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[近代史4] J・F・ケネディ-はヤラセの東西冷戦体制を終わらせようとしたのでユダヤ金融資本に殺された 中川隆
14. 2021年11月25日 01:34:26 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[1]
2021.11.25
JFK暗殺から58年を経ても真相は隠蔽され、世界はファシズムへ足を踏み入れた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202111240000/


 今から58年前、1963年11月22日にアメリカ大統領のジョン・F・ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの息子)​によると、アメリカの軍や情報機関の好戦派は1963年後半にソ連を先制核攻撃する計画を立てていたが、ケネディはそうした軍事行動に反対している。

 上院議員時代からケネディは戦争や植民地に反対していた。インドシナへカネ、資源、そして人間を投入することは無益であり、自滅的だと主張、1957年7月にはアルジェリアの独立を潰すために戦争を始めたフランスの植民地主義に強く反対していた。

 しかし、ケネディは1958年8月に「ミサイル・ギャップ」という用語を使い、危機感を煽っている。1960年の選挙期間中にもソ連の脅威を宣伝していた。こうした主張を彼に吹き込んだ人物は元空軍省長官のスチュアート・サイミントン上院議員だという。

 1961年当時、ソ連が保有していたICBM(大陸間弾道ミサイル)の数はNIE(国家情報評価)推計によると数機。スパイ衛星によって確認されていたのは4機だけだった。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 また、ソ連軍が保有する長距離爆撃機バイソンの数はCIAが推測していた約100機の3分の1から5分の1にすぎないことも偵察機U2によってわかっていた。(William D. Hartung, “Prophets of War”, Nation Books, 2011)

 ミサイル・ギャップも爆撃機ギャップも事実に反していた。その後の言動から考えると、ケネディのソ連脅威論は選挙向けの発言だった可能性がある。実際、大統領に就任した後、ケネディは戦争の目論見をことごとく阻止する。

 それだけでなく、彼の側近たちはFBIのJ・エドガー・フーバーやCIAのアレン・ダレスを解任するべきだと主張、大統領の父親であるジョセフ・ケネディも大統領の意思を無視して勝手に動くダレス兄弟が危険だと話していたようだが、選挙結果が僅差での勝利だったことから新大統領は両者を留任させ、国務長官にはCFR(外交問題評議会)やロックフェラー基金を通じてダレス兄弟と近い関係にあったディーン・ラスクを任命する。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 しかし、好戦派の工作はドワイト・アイゼンハワー時代から始まっていた。最初に行われたのがキューバ侵攻作戦である。4月15日に4機の爆撃機がキューバの航空機部隊を空爆、3機を除いて使用できない状態にし、17日には1543名の亡命キューバ人を主体とする侵攻部隊がピッグス湾(プラヤ・ギロン)への上陸を試みる。

 侵攻部隊の主力はグアテマラの秘密基地でCIAの訓練を受けた後、戦車、大砲、対戦車砲、自動小銃数千丁などを携えて5隻の商船に乗り込んでグアテマラを出航、途中でニカラグアから来たCIAの改造上陸艦2隻と合流している。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 この作戦に関するは事前に漏れていることは公然の秘密で、その行く手でキューバ軍が待ち受けていることは予想されていた。ルシアン・バンデンブロックがプリンストン大学で発見した記録によると、アレン・ダレスは作戦が成功する可能性が小さいと判断、アメリカ軍をキューバへ軍事侵攻させようと目論んでいた。(Lucien S. Vandenbroucke, "The 'Confessions' of Allen Dulles: New Evidence on the Bay of Pigs," Fall 1984)

 侵攻軍の敗北がが明らかになるとCIA副長官だったチャールズ・キャベルは航空母艦からアメリカ軍の戦闘機を出撃させようと大統領に進言したものの、却下されている。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 ベルリンで緊張が高まっていた1961年7月、アメリカの軍や情報機関の幹部はケネディ大統領に対し、NSC(国家安全保障会議)で先制核攻撃計画について説明している。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、1963年の後半にソ連を核攻撃するというスケジュールになっていたという。その頃になれば、先制攻撃に必要なICBMをアメリカは準備でき、ロシアは準備できていないと見通していた。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)

 この先制攻撃計画を大統領は拒否する一方、1961年11月にアレン・ダレスCIA長官や秘密工作部門の責任者だったリチャード・ビッセル計画局長を解任、キャベル副長官も62年1月に辞めさせられている。1961年にロバート・ケネディ司法長官はフーバーFBI長官の解任を公言している。

 好戦派は軍にもいた。そのひとりがライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長。そのレムニッツァーは1962年3月、国防長官のオフィスでキューバが爆弾テロを実行し、旅客機を撃墜したように見せかける偽旗作戦について説明している。ノースウッズ作戦だ。

 その数カ月後にレムニッツァーはキューバにアメリカ軍が軍事侵攻してもソ連は動けないと大統領に説明する。「脅せば屈する」というわけだが、これも無視された。

 アメリカの内部に先制核攻撃を目論む勢力が存在していることをソ連も知っていたはず。ICBMや長距離爆撃機で圧倒されているソ連としては中距離ミサイルで対抗するしかない。中距離ミサイルでアメリカを攻撃するにはアメリカの近くに発射基地を建設する必要がある。そこでアメリカもソ連も注目したのがキューバだ。

 ソ連がキューバへミサイルを運び込んだことをアメリカは1962年8月に察知する。U2がキューバで地対空ミサイルSA2の発射施設を発見したのだ。ハバナの埠頭に停泊していたソ連の貨物船オムスクが中距離ミサイルを下ろし始め、別の船ボルタワがSS4を運び込んでいることも判明する。(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)

 国防長官だったロバート・マクナマラは1998年のインタビューで、約162発の核弾頭がキューバへすでに持ち込まれていて、そのうち約90発は軍事侵略してくるアメリカ軍に対して使われる戦術核だったと語っている。

 レムニッツァー議長はケネディ大統領から再任を拒否され、9月30日に退任。その時にレムニッツァーへ欧州連合軍最高司令官にならないかと声をかけてきたのがイギリス女王エリザベス2世の側近として知られるハロルド・アレグザンダーだった。

 カーチス・ルメイ空軍参謀長を含む軍の好戦派が大統領に対して空爆を主張したのは10月19日のこと。空爆してもソ連は手も足も出せないはずだと主張したが、ケネディは強硬派の作戦に同意せず、10月22日にミサイルがキューバに存在することを公表、海上封鎖を宣言した。

 10月27日にキューバ上空でU2が撃墜され、シベリア上空でもU2が迎撃されている。この直後にマクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したが、その後も別のU2がシベリア上空を飛行している。

 同じ日にアメリカ海軍の空母ランドルフを中心とする艦隊の駆逐艦ビールがソ連の潜水艦をカリブ海で発見、対潜爆雷を投下している。攻撃を受けて潜水艦の副長は参謀へ連絡しようとするが失敗、アメリカとソ連の戦争が始まったと判断した艦長は核魚雷の発射準備に同意するようにふたりの将校に求めた。核魚雷は発射されなかったが、これはたまたま乗り合わせていた旅団参謀が発射の同意を拒否したからだ。この核魚雷の威力は広島に落とされた原子爆弾と同程度で、もし発射されていたなら、現場にいたアメリカの艦隊は全滅していたと見られている。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017)

 ルメイなど軍の強硬派は大統領に対し、ソ連を攻撃するべきだと詰め寄っていたが、拒否される。この時に好戦派はクーデターでケネディ大統領を排除し、ソ連に核戦争を仕掛けるつもりだったとも言われているが、10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられた。

 キューバへ軍事侵攻した場合、アメリカ側の戦死者数は4500名とマクナマラ国防長官は予想していたが、30年後にソ連側の態勢を知り、アメリカ人だけで10万人が死んだだろうと訂正している。アメリカは楽観的な見通しから計算違いをすることがあるが、これもその一例だ。

 ケネディ大統領の親友で最も信頼されていた側近だったケネス・P・オドンネルによると、ケネディと個人的に親しかったマリー・ピンチョット・メイヤーは危機の最中、ソ連と罵り合いに陥ってはならないと強く大統領に訴えていたという。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 そして1963年11月22日にケネディ大統領は暗殺され、その暗殺に関するウォーレン委員会の報告書がリンドン・ジョンソン大統領に提出された3週間後の64年10月12日、マリー・ピンチョット・メイヤーは散歩中に射殺された。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202111240000/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1102.html#c14

[近代史5] アメリカ人による極悪非道の世界侵略の歴史 中川隆
32. 中川隆[-15143] koaQ7Jey 2021年11月25日 01:39:12 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[3]
2021.11.25
JFK暗殺から58年を経ても真相は隠蔽され、世界はファシズムへ足を踏み入れた
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 今から58年前、1963年11月22日にアメリカ大統領のジョン・F・ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの息子)​によると、アメリカの軍や情報機関の好戦派は1963年後半にソ連を先制核攻撃する計画を立てていたが、ケネディはそうした軍事行動に反対している。

 上院議員時代からケネディは戦争や植民地に反対していた。インドシナへカネ、資源、そして人間を投入することは無益であり、自滅的だと主張、1957年7月にはアルジェリアの独立を潰すために戦争を始めたフランスの植民地主義に強く反対していた。

 しかし、ケネディは1958年8月に「ミサイル・ギャップ」という用語を使い、危機感を煽っている。1960年の選挙期間中にもソ連の脅威を宣伝していた。こうした主張を彼に吹き込んだ人物は元空軍省長官のスチュアート・サイミントン上院議員だという。

 1961年当時、ソ連が保有していたICBM(大陸間弾道ミサイル)の数はNIE(国家情報評価)推計によると数機。スパイ衛星によって確認されていたのは4機だけだった。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 また、ソ連軍が保有する長距離爆撃機バイソンの数はCIAが推測していた約100機の3分の1から5分の1にすぎないことも偵察機U2によってわかっていた。(William D. Hartung, “Prophets of War”, Nation Books, 2011)

 ミサイル・ギャップも爆撃機ギャップも事実に反していた。その後の言動から考えると、ケネディのソ連脅威論は選挙向けの発言だった可能性がある。実際、大統領に就任した後、ケネディは戦争の目論見をことごとく阻止する。

 それだけでなく、彼の側近たちはFBIのJ・エドガー・フーバーやCIAのアレン・ダレスを解任するべきだと主張、大統領の父親であるジョセフ・ケネディも大統領の意思を無視して勝手に動くダレス兄弟が危険だと話していたようだが、選挙結果が僅差での勝利だったことから新大統領は両者を留任させ、国務長官にはCFR(外交問題評議会)やロックフェラー基金を通じてダレス兄弟と近い関係にあったディーン・ラスクを任命する。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 しかし、好戦派の工作はドワイト・アイゼンハワー時代から始まっていた。最初に行われたのがキューバ侵攻作戦である。4月15日に4機の爆撃機がキューバの航空機部隊を空爆、3機を除いて使用できない状態にし、17日には1543名の亡命キューバ人を主体とする侵攻部隊がピッグス湾(プラヤ・ギロン)への上陸を試みる。

 侵攻部隊の主力はグアテマラの秘密基地でCIAの訓練を受けた後、戦車、大砲、対戦車砲、自動小銃数千丁などを携えて5隻の商船に乗り込んでグアテマラを出航、途中でニカラグアから来たCIAの改造上陸艦2隻と合流している。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 この作戦に関するは事前に漏れていることは公然の秘密で、その行く手でキューバ軍が待ち受けていることは予想されていた。ルシアン・バンデンブロックがプリンストン大学で発見した記録によると、アレン・ダレスは作戦が成功する可能性が小さいと判断、アメリカ軍をキューバへ軍事侵攻させようと目論んでいた。(Lucien S. Vandenbroucke, "The 'Confessions' of Allen Dulles: New Evidence on the Bay of Pigs," Fall 1984)

 侵攻軍の敗北がが明らかになるとCIA副長官だったチャールズ・キャベルは航空母艦からアメリカ軍の戦闘機を出撃させようと大統領に進言したものの、却下されている。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 ベルリンで緊張が高まっていた1961年7月、アメリカの軍や情報機関の幹部はケネディ大統領に対し、NSC(国家安全保障会議)で先制核攻撃計画について説明している。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、1963年の後半にソ連を核攻撃するというスケジュールになっていたという。その頃になれば、先制攻撃に必要なICBMをアメリカは準備でき、ロシアは準備できていないと見通していた。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)

 この先制攻撃計画を大統領は拒否する一方、1961年11月にアレン・ダレスCIA長官や秘密工作部門の責任者だったリチャード・ビッセル計画局長を解任、キャベル副長官も62年1月に辞めさせられている。1961年にロバート・ケネディ司法長官はフーバーFBI長官の解任を公言している。

 好戦派は軍にもいた。そのひとりがライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長。そのレムニッツァーは1962年3月、国防長官のオフィスでキューバが爆弾テロを実行し、旅客機を撃墜したように見せかける偽旗作戦について説明している。ノースウッズ作戦だ。

 その数カ月後にレムニッツァーはキューバにアメリカ軍が軍事侵攻してもソ連は動けないと大統領に説明する。「脅せば屈する」というわけだが、これも無視された。

 アメリカの内部に先制核攻撃を目論む勢力が存在していることをソ連も知っていたはず。ICBMや長距離爆撃機で圧倒されているソ連としては中距離ミサイルで対抗するしかない。中距離ミサイルでアメリカを攻撃するにはアメリカの近くに発射基地を建設する必要がある。そこでアメリカもソ連も注目したのがキューバだ。

 ソ連がキューバへミサイルを運び込んだことをアメリカは1962年8月に察知する。U2がキューバで地対空ミサイルSA2の発射施設を発見したのだ。ハバナの埠頭に停泊していたソ連の貨物船オムスクが中距離ミサイルを下ろし始め、別の船ボルタワがSS4を運び込んでいることも判明する。(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)

 国防長官だったロバート・マクナマラは1998年のインタビューで、約162発の核弾頭がキューバへすでに持ち込まれていて、そのうち約90発は軍事侵略してくるアメリカ軍に対して使われる戦術核だったと語っている。

 レムニッツァー議長はケネディ大統領から再任を拒否され、9月30日に退任。その時にレムニッツァーへ欧州連合軍最高司令官にならないかと声をかけてきたのがイギリス女王エリザベス2世の側近として知られるハロルド・アレグザンダーだった。

 カーチス・ルメイ空軍参謀長を含む軍の好戦派が大統領に対して空爆を主張したのは10月19日のこと。空爆してもソ連は手も足も出せないはずだと主張したが、ケネディは強硬派の作戦に同意せず、10月22日にミサイルがキューバに存在することを公表、海上封鎖を宣言した。

 10月27日にキューバ上空でU2が撃墜され、シベリア上空でもU2が迎撃されている。この直後にマクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したが、その後も別のU2がシベリア上空を飛行している。

 同じ日にアメリカ海軍の空母ランドルフを中心とする艦隊の駆逐艦ビールがソ連の潜水艦をカリブ海で発見、対潜爆雷を投下している。攻撃を受けて潜水艦の副長は参謀へ連絡しようとするが失敗、アメリカとソ連の戦争が始まったと判断した艦長は核魚雷の発射準備に同意するようにふたりの将校に求めた。核魚雷は発射されなかったが、これはたまたま乗り合わせていた旅団参謀が発射の同意を拒否したからだ。この核魚雷の威力は広島に落とされた原子爆弾と同程度で、もし発射されていたなら、現場にいたアメリカの艦隊は全滅していたと見られている。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017)

 ルメイなど軍の強硬派は大統領に対し、ソ連を攻撃するべきだと詰め寄っていたが、拒否される。この時に好戦派はクーデターでケネディ大統領を排除し、ソ連に核戦争を仕掛けるつもりだったとも言われているが、10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられた。

 キューバへ軍事侵攻した場合、アメリカ側の戦死者数は4500名とマクナマラ国防長官は予想していたが、30年後にソ連側の態勢を知り、アメリカ人だけで10万人が死んだだろうと訂正している。アメリカは楽観的な見通しから計算違いをすることがあるが、これもその一例だ。

 ケネディ大統領の親友で最も信頼されていた側近だったケネス・P・オドンネルによると、ケネディと個人的に親しかったマリー・ピンチョット・メイヤーは危機の最中、ソ連と罵り合いに陥ってはならないと強く大統領に訴えていたという。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 そして1963年11月22日にケネディ大統領は暗殺され、その暗殺に関するウォーレン委員会の報告書がリンドン・ジョンソン大統領に提出された3週間後の64年10月12日、マリー・ピンチョット・メイヤーは散歩中に射殺された。

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[近代史4] ユダヤ陰謀論 _ 馬渕睦夫 中川隆
4. 中川隆[-15142] koaQ7Jey 2021年11月25日 01:55:13 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[4]
2021.11.25
JFK暗殺から58年を経ても真相は隠蔽され、世界はファシズムへ足を踏み入れた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202111240000/


 今から58年前、1963年11月22日にアメリカ大統領のジョン・F・ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの息子)​によると、アメリカの軍や情報機関の好戦派は1963年後半にソ連を先制核攻撃する計画を立てていたが、ケネディはそうした軍事行動に反対している。

 上院議員時代からケネディは戦争や植民地に反対していた。インドシナへカネ、資源、そして人間を投入することは無益であり、自滅的だと主張、1957年7月にはアルジェリアの独立を潰すために戦争を始めたフランスの植民地主義に強く反対していた。

 しかし、ケネディは1958年8月に「ミサイル・ギャップ」という用語を使い、危機感を煽っている。1960年の選挙期間中にもソ連の脅威を宣伝していた。こうした主張を彼に吹き込んだ人物は元空軍省長官のスチュアート・サイミントン上院議員だという。

 1961年当時、ソ連が保有していたICBM(大陸間弾道ミサイル)の数はNIE(国家情報評価)推計によると数機。スパイ衛星によって確認されていたのは4機だけだった。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 また、ソ連軍が保有する長距離爆撃機バイソンの数はCIAが推測していた約100機の3分の1から5分の1にすぎないことも偵察機U2によってわかっていた。(William D. Hartung, “Prophets of War”, Nation Books, 2011)

 ミサイル・ギャップも爆撃機ギャップも事実に反していた。その後の言動から考えると、ケネディのソ連脅威論は選挙向けの発言だった可能性がある。実際、大統領に就任した後、ケネディは戦争の目論見をことごとく阻止する。

 それだけでなく、彼の側近たちはFBIのJ・エドガー・フーバーやCIAのアレン・ダレスを解任するべきだと主張、大統領の父親であるジョセフ・ケネディも大統領の意思を無視して勝手に動くダレス兄弟が危険だと話していたようだが、選挙結果が僅差での勝利だったことから新大統領は両者を留任させ、国務長官にはCFR(外交問題評議会)やロックフェラー基金を通じてダレス兄弟と近い関係にあったディーン・ラスクを任命する。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 しかし、好戦派の工作はドワイト・アイゼンハワー時代から始まっていた。最初に行われたのがキューバ侵攻作戦である。4月15日に4機の爆撃機がキューバの航空機部隊を空爆、3機を除いて使用できない状態にし、17日には1543名の亡命キューバ人を主体とする侵攻部隊がピッグス湾(プラヤ・ギロン)への上陸を試みる。

