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[近代史4] 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落する 中川隆
8. 2020年10月03日 06:10:46 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[1]
世界最大のヘッジファンド: ドルが下落したらアメリカは終わり
2020年10月2日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11762


引き続き世界最大のヘッジファンドを運用するレイ・ダリオ氏のブログ投稿をフォローしよう。

覇権国家と輸出の増加

ダリオ氏はコロナ以後、オランダ海洋帝国や大英帝国を含む覇権国家の勃興と凋落を分析してきた。

世界最大のヘッジファンド: オランダ海洋帝国が繁栄した理由
世界最大のヘッジファンド: 量的緩和で暴落した世界初の基軸通貨
世界最大のヘッジファンド: 大英帝国の繁栄と衰退
世界最大のヘッジファンド: 大英帝国の基軸通貨ポンドはいかに暴落したか
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11762

そして今ダリオ氏の話は現在の覇権国家、アメリカへと移っている。イギリスの覇権がアメリカへと移ったのは世界大戦の頃である。ダリオ氏は次のように説明する。

2度の世界大戦を通じてイギリスの輸出は落ち込んだ一方、アメリカの輸出が増加した。(それがアメリカを豊かにした。)

覇権国家が覇権国家になる兆しがあるとすれば、先ず輸出でお金を稼ぎ始めることだろう。アメリカもそうやって大国となってきたのである。

しかし1970年代からアメリカの輸出が振るわなくなり、アメリカは金本位制を放棄して紙幣を印刷しなければならなくなったというのが前回の記事までの流れである。アメリカのGDP比純輸出(輸出から輸入を引いたもの)の長期チャートを掲載してみよう。


下落の長期トレンドがあったのが分かる。アメリカは貿易でお金を失っているのである。

戦前には大きな貿易黒字を誇っていたアメリカは徐々に黒字を縮小し、丁度アメリカが紙幣の印刷を始めた1971年のニクソンショックの辺りから貿易赤字に転落、その後赤字を大きく増やしていった。ニクソンショックによるドル暴落については以下の記事でダリオ氏が説明している。

世界最大のヘッジファンド: 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落するとき
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11685


貿易赤字の意味

貿易が赤字ということは国家は資産を失っていっているということである。それはアメリカの対外純資産(アメリカが持つ他国の資産から他国に負っている負債を引いたもの)のチャートを見れば分かる。


現代では誰もが紙幣印刷にはコストがないと思い込んでいるが、これこそが紙幣印刷のコストである。アメリカは物凄い勢いで資産を失い続けているのである。

基軸通貨ステータス

普通、国家がこういう状況に陥ればその国の通貨は暴落する。ドルはドル円が360円だった時代から考えれば50年間暴落し続けてはいるのだが、それでも先進国としてまともな物価を維持しておりジンバブエのようにはなっていない。

それはなぜか? アメリカの通貨ドルが基軸通貨で、世界中で使われているからである。世界中で使われる通貨には買い手が常に存在する。買い手が存在する通貨は暴落しないのである。

ダリオ氏は次のように言っている。

自国の通貨を印刷してそれを世界に認めさせる能力、世界の主要な準備通貨を持つ国(特にアメリカ)だけが持つ能力は国家が保有できるもっとも価値の高い経済力である。

同時に、十分な外貨準備を持っていない国(現在のアメリカの立場)が基軸通貨の立場を持たない場合、その国は経済的に非常に脆弱になる。

つまり、米国は「世界通貨」を印刷できるために非常に強力な立場にあるが、それはドルが基軸通貨のステータスを失えばアメリカは危機に立たされるということを意味する。

つまりはドルが基軸通貨であったお陰でアメリカは赤字を垂れ流しても大丈夫だったということである。

結論

しかし大半の人が忘れているのは、それは天井なしの拡大のできるものではないということである。負債が増えてきた状況は世界大戦時のイギリスに似ている。イギリスはそれでもまだ大国だった。しかし戦費もあり膨大な負債を抱え、徐々に凋落していった。

アメリカも今はまだこれまでに築いた国内資産のお陰で対外資産が目減りしても耐えているが、どんな大国でも資産は無限ではない。そして資産が豊富にあったとしても、資産が滝のように流れ落ちてゆくのは良いことではない。


したがってアメリカの凋落は徐々に来るだろう。この対外純資産のチャートはそのカウントダウンをしている。そうした長期的凋落がダリオ氏の危惧するシナリオなのである。

個人的にはダリオ氏のアメリカ凋落予想は長期的には妥当なものに思える。どの国も永遠には繁栄しないからである。

一方でダリオ氏はその代わりに中国の台頭を予想しているようだが、果たしてそれはどうだろうか。ダリオ氏の中国の見方もまた取り上げたいと思っている。

世界最大のヘッジファンド: 中国が覇権を握りドルは基軸通貨でなくなる
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10592


https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11762
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1039.html#c8

[近代史4] 中川隆 _ ホラー映画関係投稿リンク 中川隆
7. 2020年10月03日 06:30:42 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[2]
黒沢清 トウキョウソナタ(ピックス 2008年)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1068.html

黒沢清 岸辺の旅 (ポスプロ 2015年)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1073.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/193.html#c7

[近代史4] 黒沢清 岸辺の旅 (ポスプロ 2015年) 中川隆
1. 2020年10月03日 06:35:59 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[3]
幽霊の夫に寄りそう妻の旅路『岸辺の旅』黒沢清監督(1/4)
2015.10.01
http://filmers.jp/articles/2015/10/01/post_4/


死んだ夫によりそう妻。夫婦が辿る心の旅はどこへ向かうのか?
映画『岸辺の旅』黒沢清監督インタビュー

2008年『トウキョウソナタ』で第61回カンヌ国際映画祭「ある視点部門」審査員賞を受賞した黒沢清監督。その手腕は海外でも評価が高く「もう一人のクロサワ」とも言われています。そんな黒沢清監督が手がけた最新作が10月1日(木)から公開される『岸辺の旅』。

作家・湯本香樹実さんの同名小説が原作の今作は…3年の失踪の後、幽霊となって帰って来た夫と、ずっと夫の帰りを待っていた妻が、共に旅をする中でお互いの愛を確認していくという不思議な物語。第68回カンヌ映画祭「ある視点部門」で監督賞を受賞している注目作。まずは、作品の見どころについて、監督の死生観とともにお聞きしました。

死んだ夫と妻が共に未来に向かって進んでいくところがユニーク
ーーー今作は小説が原作となっていますが、あらためて、なぜこの作品を映画化しようと思ったのですか?

作品に感銘を受けたということが大きいです。正直、死んだ誰かが戻ってくるという設定はよくあると思うんです。でも、そういう作品って、過去に戻ってその人が生きているうちに解決しちゃうというものが多いと思うんですけど、この作品のユニークなところは、死んだ夫と妻が共に未来に向かって進んでいくというところだと思いますね。

ーーー普通死んだ人は過去の存在になりますが、それが未来へ進むというのは不思議な感じがしますね

過去に戻るっていう手法も決してダメではないんですけど、映画ではあまり面白くないんですよね。お客さんは、物語の先がどうなるのかを楽しみに見るので、過去に戻っても、それまであった事の説明にしかならないんです。

ーーーたしかにあまりドキドキ感は出ないですね

ただ、この『岸辺の旅』では、死んだ夫と妻が共にどういう未来を築けるのか? 生きている者と死んでいる者とが、お互いの境目を乗り越えていくという、奇想天外ではあるけども、前向きな勇気を持てる気がしました。

死んだら何も無くなってしまうという考えはちょっと乱暴
ーーーホラー映画でも評価を得ている黒沢監督ですが、ご自身は、人間は死ぬとどうなると思いますか?

う〜ん、そこはまだ死んだことがないので、さっぱりわからないけど…でも、死んだら何も無くなってしまうというのはちょっと乱暴で、想像力に欠けてしまう気がします。そう結論づけちゃうのは簡単ですけど、要は何も考えてないってことですよね。そこで、幽霊という存在を仮定してみると、死んだ後も人間は何かになっているって可能性が広がるわけです。それが恐ろしいモノならホラー映画になるし、いろんな幽霊の在りようを考えるってことは、死んだらどうなるのかというのを模索するのと同じなんですよね。

ーーーそれぞれの人が考える幽霊像もいろいろありそうですね

だから結局、僕がどうなるかってことをはっきり言えるわけじゃないけど、死んだらどうなるのかっていうのは、人々が考える幽霊の在りようによって、いろんな可能性があるのではないかと思います。

ーーーこの作品に出てくる幽霊は、いわゆる“うらめしや〜”というドロドロしたものとは違って、生きている人間にかなり近い雰囲気で描かれていますね

そうですね。これまでのホラー映画などでも、生きている俳優を使って幽霊を演じてもらうというのは通してやって来たんですけど、そんなに不自然さを感じないことは実証済みだったので、そこはあまり躊躇なくできました。

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©2015「岸辺の旅」製作委員会/ COMME DES CINÉMAS

幽霊は靴を履いているか?
ーーー生きている人間に近い雰囲気で現れる幽霊。演出で迷うことはなかったんですか?

なかったですね。おそらく、初めて幽霊を扱う作品を撮る人だと、いろいろ迷ったと思います。幽霊なのに足があってもいいのかなとか、半透明にしなきゃいけないのかなとか、白い服を着てないとマズイかなとか。でも大丈夫なんです。この作品では、俳優にごく普通に演じてもらって、実は幽霊ですということを思いっきりやらせてもらいました。

ーーー幽霊役の浅野忠信さんには足があって、最初に登場するシーンでは家の中なのに靴を履いていました

靴をめぐる二人のやりとりは実は原作にはないオリジナルのところで、幽霊描写の典型だと言っていいでしょう。浅野さんが何の前触れもなく、突然家の中に現れるという時点で、妻役の深津さんからすれば、夫はもう幽霊なんだと認識する。ただそのシーンで注意すべきは…突然家に現れる幽霊って靴を履いているものなのか履いていないのか? ここが考えどころだったわけです。わかりますかね?

ーーーどうすればリアルな幽霊になるかってことですね

もし西洋が舞台なら何の迷いもなく靴を履かせればいいので悩まなくて済むんですけど、日本ですからね(笑)。もし脱いでいるとしたら、靴はどこにあるのか? 玄関にあるのか? …そう考えたら、ここは履いたまま現れた方が自然かなと思って靴を履かせました。

ーーー靴を履いて現れた幽霊の夫に対する深津さんも“リアルな妻っぽい”反応してますよね

そうです。ここで妻はまず、夫に対して「靴脱ぎなさいよ!」って注意するんです。おそらく内心では、突然現れた夫に多少の怖さも感じてると思うんです。でも、家の中にいるのに靴を履いているってことの方が気になるから、まずは「脱ぎなさいよ」と。それがリアルかなと。

ーーーそのやりとりだけで、夫は幽霊なんだけど、夫婦の関係は世間一般と変わらないという世界観が一発でわかりますね
http://filmers.jp/articles/2015/10/01/post_4/

伝説のギャグ誕生秘話『岸辺の旅』黒沢清監督 (2/4)
2015.10.03
http://filmers.jp/articles/2015/10/03/post_12/

撮影の合間に知った伝説のギャグ誕生秘話

幽霊となった夫と妻が未来に向かって旅をする、ちょっと不思議な物語。前回は作品の見どころから、黒沢監督の死生観などを語ってもらいました。今回は、この独自の世界観を見事に演じた俳優の方たちと現場でどんなやりとりがあったのか? お話を伺いました。小松政夫さんのあの有名なギャグ誕生秘話も明かしてくださいました。

とても自然に夫婦役を演じてくれた二人
ーーー幽霊になった夫と、それに寄りそう妻という一見難しそうな設定ですが…浅野忠信さん、深津絵里さんの演技はいかがでしたか?

撮影現場はいたってスムーズでした。僕も特に演技指導みたいなことはしてないです。2人とも映画っていうものがどういうものかわかっていますから。撮影に入る前に少しだけ、こういう狙いですって話をしましたけど、あとの細かい言いまわしとかは2人がそのままごく自然に演じきってくれました。

撮影の合間にギャグで盛り上げてくれた小松政夫さん
ーーー脇を固めた俳優のみなさんはいかがですか?

他の俳優さんも本当にスムーズに演じてくれました。特に小松政夫さんなんかは、撮影以外のときもギャグで盛り上げてくれましたし。良い意味でくだらないことばっかり言ってましたよ。

ーーー楽しそうですね〜

小松さんのことは、僕も昔からテレビで見ていてファンだったので嬉しかったです。


ハラホロヒレハレ誕生秘話
ーーー小松さんのファンだったんですか?

そうなんです。それでせっかくなので、今回の撮影の合間に、小松さん本人に「ハラホロヒレハレ」っていう有名なギャグはいつ思い付いたのか聞いてみたんです。

ーーーファンとしてはまたとないチャンスですよね。どんなキッカケだったんですか?

誕生した時期は、小松さんが谷啓さん(*注)の付き人をやられていたときらしいんですけど谷啓さんが麻雀のパイを引くときに有名な「ガチョーン」を言いながら引いていたらしいんです。そのとき谷さんが小松さんに「お前も何か言ってみろ」って言ったらしくて、そこで小松さんは咄嗟にパイを引きながら「ハラホロヒレハレ〜〜」って言ったのが最初だったらしいです。

(*編集部注釈/谷啓(たに・けい)=昭和を代表する大人気ジャズバンド「ハナ肇とクレイジーキャッツ」のメンバー)

ーーーほぉ〜、いわゆる無茶ブリから生まれたギャグだったんですね

ものすごく感動しました(笑)
http://filmers.jp/articles/2015/10/03/post_12/


巧妙なフィクションの定義とは?『岸辺の旅』黒沢清監督(3/4)
2015.10.05
http://filmers.jp/articles/2015/10/05/34/


『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で感じた映画の可能性
撮影の様子から、小松政夫さんのギャグのルーツまで…なかなかレアな話も飛び出した前回のインタビュー。今回は、黒沢監督御自身のルーツを探るべく、影響を受けた映画作品についてお聞きしました。

今でもよく見直す作品は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
ーーー前回、小松政夫さんのファンだったというお話が出ましたが…好きな映画ってありますか?

いろいろありますが、あまり大昔のことを語っても面白くないと思うので、僕にとってはそう若くないときに影響を受けて、今でもけっこう見直している作品を言うと、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』です。あれが世に出た頃には僕も大人になって、映画も撮っていたんですが、そのときに観た面白さは、号泣しかかりました。

話はくだらないんだけど…泣きそうになる
ーーー号泣しかけるって、すごい衝撃だったんですね!

映画でこんなに泣きそうになるもんなんだなって思いました。何度も見直す中で、これは良くできてるなあってカットごとにわかるんですよ。正直、話自体はくだらなくて、こんな話でよく面白くなるなって感じなんですけど、あそこまで見事に作られると面白いんだなと感動しました。

ーーー観るたびに映画人として発見がある感じですか?

あれを見るまでは、映画を作る上では、物語のレベルとか、人間の感情のレベルとか、深みとかに、何か強烈なものがないと面白くならないんじゃないかという先入観があったんですけど、そうじゃなくても良い映画は作れるんだなと思いました。そこには監督の意志とセンスと巧妙な計算を強く感じました。そこで、僕にもそういうものを作りたい、できるかもしれないという勇気をもらいましたね。

ーーーやはりプロが見ると違った発見があるんですね

もちろん世界的に大ヒットしたという、多くの人に通じているという凄みや説得力もありましたけどね。

1カットでさりげなく見せるカッコよさ
ーーー黒沢監督が特にすごいなと思うシーンはどこですか?

例えば…マイケルジェーフォックスが演じる主人公マーティが恋人と話したあと、また明日会おうって言って別れるシーンがあるんですけど…じゃあねって言ったあと、走って来た車にぱっと手をついてスケボーでサーッと行くんです。それが1カットで撮られてるんですけど、そこがカッコイイなと思いました。

ーーー入念なリハーサルを重ねたことに気づかせないさりげなさはかっこいいですね

今ならCGを使っていろいろできると思うんですけど、昔のものですから。本当に女の子と話しているシーンから車に手を着いてサーッと行くところまで全部ちゃんとやってるんですよ。まあ今でも、トムクルーズならやるかもしれないですけど(笑)、マイケル・J・フォックスもきっちり実行している。そういう周到な準備が必要なカットを至るところでやってるんです。そこに感動しました!

ーーーでも、ボクは完全にスルーしているシーンでした

シーンとしては何気ないところなんです。そんなところでもちゃんと本人が実際にやっているところを見せているんですよね。次のシーンでも、マーティがスケボーで走ってきて、階段のところで止まってポンッと蹴り上げて手に持って行くなんて、しびれますね。カットを割ってしまえば簡単にできるのかもしれないですけど、それを本人に練習させて、あくまで1カットでやらせているわけです。こういうところが面白い映画の秘訣、演出のツボなのかなと思いました。

ーーーぜひ今度、そういう目で『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を見直したいと思います!

変な言い方ですけど、巧妙なフィクションは極めてドキュメンタリーに近いってことだと思いました。
http://filmers.jp/articles/2015/10/05/34/

戦争映画を撮ってみたい『岸辺の旅』黒沢清監督(4/4)
2015.10.07
http://filmers.jp/articles/2015/10/07/44/

いつか撮ってみたい戦争映画
プロならではの視点で、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のすごさが語られた前回のインタビュー。最後となる今回は黒沢監督が、今後、撮ってみたい、撮らなきゃ『岸辺の旅』みたいに化けて出ちゃうかも(?)という映画についてお聞きしました。

一度は戦争映画を撮ってみたい
ーーー今後、こんなジャンルの作品を撮ってみたいな〜という題材はありますか?

う〜ん、ものすごく漠然としてますが、一度は戦争映画を撮ってみたいですね。

ーーーなにかイメージをお持ちなんですか?

まだそういう企画があるわけではないので、具体的にどんな話なのかを話すのは難しいですが、戦争状態という場ですかね。それは本当にあった太平洋戦争の話なのかもしれないし、SFものの戦争かもしれないし


人間は戦場でどのように戦い、逃げ、勝ち、負けるのか
ーーーいろんな設定が考えられますが、どんなことを切り取りたいですか?

いずれにせよ非常に重たいテーマになっていくと思うんですけど、戦場の中で人間はどのように戦うのか、逃げるのか、勝つのか、負けるのかというところですかね

ーーー戦争によって追い込まれた人間ドラマを描きたいということですね

僕はスピルバーグも好きなんですけど、スピルバーグとかはそればっかりやってますよね。もう隙あれば戦場を撮りたいという人ですよね(笑)

『岸辺の旅』の中でも、揺れ動く人の心に注目
ーーー黒沢監督の戦争映画、ぜひ楽しみにしています!最後にあらためて『岸辺の旅』の中では、どのように人の心が描かれているのか、一言お願いします!

そうですね、旅そのものはたんたんと過ぎていきますが、死んだ夫と妻、2人の感情は物語が進むにつれ、大きく揺れ動いていきます。きっと観ている方も心がジェットコースターのように揺れ動かされるのではないかと思いますので、どうか振り落とされないように注意しながら見てください。

http://filmers.jp/articles/2015/10/07/44/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1073.html#c1

[近代史4] 黒沢清 岸辺の旅 (ポスプロ 2015年) 中川隆
2. 2020年10月03日 06:48:47 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[4]
宮台真司の『岸辺の旅』評:映画体験が持つ形式のメタファーとしての黒沢作品
https://realsound.jp/movie/2015/10/post-299.html

まさにザ・クロサワ・ムービー

 今回は黒沢清監督『岸辺の旅』(10月1日公開)を取り上げましょう。まず結論から言うと、彼の原点である『CURE』(1997年)から続くモチーフを反復しながらも、後味がすこぶるよろしいという意味で、万人に勧められる映画だと思います。
 
 その一方で、革新的な作品が選出される、カンヌ映画祭の「ある視点」部門で、監督賞を受賞した理由も、よく分かります。つまり、黒沢清作品によく触れている人間からすると、「いつもの前衛的な黒沢ホラーだ」と思える作りでもあるのです。
 
 実は僕、「感動的な映画だった」という人が多いので、「感動的な文芸作を撮るなんて、 堕落したのか」と、観るのに勇気が要りました(笑)。でも、観てみたらいつもの黒沢清でした。それなのにいつもの難解さがなくて、分かりやすい映画であるのに驚きました。

 本作は、湯本香樹実による同名小説の映画化です。失踪した夫・優介(浅野忠信)が3年ぶりに妻・瑞希(深津絵里)の元に突然帰ってきて、3年前に自殺したのだと告げます。そして、夫婦で、幽霊になった夫の3年間の遍歴をたどり直す旅に出ることになります。

謎解きに到るロード・ムービー

 この映画の最初で最大の謎は、「なぜ優介は3年も経ってから妻に会いに来たのか」ということでしょう。妻が大切ならば、すぐ会いに来るはずです。普通に考えれば、妻という存在の優先順位が相対的に低かったのだ、ということになってしまいそうです。
 
 観客はその疑問に引っ掛かりながら映画を見続けることになるはずですが、映画が進むにつれて、妻が大切でなかったのではない、逆に大切だからこそ妻に会うためには3年の遍歴が必要だったのだ、ということが分かってきます。その意味で、謎解きの映画です。。

 妻は、夫が失踪した理由をどうしても知りたいのです。理由がわからないうちは宙づりの状態に留め置かれて、普通に生きていくことができません。冒頭、彼女がピアノ教室で女の子を指導する場面で、妻が魂を失った抜け殻のように生きていることが示されます。
 
 実は、そうした妻の悩みと、夫が死んだ理由とが、関連していることが分かってきます。夫・優介は、大病院に勤めるエリート歯科医で、周囲からは何不自由ないように見えています。でも実際は本当の自分が何者かということが分からぬまま、フワフワと生きていた。
 
 その事実が「オレ、なんで歯医者なんかやってたんだろう」という優介の回顧的台詞で示されます。発作的自殺(海への飛び込み)の原因が何であれ、死んでからやっと、生前にはやりあぐねていた自分探しの旅を、一人きりで始めることになったということです。

 初老の新聞配達員の店、夫婦で切り盛りする食堂を経て、最後に山村の農園家族を訪ねて村人を相手にした私塾で宇宙の始まりや終わりについて話すようになります。彼は自分がそういう話がしたかった人間なのだという事実を知り、自分探しの目標を達成します。

 3年の旅の最後に、長らく曖昧だった自分の輪郭を掴んだ。だから妻の元に戻るのです。旅の3年がなければ、優介は自身の死を妻に納得させられなかったはず。そして、その3年間を妻と一緒に辿り直す「岸辺の旅」を通じて、自分が何者であったかを妻に示すのです。

映像的快楽と実存的快楽の結合
 冒頭に話したように、本作では、黒沢作品に一貫するモチーフが最も分かりやすく示されます。この社会においては、誰しもが輪郭がぼやけ、相手が何者なのか、自分が何者なのかすら、皆目分からず生きている−−そうした不全感が黒沢作品の出発点になります。

