23. 2019年4月08日 06:58:41 : 1jwO5xpxIw : a3VWWlJnWlZsckk=[1]
撥ねのワケは確かに、アを意識した可能性高い。
ヘーア
ヘーワ
ヘイワ(平和)
レイワ(令和)
元号は国民の支持と尊皇派の運動が強いので続いている。実感としては、使用強制というほどではない。
元号法 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7%E6%B3%95
元号法制化
背景
1968年(昭和43年)、明治100年を機に、政府内で国旗、国歌と共に元号法を定める機運が高まり内閣法制局が一世一元とすることを骨子に検討を始めたが[9]、元号を使っているのは日本だけであるとして西暦に統一すべしとの論も強かった[9]。
1977年(昭和52年)の政府が民間委託した世論調査では、元号存続派80%、廃止派5%と、1974年(昭和49年)、1975年(昭和51年)[いつ?]に比べ、存続派が減り、「どちらでもよい」が微増[4][注 2]。元号存続が圧倒的な世論であったのに対し、日本社会党は1977年(昭和52年)1月、「元号は昭和限り、以降は西暦」とする党見解を決定[4]。当時「衆議院内閣委員会は数少ない自由民主党多数の委員会」で与野党逆転[何の?]もありうると見る向きもある状況であった[4]。
運動
1977年(昭和52年)日本青年協議会(日青協)が元号法制化運動を本格化し、「地方から中央へ」を合言葉に地方議会議決運動を展開させた[11]。この運動について、日青協の後見役であった村上正邦は後に「何も特別なことではない。左翼から学び、地方決議が目的達成の早道だと徹底したんだ」と述べた[11]。
日本会議は、1977年(昭和52年)9月にの元号法制化を求める地方議会決議運動が始まり、46都道府県、1,632市町村で議会決議を達成したとする[12]。日本会議事務総長の椛島有三は、日青協の機関誌において「元号法制化に踏み切る時、私どもは「解釈改憲路線」の選択をしました。これまで占領憲法解体という、直接的な明文改憲しか考えてこなかった私どもにとっては大変な選択で、改憲運動の後退になるのではないかというジレンマがありました」と述懐した[5][13]。
元号法政府原案
1977年(昭和52年)当時、1. 昭和以降も元号を存続させるか否か 2. 内閣告示か法制化か の2つの論点があり[4]、政府は当初「告示による」との基本方針を固めていたが[14]、翌1978年(昭和53年)11月17日法制化を閣議決定、総理府と内閣法制局とで法案を作成、23日までに決定し[誰?]、同年11月24日、政府案が紙面に掲載された[15]。
http://www.asyura2.com/19/senkyo259/msg/396.html#c23