残ったのは3億円の借金だけ。追剥ぎにあったような気分です。

どこへ行くにもムツゴロウさんの傍を離れないルナ
どこへ行くにもムツゴロウさんの傍を離れないルナ
――運営会社などについて思うところはあるのですか?

ムツゴロウ 恨んでもお金が返ってくるわけではないですからね。

――最終的に、2007年11月に東京の動物王国は閉園しました。犬と猫が合わせて約150匹、馬が十数頭はどこへ行ったのでしょう。

ムツゴロウ 犬や猫は王国の動物でしたが、東京ムツゴロウ動物王国でも夜はスタッフがそれぞれ自分の犬、猫として数匹ずつ自宅で世話をしていました。閉園になって、動物たちはそのままスタッフが引き取ってくれました。しかし、北海道のムツ牧場に帰って来た馬の姿を見た時は、あまりにやせ衰えていて涙が出ました。僕はいくら貧乏な時でも、あんな風に馬を痩せさせたことはない。僕の牧場に放牧してしばらくすると、まるまると元気に太って安心しました。東京では一体何を食べさせていたんでしょうね……。

動物の番組はまったく見ない
ムツ牧場には今も多くの馬が放牧されている
ムツ牧場には今も多くの馬が放牧されている
――「ムツゴロウ王国」は無くなってしまいましたが、近年また動物を扱うテレビ番組が増えています。坂上忍さんの「坂上どうぶつ王国」という番組も人気です。

ムツゴロウ 2018年に始まる時に、坂上さん本人が「どうぶつ王国」と付けてもいいですかって訪ねて来たので、勝手にどうぞとお伝えしました。僕の特許でもないですからね。

――番組をご覧になることはありますか。

ムツゴロウ 坂上さんの番組に限らず、動物の番組はまったく見ませんね。それは、自分の理想と違うから。僕にとっての理想は、“動物たちのありのままを受け止める”ことですよ。彼らのことを知りたいと思ったら、一緒に寝て、一緒に暮らすこと。けど、そんな風に作っている番組は1つもないでしょう。もし観たら1シーンずつぶつぶつ文句を言いそうで、それはつまらんじゃないですか(笑)。

妻の純子さんとは結婚して60年以上になる
妻の純子さんとは結婚して60年以上になる

 ムツゴロウさんの人生には、動物王国の建国、東京進出の失敗など数多くの大勝負と借金が何度も登場する。芸能界最強とも名高い麻雀や競馬、パチンコなどギャンブルとの関わりも深い。その“勝負師”としての顔は今も健在だった。(#3につづく)


【追悼】「このムツゴロウが徹マンで負けた記録がありますか」ムツゴロウさんが語るギャンブルへの愛と、独特すぎる金銭感覚
ムツゴロウさんインタビュー♯3
「文春オンライン」特集班2023/04/06
https://bunshun.jp/articles/-/61941

「ムツゴロウさん」こと畑正憲さんが6日、87歳で亡くなった。北海道の自宅で倒れ、搬送先の病院で死去したという。

 1980年に放送が始まった「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」は大人気番組となり、多くの動物番組の“元祖”となった。ムツゴロウさんが最後まで暮らした中標津のログハウスでのロングインタビューを再公開する(初出 2021年11月11日、年齢、肩書き等は当時のまま)。

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 動物学者で小説家、エッセイストでもあるムツゴロウさん。86歳となった“ゆかいな動物たちの父”の人生には、常に勝負事があった。勝つ時があれば負ける時があるのも勝負事の常。ムツゴロウさんも人生で2度、巨大な借金を抱えている。北海道の自宅で奥様と暮らしながら、病と懸命に闘っていた。(全3回の3回目/#1、#2を読む)

ムツゴロウさんと大型犬のルナ Ⓒ文藝春秋 撮影・鈴木七絵
ムツゴロウさんと大型犬のルナ Ⓒ文藝春秋 撮影・鈴木七絵
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――ムツゴロウさんといえば動物のイメージが強いですが、作家、起業、ギャンブルと“勝負師”の印象も強くあります。ムツゴロウさんの金銭感覚や勝負事についての考え方をお聞きしたいのですが。

ムツゴロウ 作家は小さい頃からの夢でね。学生時代も「ご飯より本を食べる」と友達によく言われるくらい本が好きでした。サラリーマンだった1967年に出した「われら動物みな兄弟」が賞をもらって、それから色々書くようになりました。でも動物王国を作る時は餌代や広大な土地にフェンスなども作らなきゃいけないので、会社からの給料と本のお金では全然足りなくて銀行から相当な借金をしましたよ。

――ムツゴロウさんのエッセイには、借金生活もよく登場しますよね。

ムツゴロウ だってライオンに中指を食べられた時に真っ先に心配したのは、鉛筆が持てなくて原稿が書けなかったら借金を返せなくなるんじゃないか、ということでしたから(笑)。でもすぐに左手を添えて書く方法を練習して、締め切りは1回も破りませんでしたよ。

中指のない右手を、左手で支えて文字を書く
中指のない右手を、左手で支えて文字を書く
「何でも買っていいよ」
――「ゆかいな仲間たち」が全盛期だった80年代や90年代はテレビも景気が良い時代でしたが。

ムツゴロウ テレビ局にはずいぶん助けてもらって、おおいに感謝してます。値段は言えませんけどね(笑)。景気もよくて、一度フジテレビの日枝(久)さんに「何でも買っていいよ」と言われたことがあって、その時はエルメスの鞍を買ってもらいました。ただエルメスの鞍が想像よりもあまりに高くてフジテレビの予算を超えてしまって、残りは自分で出しました。その鞍は今でも宝物です。

ムツゴロウさんの部屋には画材がところ狭しと置かれている
ムツゴロウさんの部屋には画材がところ狭しと置かれている
――ムツゴロウさんにとって、お金ってどういうものなんですか?

