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[近代史3] 重信房子、北朝鮮、オウム真理教の深い関係 中川隆
30. 2022年7月04日 13:15:49 : lpQ4zZnxNY : bFlqWkNZWTZ3elk=[1]
海を渡った革命家・重信房子 無国籍だった娘メイの過酷な人生〈週刊朝日〉
7/3
https://news.yahoo.co.jp/articles/cd2fa225ecced5a8f24f6fd3b5cf7fa0de7b5c44

延江浩(のぶえ・ひろし)/TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー (photo by K.KURIGAMI)

 TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。日本赤軍の元最高幹部・重信房子とその娘メイについて。

*  *  *

 大学を出た重信房子は、「ちょっと仕事の都合で、外国へ行ってくるね」と両親に旅立ちを告げた。

 母は、娘の言葉を信じて、着ていく洋服のことなどに気を配ってくれたが「父は、『やすやすと帰ろうと思うな。しっかりと頑張れ』と言いました。もう会うことのない娘の旅立ちを理解していたように思います」(重信房子『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』幻冬舎)

 これは僕が上梓した『愛国とノーサイド 松任谷家と頭山家』(講談社)の一節。重信は世界革命を目指し中東に渡った。このノンフィクションで重信房子と父末夫、娘メイの物語を描いた。

 執筆のきっかけは映画監督の若松孝二が漏らした一言だった。

「67年の秋だったかな。新宿で飲んでいたら重信房子に出くわしたんだ」。重信は22歳。佐藤栄作首相の東南アジア訪問阻止を目指す羽田闘争の年だった。「髪の長い綺麗な子だった。カンパをお願いしながらゴールデン街を廻っていた。がんばれって1万円渡したら、ありがとうございますって丁寧に頭を下げてくれた」

 日本赤軍然(しか)り、三島由紀夫然り、全共闘世代のカリスマ若松は思想を問わず、生き方に共鳴するとメガホンをとった。

 敗戦1カ月後、東京・世田谷に生まれた房子は小学校の先生になりたいと明治大学に進んだ。初めてデモを見たのは入学の日。夜間に通い、学費を自分で払うことにしたから学費値上げは困るとデモに加わり、革命家としての人生が始まった。

 重信の足跡を追ううちに、父末夫が血盟団事件に関与していたことを知った。この事件は世界不況での格差と貧困の中で生まれたとされるが、父もまた右からの革命を目指していたのだ。

「67年の羽田闘争のあとだったと思う。泥まみれになって帰った私に、父が言った。『房子、今日の闘争はよかった。だけど、あれには、人を殺す姿勢がないな』。わたしはおどろいて、酒の盃を手にしている父をみつめた」と重信は『わが愛わが革命』(講談社)に記している。

「二・二六事件にしても、血盟団にしても、歴史はあとで右翼とか何だといわれるが、われわれは正義のためにやったのだ。(略)房子は、いま左翼だといわれているけれど、とにかく、自分が正しいと思うこと、これが正義だと思うこと、それだけをやれ!」(同前)

 海を渡った娘が国際手配されると「死んで詫(わ)びろ」との抗議に父は答えた。「世界中の人間があいつは悪者だと言っても、父親の私が娘をかばわないでどうします」(『日本赤軍私史 パレスチナと共に』河出書房新社)

 重信房子の娘、重信メイは73年レバノンに生まれ、逃走を続ける母と過酷な幼少期を過ごした。極右の祖父と極左の母の血が流れるメイは命の「メイ」。革命の「メイ」でもあった。彼女には国籍がなかった。無国籍とは「法律的に存在しないこと」。常に隠れ居場所を変える生活だった。

「自分の人生は常に秘密で、嘘(うそ)をつくしかなかった。私が怪しいと思われたら、母や同志の安全まで脅かされる」

 人生が変わったのはベイルート・アメリカン大学に入ってから。もう嘘をつく必要がなくなった。でもそれは大好きな母と離れ離れになることだった。(次号へ続く)

