★阿修羅♪ > aHNvbERkNXFqbVk= > 100000
 
g検索 aHNvbERkNXFqbVk=  
 
aHNvbERkNXFqbVk= コメント履歴 No: 100000
http://www.asyura2.com/acat/a/ah/ahn/aHNvbERkNXFqbVk=/100000.html
[番外地10] 1970年代にはインフレを殺すために金利は21%まで上がった 中川隆
1. 中川隆[-12813] koaQ7Jey 2023年1月02日 23:36:45 : Wkbfj3EOO6 : aHNvbERkNXFqbVk=[1]

インフレが起こるまでは、誰もが紙幣印刷は問題ないと信じ込む。その妄想はMMTなどと呼ばれてあたかも何かの理論であるかのように吹聴されるが、インフレが起こればそうした話も一瞬で吹き飛ばされる。実際にはMMTは何ら新しい話ではない。そういうおとぎ話は2022年どころか19世紀にも存在した。そしてインフレが起きてからは誰もその話をしなくなる。MMT信者の発生と消滅も含めて、その一連の流れがインフレのサイクルなのである。

1970年代にはインフレを殺すために金利は21%まで上がった
ジョージ・ソロス氏とともにクォンタムファンドを立ち上げたことで有名なジム・ロジャーズ氏が、GELDmeisterinのインタビューで1970年代の物価高騰時代について語っている。

コロナ後の物価高騰

インフレはもう何十年も起こっていなかった。だからインフレの時代に金融市場を予想するためには、過去にインフレだった時代、つまりは1970年代のアメリカの物価高騰時に株式や債券がどう動いたかを研究する必要がある。

コロナ後にインフレを予想してその研究を一番最初に始めたのはBridgewaterのレイ・ダリオ氏だっただろうか。

レイ・ダリオ氏、「現金がゴミ」になったニクソンショックの経験を語る (2020/3/28)

この記事は2020年3月である。当時、何故彼がいきなり現金がゴミになった時のことを語り始めたのかを理解していた人は少なかっただろう。だがダリオ氏はコロナ後の現金のばら撒きで紙幣がゴミになること(つまりインフレになること)を、2020年3月の時点で予想していた。当時、まだアメリカは第1波でロックダウンしていた。

その後多くの投資家が1970年代の物価高騰について語り始めたが、2022年終盤にアメリカのインフレ率がようやく下がり始めてからは、その話題は少なくなったように思う。

だが筆者の意見では、インフレ率が下がり始めた時こそ1970年代を考えるべきである。何故ならば、インフレ率が下がり始めてからがインフレ危機の本番だからである。

ガンドラック氏の景気後退予想: 現金給付のツケを払うことになる


1970年代の物価高騰

1970年代にクォンタムファンドを立ち上げたロジャーズ氏は次のように言う。

1970年代には大きな物価高騰があった。皆は1970年代のインフレを覚えているほど年寄りではないかもしれないが、当時物価は上がり、中央銀行は利上げを行なった。

インフレをどうにかするためにそうするしかなかった。

政府はインフレが起きていない間はいくらでも紙幣を印刷しようとした。だがその当然の結果としてインフレが起こる。

世界最大のヘッジファンド: インフレになって驚いているリフレ派は馬鹿じゃないのか


そしてひとたび物価が上がると、デフレである間はいくらでも行えるように見えた紙幣印刷ができなくなる。紙幣を更に印刷すればインフレが止まらなくなるからである。

それでゼロ金利政策ができなくなり、2022年には遂に日銀さえも利上げをしなければならなくなった。

こんなことは何度も起きている。1970年代も同じ理由でインフレが起こった。インフレが起こるまでは、誰もが紙幣印刷は問題ないと信じ込んだ。その妄想はMMTなどと呼ばれてあたかも何かの理論であるかのように吹聴されるが、インフレが起こればそうした話も一瞬で吹き飛ばされる。

実際にはMMTは何ら新しい話ではない。そういうおとぎ話は2022年どころか19世紀にも存在した。そしてインフレが起きてからは誰もその話をしなくなる。MMT信者の発生と消滅も含めて、その一連の流れがインフレのサイクルなのである。

インフレから金利高騰へ

だがインフレが発生すれば金利を上げるしかない。上げなければ、インフレは悪化し、通貨は暴落するだろう。だが金利を上げれば株式と債券が死んでゆく。どちらかしか選べないのである。


1970年代、アメリカは金利上昇を選んだ。ロジャーズ氏は次のように続ける。

当時、米国債の金利は21%だった。誤植ではない。インフレを殺すために21%まで上がった。

そして成功した。インフレは殺せた。だがその代わりに金利は21%まで上がらなければならなかった。

その代償は何か? 不況と大量失業である。その状況がどういうものだったかは、その時金利を上げた張本人が語ってくれている。

ポール・ボルカー氏、1980年のインフレ打倒がどれだけ厳しかったかを語る


当時のインフレ率は最高で15%である。2022年のアメリカのインフレ率は最高で9%だった。

だが当時と今ではCPI(消費者物価指数)の計算方法が違い、それを考慮すれば今のインフレ率は既に当時の水準に匹敵しているというラリー・サマーズ氏の論文もある。

しかし当時、15%のインフレを殺すために金利を20%近辺まで上げた一方で、現在では9%のインフレが4%の金利で収まろうとしている。今のインフレ率のチャートを掲載しよう。

https://www.globalmacroresearch.org/jp/wp-content/uploads/2022/12/2022-nov-us-cpi-growth.png

11月アメリカのインフレ率は急減速継続で7.1%、ドル安加速へ

金利をそれほど上げなくて良いことの意味

4%の金利でインフレが収まりかけていることをどう解釈するべきだろうか。ロジャーズ氏は次のように言う。

今の金利がいくらか知っているだろうか? 金利はもっと上がらなければならない。インフレは終わっていない。

ロジャーズ氏の解釈は、現在のインフレ率下落は長期的なものではなく、本当の意味ではインフレは収まっていないということである。彼は次のように続ける。

金利は上がる。毎日、毎週、毎月金利が上がると言っているのではない。だがインフレを完全に抑制するまでに金利はもっと上がることになる。

インフレは当時よりも今のほうが深刻だ。インフレは深く根付いてしまっている。

彼の意見の背景には、インフレ率とともに経済成長率が急落して景気後退に入れば、政府はインフレ退治を放棄して緩和に転換するだろうという予測も入っているのだろう。彼はインフレ第2波を予想している。

だが4%の金利でインフレ率急落の事実を、筆者はまた別の意味で受け取っている。つまり、今の経済は4%の金利にも耐えられないほど痛んでいるということである。


結論

1970年代のアメリカ経済は、逆に言えば20%近辺まで金利を上げなければ経済が減速しないほど力強かったということである。

一方で現在は、リーマンショック後のゼロ金利政策によって借金で延命されているゾンビ企業が山のように存在している。彼らは少しの金利上昇で死ぬ。それが今のインフレ率下落の意味である。ゾンビ企業の債券(つまりジャンク債)の現状については、債券の専門家スコット・マイナード氏が説明してくれている。

マイナード氏、国債と投資適格債とジャンク債の違いを語る


この状況の意味するところは、2023年にインフレ率が下落してから必然的に起こる失業と景気後退は、恐らく1970年代よりも酷いものになるだろうということである。

ハイエク: インフレ減速後の失業増加は避けられない
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/31421

株式投資家はこの事実を考慮に入れる必要があるだろう。企業利益は既に影響を受け始めている。結果としてAmazon.comなどの優良企業の株価はほとんど半値まで下がっている。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/769.html#c1

[リバイバル3] 中川隆 _ 医療・健康関係投稿リンク 中川隆
173. 2023年1月03日 07:06:28 : Wkbfj3EOO6 : aHNvbERkNXFqbVk=[2]
コンビニ弁当を毎日食べ続けた結果…
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14051910

コンビニ弁当やお握りは辞めた方がいいです。『拡散』 (カズちゃんのブログ) 
http://www.asyura2.com/09/health15/msg/764.html

40代でガンになる?!セブンイレブンの●●は絶対に食べるな!!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14072051

ありえない衛生状況で政府が大激怒!?コンビニのおでんが消滅しかけている
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14045460

中国産タマゴに気をつけろ!コンビニは偽タマゴで溢れてる?!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14077171

ジャンクフードを食べると超絶肥満、うつ病、癌、アトピー、花粉症になる
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/337.html

誰も知らない?!危険すぎるスーパーの野菜ランキング
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14062874

仕組まれている?街のスーパーで買ってはいけない食品!絶対にヤバい?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14068687

誰も気づいていない?!スーパーに売っている一気に老化する食べ物6選
https://www.youtube.com/watch?v=5unod0XkYvc

これだけは絶対買っちゃいけない! コストコの体を崩壊させる食べ物10選!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14066167

トヨタの為に毒塗オレンジを食べさせられている日本人 _ 日本を農業の無い国にして良いのか?
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/518.html

スーパーのバナナが安い本当の理由とシールに隠されたヤバイ真実
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14062871

スーパーの安い豆腐の本当の危険性と安全な豆腐の選び方
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14072055

スーパーの99%は偽物?! 実はヤバイ料理酒の闇
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14073244

99%が偽物で危険!?スーパーのオリーブオイルの闇
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14066377

実はヤバい!スーパーのインスタントコーヒーの危険性
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14017062

99%が知らないスーパーの安い納豆の危険性と安全な納豆の選び方
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14069581

スーパーの安い豆腐の本当の危険性と安全な豆腐の選び方
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14077083

スーパーで絶対に買ってはいけない 安い牛肉と安全な選び方について
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14070183

あのドレッシングに使われている実は超危険な添加物7選
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14065001

9割が知らずに食べている?!レトルトカレーに含まれる超危険物質
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14065982

実はヤバすぎる?!食パンに含まれている超危険添加物6選
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14066441

今までのパンは何だったの!?おすすめホームベーカリーを料理研究家が解説
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14075914

99%が知らない偽物チーズと本物のチーズの恐ろしい違い
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14066721

ポテトチップスの発がん性物質の量を科学的に検出した結果がヤバすぎました。
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14067742

米国ではNGなのに、なぜ日本輸出はOKなのか…「遺伝子組み換えジャガイモ」の流通危険性
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14068812

ペットボトルのお茶は飲んではいけない
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14077268
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/454.html#c173