ムツゴロウ あまり将来のお金の心配はしない方ですね。僕はきれいな湿原や森を見ると、つい買ってしまうんです。自然とは言いますがいい状態で保存するにはお金がかかる。でも放っておいたらその景色は無くなってしまう。それなら借金してでも自分で買って、なんとかその自然を守りたい。後からもちろん苦労はしますけど、でもそれは僕にとってはしょうがないことなんですよ。

「命懸けの瞬間が好きなんですよ」
――その金銭感覚は、ギャンブルへの情熱とも通じていそうです。

ムツゴロウ ギャンブルは大好きですね。僕は、どうなるかわからない命懸けの瞬間が好きなんですよ。たとえば競馬なら10万円くらいの馬券を買って、胸のポケットに入れてレースを見るんです。その馬が勝って500万円くらいになれば、もうしばらく競馬ができる。それを考えたら、頭がパーっとなるんですよ。

――ムツゴロウさんの馬を見る目はすごそうです。


ムツゴロウ 競馬の話をすると「いくら勝ったんですか?」と聞く人はよくいるけど、そんなことはどうだっていいんですよ。もっと大切なことが競馬にはあるんです。

――どういうことでしょう?

ムツゴロウ 自分が賭けた馬が負けたとするじゃないですか。そうしたら、どうして1着に来なかったかを考えるんです。それを知るために自分で馬を育てて、調教して、自分で乗って草競馬に出る。それで負けたらまた調教をし直す。それを何度もやらなきゃ馬のことはわかりません。第4コーナーを抜けて直線の端に立ったときのね、胸が開いていくような感激と嬉しさはちょっと他のものでは味わえませんよ。

ムツゴロウさんの視線は時に鋭い
ムツゴロウさんの視線は時に鋭い
「お金があるならいくらでも勝負してやる」
――「見る、賭ける」と「乗る」がつながっているんですね。ギャンブルと言えば、ムツゴロウさんは日本プロ麻雀連盟の最高顧問も務められています。

ムツゴロウ 麻雀は兄貴の影響で高校2年生から始めました。30代の頃は麻雀に明け暮れていましたね。もう50年前だから時効だと思いますけど、大晦日と正月をまたいで10日間連続で打ち続けたこともありました。

――それはすさまじいです。当時はもう結婚されていましたよね?

ムツゴロウ 12月28日に雀荘に入って、寝ないで打ち続けていたら財布がどんどん厚くなっていってね。でも負けはじめると今度は薄くなっていく。そういう増減がおもしろかったんですよ。「お金があるならいくらでも勝負してやる」なんて言いながら打ち続けて、結局1月7日に11日ぶりに家に帰ったのかな。家のドアを開けたら女房に「テメー何してるんだよ!」って怒鳴られましたよ(笑)。僕は「すみません、すみません」って謝りっぱなしでした。

――「雀聖」と呼ばれる阿佐田哲也氏との勝負も伝説になっています。

ムツゴロウ 阿佐田哲也さんは人の悪口を絶対に言わない人でね、一緒に打つのは楽しかったですよ。40代くらいの頃は北海道から東京へ出てくる時にホテルオークラを定宿にしていたんですが、ホテルに到着するといつも阿佐田さんから「今晩どうですか」って電話が来るんです。「今、東京に着いたばかりですよ」と言っても、「いいじゃないですか。今晩やりましょう」って。

――阿佐田氏との勝負はどうだったんですか。

ムツゴロウ 僕が阿佐田さんに負けたという記録はどこかに残っていますか? ないでしょう。このムツゴロウが徹マンで誰かに負けたという記録を持っている人がいたら見せてもらいたいものですね(笑)。動物の原理に比べれば、麻雀の原理なんて大したことありません。僕は会社の給料袋だって、封を切らずにそのまま女房に渡してたんですよ。自分のお金はギャンブルで稼ぐって決めてましたから。


病院で喫煙をナースに怒られた
――今は雀荘も減りました。タバコもお好きだと思いますが、吸える場所はずいぶん減りましたよね。愛煙家のムツゴロウさんにとってはいかがですか。

ムツゴロウ 僕は喫煙歴60年を超えてますからね、困ったもんだなと思ってます。覚えたのは大学生の頃で、渋谷にできた東急百貨店の2階に洋モクを置いてるタバコ売り場ができまして、それを1本ずつ味わいながら吸いましたね。今はタバコが目の敵にされることが多くって、いっそこんな世の中なら早いことおさらばしようかと思う時さえありますよ(笑)。

――心臓の病気などもされていますが、禁煙しようと思われたことはあるのですか?


ムツゴロウ ありませんね。82歳でドクターヘリで搬送されて入院したときも、病室の窓から上半身を外側に乗り出してタバコを吸っていたらすぐにナースが飛んできて、僕は「上半身は病院の外だよ」って説明したけど通じなくて怒られました。今度同じことをしたら病院を出ていってください、とね。

「死」っていう言葉は口にしないように
――大怪我や重病などを何度も経験されているムツゴロウさんですが、「死」について考えることはあるんですか。

ムツゴロウ 「死」っていう言葉は口にしないように、心に鍵をかけて辛抱していたんですけど、最近は考えるようになりました。年を取るのは辛いもので、何ひとつ自分の思った通りにはできなくなるんです。最近は「僕が死んだら」とか平気で言ってしまって、心が弱くなったのかもしれません。でもあの世に行く前に、僕の経験したことを全部話しておきたい気持ちが強くて、それでYouTubeもはじめたし、絵を描いたりこうしてお話ししたりしてるんです。

――YouTubeの「ムツゴロウの656」拝見しています。

ムツゴロウ 656はムツゴロウの語呂合わせなんですけど、全656回かけて自分の体験したことを全部話そうと思ってるんです。でもまだ46回(11月10日現在)ですから、すぐには しねません(笑)。家の周りを散歩したりして、自分の体や血液を鍛え直しているところです。

――ムツゴロウさんは今もエッセイを書かれたり、11月1日からは銀座で絵の個展「ムツゴロウ世界をまわる」も開催されるなど発信を続けています。どんなことを「話しておきたい」と感じているのですか?

