http://www.asyura2.com/acat/a/a3/a3j/a3JobkR2NS41a00=/100000.html
22. 中川隆[-16097] koaQ7Jey 2021年10月07日 04:43:33 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[1]
プフィッツナー
Symphony No. 3, conducted by Hans Pfitzner with the Berliner Philharmoniker Orchestra. Composed by Ludwig van Beethoven
Recording from 1929.
Movement 1: 0:00 Allegro con brio
Movement 2: 15:15 Marcia funebre: Adagio assai in C minor
Movement 3: 30:15 Scherzo: Allegro vivace
Movement 4: 34:04 Finale: Allegro molto
Hans Pfitzner / BPO - Beethoven : Symphony No.3 op.55 "Eroica" (1929) - 再復刻
Berlin Philharmonic Orch. recorded in 1929
transfer from Jpn POLYDOR 78s / 80020/1
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c22
5. 中川隆[-16095] koaQ7Jey 2021年10月07日 04:46:12 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[3]
プフィッツナー
Symphony No. 3, conducted by Hans Pfitzner with the Berliner Philharmoniker Orchestra. Composed by Ludwig van Beethoven
Recording from 1929.
Movement 1: 0:00 Allegro con brio
Movement 2: 15:15 Marcia funebre: Adagio assai in C minor
Movement 3: 30:15 Scherzo: Allegro vivace
Movement 4: 34:04 Finale: Allegro molto
Hans Pfitzner / BPO - Beethoven : Symphony No.3 op.55 "Eroica" (1929) - 再復刻
Berlin Philharmonic Orch. recorded in 1929
transfer from Jpn POLYDOR 78s / 80020/1
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/417.html#c5
1. 中川隆[-16094] koaQ7Jey 2021年10月07日 05:14:07 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[4]
ハンス・プフィッツナー:カンタータ「ドイツの精神」
第1部:人間と自然
第2部:生と歌
アイヒェンドルフの詩によるプフィッツナーの壮大なるカンタータです。1921年に作曲されその翌年初演、1937年に改作が施されています。彼自身は保守的であり、また自ら認める「反ユダヤ主義者」でもありました。当時世間を凋落していた「前衛音楽」は彼にとって憎むべきものであり、崇高なるドイツの精神を音楽として表すためにこのカンタータが書かれたと言われます。とはいえ、出来上がった音楽には全く政治的イデオロギーは反映されておらず、むしろ「ロマンティックなカンタータ」という副題が付されているほど、内容的には矛盾を孕んだ音楽ともいえそうです。
ハンス・プフィッツナー
カンタータ《ドイツの魂について》
推薦CD: Koch Schwann 314 027 K1
プフィッツナー(1869-1940)は、ドイツの作曲家だが、SP録音の復刻によって、指揮者としてよく認知している人が多くいるかもしれない。(事実、彼のベートーヴェンの交響曲第6番《田園》のレコードは、日本でも知名度の高かったものである。)
作曲家としては、リヒャルト・シュトラウスと覇を競ったといわれるが、メロディの美しさを身上としなかったため、現在ではかなり渋好みのする作曲家となってしまっている。
また、ブゾーニやシェーンベルクらのいわゆる「新時代」の音楽を批判し、古典への回帰を強く主張した為、プフィッツナーは音楽史的にも、ちょっと浮いた存在として捉えられることがある。
また、彼は保守的な立場からブゾーニらの新しい音楽美学を攻撃していたのだが、この新しい音楽美学の系譜上にユダヤ系の音楽家が多かった事から、「プフィッツナーは反ユダヤ主義者」という勘違いがおきてしまい、ナチスに利用されかけたことがある。ナチスに盲従せず、自分の流儀を通したプフィッツナーは、晩年貧窮を極め、ミュンヘンの老人ホームでひっそりと亡くなった。
このカンタータは、第一次世界大戦後の1921年に作曲され、その翌年に初演されたプフィッツナーの代表作のひとつ。
このカンタータは、ドイツ語の題名では《Von deutscher Seele》となっており、《ドイツ精神について》という日本語訳がしばしばなされるが、「精神」をドイツ語に直すと、「Geist」という言葉になる。「Seele」も、「精神」と訳されるわけだが、英語の「Soul」に対応する言葉なので、「魂」という訳を当てたほうが適切な気がするが、「Geist」ではなく「Seele」という言葉を選んだところに、プフィッツナーの深い意図があるような気がする。
彼は、「ドイツの魂」について、何らか一定の主張を展開しているわけではない。人間の精神の内省的なものや、心優しさ、英雄的な心情や浮かれたものといった諸相を、ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフの詩をテキストにして綴りあわせることによって、人間の精神の複雑さをあらゆる方面から照らし出そうとしたのだろう。
彼の音楽は、モーツァルトのような耳をそばだてるメロディに乏しいため、飽きっぽい人には決して勧められるものではないが、音楽をじっくり味わいたい人には、深い思索が得られると思う。
http://www.jttk.zaq.ne.jp/baaix607/cde26_11.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/832.html#c1
2. 中川隆[-16093] koaQ7Jey 2021年10月07日 05:20:26 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[5]
プフィッツナーが指揮したベートーヴェン 田園交響曲の伝説の名盤
Hans Pfitzner conducts Beethoven Symphony No. 6
Berlin State Opera Orchestra
1930, Berlin
Mechan. Copt. 1938 - Polydor 95378/83
matrices: 582 GO, 583 GO, 584 GO, 585 GO, 905 GS 8 D, 906 GS 8 D, 586 GO,587 GO, 588 GO, 589 GO, 590 GO
Hans Pfitzner - Beethoven : Symphony No.6 Op.68 (Pastoral) (1930) - 再復刻
Berlin State Opera Orch.
Hans Pfitzner (1869 - 1949), recorded in 1930
transfer from Jpn Polydor 78s -80040-42
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/828.html#c2
21. 中川隆[-16092] koaQ7Jey 2021年10月07日 05:21:42 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[6]
プフィッツナー
Hans Pfitzner conducts Beethoven Symphony No. 6
Berlin State Opera Orchestra
1930, Berlin
Mechan. Copt. 1938 - Polydor 95378/83
matrices: 582 GO, 583 GO, 584 GO, 585 GO, 905 GS 8 D, 906 GS 8 D, 586 GO,587 GO, 588 GO, 589 GO, 590 GO
Hans Pfitzner - Beethoven : Symphony No.6 Op.68 (Pastoral) (1930) - 再復刻
Berlin State Opera Orch.
Hans Pfitzner (1869 - 1949), recorded in 1930
transfer from Jpn Polydor 78s -80040-42
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/846.html#c21
3. 中川隆[-16091] koaQ7Jey 2021年10月07日 06:06:01 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[7]
Hans Pfitzner conducts...
ハンス・プフィッツナー
ハインリヒ・フォン・クライストの『ハイルブロンの娘ケート』の付随音楽
(Musik zu Das Käthchen von Heilbronn von Heinrich von Kleist) 作品17
Hans Pfitzner
Overture to "Das Käthchen von Heilbronn"
Munich Philharmonic Orchestra
1944
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/828.html#c3
1. 中川隆[-16090] koaQ7Jey 2021年10月07日 06:20:38 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[8]
ハルトマン・ツィマーマン
Pfitzner, Hartmann & Zimmermann: Violin Concertos & String Quartets
℗ 1994 Vox Box
Artist: Susanne Lautenbacher
Conductor: Günther Wich
Orchestra: Philharmonia Hungarica
Pfitzner, Hartmann & Zimmermann: Violin Concertos & String Quartets - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_kTWLZF1pCGhl74cNSZwI0CWa_DQqCulOg
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/833.html#c1
1. 中川隆[-16089] koaQ7Jey 2021年10月07日 06:53:18 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[9]
プフィッツナーの室内楽作品
Pfitzner: Chamber Music [from US] [Import]
もう一人、室内楽を比較的多く書いたドイツ後期ロマン派の作曲家を挙げるとすれば、ハンス・プフィッツナーということになるでしょうか。
彼の代表作はなんといってもオペラ『パレストリーナ』であり(あと大作としては、カンタータ『ドイツ精神について』というのもありますね)、それに次いで重要な作品としては(前にも触れた)数々の歌曲があげられるでしょう。
そして室内楽は、彼にとって歌曲と並んで質量共に重要なジャンルだった、という評価ができるように思われます*1。
レーガーはちょっと、という人でも、どこまでも「ロマン主義」にこだわった筋金入りの保守派、プフィッツナーの作品は問題なく聴けるのではないでしょうか。
理論的であることを拒否したこの人の作品からは、ブラームスが時にみせる自省と懐疑の響きはあまり感じられず、ロマン的な純粋さを保とうとする姿勢には、むしろシューマンを思わせるものがあります。
彼の室内楽で筆頭にあげたいのは、分かりやすさと無駄のない美しさという点で傑出しているヴァイオリンソナタ ホ短調(op.27)。
冒頭の美しい主題がコーダで情熱的に高まる第1楽章、内側に向かって広がっていく全くロマンティックな第2楽章、そして、プフィッツナーとしては珍しいほどに、きらめく光をまばゆく反映した輝かしい終楽章が続きます。
プフィッツナーは彼のとった政治的姿勢によって、いまなお敬遠されているのかもしれませんが、この作品の音楽の出来だけを純粋にみれば、少なくとも偉大な同時代者、R・シュトラウスのヴァイオリンソナタと同じくらいの評価は受けてもいいのではないかと思うのですが。
このCDには、その他にピアノ三重奏曲(op.8)が収録されています。こちらは屈折した(ヘ長調で始まり、ヘ短調に終わる)規模の大きい作品で、「ユーゲントシュティール」の複雑な植物模様を思い起こさせるような感じ。ヴァイオリンソナタ以上の内向的な暗さがあって、万人に好まれる・・・・・・とはいいかねますが、なかなかの味がある作品ではあります(私は好きです)。
もう一つ、このディスクで興味深いのは、使用しているピアノが1925年製のブリュートナーと明記されている点で、なるほど普通のピアノとちょっと違う音色です。
*1:管弦楽を用いた作品では、3曲ある『交響曲』は(うち1曲は、弦楽四重奏曲からの編曲)今一つ魅力に乏しく、その一方、協奏曲(ヴァイオリンやチェロ、ピアノのための)は個性ある作品です。
http://d.hatena.ne.jp/Scarbo/20060616/p1
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/834.html#c1
1. 中川隆[-16088] koaQ7Jey 2021年10月07日 07:30:25 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[10]
フルトヴェングラー
Pfitzner "3 Act-Preludes to Palestrina" Wilhelm Furtwängler
1. Act "Ruhig (Andante)
2. Act "Mit Wucht und Wildheit"
3. Act "Langsam, sehr getragen
Berlin Philharmonic
Wilhelm Furtwängler, Conductor
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/432.html#c1
1. 中川隆[-16087] koaQ7Jey 2021年10月07日 07:45:52 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[11]
スイトナー
Hans Pfitzner "Palestrina" Otmar Suitner - Peter Schreier Full Opera 1986
Palestrina: Peter Schreier
Erster Bischof: Fritz Heidan
Zweiter Bischof: Walter Naveau
Abdisu: Henno Garduhn
Avosmediano: Bernd Zettisch
Bischof von Budoja: Günter Kürth
Bischof von Feltre: Gerd Wolf
Bischof von Fiesole: Horst Gebhardt
Carlo Borromeo: Siegfried Lorenz
Doktor: Elvira Dreßen
Erste Engelstimme: Brigitte Eisenfeld
Zweite Engelstimme: Margot Stejskal
Dritte Engelstimme: Adelheid Vogel
Grossetto: Peter Bindszus
Ighino: Carola Nossek
Erster Kapellsänger: Olaf Bär
Zweiter Kapellsänger: Peter Bindszus
Dritter Kapellsänger: Peter Menzel
Vierter Kapellsänger: Heinz Reeh
Fünfter Kapellsänger: Dario Süß
Kardinal von Lothringen: Reiner Süss
Lukrezia: Uta Priew
Luna: Günter Leib
Madruscht: Fritz Hübner
Erster Meister: Olaf Bär
Zweiter Meister: Henno Garduhn
Dritter Meister: Horst Gebhardt
Vierter Meister: Günter Leib
Fünfter Meister: Hermann Christian Polster
Sechster Meister: Heinz Reeh
Siebter Meister: Andreas Schmidt
Achter Meister: Gerd Wolf
Neunter Meister: Bernd Zettisch
Morone: Hans-Joachim Ketelsen
Müglitz: Heinz Reeh
Novagerio: Peter Jürgen Schmidt
Papst Pius IV.: Hermann Christian Polster
Severolus: Ekkehard Wlaschiha
Silla: Rosemarie Lang
Spanischer Bischof: Roman Trekel
Theophilus: Joachim Arndt
Chor der Deutschen Staatsoper Berlin 1986;
Staatskapelle Berlin,
Dirigent: Otmar Suitner
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/835.html#c1
1. 中川隆[-16086] koaQ7Jey 2021年10月07日 07:57:44 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[12]
ニールセン:弦楽合奏のための小組曲,○ガラグリ指揮チボリ・コンサートホール管弦楽団(VOX),,古典的な小品で、作品番号1にしては手慣れているが、あまたある弦セレと較べ影響を受けてこそすれ与えるような要素は何もない。ガラグリだからガシガシと堅固なアンサンブルが組み上げられ生命力に満ちているが、アマオケ受けしそうな平易さがあるが、よほど真面目に取り組まないと裏目に出るかも。曲は無印だが○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ニールセン:交響曲第2番,ストコフスキ指揮デンマーク国営放送管弦楽団(DA:CD-R他)1967live,,演奏的には無難。最後、拍手は地味だけど徐々に盛り上がり最後は大喝采となるけど・・・お家楽団に対するものとストコのネームに対するものかな。ストコ特有の拡散的な音作りと職人的な無難なさばき、そこにやや力弱さを感じる楽団が、この「ちぐはぐ」な曲に対して、「何とかやりきった感」を与えてしまう。デンマークにとっては国民的作曲家、でもストコにとっては超幅広いレパートリーの一つにすぎない、そういった感じを受けてしまう。○にしてもいい演奏だとは思うけど、録音状態がとても勧められるものではない。,,いちおう循環形式というのかな・・・ニールセンは鬼門なんです。古い人でもあるので仕方ないんですが、初期シベリウス以上にロシア国民楽派色が強い。そこがどうも匂う。当時としては恐らく尖鋭な、擬古典的フレーズや、音色指向のフランクふう和声展開は清新で、しかし基本線はいわば「末期ミャスコフスキー」・・・ミャスコフスキーを知らない人にはよくわかんない比喩か。いや、ようはオーダメイドに近いというか、社会主義レアリズムの国にもうちょっと後に生まれたらきっと、フレンニコフより大物になっていたような作風だ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ニールセン:交響曲第2番「4つの気質」,○ガラグリ指揮チボリ・コンサートホール管弦楽団(VOX),,ニールセンは古臭い。ときどき古典からワグナーくらいまでの曲から「まんま」持ってきたりする。そのへんの擬古典的というか、変にしゃっちょこばった書法が苦手なのだ。ブラームスからフランツ・シュミットという流れにシベリウスを取り入れたかのような作風を総括してさらに個性的な清澄さがあるが、シベリウスほどの確信や閃きが感じられない。しかしガラグリは毅然とした態度で耳を切り裂くくらいに厳しく研ぎ澄まされた音でガツガツと押しまくる。情に流れることはなく、構造へ逃げることもなく、ドイツ的な力強さで、自身のルーツでもある北欧情緒を徒に煽らず、純粋に音楽として完成度の高いものを造ろうとしている。激しい楽章でそれが際立つのは道理か。曲の弱さから中間楽章はそれでも耳に残るものはなかったが、そもそもシベリウスでも7番より1、2番に適性を示した指揮者だから余り情緒的フレーズは向かないのだろう。録音優秀なステレオ。○。ニールセンで○はまれ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ニールセン:交響曲第5番,ホーレンシュタイン指揮ニュー・フィル(BBC,IMP)1971/2/26LIVE 何か得体の知れぬ予感めいたものを感じさせながら雄大に盛り上がり・・・一気にスカす。そんな印象がこの2楽章編成の曲にはあったのだが、こんかいホーレンシュタイン・ライヴ盤を聴いて、やっぱりそうだった、という感想。ホーレンシュタインがまた質実剛健でぎくしゃくした演奏を行う人なのだが、ここでは一層そのしゃっちょこばった解釈を固持し続けていて、好悪別れるだろう。これはほとんど前衛音楽の世界だ。ニールセンのシンフォニーにおける語法はけっこう古典を意識したところがあり、バロック時代の合奏協奏曲の延長上に、小太鼓に代表される打楽器要素や若干の不協和音(尤もシベリウスより古い感じがするが)を表現主義的な感覚で挿入して出来上がったような感じ。ホーレンシュタインの表現主義的なスタイルは決して曲の性向と異なるものではない。この盤では尖鋭な音が響く場面はひときわコントラストをつけられていて、ときどきびっくりする。1楽章に戻るなら無機的な独特の旋律が執拗に繰り返されるが、そのバックにひろがる静寂と、その中の細かく緻密で秘めやかな蠢きが細部までしっかり表現されている。シベリウスの4番あたりの感覚に近い(あれほど人好きする音楽ではないが)。だからあのあたりの音楽を好む人は、聞いても損はしないと思う。ニールセンは6番「素朴な交響曲」まで6曲という中途半端な数のシンフォニーを書いているが、だいたいどれも同じような素地を持っている。私は好まないが、好きな人は全部好き、そういう作曲家だと思います。ライナーによればホーレンシュタインはこの曲の初演の下振りを作曲家立ち会いのもと行ったそうである(本番はフルト先生だと)。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ニールセン:交響曲第6番,○ストコフスキ指揮NYP(VIBRATO:CDーR)1965/9/13,,イマイチ掴みがたい作曲家ではあるのだがこのシンプル・シンフォニーとも呼ばれる確かに楽器数を絞った線的な曲ではあるていど同時代の比較的穏健な作曲家と似通った作風がみられそれなりに楽しめる。きほんシベリウスの響きと弦楽合奏書法からの影響からなっているがロマン性は維持されるものの不思議な打楽器アンサンブルや無調的フレーズと擬古典的フレーズの交錯のさま、非構造的な曲構成など、より現代的で新しい感じはする。後期ショスタコを思わせる骨ばった皮肉な音楽だがあれよりは甘さが残る。ストコはオケのせいもあってか勇ましく攻撃的な音楽を作り上げている。さすが新作珍作慣れしている。アメリカ同時代の交響曲に近似した作風ゆえオケも手慣れておりソロだらけなのを逆に強みとして力量を誇示している。完成度高い。拍手なし、放送用録音か。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ニールセン:交響曲第6番「シンプル・シンフォニー」,○ラインスドルフ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1965/12/14live,,ホワイトノイズが耳につくが音はまあまあ。こういう清澄なわりに入り組んだ曲は音がいいに越したことはない。4楽章制ではあるもののソロやパートを限定した異例な編成の楽章/パセージを織り交ぜ、終楽章はショスタコーヴィチを彷彿とさせる諧謔的な変奏曲となっており、腕のあるオケにとってはとても聴かせ所の多い大曲といっていいだろう。ラインスドルフにとってはうってつけの曲でありボストン響にとっても集中力を途切れさせない歯ごたえある難曲だ。新古典的でかつての作風を思わせる上品なロマンスから、いきなり打撃、暗い陰欝な世界より、ブラスの饗宴がヒンデミットかバルトーク晩年のようにシニカルかつ焦躁的な雰囲気をあおり、骨のような鉄琴の響にいざなわれながら楽想が変わっていき、パーカッションが活躍し、その中で中欧的なワルツが印象的に踊られる、マーラー10番のような印象を与えるが、それはラインスドルフ自身の特質も反映されたものでもあろう。アメリカ的なからっとしたところはあるが、とても中欧的だ。なかなか聞きごたえがあり、曲自体が少し尻切れなところがあるから最後はちょっと不可思議な感じになってしまうが、傾聴に値する演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
http://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/naha.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/793.html#c1
1. 中川隆[-16085] koaQ7Jey 2021年10月07日 08:06:09 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[13]
バーバー:ヴァイオリン協奏曲,○オリヴェイラ(VN)スラットキン指揮セント・ルイス交響楽団(EMI)1986/4やさしく語り掛けるようなヴァイオリン、時折現代的な厳しい側面をみせながらもあくまで夢のようなロマンスをうたうオケ。期待していなかっただけになかなか感動した。ヴァイオリニストはけっしてヴィルツオーソ系のバリバリ即物タイプではなく、柔らかく馴染み易い音色にときおり痙攣ヴィブラートを加えて親しみ深く表現しているところが共感が持てた。この曲はバーバーの中でもとりわけネオ・ロマンチシズムの傾向が強く、それだけに近年は演奏される機会も増えてきたようだ。コルンゴルドのそれくらいには演奏・録音されている。二楽章の痛切なうたに感涙。三楽章は無窮動的なソロの動きがヴォーン・ウィリアムズのヴァイオリン協奏曲終楽章に似るが、RVW独特の異次元世界とは隔絶しており、不協和な音響の中にもはっきりとしたリリシズムが感じられる。断ち切れるような終わりかたも新古典主義を経験したネオ・ロマンチシズムの作家ならでは。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バーバー:ヴァイオリン協奏曲,◎カウフマン(Vn)ゲール指揮ルツェルン祝祭管弦楽団(ミュージカル・マスターピース交響楽団)(MUSIC&ARTS/MMS)1951・CD,,だんぜんレコードのほうが音がいい。◎にしたのは改めてLPで聴いてカウフマンの生めかしい音色に聴き惚れたからだ。前の時代の演奏様式(主としてボウイングとヴィブラートと微妙な音程操作、アーティキュレーションの付けかたにあらわれる)というのはロマンティックな曲想を最大限に生かすようにできているのであり、ロマン派回帰をうたったかのようなこの作品においてただ冷徹に音だけを表現するのは曲の価値自体を損ねることになりかねない。きわめて叙情的な旋律と流れよく効率のいい構成によって現代のロマン派協奏曲というものを(いくぶん古風になりすぎるところは新古典派の影響だろうが)表現しきっている。ウォルトンの作品とよく似た響きや構造的な部分があり(更に元ネタとなっているプロコの1番のほうを思い浮かべる向きのほうが多いだろうが)、3楽章などは尊敬していたヴォーン・ウィリアムズの「コンチェルト・アカデミコ」終楽章の世界を換骨奪胎したものとも思える。同時代性というのもあるのだろう。そしてカウフマンもまた「同時代の演奏家」なのである。しかも戦後モノラル期の演奏家というのは前時代の艶と現代の技術の共に兼ね備えた超人的な技巧家が多いわけで、カウフマンはその中でも非常にバランスのとれた技巧家であり、オイストラフの安定感とシゲティの表現性にフランチェスカッティの美音(あれは完全に奏法の勝利であり解釈の勝利ではあるが、音はよく似ている)がのったような演奏を時折していたようで、これはその範疇にある。つまりは、名演。よくわからない曲、という印象はきっと、こういうのめりこむような演奏に出会えていないということだと思います。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:ヴァイオリン協奏曲,○ゲルレ(Vn)ツェラー指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(westminster)1963/6・LP,,ゲルレは雑味が多く技術的に不安で、音色的にも特筆すべきところは少ないのだが、のびやかな二楽章の歌いこみは甘く綺麗だ。この演奏で特筆すべきはバックオケで、シンフォニックな拡がりのあるなかなかの表現である。VSOOだからといってウィーン的な音楽ではないしそういう音色が目立つ箇所も少ないが、じゅうぶんに技巧的なメリットを備えたオケであり、録音はやや冴えないが、同曲のヨーロッパ的演奏としては貴重な面があるから聴いて損は無いだろう。ディーリアスとのカップリングというのもめずらしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:ヴァイオリン協奏曲,○コーガン(Vn)P.コーガン指揮ウクライナ交響楽団(BRILLIANT)1981/12/15live・CD,,むっちゃ荒いな、ごまかすしというところだがソリストにマイクが近すぎて聞こえなくてもいいものまで聞こえてしまってるのは確か。さらに、開放弦を臆面もなく駆使するさまに、これこそロシアのやり方だった!と感動。適度に深くあまり揺れの無い音色はバーバーにあっている。安定した音のほうが古風な同曲にはあう。オケは素晴らしい。ニュートラルというか、バランスよく技巧的にも力感にも問題なし。弦も木管も美しい。ソリストを食ってる。二楽章中盤になってようやく余裕が出て高音に柔らかないい音が聴けるようになるのは、やはりコーガンといえどもやり慣れない曲では硬くなるということか。しかしバックオケも負けずに頑張るのでこのあたりは全体としてよい。コーガンの左手に不安は依然残るものの、三楽章は頑張るしかないといった所だ。ロシアのバリ弾き奏者特有の荒々しい右手もだんだんとのってきてコーガンらしさが感じられてくる。バーバーの録音としてかなり貴重な様式ではないか。バックオケの毒々しいくらいの色彩感にも圧倒される。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:ヴァイオリン協奏曲,○スポールディング(Vn)オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(WHRA)1941/2/7live・CD,,残っていたのが奇跡、公開初演の記録になる(世界初演ではない)。つまり原典版であり、全体に長ったらしく別の曲かと思うようなところもあり、また厚ぼったいが、三楽章はほぼ現行版に近い無窮動となっている。音は悪いが名手スポールディングによる名技的表現を楽しむにはギリギリokといったところか(個人的にはスポールディングの圧力のある音は好きではないが。。)。驚嘆の声を伴う拍手は曲に向けてのものというよりソリストに向けてのものかもしれないが、二度聴きたいとは思わないものの、改訂版にはない重厚で壮大な作品世界は、ロマン派好きにはアピールするだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:ヴァイオリン協奏曲,○ポッセルト(Vn)クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PASC/WHRA)1949/1/7改訂版初演live・CD,,pristine配信音源。すさまじいソリストの迫力とそれにひけをとらないオケの集中力に圧倒される。正直後年の同ソリストの録音よりもバックオケのぶん秀でている。とにかくこの曲は新古典で平易だからこそ表情付けがわざとらしくなってしまいがちで難しい。その点まったく心配なし。この時代の流行ともいえる押せ押せわっしょいの演奏様式のうちにありながらも、恐らく改訂版初演という理由もあるとは思うが厳しく緊張感が漲り、クーセヴィツキーって腕よかったんだ、と今さらながら気づかせるオケやピアノの操りぶり、ソリストとがっちり組み合って決して離れない、まさに協奏曲の醍醐味である。録音もよくレストアされている。心底からのブラヴォが飛ぶ、○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:ヴァイオリン協奏曲,○ポッセルト(Vn)バーギン指揮ボストン交響楽団(WHRA)1962/4/13live・CD,,夫婦共演である。だからといっては何だがわりとオケも前面に出て絡むこの曲では強みに働いていると思う、堅固なアンサンブルである。ちょっとブルッフ1番を思わせるところもある柔らかさとのちのち晦渋な重さを加えていく若き作曲家の志向があいまって、長い難産の甲斐もあり20世紀の名作協奏曲、しかもアメリカ産という特異な作品になったわけだが、初演期には(それほど技巧的な作品でもなく寧ろ簡素で基本に忠実な構成の作品ではあるのだが)技巧的側面がかなりクローズアップされ、非常に速いテンポと強いボウイングで、ロマンチシズムはあくまでビンビンに張った弓の隙間をぬって譜面から立ち上ってくるぶんでいい、みたいな感じのものが多かったようだ。,,"これも荒いソリストでいかにも戦後アメリカで活躍したふうの名技性と、音色で滑らかにロマンチシズムを奏でることとは皆無のある種の新古典性を発揮している。とにかく腕は凄まじく、女流的な細さはあるのだが、どんなに音が荒れようとも力ずくで押さえつけるやり方が随所にみられ、バーバーにあっているのかあってないのか、ちょっとロマンティックすぎる曲、とくに名技的な三楽章には向いているのかもしれない。結構盛大な拍手である。かといって二楽章も悪くは無い、何か「世界的には無名なヴァイオリン科教授の演奏」のようだ。ミュンシュの補完的立場で、またコンマスとしても働いていた指揮者はさすがボストン響を掌握しているというか、強い個性は決して出さず、弦中心のアンサンブルを効率よくまとめあげた。",,ポッセルトは同曲の初演者と記憶しているが異説も聞いた(部分初演がある模様。また現在の無駄の無い版は改訂版でありその初演ライヴはクーセヴィツキーとの共演がCD化している)。少なくとも録音を残したソリストとしては最初であろう。○。,-----,,,,,,,,,