延江浩(のぶえ・ひろし)/1958年、東京都生まれ。慶大卒。TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー。小説現代新人賞、アジア太平洋放送連合賞ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞など受賞。新刊「松本隆 言葉の教室」(マガジンハウス)が好評発売中

※週刊朝日  2022年7月8日号
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/300.html#c30

[番外地6] 廃れた温泉 1 _ 鬼怒川温泉 中川隆
5. 2022年7月04日 14:15:11 : lpQ4zZnxNY : bFlqWkNZWTZ3elk=[2]
進む劣化と進まぬ解体、消えた経営者…鬼怒川温泉“廃墟群”はなぜ生まれてしまったのか
竹内 謙礼 2022/07/02
https://bunshun.jp/articles/-/55566

 栃木県にある鬼怒川温泉のホテルの廃墟群がSNSで話題になっている。

「鬼怒川温泉といえば廃墟」

「鬼怒川温泉の廃墟群とか有名よね」

「鬼怒川温泉なんて、廃墟ホテルばっかりだったわよ」

 こうしたコメントと一緒に朽ち果てたホテルや旅館の写真がアップされており、YouTubeを検索すると廃墟ツアーと称した鬼怒川温泉の動画が数多く見受けられる。

 気になって調べてみると、どうやらバブル期に拡大したいくつもの温泉が、その後に倒産。おまけに、経営陣だけが“逃げて”、残された従業員たちが最後の日まで何とか運営し続けたという温泉もあるという。


 いったい、鬼怒川温泉で何が起きているのだろうか――。

鬼怒川温泉駅に降り立つと…
旅行客の姿が目立つ鬼怒川温泉駅

この記事の画像(28枚)
https://bunshun.jp/articles/photo/55566?


【東京から2時間】
進む建物劣化と進まぬ解体工事、そして消えた経営者…
「鬼怒川温泉」の今の姿を写真で一気に見る

 鬼怒川温泉駅に降り立つと、周辺はコロナが収束に向かっていることもあり、平日にもかかわらず、中高年や大学生の旅行客が目に付いた。駅周辺には大型ホテルが点在しており、さびれた雰囲気はまったくなかった。

温泉街らしく、鬼怒川温泉駅前には早速足湯が

ふれあい橋近くの階段絵。観光客らしき親子が記念撮影を楽しんでいた

 そんな駅周辺から10分ほど歩くと、渓谷沿いにちらほらと廃墟となったホテルが目に付くようになる。

 鬼怒川にかかるくろがね橋から渓谷を見下ろすと、無人となったホテルが目立つようになり、風光明媚な渓谷の景色に水を差していた。観光客の気持ちを考えると、外壁がはげ落ちたホテルや、草や蔓が生い茂った建物などで興ざめしてしまう向きがあるのは事実だろう。



 ただ、それら廃墟群は鬼怒川温泉のごく一部の光景であり、駅からも離れた場所にあるため、頻繁に目に触れるものではない。

 ネットにアップされている写真や動画だけを見ると、あたかも鬼怒川温泉全体が廃墟化しているような印象を受けてしまうが、鬼怒川温泉全体の中でも廃墟になっているところは、ごく限られた狭いエリアのみである。

 夜の街にも繰り出してみたが、数は少ないものの、居酒屋やスナックなどはしっかり営業していた。コロナ禍によって閉店した店が多いと聞いていたが、コンサルタントとして経営に関わる仕事をしている自分にしてみれば、現在の地方都市温泉街としては頑張って営業している部類に入ると思う。


夜の廃墟群にも行ってみた。真っ暗闇にそびえ立つ巨大な建物は確かに不気味だったが、営業している大型の宿泊施設も周辺には多く、部屋の明かりも想像以上に多く点いていた。