 侵攻部隊の主力はグアテマラの秘密基地でCIAの訓練を受けた後、戦車、大砲、対戦車砲、自動小銃数千丁などを携えて5隻の商船に乗り込んでグアテマラを出航、途中でニカラグアから来たCIAの改造上陸艦2隻と合流している。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 この作戦に関するは事前に漏れていることは公然の秘密で、その行く手でキューバ軍が待ち受けていることは予想されていた。ルシアン・バンデンブロックがプリンストン大学で発見した記録によると、アレン・ダレスは作戦が成功する可能性が小さいと判断、アメリカ軍をキューバへ軍事侵攻させようと目論んでいた。(Lucien S. Vandenbroucke, "The 'Confessions' of Allen Dulles: New Evidence on the Bay of Pigs," Fall 1984)

 侵攻軍の敗北がが明らかになるとCIA副長官だったチャールズ・キャベルは航空母艦からアメリカ軍の戦闘機を出撃させようと大統領に進言したものの、却下されている。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 ベルリンで緊張が高まっていた1961年7月、アメリカの軍や情報機関の幹部はケネディ大統領に対し、NSC(国家安全保障会議)で先制核攻撃計画について説明している。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、1963年の後半にソ連を核攻撃するというスケジュールになっていたという。その頃になれば、先制攻撃に必要なICBMをアメリカは準備でき、ロシアは準備できていないと見通していた。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)

 この先制攻撃計画を大統領は拒否する一方、1961年11月にアレン・ダレスCIA長官や秘密工作部門の責任者だったリチャード・ビッセル計画局長を解任、キャベル副長官も62年1月に辞めさせられている。1961年にロバート・ケネディ司法長官はフーバーFBI長官の解任を公言している。

 好戦派は軍にもいた。そのひとりがライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長。そのレムニッツァーは1962年3月、国防長官のオフィスでキューバが爆弾テロを実行し、旅客機を撃墜したように見せかける偽旗作戦について説明している。ノースウッズ作戦だ。

 その数カ月後にレムニッツァーはキューバにアメリカ軍が軍事侵攻してもソ連は動けないと大統領に説明する。「脅せば屈する」というわけだが、これも無視された。

 アメリカの内部に先制核攻撃を目論む勢力が存在していることをソ連も知っていたはず。ICBMや長距離爆撃機で圧倒されているソ連としては中距離ミサイルで対抗するしかない。中距離ミサイルでアメリカを攻撃するにはアメリカの近くに発射基地を建設する必要がある。そこでアメリカもソ連も注目したのがキューバだ。

 ソ連がキューバへミサイルを運び込んだことをアメリカは1962年8月に察知する。U2がキューバで地対空ミサイルSA2の発射施設を発見したのだ。ハバナの埠頭に停泊していたソ連の貨物船オムスクが中距離ミサイルを下ろし始め、別の船ボルタワがSS4を運び込んでいることも判明する。(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)

 国防長官だったロバート・マクナマラは1998年のインタビューで、約162発の核弾頭がキューバへすでに持ち込まれていて、そのうち約90発は軍事侵略してくるアメリカ軍に対して使われる戦術核だったと語っている。

 レムニッツァー議長はケネディ大統領から再任を拒否され、9月30日に退任。その時にレムニッツァーへ欧州連合軍最高司令官にならないかと声をかけてきたのがイギリス女王エリザベス2世の側近として知られるハロルド・アレグザンダーだった。

 カーチス・ルメイ空軍参謀長を含む軍の好戦派が大統領に対して空爆を主張したのは10月19日のこと。空爆してもソ連は手も足も出せないはずだと主張したが、ケネディは強硬派の作戦に同意せず、10月22日にミサイルがキューバに存在することを公表、海上封鎖を宣言した。

 10月27日にキューバ上空でU2が撃墜され、シベリア上空でもU2が迎撃されている。この直後にマクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したが、その後も別のU2がシベリア上空を飛行している。

 同じ日にアメリカ海軍の空母ランドルフを中心とする艦隊の駆逐艦ビールがソ連の潜水艦をカリブ海で発見、対潜爆雷を投下している。攻撃を受けて潜水艦の副長は参謀へ連絡しようとするが失敗、アメリカとソ連の戦争が始まったと判断した艦長は核魚雷の発射準備に同意するようにふたりの将校に求めた。核魚雷は発射されなかったが、これはたまたま乗り合わせていた旅団参謀が発射の同意を拒否したからだ。この核魚雷の威力は広島に落とされた原子爆弾と同程度で、もし発射されていたなら、現場にいたアメリカの艦隊は全滅していたと見られている。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017)

 ルメイなど軍の強硬派は大統領に対し、ソ連を攻撃するべきだと詰め寄っていたが、拒否される。この時に好戦派はクーデターでケネディ大統領を排除し、ソ連に核戦争を仕掛けるつもりだったとも言われているが、10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられた。

 キューバへ軍事侵攻した場合、アメリカ側の戦死者数は4500名とマクナマラ国防長官は予想していたが、30年後にソ連側の態勢を知り、アメリカ人だけで10万人が死んだだろうと訂正している。アメリカは楽観的な見通しから計算違いをすることがあるが、これもその一例だ。

 ケネディ大統領の親友で最も信頼されていた側近だったケネス・P・オドンネルによると、ケネディと個人的に親しかったマリー・ピンチョット・メイヤーは危機の最中、ソ連と罵り合いに陥ってはならないと強く大統領に訴えていたという。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 そして1963年11月22日にケネディ大統領は暗殺され、その暗殺に関するウォーレン委員会の報告書がリンドン・ジョンソン大統領に提出された3週間後の64年10月12日、マリー・ピンチョット・メイヤーは散歩中に射殺された。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202111240000/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/735.html#c4

[近代史4] ディープステートとかいう馬渕睦夫のアホ陰謀論 中川隆
9. 中川隆[-15141] koaQ7Jey 2021年11月25日 01:55:38 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[5]
2021.11.25
JFK暗殺から58年を経ても真相は隠蔽され、世界はファシズムへ足を踏み入れた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202111240000/


 今から58年前、1963年11月22日にアメリカ大統領のジョン・F・ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの息子)​によると、アメリカの軍や情報機関の好戦派は1963年後半にソ連を先制核攻撃する計画を立てていたが、ケネディはそうした軍事行動に反対している。

 上院議員時代からケネディは戦争や植民地に反対していた。インドシナへカネ、資源、そして人間を投入することは無益であり、自滅的だと主張、1957年7月にはアルジェリアの独立を潰すために戦争を始めたフランスの植民地主義に強く反対していた。

 しかし、ケネディは1958年8月に「ミサイル・ギャップ」という用語を使い、危機感を煽っている。1960年の選挙期間中にもソ連の脅威を宣伝していた。こうした主張を彼に吹き込んだ人物は元空軍省長官のスチュアート・サイミントン上院議員だという。

 1961年当時、ソ連が保有していたICBM(大陸間弾道ミサイル)の数はNIE(国家情報評価)推計によると数機。スパイ衛星によって確認されていたのは4機だけだった。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 また、ソ連軍が保有する長距離爆撃機バイソンの数はCIAが推測していた約100機の3分の1から5分の1にすぎないことも偵察機U2によってわかっていた。(William D. Hartung, “Prophets of War”, Nation Books, 2011)

 ミサイル・ギャップも爆撃機ギャップも事実に反していた。その後の言動から考えると、ケネディのソ連脅威論は選挙向けの発言だった可能性がある。実際、大統領に就任した後、ケネディは戦争の目論見をことごとく阻止する。

 それだけでなく、彼の側近たちはFBIのJ・エドガー・フーバーやCIAのアレン・ダレスを解任するべきだと主張、大統領の父親であるジョセフ・ケネディも大統領の意思を無視して勝手に動くダレス兄弟が危険だと話していたようだが、選挙結果が僅差での勝利だったことから新大統領は両者を留任させ、国務長官にはCFR(外交問題評議会)やロックフェラー基金を通じてダレス兄弟と近い関係にあったディーン・ラスクを任命する。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 しかし、好戦派の工作はドワイト・アイゼンハワー時代から始まっていた。最初に行われたのがキューバ侵攻作戦である。4月15日に4機の爆撃機がキューバの航空機部隊を空爆、3機を除いて使用できない状態にし、17日には1543名の亡命キューバ人を主体とする侵攻部隊がピッグス湾(プラヤ・ギロン)への上陸を試みる。

 侵攻部隊の主力はグアテマラの秘密基地でCIAの訓練を受けた後、戦車、大砲、対戦車砲、自動小銃数千丁などを携えて5隻の商船に乗り込んでグアテマラを出航、途中でニカラグアから来たCIAの改造上陸艦2隻と合流している。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 この作戦に関するは事前に漏れていることは公然の秘密で、その行く手でキューバ軍が待ち受けていることは予想されていた。ルシアン・バンデンブロックがプリンストン大学で発見した記録によると、アレン・ダレスは作戦が成功する可能性が小さいと判断、アメリカ軍をキューバへ軍事侵攻させようと目論んでいた。(Lucien S. Vandenbroucke, "The 'Confessions' of Allen Dulles: New Evidence on the Bay of Pigs," Fall 1984)

 侵攻軍の敗北がが明らかになるとCIA副長官だったチャールズ・キャベルは航空母艦からアメリカ軍の戦闘機を出撃させようと大統領に進言したものの、却下されている。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 ベルリンで緊張が高まっていた1961年7月、アメリカの軍や情報機関の幹部はケネディ大統領に対し、NSC(国家安全保障会議)で先制核攻撃計画について説明している。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、1963年の後半にソ連を核攻撃するというスケジュールになっていたという。その頃になれば、先制攻撃に必要なICBMをアメリカは準備でき、ロシアは準備できていないと見通していた。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)

 この先制攻撃計画を大統領は拒否する一方、1961年11月にアレン・ダレスCIA長官や秘密工作部門の責任者だったリチャード・ビッセル計画局長を解任、キャベル副長官も62年1月に辞めさせられている。1961年にロバート・ケネディ司法長官はフーバーFBI長官の解任を公言している。

 好戦派は軍にもいた。そのひとりがライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長。そのレムニッツァーは1962年3月、国防長官のオフィスでキューバが爆弾テロを実行し、旅客機を撃墜したように見せかける偽旗作戦について説明している。ノースウッズ作戦だ。

 その数カ月後にレムニッツァーはキューバにアメリカ軍が軍事侵攻してもソ連は動けないと大統領に説明する。「脅せば屈する」というわけだが、これも無視された。

 アメリカの内部に先制核攻撃を目論む勢力が存在していることをソ連も知っていたはず。ICBMや長距離爆撃機で圧倒されているソ連としては中距離ミサイルで対抗するしかない。中距離ミサイルでアメリカを攻撃するにはアメリカの近くに発射基地を建設する必要がある。そこでアメリカもソ連も注目したのがキューバだ。

 ソ連がキューバへミサイルを運び込んだことをアメリカは1962年8月に察知する。U2がキューバで地対空ミサイルSA2の発射施設を発見したのだ。ハバナの埠頭に停泊していたソ連の貨物船オムスクが中距離ミサイルを下ろし始め、別の船ボルタワがSS4を運び込んでいることも判明する。(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)

 国防長官だったロバート・マクナマラは1998年のインタビューで、約162発の核弾頭がキューバへすでに持ち込まれていて、そのうち約90発は軍事侵略してくるアメリカ軍に対して使われる戦術核だったと語っている。

 レムニッツァー議長はケネディ大統領から再任を拒否され、9月30日に退任。その時にレムニッツァーへ欧州連合軍最高司令官にならないかと声をかけてきたのがイギリス女王エリザベス2世の側近として知られるハロルド・アレグザンダーだった。

 カーチス・ルメイ空軍参謀長を含む軍の好戦派が大統領に対して空爆を主張したのは10月19日のこと。空爆してもソ連は手も足も出せないはずだと主張したが、ケネディは強硬派の作戦に同意せず、10月22日にミサイルがキューバに存在することを公表、海上封鎖を宣言した。

 10月27日にキューバ上空でU2が撃墜され、シベリア上空でもU2が迎撃されている。この直後にマクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したが、その後も別のU2がシベリア上空を飛行している。

 同じ日にアメリカ海軍の空母ランドルフを中心とする艦隊の駆逐艦ビールがソ連の潜水艦をカリブ海で発見、対潜爆雷を投下している。攻撃を受けて潜水艦の副長は参謀へ連絡しようとするが失敗、アメリカとソ連の戦争が始まったと判断した艦長は核魚雷の発射準備に同意するようにふたりの将校に求めた。核魚雷は発射されなかったが、これはたまたま乗り合わせていた旅団参謀が発射の同意を拒否したからだ。この核魚雷の威力は広島に落とされた原子爆弾と同程度で、もし発射されていたなら、現場にいたアメリカの艦隊は全滅していたと見られている。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017)

 ルメイなど軍の強硬派は大統領に対し、ソ連を攻撃するべきだと詰め寄っていたが、拒否される。この時に好戦派はクーデターでケネディ大統領を排除し、ソ連に核戦争を仕掛けるつもりだったとも言われているが、10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられた。

 キューバへ軍事侵攻した場合、アメリカ側の戦死者数は4500名とマクナマラ国防長官は予想していたが、30年後にソ連側の態勢を知り、アメリカ人だけで10万人が死んだだろうと訂正している。アメリカは楽観的な見通しから計算違いをすることがあるが、これもその一例だ。

 ケネディ大統領の親友で最も信頼されていた側近だったケネス・P・オドンネルによると、ケネディと個人的に親しかったマリー・ピンチョット・メイヤーは危機の最中、ソ連と罵り合いに陥ってはならないと強く大統領に訴えていたという。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 そして1963年11月22日にケネディ大統領は暗殺され、その暗殺に関するウォーレン委員会の報告書がリンドン・ジョンソン大統領に提出された3週間後の64年10月12日、マリー・ピンチョット・メイヤーは散歩中に射殺された。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202111240000/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/623.html#c9

[近代史3] 馬渕睦夫のユダヤ陰謀論はどこまで本当なのか? 中川隆
52. 中川隆[-15140] koaQ7Jey 2021年11月25日 01:56:27 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[6]
2021.11.25
JFK暗殺から58年を経ても真相は隠蔽され、世界はファシズムへ足を踏み入れた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202111240000/


 今から58年前、1963年11月22日にアメリカ大統領のジョン・F・ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの息子)​によると、アメリカの軍や情報機関の好戦派は1963年後半にソ連を先制核攻撃する計画を立てていたが、ケネディはそうした軍事行動に反対している。

 上院議員時代からケネディは戦争や植民地に反対していた。インドシナへカネ、資源、そして人間を投入することは無益であり、自滅的だと主張、1957年7月にはアルジェリアの独立を潰すために戦争を始めたフランスの植民地主義に強く反対していた。

 しかし、ケネディは1958年8月に「ミサイル・ギャップ」という用語を使い、危機感を煽っている。1960年の選挙期間中にもソ連の脅威を宣伝していた。こうした主張を彼に吹き込んだ人物は元空軍省長官のスチュアート・サイミントン上院議員だという。

 1961年当時、ソ連が保有していたICBM(大陸間弾道ミサイル)の数はNIE(国家情報評価)推計によると数機。スパイ衛星によって確認されていたのは4機だけだった。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 また、ソ連軍が保有する長距離爆撃機バイソンの数はCIAが推測していた約100機の3分の1から5分の1にすぎないことも偵察機U2によってわかっていた。(William D. Hartung, “Prophets of War”, Nation Books, 2011)

 ミサイル・ギャップも爆撃機ギャップも事実に反していた。その後の言動から考えると、ケネディのソ連脅威論は選挙向けの発言だった可能性がある。実際、大統領に就任した後、ケネディは戦争の目論見をことごとく阻止する。

 それだけでなく、彼の側近たちはFBIのJ・エドガー・フーバーやCIAのアレン・ダレスを解任するべきだと主張、大統領の父親であるジョセフ・ケネディも大統領の意思を無視して勝手に動くダレス兄弟が危険だと話していたようだが、選挙結果が僅差での勝利だったことから新大統領は両者を留任させ、国務長官にはCFR(外交問題評議会)やロックフェラー基金を通じてダレス兄弟と近い関係にあったディーン・ラスクを任命する。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 しかし、好戦派の工作はドワイト・アイゼンハワー時代から始まっていた。最初に行われたのがキューバ侵攻作戦である。4月15日に4機の爆撃機がキューバの航空機部隊を空爆、3機を除いて使用できない状態にし、17日には1543名の亡命キューバ人を主体とする侵攻部隊がピッグス湾(プラヤ・ギロン)への上陸を試みる。

 侵攻部隊の主力はグアテマラの秘密基地でCIAの訓練を受けた後、戦車、大砲、対戦車砲、自動小銃数千丁などを携えて5隻の商船に乗り込んでグアテマラを出航、途中でニカラグアから来たCIAの改造上陸艦2隻と合流している。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 この作戦に関するは事前に漏れていることは公然の秘密で、その行く手でキューバ軍が待ち受けていることは予想されていた。ルシアン・バンデンブロックがプリンストン大学で発見した記録によると、アレン・ダレスは作戦が成功する可能性が小さいと判断、アメリカ軍をキューバへ軍事侵攻させようと目論んでいた。(Lucien S. Vandenbroucke, "The 'Confessions' of Allen Dulles: New Evidence on the Bay of Pigs," Fall 1984)

 侵攻軍の敗北がが明らかになるとCIA副長官だったチャールズ・キャベルは航空母艦からアメリカ軍の戦闘機を出撃させようと大統領に進言したものの、却下されている。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 ベルリンで緊張が高まっていた1961年7月、アメリカの軍や情報機関の幹部はケネディ大統領に対し、NSC(国家安全保障会議)で先制核攻撃計画について説明している。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、1963年の後半にソ連を核攻撃するというスケジュールになっていたという。その頃になれば、先制攻撃に必要なICBMをアメリカは準備でき、ロシアは準備できていないと見通していた。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)

 この先制攻撃計画を大統領は拒否する一方、1961年11月にアレン・ダレスCIA長官や秘密工作部門の責任者だったリチャード・ビッセル計画局長を解任、キャベル副長官も62年1月に辞めさせられている。1961年にロバート・ケネディ司法長官はフーバーFBI長官の解任を公言している。

 好戦派は軍にもいた。そのひとりがライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長。そのレムニッツァーは1962年3月、国防長官のオフィスでキューバが爆弾テロを実行し、旅客機を撃墜したように見せかける偽旗作戦について説明している。ノースウッズ作戦だ。

 その数カ月後にレムニッツァーはキューバにアメリカ軍が軍事侵攻してもソ連は動けないと大統領に説明する。「脅せば屈する」というわけだが、これも無視された。

 アメリカの内部に先制核攻撃を目論む勢力が存在していることをソ連も知っていたはず。ICBMや長距離爆撃機で圧倒されているソ連としては中距離ミサイルで対抗するしかない。中距離ミサイルでアメリカを攻撃するにはアメリカの近くに発射基地を建設する必要がある。そこでアメリカもソ連も注目したのがキューバだ。

