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[番外地8] 今は技術の進歩で、日本人の1/4が8時間労働すれば生活に必要な物がすべて作れる時代です。 中川隆
6. 中川隆[-10624] koaQ7Jey 2020年10月25日 04:27:54 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[1]
三橋さんは昭和脳なんですね。
今は技術の進歩で、日本人の1/4が8時間労働すれば日本人全員が生活に必要な物をすべて作れる時代です。
言い換えると、日本人の 3/4はやるべき仕事が無いんですね。
政府が公共事業で需要を増やしたところで日本人の 3/4がやっている、やってもやらなくても何も変わらないどうでもいい仕事の量が増える事はありません。
その金は不動産や株式市場に流れてバブルを起こすだけです。

日本人の 3/4 は、風俗、水商売、パチンコ、ヤクザとか、スキー場・温泉宿・ガソリンスタンド・コンビニ・回転寿司・ファミリーレストラン・ラーメン屋・飲み屋・調剤薬局・歯医者・弁護士みたいに既に適正数の何倍も店舗がある、やってもやらなくても何も変わらない労働生産性がゼロに近いサービス業をやって何とか食べているのです。

公共事業をやっても日本人の 3/4 のやる仕事ができるという訳ではないですね。
現在の日本がデフレだというのは言い換えると、技術の進歩で労働者が1日2,3時間も働けば生活に必要な食べ物や工業製品をすべて作れる時代になってしまった、それ以上の仕事はやってもやらなくても同じだという事です。


だから今は農業人口も200万人以下で日本全体の食糧消費の大半を簡単に作れるのです。
今は高齢者186万人が農業に従事しているだけです:
(農業就業人口は引き続き減少・高齢化)
農業就業人口のうち基幹的農業従事者(*2)数は、186万2千人となり、前年に比べて18万9千人(9.2%)減少し、200万人を下回りました。 また、65歳以上の割合は59.1%と前年に比べて2ポイント低下したものの6割を占めており、平均年齢も66歳と高齢化が進んでいます。


三橋さんは緊縮財政を続けると日本の供給力が壊滅して開発途上国になると騒いでいますが、元々日本は供給力が増えすぎて困っているのです。 食料も電気製品も住居も土地も日本では有り余っています。 ただ、労働者の賃金が安くて世の中に有り余っているものを消費できないというだけです。デフレギャップを減らすには、終戦直後にGHQがやった様に、意図的にインフレを起こして資本家の資産を目減りさせて労働者に再分配するしかありません。国債発行や公共事業をいくらやっても、増えた金はすべて資本家に持って行かれるだけで、労働者の実質賃金はどんどん下がっていきます。

日本の仕事の殆どはサービス産業なので、食べていく為にやってもやらなくても良い無駄な仕事をしている事になります。
人口が減ればそういう無意味な仕事をする必要も無くなるので、デービッド・アトキンソンの最低賃金を上げて、それに耐えられない中小企業は潰せ、というのは正しいです。存在価値が無い中小企業を淘汰するのは合理的です。

セブンイレブン、業績好調なのに大量閉店の闇〜月収26万円で疲弊するオーナーたち=栫井駿介
2019年10月24日
https://www.mag2.com/p/money/798181

安物・粗悪品の製造会社、アマゾンに対抗できない小売店、国債の利息でなんとか生きながらえている地方銀行、海外からの技術研修生を使わないとやっていけない会社、コンビニより多い歯科医院、外人留学生が居ないとやっていけない大学・専門学校、インバウンドで食べている旅館・観光会社、風俗等のヤクザのしのぎになっている仕事、パチンコ・IR

すべて日本の生産性を下げているだけの無意味・無駄な仕事です。

________

起業家の半数が1年で廃業し収入はバイト以下
起業しても10%以下しか継続できない
起業家の厳しい実態

10数年前から日本政府は起業を奨励していて、起業すれば必ず成功するかのようなキャンペーンをやっていました。

ブームに乗って実際に起業した人たちがどうなったか検証してみると、政府が振りまいた夢とは正反対の現実があった。

中小企業白書によると個人事業主として開業した人の約3割が、1年以内に廃業し、2年で約半数、10年後には88%が廃業しています。


個人ではなく会社を設立した場合、1年以内で6割が廃業(倒産)し、5年後には85%が廃業、10年後に残っているのは6%でした。

個人事業主より会社設立の方が、より速いペースで廃業しているのが分かります。

理由は自分ひとりでやるよりも、他人に給料を払えば余計なコストが発生するからだと考えられます。


会社を設立する人はだいたい、会社員として仕事がデキる人で、自信満々で部下を引き抜いたりして開業する。

いわば人生のピークで勝負をかけて起業するのだが、統計からは例外を除いて失敗に終わっています。

「起業に成功する人、失敗する人」のような本は多く出ていますが、そもそも会社の数は足りているのです。


現在存在している会社だけで世の中は足りているのに、そこに割って入って仕事を奪うのが「起業」だと言えます。

既存の会社には目の敵にされるし、会社員として実績があっても、おそらく助けては貰えないでしょう。

それでも起業して数ヶ月の間は、会社員だった頃のツテやコネから仕事を得られる場合があるが、それも無くなります。


起業する人には何かアイディアがあり「これが世の中に必要とされる筈だ」というような構想があると思います。

ところが革新的なアイディアの99%は、短期間で社会から不要になる事が多いです。

インターネット関係の新しいアイディアは1年もたずに陳腐化してしまい、事業として続かない事が多いです。


自分が住んでいる地域で30年続いている会社は、不動産とか床屋とか食堂とか、平凡で代わり映えしない業種しかないと思います。

まわりで10年続いている会社を見ても、喫茶店とかコンビニとか薬局、設計事務所や大工など「パッとしない」業種ばかりだと思います。
これが意味するのは新しいアイディアほど早く陳腐化している事で、生き残ったのは平凡で「ダサい」ものだったのでした。

日本政策金融公庫の調査で起業家の4割がが月商30万円未満だと発表されました。

月商はもちろん売上げであって、そこから様々な経費を差し引いたのが収入になります。

仮に月商の50%が利益になるとしても月収15万円未満な訳で、起業した人の家計が非常に苦しくなるのが分かります。

良く不動産ビジネスで「年商1億円」のように言う人が居ますが、不動産の利益は良くて年10%以下と言われています。

しかもこれは借金が無い場合なので、利子の支払いなどがあれば年商1億円でも「年収」は500万円以下かも知れません。

起業家の8割は1人で自宅で仕事をし、最近はネットで仕事をするネット企業家が増えています。

起業した人の多くは会社員時代より収入が減り、しかも労働時間が延びる傾向があります。

働いた分だけ収入になるのは、働かなければ収入がない事なので、特に時給に換算した収入が減少します。

会社では10人分の仕事を10人でやり、起業すると1人分の仕事を1人でやり、一見同じ事に思えるが効率が大幅に悪化します。


設計の仕事で起業したとしても、膨大な雑事が発生してやりたい仕事になかなか取り掛かれないでしょう。


顧客の獲得や対応、宣伝、値引き要求や代金不払い、理不尽なクレームなどありとあらゆるトラブルを1人で処理しなくてはならない。

一時的に成功しても、流行の業種ほどすぐに陳腐化して仕事と売上げが減るのが普通です。


時代の波を乗り越えて10年後に事業を続けていられる人は、10%前後というわけです。

________

失業者には国が十分な金を出せばいいだけでしょう。
MMTでお金はいくらでも発行できます。
生活困窮者の生活費を国で出せばいいだけですね。
日本は世界一の金持ち国で対外資産が沢山あるので、日本人は大して働かなくても食べていけるのです。

貧困者を救済した為にインフレになったら資産家の資産が目減りして所得再分配になるし(インフレ税)
超円安になったら日本の輸出企業の一人勝ちで、海外の競合メーカーはすべて倒産するし
日本政府が貧困者にいくらお金をばら撒いても大企業や資本家の資産が減るだけです。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/504.html#c6

[番外地8] 高橋洋一は、デマとフェイクの総合商社のような人物で、悪質なデマ「日本学術会議は千人計画に協力する反日組織」を叫んでいた… 中川隆
2. 中川隆[-10623] koaQ7Jey 2020年10月25日 04:35:38 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[2]
高橋洋一は、デマとフェイクの総合商社のような人物で、悪質なデマ「日本学術会議は千人計画に協力する反日組織」を叫んでいた人物だ。そしてこんなデマも
高橋洋一、橋下徹も……日本学術会議を攻撃する言説は菅政権を擁護するためのフェイクだらけ(リテラ)
http://www.asyura2.com/20/senkyo276/msg/556.html

高橋洋一
>学術会議は一部の貴族のようなもの。引退間際の豪華なポストでお小遣い付き

ちなみに、自民党甘利もたいがいデマを飛ばしていたが、政府によって否定されて、こっそり・ひっそりブログを修正している。

必死で菅政権を擁護していたと思ったら、やっぱり「内閣参与」の餌付きだったか。

苦節8年頑張ったおかげで、ようやく政権の中枢へ。

しかし、デマやフェイクが専門職のような人間を政権の中枢に入れたらどうなるか。。。
菅の周りに、菅を喜ばせる人間ばかり配置した格好だ。
知性もなければ良識もない人間ばかり集めてこの国を潰す気か。

▲△▽▼

菅政権の弱肉強食の経済政策の方向性が明確になった肝いり人事
「成長戦略会議」や「内閣官房参与」のメンバーに新自由主義の規制緩和人脈がズラリ並んでいる。
内閣参与には、竹中平蔵に近い元財務官僚の高橋洋一嘉悦大教授が任命された。

 成長戦略会議には、人材派遣会社「パソナグループ」会長でもある竹中平蔵慶応大名誉教授とITコンサル企業「フューチャー」の金丸恭文会長。2人は安倍政権時代の「未来投資会議」からの継続で、金丸会長は官房長官だった菅の名代として、農協改革などを主導した。新たに起用されたデービッド・アトキンソン小西美術工芸社社長は、元金融アナリストで菅の知恵袋の一人。赤字の中小企業の退場を主張する再編論者だ。

 とりわけ戦慄するのが、司令塔が竹中だということである。小泉政権で過度な構造改革を推し進め、非正規労働者を増やし、経済格差を広げた、まさに新自由主義の権化のような人物。竹中が総務大臣だった時に副大臣を務めていたのが菅で、2人は「師弟関係」みたいなもの。自民党総裁選で菅が打ち出した「自助・共助・公助」のフレーズも自己責任と競争社会の実現を訴え続ける竹中仕込みと言われたものだ。

 竹中は安倍政権の7年8カ月の間、ずっと政府の経済政策の会議に席があった。だから「何も変わっていないのでは」と思うかもしれないが、それは違う。

 安倍政権では当初、経済財政諮問会議の民間議員に就くはずが、麻生財務相に煙たがられ、格下の産業競争力会議のメンバーになった経緯があった。

 それで裏でちょこちょこ我田引水の動きをして、規制緩和を仕切ってきていたのだが、菅政権になると「私が師匠です」とばかりに表舞台に出てきて、俄然、露出と存在感を高めている。

 メディアのインタビューや取材も積極的に受けて持論を提言。「淘汰されるべき企業を残しておくと、将来的に日本経済の弱体化につながる」とアトキンソン氏同様の「中小企業ゾンビ論」を展開中だ。さらには、1人月7万円を支給する「ベーシックインカム導入論」も披露。代わりに、生活保護や年金を廃止して財源に充てると言って、「弱者切り捨てだ」と批判を浴びた。

 揚げ句に、月刊「文芸春秋」11月号では、「コロナ禍で『東京問題』が浮き彫りになった」と、小池都知事を牽制して菅が使ったフレーズを繰り出し、「東京を米国のワシントンDCのような政府直轄地にせよ」とまで言い出した。

▲△▽▼

日本の株式を外資に乗っ取らせたのが竹中平蔵と高橋洋一の唯一で最大の業績

私達は洗脳されていました。不良債権の処理こそが構造改革だと。。。
彼等のやり口はこうでした。

一、株式は自己資本の半分以下にすること。
二、不良債権は二年で半減すること。不良債権処理に充てた資金には税金を課す ただし繰り延べ資産として7年間分認める


私達は国の命令で株式の売却を始めました。株の暴落が始まり長銀は国有化され長銀の株券は一夜で紙くずとなりました。数兆円の血税をつぎ込み身奇麗にした 長銀は瑕疵担保条項までつけて外資の手に渡りました。その後私達は恐ろしい光景を目にすることとなりました。

瑕疵担保条項によって死ななくても良い企業まで次々と息の根を止められて行きました。 その時つぶせばつぶすほど外資がもうかる条約だった事に私達は気づきました。

そんな時あの竹中が金融中枢に入ってきたのです。
そしていきなり繰り延べ資産は認めないと言い出したのです。税金は取っておきながら、です。人々はパニックに落ちました。株価は大暴落し、旧額面で80円を割り込んだ時、外資の増資申し入れを受け入れました。
四大メガバンクすべてが外資に自社株を叩き売ったとき、りそな銀行の国有化が決まり、長銀の時と同じく数兆円の国民の税金がつぎ込まれましたが、驚いたことに減資なし、株主責任は問わないという寛大な措置でした
あれほど株主責任を厳しく追及していた竹中 木○コンビの豹変でした。

その翌日から外資の数千億単位の株式購入が連日のように続きました。
日本の国富が外資の手に落ちて行くのを私達は茫然と見ているしかありませんでした・・・。
私達は竹中によって株式をもっと売り払えと指導されていたからです。
__________

竹中平蔵がインサイダー情報を流して、外資が底値で日本株を大量に買ったのは有名な話です。
それで日本株の 1/4 が外資に乗っ取られました。
それを暴いたミラーマンこと植草一秀は痴漢冤罪で刑務所に入れられました。  
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/538.html#c2

[近代史4] 日本を滅ぼす MMT (現代貨幣理論) 中川隆
2. 2020年10月25日 04:46:08 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[3]
橋洋一チャンネル 第17回 国債間無限に出せる?新経済理論MMTは実は○○○だった
2020/10/24






http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/792.html#c2
[番外地8] マネーストックがいくら増えても経済破綻なんかしないんだよ。 中川隆
1. 中川隆[-10621] koaQ7Jey 2020年10月25日 05:54:21 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[5]
通貨の信用というのは通貨発行量によって価値が変わってくるという話さ
マネーストックがいくら増えても物価が上がるだけで経済破綻なんかしないんだよ。
大西さんが準拠しているエンデの経済論や地域通貨の話は古典派経済学の貨幣の中立説そのものです:
貨幣の中立説は貨幣量の増減は物価にだけ影響を与え、生産活動や雇用の増減などには影響を与えないとする説。古典派経済学の中心的な命題のひとつであり、中立説によれば、貨幣は社会的な分業や効率性をもたらす以上の役割はない。経済活動の本質は物々交換であり貨幣はその仲介を行っているにすぎず、貨幣量の増減は貨幣錯覚による混乱をもたらすが国富・国民経済の観点では中立的であり、国富の増大には貨幣量の拡大ではなく生産・供給能力の増強によるべきとした。

貨幣数量説は貨幣の中立性を前提にしており、物価の乱高下は流通貨幣量の管理によって押さえ込むことができるとする。

長期的には貨幣の中立性は成立し、金融政策は実体経済に影響を与えず、ただ名目変数を動かすだけであるという点では、新古典派経済学、マネタリスト、ニュー・ケインジアンの見解は一致している。

貨幣数量説
フィッシャーの交換方程式 MV=PQ

M : 貨幣量
V : 貨幣の取引流通速度
P : 物価
Q: 1期間における財・サービスの取引量

M : 貨幣量 = マネーストックの内、実際に市場で流通している金額
Q:取引量の総額 ≒ 実質GDP

フィッシャーの交換方程式 MV=PQ は
販売価格総額=購買価格総額
という恒等式だから誰も否定できない。
フィッシャーの交換方程式は取引経済の実態そのものの数式化であり、かならず両辺が一致する。

ミルトン・フリードマンに代表されるマネタリストは、Q/Vの構造に長期的な安定傾向を見いだし、短期的には貨幣の中立性が満たされないことはあるが、長期的には満たされるとする。このため貨幣量が増加すると一時的に実質GDPまで拡大することはありうるが、長期的には実質GDPは完全雇用できまる水準に低下し、物価Pの上昇をもたらすだけだと考える。Q/Vは一回あたりの発注ロット数の平均値をあらわすが、フリードマンは経済の期待成長力や期待収益率の多寡によって、1回あたりの受発注量が増減することは短期的に観察できる事実であるが、長期の統計においては安定した関係にあると実証した(この功績でノーベル賞を受賞)。

フィッシャーは、貨幣の流通速度:Vと1期間における財・サービスの取引量:Qは慣習的に(大きな)変動はないとみなした(実際はVを観測するのは非常に難しく、観測はほぼ不可能である)。だとすると、MV=PQの左辺のV、右辺のQが大きく変動しないのであるから、自明なこととして、この方程式においてMとPは常に比例することになる。そうであるならば、M(貨幣量)を増やせば、P(物価)も上昇することになる。あるいは、M(貨幣量)を減らせば、P(物価)も低下するであろう。そうだとすれば、政策論的に言えば、例えばある経済の物価を上昇させたいのであれば、貨幣量を増やせば物価が上昇させることができるとこの方程式から言えるだろう。あるいは、もし物価が下がっているならば、それは貨幣量が足りないからだということができるだろう。これが古典派の貨幣数量説の基本的な考え方である。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/467.html#c1

[番外地8] マネーストックがいくら増えても経済破綻なんかしないんだよ。 中川隆
2. 中川隆[-10620] koaQ7Jey 2020年10月25日 05:55:55 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[6]
通貨の信用創造というのは通貨発行量によって貨幣価値が変わってくるという話です。
マネーストックがいくら増えても物価が上がるだけで、絶対に経済破綻なんかしません。
大西さんが準拠しているエンデの経済論や地域通貨の話は古典派経済学の貨幣の中立説そのものです:
貨幣の中立説は貨幣量の増減は物価にだけ影響を与え、生産活動や雇用の増減などには影響を与えないとする説。古典派経済学の中心的な命題のひとつであり、中立説によれば、貨幣は社会的な分業や効率性をもたらす以上の役割はない。経済活動の本質は物々交換であり貨幣はその仲介を行っているにすぎず、貨幣量の増減は貨幣錯覚による混乱をもたらすが国富・国民経済の観点では中立的であり、国富の増大には貨幣量の拡大ではなく生産・供給能力の増強によるべきとした。

貨幣数量説は貨幣の中立性を前提にしており、物価の乱高下は流通貨幣量の管理によって押さえ込むことができるとする。

長期的には貨幣の中立性は成立し、金融政策は実体経済に影響を与えず、ただ名目変数を動かすだけであるという点では、新古典派経済学、マネタリスト、ニュー・ケインジアンの見解は一致している。

貨幣数量説
フィッシャーの交換方程式 MV=PQ

M : 貨幣量
V : 貨幣の取引流通速度
P : 物価
Q: 1期間における財・サービスの取引量

M : 貨幣量 = マネーストックの内、実際に市場で流通している金額
Q:取引量の総額 ≒ 実質GDP

フィッシャーの交換方程式 MV=PQ は
販売価格総額=購買価格総額
という恒等式だから誰も否定できない。
フィッシャーの交換方程式は取引経済の実態そのものの数式化であり、かならず両辺が一致する。

ミルトン・フリードマンに代表されるマネタリストは、Q/Vの構造に長期的な安定傾向を見いだし、短期的には貨幣の中立性が満たされないことはあるが、長期的には満たされるとする。このため貨幣量が増加すると一時的に実質GDPまで拡大することはありうるが、長期的には実質GDPは完全雇用できまる水準に低下し、物価Pの上昇をもたらすだけだと考える。Q/Vは一回あたりの発注ロット数の平均値をあらわすが、フリードマンは経済の期待成長力や期待収益率の多寡によって、1回あたりの受発注量が増減することは短期的に観察できる事実であるが、長期の統計においては安定した関係にあると実証した(この功績でノーベル賞を受賞)。

フィッシャーは、貨幣の流通速度:Vと1期間における財・サービスの取引量:Qは慣習的に(大きな)変動はないとみなした(実際はVを観測するのは非常に難しく、観測はほぼ不可能である)。だとすると、MV=PQの左辺のV、右辺のQが大きく変動しないのであるから、自明なこととして、この方程式においてMとPは常に比例することになる。そうであるならば、M(貨幣量)を増やせば、P(物価)も上昇することになる。あるいは、M(貨幣量)を減らせば、P(物価)も低下するであろう。そうだとすれば、政策論的に言えば、例えばある経済の物価を上昇させたいのであれば、貨幣量を増やせば物価が上昇させることができるとこの方程式から言えるだろう。あるいは、もし物価が下がっているならば、それは貨幣量が足りないからだということができるだろう。これが古典派の貨幣数量説の基本的な考え方である。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/467.html#c2

[番外地8] 菅首相。記者から、あらためて日本学術会議の新会員候補6人の任命を拒否した理由を問われる 中川隆
2. 中川隆[-10619] koaQ7Jey 2020年10月25日 07:19:17 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[7]
チャンネル桜の話は詭弁、日本学術会議自体の問題と菅首相の日本学術会議の会員任命拒否の正当性とは全く違う問題です:
10月21日、外遊先のインドネシア・ジャカルタで記者会見した菅首相。記者から、あらためて日本学術会議の新会員候補6人の任命を拒否した理由を問われると、こう言い放ったから驚いた。
「国の予算を投じる機関として国民に理解されることが大事だ。推薦された方々がそのまま任命されてきた前例を踏襲してよいのか考えた結果だ」