 金曜日の夜ということもあって、浴衣を着たカップルや年配者も街を散策しており、そこには廃墟のレッテルが張られた寂しい温泉街の姿は微塵もなかった。

観光スポットの「ふれあい橋」。温泉街らしく浴衣を着た人が歩く

 SNSで広がる「廃墟」のイメージと、実際の現地の雰囲気と。このギャップは、いったいどういうことなのだろうか――。


進まぬ解体と「建物の劣化は急激に進んでいます」
「建物の劣化は急激に進んでいます。日光市としては建物の開口部を板で塞ぎ、不法侵入させない対策を徹底しています」

不法侵入を防ぐため、入り口に立てられたベニヤ板

 そう話すのは日光市役所建築部建築住宅課・渡辺佳行課長。しかし、現状、廃墟の対策には苦戦を強いられているという。

「実態調査を行っているのですが、ホテルの持ち主が分からず、手が付けられない物件が数多くあります。建物が河川の崖沿いにあるため解体も難しく、道路も幅が狭いために大きな重機が入りにくいのも、解体作業が困難な理由の一つになっています」(渡辺課長)



ホテルを解体しようにも道路が狭いため工事車両が入りづらく、線路も近いので作業スペースの拡張もできない

 地域再生事業として建物を解体し、公園などにした事例もあるが、廃墟全体の数からみればほんのわずかしかない。

 ネット上では建物1棟あたりの解体費用が1億だ、いや2億だと言われているが、工事の目処すら立っていないため、正確な解体費用は導き出せていないという。当然、日光市の予算だけでは解体することができず、栃木県や国にもアプローチを試みているものの、具体的な対策案は残念ながら出てきていない。

ホテルを取り壊して公園にしているケースもある

一大観光地だった鬼怒川温泉に何が起きたのか
 こうした問題を抱える鬼怒川温泉だが、そもそも、廃墟となったホテルや旅館も、かつてはかなりの規模の一大観光地だった。

「鬼怒川温泉は東京から2時間以内という立地の良さで、昔は団体客で大いに賑わいました」

かつての鬼怒川温泉の写真

くろがね橋から見た現在の景色

 こう語るのは、日光市役所の観光経済部観光課・篠原義典さんだ。

「ただ、バブルが崩壊し、旅行客が個人向けにシフトしたことで、部屋数が多く、大宴会場を備えるホテルが多かった鬼怒川温泉は、観光客の減少に直面することになったんです」(篠原さん)


 1999年に日光東照宮が世界遺産に登録されたことで、いったんは観光客の減少には歯止めがかかったかにみえたものの、2011年に発生した東日本大震災の影響で国内外からの観光客が激減し、鬼怒川温泉は再び大きな打撃を受けることになる。

 しかし、ここで彼らは諦めなかった。その後、地域再生事業を活用して駅前広場を新しくしたり、地域のサービス向上のために従業員向けの講習会を開催したりしながら、鬼怒川温泉はどん底から再び観光客を少しずつ増やしていったのである。同じく日光市役所観光経済部の藤原観光課・細井正史課長は次のように語る。

日光市役所


「訪日客が増えたことも後押しになりました。平成19年の訪日客の宿泊客数は8万人でしたが、令和元年には12万人まで増加しました」


 バブルの崩壊、東日本大震災と大きな苦難を乗り越え、這い上がろうとしていた鬼怒川温泉。しかし、2020年、それまで以上の苦難がやってくる。コロナ禍だ。

 新型コロナウイルスによって訪日客の客足は急落。2020年には85%減の1万8000人、2021年には2000人となり、バブル崩壊や東日本大震災とは比べ物にならないほどの観光客の減少幅となった。細井課長は嘆息して言った。

「県民割やGoTo、訪日客の回復には大いに期待しています。だからこそ、観光業の回復に水を差すようなネット上の廃墟群の写真や情報は、鬼怒川温泉にとって大きなマイナス要素でしかないんです」