 ソ連がキューバへミサイルを運び込んだことをアメリカは1962年8月に察知する。U2がキューバで地対空ミサイルSA2の発射施設を発見したのだ。ハバナの埠頭に停泊していたソ連の貨物船オムスクが中距離ミサイルを下ろし始め、別の船ボルタワがSS4を運び込んでいることも判明する。(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)

 国防長官だったロバート・マクナマラは1998年のインタビューで、約162発の核弾頭がキューバへすでに持ち込まれていて、そのうち約90発は軍事侵略してくるアメリカ軍に対して使われる戦術核だったと語っている。

 レムニッツァー議長はケネディ大統領から再任を拒否され、9月30日に退任。その時にレムニッツァーへ欧州連合軍最高司令官にならないかと声をかけてきたのがイギリス女王エリザベス2世の側近として知られるハロルド・アレグザンダーだった。

 カーチス・ルメイ空軍参謀長を含む軍の好戦派が大統領に対して空爆を主張したのは10月19日のこと。空爆してもソ連は手も足も出せないはずだと主張したが、ケネディは強硬派の作戦に同意せず、10月22日にミサイルがキューバに存在することを公表、海上封鎖を宣言した。

 10月27日にキューバ上空でU2が撃墜され、シベリア上空でもU2が迎撃されている。この直後にマクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したが、その後も別のU2がシベリア上空を飛行している。

 同じ日にアメリカ海軍の空母ランドルフを中心とする艦隊の駆逐艦ビールがソ連の潜水艦をカリブ海で発見、対潜爆雷を投下している。攻撃を受けて潜水艦の副長は参謀へ連絡しようとするが失敗、アメリカとソ連の戦争が始まったと判断した艦長は核魚雷の発射準備に同意するようにふたりの将校に求めた。核魚雷は発射されなかったが、これはたまたま乗り合わせていた旅団参謀が発射の同意を拒否したからだ。この核魚雷の威力は広島に落とされた原子爆弾と同程度で、もし発射されていたなら、現場にいたアメリカの艦隊は全滅していたと見られている。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017)

 ルメイなど軍の強硬派は大統領に対し、ソ連を攻撃するべきだと詰め寄っていたが、拒否される。この時に好戦派はクーデターでケネディ大統領を排除し、ソ連に核戦争を仕掛けるつもりだったとも言われているが、10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられた。

 キューバへ軍事侵攻した場合、アメリカ側の戦死者数は4500名とマクナマラ国防長官は予想していたが、30年後にソ連側の態勢を知り、アメリカ人だけで10万人が死んだだろうと訂正している。アメリカは楽観的な見通しから計算違いをすることがあるが、これもその一例だ。

 ケネディ大統領の親友で最も信頼されていた側近だったケネス・P・オドンネルによると、ケネディと個人的に親しかったマリー・ピンチョット・メイヤーは危機の最中、ソ連と罵り合いに陥ってはならないと強く大統領に訴えていたという。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 そして1963年11月22日にケネディ大統領は暗殺され、その暗殺に関するウォーレン委員会の報告書がリンドン・ジョンソン大統領に提出された3週間後の64年10月12日、マリー・ピンチョット・メイヤーは散歩中に射殺された。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202111240000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/212.html#c52

[近代史3] ディープステートとは何か 中川隆
12. 中川隆[-15139] koaQ7Jey 2021年11月25日 01:57:09 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[7]
2021.11.25
JFK暗殺から58年を経ても真相は隠蔽され、世界はファシズムへ足を踏み入れた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202111240000/


 今から58年前、1963年11月22日にアメリカ大統領のジョン・F・ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの息子)​によると、アメリカの軍や情報機関の好戦派は1963年後半にソ連を先制核攻撃する計画を立てていたが、ケネディはそうした軍事行動に反対している。

 上院議員時代からケネディは戦争や植民地に反対していた。インドシナへカネ、資源、そして人間を投入することは無益であり、自滅的だと主張、1957年7月にはアルジェリアの独立を潰すために戦争を始めたフランスの植民地主義に強く反対していた。

 しかし、ケネディは1958年8月に「ミサイル・ギャップ」という用語を使い、危機感を煽っている。1960年の選挙期間中にもソ連の脅威を宣伝していた。こうした主張を彼に吹き込んだ人物は元空軍省長官のスチュアート・サイミントン上院議員だという。

 1961年当時、ソ連が保有していたICBM(大陸間弾道ミサイル)の数はNIE(国家情報評価)推計によると数機。スパイ衛星によって確認されていたのは4機だけだった。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 また、ソ連軍が保有する長距離爆撃機バイソンの数はCIAが推測していた約100機の3分の1から5分の1にすぎないことも偵察機U2によってわかっていた。(William D. Hartung, “Prophets of War”, Nation Books, 2011)

 ミサイル・ギャップも爆撃機ギャップも事実に反していた。その後の言動から考えると、ケネディのソ連脅威論は選挙向けの発言だった可能性がある。実際、大統領に就任した後、ケネディは戦争の目論見をことごとく阻止する。

 それだけでなく、彼の側近たちはFBIのJ・エドガー・フーバーやCIAのアレン・ダレスを解任するべきだと主張、大統領の父親であるジョセフ・ケネディも大統領の意思を無視して勝手に動くダレス兄弟が危険だと話していたようだが、選挙結果が僅差での勝利だったことから新大統領は両者を留任させ、国務長官にはCFR(外交問題評議会)やロックフェラー基金を通じてダレス兄弟と近い関係にあったディーン・ラスクを任命する。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 しかし、好戦派の工作はドワイト・アイゼンハワー時代から始まっていた。最初に行われたのがキューバ侵攻作戦である。4月15日に4機の爆撃機がキューバの航空機部隊を空爆、3機を除いて使用できない状態にし、17日には1543名の亡命キューバ人を主体とする侵攻部隊がピッグス湾(プラヤ・ギロン)への上陸を試みる。

 侵攻部隊の主力はグアテマラの秘密基地でCIAの訓練を受けた後、戦車、大砲、対戦車砲、自動小銃数千丁などを携えて5隻の商船に乗り込んでグアテマラを出航、途中でニカラグアから来たCIAの改造上陸艦2隻と合流している。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 この作戦に関するは事前に漏れていることは公然の秘密で、その行く手でキューバ軍が待ち受けていることは予想されていた。ルシアン・バンデンブロックがプリンストン大学で発見した記録によると、アレン・ダレスは作戦が成功する可能性が小さいと判断、アメリカ軍をキューバへ軍事侵攻させようと目論んでいた。(Lucien S. Vandenbroucke, "The 'Confessions' of Allen Dulles: New Evidence on the Bay of Pigs," Fall 1984)

 侵攻軍の敗北がが明らかになるとCIA副長官だったチャールズ・キャベルは航空母艦からアメリカ軍の戦闘機を出撃させようと大統領に進言したものの、却下されている。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 ベルリンで緊張が高まっていた1961年7月、アメリカの軍や情報機関の幹部はケネディ大統領に対し、NSC(国家安全保障会議)で先制核攻撃計画について説明している。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、1963年の後半にソ連を核攻撃するというスケジュールになっていたという。その頃になれば、先制攻撃に必要なICBMをアメリカは準備でき、ロシアは準備できていないと見通していた。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)

 この先制攻撃計画を大統領は拒否する一方、1961年11月にアレン・ダレスCIA長官や秘密工作部門の責任者だったリチャード・ビッセル計画局長を解任、キャベル副長官も62年1月に辞めさせられている。1961年にロバート・ケネディ司法長官はフーバーFBI長官の解任を公言している。

 好戦派は軍にもいた。そのひとりがライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長。そのレムニッツァーは1962年3月、国防長官のオフィスでキューバが爆弾テロを実行し、旅客機を撃墜したように見せかける偽旗作戦について説明している。ノースウッズ作戦だ。

 その数カ月後にレムニッツァーはキューバにアメリカ軍が軍事侵攻してもソ連は動けないと大統領に説明する。「脅せば屈する」というわけだが、これも無視された。

 アメリカの内部に先制核攻撃を目論む勢力が存在していることをソ連も知っていたはず。ICBMや長距離爆撃機で圧倒されているソ連としては中距離ミサイルで対抗するしかない。中距離ミサイルでアメリカを攻撃するにはアメリカの近くに発射基地を建設する必要がある。そこでアメリカもソ連も注目したのがキューバだ。

 ソ連がキューバへミサイルを運び込んだことをアメリカは1962年8月に察知する。U2がキューバで地対空ミサイルSA2の発射施設を発見したのだ。ハバナの埠頭に停泊していたソ連の貨物船オムスクが中距離ミサイルを下ろし始め、別の船ボルタワがSS4を運び込んでいることも判明する。(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)

 国防長官だったロバート・マクナマラは1998年のインタビューで、約162発の核弾頭がキューバへすでに持ち込まれていて、そのうち約90発は軍事侵略してくるアメリカ軍に対して使われる戦術核だったと語っている。

 レムニッツァー議長はケネディ大統領から再任を拒否され、9月30日に退任。その時にレムニッツァーへ欧州連合軍最高司令官にならないかと声をかけてきたのがイギリス女王エリザベス2世の側近として知られるハロルド・アレグザンダーだった。

 カーチス・ルメイ空軍参謀長を含む軍の好戦派が大統領に対して空爆を主張したのは10月19日のこと。空爆してもソ連は手も足も出せないはずだと主張したが、ケネディは強硬派の作戦に同意せず、10月22日にミサイルがキューバに存在することを公表、海上封鎖を宣言した。

 10月27日にキューバ上空でU2が撃墜され、シベリア上空でもU2が迎撃されている。この直後にマクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したが、その後も別のU2がシベリア上空を飛行している。

 同じ日にアメリカ海軍の空母ランドルフを中心とする艦隊の駆逐艦ビールがソ連の潜水艦をカリブ海で発見、対潜爆雷を投下している。攻撃を受けて潜水艦の副長は参謀へ連絡しようとするが失敗、アメリカとソ連の戦争が始まったと判断した艦長は核魚雷の発射準備に同意するようにふたりの将校に求めた。核魚雷は発射されなかったが、これはたまたま乗り合わせていた旅団参謀が発射の同意を拒否したからだ。この核魚雷の威力は広島に落とされた原子爆弾と同程度で、もし発射されていたなら、現場にいたアメリカの艦隊は全滅していたと見られている。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017)

 ルメイなど軍の強硬派は大統領に対し、ソ連を攻撃するべきだと詰め寄っていたが、拒否される。この時に好戦派はクーデターでケネディ大統領を排除し、ソ連に核戦争を仕掛けるつもりだったとも言われているが、10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられた。

 キューバへ軍事侵攻した場合、アメリカ側の戦死者数は4500名とマクナマラ国防長官は予想していたが、30年後にソ連側の態勢を知り、アメリカ人だけで10万人が死んだだろうと訂正している。アメリカは楽観的な見通しから計算違いをすることがあるが、これもその一例だ。

 ケネディ大統領の親友で最も信頼されていた側近だったケネス・P・オドンネルによると、ケネディと個人的に親しかったマリー・ピンチョット・メイヤーは危機の最中、ソ連と罵り合いに陥ってはならないと強く大統領に訴えていたという。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 そして1963年11月22日にケネディ大統領は暗殺され、その暗殺に関するウォーレン委員会の報告書がリンドン・ジョンソン大統領に提出された3週間後の64年10月12日、マリー・ピンチョット・メイヤーは散歩中に射殺された。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202111240000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/416.html#c12

[近代史6] 林千勝のユダヤ陰謀論はどこがおかしいか? 中川隆
9. 中川隆[-15138] koaQ7Jey 2021年11月25日 01:58:37 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[8]
2021.11.25
JFK暗殺から58年を経ても真相は隠蔽され、世界はファシズムへ足を踏み入れた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202111240000/


 今から58年前、1963年11月22日にアメリカ大統領のジョン・F・ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの息子)​によると、アメリカの軍や情報機関の好戦派は1963年後半にソ連を先制核攻撃する計画を立てていたが、ケネディはそうした軍事行動に反対している。

 上院議員時代からケネディは戦争や植民地に反対していた。インドシナへカネ、資源、そして人間を投入することは無益であり、自滅的だと主張、1957年7月にはアルジェリアの独立を潰すために戦争を始めたフランスの植民地主義に強く反対していた。

 しかし、ケネディは1958年8月に「ミサイル・ギャップ」という用語を使い、危機感を煽っている。1960年の選挙期間中にもソ連の脅威を宣伝していた。こうした主張を彼に吹き込んだ人物は元空軍省長官のスチュアート・サイミントン上院議員だという。

 1961年当時、ソ連が保有していたICBM(大陸間弾道ミサイル)の数はNIE(国家情報評価)推計によると数機。スパイ衛星によって確認されていたのは4機だけだった。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 また、ソ連軍が保有する長距離爆撃機バイソンの数はCIAが推測していた約100機の3分の1から5分の1にすぎないことも偵察機U2によってわかっていた。(William D. Hartung, “Prophets of War”, Nation Books, 2011)

 ミサイル・ギャップも爆撃機ギャップも事実に反していた。その後の言動から考えると、ケネディのソ連脅威論は選挙向けの発言だった可能性がある。実際、大統領に就任した後、ケネディは戦争の目論見をことごとく阻止する。

 それだけでなく、彼の側近たちはFBIのJ・エドガー・フーバーやCIAのアレン・ダレスを解任するべきだと主張、大統領の父親であるジョセフ・ケネディも大統領の意思を無視して勝手に動くダレス兄弟が危険だと話していたようだが、選挙結果が僅差での勝利だったことから新大統領は両者を留任させ、国務長官にはCFR(外交問題評議会)やロックフェラー基金を通じてダレス兄弟と近い関係にあったディーン・ラスクを任命する。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 しかし、好戦派の工作はドワイト・アイゼンハワー時代から始まっていた。最初に行われたのがキューバ侵攻作戦である。4月15日に4機の爆撃機がキューバの航空機部隊を空爆、3機を除いて使用できない状態にし、17日には1543名の亡命キューバ人を主体とする侵攻部隊がピッグス湾(プラヤ・ギロン)への上陸を試みる。

 侵攻部隊の主力はグアテマラの秘密基地でCIAの訓練を受けた後、戦車、大砲、対戦車砲、自動小銃数千丁などを携えて5隻の商船に乗り込んでグアテマラを出航、途中でニカラグアから来たCIAの改造上陸艦2隻と合流している。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 この作戦に関するは事前に漏れていることは公然の秘密で、その行く手でキューバ軍が待ち受けていることは予想されていた。ルシアン・バンデンブロックがプリンストン大学で発見した記録によると、アレン・ダレスは作戦が成功する可能性が小さいと判断、アメリカ軍をキューバへ軍事侵攻させようと目論んでいた。(Lucien S. Vandenbroucke, "The 'Confessions' of Allen Dulles: New Evidence on the Bay of Pigs," Fall 1984)

 侵攻軍の敗北がが明らかになるとCIA副長官だったチャールズ・キャベルは航空母艦からアメリカ軍の戦闘機を出撃させようと大統領に進言したものの、却下されている。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 ベルリンで緊張が高まっていた1961年7月、アメリカの軍や情報機関の幹部はケネディ大統領に対し、NSC(国家安全保障会議)で先制核攻撃計画について説明している。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、1963年の後半にソ連を核攻撃するというスケジュールになっていたという。その頃になれば、先制攻撃に必要なICBMをアメリカは準備でき、ロシアは準備できていないと見通していた。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)

 この先制攻撃計画を大統領は拒否する一方、1961年11月にアレン・ダレスCIA長官や秘密工作部門の責任者だったリチャード・ビッセル計画局長を解任、キャベル副長官も62年1月に辞めさせられている。1961年にロバート・ケネディ司法長官はフーバーFBI長官の解任を公言している。

 好戦派は軍にもいた。そのひとりがライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長。そのレムニッツァーは1962年3月、国防長官のオフィスでキューバが爆弾テロを実行し、旅客機を撃墜したように見せかける偽旗作戦について説明している。ノースウッズ作戦だ。

 その数カ月後にレムニッツァーはキューバにアメリカ軍が軍事侵攻してもソ連は動けないと大統領に説明する。「脅せば屈する」というわけだが、これも無視された。

 アメリカの内部に先制核攻撃を目論む勢力が存在していることをソ連も知っていたはず。ICBMや長距離爆撃機で圧倒されているソ連としては中距離ミサイルで対抗するしかない。中距離ミサイルでアメリカを攻撃するにはアメリカの近くに発射基地を建設する必要がある。そこでアメリカもソ連も注目したのがキューバだ。

 ソ連がキューバへミサイルを運び込んだことをアメリカは1962年8月に察知する。U2がキューバで地対空ミサイルSA2の発射施設を発見したのだ。ハバナの埠頭に停泊していたソ連の貨物船オムスクが中距離ミサイルを下ろし始め、別の船ボルタワがSS4を運び込んでいることも判明する。(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)

 国防長官だったロバート・マクナマラは1998年のインタビューで、約162発の核弾頭がキューバへすでに持ち込まれていて、そのうち約90発は軍事侵略してくるアメリカ軍に対して使われる戦術核だったと語っている。

 レムニッツァー議長はケネディ大統領から再任を拒否され、9月30日に退任。その時にレムニッツァーへ欧州連合軍最高司令官にならないかと声をかけてきたのがイギリス女王エリザベス2世の側近として知られるハロルド・アレグザンダーだった。

 カーチス・ルメイ空軍参謀長を含む軍の好戦派が大統領に対して空爆を主張したのは10月19日のこと。空爆してもソ連は手も足も出せないはずだと主張したが、ケネディは強硬派の作戦に同意せず、10月22日にミサイルがキューバに存在することを公表、海上封鎖を宣言した。

 10月27日にキューバ上空でU2が撃墜され、シベリア上空でもU2が迎撃されている。この直後にマクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したが、その後も別のU2がシベリア上空を飛行している。

 同じ日にアメリカ海軍の空母ランドルフを中心とする艦隊の駆逐艦ビールがソ連の潜水艦をカリブ海で発見、対潜爆雷を投下している。攻撃を受けて潜水艦の副長は参謀へ連絡しようとするが失敗、アメリカとソ連の戦争が始まったと判断した艦長は核魚雷の発射準備に同意するようにふたりの将校に求めた。核魚雷は発射されなかったが、これはたまたま乗り合わせていた旅団参謀が発射の同意を拒否したからだ。この核魚雷の威力は広島に落とされた原子爆弾と同程度で、もし発射されていたなら、現場にいたアメリカの艦隊は全滅していたと見られている。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017)

 ルメイなど軍の強硬派は大統領に対し、ソ連を攻撃するべきだと詰め寄っていたが、拒否される。この時に好戦派はクーデターでケネディ大統領を排除し、ソ連に核戦争を仕掛けるつもりだったとも言われているが、10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられた。

 キューバへ軍事侵攻した場合、アメリカ側の戦死者数は4500名とマクナマラ国防長官は予想していたが、30年後にソ連側の態勢を知り、アメリカ人だけで10万人が死んだだろうと訂正している。アメリカは楽観的な見通しから計算違いをすることがあるが、これもその一例だ。