 オイオイ、ちょっと待て。最初に理由を問われた際には「総合的、俯瞰的に判断」と答えていたではないか。それが世論批判を受けて突然、「推薦リストを見ていない」と支離滅裂な言い訳を始めたかと思いきや、今度は「国民に理解されることが大事」だから理解不能だ。

 さらに、16日の日本学術会議の梶田会長との会談に触れた菅は「国民に理解されるように日本学術会議をよりよいものにしていこうと合意した」などと上から目線で開き直っていたが、一体どの口が言っているのか。

 問われているのは、日本学術会議の組織体制や学者の在り方ではない。理由も示さず、法律に反する形で任命を勝手に拒否した菅の認識、違法性だ。自分自身のデタラメを棚に上げ、さも学術会議側に問題があるかのよう論点をすり替える。これぞ自分の品性下劣を告白しているようなものだ。

▲△▽▼

これが大学人のまっとうな見解 、チャンネル桜の話が詭弁だとわかります
日本学術会議問題について - 内田樹の研究室 2020-10-22


 日本学術会議の新会員任命拒否に対して、多くの学会が次々と抗議の声を上げ、政府と学術団体の対立は収束する気配がありません。 
 菅政権はなぜ発足早々にこのような政治的緊急性のない事案に手を出したのか。なぜ学術団体からの激しい反発を予測できなかったのか。単に「政治センスが悪い」というのも一つの解ですが、それよりは主観的には合理的な行動のつもりだったと考えたほうが引き出せる知見は多いと思います。
 菅政権が最優先する政治課題は「統治コストの最少化」です。どうやって統治コストを最少化するか。前政権の官房長官として首相が学んだのは、反対派の異論をすべて黙殺して、国民の間に政治に対する諦めと無力感を蔓延させるという手でした。
 安全保障関連法案でも、特定秘密保護法案でも、国民の過半数が「採決を急ぐべきではない」と意思表示する中、前政権は民意を無視して強行採決しました。選挙で勝った以上、全権は与党に託されたという理屈で譲歩を拒み、結果的に政権に批判的な国民の間に無力感と政治に対するあきらめを醸成することに成功した。
 反対派が無気力になり、政治活動をしても無駄だと思うようになれば、統治コストは最少化できます。菅政権は安倍政権で学んだその経験則を適用して、「反政府的な言説をなす者はいかなる公的支援も期待できない」ということを国民に叩き込んでやろうとして、日本学術会議の人事に手を突っ込んできた。すでに与党政治家、官僚、ジャーナリストは官邸に対する忠誠度によって「格付け」されるということに慣れ切っています。次は学者たちに同じルールを適用しようとした。どうせ無抵抗にこのルールを受け入れるだろうと思っていたからです。
 学者を黙らせることについては政府には成功体験の蓄積がありました。90年代以降、日本の大学人は教育行政に押し込まれて譲歩し続け、有効な反撃ができなかった。2014年の学校教育法の改正によって、大学教授会は権限のほとんどを奪われ、大学は学長が全権を掌握する株式会社的な組織に改編されたのですが、このときも大学人たちは組織的な抵抗ができませんでした。政権はこれを見て「学者というのは腰が弱いものだ」と思った。ですから、任命拒否も日本学術会議は無抵抗に受け入れると予測していた。
 しかし、このシナリオは学者たちの予想外にはげしい抵抗に遭遇して破綻ました。そればかりか『ネイチャー』や『サイエンス』のような海外の学術誌に報道され、世界の科学者は日本の新しい指導者は自由な学問研究を弾圧する反知性主義者らしいという印象を抱くに至った。これは国際社会における日本の知的・倫理的地位を一気に引き下げたという点で取返しのつかない失策でした。
 
 前政権で、国民が政治に無関心になると政権は安定するという教訓を学んだ新首相は、新政権では積極的に日本を「元気のない国」にする道を選びました。政界にも、官界にも、メディアにも、学界にも、どこにも権力に逆らうものがいない社会を作ろうとした。けれども、そのような社会は国力の衰微を代償にしてしか得られません。そして、日本学術会議への攻撃は「国力の向上よりも政権の安定を優先する」という判断が導いた結論でした。
「組織管理コストの最少化は《絶対善》であり、あらゆる目標に優先する」というのは現代日本を覆い尽くしている一種のカルトです。営利企業だけでなく、行政でも、医療でも、学校でも、その組織がいかなる「よきもの」を生み出すために創り出されたのかが忘れられ、代わりにその組織の管理コストをどうやって最少化するかが組織目的にすり替えられている。
「組織が当初の目的を見失って、組織防衛が自己目的化する」という倒錯はこれまでも官僚制ではよく観察されましたけれど、「組織が目的を見失って、管理コストの最少化が自己目的化する」という倒錯は私が知る限り歴史上はじめてのものです。バブル崩壊以後、新しい価値を生み出す力がなくなった組織はどこも「どうやって管理コストを削減するか」を考える部門が中枢を占めて、あらゆる政策決定を仕切るようになった。
 本来は話が反対なんです。どういう「よきもの」をこの世にもたらし来すためにこの組織は作られたのか、それが組織について考えるときの原点です。その次に、メンバーが路頭に迷わないようにどうやって組織を守るかを考える。そこからさまざまな創意工夫や冒険的なイノベーションが生まれる。でも、いまの日本の組織はどこも「管理コスト削減原理主義」という病に罹患しています。その結果、組織が負託された使命を果たせないほどに痩せ細ってしまった。あらゆる組織が上意下達の「効率的な」組織に改変され、メンバーはイエスマンであることを優先的に求められ、そうやって「暴君とイエスマン」だけで構成される組織ばかりになった。もちろん、そんな組織からは新しいものはもう何も生まれないし、そもそも存続することさえおぼつかない。

「日本学術会議のことなんか象牙の塔の問題だ」とメディアも市民も「対岸の火事」として眺めているようですが、いまの学者たちの抵抗は日本社会が「イエスマン以外には居場所がない」ものになってゆく流れに対するぎりぎりの防衛線です。これを座視していれば、遠からず日本は、上位者に対する忠誠度だけを「ものさし」にして全員が格付けされる「おべんちゃら社会」になり果てるでしょう。

 学者がエビデンスや論理を軽んじて、ときの政権におもねるような研究結果を出し始めたら、もう日本の学術は終わりです。それは単に象牙の塔の威信が失われるというだけでなく、日本発のあらゆる情報に対する国際的な信頼性が損なわれるということです。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/536.html#c2

[近代史5] 中国の無償援助を受け入れた国の末路 中川隆
1. 2020年10月25日 08:16:26 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[8]

2020年10月25日
中国に取り込まれるアジア諸国、米中対立の最前線

ベトナム、インドネシアとも貿易額や投資額で日本より中国のほうが大きい

画像引用:https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/10/500-9.php 菅首相、訪問先のインドネシアで500億円の円借款供与 ジョコ大統領と安保、医療でも協力を決めたが── | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

菅首相の初訪問国はベトナムとインドネシア

安倍首相の辞任を受けて誕生した菅首相は、10月に初の外国訪問としてベトナム、インドネシアを外遊し帰国した。

これはかり異例で自民党の首相は同盟国であるアメリカを最初に訪問するか、米大統領と会談することが多かった。

狙いはアジアで覇権を狙う中国のけん制とも言われているが、何かを合意した訳でもなく成果は不明でした。

日本は安倍首相時代から「自由で開かれたインド太平洋」「法の支配」を強調していて、これはトランプの「中国包囲網」に呼応したものです。

トランプ大統領は中国を民主主義の敵と定義し包囲網構築を呼びかけ、日本やオセアニアが関心を示している。

アジアのアセアン諸国は中国への依存度が高く、貿易額で日米より中国が多い国も少なくない。


さらに中国による投資や経済援助、債務による支配で縛られ、債務の罠と呼ぶ状況に陥っている。

スリランカは中国から「無料で港湾やインフラ整備ができる」と持ち掛けられ、うっかりサインをしてしまいました。

その無料の中身は「年10%以上高度成長すると成長分によって事実上債務が消滅する」という分かったような分からないような理論です。


例えば中国からの借金が年利10%で、経済成長が12%なら「事実上返済しなくて良い」という事です。

現実のスリランカの成長率は平均3%台で返済不能になり、港湾などを中国に差し押さえられました。

中国はインド洋の軍港として、空母や潜水艦基地に使用すると言っています。

中国の罠にはまるアジア諸国

アセアン諸国の多くは中国から何かしらこのような「援助」を受けていて、インドネシアの高速鉄道は話題になりました。

インドネシアの高速鉄道計画は日本に決まっていたが、中国が割り込んで「無料で建設する」と言って受注しました。

その無料の中身は完成した鉄道は債務を返済するまで中国の所有物で、沿線開発権や鉄道の経営権も返済までは中国のものです。


中国は沿線の土地を売り出して利益を得て、建設費用を返済し終わるとインドネシアに返還される。

だが中国がこんなのを返済する筈がないので、インドネシア高速鉄道は「中国高速鉄道」になります。

タイ、ミャンマー、ベトナム、ラオス、カンボジアでも同じような事をやって、ゼロ円だの無料だの如何わしいIT企業みたいな契約をしている。


その話には全て罠があり、中国と契約した国は鉄道やインフラや国そのものを乗っ取られる事になります。

パキスタンは共産中国を世界で最初に承認した大恩人ですが、中国に食い物にされている。

パキスタンは西側から制裁されていて兵器やIT機器を中国から導入したが、金が払えないので資源で支払っている。


算出した地下資源は中国に取られてしまうので、自国で使ったり外国に売ることが出来ない。

タイは軍事政権が中国と親しく、背後で中国が操っているという噂が常にある。

日米から離脱して中国製兵器を導入しようとする動きもあり、うっかりすると中国の属国になりかねない。

http://www.thutmosev.com/archives/84213717.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/160.html#c1

[近代史4] 三島由紀夫の世界 中川隆
7. 中川隆[-10618] koaQ7Jey 2020年10月25日 08:36:12 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[9]
モーリス・ベジャール『M』解説:三島由紀夫という「起源」
2020-10-25
http://blog.tatsuru.com/2020/10/25_0808.html


東京バレエ団が三島由紀夫没後50年を記念して、モーリス・ベジャール振付、黛敏郎作曲の『M』を上演した。公式パンフレットに寄稿を依頼されたのでDVDで最初の公演の映像を見て、次のような文章を寄せた。

 三島由紀夫は「三島由紀夫」というヴァーチャル・キャラクターをきわめて精密に彫琢したことで作家として奇跡的な成功を収めた。

 もちろん、どんな作家も、程度の差はあれ、謎めいた「虚像」を読者の前に掲げることでその作品の魅力を上積みしている。別に作家自身が仕掛けなくても、読者や批評家たちが進んで「虚像」を作り込んでくれる。それは作家が凡庸で世俗的な人物であるよりミステリアスな存在である方が読者の快楽が強化されるからである。作家にいくつもの相貌があり、いくつもの地層があることを私たちは読者として素朴に願う。だから批評家たちの主務は「この作家は諸君の知らない一面を隠し持ち、諸君が気づかぬ屈託や欲望を抱え込み、諸君が見落としているメッセージをひそかに発信している」という仮説を提示することになるのである。それは「謎解き」というよりはむしろ「謎をふやす」ことに等しい。批評家の仕事は実はそれなのである。それが作品の魅力を増し、読者を引き寄せ、出版社の売り上げに結びつく限り、作家と批評家はある種の「共犯」関係にあると言ってよい。

 三島由紀夫の独自性はそのような共犯関係を峻拒したことにある。三島由紀夫は批評家や読者によって「謎解き」をされることも、作家の許可なしに勝手に「謎を加算されること」も、どちらも拒絶した。その拒絶の仕方はまったく独特のものだった。

 彼は自分にまつわるすべての「謎」を最初から自作したのである。これから先、彼の死後も、自分に関して「解かれたり、付加されたりする」であろうすべての「謎」を批評家に先立って網羅的にカタログ化し、それを「決定版」として残そうとしたのである。

よくこんな不思議なことを思いつくものである。それは三島の作家的矜持のなせるわざであったと同時に彼の超絶的な知性が切望したものだったと思う。「そのようなことをなしうる作家は文学史上私以外にいない」という圧倒的な自負が三島由紀夫を「三島由紀夫を造形する作業」に駆り立てたのだ。

『仮面の告白』について三島自身はこう書いて、自らのテクスト戦略を明かしてみせた。

「多くの作家が、それぞれ彼自身の『若き日の藝術家の自畫像』を書いた。私がこの小説を書かうとしたのは、その反對の欲求からである。この小説では、『書く人』としての私が完全に捨象される。作家は作品に登場しない。しかしここに書かれたやうな生活は、藝術の支柱がなかったら、またたくひまに崩壊する性質のものである。従ってこの小説の中の凡てが事實に基づいてゐるとしても、藝術家としての生活が書かれてゐない以上、すべては完全な仮構であり、存在しえないものである。私は完全な告白のフィクションを創らうと考へた。」(「『仮面の告白』ノート」)

「『書く人』としての私」とは実在の平岡公威のことである。彼はそれが「完全に捨象される」ような私小説を書くことで、その小説の作家として作品のあとに登場してくる三島由紀夫という、「完全な仮構」「存在しえないもの」を虚空のうちに造形したのである。

 わかりにくい話で申し訳がないが、そんな変なことを考えて実践した作家は三島以前にも以後にもいないのだから、話がわかりにくくなるのは仕方がない。
 作家は作品の前にいるのではなく、作品の後に、事後的に、仮構された起源としてはじめて登場してくるという知見自体は三島の創見ではない。モーリス・ブランショはこう書いている。「作家はその作品によってはじめて自己を見出し、自己を実現する。作品以前に作家は自分が誰であるかを知らないばかり、存在しさえしないのだ。彼は作品に基づいてしか存在しない。」(『文学と死ぬ権利』)

 三島由紀夫はその作品が書かれる前には存在しなかった。平岡公威は三島由紀夫に命を吹き込み、三島由紀夫という作家に「作品の起源」の座を譲るという仕方で姿を消した。後に残されたのは三島由紀夫という「あたかも全作品の創造主であるかのように仮構された被造物」である。三島由紀夫についてのすべての「謎」もまた「三島由紀夫の謎」として計画的に製作されたものなのである。作品だけでなく、彼が造型した肉体にも、写真や映像にも、政治的行動にも、三島由紀夫の日常生活の挙措のすべてに、目を凝らして見れば「製造元・三島由紀夫 不許複製」という刻印が押されている。それはもはや「書く人」のいない完全な虚構であり、それゆえ完全な芸術だったのである。

 だから、三島由紀夫の全生涯をいくつかの特権的な図像的主題に凝集させてバレエ作品に仕上げるというモーリス・ベジャールの仕事も、三島の生涯をいくつかの特徴的な音楽的主題にとりまとめるという黛敏郎の仕事も、二人のクリエイターに「これは三島という巨大な存在を切り縮めることにはならないだろうか?」という不安をもたらすことはなかったと思う。むしろ、これは二人にとって心楽しい作業だったはずである。それは「三島由紀夫という主題」を選定して、いくつかの特権的な主題や言葉や図像にとりまとめ、「これが三島由紀夫だ 決定版」カタログをあらかじめ作り置きしておいたのは作家自身だったからである。

 ベジャールも黛も、「三島が作り置きした三島由紀夫についての物語」に忠実に準拠してそれぞれの作品を創り上げた。この仕事は「死せる三島と共同作業をしている」という高揚感を彼らにもたらしたはずである。そして、それこそが三島由紀夫からの後世への気前の良い贈り物に他ならなかったのである。

 モーリス・ベジャールはみずから解題して、「M」は「謎(mystère)のM」だと語った。「Mが何を意味するかは誰も知りません。ですから、ひとりひとりの観客は物語の意味を、自分にとっての神話(mythologie)を自分自身で見出さなければなりません。」

 ベジャールはにこやかにこう語った。このような言葉は「『M』を見た観客たちは物語の意味を、自分にとっての神話を必ず見出し得るであろう」という自信なしには出てこない。ベジャールが自信を持っているのは、自分が独特の三島解釈を下したわけではなく、三島自身が手ずから創り上げた「三島解釈」に忠実に従って振り付けたことに確信があるからである。そうである以上、仮に三島由紀夫が冥界から甦ってこの舞台を見ても、きっと深く満足して破顔一笑するに違いないという自信がベジャールにはあった。

 死んだあとでさえ、三島由紀夫については、誰にも謎解きすることも、謎を付加することも許さない。その死せる作家の強烈な意志がこの舞台をすみずみまで貫いている。そのような法外な意志を死後半世紀のちにまで貫きとおすことのできた作家を私は文学史上三島由紀夫の他に知らない。

http://blog.tatsuru.com/2020/10/25_0808.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/451.html#c7

[近代史4] 寺島英弥 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ 中川隆
1. 2020年10月25日 09:40:13 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[10]
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(2)「デスマスクが語るもの」(前編)
執筆者:寺島英弥 2019年9月6日
https://www.fsight.jp/articles/-/45830

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)

 本連載の主人公、6月に104歳で他界した青森県弘前市の波多江たまさんの遺品の絵を、第1回目でプロローグとして紹介させてもらった。1936(昭和11)年2月26日に起きた「二・二六事件」で、蹶起した青年将校ら15人が陸軍衛戍刑務所で銃殺刑となった同年7月12日の朝。隣接する代々木原演習場の一角に仮設された遺体引き渡し所の絵だ。絵に書きこまれたメモに、「安田さんは、デスマスクを取っていた」とある。気になった読者もいることだろう。

「安田さん」とは、たまさんの兄、対馬勝雄歩兵中尉=享年28、青森県出身=らと一緒に刑死した安田優(ゆたか)砲兵少尉=同24、熊本県天草出身=の遺族のことだ。

 突然の処刑の通知とともに遺体引き取りに呼ばれた遺族たちは、5つの仮設テントの前に列をつくった。悲痛なすすり泣きと沈黙の時間のさなか、「『少し待ってください。いま安田さんがデスマスクを取っていますから』と刑務所長から言われた」と、たまさんは生前に回想した。対馬中尉の遺族、付き添いの人々の前の順番で遺体と対面したのが、安田家の遺族だった。

生々しい銃弾痕
 デスマスクの存在を筆者が初めて知ったのは、事件の刑死者遺族の会「仏心会」の2代目代表、河野司さん(故人)の著書『二・二六事件』(日本週報社、1957年)をたまさんから読ませてもらい、「叛乱将校の銃殺」というくだりを開いた時だ。〈某騎兵少尉が外套の下に隠した小型カメラで秘かに撮影した〉という処刑前の唯一の刑場写真と並べて、デスマスクの写真がある。

 ふっくらとした頬、眠るように閉じた目からは、

〈人事全く了る。安らかに眠につかむ 昭和十一年七月十一日午后十一時〉

〈我を愛せむより国を愛するの至誠に殉ず 昭和十一年七月十二日刑死前五分〉

 との辞世の心境が伝わる。だが両眉の間には、まるで血が滲んだような弾痕の裂け目が見え、青年将校らがたどった凄惨な運命を生々しく伝える。

 デスマスクを取ろうと決めたのが、3歳上の長兄・薫さん(故人)だった。京都帝国大学に在学中、マルクス主義研究サークルの学生らが治安維持法で一斉摘発された「京都学連事件」(1925年)から続く特高の摘発で、1931年に検挙された。その後、経済誌記者を経て事件当時は内務省で働いていた。その動機は「天皇専制への憎悪」であったという。

〈七月十一日が(処刑前日の)最後の面会日であり、この時彼(安田少尉)の関心事から勅命等により裁判の決定が取り消されるのではないかという、わずかな希望を持っていたのではないかと推測し、悲しい思いに圧倒され(中略)デスマスク作成が唯一の憎悪の表現手段と考え〉

 と、薫さんが末弟善三郎さん(93)に残した1998年4月4日の書簡にある(『二・二六事件青年将校安田優と兄・薫の遺稿』所収、同時代社)。

「なぜかというと、『デスマスクは軍の官僚たちに対する見せしめだ。お前たちが弟をこういう姿にしたんだ、と忘れさせぬためだ』と長兄は言っていた」

 善三郎さんは、薫さんの終生消えなかった怒りをそう語った。

 安田少尉は、二・二六事件犠牲者の1人、渡邊錠太郎陸軍教育総監の邸宅を部隊と襲撃した際、右脚を負傷し、事件が終息した2月29日午後まで、赤坂伝馬町(現在の元赤坂1丁目)の前田外科病院(現・赤坂見附前田病院)に入院した。デスマスクは、薫さんの願いで遺体引き渡しの場に院長が立ち会い、読経の後、石膏の型を取った。同席した陸軍士官学校同期の親友高矢三郎氏(故人)の手記はつづる。

〈先ず看護婦が繃帯を取り除く。正に眉間の真ん中に一発(中略)アルコールで顔全体をきれいにしワセリンを塗った後、先生が十五番位の針金で丁度剣道の面の金具のような骨格を作り、全面に厚く盛り上げた。ややあって、固まった石膏を先生が静かに持ち上げる。裏返された先生が、「あゝよく出来ました」と原型に一礼されたのが印象深い〉