バーバー:ヴァイオリン協奏曲,◎ボベスコ(Vn)ホーレンシュタイン指揮フランス国立放送管弦楽団(MUSIC&ARTS)1952/2/11LIVE平明な1楽章はどうってことないのだが、地味な2楽章が超名演なのである。盛り上がりどころで指揮台を踏み鳴らす音が聞こえるほど熱の入った深刻な感情が重量感をもって印象的に表現されており、ソリストも独特の音色が、この曲をレパートリーとする最近のソリストとは異質の暗く渦巻く情念を感じさせる。こ、こんなに深刻で、こんなに感動的な偉大な楽章だったのか。バーバーというとアダージオのためになんだかヤワで大衆迎合的なわかりやすい作曲家のイメージを持つ人もいるかもしれないが(とくにこの協奏曲においては)、これを聴いてみて欲しい。私は初めてこの曲で感動した。2、3楽章の内容深さに改めてバーバーの悲しみと怒りを感じることができた(この人はもともとそういう人だ)。充実した曲だ、ということをも再認識させてくれる演奏、決してスタンダードとは言わないが、紛れも無い名演である。ソリストの情念に個性、指揮者及びオケの熱情的で重厚な表現がスケールの大きな感動をもたらす。このボックスの白眉のひとつと呼ばせて欲しい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バーバー:ヴァイオリン協奏曲,カウフマン(Vn)ゲール指揮ルツェルン祝祭管弦楽団(MUSIC&ARTS)1951・CDバーバーのこの曲はリバイバルしてもう10年以上たつ。現代ヴァイオリニストの間にレパートリーとしてすっかり定着した作品と言っていいだろう。1楽章の親しみやすいメロディと19世紀的なくぐもり・・・たとえばブルッフの作品のような・・・に、ワサビのように効く重厚硬質の不協和音が入り込む感覚は非常に世紀末的である(勿論19世紀末)。現代作品が陥った特殊な超絶技巧の世界を敢えて無視したような、かなりやさしいソロパートはバーバーの反骨精神をもっともよく示したものと言えるかもしれない。バーバーはわかりやすい作曲家に見えるが、シンフォニー1番やカルテットにしても結構晦渋で焦燥感がある。そのイメージはこの協奏曲や歌曲によるところが大きいだろう。あ、もちろんトスカニーニも録音した「弦楽のためのアダージョ」(カルテット中間楽章の改作)もそのイメージを固定化した曲のひとつだ。オーマンディとスポルディングにより41年に初演されている。このCDはあまり録音がよくなく、録音の継ぎ目がかなり露骨に聞こえたり、カウフマンの甘い音色がイマイチはっきり響いてこないと欠点が多い。1楽章などこのヴァイオリニストお得意のロマンティックな音楽なのに、この不明瞭なCDではちょっとぱっとしない。無印としておく。まあ、モノラルだと映えない曲でもあります。ヴォーン・ウィリアムズ(ORIONでLP化した録音)とラーションとのカップリング。おそらくMMSで出ていたレコードと同じ音源と思われる(あちらはミュージカル・マスターピース交響楽団というレーベル名を冠した楽団の演奏ということになっている。指揮者はゲールで同じ)。改訂版と記述。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バーバー:ヴァイオリン協奏曲,コーガン(Vn)パーヴェル・コーガン指揮ウクライナ交響楽団(ARLECCHINO)1981/5/9・CD作曲家の追悼に録音されたそうである。だがこれはもう固くて乱暴なコーガンの悪い所が出まくった演奏と言わざるをえない。無窮動的な3楽章ではとくに余りの力みぶりに音になってない箇所まである。とにかく力みすぎで雑だ。しっかりしたいい曲なのだが、どちらかといえば陽の気が多い曲なためにそのまんまヴィルツオーソ的に演奏すると正直聞いててついていけないしんどい演奏になる。バーバーは確かに明瞭で構築的な曲を書いたが、だからこそ緩急の緩の部分に柔らかな情感も盛り込んで欲しいものである。起伏があまりにデジタルだ。無印。ハイポジの音程が低く聞こえる場面が目立つのはオケとの音響バランスを考えてのことなのか、それとも単に失敗したのだろうか?,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バーバー:カプリコーン協奏曲,作曲家指揮コロムビア交響楽団弦楽セクション、ユリウス・ベイカー(fl)ミッチ・ミラー(ob)ハリー・フライシュタット(tp)(SLS)1945/6/20CBS「音楽への招待」放送(スタジオ録音),,極めて悪い音だがレア音源ということで仕方ない。戦争末期の演奏ということもあるのか、楽曲のせいか重苦しくもしくはストラヴィンスキーの新古典主義のリズム音楽の影響を受けたような部分での、ささくれだった表現が目立つ。どことなくぎごちなく、こんなに棒、下手だったっけというような四角四面のところもある。曲的にバーバーらしさというのは緩徐部でのRVW的な美しい響きくらいで、むしろコープランドの人好きしないほうの作風に似る。これはバーバーがリズム感があまりよくなかったということでもあるか。ミッチ・ミラーをはじめソリストの音も楽しみたいところだがノイズがひどくて楽しめない。まあ、曲も私は好きではない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:キャプリコーン協奏曲,チェリビダッケ指揮ベルリン・フィル(AUDIOPHILE)1950フルート、オーボエ、ペットに弦楽合奏という小編成の曲。キャプリコーンは作曲家の山荘の名前だそうだ。バーバーは至極わかりやすい曲と晦渋な曲の両極端の作風を使い分けていたようだが、この曲はおおまかには晦渋。しかし僅かに夢見るような美しいメロディが織り交ざり、これだからバーバーはやめられない。アタマのいい人の作ったアタマでっかちな曲、と言った感じもしなくはないが、同時代の前衛作曲家に比べればましだろう。この演奏はとてもまとまっていて楽しめる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バーバー:キルケゴールの祈り,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団&セシリア協会合唱団、レオンタイン・プライス(Sp)クラフト(Msp)ミュンロ(T)(WHRA)1954/12/3live・CD,,ミュンシュはバーバーを得意とした指揮者ではないがロマン性を色濃く残したバーバーの分厚い管弦楽を捌くに適した特性を備えていたと思う。この大規模な曲でも合唱団やソリストと一体となり巨大で力強い音楽をつき通し、あっという間に聞き通させる名人芸を見せている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:クリスマスに,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(WHRA)1960/12/23live・CD,,クリスマスへの前奏曲、という説明のとおり、クリスマスにまつわる童謡や賛美歌からの旋律が引用されメドレーのように管弦楽により綴られてゆく。いわば編曲作品だ。バーバーの職人的な仕事はかなりの技巧を要求する一筋縄ではいかないもので、そここそが聞き物である。バーバーはメロディストではあるが、このように聞き知ったメロディを使ったほうがその作曲手腕の見事さが明確になり、魅力的に感じる。ミュンシュは案外曲にあっている。勢いで突き進むだけでも曲になるわかりやすさゆえ、かもしれない。楽団の即物性が余計な色付けをしないのも聴きやすい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:コマンド・マーチ,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(WHRA)1943/10/30live・CD,,快演・・・といわざるをえまい。戦争絡みの曲、演奏ではあるが、前向きで、歌詞でもついてそうな勇ましさ。クーセヴィツキーがまたよく軽快に響かせる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:シェリーからの情景音楽,○ゴルシュマン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア(NBC交響楽団)(VANGUARD),,まさに映画音楽!暗い初期作品だが旋律の魅力と既に確立されたアカデミックな手法の清々しさで聴き通せる。見通しのいい演奏・録音もすばらしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:シェリーによる一場面のための音楽,○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(TCO)1956/10/25・CD,,セルの近現代はしばしばオケをまとめることに専念し過ぎて人工的でぎくしゃくしたものになることがあるが、この演奏はバーバーの西欧的で前時代的な、しかもいい意味で個性のない聴きやすいものであるがゆえ、成功していると言えるだろう。音場が狭いとはいえ何とステレオでこれまた聴きやすい。暗い音楽を暗いまま演奏してしまっているが、当時のこのオケがアメリカでも西欧的過ぎることで有名な重苦しいスタイルを持っていたこともあるし、また曲的にこれでいいのだろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:スキャンダル学園序曲,◎サバータ指揮ニューヨーク・フィル(NUOVA ERA)1950/3/18liveバーバー21歳の作品。耳馴染みがよく、適度にスペクタルである。管弦楽の充実ぶりにはウォルトンを思わせるところがある。この曲はシェリダンの喜劇のために書かれたものだが無論随所にアメリカ的なわかりやすい旋律や垢抜けた響きがきこえるものの、分厚い音響は西欧的でもあり、バーバーの作風を非常に象徴している。デ・サーバタの水際立った指揮は曲にマッチして、この滅多に演奏・録音されない、しかし魅力的な小品のよさをはっきりと伝える演奏になっている。晦渋なところは少しも無いから、ご興味があればぜひ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バーバー:スキャンダル学園序曲,○シッパース指揮ニューヨーク・フィル(SONY)1965/1/26情熱的で息の長い旋律、ウォルトンのような華麗なオーケストレーション、いい曲だ。このように良い録音で聞くと、曲構造が透けて見えてわかりやすい。作品番号5、このころのバーバーはとりわけ前時代的でなかなか良い。ニューヨーク・フィルは巧い。さすがだ。いささか唐突な終わりかたはここでも若干違和感を感じる。ところで、私は意地でもこの曲の題名を「スキャンダル学園」としているが、じっさいは「悪口学校」という名で呼ばれるもの。でも、スキャンダル学園のほうが安手のドラマみたいでいいけどなー・・・,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バーバー:スキャンダル学園序曲,カンテルリ指揮NBC交響楽団(ASdisc)1953/12/20liveデ・サーバタの演奏と比べるといくぶん落ちる。オケの統率力が弱いとまでは言わないけれど、いまひとつノリきれない。やや散漫な曲の弱点もくっきり浮かび上がっている。全体構造の把握がいまいちなのだ。推薦はできない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バーバー:ストップウォッチと軍用地図,○ゴルシュマン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア(NBC交響楽団)、ロバート・デコーミア合唱団(VANGUARD),,いかにも第二次大戦の惨状をかんじさせる暗い男声合唱曲で、バス領域の打楽器とブラスしか伴奏がないというのも鬱々とした情景を盛り下げる。元の詩がそうなのだが、比較対象もなく評価不能なので○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:チェロ・ソナタ,○G.リッチ(Vc)ミットマン(P)(stradivari records)LP,,ビル・エヴァンスやハンコックやらとやる畑違いの人になるとは思えないしっかりした骨太のクラシカルな演奏をする人で、音色が深くていい。ストラディヴァリ・レコーズ四重奏団に参加していたチェリスト(ルジェーロ・リッチと関係あったか?)がカルテットの裏面にいれたもの。ドビュッシーのソナタを彷彿とする枯れ葉のような哀しさをかもす音楽ではあるが、高潔で叙情的な第二主題はまさにバーバーならではの美しいメロディで、この曲、よく聞きこめば余り渋さは無い。響きはもちろん現代のものであるが、ディーリアスのあたりに近いかもしれない(もっと硬質だが)。しっかりした作曲技術に裏づけされた作品である。演奏は手堅さもあるにはあるもののバランスに優れていると言ったほうが適切だろう。技巧をひけらかすより素直に叙情的に弾いていくことに向いたさほど起伏のない作品である。ピアティゴルスキーだったかで聴いたときにはわけがわからない感じもあったのだが、この演奏では非常に理解しやすかった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:チェロ・ソナタ,○ピアティゴルスキー(Vc)ベルコヴィッツ(P)(columbia,WHRA)1947/5/29・CD,,CDには初出とあるがLPで出ていたものと同じだろう(例の紫雲を燻らせているジャケだ)。芯のとおった音、ぶ厚い音を雄弁に奏でさせる曲、すなわちRVW的な音響の重さを持つバーバーにピアティゴルスキは向いていて、やはりフルトヴェングラーのピアティなんだと思わせる。ややわかりにくいが恐らく初録音であろう曲で、仕方なかろう。ピアノのソロも目立つがそちらも技巧的には素晴らしく、ソリストに沿って一本の音楽としている。ピアティがまだいけてた時代の技巧を味わえる。色彩的な演奏家ではないから色彩が暗く重いバーバーでは弱点がない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バーバー:チェロ・ソナタ,ピアティゴルスキー(Vc)ベルコヴィッツ(P)(RCA),,渋い曲。作曲家22歳の若書きだが、既に「ドーヴァー・ビーチ」や「スキャンダル学園(悪口学校)序曲」といった代表作を仕上げている。晦渋な曲想の上にふと美しく煌くようなピアノの散発音が降り重なるところなどバーバーらしいロマンチシズムが感じられる。第一楽章の6分くらいのところで出てくる感傷的な旋律は出色。作曲家はこの曲の構想を欧州滞在中に9日間の休暇をとってアルプスを歩いたときに得たという。確かに冷たく澄み切った空気感があり、それまでの作品とはちょっと異質なところがある。ただ、チェロという楽器をあまり巧く使えていないようにも感じられる。技巧的なパッセージで音がよくひびいてこないのだ。ピアティゴルスキーがゴリゴリと気張って演奏してやっと伝わるくらいで、それこそ普通のソリストがやったらマイナー曲のしかもあまりうまくない曲という印象しか残らなかっただろう。まさにピアティゴルスキーの暴力的なテクニックの勝利。でもここに甘い陶酔はない(ピアティゴルスキーはそもそもそういう奏者だが)。無印。,,,M&A等の後継ボックスレーベルWHRAで「未発売録音」として2010年CD化した音源と同じか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,
バーバー:チェロ協奏曲,○ネルソヴァ(Vc)作曲家指揮ロンドン新交響楽団(decca)1950年代・CD,,ソリストは素晴らしい。オケがどうにも甘い。バーバーはこの名義のオケと他にも録音を残しているし、その指揮技術にも定評はあったが、さすがに協奏曲をさばく腕までは磨き上げられなかったか。曲はオネゲルやウォルトンを彷彿とさせるカイジュウさがあるが、技巧的な見せ場が多くバーバーらしい聴き易さもある、それをソリストは鋭敏に感じとってしっかり表現していてよい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:チェロ協奏曲,○ベングトソン(Vc)ニコライ・マルコ指揮デンマーク国立放送交響楽団(danacord)1955/11/24live・CD,,オケがイマイチ。ライブだし曲もオケパートを剥き出しにして使うところが目立ち(冒頭の弦の強奏などリズム的に合わせるのが難しいだろうが)、仕方ないところもあるが、それにしても余り深みのない演奏を展開するソリストと重く引きずるようなオケの乖離はやや気になる。曲が悪いのは認める。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:ドーヴァー・ビーチ,○フィッシャー=ディースカウ(B)ジュリアード弦楽四重奏団(sony)1967/4/8・CD,,バーバーは本質的にロマンティストだ。アメリカ実験主義とは無縁な存在であり、コープランドでさえかれに比べれば前衛的といえる。アイヴズのことは大嫌い(”彼はアマチュア”)だった。古いLPにバーバーのインタビューが載っていたが、かれ自身そのことをかなり意識してロマンティストでいたようである。少なくとも、歌曲においては。(ちなみにその中でバーバーは「わたしはバイセクシュアルである、両刀だ」などとのたまっている。コープランドしかりバーンスタインしかり・・・アメリカって、まったく、もう。・・・いや、じつはこのインタビューには前後があり、バーバーは比喩表現で口にしたにすぎないのですがね。インタビュアーがイギリスの批評家の「バーバーの音楽の”中核”には”人間の声への理解”がある」という言をひいて、あなたは何を書くときもつねに人間の声を思い描いて書いていますか、ときいたところ、バーバーはそんなことはまったくない、どんな旋律も頭から直接出てくるし、声によって曲を書くことなど全くない。つねにそれぞれの曲の編成を思い描いて書く。管弦楽を書くときに人間の声を想定して書く必要があるなどと考えていたならば、作曲家としてかなり窮屈な感じを受けざるをえない、と言う。そこでインタビュアーが、アメリカには声楽を意識的に避けている作曲家もいます、というと、彼らはおそらくそうするのがまったく正しい。たとえばウォルター・ピストンのような作曲家はまったくぜんぜん叙情的ではない。ピストン、セッションズ、コープランドは、まあ後者ふたりは声楽やオペラも手がけてはいるが、本質的にインスツルメンタルの作曲家なのだ。「その意味では、わたしはバイセクシュアルである、両刀だ」・・・というわけでした。でも、そんなところに本心が露呈することって、あるような)ドーヴァー・ビーチは比較的若書きの作品だが、弦楽四重奏に独唱といういくぶん渋い色彩によってえがかれた一幅の絵画である。バーバーの歌曲にはいろいろな過去の作曲家の曲を想起するところがある。サティの「ソクラート」、ヴォーン・ウィリアムズの「ウェンロックの断崖にて」などなど(と書いておきがてら前記のインタビューを読んでいると、インタビュアーが「あなたはドーヴァー・ビーチを確実にRVWに見せたでしょう」、バーバー「もちろん」。RVWがレクチャーしているところに押し掛けていって、歌いながら聞かせたとのこと。RVWはとても喜んで祝福してくれ、「ワシも何度もこの詩集にはトライしたんじゃが、きみがそれをなしとげてくれた!」と言ったとのこと)。つねにリリカルであり、またときにはニヒリスティックであったり、ノスタルジックであったり。人間の素直な感情を表しており、ゲンダイオンガクが人間のオクソコにネムるフクザツなケイショウをドウサツして奇妙奇天烈な音のカタマリを産み出していた状況とはおよそ遠く離れたところにいる。かといって俗謡作家ではけっしてない。マシュー・アーノルドの、海の形象によせて無情をうたう詩につけた「ドーヴァー・ビーチ」、これを少しでも耳にしたならば、そのそこはかとなく哀しい歌に、俗謡からは与えられるべくもない深い心象をあたえられるだろう。ディースカウはかなり雄弁だが、ジュリアードの美しくも暗い色調にのって8分20秒を歌いきっている。さすが、表現に瑕疵はなく、しいていえばそのそつのないところが弱みなのかもしれない。繊細な味わいをもつ曲に、雄弁さは少し鼻に付くかも。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バーバー:ドーヴァー・ビーチ,○作曲家(B)カーティス弦楽四重奏団(原盤RCA/PEARL)1935/5/13古い録音だが渋い編成ゆえ余り音の古さが気にならない。最初この盤を見たときは目を疑ったが、どうやら若きゴホンニンが歌っているのに間違いないようである。たとえばディースカウのような深みはなく、25歳の若き作曲家は若き情感を痙攣的なヴィブラートにこめて、これまた古き良き味をもつカーティス四重奏団とのセッションをやりとげている。本人はセッション当時の自分の声について、あのころはプリティ・グッド・ヴォイスだったからね、と語っている。そうとうリハをやったようだがこのレコーディングの話しが来る前から私的にもずいぶん演奏していたらしい。くすんだ半音階的な伴奏はいくぶん無調的な晦渋も含んでいるが、カーティス団のポルタメントをきかせた艶めいた音がずいぶんとロマンティックな方向に曲を持っていっている。後半になると少し古典ふうの曲想もあらわれてくるが、他の楽想と有機的に繋がっていてそれと意識しなくても楽しめる。薄暗い天候で暗い気分のときには、この曲を持って海へ行こう。遠く乱舞する鴎を見ながら、灰色の海をみつめて。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バーバー:ピアノ・ソナタ,ホロヴィッツ(P)(RCA)1950/5/15晦渋な曲である。聞き込めばいろいろと聞こえてきそうだが、ホロヴィッツも無機質と思えるくらいそつなく弾いており、どこが盛り上がりどころでどこが聴きどころなのか、いまいちはっきり聞こえてこない。旋律が浮き立たないのだ。アレグロ・ヴィバーチェはそれでも例外的に楽しめる面白い音楽だったけれども、それ以外は・・・うーん、私はまだまだ修行が足りない。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バーバー:ピアノ協奏曲,○ブラウニング(P)セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1965/6/24live,,中間楽章はラヴェルの両手やプロコフィエフを、両端楽章はジョリヴェを彷彿とさせるモダンな作品だが、緻密な書法とソリストに要求されるテクニックの高度さにかんしてはそれらを凌駕する部分がある。大して叙情的でもない中間楽章よりも、いきなりのソロからぐわんぐわんと拡がる一楽章、さまざまな楽想を取り込みながらけたたましく突っ走る三楽章に魅力がある(三楽章にはバーバーの好んだRVWの、ピーコンに類似した主題もある)。いずれテクニックがないと無理だ。初演者によるこの演奏は正規録音もある組み合わせだが、さすがのそつのなさで聞かせる。湿り気のなさが気にはなるがこの曲はそれでいいのかもしれない。オケはバックにてっしている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:ピアノ協奏曲,ジョン・ブラウニング(P)セル指揮クリーヴランド管弦楽団(SONY)1964/1一楽章、いきなり晦渋なピアノ・ソロから始まるが、オケが入ってくると若干ロマンティックな趣が加わる。バーバー独特の語法はわかりやすさと晦渋さの掛け離れたバランスをうまく保っているが、オケとソロのからみがそもそも少ないせいでもあろう。また全般やや冗長か。ちょっとウォルトンのチェロ・コンの雰囲気を思い出した。ピアノ・ソロはプロコフィエフのピーコンの打楽器的用法を彷彿とするところもある。セルはソリストを圧倒するほどうまくやっているが、初演者ブラウニングの汗の飛び散るような強靭なピアニズムもめげずにがんばっている。セル・・・ちとうるさいか。二楽章、一転して穏やかなアメリカの夜。一楽章もそうだったが、現代の映画/ドラマ音楽を思わせる雰囲気でもある。第一主題(?)はノスタルジックで美しい。いくぶん官能的でもある(弦の入る所)。現代フランスものっぽい繊細な不協和音の導入も曲の雰囲気を芸術的に高めている。三楽章、不協和音なバーバー全開!やや無調的な旋律やピアニズムは雰囲気的にはシマノフスキの中期(もしくはスクリアビンの後期)に近い。しっかし終始せわしない動きをするピアノ。疲れそう・・・,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バーバー:メデアの瞑想と復讐の踊り,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(ALTUS)1960/5/29live・CD,,来日公演の演目だが珍しかったろう。当時のこの組み合わせのレパートリーであった。その全記録中ではこれは録音がクリアで抜けがいいから聴く価値はある。バーバーというと重い響きだがここでは必要な音しか重ねず旋律的にもヨーロッパ的な古臭さは無い。演奏は達者だ。聞き応えあり。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:メデアの瞑想と復讐の踊り,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA/BMG)1957/4/10・CD,,なんだかんだいってアメリカ・アカデミズム一の才者であり、最も成功したネオロマンティストである。この鮮やかな手腕には無駄も隙もない。個性もないと言ったら語弊があるがクセのあるロマンティストなんてちょっとハンパなわけで、クセはないほうがいいのである。素晴らしいオーケストレイションの腕、音楽は踊る。あきらかにストラヴィンスキーを意識しているがRVWのように決して踏み外すことはなく、職人性という意味ではオネゲルを彷彿とさせる。ミュンシュもフランス的な一種耳馴染みよさを持った曲にはうってつけの指揮者だろう。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
バーバー:悪口学校序曲,○ヤンッセン指揮ヤンッセン交響楽団(WHRA/victor)1942/3/11・CD,,明るく楽しげな様子で縦というかアタックは甘めだが達者な演奏だと思う。ヴァイオリンのポルタメントがなつかしい。バーバーは弦楽器が分厚くないと魅力が出ないが、SP音源にしては、音は割れるが、聴けるものとなっている。ヤンッセンはこの時代の音盤ではよく聞く名前。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:遠足〜1、2、4番,○ホロヴィッツ(P)(HALL OF FAME)1945LIVE煌くような音の魔力。他の演奏家のものとは比べ物にならない本質を突いた(からこそ楽しい)演奏だ。バーバーはときに晦渋だが、ホロヴィッツの手にかかるとすっきりとわかりやすい小品に仕立てられる。ダイナミクスの変化が俊敏な感覚によって激しくつけられ、しかしそれほどの外面的の変化にもかかわらずホロヴィッツの両手にはいささかの危なげな所も無く、これはソリストの物すごいテクによるものであることは明白、さすがホロヴィッツといえよう。初演かもしくはその直後の演奏と思われる。この盤、古い録音だらけだが今まで見なかったものも含む5枚組、それで2000円台だから超お買い得だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バーバー:過ぎゆきしものの歌,○ベルナック(B)プーランク(P)(原盤CBS)1952/2/15NYこれもびっくりした盤だけれども、リルケに材をとったフランス語のうた、全曲初演はこの組み合わせでダンバートン・オークスで行われたということで、不思議はないわけで。アメリカの作曲家がフランス語のうたをつくるのは不思議だが、プーランクの非常にセンスにあふれる洒落た伴奏できくと、まるでフランスやイギリスの近代抒情歌曲をきくようで、不協和音すら美しく儚く(いや、儚いがゆえに美しい)こころに響く。作曲家はリルケの詩をフランス語で歌うのは当然としている。プーランクのレコーディングについてバーバーは好意的に語っており、プーランクは「ダーリン・マン」だと言っている(ベルナックとプーランクとバーバーって三角関係?冗談)。彼が夢中になるのは彼の曲に対してだけで、自分の曲に夢中になったとは思えないが、と前置きしておいて、この曲を弾いて聞かせたところ、とても気には入ってくれた、とかたっている。伊達男プーランクについてもちょっぴり語っているが、かなり仲はよかったようだ。この曲はプーランクに献呈されている。短い曲だしベルナックは多少癖があるが、楽しめると思う。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バーバー:管弦楽のためのエッセイ第1番,○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(BIDDULPH/VICTOR)1940/8/20さすがアメリカの曲だけあってオケも指揮もノっている。フィラ管の分厚い音が重厚な作品の雰囲気を盛り上げている。バーバーらしい暗い曲だが、華やかな管弦楽のおりなす綾が美しい。ブラス陣の充実は言うに及ばず、速いパッセージではフィラ管の木管・弦楽器の鋭いアンサンブルが楽しめる。素晴らしく颯爽とした演奏だ。セルの演奏ではピンとこなかった私でも、これは面白いと思った。オーマンディの性向と曲の性向が一致したということなのだろう。ブリテンの管弦楽曲を彷彿とする佳作。録音は戦前のものとしてはいい方。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バーバー:管弦楽のためのエッセイ第1番,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1939(38?)/11/5放送live,,放送エアチェックで恐らく38年の放送初演時のものだと思う(ラジオアナウンサーは38年11月5日と言っている、但しいっしょにアナウンスされた「弦楽のためのアダージオ」は収録されておらず、拍手の入り方からしてもアダージオ(記録上は同じ11月5日の放送で編曲版初演されたことになっている)が放送上カットされている可能性が高く、39年に再編集放送でもされた記録なのかもしれない)。トスカニーニはアメリカにわたった指揮者が半ば使命であるかのように新作初演を旺盛に行った渦中で、同じようにこういった新作の初演をほとんどヤケのように乱発していた時期があり、解釈的には引きしまったいつものトスカニーニ流儀で通しているのだがオケはかなりきつい演奏をしている場合もある。この異常に速い演奏にしてもさすがに少しバラケが混ざったり、余りに即物的な解釈のせいか余韻のない終わり方でばらけた拍手を呼んでしまったりする。もっとも曲自体が情に溺れすぎない男らしい抒情をかもす、新ロマン主義でもヨーロッパ指向の強いしっかりした作品であるため少しくらいのブレや解釈の素っ気無さ(いい言い方をすればスポーティ)によって揺らぐたぐいのものではなく、30年代昭和初期の時代においてこんなにモダンなアンサンブルがギチギチと生でこうじられていたことにちょっと驚かされる。ピアノの響きがかっこいい。○。メインプロは新世界だったようだ。別項に書く。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:管弦楽のためのエッセイ第1番,◎トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1942/1/24放送用スタジオ録音,,正規でも出ていそうな音源。トスカニーニの中では素晴らしく録音がよく、演奏精度も極めて高い。わりと細かい動きでばらけるNBCオケの弦楽器が細部までぴっちり揃って圧倒的な技術を見せ付ける。ここまできちっと出来ていると逆に、楽曲の何も言わないうちに終わってしまうような、あっさりしすぎた感じ、きつく言えば底浅さに気づかされる思いだ。ブリテンのシンフォニア・ダ・レクイエムに似た曲ではあるが前提となる深慮も構成にも創意はあまり感じられず、技術的才能だけで作った感じが否めない。前半の重厚でロマンティックなメロディと後半のちょこまかした細かい動きのパセージがただくっついている、それが余りにあからさまにわかってしまう。演奏精度が高すぎると、曲が剥き出しになってぼろが出る見本のようなものだ。ただ、演奏者と録音に敬意を表して◎。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,,,,,,,
バーバー:管弦楽のためのエッセイ第1番,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1942/1/24放送録音,,ライヴではないため演奏精度は非常に高い。プロコフィエフ張りのヴァイオリンの走句もブレなく揃い丁々発止のアンサンブルが繰り広げられる。ほとんど判で押したような演奏ぶりで他録と代わり映えのしないものではあるが(当時の演奏会やラジオ放送でのクラシック音楽の視聴状況を考えると、時代の特徴として生演奏であっても「素晴らしかった録音」と同じ演奏がむしろ求められることもあったわけで、社会的状況次第で責められないところもあるのだが、アメリカでは)、42年という時期を考えると録音もよく、細部まで引き締まった「まだまだ元気なトスカニーニ」が聴ける面で価値はあろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:管弦楽のためのエッセイ第1番,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(WHRA)1938/11/5live・CD,,きびきびした動きがはっきりとらえられ、アダージョと同時録音とは思えない。これは食い気味で拍手入るわな、というみずみずしいアンサンブル、鍛え上げられた楽団の性能が発揮されている。曲もバーバーの代表作のひとつ、おすすめ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:管弦楽のためのエッセイ第1番,セル指揮ニューヨーク・フィル(NYP)1950/12/10放送LIVEセルはよくバーバーを取り上げたようだが、この曲ははっきり言って手堅い凡作といったところ。シェフとしてセルは最大限の努力をしているようだけれども、録音の悪さも災いして、記憶に残らない演奏になってしまっている。7分ジャスト。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バーバー:管弦楽のためのエッセイ第2番,○ゴルシュマン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア(NBC交響楽団)(VANGUARD),,90年代のハリウッドの映画音楽といったらこういう曲を思い浮べる人が多いであろう、といういわばブーランジェ的アメリカ音楽を中欧指向の重厚確固たる構造の上に組み込んだ折衷的音楽のなかに、ドラマチックなロマンチシズムを展開させていったバーバーの「表の面」が巧みに発揮された起伏の激しい一曲で、ゴルシュマンもすっかりアメリカニズムを体言すべくこの上ないオケ相手に完璧にこの曲の理想的な姿を演じきっている。細部まで隙なく造りこまれた造形の見事さを明瞭なステレオで重すぎず暗すぎず聴きとおすことができる。詩的な側面が技巧的先鋭性、とくにベルクなどを目したような理知的な語法に反映させられ、編成の小さい曲だと露骨に現代性があらわれて非常にわかりにくくなることもあるが、よく整理され綺麗にまとめられた演奏、フランスでもゴリゴリのアメリカ・アカデミズムでもないバーバーの特異性と、異国人にとっての聴き易さを引き出した名演。ゴルシュマンてこんな人だったっけ?つか、このオケ凄いね。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:管弦楽のためのエッセイ第2番,○モートン・グールド指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1978live,,旋律らしい長さを持った旋律を使用していないにもかかわらずロマンティックな流れが終始保たれるネオ・ロマンチシズム。ワルターが好きそうな曲だ。コケオドシ的ともとれる映画音楽的表現によって聴かせ通すバーバー力づくの技が聴ける佳曲。正直いろんな作曲家のハイライトの寄せ集め感もあり、あれ低弦のピチカートに低音ブラスを重ねる印象的な方法はRVWだとか、弦とブラスを対位的に絡ませ派手にかます方法はヒンデミットだとか、この分散和音的フレーズはウォルトンがよく使う、とか、でも、そういう音楽が好きな向きにはたまらないんですよね。グールドは作曲家としても通俗小品の指揮者としても知られ長生したが、こういう曲ではさすが。オケが力ある明るいオケなだけにバーバーの暗さが陰鬱に落ちず直線的に聴けるのはうれしい。優秀ステレオ録音で環境雑音まで極めて明瞭。,,(参考)バーバーといえば「弦楽のためのアダージオ」ですが、編曲作品の多いバーバーにしてもあれは原曲編曲共にかなり簡素で、管弦楽を派手に鳴らす作曲家としてはもっと大規模作品のほうがわかりやすいし、室内楽以下もしくは歌曲ならちょっとブリテンを思わせる諦観を漂わせた抒情を持った曲が親しみ易い。ヴォーン・ウィリアムズに共感していたというとおり、その音楽には中欧的な重さが目立ちながらも常に透明感が維持されている。これは気鋭オールソップの指揮でエッセイ2曲に「ノックスヴィル〜1915年の夏」という連作歌曲の名作が聴けます。,"
バーバー:ノックスヴィル「1915年の夏」/オーケストラのためのエッセイ第2番"," 第3番 /他
オールソップ
Naxos
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それでも弦楽のためのアダージオが聴きたいならこれを聴いてしまえ。アメリでも観てなさい。
ベスト・シーン-クラシック・ミュージック・イン・シネマ-
オムニバス(クラシック)",中丸三千繪,ヘンドリックス(バーバラ),"ウィーン少年合唱団
EMIミュージック・ジャパン
",-----,,,-----,,,-----