11月13日まで銀座で個展が行われている
11月13日まで銀座で個展が行われている
ムツゴロウ 僕はね、動物でも人間でも命と付きあっていると、互いに何か伝わるものがあるんじゃないかと思っているんですよ。自分のありのままの命とも、もう少し付きあってみようと思ってます。

【追悼】「地の果てでもどこでもついて行く」妻・純子さんが語るムツゴロウさんとの70年 結核、麻雀、無人島、借金、そして…
ムツゴロウさんと純子さん #1
「文春オンライン」特集班2023/04/06
https://bunshun.jp/articles/-/61942

「ムツゴロウさん」こと畑正憲さんが6日、87歳で亡くなった。北海道の自宅で倒れ、搬送先の病院で死去したという。

 1980年に放送が始まった「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」は大人気番組となり、多くの動物番組の“元祖”となった。ムツゴロウさんが最後まで暮らした中標津のログハウスでのロングインタビューを再公開する(初出 2021年11月11日、年齢、肩書き等は当時のまま)。

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 2022年4月17日で87歳となった“ムツゴロウ”こと畑正憲さん。現在の暮らしぶりや、ライオンに食いちぎられた中指のこと、70歳を過ぎて背負った借金3億円の完済秘話、麻雀伝説を語ったインタビューは大反響を呼んだ。ムツゴロウさんが破天荒な人生を語る間、それを横で笑顔で聞いていたのが妻の純子さんだった。

 ムツゴロウさんと純子さんは大分の中学校の同期生で、2人は23歳のときに結婚。中学2年生で交際を初めて以来、一緒に過ごした時間はすでに70年を超えている。その間にはムツゴロウさんによる突然の無人島移住宣言や、北の大地での動物たちとの共存生活など、さまざまな事態が勃発。ムツゴロウさんが引き起こす起伏に富みすぎた生活を、純子さんはどのように生きてきたのだろうか。2人が過ごした70年間を、純子さんの視点で振り返る。

ムツゴロウさんと純子さん。中学2年生の時から70年以上の時間をともに過ごしてきた ©文藝春秋
ムツゴロウさんと純子さん。中学2年生の時から70年以上の時間をともに過ごしてきた ©文藝春秋
この記事の画像(65枚)
――お久しぶりです、お変わりありませんでしたか。

純子 こんな遠くまでまた来てくれたんですね。畑の話がそんなに気に入ってくれたんですか。

ムツゴロウ 今日はね、お前さんが主役だよ!

――そうなんです。ムツゴロウさんと70年間一緒にいる純子さんも相当ただ者ではないような気がしていまして……。

純子 ええ、私ですか(笑)。でも何をお話ししたらよいんでしょう。畑とは結婚して60年以上、中学で出会ってからは70年以上も付き合っているのでお話しすることはいっぱいありますが……。最近も「この家の下には泉脈があるから温泉が掘りたい。馬と温泉に入りたいんだ」なんて言われて驚かされました。そういう行動の読めないところが畑の魅力だとは思っているんですけどね。

お互いが話す時も、隣で聞いている2人 ©文藝春秋 撮影・鈴木七絵
お互いが話す時も、隣で聞いている2人 ©文藝春秋 撮影・鈴木七絵
出会いのきっかけは「あんた、お喋りだね」
――お2人は中学2年生、14歳の頃から交際されているんですよね。当時のムツゴロウさんの印象はどんな感じだったんですか?

純子 同じクラスになったことはなかったんですが「とても頭のいい人がいるらしい」という話が別のクラスまで聞こえてくるような人でした。なので、とにかくスゴイ人なんだろうと思っていました。当時は戦争が終わった直後ですからみんな丸坊主で、服だってボロボロ。畑は背が大きいわけでもないですけど、それでも何かと注目を集める人でしたね。

©️文藝春秋 撮影・鈴木七絵
©️文藝春秋 撮影・鈴木七絵
――クラスが違う2人はどうやって接近したのでしょう。

純子 別々のクラスでどちらも級長をやっていて、級長たちが集まる会で知りあって少し話すようになりました。しばらくして、畑が私のクラスに来て「あんた、お喋りだね」ってメモを渡されました。当時は級長でよく意見を言ってましたからね。それでメモを見たら、畑を含めて男子の名前が4人か5人書いてある。つまり私がその中で誰を選ぶかっていうメモなんです。私も押しに弱くって(笑)、畑の名前にチェックして返したような記憶があります。

ムツゴロウ それは覚えてないなぁ。でも僕はね、女房のことは小学校の時から知ってましたよ。当時は小学校は男女別だったんですが、たまに一緒に授業を受けることがありました。その時に女房がクラスの中で目立ってたんですよね。女子生徒のリーダー的な立場で、いつも10人ぐらいを引き連れていましたから。

「お前恋愛しとるだろ! 何かあったら退学だぞ」
――お互い目立っていたわけですね(笑)。メモにチェックして、そこからどうやって交際に発展したんでしょう。

純子 しばらくしてまた畑が教室に入ってきて、すっと私の机の上に手紙を置いていきました。もう中学生ですから、それが何の手紙かはすぐわかりました。緊張して中を見ると「好きだよ」と書いてありました。私も「好きです」と返事を返して、畑への気持ちが憧れからすっと恋愛感情に変わりました。

自慢のログキャビンハウスの前で ©文藝春秋 撮影・鈴木七絵
自慢のログキャビンハウスの前で ©文藝春秋 撮影・鈴木七絵
――当時は1940年代後半だと思いますが、中学生の男女交際はどんな雰囲気だったんでしょう?