[近代史5] レーニンはドイツのスパイ、ラスプーチンはイギリスのスパイだった 中川隆
1. 2023年1月03日 12:49:24 : Wkbfj3EOO6 : aHNvbERkNXFqbVk=[3]
2023.01.03XML
米国の命令に従い、 中国やロシアと戦争する準備を進めれば日本は滅ぶ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/

 ロシアや中国が日本を軍事的な脅威とみなしているは彼らの言動が示している。関係の悪化がビジネスの分野に影響しないはずはない。中国との取り引きなしに日本の経済は成り立たないにもかかわらず、悪化させたのは日本側であり、そうした行動はアメリカに命令されてのことである。その経緯は本ブログでも繰り返し書いてきた。

 アメリカの支配層はイギリスを支配していたグループの戦略を継承、ユーラシア大陸の周辺部を海軍力で支配、内陸部を締め上げようとしてきた。この戦略を可能にしたのが1869年のスエズ運河完成だ。その戦略に基づいてイギリスは日本で「明治維新」を仕掛け、サウジアラビアやイスラエルを作り上げた。

 最終的にはロシアを征服し、世界の覇者になること。そのため、第1次世界大戦でロシアとドイツを戦わせようとするが、大きな障害が存在した。

 帝政ロシアは当時、ふたつの柱に支えられていた。ひとつは地主階級であり、もうひとつは新興の産業資本家。グレゴリー・ラスプーチンは地主階級の代弁者で、そのバックにはアレクサンドラ皇后がいた。

 ロシア側では産業資本家のほか、若手の貴族の中にも戦争推進派が存在していた。その中心にいたのが有力貴族であるユスポフ家のフェリックスだ。また左翼の中には資本主義革命を経て社会主義革命へ進むべきだと主張する勢力も存在、資本家につながっていた。

 フェリックスは1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだが、その時にフェリックスブリングドン・クラブなる学生結社に入会、またクラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなる。レイナーは後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになった。

 ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいて、ユスポフの宮殿で教師の子どもが1876年2月に誕生している。スティーブン・アリーだが、この人物も後にMI6のオフィサーになる。ちなみにフェリックスが生まれたのは1887年3月だ。

 フェリックスがオックスフォードでの留学を終えた翌年の1914年には第1次世界大戦が勃発するが、ロシアの支配層は戦争に反対する大地主と参戦を主張する資本家が対立した。

 資本家の背後にいたイギリスにとって皇帝夫妻に大きな影響力を持つラスプーチンは目障りな存在。戦争をめぐる対立が続く中ラスプーチンは腹を刺されて入院、その間にロシアは参戦を決めた。

 しかし、退院後もラスプーチンは戦争に反対。1916年の後半に入るとフランス軍やイギリス軍は疲弊、ロシア軍を離脱させるわけにはいかない。そしてラスプーチンは1916年12月に暗殺され、戦争は継続される。

 ユスポフが実行したと言われているが、暗殺の前にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣、そのチームにはステファン・アリーとオズワルド・レイナーも含まれていた。ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 帝政ロシアを支えていた柱のひとつ、地主階級は1917年3月の「二月革命」で崩壊、戦争は継続される。ドイツは東と西の両面作戦を続けねばならない。そこで目をつけたのが「即時停戦」を主張していたウラジミル・レーニンのボルシェビキ。

 二月革命当時、ボルシェビキの幹部は亡命中か収監中だったが、ドイツ外務省はレーニンを含むボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンが帰国したのは1917年4月だ。ボルシェビキは同年11月の「十月革命」で実権を握り、産業資本家を後ろ盾とする二月革命で成立した臨時革命政権は倒された。

 こうした経緯があるため、第1次世界他戦後、ソ連とドイツの関係は良かったのだが、ナチスの台頭で状況が一変する。そのナチスをアメリカやイギリスの金融資本が資金面から支えていた。

 ナチスが実権を握ったドイツはポーランドと1934年1月に不可侵条約を締結したが、両国の間には飛地の問題、いわゆる「ポーランド回廊」の問題があった。

 この問題を解決するためにドイツ側が出した案は、住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すというものだった。

 そうした条件で交渉はほぼ合意に達し、1939年3月21日にポーランドのジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになっていたのだが、姿を現さない。ロンドンへ向かったのである。

 その日、ロンドンではコントロール不能になったアドルフ・ヒトラーをどうするか決めるために西側各国の指導者が集まっていた。そして3月26日にポーランドはドイツに対し、回廊をドイツに返還しないと通告する。

 その年の8月11日にイギリスとソ連はドイツ問題で交渉を開始、ソ連の国防相(国防人民委員)と参謀総長はポーランドの反対が解決されれば、ドイツを封じ込めるために軍隊をドイツとの国境へ派遣する用意があると提案している。

 イギリスのテレグラフ紙によると、部隊の規模は120歩兵師団と16騎兵師団だが、イギリスの代表は交渉する権限がないという理由で回答を拒否した。見切りをつけたソ連は1939年8月23日にドイツと不可侵条約を結ぶ。(Nick Holdsworth, “Stalin ‘planned to send a million troops to stop Hitler if Britain and France agreed pact’, the Telegraph, 18 October 2008)

 それから間もない1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻し、チェコスロバキア侵攻のケースでは黙認したイギリス、フランス、オーストラリア、そしてニュージーランドが9月3日に宣戦布告して第2次世界大戦は始まった。

 しかし、ドイツはそれから半年間、目立った戦闘を行なっていない。イギリスやフランスもドイツとの本格的な戦闘を始めない。「奇妙な戦争」の期間だ。ドイツはこの時点で大規模な戦争を始める準備をしていなかった可能性が高い。

 ドイツ軍は1941年6月にソ連へ向かって進撃を開始する。「バルバロッサ作戦」だ。この作戦で東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人だと言われている。7月にドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫った。

 そこでソ連軍は敗北して再び立ち上がることはないと10月3日にアドルフ・ヒトラーはベルリンで語り、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 ところがそうした見通しは外れ、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏、8月にはスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、1943年1月にドイツ軍は降伏する。この時点でドイツの敗北は決定的だった。イギリスとアメリカが動き始めるのはこの後である。

 ドイツの攻撃でソ連が崩壊することを望んでいたチャーチルが大戦後に冷戦の開幕を告げたのは、対ソ連戦争の継続宣言にほかならないが、その冷戦は1991年12月にソ連が消滅した時点で終わり、アメリカの国防総省では世界制覇プランが作成された。​国防次官補のポール・ウォルフォウィッツが中心になって書き上げた「DPG草案」、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だ。​

 その目的として、ソ連と同じような脅威をもたらす新たなライバルの再出現を防ぐことだとしている。アメリカにとって重大な脅威が発生する可能性がある地域として、旧ソ連だけでなくヨーロッパ、東アジア、中東、南西アジアを挙げ、またラテン・アメリカ、オセアニア、サハラ以南のアフリカも注目している。要するに、全世界でアメリカのライバルが出現することを許さないというわけだ。

 1990年代からアメリカはこうした方針に基づいて行動してきた。アメリカにとって日本も潜在的なライバルである。

 ウクライナでの戦乱を口実としてアメリカはロシアへの経済戦争も仕掛けたが、EUが大きなダメージを受けている。経済や社会が崩壊、自力で生きていけなくなりそうだが、これは副作用でなく、目的のひとつだと考えるべきだろう。

 そのアメリカは東アジアでも軍事的な緊張を高め、 日本や韓国を中国と戦わせようとしている。アメリカの命令に従ったなら、日本はEUと同じように経済や社会の崩壊はさけられない。日本という国を存続させたいなら、アメリカの命令に従ってはならないということだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1599.html#c1

[経世済民72] 脳動脈硬化症で晩節を汚した(?)レーニン _ 実際は若い時から… 中川隆
17. 中川隆[-12812] koaQ7Jey 2023年1月03日 13:00:15 : Wkbfj3EOO6 : aHNvbERkNXFqbVk=[4]
2023.01.03XML
米国の命令に従い、 中国やロシアと戦争する準備を進めれば日本は滅ぶ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/

 ロシアや中国が日本を軍事的な脅威とみなしているは彼らの言動が示している。関係の悪化がビジネスの分野に影響しないはずはない。中国との取り引きなしに日本の経済は成り立たないにもかかわらず、悪化させたのは日本側であり、そうした行動はアメリカに命令されてのことである。その経緯は本ブログでも繰り返し書いてきた。

 アメリカの支配層はイギリスを支配していたグループの戦略を継承、ユーラシア大陸の周辺部を海軍力で支配、内陸部を締め上げようとしてきた。この戦略を可能にしたのが1869年のスエズ運河完成だ。その戦略に基づいてイギリスは日本で「明治維新」を仕掛け、サウジアラビアやイスラエルを作り上げた。

 最終的にはロシアを征服し、世界の覇者になること。そのため、第1次世界大戦でロシアとドイツを戦わせようとするが、大きな障害が存在した。

 帝政ロシアは当時、ふたつの柱に支えられていた。ひとつは地主階級であり、もうひとつは新興の産業資本家。グレゴリー・ラスプーチンは地主階級の代弁者で、そのバックにはアレクサンドラ皇后がいた。

 ロシア側では産業資本家のほか、若手の貴族の中にも戦争推進派が存在していた。その中心にいたのが有力貴族であるユスポフ家のフェリックスだ。また左翼の中には資本主義革命を経て社会主義革命へ進むべきだと主張する勢力も存在、資本家につながっていた。

 フェリックスは1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだが、その時にフェリックスブリングドン・クラブなる学生結社に入会、またクラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなる。レイナーは後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになった。

 ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいて、ユスポフの宮殿で教師の子どもが1876年2月に誕生している。スティーブン・アリーだが、この人物も後にMI6のオフィサーになる。ちなみにフェリックスが生まれたのは1887年3月だ。

 フェリックスがオックスフォードでの留学を終えた翌年の1914年には第1次世界大戦が勃発するが、ロシアの支配層は戦争に反対する大地主と参戦を主張する資本家が対立した。

 資本家の背後にいたイギリスにとって皇帝夫妻に大きな影響力を持つラスプーチンは目障りな存在。戦争をめぐる対立が続く中ラスプーチンは腹を刺されて入院、その間にロシアは参戦を決めた。

 しかし、退院後もラスプーチンは戦争に反対。1916年の後半に入るとフランス軍やイギリス軍は疲弊、ロシア軍を離脱させるわけにはいかない。そしてラスプーチンは1916年12月に暗殺され、戦争は継続される。