鬼怒川温泉の街並み。大型のホテルも立ち並び、街全体に活気もある

「なんで鬼怒川ばかりが…」
 取材を続けていると、立ち寄った飲食店で店の主人が愚痴をこぼした。

「他の温泉地にも廃墟になったホテルがたくさんあるんだよ。それなのに、鬼怒川ばかりがネットやテレビに取り上げられてさ」

 主人によると、団体客がピークに達していた時代は、街を練り歩く人が浴衣をはぎとられるほど土産屋の客引きが多く、夏に行われる「龍王祭」では、多くの観光客が訪れて街中が大いに賑わっていたという。

かつての鬼怒川温泉の写真。お祭りの様子


 しかし、そのピーク時の全盛期があったからこそ、鬼怒川温泉の廃墟は“バブルの遺構”として注目されてしまうところがあった。光と影の部分がクローズアップされてしまうのは日本を代表する有名温泉地としての宿命とも言えた。


一方で、たしかに一面ばかりが注目されすぎているきらいもある。

 鬼怒川温泉の廃墟群に行ったことを自慢したいがために、廃墟の部分だけを写真におさめてSNSにアップする旅行者もいるだろう。コロナで旅行客が少ないことをいいことに、人気のない観光地を撮影して、あたかも街全体が廃れているような写真をアップするのは、いわゆるSNSの写真を“盛る”という行為に近いのかもしれない。

 “演出すること”をことさらに責め立てるつもりはないが、実際に現地まで足を運んだ私の個人的な感想としては、「鬼怒川温泉=廃墟」というのは風評被害の面が大きいように思われた。




当時を知る人物は、何を語るのか
 ただ、一部とはいえ、鬼怒川温泉に廃墟群があるのは事実である。立地面の解体しづらさもさることながら、とりわけ問題をややこしくしているのは、権利関係が複雑になったまま、当事者たちの行方が知れないケースがあることだ。

 地元の人たちに対して多大なる迷惑をかけており、地元愛が少しでも残っていれば、倒産する前に誰かに売るなり、更地にするなりして、経営者として後始末をするべきではなかったのか――。

 当時の事情を知る人物を辿るうち、バブル絶頂期のホテル経営の実情を知る人物を取材することが出来た。鬼怒川温泉で古くからホテルを営む「鬼怒川パークホテルズ」の小野吉正会長である。

 当時のことを尋ねた私に、小野会長は回想するように語り始めた。

「ホテル経営の場合、社長や従業員の手腕だけでなく、立地だったり、食事だったり、温泉だったり、さまざまな要素が絡み合うことで、経営状態が大きく変わってしまうところがあるんです。

 景気のいい時は、その点が大きな差として表れていなかったんですが、景気が悪くなり、宿泊客が減っていくと、その総合力の差が少しずつ開いていって、経営が続けられるホテルと、そうでないホテルに分かれてしまったんです」

鬼怒川沿いのホテルの夜景

バブルがはじけ、業界を取り巻くトレンドが変化。鬼怒川温泉は…
 当時、銀行も旅行代理店も急増する団体客に対して“イケイケドンドン”の状態で、ホテルの経営者もその勢いに乗じて部屋数を次々に増やしていった。


 しかし、バブルがはじけ、業界を取り巻くトレンドが団体旅行から個人旅行にシフトしていった際、たくさんの部屋数と大宴会場を抱えた鬼怒川温泉のホテルは、時代の流れに対応することができなかった。

「その昔、鬼怒川温泉駅は今の場所ではなく、現在は廃墟群があるくろがね橋周辺にあったんです。

くろがね橋近くの街並み

 当時から立つホテルは全体的に建物が古く、そもそも修繕が難しかった。くわえて、温泉が川沿いからしか出なかったことで、解体しづらい渓谷沿いにホテルが集中してしまっていました。


渓谷美を求めて多くのホテルが川沿いに建設されたことが、逆に建造物の撤去を難しくさせた。写真は鬼怒川パークホテルズから見下ろす鬼怒川

 他にもいろいろな問題が重なって、タイミングの悪かったホテルは長らく解体されぬまま、あのような廃墟群となってしまったんです」(小野会長)