 そして、結末がハッピーエンドかバッドエンドかに関係なく、「ようやく“自分”にたどり着いた」と思えた地点で映画が終わります。今回もそうです。僕は原作を知りませんでしたが、黒沢作品にピタリと合う原作をよくもハンティングできたものだと思いました。

 「分かりやすい」と言っても、黒沢作品としてはの話。黒沢監督はハリウッド映画をヌーベルバーグ的な意味で−−トリュフォーやゴダールのように−−愛する映画マニアです。だから「映像を使って想像させること」を好む一方、「映像で説明すること」は極端に嫌います。

 映画が指し示す虚構が360度丸い輪だとすると、黒沢作品に描かれるのは所々が欠けた輪です。観客は欠けた部分を補いつつ映画を見ます。見えない全体を想像する映像的快楽が、主人公同様に観客にとっても「自分をたどる旅」に重なって実存的快楽を与えます。

 その意味で、夫婦揃っての辿り直しの旅の最初に、優介が世話になった初老の新聞配達員を訪ねるのですが、幽霊男である新聞配達員が、思いを遂げて消えると同時に、周辺が廃墟に変わる場面が大切です。黒沢ファンであれば「待ってました!」となるところです。

 「黒沢作品だからいつも通り廃墟が必要だ」というサービスもありますが(笑)、この場面で主人公夫婦が見ていた光景は幽霊が見せたビジョンだったという事実が分かった結果、論理的に、その後のエピソードの全てが幻かもしれない、ということになるのが重要です。

 本作が素晴らしいのは、最初のエピソードに於いてだけ幻だったことを示した後、それを繰り返さないところ。過剰な説明をしない。だから観客は「何かおかしい」という違和感を伴うビジョンに敏感になり、誰が幽霊なのか分からない不安感で胸が苦しくなるのです。

 これが実存的快楽ならぬ映像的快楽です。映像を見つつ、あれはああなのか、これはこうかと想像が触発されます。全体として安定した構図に収まらない映像モチーフの集合があり、観客は自分で何かを補わない限り、安定した体験が得られないようになっています。

 表象つまり「見えているもの」が何なのかが宙吊りにされ、そこから安定した虚構を想像するための映像的な謎解きが要求されるのです。この映像的快楽に彩られたコストを支払うことの見返りが、観客自身にとっての自分発見という実存的快楽だという仕掛けです。
https://realsound.jp/movie/2015/10/post-299.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1073.html#c2

[近代史4] 黒沢清 岸辺の旅 (ポスプロ 2015年) 中川隆
3. 2020年10月03日 06:50:27 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[5]
続き

黒沢十八番の通過儀礼モチーフ

 その事実が象徴するように、黒沢作品のコアモチーフを一言でいえば「イニシエーション=通過儀礼」です。通過儀礼は「離陸して、カオス体験をして、着陸する」という3段階から成り立ちます。そして、着陸面が、離陸面とは必ず異なっていることが大切です。

 本作では、深津絵里演じる妻が、夫の自死がもたらした「夫は何者だったのか、二人の関係とは何だったのか」が分からない不全状態から、「離陸」して、夫の死後の旅を辿り直す「カオス」体験を経て、望みがかなったがゆえに安定した状態へと「着陸」します。

 「離陸→カオス→着陸」の3段階は、妻のピアノ教師としての振る舞いが、辿り直しの旅を通じてどう変わったかによっても、示されます。先に紹介した冒頭シーンでは、女生徒に対する指示も杓子定規で、「リズムはあなた自身なの」という言葉も空虚に響きます。

 嫌味を言う女生徒の母親も不快ですが(笑)、彼女が良いピアノ教師でないのも確かです。それが中盤、食堂の挿話で幽霊の女児にピアノを教える場面では、「自分の好きなリズムで弾いていいのよ」という言葉も生き生きとし、女児の演奏も素晴らしく見違えます。

 そのことで、彼女が旅を通じて回復途上にあり、来たるべき着陸面が幸いに満ちたものだろうは予兆されます。とても分かりやすいぶん、説明的だとも言われかねない描写です。でも、女児か幽霊だというモチーフの御蔭で気が散らされて(笑)、気にはなりません。
 
 生徒が弾くピアノという楽器の鳴りが、彼女の通過儀礼の進行段階を示すというのは良いアイディアです。そうした展開はたぶん原作に忠実なのだろうと思いますが、分かりやすいものの、決して押し付けがましさがなく、うまく演出されているな、と思いました。

黒沢作品の本質は昼メロドラマ
 思えば、こうした通過儀礼モチーフは、60年代の昼メロや、70年代のピンク映画や日活ロマンポルノに頻出しました。平凡な女が、カオスを経験し、日常に戻る。見たところは以前と何の違いもないが、女は日常を再帰的に輪郭づける能力を獲得している−−。

 実は、黒沢作品は昼メロなのです。ただし、着陸面が、社会から遠く離れたところに設定される作品が多かった。『CURE』や『カリスマ』などが典型です。形式上はバッドエンドになるので、ホラー作品になります。だから、一見したところ昼メロには見えません。

 ところが『岸辺の旅』では、着陸面が、珍しく社会そのものなので、昼メロやピンクや日活ロマンポルノに、あからさまに近い構造です。黒沢監督は初期に日活で『神田川淫乱戦争』(1983年)を撮りましたが、今回は久々にピンク映画的な着陸をしたのです(笑)。

 ピンク映画的な着陸とは、雨降って地固まるで、最後がセックス場面で終わるのが定番です。今回もラスト直前がセックス場面でしょ(笑)。主人公の女が、カオス−−昼メロの“メロメロ”パート−−を経て、元の鞘に戻る。見掛けは以前と同じでも、心は違うって。

 昼メロ・パターンを最初に洗練させたのが、今村昌平監督『赤い殺意』(1964年)だと思いますが、それが昼メロを超えて日本映画の王道モチーフになりました。その意味で、“ザ・ジャパニーズムービー”を観たという満足度の高さが『岸辺の旅』にはありました。

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不完全な表象からの全体の想像
 『岸辺の旅』は俳優の演技も素晴らしかった。夫を演じた浅野忠信が魅力的でした。彼にしかできない演技だったと思います。浅野はもともと、役柄の幅が広い人物ではない。今作でもまさに、浅野忠信そのものでした(笑)。それがなぜよかったのかを申します。

 「自分探しをする男」を表現する上で、外見や佇まいが、あからさまにメンヘラに見えてしまえば、演出的には恥ずかしい作品になったはず。人間、外から見た印象はどうあれ、心はいろいろです。内面に相応しい外見や佇まいをしていることなんて実際には稀ですね。

 そもそも論から言えば、外見からメンヘラぶりが分かるなら、妻が夫に死なれて動転することが不自然になります。地位も収入もあり、周囲から見て自分の人生に満足していそうに見えることが重要です。その点、浅野はハマリ役で、そういう役作りをしていました。

 お気づきのように、幽霊の役なのに浅野はいつもよりふっくらして、肌の色つやもよかった。メンヘラ的な佇まいの対極でした。それを含めて、黒沢監督は、浅野忠信のいつもどおりの演技であれば、反メンヘラ的な描き方ができると考えたのでしょう。成功です。

 特に、彼が演じた夫を魅力的だなと思わせたのは、終盤、山村にある農園の家族を訪ね、村人全員を相手に、アインシュタインや宇宙の始まりや終わりについての講義をするところ。本作における浅野忠信の出色の演技です。本当に魅力的な人物だと感じさせました。

 自分探しをしていた歯医者が、宇宙について講義をするなんて、意外どころか異様です。なのに、一瞬後にはまったく意外ではないと観客を説得しきってしまう。そういう演技をしていました。これは浅野忠信じゃなければ到底できなかった仕事ではないでしょうか。

 妻・瑞希役の深津絵里も良かった。序盤、抜け殻のような人格をうまく演じていました。冒頭のピアノレッスンの場面では、オーラも表情も硬く、生徒である少女の母親が指摘していたようにドン臭い。世界の奏でる調べに対して閉ざされる風情をうまく演じていた。

 それが旅の途中、食堂の挿話で、幽霊の少女にピアノレッスンする場面では、表情が一変します。瑞希が見違えて回復しつつあることがうまく表現されていました。そうでなければ、「思いが遂げられる」というラストが、まったく説得的でなくなっていたはずです。

 「思いが遂げられる」とは、夫が何者であったのか彼女なりに想像できるようになることです。不完全な表象−−切れ切れの輪−−から想像を完成させることへの主人公の「思い」が、先に話した黒沢監督ご自身の映画への「思い」とシンクロすることに注意しましょう。
https://realsound.jp/movie/2015/10/post-299_2.html


蒼井優の「演技」を超えた「演出」
 公開前から妻との対決場面が話題になっていた、優介の不倫相手を演じる蒼井優も注目です。岩井俊二監督『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)に出ていた高校生時代を思えば、いろんな経験を経て、ああいう「演出」ができるようになったのだなと感慨深い。

 あれは「演技」を超えた「演出」です。僕は黒沢清監督と個人的に付き合いがありますが、彼はかねて「自分は女が分からないという劣等感がある」と語っておられます。だからラブアフェアー(色ごと)の演技は役者にお任せになるのだともおっしゃっておられました。

 それもあって、あのシーンは蒼井優が「演出」したのだと感じました。「最初はジャブで、その後パンチの応酬で……」と、形式を伝えたことを監督自身が新聞の取材で明かしています。形式にどんな内容を盛り込むのかを、蒼井優が決めたということですね。

 黒沢監督と以前お話ししたとき、お任せした俳優の演技によって形式に内容が盛りつけられたとき、「そうなるのか!」とシーンの意味が発見される瞬間が、演出の快楽なのだと語っておられた。今回その快楽を味わえたのが、この対決シーンだったろうと思います。

 不意にアップにされる彼女の表情が怖く、まさにホラーです。その結果、奇しくも黒沢作品っぽくなりました。他方、新聞には、性行為を生々しく描いたことが黒沢清の新しい挑戦という趣旨が書かれていました。“生々しい”とは思わなかったけど、良い演出でした。

 説明しましょう。僕は黒沢作品というと、昼メロ的ということと、監督の恥ずかしがりが刻印されていることを、思い出します。今回はラブシーンを子細に演出して映像化するのが恥ずかしかったわけです。だから、マジガチのベタではなく、絡め手から責めました。

 それが、衣服を一枚一枚、という演出になるわけですが(笑)、この過剰な恥ずかしがりぶりこそが、先ほど申し上げた「説明よりも想像を」という黒沢モードと、元来とても相性が良いのです。その意味で、ラスト近くの情事場面はよくできていたと感じました。

『向日葵の丘』と『岸辺の旅』–断片的表象からの想像の完成–
 『岸辺の旅』はこのように優れた作品でしたが、この映画との共通性という観点から、二つの作品を紹介してみます。一つは、太田隆文監督『向日葵の丘 1983年・夏』(8月22日公開)です。これには誰が見てもあからさまに『岸辺の旅』と重なる部分があります。

 常盤貴子演じる売れないシナリオライターのもとに、故郷で暮らす高校時代のクラスメート(田中美里)から、30年ぶりに連絡があります。難病で余命数ヶ月だと手紙で知らせてきたのです。常盤貴子は悩んだ末に、30年ぶりの帰郷を決意し、映画が始まります。

 悩んだのは、高校時代のトラウマゆえでした。仲良し3人組の映画サークルで作品を撮ったものの、父親の理不尽な妨害により映画館で上映することができなかったという出来事。それがきっかけで、3人の間がギクシャクし、ほどなく疎遠になってしまったのです。

 難病のクラスメートが密かに抱え持っていた完成版フィルムを、30年前に上映予定だった映画館で上映することになります。『岸辺の旅』と同じ「過去にやり残したことを完遂する」という形式です。かくて「思いを遂げられた」というハッピーエンドになります。

 両方に共通して、「思いを遂げる」とは内容的には「過去にやり残したことを、やり切る」というものです。しかし踏み込んで言えば、形式的には「切れ切れの表象から、納得できる想像を完成させる」という、そもそも映画体験自体が持つ形式に関連しています。

 同じ時期に「切れ切れの表象から、納得できる想像を完成させる」ことをモチーフとする映画が2本出て来た。偶然かもしれませんが、僕は社会学者なので、もうかすると偶然ではない理由があるかもしれないと考えます。それは、ある種の願望なのかもしれません。

 注意深く見てほしいのですが、僕のこうした願望自体が「切れ切れの表象から、納得できる想像を完成させる」というモチーフを反復します。思えば、僕のこうした願望は近年ますます強くなってきています。そのことが、偶然ではない理由に関連しているでしょう。

 僕たちの日常は埋めがたい不全感に満ち、数多の理不尽や不条理に宙吊りになったままに死んでいく。だからこそ、できることなら、全ての理不尽で不条理な「表象」の断片がつながって「思いが遂げられる=納得できる想像が完成される」瞬間があってほしい⋯⋯。

 そうした理不尽や不条理は「表象」というより、身も蓋もない端的な「事実」でしょう。だからこそ、それらがもっと大きな「事実」の現れ−−「表象」−−であってほしいと願う。それが人というものの摂理だと思います。事実そういう願望を多くの人が持っているはずです。

 身も蓋もない端的な「事実」としての理不尽や不条理がかつてなく「見える化」しつつあるのが先進各国の現在です。その感覚が作家を突き動かしている可能性があると睨んでいます。想像の完成がもはや不可能だからこそ、想像の完成を望むということだと思うのです。

 想像を完成したにせよ、想像に対応する大きな「事実」−−隠れたる神−−が存在するかどうか保証の限りではない。そうした感覚も増進しつつあります。でもこれも同じで、だからこそ、人々は想像の完成を想像するのではないでしょうか。初期ロマン派的な発想です。

 そこまで踏み込むかどうかは別にして(笑)、いずれにせよ、僕らがいま何を不可能だと思っているのかということが、「思いを遂げる」ことを主題とした2つの映画の共通性から炙り出されるだろうと思います。それを皆さんが御自身で言葉にしてみてください。

『ナイトクローラー』と『岸辺の旅』−−演技を超えた演出が映画を変形−−
 もう一本、『岸辺の旅』と共通するモチーフを含む最近観た映画が、ダン・ギルロイ監督『ナイトクローラー』(8月22日)です。これはB級っぽい作品ですが、傑作です。しかし、これを御覧になった方は、どこが『岸辺の旅』と共通するのかといぶかるでしょうね。

 人脈も学歴もなく、仕事が得られずに困っているルイス(ジェイク・ギレンホール)が、たまたま事故現場に遭遇します。そこで、撮影した衝撃的な映像をテレビ局に売る「ナイトクローラー」=報道パパラッチの姿を目撃したところから、映画はスタートします。

 ルイスは警察無線を傍受し、事件や事故の現場に駆けつけては過激な映像を撮り、多額の報酬を得るようになります。やがてテレビ局の要求はエスカレートし、主人公は特ダネを求めるあまりに常軌を逸した行動に走るようになった挙げ句⋯⋯堂々成り上がります。

 えっ? 最後に成り上がって終わり? あり得ない。後味のわるいトンデモ映画です(笑)。ジェイク・ギレンホールは役作りで3ヶ月間に12キロ痩せたそうです。鏡を叩き割るというアドリブで手を血まみれにして42針縫う大怪我を負ったというエピソードもあります。

 とにかく演技が凄かった。あまりに凄かったので、監督の意図はマスメディアのスキャンダル合戦についての社会批判だったはずなのに、映画全体が、社会批判から、都市伝説的ホラーへと変形してしまった(笑)。これは明らかに意図せざる帰結だと思います。

 ギレンホールが演じる主人公がバケモノになり、社会のど真ん中に座っているのに誰も気が付かない−−。この都市伝説的ホラー(恐怖)は、監督が当初想定していたものを超えているはず。途中からホラーにすべきだと気づき、演出に切り替えたことはあり得ます。

 蒼井優の「演技」を超えた「演出」が『岸辺の旅』を一瞬ホラー映画に変えたのと同様に、ギレンホールの「演技」を超えた「演出」が、映画全体に及ぶ形で強力かつ大規模に展開したものが『ナイトクローラー』なのです。こうした意図せざる帰結も映画の快楽ですよね。

(取材=神谷弘一)

■宮台真司
社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。

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[近代史4] 黒沢清 岸辺の旅 (ポスプロ 2015年) 中川隆
4. 2020年10月03日 06:55:29 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[6]
カンヌ国際映画祭「ある視点」監督賞受賞作
2015.09.29
黒沢清、『岸辺の旅』インタビュー ジャンル映画から解放された、新境地を語る
https://realsound.jp/movie/2015/09/post-225.html

 あの黒沢清がラブストーリーを撮ると、こんなにもスリリングで怖い作品になる! 今年のカンヌ映画祭ある視点部門で日本人初の監督賞を受賞した『岸辺の旅』は、「夫婦の愛」を描いた普遍的な感動作でありながら、黒沢作品でしかあり得ない目が眩むような映画的興奮に満ちた作品となっている。なにしろ、その夫婦の片方である夫があっけなくこんな告白をするところから、物語は始まるのだ。「俺、死んだよ」。

 『岸辺の旅』は幽霊の夫と、夫が幽霊であることを受け入れた妻、その二人の文字通り「旅」の映画だ。しかし、黒沢監督は「ロードムービーというほどおこがましいものではない」と言う。その真意はどこにあるのか? そして、『岸辺の旅』を特別な作品としている最も重要なファクターとは何だったのか? (宇野維正) 

「自分はロードムービーを撮るにはまだまだ未熟」

——今回の『岸辺の旅』という作品は、これまでの黒沢清作品のエッセンスが濃密に入っていながら、これまでの黒沢清作品とはまったく異なる新たな感覚に満ちている、非常に興味深い作品でした。ご自身としては、これまでのフィルモグラフィーの流れの中で今作をどのように位置付けているのでしょう?

黒沢清(以下、黒沢):客観的にそれを自分で説明するのは難しいのですが、一にも二にもこの原作に出会えたことが大きかったと思います。かなりの部分、原作に沿って撮影した作品で。もしそこにこれまで自分がやってきたことのエッセンスが入っているとしたら、自分の作品の延長上に表現できる要素がこの原作にあったのだと思いますし、これまでとは異なる新しい要素があったとしたら、それもこの原作にあったものだと思います。それが、ちょうど均等に混じっていたのかもしれませんね。もっとも、そんなことを思ってこの原作を映画にしようと思ったわけではないですけど、撮影をしていくうちに、多分そういうことなんだろうとわかってきました。今回、不思議なくらいやりやすかったんですよ。やりやすかったのに、「こんなシーンを撮るのは初めてだな」「こんなセリフが自分の作品に出てくるのは初めてだな」と、気づかされることが多かったですね。

——確かにベッドシーンとか、これまでの黒沢さんの作品でほとんど記憶にありません。

黒沢:そうなんですよ(笑)。

——初めてという意味で、最も強く意識したのはどういう部分ですか?

黒沢:撮影に入る前からわかっていて、一番ビクビクしていたのは「旅」の映画だということです。ロードムービーというほどおこがましいものではないにせよ、場所が次々と移り変わっていく。主人公の2人は変わらないんですけど、ある時がくると2人は突然他の場所に移動して、風景も登場人物もガラッと入れ替わる。「果たして、これが『旅』に見えるのだろうか?」という不安がありました。でも、普通だったら大変なことになるような状況でも、毎回都合のいいところで舞台が移動して、またゼロから語り始めることができる。そういう意味で、「旅」という形式はとても都合がいいということに、撮影に入ってから気がつきました。「旅」だったらいろんなことが許されるんだって。それは、とても新鮮な体験でしたね。

——「ロードムービーというほどおこがましいものではない」とおっしゃったように、この作品では移動の過程をカメラに収めることにはあまり執着してませんよね。

黒沢:それは試行錯誤したところだったんですよ。移動中の2人もちょっと撮ってみたりもしたんですけど、移動の過程というのが一番撮るのが難しく、また作品全体の中でどう扱えばいいのかという点でも難しかったんです。というのも、日本国内ですからね。移動といっても、その距離も時間も風景の変化も知れているわけですよ。

——なるほど。砂漠の真ん中をオープンカーで走るわけではない(笑)。

黒沢:そうです。まぁ、沖縄から北海道に行くとかだったら、まだ描きようもあったのかもしれませんが、この作品では電車やバスで本州のそんなに離れてないところを移動するだけなので。それなりに撮ってはみたんですけど、本編で使っているのはごく僅かなシーンだけです。そういう意味では、自分はロードムービーを撮るにはまだまだ未熟なんでしょう。どうやったら登場人物たちの移動をおもしろく、印象的に撮れるのかというのが、まだよくわかってないのかもしれません。

——そもそも、日本でロードムービーを撮るのは難しい?

黒沢:特に、交通網がこれだけ発達して、どこに行くのもあっという間に行けてしまう現代が舞台の場合は難しいのかもしれませんね。
https://realsound.jp/movie/2015/09/post-225.html


「『岸辺の旅』はジャンルから解放された作品」
https://realsound.jp/movie/2015/09/post-225_2.html

——これまでの作品との違いで自分が最も興味深かったのは、黒沢作品における役者の存在感でした。過去の作品においては、もちろん大変素晴らしい役者の方々が出演されてきたわけですが、どこか、役者が作品の一つの部品のような印象があったんですね。でも、浅野忠信さんは今回が初めての黒沢作品ではないですが、『岸辺の旅』では浅野さんも深津絵里さんも、これまでになく自然に、自律性をもってスクリーンの中に存在していて、それに驚かされました。

黒沢:そこに関して自分で何か特別なことを意識した記憶はないのですが、そう指摘されて思い当たることがあるとしたら、この作品がジャンルから解放された作品だったからだと思います。やっぱり僕は、ホラー映画を撮る時はホラー映画の型のようなものを、サスペンス映画を撮る時はサスペンス映画の型のようなものを、どうしても最初に意識してしまうんですね。「悪いけど、この型に合わせてほしい」と。それがちょっとでも合わないと、全部が崩れてしまう。だから、俳優の方にはなるべくそれに合わせてもらうようにお願いしてきました。でも、今回の『岸辺の旅』は特にジャンルのない話なので、俳優の方が自分で考えてカメラの前で自由に演技をされている部分についても、僕が何の抵抗もなく受け入れることができたからだと思います。

——『トウキョウソナタ』(2008年)や『ニンゲン合格』(1998年)も、ある意味ではノンジャンルと言えるような作品でしたよね? それらの作品との違いはどこにあったのでしょう?