 原型からデスマスクは3面作られた。1つは高矢氏の和歌山の自宅に置かれ、1945年の空襲で焼失した。残る2面は戦後、郷里の天草市本渡歴史民俗資料館と、防衛省防衛研究所に寄贈された。蹶起将校の遺品で唯一のデスマスク。天草の資料館では二・二六事件から80周年に当たった2016年、善三郎さんを語り部として大勢の人に公開された。安田少尉は死してなお事件を語り続けている。

事件後を生き抜いた同志
「あの日、安田少尉の弟さんが『何か困りごとがありましたら、いつでも声を掛けてください。後のご供養も自分に任せてください』と親切に話してくれた。以来、安田さんのご遺族を近しく感じてきた」

 たまさんは、104歳の人生に焼き付けられた兄の処刑の朝を回想するたび、「地獄で仏に出会ったよう」という心の救いをこう語った。この弟さんは、安田家の三男、祖龍氏(本名・尚、故人)。事件のころ、駒沢大学で仏教を学んでおり、戦後、天草下島の本渡町(現天草市)にある曹洞宗明徳寺の住職となった人だ。2歳上だった安田少尉の菩提を弔いながら、1972年に他界した。

「祖龍がこんな話をしていた。実家が百姓をしていたから、農繁期に赤ん坊だった私をおんぶして田んぼの作業をしていた。ある日、私が背中にそそう(小便)をしたらしい。兄が小学3年のころだという。もうこんな生活はいやだと言って、自分から坊主を志した」

 六男の善三郎さんは振り返る。


士官学校卒業間もない安田優少尉(前列右端)=1934(昭和9)年7月(安田善三郎さん提供、以下同)
 事件の当時まだ小学3年生で、天草下島の旧宮地村の実家で親と暮らしていた。1945年2月に陸軍士官学校予科に入ったが、半年後に敗戦の日を迎え、戦後、慶應義塾大学法学部を卒業して「武蔵紙業」(現ムサシ)に勤めた後、72歳から13年間、仏心会の代表を務めた。

「たまさんは私より11歳年長だが、遺族も世代交代して、事件のあった日々をじかに知り、処刑された身内の遺骨を抱いた経験を持つ人は、私たちくらいになった」

 筆者が初めて事件の刑死者、殉難者の追悼法要(東京・賢崇寺)を取材した今年2月26日、善三郎さんはそう語り、高齢のため長らく法要で会えなくなっていたたまさんの健康を気遣った。たまさんが仏心会へ「最後の挨拶」となった手紙を送ったことを前回紹介したが、その文中でも遺体引き取りの日の心遣いへの感謝を安田さんに述べ、互いに「事件後」を生き抜いた同志の存在になっていた。

「お兄さん(対馬中尉)のご遺骨を抱いて列車で青森に帰った時、(監視の憲兵が同乗して)一番最後まで降ろされなかったとか、たまさんからご苦労を伺った。そういう経験をした方はもうおられない。私は天草の田舎にいて、(安田少尉の)葬儀が許可されたのが10月だった。遺骨がずっと実家にあり、デスマスクの1つも父の清五郎(故人)が持ち帰った。そのデスマスクをよく見ていましたよ。額の銃痕だけでなく、鼻に出血止めの脱脂綿が詰められたのも分かった。骨箱を開けると、一番上に頭がい骨がそのままあって、火葬のまきの火力が弱かったのだろう、血(の跡)が走っていて、死を生々しく感じ取った」

 2月26日の全殉難者法要に参列し、境内の青年将校ら「二十二士」の分骨の墓に花を捧げた善三郎さんは、筆者にそう語った。

 やはり、二・二六事件と兄の死は善三郎さんの人生に「いまもここにある」ものとして刻印されていた。

 93歳ながら、2月26日の全殉難者法要と、7月12日の青年将校らの慰霊法要には参列を欠かさず、いつも凛とした口調とたたずまいに、たまさんと同じく、生ある限り「語り部」の使命を背負い続ける人の決意を感じた。

 喪服姿の遺族たちとの交流を邪魔してはいけないと、あらためての取材をお願いし、神奈川県葉山町の自宅を訪ねたのが翌3月30日。庭から望む湘南の早春の丘陵は、山桜の淡紅色に染まっていた。

故郷天草への思い抱き
「私の生家は宮地村の約3000人の農村集落にあり、戦前には10軒くらいの大地主、その下に小地主(自作農)、自作兼小作、そして100戸ほどの小作がいる階級社会だった」

 善三郎さんの話は、家族の歴史から始まった。祖父善吉さん(故人)は大地主の家の長男に生まれたが、「“ばか正直”な生き方をしたために曾祖父から廃嫡され、わずか5反の田んぼと多少の畑を耕す自作農になり、父が米穀の仲買人を仕事にして現金を稼いだ」。

 母コヨさん(故人)との間に6人の息子、4人の娘をもうけ、貧乏な暮らしだったというが、「お前たちに財産は残せないが、教育を残してやる」「お前たちは村では本家の子どもの上席に座れないが、村を出て出世し、本家を見返せ」と常々、家訓のように言い聞かせた。

 長男の薫さんは期待通りに旧制福岡高校、京都帝大経済学部に進み、次男の優は陸軍士官学校に入った。兄弟そろって村始まって以来という大出世だった。

 善三郎さんには、13も年長の安田少尉と同じ屋根の下で暮らした歳月はない。

「生まれた時には旧制天草中学に行っていた。私が5つだった昭和5年、優は転校先の熊本の済々黌(旧制中学)を出て士官学校予科に入った。思い出といえば、川にウナギ捕りのワナを仕掛けに行くのに連れていってくれたり、士官学校の夏休みに帰省しての帰り道、船着き場まで私が軍刀を担いで付いていったり。『遅くなるからもう帰れ』と言われた。優しい兄だったのを覚えている」

 創立1879(明治12)年、熊本最古の県立高校である済々黌は、現在も文武両道の名門校として全国に知られる。熊本は西南戦争で勇名をはせた熊本鎮台、後身の第6師団があり、熊本陸軍幼年学校も置かれた軍都。戦前の済々黌は多くの軍人を輩出した。

「優は初め、父の希望もあって大学へ進むのが第1志望だった。弁護士になりたかったが、『法律は金の力で左右されることが多いから、やめた』と考えを変えて士官学校を選んだ」

 と善三郎さんは言う。

「しかし、中学校では『天草から来た』と、ばかにされたようだ」

 美しい島々が連なる天草地方は、苛烈なキリスト教徒迫害と重税取り立てに端を発した1637(寛永14)年の島原・天草の乱で知られる。荒廃の後、天領となって移民政策などで復興されたが、耕地や産業も乏しい離島の貧しさは、大地主支配もあって明治以後も変わらず、人々は出稼ぎに収入を求め、村々を歩く女衒への娘身売りと海外への人身売買が「唐行き(からゆき)さん」の名を生んだ。安田少尉の済々黌時代は、とりわけ昭和恐慌が農村の生業に大打撃を与えていた。

 こうして近代の恩恵から取り残された古里の原風景は、後の二・二六事件で蹶起した青年将校の同志、対馬勝雄中尉を生んだ東北にも重なる。

「天草女という言葉が昔あった。天草出身の女性が貧しさ故に当時の満州とか南方へ連れていかれ身を売っていた、という悲しい現実によるものだった。熊本は細川藩のお膝元ということもあり、天領だった天草の歴史と併せて蔑むようなやつが兄の学校にもいた」

「東北、北海道までそうだったと思う。多くの兵隊さんが農村から戦地に来ていた。大事な働き手を農家は奪われるのだから、生活苦になれば、次は娘を身売りに出すしかない。そうした実情を肌で知って、何とかしなければというのが、兄たちが蹶起した訳だった」

農村窮乏への怒り
 安田少尉は二・二六事件の後、東京陸軍軍法会議で被告人となるが、それに先立つ1936(昭和11)年3月1日、牛込憲兵隊の尋問調書に次のような証言を残した=以下、『安田優資料』(安田善三郎編著、1998年)より引用=。

〈私ハ小サイ時カラ不義ト不正トノ幾多ノ事ヲ見セツケラレ、非常ニ無念ニ感シテ来タ〉

〈中学校ニ入リ一番正シイノハ軍人タロウト思ヒ軍人ヲ志願シタノテアリマス(中略)共産主義ノ説明ヲ父親ニ聞キ大イニ共産主義ヲ憎ム様ニナリマシタ。実ニ軍人ノ社会ハ正シイモノト思ツテ志願シタノテアリマス〉

 ところが、東京・市ケ谷台の士官学校(教育課程は予科2年、隊付き勤務6カ月、本科1年10カ月)に入った途端、生徒間の不正行為やカフェー遊びなどを知って憤慨した。しかし、教官役である村中孝次区隊長に触れて、

〈私情ヲ投ケ君国ニ殉スルノ精神ニ甦ツテ行動シテ居ラルヽコトニ非常ニ感奮〉し、家族同様の親交を結んだ。

〈其ノ親交中ノ無言ノウチニ愛国ノ士テアルコトカワカリ、無言ノ感化共鳴シ全クコノ愛国ノ至情ニハ一ツノ疑念ナク、凡テニ於テ共ニ行動出来ルモノト確信シタノテアリマス〉

 村中区隊長は青年将校たちの国家革新運動の中心人物で、後に二・二六事件の首謀者となる。予科時代の安田少尉は村中との出会いから運動に共鳴し、1932(昭和7)年、旭川野砲兵第七連隊付き士官候補生として赴任した北海道の農村の現実に、自らの生き方を決めるように憂国の情を一気に深める。

〈経済上ニテ、現状ハ一君万民ノ国情ニナツテ居ラヌ事ハ明瞭ナル事テアリマス。同シ陛下ノ赤子ナカラ、農村ノ子女ト都会上層部ノ人々トノ差ノアマリニ烈シイコトハ陛下ニ対シテ申訳ナイト思ヒマス。コレハ現在ノ国家ノ機構カ悪イト思フノテアリマス。殊ニ北海道山奥ノ人民ノ生活ハ満州人等以下ノ生活ヲシテ居リマス〉

 当時、北海道や東北は「昭和の大凶作」のさなか。新聞は〈七萬餘に達した凶作地方児童救済〉(同年4月2日の『北海タイムス』)、〈昭和聖代の痛恨事 婦女子の身賣り 青森で半年間に三百名〉(同年7月15日の『時事新報』青森版)といった悲劇を連日報じた。

「目を転ずれば、飛行機など兵器生産を担う重工業は財閥系大企業に独占され、その金が政党との癒着、政治腐敗の温床となり、農村の救いなき貧困という不正義を正すには実力による国家改造しかない」という確信が、安田少尉に深く育っていった。

〈殊ニ北海道ノ北見ノ方ニ行クト、十一月頃既ニ一月位迄食フ馬鈴薯モ(米、麦ハ勿論ナシ)無イトイフ有様テアリマス。然ルニ農村ノ租税ハ都市ヨリ多ク、金融ハ凡テ集中占拠サレテ居リマス〉

〈北海道ノ兵ノ如キハ、食物ハ軍隊ノ方カヨイカラ地方ニ帰ツテ農ヲヤルコトヲ厭ツテ居ル。ソシテ良兵ハ愚民ヲ作ルコトニナツテ居ル。之皆農村ノ疲弊カラテアル。之ヲ救フニハ、トウシテモ財閥重臣等ヲ排除セネハ実政(現)カ出来ヌト思フノテアリマス〉

 地方の惨状から目を転ずれば、飛行機など兵器生産を担う重工業は財閥系大企業に独占され、その金が政党との癒着、政治腐敗の温床となり、「農村の救いなき貧困という不正義を正すには実力による国家改造しかない」という確信が、安田少尉に深く根を張っていった。

苦界の女性を救おうと
 安田少尉は1934(昭和9)年4月に士官学校本科を卒業し、再び野砲兵第七連隊に見習士官として配属された。旭川は、心酔する村中大尉が同地の旧制中学で学び、少尉時代に旭川歩兵第二十七連隊に勤務したゆかり深い土地だ。2カ月後、同連隊の本隊が出征していた満州(中国東北部)へ派遣されて錦州(現遼寧省)に駐在し、砲兵少尉に任じられた。


1928(昭和3)年の安田家。後列中央が薫さん、その左が済々黌時代の安田少尉。前列の父清五郎さんの左に3歳の善三郎さん
 満州では3年前の9月18日、日本の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した柳条湖事件を戦端に満州事変が勃発。関東軍は独断専行の軍事行動で全土を制圧し、翌1932年3月1日には、傀儡政権の満州国が発足。安田少尉の渡満前年、1933年5月31日に日中両軍が塘沽協定を結び、現地は停戦状態にあった。

 農山村や辺境部に出没する匪賊の討伐を任務とした安田少尉は、ある日、日本人居留民会主催の酒席に連なった。

「親友だった佐賀勝郎氏(故人)が戦後、『砲七会』(戦友会)の機関誌に書いた優の話がある」

 と善三郎さんに聞いた。

 機関誌『山吹』への寄稿文(1972年1月16日)によれば、部隊の歓迎会だった。

 末席の安田少尉は、酌をする芸者の1人が天草出身と知ると、〈こんな場所で働かないで天草に帰れ〉と真剣に説いた。

〈天草の女性が外地で下らぬ男たちに媚を売っているのは見るに忍びない〉

 と嘆き、翌週末に佐賀氏を誘ってまた料亭に行き、〈郷(さと)へ帰れ〉と訴えた。

〈只々同郷の女性が遠い異国で、外地で戦う国軍の威をかりて、我欲をむさぼる邦人たちのおもちゃになっていることに対する憤りからほとばしる口説きである〉

 と佐賀氏は記した。

 給料袋を丸ごと手渡して帰り、その後も給料が出るたびに料亭に通って女性に帰郷を勧め、お金を渡した。満州駐在は短く、赴任からわずか5カ月後の同年12月、旭川の原隊へ復帰が決まると、佐賀氏に、

〈毎月、君宛に金を送るから、彼女の許に届けてくれ、必ず郷に帰る様にすすめてくれ〉

 と頼み、その約束を違うことなく実行し続けた。

 その女性も、家の貧しさ故に身を海外に売られた当時の「天草女」の1人だったのだろう。

 それからの消息は不明だというが、安田少尉にとっては、内外に満ちる「不正義」から救い出したい古里の化身ではなかったか。その女性がせめて、青年将校の心からの勧めを受け入れる結末になっていたら、二・二六事件に参加する運命は変わっていたのか。それとも、個人の力や思いではどうにもならない苦い現実をかみしめただけだったのか。

「古里への切ないほどの愛情、苦界にある人への優しさと誠実は、安田少尉の素顔を伝えるものですね」

 と善三郎さんに問うと、

「優にはたまらなかったのでしょう」

 と満州の逸話に思いを寄せながら、

「ところが、それから同じ兄が、二・二六事件で人の命を奪っていく訳ですからね。これには、私はいまもって耐えられません」

 と深い憂い顔になった。

村中大尉と再会、事件へ
 旭川に戻り初年兵教育を担った安田少尉は、1935(昭和10)年12月20日、陸軍砲工学校(現東京・新宿区)に入校する。砲兵・工兵科将校の専門教育の場だったが、2カ月後には二・二六事件に参加する。偶然のタイミングだったのか。

 事件後の翌1936年5月19日、前述した東京陸軍軍法会議の第15回公判で、安田少尉は経緯をこう答えた。

〈本年二月二十三日頃ト思ヒマスガ、私ト同ジク砲工学校入校中の鉄道第二聯隊ノ中島莞爾少尉ノ下宿ニ行ッタトキ村中孝次ガ来テ居ッテ、近ク同志ガ蹶起スルコトニナッタト告ゲラレマシタカラ、私ハ同人ヲ信用シテ居ルノデ、一身ヲ賭シテモ決行ニ参加スルト決意ヲ示シマシタ〉

 直接の契機は、心酔する村中との東京での再会であった。安田少尉は同じく士官学校時代に村中を師と仰いだ同期生、文中の中島工兵少尉(佐賀県出身)と一緒に、目前に決行が迫っていた蹶起に迷わず勇んで身を投じることになった。

 村中大尉は1925(大正14)年、士官学校卒業間近のころ、思想家北一輝(輝次郎、二・二六事件に連座し死刑)の著書『日本改造法案大綱』(1923年)を読み、

〈天皇ニ指揮セラレタル全日本國民ノ超法律的運動ヲ以テ先ズ今ノ政治的經濟的特權階級ヲ捨ツルヲ急トスル〉

 と説く天皇・国民国家への日本改造(天皇大権発動による戒厳令、華族廃止、私有財産の制限、財閥解体と生産・資本の国家的統一、労働者の権利、国民の生活権利などを含む)に共鳴したという。

 その後、旭川の歩兵第二十七連隊で初年兵教育を担う中で、兵隊たちの出自たる庶民の貧しい暮らし、農村漁村の窮乏、地方の中小企業の惨状を知り、その体験が運動の実践を志させたという。革新派青年将校たちの先駆けを成す精神的支柱だった。大尉まで昇進しながら、国家改造の運動を統制や策動で抑えようとする陸軍中央を批判し続けた。

 士官学校区隊長を務めた後、軍エリート幹部コースの陸軍大学に進んだが、1934(昭和9)年11月、陸軍内で起きた「十一月事件(陸軍士官学校事件)」のため憲兵隊に検挙され、放校される。この事件は、村中大尉ら「皇道派」と呼ばれた青年将校グループと、「統制派」と色分けされた中央幕僚らの対立が激しくなる中、士官学校の教官となっていた統制派の辻正信大尉が士官候補生を使って青年将校グループの情報を集め、元老、重臣を殺害するクーデター計画を密告させたとされる。が、そのような事実があったのか否か、いまだ定かではない。

 村中大尉らは1935(昭和10)年7月、

〈軍内攪乱の本源は実に中央部内軍当局の間に伏在する〉

 などと事件の背景、軍の内幕を暴露する「粛軍の意見書」を、共に検挙された磯部浅一陸軍一等主計と連名で執筆。青年将校の内情を探ろうとして、〈叛乱陰謀ともいふべき事実内容を虚構捏造〉したと辻大尉らを非難し、誣告罪で告訴した書面と併せて全国の同志に拡散し、ついに免官された。対立抗争も頂点に達していた。

〈内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮して、稜威(聖なる威光)を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除(刈り除く)するに非ずんば、皇謨(天皇の描く国政)を一空せん〉

〈君側の奸臣軍賊を斬除して、彼の中枢を粉砕するは我等の任として能く為すべし〉

〈君子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さざれば破滅沈論(零落の意)をひるがえすに由なし〉(注・カッコ内はいずれも筆者)

青年将校たちが積年の訴えと決意を込め、村中大尉も筆を入れた二・二六事件の「蹶起趣意書」の一節。1936(昭和11)年2月26日の直前、安田少尉を蹶起に引き入れたのも村中大尉だった。


7月12日、「二十二士の墓」にお参りした安田善三郎さんと仏心会の今泉章利さん=東京・麻布十番の賢崇寺(筆者撮影)
「『村中さえいなければ、村中とさえ出会わなければ』と事件の後、天草の父は言っていましたね。是非もないことだが、優のあのような行動と死が、親としては悔やまれてならなかったのだろう」

 と、善三郎さんは振り返る。

「戦後になって、兄の士官学校同期生の方が 私に『あの時、村中さんがこう言った、ああ言った、ということを口癖のように言っていた』と語ってくれたことがある。それほど傾倒していたんです」

 安田家の人々と同じ問いと憾み、苦悩を、どれだけの家族が背負って生きることになったのか。(この稿つづく)
https://www.fsight.jp/articles/-/45830


【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(3)「デスマスクが語るもの」(後編)
執筆者:寺島英弥 2019年9月29日
https://www.fsight.jp/articles/-/45918


ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)
 安田優少尉が蹶起と襲撃の計画を突然、村中孝次元大尉から指示されたのは「二・二六事件」前日の 1936(昭和11)年2月25日の午後3〜4時ごろ。場所は砲工学校に近い中島莞爾少尉の下宿だった。

 殺害目標は、昭和天皇の重臣、斎藤実内大臣と、陸軍首脳の渡邊錠太郎教育総監(大将)。事件の震源地となった歩兵第三連隊(現在の港区六本木)でその夜、同じ襲撃班とされた同連隊の坂井直歩兵中尉(三重県出身、事件後に刑死)、士官学校同期の高橋太郎歩兵少尉(石川県出身、同)、麦屋清済歩兵少尉(埼玉県出身、無期懲役)と顔を合わせ、襲撃計画の詳細を練った。それからの行動を、事件後の5月19日、安田少尉が被告席に立った東京陸軍軍法会議の尋問調書から再現してみたい。

斎藤内大臣、渡辺総監の襲撃計画
「只今から昭和維新に向かって邁進する。合言葉は尊皇討奸、目標は斎藤内府」

 坂井中尉は26日午前2時ごろ、同志以外の下士官たちを起こして蹶起の理由を告げ、兵を招集して全員整列させて号令をかけた。

 午前4時20分ごろ、坂井中尉を先頭に約200名が営門を出発し、5時ごろ、当時の四谷区仲町にあった斎藤邸に到着。部隊は表門から侵入し、こじ開けられた雨戸から安田少尉は屋内へ駆け上がった。

 逃げる女中を追って階段を上ると、部屋から夫人が顔を出し、「待ってください、待ってください」と立ち塞がると、その向こうから斎藤内大臣が「何だ」と言って向かってきた。