「お客が増えたからといって、再びすべての部屋を稼働させようとすると…」
 コロナが収束に向かい、国内の観光客や訪日客が増えれば、鬼怒川温泉のホテルは再び従業員を増やして対応していくことになるだろう。場合によっては客室を増やし、売上を伸ばす方向に舵を切っていくホテルも増えていくはずである。

 しかし、そのような策に出れば、バブル期に客室を増やし、最後は朽ち果ててしまったホテルの二の舞になってしまう可能性もある。


膨れ上がった客室のキャパを臨機応変に縮ませることができないことは、すでに鬼怒川温泉の廃墟群が物語っている。このままひたすらに訪日客を受け入れていけば、日本全国の温泉地に廃墟のホテル群が誕生することになるのではないか。



 私のこうした問いに、小野会長は危機感をにじませるように答えた。

「部屋が100ある中、コロナ禍ではそのうちの50ぐらいの部屋を使って経営をしている状況でした。


 しかし、お客が増えたからといって、再び100の部屋を回そうとすると、再び経営に負荷がかかってしまい、どこかで無理が生じてしまいます。

 これからは日本の人口も減っていきますし、働き方改革で従業員を確保することも難しいです。これらの社会情勢に柔軟に対応していくためには、ホテルは100の部屋をフルに回すのではなく、60〜70ぐらいの部屋を使って、ゆっくりと利用者の方に時間を過ごしていただきながら最大限の利益が出せる経営にシフトしていかなければ、生き残ることが難しくなっていくのではないでしょうか」

 そのような抜本的な施策を打つためには、経営努力だけでは解決できないことが多いとして、さらに続く。

「銀行や国が、宿泊施設に対して『コロナで貸したお金をすぐに返せ』というスタンスだと、ホテル側も焦って売上を取りに行かざるをえなくなり、結果的に無理な経営になりかねない。

 そうならないためにも、支払いペースをもう少しおさえるなど、ホテルや旅館の経営者にゆとりを与えなければ、観光客や訪日客に長期休暇を楽しむ欧米型のサービスを提供することはできないと思います」

鬼怒川の街を走るレトロ調のバス

アフターコロナと“旅行の時間”
 小野会長の信念が反映されてなのか、鬼怒川パークホテルズは、大きな中庭を構え、庭園茶房やガーデンテラスなどの施設を持つ。部屋数を増やすことよりも、宿泊者に有意義な時間を過ごしてもらうための空間作りに、長らく力を入れてきたのが特徴だ。当座の売上だけを取りに行くのではなく、リピート客に何度も足を運んでもらえるような方針をとり続け、結果として景気に大きく左右されることはないという。

鬼怒川パークホテルズの入り口

鬼怒川パークホテルズの中庭。落ち着いた雰囲気が訪日客に人気だという

 鬼怒川温泉で廃墟となってしまった宿泊施設の経営者たちも、バブル期にもう少し余裕を持った“態勢”で臨んでいれば、無理をして部屋数を拡張することも、大きな借金を背負うこともなかったのかもしれない。そう思えば、景気が上向いたときに、自分たちは何を優先してお客にサービスを提供すればいいのか、廃墟になったホテルたちは身をもって教えてくれているような気がする。

 廃墟の解体にも相当の時間がかかる以上、今後も、鬼怒川温泉の廃墟群の写真や映像は、そこだけが切り取られたかたちで広まっていくこともあるだろう。長期にわたって地元の人たちが気を揉むことが予想される。

不法侵入をしようとしたのか鍵が壊された形跡が


 しかし、廃墟のホテルが生まれてしまった背景には、当時、「ゆっくりと旅をする」という文化が日本に根付いていなかったことが大きな要因といえるのではないか。その“ゆっくり”を実現するためには、ホテルや旅館の経営に対して、金融面からも支援政策が必要なのかもしれない。そうしなければ、私たちはいつまで経ってもせわしない旅行を続けることになりかねない。これではバブル期に旅行した団体客となんら変わりがないだろう。