純子 やっぱり厳しかったですね。畑の家に担任の先生が来て「お前恋愛しとるだろ! すぐ別れなさい。何かあったら退学だぞ」と脅されたそうです。畑が堂々と手紙を置いていくもんですから同級生たちの間ですぐ噂になって、それが先生にもバレちゃったんですね。だから学校では気軽に話したり、一緒に帰ったりはほとんどできませんでした。

――ということはデートは学校の外で?

純子 皆に見つかってはいけないので、公園のベンチで話すこともできません。しょうがないので学校帰りに田んぼの中で待ち合わせして、歩き回ってどこか腰を下ろせる場所を探して、1〜2時間くらい話したら「今日は楽しかったね。さようなら」と帰るのがデートでした。

――当時の大分はまだ戦争の爪痕も残っていたのですか?

ムツゴロウ 自然はきれいでしたが、戦後で物資も食料も何もありませんでしたね。僕の家は満州から帰ってきたばかりでお金もなく、子供の頃は親戚の農家の畑で田植えや麦刈りの畑仕事を手伝ったりしていました。他にもげた磨きの工場で深夜まで作業したり、早朝の三隈川で魚を獲って食べる生活でしたよ。

ムツゴロウさんはライオンに右手の中指を食べられてから、左手で鉛筆を支えて文字を書くようになった ©️文藝春秋 撮影・鈴木七絵
ムツゴロウさんはライオンに右手の中指を食べられてから、左手で鉛筆を支えて文字を書くようになった ©️文藝春秋 撮影・鈴木七絵
帰りたくなくなって、博多で旅館に泊まった日の思い出
――そんな状況を乗り越えてお2人は大分県立日田高校へ進学されます。高校では少しは校則もゆるくなったんですか?

純子 高校も恋愛は禁止だったと思います。それでもお互い図書委員だったので、畑から「図書室の本棚の何段目の本に手紙を挟んだよ」と聞いて手紙を探して、返事を畑の机の引き出しに置いて帰ったりしていました。内容はもう覚えてませんけど、普通の恋文だったと思いますよ(笑)。

ムツゴロウ 高校の時は列車で博多まで3時間かけて移動してデートしたこともありましたね。列車では見つからないように別々に座って他人のフリをしてね。博多で映画館の帰りにお寿司屋さんへ行ったら、彼女は握り寿司が初めてで「大トロ」ばかり10個くらい頼むんです。イワシとかタコを注文してくれればいいのにって冷や冷やものでしたけど、バイトで貯めたお金で足りてほっとしたのを覚えてますよ。

©️文藝春秋 撮影・鈴木七絵
©️文藝春秋 撮影・鈴木七絵
――その頃は結婚とか将来のことも考えていたんですか?

純子 うーん、私はそこまで考えなかったですね。

ムツゴロウ 僕は中学の頃から結婚するんじゃないかなと思ってましたよ。他の女性には目がいかなかったですから。今でも覚えているのが、2人で博多で遊んで、でも一緒にいたいから帰りたくなくなっちゃって「ここは一泊300円だって、大丈夫かな」と2人で旅館を探しながら歩いたこと。結婚するまでセックスはしなかったから何するわけじゃないんだけど、部屋の真ん中に布団が2つ並べて敷いてあるのが色っぽくてね。

純子 お風呂が広くて、「綺麗だね」って言いながら一緒に浸かりましたよね。


初夜のために東京行きの列車を途中下車
――高校卒業後、ムツゴロウさんは東京大学理学部へ、純子さんは地元の運送会社に就職します。

純子 その頃は毎日のように手紙を書いていました。手紙で夏休みに帰ると教えてもらうと、私の勤め先は地元の駅の近くでしたので、仕事中もちらちら改札の方ばかり見てました。そうすると列車から畑が下りてくるのが見えるんですよ。でも畑の家は男女交際に厳しかったので、男友達に頼んで畑の家に電話をしてもらって、彼が出てから代わってもらっていました。ボーイフレンドは畑の他にもいましたからね(笑)。

©文藝春秋
©文藝春秋
――遠距離になって2年後の20歳の頃に、純子さんが結核を患ったと聞きました。


純子 そうなんです。会社の健康診断で結核がわかって、地元の大学病院に半年以上入院しました。畑は東京から何度も面会に駆けつけてくれて、彼の実家は病院でしたので「僕は結核の患者の症状で治り具合がわかるから、自分が治してやる」って勇気づけてくれました。当時は結核で亡くなる人も多くて不治の病とも言われていたんですが、私は奇跡的に完治したんです。

――そしてムツゴロウさんが東大を卒業するのを待って、23歳で結婚。

純子 東京においでって言ってくれたときはもうなんだか鳥が飛び立つみたいな気分で、すぐに東京行きの列車の切符を手配しました。畑も一度大分に戻って来て、彼の実家で両家の会食をして、そのまま東京行きの列車に乗りました。

ムツゴロウ 列車には乗ったんですけど、山口で途中下車しようと僕が提案しました。ようやく結婚して、自分の倫理っていうか決まりを外して、東京へ向かう前に初夜を迎えたいなと思っちゃったんですね(笑)。それで山口で降りて湯田温泉へタクシーで向かったんですけど、タクシーなんて乗ったことがないから、カチカチ上がるメーターを凝視していました。一緒に行った大トロの寿司屋を思い出しました。それでもどうにか無事旅館に着いて念願の初夜を迎えて、あらためて東京へ向かったんですよ。

©️文藝春秋 撮影・鈴木七絵
©️文藝春秋 撮影・鈴木七絵
「麻雀というのは儲かるものなんだと思っていました(笑)」
――東京ではどんな生活だったんですか?