「天誅」と、安田少尉は夫人の肩越しに拳銃を1発、相手は倒れた。「殺すなら私を殺してください」と覆いかぶさる夫人を避け、頭部胸部へさらに数発。「襲撃目的を達せり」と確信した。

部隊は午前5時40分ごろ、赤坂離宮前に移動。坂井中尉ら主力は陸軍省(現在の憲政記念館付近)に向かい、安田少尉ら次の襲撃班約30名は、軍用貨物自動車に乗って杉並区荻窪の渡邊教育総監邸に急行した。

 6時ごろ、表門から乱入して、閉ざされた玄関の扉に軽機関銃を発射。その銃床で窓硝子や壁を打ち壊して中に入り、内扉を身体で押し開けようとした安田少尉は、 突然、拳銃で狙撃され、横によろめきながら玄関に這い出た。足がしびれたがやっと歩いて、裏手に回った兵の後から縁側を上がった。


 すると、寿々夫人が隣室の仕切り襖の前に立ち塞がり、「それが日本の軍隊ですか」と叫ぶ。「閣下の軍人ではない、陛下の軍隊である」と安田少尉は反駁して夫人を押し退け、襖を開けた。その瞬間、総監が布団を盾に輻射の姿で拳銃を発射。その弾が軍刀の柄頭に当たり左肘を掠めた。安田少尉は「撃て」と言いながら縁側に倒れ、軽機関銃手が応射した。倒れた総監の背中に、さらに安田少尉の拳銃の弾が2発撃ち込まれた。

 26日早朝の蹶起部隊は、青年将校たちに率いられた下士官・兵1483人。襲撃した先は首相官邸から新聞社まで16カ所に上り、斎藤内大臣、渡邊教育総監のほか、高橋是清蔵相、岡田啓介首相の義弟・松尾伝蔵陸軍大佐や、警備の巡査らも殺害した。

 蹶起趣意書は〈所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元凶なり〉と討伐理由を掲げ、青年将校らは天皇親政による昭和維新を成し遂げようとした。その目標を妨げる「奸賊」を誅滅すれば、妖雲を払うように、天皇の親政、統帥の下で国内の不平等、不正義、貧困を解決し、農村の窮乏も救う昭和維新、国家改造を一挙に実現できる、と信じた。

 安田少尉もまた尋問調書で、

〈一、軍上層部の政治的野心を除いて真の皇軍の姿に復せしめ度きこと。二、中間介在の勢力を除き以て挙軍一致の実を揚げんが為であり〉

 とし、最後に、

〈一つは村中、中島に殉じたのであります〉

 と同志への疑いなき忠誠を吐露した。

天草に届いた事件の報

「二・二六事件が起きたのを天草で知ったのは、26日の朝だった」

 と、安田善三郎さん(93)=神奈川県葉山町=は回想する。安田少尉の13歳下の弟で、当時は郷里の天草下島、宮地村(現天草市)の小学校に通う10歳。いつものように学校へ行ったら、「東京でなにか大変なことがあったみたい」と女の子から聞かされた。


山桜を背に二・二六事件と兄を語る安田善三郎さん=3月31日、神奈川県葉山町の自宅(筆者撮影)

 陸軍省は26日午後8時15分に事件の概要を報道機関に発表したが、翌27日の九州の地方紙は、『福岡日日新聞』、『九州日報』で1面トップが前代未聞の「空白」になり(2015年8月26日の『西日本新聞』)、『長崎新聞』でも1面がほぼ白紙で、印刷用鉛板の活字が削られた跡が紙面に生々しかった(2016年2月16日の同紙)。

 それでも、東京の中枢部を占拠した多数の兵の姿は市民の目にさらされ、情報は電話などの口コミで早く伝わったのだろう。

(筆者注:東京、大阪などの大手紙は号外や27日朝刊で陸軍省発表を報じ、『河北新報』をはじめ多くの地方紙も通信社電を1面で伝えた)

 東京には、安田家の10人きょうだいで一番年長の長女ホシノさん(故人)が、渡邊教育総監邸から遠くない杉並区荻窪で義兄冨田義雄さん(同)と暮らしており、内務省に勤めていた長男薫さん(同)と、陸軍砲工学校への入校で前年暮れに上京した次男の安田少尉が寄宿していた。その姉から26日午後、父清五郎さんあてに電報が届いた。

〈ミナブジ アンシンシロ〉

 との文面だった。

「読んだ父は『無事ならばなぜ、わざわざこんな電報を? 何かあったのか』と不吉なものを感じたようだ」

 と善三郎さんは言う。

 東京で起きた遠くの大事件が安田家の運命を変えたのは、3月1日の夕方、やはり船が届けた半日遅れの『九州日日新聞』の朝刊だった。

「事件に参加した将校が免官になった、という見出しに5人の名前が並び、その中に『安田優』があった。突然、わが家は悲嘆のどん底に落ち、母は半狂乱になった。父は塞ぎ込んで涙をこらえていた。私は子ども心にもただただ悲しかった。村人の目も、その日から180度変わった」

(筆者注:陸軍省は事件を鎮定した2月29日、参加した青年将校15人の免官発令を報道機関に発表。同日さらに5人の免官を追加発表し、安田少尉の名前があった)

悲嘆に暮れた家族

 村始まって以来の栄誉という士官学校合格の息子を育てた両親は、「安田の家は『教育、教育』と言っていながら、何にもならんかったじゃないか」という陰口にさらされた。村出身で初めて旧制高校に入った長男薫さんも、京都帝大経済学部時代、蜷川虎三教授(戦後、京都府知事)に共鳴する左翼学生として「京都学連事件」から続く特高の弾圧で検挙された経歴を持つ。村人の安田家へのそれまでの屈折した感情は、「兄弟の1人はアカで、1人は人殺しだ」という非難と差別の言葉に変わった。善三郎さんはいまも生々しく語る。

「薫の実家だということで、うちにはよく特高が来た。父が『ご苦労さん』とビールを注ぎ、連中はうまそうに飲んでいた。特高という言葉も知った」

「二・二六事件の当初の状況は鮮明に記憶している。兄が誰かを『殺した』ということは分かった。小学生だったが、まわりもそんな反応をしてきた。けんかをすれば、『お前の兄は人殺し』と言われた。いまだに引っかかっていることもある」

 授業が終わると、子どもたちはみんな校庭を走らされた。先生から「よし!」と言われた子は一団から外れていく。善三郎さんも一生懸命に走った。しかし、先生からはいつまでも名前は呼ばれず、なぜか分からぬまま最後まで走らされた。まるで、見せしめの懲罰でもあったかのように。

 逆境の中でも安田家の暮らしは続いた。善三郎さんは小学校から帰ると百姓仕事を手伝い、1944(昭和19)年、天草中学5年生の時に熊本の旧制五高を受験して落ちた。次に受けたのが陸軍士官学校。

「蹶起将校だった安田優の弟だから、受かるかどうか分からない」

 と思いながら、太平洋戦争の戦局が悪化を たどる折、

「どうせ死ぬんだ、いちかばちかだ、という気持ちがあった」

 と語る。

 士官学校に合格、入校したのは1945(昭和20)年2月。予科を埼玉県朝霞で過ごしたが、

「その間、事件絡みの理不尽な出来事はなかった」

 という。むしろ、東園猛中隊長から部屋に 呼ばれ、

「お前の兄は国士ではなかったし、国賊でもない。兄貴のことは忘れて勉強をしろ」

 と、気遣いの言葉を掛けてもらった。

「ありがたかった。それでも私は、事件のことを忘れることはできなかった」

上陸してくる米軍戦車の下に、爆弾を抱えて身を投じ、自爆する――。軍部の「一億総玉砕」の掛け声の下、本土決戦を想定した訓練に明け暮れていた夏、終戦を告げる昭和天皇の玉音放送を聴いた。ついに士官となって戦場の兵を指揮することなく、それでも「死ぬことだけを考えていた」という善三郎さんは、予科の仲間たちと一緒に泣いた。

 天草への帰還から「戦後」は始まる。

 父清五郎さんは還暦を過ぎ、善三郎さんは妹の久枝さんと百姓仕事を手伝った。そして1年半。息子の行く末を案じた父が、

「お前はいつまでこんなことをしているんだ。大学を受けろ」

 と言った。深い心の傷を負った両親を残して上京することに申し訳なさはあったが、善三郎さんは慶應義塾大学法学部に合格。勉学の傍ら、田植えの季節には帰郷し、夏休み前も早く帰って農作業を手伝った。

 東京では、賢崇寺の慰霊法要に初めて参列した。二・二六事件の青年将校らが刑死して間もない1936(昭和11)年秋、栗原勇さん(故人)が呼び掛けた仏心会は、陸軍の監視も解けた終戦後、未亡人や遺児を支える活動など、遺族が心を寄せ合う場になっていた。

「初めて出会う遺族はごく普通の人たちで、それぞれにご苦労を重ねていた。でも、皆さんとは年が離れた一番の若造で、膝を交えて話をするほどにはまだ打ち解けなかった」

先人に導かれ仏心会代表に
 慶大を卒業した善三郎さんは、元職業軍人が創業者だった武蔵紙業株式会社(現ムサシ)に入社し、年月を経て仏心会の人々に関わるようになった。仏心会の2代目代表、河野司さん(故人)が先頭に立って二・二六事件殉難者の慰霊像(東京・渋谷)を建立した話を連載1回目で紹介したが、その清掃に通っている人がいることを知った(2019年8月15日『(1)たまさんの絵』)。


今泉義道少尉(今泉章利さん提供)
 今泉義道さん(故人)。事件に将校と兵62名が参加し、高橋是清蔵相の襲撃部隊などを赴援した近衛歩兵第三連隊(東京・赤坂)第七中隊の少尉だった。慰霊の観音像建立後、毎月「2」と「6」が付く日に欠かさず慰霊像を清掃していたという。善三郎さんは仏心会の法要の席でそんな話を聞き、

「今泉さんがやっているのだ、と私は恐縮し、清掃に通い始めた。遺族で当番も決めた。偉い方だと思った」

『懐かしき初年兵教育と私にとっての二・二六事件』という今泉義道さんの追想記(『草萌え 同台経済人の記録』所収)を、今泉さんの次男で仏心会の監事、世話役の今泉章利さん(69)からいただいた。それによると、事件前年の1935(昭和10)年に士官学校を卒業し、近衛歩兵三連隊の少尉に任官したばかりだった。

「父は、青年将校の国家改造運動の洗礼など受けていない“ノンポリ”で、初年兵教育の教官役に情熱を燃やしていた」

 と章利さんは言う。それからの顛末は、まさしく運命というほかない。

  翌1936年2月25日夜。今泉少尉は夜間演習を終えて帰営し、翌日の代休を鎌倉の実家で過ごそうと連隊近くの山王下で市電、タクシーを待ったが、全く来なかった。余りの寒さにやむなく連隊に引き返し、寝台に入ったのが26 日午前零時ごろ。だが、2時間ほどで眠りは破られた。中隊長代理の中橋基明中尉(佐賀県出身、事件後に刑死)に起こされ、

「おい、今泉、いよいよやるぞ。昭和維新の断行だ」

 と高橋蔵相の襲撃を告げられた。

〈寝耳に水、体中の血が一時に止まった〉

 と今泉少尉は追想記につづっている。

「無理にとは言わん。襲撃の間、貴公は(実行に加わらず)待機部隊を引率してくれ。行く、行かぬは貴公の判断に委す」

 と言われ、

「あまりに突然で私には決心いたしかねます。兵隊を連れて行動することも不同意です。先ず、私を斬ってから出掛けてください」

 と喘ぎ喘ぎ答えたという。

 1人部屋に残され苦悩していると、突然、部下の特務総長が完全武装で入ってきた。聞けば、中橋中尉の命令で、同じく蹶起部隊となった歩兵第一連隊(東京・六本木)から大量の小銃実包を運び込み、軍律違反の自責から「私は死にます」と言った。今泉少尉は、

「命じられるまま軍律を犯して実弾を準備し、何も知らず蹶起に参加させられる部下をかばい、救うのが俺の務め」

 と決意し、遺書をしたためて机の引き出しに納め、行動を共にした。


 今泉少尉は事件後、高橋蔵相襲撃援護の罪で禁錮4年の刑を受け、免官された。


慰霊の観音像の下で、献花を準備する今泉章利さん奄逡ァ心会の人々=7月12日、東京・渋谷(筆者撮影)
 善三郎さんが「偉い方だ」と思ったのには理由がある。

「事件に関わり免官となった人には陸軍の満州に渡ったり、蒙古軍の将校になったりした人も少なくない。今泉さんは軍ときっぱり縁を切り、上海の汽船会社に入って民間人として生き直した。ただ部下を思い、事件に巻き込まれたことに一切の恨みも悔いも語らず、戦後は仏心会に尽くし、人知れず慰霊の観音像の清掃に通っていた。私は心から感銘を受けた」


 そして、孤立した遺族をつないだ栗原勇さん、慰霊像建立の悲願に奔走した河野司さんら先人の思いにも導かれ、善三郎さんは72歳から13年間、仏心会代表を務めた。

目前で惨殺される父を見た9歳の少女
 1986(昭和61)年7月12日、二・二六事件の50周年の慰霊法要で、思いもよらぬ出来事があった。善三郎さんの人生を変えた日にもなった。

 取材のマスコミも含め大勢の参会者があった賢崇寺に、カトリックのシスター姿の女性が訪れた。渡邊和子さん。兄の安田少尉が襲撃、殺害した渡邊錠太郎陸軍教育総監の次女だった。


在りし日の渡邊和子さん(安田さん提供)
「その時の気持ちは表現しようがない」

 と善三郎さんは振り返る。安田と名乗れぬまま本堂に案内し、法要の後、境内の「二十二士の墓」に向かった渡邊さんの後を無言で歩いた。同じく襲撃した高橋太郎少尉の弟さんも一緒だった。

 静かに手を合わせて祈る渡邊さんの後ろ姿に、涙がこみ上げた。

「私が安田の弟です」

 とようやく言えただけで、ほとんど会話ができなかった。

 渡邊さんは、

「場違いな所へ来たのかと思ったのでした」

 と語ったが、その表情は穏やかだった。

「私たちに渡邊大将のお墓を教えてください。お参りさせていただきます」

 と伝えると、和子さんは、

「父も喜びます」

 と応えてくれた。

 安田さんは日ならずして高橋さんと、多磨霊園の渡邊総監の墓に詣でた。

 渡邊総監が襲われた背景には、青年将校らと同じ皇道派の眞崎甚三郎前総監が、対立する統制派との抗争で罷免された事件や、中庸な考えを持つ軍人だった渡邊総監の発言が当時、皇道派が問題視した「天皇機関説」擁護と激しく喧伝された経緯があった。

 襲撃時、9歳だった和子さんは父から物陰に隠されたという。

〈自分の目の前で父の身体が機関銃でうたれて蜂の巣のようになり、やがて数人の兵に銃剣で切りつけられ息絶えた光景は、今日でもあざやかに脳裏にやきつけられています〉

 と、自著『美しい人に』(PHP研究所)につづられている。

「安田優の弟が渡邊総監のご遺族に会って良いのか、という葛藤があった」

 と善三郎さんは、半生の苦しみを語った。それゆえ、

「自分の父を手に掛けた者の墓に、どうして手を合わせることができるのか」

 という衝撃と、自我を揺さぶる問いが生まれたという。答えを求めて渡邊さんの著書を読み、思い余って「お目にかかりたいのですが」と手紙をつづった。

 和子さんは当時、岡山市のノートルダム清心女子大学の学長(後にノートルダム清心学園理事長)。快諾の返信をもらって訪ね、神奈川県葉山町の自宅にも招き、2016年に和子さんが89歳で亡くなるまで心の交流を重ねた。

「『ゆるす』とはどういうことか」

 と善三郎さんは自問し続け、聖書の教えにも答えを模索し、和子さんとの出会いから5年後に洗礼を受けて教会に通ってきた。

 渡邊総監の命日の墓参りも、戦後に亡くなった寿々夫人の命日と合わせて現在まで続く。

「兄の優が蹶起に加わった動機は純粋だったと思うが、その行動でどれほど多くの人に悲しい、つらい思いを残したか。罪は決して消えない。なぜ、あそこまでやったのか。訴えるべきを訴えて宮城前で自決を選ぶべきではなかったか、そうすれば誰も殺すことはなかったのではないか――と憾(うら)んだこともあった。その純粋さを翻弄し、葬った政治のシナリオもあったのだろう。ただ、やっぱり血を分けた家族として、不憫に思う気持ちも消えないのです」

 処刑直後の兄のデスマスクが語る苦悶と悲しみもまた、善三郎さんから消えることはない。

 

 蹶起将校の遺族として事件後を生き抜いた「戦友」と善三郎さんが語る、青森県弘前市の波多江たまさん(6月に104歳で他界、連載第1回参照)の思いはどうだったのか。

同じ蹶起将校で、連載の主人公となる対馬勝雄中尉の生と死の軌跡、その意味を問い続けたたまさんの人生を追って、物語は東北に飛ぶ。

https://www.fsight.jp/articles/-/45918
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1128.html#c1

[近代史4] 寺島英弥 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ 中川隆
2. 中川隆[-10617] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:41:46 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[11]

【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(4)青森・相馬町の浜から
執筆者:寺島英弥 2019年10月12日
https://www.fsight.jp/articles/-/45985

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)

 本州最果ての海、陸奥湾には冬と春の境の鉛色の雲が垂れ込めていた。

 今年4月上旬、JR青森駅から東に2キロ余りの堤川を越えた海べりを歩いた。青森市港町地区。魚介の缶詰、焼き竹輪などの水産加工場、問屋、造船所、町工場、倉庫が並び、住宅街と同居する一角だ。古い町名を相馬町という。海岸は青森漁港のコンクリートの岸壁で埋められ、東端は地元の海水浴場、合浦公園の長い砂浜と緑の松林に続く。啄木の歌碑も立つ、この景色だけは昔から変わらない。

 相馬町の面影を探し歩くうち、殺風景な道路沿いに残る大きな石碑と、古い観音堂を見つけた。石碑は1921(大正10)年12月、開町30周年を記念して建立されたとあり、碑文にこんな記録が刻まれる(原文は漢字)。

https://www.fsight.jp/articles/-/45985
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1128.html#c2

[近代史4] 寺島英弥 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ 中川隆
3. 中川隆[-10616] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:42:50 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[12]
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(5)勝雄、陸軍幼年学校へ
執筆者:寺島英弥 2019年10月19日
https://www.fsight.jp/articles/-/46019

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供、以下同)

〈或る冬の寒い日、私が雪に足をとられ乍ら小学校から帰ると、家の入り口に立派な一頭の馬がつながれていました。

 私は馬がこわくて家に入れず、まごまごしていると、何に驚いたのか、いきなり馬が飛び上がり、結んでいた綱が外れて走り出しました。

 私は驚いて大声を上げました。すると家の中から軍人が出てきて、あわてて逃げる馬を追いかけていきました〉

 この連載の主人公、波多江たまさん(青森県弘前市で今年6月、104歳で死去)は、7歳になって間もない1920(大正10)年の暮れか、翌21年初めの出来事だった――と、自らの記憶を掘り起こしたノートにつづった(勝雄の遺文や書簡、家族の手記などをまとめた自費出版本『邦刀遺文』=1991年=の下書きとしたノート類)。

https://www.fsight.jp/articles/-/46019
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1128.html#c3

[近代史4] 寺島英弥 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ 中川隆
4. 中川隆[-10615] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:43:55 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[13]
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(6)「廃校の憾み、少年の胸に宿り」
執筆者:寺島英弥 2019年12月18日
https://www.fsight.jp/articles/-/46275

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)
 仙台市の名所、榴岡公園。旧仙台藩で文人藩主と謳われた4代伊達綱村が、「四民遊楽」の場として枝垂れ桜などを植えさせて庶民に開放し、いまも市民たちの花見でにぎわう。

 広い公園には瀟洒な白亜の洋館が立つ。1874(明治7)年に建てられた旧陸軍歩兵第四連隊兵舎で、現在は市歴史民俗資料館。戦前、東北の軍都と呼ばれた仙台には第二師団司令部(現東北大学川内キャンパス)をはじめ、いくつもの旧陸軍施設が広大な面積を占めていた。

仙台陸軍幼年学校
 歴史民俗資料館と道路を挟んで、古今の歌枕・宮城野の名をよすがとする宮城野中学校がある。かつて、日清戦争後の1897(明治30)年に開校した仙台陸軍地方幼年学校の一角だった。中学校の歩道に面した隅に、幼年学校跡の記念碑と並んで、長年の風雪で黒ずんだ大きな石碑が残され、漢文調の碑文がこう刻まれている。

https://www.fsight.jp/articles/-/46275
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1128.html#c4

[近代史4] 寺島英弥 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ 中川隆
5. 中川隆[-10614] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:44:59 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[14]
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(7)「津軽義民」への道
執筆者:寺島英弥 2020年1月12日
https://www.fsight.jp/articles/-/46366

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)

〈祖母ガ病気ナリト聞キタレバ早速弘前ニ向フ。晝(ひる)頃浦町駅(注・青森市、現在は廃駅)ヲタチ、二時間許ニテ叔父ノ家ニツク。直チニ祖母ヲ見舞フ。スツカリ痩セ給ヘルニ驚ク、祖母ハ今年七十五才余命少キヲ悲シムベシ 叔父ノ家ニ泊ル〉

