1. 中川隆[-12269] koaQ7Jey 2023年10月17日 20:18:25 : aOjtqc6aW2 : cmZkSmZNa1ZYQzY=[1]
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は砂漠の民の宗教なので、人口を増やさない様に性行為に対して厳しい戒律を課しているのです。人口が増えると全員餓死するので、何とか子供を増やさない様にしているのです。
聖書の原罪というのは知恵の実を食べて神と同じ知恵を得たというのではなく、男女がセックスする事を知ったという事です。
LGBT問題というのは同性愛を正式に認めるという事ではなく、出産に繋がらない快楽だけを目的とした性交を認めるという事なのです。 実際、レズビアンや肛門性交の方が通常の男女間の性交より快感が強いので、そういう快感だけを目的にした性交を認めろという事です。
キリスト教やユダヤ教は性を敵視する宗教で、性を出産目的以外には認めないのですね。
ヨーロッパでも1974年の映画「エマニエル夫人」が出るまではそういう状況だったそうです。
エマニエル夫人は、ただの映画でも、ただのポルノでもなかった。時代が求めているものを表現したものだった。巧みな宣伝と、シルビア・クリステルの美しさと、映画全編に流れる美しい音楽すべてが相乗効果を発揮していたとも言える。
実は、「エマニエル夫人」には、美しさの裏に大きな「毒」が仕掛けられていた。多くの人たちは映画「エマニエル夫人」の奇妙な物語の裏側に何が隠されているのか、その意図を知ることもないし、見ることもない。ただ、シルビア・クリステル演じるエマニエル夫人が、性的に解放されていくという部分のみに目を奪われてしまっている。
つまり、欧米女性の性意識を180度変えた「エマニエル夫人」はキリスト教の性道徳を否定するレズビアン映画だったのです。LGBT というのは「エマニエル夫人」の次の段階の反キリスト教道徳の運動です:
「女性はもっと奔放に性を楽しむべきだ」という部分の起爆剤になったのが、シルビア・クリステルの「エマニエル夫人」だった。
1970年代の女性たちはこの映画で、シルビア・クリステルに導かれるように「性を謳歌する」道を歩み始めた。だから、この映画は「映画」として重要なのではない。「社会史」として重要なものだったのだ。
最初の映画に仕組まれていた「毒」とは何だったのか?
(答えは、エマニエル夫人が,レズビアンの方が男女間の性交よりも遥かに気持ちいいのに気付いたという事なんですね)
エマニエル夫人は、ただの映画でも、ただのポルノでもなかった。時代が求めているものを表現したものだった。巧みな宣伝と、シルビア・クリステルの美しさと、映画全編に流れる美しい音楽すべてが相乗効果を発揮していたとも言える。
彼女のあとにも様々な女性がエマニエルを演じたし、エマニエルの亜流もまたたくさん作られた。しかし、そのどれもが興行的に失敗しているし、歴史の風雪を乗り越えることもできなかった。 実は、エマニエル夫人も「エマニエル夫人」「続エマニエル夫人」「さよならエマニエル夫人」と立て続けに作られたが、強い影響力を持って覚えられたのは、最初の「エマニエル夫人」だけだった。
なぜなのか。
実は、原作をなぞって作られた最初の映画には、美しさの裏に大きな「毒」が仕掛けられていたからだ。その「毒」は、原作を読んだ人間だけが知っているものだ。その「毒」を表現していたのが、まさに最初の一本だったのである。「続エマニエル夫人」と「さよならエマニエル夫人」は、ただヒットに釣られて作られた映画であり、原作の持つ「毒」はそこに表現されていない。
いったい、この最初の映画に仕組まれていた「毒」とは何だったのか。
本当のエマニエル夫人の裏にあるものを知らなければ、何があったのか、何も分かっていないのと同じだ。答えはこの図が示しているものだ。
多くの人たちは映画「エマニエル夫人」の奇妙な物語の裏側に何が隠されているのか、その意図を知ることもないし、見ることもない。ただ、シルビア・クリステル演じるエマニエル夫人が、性的に解放されていくという部分のみに目を奪われてしまっている。
しかし、エマニエル夫人を取り巻く男たちの言動はとても奇妙で、異様な哲学を持っている。その哲学は、現代になってもまだ実現していない先進性を持ったものである。そして、その一見、奇妙に見える哲学の裏側にあるのが、「毒」だったのだ。
毒のあるリンゴであっても、とても美しければ食べてみたくなる。時代は毒リンゴを求めていて、だからエマニエル夫人はその象徴となった。
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