81. 2020年7月11日 13:55:20 : Epp2sVrvNY : bTRBRGNrNlBFWFk=[1]
だから信用できねえんだよ、ジャーナリストという輩は。
なにせ、醜聞は奴らの飯のタネ。公正な社会なんてくそくらえだ。
公正な社会には飯のタネはころがっていない。
彼らのいまの飯のタネは、頭角を現しだした太郎をつぶせるものなら何でもいい。
ジャーナリストたちにとって、平和で公正で問題がおきない社会では困るんだよ。なぜなら、飯のタネが枯渇するからだ。
絶好のタネが「命の選別」という言葉である。ここで食いつかなければ、もう飯にはありつけない。なにせ、ジャーナリズム界宗祖の命令だ。その命令はもちろん太郎を天敵だと恐れている輩たち。実際に日本社会で「命の選別」を実行している輩たちよ。代表的なのは高級国民かな。
pcr検査を抑制し新型コロナの蔓延、4割非正規、死ぬまで働けという75歳年金支給、日本人の命よりもアメリカ様、日本人の命よりも税金を使っての自分の名声・・・多すぎるから列挙は省く。
そもそも、ベッドに縛り付けられ、どうせ死ぬ命に多額の労力と金をつぎこむことが命を救うこととして善として受け取られているが、その人はかろうじて命は保たれても、その後、人らしく生きていけるのか? その人は幸せなのか?
私ならまっぴらだ。死なせてほしい、楽になりたいと、死を選択するだろう。本人がそう思っているのに、無理やり生かされるということは、エネルギーの無駄である。エネルギーは有効に使ってほしいと願うだろう。問題は意識のあるうちの意思表示ができるかどうかだ。
つまり、「命の選別」ではない、「命の選択」論議はそろそろ行ってもよいのではないのか。ベッドに縛り付けられても生き続けたい人間がどれくらいいるのか知らないが、そういう人には生きつづけてもらう。これが「命の選択」。