 二・二六事件=1936(昭和11)年=で蹶起し銃殺刑とされた青年将校の1人、青森出身の対馬勝雄中尉(享年28)。

 まだ16歳だった1924(大正13)年3月20日の日記の一節である。

 皇国軍人の志と精神をはぐくんだ仙台陸軍幼年学校がその2日前、「山梨軍縮」の一環で廃校となり(2019年12月18日『(6)廃校の憾み、少年の胸に宿り』参照)、2学年を修了したばかりの勝雄が理不尽な思い、傷ついた心を抱えて帰省した春休みの出来事だ。

https://www.fsight.jp/articles/-/46366
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1128.html#c5

[近代史4] 寺島英弥 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ 中川隆
6. 中川隆[-10613] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:45:53 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[15]
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(8)昭和4年 運命の出会い
執筆者:寺島英弥 2020年2月18日
https://www.fsight.jp/articles/-/46537


ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供、以下同)
 1929(昭和4)年の正月。連載の主人公、対馬勝雄は18歳になり、仙台、東京の陸軍幼年学校を経て、将校養成の教育機関である陸軍士官学校(東京・市ケ谷台、現防衛省の所在地)の予科、本科で学び、卒業を半年後に控えていた。

 帰省した青森市相馬町(現港町)の対馬家の家族には、小さな変化があった。3人の妹たちで長女のタケ(当時16歳)は3年前の春に上京したのだ。

 もう1人の主人公で、タケさんの3歳下の次女だった波多江たまさん(弘前市で昨年6月、104歳で他界)が筆者に託したノートによれば、次のような思わぬ出来事があった。(注・勝雄の日記や記録、家族と友人らの証言を集めて1991年、自費出版された『邦刀遺文 二・二六事件 対馬勝雄勝雄記録集』の下書きとなったノート類の1冊)
https://www.fsight.jp/articles/-/46537
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1128.html#c6

[近代史4] 寺島英弥 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ 中川隆
7. 中川隆[-10612] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:46:48 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[16]
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(9)満州事変前夜
執筆者:寺島英弥 2020年4月25日
https://www.fsight.jp/articles/-/46845

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)
 山形県酒田市から国道7号を日本海沿いに北上すると、東北の名峰・鳥海山のふもとの遊佐町に至る。道を脇に折れて少し急な坂道を上ったところに、うっそうとしたクロマツの林に囲まれた広場があった。

 遠い海鳴りのほかは時が止まったような薄暗い一隅に、直径10メートルもある円形のこんもりした塚が築かれ、見上げるような石柱が立っている。刻まれた文字はただ「南無妙法蓮華経」のみ。塚の隣には墓碑銘のように、

「私はただ仏さまの予言と日蓮聖人の霊を信じているのです」

https://www.fsight.jp/articles/-/46845
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1128.html#c7

[近代史4] 寺島英弥 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ 中川隆
8. 中川隆[-10611] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:47:38 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[17]
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(10)分かれ道の兄妹
執筆者:寺島英弥 2020年5月31日
https://www.fsight.jp/articles/-/46968

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供、以下同)
〈昭和六年、東北一帯はひどい冷害だった。夏、八月というのに、毎日毎日、冷たい雨がしぶいて、日のさした日といっては、ほんの二、三日しかなかった。

 秋になって、田圃の色だけは、黄金色にかわったが、毎朝、田を回っては心配そうに、稲の穂をしごいて見る百姓の掌に、穂はさらさらと軽く、噛んでみると、むなしいしいなだけが舌に残った。〉

 1897(明治30)年に青森市に生まれ、弾圧と闘った農民運動の活動家、戦後は社会党代議士として昭和を生きた淡谷悠蔵は、1931(昭和6)年の記憶を著書『野の記録』(春陽堂書店)にこうつづった。
https://www.fsight.jp/articles/-/46968
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1128.html#c8

[近代史4] 寺島英弥 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ 中川隆
9. 中川隆[-10610] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:48:34 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[18]
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(11)「昭和維新」胎動の中へ
執筆者:寺島英弥 2020年8月3日
https://www.fsight.jp/articles/-/47163

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)
 1931(昭和6)年9月18日の満州事変勃発から2カ月後。陸軍第八師団(司令部・弘前)の弘前、青森、秋田、山形の各一大隊など500余人からなる混成第四旅団が編成され、内地からの最初の出動部隊として11月18日に朝鮮・釜山に上陸。20日には満州・奉天に到着し守備に就いた。弘前の第三十一連隊が基幹となった同旅団の第二大隊約500名の中に、本連載の主人公・対馬勝雄少尉(当時23歳)がいた。

血気滲む挨拶状
 第七中隊の小隊長を任じられて、自らが教育してきた兵士らとの初めての出征に奮い立った勝雄は、国家改造運動の国内での進展を念願し後事を託する内容の挨拶状をしたためた。宛名リストはないが、律儀な勝雄の性格から、同志の青年将校らだけでなく軍内外の理解者と頼む人々に出されたか。

https://www.fsight.jp/articles/-/47163
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1128.html#c9

[近代史4] 寺島英弥 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ 中川隆
10. 中川隆[-10609] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:49:25 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[19]
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(12)凶作の郷里、慟哭の戦場
執筆者:寺島英弥 2020年9月1日
https://www.fsight.jp/articles/-/47268

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)
 東北新幹線の二戸駅(岩手県二戸市)から北上山地に分け入った「荷軽部」(にかるべ、久慈市山形町)という集落に、「バッタリー村」の看板がある。

 地元の木藤古(きとうご)徳一郎さん(89)が、昔ながらの山村の暮らしを伝える活動の場として、沢水で動く唐臼「バッタリー」の小屋や、わら細工、木工品の作業場などを開放し、遠来の来訪者たちと語り合う。筆者が山村文化の取材で知った木藤古さんは、1930(昭和5)年生まれ。1931〜34年にわたる東北大凶作を記憶していた。

https://www.fsight.jp/articles/-/47268
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1128.html#c10

[近代史4] 寺島英弥 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ 中川隆
11. 中川隆[-10608] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:50:43 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[20]
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(13)戦塵のかなた見果てぬ夢
執筆者:寺島英弥 2020年10月24日
https://www.fsight.jp/articles/-/47456

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)
「幻想交響曲」(エクトル・ベルリオーズ作曲)に「野の風景」(第3楽章)という不思議な楽章がある。追い求めても手の届かぬ女への恋情に翻弄され、断頭台への道を生き急ぐ男に訪れる束の間の静寂の夢。

 読むたびに連想を誘う記述が、本連載の主人公、青森出身の対馬勝雄少尉(陸軍歩兵第三十一連隊)の日記にある。

 満州での戦闘が激しさを増していたさなかの1932(昭和7)年4月1日、奉天で書かれた日記の「余ノ個人生活ノ理想」という一節だ(『二・二六事件 對馬勝雄記録集「邦刀遺文」』所収)。

農の暮らしへの憧憬
〈余ハ故郷ノ平和ナル一部落ノ百姓トシテ暮シ得ンハ甚ダ満足デアル。余ハ敢ヘテ村長タルヲ希望シタイ。自ラ人生ヲ楽シミツゝソノ部落ノ自治助長、共存扶助ニツクシ且ツ文化ニ貢献スルニ力(つと)ムルノミデアル。シカモ日常国家的問題ニ注意ヲ怠ラズ推移ヲナガムルデアラウ〉

〈余ハ自作農トシテ最小限二町歩乃至五段部ノ土地ヲ有スレバ満足デアル。其内概ネ半分ヲ田トシ残リヲ畑地及宅地ニスルデアラウ。別ニ私有又ハ共有ノ山林等ガアレバ多々益ヲ弁ズルノミデアル〉

〈余ハ馬ヲ一頭鶏ヲ数十羽飼ヒタイト思フ。コレニヨッテ肥料ヲ自給スルノデアル。余ハ村オ共同製酒所ヨリ自給セラルゝ濁酒ヲ飲ンデ陶然トセンコトヲ願フ。菓子ヲ購ウコトナク甘藷、南瓜、菓物ヲ代用センコトヲ思フ。又乾柿ヲ以テ糖分トシ蜂蜜ニヨリ菓子ヲ自製センコトヲ思フ。下駄ヲハカズ草履ヲ用ヒ懐中電灯ヲ用ヒズ提灯ヲ用フ(然シ燈火ハ電燈ニヨラント欲ス)燃料ハ山ノ柴ヲ用フ〉

〈莨(たばこ)ハ畑ニ栽培ス。蓋シ莨ノ栽培ハマタ畑ノ害虫ヲ去ルノ効果アルナリ。家ノ北側ノ軒下ニハ「ミジ」(注・山菜のミズ)ヲ栽培スルデアラウ〉

 駐屯先だった関東州荘河の兵営の夜更けにつづったのだろうか。東北の同時代人であった宮沢賢治(1896〜1933年)の『雨ニモマケズ』の響きにも通じる静謐な決意や、農の暮らしへの憧憬が、殺伐たる戦地の砲煙、銃声、阿鼻叫喚とは別の世界から伝わる。最後の一節はこうだ。

〈余ハ村ニ少年団ヲ建設シタイト思フ。ソハ質素作業洋服ヲ着テ相当軍規的訓練ヲ施スノデアル。又鳩ト犬等ニ稍々重点ヲオキ一面我軍事界ニ資スルノデアル〉

 このくだりだけ軍国的に聞こえるかもしれないが、筆者には、勝雄が古里・青森市相馬町での貧しい少年時代、近所の男の子たちを集めて軍旗や基地を作り、教練ごっこをし、イソップ話を聞かせた「少年団」(本連載4回『青森・相馬町の浜から』参照)を瞼によみがえらせているように思える。

 果たして、故郷の現実はどうだったのか。1930(昭和5)年の農村恐慌、翌31年に始まる東北大凶作で、東北の村々には寒々とした枯れ田や娘身売りの光景があり、困窮した小作農民たちと地主とのさらに激しい争議が広がっていた。

先鋭化する小作争議
「小作人から田畑をとりあげるな」「小作人を人間扱いにせよ」「小作人の生き血を吸う鬼畜地主を倒せ」――。

 1926(大正15)年、本州北辺の冷害常襲地にこんなスローガンを筵旗に掲げ、地主に対峙した青森県車力村(現・つがる市)の農民組合の話を本連載7回『津軽義民への道』で紹介した。大凶作でも収穫の4割もの小作料を頑として譲らぬ地主との闘いは、さらに先鋭化した政治闘争になっていた。


昭和初めの村の暮らしを絵にした秋田義信さん=2019年5月、青森市
 戦前・戦後の青森の農民譚を記録してきた著述家、秋田義信さん(94)=青森市=は、昭和初めの騒然たる古里・車力村を多感な子どもの目で見つめた。

「小学生でランドセルやズック靴は地主の子ども1人。あとは風呂敷包みを腰に結わえ付け、男子は夏に裸足、冬も足袋だった。女の子は田んぼに出る親の手伝いで休んだり、弟や妹を学校の廊下で子守りしたりした。

 集落では農民組合が開く街頭演説会が盛んで、淡谷悠蔵(全国農民組合青森県連合委員長・戦後は衆議院議員)や青森の共産党の大沢久明らが我が家の前で熱弁をふるった。私が夕方の食卓で『われわれ労働者は……』と弁士を真似て、父親から怒られたものだった」

「地主は小作料を払えない農家の土地を取り上げようとし、農民組合がそれを阻止した。小作米不納で団結し、地主の手先が農家に催促に歩くと仲間で包囲し、地主の家に押し掛けた。ある尋常小学校では農民組合の人たちが子どもを学校にやらず、国定教科書の授業を受けさせない運動を始めた。

『アカ』といわれて首になった教師を連れてきて、お堂を教室に臨時学校を開いた。その読本の初めに『地主の子どもはゲンダカ(方言で毛虫)の子』とあったそうだ。小学校の朝礼には誰も来ないので、校長が烈火のように怒った。警察からは弾圧されたが」

 当時の労働人口の半分を占めた全国の農民の負債は、1931年7月の農林省の推計で約60億円(現在の約10兆800億円)、1戸当たり約1060円(同約190万円)で平均年収を上回り、1912(明治45)年の推計との比較で8倍余に急増した。革命前夜のような車力村の様相は、もはや起つしか手段のない農民の絶望の現れだった。暴力で潰そうとする地主との衝突も各地で頻発した。

〈厖大化する農民負債の相當部分は高利貸しあるいは寄生的地主からの法外な高利率をもっておこなわれ、このことがさらに農民經濟を壓迫し負債を累揩ケしめた〉

〈農業恐慌の激化は、農業危機を一層具體化し、國家權力をかつてない動揺にみちびき、なんらかの補強工作を必要とするまでに、半封建的な農村社會機構を震駭せしめた〉(白川清「昭和恐慌下の農村財政」=『農業総合研究』1951年第2号所収=)。 

 海軍将校や茨城県の農民らが「農村救済」を掲げて起こした五・一五事件(1932年5月15日)の後、殺害された犬養毅首相の後任の斎藤實首相(退役海軍大将)は、全国から殺到した農村救済請願の運動を受けて開いた第63回議会で、

「諸君、不況困憊の難局に直面して、農山漁村及中小工業の窮状に對し、之が匡救(きょうきゅう)策を講ずることは、今期議会の使命であります」

 と演説する。 

 農村匡救事業は3カ年で国費約5億円(現在の約9000億円)に上るが、満州事変を背景に、

〈「時局匡救に名を借りた軍事費」の支出を含んでおり、さらには匡救事業費中首位を占める内務省匡救豫算には「軍事國道費」あるいは軍港湾費が含まれていたのであった〉(前掲白川清論文)。

 この年、国家歳出の35%を占めた軍事費は翌々年43.5%に拡大。匡救事業を圧迫し、3年で打ち切りとなる矛盾を生む。

 最も優先すべき地主制の改革は避けられ、最後は「農村部落ニ於ケル固有ノ美風タル隣保共助ノ精神」で農民の奮起を促す「自力更生」運動が推し進められる。

家族に満州移民を勧め

1931(昭和6)年刊行の農民運動の機関紙『農村新聞』。勝雄の遺品にあった
 勝雄も満州にあって、部下の岩手出身の兵士たちの声や日々の新聞を通して、東北の農村の窮状を我が身のことと憂えていた。

 では、〈余ハ故郷ノ平和ナル一部落ノ百姓トシテ暮シ……〉という日記は、戦火のさなかの一夜の郷愁、あるいは幻想に過ぎなかったのか。

 筆者には、それは満州という新天地に勝雄が見出そうとした「新しい故郷」への夢ではないか、と思われるのだ。

 その日記と同じ4月1日、勝雄は父嘉七さん宛に手紙を書いている。

〈豊年は豊年飢饉、凶年は凶年飢饉で百姓もどうにもならないでせう……〉

 という絶望的な記述の後に、その思いはつづられる。

〈次に満洲は絶対によい処であります。心配無用、たゞし従来の営利一点張りの金儲主義はだめであります。先ず自給自足経済の観念にて着々と進むべきであります。百姓でも嫩江(のんこう・満州北部、黒竜江省の町)の湿地はそのままゝ水田でモミをまいたきりで草も生えず秋とり入れるのみであるそうです。また馬鈴薯も可、羊の飼育も有望、気候は悪くありません。悪いのは景色だけです。(勝雄の所属する)第八師団が駐屯になる様なら是非移民して下さい〉


乗馬小隊と警ら中の勝雄(左上)
 ひと月前の3月1日、関東軍は清朝最後の皇帝だった溥儀を執政に据え、満州国を独立させた。独立宣言では、
〈凡そ新国家の領土内に居住するものは皆種族の岐視尊卑の分別なし原有の漢族満族蒙族及日本、朝鮮の民族を除く外即ちその他の外人と雖も長久に居住を願うものは又平等の待遇を受くる事を得〉

 と、「五族協和」が謳われた。傀儡国家の建国にも、満州事変を戦った現場の軍人には安堵と楽観があったのだろう。勝雄は、東京で洋裁の修業をしていた妹たまさんに「ミシンを買ってやる」と約束していたが、同じ日記でやはり満州での開業を勧めた。

〈又商売ではたま子のやっている仕立屋などよいと思います。ハルピン辺りでは着物をぬふだけでも大多忙です。何故かといふと(内地から)当地にくる女は水商売やそんなものでハリをとることをしらず、また知っていてもとらぬといふ位です。

 薬屋は相当あります。チゝハルだけでも日本薬屋三軒あり、これからは平和にさえなれば日本人の薬屋のゐない処にて薬屋も有望であります。とにかく日本人のゐない処には商売がよい。集団でゆくなら農業が確実、又チゝハルの奥なら内地と連絡して気のきいた食料品店も(選択として)よくあります〉

 嘉七さんへの満州への移民の勧めは、以後の手紙でも熱心に説かれる。


「楽土 安民の營み」と題された満州の絵葉書
〈第八師団は満洲に来る様に候がいづれ官舎が出来たならばそこに入る様にして家族としては将来、渡満せられては如何に候哉。その前に家督を私に譲り官吏の家族として将来全然内職もなにもせず 或いは集団移民と一緒に来るか。又は単独移民と一緒に長春付近にて暮らすか如何に候哉〉(4月8日)

〈錦州は仲々暑く相成候 然し凌げない訳でなく出来れば家の方も移住する様にいたしたく考え居り候……(文末の追伸)満洲国承認、農村救済は議会で決議せるも実行力うたがはれ候〉(6月28日)

〈満洲は非常によい処と存じます。匪賊のおかげで適当に緊張して暮しよくあります。何れ将来出来るならば一家全部吉林方面へでも移住すれば甚だ結構に存じます。今に満洲の農業が一番さかえる時が来るでせう〉(9月24日)

 満州国は、勝雄だけではなく当時の多くの日本人の目に、建国のもう1つのスローガン「王道楽土」のごとく、昭和の初めを重く覆った困窮と閉塞から解き放たれて未来を生き直せる土地と映ったのだろうか。

 後に東北などの貧しい村々を分村させてまで約30万人もの農民家族や若者を送り出し、悲劇的な破局と犠牲をもたらす「満州開拓移民」の国策が芽生える前夜のことだ。                 

「生産権奉還」に共鳴
 この時期、勝雄が読んで感化された本がある。日記や手紙に記し、国家改造運動を志す青年将校の同志や親しい人々に自腹で寄贈したと思われる。

〈長沢九一郎氏著「生産権奉還」をヨミテ感深シ、酒肴料ヲ以テ本ヲ買ヒ各方面ニ送ラントス〉(5月7日の日記)

〈農村の自覚はこの際喜ぶべきことであります。吾々は凡て自力更生で進むべく国内にては農村と在郷軍人さへしっかり手を取って奮起すれば大丈夫であります。最近この感特に深く上級者はたのむに足らぬ気がします。先日お送りした生産権奉還の書は私のチゝハルにていたゞいた御下賜の酒肴料を以って購ったものであります。最も意義ある様に使用したのであります。内容或ひはむつかしいかもしれぬのですが我々は熾烈なる皇民の情操を以て光輝と躍進の跡とを有する昭和維新に到達したいと希ふのであります〉(8月28日、岩手県の元部下への手紙)

 1932(昭和7)年刊行の同書(先進社)の著者長沢九一郎は社会主義から国家主義者に転向し、盟友の遠藤友四郎と共に「尊王急進党」を結成。「昭和維新」を唱える活動家の1人として内務省警保局からマークされていた。

 生産権奉還とは次のような主張だ。

 明治維新は、天皇の下に全ての臣民が一体で奉仕する国体に還る時だったのに、大名の版籍奉還だけの不徹底に終わり、元勲らが欧米に幻惑されて採った資本主義が今日の財閥などの搾取と社会格差、貧困を生んだ。企業や工場、農業などすべての経済分野の生産権も天皇に奉還し、真に平等公平な皇民の道義国家を目指すべきだ――。

 こうした思想に勝雄ら青年将校たちは共鳴し、その目標を阻む財閥や、癒着する政党政治を打倒し天皇親政を実現することが明治維新の完成、すなわち昭和維新の断行であると考えた。

 勝雄は満州で3年目を迎えた1933(昭和8)年の元旦、「新年ニ當リ東天ヲ拝シ昭和維新ノ断行ヲ期ス」と題した長文のメッセージを書いて謄写版で印刷し、同志たちに送った。

〈鉄、石炭、交通、肥料、移民等モトヨリ國民ハ滿蒙開發ニツイテ功利的思想ヲ抱イテハナラヌカ當局者トシテハ 滿州開發ニヨッテ現下ノ國内不況ヲ打開シ以テ國民一般ニ希望ノ光明ト元気トヲ抱カシメネバナラヌ〉

〈個人的榮利資本主義ヲ滿州ニ奔放ニ跳梁セシメタナラハ利ヲ追ッテ止マヌ資本ノ本質上現地住民ハ其搾取ニ苦悩スルニ至ルテアラウ。コレニ反シ農業的工業的集團移民ハ日鮮滿蒙ノ民族互ニ其部落ヲ形成シ自立自活而シテ協和ノ平和郷ヲナシウルモノト信スル〉


満洲を勝雄と転戦した第三十一連隊乗馬小隊
 勝雄にとっては、昭和維新の断行も、満州での理想郷の実現も、困窮する国民に希望の光明を灯すことも1つにつながり、そのために満州で戦っていると信じた。