 ケネディ大統領の親友で最も信頼されていた側近だったケネス・P・オドンネルによると、ケネディと個人的に親しかったマリー・ピンチョット・メイヤーは危機の最中、ソ連と罵り合いに陥ってはならないと強く大統領に訴えていたという。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 そして1963年11月22日にケネディ大統領は暗殺され、その暗殺に関するウォーレン委員会の報告書がリンドン・ジョンソン大統領に提出された3週間後の64年10月12日、マリー・ピンチョット・メイヤーは散歩中に射殺された。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202111240000/
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/139.html#c9

[近代史4] ユダヤ陰謀論 _ 林千勝 中川隆
11. 中川隆[-15137] koaQ7Jey 2021年11月25日 01:59:25 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[9]
2021.11.25
JFK暗殺から58年を経ても真相は隠蔽され、世界はファシズムへ足を踏み入れた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202111240000/


 今から58年前、1963年11月22日にアメリカ大統領のジョン・F・ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの息子)​によると、アメリカの軍や情報機関の好戦派は1963年後半にソ連を先制核攻撃する計画を立てていたが、ケネディはそうした軍事行動に反対している。

 上院議員時代からケネディは戦争や植民地に反対していた。インドシナへカネ、資源、そして人間を投入することは無益であり、自滅的だと主張、1957年7月にはアルジェリアの独立を潰すために戦争を始めたフランスの植民地主義に強く反対していた。

 しかし、ケネディは1958年8月に「ミサイル・ギャップ」という用語を使い、危機感を煽っている。1960年の選挙期間中にもソ連の脅威を宣伝していた。こうした主張を彼に吹き込んだ人物は元空軍省長官のスチュアート・サイミントン上院議員だという。

 1961年当時、ソ連が保有していたICBM(大陸間弾道ミサイル)の数はNIE(国家情報評価)推計によると数機。スパイ衛星によって確認されていたのは4機だけだった。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 また、ソ連軍が保有する長距離爆撃機バイソンの数はCIAが推測していた約100機の3分の1から5分の1にすぎないことも偵察機U2によってわかっていた。(William D. Hartung, “Prophets of War”, Nation Books, 2011)

 ミサイル・ギャップも爆撃機ギャップも事実に反していた。その後の言動から考えると、ケネディのソ連脅威論は選挙向けの発言だった可能性がある。実際、大統領に就任した後、ケネディは戦争の目論見をことごとく阻止する。

 それだけでなく、彼の側近たちはFBIのJ・エドガー・フーバーやCIAのアレン・ダレスを解任するべきだと主張、大統領の父親であるジョセフ・ケネディも大統領の意思を無視して勝手に動くダレス兄弟が危険だと話していたようだが、選挙結果が僅差での勝利だったことから新大統領は両者を留任させ、国務長官にはCFR(外交問題評議会)やロックフェラー基金を通じてダレス兄弟と近い関係にあったディーン・ラスクを任命する。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 しかし、好戦派の工作はドワイト・アイゼンハワー時代から始まっていた。最初に行われたのがキューバ侵攻作戦である。4月15日に4機の爆撃機がキューバの航空機部隊を空爆、3機を除いて使用できない状態にし、17日には1543名の亡命キューバ人を主体とする侵攻部隊がピッグス湾(プラヤ・ギロン)への上陸を試みる。

 侵攻部隊の主力はグアテマラの秘密基地でCIAの訓練を受けた後、戦車、大砲、対戦車砲、自動小銃数千丁などを携えて5隻の商船に乗り込んでグアテマラを出航、途中でニカラグアから来たCIAの改造上陸艦2隻と合流している。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 この作戦に関するは事前に漏れていることは公然の秘密で、その行く手でキューバ軍が待ち受けていることは予想されていた。ルシアン・バンデンブロックがプリンストン大学で発見した記録によると、アレン・ダレスは作戦が成功する可能性が小さいと判断、アメリカ軍をキューバへ軍事侵攻させようと目論んでいた。(Lucien S. Vandenbroucke, "The 'Confessions' of Allen Dulles: New Evidence on the Bay of Pigs," Fall 1984)

 侵攻軍の敗北がが明らかになるとCIA副長官だったチャールズ・キャベルは航空母艦からアメリカ軍の戦闘機を出撃させようと大統領に進言したものの、却下されている。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 ベルリンで緊張が高まっていた1961年7月、アメリカの軍や情報機関の幹部はケネディ大統領に対し、NSC(国家安全保障会議)で先制核攻撃計画について説明している。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、1963年の後半にソ連を核攻撃するというスケジュールになっていたという。その頃になれば、先制攻撃に必要なICBMをアメリカは準備でき、ロシアは準備できていないと見通していた。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)

 この先制攻撃計画を大統領は拒否する一方、1961年11月にアレン・ダレスCIA長官や秘密工作部門の責任者だったリチャード・ビッセル計画局長を解任、キャベル副長官も62年1月に辞めさせられている。1961年にロバート・ケネディ司法長官はフーバーFBI長官の解任を公言している。

 好戦派は軍にもいた。そのひとりがライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長。そのレムニッツァーは1962年3月、国防長官のオフィスでキューバが爆弾テロを実行し、旅客機を撃墜したように見せかける偽旗作戦について説明している。ノースウッズ作戦だ。

 その数カ月後にレムニッツァーはキューバにアメリカ軍が軍事侵攻してもソ連は動けないと大統領に説明する。「脅せば屈する」というわけだが、これも無視された。

 アメリカの内部に先制核攻撃を目論む勢力が存在していることをソ連も知っていたはず。ICBMや長距離爆撃機で圧倒されているソ連としては中距離ミサイルで対抗するしかない。中距離ミサイルでアメリカを攻撃するにはアメリカの近くに発射基地を建設する必要がある。そこでアメリカもソ連も注目したのがキューバだ。

 ソ連がキューバへミサイルを運び込んだことをアメリカは1962年8月に察知する。U2がキューバで地対空ミサイルSA2の発射施設を発見したのだ。ハバナの埠頭に停泊していたソ連の貨物船オムスクが中距離ミサイルを下ろし始め、別の船ボルタワがSS4を運び込んでいることも判明する。(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)

 国防長官だったロバート・マクナマラは1998年のインタビューで、約162発の核弾頭がキューバへすでに持ち込まれていて、そのうち約90発は軍事侵略してくるアメリカ軍に対して使われる戦術核だったと語っている。

 レムニッツァー議長はケネディ大統領から再任を拒否され、9月30日に退任。その時にレムニッツァーへ欧州連合軍最高司令官にならないかと声をかけてきたのがイギリス女王エリザベス2世の側近として知られるハロルド・アレグザンダーだった。

 カーチス・ルメイ空軍参謀長を含む軍の好戦派が大統領に対して空爆を主張したのは10月19日のこと。空爆してもソ連は手も足も出せないはずだと主張したが、ケネディは強硬派の作戦に同意せず、10月22日にミサイルがキューバに存在することを公表、海上封鎖を宣言した。

 10月27日にキューバ上空でU2が撃墜され、シベリア上空でもU2が迎撃されている。この直後にマクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したが、その後も別のU2がシベリア上空を飛行している。

 同じ日にアメリカ海軍の空母ランドルフを中心とする艦隊の駆逐艦ビールがソ連の潜水艦をカリブ海で発見、対潜爆雷を投下している。攻撃を受けて潜水艦の副長は参謀へ連絡しようとするが失敗、アメリカとソ連の戦争が始まったと判断した艦長は核魚雷の発射準備に同意するようにふたりの将校に求めた。核魚雷は発射されなかったが、これはたまたま乗り合わせていた旅団参謀が発射の同意を拒否したからだ。この核魚雷の威力は広島に落とされた原子爆弾と同程度で、もし発射されていたなら、現場にいたアメリカの艦隊は全滅していたと見られている。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017)

 ルメイなど軍の強硬派は大統領に対し、ソ連を攻撃するべきだと詰め寄っていたが、拒否される。この時に好戦派はクーデターでケネディ大統領を排除し、ソ連に核戦争を仕掛けるつもりだったとも言われているが、10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられた。

 キューバへ軍事侵攻した場合、アメリカ側の戦死者数は4500名とマクナマラ国防長官は予想していたが、30年後にソ連側の態勢を知り、アメリカ人だけで10万人が死んだだろうと訂正している。アメリカは楽観的な見通しから計算違いをすることがあるが、これもその一例だ。

 ケネディ大統領の親友で最も信頼されていた側近だったケネス・P・オドンネルによると、ケネディと個人的に親しかったマリー・ピンチョット・メイヤーは危機の最中、ソ連と罵り合いに陥ってはならないと強く大統領に訴えていたという。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 そして1963年11月22日にケネディ大統領は暗殺され、その暗殺に関するウォーレン委員会の報告書がリンドン・ジョンソン大統領に提出された3週間後の64年10月12日、マリー・ピンチョット・メイヤーは散歩中に射殺された。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202111240000/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1167.html#c11

[近代史5] 旭川にだけは住んではいけない 中川隆
200. 中川隆[-15136] koaQ7Jey 2021年11月25日 02:08:40 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[10]
旭川市の専門学生だったフォロワーさんの体験談に驚愕した・・※現在の旭川いじ○問題のことではありませんのでご注意ください。
2021/11/23



http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/593.html#c200
[番外地9] 日本の右翼・保守はみんな共産主義者だったんだよ 中川隆
7. 中川隆[-15135] koaQ7Jey 2021年11月25日 02:56:43 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[11]
戦前の保守・右翼・陸軍軍人が戦後の左翼になった _ 右翼・保守は必ず共産主義者になる
日本では明治以降ずっと 右翼・国粋主義=共産主義 だった。
日本では明治時代から一貫して、天皇・保守政治家・官僚はグローバリスト、愛国者・国粋主義者・反米勢力は共産主義者。戦前の陸軍や226事件の青年は殆どが共産主義のシンパで反資本主義だったから、共産革命を起こさない様に憲法第九条を作って軍隊を持てない様にしたんだよ。
現在でも保守・反動・愛国政党は日本共産党一つだけで、皇族や官僚・自民党は新自由主義・グローバリストですが、それは戦前からの伝統です:
1923年9月に起こった関東大震災の復興資金をJPモルガンに頼って以来、日本はアメリカの巨大金融資本の強い影響下に入った。 ウォール街の住人たちは反ルーズベルト政権のクーデター計画でも金本位制への復帰を強く求めていたが、日本政府に対しても同じことを要求、受け入れられた。JPモルガンに言われるまま、浜口雄幸政権は緊縮財政も推進する。その時に大蔵大臣を務めていたのが井上準之助だ。
 この結果、不況はますます深刻化し、東北地方では娘の身売りが増えて大きな社会問題になっている。こうした経済政策を推進した浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には井上が本郷追分の駒本小学校で射殺されている。
 1932年に駐日大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。グルーの従兄弟がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかも、グルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。
 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。敗戦後に「転向」したわけではない。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあった。ところが1933年から45年4月にルーズベルト大統領が急死するまでそのウォール街はホワイトハウスで主導権をニューディール派に奪われていた。ルーズベルトの死で日米主従関係は本来の姿に戻ったと言える。ウォール街が天皇制を存続させようとしたのは当然だ。その体制によって彼らは日本を支配していたからだ。それを攪乱させたのが血盟団や二・二六事件の将校たちだった。

西洋諸国は世界恐慌を受けて保護主義的に動いた。結果として日本の輸出は半減することとなり、日本経済は壊滅的な打撃を受けた。日本はこのタイミング(1930年)で金本位制への復帰を試みるが、貿易赤字を垂れ流している状態で通貨と金を結びつけたため海外に金が大量に流出、翌年には金本位制を再び停止する運びとなった。

こういう状況で国家は金の流出か為替レートの暴落か、どちらかを選ばなければならないということである。

景気後退による極右と極左の台頭


こうした経済状況の深刻化と貧富の差の拡大は政治的には右派と左派の対立に繋がった。

世界各国が政治的に不安定となったが、日本も例外ではなかった。1932年には海軍の青年将校らによって当時の犬養首相が暗殺される五・一五事件が発生し、その後の首相に海軍大将(海軍の中では穏健派だったと言われる)斉藤氏が就任することになった。軍が首相を殺して身内を新首相に据えるという現在では考えられない事態が起こった。


軍事侵攻によって必要な資源を確保するという道は、日本にとっては最良の選択肢だったということは言えるかもしれない。普通の貿易と経済活動では日本は必要なものを調達することが出来なかっただろうからである。

軍国主義化した日本

どちらにしてもこの事件を契機に正式に軍国化した日本は、海軍関係者を首相に据え、ここから外側に向かって猛烈に駆け上がることとなる。

日本は1931年に満州を侵略し、その後中国とアジアで勢力を拡大して原油や石炭、ゴムなどの天然資源や強制労働などの人的資源を確保しようとした。

一方で、アメリカはまだヨーロッパとアジアの戦争に対する姿勢を決めかねていた。1940年にはルーズベルト氏が戦争とは関わらないことを公約に3期目の当選を決めたが、中国の蒋介石政権に戦闘機を提供するなど、米国は海外の情勢に一切関わっていないわけではなかった。

実際にルーズベルト大統領はその後も戦争との関わりを拡大してゆく。1940年には日本への鉄の禁輸を決め、日本が必要な物資を入手できなくなることで既に進出したエリアからの撤退を強いられるように手配した。

1941年にはレンドリース法の制定によりイギリス、ソ連、中国に対する大規模な軍需物資の提供を決め、ダリオ氏は「このレンドリース法は、実際の宣戦布告ではないとしても、米国の中立性を終わらせた」と書いているが、それはもっと早くに失われていただろう。

日本の領土拡大は米国の太平洋における目論見に対する脅威となり、日本との対立は激化していった。1941年にはルーズベルト大統領は米国にあるすべての日本の資産の凍結を行い、日本の船舶がパナマ運河を通行できないようにし、日本に対するエネルギー資源の輸出を禁止した。

結果として日本は貿易の4分の3と原油の80%を失うこととなった。日本は2年で原油備蓄が底をつくことを計算していた。このことにより、日本は自壊するか米国を攻撃するかのどちらかを選ばなければならなくなった。

そして1941年の真珠湾攻撃に繋がってゆくのである。
 日本では戦後も天皇制が存続、内務官僚、思想検察、特別高等警察といった治安体制の中枢は戦後も要職に就いた。「国体」は護持されたのだ。護持したのはウォール街である。
__

関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。

参謀本部はアカだらけ - 電脳 大本営
http://daihonnei.wpblog.jp/chiefs-of-staff-is-riddled-with-communists

近衛上奏文
このままでは日本陸軍における容共分子などによる革命が起きるかもしれない。

東条内閣打倒を図った近衛文麿は、1945(昭和20)年2月天皇に奉呈し、敗戦必至との認識のもとに、恐ろしいのは敗戦よりもそれに伴う共産革命であり、政府は国体護持(天皇制擁護)を絶対の課題とすべきであると主張した。それが近衛上奏文である。関東軍第三方面軍情報参謀・少佐・志位正二はKGBのスパイ。日本共産党委員長の志位和夫は甥である。また瀬島龍三中佐、朝枝繫晴中佐、種村佐孝大佐、松村知勝少将、池田純友少佐、橋本欣五郎(参謀本部ロシア班長・中佐)あげたらきりがないが「赤い軍人」「クレムリンの犬」がうごめいていたのです。
帝国陸軍の社会主義化・共産主義化はひどく、敗戦で軍が解体されるやこれら陸軍のエリート将校が大挙して日本共産党に入党している。
戦争中、軍部に協力し反米を鼓吹した人間が戦後たちまち革命を唱え、あるいは日本の国家観念の破壊をくわだててきた。
日本赤軍派の重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。

ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】
@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。
A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。

昭和天皇がマッカーサーに依頼して憲法第九条を作らせたのは、陸軍軍人が反米共産主義者ばかりで何時革命を起こすかわからなかったからなのです。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/860.html#c7

[番外地10] 日本では明治以降ずっと 右翼・国粋主義=共産主義 だった。 中川隆
1. 中川隆[-15134] koaQ7Jey 2021年11月25日 02:57:29 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[12]
戦前の保守・右翼・陸軍軍人が戦後の左翼になった _ 右翼・保守は必ず共産主義者になる
日本では明治以降ずっと 右翼・国粋主義=共産主義 だった。
日本では明治時代から一貫して、天皇・保守政治家・官僚はグローバリスト、愛国者・国粋主義者・反米勢力は共産主義者。戦前の陸軍や226事件の青年は殆どが共産主義のシンパで反資本主義だったから、共産革命を起こさない様に憲法第九条を作って軍隊を持てない様にしたんだよ。
現在でも保守・反動・愛国政党は日本共産党一つだけで、皇族や官僚・自民党は新自由主義・グローバリストですが、それは戦前からの伝統です:
1923年9月に起こった関東大震災の復興資金をJPモルガンに頼って以来、日本はアメリカの巨大金融資本の強い影響下に入った。 ウォール街の住人たちは反ルーズベルト政権のクーデター計画でも金本位制への復帰を強く求めていたが、日本政府に対しても同じことを要求、受け入れられた。JPモルガンに言われるまま、浜口雄幸政権は緊縮財政も推進する。その時に大蔵大臣を務めていたのが井上準之助だ。
 この結果、不況はますます深刻化し、東北地方では娘の身売りが増えて大きな社会問題になっている。こうした経済政策を推進した浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には井上が本郷追分の駒本小学校で射殺されている。
 1932年に駐日大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。グルーの従兄弟がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかも、グルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。
 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。敗戦後に「転向」したわけではない。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあった。ところが1933年から45年4月にルーズベルト大統領が急死するまでそのウォール街はホワイトハウスで主導権をニューディール派に奪われていた。ルーズベルトの死で日米主従関係は本来の姿に戻ったと言える。ウォール街が天皇制を存続させようとしたのは当然だ。その体制によって彼らは日本を支配していたからだ。それを攪乱させたのが血盟団や二・二六事件の将校たちだった。

西洋諸国は世界恐慌を受けて保護主義的に動いた。結果として日本の輸出は半減することとなり、日本経済は壊滅的な打撃を受けた。日本はこのタイミング(1930年)で金本位制への復帰を試みるが、貿易赤字を垂れ流している状態で通貨と金を結びつけたため海外に金が大量に流出、翌年には金本位制を再び停止する運びとなった。

こういう状況で国家は金の流出か為替レートの暴落か、どちらかを選ばなければならないということである。

景気後退による極右と極左の台頭


こうした経済状況の深刻化と貧富の差の拡大は政治的には右派と左派の対立に繋がった。

世界各国が政治的に不安定となったが、日本も例外ではなかった。1932年には海軍の青年将校らによって当時の犬養首相が暗殺される五・一五事件が発生し、その後の首相に海軍大将(海軍の中では穏健派だったと言われる)斉藤氏が就任することになった。軍が首相を殺して身内を新首相に据えるという現在では考えられない事態が起こった。


軍事侵攻によって必要な資源を確保するという道は、日本にとっては最良の選択肢だったということは言えるかもしれない。普通の貿易と経済活動では日本は必要なものを調達することが出来なかっただろうからである。

