1. 中川隆[-9042] koaQ7Jey 2024年9月21日 05:12:19 : IfJnSj7qrQ : bnB3eTZmMU1ZRGM=[1]
大王家の氏族名は本来「天(あめ)」
阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)は、古代の日本の皇室の姓である。その由来は『隋書』列伝第四十六東夷伝にある。継体天皇(オホド/オオド/ヲホド)を祖として、『大化の改新』以降の天智天皇(中大兄皇子)の代に中国風の原氏(はる - し)と改姓して、今日の今上天皇(令和天皇)の代までにいたっている。
天皇家にはなぜ姓がないのか?
天皇家には姓がない。なぜだろうか・・・。
この問いに対する答えは簡単明瞭である。古代の倭人には姓(苗字)がなかったからである。天皇は日本史の生きた化石なのである。姓を持たないということは、人類史上格別珍しいことではない。世界の諸民族はほとんど姓を持たなかった。唯一、中国を除いては・・。
日本、朝鮮、満州、モンゴル、トルコ、などアルタイ系諸民族も無論、姓がなかった。あるのは個人を特定する名前(テムジンとかチムールなど)とその個人が所属する部族や氏族の名称だけである。(ちなみに、ジンギスカンはボロジキン氏族、チムールはバルラス氏族)。古代日本では、大伴、物部、額田、佐伯などがそれに当たる。佐伯部、額田部、久米部のように、氏族集団を「部」で表す。その属民は「部曲(かきべ)」という。後に、大伴氏とか蘇我氏のように氏族名が中国風の姓となってゆく。
(1)『宋書』倭国伝の記事
五世紀の『宋書』倭国伝には「倭讃」とか「倭隋」など姓らしき名称が出ているが、これは中国の冊封体制下にあった当時の倭国の王が中国風に漢字二文字で表わしたにすぎない。「倭」はけっして日本の王姓ではない。この時代、東アジアの諸国は中国に朝貢するに当たって、中国風の姓を名乗る必要性があった。そのため、百済は自分たちの出自である「夫余族」の「余」を王姓として、六世紀の武寧王は「余隆」を名乗り(本名は「斯麻」)、他にも「余映」とか「余歴」「余固」などの名で中国の南朝に朝貢している。
高句麗も王姓として「高」を用いているが、これら「倭」「余」「高」は民族として持っていた固有の「姓」ではなく、対外的に中国風の姓として使っていたにすぎない。
新羅の王姓「金」も、新羅が後世の満州族の清朝「愛新覚羅」( 満州語 aisin 金 ) と同系の民族であったことを示唆している。新羅の場合は七〜八世紀にほぼ半島全土を統一した後、人名、地名などすべて中国風に改めたため、中国とそっくりになってしまった。朝鮮が小中華と呼ばれるゆえんである。
(2)『隋書』倭国伝の記事
八世紀の『隋書』倭国伝には次のような記事がある。「倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌」(原文は「比」は「北」となっている)。これによると倭王の姓は「阿毎」(アメ)、字(あざな)は「多利思比孤」(タリシヒコ)、「阿輩雞彌」(オホキミ)と号すとある。この時、倭国は推古天皇の時代(600年)であったので、これは大和政権の王ではなく、九州にあった別の国の王のことだと主張する人まで現れた(古田武彦の九州王朝説)。
はたしてそうであろうか。倭人には個人を特定する姓(苗字)はなかった。この姓「阿毎」も倭王固有の姓ではなく、中国の皇帝に朝貢したとき「倭王の姓は」と尋ねられて、倭王の信仰する天の思想から生まれた倭王の氏族名「アメ(天)」と便宜上答えたにすぎないと考えられる。おそらく、使者はそう答えるように倭王から指示されていたのであろう。
『古事記』高天原神話初代の神は「天御中主神」(アメノミナカヌシノカミ)であり、「天(アメ)」を冠した神々は数多い。これは北アジアの騎馬民族トルコやモンゴルにも共通した信仰であり、彼らが中国に行ったとき、王(可汗)の姓を聞かれて「テングリ(天)」と答えるようなものである。「アメ」も「テングリ」も王姓ではない。倭人も北方騎馬民族も「姓」はなかったのである。
