10. 銀の荼毘[174] i@KCzOS2lPk 2024年6月30日 18:31:47 : xfFsGg87Ks : bldaQi9sRnE3TFk=[1]
>天皇の戦争責任とは何か
>【昭和天皇、戦争を悔い退位に言及 改憲再軍備も主張、長官の拝謁記】
昭和天皇が戦後、戦争への後悔や退位の可能性に繰り返し言及していたことが、19日公開された初代宮内庁長官の故田島道治による昭和天皇との詳細なやりとりを記した資料から明らかになった。戦前の軍隊を否定しつつ改憲による再軍備の必要性にも触れた政治的発言を、田島がいさめた様子が残されていた。資料は手帳やノート計18冊。田島は「拝謁記」と題していた。
拝謁記には、軍部が暴走した張作霖爆殺事件(1928年)や、青年将校による二・二六事件(36年)、太平洋戦争などに関する昭和天皇の回想が登場する。
(8月19日、共同通信)
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これらは,断片的とは言え,かなりの情報がすでに存在する。
特に,ここに登場する張作霖爆殺事件と226事件については,石原莞爾が昭和天皇に語った内容を昭和天皇は信じており,後に,「石原莞爾という者はわからん」という言葉で,騙されたことに気付いたと思われる回想も含まれている。
太平洋戦争に関しては,玉音放送の中で↓
「そもそもわが国民が健やかに、安らかに生活できるよう心がけ、世界の国々とともに栄えその喜びを共有することは、歴代天皇が手本として残してきた教えで、私も常に念じてきたところでもある。したがって、さきに、アメリカとイギリスの二国に宣戦布告した理由もまた実に、わが国の自存とアジアの安定を心から願ったためであって、他国の主権を押し除けたり、領土を侵したりするようなことは、もちろん私の意志とは異なる。」
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このような表現で,大陸政策は,決して命じたわけではなかったけれども,対米英開戦は自ら決議したとしか取れない宣言を行なっている。
張作霖爆殺は,今ではコミンテルンが真犯人であったことが分かっているのだが,,,
当時は,石原莞爾が陰謀から決行まで一人で取り仕切ったと,昭和天皇にも報告していて,石原莞爾は,それが天皇に喜んでもらえると思って報告したところ,昭和天皇の望まぬ大陸政策であったと通告されて,大陸に戻って板垣征四郎に辞表を提出,板垣征四郎は受理せず,閑職に転属させ,以降,石原莞爾は陸軍のために作戦立案しなかったことは,けっこう知る人がいる事実であろう。
さらに,226事件においては,反乱軍・皇道派を征討する先鋒として昭和天皇に従って行動していて,陸軍嫌いの昭和天皇にとって,数少ない信頼できる陸軍側人物として覚えられていたはずだった。
やはり,昭和天皇が(石原莞爾はわからん)というのは,満州事変を本当は計画しておらず,コミンテルンと内通していない限り,張作霖爆殺報告はあり得なかったとの事実に遭遇してのことだと思われるが,
結局,太平洋戦争を決断するにあたって,海軍幹部と天皇とは,わざと負けようという思いがこの時よりあったような気がしてならない。
多くの日本人は知らない人の方が多いが,ヴェノナ文書の公開に伴い,ルーズベルト政権はコミンテルンに乗っ取られていたことが明らかになっており,天皇と海軍首脳は,それを知らずにこの計画を実行してしまった可能性が高い。
昭和天皇の責任とは,もしもそれを求めるならば,暴走する陸軍と日本マスコミという相手に,敗戦という手段で,アメリカ軍を率いれることで,陸軍と日本マスコミとを制止しようとしたことへの是非と言えるだろう。