軍国主義化した日本

どちらにしてもこの事件を契機に正式に軍国化した日本は、海軍関係者を首相に据え、ここから外側に向かって猛烈に駆け上がることとなる。

日本は1931年に満州を侵略し、その後中国とアジアで勢力を拡大して原油や石炭、ゴムなどの天然資源や強制労働などの人的資源を確保しようとした。

一方で、アメリカはまだヨーロッパとアジアの戦争に対する姿勢を決めかねていた。1940年にはルーズベルト氏が戦争とは関わらないことを公約に3期目の当選を決めたが、中国の蒋介石政権に戦闘機を提供するなど、米国は海外の情勢に一切関わっていないわけではなかった。

実際にルーズベルト大統領はその後も戦争との関わりを拡大してゆく。1940年には日本への鉄の禁輸を決め、日本が必要な物資を入手できなくなることで既に進出したエリアからの撤退を強いられるように手配した。

1941年にはレンドリース法の制定によりイギリス、ソ連、中国に対する大規模な軍需物資の提供を決め、ダリオ氏は「このレンドリース法は、実際の宣戦布告ではないとしても、米国の中立性を終わらせた」と書いているが、それはもっと早くに失われていただろう。

日本の領土拡大は米国の太平洋における目論見に対する脅威となり、日本との対立は激化していった。1941年にはルーズベルト大統領は米国にあるすべての日本の資産の凍結を行い、日本の船舶がパナマ運河を通行できないようにし、日本に対するエネルギー資源の輸出を禁止した。

結果として日本は貿易の4分の3と原油の80%を失うこととなった。日本は2年で原油備蓄が底をつくことを計算していた。このことにより、日本は自壊するか米国を攻撃するかのどちらかを選ばなければならなくなった。

そして1941年の真珠湾攻撃に繋がってゆくのである。
 日本では戦後も天皇制が存続、内務官僚、思想検察、特別高等警察といった治安体制の中枢は戦後も要職に就いた。「国体」は護持されたのだ。護持したのはウォール街である。
__

関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。

参謀本部はアカだらけ - 電脳 大本営
http://daihonnei.wpblog.jp/chiefs-of-staff-is-riddled-with-communists

近衛上奏文
このままでは日本陸軍における容共分子などによる革命が起きるかもしれない。

東条内閣打倒を図った近衛文麿は、1945(昭和20)年2月天皇に奉呈し、敗戦必至との認識のもとに、恐ろしいのは敗戦よりもそれに伴う共産革命であり、政府は国体護持(天皇制擁護)を絶対の課題とすべきであると主張した。それが近衛上奏文である。関東軍第三方面軍情報参謀・少佐・志位正二はKGBのスパイ。日本共産党委員長の志位和夫は甥である。また瀬島龍三中佐、朝枝繫晴中佐、種村佐孝大佐、松村知勝少将、池田純友少佐、橋本欣五郎(参謀本部ロシア班長・中佐)あげたらきりがないが「赤い軍人」「クレムリンの犬」がうごめいていたのです。
帝国陸軍の社会主義化・共産主義化はひどく、敗戦で軍が解体されるやこれら陸軍のエリート将校が大挙して日本共産党に入党している。
戦争中、軍部に協力し反米を鼓吹した人間が戦後たちまち革命を唱え、あるいは日本の国家観念の破壊をくわだててきた。
日本赤軍派の重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。

ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】
@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。
A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。

昭和天皇がマッカーサーに依頼して憲法第九条を作らせたのは、陸軍軍人が反米共産主義者ばかりで何時革命を起こすかわからなかったからなのです。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/151.html#c1

[リバイバル3] ハイエンド・スピーカーの世界 中川隆
172. 2021年11月25日 03:46:50 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[13]
2021年 11月 22日
11月ミニ例会 Taoさんのご感想
https://tannoy.exblog.jp/32499120/

コロナ禍が始まるまでは毎年1回開催されていた「German Physiks 友の会」は、昨年と今年は中止となった。 ワクチンの効果か、日本では新型コロナの感染者数が最近大きく減少した。東京都でも1日の新規感染者数が20名ほどまでに減ってきた。

そこで大人数を集める「友の会」ではなく、参加者をぐっと減らし「German Physiks ミニ例会」が10月、11月、12月の3回に分けて行われることになった。

第1回の「ミニ例会」はすでに先月執り行われた。そして今日第2回の「ミニ例会」が行われた。その「ミニ例会」に参加させてもらった。参加者は全員で6名であった。

場所は、広さが50畳ほどはあろうかと推測される広く豪華なHさんのリスニングルームである。その広さ、構造、内装、どれをとっても非日常というべきか、現実的な枠を一切取り払った豪華さに溢れている。

リスニングルームの製作は2年ほど前とのこと、GRFさんの部屋を参考にして、PSDの大山さんが施工管理をしたもので、その徹底したこだわりに真のマニア魂を感じた。

11月ミニ例会 Taoさんのご感想_f0108399_10231560.jpg


そして、この広く豪華なリスニングルームの空間を埋めるようにジャーマンフィジックスのDDDユニットやPSDのサブウーファーが、複雑に陣形を組んでいた。

特に目を引くのが、前方のスピーカーシステムである。PSDのサブウーファーの上にDDDユニットが三つ連なっているのである。トルバドール80とトロバドール40が合体したそれは「120」と命名されていた。

この「120」・・・単に80+40ではないことは、後ほど聴いた音で証明された。後方にはさらに巨大なPSDのサブウーファーの上に「80」がそれぞれ乗っている。

つまりDDDユニットの数は全部で10個ということになる。「120+120+80+80=400・・・『システム400』ということになるのであろうか・・・」頭の中に数字が飛び交った。

「システム400」を駆動するのは是枝重治氏が設計製造した数多くの真空管アンプである。デジタルの送り出しはメトロノームのセパレート。そしてアナログはReedというリトアニアのメーカーの高精度なレコードプレーヤー。ダブルアーム使用でアームもReed製。

リトアニアという国のことも、Reedというメーカのことも、残念ながら私は全く知らなかった。しかし、その製品が持つただならぬ存在感は視線を惹きつけるのに十二分であった。

11月ミニ例会 Taoさんのご感想_f0108399_10231949.jpg


部屋の豪華さと、その部屋に居並ぶオーディオ機器の精悍なオーラに圧倒されながら椅子に座った。第2回「German Physiks ミニ例会」は、ショスタコーヴィチの交響曲第15番で始まった。

音に集中しようと目を閉じた。少し経過したところでGRFさんがおもむろに立ち上がって一旦CDの演奏を止めて、リタ・シュトライヒのソプラノによるモーツァルトの「すみれ」に曲を変えた。

そして「システム400」のただなかに入っていき、その音に耳を傾けながらDDDユニットの位置を微調整した。とんとんと手で軽く叩いた。動いたのは1,2ミリ程度であろうか・・・

音の焦点が定まった。すっと何かが静かになった。音を遮るものが消え去ったかのように音にストレスが全くかからなくなった。

再度、ショスタコーヴィチの交響曲第15番がかかった。先ほどとは別の世界が広がった。「システム400」の後方はイタリア製の美しい石材が壁一面に複雑に組み合わされている。その石材に複雑に反響した音のいでたちは、有機的で自然である。時に繊細で時に雄大・・・こんこんと湧き出る泉のように絶え間なく動き変化する。

交響曲第15番はショスタコーヴィチが最後に書き上げた交響曲である。ロッシーニの「ウィリアム・テル」や自身の過去の交響曲からの引用が多用されるこの交響曲は、ショスタコービッチの人生の結晶そのものであるかのように、時に輝き、時に陰鬱にねじれ、そして軽妙にステップを踏む。

ピントがぴったりと合って、時の自然な流れと完全に融合したかのような音楽は6名のそれぞれ2つの耳を魅了した。全楽章を通して交響曲第15番を聴いた。40分を越える時間、この交響曲が描き出す風景を全員が堪能した。

その後も数枚のCDがメトロノームのトップローディング式のトランスポートにセットされた。「システム400」は音の裏側に潜む情念のようなものもすっと提示する。その質と量は豊富で潤沢である。

私はフロントがまだ「80」であった頃の音を聴いてはいないが、「120になって格段にCDの音が良くなった・・・」とその経過を知っている方々は話されていた。「120」は単なる足し算の「解」ではなかったようである。

「German Physiks ミニ例会」の前半は終了した。後半はアナログである。Hさんのリスニングルームのアナログは、リトアニアのReedである。それにスポットライトを当てるのは自身が発光する光カートリッジである。 

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リトアニアという国も「Reed」というメーカーについても、私は全く知識がなかった。しかし、そのメーカーが作る精緻を極めたレコードプレーヤーとトーンアームは、その存在感が半端なかった。

Hさんのリスニングルームに鎮座するレコードプレーヤーは「Muse 3C」。ベルトドライブとフリクションドライブを簡単に変えることができる画期的な構造を持ち、ダブルアーム仕様である。

2本のアームはどちらも「5T」。「ターレスの原理」に基づいた構造を持ち、アームの位置と動きをレーザー光とその専用の受光部によって制御、駆動するという革新的な特徴を持つ高精度アームである。

片方の「5T」にはDSオーディオのグランドマスターが、もう片方のアームにはEMTのXSD15LZが装着されていた。

ReedのレコードプレーヤはPSDの大山さんが製作したH鋼と美しい表面仕上げの木材とががっしりと組み合わされた専用のラックにセットされていた。このラックの2段目と3段目には、EMM LabsとMola Molaのフォノイコライザーアンプが設置されている。

「もうなんだか眺めているだけでいい・・・」と思ってしまう。

11月ミニ例会 Taoさんのご感想_f0108399_20500059.jpg


「German Physiks ミニ例会」の後半はアナログタイムとなった。まずかかったのが、デュプレのチェロによるドボルザークのチェロ協奏曲であった。

グランドマスターで聴き、さらにXSD15LZでも聴いた。どちらも4WDでなおかつサスペンションの設定を「SPORTS」モードに設定したAudiのように、ガシッと路面を捉える力を持ち、エンジンのパワーも余裕綽綽という印象であった。

透明感ではグランドマスター、情感に訴える力ではXSD15LZが勝っているという感じで、二つのカートリッジがある意味合いが深く感じられた。

その後も魅力的なレコード演奏が続いた。その中に同じくデュプレのチェロによるベートーベンのチェロソナタのレコードがあった。ピアノ伴奏はバレンボイムである。

叙情性が豊かで流麗な美しさ溢れる音楽が壮麗と言えるほどに響いた。その俊敏さ、力強さ、そして繊細さは目を見張らせるものがあった。

アナログタイムの白眉は間違いなくこの1枚であった。その後デュプレを襲う病魔の予言とも思えてしまう悲劇的なピアノとチェロの響きは、真に胸を打つ。

私は思わず頭の中で「来年BMWの5シリーズを買い替えるつもりだったけど、それをあきらめたらReedのレコードプレーヤーとアームが買えるな・・・」そんな妄想で頭のなかを一杯にしながら、「German Physiks ミニ例会」の終わりを迎えた。

Acoustic Tao

https://tannoy.exblog.jp/32499120/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/697.html#c172

[近代史4] ナチス時代のフルトヴェングラーは一体何を考えていたのか? 中川隆
17. 中川隆[-15133] koaQ7Jey 2021年11月25日 04:46:17 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[14]
■■■フルトヴェングラー34■■■
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1636491451/


6名無しの笛の踊り2021/11/10(水) 20:24:42.02ID:RBXXznWn>>10
前スレ
>>1000
>次は「マタイ受難曲」3枚組を聞かなければならないのか

これは、なにげにビックリの情報
95年に発売されたEMIの正規盤はCD2枚だった
そのため、収録時間の関係で2曲(第65曲、第66曲)がカットされた、
しかしながら、一方でCETRA系の音源にはこの2曲は収録され、
かわりに、第64曲がカットされていたのはご存じの通り

今回、EMIは3枚セットにすることで、
このカット(第64〜66曲)を完全収録、やっと
正規盤で全曲が聴けることになったわけだ

こんなことで、いちいち喜ぶマニアは少ないと思うが、
私には小さな驚きだった 情報ありがとう

10名無しの笛の踊り2021/11/11(木) 08:52:51.28ID:xCzof26U>>18
>>6 
解説書によると、4日分のライブ録音のテープがEMIに保管されていて、今回新たに編集したらしい。4回分のテープがあったのに初出の際に何故その2曲をカットしたのかは謎だな。


18名無しの笛の踊り2021/11/12(金) 07:32:55.46ID:lNvTka0b
>>10
CD2枚に収めるため

24名無しの笛の踊り2021/11/12(金) 19:47:28.22ID:a4x564AA>>25>>26
55枚組のうち、CD41〜43、バッハ「マタイ受難曲」を聞きました。

音質はあまり良くありません。
開始早々、テープの状態があまり良くないことに気づきます。
バランスも、合唱とオケとオルガンがマイクに入ってこない一方、ソロとチェンバロはうるさすぎ、ことにソロは時々音が割れます。
演奏も、通り一遍、通しでやってみました、という程度で、これなら何もフルトヴェングラーが振る必要はありません。
編成についても問題があります。
リヒター盤ではあれだけ盛大に聞こえたオルガンが、本盤ではほとんど申し訳程度しか聞こえません。
なぜなのか、色々調べてみたら、この曲は本来オルガンが2台必要なようです。
ブックレットを見ると、本盤はウィーン・コンツェルトハウスの大ホールで収録されたライブです。
おそらくホールにオルガンが1台しか無かったのでしょう、2台目のオルガンをチェンバロに替えて演奏した結果が本演奏と思われます。

次は「トリスタンとイゾルデ」の4枚組です。これを聞かなきゃならないのか。かなりの難行苦行なので、また少し時間を頂くかもしれません。

26名無しの笛の踊り2021/11/12(金) 20:00:40.95ID:lNvTka0b>>39>>40
>>24
ほんと、対訳みながら聴いた?

流しただけダロ

この人のやり口には、常に中身のなさがある。
自分の主張をするために、聴いたふりをする。

違っていたら、ゴメン。そういう風にとられるかも知れないから、気をつけて。


39242021/11/14(日) 19:16:30.44ID:mCSHZoqj
>>26
私は、対訳を見ながら聞く聞き方と、対訳を見ずに聞く聞き方を、併用しています。

対訳を見ながら聞くと、歌詞の内容は頭に入ってきますが、音楽の緩急や強弱の表現法が耳に入って来ないのが欠点です。
対訳を見ずに聞くと、音楽性は聞こえてきますが、何を言っているか分からないのが欠点です。

ベートーヴェンの9番のように歌詞を暗記するほど聞き、何を言っているのか分からない所が無い曲は、対訳を見ません。
同様に、何度か対訳を見ながら聞いて、「どこで何を言っているのかほぼ分かっている」曲も対訳を見ません。
また、一度対訳を見ながら聞いて、次に聞くときはもっぱら音楽の表現法を耳に入れたいときも、対訳は邪魔になるので見ません。

これに対し、初めてその曲を聞くときは、必ず対訳を見ます。さもないと何やら声がうねっているだけだからです。
2回目、3回目のように、どこで何を言っているのかまだ呑み込めていないときも、対訳を見ながら聞きます。
久しぶりで聞く曲で、そろそろ何を言っているか忘れかけているときも、対訳を見るようにしています。
(次レスに続く)

40242021/11/14(日) 19:17:49.78ID:mCSHZoqj>>46
>>39より続く)
>>26
前回の「マタイ受難曲」は、ご指摘の通り対訳を見ずに聞きました。
しかしそれは「流しただけ」ではなく、リヒター盤やガーディナー盤を何度も聞いて、どこで何を言っているのか、大体頭に入っているからです。
(話が横にそれますが、私はマタイ受難曲の歌詞があまり好きではありません。内容が反ユダヤ的だからです。)

今、邪道ではありますが、「トリスタンとイゾルデ」を短時間ブツ切りで、対訳(従来盤の付属リブレット)を見ながら聞き進めています。
対訳を見ながら聞いた後、対訳を見ずにもう一度聞くつもりなので、もうしばらく時間を頂きます。
こう何枚も聞くといい加減、耳も頭も疲れてはいますが、決して「聞いたふりを」している訳ではありません。

また、「中身が無い」とのご指摘ですが、そのようなご指摘をこうむる主因は、私の筆力の無さにある、と思っています。
もっと筆力のある方の感想レスを、私自身が首を長くして待っているところです。
「自分の主張をするために」とのご指摘ですが、私は過去、フルトヴェングラースレの書き込みには大変お世話になりました。
その恩返しのつもりで、「まかり出た未熟者が聞く所では、・・・・、という感想です。」と、あくまで感想の一つを恥を忍んで提示しているに過ぎません。
コテハンを付けないのも、単に一つの感想を述べているに過ぎない、という自覚があるからです。
誤解を受けないよう、お言葉に従って気を付けますが、何分にも口下手者の筆下手者ですので、言い過ぎたり言い足りない点は何分のご容赦を願います。

41名無しの笛の踊り2021/11/14(日) 21:06:09.87ID:39hyZ2M4

今回の55枚組は脚色なしでSP盤&テープを起こした
日本のマニア向けの企画だと思う。
あとで脚色したい人は、これを元にどうぞというスタンス。

47名無しの笛の踊り2021/11/15(月) 19:12:55.05ID:0i1GND6U

音質評価をするのにシステム構成を晒さないのは不平等。
モノラル録音は相性の問題が付き纏うので客観性が担保できず
ほとんどと言っていいほど参考にならない。

48名無しの笛の踊り2021/11/15(月) 19:23:57.42ID:+T6u8HVw
半分正解
でもこの手のレスする人はシステムを晒すと
その程度のでは〜最低限これくらいは〜ってマウント取りたいだけ
相手にしなくていいと思う

50名無しの笛の踊り2021/11/15(月) 20:57:50.27ID:0i1GND6U

一番良いのはクラングフィルム、ジーメンスの系列だが
30cm以上のワイドレンジユニットは希少で
普通の人が買える値段ではない。

よくタンノイを推す人が多いけど
相性が良いのは1950年以降のスタジオ録音で
55枚組のようなSP盤復刻は雑味が目立つ。
B&Wは高域がスレンダーでいい印象はない。

ドイツ系の現役ではmusikelectronic geithainだろうが
はたしてフルヴェンを聞くため買うかというと疑問が残る。
やや似た音調でDynaudioのプロ用もあるが中域がマットなので
古い録音はくすんで奥に引っ込む傾向がある。

意外にJBL 4312Gは中域の吹き上がりが良くて
値段も手頃でオールマイティかもしれない。

51名無しの笛の踊り2021/11/15(月) 21:30:36.51ID:0i1GND6U

あとフルヴェン時代のHMV電蓄は楕円フルレンジ+コーンツイーターで
デッカのデコラ電蓄やEMIのブックシェルフ型スピーカーにも使われている。
1960年前後はイギリスは超インフレでSP盤もまだ聞かれていたため
QUADのトランジスタアンプでもSP盤用のフィルターが装備されてた。

似たようなテイストでは独イゾフォンがあって
Orchesterはドイツ放送協会の標準モニターだった。
ただ中域が大人しい感じの何の変哲もない音なので
EL34あたりでキリっと鳴らさないと良さが判りにくいと思う。

