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[近代史3] 重信房子、北朝鮮、オウム真理教の深い関係 中川隆
35. 2022年8月14日 07:04:59 : sVZjH8GfYg : aWpTY3FhLjhVTms=[1]
重信房子と遠山美枝子(4)純粋な若者たちを追い込んだものは何か 「兵士として徹底的に自己改造する」と山へ 
8/13
https://news.yahoo.co.jp/articles/96b535de19c147b8f84a5672c221bf82ab74a8a2


連合赤軍メンバーの遺体が埋められていた森林=1972年3月10日、群馬県白沢村

 1971年2月末、重信房子は日本を去り、パレスチナに向かう。日本に残った親友・遠山美枝子はそれから1年足らずの1972年1月7日、群馬県榛名山で絶命した。遠山はなぜ山に入ったのか。(敬称略、女性史研究者=江刺昭子)

×   ×   ×

 70年3月のよど号ハイジャック事件のあと、重信と遠山の属する赤軍派の指導部は「PBM作戦」を指示している。

 P(ペガサス作戦)は要人を人質にして獄中の指導者を奪還し、中国に亡命して革命の根拠地とする。B(ブロンコ作戦)は、日米の政治中枢である霞ケ関とペンタゴン(米・国防総省)を占拠する同時多発テロ。M(マフィア作戦)は、金融機関を襲って革命資金を調達するというものだ。

 だが、実行できたのはM作戦だけだった。千葉、横浜などの郵便局や銀行支店を襲撃、計500万円以上を奪取した。

 過激な作戦についていけず、組織を離れていく者が続出する中で、遠山は赤軍派創設当初からのメンバーであり、最高幹部高原浩之の妻である。上下関係の規律の厳しい集団の中で、後輩の活動家からは、仰ぎ見るような存在になっている。

遠山美枝子。サークルの合宿で

 夫の高原は遠山を「思いつめたらそこから逃れられないタイプだった」と言う。組織が弱体化すればするほど、自分が頑張らねばと前を向いている。

 もともとは、警察署や拘置所をまわって逮捕された人に差し入れなどをする「救援」の責任者だったが、オルグ(組織拡大)や資金集めといった仕事も任されるようになっていく。

 横浜の実家にはめったに帰らず、友人の家を泊まり歩き、私服刑事の尾行がつくようになった。この頃、久しぶりに会った知人は、遠山の変化を見て取っている。

 「(学生運動の頃は)小柄で、お嬢さんタイプの子だったけれども、このとき会った彼女には、そんな弱いイメージはどこにもなく」「表情は厳しく、毅然(きぜん)としており、すっかり一人前の闘士に成長していた」

 一方、レバノンで活動する重信のもとには、パレスチナ解放のために闘うゲリラを描いた映画を撮りたいと、映画監督の若松孝二と足立正生が訪れている。


完成した「赤軍―PFLP世界戦争宣言」には重信のインタビュー映像が使われ、71年秋から日本全国の大学や公民館で自主上映された。車体を赤く塗ったバスで移動しながらの上映運動で、遠山はその手伝いもしている。

 逮捕者や離脱者が相次ぎ、戦力の衰えを自覚する赤軍派指導部は、政治路線の異なる革命左派(京浜安保共闘)との合同を模索する。革命左派は略称で、日本共産党革命左派神奈川県委員会といい、毛沢東思想を信奉して武装闘争を展開。獄中の幹部を奪還するために、71年2月には栃木県真岡の銃砲店を襲い猟銃や銃弾を奪った。

 M作戦で資金は得たが武器がない赤軍派と、武器はあるが金がない革命左派の軍事組織が合体して連合赤軍になったのは71年末。赤軍派は森恒夫、革命左派は永田洋子(ひろこ)がリーダーだった。

 榛名山にアジト(山岳ベース)を築いて合宿し、軍事訓練をした。訓練の目標は「兵士の共産化」「銃による殲滅(せんめつ)戦」である。

永田洋子

 赤軍派から山に入った兵士のうち、女性は遠山だけだった。山に入る直前、彼女は獄中の夫に手紙を出し、それが遺稿となる。自らの闘争の過程に高原との関係を重ね合わせ、未来を切り開こうとする意志的な内容だった。