 ユスポフが実行したと言われているが、暗殺の前にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣、そのチームにはステファン・アリーとオズワルド・レイナーも含まれていた。ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 帝政ロシアを支えていた柱のひとつ、地主階級は1917年3月の「二月革命」で崩壊、戦争は継続される。ドイツは東と西の両面作戦を続けねばならない。そこで目をつけたのが「即時停戦」を主張していたウラジミル・レーニンのボルシェビキ。

 二月革命当時、ボルシェビキの幹部は亡命中か収監中だったが、ドイツ外務省はレーニンを含むボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンが帰国したのは1917年4月だ。ボルシェビキは同年11月の「十月革命」で実権を握り、産業資本家を後ろ盾とする二月革命で成立した臨時革命政権は倒された。

 こうした経緯があるため、第1次世界他戦後、ソ連とドイツの関係は良かったのだが、ナチスの台頭で状況が一変する。そのナチスをアメリカやイギリスの金融資本が資金面から支えていた。

 ナチスが実権を握ったドイツはポーランドと1934年1月に不可侵条約を締結したが、両国の間には飛地の問題、いわゆる「ポーランド回廊」の問題があった。

 この問題を解決するためにドイツ側が出した案は、住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すというものだった。

 そうした条件で交渉はほぼ合意に達し、1939年3月21日にポーランドのジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになっていたのだが、姿を現さない。ロンドンへ向かったのである。

 その日、ロンドンではコントロール不能になったアドルフ・ヒトラーをどうするか決めるために西側各国の指導者が集まっていた。そして3月26日にポーランドはドイツに対し、回廊をドイツに返還しないと通告する。

 その年の8月11日にイギリスとソ連はドイツ問題で交渉を開始、ソ連の国防相(国防人民委員)と参謀総長はポーランドの反対が解決されれば、ドイツを封じ込めるために軍隊をドイツとの国境へ派遣する用意があると提案している。

 イギリスのテレグラフ紙によると、部隊の規模は120歩兵師団と16騎兵師団だが、イギリスの代表は交渉する権限がないという理由で回答を拒否した。見切りをつけたソ連は1939年8月23日にドイツと不可侵条約を結ぶ。(Nick Holdsworth, “Stalin ‘planned to send a million troops to stop Hitler if Britain and France agreed pact’, the Telegraph, 18 October 2008)

 それから間もない1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻し、チェコスロバキア侵攻のケースでは黙認したイギリス、フランス、オーストラリア、そしてニュージーランドが9月3日に宣戦布告して第2次世界大戦は始まった。

 しかし、ドイツはそれから半年間、目立った戦闘を行なっていない。イギリスやフランスもドイツとの本格的な戦闘を始めない。「奇妙な戦争」の期間だ。ドイツはこの時点で大規模な戦争を始める準備をしていなかった可能性が高い。

 ドイツ軍は1941年6月にソ連へ向かって進撃を開始する。「バルバロッサ作戦」だ。この作戦で東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人だと言われている。7月にドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫った。

 そこでソ連軍は敗北して再び立ち上がることはないと10月3日にアドルフ・ヒトラーはベルリンで語り、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 ところがそうした見通しは外れ、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏、8月にはスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、1943年1月にドイツ軍は降伏する。この時点でドイツの敗北は決定的だった。イギリスとアメリカが動き始めるのはこの後である。

 ドイツの攻撃でソ連が崩壊することを望んでいたチャーチルが大戦後に冷戦の開幕を告げたのは、対ソ連戦争の継続宣言にほかならないが、その冷戦は1991年12月にソ連が消滅した時点で終わり、アメリカの国防総省では世界制覇プランが作成された。​国防次官補のポール・ウォルフォウィッツが中心になって書き上げた「DPG草案」、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だ。​

 その目的として、ソ連と同じような脅威をもたらす新たなライバルの再出現を防ぐことだとしている。アメリカにとって重大な脅威が発生する可能性がある地域として、旧ソ連だけでなくヨーロッパ、東アジア、中東、南西アジアを挙げ、またラテン・アメリカ、オセアニア、サハラ以南のアフリカも注目している。要するに、全世界でアメリカのライバルが出現することを許さないというわけだ。

 1990年代からアメリカはこうした方針に基づいて行動してきた。アメリカにとって日本も潜在的なライバルである。

 ウクライナでの戦乱を口実としてアメリカはロシアへの経済戦争も仕掛けたが、EUが大きなダメージを受けている。経済や社会が崩壊、自力で生きていけなくなりそうだが、これは副作用でなく、目的のひとつだと考えるべきだろう。

 そのアメリカは東アジアでも軍事的な緊張を高め、 日本や韓国を中国と戦わせようとしている。アメリカの命令に従ったなら、日本はEUと同じように経済や社会の崩壊はさけられない。日本という国を存続させたいなら、アメリカの命令に従ってはならないということだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/

http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/756.html#c17

[近代史5] 帝政ロシアの歴史 中川隆
4. 中川隆[-12811] koaQ7Jey 2023年1月03日 13:01:07 : Wkbfj3EOO6 : aHNvbERkNXFqbVk=[5]
2023.01.03XML
米国の命令に従い、 中国やロシアと戦争する準備を進めれば日本は滅ぶ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/

 ロシアや中国が日本を軍事的な脅威とみなしているは彼らの言動が示している。関係の悪化がビジネスの分野に影響しないはずはない。中国との取り引きなしに日本の経済は成り立たないにもかかわらず、悪化させたのは日本側であり、そうした行動はアメリカに命令されてのことである。その経緯は本ブログでも繰り返し書いてきた。

 アメリカの支配層はイギリスを支配していたグループの戦略を継承、ユーラシア大陸の周辺部を海軍力で支配、内陸部を締め上げようとしてきた。この戦略を可能にしたのが1869年のスエズ運河完成だ。その戦略に基づいてイギリスは日本で「明治維新」を仕掛け、サウジアラビアやイスラエルを作り上げた。

 最終的にはロシアを征服し、世界の覇者になること。そのため、第1次世界大戦でロシアとドイツを戦わせようとするが、大きな障害が存在した。

 帝政ロシアは当時、ふたつの柱に支えられていた。ひとつは地主階級であり、もうひとつは新興の産業資本家。グレゴリー・ラスプーチンは地主階級の代弁者で、そのバックにはアレクサンドラ皇后がいた。

 ロシア側では産業資本家のほか、若手の貴族の中にも戦争推進派が存在していた。その中心にいたのが有力貴族であるユスポフ家のフェリックスだ。また左翼の中には資本主義革命を経て社会主義革命へ進むべきだと主張する勢力も存在、資本家につながっていた。

 フェリックスは1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだが、その時にフェリックスブリングドン・クラブなる学生結社に入会、またクラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなる。レイナーは後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになった。

 ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいて、ユスポフの宮殿で教師の子どもが1876年2月に誕生している。スティーブン・アリーだが、この人物も後にMI6のオフィサーになる。ちなみにフェリックスが生まれたのは1887年3月だ。

 フェリックスがオックスフォードでの留学を終えた翌年の1914年には第1次世界大戦が勃発するが、ロシアの支配層は戦争に反対する大地主と参戦を主張する資本家が対立した。

 資本家の背後にいたイギリスにとって皇帝夫妻に大きな影響力を持つラスプーチンは目障りな存在。戦争をめぐる対立が続く中ラスプーチンは腹を刺されて入院、その間にロシアは参戦を決めた。

 しかし、退院後もラスプーチンは戦争に反対。1916年の後半に入るとフランス軍やイギリス軍は疲弊、ロシア軍を離脱させるわけにはいかない。そしてラスプーチンは1916年12月に暗殺され、戦争は継続される。

 ユスポフが実行したと言われているが、暗殺の前にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣、そのチームにはステファン・アリーとオズワルド・レイナーも含まれていた。ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 帝政ロシアを支えていた柱のひとつ、地主階級は1917年3月の「二月革命」で崩壊、戦争は継続される。ドイツは東と西の両面作戦を続けねばならない。そこで目をつけたのが「即時停戦」を主張していたウラジミル・レーニンのボルシェビキ。

 二月革命当時、ボルシェビキの幹部は亡命中か収監中だったが、ドイツ外務省はレーニンを含むボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンが帰国したのは1917年4月だ。ボルシェビキは同年11月の「十月革命」で実権を握り、産業資本家を後ろ盾とする二月革命で成立した臨時革命政権は倒された。

 こうした経緯があるため、第1次世界他戦後、ソ連とドイツの関係は良かったのだが、ナチスの台頭で状況が一変する。そのナチスをアメリカやイギリスの金融資本が資金面から支えていた。

 ナチスが実権を握ったドイツはポーランドと1934年1月に不可侵条約を締結したが、両国の間には飛地の問題、いわゆる「ポーランド回廊」の問題があった。

 この問題を解決するためにドイツ側が出した案は、住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すというものだった。

 そうした条件で交渉はほぼ合意に達し、1939年3月21日にポーランドのジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになっていたのだが、姿を現さない。ロンドンへ向かったのである。

 その日、ロンドンではコントロール不能になったアドルフ・ヒトラーをどうするか決めるために西側各国の指導者が集まっていた。そして3月26日にポーランドはドイツに対し、回廊をドイツに返還しないと通告する。

 その年の8月11日にイギリスとソ連はドイツ問題で交渉を開始、ソ連の国防相(国防人民委員)と参謀総長はポーランドの反対が解決されれば、ドイツを封じ込めるために軍隊をドイツとの国境へ派遣する用意があると提案している。

 イギリスのテレグラフ紙によると、部隊の規模は120歩兵師団と16騎兵師団だが、イギリスの代表は交渉する権限がないという理由で回答を拒否した。見切りをつけたソ連は1939年8月23日にドイツと不可侵条約を結ぶ。(Nick Holdsworth, “Stalin ‘planned to send a million troops to stop Hitler if Britain and France agreed pact’, the Telegraph, 18 October 2008)

 それから間もない1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻し、チェコスロバキア侵攻のケースでは黙認したイギリス、フランス、オーストラリア、そしてニュージーランドが9月3日に宣戦布告して第2次世界大戦は始まった。

 しかし、ドイツはそれから半年間、目立った戦闘を行なっていない。イギリスやフランスもドイツとの本格的な戦闘を始めない。「奇妙な戦争」の期間だ。ドイツはこの時点で大規模な戦争を始める準備をしていなかった可能性が高い。