ヴィンテージ物でも適度にグレードを合わせると
録音年代を気にせず楽しめると思う。

52名無しの笛の踊り2021/11/15(月) 21:58:43.51ID:muJxDmqA>>56

BBCのLS3/5a を想像したのですけどね。
ブラッシュアップされた物がいいな、と思いつつNHKもスピーカー作ったなら外販してくれたらいいのに、と。
https://www.nhk.or.jp/strl/publica/giken_dayori/184/2.html

53名無しの笛の踊り2021/11/15(月) 23:49:02.50ID:O5jUk/Hb

連投オッサンは単なるオーディオヲタのようだな

54名無しの笛の踊り2021/11/16(火) 02:31:12.93ID:VKpf5V5C

単なるオーディオヲタで片付けられない深いこころざしを感じるよ。
文章技巧はお世辞にもほめられない劣悪ぶりだが、
生演奏、それを多くの人に届けようとした技術者の心、
放送や録音の技術に込められた理想と現実のせめぎあい、
それを再生するにあたって、
生演奏を聴けた幸せな聴衆に負けない感動をどうやって届けようとしているか、
また時間的に離れた現在、
提示されたデジタルデータの質を見定めて
当時と今をつなぐ手だてに想いを馳せる、
などなど、かなり熱気のこもった取り組みで良く調べていると感心しているよ。

56名無しの笛の踊り2021/11/16(火) 06:03:28.29ID:CxWJb1BM
>>52
1970年代のBBCモニター系は
パルス波をスレンダーに出すよう開発された最初のスピーカーで
ステレオでのサウンドステージが出現するようになった。

ただフルヴェンの録音は中高域のノイズが多くて雑味が増すのと
ネットワーク回路が重くて躍動感が抑え気味で進行する傾向がある。
この後に続くB&W、セレッション、AEなどの英国勢は
デジタル時代のサウンドステージを良く再現するが
似たような傾向がある。

57名無しの笛の踊り2021/11/16(火) 06:31:30.17ID:CxWJb1BM

あとFostex とNHKの共研がまだ続いていたことに驚いたけど
指向性がニュートラルで音圧が高いのが、まじめに造った証拠かと。
同じことはmusikelectronic geithainでも言えると思う。

この手のものはマイクの特性に近い音響特性になる一方
ITU-R BS.1116-3規格は部屋の音響を含めたもので
普通の部屋だと反射音や縮退など新たな課題が出る。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasj/72/7/72_398/_pdf


58名無しの笛の踊り2021/11/16(火) 07:04:38.02ID:CxWJb1BM

あと貧乏性でモノラル始めたい人は
ギターアンプ用12インチ+指向性の広いツイーターを
後面解放箱に入れて鳴らすのをお勧めする。

自分はJensen C12R+Fostex FT28Dを
チャンデバ+マルチ駆動(ステレオプリメインをそのまま使用)
ギターアンプ用は曲がりなりにもプロ用ユニットなので
フルヴェンも腰を振ろ振り生き生き鳴るよ〜ん。


62名無しの笛の踊り2021/11/16(火) 10:58:26.24ID:gKmPLGLh
ジャケット考えなければ、ワーナー55枚組より、グラモフォンの35枚組箱が良いかも

63名無しの笛の踊り2021/11/16(火) 13:40:12.66ID:oaQKovf3
そこで107CDですよ!

64名無しの笛の踊り2021/11/16(火) 15:07:29.25ID:d0ivJy5c

107CD は高音質なイメージが全くない。
持ってない録音を集める手間が省けたのはいいんだけど。

65名無しの笛の踊り2021/11/16(火) 21:01:53.25ID:CxWJb1BM

古い録音だからとCDプレーヤーをケチると
色々と苦労してたことが空回りしてたことにガッカリすることになる。

私も今年になってラックスマン D-03Xを購入したが
(自慢するほど高価なものでもないが)
音の安定性というか、中域の見通しの良さが抜群で
放送録音のトゥッティでも低弦などが団子にならず
躍動感が維持できてる点に大変重宝している。

例えば晩年のBPOとの運命&田園などは
低弦のリズムが少しルーズに流れるのだけれど
大河の本流のような大きなうねりに対し
水面の照り返しや風のざわめきが加わるような
絶妙な響きのブレンドが重層的に広がっていく。

あと憑りつかれたようなドライヴ感がないかわりに
団員の表現意欲が浮き彫りになって
リズムの遅さが気にならない。
ミケランジェロのダビデ像がどこまで拡大しても
何かしら絵になるような感覚と似ている。
これが晩年の衰えのように言われてきたのが
少し残念な感じだ。

67名無しの笛の踊り2021/11/17(水) 05:28:25.23ID:XvwKolfa

モノラル・システムは周波数特性の最適化というのも重要で
良質なヴィンテージ・アンプを聞いたときの
フォルティッシモでの吹き上がりも確保しつつ
「ほっこりした感じ」を出すのが案外難しい。

だったらヴィンテージ物をせしめれば良いと思いがちだが
意外に安定度が悪く、安物を掴むと毎日コロコロ印象が変わる。
スピーカーとの相性も選り好みするので
昔から「黄金の組みあわせ」なんてものもある。

もうひとつの問題はCDプレーヤーとの相性の悪さで
CDPのバッファーアンプがチープなものが多いので
要らない高周波を拾って、ささくれたような音になりやすい。

私自身はサンスイトランス ST-17Aという現在も製造中の
ラジオ用段間トランスを使って音質を整えている。
ラジオ音声域の外は数dBラウンドするポンコツ仕様だが
20〜20,000kHzはちゃんと通しているし
磁気飽和で高次倍音を出すのでキャラメル色の艶がでる。


82名無しの笛の踊り2021/11/18(木) 19:03:36.20ID:URqfu33I

55枚組のうち、CD44〜47、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」を、ようやく聞き終えました。

音質は、従来盤がまろやかでよく練れていたりマスターだったのに対し、本盤はざらざらして荒っぽい音のリマスターです。
演奏は、これは戦後のフルトヴェングラーのレコード録音にありがちなことなのですが、丁寧な音楽作りを目指すあまり劇的な迫力が死んでいる感じです。
本曲では第一幕全部と第二幕冒頭が欠落したこの指揮者のライブ録音が残っていますが、聞き比べると一目瞭然です。
第三幕前奏曲のイングリッシュホルンは本盤が絶品ですが、これはウィーンフィルの手柄でしょう。

さて、今度は「フィデリオ」2枚組です。これはトリスタンほど時間を取られないで済みそうです。

83名無しの笛の踊り2021/11/18(木) 19:51:14.97ID:zg7N7Y2R
> ウィーンフィルの手柄でしょう

84名無しの笛の踊り2021/11/18(木) 19:57:29.62ID:8twrX6ku
もはや投了マジか
折角の55枚も形無し
似非オーヲタは去って良し

86名無しの笛の踊り2021/11/18(木) 20:45:46.53ID:8twrX6ku
デニスか…ウラッハか…ゴールドベルクか…みんな名手だった。

87名無しの笛の踊り2021/11/18(木) 20:51:53.02ID:bEQ00mZH>>91

ウィーンフィルとの勘違いはともかく
>イングリッシュホルンは本盤が絶品ですが
と聴き惚れたくらいだから、デニス・ブレインなのかな
そちらの方が気になる
久々に新箱を掘り出して聴いてみようかな

88名無しの笛の踊り2021/11/18(木) 22:13:50.61ID:6xvaevPM

ウイーンフィルとフィルハーモニーは全くの別物。

ベートーベンの第九でも、全く違った演奏になる。フルトヴェングラーでもオケ体質は変えられない。定期?の九番と、ルツェルンの九番。

スタジオトリスタンは、フィルハーモニーのくせが如実に出た演奏。
ライブのトリスタンの演奏は、旧ベルリンドイツ語オペラのオケのノリの演奏。

カラヤンの薔薇でも、ウイーンとフィルハーモニーは全く違う。ウイーンのは、濃厚アイス、フィルハーモニーのは、シヤーベットがかっている。

89名無しの笛の踊り2021/11/18(木) 23:18:41.33ID:KeRbQTZT
フルトヴェングラーとウィーンフィルでいい演奏ってウラニアのエロイカとモルダウくらいで、次がチャイコの4番な気がしている。

90名無しの笛の踊り2021/11/18(木) 23:49:16.36ID:BlYDwphk
フィルハーモニア管弦楽団の演奏をウィーンフィルとかフィルハーモニーとか低能バカ過ぎだろw

91名無しの笛の踊り2021/11/19(金) 00:02:10.93ID:WWrPkwOB
>>87
イングリッシュホルンはオーボエの仲間の木管楽器なのだが、、、、。
デニス・ブレインは金管楽器のホルン奏者だからイングリッシュホルンを演奏するわけねぇ〜だろ。

93名無しの笛の踊り2021/11/19(金) 06:02:55.29ID:fljhbMS6

フィルハーモニア管は結構リーマン的にちゃんと仕事をしてくれる。
ライヴ録音を聞けば判るが、自主管理団体になったあと
クレンペラーやストコフスキーなど変態扱いされるマエストロ相手に
全くレコーディングと同じような精緻な演奏をしている。
ウィーンフィルはその点、すごく気まぐれなんだよね。

94名無しの笛の踊り2021/11/19(金) 08:00:20.45ID:t/96PsE6

フィルハーモニア管ってそんなにいいか?
カラヤンカンテッリトスカニーニみたいなキビキビしたのとは相性がよかったけど
クレンペラーもストコフスキーもコンセルトヘボウやチェコフィルなんかの本場の伝統あるオケを振った時の深刻さがなく軽薄に聴こえる
ルツェルンの第九もそう
トリスタンだけは変に暗くないおかげで作品世界と調和した名盤なったと思うが

107822021/11/19(金) 18:53:30.20ID:bvVtbXf9>>109>>113
>>83,他

ご指摘の通り「ウィーンフィル」ではなく「フィルハーモニア管」が正しいです。
40枚以上も毎日ぶっ続けで聞いているので、耳も頭もクタクタ、うっかりしました。

まあ、オケが違うとか、歌手が違うとか、指揮者が違うとか、細かいことは勘弁して下さい(゚∀。)

目下、「フィデリオ」を鋭意聞いております。こちらは正真正銘、ウィーンフィルです。もう少し時間を頂きます。

115名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 06:19:24.87ID:dJoBuEne
リマスターによる音質の優越に関する話題は
没後50年以降20年近く経ってほぼ出きってるんだよ。
正直、LP板起こしの話が終わっただけでも感謝してる。


116名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 06:46:48.53ID:dJoBuEne

少し気になるのがキングレコードの存在で
米M&Aは斬り捨てたとして
チェトラとターラの音源が並走してたり
アルタスと平林がスタジオで巣食っていたり
アーカイヴを一貫して管理する気配が微塵もない。

最もORFやベルリンフィルがアーカイヴの保存に走ったのも
やはり没後50年以降のことなので
キングレコードのものはそれ以前の音源蒐集となる。

切り口として考えられるのは
フルヴェンの複製テープのコネクションのようなもので
放送局間のルートから個人蔵のものまで
レコード出版史とは異なる形でちゃんと解明してほしい。

117名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 07:10:21.16ID:dJoBuEne

複製テープというのはすごく厄介なもので
例えば今回のBISのバイロイトのように
表向きは何も判らないで死蔵しているケースもある。
さらに保存のコンディションとまでいくと
磁気劣化に加え伸びや縮れなどきりがない。

だから初盤LPが最高なのだという言い分もあったのだが
フルヴェンの場合、オリジナルテープに自由に触れられたのは
1970年以前のことのような感じがする。
その時点でのフルヴェンのレコードは今の1割程か。

おそらく1968年のEMI系ユニコーン・レーベルの発足が
有象無象の録音を公開したと同時に訴訟問題をチラつかせたため
放送局側の沈黙とアングラ化を引き起こしたように推測するが
レコード出版以前にオルセン目録のようなものも存在していた。
実はその演奏がフルヴェンか偽物かさえ不透明だったのだ。


118名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 07:35:37.96ID:dJoBuEne

もうひとつの課題が、ステレオ全盛期だった1970年代に
なぜここまでフルヴェンの演奏が人々を熱狂させたかだ。
個人的には古ぼけた電蓄やラジオからでも判りやすい
音の起伏が激しい演奏という感想にいたっている。
それがどのようなオーディオ装置でも確認できる真実だと。

逆に言えば、宇野氏の嫌った音楽家、ポリーニやカラヤンなどが
いかにオーディオ装置の品質を選ぶかという問題に突き当たる。
高級なステレオ装置を買わないと演奏の凄さが判らないとなれば
これほど面倒なレコードはないからだ。

120名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 09:37:00.48ID:dJoBuEne

ではフルヴェンがオーディオ機器を全く選ばないかというと
モノラル録音特有の問題、音場感や潤いの不足が生じる。
もうひとつ踏み込もうとしても届かない領域がある。
1枚1000円もしないCDにも、試聴環境による格差が生じるのだ。

それは金銭の格差ではなく、むしろセンスの問題である。
多くの理由は、重たい小口径ウーハーのレスポンスが悪い
パルス波に過度に敏感なツイーターにより雑味が増すなど
モノラル録音の時代と現在のオーディオ理論との齟齬からきている。
逆に言えば、大口径で反応の良いウーハー
パルス波と楽音にニュートラルに反応するツイーターは相性がいい。

122名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 10:07:58.32ID:WETZZrYl

スピーカー頑張ったところで、湿度や再生に使う部屋を作っているのに使う材料違うから、似てるけど同じ音は聴けない。
諦めるか、ベルリンに引っ越せ。

123名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 10:15:58.14ID:dJoBuEne

あとは良くフルレンジのほうが良いという意見も多く
例えばドイツ製の20cmクラスのものが昔から知られるが
もうワンクラス上のジーメンスのコアキシャルに行きつくように
良質なコーンツイーターが欠かせないが入手困難。
ほとんどの場合はその手前で留まって先に進まない。

和製ロクハンは低域が甘く高域が少し艶やかなバランスで
米コロンビアのワルターとかとても相性が良いのだが
フルヴェンではEMI止まりで、ライヴのガッツき感まで出ない。

フォステクスは中域から中高域の抜けが爽やかだが
むしろポピュラー音楽向けの軽さが持ち味で
個人的には昔のセラフィムやスプラフォンのような
中域こってりのバジェット系で魅力を発するように思う。

他にも色々あるが、レコードレーベルのサウンドポリシーと
フルレンジに詰め込んだサウンドデザインとが
意外に相性の問題を拭いきれずにいる。

124名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 10:22:54.75ID:dJoBuEne

>湿度や再生に使う部屋を作っているのに使う材料違う

これはヴィンテージの軽いコーンのものですごく顕著だった。
ともかく乾燥してないと、どんより腐った魚のようになる。
自分はJensenレプリカの新品を最初から飼い慣らして
ようやく色んな録音とニュートラルに接することができた。


125名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 10:31:19.77ID:dJoBuEne

あとヨーロッパは夏は乾燥、冬は湿気が多くて
オルガン関係では木材のひび割れ、ニガワの剥がれがトラブルの元になる。
同じことはスピーカーの紙類にも言えるかも。

127名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 14:19:31.89ID:dJoBuEne>>128

普通に古い録音をとっかえひっかえ聴く人は
オーディオに関しても一定の知識は持つべき。
録音方式の前提を無視してリマスターの音質評価するのは無駄。
むしろ私の提案はむしろ音楽愛好家のためのチョイスだ。

130名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 14:32:30.80ID:dJoBuEne

もっと不思議なのが、フルヴェンの録音がステレオだったら良かったとか
無意味な原音再生に憑りつかれていたり
リバーブを掛けたおかげで聴きやすくなったのを知らなかったり
ともかくオリジナルテープと向き合うことを避けた話が多い。
それは逆説的にフルヴェンのための試聴環境をもたないことと等しい。

131名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 14:59:49.33ID:dJoBuEne>>139

少なくとも1951年までが巨匠のピークだと思ってる人は
1950年前後のテクノロジーに興味をもつべきだし
その後に描いた未来像、特に今の時代において失われた理想を
聴き取れる環境の整備を怠らないことだ。

自分のステレオ装置と合わない録音だからとこき下ろすなんてあり得ない。
低音が少ない、高音が少ない、それも調整できない機材はゴミに等しい。
そういう安直な思いで巨匠の芸術に触れようなど無意味な人生だ。

138名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 15:51:06.38ID:dJoBuEne

イギリスで励磁型スピーカーが早い時期に無くなったのは
霧のロンドンの名のとおり、湿気で断線がしやすいからかも。
あとポリプロピレンなど樹脂製ウーハーの採用も比較的早かったが
独特のツヤを嫌う人など色々。コーホー先生は肯定派だった。

147名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 17:33:41.86ID:dJoBuEne

それと苦言を言いたいのは
フルヴェンの録音は生の音と同じようには絶対にならない。
一方では、それこそ再生方法のアプローチが悪いのを棚にあげて
録音評と並行した演奏評をしている異常な状況だ。
口コミの本音というより悪質ないたずらじゃないかと思う。


148名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 17:38:16.31ID:X3MfdZpZ
所詮レコード芸術なんだよね
そこがわからないとどうしようもないよ


150名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 17:59:22.48ID:dJoBuEne

フルヴェンのライヴ録音が生の音と同じようには絶対にならない理由は
録音年代の古さにあるのではなく
天吊り1本マイクで補助マイクなどの編集なしで収録していることだ。
コンデンサーマイクやテープレコーダーの性能は現在と遜色ない。

これを現在のテクノロジーのほうが進んでいるという前提で
録音の良し悪しを判断するのは危険だ。
でも結果は判るとおり、天吊り1本マイクのダイレクト録音は
フルヴェンの躍動感を刻銘に捉えている。

EMIとの相性がいい人は3本マイクなのでご安心を。
少し位相差を含んでいわゆる音場感をもたせる方法だ。

152名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 18:49:39.86ID:dJoBuEne

ちなみにEMIの3本マイクはWEから電気録音をオーソライズされた頃からで
1931年のアビーロード除幕式でエルガーと共に写真に残されている。
実はこの収録方式は、WEが1933年にフィラデルフィア〜ワシントンの有線伝送実験で
フィラデルフィア管の演奏をワシントンのホールでステレオ実況したものだった。
そもそもEMIはブルムライン博士とも共同してステレオ録音を意識していたと言え
ウィーンではワルター、フルトヴェングラー共にムジークフェラインはこのWE方式だ。

ORF管轄下のザルツブルク音楽祭は1本マイクで収録されている写真があるが
同じ頃のベームの写真ではEMIと同じ方式に変わった可能性がある。
1本マイクは独RRG放送の取った方法で、フルヴェンはこの録音方法を好んだ。

154名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 19:18:41.99ID:dJoBuEne

1940年代において独RRG放送が先行していたのは
AEG社のマグネトフォンの開発で、高周波バイアスで一気にSP盤を越えた。

1940年12月にフルヴェンはパイロット録音をしているが
これまでにない高音質で演奏後にすぐプレイバックできるテープレコーダーに
かなり興奮して何度も聞き返していたという。
そのときはベイヤーダイナミック製のヘッドホンでの試聴だったと思われる。