 「赤軍女性兵士として、内実を伴う兵士として、徹底的に自己改造していく方向が問われている」「赤軍兵士として未だ不充分な私であるが、(略)自分の核心を持ちえる主体としてかかわっていきたいと思っているし、全力でがんばっていきます」

 赤軍派の後輩活動家の数人から、遠山に一緒に山に行こうと誘われたが断ったと聞いた。このことからも、遠山が危険を予感していなかったことが分かる。

 兵士として自己改造するつもりで行った場所で、「総括」と呼ばれる厳しい自己批判を要求され、最後には殺されるとは思ってもみなかっただろう。山に入ってから逃げ出した者もいるのに、遠山はなぜ引き返さなかったのか。

 50年もたっているけれど、遠山の夫だった高原に聞かずにはいられなかった。赤軍派の最高指導者としてPBM作戦を指示している。無謀な計画ではなかったか。

「僕自身、首相官邸占拠なんてできっこないと思っている。だけど引くに引けないんだ。前に進むしかないんだ」

 遠山の山岳ベース行きを察知していた。なぜ止めなかったのか。

 「そういう政治路線を共有して一緒になった以上、お互いにやめようと言えない。やめると言ったら離婚することになるから」

 走り始めたら止まれない、引き返せない。歴史をひもとけば、いつの時代にも、多くの組織で起きたことだ。世界に目をやれば、その悲劇はこの瞬間も繰り返されている。

 山岳ベース事件は、むごたらしいリンチや閉ざされた空間での異常心理が、興味本位に語られがちだ。だから事件から目を背ける人が多い。当事者は事件を封印して語りたがらない。

 しかし、遠山がそうであったように、いまもどこにでもいる若者たちが引き起こしたことだ。戦争に反対し、社会の不公正をなくしたい。真っすぐにそう望んだ若者たちが暴走した。

 純粋な若者たちをなぜ失わねばならなかったのか、考え続けなければならない。

 重信は痛切な思いで後悔し続けている。「私と一緒に遠山さんがいたら、絶対に行かなかった」「なぜ遠山さんをベイルートに呼ばなかったのか」(筆者の質問に対する獄中からの返信)

 2019年3月、遠山の命日に墓前にささげられた重信の「三月哀歌」から2首を引く。

 <抉られて鷲摑まれて千切れる胸 遠山美枝子あなたの死を聴く>

 <底無しの哀しみ怒り 三月の咆哮鎮める地中海は青>

 榛名山の軍事訓練には、途中で逃亡した者を含め29人が参加、約2カ月の間に12人が殺害された。(続く)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/300.html#c35

[近代史3] 重信房子、北朝鮮、オウム真理教の深い関係 中川隆
36. 中川隆[-12950] koaQ7Jey 2022年8月14日 07:08:14 : sVZjH8GfYg : aWpTY3FhLjhVTms=[2]
重信房子と遠山美枝子(4)純粋な若者たちを追い込んだものは何か 「兵士として徹底的に自己改造する」と山へ 
8/13
https://news.yahoo.co.jp/articles/96b535de19c147b8f84a5672c221bf82ab74a8a2?page=1


連合赤軍メンバーの遺体が埋められていた森林=1972年3月10日、群馬県白沢村

 1971年2月末、重信房子は日本を去り、パレスチナに向かう。日本に残った親友・遠山美枝子はそれから1年足らずの1972年1月7日、群馬県榛名山で絶命した。遠山はなぜ山に入ったのか。(敬称略、女性史研究者=江刺昭子)

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 70年3月のよど号ハイジャック事件のあと、重信と遠山の属する赤軍派の指導部は「PBM作戦」を指示している。

 P(ペガサス作戦)は要人を人質にして獄中の指導者を奪還し、中国に亡命して革命の根拠地とする。B(ブロンコ作戦)は、日米の政治中枢である霞ケ関とペンタゴン(米・国防総省)を占拠する同時多発テロ。M(マフィア作戦)は、金融機関を襲って革命資金を調達するというものだ。

 だが、実行できたのはM作戦だけだった。千葉、横浜などの郵便局や銀行支店を襲撃、計500万円以上を奪取した。

 過激な作戦についていけず、組織を離れていく者が続出する中で、遠山は赤軍派創設当初からのメンバーであり、最高幹部高原浩之の妻である。上下関係の規律の厳しい集団の中で、後輩の活動家からは、仰ぎ見るような存在になっている。