黒沢:そうですね。そうやって、時々はノンジャンルの作品を撮って、ちょっとホッとしたいという気持ちがあるんですよね。その中でも、今回は特にうまくいったんじゃないでしょうか。今回は主演の2人が最初から最後まで出ずっぱりで、それだけ演技をするという意味でも2人にとって集中できる下地ができていたからかもしれません。何よりも、浅野さんと深津さんの演技が素晴らしかった。それに尽きると思います。

——傍目からは、ある時期までの黒沢監督はオリジナル脚本に非常にこだわっているように見えました。でも、最近は原作ものが続いてますよね。

黒沢:『トウキョウソナタ』から『贖罪』(2011年)まで、制作期間でいうと約5年間、ほとんど作品が撮れない時期がありました。いろいろと企画を進めてはいたんですけど、どれもうまく実現までたどり着かなかった。『贖罪』を撮ったことで「あぁ、こいつは原作ものもやるんだな」って思ってもらえたのか、それからようやく、原作の映画化の話がいくつか来るようになりました。自分としては、正直言っておもしろきゃなんでもいいんですよ。ただ、小説を読んで「これは映画にしたらおもしろそうだ」というものにあまり出会えてこなかった。というよりも、そんなにマメに小説を読んでこなかった(笑)。映画のネタを考えるために小説を一生懸命読み漁るよりは、自分で話を考える方が手っ取り早いやとずっと思ってきたんです。だから、オリジナルにこだわってきたというよりは、それが自分にとっては自然なことだっただけです。

——映画監督が、必ずしも読書家とは限りませんからね(笑)。

黒沢:はい。僕はまったく読書家じゃないので。むしろ、つまらない小説を読むのは苦痛で。映画だったら寝ているうちに終わるのに、小説は自分で読み続けなくては終わらない。それを考えただけでゾッとしますね(笑)。

——自分は今回の『岸辺の旅』を観て、これは黒沢監督が脚本を書いた『回路』(2000年)の続編のような作品だと思ったんです。『回路』が「人間はいつでもあっちの世界に消えてしまう可能性があるんだ」ということを描いた作品だとしたら、今回の『岸辺の旅』は「人間はいつでもあっちの世界からふっと戻ってくる可能性があるんだ」ということを描いた作品のような気がしていて。

黒沢:はい(笑)。

——もちろん作品のテイストはかなり異なりますが、そういう意味でも、原作ものでありながら、『岸辺の旅』はどこからどう観ても極めて黒沢監督的な作品だなって思ったんです。

黒沢:いや、間違いなく、『回路』があったから今回の作品があったとも思いますし、『回路』だけでなく、いわゆるホラー映画というジャンルでこれまで自分がやってきたこと、生身の俳優を使って死者、幽霊をいろんなかたちで表現してきたからこそ、この原作を読んだ時に、何のためらいもなく「これはいける」と思うことができたんだと思います。多分、ホラー映画を作ったことがなかったら、この原作をどう映像化していいのかわからなかったと思いますね。幽霊がごく当たり前にそこにいるって、どういうことなんだって。「半透明にするのか?」だとか、「足はあるのか?」だとか、バカなことに引っかかってなかなか進めなかったんじゃないかって。普通の俳優が普通に演じていて、それで十分通じるということを、確信を持って描くことができたのは、これまでのホラー作品での経験があったからできたわけです。
https://realsound.jp/movie/2015/09/post-225_2.html

「隙あらば、またホラー映画を撮ってみたい」
https://realsound.jp/movie/2015/09/post-225_3.html

——この映画はホラー映画ではないですけど、怖いか怖くないかで言ったら、やはり怖いんですよね。自分は二回観たんですけど、不思議なことに二回目の方がそれを強く感じました。

黒沢:そうですね。そこはごく自然にそうしました。生きている方の主人公である深津さん演じる瑞希にとっては、いくら旦那が幽霊であることを受け入れられたとしても、死そのものを克服することは大変な作業なわけです。目の前に死者が現れたら、それは怖いだろうと。ホラー映画ではないので、幽霊を特別に怖いものとして表現することはしませんでしたが、主人公にとってはショックなものでもあり得るはずで、そこはなるべく自然に表現しました。

——ホラー映画の場合、死を描いたとしても作り手の死生観や宗教観って、やろうと思ったらある意味全部チャラにできるじゃないですか。でも、『岸辺の旅』のようなヒューマンドラマ、ストレートドラマの場合、特に海外の観客からそこの部分を深読みされるんじゃないかとか、そういう不安はなかったですか?

黒沢:舞台が日本ですから、日本以外のなにものでもないわけですが、日本古来の宗教観であったりとか、風習のようなものは、可能な限り排除しようとは思いました。そこは、実はかなり苦労したところで。きっと、日本の土着的な死生観にもっと根付いたような作品の方が、海外の観客は喜ぶし、それを必死で探そうとするんですよ。だから、意地でもそういうものにはしたくなかった(笑)。それと、ささやかながらこれまで自分が撮ってきたホラー作品を観ている観客も海外にはいるので、そういう点でも今回の作品は想像以上に素直に受け止められたように思います。

——最近のハリウッドやヨーロッパのホラー映画を観ていて気づかされるのは、黒沢監督をはじめとする日本の監督が90年代から00年代にかけて撮ってきたいわゆるジャパニーズホラー作品の数々は、同時代においても海外の観客から支持されていましたが、ここにきて改めて、世界中の若い監督たちにかなり強い影響を及ぼしているなってことで。

黒沢:そうですね。ずっと「ささやかながら」とは思ってはきましたけど、本当に一つの表現として定着していることに自分も気づかされています。それはホラー映画だけじゃなく、それこそ最近のフランスのまじめな映画を観ていても、普通に幽霊が出てきたりして、おそらく10年前だったら失笑を買うだけだったんでしょうけど、それが今では普通のものとして観客から受け止められるようになっている。それは、あの時代のジャパニーズホラーの力だったと自負しています。まぁ、何よりも、ハリウッドまで行った中田秀夫さんと清水崇さんの力が大きいんですけど(笑)。自分も、隙あらばじゃないですけど、またホラー映画を撮ってみたいという思いはあります。

——ほぉ!

黒沢:ただ、もういろいろやっちゃっているんでね(笑)。どうやって新しいものを見せることができるのかというのは悩みどころではあるんですけど。今ではホラー映画の主流にもなった、これも日本の鶴田法男が先駆者だったわけですが、POV作品とかは、まだ自分は一回もやってないので、チャンスがあればこっそり挑戦してみるのもおもしろいかな、なんて思ってます(笑)。

(取材・文=宇野維正/写真=下屋敷和文)
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[近代史4] 黒沢清 岸辺の旅 (ポスプロ 2015年) 中川隆
5. 2020年10月03日 07:12:37 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[7]
岸辺の旅:黒沢清監督に聞く 演技に対する方向性が真逆だった主演の深津絵里と浅野忠信
2015年10月04日映画


 カンヌをはじめとする海外の映画祭で、その作品が高く評価されている黒沢清監督の最新作「岸辺の旅」が全国で公開中だ。今年のカンヌ国際映画祭・ある視点部門で日本人初の監督賞を受賞した話題作。「怪談映画」や「ホラー映画」のイメージが強い黒沢監督だが、今作は夫婦の究極のラブストーリーに仕上がっている。黒沢監督に、カンヌ受賞の感想や作品について、さらに主演の深津絵里さん、浅野忠信さんの演技について、たっぷりと聞いた。

 ◇初めての夫婦のラブストーリー

 映画「岸辺の旅」は、湯本香樹実(ゆもと・かずみ)さんの小説が原作。浅野さん演じる“死んだ”夫・優介と、深津さん演じる妻・瑞希が、優介が生前世話になった人々を訪ね歩く、2人の“旅”を描いている。

 ――まず、カンヌ国際映画祭での監督賞受賞の感想をお聞かせください。

 カンヌ映画祭に呼ばれるだけでも大変な名誉ですから、結果として受賞できたのは本当にうれしかったということに尽きるのですが、結構、心臓に悪いといえば悪い(笑い)。カンヌ映画祭というところは呼ばれるだけならいいんですが、へたに受賞しようものなら、それまで褒めていた人たちから結構厳しい批判が来たりするという非常に残酷な映画祭なんです。今回も、受賞したらジャーナリストの方たちがものすごく反発したらどうしようと結構緊張した授賞式でした。ただ、幸い何も起こらず皆さん祝福してくれたので、ほっとしたというのが正直な感想ですね。

 ――黒沢監督にしては珍しい夫婦のラブストーリーですね。

 もっと恐ろしい事件が起こったりして、それに直面するのが夫婦で、という作品はこれまで何度かありましたけど、そういう大それた事件が起こるわけではない、本当に2人の関係だけに焦点を絞った作品というのは初めてだと思います。

 ――初めて挑まれたのは、原作に生と死のつながりが描かれていたからですか。

 そうですね。ホラーですと、怖くしなければいけないという制約があったのですが、今回はそうする必要がまったくない中で、生きている普通の俳優に死者を演じてもらうことによって、どこまで生と死の関係を深く追求できるかと。もちろん原作の力があったからですが、とてもやりがいのある仕事でした。

 ◇やっぱり出ちゃった“悪いくせ”

 ――優介が村人たちに宇宙について語り掛ける場面が印象的でした。

 個人的に割と宇宙の話とか、物理学とかは嫌いではないのです。最先端の科学や物理学のようなものは、結構、「生と死」みたいなものに踏み込んでいるので、それがこの映画のテーマでもあり、いろんな方向から踏み込ませていただきました。ですから優介のあの講義は、僕の趣味も入っているんですが、興味のない方には何を言っているかさっぱり分からないと思うんですが(笑い)、自分ではとても満足しています。

 ――先ほど、「怖がらせる必要はなかった」とおっしゃいましたが、原作にはない描写として、死者が暮らしていた家が一瞬にして廃虚と化したり、この世に未練を残す死者が現れたりと、黒沢監督らしさが出ていたように感じました。

 出ちゃいましたかねえ。悪いくせですねえ。すきあらば怖がらせてやろうと思うんでしょうか(笑い)。狙っていたわけではないんですが、瑞希は生きている人間ですから、いくら(死んだ)優介がいるとはいえ、死はやっぱり、ときに恐ろしいもの。ときに衝撃的であったり不可解であったりするものでもあると。そのようなものをまったくなく死を描くことも、また偏っているなと思うのです。その人が本当は生きていなかったんだという事実を目の当たりすると、その瞬間、生きている瑞希は衝撃を受けるだろうと思いまして、そういう描写にしたんですが、ちょっとやり過ぎたかな……(笑い)。

 ――“死んだ”優介と生きている瑞希の距離感が絶妙でした。今回初めてシネマスコープサイズ(シネスコ。縦横比1:2.35)で撮影したのも、そういった効果を狙ったからですか。

 そのようにおっしゃってくれればうまくいったのかなと思うんですけど、シネマスコープサイズは深く考えて選んだわけではありません。人間が1人だとスタンダードサイズ(同1:1.33)もいいのですが、2人だと、ビスタ(同1:1.85)が映画のサイズとして一番いいとかねがね思っていました。でも、いつの間にかビスタサイズがテレビのサイズになってしまったんですね。それで今、テレビでやらないサイズって何だろうと考えたら、スタンダードかシネスコしか選択肢はない。スタンダードは昔やったことがあり、それに戻ろうとは思わなかったので、どうなるか分からないけど勉強だということで、無理やりシネスコに突入していきました。ですから、ワンカット、ワンカット悩みながら、2人の距離感がこうなるのか、ビスタとだいぶ違うなと試行錯誤しながら進めていきました。

 ◇自然体の浅野忠信と作り込む深津絵里

 ――深津さんと浅野さんの魅力はどのようなところですか。

 最初から予想はしていたものの、このお二人、このぐらいの年齢の俳優、女優の中ではトップクラスでしょうね。本当にうまいんですよ。でも面白いのは、お二人の演技をする方向性は、たぶん180度違っていて、浅野さんは、基本的に浅野さんのままなんですね。まったく自然で、浅野さんの普段しゃべっている感じと何ら変わりない。だからほとんどアドリブで言っているようにしか思えないんですけど、脚本通りなんですよ。完璧に演じていらっしゃる。まったく特殊な方です。

 深津さんは真逆で、おそらく相当考え、完璧に瑞希という人を理解して演じていらっしゃるんですね。例えばあるシーンで「怒ってください」とお願いすると、(深津さんは)怒って(せりふを)言うんですけど、「そこまで怒らなくても。半分くらいでいいんですけど」と言うと、次は本当に半分になっている。完全にコントロールしているんです。舌を巻きます。舞台とかの経験が非常にうまく生かされていらっしゃるのかなあと思いました。

 ◇格闘技を意識した瑞希と朋子のシーン

 ――瑞希と、蒼井優さん演じる優介の不倫相手、朋子が対峙(たいじ)するシーンでは緊張感がビシバシ伝わってきました。

 僕にしては珍しく、(宇治田隆史さんと)脚本を書いているときから、朋子役は蒼井さんにやっていただけたらとほとんど当て書きに近く、なんとしても蒼井さんに出ていただきたいということでお願いしたんですけど、撮影はいとも簡単でしたね。お二人がやっていることは座ってしゃべっているだけなんですけど、「これは格闘技ですから、ここでまず2人がリングに上がって、ここでゴングが鳴って、まず朋子のほうからジャブが来て、それを瑞希がかわして、このへんで瑞希も善戦するんですが、最後は朋子が圧勝しますから。ここは瑞希、KOされます、このようなバトルで」みたいなことを言いましたら、蒼井さんも深津さんも「分かりました」と。撮影そのものは2時間くらいで終わっちゃいましたね。撮影中は2人とも小さな声でしゃべっているので、僕もよく分からなかったんですけど、ラッシュを見て、これはやっぱりすごいわと。いやあ、思惑通りでしたね。

 ――改めて、この作品は黒沢監督にとってどのような作品になりましたか。

 割と本気で「永遠」というものがちゃんと存在するかもしれないというのを表現してみたかったのですが、それはある程度できたのではないかと思っております。

 ――最後に、黒沢監督が初めてはまったポップカルチャーは? 以前、同じ質問をしたとき、本多猪四郎監督の「マタンゴ」(1963年)という映画を見てトラウマになったとおっしゃっていましたが……。

 30歳に近かった頃ですが、テレビゲームに完璧にはまりました。どれも好きでしたが、「ドラゴンクエスト2」ですね。映画でもテレビでも、見ていて泣くなんていうことはほぼないのですが、「ドラゴンクエスト2」が終わった瞬間、号泣しました。今でも覚えています。2頭身ぐらいのキャラクターがずっと恐ろしい旅を続け、何度も死んでよみがえるんですけど、過酷ったらありゃしない。非常に難しい謎もあって、それで、最後に敵を倒すんですよ。それまでこっちは、彼の横顔と後ろ姿ばかりを見ながら彼になり切って何日もやり続けて、最後についにお城に帰って祝福が終わって、彼が1人になって、ジ・エンドというのが出る直前にくるっとこっちを向いて、そのとき初めて彼の顔を見るんです。その瞬間、号泣ですね(笑い)。ほんと、うまくできていました。すいません。まだまだ話せます……「ドラゴンクエスト2」についてなら。

 <プロフィル>

 1955年生まれ、兵庫県出身。立教大学在学中より8ミリ映画を撮り始める。80年度ぴあフィルム・フェスティバル入賞。92年、オリジナル脚本の「カリスマ」が米サンダンス・インスティテュート・スカラシップを受賞し渡米。その後、数々の作品を送り出し、97年には「CURE(キュア)」を発表、ロッテルダム国際映画祭で注目を集める。

「回路」(2001年)、「アカルイミライ」「ドッペルゲンガー」(03年)「LOFTロフト」(05年)、「叫」(06年)などを発表。08年の「トウキョウソナタ」は、仏カンヌ国際映画祭“ある視点”部門・審査員賞を受賞した。

ほかに、テレビドラマ「贖罪」(12年)、映画「リアル〜完全なる首長竜の日〜」(13年)、「Seventh Code」(14年)がある。西島秀俊さん、竹内結子さん共演の「クリーピー」が16年夏公開予定。

 (インタビュー・文・撮影/りんたいこ)

https://mantan-web.jp/article/20151004dog00m200033000c.html
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[近代史4] 黒沢清 岸辺の旅 (ポスプロ 2015年) 中川隆
6. 2020年10月03日 07:15:24 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[8]
『岸辺の旅』黒沢清監督インタビュー
https://www.tst-movie.jp/special01/sp107_Kishibenotabi_KurosawaKiyoshi_Director_160418001.html


映画『岸辺の旅』黒沢清監督インタビュー深津絵里&浅野忠信が夫婦役を演じた映画『岸辺の旅』の黒沢清監督にインタビュー。本作で監督は、第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門監督賞を受賞し、「日本でも海外でも映画の観られ方はほとんど変わらないので、特別意識して作ることはありませんが、海外にも僕の作品をおもしろいと言ってくれる人がいることは心の支えになっています」と話していました。そんな監督に本作の女同士のバトルシーン裏話や、生死の境界線に関するディープな質問で直撃しました!

PROFILE
1955年7月19日兵庫県生まれ。1997年の『CURE』で多くの海外映画祭に招待され、国際的に名が知られる。

2000年『回路』では、第54回カンヌ国際映画祭批評家連盟賞を受賞。
2002年『アカルイミライ』は、第56回カンヌ国際映画祭「コンペティション部門」に正式招待され、2006年『叫』では、初めてヴェネツィア国際映画祭に招待された。
2008年には日本、オランダ、香港の合作『トウキョウソナタ』で、第61回カンヌ国際映画祭「ある視点部門」審査員賞、第3回アジア・フィルム・アワード作品賞を受賞。

また、連続テレビドラマ『贖罪』では、第69回ヴェネツィア国際映画祭「アウト・オブ・コンペティション部門」で、テレビドラマとして異例の出品を果たし、トロント国際映画祭や釜山国際映画祭など多くの国際映画祭で上映された。

2012年『リアル〜完全なる首長竜の日〜』は、ロカルノ国際映画祭「コンペティション部門」を始め、多くの国際映画祭に出品され、2013年『Seventh Code』では、第8回ローマ国際映画祭最優秀監督賞を受賞。

そのほか代表作に『ドッペルゲンガー』な『LOFT ロフト』などがあり、公開待機作に『クリーピー 偽りの隣人』『ダゲレオタイプの女』がある。

本作『岸辺の旅』では第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門監督賞を受賞した。

 
ひょっこり現れる幽霊にテクニックは不要!

シャミ:
映画『岸辺の旅』浅野忠信原作を読んだときに映画化したいと思った一番の決め手はどんなところだったのでしょうか?

黒沢清監督:
普通夫婦の話というと日常の2人の葛藤が物語の中心になることが多いと思うのですが、夫婦のうち1人が死んでいるという大胆な設定が入ることにより、日常から切り離された本当に純粋な人間同士の関係として夫婦を描けると思いました。

シャミ:
冒頭で旦那さんの優介(浅野忠信)が出てきたとき、幽霊なのは台詞でわかったのですが、普通に触れることもできるし見えていて、生きている人と変わらないことにすごくビックリしました。

黒沢清監督:
僕も原作を読んだときにビックリしました。貞子みたいにぬ〜っと出てきたら「幽霊だ!」って思うんですけど(笑)、優介の場合は「俺、死んだよ」と言っていても、幽霊っぽさがないんですよね。映画の冒頭は、優介が怖くも何ともないただひょっこりいる幽霊で、しかも瑞希(深津絵里)も多少驚きながらもすぐにそのことを受け入れるというシーンにしたかったんです。物語はそこからすべて始まるのですが、本当に奇想天外なことですから、観る方にその設定がきちんと伝わるのかという不安もありました。でもわかって頂けた方が多かったようなので良かったです。

シャミ:
監督自身ホラー映画も撮られていますが、本作において“幽霊=恐怖”にならないように気を付けた点はありますか?

黒沢清監督:
俳優が普通に演じていればそれで大丈夫だと思ったので、何も気にせず撮りました。ホラー映画として怖くするには、いろいろなテクニックや気遣いが必要なのですが、この作品の場合はそういった気遣いを一切しないというところがポイントでした。逆に怖くする方が大変なので、今回は俳優さん達にとにかく普通の人間と同じように演じて頂きました。

シャミ:
なるほど〜。本作には夫婦の愛が旅と共に美しく描かれていましたが、途中夫の浮気が発覚するシーンで急に現実が見えました。そのシーンで監督が意図したことはありますか?

映画『岸辺の旅』深津絵里黒沢清監督:
あのシーンは原作だと回想形式で語られていたのですが、映画では回想シーンにしたくなかったので、現在形で瑞希が愛人と会うという展開にしました。且つ、旅の映画ではありますが、あのときだけ瑞希は東京に戻ってしまうんですよね。だからちょうど映画が後半に差し掛かったあの辺りで、半分夢のような旅をしている2人の現実はどうなっているのかという部分を見せたいと思いました。いざ東京に戻ると、家の植物は枯れ、2人が出ていったときの状態で物が放置されていて、嫌でも現実の数週間という時間の流れが実感できます。そして、その現実を見た瑞希がそのまま東京に残るのか、死者である夫との旅を続けるのか選択するところを見せたかったんです。だからあのシーンの後の方がより2人の関係が抽出されたというか、現実ではいろいろあったけど、その日常から完全に離れて2人だけの時間を過ごしていくという瑞希の決意を表現したいと思いました。

シャミ:
東京に戻るシーンがあったからこそより2人に感情移入しやすくなった気がしました。でも瑞希と夫の愛人が対面して話すシーンはピリッとした空気でちょっと怖かったです(笑)。

黒沢清監督:
あそこまで強烈になるとは思っていませんでした(笑)。あれはやはり深津さんと蒼井さんのお芝居によってできたシーンです。もちろん脚本にもその狙いは書いてありましたが、お二人のおかげで撮影は至って簡単でした。

シャミ:
じゃあ監督が何かお二人に特別に指示されたというわけではないんですか?

黒沢清監督:
お二人ともこのシーンの狙いを脚本で理解してくれていました。なので僕が話したのは、「二人が座って台詞が始まると、まずここでゴングがなります。その後に蒼井さんがジャブ、そして深津さんが反撃、さらに二人で攻撃し合って、最後は蒼井さんの完全勝利で、深津さんはノックアウトされますから、その流れでよろしくお願いします」ということだけです(笑)。そしたらお二人とも「わかりました」と言って撮影に入り、あのシーンが完成しました。

シャミ:
そんな裏話があったとは!確かに聞こえないはずのゴングが聞こえたように思いました(笑)。


人間は死んでこそ本当の人間になれる!?
シャミ:
深津さんの台詞のなかに「生きていても死んでいてもそんなに変わらない」という台詞があったのですが、監督ご自身は生と死の違いについてどうお考えですか?