純子 畑は家庭教師と塾のバイトのかけもちをしていました。私も働こうと思ったのですが「結核が再発するといけないから安静にして暮らさなきゃ」と言われてしばらくは仕事は控えていました。アパートは池袋の三畳一間で、布団を敷いたらいっぱいになるような狭い部屋。家賃は3000円で、今で言うと約1万7000円くらいですからまぁボロアパートです。鏡台もなくて、みかんの段ボール箱の上に小さな鏡を置いていました。

ムツゴロウ ご飯を食べる時もみかん箱だったよね。

純子 ちゃぶ台もなかったですからね。でもいくら貧乏でも、2人で一緒に生活できるだけで幸せでした。

――純子さんが上京して2年後に、25歳で長女が生まれています。

純子 畑が出版社に就職したのも同じ頃ですね。子供も生まれることだし、ちゃんと就職してくれたのはやっぱり嬉しかったです。毎月の給料袋を封も切らずに渡してくれて、お小遣いも渡していませんでした。でも畑は暇さえあれば麻雀をやっていて、時々お財布を見せてもらうと、給料の5倍くらいの札束が入っている。そんな調子だったので、麻雀というのは儲かるものなんだと思っていました(笑)。


――そのひとまず安定した生活も束の間、お2人が33歳の時にムツゴロウさんが出版社を退社され、36歳の時には北海道の無人島・嶮暮帰(けんぼっき)島へ移住と、“ムツゴロウ”としての生活がいよいよ始まっていきます。

純子 会社を辞める時も、無人島に移住する時も特に相談は受けませんでした。さすがに移住する時は「あんた、行きたくなければついて来なくてもいいんだよ」と言われたんですけど、私は置いていかれるのは嫌だったので「地の果てでもどこでもついて行く」と言い返しました。嶮暮帰島では手作りの小屋を建てて、親子3人と小熊と犬5頭のロウソク生活。食料は船で買いに行き、冬はマイナス20度以上まで冷え込むので犬に温めてもらいながら一緒に寝ていました。それでも、すべてが新鮮で楽しい1年間でした。

大型犬のルナは、どこへ行くにもムツゴロウさんのそばを離れない ©文藝春秋 撮影・鈴木七絵
大型犬のルナは、どこへ行くにもムツゴロウさんのそばを離れない ©文藝春秋 撮影・鈴木七絵
――娘さんは東京にいた頃は虫にも怯えていたと言いますが、そんな過酷な無人島には適応できたんですか?


純子 娘は最初は東京に帰りたいと泣いたこともあったけど、すぐに適応したように見えました。今でも嶮暮帰島で暮らした1年を「自分の人生の中で素晴らしい1年だった」って言っています。

 畑は街で小さいお子さんを見ると可愛がりたくてしょうがない人なんですけど、自分の子供に対してはベタ可愛がりするというわけでもありませんでした。「子どもには何よりも触れ合いが大切だ」と言って、馬や犬など多くの動物と触れ合わせて、畑が勉強を教えることも一切ありませんでした。

ムツゴロウ 特別な子育てが必要だなんて思ったことないですからね。人間の子供も動物と一緒で、遊ぶことで命の大切さを学んでいきます。小学校の高学年くらいまでは好きなだけ暴れさせて、取っ組み合いのケンカをしたり、踊りたければ踊ればいい。笑いたければ笑えばいい。それが子育てじゃないですか。

ムツゴロウさんは現在、北海道の中標津で妻と馬の世話をするスタッフと3人で暮らしている ©️文藝春秋 撮影・鈴木七絵
ムツゴロウさんは現在、北海道の中標津で妻と馬の世話をするスタッフと3人で暮らしている ©️文藝春秋 撮影・鈴木七絵
「まるで宇宙人のようで、何をしでかすがわからないところが彼の魅力」
――教育方針や突然の無人島への移住などで、喧嘩になったり純子さんが許せなかったことはあるんですか?

純子 全部受け入れてきましたから、そういう風に思ったことはないですね。畑のことは尊敬しているので、この人が選ぶことは間違いないだろうと思っているんです。

――そうして、ムツゴロウさんの選択を純子さんは隣で見続けてきたのですね。

純子 中学生からずっと畑を見ていますが、飽きないんですよ。まるで宇宙人のようで、何をしでかすかわからないところが彼の魅力です。畑はずっと忙しかったので夫婦の時間は皆さんよりも短いかもしれませんが、私は一緒にいられてとても幸せです。今は無理はできませんが、いつか畑と2人でほとんど行ったことのない東北や日本海へ穏やかな旅をしてみたいですね。

【追悼】「私がライオンに落とし前をつけに行く」ムツゴロウさんも笑う妻・純子さんの“珍獣”性 若き日の“雀荘置き去り事件”も…
ムツゴロウさんと純子さん #2
「文春オンライン」特集班2023/04/06
https://bunshun.jp/articles/-/61943


「ムツゴロウさん」こと畑正憲さんが6日、87歳で亡くなった。北海道の自宅で倒れ、搬送先の病院で死去したという。

 1980年に放送が始まった「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」は大人気番組となり、多くの動物番組の“元祖”となった。ムツゴロウさんが最後まで暮らした中標津のログハウスでのロングインタビューを再公開する(初出 2021年11月11日、年齢、肩書き等は当時のまま)。