遠山美枝子。サークルの合宿で

 夫の高原は遠山を「思いつめたらそこから逃れられないタイプだった」と言う。組織が弱体化すればするほど、自分が頑張らねばと前を向いている。

 もともとは、警察署や拘置所をまわって逮捕された人に差し入れなどをする「救援」の責任者だったが、オルグ(組織拡大)や資金集めといった仕事も任されるようになっていく。

 横浜の実家にはめったに帰らず、友人の家を泊まり歩き、私服刑事の尾行がつくようになった。この頃、久しぶりに会った知人は、遠山の変化を見て取っている。

 「(学生運動の頃は)小柄で、お嬢さんタイプの子だったけれども、このとき会った彼女には、そんな弱いイメージはどこにもなく」「表情は厳しく、毅然(きぜん)としており、すっかり一人前の闘士に成長していた」

 一方、レバノンで活動する重信のもとには、パレスチナ解放のために闘うゲリラを描いた映画を撮りたいと、映画監督の若松孝二と足立正生が訪れている。


完成した「赤軍―PFLP世界戦争宣言」には重信のインタビュー映像が使われ、71年秋から日本全国の大学や公民館で自主上映された。車体を赤く塗ったバスで移動しながらの上映運動で、遠山はその手伝いもしている。

 逮捕者や離脱者が相次ぎ、戦力の衰えを自覚する赤軍派指導部は、政治路線の異なる革命左派(京浜安保共闘)との合同を模索する。革命左派は略称で、日本共産党革命左派神奈川県委員会といい、毛沢東思想を信奉して武装闘争を展開。獄中の幹部を奪還するために、71年2月には栃木県真岡の銃砲店を襲い猟銃や銃弾を奪った。

 M作戦で資金は得たが武器がない赤軍派と、武器はあるが金がない革命左派の軍事組織が合体して連合赤軍になったのは71年末。赤軍派は森恒夫、革命左派は永田洋子(ひろこ)がリーダーだった。

 榛名山にアジト(山岳ベース)を築いて合宿し、軍事訓練をした。訓練の目標は「兵士の共産化」「銃による殲滅(せんめつ)戦」である。

 赤軍派から山に入った兵士のうち、女性は遠山だけだった。山に入る直前、彼女は獄中の夫に手紙を出し、それが遺稿となる。自らの闘争の過程に高原との関係を重ね合わせ、未来を切り開こうとする意志的な内容だった。

 「赤軍女性兵士として、内実を伴う兵士として、徹底的に自己改造していく方向が問われている」「赤軍兵士として未だ不充分な私であるが、(略)自分の核心を持ちえる主体としてかかわっていきたいと思っているし、全力でがんばっていきます」

 赤軍派の後輩活動家の数人から、遠山に一緒に山に行こうと誘われたが断ったと聞いた。このことからも、遠山が危険を予感していなかったことが分かる。

 兵士として自己改造するつもりで行った場所で、「総括」と呼ばれる厳しい自己批判を要求され、最後には殺されるとは思ってもみなかっただろう。山に入ってから逃げ出した者もいるのに、遠山はなぜ引き返さなかったのか。

 50年もたっているけれど、遠山の夫だった高原に聞かずにはいられなかった。赤軍派の最高指導者としてPBM作戦を指示している。無謀な計画ではなかったか。


「僕自身、首相官邸占拠なんてできっこないと思っている。だけど引くに引けないんだ。前に進むしかないんだ」

 遠山の山岳ベース行きを察知していた。なぜ止めなかったのか。

 「そういう政治路線を共有して一緒になった以上、お互いにやめようと言えない。やめると言ったら離婚することになるから」

 走り始めたら止まれない、引き返せない。歴史をひもとけば、いつの時代にも、多くの組織で起きたことだ。世界に目をやれば、その悲劇はこの瞬間も繰り返されている。

 山岳ベース事件は、むごたらしいリンチや閉ざされた空間での異常心理が、興味本位に語られがちだ。だから事件から目を背ける人が多い。当事者は事件を封印して語りたがらない。

 しかし、遠山がそうであったように、いまもどこにでもいる若者たちが引き起こしたことだ。戦争に反対し、社会の不公正をなくしたい。真っすぐにそう望んだ若者たちが暴走した。