 ドイツ軍は1941年6月にソ連へ向かって進撃を開始する。「バルバロッサ作戦」だ。この作戦で東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人だと言われている。7月にドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫った。

 そこでソ連軍は敗北して再び立ち上がることはないと10月3日にアドルフ・ヒトラーはベルリンで語り、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 ところがそうした見通しは外れ、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏、8月にはスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、1943年1月にドイツ軍は降伏する。この時点でドイツの敗北は決定的だった。イギリスとアメリカが動き始めるのはこの後である。

 ドイツの攻撃でソ連が崩壊することを望んでいたチャーチルが大戦後に冷戦の開幕を告げたのは、対ソ連戦争の継続宣言にほかならないが、その冷戦は1991年12月にソ連が消滅した時点で終わり、アメリカの国防総省では世界制覇プランが作成された。​国防次官補のポール・ウォルフォウィッツが中心になって書き上げた「DPG草案」、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だ。​

 その目的として、ソ連と同じような脅威をもたらす新たなライバルの再出現を防ぐことだとしている。アメリカにとって重大な脅威が発生する可能性がある地域として、旧ソ連だけでなくヨーロッパ、東アジア、中東、南西アジアを挙げ、またラテン・アメリカ、オセアニア、サハラ以南のアフリカも注目している。要するに、全世界でアメリカのライバルが出現することを許さないというわけだ。

 1990年代からアメリカはこうした方針に基づいて行動してきた。アメリカにとって日本も潜在的なライバルである。

 ウクライナでの戦乱を口実としてアメリカはロシアへの経済戦争も仕掛けたが、EUが大きなダメージを受けている。経済や社会が崩壊、自力で生きていけなくなりそうだが、これは副作用でなく、目的のひとつだと考えるべきだろう。

 そのアメリカは東アジアでも軍事的な緊張を高め、 日本や韓国を中国と戦わせようとしている。アメリカの命令に従ったなら、日本はEUと同じように経済や社会の崩壊はさけられない。日本という国を存続させたいなら、アメリカの命令に従ってはならないということだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/603.html#c4

[近代史7] ユダヤ人を迫害するロマノフ朝はユダヤ人の不倶戴天の敵だった、ロシアの富を収奪しようとするユダヤ資本がロシア革命を起こさ… 中川隆
1. 中川隆[-12810] koaQ7Jey 2023年1月03日 13:01:30 : Wkbfj3EOO6 : aHNvbERkNXFqbVk=[6]
2023.01.03XML
米国の命令に従い、 中国やロシアと戦争する準備を進めれば日本は滅ぶ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/

 ロシアや中国が日本を軍事的な脅威とみなしているは彼らの言動が示している。関係の悪化がビジネスの分野に影響しないはずはない。中国との取り引きなしに日本の経済は成り立たないにもかかわらず、悪化させたのは日本側であり、そうした行動はアメリカに命令されてのことである。その経緯は本ブログでも繰り返し書いてきた。

 アメリカの支配層はイギリスを支配していたグループの戦略を継承、ユーラシア大陸の周辺部を海軍力で支配、内陸部を締め上げようとしてきた。この戦略を可能にしたのが1869年のスエズ運河完成だ。その戦略に基づいてイギリスは日本で「明治維新」を仕掛け、サウジアラビアやイスラエルを作り上げた。

 最終的にはロシアを征服し、世界の覇者になること。そのため、第1次世界大戦でロシアとドイツを戦わせようとするが、大きな障害が存在した。

 帝政ロシアは当時、ふたつの柱に支えられていた。ひとつは地主階級であり、もうひとつは新興の産業資本家。グレゴリー・ラスプーチンは地主階級の代弁者で、そのバックにはアレクサンドラ皇后がいた。

 ロシア側では産業資本家のほか、若手の貴族の中にも戦争推進派が存在していた。その中心にいたのが有力貴族であるユスポフ家のフェリックスだ。また左翼の中には資本主義革命を経て社会主義革命へ進むべきだと主張する勢力も存在、資本家につながっていた。

 フェリックスは1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだが、その時にフェリックスブリングドン・クラブなる学生結社に入会、またクラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなる。レイナーは後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになった。

 ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいて、ユスポフの宮殿で教師の子どもが1876年2月に誕生している。スティーブン・アリーだが、この人物も後にMI6のオフィサーになる。ちなみにフェリックスが生まれたのは1887年3月だ。

 フェリックスがオックスフォードでの留学を終えた翌年の1914年には第1次世界大戦が勃発するが、ロシアの支配層は戦争に反対する大地主と参戦を主張する資本家が対立した。

 資本家の背後にいたイギリスにとって皇帝夫妻に大きな影響力を持つラスプーチンは目障りな存在。戦争をめぐる対立が続く中ラスプーチンは腹を刺されて入院、その間にロシアは参戦を決めた。

 しかし、退院後もラスプーチンは戦争に反対。1916年の後半に入るとフランス軍やイギリス軍は疲弊、ロシア軍を離脱させるわけにはいかない。そしてラスプーチンは1916年12月に暗殺され、戦争は継続される。

 ユスポフが実行したと言われているが、暗殺の前にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣、そのチームにはステファン・アリーとオズワルド・レイナーも含まれていた。ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 帝政ロシアを支えていた柱のひとつ、地主階級は1917年3月の「二月革命」で崩壊、戦争は継続される。ドイツは東と西の両面作戦を続けねばならない。そこで目をつけたのが「即時停戦」を主張していたウラジミル・レーニンのボルシェビキ。

 二月革命当時、ボルシェビキの幹部は亡命中か収監中だったが、ドイツ外務省はレーニンを含むボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンが帰国したのは1917年4月だ。ボルシェビキは同年11月の「十月革命」で実権を握り、産業資本家を後ろ盾とする二月革命で成立した臨時革命政権は倒された。

 こうした経緯があるため、第1次世界他戦後、ソ連とドイツの関係は良かったのだが、ナチスの台頭で状況が一変する。そのナチスをアメリカやイギリスの金融資本が資金面から支えていた。

 ナチスが実権を握ったドイツはポーランドと1934年1月に不可侵条約を締結したが、両国の間には飛地の問題、いわゆる「ポーランド回廊」の問題があった。

 この問題を解決するためにドイツ側が出した案は、住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すというものだった。

 そうした条件で交渉はほぼ合意に達し、1939年3月21日にポーランドのジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになっていたのだが、姿を現さない。ロンドンへ向かったのである。

 その日、ロンドンではコントロール不能になったアドルフ・ヒトラーをどうするか決めるために西側各国の指導者が集まっていた。そして3月26日にポーランドはドイツに対し、回廊をドイツに返還しないと通告する。

 その年の8月11日にイギリスとソ連はドイツ問題で交渉を開始、ソ連の国防相(国防人民委員)と参謀総長はポーランドの反対が解決されれば、ドイツを封じ込めるために軍隊をドイツとの国境へ派遣する用意があると提案している。

 イギリスのテレグラフ紙によると、部隊の規模は120歩兵師団と16騎兵師団だが、イギリスの代表は交渉する権限がないという理由で回答を拒否した。見切りをつけたソ連は1939年8月23日にドイツと不可侵条約を結ぶ。(Nick Holdsworth, “Stalin ‘planned to send a million troops to stop Hitler if Britain and France agreed pact’, the Telegraph, 18 October 2008)

 それから間もない1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻し、チェコスロバキア侵攻のケースでは黙認したイギリス、フランス、オーストラリア、そしてニュージーランドが9月3日に宣戦布告して第2次世界大戦は始まった。

 しかし、ドイツはそれから半年間、目立った戦闘を行なっていない。イギリスやフランスもドイツとの本格的な戦闘を始めない。「奇妙な戦争」の期間だ。ドイツはこの時点で大規模な戦争を始める準備をしていなかった可能性が高い。

 ドイツ軍は1941年6月にソ連へ向かって進撃を開始する。「バルバロッサ作戦」だ。この作戦で東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人だと言われている。7月にドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫った。

 そこでソ連軍は敗北して再び立ち上がることはないと10月3日にアドルフ・ヒトラーはベルリンで語り、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 ところがそうした見通しは外れ、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏、8月にはスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、1943年1月にドイツ軍は降伏する。この時点でドイツの敗北は決定的だった。イギリスとアメリカが動き始めるのはこの後である。

 ドイツの攻撃でソ連が崩壊することを望んでいたチャーチルが大戦後に冷戦の開幕を告げたのは、対ソ連戦争の継続宣言にほかならないが、その冷戦は1991年12月にソ連が消滅した時点で終わり、アメリカの国防総省では世界制覇プランが作成された。​国防次官補のポール・ウォルフォウィッツが中心になって書き上げた「DPG草案」、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だ。​

 その目的として、ソ連と同じような脅威をもたらす新たなライバルの再出現を防ぐことだとしている。アメリカにとって重大な脅威が発生する可能性がある地域として、旧ソ連だけでなくヨーロッパ、東アジア、中東、南西アジアを挙げ、またラテン・アメリカ、オセアニア、サハラ以南のアフリカも注目している。要するに、全世界でアメリカのライバルが出現することを許さないというわけだ。

 1990年代からアメリカはこうした方針に基づいて行動してきた。アメリカにとって日本も潜在的なライバルである。

 ウクライナでの戦乱を口実としてアメリカはロシアへの経済戦争も仕掛けたが、EUが大きなダメージを受けている。経済や社会が崩壊、自力で生きていけなくなりそうだが、これは副作用でなく、目的のひとつだと考えるべきだろう。

 そのアメリカは東アジアでも軍事的な緊張を高め、 日本や韓国を中国と戦わせようとしている。アメリカの命令に従ったなら、日本はEUと同じように経済や社会の崩壊はさけられない。日本という国を存続させたいなら、アメリカの命令に従ってはならないということだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/

http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/496.html#c1

[近代史3] ロシア革命とは何だったのか? 中川隆
13. 中川隆[-12809] koaQ7Jey 2023年1月03日 13:01:57 : Wkbfj3EOO6 : aHNvbERkNXFqbVk=[7]
2023.01.03XML
米国の命令に従い、 中国やロシアと戦争する準備を進めれば日本は滅ぶ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/

 ロシアや中国が日本を軍事的な脅威とみなしているは彼らの言動が示している。関係の悪化がビジネスの分野に影響しないはずはない。中国との取り引きなしに日本の経済は成り立たないにもかかわらず、悪化させたのは日本側であり、そうした行動はアメリカに命令されてのことである。その経緯は本ブログでも繰り返し書いてきた。