映画『岸辺の旅』浅野忠信/深津絵里黒沢清監督:
こればかりは想像を絶するのでわからないことですが、瑞希が言った台詞は実は僕が考えたものなんです。だから同じように、生きていても死んでいてもあまり違いはないと思っています。たぶん想像がつかないからこそ、死んだらそこですべてがなくなると考えるのが一番簡単なんですよ。でも何もかもなくなるという考えは、非常に乱暴だと思います。もちろん死ぬことで何かが間違いなく断絶すると思いますが、一方でほぼ確実にそのまま続いていくものがあると思うんです。例えば、生きている人が100だとしたら、死んでも案外80くらいは続くものではないかと思っていて、死んだときに「こんなにも続くものなんだ」って思う気がします。わかりませんけどね(笑)。

シャミ:
この映画を観ていても同じようなことを感じましたが、監督のお話を聞きすごく納得できました。死んでも続くものが多いということは、“死”ってそんなに怖いものではないのかも知れませんね。

黒沢清監督:
死んでからどうなるかがわからないからこそ怖いんですよね。でも最終的に死んでしまうのが現実ですから、実は人間の過ごす時間は死んでからの方が長いのではないかと思います。人間が生きているのは本当にある一定の期間だけで、死んでこそ本当の人間という存在になれるのかも知れないと思います。

シャミ:
じゃあ今の私達は仮の姿の可能性もあるということですね。死って本当に奥深いですね。

黒沢清監督:
映画『岸辺の旅』浅野忠信/深津絵里/柄本明もちろん、あの世がどうなってるのかはさっぱりわかりません。でもこうやって想像してみることは悪いことではないと思います。わからないこととはいえ、こういった映画やいろいろなものを通じて「死んだらどうなるのだろう?」と、楽しく死を想像することは非常に有意義なことだと思います。

シャミ:
ちなみに監督ご自身は幽霊に対して恐怖はありますか?

黒沢清監督:
突然幽霊がいたらやっぱり怖いと思うでしょうね(笑)。でもこの歳になると、もう亡くなってしまった知り合いがたくさんいるんです。だからその人がひょいと現れたら、最初はビックリするかも知れませんが、「いや〜、会いたかった!」ってなると思います。昔は映画などの影響で、幽霊って訳のわからない恐ろしいものだと思っていましたが、具体的に亡くなってしまった人が増えてくると、その人達を懐かしく思ったり、聞きたいことや積もる話がたくさんあるんです。

シャミ:
知っている人達であれば、むしろ会ってみたいですよね。では最後に、これから本作をご覧になる方に向けて一言お願いします。

黒沢清監督:
もともと他人だった男女が、あることをきっかけに夫婦になり、愛することを通り越して、どこまで深くなっていけるかを見守って欲しいと思います。それは間違いなく生と死を乗り越えられると確信して撮ったので、夫婦の関係ってここまでになれるんだということをこの映画を通して体感して頂けたら嬉しいです。

2016年3月28日取材&TEXT by Shamy
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1073.html#c6

[近代史4] 黒沢清 岸辺の旅 (ポスプロ 2015年) 中川隆
7. 2020年10月03日 07:17:13 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[9]

2015-09-28
黒沢清監督「ラブストーリーを撮りたいと思った事はない」、カンヌ受賞『岸辺の旅』
深津絵里&浅野忠信主演、湯本香樹実による同名小説を映画化
http://www.webdice.jp/dice/detail/4849/


本年度のカンヌ国際映画祭「ある視点部門」で日本人初の監督賞に輝いた、黒沢清監督の最新作『岸辺の旅』が10月1日(木)から日本公開となる。

湯本香樹実による同名小説を原作に、3年間の失踪の後、「俺、死んだよ」という言葉とともに突然帰宅した夫と、戸惑いながらも空白の期間を埋めるべく、2人でかつてお世話になった人々のもとを訪れる旅に出ることを決意する妻との関係を描いている。2003年の『ドッペルゲンガー』をはじめ、「死んだ人」と「生きている人」が共に暮らす、という黒沢監督らしいモチーフを用いながらも、今作は深津絵里と浅野忠信が演じる夫婦の生活と旅の軌跡を丹念に追うことで、これまでの黒沢作品にはなかった、シンプルだけれど味わい深いドラマに仕上がっている。深津絵里の演技のリアリティ、そして浅野忠信の独特の存在感もあり、妻の瑞希が道中で夫・優介の知られざる一面を垣間見ていくなかで、ゆっくりと愛情を確認していく過程をつぶさに感じ取ることができる仕上がりとなっている。

webDICEでは黒沢監督のインタビューを掲載する。

旅をするという表現の難しさ

──最初に、湯本香樹実さんの原作との出会いと、映画化の動機について教えてくだあし。
原作はプロデューサーの松田広子さんのすすめで読みはじめました。一度死んだ人間がこの世によみがえって、生きていた過去を懐かしむといった設定はこれまでにもあったのでしょうが、死者が死んでからの数年間を検証していくという物語は前代未聞で、これは映画にしてみたいとすぐに思いました。

夫(優介/浅野忠信)が死んだ後に実はこんな風であったということを、ひとり残された妻(瑞希/深津絵里)がだんだん理解していく流れに感情移入しているうちに、素直に「死」とは終着点ではなくて、ある種の過程なんだなと納得していました。死んだあとで分かることってたくさんあるんだな、と。死んだ本人にとってもそれは同じなんだと。

映画『岸辺の旅』黒沢清監督
映画『岸辺の旅』黒沢清監督
──映像化するにあたってこだわったのは、どんなところでしょうか。
死んだ人間が映画にでてくるというのは、ぼくは何度もやっていますから、その表現自体に難しさは感じませんでした。実際の俳優を使ってどうやって死んだ人間を表現するかは、とてもやりがいのある仕事です。

一方、僕にとってとても難しかったことは、旅をするという表現ですね。これまで旅の映画を撮ったことがありません。もちろん、観たことはあるけれど、たいてい外国映画なんですよね。おもにアメリカ映画で、砂漠の中を車で走って行くようなもの。日本にも転々と場所が移り変わっていく映画はありますが、移り変わる途中の過程をメインに扱った、いわゆるロードムービーってあまり思いつかないんです。次々と、旅して行くというのが映像としてどんな面白さにつながるのか、正直今でもよくわかっていません。次々と色んな町は訪れますが、これ旅していることになっているのかな、とかなり頭を悩ませました。

どこにでもいる夫婦のようでもあり、
選ばれた2人でもある

──主人公の夫婦役に深津絵里さんと浅野忠信さんを起用した理由は?
若者ではないけれども、十分若々しい2人ということで、自然にこのお2人の名前があがってきました。深津さんとご一緒するのははじめてですが、一度機会があればお仕事したい女優さんでした。浅野さんとは以前『アカルイミライ』(2002年)ご一緒したので、もう完璧に信頼していました。お2人とも、一見スターっぽくなくごく普通なたたずまいなのですが、画面に映ると大変なオーラを放ちます。やはり特別な存在なんでしょうね。ですから、お2人が並ぶとどこにでもいる夫婦のようでもあり、選ばれた2人でもあるという、この物語にふさわしい多重性が見事に表現されていました。

映画『岸辺の旅』より ©2015「岸辺の旅」製作委員会/COMME DES CINEMAS<
映画『岸辺の旅』より、深津絵里(右)と浅野忠信(左) ©2015「岸辺の旅」製作委員会/COMME DES CINÉMAS
──深津絵里さんの印象は?
とても精密なお芝居をする方です。驚きました。僕が「もう少し冷たい感じ」というと本当に冷たくなり、「あ、今冷たすぎました。半分くらいでいいです」というと本当に半分になる。事前に全部計算してやってらっしゃるわけではないでしょうが、その場、その場で、相手にあわせながら直感的に、自分が今どうやっているか完璧に把握してらっしゃる。たくさんの監督が彼女と仕事をしたがる理由がよく分かりました。

──浅野忠信さんの印象は?
『アカルイミライ』のときも驚かされたのですが、彼の芝居は特別です。まったく脚本通りのセリフを、まるでアドリブとしか思えないように言う、これは天性のものだと思います。とてもわくわくさせられる俳優さんです。脚本を読んで、最初にお会いした時に何か質問はありますか?と、聞いたら「いや、なにもないです」と答えるんです。1回死んで、死んだ後3年も旅して帰ってきたという、とんでもない役を前にして何もないと(笑)。何もないわけはないんでしょうが、絶対の自信があるんでしょうね。彼の中には、常人にはできないある種の処理能力があって、優介はこういう人間なんだなってどうも瞬時にわかるみたいです。世界でも類をみない俳優だと思います。

──撮影にあたっては、2人の演じる夫婦の様子はいかがでしたか?
僕が特別な指示をしたわけではないですが、とてもいい距離感をつくってくれました。べたべたせず、しかし確実に相手を信頼し、尊重している。そういう関係性であることが、2人とも脚本、原作を読んでピンときてくれたんでしょうね。神聖な、と言うとちょっと大げさかもしれませんが、日常から少し隔たった特別な夫婦関係を自然に表現されていたようです。

映画『岸辺の旅』より ©2015「岸辺の旅」製作委員会/COMME DES CINÉMAS
映画『岸辺の旅』より ©2015「岸辺の旅」製作委員会/COMME DES CINÉMAS
──黒沢監督にとって、夫婦を描くことの意味について教えてください。
夫婦が出てくる物語というのは、いろいろなジャンルで何度かやってきましたが、これだけ2人きりのドラマを徹底的にやれたのは、はじめてかもしれません。キーワードは「信頼」だと思っています。実は僕はラブストーリーを撮りたいと思った事がなく、2人が愛し合ってますという物語を映像でどう表現していいかわからないというのが本音なんです。ただ、愛している相手をどこまで信頼できるのか、というテーマになると僕の中で突然、みえてくる部分があるようです。恋人でも夫婦でもいいんですけど、2人が愛し合っているのが大前提で、それであるがゆえに、相手のことが全然分からなくなるとか、信頼できなくなるとか、様々な危機が訪れる。でも、愛はゆるがないので、いろんな難題をのりこえ、2人は最後には100%信頼しあうというドラマ。それなら僕は興味があるし、やりたいと思いました。とくに今回の原作を読んで、死んでからより信頼が深まるという展開は非常にリアルで、ありえるような気がします。死んだ側にとっては、案外そうなのかもしれないと。途方もない話ですが、死んでみてようやく、自分はこういう人間だったのか、彼女ってこんな人だったのかと納得するのって、とても自然な流れだと感じたんです。

田舎のような町のような中途半端な場所を舞台に

──深津さんと浅野さん以外にも、小松政夫さん、蒼井優さん、柄本明さんなど豪華な俳優陣が揃いました。
小松さんは昔からTVで観ていてファンでした。ですから、このような神話的な方が僕の映画にでてくれているというだけで高揚感がありました。俳優としてはとても真面目な方なのですが、休み時間にはギャグを連発されて、現場はとにかく明るく、楽しかったです。蒼井優さんは、僕が絶対に彼女がいいと言ってお願いしました。以前、『贖罪』というドラマでご一緒させていただいきましたが、もうほれぼれする女優さんです。今回の役は、ワンシーンだけなのですが主人公瑞希に強烈なインパクトを与える役回りなので、そんなことができるのは蒼井さんしかいないと確信しておりました。実際、深津さんと蒼井さんの静かに火花が散るやりとりは、見ていてゾクゾクしました。柄本明さんは、前にも出演をお願いしたことがありますが、柄本さんがでているシーンは、すべて柄本さんのシーンになってしまう。脇に控えていてもその存在感で画面の中心になってしまうところが最大の魅力だと思います。

映画『岸辺の旅』より ©2015「岸辺の旅」製作委員会/COMME DES CINÉMAS
映画『岸辺の旅』より、左から、深津絵里、浅野忠信、柄本明 ©2015「岸辺の旅」製作委員会/COMME DES CINÉMAS
──ロケ地については、どのように選ばれたのでしょうか?
転々と場所を移動する設定ははじめてなのでいろいろ迷いはありました。ただ、最終的に落ち着いたのはどこでも、どの場所であっても、中途半端でいいんだということ。田舎のような町のような場所。人が暮らしていてそこにささやかだけれども奥深いドラマがあるのは、そういう中途半端なところなんだということが、だんだんわかってきました。極端にしなくていいんだと。海の小島や森の孤村は2人が旅する場所としてふさわしくない。選ばれたのはどれも、いろんな人が雑多にいるどこにでもあるような場所ばかりです。

──最後に、監督はどんな思いで原作と向き合い、撮影を続けてこられたのか、あらためて教えてください。
原作にある「死んだ人のいない家はいない」という言葉に支えられて撮影していました。考えてみると、死んだ人はたくさんいるんです。死者とともに私たちは生きている。そういうことは感覚として分かっているけれど、誰もよくよく考えたことはない。今回のドラマを通して「死者とともに生きる」意味と実感が、少しでも伝わるといいなと思います。

(オフィシャル・インタビューより)


黒沢清 プロフィール
1955年7月19日生まれ、兵庫県出身。97年の『CURE』で多くの海外映画祭からの招待が相次ぎ、国際的に名を広めるきっかとなり、『回路』(01)では、第54回カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞。2年後に公開された『アカルイミライ』(03)でも、第56回カンヌ国際映画祭「コンペティション部門」に正式招待となり、『叫』(06)では、初めてヴェネツィア国際映画祭に招待され絶賛を浴びた。日本・オランダ・香港の合作『トウキョウソナタ』(08)では、第61回カンヌ国際映画祭「ある視点部門」審査員賞と第3回アジア・フィルム・アワード作品賞を受賞。また、連続テレビドラマとして放送された『贖罪』(12)では、第69回ヴェネツィア国際映画祭の「アウト・オブ・コンペティション部門」でテレビドラマとして異例の出品を果たした他、トロント国際映画祭や釜山国際映画祭など多くの国際映画祭でも上映された。2013年の『リアル〜完全なる首長竜の日〜』でも、ロカルノ国際映画祭「コンペティション部門」をはじめ、世界の数多くの映画祭に出品された。前田敦子主演で注目を集めた『Seventh Code』(14)では第8回ローマ映画祭最優秀監督賞を受賞している。

映画『岸辺の旅』
10月1日(木)テアトル新宿ほか全国ロードショー

映画『岸辺の旅』より ©2015「岸辺の旅」製作委員会/COMME DES CINÉMAS
映画『岸辺の旅』より ©2015「岸辺の旅」製作委員会/COMME DES CINÉMAS
夫の優介(浅野忠信)が失踪してから3年。妻の瑞希(深津絵里)は喪失感を経て、ようやく、ピアノを人に教える仕事を再開し、日々を暮らしていた。そんなある日、突然、夫が帰ってきた。そして、帰宅した優介は瑞希に「俺、死んだよ。」と告げる。そして「一緒に来ないか、きれいな場所があるんだ。」という優介に誘われるまま、2人で旅に出る瑞希。それは夫が失踪してから、自宅に戻ってくるまでの3年間でお世話になった人々を訪ねていく旅だった。ひとつめの町では新聞配達を生業とする孤独な初老の男性を、ふたつめの町では小さな食堂を営む夫婦を、みっつめの町では山奥の農園で暮らす家族を訪ねる2人。失われた時を巡るように、優介と一緒に過ごし、優介が見たこと、触れたこと、感じたことを、同じ気持ちで感じていく瑞希。旅を続けるうちに、瑞希はそれまで知らなかった優介の姿も知ることになる。お互いへの深い愛を、「一緒にいたい」という純粋な気持ちを改めて感じ合う2人。だが、瑞希が優介を見おくり、言えなかった「さようなら」を伝える時は刻一刻と近づいていた―。

原作:湯本香樹実「岸辺の旅」(文春文庫刊)
企画協力:文藝春秋
監督:黒沢清
脚本:宇治田隆史 黒沢清
出演:深津絵里 浅野忠信
製作:「岸辺の旅」製作委員会(アミューズ、WOWOW、ショウゲート、ポニーキャニオン、博報堂、オフィス・シロウズ)
共同製作:COMME DES CINEMAS
製作幹事:アミューズ、WOWOW
企画・制作プロダクション:オフィス・シロウズ
配給:ショウゲート
2015年/日本・フランス/シネスコ/5.1ch/128分


http://www.webdice.jp/dice/detail/4849/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1073.html#c7

[近代史4] 黒沢清 岸辺の旅 (ポスプロ 2015年) 中川隆
8. 2020年10月03日 07:20:17 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[10]

2015年12月01日
『岸辺の旅』から見えたもの【全編】高橋洋・菊地健雄・小出豊
http://eiga-b-gakkou.blog.jp/archives/49096640.html

 今回の「あれ観た」作品は、黒沢清監督の最新作『岸辺の旅』。映画美学校のキーパーソンの一人である黒沢監督とその作品について、3人の男たちが大いに語る。このコーナーではもはや説明いらずの最多登場・高橋洋。映画美学校OBにして映画批評誌「シネ砦」の団員でもある小出豊。そして黒沢監督の助監督として、この映画の誕生と成長を見届けた男・菊地健雄。長年の黒沢清ウォッチャーによる座談会、スタートです。

高橋 前半、面白く観ました。『恐怖の足跡』とかシャマランの『シックス・センス』とかの「実は自分が幽霊」とは逆だよね。自分は生きているんだけど、死んだ夫が帰ってきて、以来、死者と生者が共存してる世界が見えるようになる。今までの映画が描いてきたことの単純な逆転なんだけど、面白いことを見つけてくるなあ黒沢さんは!と思って。ただ、中盤の、中華屋のピアノのエピソードあたりから、映画の持続がキツくなってきたような気がしたんです。

小出 こちらとあちらというのが、前半はある程度明確に分かれていた印象があったんですけど、中盤からはかなり混濁して、今この場所は一体どこなのか、時代すらもわからなくなってくるという感じがしました。農作業しながら、もんぺを穿いていたりして、同時代感が希薄に思えた。高橋さんがおっしゃっているのは、そういうあたりではないですか?

高橋 基本的な世界観として、生死や時代の境界線が定かじゃないという感じはわかるんですよ。あの新聞屋さん(小松政夫)は、現実世界で平然と新聞配達をやっているわけでしょう。あれって、中国の幽霊譚によくあるパターンなんです。死者はそのへんに当たり前にいて、生者と交わっているという。これが、この映画が前半で掴んだセントラル・アイデアだよね。これを後半でどう伸ばすのかという壁が、もちろんどんな映画にも立ちはだかるんだけど、今回も何かもうひとつ、策が必要だったんじゃないかと思ったんです。


菊地1

菊地 僕の立場から感想を言うのは難しいんですけど(笑)、今まで観てきた黒沢作品のイメージから、何かひとつ、新しいことをしようとしているという印象が、撮影初日からありました。まず、プロデューサーの松田広子さんから「今回はメロドラマを作ってくれ」というオーダーがあったんです。だから予想以上に、夫婦の顔をしっかり撮っているなと感じましたね。

小出 夫婦の住んでいた部屋の柱が印象的だったよね。両者の隔たりを表しているような仕掛けに見えるので、それをどう超えていくのかなと期待がふくらんだんですが、意外とスルッと超えるんですよね。考えてみれば、2Dで見た場合にそれはある境界線のように見えるが、当然3Dの世界ではその空間を支える建材でしかなく、画面手前のこちらからでも柱の奥のあちらからでも抜けていける。そこにある種の爽快感があった。


菊地 柱に関しては、かなり意識的でしたね。その夫婦の住んでいた部屋は美術部に発注してましたし、少女が出てくる中華屋の別館は制作部に柱があるところを探して欲しいといった具合に。また、シネスコで撮ったということについても、すごく意識的だったと思います。カメラテストの時は、いろんなフレーミングを試しておられましたね。後で「やっぱりわからないな」っておっしゃっていたけど(笑)。あと、とにかくロケハンが勝負だとおっしゃってました。ロケハンでいかに思いつけるか、っていうところに賭けているのだと。


高橋2


高橋 つまりロケハンで、物件を見て、「ここ、イケる」と思ったら、ホンに書いてある芝居がどう成立するかを、頭の中でシミュレーションしてるっていうことだよね。そういう時って、演出部の人たちをスタンドインで立たせて動かしたりするの?

菊地 場合によってはあるけど、ほとんどないですね。周りのスタッフが準備してる中で、黒沢さんはいろんな角度からじっと空間を見つめて、何かを考えていて、それをノートに書いて。

高橋 音楽の使い方も、珍しくエモーショナルだったね。

菊地 あれはびっくりしました。現場レベルでは「フルオーケストラでやる」っていうことくらいしか聞かされていなかったから、「ここまで壮大になっちゃうのか……」という戸惑いが否めなかったんです。でもスクリーンで何度か観るうちに、夫婦の置かれている状況や情感を際立たせることがやりたかったんだ、というのが腑に落ちたんですけど。

高橋 黒沢さん、こっちに振るんだ……っていうね。だったらもうちょっと、芝居全体に対する考え方も大きく変化していいんじゃないかという思いがどうしてもつきまとう。確かに黒沢さんは、変わりつつあるんですよ。でも、もっとドラスティックに変わっていいんじゃないですかね?っていうようなことを、最近とみに思うんです。ちなみに、小松政夫さんの起用はどういう経緯?

菊地 松田プロデューサーの発案だと思います。

高橋 昔、黒沢さんが、川崎敬三が出ている古い怪奇映画をやたら気に入っていて「川崎敬三がやたら陰惨で、いいんだよねー!」って言ってたのを、あの小松政夫を観て思い出しました。ちょっとにやけてるんだけど、顔が死体みたいに見える人。顔が、生きながら死んでいる人。そこがすごくよかったなあ。


小出 よかったですよね。声のトーンの幅も広くて。


高橋小出


高橋 あと、「高橋洋」さんはどこに出てたの?(※高橋さんと同姓同名の俳優。72年大阪府出身、オフィス北野所属)

菊地 冒頭付近の駅のシーンで目的地までの行き方を教えてくれる駅員さんですね。ここにおられる高橋さんとは別人です(笑)。周囲からは「どこに出てたの、高橋さん?」ってよく聞かれるんですけど。

高橋 僕もめちゃくちゃいろんな人から聞かれた。

小出 僕もさっき、ご本人に聞いちゃいました(笑)。

高橋 黒沢さんの芝居観について話を戻すと、黒沢さんってだんだん「芝居でコトを起こす」っていうことをしなくなってきている気がするんですよ。黒沢さんは昔から「アメリカ映画はワンカットでコトが起きるからすごいのだ」っていう話をよくするじゃない。そこに黒沢さんのこだわりがあって、典型的なのは『回路』だよね。ワンカットで、人が落ちていく。ただ、この「コトを起こす」っていうのは、そういうアクションの仕掛けとか、ワンカットかどうか以前に、まず芝居としてコトが起こってるかどうかなんです。でも黒沢さんはどこかのタイミングで「日本でそれをやろうとしてもダメなのだ」と、極めてクレバーに、慎重にあきらめていったんじゃないかと思うんです。……っていう仮説を、菊地くんはどう思う(笑)?