 純粋な若者たちをなぜ失わねばならなかったのか、考え続けなければならない。

 重信は痛切な思いで後悔し続けている。「私と一緒に遠山さんがいたら、絶対に行かなかった」「なぜ遠山さんをベイルートに呼ばなかったのか」(筆者の質問に対する獄中からの返信)

 2019年3月、遠山の命日に墓前にささげられた重信の「三月哀歌」から2首を引く。

 <抉られて鷲摑まれて千切れる胸 遠山美枝子あなたの死を聴く>

 <底無しの哀しみ怒り 三月の咆哮鎮める地中海は青>

 榛名山の軍事訓練には、途中で逃亡した者を含め29人が参加、約2カ月の間に12人が殺害された。(続く)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/300.html#c36

[近代史3] 重信房子、北朝鮮、オウム真理教の深い関係 中川隆
37. 中川隆[-12949] koaQ7Jey 2022年8月14日 10:11:32 : sVZjH8GfYg : aWpTY3FhLjhVTms=[3]
女を後ろに下がらせる組織にあらがう「私たちが新しい世の中を作る」と最後の言葉 重信房子と遠山美枝子(5)
2022/8/14
© 一般社団法人共同通信社
https://nordot.app/927094450091245568?c=39546741839462401


遠山美枝子さん(左)と重信房子さん。1967年ごろとみられる

 6月18日、東京目黒区中小企業センターホールで「あさま山荘から50年 シンポジウム 多様な視点から考える連合赤軍」が開かれ、連合赤軍の当事者や研究者、ジャーナリストらが登壇して語り合った。主催した「連合赤軍事件の全体像を残す会」は、こうしたシンポを開催したり、関係者の証言を書籍にしたりして、連合赤軍を問い続けている。今回も「多様な視点」で考え、次世代にも伝えようと試みた。
 しかし、事件を語るときほとんど欠落してきたのが、ジェンダーの視点だと思う。(敬称略、女性史研究者=江刺昭子)
   ×   ×   ×
 連合赤軍は、赤軍派と革命左派(京浜安保共闘)が合同した組織だ。あさま山荘事件に先行する群馬県榛名山の山岳ベース事件では、リンチを受けて12人が殺されている。そのうち女性は、赤軍派では遠山美枝子1人だが、革命左派では2人が犠牲になった。


連合赤軍5人がろう城した「あさま山荘」。ベランダには畳でバリケードが築かれている=1972年2月21日、長野県軽井沢町
 途中で逃げ出した人を含めると革命左派にはさらに7人の女性兵士がいた。事件を考えるとき「女性と革命」あるいは「女性と暴力」といったキーワードも必要なのではないか。
 60年代の学生運動は、政治路線に違いはあっても、どの党派も過激な実力闘争に傾いた。そのため体力や腕力に劣る女性は、救援や連絡、炊き出しやガリ版刷りといった補助的な活動にまわされ、性別役割分担が固定した。
 とりわけ軍事性の強かった赤軍派には、女性メンバー自体が少なく、徹底した男性優位集団だった。最盛期には全国で40人から50人ぐらいの女性が活動したとされるが、多くは男性活動家の友人や恋人だったようだ。
 固有名詞で語られるのは重信と遠山だけ。その遠山でさえ、組織のナンバー2だった夫の活動と暮らしを支え、警察に勾留された同志たちの救援に走りまわっている。遠山はその不当さに気付き、男と同等の兵士を目指して山に入り、帰ってこなかった。
 重信は男性による党派の支配を、遠山とは違ったやり方で乗り越えようとしていた。筆者の質問に対する獄中からの返信で次のように述べている。
 ―「女性を軍に加えろ」「女性に補助的なことしかさせないのは差別だ」と女性から「反乱的意見」があり、私は中央委委員会にその声を提起したことがありますが、「なまいきやな」の一言です。(中略)それで女性たちにも、とにかく持ち場でしっかり実力を示すことで、男たちの無能力を超えよう、女性を活用せざるを得ないようにしようよ、と訴えました―