バーバー:管弦楽のためのエッセイ第2番,○ワルター指揮NYP(WHRA)1942/4/16カーネギーホールlive・CD,,どうも弦楽器のキレが悪いのだが珍しい曲を少しマーラーチックに深みを持たせてロマンティックに流れさせていくさまはまあまあ面白い。トスカニーニがやっていれば、と思わずにおれないが。。楽団特有の鈍重さがバーバーの響きにはあっているかもしれない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:弦楽のためのアダージォ,○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(SCORA,ARTE)1958/5/30ロシアLIVEフィラ菅の弦の圧倒的な馬力が感じられる演奏。モノラルだがレンジ幅が比較的広いので、クライマックスの畳みかけるような表現と異様な音量、その頂点は凄絶でイヤがオウでも感動を呼びさます。ライヴならではの迫真性が感じられる録音。逆にライヴならではの綻びは皆無。凄すぎる。ブラボー飛びまくり。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:弦楽のためのアダージォ,○カンテルリ指揮NYP(ASdisc)1955/3/27LIVE・CDこれは印象的。カンテルリは重厚に演奏しており、表層だけをなぞったお涙頂戴演奏になることを避けている。純粋に音楽の力だけで感動できる演奏だ。バーバーの作品にしてはダントツでわかりやすいと同時にメタクラシック的になりやすい曲ではあるが、カンテルリの品位ある音楽作りは純度の高いクラシック音楽であることを宣言しているかのようだ。○。この盤では一番よかった。。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バーバー:弦楽のためのアダージォ,◎クレツキ指揮フランス国立放送管弦楽団(KARNA:CD-R他)1952(1952/10/13live?1952/3?),,Amazonデジタルないしina配信から販売されている悲愴との組み合わせライヴ録音と同じと思われる(10/13表記)。forgotten recordsから出ている3月表記のものも同じではないか?何か尋常じゃない思い入れを力と祈りのかぎり音にして歌い尽くしたような、何とも言えない演奏。力強く分厚いオケはクレツキの精緻な操作によってその感情を説得力溢れる大きなうねりに変え、これは先の大戦を経験した者だけが持ちうる感情なのだろうか、何も言わせず、ただひたすら灰色の地の上より、届かぬ雲間の一条の光に向け腕を突き伸ばす。何も、それ以上も以下もなく、ここにはただ慟哭だけがある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:弦楽のためのアダージォ,○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA/rare moth:CD-R)1969/10/6live,,これはちょっと緩やかさが無いハッキリした起伏のついた演奏になってしまっており、感情的でも客観的でもなく、ただヘンないわゆるストコフスキの悪い癖が出てしまった演奏に聴こえてしまった。特別な日の特別な曲だから演奏が悪くなるわけは決してないのだが、ちょっと違和感。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:弦楽のためのアダージォ,○チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(EMI)1992/1/19、20LIVE・CDゆっくり荘重と思いきや、すっきり明るい演奏になっていて意外。かなり美しいが同曲の感傷性が抑えられ純音楽的に聞かせるものとなっている。かといって根底に流れる宗教性も余り引き出されていない。教会音楽的な響きの厚さも余り感じられないのだ。チェリにしては不思議というか意外でもある。それにしてもこの短い曲を切り貼りする必要はあったのかなあ・・・EMIのチェリ・エディションは切り貼りや補正が多すぎてライヴらしい一貫性が無いと感じさせるものもままあるが、これも正直その類のようにも思えた。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バーバー:弦楽のためのアダージォ,○テンシュテット指揮フィラデルフィア管弦楽団(POA)1985/11/21放送LIVE感情的な演奏である。録音が若いためちょっとゴージャスな感じがしなくはないが(この曲にゴージャスは似つかわしくない)、フィラデルフィアの弦楽合奏の噎せ返るような音色と威力は印象的ではある。もっと深い思索が欲しい向きもあるかもしれないが、こういう演奏もアリだと思う。○ひとつ。終演後のブラヴォー拍手は盛大。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バーバー:弦楽のためのアダージォ,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(RCA,BMG)1942/3/19カーネギーホール・CD,,震える音色、ポルタメント、透明というより重厚な太い感情のうねり。曲を完全に自家薬籠中にしたトスカニーニのひたすらの「歌」。テンポ的には速く淀みないインテンポだけれども音量やデュナーミクや奏法にはかなり大きな変化がつけられており、歌い廻し的な起伏がダイナミックに付けられている一方、静かな場面では録音のせいか弦楽器の音ではなく最早人間の声、歌そのもののような響きがしていて心を揺さ振る。最後のまるでマーラー9番終楽章の末尾のような途切れ途切れの呟きは余りに切ない。トスカニーニの心底からの共感が伺えるし、新即物主義の権化としてのイメージから大きく外れた、ロマンティックな、しかし峻厳な演奏である。トスカニーニの提案により弦楽四重奏曲二楽章より改変された弦楽合奏曲である。早熟の天才バーバー若き頃の傑作擬古典的瞑想曲。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バーバー:弦楽のためのアダージオ,○カンテルリ指揮NYPの弦楽セクション(DA:CD-R)1955/3/27live,,ややテンポが速すぎるが、求心力とブレのない直線的なテンポ、バランスの整えられた響きが見通しよく聞きやすい。パレーを思わせるところもある。ただ、録音は悪い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:弦楽のためのアダージオ,○ストコフスキ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(M&A)1958/5もしくは6live・CD,,弦楽合奏には定評あるストコのソビエト公演。最初のワンフレーズで既にテンポルバートしているのが違和感。音も生生しすぎてやや野暮だがオケがこれだから録音ではなく元々か。以後も物凄いルバートのかけかた、アーティキュレーションの豪快な付け方で殆どソリストの演奏のようだが、合奏は一糸とて乱れない。やや雑音が入るのはロシア録音のつねだから仕方ないだろう。非常に力強く、旋律のロマンティックな面を強く押し出した演奏振りは、ここまでくると感動を催さざるをえない。高音重視の音響バランスはクライマックスの絶唱に素晴らしく生きている。最後になって低弦が強く個性を主張して終わる。違和感しきりだが不思議な感銘を受ける演奏。モノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:弦楽のためのアダージオ,◎トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1938/11/5初演live,,日々湯水のように音楽を浴びる私でも心底感銘を受ける演奏に出会うのは半年に一度あればいいほうである。これは以前紹介した同じDAのライヴ音盤ではカットされていた曲目で、一緒に演奏されたエッセイ第1番のほうは既に書いた。だが、これが素晴らしい。初演というのは後世の演奏スタイルとの違和感を感じさせることが多くある。これも味付けが濃く分厚い音響に貫かれ、透明感の重視される後世の演奏とは違った、かなり「強い」調子の演奏ではあるのだが、トスカニーニの作り出す強靭な流れ、という他に特徴的な「ドライさ」が感じられない。まだせっかちな老年スタイルに至っていないせいもあるのかもしれないが(時期的には完全に即物スタイルだが)オケがひょっとすると「トスカニーニのカンタービレ」という枠を超えて、自国のこの上も無くロマンティックで悲痛な曲に対し濃厚なスタイルを指向した結果生まれた表現なのかもしれない。,,クライマックスの叫びはこの曲本来の(原曲の)「祈り」、という生易しい形式を越えて訴えかける人間の苦しみ悶え、だがそこから這い上がろうとする強い意思への共感に満ちている。実にアメリカ的だ。時代的にも実に示唆的。余りの素晴らしさにあっという間に聴き終わるが、一つ残念なのは2曲目が間髪入れず演奏され拍手も入れないところ。余韻に浸る隙がない(構成的にもクライマックス構築後は余韻を持たせずきっちり打ち切る)。最終音と次のエッセイ1番冒頭の共通した雰囲気からの意図だろうが、聴衆は2曲の差がわからないために静かなのか。現行版とやや違う気もするが元が編曲作品なので詮索は意味無いか。◎にします。トスカニーニ最良の演奏記録の一つだと思う。,,<同日の他曲目>,,前プロ・・・まだ書いてないだけ、マイナー曲,"中プロ・・・バーバー新作2曲;後半が管弦楽のためのエッセイ第1番","メインプログラム・・・新世界","アンコール・・・イベリア",,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",
バーバー:弦楽のためのアダージオ,○バーンスタイン指揮ロス・フィル(DG)1982/7・CD,,ねちっこくはなく、静謐で素直な演奏。クライマックスこそ粘るような表現はみられるものの、それ以外ではむしろ弱音過ぎるくらいの弱音で静かな重奏を聞かせている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:弦楽のためのアダージオ,○パレー指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1961/12/28live,,こんな歌謡的なアダージオは初めて聴いた。高音域中心で流麗に歌われる哀歌。響きも輝かしく美しいが、祈りの雰囲気はまったくなく、ただ悲劇の追憶にまなざしを遠くする。録音は余りよくないし、パレーはこの曲をほとんどやっていないが、個人的にはトスカニーニとは別種の感銘を受けた。ちっとも祈ってなんかいない、でも名演には違いない。いつもどおりあっさりと速いながらも、歌の流れに従い自由に細かい起伏がつけられそこはかとなく哀しい雰囲気を盛り立てる、これこそパレー節なのだと理解させられる。◎にしたいが正統ではなかろう、○にしておく。,,この演奏が非常にわかりやすいために気づいたようなものだが、クライマックスやその周辺のコード進行でふと、アイヴズの調性音楽を思い出した。これはわかりやすいところで言えば交響曲第4番の3楽章、それに第3番に似ている。アイヴズは宗教的作曲家であったが、バーバーもまたそういう地盤の上にいた。音楽的には対極でいながら同じ方向を向いている。クラシック音楽におけるアメリカニズムというものがしっかりこの時代に共通地盤として存在していた、ふと感慨深く思った。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,"(参考)この盤はアイヴズの弦楽四重奏曲も収録しており、その1番の緩徐楽章とバーバーの中間楽章(アダージョの原曲)を比較して聴いたりしてもいいかも。アイヴズの室内楽曲の多くは幼時の宗教的経験を背景にしている。
American Originals
Deutsche Grammophon
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ちなみにアイヴズについてwikiがやたら詳述化されているが時系列的に疑問なところや混乱もみられ(私的演奏会での交流が推測されるシェーンベルクによる評価は「時は流れ、称賛された」などというものではなく死後発覚したものにすぎない、カーターによる芸術上の父親殺し云々の記述も、引用と思われるが正面から言葉どおり捉えるには疑問がある、アイヴズは30年代に既に出版歌曲が評価され演奏機会を増やしており40年代からというのは適切ではないなどなど)、関連資料の継ぎ接ぎと思われる部分は原典を明示すべきだろう。あ、ここバーバーの項か。",-----,,,-----,,
バーバー:弦楽のためのアダージオ,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA/BMG)1957/4/3・CD,,もう濃厚なアダージオである。うねりまくるアダージオである。肉汁の垂れるようなアダージオである。独特だ。クセになるか、嫌になるかどっちかであろう。でも多分、ほんとうのアダージオはこんなじゃない。独特さを買って○。,-----,,,,,,,,,,,,,
バーバー:弦楽のためのアダージオ,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団?(DA:CD-R)1958/12/26live,,感情的なうねりが激しくクライマックスでどんどんテンポが前に流れていってしまうのは気になる。だがミュンシュらしいと言えばミュンシュらしい。かなり速い演奏だが50年代まではこのくらいのテンポが普通だったのかもしれない。ミュンシュは正規でもライヴ含め二種ほどあったかと思う。お勧めはしないが○にするに不足は無い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:弦楽のためのアダージオ,○リットン指揮ロイヤル・フィル(放送)2011/8/16プロムスlive,,バックスの大曲あとチェロのソリストによるアンコールならびに休憩明けでしめやかに始まる。これまたアクがなく聴きやすい。過度の感情も冷たい純音楽志向もなく、何かしらの素直な祈りを感じさせる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:弦楽のためのアダージオ,テンシュテット指揮フィラデルフィア管弦楽団(PO)1985/11/21放送live・CD,,弦楽のためのアダージョは戦争とは切り離せない。トスカニーニの依頼で編じられた(原型は弦楽四重奏曲第二楽章として聴ける)あと、第二次世界大戦中以降アメリカのかかわる戦争においては必ずと言っていいほど、演奏されてきた事実上のレクイエムである。敗戦後の日本で占領軍により最初に流されたラジオ放送は同曲だったと言われている。名旋律の常として歌詞を付けられてうたわれることも多く、本人が歌曲に編曲したものはケネディ暗殺後にも演奏されている。ベトナム戦争の惨果との関連性も「プラトーン」に象徴されるとおり深い(作曲家は近年まで存命であった)。テンシュテットは分厚いオケを相手に、丁寧な音楽つくりを行っている。これを激情に駆られてやるならばフィラデルフィアoの明るく圧倒的な表出力により陳腐な音楽に成り下がっていたであろう、響きに非常に配慮し、重層的構造を注意深く再現するさまはテンシュテットらしい。特徴の強い演奏ではないし心を強く揺さぶられるようなところもないが、その真摯さにはブラヴォも少し飛ぶ。放送収録であり新しい演奏にもかかわらず環境雑音がとても気になる。惜しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:弦楽のためのアダージョ,◯テンシュテット指揮フィラデルフィア管弦楽団(don industriale:CD-R)1985/11live,,情に流されず荘重に過ぎず、注意深く、深淵を覗くような響きも交えてこの曲のもつレクイエム的側面を大人のさばき方で取り示している。印象につよく残る解釈ではないがブラヴォが飛んだ。そういう演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:弦楽のためのアダージョ,○ゴルシュマン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(Capitol)LP,,モノラルの「アメリカ現代音楽集」から。曇っているぶん充実した響きの「アダージォ」を聴くことができる。比較的中欧風の重心の低い音のするオケだが、締まった表現で自然に曲の起伏に従い盛り上がりを作っていく。トスカニーニ風の即物的な個性は無く、無駄な思い入れのようなものもなく、しかし曲自体の暗く重いロマンティシズムを程よく引き出しており、聴きやすい。透明感のようなものはなく祈りの音楽ではないが、分厚い合奏が時代を感じさせてそこもよい。ゴルシュマンのヨーロッパ的な側面の出た演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:弦楽のためのアダージョ,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(GUILD)1940/5/14LIVE・CD,,これぞトスカニーニの美である。人声の厚い響き。このバランスは明らかに歌唱であり、合唱である。弦楽合奏は精妙な重なりの彩により、とくに録音ではしばしばコーラスのようにきこえることがある。偶然の産物であることが大方だが、トスカニーニにかんして言えば、合唱を越えた合唱、というような響き合いを求めているように思える。人声そのものにはきこえないのだが、ハーモニーが厚みを増し単純で力強いアンサンブルを背に音量的に昇り詰めていく、時にはかなりデフォルメされた表現をまじえ一糸乱れぬ調子で真摯な祈りに結実させていく。この感情を歌と言わずして何と言おうか。ケレン味なき芸風に対し真実を伝えるレベルの録音に恵まれたとは言い難いトスカニーニには、私もそうだが響きの美しさやカンタービレの滑らかさよりも、明確なテンポとリズムの快楽的な即物性を求めがちである。だがこう単純でもしっかりと骨太の作品においては、録音が最悪であっても、トスカニーニが何より誇ったとされる歌謡的な美しさがやはり自ずと伝わってくる。数々ある録音でもこれは一際真に迫ったものを感じる。まさにプラトーンの映画の世界に近い、卑近でもずしっと響く解釈表現。録音のせいで○にはするが、トスカニーニの同曲録音でも白眉か。,-----,,,,,,,,,,,,,
バーバー:弦楽のためのアダージョ,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(WHRA)1938/11/5live・CD,,言わずもがなのトスカニーニのアダージョだが、さすがに古く、音がくぐもってしまっている。演奏は感動的なので○はつけておくが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:弦楽のためのアダージョ,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(TAHRA)1956/9/21シャルトル聖堂live・CD,,見事なレストア・リマスタリングがなされているが原盤(テープ?)の傷はどうやっても補えないところがあり、音像が不安定に聴こえてしまう。だが、「ミュンシュの凄み」は伝わる。アメリカ的な合理性の行き届いた技術と、もともとの持ち味としてある中欧的な磐石な響きを持つボストン交響楽団弦楽セクションの、異様な大編成にしても張り詰めて一糸の乱れも無い表現は、米国での演奏とは違う緊張感に溢れ、一期一会の瞬間の記録を聴いているのだ、という感覚に囚われる。ミュンシュらしい前のめりのテンポと自由にうねる野太い流れ、ライヴ感溢れるもののライヴ的な雑味が無い、それが特徴的。クーセヴィツキーの作った「BSOの芸風」を取り戻し、プロフェッショナルなわざで進化させたミュンシュ。ここに聴かれるロマンティシズムは原曲の古典的で密やかな佇まいからは遠く離れたレクイエムのそれではあるが、肉のついたロマンではない、宗教的な祈りでもない、現代的な「音楽」である。戦争犠牲者への餞であっても、それは叫びでも嘆きでもないのだ。しかしこれは原盤そのままではとても聴けなかった代物だろう。リマスタリングでそこまで想像させることができる程になっている、盤としての評価は高いが、原盤状態の悪さから○一つにしておく。,-----,,,,,,,,,,,,,
バーバー:弦楽のためのアダージョ,オーマンディ指揮ボストン交響楽団(aulide:CD-R)1983/5/24live,,これほど何の思い入れも感じられない演奏は無かろう。ほぼスタジオ録音レベルの精度とほどほどの音質でありながら、非常に速いインテンポでさらさら流れていき、そのまま終わるのだ。オケがまた近年のボストンだから精緻さが薄味をかもし、ほんとに何をやりたいのかわからない。個性的だがこれでは、どうにも。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:弦楽のためのアダージョ,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(SLS)1958/12/27live,,集中力の高い秀演。ブレることなく確かなテンポで遅くも速くもなり過ぎず大仰な見栄を切ることもない。トスカニーニの依頼により弦楽四重奏曲の中間楽章から編曲されたもので当初よりレクイエム的な捉え方をされ、実際アメリカの関わった数々の悲劇において演奏され、流された。戦後進駐軍が日本のラジオに初めて流したのはこれであったと聞く。のちに声楽編曲すらなしているためバーバー自身が原曲の純音楽性が損なわれるとして好まなかったという伝説は私は信じていない。やはりこの編曲は原曲と違う、しっかりとボリュームのある、起承転結のはっきりした単体で完結する祈りの歌となっている。プラトーンをはじめ数々の映画にも使用された。最初にかえってトスカニーニが熱心に演奏したこととミュンシュのこの直線的なスタイルは無関係でもないと思う。50年代のミュンシュのスタイルが剛進するような直線的な傾向を示していたのはそうなのだが、それでも情熱のあまり歌ったり力み声を入れることがない、それでいて演奏は非常に気合が漲っている、それはトスカニーニをあるていどは意識していたのではないか、と推測する。録音状態は悪くノイジーだがパワーはある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:弦楽のためのセレナーデ(もしくは弦楽四重奏のための),○ゴルシュマン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア(NBC交響楽団)(VANGUARD),,作品番号1、19才のときの作品で、擬古典的であきらかにカルテット向きの小品だが、ゴルシュマンは非常に引き締まったオケの技術を生かし、大編成で稀有壮大にやり放っている。三楽章制で中間に「弦楽のためのアダージオ」を予感させる緩徐楽章をはさみ、手法の古さは否めないがこの年の作品としてはきわめて完成されたものの感がある。というかおじいちゃんである。おじいちゃんが筆をすさばせたような擬ハイドンに山葵を僅かに挟んだような。まあ、特に・・・,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:弦楽四重奏曲,○カーティス四重奏団(WHRA)1938/3/14live・CD,,原典版、ということで現行版とは似ても似つかない曲になっている。もっとも二楽章はアダージョへの編曲元のまま、となっているが、両端楽章がまるで違う。一楽章冒頭の印象的な主題はそのままだが、大した変容もせず楽章内の両端を締めるのみで、三楽章では回想されず、いや、三楽章はまるで別の曲と差し替えなので当たり前だが、簡素で現代的な骨張った楽曲という印象はまるでなく、後期ロマン派のヤナーチェクあたりを想起させる楽曲としてまとめられているのである。,,バーバーの面目躍如たる機知に満ちた書法は随所にあらわれ、時にしっかり新しい音楽への志向を示しはしているのだが、ああ、このアダージョはこういう形で組み込まれていたのか、あの唐突感は改訂時に発生したものなのだ、という、結局新ロマン派の曲だったということをはっきりわからしめてくれる。テクニカルな完成度も既に素晴らしいものがあり、要求される技術レベルも相当なもの。カーティス四重奏団がこの精度の演奏をライブでやったというのは、時代的にも驚嘆すべきことである。非常に悪い音なので細部はわからないが、拍手の様子からも成功は聴いて取れる。カーティス四重奏団はけして個性を強く出しては来ないので、音色が単調だとか、表現が即物的でアダージョがききばえしない等々あるかもしれないが、贅沢というものだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
バーバー:弦楽四重奏曲,○ストラディヴァリ・レコーズ弦楽四重奏団(stradivari records)LP,,ストラディヴァリウス四重奏団とは違う模様。チェロのGEORGE RICCIはジャズやポップス畑で活躍。ドイツ的な演奏を行う非常に巧い団体である。この曲の演奏にも緊張感が満ちていて、山っ気のないマジメで真摯な態度が聞いてとれる。その意味で古いモノラル録音時代のものとしては貴重な記録とも言える。いつも聞いているのと違う曲かと聞きまごうほどである。有名なニ楽章はしかし結構テンポの起伏はつけていて、音色が渋く非常に安定しているため派手さがないだけで、実は結構感情的な演奏様式をとろうとしているのかもしれない。とにかく私は始めブダペスト四重奏団かと思ったくらい緊密で、弦楽四重奏という形態をよくわかった構造的な演奏ができる団体とみた。◎にしたいが録音が弱いので○。バーバーのカルテットの、ニ楽章以外にみられる現代的なごつごつした特質にかんしては、けして浮き彫りにしようとせず、丸めて聴きやすくしてくれているところが寧ろ特徴。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:交響曲第1番,○サバリッシュ指揮バイエルン国立管弦楽団(FARAO)2003/7/12live・CD,,高精度でライヴならではの緊張感をもった締まった演奏。ただ、この曲はもともと1.5流くらいの、時代性の強い作品ゆえ、近視眼的にロマン性を引き出しつつ基本客観的に整えていくだけのやり方では、連綿としているだけで、聴く側のモチベーションが持続しない。もちろん生来の技巧派バーバーだから非常によく書き込まれており、重量感に軋みをはっしない職人的なわざが冴え渡っている作品、しかしながら楽想が弱いことは否定しようがない。そこが原因となり構成感が明確でなく技に偏った、演奏家受けだけする作品に感じられてしまう・・・この頃アメリカや西欧に多かった。部分的にシベリウスの合奏法の影響がみられ新古典的な立体的な書法が織り込まれた緩徐楽章(形式上単一楽章ではあるが連続した4楽章制ととってよいだろう)に魅力があるが、終演部すらはっきりしない、これはクーセヴィツキーやミュンシュといった(整え方には問題があるが)強引に盛り上がりをつくっていく指揮者でないと活きて来ない曲である。SACDでわざわざ出すような演奏ではないと思うが、音のよい録音はこのバーバーの出世作には非常に少ないこと、しかもサバリッシュ80歳記念公演記録とあっては音楽外の理由もあろう。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バーバー:交響曲第1番(一楽章の交響曲),○ロジンスキ指揮NBC交響楽団(WHRA)1938/4/2live・CD,,原典版。バーバーの出世作だが、いまひとつわかりにくさがあるのは、スコアを整頓して即興に流れず山場を計算した演奏を提示する人が少ないということもあるのではないか。ロジンスキの素晴らしさはその点非常に計算された音楽を志向しきちんと緩急がつけられているから、ただの煩いネオロマンになりそこねた交響曲ではないことをわからせてくれるところだ。これはやっとこの曲に耳を向かせてくれた盤。録音マイナスで○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:交響曲第1番(一楽章の交響曲),ワルター指揮NYP(WHRA他)1944/3/12カーネギーホールlive・CD,,改訂版。ワルターはこの曲を評価していたという名指揮者の一人。有名な録音だが、ロジンスキと比べて聴けばわかるのだが、勘どころがつかめていないというか、近視眼的で、流れで聴いていてもどこが聴かせどころで、最終的にどこへ持って行きたいのかわからない。それほど乗った演奏というわけでもなく、ワルターがどうしたかったのか・・・録音も悪い。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:交響曲第2番(1944/47),○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ASdisc/WHRA)1944/4/4原典版初演LIVE・CD,,この曲が有名になったのは空挺部隊への従軍経験をもとに作曲家がラジオ・ビーコンの音やプロペラ音などを採り入れて作り上げたといういささか珍奇な出自によるところが大きいと思うのだが、この初演ライヴを聞いても自作自演盤を聞いてもそれらの要素は殆ど目立ってこない。というかはっきり言ってこの演奏からはそういう表層的な効果を狙ったところが微塵も感じられず、純粋にバーバーのメロディメイカーとしての才能の輝きが(とくに1楽章の緩徐主題!!)、実に流れ良いクーセヴィツキーの棒に乗って深い抒情を歌い上げているところに惹かれる。47年の改訂前の演奏ということで尚更「作曲家自身によって弄繰り回されない、作曲当初の構想に忠実な楽像」が浮き彫りにされ、より真実味をもって迫ってくるのかもしれない。独特のコード進行、重厚な響きも鮮やかに描き出され、時折感じられる無理の有る展開も、ここではクーセヴィツキーの作り出した直線的な音楽の奔流に乗ってそうと感じさせない。この曲は1番にくらべ落ちると考えられているようだが、メロディの美しさや手慣れた管弦楽法にはたとえばウォルトンの2番に感じられるような円熟味が染み出して来ており、聞き込めばそれなりに感じる所もある楽曲ではある。これはクーセヴィツキーに敬意を表して○。冒頭の空虚な響きなど、コープランドらのアメリカ・アカデミズムに通じるところもあってそれはそれで面白く思った。録音はクーセヴィツキーのライヴにしてはとても良い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バーバー:交響曲第2番(1944/47),作曲家指揮ロンドン新交響楽団(EVEREST/PEARL/WHRA/DECCA)1950/12/13・CD,,〜かつてはこの曲、結構好きだった・・・この曲戦争末期に航空隊を称える主旨でつくられたらしいが、その後47年に改訂が加えられている。ウィンドマシーン等描写的な表情付けが特徴とされているがこの古い盤からは余り聞き取れない。そこはかとない哀感と悲痛な表情が入り乱れ、・・・混乱している。冒頭コープランドかとききまごうような中音域スカスカの高響き。以後も何かショスタコーヴィチなどに似た清新な響きが連なる。どこも何か他の作家を思い浮かべてしまう。バーバーの純管弦楽はヴァイオリン等旋律楽器の独特の跳躍(下降音形でも跳躍というのだろうか、それも含む)と、半音階的だが清らかな感傷を催す憂いに満ちた旋律に特質があるが、反面閃きに乏しく個性的な旋律や響きに欠けているところがある。この曲を聞いても1番を聞いてもそうだが、20世紀初頭前後の末流ロマン派作家たちの流れを固持し続けただけのようにさえ思えてしまう。突然ふっとわいたように浮き上がる美質が、余り長続きせずどこかへ流れ去っていってしまう様には、マーラーをふと思い浮かべる。バーバーの歌曲は良い。個性的ではないが、詩のよさとあいまって諦念やノスタルジーといったオンガクお得意の世界を、これでもかというくらいに(でも密やかに)提示する。小曲に魅力ある作家が交響曲のような大きい曲を書くとこうなるのだろうか?とも思ってしまう。無論曲を選べということもあるのだが。この曲がマイナーなのにはわけがあるようだ。ここでこの曲のききどころを唯一つ挙げる。それは1楽章第二主題だ。オーボエ・ソロによる夢見るようにたゆたう提示、次いで重層的にリフレインする弦楽器、山の木霊のように遠く儚くうつろう旋律は、それと判別できる部分は短いが(半音階的に変容してやがて消えてしまう)耳に残る。 CD化済み。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バーバー:交響曲第2番〜リハーサル,○作曲家指揮ボストン交響楽団(WHRA)1951/4/6-7live(6/23放送)・CD,,25分余りのリハーサルだが迫力のボストン響による本番を聴きたかったと思わせるだけのものはある。バーバーはメロディーが重要だが、綿密なリハの中でしばしば作曲家自身が歌って指示しているところ、バーバーの聴き方、というものが改めて提示される。一楽章。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バーバー:室内オペラ「ア・ハンド・オブ・ブリッジ」,○ゴルシュマン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア他(NBC交響楽団)(VANGUARD),,ピアノ独奏から始まる意表を突いた極めて短い室内オペラで、ゴルシュマンは弦を増強しゴージャス感を出している。古びたジャズ風のリズムにバーバーが時折見せる無調的なパセージ・・・ベルクを思わせる・・・が乗り、人好きしない表情になりがちなところを歌詞とゴルシュマンの派手な表現が救っている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
http://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/naha.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/776.html#c1
1. 中川隆[-16084] koaQ7Jey 2021年10月07日 08:11:46 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[14]
ハチャトゥリアン:「仮面舞踏会」よりワルツ,○サモスード指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(VISTA VERA)1953/2/11live・CD,,奏者には苛烈なことを強いるハチャトゥリアンだがこの曲はまずもって旋律が素晴らしく聴く側はただその愉悦感に身をゆだねることができる。サモスードらしい「崩れ」が出てしまっているところもあるが(メカニカルなハチャが乱れないほうがいいのは言うまでも無い)、ライヴで会場も盛り上がってきたらこんなものだろう。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ハチャトゥリアン:ヴァイオリンとピアノのためのソング・ポエム(Ashugsを称えて),コーガン(Vn)ナウム・ワルター(P)(RUSSIAN DISC)1964/(Arlecchino)1963?録音時間がほぼ一致、恐らく同じ録音。録音年は前者が正しいと思われる。Ashugsはコーカサス地方の吟遊詩人や歌手たちをさすとのこと。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:ヴァイオリン協奏曲,○コーガン(Vn)作曲家指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(Arlecchino)1951・CDちょっとウォルトンみたいな面白さがある曲だ。ハチャらしくエキゾチックな雰囲気もある(それほど新味はないが)。ハチャというとコンチェルト・ラプソディ、あちらは(ヴァイオリン版は)ちょっとわかりにくいところもあり、私も譜面を持っているのだが、弾いててもナニを弾いているのかわけがわからないところがある。こちらは何よりとにかく親しみやすい旋律だらけなのでとても聴き易い。アマチュアでこれにチャレンジする人がいるが、難しいとはいえ旋律の分かり易さが弾く上でもかなり助けになることは確か。ハチャの旋律を楽しみたい人はぜひ聞いて下さい。たぶん20世紀ロマン派好きにもかなりアピールする曲と思います。最後はベートーヴェン以上にしつこい終止音の連打で民族性を感じる。コーガンはけっこう余裕があるがテンションは高い。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:ヴァイオリン協奏曲,D.オイストラフ(Vn)クーベリック指揮プラハ放送交響楽団(PRAGA)1947/5/15・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:ヴァイオリン協奏曲,D.オイストラフ(Vn)作曲家指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(RUSSIAN DISC)1965/8/3LIVE・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:ヴァイオリン協奏曲,ジョドリー(Vn)ミュンシュ指揮ORTF(ina)1954/6/19ストラスブール音楽祭live放送,,ムラヴィンスキーの代役で振ったものでヘンデルの合奏協奏曲のあとに新古典主義ということで插入された演目だろう。メインはシューベルト7番(一番力が入っていたことはミュンシュの芸風柄言うまでもない)。ina配信ではPHD89036415というナンバーになる。ジョドリーのアンコールにバッハの無伴奏から1曲入るがとてもメロメロで重音が無音になったりする。まあヘンデルのソリスト、技巧的なハチャトゥリアンのソロのあとなので仕方ない。曲はこの作曲家らしく外しはしないが今ひとつ焦点の定まらない長ったらしさを感じさせ、やはりメカニカルな技術の披露が中心で、いかにも20世紀中盤的な尖鋭さとロマンチシズムの折衷性が民族的な要素の消化吸収によって示されているものの、個性的なものは感じない。スポーティな三楽章が聞きものか。ソリストはあまり強くないがこれを弾きこなす位には力量がある。ミュンシュはオシゴト的な感じがするが、オケがよく反応しハチャトゥリアンの仕掛けを上手にこなして、結果大ブラヴォの終演となる。急な代役としてはミュンシュというかオケが素晴らしい。面白いことに放送ナレーションは演奏後に説明を繰り広げていくスタイル。演奏日はAmazonデジタル配信を参照したが正確性には注意。,-----,,,,,,,,,,,,,