その後の1941年のほとんどはスキー事故で療養中だったが
ひとつはラジオでウィーンでのライヴ録音を試聴する機会があったことは
クルト・リースの本で感動的に書かれている。
残念ながらそのときのラジオの機種までは判らないが
すでにテレフンケンからスーパーヘテロダインの2wayスピーカーをもつ
Hi-Fiラジオは製造販売されていたので、それなりの機器で聴けたと思う。

もうひとつは政府関係者向けのUFA映画館でのテープコンサートで
クラングフィルムの音響機器で生演奏と比較しつつデモが行われた。
おそらくEuropa Klartonの初期型だと思うが、これは現在でも第一級のものだ。

この3つの音響機器での試聴を通じて巨匠は録音の将来性に気付いたと思うが
現実にはベルリン空襲は頻繁になっており、演奏会が標的になるのを避けるため
無観客でのテープ収録を後日にラジオで流すという方法がとられた。
巨匠はこの頃の収録方法にコダワリをもって、戦後の放送録音にも挑んだのが
様々な写真からうかがうことができる。

155名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 19:32:24.85ID:dJoBuEne
>>153
繰り返し言うが、湿気で響きが変わる部屋は
昭和末期に住んだ学生用のオンボロ木造アパート以来知らない。
材質がどうのという以上に築50年近く経ってないと
現在ではなかなかお目にかかれないものだ。

156名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 19:56:09.56ID:dJoBuEne

オンボロ木造アパートの厄介なのは土壁などではなく
合板で断熱用の綿材を挟んだやつで、日の当たりが悪い面は
年数が経つと中でドロドロに水を吸って壁にもたれかかっている。
これとスキマ風の出るガラス窓、紙製のふすまを加えると
湿気とかいう以前に音響はそもそも悪い。
それと畳を支える根太も細いものだと湿気で剛性が柔くなって
低音から高音まで土台から変わってしまう。
ベルリンとかそういう問題ではなく、エコな昭和の置き土産だ。


157名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 20:08:07.82ID:dJoBuEne

一方では、そうした部屋で真剣にレコードに耳を傾け
フルヴェンの至芸に心揺さぶられていた時代もあったわけで
それは「録音が悪い」という共通の敵があって平等が成り立っていた。

しかし今はどうだろう。放送局の目の覚めるような蔵出し音源で
当時のテクノロジーの歴史認識まで変わりつつあり
巨匠のコンサート・パフォーマンスの真価が再度問われている。

一方の迎え撃つ側のオーディオ環境といえば
別な理由で当時より悪くなってはいないだろうか?
それも昭和の頃のような下手な言い訳はできないのだ。

158名無しの笛の踊り2021/11/20(土) 21:45:52.09ID:dJoBuEne

ドイツも日本も敗戦国なので戦後の貧しさは一緒だろうと思いがちだが
1950年代のドイツの放送音質は、日本の昭和40年代と同じレベルで
理由はFM放送のいち早い全国ネットの構築と
それに勝るオーケストラの数の多さ、残されたコンテンツの豊かさである。
実はフルヴェンのライヴ録音の背後には、同時代の宝の山が隠れており
まじめに取り組めば本当に色々でてくる。

かつてレコード市場で聴けたのは当時の音楽文化のほんの一部。
特にオペラなどはバロックから現代物まで幅広く
ウィーンでさえフルヴェンがモーツァルトを振ってた横で
アイネムやリーバーマンなどの新作が演じられた。
オルフのギリシア悲劇3作などは今でも十分に斬新なものだし
ヒンデミットが校訂したモンテヴェルディのオルフェオは
アーノンクールのその後の人生を決めた一大イベントになった。


は陰湿なオーヲタ気取り

161名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 06:01:37.88ID:iMs5yQNA

大きな誤解は、広帯域でフラットな特性のオーディオ機器だと
音質をニュートラルに判断できると思っている点。
(実際にはそれすらにもなっていないのがほとんどだが)
これは比較的大きな音量で聴くモニタースピーカーの品質だ。

一方で1950年代の家庭用の音響設計は
中高域を持ち上げたワイドレンジユニットをウーハーに据え
8kHz以上の1オクターヴだけツイーターで補助的に使う。
これがAMからFMに橋渡しするセオリーだった。
これはドイツ以外にもHMVの高級電蓄も同じ設計で
アメリカではJBL D130などにその名残がある。
http://www.hifi-archiv.info/Isophon/1961/08.jpg


http://cent20audio.html.xdomain.jp/1950/BBC/EMI-1944.jpg


http://www.lansingheritage.org/images/jbl/specs/pro-comp/2135/page2.jpg

なぜ中高域にアクセントを持っていたかというと
AM波の古い慣習で子音を際立たせることが第一の理由だが
実際は少しドンシャリにしたほうが、小音量でも聴き映えがするから。
いわゆるラウドネスを聴感で決めて設計していた。
ただし1970年代の100Hz以下、10kHz以上ではなく
100〜200Hzと3〜6kHzという感じで狭いレンジでの対処だった。

162名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 06:17:22.37ID:iMs5yQNA

日本ではNHK技研がフラットネスであるべきだと指導したので
ずっとフラットな特性が最良のものとされてきたが
実際には1960年代中頃からロクハンはラウドネスを効かせており
1970年代末の菅野・瀬川・岡の鼎談では
中低域が膨らんで子音が強調された個性的なサウンド
というような評価が出ていた。
http://www.audio-romanesque.com/p610.htm

これはラジオ放送での聴きやすさの基準が人間の声質にあるためだが
裏を返せば、人間の耳の特性に合わせたデフォルメであると言える。
最終的にはシュアーSM58のようなボーカルマイクで決着がついた。
https://pubs.shure.com/guide/BETA58A/ja-JP

フルヴェンの時代の放送録音はフラットで収録するセオリーだったが
実際の家電レベルに下ろすとラウドネスが必要という賢い判断だ。


163名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 06:38:22.32ID:iMs5yQNA

では私自身のフルヴェンのライヴ録音に対する考えはどうかというと
話は全く逆で、むしろトーキーの音響規格に沿って
100〜2,000Hzの両脇はロールオフさせるべきだと感じている。
http://cent20audio.html.xdomain.jp/image418.jpg


これは広い映画館の音響特性を示すものでアカデミー曲線と呼ばれ
現在ではXカーブとして国際規格化されているものだ。
http://www.associationdesmixeurs.fr/wp-content/uploads/2015/10/Dolby_The-X-Curve__SMPTE-Journal.pdf

これの理由はというと
フルヴェンが好んだ天吊り1本マイクでフラットに収録した音は
指揮者頭上で聞こえるバランスで収録されており
理論的にはその箇所から音を放射してホールに響いた音が
会場で聴く正しい響きという筋立てになる。
http://cent20audio.html.xdomain.jp/image1138.jpg


http://cent20audio.html.xdomain.jp/image534.jpg


https://img.aucfree.com/g385148314.1.jpg


ということは、広いホールの音響特性に沿って
高域を滑らかにロールオフさせたほうが自然に聞こえるのだ。

165名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 07:05:46.99ID:iMs5yQNA

これには逆の理屈もあって
昔の墺プライザーのLPはひどくこもった音で
その理由がモニターにAltec 604Eを使っていて
それに合うようにバランスを補正していたと考えられる。
https://gearspace.com/board/members/ostrong-audio-albums-casino-baumgarten-picture9521-control-room.jpg


https://www.youtube.com/watch?v=VPz8XMNBTiI
https://www.soundonsound.com/music-business/casino-baumgarten-vienna

これに反旗を翻したのがオルフェオのORF蔵出しシリーズで
高域がやたら強いものに豹変した。
個人的には両者の中間が良いのだけど
しばらく待てば元の鞘に収まるのだろうか?


166名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 07:22:32.54ID:iMs5yQNA

プライザーとオルフェオで全く違うサウンドを提供する裏には
そもそもの音響理論がどちらも食い違っていることからくる。
プライザーは古いようで1970年代のサウンドデザインだし
オルフェオはデジタル時代の広帯域再生を目指している。
ただし両者に共通するのは
周波数の補正をアナログのイコライザーでやっているような感じで
高域の位相が不自然に遅れたり浮き上がったりしている。
これはなかなか後で補正するのが難しい部類のものだ。

キングレコードはこうした補正を避けてリリースしているが
旧ターラやアウディーテを聞いて判るように
リマスターのサウンドには一種の見解をもったほうが聴き映えがする。
同じ意味でアビーロードとフランス勢のサウンドの違いは明瞭で
アビーロードはLP時代のサウンドポリシーを再現するのに対し
フランス勢は記録としての正確性を意識している。
この勝負に采配を決めるのはユーザーまかせなのが実に困った課題なのだ。


167名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 07:35:02.79ID:iMs5yQNA

同じ音源のリマスターでも例えばデッカのffrr音源は
キングレコードの飴色かデッカの青白い感じかで意見が割れていたし
現在でもテスタメントとオーストラリア勢で異なるサウンドでリリースされる。
こうした状況で外野のフランス勢が統一見解を出せたのか?
この視点がないと、単なるオレ様のオーディオ基準の評価でしかない。
少なくともワーナーはアビーロードを放棄して次のステップに進んだのだ。

168名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 07:58:13.01ID:iMs5yQNA

特に問題視しなければならないのは
こうしたレコード出版する側のサウンドポリシーを考えもせず
ユーザー側で好き勝手に音質評価することだ。
一見して音質だけの書き込みのように見えるが
実はサウンドの印象で演奏評価までしていて
それが音楽鑑賞のじゃまをしているように見受けられる。

今回の55CDの価値は戦前〜戦後に渡って
レーベルの垣根を踏み越えて揃ったところにある。
その歴史的なリリースにどういう態度で接するべきかの
ひとつの見解が出ているのだが、どうも読み取れていない。

宇野ちんもそういう感じの人で、最初の数小節を聞いて
その後の演奏の良し悪しが判るようなことを言っている。
導入が悪いと途中から批判ばかり喰らうことになるのだが
おそらくフルヴェンの演奏評価の方法にも影響を与えている。
最初の拍手を聞いて作文したバイロイトが今でも尾を引いている。
答え合わせは11/25にいたしましょう。

179名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 12:54:10.62ID:iMs5yQNA>>180>>181

55CDをアビーロードでもベルリナー・スタジオでもなく
歴史的アーカイヴを専門にするフランスの新進スタジオに委ねたのは
驚くほどの英断だったように思う。以下の記事は結構面白い。

https://www.crescendo-magazine.be/christophe-henault-servir-le-patrimoine-de-lenregistrement/

復刻はEMTのレコードプレーヤー、Studerのオープンリール
使っているヘッドホンはbeyerdynamic DT770。
奇をてらったものはなく、現在あるリソースを全部聴いたうえで
品質管理のルールを徹底する仕事人とみた。


181名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 13:18:04.47ID:ojH0Sb2h
>>179
機械翻訳の力で、フランス語も読めてしまう事に感動した。
あと、フランスのスタジオの人は音源選びから頑張っている事はわかった。
ノイズ多めのリマスターだけど、元気ある音が残っている気はする。

182名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 13:20:02.49ID:iMs5yQNA>>183

いつも思うのは
こういうプロの仕事に学ぶことのない人たちの感想が
文化継承の橋渡しにならないことだな。

例えばマタイのテープは4日分あって歌手も違ったが
それを同じ演奏のように繋げるのに苦労したとか。
78rpmの表裏の間の取り方はライヴ演奏を参考にしたとか。
1937年のロンドン第九は金属マスターのビニール複製だとか。
舞台裏について全部書いてほしいくらいだよ。

183名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 13:27:25.02ID:knSXjmu+
>>182
>例えばマタイのテープは4日分あって歌手も違ったが
>それを同じ演奏のように繋げるのに苦労したとか

これは、なにげに凄いことだよな
従来版で欠落していた部分を単に補ったわけではない
いわば、4種類のマスターテープ(新発見?)から
今回、改めて再編集しているわけで、極論すれば、
別物と言ってよい

186名無しの笛の踊り2021/11/21(日) 19:26:02.88ID:Bd6qTIdz

55枚組のうち、CD48〜49、ベートーヴェン「フィデリオ」を聞きました。

音質は、この2枚も従来盤に比較して低音の効きが少し悪い音です。低音が聞き手を包み込むような抱擁感で劣ります。
「トリスタン」と違って、従来盤に比べてザラザラしたり荒っぽかったり、ということはありませんでした。
演奏は、本盤録音直前のライブがチェトラ盤で残っていますが、セリフのカットを除き、声楽部分は大同小異です。
ただ、2つの序曲(フィデリオ序曲、レオノーレ序曲第3番)では、やはり勢いと即興性でライブが勝ります。
好みの問題になりますが、レオノーレ3番などをこの指揮者がじっくり構えて音楽を丁寧に作っても、仕方がないと思うのですが…

さて次は最後の山場、「ワルキューレ」4枚組です。ようやく出口が見えてきましたが、やはりこの曲も時間を頂きます。

188名無しの笛の踊り2021/11/22(月) 10:01:55.83ID:pEQkrj/P

ついでにベト7のテープ発見の逸話。
https://furtwangler.fr/la-7e-symphonie-de-1950-lhistoire-dune-resurrection/

予備も含め4テイク録られ、それらのテープが全てみつかった。
フルヴェンの立ち合いのもと、プレイバックして良いほうを選んだ。
選んだテイクを番号1に振り直し、残りは録った順番の番号で残された。
今回のマスターは巨匠も了承したテイクを最終版とした。
EMI製のテープレコーダーに若干の癖があり修復には工夫を要した。

189名無しの笛の踊り2021/11/22(月) 10:50:27.45ID:XpdhoVnR

何個かのテイクも残したけど、後の人はテープを埋もらせたままにした話だよね。
EMI はマスター管理できて無さそうな会社ではあるけど、録音した人は頑張ってたんだな。


193名無しの笛の踊り2021/11/23(火) 06:32:54.54ID:E4nUKVLX

最近はハイレゾ規格でA/D変換して保管するせいか
SACDコンパチでのリリースも多くなったが
SACDだからとフルスペックの音質というのではない。

例えばクレンペラー/ACOのライヴ録音集(24SACD)は
元のオランダ放送協会のテープは既に破棄されて現存せず
ファンだった青年が家庭用テープレコーダーに9.5cm/sでコピーしたものだ。
それでもかつての海賊盤より遥かにマシという感じだったので
万全なSACDコンパチというリリース形態を取ったのだろう。

204名無しの笛の踊り2021/11/24(水) 22:33:15.39ID:RgSFQ1aC

55枚組のうち、CD50〜53、ワーグナー「ワルキューレ」を聞きました。

音質は、カサカサした潤いのない音です。聞き比べた旧盤からは何と芳醇で包容力ある暖かい音が聞こえてくることか。
演奏は、教科書的な演奏であってそれ以上でもそれ以下でもない、という印象です。
それだけに、音響を楽しむことができない音質なのは残念です。
聞き始めはヴォータン役のフェルディナント・フランツが俗っぽくて、父の威厳やゲルマン神話の主神の威厳を欠くように聞こえます。
しかし聞き慣れてくると気にならなくなるのは不思議です。本当は実力のあるヴォータン歌手なのかもしれません。
スカラ座のリング全曲やローマのリング全曲のヴォータン役歌手と聞き比べようとしたのですが、どちらもフランツがヴォータンでした。
プロデューサーか指揮者によほど気に入られていたのでしょう。

これであとはボーナス盤を残すのみです。多分、次回の投稿で終わると思います。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/639.html#c17

[近代史5] 世界的インフレは株価暴落を引き起こす 2022年株式市場見通し 中川隆
1. 2021年11月25日 12:51:42 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[15]
世界的インフレで株価暴落が起きるのはいつか
2021年11月24日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/17570


前回の記事ではインフレを懸念した来年の金融引き締めが2018年や1970年代と同じ種類の株価下落を引き起こすということを説明した。

世界的インフレは株価暴落を引き起こす 2022年株式市場見通し


今回の記事ではその時期が具体的にいつなのかを考えてみたい。

止まらないアメリカのインフレ

前回の話はインフレを抑制するために中央銀行が金融引き締めを強いられ、株価が暴落するという話だったので、まずはインフレの状況を確認したい。これがアメリカの最新のインフレ率(前月比年率)である。

10月の米インフレは年率12%近い高騰、来年は物資不足か

インフレ率は前月比年率で11.9%となっており、これは前月からの上昇が1年続いたと仮定した場合の数字だが、単に昨年10月から1年間の物価上昇を見た場合も6.2%とかなり高い数字になっている。その余波はすでに日本にも来ており、ガソリン価格などで実感している読者も多いだろう。

このインフレ率は今後どうなるだろうか。考えなければならないのは、この数字は金融市場における燃料価格上昇をフルには織り込んでいないということである。原油価格のチャートを見てみよう。


原油価格は脱炭素な人々が化石燃料の産出を減らしたために上がり続けている。

サマーズ氏: エネルギー価格を高騰させる脱炭素政策は健全ではない
そして金融市場における価格が日用品に反映されるまでに数ヶ月のラグがあるということを忘れてはならない。つまり、10月のインフレ率は10月の原油価格上昇分をまったく織り込んでいないのである。

そしてそれはアメリカにおける住宅高騰も全然まだ織り込んでいない。以下はインフレ率のうち住宅価格上昇分を反映するはずの要素のチャートなのだが、既に2桁パーセントの上昇を見せているアメリカの住宅価格を何故か全然織り込んでいないのである。


アメリカの住宅価格の上昇は絶対に5%では済んでいない。これは債券投資家のジェフリー・ガンドラック氏や経済学者のラリー・サマーズ氏らが指摘していた。

インフレで金融引き締め

これらの要素がこれから織り込まれることを考えれば、1年間で6.2%という現在のアメリカのインフレ率がまだまだ始まりでしかないということが分かる。そもそもインフレの原因である脱炭素政策は明らかに短期要因ではない。

では中央銀行の対応はどうだろうか? アメリカでは現在テーパリング(量的緩和縮小)が行われており、量的緩和は現在の予定では6月末に終了するとされているが、このペースは一部の当局者によって加速が提案されている。

アメリカ、テーパリング加速を示唆 株価暴落に向けて加速へ
パウエル議長は反対するかもしれないが、元々テーパリングも他のメンバーに押し切られて開始したことである。インフレがかなり高い水準に来ていることを考えると、テーパリング加速についても押し切られ、量的緩和は春頃には終了するのではないか。

そうなれば次の段階は利上げとなる。金利先物市場は来年末までに3回の利上げを織り込んでいるが、これは多いだろうか? 少ないだろうか?