昼のワイドショーに出演した出演した重信房子さん
 男性並みを目指すのではなく、女性役割を受け止めながら、それを着実に果たすことで、党派の中で確かな位置を占める。そんな戦略を描いている。しかし、そのことを悔いてもいる。
 ―でも連赤事件を経て、私が日本に居た時に、赤軍派の中の女性蔑視(特別視や軽視)を正さなかった(正しきれなかった)ことが森さんら赤軍派の人たちの考えが是として続いてきたことを「遠山問題」で強く反省させられました―
 「遠山問題」とは、山岳ベースでの遠山への過酷な追及と殺害を指すだろう。

 学生運動で女性が補助的な役割を担わされていることに違和感を持ち、批判を強めた女たちが女性解放に向けて動いたのが、ウーマンリブである。70年に「便所からの開放」を書いた田中美津はその創始者とされる。
 田中について拙著『私だったかもしれない ある赤軍派女性兵士の25年』で「重信や遠山との接点はなかったようだ」と書いたが、出版後「2人に会ったことがある」と訂正を求められた。映画評論家の松田政男の事務所で、2人と何度かすれ違ったそうだ。
 田中は重信について「独特の存在感があって、普通の人の10倍も20倍も自己肯定感のある人、お父さんに肯定されて育ったのがよかったんでしょうね」と話した。遠山のことは、笑顔のないきつい人という印象を持ったそうだ。
 赤軍派の男たちについても次のように話してくれた。
 赤軍派が結成される頃、田中は反戦グループを作って活動していたことから、友人に頼まれて赤軍派の男を家に泊めたことがあった。するとOKも出していないのに、赤軍派の男たちが出入りするようになった。「世界同時革命なんて立派な言葉に酔っているみたいだったけど、私はそういう頭で考えた言葉ではなく、自分の体験から言葉を紡ぎ出している」。だから彼らに同調することはなかった―
 田中はまた、連合赤軍の結成直前、革命左派の永田洋子(ひろこ)に誘われ、興味本位で山岳ベースにも出かけたが、1泊しただけで下山した。こう振り返る。
 「連合赤軍の人たちは、みな禁欲的で、毅然(きぜん)として生きたいと思っている。私は毅然としていたいと思うと同時に、1歳でも若くみられたいというミーハーな部分も持っているので、革命運動とは一線を画していた。だから命をとられずにすんだのだと思う」
 遠山は山岳ベースに入る直前、遺稿となった夫への手紙で「赤軍女性兵士として、内実を伴う兵士として、徹底的に自己改造していく方向が問われている」と伝えている。
 筆者は一昨年『樺美智子、安保闘争に斃れた東大生』を出版し、60年安保における唯一の死者、樺の生涯をたどった。遠山の遺稿を読んで、樺の最期の日を思い起こした。


亡くなる数時間前、デモ行進する樺美智子
 デモ隊のリーダーが、女子学生は後ろに下がり、男子のかばんを預かるように指示する。樺は反発し「せめてスラックスをはいた人間だけは例外にして」と頼み込んだ―。
 最も重要な闘いの場面において、女性を後方に下がらせようとする組織で、遠山も樺も差別的扱いを拒否し、前線に立つことを望んだ。そして帰らぬ人となった。
 重信は海外でも獄中でも厳しい日々を生きながら、みずみずしい感性と社会変革への意思を失わず、出所に合わせて著書や歌集を出版している。出所後、支援者たちが開いた歓迎会では、元活動家らが重信の社会復帰を心から祝い、宴は5時間にも及んだ。
 遠山については、交流のあった人たちの回想を書き記しておきたい。
 


遠山美枝子さん。サークルの合宿で
「出しゃっばったり、騒がしい人ではないが、しっかりした人だよ。重信と双璧よ」
 「私たちはドンパチドンパチやっていられたが、遠山さんは裏方でこまごまとした活動で、救対で苦労された。強いかたで、ついつい日和ろうとする私なんかを叱咤(しった)激励することが再三ありました」
 「ビラまきをしていたとき会ったのが最後です。遠山さんは大人で物静かな人、軽やかな話し方をする人で、ちょっとあか抜けたかた」
 「山に行く前、会いました。『わたしたちが新しい世の中を作るから見ててね』と言われたのが、今も忘れられません。これが最後の会話です。美枝子が見ていた世界を作り上げていかなければいけないなと、僕は今でも思っています」(終わり)

https://nordot.app/927094450091245568?c=39546741839462401
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