 アメリカの支配層はイギリスを支配していたグループの戦略を継承、ユーラシア大陸の周辺部を海軍力で支配、内陸部を締め上げようとしてきた。この戦略を可能にしたのが1869年のスエズ運河完成だ。その戦略に基づいてイギリスは日本で「明治維新」を仕掛け、サウジアラビアやイスラエルを作り上げた。

 最終的にはロシアを征服し、世界の覇者になること。そのため、第1次世界大戦でロシアとドイツを戦わせようとするが、大きな障害が存在した。

 帝政ロシアは当時、ふたつの柱に支えられていた。ひとつは地主階級であり、もうひとつは新興の産業資本家。グレゴリー・ラスプーチンは地主階級の代弁者で、そのバックにはアレクサンドラ皇后がいた。

 ロシア側では産業資本家のほか、若手の貴族の中にも戦争推進派が存在していた。その中心にいたのが有力貴族であるユスポフ家のフェリックスだ。また左翼の中には資本主義革命を経て社会主義革命へ進むべきだと主張する勢力も存在、資本家につながっていた。

 フェリックスは1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだが、その時にフェリックスブリングドン・クラブなる学生結社に入会、またクラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなる。レイナーは後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになった。

 ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいて、ユスポフの宮殿で教師の子どもが1876年2月に誕生している。スティーブン・アリーだが、この人物も後にMI6のオフィサーになる。ちなみにフェリックスが生まれたのは1887年3月だ。

 フェリックスがオックスフォードでの留学を終えた翌年の1914年には第1次世界大戦が勃発するが、ロシアの支配層は戦争に反対する大地主と参戦を主張する資本家が対立した。

 資本家の背後にいたイギリスにとって皇帝夫妻に大きな影響力を持つラスプーチンは目障りな存在。戦争をめぐる対立が続く中ラスプーチンは腹を刺されて入院、その間にロシアは参戦を決めた。

 しかし、退院後もラスプーチンは戦争に反対。1916年の後半に入るとフランス軍やイギリス軍は疲弊、ロシア軍を離脱させるわけにはいかない。そしてラスプーチンは1916年12月に暗殺され、戦争は継続される。

 ユスポフが実行したと言われているが、暗殺の前にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣、そのチームにはステファン・アリーとオズワルド・レイナーも含まれていた。ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 帝政ロシアを支えていた柱のひとつ、地主階級は1917年3月の「二月革命」で崩壊、戦争は継続される。ドイツは東と西の両面作戦を続けねばならない。そこで目をつけたのが「即時停戦」を主張していたウラジミル・レーニンのボルシェビキ。

 二月革命当時、ボルシェビキの幹部は亡命中か収監中だったが、ドイツ外務省はレーニンを含むボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンが帰国したのは1917年4月だ。ボルシェビキは同年11月の「十月革命」で実権を握り、産業資本家を後ろ盾とする二月革命で成立した臨時革命政権は倒された。

 こうした経緯があるため、第1次世界他戦後、ソ連とドイツの関係は良かったのだが、ナチスの台頭で状況が一変する。そのナチスをアメリカやイギリスの金融資本が資金面から支えていた。

 ナチスが実権を握ったドイツはポーランドと1934年1月に不可侵条約を締結したが、両国の間には飛地の問題、いわゆる「ポーランド回廊」の問題があった。

 この問題を解決するためにドイツ側が出した案は、住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すというものだった。

 そうした条件で交渉はほぼ合意に達し、1939年3月21日にポーランドのジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになっていたのだが、姿を現さない。ロンドンへ向かったのである。

 その日、ロンドンではコントロール不能になったアドルフ・ヒトラーをどうするか決めるために西側各国の指導者が集まっていた。そして3月26日にポーランドはドイツに対し、回廊をドイツに返還しないと通告する。

 その年の8月11日にイギリスとソ連はドイツ問題で交渉を開始、ソ連の国防相(国防人民委員)と参謀総長はポーランドの反対が解決されれば、ドイツを封じ込めるために軍隊をドイツとの国境へ派遣する用意があると提案している。

 イギリスのテレグラフ紙によると、部隊の規模は120歩兵師団と16騎兵師団だが、イギリスの代表は交渉する権限がないという理由で回答を拒否した。見切りをつけたソ連は1939年8月23日にドイツと不可侵条約を結ぶ。(Nick Holdsworth, “Stalin ‘planned to send a million troops to stop Hitler if Britain and France agreed pact’, the Telegraph, 18 October 2008)

 それから間もない1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻し、チェコスロバキア侵攻のケースでは黙認したイギリス、フランス、オーストラリア、そしてニュージーランドが9月3日に宣戦布告して第2次世界大戦は始まった。

 しかし、ドイツはそれから半年間、目立った戦闘を行なっていない。イギリスやフランスもドイツとの本格的な戦闘を始めない。「奇妙な戦争」の期間だ。ドイツはこの時点で大規模な戦争を始める準備をしていなかった可能性が高い。

 ドイツ軍は1941年6月にソ連へ向かって進撃を開始する。「バルバロッサ作戦」だ。この作戦で東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人だと言われている。7月にドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫った。

 そこでソ連軍は敗北して再び立ち上がることはないと10月3日にアドルフ・ヒトラーはベルリンで語り、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 ところがそうした見通しは外れ、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏、8月にはスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、1943年1月にドイツ軍は降伏する。この時点でドイツの敗北は決定的だった。イギリスとアメリカが動き始めるのはこの後である。

 ドイツの攻撃でソ連が崩壊することを望んでいたチャーチルが大戦後に冷戦の開幕を告げたのは、対ソ連戦争の継続宣言にほかならないが、その冷戦は1991年12月にソ連が消滅した時点で終わり、アメリカの国防総省では世界制覇プランが作成された。​国防次官補のポール・ウォルフォウィッツが中心になって書き上げた「DPG草案」、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だ。​

 その目的として、ソ連と同じような脅威をもたらす新たなライバルの再出現を防ぐことだとしている。アメリカにとって重大な脅威が発生する可能性がある地域として、旧ソ連だけでなくヨーロッパ、東アジア、中東、南西アジアを挙げ、またラテン・アメリカ、オセアニア、サハラ以南のアフリカも注目している。要するに、全世界でアメリカのライバルが出現することを許さないというわけだ。

 1990年代からアメリカはこうした方針に基づいて行動してきた。アメリカにとって日本も潜在的なライバルである。

 ウクライナでの戦乱を口実としてアメリカはロシアへの経済戦争も仕掛けたが、EUが大きなダメージを受けている。経済や社会が崩壊、自力で生きていけなくなりそうだが、これは副作用でなく、目的のひとつだと考えるべきだろう。

 そのアメリカは東アジアでも軍事的な緊張を高め、 日本や韓国を中国と戦わせようとしている。アメリカの命令に従ったなら、日本はEUと同じように経済や社会の崩壊はさけられない。日本という国を存続させたいなら、アメリカの命令に従ってはならないということだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/795.html#c13

[近代史4] ロシア革命を支援したユダヤ金融資本 中川隆
7. 中川隆[-12808] koaQ7Jey 2023年1月03日 13:02:37 : Wkbfj3EOO6 : aHNvbERkNXFqbVk=[8]
2023.01.03XML
米国の命令に従い、 中国やロシアと戦争する準備を進めれば日本は滅ぶ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/

 ロシアや中国が日本を軍事的な脅威とみなしているは彼らの言動が示している。関係の悪化がビジネスの分野に影響しないはずはない。中国との取り引きなしに日本の経済は成り立たないにもかかわらず、悪化させたのは日本側であり、そうした行動はアメリカに命令されてのことである。その経緯は本ブログでも繰り返し書いてきた。

 アメリカの支配層はイギリスを支配していたグループの戦略を継承、ユーラシア大陸の周辺部を海軍力で支配、内陸部を締め上げようとしてきた。この戦略を可能にしたのが1869年のスエズ運河完成だ。その戦略に基づいてイギリスは日本で「明治維新」を仕掛け、サウジアラビアやイスラエルを作り上げた。

 最終的にはロシアを征服し、世界の覇者になること。そのため、第1次世界大戦でロシアとドイツを戦わせようとするが、大きな障害が存在した。

 帝政ロシアは当時、ふたつの柱に支えられていた。ひとつは地主階級であり、もうひとつは新興の産業資本家。グレゴリー・ラスプーチンは地主階級の代弁者で、そのバックにはアレクサンドラ皇后がいた。

 ロシア側では産業資本家のほか、若手の貴族の中にも戦争推進派が存在していた。その中心にいたのが有力貴族であるユスポフ家のフェリックスだ。また左翼の中には資本主義革命を経て社会主義革命へ進むべきだと主張する勢力も存在、資本家につながっていた。

 フェリックスは1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだが、その時にフェリックスブリングドン・クラブなる学生結社に入会、またクラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなる。レイナーは後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになった。

 ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいて、ユスポフの宮殿で教師の子どもが1876年2月に誕生している。スティーブン・アリーだが、この人物も後にMI6のオフィサーになる。ちなみにフェリックスが生まれたのは1887年3月だ。

 フェリックスがオックスフォードでの留学を終えた翌年の1914年には第1次世界大戦が勃発するが、ロシアの支配層は戦争に反対する大地主と参戦を主張する資本家が対立した。

 資本家の背後にいたイギリスにとって皇帝夫妻に大きな影響力を持つラスプーチンは目障りな存在。戦争をめぐる対立が続く中ラスプーチンは腹を刺されて入院、その間にロシアは参戦を決めた。

 しかし、退院後もラスプーチンは戦争に反対。1916年の後半に入るとフランス軍やイギリス軍は疲弊、ロシア軍を離脱させるわけにはいかない。そしてラスプーチンは1916年12月に暗殺され、戦争は継続される。

 ユスポフが実行したと言われているが、暗殺の前にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣、そのチームにはステファン・アリーとオズワルド・レイナーも含まれていた。ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 帝政ロシアを支えていた柱のひとつ、地主階級は1917年3月の「二月革命」で崩壊、戦争は継続される。ドイツは東と西の両面作戦を続けねばならない。そこで目をつけたのが「即時停戦」を主張していたウラジミル・レーニンのボルシェビキ。