基準になるのは金融引き締めで株価が暴落した2018年の事例である。

世界同時株安を予想できた理由と株価下落の原因 (2018/10/28)
この時、アメリカの政策金利は9回の利上げを経て、耐えきれなくなった株式市場は崩壊した。以下は当時の政策金利のチャートである。


今回も株式市場は9回の利上げに耐えられるだろうか? ここでレイ・ダリオ氏の言葉を思い出したい。

世界最大のヘッジファンド: アメリカはテーパリング後に量的緩和を再開する
中央銀行はテーパリングを行おうとしているが、1980年以降、金利の引き締めは常に1つ前の引き締めよりも規模の小さいものとなっている。金利の天井は常に1つ前の天井より低くなり、そして金利はゼロになった。その後量的緩和を行うようになったが、量的緩和は常に1つ前の量的緩和より大きくなっている。

中央銀行はどんどん金融引き締めが出来なくなっている。量的緩和によって増えた借金が経済にのしかかっているから当たり前なのだが、それで更に緩和をするから状況がどんどん悪くなる。

新型コロナで借金が実体経済に影響を与える仕組みを分かりやすく説明する
ドラッケンミラー氏: 金融緩和こそがデフレの元凶
2018年の時にアメリカ経済が9回の利上げに耐えられたのは、利上げの開始が親ビジネス的なトランプ政権の経済政策と重なったからである。一方で今回はアメリカ経済は既に死にかけている。

第3四半期のアメリカGDPは大幅減速、スタグフレーションへ秒読み
この状況を考えると、恐らく5回程度の利上げでもかなり難しいのではないか。一方、現在3回織り込まれている2022年の利上げは、インフレがここから更に加速すれば5回や6回の織り込みに比較的すぐ変わるだろう。

結論

したがって金利だけを考えれば、利上げに耐えられずに株式市場が崩壊するタイミングは来年後半と考えられそうである。

しかし世界経済にはここまでの考察でまだ一切考えていない時限爆弾が存在することを読者は覚えているだろうか? 恒大集団を筆頭とする中国の不動産バブル崩壊である。

サマーズ氏: 中国恒大集団のデフォルト危機は日本のバブル崩壊と同じで極めて深刻
恒大集団は今のところ子会社や創業者の個人資産を切り売りしながら利払いは行なっているが、来年前半には利払いではなく元本を返済しなければならない償還がある。

また、中国の不動産市場の崩壊は恒大集団のデフォルトとは別に着々と進んでおり、一部の地域では駐車場の価格が「白菜並み」になっているという現地の報道もある。中国的な面白い表現ではないか。

よってアメリカ経済だけを考えれば株価の崩壊は来年後半になりそうだが、中国の不動産バブル崩壊の進捗によってはそれがある程度早まることもありそうだというのが結論である。

こうした状況における筆者の投資方針については既に記事を書いているので、そちらを参考にしてもらいたい。2018年の時もそうだったが、ここでは事前に記事を書いているのである。

恒大集団倒産と中国不動産バブル崩壊で空売りすべき銘柄リスト
長期金利とテーパリングの関係、今後の推移予想
ヨーロッパのインフレ悪化でユーロ下落、スイスフラン上昇


https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/17570
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1325.html#c1

[番外地10] 世界的インフレは株価暴落を引き起こす 2022年株式市場見通し 2021年11月23日 中川隆
1. 中川隆[-15132] koaQ7Jey 2021年11月25日 13:07:38 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[16]
MMTポリテックスの間違いは既に実証されている
アメリカは金融緩和・財政出動をした為にハイパーインフレになりつつある、日本も財政出動するとアメリカと同じ結果になる
世界的インフレは株価暴落を引き起こす 2022年株式市場見通し 2021年11月23日

そろそろ2022年の株式市場について予想を立てる時期だろうと思う。これまでも断片的には書いてきたが、この記事で一度纏めておきたい。結論から言えば、それは物価高騰から株価暴落までの過程である。

遂に来たインフレ
テーマはインフレである。物価高騰はアメリカが大規模な現金給付を行うと発表した頃から懸念され、筆者を含む一部のファンドマネージャーらが警告していたが、リーマンショックを予想したジョージ・ソロス氏の警告が無視されたように、これらの警告は無視された。

しかしその後、金融市場では金属やエネルギー資源、農作物などのコモディティ銘柄が高騰した。インフレはまず金融市場で先に織り込まれるからである。主要なコモディティの中で一番上がったのは銅だろう。

そして現金給付によるコモディティ高騰に追い打ちをかけたのがリベラル派の人々が社会全体に強要した脱炭素政策である。

彼らが化石燃料の供給を無理矢理抑え込んだので、化石燃料が高騰しているのである。天然ガスの高騰は脱炭素を強行したヨーロッパで特に酷く、裕福なリベラル派の政治的な遊びのせいで貧困層は暖房なしの冬を迎えようとしている。

こうした状況は徐々に日用品全般に波及し始めた。原油価格高騰は化学繊維やプラスチック製品の価格に影響を与える。こうしてインフレは社会全体の現象となったのである。金融家には去年から分かりきっていたことに、一般人や政治家や中央銀行家などの素人たちは今更慌て始めているということになる。

インフレの株式市場への影響
現金給付と脱炭素の悪影響がインフレだけだったならばまだ良かっただろう。貧しい人たちが飢えたり凍えたりするだけで、リフレ派の人々からすれば「インフレは問題ない」ということになるのだろう。

しかしわれわれはまだインフレの株式市場への影響を議論していない。

株式市場はどうなるだろうか? 注目されるのは中央銀行の動きである。

「インフレは一時的」であると長らく主張(この時点で矛盾ではないか?)していたFed(連邦準備制度)だが、緩和を止めたくないパウエル議長を無視して他のメンバーがテーパリング(量的緩和縮小)の開始を押し切った。

Fedは更にパウエル氏を置き去りにしながらテーパリングを加速しようとしており、その後には当然利上げが控えている。

こうして中央銀行は金融引き締めを余儀なくされている。アメリカ経済は決して良い状態ではないが、物価上昇を抑えるために金利を上げざるを得ない。

これは2018年の世界同時株安と似た状況である。
当時、パウエル議長は金融引き締めを強行し、株価が暴落を始めた後も株価の下落は自分のせいではないと言い張っていた。

中央銀行の言うことはほとんど常に間違っている。
今回も同じように金融引き締めがある水準まで強くなると株価が下落を始めるだろう。しかし2018年とは違うことが1つある。それはインフレである。

インフレにおける金融政策
2018年の世界同時株安が最終的に収まったのは、株安の原因が金融引き締めであり、最後の最後にパウエル議長が金融引き締めを撤回したことで、株安の原因が取り除かれたからである。

しかし今回、中央銀行は自分の意志で引き締めようとしているのではなく、物価が高騰しているから引き締めを強いられているのである。したがって引き締めを途中で止めることは出来るかもしれないが、そうすると今度は物価高騰が止まらなくなるのである。

ということで、中央銀行は引き締めを続けて株価を暴落させるか、引き締めを止めて誰も日用品を買えなくなるか、どちらかを選ばなければならなくなる。インフレへの対策を迫られれば、株価が下落していても金融引き締めを止められない状態に陥るだろう。株価はどうなるだろうか。

インフレにおける株式市場
アメリカが前にこの状況に陥ったのは1970年代のことである。ニクソンショックに始まる紙幣印刷(それはいつも紙幣印刷である)によってインフレが止まらなくなり、中央銀行はやむを得ず厳しい金融引き締めを強いられた。

株価はどう反応しただろうか? 株価は1971年8月のニクソンショックを受けて上昇した。読者もよく知っているように、紙幣印刷は短期的には株価の上昇要因である。しかしその後1973年に入ると物価上昇が止まらないということに人々が気付き始める。当時のインフレ率のチャートを掲載しよう。

この物価の高騰(10%を超えているが、これは当時インフレの始まりに過ぎなかった)を受けて中央銀行は金融引き締めを余儀なくされた。ドルの切り下げから金融引き締めへの転換である。

そして株価はどうなったか?
半値以上の暴落となっているが、ちなみにこれは当然ながらドルで表記された株価そのままなので、インフレによってドルの価値が年10%下落していることを考えれば、投資家の実質的損失はこれ以上に大きなものであることは言うまでもない。

例えば日本の投資家が為替ヘッジをせずに米国株を保有していれば、株安とドル安のダブルパンチを食らうということである。

結論
長くなったが、これが長らく人々が楽しんだリフレ政策の末路である。インフレが止まらなくなっている現在の状況と1970年代の類似は甚だしく、同じように金融引き締めを強いられ、同じように株価は暴落してゆくだろう。

反論としては「インフレは収まるかもしれない」というものもあるかもしれない。そうしたことについては既に記事を書いているのでそちらを参考にしてほしい。

投資家にとって一番大きな問題は、厳密にいつ暴落が始まるかということである。これについても詳しく書きたいが、すでに長くなってしまったので別の記事を書くこととする。しかし大枠に関しては多くの著名投資家は筆者と同じ意見だろう。彼らはすでに撤退を始めている。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/17503


インフレ率は前月比年率で11.9%となっており、これは前月からの上昇が1年続いたと仮定した場合の数字だが、単に昨年10月から1年間の物価上昇を見た場合も6.2%とかなり高い数字になっている。

インフレで金融引き締め
アメリカでは現在テーパリング(量的緩和縮小)が行われており、量的緩和は現在の予定では6月末に終了するとされているが、このペースは一部の当局者によって加速が提案されている。

インフレがかなり高い水準に来ていることを考えると、量的緩和は春頃には終了するのではないか。

そうなれば次の段階は利上げとなる。金利先物市場は来年末までに3回の利上げを織り込んでいるが、これは多いだろうか? 少ないだろうか?

基準になるのは金融引き締めで株価が暴落した2018年の事例である。
この時、アメリカの政策金利は9回の利上げを経て、耐えきれなくなった株式市場は崩壊した。以下は当時の政策金利のチャートである。

今回も株式市場は9回の利上げに耐えられるだろうか? 
中央銀行はテーパリングを行おうとしているが、1980年以降、金利の引き締めは常に1つ前の引き締めよりも規模の小さいものとなっている。金利の天井は常に1つ前の天井より低くなり、そして金利はゼロになった。その後量的緩和を行うようになったが、量的緩和は常に1つ前の量的緩和より大きくなっている。

中央銀行はどんどん金融引き締めが出来なくなっている。量的緩和によって増えた借金が経済にのしかかっているから当たり前なのだが、それで更に緩和をするから状況がどんどん悪くなる。

2018年の時にアメリカ経済が9回の利上げに耐えられたのは、利上げの開始が親ビジネス的なトランプ政権の経済政策と重なったからである。一方で今回はアメリカ経済は既に死にかけている。この状況を考えると、恐らく5回程度の利上げでもかなり難しい。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/185.html#c1

[近代史5] ゆっくり競馬解説 中川隆
1. 2021年11月25日 15:14:30 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[17]
ウマかつ!【ウマ娘&競馬解説】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/channel/UCS-MF1i219-uUFdU2YRWETQ/videos
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1172.html#c1
[近代史5] 競馬を見に行こう _ 伝説の名馬 中川隆
13. 中川隆[-15131] koaQ7Jey 2021年11月25日 15:15:18 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[18]

痺れるぜ!競馬史に残る神騎乗5選! 騎手の技量がヤバすぎる!
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1328.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/420.html#c13
[近代史7] ゆっくり競馬解説 - YouTube動画 中川隆
1. 中川隆[-15130] koaQ7Jey 2021年11月25日 15:17:18 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[19]
ウマかつ!【ウマ娘&競馬解説】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/channel/UCS-MF1i219-uUFdU2YRWETQ/videos
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/258.html#c1
[近代史5] 納豆のとんでもない効果とは!毎日食べたらどうなる? 中川隆
3. 2021年11月25日 17:07:22 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[20]
毎日納豆を1パック、30日食べ続けた人の末路とは!?【ゆっくり解説】



http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1109.html#c3
[番外地10] ポグロムを以てユダヤ人を度々迫害してきたロマノフ朝ロシアは、ユダヤ人にとったら不倶戴天の敵であるから、一家皆殺しは当然… 中川隆
2. 中川隆[-15129] koaQ7Jey 2021年11月25日 18:29:39 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[21]
国際金融資本もファシストも反共・反スターリンだった
ヒトラーは反共で、スターリンを倒す為にアメリカ金融資本が支援していた。
昭和天皇も近衛文麿もヒトラー同様にアメリカ金融資本のエージェントだったので、反共です。
ポグロムを以てユダヤ人を度々迫害してきたロマノフ朝ロシアは、ユダヤ人にとったら不倶戴天の敵であるから、一家皆殺しは当然の結果である。しかし、革命の目的はそれだけではない。ロシアの富を収奪しようとする連中にとって、買収の効かないロシア皇帝は邪魔者でしかなかった。もし、外国人勢力がロシアの天然資源を根こそぎ奪い、民衆を低賃金労働者にして搾取すれば、必ずやロマノフ王朝は介入してくる。おそらく、外国企業は国外追追放になってしまうだろう。でも、子飼いのレーニンが支配者になれば、共産党が唯一の窓口になるから、党の幹部に甘い汁を吸わせておけば、後は国際企業のやりたい放題。巨大な資金を有するオルガルヒのような悪党、つまりロシア人の“フリ”をしたユダヤ人が、ロシアの至る所で跋扈し、ロシアの石油や稀少金属を掘り出して巨万の富を得るだろう。もちろん、ボルシェビキの一般党員は「赤色革命」の輸出に夢中だ。しかし、裏から資金を流していた連中は違う野望を抱いていた。そして、世界政府の樹立を目論む大富豪は、レーニン亡き後の指導者にレフ・トロツキーを充てようと考えていたのだ。

  ところが、グルジア人のヨシフ・スターリンが、国際金融業者の計画に大きなズレをもたらした。スターリンは巧妙な策略を用いてトロツキーを欺き、レーニンの葬儀に参列できないよう仕組んでしまう。意識朦朧のレーニンから「後継者の指名を受けた」スターリンは、独裁者として赤いロシアに君臨する。しかも、冷徹な目で現状を捕らえる大元帥は、トロツキーの永続革命論を斥け、一国社会主義で自分の土台を固めようと考えた。これはトロツキーを「操り人形」にしようと考えていた資金提供者にとっては番狂わせのパプニングだ。彼らはスターリンを甘く見ていたのかも知れない。知識人型のレーニンと違って、暴君型のスターリンは金持ちどものペットになる気は更々無かった。レーニンは資本家の足元にひれ伏したが、スターリンは彼らの尻(ケツ)を舐めるのが大嫌い。ユダヤ人のパトロンに頭を下げるくらいなら、自前で金を稼ぐ方がいいと考えた。実際、スターリンは金に困って強盗になったし、売春婦を搾取する女衒にもなっていた。やはり、革命家は暴力団の闘士でなきゃ。

  ボーダレス・エコノミーを夢見る資本家達は、「絶大な権力を手に入れたスターリンを何とか制禦しなければ !」と思い、このグルジア人を懲らしめる政敵を創ろうと考えた。そこで目に附けたのが、当時、まだ駆け出しの政治家であったアドルフ・ヒトラー。なんと、ロンドンやウォール街を牙城とする大物ビジネスマンは、現地の企業を通してヒトラーに活動資金を渡していたのだ。この経緯については、アンソニー・サットン教授が詳しく述べている。フーバー研究所に属していたサットン教授は、ウォール街とボルシェビキの関係を明らかにしたことで有名だ。彼の三部作を読めば、どんな人物がヒトラーのパトロンになっていたかが判る。

 ヒトラーの台頭を助けた企業として挙げられるのは、米国の有名企業である「ジェネラル・エレクトリック社(General Electric)」である。この会社はベルリンにある「ドイツ・ジェネラル・エレクトリック社(Allgemeine Electricitäts Gesellschaft / A.E.G.)」と提携し、国家社会主義者のヒトラーを支援するスポンサーになっていた。「A.E.G.」というのは、エミール・ラーテナウ(Emil Rathenau)がトマス・エジソンの特許を取得して設立した、「ドイツ・エジソン電器会社(Deutsche Edison Gesellschaft für angewandte Electricität)」が前身となっている。そして、エミールの息子というのが、ワイマール共和国で外相を務めたヴァルター・ラーテナウ(Walter Rathenau)ときている。彼は1922年に暗殺されてしまうが、元々は父親の跡を継いでA.E.G.の経営を担っていた人物だ。

  ドイツでA.E.G.をパートーナーにしていたのが、アメリカの「ジェネラル・エレクトリック(GE)」で、GEの経営陣には、日本でも有名なオーエン・ヤング(Owen D. Young)とジェラルド・スウォープ(Gerard Swope)がいた。第一次大戦後、ベルサイユ体制で痛めつけられたドイツは、不況とハイパー・インフレーションに見舞われ、賠償金の返済にも困っていた。これを憂慮したアメリカは、ドーズ案とかヤング案を用いてドイツの経済復興を助けようとした。

▲△▽▼

ウォール街やシティと戦った共産主義者のフランクリン・ルーズベルト
 アメリカでは19世紀に「泥棒男爵」と呼ばれる人びとが出現した。不公正な手段で財産を手に入れ、巨万の富を築いた人たちだ。石油業界を支配することになるジョン・D・ロックフェラー、金融帝国を築いたJ・P・モルガン、鉄鋼業界のアンドリュー・カーネギー、ヘンリー・クレイ・フリック、鉄道のエドワード・ヘンリー・ハリマン、金融や石油で財をなしたアンドリュー・W・メロンなどが含まれている。
 こうした人びとの権力が強大化する切っ掛けになった出来事が1913年12月にあった。連邦準備制度が創設され、連邦準備理事会が金融政策の樹立と遂行を監督、12の連邦準備銀行が政策を実行することになったのだ。このシステムを支配するのは富豪たちだ。

 連邦準備制度を作るための秘密会議が1910年11月にジョージア州のジキル島で開かれている。会議に参加したメンバーはクーン・ローブやJPモルガンの使用人やジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの義父、つまりロスチャイルド、モルガン、ロックフェラーの代理人たちだった。こうした人びとがアメリカの通貨を発行する特権を持つことになる。

 こうした富豪が拠点にしている場所がウォール街やシティ。そこの住人に立ち向かった大統領もかつてはいた。フランクリン・ルーズベルトやジョン・F・ケネディたちだ。

 ルーズベルトは1932年の大統領選挙で勝利したのだが、その時にライバルだったハーバート・フーバーは現職の大統領。スタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物。政治家になってからはウォール街から支援を受けていた。

 そのフーバーとは違い、ルーズベルトは労働者の権利を認めてファシズムに反対するニューディール派を率いていた。そのルーズベルトをウォール街は嫌った。

1933年から34年にかけてウォール街の大物たちはニューディール派を排除するためにクーデターを計画する。そのため、軍の内部で大きな影響力を持っていた海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込もうとするのだが、失敗してしまう。計画の内容はバトラー、そしてバトラーと親しかったジャーナリストが議会で証言、記録として残っている。

 クーデターで中心的な役割を果たしたのはJPモルガンだったとされているが、その総帥であるジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーは1932年に駐日大使として来日している。

 ちなみに、JPモルガンの共同経営者だったエドワード・ストーテスベリーと結婚したエバ・ロバーツ・クロムウェルの娘の夫はダグラス・マッカーサーである。

 グルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持つ人物で、特に松岡洋右と親しかった。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。

 日本軍が真珠湾を奇襲攻撃して日本とアメリカが戦争を始めてしばらくの間、グルーは日本に滞在。離日したのは1942年8月だが、その直前に彼がゴルフをした相手は岸信介だ。大戦後、日本の進む方向を決めたジャパン・ロビーの中心にもグルーはいた。グルーが親ファシスト勢力に属していたことを忘れてはならない。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/153.html#c2

   

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