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重信房子と遠山美枝子(1)「マルクスよりルソーが好き」バリケードの中で意気投合した2人 数奇な運命を分けたものは何か
2022/8/10
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キッコーマン時代の重信房子さん
日本赤軍の元最高幹部で、ハーグ事件に関与したとして服役した重信房子さん(76)が5月28日、満期出所した。その前後に多くの報道が流れたが、その中で彼女の親友やその死に触れたものはほとんどなかった。
若き日の重信さんと親友、遠山美枝子さんの生の軌跡を素描することで、あの時代の空気や党派の動向、女性たちの生き方をたどり、考えたい。(以下敬称略、女性史研究者=江刺昭子)
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<マルクスやレーニンよりもルソーが好き意気投合したのはバリケードの中>
この歌の作者は重信房子、その人である。彼女は獄中で歌作を始め、2冊の歌集を出版した。この歌は連合赤軍事件で亡くなった親友、遠山美枝子の47年目の命日、2019年3月に墓前にささげられた「三月哀歌」14首のうちの1首であり、歌集「暁の星」に収められている。
バリケードの中で「意気投合した」相手とは、もちろん遠山美枝子である。
群馬県榛名山に連合赤軍が築いた山岳ベースで、遠山が非業の死を遂げたのは1972年1月7日だが、遺族は遺体が見つかった3月13日を命日にしている。2019年の命日も墓参会と法要があり、その後、重信の歌が披露された。
その場にいたかつての仲間たち十数人は、今も整理しきれない複雑な感情があるのか、懇親会でもそろって口が重かった。
遠山は山で同志に殺害された。なぜ遠山が山に入るのを止めなかったのかという後悔が、それぞれの胸の内にある。そして、もし自分も山に入っていたら被害者になっていたかもしれないという思いもある。いや、あるいは加害者か。
重信と遠山は、明治大での学生運動、その後の政治運動を共に闘った。重信が国内での革命運動に見切りをつけて国外に脱出したあと、遠山は連合赤軍の兵士として山岳ベースに入り、25歳で命を絶たれた。
重信はその知らせを遠くベイルートの地で聞いたのち、逮捕され、獄中生活を経て、76歳で日本の市民社会に復帰した。
何が2人の生死を分けたのか。シスターフッドともいえるような親密な関係を築いた2人が、生き生きと躍動した日々を、政治の季節の結節点に重ねて見ていきたい。
遠山美枝子さん(左)と重信房子さん。1967年ごろとみられる
筆者は、遠山が革命兵士として「山」に入るまでを『私だったかもしれない ある赤軍派女性兵士の25年』としてまとめ、6月に出版したが、その際に服役中の重信に質問書を出して詳細な返信をもらった(以下、重信の「手紙」)。
遠山の友人や知人の証言も取材し、彼女が夫にあてた手紙も読むことができた(以下、遠山の「遺稿」)。また、関係者の著作や論考もある。本稿はこれらの資料に依拠する。
重信は1945年、東京都世田谷区で生まれた。父は戦前の右翼運動に関係した人物だが、子どもたちを伸び伸びと育て、重信は明るく自己肯定感の強い性格である。
遠山は1年遅れの46年生まれで、横浜市中区で育った。5歳で父が亡くなり、双子の姉と妹の3人姉妹を育てるために働く母に代わって家事を担い、我慢強さを身につけている。
2人とも経済的な理由から高校卒業後、就職し、1年後に明治大の2部(夜間部)に入学、働きながら学ぶ道を選んだ。1歳違いなので、入学は重信が65年、遠山は66年である。当時はこのような勤労学生が多く、大学にも受け皿があった。
重信は高校時代から弁論大会に出たり、大学入学後もアルバイトで選挙事務所のスタッフをしたりと行動的で、大学の自治会活動でもすぐに頭角を現した。
遠山はおとなしく、目立たない人だったと証言する人が多い。だが、勤め始めた頃、日韓基本条約に反対する労働者のデモに感激し「高校時代にも潜在的にもっていた政治意識が爆発」したと「遺稿」で書いている。
日韓条約は朝鮮半島の南北分断を固定化するなどとして批判を浴びていた。遠山が早い時期から社会や政治への強い関心を持ち、厳しい目で捉えていたことが分かる。
この頃、慶応大、早稲田大などで学費値上げに反対する学生運動が相次ぎ、明治大でも遠山が入学した66年に学生たちが立ち上がった。自治会と大学当局との交渉が決裂、学生は机や椅子でバリケードを築いて大学を封鎖し、自主講座を開き、示威運動をした。
こののち、こうした光景は日本中の大学で見られるようになる。
2人が出会ったのは、そのバリケードの中だった。遠山が学費闘争の中核を担える人材かどうか、重信が“面接”するため招いたのだ。
遠山は「グレーのオーバーを着た小柄な女性で、控えめな感じの人」だったが「でも、そこですぐ意気投合しました」と重信が振り返っている(「手紙」)。それは冒頭の歌にも詠まれている。
勤務先は重信がキッコーマン、遠山はキリンビールで会社同士の交流もあった。職場の話も家族の話もしている。
そして1年先輩の重信が先導するかたちで運動に関わっていく。重信の「三月哀歌」から2首を引く。
歌集「暁の星」。亡き親友に捧げた歌も収められている
<水仙の微かに香るバリケード焚火を囲み歌いしインター>
<洗い髪に震えつ急ぐ冬の道 銭湯終い湯バリケードへ帰る>
バリケードに泊まり込み、たき火を囲んで革命歌「インターナショナル」を歌った。
今より東京の冬は寒く、銭湯の帰り、洗い髪がバリバリに凍った経験が筆者にもある。しまい湯であってみれば、寒さもひとしおだったろう。それでも仲間と連帯して闘う高揚感がエネルギーとなり、運動を支えた。
67年2月、明治大の学費値上げ反対闘争は学生側の敗北に終わったが、2人は男子学生らと新たに「現代思想研究会」というサークルを立ち上げ、公正で平等な社会を実現しようと、学外に飛び出して、次々に起きる政治課題に向き合うことになる。
その過程で、学生運動を指導する新左翼党派の中でも武闘派のブント(共産主義者同盟)に誘われ、さらに過激な赤軍派に加盟、数奇な人生を歩むことになる。(続く)
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