 アフターコロナで旅のスタイルを見直す機会を得た今、鬼怒川温泉の廃墟群から、私たちはもう一度、旅行そのもののあり方を学ぶべきではないだろうか。


http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/690.html#c5

[近代史3] 東海アマ 山の歩き方 中川隆
10. 2022年7月04日 16:03:23 : lpQ4zZnxNY : bFlqWkNZWTZ3elk=[3]
 山の歩き方 番外編
2022年07月04日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1913.html

 かつて、当ブログで「山の歩き方」という表題で三回ほど書いた。

山の歩き方 2010年01月06日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-9.html

 続 山の歩き方 2010年01月08日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-10.html

 これを書いたのは、実際には1990年代で、ヤフーブログに上げたのだが、ヤフーブログの身勝手な廃止とともに失われてしまったが、livedoorに辛うじて残っていたものを転載した。
 続続編まで書いた覚えがあるのだが、それは失われている。

 2012年以降は、「間質性肺炎患者の山の歩き方」に表題を変えないといけなくなった。
 私は、前世紀末まで、富士山五合目から山頂まで2時間程度で登る心肺能力と体力があったのだが、肺線維症で呼吸音にブツブツバリバリが出てからというもの、呼吸能力は常人の半分以下にまで落ちてしまった。
 今なら30分も歩けないで引き返してくるに違いない。だから、山歩きを云々する資格はすでにない。

 2014年には、自宅の2mの階段も一気に上がれなくなり、あらゆる仕事で息切れを起こして、布団も上げられず、自分の部屋さえも、ほとんど片付かなくなってしまって、家中が典型的なゴミ屋敷と化した。
 今は、苦しい呼吸トレーニングのおかげで、ある程度回復したと信じたいが、実際には、今でも、重いものを運んだりするだけで激しく呼吸しなければならない。

 だから、近所に住むAという泥棒ジジイが、汚い私の敷地を見て小馬鹿にし、舐めまくって何十回も盗みに入っても、その証拠保全の撮影さえできなかった。
 Aはベテランの泥棒=知能犯であるとともに、証拠隠滅の達人のつもりでいて、盗むときは、必ず、私が物忘れで見つからないと思い込むように工作するのだが、ゴミ屋敷の主の私は、息切れで片付けられないだけで、何が盗まれたのかを完璧に把握するだけの能力が残っていた。

 Aは、私の設置した8台もの監視カメラから自分の写ったSDカードを抜き取ったり、スマホで改竄したりした。また夜中に赤外線の照射能力を見きって敷地内に侵入した。「こいつは、どれほど場数を踏んでいるのか?」と驚嘆するほどだった。
 それを告発した中津川警察は、私の家がゴミ屋敷化しているのを見て、私を被害妄想の虚偽告発者と決めつけ、なんと精神病院に連行して診察させた。
 姉が「弟はウソをつく人間ではない」と断固入院を拒否しなければ、今でも強制入院させられれいたかもしれない。

 その後、Aの妻に詰め寄った私を逮捕(確保?)した中津川警察署まで、証拠の監視カメラのSDカードを改竄してしまった。私を多数の警官で逮捕したときの映像が全部消されていたのだ。やるだろうと思ったが、実際にそれを確認したときはショックだった。
 私は悔しくて悔しくて、自分の肺機能がこれ以上悪化したなら、Aを惨殺して自分もスパッとこの世と縁を切ることを考えていたのだが、Aと直接戦うために必死になって呼吸トレーニングを繰り返しているうちに、心肺機能が相当に戻り、畑仕事までできるようになったので、計画はもう少し先延ばしにしている。