菊地 今回に関して言えば、「ワンカットでコトを起こす」ということには拘っていなかったように見えました。それは「メロドラマ」ということを意識されていたからのような気もしますがどうでしょう。ただ芝居に関してのことで思ったことは、中盤で、ピアノを弾く少女が現れるじゃないですか。深津さんと村岡希美さんが掃除をしていて、ピアノが現れて、昔語りを始めて、少女が現れる。撮影時は当然、ひととおり動きをつけていくわけですよね。そういう時の黒沢さんは、「まずはここからここまで動いて、その間にこの台詞のやりとりを入れ込んでみましょうか」って、言い方は柔らかいんですけど結構厳密に指示するんです。そうやって役者さんのタスクを増やすことで、役者さんの意識は「ここからここまでの間にこれを言わなきゃいけない」っていう方に向く。余計なことをやらなくなって、芝居がフラットになるんです。


台本

小出 それが、黒沢さんのやり方なんですよね。ずっと一貫しているようですね。

菊地 あと、これはプロデューサーの松田さんから、「夫が失踪するまでの夫婦の歴史がきっとあるわけだから、それを補強するための本読み稽古をやってほしい」というリクエストがあったんです。それに対して黒沢さんは、最後まで抵抗していましたね。本読みをすると、台詞が気になり脚本を直したくなってしまうと。だから『岸辺の旅』の本読みは、わかりにくいところを黒沢さんが逐一説明する会になりました。

高橋 僕らは自主映画時代、「リハーサル」っていう概念も、「芝居」っていう概念もないまま映画を作っていたけど、やはり途中から意識し始めたわけです。特に西山(洋市)さんは「演出」っていうことを言い出して、僕も万田(邦敏)さんもそれに感化されていったんだけど、黒沢さんはそこで絶対変化しない人だったのね。「黒沢さんってリハーサルやらないんですか?」って聞いたら「え、リハーサルって何やるの?」って言われた(笑)。あと、何かの時に「僕らは最近『演出』についてよく話すんですよ」って言ったら「ああ、みんな『シバイ』とか言ってんでしょ?」って(笑)。

菊地 もっと言うと「段取り」っていう概念もあんまりない気がしますね。決してやらないわけではないんだけど、基本的に、セッティングが全部済んだ後なんですよ。ほとんどの場合、最初のショットが撮れる状況下で芝居が始まっていく。

高橋 普通はまず、役者さんにそのシーンの芝居を一通りやってもらうよね。スタッフ全員でそれを観る。それで芝居が固まったら「割り行きまーす」って言って、監督とカメラマンがカット割りを決めていく。そこから撮照のセッティングをして、カット毎にテストをしてお芝居を確認して、問題がなかったら本番。

菊地 その、「段取りやりまーす」「カット割り行きまーす」があまり行われないんですよ。みんなが言う「段取り」と、黒沢さんが言う「段取り」は違うのだ、という認識が、きっと黒沢さんの中にもあるんだと思います。それでありながら、自分の想定を決してストレートには伝えないんですね。「例えばこんなふうに動いてもらうこともできると思うんですが……まあ、その通りにはやらなくてもいいです」っていう言い方をする。そうすると役者は「いや、やりますよ!」っていう気持ちになるって浅野(忠信)さんがおっしゃってましたね。

高橋 へえー。

菊地 浅野さんは、説明的なお芝居は絶対にしない方なんです。何もない、空っぽ、みたいな芝居をする。今、黒沢さんがやりたい芝居っていうのは、そこに近いんじゃないかと思います。だから高橋さんが先ほど言われた「コトを起こす芝居」とは、ちょっと違うのかもしれないなと思うんですよね。(続く)


<その2>
「コトを起こす芝居」について。黒沢清と「あきらめ」について。そしてヒロインの「ブラトップ」問題。映画人たちの率直な考察は、まだ中盤戦なのである。


全員3
高橋 この間、映画美学校で「演出を学ぶ」っていう授業をやったんです。アクターズ・コースの人たちに来てもらって、マキノ雅弘(当時・正博)の『殺陣師段平』のある場面(段平と妻の別れのシーン)を、ホンは黒澤明の脚色でそれに基づいてやってもらった。10分ぐらいのシーンだったんだけど、それをとりあえずの形に持っていくだけで、2時間半かかったんですね。あれだけの濃い芝居を作ろうとすると、やっぱりそれだけの時間がかかる。黒沢さんは、場数をたくさん踏む中で、そういう手数のかかる「芝居場」的なものにウエイトを置かなくなってきてるんじゃないかという印象を受けるんですよ。

小出 それをやっていると時間がかかる、という経験則があるから、エモーショナルな芝居はホンの段階からカットしておられるんですかね。そういう大きなあきらめが、黒沢さんにはあるということ?

高橋 そういうふうに、見えるっちゃ見えるね。

小出 この読み方は間違っているかもしれないけど、ヒロインがたえず抱いていたのは、うかつに自分の強い感情を相手にぶつけると、相手がいなくなってしまうという怖れでしたよね。最初、少し背中に触れただけで、セックスも拒まれるじゃないですか。だから何も言い出せなくなる。

小出1

菊地 この物語の肝は「いつ消えるかわからない」ということだと黒沢さんもおっしゃっていましたね。

小出 そのトリガーが、「自分の強い感情をストレートに伝えようとする」ことだったり「相手に触ろうとする」ことかもしれないと思うと怖いですね。そう考えると、ラストの岸辺では、夫がずっと謝ろうと思ったんだが、どういっていいかわからなかった、というようなことを打ち明けると、妻は、あなたの願いは叶えられたというような言葉を投げ返し、3年かけて歩いてやってきた幽霊がいよいよ伝えようとした「ごめん」という言葉をみなまでいわせずに引き受けてしまう振る舞いも恐ろしいと思えてきます。

強い感情を伝えることは、人間関係を壊し、相手が消える可能性だってあると、この映画や、この映画を作った黒沢さんが言っているように思った。黒沢さんは、わかりやすいエモーショナルなもののすべてを、避けますよね。

高橋 例えば『CURE』の役所広司でいうと、心を病んだ奥さんに対して、声を荒らげることなど一度もないんだけれども、内心ではめっちゃ殺意を持っているという人物像だったじゃない。ふいに予感が走って、自宅へ帰ると、妻が首を吊っている幻影を見るまでの一連、あれは今観てもすごいと思うんですよ。あれが「芝居でコトを起こす」なんだよね。次の領域に踏み込む、距離を詰める、そういう芝居。誰もが正気と狂気のボーダーラインを生きているのだという、90年代後半のリアリティを本当に形にした瞬間だったと思う。ああいうドライブ感が、『岸辺の旅』ではなかなか起こらないなと。

菊地 それって、果たして芝居の問題なんですかね。「90年代後半のリアリティ」がそれなのだとしたら、今の時代はどうなんだろう……

高橋菊地

高橋 『CURE』つながりでもうひとつ言うと、あの映画をめぐっては準備段階から黒沢さんとあれこれやり取りしてたんです。黒沢さんの構想は「アメリカンな娯楽映画を作る」だと僕はずっと思っていた。で、黒沢さんから準備稿が送られてきて、意見を求められたんですね。確かに前半は、実に面白い犯罪推理モノなわけです。それが中盤、萩原聖人の背中の丸いやけどの傷と、焼却炉の円形のハッチがいきなり結びついて、彼の正体が知れるシーンがある。そのジャンプを読んで僕は、ああアメリカ映画ではなくなってしまった、と思ったんです。アメリカ映画なら、やけどからいきなり焼却炉には行かないじゃないですか。何らかの手がかりを追っていたらたまたま焼却炉が目に入って、見たら萩原の住居の近くだった、みたいな流れが常道でしょう。「それを飛ばしたらアメリカンにならないですよ」って黒沢さんに言ったら「いや、後半はヨーロピアンで行きたいんだ」って(笑)。そこから物語は溶解していくんだよね。そもそも容疑者を取り調べるのが危険!調べようがないというのがこの映画のセントラル・アイデアだから、後半は役所広司の心の中を描くことにシフトしていかざるを得ない。『CURE』は確かにヨーロッパで高い評価を得たから、黒沢さんの作戦は当たったんだけど、でもアメリカンな映画の需要ではなくて「作家の映画」になっちゃったなという印象があったんですよ。あれが、黒沢さんが大きく舵を切った瞬間だったんだなと今も思うんだよね。アメリカンな方法論でディテクティブ・ストーリーをやるのは相当大変なことだから、それはやらないのだというクレバーな割り切り。それが黒沢さんなんだよね……ってつい寂しげに言ってしまうのは、僕が今なおここで「何か別の手はないのかな」と思ってジタバタしてるからなんだけど。

高橋1

菊地 さっきの話でひっかかっているのは、触れることも怖れていた二人が、消える直前にセックスをしますよね。

小出 そうそう、あのシーンも、細かいことなんだけどさ、……

高橋 深津さんがノーブラだったってことですか?

一同 (笑)

小出 あれはたぶんユニクロの「ブラトップ」です。吹石一恵がCMをやっている。

高橋 知らない。何それ。

——キャミソールとブラジャーが一体になった「ブラトップ」というインナーがユニクロにあるんです。

菊地 あそこは確かに、大きな問題になったんですよ。脱がせ方について。

小出 そこなんです。幽霊が弱ってくると、四肢末端不全が起きてくるっていう設定じゃない。でも浅野忠信は、深津絵里の服のボタンを普通にはずすんだよね。浅野がはずせなくて深津が自分ではずしてやる、みたいなことではなく。

高橋 メロドラマっていうことで言うと、その方が効果的ではあるよね。エモーショナルな、おいしい瞬間。さっき言った「濃い」方へ持っていく芝居の作り方。

菊地 不遜な言い方ですけど、ああいうシーンって、黒沢さんの得意とするところではないと思うんですね。珍しく緊張されていたし、珍しく「『それでも恋するバルセロナ』みたいに撮りますから」って明言されていたし、実際にその箇所をみんなで見たりもした(笑)。他のシーンでは、そういうことは一切ないんですけど。リハーサルを重ねなかったり、役者に歩み寄って仲良くなるみたいなことをしない黒沢さんのやり方って、役者によっては多少の反発を抱きかねないところがあると思うんですけど、でもどの役者さんもすごく信頼を持って現場に臨まれるんですよね。

小出 それは、黒沢さんのカリスマ性?

菊地 というのとも少し違う気がするんですけど……単に「このお芝居をどうするか」ではなく、目的や結果を明確に示すことで培う信頼関係作り、そのすべてを含めての演出。それをひとりひとりの役者さんに対して明確に示しておられるから、役者さんから信頼を置かれているのだろうなと思いましたね。(続く)


<その3>
 こちらはただ耳を傾けるしかない。黒沢清と「時代」、黒沢清の「軸足」、黒沢清と「メロドラマ」。黒沢清を深く知る人ゆえの話題と見解が、ここでもあふれかえるのだ。

全員2
高橋 黒沢さんは、ヨーロッパで評価が確立して、独自の世界に突入していきましたよね。ただ、ちょっと意外だったのは、『アカルイミライ』あたりから……もっと言えば『大いなる幻影』ぐらいからかな、「時代を語る」というモチベーションが、黒沢さんの中に生まれたような気がするんですよ。特に小説家とか文学者とか、新聞の夕刊の文化欄とかで何か言わなきゃいけない人たちが考えてるようなことを、黒沢さんも言わなきゃいけないというような状況に立たされていて、本人もその役割をある程度自覚して映画を作り始めたような印象を受けるんです。とにかくエンターテインメントをやる!という、Vシネマの頃のようなスタンスでは、本当にいよいよいられなくなったという感じが、見ていて、しますよね。でも本当に「時代」とかについて、語らなきゃいけないの? 語らなくてもいいんじゃないの? って僕なんかは思うんだけど、『トウキョウソナタ』や『アカルイミライ』が若い客層にも当たったのは、それがあったからなんじゃないのかなあと。ほんとは、よくわからないんだけどね。若い客層の共感のしかたは。藤竜也にいきなり「許す!」って言われてもなあ、って思うし(笑)。少なくとも、僕が『CURE』を観た時に受けた「まさに今という時代がここに表現された!」という感覚とは、どうも違うように思うんですね。

高橋台本

菊地 僕はまだ映画美学校にいた頃に、そういう話を黒沢さんとした覚えがあって。青山真治さんとか篠崎誠さんとか、あれだけ普段、ジャンル映画について熱く語ってた方たちが、デビュー作である『Helpless』や『おかえり』ではすごく個人的な話を映画にしていて、それが衝撃だったのだと。

小出 黒沢さんが時代について語るという役割を担わされている、ということについては確かにそうかもと思うんですが、それが映画にどうフィードバックされているのかは少し疑問ですね。若い人に支持はされたけど、それをそんなに意識して作っていたのかどうか。今、藤竜也の「許す!」で思い出しましたけど、優介が農村の人たちに対して、宇宙の話とか、光の粒子の話とかをいきなりするっていうのはどうでしたか。僕は実は、グッと来たんですよ。

菊地 黒沢さんって普段、小説は一切読まないらしいんです。読むのはほとんどああいう物理学の本らしくて。理屈とか観念とかではなく、ああいったことでこそ「死」というものを語れるのではないかという思いがあったのかもしれない。だからあの場面は、「生」とか「死」とか、この映画を貫くものたちへの黒沢さんの見解なんだと思うんです。わかりやすいかわかりにくいかは別として。

菊地台本

高橋 生死の端境の世界を描く、ということについては、90年代にJホラーがそういうアプローチで世界を描き始めたんだよね。いや、ホラーに限らず、同時代的な想像力として、人々が物語を考える時にはいつも「生死の端境」感が最初からガチッとビルドインされているようになった、そんな印象を受けるんです。大学で教えていても、学生たちが書いてくるものはほとんど「生死の端境モノ」。これはゲームや小説、すべての創作物において起きていることですよ。どこかでひとつ「生死の端境」を噛まさないと、リアリティのあるフィクションは描けないみたいな。でも、僕らがJホラーで最初にやろうとしたことって、そういうことではないんだよなあ。例えば「こちら側」と「向こう側」があって、その間に往来があるって考えると癒やされますよねえ、みたいなことでは決してない(笑)。僕らが追っていたのは、この世界には圧倒的に「理解できない外側」があるのだという感覚なんですよ。幽霊も、それを背負った存在として描いてきた。そして黒沢さんも、きっとそこに軸足を置いてやってきたはずなんだけど、『岸辺の旅』はそうじゃないよね。もちろん、原作ありきということもあるんだろうけど。

菊地 でも黒沢さんは、今高橋さんがおっしゃったような軸足で『岸辺の旅』を作られていたという実感が僕にはあります。

高橋 もちろん、あると思うよ。でもそっちをガツンとやっちゃうと、アンチ・メロドラマになっちゃうよね。メロドラマとして用意された「あの世」と「この世」の往還の物語では、絶対になくなっていくので。

菊地 その話に絡むかどうかわからないんですけど、思い出したことがあるので言ってもいいですか(笑)。今回、「人が消える」という表現を、あっさりカットバックで表現していましたよね。僕はその理由を黒沢さんに聞けなかったんですけど、それも「メロドラマをやる」という意識によるものなんですかね。どうなんでしょう。どう見えましたか?

高橋 うん。ある種の割り切りを感じたけど……、うーん、そこはメロドラマがどうこうというより、黒沢さんならではの「外側」に触れる感覚なんじゃないかな。


小出2


小出 すごくシンプルな表現だけど、「カットを割っただけで人が消えちゃうんだ」という怖さを僕は感じました。人がひとり消えるという描写において、これまでいろんな映画がいろんな表現をしてきたわけですよね。でもこの映画では、フィルムを裁断するだけで、あっけなく人がいなくなる。生死の境ってこんなに簡単なものなんだ、という怖さがあった。これは意外と盲点だったなと思いましたね。

高橋 そういうのがある一方で、もっと激しくエモーショナルな「境界の向こう側」、つまり絶対的な外側と対峙しているという盛り上げ方だってほんとはあるはずだし、僕自身、もしメロドラマをやるとしたらそっちに持って行きたいわけです。『リアル〜完全なる首長竜の日〜』の時に黒沢さんと「映画美学校ちゃんねる」で対談したんだけど、あの映画は最後の最後で、主人公が死んじゃうんだよね。で、綾瀬はるかが「死んじゃった人の意識に入りたい」と。これ、めっちゃヤバいよね。そのヤバさに相応する「溜め」があっていいはずなんだけど、中谷美紀が「やりましょう」って言ったら他の医師たちがわりとサクッと「そうしましょう」ってなるじゃない。メロドラマとして「外側」がグワッと立ち上がり、それがエモーションとして盛り上がるためには、強硬に反対する人がいなきゃならないんですよ。……という話をしたんだけど、たぶん黒沢さんはそういうことに対してとっても淡白な人なんだなあ。(続く)

<その4>
 黒沢清を考えることは、日本映画を考えることにつながっている。だから3人の話はどこまでも広がる。そしてこの長話は、終盤、ひと筋の光の予感のもとに着地するのだ。


全員4
高橋 つまり、エンターテインメントをやることの困難を身にしみて感じている人が、賢明に「作家」の道を選んだんだけど、その結果、エンターテインメントを撮れる状況がどんどんなくなっていっている、というふうに僕には見えるんですよ。そして本人にもひょっとしたら、エンターテインメントをやる気がないのかもしれないな、と。

菊地 もはや、そうなんですかね。「映画美学校ちゃんねる」は僕も拝見しましたけど。

高橋 あの後一緒に飲みに行って、「ポランスキーは偉いですよね」っていう話をすると「うん、ポランスキーはつくづく偉いと思う!」って言うんだよね。作家としての地位を保ちつつ、ハイクオリティなエンターテインメントを発表して、第一線から退く気は少しもないっていうさ。じゃあ黒沢さんもそれやってくださいよ、って僕らは思うんだけど、それがなかなか難しい。

菊地 これは僕らが映画を語る時に、どうしても置き去りにしがちなことなんですけど、こういういろんな試行錯誤が一般の観客にどこまで届いているかというのが、最近すごく気になるところなんですよ。そこを抜きに考えてしまうと、どんどんみんなが貧しい方向に行っちゃうんじゃないかという怖さを僕はすごく感じるんです。

菊地2

——「作家が売れる」って何だろう、と私もよく考えます。

菊地 というか、もはや「作家」っていう言葉自体が難しいですよね。「作家」って名乗った途端に僕は、食えないことを覚悟しなきゃいけないんじゃないかとさえ思っています。『ディアーディアー』を撮って、よく「作家になるんですか職人になるんですか」って聞かれるんですけど、その質問自体がもうナンセンスというか。僕らにはそんな選択権はないんですよ。生きてくことさえ大変!っていうのが実感ですもん。

小出 そうだよね。ここでそれをボヤいてもしょうがないけどね(笑)。

高橋 もちろん観客にどう見えるかなんだよ。黒沢さんの次回作『クリーピー』(16年6月公開予定、出演:西島秀俊、竹内結子他)は、どんなふうなんだろう。予算とかは、それなりにあるのかな。

菊地 あると思います。『岸辺の旅』よりは。

高橋 それを、エンターテインメントにしてくれてるかどうか、だよね。最近の黒沢さんはどうも「エンターテインメントじゃないもの」を選びとっているような気がどうしてもするんです。『リアル〜』で言うと、さっきも言ったように、死者の意識に入っていくのをどう見せるかが、エンターテインメントの骨法で行けば勝負のしどころなんだけど、黒沢さんはそこが勝負だと思っていない感じがしたんだよね。そこが、エンタメを意識しているプロデューサーからすると心配になっちゃうだろうなと。そういうところをもっと、えげつなく行っちゃえばいいのに!っていう、これは極めてポジティブな意見なんですけど(笑)。


菊地 僕としては、黒沢さんにはもう一度高橋さんたちとガチで組んでいただきたいです。黒沢さんがどこかあきらめてしまっている部分とか、確立してしまった部分がもしあるのなら、もう一回揺り起こしてほしいというか。


高橋3

高橋 注文さえあれば僕は全然やりますよ(笑)。今回で言うと宇治田さんとか、『リアル〜』で言うなら田中幸子さんとか、自分とは違った血を入れようとしているのはとてもいいことだと思うんですよ。でもこれからは、そこからさらに踏み出して、確立したものを壊していく段階に入っていいのではないか、っていうふうに僕は思うんですね。今の日本映画は原作モノが本当に多いけど、日本のエンターテインメント小説の多くは、アメリカのそれと比べたら圧倒的に弱いんです。それを根本から鍛え直す作業を、黒沢さんがしたらいいと思う。原作者とちゃんと向き合って、ケンカはしない程度に(笑)。原作の弱い部分を黒沢さんの作家性で何とかしてしまうと、本当の骨太なエンターテインメント作品にはならないですよ。もちろん、それはものすごいイバラの道です。だからこそ、そこで結果を出したらすごいことになると思う。でも、これ、以前も何かの対談で言った気がするけど、エンターテインメントと言う以上、僕らがまずそれをやってみせなきゃいけないんだよね。黒沢さんを「このままではいかん!」と嫉妬させ本気にさせることを。(2015/11/24)

http://eiga-b-gakkou.blog.jp/archives/49096640.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1073.html#c8

[近代史4] 黒沢清 岸辺の旅 (ポスプロ 2015年) 中川隆
9. 2020年10月03日 07:21:22 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[11]
黒沢清の「震災後三部作」〜『岸辺の旅』・『ダゲレオタイプの女』・『散歩する侵略者』〜
https://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/jimonshin/2592/

 黒沢清は、東日本大震災についてどのように考えているのだろうか。この野暮な問いから始めようと思う。

 野暮と書いたのは、震災のような大きな出来事は、その出来事がもつ社会的な意味の大きさや、そこにつきまとう言説の膨大さゆえに、強力な磁場をもってしまうからだ。「道徳」や「当事者性」という磁場にからめとられた語りは、多くの場合多様性や細部を失う。黒沢自身は震災について積極的に発言をおこなってはいない。そして、一昨年(二〇一六)に大ヒットしたふたつの映画、『シン・ゴジラ』や『君の名は。』のような、わかりやすく震災ないしは自然災害に応答するような作品を作っているわけでもない。それならば、黒沢と震災をつなげて言葉を立ち上げようとしたところで、そこで出来上がるものは磁場にとらわれた広がりのない議論になりかねないのではないか。

 しかし、そんな疑念を抱きつつもなお、黒沢には冒頭の問いを投げかけてみたくなる。それは、黒沢映画のなかで重要なモチーフのひとつが幽霊だからだ。幽霊と東日本大震災は不可分の関係にある。その関係を探るために、Buzz Feed Japanの記者である石戸諭の著書『リスクと生きる、死者と生きる』を参照したいと思う
 『リスクと生きる、死者と生きる』のなかではこのようなエピソードが紹介されている。二〇一六年の冬、ある大学生の書いた卒業論文がネット上で議論を起こしていた。その論文は、被災地で耳にされていた、タクシー運転手が幽霊を乗せたという噂についての聞き取り調査をおこない、論文としてまとめたというものであった。ネット上では、その論文が学術的なものとみなせるかといったことが争点になっていたが、そのような議論に違和感をもった石戸は、執筆者である学生の所属するゼミにコンタクトを取る。そして当の卒業論文の指導教官であった社会学者の金菱清は、石戸に対して以下のように語っている。

