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[戦争b26] 19世紀からロシアの破壊を目論んできた英国の支配層がウクライナの戦争で浮上(櫻井ジャーナル) 赤かぶ
55. 銀の荼毘[1187] i@KCzOS2lPk 2025年3月16日 16:36:08 : 77XR5SB0oI : cWJpSnl5UGwva1E=[1]
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>エカテリーナ2世は、ヨーロッパからドイツ人、ポーランド人、イタリア人、ギリシャ人、セルビア人などの入植者を新たに征服した土地に招いた。
そして、後に東部地域に住む人々は、よりロシア寄りの傾向になった。

これは🟰まったくの虚偽である。


まず,ドネツク・ルガンスクの歴史において🟰これは、従来のロシア帝国・旧コサック(ドン/ザポリージャ問わず)どちらもが🟰そこに価値を認めて主権を主張して来なかった領域である。


1ドネツク/ルガンスクの起源

クリミア戦争の後↓

↑ イギリス人JJヒューズなる人物は🟰ロシア帝国政府からバルト海のクロンシュタットに増設中だった海軍要塞の装甲板(plating)の注文を受けた。


1-2
ヒューズは帝政ロシア政府からその地域に金属工場(metal works)を設立する許可を受け🟰1869年にはロシアの政治家セルゲイ・コチュベイ(宰相ヴィクトル・コチュベイの息子)からアゾフ海の北側に一片の土地を取得した。

1-3
ヒューズは資本を集めるために「新ロシア会社」( 'New Russia Company Ltd.' )を設立↓

↑1870年の夏55歳🟰ロシア帝国に移住→彼は8隻の船に金属工場の設立に必要なすべての機器のみならず🟰多くの熟練工(大部分が南ウェールズ出身の製鉄工と鉱山技師で約100人の集団だった)↓

↑彼は直ちにカルミウス川畔のアレクサンドロフカ(ロシア語: Александровка)村付近の地点に金属工場の建設↓

↑最新式の工場は8つの高炉と完全な生産サイクルの能力を有し←1872年最初の銑鉄を製銑した↓

↑1870年代を通じ🟰炭鉱と鉄鉱石鉱山が採掘され🟰孤立した工場を自給自足可能な産業企業体へと→煉瓦工場その他の施設が設立された↓

↑彼は更に鉄道レール製造工場を建設した。ヒューズのすべての施設群は「Novorussian society for coal, iron and rails production」の下に所有され↓

↑ヒューズの工場は🟰工場労働者の社宅街として発展してきた住宅地に(ユゾフカ)の名前を与え↓

うえそのユゾフカの町は急速に発展し🟰ヒューズは個人的に病院・学校・入浴施設・喫茶室・消防隊およびアングリカン教会(守護聖人聖ジョージ・聖デビッドに捧げられる)を提供↓

↑金属工場の周囲の土地は急速に発展し、地域の産業と文化の中心になった(ヒューズが創設した都市の人口は最盛期100万人を超えていた)。

1-4
これが🟰ドネツク/ルガンスクの起源だ。


2その後の🟰ドネツク/ルガンスクの主権

2-2
続く20年以上にわたって🟰工場は繁栄し発展し↓

↑ ヒューズは1889年6月17日にサンクトペテルブルク への出張でアングレテーレ・ホテルに滞在中に死亡↓

↑彼の遺体は埋葬のため即座にイギリスへ送還された。

2-3
ヒューズ没後

19世紀の終わりまでに🟰工場はロシア最大となり→1913年までには全ロシアの鉄の74% を生産するようになった🟰20世紀初頭の沈滞の数年間に続いて→第一次世界大戦中の拡張期がやってきた↓

↑ジョン・ヒューズに付き従った多くの男達はユゾフカに住み🟰妻や家族を増やした↓

↑長年にわたり地域人労働力は会社によって訓練されていたが🟰イギリスから来た熟練労働者は継続的に雇い入れられていた。

2-4
多くの技能的、技術的、管理的ポジションはイギリス(特にウェールズ)からの移住者で占められていた。

2-5
これが🟰ドネツク/ルガンスク在住の人々の🟰主たる血統である。

2-6
ドネツク/ルガンスクに住む人々とは🟰経営層がイギリス人血統(アングロサクソン)
🟰労働層は→非コサック層なのだ。

2-7
ドネツク/ルガンスクは🟰19世紀後半のロシアに在って🟰最も繁栄した外国居住者のコミュニティが確立され↓

↑彼らは良質な社宅に住み,英語教育がなされる学校とアングリカン教会を提供されていた,寒い冬/暑い夏および時に起こるコレラの流行にもかかわらず,移住者とその家族達は長年ユゾフカに住み続けた。


3ソビエト化による変化

3-2
1917年の十月革命でヒューズ家と工場との関係は途絶えた。

3-3
ヒューズ兄弟と大部分の外国人従業員はイギリスに帰国した🟰従業員は現地に留まり,その子孫達は今でもドネツィクに暮らしている↓

↑工場は1919年にボリシェヴィキに接収された。

1924年🟰ユゾフカの町はスターリンの街という意味の(スターリノ)に→更に1961年ドネツィクに改名された。

工場は生き延びて繁栄し🟰ドネツィクは冶金産業の主要な中心地であり続けている。


4正式なドネツク/ルガンスクの地位

4-2
ソビエトとは🟰ロシア帝国と何の関係も無い/むしろロシア帝国のすべてを否定する(グローバル政治機構)である。

4-3
レーニンはハンガリー人だし,
スターリンはジョージア人,
ディミトロフはブルガリア人,
ジノヴィエフはウクライナ人(ユダヤ人・非コサック),
トロツキもウクライナ人(ユダヤ人・非コサック)
※原則コサックはロシア正教徒なので,ユダヤ人と言えば非ロシア正教徒であり🟰コサックではありません。


ざっと🟰これが,荒っぽいが→ウクライナ東部の開発史だ。


5その後

5-2
ウクライナ東部とは🟰イギリス人がクリミア戦争敗戦国のロシアから↓

↑植民地的に🟰英国資本に総督に類する地位を委ね↓

↑三国協商のイギリス・フランス側陣営として🟰イギリス人支配層を中心に開発された🟰東洋における満州のような土地。


ドネツク/ルガンスクは🟰主権者だったイギリス資本を追い出し↓

↑新たな支配者となった→ロシア人だがドネツク/ルガンスクの現地労働者の親分として,書記長の地位に登った(フルシチョフ)の意向で🟰明確に🟰ウクライナの一部となった。

5-3
だから🟰ドネツク/ルガンスクが🟰正当な手続きで,ロシア共和国の主権を有さず,ウクライナ共和国の版図で有ることに,何の問題も無い。

5-4
そこに住む人が🟰もともとロシア人というのは当たらない🟰むしろ,どうしても血統を言えというなら🟰プーチン派のドネツク/ルガンスク支配層はイギリス人である。



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