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 ムツゴロウさんと中学の同期生として出会い、それ以来70年にわたって一緒に過ごしてきた妻・純子さん。ムツゴロウさんの奔放さは有名だが、話を聞いていくうちに、純子さんの中にも“珍獣”性があることが徐々に明らかになってきた。

ムツゴロウさんと純子さん Ⓒ文藝春秋 撮影・鈴木七絵
ムツゴロウさんと純子さん Ⓒ文藝春秋 撮影・鈴木七絵
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ムツゴロウ 僕も変わり者とよく言われたものですが、女房も変わっていましてね。映画の「子猫物語」が大ヒットした1986年頃に僕が何億って稼いだ年があって、そうすると「お金を貸してください」という人がやっぱり訪ねて来るんです。話を聞くと僕は助けてあげたくなって、「お前はこれだけ持ってけ」「お前はこれだけだ」って大金でもすぐにあげちゃったの。でもよく考えたら、それを見ていた女房は何も言わなかったんですよ。

純子 畑が一生懸命働いて稼いだお金ですからね。あと実は、私も知り合いに「いくらかなんとかしてもらえないか」と言われて、あげちゃったことがあって(笑)。そのお金でその人が生活できるようになるんだったら、と思ったんですよね。

ムツゴロウ タバコもね、今では女房の方が僕より吸いますよ。僕は原稿を書く時に増えるけど、女房はずっと変わらないから。

純子 結婚してから畑に「これからの女性はタバコくらい吸わなきゃ」と勧められて覚えましたね。それをすぐに受け入れてしまうのが私のダメなところ(笑)。妊娠中は止めていましたが、今は1日1箱半くらい吸いますよ。

タバコは1日1箱半 ©️文藝春秋 撮影・鈴木七絵
タバコは1日1箱半 ©️文藝春秋 撮影・鈴木七絵
「ちょっと女房と遊んでやってください」と雀荘に置いていかれて…
――純子さんは若い頃に結核を患われていますが、肺などは大丈夫なんですか……?

純子 畑は私の結核の再発を心配して「仕事なんてしなくていい」と大事にしてもらったんですが、そういえばタバコは勧められましたね(笑)。

――他にもムツゴロウさんに影響されたなと思うことはありますか?

純子 畑が楽しそうに麻雀しているのを見ているうちに私もやってみたくなって、自分で覚えて近所の友人に畑も交えて毎晩のように麻雀をしていた時期があります。畑の知り合いがやっていた東京の雀荘で「ちょっと女房と遊んでやってください」と私だけが置いていかれたこともありましたけど、その時だって勝ちましたよ。パチンコも競馬もやりましたし、無人島にいた頃は娘と3人で花札もやりました。人生ですから、多少の楽しみがあってもいいじゃないですか。


「最初に謝るのは必ず畑の方ですけどね(笑)」
――雀荘に妻を置いていくムツゴロウさん、さすがすぎます(笑)。2人だけのときはどういった関係性なんでしょう?

純子 畑は仕事でも何でも没頭するので、集中したらそのことだけになってしまう人。若い頃には年末の12月28日に麻雀へ行ったっきり、1月7日まで帰って来ないこともありましたね。いつものことですし、いつか帰ってくることはわかってましたけどね。

ムツゴロウ 友人が新しい雀荘を作ったというので行ってみたら面白くなっちゃってね。でもあの時は家に帰ったら「この野郎おまえ」ってあなた啖呵切ってたよ(笑)。ほとんど怒っているところは見たことがないんですけど、あの時は珍しく怒られました。


©文藝春秋
©文藝春秋
――(笑)。お2人はお互いになんと呼び合っているんですか?

純子 若い頃は名前で呼ばれたことはなかったような気がします。最近はときどき“純子さん”って呼んでくれるんですよ。私の方は“あなた”と呼んでいます。実は私はずっと敬語なんですよ。喧嘩すると、最初に謝るのは必ず畑の方ですけどね(笑)。

借金を背負った時にも手放さなかったイエローダイヤの指輪
――喧嘩の理由はどんなことなんでしょう。お金の問題などがぱっと思いつきますが。

純子 畑の金銭感覚について気になったことはありませんね。ただ、新婚時代はさすがに苦労した思い出があります。アパートの共同台所でシジミを調理していたら、隣に住んでいた女性に「お宅はしじみを食べるの? ふつうは出汁を取るだけよ」って笑われたことがありました。それを畑に話したら「コノヤロー!」っていうことになって、バイト代が入った日に2人で大きいステーキ肉を2枚買って、隣の女性が共同台所に来るタイミングを見計らって、目の前でステーキを焼いてやりましたよ。「今だ、行けー!」なんて言って(笑)。

©文藝春秋
©文藝春秋
ムツゴロウ あったあった(笑)。結婚する時にこの人の父親が僕に上下の背広を作ってくれたんですけど、僕らは貧乏でしょ。何するにも生活するお金がなくて、アパートの隣にあった質屋に泣く泣くその背広を持って行ったんですが、お金が用意できなくて流れてしまったこともありました。あれは本当に申し訳なかったですね……。

――その後も数億円を稼いで知人に大金を配ってしまうような時期があったと思えば、2004年には東京ムツゴロウ王国の経営破たんで3億円の借金を抱えたりと波乱万丈です。

純子 借金はもちろん大変でしたけど、借金ができてしまった事実から逃げ出すわけにはいかないから、悔やんでも仕方がないと当時から思っていました。私が老後のために貯めておいたお金も、すべて返済に当てました。畑も執筆や講演会などで休まず働いてくれて、なんとかここまで頑張ってきました。

――純子さん自身がよくお金を使うジャンルなどもあるんですか?