ハチャトゥリアン:ヴァイオリン協奏曲,ジョドリー(Vn)ミュンシュ指揮ORTF(ina他)1954/6/19ストラスブール祭live,,Amazonデジタル配信とina.frは記載曲名が違うがまったく同じもの。ムラヴィンスキーのコンサートの代わりとして決まった割にはさすがミュンシュといった完成度で、ハチャトゥリアンがじつにやりやすく書いていて、ソリストも相当の腕前であることを念頭に置いても、聴き応えは満点だ。ミュンシュ向きの曲だし、ソリストも強靭に、荒々しくすべきところは音を掠らせて、冒頭から最後まで弾きっぱなし、単線的な細かい音符の数珠つなぎでオケを引っ張っていく。大ブラヴォが出てしかるべし、ハチャトゥリアンがソヴィエトにありながら個性をどう保ちアルメニア民謡をコダーイでもバルトークでもない古来ロシアのやり方でもない形で一般人に届く音楽に仕立てたのか、よくわかる。バッハの無伴奏がアンコール。こちらは何も届いてこない。ミスもひどい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ハチャトゥリアン:エレヴァンの春,○作曲家(歌・P)(supraphon)1950/4/27プラハ・CD,,なかなかいい声でピアノはちょっと心もとないが楽しめる。おそらく新発見音源か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ハチャトゥリアン:ガヤネーより剣の舞,オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(MSC)1958/5/30・CD,,どうも推進力がなくまぬけな感じがする。発音がぼてっとしているせいか?,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ハチャトゥリアン:コンチェルト・ラプソディ(チェロと管弦楽のための),○ロストロポーヴィチ(Vc)作曲家指揮ソヴィエト国立管弦楽団(IVC)1963LIVE・DVD,,まさに演奏技術と現代ふうの民族書法だけで出来上がっているハチャのハードなほうの作風によるもので、アルメニア人以外にはだいたいみんなおんなじに聞こえるたぐいの作品だろう。ショスタコがダメでハチャのこういう作品が○というのはまったくソヴィエトという怪奇現象の象徴そのものである。大学で初めて買った譜面がヴァイオリンのためのコンチェルト・ラプソディだったが、技巧以前にまったく理解できない、機械のような譜面に、奇妙にわかりやすい民謡ふうフレーズの織り込まれた、子供にとっては奇怪きわまりないものですぐに脇に置きかわりにストラヴィンスキーの火の鳥の王女のテーマ編曲(作曲家が金のために編曲しつづけた中の一つで、しかしなかなか一筋縄じゃいかない独特の特殊技術の盛り込みかたはさすが)を買ったものだ。今はアマチュアでもヴィニャエフスキに挑戦するいわゆるセミプロのたぐいはこれもやったりするが、技巧をひけらかすだけの曲では聴く側は堪らない。至極理知的であり、読み解いて理解しないと良さが出ない難解を内在させているのに、やはりロストロ先生もひたすら純音楽的に弾きこなし(やはり努力家カサルスを退け前世紀最大の天才チェリストなのだ)、けたたましい平板な曲想の輪から抜けていない。しかしこの激しいジプシー音楽(差別意識はありません)ふうラプソディの中に旋律の流れをとらえ歌えるところは完璧なボウイングでろうろうと歌う、まるでヴァイオリンのように軽がると指弓を運び流れるように繋げていくその「現代チェロ奏法の確立者」たる見事な演奏ぶりは見ていて引き込まれざるをえない。ライヴだし冒頭やや甘い発音から始めるしロストロ先生のけして一級の記録とは言えないが、本人も自分のためにこのソヴィエトのカリスマが書いてくれたことを喜びたちまち弾きこなした姿をまた作曲家が喜び、演奏会後目に涙をためていたというのはいいエピソードだ。ハチャはバレエもそうだがビジュアルがあるとないとじゃ違う。無いときつい。これはある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ハチャトゥリアン:チェロと管弦楽のためのコンチェルト・ラプソディ,ロストロポーヴィチ(Vc)作曲家指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(RUSSIAN DISC)1973/10/15LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガイーヌ」抜粋,○ドラティ指揮ロンドン交響楽団(MERCURY)1960/6・CD,,じつに職人的な演奏。アルメニアらしさは余り無いがスペクタクルな良録音を楽しめる。剣の舞から始まる。わりとはっちゃけないなあとも思うが録音がいいので許せる。体臭が無いほうが好きなご婦人も多いだろう。二度目の再現で音場を拡げスペクタクルな盛り上がりをみせる。アイシェも音楽の体臭のみを忠実に再現し、オケの体臭を混ぜないようにしている。ロンドン響だからもともと楽団としての体臭は無いけれど。パーカッションで気を煽られる部分は大きいが音表現自体ではそれほど舞踏性を煽られない。ローゼンメイデン(違う?)ではひときわ体臭の無さが気になる。まるでクリスマスの映画音楽だ。リズムが切れていて、重さに失われがちな舞踏性を補っている。派手さと両刃の重さと、鋭いリズムという点はこの後のダンスも同様の印象。曲のせいかもしれないが、テンポが単調なため飽きるところもある。ララバイあたりはイギリスの職人楽団らしい臨機応変さが光る。やはり木管が素晴らしい。弦は巧いが凡庸か。 ボロディン的なかっこいいレズギンカではリズムのキレのよさがメリットになっている。パーカス任せの感もなきにしもあらずだが(録音操作だろうなあ)引き締まった表現。弦と対位的に重なるホルンの旋律はもっと崩して派手にやってほしい気もした。まあ、○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」(原曲1939/42/52)〜アイシェの踊り,シャラバラ指揮チェコ・フィル(supraphon)ハチャトゥリアンは踊り大好き人間だなあ。ちょっとボロディンを思わせる曲想だ。ガヤネーは「剣の舞」ばかり有名だけど、こういう曲もある。ワルツ好きは聞きましょう。陰鬱な演奏で無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」(原曲1939/42/52)〜アイシェの踊り、アダージオ、剣の舞(ハイフェッツ編(アダージオを除く)),○コーガン(Vn)ミトニク(P)(Arlecchino)1960 剣の舞は50年録音と称するものと同じ可能性あり(録音時間はほぼ一致。録音年はどちらのレーベルも信用できないがしいて言えばライナーがしっかり書いてあるrussian discのほうが正しいか。russian disc併録のソング・ポエムもこちらにも収録されているが、記載録音年は違うものの録音時間がほぼ一致するため同じと思われる)。そのためこちらの項では剣の舞を除く2曲について書いておく。アイシェの踊りはなかなかの情緒だ。元からこの編成で書かれていたかのように感じられる。憂愁の旋律は極めて民族舞踊的に展開していくが、コーガンは正確な重音表現と力強いボウイングでその情緒を倍加する。リキの篭りかたがいかにもコーガンで、好き嫌いはあると思うが、この曲は荒々しくまた緩急激しく演奏するのが正解。つづくアダージオはヴァイオリン独奏曲。個人的にあまりパっとしない曲の印象が有る(有名な第二(副?)主題、独特の民謡音階に基づく抒情旋律がさらっと出てくるところは鳥肌ものだが)。それはこの編成で聞いても同じ。コーガンの力感はあるがあまり個性的ではない音では晦渋な旋律はあまり耳を惹かない。後半音域が高くなる箇所では際立って美しい音が聞けるし、無伴奏の曲だからかもしれないがバッハを彷彿とさせるところもある。聞き込めばお気に入りになる可能性は否定しない。ついでに剣の舞はコーガンらしい技巧が駆使され、やっぱりこの3曲の中では印象的だ。慣れてくるとこのとんでもない編成でもそれなりに聞きごたえは感じる。激しい音量や音色の起伏がつけられ、とくに最弱音と最強音の交錯する自在な流れの作り方は特筆もの。ソリスティックな表現で原曲の雰囲気とは若干違うが見せどころではある。まあ巧いです。総じて○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」(原曲1939/42/52)〜レズキンカ,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立(放送?)交響楽団(LUCKY BALL:CD-R)1983/10/20LIVE オケ表記が放送響となっているが怪しい。ショスタコの「革命」のアンコール一曲目。派手です。録音が浅いので太鼓ばかり耳につきますが、やたら早く煽情的でこの人らしい。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」(原曲1939/42/52)〜レズギンカ、剣の舞い,○ゴロワノフ指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA/GRAND SLAM)1944・CD音は悪いが雑音レベルが高いぶん本来の音自体もクリアに聞こえてくる。ゴロワノフの腕の見せ所といった激しい楽曲だが、意外と仕掛けてこない。短い曲ということもあるが、テンポ的な揺れはほとんど無く、もっぱら解釈の中心は音量変化と楽器の響かせかたになる。厚ぼったく重量感があるがテンポは後ろ向きにならずしっかりノって刻んでいる。迫力の有る開放的な音響を指向していながらひとつひとつの音の輪郭をびっしり整えており、ゴロワノフのオケに対する絶対的な権力というものが行き渡ったさまを聴き取ることができる。民族的な舞曲のリズムに肩を揺らし、あっという間を楽しもう。サックスのヴィブラートに感涙。案外マトモです。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」(原曲1939/42/52)〜剣の舞(作曲家によるヴァイオリンとピアノのための編曲版),○コーガン(Vn)ミトニク(P)(RUSSIAN DISC)1950き、きしょい。尾藤イサオの「剣の舞」とどっこいどっこいだ。乱暴なピチカートの挿入はハチャらしくてまだいいが、こんなにも恥ずかしい旋律だったのか、と思わせる剥き出しの主題の表現がこれまたなまめかしすぎる。ピアノとヴァイオリンのアンサンブルというところがまた無理がある。なんとなく不自然だ。ここではコーガンの技巧が惜しげも無く晒されるが、ポルタメントが色っぽすぎ。まあ奇盤のたぐいだろう。怖いもの聴きたさで。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」(原曲1939/42/52)〜組曲,◎作曲家指揮ウィーン・フィル(DECCA) 1962/3 ソヴィエトの冷え冷えとした荒涼の中でボロディンの夢に引き戻してくれるかのような華麗な民族舞踊音楽、南アルメニアの綿花畠をバックに壮大な叙事詩を見る思いだ。3曲めなどボロディンのイーゴリ公を思い出さずにおれないが、自ずと知れた1曲め「剣の舞」をはじめとして打楽器の鋭い響きが魅力的な光彩を放つ。無論ボロディンの簡素な曲に比べて拍子の複雑さをはじめとする現代要素がふんだんにつぎ込まれている。和声の新しさは皆無だが(これも有名な4曲め「ガヤネーのアダージオ」ではバーバー風の晦渋な音響も織り交ざるが)、時代性や背景を抜きにして無心で聞くならば、決して「時代遅れ」などという言葉で蔑まれるほどヤワな音楽ではないことがわかる。名曲である。私は「ガイーヌ」全曲に触れたことはないが、一曲一曲が引き締まっており、他曲に時折見られる難解さも極力抑えられている。演奏はウィーンで交響曲とともに録音されたが、ハチャトゥリアン自身の指揮は巧いものだ。熱くなりすぎず集中力の高い演奏というのは指揮者の理想とするところだろう。リズム処理の巧さは血のなせるわざか。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」(原曲1939/42/52)〜組曲,作曲家指揮ロンドン交響楽団(MELODIYA/EMI)1976 この盤、EMIからは発売されていたのだろうか?メロディヤとEMIの共同製作盤とのことである。かなり野蛮な演奏というか、土俗的な雰囲気満点に仕上がっており(メロディヤのリマスタリングのせいかもしれない)、ロンドンのスタジオ録音とは思えないほど熱気がある。ただ雑味が多いことも事実で、ウィーン・フィル盤に比べれば録音や演奏技術的な面も含め完成度は低いと言わざるを得ないが、そういうものとわかって聞けば楽しめる。それにしても本当にこれがロンドン響の演奏?ロシアオケの響きがする。。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」(原曲1939/42/52)〜抜粋,○ハイキン指揮レニングラード国立歌劇場管弦楽団(MELODIYA他)やはりこの曲はハチャトゥリアンの代表作だ。どこにもスキのない民族的音詩、現代的なひびきも盛り込まれ、その調合具合が絶妙なのだ。あきらかにボロディンの延長上ではあるものの、旋律にはより肉感的な魅力があり、楽器の使い方もより複雑で構築的である。ここではハイキンの素晴らしく統制された音楽に耳を奪われる。オケ、とくに弦には若干不安があるがソヴィエト国立交響楽団くらいのレベルにはいっている(あくまで技術的な話し。パワーの優劣は別)。鮮やかな色彩感は民族的雰囲気を盛り立てるほうではなく、純音楽的に・・・フランス音楽のように・・・曲を盛り上げるほうに働いていて、聴き易い。鋭いリズム感というものはないし、圧倒的な迫力もないが、非常に適切なレベルでそれらを調合しているふうであり、総体的に不足は感じない。「剣の舞い」も迫力満点というわけではないが、単に音楽的に楽しい。管楽器群の味のある音色に心奪われる。後半はかなりブラスと打楽器の鋭い攻撃が派手に盛り上がるが、あっさり終わるのが潔い。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」(原曲1939/42/52)〜抜粋,作曲家指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA/BMG)1975LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー」,ハイキン指揮キエフ歌劇場管弦楽団(CONCERT HALL SOCIETY)LP,,ガイーヌ全曲?4幕まであり、剣の舞で終わっている。CHSもそうだがロシア原盤西側焼きのLPの音は、やや遠くぼけていてロシア的な覇気漲る演奏がやや腑抜ける傾向がある。しかしこれは録音のせいだけではなく、演奏陣もロシアのトップオケに比べるとアンサンブルがバラけていてちょっと落ちる感じがする。迫力も足りず緊張感が薄い。ピットならこれでいいのかもしれないが、バレエの絵が無くて音だけだと何か締まらない。剣の舞を始めとする聞かせどころもそれほど際立った特徴はなく全曲の中に埋没している。平坦な演奏。ハイキンの引っ張っていこうという力は感じられるが。ハチャトゥリアンらしいパセージもカバレフスキーやプロコやストラヴィンスキーの二番煎じに聞こえてしまう。匂い立つ民族性が余り感じられない。無印。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ハチャトゥリアン:バレエ音楽「スパルタクス」,○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(放送)1955/9/24live,,この日のプログラムのハイライトだろう、ハチャトゥリアンのわかりやすい世界がガウクにはあっているようだ。速い音楽での畳み掛け方はスヴェトラを彷彿とさせ拍手も飛び出る。抒情的な色もあっていい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ハチャトゥリアン:バレエ音楽「スパルタクス」〜3つの抜粋,作曲家指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(RUSSIAN DISC)1973/8/15・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:バレエ音楽「スパルタクス」〜抜粋,ガウク指揮モスクワ放送交響楽団,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:バレエ組曲「ガヤネー(ガイーヌ)」,○作曲家指揮カルロヴィ・ヴァリ交響楽団(supraphon)1955/9/15live・CD,,オケは若干甘い。曲間にいちいち拍手が入るのも興をそぐ。おそらく新発見の音源だが通俗的にまで知られたガイーヌに求められるレベルを達成できているかどうか・・・ライヴなので仕方ないか。バラの乙女の踊り、子守唄、アイシェの踊り、ゴパーク、剣の舞、レズギンカ。興奮度が低いのだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ハチャトゥリアン:バレエ組曲「ガヤネー」,○スヴェトラーノフ指揮ボリショイ劇場管弦楽団(brilliant他)2000/1/3-6・CD,,ガイーヌといったらこの今や1000円しない盤を買っておけばいいというものだ。但し晩年のスヴェトラーノフに近年のボリショイということで音の個性や豪放磊落さというのは抜けていて、派手ではあるが万人受けするような節度がある。ソリストもとりわけ個性を発揮しはしないが全体の響きの中では調和してひびく。このロシアの巨人も西欧志向が強かったのではないかと思わせるニュートラルな響きが印象的だった。壮麗さは変わりは無い。弾けているわけではないが、むろん最近なされるたぐいの録音よりは気を煽る。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ハチャトゥリアン:ピアノと管弦楽のためのコンチェルト・ラプソディ,ペトロフ(P)作曲家指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(RUSSIAN DISC)1973/10/15LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:ピアノ協奏曲,○イェメリーク(P)クリマ指揮チェコ・フィル(supraphon)1960/11/7-9・CD,,演奏はやや地味目か。というか、曲が余りに古風で特徴に欠ける。すでに以前この曲について書いたとおりで、重ったるいロマンチシズムすら感じる。○にはしておく。ステレオ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ハチャトゥリアン:ピアノ協奏曲,カペル(P)クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(SLS)1943/10/30live,,これは異常なノイズをまじえた録音状態をさしおいても、まずどこがいいのかわからない曲。バルトークから創意と魅力を抜いたような印象でとりたてて難曲でもなくカペルがやる意味も無い。そもそも解釈が悪いのかもしれないが通常のピアノ協奏曲に期待される形式的なものが伝わらず、え、この尻すぼみでお終い?という結部に拍手が始まると腰が砕けた。お好きならどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ハチャトゥリアン:ピアノ協奏曲,フリエール(P)コンドラシン指揮モスクワ・フィル(BMG/MELODIYA)1963・CDプロコ的だが民族的要素が気恥ずかしいほど露骨に盛り込まれており、管弦楽法も単純で、野暮ったさ満天。1楽章や3楽章の終わりの方がちょっと晩年のシマノフスキぽくて洒落ているし、2楽章真ん中のヒュ〜ドロドロも気持ち悪いけど新奇で面白い。初めて聞くとびっくりするだろう。その後は旋律的でプロコ的だが、奇妙な音色効果を狙った挿句が面白い。3楽章は軽快な出だしがいい。ソリストはバリバリ鳴らしていくウ゛ィルツオーソタイプなのでこういうバリバリな曲にはうってつけ。やがて大時代がかったハリウッド的ロマンチシズムが歌われるが、どこかヘン。やがて独特のカデンツァが長々と鳴らされるが、民族やらジャズやらやりたい放題。あまり面白いフレーズはないがごっちゃな感じがハチャらしさだろう。せわしない主題が戻りわけのわからないうちに頂点へ。やや録音が悪く、オケの没入度も足りない感があるが、コンドラシンのきっぱりした解釈によりしっかり終わる。もう少し盛り上げてもいい感じがするので無印。同じ調子が続き、ただ冗長感が残った。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:ピアノ協奏曲,ペトロフ(P)作曲家指揮ソヴィエト国立交響楽団(RUSSIAN DISC)1977/2/15LIVE・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:ピアノ協奏曲,ペルティカローリ(P)作曲家指揮イタリア・トリノ放送交響楽団(FONIT CETRA)1963/4/12LIVE・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:レーニン追悼のオード,○作曲家指揮ボリショイ劇場管弦楽団(RUSSIAN DISC)1957これ、プラハのと違うけどまあいいや。派手なオードですな。ロシアのボントロはやっぱ馬力があります。繰り返される泣き節の音形がわざとらしい曲だが、木管の使い方がちょっとマーラーっぽくていい。ミャスコフスキーぽくもある。暗いけれど、この派手な音響で聞くとそれなりに聞ける。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:レーニン追悼のオード,作曲家指揮プラハ放送交響楽団(supraphon)暗い曲想だと元来和声的に新味のないハチャトゥリアンの作品はとたんに輝きを失ってしまう。レーニン追悼当時としてもいささか古い。記憶に残りにくい曲。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:映画音楽「スターリングラードの戦い」,○作曲家指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(CLASSIC EDITIONS)ほんとにこの曲なのかな。あまりにショスタコっぽい。最初はかなり陳腐でうんざりしたが、戦闘的なリズムの交錯など結構かっこいいし、最後、冒頭旋律が帰ってきたときなど感動ものだ。ハチャトゥリアンは当たり外れが多い作曲家だが、これはしっかりした叙事詩になっていていい。最初は「やっぱ映画音楽だな」という感じだが、最後はそういう音楽だということを忘れてしまう。いいもの聞かせて貰いました。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:仮面舞踏会組曲,ストコフスキ指揮ニューヨーク・フィル(CALA/COLUMBIA,SONY)1947/11/3,17・CD,,イケイケの派手さがあるものの浮き立つリズム感はなく、また穏やかな曲については今一つ深みが無く感じる。もちろん短く伸び縮みする解釈は健在で、曲の起伏を強調するやり方には一理あるが、ストコの起伏の付け方はどこか醒めていて、これもまた一種の表現主義と思わせるところがある。その証拠というか、オケの音が一様に明るく金属質で耳にきつい。このNYPでもフィラデルフィアの録音同様のことが言える。速い舞曲の勢いは買えるがどうにも曲自体の包蔵する魅力以上のものを提供できているかといえば疑問。それ以上の解釈を加えているのに、むしろマイナスしているような感触。無印。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
ハチャトゥリアン:歌劇「ガヤネー」〜レズキンカ,○ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(SCC:CD-R)1965/6/21live,,ハチャトゥリアンの舞曲のかもす「しつこさ」はまお氏の仮面舞踏会で周知のことと思うが、このボロディン的なアンコールピースは対位法的な書法が素晴らしくかっこよく、ストコ向きである。とはいえもっと引き締まったオケがやるともっとかっこいいが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ハチャトウリアン:歌劇「ガヤネー」より剣の舞(ピアノ編曲),○作曲家(P)(supraphon)1950/4/27プラハ・CD,,おそらく新発見音源だと思う。民謡民謡したリズム取りはなく直線的で、プロピアニストではない作曲家らしいテンポ取りリズム切れの甘さがなんとなく感じられる。面白い!というものではないが、資料的価値はあるだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ハチャトゥリアン:喜びのオード,作曲家指揮ソヴィエト国立放送交響楽団、合唱団他、オブラツオーワ(Msp)(RUSSIAN DISC)1973/10/15LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:劇音楽「仮面舞踏会」組曲,ストコフスキ指揮NYP(artone他)1947・CD,,圧倒的迫力とキレキレのリズム、オケがニューヨーク・フィルでセッション録音だとここまでやれるのか、というストコフスキー全盛期を聴ける録音。むろんゆっくりめの曲よりイケイケの曲のほうがストコフスキの芸を味わうによろしいわけで、フィギュアスケートに使われたことで圧倒的人気を得たワルツなどシニカルな響きを伴うメロディを、オケをドライヴしまくって分厚く聴かせてくる。ハチャトゥリアンでもガイーヌよりも使えるメロディが多く、カバレフスキー的というかプロコフィエフとは違った親近感を感じさせる、ライトクラシックスレスレのところを狙ってきて、しかしそれはスレスレなんであって、ライトクラシックまんまではない。モノラルの古い音だがストコフスキーの力量を確かめられる集中力高い演奏。この曲はコンサートピースとして五曲からの組曲でしか演奏されない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ハチャトゥリアン:劇付随音楽「仮面舞踏会」組曲,○サモスード指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(Arlecchino)1953・CDやっぱりいい曲です。録音が悪くしかも怪しいが(曲によって録音状態が違う)、旋律がとにかくいい。ハチャの憂愁をたっぷり味わえる。サモスードの演奏は出だしがやや雑。大味なところがあるが、聴き進むにつれ肩を揺らしている自分に気付く。曲の良さをわかっている人の演奏だ。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:劇付随音楽「仮面舞踏会」組曲,◎作曲家指揮プラハ放送交響楽団(supraphon)いい曲、いい演奏だ。時代錯誤なところがいい。ラフマニノフの舞踏曲にショスタコーヴィチのジャズ風作品をかけあわせたような音楽。とても聞きやすいし、何より疾走する楽章〜冒頭のワルツ(かっこいいっ!凄くいい曲!)やマズルカ(懐かしい感じの曲、舞踏の時代を懐古するような曲)、最後のギャロップ(すさまじい律動の応酬、運動会にピッタリ!ガイーヌの剣の舞にちょっと似ている)〜の垢抜けたあっけらかんとしたところがいい。わかりやすくて何が悪い、体制迎合の何が悪い!そんな感じに聞こえるところがまた泣かせる。にしてもチェコの音楽水準って高かったんですね。。何この弦!何この管!アンサンブルの粋を見せる分厚いオケがすばらしいのだ。統率する作曲家の腕もあるかもしれないが、聞いて損はしませんのでお勧め(この盤がなければ新しい演奏で聞いてください)。但し、ここに新味を求めてはいけません!和声は何十年も前のものです(ラフマニノフのシンフォニックダンス参照)。楽器の用法もてんで新奇ではありません。でも、聞いてみてください!古きよき時代を思いながら。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:劇付随音楽「仮面舞踏会」組曲,○作曲家指揮モスクワ放送交響楽団(RUSSIAN DISC)1969ハデハデ。どハデな演奏だ。オケも豪放磊落で、弦は気合に満ちた走句の数々を繰り出してくる。しっとり聞かせるところは感情込めてオーバーに弾くし、舞踏音楽(この曲のメインですね)ではケレン味たっぷりにうらぶれた旋律を聞かせる。前にも書いたがこの曲の舞踏音楽にはショスタコのジャズ組曲のような趣がふんだんにあり、意外と都会派なのだな、と思わせる。他の自演記録と比べてそんなに良くはないのだが、まあ、面白いです。かなり旋律的な曲の集合体なので、聴きすぎると完全に飽きてしまいます。ご注意を。ハチャ棒巧い。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:劇付随音楽「仮面舞踏会」組曲,コンドラシン指揮RCAビクター交響楽団(RCA)1958/10/30古風だが愉快で楽しい楽曲である。ワルツ、夜想曲、マズルカ、ロマンス、ギャロップの5曲からなるが、この演奏で聞くと偶数曲番の緩徐楽章はあまり魅力的でない。こういうしっとりと「歌わせる」曲にかんしては余り得意でなかったコンドラシン。比較的若い頃の録音であり、ひときわ感情を排した演奏スタイルを持っていたせいもあろう。奇数曲番も感情的にならず、まるでラフマニノフのシンフォニック・ダンスを録音したときのスタイルと同様、懐かしい響きのする楽曲なのに、敢えてそんな感傷性を出さないようにして音楽自体に語らせようとする志向が顕著である。はつらつとした運動性は認めるが、もう少し遊びが欲しい。オケも少し技術的にきつい様子。そういった演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:劇付随音楽「道化師」組曲,コンドラシン指揮RCAビクター交響楽団(RCA)1958/10/30運動会に貢献した作曲家ハチャトゥリアン。とりわけ「道化師のギャロップ」はガヤネーの「剣の舞」と並んでポピュラーな楽曲だ。社会主義リアリズムの優等生と言われたハチャトゥリアン。この至極わかりやすい組曲を聴いていると、そうだろうなあ、という感じを強く持つ。プロコフィエフやショスタコーヴィチといったあたりの作曲家と共通する部分もあるが、表面的な部分だけであり、前者はウラに何かしらの考えがあることを感じさせるのに対して、ハチャトゥリアンは純粋にこの路線こそ自分の道と思い込んで作っている感じがする。この録音もオケがやや弱い。楽曲の魅力は十分に伝わってくる演奏だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:交響曲第1番,ガウク指揮モスクワ放送交響楽団(RUSSIAN DISC/MELODIYA他)1959・CD やっとこの曲がわかった!ガウクの解釈がわかりやすいせいだろう。1楽章の叙情的な旋律の感傷性だけでもうこの曲許す。フレンニコフ以上ショスタコ未満、といったところか。基本的に民族楽派の主題を用いながらもハーモニーやリズム、打楽器の用法に創意が組み込まれ、かなり洗練された音楽に聞こえるものとなっている。ショスタコほどの個性は無いが(とくにこの曲はハチャの中では個性がわりあい薄いと思う)晩年のラフマニノフくらいの才能は感じる。とにかく42分は長いのだが・・・とくに1楽章冒頭の「ツカミ」の部分があまりに晦渋なため長らくこの曲を聞く気が起きなかったのだが・・・ガウクの技で救われているか。録音はガウクにしては良い。ただ、ガウク独特のしまらなさのようなものが感じられる部分も無いわけではないが。1楽章18分がいちばんききどころ。2楽章12分3楽章11分とあきらかに尻すぼみ(内容的にもそう)。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:交響曲第2番,○作曲家指揮ソヴィエト国立交響楽団(russian disc)1977live・CDそれほど特徴的な旋律も個性的なハーモニーも無い曲なのだが、打楽器金管大爆発の派手な音響と民族情緒溢れる抒情的なパッセージには一部の人を熱狂させるものが確かにある。だが、なんでこの曲をウィーン・フィルとやったのだろう・・・。録音もハスキーだし派手さも中途半端で曲の魅力を正しく引き出したものとは言えない。弦楽器の艶な音色も不要な野蛮音楽だし、そもそも響きにちっともウィーンらしさがない。録音のせいだろうか。高い機能性は感じるが音楽としてのプラスアルファが無い。どうにも腑に落ちない気分で次にソヴィエト録音を聴いてはたと膝を打った。まるでぴったりしっくりくるのである。この曲はロシアオケを想定して書かれているのだ、あきらかに。派手な音響はロシアオケの豪放磊落なひびきを念頭にかかれたのだ。しかもここではスヴェトラーノフの育てた最もロシアロシアしたオケが使われているからさらに聴き易い。金管のひびき、木管の音色、弦楽器のポジティブな表現、全てが国民楽派の音楽を奏でるために必要なものを備えている。だからといってハチャがショスタコに並ぶソヴィエトの偉大な作曲家であると言うことは個人的好みから口が裂けても言えないが、アルメニアの国民性をクラシカル・ミュージックの語法の中で昇華させてみた、といったかんじの音楽、独特の旋律や面白いリズムに遊ぶことはできる、後者なら。ライヴならではの熱気は終楽章ではじける。この終楽章はちょっと面白い音楽で、比喩するならヴォーン・ウィリアムズ、独特の半音階的な動きを伴うスペクタクルな音楽に、後期シベリウス的な楽器法を施している。弦楽器のガシガシ刻む特徴的なリズムの上に朗々とブラスが歌うあたりはシベ5あたりの終楽章を思わせる。パワフルなソビ響の本領発揮である。15年をへて地につき円熟した作曲家の棒が冴え渡る。4楽章は最後に1楽章冒頭の暗い音楽を回想し、冒頭同様に印象的な鐘の音が鳴り響く。いささか骨張った音楽だが、スキモノはぴんとくるだろう。後者のみ○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:交響曲第2番,○作曲家指揮ナショナル・フィル(COLOSSEUM)1953初版・LP,,,カッコいいなあー。でもロシアオケには違いないんだが正体不明だ。録音のクリアさのせいもあるが美しい透明感ある音で、ホルンあたりはイギリスオケみたいに聞こえる。アクが際立ってこないのですっきり聞き通せる。最初のドゥワージャージャージャージャーンから好悪をわかつロシアンバーバリズムだが所々に繊細な響きがあらわれ様々な同時代作品・・・ショスタコだけではなくプロコをもっとあく抜きしたような平明な表現からRVWの交響曲やホルストを彷彿とさせる清澄な響きの連続、20世紀交響曲好きにはわくわくさせられるような感じがある。いろいろな表情が万華鏡のように現れ人好きするものばかりではないが(随分とわかりやすいほうだが)三楽章の怒りの日の変容あたりからシベリウスをモダナイズしたような才気溢れるフィナーレの壮麗な盛り上がりにいたるまでの見事な大作ぶりったらない。指揮がまた引き締まって上手いのである。むろん弛緩はなくもないがオケの気合いはそうとうなもの。盤面が死んでいるので最高評価はやめておくがまずもって飽きない見事な大作なので、ミャスコフスキーに手を伸ばすならまずこちらから聞きましょう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