 それに、殺してやりたいやつは他にもいる。私に長年にわたってネット上で嫌がらせを続けているヤツだ。私が、この年になって生きる意欲といえば、そんな低レベルの報復心だけかもしれない。
 まあ、並木良和も、バシャールも、多くのスピリチュアリストたちも、こんな私を見たら軽蔑するだろうとは思うが、私はただの気の短い凶暴な老人にすぎない。
 先ほどAの姿を久しぶりに確認したので、いろいろ深く考えるものがある。
 
まあ半分冗談だ(残りの半分は本気だが)。Aについては、必ず泥棒やパンク犯の証拠を掴んで地検に直接告訴してやるつもりでいる。弁護士に依頼すると一財産飛ぶので心配だが、いずれにせよ、私も先が長くないのは確実なので、無一文になってもやらねばなるまい。
 まったく、家族がいなくて良かったと思う。

 さて、前置きが長くなりすぎた。新型コロナ禍で、世界中の人々が感染し、重篤な呼吸疾患に陥った人も数億人に達すると思う。
 そのうち数割が、肺に取り返しのつかない間質性炎症を引き起こし、肺線維症に進んでいる可能性がある。
 世間では、肺線維症について、何を言っているのか?

 https://www.tmd.ac.jp/med/pulm/d1.html
 特発性肺線維症(IPF)と診断されるなら、余命は、3年を軸に最大5年というのが医学界の常識である。私は、すでに8年だから、「今生きていられるなら、それはIPFでなかった」と決めつけられることだろう。
 IPFと決めつけるためには、X線CTと肺の穿刺細胞診による診断が必須になっているので、私は、IPFの死亡例の大半が、このCTと細胞診による急性憎悪(サイトカインストーム)だろうと判断し、死んでも医療にかかるものかと決意した。

 IPFの診断など、本当は、ベルクロラ音という独特の呼吸音だけで十分だ。肺穿刺をやる理由は、ステロイドの適合を調べることだが、それは患者をサイトカインストームに追い込むことが多く、20ミリシーベルトものCT被曝量とともに、殺人的なものだ。
 「医療被曝は被曝ではない」と決めつける正真正銘の馬鹿が医学界を席巻している以上、こんな連中を信用してはいけない。

 まあ、新型コロナ禍で、もしも本気で生き延びたいなら医療は利用しないことだ。
 ほとんどの医者は、自分を特別な選ばれた人間と思い込み、高知能で優越的特権者だと思い込んでいて、患者を支配し、自分の権威を見せつけることしか考えていない。
 なかには、患者を見て、金を背中にくくりつけた鴨葱と思い込んでいる者も少なくない。患者の回復を心から願う本当の赤ひげ医は、たぶん100人に一人もいないだろう。

 もしも、そんな医師がいたなら、検査、投薬、手術なんか差し置いて、何よりも体液の循環とリハビリテーション、患者に生きる希望を与えることを考えるはずだ。
 私自身の体験からいえば、長生きしたければ医療を利用するな……だ。結局、病気になったなら、自分の回復しようとする意思に頼るしかないのだ。

 そして、その方法は歩くことしかない。何も考えずに、歩いて歩いて歩きまくるしかない。
 しかし、あえて屁理屈をつけるなら、一日7000〜8000歩、うち3割、20分程度は、早足やら坂道やら、やや強度の強い運動が望ましいことになっている。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1896.html

 歩いているうちに、肺線維症患者であっても、ある程度歩く能力が回復してきて、坂道でも苦痛が少なくなる。それにバリバリという呼吸音が消えてゆくのだ。
 それでも調子に乗って、本格的な登山に行こうものなら、2時間ほど歩いたとき、呼吸機能がハングアップを起こして、肺気腫のような状態になって、数十分も動けなくなることを何回か経験させられた。
 そんなときは、1時間のコースタイムを数時間もかけて、這うように帰ってくる。

 この数年間の経験を総括するなら、歩行は早朝2時間程度がいい。なぜか、呼吸心肺機能が落ちても、早朝はそれほど苦痛を感じない。午後になると、非常な苦しさを感じることが多い。何か重いものを持っただけで、激しい息切れが起きるときがある。