 二月革命当時、ボルシェビキの幹部は亡命中か収監中だったが、ドイツ外務省はレーニンを含むボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンが帰国したのは1917年4月だ。ボルシェビキは同年11月の「十月革命」で実権を握り、産業資本家を後ろ盾とする二月革命で成立した臨時革命政権は倒された。

 こうした経緯があるため、第1次世界他戦後、ソ連とドイツの関係は良かったのだが、ナチスの台頭で状況が一変する。そのナチスをアメリカやイギリスの金融資本が資金面から支えていた。

 ナチスが実権を握ったドイツはポーランドと1934年1月に不可侵条約を締結したが、両国の間には飛地の問題、いわゆる「ポーランド回廊」の問題があった。

 この問題を解決するためにドイツ側が出した案は、住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すというものだった。

 そうした条件で交渉はほぼ合意に達し、1939年3月21日にポーランドのジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになっていたのだが、姿を現さない。ロンドンへ向かったのである。

 その日、ロンドンではコントロール不能になったアドルフ・ヒトラーをどうするか決めるために西側各国の指導者が集まっていた。そして3月26日にポーランドはドイツに対し、回廊をドイツに返還しないと通告する。

 その年の8月11日にイギリスとソ連はドイツ問題で交渉を開始、ソ連の国防相(国防人民委員)と参謀総長はポーランドの反対が解決されれば、ドイツを封じ込めるために軍隊をドイツとの国境へ派遣する用意があると提案している。

 イギリスのテレグラフ紙によると、部隊の規模は120歩兵師団と16騎兵師団だが、イギリスの代表は交渉する権限がないという理由で回答を拒否した。見切りをつけたソ連は1939年8月23日にドイツと不可侵条約を結ぶ。(Nick Holdsworth, “Stalin ‘planned to send a million troops to stop Hitler if Britain and France agreed pact’, the Telegraph, 18 October 2008)

 それから間もない1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻し、チェコスロバキア侵攻のケースでは黙認したイギリス、フランス、オーストラリア、そしてニュージーランドが9月3日に宣戦布告して第2次世界大戦は始まった。

 しかし、ドイツはそれから半年間、目立った戦闘を行なっていない。イギリスやフランスもドイツとの本格的な戦闘を始めない。「奇妙な戦争」の期間だ。ドイツはこの時点で大規模な戦争を始める準備をしていなかった可能性が高い。

 ドイツ軍は1941年6月にソ連へ向かって進撃を開始する。「バルバロッサ作戦」だ。この作戦で東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人だと言われている。7月にドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫った。

 そこでソ連軍は敗北して再び立ち上がることはないと10月3日にアドルフ・ヒトラーはベルリンで語り、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 ところがそうした見通しは外れ、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏、8月にはスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、1943年1月にドイツ軍は降伏する。この時点でドイツの敗北は決定的だった。イギリスとアメリカが動き始めるのはこの後である。

 ドイツの攻撃でソ連が崩壊することを望んでいたチャーチルが大戦後に冷戦の開幕を告げたのは、対ソ連戦争の継続宣言にほかならないが、その冷戦は1991年12月にソ連が消滅した時点で終わり、アメリカの国防総省では世界制覇プランが作成された。​国防次官補のポール・ウォルフォウィッツが中心になって書き上げた「DPG草案」、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だ。​

 その目的として、ソ連と同じような脅威をもたらす新たなライバルの再出現を防ぐことだとしている。アメリカにとって重大な脅威が発生する可能性がある地域として、旧ソ連だけでなくヨーロッパ、東アジア、中東、南西アジアを挙げ、またラテン・アメリカ、オセアニア、サハラ以南のアフリカも注目している。要するに、全世界でアメリカのライバルが出現することを許さないというわけだ。

 1990年代からアメリカはこうした方針に基づいて行動してきた。アメリカにとって日本も潜在的なライバルである。

 ウクライナでの戦乱を口実としてアメリカはロシアへの経済戦争も仕掛けたが、EUが大きなダメージを受けている。経済や社会が崩壊、自力で生きていけなくなりそうだが、これは副作用でなく、目的のひとつだと考えるべきだろう。

 そのアメリカは東アジアでも軍事的な緊張を高め、 日本や韓国を中国と戦わせようとしている。アメリカの命令に従ったなら、日本はEUと同じように経済や社会の崩壊はさけられない。日本という国を存続させたいなら、アメリカの命令に従ってはならないということだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1110.html#c7

[近代史4] 「ロシア革命」を実行したユダヤ人とそれを支援したユダヤ人 中川隆
4. 中川隆[-12807] koaQ7Jey 2023年1月03日 13:03:01 : Wkbfj3EOO6 : aHNvbERkNXFqbVk=[9]
2023.01.03XML
米国の命令に従い、 中国やロシアと戦争する準備を進めれば日本は滅ぶ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/

 ロシアや中国が日本を軍事的な脅威とみなしているは彼らの言動が示している。関係の悪化がビジネスの分野に影響しないはずはない。中国との取り引きなしに日本の経済は成り立たないにもかかわらず、悪化させたのは日本側であり、そうした行動はアメリカに命令されてのことである。その経緯は本ブログでも繰り返し書いてきた。

 アメリカの支配層はイギリスを支配していたグループの戦略を継承、ユーラシア大陸の周辺部を海軍力で支配、内陸部を締め上げようとしてきた。この戦略を可能にしたのが1869年のスエズ運河完成だ。その戦略に基づいてイギリスは日本で「明治維新」を仕掛け、サウジアラビアやイスラエルを作り上げた。

 最終的にはロシアを征服し、世界の覇者になること。そのため、第1次世界大戦でロシアとドイツを戦わせようとするが、大きな障害が存在した。

 帝政ロシアは当時、ふたつの柱に支えられていた。ひとつは地主階級であり、もうひとつは新興の産業資本家。グレゴリー・ラスプーチンは地主階級の代弁者で、そのバックにはアレクサンドラ皇后がいた。

 ロシア側では産業資本家のほか、若手の貴族の中にも戦争推進派が存在していた。その中心にいたのが有力貴族であるユスポフ家のフェリックスだ。また左翼の中には資本主義革命を経て社会主義革命へ進むべきだと主張する勢力も存在、資本家につながっていた。

 フェリックスは1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだが、その時にフェリックスブリングドン・クラブなる学生結社に入会、またクラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなる。レイナーは後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになった。

 ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいて、ユスポフの宮殿で教師の子どもが1876年2月に誕生している。スティーブン・アリーだが、この人物も後にMI6のオフィサーになる。ちなみにフェリックスが生まれたのは1887年3月だ。

 フェリックスがオックスフォードでの留学を終えた翌年の1914年には第1次世界大戦が勃発するが、ロシアの支配層は戦争に反対する大地主と参戦を主張する資本家が対立した。

 資本家の背後にいたイギリスにとって皇帝夫妻に大きな影響力を持つラスプーチンは目障りな存在。戦争をめぐる対立が続く中ラスプーチンは腹を刺されて入院、その間にロシアは参戦を決めた。

 しかし、退院後もラスプーチンは戦争に反対。1916年の後半に入るとフランス軍やイギリス軍は疲弊、ロシア軍を離脱させるわけにはいかない。そしてラスプーチンは1916年12月に暗殺され、戦争は継続される。

 ユスポフが実行したと言われているが、暗殺の前にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣、そのチームにはステファン・アリーとオズワルド・レイナーも含まれていた。ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 帝政ロシアを支えていた柱のひとつ、地主階級は1917年3月の「二月革命」で崩壊、戦争は継続される。ドイツは東と西の両面作戦を続けねばならない。そこで目をつけたのが「即時停戦」を主張していたウラジミル・レーニンのボルシェビキ。

 二月革命当時、ボルシェビキの幹部は亡命中か収監中だったが、ドイツ外務省はレーニンを含むボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンが帰国したのは1917年4月だ。ボルシェビキは同年11月の「十月革命」で実権を握り、産業資本家を後ろ盾とする二月革命で成立した臨時革命政権は倒された。

 こうした経緯があるため、第1次世界他戦後、ソ連とドイツの関係は良かったのだが、ナチスの台頭で状況が一変する。そのナチスをアメリカやイギリスの金融資本が資金面から支えていた。

 ナチスが実権を握ったドイツはポーランドと1934年1月に不可侵条約を締結したが、両国の間には飛地の問題、いわゆる「ポーランド回廊」の問題があった。

 この問題を解決するためにドイツ側が出した案は、住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すというものだった。

 そうした条件で交渉はほぼ合意に達し、1939年3月21日にポーランドのジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになっていたのだが、姿を現さない。ロンドンへ向かったのである。

 その日、ロンドンではコントロール不能になったアドルフ・ヒトラーをどうするか決めるために西側各国の指導者が集まっていた。そして3月26日にポーランドはドイツに対し、回廊をドイツに返還しないと通告する。

 その年の8月11日にイギリスとソ連はドイツ問題で交渉を開始、ソ連の国防相(国防人民委員)と参謀総長はポーランドの反対が解決されれば、ドイツを封じ込めるために軍隊をドイツとの国境へ派遣する用意があると提案している。

 イギリスのテレグラフ紙によると、部隊の規模は120歩兵師団と16騎兵師団だが、イギリスの代表は交渉する権限がないという理由で回答を拒否した。見切りをつけたソ連は1939年8月23日にドイツと不可侵条約を結ぶ。(Nick Holdsworth, “Stalin ‘planned to send a million troops to stop Hitler if Britain and France agreed pact’, the Telegraph, 18 October 2008)

 それから間もない1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻し、チェコスロバキア侵攻のケースでは黙認したイギリス、フランス、オーストラリア、そしてニュージーランドが9月3日に宣戦布告して第2次世界大戦は始まった。

 しかし、ドイツはそれから半年間、目立った戦闘を行なっていない。イギリスやフランスもドイツとの本格的な戦闘を始めない。「奇妙な戦争」の期間だ。ドイツはこの時点で大規模な戦争を始める準備をしていなかった可能性が高い。

 ドイツ軍は1941年6月にソ連へ向かって進撃を開始する。「バルバロッサ作戦」だ。この作戦で東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人だと言われている。7月にドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫った。

 そこでソ連軍は敗北して再び立ち上がることはないと10月3日にアドルフ・ヒトラーはベルリンで語り、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 ところがそうした見通しは外れ、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏、8月にはスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、1943年1月にドイツ軍は降伏する。この時点でドイツの敗北は決定的だった。イギリスとアメリカが動き始めるのはこの後である。