ハチャトゥリアン:交響曲第2番,作曲家指揮ウィーン・フィル(DECCA)1962/3・CD ソヴィエト国立盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:交響曲第3番「交響詩曲」,○コンドラシン指揮モスクワ・フィル、M.グロードベルグ(Org)他(MELODIYA他)1965,,一回CD化している。LPでは音揺れや突如モノラルになったりなど(曲の規模からしてチャンネルの切替がうまくいかないのは仕方無いが)少し聞きづらい。ステレオであるがゆえにかなり派手に聞こえるが、ブラス陣はおしなべて巧く耳が変になることはない(痛くなることはある)。ひたすら高らかに凱歌をかなでるブラス陣に対して非常に抒情的な(しかも古臭くない)旋律で魅了するのが弦楽セクション。弦にかんしてはモスクワ・フィルの実力が発揮されている、と言うに留めておく。だがムラヴィンスキーの初演盤に聞かれるような箱にきっちり収まった音楽にはならず奔放さが感じられるのはコンドラシンとしては意外で、凝縮力も録音のせいかいい方に開放されておりちょっと聞きそれとわからない感もある。とにかくこの曲はハチャによく見られる赤銅色の「焼き付き」がなく、派手でもスマートで聞きやすい入門用の楽曲とすら言えるだろう。オルガンが通奏する半音階的なうねうねした動きにハチャの悪所が出ているとも言えそうだが、そちらに余り傾聴しなくてもすぐわかりやすいセクションが動き出すので問題無し。盤としては○程度か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ハチャトゥリアン:交響曲第3番「交響詩曲」,○ストコフスキ指揮シカゴ交響楽団(DA:CDーR)1968/2/15LIVE,,アメリカのブラスは最強なのでファンファーレは鼓膜が破れる。金属的な強いステレオ録音で耳が辛いくらい派手な打音をぶちかますストコのやり方は苦笑しつつも正しい!とうなづかされる。指揮者オケ共にある特性としてどうしても民族色はなくなってしまうので、派手なだけのスペクタクルになっているのは仕方ないところだがそもそもそういう意図の即物的な曲なのだからこれは正解だ。ストコにしてはアーティキュレーションもしっかりつけられている。ただ凄絶な音の饗宴を楽しみましょう。史上最凶の演奏。オルガンまで入るとクラシックというよりプログレだ。民族音階もこの中ではまるで呪術的で、こりゃEL&Pです。ヴラヴォからファンファーレ付の指揮者のリコールまで収録。ショスタコの組曲に交響曲のあとこれを持ってこれるなんてシカゴだけ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ハチャトゥリアン:交響曲第3番「交響詩曲」,○ムラヴィンスキー指揮ソヴィエト国立交響楽団(scora)1947/12LIVE・CD初演記録と推定されるとのこと。とにかくハデハデでけたたましくやかましい。ペット何本あるのかわからないくらいやかましい。オルガンが入ってくるとちょっとこれはクラシカル・ミュージックではない気がしてくる。これはプログレの世界だ。独特の民謡音階がまたちょっと宇宙的なレトロ怪奇な味をくわえ、ハチャの特異性を強調する。たしかにこの作曲家にはユニークな才能があったのだ。ペット何本あるかと調べてみたら15本だった。やかましいはずだ。録音はかなりハスキーで浅い。ペロペロになっているところもあるが、音量がバカでかすぎて録音がつぶれたのだろう。スターリンの影が消え文化に一気に現代化の波が押し寄せたこのころ、温厚なおじいちゃんになってしまったプロコフィエフのお鉢を継ぐこのような曲を書いたハチャに感動。これはまさしくプロコフィエフ・バーバリズムの正統な継承者としての音楽であり、ロシア音楽史上希に見るはっちゃけた交響曲(しかも単一楽章)として後々まで語り継がれることだろう。なんて今言っても遅いか。第二次大戦戦勝記念日のためにかかれたファンファーレを主軸とした交響詩的作品です。ムラヴィンスキーもオケが違うとハデだなー。録音かなりマイナスで○。モノラル、拍手カット(余韻までカット。ロシアではよくあること)。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
ハチャトゥリアン:祝杯,○作曲家(歌・P)(supraphon)1950/4/27プラハ・CD,,三曲連続で録音されたもののようである。おそらく未発売ではないか。エレヴァンの春同様、ピアノはまあ聴ける、歌は達者。そんなところか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
ハチャトゥリアン:組曲「仮面舞踏会」,○作曲家指揮プラハ放送交響楽団(supraphon)1955/9/21-22・CD,,LPで出ていたものと同じと思われる。やや演奏的には甘く楽器によっても出来不出来があるようにおもう。総じて管楽ソロは素晴らしい。ワルツ、夜想曲、マズルカ、ロマンス、ギャロップ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
http://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/naha.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/713.html#c1
3. 中川隆[-16083] koaQ7Jey 2021年10月07日 08:22:56 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[15]
バルトーク:アレグロ・バルバロ,◎作曲家(P)(HMV/HUNGAROTON)1929/11ブダペスト・CD,,これが妙に録音がいい。びっくりするくらい音がいい。ロールにしては特有のひずみがないので、一応ちゃんとした録音なのだろうが・・・特有のよたるようなリズム感は民族性に基づくものであり下手なわけではない。模範的名演と言えようか、他民族には真似しにくい表現だろう。バーバリズムの流行に沿ったものとしてはいささか理知的にすぎ、ドビュッシーの影響下とはもはや言えない過激な力感に満ちた作品である。バルトークの確かに一つの特徴を決定付けた作品とは言えるだろう。モダンで洗練された野人。◎。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バルトーク:アレグロ・バルバロ,作曲家(P)(HUNGAROTON)1935/1/31ヒルバーサム・CD,,シリンダ録音らしく極端に音が悪い。だが貴重な記録としては聞ける。無印。,"",-----,,,,,,,,,,,,
バルトーク:ヴァイオリンと管弦楽のためのラプソディ第1番,○スターン(Vn)モントゥ指揮ボストン交響楽団?(DA:CD-R)1961/7/23live,,原曲はピアノ伴奏、ここまで豊穣なオケを背景にするとヴァイオリンが埋没し(スターンの安定したニュートラルな音・表現ならなおさらだ)協奏曲風の響きが失われ一つの管弦楽曲にきこえてしまう。ただ、魅力的な演奏になっていることも確かで、キョンファ・チョン以降日本でもよく聴かれるようになったこの曲の、民族的な部分を殊更に強調しない別の魅力を聴かせてくれる(管弦楽が余りに出すぎて違和感すら感じたのでいじっているのかも)。モントゥのさりげない捌きの技が光る。スターンは血を感じさせないがオケと音色的な統一感がとれていて聴きやすい。録音はいまいち。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:ヴァイオリンのための第一ラプソディ,◎シゲティ(Vn)作曲家(P)(COLUMBIA/HUNGAROTON)1940/5/2NY・CD,,ワシントン図書館のライヴと録音状態が違うだけだがこちらのほうが聞きやすいか。詳しくはあちらの寸評を。シゲティは凄い。◎。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バルトーク:ヴァイオリンのための第一ラプソディ,◎シゲティ(Vn)作曲家(P)(HUNGAROTON他)1940/4/13ワシントン図書館live・CD,,有名なライヴで録音状態もよく、シゲティ全盛期の素晴らしい音を聞くことができる。この人がかつて非常に感傷的な音を、非常に正確に表現することのできた稀有のヴァイオリニストであったことがわかる。後年は技術が衰え前者だけの演奏家になってしまった感もあるが、同年代には余りいなかった演奏家だろうことが改めて伺える。前時代のロマンチシズムと現代の技術力がここで融合していたのである。表現の正確さが音楽を殺していない、模範的な表現。バルトークは民族性がかなり強い作曲家だがそれ以上に民族的表現に長けた演奏家でもある。リズム表現の独特さは理解できていないと単なる下手に聴こえてしまう。独特のずらしがある。しかしシゲティは意に介さない。シゲティ自身もまたよく理解して表現をあわせているからである。作曲家は旧いライヴ録音で聴かせた土臭い演奏とは違い、ここでアメリカナイズされたと言ったほうがいいのか、こんにちの現代的なイメージとしてのバルトークを表現している。この演奏は凄い。この曲が改めて難しいとも感じた。理解していないと表現にならない、譜面づらのやさしさは見せ掛けだ。シゲティの装飾音の細部まで完璧に適切な音にしているさまは凄い。◎。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バルトーク:ヴァイオリンのための第一ラプソディ,ザスレッキ(Vn)作曲家(P)(HUNGAROTON)1939/11/4live・CD,,非常に状態が悪い。シリンダ録音らしく何度も途切れ独特のノイズが耳を打つ。ザスレッキはかなり前時代的な大見得を切るかっこうの演奏振りで、ちょっと違和感を覚えるが技術的にはまあまあちゃんとしているようだ。ピアノはよく聞こえない。前説や拍手がつき、ほんとのライヴのようだ。無印。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バルトーク:ヴィオラ協奏曲,◎プリムローズ(Va)ヨッフム指揮バイエルン放送交響楽団(green HILL)live・CD,,非常に音はいいし演奏自体も軽さすら感じさせるまでにこなれていて美しい。バルトークの情念的な部分の殆ど無い、ウォルトンのような表現というか、ウォルトンが真似たとも言えそうだが、ヴァイオリン的な音でそつなくこなすプリムローズだけに(そういう演奏ばかりではないがココではそのとおりである)尚更聴きやすく娯楽性が高い。ヨッフムがまたプリムローズと組み合ってありえないくらいの融合ぶりを発揮して、伴奏指揮者として巧い。◎。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バルトーク:コントラスト,○ギレー(Vn)他(concerthall),,クラリネットとヴァイオリンとピアノという編成のジャジーさをバルトークならではの抽象化作業によって硬質の楽曲に作り変えたバトルモード全開(コントラストというほどアンサンブルとしての衝突はせず単におのおのの主張が陳列されるようなところがあるけど)の曲。ピアノの粒だった音とクラのベニー・グッドマンをクラシカルにしたような骨太さにギレーの精力的な音表現は往年のアメリカ楽壇の力強さを表現している。とはいえ、楽曲的に甘さを捨てているわけではなく少なくとも弦楽四重奏曲のようなものに比べればぜんぜん叙情的な曲で、ストラヴィンスキー的ともいえ、ちゃんと弾けるソリストが三人集まってやってる演奏なら十分に楽しめる。東欧音楽が極端に苦手な私も。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:ソナチネ,ディッタ・バルトーク(P)(VIBRATO)1944ブルックリン博物館live,,大仰な打鍵から壊れかけのオルゴールのようなフランスの匂いもする美しい響き、まさにソナチネといった練習曲風の民族リズムの軽やかな動き、そのロンド的な交錯を楽しく聴いていく。こういうリズムは他所の人にはなかなか取りづらいのかもしれない。客観的に整えず、指の走るままにえんじる一方個性的な音響の羅列も目立ち、音数を詰め込まないバルトークにちょっとサティ的なものを感じることがあるが、この曲は音数は多いほうではあろう。録音が悪すぎてなかなかつらいが、冒頭の「ヴァイオリンとピアノのための第一ラプソディ」みたいな始まりは指が弱くよたる感じがするものの、その後はまずまずではないか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:ソナティナ,○作曲家(p-roll)(HUNGAROTON)1920?・CD,,ウィンダムヒルみたいな出だしからドビュッシーの影響を受けていた初期に通じるリリシズムが印象的。才気と香気のバランスがとれて秀逸な小品。ヴァイオリンのラプソディ第1番と似た粗野で民族的なリズムにのっていることすら忘れさせるような調子だが、短い。作曲家はブレなく、リズムのロール撚れはあるものの自身の確固とした表現をしていることはわかる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:ディヴェルティメント,デゾルミエール指揮ORTF(ina/SLS)1950/7/18シャンゼリゼlive・CD,,音の汚れも厭わずひたすら強く発音させ、突き進む。起伏というかメリハリがないようにも感じたがモノラルで立体感のない録音のせいかもしれない。ライブなりの乱れも含めて気を煽るところはありブラヴォがとぶ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:バレエ音楽「中国の不思議な役人」,"",ライナー指揮NBC交響楽団(WHRA)1946/12/15・CD,,この録音では12分しかないが喧しくて十分だ(暴論)。近代オケの機能をフル活用してハルサイを「正しく」構築し直した結果、あまりに目が詰まった情報量の多い音楽となった感じ。洗練された技巧よりもドビュッシーからストラヴィンスキー、そこより己の晩年の作風に至るまでの過渡的な空気も感じる。つまり私は苦手。演奏はまさにこのオケの機能性を存分に発揮したかんじ。作曲家の親友であったライナーは同曲によくあるような機械的なさばきをせず力感あふれる「マスで押し切る」表現をとるが、それがちょっと裏目に出ているか。これはしかし青髭もそうだがテキスト(舞台)無しでは細かい仕掛けまで楽しむのは困難ではないか。バレエ音楽(ないし組曲)として企画されたものではないがここにはバレエ音楽と表記されているのに従った。ライナーのものはNYPとのライヴもある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バルトーク:バレエ音楽「中国の不思議な役人」,○プレヴィターリ指揮ロイヤル・フィル(HMV,EMI)LP,,引き締めるところは引き締め、派手に鳴らすところは派手にガシャンガシャン鳴らすプレヴィターリの音楽はこの曲によくあっている。野蛮主義的な側面のほうに耳をそそられる演奏で、ただ書法を抉り出すたぐいの演奏ではなくあくまで舞台演劇的なわかりやすさが通底しており、鋭いエッジの立った表現にも節度があるのはこの人らしいところだ。耳が痛くなった。もっと柔らかい演奏のほうが好きだけど、こういう音楽なのだろう、○。,-----,,,,,,,,,,,,
バルトーク:バレエ組曲「かかし王子」,○ブール指揮南西ドイツ放送交響楽団(DISCLOSURE:CD-R)LIVE無茶苦茶綺麗な曲。ドビュッシーの多大な影響下にありながらワグナーふうのどっしりしたたたずまいを持ち、民族的な主題も包含した非常に演奏効果の高い曲である。緻密で硬質な響きには後年の洗練された作風が既に予告されているし、何より後年の気難しさがないからとても親しみ易い。一番近いのはルーセルのバレエ音楽か。中国風のかかし王子の音形も無邪気な範囲からはみださないよう配慮が行き届いている。節度は時としてつまらなさの裏返しとなるが、ここではちょうど良い。ブールの気品ある棒も冴えている。録音に少し難があるので○にしておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:バレエ組曲「中国の不思議な役人」,○ドラティ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(RCO)1958/1/30放送LIVEシャープで鋭い切り口の演奏。録音が悪いがさぞ目の覚めるような演奏だったことだろう。こんな不協和音だらけでリズムバシバシ・バーバリズムで、それでも娯楽的な感興をあたえるのだからじつによくできた演奏である。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:バレエ組曲「中国の不思議な役人」,○マルティノン指揮シカゴ交響楽団(RCA他)1967/4/26・CD,,マルティノンの演奏には覇気漲る演奏とまったく無い演奏があるがこれは前者。世界屈指の技巧的オケを相手にギリギリ締め上げてバルトークの音響を余すところなく引き出しており、録音的にも優秀なステレオで、万人に勧められる。オケコンなど耳馴染み良い曲ではないが室内楽ほど頭でっかちの精緻さも際立たず、騒音主義やオリエンタリズムを計算し直して正確なスコアに起こしたような音楽で、主題はどこへ行ったというウイットの無さは気になる人は気になるだろうが、ややもすると煩いだけの平板な印象になるところ、めくるめく管弦楽の色彩変化を変な色を加えず明瞭に示していて、抽象的に仕上げてなお魅力的であり、同じ盤のヴァレーズとの内容の質の落差がはからずも明確になっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:バレエ組曲「中国の不思議な役人」,ドラティ指揮読売日響(tobu)1982/03/13live・CD,,モノトーンの破裂的演奏。雑味はあるし鈍重さも感じるが、同オケの特にソロの上手さにドラティのオケコントロールの熟達した技が聞きどころ。決してバラケはしない。フライング気味のブラヴォほどではない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:バレエ組曲「中国の不思議な役人」,ブリュック指揮ORTF(ina)1960/3/8live,,先鋭な大曲で力量を発揮するテクニシャンのイメージそのままで、マルティノンのように明快でいながらリズム処理には娯楽性がやどり、カラフルなバルトークという、ロザンタールがやりそうな芸風で魅せている。ロザンタールの芸風よりも前へ前へ突き進む感があるが強引さはない。暗く蠢くような音響表現は一切無いのでそれを野蛮主義的にどうなのかという話はあるかもしれないが、ストラヴィンスキー臭くは少なくともなく、書法的に偶然トリルを多用するといったところからかもしれないがむしろスクリアビンの肯定的な管弦楽曲に似たものを志向していると感じる。この諧謔的な曲でフランスでブラヴォが飛ぶのも(そんなに飛ばないが)珍しい。この一夜は特別な演奏会だったようである。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:ピアノと管弦楽のためのラプソディop.1,フォルデス(P)ロザンタール指揮ORTF(ina配信)1965/12/16放送live,,バルトークは長らくこの曲しか聴けなかった。フォルデスで、デゾルミエール伴奏のLPだったか(CD化された)。ロシア国民楽派にハマっていただけあって、チャイコフスキーにスクリアビンを少し振りかけて、長々しく単一楽章のロマン派協奏曲に仕立てた、といった今ならウンザリするような曲に親しみを抱いていた。いま聴くとやはり作品番号1だけあって、ロザンタールだからかもしれないが色彩感はあり特に末尾はドビュッシー的な繊細な響きが光りはするものの、殆ど先輩方の協奏作品のバリエーションであり、ラフマニノフですらこれより新しく、グラズノフくらいといったところか。グラズノフは堅固に簡単にまとめているが、バルトークらしさは構造へのこだわり、特に抽象化された民族リズムを上手く溶け込ませているところなど、ドロドロしたところがなく無駄は少ない。楽想は少ないが、フォルデスは師の作品だけあってそのわざと力に言うまでもなく(ここでも盛大なブラヴォがきかれ、フランスでこんな民族協奏曲で盛り上がるのはフォルデスの評価の高さを傍証するものである)、ロザンタールの伴奏スキルの高さもそうとうで、曲がけして協奏曲を名乗らず狂詩曲であることでもわかるとおりその管弦楽の垢抜けた明るさが情緒的な明るさに透明感をあたえ聴きやすくしている。雑味はあるし録音もあまり良い方ではないものの、かなりの喝采、と再度付け加えておこう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:ピアノと管弦楽のための狂詩曲op.1〜5つの抜粋,
作曲家(P)ドホナーニ指揮ハンガリー王立歌劇場管弦楽団(HUNGAROTON)1939/4/30live・CD
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音が悪く抜粋であるため確かめるものは余り無いのだが、ドホナーニ父との迫力あるコンサートセッションが聞ける意味では価値はあるか。作曲家もバリバリ弾く。ロシア国民楽派の影響色濃いこの曲が、やっぱりロシア国民楽派の影響下の曲だなあと思わせる演奏でもある。
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バルトーク:ピアノのための組曲,ディッタ・バルトーク(P)(VIBRATO)1944ブルックリン博物館live,,バルトーク生前の演奏であり録音はきわめて悪いが特筆しておくべきものだろう。VIBRATOはバルビローリのオケコンの埋め合わせのようにこのコンサート記録を入れているが既にフンガロトンかどこかから出ていたかもしれない。奥さんの演奏だからといって、もちろんミクロコスモスは有名な録音だが、バルトークの意図したとおりにやっているかどうかはわからない。1曲目はバルトークの野蛮主義と世俗的な雰囲気のあいまった個人的に一番好きな曲だが、これは自作自演もあるが、なかなかエッジがきいていて小粒な迫力はある。ただ指がそれほど強いわけではなく、通して聴いているとあれっ、と思うところもあるし、専門ピアニストとしてはそれほど上手いとは言えないだろう。歴史的記録としてどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:ピアノ協奏曲第1番,ロロフ(P)クリュイタンス指揮BPO(memories他)1952/9/5ベルリンlive・CD,,クリュイタンス初ベルリン・フィルのライヴ記録で音はこもり気味。それを押しても暴力的なバルトークの野蛮主義が冒頭から破裂し、ナチはもういないんだとばかりにバリバリ弾きまくるロロフ。しかしクリュイタンスは比較的透明感ある音を作り、少しヤワに聴こえる。もっとも民族的表現の昇華の過程でラヴェル的なところも結果として盛り込まれたバルトークはフランスのオケと相性がいいと感じることがある。クリュイタンスは響きの理知的な部分で訴える。まだ雑多な聞き心地のするバルトーク、どうもとっつきづらい一番ではあるが、ドキュメント以上の演奏にはなっている。が、バルトーク好き以外にはすすめない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:ピアノ協奏曲第2番(1938),◎リヒテル(P) スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(ASdisc他)1968/8ライヴリヒテルの透明感ある繊細な音色がバルトークの底に在る清々しいドビュッシズムを浮き彫りにして終始心地よく聞くことができる。これがライヴとは・・・。リヒテルにはいつもながら唖然とさせられる。この曲はまずはペット・ソロとティンパニが巧くなければお話にならないが(東欧の音楽って何故いつもブラスセクションの高音部を突出してえがくのだろうか?)、この演奏のバックは納得の表現力と熱意の篭った非常に腕の達者な演奏家のものだ。明るく外向的な曲の特性は、スヴェトラーノフの澄んだ抒情と尖鋭なひびきにマッチしており、これ以上のバックは望むべくも無いだろう。こういう演奏にはじめにふれておけば、この曲にもっと親しめたかも、と思う。余り悪口はいいたくないがDGのアンダ盤はバック・オケが鈍く、同曲の掛け合い的な面白味が失われグズグズになっており、独奏者含めけして調子の良い演奏とはいえないとおもう。泰流社刊グリフィス著「バルトーク」では冒頭のペットはストラヴィンスキー「火の鳥」終曲から「あつかましくも」とられたものとされているが、描く対象が異なる為かとりたてて耳につくことはない。ラヴェルの協奏曲を意識しているといわれ、1番の濁った奔放さが、より流麗な筆致で昇華されたさまは特に二楽章の精妙な音楽で堪能できる。バルトークお得意の「夜の音楽」が、聞きごたえのある断固たる音列の中に遥かに聞こえて来る。コダーイ張りの民謡主題が全く独自の新しいテクスチュアのなかにどっしりと腰を据え、あるいはがしがしと鞭を打つ。決して名曲揃いとはいえないバルトーク全作品中の最も良質な部分をきくことが出来、30年代の代表作とされることもある。但し民謡に抵抗感を覚える向きは終楽章など生臭くこけおどし的と感じるかもしれない。非常に目の詰まった音楽をかくわりに全体構成が不思議と錯綜してしまうバルトーク、じつは私はあまり得意でないのだが、これは割と聴きやすいかもしれない。でも通常は3番のほうが名曲と感じるだろう。逆にバルトークをあくまで”アレグロ・バルバロの作曲家”と考える向きは、この悪魔的な終楽章にカタルシスを得られるかもしれない。もっともこの演奏では終わり方に仰々しさが足りず、盛大な拍手も出だしが戸惑い気味のように聞こえた。でもそこまでの美しさと生き生きとした表現でまずは満点を出したい。この演奏は今は正規盤でもでていると思う。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:ピアノ協奏曲第2番〜5つの抜粋,
作曲家(P)アンセルメ指揮ブダペスト交響楽団(HUNGAROTON/king)1938live・CD
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硝子を弾くように透明で硬質、しかし空疎なSP音質できくとバルトークの音楽はいっそう独特のものに聞こえてくる。初めてバルトークを聴いたとき、聴いたことの無い音楽だと思った。それは珍奇だから聴いたことが無いのではなく、まったく異なる惑星のポピュラー音楽を聴いたような感じだった。冷たいのに熱狂的。今でもその新鮮さはかわらず(すべての曲ではけして無いけれども)この曲にも、またバルトーク自身の「冷徹な熱狂」をもたらすピアニズムにしてもそうなのだが、「これだけしか聴けなくなるとき」というのが私にはある。ブツ切れの抜粋なので評価はできないし、雑音が大きくオケなどほとんど聴けない。バルトークは指がもつれているのかあの特有のリズム感を表現しているのかわからない箇所がわずかに聴かれる他は機械のように音楽を奏でている。そこに透明で硬質のSP音がいかにも不思議な雰囲気を盛り立てる。参考になる演奏ではあると思うし、バルトークの大規模楽曲の自演ライヴとして価値はあろう。音量の盛り上がらない終盤から終演後の司会挨拶まで入る。。",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番,○アントルモン(P)バーンスタイン指揮NYP(DA:CD-R)1967/1/21,,冒頭よりやたらと打鍵が柔らかく叙情的な流れを作り出そうとしているようだが曲がいくら平易とはいえ「バルトーク」なので鈍さのようなものを感じさせられざるを得ない。技術的にいささかの不安もないのに(この曲においてさえたいてい不安のある演奏が多い)物足りなさを感じる。バンスタは軽い旋律をメインに据えた薄い音楽を目しているという点でアントルモンと同じ傾向を示しており、個性は無い。旋律偏重・高音偏重という点ではいつものバンスタではあるのだが。綺麗なことは綺麗で、1,3楽章が2楽章と同じように美しく聴けるゆえ○にはしておくが、どうも腑に落ちなかった。篭った録音。,,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ",,-----,,,-----,,,-----,,,-----
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番,フォスター(p)コープランド指揮ボストン交響楽団(SLS)1965/4/9live,,後妻ディッタ夫人がアメリカ人相手に演奏し、数回でも稼ぐことができるよう最後まで頑張った作品である。ラプソディ以来ひさびさのロマン性が先に立ち打楽器的要素は少なく、独特の書法が簡素に(とくに和声的にはほとんど目立たず)忍び込まされ、戦前に流行った新古典主義ピアノ協奏曲のようなスカスカ感の否めない作品にはなったが、よく聴けば依然個性の刻印、熟達した管弦楽法の発露を聴き取ることはできるし、旋律やリズム要素には素直に一般に受け入れられそうなものがあり、全てのバルトークのピアノ協奏曲の中で最もアピールする要素を持っている(僅かに他者補筆あり)。簡素ということでこの演奏でも一楽章は冒頭よりピアニストが少ない音符に対して打鍵の強さを制御しづらいのか雑味が呼び込まれ、コープランドの指揮ということもあって全般に固さが目立つ。見通し良く響きに透明感は感じられ(録音はノイズ混じりのモノラルだがSLSではかなり良い方)、次第に噛み合ってきて、三楽章はソリストオケ共に高い技術を背景に純度を保ちつつ楽曲の要求する娯楽性もしっかり示してきており、力強いクライマックスで大喝采で終わる。ブラスの響きがアメリカっぽいのは作品に対して皮肉か(コープランドもあっけらかんとした表現をするのでシャーンドルがオーマンディのフィラデルフィア管弦楽団と録音したものとはまた違う印象がある)。ちなみに夫人は何度か録音しているというが、VSOとの衰えの目立つ録音以外知らない。何かの機会に一気に復刻されるとよいのだが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番,フランソワ(P)ジンマン指揮ORTF(ina配信)1969/10/19放送 live,,残響を極力使わない分、解像度が高く明晰ではあるが乾燥に過ぎるソリスト、ライブではコンディションが問題とされるが、ここでは2楽章は(いささか素っ気なくも)ウェット過ぎる原曲を透徹したまなざしで哲学的に仕上げて、オケの性向ともマッチして聴きどころにはなっているが、両端楽章は技術的なムラが顔を出し(ヘタなんではなく手を抜いたり二日酔いだったり色々)、オケはオケで大味で、ちゃんと付けてはいるがどこかオシゴト的。3楽章はスポーツ的感覚でスピーディーに仕上げて、暖かい拍手で終わりはするが、フランソワ嫌いには「内容空疎で上っ面鍵盤を鳴らしているだけ」に聴こえると思う。バルトークが聴衆(つまり奥さんの生活)のために敢えて平易に書いた作品で、数学的な技巧が影を潜めているぶん簡素に過ぎ、解釈上のロマンティックな要素が肝要となる。ここにはそれは無い。即興的と言うのも違うと思うくらい解釈は無い。弾けさえすれば自ずと出来上がるラヴェルをやるようにやっている。私はドビュッシーの幻想曲の酷さに比べれば余程良いと思うが、最晩年作から漂う(べきである)諦念を捉えられなかった。ついでに録音悪い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番,ヘルファー(P)マデルナ指揮モンテ・カルロ国立管弦楽団(SLS)1969/11モナコ(スタジオ),,極めて良いステレオ録音で拍手もノイズもないため何らかのレーベルの正規録音であると思われるがソースは知らない。私は初見。ヘルファーは2楽章では重なる音の強弱のコントロールが細かいパセージにおいてうまくいかず不協和的に聞こえてしまうところがあり、また録音が良すぎるせいなのだがマデルナの派手ではあるが大雑把でしまりのない統率が1楽章では音楽をバラバラに聞こえさせてしまう。ただ、ドイツ的な構築性といおうか、テンポの揺れはなく、マデルナらしくもない四角張った組み立て方がやや弛緩した印象を与えているだけかもしれない。響きのカラフルさや透明感、鋭さはフランス的でマデルナの個性よりオケの個性が出ており、同時にバルトークの源流たるドビュッシーの存在に想い馳せさせる。2楽章はバルトークの郷愁を灰汁抜きして私には聴きやすかった。3楽章は元々絶筆で未完成の楽章ではあるから、なおさら慣れない様子のマデルナ(協奏曲伴奏が不得意なのか?)には難しいような感もある。構成が今ひとつピンとこないようなところはあるが、ただ、ソリストともども全曲中もっとも没頭できる演奏になっている。全般異質な感じのバル3だった。指も強くて回るし技術的に余裕があるはずなのになんで音が濁るんだろう。。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番,リパッティ(p)ザッヒャー指揮南西ドイツ放送交響楽団(URANIA/TAHRA)1948/3(5?)/30放送live・CD,,TAHRAは五月としている。しょっぱなからオケがグダグダ・・・。最初イタリアのオケかと思った。録音も悪い(何とかしてくれハウリング音)。リパッティもイワユル落ち着き系の演奏振りで、私個人的にはもうちょっとスピード感が欲しい気がする。勢いが無く、音だけ綺麗に磨かれている、いかにも現代音楽演奏家の音楽に近い作り方がされている。1楽章イマイチ。,,2楽章は冒頭から美しく情感を込めて歌い上げられる。作曲家の白鳥の歌と言ってもいい清澄な悟りの音楽(望郷の音楽とも言われるが)、孤独でさみしげなリパッティの演奏ぶりもちょっと並ならぬ雰囲気がある。まだ作曲家が亡くなって3年しかたっていない。作曲家ゆかりの演奏家たちなだけに、ここは感傷を込めずにはいられなかったのだろう。一方繊細な響きがちょっとフランス風な感じもする。若い頃にドビュッシーの影響を強く受けたバルトークの本質の一端が引き出された形だ。中間部の明るい「目覚め」の音楽にもうちょっとテンポ的なコントラストを付けて欲しい気もしたが、そもそもそういう演奏解釈ではないのだろう。ここは落ち着いた音楽にてっしている。美感はそれなりに評価できる。プロコフィエフ的なくぐもりに落ち着く後半部も感情が入っている。冒頭部が蘇るところでのヴァイオリンの鋭い音色が美しい。,,3楽章。あいかわらず落ち着いた演奏ぶりに違和感。リパッティという俊敏そうな名前とは隔絶した遅速ぶりで、勘違いアマチュアピアニストなんて「もっと上手く弾けるわ」なんて思うかもしれない(しかし打鍵は正確確実で音質も純度が高く、危うさを感じさせるところが皆無なところにアマチュアとは全くレベルの違うものが確かに存在していることは言わずもがな)。オケも迫力に欠ける。打楽器系が弱いし木管ソロもつんのめりがち。オケは前へ行きたがっているのかもしれない。いずれ録音が悪すぎるので断言は避けるべきかもしれないが、強烈な個性を感じないことは確かだ。古典的なフーガが現れる場面などアンサンブルの面白さより響きの美しさを重視したような感じもする。どことなくタテの音楽ではなくヨコの音楽を志向している。最後の盛り上がり(絶筆部分前後)は録音がとらえきれてない。ぶちっと切れる。総じてム印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番(1945),△ニコラエワ(P)アノーソフ指揮ソヴィエト国営放送交響楽団(boheme)1956ばらつきがありお世辞にも巧いとはいえない演奏。スピードが遅く、一個一個フレーズを確かめるように進むやり方によって、曲の美質が損なわれている。ソリストもあまりのって弾いているとは思えない。強いて言えば2楽章中間部から3楽章にかけては比較的聴けるようになってきているが、ロジェストの親父さんアノーソフの指揮もプロコフィエフを振るときの集中力がほとんど発揮されていず、結果的に「流した」ような気がしてならない。あまりこういうことは言いたくないのだが、駄演だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番(1945),○ツェヒリン(P)ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(DEUTSCHE SCHALLPLATTEN,ETERNA)LP残響を抑えた弾き方が独特。1楽章はそれゆえ粒だった音が強調され面白い。ただあまり達者じゃないというか、遅めのノリでもつれるような発音がもどかしい。変にインテンポだ。バックもデュナーミクには面白みがあるがケーゲル独特の醒めた視点が感じられ煽情的な曲感を損ねている。ただソリスト共々3楽章は変化がつけられていて響きも充実している。オケに前向きのノリがないのが残念だが縦を重視した演奏ぶりはいかにもドイツ的でよい。ピアノも打鍵こそ弱いがしっかり仕上げている。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番(1945),○ディッタ・パーストリ・バルトーク(P)シェルイ指揮ウィーン交響楽団(MHS)LP,,夫人老年の演奏らしくかなり硬さが目立つ。指が堅いというか、しゃっちょこばったテンポがとくに一楽章では目立つ。ただ打鍵が凄く強く、かなり打楽器的な演奏を指向していることもわかる。細かい音符も一つとして逃さない。だから面白いといえば面白いのだ。未完のこの曲の最後の13小節を補筆した弟子シェルイの棒はすこぶる冴えていて、ソリストを圧倒すると言ったら言い過ぎかもしれないが、やんちゃなウィーン交響楽団を巧くドライヴしてスムーズでかつソリストの解釈との違和感を極力抑えた円熟したワザを見せている。2楽章が技巧的にも平易なせいかいちばん地に足のついた演奏になっていて、夫の望郷の念を、割合とドライにではあるが、美しく透明に描き出している。3楽章は聞き物。盛り上がる。スピードは期待できないし最後の追い込みの弱さが出てしまっているものの、私はアンダなどよりは余程興奮した。決してプロフェッショナルなピアニストとしての技は期待できない、でもバルトークが自分の死後異国に一人残されるディッタが食いっぱぐれないために演奏レパートリーとしてわざわざ平易に書いたこの作品、その思い入れを持って聞けばそれなりに感動はするだろう。録音はいい。ステレオ。シェルイの作品とのカップリング。おまけで○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番(1945),○ファルナディ(P)シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場o〜やはりハンガリー出身でバルトークの弟子、フバイ晩年の共演者としてアンサンブル・ピアノで名を挙げ、教職に就いて後50代で早世した女流ピアニスト。スタイルは力強く豪胆で、シャーンドルの快速軽妙とはやや趣を異にする。一面ヴィルトウオーソ的だ。シェルヒェンの意表を突く音造りが何といっても楽しめる。やはり「ウマい」指揮者だ。3楽章は秀逸。ミヨーを聞いているような分かりやすさがあり、飽きさせない。