では「多利思比孤」(タリシヒコ)はどうか。推古天皇が男性名を名乗っている。古田氏の面目躍如というところであるが、漢和辞典で「字」の意味を見てみると、古代中国では「字」とは男子が二十歳になったとき本名のほかに決める通称名とある。普通、この通称名を使うとある。つまり、後世、日本で相手の本名を呼ぶことは失礼であり、「小松殿」(平重盛)とか「越中守様」(松平定信)などのように、その人の住む地名とか官職名で呼ぶ文化と共通している。(現代でも、上司の名前を呼ばず「課長」とか「部長」などと言う)
「タリシヒコ」は倭王の本名ではなく、その通称名であったと考えればスンナリ理解できる。古代の天皇で「タリシヒコ」の通称名を持つのは12代景行、13代成務、14代仲哀の各天皇であり、仲哀天皇の和名は「帯中日子天皇」(タラシナカツヒコ)。他に「タラシヒコ」という名称を持つ天皇は、ずっと下がって七世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、35代皇極の両天皇であることから、景行、成務、仲哀は八世紀の史官の捏造だとの説を主張する人もいる。しかし、「タラシヒコ」を倭王の通称名と考えれば、初期大和政権(四、五世紀)にはすでにこの名称が存在していた証拠とも言える。(「タラシ」と「タリシ」の母音の違いは時代が変わればよく起きることである)。
このように考えると、推古天皇の時代であったとしても、倭国の使者は日本の大王(天皇)の通称名を言ったにすぎず、歴代大王は当然、男であり、たまたま女であったことがむしろ例外であったのだから。後世の「ミカド(天皇の呼称)」のようなものである。
(3)氏姓制度と大王(天皇)家
日本史の教科書にも出てくる「氏姓(うじかばね)制度」が古代王朝で確立する(六世紀頃)。氏(うじ)とは北アジア騎馬民族でいう部族、氏族に当たるものであり、久米、物部、大伴、佐伯などがそれであり、姓(かばね)とは「臣」「連」「真人」「宿禰」など、つまり位階である。後世の大納言とか、明治時代の爵位に相当する。なお、氏(うじ)はモンゴル語の ulus (ウルス・・部族、国)と比較されている。
不思議なのは、古代氏姓制度が確立したとき、大王家も強力な氏族の一つであり、神話時代以来の「天(アメ)」氏族であるのに、それを国内的には名乗らなかった。中国・隋に使者を送ったときには姓は「阿毎(アメ)」と答えているのに。つまり、推古天皇は大王(天皇)家の氏族名の「あめ(天)」を姓として隋・皇帝に伝えたのである。
貴族階級に限るとはいえ、大伴、蘇我、佐伯、久米などの氏族名が飛鳥時代には中国の姓と同じような機能を持っていた。だのに天皇家はなぜか「天(アメ)」を名乗らなかった。もしこのとき、「天(あめ)」を大王家の氏(うじ)として名乗っていたら、現代の天皇も、姓は「天(あめ)」名は「裕仁(ひろひと)」のようになっていたであろう。歴史は偶然が左右する。事実はそうはならなかった。
私はその理由を次のように考えている。大王家の氏族名は本来「天(あめ)」であった。しかし、中国の文献から「天皇」の称号を選んだとき、その中にすでに「天」の文字が入っている。つまり、「天皇」そのものが「天氏(あめうじ)」であり、姓そのものであるとの考えから、特に姓を決める必要性がなかったからであろう。案外、理由は単純なところにあるのではないか。また、大伴家持(おおとものやかもち)と「の」を入れて読むのは、大伴氏族に属する「家持」の意味であり、古代の氏族制度の名残りである。
なお、日本が姓(苗字)の数で世界一を誇るようになって行くのは、平安時代の荘園制の発達と武士の登場に由来している。
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/f239c0f30c5037a219085d5bb5efa582
天皇家にはなぜ姓がないのか? − 続編 − 2019年12月31日 |
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/50ca658d4ebc1abad056d3be484b2299
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