 早朝歩きには、可能なら100〜200mのアップダウン標高差があった方がいい。
 最初のうちは、坂歩きが猛烈に辛い。「この世の地獄とはこんなものか」と思うほどだ。それでも、フラフラになって歩き続けていると、だんだん楽に歩けるようになる。
 数年間も、こんな早朝歩行を繰り返せば、片肺切除の人の残った肺が肥大化するように、繊維化して失われた肺胞細胞が再生されるのではないかと期待するのだが、そうは問屋が卸さない。

 私の場合は、2014年から呼吸トレーニングをはじめて、2022年現在、肺胞細胞がどれほど回復したかと考えると、せいぜい1〜2割程度だと思う。
 呼吸トレーニングの目的は、実は、肺線維症の進行を防止することなのだ。毎日、肺に負荷をかけ続けていると、間質性肺炎の進行が止まり、急性増悪を起こしにくくなる。
 しかし、蚊取り線香や喫煙副流煙など大気汚染などで、急性増悪の入口に立ってしまうこともある。
 ただ、ブツブツバリバリの呼吸音は、確実に減り、1年程度で消えてしまう。

 最初の頃は、コンコンと小さな咳が止まらなかったが、それも消えていった。例え、肺胞細胞の回復が少なくても、肺全体の機能が強化され、血流との連携が強まり、呼吸そのものが格段に楽になる。
 だから、早朝歩行を行わないと、呼吸機能が悪化することを非常に恐れて、雨が降っていても歩くことが多い。

 発病後、最初の頃は、普通の布団で上を向いて寝ることができなかった。上半身だけ敷布団を二重や三重にして、体を起こすようにして寝ていた。
 また、左向きに寝ることが苦しくて、右を向いて寝てばかりいた。眠りも浅いので、昼間、上体を起こした上体でうたた寝することが多かった。
 現在では、左右どちらを向いても寝られるようになっている。

 新型コロナの後遺症で、間質性肺炎になっている人も、たぶん同じ症状が出ているだろうと思う。
 夜寝にくい症状が出ているときは、昼間、厚手の布団に上半身を委ねて、体が起きるように「拾い寝」して爆睡すれば、なんとか睡眠不足を食い止めることができる。
 早朝、無理して呼吸トレーニング歩行をしていれば、疲労感から快眠できるはずだ。
 ちなみに、右向寝は、右心房への戻り血流が阻害されていることを意味していて、肺の炎症が心臓にも悪影響を及ぼすからだ。

 間質性肺炎=肺線維症を治したければ、医療にすがるのではなく、自分の意思と対峙するしかない。
 早朝2時間を治療の時間と定めて、毎日、必死になって呼吸トレーニングにくらいついてゆくしかない。ステロイドなんかリバウンド炎症を引き起こすだけだ。
 必死になって毎日苦しんでいるうちに、小さな咳も、ベルクロラ音も去ってゆく。いつしか繊維化=蜂巣化した患部から出る音が聞こえなくなる。

 ほんの少しずつ、尺取り虫のように回復の希望に向かって歩んでいる自分に気づく。やがて、息切れが少なくなる。対峙する風景への暗い絶望感に光が差し込み、動かなかった体が動くようになり、片付けることさえできなくなっていたものを整理できるようになる。
 歩けば歩くほど、毎日、視界が広がり、明るさを増してゆくのだ。

 私の場合は、山中で突然動けなくなる可能性もあるので、必ず防寒具を兼ねた雨具と、ライトや保存軽食、水、虫除け、熊鈴など5Kg程度の荷物を背負っている。
 最悪、呼吸不全=肺気腫などを起こしたときは、その場に数時間も座り込まねばならないこともある。しかし、必ず歩ける程度には回復する。
 おかげで、最大5年しか生き延びられない病気でも、8年経っても生きていられるのだ。

 間質性肺炎と診断されても絶望せずに、医者を無視して必死に歩き続けることを薦めたい。

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