難点は2楽章、やや幻想味が足りない気がする。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番(1945),○フィッシャー(P)フリッチャイ指揮ベルリン放送交響楽団(TOE:CD-R)1956/3LIVE客観的で重く切れ味の鋭いフリッチャイは決してバルトークのようなスピードとテクニックで出来上がった音楽にはあっていないと思うのだが、意外といけたのが2楽章である。ソリストもフリッチャイの重さに共鳴しているようで、選び抜かれた破音の散文に渾身の力を込めている。異様な迫力がありたんなる望郷の歌に留まらない何か芸術的に凄いものを聞かされている思いがする。他の楽章は比較的遅いので娯楽性は落ちるが、フリッチャイ好きにはアピールするだろう。録音はあまりよくない。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番(1945),○ペナリオ(P)ゴルシュマン指揮セント・ルイス交響楽団(EMI)1953・CDバルトークのいちばんわかりやすい曲。この曲とプロコ3番を組み合わせたのはなかなか乙。この演奏は思ったよりも抒情的だ。無論バルトークならではのカラっとした打音はきちんと叩かれているが、望郷の念が篭っていると言われる静謐な2楽章などけっこう聞かせどころを踏まえている。この曲の他の演奏と比べてあまり派手なものはないが、十分楽しませてくれる。やや深みが足りない感もあるが、曲が単純だからそこまで求めるのは殺生だ。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番(1945),アンダ(P)フリッチャイ指揮RIAS響〜表現意欲の強い演奏。曲に慣れる前に聴くと好悪わかれてしまうだろう。バルトークの数多い弟子の中で最も著名なフリッチャイは、その情熱において日本で局所的に評価された指揮者だが、やはり少し「濃」過ぎるか。アンダも少し呂律が回らないようなところがある。一時期もてはやされたが今は余り人気のない盤です。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番(1945),シャーンドル(P)、◎オーマンディ指揮フィラデルフィアO(COLOMBIA/PEARL)/ギーレン指揮(VOX)/フィッシャー指揮ハンガリー国立O(SONY)CD〜柴田南雄氏の著作(「現代の作曲家」S33)でも取り上げられている、初演メンバーによるこの演奏。モノ時代の素晴らしいオーマンディが聞けますが,オケ以上にシャーンドルの存在感が圧倒的。超技巧派だが今ひとつメジャーでないこの人も、ことバルトークに関しては多数録音しています。ご存命です(確か)※。知る限り3つの録音があり、最近のものもぜんぜん衰えていないのにはびっくり。 有名なフィリップス盤(ギーレンとのステレオ録音、VOX廉価盤でCD化)はLP評で表層的に過ぎる*と酷評されたものですが、ストレートに弾き切るタイプ、往年のプロコフィエフやギレリスといったロシア系の鋼鉄技巧派ピアニストに通じるものもあり、そういった演奏を好む人間には至上の愉悦を感じさせてくれます。大袈裟な表情付けや重苦しさが似合わない類の曲ですから、ヴィルトウオーソ向けではないでしょう。リヒテルやフランソワなどには合わない。アメリカ風に垢抜けたシャーンドル*2の軽妙さとモノ末期の滴るようなフィラデルフィアの音がじつに見事に結晶したものです。2楽章のドビュッシー的な響も美しい。最新録音(1989ブダペスト、SONYclassical)フィッシャー指揮ハンガリー国立バックのものは、オケの透明さがシャーンドルの一風無機的な音とシンクロして、別の作曲家の作品か、もしくは「ミクロコスモス」の編曲をきいているのかと思うほどに「静謐」です。自らライナーも書いています。シャーンドルはコダーイにも学んでおり、その意味では民族派音楽家の王道といえるでしょう。この盤はパールでCD化しましたが、音質がイマイチです。*:私見だが、音楽の精神性や芸術性なるモノは、所詮一連の音の連なり、空気振動という物理現象にすぎない代物を、想像力豊かな独善者(音楽をきくものは皆そうだ)が勝手に決め付けているだけ、あくまで主観の産物だ。「これは駄目だ」と言う前にわれわれはつねに「私見だが」というひとことを付け加えるべきだと思う。私見だが。*2:バルトークの弟子。最新録音のジャケ写はシャーンドルとバルトークのツーショットですが、そもそも本盤がSP発売されたときの添付写真で、バルトークの衰えぶりに柴田氏がショックを受けたという話しが前著に記されています※2005年お亡くなりになりました,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番〜U.,○リパッティ(P)ザッヒャー指揮バーデンバーデン南西ドイツ放送交響楽団(MEMORIES)1948/5/30live・CD,,最近は端切れのような非正規記録を詰め合わせ商法で売りつけてくるmemoriesだがこれも、いやらしいのはアンセルメとのリストとこの曲くらいしか私には価値がないことで、しょうじきリストだけでは買おうと思わないので、結局10分少々のために3000円以上の二枚組・・・うーん。演奏はザッヒャーらしさのほうが耳を惹いた。リパッティは少し重い。粒だっているがその粒が大きい。録音がかなり悪いので、ぼわんと音符がふやけることもあるのだが、この曲唯一深みを感じさせる楽章だけれども、ロマンティックな重さによって表現しようという部分が若干感じられ気になった。ラヴェルの両手のような透明感ある透明かつ硬質な表現のほうが向いているのではないか。くらべてザッヒャーはもともと透明で薄いバックオケを更に磨き上げ特有の叙情をかもしている。望郷の念を篭めたと言われる楽章だがそういうのとはまた違う抽象的な感傷を示すものになっている。客観的であるがゆえに曲そのものの簡潔さの美学が引立つ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番〜U抜粋,カペル(P)ザッヒャー指揮SWF南西ドイツ放送交響楽団(memories)1948/5/30live・CD,,40年代ライヴということで録音的にはかなり厳しく耳を衝くようなノイズが痛い。楽章の性格上のこともあれオケが重苦しい。透明感あるカペルの音との乖離具合が逆にこの作曲家の作品群中における同曲の立ち位置を考えさせられる。とにかく短いのでこのくらいしか言えない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:ミクロコスモス組曲(シェルイ弦楽編曲),ディッタ・バルトーク(p)シェルイ指揮弦楽アンサンブル(vibrato)1944liveニューヨーク・ブルックリン博物館,,5曲からなる組曲で、ほぼ民族的な荒々しい曲からなる。シェルイはよくこういうことをしていた。ピアノ協奏曲第3番の末尾補筆もやったのではなかったか(うろ覚え)。これは録音が貧弱すぎる。ピアノだけならまだしも、民生SP録音機もしくはテープ録音機を素人が使っているのだろう、アンサンブル以上の規模になると音量も音程もバランスも狂ってくる(原盤はSPであるようだ)。特有のリズムと響き、それを支える安定した技巧がライヴで提示されている、そのくらいしか言えない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:ラプソディ第1番,○フリード(Vn)コンドラシン指揮クリーヴランド管弦楽団(harvest classics:CD-R)1979/10/9LIVE,,荒々しく重い演奏で、バルトークのわりと素直な民族舞曲にもかかわらず結構ずっしりした聞きごたえの演奏。シマノフスキやウォルトンらの世界に近い清澄な響きとストラヴィンスキー的にメカニカルな構造で一気に駆け抜ける曲だと思うが、この重さはソリストにつけたのだろうか。タッチが粗くてバルトークの隙の無い書法を余すところなく伝えるというわけにはいかない感じなものの、民族的な雰囲気があるのは確かで、盛大な拍手にはうなづける部分もある。ソリスト的にはけして最良ではないし録音も安定しないステレオで聞き辛いが、○にはできるか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:ラプソディ第1番,オークレール(Vn)アンブロシーニ(P)(meloclassic)1960/9/23パリ放送スタジオ録音・CD ,,オークレールには向いた曲かもしれない。民族的な荒々しさの中にストラヴィンスキーを思わせる抒情的なフレーズが挟まれるなど分裂的な楽曲を、ちゃんと切り替えて巧みに弾きあげている。荒っぽい奏者ゆえ人によってはちゃんと弾いてくれと思うかもしれないが、独特の世界を形作っている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:ルーマニアの世俗的な舞曲,○チェリビダッケ指揮トリノ・イタリア放送交響楽団(ARKADIA)1962/1/9live・CD ,,そのまんまの5曲からなる組曲である。踊りに向いていないと想われるチェリだが、案外舞曲になっている。やはり力強く純粋な音だ。○。,-----,,,,,,,,,,,,,
バルトーク:ルーマニア民俗舞曲,"",アンゲルブレシュト指揮ORTF(ina配信他)1957/7/4live 7/11放送,,民族的表情は足りないものの(リズムがまともすぎ、装飾音がハマらないなど)一般的な民謡編曲イメージにて明瞭に演奏されており素晴らしく耳なじみの良い、「フランス風の」洗練された演奏になっている。ロザンタールなどがやるより格調高く(ロザンタールがやったかどうか知らないが)型式ばったところもなく、アンゲルブレシュトの演奏としては「さすが」の範疇にある。このあとダンディの「フランスの山人交響曲(GARTENLAUB(p))」、カントルーブの「オーベルニュの歌抜粋(THEVEN(sp))」、それにアンゲルブレシュトの歌曲Vezelay(CAUFFET(bar))が収録されている。モノラルだがノイズがなく聴きやすい。2016年10月1日Amazonデジタルミュージックでも配信開始されたが、6分ほど長いようである(曲目は同じと思われ差異不明)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バルトーク:歌劇「青ひげ公の城」,○トマス・ステュアート(Br)イヴリン・リアー(S)マルティノン指揮シカゴ交響楽団(放送)1967/4/27,,夫婦共演の歌唱のほうは若々しく乗っているのだが全般に色が無く平凡な印象だ。楽曲自体のロマン性がマルティノンとうまく噛み合っていないのか、味気ない。録音状態も私の手元のものは悪く、ステレオの途中で右に寄ったり小さくなったり気をそぐ。53分程度でおそらくカットはあると思うのだが、まあ、オペラは守備範囲外、こういうロマン派オペラは大守備外ということで、○だけつけて放棄。英語による歌唱。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:管弦楽のための協奏曲,○D.オイストラフ指揮モスクワ・フィル(REVELATION)1972/2/25・CD,,メロディヤ音源か。モノラルで非常に籠もっているのが惜しい名演。オイストラフは少なくとも母国では指揮者としても活躍した背景があり、アベレージの演奏は提供できた才人だったが、ここではヴァイオリニスト指揮者としての弦楽アンサンブルの整理方法含め緊密で内圧の高い、しかも力強く圧倒的な演奏を提示している。曲の本質であるシニシズムや楽想の性格分けはそれほどはっきりしないが、素直に聴いて楽しめる(楽天的ではない)。◎にしてもいいくらい。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バルトーク:管弦楽のための協奏曲,○アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(Lanne:CD-R)1950年代live,,ちょっと類をみない演奏である。押しの弱さ、一部演奏陣の技術的な弱さが感じられる反面、ロシアものでならしたアンセルメ特有のリズム表現の絶妙さが指揮者への信頼のもとに築かれた丁々発止のアンサンブルに反映され、透明感ある(土臭さのまったくない)音楽を感興的に描き出している。見通しがいいだけに違和感も感じさせるかもしれないし、バルトークにしては翳りがなさすぎるとも言えそうだが、フランス的演奏といってもいいこの表現がほぼ同時代になされていたことは注目に値する。海賊盤にしてはまあまあ音はいい。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バルトーク:管弦楽のための協奏曲,○アンセルメ指揮フィルハーモニア管弦楽団(BBC/IMG)1958/8/28・CD,,この精彩に欠ける新譜の中では格段に光っている。これがアンセルメの正体か!といった感動が既に一楽章から表われる。覇気、バレエを振っていたころの勢いがここにある。力強い!前のめりにはならないし速いわけでもないが、それでもこの曲にどすんと血肉を与えまくっている。アンセルメはこれだからあなどれない。スタジオ録音しかなかったら見えないところが(もちろん悪いところも)あるというのは知っておかないと正当な評価はできないもので、しかもほんとは実演で評価すべきなんだけど。。録音もまあまあ。これはさすが解釈的な技巧派のアンセルメの知られざる名盤。,-----,,,,,,,,,,,,,
バルトーク:管弦楽のための協奏曲,○カラヤン指揮ベルリン・フィル(SARDANA:CD-R)1982/1/24LIVE,,文句の付けようの無い名演中の名演である。こんなの生で聴かされたらフライングブラボーもやむ無しだ(こういう曲でフライングブラボーが何故いけないのか、世の中には神経質なやからが多いのだな)。,,カラヤンは何故これほどまで適性を示した20世紀音楽に積極的にならなかったのか、この人がゲンダイオンガクはともかく世紀末から20世紀音楽に積極的に取り組んでいたらエセ評論家の評価もまた格別に違っただろう。とにかく、生を聞けばわかる指揮者だというのに一度も聞けなかったのが惜しまれる。でも、ベートーヴェンなんかいらない。ワグナーなんかいらない。こういう切羽詰まったギリギリのアンサンブルを駆使した楽曲でこそこの人の恐ろしく研ぎ澄まされたゲイジュツが生きてくるのである。ただ、この録音、肝心?のインタルードの最後が何故かフェードアウトして切れている。これさえなければ、録音の悪さ(といってもAC盤に比べれば格段にいい)を加味しても◎だったのに。圧倒的です。たとえ私がSHUREのフォンに変えたせいもあるといっても。スピーカー?フォンのほうがよく聞こえるよ。,,◎的な○。とにかくこの時代のベルリン・フィルの技や迫力にも瞠目せよ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----
バルトーク:管弦楽のための協奏曲,○ガルデッリ指揮ハンガリー国立管弦楽団(eternities:CD-R)1988/5/20live,,これがまたまっとうな演奏で、オケは透明感を保ったまま高い精度で、かつライブらしい気概のようなものを感じさせる。ガルデッリらしいかといえばよくわからないがアンサンブルを鍛えるのに十分な腕、それに明るく色彩的な処理に長けているのは確かだ。やや最後が弾けない感がするのは録音の限界かもしれない。粘らないのがガルデッリだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:管弦楽のための協奏曲,○コンドラシン指揮ACO(aulide:CD-R)1977/11/17live,,バルトークは極めてファンの多い作曲家だが私には掴みどころのない作曲家に見える。ドビュッシーの影響下から始まり民族要素を前衛的手法によって換骨奪胎させた独自の書法を展開し、一時期はまったく人好きのしない演奏家好きしかしないような作品を生み出していたが、晩年渡米後は困窮の末その腕をいかした隙のない緻密な書法を売りとする娯楽作品を世に出した、くらいの文学部的な知識しかない。この作品は「国家的作曲家」ショスタコのレニングラード1楽章戦争の主題を揶揄した「中断された間奏曲」で知られるが、まあ、ショスタコの態度については賛否ありバルトークが批判する態度にも賛否あるだろう、そういうことは抜きにして、管弦楽によるアンサンブルというものの素晴らしさを改めて認識させるような名作であり、他曲とくらべそれほどぬきんでた旋律というものは無いものの、聴かせる力は十分にある。オケの力試しという側面も強いこの作品にあって、ショスタコを得意としたコンドラシンが振る、それだけでもちょっと面白いのだが、コンドラシンのギチギチの指揮は曲の性向とマッチしている。ただ、ブラスが弱い。録音バランスのせいかもしれないがいずれも高音が伸びず音が暗い。弦楽合奏と木管とパーカスだけでも楽しめる曲だが、そのバランスは気になった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:管弦楽のための協奏曲,○ドラティ指揮フィラデルフィア管弦楽団(DA:CD-R)1974live,,比較的大きなスケールでガチガチの同曲をヒンデミット張りに盛り上げている。バルトークの曲としてはかなり日寄っているというかわかりやすく作られている作品を、少し鈍重なかんじもするがしっかり派手にまとめ上げている。皮肉も殺伐もなく聞きやすい。録音が不安定なステレオで一部聴きづらい箇所もあるがおおむね楽しめるだろう。ただ、ちょっと尻切れ蜻蛉的な表現ではある。○。,DAからは1975/4/20のNYライヴも出ていたが未聴。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バルトーク:管弦楽のための協奏曲,◎ベイヌム指揮ACO(LYS)1948/9/20・CD,,バルトークはちょっと・・・という人におすすめ!これいいです、わかりやすい!構造がわかりやすいというより、前近代的で、直観的に聞きやすいよう上手くまとめている。またベイヌムの適性をつよく感じる。きわめて巧緻な指揮技術が機械的にならず生き生き生かされている。しかもクーセヴィツキーを彷彿とさせそうでいて決してああいう改変の方向に行っているわけではない。オケ的にメリットはあるにせよ(ボストンもヨーロッパ的な弦を持ってるけど)面白いほど「一般におもねった晩年バルトーク」そのものを切り出すことに成功している。「中断された間奏曲」の「DSCHファシストのテーマ」のじつにイヤラシイ嘲笑ぶりにもうなづかされた。冷たい音に重みを加え透明感が失われている点も、好きずきだが私は好きだ。録音(板起こし)の悪さのマイナスも力強い表現の前に屈服する。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:管弦楽のための協奏曲,クーベリック指揮ORTF(forgottenrecords)1955/2/10live,,おそらくエアチェックものでノイジー(最初不安定)、モノラルときてモノクロームに聴こえ飽きてくる楽章もあるが、指揮者によってコロコロ変わるこのオケが、クーベリックにあわせて緊張感溢れる演奏を繰り広げている。管楽器の素晴らしさ、内声で動く打楽器系の明晰さにまずは拍手を。その適度に明るい色彩感をプラスに働かせ、律動的な楽章を「蠢かせる」のではなく「羽ばたかせる」。間奏曲のショスタコーヴィチの揶揄とされる引用の派手さ、断ち切れ方はまさしく「揶揄」で、ショスタコーヴィチが聴いたら苦笑したろうやり方だ。しかしこの演奏の聞き所は両端楽章で、クーベリックがなぜ小フルトヴェングラーのように言われたのかわかる、集中力、その根底のロマン、しかも苛烈なアンサンブルが乱れないのはこのオケでは奇跡的としか思えない(バルトークの書法の素晴らしさとも言える)。中間部の新古典主義的な構造のうえで強く民族性を煽るという、このオケではありえないような技も壮年期クーベリックならではか。セッションでは生まれ得ない生々しさだ。録音は進むに連れ安定しノイズもさほど気にならなくなるので、情報量的にはかなり録れているものだから、好きな方はどうぞ。現代の目線からすると色々あるだろうし、ちょっとコケ脅しで叙情的過ぎて深みがないなどの好み的なところもあるかもしれないが、楽章によっては私は非常に楽しめた。クーベリックの棒の技術的にすぐれた、解釈のしっかりしたところが出ている。盛大な拍手に少しブラヴォが混ざる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:管弦楽のための協奏曲,セル指揮クリーヴランド管弦楽団(eternities)1965/4/25live,,演奏以前に録音がこもって聞きにくい。セル、バルトークを聴くには不明瞭すぎるしボリュームも小さい。中断された間奏曲終わりで拍手が入りかけるという事態にも拍子抜け。終楽章のめくるめく色彩を振りまき駆け回る弦は拍手ものだし、ハープとのやりとりは素晴らしくみずみずしいが、冒頭テンポの遅い部分では弛緩を感じるし、終わり方も締まらない。他の楽章も勿論録音のせいが大きいだろうが伝わるものがない。どうもテンポ操作が人工的なところがある。パッとしない。一楽章の始めに謎の無音部分が入るのは録音タイミングの問題だけにしても興を削ぐ。うーん。良い録音でどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:管弦楽のための協奏曲,チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(EMI)1995/3・CD,,客観性が勝り生気がない感じがしたのは私だけだろうか。録音状態もそんなによくはなく、結果として(それなりの精度はあるのだとは思うが)それほど厳しい感じのしない柔らかさが、ゆるいテンポとあいまって逆に半端な印象を残した。爆発もせず怜悧な光もはなたず、莫大な中にロマンティックなうねりがあるのはチェリの本質的なドイツ気質によるものだと思うがどっちつかずで終わっている。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:管弦楽のための協奏曲,バルビローリ指揮ハンガリー放送管弦楽団(VIBRATO)録音日不明live,,バルビローリのバルトーク?!と思ったが、ハレ管弦楽団とやたら色んなものを録音していた時期の記憶を呼び覚ますような演奏だ。バルトークの鋭さや純粋さはない。しかしこの曲においても歌心を感じさせる「横の動き」に関しては、まったく受け付けない向きもあるだろうが、バルビローリが日寄らずなんとか自分を入れ込もうとした記録としては、すくなくともバルビマニアにはアピールするところはあるだろう。オケはとても上手い。これが二流どころだと惨事になることが予想される解釈だがしっかり力感と緊張感を保っている。バルビは決して職人的技術に欠けていたわけではないので、この曲を振るのに不足はない。過度な個性も持ち込んでおらず、しかしながらバルトークとしてはスリリングな音のやりとりを楽しむことはできないが、トータルして標準的なレベルの演奏ではないか。モノラル悪録音で最晩年の記録ではないだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:管弦楽のための協奏曲,ホーレンシュタイン指揮ORTF(M&A)1961/12/19live放送・CD,,好き嫌いのハッキリする指揮者だと思う。曲や時期によってスタイルが変わる指揮者でもあり、莫大で欠伸の出るようなマーラーをやるかと思えば、このように思わず前のめりになるような力のある演奏もする。現代曲指揮者としての側面があり、マーラーにあっても理知的な構築性が背景に存在していて、バルトークではそれが足を引っ張ると思いきや、前進性も損なわれず、色彩は強調されないが間奏曲あたりはしっかり言わんとしていることを言わせていて、ホーレンシュタインの一寸聴わかりにくいスタンスが意外と良い方向に働いたものとして特筆できる。スケールの大きさはいつものこと、ここでは凝縮の余り勢いで終わらせてしまうのではなくたっぷり交響音楽として聞かせている。技術的にもこのオケにしてはよくできている。モノラルだが情報量はある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:管弦楽のための協奏曲,マルティノン指揮ORTF(ina配信)1974/5/15live,,驚くほど明快で軽く、フランス曲を聴いていると錯覚する。作曲家として晩年のバルトークと同時代者だったこともかんがみるとこの人がバルトークを振ることは(リヴァイヴァルの時期を現代指揮者として経験した人でもあるし)当たり前なのだが、録音自体はシカゴでのマンデリン以外知られていない。そもそも現代曲を振りたがる系の人なのに録音の仕事はドビュッシーだのラヴェルだのばかり、シカゴで初めて様々な作品に挑めた感もある。程なく仲違いしたのは不幸な事だが、復刻が進んだ今では認知されている、マルティノンの意欲的で「野蛮な」一面を伺い知れるのはシカゴ交響楽団との一連のセッション録音のおかげだ、、、が、この演奏を聴く限りはイメージは「ドビュッシー」である。バルトークがドビュッシーを尊敬していたのは言を待たないことだが、ドビュッシーに必要な響きに対する細心の配慮、けっして濁った音をゆるさず、そのためにはマスの力で押し切るやり方はせずに、内面の過激さを押し殺し、作曲家的態度で明確に構築し五線のあいだに風の通るようなアンサンブルを作り上げ、フランスオケとフランスふうの音楽作りをした感がある。技術的に磨き上げられ、このオケにしてはミスの聴かれない所も特筆すべき点だ。流れを重視し楽想ごとの描き分けを極端にすることがないので耳馴染みはすこぶる良く(ショスタコを揶揄したフレーズも流れに自然に組み込まれ揶揄に聴こえない)、細かく整理されているとすら感じさせない自然な表現は、プロコフィエフの演奏によく似ている。よくバルトークでこれができたものだ。厳し過ぎず、爽やかなオケコンです。次第にブラヴォが叫ばれる聴衆にも共感。きわめて良好なステレオ録音。ina.frからはマンデリン(注:2016/11現在確認できず)、青髭、協奏曲2番(シェリング)伴奏の放送音源も配信されている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:管弦楽のための協奏曲(1943),○カンテルリ指揮NBC交響楽団(TESTAMENT/MUSIC&ARTS)1951/1/1放送LIVE・CDオケコン久し振りに聞いたがけっこう面白い。カンテルリ向きだ。録音状態はとても最上とは言えないが、颯爽とさばきまくるカンテルリによってとても分かり易い楽曲に整えられている。バルトーク独特の人を寄せ付けない理知的な晦渋が見事に昇華され、オケの機能性を駆使した非常にドライヴ感に溢れる魅力的な演奏となっている。これは録音は悪いが何度聴くにも耐えうる盤だ。インテルメッツオあたりのテンポ感がいい。こういう演奏で聞くとショスタコのレニングラード1楽章を揶揄したと言われる挿句も、とくに違和感無く全体の楽想の中に溶け込んで聞こえる。聞きごたえあり。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:管弦楽のための協奏曲(1943),○フェレンチーク指揮ハンガリー国立管弦楽団(KING,SEVEN SEAS)お国モノです。しかし前提条件として・・・私はこの曲がよくわからないんですよ(泣)。バルトークは無調風で金属的な音楽とやけに生臭い民族的な音楽を掛け合わせずにただ交互に並置したりして、後者は非常に楽しめるのだが、前者はどうも・・・わけわかめ(死語)・・・。バルトークマニアは何やらいろいろと熱いことを言うけれども、たいてい子供が現代音楽をただ珍奇さゆえにかっこいいといってしゃべっているようなモノがほとんどで、ぜんぜん伝わってこない。革命的やら強烈やらいう埃をかぶった60年代的文句は要らない。そこまで入れあげるならちゃんと説得力のある薦め文句を言って欲しいものだ、この種のクラシック・ファンには。なーんて言いつつも、この演奏のように颯爽として各声部ががっしり噛み合った演奏で聞くと、4楽章から終楽章にかけてはじつにスポーツ的に楽しめる。とくに4楽章の中断された間奏曲、例の「レニングラード」1楽章の「戦争の主題」のパロディと言われる旋律など、ここではまるでペトルーシュカに出てくるようなサーカスめいた生ぬるい音楽になっていて、その暖かい響きは郷愁すら感じさせる。これはやはり従来言われているような「皮肉」ではないのではないかな、その証拠に、「戦争の主題」の終止形を原形どおりではなくただ下降音形の繰り返しにすることで戦前のヨーロッパ的な風俗音楽に変容させている。ここで旋律を中断する「嘲笑」とされているペット他の掛け声はそういったサーカス風景を彩るピエロの曲芸のように聞こえてくる。フェレンチークの実直さのせいかもしれない。他の演奏で聞けばあきらかにショスタコーヴィチをただバカにしたように聞こえるのかもしれないが、まあ近現代音楽はいろいろな解釈表現の余地があるものであり、私はどちらかといえばこの演奏のように暖かくやっているほうが好きです。ちょっと鈍重な面もあるが、この演奏はそれなりに楽しめるので○ひとつ(前半楽章は知りません)。録音クリア。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:管弦楽のための協奏曲(1943),○フリッチャイ指揮ベルリン放送交響楽団(DG)1957初出オケ・コンは苦手な曲だ。ちっとも面白いと思わないのだ。ただ、クーセヴィツキー盤を聴いて、わかりやすい解釈をほどこしているからであろうか、ちょっと興味を抱いた。そこから少し逡巡してみて、やはりうーん、印象に残る旋律もなければ、めざましいオーケストレーションも無い。民謡旋律だけが妙に生臭くて、硬質の響きの中でおかしなバランスを保っている。独特だが、クーセヴィツキーが手放しで誉めるほど一般的な支持を得る理由がわからない。そんなところで、弟子フリッチャイの名演と言われる同盤を手に入れた。オケのせいだろうか、音響に重量感があり、曲に不思議な深みが加わって、何も考えなくても自然にバルトーク・ワールドに引き込まれる、非常に希有な経験をした。じっさいには併録の弦チェレのほうが感動したのだが(爆)、これは聞ける盤、と思った。モノラル。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:管弦楽のための協奏曲(1943),○ライナー指揮ピッツバーグ交響楽団(history)1946/2/4,5ライナーはシャープな指揮者だ。しばしばスポーツ的な感覚をおぼえる。この録音は音が古すぎるけれども、現代的なきびきびした指揮ぶりやドライヴ感はバルトークの娯楽的側面を巧くとらえている。じっさいかなり長い曲だけれども、緊張感が途切れることなく最後まで聞かせる演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:管弦楽のための協奏曲(1943),カンテルリ指揮ニューヨーク・フィル(ASdisc)1953/3/8LIVE・CDカンテルリはバルトークに対しては慎重にやや遅いテンポをとり、縦がずれないように苦心している。結果としてちょっと重ったるい演奏になってしまっている感もあり、録音の悪さとあいまって余り感興を感じない。こういうある意味繊細な音楽はクリアな音質でないと面白くない。演奏レベルがそれなりに高いのは認めるが、印象に残らない演奏といった感だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:管弦楽のための協奏曲(1943),クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(NAXOS Historical他)1944/12/30live・CD,,初演直後のライヴ記録で、フィナーレは初版(カット版)によっている。それでなくとも現行版と違う(譜面どおりなのか?クーセヴィツキーだからなあ)この演奏、”オケ・コン”に親しんでいた向きには、違和感は否めないだろう。私自身は余りこの曲に親しんではいないのだが、精妙な響きの交歓と複雑なリズムの面白さを追う類の華麗にして精巧な組曲、という印象があったのに対して、余りにロマンティックな構成感に基づく「勢い」と「ぶ厚い」響き、曲の”ききどころ”が「古い国民楽派」側にシフトしてしまい、同時期のヒンデミットの、しかも出来のよくない管弦楽曲(何の曲?なんて聞かないでくれー)、あるいはロマン派を固持し続けたマイナー作曲家のしかも「どマイナー曲」を聞いているような、耳痒い感覚を覚えた。暗い熱気を帯びた楽想のがちがちとした構造物、錯綜し、「起承転結」がハッキリせず、掴み所の無いまま狂乱する駄曲に聞こえてしまう。「起承転結」を創り出す演奏家には向かない曲なのか、そもそも。でも、クーセヴィツキーの棒のダイナミズムはとくに舞曲にて破裂せんが如く荒れ狂い、例の間奏曲「レニングラード(ショスタコーヴィチ)」の揶揄とされる唐突な旋律も凄みを帯びて轟きわたりとても揶揄とは聞こえない。寧ろそのへんがききどころで、「夜の歌」を聞くべき悲痛な緩徐楽章は余り魅力的ではない。そうそれが、問題。いや、録音が悪いので、この演奏が本当に「魅力的ではなかった」のかどうか、実際のところはわからない。このオケは、各パート、おしなべて巧い。アメリカ亡命後のハンガリーの作曲家、悲惨な状況。既に病深く、シゲティやライナーを初めとした「業界」の友人に、”注意深く”支えられながらも、聴衆に媚びを売ること無く、孤高でありつづけようとした作曲家のプライドは高く、結果ひたすらの貧困が襲いつづける。理解されないまま自作の演奏機会を失われた作曲家は、自身の演奏活動にしても体力が続かず、ライフワークである民謡研究すら困難となる。1943年には病の為ハーバードでの折角の講義を中途で終わらざるを得ず、傷心のまま入院。結局リヴァーデイルの自宅を退き、サラナクのサナトリウムに滞在することとなる。まもなく明け渡すことになるリヴァーデイルの宅に、5月、福音のように舞い込んだ手紙が、世界一二を争うボストン交響楽団の盟主クーセヴィツキーからの、管弦楽曲作曲依頼であった。内容は明確な報酬金額の提示と簡潔な主旨(故クーセヴィツキー夫人の想い出に捧げること及び財団での手稿保存)以外の何も記載されない簡潔なものだったが、 4年という長いブランクを経て大曲依属の機会を得たことは、金銭的なこと以上に作曲家をこのうえなく喜ばせたという。まもなくクーセヴィツキーはバルトークの病床を訪れ、本依属には一切の強制力がなく作曲期間の指定なども無い、作曲できるときに作曲してくれればいい、という言葉と小切手を強引に残して去っていった、とされている。無論この件クーセヴィツキーだけの意志ではなく、ライナーらの助言があったことは言うまでもない。サラナクで回復の兆しが見え出した8月、バルトークは早速この依属作品に取り掛かる。没頭すればするほど病は回復に向かっていった。サラナクを去り、ニューヨークで校正を終え計算すると、作曲期間は僅か55日だった。それが全5楽章の大曲「管弦楽の為の協奏曲」だったのである。メニューヒンからの「無伴奏」依属など、これを嚆矢に作曲依頼や演奏機会は目に見えて増え始めた。しかしまもなく再び病が深まり、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ後にはプリムローズからの「無伴奏」依属、ならびに妻であるディッタさんが演奏するための、完全なる私的作品「ピアノ協奏曲第3番」だけを選ぶことになった(言うまでもなく遺作となった作品群である)。冬も近いころメニューヒンが無伴奏を初演。カーネギーには称賛の嵐が吹き荒れ、演奏共々舞台に上った作曲家を感激させた。その5日後、1944年12月1日に「オケ・コン」は初演された。バルトークは医師の忠告を退け、ボストンへ向かい臨席した。希に見る大成功であり、クーセヴィツキーは「過去五十年における最高の作品」と熱弁した。譜面にはクーセヴィツキー在籍20周年及び70歳の記念に、とも記されている。クーセヴィツキーと「オケ・コン」の関係はこういったところである。この録音の「存在」はどこかで聞いたことがあったのだが、まさかナクソス・ヒストリカルで復刻されるとはおもわなかった。展覧会の絵(1943/10/9)とのカップリング、安いですよ・・・。この調子でクーセヴィツキーゆかりの現代音楽の、放送録音を掘り起こしていって欲しい。ハンソンの「ロマンティック」とか、コープランドの3番交響曲とか、絶対残っているハズ!・・・話しがシフトしてしまいましたね。聞き方としては、フリッチャイ、ドラティの定番やセル、ショルティらの精巧な演奏で触れてからここ(クーセヴィツキー)に戻る方がいいと思います。あと、雑音だらけのモノラル録音に慣れない方には(この曲では嫌だという向きにも)決して薦められません。,,,,後注)初演記録と称する盤も出ていた(既書、stradivarius等)がこの録音と同一と確認されている。pristineから周到なレストアのされたものが出たので未聴なら検討されても良いかと。ちなみに文中コープランドの3番の存在可能性に触れたが、まさにpristineで発掘復刻された(既書)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----