純子 自分で使うことはほとんどありませんが、30年以上前に畑に買ってもらったイエローダイヤはかなり値段がしました。結婚指輪もなかったので、これをもらった時は嬉しかったですね。借金を抱えた時もなんとか手放さずにすんで、今でもつけている宝物です。

純子さんの指に輝く大きなイエローダイヤの指輪 ©文藝春秋
純子さんの指に輝く大きなイエローダイヤの指輪 ©文藝春秋
ムツゴロウ 僕は野生動物と会いに世界中へ行って、生き残って帰ってこられたら記念に物を買うことにしてるんです。この指輪もアフリカから無事に帰った記念に贈ったものですね。

――生き残ったら、ですか……。たしかにライオンに中指を食いちぎられたり何度も大怪我をされていますからね。

純子 その時も畑は「女房には言わないでくれ」って番組のスタッフに言ったらしいんですよ。実際に指がないんだから、隠し通せるはずがないのに……。ライオンにやられたと聞いた時は「私が落とし前をつけに行く」と言ったんですが、さすがにブラジルは遠いし、畑自身も気にしていないし、痛いとさえ言わない。それで、命まで取られたわけじゃないからよかったかと思うようになりました。

ライオンに食べられた中指を楽しそうに見せるムツゴロウさん Ⓒ文藝春秋 撮影・鈴木七絵
ライオンに食べられた中指を楽しそうに見せるムツゴロウさん Ⓒ文藝春秋 撮影・鈴木七絵
「あの絵、売っちゃったの? 黙って? あらまー……」
――落とし前(笑)。でもやっぱりお互いの存在が一番の宝物ですね。


純子 そうですね。畑からもらったものはやっぱり大切です。リビングに飾っている絵は、30年以上前に私と当時飼っていたパグを描いてくれたもの。私は本当に気に入っているのですが、畑はいつも「売りたい」って言うので「それだけは止めてください」と頼んでいます。畑の描いた絵はできるだけ手元に置いておきたいんですけど、この人は隙あらば売ろうとするんですよ。

ムツゴロウ 僕はね、自分の描いた絵は売らないとダメっていう考えなんです。人に持っていてもらうことが大切だと思っているので、画廊に任せている絵も「安くてもいいからとにかく売ってくれ」と言っています。そういえば、しばらく家に置いてあったアフガニスタンの人々を描いた絵も昨年ようやく売れたんですよ。

ムツゴロウさんが純子さんを描いた絵。純子さんの宝物だ ©文藝春秋
ムツゴロウさんが純子さんを描いた絵。純子さんの宝物だ ©文藝春秋
純子 あの絵、売っちゃったの? 黙って? あらまー……。でも畑の魅力をわかってくださる方がたくさんいるということなら仕方ないですかね。気に入ってはいたんですけど。

――純子さん、また受け入れてしまっています(笑)。

純子 もう70年以上一緒にいますからね(笑)。でも畑とは中学2年生の頃から一緒ですけど、今でも何をするか予想がつきません。私はどうも、その何をやるかわからない畑を面白いと思ってしまうんです。流れるような話し方も好きだし、今でも憧れます。確かにちょっと常識とは違うかもしれないけれど、本当に魅力的な人間だと思いますよ。

70年の時間を一緒に過ごしてきた2人は強い信頼関係で結ばれている ©文藝春秋
70年の時間を一緒に過ごしてきた2人は強い信頼関係で結ばれている ©文藝春秋
――70年、振り返ってどうですか?

純子 考えてみれば長い間生きてきて、私たちもいい年になりました。5年前に畑が心筋梗塞で倒れてドクターヘリで運ばれる時は「もしかしたら最後かもしれない」という思いがよぎって顔を見るのが本当に怖かったです。なんとか回復して1カ月くらいで家に帰ってきてくれて、2人の時間を大切にしようと改めて思いました。今でも毎朝、畑の「おはようございます」を聞くまではやっぱり心配。もう新しく動物を飼うのは無理ですけど畑にはもう少し長生きしてほしいし、生まれ変わってもまた一緒になりたいですね。

「動物と一緒で、自然にかえるだけ…」87歳で死亡のムツゴロウさんが晩年に口にしていた“達観”の言葉「自分は長く生きすぎた。もう十分です」
「文春オンライン」特集班2023/04/06
https://bunshun.jp/articles/-/61966

「僕はね、動物でも人間でも命と付きあっていると、互いに何か伝わるものがあるんじゃないかと思っているんですよ。自分のありのままの命とも、もう少し付きあってみようと思ってます」

 2021年11月に文春オンラインに掲載したインタビューで、ムツゴロウさんこと畑正憲さんは“死”についての質問にこう答えていた。

亡くなる1年半前、ロングインタビューに答えるムツゴロウさん Ⓒ文藝春秋 撮影・鈴木七絵
亡くなる1年半前、ロングインタビューに答えるムツゴロウさん Ⓒ文藝春秋 撮影・鈴木七絵
この記事の画像(21枚)
 2023年4月5日、畑さんは自宅で倒れ病院へ緊急搬送され、心筋梗塞により亡くなった。取材当時、「死」について考えることが増えていたと語っていた畑さん。突然の訃報に日本中から驚きと悲しみの声が広がっている。


 ムツゴロウさんは1935年福岡市で生まれた。33歳の時に執筆した「われら動物みな兄弟」が注目され、本格的な執筆活動にはいる。37歳の時に北海道の浜中町に「動物王国」を建国し、動物との交流を描いたエッセイの執筆を始める。