 ドイツの攻撃でソ連が崩壊することを望んでいたチャーチルが大戦後に冷戦の開幕を告げたのは、対ソ連戦争の継続宣言にほかならないが、その冷戦は1991年12月にソ連が消滅した時点で終わり、アメリカの国防総省では世界制覇プランが作成された。​国防次官補のポール・ウォルフォウィッツが中心になって書き上げた「DPG草案」、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だ。​

 その目的として、ソ連と同じような脅威をもたらす新たなライバルの再出現を防ぐことだとしている。アメリカにとって重大な脅威が発生する可能性がある地域として、旧ソ連だけでなくヨーロッパ、東アジア、中東、南西アジアを挙げ、またラテン・アメリカ、オセアニア、サハラ以南のアフリカも注目している。要するに、全世界でアメリカのライバルが出現することを許さないというわけだ。

 1990年代からアメリカはこうした方針に基づいて行動してきた。アメリカにとって日本も潜在的なライバルである。

 ウクライナでの戦乱を口実としてアメリカはロシアへの経済戦争も仕掛けたが、EUが大きなダメージを受けている。経済や社会が崩壊、自力で生きていけなくなりそうだが、これは副作用でなく、目的のひとつだと考えるべきだろう。

 そのアメリカは東アジアでも軍事的な緊張を高め、 日本や韓国を中国と戦わせようとしている。アメリカの命令に従ったなら、日本はEUと同じように経済や社会の崩壊はさけられない。日本という国を存続させたいなら、アメリカの命令に従ってはならないということだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301020000/

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1025.html#c4

[近代史4] 世界最大の対外純資産に惑わされるな!国が強くならないデフレ日本の経常収支サイクル 中川隆
4. 2023年1月03日 18:53:20 : Wkbfj3EOO6 : aHNvbERkNXFqbVk=[10]

2023年01月03日
GDPや平均所得は為替レートを操作すれば2倍や半分にできる

GDPは為替レートで決まるがその為替レートを少額で操作できる

画像引用:https://www.nishinippon.co.jp/item/o/822800/ 連載「数字で見る日本経済」 3回目GDP 3位538兆円も成長遅れ|【西日本新聞me】

日本とロシアの経済苦境

ロシアはウクライナ侵攻で西側諸国から経済制裁を受けたが2022年GDPはマイナス2%程度で大方の予想より遥かに良いものだった

一方日本はどこからも制裁されていないのに30年間平均ゼロ成長で22年は1.4%と予想されていて、23年は1.0%、2024年は1.6%となっています(政府予想)

ロシアは侵攻後通貨のルーブルが一時暴落したがロシア政府の買い支えで持ち直し、エネルギー輸出は過去最大の貿易黒字だった


一方ロシアの輸入貿易は22年4月以降非公開になっているが最後の3月はマイナス20%で、以降も制裁強化で減少を続けたと推測されています

結果として輸出が輸入の2倍近くにも達し空前の貿易黒字になり、統計上輸出と輸入の差額はロシアのGDPに加算されます

輸出によるGDP加算は数十兆円にもなるが、もっと良く観察するとこれは幻想でロシア国内のGDPは減少しています


ロシアは制裁前に先進国から技術や原材料を輸入して自動車を生産したり、先進国から自動車を輸入して国内で販売していました

輸入が止まったので貿易黒字が加算されたが国内生産や国内販売で得られたはずのGDPが消失し、これがあらゆる部門で発生しています

スターバックスやマクドナルドがロシアから撤退し、店舗を没収したり買い取ったロシアの事業者がマックもどきやスタバもどきの営業をしてます


貿易統計ではアメリカからの輸入が減りロシアは儲かった事になるが、同時にアメリカからの投資もなくなり経済は縮小します

通常貿易額と投資額は長い目でみると近い水準になり、10兆円貿易赤字の国は外国から10兆円程度の投資を受けています

例えばアメリカは日本に対して貿易赤字ですが、日本はアメリカで儲けた利益をすべてアメリカの工場や研究施設や宣伝などに投資しています


貿易黒字に「儲かる」という意味はない

日本は計算上アメリカから莫大な利益を上げているが、現実には日本人はアメリカから1ドルも受け取れないという奇妙な事態が起きています

同じように日本は中国に自動車を売っているが中国で得た利益の全てを中国に再投資するので、日本人はそのお金を受け取れません

このように貿易黒字で儲けた、貿易赤字で損をしたというのは錯覚で、実際は黒字の国も赤字の国もそれぞれが恩恵を受けるものです


日本は貿易外の経常収支を含めると毎年20兆円程度の黒字国だが、黒字額が大きくなるほど国が貧しくなってる気がするのは皆気付いていると思います

日本政府の官僚や日本の政治家は未だに「日本は貿易立国」で「貿易黒字、経常黒字が稼ぐ力」だと言っていて、貿易のために国民を犠牲にしています

輸出産業を強くするために労働者にサービス残業をしいたり派遣に貶めてコストダウンし、その車が世界で売れても「日本人」には1円も入って来ない


世界全体のGDPのうち貿易が占めているのは15%ほどで85%以上は各国国内のGDP、「輸出で稼ぐ」為に国内を犠牲にしたらその国は衰退します

ロシアはエネルギー価格高騰で貿易黒字を積み重ね、得た外貨でルーブルを買い支えて暴落を防ぎ表向きのGDPを支えています

ルーブルと円は22年に乱高下したがロシアはルーブルを買い支えて日本も円買い介入で円安を防止しました


円高にしろ円安にしろ市場で取引されている通貨は全体のごく一部なのに、その為替レートを基準に国のGDPを決めています

一日の全通貨の取引額は約700兆円(6兆ドル以上)だが全世界のお金の合計は17京6000兆円(1600兆ドル)もあるので、実は全体の0.3%しか取引されていません

日銀の22年介入額はたった6兆円なので風呂の中のスプーン一杯の水程度でしかありません

GDPは操作可能

日銀が世界のお金の2万分の1で円買いしただけで為替相場は結構動き、ロシア政府も同じように少しの金額でルーブル相場を維持しています

これが通貨の特徴で、全体の1万分の1くらいの金額を売ったり買ったりすれば、思い通りの為替レートに誘導し維持できてしまします

たとえば中国のGDPは今日本の3倍近くありますが、これも中国政府が人民元レートを固定しているからで、人民元が1/3に下落すると中国のGDPは日本と同じになります


日本という国全部と中国という国全部を量りに乗せて重さを図っているのではなく、操作可能な為替レートを基準にGDPが決まっています

ここで大きな間違いが起こり、もしロシアという国を量りに乗せて図ることができたら22年のロシアのGDPは大きく下落した筈です

一方日本のGDPは米利上げや日米金利差で為替投機が起き、日本の実際の重さよりかなり軽く表示されている筈です


2011年のドル円は1ドル75円で2022年は1ドル150円で2倍も変わったのだが、この間に日本人の体重が2倍や半分になった事実はありません

為替レートは全体の1万分の1の取引で操作できるものなので、為替レートを基準にしたGDPも操作可能なのです

同じように1人当たりのGDPとか各国の平均年収なども、わずかな金額で為替レートを動かすだけで操作可能です

https://www.thutmosev.com/archives/89742244.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/989.html#c4

[近代史4] GDPとは国民の給料ではないので、国民が貧乏で金持ちが資産を独占しても数字の上では「豊かな国」に見える 中川隆
7. 中川隆[-12821] koaQ7Jey 2023年1月03日 18:54:43 : Wkbfj3EOO6 : aHNvbERkNXFqbVk=[11]

2023年01月03日
GDPや平均所得は為替レートを操作すれば2倍や半分にできる

GDPは為替レートで決まるがその為替レートを少額で操作できる

画像引用:https://www.nishinippon.co.jp/item/o/822800/ 連載「数字で見る日本経済」 3回目GDP 3位538兆円も成長遅れ|【西日本新聞me】

日本とロシアの経済苦境

ロシアはウクライナ侵攻で西側諸国から経済制裁を受けたが2022年GDPはマイナス2%程度で大方の予想より遥かに良いものだった

一方日本はどこからも制裁されていないのに30年間平均ゼロ成長で22年は1.4%と予想されていて、23年は1.0%、2024年は1.6%となっています(政府予想)

ロシアは侵攻後通貨のルーブルが一時暴落したがロシア政府の買い支えで持ち直し、エネルギー輸出は過去最大の貿易黒字だった


一方ロシアの輸入貿易は22年4月以降非公開になっているが最後の3月はマイナス20%で、以降も制裁強化で減少を続けたと推測されています

結果として輸出が輸入の2倍近くにも達し空前の貿易黒字になり、統計上輸出と輸入の差額はロシアのGDPに加算されます

輸出によるGDP加算は数十兆円にもなるが、もっと良く観察するとこれは幻想でロシア国内のGDPは減少しています


ロシアは制裁前に先進国から技術や原材料を輸入して自動車を生産したり、先進国から自動車を輸入して国内で販売していました

輸入が止まったので貿易黒字が加算されたが国内生産や国内販売で得られたはずのGDPが消失し、これがあらゆる部門で発生しています

スターバックスやマクドナルドがロシアから撤退し、店舗を没収したり買い取ったロシアの事業者がマックもどきやスタバもどきの営業をしてます


貿易統計ではアメリカからの輸入が減りロシアは儲かった事になるが、同時にアメリカからの投資もなくなり経済は縮小します

通常貿易額と投資額は長い目でみると近い水準になり、10兆円貿易赤字の国は外国から10兆円程度の投資を受けています

例えばアメリカは日本に対して貿易赤字ですが、日本はアメリカで儲けた利益をすべてアメリカの工場や研究施設や宣伝などに投資しています


貿易黒字に「儲かる」という意味はない

日本は計算上アメリカから莫大な利益を上げているが、現実には日本人はアメリカから1ドルも受け取れないという奇妙な事態が起きています

同じように日本は中国に自動車を売っているが中国で得た利益の全てを中国に再投資するので、日本人はそのお金を受け取れません

このように貿易黒字で儲けた、貿易赤字で損をしたというのは錯覚で、実際は黒字の国も赤字の国もそれぞれが恩恵を受けるものです


日本は貿易外の経常収支を含めると毎年20兆円程度の黒字国だが、黒字額が大きくなるほど国が貧しくなってる気がするのは皆気付いていると思います

日本政府の官僚や日本の政治家は未だに「日本は貿易立国」で「貿易黒字、経常黒字が稼ぐ力」だと言っていて、貿易のために国民を犠牲にしています

輸出産業を強くするために労働者にサービス残業をしいたり派遣に貶めてコストダウンし、その車が世界で売れても「日本人」には1円も入って来ない


世界全体のGDPのうち貿易が占めているのは15%ほどで85%以上は各国国内のGDP、「輸出で稼ぐ」為に国内を犠牲にしたらその国は衰退します

ロシアはエネルギー価格高騰で貿易黒字を積み重ね、得た外貨でルーブルを買い支えて暴落を防ぎ表向きのGDPを支えています

ルーブルと円は22年に乱高下したがロシアはルーブルを買い支えて日本も円買い介入で円安を防止しました


円高にしろ円安にしろ市場で取引されている通貨は全体のごく一部なのに、その為替レートを基準に国のGDPを決めています

一日の全通貨の取引額は約700兆円(6兆ドル以上)だが全世界のお金の合計は17京6000兆円(1600兆ドル)もあるので、実は全体の0.3%しか取引されていません