 それが成った時、自らは軍服を脱ぎ、貧乏暮らしの苦労を重ねた青森の両親ら家族を満州に呼んで、新しい故郷をつくり、〈余ハ敢ヘテ村長タルヲ希望シタイ。自ラ人生ヲ楽シミツゝソノ部落ノ自治助長、共存扶助ニツクシ且ツ文化ニ貢献スルニ力(つと)ムルノミデアル〉と、戦塵のかなたに見果てぬ夢を描いたのではないか。4年後には二・二六事件の蹶起に加わることになるが、勝雄は革命家ではなかった。

大凶作に続いた三陸津波
「津波・火災の襲来 死傷者行方不明者 家屋の流出燒失夥し」

 1933年3月3日の『河北新報』夕刊トップの大見出しだ。その日午前2時半ごろ、岩手県釜石沖約200キロを震源とする大地震が、岩手、宮城を中心とする太平洋岸に巨大津波をもたらした。翌日の朝刊には、被災した海岸集落の悲惨な運命を詳報する記事と写真が満載された。

「正視し得ざる釜石 全町にもの凄き阿鼻叫喚!」

「漁船は木っ葉微塵」

「波に押し上げられ 路上に轉がる傳馬船」

「着の身の儘さ迷ふ老若男女」

「十五濱村荒部落 殆ど全滅の悲況」……。

 いまに伝承される「昭和三陸大津波」が、勝雄の属する満州の第八師団(弘前)の兵士たちに伝えられたのは、発生からおよそ1カ月後。関東州の要衝、山海関での激戦(本連載第12回『凶作の郷里、慟哭の戦場』参照)に続いて、国境を越えた中国・熱河省への侵攻作戦に動員されていたさなかだった。同月27日に日本は国際連盟脱退を通告する。

 勝雄が乗馬小隊長を務めた第三十一連隊(弘前)のある兵士は、戦後、同連隊第二中隊の戦友会(アカシア会)の「中隊出身者想い出記」にこう記憶をつづった。

〈幹部が「今から一カ月前の三月三日、三陸津波があったという。直ぐにみんなに知らせたかったが、戦斗中であったので、志気に影響があったらいかんと考え、今日の報告になった」という。「津波」と言えば、他人事ではない。私の家も作業小屋も、八木港(岩手県洋野町)の海岸近くにある。私には漁船もあり、其処には兄弟も住んでいる。常に私の念頭から「津波」のことは離したことのない重大事なので、もっと詳しい被害状況を知りたいと思った。だが、津波の詳細を知っている人は一人もいなかった〉

 その37年前、1896(明治29)年6月15日には明治三陸大津波があり、三陸の住民は死者行方不明者が約2万2000人という痛ましい体験を家族史に刻んでいた。

 大船渡市(旧岩手県三陸町)の津波研究家、山下文男さん(故人)の『昭和東北大凶作』(無明舎出版)によると、昭和の大津波があった当時、岩手から出征兵士を送り出していた家の被災戸数は420戸に上り、うち386戸が熱河作戦に出動中の兵士の家だった。その郷里の人々は大凶作に続いて、さらなる辛酸をなめた。


昭和三陸大津波の後、集落を高台に移転した白浜のいま。東日本大震災では1人の犠牲者も出さなかった=大船渡市綾里
 当時の被災地の1つ、大船渡市三陸町綾里(旧綾里村)の白浜を筆者は昨年訪ね、当時9歳だった熊谷正吾さん(94)の体験を聴いた。明治の大津波では波高38.2メートルを記録し、100人以上が犠牲になった場所だ。

「あの寒い夜、2度の大きな地震の後、ものすごい大砲のような音が海から響き、明治の津波を生き延びた祖父の声で家族全員、真っ暗な中を裏山の畑に逃げた」


戦地への出征者、昭和三陸大津波など、白浜の記憶を伝えている熊谷正吾さん=大船渡市綾里
 雪が降った真っ白な朝、42軒の集落はほとんど崩壊、流失していた。死者・行方不明者は66人を数え、熊谷さんと同じ小学生も23人が犠牲に。残った住民が潰れた家を起こして避難所にし、無事な布団を敷いてけが人を救援した。

 壊れた部材を縄でしばったような小屋で仮住まいをし、青年団の支援などで暮らしをつなぎ、3カ月ほどして「助け合って『復興地』を造ろう」という話が出た。高台移転である。地主に交渉して土地を借り、自力更生事業の土方作業や出稼ぎで働き、山や畑を売り、国の金を借り、1軒40円(現在の約7万円)の建築費を懸命に蓄えた。 

「自力更生という言葉を覚えている。海と山に挟まれた白浜は田んぼが乏しく、魚とワカメだけで稼げず、麦やヒエ、アワばかり食い、なければよその家から借りてしのいだ。うちは狭い田んぼもあって10人家族が何とか食えたが、大津波の翌年の昭和9年はまたも大凶作。コメが全く実らず、畑の大根やサツマイモくらいしか取れず、盗みも出た。支那事変(1937年)の前あたりから、皆で材料の木を山から運んだり、製板所に出したりして、やっと家を建てた」

 満州事変はそんな集落からも男手を奪ったが、

「軍隊に行けばやっと飯が食える、と聞かされた」

 と熊谷さん(自身は横浜の造船所に徴用後、大湊海兵団に入隊)。それから太平洋戦争まで白浜からは407人が出征し、112人が戦死したという。

死ぬことを当然と願う

勝雄の母なみさん
 新しい郷里をつくる夢を、結局、勝雄は胸にしまい断念することになる。満州事変での中国軍との戦闘がひとまず止む1933(昭和8)年5月31日の塘沽停戦協定まで、勝雄は多くの部下に戦死され、実家近くの観音堂に息子の無事を日々祈願していた母なみさんに自らも、

〈戦死でもしたら喜んで皇国のため目出度し/\とやって貰わねばならんと存じ候 これは今後に於ても同じことにて平時戦時をとはずいつ死なれてもかくあらんことをお願い申し候〉

 と、死ぬことを当然と願う手紙(同年6月26日)を書き送った。古里への「後顧ノ憂」を抱きつつ逝った部下たちへの責任を、二・二六事件での蹶起の理由にさえした(本連載12回参照)。

 そして、最期まで軍人たれ、と勝雄を引き戻したであろう1本の新聞記事がある。父嘉七さんの遺品に『報知新聞』青森岩手版(1932年7月2日付)の切り抜きがあり、勝雄も満州で同じ記事を読んで、

〈御両親の御言葉に私は満足至極に存じます〉

 と手紙(1932年7月13日)に書いた。


満洲出征中の勝雄の両親を取材し、軍国美談にして伝えた『報知新聞』青森岩手版の記事=1932(昭和7)年7月2日

https://www.fsight.jp/articles/-/47456
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1128.html#c11

[近代史5] エジプト人の起源 中川隆
2. 2020年10月25日 10:02:51 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[21]
雑記帳 2020年10月25日
エジプト第25王朝のミイラのmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_33.html


 エジプト第25王朝のミイラのミトコンドリアDNA(mtDNA)結果を報告した研究(Drosou et al., 2020)が公表されました。タカブチ(Takabuti)は、紀元前660年頃エジプト第25王朝下のテーベに住んでいた女性で、そのミイラ化した遺骸と棺は、1834年に北アイルランドのベルファストに運ばれ、現在はアルスター博物館で展示されています。タカブチは、棺の碑文から、テーベのアメン神の司祭であるネスパーレ(Nespare)とその妻であるタセニレット(Taseniret)の娘と明らかになっています。

 1834年の最初の形態学的調査では、身長が155cmで、歯列がよく保存されていることから、25〜30歳と推定されました。遺骸は全身が包帯で覆われていました。1987年にはX線画像、2006年にはCTスキャンにより包括的な研究が行なわれ、死亡時の年齢が25〜30歳で、小児疾患の証拠がない健康体と明らかになりました。エジプトの気候から、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析は困難と考えられていましたが、次世代シーケンサーなど解析技術の革新により、タカブチのmtDNAの解析に成功しました(平均網羅率9.8倍)。

 タカブチのmtDNAハプログループ(mtHg)はH4a1に分類されました。mtHg-Hはヨーロッパで最も一般的で、現在ではアフリカとアジア西部でも見られ、エネルギー効率の高いmtHgと推測されています(関連記事)。このうちmtHg-H4a1は現代では比較的稀で、イベリア半島南部集団では2%、レバノン集団で1%、複数のカナリア諸島集団で1.5%ほどです。これまで、古代エジプトではmtHg-H4a1が確認されておらず、タカブチが最初の個体となります。mtHg-H4a1が確認されたその他の古代人としては、紀元後6〜14世紀のカナリア諸島の個体群と、ドイツのザクセン=アンハルト州のクヴェードリンブルク(Quedlinburg)とオイラウ(Eulau)の鐘状ビーカー(Bell Beaker)およびウーネチチェ(Unetice)文化(紀元前2500〜紀元前1575年頃)の2個体と、早期青銅器時代のブルガリアの1個体で、mtHg-H4a1の稀で散在的な分布を示します。

 古代エジプト(紀元前2000〜紀元後200年頃)の97個体のmtHgは、U・M1a1・J2・T・H・Iなど多様で、移住により形成された複雑な社会だった、と示唆されます。エジプトがアフリカと中東の間の唯一の陸の玄関口に位置することを考えると、これはとくに意外ではありません。年代別に古代エジプトのmtHgを見ると、紀元前二千年紀と紀元前千年紀はUとM1a1により代表され、紀元前千年紀にJ2a・R0・T1・T2・HV・Iの拡大が見られます。タカブチはこうした多様な古代エジプトのmtHgの中で、初めて確認されたH4a1となります。

 本論文は、ヨーロッパで優勢なmtHg-H4a1が、ローマはもちろんギリシア勢力の支配(マケドニアによる紀元前332年のエジプト征服)の前に、エジプト南部で見つかったことに注目しています。現在の遺伝的証拠からは、エジプト南部は移住から高度に隔離されていた、と示唆されるものの、タカブチのmtHg-H4a1はそれに異議を唱え、古代エジプト南部の遺伝的構成をよりよく理解するための調査も可能ではないか、と本論文は指摘します。これまでも古代DNA研究によって、古代エジプトの特定のmtHgの最初の出現年代がさかのぼることはあり、タカブチはその新たな事例となりました。

 タカブチはそのmtHg-H4a1から、母系ではヨーロッパ起源である可能性を本論文は指摘します。当時の地中海のつながりから、ヨーロッパよりエジプトに到来する人がいてもとくに不思議ではないでしょう。エジプト史に詳しくないので断定できませんが、タカブチの父はアメン神の司祭なので、エジプト土着の出自である可能性が高そうです。仮にタカブチのmtHg-H4a1がヨーロッパ起源だとしても、その母系祖先がエジプトにいつどのような経緯で到来したのか、不明です。タカブチの母系祖先がかなり前にヨーロッパからエジプトに到来したとすると、タカブチの核ゲノムは当時のエジプト人とさほど変わらないでしょうが、数代前ならばヨーロッパ系の痕跡が明確に検出できそうです。タカブチの核ゲノム解析が望まれますが、mtDNA解析としては網羅率が低めなので、核ゲノムの解析は困難でしょうか。


参考文献:
Drosou K. et al.(2020): The first reported case of the rare mitochondrial haplotype H4a1 in ancient Egypt. Scientific Reports, 10, 17037.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-74114-9

https://sicambre.at.webry.info/202010/article_33.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/282.html#c2

[リバイバル3] ワーフェデール 後方開放・無指向性フロア型スピーカー SFB/3 中川隆
3. 中川隆[-10607] koaQ7Jey 2020年10月25日 11:43:41 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[22]
Wharfedale(ワーフェデール)のスピーカー
2012.04.30 毎日ひとつこと、製品紹介
https://soundcreate.co.jp/wharfedale%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%89%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC/


先日ご紹介したWharfedale(ワーフェデール)について、もう少し・・・

Wharfedaleは、英国で最も歴史の古いスピーカーメーカーの1つで、1932年に設立。
創始者で設計者のギルバート・A・ブリッグス氏は、元々エンジニアだったわけではなく、大の音楽好きが嵩じて、スピーカー製造するにいたったのだそうです。
それでも、音響学者でもあったというのですから、よほどのことですね。

このW3も、ツイーター、ミッドが上向きに取り付けられ、ウーファーが前方に、5cmのポートが右下に取り付けられています。

ユニークなユニット配置ですが、ひとたび音が鳴ると音場の作り方に、なるほどねーと納得。

それでただユニークな音場再生のスピーカーかと言うと、そうではなく、音楽性の豊かなこと!

手元にある古いステレオ雑誌にある写真の中のブリッグス氏は、英国のジェントルさを持ちながら、好奇心にあふれています。

オーディオ評論家の菅野先生も憧れたという名機エアデールの1つ前の型のW3、ご試聴いただけるのは、スピーカーがあるうちだけ!?

https://soundcreate.co.jp/wharfedale%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%89%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1091.html#c3

[リバイバル3] ワーフェデール 後方開放・無指向性フロア型スピーカー SFB/3 中川隆
4. 中川隆[-10606] koaQ7Jey 2020年10月25日 11:46:31 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[23]
ワーフェデール W3入荷
スバラシイ音楽性!
2012.04.28 毎日ひとつこと、製品紹介
https://soundcreate.co.jp/%e3%83%af%e3%83%bc%e3%83%95%e3%82%a7%e3%83%87%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%80%80w3%e5%85%a5%e8%8d%b7%e3%82%b9%e3%83%90%e3%83%a9%e3%82%b7%e3%82%a4%e9%9f%b3%e6%a5%bd%e6%80%a7%ef%bc%81/


ヴィンテージスピーカーのワーフェデール W3、Legatoに入荷致しました!


見て下さい、この風格!

英国の名門スピーカーメーカー「Wharfedale(ワーフェデール)」の1950年代後期のモデルです。当時5年間ほど製造されていたのだとか。

あまり多くの資料がないのですが、
3ウェイスピーカーで、ツイーター(Super3)、ミッド(W7)、ウーファー(W12)を使用。

これは上から見た図なのですが、ウッすらと透けてユニットが見えますでしょうか?

モノラルからステレオ時代の製品なので、ユニットの配置は左右同じになります。
うんちくはこれからもうちょっと調べるとして、何せ音がアツイ!!
厚いし熱い!のです。

バイロン・ジャニスのラフマニノフのピアノ協奏曲2番を試しにかけてみます。
冒頭の弱音からクレッシェンドしていくところなど、現代のスピーカーだとついボリューム上げたくなってしまうことしばしばなのですが、最初から部屋の空気が変わります。

鼻血出そう、とはあまりよろしくない表現ですが、それくらいグッときます。
クラシックだけではないです。JAZZもスバラシイ!!
クリフォード・ブラウン、エリントン、とにかく熱気がほとばしるプレイ。
なんか、こういうの忘れてたな!と、思ってしまうくらい、すごいです。

これ1ペアしかございませんので、売り切り御免なのですが、ちょっと心がウズウズしてしまっている、素晴らしいスピーカーです。
どうも、今日はまともな文章が書けそうにはありませんね・・・。

https://soundcreate.co.jp/%e3%83%af%e3%83%bc%e3%83%95%e3%82%a7%e3%83%87%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%80%80w3%e5%85%a5%e8%8d%b7%e3%82%b9%e3%83%90%e3%83%a9%e3%82%b7%e3%82%a4%e9%9f%b3%e6%a5%bd%e6%80%a7%ef%bc%81/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1091.html#c4

[近代史5] 日本人の遺伝子の地域差 _ 近畿と四国は漢民族に近い 中川隆
1. 2020年10月25日 12:20:11 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[24]
2020/10/14
都道府県レベルでみた日本人の遺伝的集団構造
〜縄文人と渡来人の混血がもたらした本土日本人内の遺伝的異質性〜

渡部 裕介(研究当時:生物科学専攻 博士課程3年生)
一色 真理子(研究当時:生物科学専攻 博士課程3年生)
大橋 順(生物科学専攻 准教授)
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2020/7056/

発表のポイント
47都道府県に居住する日本人約11,000名の全ゲノムSNP遺伝子型データを解析し、現代日本人の遺伝的構造は各都道府県における縄文人と渡来人の混血の程度と地理的位置関係によって特徴づけられることを示した。
都道府県レベルで日本人の遺伝的集団構造を初めて明らかにした。
本研究により、日本人の形成過程の理解が進むだけでなく、疾患遺伝子関連研究において、適切な検体収集地域の選定が可能になると期待される。

発表概要
今回、東京大学大学院理学系研究科の渡部裕介・一色真理子大学院生(研究当時)と大橋順准教授は、47都道府県に居住する日本人約11,000名の全ゲノムSNP遺伝子型データを用いて、都道府県レベルで日本人の遺伝的集団構造を調べた。クラスター分析により、47都道府県は沖縄県とそれ以外の都道府県に分かれ、沖縄県以外は九州・中国地方、東北・北海道地方、近畿・四国地方の3つのクラスターに大別された。関東地方や中部地方の各県は1つのクラスター内に収まらなかった。主成分分析の結果、第1主成分は沖縄県との遺伝的距離と関連しており、第2主成分は緯度・経度と関連していた。これらの結果は、各都道府県の縄文人と大陸から来た渡来人との混血の程度の違いと地理的位置関係が現代日本人の遺伝的地域差を形成した主な要因であることを示唆している。

本研究は、都道府県レベルで日本人の遺伝的集団構造を初めて明らかにした。今後、不明な点が多い縄文人と渡来人の混血過程の理解が進むだけでなく、疾患遺伝子関連研究において、集団階層化によるバイアスを避けた検体収集が可能になると期待される。

発表内容
研究の背景・先行研究における問題点
現代の日本人(アイヌ人、琉球人、本土人)は、縄文人の系統と、渡来人の系統が混血した集団の子孫であることが示唆されている(Japanese Archipelago Human Population Genetics Consortium. 2012, J Hum Genet)。日本の7つの地域間の遺伝的異質性を指摘した先行研究があるが(Yamaguchi-Kabata et al. 2008, Am J Hum Genet)、中国地方や四国地方の県は含まれておらず、7つの地域に分けることの妥当性を含め、日本人集団の詳細な遺伝的集団構造やかかる構造を生じさせた要因はよく理解されていなかった。また、地域間の遺伝的異質性が不明なため、日本人を対象とする疾患遺伝子関連研究(注1) において、集団階層化によるバイアス(注2) を避けた検体の収集が困難であった。

研究内容
今回、東京大学大学院理学系研究科の渡部裕介・一色真理子大学院生(研究当時)と大橋順准教授らのグループは、ヤフー株式会社が提供するゲノム解析サービスHealthData Labの顧客11,069名の138,688か所の常染色体SNP(注3)遺伝子型データを用いて、日本人の遺伝的集団構造を調べた。まず、個体レベルで主成分分析(注4)を行い、琉球人(主に沖縄県)と本土人(主に沖縄県以外の46都道府県)が遺伝的に明瞭に分かれることを確認した(図1)。なお、本研究に用いたデータにはアイヌ人は含まれていないと考えられる。

図1:日本人11,069名と中国・北京の漢民族の主成分分析の結果。常染色体上の138,688か所のSNP遺伝子型データから各個体の主成分得点を求めてプロットした。

次に、47都道府県のそれぞれから50名ずつ無作為抽出して各SNPのアリル頻度を計算し、中国・北京の漢民族も含めてペアワイズにf2統計量(注5)を求めてクラスター分析(注6)を行った(図2)。

図2:47都道府県と中国・北京の漢民族を対象にしたクラスター分析の結果。日本地図上の番号が各都道府県に対応している。47都道府県を4つのクラスターに分けると、沖縄地方、東北・北海道地方、近畿・四国地方、九州・中国地方に大別された。

47都道府県を4つのクラスターに分けると、沖縄地方、東北・北海道地方、近畿・四国地方、九州・中国地方に大別された。関東地方や中部地方の各県は1つのクラスター内に収まらなかった。このことは、関東地方もしくは中部地方の都県を遺伝的に近縁な集団とみなすことはできず、そのような単位で日本人集団の遺伝的構造を論じることや、疾患遺伝子関連研究の対象検体を収集することは適切ではないことを示している。

47都道府県を対象に主成分分析を行ったところ(図3)、第1主成分は沖縄県と各都道府県の遺伝的距離を反映していた。沖縄県に遺伝的に最も近いのは鹿児島県であった。図2でクラスターを形成した地方に着目すると、九州地方と東北地方が沖縄県に遺伝的に近く、近畿地方と四国地方が遺伝的に遠かった。さらに、f2統計量の解析から、近畿地方や四国地方は中国・北京の漢民族に遺伝的に近いこともわかった。第2主成分は都道府県の緯度および経度と有意に相関していた(緯度:P-value = 3.21 × 10-12、経度:P-value = 2.38 × 10-14)。

図3:47都道府県を対象にした主成分分析の結果。

本研究の結果は、各都道府県の縄文人と大陸から来た渡来人との混血の程度の違いと地理的位置関係が本土人の遺伝的地域差を形成した主な要因であることを示唆している。大部分の渡来人は朝鮮半島経由で日本列島に到達したと考えられるが、朝鮮半島から地理的に近い九州北部ではなく、近畿地方や四国地方の人々に渡来人の遺伝的構成成分がより多く残っていることは、日本列島における縄文人と渡来人の混血過程を考えるうえで興味深い。本土人のゲノム成分の80%程度は渡来人由来であると推定されているが、近畿地方や四国地方には、さらに多くの割合の渡来人が流入したのかもしれない。また、地理的位置も遺伝的構造に影響していることや、沖縄県に遺伝的に近い九州地方と東北地方が互いには近縁でないことから、渡来人との混血時に縄文人は遺伝的に分化していたと考えられる。

