4. 2023年8月06日 07:29:24 : W7Z8aUnfg2 : cFU0VWNvV0lVL1E=[1]
http://glassbead.blog.shinobi.jp/financial%20attack/karl%20marx%20was%20employed%20by
Henrymakow.comが伝えている: 彼は、フリードリヒ・エンゲルス[Friedrich Engels]とともに『共産党宣言』の執筆を依頼されたソーホーのグレート・ウィンドミル・ストリートにあるレッド・ライオン・パブによく通っていた。彼の最も有名な著作は『資本論』である。この本では、貨幣が空中から印刷されたものであること、そして彼のいとこであるロスチャイルド家によって印刷されたものであることに触れていない。
産業革命の後、社会主義運動はドイツ、フランス、イギリスなどですでに存在していた。マルクス主義者は社会主義を独占しようとし、マルクスの理論に従わなければ社会主義者にはなれないと主張してきた。これは明らかな詐欺であり、簒奪である。
マルクスがロスチャイルドの手先であるという考えは・・・1869年、第一インターナショナルの同時代のライバル、ミハイル・バクーニン[Mikhail Bakunin]によって懸念として提起された。バクーニンは先見の明をもってこう書いている:「この世界は今や、少なくとも大部分は、一方ではマルクスが、他方ではロスチャイルドが自由に使えるようになっている。これは奇妙に思えるかもしれない。社会主義と一流銀行の間に何の共通点があるというのか。重要なのは、権威主義的社会主義、マルクス主義的共産主義は、国家の強力な中央集権化を要求しているということだ。そして、国家の中央集権化が行われるところには、必然的に中央銀行が存在しなければならず、そのような銀行が存在するところには、人民の労働力を投機対象とする銀行が存在することになる。」
■(コリン・ジョイス)ロンドンで育った共産主義
イギリスには亡命者を受け入れてきた奇妙な歴史がある。ときには、彼らを受け入れさせたリベラルな精神とも相容れない過激な思想の持ち主をもてなしたこともある。最も有名な例はカール・マルクスかもしれない。数百万数千万の命を奪うことを正当化するのに使われたイデオロギーをつくり出した人物だ。マルクスはフランスとベルギーから追放されたのち、一八四九年にロンドンに移住し、残りの人生をそこで過ごした。マルクスが共産主義の主要文献である『共産党宣言』と『資本論』の調査・執筆を行ったのはロンドンだった。大英図書館の読書室である。マルクスの墓は、ロンドンの有名なハイゲート墓地の目玉かもしれない。なんともみごとな像で、イギリス共産党(影響力はゼロに等しい)が一九五四年に寄贈した。マルクスの友人であり、スポンサーであり、協力者だったフリードリヒ・エンゲルスもイギリスに住んでいた。
若いときにはマンチェスターに、プロイセンを追放されたあとにはロンドンに住んだ。一般的に言って現代では、ドイツやフランス、イタリアといった大陸ヨーロッパの国に過激思想の強い伝統がある。政府側と革命勢力側の両方にである。そのため国家は革命勢力を非常に恐れ、彼らを追跡して弾圧しようとした。イギリスでは政府側にも反政府側にも、その伝統がなかった。だからイギリスにやって来た外国の過激思想家たちは脅威とはみなされず、政府も弾圧しようと考えなかった。マルクスの足跡をたどって、マルクス主義の信奉者たちがイギリスへやって来た。一九〇二年にはウラジーミル・レーニンも大英図書館への入館を認められ、そこで膨大な読書をしたといわれる。レーニンは図書館から一キロ半ほど離れたクラーケンウェル・グリーンと呼ばれる小さくて気持ちのいい広場に事務所を構え、「イスクラ(火花)」というプロパガンダ新聞を編集してロシアの反体制派にひそかに送っていた(最初のころレーニンはイギリス料理があまり好きではなかったが、二階に屋根のないオープントップ型のバスやパブやフィッシュ&チップスは好きになったようだ)。
一九〇二年にはレオン・トロツキーが流刑先のシベリアから逃亡し、ロンドンにいたレーニンと合流し、「イスクラ」の編集部員に加わった。翌一九〇三年、ロシア社会民主労働党(すなわちレーニンとトロツキーの共産党だ)は第二回党大会をロンドンで終えた(大会が幕を開けたのはブリュッセルだったが、ベルギー政府に追い出された)。この党大会にはヨシフ・スターリンも参加していた。伝えられるところでは、レーニンはクラーケンウェル・グリーンにあるクラウン・タバーンというパブでスターリンと会い、話をしていた。やがてロシアを内戦と恐怖と、国家の過失による飢謹に陥れる二人の男が、感じのいい小さなパブでビールをちびちび飲んでいる場面を想像すると、面白くて不条理な感じさえする。このパブは教会の隣にあり、金融街にも近く、宝石店街も目と鼻の先にある。二人が「あれもこれもみんな消えるべきだ」と話していたのではないかと想像すると、なんとも不思議だ。
ロシアの共産主義者たちの生涯をつづる伝記作家は、トロツキーとレーニンは後年になってもコスモポリタンな感覚をいちおう失わず、人道主義もわずかにそなえ、少なくともリベラルな民主主義も理解していたが、ロシアを離れたことがほとんどないスターリンにはそういう感覚がなかった……と書くことがあるだろう。実際のところ、この三人が自国民に対して働いた暴力の程度や他国の政府に示した姿勢には、ほとんど違いがない。三人とも非人間的なイデオロギーにからめとられた残虐な男たちだった。リベラルな民主主義に触れたとしても、彼らの根本が変わることはなかった。イギリスではレーニンが一九一七年にロシアで権力を握る前に、労働者階級の利益になる本物の改革が行われていた。しかし警察国家のシステムに支えられた独裁制だけがめざすべき道だというレーニンの信念は、決して揺らぐことがなかった。
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