7. アラジン2[6373] g0GDiYNXg5My 2023年5月13日 07:44:33 : NibHqNFgMI : cXJSY1ltc1pwbUU=[1]
●シガスカオ
5つ星のうち1.0 同情はしないが、ちょっと可哀想かもしれない西岡のデビュー作。
2020年7月30日に日本でレビュー済み
阪神淡路大震災の年、当然世間は阪神淡路大震災の話題一色であり、この2月に起きたマルコポーロ事件は日本でホロコースト否認論がほぼ初めて大々的に取り上げられたという意味もあり多少は話題になったが、すぐにオウム真理教のサリン事件があり、世間的にはほとんどすぐに消え去ったような話題だった。
しかしパソコン通信やその後に続くインターネット上では論争は数年程度は続いていたようである。
さて、西岡氏はこう書く。
「近年、アメリカやヨーロッパで、「ホロコースト」の内容に疑問を抱人々が急速に増えつつある」
西岡は、英字新聞への常習投稿者だったらしい。おそらくそうした経緯から、欧米でホロコーストを否定する歴史修正主義がちょうどその1980年台後半にしばしば話題になっているのを知ったのであろう。確かに、1970年台から80年台にかけて、修正主義者は世間的に目立つようになっており、欧米のマスメディアでも結構な頻度で取り上げられるようになっていたようである。
しかし、そうした歴史修正主義の広がりは、自然発生的にホロコーストに疑問を持つ人が増えたからではなく、一つはフランス人の修正主義者であるリヨン大学教授だったロベール・フォーリソンによる、フランスを代表する新聞の一つであるルモンド紙にホロコースト否定の論文が載ったこと、もう一つはアメリカで歴史評論研究会(IHR)なるホロコースト否定の中心となる組織が米国の極右によって設立されたことにある。
これらがきっかけになって、フォーリソン裁判や有名なカナダの修正主義者を裁くためのツンデル裁判などが開かれるようになり、著名な英国の歴史家であるデヴィッド・アーヴィングが1980年台後半になってホロコースト否定派に転ずるような事態になって、欧米では随分とホロコースト否定の世界が騒がしくなっていったのだ。
こうした流れは、たとえば私自身が多少詳しい南京大虐殺論争の経緯と似ていて、南京の場合は、最初はジャーナリストの本多勝一とイザヤ・ペンダサン(山本七平)の論争に始まったようなものである。南京事件の場合も自然発生的に南京大虐殺を疑う人が増えたわけではない。
さて、この本は買ってもいないし、読んでないのでWikipediaにマルコポーロで主張したらしい、西岡氏の論文の要旨が載っているので、あっさり反論してみよう。
>まず、事実上全ての歴史家が認めているように、ヒトラーが「ユダヤ人絶滅」を命じた命令書は、今日まで発見されていない。それどころか、戦後押収された戦時中のドイツ政府公文書を読むと、「ユダヤ人問題の最終的解決」と言う言葉は、ユダヤ人の「絶滅」ではなく、戦後、ユダヤ人をソ連領内などに強制移住させる計画を指す用語だったことがわかる。
ヒトラーの命令書がないことは確かに事実上全ての歴史家が認めている。ヒトラーは別に全ての作戦に対し命令書を発行していたわけでもないが、「ユダヤ人絶滅作戦」のような大きな作戦に対する命令書がないことは確かに不自然に見えなくもない。
実際、ヒトラーの命令書が存在しないことにより、歴史家はユダヤ人絶滅が生じた経緯を最初はいわゆる、最初からユダヤ人絶滅計画があったとする「意図説」としていたのに、ドイツの歴史学者マルティン・ブローシャート(それより以前にラウル・ヒルバーグもほとんど同様のことを言っていたが)が複雑な官僚機構などの要因がユダヤ人絶滅を生じさせたとする「機能説」を唱えると、意図説はほとんど消え去ってしまった。もし命令書が存在したのなら、このような解釈変更はなかっただろう。
そして、確かにナチスドイツは、マダガスカル移送計画、ニスコ計画(ルブリン移送計画)、東方移送計画などを考えていた。これらの事実は、確かに「最初は」ユダヤ人問題の最終解決とはそれら移送のことを意味し、ユダヤ人絶滅計画などではなかったことを強く示唆している。
しかし、たとえば、隠語(コードワード)は頻繁に使われていたことがわかっている。要するに、ユダヤ人の殺害を「特別処置」、どこかへユダヤ人を強制移送して殺すことを「再定住」「疎開」などと明らかに言い換えている文書はいくらでも存在するのである。