社会的意義・今後の予定
本研究では、都道府県レベルで本土日本人の遺伝的集団構造を初めて明らかにした。47都道府県の遺伝的近縁関係がわかったことで、日本列島全域での縄文人と渡来人の混血過程の理解が進むと期待される。また、日本人集団を対象にした疾患遺伝子関連研究において、集団階層化によるバイアスを極力避けた、適切な検体収集地域の選定が可能になると期待される。

発表雑誌
雑誌名 Journal of Human Genetics
論文タイトル Prefecture-level population structure of the Japanese based on SNP genotypes of 11,069 individuals
著者 Yusuke Watanabe*, Mariko Isshiki*, Jun Ohashi (these authors contributed equally to this work)
DOI番号 10.1038/s10038-020-00847-0
アブストラクトURL https://www.nature.com/articles/s10038-020-00847-0

用語解説
注1 疾患遺伝子関連研究
多数の患者と対照の塩基配列を比較する(一般的には、多型のアリル頻度を比較する)ことで、疾患発症と関連する多型を検出する研究。関連多型が明らかになることで、疾患の発症機序の理解が進むだけでなく、各個体の発症リスクを推定することが可能となる。↑

注2 集団階層化によるバイアス
疾患遺伝子関連研究において、遺伝的背景の異なる患者と対照を調べると、疾患とは関連しない多型が見かけ上の関連(偽陽性)を示す可能性がある。統計学的手法によってバイアスを調整する努力もされているが、根本的に解決することは困難である。↑

注3 単塩基多型(SNP)
ヒトのDNAの塩基配列(A/T/G/Cの4種類の塩基による並び)を比較すると0.1%程度の違いがある。塩基配列の違いを多型といい、1つの塩基の違いによる多型を単塩基多型(single nucleotide polymorphism; SNP)とよぶ。↑

注4 主成分分析
多数の変数(多次元データ)から全体のばらつきをよく表す順に互いに直行する変数(主成分)を合成する多変量解析手法の一つ。主成分分析によって次元を削減することで、データ点を可視化することができる。本研究では、個体単位の解析では遺伝子型を、都道府県単位での解析ではアリル頻度を変数として用いた。↑

注5 f2統計量
2つの集団間の遺伝距離を測る尺度の一つ。SNPデータに対するf2統計量は、SNP毎にアリル頻度の集団間差の2乗を計算し、それらの平均値として与えられる。↑

注6 クラスター分析
多数の変数(多次元データ)からデータ点間の非類似度を求め、データ点をグループ分けする多変量解析手法の一つ。グループ分けが階層的になされる階層的手法と、特定のクラスター数に分類する非階層的手法がある。本研究では、階層的手法の一つであるウォード法を用いた。↑

―東京大学大学院理学系研究科・理学部 広報室―

https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2020/7056/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/333.html#c1

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
292. 中川隆[-10605] koaQ7Jey 2020年10月25日 12:21:07 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[25]
2020/10/14
都道府県レベルでみた日本人の遺伝的集団構造
〜縄文人と渡来人の混血がもたらした本土日本人内の遺伝的異質性〜

渡部 裕介(研究当時:生物科学専攻 博士課程3年生)
一色 真理子(研究当時:生物科学専攻 博士課程3年生)
大橋 順(生物科学専攻 准教授)
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2020/7056/

発表のポイント
47都道府県に居住する日本人約11,000名の全ゲノムSNP遺伝子型データを解析し、現代日本人の遺伝的構造は各都道府県における縄文人と渡来人の混血の程度と地理的位置関係によって特徴づけられることを示した。
都道府県レベルで日本人の遺伝的集団構造を初めて明らかにした。
本研究により、日本人の形成過程の理解が進むだけでなく、疾患遺伝子関連研究において、適切な検体収集地域の選定が可能になると期待される。

発表概要
今回、東京大学大学院理学系研究科の渡部裕介・一色真理子大学院生(研究当時)と大橋順准教授は、47都道府県に居住する日本人約11,000名の全ゲノムSNP遺伝子型データを用いて、都道府県レベルで日本人の遺伝的集団構造を調べた。クラスター分析により、47都道府県は沖縄県とそれ以外の都道府県に分かれ、沖縄県以外は九州・中国地方、東北・北海道地方、近畿・四国地方の3つのクラスターに大別された。関東地方や中部地方の各県は1つのクラスター内に収まらなかった。主成分分析の結果、第1主成分は沖縄県との遺伝的距離と関連しており、第2主成分は緯度・経度と関連していた。これらの結果は、各都道府県の縄文人と大陸から来た渡来人との混血の程度の違いと地理的位置関係が現代日本人の遺伝的地域差を形成した主な要因であることを示唆している。

本研究は、都道府県レベルで日本人の遺伝的集団構造を初めて明らかにした。今後、不明な点が多い縄文人と渡来人の混血過程の理解が進むだけでなく、疾患遺伝子関連研究において、集団階層化によるバイアスを避けた検体収集が可能になると期待される。

発表内容
研究の背景・先行研究における問題点
現代の日本人(アイヌ人、琉球人、本土人)は、縄文人の系統と、渡来人の系統が混血した集団の子孫であることが示唆されている(Japanese Archipelago Human Population Genetics Consortium. 2012, J Hum Genet)。日本の7つの地域間の遺伝的異質性を指摘した先行研究があるが(Yamaguchi-Kabata et al. 2008, Am J Hum Genet)、中国地方や四国地方の県は含まれておらず、7つの地域に分けることの妥当性を含め、日本人集団の詳細な遺伝的集団構造やかかる構造を生じさせた要因はよく理解されていなかった。また、地域間の遺伝的異質性が不明なため、日本人を対象とする疾患遺伝子関連研究(注1) において、集団階層化によるバイアス(注2) を避けた検体の収集が困難であった。

研究内容
今回、東京大学大学院理学系研究科の渡部裕介・一色真理子大学院生(研究当時)と大橋順准教授らのグループは、ヤフー株式会社が提供するゲノム解析サービスHealthData Labの顧客11,069名の138,688か所の常染色体SNP(注3)遺伝子型データを用いて、日本人の遺伝的集団構造を調べた。まず、個体レベルで主成分分析(注4)を行い、琉球人(主に沖縄県)と本土人(主に沖縄県以外の46都道府県)が遺伝的に明瞭に分かれることを確認した(図1)。なお、本研究に用いたデータにはアイヌ人は含まれていないと考えられる。

図1:日本人11,069名と中国・北京の漢民族の主成分分析の結果。常染色体上の138,688か所のSNP遺伝子型データから各個体の主成分得点を求めてプロットした。

次に、47都道府県のそれぞれから50名ずつ無作為抽出して各SNPのアリル頻度を計算し、中国・北京の漢民族も含めてペアワイズにf2統計量(注5)を求めてクラスター分析(注6)を行った(図2)。

図2:47都道府県と中国・北京の漢民族を対象にしたクラスター分析の結果。日本地図上の番号が各都道府県に対応している。47都道府県を4つのクラスターに分けると、沖縄地方、東北・北海道地方、近畿・四国地方、九州・中国地方に大別された。

47都道府県を4つのクラスターに分けると、沖縄地方、東北・北海道地方、近畿・四国地方、九州・中国地方に大別された。関東地方や中部地方の各県は1つのクラスター内に収まらなかった。このことは、関東地方もしくは中部地方の都県を遺伝的に近縁な集団とみなすことはできず、そのような単位で日本人集団の遺伝的構造を論じることや、疾患遺伝子関連研究の対象検体を収集することは適切ではないことを示している。

47都道府県を対象に主成分分析を行ったところ(図3)、第1主成分は沖縄県と各都道府県の遺伝的距離を反映していた。沖縄県に遺伝的に最も近いのは鹿児島県であった。図2でクラスターを形成した地方に着目すると、九州地方と東北地方が沖縄県に遺伝的に近く、近畿地方と四国地方が遺伝的に遠かった。さらに、f2統計量の解析から、近畿地方や四国地方は中国・北京の漢民族に遺伝的に近いこともわかった。第2主成分は都道府県の緯度および経度と有意に相関していた(緯度:P-value = 3.21 × 10-12、経度:P-value = 2.38 × 10-14)。

図3:47都道府県を対象にした主成分分析の結果。

本研究の結果は、各都道府県の縄文人と大陸から来た渡来人との混血の程度の違いと地理的位置関係が本土人の遺伝的地域差を形成した主な要因であることを示唆している。大部分の渡来人は朝鮮半島経由で日本列島に到達したと考えられるが、朝鮮半島から地理的に近い九州北部ではなく、近畿地方や四国地方の人々に渡来人の遺伝的構成成分がより多く残っていることは、日本列島における縄文人と渡来人の混血過程を考えるうえで興味深い。本土人のゲノム成分の80%程度は渡来人由来であると推定されているが、近畿地方や四国地方には、さらに多くの割合の渡来人が流入したのかもしれない。また、地理的位置も遺伝的構造に影響していることや、沖縄県に遺伝的に近い九州地方と東北地方が互いには近縁でないことから、渡来人との混血時に縄文人は遺伝的に分化していたと考えられる。

社会的意義・今後の予定
本研究では、都道府県レベルで本土日本人の遺伝的集団構造を初めて明らかにした。47都道府県の遺伝的近縁関係がわかったことで、日本列島全域での縄文人と渡来人の混血過程の理解が進むと期待される。また、日本人集団を対象にした疾患遺伝子関連研究において、集団階層化によるバイアスを極力避けた、適切な検体収集地域の選定が可能になると期待される。

発表雑誌
雑誌名 Journal of Human Genetics
論文タイトル Prefecture-level population structure of the Japanese based on SNP genotypes of 11,069 individuals
著者 Yusuke Watanabe*, Mariko Isshiki*, Jun Ohashi (these authors contributed equally to this work)
DOI番号 10.1038/s10038-020-00847-0
アブストラクトURL https://www.nature.com/articles/s10038-020-00847-0

用語解説
注1 疾患遺伝子関連研究
多数の患者と対照の塩基配列を比較する(一般的には、多型のアリル頻度を比較する)ことで、疾患発症と関連する多型を検出する研究。関連多型が明らかになることで、疾患の発症機序の理解が進むだけでなく、各個体の発症リスクを推定することが可能となる。↑

注2 集団階層化によるバイアス
疾患遺伝子関連研究において、遺伝的背景の異なる患者と対照を調べると、疾患とは関連しない多型が見かけ上の関連(偽陽性)を示す可能性がある。統計学的手法によってバイアスを調整する努力もされているが、根本的に解決することは困難である。↑

注3 単塩基多型(SNP)
ヒトのDNAの塩基配列(A/T/G/Cの4種類の塩基による並び)を比較すると0.1%程度の違いがある。塩基配列の違いを多型といい、1つの塩基の違いによる多型を単塩基多型(single nucleotide polymorphism; SNP)とよぶ。↑

注4 主成分分析
多数の変数(多次元データ)から全体のばらつきをよく表す順に互いに直行する変数(主成分)を合成する多変量解析手法の一つ。主成分分析によって次元を削減することで、データ点を可視化することができる。本研究では、個体単位の解析では遺伝子型を、都道府県単位での解析ではアリル頻度を変数として用いた。↑

注5 f2統計量
2つの集団間の遺伝距離を測る尺度の一つ。SNPデータに対するf2統計量は、SNP毎にアリル頻度の集団間差の2乗を計算し、それらの平均値として与えられる。↑

注6 クラスター分析
多数の変数(多次元データ)からデータ点間の非類似度を求め、データ点をグループ分けする多変量解析手法の一つ。グループ分けが階層的になされる階層的手法と、特定のクラスター数に分類する非階層的手法がある。本研究では、階層的手法の一つであるウォード法を用いた。↑

―東京大学大学院理学系研究科・理学部 広報室―

https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2020/7056/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c292

[近代史4] 徴用工の待遇は本当に良かったのか? 中川隆
3. 中川隆[-10604] koaQ7Jey 2020年10月25日 14:47:13 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[26]
日本人と同程度の報酬をもらっていた徴用工がいた一方で、劣悪な条件で働かされたあげく、給与をピンハネされたり、未払いのまま踏み倒された徴用工が多数いた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1030.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/411.html#c3
[近代史3] チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口 中川隆
23. 中川隆[-10603] koaQ7Jey 2020年10月25日 14:48:28 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[27]
日本人と同程度の報酬をもらっていた徴用工がいた一方で、劣悪な条件で働かされたあげく、給与をピンハネされたり、未払いのまま踏み倒された徴用工が多数いた


安倍前首相が徴用工問題で「ファクト示すのが一番」とツイートし「お前が言うか」のツッコミ殺到! 徴用工めぐる主張自体もフェイク(リテラ)
http://www.asyura2.com/20/senkyo276/msg/751.html

2020.10.25 安倍が徴用工問題で「ファクト示すのが一番」とツイートしツッコミ殺到 リテラ

     
     安倍晋三フェイスブックより


安倍前首相は辞任後、すでに2度にわたって靖国神社を参拝しているが、23日には〈昨日、産業遺産情報センターにて長崎県の端島(通称軍艦島)の元島民の皆様とお話しする機会を得ました〉とツイート。こうつづけている。

〈世界最大の人口密集率といわれた当時の端島での生活をものがたる様々な資料が展示されておりましたが、その中に台湾出身の徴用工である鄭新発さんが大切に残していた給料袋(給与+ボーナス)がありました。〉

 そして、産業遺産情報センターに展示されている「戦時中の長崎造船所 徴用工に支払われていた給与+ボーナス」といった展示パネルの写真を貼り付けた上で、安倍前首相はこのように綴ったのだ。

〈鄭新発さんに感謝したいとおもいます。当時の彼らの労働に対する待遇が本当はどうであったかを物語る貴重な資料です。
いわれなき中傷への反撃はファクトを示す事が一番でしょう。
コロナ禍の中、入場者数が制限されていますが、是非多くの方に来館していただきたいと思います。〉

「いわれなき中傷への反撃はファクトを示す事が一番」──。つまり安倍前首相は、強制動員・強制労働され差別的な扱いを受けたと訴えている元徴用工の証言を「いわれなき中傷」などと言い放ち、その展示を「ファクト」だとし、“徴用工にもしっかり給与やボーナスが支払われていた”“徴用工は強制的に動員された被害者ではなく対価が支払われていた労働者”だと主張したのである。


■徴用工の強制連行や賃金のピンハネ、不払いなどを示す証言や公文書が

 しかし、このツイートが問題なのは、そういうブーメラン話だけではない。それ以上にあらためて強調しておかなければならないのは、今回、安倍前首相が挙げている資料が、徴用工の差別的待遇や強制労働を否定する「ファクト」ではけっしてないということだ。

 安倍前首相は台湾出身の元徴用工の給与袋や賞与袋の展示を紹介し、すべての徴用工が日本人と同じ待遇であったかのように喧伝しているが、実際は、日本人と同程度の報酬をもらっていた徴用工がいた一方で、劣悪な条件で働かされたあげく、給与をピンハネされたり、未払いのまま踏み倒された徴用工が多数いたことは、数々の証言や記録からも明らかになっている。

 たとえば、端島(軍艦島)に連れてこられ、過酷な労働をさせられた崔璋燮(チェ・チャンソプ)さんは2010年の市民団体によるインタビューのなかで、その労働や生活をこう語っている(長崎在日朝鮮人の人権を守る会・編『〔増補改訂版〕軍艦島に耳を澄ませば 端島に強制連行された朝鮮人・中国人の記憶』社会評論社)。

「石炭を掘り出す仕事、採炭だ。わずか一週間だけ採炭現場を見学させて、仕事に就かせた。一番方、二番方、三番方というふうに三交代で一日一六時間労働のときと、二交代で一日一二時間労働のときとあった。一度に四〇人ずつ、坑口から三、〇〇〇尺もの地下にものすごいスピードで降下して、身の縮む思いがした。現場は暑くて汗だくなので、一年中、褌一丁で働いた。〔中略〕汁かけ飯一杯食っただけで長時間働くのだから、みんな栄養失調状態になった。仕事が終わって、七メートルはある防波堤の上に毛布を敷いて体を休めていると、脚が痙攣を起こした。『俺、死にそうだ』という呻き声も聞こえた。しかも賃金をもらったことはない。私の記憶は確かだ」

 また、当時、徴用工の実態を調査報告していた内務省管理局・小暮泰用の「復命書」には、山口県下沖宇部炭鉱労務者967人の徴用工は〈一人平均月76円26銭の内稼働先の諸支出月平均62円58銭を控除し残額13円68銭が毎月一人当りの純収入〉だったという記述もある。

 ようするに、安倍首相の挙げた給与袋は徴用工の劣悪な労働を否定するなんの証拠にもなっていないのだ。

 しかも、安倍首相は元徴用工の人びとが証言している強制動員・強制労働や差別的な扱いを「いわれなき中傷」などと決めつけているが、この主張こそがフェイクだ。

 戦時中の朝鮮人強制連行は当事者の証言だけではなく、公文書を含んだ史料がいくつも残っている歴史的事実だ。たとえば、1944(昭和19)年4月13日付の朝鮮総督府の官報には、政務総監だった田中武雄による訓示にこう記されている。

〈官庁斡旋労務供出の実状を検討するに労務に応ずべき者の志望の有無を無視して漫然下部行政機関に供出数を割当て下部行政機関も亦概して強制供出を敢てし、斯くして労働能率の低下を招来しつつある欠陥は断じて是正せねばなりません。〉

 さらに、前出の内務省管理局・小暮泰用の同年7月31日「復命書」には、〈徴用は別として其の他如何なる方式に依るも出動は全く拉致同様な状態である/其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種の方策を講じて人質的略奪拉致の事例が多くなるのである〉とも書かれている。

■〈意思に反して連れて来られ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいた〉と説明していた日本政府

「ファクトを示す」というなら、〈志望の有無を無視〉〈全く拉致同様〉〈人質的略奪拉致〉の〈強制供出〉であったことを認めるこれらの公文書の内容こそが「ファクト」ではないか。

 だいたい、徴用工を強制動員したことは安倍政権下でも認めていた事実なのだ。安倍前首相は軍艦島(端島)も含まれている「明治日本の産業革命遺産」をユネスコの世界遺産にゴリ推した張本人だが、2015年の世界遺産委員会では、日本側は朝鮮人徴用工について〈その意思に反して連れて来られ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいた〉と強制動員だった事実を認め、〈第二次世界大戦中に日本政府としても徴用政策を実施していたことについて理解できるような措置を講じる〉(内閣官房「産業遺産情報センターの在り方等について(第一報告書))」)と約束していたからだ。

 だが、こうして国際機関と交わした約束を、安倍政権はその後、反故にするという下劣な手に出る。2017年、日本側がユネスコへ提出した「保全状況報告書」では、朝鮮人徴用工について〈戦前・戦中・戦後に多くの朝鮮半島出身者が日本の産業の現場を支えていた〉という記述で、強制連行や過酷労働の実態を矮小化。そして、2019年に出された「保全状況報告書」では、朝鮮人徴用工について一切触れなかったのだ。

 それだけではない。今回、安倍前首相が訪れた産業遺産情報センターは、前述した世界遺産委員会において〈徴用政策を実施していたことについて理解できる措置を講じる〉として設置を表明していたものなのだが、今年6月にいざオープンしてみると、徴用工の置かれた過酷な状況を説明するどころか、まったく逆になっていた。

 同センターでは軍艦島や長崎造船所、八幡製鉄所など登録された23資産とともに、「国民徴用令の官あっせん、徴用、引き揚げについて理解できる5文書」をパネルで列挙しているが、その説明は通り一遍のものにすぎず、隣には徴用工問題は解決済みとアピールするかのように1965年の「日韓請求権協定」の全文まで掲示。さらに、同じ部屋では軍艦島の元島民らのインタビューが紹介されているのだが、徴用工が受けた差別などを証言するものではなく、逆に、父親が軍艦島炭鉱で働いていたという在日韓国人2世の「いじめられたとか、指さされて『あれは朝鮮人ぞ』とは全く聞いたことがない」という証言が紹介されているのである。

 世界遺産への登録という目的を果たした途端、強制動員の事実を伝えるという約束を破り、むしろ歴史修正に利用する──。信じがたい話だが、しかし、これこそが安倍前首相がそもそも「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産化にこだわった理由だった。

■都合のいい事実だけを断片的につなぎあわせて徴用工の強制労働を否定する安倍首相

 しかし、繰り返すが、戦時中の朝鮮人強制連行は歴史的事実であり、人間の生きた証そのものを記録や記憶から消してしまおうとする歴史修正は、許される行為ではない。

 強制連行の実証的研究で知られる東京大学の外村大教授は、こんなことを述べている。

「特に90年代半ばからですね、史料の発掘が進み、いろんな話が出てきました。朝鮮人の待遇が日本人よりよかったとか、自ら望んで来た人がいたとか。いずれも事実の断片ではあるんですよ。じゃあ暴力的な連行や虐待は例外的だったかというと、それは違う」
「事実というものは無限にあるものです。都合のいい事実だけをつなぎあわせれば別の歴史も生まれる。でも、それは『こうあってほしい』というゆがんだ願望や妄想に近い」(朝日新聞2015年4月17日付インタビュー)

 安倍前首相が今回、持ち出した資料は「事実の断片」でしかなく、それによって「暴力的な連行や虐待」を示す資料や証言を否定することは、まさしく「ゆがんだ願望や妄想」にほかならない。

 朝鮮人徴用工の強制動員の否定や靖国神社の参拝といった言動によって、安倍前首相はネトウヨや極右にアピールをし、求心力を維持することに躍起になっている。その裏には「3度目の総理返り咲き」という欲望があるのはミエミエで、このコロナ禍にあって政権を放り出したことの責任など微塵も感じていないらしい。そのこと自体にも怒りを覚えずにはいられないが、今後、安倍前首相が自身の私利私欲による歴史修正発言を繰り返すことは必至であり、引きつづき監視が必要だ。

http://www.asyura2.com/20/senkyo276/msg/751.html  
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html#c23

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 岸谷五朗・吉本多香美 らせん (フジテレビ 1999年) 中川隆
2. 中川隆[-10602] koaQ7Jey 2020年10月25日 15:45:16 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[28]
Rasen EP3 らせん 1999



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1029.html#c2
[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 岸谷五朗・吉本多香美 らせん (フジテレビ 1999年) 中川隆
3. 中川隆[-10601] koaQ7Jey 2020年10月25日 17:32:11 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[29]
>>2 は間違いでした

Rasen EP 3 らせん 1999 English Subtitle 日本のドラマ 人気 .