「名エッセイストとしていくつもの賞を受賞していたムツゴロウさんでしたが、その名をお茶の間に広めたのは1980年から放送が始まった『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』でした。世界各国を飛び回り、動物とふれあうムツゴロウさんの姿にお茶の間の視聴者は夢中になり、平均視聴率は20%を超えました」(テレビ局関係者)

「僕が阿佐田さんに負けたという記録はどこかに残っていますか?」
 動物好きな印象が強いムツゴロウさんだったが、根っからのギャンブル好きでもあった。2021年に公開したインタビューでは、雀聖として知られる作家の阿佐田哲也氏との交流や競馬への愛を語っていた。

1983年頃、40代のムツゴロウさん
1983年頃、40代のムツゴロウさん
 北海道・中標津のログハウスでインタビューに臨んだ記者はその日のことをこう振り返る。

「一番ムツゴロウさんがイキイキとしゃべっていたのは競馬のエピソードでした。ご自身も草競馬でジョッキーをやっていたのですが、負けた時のことを『くぅ〜、悔しい!』と話す表情は少年のようでした。相当なギャンブル好きかつ負けず嫌いで『僕が阿佐田さんに負けたという記録はどこかに残っていますか?』なんて話していました。その時、阿佐田さんに勝って書かせたという借用書も見せてくれましたよ」


徹マンで負けたことがないと豪語したムツゴロウさんは、年末年始に11日連続で麻雀をしたという“武勇伝”も持っている。自分の小遣いはギャンブルで稼いでいたとまで語るその生き方はまさに破天荒という言葉がぴったりだった。

「打ち上げられたウミガメを食べた時の話をしてくれたのを覚えています。『あれはおいしかったですね〜』としみじみ語っていました。どうして食べたんですか、と聞くと『あれば食べるでしょ?』とさも当然のように言うんです。生き物というか自然との距離感が、ムツゴロウさんは普通の人と違ったんだと思います」(同前)

60年以上連れ添った妻・畑純子さんとムツゴロウさん
60年以上連れ添った妻・畑純子さんとムツゴロウさん
「飛行機も乗らないし、歌舞伎もいかない。タバコが吸えないからね」
 そんなムツゴロウさんを支え続けたのは妻の純子さんだった。2人は中学校の同級生で、当時から交際を続けて23歳で結婚。破天荒なムツゴロウさんとは対照的におっとりした性格だったという純子さんだが、ムツゴロウさんから影響を受けた部分も大きかったという。


「夫婦そろって相当なヘビースモーカーでインタビュー中もずっと吸っていました。純子さんはムツゴロウさんの影響で吸いはじめたようです。『飛行機も乗らないし、歌舞伎もいかない。タバコが吸えないからね』と言うほどの愛煙家ぶりで、ログハウスは木製なので、『寝たばこで火事』なんていうニュースにならないことをいつも祈っていました」(同前)

Ⓒ文藝春秋 撮影・鈴木七絵
Ⓒ文藝春秋 撮影・鈴木七絵
 当時の記事にも、タバコをくゆらせながら記者の質問に答えるムツゴロウさんと純子さんの姿が写真に収められている。取材に同行したカメラマンは、ムツゴロウさんの様子をこう振り返った。

「インタビューの日はいたって元気な印象でした。しゃべりもしっかりしていましたし、自分の足で歩くこともできました。6年前に心筋梗塞でドクターヘリで運ばれたことがあるとお話されていましたが、その後遺症のようなものは感じませんでしたね」

 当時86歳という年齢をカメラの前では感じさせなかったムツゴロウさんだが、その裏では加齢による心身の不調に悩まされていたようだ。

「調子のいい日と悪い日が交互にやってくるようでした。調子が悪い日は、何も思い出せないくらい記憶があいまいになってしまうと話していました。実は取材の前日にも『やっぱり明日の取材は難しいかもしれません』と相談の電話がありました。運よくインタビュー当日は調子が良かったようで、昔のこともよく思い出して話してくれました」(前出記者)

どこへ行くにも大型犬のルナはムツゴロウさんの傍を離れなかった
どこへ行くにも大型犬のルナはムツゴロウさんの傍を離れなかった
 記者の質問に対し、記憶を掘り起こすのに15秒ほど考えることもあったという。体力的にも衰えは隠せず、一度インタビューを中断してムツゴロウさんが横になって休憩することもあったようだ。


「ムツゴロウさんは東京大学理学部出身。戦後間もない時代の東大生ですからとんでもなく頭のいい人です。その明晰だった頭脳がだんだん昔のことを思い出せなくなったり、体がいうことを聞かなくなることに、本人はもどかしさを感じていたようです。どこか憂いているような、哀愁も感じました」

「自分は長く生きすぎた。もう十分です」
 着実に老いていく自分を、ムツゴロウさんは見つめていた。しかし、そこに不思議と悲壮感はなかった。長年、自然の中で命がけで動物と触れ合っていたムツゴロウさんにとって、死は特別なものではなくなっていたようだ。

ライオンに食べられた中指を楽しそうに見せるムツゴロウさん Ⓒ文藝春秋 撮影・鈴木七絵
ライオンに食べられた中指を楽しそうに見せるムツゴロウさん Ⓒ文藝春秋 撮影・鈴木七絵
「死や老いることについて、ムツゴロウさんはいろいろな話をしてくれました。その中でぽつりと『自分は長く生きすぎた。もう十分です』と漏らしたんです。YouTubeはまだ続けたいとおっしゃっていましたが、死については達観している印象でしたね。動物たちと一緒で、『自然に還るだけ』と考えていたようです」

 自分の名前にかけて656回まで続けたいと語っていたYouTubeの動画は104回目で更新が止まってしまっている。まだまだ、動物を愛するあなたの姿を見たかった、そう思わずにはいられない。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/621.html#c39

   

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