それもユダヤ人虐殺が始まった当初には処刑とそれら言い換えが両方用いられている文書が多数あるくらいで、「特別処置」などの用語が「場合によっては」殺害の言い換えであることはあまりにも明らかなのである。「疎開」についてはユダヤ人絶滅作戦のきっかけでもあるとされる安楽死作戦(T4作戦)に関する文書にも登場するくらいなのである。
従って、マダガスカル計画等の移送計画を考慮していたからと言って、ユダヤ人問題の最終解決が必ず移送計画を指すとは言えない。「ユダヤ人問題の最終解決」とは、この文字通りのユダヤ人問題を最終的に解決することのみを意味し、何らかの確定した手段を意味しているわけではない。
ヒムラーは身内のみを対象としたポーゼン演説で「ユダヤ人の疎開とはユダヤ人の絶滅である」と演説している。明らかに言い換えである。アイヒマンら加害者側証言者も戦後にこれら言い換えがあったことを認めている。もちろん修正主義者の回答は「それらは偽証である」の一点張りである。
つまり、「ユダヤ人問題の最終解決」として最終的には、ユダヤ人の肉体的絶滅、すなわち虐殺を行うことになったのだ。それは、第二次世界大戦の進行事情と大きく関係している。マダガスカル移住計画はイギリスととの争いで制海権を奪えなかったからだし、マダガスカル島そのものも英軍に奪われてしまったので完全に頓挫した。
東方移送計画は言うまでもなく独ソ戦戦況の悪化で、実施不可能になった。ところが、第二次世界大戦開始から、各地からユダヤ人を移送して各所のゲットーに詰め込んでいたので、特にポーランド内のゲットーが酷いことになり、ナチスドイツ自身が手に負えなくなったのである。「一体こんなに詰め込んでどうするんだ?東方移送なんて無理じゃないか」のような声が各所から上がったりもした。
このユダヤ人問題の最終解決の中心を担ったのが、ナチス親衛隊であり、独ソ戦に伴い、ソ連占領地ではユダヤ人をパルチザンや共産主義者と同じとみなして殺しまくっていたので、その考えをポーランド以西のユダヤ人にも適用しようと考えるのは当然だったのである。これらの詳しい内容については「まともな」ホロコースト解説本を参照することをお勧めする。西岡本では絶対に学べない内容であることは確かである(笑)
>「ホロコースト」の内容は、戦後、二転三転している。例えば、戦後しばらくの間は、ドイツ南西部のダッハウ収容所には、アウシュヴィッツなどと同様、処刑用ガス室があり、使用されていたと説明されていた。ところが、或る時期から、ダッハウなど、ドイツ本国の収容所では、ガス室処刑は行なわれていなかったと言う内容に説明が変わっている。では、ダッハウのガス室に関する過去の「目撃証言」は、一体何だったのか?
簡単な話で、色々と研究が進んで、事実が徐々に明るみになっていっただけのことである。ダッハウに限定していうと、直接的な目撃証言は、囚人医師のフランツ・ブラーハのものしかなかった。これではダッハウでガス処刑があったと断定することは無理であろう。米軍は戦後すぐにダッハウのガス室での大量処刑を主張したようであるが、よくよく調べてみると裏付けがなかったのである。
ただし、一時期は確かに「ガス処刑はなかった」の旨、ダッハウ博物館では表示されていたようではあるが、今では無くなっており、ダッハウ博物館のサイトでは「実験的な処刑があった可能性がある」程度の説明がされているようである。ともかく、米軍がダッハウに入った時に、大量の遺棄死体があったのは事実であり、ガス処刑の話も戦時中からあったのだから、ダッハウには確かにダミーシャワーのあるガス室が存在したのだから、誤解してもやむを得なかった状況ではあったのだ。
一部修正主義者はダッハウの殺人ガス室を戦後の捏造だと主張しているようではあるが、それなら確実な文書資料や証言はもっとたくさん「捏造」されていても良さそうなはずなのに、それが存在しないのだから、捏造説は根拠薄弱と言っていいだろう。
>又、アウシュヴィッツについても、戦後間も無い時期には、「ドイツは、アウシュヴィッツで、ユダヤ人を火に投げ込んで殺している」と言う話が語られていた。このような話は、今は語られなくなっている。それでは、こうした語られなくなった話の「目撃証言」は、一体何だったのか?