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1029.html#c3
[近代史4] 2020年の人口減が確実になった韓国、出生率は0.9割れ 中川隆
1. 2020年10月25日 18:45:56 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[30]

2020年10月25日
繁栄しているように見える韓国 世界最速の少子高齢化

韓国女性は一生に0.9人しか子供を産まない

韓国の貧困と住宅事情

2019年公開の韓国映画『パラサイト』が大ヒットし、韓国の貧困生活の一端が知られるようになった。

こうした韓流音楽や韓流ドラマが世界でヒットするのは、韓国には音楽や映画市場が存在しないからでもある。

香港もそうだが国内マーケットが小さすぎて食べていけず、外国で映画を売らなくてはならない。

他の映画大国、アメリカやインドや日本や中国は、自国で制作して自国民が鑑賞する構造になっている。

それはともかくソウルなどの都市にはパラサイトのような半地下や屋上、バラックやテント生活者数十万人存在する。

老試院などのドヤや宿泊所生活者を含めると、約100万人程度が貧困住宅で生活している。


韓国では若者の失業率が高く20代の25%ほどが不安定な就業、50%が低所得や非正規雇用の状態にある。

では高齢者が豊かかと言えばそうでもなく、経済協力開発機構(OECD)加盟国で高齢者貧困率が最も高い。

韓国の相対的貧困率は44%に対し、フランス3.6%、日本19.6%、米国23.1%などとなっている。


韓国には終身雇用や年功序列制度が最初からなく、正社員という制度すらなくアメリカに近い。

韓国の大企業に就職しても高齢まで働けるのはオーナー一族と取り巻き社員だけです。

しかも大卒後数年は予備校で資格取得をし、実際第一線で働ける期間は30歳から40代半ばまでです。


日本の家電メーカーがバタバタ倒産した時、多くの日本人がサムスンなど韓国企業に引き抜かれたが、今も働いている人は1人も居ないでしょう。

韓国のたそがれ

こういう仕組みなのでかなりの高給取りでも容易に貧困層になってしまい、貧困高齢者が非常に多い。

韓国の年金制度は1980年代にはじまり1999年にようやくすべての労働者が対象になりました。

韓国の労働者は大雑把にいって給料の10%を払うが半分は企業側が払うので、4.5%の保険料を払っている。


年金の平均受給額は約52万3,000ウォン(約4万5,738円)、で日本の厚生年金男性18万女性9万円よりかなり少ない。

2014年から基礎年金が導入され、所得が低い人の救済策で平均受給額は18.4万ウォン(約1万6,000円)くらいです。

合計すると平均約6万円だが、韓国の物価も上がっているのでこれでは十分ではない。


ちなみに日本政府は将来の年金支払いを「国の借金」に含めているが、韓国政府は借金ではないとして除外している。

韓国で年金に加入しているのは労働年齢の約67%で、3分の1は年金に加入していない。

韓国の生活保護は日本のように「生活費全額支給」という制度は無く、不足分だけを支給する制度になっている。


支給金額は4人世帯で月163万ウォン(14万円)ほど、1人暮らしの高齢者は月60万ウォン(5万3000円)程度のようです。

しかも労働して収入があると、働けば働くほど支給額が減らされる制度になっています。


よく在日韓国人への生活保護が話題になるが、韓国に帰国するより日本で生活保護を受けた方がいい暮らしができます。

韓国は世界最速で少子高齢化が進み、ついに出生率が0.9を割り込みました。(日本は1.4程度)

女性が生涯に産む子供が平均0.9人しかいないという事で、どう考えても25年ごとに生まれる子供が半分以下になります。


今の韓国の人口は約5200万で出生数は約28万人ですが、25年後に出生数は14万人になるでしょう。

韓国の高学歴(大学進学率82%)若者の失業、高齢者の貧困などが結婚や出産を思いとどまらせている。

今の韓国は高度成長の残りかすで繁栄しているように見えるが、基礎的国力は次第に衰える

http://www.thutmosev.com/archives/84217394.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/961.html#c1

[近代史5] 日本列島は欧米の侵略の拠点で日本人は手先。イギリスもアメリカも日本がアジアの国々と友好的な関係を結ぶことを許さない 中川隆
11. 2020年10月26日 00:46:25 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[31]

2020.10.26
米英の世界制覇戦略の主力としての性格を鮮明にしてきたNATO
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010250001/

 ​NATO(北大西洋条約機構)は今年9月、新たな統連合軍の司令部をアメリカのバージニア州にあるノーホーク基地に設置​した。オランダのブルンスム司令部とイタリアのナポリ司令部と連携して活動することになる。本ブログでは繰り返し書いてきたことだが、NATO創設の目的のひとつはアメリカとイギリスの支配者が第2次世界大戦後のヨーロッパを支配することにあった。今回の新司令部設置はアメリカの戦略にも続くものだ。

 そのアメリカは2018年5月に太平洋軍をインド・太平洋軍へ名称を変更した。太平洋側の拠点を日本、インド洋側の拠点をインド、そしてインドネシアで領海域をつなごうという構想。これは中国が進めている一帯一路政策のうち、いわゆる「海のシルクロード」を睨んでのことだろう。

 今年6月にイェンス・ストルテンベルグNATO事務総長はNATO2030なるプロジェクトを始めると宣言したが、これは機構を太平洋へ広げ、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、そして日本をメンバーにしようというもの。

 アメリカはすでにふたつの軍事同盟を太平洋地域で組織している。ひとつはアメリカと日本、もうひとつはアメリカ、オーストラリア、そしてニュージーランドの3カ国によるものだ。前者は1951年9月8日にサンフランシスコのプレシディオで調印された安保条約から始まるが、そのその1週間前に同じ場所でアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの3カ国はANZUS条約を結んでいる。

 こうした軍事同盟を統合したいのだろうが、アメリカの戦略が順調に進んでいるようには見えない。​今年10月6日にアメリカのマイク・ポンペオ国務長官は東京で日本、インド、オーストラリアの代表と会い、中国との戦いについて話し合った​が、インドネシアは参加せず、インドやオーストラリアも積極的とは言えなかったようだ。フィリピンの現政権はアメリカに批判的だ。最も従属的な日本の菅義偉首相はポンペオの使いっぱしりとしてインドネシアとベトナムへ行かされた。​8日には岸信夫防衛大臣が横田基地で在日米軍のケビン・シュネイダー司令官と会談​している。

 こうしたアメリカの動きは中国とロシアを念頭に置いたもの。ユーラシア大陸の周辺部を支配し、内陸国を締め上げていくというイギリスが19世紀に始めた長期戦略に基づいている。

 この長期戦略を理論化、1904年に発表したのが地理学者で地政学の父と言われているハルフォード・マッキンダー。彼はヨーロッパ、アジア、アフリカを「世界島」、イギリスや日本を「沖合諸島」、そして南北アメリカやオーストラリアのような「遠方諸島」と名付けた。世界島の中心がハートランドで、具体的にはロシアを指している。このハートランドを支配できれば世界の覇者になれるということだ。

 ユーラシアを囲む三日月帯はインド、東南アジア諸国、朝鮮半島を結ぶ。その西端がイギリスであり、東端が日本だ。その途中、中東に空白地帯があった。そこにイギリスはイスラエル(1948年)とサウジアラビア(1932年)を作っている。日本列島は東アジアにおける侵略の拠点であり、日本人は傭兵だ。

 イギリスやアメリカの支配者はシティやウォール街を拠点にして新自由主義を世界に広めてきた。この信仰で教祖的な役割を果たしたのがシカゴ大学の教授だったミルトン・フリードマンであり、その先輩とも言える学者がフリードリッヒ・フォン・ハイエク。このハイエクの教え子にはデイビッド・ロックフェラーも含まれている。彼らは社会や民主主義を否定、強大な私的権力が支配する市場と支配者が定める道徳を「新しい生活様式」の柱にしようとしている。そうした「リセット」を実現する上でCOVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)は重要な役割を果たしている。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010250001/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/136.html#c11

[近代史5] 新自由主義の時代 中川隆
5. 中川隆[-10600] koaQ7Jey 2020年10月26日 00:51:32 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[32]
イギリスやアメリカの支配者はシティやウォール街を拠点にして新自由主義を世界に広めてきた。

この信仰で教祖的な役割を果たしたのがシカゴ大学の教授だったミルトン・フリードマンであり、その先輩とも言える学者がフリードリッヒ・フォン・ハイエク。このハイエクの教え子にはデイビッド・ロックフェラーも含まれている。

彼らは社会や民主主義を否定、強大な私的権力が支配する市場と支配者が定める道徳を「新しい生活様式」の柱にしようとしている。そうした「リセット」を実現する上でCOVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)は重要な役割を果たしている。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010250001/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/268.html#c5

[リバイバル3] 日本を売った小沢一郎 中川隆
28. 2020年10月26日 00:55:36 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[33]
【令和元年秋 特別対談】伊藤貫氏の警告、パックス・アメリカーナと中華思想の間で摩滅する「商人国家日本」[桜R1/10/26]

https://www.nicovideo.jp/watch/so35866762

ゲスト:伊藤貫(国際政治アナリスト)
聞き手:水島総
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/232.html#c28

[近代史5] Terror Tuesday _ オバマ大統領は火曜日夕方に必ず CIA のブレナンに暗殺指令を出した 中川隆
1. 中川隆[-10599] koaQ7Jey 2020年10月26日 01:01:35 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[34]
小沢一郎先生を襲った恐怖とは
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/296.html

日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html

アメリカ人は頭がおかしい
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/556.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/341.html#c1

[近代史3] Terror Tuesday _ オバマ大統領は火曜日夕方に必ず CIA のブレナンに暗殺指令を出した 中川隆
12. 中川隆[-10598] koaQ7Jey 2020年10月26日 01:02:45 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[35]
Terror Tuesday _ オバマ大統領は火曜日夕方に必ず CIA のブレナンに暗殺指令を出した

【令和元年秋 特別対談】伊藤貫氏の警告、
パックス・アメリカーナと中華思想の間で摩滅する「商人国家日本」[桜R1-10-26]

https://www.nicovideo.jp/watch/so35866762

ゲスト:伊藤貫(国際政治アナリスト)
聞き手:水島総  
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/696.html#c12

[番外地8] 石原都知事「小沢一郎?民主党?"ちゃんちゃら可笑しい"」石原慎太郎 中川隆
1. 中川隆[-10597] koaQ7Jey 2020年10月26日 01:32:51 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[36]
小沢一郎とか自民党が日銀を全面バックアップしていましたから:

小沢一郎は売国奴
石原都知事「小沢一郎?民主党?"ちゃんちゃら可笑しい"」石原慎太郎 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=Vo5WGwQe3eE

『1980年代から1990年代にアメリカは、日本に対しすさまじいばかりの金額の内需拡大要求をしています。その要求を丸呑みした小沢一郎は、元祖媚米派というべき存在です。  


アメリカは、80年代から90年代にかけては、アメリカ企業の需要拡大のために「内需拡大」を唱えていたものの、アメリカ企業の体たらくに匙を投げて、今度は日本企業そのものをアメリカ資本のものにしようという作戦に転じたのかもしれません。  

アメリカ大好きの自称保守は、80年代から90年代にかけてのアメリカの理不尽とも思える「内需拡大要求」についてはどう弁明するつもりでしょうか。 』

日本のバブル生成とその崩壊に尽力した小沢一郎先生は、その過程で関係が深まったロスチャイルドに自分の新しい飼い主になって貰いました。 そしてポチの小沢先生の裏切りにカンカンに怒ったのが90才になった元飼い主のデビッド・ロックフェラーお爺さん:

小沢一郎は出発点からロスチャイルド系のサラブレッド  11/06/02
小沢一郎待望論がネット界を中心に騒がれているが、彼はロスチャイルド系の人間であるようだ。したがって石油利権(ロックフェラー系)というよりは原発利権(ロスチャイルド系)の小沢が原発を廃止する方向に行くわけは無い。

小沢一郎は、中学生時代から、ロスチャイルド系の石油メジャーの日本支社長の妻が、家庭教師となり、「アメリカ国家によって、日本の政界の後継・政治家」として育てられた、サラブレッドである。

この支社長の娘ルイーザ・ルービンファインは、一時期、小沢の「政策秘書」となり、小沢の「お目付け役」を担当して来た。このルイーザ・ルービンファインは、現在は、アメリカ国務省の高官として、アメリカの「対日政策」を決定する重鎮となっている。このルイーザが、小沢の著書「日本改造計画」の本当の著者=ゴーストライターである事は、良く知られている。

アメリカ政界・官界では、アメリカ民主党が政権に就任すると、これまでの共和党とは「異なった」勢力が、主導権を持ち始めた。前ブッシュ大統領一族が、ロックフェラー直系の、石油業界をバックとしたエネルギー屋集団であり、ブッシュ一族本人も、テキサスの石油マフィアの一族であった。一方で、オバマ民主党政権は、「環境保護」を掲げ、石油を使う文明は二酸化炭素排出で、地球温暖化を「モタラス」として、明らかに、「反・石油屋」の経済政策を採り、逆に、原子力発電を推進する、核兵器・原子力発電マフィアとして、動き始めている。

この小沢のボス=ルイーザを、指揮・命令する、アメリカ民主党=核兵器・原子力発電マフィアの「元締め」が、かつてのカーター民主党政権の副大統領ウォルター・モンデールである。アメリカで「民主党が、政権交代した以上、日本でも、民主党に政権交代しなければならない」、と言った、政界の利権「バトンタッチ」が行われた事になる。
小沢一郎の背後に、世界を支配する、巨大な兵器マーケットの支配者群が存在する事実を、明確に記憶に留めておかなければならない。小沢の資金源と、権力が、「なぜ絶大であるのか」、理由は、ここにある。 モンデールは、遺伝子組み換え食品、世界最大手のカーギル=モンサント社の取締役でもある。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=252397


小沢一郎の著書『日本改造計画』は小沢が自民党の幹部時代、講談社から1993年(平成5年)5月20日に発表された。内容は小沢の政策やビジョンをつづったもの。

平野貞夫によると、森内閣の頃、自由党の幹部少数で政策勉強会の一環として行われていた『日本改造計画』の勉強会に竹中平蔵が参加していた。 本書は小沢の理念をもとに、詳細については小沢の主催する勉強会に参加していた官民の有識者が肉付けしたものとされてきたが、執筆過程の詳細はわかっていなかった。
しかし2014年になって、政治学者の御厨貴が明らかにしたところによると、本書の執筆(協力)者は学者が中心で、具体的には

「国内政治」は御厨(東京都立大学 (1949-2011)教授)と飯尾潤(埼玉大学講師)、
「経済」は伊藤元重(東京大学助教授)と竹中平蔵(慶応大学助教授)、
「外交・安全保障」は北岡伸一(立教大学教授)

であったという(肩書はいずれも出版当時)。また、税制改革については大蔵官僚であった香川俊介らが関わったとされる。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/548.html#c1

[番外地8] 石原都知事「小沢一郎?民主党?"ちゃんちゃら可笑しい"」石原慎太郎 中川隆
2. 中川隆[-10596] koaQ7Jey 2020年10月26日 01:47:09 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[37]
​ @hana. hana
小沢一郎とか自民党が日銀を全面バックアップしていましたから:

小沢一郎は売国奴
石原都知事「小沢一郎?民主党?"ちゃんちゃら可笑しい"」石原慎太郎 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=Vo5WGwQe3eE

『1980年代から1990年代にアメリカは、日本に対しすさまじいばかりの金額の内需拡大要求をしています。その要求を丸呑みした小沢一郎は、元祖媚米派というべき存在です。  


アメリカは、80年代から90年代にかけては、アメリカ企業の需要拡大のために「内需拡大」を唱えていたものの、アメリカ企業の体たらくに匙を投げて、今度は日本企業そのものをアメリカ資本のものにしようという作戦に転じたのかもしれません。  

アメリカ大好きの自称保守は、80年代から90年代にかけてのアメリカの理不尽とも思える「内需拡大要求」についてはどう弁明するつもりでしょうか。 』

日本のバブル生成とその崩壊に尽力した小沢一郎先生は、その過程で関係が深まったロスチャイルドに自分の新しい飼い主になって貰いました。 そしてポチの小沢先生の裏切りにカンカンに怒ったのが90才になった元飼い主のデビッド・ロックフェラーお爺さん:

小沢一郎は出発点からロスチャイルド系のサラブレッド  11/06/02
小沢一郎待望論がネット界を中心に騒がれているが、彼はロスチャイルド系の人間であるようだ。したがって石油利権(ロックフェラー系)というよりは原発利権(ロスチャイルド系)の小沢が原発を廃止する方向に行くわけは無い。

小沢一郎は、中学生時代から、ロスチャイルド系の石油メジャーの日本支社長の妻が、家庭教師となり、「アメリカ国家によって、日本の政界の後継・政治家」として育てられた、サラブレッドである。

この支社長の娘ルイーザ・ルービンファインは、一時期、小沢の「政策秘書」となり、小沢の「お目付け役」を担当して来た。このルイーザ・ルービンファインは、現在は、アメリカ国務省の高官として、アメリカの「対日政策」を決定する重鎮となっている。このルイーザが、小沢の著書「日本改造計画」の本当の著者=ゴーストライターである事は、良く知られている。

アメリカ政界・官界では、アメリカ民主党が政権に就任すると、これまでの共和党とは「異なった」勢力が、主導権を持ち始めた。前ブッシュ大統領一族が、ロックフェラー直系の、石油業界をバックとしたエネルギー屋集団であり、ブッシュ一族本人も、テキサスの石油マフィアの一族であった。一方で、オバマ民主党政権は、「環境保護」を掲げ、石油を使う文明は二酸化炭素排出で、地球温暖化を「モタラス」として、明らかに、「反・石油屋」の経済政策を採り、逆に、原子力発電を推進する、核兵器・原子力発電マフィアとして、動き始めている。

この小沢のボス=ルイーザを、指揮・命令する、アメリカ民主党=核兵器・原子力発電マフィアの「元締め」が、かつてのカーター民主党政権の副大統領ウォルター・モンデールである。アメリカで「民主党が、政権交代した以上、日本でも、民主党に政権交代しなければならない」、と言った、政界の利権「バトンタッチ」が行われた事になる。
小沢一郎の背後に、世界を支配する、巨大な兵器マーケットの支配者群が存在する事実を、明確に記憶に留めておかなければならない。小沢の資金源と、権力が、「なぜ絶大であるのか」、理由は、ここにある。 モンデールは、遺伝子組み換え食品、世界最大手のカーギル=モンサント社の取締役でもある。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=252397

因みに、小沢一郎は竹中平蔵がゴーストライターだった『日本改造計画』を何千回も講演していたので、小沢一郎の考え方も竹中平蔵と全く同じだったのですね:

小沢一郎の著書『日本改造計画』は小沢が自民党の幹部時代、講談社から1993年(平成5年)5月20日に発表され、実際に書店に並んだのは6月下旬だった。内容は小沢の政策やビジョンをつづったもの。

平野貞夫によると、森内閣の頃、自由党の幹部少数で政策勉強会の一環として行われていた『日本改造計画』の勉強会に竹中平蔵が参加していた。 本書は小沢の理念をもとに、詳細については小沢の主催する勉強会に参加していた官民の有識者が肉付けしたものとされてきたが、執筆過程の詳細はわかっていなかった。
しかし2014年になって、政治学者の御厨貴が明らかにしたところによると、本書の執筆(協力)者は学者が中心で、具体的には

「国内政治」は御厨(東京都立大学 (1949-2011)教授)と飯尾潤(埼玉大学講師)、
「経済」は伊藤元重(東京大学助教授)と竹中平蔵(慶応大学助教授)、
「外交・安全保障」は北岡伸一(立教大学教授)

であったという(肩書はいずれも出版当時)。また、税制改革については大蔵官僚であった香川俊介らが関わったとされる。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/548.html#c2

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 岸谷五朗・吉本多香美 らせん (フジテレビ 1999年) 中川隆
4. 中川隆[-10595] koaQ7Jey 2020年10月26日 02:29:57 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[38]
Rasen EP 4 らせん 1999 English Subtitle 日本のドラマ 人気




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