「生きている人と死者の中間に、行方不明に象徴される『あいまいな死』があります。当事者の間でも、生と死はきれいに分かれてはいない。遺体が見つからないため、死への実感がわかず、割り切れない思いを持っている人の気持ちとどう向き合うのか。幽霊現象から問われているのは慰霊の問題であり、置き去りにされた人々の感情の問題なのです。」(『リスクと生きる、死者と生きる』、p.108)[i]

 「あいまいな死」は、生き残った人たちに、「あの人は本当に死んでしまったのか」という問いをつきつける。その問いは同時に、「死を受け入れられない」という感情の表れでもある。そのような感情を否定することなく、「あいまいな死」と向きあうなかで起きたのが、タクシー運転手たちの幽霊に関する語りであり、そこに被災地の現在の死生観が表れているというのが、金菱の考えである。
 さきに引用した一節は、東日本大震災以後を生きる現実の人々が直面している問題だ。しかし、黒沢清という名前と一緒にこの一節を読んだとき、ある映画の場面が浮かんでは来ないだろうか。2013年制作の『岸辺の旅』の冒頭で描かれる、失踪した夫、薮内優介(浅野忠信)の帰りを待つ妻の瑞希(深津絵里)の姿である。

2、
 『岸辺の旅』は、失踪した夫の帰りを待ち続け三年がたったある日、幽霊になった夫が突如姿を現すところから物語が始まる。優介は、自分は富山の海で死んでおり、死体もすでに蟹に食われて跡形もないと言う。最初、瑞希は戸惑うものの、その後優介に連れられ、彼が失踪してから亡くなるまでに訪れた土地を辿る旅に出て、それぞれの土地で彼と関わった人たちに出会っていく。
 夫である優介は幽霊として現れる。しかし、画面内に描かれる優介の姿は、一般的にイメージされる幽霊の姿と大きく異なる。彼は瑞希のつくった白玉団子をふつうに食べるし、荷物をもつしバスにも乗る。旅先で出会う人びととも当然のようにコミュニケーションをとるし、瑞希と情事に及ぶ(と明らかに思われる)場面すらある。映画批評家の渡邉大輔も、映画における幽霊について述べた論考のなかで、『岸辺の旅』における優介という幽霊の特異性を以下のように述べている。

たとえば、黒沢の近作『岸辺の旅』がかれのホラー系の過去作と明らかにテイストがことなるのは、ひとことでいえば、登場する幽霊たちがまったく怖くないことによる。[…]夫の幽霊(浅野忠信)は、かつての『CURE』の萩原聖人や『叫』の小西真奈美のような不穏で陰惨なたたずまいはほとんど感じさせない。寝食を含め人間=生者の妻と同じ行動を取り、なおかつ情事まで演じてしまう浅野の幽霊は、観客の目には妻のいる現世といかにもフラットに馴染んでいるように思える。(『ゲンロン5 幽霊的身体』、p.168)[ii]

 さきほど東北の被災地における「あいまいな死」を示したが、優介の死もまたあいまいなものだ。彼の遺体が発見されることはなく、亡くなる場面が明確に描かれることもない。なにより、幽霊であると言いつつも生きているようにしか見えない彼の存在自体が両義的であいまいなものである。彼が海のなかで死んでいるという点も示唆的だ。
 『岸辺の旅』の二年後に制作された『ダゲレオタイプの女』においても、ふたたび「あいまいな死」を経由した幽霊が現れる。奇しくも、その死が決定的になるのもまた水のなかだ。
 「ダゲレオタイプ」という旧式の撮影技術に強いこだわりをもつ写真家のステファン(オリヴィエ・グルメ)の亡き妻、ドゥーニーズ(ヴァレリ・シビラ)と、ステファンのもとに助手としてやってくる主人公ジャン(タハール・ラヒム)と恋に落ちるステファンの娘、マリー(コンスタンス・ルソー)。このふたりが『ダゲレオタイプの女』で幽霊として現れる。ドゥーニーズは物語が始まる段階ですでに亡くなっており、ジャンやステファンの前にときおり姿を現す。一方マリーは、前半分では生きている存在として描かれる。彼女が幽霊性を獲得するのは、階段から落下する場面からだ。ドゥーニーズの呼びかけ(幻聴?)を聞いたステファンは、幻影に導かれるまま家のなかを徘徊する。その様子を奇怪に思い、マリーはステファンを追う。その後ステファンが登った階段をマリーも登り、階段だけが映されたのち、マリーが階段を転げ落ちる。ステファンはマリーに駆け寄るものの、気が動転しており何も対処ができない。慌ててやってきたジャンが、額から血を流し気絶しているマリーを車に乗せ、病院へと向かう。しかしその途中、車のドアからはみ出した、マリーにかけられた毛布の一部分が地面の枝木に引っかかったような描写ののち、マリーが姿を消してしまう。ジャンが車を降りて辺りを探していると、マリーが何事もなかったかのようにあらわれ、家に帰ろうとつげる。その額には傷も血も残っていなかった。
 この後の場面で、ステファンはマリーが死んでしまったと言い張る。ジャンはマリーを屋根裏部屋に隠し、ふたりは新たな生活のため、土地開発業者のトマ(マリク・ジディ)と協力し、ステファンに土地と家を売却させようと画策する。しかしその途中で、ジャンもまたマリーがすでに死んでいるのではないかと疑いを持つようになる。露骨に、マリーの死体が川のなかにあるのではないかと思わせる場面もある。ドゥーニーズとマリー、ふたりの幽霊に精神的に追い込まれたステファンは、最終的に頭部を撃ち抜いて自殺する。ステファンの死体を目にし、土地売却の目的も潰えさらには人を死に追いやってしまうったという自責の念からジャンは混乱し、その後やって来た土地開発業者のトマを射殺してしまう。
 ジャンとマリーは車で逃亡し、さびれた教会でふたりだけの結婚式を挙げる。そして神父が立ち退くように告げたのち、マリーは姿を消し、ジャンと観客に対して、マリーが本当に幽霊であったことが突きつけられる。
 『岸辺の旅』の優介が、冒頭から自分は死んだと明言し、幽霊であることが確定された存在として現れるのに対して、『ダゲレオタイプの女』におけるマリーという幽霊は、生者の世界と死者の世界、本当はどちらに属しているのかが、さらに捉えがたい。物語の筋を素直に追えば、マリーが死んだのは階段から落ちてから川の近くで姿を消すという場面のあたりだ。しかしその後もマリーはジャンと生活を続けるし、一度家を査定にきた業者も、マリーと思しき人影を見かけたとジャンに告げる。それでは、やはりマリーはずっと生きていたのかといえば、そんなこともない。彼女は教会ではっきりと姿を消してしまうのだから。記憶を思い返し、彼女が生者/死者のどちらかであったかをはっきりさせようとするほど、マリーの両義性は捉えがたさを増していく。

3、
 長編最新作である『散歩する侵略者』においては、「あいまいな死」や幽霊はどのように現れているだろうか。『散歩する侵略者』で中心となるのは、加瀬鳴海(長澤まさみ)と加瀬真治(松田龍平)の夫婦だ。真治は地球を侵略にやってきた宇宙人に体を乗っ取られている。宇宙人は侵略の前段階として、地球人について知るために彼らの概念を奪っていく。概念を奪われた地球人は、その概念を喪失する。例えば、真治によって「家族」という概念を奪われた明日美(前田敦子)は、姉である鳴海に対して、あたかも他人であるような冷たい振る舞いをするようになる。真治を乗っ取った宇宙人のほかにもふたり、地球に前もって潜入している宇宙人がおり、彼らの方が着実に侵略の準備を整えていく。彼らの準備によって刻一刻と地球全体へ危機が迫っているさまと、真治に向き合う中で苦悩する鳴海という局所的な世界が、対比される形で物語は進行する。
 真治は宇宙人に体を乗っ取られているが、彼自身の肉体は生きており活動しているため、『岸辺の旅』と『ダゲレオタイプの女』における死んだパートナーとまったく同じ状況ではない。しかし、死者/生者のどちらにも定義しきれないようなさきの二作における幽霊と、地球人/宇宙人の両面がひとりの人物において重ね合わさっている真治はあきらかに対応している。そのためここでは(真治が元通りの地球人になることはないという点も含めて)、彼を死者として扱う。
 そのように整理すると、『岸辺の旅』、『ダゲレオタイプの女』、『散歩する侵略者』においては、あいまいな死者と残された者という二者関係が共通してみられる。しかし同時に、『ダゲレオタイプの女』と『散歩する侵略者』の間には切断線もある。それは、さきの二作がパートナーの死という、夫婦や恋人、ないしは家族という範囲のなかで発生する危機を描いていたのに対し、『散歩する侵略者』においては、鳴海と真治の夫婦間の問題も描かれながら、それと同時に宇宙人による地球侵略という、人類全体に関わる危機も描かれているからだ。ここでもまた東北の震災のイメージは回帰する。物語の終盤、無数の宇宙船が飛来し地球を襲う場面は、鳴海と真治が海にたたずむ光景から始まるのだから。
 幽霊というモチーフを扱うことで個人の関係性における「あいまいな死」を絶えず主題としつつ、危機の問題を個人から集団へ拡大させる。そのように枠組みを変化させることで、黒沢は少しずつ震災のイメージへと近づいている。それでは最後に、黒沢がその枠組みにおいて東日本大震災にどのような応答をしていると考えられるのか。
 繰り返しになる部分もあるが、改めて強調する。ここで取り上げた三作における死者は、いずれも残された者に自らが死ぬところをまったく見せていない。優介は失踪したまま富山の海で死んでしまう、マリーはジャンの知らないとこで階段から転げ落ち川にも落ちてしまう、真治は鳴海の前から姿を消し気づいたら病院で再開している。残される者は、相手がいつどこでどのように死んでしまったのかを知らない。残された者に与えられたのは、大切な人の「あいまいな死」だけだ。だから、死者は残された者の前に幽霊として姿を現すのである。黒沢がそのような幽霊を描くのは、そのような方法によってしか、訳も分からず死んでしまった大切な人と交流する術が残されていないからだ。そして注目すべきは、黒沢映画において現れる幽霊と残された者が、どのように関係をむすんでいるかである。
 死者のことが思い返されるとき、死者は多くの場合亡くなったときの姿をしている。それは、生者にとって死者は閉ざされて変化することのない時間にとどまっているからだ。しかし、黒沢清の「震災後三部作」で描かれる死者(幽霊)の姿は、このイメージに大きく揺さぶりをかける。さきに引用した渡邉が指摘するような死者と生者のフラットさ、死者が生者と見分けがつかないくらい身近に感じられることが重要なのではない。死者と生者の時間が相互的な関係性のなかで同時に更新され続けていることがなによりも重要なのだ。『岸辺の旅』で、瑞希と過ごす中で、死者である優介自身の時間もまた更新されていく。終盤では、彼は瑞希にその死を知られることなく、彼女に最後に謝ることができなかった優介ではない。『ダゲレオタイプの女』のマリーもまた、本当にひと時であれ、ジャンと共に二人で生きるという時間を経験する。『散歩する侵略者』の優介も、地球を滅ぼす侵略者から、鳴海に寄り添う夫へと大きな変容を遂げる。
 一般的に思い描かれているのは、固定された時間のなかにいる死者/変化する時間のなかにいる生者という隔絶された二項対立のなかで、死者と交流しつつ、生者だけが変容していくという世界観である。しかし、黒沢が『岸辺の旅』、『ダゲレオタイプの女』、『散歩する侵略者』で描いた死者は、生者との関係において、死者自身の時間もまた更新されていく。変容する死者/変容する生者という関係性が、その関係性自体も絶えず変化していくような世界観、これが黒沢が震災後の映画において提示したものであり、まもなく7年前の出来事として位置づけられる震災への応答である。それは、『君の名は。』や『シン・ゴジラ』が危機の解決というカタルシスによって東日本大震災を完結した「過去」――まさに固定された死者!――のように扱ってしまったことに比べて、はるかに真摯な応答になりえているのではないだろうか。

[i] 石戸諭、2017、『リスクと生きる、死者と生きる』、亜紀書房

[ii] 渡邉大輔、2017、「『顔』に憑く幽霊たち――映像文化と幽霊的なもの」、『ゲンロン5 幽霊的身体』所要、ゲンロン

https://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/jimonshin/2592/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1073.html#c9

[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
91. 中川隆[-11050] koaQ7Jey 2020年10月03日 07:33:02 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[12]
世界最大のヘッジファンド: ドルが下落したらアメリカは終わり
2020年10月2日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11762

引き続き世界最大のヘッジファンドを運用するレイ・ダリオ氏のブログ投稿をフォローしよう。

覇権国家と輸出の増加

ダリオ氏はコロナ以後、オランダ海洋帝国や大英帝国を含む覇権国家の勃興と凋落を分析してきた。

世界最大のヘッジファンド: オランダ海洋帝国が繁栄した理由
世界最大のヘッジファンド: 量的緩和で暴落した世界初の基軸通貨
世界最大のヘッジファンド: 大英帝国の繁栄と衰退
世界最大のヘッジファンド: 大英帝国の基軸通貨ポンドはいかに暴落したか
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11762

そして今ダリオ氏の話は現在の覇権国家、アメリカへと移っている。イギリスの覇権がアメリカへと移ったのは世界大戦の頃である。ダリオ氏は次のように説明する。

2度の世界大戦を通じてイギリスの輸出は落ち込んだ一方、アメリカの輸出が増加した。(それがアメリカを豊かにした。)

覇権国家が覇権国家になる兆しがあるとすれば、先ず輸出でお金を稼ぎ始めることだろう。アメリカもそうやって大国となってきたのである。

しかし1970年代からアメリカの輸出が振るわなくなり、アメリカは金本位制を放棄して紙幣を印刷しなければならなくなったというのが前回の記事までの流れである。アメリカのGDP比純輸出(輸出から輸入を引いたもの)の長期チャートを掲載してみよう。


下落の長期トレンドがあったのが分かる。アメリカは貿易でお金を失っているのである。

戦前には大きな貿易黒字を誇っていたアメリカは徐々に黒字を縮小し、丁度アメリカが紙幣の印刷を始めた1971年のニクソンショックの辺りから貿易赤字に転落、その後赤字を大きく増やしていった。ニクソンショックによるドル暴落については以下の記事でダリオ氏が説明している。

世界最大のヘッジファンド: 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落するとき
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11685


貿易赤字の意味

貿易が赤字ということは国家は資産を失っていっているということである。それはアメリカの対外純資産(アメリカが持つ他国の資産から他国に負っている負債を引いたもの)のチャートを見れば分かる。


現代では誰もが紙幣印刷にはコストがないと思い込んでいるが、これこそが紙幣印刷のコストである。アメリカは物凄い勢いで資産を失い続けているのである。

基軸通貨ステータス

普通、国家がこういう状況に陥ればその国の通貨は暴落する。ドルはドル円が360円だった時代から考えれば50年間暴落し続けてはいるのだが、それでも先進国としてまともな物価を維持しておりジンバブエのようにはなっていない。

それはなぜか? アメリカの通貨ドルが基軸通貨で、世界中で使われているからである。世界中で使われる通貨には買い手が常に存在する。買い手が存在する通貨は暴落しないのである。

ダリオ氏は次のように言っている。

自国の通貨を印刷してそれを世界に認めさせる能力、世界の主要な準備通貨を持つ国(特にアメリカ)だけが持つ能力は国家が保有できるもっとも価値の高い経済力である。

同時に、十分な外貨準備を持っていない国(現在のアメリカの立場)が基軸通貨の立場を持たない場合、その国は経済的に非常に脆弱になる。

つまり、米国は「世界通貨」を印刷できるために非常に強力な立場にあるが、それはドルが基軸通貨のステータスを失えばアメリカは危機に立たされるということを意味する。

つまりはドルが基軸通貨であったお陰でアメリカは赤字を垂れ流しても大丈夫だったということである。

結論

しかし大半の人が忘れているのは、それは天井なしの拡大のできるものではないということである。負債が増えてきた状況は世界大戦時のイギリスに似ている。イギリスはそれでもまだ大国だった。しかし戦費もあり膨大な負債を抱え、徐々に凋落していった。

アメリカも今はまだこれまでに築いた国内資産のお陰で対外資産が目減りしても耐えているが、どんな大国でも資産は無限ではない。そして資産が豊富にあったとしても、資産が滝のように流れ落ちてゆくのは良いことではない。


したがってアメリカの凋落は徐々に来るだろう。この対外純資産のチャートはそのカウントダウンをしている。そうした長期的凋落がダリオ氏の危惧するシナリオなのである。

個人的にはダリオ氏のアメリカ凋落予想は長期的には妥当なものに思える。どの国も永遠には繁栄しないからである。

一方でダリオ氏はその代わりに中国の台頭を予想しているようだが、果たしてそれはどうだろうか。ダリオ氏の中国の見方もまた取り上げたいと思っている。

世界最大のヘッジファンド: 中国が覇権を握りドルは基軸通貨でなくなる
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10592


https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11762
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/895.html#c91

[近代史02] アタマに効く温泉 中川隆
36. 中川隆[-11049] koaQ7Jey 2020年10月03日 09:54:51 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[13]
うつ病の原因、ついに解明 リスクを12倍に高めるたんぱく質とは
週刊新潮 2020年10月1日号掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/10030556/?all=1

誰もが罹り得る「国民病」(写真はイメージ)(他の写真を見る)



うつ病の「引き金」を特定

 コロナ禍で活動は制限され、心身に変調をきたす人も少なくない。うつ病は生涯で15人に1人が経験するという「国民病」なのだが、東京慈恵会医大の研究チームによって、その原因がウイルスにあることが先ごろ判明した。一体、いかなる仕組みなのか。

 ***

 過労や強いストレスによって引き起こされるうつ病は、誰もが罹る可能性を帯びている。が、その発症メカニズムについては長らく解明されてこなかった。

 そんな中、今年6月に東京慈恵会医大の研究チームは、体内の「ヒトヘルペスウイルス」が唾液を介して口から鼻に逆流し、脳に感染すると特定のたんぱく質が作られることを発見した。さらに、このたんぱく質を持つ人が、持たない人に比べて12倍以上もうつ病に罹りやすいという結果も得られたのである。

 すなわち、うつ病の「引き金」となる要因を突きとめたわけであり、これらの研究結果は6月、米国の電子科学誌「アイサイエンス」でも発表されている。

 医学博士で、研究チームを率いる同大の近藤一博教授(ウイルス学)が言う。

「動物も含めると数百種類にのぼるヘルペスウイルスの中で、ヒトに感染するのは9種類です。まず口唇ヘルペスの原因となる『単純ヘルペス1型』、性器ヘルペスの原因となる『単純ヘルペス2型』、それから『水痘帯状疱疹ウイルス』があり、さらに特定のがんの原因とも目されている『エプスタインバールウイルス』、新生児に重篤な感染症を引き起こす『サイトメガロウイルス』。そして『ヒトヘルペスウイルス(HHV)−6』『7』『8』とあり、このうちHHV−6には『A』『B』の2種類があります」

 この9種のうち、

「HHV−6と7はヒトに100%感染する、人間ならば誰もが持っているウイルスです。通常、私たちは幼児期に家族などを通じて感染しますが、これらのウイルスは突発性発疹といった軽い発疹症を起こすだけで、体内のマクロファージ(白血球の免疫細胞の一種。死んだ細胞や体内の異物を捕食する細胞)に感染して静かにしています。これを潜伏感染といい、私たち“宿主”が疲労すると敏感に察知して再活性化し、外へ出ようと唾液中に出現するのです」

 従って、

「唾液中のHHV−6とHHV−7の量を調べれば、その人がどれだけ疲労しているかを客観的に分析することができます」

 というのだ。

「生理的疲労」と「病的疲労」
 実は近藤教授は2017年、HHV−6の研究から疲労の原因となる「疲労因子」を世界で初めて解明、発表している。それまで“疲労感”といった主観でしか捉えられてこなかった感覚に、客観的な尺度が備わったわけである。

「例えばHHV−6は、潜伏感染中も「H6LT」というメッセンジャーRNA、つまり特定の役割を持つたんぱく質を作る“指示書”を発現させています。通常の状態だと、H6LTからはたんぱく質は作られないのですが、体が疲れてくるとHHV−6に“増えろ”という指示を出すたんぱく質を作り始める。すると眠っていたHHV−6が動き始め、唾液中に出て新しい宿主を探しに行くのです」

 では、問題のメッセンジャーRNA「H6LT」は、どのように体の疲労を見極めているというのか。

「我々は『elF2α』という因子が『リン酸化elF2α』という物質に変化することで、『炎症性サイトカイン』というたんぱく質が産出され、これが脳に作用し疲労が生じることを発見しました。炎症性サイトカインは、細菌やウイルスが侵入すれば撃退して体を守ってくれますが、一方で体内の組織などが腫れ上がる腫脹や、発熱など炎症反応の原因にもなるものです」

 風邪の時に感じる“だるさ”も、これが原因であり、

「H6LTは、このリン酸化elF2αに反応してHHV−6に“増えろ”という指示を送る。HHV−6は、ヒトの疲労のメカニズムをうまく利用しているといえます」

 近藤教授の研究により、この原理を利用して唾液中のHHV−6とHHV−7の数値を調べ、疲労の数値化が可能となった。が、一方で疲労感を訴えながら値が少ないケースもあるという。

「疲労には、運動などの情報が脳に伝わって“もう休みなさい”という意味の生体アラームとして発せられる『生理的疲労』と、実際の仕事や運動とは関係なく病気の脳が勝手に疲労を感じてしまう『病的疲労』があります。前者は健康的な反応であって休息をとれば回復しますが、後者は脳神経が何らかのダメージを受けることで生じ、長時間持続するのです」

 その裏には多くの場合、うつ病が潜んでいるといい、

「ヒトヘルペスウイルスは生理的疲労には反応しますが、病的疲労には反応しません。すなわち疲労感があっても唾液中のHHV−6、HHV−7が正常値である場合は病的疲労であると言え、うつ病の兆候の一つを早期発見できるわけです」

 従来は6カ月続く疲労を「慢性疲労」と呼んでおり、

「『疲れが取れません』という患者さんにも、とりあえず『半年待ちましょう』としか言えませんでした。これでは早期治療など全くできません。ヘルペスウイルスを使った検査法が一般化すれば、その場で唾液中の量を調べ、治療を始めることもできるのです」


リスクが12.2倍に
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/10030556/?all=1&page=2

 ここから、今回の発見へと繋がっていく。冒頭で触れた通り、近藤教授はヒトヘルペスウイルス自体がうつ病の原因となる可能性を解き明かした。中でも、うつ病と関わってくるのは「HHV−6B」だという。

「今から10年前は、多くの研究者がうつ病の原因遺伝子は必ずヒトの遺伝子から見つかるものだと考えていました。ところが遺伝子を全部調べても、うつ病の原因遺伝子は見つからなかった。そこで遺伝子ではなくウイルスに着目したところ、実に興味深い事実が判明したのです」