戦後間も無くは証言者は嘘をついていたのが、しかしそれらはあまりにも嘘が明確なので、それらのことを言わなくなったに違いない、とでも言いたいのだろうか? だが、おそらく多くの証言者たちが色々なところで語り続けたに違いないので、西岡がそれを知らないだけだと思われる(笑)。
「ポーランドの戦争犯罪証言記録サイトに見る殺人ガスの証言証拠」なるタイトルで検索すると、いくつか火に投げ込んで殺していた話が出てくる。戦後すぐの証言ではあるが、戦後の裁判証言集のものなので仕方ない。が、現在公開されていて読むことができることの意味を考えてもらいたい。
>戦後、アウシュヴィッツで公開されている「ガス室」のなかには、ドイツ人用の病院の前に面しているものもある。これでは、死刑後青酸ガスを排気すると、向かいの病院のドイツ人達の生命が脅かされてしまう。場所と構造があまりにもおかしい。
修正主義者の中には、毒ガスの「濃度」の概念を持たない人が多い。今どき、ネットで調べるだけですぐわかるが、青酸ガスにはその濃度によって致死から無症状まで幅がある。修正主義者の代表格、フォーリソンなどは酷いもので、青酸ガスは引火するから危険なので使えたはずがない、とまで主張するが、引火濃度は56000ppmであり致死濃度は一般に300ppmであるから桁違いである。同じ毒ガスである一酸化炭素も引火性のあるガスであるが、ガソリン車は不完全燃焼すると一酸化炭素ガスが多くなるので爆発の可能性が増えて危険だから安全運転しましょう、だなんて話は聞いたこともない(笑)
いずれにしても、そのアウシュヴィッツ第一収容所のガス室は、病院から二十メートル程度離れた位置にあり、また青酸ガスの比重は0.95程度と空気よりも軽いので、問題があるとは考えられない。「文学研究者」のフォーリソンの主張を全く検証もせずに使うから恥をかくのである。
>「ガス室」の詳細を検討すると、換気扇がないし、ガスの素材であるツィクロンBを加熱するための装置もない。
第一収容所のガス室にもそこが死体安置所であった当時から換気扇はあったそうだが、詳細はよくわからない。しかし、第二収容所の火葬場2と3には十分な換気量の吸排気システムが備わっていたことは、西岡のマルコポーロ論文の発表の6年も前にあるフランス人薬剤師が明らかにしていた。
しかし、遺体搬送処理を行うユダヤ人囚人のゾンダーコマンドはガスマスクを使っていたので、多少気分が悪くなるようなことはあっても、致死的なことはなかったようである。なお、チクロンBの青酸ガスの沸点は25.6度だが、アルコールがそうであるように氷点下ですら揮発性はそれなりに高かったため、処刑使用には問題はなかったであろう。
>ドイツは、アウシュヴィッツの発疹チフス発生に非常に気をとがらせていた。ヒムラーは、アウシュヴィッツ収容所の責任者に「死亡率は、絶対に下げなければならない」と言う指示を出してもいた。このような命令は、言われているような「民族絶滅」と両立する命令であろうか?
確かに、厳密に言えば両立しないが、ユダヤ人囚人を強制労働にも使っていたため、それら労働力は必要だから使用していたのだから、「登録囚人」の死亡率を下げる必要はあった。だから登録囚人には病院もあった。しかし、アウシュヴィッツ到着時にユダヤ人は選別を受け、労働力にならないと判断された子供、老人、病人、怪我人、障害者、子供がいなくなると生きる気力を無くす母親などは登録囚人とならずに即日、ガス室で殺されたのである。これがユダヤ人の75%に達した。
なお、アウシュヴィッツ博物館のフランシスチェク・ピーパー博士の研究によると、アウシュヴィッツには130万人も移送されたそうだが、囚人登録数は40万人しかいなかった。残り90万人は一体どうなっているのだろうか? また囚人生存数は他の収容所などに移送された人数を含めて二十万人程度しかいなかったそうである。囚人登録者においても実に半数が死亡したことを示している。
>ドイツが最も占領地域を広げた時でも、そこに居たユダヤ人は、400万人以下だった。それなのに、なぜ、「600万人」を殺せるのか? 等。
多分これはのちに西岡も誤りを認めていたかと思うが、ドイツ支配下にはおよそ950万人のユダヤ人がいたことが現在ではわかっている。
以上、本書の主張のごく一部でしかないとは思うが、間違いだらけであることは確実である。西岡は欧米の修正主義者たちの主張しか使っていなくて、独自の主張はおそらく皆無だとは思うが、ある意味、欧米の修正主義者に完璧に騙された人なので、このレビューのタイトルにも記したように、同情はしないが可哀想ではある。
*************************
日本にいる歴史修正主義者が海外にもいるそうです。
そしてこの本を肯定している人々のレビューを見ると、
「同様に南京事件も慰安婦問題も捏造!」と主張している人が多い。
そのように、この本を肯定している人々に、胡散臭い人々が多いのが残念。
なんか初歩から間違ってるんじゃないの? という気もします。
戦争体験者が亡くなることで、事実が忘れ去られ修正されていく事が残念。
私は子供のころ、近所のご老人から、
「度胸試しと命令されて、民間人を殺した」と聞いたことがあります。
「戦後の戦争犯罪人の取り締まりで、自分も逮捕されるんじゃないかと怖かった」と。