バルトーク:管弦楽のための協奏曲(1943),クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(STRADIVARIUS)1944/12/1初演LIVE?・CDこの自称初演盤とナクソス盤は冒頭客席の咳が一致、各楽章の演奏時間からも同じものと断定できる。音質はラジオ放送を受信して録音したような感じでナクソス盤に比べ落ちる。但しナクソス盤は音をいじっているようなので好悪はあるかもしれない。また、ナクソス盤は演奏時間に明白な誤記があるし、録音月日についてどちらが正しいのかは微妙。カップリングのブラ1はMUSIC&ARTSから全集盤で復刻されたものと同じ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:管弦楽のための協奏曲(1943),ライナー指揮シカゴ交響楽団(RCA)1955/10/22素晴らしく見通しの良い演奏なのだけれども、あまり残るものが無い。4楽章のショスタコ7番のカリカチュアもはっきり聞き取ることができたが、はあ、あれこれ取りざたされるような大した引用でもないな、と思った。経過句的に使われているだけだ。ライナーもバルトークに師事しアメリカ時代にはよく面倒をみていたようだが、その音楽にはハンガリーを思わせる体臭のようなものが感じられない。垢抜け、スマートになりすぎている。シカゴ響という楽器の特性かもしれないが。なぜか併録の「キージェ中尉」組曲のほうが名演という・・・(苦笑),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:管弦楽のための舞踏組曲,ケルテス指揮フィラデルフィア管弦楽団(PO)1970/2/6live放送・CD,,フィラデルフィア管弦楽団自主制作ボックスの中の一曲だが、時期の割に雑な録音は置いておくとしても、面白くない。リリカルな部分の響きの美しさを除いて民族性をまったく灰汁抜きしてしまいクラシックの語法の中に昇華してしまったようなもので、バルトークならではの民族的素材にもとづく気を煽る響き、リズム、メロディの存在は確認できるが、どれに対しても距離をとって整えていて入り込めない。オケの自発性もかんじられず指揮者のおっしゃるままに、という感じすらした。コープランドの自作自演正規盤を聴いているようだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:劇音楽「中国の不思議な役人」,○ストコフスキ指揮ASO(SCC:CD-R)1969/5/19live(2回分),,同日同プログラム二回公演というのが普通にあったのだが、これはその両方を収録したもの。但し録音状態に違いがあり、二つ目に収録されているほうがマイクが近く音が粗い。一つ目のほうがクリアで非常に聴き応えがあり、ともすると拡散的な響きでリズム性を損なうこともあるストコがトスカニーニ的な集中力をもってやり切っているさまが清清しい(共にブラヴォの嵐だが)。バルトークの描いた細かい音符の細部まで瑞々しい感性で引き立てており、小虫の這いずるような痙攣的トリルの応酬から打楽器群を駆使した大音響のオリエンタリズムまで、スペクタクル的なところにとどまらない感興をあたえる。東欧からロシアの作曲家の描くオーケストラの色彩は私にはしばしば七宝焼きの強い原色に感じられ敬遠しがちなのだが、この曲がそうということもあるしバルトークがそうということもあるけれどもフランス的な軽さがスクリアビン的な気持ち悪さを払拭した演奏として、好感をもった。もちろん正規録音でないという意味で◎にはしない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:弦、打、セレスタのための音楽,アンセルメ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1949/1/8live,,アンセルメは速い楽章の動き出しが常に遅い。すぐに流れができるのだが、ザッツを数学的にあわせようとしすぎているような、国民楽派音楽ではスタジオ録音でさえ萎縮したようなものを感じることが多い。この音楽は精密機械指向の強いアンセルメ向きではあるが同時に即興的な動きというか感情的な動きを、ギチギチの弦楽アンサンブルで即物的に表したような部分も多く、2楽章(「マルコヴィッチの穴」で使われた)では実際はそれほどでもないにせよ相対的には異様に乱れたような冒頭の印象を持つ。オケにそれほど機能性が感じられず、もしくは相性が悪いのかもしれないがバンスタ常任時代のNYPのアバウトさを想起した。響きへの配慮は素晴らしいが、オケに染み渡っているとはいえないようにも思う。あと、録音が悪すぎる。もう殆ど鑑賞に値しない。貴重な時期の録音ではあるが、無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:弦、打楽器、チェレスタのための音楽,クーベリック指揮ACO(RCO)1959/10/20live・CD,,録音はモノラルで放送レベル。一楽章が弱音で大人しめだったのが、やはり二楽章にて重い響きで突進するような、ドイツ的堅牢さをもった小フルトヴェングラー的演奏により一気に盛りあげる。音色を含む起伏の付け方が明確で聴き応えある。コンセルトヘボウはかくもシェフによって力量の見せ付け方を違えてくる(ピアノの技量ふくめ細部はともかく)。クーベリックはバルトークの楽器の用法や響きの創意をしっかり汲み取って、その個性をより灰汁強く打ち出し、単なる勢いの音楽にはしていない。同じ血が流れているのではないかというほど寄り添った部分もある(きほん血気盛んな人なのでバルトークの繊細さは無いが)。デフォルメされた奇怪な音楽なので寝起きにはちょっと辛いが真実に触れている。悪い録音でも要点は押さえて聴こえるので良い。終楽章冒頭の弦のトリッキーなトゥッティが揃うかどうかで指揮者がバルトークにしっかり取り組んだかどうかがわかるが、ここはもう完璧に力強く合っている(ライヴでは珍しい)。薄くなるでもなくここまでできている、鮮やかだ。なかなかこう力強く民族舞曲を煽った演奏記録はない。オケの集中力も並ではない。太鼓の煽り方も丁々発止で凄まじい。緩徐部のうねるような半音階もハーモニーをしっかり重ね迫力を維持する。ACOの弦楽器はコンドラシンのライヴ記録もそうだったが時々こういうことをやるから看過できない。変な恣意的変化は付かないが楽想に沿って柔軟にデフォルメしクライマックスをしっかり作って終わるのも聴きやすい。拍手切り捨ては惜しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:弦楽、打楽器、チェレスタのための音楽,"コンドラシン指揮モスクワ・フィル(eternities)1969/2/26live",,これは素晴らしい。録音が良くなく一部ボロボロで、痩せた音に残響を加えたような(というかホール残響だろう)ところに音量が大きくなるとカットされて抑えられてしまう感じは、演奏そのものの印象を不当に貶めかねないが、耳をすませて聴いていてもこの分厚さにもかかわらず、それと認定しうるミスが無く、強い適性を感じる。モスクワ・フィルはブラスが無いとこんなに完成度の高い演奏ができるのか、と不穏なことすら口にしてしまう。三楽章の毒々しさも素晴らしい。終楽章冒頭の激しいピチカート(これはバルトークピチカートと呼ぶのか?)がびしっと揃っている時点で勝ちなのだが、もっともこのライヴ、やや疲れてきたっぽいところもあって、激しい動きで弦の若干のバラけも出てきてしまい、構成感が半端で最後断ち切れるように弱く終わるから、拍手も通りいっぺんの感じだが、まあ、ソ連の聴衆なんて他所の現代曲には冷たいもので、上手くいっても反応は同じだったのかもしれない。コンドラシンにはバルトークの録音が無いわけではなく、いずれ今風の精緻なものではないが(バルトークはミスを許さずひびきの精緻さを追求すべきという意見なら聴かないこと)、いかにこの時代の現代曲において聴衆との接点を保ちつつ、高度な技巧や発想をつぎこんだ意欲作で、他を寄せ付けない魅力的なものであったかは、クーセヴィツキーが振った数多あるアメリカ現代作品の録音と比べると一目瞭然、その時代のオケのスタイルを前提として書かれたとすると、コンドラシン・モスクワフィルのコンビはまさにその道を行っているから、むしろ正統と言っても過言では無いと思う。悪名高いクーセヴィツキー流の改変は無い、クーセヴィツキーに欠けている色彩感もすごいから、機会があれば聴いてみると楽しいと思います。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:弦楽、打楽器、チェレスタのための音楽,○コンドラシン指揮モスクワ・フィル(MELODIYA)1974・CD,,コンドラシンにこの曲では超ドライな演奏が期待されるがソヴィエト時代のものであることからしてオケにやや不利があり、ライヴのようなバランスの悪さがぼわっとしたロシア独特のいびつな音響となって曲のスリムで無駄のない構造を侵している。コンドラシンの求心力もムラヴィンほどではない、と感じる。コンドラシンはムラヴィンが振らない外国の曲の録音をたくさん強いられていたようだが、いずれもやや個性に欠ける感もあり、またイメージとは離れた感情的な演奏に仕上がっている場合もある。これもやや感情の起伏がオケの音にあらわれ、ドライさが失われている。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バルトーク:弦楽、打楽器、チェレスタのための音楽,シェルヒェン指揮スイス放送管弦楽団(tahra)1954/10/23live・CD,,三楽章の尖鋭な響きの交錯にシェルヘンの本領を聴いた。一楽章ははっきり言ってパッとせず、二楽章もシェルヘンにしてはキツイ表現もなくそれほどバラケもせず、良い意味でも悪い意味でも期待値を満たさなかったが、現代の目から見て技術的にはどうかわからないが、比較的よく音像が捉えられているせいもあってか、前衛的に美しく、説得力がある。四楽章はさすがに冒頭のもともと無理のある弦楽器はバラケ感を感じさせるが(シェルヘンらしい極端な表情付けによるバラケはこの後やっと出てくる)、同曲らしい激しさが増してくるとギリギリ縦のズレない程度にいつもの強い調子で、若干ドイツ臭く重厚なロマンチシズムも交えながら、もちろん今の演奏様式からすれば古風なんだろうが、当時としては斬新であったろう表現主義的な解釈のもと、きちんと構成感ある演奏に仕上がっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:弦楽、打楽器、チェレスタのための音楽,バーンスタイン指揮バイエルン放送交響楽団(HUNGAROTON)1983/11/15ブダペストLIVE,,ユニセフのチャリティ名目で当時契約していたDGとの折り合いをつけ発売されたライヴ盤。バンスタの振る無調や12音の緩徐楽章はとても抒情的だ。どんな硬質なゲンダイ音楽もベルクのようにぬるまゆく響く。この曲の1楽章なんかでもそうで、冷え冷えとしたバルトークの荒涼が苦手な私はこの楽章すごく嫌いなのだが、例外的に楽しめた。管楽器を欠く打楽器と弦楽器だけのアンサンブルで革新的な響きを生み出したと賞賛する割に弦楽器の本来的な抒情を無視する演奏家の多い中、この演奏のレガートはマーラーを彷彿とするまでに音楽的だ。3楽章からの流れもよい。逆に2楽章のような音楽には甘さが感じられる。引き締まった筋肉質のアンサンブルのみが追求されているから、そこに解釈はいらない。弦楽器は抒情などいらない。機械的に組み合い、スポーツ的な快楽を与えられればそれでいい。だからバンスタにはやや不利である。勿論テンションの高さが売り物のオケだから、ライヴということもあり結構楽しめる演奏にはなっている。これでスピード感さえあれば、とさえ思った。とくにフィナーレ最後の落ち着きぶりはどうかと思った。女性のブラヴォが入るけど。無印。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:弦楽、打楽器、チェレスタのための音楽,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1957/7/27タングルウッド音楽祭live,,「マス」で押し切るタイプの演奏で、「組物」をスリリングに聴かせるタイプでは無い。オケ総体の異様な勢いで(もちろん最低限骨格は組み上げた上で)アンサンブルガーと言う口をつむらせてしまう、いつものミュンシュである。といっても始まる直前なのにオケが異常にさらっている音が聴こえてきて、この曲の難曲ぶり、さらに個々の奏者のレベルの高さもちょっぴり伺い知れる。バルトークは巧妙にマニアックで特殊な書法を隠すから前衛っぷりが見えにくいのだが、1楽章(ミュンシュは重い響きでいきなり聴かせにくる)みたいなロマン性を持たない緩徐楽章である3楽章では、弦のポルタメントやピアノや打楽器の散発的な音などクリアにひびき、バルトーク独特の抽象世界がちゃんと展開されている。四楽章は冒頭から少しテンポが遅めに感じる。厳しいアンサンブルを要求されるここではどうしても乱れが目立ってしまうが、もう押し切って盛大な拍手。,,残念なのは録音が悪いこと。ノイズ塗れなのはDAにはよくあったことだ(DAもSLSも「音が良い」と喧伝する向きには注意、これらは一般的な意味で音が良いとは言えず、ノイズ込みの「情報量が比較的多め」と言うべき代物だ)。一応ステレオであるものの分離は悪く(そも昔のステレオ放送なんて「単焦点」みたいな感じでしたね)、高音域が伸びず終始こもってそこに常に放送ノイズが乗り(エアチェックだろう)解像度が悪い。複数種類のノイズが不規則に重なっているため調整でどうにかできるものでもない。音源の希少性だけの価値と言っておく。音の情報量はこちらのほうが上にもかかわらず、聴きやすさではSLSの別録音のほうがましかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
バルトーク:弦楽、打楽器、チェレスタのための音楽,ロザンタール指揮ORTF(ina配信)1969/3/26 放送live,,整えに走ってしまったか、という感じはする。それは二楽章の遅さに現れているが、ロザンタールは師匠ラヴェル作品のセッション録音を聴いても元々そういう解釈をするところはあり、響きが明るく軽く綺麗に整えられ抒情味すら醸す後半楽章には魅力を感じなくもない。曲自体の内包する要素を薄く延ばしてしまったような、構成が散漫な印象だが、四楽章は冒頭ピチカートよりバラケずしっかり構築されている点(編成が小さい可能性大)、聴き応えのある部分も。拍手はごく普通。録音が良好で特にピアニストは粒立って光っている。全楽章ある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,○コンドラシン指揮モスクワ・フィル(放送)1969/2/26live,,どうにも荒いのだが力感と推進力はさすがコンドラシン。録音のせいでよれる部分があるのは惜しい。この曲はコンドラシンにあっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,◎フリッチャイ指揮ベルリンRIAS交響楽団(DG)1954初出これはもう何も言うことがない。面白いし、名演だ。2楽章の引き締まった演奏。終楽章の一糸乱れぬ開始部から主部への流れよさ。古い演奏だと終楽章の冒頭が乱れてグダグダになっているものが多いが、このモノラル録音は違う。何がそうさせるのだろう、という気合いが感じられる。ドイツのオケにフリッチャイはすばらしい。とくに弦楽器の表現の豊かさに拍手だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(PRAGA)1967/5/24プラハLIVE・CDずいぶんと荒っぽく感じられるかもしれないが、マイクが演奏家に異常に近いため(しかも古いステレオ録音で各々の音場が極めてはっきり分離しているため)そう聞こえるのであり、意識して聞けば豪腕の演奏家たち、とくにヴァイオリンの張り詰めた緊張感を感じる事ができる。2楽章や終楽章など、対向配置のヴァイオリンパートの応酬が激しいステレオ効果をあげていてスリリングだ。バランスや音質的に問題があるので大推薦とまではいかないが、曲に慣れてきたらこういうのも面白いだろう。メロディヤ盤の完成度にはとても及ばないが、ライヴとしては上々。*ただし偽物の可能性もある。ムラヴィンスキーの録音はいろいろとマスタリング違いのものが出回っており、まるきり別物に聞こえることがある。PRAGAは札付きのレーベルで、MELODIYA盤の加工品をライヴ録音として出しているものがあるとのこと。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,◎ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(RUSSIAN DISC)1970/10/12LIVE・CD,,物凄い演奏。モノラルだしあまりいい条件の録音ではないが(マイクがファーストヴァイオリンに近すぎる!)、だからこそ何か得体の知れぬ迫力があって凄い。猛獣のような力強さが極限まで凝縮され、さらにギリギリ締め上げられていく、その悲鳴、その軋みがピシピシ聞こえてくる。アンダンテとアダージオはやや粗く感じられるも、ふたつのアレグロ楽章の異常なまでにビシビシ決まるアンサンブルは聞きごたえがある。完璧だ。完璧を越えて暴力的にすら感じられる凄まじい走句の応酬、技術的にどーのこーの言う前にもうこれは紛れも無い「音楽」であり、有無を言わせない。終楽章で両翼展開したヴァイオリンがかけあいをやるところでは、ファーストが異様にでかく聞こえ、モノラルでも擬似ステレオ感覚が味わえる(ようはセコバが相対的に小さく聞こえるということ)。ムラヴィンスキーの厳しさが小気味良さとなってつたわる一枚。◎。,,*ロシアン・ディスクは周知の通りアバウトなレーベルで、ムラヴィンスキー夫人の怒りを買っていた(にもかかわらず公認と印している盤がある)。粗悪な未許可ライヴ盤を多く出しているが、データが誤っていることがしばしばある。オケ名を誤っていた事もある。メロディヤ等の粗雑な復刻モノも多いが、これでしか手に入らないCDも多いのも事実。,,,"→こちらはmelodiyaの有名な録音で、国内レーベルやscribendumからも復刻されたムラヴィンスキーの1965年ライヴ。平林直哉氏が原盤より状態の良いと思われるテープより復刻、周到なライナー付きで再発されるとのこと。私はこういうのはまったく興味が無いが、お好きならどうぞ>HMV",-----,,,-----,,,-----,,
バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,エネスコ指揮フランス国立管弦楽団、リパッティ(p)(TAHRA)ブザンソン音楽祭1951live古い録音のせいもあろうが余り器用な演奏とはいえない。オケの統率がいまいち。テンポも遅くとり「正確さ」をねらうあまり、民族的な色彩が消え面白味に欠けるところも。有名な2楽章や4楽章はオケのパワーを見せつける重要な部分だが、諸所に耳を惹くところはあるものの、、全般の印象・・・どうも古い録音にはいいものがない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,カンテルリ指揮NBC交響楽団(ASdisc/MUSIC&ARTS)1952/12/13LIVEこれもやはりやや遅いテンポで縦をそろえるのに精一杯という感じがする。NBCはいくぶん技術的余裕があるものの、ギリギリの緊張感を要求する場面ではテンポ感が若干おかしくなる。やはり重い。全般まあまあではあるが、推薦するまでには至っていない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,カンテルリ指揮ニューヨーク・フィル(stradivarius)1954/2/28liveカンテルリはじつにいろいろ振っている。何でも屋と言うのにはいささか躊躇するが(あまり成功していないと思われるものも少なからずある)、曲によってはぴたりとハマってとてもいい。このイタリア盤の演奏は精度の面では現代多々ある機能的にすぐれたオケ・指揮者のものには負けるが、曲が進むにつれどんどん熱気を帯びてきて、カンテルリの節度ある棒さばきのもとに華麗にまたは怜悧に表現するニューヨーク・フィルに感銘を受けた。録音がすこぶる悪く、とくに低音の分離が悪いのが致命的だが、おそらく実演は大成功だったのではないか。その残滓を聴きながらそう思った。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,シェルヒェン指揮SUEDOISE RADIO O.(TAHRA)1954/12/23複雑精妙な機械仕掛けのハーモニーとアンサンブル、こういう曲はそういう機能的指揮者にやらすべきであって、勢いや独特の解釈で聞かせるたぐいのシェルヒェンはばらばらとばらける音響を無理から力で押し切っている。同曲、映画マルコヴィッチの穴でマペット人形の踊りに使われていたが、この演奏では使えまい。シェルヒェンの悪い所が出た演奏。もうちょっとパート間の音量を計算して響かせることに気をつけたらいいのに・・・とここまで書いて、オケの機能にゲンカイがあったのかもしれない、指揮者のせいだけではないかも、と思った。だって難曲も難曲なんだから!,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,バーンスタイン指揮バイエルン放送交響楽団(SARDANA RECORDS:CD-R)この曲にしては鋭さが足りない感じは否めないが、静寂の表現の深さ、不協和音の豊穣なひびき、民族音楽的色彩の強調など、バンスタらしい長所が聞かれる。やはりバイエルンはちょっと技術に不安があるが、適度な集中力で聞かせる力は失っていない。もっとギチギチな演奏家によってかなでられるべき曲ではあるが、こんなロマン派心を持った演奏もたまにはいいかも。両翼展開したヴァイオリンが掛け合いをやる場面は面白い聴感だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,マデルナ指揮フランス放送フィルハーモニック管弦楽団(ARKADIA)1971/4/9LIVEライブで専門指揮者じゃない作曲家の棒になるものとしては、こんなものが限界なのかもしれない。だらしない演奏になっているのはマデルナ・ライヴの常と言っていいし、むしろマデルナならではの面白さを汲み取って聞くべきだろう(そうでなければ、マデルナを聴くのはやめましょう)。アンダンテやアダージオの荘重で悲愴な音楽はバルトークらしからぬ情感を煽る。弦のひびきが美しい。対して有名な2つのアレグロ楽章では雑然としたまとまりのなさを露呈。それでもステレオ効果を狙ったヴァイオリンの対抗配置の妙は辛うじて聞き取れるし(ちなみに珍しくステレオ録音)それなりに聞ける。ただ、こういう音楽はやはり硬派な楽団に硬派な指揮者で聞くべきであり、高度にメカニカルなこの楽曲を忠実に再構成できるほどの機能性を誇る楽団がやるべきなのだろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(MELODIYA/BMG/SCRIBENDUM/Grand Slam)1965LIVE・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,
バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(ORGANUM他)1962/2/10ブダペストlive,,ここに立ち返ると物凄く厳しい演奏で、息が詰まる。熱量の高く目の詰まった演奏ぶりは、目前にしたら唖然としたであろう激烈なアンサンブル、ピアノが出てくるとホッとするくらい弦楽が凄い。雑味もいとわない音が激しくて焦燥感しかない。もはや楽章間の対比がどうやら言うレベルではなく終始強烈な音が途切れず、息が詰まる。終楽章にてロシア式の呻くようなポルタメントを交えた表現が出てくると、音楽の高揚に逆行して滅滅としてくる。色彩感がなく、険しい不安な光景。ただ、これは元はラジオ放送されたもので、かなり不安定で穴もあるモノラル録音(ORGANUM盤は安定していると聞いたが未聴)。そのせいで実態が歪んで伝わっている可能性が高いのは、ムラヴィンスキーの実演に触れた人間のことばからも明らかだ。最盛期には録音に収まりきらないほどの情報量をぶつけてくるコンビだったようだ。ムラヴィンスキーに対する無用な不安感を抱かないために、最近プラガからドヴォルザークホール(スメタナホール)ライヴがリマスターSACD復刻されたので、ライヴならそちらを聴くほうが良いだろう。この放送ではブラ4、ライモンダなども録音されている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:弦楽器、打楽器、セレスタのための音楽,○カンテルリ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1949/1/29LIVE,,目の覚めるような演奏。ワザ師カンテルリ面目躍如で、鮮やかに構造をさばき整理しつつ求心的にぐいぐい引っ張っていくやり方が曲にぴたりとあっている。腕におぼえのある楽団もトリッキーな曲に向いている。民族性の匂いのない無機的なところもあるが、熱気は凄い。録音マイナスで○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(SLS)1958/3/14live,,二、四楽章など専門室内楽団ではないにもかかわらずなかなか見事な出来栄えで、技巧的にすぐれたオケと、指揮者自身の懐深さも感じさせる。むろんザッヒャーの楽団を筆頭とする精密器械的な鋭さには欠け、一楽章は鈍重にも感じさせる曇ったロマン性を浮き彫りにさせてしまうが、それも次の楽章で払拭される。ピアノをはじめとする打楽器ないし打楽器奏法の横溢交錯は聴き応えある。ただ筋肉質にとりまとめただけではない、ある程度はオケ自身の各パートのアンサンブル能力に任せて成功したのであろう。ちょっと意外な佳演だった。民族性にも溺れない。ブラヴォが一声飛ぶ。同曲はDAより別録音が出ていた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:弦楽合奏のためのディヴェルティメント,◎タファネル・アンサンブル(ducretet thomson),,素晴らしい音なのである。この音はこの時代の演奏でしか聞けない。厚みのある、人の肌の温もりのある音。この太い音の艶だけでも飯一杯いける。弦楽合奏はこうでなくては。もちろんソリストが圧倒的な表現力を発揮しているがそれだけではない、合奏メンバー全員がその主張をあわせてスリリングな饗宴を繰り広げる。まさにディヴェルティメントだ。ぞっとする演奏というのがたまにはある。これはその一つだった。裏面のランドスキが目的だったのだが、この演奏でバルトークのローカリズムと前衛の融合という独特の世界が、けして我々の今生きている世界からかけはなれたものではないと感じた。面白い。◎。,"",-----,,,,,,,,,,,,
バルトーク:弦楽合奏のためのディヴェルティメント,○フリッチャイ指揮ケルン放送交響楽団(medici)1953/5/4・CD,,如何にもフリッチャイな四角四面さがあり、編成も大きく交響曲的な想定のもとに作られた演奏であるようだ。ディヴェルティメントの交錯する音のスリルが損なわれており、面白くない。今風の演奏といってもいい。音質は東欧的な金属の肌触りのもので、これも協奏的な部分を楽しむにはちょっと艶がない。無難さで○にしておくし、響きの純粋さは特筆できるが、どうなんだろう。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バルトーク:弦楽合奏のためのディヴェルティメント,○ルーカス・フォス指揮ジンブラー・シンフォニエッタ(TURNABOUT/UNICORN)LP,,こういう曲にジンブラーは合っている。神経質に細い音を絡み合わせていくような演奏ではなく、透明感を損なってでも音楽の力と魅力を押し出していく。だから精度という点では現代の観点からは少し劣るかもしれないが、引用旋律など強調され理解しやすい。曲に好き嫌いはあろうが、バルトークが苦手な向きには薦めやすい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:弦楽四重奏曲第2番,○ブルガリア弦楽四重奏団(HARMONIA MUNDI),,苦手です、バルトーク。いきなりそれはないだろうと思われるかもしれないが、よその国の、しかもかなりアクの強い暗い民謡音楽を、無調的に再構築しなおしたような作品と言うのは、私にとってよその音楽でしかないんだなあ、と思った。無調を聞きたいときでも、この構造的に整合し演奏的に整然とした綺麗な音であっても聞きたいと思わないだろう。確かに弾けば面白いと思う。しかし・・・ショスタコ晩年より聞きづらい・・・ちょっとまだバルトークというよりは同時代の無調作品の香りがする。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:弦楽四重奏曲第4番,○ギレー四重奏団(concerthall),,ギレー団は巧いなあ。。惚れ惚れするような腕と力感、しかし中間楽章での硬質な印象派的情景の描き方もすさまじく繊細で巧い。録音が旧いのでちょっと小粒に聞こえるところもあるかもしれないが、アメリカ往年の室内楽がどのようなレベルだったかがしのばれる(今もそうかもしれないが)。よく20世紀最大のカルテット作家にショスタコを挙げるマニアがいるが、優劣はつけられないものの、影響範囲の広さ、技巧の開拓者としての功績を考えてもバルトークの位置は揺るがないように思う。人好きするかどうかとベートーヴェンぽくない、この二点だけでバルトークのカルテットは日本ではやや分が悪いかんじがする。でも、書法を分析するまでもなくこの作品あたりの緻密さ隙のなさは神がかっている。やはりドビュッシイストであったバルトークの過去がフランスふうの香気をはらむ要素はあるとはいえ、単なる民謡・舞曲編曲にしか行きえなかった国民楽派室内楽の、知性の側面で状況を打開できた唯一の例であると思う。アマチュアが立ち入ることを許されないリゲティ的な清澄さをあわせもつ特殊奏法の饗宴、書法のプロフェッショナルさを抜きにしてもアイヴズとまったく同傾向の新しさをはなつ和声にリズム、よく集中しないとよさがわからない可能性もあるが、しかしギレーは巧い。○。私はバルトーク苦手だけど。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:三つのルーマニア民族舞踊Sz.68,○ストコフスキ指揮CBS放送管弦楽団(SCC:CD-R)1954/2/7放送live,,短い民謡編曲でバルトークにあまたある無邪気な小品だが、ストコフスキにかかるとひときわ無個性にひびく。弦楽アンサンブルを操るのが上手い指揮者だが横の動きに縦が流されてしまう傾向はあり、アタックが弱くハーモニーのはっきりしたメリハリが聞き取れないところにも起因しているのだろう。ただ、とにかく聞きやすいことは確かだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:青ひげ公の城,トロヤノス(msp)ニムスゲルン(b)クーベリック指揮NYP(NYP)1981/3/27live・CD,,きわめてダイナミックな演奏でauditeのマーラーライヴが出るまでは生演奏を聴いたことのない人にとって「中庸」の印象であったクーベリックの、ニューヨーク・フィルという強力な軍兵を得ての演奏ぶりに驚かされるものであろう。録音が優秀なステレオであり正規音源らしい音質でこれもまた良い。ソリストはクーベリックのバックに負けることなく劇的な歌唱を繰り出しておりいささかウンザリする長さの曲とはいえ最後まで聴かせる力はある。前期的なドビュッシーふうのイマジネーションもあわせもつ曲で、その点で食い足りなさはなくはないが、バルトーク的な独特の民族様式が顔を出すところはしっかり聴き取れクーベリックのスタンスもわかる。この曲の演奏ではなかなかのもの。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:組曲 op.14,◎作曲家(P)(HMV,HUNGAROTON)1929/11・CD,,テストテイクも収録されている。私がバルトークでは一番好きな曲集でとくに一楽章はバーバリズム過ぎず、硬質な書法にもかかわらず叙情味を感じさせる妖しい和声展開や不協和音による打音のスマートな挿入がいい。ピアニストならではの技術的余裕を背景に、特有の民族性をスピーディで的確なタッチにより昇華させた表現にはすかっとするものがある。録音は悪いが聴く価値あり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------
バルトーク:組曲「中国の不思議な役人」,マルティノン指揮ORTF(warner,icon,ina)1971/6/24シャンゼリゼ劇場live(1971/10/31放送)・CD,,これもina音源で、ina.fr配信のものと同じかもしれない。比較的新しい録音のためライヴであってもめくるめくドギツイ色彩とパラードのような至極諧謔的な雰囲気、ストラヴィンスキー火の鳥の遠いエコーのような(野蛮主義であってもハルサイからは遠い)、やはり劇音楽であったことを匂わせる筋書きめいたものに沿った不可思議な音楽がよく浮き彫りにされている。マルティノンのような人は新古典主義の音楽より、こういった複雑な音楽を鮮やかに捌き拡げるほうが向いているように思う。スクリアビンのように幻想的で、えげつなさすら感じさせる重層的な響きは、つねに焦燥感を抱えながらもどこかしら楽しませる要素があり、それはやっぱり鮮やかな指揮と録音によるところが大きいし、オケもよく演じきった、この明るく美麗な音色でやってくれると土俗的なくぐもりが払拭されてとてもいい。管楽器群がとにかく、よくやっている。客席からはブーのような声が聴こえるがこの曲なら仕方ない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
バルトーク:第一ロンド,ディッタ・バルトーク(P)(VIBRATO)1944ブルックリン博物館live,,音数が多くなく平易な、両端部は子供の音楽の様相をていするが、中間部の重音の民族的というより呪術的な響きや、最後近くの速弾きはさりげなく全体の雰囲気の中に沈潜させるのがなかなかたいへんそうで、でもディッタはすこぶる上手い。楽しく聴ける。破綻のない演奏。録音は悪い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:中国の不思議な役人,マデルナ指揮モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団(SLS他),,恐らくSLSは正規セッション録音の焼き直しだが元レーベルを調べるのが面倒なので省略(舞踏組曲ならびに既出のマーラー7番との組み合わせ)。音はすこぶる良く現代のステレオ録音レベル、マデルナがそもそもそれほど古い人ではないことを再認識させる。セッションだけあって演奏精度は担保され、マデルナ的に崩したようなところはなく(これは面白さの意味では残念だが、作曲家マデルナはわりと現代音楽に近づくに連れまともな指揮をするようになる)、フランス的なカラフルな管弦楽と繊細な響きによりバルトークの野蛮主義がまだストラヴィンスキーの域へも自らの民族主義的作風へも達していないことを示している、そこをよく抉り取って、明確に力強く提示している。細かなところや知的な構成のみならず、迫力のある音響とシニカルな味わいをしっかり出している。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:田舎の午後,ディッタ・バルトーク(P)(VIBRATO)1944ブルックリン博物館live,,民謡を使った民族的作風だがバルトーク的な異化作用により、少ない音と鐘の音のような響きのかもす孤独で空疎なぽっかりした空間が演出され、メロディアスとも言い難い瞑想的世界が展開されている。ディッタはやや平板か、曲のせいか。録音悪し。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
バルトーク:二台のピアノのための組曲 OP.4B(1943),ディッタ・パーストリ・バルトーク(P)コメンソリ(2ndP)(HUNGAROTON),,管弦楽組曲第2番(1905-7,20改訂,43改訂)からの編曲。かなり長々しい曲だが、民族的で平易な曲想ゆえ硬派なバルトークが苦手な向きは寧ろ聴き易いだろう。ドビュッシーの影響が強かった初期バルトークの詩情が漂っている。私のLPは状態があまりよくないのでなかなか入り込めなかったし、ディッタ夫人のピアノもやや硬い(でも繊細なフレーズはとても美しくスマートに決まっている)。今はCDになっているのだろうか?無雑音のCDならきっともっと楽しめたろう。ここでは無印にしておく。ディッタ夫人のレコードはフンガロトンに沢山ある。ミクロコスモスなど比較的平易なものが多いのはディッタ夫人の技巧の限界ゆえかもしれない。この演奏を聞くかぎりでも余り器用とは言えないから。ステレオ。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,
バルトーク:舞踏組曲,マデルナ指揮モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団(SLS他),,恐らくSLSは正規セッション録音の焼き直しだが元レーベルを調べるのが面倒なので省略(中国の役人ならびに既出のマーラー7番との組み合わせ)。音はすこぶる良く現代のレベル。演奏はゴージャス感まで感じさせるフランス風のカラフルで爽やかなもので、バルトークがドビュッシーに影響されているのもそこはかとなく感じ取れる。しかし題名がそのまんまだが既に民族主義に立って民謡リズムや旋律構造をはっきり取り込んだ作品となっている。バルトークの腕もあるのだが、マデルナも民族的ロマン主義というような生臭い部分は構造の一部として抽象化し、あくまで音要素として理解し、強調した結果、ほとんど民族臭のしない清潔だが暴力的な舞踏に帰結、けっか余所者にも聴きやすく仕立てられている。わりと簡素な曲で、すぐに民族舞踏的な煙が立ちそうなものだが、終盤は少し手綱はゆるくなるところもあるものの、派手で効果的な音楽を押し進める手腕は作曲家の余技の範囲ではない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,