日銀の22年介入額はたった6兆円なので風呂の中のスプーン一杯の水程度でしかありません

GDPは操作可能

日銀が世界のお金の2万分の1で円買いしただけで為替相場は結構動き、ロシア政府も同じように少しの金額でルーブル相場を維持しています

これが通貨の特徴で、全体の1万分の1くらいの金額を売ったり買ったりすれば、思い通りの為替レートに誘導し維持できてしまします

たとえば中国のGDPは今日本の3倍近くありますが、これも中国政府が人民元レートを固定しているからで、人民元が1/3に下落すると中国のGDPは日本と同じになります


日本という国全部と中国という国全部を量りに乗せて重さを図っているのではなく、操作可能な為替レートを基準にGDPが決まっています

ここで大きな間違いが起こり、もしロシアという国を量りに乗せて図ることができたら22年のロシアのGDPは大きく下落した筈です

一方日本のGDPは米利上げや日米金利差で為替投機が起き、日本の実際の重さよりかなり軽く表示されている筈です


2011年のドル円は1ドル75円で2022年は1ドル150円で2倍も変わったのだが、この間に日本人の体重が2倍や半分になった事実はありません

為替レートは全体の1万分の1の取引で操作できるものなので、為替レートを基準にしたGDPも操作可能なのです

同じように1人当たりのGDPとか各国の平均年収なども、わずかな金額で為替レートを動かすだけで操作可能です

https://www.thutmosev.com/archives/89742244.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1570.html#c7

[近代史4] GDPの半分以上は企業所得、さらに個人所得の半分は富裕層 中川隆
10. 中川隆[-12820] koaQ7Jey 2023年1月03日 18:55:03 : Wkbfj3EOO6 : aHNvbERkNXFqbVk=[12]

2023年01月03日
GDPや平均所得は為替レートを操作すれば2倍や半分にできる

GDPは為替レートで決まるがその為替レートを少額で操作できる

画像引用:https://www.nishinippon.co.jp/item/o/822800/ 連載「数字で見る日本経済」 3回目GDP 3位538兆円も成長遅れ|【西日本新聞me】

日本とロシアの経済苦境

ロシアはウクライナ侵攻で西側諸国から経済制裁を受けたが2022年GDPはマイナス2%程度で大方の予想より遥かに良いものだった

一方日本はどこからも制裁されていないのに30年間平均ゼロ成長で22年は1.4%と予想されていて、23年は1.0%、2024年は1.6%となっています(政府予想)

ロシアは侵攻後通貨のルーブルが一時暴落したがロシア政府の買い支えで持ち直し、エネルギー輸出は過去最大の貿易黒字だった


一方ロシアの輸入貿易は22年4月以降非公開になっているが最後の3月はマイナス20%で、以降も制裁強化で減少を続けたと推測されています

結果として輸出が輸入の2倍近くにも達し空前の貿易黒字になり、統計上輸出と輸入の差額はロシアのGDPに加算されます

輸出によるGDP加算は数十兆円にもなるが、もっと良く観察するとこれは幻想でロシア国内のGDPは減少しています


ロシアは制裁前に先進国から技術や原材料を輸入して自動車を生産したり、先進国から自動車を輸入して国内で販売していました

輸入が止まったので貿易黒字が加算されたが国内生産や国内販売で得られたはずのGDPが消失し、これがあらゆる部門で発生しています

スターバックスやマクドナルドがロシアから撤退し、店舗を没収したり買い取ったロシアの事業者がマックもどきやスタバもどきの営業をしてます


貿易統計ではアメリカからの輸入が減りロシアは儲かった事になるが、同時にアメリカからの投資もなくなり経済は縮小します

通常貿易額と投資額は長い目でみると近い水準になり、10兆円貿易赤字の国は外国から10兆円程度の投資を受けています

例えばアメリカは日本に対して貿易赤字ですが、日本はアメリカで儲けた利益をすべてアメリカの工場や研究施設や宣伝などに投資しています


貿易黒字に「儲かる」という意味はない

日本は計算上アメリカから莫大な利益を上げているが、現実には日本人はアメリカから1ドルも受け取れないという奇妙な事態が起きています

同じように日本は中国に自動車を売っているが中国で得た利益の全てを中国に再投資するので、日本人はそのお金を受け取れません

このように貿易黒字で儲けた、貿易赤字で損をしたというのは錯覚で、実際は黒字の国も赤字の国もそれぞれが恩恵を受けるものです


日本は貿易外の経常収支を含めると毎年20兆円程度の黒字国だが、黒字額が大きくなるほど国が貧しくなってる気がするのは皆気付いていると思います

日本政府の官僚や日本の政治家は未だに「日本は貿易立国」で「貿易黒字、経常黒字が稼ぐ力」だと言っていて、貿易のために国民を犠牲にしています

輸出産業を強くするために労働者にサービス残業をしいたり派遣に貶めてコストダウンし、その車が世界で売れても「日本人」には1円も入って来ない


世界全体のGDPのうち貿易が占めているのは15%ほどで85%以上は各国国内のGDP、「輸出で稼ぐ」為に国内を犠牲にしたらその国は衰退します

ロシアはエネルギー価格高騰で貿易黒字を積み重ね、得た外貨でルーブルを買い支えて暴落を防ぎ表向きのGDPを支えています

ルーブルと円は22年に乱高下したがロシアはルーブルを買い支えて日本も円買い介入で円安を防止しました


円高にしろ円安にしろ市場で取引されている通貨は全体のごく一部なのに、その為替レートを基準に国のGDPを決めています

一日の全通貨の取引額は約700兆円(6兆ドル以上)だが全世界のお金の合計は17京6000兆円(1600兆ドル)もあるので、実は全体の0.3%しか取引されていません

日銀の22年介入額はたった6兆円なので風呂の中のスプーン一杯の水程度でしかありません

GDPは操作可能

日銀が世界のお金の2万分の1で円買いしただけで為替相場は結構動き、ロシア政府も同じように少しの金額でルーブル相場を維持しています

これが通貨の特徴で、全体の1万分の1くらいの金額を売ったり買ったりすれば、思い通りの為替レートに誘導し維持できてしまします

たとえば中国のGDPは今日本の3倍近くありますが、これも中国政府が人民元レートを固定しているからで、人民元が1/3に下落すると中国のGDPは日本と同じになります


日本という国全部と中国という国全部を量りに乗せて重さを図っているのではなく、操作可能な為替レートを基準にGDPが決まっています

ここで大きな間違いが起こり、もしロシアという国を量りに乗せて図ることができたら22年のロシアのGDPは大きく下落した筈です

一方日本のGDPは米利上げや日米金利差で為替投機が起き、日本の実際の重さよりかなり軽く表示されている筈です


2011年のドル円は1ドル75円で2022年は1ドル150円で2倍も変わったのだが、この間に日本人の体重が2倍や半分になった事実はありません

為替レートは全体の1万分の1の取引で操作できるものなので、為替レートを基準にしたGDPも操作可能なのです

同じように1人当たりのGDPとか各国の平均年収なども、わずかな金額で為替レートを動かすだけで操作可能です

https://www.thutmosev.com/archives/89742244.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/954.html#c10

[近代史3] 酒粕をもっと食べよう 中川隆
10. 2023年1月03日 20:00:50 : Wkbfj3EOO6 : aHNvbERkNXFqbVk=[13]
冬のおみやげ
2022年12月25日
https://ameblo.jp/yuzawajin/entry-12346417062.html

定番は日本酒とコシヒカリ
笹団子なんかもあるけれど、意外と好き嫌い別れるので万人向けじゃないのかも知れない。

定番じゃないけど喜んでもらえるのは、この時期なら酒粕です。酒粕は日本酒を搾った粕だから、寒造りが基本の日本酒は冬場にたくさん出回る訳です。甘酒は飲む点滴なんて言われて重宝されていますね。特に女性は喜びます。

商売上手な八海山はお洒落なペットボトルに甘酒を入れて800円!これでひと財産作りました。しかも、これが品薄で手に入らない。お一人様二本までなんて制限がつくほど人気の時期もありました。

甘酒なんて酒粕があれば、水と砂糖を加えて煮るだけなので簡単に作れますが、東京で手に入る酒粕は○本盛とか、○竹梅みたいな、まずーーい日本酒の酒粕で、しかも結構良い値段だったりします。

酒どころ新潟では銘酒の酒粕が簡単に手に入ります。長者盛、鶴齢、高千代…まだまだあります。350gで300円とか、中には3kg850円とか業務用かと思う物まで並んでいます。

元が良い酒ですから酒粕も旨い訳で、これで作った甘酒は東京の人間にはびっくりの旨さです。甘酒好きな若い女性へのおみやげに最適ですが、料理をしないズボラな人もいます。炊飯器に酒粕と5倍の水を入れて炊くだけ。砂糖を入れて好みの甘さで飲めとメモを忘れずに。良くショウガを入れますけれど美味しい酒粕で作る甘酒にはあまり必要なしと思います。

塩をほんのわずか、隠し味程度に加えるのと舌触りを滑らかにするために濾してあげると、(最近は煮る前にブレンダーでブイーンってやっています。)本当に異次元の美味しさになるのでお試しあれ。お勧め銘柄はズバリ高千代です。
https://ameblo.jp/yuzawajin/entry-12346417062.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/334.html#c10

   

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > aHNvbERkNXFqbVk= > 100000  g検索 aHNvbERkNXFqbVk=

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。