30. 2022年7月04日 13:15:49 : lpQ4zZnxNY : bFlqWkNZWTZ3elk=[1]
海を渡った革命家・重信房子 無国籍だった娘メイの過酷な人生〈週刊朝日〉
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https://news.yahoo.co.jp/articles/cd2fa225ecced5a8f24f6fd3b5cf7fa0de7b5c44
延江浩(のぶえ・ひろし)/TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー (photo by K.KURIGAMI)
TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。日本赤軍の元最高幹部・重信房子とその娘メイについて。
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大学を出た重信房子は、「ちょっと仕事の都合で、外国へ行ってくるね」と両親に旅立ちを告げた。
母は、娘の言葉を信じて、着ていく洋服のことなどに気を配ってくれたが「父は、『やすやすと帰ろうと思うな。しっかりと頑張れ』と言いました。もう会うことのない娘の旅立ちを理解していたように思います」(重信房子『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』幻冬舎)
これは僕が上梓した『愛国とノーサイド 松任谷家と頭山家』(講談社)の一節。重信は世界革命を目指し中東に渡った。このノンフィクションで重信房子と父末夫、娘メイの物語を描いた。
執筆のきっかけは映画監督の若松孝二が漏らした一言だった。
「67年の秋だったかな。新宿で飲んでいたら重信房子に出くわしたんだ」。重信は22歳。佐藤栄作首相の東南アジア訪問阻止を目指す羽田闘争の年だった。「髪の長い綺麗な子だった。カンパをお願いしながらゴールデン街を廻っていた。がんばれって1万円渡したら、ありがとうございますって丁寧に頭を下げてくれた」
日本赤軍然(しか)り、三島由紀夫然り、全共闘世代のカリスマ若松は思想を問わず、生き方に共鳴するとメガホンをとった。
敗戦1カ月後、東京・世田谷に生まれた房子は小学校の先生になりたいと明治大学に進んだ。初めてデモを見たのは入学の日。夜間に通い、学費を自分で払うことにしたから学費値上げは困るとデモに加わり、革命家としての人生が始まった。
重信の足跡を追ううちに、父末夫が血盟団事件に関与していたことを知った。この事件は世界不況での格差と貧困の中で生まれたとされるが、父もまた右からの革命を目指していたのだ。
「67年の羽田闘争のあとだったと思う。泥まみれになって帰った私に、父が言った。『房子、今日の闘争はよかった。だけど、あれには、人を殺す姿勢がないな』。わたしはおどろいて、酒の盃を手にしている父をみつめた」と重信は『わが愛わが革命』(講談社)に記している。
「二・二六事件にしても、血盟団にしても、歴史はあとで右翼とか何だといわれるが、われわれは正義のためにやったのだ。(略)房子は、いま左翼だといわれているけれど、とにかく、自分が正しいと思うこと、これが正義だと思うこと、それだけをやれ!」(同前)
海を渡った娘が国際手配されると「死んで詫(わ)びろ」との抗議に父は答えた。「世界中の人間があいつは悪者だと言っても、父親の私が娘をかばわないでどうします」(『日本赤軍私史 パレスチナと共に』河出書房新社)
重信房子の娘、重信メイは73年レバノンに生まれ、逃走を続ける母と過酷な幼少期を過ごした。極右の祖父と極左の母の血が流れるメイは命の「メイ」。革命の「メイ」でもあった。彼女には国籍がなかった。無国籍とは「法律的に存在しないこと」。常に隠れ居場所を変える生活だった。
「自分の人生は常に秘密で、嘘(うそ)をつくしかなかった。私が怪しいと思われたら、母や同志の安全まで脅かされる」
人生が変わったのはベイルート・アメリカン大学に入ってから。もう嘘をつく必要がなくなった。でもそれは大好きな母と離れ離れになることだった。(次号へ続く)
延江浩(のぶえ・ひろし)/1958年、東京都生まれ。慶大卒。TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー。小説現代新人賞、アジア太平洋放送連合賞ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞など受賞。新刊「松本隆 言葉の教室」(マガジンハウス)が好評発売中
※週刊朝日 2022年7月8日号
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/300.html#c30