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4. 中川隆[-16082] koaQ7Jey 2021年10月07日 09:44:24 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[16]
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12. 中川隆[-16081] koaQ7Jey 2021年10月07日 09:46:44 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[17]
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39. 中川隆[-16080] koaQ7Jey 2021年10月07日 09:47:09 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[18]
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4. 中川隆[-16079] koaQ7Jey 2021年10月07日 09:47:50 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[19]
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1. 中川隆[-16078] koaQ7Jey 2021年10月07日 09:48:53 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[20]
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1. 中川隆[-16077] koaQ7Jey 2021年10月07日 09:49:35 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[21]
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612. 中川隆[-16076] koaQ7Jey 2021年10月07日 10:17:04 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[22]
2021年10月07日
極過疎地への古民家移住はほぼ失敗している
実際の移住先は東京から関東、大阪から近畿など近隣へが多い。
長野や北海道はアンケートの人気ランキングに過ぎない
画像引用:https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=68499?site=nli 2021年上半期・転入超過都道府県ランキング/神奈川県が社会純増トップエリアへ―新型コロナ人口動態解説(9) _ニッセイ基礎研究所
現実の田舎移住は近隣県
コロナの影響で都会はダメだという風潮になり、田舎に移住する人が増えている。
東京の人口は減り始め、替わりに長野や福岡や山梨などに移住したいという人が多い。
ふるさと回帰支援センターに移住相談した人の人数では、移住先人気1位は静岡県になっている。
2位が山梨県で3位が長野県、福岡、宮城、広島以下甲信越や北海道、和歌山県などが続いている。
実際に移住した人数を数えるのは困難で、何をもって田舎移住とするかを定義しにくい。
東京からの転出者が多いのは神奈川、千葉や北関東、山梨や群馬など近県が多いが、ただの引っ越しとも言える。
メディアでは長野や北海道や東北など、街から離れて自給自足するようなイメージがもてはやされている。
現実には多くの人は東京在住なら近隣県の地方都市に引っ越していて、現実的な移住をしている。
移住で最重要なのは職業と収入で、何の当てもなく北アルプスや知床半島に引っ越す人は普通は居ない。
東京から見て近県や群馬なら求人情報も見れるし引っ越し前に下見をしたり、準備することもできる。
メディアやネットでは過疎の村に引っ越すのが理想とされるが、そうした人のかなりは失敗して都会に戻っている。
福岡市や長野市なら適応できるとしても、5人くらいしか村人がいない場所で都会人は生きれません。
激安古民家は重大な欠点があるから安い
古民家というのがもてはやされ、10万円や無料で購入できる場合もあり、長所だけを考えて移住する人が居ます。
安いのには訳があり、まず崩壊カウントダウンの状態なので、全部ばらして組みなおす必要があります。
築50年は経っているので作りが衛生的ではなく、台所やトイレなども現代人には快適でない。
田舎には虫が多いが、都会から離れると古い家には戸締りしても家の中に虫が侵入してきます。
朝起きると寝室や廊下や家じゅうが虫だらけだったら、都会の人は精神的に参るでしょう。
古い家では雨漏りもする筈で、完全に治さない限り塞いでも塞いでも新たな雨漏りが発生します。
もっと大問題はインフラで、電気はあるとしてガス、水道、トイレ、車道はありません。
プロパンガスはあるが極過疎地は配達地域外なので、ガスも灯油も配達してくれません。
ゴミ収集もしてくれないので自分で処理場にもっていき、移動販売車も来ないし商店もありません。
その土地で生まれた人は物々交換で食べ物を得られるが、移住者はまずコミュニティに入れてもらえません。
トイレは汲み取りだが汲み取りの2トン車が入れなければ汲み取り出来ず、一体どうしていたのか謎です。
非常に安い古民家は自動車が入れない場所が多く、行ってみると物凄い急坂で未舗装の場合もあります。
水道はないので近くの川から水を引いたり、特別に貯水タンクなどを設置しています。
つまり「道路が無く通勤も買い物もできず、ゴミ収集や移動販売もなく、トイレの汲み取りもガス配達もない」場合があります。
アラスカやシベリアではそうした場所で誰の支援も受けず生活する人が居るが、日本人には無理です。
なんとなく「田舎でも都会のように快適な暮らしができる。ショッピングはAmazonですればいい」と考えている人はまず失敗するでしょう。
せいぜい緑が多く自然に近い地方都市で、マンション暮らしでも始めるのが良いのではないでしょうか
https://www.thutmosev.com/archives/86885402.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c612
28. 2021年10月07日 10:43:02 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[23]
日本では「防衛」を前提にした議論が続けられてきたが、実態は「侵略」である。「親米リベラル」を自称する人びとは否定したいようだが、19世紀から続くアングロ・サクソンの長期戦略はまだ生きている。
アメリカ、イギリス、オーストラリアのアングロ・サクソン系の国と日本やインドはユーラシア大陸の周辺部を支配し、内陸国を締め上げるというイギリスの長期戦略に組み込まれてきた。大陸を締め上げる「三日月帯」の西端がイギリス、東端が日本だ。
日本は中国やロシアを封じ込めるために重要な位置にあるだけでなく、戦闘員の供給源でもある。アヘン戦争でも明らかなように、中国を制圧するだけの戦力をイギリスもアメリカも持っていない。アメリカ国防総省のシンクタンク、RANDコーポレーションは2016年に中国との戦争を想定した文書を作成したが、そこでも地上での戦闘は考えられていなかった。地上戦を行うなら日本人を使うしかない。
かつて中国侵略を狙うイギリスとアメリカが日本列島と日本人に目をつけ、「明治維新」を支援、新体制になってからイギリスの外交官アーネスト・サトー、アメリカの厦門駐在領事だったチャールズ・ルジャンドルや駐日公使だったチャールズ・デロングは台湾や大陸を侵略するように焚きつけていた。そして明治政府は琉球併合、台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争へと突き進む。
この当時と基本的に同じことを現在の日本も求められている。沖縄はアメリカの軍事基地になっているが、沖縄諸島から先島諸島へと自衛隊は活動範囲を拡大させている。その先にある台湾は2016年から総統を務めている蔡英文がアメリカにすり寄り、中国を揺さぶる拠点になっている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202110070000/
1. 中川隆[-16075] koaQ7Jey 2021年10月07日 10:43:50 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[24]
日本では「防衛」を前提にした議論が続けられてきたが、実態は「侵略」である。「親米リベラル」を自称する人びとは否定したいようだが、19世紀から続くアングロ・サクソンの長期戦略はまだ生きている。
アメリカ、イギリス、オーストラリアのアングロ・サクソン系の国と日本やインドはユーラシア大陸の周辺部を支配し、内陸国を締め上げるというイギリスの長期戦略に組み込まれてきた。大陸を締め上げる「三日月帯」の西端がイギリス、東端が日本だ。
日本は中国やロシアを封じ込めるために重要な位置にあるだけでなく、戦闘員の供給源でもある。アヘン戦争でも明らかなように、中国を制圧するだけの戦力をイギリスもアメリカも持っていない。アメリカ国防総省のシンクタンク、RANDコーポレーションは2016年に中国との戦争を想定した文書を作成したが、そこでも地上での戦闘は考えられていなかった。地上戦を行うなら日本人を使うしかない。
かつて中国侵略を狙うイギリスとアメリカが日本列島と日本人に目をつけ、「明治維新」を支援、新体制になってからイギリスの外交官アーネスト・サトー、アメリカの厦門駐在領事だったチャールズ・ルジャンドルや駐日公使だったチャールズ・デロングは台湾や大陸を侵略するように焚きつけていた。そして明治政府は琉球併合、台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争へと突き進む。
この当時と基本的に同じことを現在の日本も求められている。沖縄はアメリカの軍事基地になっているが、沖縄諸島から先島諸島へと自衛隊は活動範囲を拡大させている。その先にある台湾は2016年から総統を務めている蔡英文がアメリカにすり寄り、中国を揺さぶる拠点になっている。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/596.html#c1
2. 2021年10月07日 10:48:51 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[25]
雑記帳
2021年10月07日
ハンガリーのアールパード朝のベーラ3世のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_7.html
ハンガリーのアールパード(Árpád)朝のベーラ(Bela)3世のDNA解析に関する研究(Wang et al., 2021)が公表されました。現代ヨーロッパ人の大半はインド・ヨーロッパ語族の言語を話していますが、その起源と拡散はひじょうによく議論されてきた主題です。インド・ヨーロッパ語族の根源を年代測定するために適用されたベイズ法は、紀元前6000年頃の推定年代を提供し、アナトリア半島をインド・ヨーロッパ語族祖語の故地として示唆します。
代替的な仮説では、インド・ヨーロッパ語族祖語話者はポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)の遊牧民で、車輪付き乗り物の発明後にその言語がヨーロッパに拡大した、と提案されます。新石器時代と青銅器時代のヨーロッパ全域の古代人遺骸の遺伝学的データは、紀元前3000年頃に始まるヨーロッパ東部草原地帯からの牧畜民の拡大により媒介された、大規模な人口集団置換を明らかにしました(関連記事)。報告された人口移動は、元々の言語の置換と、「草原地帯」遺伝的構成要素の寄与につながったかもしれません。「草原地帯」祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)は、「狩猟採集民」祖先系統および「農耕」祖先系統とともに、ほとんどの現代ヨーロッパ人の遺伝的構成要素を占めます。
この草原地帯とインド・ヨーロッパ語族との相関には例外が知られており、たとえば、草原地帯関連祖先系統を有するにも関わらず、非インド・ヨーロッパ語族言語を話すバスク人です。遺伝学的研究では、バスク人はイベリア半島の新石器時代および鉄器時代の個体群と最も密接な現代人集団で(関連記事1および関連記事2)、新石器時代以降の在来言語存続の可能性が示唆されます。バスク人については、最近その遺伝的構造の包括的な研究が公表されました(関連記事)。ヨーロッパにおいて二番目によく話されている非インド・ヨーロッパ語族言語は、いわゆるフィン・ウゴル語派で、現在ではフィンランドとエストニアとロシア西部とハンガリーに分布しています。フィン・ウゴル語派はフィン諸語とハンガリー語に区別され、両者ともユーラシア北東部にまで広がっているより大きなウラル語族の一部です。
現代人集団に関する遺伝学的研究では、ヨーロッパでは人口集団間の遺伝的距離が地理的距離と相関している、と示されています。しかし、これは現在のフィンランド人には当てはまらず、フィンランド人はユーラシア東部人口集団に向かってヨーロッパ人の遺伝的まとまりからずれています。フェノスカンジアの人類遺骸の最近の古代DNA研究は、遅くとも紀元前3500年頃までにはフェノスカンジアに到達した、究極的にはガナサン人(Nganasan)のようなアジア北東部人口集団と関連する、追加の遺伝的寄与を特定しました(関連記事)。この遺伝的構成要素は、フィンランド北部の現代サーミ人個体群により低い割合で存在し、ヨーロッパ中央部祖先系統と大半が混合したフィンランド人にはさらに低い割合で存在します。
注目すべきは、推定されるシベリア人関連祖先系統の分布が、ほとんどのウラル語族話者人口集団には存在するものの、現代ハンガリー人では欠けていることです。フィンランド人とは対照的にハンガリー人は、わずかしかアジア東部人構成要素を有さないヨーロッパ現代人の遺伝的多様性内にほぼ完全に収まります。ハンガリーの古代人遺骸のゲノム分析は、前期新石器時代における「農耕」祖先系統の到来に伴う大規模な遺伝的置換と、ヨーロッパの他地域で観察されるように、その後の中期新石器時代における在来「狩猟採集民」祖先系統の復興の過程を明らかにしてきました(関連記事)。さらに、後期新石器時代から前期青銅器時代の移行において、「草原地帯」祖先系統がハンガリー全域に拡大し、ほとんどのヨーロッパ現代人に存在する第三の遺伝的構成要素をもたらしました(関連記事)。
ハンガリーの遺伝的歴史の次の期間は、あまりよく特徴づけられていません。じっさい、鉄器時代後の個体群に関するほぼ全ての古代DNA研究は、Y染色体内の遺伝子型もしくは多型の配列や、ミトコンドリアDNA(mtDNA)配列や、表現型の一塩基多型に依存しており、経時的なハンガリーの人口集団の詳細なゲノム規模の特徴づけはできません。鉄器時代後の紀元前35年から紀元後9世紀前半までハンガリーはローマ帝国の一部で、紀元後4〜6世紀のフン人や、紀元後6世紀のランゴバルド人や、それに続く紀元後6世紀後半〜紀元後9世紀前半のアヴァール人など、いくつかの「蛮族の移住」を経てました。これまでゲノムデータはパンノニアのランゴバルド関連墓地の遺骸でのみ利用可能で、遺伝的に異質な個体群と明らかになっているので、この集団は以前もしくは現在のハンガリーの人口集団と似ていないさまざまな起源の人々の集合だった、と示唆されます(関連記事)。
利用可能な文献記録によると、紀元後530年(以下、紀元後の場合は省略します)に「マジャール」という名前と関連づけられてきた「ムゲリウス(Muageris)」王が、黒海北側のクトゥリグール(Kutrigur)フン人の支配者でした。数世紀後、ハンガリーの大王子であるアールモシュ(Álmos)1世は、同じ地域で850年頃に君主制国家を組織化しましたが、以前の人口集団との関連は完全には解明されていません。アヴァール可汗国(Avar Khaganate)の崩壊(紀元後822年頃)から数十年後、アールモシュとその息子のアールパード(Árpád)が862〜895年頃にかけてカルパチア盆地を征服しました。この征服期間に、ハンガリーの征服者はテュルク語族話者のカバル人(Kabars)とともに、アヴァール人およびスラブ人集団を同化した、と示唆されています。
興味深いことに、いわゆるアールパード朝(この用語は18世紀にハンガリー最初の王家として提唱され、その名称はハンガリー征服を完了したアルモスの息子のアールパードに由来します)の復元された系図は、大王子アールモシュ(862年頃に最初の征服を主導しました)からハンガリーのアンドリュー3世(1301年に死に、これが王朝終焉を意味します)まで、父方継承が常に続いてきた、と示します。この父系継承で最も著名な王の一人であるベーラ(Bela)3世(在位は1172〜1196年)は、ハンガリー王国の象徴として「二重十字架」を採用した最初の王です。ベーラ3世はゲーザ(Geza)2世の息子で、フランスのアンティオキアのアンナと結婚し、第一子の息子は後にイムレ(Emeric)王となりました。ベーラ3世は最初に妻のアンナおよび恐らくはアールパード朝の他の特定されていない構成員とともにセーケシュフェヘールバール(Székesfehérvá)の王立大聖堂に埋葬されましたが、後にブタペストのマティアス(Matthias)教会に再埋葬されました。
2012年に、王室と関連する骨格の発掘の一部として、ベーラ3世とアンティオキアのアンナの解剖学的要素が収集されました。以前の研究では、ベーラ3世のY染色体縦列型反復配列(STR)ハプロタイプが遺伝子型決定され、Y染色体ハプログループ(YHg)R1aと予測されました。別の研究では、ベーラ3世のY染色体配列が報告され、4500年前頃にアフガニスタン北部付近を中心とする地域にたどれる系統と明らかになり、現在のバシキール人(Bashkirs)が2000年前頃に分離した最も密接な父系親族でした。本論文は、ベーラ3世のゲノムがアジア中央部人と現在のハンガリー人のどちらの遺伝子プール内でまとまるのか解明するため、ベーラ3世の遺骸のゲノム規模の特徴づけを試みました。ベーラ3世と関連する墓から4点の骨片が収集されました。ヒトゲノム全体で39万〜124万ヶ所の一塩基多型を標的として、対象となる一塩基多型の網羅率は6.154倍となりました。常染色体と性染色体の比率から、標本の個体は男性と判断されました。
●片親性遺伝標識
片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)では、ベーラ3世のmtDNAハプログループ(mtHg)はH1bで、mtHg-Hは現代ヨーロッパでは最も一般的です。ベーラ3世のmtDNAでは、改定ケンブリッジ参照配列(rCRS)に対する多型の一覧が見つかりました。本論文のベーラ3世のmtDNA分析結果は、以前の研究と一致します。mtDNA集団データベースプロジェクト(EMPOP)でベーラ3世のミトコンドリアゲノムのハプロタイプを探すと、おもにヨーロッパで報告されているものの、アジア中央部でも見られるmtHg-H1bの211標本が見つかりましたが、ベーラ3世と正確に一致するハプロタイプは見つかりませんでした。ベーラ3世のYHgはR1a1a1b2a2a1(Z2123)で、アジア中央部でとくに高頻度となるYHg-R1a の主要な下位系統であるYHg-R1a1a1b2(Z93)の下位系統となり、以前の研究の結果と一致します。
●ゲノム規模常染色体遺伝標識データ分析
さらに、ゲノム起源データを用いて、ベーラ3世の祖先系統が調べられました。まず主成分分析が実行され、ユーラシア西部現代人のデータにベーラ3世の常染色体データが投影されました(図1)。ベーラ3世のゲノムはクロアチアとハンガリーの現代人集団に近接しています。同じようなパターンは、ADMIXTUREに実装されたクラスタ化アルゴリズムから得られ、ベーラ3世はヨーロッパ東部現代人集団と類似の遺伝的特性を共有します。以下は本論文の図1です。
画像
次にf3外群統計を用いてユーラシア西部現代人集団とのベーラ3世のゲノムの類似性が検証され、共通の外群であるアフリカのムブティ人集団と比較して、共有される遺伝的類似性が計測されました。主成分分析の結果と一致して、ベーラ3世のゲノムはヨーロッパ現代人の多様性内にまとまり、ほとんどの他のヨーロッパ人口集団とは区別できません(図2)。以下は本論文の図2です。
画像
クロアチア人およびハンガリー人と比較した、ベーラ3世との他の現代人集団のあらゆる類似性の違いを評価するため、f4統計(X、ムブティ人;クロアチア人およびハンガリー人、ベーラ3世)が検証されました。Xは世界規模の現代人集団の一覧です。検証された比較のいずれも、0からの優位な偏差を報告せず、ベーラ3世の遺伝的祖先系統のほとんどがクロアチアおよびハンガリーの現代人と共有されている、と確認されます。しかし、パプア人やアミ人や漢人などユーラシア東部およびオセアニア人口集団を用いた検定では、ベーラ3世にわずかに有意な誘引がありました。これは、ベーラ3世のゲノムと現代アジア人との間には、主成分分析空間ではベーラ3世と最も密接に位置するヨーロッパ人口集団とよりもわずかに高いアレル(対立遺伝子)共有があることを示唆します。
●表現型分析
表現型関連の一塩基多型を詳しく調べて、ベーラ3世の外見と代謝の特徴が推測されました。歴史的表現で報告されているように、ベーラ3世は明るい肌と青色もしくは緑色の目をしており、それはSLC45A2とSLC24A5とHERC2の各遺伝子について定義された遺伝子座における派生的アレルが存在するからです。さらに、ベーラ3世は乳糖耐性だった可能性が高く、成人期のラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連するLCT遺伝子の一塩基多型(rs4988235)の派生的アレルを示し、一方でほとんどの現代ヨーロッパ人のように、毛髪の厚さと関連するEDAR遺伝子の祖先的多様体を有していました。
●考察
822年頃のアヴァール可汗国の崩壊から数十年後、アールモシュとその息子のアールパードは862〜895年頃にかけてカルパチア盆地を征服しました。カルパチア盆地に拠点を置く三つの草原地帯帝国は、ローマ帝国後の統治モデルの代替を提供しました。征服期間に、ハンガリー人の侵略者はテュルク語族話者のカバル人とともに、アヴァール人とスラブ人の集団を同化させました。さらに、ハンガリーの征服者は、テュルク語族話者のカバル人とともに移動し、オノグル人(Onoghurs)や祖型ハンガリー人などを含む「アヴァール」人領域へと侵入し、統合したことも示唆されます。
ハンガリー人を征服した人々のmtDNAとY染色体と常染色体の遺伝標識の研究は、ユーラシア東西両方の遺伝的構成要素により特徴づけられる混合祖先系統を明らかにしてきました。しかしハンガリーでは、複数の中世初期のヒトの移住がローマ帝国崩壊後に起きました。したがって、アールパード朝樹立までのハンガリーで起きた人口動態の再構築は、この中間期の考古遺伝学的データが必要となるでしょう。じっさい、フンおよびアヴァールと関連する個体群のmtHgとYHgは、ハンガリー征服期の集団よりもさらに強いユーラシア東部の遺伝的影響を示唆します。
本論文は、アールパード朝の最も著名な王の一人のゲノム特性を直接的に調べることにより、歴史時代のハンガリーの個体の最初のゲノム規模分析を提示します。歴史的証拠から、895年のハンガリーの部族連合によるカルパチア盆地の最初の征服から12世紀後半のベーラ3世まで父系継承が常に行なわれた、と明らかにされています。1170年にベーラ3世は、戦略的外交関係の構築もしくは維持のためヨーロッパの他の高貴な家系の構成員と結婚するという一般的な伝統にしたがって、ルノー・ド・シャティヨン(Raynald Châtillon)の娘であるアンティオキアのアンナと結婚しました。ベーラ3世から120万ヶ所以上の一塩基多型のゲノム規模データが再構築され、その平均深度は6倍となります。
ベーラ3世の常染色体DNA特性は、クロアチア人やハンガリー人のようなヨーロッパ東部現代人集団の変異内に収まります。これは、ベーラ3世がヨーロッパで最も一般的な母系であるmtHg-Hであることにより、さらに裏づけられます。さらに、ベーラ3世は以前に、より詳細な系統地理再構築に基づいて、アジア中央部にたどれるYHg-R1aだと明らかになっています。確立された系図に基づくと、このY染色体系統はベーラ3世とその祖先であるアールパード朝の開祖アールパード(845〜907年)との間の直接的つながりを提供しますが、それはこの間に系図と生物学的な父子関係が一致しない場合(ペア外父性)がなければ、という条件付です。したがって、大王子アールパードとその後の(ベーラ3世の前の)アールパード朝の構成員は、ベーラ3世よりもユーラシア東部祖先系統の割合を多く有している可能性があります。しかし、これはベーラ3世の代には失われていたかもしれません。それは、アールパードとベーラ3世との間には18世代約300年が経過しており、ヨーロッパ系の貴族との結婚が繰り返し行なわれていたからです。
それにも関わらず、ベーラ3世とアールモシュとの間の父系関係は、ハンガリーにおけるこのユーラシア東部型のYHgの存在を、少なくとも9世紀末まで拡張する可能性があります。しかし、そうしたユーラシア東部関連のY染色体は、ハンガリーでも獲得できたかもしれません。それは、フンや初期アヴァール期のエリート軍人3個体が、同じYHg-R1a1a1b2(Z93)だと最近明らかになったからです。あるいは、このユーラシア東部の遺産は、東方からの追加の人口移動を通じてハンガリーの部族の征服とともに、ハンガリーに到来した可能性があります。
注目すべきことに、当時の地元の人口集団の遺伝的構成は、支配王朝の構成員で観察されるものとは異なっていた可能性があります。したがって、征服する部族がハンガリーに現在の言語をもたらしたと考えられるので、ハンガリーのエリートのさらに早い代表者のゲノムを遺伝的に特徴づけることが重要でしょう。これは、ベーラ3世のY染色体で報告されたユーラシア東部祖先系統がハンガリーで獲得されたのか、それとも東方から西方への移住を通じて到来したのか、決定するでしょうし、大王子アールパードと後のアールパード朝構成員が、さらにその後のベーラ3世よりも、常染色体でユーラシア東部祖先系統をずっと多い割合で有しているのかどうか、検証するでしょう。
参考文献:
Wang CC. et al.(2021): Genome-wide autosomal, mtDNA, and Y chromosome analysis of King Bela III of the Hungarian Arpad dynasty. Scientific Reports, 11, 19210.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-98796-x
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_7.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/302.html#c2
12. 2021年10月07日 18:23:35 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[26]
2021年10月7日
【藤井聡】岸田新総理には是非、『財務主導の財政健全化が日本の新自由主義を産み出した』という真実を理解頂きたいと思います。
From 藤井聡@京都大学大学院教授
https://38news.jp/economy/19626
岸田文雄内閣がこの度、「新自由主義との決別」を高らかにうたいあげつつ、誕生しました。
新自由主義とは、一言で言うと「これまで民間企業がビジネスできなかった領域(例えば行政や社会)において、民間企業に自由にビジネスしてもらう」という、新しいタイプの自由主義です。
だから、小泉純一郎氏や竹中平蔵氏、さらには菅義偉氏や「維新」の政治家らの「新自由主義者」達は皆、水道や空港や郵政や高速道路や地下鉄など、あらゆる政府の事業の「民営化」を進めようとします。
これが日本経済、日本社会に大きな打撃を与えてきたのですが、こうした新自由主義を転換すると言っているのですから、当方はその点において、岸田内閣を強く支持しています。
しかし、今のままでは、岸田内閣は、新自由主義の決別に「失敗」するであろうと強く懸念しています。なぜなら、岸田内閣は「緊縮」財政を継続する疑義が濃密にあるからです。
そもそも、日本における新自由主義は、企業主導で進んだというよりもむしろ、財務主導で進んだからです。
先に触れた様に、新自由主義の本質は、様々な事業を
「官から民へ」
譲り渡していくというもの。
この流れは、アメリカ等の諸外国では主として、民間企業側からの働きかけによって、作り出されました。つまり、ビジネスでカネ儲けしたい民間企業が政府から仕事を「引っ張る」という動きによって、「官から民へ」の流れができあがりました。
つまり諸外国では、民による「プル(PULL)」の力学で「官から民へ」の流れが作られたのです。
しかし、日本ではそれとは逆に、「政府の支出を抑えたい」という大蔵省・財務省の意図の下、政府の仕事を外部に「押し出す」ことを通して経費節減を図ろうとした事が、「官から民へ」の流れを作りだしたのです。
つまり、日本の場合は、官による「プッシュ(PUSH)」の力学で「官から民へ」の流れが作られたのです。
もちろん、一旦その流れができれば、民間企業がその流れに群がってくるのは洋の東西を問わず同じなのですが、その官から民への流れを作りだす最初のきっかけが、日本の場合は民間では無く、緊縮政府=大蔵・財務省だったのです。
当方は、岸田総理は、この根本的なメカニズムを理解されていないのではないかと、大変に危惧しています。
なぜなら岸田総理は、入閣直後から次の様な「緊縮」思想丸出しのご発言を公的に繰り返す鈴木俊一氏を、財務大臣=デフレ脱却担当大臣に任命したからです。
まず驚いたのは、年内に編成する経済対策について問われて、
「財政健全化は堅持していかなければいけない」 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA050Z90V01C21A0000000/ と発言されたこと。岸田総理が、年内のコロナ禍という国難に対する経済対策については財政規律を度外視すると既に発言しているのですが(https://twitter.com/SF_SatoshiFujii/status/1445273735464845313)、この発言はその岸田発言をいきなり覆す驚くべき発言です。
また、政府と日本銀行が掲げる2%物価目標について問われた時には、
「日銀が物価安定の目標の実現に向けて努力されることを期待する」https://shikiho.jp/news/0/460460
と、デフレ脱却は日銀の仕事であって、財務省の仕事ではないと言い放ってもいます。
なお、この時に鈴木大臣が財政政策について唯一語った発言として報道されているのが、
「現在のゼロ金利環境を最大限に生かし、財政投融資を積極的に活用する。」 https://shikiho.jp/news/0/460460
というもの。当方はこれを見たとき目眩がしそうな程落胆しました。そもそも、財政投融資というのは、政府による「貸し付け」の事であって、広い意味における「金融政策」であって、本当の意味での「財政政策」とは言えないものなのです。
このように、鈴木氏の発言は、一貫して「緊縮」主義に貫かれており、彼の差配の下では、十分な政府支出が行われないリスクが極めて高いのです。
本当にそんな緊縮財政が進められるのなら、様々な政府事業の「官から民へ」の流れは止まらないどころか、むしろ加速していくことは必至です。
果たして岸田新総理は、こんな発言をする鈴木氏を財務大臣=デフレ脱却担当大臣に任命しておいて、ホントに、新自由主義の転換にあたって絶対に必要な「緊縮財政から積極財政への転換」を果たすことができるのでしょうか?
岸田氏は、「新自由主義からの転換」という素晴らしいビジョンを掲げられた、日本最初の総理大臣です……ですから、当方としては岸田総理に是非、その初志を貫徹いただきたいと心から願っています。
ついては、当方個人としては、こうした財政と新自由主義との関係についての「真実」をしっかりと岸田新総理にもご理解いただけるよう、できるだけの事を致して参りたいと思います。
岸田新総理の知性と胆力、そして「人の話を聞く力」を、心からご期待申し上げたいと思います。
追伸:岸田内閣について現状入手できる情報に基づいて、岸田氏は一体どんな経済財政政策を展開するのか、そして日本経済はどうなるのかについて、改めて約1万字にわたってじっくり、分かり易く、論じました。下記是非、ご一読下さい。
「岸田内閣で、日本経済はこうなる!」
https://foomii.com/00178/2021100410412185669
https://38news.jp/economy/19626
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/268.html#c12
1. 中川隆[-16074] koaQ7Jey 2021年10月07日 19:27:12 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[27]
ティボー
Jacques Thibaud plays LALO Symphonie Espagnole, op.21 ( 1941. Ernest Ansermet)
I. Allergo non troppo (00:00)
II. Scherzando - Allegro molto (7:47)
III. Andante (12:30)
IV. Rondo - Allegro(20:02)
Jacoues Thibaud (1880-1953), French violinist
Ernest Ansermet
Suisse Romande Ochestra
Recorded in 1941. 11. 17
Lalo Symphonie espagnole,Op.21,スペイン交響曲(Thibaud,Stokowski NYP 1947)
00:00 1.Allegro non troppo
08:17 2.Scherzando: Allegro molto
12:59 4.Andante
20:00 5.Rondo: Allegro
Jacques Thibaud(Violin)
Leopold Stokowski(Conductor)
New York Philharmonic
5 January 1947
Lalo: Symphonie espagnole, Thibaud & Argenta (1951)
(00:05) 1. Allegro non troppo
(07:42) 2. Scherzando: Allegro molto
(−:−)(3. Intermezzo: Allegro non troppo) ... none
(12:21) 4. Andante
(19:28) 5. Rondo: Allegro
Jacques Thibaud (1880-1953), Violin
Ataúlfo Exuperio Martín de Argenta Maza (1913-1958), Conductor
Spanish National Orchestra (Orquesta Nacional de España)
Rec. 14 March 1951, in Paris
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/850.html#c1
335. 中川隆[-16073] koaQ7Jey 2021年10月07日 20:52:20 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[28]
旭川市レストランで会計をした少女はやはり財布を持っていなかった・・・
2021/10/07
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/591.html#c335
256. 中川隆[-16072] koaQ7Jey 2021年10月07日 20:53:23 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[29]
旭川市レストランで会計をした少女はやはり財布を持っていなかった・・・
2021/10/07
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/598.html#c256
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