 潜伏感染中のHHV−6が体内の疲労因子に反応して増え出し、唾液中に出現するのは先述の通りだが、

「HHV−6は口腔からさらに鼻へと遡り、脳の中でにおいを司る嗅球(きゅうきゅう)という部位に感染します。ここでHHV−6は『SITH−1(シスワン)』というたんぱく質を産出するのですが、このSITH−1は細胞内のたんぱく質『CAML』と反応して活性化し、嗅球内にカルシウムを流入させます。その結果、嗅球の脳細胞は死んでしまうのです」

 嗅球は、脳の記憶を司る海馬とも密接に結びついており、

「嗅球の脳細胞が死ぬと、つながりのある海馬も多大な影響を受け、脳のストレス応答が高ぶることでうつ病に罹りやすくなるのです。ストレスがどのようにうつ病を引き起こすのかはいまだ謎の部分が多いのですが、脳の神経を障害してうつ病を引き起こすと考えられています」

 とのことで、

「実際に今回の研究では、SITH−1陽性者は陰性者に比べて12・2倍もうつ病に罹りやすく、またSITH−1の影響でうつ病になった人は患者全体の79・8%にも及ぶという結果が得られました。遺伝子研究では、比率が1・2〜1・5倍程度でも関係があると見なされます。その中で12・2倍という数字は突出しており、うつ病の主な原因の一つであると考えてよいと思います」

スター・ウォーズに因んで
 ちなみにSITH−1という呼び名は、近藤教授が映画「スター・ウォーズ」に因んで付けたという。

「悪役の『シス』に由来しています。シスがアナキンに取りついてダース・ベイダーに変えてしまったように、SITH−1はヒトの脳に取りついてストレスをより多く感じさせ、うつ病のような精神疾患を引き起こすというわけです」

 うつ病の原因の正体が掴め、早期治療に繋がる今回の発見。気になる実用化については、

「例えば会社の健診でSITH−1が陽性かどうかを調べれば、ストレスへの耐性が分かり、健康指導もできるはず。正しく理解してもらえればすぐにでも実用化できると思います」

 そう太鼓判を押しながらも、

「SITH−1を防ぐ薬の開発については、もう少し時間が必要だと考えています。というのも、口から鼻に逆流し、最終的に嗅球へと到達するHHVをどこでブロックするかが難しい。嗅球にたどり着く前に止めるのであれば、薬をずっと飲み続けなければならなくなります。となると、嗅球に感染しても脳細胞が死なないような薬が作れればいいのですが……」

 さらなる研究が待たれるところである。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/345.html#c36

[近代史4] うつ病の原因、ついに解明 リスクを12倍に高めるたんぱく質とは 中川隆
1. 中川隆[-11048] koaQ7Jey 2020年10月03日 09:55:30 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[14]
アタマに効く温泉
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/345.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1076.html#c1
[近代史4] ドルが下落したらアメリカは終わり 中川隆
1. 2020年10月03日 12:29:13 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[15]
世界最大のヘッジファンド: アメリカの覇権が中国に奪われる4つの道筋
2020年4月8日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9934

世界最大のヘッジファンドBridgewaterを運用するレイ・ダリオ氏が非常に面白いエッセイを連日LinkedInのブログに投稿している。その内容は非常に多岐にわたるが、究極的には中央銀行が緩和する力を失った後に市場と経済はどうなるかを研究しようとしているようである。

今回はその中からオランダの海洋帝国から大英帝国、アメリカの覇権など、覇権国の勃興について扱った部分を取り上げたい。ダリオ氏は大英帝国が栄えて没落したようにアメリカも同じようになると考えており、その兆候は既に見られていると言う。

彼によれば覇権国がその覇権に挑戦する国に覇権を奪われるまでにはいくつかの道筋があり、ここではそれを順番に挙げていこう。

模倣者の出現

経済的、政治的に強者の立場を勝ち取った国はどのようにその立場を失ってゆくのだろうか。まず経済的に成功した国は他の国にそのモデルを盗まれるということである。ダリオ氏は次のように説明している。

成功した国はその成功モデルを他国に模倣され、競争力を失ってゆく。例えばオランダからイギリスに覇権が渡る前、イギリスの造船業者はオランダの造船業者よりも安い労働力を持っていた。その上で設計士だけオランダ人を雇いより安価な船を作り上げた。

日本が家電や自動車を作り、中国がスマートフォンを作ったことも同じだろう。挑戦国の製品は始めは出来が悪く先駆者に笑われるが(トヨタのカローラは欧米では白物家電と揶揄されていた)、安価でしっかり動く製品は次第に市場を支配してゆく。

現代においてはこれは既に起こっていると言える。日本も中国もある種の製品においてはアメリカの生産性を上回っている。

しかしそれでもアメリカだけが作れるものが完全になくなっているわけではない。Appleの生み出したiPhoneはここ10年ほどの産物であり、アメリカが覇権国となってから何十年経ってもアメリカは新しいものを生み出し続けている。しかしそれはすぐに挑戦国に真似をされ、覇権国は次のイノベーションを求められる。アメリカがそれをいつまで続けられるかということである。5Gの騒動は中国の技術力が一部アメリカに勝ちつつあることを示している。

勤勉さの減少

ダリオ氏は次により精神的な側面に焦点を当てている。個人的には先進国で経済成長率が低い一番の原因はこれではないかと考えている。ダリオ氏は次のように述べる。

裕福になった国民は働かないようになり、娯楽やより非生産的な活動、極端な例では退廃的な消費活動に従事するようになる。これは特に実際に力強く活発に働かなければならなかった世代からその遺産を相続した世代に世代交代が行われるときに顕著となる。

この若い世代は弱々しく闘争心がない。それは結果として覇権国を挑戦者に対して脆弱な存在にする。

これは日本で1945年以後の経済成長を支えた勤勉な世代のあとにその貯金で放蕩に耽ったバブルの世代がやってきたことを思わせる。あるいはヘッジファンドマネージャー、ジョージ・ソロス氏の息子は「ナチス支配下のハンガリーを生き延びてアメリカに渡り莫大な財産を築いた男の息子が父親ほどハングリーにやれるわけがない」と言っていた。裕福な環境は子供の世代にとって良し悪しなのである。

持続不可能な債務

次にダリオ氏は債務のサイクルを挙げている。投資家としてはこれが一番重要だろう。

もっとも裕福で強大な国の通貨は世界の準備通貨となり、そのことは覇権国に通貨を下落させずに莫大な借金をする特権を与える。(訳注:いくら借金をしても通貨の買い手が海外から現れるからである。)そして覇権国は債務を次第に大きくしてゆく。

覇権国の借り過ぎはかなり長期にわたって続き、しかも自己強化的なトレンドとなる。何故ならば、準備通貨が上昇することで海外の貸し手は収入が多くなり、それが更なる貸し手を呼ぶからである。そして富裕国が貧困国からお金を借りようとするとき、それが覇権交代の最初のサインなのである。

例えば1980年代、アメリカの1人当たりの収入が中国の40倍だったとき、アメリカはドルで預金したがった中国の人々からお金を借り始めた。ドルが世界の準備通貨だったからだ。これが変化の起こる初期の兆候であり、大英帝国も同じように莫大な資金をより貧しかった自分の植民地から借り受けている。

基本的に債権者というのは相手を経済的に好きに出来るのである。ドイツがイタリアやギリシャをEUという枠組みの下に従えているのも同じである。それはドイツが債権国だからである。

また、日本もドルと米国債を大量に買うことによって国力を上げてきた。結局はバブルの時代に退廃的な使い方をして日本のバブルは弾けたが、日本国民の対外資産からの金利収入は今なお日本全体の収入を支えている。それは高度経済成長期の遺産なのである。

アメリカに話を戻そう。このようにドルの買い手が多く現れるため、アメリカのような基軸通貨国は借金の許される特権を使いすぎるあまり債務超過に陥ってしまう。それは大英帝国の衰退においても同じだったとダリオ氏は言う。膨大な債務は長らく持続可能だが、大英帝国に終わりが来たようにアメリカの債務にも終わりが来るだろう。ダリオ氏はその終わりを次のように語っている。

負債が非常に大きくなり、負債増加と経済成長が中央銀行によって支えきれない状況で景気後退が起こると中央銀行は際限なく紙幣を印刷することになり、究極的には通貨が下落する。

投資家として一番面白いのは量的緩和によるドルの下落を予想するこの部分だろう。ダリオ氏が今年に入って「現金はゴミ」発言を繰り返していた理由はそこにあるのだろう。

レイ・ダリオ氏、「現金がゴミ」になったニクソンショックの経験を語る
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9645


貧富の差と税収

更に、ダリオ氏が近年何度も強調しているのが貧富の差による社会的対立の激化である。

貧富の差が拡大し経済におけるストレス(それが何から来るにしても)が溜まるとき、高い確率で富裕層と貧困層の間で対立が生じ、それは過激化してゆく。

富裕層が金を取られると考えたとき、あるいは金を出せと脅されたとき、彼らは彼らの資産を安全と思う場所に隠そうとするだろう。そしてそれが続けば対立の生じている国では税収が減ってゆき、古典的な自己強化トレンドが生じる。減少する税収が対立を激化させて税率が上がり、富裕層は更に逃げてゆく。

この現象はアメリカでも起きている。そもそも税収とは不平等なものである。富裕層は貧困層に比べて大きな額の税金を払っているが、それでより良い公共サービスが受けられるわけでもない。富裕層にとって税金とは貧困層に対する寄付のようなものだが、それを貧困層が当たり前のように要求し始めると富裕層は身を引き始める。

ダリオ氏の長期の視点で見るとアメリカでもそれは起こり始めている。アメリカではIRS(アメリカの国税局)によるアメリカ国籍保有者の資産に対する締め付けが強く、それに嫌気が差したアメリカの富裕層はアメリカ国籍を捨てることも珍しくない。Facebookの共同創業者エドゥアルド・サベリン氏はアメリカ国籍を捨てシンガポールに住んでいるという。多重国籍の許されたアメリカで国籍をわざわざ捨てることの意味はIRSを知っている人間ならばすぐに理解できる。興味のある読者は調べてみると良い。

日本でも多くの富裕層が香港やシンガポールに資産を避難させており、その内いくつかが毎年国税局に捕まっている。税理士の腕が悪かったのだろう。余談だが香港やシンガポールを勧める税理士は腕が悪いので避けたほうが良い。投資信託を勧める窓口の銀行員のようなものである。

結論

基本的に筆者はこれをダリオ氏版の長期停滞論であると考えている。長期停滞論とは経済学者ラリー・サマーズ氏が先進国の低成長の理由を説明しようとした経済理論であり、ヘッジファンドマネージャーらは彼の長期停滞論を金利動向を予測するために使ってきた。

元米国財務長官ラリー・サマーズ氏が長期停滞論とは何かを語る
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/2489


ダリオ氏はダリオ氏の観点で同じようにアメリカやヨーロッパや日本の低成長の仕組みを解き明かそうとしたのである。

一番重要なのは債務に関するドル暴落の話だろう。ダリオ氏はそうしたことがすぐに起こると言っているのではない。一方でイギリスのポンドが大英帝国時代ほど強くないことも明らかだろう。ダリオ氏はこの超長期的な視野の上で今の世界経済が何処にあるのかを確認することを読者に促しているのである。

さて、現在アメリカの中央銀行は無制限の量的緩和を行なっており、ヨーロッパも日本も限界まで緩和している。緩和手段がなくなった結果、アメリカと日本で国民に直接現金を配るヘリコプターマネーが行われようとしている。

ヘリコプターマネーはインフレをもたらすか
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9767

ガンドラック氏、新型コロナでの企業救済とヘリコプターマネーを痛烈批判
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9681


この結果経済と市場はどうなるか? 筆者は新型コロナ相場では株価反発を予想しているが、それは今後相場に何の問題もないという意味ではない。問題は反発の先なのである。

新型コロナ株安動向予想: 流行減速で株式市場は上昇する
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9386


ダリオ氏はそれを長期的視野から考えようとしているようである。ダリオ氏は毎週エッセイを更新してゆくとのことなので、引き続き紹介してゆきたい。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9934
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1074.html#c1

[近代史4] 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落する 中川隆
9. 中川隆[-11047] koaQ7Jey 2020年10月03日 12:29:59 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[16]
世界最大のヘッジファンド: アメリカの覇権が中国に奪われる4つの道筋
2020年4月8日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9934

世界最大のヘッジファンドBridgewaterを運用するレイ・ダリオ氏が非常に面白いエッセイを連日LinkedInのブログに投稿している。その内容は非常に多岐にわたるが、究極的には中央銀行が緩和する力を失った後に市場と経済はどうなるかを研究しようとしているようである。

今回はその中からオランダの海洋帝国から大英帝国、アメリカの覇権など、覇権国の勃興について扱った部分を取り上げたい。ダリオ氏は大英帝国が栄えて没落したようにアメリカも同じようになると考えており、その兆候は既に見られていると言う。

彼によれば覇権国がその覇権に挑戦する国に覇権を奪われるまでにはいくつかの道筋があり、ここではそれを順番に挙げていこう。

模倣者の出現

経済的、政治的に強者の立場を勝ち取った国はどのようにその立場を失ってゆくのだろうか。まず経済的に成功した国は他の国にそのモデルを盗まれるということである。ダリオ氏は次のように説明している。

成功した国はその成功モデルを他国に模倣され、競争力を失ってゆく。例えばオランダからイギリスに覇権が渡る前、イギリスの造船業者はオランダの造船業者よりも安い労働力を持っていた。その上で設計士だけオランダ人を雇いより安価な船を作り上げた。

日本が家電や自動車を作り、中国がスマートフォンを作ったことも同じだろう。挑戦国の製品は始めは出来が悪く先駆者に笑われるが(トヨタのカローラは欧米では白物家電と揶揄されていた)、安価でしっかり動く製品は次第に市場を支配してゆく。

現代においてはこれは既に起こっていると言える。日本も中国もある種の製品においてはアメリカの生産性を上回っている。

しかしそれでもアメリカだけが作れるものが完全になくなっているわけではない。Appleの生み出したiPhoneはここ10年ほどの産物であり、アメリカが覇権国となってから何十年経ってもアメリカは新しいものを生み出し続けている。しかしそれはすぐに挑戦国に真似をされ、覇権国は次のイノベーションを求められる。アメリカがそれをいつまで続けられるかということである。5Gの騒動は中国の技術力が一部アメリカに勝ちつつあることを示している。

勤勉さの減少

ダリオ氏は次により精神的な側面に焦点を当てている。個人的には先進国で経済成長率が低い一番の原因はこれではないかと考えている。ダリオ氏は次のように述べる。

裕福になった国民は働かないようになり、娯楽やより非生産的な活動、極端な例では退廃的な消費活動に従事するようになる。これは特に実際に力強く活発に働かなければならなかった世代からその遺産を相続した世代に世代交代が行われるときに顕著となる。

この若い世代は弱々しく闘争心がない。それは結果として覇権国を挑戦者に対して脆弱な存在にする。

これは日本で1945年以後の経済成長を支えた勤勉な世代のあとにその貯金で放蕩に耽ったバブルの世代がやってきたことを思わせる。あるいはヘッジファンドマネージャー、ジョージ・ソロス氏の息子は「ナチス支配下のハンガリーを生き延びてアメリカに渡り莫大な財産を築いた男の息子が父親ほどハングリーにやれるわけがない」と言っていた。裕福な環境は子供の世代にとって良し悪しなのである。

持続不可能な債務

次にダリオ氏は債務のサイクルを挙げている。投資家としてはこれが一番重要だろう。

もっとも裕福で強大な国の通貨は世界の準備通貨となり、そのことは覇権国に通貨を下落させずに莫大な借金をする特権を与える。(訳注:いくら借金をしても通貨の買い手が海外から現れるからである。)そして覇権国は債務を次第に大きくしてゆく。

覇権国の借り過ぎはかなり長期にわたって続き、しかも自己強化的なトレンドとなる。何故ならば、準備通貨が上昇することで海外の貸し手は収入が多くなり、それが更なる貸し手を呼ぶからである。そして富裕国が貧困国からお金を借りようとするとき、それが覇権交代の最初のサインなのである。

例えば1980年代、アメリカの1人当たりの収入が中国の40倍だったとき、アメリカはドルで預金したがった中国の人々からお金を借り始めた。ドルが世界の準備通貨だったからだ。これが変化の起こる初期の兆候であり、大英帝国も同じように莫大な資金をより貧しかった自分の植民地から借り受けている。

基本的に債権者というのは相手を経済的に好きに出来るのである。ドイツがイタリアやギリシャをEUという枠組みの下に従えているのも同じである。それはドイツが債権国だからである。

また、日本もドルと米国債を大量に買うことによって国力を上げてきた。結局はバブルの時代に退廃的な使い方をして日本のバブルは弾けたが、日本国民の対外資産からの金利収入は今なお日本全体の収入を支えている。それは高度経済成長期の遺産なのである。

アメリカに話を戻そう。このようにドルの買い手が多く現れるため、アメリカのような基軸通貨国は借金の許される特権を使いすぎるあまり債務超過に陥ってしまう。それは大英帝国の衰退においても同じだったとダリオ氏は言う。膨大な債務は長らく持続可能だが、大英帝国に終わりが来たようにアメリカの債務にも終わりが来るだろう。ダリオ氏はその終わりを次のように語っている。

負債が非常に大きくなり、負債増加と経済成長が中央銀行によって支えきれない状況で景気後退が起こると中央銀行は際限なく紙幣を印刷することになり、究極的には通貨が下落する。

投資家として一番面白いのは量的緩和によるドルの下落を予想するこの部分だろう。ダリオ氏が今年に入って「現金はゴミ」発言を繰り返していた理由はそこにあるのだろう。

レイ・ダリオ氏、「現金がゴミ」になったニクソンショックの経験を語る
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9645


貧富の差と税収

更に、ダリオ氏が近年何度も強調しているのが貧富の差による社会的対立の激化である。

貧富の差が拡大し経済におけるストレス(それが何から来るにしても)が溜まるとき、高い確率で富裕層と貧困層の間で対立が生じ、それは過激化してゆく。

富裕層が金を取られると考えたとき、あるいは金を出せと脅されたとき、彼らは彼らの資産を安全と思う場所に隠そうとするだろう。そしてそれが続けば対立の生じている国では税収が減ってゆき、古典的な自己強化トレンドが生じる。減少する税収が対立を激化させて税率が上がり、富裕層は更に逃げてゆく。

この現象はアメリカでも起きている。そもそも税収とは不平等なものである。富裕層は貧困層に比べて大きな額の税金を払っているが、それでより良い公共サービスが受けられるわけでもない。富裕層にとって税金とは貧困層に対する寄付のようなものだが、それを貧困層が当たり前のように要求し始めると富裕層は身を引き始める。

ダリオ氏の長期の視点で見るとアメリカでもそれは起こり始めている。アメリカではIRS(アメリカの国税局)によるアメリカ国籍保有者の資産に対する締め付けが強く、それに嫌気が差したアメリカの富裕層はアメリカ国籍を捨てることも珍しくない。Facebookの共同創業者エドゥアルド・サベリン氏はアメリカ国籍を捨てシンガポールに住んでいるという。多重国籍の許されたアメリカで国籍をわざわざ捨てることの意味はIRSを知っている人間ならばすぐに理解できる。興味のある読者は調べてみると良い。

日本でも多くの富裕層が香港やシンガポールに資産を避難させており、その内いくつかが毎年国税局に捕まっている。税理士の腕が悪かったのだろう。余談だが香港やシンガポールを勧める税理士は腕が悪いので避けたほうが良い。投資信託を勧める窓口の銀行員のようなものである。

結論

基本的に筆者はこれをダリオ氏版の長期停滞論であると考えている。長期停滞論とは経済学者ラリー・サマーズ氏が先進国の低成長の理由を説明しようとした経済理論であり、ヘッジファンドマネージャーらは彼の長期停滞論を金利動向を予測するために使ってきた。

元米国財務長官ラリー・サマーズ氏が長期停滞論とは何かを語る
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/2489


ダリオ氏はダリオ氏の観点で同じようにアメリカやヨーロッパや日本の低成長の仕組みを解き明かそうとしたのである。

一番重要なのは債務に関するドル暴落の話だろう。ダリオ氏はそうしたことがすぐに起こると言っているのではない。一方でイギリスのポンドが大英帝国時代ほど強くないことも明らかだろう。ダリオ氏はこの超長期的な視野の上で今の世界経済が何処にあるのかを確認することを読者に促しているのである。

さて、現在アメリカの中央銀行は無制限の量的緩和を行なっており、ヨーロッパも日本も限界まで緩和している。緩和手段がなくなった結果、アメリカと日本で国民に直接現金を配るヘリコプターマネーが行われようとしている。

ヘリコプターマネーはインフレをもたらすか
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9767

ガンドラック氏、新型コロナでの企業救済とヘリコプターマネーを痛烈批判
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9681


この結果経済と市場はどうなるか? 筆者は新型コロナ相場では株価反発を予想しているが、それは今後相場に何の問題もないという意味ではない。問題は反発の先なのである。

新型コロナ株安動向予想: 流行減速で株式市場は上昇する
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9386


ダリオ氏はそれを長期的視野から考えようとしているようである。ダリオ氏は毎週エッセイを更新してゆくとのことなので、引き続き紹介してゆきたい。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9934
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1039.html#c9

[リバイバル3] イタリア人が「世界で最も健康な国ランキング」1位!! その理由はオリーブ油? 中川隆
5. 中川隆[-11046] koaQ7Jey 2020年10月03日 13:39:02 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[17]

2017年05月31日
世界で最も健康的とされた10カ国では朝食に何を食べているのか?
by Ricardo Mejia
https://gigazine.net/news/20170531-world-healthiest-breakfast/

「世界で最も健康的な国々」をBloombergが調査した結果、ピザやパスタといった炭水化物たっぷりの料理で有名なイタリアが1位に輝きました。この調査は各国の寿命や高血圧・喫煙率・栄養失調・水の清潔さなどを調べたもので、イタリア以外にはアイスランド・スイス・シンガポール・日本などが上位にランクイン、アメリカは世界第34位という結果になっています。「朝食は1日の中で最も大切な食事」と言われることもあるということで、ランキング上位の国は朝食として何を食べているのか?ということを見てみました。

What the world's healthiest countries eat for breakfast - Business Insider
http://www.businessinsider.com/what-the-worlds-healthiest-countries-eat-for-breakfast-2017-4

10 Healthy Breakfast Ideas from Around the World | Eat This Not That
http://www.eatthis.com/breakfast-around-the-world

What People in the Healthiest Countries in the World Eat for Breakfast | HuffPost
http://www.huffingtonpost.com/entry/what-people-in-the-healthiest-countries-in-the-world-eat-for-breakfast_us_582f4bb2e4b058ce7aaade74

◆1位:イタリア
イタリアで朝食として何が食べられているのかは都市によって異なりますが、中心となっているのはペイストリーと呼ばれるパン菓子。甘いパンをカプチーノやエスプレッソと一緒に食べるのが一般的とのこと。ナポリではパイ生地の中にアーモンドクリームやカスタードクリーム、リコッタチーズなどを入れた「スフォリアテッレ」、ローマではイタリア版ドーナツの「チャンベラ」が朝食としてよく食べられますが、ジェノヴァでは塩気のある「フォカッチャ」がエスプレッソと一緒に食べられます。

by Marzia Bertelli

◆2位:アイスランド
アイスランドで朝食としてよく食べられるのは「スキール」と呼ばれるヨーグルト。このヨーグルトはギリシャヨーグルトと同じく、ろ過して乳清を取り除いたものです。スキールを核果類やグラノラ、蒸したオーツ麦と混ぜたものを、ジャム・アイスランド産バター・生クリームをつけたトーストや、Pönnukökur(ピョンヌキョクール)と呼ばれるクレープ状のパンケーキと食べるそうです。

by Viv Lynch

スキールやギリシャヨーグルトは水分が抜かれているので濃厚で、タンパク質を多く含むのが特徴です。プレーンであれば無糖や微糖であることがほとんどなので、朝から砂糖を取りすぎることもありません。

◆3位:スイス
スイスでは、1900年頃に医師のマクシミリアン・ビルヒャー=ベンナー氏によって考案された「ミューズリー」が朝食としてよく食べられているとのこと。ミューズリーはシリアルの一種で、オーツ麦のフレーク・レモンジュース・コンデンスミルク・すりりんご・ヘーゼルナッツ・アーモンドが使用されています。また、スイスでは凝った食べ物よりも効率的な食べ物が好まれる傾向にあり、ペイストリーやバターパンにコーヒーもしくは紅茶を合わせる形の朝食もよく食べられます。

by ox-and-fern

◆4位:シンガポール
シンガポールの朝食の種類は多岐にわたるそうですが、その中でも麺類が多いとのこと。麺はスープの中に入っているパターンと、スープなしのパターンがありますが、揚げ麺が食べられることはほとんどありません。

by Jean-François Chénier

一方で中国系ではないシンガポール人は、パンにカヤジャムを塗った「カヤトースト」や薄焼きパン「ロティ・プラタ」、ココナツミルクで炊いたご飯をおかずと一緒にたべる「ナシレマッ」、蒸しパン「プチュプリン」などを朝食として食べることもあるそうです。

by Richard Lee

◆5位:オーストラリア
かつてオーストラリアではイギリスの伝統的な朝食「イングリッシュ・ブレックファスト」が食べられていたそうですが、ここ20年でそれが変化し、コーヒーを中心にした朝食になっているとのこと。

イングリッシュ・ブレックファストがどんなものなのかは、以下の記事から読むことができます。

これが本場ロンドンで味わうイギリスの伝統的な朝食「イングリッシュ・ブレックファスト」 - GIGAZINE

ただし好まれているのはスターバックスで提供されるようなドリップコーヒーではなく、小さなカフェなどで提供されるエスプレッソ類。また甘いパン菓子だけを食べるのではなく、アボカドがのったトーストやミューズリー、卵料理など、炭水化物以外のものも取られる傾向にあるようです。もちろん、ベジマイトも人気です。

by Carolyn Coles

ブランチの習慣はあまりありませんが、休日は外に朝食を食べにいったり、午後にパブに出かけたりすることがあるとのこと。

◆6位:スペイン
スペインの朝食は非常にシンプルで、「コーヒーとパン」。スライスしたパンをトーストしてトマト・ガーリック・オリーブオイルのソースを塗る「パ・アム・トゥマカット」は定番で、チュロスやポラスといったドーナツの一種も人気です。

by ___steph___

◆7位:日本
日本の朝食については「日本では、伝統的な朝食から西洋的な朝食まで、あらゆるものが食べられます。伝統的な朝食としてはご飯・みそ汁・納豆・焼き魚・漬け物・卵などがあります。ただ正直なところ伝統的な朝食は手間がかかるのでトーストやペイストリー、目玉焼きなどもよく見られます」と説明されていました。

by Hoops_McCann

◆8位:スウェーデン
スウェーデン人にとって、朝食は非常に大切なもの。多くの栄養素を含むタンパク源として卵が食べられることが多く、卵を朝食として食べることで、病気と闘える健康的な体を作るそうです。フィールミョルクと呼ばれる酸味の強いヨーグルトも朝食として人気で、腸内細菌に働きかけるとされています。フィールミョルクを甘味を入れないミューズリーにかけてブル−ベリーやコケモモと一緒にたべたり、ライ麦やサワードウを使ったパンにハムやキュウリをのせるオープンサンドも食べられるそうです。

by Maria Eklind

◆9位:イスラエル
イスラエルではトマトソースの上に卵を割り落として焼いた「シャクシューカ」という料理が朝食として食されることが多いとのこと。その際、トマトや赤玉ネギ、パセリ、コリアンダー、キュウリを細かく切ってコショウと一緒に混ぜたサラダ「Salat Katzutz」が添えられていることも。一方で、チーズ・オリーブ・ヨーグルトなどが食べられることもあるそうです。

by albyantoniazzi

◆10位:ルクセンブルク
ルクセンブルクではバターパンにチーズかジャムを合わせるのが一般的。子どもはシリアルを食べることが多く、サンドイッチはフルーツと一緒に学校に持っていってお弁当として食べるそうです。

by Jennifer Pack

なお、「世界で最も健康的な国はどこか?」という調査は24/7 Wall St.という会社も行っており、そのランキングにはイタリアやスペインがなくカタール・ノルウェー・オーストリアといった国がランクインしていましたが、日本・ルクセンブルク・オーストラリア・スウェーデン・シンガポール・アイスランド・スイスといった国々のランクインは同じ。重複している国々を見てみると、多くが甘いパンなどに加え、炭水化物以外の食べ物を摂取しているようでした。

https://gigazine.net/news/20170531-world-healthiest-breakfast/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/972.html#c5

[近代史4] 中川隆投稿集 _ 世界の料理 中川隆
10. 中川隆[-11045] koaQ7Jey 2020年10月03日 13:39:54 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[18]

2017年05月31日
世界で最も健康的とされた10カ国では朝食に何を食べているのか?
by Ricardo Mejia
https://gigazine.net/news/20170531-world-healthiest-breakfast/

「世界で最も健康的な国々」をBloombergが調査した結果、ピザやパスタといった炭水化物たっぷりの料理で有名なイタリアが1位に輝きました。この調査は各国の寿命や高血圧・喫煙率・栄養失調・水の清潔さなどを調べたもので、イタリア以外にはアイスランド・スイス・シンガポール・日本などが上位にランクイン、アメリカは世界第34位という結果になっています。「朝食は1日の中で最も大切な食事」と言われることもあるということで、ランキング上位の国は朝食として何を食べているのか?ということを見てみました。

What the world's healthiest countries eat for breakfast - Business Insider
http://www.businessinsider.com/what-the-worlds-healthiest-countries-eat-for-breakfast-2017-4

10 Healthy Breakfast Ideas from Around the World | Eat This Not That
http://www.eatthis.com/breakfast-around-the-world

What People in the Healthiest Countries in the World Eat for Breakfast | HuffPost
http://www.huffingtonpost.com/entry/what-people-in-the-healthiest-countries-in-the-world-eat-for-breakfast_us_582f4bb2e4b058ce7aaade74

◆1位:イタリア
イタリアで朝食として何が食べられているのかは都市によって異なりますが、中心となっているのはペイストリーと呼ばれるパン菓子。甘いパンをカプチーノやエスプレッソと一緒に食べるのが一般的とのこと。ナポリではパイ生地の中にアーモンドクリームやカスタードクリーム、リコッタチーズなどを入れた「スフォリアテッレ」、ローマではイタリア版ドーナツの「チャンベラ」が朝食としてよく食べられますが、ジェノヴァでは塩気のある「フォカッチャ」がエスプレッソと一緒に食べられます。

by Marzia Bertelli

◆2位:アイスランド
アイスランドで朝食としてよく食べられるのは「スキール」と呼ばれるヨーグルト。このヨーグルトはギリシャヨーグルトと同じく、ろ過して乳清を取り除いたものです。スキールを核果類やグラノラ、蒸したオーツ麦と混ぜたものを、ジャム・アイスランド産バター・生クリームをつけたトーストや、Pönnukökur(ピョンヌキョクール)と呼ばれるクレープ状のパンケーキと食べるそうです。

by Viv Lynch

スキールやギリシャヨーグルトは水分が抜かれているので濃厚で、タンパク質を多く含むのが特徴です。プレーンであれば無糖や微糖であることがほとんどなので、朝から砂糖を取りすぎることもありません。

◆3位:スイス
スイスでは、1900年頃に医師のマクシミリアン・ビルヒャー=ベンナー氏によって考案された「ミューズリー」が朝食としてよく食べられているとのこと。ミューズリーはシリアルの一種で、オーツ麦のフレーク・レモンジュース・コンデンスミルク・すりりんご・ヘーゼルナッツ・アーモンドが使用されています。また、スイスでは凝った食べ物よりも効率的な食べ物が好まれる傾向にあり、ペイストリーやバターパンにコーヒーもしくは紅茶を合わせる形の朝食もよく食べられます。

by ox-and-fern

◆4位:シンガポール
シンガポールの朝食の種類は多岐にわたるそうですが、その中でも麺類が多いとのこと。麺はスープの中に入っているパターンと、スープなしのパターンがありますが、揚げ麺が食べられることはほとんどありません。

by Jean-François Chénier

一方で中国系ではないシンガポール人は、パンにカヤジャムを塗った「カヤトースト」や薄焼きパン「ロティ・プラタ」、ココナツミルクで炊いたご飯をおかずと一緒にたべる「ナシレマッ」、蒸しパン「プチュプリン」などを朝食として食べることもあるそうです。

by Richard Lee

◆5位:オーストラリア
かつてオーストラリアではイギリスの伝統的な朝食「イングリッシュ・ブレックファスト」が食べられていたそうですが、ここ20年でそれが変化し、コーヒーを中心にした朝食になっているとのこと。

イングリッシュ・ブレックファストがどんなものなのかは、以下の記事から読むことができます。

これが本場ロンドンで味わうイギリスの伝統的な朝食「イングリッシュ・ブレックファスト」 - GIGAZINE

ただし好まれているのはスターバックスで提供されるようなドリップコーヒーではなく、小さなカフェなどで提供されるエスプレッソ類。また甘いパン菓子だけを食べるのではなく、アボカドがのったトーストやミューズリー、卵料理など、炭水化物以外のものも取られる傾向にあるようです。もちろん、ベジマイトも人気です。

by Carolyn Coles

ブランチの習慣はあまりありませんが、休日は外に朝食を食べにいったり、午後にパブに出かけたりすることがあるとのこと。

◆6位:スペイン
スペインの朝食は非常にシンプルで、「コーヒーとパン」。スライスしたパンをトーストしてトマト・ガーリック・オリーブオイルのソースを塗る「パ・アム・トゥマカット」は定番で、チュロスやポラスといったドーナツの一種も人気です。

by ___steph___

◆7位:日本
日本の朝食については「日本では、伝統的な朝食から西洋的な朝食まで、あらゆるものが食べられます。伝統的な朝食としてはご飯・みそ汁・納豆・焼き魚・漬け物・卵などがあります。ただ正直なところ伝統的な朝食は手間がかかるのでトーストやペイストリー、目玉焼きなどもよく見られます」と説明されていました。

by Hoops_McCann

◆8位:スウェーデン
スウェーデン人にとって、朝食は非常に大切なもの。多くの栄養素を含むタンパク源として卵が食べられることが多く、卵を朝食として食べることで、病気と闘える健康的な体を作るそうです。フィールミョルクと呼ばれる酸味の強いヨーグルトも朝食として人気で、腸内細菌に働きかけるとされています。フィールミョルクを甘味を入れないミューズリーにかけてブル−ベリーやコケモモと一緒にたべたり、ライ麦やサワードウを使ったパンにハムやキュウリをのせるオープンサンドも食べられるそうです。

by Maria Eklind

◆9位:イスラエル
イスラエルではトマトソースの上に卵を割り落として焼いた「シャクシューカ」という料理が朝食として食されることが多いとのこと。その際、トマトや赤玉ネギ、パセリ、コリアンダー、キュウリを細かく切ってコショウと一緒に混ぜたサラダ「Salat Katzutz」が添えられていることも。一方で、チーズ・オリーブ・ヨーグルトなどが食べられることもあるそうです。

by albyantoniazzi

◆10位:ルクセンブルク
ルクセンブルクではバターパンにチーズかジャムを合わせるのが一般的。子どもはシリアルを食べることが多く、サンドイッチはフルーツと一緒に学校に持っていってお弁当として食べるそうです。

by Jennifer Pack

なお、「世界で最も健康的な国はどこか?」という調査は24/7 Wall St.という会社も行っており、そのランキングにはイタリアやスペインがなくカタール・ノルウェー・オーストリアといった国がランクインしていましたが、日本・ルクセンブルク・オーストラリア・スウェーデン・シンガポール・アイスランド・スイスといった国々のランクインは同じ。重複している国々を見てみると、多くが甘いパンなどに加え、炭水化物以外の食べ物を摂取しているようでした。

https://gigazine.net/news/20170531-world-healthiest-breakfast/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/139.html#c10

[リバイバル3] アメリカ人には食べ物の味がわからない 中川隆
38. 2020年10月03日 13:44:51 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[19]

2016年08月05日
アメリカ人が食べているのは「朝食」ではなくほぼ「デザート」
by Jeanny
https://gigazine.net/news/20160805-american-breakfast-dessert/

世界中を旅したチャリダーマンは、アメリカで巨大化した食料品の数々を見てアメリカ人が太る理由が分かったという記事を書きました。しかし、原因は「デザートだ」と表現される朝食にもあるのかもしれません。

Let’s face it — American breakfast is really dessert - YouTube





「我々(アメリカ人)が『朝食』と呼んでいるものは……」


「ほぼ『デザート』です」という、衝撃的な一文から映像は始まります。


始めに出てきたのはダンキンドーナツの「レモン・ポピー・シード・マフィン」と、チューイングキャンディの「スキットルズ」。マフィンは「朝食」、スキットルズはお菓子なので「デザート」に分類されますが、糖分は46gで同じ。これはティースプーンで9.3杯分の砂糖に相当する量です。


イタリア料理店・カラバで出されるティラミスは「デザート」、スターバックスのチャイラテ(約450g)は「朝食」ですが、その糖分はティラミスが40g、チャイラテが42g。


マクドナルドのフルーツ&メープルオートミールは糖分32g、お菓子メーカー・Keeblerのピーナツバターカップクッキー6個は糖分30g。しかし、オートミールは朝食で、クッキーはデザートです。


「デザート」のココナツ・クリーム・ミニ・パイが糖分25g、「朝食」のグラノーラが糖分27gで、ここでも糖分は朝食の方が多い結果に。


トロピカーナの100%オレンジジュースが「僕は朝食です!」と前に出てきました。


「やめなさい、私たちはどちらもデザートなんだから」と止めているのはチョコ・タコ。


オレンジジュースは「君はわかるが、なぜ僕まで?」と不満げ。


しかし、結果を見てみると糖分は22g、ティースプーン4.5杯分で同じ。チョコ・タコの主張にも一理ある気がします。


さらにこのあとも「デザート」と「朝食」に分けられているのに、糖分が同じというメニューが次々と登場します。上はデザートのチョコレートプリン、下は朝食のレーズン・ブラン。


ブルーベリー・ギリシャヨーグルトとアイスクリーム半カップ


クッキー4枚とチェリー・シリアルバー


こうして見てきてわかるのは、食事の中にあまりにも糖分が多く含まれているということ。


多すぎる糖分は虫歯、肥満、心臓疾患、栄養不足を引き起こします。


このため、最新の「アメリカ人のための食事指針」の中で……


食事中の糖分の割合は、人が1日に摂取するカロリーの10%までと推奨されています。


映像はあくまでアメリカの朝食とデザートに限った話でしたが、普段から菓子パンや甘い飲み物を朝食に取っているという人は、糖分の取り過ぎに要注意です。

https://gigazine.net/news/20160805-american-breakfast-dessert/

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/765.html#c38
[番外地8] 「放漫財政論」や「貨幣プール論」は正しい、お金をこれ以上増やしてはいけない 中川隆
3. 中川隆[-11044] koaQ7Jey 2020年10月03日 20:13:45 : 0CqcCgr45Q : cjNhL21rL3BsYkU=[20]
「放漫財政論」や「貨幣プール論」は正しい、お金をこれ以上増やしてはいけない
日銀の異次元金融緩和の為に円の価値は既に暴落し紙屑化している
現在の日本の様に、人口が増えない、輸出が増えない、技術が大して進歩しないという状況では GDPが増えない、経済成長しない方が正常です。アメリカや中国の様にGDPが増え、経済成長している国というのは貨幣価値が下がっているだけで、国民は豊かになっていません。
通貨は基本的にはバブルで、お金の総量を増やすと貨幣価値が減っていっていずれ紙屑になります。
お金が増えれば貨幣価値がその分下がるので、要するに、紙幣に書かれている10,000円という数値を100,000円に書き換えたという様に貨幣単位が変わったというだけの話です。
国内で流通する貨幣の価値の総額は国の工業製品、農作物、サービス価格、輸出量等の供給能力で決まっているので、貨幣が増えても減っても貨幣価値の総額は変わりません。 貨幣の名目数値が増減するだけです。
マネーサプライが毎年増えている国は毎年貨幣価値が小さくなっているので、 GDP、政府支出、地価と株価は、実質価値が減らない様に、毎年上がり続けています。
詳細そもそも日本は 生産年齢人口が減っている、輸出額が減っている、生産効率は変わらないのだから、GDP も政府支出も日本株時価総額も増えないのが正常なのです。因みに、総資産はゴールドベース、プラチナベースとかシルバーベースで見ないといけない、ドルは紙屑化しているからドルベースで判断するのは NG。 詳細は
紙幣の刷り過ぎでドルが暴落するとき
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11685

ドルは既に紙くずになっている
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10645

世界最大のヘッジファンド: 量的緩和で人々はリッチになったような気がする
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10616

東京金(ゴールド)の上場以来の約38年間のロングチャート
https://www.rakuten-sec.co.jp/web/commodity/lineup/gold/long_chart.html

【日本のマネタリーベース、マネーストック(左軸、兆円)、貨幣乗数(右軸、倍)】
http://mtdata.jp/data_71.html#MBMS

以下は金価格。
このように実は昨年の7月頃からずーっと上がりっぱなし。

https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000786.jpg

で、以下が金価格に換算した日経平均です。
実は、昨年9月から下がりっぱなし。

https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000788.jpg

と言う訳で、庶民が気づかないうちに通貨は紙屑化しつつある。
たった今、ステルス紙屑化が進行中なのでした。

ただし、貨幣価値が減ったからといって給料を上げてくれる親切な会社はないので、実質賃金は下がります。
日本人の給料が上がらないから、人件費を反映する物価も上がらない

しかし、外国に行けば日本円が紙屑になっているのがわかります。
しかし、日本国内での商品価格のコストの大半は人件費なので、貨幣価値が減っても物価はあまり上がりません。
それで日本の物価だけは上がらずデフレ経済になるのですね。  日銀金融緩和の結果、国内物価が上がっていないだけで、円は海外では紙屑になっている。

マネーフローが10倍になれば貨幣価値が1/10になり、不動産価格と株価も本来の適正価格である10倍になる。
別に金融緩和で増えた金で不動産価格や株価が上がるのではなく、不動産価格や株価が本来の適正値に戻るだけです。
貨幣価値が1/10になっても、給料はそれ程上がらないので、実質賃金も1/10になります。
商品価格の大半は人件費なので、物価はあまり上がりません。
これが金融緩和してもインフレにならない理由ですね。

そもそも欧米の物価と日本の物価を比較すれば 1ドル=20円程度が適正値なのに、1ドル=110円まで超円安になっている。タイでもラーメン1杯が1000円になっているよ。

ドル自体が紙屑になっていると言われているのに、そのドルに比べても円のこの安さ。

日本人がアメリカに留学できなくなったのはアメリカの授業料が年間何百万円になったからだよ。アメリカでアパートを借りてもワンルームが月30万円だから、日本人はアメリカ留学すらできない。

そもそも日本人が作っている日本の野菜や傘、洋服や日曜品ですら日本人には高値の花になっている。こういうのをハイパーインフレーションというんです 。

今の日本の消費者物価は海外からの安い輸入品の価格が大きく反映されたものです。
安い輸入品が入っていなければ日本が既にハイパーインフレーションになっているのがはっきりと認識できた筈です。
因みに僕がハイパーインフレーションと言っているのは

日本国民が日本で生産された野菜やミカンが高くて食べられなくなる事
日本国民が日本で生産された雨傘や衣類や日用品が高くて買えなくなる事
日本人が使うものが年収10万円の中国の農民と同じになる事

日銀が大規模金融緩和したのにハイパーインフレーションになっていない、というのは海外からの安い輸入品が物価を押し下げているから、そう錯覚しただけです。

GDPの増加率や経済成長率には意味はありません。
中国やアメリカの様にGDPがいくら増えても、いくら経済成長しても国民の生活が良くなる訳ではありません。
政府がいくら金融緩和しても財政出動しても絶対にデフレから脱却できません。

日本のマネーストック M2 が増加し続けているのに名目賃金が増えない(実質賃金が減り続けている)というのは大西つねきさんが問題にしていますね。大西さんの話は間違いが多いですが、この部分は正しいです:

いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg

現在は国際金融資本(とチャンネル桜のアホ評論家)が強力に推進している MMTポリティクスで“超異次元緩和”を実施することによって、これまで(リーマン・ショック以後の金融緩和)にも増してカネが有り余った状態が作り出されようとしています。

日銀、FRB(米連邦準備理事会)、ECB(欧州中央銀行)を中心とした各国の中央銀行が注ぎ込んだ資金は既に1000兆円を超えました。


MMT の資金供給で労働者の実質賃金が下がった為に実体経済は冷え込み、製造業はじめ各種産業には資金需要がないため、だぶついたマネーがみな金融市場に流れ込み、

2020年3月中旬から6月末だけでも、世界の富豪ランキングでトップのジェフ・ベゾス(アマゾンCEO)は資産が46%も増加し、1650億j(約18兆円)になっている。

同2位のビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)は12%も増えて1097億jに、同4位のウォーレン・バフェット(世界三大投資家)は6%増の715億j、同5位のラリー・エリソン(オラクル創業者)は19%増加して702億j、同7位だったフェイスブックCEOのザッカーバーグに至っては63%も資産を増やし、891億jになった。

億万長者としては全体でコロナ禍に世界が沈み込んだ14週間(3月中旬から6月末)の期間に6280億jも資産が膨れあがった。

国際金融資本(とチャンネル桜のアホ評論家)が強力に推進している MMTポリティクスが原因で、富める者は実体と乖離した有り余ったカネによって働かずして富を得て、その他の圧倒的な国民、社会を実際に下支えしている側は失業や貧困、生活が破綻しかねない現実に直面しています。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/372.html#c3

   

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